法介の『ゆゆしき世界』パート9slip最終更新 2024/11/05 09:581.神も仏も名無しさんVs-bhQ-xo-xOa7YuWl【ゆゆしき界とは】Talk 掲示板における一つの独立した空間で、争い事は決して好まず、他者に対する誹謗・中傷はナンセンス。しかし愛嬌はドンと来い。ユーモアはぶちかませ。エロい話はお好み次第。「人生楽しまなきゃ損だろう!」をモットーに互いの人間性を尊重しながらもじゃれ合い程度にはツツキ合い、もみもみしながら互いのゆゆしさを温かく且つ、深く理解し合いながら相互に人間性を高め合っていく。そんな素敵な関係のゆゆしき世界です。法介の『ゆゆしき世界』パート1https://talk.jp/boards/psy/1689114927法介の『ゆゆしき世界』パート2https://talk.jp/boards/psy/1689730026法介の『ゆゆしき世界』パート3https://talk.jp/boards/psy/1690197616法介の『ゆゆしき世界』パート4https://talk.jp/boards/psy/1690516862法介の『ゆゆしき世界』パート5https://talk.jp/boards/psy/1690750165法介の『ゆゆしき世界』パート6https://talk.jp/boards/psy/1691015262法介の『ゆゆしき世界』パート7 https://talk.jp/boards/psy/1691589307法介の『ゆゆしき世界』パート8https://talk.jp/boards/psy/16919373702023/08/17 10:38:41576コメント欄へ移動すべて|最新の50件2.神も仏も名無しさん50-gJc-2s-ytIdPS11ほーかいくん世界はほーかいーか〜😭2023/08/18 11:40:173.鹿野園◆00MWura8lSZF50-aqq-3N-Oh9oKjA9wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww🐙🐙🐙🐙🐙🐙🐙🐙🐙🐙🐙🐙糞スレにつき、終了致しました。👻👻👻👻👻👻👻👻👻👻👻👻wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww2023/08/24 21:30:094.神も仏も名無しさんws-Kvd-Yj-uIbH0reG3 名前:あぼ~ん[NGName:鹿野園</b>◆00MWura8lSZF<b>] 投稿日:あぼ~ん2023/08/31 20:28:505.鹿野園◆00MWura8lSZF50-aqq-6l-Oh9XxxE5**********************タコ介🐙法介くん、 talk掲示板の宗教板を永久追放 糞スレ終了**********************2023/09/15 14:24:306.認識ってな~に?!au-mkG-95-PNUKPRXy● 真実を現観し【煩悩を意識的に遮断】することが【可能となる聖者】にとっては、この状態は【輪廻転生の根本原因】を【断ち切っていない】ものに過ぎないので、● 真実を現観した聖者であれば、無想天に転生することは、悪趣へ転生するのと等しく回避すべきものであり、聖者であれば【無想天】への【転生】を【自己意志で回避】できるが、● 未だ【真実を現観してい無い凡夫】であれば、【長期間の禅定の力】によって【無想定】を得てしまい、この状態を【解脱】であると【勘違い】してしまい、【長期間この状態】入ってしまう。● 真実を現観した聖者であれば、【無想定】へ入ることも【意識的に回避】可能となり、【無想定】と同様に、【心・心所】を【停止させた】状態を【実現可能】となるが、● その場合には【滅尽定】と呼ばれる、【意識的】に【寂静】を達成し、【心・心所】の活動を完全に【遮断した状態】を実現することができる。● この【滅尽定】を、衆生として享受しているのは、無色界の最上位【非想非想処】、すなわち【有頂天】で生存している衆生であり、彼らは無想定のように心・心所を停止させており、物質より組成されている身体もない無色界に存続しているので、物質として認識可能なものもないし、心・心所も消滅している状態にあるので、この特殊状態は精神にも帰属させ分類することもできない。● したがってこの【滅尽定】もまた、精神でも物質でもない、実体の特殊状態のひとつとして、≪【心不相応行】≫のひとつとして数えるのである。2023/09/23 20:38:467.認識ってな~に?!au-mkG-95-PNUKPRXyしかし、自分の想念と現実世界がリンクしてるな。自分の希望的思いが、現実世界に反映されるのに3年のタイムラグが有るようだ。おもしろい‼️2023/09/23 21:21:498.認識ってな~に?!au-mkG-95-PNUKPRXy● 所知障の所知とは何か 池 田 道 浩 問題の所在● 所知障(jney vara a)の有無は、大乗と小乗とを区別する概念の一つである。小乗では、煩悩障を断つことはできるが、【所知障】を取り除くことはできず、【人無我】の理解に留まる。大乗では、【煩悩障】のみならず【所知障】をも除去することが可能であり、小乗では不可能だった【法無我】を理解することができる。この【所知障】の≪【所知】≫(jñeya)について、【瑜伽行派】には二つの解釈があった。●一つは、知られるべき≪真実(tattva)≫とする説。●もう一つは≪一切法、一切の所知≫とする説である。2023/09/23 22:28:279.認識ってな~に?!au-mkG-95-PNUKPRXy人無我を悟ればっていうか、悟った結果として、人無我を知るし、法無我だって引き続いて知るんじゃないのかな⁉️2023/09/23 22:31:0510.◆JBLfMwCXhY50-wHr-HH-95QCdytb>>6心不相応行の解説だ素晴らしいな?😄2023/09/23 22:52:0111.◆JBLfMwCXhY50-wHr-HH-95QCdytb無想天、無想定、滅尽定75法のうち、3つ分かったな(笑)2023/09/23 22:53:0812.◆JBLfMwCXhY50-wHr-HH-95QCdytb滅尽定が、非想非想定に相当するのか2023/09/23 22:54:4113.鹿野園◆dqam8SqGUPdm50-znh-yd-VZItI8qi荒らしはすべてその場でまとめて通報してる。2023/09/23 22:58:2414.鹿野園◆dqam8SqGUPdm50-znh-yd-VZItI8qi今日一日、JBLだけでおそらく100レス分は通報した。2023/09/23 23:00:4215.神も仏も名無しさん50-3w5-2s-bYYj1LoH棚上げ芸人ワンワン〜🐕🦺2023/09/24 05:11:0116.神も仏も名無しさん50-3w5-2s-bYYj1LoHワンワンも相当にメンタルダメージをうけたよーだな🐕🦺2023/09/24 05:58:1517.認識ってな~に?!au-MSa-95-PNUD58ua『ブッダが悟った智慧とは何か』 望 月 海 慧(身 延 山 大 学)『菩提道灯論』では、【瞑想修行】により【止】を完成した後に、【観】をどのように学ぶのかについて、それ故に【煩悩】と【所知】の障害を残らずに捨てるために、【智慧の完成】のヨーガを常に方便を用いて修習すべきである。と述べられている。すなわち、【六波羅蜜】の最初の五項を方便として、【智慧(prajna)】の完成が得られるとする。続いて、伽耶山頂経と維摩経に基づいて、方便と智慧の相関関係を述べた後に、【方便を修習】することにより、自分自身で【智慧】を【正しく修習】する者は、【菩提を速やかに得るが】、【無我】だけの修習ではそうではない。【蘊・界・処】は【生じることがない】と分別し、【自性を欠く】ものであると知ることが【智慧】であると正しく解説されている。と述べられている。先行する【カマラシーラ】に従い、【智慧】とは【無自性】を理解することであり、それは、【四支生滅・金剛片・離一多・縁起】の【四大因】から知られるものとされている。またこの【智慧】自身も、【四大因】により【考察すると】成立しないとして、【智慧】によりすべての法のいかなる【自性も見られず】、その【正しく解説された智慧】自身を【考察することなく】、彼は【修習】すべきである。と述べられている。ただしこの【智慧】は【勝義】において【存在しない】ものであるとし、以上のように、【空性】を修習した後に、次第に暖などを得てから【歓喜[地]】などを得るであろう。仏の菩提は遠くない。と述べられ、【智慧を獲得した後】に、さらに【悟りのステージ】を進んでいくことが述べられている。もちろんこのような【悟りを目的】とする【智慧】については、初期仏教文献には説かれておらず、【後期中観学派】独自の理解ということになるのであろうが、【ブッダの悟り】を追体験する一つの在り方を示すものである。そこでは悟りへの階梯には、【智慧の獲得】が必要であり、それにより【ブッダの悟り】を追体験できると理解されていたことがわかる。2023/09/24 19:58:5018.認識ってな~に?!au-MSa-95-PNUD58ua↑↑ブッダが悟った智慧とは何か望 月 海 慧(身 延 山 大 学)https://nbra.jp/publications/73/pdf/73_32.pdf2023/09/24 19:59:5219.認識ってな~に?!au-MSa-95-PNUD58ua【方便を修習】することにより、自分自身で【智慧】を【正しく修習】する者は、【菩提を速やかに得るが】、【無我】だけの修習ではそうではない。【蘊・界・処】は【生じることがない】と分別し、【自性を欠く】ものであると知ることが【智慧】であると正しく解説されている。と述べられている。先行する【カマラシーラ】に従い、【智慧】とは【無自性】を理解することであり、それは、【四支生滅・金剛片・離一多・縁起】の【四大因】から知られるものとされている。またこの【智慧】自身も、【四大因】により【考察すると】成立しないとして、【智慧】によりすべての法のいかなる【自性も見られず】、その【正しく解説された智慧】自身を【考察することなく】、彼は【修習】すべきである。と述べられている。ただしこの【智慧】は【勝義】において【存在しない】ものであるとし、2023/09/24 20:02:3120.認識ってな~に?!au-MSa-95-PNUD58ua『ブッダが悟った智慧とは何か』 望 月 海 慧(身 延 山 大 学)『菩提道灯論』では、【瞑想修行】により【止】を完成した後に、【観】をどのように学ぶのかについて、それ故に【煩悩】と【所知】の障害を残らずに捨てるために、● 【智慧の完成】のヨーガを常に【方便を用いて修習】すべきである。と述べられている。すなわち、【六波羅蜜】の最初の五項を方便として、【智慧(prajna)】の完成が得られるとする。続いて、伽耶山頂経と維摩経に基づいて、方便と智慧の相関関係を述べた後に、●【方便を修習】することにより、自分自身で【智慧】を【正しく修習】する者は、【菩提を速やかに得るが】、●【無我】だけの修習ではそうではない。【蘊・界・処】は【生じることがない】と分別し、【自性を欠く】ものであると知ることが【智慧】であると正しく解説されている。と述べられている。先行する【カマラシーラ】に従い、ーーーーーーーーー●【智慧】とは【無自性】を理解することであり、 ーーーーーーーーーーーーそれは、【四支生滅・金剛片・離一多・縁起】の【四大因】から知られるものとされている。またこの【智慧】自身も、【四大因】により【考察すると】成立しないとして、●【智慧】によりすべての法のいかなる【自性も見られず】、ーーーーーーーーー● その【正しく解説された智慧】自身を【考察すること無く】、彼は【修習】すべきである。と述べられている。 ーーーーーーーーーーー● ただしこの【智慧】は【勝義】において【存在し無い】ものであるとし、ーーーーーーーーーー以上のように、≪【空性】を修習≫した後に、次第に暖などを得てから●≪【 歓 喜[地]】≫などを得るであろう。【仏の菩提】は遠くない。 ーーーーーーーーーーと述べられ、【智慧を獲得した後】に、さらに【悟りのステージ】を進んでいくことが述べられている。もちろんこのような【悟りを目的】とする【智慧】については、初期仏教文献には説かれておらず、【後期中観学派】独自の理解ということになるのであろうが、【ブッダの悟り】を追体験する一つの在り方を示すものである。そこでは悟りへの階梯には、【智慧の獲得】が必要であり、それにより【ブッダの悟り】を追体験できると理解されていたことがわかる。2023/09/24 20:14:5021.認識ってな~に?!au-hMW-95-PNUR1wbi第七意識が第八阿頼耶識に【執着】する、第八阿頼耶識は【執蔵】である。第六識は執する、第八の種子の現象に、前五識に、第七意識の我執によって【執着】する。ーーーーー大円鏡智ーーーー↓ 一つの観照主体 ↓↓ ↓ ↓↓八 無対象 ↓五現量←←←←直通←←←←現量↓ 【止】&【滅】 ↓↓ ↓③認識主体←②認識主体←①認識主体↓観照 ↓観照 ↓観照種子→→→→想→→→→→現象(往)↑ ↑ ↓第八 第六 前五(色→受)執蔵 思 ↓↑ ↓ ↓種子←←←←汚染←←←←印象(還)汚染 了別 了別↑ ↑ ↑ 我執→→→→執着→→→→執着↑ ↑ ↑ーーー第七・マナ識ーーーー止&滅→我執の了別・汚染の無→平等性智種子、印象は、五~八で循環する。●この循環構造の一時停止が禅定、●一旦、循環構造が、停止瓦解した後で、六・七識の【無】化状況下において、五・八識の現量のみが観照・認識されると、①②③と分割されていた認識主体は、統合化され、一体となる、● この一体化された認識主体は、法界を現量で観照された時点で、完全に【一切対象】は、我では無いと、覚証するに至る。この【覚】が【心】であると【証】されると、【一切対象】と【仮我】は、永続的に【従】となる。● これが、本心に覚ったことである。2023/09/27 19:39:2822.神も仏も名無しさん50-7Jv-ZV-yHtCoHQWほーかいくんお館様〜〜もどってきてえ〜〜😭😭😭😭😭😭2023/09/28 21:56:1223.◆JBLfMwCXhY50-wHr-HH-95QILUf3そろそろ、ほ~かい師の大説法会といこう~😄2023/09/29 06:53:2624.認識ってな~に?!au-2Iv-95-PNUhjZtO心・意・識説に関する研究―― 阿頼耶識と末那識との関係を中心に ―①所依の問題 金 範松https://tais.repo.nii.ac.jp/record/381/files/%E9%87%91%E7%AF%84%E6%9D%BE%E3%80%8C%E5%BF%83%E3%83%BB%E6%84%8F%E3%83%BB%E8%AD%98%E8%AA%AC%E3%81%AB%E9%96%A2%E3%81%99%E3%82%8B%E7%A0%94%E7%A9%B6%EF%BC%8D%E9%98%BF%E9%A0%BC%E8%80%B6%E8%AD%98%E3%81%A8%E6%9C%AB%E9%82%A3%E8%AD%98%E3%81%A8%E3%81%AE%E9%96%A2%E4%BF%82%E3%82%92%E4%B8%AD%E5%BF%83%E3%81%AB%EF%BC%8D%E2%91%A0%E6%89%80%E4%BE%9D%E3%81%AE%E5%95%8F%E9%A1%8C%E3%80%8D.pdf● 次に、等無間?依は前滅の意のことで、開導依とも言われるが、前滅の識は自類なのか他類なのかの議論が行われる。護法の説では、八識すべてが前念の自類を以って開導依とするという。なぜなら、時間の前後があることによって異類を開導依とすることは理に合わないからである。即ち、異類の識をもってその開導依とするならば、異類の識の?起する義がなくなる。● また次に、?有依は心・心所法と同時に存在するものである。即ち、前五識が働く時には、五根(同境根)と第六識(分別依)と第七識(染浄依)と第八識(根本依)との、四つが必ず?に存在し、第六識が働く時には、第七識と第八識との二つが必ず?に存在し、第七識が働く時には、第八識が必ず?に存在し、第八識が働く時には、第七識が必ず?に存在するということが護法の正義である。● しかし、淨月などは種子識も?有依として?に働くのではないかと言うが、護法は「依」と「所依」との差を明らかに区別するのである。即ち、現行八識の種子は現前に自らの境を取ること(取自所縁)ができないので、種子は現行八識に対して「依」になるが「所依」にはならと言う。また、?有依について聖教に五識はただ五根に依る、2023/10/01 19:44:2825.認識ってな~に?!au-2Iv-95-PNUhjZtO『染汚意と意根我執の根深さの根拠』小谷信千代https://otani.repo.nii.ac.jp/record/6746/files/BGS_092-02.pdf2023/10/01 20:31:1926.鹿野園◆dqam8SqGUPdm50-aqq-yd-VZIXxaW1↙️2023/10/02 10:26:3927.認識ってな~に?!au-E5f-95-PNUWAI6o『大慧禅師の悟境についての一試論』.pdf大慧禅師の見性→大悟徹底の詳細●37歳 見性→『浄裸裸処に坐在す』『即ち、妄心妄念は滅却したが、その滅却した寂滅したところに、坐りこんでいたにすぎない』師圜悟克勤は、こう言っている、ここではまだ、『寂滅現前する能わず』● その半年後、大慧大悟して『その寂滅をも脱却した処』とした、師は記している、『浩然と大徹した』と● 寂滅をも脱却したところを得る、師曰く『如今(ジョコン)方(ハジ)めて我 你(オマエ)を誤まざるを 知道なり』【 知道 了。=わかった】【如今=ただいま、いま、現在】しかしなお、『未だ大自在を得ず』としている● 40歳 華厳経を読んでいて、十地品、第八不動地、【無効用法(あるがまま】で、【努力を用いず】修行実践できていること)を得る一節『即ち、一切の効用法を捨し【無効用法】を得』云々と、引用される箇所に至って、大悟徹底した。● 大慧は『華厳経』の一節を解し、第八地の菩薩は生死の心を断ち切り、『世間心既に滅し、【寂滅心】即ち現前す、寂滅心既に現前すれば、則ち塵沙の諸仏の説くところの法門、一時に現前す、法門既に現前するを得れば、即是ち』https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/251211/1/hct_041_087.pdf大慧宗杲大慧宗杲(だいえ そうこう、だいえ しゅうこう)は、中国の宋代の臨済宗楊岐派第5代の僧。諡号は普覚禅師ふかくぜんじ、賜号は仏日大師、大慧禅師、字は曇晦、号は妙喜みょうき・雲門。俗姓は奚けい。公案を用いて悟りに至る「看話禅」(公案禅)の大成者として知られる。Wikipediahttps://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%85%A7%E5%AE%97%E6%9D%B22023/10/02 17:35:2728.認識ってな~に?!au-E5f-95-PNUWAI6o● 大慧は『華厳経』の一節を解し、第八地の菩薩は生死の心を断ち切り、『世間心既に滅し、【寂滅心】即ち現前す、寂滅心既に現前すれば、則ち塵沙の諸仏の説くところの法門、一時に現前す、法門 既に現前するを得れば、即是(スナワチ)ち、【寂滅の真境界】なり。』2023/10/02 17:37:3929.神も仏も名無しさん50-Xi5-ZV-0E379z5fほーかいくんお館様は来ないのか〜〜?😭😭😭2023/10/02 18:14:4330.認識ってな~に?!au-E5f-95-PNUWAI6o848 鹿野園◆dqam8SqGUPdm 2023/10/02(月) 17:05:45.20 ID:dWL2I TID:rokuyaon「根」についての若干の資料https://i.imgur.com/hAyYQhc.jpg2023/10/02 22:34:2831.神も仏も名無しさん50-Xi5-ZV-Jko79z5fほーかいくんお館様は、このスレを捨てた模様😞2023/10/02 22:36:3132.認識ってな~に?!au-R6e-95-PNUYkNjq● 依止(えじ)deva-manuṣyan upanisraya (S) 「依止人天」〔法華経 湧出品〕 古来から【依託止住】(えたくしじゅう)の意味である。● たよりにし、拠り所という留まることを言う。力あり徳あるところに止住して離れざること。● 依止甚深如来がさとった真如の法体は一切の処に遍満して、一切萬有が所依となることを言う。五甚深の一つ。2023/10/02 23:49:3233.認識ってな~に?!au-R6e-95-PNUfBDEq驚くほど役立つ!潜在意識と顕在意識を完全攻略https://re95g.com/subconscious-conscious/ーーーーーーー●【言葉にできること】が 【 顕 在 意 識 】で●【言葉にできないこと】が 【 潜 在 意 識 】と分類できます。ーーーーーーー●【顕在意識】は 【意識的】に、【行動】に影響する 【思考】で、●【潜在意識】は 【無意識的】に、【行動】に影響する 【思考】と、解釈しましょう。2023/10/03 00:07:4634.認識ってな~に?!au-R6e-95-PNUfBDEq603 神も仏も名無しさん 2023/10/02(月) 23:36:23.85 ID:YkNjq● 第六識の倶有所依については、第七識と第八識のみである。● 第七識と第八識の内、一種でも欠いた時は、必ず第六識は転じないからである。● 第六識は五識と?に活動し、第六識は境を取ることが明了であるとはいっても、しかし【五識】は 【必ずしも存在しない】● 五識は第六識の所依ではない。しかし、聖教に● 第六識はただ第七識に依るとのみ説かれているのは、● 第七識が第六識の雑染依であり、 第七識は第六識と同じく転識の一種であり、近であり、相順するからである。上の説によると、護法がいう仮説ということは、不共依に限る意味であることが分かる。しかし、護法の言う?有所依の意味は不共依のみならず、共依まで含んで「所依」とすることは、すでに、上の章で図表に示した通りである。2023/10/03 00:36:0035.認識ってな~に?!au-SPK-95-PNU0yh3Ehttps://tais.repo.nii.ac.jp/?action=repository_uri&item_id=277&file_id=22&file_no=1『心・意・識説に関する研究』― 阿頼耶識と末那識との関係を中心―①所依の問題 金 範松https://i.imgur.com/pYVCPrY.jpghttps://i.imgur.com/lb2HHq5.jpg(3)心・意・識相互関係の考察第八識以上の図表で注目したいものは意根によって生じる第六・第七・第八識の相互関係である。まず、第六と第七の関係を見ると、第六識の不共依は第七識になるが、第七識は第六識を不共依の所依としないのである。それは、第七識は第六識の背後にある、ということを明らかにすることである。また、第七識と第八識の関係を見ると、第七識は第八識を不共依とし、第八識も第七識を不共依とするのである。それは、第七・第八は、恒に?であり、何れの識、特に末那識が無くなることは理に合わない、ということが分かる。そして、第六識の背後には第七識と第八識があると言えるが、第七識の背後に第八識があるとは言えないことも明らかになる。また、第七識と第八識は?有依でありながら、増上縁依として、即ち、現行識として相互に関係することが分かる。2023/10/03 01:59:2436.認識ってな~に?!au-SPK-95-PNU0yh3E唯識に学ぶ・誓喚の折々の記 能変の体を彰す (5)≪思量≫識https://blog.goo.ne.jp/seikannamo/e/2b7ff65b859e9dd63cbf4f7a6599501a「二には謂く【思量】。即ち【第七識】ぞ。【恒に審か】に【思量する】が故に。」● ①【初能変】は【第八識】であらわしますが、その【第八識の上】に働く識が【第七識】ですから、②【第二能変】といわれています。● ②【第七識】のはたらきは、【恒】に【審】かに【思量】するということで、①【第八識】の【見分を境】として≪恒≫に≪我≫と≪思量≫する識である。● 【恒】は【間断】のある③【第六識】を簡ぶ(除外)。③【意識(第六)】は【審(深く)】に【思量】するけれども【恒】ではない、ということ。● 【審思】は①【第八識】を簡ぶ(除外)。①【第八識】は【恒】ではあるが、【審】に【思量】する識ではありませんから簡び(除外)ます。● また【恒】と【審】との【思量】を以て【前五識】を簡び(除外)ます。④【五識】は【恒】に起こるものではなく、また【審思】するものでもないから簡ばれ(除外)ます。ーーーーー●【簡ぶ】は比較され簡び取られるという意味ではなく、【除外】されるという意味になります。● 【恒】に【思量】することと、 【審】に【思量】することが ②【第七識】の特徴になります。ーーーーーー ーーーーーーー● manas翻訳して末那といい表しています。【我・法】 二執の 根本である。【八識】はみな【思量の作用】があるが、● 末那識は特に①恒【間断なく常に作用する】と②審【明瞭に思惟する】との二義を兼ね有して、他の【七識に勝っている】から末那(意)という。2023/10/03 02:07:1637.認識ってな~に?!au-SPK-95-PNU0yh3E● 依止甚深【如来】が覚った【真如】の【法体】は【一切の処】に【遍満】して、【一切萬有】が【所依】となることを言う。【五甚深】の一つ。2023/10/03 02:15:5538.認識ってな~に?!au-SPK-95-PNU0yh3E想起・誤想起(記憶)https://bsd.neuroinf.jp/wiki/%E6%83%B3%E8%B5%B7%E3%83%BB%E8%AA%A4%E6%83%B3%E8%B5%B7%EF%BC%88%E8%A8%98%E6%86%B6%EF%BC%892023/10/03 02:17:5839.認識ってな~に?!au-I8W-95-PNUYvPWK922 神も仏も名無しさん 2023/10/03(火) 19:32:07.74 ID:HvtDx【無我】になったら、何の理解も、語ることも、無いです❗一切の相の無い認識主体が、停止・滅となった五識・六識の空、七識の空、を観て、空と観られた六識・七識は【無我】の無相を提示します、無相を示現すると、八識への習気も無相で清浄となります、つまり、≪①清浄な果→②清浄な種子→③清浄な因→①清浄な果≫という循環が始まり、みるみる八識も清浄無相となって行き、遂には、転識が生起されることになります。【無我】となった心は、外に因・縁を見ないので、内からの種子・因によって、動きますが、既に種子・因が清浄なので、業を作りません、なので、行が八識へ還流しても、果清浄であり、七識は既に空と観られているので、果は染汚されず、果・種子は清浄のまま八識へ収蔵されます。ただし、最初に、果清浄の因を行ずる必要があります、それは、正覚者如来によって説かれ約束された、清浄なる真言を一定期間唱えることにおいて、正しい因を縁じ、その事で、果の清浄を生起し、それを阿頼耶識へ還流させ、清浄種子として、再び清浄因を現行させる、という循環を作る、これは最初に有為でも後に無為となって行きます。これが、現時点での、わたしの理解解釈となりますm(_ _)m2023/10/03 22:09:4440.認識ってな~に?!au-I8W-95-PNUYvPWK924 神も仏も名無しさん 2023/10/03(火) 19:36:06.75 ID:HvtDx清浄なる真言は、そのまま文字として観じもします、つまり、見て、唱える。ーーーーー926 神も仏も名無しさん 2023/10/03(火) 19:44:14.99 ID:HvtDx≫923それは、因→縁→果となって現れた現象が、再び八識へ還流されて、七識によって、執・染汚された後に、一旦は八識の蔵へ、収蔵されたものだと理解しています。ーーーーー929 神も仏も名無しさん 2023/10/03(火) 19:47:09.76 ID:HvtDxそれは、外界の縁によって、呼び出された時、縁起の種子因として、六識にとらえられ、行となって行きますーーーーー948 神も仏も名無しさん 2023/10/03(火) 20:23:10.56 ID:HvtDx≫937だから、正しく聞法して薫習された正しい種子因果、これが整わなければ、正しい縁なく、正しい真言にも出会わず、なので、ーーーーー951 神も仏も名無しさん 2023/10/03(火) 20:26:31.36 ID:HvtDx無我とは無相の認識主体であると、わたしは言いました、2023/10/03 22:12:0241.認識ってな~に?!au-dNb-95-PNUUaoNR161 鹿野園◆dqam8SqGUPdm 2023/10/04(水) 10:34:07.34 ID:zUEF7 TID:rokuyaon対象とは、仏教では六境(色境・声境・香境・味境・触境・法境)ではありませんか。そして、その対象は非言語的言語(名言習気種子)を蔵する阿頼耶識(井筒俊彦なんかは言語アラヤ識と云ってますけと)から立ち上がるというのが唯識学派の主張です。例えばリンゴという対象は、元リンゴ(素朴実在論的なその素朴実在、或いは言語化される以前の"それ")は、阿頼耶識中の非言語的言語から立ち上がり、その名称(リンゴ)も同じく阿頼耶識中の非言語的言語から立ち上がると云うのがその主張です。2023/10/04 15:35:4542.認識ってな~に?!au-rIy-95-PNUay2Jf確か、護法の説明だったかでは、六識があるとき、つまり活動している状態の時は、七識と八識も同時にあって活動していて、共依である七識があるときは、八識も同時にある、それは不共依である、ーーーーーー恒 間断執蔵 ←← 還流・循環 →→ 認識八識【種子因】→ー←【縁起・果】六識↑↑ ↑↓七識 返光 投射恒 ↑↓ 五識 間断 ↑↓ 根・境・色こんなかんじか?2023/10/04 16:15:0443.認識ってな~に?!au-rIy-95-PNUay2Jf297 夕 2023/10/04(水) 13:28:12.31 ID:b053g>>289種子について、少々調べてみますhttps://archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/DB/0039/DB00390L001.pdf『阿毘達磨大毘婆沙論』における種子の考察近 藤 伸 介*シグナルは送られていいても、種子の交換は行われていない悩みますねありがとう2023/10/04 16:18:0844.認識ってな~に?!au-rIy-95-PNUay2Jf↑ダウンロードhttp://echo-lab.ddo.jp/Libraries/%E4%BD%9B%E6%95%99%E5%A4%A7%E5%AD%A6/%E4%BD%9B%E6%95%99%E5%A4%A7%E5%AD%A6%E5%A4%A7%E5%AD%A6%E9%99%A2/%E5%A4%A7%E5%AD%A6%E9%99%A2%E7%B4%80%E8%A6%81.%E6%96%87%E5%AD%A6%E7%A0%94%E7%A9%B6%E7%A7%91%E7%AF%87/%E5%A4%A7%E5%AD%A6%E9%99%A2%E7%B4%80%E8%A6%81.%E6%96%87%E5%AD%A6%E7%A0%94%E7%A9%B6%E7%A7%91%E7%AF%87%2039%E5%8F%B7/%E4%BD%9B%E6%95%99%E5%A4%A7%E5%AD%A6%E5%A4%A7%E5%AD%A6%E9%99%A2%E7%B4%80%E8%A6%81.%20%E6%96%87%E5%AD%A6%E7%A0%94%E7%A9%B6%E7%A7%91%E7%AF%87%2039%E5%8F%B7%2820110301%29%20L001%E8%BF%91%E8%97%A4%E4%BC%B8%E4%BB%8B%E3%80%8C%E3%80%8E%E9%98%BF%E6%AF%98%E9%81%94%E7%A3%A8%E5%A4%A7%E6%AF%98%E5%A9%86%E6%B2%99%E8%AB%96%E3%80%8F%E3%81%AB%E3%81%8A%E3%81%91%E3%82%8B%E7%A8%AE%E5%AD%90%E3%81%AE%E8%80%83%E5%AF%9F%E3%80%8D.pdf2023/10/04 16:21:0445.認識ってな~に?!au-rIy-95-PNUay2Jf最新の認知に関する脳科学では、人間が見ている一瞬の世界は、視野の全てを100とした時、1%ほどしか、【高解像度】で見えておらず、他の99%はボケて見えているそうです、その1%の高解像度の一瞬を、ジグソーパズルのように、組み合わせて、全体を把握認識していると言うのです、もし、視野の全てを、完全な高解像度で観ようとした場合、脳の容量は、今の600倍必要とされるらしいです、● つまり、我々の観ている世界は、脳内で、小さなパズルピースを順次集めて組立ている、仮に構築された映像であると、分かってきたそうです。2023/10/04 16:38:2346.神も仏も名無しさんvD-YhG-ZV-grobETlvほーかいくんは戻らないな😟2023/10/04 19:06:3947.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYnW4I1馬ちゃんに話しかける。今回、サティーさんとお話したことで良いことに気づいた。2023/10/05 07:57:3648.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYnW4I1表現方法ね。2023/10/05 07:58:0949.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYnW4I1『倶舎論』は、モノのあり様を説いた教えで「此縁性縁起」にあたります。これは世間一般的な凡夫(人)のモノの見方(有る無し)です。2023/10/05 08:00:5150.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYnW4I1実体が有るとか無いといった事を話す人達の認識は、この「有る無し」による認識法になります。2023/10/05 08:03:0151.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYnW4I1お釈迦さまはそういった人が五蘊という感覚器官によって対象物(モノ)を「有る無し」で認識する認識法じゃ本当のそのモノのあり様は知り得ませんよといって、縁起という認識法を説かれました。と、いうのが良くある縁起の説明です。2023/10/05 08:06:3452.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYnW4I1ここに、次のような説明文をくわえたらより仏教における認識法が解りやすくなる気がする。2023/10/05 08:08:1253.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYnW4I1縁起による認識法とは、五蘊によるモノの認識(第六意識)ではなく、その五蘊を空じた「末那識」に依るところの認識法になります。「有る無し」の認識法=五蘊によるところ ---(第六意識)「縁起」に依る認識法=末那識によるところ ---(第七意識)2023/10/05 08:13:2654.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYnW4I1で、その末那識だけど(ここからが重要!)2023/10/05 08:14:3655.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYnW4I1通常は阿頼耶識と共に「潜在意識」として深層下に潜んでいる為、顕在意識である第六意識は無意識的にその影響を受けている。2023/10/05 08:17:2356.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYnW4I1無意識的にというのは(ここが大事なポイント)末那識は常に阿頼耶識を見ている意識なので、(オレオレの自我意識ね)俺色に染まった末那識になっている。(←ここ大事!)2023/10/05 08:20:4157.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYnW4I1末那識が俺色になっていると例えばその「俺」が我が強い俺(間違った教えを聞いた種)だったら表層の六根にもその俺色がおのずと反映し、俺式の(俺=我)モノの見方となる(我見)。2023/10/05 08:26:0858.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYnW4I1通常、人の意識構成は 前五識 第六意識 第七末那識 第八阿頼耶識といなっていて、表層部分しか人は自覚出来ない(第六意識)。それは第六意識が前五識を対象として起こる意識だからである。2023/10/05 08:29:4359.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYnW4I1この場合、第六意識は前五識だけでなく無意識的に第七末那識の影響も受けている。だから俺式のモノの見方となります。(第六意識と第七末那識は直接影響している)2023/10/05 08:32:2460.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYnW4I1しかし、その末那識が「俺」という自我を捨て去ったらどうなるでしょう。2023/10/05 08:33:1661.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYnW4I1俺の阿頼耶識を拾ってもそれは濁った間違った教えの種(間違った薫習)だから、それはもう「いらない!」ってポイ!しちゃって、仏が説いた正しい教えの種を拾い上げていったら、末那識は「俺式」ではなく、「仏式仕様」に変わります。2023/10/05 08:37:2762.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYnW4I1潜在意識の末那識の仕様が、俺式から仏式に変わる事で、今まで俺流で見ていた世界が仏流で観えて、そのモノがそのモノと成り得た今までの俺流では見えていなかった過去の因果が観えてきて、「なるほどー、これってこういう因果で今ここにこういう姿で存在しているんだー」と、そのモノの見方が変わってきます。---(仮観から空観での認識の変化)2023/10/05 08:42:0563.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYnW4I1モノのあり様を説いた教え『倶舎論』---(此縁性縁起)認識のあり方を説いた教え『般若経典』---(相依性縁起)2023/10/05 08:44:0664.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYnW4I1以上、「モノのあり様」と「認識のあり方」のお話でした。終わり。2023/10/05 08:45:1765.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYnW4I1意見がある人はご自由にどうぞ。2023/10/05 08:45:5666.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYnW4I1ところでこのお話には物凄く大事なポイントがある。2023/10/05 08:59:3267.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYnW4I1鹿野園なら気づくかも知れない。馬ちゃんはおそらく気づかないと思う。(これは私の勝手な思い込みです)2023/10/05 09:01:2768.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYnW4I1リダンも気づくと思う。2023/10/05 09:02:1869.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYnW4I1でおーは、スローライフに嵌ってるみたいだから気づかないでしょう。(関係ないけどー)2023/10/05 09:03:2870.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYnW4I1サティーは唯識を知らんから問・題・外2023/10/05 09:05:0271.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYnW4I1ヒントは「共依」と「不共依」です。2023/10/05 09:09:3072.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYnW4I1JBLは、気づきそうで気づかない気がする。2023/10/05 09:10:4773.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYnW4I1以上、法介の勝手な思い込みによる法介占いです。2023/10/05 09:11:4574.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYnW4I1元コは、、、、、、https://www.google.com/search?q=%E5%85%83%E6%B0%97%E3%81%A7%E3%81%99%E3%81%8B%E3%83%BC&sca_esv=570803870&rlz=1C1CHZN_jaJP979JP980&tbm=vid&sxsrf=AM9HkKm8MgZxzuP54tajKaQKXq4IXqlMoA:1696464869013&source=lnms&sa=X&ved=2ahUKEwjDwZCP0N2BAxVArVYBHdwnA3cQ_AUoAXoECAIQAw&biw=1366&bih=619&dpr=1#fpstate=ive&vld=cid:976ac976,vid:TvKVRAsWdsA,st:02023/10/05 09:20:4975.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYnW4I1リンク張り間違えた、、、。https://youtu.be/TvKVRAsWdsA2023/10/05 09:22:0976.神も仏も名無しさん50-zgs-ZV-i4jVgSO1お〜やっと戻られましたか〜😄2023/10/05 09:36:2577.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYnW4I1サティーのとこでの二人の会話目をとおしておいた。2023/10/05 09:39:0978.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYnW4I1鹿野園の勘違いでの乱入がとても笑えた。2023/10/05 09:39:5179.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYnW4I1まるで吉本新喜劇を見ているようだった。2023/10/05 09:40:3680.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYnW4I1わたしが名無しで鹿野園をツンツンしたばかりに鹿野園を吉本の劇団員にさせてしまった。2023/10/05 09:42:1081.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYnW4I1鹿野園スマン悪かったな。2023/10/05 09:43:0582.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYnW4I1でも、おもしろかった。おまえは絶対吉本でも通用するぞ。2023/10/05 09:45:0183.神も仏も名無しさんNH-HkE-ZV-lcSGb45qほーかいくん大説法、あそこ以外は容認しますのでドシドシやっておくれ😄2023/10/05 10:28:3784.神も仏も名無しさんNH-HkE-ZV-lcSGb45qhttps://talk.jp/boards/psy/1694758403ここも、ガンガンレス入れても容認しまっせ〜😄2023/10/05 10:29:5885.神も仏も名無しさんNH-HkE-ZV-lcSGb45qhttps://talk.jp/boards/psy/1695449792ここもレスおーけー😄2023/10/05 10:31:5386.神も仏も名無しさんNH-HkE-ZV-lcSGb45qここもおーけ〜https://talk.jp/boards/psy/16947392962023/10/05 10:32:5487.認識ってな~に?!au-eon-95-PNUIYCgT790 ◆JBLfMwCXhY 2023/10/05(木) 08:04:20.48 ID:GDWKD戯論けろん/戯論正しくない、無益・無用の言論や分別。または、非論理的な話。?prapa?caの訳。『仏遺教経』に「汝等比丘よ、若し種種戯論せば、その心則ち乱る。復た出家すと雖もなお未だ得脱せじ。是の故に比丘よ、常に急に乱心戯論を捨離すべし。若し汝、寂滅の楽を得んと欲せば、ただまさに速やかに戯論の患いを滅すべし。是れを不戯論と名づく」(正蔵一二・一一一二上)とある。また『中論』一には、「不生亦不滅、不常亦不断、不一亦不異、不来亦不出なり、能く是の因縁を説き、善く諸の戯論を滅す」(正蔵三〇・一中)とあり、ここでは因縁、つまり縁起についての内容と、戯論の否定が説かれている。また『中論』では、戯論には事物に対して愛著する迷いの心から起こる言論としての愛論と、道理に暗い諸種の偏見から行う見論との二種類があるとし、『仏性論』(正蔵三一・八〇三中)には三種および九種の戯論が説かれている。さらに吉蔵『中観論疏』(正蔵四二・一二下)には別に五種の戯論があるとしている。もともとのサンスクリットの原語には、広がり、拡大、分化や多様性などという意味があるが、我々の日常世界は、能知(知るもの)・所知(知られるもの)、能言(語るもの)・所言(語られるもの)によって成立する。ここから人間の日常世界の言葉における無益な言論が起こり、その言論を戯論という。さらには対象を分化し虚妄に分別する精神作用に至るまでを戯論に含むこともある。2023/10/05 12:36:1988.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYnW4I1>また『中論』では、戯論には事物に対して愛著する迷いの心から起こる言論としての愛論と、道理に暗い諸種の偏見から行う見論との二種類があるとし愛論は、自我によって起こります。見論は、我見(道理に暗い諸種の偏見)から起こります。2023/10/05 13:30:5889.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYnW4I1我見は、『倶舎論』に説かれる実体の真理を理解する事で、道理に暗い諸種の偏見が正されて正見となります。2023/10/05 13:33:4490.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYnW4I1問題は愛論の方です。表層では「主観」、深層では「自我」が関わってきます。顕在意識=「好き・嫌い」「綺麗・汚い」「良い・悪い」等の相依性潜在意識=末那識の自我意識が常に第六意識に影響を与えている。2023/10/05 13:38:5291.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYnW4I1表層の顕在意識は、自身の意識でコントロール出来ます。主観の問題なので。ただ、生理的に受け付けられないような問題、例えばニンジンやピーマンを「美味しい!」とはどうしても思えないといった潜在的無意識から起こる縁起です。2023/10/05 13:41:4992.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYnW4I1この潜在的無意識が厄介です。2023/10/05 13:42:3893.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYnW4I1第六意識は、(1) 第六意識は、第七識である意を所依として起こる識である。https://blog.goo.ne.jp/seikannamo/e/1fd13b5056fb746eaa9a600de45141ac第六意識は、第七識を所依として起こるが、その逆はありえません。(不共依)2023/10/05 13:46:4594.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYnW4I1まず、第六と第七の関係を見ると、第六識の不共依は第七識になるが、第七識は第六を不共依の所依としないのである。https://tais.repo.nii.ac.jp/?action=repository_uri&item_id=277&file_id=22&file_no=1プリント下部 No.217(右段)2023/10/05 13:51:1695.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYnW4I1これがどういう事かと言いますと、第七意識(末那識)は無意識的に第六意識に働きかけますが、第六意識は潜在意識をコントロール出来ないという事です。だってそうでしょう。潜在意識で無意識で動いている心臓をあなたは自分の意志で一時的に止めれますか?2023/10/05 13:54:2096.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYnW4I1双方向の関係ではなく、一方通行な訳です。2023/10/05 13:55:4997.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYnW4I1しかし、第七末那識と第八阿頼耶識は双方向の関係だと「金 範松論文」では述べられてます。(プリント同箇所)2023/10/05 13:57:3398.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYnW4I1という事は、戯論を正論に転換するにはどうしたら良いか考えた時、ある事に気づきませんか?と言うお話です。2023/10/05 13:59:5499.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYnW4I1第六意識が自身がコントロール可能な意識です。その意識で無意識をコントロールすることは出来ません。では、どうしたら良いか。2023/10/05 14:01:43100.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYnW4I1その為に五蘊を空じる訳ですよね。では五蘊を空じたとしましょう。五蘊を空じると第六意識は止滅します。2023/10/05 14:02:48101.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYnW4I1そして第七末那識が潜在意識として顕れてきます。この時点では「意識」はあります。何故なら自我意識はこの第七末那識にあるからです。2023/10/05 14:04:14102.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYnW4I1その第七末那識が第八阿頼耶識の中の「俺の記憶」を拾い上げる訳ですが、ここに正しい教えを聞いた記憶(善業=仏種)があればそれを拾い上げる事が出来ます。しかし、過去に仏の説法を一度も聞いた事がない本未有善(本有の無漏種子が無い)の凡夫は、五蘊を空じて阿頼耶識にアクセスしても意味が無いんです。2023/10/05 14:16:04103.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYnW4I1「いやーそんな事はない!」と言って、自我意識を空じれば自他の分別が無くなるから自分の阿頼耶識の記憶は無くても、無漏種子が有る人の阿頼耶識の記憶を共有すれば、「可能じゃん!」って言う方も居られるかと思います。2023/10/05 14:19:44104.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYnW4I1しかし、残念でしたー自我意識を空じていますので、その時点にあっては「意識」は止滅しております!2023/10/05 14:20:47105.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYnW4I1共有出来たとしてもそれを感じ取る意識が存在していないんです。九次第定は無の境地にひたすら進んで行く瞑想ですので。(ここ大事!)2023/10/05 14:22:29106.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYnW4I1だからお釈迦様は最後に行った瞑想で、順観で九次第定を行って次に逆観で戻って来てそこから最後に三昧を行ったんです。(三昧と禅定は内容が異なります)2023/10/05 14:24:53107.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYnW4I1三昧とは、仮一切仮、空一切空、中一切中の三種三観の円融です。2023/10/05 14:26:03108.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYnW4I1この方法ですと、意識はあります。意識(第六意識)で阿頼耶識の記憶を拾い上げるといった必殺技をお釈迦さまはあみ出した訳です。それが円融三諦、一念三千の法門である『妙法蓮華経』、即ち法華経です。2023/10/05 14:29:31109.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYnW4I1https://livedoor.blogimg.jp/butudou/imgs/e/a/eadda475.jpg2023/10/05 14:34:27110.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYnW4I1禅定で阿頼耶識に入って行ってもそこは無為の世界なので意識も働きません。その阿頼耶識の蔵に眠っている仏と仏弟子達の仏道の因縁を表層の意識が認識出来る状態にしたのが曼荼羅を対境として行う勤行・唱題行になります。 曼荼羅=縁因仏性 法華経=了因仏性 お題目=正因仏性2023/10/05 14:40:48111.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYnW4I1信じるか信じないかはあなた次第です。2023/10/05 14:41:29112.神も仏も名無しさん50-cXo-ZV-1ZGz5Zf3おお!流石密教ですな裏技感ある2023/10/05 15:11:01113.リダン◆iKlPp4IWRY50-cXo-ZV-1ZGz5Zf3コテ外れてた2023/10/05 15:11:15114.認識ってな~に?!au-dY9-95-PNUnfcWk第七末那識● 彼(第八識)に依て転じて彼(第八識)を縁ず。思量するをもって、性とも相とも為す。● 四の煩悩と常に倶なり。● 審 - 第八識・前五識は審らかではない。第八識は恒ではあるが審らか思量するという働きはない。前五識は縁に依って生起するので、恒でもなく、審らかでもない。● 恒 ー 第六識・前五識は恒ではない。不恒である。第六識は審らかではあるが、恒ではない。● 恒に審らかに思量するのは第七識のみであるので、第七識の特性である思量をもって末那と称し、マナス=意、と名づけるという。2023/10/05 16:12:17115.認識ってな~に?!au-dY9-95-PNUnfcWk六識は識という意義がある。(3) 第七識は、第六識のために近所依となるということを顕さんとして、第七識を意と名づけるのである。第七識を意識という場合は識と意は同じものを指すが、第六識を意識という場合は、識と意とは異なるものである、という。2023/10/05 16:15:45116.認識ってな~に?!au-dY9-95-PNUnfcWk● 第七識 意=識 意が識自体を指す。(持業釈)● 第六識 意根による識(意根を所依とする識)、即ち、意根(第七識)を所依とする識であるという意味で意識と名づけられる。(依主釈)2023/10/05 16:17:07117.認識ってな~に?!au-dY9-95-PNUnfcWk● 其の第六識は体是れ識なりと雖も、而も是れ意には非ず。恒・審するものに非ざるが故なり。●(第六識依主の釈) 彼の依主釈というは、主というは謂く第七なり。●・・・眼識等というが如し、というは眼は是れ所依なり。而も体是れ識なり。眼に依るの識なり。故に眼識と名づく。2023/10/05 16:21:50118.認識ってな~に?!au-dY9-95-PNUnfcWk● 恒に審らかに思量するのは第七識のみであるので、【第七識】の【特性】である【思量】をもって【末那】と称し、【マナス=意】、と名づけるという。● 【出世の末那】といわれることもありますが、その場合は【自在位】によって【名づけられ】、【出世の末那】【自在位】によって、【名づけられ】● そこには【未自在位】の【末那】は【転依】して【平等性智】と名づけられ、【末那】とは【名づけない】のであって、● 即ち【有漏】にのみ【名づけ(末那と)られ】、【無漏】には【存在しない】のである、といわれます。●『第七末那識は、阿羅漢と出世道と滅尽にはあること無し、』2023/10/05 16:42:26119.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYnW4I1だから?2023/10/05 16:46:58120.認識ってな~に?!au-dY9-95-PNUnfcWk110 法介◆T3azX0Hk1U (50-5UQ-aP-cEY) 2023/10/05(木) 14:40:48.94 ID:nW4I1禅定で阿頼耶識に入って行ってもそこは無為の世界なので意識も働きません。その阿頼耶識の蔵に眠っている仏と仏弟子達の仏道の因縁を表層の意識が認識出来る状態にしたのが曼荼羅を対境として行う勤行・唱題行になります。 曼荼羅=縁因仏性 法華経=了因仏性 お題目=正因仏性ーーーーーーーーー第八阿頼耶識で、このように、お題目を行じている時の、第七末那識は、どのようになっていますか?このお題目行法は、前五~六、七、八識の全てが関わっていますね、それで、この因縁で、どの様に転識されるのでしょうか?2023/10/05 16:50:36121.認識ってな~に?!au-dY9-95-PNUnfcWkつまり、第七識の【未自在位】の【末那】は【転依】しては、どの様なプロセスによって生起するのか?また、八識の清浄化は、どのようなプロセスを経て、清浄種子とされて収蔵されるのか?この2つが問題なのです。2023/10/05 16:56:48122.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYnW4I1ああー、この部分ですね。https://blog.goo.ne.jp/seikannamo/e/1fd13b5056fb746eaa9a600de45141ac出世の末那といわれることもありますが、その場合は自在位によって名づけられ、そこには未自在位の末那は転依して平等性智と名づけられ、末那とは名づけないのであって、即ち有漏にのみ名づけられ、無漏には存在しないのである、といわれます。2023/10/05 17:01:53123.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYnW4I1唱題行では、目で縁因仏性(曼荼羅)を直視して、口で法華経(了因仏性)を読誦し、最後にお題目(正因仏性)を唱えます。法華経の方便品の読誦の時、十如是を三編くり返して読みます。その意味を日蓮聖人が『一念三千法門』の中で次のように説明されておられます。されば当宗には天台の所釈の如く三遍読に功徳まさる、第一に是相如と相性体力以下の十を如と云ふ如と云うは空の義なるが故に十法界・皆空諦なり是を読み観ずる時は我が身即・報身如来なり八万四千又は般若とも申す、第二に如是相・是れ我が身の色形顕れたる相なり是れ皆仮なり相性体力以下の十なれば十法界・皆仮諦と申して仮の義なり是を読み観ずる時は我が身即・応身如来なり又は解脱とも申す、第三に相如是と云うは中道と申して仏の法身の形なり是を読み観ずる時は我が身即法身如来なり又は中道とも法性とも涅槃とも寂滅とも申す、此の三を法報応の三身とも空仮中の三諦とも法身・般若・解脱の三徳とも申す此の三身如来全く外になし我が身即三徳究竟の体にて三身即一身の本覚の仏なり、是をしるを如来とも聖人とも悟とも云う知らざるを凡夫とも衆生とも迷とも申す。2023/10/05 17:09:40124.認識ってな~に?!au-TGJ-95-PNUjXbRpかつての2500年前においては、本が無かった時代、その時代においては、【聞・思・修】のように、口伝経文を【聞く】ことの縁をもって、八識の種子因となったのでしょうが、現代では、それは、【経文】を【読む】ことでも代用とされるはずです。なお、お題目を【聞く】ことと、【唱える】ことの違い、つまり、七識の【意識】を使うことで、【私の行為】【私が唱題目する】という【私】の染汚が、八識に印象されて、種子へ薫習されてしまうことの害を考える必要があると謂うこと。2023/10/05 17:12:20125.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYnW4I1ここで言う「空の義」とは次の中の妙観察智にあたります。 妙=仏眼:第九識は法界体性智 法=法眼:第八識は大円鏡智 蓮=慧眼:第七識は平等性智 華=天眼:第六識は妙観察智 (←ここ) 経=肉眼:前の五識は成所作智2023/10/05 17:12:37126.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYnW4I1順を追って説明しますのでまずは聞いて下さい。2023/10/05 17:14:17127.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYnW4I1次に「仮の義」とは前五識が成所作智と変わる(転識する)ということです。 妙=仏眼:第九識は法界体性智 法=法眼:第八識は大円鏡智 蓮=慧眼:第七識は平等性智 華=天眼:第六識は妙観察智 経=肉眼:前の五識は成所作智(←ここ)2023/10/05 17:15:51128.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYnW4I1最後に中の義で第七識が平等性智へ転識すると日蓮聖人は言われております。 妙=仏眼:第九識は法界体性智 法=法眼:第八識は大円鏡智 蓮=慧眼:第七識は平等性智(←ここ) 華=天眼:第六識は妙観察智 経=肉眼:前の五識は成所作智2023/10/05 17:17:52129.認識ってな~に?!au-TGJ-95-PNUjXbRpどーもーのどうも君じゃないが、どーも、日蓮さんは、六識以下による悟りを説いているのでないでしょうか?七、八識の解脱は読み取れないです。2023/10/05 17:18:27130.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYnW4I1>六識以下による悟りを説いているのでないでしょうか?どうしてそう思われるのでしょうか?2023/10/05 17:19:53131.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYnW4I1『十八円満抄』で次のように申されております。仏意の五重玄とは諸仏の内証に五眼の体を具する即ち妙法蓮華経の五字なり、仏眼は妙・法眼は法・慧眼は蓮・天眼は華・肉眼は経なり、妙は不思議に名く故に真空冥寂は仏眼なり、法は分別に名く法眼は仮なり分別の形なり、慧眼は空なり果の体は蓮なり、華は用なる故に天眼と名く神通化用なり、経は破迷の義に在り迷を以て所対と為す故に肉眼と名く、仏智の内証に五眼を具する即ち五字なり五字又五重玄なり故に仏意の五重玄と名く、亦五眼即五智なり、法界体性智は仏眼・大円鏡智は法眼・平等性智は慧眼・妙観察智は天眼・成所作智は肉眼なり、問う一家には五智を立つるや、答う既に九識を立つ故に五智を立つべし、前の五識は成所作智・第六識は妙観察智・第七識は平等性智・第八識は大円鏡智・第九識は法界体性智なり。2023/10/05 17:25:46132.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYnW4I1次に機情の五重玄とは機の為に説く所の妙法蓮華経は即ち是れ機情の五重玄なり首題の五字に付いて五重の一心三観有り、伝に云く、 妙 不思議の一心三観 天真独朗の故に不思議なり。 法 円融の一心三観 理性円融なり総じて九箇を成す。 蓮 得意の一心三観 果位なり。 華 複疎の一心三観 本覚の修行なり。 経 易解の一心三観 教談なり。 玄文の第二に此の五重を挙ぐ文に随つて解すべし、不思議の一心三観とは智者己証の法体・理非造作の本有の分なり三諦の名相無き中に於て強いて名相を以つて説くを不思議と名く、円融とは理性法界の処に本より已来三諦の理有り互に円融して九箇と成る、得意とは不思議と円融との三観は凡心の及ぶ所に非ず但だ聖智の自受用の徳を以て量知すべき故に得意と名く、複疎とは無作の三諦は一切法に遍して本性常住なり理性の円融に同じからず故に複疎と名く、易解とは三諦円融等の義知り難き故に且らく次第に附して其の義を分別す故に易解と名く、此れを附文の五重と名く、次に本意に依て亦五重の三観有り、一に三観一心入寂門の機、二に一心三観入照門の機、三に住果還の一心三観・上の機有りて知識の一切の法は皆是れ仏法なりと説くを聞いて真理を開す入真已後観を極めんが為に一心三観を修す、四に為果行因の一心三観謂く果位究竟の妙果を聞いて此の果を得んが為に種種の三観を修す、五に付法の一心三観・五時八教等の種種の教門を聞いて此の教義を以て心に入れて観を修す故に付法と名く、山家の云く塔中の言なり亦立行相を授く三千三観の妙行を修し解行の精微に由つて深く自証門に入る我汝が証相を領するに法性寂然なるを止と名け寂にして常に照すを観と名くと。2023/10/05 17:26:39133.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYnW4I1ここで言う「円融とは理性法界の処に本より已来三諦の理有り互に円融して九箇と成る」が三種三観の三三九諦の相になります。https://cdn.wikiwiki.jp/proxy-image?url=https%3A%2F%2Fhokekyou.up-jp.com%2Fwp-content%2Fuploads%2F2019%2F11%2Fennyuusanntai.jpg2023/10/05 17:33:49134.認識ってな~に?!au-TGJ-95-PNUjXbRpだから、全てがお品書きに見える、上記をやって、七識の平等性に転智した人はいますかねー?2023/10/05 17:34:57135.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYnW4I1はい。ここにおります。わたし以外にもお題目を唱えている人は大体経験されてると思いますよ。2023/10/05 17:36:48136.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYnW4I1但し、日常生活に戻れば、また別の縁に触れますのでまた元の八識に戻ります。2023/10/05 17:37:45137.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYnW4I1曼荼羅を縁(縁因)として唱題しますので平等性に転智します。2023/10/05 17:38:30138.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYnW4I1縁が変われば心も又、瞬時に変ります。2023/10/05 17:38:57139.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYnW4I1しかし、現実の生活の中で不思議な事が起こります。天上界の仏菩薩達が神通力を使って、色んな形で覚りに導いてくれます。2023/10/05 17:40:42140.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYnW4I1それが天上界の仏菩薩達の仏道修行ですから。(菩薩の道)2023/10/05 17:41:27141.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYnW4I1といっても馬ちゃんには馬の耳に念仏でしょうからこの辺で止めときます。2023/10/05 17:42:04142.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYnW4I1夕食のしたくをしてきます。2023/10/05 17:43:05143.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYnW4I1ああーあと、自分の過去世も自覚出来ます。私は前世と前々世まではわかってます。2023/10/05 17:45:32144.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYnW4I1前世でゆかりのあった人物や場所、出来事等に不思議と遭遇するんです。2023/10/05 17:46:42145.認識ってな~に?!au-YMe-95-PNU6aaCh>>144あのね、そういう事は誰にでも起きることですよ、2023/10/05 17:54:54146.認識ってな~に?!au-YMe-95-PNU6aaCh>>136これも、ふつーの人でも、こういうことはありますけどね、家族にやさしく仏のようで、他人に厳しく鬼のよう!2023/10/05 17:58:32147.認識ってな~に?!au-YMe-95-PNU6aaCh>>136それが、百歩譲って一時的悟りとしても、恒としての解脱ではないですね、2023/10/05 18:00:34148.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYnW4I1馬ちゃんが、今やってる瞑想が正しいと思っているのでしたらそれはそれで宜しいのではないでしょうか?2023/10/05 18:01:47149.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYnW4I1馬ちゃんがどう思われましょうがわたしには関係のないお話です。2023/10/05 18:02:58150.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYnW4I1批判したいのでしたらどうぞご自由に。2023/10/05 18:03:23151.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYnW4I1批判する為のご質問のようなので今後馬ちゃんの質問には答えないかもです。ご了承ください。2023/10/05 18:04:32152.認識ってな~に?!au-eon-95-PNUIYCgT純粋な疑問ですね、2023/10/05 18:14:10153.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYnW4I1本当に?2023/10/05 18:26:54154.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYnW4I1馬ちゃん人を騙して楽しんでなかったっけ?2023/10/05 18:29:16155.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYnW4I1でおーに聞いてみよ2023/10/05 18:29:55156.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYnW4I1どう思うでおー2023/10/05 18:30:19157.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYnW4I1ところで馬ちゃんさー>>114 ←これをどう解釈してるんですか?2023/10/05 18:36:50158.認識ってな~に?!au-BS3-95-PNUvZrZJ第七識が恒である、ですから、これを自己に当て嵌めてみれば、これは、寝ても覚めても妄想している、妄想分別のことです、普通の人は、これも【私が】【思って】いる、と、なっているでしょう、しかしこれは、循環の中で仮構されてできあがった【心システム】なのであって、オートマチックに起こっているものと考えています。2023/10/05 19:28:02159.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYnW4I1それはそれでその通りだと思いますが、わたしがお尋ねしてますのは、>>114 この文章の解釈です。2023/10/05 19:44:35160.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYnW4I1● 彼(第八識)に依て転じて彼(第八識)を縁ず。思量するをもって、性とも相とも為す。● 四の煩悩と常に倶なり。● 審 - 第八識・前五識は審らかではない。第八識は恒ではあるが審らか思量するという働きはない。前五識は縁に依って生起するので、恒でもなく、審らかでもない。● 恒 ー 第六識・前五識は恒ではない。不恒である。第六識は審らかではあるが、恒ではない。● 恒に審らかに思量するのは第七識のみであるので、第七識の特性である思量をもって末那と称し、マナス=意、と名づけるという。2023/10/05 19:47:07161.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYnW4I1「第八識は恒ではあるが審らか思量するという働きはない」まず、この文章を馬ちゃんは、どう読み取られておりますか?ポイントは、「恒」と「審らか」と「思量」をどう解釈するか。2023/10/05 19:48:53162.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYnW4I1馬ちゃんの解釈をお聞かせ下さい。2023/10/05 19:49:40163.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYnW4I1この文書は以下のような流れの中の文章となっております。(2)「又、諸識をば皆、意となすと雖も、これが為に意を標して余識は然んばあらずといはぬとぞ。総称を標すと雖も即ち別名なり」と、諸識は皆「意」と名づけられるが、その働きから、第七識が意というにふさわしく、諸識に別して特に意と名づけるのである。何故ならば、「恒に審らかに思量すること」が他の識より勝れているからである。「何が故に諸識を別に意と名づけずとならば、恒・審に思量すること余識に勝れたるが故なり」(『述記』)どのように勝れているのかは、次のようである。恒 ー 第六識・前五識は恒ではない。不恒である。第六識は審らかではあるが、恒ではない。審 - 第八識・前五識は審らかではない。第八識は恒ではあるが審らか思量するという働きはない。前五識は縁に依って生起するので、恒でもなく、審らかでもない。 恒に審らかに思量するのは第七識のみであるので、第七識の特性である思量をもって末那と称し、マナス=意、と名づけるという。2023/10/05 19:57:24164.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYnW4I1三つの単語を解釈するにあたっては、↑の中のこの↓文章が解りやすいでしょう。「恒に審らかに思量すること」が他の識より勝れている2023/10/05 20:00:23165.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYnW4I1恒にの意味は「常に」思量の意味は「考える」審らかの意味は、 物事の有様などを細部にわたって認め得るさま。 ことこまかなさま。 くわしいさま。とあります。2023/10/05 20:03:07166.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYnW4I1では、恒 ー 第六識・前五識は恒ではない。不恒である。第六識は審らかではあるが、恒ではない。審 - 第八識・前五識は審らかではない。第八識は恒ではあるが審らか思量するという働きはない。前五識は縁に依って生起するので、恒でもなく、審らかでもない。この上の段の「恒」の項においては、「第六識・前五識は恒ではない」ですから、「恒ではない=変化するもの」になりますよね。2023/10/05 20:06:00167.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYnW4I1又、「第六識は審らかではあるが、恒ではない」という事ですから、第六識にあっては、物事の有様などを細部にわたって認め得る。そしてそれは常ではなく変化する。2023/10/05 20:08:53168.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYnW4I1下段の「審」の項では、「第八識・前五識は審らかではない」とありますので、第八識・前五識は物事の有様などを細部にわたって認め得る事は無いとなります。これは意識として思慮(考える)する働きは無いという意味でしょう。前五識の情報を統合して考えるのは第六意識の役目ですから。2023/10/05 20:12:58169.認識ってな~に?!au-eon-95-PNUIYCgT161 法介◆T3azX0Hk1U (50-5UQ-aP-cEY) 2023/10/05(木) 19:48:53.45 ID:nW4I1「第八識は恒ではあるが審らか思量するという働きはない」まず、この文章を馬ちゃんは、どう読み取られておりますか?ポイントは、「恒」と「審らか」と「思量」をどう解釈するか。ーーーーーどうってそのままで、「恒」は七識でも謂われていますが、継続的、永続的な意味で、間断されないって意味で、「審らかに」は細部にわたって、ですよ、分析的に、でいいでしょ、しないです、さながらに思量せず、なんか六、七、八、ってすると、システムのボックスが別々に別れている様を思ってしまいますが、自己に実際は一塊だと思われます、ちなみにヨガでは複数相の殻が同心円のように、黄身を覆っている、たまごのような姿で描かれていますけど、でも、脳の大脳皮質と大脳辺縁系のような物理的脳もその機能が八つの識と被っているわけです、2023/10/05 20:14:45170.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYnW4I1続いて「第八識は恒ではあるが審らか思量するという働きはない」は、第八識は恒ですから変わることは無いが、「審らか思量するという働きはない」なので、「変わることが無く、考える働きも無い」となるかと。2023/10/05 20:16:58171.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYnW4I1以上の内容を整理しますと、>>166 第六識・前五識は継続的、永続的ではなく常に変化するもの。>>167 第六識にあっては、物事の有様などを細部にわたって認め得る。そしてそれは常ではなく変化する。>>168 第八識・前五識は物事の有様などを細部にわたって認め得る事は無い(考える働きはない)。>>170 第八識は変わることが無く、考える働きも無い。といった感じになりますよね。2023/10/05 20:25:40172.神も仏も名無しさん50-B7v-ZV-WNQ4URm8ほーかいくんお館様〜シカーチンスレが立ちましたぞ〜〜逆襲を〜https://talk.jp/boards/psy/16965035472023/10/05 20:26:39173.認識ってな~に?!au-BS3-95-PNUvZrZJ前五識と六識は間断する、ですよね、そのまま、ですから禅定で尋ね伺う働きが、一時的に停止できる訳です、車の運転や、テレビを観ていて、六識は容易に停止されます、そんな時、特に普通人は、車を運転すると人格変わる!とか謂う人がたまにいます、煽り運転とか、そして、六識があるときは、七識八識も同時にある、共依である、しかし七識は八識とは不共依である、ですから、普通は5678と同時に一気通関されている、ただ顕在の6からは潜在意識7と深層意識8が見えていない、見えてはいないが、顕在意識6に影響を与えている、しかも常時稼働している、寝ても覚めても、ああ、寝たら六識は間断されますね、2023/10/05 20:27:04174.認識ってな~に?!au-BS3-95-PNUvZrZJ八識も思量はあるが、それは僅かであるって、何処かにありましたね、2023/10/05 20:28:21175.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYnW4I1八識に思量がある?どこに書かれてありますか?2023/10/05 20:39:35176.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYnW4I1八識は記憶(業)が蓄えられる倉庫(蔵)なので思量はないかと。2023/10/05 20:41:47177.認識ってな~に?!au-dY9-95-PNUnfcWkだーれか?🦌さんも言及してたような?思い出したら書いておきます、2023/10/05 20:51:30178.認識ってな~に?!au-1Q6-95-PNUZRoUT861 鹿野園◆dqam8SqGUPdm 2023/10/05(木) 21:25:06.16 ID:FA3XW TID:rokuyaon>>860>八識はみな思量の作用があるがの件ですにつきましては一つには下記のブログの件https://blog.goo.ne.jp/seikannamo/e/2b7ff65b859e9dd63cbf4f7a6599501aもう一つはwikiの「末那識」の項です。私はそれは誤謬だと考えています。また、阿頼耶識は現量でその種子が非言語的言語種子云々と話た記憶はありますけど、思量云々の件は……うーん?多分話してないと思います。2023/10/05 21:59:25179.認識ってな~に?!au-1Q6-95-PNUZRoUT思い違いと、論文ではなくblogに書かれていたもので、出典が明らかでなく、またwikipediaの記述ですので、違ったようです。2023/10/05 22:01:17180.認識ってな~に?!au-1Q6-95-PNUZRoUTちょっと面白そうなのみつけた、まなしき出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』http://www.wikidharma.org/index.php/%E3%81%BE%E3%81%AA%E3%81%97%E3%81%8D阿陀那識このような【第七番目の識】として、仏教内にはこれを【阿陀那識】と名づけるか地論宗】がある。そこでは【第八識】を【真識】として【真如と同一】であるといい、この【真識】が【動じ変化して分別的】に働くために働く力が【第七の阿陀那識】であるという。● たとえば【起信論】にいわゆる【根本無明】が、これであるという。それは【分別】の【根本】として【妄染】の識であるという。● しかし、【法相宗】では【末那識】を【我執】の意識、【第八阿頼那識】は【妄識】とする。以上のように、この末那識を立てるところに仏教の心識論が成道という立場をふまえていることをしると共に、このような末那識に対しての人間の内省が、今日の人間性の考察についても大きな意味をもつと思われるのである。2023/10/05 22:14:18181.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYnW4I1なー馬ちゃん。馬ちゃんは、思考的には鹿野園と破調があうんだろ。鹿野園がまた新しいスレを立てて考察やってるから、そっちで鹿野園と考察を楽しんできたら?2023/10/05 23:18:05182.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYnW4I1唯識に関してはこのスレを使って、ぼちぼち私なりに考察していくよ。突っ込みたいところがあったら、突っ込んで来てくれたらいい。ただ概ね、「それは馬ちゃんの考えであってそれはそれで宜しいんじゃないでしょうか」「わたしはわたしが納得のいく答えを導き出しているだけです」となると思うよ。自分が納得出来るか否かだからね。2023/10/05 23:27:37183.認識ってな~に?!au-eon-95-PNUIYCgTえっここ埋めるの、放置してたから、使ってたけど、それなら良いよ、どうぞ。2023/10/05 23:30:02184.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYnW4I1気が変わらなければね。2023/10/05 23:33:05185.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYnW4I1朝起きたら気が変わってるかも。2023/10/05 23:34:01186.◆JBLfMwCXhY50-wHr-HH-95Q9FI57>>176> 八識は記憶(業)が蓄えられる倉庫(蔵)なので思量はないかと。阿頼耶識は「審らかに」思量しないだけで、一応、「データを蓄える」以外の機能も一通りそろっているとされるもっとも、なんといっても「データを蓄える」というのが阿頼耶識の主な機能なので思量する機能についてはとりあえず考えなくてよい2023/10/06 06:11:49187.◆JBLfMwCXhY50-wHr-HH-95Q9FI57「唯識三十頌」より、第三頌不可知執受 處了常與觸作意受想思 相應唯捨受(現代語訳)深層にある阿頼耶識の働きを知ることはできない。阿頼耶識では常に,触(物理的、精神的接触)・作意(対象に向かって心が働く作用),受(作意を受けての苦、楽等、様々な感情の働き)・想(触・作意・受を受けた時に浮かぶ印象)・思(意志)が働いている。阿頼耶識に相応するのは捨受(苦でも楽でもない非苦非楽の感情)のみである。2023/10/06 06:13:03188.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYwAXLSJBLありがとう。JBLは優しいな。2023/10/06 06:52:37189.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYwAXLS不可知執受 処了常与触 作意受想思 相応唯捨受で検索したらこんなサイトがあった。https://doyoubi.hateblo.jp/entry/2015/03/02/0805362023/10/06 07:00:33190.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYwAXLSあーそうだ。JBLは、唯識派みたいだね。zawazawaブログに『唯識』をJBLなりにまとめていったらどう。2023/10/06 07:03:16191.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYwAXLSもう、やってたりして。2023/10/06 07:04:32192.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYwAXLSJBLが良く言ってるけど、仏教ってセンスが大事だと思う。料理人は味覚のセンス。音楽家は音に対するセンス。彫刻家は造形に対するセンス。2023/10/06 07:16:39193.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYwAXLS仏教も同じ。仏教の場合は法理・法門に対するセンスかな。2023/10/06 07:18:03194.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYwAXLS菩薩が仏の境涯に至る為の五十二位の階位ってあるよね。覚るべき法理・法門が52ある訳でそれをどの階位まで覚ったかで菩薩の中での声聞・縁覚・菩薩・仏へと境涯が昇格していくらしい。2023/10/06 07:24:09195.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYwAXLS「桜嵐坊の仏教部屋」で柳衛さんが言ってましたよね。言葉から離れたところに真理はあると。言葉の奥に秘められた法理・法門を覚っていくことが大事。法理・法門が解かってくると覚りの世界が開けてくる。そんなところじゃないかな仏教って。2023/10/06 07:31:15196.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYwAXLS秘められた世界だけに奥が深い。2023/10/06 07:32:13197.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYwAXLS阿頼耶識について面白い論文を見つけた。https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/23/2/23_2_1001/_pdf/-char/jaさっきのサイトの文献よりも更に掘り下げて研究されている。2023/10/06 07:48:25198.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYwAXLS阿頼耶識は, 内的には執受(upadana)の了別としてまた外的には住処(sthana), すな わち器世間(bhajanaloka)の了別との二つに分けられるとする。このうち執受とは種 子と有根身のことである。種子とは一切の存在を生ぜしめる種子であり, 有根身とは肉体であつて, 五根とそれ らを助ける根依処とより構成される。器世問とは五境より成り立つた外界を意味して いる。しかしこの阿頼耶識の所縁は極めて微細(atisukmatva)であるからその所縁も行相も知覚されない(asavidita)という。2023/10/06 07:53:52199.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYwAXLS最初に紹介したサイト↓ではさ、https://doyoubi.hateblo.jp/entry/2015/03/02/080536「執受」とは、認識作用に関する自分の内的なこと。即ち、種子及び感覚器官を持っている肉体(有根身)のことであり、また「処」とは、自分の外部の認識対象、即ち、自然界のことである。そして「了」とは、認識作用のことである。とあります。しかしこの文章、よーく考えて読むとおかいい。「執受」とは、認識作用に関する自分の内的なこと、と言っておいて即ち、------肉体(有根身)のことでありって、肉体は内的じゃないでしょ。外的な要素じゃん。だから更に調べてみると、次に紹介したこの↓論文ね。https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/23/2/23_2_1001/_pdf/-char/ja>>198阿頼耶識とは、 〝内的〟には執受(upadana)の了別。〝外的〟には住処(sthana), すな わち器世間(bhajanaloka)の了別。の二つに分けられる。※ 執受とは種子と有根身のことである。2023/10/06 08:05:01200.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYwAXLS有根身は肉体。器世問とは五境で成り立つ外界。すると阿頼耶識は、種子と肉体と器世間(五陰世間)の三つの要素からなる。2023/10/06 08:10:54201.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYwAXLS阿頼耶識に「五境で成り立つ外界」があるってのは意外ですね。2023/10/06 08:12:13202.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYwAXLS更に第3偶は阿頼耶識とは善・悪の業がもたらした結果としての識であり,それ自体 としては無記である。この識にもさまざまな心所が伴うが(触・作意・受・想・思), 煩悩の心所は伴わないので「無覆無記」であるとせられる。2023/10/06 08:15:49203.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYwAXLS又、阿頼耶識が滅する場合について, 第5偶に次のようにとかれている。「阿頼耶識が滅する」←大変興味をそそられる言葉ですね。2023/10/06 08:18:15204.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYwAXLS「この(阿頼耶識の)転捨は阿羅漢の位においてである。(tasya vyrttir arhatve)」3)と説かれている。具体的には煩悩障(klea-avarapa)の種子と,所知障(jeyavarapa)の 種子とを残りなく断ずることである。そのためには喩伽行を修め,出世間智を得たの ちにも不断に修行することによつて煩悩の種子を残らず断ち切つたときには種子の 拠りどころである阿頼耶識は消滅する。2023/10/06 08:21:47205.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYwAXLS阿頼耶識は転識は起きないはずなのにどうして?と思っておりましたらこういうことなんですね。転識するのではなく「転捨」するんですね。「煩悩障の種子と、所知障の種子とを残りなく断ずる」2023/10/06 08:25:25206.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYwAXLSでは、「煩悩障の種子」と、「所知障の種子」ってなんでしょう。2023/10/06 08:26:03207.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYwAXLS「煩悩障の種子」解るけど、「所知障の種子」ってなんでろう。2023/10/06 08:27:29208.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYwAXLSここ↓でもこの論文は取り上げていたようですね。【唯識論】阿頼耶識と末那識の基本的考察【法相宗】https://talk.jp/boards/psy/16947584032023/10/06 08:32:55209.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYwAXLS145.ユーザー神も仏も名無しさん『成唯識論の末那識』八識の倶有依構造https://core.ac.uk/download/pdf/231049003.pdfhttps://i.imgur.com/Lr616mq.jpg『阿頼耶識と依他性との関係について』https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/23/2/23_2_1001/_pdf/-char/ja● 【阿頼耶識】が【滅する】場合について, 第5頌に次のようにとかれている。『この【阿頼耶識】の【転捨】は ≪阿羅漢の位≫においてである。』と、説かれている。● 具体的には①【煩悩障の種子】と、②【所知障の種子】とを≪残り無く≫≪断ずる≫ことである。● そのためには①【喩伽行】を修め、②【出世間智】を得たのちにも③【不断に修行】をすることによつて、④【煩悩の種子】を【残らず断ち切つた】ときには、【種子の拠り処】である、⑤【阿頼耶識】は消滅する。● それは≪輪廻的生存の根拠≫ を ≪転換≫ することである。それ故誰れでも【阿羅漢】となつて【尽智】と【無生智】を得たものは、【阿頼耶識】に依止する【塵重】を残りなく【断ずる】から、【阿頼耶識】が≪ 転 捨 ≫されると説かれたのである。2023/09/26 19:19:33711Fq2023/10/06 08:35:50210.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYwAXLS↑これ投稿したのは馬ちゃんかな。2023/10/06 08:36:15211.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYwAXLS157.ユーザー神も仏も名無しさんラトナーカラシャーンティの『般若波羅蜜修習次第』梵文和訳PDFhttps://researchmap.jp/kanokazuo/published_papers/31786229/attachment_file.pdf● ≪5≫『 出 世 間 智 の 獲 得 』そのあとに、彼(菩薩)は、このように観察した後で、すべての【名称】とすべての【相】を≪捨て去る≫それから、【一切諸法】を【所縁】とし【意言】なく【顕現】無き【三昧】において留まる彼には、【過去世】の【前行】の【潜在印象】の力にもとづいて、無功用かつ造作なく、一切【戯論の相】が無くなって、【分別】無く、【顕現】無き、≪ 一 切 諸 法 空 性 ≫を見る、【純粋】かつ【垢】を【離れた】≪【無限】の【虚空】≫に似た、【 出 世 間 智 】が【生じる】。● ≪6≫『 阿 頼 耶 識 の 転 依 』まさに、それこそが、【 勝 義 菩 提 心 】であり、それこそが実義の【 般 若 波 羅 蜜 】であり、そして、それこそが【 一 切 障 礙 】の【対治】たる道である。そして、その【対治】を通じて、【阿頼耶識】に集まった、あらゆる【雑染法】の【諸種子】およびそれの【諸潜在印象】が≪尽きた≫後に、[そして]①【拠り所】と②【身体】と、享受として顕現する③【諸々の識】が【停止】した後に、その【阿頼耶識】は【阿頼耶識の特質】を【捨て去って】↓ ↓【無漏界の特質をつかみとる】のである。2023/09/26 19:41:58BLajK2023/10/06 08:40:02212.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYwAXLSなるほど。いい感じで考察されてますね。で、2023/10/06 08:41:01213.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYwAXLS158.ユーザー神も仏も名無しさん● ≪7≫『 出 世 間 智 の 同 義 語 』それこそが、【無漏なる界】【諸仏の法身】【実際】【真如】【勝義】【法界】である。【実】とは【真実】のことであり、それらの【際】(きわ)つまり極限なので、【実際】[という]。常にまさに、その【如く】に【存在する】から、【真如】[という]勝れたものの、つまり【出世間智】の、対象(義)であるから、あるいは、勝れたものにしてかつ対象(義)であるから、勝義[という]。諸法つまり聖者たちの諸法、それらの界つまり依止だから【法界】[という]。それ【法界】に到達するときに、それ【法界/法身】に依拠した【受用身】と【変化身】に到達するのであり、≪【それは】≫【一切相】なる【あらゆる世界】への【利益行為】を、特徴として持つ、という。2023/09/26 19:42:11BLajK2023/10/06 08:43:07214.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYwAXLS162.ユーザー神も仏も名無しさん● ≪三種の転変≫が、心のダイナミズムを生み出す、【五位百法】における【縁起】とは【転変】であり、それは、【種子】の地平≪【因転変】という≫と、【 識 】の地平≪【果転変】という≫との両方において生じる。≪因転変には次の三種がある≫● 1. 異熟転変業(カルマ)の果である【種子】が【貯え】られた結果、形成され、存続するものが、輪廻の究極的な主体である【アーラヤ識】となる● 2. 思量転変【アーラヤ識】を【拠り所】とし、そこに【貯えられた種子】が【転変】したものが、【自我意識】としての【マナ識】となる● 3. 了別境転変【アーラヤ識】と【マナ識】を背後にもちつつ、【対象を認識】し、【認識作用】がもたらす【種子】を、【アーラヤ識】に薫重(植付ける)するものが、【表層意識】としての【六識】となる。2023/09/26 19:54:32BLajK2023/10/06 08:43:42215.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYwAXLS172.ユーザー神も仏も名無しさんhttps://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/43/2/43_2_746/_pdf/-char/ja『転識得智に関する異説』長谷川岳史一、 はじめに有漏の八識を転じて無漏の四智を得るという転識得智説は、『摂大乗論』「彼果智分」において、無著三九五~四七〇頃)が創唱した説である。唯識学派では、無著以降、『摂大乗論』の説をさらに具体化・体系化し、安慧五一〇~五七〇頃)・護法五三〇~五六三)の時代には、⑧第八阿頼耶識 →転依→大円鏡智⑦第七末那識(染汚意) →転依→平等性智⑥第六意識 →転依→妙観察智⑤前五識 →転依→成所作智という転識得智説(便宜上「正説」と呼ぶ)が、唯識学派内で確立していたと考えられる。しかし、漢訳の唯識関係の論書にはこの正説とは異なった⑥第六意識→転依→ 成所作智⑤前五識 →転依→ 妙観察智という説(便宜上「異説」と呼ぶ)を説いているものがある12023/09/26 20:17:22BLajK2023/10/06 08:44:49216.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYwAXLS何で小文字表示になるんだろ、、、。2023/10/06 08:45:26217.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYwAXLS186.ユーザー神も仏も名無しさん>>177しかし、漢訳の唯識関係の論書にはこの正説とは異なった⑥第六意識→転依→ 成所作智⑤前五識 →転依→ 妙観察智という説(便宜上「異説」と呼ぶ)を説いているものがある12023/09/26 23:09:59Fnx1T2023/10/06 08:46:36218.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYwAXLSこの後、麦と鹿野園が変な方向に考察をもって行ってるなー。2023/10/06 08:57:35219.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYwAXLSで、馬ちゃんがこの投稿をする。423.ユーザー認識ってなーに?まあねー大円鏡智の鏡の性って何だって?説明できる人~‼️✋ーあげて12023/09/28 22:47:17V1ZN32023/10/06 08:58:37220.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYwAXLSここでJBLがこの発言。509.ユーザー◆JBLfMwCXhY>>491>> 井上善右衛門> >第六識に無漏智への道が修習されると、その力に影響さ> れて根たる第七識の有漏が破られるというのである。それは> 先の「護」における第六第七の關係とまさに反封の關係であ> る。それは畢寛六・七の二識が前後的一方的關係の二者では> なく、同時の相依であるが故に、相互の影響が成り立つので> ある。これによつてこそ修道が可能となる。↑この意味が、鹿野園たちに分かるかな?第六識は、第七識の影響下で作用しているずっと、第七識にコントロールされてきたのだその流れが逆転するのは、第六識が妙観察智に転識得智し、その影響で第七識が平等性智に転じるときつまり、最後の最後、解脱して仏になるときだ「第六識は、第七識から影響を受けるだけの一方的な関係ではないということだ」と、井上善右衛門師は説明している2023/09/29 06:08:19ILUf32023/10/06 09:04:01221.認識ってな~に?!au-kaI-95-PNUORcV2ですねー2023/10/06 09:08:58222.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYwAXLSここで以外にも鹿野園がこんな投稿をしている。542.ユーザー鹿野園◆00MWura8lSZF>>529先ず法相宗(唯識)の基本的な考え方から説させて頂きます。転識得智は、有漏の識(※1)が無漏の識(※2)へと質的な転換をする事とされます。そしてその転識得智は、阿頼耶識に蔵されている無漏の種子が因となり、その種子が煩悩を対治する事によって遂げる訳です。しかし、残念ながら凡夫にはその無漏の種子が無いのです(諸説あり)。そこで「最も清浄な法界の等流なる正聞薫習の種子より生ずる(摂大乗論)」と云うのですが、その「正聞薫習」という修習が説かれるんです。つまり、正法を聴くって事です。聞法ですね、聞思修と戒定慧の「聞」です。それによって凡夫の阿頼耶識に無漏の種子が生じるとされます。最もそれは生じただけで現行してませんから、芽生え(「慧」)させるための「思」と「修」(戒と定)が必要となるのです。ざっくり説明するとこういう事なのです。 ※1 阿頼耶識、末那識、眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識 ※2 大円鏡智、平等証智、妙観察智、成所作智12023/09/29 10:49:01MFFt12023/10/06 09:09:40223.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYwAXLSざっくり説明するとこういう事なのです。 ※1 阿頼耶識、末那識、眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識 ※2 大円鏡智、平等証智、妙観察智、成所作智↑ざっくり過ぎるだろ、、、、、。2023/10/06 09:11:18224.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYwAXLSしかし、リダンはそのざっくり過ぎる説明を544.ユーザーリダン◆iKlPp4IWRY>>542なるほどです2023/09/29 11:05:09NnM9cと、深く納得している、、、、、。2023/10/06 09:12:34225.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYwAXLS実におもしろい。2023/10/06 09:12:53226.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYwAXLSどう納得したのか是非リダン本人に聞いてみたいところだ。2023/10/06 09:13:40227.神も仏も名無しさん50-B7v-ZV-WNQqMW2U気付かないワンワン政策にします、あのスレでがらみではオーダー66は発動させよー😒2023/10/06 09:14:33228.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYwAXLSオーダー66ってなに?2023/10/06 09:16:45229.神も仏も名無しさん50-B7v-ZV-WNQqMW2Uシカーチンの大爆発大遠征の発動今のこところシカーチンにはほーかいくんお館様遊星爆弾を投下しない😄2023/10/06 09:19:03230.リダン◆iKlPp4IWRY50-Hez-ZV-1ZG5gfzw>>226法介さんおはようございます六根、六識を利用して末那識、阿頼耶識にこちらから働きかけるって言う俺の自説がやっぱりなって身口意ですな2023/10/06 09:19:47231.神も仏も名無しさん50-B7v-ZV-WNQqMW2Uシカーチンを焚き付けない方針である、あそこで連投したら、シカーチン遠征施策を取る😄2023/10/06 09:19:59232.神も仏も名無しさん50-B7v-ZV-WNQqMW2Uだが、ウマぱーりーの動きがいまんところ怪しげ〜😄2023/10/06 09:23:39233.神も仏も名無しさん50-B7v-ZV-WNQqMW2Uウマぱーりーの怪しげな動きには乗らんよーにしとこ〜😄2023/10/06 09:24:54234.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYwAXLSなるほど、そういうことか。鹿野園は、そっとしておこう。ツンツンしたら直ぐ顔を真っ赤にして突撃してくるから。2023/10/06 09:30:19235.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYwAXLSリダン、おはよー。なるほど、なかなか的を得てると思います。さすがやね。2023/10/06 09:31:18236.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYwAXLS馬ちゃんにしてもリダンにしてもなかなか良いセンスしてるね。2023/10/06 09:32:23237.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYwAXLSで、朝の二回目の勤行(長行)をして、スレの考察の続き読んでみます。どういう結論が導き出されたのか楽しみです。2023/10/06 09:34:45238.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYwAXLS鹿供養スレが上がってたから見てみたんだけど、これ↓の元レスってどこのスレ?233.ユーザー神も仏も名無しさん第八阿頼耶識の対象は、処と執受であることですが、深いですね。処は器世間、執受は種子と有根身です。心の深層では、識所変の世界は仏界を認識しているということなのでしょうか。第八識・第七識を深層識といっていますが、深層とはどのようなことを指していっているのでしょうか。表層の識の底に深層の識が働いているということですが、第八識は、「此の識は身に於て、摂受し、蔵隠して、安危の義を同うするが故なり」と。識体は、身と心は相応していることを表しているのでしょうね。第八阿頼耶識の対象は、処と執受であることですが、深いですね。処は器世間、執受は種子と有根身です。心の深層では、識所変の世界は仏界を認識しているということなのでしょうか。要するに、執着を超えて、本質を認識している、疎所縁を自らの心の中に種子として宿しているということになるのでしょうか。それが識体、識体は共同安危であるということ、この共同安危が身と倶にある。大事な視点だと思います。第八阿頼耶識には、能蔵・所蔵・執蔵という三義があるということですが、三義を以て阿頼耶識を蔵識といわれているわけです。能蔵は持種、種子を保持しているということ。寝ても覚めても隔てなく、捨てることなく、すべて種子として保持し続けているのが能蔵の意義です。2023/10/06 10:15:48239.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYwAXLS縁にふれれば何でも出てきます。理性では善悪を判断すると頑張っていてもですね、「さるべき業縁のもよおし」があればですね、千人殺すこともあるわけです。大切なことは、如何に善の種子を宿すかですね、聞熏習が大切な要素になると思います。所蔵は、受熏、種子を溜め込んでいくという働きです。過去から現在までの経験のすべてを種子として溜め込んでいるという働きを所蔵と表されています。そして、執蔵です。この執蔵が問題なのです。執するではなく、執されるものという意味です。これは、第七識は第八阿頼耶識の見分を所縁として、自の内我とする、ということですが、第七末那識によって執される識である、能蔵・所蔵も一切が第七末那識に執され現行するという意味を持っているということになりますね。第七末那識に執着される性質をもっているということなのです。 この第七識と第八識との相応関係の上に、表層の六識が働いている、と教えられています。「雑染の與に互に縁と為るが故に」能蔵と所蔵が因と為り果と為り、互いに縁と為って「有情に執せられて自の内我と為るるが故に」2023/10/06 08:50:30ORcV22023/10/06 10:16:20240.神も仏も名無しさん50-B7v-ZV-WNQqMW2Uほーかいくんお館様のここのスレでのレスが止まるのはやはり、寂しいからな〜😄2023/10/06 10:18:03241.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYwAXLS能蔵・所蔵・執蔵について、↓ここで詳しく説明がなされている。https://ameblo.jp/yk19610402/entry-12810047315.html2023/10/06 10:24:54242.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYwAXLS>>238 のこの↓文章、間違えてるしゃん。>第八阿頼耶識には、能蔵・所蔵・執蔵という三義があるということですが、2023/10/06 10:28:15243.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYwAXLS🟨能蔵(のうぞう) ➡️能 → 阿頼耶識所 → 種子 ➡️ 持種の義 🟨所蔵(しょぞう)➡️能 → 七転職所 → 阿頼耶識 ➡️ 受薫の義 🟨執蔵(しゅうぞう)➡️能 → 末那識所 → 阿頼耶識 ➡️ 執我の義2023/10/06 10:29:30244.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYwAXLS「能蔵・所蔵・執蔵は、阿頼耶識の三議」ではなく、「阿頼耶識と末那識の関係」において「能蔵・所蔵・執蔵の三議」の関係がある。が正しい文章になるかと。2023/10/06 10:32:31245.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYwAXLS〈能蔵〉は〈阿頼耶識〉が〈種子〉を保持する一面である。〈所蔵〉は阿頼耶識が、今度は受け身に転じた一面です。 〈執蔵〉は、執着される側面です。2023/10/06 10:36:20246.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYwAXLS能蔵は種子を保持し続ける面なので具体的に言えば、仏の教えが記録保管される機能。所蔵は、その教えが「眼・耳・鼻・舌・身」の前五識と第六意識・第七末那識とに染み込んでいくということ。執蔵は、それがその人の自我(自我意識)となってその自我に人は執着して煩悩が生じる訳だが、仏の教えを薫習していけば、煩悩は消滅していきます。2023/10/06 10:46:24247.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYwAXLSでは、どのような教えを正しい教えとして薫習していくか(正聞薫習)という事になりますが、それが『法華経』で明かされた三乗の教え(開三顕一)になるかと思います。2023/10/06 10:50:20248.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYwAXLS声聞の智慧縁覚の智慧菩薩の智慧の三智です。この三つの智慧を一つに集約したのが法華経の智慧(仏の一切智)です。2023/10/06 10:52:00249.神も仏も名無しさん50-W3b-ZV-WNQFVO9Qウマもリダンもこないな?🫤2023/10/06 11:18:59250.リダン◆iKlPp4IWRY50-Hez-ZV-1ZG5gfzwいるよ٩( ‘ω’ )و2023/10/06 11:33:42251.神も仏も名無しさん50-W3b-ZV-WNQFVO9Qリダン、ほーかいくんお館様にネタあげなさ過ぎ〜😞2023/10/06 11:44:31252.神も仏も名無しさん50-W3b-ZV-JSbFVO9Qやはりあげないのか?リダン😞2023/10/06 12:05:15253.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYwAXLSなんか見落としている大事なネタでもあるのかな。2023/10/06 12:05:48254.リダン◆iKlPp4IWRY50-Hez-ZV-1ZG5gfzwでおさんの言うのは俺の反応が薄いってことでしょうちょっと出先なもんで2023/10/06 12:10:05255.神も仏も名無しさん50-W3b-ZV-JSbFVO9Qサティはほーかいくんには関心が薄いらしいからほーかいくんお館様へとのまっとうな付きあいはウマぱーりーとリダン、JBLだけになるな😄2023/10/06 12:12:02256.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYwAXLSそうか付き合ってくれている方々は、優しい人達だな。2023/10/06 12:20:46257.リダン◆iKlPp4IWRY50-Hez-ZV-M5a5gfzw>>246馬さん流だと自我を滅した、瓦解した、看破した先での境地で自我≒無我≒仏性に再構築するしかし因がない、阿頼耶識本体同一では検索出来ない?法介さん的に言えば末端、端末の六識、六根で勤行、お題目を末那識、阿頼耶識にアップロードして阿頼耶識のお釈迦さまの因を起動し、インストール、アップデート2023/10/06 13:21:25258.リダン◆iKlPp4IWRY50-Hez-ZV-M5a5gfzwサティさんのは恐らく唯識論的に言えば六識、六根と六境の究極の同一最終末端であり最終結果であり全てに無駄がなく、全てを内包する六境本質を除いたあるがままどちらかと言えば俺もそっちよりですね2023/10/06 13:44:16259.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYwAXLSリダン解説ありがとう。後程それについてわたしの意見を述べます。2023/10/06 13:57:39260.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYwAXLS取り合えず先ほどの【唯識論】阿頼耶識と末那識の基本的考察【法相宗】https://talk.jp/boards/psy/1694758403の続きを今、見ていますが2023/10/06 13:59:27261.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYwAXLS馬ちゃんの>大円鏡智の鏡の性って何だって?説明できる人~‼️の質問に対しての鹿野園の答えが、↓これかな。434.ユーザー鹿野園◆00MWura8lSZF>>423『成唯識論』から考察してみますが、大円鏡智とは>一には大円鏡智相応の心品。>此の心品は諸の分別を離れたり。所縁も行相も微細にして知りがたし。>一切の境相に忘ならず、愚ならず。性も相も清浄なり。>諸の雑染を離れたり。純と浄と円との徳あり。>現と種との依持たり。身と土と智との影を能く生ず。>間無く断無くして未来際を窮む。大円鏡に衆色の像を現ずるが如し。だそうです。貴殿の問いかけは「大円鏡に衆色の像を現ずるが如し」に掛かると思いますが、普通に「大円」すなわち超巨大な「鏡に衆色の像」すなわち鏡に現象を「現ずる」で良いのではないのでしょうか?ただし、この「現ずる」ですが、鏡による反射(映し)というよりも鏡からの照射というイメージが親しいと思います。なぜなら、インド哲学ではモノが映るのは眼から光線が発せられるという考えがあるからです。12023/09/29 04:31:31MFFt12023/10/06 14:02:29262.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYwAXLSこの辺からJBLと鹿野園の例の「直接か関節かのどーでもいい論争」が激化していってるなー。2023/10/06 14:09:25263.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYwAXLSJBLの主張↓がこれ。第六識は、第七識の影響下で作用しているずっと、第七識にコントロールされてきたのだその流れが逆転するのは、第六識が妙観察智に転識得智し、その影響で第七識が平等性智に転じるときつまり、最後の最後、解脱して仏になるときだ2023/10/06 14:11:36264.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYwAXLSJBLが解かってこの主張を書いてるのか疑問だが、これって物凄く的を得ている内容だと私は思います。2023/10/06 14:13:03265.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYwAXLSこの内容をもう少し詳しく解説します。2023/10/06 14:13:49266.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYwAXLS人の行いは全て阿頼耶識に記録として蓄えられていきます。良い行いは善業として、悪い行いは悪業として。また、その人の思想や価値観の元となる人から習った教えや自身が学んで得た知識なども「種子」として阿頼耶識に貯蔵されていきます。これが、先ほど出てきました三義の中の一つ、「能蔵」にあたります。2023/10/06 14:19:43267.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYwAXLSその種子が「ピグの部屋」で次のように紹介されております「所蔵」として開花していきます。🟨〈所蔵〉は阿頼耶識が、今度は受け身に転じた一面です。 🔷働きかける「能」 の位置に立つのは、七転識(てんじき)【眼・耳・鼻・舌・身の前五識と意識・末那識】であり、 受け身の「所」の位置に立つのが、阿頼耶識となる。 🔶つまり、具体的に様々の動きとして活動するのは〈転識〉ですが、転識は、その動きをことごとく、人格の深層に投げ込んでいく。2023/10/06 14:23:28268.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYwAXLS阿頼耶識の種子がこのように「眼・耳・鼻・舌・身の前五識と意識・末那識」の七識に転識します。2023/10/06 14:24:53269.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYwAXLSこの流れが我々凡夫の八識の流れです。因が縁に触れて果が生じるといった順観型の縁起です。2023/10/06 14:27:09270.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYwAXLSこの流れ(此縁性縁起)を説いているのが蔵教で説かれた「声聞の教え」です。具体的に経典で言えば『阿含経典』でアビダスマ(阿毘達磨)で言えば『倶舎論』です。2023/10/06 14:30:25271.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYwAXLSこの声聞の覚りを得ることでそれが阿頼耶識に種子として「能蔵」され、「所蔵」でその種が七識に転識します。そして前五識で成所作智として開花します。この「成所作智」とは、作すべきことを成就する智慧のことで、そのモノがそのモノと成り得た因果を覚る智慧のことです。2023/10/06 14:36:33272.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYwAXLSわたしが驚いたのはJBLの次↓の発言です。その流れが逆転するのは、第六識が妙観察智に転識得智し、その影響で第七識が平等性智に転じるときつまり、最後の最後、解脱して仏になるときだ2023/10/06 14:37:47273.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYwAXLS蔵教の次の「通教の教え」って縁覚に対して説かれた逆観の「相依性縁起」なんですね。2023/10/06 14:39:25274.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYwAXLSお釈迦様が最後に行った瞑想の二番目に行った↓この瞑想がその「相依性縁起」になります。滅尽定 → 非想非非想処 → 無所有処 → 識無辺処 → 空無辺処 → 第四禅 → 第三禅 → 第二禅 → 初禅15.ニルヴァーナ(涅槃)https://sinnyo.blog.jp/archives/19985084.html2023/10/06 14:42:30275.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYwAXLSこれが妙観察智と呼ばれる、「縁覚の智慧」です。『般若経典』で詳しく解き明かされております。前五識で起こる成所作智は「肉眼」で実体を空じて起こる縁覚の妙観察智は「天眼」と呼ばれます。日蓮聖人の『十八円満抄』では次のように紹介されておられます。 妙=仏眼:第九識は法界体性智 法=法眼:第八識は大円鏡智 蓮=慧眼:第七識は平等性智 華=天眼:第六識は妙観察智 経=肉眼:前の五識は成所作智2023/10/06 14:47:24276.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYwAXLS「天眼」の意味は、五蘊を空じて天界の意識(視点)で因縁を観じ取りますので天の眼なのでしょう。2023/10/06 14:50:33277.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYwAXLSそしてJBLが、その影響で第七識が平等性智に転じるときつまり、最後の最後、解脱して仏になるときだと書いております通り、俺が俺がの自我意識で濁りきっていた第七末那識が、菩薩の智慧で綺麗に洗い流され、隅々まで磨きあげられ申し分のない「第七潜在意識」と成ります。2023/10/06 14:55:42278.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYwAXLS我々が自覚出来る意識は氷山の一角でしてその下部には自覚出来ない潜在部が意識の深い所で恒に活動し続けています。2023/10/06 14:57:51279.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYwAXLSその潜在部の意識の母体である「末那識」がクリーンな状態になると今までは見えていなかったものがハッキリと見えて来たり、今までは感じなかったことを観じ出したり、色んな形で現実の世界に変化が起こって来ます。2023/10/06 15:00:42280.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYwAXLSそれは前五識や第六意識、そして第七末那識といった七識が仏種が開花したことで七識が全て転識した事で起こる縁起の顕れです。2023/10/06 15:03:55281.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYwAXLSで、この後【唯識論】阿頼耶識と末那識の基本的考察【法相宗】スレの考察はどういう結末になるのかな。後で目を通しておきます。2023/10/06 15:06:59282.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYwAXLS鹿野園が明日から山に籠るらしい。実におもしろい。2023/10/06 15:19:28283.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYwAXLS鹿になって野生に戻るのか。2023/10/06 15:20:09284.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYwAXLS馬ちゃんもご一緒したらいいのに。2023/10/06 15:20:54285.リダン◆iKlPp4IWRY50-Hez-ZV-M5a5gfzwガチのやつかな山籠りスマホ置いていくんだろうか2023/10/06 15:29:19286.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYwAXLS気になるんだったら幽体離脱してリダンも付いていけ。2023/10/06 15:33:07287.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYwAXLS鹿野園が滝に打たれる姿を想像するだけで楽しめる。2023/10/06 15:34:56288.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYwAXLShttps://youtu.be/a_jCFHjWm742023/10/06 15:40:12289.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYwAXLSリダン、さっきの話だけどサティーがいう実体論ってどういう理論?良かったら教えて頂けませんか。2023/10/06 15:58:30290.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYwAXLSゼロ地点の無我がどうのこうのって仏教を科学で展開したお話?2023/10/06 16:02:14291.リダン◆iKlPp4IWRY50-Hez-ZV-M5a5gfzw>>289まあ俺の体験にあて嵌めただけでそうかどうかは分かりませんが超現実を体感するというか現世がそのまま真如という状態です2023/10/06 16:10:41292.リダン◆iKlPp4IWRY50-Hez-ZV-M5a5gfzw>>290それはちょっとよく分かりませんが似たようなフレーズの本があるんでそれからの引用じゃないですかね?俺も読んで見ようかなって思ってました2023/10/06 16:12:42293.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYwAXLSこれかな。仏教3.0https://youtu.be/Fo27tOkRC1M2023/10/06 16:15:01294.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYwAXLS「現世がそのまま真如」という考えは、『法華経』の教えと同じだけど。2023/10/06 16:20:08295.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYwAXLS自身の〝認識〟が変わることで、苦しみの世界が浄土の世界へと転識する。2023/10/06 16:21:53296.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYwAXLS後で動画みてみるかー2023/10/06 16:23:00297.リダン◆iKlPp4IWRY50-Hez-ZV-M5a5gfzw>>294そうですねそれを理解ではなく体現した状態ですかね2023/10/06 16:23:45298.リダン◆iKlPp4IWRY50-Hez-ZV-M5a5gfzw>>296その動画はサティさん的には図が気に入っただけっぽいんで動画の内容はサティさんの主張とは若干違うかもです2023/10/06 16:25:08299.リダン◆iKlPp4IWRY50-Hez-ZV-M5a5gfzwたいそう素晴らしい体験ですがそれに執着してしまう、ようは円融されていない、もしくは円融されたゆえにああ言った言い回しになりがちですね2023/10/06 16:43:18300.リダン◆iKlPp4IWRY50-Hez-ZV-M5a5gfzw>>295彼の場合は認識を究極にとっぱらう感じでしょうそこに居続けるからオナニーと同じと揶揄しましたね2023/10/06 16:57:06301.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYwAXLS動画見たけど、禅とマインドフルネスに唯識思想を加えただけの話で、なんら真新しい話は無かった感じですが、これが仏教3.0なんだ。もっと空思想を追究されてみては如何ですかと言いたくなる動画でした。2023/10/06 18:22:55302.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYwAXLS唯識も析空(有る無し)で展開した唯識のようですし「見ている私と見られている私」って、主観と客観でしょ。仏教と言うのなら、モノのあり様(倶舎論)と認識のあり方(中論)ぐらい語って欲しいものです。縁起という言葉が一度も出てこなかった、、、、。2023/10/06 18:31:28303.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYwAXLSちなみに「空の理論」に対し唯識は、「覚りの理論」です。2023/10/06 18:33:47304.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYwAXLS「気づき」と言ってる時点で第六意識の中の出来事(縁起)でしょう。2023/10/06 18:34:50305.リダン◆iKlPp4IWRY50-Hez-ZV-M5a5gfzw>>304動画まだ見てないですけど見なくても良さげですね2023/10/06 19:07:42306.神も仏も名無しさんNH-Ih7-ZV-JSb32Rcwお〜いい盛り上がりやんけ〜😄😄😄😄😄😄😄😟2023/10/06 19:11:41307.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYwAXLS>>305今のリダンなら見ても得るものは無いかと。で、阿頼耶識スレの続きいきます。2023/10/06 19:47:16308.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYwAXLShttps://talk.jp/boards/psy/1694758403597.ユーザー神も仏も名無しさん【色心】が【断絶】これは無色界定のことか?!ーーーーーーーーーー↑これ馬ちゃんね。2023/10/06 19:48:12309.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYwAXLS602.ユーザーリダン◆iKlPp4IWRYうーん真如と阿頼耶識の間の領域が無色界なんかなそれとも阿頼耶識内で色心断絶で無色界なんだろうか2023/09/30 10:53:40Vkln02023/10/06 19:48:49310.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYwAXLSここで言う「色心が断絶」は、私は「滅尽定」、即ち無為の境地に入った状態を言っているのではなかと思います。詳しくその論文の内容に目を通してはおりませんが、投稿されている文章を読む限りでの考えです。2023/10/06 19:52:36311.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYwAXLSほう、麦と鹿野園が論争してる。おもしろい。2023/10/06 19:55:00312.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYwAXLS649.ユーザー麦◆MUGITANx95Dj>>639∞ノノハ∞川^〇^ハレ説一切有部などでは心・意・識を同義異名と考えているそうです意識(第六識)はこの末那識をよりどころ(意根)としているそうです前五識が働くときは意識が同時に働いているので六識は煩悩に汚されてしまうことになるそうです体用なので一如だと思います♪12023/09/30 16:52:35TdVWL2023/10/06 19:58:22313.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYwAXLS653.ユーザー麦◆MUGITANx95Dj>>651∞ノノハ∞川^〇^ハレ心・意・識は体用一如ですね♪はい論破♪22023/09/30 17:02:02TdVWL2023/10/06 19:58:37314.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYwAXLS体用一如の用い方を間違えている気がするがここでは麦(およびJBL)の主張が正しいでしょう。2023/10/06 20:00:49315.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYwAXLSで馬ちゃんがこれを投稿したのか。654.ユーザー神も仏も名無しさん熏習くんじゅう/熏習行為の結果が心に影響を与えること。香りが他に移ることにたとえられる。単に熏、また薫習ともいう。熏習により残された結果を習気じっけという。『成唯識論』二(正蔵三一・九下)では熏習について、熏習する側の条件(能熏の四義)と熏習される側の条件(所熏の四義)を規定する。熏習する側とは七転識、すなわち六つの識と末那識まなしきのこと。熏習される側とは阿頼耶識あらやしきのことである。これにより熏習を、七転識が阿頼耶識に種子を残すことと定義する。また正しい教えを聞くことで衆生に清らかな影響が残されることを聞もん熏習というこれを中国華厳宗の法蔵は、その注釈である『大乗起信論義記』で「汚浄互熏」(正蔵四四・二七〇上)という。また熏習を心の状態に影響するもの(習熏)と心の活動を助長するもの(資熏)に大別する。『成唯識論』等の唯識論書では熏習は有為法の間だけで起こると考えるのに対し、『起信論』等の如来蔵系論書では無為である真如にも熏習を認め、両者の見解に異なりがあることがうかがわれる。2023/09/30 17:08:11L7nBV2023/10/06 20:01:48316.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYwAXLSそれを受けてのリダンの書き込み。さすがリダン。センスある書き込み。663.ユーザーリダン◆iKlPp4IWRY>>656法華経の六根清浄は阿頼耶識、末那識(潜在意識)に働きかけるのに適しているな五根清浄はそのまま、意根清浄は経典の書写しまあ何の宗派でもそうだけど2023/09/30 17:23:00pLZlW2023/10/06 20:03:40317.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYwAXLS678.ユーザーリダン◆iKlPp4IWRY>>677第ニ禅定の話はいいよそれより経典のダウンロード、インストール(書き換え)の話だ2023/09/30 17:51:28pLZlW679.ユーザーリダン◆iKlPp4IWRY勤行はその機能かあるとみた2023/09/30 17:52:00pLZlW2023/10/06 20:05:52318.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYwAXLS↓正論だな。684.ユーザー◆JBLfMwCXhYつまり、意識は、単独では認識できない常に末那識をよりどころとして認識している意識が見ている世界は、末那識によって大きく歪められた世界意識は、このような形で末那識の強い影響下にある2023/09/30 18:01:01lN1Ac2023/10/06 20:07:33319.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYwAXLS693.ユーザーリダン◆iKlPp4IWRY勤行の身口意身(手をあわせることの統一性)口(繰り返しが多いルーティン、また繰り返しによる空耳で言語の瓦解、ゲシュタルト崩壊、勤行のダウンロード)意(上記による変性意識状態の維持、勤行インストール)2023/09/30 18:23:24pLZlW694.ユーザーリダン◆iKlPp4IWRYなんじゃねえか?12023/09/30 18:24:03pLZlW2023/10/06 20:09:21320.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYwAXLSその通りです。2023/10/06 20:09:35321.リダン◆iKlPp4IWRY50-Hez-ZV-M5a5gfzw>>320やっぱり(´◡‿ゝ◡`)2023/10/06 20:10:50322.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYwAXLS698.ユーザーリダン◆iKlPp4IWRY>>696俺の言う変性意識がどの定かが分からねえ体外離脱するほどではないから第四禅定でなくてもいいんじゃなかろうか創価学会員のガチ勢がガチ勤行するくらいの境地かむしろ六根、六識を利用して潜在意識に働きかけるから六根、六識が機能する定?2023/09/30 18:41:01pLZlW2023/10/06 20:11:00323.リダン◆iKlPp4IWRY50-Hez-ZV-M5a5gfzw鼻たかだ〜か2023/10/06 20:11:24324.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYwAXLSむしろ六根、六識を利用して潜在意識に働きかけるから六根、六識が機能する定?↑まさにその通り。センスのかたまりやなリダンは。2023/10/06 20:11:56325.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYwAXLS人間性も出来てるから六根が綺麗なんだろう。2023/10/06 20:13:08326.リダン◆iKlPp4IWRY50-Hez-ZV-M5a5gfzwいやでもその後超生意気なこと書き込んでます(汗)2023/10/06 20:15:37327.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYwAXLS712.ユーザー神も仏も名無しさん①≫法事でお経聞くと意識が飛びそうになって手をボールペンで刺したりして耐えてたが②≫創価学会員のガチ勢がガチ勤行するくらいの境地かむしろ六根、六識を利用して潜在意識に働きかけるから六根、六識が機能する定?ーーーー ーーーーーー①と②は違うよね、①はたぶん、六識の思量は停止しかけている、聞いているわけだから、意識は【受動的】な状態でいる、②は、意識は、最初、身口意に【積極的】に関与する、これが、車の運転のように、慣れて考えずとも自動的に勤行が運転されると、六識は緩むことが可能になる、六識は停止して、身口意の【勤行自動運転】を観照する側にまわる、ここでは、【身体】と覚醒している【観照する六識】に分かれる、おれも3年ちょい勤行したことあるから、上記の状態(①も)は容易に想像できる、2023/09/30 19:25:22PTAxY2023/10/06 20:17:24328.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYwAXLSそうなんだ。馬ちゃん、勤行したことあるんだ。へー、へー、へーそれは意外だった。2023/10/06 20:18:27329.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYwAXLS722.ユーザーリダン◆iKlPp4IWRYところで唯識論的には阿頼耶識の外に真如はあるの?それとも阿頼耶識の外はない?麦さん鹿ちゃん論破論破言ってるから何かいい感じの引用ない?12023/09/30 21:46:23pLZlW2023/10/06 20:20:27330.◆JBLfMwCXhY50-wHr-HH-95Q9FI57>>293動画を見たよ~😄2023/10/06 20:32:43331.◆JBLfMwCXhY50-wHr-HH-95Q9FI57なんか、仏教というよりラマナ・マハルシっぽいな?2023/10/06 20:33:19332.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYwAXLS>>329無色界禅定の空無辺処で仏の空観を空じる(非空)ことで、三界の世界の空間の区切りが無くなります。識無辺処で末那識と阿頼耶識の識層の区切りが無くなります、無所有処で生と死の境が無くなり生死が同時に顕れます。そう考えましたら凡夫は三界の世界観ですが、覚りを得た真如の世界観は三界を仕切るモノが無くなっておりますので全てが一つに集約して顕れます。天台智顗が顕した「三身即一」とはそういうものではないかと私は思っております。2023/10/06 20:36:16333.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYwAXLS>>331ラマナ・マハルシを詳しく知らないけど、そうなんだー。2023/10/06 20:37:55334.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYwAXLS天台・日蓮仏法でいう「九識心王真如」は三身即一の妙法(南無妙法蓮華経)の事。三界が一つに集約した世界観ね。2023/10/06 20:40:26335.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYwAXLSJBLが見ても多分物足りなさを感じた動画じゃなかったかな。2023/10/06 20:42:08336.リダン◆iKlPp4IWRY50-Hez-ZV-M5a5gfzw>>334阿頼耶識内の3界が一つに集約した状態を九識心王真如と言うのかもしれませんね2023/10/06 20:43:44337.◆JBLfMwCXhY50-wHr-HH-95Q9FI57>>335う~ん、イマイチだったかな😂仏教マニアが対象じゃないしね2023/10/06 20:45:41338.リダン◆iKlPp4IWRY50-Hez-ZV-M5a5gfzwそれとも八識の上に九識にがあるんかな?2023/10/06 20:47:24339.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYwAXLS天台教学では、 欲界=前五識・第六意識 色界=第七末那識 無色界=第八阿頼耶識と説かれます。大円鏡智は、円融三観の「仮一切仮」「空一切空」「中一切空」の三種・三観の再編成によって次のように三界の界の壁も八識の識層の隔たりも無くなり三界が一つに集約されます。 欲界の仮+色界の仮+無色界の仮(←三界の隔たりを超えた再編成) 欲界の空+色界の空+無色界の空(←三界の隔たりを超えた再編成) 欲界の中+色界の中+無色界の中(←三界の隔たりを超えた再編成)2023/10/06 21:00:41340.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYwAXLS八識の上に九識にがある訳ではありません。「三界唯心」です。2023/10/06 21:01:52341.リダン◆iKlPp4IWRY50-Hez-ZV-M5a5gfzw>>340なるほどです2023/10/06 21:02:25342.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYwAXLS728.ユーザー神も仏も名無しさん俺的には、真理(真如)は「空」であるってのが仏法だから根本識、阿頼耶識がそのまま智慧つまり「空」として消滅するってのが良いように思うね九識とか十識とかを立てちゃうと真理の実体視みたいになって、西洋の一神教やイデア論みたいになってしまうと感じる12023/09/30 23:00:29tK7ef2023/10/06 21:03:53343.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYwAXLS↑その考えは空をただの「無」と考える但空にあたります。(空の初歩の理解)2023/10/06 21:06:08344.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYwAXLS上座部や禅宗の「空」の理解です。2023/10/06 21:06:51345.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYwAXLS空を「無我」で理解したからそういう理解に陥ります。2023/10/06 21:07:50346.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYwAXLS仏教3.0の動画の中でも言ってましたが、<私>ってどこにありますか?どういう<私>ですか?という無我の理解は、「私なんて本当は存在していないんです」といった無我を無と勘違いした無我の理解になります。2023/10/06 21:10:47347.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYwAXLSお釈迦様が言わんとされた「無我」は、そういう有る(存在する)とか、無い(存在しない)といった理論ではありません。本当の自分ってあなたが思っている(自我)通りにある訳ではありませんよ。あなたは因果によってあなたとして今そこに存在しているんですよというのが正しい無我の解釈になります。2023/10/06 21:13:52348.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYwAXLS要は、表層の顕在意識で認識する自分は仮の自分の姿で、本当の自分は第七末那識の潜在意識で認識(阿頼耶識の因果)してはじめて解るということです。2023/10/06 21:16:57349.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYwAXLS788.ユーザー神も仏も名無しさん六識って本当に思考の主体なんですか?って問題、思考=思量なら、七識が思考していることになる、顕在意識が眠るか停止した後で、何らかの妄想念を見る場合は、それは潜在意識だと思います、夢は目覚めた(顕在)後で思い出せる、それは記憶(種子→果)が深層(八識)へ収蔵されたからですよね?認識主体の移動って考えがあります、表層意識が眠って、または停止した後で、妄想念の認識がおきるのは、潜在意識の階層へ、認識主体がいしたと謂えませんか⁉️2023/10/01 15:21:42Bx5Cg2023/10/06 21:20:37350.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYwAXLS思考するのは六識の方の意識(顕在意識)ではないでしょうか。その思考の癖や方向性、要するにその人の人格をつかさどるのが第七意識(潜在意識)といった感じかなと私は思います。2023/10/06 21:24:10351.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYwAXLS夢を見ている時の意識ってどうなんでしょう。潜在意識っぽい気がしますね。2023/10/06 21:26:10352.リダン◆iKlPp4IWRY50-Hez-ZV-M5a5gfzw>>351明晰夢なんかは顕在意識っぽいですね2023/10/06 21:28:54353.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYwAXLSそういう事になりますね。2023/10/06 21:30:13354.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYwAXLS脳が見ている夢=顕在意識2023/10/06 21:30:42355.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYwAXLSそう考えたら阿頼耶識の記憶ってどこに収まっているんだろうね。2023/10/06 21:31:29356.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYwAXLSでも、小学生なのに信じられない程、楽器演奏が上手い子供なんかがたまにテレビで紹介されたりするけど、あれって過去世でギターやってたからなせる技だとおもう。2023/10/06 21:34:08357.◆JBLfMwCXhY50-wHr-HH-95Q9FI57>>329 > ところで唯識論的には阿頼耶識の外に真如はあるの?それとも阿頼耶識の外はない?唯識論で真如っていったら、三性の三番目、「円成実性」だけど別にそれは、阿頼耶識の外にあるわけではない阿頼耶識を浄化することにより悟る、世界の真実2023/10/06 21:37:29358.◆JBLfMwCXhY50-wHr-HH-95Q9FI57>>356そう、それが当方の持論過去世の経験値が大きくモノをいう2023/10/06 21:38:11359.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYwAXLSおそらく人類の遺伝子に阿頼耶識の記憶って貯蔵されていくんじゃないかな。そんな気がする。2023/10/06 21:38:39360.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYwAXLS遺伝子と阿頼耶識の論文って前に読んだな。2023/10/06 21:40:22361.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYwAXLSあったこれだ。DNAと悉有仏性論https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/47/2/47_2_940/_pdf/-char/ja2023/10/06 21:41:36362.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYwAXLSJBL読んでみ。おもしろいよ。2023/10/06 21:42:28363.◆JBLfMwCXhY50-wHr-HH-95Q9FI57哲学板には、「阿頼耶識の種子とは、DNAのことである」と主張する人がいた宗教板から出張してきた白蓮華殿と大喧嘩になってたな2023/10/06 21:43:53364.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYwAXLS無着 は 『摂大乗論』の中で法界等流 の聞薫 習 を説 いてい る.「世界 を越 えた清浄な る心 は,未 だか って経験 され た こ との ない未 知な ものであ って,そ れは極 めて清浄 な法界 か ら流れ出 た,聞 くことの薫 習 を種子 として生ず るので あ る.」3)と説いてい る.す なわち聞黒 習 によって,法 界 か ら等 し く流 れでた法 門を聞 く環境がアー ラヤ識 すなわ ち遺伝子 の中にで きて くるのであ る.聞薫 習 はアーラヤ識 その もので はないが アー ラヤ識 に寄 在4)す る性 質 を有 してい る.『摂大乗 論』には 「諸仏 の菩提 が基礎 となつて成 立 して い る聞薫 習[す なわち法界 か ら流れ 出た聞薫 習]な るもの は,[人 間の身体 とい う如 き]何 かあ る種 の依 り所 にお いて起 こる.す なわちそれ は異熟識 中 に共存 とい うあ り方 を もって起こるので あって,乳 と水 とが[共 存 して い る]よ うな もので あ る.2023/10/06 21:47:03365.◆JBLfMwCXhY50-wHr-HH-95Q9FI57>>361おもしろいな😄2023/10/06 21:54:07366.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYwAXLSこの論文もおもしろかったけど今ダウンロードできないな。量子論と仏教 後藤 蔚https://www.toyo.ac.jp/uploaded/attachment/7982.pdf空の認識理論と量子論を研究した論文。2023/10/06 21:59:54367.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYwAXLS但空での空の理解は「有る無し」での空の理解(モノのあり様)だけど、通教で龍樹がひも解いた相依性の縁起は認識理論な訳ね。量子力学を既にあの時代に説いていた仏教。2023/10/06 22:03:24368.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYwAXLSアインシュタインの相対性理論を既に龍樹は解き明かしていた。相依性縁起ってそういう次元のお話ね。2023/10/06 22:04:57369.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYwAXLSこういう電工掲示板があります。●〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇黒●が光っている電球です。2023/10/06 22:11:48370.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYwAXLS光ってる電球が右に移動する電工掲示版。〇●〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇●〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇●〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇●〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇●〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇●〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇2023/10/06 22:14:09371.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYwAXLS●が左から右側に移動しているように見えます。2023/10/06 22:14:43372.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYwAXLSあ、嫁さんからお迎えコールが入った。2023/10/06 22:15:12373.リダン◆iKlPp4IWRY50-Hez-ZV-M5a5gfzw>>372いてらー2023/10/06 22:37:43374.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYwAXLS>>370●が左から右側に移動しているように見えますが、実際は電球が移動しているのではなく、電球は固定位置でただ点いたり消えたりしているだけです。しかしそれを見ている人間が視覚の錯覚で●が左から右に動いて行ってるように見えます。2023/10/06 22:41:44375.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYwAXLS此縁性縁起は「モノのあり様」、龍樹が解き明かした相依性の縁起は「認識のあり方」、即ち認識理論(相対性)で説く縁起みたいな感じかな。https://butudou.blog.jp/archives/17581537.html2023/10/06 22:45:49376.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYwAXLS体感を空じる「空」。2023/10/06 22:46:14377.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYwAXLSこの体空が理解出来たら、誰かさんみたいな無意味な言い争いまずやらない。2023/10/06 22:48:14378.リダン◆iKlPp4IWRY50-Hez-ZV-M5a5gfzw>>375中論途中で挫折してたから分かりやすくて助かりますな2023/10/06 23:00:09379.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYwAXLS100人いたら100通りの世界があるように、同じ経典を学んでもそれぞれの境涯で解釈の仕方も異なってくる。現時点のその人の境涯においては、それがその人に取っての正しい解釈となる。2023/10/06 23:02:10380.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYwAXLS空の解釈も析空・体空・法空・非空の四段階に分かれます。ですから境涯も声聞・縁覚・菩薩・仏といった具合に四種の境涯に分かれます。2023/10/06 23:03:54381.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYwAXLS析空を理解した境涯=声聞体空を理解した境涯=縁覚法空を理解した境涯=菩薩非空を理解した境涯=仏2023/10/06 23:05:03382.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYwAXLS教えの内容で言えばこうなります。 析空=倶舎論 体空=中論 法空=唯識 非空=法華経2023/10/06 23:06:36383.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYwAXLSでは、そろそろ寝ます。おやすみー。2023/10/06 23:10:19384.リダン◆iKlPp4IWRY50-Hez-ZV-M5a5gfzwおやすみなさい!2023/10/06 23:10:46385.リダン◆iKlPp4IWRY4D-zxF-ZV-M5ahttDsとくに龍樹のすでに去ったものは、去ることがない。 まだ去らないものも、去ることがない。 さらに、すでに去ったこととまだ去らないことを離れて、 現に去りつつあるものも、また去ることがない↑なんて?って状態だったから解説ありがたい2023/10/06 23:30:24386.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYzh3BU阿頼耶識スレでは最終的に「薫習」に辿り着いていますが、仏が説く「正しい教え」を繰り返し繰り返し何度も聞くことでそれが前五識・第六識・第七識に染み込んで七つの識が転識します。【転識】http://www.wikidharma.org/index.php/%E3%81%A6%E3%82%93%E3%81%98%E3%81%8D2023/10/07 04:51:39387.◆JBLfMwCXhY50-wHr-HH-95QkLrwAおはよ~ございます☀️😃❗2023/10/07 04:56:06388.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYzh3BUここで今一度『ピグの部屋』さんのこちらの阿頼耶識の説明を見てみましょう。https://ameblo.jp/yk19610402/entry-12810047315.html2023/10/07 04:57:36389.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYzh3BUJBL、おはよー^^2023/10/07 04:57:59390.◆JBLfMwCXhY50-wHr-HH-95QkLrwA>>388素晴らしい解説だ浄土真宗の人だけど、唯識論の解説者として活躍している2023/10/07 05:06:39391.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYzh3BU〈能蔵〉は〈阿頼耶識〉が〈種子〉をもって他の七識に働きかける作用を言います。それを能【働きかける方】と、所【働きかけられる方】とに分ければ、〈種子〉が「能」〈七識〉が「所」ということになります。(※ピグの部屋さんとは表現↑を変えております)人間は、自分の素質や能力と経験を人格の根底に刻み込み、保持し続ける。保持し続けられている〈種子〉に基づいて、様々な人生模様を展開する。その面を〈能蔵〉というのです。種子を保持するという面なので「持種(じしゅう)の義」といわれます。2023/10/07 05:07:43392.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYzh3BU〈所蔵〉は阿頼耶識が、今度は受け身に転じた一面です。働きかける「能」 の位置に立つのは、七転識(てんじき)【眼・耳・鼻・舌・身の前五識と意識・末那識】であり、 受け身の「所」の位置に立つのが、阿頼耶識となる。つまり、具体的に様々の動きとして活動するのは〈転識〉ですが、転識は、その動きをことごとく、人格の深層に投げ込んでいく。つまり「能」の位置に立つ。それに対して、阿頼耶識は転識より投げ込まれてくるものを受け止めるという位置に置かれるので、「所」ということになる。投げ込まれてくるのを、〈種子(しゅうじ)〉といい、それを受入れ、人格の根底にとどめるのを、〈薫習(くんじゅう)〉というので「受薫(じゅくん)の義」という。2023/10/07 05:11:16393.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYzh3BUわたしが毎日、朝晩かかさず行っている勤行・唱題行がこれにあたります。2023/10/07 05:12:45394.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYzh3BU口でお題目(正因仏性)を唱え、目で曼荼羅(縁因仏性)を直視し、『法華経』(了因仏性)を読誦し、線香の香りを鼻で嗅ぎ、手には数珠を感じ、耳で自身が唱えるお題目を聞く。前五識から阿頼耶識に正聞薫習します。2023/10/07 05:18:22395.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYzh3BU〈執蔵〉は、執着される側面です。執着する、つまり「能」の位置に立つのは〈第七末那識〉であり、執着される「所」の位置に立つのは〈阿頼耶識>である。阿頼耶識は、人格の根底となる部分を分析し、剔出(てきしゅつ)したものということが出来ます。したがって、その性格はあまり大きな変化や転換は、中々なく、その人の特性が、統一持続されますで、その自己像が、不変の自己のように錯覚されやすい。昨日の自分と、今日の自分とは、同一人物だと思っているし、子どもの頃の自分と、今日の自分との間にさえ、変化を超えた統一的人格像を、われわれは無意識に確信しているものです。そういう人格の深いところに見られる人間の営みを、唯識佛教は阿頼耶識【所】と、末那識【能】との関係として捉えたのであります。それが〈執蔵〉であり、したがって、それを「執我の義」という。2023/10/07 05:21:43396.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYzh3BU阿頼耶識に仏の教え(法華経)を勤行という行法で薫習していくことで、植え付けられた種子(仏種)が能となって七識(所)に働きかけ六根が清浄されていきます。2023/10/07 05:25:03397.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYzh3BUここまでの話を理解出来た人は、よーく考えるとある事に気づくかと思います。2023/10/07 05:26:45398.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYzh3BU瞑想とか禅って必要ないじゃん!ってことです。2023/10/07 05:27:34399.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYzh3BUそうなんです。初期仏教で説かれた九次第定は、説法を聞く為に凡夫が解脱法をマスターして天上界に意識として入りそこ(色界)で報身の仏の説法を聴聞する為に用いた方便の行法なんです。2023/10/07 05:30:31400.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYzh3BUうそだー!そんな訳ない!と言われる方はこちらの論文に目を通されてみてください。https://www.min.ac.jp/img/pdf/labo-sh17_27L.pdf2023/10/07 05:34:15401.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYzh3BU仏の説法がどの空間で行われたのかが良く分かります。2023/10/07 05:34:49402.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYzh3BU釈尊が摩竭提国菩提樹下の寂滅道場において初めて正覚を成し遂げた直後に、この経典が説かれたことは明らかである。『華厳経』は場所を移しながら説法がなされている。旧訳である『六十華厳』によれば、最初の「世間浄眼品」から「盧舎那仏品」第二までは正覚を成就したその場で説法がなされ、「如来名号品」第三から「賢首菩薩品」第八までは普光法堂において、文殊菩薩が他の菩薩達と主に「信」について問答するという形式で説法がなされている。「仏昇須弥頂品」第九以後は、仏陀が菩提樹から離れないまま須弥山の頂上の忉利天に昇って「明法品」第十四までの説法がなされるが、この時には法慧菩薩が他の菩薩や帝釈天と問答形式によって十住菩薩の法を説く。「仏昇夜摩天宮自在品」第十五から「菩薩十無尽蔵品」第十八までは、さらに夜摩天に昇って功徳林菩薩が十行菩薩の法を説き、「如来昇兜率天宮一切宝殿品」第十九から「金剛幢菩薩十廻向品」第二十一までは、兜率天において金剛幢菩薩が十廻向地に位する菩薩の修行内容を説く。さらに仏陀が欲界の頂上である他化自在天に昇った後、金剛蔵菩薩が十地菩薩の法を説き、普賢菩薩等が菩薩の十種の神通等を説く部分が、「十地品」第二十二から「宝王如来性起品」第三十二までである。「離世間品」第三十三の説法の場所は、再び普光法堂である。善財童子が五十三の善知識と順番に出会い、法界に入っていく過程が旅行記のように描かれている最後の「入法界品」第三十四は、それ以前の諸品とは異なって仏陀が舎衛国の給孤独園に住しており、声聞衆もその場にいる。『六十華厳』ではこのように七つの場所において八つの法会が開かれるので、七処八会の説法と呼ぶのである。2023/10/07 05:38:03403.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYzh3BU須弥山の頂上の忉利天に昇って「明法品」第十四までの説法がなされ、この時には法慧菩薩が他の菩薩や帝釈天と問答形式によって十住菩薩の法を説く。さらに夜摩天に昇って功徳林菩薩が十行菩薩の法を説き兜率天において金剛幢菩薩が十廻向地に位する菩薩の修行内容を説くさらに仏陀が欲界の頂上である他化自在天に昇った後、金剛蔵菩薩が十地菩薩の法を説き、普賢菩薩等が菩薩の十種の神通等を説く2023/10/07 05:41:46404.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYzh3BU解脱を習得した阿羅漢達が天上界へ入って仏の説法を聞き、それを経典として残していきました。その作業を「結集」といいますが、結集参加の絶対条件ってご存知でしょうか。解脱をマスターしている事です。2023/10/07 05:45:11405.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYzh3BUお釈迦様の付き人で常にお釈迦様の説法を聞いていた阿難ですら第一回の結集時に、未だ解脱をマスター出来ていなかったので、釈迦の後継者であった迦葉は、当初、阿難の参加を認めませんでした。結局、阿難は結集当日に解脱出来てはれて参加の運びとなったという話はウィキペディアでも紹介されております。【阿難】https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E9%9B%A32023/10/07 05:50:30406.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYzh3BUお釈迦様の教えが既に経典化されている現代の世にあって瞑想や禅を行うのは、健康法としてヨガを行うように、心のリフレッシュ法としての効果はあっても仏道の修行法としては如何なものだろうと、わたしは思います。(私個人の見解です)2023/10/07 05:55:04407.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYzh3BUでは、そろそろブログの執筆の方に戻ろうかと思います。2023/10/07 05:56:08408.◆JBLfMwCXhY50-wHr-HH-95QkLrwA>>393> わたしが毎日、朝晩かかさず行っている勤行・唱題行がこれにあたります。素晴らしいな!😄2023/10/07 05:57:39409.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYzh3BU『法華経』のメインステージである虚空絵についてお話を綴って参ります。2023/10/07 05:57:40410.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYzh3BUJBLも「意味のある書き込み」を頑張って続けて下さい。2023/10/07 05:59:41411.◆JBLfMwCXhY50-wHr-HH-95QkLrwA>>396> 阿頼耶識に仏の教え(法華経)を勤行という行法で薫習していくことで、植え付けられた種子(仏種)が能となって七識(所)に働きかけ六根が清浄されていきます。 南無妙法蓮華経南無妙法蓮華経南無妙法蓮華経継続は力なり~😄2023/10/07 06:00:00412.◆JBLfMwCXhY50-wHr-HH-95QkLrwA>>410まあ、意味があってもなくても、とりあえず書くけど(笑)2023/10/07 06:00:30413.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYzh3BU是非、その才能を正しく活用なされて下さいな。2023/10/07 06:00:56414.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-aP-cEYzh3BUまた、語りたくなったらTalk に語りに来ます。JBL、リダン、馬ちゃん、でおー、サティーさんお付き合い頂いてありがとうございました。鹿野園、山籠もり頑張ってなー!もしかして一人キャンプ?2023/10/07 06:05:09415.リダン◆iKlPp4IWRY50-tYK-ZV-Rbekc9Bj>>396これを身口意(変性意識)でやっていくと効率がとてもよいさながら欲界でお釈迦さまの説法をきく帝釈天のような環境になりますね2023/10/07 08:55:45416.リダン◆iKlPp4IWRY50-tYK-ZV-Rbekc9Bj身口意=勤行ですな2023/10/07 09:05:08417.リダン◆iKlPp4IWRY50-tYK-ZV-Rbekc9Bjどうです?法介さんは勤行の最中に我を忘れるくらい没頭出来てます?時間感覚は狂いますか?唱える文がこの辺だからそろそろ終わるなとかだと効果半減だと思われ2023/10/07 09:14:54418.リダン◆iKlPp4IWRY50-tYK-ZV-Rbekc9Bj極まってくると変性意識が解けかけたときにあれ?いま誰が勤行してるんだ?となる状態だと一番、行が薫習されていると思われる2023/10/07 09:31:23419.リダン◆iKlPp4IWRY50-tYK-ZV-Rbekc9Bjただ変性意識に入るのが慣れすぎると単調なルーティンでスイッチが入って危ない日常生活が危うくなる特に車の運転は、うお!今誰が運転してんだ?!ってゾッとするだから俺は免許返納した対策としては所謂ゾーン超現実、六識と六境の同一ようは地に足をつけるようにする2023/10/07 09:49:38420.認識ってな~に?!au-eqO-95-PNU3ss1o清森義行のブログ『末那識が平等性智に転ずるとは?』https://ameblo.jp/yk19610402/entry-12776887936.html2023/10/07 19:11:06421.認識ってな~に?!au-eqO-95-PNU3ss1o419 リダン◆iKlPp4IWRY (50-tYK-ZV-Rbe) 2023/10/07(土) 09:49:38.98 ID:kc9Bjただ変性意識に入るのが慣れすぎると単調なルーティンでスイッチが入って危ない日常生活が危うくなる特に車の運転は、うお!今誰が運転してんだ?!ってゾッとするだから俺は免許返納した対策としては所謂ゾーン超現実、六識と六境の同一ようは地に足をつけるようにするーーーーーそうなんだ、それはヤバいじゃん!2023/10/07 19:13:30422.認識ってな~に?!au-eqO-95-PNU3ss1o『法華経概略図/虚空会の儀式 』http://www.winbell-7.com/roman/hisyo/hokekyo2.pdfhttps://i.imgur.com/wxymHMX.jpg2023/10/07 19:19:54423.神も仏も名無しさんau-YSh-95-PNUFMzPg● 所知障って、最終的に自己に薫習した教説を手放せないことでしょうな、これが、無分別智に死んでも至らない有漏の種子、有為は有漏種子、無為は無漏種子、薫習する、● 正聞熏習無著(アサンガ)の『摂大乗論』においては、≪【教えの聴聞】≫は、煩悩の種子 即ち、有漏の種子とは質的に異なった、無漏の種子を、阿頼耶識の中に置くとされます。無漏の種子は、真理の世界(法界)から流れ出た、聴聞の余習(正聞熏習)であるといわれます。2023/10/08 16:52:04424.◆JBLfMwCXhY50-ZCP-uk-xsMibdgX鹿野園がいないと楽しいな~😆2023/10/08 17:09:31425.◆JBLfMwCXhY50-ZCP-uk-xsMibdgXこのまま消えてくれないものか2023/10/08 17:09:41426.神も仏も名無しさん50-xgk-ZV-nusIp2PY現れとる…ホラフキ修行を吹聴してた〜🫠🫠🫠🫠🫠🫠2023/10/08 17:19:59427.神も仏も名無しさん50-xgk-ZV-nusIp2PY修行の成果でそろそろ怒り爆発かもな〜🫨🫨🫨🫨😫🫨2023/10/08 17:21:21428.神も仏も名無しさん50-xgk-ZV-nusIp2PY三毒エネルギーバッテリーも満タンだろうからな〜🫨🫨🫨🫨2023/10/08 17:22:01429.◆JBLfMwCXhY50-ZCP-uk-xsMibdgX宗教板で、アイツだけ飛び抜けて波動が悪い😫2023/10/08 17:26:04430.神も仏も名無しさん50-xgk-ZV-nusIp2PY修行してきたらしいぞ〜何の?としか疑問しか感じねえ〜〜🫨2023/10/08 17:28:01431.神も仏も名無しさん50-xgk-ZV-nusIp2PY仏教と無関係な5ch幸福の科学の連中のレスと大差が無い🫨2023/10/08 17:28:58432.神も仏も名無しさん50-xgk-ZV-nusIp2PY能書きだけで中身が無いという認識の世界が無いからな〜ある意味無敵〜〜🫨🫨🫨🫨🫨2023/10/08 17:31:31433.神も仏も名無しさん50-xgk-ZV-nusIp2PY夕飯でカロリー摂って三毒波動砲連射かな?🫨2023/10/08 17:33:47434.◆JBLfMwCXhY50-4Fm-uk-xsMVE9Hn人間のクズが坐禅とは笑わせる(笑)2023/10/08 18:04:53435.リダン◆iKlPp4IWRY50-wwV-ZV-omHVStQc>>422無数の菩薩が池から出てくるやつ離脱世界(諸天)なら全然あるから余裕余裕2023/10/08 20:00:56436.神も仏も名無しさんau-YSh-95-PNUFMzPgみんな~がんばれー💥👊😃平等性智まであと3回生まれ変わればいけるぞーーー‼️2023/10/08 20:11:12437.神も仏も名無しさんau-YSh-95-PNURD4ss『空性と真如仏性』 古賀英彦https://hu.repo.nii.ac.jp/record/1149/files/004-83-07.pdf『弁中辺論』●ー此こに於いては二は都べて無しとは、謂わく、即ち此の虚妄分別に於いて、永く所取と能取との二性無きなり。( 1四六四b )ーここにおいて二はまったく無しというのは、この虚妄分別において、永久(無始無終)に所取と能取との二者が絶えて無いということである。●ー此中には唯だ空のみ有りとは、謂わく、虚妄分別中には、但だ、所取及び能取を離したる空性のみ有るなり。ーここには唯だ空のみ有りというのは、二取が絶えて無い時、虚妄分別中には、但だ、【所取】と【能取】と【無縁の空性】のみが【有る】ということである2023/10/09 17:28:58438.神も仏も名無しさんau-YSh-95-PNURD4ss『弁中辺論』●ー亦た全無にも非ず、中に於いて少しく乱識の生ずること有るが故に。●ーさりながら全無でもない。乱識の範囲では生じているからである。●【乱識】というのは、身心のある限りまぬかれ得ない【意識活動】のことである。『弁中辺論』●ー何んぞ 此の性の全無なることを許さざる。此れ滅して解脱を得と許すが故に。若し此れに異ならば、繋縛も解脱も則ち応に皆な無かるべし。是くの如ければ便ち雑染及び清浄を発無する失を成さん。●ーではどうして【識】の【全無】は許されないのか。【識の滅】から【解脱が得られる】と認められているからである。もしそうでないならば、【煩悩の繋縛】もそれからの【解脱もない】ことになるはずである。そうなれば、【雑染】から【清浄】へという【仏道】を【発無】する【あやまちを犯す】ことになろう。途中の議論が長すぎたが、虚妄分別の意味が明らかになったので、空性の問題に立ち返ろう。はつ‐む【撥無】?名? 払いのけて信用しないこと。否定し、しりぞけること。はちむ。はつぶ。※正法眼蔵(1231‐53)深信因果「いたづらに撥無(はつむ)因果のあやまりあり」はつ‐ぶ【撥無】?名? =はつむ(撥無)※色葉字類抄(1177‐81)「撥撫 ハツブ」2023/10/09 17:31:00439.神も仏も名無しさんau-YSh-95-PNURD4ss>437【所取】と【能取】と【無縁の空性】のみが【有る】ということである。 ↓ ↓【所取】と【能取】とは【無縁】の、【空性】のみが【有る】ということである。2023/10/09 17:33:48440.アハさんパシル語がイヌケリアゲ~♪大爆笑( ゚∀ ) ワアハ八 / \ / \ws-Kvd-Yj-uIbmOV4v病名:発達障害ASDの症状尊大の雀鬼イヌヤマが自供ス。『正直云って仏とは何かと問われても分かりません、公案が進んで無くよくわからないのです』 知障イヌ咬み談ウソブクのよ透ってないのに、もう40回も初関を透る俺様!と言い放つドマヌケ!40回も透ったら初関を透る、じゃねーべ!イヌ:悟りとか分からねーし、知らねーし、悟ってねーわ? ググるイヌヤマは常にシカトされ自己存在の確認要求哀願奴隷也悪霊イヌが鳴く:なんで 宗教板って まともなの俺だけなんだ?みんな間違ってばっか俺だけが正しい。みんな間違ってるのに何で正しい事を言ってる俺は否定ばっかりされるんだ?みんな俺のことを 凄いなと認めろよ。 俺は自分より優れた奴が ゆるせないんだよ(脅迫性人格障害の特徴)ナント妻子と月一、金曜夜7時からのお坐り会、茶菓(ちゃか)代ワンコインで、これが研究会出席虚勢のトマヌケ犬は誰からも疎まれる独善イヌヤマは月一第三金曜日夜7時茶菓代ワンコイン坐禅会に出ると偽証。命取りの摂心に親子で100回参加と虚飾スル新小岩の食業ドライバーイヌヤマとは法相宗(ほっそうしゅう)奈良興福寺(こうふくじ)前官長じっちゃんのお抱え運転手で食業ドライバーの門外漢だから、知ったかぶる以外に承認欲求を満たす事が無い。多数者を演じ孤立してないと強弁し自作自演のおぞましい日々の無脊椎動物イヌヤマは成り済まし多重人格者で要治療統失、薬中、精神病院2ヶ月入院、A型作業所:イヌヤマ軍曹麦屁魔女エロ和尚アカベイ偽和尚狗の大王野良は異名同一人物がAAキャラ変の極悪人インチキキチガイ雀鬼イヌヤマ麦、アルコホル発酵しイヌ麦焼酎なのに喜ばせ共有機能が絶えて無し。吠え吠み、オノレの尻尾をクルクル追うノミシラミ5ちゃんねるの会話はバトル形式で馴れ合いを禁じる。イヌヤマは、褒めてクレヨの哀願奴隷。相手を罵倒する悪口雑言の数々は外道イヌヤマへのリアル社会の絶対評価で、荒らしイヌヤマは問いに問いで返す脊髄反射の脳足りんで悟前(ごぜん)未悟(みご)、金魚ドジョウと救い難い。① ググるシッタカ知障荒らしイヌヤマは無視放置スルーが一番ツライ、耐えられない。シッタカイヌヤマは常に誰かの反応レスを待ち焦がれ② 放置された固定観念イヌヤマは煽りや自作自演でアナタのレスを誘う。ワケワカメ糞邪鬼イヌヤマにノセられてレスしたらその時点でアナタも同類、負け、完敗③ ;反撃はイヌの滋養にして栄養であり最も悦ぶ事です。門前のヤセイヌにエサを投げ与えぬ事④ ;臭い汚いコワイ気持ち悪いイヌヤマが枯死する迄、孤独に暴れさせゴミが溜まったら削除2023/10/29 01:17:52441.神も仏も名無しさんau-3fz-95-PNU6Lk4E『空性と真如仏性』 古賀英彦https://hu.repo.nii.ac.jp/record/1149/files/004-83-07.pdf●疑問【虚妄分別】とは、【妄想念】だが、【夢】とも同義なのか?『弁中辺論』1● 此こに於いては二は都(ス)べて無しとは、謂わく、即ち、此の 虚妄分別 に於いて、永く所取と能取との二性無きなり。 ( 1四六四b )◎ ここにおいて二=≪【所取】と【能取】≫は、全く【無し】というのは、この【虚妄分別】において、【永久(無始無終)】に≪【所取】と【能取】≫との【二者】が【絶えて無い】ということである。2● 此中には唯だ空のみ有りとは、謂わく、虚妄分別中には、但だ、所取及び能取を離したる空性のみ有るなり。◎ ここには唯だ【空】のみ【有り】というのは、【二取】が【絶えて無い】時、【虚妄分別】中には、但だ、【所取】と【能取】とは【無縁】の【空性】のみが【有る】ということである2023/10/29 20:12:05442.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-XI-cEYHSpXO>>441内容があまりにもちぐはぐで、空の理解がまるでなっていない。半分くらいまで目を通しましたが、読むに耐え切れず完読するには至りませんでした。この学者さん、析空の理解です。2023/10/29 22:36:11443.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-XI-cEYHSpXO空から真空へ(古賀英彦)https://www.zenbunka.or.jp/pub_etc/pub/docs/kiyou/032_02%E5%8F%A4%E8%B3%80.pdf↑空理をまるで解かっておられない、、、、。2023/10/29 22:43:22444.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-XI-cEYCFf14この論文の何がちぐはぐなのかを説明しておきます。これまで何度も申しておりますけれども、仏教は四教という流れで法が説かれ、明かされていっております。 蔵教=仮諦 通教=空諦 別教=別相三観 円教=円融三観『唯識』別教で詳しく解明された教えです。この時点では円融はまだ解明されておりません。非空・非非空は円融のお話です。円教に至ってはじめて明かされる非空・非非空をこの学者さんは別教の唯識と結び付けて論式を組み立てております。「空」の正しい理解が出来ておられないからこういったお粗末な論証となります。智顗が常にアップデートし続けて、亡くなる最後の最後まで取り組んでこられたのは「四教義」と「三観義」です。ここの理解を深めていかないと仏教の本当のところはいつまでたっても解らないかとわたしは思います。なぜなら「四教義=四諦・四悉檀による空の理解」「三観義=三宝・三学」だからです。2023/10/30 04:40:03445.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-XI-cEYCFf14本当に仏教が解りたいと思うのでしたら『法四依』に従って仏教を実践していくしかないとわたしは思っております。それが仏教を説かれたお釈迦さまのご遺言なのですから。依了義経不依不了義経(了義経に依りて不了義経に依らざれ)了義経である『法華経』をまず第一に学んでいかないと迷走するだけだとわたしは思います。2023/10/30 04:44:19446.神も仏も名無しさん50-dy0-Vn-TQEb2O86ほーかいくんお館様おはやいね〜〜おはよ〜〜〜〜😄😄😄😄😄😄😄😄😄😄2023/10/30 08:06:09447.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-Vn-j1VCFf14でおー、おはよー2023/10/30 08:21:04448.アハさんパシル語がイヌケリアゲ~♪大爆笑( ゚∀ ) ワアハ八 / \ / \ws-Kvd-Yj-uIbbgVMbしょうろうびょうし。生老病死。生まれ成長し、高齢化し、手足腰が衰え病いを得て、抗う気力体力も消失して脳も委縮し、生命体の活動の火が消える。岩山ですら、自然の風化作用により強固な岩も毛ぜり取られ、小岩になり、砂粒ニンマリ、渚の高背う要因となる。数億年間の地球上の支配者たちであった恐竜も今は見ない。病は、見ててあれこれ言うものでは無く、生まれ落ちたからこその一つの時期の状態である。いまここに在る事は、誰にとっても、難かた し。わたしには兄が居たはずであったが、産声rをだれにも聞かせた事が無く、ただ、今はもう亡くなった母がじっと目の前の空間を見つめ一体誰に話しかけているのか、、わたしは成人し、結婚し、男児が生まれ、かれらも幼稚園、小学校と運動会では元気のあふれ成長していく姿を観ながら、ぽつり、と母がsわたしに語る。在る事が奇跡。病気は成長の別名だし、恒例も成長の別の呼び方であり、当然にしも、成長の一典型であり、分子に変換して、宇宙を構成する因子と発展していく。わたしにも、母にも、眼には見えない次ぎがある。もうずいぶん前のことになるが、わたしは無師独悟(むしどくご) 独覚(どっかく)で、身の回りにこの高知尾を話しかけても、理解する人も無かった。なので、長い年月本の中ではたくさん真理(さとり)を語りう逢える人は居ても、現実には、あるいは、今のこの世には、誰もいなくて、わたしだけがこんなこと言いまくっているのか、と思っていた。本来の愚鈍さも有り、説明できるものでは無く、体験した人でなければ、分かり合えるものでは無い。その頃の私に言い草は、わたしが一歩。歩めば、宇宙が一歩、歩む。これを、うん、うん、とうなずいてくれる人に逢いたい。母は、舞い扇を右手に持ち、板張りの上にスッと立ち、今に動き出す勢いを見せて、立つ。そのものすごさは、息を呑む。一歩を歩み出す前に、完成している。わたしの及ぶところの比ではない。納骨の日、お墓迄来て度胸していただいた若い僧は、言う。おかあさまは、ここにあるそこにある、と言うのではなく、宇宙に遍満していらっしゃるのです。一杯のコップの中の水にはクレオパトラの構成していた分子が200個、必ずい入っている。母だったら500個は入ってる。たんに水を飲むだけで、再び、母を体内に取り込んでいる。水を飲むのは美味い。2023/10/30 22:04:17449.馬au-xgk-95-PNUxamfV古賀英彦氏の理解は学者の推論でしかないので、それは別にしょうがないです、『弁中辺論』の言うことは、正しく唯識が言い表されていて、納得できるものと思いますね。2023/10/31 03:56:01450.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-XI-cEYXXRZ2馬ちゃん、おはよーそうですね。>【二取】が【絶えて無い】時、これについてですが、先ほど唯識三十頌https://zawazawa.jp/bison/topic/19こちらを更新しました。それに該当する箇所があるかと思います。2023/10/31 04:50:12451.神も仏も名無しさん50-Flq-Vn-AdmMuycXほーかいくんお館様〜〜おはよ〜〜〜😄😄😄😄😄😄😄😄2023/10/31 06:37:43452.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-XI-cEYXXRZ2でおー、おはよー2023/10/31 06:41:21453.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-XI-cEYXXRZ2馬ちゃんはさー第七識が平等性智に転識したら末那識は消滅するぐらいに思っているでしょう。2023/10/31 06:51:48454.神も仏も名無しさん50-Flq-Vn-AdmMuycXウンコローラー様もお目覚めだいっ!😄2023/10/31 06:52:29455.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-XI-cEYXXRZ2こういうふうに考えてみパソコンのハードウェアの部分が末那識として2023/10/31 06:53:21456.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-XI-cEYXXRZ2これは構造的なものだから変わりません。そのハードにWindousというOSを入れた状態が我々凡夫ね。2023/10/31 06:55:16457.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-XI-cEYXXRZ2そこにLinuxという別のOSをインストールした状態が仏。ハード自体は変わらない訳よ。2023/10/31 06:57:04458.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-XI-cEYXXRZ2人間の基本構造が変わったらおかしいでしょう。2023/10/31 06:57:29459.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-XI-cEYXXRZ2『唯識』で説く八識は人間の心の基本構造。2023/10/31 06:58:03460.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-XI-cEYXXRZ2末那識が消えて無くなることはまずもってあり得ません。2023/10/31 06:58:37461.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-XI-cEYXXRZ2平等性智が何なのか仏種がなんなのかそれが解っていない人達は末那識が平等性智に変わるんだーと「言葉」の次元での理解となる。誰とは言わないが〝鹿野園〟がいい例だ。2023/10/31 07:01:20462.夕9f-BFh-ms-AUrj3qS2おっ、煽りたい年頃、法介さんおはよう理解(りげ)ですかそれは法介さんのことですか顛倒無想w般若心経風に言えば、顛倒夢想はやく夢から覚めなさい法華経随喜功徳品より「世界のものは、みな堅固出ないことは、水の沫(しぶき)や泡や水焰(かげろう)のごとくである。なんじたちよ、ことごとく、まさにすみやかに、〔いま執着している世界のものから〕厭い離れる心を生ずるようにと」多くのひとびとは、この教えを聞いて、みなアラカンを得、六心通・三明・八解脱をそなえるようになるだろう。2023/10/31 11:46:51463.夕9f-BFh-ms-AUrj3qS2堅固出訂正堅固で堅固でないことは、2023/10/31 11:48:25464.夕9f-BFh-ms-AUrj3qS2「世界のものは、みな堅固でないことは、水の沫(しぶき)や泡や水焰(かげろう)のごとくである。なんじたちよ、ことごとく、まさにすみやかに、〔いま執着している世界のものから〕厭い離れる心を生ずるようにと」ダンマパタ、金剛般若経にもでてくるダンマパタ46、この身は泡沫のごとくであると知り、かげろうのようなはかない本性のものであると、さとったならば、悪魔の花の矢を断ち切って、死王に見られないところへ行くであろう。金剛般若経現象界というものは、 星や、目の翳(かげ)、燈し火や、 まぼろしや、露や、泡沫(うたかた)や、 夢や、電光や、雲のよう、 そのようなものと、見るがよい。2023/10/31 11:54:26465.馬au-Vyb-95-PNUcu36X>>460先入観で誰かを判断するのはいかがなものでしょうか、セイウンさんもそうですが、私とて、しきが無くなるなんて、一つとて思ったこともありませんて、今日は、マナ識の我執はかきかわるなら、何処で何時書かれたのか?を、考えておりました、ホモサピエンスは自他の区別がかのであったが、ネアンデルタール人は自他が無かったので、ホモサピエンスに駆逐されたって説がありますが、真偽は分かりませんが、1~3才までにたぶん刷り込まれる自我がマナ識の原型と思います、たぶん、一人の母親に育てられることで、占有という心根が植わって、それが我執という、自分のものという、私、私となって、何でも善きものを自己同化して行くようになるのだと考えます、まあ、思い付きでしかない説ですが。2023/10/31 15:57:03466.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-XI-cEYXXRZ2そんな感じでしょう。昔、オオカミに育てられた子供が発見されましたが、その習性はまるでオオカミそのものだったとか。2023/10/31 18:33:24467.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-XI-cEYXXRZ2馬ちゃんなら解かると思いますが、天上界の住民ってにたような境涯のグループで別れていると思われます。人間の世界にしてもそうでしょ。修羅の境涯の人達はそういった群れをなし、学者肌の人達はそういったグループで集まり、アイドル好きな連中はそういった集まりに参加する。2023/10/31 18:36:46468.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-XI-cEYXXRZ2お釈迦様の『法華経』のお話(壮大な人集救済計画)に共感する人達の集まりが禅天ではないでしょうか。2023/10/31 18:38:00469.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-XI-cEYXXRZ2『法華経』を度外視して天上界にアクセスしても、辿り着くグループはしれてるかと。2023/10/31 18:38:53470.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-XI-cEYXXRZ2それが六欲天と禅天の違いというものでしょう。2023/10/31 18:39:20471.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-XI-cEYXXRZ2末那識の転識もそこら辺をふまえて考えないと答えにはたどり着けないのではないでしょうか。2023/10/31 18:40:53472.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-XI-cEYXXRZ2馬ちゃんはヨーガ派ですよね。そういったグループの方々と交流された方が有意義な時を過ごせるのではないでしょうか。2023/10/31 18:41:54473.馬au-Vyb-95-PNUcu36X私の行き先は、五井先生の世界平和の祈りの集団、救世の光明霊団になろうかと思います、それと、OSHOの行かれた世界ですね、そこの2つかな。2023/10/31 19:37:18474.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-XI-cEYXXRZ2そこに法華経で成仏した仏・菩薩はいますか?2023/10/31 19:40:54475.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-XI-cEYXXRZ2わたしは法華経で成仏した仏。菩薩の住む世界を目指しています。2023/10/31 19:41:42476.馬au-Vyb-95-PNUcu36X五井先生の前世は親鸞で、OSHOは700年前のチベットの活仏、共通なのは釈尊です、どちらの師の釈尊に深い縁をお持ちです、つまり、私も間接的にはそうだと思っています。2023/10/31 19:42:05477.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-XI-cEYXXRZ2その為には法華経はなくてはならない必見アイテムです。2023/10/31 19:42:11478.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-XI-cEYXXRZ2わたしは釈迦を信仰の対象とはしません。わたしの信仰の対境は法です。2023/10/31 19:43:18479.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-XI-cEYXXRZ2妙法蓮華経という妙法です2023/10/31 19:43:45480.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-XI-cEYXXRZ2なので法華経を唱えて成仏します2023/10/31 19:44:09481.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-XI-cEYXXRZ2わたしと馬ちゃんとでは信仰の対境が違ってるようですね2023/10/31 19:44:45482.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-XI-cEYXXRZ2それではいくらお話しても噛み合いませんし共感もおこらないでしょう2023/10/31 19:45:18483.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-XI-cEYXXRZ2鹿野園さんとならお話が合うのでは?2023/10/31 19:45:40484.馬au-Vyb-95-PNUcu36Xたぶん、救世の光明霊団なので、神仏の元に集まった5次元の霊魂たちの集団だと思いますよ、仏でなく菩薩行の集団ですよね。2023/10/31 19:46:03485.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-XI-cEYXXRZ2仏って仏でありながら菩薩の道(菩薩行)を行しているって知ってます?2023/10/31 19:47:32486.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-XI-cEYXXRZ2また、等覚の菩薩って知ってます?仏と同等の覚りを得ている菩薩で仏の32相を備えている菩薩。2023/10/31 19:48:42487.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-XI-cEYXXRZ2神仏と言いますが神の住処は天界といっても六欲天の方です。2023/10/31 19:50:22488.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-XI-cEYXXRZ2仏と神では同じ天界でも別の場所の天界です。2023/10/31 19:51:07489.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-XI-cEYXXRZ2まー識層の壁を越えれば一同に顕われるんでしょうけども2023/10/31 19:52:02490.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-XI-cEYXXRZ2その識層の壁を超える手法を馬ちゃんが身につけているとは思えませんが、、、。2023/10/31 19:52:51491.馬au-Vyb-95-PNUcu36X>>481信仰の対象が釈尊ではないですね、また、信仰の対象は有りません、まあ有るなら世界平和の祈りそのものでしょう、私は世界平和の祈りを祈りながらあの世へ旅立ちたいと思います。2023/10/31 19:52:53492.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-XI-cEYXXRZ2円融三諦しかあり得ませんので。2023/10/31 19:53:11493.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-XI-cEYXXRZ2>>491頑張ってください。道は違えども2023/10/31 19:54:03494.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-XI-cEYXXRZ2わたしは自身が納得のいく道を進んで行くだけです。2023/10/31 19:54:49495.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-XI-cEYXXRZ2これだけは言っておきます仏教とは2023/10/31 19:56:03496.馬au-Vyb-95-PNUcu36X>>490だから、法介さんは他者を、こうだと決めつけない方がよいと思います、世界平和の祈りを祈ると、必ずその霊団へたどり着きますので、心配はないと思います。2023/10/31 19:56:30497.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-XI-cEYXXRZ2「空」を極めていく道だと私は心得ております。2023/10/31 19:57:01498.馬au-Vyb-95-PNUcu36X>>494同感です、同じです。2023/10/31 19:57:15499.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-XI-cEYXXRZ2>こうだと決めつけない方がよいと思います、そうですね。おっしゃる通りだと思います。2023/10/31 19:58:00500.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-XI-cEYXXRZ2まだまだ未熟なものゆえ気分を害されましたのでしたらお許しください。2023/10/31 19:58:59501.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-XI-cEYXXRZ2では家事に移りますので。2023/10/31 19:59:36502.馬au-Vyb-95-PNUcu36X>>497最近の学びから言うと、二処を離れた、唯、識のみを知ればよいかと、そこが真如であり仏だそうですから。2023/10/31 20:02:13503.馬au-Vyb-95-PNUcu36X>>500どうってこと無いので、気になされずに。2023/10/31 20:02:51504.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-XI-cEYXXRZ2ところで馬ちゃんは仏種ってなんだとお考えでしょうか。2023/10/31 21:23:27505.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-XI-cEYXXRZ2阿頼耶識に備わるという仏種です。2023/10/31 21:25:07506.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-XI-cEYXXRZ2>今日は、マナ識の我執はかきかわるなら、何処で何時書かれたのか?を、考えておりました、それを日蓮聖人は次のように申されております。「生滅無常の相無きが故に無相と云うなり二乗の有余・無余の二つの涅槃の相を離るが故に不相と云うなり」「生滅無常の相無きが故に」と「二乗の有余・無余の二つの涅槃の相を離るが故に」の意味が馬ちゃんに解りますかな。2023/10/31 21:34:18507.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-XI-cEYXXRZ2特に「二乗の有余・無余の二つの涅槃の相」馬ちゃんはこの二つの涅槃の特に無余涅槃から離れならない様子ですが。2023/10/31 21:36:40508.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-XI-cEYXXRZ2「二乗の有余・無余の二つの涅槃の相」の意味は次のようになるかと。 声聞の無余涅槃(九次第定 定静慮) 縁覚の有余涅槃(九次第定 生静慮)2023/10/31 21:44:01509.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-XI-cEYXXRZ2この二つの涅槃の相から離れることが必見条件ですね。2023/10/31 21:45:28510.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-XI-cEYXXRZ2二つの涅槃の相から離れて円融三諦の三三九諦の相をとらなければ阿頼耶識の仏種を因とした転識は起こりません。2023/10/31 21:47:04511.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-XI-cEYXXRZ2「三三九諦の相」と「仏種」が何たるかを知らなければ、>今日は、マナ識の我執はかきかわるなら、何処で何時書かれたのか?を、考えておりました、の答えに辿り着く事はないでしょう。2023/10/31 21:48:42512.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-XI-cEYXXRZ2と言っても聞く耳を持っておられないでしょうからこれにて失礼。2023/10/31 21:49:53513.馬au-xgk-95-PNUxamfV>>506┐('~`;)┌さあ~?寂静なら知っていますけどね。2023/10/31 23:20:48514.馬au-xgk-95-PNUxamfV>>507涅槃に相があるってはじめてみました、涅槃寂静に相対の相だろうが絶対の相だとうが、相があったら涅槃ニルバーナでは無いでしょう、有余の生も無余の後も、その時に於いて何かが知られることはないと理解されています。2023/10/31 23:25:25515.馬au-xgk-95-PNUxamfV>>511前世からの修行の勢力がないと、今生で書き変わることは難しいでしょうね、産まれながらに、子供の頃から、差別心を持たず、優しさの権化のごとき性格の人はいるもので、全ては過去に原因があって、今の結果がありますから、法介さんも、方向性が正しければ、今生か来世で、成仏されるでしょう、今生の後のあの世でかも知れませんが。2023/10/31 23:34:52516.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-Vn-j1V7cn1K相の意味が解らないんじゃしかたがない、、、、。2023/11/01 00:08:14517.馬au-pYv-95-PNUerdOj寂静になってみればわかりますよ、寂静、寂滅を実際に知らなければ言っている意味なんか、ただの想像でしかないので。2023/11/01 03:44:34518.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-XI-cEY7cn1K>>517馬ちゃんのそれはたんなる肉体からの解脱でしょ。(九次第定)わたしは方便の解脱、実慧の解脱、そして真性の解脱を体験しております。(円融三諦)その違いが解脱の相(別相三観と通相三観)違いです。 九次第定=別相三観 円融三諦=通相三観https://livedoor.blogimg.jp/butudou/imgs/e/a/eadda475.jpgなんど伝えても伝わらない人には伝わらないものです。前世の外道の業なるがゆえに。2023/11/01 05:36:14519.神も仏も名無しさん50-h4Q-Vn-Wzp16G53ほーかいくんお館様〜〜〜〜おはよっー!!💥😄😄😄😄😄😄😄😄😄😄😄😄😄2023/11/01 07:12:57520.馬au-pYv-95-PNUerdOj>>518唯-識 ですよ、九次第禅定では無いですね、寂静、寂滅を知らなければ、何も分からないと同じです。2023/11/01 15:07:06521.◆JBLfMwCXhY50-wHr-uk-xsMtG06tほ~かい師の説法キタ~😄2023/11/02 15:06:20522.アハさんパシル語がイヌケリアゲ~♪大爆笑( ゚∀ ) ワアハ八 / \ / \ws-Kvd-Yj-uIb0bd4Rなんで、みんなワイを無視すんねん。大欲(たいよく)は無欲に似たり。煩悩を肯定する法相宗でええやろ・・ほならなんでワイはこんなところにいるんねやろ病名:発達障害ASDの症状尊大の雀鬼イヌヤマが自供ス。『正直云って仏とは何かと問われても分かりません、公案が進んで無くよくわからないのです』 知障イヌ咬み談ウソブクのよ透ってないのに、もう40回も初関を透る俺様!と言い放つドマヌケ!40回も透ったら初関を透る、じゃねーべ!イヌ:悟りとか分からねーし、知らねーし、悟ってねーわ? ググるイヌヤマは常にシカトされ自己存在の確認要求哀願奴隷也悪霊イヌが鳴く:なんで 宗教板って まともなの俺だけなんだ?みんな間違ってばっか俺だけが正しい。みんな間違ってるのに何で正しい事を言ってる俺は否定ばっかりされるんだ?みんな俺の事を 凄いなと認めろよ。 俺は自分より優れた奴が ゆるせないんだよ(脅迫性人格障害の特徴)ナント妻子と月一、金曜夜7時からのお坐り会、茶菓(ちゃか)代ワンコインで、これが研究会出席虚勢のトマヌケ犬は誰からも疎まれる独善イヌヤマは月一第三金曜日夜7時茶菓代ワンコイン坐禅会に出ると偽証。命取りの摂心に親子で100回参加と虚飾スル新小岩の食業ドライバーイヌヤマとは法相宗(ほっそうしゅう)奈良興福寺(こうふくじ)前官長じっちゃんのお抱え運転手で食業ドライバーで、知ったかぶる以外に承認欲求が満足しない。多数者を演じ孤立セズと強弁し自作自演のおぞましい日々の無脊椎動物イヌヤマは成り済まし多重人格者で要治療インチキキチガイ雀鬼イヌヤマ麦、アルコホル発酵しイヌ麦焼酎なのに喜ばせ共有機能が絶えて無し。吠え吠み、オノレの尻尾をクルクル追うノミシラミ5ちゃんねるの会話はバトル形式で馴れ合いを禁じる。イヌヤマは、褒めてクレヨの哀願奴隷。相手を罵倒する悪口雑言の数々は外道イヌヤマへのリアル社会の絶対評価で、問いに問いで返す脊髄反射の脳足りんで悟前(ごぜん)未悟(みご)、金魚ドジョウと救い難い。① ググるシッタカ知障荒らしイヌヤマは無視放置スルーが一番ツライ、耐えられない。シッタカイヌヤマは常に誰かの反応レスを待ち焦がれ② 放置された固定観念イヌヤマは煽りや自作自演でアナタのレスを誘う。ワケワカメ糞邪鬼イヌヤマにノセられてレスしたらその時点でアナタも同類、負け、完敗③ ;反撃はイヌの滋養にして栄養であり最も悦ぶ事です。門前のヤセイヌにエサを投げ与えぬ事④ ;臭い汚いコワイ気持ち悪いイヌヤマが枯死する迄、孤独に暴れさせゴミが溜まれば削除2023/11/04 00:04:31523.アハさんパシル語がイヌケリアゲ~♪大爆笑( ゚∀ ) ワアハ八 / \ / \ws-Kvd-Yj-uIbvuTd2病名:発達障害ASDの症状尊大の雀鬼イヌヤマが自供ス。『正直云って仏とは何かと問われても分かりません、公案が進んで無くよくわからないのです』 知障イヌ咬み談ウソブクのよ透ってないのに、もう40回も初関を透る俺様!と言い放つドマヌケ!40回も透ったら初関を透る、じゃねーべ!!なんで、みんなワイを無視すんねん!?大欲(たいよく)は無欲に似て足るを知る。煩悩即菩提の法相宗でええやろ・・・ほならなんでワイはこんなところにいるんねやろイヌ:悟りとか分からねーし、知らねーし、悟ってねーわ? ググるイヌヤマは常にシカトされ自己存在の確認要求哀願奴隷也悪霊イヌが鳴く:なんで 宗教板って まともなの俺だけなんだ?みんな間違ってばっか俺だけが正しい。みんな間違ってるのに何で正しい事を言ってる俺は否定ばっかりされるんだ?みんな俺の事を 凄いなと認めろよ。 俺は自分より優れた奴が ゆるせないんだよ(脅迫性人格障害の特徴)ナント妻子と月一、金曜夜7時からのお坐り会、茶菓(ちゃか)代ワンコインで、これが研究会出席虚勢のトマヌケ犬は誰からも疎まれる独善イヌヤマは月一第三金曜日夜7時茶菓代ワンコイン坐禅会に出ると偽証。命取りの摂心に親子で100回参加と虚飾スル新小岩の食業ドライバーイヌヤマとは法相宗(ほっそうしゅう)奈良興福寺(こうふくじ)前官長じっちゃんのお抱え運転手で食業ドライバーで、知ったかぶる以外に承認欲求が満足しない。多数者を演じ孤立セズと強弁し自作自演のおぞましい日々の無脊椎動物イヌヤマは成り済まし多重人格者で要治療インチキキチガイ雀鬼イヌヤマ麦、アルコホル発酵しイヌ麦焼酎なのに喜ばせ共有機能が絶えて無し。吠え吠み、オノレの尻尾をクルクル追うノミシラミ5ちゃんねるの会話はバトル形式で馴れ合いを禁じる。イヌヤマは、褒めてクレヨの哀願奴隷。相手を罵倒する悪口雑言の数々は外道イヌヤマへのリアル社会の絶対評価で、問いに問いで返す脊髄反射の脳足りんで悟前(ごぜん)未悟(みご)、金魚ドジョウと救い難い。① ググるシッタカ知障荒らしイヌヤマは無視放置スルーが一番ツライ、耐えられない。シッタカイヌヤマは常に誰かの反応レスを待ち焦がれ② 放置された固定観念イヌヤマは煽りや自作自演でアナタのレスを誘う。ワケワカメ糞邪鬼イヌヤマにノセられてレスしたらその時点でアナタも同類、負け。完敗③ ;反撃はイヌの滋養にして栄養であり最も悦ぶ事です。門前のヤセイヌにエサを投げ与えぬ事④ ;臭い汚いコワイ気持ち悪いイヌヤマが枯死する迄、孤独に暴れさせゴミが溜まれば削除2023/11/15 01:46:00524.馬au-wsJ-95-PNUTw85i虹の身体の成就者たち四つのシャマタは本然の境地ではない。https://i.imgur.com/7FP9PI4.jpghttps://i.imgur.com/b3M7Jz8.jpghttps://i.imgur.com/hdwks6o.jpghttps://i.imgur.com/KtmPmrc.jpghttps://i.imgur.com/UtyGphV.jpg2023/11/16 23:55:53525.アハさんパシル語がイヌケリアゲ~♪大爆笑( ゚∀ ) ワアハ八 / \ / \ws-Kvd-Yj-uIboYOsr> 無我がわかったら坐禅しなくても良いとは思うんだけどどうなんだろうな。 』修行者、求道者、修行僧は、やはり さとりを求めて行きます。さとれば、さとりが無く、無我とは、真理(さとり)です、が 理解できるものでありませんく、まさに 体得します。その状態を 石、とも 言います。突然 ストーン と、自他が無くなります。これを 一と一は、二では無い。一の如し、一如である、言い表します。この一如に取り組む公案が有ります。両手で打てば音が鳴る。では、片手の人が叩く拍手の音を聞いてこい、と言うもので、これに取り組みました。ぜひ、とも取り組んでいただきたいものです。音を聞くのだが、片手では拍手ができないから、音が鳴らないので聞こえない。その聞こえない音を聞け、と 公案は いう。聞こえない音が聞こえる。 そこが 色即是空。 初関(しょかん)を透(とお)る。色とは片手の人が叩く拍手です。片手の人が叩く音を聞いた、そこが、色即是空です。真理(さとり) です。趙州従?(ぢょうしゅう・じゅうしん)の無字の公案では長年かかってもなお悟れず死んでいく者も多かった事から、修行僧に対して白隠禅師が新たに隻手の音声(せきしゅ の おんじょう)の公案を与え、沢山の修行者に悟らせようと苦心した公案です。白隠慧鶴禅師(はくいん えかく ぜんじ) 隻手の音声 (せきしゅのおんじょう)両掌(りょうしょう)打って音声あり、隻手になんの声やある。隻手の声を拈提(ねんてい)せよ。>> 理屈っぽいけど、自他一如なら、あなたが叩こうがわたしが叩こうが同じ、わたしが叩きます、パンパンで終了。あとは自他一如、自分から心で隻手の人と一つになる。すると、相手の手を叩く音がきこえる。自他一如や自己の愛情、慈悲心を育てる公案だったとか 』 ありがとうございます。これは理解したり、解釈を咥えたりするものでじゃないので、お怒りを受けるともいますが、字句の解釈に拘泥するものではありません。先にも言いましたが、自他一如を体得する事です。あなたと私で、ぱんぱん。頓智、になりましたね。片手の人が、です。置き換えて、これでどうだ、と言うわけにはまいりません。聞こえるはずのない、片手の人が叩く拍手の音を聞く、のです。2023/11/17 01:19:39526.馬au-W4m-95-PNUdWPhC虹の身体の成就者たち四つのシャマタは本然の境地ではない。https://i.imgur.com/7FP9PI4.jpghttps://i.imgur.com/b3M7Jz8.jpghttps://i.imgur.com/hdwks6o.jpghttps://i.imgur.com/KtmPmrc.jpghttps://i.imgur.com/UtyGphV.jpghttps://i.imgur.com/TAwh0lC.jpg2023/11/17 08:28:50527.アハさんパシル語がイヌケリアゲ~♪大爆笑( ゚∀ ) ワアハ八 / \ / \ws-Kvd-Yj-uIb8FHZi白隠慧鶴禅師(はくいん えかく ぜんじ)隻手の音声(せきしゅのおんじょう)両掌(りょうしょう)打って音声あり、隻手になんの声やある。 隻手の声を拈提(ねんてい)せよ。趙州従しん(ぢょうしゅう・じゅうしん)の無字の公案では長年かかってもなお悟れず死んでいく者も多かった事から、修行僧に対して白隠禅師が新たに隻手の音声(せきしゅ の おんじょう)の公案を与え、沢山の修行者に悟らせようと苦心した公案です。> 無我がわかったら坐禅しなくても良いとは思うんだけどどうなんだろうな。 』求道者、修行僧は、やはり さとりを求めて行きます。 さとれば、さとりが無く、無我とは、真理(さとり)です、が 理解できるものではなく、まさに 体得します。その状態を 石、とも 言います。突然 ストーン と、突如と自他が無くなり歓喜乱舞します。これを 一と一は、二では無い。一の如し、一如である、言い表します。この一如に取り組む公案が有ります両手で打てば音が鳴る。では、片手の人が叩く拍手の音を聞いてこい、と言うもので、これに取り組みました。ぜひ、とも取り組んでいただきたいものです。音を聞くのだが、片手では拍手ができないから、音が鳴らないので聞こえない。その聞こえない音を聞け、と 公案は いう。聞こえない音が聞こえる。 そこが 色即是空。 初関(しょかん)を透(とお)る。色とは片手の人が叩く拍手です。片手の人が叩く音を聞いた、そこが、色即是空です。真理(さとり) です。>> 理屈っぽいけど、自他一如なら、あなたが叩こうがわたしが叩こうが同じ、わたしが叩きます、パンパンで終了。あとは自他一如、自分から心で隻手の人と一つになる。すると、相手の手を叩く音がきこえる。自他一如や自己の愛情、慈悲心を育てる公案だったとか 』 ありがとうございます。これは理解したり、解釈を咥えたりするものでじゃないので、お怒りを受けるともいますが、字句の解釈に拘泥するものではありません。先にも言いましたが、自他一如を体得する事です。あなたと私で、ぱんぱん。トンチ、になりましたね。片手の人が、です。置き換えて、これでどうだ、と言うわけにはまいりません。聞こえるはずのない、片手の人が叩く拍手の音を聞く、のです。2023/11/23 20:03:26528.アハさんパシル語がイヌケリアゲ~♪大爆笑( ゚∀ ) ワアハ八 / \ / \ws-Kvd-Yj-uIbd3hxF> 「只」吐き、「只」吸うだけ。 禅は、単、只、ひたすらにあればよい。 これが禅の極意である。 』禅とは ジャーナを音写して禅那と中国人が漢字であらわしたものであり、ジャーナとは、静かにする、静かに坐る、と言う意味であり瞑想する事。自己都合による拡大解釈しては、原意が蒸発する。浄土宗、浄土真宗は、波阿弥陀仏、と阿弥陀佛(無量寿Buddha、無量光佛陀)陀に帰依する。法華宗は南無 妙法 蓮華経、と正しい教え、白い蓮の花の教え、教典、お経の本に帰依する。騒動衆はお坐り、お手を教え込む。南無阿弥陀仏と言うのか、南無妙法蓮華経と言うのか、何とも云わず、坐っているのか、この三つは 易行(いぎょう)である。難しい事を求めず、これをやればいいんだよ、と安心させる。飢饉、餓死、疫病まん延、死地へ追い込まれた人にとっては、ひとすじの光明である。> 心身一如にならないと、坐禅が坐禅にならないんです。 』 脳内の神経細胞の結束が、心と呼ばれる。0,5ミリの線虫にも味の好みがある、と言う。脳が無いのが線虫である。神経の経験が好みを選ぶのである。 だから、心身ではなく、身心と言いう。>> 私をバカにしたければすればよろしい。その代わり、地獄行きである。 』地獄極楽。 極楽地獄。 一対のものだよね。 なので、地獄は極楽が無いと成立しない。では極楽は、地獄がなければ、存在しえないのだろうか。そんな事は無く、極楽は、極楽そのもので、完結している。地獄は無用なのである。地獄の住人は、どうやって救われてて行くのだろうか。地獄が極楽だったんだ、と自覚する、みずから めざめる、こう知れば、そのところが極楽とも言わず、地獄とも言わず、公平無比の横一列の地平線、水平線であり、日が昇り日が沈み、月が昇り、月が沈む、自他が無い。 これが 大切だよね。> 南無阿弥陀仏 』南無阿弥陀佛陀帰依しますアンミータのっと、めーたー量る事が出来ないアミターユ無量光アミターバ無量寿佛Buddha佛陀目覚めた者本願を立て 救い取るぞと決意されている無量寿Buddha、無量光Buddha、に対し帰依します。2023/11/26 02:12:48529.、au-NYe-ZN-PNUkMP2Oアンミカ2023/11/27 18:50:34530.神も仏も名無しさん50-CNt-Za-afnBBJ5Uほーかいくんあけるぞ〜😄😄😄😄😭😭2023/12/09 16:53:41531.神も仏も名無しさん50-CNt-Za-afnBBJ5Uほーかいくんお館様の出陣はまだか???😭2023/12/09 16:55:38532.ざぜんぼうずau-zW9-mv-PNUxdSIP坐禅菩薩(ざぜんぼさつ)。独身を貫(つらぬ)いて程好(ほどよ)い労働。酒を呑(の)みながらNHKテレビ。量子(りょうし)コンピューター。悟(さと)り。神経疲労に効く漢方薬は加味帰脾湯(かみきひとう)である。私は空気を読まない。アハハハッハハー♪アハハハッハハー♪アハハハッハハー♪アハハハッハハーアハハハッハハー♪♪アハハハッハハー♪アハハハッハハー♪私は空気を読まない。アハハハッハハー♪アハハハッハハー♪アハハハッハハー♪アハハハッハハーアハハハッハハー♪♪アハハハッハハー♪アハハハッハハー♪私は空気を読まない。アハハハッハハー♪アハハハッハハー♪アハハハッハハーアハハハッハハー♪♪アハハハッハハー♪アハハハッハハー♪アハハハッハハー♪アハハハッハハー♪アハハハッハハーアハハハッハハー♪♪アハハハッハハー♪アハハハッハハー♪2023/12/11 19:28:34533.◆JBLfMwCXhY50-Lmv-uk-xsMlQrZ4ほ~かい師匠の説法はまだか~😭2023/12/11 19:57:19536.(。~^~)(~^~。) ポッたん~♪バタンキュー>┼○ ~+ws-Kvd-0V-lY3LyrTB熱砂(ねっさ)の砂漠を渡って行く人に 命をつなぐ水が湧き出るオアシスがあり、安心立命(あんいんりつめい)と知る。教師の握り拳(きょうし の にぎりこぶし)肝心かなめの大事なこと、大切なこと、は、固く握りしめた手のひらの中に握りしめて決して他sに公開する事が無い。とは、よく言われることである。真理(さとり)は言語によっては、容易に伝わらない。生まれて以来の知識の蓄積が、それぞれがいろめがねを作り上げてしまっているから、本来の有りようが知識と言うスクリーン越しにしか見えない、からだ。差別しない、分別しない、これとそれを分けない、である。生者必滅(しょうじゃひつめつ)会者定離(えしゃじょうり) あえば、かならずのわかれである。尊公、近頃、如何。(そんこう ちかごろ いかん)こんにちは、さようなら。禅は生死(しょうじ)を問う。問う答えるて問答(もんどう)し師弟は対話し真理(さとり)を伝えてきた佛とは、真理、ダルマ、法、であって人格的存在ではない。公案は佛 真理(さとり) を 問う、「両手で打てば音が鳴る、片手の人が叩く拍手の音を聞いてこい 」諸行無常、諸法無我、一切皆空、涅槃寂静である。禅とは、静かにする。梵: dhy?na, ディヤーナ、巴: jh?na, ジャーナ、禅那:ぜんな)。 禅定(ぜんじょう、静慮(じょうりょ)こころコロコロ、常が無い。無常である。さとりとは、真理、法、ダルマである。達磨さんはインドから中国にやって来たのか、来なかったのか。ビッグバーン以来の一期一会である。すずめはチュンチュンこんにちは、である。道端のタンポポのさよなら、である。出会えば別れるのである。問う。「この座敷から坐のままで庭の30メートル先の築山(つきやま)に立つ石灯籠のロウソクの炎(ほのお)を吹き消せ」中道是空(ちゅうどうぜくう。 ちゅうどうは これ くうなり)空是中道(くうぜちゅうどう。 くうとは、これ ちゅうどうなり)空とは、分別(ふんべつ)しないである。空とは、一如(いちにょ) 一の如し(いちのごとし)である。色即是空(しきそくぜくう)は空即是色(くうそくぜしき)へと還(かえ)る。である。2023/12/26 09:22:38537.夕9f-Wge-0V-qXaWLNix法介師匠の代わりに、アンポッタン師匠の説法が始まった2023/12/26 12:26:44538.案ポン単au-VVb-mv-PNUWMhbKポったん!有馬記念は外れたのなw何年競馬やっているんだ、考えすぎはダメだぞ!2024/01/02 19:46:09539.(。~^~)(~^~。) ポッたん 急いでもちつけws-Kvd-0V-lY3su5zN真理(さとり) を 無我 と言う事が出来る、無我は真理(さとり)であってジョーカーではなく、オールマイティーでもない。と言うだけのもので、無gふぁ と言う言葉を出すだけで なにもかもを切り捨てる事は出来ない。問いには立ち止まって、検討して行かないと此れにはこれと言う安易な振り分けになる。理解(りげ)と言えば むしろ お上品になってしまうけれど、寒風不キス武功や、だね。宗教のインドにおける語源は、如何に生きるか、と言うもので、あたまの中の変換ではない。神の存在証明を2000年間立ってもまだやってるキリスト教神学の蜃気楼だね。唯心論、唯物論は、一方の真理を言う、唯、を取り払う。心と物が矛盾なく存在しているのが、わたし達の日常なのではないだろ言うか。尊公、近頃、如何。(そんこう ちかごろ いかん)。 こんにちは、さようなら。禅は生死(しょうじ)を問う。問う答えるて問答(もんどう)し師弟は対話し真理(さとり)を伝えてきた原初、禅とは、静かにするの意である。梵: dhy?na, ディヤーナ、巴: jh?na, ジャーナ、禅那:ぜんな)。 禅定(ぜんじょう、静慮(じょうりょ)さとりとは、真理、法、ダルマである。達磨さんはインドから中国にやって来たのか、来なかったのか。ビッグバーン以来の一期一会である。 すずめはチュンチュンこんにちは、である。道端のタンポポのさよなら、である。出会えば別れるのである。空とは、分別(ふんべつ)しない、分けない、である。 一如(いちにょ) 一の如し(いちのごとし)である。色即是空(しきそくぜくう)は空即是色(くうそくぜしき)へと還(かえ)る。白隠慧鶴禅師(はくいん えかく ぜんじ) 隻手の音声(せきしゅのおんじょう)両掌(りょうしょう)打って音声あり、隻手になんの声やある。 隻手の声を拈提(ねんてい)せよ。片手の人が叩く拍手の音を聞いてこい。 問う。『 この座敷から坐のままで庭の30メートル先の築山(つきやま)に立つ石灯籠のロウソクの炎(ほのお)を吹き消せ』真理(さとり)は言語によっては、容易に伝わらない。生まれて以来の知識の蓄積が本来の有りようが知識と言うスクリーン越しにしか見えない、からだ。差別しない、分別しない、これとそれを分けない、である2024/01/06 21:19:58541.糖質ですが◆/dRpTBnZTC3y4D-LT8-sG-t2tk33DZ血行を良くし、リラックスし、神経を良くするためには「筒状の膣」をイメージする必要があり、柔らかいところを触る必要があります。「世界」を味わう興奮が、シリンダーを刺激し、美しくなっていくお肌に喜びを感じます。自分が若くなっていく喜びが性欲なのです。異性の性器の細かいところまで想像する必要があります。「男性崇拝」こそが大事なのです。声にする必要もあります。「シリンダーを刺激して?柔らかい?私、優しくなれそう」誰もみていないわ?シリンダーがあなたの人生を破壊してやるの。2024/01/13 17:52:06542.神も仏も名無しさん2w-I6Y-IS-x24DKweS>>252>>余りにも現実的な思考では型にハマった人生にしかならないのでしょうそろそろ、輪廻転生ネタに突入しましょうか?ただ、去年の11月中旬以降の「もっこりな世界パート1」の書き込みを読んでいないので、それを先に読んでおいたほうがいいのかな?2024/01/22 11:17:17543.でおー50-WKI-Eq-t22Cc9Zt🪰2024/02/08 18:52:15545.神も仏も名無しさん9f-wBK-sP-d9nCiJvWhttps://youtu.be/OHp52QadxO0?si=yQFY16HFFgdC6-wS2024/03/15 17:29:42546.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-yA-cEYxyLg9次スレを立てる気がなくなったからこっちで話そう。2024/03/27 22:00:37547.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-yA-cEYxyLg9わたしがここを出て行くとでおーが悲しむから度々戻っても来たが2024/03/27 22:01:44548.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-yA-cEYxyLg9どうやらそんなでおーにも楽しいお友達が出来たようでこれで俺も心おきなくブログの方に戻れる。2024/03/27 22:02:53549.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-yA-cEYxyLg9ここはアウトプット作業として利用して来たと言ったが今回のようなただ煽りを楽しむような輩が出て来ては、2024/03/27 22:04:26550.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-yA-cEYxyLg9わたしも気持ちよく語れなくなってくる。2024/03/27 22:04:49551.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-yA-cEYxyLg9おまえが言うようにメンタルダウンして撃沈されたって事でいいよ。2024/03/27 22:05:47552.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-yA-cEYxyLg9おれは、そんな事どうでもいいし、ここに執着もないしな。2024/03/27 22:06:19553.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-yA-cEYxyLg9煽り目的の輩を相手にしても疲れるだけで俺的に有られるものはない2024/03/27 22:07:08554.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-yA-cEYxyLg9鹿野園はあんな風だがあいつとのやり取りでは結構おれは色々と収穫があった。2024/03/27 22:07:51555.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-yA-cEYxyLg9だか今回の輩はなー2024/03/27 22:08:12556.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-yA-cEYxyLg9全く中身の無いただのムームームーだろ2024/03/27 22:08:38557.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-yA-cEYxyLg9そんな奴相手にしてもなー2024/03/27 22:09:06558.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-yA-cEYxyLg9まーでおーは奴に出会えて大はじゃぎしてたからこれでおれも心おきなくブログに戻れるよ2024/03/27 22:10:09559.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-yA-cEYxyLg9元気でやれよー2024/03/27 22:10:29560.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-yA-cEYxyLg9世話になったな2024/03/27 22:10:43561.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-yA-cEYxyLg9ありがとな2024/03/27 22:10:53562.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-yA-cEYxyLg9鹿野園も2024/03/27 22:11:03563.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-yA-cEYxyLg9麦も2024/03/27 22:11:36564.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-yA-cEYxyLg9馬もリダンも2024/03/27 22:12:05565.法介◆T3azX0Hk1U50-5UQ-yA-cEYxyLg9頑張って精進しろよー2024/03/27 22:12:32566.神も仏も名無しさん50-t9o-fN-rHQvQEXGえ、ま、やはり襲撃者はかなりキツイからな〜仕方がないな〜😟2024/03/27 22:14:56567.神も仏も名無しさん50-t9o-fN-rHQvQEXGバッドラックやったか〜仕方がないな〜😟2024/03/27 22:15:36568.神も仏も名無しさん50-t9o-fN-rHQvQEXGテーラワーダの十八番は実況中継だ😄2024/03/27 22:25:36569.神も仏も名無しさん50-t9o-fN-rHQvQEXG自分や他者の心理を実況中継できなければやはり😟2024/03/27 22:26:08570.神も仏も名無しさん50-t9o-fN-rHQvQEXGBGMhttps://m.youtube.com/watch?v=I7XHSyyG29w&list=RDI7XHSyyG29w&start_radio=12024/03/27 22:30:33571.栖雲居士◆dqam8SqGUPdm50-aqq-VB-tJQZqBZ1**********************糞スレ終了。結局、荒らしはタコ介だったというオチ。**********************2024/06/20 11:27:32572.神も仏も名無しさん50-zYX-Oz-t22yUgrR🏥 🚑💨💨💨 👋😆🫵 😂 🫵 😂 🫵 😂 🫵 😂 🫵 😂 🫵🫵 😂サイコパス鹿野園(栖雲居士)の対処法😂 🫵🫵 😂 🫵 😂 🫵 😂 🫵 😂 🫵 😂 🫵🏥 🚑💨💨💨 👋😆サイコパスに接する場合の心得・対処法。【かかわらない・相手にしない・近づかない。】ウソをついてると想定して聞く。良心に訴えても不可能だと理解する。世の中には良心を全く持たない者もいると理解すること。人の心を操ろうとするのはサイコパスの特徴であり、そのゲームに決して加わらないこと。サイコパスは治らない精神障害なので相手を治そうとしないこと。自分の心を守る。幸せに生きること【サイコパスに対してそれが一番の報復になる、なぜなら相手は自らの行いによって、生涯幸せにはなれないからです】2024/08/06 10:23:25573.神も仏も名無しさん50-zYX-Oz-t22yUgrR🏥 🚑💨💨💨 👋😆🫵 😂 🫵 😂 🫵 😂 🫵 😂 🫵 😂 🫵🫵 😂 鹿野園(栖雲居士)はサイコパス 😂 🫵🫵 😂 🫵 😂 🫵 😂 🫵 😂 🫵 😂 🫵🏥 🚑💨💨💨 👋😆サイコパスの10の特徴表面上は口達者利己的・自己中心的自慢話をする自分の非を認めない結果至上主義平然と嘘をつく共感ができない他人を操ろうとする良心の欠如刺激を求める2024/08/06 11:04:06574.神も仏も名無しさん50-aqq-YX-tJQILcTt【普遍論争】なぜ普通名詞を使えるのかイチローや太郎や花子は、生まれたとき「イチロー」「太郎」「花子」と名づけられ、その名でよばれます。けれども、その三人を含む全人類がひとしく「人間」という普通名詞でよばれるのはどうしてでしょう。全人類を一人ひとり「人間」と命名していくなど、不可能です。この問題は中世のキリスト教徒にとって、言仰の根拠に関わる大問題でした。アダムとイブの原罪が全人類におよぶのは、全員が「人間」という同じ名でよばれるからです。しかし、「人間」という言葉は、どうして普遍的に、つまり全人類にあてはまるのでしょう。この問題を巡って三つの立場が登場し、それは普遍論争とよばれました。ひとつは、だれもが人間とよばれるのに必要な性質を備えており、「人間」という本質・概念は、すべての人間のなかに現実に内在するという立場です。「普遍は個物のなか」にあるというアンセルムスらのこの立場は「概念実在論」とよばれました。二つ目は、わたしたちが「ニンゲン」という名前を現に各人にあてはめているにすぎない、とするロスケリヌスらの立場です。「普遍は個物のあと」にくるというこの立場は「唯名論」とよばれます。三つ目は、神がアダムを作ったとき、神の頭のなかには「自分の似姿」という「人間」についてのプランがあり、だから「人間」は全人類にあてはまるという、アベラールの立場です。「普遍は個物の前」にあったというこの立場は「概念論」とよばれます。2024/11/05 09:48:46575.栖雲居士◆dqam8SqGUPdm50-aqq-YX-tJQILcTt【トマス・アクイナス】神の自由と人間の自由「神」とはどんな存在なのでしょう。そもそも存在するのでしょうか。この二つの難問をトマス・アクイナスは一気に解決します。トマスは「本質」と「存在」の区別に注目しました。富士山は「日本一高い山」という本質をもち、現に存在します。ペガサスは「翼ある馬」という本質をもちますが、どこにも存在しません。ところで、神については、その本質を規定することが許されません。「神は完全な存在だ」と言うのも、本当はいけないのです。そう言ってしまうと、神が不完全になる自由が奪われてしまいます。三船敏郎について「男のなかの男」という謳い文句ができると、もうオネエっぽくできなくなってしまいますが、それと同じです。実は、『旧約聖書』で神は「在りて在るもの」、つまり、ひとえに存在することだけをその本質とする存在とされていました。神の本質と存在は区別されません。存在することが本質なら、神は必ず存在することになります。上の二つの問題は度に解決できました。存在する、という以上の規定はないので、逆に、神はなんにでもなれる自由があります。なにをやっても自由で制約はありません。神がつくる世界にも制約はなく、人間にも制約はなく自由です。かりに神がいても人間は自由だというこの帰結は、神学的決定論に対する強力な反論です。神という現実離れした仮説でも、それについて徹底的に考えたとき、人間の在り方についての思わぬ逆転に結びつきます。これも哲学的思考の醍醐味です。2024/11/05 09:54:57576.栖雲居士◆dqam8SqGUPdm50-aqq-YX-tJQILcTt普遍論争https://i.imgur.com/0myTLL3.jpegトマス・アクィナスhttps://i.imgur.com/ZxdmG2G.jpeg2024/11/05 09:58:49
【国民民主党】玉木代表 加熱する不倫報道に「家族の心理的負担は極めて大きい」「テレビや週刊誌やネットも見てしまって、その都度傷ついている」ニュース速報+761819.52024/11/21 19:32:34
Talk 掲示板における一つの独立した空間で、争い事は決して好まず、他者に対する誹謗・中傷はナンセンス。しかし愛嬌はドンと来い。ユーモアはぶちかませ。エロい話はお好み次第。「人生楽しまなきゃ損だろう!」をモットーに互いの人間性を尊重しながらもじゃれ合い程度にはツツキ合い、もみもみしながら互いのゆゆしさを温かく且つ、深く理解し合いながら相互に人間性を高め合っていく。そんな素敵な関係のゆゆしき世界です。
法介の『ゆゆしき世界』パート1
https://talk.jp/boards/psy/1689114927
法介の『ゆゆしき世界』パート2
https://talk.jp/boards/psy/1689730026
法介の『ゆゆしき世界』パート3
https://talk.jp/boards/psy/1690197616
法介の『ゆゆしき世界』パート4
https://talk.jp/boards/psy/1690516862
法介の『ゆゆしき世界』パート5
https://talk.jp/boards/psy/1690750165
法介の『ゆゆしき世界』パート6
https://talk.jp/boards/psy/1691015262
法介の『ゆゆしき世界』パート7
https://talk.jp/boards/psy/1691589307
法介の『ゆゆしき世界』パート8
https://talk.jp/boards/psy/1691937370
は
ほーかいーか〜
😭
wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
🐙🐙🐙🐙🐙🐙🐙🐙🐙🐙🐙🐙
糞スレにつき、終了致しました。
👻👻👻👻👻👻👻👻👻👻👻👻
wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
タコ介🐙法介くん、
talk掲示板の宗教板を永久追放
糞スレ終了
**********************
この状態は【輪廻転生の根本原因】を【断ち切っていない】ものに過ぎないので、
● 真実を現観した聖者であれば、無想天に転生することは、悪趣へ転生するのと等しく回避すべきものであり、
聖者であれば【無想天】への【転生】を【自己意志で回避】できるが、
● 未だ【真実を現観してい無い凡夫】であれば、【長期間の禅定の力】によって【無想定】を得てしまい、
この状態を【解脱】であると【勘違い】してしまい、【長期間この状態】入ってしまう。
● 真実を現観した聖者であれば、【無想定】へ入ることも【意識的に回避】可能となり、
【無想定】と同様に、【心・心所】を【停止させた】状態を【実現可能】となるが、
● その場合には【滅尽定】と呼ばれる、【意識的】に【寂静】を達成し、
【心・心所】の活動を完全に【遮断した状態】を実現することができる。
● この【滅尽定】を、衆生として享受しているのは、無色界の最上位【非想非想処】、すなわち【有頂天】で生存している衆生であり、
彼らは無想定のように心・心所を停止させており、物質より組成されている身体もない無色界に存続しているので、
物質として認識可能なものもないし、心・心所も消滅している状態にあるので、この特殊状態は精神にも帰属させ分類することもできない。
● したがってこの【滅尽定】もまた、精神でも物質でもない、実体の特殊状態のひとつとして、
≪【心不相応行】≫のひとつとして数えるのである。
自分の希望的思いが、現実世界に反映されるのに3年のタイムラグが有るようだ。
おもしろい‼️
池 田 道 浩
問題の所在
● 所知障(jney vara a)の有無は、大乗と小乗とを区別する概念の一つである。
小乗では、煩悩障を断つことはできるが、【所知障】を取り除くことはできず、
【人無我】の理解に留まる。
大乗では、【煩悩障】のみならず【所知障】をも除去することが可能であり、
小乗では不可能だった【法無我】を理解することができる。
この【所知障】の≪【所知】≫(jñeya)について、【瑜伽行派】には二つの解釈があった。
●一つは、
知られるべき≪真実(tattva)≫とする説。
●もう一つは
≪一切法、一切の所知≫とする説である。
心不相応行の解説だ
素晴らしいな?😄
75法のうち、3つ分かったな(笑)
🐕🦺
相当にメンタルダメージを
うけたよーだな
🐕🦺
望 月 海 慧(身 延 山 大 学)
『菩提道灯論』では、【瞑想修行】により【止】を完成した後に、【観】をどのように学ぶのかについて、
それ故に【煩悩】と【所知】の障害を残らずに捨てるために、
【智慧の完成】のヨーガを常に方便を用いて修習すべきである。と述べられている。
すなわち、【六波羅蜜】の最初の五項を方便として、【智慧(prajna)】の完成が得られるとする。
続いて、伽耶山頂経と維摩経に基づいて、方便と智慧の相関関係を述べた後に、
【方便を修習】することにより、自分自身で【智慧】を【正しく修習】する者は、
【菩提を速やかに得るが】、
【無我】だけの修習ではそうではない。
【蘊・界・処】は【生じることがない】と分別し、【自性を欠く】ものであると知ることが【智慧】であると正しく解説されている。と述べられている。
先行する【カマラシーラ】に従い、
【智慧】とは【無自性】を理解することであり、
それは、【四支生滅・金剛片・離一多・縁起】の【四大因】から知られるものとされている。
またこの【智慧】自身も、【四大因】により【考察すると】成立しないとして、
【智慧】によりすべての法のいかなる【自性も見られず】、
その【正しく解説された智慧】自身を【考察することなく】、彼は【修習】すべきである。と述べられている。
ただしこの【智慧】は【勝義】において【存在しない】ものであるとし、
以上のように、【空性】を修習した後に、次第に暖などを得てから【歓喜[地]】などを得るであろう。仏の菩提は遠くない。
と述べられ、【智慧を獲得した後】に、さらに【悟りのステージ】を進んでいくことが述べられている。
もちろんこのような【悟りを目的】とする【智慧】については、初期仏教文献には説かれておらず、【後期中観学派】独自の理解ということになるのであろうが、
【ブッダの悟り】を追体験する一つの在り方を示すものである。
そこでは悟りへの階梯には、【智慧の獲得】が必要であり、
それにより【ブッダの悟り】を追体験できると理解されていたことがわかる。
https://nbra.jp/publications/73/pdf/73_32.pdf
【菩提を速やかに得るが】、
【無我】だけの修習ではそうではない。
【蘊・界・処】は【生じることがない】と分別し、【自性を欠く】ものであると知ることが【智慧】であると正しく解説されている。と述べられている。
先行する【カマラシーラ】に従い、
【智慧】とは【無自性】を理解することであり、
それは、【四支生滅・金剛片・離一多・縁起】の【四大因】から知られるものとされている。
またこの【智慧】自身も、【四大因】により【考察すると】成立しないとして、
【智慧】によりすべての法のいかなる【自性も見られず】、
その【正しく解説された智慧】自身を【考察することなく】、彼は【修習】すべきである。と述べられている。
ただしこの【智慧】は【勝義】において【存在しない】ものであるとし、
望 月 海 慧(身 延 山 大 学)
『菩提道灯論』では、【瞑想修行】により【止】を完成した後に、【観】をどのように学ぶのかについて、
それ故に【煩悩】と【所知】の障害を残らずに捨てるために、
● 【智慧の完成】のヨーガを常に【方便を用いて修習】すべきである。と述べられている。
すなわち、【六波羅蜜】の最初の五項を方便として、【智慧(prajna)】の完成が得られるとする。
続いて、伽耶山頂経と維摩経に基づいて、方便と智慧の相関関係を述べた後に、
●【方便を修習】することにより、自分自身で【智慧】を【正しく修習】する者は、
【菩提を速やかに得るが】、
●【無我】だけの修習ではそうではない。
【蘊・界・処】は【生じることがない】と分別し、【自性を欠く】ものであると知ることが【智慧】であると正しく解説されている。と述べられている。
先行する【カマラシーラ】に従い、
ーーーーーーーーー
●【智慧】とは【無自性】を理解することであり、
ーーーーーーーーーーーー
それは、【四支生滅・金剛片・離一多・縁起】の【四大因】から知られるものとされている。
またこの【智慧】自身も、【四大因】により【考察すると】成立しないとして、
●【智慧】によりすべての法のいかなる【自性も見られず】、
ーーーーーーーーー
● その【正しく解説された智慧】自身を【考察すること無く】、彼は【修習】すべきである。と述べられている。
ーーーーーーーーーーー
● ただしこの【智慧】は【勝義】において【存在し無い】ものであるとし、
ーーーーーーーーーー
以上のように、≪【空性】を修習≫した後に、次第に暖などを得てから
●≪【 歓 喜[地]】≫などを得るであろう。【仏の菩提】は遠くない。
ーーーーーーーーーー
と述べられ、【智慧を獲得した後】に、さらに【悟りのステージ】を進んでいくことが述べられている。
もちろんこのような【悟りを目的】とする【智慧】については、初期仏教文献には説かれておらず、【後期中観学派】独自の理解ということになるのであろうが、
【ブッダの悟り】を追体験する一つの在り方を示すものである。そこでは悟りへの階梯には、
【智慧の獲得】が必要であり、
それにより【ブッダの悟り】を追体験できると理解されていたことがわかる。
第八阿頼耶識は【執蔵】である。
第六識は執する、第八の種子の現象に、前五識に、第七意識の我執によって【執着】する。
ーーーーー大円鏡智ーーーー
↓ 一つの観照主体 ↓
↓ ↓ ↓
↓八 無対象 ↓五
現量←←←←直通←←←←現量
↓ 【止】&【滅】 ↓
↓ ↓
③認識主体←②認識主体←①認識主体
↓観照 ↓観照 ↓観照
種子→→→→想→→→→→現象(往)
↑ ↑ ↓
第八 第六 前五(色→受)
執蔵 思 ↓
↑ ↓ ↓
種子←←←←汚染←←←←印象(還)
汚染 了別 了別
↑ ↑ ↑
我執→→→→執着→→→→執着
↑ ↑ ↑
ーーー第七・マナ識ーーーー
止&滅→我執の了別・汚染の無→平等性智
種子、印象は、五~八で循環する。
●この循環構造の一時停止が禅定、
●一旦、循環構造が、停止瓦解した後で、
六・七識の【無】化状況下において、五・八識の現量のみが観照・認識されると、
①②③と分割されていた認識主体は、統合化され、一体となる、
● この一体化された認識主体は、法界を現量で観照された時点で、
完全に【一切対象】は、我では無いと、覚証するに至る。
この【覚】が【心】であると【証】されると、【一切対象】と【仮我】は、永続的に【従】となる。
● これが、本心に覚ったことである。
もどってきてえ〜〜
😭😭😭😭😭😭
―― 阿頼耶識と末那識との関係を中心に ―
①所依の問題 金 範松
https://tais.repo.nii.ac.jp/record/381/files/%E9%87%91%E7%AF%84%E6%9D%BE%E3%80%8C%E5%BF%83%E3%83%BB%E6%84%8F%E3%83%BB%E8%AD%98%E8%AA%AC%E3%81%AB%E9%96%A2%E3%81%99%E3%82%8B%E7%A0%94%E7%A9%B6%EF%BC%8D%E9%98%BF%E9%A0%BC%E8%80%B6%E8%AD%98%E3%81%A8%E6%9C%AB%E9%82%A3%E8%AD%98%E3%81%A8%E3%81%AE%E9%96%A2%E4%BF%82%E3%82%92%E4%B8%AD%E5%BF%83%E3%81%AB%EF%BC%8D%E2%91%A0%E6%89%80%E4%BE%9D%E3%81%AE%E5%95%8F%E9%A1%8C%E3%80%8D.pdf
● 次に、等無間?依は前滅の意のことで、開導依とも言われるが、
前滅の識は自類なのか他類なのかの議論が行われる。
護法の説では、八識すべてが前念の自類を以って開導依とするという。
なぜなら、時間の前後があることによって異類を開導依とすることは理に合わないからである。
即ち、異類の識をもってその開導依とするならば、異類の識の?起する義がなくなる。
● また次に、?有依は心・心所法と同時に存在するものである。
即ち、前五識が働く時には、
五根(同境根)と第六識(分別依)と第七識(染浄依)と第八識(根本依)との、四つが必ず?に存在し、
第六識が働く時には、第七識と第八識との二つが必ず?に存在し、
第七識が働く時には、第八識が必ず?に存在し、
第八識が働く時には、第七識が必ず?に存在するということが護法の正義である。
● しかし、淨月などは種子識も?有依として?に働くのではないかと言うが、
護法は「依」と「所依」との差を明らかに区別するのである。
即ち、現行八識の種子は現前に自らの境を取ること(取自所縁)ができないので、
種子は現行八識に対して「依」になるが「所依」にはならと言う。
また、?有依について聖教に五識はただ五根に依る、
小谷信千代
https://otani.repo.nii.ac.jp/record/6746/files/BGS_092-02.pdf
大慧禅師の見性→大悟徹底の詳細
●37歳 見性→『浄裸裸処に坐在す』
『即ち、妄心妄念は滅却したが、その滅却した寂滅したところに、坐りこんでいたにすぎない』
師圜悟克勤は、こう言っている、
ここではまだ、『寂滅現前する能わず』
● その半年後、大慧大悟して『その寂滅をも脱却した処』とした、
師は記している、『浩然と大徹した』と
● 寂滅をも脱却したところを得る、
師曰く『如今(ジョコン)方(ハジ)めて我 你(オマエ)を誤まざるを 知道なり』
【 知道 了。=わかった】【如今=ただいま、いま、現在】
しかしなお、『未だ大自在を得ず』としている
● 40歳 華厳経を読んでいて、
十地品、第八不動地、【無効用法(あるがまま】で、【努力を用いず】修行実践できていること)を得る一節
『即ち、一切の効用法を捨し【無効用法】を得』云々と、引用される箇所に至って、大悟徹底した。
● 大慧は『華厳経』の一節を解し、第八地の菩薩は生死の心を断ち切り、
『世間心既に滅し、【寂滅心】即ち現前す、寂滅心既に現前すれば、則ち塵沙の諸仏の説くところの法門、一時に現前す、
法門既に現前するを得れば、即是ち』
https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/251211/1/hct_041_087.pdf
大慧宗杲
大慧宗杲(だいえ そうこう、だいえ しゅうこう)は、中国の宋代の臨済宗楊岐派第5代の僧。
諡号は普覚禅師ふかくぜんじ、賜号は仏日大師、大慧禅師、字は曇晦、号は妙喜みょうき・雲門。
俗姓は奚けい。公案を用いて悟りに至る「看話禅」(公案禅)の大成者として知られる。
Wikipedia
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%85%A7%E5%AE%97%E6%9D%B2
『世間心既に滅し、【寂滅心】即ち現前す、寂滅心既に現前すれば、則ち塵沙の諸仏の説くところの法門、一時に現前す、
法門 既に現前するを得れば、即是(スナワチ)ち、【寂滅の真境界】なり。』
来ないのか〜〜?
😭😭😭
「根」についての若干の資料
https://i.imgur.com/hAyYQhc.jpg
このスレを
捨てた模様
😞
deva-manuṣyan upanisraya (S)
「依止人天」〔法華経 湧出品〕
古来から【依託止住】(えたくしじゅう)の意味である。
● たよりにし、拠り所という留まることを言う。力あり徳あるところに止住して離れざること。
● 依止甚深
如来がさとった真如の法体は
一切の処に遍満して、
一切萬有が所依となることを言う。
五甚深の一つ。
https://re95g.com/subconscious-conscious/
ーーーーーーー
●【言葉にできること】が
【 顕 在 意 識 】で
●【言葉にできないこと】が
【 潜 在 意 識 】と分類できます。
ーーーーーーー
●【顕在意識】は
【意識的】に、【行動】に影響する
【思考】で、
●【潜在意識】は
【無意識的】に、【行動】に影響する
【思考】と、
解釈しましょう。
● 第六識の倶有所依については、
第七識と第八識のみである。
● 第七識と第八識の内、一種でも欠いた時は、必ず第六識は転じないからである。
● 第六識は五識と?に活動し、第六識は境を取ることが明了であるとはいっても、
しかし【五識】は
【必ずしも存在しない】
● 五識は第六識の所依ではない。
しかし、聖教に
● 第六識はただ第七識に依るとのみ説かれているのは、
● 第七識が第六識の雑染依であり、
第七識は第六識と同じく転識の一種であり、
近であり、相順するからである。
上の説によると、護法がいう仮説ということは、不共依に限る意味であることが分かる。
しかし、護法の言う?有所依の意味は不共依のみならず、共依まで含んで「所依」とすることは、すでに、上の章で図表に示した通りである。
『心・意・識説に関する研究』
― 阿頼耶識と末那識との関係を中心―
①所依の問題 金 範松
https://i.imgur.com/pYVCPrY.jpg
https://i.imgur.com/lb2HHq5.jpg
(3)心・意・識相互関係の考察第八識以上の図表で注目したいものは意根によって生じる第六・第七・第八識の相互関係である。
まず、第六と第七の関係を見ると、第六識の不共依は第七識になるが、第七識は第六識を不共依の所依としないのである。
それは、第七識は第六識の背後にある、ということを明らかにすることである。
また、第七識と第八識の関係を見ると、第七識は第八識を不共依とし、第八識も第七識を不共依とするのである。
それは、第七・第八は、恒に?であり、何れの識、特に末那識が無くなることは理に合わない、ということが分かる。
そして、第六識の背後には第七識と第八識があると言えるが、第七識の背後に第八識があるとは言えないことも明らかになる。
また、第七識と第八識は?有依でありながら、増上縁依として、即ち、現行識として相互に関係することが分かる。
能変の体を彰す (5)≪思量≫識
https://blog.goo.ne.jp/seikannamo/e/2b7ff65b859e9dd63cbf4f7a6599501a
「二には謂く【思量】。即ち【第七識】ぞ。【恒に審か】に【思量する】が故に。」
● ①【初能変】は【第八識】であらわしますが、
その【第八識の上】に働く識が【第七識】ですから、②【第二能変】といわれています。
● ②【第七識】のはたらきは、
【恒】に【審】かに【思量】するということで、
①【第八識】の【見分を境】として
≪恒≫に≪我≫と≪思量≫する識である。
● 【恒】は【間断】のある③【第六識】を簡ぶ(除外)。
③【意識(第六)】は【審(深く)】に【思量】するけれども【恒】ではない、ということ。
● 【審思】は①【第八識】を簡ぶ(除外)。
①【第八識】は【恒】ではあるが、
【審】に【思量】する識ではありませんから簡び(除外)ます。
● また【恒】と【審】との【思量】を以て【前五識】を簡び(除外)ます。
④【五識】は【恒】に起こるものではなく、
また【審思】するものでもないから簡ばれ(除外)ます。
ーーーーー
●【簡ぶ】は比較され簡び取られるという意味ではなく、【除外】されるという意味になります。
● 【恒】に【思量】することと、
【審】に【思量】することが
②【第七識】の特徴になります。
ーーーーーー
ーーーーーーー
● manas翻訳して末那といい表しています。
【我・法】 二執の 根本である。
【八識】はみな【思量の作用】があるが、
● 末那識は特に
①恒【間断なく常に作用する】と
②審【明瞭に思惟する】との
二義を兼ね有して、
他の【七識に勝っている】から末那(意)という。
【如来】が覚った
【真如】の
【法体】は
【一切の処】に
【遍満】して、
【一切萬有】が
【所依】となることを言う。
【五甚深】の一つ。
https://bsd.neuroinf.jp/wiki/%E6%83%B3%E8%B5%B7%E3%83%BB%E8%AA%A4%E6%83%B3%E8%B5%B7%EF%BC%88%E8%A8%98%E6%86%B6%EF%BC%89
【無我】になったら、何の理解も、語ることも、無いです❗
一切の相の無い認識主体が、停止・滅となった五識・六識の空、七識の空、を観て、
空と観られた六識・七識は【無我】の無相を提示します、
無相を示現すると、八識への習気も無相で清浄となります、
つまり、≪①清浄な果→②清浄な種子→③清浄な因→①清浄な果≫という循環が始まり、みるみる八識も清浄無相となって行き、
遂には、転識が生起されることになります。
【無我】となった心は、外に因・縁を見ないので、内からの種子・因によって、動きますが、
既に種子・因が清浄なので、業を作りません、なので、行が八識へ還流しても、果清浄であり、
七識は既に空と観られているので、果は染汚されず、果・種子は清浄のまま八識へ収蔵されます。
ただし、最初に、果清浄の因を行ずる必要があります、
それは、正覚者如来によって説かれ約束された、清浄なる真言を一定期間唱えることにおいて、
正しい因を縁じ、その事で、果の清浄を生起し、それを阿頼耶識へ還流させ、清浄種子として、再び清浄因を現行させる、という循環を作る、
これは最初に有為でも後に無為となって行きます。
これが、現時点での、わたしの理解解釈となりますm(_ _)m
清浄なる真言は、そのまま文字として観じもします、
つまり、見て、唱える。
ーーーーー
926 神も仏も名無しさん 2023/10/03(火) 19:44:14.99 ID:HvtDx
≫923
それは、因→縁→果となって現れた現象が、再び八識へ還流されて、
七識によって、執・染汚された後に、一旦は八識の蔵へ、収蔵されたものだと理解しています。
ーーーーー
929 神も仏も名無しさん 2023/10/03(火) 19:47:09.76 ID:HvtDx
それは、外界の縁によって、呼び出された時、縁起の種子因として、六識にとらえられ、行となって行きます
ーーーーー
948 神も仏も名無しさん 2023/10/03(火) 20:23:10.56 ID:HvtDx
≫937
だから、正しく聞法して薫習された正しい種子因果、
これが整わなければ、正しい縁なく、正しい真言にも出会わず、なので、
ーーーーー
951 神も仏も名無しさん 2023/10/03(火) 20:26:31.36 ID:HvtDx
無我とは無相の認識主体であると、わたしは言いました、
対象とは、仏教では六境(色境・声境・香境・味境・触境・法境)ではありませんか。
そして、その対象は非言語的言語(名言習気種子)を蔵する阿頼耶識(井筒俊彦なんかは言語アラヤ識と云ってますけと)から立ち上がるというのが唯識学派の主張です。
例えばリンゴという対象は、元リンゴ(素朴実在論的なその素朴実在、或いは言語化される以前の"それ")は、阿頼耶識中の非言語的言語から立ち上がり、その名称(リンゴ)も同じく阿頼耶識中の非言語的言語から立ち上がると云うのがその主張です。
六識があるとき、つまり活動している状態の時は、七識と八識も同時にあって活動していて、共依である
七識があるときは、八識も同時にある、それは不共依である、
ーーーーーー
恒 間断
執蔵 ←← 還流・循環 →→ 認識
八識【種子因】→ー←【縁起・果】六識
↑↑ ↑↓
七識 返光 投射
恒 ↑↓
五識
間断
↑↓
根・境・色
こんなかんじか?
>>289
種子について、少々調べてみます
https://archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/DB/0039/DB00390L001.pdf
『阿毘達磨大毘婆沙論』における種子の考察
近 藤 伸 介
*シグナルは送られていいても、種子の交換は行われていない
悩みますね
ありがとう
http://echo-lab.ddo.jp/Libraries/%E4%BD%9B%E6%95%99%E5%A4%A7%E5%AD%A6/%E4%BD%9B%E6%95%99%E5%A4%A7%E5%AD%A6%E5%A4%A7%E5%AD%A6%E9%99%A2/%E5%A4%A7%E5%AD%A6%E9%99%A2%E7%B4%80%E8%A6%81.%E6%96%87%E5%AD%A6%E7%A0%94%E7%A9%B6%E7%A7%91%E7%AF%87/%E5%A4%A7%E5%AD%A6%E9%99%A2%E7%B4%80%E8%A6%81.%E6%96%87%E5%AD%A6%E7%A0%94%E7%A9%B6%E7%A7%91%E7%AF%87%2039%E5%8F%B7/%E4%BD%9B%E6%95%99%E5%A4%A7%E5%AD%A6%E5%A4%A7%E5%AD%A6%E9%99%A2%E7%B4%80%E8%A6%81.%20%E6%96%87%E5%AD%A6%E7%A0%94%E7%A9%B6%E7%A7%91%E7%AF%87%2039%E5%8F%B7%2820110301%29%20L001%E8%BF%91%E8%97%A4%E4%BC%B8%E4%BB%8B%E3%80%8C%E3%80%8E%E9%98%BF%E6%AF%98%E9%81%94%E7%A3%A8%E5%A4%A7%E6%AF%98%E5%A9%86%E6%B2%99%E8%AB%96%E3%80%8F%E3%81%AB%E3%81%8A%E3%81%91%E3%82%8B%E7%A8%AE%E5%AD%90%E3%81%AE%E8%80%83%E5%AF%9F%E3%80%8D.pdf
人間が見ている一瞬の世界は、視野の全てを100とした時、1%ほどしか、【高解像度】で見えておらず、他の99%はボケて見えているそうです、
その1%の高解像度の一瞬を、ジグソーパズルのように、組み合わせて、全体を把握認識していると言うのです、
もし、視野の全てを、完全な高解像度で観ようとした場合、脳の容量は、今の600倍必要とされるらしいです、
● つまり、
我々の観ている世界は、脳内で、小さなパズルピースを順次集めて組立ている、仮に構築された映像であると、分かってきたそうです。
戻らないな
😟
今回、サティーさんとお話したことで
良いことに気づいた。
これは世間一般的な凡夫(人)のモノの見方(有る無し)です。
と、いうのが良くある縁起の説明です。
「有る無し」の認識法=五蘊によるところ ---(第六意識)
「縁起」に依る認識法=末那識によるところ ---(第七意識)
(ここからが重要!)
末那識は常に阿頼耶識を見ている意識なので、(オレオレの自我意識ね)
俺色に染まった末那識になっている。(←ここ大事!)
例えばその「俺」が
我が強い俺(間違った教えを聞いた種)だったら
表層の六根にもその俺色がおのずと反映し、俺式の(俺=我)モノの見方となる(我見)。
前五識
第六意識
第七末那識
第八阿頼耶識
といなっていて、表層部分しか人は自覚出来ない(第六意識)。それは第六意識が前五識を対象として起こる意識だからである。
「なるほどー、これってこういう因果で今ここにこういう姿で存在しているんだー」
と、そのモノの見方が変わってきます。---(仮観から空観での認識の変化)
認識のあり方を説いた教え『般若経典』---(相依性縁起)
「モノのあり様」と「認識のあり方」のお話でした。
終わり。
このお話には物凄く大事なポイントがある。
馬ちゃんはおそらく気づかないと思う。
(これは私の勝手な思い込みです)
スローライフに嵌ってるみたいだから
気づかないでしょう。
(関係ないけどー)
問・題・外
「共依」と「不共依」
です。
法介占いです。
https://www.google.com/search?q=%E5%85%83%E6%B0%97%E3%81%A7%E3%81%99%E3%81%8B%E3%83%BC&sca_esv=570803870&rlz=1C1CHZN_jaJP979JP980&tbm=vid&sxsrf=AM9HkKm8MgZxzuP54tajKaQKXq4IXqlMoA:1696464869013&source=lnms&sa=X&ved=2ahUKEwjDwZCP0N2BAxVArVYBHdwnA3cQ_AUoAXoECAIQAw&biw=1366&bih=619&dpr=1#fpstate=ive&vld=cid:976ac976,vid:TvKVRAsWdsA,st:0
https://youtu.be/TvKVRAsWdsA
やっと戻られましたか〜
😄
目をとおしておいた。
とても
笑えた。
吉本新喜劇を見ているようだった。
鹿野園をツンツンしたばかりに
鹿野園を吉本の劇団員にさせてしまった。
スマン
悪かったな。
おまえは絶対
吉本でも通用するぞ。
あそこ以外は
容認しますので
ドシドシやっておくれ
😄
ここも、ガンガンレス入れても容認しまっせ〜
😄
ここもレスおーけー
😄
https://talk.jp/boards/psy/1694739296
戯論
けろん/戯論
正しくない、無益・無用の言論や分別。または、非論理的な話。?prapa?caの訳。
『仏遺教経』に「汝等比丘よ、若し種種戯論せば、その心則ち乱る。復た出家すと雖もなお未だ得脱せじ。是の故に比丘よ、常に急に乱心戯論を捨離すべし。若し汝、寂滅の楽を得んと欲せば、ただまさに速やかに戯論の患いを滅すべし。是れを不戯論と名づく」(正蔵一二・一一一二上)とある。
また『中論』一には、「不生亦不滅、不常亦不断、不一亦不異、不来亦不出なり、能く是の因縁を説き、善く諸の戯論を滅す」(正蔵三〇・一中)とあり、ここでは因縁、つまり縁起についての内容と、戯論の否定が説かれている。
また『中論』では、戯論には事物に対して愛著する迷いの心から起こる言論としての愛論と、道理に暗い諸種の偏見から行う見論との二種類があるとし、『仏性論』(正蔵三一・八〇三中)には三種および九種の戯論が説かれている。
さらに吉蔵『中観論疏』(正蔵四二・一二下)には別に五種の戯論があるとしている。
もともとのサンスクリットの原語には、広がり、拡大、分化や多様性などという意味があるが、我々の日常世界は、能知(知るもの)・所知(知られるもの)、能言(語るもの)・所言(語られるもの)によって成立する。
ここから人間の日常世界の言葉における無益な言論が起こり、その言論を戯論という。さらには対象を分化し虚妄に分別する精神作用に至るまでを戯論に含むこともある。
愛論は、自我によって起こります。
見論は、我見(道理に暗い諸種の偏見)から起こります。
表層では「主観」、深層では「自我」が関わってきます。
顕在意識=「好き・嫌い」「綺麗・汚い」「良い・悪い」等の相依性
潜在意識=末那識の自我意識が常に第六意識に影響を与えている。
ただ、生理的に受け付けられないような問題、例えばニンジンやピーマンを「美味しい!」とはどうしても思えないといった潜在的無意識から起こる縁起です。
(1) 第六意識は、第七識である意を所依として起こる識である。
https://blog.goo.ne.jp/seikannamo/e/1fd13b5056fb746eaa9a600de45141ac
第六意識は、第七識を所依として起こるが、その逆はありえません。(不共依)
https://tais.repo.nii.ac.jp/?action=repository_uri&item_id=277&file_id=22&file_no=1
プリント下部 No.217(右段)
だってそうでしょう。潜在意識で無意識で動いている心臓をあなたは自分の意志で一時的に止めれますか?
ある事に気づきませんか?
と言うお話です。
その意識で無意識をコントロールすることは出来ません。
では、どうしたら良いか。
では五蘊を空じたとしましょう。
五蘊を空じると第六意識は止滅します。
この時点では「意識」はあります。
何故なら自我意識はこの第七末那識にあるからです。
しかし、過去に仏の説法を一度も聞いた事がない本未有善(本有の無漏種子が無い)の凡夫は、五蘊を空じて阿頼耶識にアクセスしても意味が無いんです。
と言って、自我意識を空じれば自他の分別が無くなるから自分の阿頼耶識の記憶は無くても、無漏種子が有る人の阿頼耶識の記憶を共有すれば、
「可能じゃん!」
って言う方も居られるかと思います。
残念でしたー
自我意識を空じていますので、その時点にあっては「意識」は止滅しております!
それを感じ取る意識が存在していないんです。
九次第定は無の境地にひたすら進んで行く瞑想ですので。(ここ大事!)
順観で九次第定を行って次に逆観で戻って来て
そこから最後に三昧を行ったんです。(三昧と禅定は内容が異なります)
仮一切仮、空一切空、中一切中の
三種三観の円融です。
意識(第六意識)で阿頼耶識の記憶を拾い上げるといった必殺技をお釈迦さまはあみ出した訳です。
それが円融三諦、一念三千の法門である『妙法蓮華経』、即ち法華経です。
その阿頼耶識の蔵に眠っている仏と仏弟子達の仏道の因縁を
表層の意識が認識出来る状態にしたのが曼荼羅を対境として行う勤行・唱題行になります。
曼荼羅=縁因仏性
法華経=了因仏性
お題目=正因仏性
信じないかは
あなた次第です。
裏技感ある
● 彼(第八識)に依て転じて彼(第八識)を縁ず。思量するをもって、性とも相とも為す。
● 四の煩悩と常に倶なり。
● 審 - 第八識・前五識は審らかではない。第八識は恒ではあるが審らか思量するという働きはない。前五識は縁に依って生起するので、恒でもなく、審らかでもない。
● 恒 ー 第六識・前五識は恒ではない。不恒である。第六識は審らかではあるが、恒ではない。
● 恒に審らかに思量するのは第七識のみであるので、第七識の特性である思量をもって末那と称し、マナス=意、と名づけるという。
(3) 第七識は、第六識のために近所依となるということを顕さんとして、第七識を意と名づけるのである。
第七識を意識という場合は識と意は同じものを指すが、第六識を意識という場合は、識と意とは異なるものである、という。
(持業釈)
● 第六識 意根による識(意根を所依とする識)、即ち、意根(第七識)を所依とする識であるという意味で意識と名づけられる。
(依主釈)
恒・審するものに非ざるが故なり。
●(第六識依主の釈) 彼の依主釈というは、主というは謂く第七なり。
●・・・眼識等というが如し、というは眼は是れ所依なり。
而も体是れ識なり。
眼に依るの識なり。
故に眼識と名づく。
【第七識】の
【特性】である
【思量】をもって
【末那】と称し、
【マナス=意】、と名づけるという。
● 【出世の末那】といわれることもありますが、その場合は【自在位】によって【名づけられ】、
【出世の末那】
【自在位】によって、
【名づけられ】
● そこには
【未自在位】の
【末那】は
【転依】して
【平等性智】と名づけられ、
【末那】とは
【名づけない】のであって、
● 即ち
【有漏】にのみ
【名づけ(末那と)られ】、
【無漏】には
【存在しない】のである、
といわれます。
●『第七末那識は、阿羅漢と出世道と滅尽にはあること無し、』
禅定で阿頼耶識に入って行ってもそこは無為の世界なので意識も働きません。
その阿頼耶識の蔵に眠っている仏と仏弟子達の仏道の因縁を
表層の意識が認識出来る状態にしたのが曼荼羅を対境として行う勤行・唱題行になります。
曼荼羅=縁因仏性
法華経=了因仏性
お題目=正因仏性
ーーーーーーーーー
第八阿頼耶識で、このように、お題目を行じている時の、第七末那識は、どのようになっていますか?
このお題目行法は、前五~六、七、八識の全てが関わっていますね、
それで、この因縁で、どの様に転識されるのでしょうか?
【未自在位】の
【末那】は
【転依】して
は、どの様なプロセスによって生起するのか?
また、八識の清浄化は、どのようなプロセスを経て、清浄種子とされて収蔵されるのか?
この2つが問題なのです。
https://blog.goo.ne.jp/seikannamo/e/1fd13b5056fb746eaa9a600de45141ac
出世の末那といわれることもありますが、その場合は自在位によって名づけられ、そこには未自在位の末那は転依して平等性智と名づけられ、末那とは名づけないのであって、即ち有漏にのみ名づけられ、無漏には存在しないのである、といわれます。
法華経の方便品の読誦の時、十如是を三編くり返して読みます。その意味を日蓮聖人が『一念三千法門』の中で次のように説明されておられます。
されば当宗には天台の所釈の如く三遍読に功徳まさる、第一に是相如と相性体力以下の十を如と云ふ如と云うは空の義なるが故に十法界・皆空諦なり是を読み観ずる時は我が身即・報身如来なり八万四千又は般若とも申す、第二に如是相・是れ我が身の色形顕れたる相なり是れ皆仮なり相性体力以下の十なれば十法界・皆仮諦と申して仮の義なり是を読み観ずる時は我が身即・応身如来なり又は解脱とも申す、第三に相如是と云うは中道と申して仏の法身の形なり是を読み観ずる時は我が身即法身如来なり又は中道とも法性とも涅槃とも寂滅とも申す、此の三を法報応の三身とも空仮中の三諦とも法身・般若・解脱の三徳とも申す此の三身如来全く外になし我が身即三徳究竟の体にて三身即一身の本覚の仏なり、是をしるを如来とも聖人とも悟とも云う知らざるを凡夫とも衆生とも迷とも申す。
その時代においては、【聞・思・修】のように、口伝経文を【聞く】ことの縁をもって、八識の種子因となったのでしょうが、
現代では、それは、【経文】を【読む】ことでも代用とされるはずです。
なお、お題目を【聞く】ことと、【唱える】ことの違い、つまり、
七識の【意識】を使うことで、【私の行為】【私が唱題目する】という【私】の染汚が、八識に印象されて、種子へ薫習されてしまうことの害を考える必要があると謂うこと。
妙=仏眼:第九識は法界体性智
法=法眼:第八識は大円鏡智
蓮=慧眼:第七識は平等性智
華=天眼:第六識は妙観察智 (←ここ)
経=肉眼:前の五識は成所作智
妙=仏眼:第九識は法界体性智
法=法眼:第八識は大円鏡智
蓮=慧眼:第七識は平等性智
華=天眼:第六識は妙観察智
経=肉眼:前の五識は成所作智(←ここ)
妙=仏眼:第九識は法界体性智
法=法眼:第八識は大円鏡智
蓮=慧眼:第七識は平等性智(←ここ)
華=天眼:第六識は妙観察智
経=肉眼:前の五識は成所作智
どーも、日蓮さんは、六識以下による悟りを説いているのでないでしょうか?
七、八識の解脱は読み取れないです。
どうしてそう思われるのでしょうか?
仏意の五重玄とは諸仏の内証に五眼の体を具する即ち妙法蓮華経の五字なり、仏眼は妙・法眼は法・慧眼は蓮・天眼は華・肉眼は経なり、妙は不思議に名く故に真空冥寂は仏眼なり、法は分別に名く法眼は仮なり分別の形なり、慧眼は空なり果の体は蓮なり、華は用なる故に天眼と名く神通化用なり、経は破迷の義に在り迷を以て所対と為す故に肉眼と名く、仏智の内証に五眼を具する即ち五字なり五字又五重玄なり故に仏意の五重玄と名く、亦五眼即五智なり、法界体性智は仏眼・大円鏡智は法眼・平等性智は慧眼・妙観察智は天眼・成所作智は肉眼なり、問う一家には五智を立つるや、答う既に九識を立つ故に五智を立つべし、前の五識は成所作智・第六識は妙観察智・第七識は平等性智・第八識は大円鏡智・第九識は法界体性智なり。
妙 不思議の一心三観 天真独朗の故に不思議なり。
法 円融の一心三観 理性円融なり総じて九箇を成す。
蓮 得意の一心三観 果位なり。
華 複疎の一心三観 本覚の修行なり。
経 易解の一心三観 教談なり。
玄文の第二に此の五重を挙ぐ文に随つて解すべし、不思議の一心三観とは智者己証の法体・理非造作の本有の分なり三諦の名相無き中に於て強いて名相を以つて説くを不思議と名く、円融とは理性法界の処に本より已来三諦の理有り互に円融して九箇と成る、得意とは不思議と円融との三観は凡心の及ぶ所に非ず但だ聖智の自受用の徳を以て量知すべき故に得意と名く、複疎とは無作の三諦は一切法に遍して本性常住なり理性の円融に同じからず故に複疎と名く、易解とは三諦円融等の義知り難き故に且らく次第に附して其の義を分別す故に易解と名く、此れを附文の五重と名く、次に本意に依て亦五重の三観有り、一に三観一心入寂門の機、二に一心三観入照門の機、三に住果還の一心三観・上の機有りて知識の一切の法は皆是れ仏法なりと説くを聞いて真理を開す入真已後観を極めんが為に一心三観を修す、四に為果行因の一心三観謂く果位究竟の妙果を聞いて此の果を得んが為に種種の三観を修す、五に付法の一心三観・五時八教等の種種の教門を聞いて此の教義を以て心に入れて観を修す故に付法と名く、山家の云く塔中の言なり亦立行相を授く三千三観の妙行を修し解行の精微に由つて深く自証門に入る我汝が証相を領するに法性寂然なるを止と名け寂にして常に照すを観と名くと。
https://cdn.wikiwiki.jp/proxy-image?url=https%3A%2F%2Fhokekyou.up-jp.com%2Fwp-content%2Fuploads%2F2019%2F11%2Fennyuusanntai.jpg
上記をやって、七識の平等性に転智した人はいますかねー?
ここにおります。
わたし以外にもお題目を唱えている人は大体経験されてると思いますよ。
天上界の仏菩薩達が神通力を使って、色んな形で覚りに導いてくれます。
この辺で止めときます。
あと、自分の過去世も自覚出来ます。
私は前世と前々世まではわかってます。
あのね、
そういう事は誰にでも起きることですよ、
これも、
ふつーの人でも、こういうことはありますけどね、
家族にやさしく仏のようで、他人に厳しく鬼のよう!
それが、百歩譲って一時的悟りとしても、恒としての解脱ではないですね、
それはそれで宜しいのではないでしょうか?
わたしには関係のないお話です。
どうぞ
ご自由に。
今後馬ちゃんの質問には
答えないかもです。
ご了承ください。
でおー
>>114 ←これをどう解釈してるんですか?
これは、寝ても覚めても妄想している、妄想分別のことです、
普通の人は、これも【私が】【思って】いる、と、なっているでしょう、
しかしこれは、循環の中で仮構されてできあがった【心システム】なのであって、
オートマチックに起こっているものと考えています。
>>114 この文章の解釈です。
● 四の煩悩と常に倶なり。
● 審 - 第八識・前五識は審らかではない。第八識は恒ではあるが審らか思量するという働きはない。前五識は縁に依って生起するので、恒でもなく、審らかでもない。
● 恒 ー 第六識・前五識は恒ではない。不恒である。第六識は審らかではあるが、恒ではない。
● 恒に審らかに思量するのは第七識のみであるので、第七識の特性である思量をもって末那と称し、マナス=意、と名づけるという。
まず、この文章を馬ちゃんは、どう読み取られておりますか?
ポイントは、「恒」と「審らか」と「思量」をどう解釈するか。
(2)「又、諸識をば皆、意となすと雖も、これが為に意を標して余識は然んばあらずといはぬとぞ。総称を標すと雖も即ち別名なり」と、諸識は皆「意」と名づけられるが、その働きから、第七識が意というにふさわしく、諸識に別して特に意と名づけるのである。何故ならば、「恒に審らかに思量すること」が他の識より勝れているからである。「何が故に諸識を別に意と名づけずとならば、恒・審に思量すること余識に勝れたるが故なり」(『述記』)どのように勝れているのかは、次のようである。
恒 ー 第六識・前五識は恒ではない。不恒である。第六識は審らかではあるが、恒ではない。
審 - 第八識・前五識は審らかではない。第八識は恒ではあるが審らか思量するという働きはない。前五識は縁に依って生起するので、恒でもなく、審らかでもない。
恒に審らかに思量するのは第七識のみであるので、第七識の特性である思量をもって末那と称し、マナス=意、と名づけるという。
↑の中のこの↓文章が解りやすいでしょう。
「恒に審らかに思量すること」が他の識より勝れている
思量の意味は「考える」
審らかの意味は、
物事の有様などを細部にわたって認め得るさま。 ことこまかなさま。 くわしいさま。
とあります。
恒 ー 第六識・前五識は恒ではない。不恒である。第六識は審らかではあるが、恒ではない。
審 - 第八識・前五識は審らかではない。第八識は恒ではあるが審らか思量するという働きはない。前五識は縁に依って生起するので、恒でもなく、審らかでもない。
この上の段の「恒」の項においては、「第六識・前五識は恒ではない」ですから、「恒ではない=変化するもの」になりますよね。
第六識にあっては、物事の有様などを細部にわたって認め得る。そしてそれは常ではなく変化する。
「第八識は恒ではあるが審らか思量するという働きはない」
まず、この文章を馬ちゃんは、どう読み取られておりますか?
ポイントは、「恒」と「審らか」と「思量」をどう解釈するか。
ーーーーー
どうってそのままで、
「恒」は七識でも謂われていますが、継続的、永続的な意味で、間断されないって意味で、
「審らかに」は細部にわたって、ですよ、分析的に、でいいでしょ、しないです、
さながらに思量せず、なんか六、七、八、ってすると、システムのボックスが別々に別れている様を思ってしまいますが、自己に実際は一塊だと思われます、
ちなみにヨガでは複数相の殻が同心円のように、黄身を覆っている、たまごのような姿で描かれていますけど、
でも、脳の大脳皮質と大脳辺縁系のような物理的脳もその機能が八つの識と被っているわけです、
「変わることが無く、考える働きも無い」となるかと。
>>166 第六識・前五識は継続的、永続的ではなく常に変化するもの。
>>167 第六識にあっては、物事の有様などを細部にわたって認め得る。そしてそれは常ではなく変化する。
>>168 第八識・前五識は物事の有様などを細部にわたって認め得る事は無い(考える働きはない)。
>>170 第八識は変わることが無く、考える働きも無い。
といった感じになりますよね。
シカーチンスレが
立ちましたぞ〜〜
逆襲を〜
https://talk.jp/boards/psy/1696503547
そのまま、ですから禅定で尋ね伺う働きが、一時的に停止できる訳です、
車の運転や、テレビを観ていて、六識は容易に停止されます、
そんな時、特に普通人は、車を運転すると人格変わる!とか謂う人がたまにいます、
煽り運転とか、
そして、六識があるときは、七識八識も同時にある、共依である、しかし七識は八識とは不共依である、
ですから、普通は5678と同時に一気通関されている、ただ顕在の6からは潜在意識7と深層意識8が見えていない、
見えてはいないが、顕在意識6に影響を与えている、しかも常時稼働している、寝ても覚めても、
ああ、寝たら六識は間断されますね、
どこに書かれてありますか?
思い出したら書いておきます、
>>860
>八識はみな思量の作用があるが
の件ですにつきましては
一つには下記のブログの件
https://blog.goo.ne.jp/seikannamo/e/2b7ff65b859e9dd63cbf4f7a6599501a
もう一つはwikiの「末那識」の項です。
私はそれは誤謬だと考えています。
また、阿頼耶識は現量でその種子が非言語的言語種子云々と話た記憶はありますけど、思量云々の件は……
うーん?
多分話してないと思います。
まなしき
出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』
http://www.wikidharma.org/index.php/%E3%81%BE%E3%81%AA%E3%81%97%E3%81%8D
阿陀那識
このような【第七番目の識】として、仏教内にはこれを【阿陀那識】と名づけるか地論宗】がある。
そこでは【第八識】を【真識】として【真如と同一】であるといい、
この【真識】が【動じ変化して分別的】に働くために働く力が【第七の阿陀那識】であるという。
● たとえば【起信論】にいわゆる【根本無明】が、これであるという。
それは【分別】の【根本】として【妄染】の識であるという。
● しかし、【法相宗】では【末那識】を【我執】の意識、【第八阿頼那識】は【妄識】とする。
以上のように、この末那識を立てるところに仏教の心識論が成道という立場をふまえていることをしると共に、
このような末那識に対しての人間の内省が、今日の人間性の考察についても大きな意味をもつと思われるのである。
馬ちゃんは、思考的には鹿野園と破調があうんだろ。
鹿野園がまた新しいスレを立てて考察やってるから、そっちで鹿野園と考察を楽しんできたら?
突っ込みたいところがあったら、突っ込んで来てくれたらいい。
ただ概ね、
「それは馬ちゃんの考えであってそれはそれで宜しいんじゃないでしょうか」
「わたしはわたしが納得のいく答えを導き出しているだけです」
となると思うよ。
自分が納得出来るか否かだからね。
放置してたから、使ってたけど、それなら良いよ、どうぞ。
気が変わってるかも。
> 八識は記憶(業)が蓄えられる倉庫(蔵)なので思量はないかと。
阿頼耶識は「審らかに」思量しないだけで、
一応、「データを蓄える」以外の機能も
一通りそろっているとされる
もっとも、なんといっても「データを蓄える」
というのが阿頼耶識の主な機能なので
思量する機能については
とりあえず考えなくてよい
不可知執受 處了常與觸
作意受想思 相應唯捨受
(現代語訳)
深層にある阿頼耶識の働きを知ることはできない。
阿頼耶識では常に,触(物理的、精神的接触)・作意(対象に向かって心が働く作用),
受(作意を受けての苦、楽等、様々な感情の働き)・想(触・作意・受を受けた時に浮かぶ印象)・思(意志)が働いている。
阿頼耶識に相応するのは捨受(苦でも楽でもない非苦非楽の感情)のみである。
JBLは優しいな。
で検索したらこんなサイトがあった。
https://doyoubi.hateblo.jp/entry/2015/03/02/080536
JBLは、唯識派みたいだね。
zawazawaブログに『唯識』をJBLなりにまとめていったらどう。
料理人は味覚のセンス。
音楽家は音に対するセンス。
彫刻家は造形に対するセンス。
仏教の場合は法理・法門に対するセンスかな。
覚るべき法理・法門が52ある訳で
それをどの階位まで覚ったかで
菩薩の中での声聞・縁覚・菩薩・仏へと境涯が昇格していくらしい。
言葉から離れたところに真理はあると。
言葉の奥に秘められた法理・法門を覚っていくことが大事。
法理・法門が解かってくると
覚りの世界が開けてくる。
そんなところじゃないかな
仏教って。
奥が深い。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/23/2/23_2_1001/_pdf/-char/ja
さっきのサイトの文献よりも更に掘り下げて研究されている。
種子とは一切の存在を生ぜしめる種子であり, 有根身とは肉体であつて, 五根とそれ らを助ける根依処とより構成される。器世問とは五境より成り立つた外界を意味して いる。しかしこの阿頼耶識の所縁は極めて微細(atisukmatva)であるからその所縁も行相も知覚されない(asavidita)という。
https://doyoubi.hateblo.jp/entry/2015/03/02/080536
「執受」とは、認識作用に関する自分の内的なこと。即ち、種子及び感覚器官を持っている肉体(有根身)のことであり、また「処」とは、自分の外部の認識対象、即ち、自然界のことである。そして「了」とは、認識作用のことである。
とあります。しかしこの文章、よーく考えて読むとおかいい。
「執受」とは、認識作用に関する自分の内的なこと、と言っておいて
即ち、------肉体(有根身)のことであり
って、肉体は内的じゃないでしょ。外的な要素じゃん。
だから更に調べてみると、次に紹介したこの↓論文ね。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/23/2/23_2_1001/_pdf/-char/ja
>>198
阿頼耶識とは、
〝内的〟には執受(upadana)の了別。
〝外的〟には住処(sthana), すな わち器世間(bhajanaloka)の了別。
の二つに分けられる。
※ 執受とは種子と有根身のことである。
器世問とは五境で成り立つ外界。
すると阿頼耶識は、
種子と肉体と器世間(五陰世間)の三つの要素からなる。
この識にもさまざまな心所が伴うが(触・作意・受・想・思), 煩悩の心所は伴わな
いので「無覆無記」であるとせられる。
「阿頼耶識が滅する」←大変興味をそそられる言葉ですね。
転識するのではなく「転捨」するんですね。
「煩悩障の種子と、所知障の種子とを残りなく断ずる」
【唯識論】阿頼耶識と末那識の基本的考察【法相宗】
https://talk.jp/boards/psy/1694758403
ユーザー
神も仏も名無しさん
『成唯識論の末那識』
八識の倶有依構造
https://core.ac.uk/download/pdf/231049003.pdf
https://i.imgur.com/Lr616mq.jpg
『阿頼耶識と依他性との関係について』
https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/23/2/23_2_1001/_pdf/-char/ja
● 【阿頼耶識】が【滅する】場合について, 第5頌に次のようにとかれている。
『この【阿頼耶識】の【転捨】は
≪阿羅漢の位≫においてである。』
と、説かれている。
● 具体的には
①【煩悩障の種子】と、
②【所知障の種子】とを
≪残り無く≫≪断ずる≫ことである。
● そのためには
①【喩伽行】を修め、
②【出世間智】を得たのちにも
③【不断に修行】をすることによつて、
④【煩悩の種子】を【残らず断ち切つた】ときには、
【種子の拠り処】である、
⑤【阿頼耶識】は消滅する。
● それは
≪輪廻的生存の根拠≫ を ≪転換≫ することである。
それ故誰れでも【阿羅漢】となつて【尽智】と【無生智】を得たものは、
【阿頼耶識】に依止する【塵重】を残りなく【断ずる】から、
【阿頼耶識】が≪ 転 捨 ≫されると説かれたのである。
2023/09/26 19:19:33
711Fq
ユーザー
神も仏も名無しさん
ラトナーカラシャーンティの
『般若波羅蜜修習次第』梵文和訳PDF
https://researchmap.jp/kanokazuo/published_papers/31786229/attachment_file.pdf
● ≪5≫『 出 世 間 智 の 獲 得 』
そのあとに、彼(菩薩)は、このように観察した後で、
すべての【名称】とすべての【相】を≪捨て去る≫
それから、【一切諸法】を【所縁】とし【意言】なく【顕現】無き【三昧】において留まる彼には、
【過去世】の【前行】の【潜在印象】の力にもとづいて、無功用かつ造作なく、
一切【戯論の相】が無くなって、
【分別】無く、【顕現】無き、
≪ 一 切 諸 法 空 性 ≫を見る、
【純粋】かつ【垢】を【離れた】
≪【無限】の【虚空】≫に似た、
【 出 世 間 智 】が【生じる】。
● ≪6≫『 阿 頼 耶 識 の 転 依 』
まさに、それこそが、【 勝 義 菩 提 心 】であり、
それこそが実義の【 般 若 波 羅 蜜 】であり、
そして、それこそが【 一 切 障 礙 】の【対治】たる道である。
そして、その【対治】を通じて、【阿頼耶識】に集まった、
あらゆる【雑染法】の【諸種子】およびそれの【諸潜在印象】が≪尽きた≫後に、
[そして]
①【拠り所】と
②【身体】と、
享受として顕現する
③【諸々の識】が【停止】した後に、
その【阿頼耶識】は【阿頼耶識の特質】を【捨て去って】↓
↓
【無漏界の特質をつかみとる】のである。
2023/09/26 19:41:58
BLajK
いい感じで考察されてますね。
で、
ユーザー
神も仏も名無しさん
● ≪7≫『 出 世 間 智 の 同 義 語 』
それこそが、
【無漏なる界】
【諸仏の法身】
【実際】【真如】【勝義】【法界】である。
【実】とは【真実】のことであり、
それらの【際】(きわ)つまり極限なので、【実際】[という]。
常にまさに、その【如く】に【存在する】から、【真如】[という]
勝れたものの、つまり【出世間智】の、対象(義)であるから、あるいは、勝れたものにしてかつ対象(義)であるから、勝義[という]。
諸法つまり聖者たちの諸法、それらの界つまり依止だから【法界】[という]。
それ【法界】に到達するときに、
それ【法界/法身】に依拠した【受用身】と【変化身】に到達するのであり、
≪【それは】≫【一切相】なる
【あらゆる世界】への【利益行為】を、
特徴として持つ、という。
2023/09/26 19:42:11
BLajK
ユーザー
神も仏も名無しさん
● ≪三種の転変≫が、心のダイナミズムを生み出す、
【五位百法】における【縁起】とは
【転変】であり、それは、
【種子】の地平≪【因転変】という≫と、【 識 】の地平≪【果転変】という≫との
両方において生じる。
≪因転変には次の三種がある≫
● 1. 異熟転変
業(カルマ)の果である【種子】が【貯え】られた結果、
形成され、存続するものが、輪廻の究極的な主体である【アーラヤ識】となる
● 2. 思量転変
【アーラヤ識】を【拠り所】とし、
そこに【貯えられた種子】が【転変】したものが、
【自我意識】としての【マナ識】となる
● 3. 了別境転変
【アーラヤ識】と【マナ識】を背後にもちつつ、
【対象を認識】し、【認識作用】がもたらす【種子】を、
【アーラヤ識】に薫重(植付ける)するものが、
【表層意識】としての【六識】となる。
2023/09/26 19:54:32
BLajK
ユーザー
神も仏も名無しさん
https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/43/2/43_2_746/_pdf/-char/ja
『転識得智に関する異説』長谷川岳史一、
はじめに有漏の八識を転じて無漏の四智を得るという転識得智説は、『摂大乗論』「彼果智分」において、無著三九五~四七〇頃)が創唱した説である。
唯識学派では、無著以降、『摂大乗論』の説をさらに具体化・体系化し、安慧五一〇~五七〇頃)・護法五三〇~五六三)の時代には、
⑧第八阿頼耶識 →転依→大円鏡智
⑦第七末那識(染汚意) →転依→平等性智
⑥第六意識 →転依→妙観察智
⑤前五識 →転依→成所作智
という転識得智説(便宜上「正説」と呼ぶ)が、唯識学派内で確立していたと考えられる。
しかし、漢訳の唯識関係の論書にはこの正説とは異なった
⑥第六意識→転依→ 成所作智
⑤前五識 →転依→ 妙観察智
という説(便宜上「異説」と呼ぶ)を説いているものがある
1
2023/09/26 20:17:22
BLajK
ユーザー
神も仏も名無しさん
>>177
しかし、漢訳の唯識関係の論書にはこの正説とは異なった
⑥第六意識→転依→ 成所作智
⑤前五識 →転依→ 妙観察智
という説(便宜上「異説」と呼ぶ)を説いているものがある
1
2023/09/26 23:09:59
Fnx1T
423.
ユーザー
認識ってなーに?
まあねー
大円鏡智の鏡の性って何だって?説明できる人~‼️
✋ーあげて
1
2023/09/28 22:47:17
V1ZN3
509.
ユーザー
◆JBLfMwCXhY
>>491
>
> 井上善右衛門
> >第六識に無漏智への道が修習されると、その力に影響さ
> れて根たる第七識の有漏が破られるというのである。それは
> 先の「護」における第六第七の關係とまさに反封の關係であ
> る。それは畢寛六・七の二識が前後的一方的關係の二者では
> なく、同時の相依であるが故に、相互の影響が成り立つので
> ある。これによつてこそ修道が可能となる。
↑
この意味が、鹿野園たちに分かるかな?
第六識は、第七識の影響下で作用している
ずっと、第七識にコントロールされてきたのだ
その流れが逆転するのは、第六識が妙観察智に
転識得智し、その影響で第七識が平等性智に
転じるとき
つまり、最後の最後、解脱して仏になるときだ
「第六識は、第七識から影響を受けるだけの
一方的な関係ではないということだ」
と、井上善右衛門師は説明している
2023/09/29 06:08:19
ILUf3
542.
ユーザー
鹿野園◆00MWura8lSZF
>>529
先ず法相宗(唯識)の基本的な考え方から説させて頂きます。
転識得智は、有漏の識(※1)が無漏の識(※2)へと質的な転換をする事とされます。
そしてその転識得智は、阿頼耶識に蔵されている無漏の種子が因となり、その種子が煩悩を対治する事によって遂げる訳です。
しかし、残念ながら凡夫にはその無漏の種子が無いのです(諸説あり)。
そこで「最も清浄な法界の等流なる正聞薫習の種子より生ずる(摂大乗論)」と云うのですが、その「正聞薫習」という修習が説かれるんです。
つまり、正法を聴くって事です。聞法ですね、聞思修と戒定慧の「聞」です。
それによって凡夫の阿頼耶識に無漏の種子が生じるとされます。
最もそれは生じただけで現行してませんから、芽生え(「慧」)させるための「思」と「修」(戒と定)が必要となるのです。
ざっくり説明するとこういう事なのです。
※1 阿頼耶識、末那識、眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識
※2 大円鏡智、平等証智、妙観察智、成所作智
1
2023/09/29 10:49:01
MFFt1
※1 阿頼耶識、末那識、眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識
※2 大円鏡智、平等証智、妙観察智、成所作智
↑ざっくり過ぎるだろ、、、、、。
544.
ユーザー
リダン◆iKlPp4IWRY
>>542
なるほどです
2023/09/29 11:05:09
NnM9c
と、深く納得している、、、、、。
是非リダン本人に聞いてみたいところだ。
あのスレでがらみでは
オーダー66
は発動させよー
😒
今のこところ
シカーチンにはほーかいくんお館様遊星爆弾を投下しない
😄
法介さんおはようございます
六根、六識を利用して
末那識、阿頼耶識にこちらから働きかけるって言う俺の自説がやっぱりなって
身口意ですな
方針である、
あそこで連投したら、
シカーチン遠征施策を取る
😄
いまんところ
怪しげ〜
😄
乗らんよーにしとこ〜
😄
鹿野園は、そっとしておこう。
ツンツンしたら直ぐ顔を真っ赤にして
突撃してくるから。
なるほど、なかなか的を得てると思います。
さすがやね。
なかなか良いセンスしてるね。
どういう結論が導き出されたのか
楽しみです。
これ↓の元レスってどこのスレ?
233.
ユーザー
神も仏も名無しさん
第八阿頼耶識の対象は、処と執受であることですが、深いですね。処は器世間、執受は種子と有根身です。心の深層では、識所変の世界は仏界を認識しているということなのでしょうか。
第八識・第七識を深層識といっていますが、深層とはどのようなことを指していっているのでしょうか。
表層の識の底に深層の識が働いているということですが、第八識は、「此の識は身に於て、摂受し、蔵隠して、安危の義を同うするが故なり」と。
識体は、身と心は相応していることを表しているのでしょうね。
第八阿頼耶識の対象は、処と執受であることですが、深いですね。処は器世間、執受は種子と有根身です。心の深層では、識所変の世界は仏界を認識しているということなのでしょうか。
要するに、執着を超えて、本質を認識している、疎所縁を自らの心の中に種子として宿しているということになるのでしょうか。それが識体、
識体は共同安危であるということ、この共同安危が身と倶にある。大事な視点だと思います。
第八阿頼耶識には、能蔵・所蔵・執蔵という三義があるということですが、
三義を以て阿頼耶識を蔵識といわれているわけです。
能蔵は持種、種子を保持しているということ。寝ても覚めても隔てなく、捨てることなく、すべて種子として保持し続けているのが能蔵の意義です。
「さるべき業縁のもよおし」があればですね、千人殺すこともあるわけです。
大切なことは、如何に善の種子を宿すかですね、聞熏習が大切な要素になると思います。
所蔵は、受熏、種子を溜め込んでいくという働きです。過去から現在までの経験のすべてを種子として溜め込んでいるという働きを所蔵と表されています。
そして、執蔵です。この執蔵が問題なのです。執するではなく、執されるものという意味です。
これは、第七識は第八阿頼耶識の見分を所縁として、自の内我とする、ということですが、
第七末那識によって執される識である、能蔵・所蔵も一切が第七末那識に執され現行するという意味を持っているということになりますね。
第七末那識に執着される性質をもっているということなのです。
この第七識と第八識との相応関係の上に、表層の六識が働いている、と教えられています。
「雑染の與に互に縁と為るが故に」
能蔵と所蔵が因と為り果と為り、互いに縁と為って
「有情に執せられて自の内我と為るるが故に」
2023/10/06 08:50:30
ORcV2
ここのスレでのレスが
止まるのは
やはり、
寂しいからな〜
😄
https://ameblo.jp/yk19610402/entry-12810047315.html
>第八阿頼耶識には、能蔵・所蔵・執蔵という三義があるということですが、
能 → 阿頼耶識
所 → 種子 ➡️ 持種の義
🟨所蔵(しょぞう)➡️
能 → 七転職
所 → 阿頼耶識 ➡️ 受薫の義
🟨執蔵(しゅうぞう)➡️
能 → 末那識
所 → 阿頼耶識 ➡️ 執我の義
「阿頼耶識と末那識の関係」において「能蔵・所蔵・執蔵の三議」の関係がある。
が正しい文章になるかと。
〈所蔵〉は阿頼耶識が、今度は受け身に転じた一面です。
〈執蔵〉は、執着される側面です。
所蔵は、その教えが「眼・耳・鼻・舌・身」の前五識と第六意識・第七末那識とに染み込んでいくということ。
執蔵は、それがその人の自我(自我意識)となってその自我に人は執着して煩悩が生じる訳だが、仏の教えを薫習していけば、煩悩は消滅していきます。
縁覚の智慧
菩薩の智慧
の三智です。この三つの智慧を一つに集約したのが法華経の智慧(仏の一切智)です。
リダンも
こないな?
🫤
ほーかいくんお館様に
ネタあげなさ過ぎ〜
😞
あげないのか?
リダン
😞
大事なネタでも
あるのかな。
俺の反応が薄いってことでしょう
ちょっと出先なもんで
関心が薄いらしいから
ほーかいくんお館様へとの
まっとうな
付きあいは
ウマぱーりーと
リダン、
JBLだけになるな
😄
優しい人達だな。
馬さん流だと
自我を滅した、瓦解した、看破した
先での境地で自我≒無我≒仏性に再構築する
しかし因がない、阿頼耶識本体同一では検索出来ない?
法介さん的に言えば
末端、端末の六識、六根で勤行、お題目を
末那識、阿頼耶識にアップロードして阿頼耶識のお釈迦さまの因を起動し、
インストール、アップデート
唯識論的に言えば
六識、六根と六境の究極の同一
最終末端であり最終結果であり
全てに無駄がなく、全てを内包する六境
本質を除いたあるがまま
どちらかと言えば俺もそっちよりですね
後程それについて
わたしの意見を述べます。
【唯識論】阿頼耶識と末那識の基本的考察【法相宗】
https://talk.jp/boards/psy/1694758403
の続きを今、見ていますが
>大円鏡智の鏡の性って何だって?説明できる人~‼️
の質問に対しての鹿野園の答えが、
↓これかな。
434.
ユーザー
鹿野園◆00MWura8lSZF
>>423
『成唯識論』から考察してみますが、大円鏡智とは
>一には大円鏡智相応の心品。
>此の心品は諸の分別を離れたり。所縁も行相も微細にして知りがたし。
>一切の境相に忘ならず、愚ならず。性も相も清浄なり。
>諸の雑染を離れたり。純と浄と円との徳あり。
>現と種との依持たり。身と土と智との影を能く生ず。
>間無く断無くして未来際を窮む。大円鏡に衆色の像を現ずるが如し。
だそうです。
貴殿の問いかけは「大円鏡に衆色の像を現ずるが如し」に掛かると思いますが、普通に「大円」すなわち超巨大な「鏡に衆色の像」すなわち鏡に現象を「現ずる」で良いのではないのでしょうか?
ただし、この「現ずる」ですが、鏡による反射(映し)というよりも鏡からの照射というイメージが親しいと思います。
なぜなら、インド哲学ではモノが映るのは眼から光線が発せられるという考えがあるからです。
1
2023/09/29 04:31:31
MFFt1
「直接か関節かのどーでもいい論争」
が激化していってるなー。
第六識は、第七識の影響下で作用している
ずっと、第七識にコントロールされてきたのだ
その流れが逆転するのは、第六識が妙観察智に
転識得智し、その影響で第七識が平等性智に
転じるとき
つまり、最後の最後、解脱して仏になるときだ
これって
物凄く的を得ている内容だと私は思います。
良い行いは善業として、悪い行いは悪業として。
また、その人の思想や価値観の元となる人から習った教えや自身が学んで得た知識なども「種子」として阿頼耶識に貯蔵されていきます。
これが、先ほど出てきました三義の中の一つ、「能蔵」にあたります。
🟨〈所蔵〉は阿頼耶識が、今度は受け身に転じた一面です。
🔷働きかける「能」 の位置に立つのは、七転識(てんじき)【眼・耳・鼻・舌・身の前五識と意識・末那識】であり、 受け身の「所」の位置に立つのが、阿頼耶識となる。
🔶つまり、具体的に様々の動きとして活動するのは〈転識〉ですが、転識は、その動きをことごとく、人格の深層に投げ込んでいく。
因が縁に触れて果が生じるといった
順観型の縁起です。
具体的に経典で言えば『阿含経典』で
アビダスマ(阿毘達磨)で言えば『倶舎論』です。
そして前五識で成所作智として開花します。
この「成所作智」とは、作すべきことを成就する智慧のことで、そのモノがそのモノと成り得た因果を覚る智慧のことです。
その流れが逆転するのは、第六識が妙観察智に
転識得智し、その影響で第七識が平等性智に
転じるとき
つまり、最後の最後、解脱して仏になるときだ
滅尽定 → 非想非非想処 → 無所有処 → 識無辺処 → 空無辺処 → 第四禅 → 第三禅 → 第二禅 → 初禅
15.ニルヴァーナ(涅槃)
https://sinnyo.blog.jp/archives/19985084.html
『般若経典』で詳しく解き明かされております。
前五識で起こる成所作智は「肉眼」で
実体を空じて起こる縁覚の妙観察智は「天眼」と呼ばれます。
日蓮聖人の『十八円満抄』では次のように紹介されておられます。
妙=仏眼:第九識は法界体性智
法=法眼:第八識は大円鏡智
蓮=慧眼:第七識は平等性智
華=天眼:第六識は妙観察智
経=肉眼:前の五識は成所作智
その影響で第七識が平等性智に
転じるとき
つまり、最後の最後、解脱して仏になるときだ
と書いております通り、俺が俺がの自我意識で濁りきっていた第七末那識が、菩薩の智慧で綺麗に洗い流され、隅々まで磨きあげられ申し分のない「第七潜在意識」と成ります。
スレの考察はどういう結末になるのかな。
後で目を通しておきます。
実に
おもしろい。
野生に戻るのか。
ご一緒したら
いいのに。
スマホ置いていくんだろうか
幽体離脱してリダンも
付いていけ。
滝に打たれる姿を想像するだけで
楽しめる。
サティーがいう実体論ってどういう理論?
良かったら教えて頂けませんか。
仏教を科学で展開したお話?
まあ俺の体験にあて嵌めただけで
そうかどうかは分かりませんが
超現実を体感するというか
現世がそのまま真如という状態です
それはちょっとよく分かりませんが
似たようなフレーズの本があるんで
それからの引用じゃないですかね?
俺も読んで見ようかなって思ってました
https://youtu.be/Fo27tOkRC1M
『法華経』の教えと同じだけど。
苦しみの世界が
浄土の世界へと転識する。
そうですね
それを理解ではなく体現した状態ですかね
その動画はサティさん的には図が気に入っただけっぽいんで動画の内容はサティさんの主張とは若干違うかもです
それに執着してしまう、ようは円融されていない、もしくは円融されたゆえに
ああ言った言い回しになりがちですね
彼の場合は認識を究極にとっぱらう
感じでしょう
そこに居続けるからオナニーと同じと揶揄しましたね
もっと空思想を追究されてみては如何ですかと言いたくなる動画でした。
「見ている私と見られている私」って、主観と客観でしょ。
仏教と言うのなら、モノのあり様(倶舎論)と認識のあり方(中論)ぐらい語って欲しいものです。
縁起という言葉が一度も出てこなかった、、、、。
動画まだ見てないですけど
見なくても良さげですね
いい盛り上がりやんけ〜
😄😄😄😄😄😄😄😟
今のリダンなら見ても得るものは無いかと。
で、阿頼耶識スレの続きいきます。
597.
ユーザー
神も仏も名無しさん
【色心】が【断絶】
これは無色界定のことか?!
ーーーーーーーーーー
↑これ馬ちゃんね。
ユーザー
リダン◆iKlPp4IWRY
うーん真如と阿頼耶識の間の領域が
無色界なんかな
それとも阿頼耶識内で色心断絶で無色界なんだろうか
2023/09/30 10:53:40
Vkln0
私は「滅尽定」、即ち無為の境地に入った状態を言っているのではなかと思います。
詳しくその論文の内容に目を通してはおりませんが、投稿されている文章を読む限りでの考えです。
おもしろい。
ユーザー
麦◆MUGITANx95Dj
>>639
∞ノノハ∞
川^〇^ハレ説一切有部などでは心・意・識を同義異名と考えているそうです
意識(第六識)はこの末那識をよりどころ(意根)としているそうです
前五識が働くときは意識が同時に働いているので六識は煩悩に汚されてしまうことになるそうです
体用なので一如だと思います♪
1
2023/09/30 16:52:35
TdVWL
ユーザー
麦◆MUGITANx95Dj
>>651
∞ノノハ∞
川^〇^ハレ心・意・識は体用一如ですね♪
はい論破♪
2
2023/09/30 17:02:02
TdVWL
ここでは麦(およびJBL)の主張が正しいでしょう。
654.
ユーザー
神も仏も名無しさん
熏習
くんじゅう/熏習
行為の結果が心に影響を与えること。香りが他に移ることにたとえられる。
単に熏、また薫習ともいう。熏習により残された結果を習気じっけという。
『成唯識論』二(正蔵三一・九下)では熏習について、熏習する側の条件(能熏の四義)と熏習される側の条件(所熏の四義)を規定する。
熏習する側とは七転識、すなわち六つの識と末那識まなしきのこと。
熏習される側とは阿頼耶識あらやしきのことである。
これにより熏習を、七転識が阿頼耶識に種子を残すことと定義する。また正しい教えを聞くことで衆生に清らかな影響が残されることを聞もん熏習という
これを中国華厳宗の法蔵は、その注釈である『大乗起信論義記』で
「汚浄互熏」(正蔵四四・二七〇上)という。
また熏習を心の状態に影響するもの(習熏)と心の活動を助長するもの(資熏)に大別する。
『成唯識論』等の唯識論書では熏習は有為法の間だけで起こると考えるのに対し、
『起信論』等の如来蔵系論書では無為である真如にも熏習を認め、両者の見解に異なりがあることがうかがわれる。
2023/09/30 17:08:11
L7nBV
さすがリダン。
センスある書き込み。
663.
ユーザー
リダン◆iKlPp4IWRY
>>656
法華経の六根清浄は阿頼耶識、末那識(潜在意識)に働きかけるのに適しているな
五根清浄はそのまま、意根清浄は経典の書写し
まあ何の宗派でもそうだけど
2023/09/30 17:23:00
pLZlW
ユーザー
リダン◆iKlPp4IWRY
>>677
第ニ禅定の話はいいよ
それより経典のダウンロード、インストール(書き換え)の話だ
2023/09/30 17:51:28
pLZlW
679.
ユーザー
リダン◆iKlPp4IWRY
勤行はその機能かあるとみた
2023/09/30 17:52:00
pLZlW
684.
ユーザー
◆JBLfMwCXhY
つまり、意識は、単独では認識できない
常に末那識をよりどころとして認識している
意識が見ている世界は、末那識によって大きく歪められた世界
意識は、このような形で末那識の強い影響下にある
2023/09/30 18:01:01
lN1Ac
ユーザー
リダン◆iKlPp4IWRY
勤行の身口意
身
(手をあわせることの統一性)
口
(繰り返しが多いルーティン、また繰り返しによる空耳で言語の瓦解、ゲシュタルト崩壊、勤行のダウンロード)
意(上記による変性意識状態の維持、勤行インストール)
2023/09/30 18:23:24
pLZlW
694.
ユーザー
リダン◆iKlPp4IWRY
なんじゃねえか?
1
2023/09/30 18:24:03
pLZlW
やっぱり(´◡‿ゝ◡`)
ユーザー
リダン◆iKlPp4IWRY
>>696
俺の言う変性意識がどの定かが分からねえ
体外離脱するほどではないから
第四禅定でなくてもいいんじゃなかろうか
創価学会員のガチ勢がガチ勤行するくらいの境地か
むしろ六根、六識を利用して
潜在意識に働きかけるから
六根、六識が機能する定?
2023/09/30 18:41:01
pLZlW
潜在意識に働きかけるから
六根、六識が機能する定?
↑まさにその通り。
センスのかたまりやなリダンは。
六根が綺麗なんだろう。
超生意気なこと書き込んでます(汗)
ユーザー
神も仏も名無しさん
①≫法事でお経聞くと意識が飛びそうになって手をボールペンで刺したりして耐えてたが
②≫創価学会員のガチ勢がガチ勤行するくらいの境地か
むしろ六根、六識を利用して
潜在意識に働きかけるから
六根、六識が機能する定?
ーーーー
ーーーーーー
①と②は違うよね、
①はたぶん、六識の思量は停止しかけている、聞いているわけだから、意識は【受動的】な状態でいる、
②は、意識は、最初、身口意に【積極的】に関与する、
これが、車の運転のように、慣れて考えずとも自動的に勤行が運転されると、
六識は緩むことが可能になる、六識は停止して、身口意の【勤行自動運転】を観照する側にまわる、
ここでは、【身体】と覚醒している【観照する六識】に分かれる、
おれも3年ちょい勤行したことあるから、上記の状態(①も)は容易に想像できる、
2023/09/30 19:25:22
PTAxY
馬ちゃん、勤行したことあるんだ。
へー、へー、へー
それは意外だった。
ユーザー
リダン◆iKlPp4IWRY
ところで唯識論的には阿頼耶識の外に真如はあるの?それとも阿頼耶識の外はない?
麦さん鹿ちゃん論破論破言ってるから
何かいい感じの引用ない?
1
2023/09/30 21:46:23
pLZlW
動画を見たよ~😄
無色界禅定の空無辺処で仏の空観を空じる(非空)ことで、三界の世界の空間の区切りが無くなります。識無辺処で末那識と阿頼耶識の識層の区切りが無くなります、無所有処で生と死の境が無くなり生死が同時に顕れます。
そう考えましたら凡夫は三界の世界観ですが、覚りを得た真如の世界観は三界を仕切るモノが無くなっておりますので全てが一つに集約して顕れます。天台智顗が顕した「三身即一」とはそういうものではないかと私は思っております。
ラマナ・マハルシを詳しく知らないけど、そうなんだー。
三界が一つに集約した世界観ね。
阿頼耶識内の3界が一つに集約した
状態を九識心王真如と言うのかもしれませんね
う~ん、イマイチだったかな😂
仏教マニアが対象じゃないしね
欲界=前五識・第六意識
色界=第七末那識
無色界=第八阿頼耶識
と説かれます。大円鏡智は、円融三観の「仮一切仮」「空一切空」「中一切空」の三種・三観の再編成によって次のように三界の界の壁も八識の識層の隔たりも無くなり三界が一つに集約されます。
欲界の仮+色界の仮+無色界の仮(←三界の隔たりを超えた再編成)
欲界の空+色界の空+無色界の空(←三界の隔たりを超えた再編成)
欲界の中+色界の中+無色界の中(←三界の隔たりを超えた再編成)
「三界唯心」です。
なるほどです
ユーザー
神も仏も名無しさん
俺的には、真理(真如)は「空」であるってのが仏法だから
根本識、阿頼耶識がそのまま智慧つまり「空」として消滅するってのが良いように思うね
九識とか十識とかを立てちゃうと真理の実体視みたいになって、西洋の一神教やイデア論みたいになってしまうと感じる
1
2023/09/30 23:00:29
tK7ef
<私>ってどこにありますか?
どういう<私>ですか?
という無我の理解は、「私なんて本当は存在していないんです」といった無我を無と勘違いした無我の理解になります。
本当の自分ってあなたが思っている(自我)通りにある訳ではありませんよ。あなたは因果によってあなたとして今そこに存在しているんですよというのが正しい無我の解釈になります。
ユーザー
神も仏も名無しさん
六識って本当に思考の主体なんですか?って問題、
思考=思量なら、七識が思考していることになる、
顕在意識が眠るか停止した後で、何らかの妄想念を見る場合は、それは潜在意識だと思います、
夢は目覚めた(顕在)後で思い出せる、それは記憶(種子→果)が深層(八識)へ収蔵されたからですよね?
認識主体の移動って考えがあります、
表層意識が眠って、または停止した後で、妄想念の認識がおきるのは、潜在意識の階層へ、認識主体がいしたと謂えませんか⁉️
2023/10/01 15:21:42
Bx5Cg
その思考の癖や方向性、要するにその人の人格をつかさどるのが第七意識(潜在意識)といった感じかなと私は思います。
潜在意識っぽい気がしますね。
明晰夢なんかは顕在意識っぽいですね
小学生なのに信じられない程、楽器演奏が上手い子供なんかがたまにテレビで紹介されたりするけど、あれって過去世でギターやってたからなせる技だとおもう。
> ところで唯識論的には阿頼耶識の外に真如はあるの?それとも阿頼耶識の外はない?
唯識論で真如っていったら、三性の三番目、「円成実性」だけど
別にそれは、阿頼耶識の外にあるわけではない
阿頼耶識を浄化することにより悟る、世界の真実
そう、それが当方の持論
過去世の経験値が大きくモノをいう
そんな気がする。
DNAと悉有仏性論
https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/47/2/47_2_940/_pdf/-char/ja
おもしろいよ。
宗教板から出張してきた白蓮華殿と大喧嘩になってたな
聞薫 習 はアーラヤ識 その もので はないが アー ラヤ識 に寄 在4)す る性 質 を有 してい る.『摂大乗 論』には 「諸仏 の菩提 が基礎 となつて成 立 して い る聞薫 習[す なわち法界 か ら流れ 出た聞薫 習]な るもの は,[人 間の身体 とい う如 き]何 かあ る種 の依 り所 にお いて起 こる.す なわちそれ は異熟識 中 に共存 とい うあ り方 を もって起こるので あって,乳 と水 とが[共 存 して い る]よ うな もので あ る.
おもしろいな😄
量子論と仏教 後藤 蔚
https://www.toyo.ac.jp/uploaded/attachment/7982.pdf
空の認識理論と量子論を研究した論文。
量子力学を既にあの時代に説いていた仏教。
相依性縁起ってそういう次元のお話ね。
●〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇
黒●が光っている電球です。
〇●〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇
〇〇●〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇
〇〇〇●〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇
〇〇〇〇●〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇
〇〇〇〇〇●〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇
〇〇〇〇〇〇●〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇
いてらー
●が左から右側に移動しているように見えますが、実際は電球が移動しているのではなく、電球は固定位置でただ点いたり消えたりしているだけです。
しかしそれを見ている人間が視覚の錯覚で●が左から右に動いて行ってるように見えます。
https://butudou.blog.jp/archives/17581537.html
中論途中で挫折してたから
分かりやすくて助かりますな
現時点のその人の境涯においては、それがその人に取っての正しい解釈となる。
ですから境涯も声聞・縁覚・菩薩・仏といった具合に四種の境涯に分かれます。
体空を理解した境涯=縁覚
法空を理解した境涯=菩薩
非空を理解した境涯=仏
析空=倶舎論
体空=中論
法空=唯識
非空=法華経
おやすみー。
すでに去ったものは、去ることがない。
まだ去らないものも、去ることがない。
さらに、すでに去ったこととまだ去らないことを離れて、
現に去りつつあるものも、また去ることがない
↑
なんて?
って状態だったから解説ありがたい
【転識】
http://www.wikidharma.org/index.php/%E3%81%A6%E3%82%93%E3%81%98%E3%81%8D
https://ameblo.jp/yk19610402/entry-12810047315.html
素晴らしい解説だ
浄土真宗の人だけど、唯識論の解説者として活躍している
それを能【働きかける方】と、所【働きかけられる方】とに分ければ、
〈種子〉が「能」
〈七識〉が「所」ということになります。
(※ピグの部屋さんとは表現↑を変えております)
人間は、自分の素質や能力と経験を人格の根底に刻み込み、保持し続ける。
保持し続けられている〈種子〉に基づいて、様々な人生模様を展開する。
その面を〈能蔵〉というのです。種子を保持するという面なので「持種(じしゅう)の義」といわれます。
働きかける「能」 の位置に立つのは、七転識(てんじき)【眼・耳・鼻・舌・身の前五識と意識・末那識】であり、 受け身の「所」の位置に立つのが、阿頼耶識となる。
つまり、具体的に様々の動きとして活動するのは〈転識〉ですが、転識は、その動きをことごとく、人格の深層に投げ込んでいく。
つまり「能」の位置に立つ。
それに対して、阿頼耶識は転識より投げ込まれてくるものを受け止めるという位置に置かれるので、「所」ということになる。
投げ込まれてくるのを、
〈種子(しゅうじ)〉といい、それを受入れ、人格の根底にとどめるのを、
〈薫習(くんじゅう)〉というので「受薫(じゅくん)の義」という。
阿頼耶識は、人格の根底となる部分を分析し、剔出(てきしゅつ)したものということが出来ます。
したがって、その性格はあまり大きな変化や転換は、中々なく、その人の特性が、統一持続されますで、その自己像が、不変の自己のように錯覚されやすい。
昨日の自分と、今日の自分とは、同一人物だと思っているし、子どもの頃の自分と、今日の自分との間にさえ、変化を超えた統一的人格像を、われわれは無意識に確信しているものです。
そういう人格の深いところに見られる人間の営みを、唯識佛教は阿頼耶識【所】と、末那識【能】との関係として捉えたのであります。
それが〈執蔵〉であり、したがって、それを「執我の義」という。
よーく考えると
ある事に気づくかと思います。
必要ないじゃん!
ってことです。
初期仏教で説かれた九次第定は、説法を聞く為に
凡夫が解脱法をマスターして天上界に意識として入り
そこ(色界)で報身の仏の説法を聴聞する為に用いた方便の行法なんです。
そんな訳ない!
と言われる方はこちらの論文に目を通されてみてください。
https://www.min.ac.jp/img/pdf/labo-sh17_27L.pdf
れるが、この時には法慧菩薩が他の菩薩や帝釈天と問答形式によって十住菩薩の法を説く。「仏昇夜摩天宮自在品」第十五から「菩薩十無尽蔵品」第十八までは、さらに夜摩天に昇って功徳林菩薩が十行菩薩の法を説き、「如来昇兜率天宮一切宝殿品」第十九から「金剛幢菩薩十廻向品」第二十一までは、兜率天において金剛幢菩薩が十廻向地に位する菩薩の修行内容を説く。さらに仏陀が欲界の頂上である他化自在天に昇った後、金剛蔵菩薩が十地菩薩の法を説き、普賢菩薩等が菩薩の十種の神通等を説く部分が、「十地品」第二十二から「宝王如来性起品」第三十二までである。「離世間品」第三十三の説法の場所は、再び普光法堂である。善財童子が五十三の善知識と順番に出会い、法界に入っていく過程が旅行記のように描かれている最後の「入法界品」第三十四は、それ以前の諸品とは異なって仏陀が舎衛国の給孤独園に住しており、声聞衆もその場にいる。『六十華厳』ではこのように七つの場所において八つの法会が開かれるので、七処八会の説法と呼ぶのである。
さらに夜摩天に昇って功徳林菩薩が十行菩薩の法を説き
兜率天において金剛幢菩薩が十廻向地に位する菩薩の修行内容を説く
さらに仏陀が欲界の頂上である他化自在天に昇った後、金剛蔵菩薩が十地菩薩の法を説き、普賢菩薩等が菩薩の十種の神通等を説く
解脱をマスターしている事です。
結局、阿難は結集当日に解脱出来てはれて参加の運びとなったという話はウィキペディアでも紹介されております。
【阿難】
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E9%9B%A3
わたしは思います。(私個人の見解です)
ブログの執筆の方に
戻ろうかと思います。
> わたしが毎日、朝晩かかさず行っている勤行・唱題行がこれにあたります。
素晴らしいな!😄
虚空絵についてお話を綴って参ります。
頑張って続けて下さい。
> 阿頼耶識に仏の教え(法華経)を勤行という行法で薫習していくことで、植え付けられた種子(仏種)が能となって七識(所)に働きかけ六根が清浄されていきます。
南無妙法蓮華経
南無妙法蓮華経
南無妙法蓮華経
継続は力なり~😄
まあ、意味があってもなくても、とりあえず書くけど(笑)
正しく活用なされて下さいな。
Talk に語りに来ます。
JBL、リダン、馬ちゃん、でおー、サティーさん
お付き合い頂いて
ありがとうございました。
鹿野園、山籠もり頑張ってなー!
もしかして一人キャンプ?
これを身口意(変性意識)でやっていくと効率がとてもよい
さながら欲界でお釈迦さまの説法をきく帝釈天のような環境になりますね
勤行の最中に我を忘れるくらい
没頭出来てます?
時間感覚は狂いますか?
唱える文がこの辺だからそろそろ終わるなとかだと効果半減だと思われ
となる状態だと一番、行が薫習されていると思われる
単調なルーティンでスイッチが入って危ない
日常生活が危うくなる
特に車の運転は、うお!今誰が運転してんだ?!ってゾッとする
だから俺は免許返納した
対策としては所謂ゾーン
超現実、六識と六境の同一
ようは地に足をつけるようにする
『末那識が平等性智に転ずるとは?』
https://ameblo.jp/yk19610402/entry-12776887936.html
ただ変性意識に入るのが慣れすぎると
単調なルーティンでスイッチが入って危ない
日常生活が危うくなる
特に車の運転は、うお!今誰が運転してんだ?!ってゾッとする
だから俺は免許返納した
対策としては所謂ゾーン
超現実、六識と六境の同一
ようは地に足をつけるようにする
ーーーーー
そうなんだ、それはヤバいじゃん!
http://www.winbell-7.com/roman/hisyo/hokekyo2.pdf
https://i.imgur.com/wxymHMX.jpg
最終的に自己に薫習した教説を手放せないことでしょうな、
これが、無分別智に死んでも至らない有漏の種子、
有為は有漏種子、無為は無漏種子、薫習する、
● 正聞熏習
無著(アサンガ)の『摂大乗論』においては、
≪【教えの聴聞】≫は、
煩悩の種子 即ち、有漏の種子とは質的に異なった、無漏の種子を、
阿頼耶識の中に置くとされます。
無漏の種子は、真理の世界(法界)から流れ出た、聴聞の余習(正聞熏習)であるといわれます。
🫠🫠🫠🫠🫠🫠
そろそろ
怒り爆発かもな〜
🫨🫨🫨🫨😫🫨
も満タンだろうからな〜
🫨🫨🫨🫨
飛び抜けて波動が悪い😫
何の?
としか
疑問しか
感じねえ〜〜
🫨
5ch幸福の科学の連中のレスと
大差が無い
🫨
認識の世界が
無いからな〜
ある意味
無敵〜〜
🫨🫨🫨🫨🫨
三毒波動砲連射かな?
🫨
無数の菩薩が池から出てくるやつ
離脱世界(諸天)なら全然あるから
余裕余裕
平等性智まであと3回生まれ変わればいけるぞーーー‼️
https://hu.repo.nii.ac.jp/record/1149/files/004-83-07.pdf
『弁中辺論』
●ー此こに於いては二は都べて無しとは、
謂わく、即ち此の虚妄分別に於いて、
永く所取と能取との二性無きなり。( 1四六四b )
ーここにおいて二はまったく無しというのは、この虚妄分別において、
永久(無始無終)に所取と能取との二者が絶えて無いということである。
●ー此中には唯だ空のみ有りとは、
謂わく、虚妄分別中には、
但だ、所取及び能取を離したる空性のみ有るなり。
ーここには唯だ空のみ有りというのは、
二取が絶えて無い時、虚妄分別中には、但だ、
【所取】と【能取】と【無縁の空性】のみが【有る】ということである
●ー亦た全無にも非ず、
中に於いて少しく乱識の生ずること有るが故に。
●ーさりながら全無でもない。
乱識の範囲では生じているからである。
●【乱識】というのは、身心のある限りまぬかれ得ない【意識活動】のことである。
『弁中辺論』
●ー何んぞ 此の性の全無なることを許さざる。
此れ滅して解脱を得と許すが故に。
若し此れに異ならば、繋縛も解脱も則ち応に皆な無かるべし。
是くの如ければ便ち雑染及び清浄を発無する失を成さん。
●ーではどうして【識】の【全無】は許されないのか。
【識の滅】から【解脱が得られる】と認められているからである。
もしそうでないならば、【煩悩の繋縛】もそれからの【解脱もない】ことになるはずである。
そうなれば、【雑染】から【清浄】へという【仏道】を【発無】する
【あやまちを犯す】ことになろう。
途中の議論が長すぎたが、虚妄分別の意味が明らかになったので、空性の問題に立ち返ろう。
はつ‐む【撥無】
?名? 払いのけて信用しないこと。否定し、しりぞけること。はちむ。はつぶ。
※正法眼蔵(1231‐53)深信因果「いたづらに撥無(はつむ)因果のあやまりあり」
はつ‐ぶ【撥無】
?名? =はつむ(撥無)
※色葉字類抄(1177‐81)「撥撫 ハツブ」
【所取】と【能取】と【無縁の空性】のみが【有る】ということである。
↓ ↓
【所取】と【能取】とは【無縁】の、
【空性】のみが【有る】ということである。
ウソブクのよ透ってないのに、もう40回も初関を透る俺様!と言い放つドマヌケ!40回も透ったら初関を透る、じゃねーべ!
イヌ:悟りとか分からねーし、知らねーし、悟ってねーわ? ググるイヌヤマは常にシカトされ自己存在の確認要求哀願奴隷也
悪霊イヌが鳴く:なんで 宗教板って まともなの俺だけなんだ?みんな間違ってばっか俺だけが正しい。みんな間違ってるのに何で正しい事を言ってる俺は否定ばっかりされるんだ?みんな俺のことを 凄いなと認めろよ。 俺は自分より優れた奴が ゆるせないんだよ(脅迫性人格障害の特徴)
ナント妻子と月一、金曜夜7時からのお坐り会、茶菓(ちゃか)代ワンコインで、これが研究会出席虚勢のトマヌケ犬は誰からも疎まれる
独善イヌヤマは月一第三金曜日夜7時茶菓代ワンコイン坐禅会に出ると偽証。命取りの摂心に親子で100回参加と虚飾スル
新小岩の食業ドライバーイヌヤマとは法相宗(ほっそうしゅう)奈良興福寺(こうふくじ)前官長じっちゃんのお抱え運転手で食業ドライバーの門外漢だから、知ったかぶる以外に承認欲求を満たす事が無い。
多数者を演じ孤立してないと強弁し自作自演のおぞましい日々の無脊椎動物イヌヤマは成り済まし多重人格者で要治療
統失、薬中、精神病院2ヶ月入院、A型作業所:イヌヤマ軍曹麦屁魔女エロ和尚アカベイ偽和尚狗の大王野良は異名同一人物がAAキャラ変の極悪人
インチキキチガイ雀鬼イヌヤマ麦、アルコホル発酵しイヌ麦焼酎なのに喜ばせ共有機能が絶えて無し。吠え吠み、オノレの尻尾をクルクル追うノミシラミ
5ちゃんねるの会話はバトル形式で馴れ合いを禁じる。イヌヤマは、褒めてクレヨの哀願奴隷。相手を罵倒する悪口雑言の数々は外道イヌヤマへのリアル社会の絶対評価で、荒らしイヌヤマは問いに問いで返す脊髄反射の脳足りんで悟前(ごぜん)未悟(みご)、金魚ドジョウと救い難い。
① ググるシッタカ知障荒らしイヌヤマは無視放置スルーが一番ツライ、耐えられない。シッタカイヌヤマは常に誰かの反応レスを待ち焦がれ
② 放置された固定観念イヌヤマは煽りや自作自演でアナタのレスを誘う。ワケワカメ糞邪鬼イヌヤマにノセられてレスしたらその時点でアナタも同類、負け、完敗
③ ;反撃はイヌの滋養にして栄養であり最も悦ぶ事です。門前のヤセイヌにエサを投げ与えぬ事
④ ;臭い汚いコワイ気持ち悪いイヌヤマが枯死する迄、孤独に暴れさせゴミが溜まったら削除
https://hu.repo.nii.ac.jp/record/1149/files/004-83-07.pdf
●疑問
【虚妄分別】とは、【妄想念】だが、【夢】とも同義なのか?
『弁中辺論』
1● 此こに於いては二は都(ス)べて無しとは、
謂わく、即ち、此の 虚妄分別 に於いて、
永く所取と能取との二性無きなり。
( 1四六四b )
◎ ここにおいて
二=≪【所取】と【能取】≫は、
全く【無し】というのは、
この【虚妄分別】において、
【永久(無始無終)】に
≪【所取】と【能取】≫との【二者】が
【絶えて無い】ということである。
2● 此中には唯だ空のみ有りとは、
謂わく、虚妄分別中には、
但だ、所取及び能取を離したる空性のみ有るなり。
◎ ここには唯だ【空】のみ【有り】というのは、
【二取】が【絶えて無い】時、【虚妄分別】中には、但だ、
【所取】と【能取】とは【無縁】の
【空性】のみが【有る】ということである
内容があまりにもちぐはぐで、空の理解がまるでなっていない。半分くらいまで目を通しましたが、読むに耐え切れず完読するには至りませんでした。
この学者さん、析空の理解です。
https://www.zenbunka.or.jp/pub_etc/pub/docs/kiyou/032_02%E5%8F%A4%E8%B3%80.pdf
↑空理をまるで解かっておられない、、、、。
これまで何度も申しておりますけれども、仏教は四教という流れで法が説かれ、明かされていっております。
蔵教=仮諦
通教=空諦
別教=別相三観
円教=円融三観
『唯識』別教で詳しく解明された教えです。この時点では円融はまだ解明されておりません。非空・非非空は円融のお話です。円教に至ってはじめて明かされる非空・非非空をこの学者さんは別教の唯識と結び付けて論式を組み立てております。
「空」の正しい理解が出来ておられないからこういったお粗末な論証となります。
智顗が常にアップデートし続けて、亡くなる最後の最後まで取り組んでこられたのは「四教義」と「三観義」です。
ここの理解を深めていかないと仏教の本当のところはいつまでたっても解らないかとわたしは思います。
なぜなら「四教義=四諦・四悉檀による空の理解」「三観義=三宝・三学」だからです。
依了義経不依不了義経(了義経に依りて不了義経に依らざれ)
了義経である『法華経』をまず第一に学んでいかないと迷走するだけだとわたしは思います。
おはやいね〜〜
おはよ〜〜〜〜
😄😄😄😄😄😄😄😄😄😄
岩山ですら、自然の風化作用により強固な岩も毛ぜり取られ、小岩になり、砂粒ニンマリ、渚の高背う要因となる。
数億年間の地球上の支配者たちであった恐竜も今は見ない。
病は、見ててあれこれ言うものでは無く、生まれ落ちたからこその一つの時期の状態である。
いまここに在る事は、誰にとっても、難かた し。わたしには兄が居たはずであったが、産声rをだれにも聞かせた事が無く、ただ、今はもう亡くなった母がじっと目の前の空間を見つめ一体誰に話しかけているのか、、わたしは成人し、結婚し、男児が生まれ、かれらも幼稚園、小学校と運動会では元気のあふれ成長していく姿を観ながら、ぽつり、と母がsわたしに語る。
在る事が奇跡。病気は成長の別名だし、恒例も成長の別の呼び方であり、当然にしも、成長の一典型であり、分子に変換して、宇宙を構成する因子と発展していく。
わたしにも、母にも、眼には見えない次ぎがある。もうずいぶん前のことになるが、わたしは無師独悟(むしどくご) 独覚(どっかく)で、身の回りにこの高知尾を話しかけても、理解する人も無かった。
なので、長い年月本の中ではたくさん真理(さとり)を語りう逢える人は居ても、現実には、あるいは、今のこの世には、誰もいなくて、わたしだけがこんなこと言いまくっているのか、と思っていた。
本来の愚鈍さも有り、説明できるものでは無く、体験した人でなければ、分かり合えるものでは無い。その頃の私に言い草は、わたしが一歩。歩めば、宇宙が一歩、歩む。これを、うん、うん、とうなずいてくれる人に逢いたい。
母は、舞い扇を右手に持ち、板張りの上にスッと立ち、今に動き出す勢いを見せて、立つ。そのものすごさは、息を呑む。一歩を歩み出す前に、完成している。わたしの及ぶところの比ではない。
納骨の日、お墓迄来て度胸していただいた若い僧は、言う。おかあさまは、ここにあるそこにある、と言うのではなく、宇宙に遍満していらっしゃるのです。
一杯のコップの中の水にはクレオパトラの構成していた分子が200個、必ずい入っている。母だったら500個は入ってる。
たんに水を飲むだけで、再び、母を体内に取り込んでいる。水を飲むのは美味い。
『弁中辺論』の言うことは、正しく唯識が言い表されていて、納得できるものと思いますね。
そうですね。
>【二取】が【絶えて無い】時、
これについてですが、先ほど
唯識三十頌
https://zawazawa.jp/bison/topic/19
こちらを更新しました。
それに該当する箇所があるかと思います。
おはよ〜〜〜
😄😄😄😄😄😄😄😄
第七識が平等性智に転識したら末那識は消滅するぐらいに思っているでしょう。
お目覚めだいっ!
😄
パソコンのハードウェアの部分が末那識として
そのハードにWindousというOSを入れた状態が我々凡夫ね。
ハード自体は変わらない訳よ。
まずもってあり得ません。
仏種がなんなのか
それが解っていない人達は
末那識が平等性智に変わるんだー
と「言葉」の次元での理解となる。
誰とは言わないが
〝鹿野園〟がいい例だ。
おはよう
理解(りげ)ですか
それは法介さんのことですか
顛倒無想w
般若心経風に言えば、顛倒夢想
はやく夢から覚めなさい
法華経随喜功徳品より
「世界のものは、みな堅固出ないことは、水の沫(しぶき)や泡や水焰(かげろう)のごとくである。
なんじたちよ、ことごとく、まさにすみやかに、〔いま執着している世界のものから〕厭い離れる心を生ずるようにと」
多くのひとびとは、この教えを聞いて、みなアラカンを得、六心通・三明・八解脱をそなえるようになるだろう。
訂正
堅固で
堅固でないことは、
なんじたちよ、ことごとく、まさにすみやかに、〔いま執着している世界のものから〕厭い離れる心を生ずるようにと」
ダンマパタ、金剛般若経にもでてくる
ダンマパタ
46、
この身は泡沫のごとくであると知り、
かげろうのようなはかない本性のものであると、
さとったならば、
悪魔の花の矢を断ち切って、
死王に見られないところへ行くであろう。
金剛般若経
現象界というものは、
星や、目の翳(かげ)、燈し火や、
まぼろしや、露や、泡沫(うたかた)や、
夢や、電光や、雲のよう、
そのようなものと、見るがよい。
先入観で誰かを判断するのはいかがなものでしょうか、
セイウンさんもそうですが、私とて、しきが無くなるなんて、一つとて思ったこともありませんて、
今日は、マナ識の我執はかきかわるなら、何処で何時書かれたのか?を、考えておりました、
ホモサピエンスは自他の区別がかのであったが、ネアンデルタール人は自他が無かったので、ホモサピエンスに駆逐されたって説がありますが、真偽は分かりませんが、
1~3才までにたぶん刷り込まれる自我がマナ識の原型と思います、
たぶん、一人の母親に育てられることで、占有という心根が植わって、それが我執という、自分のものという、私、私となって、何でも善きものを自己同化して行くようになるのだと考えます、
まあ、思い付きでしかない説ですが。
昔、オオカミに育てられた子供が発見されましたが、その習性はまるでオオカミそのものだったとか。
人間の世界にしてもそうでしょ。
修羅の境涯の人達はそういった群れをなし、学者肌の人達はそういったグループで集まり、アイドル好きな連中はそういった集まりに参加する。
六欲天と禅天の違いというものでしょう。
そこら辺をふまえて考えないと
答えにはたどり着けないのではないでしょうか。
そういったグループの方々と交流された方が
有意義な時を過ごせるのではないでしょうか。
それと、OSHOの行かれた世界ですね、そこの2つかな。
共通なのは釈尊です、どちらの師の釈尊に深い縁をお持ちです、
つまり、私も間接的にはそうだと思っています。
必見アイテムです。
わたしの信仰の対境は
法です。
妙法です
法華経を唱えて成仏します
信仰の対境が違ってるようですね
いくらお話しても噛み合いませんし
共感もおこらないでしょう
お話が合うのでは?
仏でなく菩薩行の集団ですよね。
仏と同等の覚りを得ている菩薩で仏の32相を備えている菩薩。
神の住処は天界といっても六欲天の方です。
識層の壁を越えれば一同に顕われるんでしょうけども
信仰の対象が釈尊ではないですね、
また、信仰の対象は有りません、まあ有るなら世界平和の祈りそのものでしょう、
私は世界平和の祈りを祈りながらあの世へ旅立ちたいと思います。
頑張ってください。
道は違えども
自身が納得のいく道を
進んで行くだけです。
言っておきます
仏教とは
だから、法介さんは他者を、こうだと決めつけない方がよいと思います、
世界平和の祈りを祈ると、必ずその霊団へたどり着きますので、心配はないと思います。
私は心得ております。
同感です、同じです。
そうですね。
おっしゃる通りだと思います。
気分を害されましたのでしたら
お許しください。
家事に移りますので。
最近の学びから言うと、
二処を離れた、唯、識のみを知ればよいかと、そこが真如であり仏だそうですから。
どうってこと無いので、気になされずに。
仏種ってなんだとお考えでしょうか。
それを日蓮聖人は次のように申されております。
「生滅無常の相無きが故に無相と云うなり二乗の有余・無余の二つの涅槃の相を離るが故に不相と云うなり」
「生滅無常の相無きが故に」と「二乗の有余・無余の二つの涅槃の相を離るが故に」の意味が馬ちゃんに解りますかな。
馬ちゃんはこの二つの涅槃の特に無余涅槃から離れならない様子ですが。
声聞の無余涅槃(九次第定 定静慮)
縁覚の有余涅槃(九次第定 生静慮)
円融三諦の三三九諦の相をとらなければ
阿頼耶識の仏種を因とした転識は起こりません。
>今日は、マナ識の我執はかきかわるなら、何処で何時書かれたのか?を、考えておりました、
の答えに辿り着く事はないでしょう。
言っても聞く耳を
持っておられないでしょうから
これにて失礼。
┐('~`;)┌さあ~?
寂静なら知っていますけどね。
涅槃に相があるってはじめてみました、
涅槃寂静に相対の相だろうが絶対の相だとうが、相があったら涅槃ニルバーナでは無いでしょう、
有余の生も無余の後も、その時に於いて何かが知られることはないと理解されています
。
前世からの修行の勢力がないと、今生で書き変わることは難しいでしょうね、
産まれながらに、子供の頃から、差別心を持たず、優しさの権化のごとき性格の人はいるもので、
全ては過去に原因があって、今の結果がありますから、
法介さんも、方向性が正しければ、今生か来世で、成仏されるでしょう、
今生の後のあの世でかも知れませんが。
寂静、寂滅を実際に知らなければ言っている意味なんか、ただの想像でしかないので。
馬ちゃんのそれはたんなる肉体からの解脱でしょ。(九次第定)
わたしは方便の解脱、実慧の解脱、そして真性の解脱を体験しております。(円融三諦)
その違いが解脱の相(別相三観と通相三観)違いです。
九次第定=別相三観
円融三諦=通相三観
https://livedoor.blogimg.jp/butudou/imgs/e/a/eadda475.jpg
なんど伝えても伝わらない人には伝わらないものです。前世の外道の業なるがゆえに。
おはよっー!!💥😄
😄😄😄😄😄😄😄😄😄😄😄😄
唯-識 ですよ、
九次第禅定では無いですね、
寂静、寂滅を知らなければ、何も分からないと同じです。
病名:発達障害ASDの症状尊大の雀鬼イヌヤマが自供ス。『正直云って仏とは何かと問われても分かりません、公案が進んで無くよくわからないのです』 知障イヌ咬み談
ウソブクのよ透ってないのに、もう40回も初関を透る俺様!と言い放つドマヌケ!40回も透ったら初関を透る、じゃねーべ!
イヌ:悟りとか分からねーし、知らねーし、悟ってねーわ? ググるイヌヤマは常にシカトされ自己存在の確認要求哀願奴隷也
悪霊イヌが鳴く:なんで 宗教板って まともなの俺だけなんだ?みんな間違ってばっか俺だけが正しい。みんな間違ってるのに何で正しい事を言ってる俺は否定ばっかりされるんだ?みんな俺の事を 凄いなと認めろよ。 俺は自分より優れた奴が ゆるせないんだよ(脅迫性人格障害の特徴)
ナント妻子と月一、金曜夜7時からのお坐り会、茶菓(ちゃか)代ワンコインで、これが研究会出席虚勢のトマヌケ犬は誰からも疎まれる
独善イヌヤマは月一第三金曜日夜7時茶菓代ワンコイン坐禅会に出ると偽証。命取りの摂心に親子で100回参加と虚飾スル
新小岩の食業ドライバーイヌヤマとは法相宗(ほっそうしゅう)奈良興福寺(こうふくじ)前官長じっちゃんのお抱え運転手で食業ドライバーで、知ったかぶる以外に承認欲求が満足しない。
多数者を演じ孤立セズと強弁し自作自演のおぞましい日々の無脊椎動物イヌヤマは成り済まし多重人格者で要治療
インチキキチガイ雀鬼イヌヤマ麦、アルコホル発酵しイヌ麦焼酎なのに喜ばせ共有機能が絶えて無し。吠え吠み、オノレの尻尾をクルクル追うノミシラミ
5ちゃんねるの会話はバトル形式で馴れ合いを禁じる。イヌヤマは、褒めてクレヨの哀願奴隷。相手を罵倒する悪口雑言の数々は外道イヌヤマへのリアル社会の絶対評価で、問いに問いで返す脊髄反射の脳足りんで悟前(ごぜん)未悟(みご)、金魚ドジョウと救い難い。
① ググるシッタカ知障荒らしイヌヤマは無視放置スルーが一番ツライ、耐えられない。シッタカイヌヤマは常に誰かの反応レスを待ち焦がれ
② 放置された固定観念イヌヤマは煽りや自作自演でアナタのレスを誘う。ワケワカメ糞邪鬼イヌヤマにノセられてレスしたらその時点でアナタも同類、負け、完敗
③ ;反撃はイヌの滋養にして栄養であり最も悦ぶ事です。門前のヤセイヌにエサを投げ与えぬ事
④ ;臭い汚いコワイ気持ち悪いイヌヤマが枯死する迄、孤独に暴れさせゴミが溜まれば削除
ウソブクのよ透ってないのに、もう40回も初関を透る俺様!と言い放つドマヌケ!40回も透ったら初関を透る、じゃねーべ!!
なんで、みんなワイを無視すんねん!?大欲(たいよく)は無欲に似て足るを知る。煩悩即菩提の法相宗でええやろ・・・ほならなんでワイはこんなところにいるんねやろ
イヌ:悟りとか分からねーし、知らねーし、悟ってねーわ? ググるイヌヤマは常にシカトされ自己存在の確認要求哀願奴隷也
悪霊イヌが鳴く:なんで 宗教板って まともなの俺だけなんだ?みんな間違ってばっか俺だけが正しい。みんな間違ってるのに何で正しい事を言ってる俺は否定ばっかりされるんだ?みんな俺の事を 凄いなと認めろよ。 俺は自分より優れた奴が ゆるせないんだよ(脅迫性人格障害の特徴)
ナント妻子と月一、金曜夜7時からのお坐り会、茶菓(ちゃか)代ワンコインで、これが研究会出席虚勢のトマヌケ犬は誰からも疎まれる
独善イヌヤマは月一第三金曜日夜7時茶菓代ワンコイン坐禅会に出ると偽証。命取りの摂心に親子で100回参加と虚飾スル
新小岩の食業ドライバーイヌヤマとは法相宗(ほっそうしゅう)奈良興福寺(こうふくじ)前官長じっちゃんのお抱え運転手で食業ドライバーで、知ったかぶる以外に承認欲求が満足しない。
多数者を演じ孤立セズと強弁し自作自演のおぞましい日々の無脊椎動物イヌヤマは成り済まし多重人格者で要治療
インチキキチガイ雀鬼イヌヤマ麦、アルコホル発酵しイヌ麦焼酎なのに喜ばせ共有機能が絶えて無し。吠え吠み、オノレの尻尾をクルクル追うノミシラミ
5ちゃんねるの会話はバトル形式で馴れ合いを禁じる。イヌヤマは、褒めてクレヨの哀願奴隷。相手を罵倒する悪口雑言の数々は外道イヌヤマへのリアル社会の絶対評価で、問いに問いで返す脊髄反射の脳足りんで悟前(ごぜん)未悟(みご)、金魚ドジョウと救い難い。
① ググるシッタカ知障荒らしイヌヤマは無視放置スルーが一番ツライ、耐えられない。シッタカイヌヤマは常に誰かの反応レスを待ち焦がれ
② 放置された固定観念イヌヤマは煽りや自作自演でアナタのレスを誘う。ワケワカメ糞邪鬼イヌヤマにノセられてレスしたらその時点でアナタも同類、負け。完敗
③ ;反撃はイヌの滋養にして栄養であり最も悦ぶ事です。門前のヤセイヌにエサを投げ与えぬ事
④ ;臭い汚いコワイ気持ち悪いイヌヤマが枯死する迄、孤独に暴れさせゴミが溜まれば削除
四つのシャマタは本然の境地ではない。
https://i.imgur.com/7FP9PI4.jpg
https://i.imgur.com/b3M7Jz8.jpg
https://i.imgur.com/hdwks6o.jpg
https://i.imgur.com/KtmPmrc.jpg
https://i.imgur.com/UtyGphV.jpg
修行者、求道者、修行僧は、やはり さとりを求めて行きます。さとれば、さとりが無く、無我とは、真理(さとり)です、が 理解できるものでありませんく、まさに 体得します。
その状態を 石、とも 言います。突然 ストーン と、自他が無くなります。
これを 一と一は、二では無い。一の如し、一如である、言い表します。この一如に取り組む公案が有ります。
両手で打てば音が鳴る。では、片手の人が叩く拍手の音を聞いてこい、と言うもので、これに取り組みました。
ぜひ、とも取り組んでいただきたいものです。
音を聞くのだが、片手では拍手ができないから、音が鳴らないので聞こえない。
その聞こえない音を聞け、と 公案は いう。
聞こえない音が聞こえる。 そこが 色即是空。 初関(しょかん)を透(とお)る。
色とは片手の人が叩く拍手です。片手の人が叩く音を聞いた、そこが、色即是空です。真理(さとり) です。
趙州従?(ぢょうしゅう・じゅうしん)の無字の公案では長年かかってもなお悟れず死んでいく者も多かった事から、修行僧に対して白隠禅師が新たに隻手の音声(せきしゅ の おんじょう)の公案を与え、沢山の修行者に悟らせようと苦心した公案です。
白隠慧鶴禅師(はくいん えかく ぜんじ) 隻手の音声 (せきしゅのおんじょう)
両掌(りょうしょう)打って音声あり、隻手になんの声やある。隻手の声を拈提(ねんてい)せよ。
>> 理屈っぽいけど、自他一如なら、あなたが叩こうがわたしが叩こうが同じ、わたしが叩きます、パンパンで終了。あとは自他一如、自分から心で隻手の人と一つになる。すると、相手の手を叩く音がきこえる。自他一如や自己の愛情、慈悲心を育てる公案だったとか 』
ありがとうございます。
これは理解したり、解釈を咥えたりするものでじゃないので、お怒りを受けるともいますが、字句の解釈に拘泥するものではありません。
先にも言いましたが、自他一如を体得する事です。
あなたと私で、ぱんぱん。
頓智、になりましたね。
片手の人が、です。
置き換えて、これでどうだ、と言うわけにはまいりません。
聞こえるはずのない、片手の人が叩く拍手の音を聞く、のです。
四つのシャマタは本然の境地ではない。
https://i.imgur.com/7FP9PI4.jpg
https://i.imgur.com/b3M7Jz8.jpg
https://i.imgur.com/hdwks6o.jpg
https://i.imgur.com/KtmPmrc.jpg
https://i.imgur.com/UtyGphV.jpg
https://i.imgur.com/TAwh0lC.jpg
隻手の音声(せきしゅのおんじょう)
両掌(りょうしょう)打って音声あり、隻手になんの声やある。 隻手の声を拈提(ねんてい)せよ。
趙州従しん(ぢょうしゅう・じゅうしん)の無字の公案では長年かかってもなお悟れず死んでいく者も多かった事から、修行僧に対して白隠禅師が新たに隻手の音声(せきしゅ の おんじょう)の公案を与え、沢山の修行者に悟らせようと苦心した公案です。
> 無我がわかったら坐禅しなくても良いとは思うんだけどどうなんだろうな。 』
求道者、修行僧は、やはり さとりを求めて行きます。 さとれば、さとりが無く、無我とは、真理(さとり)です、が 理解できるものではなく、まさに 体得します。その状態を 石、とも 言います。突然 ストーン と、突如と自他が無くなり歓喜乱舞します。
これを 一と一は、二では無い。一の如し、一如である、言い表します。この一如に取り組む公案が有ります
両手で打てば音が鳴る。では、片手の人が叩く拍手の音を聞いてこい、と言うもので、これに取り組みました。
ぜひ、とも取り組んでいただきたいものです。
音を聞くのだが、片手では拍手ができないから、音が鳴らないので聞こえない。
その聞こえない音を聞け、と 公案は いう。
聞こえない音が聞こえる。 そこが 色即是空。 初関(しょかん)を透(とお)る。
色とは片手の人が叩く拍手です。片手の人が叩く音を聞いた、そこが、色即是空です。真理(さとり) です。
>> 理屈っぽいけど、自他一如なら、あなたが叩こうがわたしが叩こうが同じ、わたしが叩きます、パンパンで終了。あとは自他一如、自分から心で隻手の人と一つになる。すると、相手の手を叩く音がきこえる。自他一如や自己の愛情、慈悲心を育てる公案だったとか 』
ありがとうございます。
これは理解したり、解釈を咥えたりするものでじゃないので、お怒りを受けるともいますが、字句の解釈に拘泥するものではありません。
先にも言いましたが、自他一如を体得する事です。
あなたと私で、ぱんぱん。
トンチ、になりましたね。
片手の人が、です。
置き換えて、これでどうだ、と言うわけにはまいりません。
聞こえるはずのない、片手の人が叩く拍手の音を聞く、のです。
禅とは ジャーナを音写して禅那と中国人が漢字であらわしたものであり、ジャーナとは、静かにする、静かに坐る、と言う意味であり瞑想する事。自己都合による拡大解釈しては、原意が蒸発する。
浄土宗、浄土真宗は、波阿弥陀仏、と阿弥陀佛(無量寿Buddha、無量光佛陀)陀に帰依する。
法華宗は南無 妙法 蓮華経、と正しい教え、白い蓮の花の教え、教典、お経の本に帰依する。
騒動衆はお坐り、お手を教え込む。
南無阿弥陀仏と言うのか、南無妙法蓮華経と言うのか、何とも云わず、坐っているのか、この三つは 易行(いぎょう)である。難しい事を求めず、これをやればいいんだよ、と安心させる。
飢饉、餓死、疫病まん延、死地へ追い込まれた人にとっては、ひとすじの光明である。
> 心身一如にならないと、坐禅が坐禅にならないんです。 』
脳内の神経細胞の結束が、心と呼ばれる。
0,5ミリの線虫にも味の好みがある、と言う。脳が無いのが線虫である。
神経の経験が好みを選ぶのである。 だから、心身ではなく、身心と言いう。
>> 私をバカにしたければすればよろしい。その代わり、地獄行きである。 』
地獄極楽。 極楽地獄。 一対のものだよね。 なので、地獄は極楽が無いと成立しない。
では極楽は、地獄がなければ、存在しえないのだろうか。そんな事は無く、極楽は、極楽そのもので、完結している。地獄は無用なのである。
地獄の住人は、どうやって救われてて行くのだろうか。地獄が極楽だったんだ、と自覚する、みずから めざめる、こう知れば、そのところが極楽とも言わず、地獄とも言わず、公平無比の横一列の地平線、水平線であり、日が昇り日が沈み、月が昇り、月が沈む、自他が無い。 これが 大切だよね。
> 南無阿弥陀仏 』
南無阿弥陀佛陀
帰依します
アンミータ
のっと、めーたー
量る事が出来ない
アミターユ
無量光
アミターバ
無量寿
佛
Buddha
佛陀
目覚めた者
本願を立て 救い取るぞと決意されている無量寿Buddha、無量光Buddha、に対し帰依します。
あけるぞ〜😄😄😄😄😭😭
お館様の
出陣は
まだか???
😭
独身を貫(つらぬ)いて程好(ほどよ)い労働。
酒を呑(の)みながらNHKテレビ。
量子(りょうし)コンピューター。
悟(さと)り。
神経疲労に効く漢方薬は加味帰脾湯(かみきひとう)である。
私は空気を読まない。
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私は空気を読まない。
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教師の握り拳(きょうし の にぎりこぶし)
肝心かなめの大事なこと、大切なこと、は、固く握りしめた手のひらの中に握りしめて決して他sに公開する事が無い。とは、よく言われることである。
真理(さとり)は言語によっては、容易に伝わらない。
生まれて以来の知識の蓄積が、それぞれがいろめがねを作り上げてしまっているから、本来の有りようが知識と言うスクリーン越しにしか見えない、からだ。
差別しない、分別しない、これとそれを分けない、である。
生者必滅(しょうじゃひつめつ)会者定離(えしゃじょうり) あえば、かならずのわかれである。
尊公、近頃、如何。(そんこう ちかごろ いかん)
こんにちは、さようなら。
禅は生死(しょうじ)を問う。
問う答えるて問答(もんどう)し師弟は対話し真理(さとり)を伝えてきた
佛とは、真理、ダルマ、法、であって人格的存在ではない。
公案は佛 真理(さとり) を 問う、
「両手で打てば音が鳴る、片手の人が叩く拍手の音を聞いてこい 」
諸行無常、諸法無我、一切皆空、涅槃寂静である。
禅とは、静かにする。
梵: dhy?na, ディヤーナ、巴: jh?na, ジャーナ、禅那:ぜんな)。 禅定(ぜんじょう、静慮(じょうりょ)
こころコロコロ、常が無い。無常である。
さとりとは、真理、法、ダルマである。
達磨さんはインドから中国にやって来たのか、来なかったのか。
ビッグバーン以来の一期一会である。
すずめはチュンチュンこんにちは、である。
道端のタンポポのさよなら、である。
出会えば別れるのである。
問う。「この座敷から坐のままで庭の30メートル先の築山(つきやま)に立つ石灯籠のロウソクの炎(ほのお)を吹き消せ」
中道是空(ちゅうどうぜくう。 ちゅうどうは これ くうなり)
空是中道(くうぜちゅうどう。 くうとは、これ ちゅうどうなり)
空とは、分別(ふんべつ)しないである。
空とは、一如(いちにょ) 一の如し(いちのごとし)である。
色即是空(しきそくぜくう)は空即是色(くうそくぜしき)へと還(かえ)る。である。
有馬記念は外れたのなw
何年競馬やっているんだ、考えすぎはダメだぞ!
と言うだけのもので、無gふぁ と言う言葉を出すだけで なにもかもを切り捨てる事は出来ない。
問いには立ち止まって、検討して行かないと此れにはこれと言う安易な振り分けになる。
理解(りげ)と言えば むしろ お上品になってしまうけれど、寒風不キス武功や、だね。
宗教のインドにおける語源は、如何に生きるか、と言うもので、あたまの中の変換ではない。
神の存在証明を2000年間立ってもまだやってるキリスト教神学の蜃気楼だね。
唯心論、唯物論は、一方の真理を言う、
唯、を取り払う。
心と物が矛盾なく存在しているのが、わたし達の日常なのではないだろ言うか。
尊公、近頃、如何。(そんこう ちかごろ いかん)。 こんにちは、さようなら。禅は生死(しょうじ)を問う。
問う答えるて問答(もんどう)し師弟は対話し真理(さとり)を伝えてきた
原初、禅とは、静かにするの意である。
梵: dhy?na, ディヤーナ、巴: jh?na, ジャーナ、禅那:ぜんな)。 禅定(ぜんじょう、静慮(じょうりょ)
さとりとは、真理、法、ダルマである。達磨さんはインドから中国にやって来たのか、来なかったのか。ビッグバーン以来の一期一会である。 すずめはチュンチュンこんにちは、である。道端のタンポポのさよなら、である。出会えば別れるのである。
空とは、分別(ふんべつ)しない、分けない、である。 一如(いちにょ) 一の如し(いちのごとし)である。
色即是空(しきそくぜくう)は空即是色(くうそくぜしき)へと還(かえ)る。
白隠慧鶴禅師(はくいん えかく ぜんじ) 隻手の音声(せきしゅのおんじょう)
両掌(りょうしょう)打って音声あり、隻手になんの声やある。 隻手の声を拈提(ねんてい)せよ。
片手の人が叩く拍手の音を聞いてこい。
問う。
『 この座敷から坐のままで庭の30メートル先の築山(つきやま)に立つ石灯籠のロウソクの炎(ほのお)を吹き消せ』
真理(さとり)は言語によっては、容易に伝わらない。
生まれて以来の知識の蓄積が本来の有りようが知識と言うスクリーン越しにしか見えない、からだ。
差別しない、分別しない、これとそれを分けない、である
「世界」を味わう興奮が、シリンダーを刺激し、美しくなっていくお肌に喜びを感じます。
自分が若くなっていく喜びが性欲なのです。
異性の性器の細かいところまで想像する必要があります。
「男性崇拝」こそが大事なのです。
声にする必要もあります。
「シリンダーを刺激して?柔らかい?私、優しくなれそう」
誰もみていないわ?
シリンダーがあなたの人生を破壊してやるの。
>>余りにも現実的な思考では型にハマった人生にしかならないのでしょう
そろそろ、輪廻転生ネタに突入しましょうか?
ただ、去年の11月中旬以降の「もっこりな世界パート1」の
書き込みを読んでいないので、
それを先に読んでおいたほうがいいのかな?
こっちで話そう。
でおーが悲しむから
度々戻っても来たが
楽しいお友達が出来たようで
これで俺も心おきなくブログの方に戻れる。
利用して来たと言ったが
今回のようなただ煽りを楽しむような輩が出て来ては、
メンタルダウンして撃沈されたって事で
いいよ。
ここに執着もないしな。
疲れるだけで
俺的に有られるものはない
あいつとのやり取りでは
結構おれは色々と収穫があった。
今回の輩はなー
ただの
ムームームーだろ
でおーは奴に出会えて大はじゃぎしてたから
これでおれも心おきなくブログに戻れるよ
ま、
やはり
襲撃者は
かなり
キツイからな〜
仕方がないな〜
😟
仕方がないな〜
😟
実況中継だ
😄
心理を
実況中継できなければ
やはり
😟
https://m.youtube.com/watch?v=I7XHSyyG29w&list=RDI7XHSyyG29w&start_radio=1
糞スレ終了。
結局、荒らしはタコ介だったというオチ。
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🫵 😂 🫵 😂 🫵 😂 🫵 😂 🫵 😂 🫵
🫵 😂サイコパス鹿野園(栖雲居士)の対処法😂 🫵
🫵 😂 🫵 😂 🫵 😂 🫵 😂 🫵 😂 🫵
🏥 🚑💨💨💨 👋😆
サイコパスに接する場合の心得・対処法。
【かかわらない・相手にしない・近づかない。】
ウソをついてると想定して聞く。
良心に訴えても不可能だと理解する。
世の中には良心を全く持たない者もいると理解すること。
人の心を操ろうとするのはサイコパスの特徴であり、そのゲームに決して加わらないこと。
サイコパスは治らない精神障害なので相手を治そうとしないこと。
自分の心を守る。
幸せに生きること【サイコパスに対してそれが一番の報復になる、なぜなら相手は自らの行いによって、生涯幸せにはなれないからです】
🫵 😂 🫵 😂 🫵 😂 🫵 😂 🫵 😂 🫵
🫵 😂 鹿野園(栖雲居士)はサイコパス 😂 🫵
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🏥 🚑💨💨💨 👋😆
サイコパスの10の特徴
表面上は口達者
利己的・自己中心的
自慢話をする
自分の非を認めない
結果至上主義
平然と嘘をつく
共感ができない
他人を操ろうとする
良心の欠如
刺激を求める
イチローや太郎や花子は、生まれたとき「イチロー」「太郎」「花子」と名づけられ、その名でよばれます。けれども、その三人を含む全人類がひとしく「人間」という普通名詞でよばれるのはどうしてでしょう。全人類を一人ひとり「人間」と命名していくなど、不可能です。
この問題は中世のキリスト教徒にとって、言仰の根拠に関わる大問題でした。アダムとイブの原罪が全人類におよぶのは、全員が「人間」という同じ名でよばれるからです。しかし、「人間」という言葉は、どうして普遍的に、つまり全人類にあてはまるのでしょう。
この問題を巡って三つの立場が登場し、それは普遍論争とよばれました。
ひとつは、だれもが人間とよばれるのに必要な性質を備えており、「人間」という本質・概念は、すべての人間のなかに現実に内在するという立場です。「普遍は個物のなか」にあるというアンセルムスらのこの立場は「概念実在論」とよばれました。
二つ目は、わたしたちが「ニンゲン」という名前を現に各人にあてはめているにすぎない、とするロスケリヌスらの立場です。「普遍は個物のあと」にくるというこの立場は「唯名論」とよばれます。
三つ目は、神がアダムを作ったとき、神の頭のなかには「自分の似姿」という「人間」についてのプランがあり、だから「人間」は全人類にあてはまるという、アベラールの立場です。「普遍は個物の前」にあったというこの立場は「概念論」とよばれます。
「神」とはどんな存在なのでしょう。そもそも存在するのでしょうか。この二つの難問をトマス・アクイナスは一気に解決します。
トマスは「本質」と「存在」の区別に注目しました。富士山は「日本一高い山」という本質をもち、現に存在します。ペガサスは「翼ある馬」という本質をもちますが、どこにも存在しません。
ところで、神については、その本質を規定することが許されません。「神は完全な存在だ」と言うのも、本当はいけないのです。そう言ってしまうと、神が不完全になる自由が奪われてしまいます。三船敏郎について「男のなかの男」という謳い文句ができると、もうオネエっぽくできなくなってしまいますが、それと同じです。
実は、『旧約聖書』で神は「在りて在るもの」、つまり、ひとえに存在することだけをその本質とする存在とされていました。神の本質と存在は区別されません。存在することが本質なら、神は必ず存在することになります。上の二つの問題は度に解決できました。
存在する、という以上の規定はないので、逆に、神はなんにでもなれる自由があります。なにをやっても自由で制約はありません。神がつくる世界にも制約はなく、人間にも制約はなく自由です。
かりに神がいても人間は自由だというこの帰結は、神学的決定論に対する強力な反論です。
神という現実離れした仮説でも、それについて徹底的に考えたとき、人間の在り方についての思わぬ逆転に結びつきます。これも哲学的思考の醍醐味です。
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トマス・アクィナス
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