【全宗教歓迎】悟りをひらいた人のスレ868【talk掲示板】slip最終更新 2024/11/21 13:261.栖雲居士50-r8j-VB-tJQ2juEW【ここはtalk掲示板 心と宗教 総合掲示板です】悟りをひらいた・霊的に生まれ変わったと思う人。悟りをひらきたい・霊的に生まれ変わりたいと思う人。悟りや霊性に対して懐疑的・批判的な人。宗教・宗派を超えて皆さん大歓迎!!<お約束> 名無しや荒らしはスルーでお願いします。 名無しは出禁。絶対にコテをつける事。 誹謗中傷はご法度です。即通報・即退場処分。 根拠は引用元等を明示して下さい。 否定されても発狂しないでね💕各論について以下の通り展開しております。既に解決済の項目もありますがご参照までに。<各論スレ>【異端】グノーシス思想は何故キリスト教から排除されたか【正統】 https://talk.jp/boards/psy/1721257847【大乗仏教の要頌書】『大乗起信論』についてのあれこれ【一心二門三大四信五行】 https://talk.jp/boards/psy/1719607469摂受と折伏について https://talk.jp/boards/psy/1718418652/1【教外別伝・不立文字】禅 宗 の 思 想 史【直指人心・見性成仏】 https://talk.jp/boards/psy/1711069123我の形成について(唯識学派の思想を中心にして) https://talk.jp/boards/psy/1696503547【仏教要語】色(r?pa)について【語義とその変遷】 https://talk.jp/boards/psy/1695449792【建撕記】「本来本法性、天然自性身」という疑問について【道元】 https://talk.jp/boards/psy/1694849007【仏教の煩瑣哲学】阿毘達磨倶舎論に付いて【世親著】 https://talk.jp/boards/psy/1694756671般若心経の「照見五蘊皆空」の意味について https://talk.jp/boards/psy/1691499457四禅の属界について考察するスレ https://talk.jp/boards/psy/1694416637<前スレ>【全宗教歓迎】悟りをひらいた人のスレ867【talk掲示板】https://talk.jp/boards/psy/1722735118それではどうぞ!※でおーは出禁処分とします。※ワッチョイ導入しました。2024/08/23 09:18:56187コメント欄へ移動すべて|最新の50件138.栖雲居士◆dqam8SqGUPdm50-lQn-YX-tJQ9dovEこのスレはトーシロー禁止。2024/11/20 17:54:16139.神も仏も名無しさん36-qpX-LO-w2MU1vWb>>137ちょっと君には期待したんだがねえ(*´ω`*)まあお互い精進しよな(・∀・)2024/11/20 17:55:52140.栖雲居士◆dqam8SqGUPdm50-0fJ-YX-tJQV28wb分かったから早く消えろ、知障www2024/11/20 18:05:14141.栖雲居士◆dqam8SqGUPdm50-0fJ-YX-tJQV28wbなんなんだ、この馬鹿😟2024/11/20 18:05:43142.栖雲居士◆dqam8SqGUPdm50-9e0-YX-tJQusgWBスレのルールも守れない馬鹿は、最初からお断り。バカと話しても時間の無駄になるだけ。2024/11/20 18:18:39143.神も仏も名無しさん36-qpX-LO-w2MU1vWb知見も浅いし精神薄弱やし君、自称する程やないな(・∀・)法介おじさんはもっと寛大やで(*´ω`*)己、頑張ろな(*´ω`*)2024/11/20 18:33:20144.栖雲居士◆dqam8SqGUPdm50-PU2-YX-tJQliJmFあー、わかったから馬鹿は消えろ。此処は敷居が高いから、お前の様な知障の来る場所じゃない。目障りだから来るな。2024/11/20 18:42:37145.栖雲居士◆dqam8SqGUPdm50-PU2-YX-tJQliJmFしつこいんだよ、馬鹿。低知能猿。2024/11/20 18:43:19146.神も仏も名無しさん36-qpX-LO-w2MU1vWb>>144何か最近弱っとるみたいとでおーさんが心配しとったけど大丈夫か?(*´ω`*)元気出して行こうぜ(・∀・)老病死でも心配なんかい2024/11/20 18:49:58147.神も仏も名無しさん36-qpX-LO-w2MU1vWbまあこれ聴いて元気出せや(*´ω`*)https://youtu.be/hXvDj6MgzCA?si=PBIYXtYggedYDKt72024/11/20 18:59:24148.栖雲居士◆dqam8SqGUPdm50-RP8-YX-tJQ75TUr煩いから透明あぼーんにした😟2024/11/20 19:09:00149.栖雲居士◆dqam8SqGUPdm50-aqq-nB-MROsCrqlバカの書いたレスの誤謬を親切に経典等の根拠を示して指摘しても、返ってくるのは逆ギレと誹謗中傷。これじゃまともな人は皆んな去って当たり前。特にひどいのはロンと法介。支離滅裂のデタラメばかり。あと誹謗中傷だけが生きがいでレスをするキチガイ。でおーやオウム残党、安堂。消えてもらいたい。2024/11/20 19:31:30150.栖雲居士◆dqam8SqGUPdm50-090-YX-tJQckTOi般若心経が般若経典群に属するのは云うまでもない訳で、であれば般若心経も言語によって構築された世界の虚構性を説示しているのでしょう。それが「縁起・無自性・空」であってそれらはシノニムとされるのです。2024/11/20 20:06:03151.栖雲居士◆dqam8SqGUPdm50-090-YX-tJQckTOi基本的に釈迦仏教は、「転変説」と「積聚説」の中道としての「縁起説」をたてたというのであって、般若経典群はそれを理論的に推し進めた経典類だって思うんです。そしてその一つの頂点が龍樹により『中論』に結晶されているのです。2024/11/20 20:19:17152.栖雲居士◆dqam8SqGUPdm50-090-YX-tJQckTOiそしてその縁起は、縁起は滅することなく生ずることなく断絶することなく常住することなく一義ではなく多義ではなく来ることなく去ることなく安らかに戯論を寂滅させるこのような縁起を説いた正覚者説法者中の最もすぐれた人その人(ブッダ)に私は敬意をささげるって『中論』の冒頭に説かれているんです。(上記はサンスクリット語より)2024/11/20 20:22:04153.神も仏も名無しさん50-cWb-Tx-SX5IpR5Yすげー躁転しとるなー🤡🤡🤡🤡🤡🤡2024/11/20 20:27:35154.栖雲居士◆dqam8SqGUPdm50-090-YX-tJQckTOi即あぼーん。そもそもこの話を理解出来るものは宗教板には居ないからな。2024/11/20 20:29:47155.栖雲居士◆dqam8SqGUPdm50-090-YX-tJQckTOi縁起はあくまでも「転変説」や「積聚説」或いは「自然説」という外道の見解を糺すための仮説であり、それは「相」だって事でありましょう。2024/11/20 20:37:40156.神も仏も名無しさん36-qpX-LO-w2MU1vWb>>152この縁起は舎利弗の呼び掛け2回目だよね(*´ω`*)有為法の縁起なのにまるで無為法の様に語る始めの舎利弗への呼び掛けは現世界での有為法の縁起(*´ω`*)敢えて舎利弗を2回呼び掛けたのは明らかに違う『空』を説いている2024/11/20 20:55:06157.栖雲居士◆dqam8SqGUPdm50-OKB-YX-tJQj3Ghq「空」の解釈は、 (一)空を実体視しないものと (二)それを実体視するものとの二つに分けることができる。前者(一)は早い時期に現われ、後者(二)は時代が下るにつれてより一層顕著になる傾向がある。空の元来の考え方も前者に近いものであったと思われる。後世、インド後期密教、チベット仏教のニンマ派、カギュ派、チョナン派、さらに中国や日本の密教の一部にあっては、空が恒久不変の実体(実在)と考えられるようになった。もっとも「実体」とはいえ、ヒンドゥーの実在論哲学における実体とは区別されるべきであることはいうまでもない。(一)の解釈においてもさまざまな違いがあるが、おおまかにいって、(1-a)「ものには自性(不変の実体)がない」と主張するに止まるものと、(1-b)「ものには自性がないが、生滅を伴う無自性なるものすなわち現象として現われる」と主張するものとの二つに分かれる。(1-a)は「ものには自性がない」という命題の合意するものを肯定命題として提起しようとしないが、(1-b)では「ものには自性がない」という命題は、ゆえに、「ものには無自性なるもの(現象)がある」を合意すると考えられる。もっともこれら二つの解釈は、空が究極的には言葉を越えた直観によって捉えられるもの-あるいはその直観そのもの-であると考える点では一致している。(一)は自性が空 (無)であるという意味で「自空説」と呼ばれてきた。2024/11/20 22:00:52158.栖雲居士◆dqam8SqGUPdm50-OKB-YX-tJQj3Ghq(二)の解釈も二種に大別される。前者は心身の五構成要素などのものは無自性であるが空(空性)自体は自性(実体)であるという考え方である(2-a)。この解釈では、全宇宙(全世界)は無自性なるもの(存在)と自性そのものである空との二者によって成り立っていると考えられている。すなわち、「自性がない」という否定はものの領域に対して適用されているが、もの以外の領域に属する空には適用されていないのである。この種の解釈は、特にチベット仏教のチョナン派の「他空説」に見られる。因みに、「空」という漢訳のサンスクリットは、「空なる[もの]」を意味する形容詞「シューニヤ」(sunya)である場合および「空なること、空性」を意味する名詞「シューニャター」(sunyata)である場合がある。(2-a)の解釈における「空」は「シューニャター」(空性)である。(二)の解釈の後者(2-b)は、根本真理としての空性が現象世界のものと無媒介に同一であると考えられる場合である。後に見るように、これは例えば『般若心経』の一節である「色即是空、空即是色」に対する諸解釈の一部に見られる。2024/11/20 22:01:33159.栖雲居士◆dqam8SqGUPdm50-OKB-YX-tJQj3Ghq「色」という限定が「空」といふ無限定に融けこむところ、これと同時に「空」が自分自身を「色」という限定に映じてゐるところ、ここに、さとりといふ無媒介の感覚が可能になるのである。(『東洋の心』 鈴木大拙 より)2024/11/20 22:08:09160.栖雲居士◆dqam8SqGUPdm50-OKB-YX-tJQj3Ghqここでわれわれは再び「空の論理とは何か」と問わねばならない。空が論理を越えているならば、「空の論理」とは矛盾ではないのか。空自体は論理を越えてはいるが、空という真理あるいは智恵を得るための道程として論理的思考の積み上げが必要というのか。『中論』の中に展開される論議を判断するに、たしかに「中論』における論議のほとんどが言葉の止滅した境地あるいは智へとれわれを導くための手段であることがわかる。とするならば、言葉には自らを乗りこえる力があといえるのか。もし言葉自体にその力がないならば、言葉を越え、言葉にはない力を有する空へとわれわれを導く存在はどのようなものなのか。言葉が自らを葬ることによって空へとわれわれを導くのではなく、言葉がある程度、止滅した段階において空が働いて、自らを顕現させるのであろうか。もしも空にそのような力を認めるとすれば、空はまさに作用を持つ実体的なものだと考えざるを得ない。ナーガールジュナは空(空性)に目的があるという。目的を有する空とはどのようなものか。このような問は際限なく続く。このことは間の設定が間違っているからではなく、言葉(あるいは世界)と空との関係そのものがそうさせるのだ。つまり、空は論理を越えているが、論理あるいは言葉とまったく無関係というわけではない。言葉は自らの存在が否定されることを知りつつも、空の前で自らを開こうとするのだ。「空の前で」自らを開きながら、やがて言葉は止滅すなわち「死」を経験する。その「死」は瞬間的なものであり、次の瞬間にはよみがえりが待っている。つまり、言葉が空において止滅するのは「再生」のための「死」なのである。2024/11/20 22:13:11161.栖雲居士◆dqam8SqGUPdm50-OKB-YX-tJQj3Ghqここら辺は西田幾多郎や井筒俊彦、或いは大森荘蔵なんかを読んでみて何とか理解が進んだというか、坐禅による直観的な体得の領域でしょう。直観的な体得がそれらによって言語化出来たとも云うべきか。2024/11/20 22:17:16162.栖雲居士◆dqam8SqGUPdm50-OKB-YX-tJQj3Ghq>「空」の解釈は、> (一)空を実体視しないものと> (二)それを実体視するもの>との二つに分けることができる。に於いて、第三の立場になると思える。西田幾多郎のいう絶対無の自己分節。2024/11/20 22:22:23163.栖雲居士◆dqam8SqGUPdm50-yoL-YX-tJQuec1A>生まれたばっかりの純粋な意識は、自分であるとか、自分はこうである、という思いは無いですよね?>意識そのものには、自他とか主客とか無いんだよな。。……また変な事を言い出したな😟向こうの掲示板に逼塞してればいいものを、わざわざトークまでしゃしゃり出て来て支離滅裂な事を言うとか。2024/11/21 07:03:27164.栖雲居士◆dqam8SqGUPdm50-yoL-YX-tJQuec1A碧眼録 第八十則 趙州初生孩子本則僧、趙州に問う、「初生の孩子、還って六識を具すや、またなしや?」。趙州云く、「急水上に毬子を打す」。僧復投子に問う、「急水上に毬子を打すと、意旨如何?」。子云く、「念念不停流」。頌六識無功 一問を伸ぶ作家曽って共に来端を弁ず茫茫たる急水に毬子を打す落処停まらず誰か看ることを解せん2024/11/21 07:06:00165.栖雲居士◆dqam8SqGUPdm50-yoL-YX-tJQuec1A急水上打毬子きゅうすいじょうにきゅうすをたす『禅語に学ぶ 生き方。死に方。』(西村惠信著・2010.07 禅文化研究所刊)より06月を表す季節の画像水流の上で手毬を撞くように急水上に毬子を打す―(『碧巌録』第八十則)ある僧が趙州に向かって、「生まれたばかりの赤ん坊にも意識というものがあるでしょうか」と尋ねると、趙州が、「急流の上で手毬を撞くようなものさ」と答えた。赤ん坊にそれができるとは、いったい如何なることか。急流の上で手毬を打つということは、およそ不可能なことである。可能であるとしても、尋常の素早さではできないであろう。しかも生まれたての赤ん坊にそれができるというのは、どういうことであろうか。 赤ん坊にはまだ理性が芽生えていないから、意識に飛び込んでくるものにだけ敏感に反応する。こちらが恐い顔をするとワット泣き出す。そこへガラガラの玩具を差し出してやると、ピタリと泣くのを止めて、ニコニコして喜ぶ。 こんな臨機応変のはたらきが大人にできるだろうか。大人になると、目に見えたり耳に聞こえたりする物に対して素直に反応せず、自分でこれは何だと考える。そこで判断をするわけであるが、この判断ほど事実を誤るものはなかろう。 赤ん坊にできることで、大人にはできないことが二つある。一つはその純粋な反応である。一々それが「何であるか」とか、「何故か」とか、「如何にすればいいか」というような判断を一切しない。判断というものは実に恣意的なものであり、自己本位なものである。とうぜん、判断には歪みが生じる。赤ん坊にはそういう自己中心の汚らわしさはなく、純粋な感覚的反応があるだけである。 もう一つは対象物に対する反応の素早さである。鏡のように無心に前のものを受け止めるだけで、予想とか記憶というような執着がない。これこそまさに「急水上で毬を打つ」ようなはたらきというべきであろう。2024/11/21 07:07:21166.栖雲居士◆dqam8SqGUPdm50-yoL-YX-tJQuec1A「識体転じて二分に似る、(中略)その二分に依って我法を施設」するのです(『成唯識論』より)。これを識転というのですが、心が転じて主観(見分)と客観(相分)、すなわち一心が二分割されて、見るものと見られるものに分かれるっていうんです。勿論、意識もその様に分析されている訳です。2024/11/21 07:25:10167.栖雲居士◆dqam8SqGUPdm50-yoL-YX-tJQuec1Aここでは「我の形成」について、唯識学派の思想を中心にして考えてみようと思います。先ず、「私の形成」について考えるにあたって、輪廻思想には賛否はあるものの「前の私は」について考えてみるのも面白いのかも知れませんので、ここでは先ずそれを話させて頂こうと思います。先ず「死」ですが、阿頼耶識が身体(有根身)をその認識対象から外した時、すなわち命根(寿(寿命)・煖(体温)・識(意識))の終わりによってそれを迎えるとされます。そしてここで阿頼耶識の対象は、執(種子)と受(身体)と処(宇宙)から執のみとなるようです。その後、識は色究境天を認識しますが、死の直前の「結生の識」によって転生先が決まるとされ、その期間が中有、いわゆる四十九日と呼ばれております。そして阿頼耶識の再びの新たな認識(有根身、器界)を経て転生するのです。ところで、末那識は「所生に随って繫せられる(唯識三十頌7−2)」と云われるように、転生先の世界(欲界・色界・無色界)の制約を受けるとされます。ただし、末那識と違って前六識(眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識)が所生の制約を受けないとされます。前六識は末那識より間接的な影響を受けるものの、所生の制約を受けないという事は、実にありがたいことではないでしょうか。2024/11/21 07:27:35168.栖雲居士◆dqam8SqGUPdm50-yoL-YX-tJQuec1Aところで仏教は「無(非)我説」ですから、実体(常・一・主・宰)としての我は否定する立場であります。先ず初期仏教では、人を 感覚器官(六根~眼根、耳根、鼻根、舌根、身根、意根) その対象(六処~色処、声処、香処、味処、触処、法処) その認識(六識~眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識)に分析し、またそれを物質的なものと精神的なものに総じた「五蘊(色蘊・受蘊・想蘊・行蘊・識蘊)説」によって、そのどれもが「我ではない」という「五蘊無(非)我説」を説いておりました。2024/11/21 07:29:23169.栖雲居士◆dqam8SqGUPdm50-yoL-YX-tJQuec1A素朴に考えると、我々は認識をしてる訳ですが、認識している以上はなにかそれを認識するものがあるというのが道理な訳で、その認識する者が「我」と考えても良いのではないかと思うんです。逆説的に、認識され得る対象以外が「我」とも云えるのでしょうが、となると「我」とは認識の対象とされ得ないものと云えるのかも知れません。ところで先に話したように「我」というのは五蘊(色蘊・受蘊・想蘊・行蘊・識蘊)に解体されると仏教では説くわけで、その解体された単体を個別に見た時、それらはどれも到底「我」とは云えないでしょうから(これを大乗仏教の視点では「折空観」とか云うそうですが)、その合成(仮和合(何故なら変化し解体されるから))つまり総体である五蘊は我では無い(或いは我に非ず)とするのでしょう。2024/11/21 07:30:33170.栖雲居士◆dqam8SqGUPdm50-yoL-YX-tJQuec1Aさて、認識するものが「我」であるとして、ではその認識はいかに生じるのでしょうか?初期仏教では五取蘊という執着によりその様な認識が生じると説かれていたのでしょうが、その後に意識の問題について考察された時、睡眠や気絶、或いは深い禅定に入った時はその意識の流れは一旦は途絶えるものの、意識が戻ると再びその流れが途絶以前の流れを相続していることからして、意識の根底のなにかしらの識があるのでは無いのかと考えられた訳です。いわゆる深層の識の発見であります2024/11/21 07:31:30171.栖雲居士◆dqam8SqGUPdm50-yoL-YX-tJQuec1Aそしてアサンガ(無著、Asaṅga )やヴァスバンドゥ(世親、Vasubandhu)等、いわゆる瑜伽行唯識学派と呼ばれる一派が形成される源流となるのですが、中期大乗経典である『解深密経』(Saṃdhinirmocana Sūtra)あるいはマイトレーヤ(弥勒、maitreya)の著作とされる『瑜伽師地論』(Yogācārabhūmi)等が先行してそうした思想が形成されたようです。また『解深密経』ではそうした深層識をアーダーナ識(阿陀那識、ādāna-vijñāna)或いはアーラヤ識(阿頼耶識、ālaya-vijñāna)と名付け、それが執着を生ずる種子(しゅうじ、bīja)を蔵してると説いているのです。2024/11/21 07:32:06172.栖雲居士◆dqam8SqGUPdm50-yoL-YX-tJQuec1Aでは、その意識の根源とはどう考えられているのでしょうか?初期仏教では人の 認識器官として六根(眼根、耳根、鼻根、舌根、身根、意根) その対象として六処(色処、声処、香処、味処、触処、法処) その認識として六識(眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識)を説いておりましたが、六識の内、前五識(眼識、耳識、鼻識、舌識、身識)がそれに対応する肉体の器官があるのに対して第六識(意識)意根が具体的に何を示すのかについて問題になったようであります。南方上座部では心臓を意根としており、また説一切有部(以下、有部)では「後依唯過去(『倶舎論』第四十三偈)」とあるのですが、すなわち前滅の識を意根のとしていたそうです。ところで瑜伽行唯識学派(以下、唯識学派)では、一方では有部の説を取り入れ意根を前滅の識としながら、一方では末那識を意識の意根としているんです。 >此中意有二種 >第一与作 等無間縁 所依所住。 >無間滅識、能与意識 作正依止。 >第二染汚 与四煩悩 恒共相応。 >一者薩迦耶見 二者我慢 三者我愛 四者無明。 >此即是識 雑染所依。 >識復由我 第一依生 第二雑染。 >了別境義故。 >等無間義故 意成二種。 >(『摂大乗論』 大正大蔵経31 133)しかしその後に成立した『成唯識論』では >此名何異第六識。此持業釈。 >如蔵識名 識即意故。 >彼依主釈。如眼識等。 >識異意故。 >(『成唯識論』 大正大蔵経31 19中−11)とある様に、末那識に統一されております。2024/11/21 07:33:24173.栖雲居士◆dqam8SqGUPdm50-yoL-YX-tJQuec1A先ず、説一切有部においては意根が「無間滅の意(一刹那前に滅した心)」としていた事を確認しておきたいのですが、ここで云う「心」とはすなわち五位七十五法で云う心法の「心(citta)」 であります。また併せて「根(indriya)」がいわゆる木や植物の根ではなく、能力、あるいはそれを生み出す力・能生であることも併せて確認しておきましょう。さて、唯識学派は六識だけではなくその下に作用する深層識を発見するのですが、その中に染汚意(kliṣṭa-manas)があることを発見し、それがやがて末那識と呼ばれるようになるのですが、それこそが意識の根、すなわち意根であると考えられるに至りました。では一体何故、唯識学派の論師達はその様に考えたのでしょうか?先ず、そのmanasとは「考える」とか「思う」という意味で、普通は「思量」と訳されますが、意識の意も末那識の末那も同じくmanasである事に着目して下さい。その末那識は阿頼耶識に対して四煩悩を有して恒審思量しているのですが、その第一に薩迦耶見(satkāya-dṛṣṭi)が挙げられるのですが、これは”自他を区別して見る個別に実在するものとしてみる妄想”であります。ところで意根は法境を対象にするのですが、その対象化、見るものと見られるもの、すなわち自他の区別は一体何によって形成されるのでしょうか?それは「ことば」でなないのかと唯識学派は考えた訳です。「ことば」による分節が対象化の形相因と考えた訳です。そしてその意識によることばでの分節は、云うまでもなく自他との区別に他ならないはたらきでありますから、それを生み出す力すなわち能生として、すなわち意根を自他を区別する思量を為す末那識にそれを求めた訳であります。2024/11/21 07:33:58174.栖雲居士◆dqam8SqGUPdm50-yoL-YX-tJQuec1A>生まれたばっかりの純粋な意識は、自分であるとか、自分はこうである、という思いは無いですよね?>意識そのものには、自他とか主客とか無いんだよな。。はい、いかにこれが噴飯物かお分かり頂けましたでしょうか。十二支縁起はご存知かと思いますが、我々が生まれてくる事自体、それは無明に起因している訳で、結生の識に拠るのです。瑜伽行唯識学派によれば、我々は阿頼耶識という意識の深層を有しており、生まれるという事はそういう事であり、阿頼耶識とは、ある意味、分別を生じさせる言語の貯蔵庫(言語種子)であり、有根身(肉体)の変化に依ってその種子が現行するのです。つまり、生まれたばかりであろうが、意識そのものであろうが、それそのものが識体の二分であり、無明に起因しているのであって、また、その深層には分別を生じさせる言語種子が蔵されているのです。2024/11/21 07:50:57175.栖雲居士◆dqam8SqGUPdm50-yoL-YX-tJQuec1Aそれ故に、八識(眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識・末那識・阿頼耶識)を修道により、大円鏡智、平等性智、妙観察智、成所作智に識転させましょう、というのが瑜伽行唯識学派の理路なのであります。2024/11/21 07:54:40176.栖雲居士◆dqam8SqGUPdm50-yoL-YX-tJQuec1A要するに、意識という表層をいじっても、深層にある阿頼耶識が転識得智にしなければ意味がないという事です。2024/11/21 08:02:26177.栖雲居士◆dqam8SqGUPdm50-3ne-YX-tJQC0t52ちなみに、現行の鬼和尚は二代目。先代は宗教板から引退した。というか、あれは偽和尚と名乗る奴の自作自演・自問自答・自画自賛だったからな。自作〜偽和尚自演〜鬼和尚自問〜健真等自答〜鬼和尚自画〜偽和尚自賛〜健真等だった。2024/11/21 08:43:56178.神も仏も名無しさん50-EJR-Tx-SX5OMvvw躁転無間回転〜セイウンコーンだったー🤡🤡🤡🤡🤡🤡🤡2024/11/21 09:08:20179.栖雲居士◆dqam8SqGUPdm50-1yl-YX-tJQCnTKlあ、解決済とか、それは真に受けてはいけません。おそらくそれは仏性論や如来蔵思想、或いは即(触)事而真に由来する方便なのでしょうが、仏性論や如来蔵思想)はあくまでも開発によって成仏の可能性を有した仏性を人はあらかじめ有しているという事であり、また、即(触)事而真というのは「はなはだ不可思議なことよ。世尊は、真際(真理)を動かすことなく、諸法は成り立っている、と言われた。真理を離れて諸法が成り立っているのではない。諸法のあるところ、そこにこそ真理がある」(『肇論』僧肇 より)というものでしょうが、それはあくまでも仏性が開発されて成道された如来の知見なのです。2024/11/21 09:38:44180.栖雲居士◆dqam8SqGUPdm50-1yl-YX-tJQCnTKl般若の知見も得ず成道してない我々には、当然に未解決な訳です。また、その様な「解決済」みたいなのは華厳の思想であって、そうとは説かない宗派もあるのです。では、仮にその解決済みを確認すれば終わりなのでしょうか?勿論違います。道元さんは修証一等と云い、臨済流は自己の主体性を説きます。鈴木大拙さんが「肘、外に曲がらず」って契当された話は有名な話ですが、そこで修道が終わった訳ではないのです。2024/11/21 09:59:39181.栖雲居士◆dqam8SqGUPdm50-1yl-YX-tJQCnTKl臨済流は「理致・機関・向上」を説くのですが、先の話の文脈でいう解決済は、その理致の段階でありましょう。見道とか見性と云ってもいいかと思います。そしてその解決済というのを機関、すなわち「はたらき」に転化し、さらには向上、すなわち解決済を超えてゆくのが臨済流の修道論だって思うんです。2024/11/21 10:05:33182.栖雲居士◆dqam8SqGUPdm50-0fJ-YX-tJQZgRW0さて、純粋意識というのが、フッサールのいう現象学的還元の事を云うかどうかは一旦さておき、それは瑜伽行唯識学派で云う「現量」の事ではないのだろうか。すなわち、言語の介在しない対象物の直観的な把握の事でしょう。何処ぞの僧が「パチンが分かれば仏教は卒業」と抜かしたそうですが、それが「分かり様の無いものを分かる訳はない」という主旨で言ったのか、或いは現量の事を言ったのかはともかく、仮に後者の意味で言ってたとすれば、仏教はそうな甘いものではない。2024/11/21 12:10:44183.栖雲居士◆dqam8SqGUPdm50-0fJ-YX-tJQZgRW0マロニエの根はちょうどベンチの下のところで深く大地につき刺さっていた。それが根というものだということは、もはや私の意識には全然なかった。あらゆる語は消え失せていた。そしてそれと同時に、事物の意義も、その使い方も、またそれらの事物の表面に人間が引いた弱い符牒の線も。背を丸め気味に、頭を垂れ、たった独りで私は、全く生のままのその黒々と節くれ立った、恐ろしい塊りに面と向って坐っていた。(『嘔吐』 サルトル より)2024/11/21 12:14:02184.神も仏も名無しさん50-oqZ-Tx-z8s3TQfn混ぜ合わせガンバー🤡🤡🤡🤡🤡2024/11/21 12:19:55185.栖雲居士◆dqam8SqGUPdm50-0fJ-YX-tJQZgRW0これでも気を使って、俺はこのスレの次スレに先行して書いてる。此処で俺が書いてる時は、トーシローや知障は書くな。2024/11/21 12:46:51186.栖雲居士◆dqam8SqGUPdm50-0fJ-YX-tJQZgRW0一応、このスレについて。【ここはtalk掲示板 心と宗教 総合掲示板です】悟りをひらいた・霊的に生まれ変わったと思う人。悟りをひらきたい・霊的に生まれ変わりたいと思う人。悟りや霊性に対して懐疑的・批判的な人。宗教・宗派を超えて皆さん大歓迎!!<お約束> 名無しや荒らしはスルーでお願いします。 名無しは出禁。絶対にコテをつける事。 誹謗中傷はご法度です。即通報・即退場処分。 根拠は引用元等を明示して下さい。 否定されても発狂しないでね💕それではどうぞ!※でおーは出禁処分とします。※ワッチョイ導入しました。2024/11/21 12:55:05187.栖雲居士◆dqam8SqGUPdm50-i2W-YX-tJQslhIt※私は常に先行スレを立てて、そこに一人で勝手に書いてますので、皆様と直接レスのやり取りは基本的にしてません。※その鬼和尚は、二代目鬼和尚です。 当人(初代)は引退して二代目に禅譲してます。 初代と私が公認してますので、ご愛顧下さい💕※名無しは出禁です(でおーも)。 その他の方の制約は特にありません。2024/11/21 13:26:01
【埼玉栄高校】涙ぐむ人…高2死亡、窓から身を乗り出して車が横転 深夜グラウンドで 高校が説明会、保護者「ずさんであり得ない」 頭を下げてあいさつし、真面目な生徒が多い学校「いたたまれない」ニュース速報+5161596.32024/11/21 18:22:44
悟りをひらいた・霊的に生まれ変わったと思う人。
悟りをひらきたい・霊的に生まれ変わりたいと思う人。
悟りや霊性に対して懐疑的・批判的な人。
宗教・宗派を超えて皆さん大歓迎!!
<お約束>
名無しや荒らしはスルーでお願いします。
名無しは出禁。絶対にコテをつける事。
誹謗中傷はご法度です。即通報・即退場処分。
根拠は引用元等を明示して下さい。
否定されても発狂しないでね💕
各論について以下の通り展開しております。
既に解決済の項目もありますがご参照までに。
<各論スレ>
【異端】グノーシス思想は何故キリスト教から排除されたか【正統】
https://talk.jp/boards/psy/1721257847
【大乗仏教の要頌書】『大乗起信論』についてのあれこれ【一心二門三大四信五行】
https://talk.jp/boards/psy/1719607469
摂受と折伏について
https://talk.jp/boards/psy/1718418652/1
【教外別伝・不立文字】禅 宗 の 思 想 史【直指人心・見性成仏】
https://talk.jp/boards/psy/1711069123
我の形成について(唯識学派の思想を中心にして)
https://talk.jp/boards/psy/1696503547
【仏教要語】色(r?pa)について【語義とその変遷】
https://talk.jp/boards/psy/1695449792
【建撕記】「本来本法性、天然自性身」という疑問について【道元】
https://talk.jp/boards/psy/1694849007
【仏教の煩瑣哲学】阿毘達磨倶舎論に付いて【世親著】
https://talk.jp/boards/psy/1694756671
般若心経の「照見五蘊皆空」の意味について
https://talk.jp/boards/psy/1691499457
四禅の属界について考察するスレ
https://talk.jp/boards/psy/1694416637
<前スレ>
【全宗教歓迎】悟りをひらいた人のスレ867【talk掲示板】
https://talk.jp/boards/psy/1722735118
それではどうぞ!
※でおーは出禁処分とします。
※ワッチョイ導入しました。
ちょっと君には期待したんだがねえ(*´ω`*)
まあお互い精進しよな(・∀・)
バカと話しても時間の無駄になるだけ。
知見も浅いし精神薄弱やし君、自称する程やないな(・∀・)
法介おじさんはもっと寛大やで(*´ω`*)
己、頑張ろな(*´ω`*)
此処は敷居が高いから、お前の様な知障の来る場所じゃない。
目障りだから来るな。
低知能猿。
何か最近弱っとるみたいとでおーさんが心配しとったけど大丈夫か?(*´ω`*)
元気出して行こうぜ(・∀・)
老病死でも心配なんかい
まあこれ聴いて元気出せや(*´ω`*)
https://youtu.be/hXvDj6MgzCA?si=PBIYXtYggedYDKt7
これじゃまともな人は皆んな去って当たり前。
特にひどいのはロンと法介。
支離滅裂のデタラメばかり。
あと誹謗中傷だけが生きがいでレスをするキチガイ。
でおーやオウム残党、安堂。
消えてもらいたい。
それが「縁起・無自性・空」であってそれらはシノニムとされるのです。
そしてその一つの頂点が龍樹により『中論』に結晶されているのです。
縁起は
滅することなく生ずることなく
断絶することなく常住することなく
一義ではなく多義ではなく
来ることなく去ることなく
安らかに戯論を寂滅させる
このような縁起を説いた正覚者
説法者中の最もすぐれた人
その人(ブッダ)に私は敬意をささげる
って『中論』の冒頭に説かれているんです。
(上記はサンスクリット語より)
躁転しとるなー
🤡🤡🤡🤡🤡🤡
そもそもこの話を理解出来るものは宗教板には居ないからな。
この縁起は舎利弗の呼び掛け2回目だよね(*´ω`*)
有為法の縁起なのにまるで無為法の様に語る
始めの舎利弗への呼び掛けは現世界での有為法の縁起(*´ω`*)
敢えて舎利弗を2回呼び掛けたのは明らかに違う『空』を説いている
(一)空を実体視しないものと
(二)それを実体視するもの
との二つに分けることができる。
前者(一)は早い時期に現われ、後者(二)は時代が下るにつれてより一層顕著になる傾向がある。
空の元来の考え方も前者に近いものであったと思われる。
後世、インド後期密教、チベット仏教のニンマ派、カギュ派、チョナン派、さらに中国や日本の密教の一部にあっては、空が恒久不変の実体(実在)と考えられるようになった。
もっとも「実体」とはいえ、ヒンドゥーの実在論哲学における実体とは区別されるべきであることはいうまでもない。
(一)の解釈においてもさまざまな違いがあるが、おおまかにいって、
(1-a)「ものには自性(不変の実体)がない」と主張するに止まるものと、
(1-b)「ものには自性がないが、生滅を伴う無自性なるものすなわち現象として現われる」と主張するものとの二つに分かれる。
(1-a)は「ものには自性がない」という命題の合意するものを肯定命題として提起しようとしないが、(1-b)では「ものには自性がない」という命題は、ゆえに、「ものには無自性なるもの(現象)がある」を合意すると考えられる。
もっともこれら二つの解釈は、空が究極的には言葉を越えた直観によって捉えられるもの-あるいはその直観そのもの-であると考える点では一致している。
(一)は自性が空 (無)であるという意味で「自空説」と呼ばれてきた。
前者は心身の五構成要素などのものは無自性であるが空(空性)自体は自性(実体)であるという考え方である(2-a)。
この解釈では、全宇宙(全世界)は無自性なるもの(存在)と自性そのものである空との二者によって成り立っていると考えられている。
すなわち、「自性がない」という否定はものの領域に対して適用されているが、もの以外の領域に属する空には適用されていないのである。
この種の解釈は、特にチベット仏教のチョナン派の「他空説」に見られる。
因みに、「空」という漢訳のサンスクリットは、「空なる[もの]」を意味する形容詞「シューニヤ」(sunya)である場合および「空なること、空性」を意味する名詞「シューニャター」(sunyata)である場合がある。
(2-a)の解釈における「空」は「シューニャター」(空性)である。
(二)の解釈の後者(2-b)は、根本真理としての空性が現象世界のものと無媒介に同一であると考えられる場合である。
後に見るように、これは例えば『般若心経』の一節である「色即是空、空即是色」に対する諸解釈の一部に見られる。
(『東洋の心』 鈴木大拙 より)
空が論理を越えているならば、「空の論理」とは矛盾ではないのか。
空自体は論理を越えてはいるが、空という真理あるいは智恵を得るための道程として論理的思考の積み上げが必要というのか。
『中論』の中に展開される論議を判断するに、たしかに「中論』における論議のほとんどが言葉の止滅した境地あるいは智へとれわれを導くための手段であることがわかる。
とするならば、言葉には自らを乗りこえる力があといえるのか。
もし言葉自体にその力がないならば、言葉を越え、言葉にはない力を有する空へとわれわれを導く存在はどのようなものなのか。
言葉が自らを葬ることによって空へとわれわれを導くのではなく、言葉がある程度、止滅した段階において空が働いて、自らを顕現させるのであろうか。
もしも空にそのような力を認めるとすれば、空はまさに作用を持つ実体的なものだと考えざるを得ない。
ナーガールジュナは空(空性)に目的があるという。目的を有する空とはどのようなものか。
このような問は際限なく続く。このことは間の設定が間違っているからではなく、言葉(あるいは世界)と空との関係そのものがそうさせるのだ。
つまり、空は論理を越えているが、論理あるいは言葉とまったく無関係というわけではない。
言葉は自らの存在が否定されることを知りつつも、空の前で自らを開こうとするのだ。
「空の前で」自らを開きながら、やがて言葉は止滅すなわち「死」を経験する。
その「死」は瞬間的なものであり、次の瞬間にはよみがえりが待っている。つまり、言葉が空において止滅するのは「再生」のための「死」なのである。
直観的な体得がそれらによって言語化出来たとも云うべきか。
> (一)空を実体視しないものと
> (二)それを実体視するもの
>との二つに分けることができる。
に於いて、第三の立場になると思える。
西田幾多郎のいう絶対無の自己分節。
>意識そのものには、自他とか主客とか無いんだよな。。
……また変な事を言い出したな😟
向こうの掲示板に逼塞してればいいものを、わざわざトークまでしゃしゃり出て来て支離滅裂な事を言うとか。
本則
僧、趙州に問う、「初生の孩子、還って六識を具すや、またなしや?」。
趙州云く、「急水上に毬子を打す」。
僧復投子に問う、「急水上に毬子を打すと、意旨如何?」。
子云く、「念念不停流」。
頌
六識無功 一問を伸ぶ
作家曽って共に来端を弁ず
茫茫たる急水に毬子を打す
落処停まらず誰か看ることを解せん
きゅうすいじょうにきゅうすをたす
『禅語に学ぶ 生き方。死に方。』
(西村惠信著・2010.07 禅文化研究所刊)より
06月を表す季節の画像
水流の上で手毬を撞くように
急水上に毬子を打す―(『碧巌録』第八十則)
ある僧が趙州に向かって、「生まれたばかりの赤ん坊にも意識というものがあるでしょうか」と尋ねると、趙州が、「急流の上で手毬を撞くようなものさ」と答えた。赤ん坊にそれができるとは、いったい如何なることか。
急流の上で手毬を打つということは、およそ不可能なことである。可能であるとしても、尋常の素早さではできないであろう。しかも生まれたての赤ん坊にそれができるというのは、どういうことであろうか。
赤ん坊にはまだ理性が芽生えていないから、意識に飛び込んでくるものにだけ敏感に反応する。こちらが恐い顔をするとワット泣き出す。そこへガラガラの玩具を差し出してやると、ピタリと泣くのを止めて、ニコニコして喜ぶ。
こんな臨機応変のはたらきが大人にできるだろうか。大人になると、目に見えたり耳に聞こえたりする物に対して素直に反応せず、自分でこれは何だと考える。そこで判断をするわけであるが、この判断ほど事実を誤るものはなかろう。
赤ん坊にできることで、大人にはできないことが二つある。一つはその純粋な反応である。一々それが「何であるか」とか、「何故か」とか、「如何にすればいいか」というような判断を一切しない。判断というものは実に恣意的なものであり、自己本位なものである。とうぜん、判断には歪みが生じる。赤ん坊にはそういう自己中心の汚らわしさはなく、純粋な感覚的反応があるだけである。
もう一つは対象物に対する反応の素早さである。鏡のように無心に前のものを受け止めるだけで、予想とか記憶というような執着がない。これこそまさに「急水上で毬を打つ」ようなはたらきというべきであろう。
これを識転というのですが、心が転じて主観(見分)と客観(相分)、すなわち一心が二分割されて、見るものと見られるものに分かれるっていうんです。
勿論、意識もその様に分析されている訳です。
先ず、「私の形成」について考えるにあたって、輪廻思想には賛否はあるものの「前の私は」について考えてみるのも面白いのかも知れませんので、ここでは先ずそれを話させて頂こうと思います。
先ず「死」ですが、阿頼耶識が身体(有根身)をその認識対象から外した時、すなわち命根(寿(寿命)・煖(体温)・識(意識))の終わりによってそれを迎えるとされます。
そしてここで阿頼耶識の対象は、執(種子)と受(身体)と処(宇宙)から執のみとなるようです。
その後、識は色究境天を認識しますが、死の直前の「結生の識」によって転生先が決まるとされ、その期間が中有、いわゆる四十九日と呼ばれております。
そして阿頼耶識の再びの新たな認識(有根身、器界)を経て転生するのです。
ところで、末那識は「所生に随って繫せられる(唯識三十頌7−2)」と云われるように、転生先の世界(欲界・色界・無色界)の制約を受けるとされます。
ただし、末那識と違って前六識(眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識)が所生の制約を受けないとされます。
前六識は末那識より間接的な影響を受けるものの、所生の制約を受けないという事は、実にありがたいことではないでしょうか。
先ず初期仏教では、人を
感覚器官(六根~眼根、耳根、鼻根、舌根、身根、意根)
その対象(六処~色処、声処、香処、味処、触処、法処)
その認識(六識~眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識)
に分析し、またそれを物質的なものと精神的なものに総じた「五蘊(色蘊・受蘊・想蘊・行蘊・識蘊)説」によって、そのどれもが「我ではない」という「五蘊無(非)我説」を説いておりました。
逆説的に、認識され得る対象以外が「我」とも云えるのでしょうが、となると「我」とは認識の対象とされ得ないものと云えるのかも知れません。
ところで先に話したように「我」というのは五蘊(色蘊・受蘊・想蘊・行蘊・識蘊)に解体されると仏教では説くわけで、その解体された単体を個別に見た時、それらはどれも到底「我」とは云えないでしょうから(これを大乗仏教の視点では「折空観」とか云うそうですが)、その合成(仮和合(何故なら変化し解体されるから))つまり総体である五蘊は我では無い(或いは我に非ず)とするのでしょう。
初期仏教では五取蘊という執着によりその様な認識が生じると説かれていたのでしょうが、その後に意識の問題について考察された時、睡眠や気絶、或いは深い禅定に入った時はその意識の流れは一旦は途絶えるものの、意識が戻ると再びその流れが途絶以前の流れを相続していることからして、意識の根底のなにかしらの識があるのでは無いのかと考えられた訳です。
いわゆる深層の識の発見であります
また『解深密経』ではそうした深層識をアーダーナ識(阿陀那識、ādāna-vijñāna)或いはアーラヤ識(阿頼耶識、ālaya-vijñāna)と名付け、それが執着を生ずる種子(しゅうじ、bīja)を蔵してると説いているのです。
初期仏教では人の
認識器官として六根(眼根、耳根、鼻根、舌根、身根、意根)
その対象として六処(色処、声処、香処、味処、触処、法処)
その認識として六識(眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識)
を説いておりましたが、六識の内、前五識(眼識、耳識、鼻識、舌識、身識)がそれに対応する肉体の器官があるのに対して第六識(意識)意根が具体的に何を示すのかについて問題になったようであります。
南方上座部では心臓を意根としており、また説一切有部(以下、有部)では「後依唯過去(『倶舎論』第四十三偈)」とあるのですが、すなわち前滅の識を意根のとしていたそうです。
ところで瑜伽行唯識学派(以下、唯識学派)では、一方では有部の説を取り入れ意根を前滅の識としながら、一方では末那識を意識の意根としているんです。
>此中意有二種
>第一与作 等無間縁 所依所住。
>無間滅識、能与意識 作正依止。
>第二染汚 与四煩悩 恒共相応。
>一者薩迦耶見 二者我慢 三者我愛 四者無明。
>此即是識 雑染所依。
>識復由我 第一依生 第二雑染。
>了別境義故。
>等無間義故 意成二種。
>(『摂大乗論』 大正大蔵経31 133)
しかしその後に成立した『成唯識論』では
>此名何異第六識。此持業釈。
>如蔵識名 識即意故。
>彼依主釈。如眼識等。
>識異意故。
>(『成唯識論』 大正大蔵経31 19中−11)
とある様に、末那識に統一されております。
また併せて「根(indriya)」がいわゆる木や植物の根ではなく、能力、あるいはそれを生み出す力・能生であることも併せて確認しておきましょう。
さて、唯識学派は六識だけではなくその下に作用する深層識を発見するのですが、その中に染汚意(kliṣṭa-manas)があることを発見し、それがやがて末那識と呼ばれるようになるのですが、それこそが意識の根、すなわち意根であると考えられるに至りました。
では一体何故、唯識学派の論師達はその様に考えたのでしょうか?
先ず、そのmanasとは「考える」とか「思う」という意味で、普通は「思量」と訳されますが、意識の意も末那識の末那も同じくmanasである事に着目して下さい。
その末那識は阿頼耶識に対して四煩悩を有して恒審思量しているのですが、その第一に薩迦耶見(satkāya-dṛṣṭi)が挙げられるのですが、これは”自他を区別して見る個別に実在するものとしてみる妄想”であります。
ところで意根は法境を対象にするのですが、その対象化、見るものと見られるもの、すなわち自他の区別は一体何によって形成されるのでしょうか?
それは「ことば」でなないのかと唯識学派は考えた訳です。
「ことば」による分節が対象化の形相因と考えた訳です。
そしてその意識によることばでの分節は、云うまでもなく自他との区別に他ならないはたらきでありますから、それを生み出す力すなわち能生として、すなわち意根を自他を区別する思量を為す末那識にそれを求めた訳であります。
>意識そのものには、自他とか主客とか無いんだよな。。
はい、いかにこれが噴飯物かお分かり頂けましたでしょうか。
十二支縁起はご存知かと思いますが、我々が生まれてくる事自体、それは無明に起因している訳で、結生の識に拠るのです。
瑜伽行唯識学派によれば、我々は阿頼耶識という意識の深層を有しており、生まれるという事はそういう事であり、阿頼耶識とは、ある意味、分別を生じさせる言語の貯蔵庫(言語種子)であり、有根身(肉体)の変化に依ってその種子が現行するのです。
つまり、生まれたばかりであろうが、意識そのものであろうが、それそのものが識体の二分であり、無明に起因しているのであって、また、その深層には分別を生じさせる言語種子が蔵されているのです。
先代は宗教板から引退した。
というか、あれは偽和尚と名乗る奴の自作自演・自問自答・自画自賛だったからな。
自作〜偽和尚
自演〜鬼和尚
自問〜健真等
自答〜鬼和尚
自画〜偽和尚
自賛〜健真等
だった。
だったー
🤡🤡🤡🤡🤡🤡🤡
おそらくそれは仏性論や如来蔵思想、或いは即(触)事而真に由来する方便なのでしょうが、仏性論や如来蔵思想)はあくまでも開発によって成仏の可能性を有した仏性を人はあらかじめ有しているという事であり、また、即(触)事而真というのは
「はなはだ不可思議なことよ。世尊は、真際(真理)を動かすことなく、諸法は成り立っている、と言われた。真理を離れて諸法が成り立っているのではない。諸法のあるところ、そこにこそ真理がある」(『肇論』僧肇 より)
というものでしょうが、それはあくまでも仏性が開発されて成道された如来の知見なのです。
また、その様な「解決済」みたいなのは華厳の思想であって、そうとは説かない宗派もあるのです。
では、仮にその解決済みを確認すれば終わりなのでしょうか?
勿論違います。
道元さんは修証一等と云い、臨済流は自己の主体性を説きます。
鈴木大拙さんが「肘、外に曲がらず」って契当された話は有名な話ですが、そこで修道が終わった訳ではないのです。
見道とか見性と云ってもいいかと思います。
そしてその解決済というのを機関、すなわち「はたらき」に転化し、さらには向上、すなわち解決済を超えてゆくのが臨済流の修道論だって思うんです。
すなわち、言語の介在しない対象物の直観的な把握の事でしょう。
何処ぞの僧が「パチンが分かれば仏教は卒業」と抜かしたそうですが、それが「分かり様の無いものを分かる訳はない」という主旨で言ったのか、或いは現量の事を言ったのかはともかく、仮に後者の意味で言ってたとすれば、仏教はそうな甘いものではない。
それが根というものだということは、もはや私の意識には全然なかった。あらゆる語は消え失せていた。
そしてそれと同時に、事物の意義も、その使い方も、またそれらの事物の表面に人間が引いた弱い符牒の線も。背を丸め気味に、頭を垂れ、たった独りで私は、全く生のままのその黒々と節くれ立った、恐ろしい塊りに面と向って坐っていた。
(『嘔吐』 サルトル より)
🤡🤡🤡🤡🤡
此処で俺が書いてる時は、トーシローや知障は書くな。
【ここはtalk掲示板 心と宗教 総合掲示板です】
悟りをひらいた・霊的に生まれ変わったと思う人。
悟りをひらきたい・霊的に生まれ変わりたいと思う人。
悟りや霊性に対して懐疑的・批判的な人。
宗教・宗派を超えて皆さん大歓迎!!
<お約束>
名無しや荒らしはスルーでお願いします。
名無しは出禁。絶対にコテをつける事。
誹謗中傷はご法度です。即通報・即退場処分。
根拠は引用元等を明示して下さい。
否定されても発狂しないでね💕
それではどうぞ!
※でおーは出禁処分とします。
※ワッチョイ導入しました。
※その鬼和尚は、二代目鬼和尚です。
当人(初代)は引退して二代目に禅譲してます。
初代と私が公認してますので、ご愛顧下さい💕
※名無しは出禁です(でおーも)。
その他の方の制約は特にありません。