【教外別伝・不立文字】禅 宗 の 思 想 史【直指人心・見性成仏】最終更新 2024/10/28 09:511.栖雲居士◆dqam8SqGUPdmUP9GT禅宗の思想について『禅思想史講義(小川隆)』を中心に論じるスレです。【お約束】 1.sage進行でお願いします。 2.荒らしは完全スルーで。 3.体験談や雑談はお断り。 4.質問等には基本的に応じません。 5.コテハン・トリ付き必須。 6.発言には何故そうなのか経論等の根拠の明示を。 7.その他、スレ主の指示にはご協力を。2024/03/22 09:58:4394コメント欄へ移動すべて|最新の50件2.栖雲居士◆dqam8SqGUPdmUP9GT>さきに結論を言ってしまえば、馬祖系の禅は、現実態の自身がそのまま本来性の現われだと考えたのに対し、石頭系の禅は、現実態の自己とは別次元に本来性の自己を見出そうとしました。>ありのままの自己をそのまま育定するか、ありのままを超えたところに本来の自己をみようとするかーこの二本の対立軸の間の緊張関係が、唐代禅の基本的な構図を形づくってゆくのでした。(同書より)2024/03/22 10:01:093.栖雲居士◆dqam8SqGUPdmUP9GT>祖、衆に示して云く、「汝ら諸人、各おの信ぜよ、自らの心是れ仏、此の心即ち仏なりと。>達磨大師は南天竺国より来りて中華に至り、上乗一心の法を伝え、汝らをして開悟せしめんとせり。>(『馬祖語録』)2024/03/22 10:11:154.栖雲居士◆dqam8SqGUPdmUP9GT馬祖の禅の特徴を、小川先生は 1.即心是仏(自らの心がそのまま仏に他ならない) 2.作用即性(日常の感覚や動作・行為がそのまま仏のはたらき) 3.平常無事(人為的なはからいがなく是非や凡聖の区別がない)ってまとめておられます。2024/03/22 10:17:555.栖雲居士◆dqam8SqGUPdmUP9GT馬祖禅への批判>こうした考え方は、頭でこしらえた観念に呪縛されている人に対しては、新鮮な解放の力となったでしょう。>しかし、このありのままが、最初から所与の正解となってしまったら、人々がいともかんたんに自堕落で安逸な現実肯定に流れてしまうであろうことは想像に難くありません。>そのため、馬祖の弟子たちの間からも、こういう考えに対する違和感や懐疑、さらには批判や超克の姿勢が出てくるようになりました。>(同書)2024/03/22 10:23:316.神も仏も名無しさんO34Jz栖雲居士への批判思想だと?クソボケが〜〜やり切ったる🤢🤢🤢🤢2024/03/22 10:40:347.神も仏も名無しさんO34Jzボコリ倒してやる宣言しとく〜🤢🤢🤢🤢🤢2024/03/22 10:41:128.神も仏も名無しさんO34Jz🤢🤢🤢🤢🤢24.ユーザー栖雲居士◆dqam8SqGUPdmBThMB(7/7)ま、いいかwなお、このスレは栖雲居士が監査しています。いい加減な事を言うと〆られる事がありますのでご注意下さい。さぁ、語りなさい!2024/03/18 14:21:16🤢🤢🤢🤢🤢🤢2024/03/22 10:44:009.神も仏も名無しさんO34Jz🤢🤢🤢🤢🤢🤢丑三つ時にいばるローラー569.ユーザー栖雲居士◆dqam8SqGUPdmw5Jrkあれは摂心に一回行っただけ。あいつも三回くらい行っただけ。二人とも日々の坐禅もしていない。私はそんなのは禅宗としてカウントしてません。本当に彼等が彼等の言う通りなら、禅宗には公案という点検道具があるから、少なくともその初歩的なそれは解ける筈なのに、全く手も付けられないレベル。論外なんです。2024/03/16 02:20:28🤢🤢🤢🤢🤢🤢2024/03/22 10:44:4910.神も仏も名無しさんO34Jzバカたろこいつ〜〜🤢🤢🤢🤢2024/03/22 10:45:3311.栖雲居士◆dqam8SqGUPdmUP9GTはい、これ、禅宗のスレで何年も前から延々といつも議論される処な訳です。いい加減に決着を付けてもらいたいのですが、体験も知識もない彼らにそれを求めるのは無理な話でしょうね。2024/03/22 10:55:2612.栖雲居士◆dqam8SqGUPdmUP9GTでは、馬祖禅の抱える問題に対して、禅界ではどの様な超克が試みられたのでしょうか?引き続き小川先生の著作からの引用です。>不即不離の「我」と「渠」>そのような趨勢をうけて後起した石頭系の一派では、馬祖禅ふうのありのままの自己とは別次元の、本来性の自己に対する探求が深められてゆきました。>石頭系の禅者たちは、それをしばしば「渠」「他」「伊」などの三人称代名詞で指したり、「主人公」とか「一人」という名で呼んだりするようになりました。また、馬祖自身も「非心非仏」とか「不是心、不是仏、不是物」と説く様になったそうです。2024/03/22 11:05:4213.神も仏も名無しさんjknOt議論?不立文字の欠片もねえな〜漫談師〜〜エイエイオー〜〜🤢🤢🤢🤢🤢2024/03/22 11:05:5914.神も仏も名無しさんjknOt>体験も知識もない彼らにそれを求めるのは無理な話でしょうねナルシズム承認欲求餓鬼がっ!🤢🤢🤢🤢🤢🤢2024/03/22 11:06:5015.神も仏も名無しさんjknOt心ゆくまで暇ある時精密襲撃をおこなう〜〜😄2024/03/22 11:07:4416.栖雲居士◆dqam8SqGUPdmUP9GTなんか変なのが湧いてますがwそもそも「不立文字」とは「相」と「真如」を区別するために示された方便なんです。語らないことではありませんww真如は言語表現出来ないって主旨なんですwwwそんな当たり前のことも知らないで何十年も勘違いをしてるバカはスルーですwwww相(nimitta) ←世俗帯(言語化による分析知) ・ 勝義諦(非言語化による直観知)→ 真如(tathatā)2024/03/22 11:14:2117.神も仏も名無しさんjknOt>相(nimitta) ←世俗帯(言語化による分析知) ・ 勝義諦(非言語化による直観知)→ 真如(tathatā)不立文字の欠片もねえだろ?滴水をなめるな🤢🤢🤢🤢🤢2024/03/22 11:15:2318.栖雲居士◆dqam8SqGUPdmUP9GTでは、石頭禅の特色が分かる祖録を幾つか味わってみましょう。2024/03/22 11:17:4419.栖雲居士◆dqam8SqGUPdmUP9GT切忌随他覚 切に忌む他に随って覚むることを迢迢与我疎 超超に我と疎なり我今独自往 我今独自り往き処処得逢渠 処処に渠と逢うを得渠今正是我 渠は今正に是れ我我今不是渠 我は今に渠に不是ず応須与摩会 応に須らく與磨く会して方得契如如 方めて如如に契うを得ん(『洞山過水偈』)2024/03/22 11:34:2420.神も仏も名無しさんjknOt>>19>相(nimitta) ←世俗帯(言語化による分析知) ・ 勝義諦(非言語化による直観知)→ 真如(tathatā)バカはがんばるな〜🤢🤢🤢🤢2024/03/22 11:37:1821.栖雲居士◆dqam8SqGUPdmUP9GT師煎茶次、 (師、茶を煎ずる次)道吾問、「作什摩」 (道吾問う、作麼をか作す?)師日、「煎茶」。 (師曰く、茶を煎ず)吾日、「与阿誰喫」 (吾曰く、阿誰にか喫ます?)師日、「有一人要」。 (師曰く、一人要する有り)道吾云、「何不教伊自煎」 (道吾云く、何ぞ伊をして自ら煎ぜしめざる)師、「幸有専甲在」。 (師云く、幸いに専甲有り)(「祖堂集」より)2024/03/22 11:50:5222.神も仏も名無しさんjknOt>>21?????>相(nimitta) ←世俗帯(言語化による分析知) ・ 勝義諦(非言語化による直観知)→ 真如(tathatā)🤢🤢🤢🤢🤢🤢2024/03/22 12:07:3423.神も仏も名無しさんjknOtナルシズムローラーだな🤢🤢🤢2024/03/22 12:08:0724.栖雲居士◆dqam8SqGUPdmUP9GT師掃地次、叫寺主問師、「何得自駈駈」(師地を掃く次、叫寺主、師に問う、「何ぞ自ら駈駈たるを得ん」)師日、「有一人不駈駈」。(師曰く、一人有りて駈駈たらず。)寺主日、「何処有第二月」(寺主曰く、「何処にか第二月有る」)師堅起掃等、「這个是第幾月」(師、掃箒を堅起して云く「這个は是れ第幾月ぞ」)寺主無対。( 寺主無対。)(同じく「祖堂集」より)2024/03/22 12:16:1225.栖雲居士◆dqam8SqGUPdmUP9GT例示はこのくらいでいいとして、曹洞宗で「両箇の月」は知らない方はいないでしょう。(以下、曹洞宗関東管区教化センターのブログより)比叡山で仏教学を修めた若き峨山禅師に、瑩山禅師は「月が二つあることを知っているか」と、おたずねになりました。しかし峨山禅師には何のことかさっぱり分かりません。その問いに答えるために、峨山禅師は修行に邁進され、ついに瑩山禅師の指を鳴らす音を聞いた瞬間、その真意を悟ったと伝えられています。“二つの月”とは、天上に輝く月と、自らが宿している月のことです。仏様の教えを象徴する“月”は、外側から常にその光を私たちに注いでくれています。その教えをいただく私たちは、言葉や文字を通じてそれをわかったつもりになっているようですが、それは仏様の示された教えそのものではありません。自分の外側に見えている月、それは実のところ月を指し示す指でしかないのです。私たちが仏様の教えを受け止めて自分のものとし、自らの生き方や生活の中に活かすことができてはじめてその教えは本物の“月”となるのです。ですからそれを受け止め、実践する私たち一人ひとりにも同じ月が宿っているのだと瑩山禅師は峨山禅師にお伝えになられたのです。このように、喩えられた“月”のことを、道元禅師は「あらゆるはたらきを具えたもの」と表現されています。「二つの月」と、「二度の月見」。仏教ともゆかりの深い“月”を身近に感じながら、この季節に鑑賞なさってみてはいかがでしょうか。2024/03/22 12:23:0026.栖雲居士◆dqam8SqGUPdmUP9GT>そのような趨勢をうけて後起した石頭系の一派では、馬祖禅ふうのありのままの自己とは別次元の、本来性の自己に対する探求が深められてゆきました。過水偈を例にとってみると、ありのままの自己(我)と本来性の自己(渠)の関係性が明白でありましょう。端的に云うと、渠は我なのですが我は渠ではないって事なんです。煎茶の件では、ありのままの自己=「有一人要」と本来性の自己=「専甲」、月の件では、ありのままの自己=「何得自駈駈」と本来性の自己=「有一人不駈駈」ということです。>師堅起掃等、「這个是第幾月」(師、掃箒を堅起して云く「這个は是れ第幾月ぞ」)これも、端的にありのままの自己と本来性の自己の関係性を云ってますね。素晴らしい。2024/03/22 12:51:5527.栖雲居士◆dqam8SqGUPdmUP9GTはい、振り出しに戻りますが、>さきに結論を言ってしまえば、馬祖系の禅は、現実態の自身がそのまま本来性の現われだと考えたのに対し、石頭系の禅は、現実態の自己とは別次元に本来性の自己を見出そうとしました。>ありのままの自己をそのまま育定するか、ありのままを超えたところに本来の自己をみようとするかーこの二本の対立軸の間の緊張関係が、唐代禅の基本的な構図を形づくってゆくのでした。(同書より)ということですね。2024/03/22 13:05:4028.栖雲居士◆dqam8SqGUPdmUP9GT・・・しかしです、どうでしょうか?石頭系の禅は確かに馬祖系の禅の抱える問題点を克服しているといえば確かにそうなのですが、なにか二元論的な一元論で物足りなさを覚えないでしょうか。>ありのままの自己の是認とありのままを超えた自己の探求、その二本の軸の間の対立や交錯や融合の動きが、この後の禅の思想史の基本的な構図を形づくることになるのでした。と小川先生は続けられております。2024/03/22 13:15:4829.栖雲居士◆dqam8SqGUPdmUP9GTCMですw[feat. 9Lana, SAKURAmoti] 雷櫻 / MAISONdeshttps://youtu.be/K_DteDkF_wg?si=0aVG8GWWGSjq1vFa2024/03/22 13:25:2730.栖雲居士◆dqam8SqGUPdmUP9GT学道之人不識真 学道の人の真を識らざるは只為従来認識神 只だ従来、識神を認むるが為なり無始劫来生死本 無始劫来の生死の本痴人喚作本来身 痴人は喚びて本来身と作す(「景徳伝灯録」より)2024/03/22 14:05:1031.栖雲居士◆dqam8SqGUPdmUP9GT白蓋老尊宿なる有り、奥州永徳寺の前住なり。事に困りて退院し、来りて泰心に寓す。自ら謂く、壮年、網干の盤珪禅師に参ぜりと。或る僧、因みに盤珪禅師の法要を問う。白蓋謂く、珪禅師、常に人に示して云く、「担だ不生を守れ。人人各各、本より仏性有り。妄念の為に蔽わるのみ。是の故に妄念不生なれば、即ち是れ仏性なり。委悉せんと欲さば則ち更に開け。譬如えば定中に鐘声を聞く時、是れ鐘声なりと思量するは妄念なり。思量せずして鐘声を知る底の物、見れ即ち本有円成の活仏心なり。この故を以って但だ不生を守れば、則便ち当人なる耳」。師之を聞きて云く、「盤珪、実に止だ如出くなるのみ歟!若し実に如此き見解なれば、則ち未だ凡夫の窟を出ず。豈に仏性仏心の談に及ばん哉!何となれば、思量せずして領納する底は是れ受と名づく、即ちの五蘊の第二なる耳。是の故に、古徳〔宗密)く、「諸受を受けざる、是れ正受と名づくと。若し此の受を認めて以って「本有円成の活仏心」と為せば、則ち轅を北にして越に向うなり。未だ二乗の小径に入らず、況や仏祖の大道を乎!祖師(三祖「信心銘」)云く、毫釐も差有れば、天地懸隔すと。実に是れ天地懸隔なり。洞山祖師云く驢前馬後の漢、長沙云く無量劫来生死の本、痴人は喚びて本来人と作す”と、皆な此れを指すなり。可んぞ恐れて惶れざらん哉!然りと難も、疑うらくは珪老なる者、如是くならざらん、担だ塗説なるのみ」。(『続曹洞宗全書』より)2024/03/22 14:05:2232.神も仏も名無しさん6ftDgバカのなるし2024/03/22 18:55:3433.神も仏も名無しさん6ftDgバカのナルシズムショーか?🤢2024/03/22 18:55:4934.栖雲居士◆dqam8SqGUPdmUP9GT而今有る者は道う、「本と悟処無し、箇の悟門を作って、此の事を建立す」と。若し恁?き見解なれば、獅子身中の虫の自ら獅子の肉を食うが如し。見ずや古人道く、「源深からざる者は流れ長からず、智大いならざる者は見遠からず」と。若し用て建立の会を作さば、仏法豈に如今に到らんや。2024/03/22 20:14:2135.栖雲居士◆dqam8SqGUPdmUP9GT当時、圓悟が「獅子身中の虫」と非難せずにおれぬほど横行していたのは、本来「悟り」など存在しない、「悟りの門」とか「究極の一事」とかいったものは方便のために仮りに立てられたものにすぎない、という説でした。「悟り」などというのは仮設の観念であって、そんなものを求めずありのままでいることが、結局、道にかなっているのだという説です。これが馬祖禅ふうの「平常無事」の考えをひきつぐものであることは言うまでもありません。國悟はここで、「悟り」の体験の実在を確信しつつ、そういう「平常無事」の禅に強く反対しているのでした。2024/03/22 20:14:4936.神も仏も名無しさんlEmLCナルシズムコーティング厚化粧ウンコローラーだがウンコで厚化粧してもな〜🤢🤢🤢🤢2024/03/22 20:58:4937.神も仏も名無しさんlEmLC>>35?????>相(nimitta) ←世俗帯(言語化による分析知) ・ 勝義諦(非言語化による直観知)→ 真如(tathatā)🤢🤢🤢🤢🤢🤢2024/03/22 20:59:4838.栖雲居士◆dqam8SqGUPdmBcd1E如今の人、尽く「無事」の会を作す。有る底は道く、「迷無く悟なし、更に求むるを要せず。仏の未だ出世せざりし時、達磨の未だ此の土に来らざる時の只如きは、什麽ならざる可からず。仏の出世を用いて什麽をか作さん祖師更に西来して什麽をか作さん」と。総て此の如きんば、什麽の干渉か有らん!也た須是らく大徹大悟し了りて、依旧らず山は是れ山、水は是れ水、刀至は一切万法、悉皆成現すべくして、方始めて箇の無事の人と作らん。見ずや龍牙の道えりを、「学道は先ずらく悟由有るべく、還って皆て快き龍舟を闘わせるが如し。旧は閑田地に閣きしと雖然も、一度贏ち来りて方始めて休す」。趙州の通省の「七斤布衫」の話子の只如きは、看よ他の古人の恁麼く道えることの金の如く玉の如くなるを。山僧の恁麼く説き、諸人の恁麼く聴けるは、総て是れ「上載」なり。且らく道え、作麼か是れ「下載」。三条椽下に看取せよ。2024/03/23 09:51:5539.栖雲居士◆dqam8SqGUPdmBcd1E『碧巌録』2024/03/23 09:52:1640.栖雲居士◆dqam8SqGUPdmBcd1E有般底の人道く、「本来一星の事も無し。但只だ茶に週うては茶を喫し、飯に遇うては飯を喫するのみ」と。此れは是れ大妄語!之を「未だ得ざるに得たりと謂い、未だ証せざるに証せりと謂う」(「法華経」方便品)と謂う。元来り曽て参得透ざるに、人の心を説き性を説き、玄を説き妙を説くを見ては、便ち道く、「只だ是れ狂言なるのみ、本来無事なり」と。可謂し、一盲、来盲を引くと。殊に知らず、祖師の未だ来らざる時、那裏にか天を喚びて地と作し、山を喚びて水と作し来れる?什麼の為にか祖師更に西来せる?諸方、陞堂入室して、箇の他をか説く?尽く是れ情識計較なり。若是情識計較の情尽きなば、方めて見得透ん。若し見得透なば、依旧らず天は是れ天、地は是れ地、山は是れ山、水は是れ水ならん。(『碧巌録』)2024/03/23 10:17:2741.神も仏も名無しさんhW94r>>40???????>相(nimitta) ←世俗帯(言語化による分析知) ・ 勝義諦(非言語化による直観知)→ 真如(tathatā)🤢🤢🤢🤢🤢🤢🤢2024/03/23 10:26:2142.栖雲居士◆dqam8SqGUPdmBcd1E又た云く、「始覚の本に合するを之れ仏と謂う」と。言うこころは、如今の始覚を以って本覚に合するなり。往往、邪師の輩、無言黙然を以って始覚と為し、威音王那畔を以って本覚と為す。固より此の理に非ず!既に此の理に非ざれば、何者か見れ覚?若し全て是れ覚なれば、豈に更に迷い有らん?若し迷い無しと謂わば、争奈せん、釈迦老子の明星現るる時に於て怨然として便ち覚り、自家が本命元辰、元来這裏に在り!と知得るをや。所以に言く、「始覚に困りて本覚に合す」と。禅和家の忽然と鼻孔を摸著するが如きは、便ち是れ這箇の道理なり。然して此の事は人人分上に、具足せざる無し。(「大慧普覚禅師語録」)2024/03/23 11:33:4043.神も仏も名無しさんhW94r>>42ナルシズム厚化粧決死に盛ってるなあ…🤢🤢🤢2024/03/23 11:38:1344.神も仏も名無しさんKPyAb然して此の法門は、契要を直指して、繁文を仮らず。但る一切の来生は、心本と無相。言う所の相とは、並て是れ妄心なり。何者か見れ妄?意を作して心を住め、空を取り浄を取る所より、乃至ては心を起して菩提涅槃を証せんと求むるまで、並て虚安に属す。他だ意を作すことさえ莫ければ、心には自から物無し、即ち物心無し。かく自性は空寂にして、空の体上に、自り本智有り、知を謂いて以て照用と為す。故に『般若経』に云く「応無所住面生其心」と。「応無所」は本寂之体、「而生其心」は本智之用なり。担だ意を作すことさえ莫ければ、自ら当に悟入すべし。努力、努力!(『神会語録』胡適本第五段(石井本ナシ)、『神会和尚禅話録』)2024/03/31 10:17:5745.神も仏も名無しさんKPyAb王待御(王維)、和上(神会)に問う、「何故に同じからざるを得たる?」答えて日く、「今、同じからずと言うは、澄禅師(恵澄)の要ず先ず定を修め、定を得て以後に慧を発するが為に、即ち然らざるを知るなり。「今、正に侍御どのと共に語る時、即ち定慧俱に等し。『般若経』に云く、”定多く慧少なければ、無明を増長す。慧多く定少なければ、邪見を増長す。若し定慧等しければ、名づけて仏性を見ると為す”と。故に同じからずと言う」。王特御問う、「作没なる時か是れ定慧等?」和上答う、「”定”と言うは、体の不可得なるなり。言う所の”慧”とは、能く不可得の体の、湛然常寂にして、恒沙の巧用有るを"見る”なり、即ち是れ定慧等学なり」。(石井本二九『神会和尚禅話録』)2024/03/31 10:49:2446.栖雲居士◆dqam8SqGUPdmXFvIC北宗禅の特徴。(1)各人の内面には「仏」としての本質ー仏性ーがもとから完善な形で実在している。(2)しかし、現実には、妄念・頻悩に覆いかくされて、それが見えなくなっている。(3)したがって、坐禅によってその妄念・煩悩を除去してゆけば、やがて仏性が顕われ出てくる。つまり現実態の迷える自己を坐禅によって克服し、その底に潜在している「仏」とひとしき本来の自己を回復する、という考え方です。(『禅思想史講義』小川隆 より)2024/03/31 13:11:5447.神も仏も名無しさんKPyAb大道は本来り広く遍ねく、円浄にして本より有り、因従り得るにはあらず。加えば浮雲の底の日光の似し、雲霧滅し尽さば、日光自ずから現る。何ぞ更に多くの広学知見もて、文字語言を渉歴り、覆って生死の道に帰するを用いん。口を用いて文を説き、伝えて道と為す者は、此の人、名利を貪求りて、自からを壊し他を壊すなり。亦た銅鏡を磨くが如し、鏡面上の塵落ち尽くさば、鏡は自り明浄なり。(『楞伽師資記』より)2024/03/31 13:21:3448.神も仏も名無しさんKPyAb給事中房?、「煩悩即菩提」の義を問う。答えて曰く、「今、虚空を借りて喩えと為す。虚空の本来動静無きが如し、明の来るを以って即ち明るく、暗来りて即ち暗むにはあらざるなり。此の暗き空は明るき〔空〕に異ならず、明るき空は暗き空に異ならず。明暗には自より去来有れど、虚空には元より動静無し。煩悩即を提、其の義も赤た然り。迷悟には即ち殊なり有りと雖も、菩提心は元来不動なり」。(石井本三九『神会和尚禅話録』)2024/03/31 13:49:2649.神も仏も名無しさんKPyAb給事中房琯、「煩悩即菩提」の義を問う。答えて曰く、「今、虚空を借りて喩えと為す。虚空の本来動静無きが如し、明の来るを以って即ち明るく、暗来りて即ち暗むにはあらざるなり。此の暗き空は明るき〔空〕に異ならず、明るき空は暗き空に異ならず。明暗には自より去来有れど、虚空には元より動静無し。煩悩即を提、其の義も赤た然り。迷悟には即ち殊なり有りと雖も、菩提心は元来不動なり」。(石井本三九『神会和尚禅話録』)2024/03/31 13:52:0450.神も仏も名無しさんKPyAb若し人に教えて凝心入定、住心看浄、起心外照、摂心内証”せしめば、此れは是い菩提を障うるなり。今”坐”と言うは、念の起らざるを“坐”と為し、今“禅”と言うは、本性を見るを“禅”と為す。所以に人に教えて身を坐して住心入定せしむることをせず。若し彼の教門を指して是と為さば、維摩詰は応に舎利弗の宴座を訶すべからざるなり。(『菩提達磨南宗定是非論』)2024/03/31 14:07:2151.神も仏も名無しさんKPyAb又た問う、「何者か是れ禅師の定恵等学”?」和上(神会)答う、「其の”定”と言うは、“体”の不可得なるなり。其の“恵”と言うは、能く不可得なる“体”の、湛然常寂にして、恒沙の用有るを"見る”なり、故に"定恵等学”と言う」(『菩提達磨南宗定是非論』)2024/03/31 16:04:0752.栖雲居士◆dqam8SqGUPdm8somZコピペばかりですが、近いうちに北宗禅と南宗禅の違いについてまとめる予定。2024/03/31 22:21:2153.栖雲居士◆dqam8SqGUPdmQkFgD>担だ意を作すことさえ莫ければ、自ら当に悟入すべし。>(『神会語録』胡適本第五段(石井本ナシ)、『神会和尚禅話録』)或る者は言うんです「只息をする事だ」だと。また或る者は「そのまま」なんだと。前者は待悟禅(或いは妄覚といえましょう)、後者は無事禅(或いは無記といえましょう)な訳です。どっちもダメですね。> 若し真に不疑の道に達せば、猶ほ太虚の廓然として洞豁なるが如し(『無門関』平常心是道 より)という事です。2024/04/01 13:36:3054.神も仏も名無しさん8FEto北宗禅と南宗禅の対立、というようなものは、別れた直後から、もう一回統合せねば、と考えた人がいただろうし(例えば、参同契を見よ)、道元禅師に連なる曹洞宗のやり方でも、また、語録見ても、統合されているじゃん、と俺は思うけどね。。2024/04/05 23:49:0255.神も仏も名無しさん8FEto簡単に言えば、悟った人から見ると、されもがそのままでいい、と見える、解決していると見える。。それ以外ありえない、ということがわかる。。我と大地有情と同時成道、したわけだから、それ以外ないんです。。これをそのまま言ったのが、馬祖ですね。。だけど、ひとによって、それを言われて、すぐ悟れる人とそうでない人がいる。。だから、六祖直参の人でも、会ってお話してすぐ悟った人と、南嶽みたいに、何年も苦労して悟った人がいる。。だけど、それは、悟るまでに時間がかかっただけで、過去の自分がダメだったか、というとそうではないんですね。。ただ、気づくのに時間がかかった、というだけ。。2024/04/05 23:54:5356.神も仏も名無しさん8FEto訂正、簡単に言えば、悟った人から見ると、誰もそのままでいい、と見える、解決していると見える。。2024/04/05 23:56:0957.神も仏も名無しさん8FEtoだから、そのまま、とか、即心是仏と説くのが即無事禅ではない。。それは、最初に、答えを言っただけで、そこにたどり着けるかという、迷悟は、れっきとしてある。。だから、それが無事善だという批判は、まったく見当はずれなんです。。2024/04/05 23:59:3058.神も仏も名無しさんFP1q3では、なぜ北宗禅がダメかというと、心を実体化してみて、その汚れを取り除く(汚れも実体化してますw)、で、取り除くと本来である、明鏡=悟りが顕現する、という誤った見解に基づいているからです。。2024/04/06 00:02:2059.神も仏も名無しさんFP1q3廓然無聖=尊い悟りという妄想すらない(悟りがないんじゃないけど)、という第一声から始まったのが、禅宗です。。で、その禅宗が伝えてきたのは、法=ダルマ=分別以前の存在そのもののありようです。。それを明らかに見ることを悟りとか、見性とか、大悟と言ってきただけです。。存在=ダルマは、悟る以前からあるし、その中にすべてが包含されているわけです。。だけど、それを見たところで、すでにあるものを、あたりまえなものを、改めて、悟った、というだけだから、悟りそのもの、が、以前に想像されていた聖なる尊いなんちゃら、ではないんですね。。2024/04/06 00:12:0360.神も仏も名無しさんFP1q3仏法は人の知るべきにあらず、すなわち、仏法は、狭い人間の料簡、考え、をはるかに超えています。。性悪な、どうしょうもない人間が、修行して悟って、素晴らしい人間になる、というのは、凡夫の想像する妄想です。。そうではなくて、そういう善悪、とか、浄不浄とか、心の本来非本来とか、が、実在じゃないよ、妄想観念、あるいは、分別に過ぎないということがホントに明らかになった結果、それらの囚われからの解脱、が達せられる、ということなんです。。2024/04/06 00:19:4561.神も仏も名無しさんFP1q3だから、仏とは何か、って言うと、いい人間とか、素晴らしい人、ではないと思いますよ。。ただ、自己を解決できた、というだけだから、善も悪も併せ持ったままでしょうね、基本は。。だけど、脱落しているわけだから、ある意味、自己が自己であることを超えている、また、同時に、自己になりきっているというか、自己が自己であることが問題にならない、結果手放すことができる。。で、その自己は、以前の自己と、性質、とか特性、能力などが変わるわけではないので、それ以前のまま、であるほかはないでしょうね。。ただ、解脱して、ちょっと軽くなった、明るくなった、くらいのものかもしれません。。w2024/04/06 00:28:5662.神も仏も名無しさん962Qs解脱してからね、本当の在りようが分かるのはそれ迄は単なる想像でしかない2024/04/06 05:18:3163.神も仏も名無しさんf7VMPロン閣下の統治いいことだ😃2024/04/06 06:29:3464.神も仏も名無しさんFP1q3心を鏡に例えるのの何がダメかって、こっち側に何かある、自己があると思っているからだよね。。そうじゃなくて、こっちには何も無くなって、ただ、周りに真如というか、ありのままの世界が現出する、現成する、ということがあるだけなんです。。自分がある、というのは、自分を振り返った時でしかない。。もとから自己がある、という前提だと、悟れないでしょう。。いや、もともとは無かったんですよ、と教えて、それを知っている必要はある。。2024/04/06 07:42:2465.神も仏も名無しさんFP1q3前提というか、法が、真実が、無我だから、解脱できるんだよね。。自己があったら、有我だったら、解脱のしようがない、ということになります。。2024/04/06 07:43:2666.神も仏も名無しさんFP1q3南嶽が、瓦を磨いて鏡にするパフォーマンスをした、というのも、神秀の偈を思い起こして、考える必要があるのでしょう。。2024/04/06 07:47:1767.夕vxnx5パフォーマンスがパフォーマンスでなくなるときがある本当に面白い逆も然り2024/04/06 09:56:1068.神も仏も名無しさんxvUJ0>>66>南嶽が、瓦を磨いて鏡にするパフォ臨済宗と道元禅師の解釈が違うめんどくて思い出せない😄こっちは仕事疲労のため魔改造ハイパーメガ心身脱落モードのまんま〜まー三ランク下げれているかも〜😄2024/04/06 10:22:5569.神も仏も名無しさんxvUJ0>>67久しぶり〜しかし5chはロン以外はリダンみたいなスピリチュアルの巣穴になってるなあ〜😄魔改造ハイパーメガ心身脱落モードを開発したので純正の心身脱落に近づいたやろ〜でもまあ、夕よりマジメに坐禅してないから純正心身脱落には遠い😄2024/04/06 10:25:2570.栖雲居士◆dqam8SqGUPdmywySw名無しは糞なんだから書くなよ🫵😂2024/04/07 21:37:5171.栖雲居士◆dqam8SqGUPdmk71qf以下、『無門関』第十九則「平常心是道」より南泉、趙州の「如何なるか是れ道」と問うに因って、泉云く、「平常心是れ道」。州云く、「還た趣向すべき否」。泉云く、「向かわんと擬すれば即ち乖く」。州云く、「擬せざれば、争でか是れ道なることを知らん」。泉云く、「道は知にも属せず、不知にも属せず。知は是れ妄覚、不知は是れ無記。若し真に不擬の道に達せば、猶お太虚の廓然として洞豁なるが如し。豈に強いて是非すべけんや」。州、言下に頓悟す。2024/06/15 11:35:5072.栖雲居士◆dqam8SqGUPdmZqBZ1北宗は離念を説き南宗は無念を説くって云いますけどね。2024/06/20 10:01:0973.栖雲居士◆dqam8SqGUPdmt758Iこっちにもコピペ。 ↓禅宗史を紐解くと、唐代と宋代ではその趣がかなり違ってくる訳です。「麻三斤」についてもそれが云われたその当時は、汎神論では無いのですが、それ(麻三斤)がそのまま真如実際の現れとして、その様に云われていた訳です。しかしそれが宋代になると、語録の聖典化と言語の解体化への指向性が深まり、与から奪と云いましょうか、「麻三斤」が説明し得ぬものへと変化していったのです。「賊気」と云いますか、無理会・参究の対象として変化していったのです。2024/06/24 08:56:3874.栖雲居士◆dqam8SqGUPdmwP0kV石頭の思想 ―馬祖との対比において―https://hu.repo.nii.ac.jp/records/1025唐代禅から宋代禅へ─馬祖と大慧http://repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/MD40140242/kzk032-1-09-ogawa.pdf馬祖道一の禅思想https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/38/2/38_2_673/_pdf/-char/ja教と禅と『宗鏡録』http://repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/MD40140244/kzk032-1-11-yanagi.pdf2024/07/02 05:27:2075.栖雲居士◆dqam8SqGUPdmwP0kVさらに、鈴木大拙先生は、石頭と馬祖に関して、両者は、思想的には大差はないが、石頭の『参同契』における 「回互不回互」と馬祖の 「平常心是道」を相違点として取りあげ、前者は、矛盾的自己同一、後者を日常実践の強調と指摘されている。2024/07/02 05:33:2376.栖雲居士◆dqam8SqGUPdmwP0kVさらに、鈴木大拙先生は、石頭と馬祖に関して、両者は、思想的には大差はないが、石頭の『参同契』における 「回互不回互」と馬祖の 「平常心是道」を相違点として取りあげ、前者は、矛盾的自己同一、後者を日常実践の強調と指摘されている。以上、石頭と2024/07/02 05:33:4677.栖雲居士◆dqam8SqGUPdmwP0kV門門一切境 迴互不迴互迴而更相渉 不爾依位住色本殊質象 聲元異樂苦暗合上中言 明明清濁句四大性自復 如子得其母書き下し文門門一切の境、回互と不回互と、回して更に相渉たる。 しからざれば位に依って住す。色もと質像を殊にし、声もと楽苦を異にす。暗は上中の言に合かない、 明は清濁の句を分かつ。四大の性おのずから復す、 子の其の母を得るがごとし。2024/07/02 05:41:0478.栖雲居士◆dqam8SqGUPdmwP0kV回互・不回互回互(エゴ)は相手がある相互関係。独立してこれこそと云うもの無し。不回互は独立していること。2024/07/02 05:43:0579.栖雲居士◆dqam8SqGUPdmwP0kVさらに、鈴木大拙先生は、石頭と馬祖に関して、両者は、思想的には大差はないが、石頭の『参同契』における 「回互不回互」と馬祖の 「平常心是道」を相違点として取りあげ、前者は、矛盾的自己同一、後者を日常実践の強調と指摘されている。禅は「自己」をどう見てきたか/小川隆https://www.toibito.com/toibito/series/678b56fb-33e3-4613-9c7c-8f519f267b0chttps://www.toibito.com/toibito/articles/系譜の宗教https://www.toibito.com/toibito/articles/おにぎりで見る悟りhttps://www.toibito.com/toibito/articles/360度の転換2024/07/02 05:52:2782.栖雲居士◆dqam8SqGUPdmwP0kVゴミは即通報。2024/07/02 12:18:4783.神も仏も名無しさんNr918怒っておられるーなさけなー🧟2024/07/02 20:23:0584.栖雲居士◆dqam8SqGUPdmZuDuUなんだかよく分からないのですが、「解決済」だの「もとより」だの、ありのまま教徒がありのまま理論を執拗に振りかざして微笑ましいのですがwwwそうした馬祖禅亜流の無事禅は宋代になって以下の様に否定されてるんですけどね。(『禅思想史講義』 小川隆 より) 1.作用即性や無事禅の否定 2.無事(0度)→大悟(180度)→無事(360度)の円環の論理 3.「活句」の活用~絶待の一語2024/07/03 21:55:3287.栖雲居士◆dqam8SqGUPdmDqYFt又た云く、「始覚の本に合するを之れ仏と謂う」と。言うこころは、如今の始覚を以って本覚に合するなり。往往、邪師の輩、無言黙然を以って始覚と為し、威音王湖畔を以って本覚と為す。個より此の理に非ず!既に此の理に非されば、何者か臭れ覚?若し全て是れ覚なれば、豈に更に迷い有らん?若し迷い無しと謂わば、争奈せん、釈迦老子の明星現るる時に於て忽然として便ち覚り、自家が本命元辰、元来這裏に在り!と知得るをや。所以に言く、「始覚に困りて本覚に合す」と。禅和家の忽然と鼻孔を摸著するが如きは、便ち是れ這個の道理なり。然して此の事は人人分上に、具足せざる無し。(『大慧普覚禅師語録』巻十八)2024/07/11 12:38:5288.栖雲居士◆dqam8SqGUPdmDqYFtいずれも、本来性(本覚)に自足し、現実態の自己を克服する契機(始覚)をもたない、という点では、択ぶところが無かったからです。大慧も、人はひとりひとり本来みな仏であるという大前提(「本覚」)には立っています。しかし、人は、現実には迷っている。だから看話によって大悟し(「始覚」、それによって、迷える現実態の自己(「不覚」)を克服し、本来の覚り(「本覚」)に立ち返らねばならぬーそれが大慧の主張でした。「本覚→不覚→始覚→本覚」というこの構造は、近くは『碧眼録』にみられたかの円環の論理をつぐものであり、遠くは最初期のいわゆる「北宗」禅に-方法を禅定から看話に発展させつつ-回帰するものでもありました。さきにも述べたように、このような円環の論理は、ありのままの自己に対する肯定と否定の矛盾という長年の課題に応えるものであり、中国禅の論理のひとつの完成形と言えるでしょう。のちの『十牛図』の構成も、この「本覚→不覚→始覚→本覚」という円環構造を視覚化したものにほかなりません。(『禅思想史講義』小川隆 より)2024/07/11 12:39:1789.栖雲居士◆dqam8SqGUPdmAIqBtとうていはく、「あるがいはく、仏法には、即心是仏のむねを了達しぬるがごときは、くちに経典を誦せず、身に仏道を行ぜざれども、あへて仏法にかけたるところなし。ただ仏法はもとより自己にありとしる、これを得道の全円とす。このほかさらに他人にむかひてもとむべきにあらず、いはんや坐禅辨道をわづらはしくせんや。」しめしていはく、「このことば、もともはかなし。もしなんぢがいふごとくならば、こころあらんもの、たれかこのむねををしへんに、しることなからん。しるべし、仏法は、まさに自他の見をやめて学するなり。もし自己即仏としるをもて得道とせば、釈尊むかし化道にわづらはじ。・・・」(『正法眼蔵』 弁道話 道元 より)2024/07/11 13:01:0890.神も仏も名無しさんL8CVOまた漫談しているのか?🧟🧟🧟🧟🧟🧟🧟2024/07/11 19:15:2791.栖雲居士◆dqam8SqGUPdmrUkfw******チェック(07/18)*******見るべき内容無し。2024/07/18 03:19:3893.栖雲居士◆dqam8SqGUPdmoK1qG****チェック(08/02)**** 見るべき内容無し。*****************2024/08/02 09:13:3794.栖雲居士◆dqam8SqGUPdmd0EFY****チェック(10/28)****2024/10/28 09:51:30
【国民民主党】玉木代表 加熱する不倫報道に「家族の心理的負担は極めて大きい」「テレビや週刊誌やネットも見てしまって、その都度傷ついている」ニュース速報+10414632024/11/21 20:16:06
【埼玉栄高校】涙ぐむ人…高2死亡、窓から身を乗り出して車が横転 深夜グラウンドで 高校が説明会、保護者「ずさんであり得ない」 頭を下げてあいさつし、真面目な生徒が多い学校「いたたまれない」ニュース速報+5701431.52024/11/21 20:15:58
【お約束】
1.sage進行でお願いします。
2.荒らしは完全スルーで。
3.体験談や雑談はお断り。
4.質問等には基本的に応じません。
5.コテハン・トリ付き必須。
6.発言には何故そうなのか経論等の根拠の明示を。
7.その他、スレ主の指示にはご協力を。
>ありのままの自己をそのまま育定するか、ありのままを超えたところに本来の自己をみようとするかーこの二本の対立軸の間の緊張関係が、唐代禅の基本的な構図を形づくってゆくのでした。(同書より)
>達磨大師は南天竺国より来りて中華に至り、上乗一心の法を伝え、汝らをして開悟せしめんとせり。
>(『馬祖語録』)
1.即心是仏(自らの心がそのまま仏に他ならない)
2.作用即性(日常の感覚や動作・行為がそのまま仏のはたらき)
3.平常無事(人為的なはからいがなく是非や凡聖の区別がない)
ってまとめておられます。
>こうした考え方は、頭でこしらえた観念に呪縛されている人に対しては、新鮮な解放の力となったでしょう。
>しかし、このありのままが、最初から所与の正解となってしまったら、人々がいともかんたんに自堕落で安逸な現実肯定に流れてしまうであろうことは想像に難くありません。
>そのため、馬祖の弟子たちの間からも、こういう考えに対する違和感や懐疑、さらには批判や超克の姿勢が出てくるようになりました。
>(同書)
思想だと?
クソボケが〜〜
やり切ったる
🤢🤢🤢🤢
宣言しとく〜
🤢🤢🤢🤢🤢
24.
ユーザー
栖雲居士◆dqam8SqGUPdm
BThMB(7/7)
ま、いいかw
なお、このスレは栖雲居士が監査しています。
いい加減な事を言うと〆られる事がありますのでご注意下さい。
さぁ、語りなさい!
2024/03/18 14:21:16
🤢🤢🤢🤢🤢🤢
丑三つ時にいばる
ローラー
569.
ユーザー
栖雲居士◆dqam8SqGUPdm
w5Jrk
あれは摂心に一回行っただけ。
あいつも三回くらい行っただけ。
二人とも日々の坐禅もしていない。
私はそんなのは禅宗としてカウントしてません。
本当に彼等が彼等の言う通りなら、禅宗には公案という点検道具があるから、少なくともその初歩的なそれは解ける筈なのに、全く手も付けられないレベル。
論外なんです。
2024/03/16 02:20:28
🤢🤢🤢🤢🤢🤢
こいつ〜〜
🤢🤢🤢🤢
いい加減に決着を付けてもらいたいのですが、体験も知識もない彼らにそれを求めるのは無理な話でしょうね。
引き続き小川先生の著作からの引用です。
>不即不離の「我」と「渠」
>そのような趨勢をうけて後起した石頭系の一派では、馬祖禅ふうのありのままの自己とは別次元の、本来性の自己に対する探求が深められてゆきました。
>石頭系の禅者たちは、それをしばしば「渠」「他」「伊」などの三人称代名詞で指したり、「主人公」とか「一人」という名で呼んだりするようになりました。
また、馬祖自身も「非心非仏」とか「不是心、不是仏、不是物」と説く様になったそうです。
不立文字の
欠片も
ねえな〜
漫談師〜〜
エイエイオー〜〜
🤢🤢🤢🤢🤢
ナルシズム承認欲求餓鬼がっ!
🤢🤢🤢🤢🤢🤢
暇ある時
精密襲撃を
おこなう〜〜
😄
そもそも「不立文字」とは「相」と「真如」を区別するために示された方便なんです。
語らないことではありませんww
真如は言語表現出来ないって主旨なんですwww
そんな当たり前のことも知らないで何十年も勘違いをしてるバカはスルーですwwww
相(nimitta) ←世俗帯(言語化による分析知) ・ 勝義諦(非言語化による直観知)→ 真如(tathatā)
不立文字の欠片もねえだろ?
滴水をなめるな
🤢🤢🤢🤢🤢
迢迢与我疎 超超に我と疎なり
我今独自往 我今独自り往き
処処得逢渠 処処に渠と逢うを得
渠今正是我 渠は今正に是れ我
我今不是渠 我は今に渠に不是ず
応須与摩会 応に須らく與磨く会して
方得契如如 方めて如如に契うを得ん
(『洞山過水偈』)
>相(nimitta) ←世俗帯(言語化による分析知) ・ 勝義諦(非言語化による直観知)→ 真如(tathatā)
バカは
がんばるな〜
🤢🤢🤢🤢
道吾問、「作什摩」 (道吾問う、作麼をか作す?)
師日、「煎茶」。 (師曰く、茶を煎ず)
吾日、「与阿誰喫」 (吾曰く、阿誰にか喫ます?)
師日、「有一人要」。 (師曰く、一人要する有り)
道吾云、「何不教伊自煎」 (道吾云く、何ぞ伊をして自ら煎ぜしめざる)
師、「幸有専甲在」。 (師云く、幸いに専甲有り)
(「祖堂集」より)
?????
>相(nimitta) ←世俗帯(言語化による分析知) ・ 勝義諦(非言語化による直観知)→ 真如(tathatā)
🤢🤢🤢🤢🤢🤢
だな
🤢🤢🤢
(師地を掃く次、叫寺主、師に問う、「何ぞ自ら駈駈たるを得ん」)
師日、「有一人不駈駈」。
(師曰く、一人有りて駈駈たらず。)
寺主日、「何処有第二月」
(寺主曰く、「何処にか第二月有る」)
師堅起掃等、「這个是第幾月」
(師、掃箒を堅起して云く「這个は是れ第幾月ぞ」)
寺主無対。
( 寺主無対。)
(同じく「祖堂集」より)
(以下、曹洞宗関東管区教化センターのブログより)
比叡山で仏教学を修めた若き峨山禅師に、瑩山禅師は「月が二つあることを知っているか」と、おたずねになりました。
しかし峨山禅師には何のことかさっぱり分かりません。
その問いに答えるために、峨山禅師は修行に邁進され、ついに瑩山禅師の指を鳴らす音を聞いた瞬間、その真意を悟ったと伝えられています。
“二つの月”とは、天上に輝く月と、自らが宿している月のことです。
仏様の教えを象徴する“月”は、外側から常にその光を私たちに注いでくれています。
その教えをいただく私たちは、言葉や文字を通じてそれをわかったつもりになって
いるようですが、それは仏様の示された教えそのものではありません。
自分の外側に見えている月、それは実のところ月を指し示す指でしかないのです。
私たちが仏様の教えを受け止めて自分のものとし、自らの生き方や生活の中に活かすことができてはじめてその教えは本物の“月”となるのです。
ですからそれを受け止め、実践する私たち一人ひとりにも同じ月が宿っているのだと瑩山禅師は峨山禅師にお伝えになられたのです。
このように、喩えられた“月”のことを、道元禅師は「あらゆるはたらきを具えたもの」と表現されています。
「二つの月」と、「二度の月見」。
仏教ともゆかりの深い“月”を身近に感じながら、この季節に鑑賞なさってみてはいかがでしょうか。
過水偈を例にとってみると、ありのままの自己(我)と本来性の自己(渠)の関係性が明白でありましょう。
端的に云うと、渠は我なのですが我は渠ではないって事なんです。
煎茶の件では、ありのままの自己=「有一人要」と本来性の自己=「専甲」、月の件では、ありのままの自己=「何得自駈駈」と本来性の自己=「有一人不駈駈」ということです。
>師堅起掃等、「這个是第幾月」(師、掃箒を堅起して云く「這个は是れ第幾月ぞ」)
これも、端的にありのままの自己と本来性の自己の関係性を云ってますね。
素晴らしい。
>さきに結論を言ってしまえば、馬祖系の禅は、現実態の自身がそのまま本来性の現われだと考えたのに対し、石頭系の禅は、現実態の自己とは別次元に本来性の自己を見出そうとしました。
>ありのままの自己をそのまま育定するか、ありのままを超えたところに本来の自己をみようとするかーこの二本の対立軸の間の緊張関係が、唐代禅の基本的な構図を形づくってゆくのでした。(同書より)
ということですね。
石頭系の禅は確かに馬祖系の禅の抱える問題点を克服しているといえば確かにそうなのですが、なにか二元論的な一元論で物足りなさを覚えないでしょうか。
>ありのままの自己の是認とありのままを超えた自己の探求、その二本の軸の間の対立や交錯や融合の動きが、この後の禅の思想史の基本的な構図を形づくることになるのでした。
と小川先生は続けられております。
[feat. 9Lana, SAKURAmoti] 雷櫻 / MAISONdes
https://youtu.be/K_DteDkF_wg?si=0aVG8GWWGSjq1vFa
只為従来認識神 只だ従来、識神を認むるが為なり
無始劫来生死本 無始劫来の生死の本
痴人喚作本来身 痴人は喚びて本来身と作す
(「景徳伝灯録」より)
事に困りて退院し、来りて泰心に寓す。
自ら謂く、壮年、網干の盤珪禅師に参ぜりと。
或る僧、因みに盤珪禅師の法要を問う。
白蓋謂く、珪禅師、常に人に示して云く、「担だ不生を守れ。人人各各、本より仏性有り。妄念の為に蔽わるのみ。是の故に妄念不生なれば、即ち是れ仏性なり。委悉せんと欲さば則ち更に開け。譬如えば定中に鐘声を聞く時、是れ鐘声なりと思量するは妄念なり。思量せずして鐘声を知る底の物、見れ即ち本有円成の活仏心なり。この故を以って但だ不生を守れば、則便ち当人なる耳」。
師之を聞きて云く、「盤珪、実に止だ如出くなるのみ歟!若し実に如此き見解なれば、則ち未だ凡夫の窟を出ず。豈に仏性仏心の談に及ばん哉!何となれば、思量せずして領納する底は是れ受と名づく、即ちの五蘊の第二なる耳。是の故に、古徳〔宗密)く、「諸受を受けざる、是れ正受と名づくと。若し此の受を認めて以って「本有円成の活仏心」と為せば、則ち轅を北にして越に向うなり。未だ二乗の小径に入らず、況や仏祖の大道を乎!祖師(三祖「信心銘」)云く、毫釐も差有れば、天地懸隔すと。実に是れ天地懸隔なり。
洞山祖師云く驢前馬後の漢、長沙云く無量劫来生死の本、痴人は喚びて本来人と作す”と、皆な此れを指すなり。
可んぞ恐れて惶れざらん哉!然りと難も、疑うらくは珪老なる者、如是くならざらん、担だ塗説なるのみ」。
(『続曹洞宗全書』より)
🤢
若し恁?き見解なれば、獅子身中の虫の自ら獅子の肉を食うが如し。
見ずや古人道く、「源深からざる者は流れ長からず、智大いならざる者は見遠からず」と。
若し用て建立の会を作さば、仏法豈に如今に到らんや。
「悟り」などというのは仮設の観念であって、そんなものを求めずありのままでいることが、結局、道にかなっているのだという説です。
これが馬祖禅ふうの「平常無事」の考えをひきつぐものであることは言うまでもありません。
國悟はここで、「悟り」の体験の実在を確信しつつ、そういう「平常無事」の禅に強く反対しているのでした。
ウンコローラー
だが
ウンコで
厚化粧してもな〜
🤢🤢🤢🤢
?????
>相(nimitta) ←世俗帯(言語化による分析知) ・ 勝義諦(非言語化による直観知)→ 真如(tathatā)
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有る底は道く、「迷無く悟なし、更に求むるを要せず。仏の未だ出世せざりし時、達磨の未だ此の土に来らざる時の只如きは、什麽ならざる可からず。仏の出世を用いて什麽をか作さん祖師更に西来して什麽をか作さん」と。
総て此の如きんば、什麽の干渉か有らん!也た須是らく大徹大悟し了りて、依旧らず山は是れ山、水は是れ水、刀至は一切万法、悉皆成現すべくして、方始めて箇の無事の人と作らん。
見ずや龍牙の道えりを、「学道は先ずらく悟由有るべく、還って皆て快き龍舟を闘わせるが如し。旧は閑田地に閣きしと雖然も、一度贏ち来りて方始めて休す」。
趙州の通省の「七斤布衫」の話子の只如きは、看よ他の古人の恁麼く道えることの金の如く玉の如くなるを。
山僧の恁麼く説き、諸人の恁麼く聴けるは、総て是れ「上載」なり。
且らく道え、作麼か是れ「下載」。
三条椽下に看取せよ。
此れは是れ大妄語!之を「未だ得ざるに得たりと謂い、未だ証せざるに証せりと謂う」(「法華経」方便品)と謂う。
元来り曽て参得透ざるに、人の心を説き性を説き、玄を説き妙を説くを見ては、便ち道く、「只だ是れ狂言なるのみ、本来無事なり」と。
可謂し、一盲、来盲を引くと。
殊に知らず、祖師の未だ来らざる時、那裏にか天を喚びて地と作し、山を喚びて水と作し来れる?什麼の為にか祖師更に西来せる?諸方、陞堂入室して、箇の他をか説く?尽く是れ情識計較なり。
若是情識計較の情尽きなば、方めて見得透ん。
若し見得透なば、依旧らず天は是れ天、地は是れ地、山は是れ山、水は是れ水ならん。
(『碧巌録』)
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>相(nimitta) ←世俗帯(言語化による分析知) ・ 勝義諦(非言語化による直観知)→ 真如(tathatā)
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言うこころは、如今の始覚を以って本覚に合するなり。
往往、邪師の輩、無言黙然を以って始覚と為し、威音王那畔を以って本覚と為す。
固より此の理に非ず!
既に此の理に非ざれば、何者か見れ覚?
若し全て是れ覚なれば、豈に更に迷い有らん?
若し迷い無しと謂わば、争奈せん、釈迦老子の明星現るる時に於て怨然として便ち覚り、自家が本命元辰、元来這裏に在り!と知得るをや。
所以に言く、「始覚に困りて本覚に合す」と。
禅和家の忽然と鼻孔を摸著するが如きは、便ち是れ這箇の道理なり。
然して此の事は人人分上に、具足せざる無し。
(「大慧普覚禅師語録」)
ナルシズム厚化粧
決死に
盛ってるなあ…
🤢🤢🤢
但る一切の来生は、心本と無相。
言う所の相とは、並て是れ妄心なり。
何者か見れ妄?
意を作して心を住め、空を取り浄を取る所より、乃至ては心を起して菩提涅槃を証せんと求むるまで、並て虚安に属す。
他だ意を作すことさえ莫ければ、心には自から物無し、即ち物心無し。
かく自性は空寂にして、空の体上に、自り本智有り、知を謂いて以て照用と為す。
故に『般若経』に云く「応無所住面生其心」と。
「応無所」は本寂之体、「而生其心」は本智之用なり。
担だ意を作すことさえ莫ければ、自ら当に悟入すべし。
努力、努力!
(『神会語録』胡適本第五段(石井本ナシ)、『神会和尚禅話録』)
答えて日く、「今、同じからずと言うは、澄禅師(恵澄)の要ず先ず定を修め、定を得て以後に慧を発するが為に、即ち然らざるを知るなり。
「今、正に侍御どのと共に語る時、即ち定慧俱に等し。『般若経』に云く、”定多く慧少なければ、無明を増長す。慧多く定少なければ、邪見を増長す。若し定慧等しければ、名づけて仏性を見ると為す”と。故に同じからずと言う」。
王特御問う、「作没なる時か是れ定慧等?」
和上答う、「”定”と言うは、体の不可得なるなり。言う所の”慧”とは、能く不可得の体の、湛然常寂にして、恒沙の巧用有るを"見る”なり、即ち是れ定慧等学なり」。
(石井本二九『神会和尚禅話録』)
(1)各人の内面には「仏」としての本質ー仏性ーがもとから完善な形で実在している。
(2)しかし、現実には、妄念・頻悩に覆いかくされて、それが見えなくなっている。
(3)したがって、坐禅によってその妄念・煩悩を除去してゆけば、やがて仏性が顕われ出てくる。
つまり現実態の迷える自己を坐禅によって克服し、その底に潜在している「仏」とひとしき本来の自己を回復する、という考え方です。
(『禅思想史講義』小川隆 より)
加えば浮雲の底の日光の似し、雲霧滅し尽さば、日光自ずから現る。
何ぞ更に多くの広学知見もて、文字語言を渉歴り、覆って生死の道に帰するを用いん。
口を用いて文を説き、伝えて道と為す者は、
此の人、名利を貪求りて、自からを壊し他を壊すなり。
亦た銅鏡を磨くが如し、鏡面上の塵落ち尽くさば、鏡は自り明浄なり。
(『楞伽師資記』より)
答えて曰く、「今、虚空を借りて喩えと為す。虚空の本来動静無きが如し、明の来るを以って即ち明るく、暗来りて即ち暗むにはあらざるなり。此の暗き空は明るき〔空〕に異ならず、明るき空は暗き空に異ならず。明暗には自より去来有れど、虚空には元より動静無し。煩悩即を提、其の義も赤た然り。迷悟には即ち殊なり有りと雖も、菩提心は元来不動なり」。
(石井本三九『神会和尚禅話録』)
答えて曰く、「今、虚空を借りて喩えと為す。虚空の本来動静無きが如し、明の来るを以って即ち明るく、暗来りて即ち暗むにはあらざるなり。此の暗き空は明るき〔空〕に異ならず、明るき空は暗き空に異ならず。明暗には自より去来有れど、虚空には元より動静無し。煩悩即を提、其の義も赤た然り。迷悟には即ち殊なり有りと雖も、菩提心は元来不動なり」。
(石井本三九『神会和尚禅話録』)
菩提を障うるなり。
今”坐”と言うは、念の起らざるを“坐”と為し、今“禅”と言うは、本性を見るを“禅”と為す。
所以に人に教えて身を坐して住心入定せしむることをせず。
若し彼の教門を指して是と為さば、維摩詰は応に舎利弗の宴座を訶すべからざるなり。
(『菩提達磨南宗定是非論』)
和上(神会)答う、「其の”定”と言うは、“体”の不可得なるなり。其の“恵”と言うは、能く不可得なる“体”の、湛然常寂にし
て、恒沙の用有るを"見る”なり、故に"定恵等学”と言う」
(『菩提達磨南宗定是非論』)
>(『神会語録』胡適本第五段(石井本ナシ)、『神会和尚禅話録』)
或る者は言うんです「只息をする事だ」だと。
また或る者は「そのまま」なんだと。
前者は待悟禅(或いは妄覚といえましょう)、後者は無事禅(或いは無記といえましょう)な訳です。
どっちもダメですね。
> 若し真に不疑の道に達せば、猶ほ太虚の廓然として洞豁なるが如し(『無門関』平常心是道 より)
という事です。
と考えた人がいただろうし(例えば、参同契を見よ)、道元禅師に連なる曹洞宗のやり方でも、
また、語録見ても、統合されているじゃん、と俺は思うけどね。。
それ以外ありえない、ということがわかる。。
我と大地有情と同時成道、したわけだから、それ以外ないんです。。
これをそのまま言ったのが、馬祖ですね。。
だけど、ひとによって、それを言われて、すぐ悟れる人とそうでない人がいる。。
だから、六祖直参の人でも、会ってお話してすぐ悟った人と、南嶽みたいに、何年も苦労して悟った人がいる。。
だけど、それは、悟るまでに時間がかかっただけで、過去の自分がダメだったか、というとそうではないんですね。。
ただ、気づくのに時間がかかった、というだけ。。
それは、最初に、答えを言っただけで、そこにたどり着けるかという、迷悟は、れっきとしてある。。
だから、それが無事善だという批判は、まったく見当はずれなんです。。
で、取り除くと本来である、明鏡=悟りが顕現する、という誤った見解に基づいているからです。。
で、その禅宗が伝えてきたのは、法=ダルマ=分別以前の存在そのもののありようです。。
それを明らかに見ることを悟りとか、見性とか、大悟と言ってきただけです。。
存在=ダルマは、悟る以前からあるし、その中にすべてが包含されているわけです。。
だけど、それを見たところで、すでにあるものを、あたりまえなものを、改めて、悟った、というだけだから、
悟りそのもの、が、以前に想像されていた聖なる尊いなんちゃら、ではないんですね。。
性悪な、どうしょうもない人間が、修行して悟って、素晴らしい人間になる、というのは、凡夫の想像する妄想です。。
そうではなくて、そういう善悪、とか、浄不浄とか、心の本来非本来とか、が、
実在じゃないよ、妄想観念、あるいは、分別に過ぎないということがホントに明らかになった結果、
それらの囚われからの解脱、が達せられる、ということなんです。。
ただ、自己を解決できた、というだけだから、善も悪も併せ持ったままでしょうね、基本は。。
だけど、脱落しているわけだから、ある意味、自己が自己であることを超えている、また、同時に、
自己になりきっているというか、自己が自己であることが問題にならない、結果手放すことができる。。
で、その自己は、以前の自己と、性質、とか特性、能力などが変わるわけではないので、
それ以前のまま、であるほかはないでしょうね。。
ただ、解脱して、ちょっと軽くなった、明るくなった、くらいのものかもしれません。。w
それ迄は単なる想像でしかない
統治
いいことだ
😃
そうじゃなくて、こっちには何も無くなって、ただ、周りに真如というか、ありのままの世界が現出する、現成する、ということがあるだけなんです。。
自分がある、というのは、自分を振り返った時でしかない。。
もとから自己がある、という前提だと、悟れないでしょう。。
いや、もともとは無かったんですよ、と教えて、それを知っている必要はある。。
自己があったら、有我だったら、解脱のしようがない、ということになります。。
考える必要があるのでしょう。。
本当に面白い
逆も然り
>南嶽が、瓦を磨いて鏡にするパフォ
臨済宗と道元禅師の解釈が違う
めんどくて
思い出せない
😄
こっちは仕事疲労のため
魔改造ハイパーメガ心身脱落モードのまんま〜
まー三ランク下げれているかも〜
😄
久しぶり〜
しかし
5chは
ロン以外は
リダンみたいなスピリチュアルの巣穴になってるなあ〜
😄
魔改造ハイパーメガ心身脱落モードを
開発したので
純正の心身脱落に近づいたやろ〜
でもまあ、
夕よりマジメに坐禅してないから
純正心身脱落には遠い
😄
南泉、趙州の「如何なるか是れ道」と問うに因って、泉云く、「平常心是れ道」。
州云く、「還た趣向すべき否」。
泉云く、「向かわんと擬すれば即ち乖く」。
州云く、「擬せざれば、争でか是れ道なることを知らん」。
泉云く、「道は知にも属せず、不知にも属せず。知は是れ妄覚、不知は是れ無記。若し真に不擬の道に達せば、猶お太虚の廓然として洞豁なるが如し。豈に強いて是非すべけんや」。
州、言下に頓悟す。
↓
禅宗史を紐解くと、唐代と宋代ではその趣がかなり違ってくる訳です。
「麻三斤」についてもそれが云われたその当時は、汎神論では無いのですが、それ(麻三斤)がそのまま真如実際の現れとして、その様に云われていた訳です。
しかしそれが宋代になると、語録の聖典化と言語の解体化への指向性が深まり、与から奪と云いましょうか、「麻三斤」が説明し得ぬものへと変化していったのです。
「賊気」と云いますか、無理会・参究の対象として変化していったのです。
https://hu.repo.nii.ac.jp/records/1025
唐代禅から宋代禅へ─馬祖と大慧
http://repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/MD40140242/kzk032-1-09-ogawa.pdf
馬祖道一の禅思想
https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/38/2/38_2_673/_pdf/-char/ja
教と禅と『宗鏡録』
http://repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/MD40140244/kzk032-1-11-yanagi.pdf
互不回互」と馬祖の 「平常心是道」を相違点として取りあげ、前者は、矛盾的自己同一、後者を日常実践の強調と指
摘されている。
摘されている。
以上、石頭と
迴而更相渉 不爾依位住
色本殊質象 聲元異樂苦
暗合上中言 明明清濁句
四大性自復 如子得其母
書き下し文
門門一切の境、回互と不回互と、
回して更に相渉たる。 しからざれば位に依って住す。
色もと質像を殊にし、声もと楽苦を異にす。
暗は上中の言に合かない、 明は清濁の句を分かつ。
四大の性おのずから復す、 子の其の母を得るがごとし。
回互(エゴ)は相手がある相互関係。独立してこれこそと云うもの無し。不回互は独立していること。
禅は「自己」をどう見てきたか/小川隆
https://www.toibito.com/toibito/series/678b56fb-33e3-4613-9c7c-8f519f267b0c
https://www.toibito.com/toibito/articles/系譜の宗教
https://www.toibito.com/toibito/articles/おにぎりで見る悟り
https://www.toibito.com/toibito/articles/360度の転換
なさけなー
🧟
そうした馬祖禅亜流の無事禅は宋代になって以下の様に否定されてるんですけどね。
(『禅思想史講義』 小川隆 より)
1.作用即性や無事禅の否定
2.無事(0度)→大悟(180度)→無事(360度)の円環の論理
3.「活句」の活用~絶待の一語
言うこころは、如今の始覚を以って本覚に合するなり。
往往、邪師の輩、無言黙然を以って始覚と為し、威音王湖畔を以って本覚と為す。
個より此の理に非ず!
既に此の理に非されば、何者か臭れ覚?
若し全て是れ覚なれば、豈に更に迷い有らん?
若し迷い無しと謂わば、争奈せん、釈迦老子の明星現るる時に於て忽然として便ち覚り、自家が本命元辰、元来這裏に在り!と知得るをや。
所以に言く、「始覚に困りて本覚に合す」と。
禅和家の忽然と鼻孔を摸著するが如きは、便ち是れ這個の道理なり。
然して此の事は人人分上に、具足せざる無し。
(『大慧普覚禅師語録』巻十八)
大慧も、人はひとりひとり本来みな仏であるという大前提(「本覚」)には立っています。
しかし、人は、現実には迷っている。
だから看話によって大悟し(「始覚」、それによって、迷える現実態の自己(「不覚」)を克服し、本来の覚り(「本覚」)に立ち返らねばならぬーそれが大慧の主張でした。
「本覚→不覚→始覚→本覚」というこの構造は、近くは『碧眼録』にみられたかの円環の論理をつぐものであり、遠くは最初期のいわゆる「北宗」禅に-方法を禅定から看話に発展させつつ-回帰するものでもありました。
さきにも述べたように、このような円環の論理は、ありのままの自己に対する肯定と否定の矛盾という長年の課題に応えるものであり、中国禅の論理のひとつの完成形と言えるでしょう。
のちの『十牛図』の構成も、この「本覚→不覚→始覚→本覚」という円環構造を視覚化したものにほかなりません。
(『禅思想史講義』小川隆 より)
「あるがいはく、仏法には、即心是仏のむねを了達しぬるがごときは、くちに経典を誦せず、身に仏道を行ぜざれども、あへて仏法にかけたるところなし。
ただ仏法はもとより自己にありとしる、これを得道の全円とす。
このほかさらに他人にむかひてもとむべきにあらず、いはんや坐禅辨道をわづらはしくせんや。」
しめしていはく、
「このことば、もともはかなし。もしなんぢがいふごとくならば、こころあらんもの、たれかこのむねををしへんに、しることなからん。
しるべし、仏法は、まさに自他の見をやめて学するなり。
もし自己即仏としるをもて得道とせば、釈尊むかし化道にわづらはじ。・・・」
(『正法眼蔵』 弁道話 道元 より)
漫談しているのか?
🧟🧟🧟🧟🧟🧟🧟
見るべき内容無し。
見るべき内容無し。
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