tathāgata eva, Śāriputra, tathāgatasya dharmaṁ deśayet. yaṁ dharmaṁ tathāgato jānāti, sarvadharmān api, Śāriputra, tathāgata eva deśayati, sarvadharmān api tathāgata eva jānāti. ye ca te dharmāḥ, yathā ca te dharmāḥ, yadṛśāś ca te dharmāḥ, yat-lakṣaṇāś ca te dharmāḥ, yat-svabhāvāś ca te dharmāḥ, teṣu dharmeṣu tathāgata eva pratyakṣo ’parokṣaḥ.
98.
神も仏も名無しさん50-xQF-fb-QHc
SOeuG
tathāgata eva, Śāriputra, tathāgatasya dharmaṁ deśayet. yaṁ dharmaṁ tathāgataḥ jānāti, sarvadharmān api, Śāriputra, tathāgata eva deśayati. sarvadharmān api tathāgata eva jānāti. ye ca te dharmāḥ, yathā ca te dharmāḥ, yadṛśāś ca te dharmāḥ, yat-lakṣaṇāś ca te dharmāḥ, yat-svabhāvāś ca te dharmāḥ, teṣu dharmeṣu tathāgata eva pratyakṣo ’parokṣaḥ.
99.
神も仏も名無しさん50-xQF-fb-QHc
SOeuG
tathagataeva Sariputra tathagatasya dharmam desayed yan dharmams tathagato janati sarvadharmam api Sariputra tathâgata eva desayati sarvadharmam api tathā-gata eva janäti ye ca te dharma yatha ca te dharma yadrsas ca te dharma yal laksanas ca te dharma yat svabhavas cate dharmäh yecayathã ca yadrsas ca yal laksanas ca yat svabhavas ca te dharmã iti/ tesu dharmesu tathagata eva pratyakso 'paroksah
100.
神も仏も名無しさん50-xQF-fb-QHc
SOeuG
tathāgata eva, Śāriputra, tathāgatasya dharmaṁ deśayet. yaṁ dharmaṁ tathāgataḥ jānāti, sarvadharmān api, Śāriputra, tathāgata eva deśayati sarvadharmān api tathāgata eva jānāti
ye ca te dharmāḥ, yathā ca te dharmāḥ, yadṛśāś ca te dharmāḥ, yat-lakṣaṇāś ca te dharmāḥ, yat-svabhāvāś ca te dharmāḥ,
101.
神も仏も名無しさん50-xQF-fb-QHc
SOeuG
ye ca te dharma yatha ca te dharma yadrsas ca te dharma yal laksanas ca te dharma yat svabhavas ca te dharmäh yecayathãca yadrsas ca yal laksanas ca yat svabhavas ca te dharmã iti/ tesu dharmesu tathagata
102.
神も仏も名無しさん50-xQF-fb-QHc
SOeuG
ye ca te dharmā yathā ca te dharmā yādṛśāś ca te dharmā yal-lakṣaṇāś ca te dharmā yat-svabhāvāś ca te dharmāḥ / ye ca yathā ca yādṛśāś ca yal-lakṣaṇāś ca yat-svabhāvāś ca te dharmā iti / teṣu dharmeṣu tathāgata eva pratyakṣo 'parokṣaḥ //
103.
神も仏も名無しさん50-xQF-fb-QHc
SOeuG
ye ca te dharmā yathā ca te dharmā yādṛśāś ca te dharmā yal-lakṣaṇāś ca te dharmā yat-svabhāvāś ca te dharmāḥ
ye ca yathā ca yādṛśāś ca yal-lakṣaṇāś ca yat-svabhāvāś ca te dharmā iti teṣu dharmeṣu tathāgata eva pratyakṣo 'parokṣaḥ
104.
神も仏も名無しさん50-xQF-fb-QHc
SOeuG
ye ca te dharma yatha ca te dharma yadrsas ca te dharma yal laksanas ca te dharma yat svabhavas ca te dharmäh yecayathãca yadrsas ca yal laksanas ca yat svabhavas ca te dharmã iti/ tesu dharmesu tathagata
105.
栖雲居士◆dqam8SqGUPdm50-aqq-qv-Sfp
F99BS
tathāgata eva, Śāriputra, tathāgatasya dharmāṁ deśayet. yāṁ dharmāṁs tathāgato jānāti, sarvadharmān api, Śāriputra, tathāgata eva deśayati, sarvadharmān api tathāgata eva jānāti.
ye ca te dharmāḥ, yathā ca te dharmā, yadṛśāś ca te dharmā, yal lakṣaṇāś ca te dharmā, yat svabhāvāś ca te dharmāḥ,
ye ca yathā ca yadṛśāś ca yal lakṣaṇāś ca yat svabhāvāś ca te dharmā iti
悟りをひらいた・霊的に生まれ変わったと思う人。
悟りをひらきたい・霊的に生まれ変わりたいと思う人。
悟りや霊性に対して懐疑的・批判的な人。
宗教・宗派を超えて皆さん大歓迎!!
<お約束>
名無しや荒らしはスルーでお願いします。
名無しは出禁。絶対にコテをつける事。
誹謗中傷はご法度です。即通報・即退場処分。
根拠は引用元等を明示して下さい。
否定されても発狂しないでね💕
各論について以下の通り展開しております。
既に解決済の項目もありますがご参照までに。
<各論スレ>
【異端】グノーシス思想は何故キリスト教から排除されたか【正統】
https://talk.jp/boards/psy/1721257847
【大乗仏教の要頌書】『大乗起信論』についてのあれこれ【一心二門三大四信五行】
https://talk.jp/boards/psy/1719607469
摂受と折伏について
https://talk.jp/boards/psy/1718418652/1
【教外別伝・不立文字】禅 宗 の 思 想 史【直指人心・見性成仏】
https://talk.jp/boards/psy/1711069123
我の形成について(唯識学派の思想を中心にして)
https://talk.jp/boards/psy/1696503547
【仏教要語】色(r?pa)について【語義とその変遷】
https://talk.jp/boards/psy/1695449792
【建撕記】「本来本法性、天然自性身」という疑問について【道元】
https://talk.jp/boards/psy/1694849007
【仏教の煩瑣哲学】阿毘達磨倶舎論に付いて【世親著】
https://talk.jp/boards/psy/1694756671
般若心経の「照見五蘊皆空」の意味について
https://talk.jp/boards/psy/1691499457
四禅の属界について考察するスレ
https://talk.jp/boards/psy/1694416637
<前スレ>
【全宗教歓迎】悟りをひらいた人のスレ867【talk掲示板】
https://talk.jp/boards/psy/1722735118
それではどうぞ!
※でおーは出禁処分とします。
※ワッチョイ導入しました。
人の霊的な生まれ変わりに関してはそうなのだけど、イエスの死と復活を同位相で解釈すれば、キリスト者が不快に思うのも当然です。
また、幼子の喩えの解釈にしても然り。
彼等は"神"がキリスト教の中心にある事を知らない。
というか、キリスト者として生きるという信仰や覚悟が、自我を滅する始まりでもありましょう。
彼等は本末転倒しているのです。
そこにまた信仰の自由も成立するのではないのでしょうか。
掛かる意味に於いて、相手の信仰に対する尊重が導き出される様な気がします。
相手のその理性の承認を許容するか否定するか、その判断の根拠となるものの多くがその理性の外に依るものである所が厄介なのでありましょう。
つまり、相手の信仰、相手の理性の領域の外にあるものの相手の承認を、自身の理性の領域の外にあるものとして、理性の領域の外にあるものを準拠に承認出来るかどうかという事でしょう。
他者は地獄だけど、それがあるからこそ、より深い考察への道標ともなる、
と同時に、「取」には「むかへとる」と記しているのである(浄土和談』)。
これは「追いかける仏」と「迎える仏」を表現しているのであるが、つまり「救いに背を向ける自己」と「救いを希求する自己」をも同時に語っているのである。
仏から逃げ、背き続け、悟りから一番遠い自己が現れた時、そのままで仏に迎えられている自己を見るのである。
(『構築された仏教思想 親鸞──救済原理としての絶対他力』 釈 徹宗 より)
https://www.zojoji.or.jp/kotoba/131.html
(同上)
神なればこそ、人間を救うことができる。
実際、新約聖書はイエスを繰り返して「神の子」と呼んでおり、それどころか「神」と明言している箇所もある。
しかし、だからといって「人間である」という述語を否定してしまったら、イエスが人間の身代わりとして罪を背負って死んだという贖罪信仰が成り立たなくなってしまう。
それどころか、人間でなかったのなら死ぬこともなかったはずである。
しかし、新約聖書にははっきりとイエスの十字架刑と死が証言されている。
もちろん復活も証言されているが、復活が本当の復活であるためには、それに先立つ死も、本当の死でなければならないのである。
(『グノシース 古代キリスト教の異端思想』筒井賢治より)
かわいそう……
↓
781:ろん:[sage]:2024/08/30(金) 16:19:24.06 ID:EmOQhOHW
>>778
お前がいるのが迷惑なんだよ。。w
で、そのお前=アラシの被害を最小限に食い止めるために、相手にするなよ~、とおれは、他の人に忠告してあげてるんです。。w
783:ろん:[sage]:2024/08/30(金) 16:21:30.40 ID:EmOQhOHW
>>780
いや、だから、お前が仏教とキリスト教同じだみたいな、デタラメ書くから、叩かれるの。。w
お前が消えれば、ここも平和になって、みんなハッピーだよ。。w
争いをもたらす人、はあなたなので。。w
元より私は悪人なので、それは仕方ないにしても、彼らはどうなのでしょうか?
そんな事をして自らの心を痛めてないのか、それが心配なのです。
これで、カムイさんとロンさんは、キリスト者と対立するでしょうね。
愚かな事を。
今時の言葉で云うと、心に刺さるって云うのですかね。
宗教的多元主義は宗教的排他主義をどう位置付けるのか?
排斥すれば多元主義とは云えなくなりそうだし、許容知れば多元主義の否定になりそうだし。
魑魅魍魎のスレだ。
ほんと、サトラーは要らない。
或る意味、本職がアマチュアの世界に入り込まないのと同じ事です。
伝統宗教に擬態し、換骨奪胎し、分裂と争いを招く様に狡猾に振る舞い、宗教者を堕落への途へと誘う。
勿論、それが事実ならストーカーは犯罪行為だけど、ストーカーされる方も実は自業自得で、狡猾な振る舞いが招いた様に思える。
しかも、ストーカー本人に対してどうこうではなく、紹介者の責任にしているところが異常。
あれは元から誹謗中傷する当人を擁護して、誹謗中傷を受けて言い返してる法を一緒になってdisってたからなぁ。
自業自得だな。
報いが来たのだろう。
憐れむべし。
憐れむべし。
これを機に狡猾な生き方を悔い改め、霊的な生まれ変わりに至るのであれば。
迷惑だなぁ。
迷惑って自覚自体がないのでしょうね。
勝手に荒らしておけば良い、無視に限る。
夏用の絡子しかないから新しいのを購入しよう。
普段から饒舌に満ちた知ったか野郎は即退散wwwww
だーーーーーーーーーれも言えないw
当たり前です、言葉じゃないんだから。
んじゃ何なのか?
「はたらき」だって云ったんです。
まぁ分かる方は宗教板にほぼ皆無でしょう。
運庵和尚上堂、
挙す、臨済京に入って教化す。
一家の門首に至って曰く、「家常添鉢」。
婆曰く「太無厭世」。
庵、拈じて曰く、「婆、死して弔せず」。
如何にも禅宗らしい褒め方じゃないですかw
でおー
ポッタン
は出禁。
また、関わった者も出禁。
【本則】
曹山和尚、因みに僧問うて云く、
「清税孤貧、乞う、師賑済したまえ」。
山云く、「税闍梨」。
税応諾す。
山云く、「青原白家の酒、三盞喫し了って猶お道う、未だ唇を沾さず」と。
【評唱】
清税の輸機、是れ何の心行ぞ。
曹山の具眼、深く来機を弁ず。
是の如くなりと然雖も、且らく道え、那裏か是れ税闍梨の酒を喫する処。
【頌】
身貧は范丹に似、気は項羽の如し。
若活計無しと雖も、敢えて与に富を闘わしむ。
確かに評唱を見ると「清税の輸機、是れ何の心行ぞ。曹山の具眼、深く来機を弁ず。」とあるので、先生の観点は正しい。
実参しているのならまだしも、此処でそれをやると単なる言葉のやり取りに堕ちてしまうからです。
世に公案問答の解答集なるものが出てるのだし、それを見て答えればいいってなってしまう。
気狂いが調子こいて猿真似してるが、害悪以外の何者でもない。
やめて欲しい。
幸◆ewRQooJtFU
理由:でおー、ポタ公に関わったので。
仏教は寛容な宗教であると聞きます
しかし栖雲さん、あなたはあまりにも他者に対して不寛容です
それが、あるべき仏教者としてのあり方と言えるでしょうか
>>32ふざけやがって、何様のつもり>>33変態ども>>46気狂いが調子こいて猿真似してるが、害悪以外の何者でもない>>49宗教妄想を患った統失なのを承知でレスをするとか、嫌がらせ以外の何者でもない
再度この言葉遣いを見て、栖雲さん自身、どう思われたでしょうか??
こういう発言が他の住人との不和を生み、孤立することになるんですよ
仏教者という観点から見ても、信じられない発言達です
仏教は寛容な宗教です
色んな信仰者がいていい
そういうことなのでは、ありませんか??
言葉遣い→言葉遣い達
あなたは出禁です。
此処は5ch とは別物です。
以上。
勿論、でおーやポタ公の行為は赦してるけど、反省してないからこれは再発防止の為。
異常と言えば、誰もがどこか異常なのですよ
何故室内の秘密が漏洩したからともかく、一応の見解やその示し方が書いてある。
もちろん、老子方もそんな事は百も承知も承知でそこにない公案を出してくる。
坐禅もしないで腹も練らないで、カンニングじて知ったかしたいのなら、好き勝手にやればいい。
地獄に落ちる。
無字なら、ムームームムームームームーームームームームームームームームームームームームームームームームームー……
5年10年はザラですから。
無字になりきるんですかね
サイト見てみます、ありがとうございます
お腹に犬の霊がいるので、腹を練るはヤバそうです
円覚寺の横田老師が丁重に説明してる。
ネットで検索できる。
腹の中の邪気を吐き出す。
……無理のない範囲で。
Amazonでも公案解答集、調べてみます
インターネットにも、公案の情報は転がってますね
知識として知るだけで満足する人もいますし、それならそれで良いのでは、とも思います
ポタ公やでおーは法介は避けた方がいい。
それぞれ良いところもありますし、どんな人からも学べることはありますし
あなたもね。
それに関わる者も出禁。
ただし、語録の問答は可能。
どれだけ不快な思いをさせられて来たか……
勿論彼らを赦しますけど、今もこうして一向に反省もなく、同じ事を繰り返しています。
でおー、ポタ公は永久出禁。
幸さんは今回のこのスレを出禁とさせて頂きます。
悪しからず。
理由は、>>50に書いてあるような酷いことを書くからです
わたしも正直、栖雲さんが嫌いになります
両方悪い
雲水ならともかく、我々一般在家は、五年十年と数息観や初関を拈提する訳です。
つまり、公案の解答集を見てそれを答えてもダメだって事なんです。
つまり、知識だけではないのです。
釈宗演老大師、今の円覚寺派管長の横田老大師の四代前、滴水・儀山・洪水下に参じておられた訳です。
公案は「本来の面目」ですね。
でも結局通らなかった訳です。
夏目漱石さんが公案をされていたのは有名な話です。
釈宗演老大師、今の円覚寺派管長の横田老大師の四代前、隠山・儀山・洪水下に参じておられた訳です。
公案は「本来の面目」ですね。
でも結局通らなかった訳です。
問答中、師家が学人に「無字を見せて下さい」って迫ってくる訳です。
で、学人が師家に無字を見せる。
しかし「出てはいるけど弱いですね」とかってなる訳です。
どうでしょう。
これが実際な訳です。
一体何が無字なのか?
出てはいるけど弱いとはどういう事なのか?
「俺様は公案の答えを知ってるんだじょー!」って、自慢でもしたいのでしょうかね。
公案解答集漁ったところで、却って余計な妄想を担いで苦しむだけなんです。
つまり、妄想。
真逆の方向。
気狂いの極み。
おまえ、出禁だよ。
来るな。
頑張ってるなあー
😫
sarvadharmān api, Śāriputra, tathāgata eva deśayati,
sarvadharmān api tathāgata eva jānāti.
ye ca te dharmāḥ, yathā ca te dharmāḥ, yadṛśāś ca te dharmāḥ,
yat-lakṣaṇāś ca te dharmāḥ, yat-svabhāvāś ca te dharmāḥ,
teṣu dharmeṣu tathāgata eva pratyakṣo ’parokṣaḥ.
yaṁ dharmaṁ tathāgataḥ jānāti,
sarvadharmān api, Śāriputra, tathāgata eva deśayati.
sarvadharmān api tathāgata eva jānāti.
ye ca te dharmāḥ, yathā ca te dharmāḥ, yadṛśāś ca te dharmāḥ,
yat-lakṣaṇāś ca te dharmāḥ, yat-svabhāvāś ca te dharmāḥ,
teṣu dharmeṣu tathāgata eva pratyakṣo ’parokṣaḥ.
tathagataeva Sariputra tathagatasya dharmam desayed yan dharmams tathagato janati
sarvadharmam api Sariputra tathâgata eva desayati
sarvadharmam api tathā-gata eva janäti
ye ca te dharma yatha
ca te dharma yadrsas
ca te dharma yal laksanas
ca te dharma yat svabhavas
cate dharmäh yecayathã
ca yadrsas
ca yal laksanas
ca yat svabhavas
ca te dharmã iti/
tesu dharmesu tathagata eva pratyakso 'paroksah
yaṁ dharmaṁ tathāgataḥ jānāti,
sarvadharmān api, Śāriputra,
tathāgata eva deśayati
sarvadharmān api tathāgata eva jānāti
ye ca te dharmāḥ,
yathā ca te dharmāḥ,
yadṛśāś ca te dharmāḥ,
yat-lakṣaṇāś ca te dharmāḥ,
yat-svabhāvāś ca te dharmāḥ,
yatha ca te dharma
yadrsas ca te dharma
yal laksanas ca te dharma
yat svabhavas ca te dharmäh
yecayathãca yadrsas
ca yal laksanas
ca yat svabhavas
ca te dharmã iti/
tesu dharmesu tathagata
yathā ca te dharmā
yādṛśāś ca te dharmā
yal-lakṣaṇāś ca te dharmā
yat-svabhāvāś ca te dharmāḥ
ye ca yathā
ca yādṛśāś
ca yal-lakṣaṇāś
ca yat-svabhāvāś
ca te dharmā iti
teṣu dharmeṣu tathāgata eva pratyakṣo 'parokṣaḥ
yatha ca te dharma
yadrsas ca te dharma
yal laksanas ca te dharma
yat svabhavas ca te dharmäh
yecayathãca yadrsas
ca yal laksanas
ca yat svabhavas
ca te dharmã iti/
tesu dharmesu tathagata
tathāgatasya dharmāṁ deśayet.
yāṁ dharmāṁs tathāgato jānāti,
sarvadharmān api,
Śāriputra,
tathāgata eva deśayati,
sarvadharmān api tathāgata eva jānāti.
ye ca te dharmāḥ,
yathā ca te dharmā,
yadṛśāś ca te dharmā,
yal lakṣaṇāś ca te dharmā,
yat svabhāvāś ca te dharmāḥ,
ye ca yathā
ca yadṛśāś
ca yal lakṣaṇāś
ca yat svabhāvāś
ca te dharmā iti
teṣu dharmeṣu tathāgata eva pratyakṣo ’parokṣaḥ.
和訳:
「シャーリプトラよ、如来はただ一人、法を説くことができる。
如来が知るところの法はすべての法であり、
シャーリプトラよ、如来のみがすべての法を説き、如来のみがすべての法を知っている。
その法が何であれ、
その法がどのようなものであれ、
その法がどのように存在し、
その法がどのような特徴を持ち、
その法がどのような本質を持つものであれ、
その法のあり方、存在、特徴、本質について、
如来のみが直接的に、完全に知っている。」
逐語訳:
「如来こそが、シャーリプトラよ、
如来は法を説く。
如来が知っている法は、
すべての法であり、
シャーリプトラよ、
如来こそが説き、
如来こそがすべての法を知っている。
その法が何であろうとも、
その法がどのようなものであろうとも、
その法がどのようであろうとも、
その法がどのような特徴を持っていようとも、
その法がどのような本質を持っていようとも、
これらの法において、如来だけが直接的に、間接的ではなく(知っている)。」
「法 (dharma)」は仏教における教えや真理を指し、「如来 (tathāgata)」は悟りを得た者、つまり仏陀を指します。この経文は、仏が全ての法を知り、その本質を直接的に理解し、説くことができることを強調しています。
なんというか、そうした知識がなければ論ぜられない事を論じておられるから。
ただ、中観や唯識はどうかなぁ。
ピエロマン🤡でおーのそれは統失•知障の妄想だけど、道元哲学からは、倶舎臭や天台臭がするという事です、
道元は くそ なんですが。
(ただし、幸さんについては本スレのみ限定出禁)
国体の構造では、超越的な天皇のもと、国民は一般化され、平等化される。国民の間に格差や断絶は存在せず、一つの渦に溶け込んでいく。疎外や苦悩は存在しない。すべては大御心に導かれ、一元化される。濁りなき透明な共同体が現前する。
彼らは国体に随順することによって、煩悶を超克しようとした。三井甲之や倉田百三が大正期から昭和初期にかけて超国家主義化していったのは、国体に包摂されることで自己が救済され、国民が救済されると考えたからだった。
しかし、日本には国体が存在し、天皇が存在するにもかかわらず、平等社会は実現していない。多くの不幸と混乱が顕在化し、国民は苦悩にあえいでいる。他ならぬ自己の苦悩も依然として解消されない。
なぜか。
それは天皇と国民の間に入って、両者を分断する「君側の奸」が存在するからである。天皇の大御心が国民に届かないのは、「君側の奸」が阻害しているからである。
だったら、どうすべきか。 「君側の奸」を除去する必要がある。天皇と国民を分断する「輩」を排除し、国体を現前する必要がある。
こう考えた三井は、蓑田胸喜とともに『原理日本』を刊行し、言論弾圧事件を次々に引き起こしていった。攻撃を加えたのは、外来思想に影響を受けた帝国大学の知識人であった。三井・蓑田にとってエリート知識人たちは、賢しらな理性や知性によって社会を変革しようとする自力主義者に他ならなかった。
『親鸞と日本主義』中島岳志より
天皇の開放。
(ただし、幸さんについては本スレのみ限定出禁)
wwwwwwwwwwwwwwwwww
キチガイがまたまたまたまた、変な事を言ってるな😂
諸説はあるが、あれはマントラを説くお経であって、縁起を説くお経では無い。
つまりだ、縁起を説くお経ではないのに何種類の縁起が説かれているとか、設問からして間違っている訳だ。
むしろあれは既に説かれている縁起に対して「縁起・無自性・空」の視座から、そこで説かれてるダルマの実在性を否定してるのだ。
相変わらず臭い野郎だ。
馬鹿どもを〆るのも飽きて来たし、対等に話せる人は一向に現れない。
何枚写経したかなwww
200枚は下らないだろうな。
全然たいした数じゃない。
また、雑に字を書けなくなった気もする。
大乗仏教では「縁起・無自性・空」を説くわけですから、縁起は”ある”ということではなくしかし”ない”ということでもないのです。
すなわち、認識される表象を般若の知見により縁起と観じ、更にそれには自性がなく空であると見極めたって事だと思うんです。
もちろん、その縁起を何種類かに分類することは出来るにしても、縁起そのものは一つしかないのです。
通りで毛の三本足りないレスな訳だww
はっきり云って宗教板の知障ってうざい。
あっちでもロンパーマンや蝿、オウム残党等がガチャガチャな事をやってるけど。
これについても、認識されるものは心の顕れであり、そもそも心は空性であるから、空もまた空という事なんです。
過去の宗教板の事は詳しく存じないのですが、今現在、どっらの掲示板にしても、此処まで理解して解説出来る人は残念ながら居ません。
タコや猿や蝿やパーやカルトどもが、調子こいて好き勝手な事を言いやがって、ほんと、迷惑なんです😟
>般若波羅蜜多って縁起とか超越しとると思うけど(・∀・)
……なんだこりゃ😂
腹筋崩壊したわwww
一切有為法 如夢幻泡影 如露亦如電 應作如是観
って大般若経の一節であるけど『縁起』の否定やない?(*´ω`*)
名無しや荒らしはスルーでお願いします。
名無しは出禁。絶対にコテをつける事。
誹謗中傷はご法度です。即通報・即退場処分。
根拠は引用元等を明示して下さい。
否定されても発狂しないでね💕
コテを付けましょうね☺️
ルールは守りましょう😌
面倒クセーな君は(・∀・)
空海さんの般若心経秘鍵って読んだ?
『空』ってもっと深いんやないかと思っただけだから笑わんといてな(*´ω`*)
じゃあね、お邪魔しました(・∀・)
名無しや荒らしはスルーでお願いします。
名無しは出禁。絶対にコテをつける事。
誹謗中傷はご法度です。即通報・即退場処分。
根拠は引用元等を明示して下さい。
否定されても発狂しないでね💕
コテを付けましょうね☺️
ルールは守りましょう😌
じぁ般若心経の空はそんな浅くないって理解しとるよね(・∀・)
後、飛田康裕氏の『般若心経』の秘められた真実も知ってる?
般若の意味を知ってるなら依他起性(縁起)を否定しつつ悟りである円成実性の空を説いとるって分かってくれるよね(*´ω`*)
名無しや荒らしはスルーでお願いします。
名無しは出禁。絶対にコテをつける事。
誹謗中傷はご法度です。即通報・即退場処分。
根拠は引用元等を明示して下さい。
否定されても発狂しないでね💕
コテを付けましょうね☺️
ルールは守りましょう😌
以上
人違いか(・∀・)
般若心経を語るなら無分別智の心も養いなさいな(*´ω`*)
じゃあね
ウザい。
🏥 🚑💨💨💨 👋😆
馬鹿は失せろ、
お前の様は雑魚は此処にくるな。
ちょっと君には期待したんだがねえ(*´ω`*)
まあお互い精進しよな(・∀・)
バカと話しても時間の無駄になるだけ。
知見も浅いし精神薄弱やし君、自称する程やないな(・∀・)
法介おじさんはもっと寛大やで(*´ω`*)
己、頑張ろな(*´ω`*)
此処は敷居が高いから、お前の様な知障の来る場所じゃない。
目障りだから来るな。
低知能猿。
何か最近弱っとるみたいとでおーさんが心配しとったけど大丈夫か?(*´ω`*)
元気出して行こうぜ(・∀・)
老病死でも心配なんかい
まあこれ聴いて元気出せや(*´ω`*)
https://youtu.be/hXvDj6MgzCA?si=PBIYXtYggedYDKt7
これじゃまともな人は皆んな去って当たり前。
特にひどいのはロンと法介。
支離滅裂のデタラメばかり。
あと誹謗中傷だけが生きがいでレスをするキチガイ。
でおーやオウム残党、安堂。
消えてもらいたい。
それが「縁起・無自性・空」であってそれらはシノニムとされるのです。
そしてその一つの頂点が龍樹により『中論』に結晶されているのです。
縁起は
滅することなく生ずることなく
断絶することなく常住することなく
一義ではなく多義ではなく
来ることなく去ることなく
安らかに戯論を寂滅させる
このような縁起を説いた正覚者
説法者中の最もすぐれた人
その人(ブッダ)に私は敬意をささげる
って『中論』の冒頭に説かれているんです。
(上記はサンスクリット語より)
躁転しとるなー
🤡🤡🤡🤡🤡🤡
そもそもこの話を理解出来るものは宗教板には居ないからな。
この縁起は舎利弗の呼び掛け2回目だよね(*´ω`*)
有為法の縁起なのにまるで無為法の様に語る
始めの舎利弗への呼び掛けは現世界での有為法の縁起(*´ω`*)
敢えて舎利弗を2回呼び掛けたのは明らかに違う『空』を説いている
(一)空を実体視しないものと
(二)それを実体視するもの
との二つに分けることができる。
前者(一)は早い時期に現われ、後者(二)は時代が下るにつれてより一層顕著になる傾向がある。
空の元来の考え方も前者に近いものであったと思われる。
後世、インド後期密教、チベット仏教のニンマ派、カギュ派、チョナン派、さらに中国や日本の密教の一部にあっては、空が恒久不変の実体(実在)と考えられるようになった。
もっとも「実体」とはいえ、ヒンドゥーの実在論哲学における実体とは区別されるべきであることはいうまでもない。
(一)の解釈においてもさまざまな違いがあるが、おおまかにいって、
(1-a)「ものには自性(不変の実体)がない」と主張するに止まるものと、
(1-b)「ものには自性がないが、生滅を伴う無自性なるものすなわち現象として現われる」と主張するものとの二つに分かれる。
(1-a)は「ものには自性がない」という命題の合意するものを肯定命題として提起しようとしないが、(1-b)では「ものには自性がない」という命題は、ゆえに、「ものには無自性なるもの(現象)がある」を合意すると考えられる。
もっともこれら二つの解釈は、空が究極的には言葉を越えた直観によって捉えられるもの-あるいはその直観そのもの-であると考える点では一致している。
(一)は自性が空 (無)であるという意味で「自空説」と呼ばれてきた。
前者は心身の五構成要素などのものは無自性であるが空(空性)自体は自性(実体)であるという考え方である(2-a)。
この解釈では、全宇宙(全世界)は無自性なるもの(存在)と自性そのものである空との二者によって成り立っていると考えられている。
すなわち、「自性がない」という否定はものの領域に対して適用されているが、もの以外の領域に属する空には適用されていないのである。
この種の解釈は、特にチベット仏教のチョナン派の「他空説」に見られる。
因みに、「空」という漢訳のサンスクリットは、「空なる[もの]」を意味する形容詞「シューニヤ」(sunya)である場合および「空なること、空性」を意味する名詞「シューニャター」(sunyata)である場合がある。
(2-a)の解釈における「空」は「シューニャター」(空性)である。
(二)の解釈の後者(2-b)は、根本真理としての空性が現象世界のものと無媒介に同一であると考えられる場合である。
後に見るように、これは例えば『般若心経』の一節である「色即是空、空即是色」に対する諸解釈の一部に見られる。
(『東洋の心』 鈴木大拙 より)
空が論理を越えているならば、「空の論理」とは矛盾ではないのか。
空自体は論理を越えてはいるが、空という真理あるいは智恵を得るための道程として論理的思考の積み上げが必要というのか。
『中論』の中に展開される論議を判断するに、たしかに「中論』における論議のほとんどが言葉の止滅した境地あるいは智へとれわれを導くための手段であることがわかる。
とするならば、言葉には自らを乗りこえる力があといえるのか。
もし言葉自体にその力がないならば、言葉を越え、言葉にはない力を有する空へとわれわれを導く存在はどのようなものなのか。
言葉が自らを葬ることによって空へとわれわれを導くのではなく、言葉がある程度、止滅した段階において空が働いて、自らを顕現させるのであろうか。
もしも空にそのような力を認めるとすれば、空はまさに作用を持つ実体的なものだと考えざるを得ない。
ナーガールジュナは空(空性)に目的があるという。目的を有する空とはどのようなものか。
このような問は際限なく続く。このことは間の設定が間違っているからではなく、言葉(あるいは世界)と空との関係そのものがそうさせるのだ。
つまり、空は論理を越えているが、論理あるいは言葉とまったく無関係というわけではない。
言葉は自らの存在が否定されることを知りつつも、空の前で自らを開こうとするのだ。
「空の前で」自らを開きながら、やがて言葉は止滅すなわち「死」を経験する。
その「死」は瞬間的なものであり、次の瞬間にはよみがえりが待っている。つまり、言葉が空において止滅するのは「再生」のための「死」なのである。
直観的な体得がそれらによって言語化出来たとも云うべきか。
> (一)空を実体視しないものと
> (二)それを実体視するもの
>との二つに分けることができる。
に於いて、第三の立場になると思える。
西田幾多郎のいう絶対無の自己分節。
>意識そのものには、自他とか主客とか無いんだよな。。
……また変な事を言い出したな😟
向こうの掲示板に逼塞してればいいものを、わざわざトークまでしゃしゃり出て来て支離滅裂な事を言うとか。
本則
僧、趙州に問う、「初生の孩子、還って六識を具すや、またなしや?」。
趙州云く、「急水上に毬子を打す」。
僧復投子に問う、「急水上に毬子を打すと、意旨如何?」。
子云く、「念念不停流」。
頌
六識無功 一問を伸ぶ
作家曽って共に来端を弁ず
茫茫たる急水に毬子を打す
落処停まらず誰か看ることを解せん
きゅうすいじょうにきゅうすをたす
『禅語に学ぶ 生き方。死に方。』
(西村惠信著・2010.07 禅文化研究所刊)より
06月を表す季節の画像
水流の上で手毬を撞くように
急水上に毬子を打す―(『碧巌録』第八十則)
ある僧が趙州に向かって、「生まれたばかりの赤ん坊にも意識というものがあるでしょうか」と尋ねると、趙州が、「急流の上で手毬を撞くようなものさ」と答えた。赤ん坊にそれができるとは、いったい如何なることか。
急流の上で手毬を打つということは、およそ不可能なことである。可能であるとしても、尋常の素早さではできないであろう。しかも生まれたての赤ん坊にそれができるというのは、どういうことであろうか。
赤ん坊にはまだ理性が芽生えていないから、意識に飛び込んでくるものにだけ敏感に反応する。こちらが恐い顔をするとワット泣き出す。そこへガラガラの玩具を差し出してやると、ピタリと泣くのを止めて、ニコニコして喜ぶ。
こんな臨機応変のはたらきが大人にできるだろうか。大人になると、目に見えたり耳に聞こえたりする物に対して素直に反応せず、自分でこれは何だと考える。そこで判断をするわけであるが、この判断ほど事実を誤るものはなかろう。
赤ん坊にできることで、大人にはできないことが二つある。一つはその純粋な反応である。一々それが「何であるか」とか、「何故か」とか、「如何にすればいいか」というような判断を一切しない。判断というものは実に恣意的なものであり、自己本位なものである。とうぜん、判断には歪みが生じる。赤ん坊にはそういう自己中心の汚らわしさはなく、純粋な感覚的反応があるだけである。
もう一つは対象物に対する反応の素早さである。鏡のように無心に前のものを受け止めるだけで、予想とか記憶というような執着がない。これこそまさに「急水上で毬を打つ」ようなはたらきというべきであろう。
これを識転というのですが、心が転じて主観(見分)と客観(相分)、すなわち一心が二分割されて、見るものと見られるものに分かれるっていうんです。
勿論、意識もその様に分析されている訳です。
先ず、「私の形成」について考えるにあたって、輪廻思想には賛否はあるものの「前の私は」について考えてみるのも面白いのかも知れませんので、ここでは先ずそれを話させて頂こうと思います。
先ず「死」ですが、阿頼耶識が身体(有根身)をその認識対象から外した時、すなわち命根(寿(寿命)・煖(体温)・識(意識))の終わりによってそれを迎えるとされます。
そしてここで阿頼耶識の対象は、執(種子)と受(身体)と処(宇宙)から執のみとなるようです。
その後、識は色究境天を認識しますが、死の直前の「結生の識」によって転生先が決まるとされ、その期間が中有、いわゆる四十九日と呼ばれております。
そして阿頼耶識の再びの新たな認識(有根身、器界)を経て転生するのです。
ところで、末那識は「所生に随って繫せられる(唯識三十頌7−2)」と云われるように、転生先の世界(欲界・色界・無色界)の制約を受けるとされます。
ただし、末那識と違って前六識(眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識)が所生の制約を受けないとされます。
前六識は末那識より間接的な影響を受けるものの、所生の制約を受けないという事は、実にありがたいことではないでしょうか。
先ず初期仏教では、人を
感覚器官(六根~眼根、耳根、鼻根、舌根、身根、意根)
その対象(六処~色処、声処、香処、味処、触処、法処)
その認識(六識~眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識)
に分析し、またそれを物質的なものと精神的なものに総じた「五蘊(色蘊・受蘊・想蘊・行蘊・識蘊)説」によって、そのどれもが「我ではない」という「五蘊無(非)我説」を説いておりました。
逆説的に、認識され得る対象以外が「我」とも云えるのでしょうが、となると「我」とは認識の対象とされ得ないものと云えるのかも知れません。
ところで先に話したように「我」というのは五蘊(色蘊・受蘊・想蘊・行蘊・識蘊)に解体されると仏教では説くわけで、その解体された単体を個別に見た時、それらはどれも到底「我」とは云えないでしょうから(これを大乗仏教の視点では「折空観」とか云うそうですが)、その合成(仮和合(何故なら変化し解体されるから))つまり総体である五蘊は我では無い(或いは我に非ず)とするのでしょう。
初期仏教では五取蘊という執着によりその様な認識が生じると説かれていたのでしょうが、その後に意識の問題について考察された時、睡眠や気絶、或いは深い禅定に入った時はその意識の流れは一旦は途絶えるものの、意識が戻ると再びその流れが途絶以前の流れを相続していることからして、意識の根底のなにかしらの識があるのでは無いのかと考えられた訳です。
いわゆる深層の識の発見であります
また『解深密経』ではそうした深層識をアーダーナ識(阿陀那識、ādāna-vijñāna)或いはアーラヤ識(阿頼耶識、ālaya-vijñāna)と名付け、それが執着を生ずる種子(しゅうじ、bīja)を蔵してると説いているのです。
初期仏教では人の
認識器官として六根(眼根、耳根、鼻根、舌根、身根、意根)
その対象として六処(色処、声処、香処、味処、触処、法処)
その認識として六識(眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識)
を説いておりましたが、六識の内、前五識(眼識、耳識、鼻識、舌識、身識)がそれに対応する肉体の器官があるのに対して第六識(意識)意根が具体的に何を示すのかについて問題になったようであります。
南方上座部では心臓を意根としており、また説一切有部(以下、有部)では「後依唯過去(『倶舎論』第四十三偈)」とあるのですが、すなわち前滅の識を意根のとしていたそうです。
ところで瑜伽行唯識学派(以下、唯識学派)では、一方では有部の説を取り入れ意根を前滅の識としながら、一方では末那識を意識の意根としているんです。
>此中意有二種
>第一与作 等無間縁 所依所住。
>無間滅識、能与意識 作正依止。
>第二染汚 与四煩悩 恒共相応。
>一者薩迦耶見 二者我慢 三者我愛 四者無明。
>此即是識 雑染所依。
>識復由我 第一依生 第二雑染。
>了別境義故。
>等無間義故 意成二種。
>(『摂大乗論』 大正大蔵経31 133)
しかしその後に成立した『成唯識論』では
>此名何異第六識。此持業釈。
>如蔵識名 識即意故。
>彼依主釈。如眼識等。
>識異意故。
>(『成唯識論』 大正大蔵経31 19中−11)
とある様に、末那識に統一されております。
また併せて「根(indriya)」がいわゆる木や植物の根ではなく、能力、あるいはそれを生み出す力・能生であることも併せて確認しておきましょう。
さて、唯識学派は六識だけではなくその下に作用する深層識を発見するのですが、その中に染汚意(kliṣṭa-manas)があることを発見し、それがやがて末那識と呼ばれるようになるのですが、それこそが意識の根、すなわち意根であると考えられるに至りました。
では一体何故、唯識学派の論師達はその様に考えたのでしょうか?
先ず、そのmanasとは「考える」とか「思う」という意味で、普通は「思量」と訳されますが、意識の意も末那識の末那も同じくmanasである事に着目して下さい。
その末那識は阿頼耶識に対して四煩悩を有して恒審思量しているのですが、その第一に薩迦耶見(satkāya-dṛṣṭi)が挙げられるのですが、これは”自他を区別して見る個別に実在するものとしてみる妄想”であります。
ところで意根は法境を対象にするのですが、その対象化、見るものと見られるもの、すなわち自他の区別は一体何によって形成されるのでしょうか?
それは「ことば」でなないのかと唯識学派は考えた訳です。
「ことば」による分節が対象化の形相因と考えた訳です。
そしてその意識によることばでの分節は、云うまでもなく自他との区別に他ならないはたらきでありますから、それを生み出す力すなわち能生として、すなわち意根を自他を区別する思量を為す末那識にそれを求めた訳であります。
>意識そのものには、自他とか主客とか無いんだよな。。
はい、いかにこれが噴飯物かお分かり頂けましたでしょうか。
十二支縁起はご存知かと思いますが、我々が生まれてくる事自体、それは無明に起因している訳で、結生の識に拠るのです。
瑜伽行唯識学派によれば、我々は阿頼耶識という意識の深層を有しており、生まれるという事はそういう事であり、阿頼耶識とは、ある意味、分別を生じさせる言語の貯蔵庫(言語種子)であり、有根身(肉体)の変化に依ってその種子が現行するのです。
つまり、生まれたばかりであろうが、意識そのものであろうが、それそのものが識体の二分であり、無明に起因しているのであって、また、その深層には分別を生じさせる言語種子が蔵されているのです。
先代は宗教板から引退した。
というか、あれは偽和尚と名乗る奴の自作自演・自問自答・自画自賛だったからな。
自作〜偽和尚
自演〜鬼和尚
自問〜健真等
自答〜鬼和尚
自画〜偽和尚
自賛〜健真等
だった。
だったー
🤡🤡🤡🤡🤡🤡🤡
おそらくそれは仏性論や如来蔵思想、或いは即(触)事而真に由来する方便なのでしょうが、仏性論や如来蔵思想)はあくまでも開発によって成仏の可能性を有した仏性を人はあらかじめ有しているという事であり、また、即(触)事而真というのは
「はなはだ不可思議なことよ。世尊は、真際(真理)を動かすことなく、諸法は成り立っている、と言われた。真理を離れて諸法が成り立っているのではない。諸法のあるところ、そこにこそ真理がある」(『肇論』僧肇 より)
というものでしょうが、それはあくまでも仏性が開発されて成道された如来の知見なのです。
また、その様な「解決済」みたいなのは華厳の思想であって、そうとは説かない宗派もあるのです。
では、仮にその解決済みを確認すれば終わりなのでしょうか?
勿論違います。
道元さんは修証一等と云い、臨済流は自己の主体性を説きます。
鈴木大拙さんが「肘、外に曲がらず」って契当された話は有名な話ですが、そこで修道が終わった訳ではないのです。
見道とか見性と云ってもいいかと思います。
そしてその解決済というのを機関、すなわち「はたらき」に転化し、さらには向上、すなわち解決済を超えてゆくのが臨済流の修道論だって思うんです。
すなわち、言語の介在しない対象物の直観的な把握の事でしょう。
何処ぞの僧が「パチンが分かれば仏教は卒業」と抜かしたそうですが、それが「分かり様の無いものを分かる訳はない」という主旨で言ったのか、或いは現量の事を言ったのかはともかく、仮に後者の意味で言ってたとすれば、仏教はそうな甘いものではない。
それが根というものだということは、もはや私の意識には全然なかった。あらゆる語は消え失せていた。
そしてそれと同時に、事物の意義も、その使い方も、またそれらの事物の表面に人間が引いた弱い符牒の線も。背を丸め気味に、頭を垂れ、たった独りで私は、全く生のままのその黒々と節くれ立った、恐ろしい塊りに面と向って坐っていた。
(『嘔吐』 サルトル より)
🤡🤡🤡🤡🤡
此処で俺が書いてる時は、トーシローや知障は書くな。
【ここはtalk掲示板 心と宗教 総合掲示板です】
悟りをひらいた・霊的に生まれ変わったと思う人。
悟りをひらきたい・霊的に生まれ変わりたいと思う人。
悟りや霊性に対して懐疑的・批判的な人。
宗教・宗派を超えて皆さん大歓迎!!
<お約束>
名無しや荒らしはスルーでお願いします。
名無しは出禁。絶対にコテをつける事。
誹謗中傷はご法度です。即通報・即退場処分。
根拠は引用元等を明示して下さい。
否定されても発狂しないでね💕
それではどうぞ!
※でおーは出禁処分とします。
※ワッチョイ導入しました。
※その鬼和尚は、二代目鬼和尚です。
当人(初代)は引退して二代目に禅譲してます。
初代と私が公認してますので、ご愛顧下さい💕
※名無しは出禁です(でおーも)。
その他の方の制約は特にありません。