2016年3月:インドのモディ首相と会談 6月 :国際ヨガデーに際して、国連で平和のスピーチ 10月 :国連で開催されたYoga and the UN Culture of Peaceに主賓として参加 2017年5月:再び、国連へ。アースデイを祝う国際会議にメインスピーカーとして参加 6月 :インドで“DS MAX YOGA SHREE AWARD”受賞 そして、国賓として招かれネパールへ
Yes, the renowned spiritual leader and former Indian Air Force pilot,Pilot Baba(born Kapil Singh), passed away onAugust 20, 2024, in Delhi at the age of 86, attainingMahasamadhiand leaving his mortal body, with his final rites performed in Haridwar, leading to a period of mourning within the spiritual community.
Key Details:
Date of Death:August 20, 2024.
Age:86.
Location:Died in a hospital in Delhi, India, but his final rites were held in Haridwar, Uttarakhand.
Background:He was a Wing Commander in the Indian Air Force, serving in the 1965 and 1971 wars, and became famous as a spiritual master known for his deep meditative states (Samadhi).
Legacy:He was a Mahamandaleshwar of the Juna Akhara and established several ashrams, known for guiding many disciples and helping pilgrims.
前スレ
【さようなら】唯識三十頌の解釈を巡る批難について【JBL】
https://talk.jp/boards/psy/1756859544
【唯識三年】仏教ウンチクを語るスレ 10【倶舎八年】
https://talk.jp/boards/psy/1759535455
【仏教の標準理論】 倶舎論 【世親著】 Part3
https://talk.jp/boards/psy/1761643017
中論
https://talk.jp/boards/psy/1738711204
まずはすべては思考の産物にすぎない(唯識)ことをを理解しましょう。
とはいえ理解することと完全に体得することは別物です。
この段階では世界があって自分がいる(二取)という思考を
潜在的に持っている(随眠)ままです。
すべては思考の産物にすぎないということの理解が進み
これを体得しようという気力に満ちて修行にはげみます。
しかしながら思考のなかにはあいかわらず
自我意識によって生み出された幻への
執着が依然として残っている(有所得)状態です。
修行を重ねていくと思考の対象(所縁)となるものを
理解(智)しようという執着が完全になくなる(無所得)瞬間が訪れます。
このときにはじめて思考する対象も思考する自分もなくなり
すべて思考の産物にすぎないということわりを体感するのです。
先のステージで正しいことわりを体感することができた瞬間は
執着を完全にはなれた(無得)不可思議(不思議)な境地に他なりません。
この瞬間に世俗的な知見とはまるで違う知の地平(出世間智)が開かれてきます。
しかしながらはるか昔からあやまった考えとくもった心を持って生きてきたことの影響が私たちの奥底に習慣化されて根強く残っています。
これらの二種の障害(麁重)をたむまぬ努力の果てに絶やしてしまうとき
私たちの存在のありかたは根本的に変わります(転依)。
私たちのありかたが根本的にかつ永続的に変わったとき
そこにあるのは迷いなき世界(無漏界)であり
言語を超えた不可思議な世界(不思議)であり
極めて安穏な(善)であり
生滅のことわりを離れて(常)おり
悩むことなく寂静(安楽)なる世界です。
二種の障害のうちくもった心をすべて断ち切って
解脱して自由になった境地(解脱身)を享受するだけでも
平穏な境地に至れるかもしれません。
しかし大乗仏教はあらゆる人々と平穏に生きるためのものですから
正しいことわりを知り尽くして迷える人々を教え導こうと志してください。
それが聖者(大牟尼)のごとく世界に遍在する真理(法)として生きることです。
https://ryuganji.jp/buddhism/1104/
「倶舎論」では修行階梯は「三道」で構成されますが、実際には準備段階を入れると5段階で構成されます。
「順解脱分」→「順決択分」→「見道」→「修道」→「無学道」の5つです。
この5段階は大乗仏教にも受け継がれ、「五道」と言われます。
大乗では「順解脱分」は「資糧道」、「順決択分」は「加行道」と呼ばれます。
曹洞宗の葬儀は、故人を仏弟子として迎え入れる「授戒」と、仏の世界へ導く「引導」の二大儀式を中心に構成されます。その中で唱えられるお経には以下のようなものがあります:
お経名内容と役割
修証義(しゅしょうぎ)道元禅師の教えをまとめた曹洞宗独自の経典。仏道修行の根本を説く。葬儀の中心経典。
般若心経空の思想を説く代表的な経典。死者の迷いを断ち、悟りへ導くために読誦される。
舎利礼文(しゃりらいもん)お釈迦様の遺骨(舎利)に礼拝する文。故人を仏弟子として迎える儀式で唱えられる。
観音経(かんのんきょう)観音菩薩の慈悲を讃える経典。故人の安寧と遺族の心の安らぎを祈る場面で読まれることがある。
大悲心陀羅尼(だいひしんだらに)観音菩薩の真言。故人の罪障消滅と成仏を願って唱えられることがある。
間違いw失礼。
稽首唯識性 満分清浄者 →「私は、唯識の本性にして、完全に清浄なる存在に深く礼拝します。」 ※「稽首」は頭を地につけて礼拝すること。「満分清浄者」は仏や菩薩を指します。
我今釈彼説 利楽諸有情 →「今、私はその教えを解き明かし、すべての生きとし生けるものに利益と安楽をもたらします。」 ※「彼説」は唯識の教え。「有情」は感情や意識を持つ存在=衆生。
由假説我法 有種種相轉 →「仮に我(自我)と法(対象)を説くことで、さまざまな現象が生じます。」 ※唯識では「我」と「法」は仮の存在であり、実体はないとされます。
彼依識所變 此能變唯三 →「それらはすべて識の変化によって生じ、この変化を担う識は三つだけです。」 ※「識」は心の働き。「能変」は変化を起こす主体。
初阿頼耶識 異熟一切種 →「第一は阿頼耶識で、過去の業によって熟したすべての種子を含みます。」 ※「異熟」は業の結果として現れるもの。
不可知執受 處了常與觸 →「それは認識できず、執着と受け取りの働きがあり、常に触れられています。」 ※阿頼耶識は直接認識できないが、常に作用している。
作意受想思 相應唯捨受 →「意志・感受・想像・思考といった心の働きに対応し、ただ捨受(快でも不快でもない感受)だけが伴います。」 ※阿頼耶識は中立的な感受(捨受)しか持たないとされます。
是無覆無記 触等亦如是 →「これは善でも悪でもない“無記”であり、触などの心の働きも同様です。」 ※阿頼耶識は価値判断を超えた中立的な性質。
恒転如暴流 阿羅漢位捨 →「常に激流のように流動し、阿羅漢の境地ではこの識は捨てられます。」 ※悟りの境地では阿頼耶識は消滅する。
次第二能変 是識名末那 →「次に第二の変化を起こす識は“末那識”と呼ばれます。」 ※自我意識の根源。
依彼転縁彼 思量為性相 →「阿頼耶識に依存し、それを対象として思いを巡らす性質を持ちます。」
四煩悩常倶 謂我癡我見 并我慢我愛 及余触等倶 →「常に四つの煩悩(我癡・我見・我慢・我愛)とともにあり、触などの心所とも結びついています。」
有覆無記攝 随所生所繋 阿羅漢滅定 出世道無有 →「覆いがあり無記に分類され、生じた場所に応じて繋がり、阿羅漢の境地や深い禅定では存在しません。」
次第三能変 差別有六種 →「第三の変化を起こす識は六種に分かれます。」 ※六識(眼・耳・鼻・舌・身・意識)
了境為性相 善不善倶非 →「対象を認識する性質を持ち、善でも不善でもない場合もあります。」
此心所遍行 別境善煩悩 随煩悩不定 皆三受相応 →「心所は遍行(常に働くもの)、別境(特定の対象に働くもの)、善・煩悩・随煩悩・不定に分類され、すべて三種の受(苦・楽・捨)に対応します。」
初遍行触等 次別境謂欲 勝解念定慧 所縁事不同 →「遍行には触などが含まれ、別境には欲・勝解・念・定・慧があり、それぞれ対象が異なります。」
善謂信慚愧 無貪等三根 勤安不放逸 行捨及不害 →「善の心所には、信・恥・羞・無貪・無瞋・無癡・精進・軽安・不放逸・行・捨・不害などがあります。」
煩悩謂貪瞋 癡慢疑悪見 →「煩悩には貪・瞋・癡・慢・疑・悪見があります。」
随煩悩謂忿 恨覆惱嫉慳 誑諂與害憍 無慚及無愧 →「随煩悩には怒り・恨み・隠し・嫉妬・けち・欺き・へつらい・害意・慢心・無恥・無羞などがあります。」
掉擧與惛沈 不信并懈怠 放逸及失念 散乱不正知 →「さらに、心の浮き沈み・不信・怠惰・放逸・忘却・散乱・誤った認識なども含まれます。」
不定謂悔眠 尋伺二各二 →「不定の心所には、後悔・眠気・尋(粗い思考)・伺(細かい思考)があります。」
依止根本識 五識随縁現 或倶或不倶 如濤波依水 →「五識(感覚)は根本識に依存し、縁に応じて現れ、同時に起こることもあればそうでないこともあり、波が水に依るような関係です。」
意識常現起 除生無想天 及無心二定 睡眠與悶絶 →「意識は常に現れますが、無想天や無心定、睡眠・昏絶の時は現れません。」
是諸識転変 分別所分別 由此彼皆無 故一切唯識 →「これらの識の変化によって分別が起こりますが、実体はなく、すべては唯識であるとされます。」
由一切種識 如是如是変 以展転力故 彼彼分別生 →「一切種子を持つ識がこのように変化し、展転(連鎖的)な力によって分別が生じます。」
由諸業習気 二取習気倶 前異熟既尽 復生餘異熟 →「業と執着の習気によって、前の異熟が尽きると新たな異熟が生じます。」
由彼彼遍計 遍計種種物 此遍計所執 自性無所有 →「遍計(妄想)によって種々の物が想定されますが、それらには本質的な自性はありません。」
依他起自性 分別縁所生 圓成実於彼 常遠離前性 →「依他起(条件によって生じる性)と分別によって生じるが、円成実(真実の性)はそれらを超越しています。」
故此與依他 非異非不異 如無常等性 非不見此彼 →「円成実と依他起は異なるようで異ならず、無常などの性と同様に、両者は否定されるものではありません。」
即依此三性 立彼三無性 故佛密意説 一切法無性 →「この三性(遍計・依他起・円成実)に基づいて、三無性(相無性・自然無性・得無性)が立てられ、仏は密意として“一切法は無性”と説かれました。」
初即相無性 次無自然性 →「まず“相無性”とは、現れる現象に実体がないこと。次に“無自然性”とは、物事が自らの力で成立する本性を持たないことです。」
後由遠離前 所執我法性 →「最後に“得無性”とは、我や法に対する執着を離れた状態を指します。」
此諸法勝義 亦即是眞如 →「これらの真理は、すなわち“真如”(究極の実相)です。」
常如其性故 即唯識實性 →「それは常にそのままの性質であり、唯識の真実の本性です。」
乃至未起識 求住唯識性 →「まだ識(意識)が起こっている間に、唯識の本性にとどまろうと求めても、」
於二取隨眠 猶未能伏滅 →「主客の二元的執着(能取と所取)の潜在的な習気は、まだ滅していません。」
現前立少物 謂是唯識性 →「目の前に何らかの対象を立てて“これが唯識だ”とするのは、」
以有所得故 非實住唯識 →「“何かを得た”という執着があるため、真に唯識に住しているとは言えません。」
若時於所縁 智都無所得 →「もし対象に対して、いかなる知識も得ることがないとき、」
爾時住唯識 離二取相故 →「そのときこそ、唯識に住しており、主客の二元的な相を離れているのです。」
悟りと転依(心の根本的転換)
無得不思議 是出世間智 →「“何も得ない”という不可思議な境地こそが、世俗を超えた智慧です。」
捨二麤重故 便證得轉依 →「二つの粗重(煩悩と執着)を捨てることで、“転依”(心の根本的転換)を証得します。」
此即無漏界 不思議善常 →「これは煩悩の漏れのない清浄な境地であり、不可思議で、善で、常住するものです。」
安樂解脱身 大牟尼名法 →「それは安楽と解脱の身体であり、偉大なる聖者(大牟尼=釈迦牟尼仏)の教えと呼ばれます。」
已依聖教及正理 分別唯識性相義 →「ここまで、聖なる教えと正しい論理に基づいて、唯識の本性とそのあり方を解き明かしてきました。」
所獲功徳施群生 願共速證無上覺 →「この功徳をすべての衆生に施し、共に速やかに無上の悟りを得られますように。」
私の思い込みなんじゃなくてリダンがそれに気付けてないんだよね。
それが囚われなんだけどさ。だから私がリダンみたいなのに話すとそんなことは思ってない、勝手に決めつけるなとなるわけだが。
そんな風に思ってないのにそう考えながら行動してる。その固定観念に気付かない限り私が何を伝えようとしてるかはわからないよ。
聖ウンコ師の反応は微妙だったな(笑)
適応的無意識(Adaptive Unconscious)
私たちの脳は、膨大な経験や情報を無意識下で高速処理しています。
その結果として、「なんとなくそう感じる」「ピンとくる」といった直感的判断が生まれます。
これは、意識的に「思う」よりも前に、脳がすでに判断を下している状態です。
カムイは止観と
思い込んでるやん
常時、そんな感じで
決め打ちでしゃべってる
議論にならんのよね
終始、訂正、間違いの指摘で終わる
これこれ
カムイは止観と
思い込んでるように
棒の中のカムイの話をしとる
これ引用しようとしても
忘れてしまう
適応的無意識ね
覚えた
あのね、瞑想は止だけとは言ってないよ。
止と観その2つのバランス。
んで瞑想ってのは色んな種類があるけどこの2つのバランス、どこに重きを置いてるかの違いはあるけどどちらにせよこの2つのバランスによって成り立ってるの。
只管打坐も目的をもたずなにもとらずだけどそれは止も観もしてないのではなく、
心を鎮める止と、対象をとらない観で成り立ってる。対象そのものに気付かないのではなく放っておく。これは認識してるってことよ。
それを観察してるの。
だから本来只管打坐はそれだけで止観両方がバランスよく深まる。
それが縁起の現れであり、それがなぜ現れるのかを観察していく。
何故現れるのかを考えるって事じゃない。
どこから現れるのかに気付く。
止はサマタ
観は見る、煩悩など
只管打坐は道元風、中論ド真ん中の位置だろう
😆
で
なぜ小止観なのか、
それは
プロセスがあるから
只管打坐にはプロセスがない
😆
やはりNO1ウィルスに、感染した知識になる
😆
動中工夫の修行仕上がり
と
山伏念仏研究に満足して
屁理屈研究をするようになった成果だな?
😆
でおちゃんってさ、知識はとてもあるし、実践の方も少しやるだけでそのアプローチの方向性とかをすぐ掴んじゃうんだと思うのよね。
でも方向性がわかったらそれ以上踏み込まない印象があるけどどうなんだい?
突き詰めては見ない感じ?
コーン🤡や
ムイムイじゃあるまいし
需要のないところに供給しない
ムイムイがあのスレタイの時は
「地獄大菩薩」を実施してるけどな 😆
以前はフィールドワーク志向やったからな😆
地獄の業火に放り込みムイムイモードだ
😆
でもハッジが新たなスレ立てる時に動中の工夫を付けないとは限らないな。
カムイはバランス悪いと
言ってなかったか?
カムイは
入息入念
数息観
アーナパーナサティ
バランスが悪いもくそもないんだよ
カムイや俺がどうたらこうたら
いうが
でおからしたら棒も目くそ鼻くそに
見えるみたいだぞ
棒、お前はNo.2だとよ
本来は、ね。
その放っておくのは観であるけどもその放っておくに縁起の現れの気付きがないと放っておくが強調されて鎮める手段に成り下がってしまう。
そうすると止に偏ってしまい観は無視するほうに偏る。
バランスが悪いも何もねえの
偏ったからどうこうと
手をつけるは蛇足
観が足りねえもくそもねえだろ
縁起を見たから断たれてんだよ
他人の見え方、評価を気にする必要はないだろ?
自分と法を拠り所にするのは体験や目の前に見える現象を否定せずにそこから判断するしかない。
経典やらの教えはその道標であっても人によって成り立ちが違う以上同じようにはならんよ。
他人と違う考え方であってもそれを内包した上で観る。
じゃあお前の指摘は何も意味ないが?
なんでさっきから長文書いてんの?
帰謬論証派の餌食
意味なくないよ。全てが成り立って今がある。私の発言もまたリダンや他の人に影響を与え変化する。
私は別にリダンを変えようと思って発言してるわけじゃない。馬鹿にしてるわけでも否定してるわけでもない。
それは中論で話した内容に戻るから説明する気はないけどな。ループはもういい
じゃあ
デオの指摘も意味あるだろ馬鹿
なせか?
取り繕うからだ
縁起
意味なくないよ。全てが成り立って今がある。私の発言もまたリダンや他の人に影響を与え変化する。
気にしないと態度を取る時点で
影響を与え変化する。
縁起、プラパンチャが生じるからだ
そのプラパンチャを否定したら
八不中道ってこと
分かってねえな
どのみち定義した時点で
言語拡張、概念増殖
ようは縁起すんだよ
対象を前提とした定義
気にしない
上に同じ
いやね、何を勘違いしてるのかはわからんけど中論は言葉を否定なんてしてないぞ?それを固定的に見る事を否定してるの。
これずーっとほーさんがリダンに指摘してた話なのよ。
否定してどうやってお前はそれをするんだ?と内容は形を変えてね。
んでそれを否定という形でしか見れないうちは止に偏る。だから観を重視した方がいいと言ってる。
何を言ってんだ
中論は言葉を否定なんてしてないぞ?それを固定的に見る事を否定してるの。
ではなく
戯論、言語拡張、概念増殖を
寂滅せよと言ってんの
固定的なんてのは
関係性にすぎないと
もう話は終わっとる
否定してどうやってお前はそれをするんだ?と内容は形を変えてね。
四句否定
終わるな
読んだのか?
何を根拠に中論はこうだと
妄想してんだこの馬鹿は
中論の話するならあっちにしよ。
とりあえず仕事の合間にでも書き込むから、
いや、もういいよ
終始間違い、妄想の指摘で終わる
読んでから出直してくれ
それを根拠にした指摘なぞ
最初から間違ってるから
話にならん
唯識派は、インド大乗仏教の2大学派の一つで、「唯識性」(すべての認識世界は心の作用によって表象されたものにすぎない)を中心教義としています。
唯識派に独特な、観の瞑想法(真理を認識する瞑想法)である「唯識観」の瞑想法を紹介します。
だた、これは直観的に真理を認識するに至るための準備的な「加行道(加行位)」と言われる段階の瞑想法です。
「唯識観」は、伝統的には「四善根」と呼ばれる瞑想法に当たり、小乗仏教(説一切有部)や中観派でも行いました。
ですが、唯識派では唯識派の教学に沿って独特の方法で行うため、「唯識観」とも呼ばれます。
まず、認識の対象となる「言葉」、「概念」、「主語性(実体)」、「述語性(属性)」の4つは、いずれも心が作り出した仮の存在であり、実体としては存在しないと考察します。(法無我)
第1段階(煖)の瞑想は「明得定」と呼ばれます。
第2段階の(頂)は、より思索を深める段階で、その瞑想は「明増定」と呼ばれます。
後半の2段階は「四如実智観」と呼ばれます。
先の認識の4つの対象を作り出した「主体」も存在しないと考察します。(人無我)
第3段階(忍)は、第四禅(概念なしに対象と一体化した瞑想状態)で、対象に続いて主体の空を考察します。
その瞑想は「印順定」と呼ばれます。
第4段階の「世第一法」では、第四禅で主客同時に空を思索します。
次の刹那で「見道(通達位)」に達して真如を体得できるので、その瞑想は「無間定」と呼ばれます。
また、それを基にした概念的な「後得智」を得て、後天的な煩悩をなくします。
そして、「修道(修習位)」の段階では、波羅蜜を行じながら菩薩の十地まで進み、先天的な煩悩をなくします。
最後の「究極位」では、前五識、意識、末那識、阿頼耶識を智恵に転化した「四智」を得て、仏に到達します。
レベルが高い設定だな
倶舎論なら
お勉強レベルなのに
😆
仮としての倶舎論みたいなもんだな?
まず、認識の対象となる「言葉」、「概念」、「主語性(実体)」、「述語性(属性)」の4つは、いずれも心が作り出した仮の存在であり、実体としては存在しないと考察します。(法無我)
第1段階(煖)の瞑想は「明得定」と呼ばれます。
第2段階の(頂)は、より思索を深める段階で、その瞑想は「明増定」と呼ばれます。
仮の存在としての倶舎論を学ぶのだな
😆
第3段階(忍)は、第四禅(概念なしに対象と一体化した瞑想状態)で、対象に続いて主体の空を考察します。
その瞑想は「印順定」と呼ばれます。
第4段階の「世第一法」では、第四禅で主客同時に空を思索します。
結局、これをやらないとな
実証
これが大乗の空の理だからな
空の理(相依性)をわけわからん
独自解釈するからアカン
ろくに倶舎論をしらんで
多分こうだろう(有る無し)
で妄想するから
「唯識十大論師」 とよばれる人々は、世親の『唯識三十頌』に対する註釈書を著 したといわれる。 その中、護法 と安慧の著 した註釈書はそれぞれ『成唯識論』 と『唯識三十頌釈論』 である。
↓
「唯識十大論師」 とよばれる人々は、世親の『唯識三十頌』に対する註釈書を著 したといわれる。 その中、護法 と安慧の著 した註釈書はそれぞれ『成唯識論』 と『唯識三十頌釈論』 である。
護法は有相唯識派、安慧は無相唯識派をそれぞれ代表する人物である
弥勒(Maitreya): 思想の源流。弥勒菩薩が弥勒(未来の仏)の位で、阿僧伽(無著)に『瑜伽師地論』などを伝授したとされます。
無著(Asaṅga / 阿僧伽): 弥勒から教えを受け、世親(弟)と共に唯識学を大成させました。
世親(Vasubandhu / 伐蘇畔度): 無著の弟。多くの唯識論書(『唯識三十頌』など)を著し、唯識の基礎を築きました。
護法(Dharmapāla / 護法菩薩):玄奘三蔵が中国に唯識思想を伝える際に重視した論師。唐の慈恩大師基(窺基)が開いた法相宗の根本的な思想的支柱です。
安慧(Sthiramati / 定慧): 世親の弟子の一人で、世親の思想を継承・発展させました。
陳那(Dignāga / 難陀): 論理学(因明)の分野でも重要な貢献をしました。
法称(Dharmakīrti): 陳那の思想を受け継ぎ、より精密な論理学を発展させました。
難陀(Nanda / 難陀菩薩): 護法らと共に世親の思想の解説に貢献。
戒賢(Śīlabhadra / 戒賢菩薩): 玄奘三蔵がインド留学の際に師事した高僧。玄奘が持ち帰った経典(『成唯識論』の元になったもの)の翻訳に深く関わりました。
↓
護法(ダルマパーラ)
安慧(スティラマティ)
陳那(ディグナーガ)
法称(ダルマキールティ)
の
依他起性への道の
理論構築に熱心になったんだろうな、
デンパパ📶みたいに行者相手に
😆
「転変 (parirpama)」に対す る 解釈 の 相違 を中心 に一
金 範 松
1 . 問題 の 所在
世 親 の 『唯 識 三 十 頌』 に 対 す る 注 釈 は 十 大 論師た ち に よ っ て 行わ れ た と言 わ れる . し か し, 現 在に 至 っ て 伝わ っ て い る 資料 は 少な い .
そ の 中, 『成 唯 識 論』 を中心 とする 護法説 と安慧説 は 唯識 思 想に 於い て 大 き な見解の 差 を示 して い る .
しか し, それらは中国法相唯識 以降の 議論 で あ る と言 え る . さ らに , そ の 中 心 に あ る の が 一 頌 ・二頌半 に お け る 二 人 の 転 変 に 対 す る 解釈 の 相 違 で あ る が , 本 論 文 で は 安 慧 (Sthiramati)の 釈論1) との 比 較 を 重 ね て 言 及 した い .−
そ して そ の 転 変 は 三 種 で あ る .異 熟 と思 量 と称せ られ る もの と境 の 了 別 と で あ る .」
由假 説 我 法 有種種相轉.彼依 識 所 變, 此 能變唯 三 .謂 異熟思 量 , 及 了別境 識 .
唯識では
成唯識論のみだからなー
日本寺院も
仕方がない
中国は浄土教と禅がメインに
文革で破壊されたから
書物はどれたけ残っているやらな?
😭
😆
有部との統合理論を狙っていたからなー
玄奘三蔵以前の
無相唯識の真諦は有部との統合理論はないだろうな、研究してないけど
😆
安慧と護法は6世紀か
スマホのメモリーにはあるけど
読んでないな
😆
もっと前の時代の人かと
なるほど
陳那 → 安慧 → 護法 → 法称
だな
有部やら上座部やらとの
議論する能力があったらしい
😆
玄奘三蔵はホンモノなので
インドの聖地で目の前に観音菩薩が10分ぐらい出現していたらしい
俺なんかは近所の密教寺院の本尊十一面観音が1秒だけだ
😆
玄奘三蔵まではイケてないな
😆
すごいな?😆
マニア魂だな😆
https://www.google.com/url?sa=t&source=web&rct=j&opi=89978449&url=https://search.rakuten.co.jp/search/mall/%25E7%258E%2584%25E5%25A5%2598%25E4%25B8%2589%25E8%2594%25B5%2B%25E8%25A5%25BF%25E5%259F%259F%25E3%2583%25BB%25E3%2582%25A4%25E3%2583%25B3%25E3%2583%2589%25E7%25B4%2580%25E8%25A1%258C/&ved=2ahUKEwjPns_l_qqRAxUJklYBHcWFAc8QFnoECCYQAQ&usg=AOvVaw0W5N_fuFhgI08fQzshxdE9
😆
西遊記もあったから
買ってしまったのかも
その頃のような気がする
😆
😆
632.
ユーザー
栖雲居士◆t8ok0QoQ8kcK50-Aex-Ij-wvu
C2peB(1/2)
クソ馬鹿が俺の真似なのかw、唯識を学ぼうとしてるwww
2025/12/07 17:35:37
Reply
Good
633.
ユーザー
栖雲居士◆t8ok0QoQ8kcK50-Aex-Ij-wvu
C2peB(2/2)
金魚の糞が糞スレばかり乱立して、広く浅くどころか広く激薄にもなってないし、迷惑なんだよな。
そもそもこの糞が質の高いスレをたてたためしはないし、それどころか嫌がらせや誹謗中傷をしてスレを潰して来るからな。
2025/12/07 17:39:12
5ちゃんか?
😆
コピペになるのが五ちゃんねるだな
😆
坐禅8か😆
先週は、対冬季鬱防衛メンタルシステムを構築した
当然坐禅での
😆
先週は困った
😆
基本的な捉え方としては、
難陀の二分説に対して、自体分(自証分)を考えた三分説との違いということになります。
安慧の一分説も、護法の四分説も、共に三分説が基本になっています。
四分説は、四つとも正しいのか?
【質問2️⃣】
「安難陳護の一二三四」は、どの説も一応、正しいと理解して良いのか?
【安慧(あんね)の一分説➡️自体分のみ
難陀(なんだ)の二分説➡️相分と見分
陳那(じんな)の三分説➡️相分と見分と自証分
護法(ごほう)の四分説➡️相分と見分と自証分と証自証分】
基本的な捉え方としては、
難陀の二分説に対して、自体分(自証分)を考えた三分説との違いということになります。
安慧の一分説も、護法の四分説も、共に三分説が基本になっています。
三分は、識の自覚作用(意識すること自体を意識する)を示すと言われています。
二分説では、見分を識自体と捉えていますが、
三分説では、見分もまた認識対象として、自体分を独立させた点に於いて、
二分説をより厳密に考え、深めたのが、三分説と言えます。
それに対して、護法は三分共に、依他起性であるとします。
「安慧が自体分を考えるのは二分を否定するためであり、護法が自体分を考えるのは、二分を確立するためである」と言われ、自体分の捉え方が違います。
いずれの説も間違いではありませんが、
二分は意識の基礎的な構造であり、
二分をより厳密に考え発展させたところに、三分説、及び四分説があると言えると思います。
🟥https://youtu.be/5mbLp4W8HQ4
〖終了〗
その解釈は大きく異なる
相分と見分は幻である
護法の四分説があまりに難解なため、
一分説や二分説もしばしば
引き合いに出される
最もスッキリしていて、腑に落ちる
あまり好きではない
😆
恐怖の先週だった
寒暖差冬季鬱対応のシステムを
あらゆる宗教において
構築しなおした
😆
構築した
先週
😆
😫
トコトン無駄なのを削り落とした反動みたいな母音でやっていたが
冬場の寒暖差は
それが使えない
😫
いう
文殊の智剣でバサバサ切るより激しく切りまくりの反動エネルギーで
夏場と秋春はやってたが
その感覚が通用したない
😫
トコトン無駄なのを削り落とした反動みたいな感覚でやっていたが
の修正
リラクゼーション寄りの感覚を濃いめにしないといけないらしい
😆
脳内物質の変化かもしれん
😆
On Indian Philosophy and Buddhist Studies
成唯識論における護法と安慧の論争 一分説 vs 三分説・四分説
成唯識論における護法と安慧の論争
一分説 vs 三分説・四分説
成唯識論は、護法(ごほう)を中心とする十大論師の見解を統合した論書ですが、その中でも最も重要な論争の一つが、認識の構造をどう理解するかという問題です。
特に安慧(あんね)の「一分説」と、護法の「三分説・四分説」の対立は、唯識思想における認識論の根幹に関わる重大な論争となっています。
根本的な問い
私たちの識(心の認識作用)は、どのような構造を持っているのでしょうか?
認識される対象(相分)はあるのか?
認識する主体(見分)はあるのか?
自己を認識する自証(自証分)はあるのか?
これらは実在するのか、それとも仮に立てられたものなのか?
この問題に対して、論師たちは一分説、二分説、三分説、四分説という異なる立場を展開しました。
安慧(あんね)
Sthiramati / 510-570年頃
一分説(いちぶんせつ)
基本主張
識には実在する構造はない。ただ相分(対象の相)のみが仮に現れるだけで、見分(認識作用)は実在せず、仮に立てられるに過ぎない。
相分
(唯一の実在)
※見分は仮に立てられるだけで実在しない
徹底した空観:一切法は空であり、識の内部構造も実在しない
遍計所執性の強調:相分も見分も虚妄分別の産物
三性論との整合性:有漏の心心所の相・見分はすべて遍計所執
「一切唯有覚、所覚義皆無。能覚所覚分、各自然而転」
(一切はただ覚のみ有り、所覚の義は皆無なり。能覚と所覚の分は、各々自然に転ずるのみ)
— 『楞伽経』
冬季寒暖差無気力回避のテクニックを上げる、さっき
軟弱メンタルだからなー
工夫ばかりだ
😆
むろんである
😆
修行熱が熱い
😆
我道を突撃するという
意図がある
ひたすら突撃〜
😆
😆
面白かった
😆
https://www.yomiuri.co.jp/local/kyoto/news/20251205-GYTNT00207/
懐かしいな
『成唯識論』の伝える安慧の三性説について
一、安慧について
『成唯識論述記』(以下『述記』)は、インドにおいて、世殺の『唯識三十頒』に注釈を書いたものに、十論師がいたことを伝えている。護法・徳慧・安慧・親勝・難陀・浄月・火弁・勝友・勝子・智月の十人である。
この中、親勝と火弁は、世殺と同時であるという。安慧と浄月は、護法と同時であるという。なお、徳慧は安慧の師である。
(
浄月は、護法の弟子であるという。難陀については、時代の指標となるべきものが述べられていないが、玄奨がナーランダ到着後に、二年ほどついて学んだという勝軍の、師匠といわれている。
> 護法・徳慧・安慧・親勝・難陀・浄月・火弁・勝友・勝子・智月の十人である。
なぬ? そうだったんかい
陳那も法称も入ってない
『述記』の、安慧に関する紹介は、次のとおりである。
林凡に悉恥羅末底と云う。唐に安慧と云う。即ち、雑集を探し、倶舎論を救ひ、正理師を破す。護法論師同時の先徳なり。南印度の境、羅羅。妙に因明を解し、善く内論を窮め、徽猷を小運に一扇ぎ、蘭慧を大乗に飛ばす。神彩至高なること、固とに提議し難し。
先徳を紹介する際の尋常とはいえ、相当に賞め讃えた内容である。しかしながら、『成唯識論』の中では、しばしば論破の対象となるのである。
まず、安慧が唯識の識についてどのように見ていたのか
『唯識三十頒』は、有為の十八界を八識で表現する際、識転変という新しい概念を導入したのであった。
『成唯識論』は、識転変ということに関して、大きく二つの見方があるという。
変というは、謂く、識体いい転じて二分に似るぞ。相と見と倶に自証に依って起るが故に。斯の二分に依って我・法を施設す。此れに離れて所依無きが故に。
ここに、転変の二つの解釈があげられている。前者は、2つの識体が転じて相分・見分が現じ、都合、三分があるとする説であり、後者は、識が転じて墳として現じるのであるが、そこで相分・見分二分があるとする説である。
この二つの転変に対する見方がある中、安慧は護法とともに前者の立場に立つという。ただ、後に詳しく見るように、護法は相・見二分も依他起性と見るのに対し、安慧は相・見二分を遍計所執性と見るという違いがある。このことから、安慧は一分説といわれるが、こと識の立分ということに限っていえば、安慧も三分説なのである。
是諸識転変 分別所分別
由此彼皆無 故一切唯識
と訳す。そして、この語句に対する見方が、次のように記されている。(省略)
この第十七領の解釈においても、安慧は、やはり護法とともに前者の立場にあるという。それは、三性説との関係は別として、識を三分で見ていく点では一致するからである。もっとも、相・見二分を依他の有と見るか無と見るかが異るので、転変の理解にも相応の相違は出てくる。
護法の場合、自体分は能転変とし、相・見二分を有なる依他起性とするのに対し、安慧の場合は、自体分を転変とし、また、自体分の中から何らか二分の契機が見られるとするのであり、そこで二分としてたてられたものはもはや遍計所執性だというのである。
安慧は相分・見分を遍計所執性とするところ
色々な仏教宗派の動画を、落としていはいるが、
瞑想系統宗派は
ハッスルくんみたいな哲学的解釈の余白はないんだよな
浄土宗系統や日蓮宗系統は
哲学が入り込める余白かある
死後の往生以前の生きている間の哲学は必要だからだ
創価の成功も、日蓮には哲学的余白があったからだな
😆
「本当は存在しない」にこだわっているが
これは、誤った理解
哲学的な解釈を、入れ込む馬鹿を繰り返している
デタラメも大概に
😫
無相唯識派の安慧でさえ
そんな見方はしていない
ハッスル氏のやってることには、もともと無理がある😂
仏教哲学の話をしなくなった
ま、唯識のスタンスを取れば
阿頼耶識ありで
仏智に変化するというシステムだから
な
禅と唯識の論理性と西欧哲学的解釈を
混ぜ合わせたキメラ仏教になってるからなー
😫
議論をぶっ潰す
中論でいう議論=戯論
の急進派なので
ハッスルくんに
俺は議論しないのは
戯論ぶっ潰し発想なんて理解していないからなー
😆
唯識の頂点の話と思い込んで
ガンバった節がある
ディグナーガの論理学は
依他起性の修道プロセスの問題提起、議論なんだがな
アイツ、バカだからなー 😆
ディグナーガの論理学の意図が
解ったわ
佐々木先生ありがたや〜
😆
それはすごいな?😆
天台華厳真言禅では
メインな世界ではないからなー
倶舎論を通らないと価値がない
😆
いつか行きたくなった
😆
https://www.kyoto-np.co.jp/articles/-/1588478
いつか行きたくなった
😆
https://www.kyoto-np.co.jp/articles/-/1588478
http://aquadina.com/kyoto/spot/6006/image/top.jpg
なんで議論、定義をぶっ潰すんか
分かってんの?でおちゃんは
ガンバっえ〜
😆
成唯識論における護法と安慧の論争
一分説 vs 三分説・四分説
論争の核心
成唯識論は、護法(ごほう)を中心とする十大論師の見解を統合した論書ですが、その中でも最も重要な論争の一つが、認識の構造をどう理解するかという問題です。
特に安慧(あんね)の「一分説」と、護法の「三分説・四分説」の対立は、唯識思想における認識論の根幹に関わる重大な論争となっています。
根本的な問い
私たちの識(心の認識作用)は、どのような構造を持っているのでしょうか?
認識される対象(相分)はあるのか?
認識する主体(見分)はあるのか?
自己を認識する自証(自証分)はあるのか?
これらは実在するのか、それとも仮に立てられたものなのか?
この問題に対して、論師たちは一分説、二分説、三分説、四分説という異なる立場を展開しました。
Sthiramati / 510-570年頃
①基本主張
識には実在する構造はない。ただ相分(対象の相)のみが仮に現れるだけで、見分(認識作用)は実在せず、仮に立てられるに過ぎない。
②一分説の構造
相分だけが実在する。見分は仮に立てられるだけで実在しない
(竹村牧男によれば、相分も見分も仮に立てられるだけで実在せず、自体分のみが実在する)
③理論的背景
徹底した空観:一切法は空であり、識の内部構造も実在しない
遍計所執性の強調:相分も見分も虚妄分別の産物
三性論との整合性:有漏の心心所の相・見分はすべて遍計所執
④経典的根拠
「一切唯有覚、所覚義皆無。能覚所覚分、各自然而転」 — 『楞伽経』
(一切はただ覚のみ有り、所覚の義は皆無なり。能覚と所覚の分は、各々自然に転ずるのみ)
Nanda / 5世紀頃
①基本主張
識には相分(認識される対象)と見分(認識する主体)の二つの部分が実在する。
②二分説の構造
相分(所縁・対象)、見分(能縁・主体)
③特徴
能所の二元性を認める
相分は所縁(認識される対象)、見分は能縁(認識する作用)
両者とも識の実在的な部分
Dignaga / 480-540年頃
①基本主張
識には三つの部分が必要である。相分と見分に加えて、これらを認識する自証分が不可欠。
②三分説の構造
相分(所量・測られるもの)、見分(能量・測るもの)、自証分(量果・測った結果)
③理論的根拠
論理1:記憶の可能性
もし自証分がなければ、後に心心所法を憶えることができない。かつて経験しなかった対象を憶えることができないように。
⬇
論理2:量果の必要性
認識には「所量」(測られるもの=相分)、「能量」(測るもの=見分)、「量果」(測った結果=自証分)の三つが必要。
⬇
結論:自証分の実在
相分と見分だけでは認識は成立しない。それらを統合し、自己認識する自証分が必須。
④経典的根拠
「似境相所量、能取相自証。即能量及果、此三体無別」 — 陳那『集量論』
(境に似たる相は所量、能取の相は自証なり。即ち能量及び果なり、この三は体別ならず)
Dharmapāla / 530-561年
①基本主張
陳那の三分説をさらに発展させ、証自証分を加えた四つの部分が識の完全な構造である。
②四分説の構造
相分(所縁・対象)、見分(能縁・認識作用)、自証分(自己認識)、証自証分(自証の証明)
③四分説の論理
問題提起:誰が自証分を証明するのか?
三分説では、自証分を証明するものがない。見分では不十分(非量の場合もある)。
⬇
論証1:量果の必要性
すべての能量(測るもの)には必ず量果(結果)が必要。自証分にも量果が必要。
⬇
論証2:無窮の回避
証自証分は自証分を縁じ、同時に自証分によって証明される。相互に証明し合うことで、無限後退を避ける。
⬇
結論:四分の完全性
四分によって、所縁と能縁が完備し、無窮の過失がない完全な認識構造が成立する。
④四分の相縁関係
相分 → 認識される対象(外)
見分 → 相分を縁じる。現量・比量・非量。認識作用(外)
自証分 → 見分と証自証分を縁じる。現量のみ。自己認識(内)
証自証分 → 自証分のみを縁じる。現量のみ。自己証明(内)
安慧の一分説の問題点
批判1:記憶が不可能になる
もし自証分がなければ、後に自分の心心所法を憶えることができない。
「このように私は認識した」という記憶が成り立たない
かつて経験していない対象を憶えることができないのと同様
自己の認識活動を後に想起できる根拠がない
批判2:認識の成立が説明できない
所量(測られるもの)・能量(測るもの)・量果(測った結果)の三者が揃わなければ、認識(量)は成立しない。
相分だけでは「測られるもの」しかない
見分を仮立とすれば「測るもの」がない
「測った結果」(量果)が完全に欠落する
批判3:見分・相分の所依が不明
相分と見分は、必ず所依となる体(自証分)が必要である。
対象(相分)と認識(見分)が何に依って立つのか説明できない
識の統一性が保証されない
認識主体の自己同一性が失われる
解決1:自証分による記憶の保証
自証分が自らの見分を証知することで、後に記憶が可能となる。
自証分は常に現量(確実な認識)
見分による認識を自己認識する
この自己認識が記憶の基盤となる
解決2:三量の完備
相分(所量)、見分(能量)、自証分(量果)の三者が揃い、完全な認識が成立する。
相分(所量) → 見分(能量) → 自証分(量果)
解決3:証自証分による完全性
さらに証自証分を加えることで:
自証分を証明するものが存在する。
自証分と証自証分が相互に証明し合う。
無限後退の過失を避けられる。
認識の自己完結的な構造が成立する。
先行する一二三を見れば、やっと意味が分かる
先行する一二三を知らないと、分からない
感
どーかしらんけど
😆
唯識十大論師の中で、最も「空無」の世界観に傾斜した無相唯識派の安慧でさえ
「見分は存在しないが、相分は存在する」
もしくは、「相分も見分も存在しないが、自体分は存在する」
としていることだ
「相分・見分・自体分、すべて仮に立てられたものであり、存在しない」
と主張しているが、十大論師の中にそんな人はいない
「ゼロ分説」といったところだ
単純に、唯識論を否定してるだけだ(笑)
たぶんやけど
😆
真言宗内でも
加行の順番が違うらしい
😆
そうなのか~😆
重要な修道論だからな
道元みたいに
只管打坐みたいな、放り投げの修道論だはないだろうからな
😆
修道論として大事だったんだろな
😆
唯識論といえば、依他起性
そこに論争点がある
二分説や四分説ってのはよ
方便なんよ
だから説が分かれんの
凡夫がいかに世界をどのようにみるか?
の説明なんだから
😆
というのが、聖ウンコ師の主張
「出向先の仏教研究機関」だので、
よほど深い劣等感を刷り込まれたんだろうな
アイツの主張は、仏教に対する怨念に満ちている😫
だが、坐禅の回数でなら勝てるぞ」
と踏んで、その一点に勝負を賭けている
かなり、我々を監視して
お怒りだ
😭
仏教は全て方便だよ
オレらように変換してんだ
猿や動物が釈迦の説法を聞いただけで
解脱したというエピがあるやろ
動物に無我っていってわかるか?
分からんわな、俺ら用の方便だもの
定義ではなく釈迦の声で解脱したんだよ
ロン馬鹿まっしぐらだぞ
誤解だ😂
「出向先の仏教研究機関」だので、
周囲の人々への強烈な劣等感を
抱えて生きてきた
仏教、とくに哲学的な教学への怨念は深い😫
それを今、掲示板で発散してるだけだ
アイツの言ってることはデタラメだから、本気にするな
「坐禅の回数」だけだ
だから、なんとか、その一点勝負に持ち込もうと必死だが
・・・誰も乗ってこない😂
答えは簡単だ
「そんなくだらんことに、誰も興味ないから」
その一言に尽きる😂
今日は熱いな?
😆
必死で坐禅回数をアピールしている
だが、仏教スレ、とくに禅宗スレでも相手にされんのに
キリスト教スレで、誰が感心してくれるのか?😂
パーリー殿に食いついておるな?
上野の森グループ関連以外は
意外に詳しくない
さらさらと出てこない
カトリック、既存プロテスタント教義学にポジティブマッチしたレスは
出せないレベルだ
仏教はほとんどオールマイティだがな
😆
ひとつの教派に詳しければ十分ではないか?
学ぶべき宗派がたくさんあるが
俺のイエス・キリストの霊感と
ポジティブマッチしてた
😆
カトリックに偏っている
無理だな
システムバブテストも
無理
システムカトリックも無理だ
😆
教派横断的に詳しそうだな😅
日蓮みたいなノリにならんといかんから
難しいのかもしれん
😆
教派による思想の違いが、そこまで大きくない
得るものは少ないと思われる
中世では
ころしあい
するくらい激しかった
カトリックとルター派
カルヴァンとバブテスト
イギリス国教会とバブテスト、ジャンバニアン牢獄
イギリス国教会とピューリタン
平和にやっていたのは
アメリカは
ローマ法王に絶滅宣言、破門された
イエズス会はアメリカで生き残った
😆
モルモン教には
めちゃんこ厳しかった昔は
ころしあいレベルだった
😫
絶滅的紛争でも寺燃やす程度
比叡山だな
😫
イエズス会には詳しい
イエズス会関連の本は
四冊は持っている
カトリックのコレクションは
意外持っていない
😆
熱い😆
#"キートンのキリスト教講座"ブログやってます
今回は「カトリックとプロテスタントの違い」について解説します。
キリスト教の主な宗派といえば、カトリックとプロテスタントが有名ですが、この2つの宗派はどう違うのでしょうか?
そこでこの動画では、カトリックとプロテスタントの違いや、カトリックとプロテスタントが分かれた理由などについて解説します。
https://youtu.be/zWGCe4RQfYM?si=qodXmfjnFNwY5lvm
棄神捨神、
廃神はネット、カキコより
やはり
トマス的理性が
カトリックのメインストリームなんだろな
とは
思った
😆
とても熱い
ノアのスレまで
現れている
その時は
ゲキオコハッスル🤡なのだろう
😆
荒れてるな?😫
おはー
314 神も仏も名無しさん (50-5o9-wL-ym5) 2025/12/11(木) 22:54:57.54 ID:UWhxJ
誹謗中傷依存症のデオー、愛弟子ワンコ埜亜に隠れて悪さしてるか荒らしてるか?
誹謗中傷依存症のデオー、愛弟子ワンコ埜亜に隠れて悪さしてるか荒らしてるか?
誹謗中傷依存症のデオー、愛弟子ワンコ埜亜に隠れて悪さしてるか荒らしてるか?
と見るぺきたな
確定だろな
😆
坐禅リバース
ま、ハッスル🤡だな
文体
😆
>>240
仏教は全て方便だよ
オレらように変換してんだ
猿や動物が釈迦の説法を聞いただけで
解脱したというエピがあるやろ
動物に無我っていってわかるか?
分からんわな、俺ら用の方便だもの
定義ではなく釈迦の声で解脱したんだよ
アディテイアナンダ師がニルバーナ・サマディーに至った直後
多くの人を
簡単に悟った状態を体験させることが可能だったという
しかも
犬すら悟った意識状態に至らせたwww
ニルバーナ・サマディーへ往って還ると
そのような事が出来るようになる
おれも
初めてのオンライン接心を受けた翌日に
かつて24歳の頃に体験した、自分史上最高の体験である
無の爆発直後の重力を失って意識と物理身体が、空間に解放された状態に
スワミジ師は
意図も簡単に上げてくれた
高次の意識から働き掛けると、このような事が簡単に起きるってことですね
その後で、何をしたのか訊いたら
頭上のエナジーの流れがこんがらがっていたので、スムーズに流れるように修復しただけですって、言ってたね
人によっては
意識が宇宙空間意識へ飛ばされて宇宙を体験したりとかいる
寂しくてわいてきたのか?
🛸🛸🛸🛸
そんなに凄いのか?😵
👽
パイロット・ババジは現代に甦った仏陀とインドでは言われており
自由自在に一瞬にしてニルバーナ・サマディーへ出入り可能な稀有な能力を持ち
生涯に108回の全国公開サマディー(心肺停止)を行い
更に、ウクライナ人を含む一般信者10人ほどを、ニルバーナ・サマディーへ導いています
また、インドでの称号である『マハ・ヨギ』を冠せるのはパイロット・ババジただ一人です
その外国人の一番弟子にして、OSHOの名付け親であり、またOSHOアシュラムでエンライトメントを認められ
自らが、ババジの教える12,000年秘密のクリヤヨガをただ10分間行しただけで、そのまま、第四サマディーである、ニルビチャーラ・サマディーに入って出てこられて、ブッダになったのが
スワミ・アディテイアナンダ・ギリ師なのですよ
また、スワミジ師は、ババジの全弟子中で唯一、ディクシャのやり方をババジから伝授されたヨギです
そして、パイロット・ババジは、クリシュナ神を含む、歴代のヒマラヤ・アヴァター様の頂点である24番目のアヴァター様として、昨年8月にマハ・サマディーへ入られました!
パイロット・ババジは、シヴァ神の転生であり、スワミジ師は、シヴァ神の子であるカルケティア神(韋駄天)の転生にして、近くは空海の転生者であることが知られています。
乗ってきたな?
🛸
変身だいっ‼️
🛸
もう居ないだろうね
サマディーへの道(方法)を示して教えれる聖者が
世界中でパイロット・ババジ直系の一番弟子であるスワミジ師しか
🛸
まあ
導ける師は
幾らかは世界にはいるでしょうが
それでも
これこれの行法を、50日、100日やったら
必ず、こうなって、ああーなって大悟するよ!
てーことを教えれるのは、ほぼ居ないでしょ、世界的にも
金星人と交信できそうだな?👽
五井先生の流れからの
佐久間先生流である
世界平和の祈りの百万遍行法があるけどね
これを
録音再生機器を使って
50日~100日の間聴きっぱにする、風呂では外すけど、寝る時もききながら寝る
今は寝ながら着けても耳が痛くならないブルートゥースイヤホンが有るから、良いよな~
まあ
佐久間先生が五井先生にお訊きしたら
繰り返して世界平和の祈りをするのは
無心=空と同じです‼️
とのこと
ここから産まれたのが
上記の
世界平和の祈りによる50日間『想念停止行法』です
これをやると
必ずほぼ50日後には
一切の六識の思考と七識からの妄想念の全てが継続して長期に停止されます
その停止されている無心・空の間に
七識の転識得智が生起されますし
天地を貫く光の柱が、修行者に立ちます!
これは、五井先生が確かにめいげんさておられたことでして、それは
世界平和の祈りを祈ると
天地を貫く光の柱が立ち、その祈り人を通じて、八方世界へ向けて、大調和の光が、放たれる!ということでした
五井やババジクラスは
ヒマラヤアヴァター様や金星人や宇宙人(アストラル身体)とは
共動してるよ
そんなの常~識~‼️♪
五井や❌
私です(笑)
〈気持ち悪い卑怯者デオー〉みたいに分身しない
常識人だから
全く違うじゃん!
嘘塗れの大嘘吐きデオー、ロゼが反でおーになってるが
愛弟子ワンコにも嫌われてるかもよ
やはりね?😆
出自とキャリア: インドの王族に生まれ、インド空軍で優秀なパイロットとして活躍しました。
修行と悟り: その後、ヒマラヤの聖者ハリババジのもとで修行し、「究極のサマディ(悟り)」に到達したとされています。
活動: 瞑想指導や講演活動を通じて、多くの人々に精神的な教えを広めています。
「ババ(Baba)」とは、インドの修行僧(サドゥ)を指す言葉で、「尊い父」「聖父」のような敬称を意味します。
「パイロット」の由来
元パイロットであったことから、その名が付けられました。
日本人のヨガ指導者である**ヨグマタ相川圭子(Keiko Aikawa)**は、パイロット・ババの弟子であり、彼から直接指導を受け、世界で初めて究極のサマディに達した女性シッダーマスターとされています。
パイロット・ババは、空を飛ぶパイロットとしての経験と、ヒマラヤでの深い精神的体験を融合させた、現代を代表するスピリチュアルリーダーの一人です。
イベント
2017年8月15日 11:00
ヨグマタ&パイロットババ ワールドピースキャンペーンツアー実行委員会
ヨグマタ&パイロットババ ワールドピースキャンペーンツアー実行委員会(事務局:東京都目黒区)は、『ヒマラヤ大聖者と共に祈る 平和の祭典 2017 ワールドピースキャンペーン in 東京』を2017年9月24日(日)に東京都新宿区のイベントホールで開催いたします。国連で世界平和を発信する、瞑想の第一人者・ヨグマタ相川 圭子、インドで高名な聖者パイロット・ババ。世界でただ2人のヒマラヤ大聖者が集い、平和を語り、祈るイベントです。
深夜まで大儀であったな?
さて、仕事疲れで
仏教王道気分だ
野蛮な仕事から遠離てきいて
😆
ワールドピースキャンペーン in 東京 概要
日時 :2017年9月24日(日) 12:00~(開場 11:30)
会場 :東京都新宿区
(詳細はお申し込みいただいた方にお知らせいたします)
参加費用:一般 20,000円 一般学生 10,000円
(一般早期割引 18,000円 一般学生早期割引 8,000円)
まったく同一だな?
🤡
出演:ヨグマタ相川圭子
特別ゲスト パイロット・ババ
ダルシャンとは聖者との聖なる出会い。一般社会で会うことができる、世界でただ2人のヒマラヤ大聖者と共に過ごすダルシャンは、人生における特別な祝福を与えてくれます。内側深くから癒され、浄まり、命の根源への歩みがはじまります。
●14:30~16:30 ワークショップ(1) クリヤ(心身魂を磨く瞑想)
●17:00~18:30 ワークショップ(2) クリパ(生命力を高める瞑想)
■ヨグマタ相川圭子 プロフィール
女性として史上初、世界でただ2人のヒマラヤ大聖者(シッダーマスター)であり、世界的な瞑想の第一人者。1986年、ヒマラヤ大聖者ハリババジに邂逅。標高5,000メートルを超えるヒマラヤの秘境で、厳しい修行を重ね、究極のサマディ(大悟)に到達。1991年から18回にわたり、世界平和と真理の証明のための公開サマディを行う。現在は、日本をはじめ世界各地で法話と祝福により、愛と平和を分かち合っています。
2016年3月:インドのモディ首相と会談
6月 :国際ヨガデーに際して、国連で平和のスピーチ
10月 :国連で開催されたYoga and the UN Culture of Peaceに主賓として参加
2017年5月:再び、国連へ。アースデイを祝う国際会議にメインスピーカーとして参加
6月 :インドで“DS MAX YOGA SHREE AWARD”受賞
そして、国賓として招かれネパールへ
■パイロット・ババ プロフィール
インドで最も高名な聖者、シッダーマスター。現代のブッダともいわれ、現・インド首相も帰依する。王族に生まれ、インド空軍のパイロットとして活躍後、ヒマラヤの大聖者ハリババジのもとで修行し、「究極のサマディ」に到達する。ヨグマタの兄弟弟子であり、ともに世界各地で平和活動を行う。2001年に開催された、144年に1度のマハ・クンムメラの大祭では、インド側の代表としてダライ・ラマ法王を迎えた。
明日は真言宗寺院でお掃除するだろう
😆
パイロット・ババには興味が無さそうだな?😫
Yes, the renowned spiritual leader and former Indian Air Force pilot,Pilot Baba(born Kapil Singh), passed away onAugust 20, 2024, in Delhi at the age of 86, attainingMahasamadhiand leaving his mortal body, with his final rites performed in Haridwar, leading to a period of mourning within the spiritual community.
Key Details:
Date of Death:August 20, 2024.
Age:86.
Location:Died in a hospital in Delhi, India, but his final rites were held in Haridwar, Uttarakhand.
Background:He was a Wing Commander in the Indian Air Force, serving in the 1965 and 1971 wars, and became famous as a spiritual master known for his deep meditative states (Samadhi).
Legacy:He was a Mahamandaleshwar of the Juna Akhara and established several ashrams, known for guiding many disciples and helping pilgrims.
相川圭子も、もう80歳
JBLさん、相川って人とパイロットって人はサイババみたいなものです、
🇮🇳悟りビジネス評論家が「無数にいる」と言ってます!
事実婚の夫婦
あるブログに記載されてました
ヤバいな?😫
そうなのか😫
情弱ビジネス
ヤバいね!
🇮🇳政治家にも賄賂を支払う後進国
ハッスル🤡のコピーかと
ま、境界例か?
😆
仏教王道気分で
家に帰るか
明日は真言宗寺院で重労働草刈り
😆
狂ったハッスル🤡みたいな
コピペは
ま、やめといたほうがええぞ
アタマオカシイ人にしか見えん
😆
Google検索してください、オウムとも関係してたらしいです!
ハッスル論法ウィルスは
境界例か?
分身か?
😆
日本人のヨガ指導者である**ヨグマタ相川圭子(Keiko Aikawa)**は、
≫パイロット・ババの弟子であり、彼から直接指導を受け、
世界で初めて究極のサマディに達した女性シッダーマスターとされています。
パイロット・ババは、空を飛ぶパイロットとしての経験と、ヒマラヤでの深い精神的体験を融合させた、現代を代表するスピリチュアルリーダーの一人です。
ーーー
ここは違うようです
実際は、パイロット・ババジは
相川氏を
パイロット・ババジの師であるハリババジに引き逢わせて、ハリババジの弟子にさせていますので、パイロット・ババジとは兄妹弟子の関係性です
これは、現在では、将来スワミ・アディテイアナンダ・ギリ師が外国人一番弟子になるのを見越して、自身の後継者にスワミ・アディテイアナンダ・ギリ師をつける布石とされています
後継者は直弟子しか成れないからです
それでも相川氏は後継者になろうと画策しましたが、失敗したようです
実際にパイロット・ババジは
自身のディクシャのやり方を、スワミ・アディテイアナンダ・ギリ師だけに伝えております
しかし
世界へ向けての伝道という意味においては、当初ファウンデーションをお二人に作らせていますが、
現在では、パイロット・ババジとヒマラヤ24人のアヴァター様方は、アディテイアナンダ師と共にあり、相川氏にはその影すら無いようです。
相川氏に対して
弟子からお金を取りすぎる、高額にしないようにと、再三言われていましたが
彼女は聞き入れず、未だに高額です
それも、東京の目黒に立派なアシュラムを建てたことが原因とされ、また有名人大好きでもあります
そして
重要なことは、自ら自力でニルバーナ・サマディーを成就していないと言うことです
彼女の公開サマディーは、全てがパイロット・ババジによってプロデュースされ、パイロット・ババジによってサマディーへ入れてもらっていたということです
このことを、相川氏はひた隠しにしていますが
自ら自力でニルバーナ・サマディーへ入ったのは、弟子中ではスワミ・アディテイアナンダ・ギリ師ただ一人であり、故に後継者であるのです。
ヨグマタの弟子になるには
収入の10%を差し出さなければならない‼️
キリスト教方式www
オウム真理教並みに怪しいな?😫
ババジが亡くなる前に
スワミジ師を待っていて、死期を半年ほどのばして、スワミジに逢って、ディクシャを伝授してから昨年の8月20日にマハ・サマディーへ入られた
ババジがシヴァ神でスワミジがその子供のカルティッケア神ですからね
そして、親鸞、空海の転生者でもあるスワミジ師
ババジに会いにいったら、顔を見るなり
よー!しんらん‼️って
速攻で言われたらしいよ
また
あなたは、教科書に載るほど有名な宗教者の転生者だとも言われたとか聞いたね、それが空海
手のひらの大きさが同じみたいね
空海の手のひらの大きさは小学生並みで小さい、その手形が寺に残ってて、それにスワミジ師が合わせたら、ピッタリだったらしいですよ
特殊な大きさ
おれも小さいけど、比じゃないくらい小さいw
🛸
仏の力
玉城康四郎先生は、単なる文献学者ではなく、自らも禅定を究めてゆかれたかたであります。
全人格的思惟ということをよく仰せになって
全人格的思惟とは、単なる知識を弄ぶのではなく、まさしく瞑想であり、禅定そのものであります。
玉城先生は、臨済の坐禅もなされたようですが、ブッダの禅定を目指されていました。
ブッダの言葉とされる『ウダーナ』にある
「実にダンマ(法)が熱心に禅定に入っている修行者に顕(あら)わになるとき、
そのとき一切の疑惑は消滅する。
あたかも太陽が虚空を照らすように、悪魔の軍隊を粉砕して安(やす)らっている」
という偈に注目されました。
玉城先生の言葉によれば、
「ダンマというのはダンマとしか言いようのない、実は言葉では著すことの出来ない、形のない「いのち」そのものです。
今日の言葉で言うと、宇宙を貫いている「いのち」そのものです。
私も今生きておりますから、命に基づいて生きている。
その私の今生きている命そのものに、宇宙を貫いているいのちが通じてくる」(『ダンマの顕現』119頁より)
この「ダンマ」というのが、「いのちそのもの」という解釈などは、玉城先生独自も見識であります。
ご自身も全人格的思惟という深い禅定から出てきた見識でありましょう。
春秋社の『スタディーズ 華厳』にも、次のような一節があります。
「私たちが坐禅をくんで三昧に入る時、それは仏の本願力に催されて入る、仏の力に裏打ちされて入るのです。
それが仏教の三昧の根本です。
自分が入ろうと思うのでは三昧にならない。
自分というものが残るからです。
それは我力です。それでは三昧には入れない。
そうではなくて、この自分が仏の力に裏打ちされて、あるいはしるしづけられているから入れるのです」
というのです。
自分の力で三昧に入るのではないというご指摘なのです。
いくら歯を食いしばって、丹田に力をこめて息に集中しようとしても、それでは我力なのです。
いくらやっても我力の増長になりかねません。
我力の抜けたところなのです。
玉城先生は
「こうして何の気もなしに生きてるというそのことが、実は華厳経で言えばたいへんなことなのですね。
自分は気がつかないけれども、のべつまくなしに仏の神通力が働いている」
と仰せになっています。
私たちが何気なしに生きてるということ、意識しなくても呼吸し、食事をして大小便をしていることに、実は大いなる仏の力が働いているのです。
そんな大いなる仏の力に催されて三昧に入ってゆくのです。
玉城 康四郎
東京大学文学部教授,東北大学教授,日本大学文理学部教授など歴任。東京大学名誉教授。
ギーターには、形も属性も持たない神を愛することは難しいが、人間の姿をとって顕現した神を愛することは比較的容易であると記されています。
神は遊びが好きですが、名前も形も属性も持たないブラフマンは、神聖なお遊びをすることができません。
ですので、神は神聖なお遊びをするために人間の姿をとるのです。
神を悟るには 4 つの道があります。バクティ・ヨーガ、ラージャ・ヨーガ、ギャーナ・ヨーガ、そしてカルマ・ヨーガです。それぞれに困難が伴います。
例えば、カルマ・ヨーガを実践するには、求道者は無私無欲でなければなりませんが、これは容易ではありません。
常に、私たちは単なる体と心ではない、私たちはアートマン、純粋な意識である、という考えを心に刻み込まなければなりません。しかし、私たちの体意識は非常に強いため、アートマン意識を維持することは非常に難しいです。
ラージャ・ヨーガの道はさらに困難です。心を浄化するためのいくつかの前提条件と、長時間の瞑想の実践が求められるからです。経験から言うと、たとえ30分でも他の思考を一切せずに集中して瞑想を実践するのは困難です。
しかし、目に見える存在、私たちにとって実在する存在を愛するほうが簡単です。では、目に見えず、声を聞くことのできない神を、どうすれば愛せるのでしょうか。これがバクティ・ヨーガの挑戦です。
この道を歩むには、神が存在するという信仰を持つことから始めなければなりません。
神の存在にも合理性があります。私たちは周囲の現象世界を見ますが、この創造の背後には創造主が必ずいるはずです。だからこそ、創造を見るとき、そこにも創造主が存在することを受け入れなければなりません。多くの科学者も、私たちのこの世界の背後には知性が存在するという結論に達しています。ヒンドゥ教においても、神は純粋な意識、絶対の知識、絶対の至福です。
デンパパ📶<ナナシロ家
だな
😆
https://m.youtube.com/watch?v=KE5Zn1gCFkk&t=4s
正解などなく、
その人、その人に伝えるべき言葉がある
まさにブイブイサービス
😆
識体(しきたい): 仏教用語で、「識」(認識する心、意識、認識作用)そのものの本体や、それらが集まってできた全体的な意識の体を指します。
転じて(てんじて): 変化して、別のものになる、という意味。
二分(にぶ): 二つに分かれること、特に二つの対立する側面(例:自と他、真と偽、清浄と汚濁)に分かれること。
この言葉は、純粋な「識」が、分別(物事を区別する心)や執着(こだわり)によって、本来一つであるものが二つに分裂し、偏りや迷いが生じる状態を表します。
本来の純粋な心(識体)は一つで円満。
それが、色々なものに触れて分別(二分)が生じる。
その結果、「これは良い」「これは悪い」と区別し、心に葛藤や分裂(二分に似る)が生じ、本来の全体性を見失う。
この表現は、『臨済録』などの禅籍にも見られ、悟りへの道を説く中で、この「二分」の分別心を乗り越えることが重要だと説かれています。
分別(ふんべつ): 物事を区別する心。これが執着に繋がると煩悩になる。
執着(しゅうじゃく): 特定の対象に心を留め、離れられないこと。
二元論(にげんろん): 世界を二つの対立する原理で説明する考え方(例:陰陽)。仏教ではこれを乗り越えようとする。
この言葉は、「心の本質が変化し、物事を二つに分けて考えるようになる(=迷いが生じる)」という仏教的な洞察を凝縮した表現と言えるでしょう。
二分とは、相分と見分のことだ
1、眼識(げんしき):視覚の働き
2、耳識(にしき):聴覚の働き
3、鼻識(びしき):嗅覚の働き
4、舌識(ぜっしき):味覚の働き
5、身識(しんしき):触覚の働き
↑ 眼識から身識の5つをまとめて「前五識」と呼びます。
6、意識(いしき):思考や判断、迷いを司る通常の意識
7、末那識(まなしき):自己中心的な我(われ)の意識であり、迷いの根源となる心
8、阿頼耶識(あらやしき):最も深い心の層にあり、過去の行為のすべてを蓄える(貯蔵する)識
●相分(客観)
客観としての心的部分(識内の表象)であり、対象の形象という客観的契機です。所取とも表現されます。
●見分(主観)
相分を把握し、認識する主観としての心的部分であり、相分を知る主観的契機です。能取とも表現されます。
●自証分
上記の主観的契機(見分)を更に知る自己認識契機です。相分と見分とを二極化する前の段階であり、識それ自体が見られる側(客観)と見る側(主観)に二極化し、その対立の上に感覚や思考などの様々な認識作用が成立するとされます。
●証自証分
上記の自証分を更に分割したもので、自証分の奥にその働きを確証するもう一つの確証作用を立てます。自己認識を更に知る契機です。証自証分を確証するのは自証分であるとし、無間遡及を回避しています。
この2つが唯識論の基本構造
ここで、
「見分というのが前五識で、自証分が第六意識のことかな?」
「証自証分というのが、阿頼耶識に相当するのかな?」
というような考えは誤り
正しくは、八識それぞれに四分がある
「八識は横の輪切り、四分は縦割り」というマトリックスだ
「前五識の相分」「前五識の見分」「前五識の自証分」「前五識の証自証分」
「第六意識の相分」「第六意識の見分」「第六意識の自証分」「第六意識の証自証分」
「末那識の相分」「末那識の見分」「末那識の自証分」「末那識の証自証分」
「阿頼耶識の相分」「阿頼耶識の見分」「阿頼耶識の自証分」「阿頼耶識の証自証分」
↓
貞慶『法相宗初心略要』現代語訳より
四分説についてのQ&A
問答(七)どの識にも四分はあるのか
問う。今、この四分は八識[それぞれ]についてはどのように分別するのか。
答える。八識はそれぞれに四分を具えている。眼識を例に取れば、眼識が青・黄などの色を変じて相分として、その青などの色を知る働きを見分とする。この見分の働きを知るのが自証分である。この[自証分の]作用が眼識の[本]体である。この自証分の働きを知るのが証自証分である。自証分が還ってまたこの証自証分を知るのである。
このようにして、耳識は声(音)を変じて相分として、鼻識・舌識[・身識]も次のように、香・味・触[といった認識対象]を変現させて相分とするのである。意識はその時々に随ってあらゆるもの(一切法)を変現させて相分とするのである。
末那識は阿頼耶識の見分を相分として[我法が実在するという執着を起こしながら]変現させ、阿頼耶識は[現象の原因となる]種子・[五種類の感官となる]五根・[その衆生の界趣に応じた自然環境である]器[世]界という三種類の認識対象を変現させて相分とするのである。
後の三分[すなわち、見分・自証分・証自証分]は眼識[で説明したの]と同じである。[また]八識と相応(結びついて作用)する心所[にも四分があるが、その働き]もすべてそれぞれの心王(八識)と同じである。
四分説では、認識作用が起るとき、心それ自体(これが自体分です)が、そのはたらきにおいて四つの領域に分かれる──。
阿頼耶識なら阿頼耶識の識体自体がまず、見るもの(見分)と見られるもの(相分)とに分かれます。
これでいちおう、認識は成立しますが、その認識はもとより自覚的で、確認できるものです(第八阿頼耶識のはたらきは、第六意識にとって不可知ですが、阿頼耶識自体は自覚し確認している)。
その確認作業は、見分と相分を転変した自体分のはたらきと考え、このときの自体分を自証分といいます。
そして、その自証分のはたらきをさらに確認する証自証分を立てて、認識作用の全容を示しています。
(『唯識とはなにか 唯識三十頌を読む』多川俊映)
眼識の相分・見分だと
「見られるもの」と「見るもの」だ
この2つが対になったセットだというのは、
唯識に限らず、仏教では初期からの基本思想
耳識の相分・見分とは
「聞かれるもの」と「聞くもの」の関係
そのまま受け取ってよいのだが
末那識と阿頼耶識の相分・見分だけは
ちとややこしい
「有根身、器世間、種子」だ
これは、「阿頼耶識の見分」だけを対象としている
阿頼耶識の相分:有根身、器世間、種子
阿頼耶識に蓄積された「種子(しゅうじ)」が映し出した世界(現象)。
例:「自分の身体(有根身)」「外の世界(器世間)」
阿頼耶識の見分:阿頼耶識が、その相分(世界)を認識する働き。
例:「これは自分の身体だ」「これは外の世界だ」と認識する働き。
阿頼耶識は、心の最も根本的な働きであり、「世界そのもの(相分)を映し出し、それを認識する(見分)」という構造を持っています。つまり、「世界がある」と思うのは阿頼耶識の自己認識の結果だと唯識では考えます。
**「自分の身体」**のこと。
目・耳・鼻・舌・身の五感を持つ肉体(五根)を指す。
これは阿頼耶識が作り出した「自分という存在」の表れ。
**「外の世界(環境)」のこと。
山、川、大地、空など、自分の身体以外の外部環境を指す。
これも阿頼耶識の「相分」として映し出されたもの。
唯識では、「有根身も器世間も阿頼耶識が映し出したもの(相分)」**であり、私たちはそれを認識している(見分)にすぎないと考えます。
時間が経つと忘れる
遍計所執性(へんげしょしゅうしょう)(Parikalpita-dharma)
意味: 妄想や分別によって、実体がないものに実体があるかのように思い込む性質。私たちが「こうあるべきだ」「これは独立して存在する」と捉える、心が生み出す幻想(架空の存在)です。
例: 自分の「私」という実体や、外部の対象が完全に独立して存在するという思い込み。
意味: 他の様々な要因(識や条件)に依存して成り立っている、変化する存在の性質。すべての事象が、心(識)のはたらきによって縁起(相互依存)している状態です。
例: 心の働き(八識など)によって生み出される現象世界。これは実体があるようでいて、条件が変われば変化する、仮の姿です。
意味: 遍計所執性が完全に否定され、依他起性が真実として成就した状態。幻想(遍計所執性)がなくなった、純粋で真実のあり方(空性)そのものです。
例: 妄想(遍計所執性)を取り除いた、ありのままの「心」の働き(識)そのもの。悟りの境地です。
唯識の教えでは、世界はすべて心(識)が生み出すものと捉え(「一切唯心造」)、この三性を理解することで、私たちが抱く「実体がある」という誤った認識(遍計所執性)を捨て、「すべては心のはたらき(依他起性)にすぎない」と悟り、最終的に幻想のない真実の境地(円成実性)へと到達することを目指します。
名前の通り、「他に依存して起きる」という性のこと
大乗仏教では、これが大事だ
唯識論も大乗仏教なので当然、これは外せない
これを凡夫の側から見ると「遍計所執性」となり、
仏の側から見ると「円成実性」となる
本当は存在しないものを「ある」と錯覚すること
斉藤 征雄
悟る、とはどういうことか。唯識思想は、悟りの構造を次のように説明する。
あらゆるものは、三つの有り方(形態)において存在するという。すなわち「他に依存する存在形態」(依他起性・えたきしょう)、「仮構された存在形態」(遍計所執性・へんげしょしゅうしょう)、「完成された存在形態」(円成実性・えんじょうじつしょう)の三つである。これを「三性説」という。
「他に依存する存在形態」・・・
アーラヤ識を因として現れては消える(刹那滅)現象世界。縁起によって成り立つ世界。したがって、空である。(A)
「仮構された存在形態」・・・
本来、空である世界を、心(識)が自我と物に執着する結果、実在と思い込む、煩悩の世界 。(B)
「完成された存在形態」・・・
修行によって自我と物に対する執着から脱した世界。空、真如、涅槃などと呼ばれる、いわゆる悟りの世界。(C)
仮に三つの存在形態を、それぞれA、B、Cとする。
Aは本来、空である。しかしわれわれ凡夫は、本来空であるAの世界にありながら、「虚妄なる分別」により自我と物に執着してそれを実在と思い込む、煩悩の世界Bにいる。
Cは悟りの世界である。現象世界Aが本来、空であることを観じ、自我と物に対する執着から脱して、ありのままの姿が見えるようになる。Cは内容的にはAと同じと考えてよい。
三つの存在形態論(三性説)は、仏教教理の核心である縁起の世界(A)を要として、そこから煩悩の世界(B)と悟りの世界(C)を位置づけているといえる。
悟る、とは、BからCへの転換を意味する。「ただ識のみ」の煩悩の世界から、完成された悟りの智慧の世界への転換、すなわち識から智への転換であるから「転識得智」という。
では「転識得智」は、いかにして可能か。われわれの心の中のアーラヤ識には煩悩の種子を宿している。したがって、アーラヤ識の煩悩の種子をいかにして取り除くかが、唯識思想の悟りの構造の鍵となる。
そして鍵は、瑜伽行にある。
(仏教学習ノート47)
やっぱり、唯識論の最も唯識らしさを感じるのは、「八識」だろう
仏教ウェブ入門講座
阿頼耶識とは?
私たちは普通、共通の宇宙に生まれて、共通の時間を生きていると思っています。
ところが、そうではありません。実はそれと全く反対に、一人一人の世界に生きていると仏教では教えられています。
それは、一人一人の過去の行いが異なり、その過去の業を蓄えている一人一人の阿頼耶識(あらやしき)が生みだした自分の世界に生きているからです。
阿頼耶識は大変有名で、ガンダムにも、「阿頼耶識システム」なるものが出てきますが、阿頼耶識とは一体何なのでしょうか?
阿頼耶識についてできるだけ簡単に、分かりやすく解説します。
眼識 げんしき
耳識 にしき
鼻識 びしき
舌識 ぜっしき
身識 しんしき
意識 いしき
末那識 まなしき
阿頼耶識 あらやしき
1.眼識 げんしき
「眼識」とは、色や形を見分ける心です。
これには個人差があって、近眼の人もいれば、
遠くまで見える人もありますし、色弱や色盲になると、
異なる色に見えているようです。
2.耳識 にしき
「耳識」とは、音を聞き分ける心です。
これも、一般の人とオーケストラの指揮者とでは、
違いがあります。
3.鼻識 びしき
「鼻識」とは、匂いをかぎ分ける心です。
鼻が詰まっている人もいれば、鋭い人もいます。
4.舌識 ぜっしき
「舌識」とは、甘いとか、辛いとか、酸っぱいとか、
味を見分ける心です。
これも、何を食べても美味しい人もいれば、
グルメな人もいます。
5.身識 しんしき
「身識」とは、寒いとか暖かい、
痛いとか快いなどを感ずる心です。
これも、にぶくてあまり感じない人もいれば、
ちょっとでも敏感に感じる人もいます。
これら5つの心を「前五識 ぜんごしき」といわれます。
記憶したり、考えたりすることはできません。
そこで、6番目の「意識」の登場です。
6.意識とは?
「意識」は、前五識を統制して、記憶したり、判断したり
考えたり、命令したりする心です。
ところが、私たちは、頭で分かっていても
「分かっちゃいるけどやめられない」
ということがあります。
何かより強い力で動かされているのです。
心理学では、無意識とか、深層心理と言われたりしますが、
それは、仏教ではやっぱり「意識」に含まれる心です。
それより深いところに、
7番目の末那識まなしきと
8番目の阿頼耶識があります。
末那識は、いつも阿頼耶識にまとわりついて執着する心です。
意識は寝ている時や、卒倒した時には途切れます。
意識が途切れたら何も考えていない無心の状態のはずなのに、なぜ迷いが続くのかというと、
末那識という途切れない心があって、意識が途切れている時も、末那識が悪を造り続けているからです。
本当は無我なのに、末那識はいつも阿頼耶識を固定不変の我だと思ってしまうのです。
8.阿頼耶識とは?
一切を生み出す可能力を有した根本の心
(出典:横山紘一著『やさしい唯識』)
「阿頼耶識」の「阿頼耶」とは、蔵のことです。
例えば、「ヒマラヤ」は、サンスクリット語で「ヒマ(hima)」+「アーラヤ(ālaya)」ですが、「ヒマ」は雪のことなので、ヒマラヤは雪の蔵ということです。
ですから、「阿頼耶識」とは、「阿頼耶」+「識」で、「識」は心のことですから、阿頼耶識は「蔵の心」ということです。「蔵識 くらしき」ともいわれます。
蔵というのは、普段はとても静かです。母屋には家族が集まって、一家団らん、楽しく過ごしているのですが、普段から蔵に集まって活き活きと生活している家族はありません。
ところが蔵には、お米や財産など、大事なものを保存しておきます。そして火事が起きたときでも、蔵は土でできていますので、燃えずに残ります。
火事がおさまった後に、蔵からお金を出してきて、再び母屋を建てることができるのです。
それと同じように、私たちの肉体は、生まれたときにできて、死ねば滅びます。
ところが、阿頼耶識は、肉体が生まれるずっと前から、肉体が滅びても、滅びることなく続いていきます。果てしない遠い過去から、永遠の未来に向かって流れて行く、私たちの永遠の生命を阿頼耶識というのです。
それはちょうど、とうとうと流れる大河のようなもので、肉体は、川面にできたあぶくのようなものです。
あぶくができようが消えようが、河の水は、増えもしなければ減りもしません。私たちの本心は、阿頼耶識なのです。
私たちが普段自覚できるのは第六意識なのですが、それよりもはるかに深いところで、はるかに強い力で私たちを動かしているのが、阿頼耶識です。
阿頼耶識は、蔵のような心という意味ですが、では一体何がおさまっているのかといいますと、「業力 ごうりき」です。
業力とは、業とは行いのことですので、行いの力ということです。
仏教では、私たちの行いを、3つの方面から見られます。
心で思ったことを「意業いごう」
口で言ったことを「口業くごう」
身体で行ったことを「身業しんごう」と言われます。
それらの心と口と身体の行いが、目には見えませんが、決して消えることのない不滅の業力となって、阿頼耶識におさまるのです。
そして、阿頼耶識は、業力をおさめて、次々と変化しながら消えることなく流れていきます。
阿頼耶識には業が種子のようにおさまるので「種子識 しゅうじしき」ともいわれ、おさまった業を、業種子(ごうしゅうじ)ともいわれます。
阿頼耶識が生み出す世界
業力には、大象100頭よりも強いといわれるものすごい力があって、やがて自らの運命を生み出します。
もし善い行いをすれば、善業力(ぜんごうりき)となって、因果応報にしたがって善因善果、幸せな運命を生み出し、もし悪い行いをしたならば、悪業力あくごうりきとなって、因果応報にしたがって悪因悪果、不幸や災難を生み出します。
だから因果応報なのです。
仏教は因果応報の因果の道理に立脚して説かれているので、因果の道理が分からないと仏教は分かりません。
同じように見えているとはまったく限りません。
阿頼耶識に蓄えられた自分の業力によって、一人一人まったく違う世界を生み出して、まったく違うものを見ているのです。
そして、肉体が滅びても、阿頼耶識は続いていき、蓄えられていた業力によって、次の世界を生み出すのです。
そうやって私たちは、生まれ変わり死に変わり、永遠に苦しみ迷いの世界を輪廻転生していくのです。
ガンダムの「阿頼耶識システム」とはどんなものかというとガンダムのパイロットの脊髄にデバイスを埋め込み、モビルスーツ(ガンダム)とパイロットの脳を直結させて、非常にスムーズな操縦が可能になるという、ガンダムの世界でさえも「非人道的」として法律で禁じられているほどの禁断の秘奥義です。
ただ実際には、現実の世界でも、「筋電義手きんでんぎしゅ」というものが開発されています。考えただけで思い通りに動く義手で、感覚もあり、AI(人工知能)も組み込まれているそうなので、現実の世界でも、実用化されて行くと思います。
こうしてみますと、ガンダムの「阿頼耶識システム」は、阿頼耶識を長年研究してつくったという割に、これまでの「阿頼耶識」と「意識」の特徴からお分かりのように、今のところ「阿頼耶識」ではなく「意識」とモビル・スーツをつなぐものです。
ときどき、ここに立ち返らないとな
これが、思想体系を理解するポイント
世界と自分を生み出し、輪廻転生を引き起こすシステム
善因善果、悪因悪果
善因楽果、悪因苦果
これを生み出す、業力あやめシステム
原因と結果の法則は、必ず冷徹に作用する
輪廻転生を前提にしなければ、これは分からない
仏教は輪廻転生を前提とした思想体系
これを外したら、意味を成さない
さすがに、「因果応報」を否定することまではできなかった
これは、仏教の根本思想
これを否定したら、さすがに仏教じゃなくなってしまう
秋月龍ミンは苦労して屁理屈を編み出していた(笑)
とかなんとかいう事例を持ち出して、「原因と結果の法則」を説明していたが
これじゃ弱すぎる(笑)
これを抜きにして、因果応報を語るのは無理
仏教は、宗教だ
信仰の領域だ
単なる人生訓みたいなものと思ったら誤解だ
輪廻転生を抜きにした仏教を唱えていたが
そんなに輪廻転生が嫌いなら、仏教じゃなくて、他のことに取り組んだらどうなのか?(笑)
ひたすら、足組んで坐るだけの人生
哀愁そのものだ
輪廻の説明になってるかもなー
俺は関心が薄いが
😆
豪語できる
脳汁ワールドの数が半端ないからなー
😆
「自他不二の境地。これこそ、仏教の本質だ」と力説するのだが
それだと、仏教というより、ヒンドゥー教哲学の「不二一元論」に似てくるな
皮肉にも、輪廻転生を否定したおかげで、かえってヒンドゥー教やバラモン教に似てきた😂
脳汁魔王なのかよ~😆
豪語しないが
ヤツラは、純粋だからなー
😆
才能だけの清原みたいもんやな
😆
消化不良の克服には、とりあえず胆汁だ
縁起によって生じる現象のあり方、「円成実性(えんじょうじっしょう)」はその依他起性が空(くう)であることを正しく認識し、執着を離れた完成された真実のあり方(真如・空性)を指し、唯識思想の「三性説(さんしょうせつ)」における迷いの世界(遍計所執性)から悟りの世界への転換を示す重要な概念です。
意味: 他のさまざまな条件(因縁)に依存して生じている、変化する存在の姿。
特徴: 縁起(えんぎ)の法則そのものであり、生滅を繰り返す現象世界のこと。
例: 蛇と縄の譬えで言えば、縄(依他起性)が、暗闇で蛇(遍計所執性)に見えてしまう状態。
意味: 依他起性(現象)が、本来「空(くう)」であり、自性(実体)がないこと(無自性)を悟った、完成された真実の姿。
特徴: 煩悩や執着(遍計所執性)がなくなった、究極のリアリティ(真如)。
例: 縄が縄であると正しく認識し、「蛇だ」という誤った思い込み(遍計所執性)が消え去った状態。
遍計所執性(へんげしょしゅうしょう): 誤った分別(思い込み)によって実在するとされる、虚構の世界。
依他起性: 縁起によって生じる現象世界(A)。
円成実性: 依他起性(A)が本来空(くう)であることを悟った世界(C)。
悟り(転識得智): 遍計所執性(B)への執着を離れ、依他起性(A)をありのままに見て、その背後にある円成実性(C=空性)を体得すること。
世間の一般人の側から見たのが、遍計所執性
覚者の側から見たのが、円成実性ということになる
修行の中間地点ということだな
それが、ディグナーガの論理学なんたろな
😆
依他起性は存在する
【質問】
円成実性とは、どんな意味なのでしょうか?
【回答】
円成実性(えんじょうじっしょう)とは、
どんな意味なのかと言いますと、円とは、周遍(しゅうへん)の義と言われて、
周も遍も、あまねくという意味ですから、普遍性を表します。
成とは、成就(じょうじゅ)の義で、常住な永遠性を表します。
実とは、その真実性を表しています。
つまり、円成実性とは、普遍的で、永遠に真実なもの、ということになります。
三世を貫き、十方を遍く、真実そのものを言います。
いつでも、どこでも変わらない真理をあらわします。
真如(しんにょ)であり、
無為法(むいほう)であります。
普遍は、横の広がりを表し、
永遠は、無限の時間を表しますから、
「永遠の真理」と言ってもよいかと思います。
いずれ崩壊する仮の姿
真如の世界
「永遠不変なものなど、何も無い」とされていた
唯識論では、「円成実性」という永遠不変の真如を取り入れた
思い込みという条件が成立して現象として確かに現れたものだよ。
😆
おはよー
なるほど
https://www.jisyameguri.com/zatsugaku/ogoma/
煙が天に届くことで、天は食を頂くことができ、代わりに人に福を与えるとされています。
このような考え方、由来はバラモン教にあります。
バラモン教が儀式で行っていたやり方を、大乗仏教も取り入れたんです。
今では主に天台宗や真言宗など、密教系の仏教宗派が護摩行(護摩供ごまく)という修行の一環として行います。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AD%B7%E6%91%A9
仏教では当初、バラモン教のホーマ(護摩)の儀式を迷信的な呪術として否定していた。
釈尊は「もし火によって穢れがなくなるというなら、
朝から晩まで火を燃やしている鍛冶屋がもっとも穢れがなく解脱(げだつ)しているはずなのに、
なぜバラモン教のカースト制度では鍛冶屋を最下級に位置づけるのか」と批判し、
木片を燃やすという形式主義的な儀式よりも、
人間の心の内面を輝かせる「永遠の火」こそが重要である、と指摘した[2]。
しかし、時代がくだって仏教がヒンドゥー教の影響で密教化すると、
このホーマの儀式が仏教の中心的なものであるかのようになってしまった。
そのような経緯もあり、護摩は主として密教に存在する修法となっている。
基本的に日本の真言宗・天台宗、チベット仏教など密教系の宗派で行われる。
識=ブラフマン=アートマン(観る者とされている)
二分=【ブラフマン】対【プラクリティー(マーヤ=幻影)】
アートマン→観る者
ブラフマン=識≪
プラクリティー→現象世界=マーヤ
🛸🛸🛸🛸
サーンキャ哲学と唯識論は、どちらもインド思想に根ざしますが、
サーンキャは「プルシャ(精神)」と「プラクリティ(物質)」の二元論で世界を捉え、唯識は「ただ識(心・認識)」のみが世界を構成するとする「唯心論(唯認識論)」を説く点で根本的に異なりますが、「精神(識)」の重要性を説く点では共通し、唯識はサーンキャの二元論を超克しようとしたとも言えます。
基本的な考え方: 世界は「プルシャ(霊魂・意識)」と「プラクリティ(物質・根源)」という二つの根本原理から成り立っているとする二元論。
世界の構成: プルシャは不変の純粋意識、プラクリティは変化する物質世界(五大元素、感覚器官、心などを含む)。この二つが絡み合うことで現象世界が生じるとする。
目的: 最終的にはプルシャがプラクリティから解放され、真の自己(解脱)を認識すること。
基本的な考え方: 世界に実体はなく、すべては「識(意識・認識)」が変化・現れたものにすぎないとする唯心論(唯認識論)。
世界の構成: 8つの識(八識)が、世界(内面・外面)を構成し、その奥底には「阿頼耶識(根本的な貯蔵庫)」があるとする複雑な心(識)の体系を持つ。
目的: 識の働きを深く理解し、煩悩の根源である無明(無知)を滅し、悟り(成仏)を目指す。
原理の数: サーンキャは二元論(プルシャ+プラクリティ)、唯識は一元論(識のみ)。
「心」の捉え方: サーンキャでは心(マナスなど)は物質的なプラクリティの一部だが、唯識では心(識)自体が世界のすべてを創り出す。
対立関係: 唯識は、サーンキャの二元論的見解(特に物質世界の実在性)を批判し、すべては心の現れであると説くことで、その超克を目指した側面がある。サーンキャのプルシャ(精神)の概念を、より精緻な「識」の体系に置き換えて発展させたとも言える。
サーンキャが「精神と物質」の二つを基本に置くのに対し、唯識は「心(識)こそがすべて」と断言し、心の構造を詳細に分析することで、より深遠な「心」の世界を解き明かそうとした、インド思想の大きな流れの中での発展・対立関係にあると言えます。
唯識論は密教に、サーンキャ哲学は不二一元論に
それぞれ、主流の座を奪われた
サーンキャはヴェーダーンタと共にバラモン教の主流哲学である。大乗仏教、特に唯識論と深い関係があり、7~8世紀頃には唯識論は密教に、サーンキャはヴェーダーンタに主流の座を取って替わられた。
ヴェーダーンタの不二一元論に対しサーンキャは二元論であり、霊我(プルシャ)と根本原質(プラクルティ)の接触で世界が生じ「苦」が生じると説明される。
プルシャは精神の根源に有るものでありヴェーダーンタで言う「アートマン」に相当すると考えられる。ただしアートマンの様に「一即多」のものではなく初めから「この世の生命の数だけ有る」とされる。
プラクルティは物質の根源に有るもので、初めは「未顕現」の状態にある。その時プラクルティの中でラジャス(激動性)、タマス(暗黒性)、サットヴァ(純粋性)の3グナが均衡している。それがプルシャに見られる事で均衡が崩れパリナーマ(転変)が始まる。
サーンキャ哲学によればプルシャは相手に働きかける事は無い。なぜなら「働きかける」という事自体が物質的な作用だからだ。プルシャはただ「観照する」だけである。しかし見ることによってプルシャとプラクルティは接した事になる。
この接触が全ての「苦」の始まりなのである。プルシャはプラクルティと接し複雑に入り混じる事で本来の純粋性を失い輪廻に囚われる事になる。
アハンカーラはブッディをプルシャであると錯覚する。この錯覚によって輪廻転生が起こる。つまり唯識論のマナスとアーラヤ識がそれぞれサーンキャのアハンカーラとブッディに当たる。
唯識論もサーンキャと同様ヨーガの実践に裏打ちされているのだから論理が似ているのは当然である。どちらの説も錯覚によって輪廻転生が起こるとする。
しかし唯識論は「アートマンは存在しない」立場に立つため、「存在しないアートマンが視線の裏返しによって存在するように錯覚される」という論理であるのに対し、サーンキャではそのような「自意識の擬制」の原理が無く、代わりに物質的なものである「ブッディ」を精神的な「プルシャ」と錯覚するという論理構成になっている。
違いはもちろんあるが、基本的な世界観が似ている
密教(仏教の一派)とヴェーダーンタ哲学(インドのヒンドゥー哲学)は、
根本的な世界観と修行方法が異なります。密教は「即身成仏」を目指し、曼荼羅や真言、儀式を通じて言葉を超えた真理を体得します(秘密の教え)。一方ヴェーダンタは「梵我一如(ブラフマンとアートマンは同一)」を核心とし、ウパニシャッドを基に宇宙の根本原理(ブラフマン)と個我(アートマン)の合一を悟ることを目指す正統派インド哲学です。
起源: 仏教が中国、チベット、日本などで発展したもので、釈迦の教えをより深め、言葉では表現できない「秘密の教え」を重視します。
核心思想: 生きながらにして仏(真理)になること(即身成仏)を目指し、顕教(通常の教え)とは異なる、即座に悟りへ到達する道(即身成仏の道)を説きます。
方法: 曼荼羅、真言(マントラ)、陀羅尼(ダルラニ)、印(ムドラー)、儀軌(儀式)などを用いて、身体全体で真理を体験的に体得します。
起源: インドのヴェーダ聖典、特にウパニシャッドを根本経典とするヒンドゥー教の哲学体系です。六派哲学の一つとして正統派とされます。
核心思想: 宇宙の根本原理であるブラフマン(梵)と、個人の本質であるアートマン(我)が本質的に同一である(梵我一如)と説き、無知を克服してこの真理を認識(認識)することで解脱(モークシャ)を目指します。
方法: 瞑想(ヨーガ)、知識(ジュニャーナ)、信仰(バクティ)などを通じて、ブラフマンとアートマンの同一性を悟り、煩悩から解放されることを目指します。
宗教的背景: 密教は仏教、ヴェーダンタはヒンドゥー教(インドの伝統的な宗教哲学)に属します。
目標: 密教は「即身成仏」(生きながら仏になる)、ヴェーダンタは「梵我一如の認識」(宇宙と自己の同一性を悟る)が中心です。
手段: 密教は儀式や呪文による「体験的・実践的」な方法を重視する一方、ヴェーダンタは「哲学的思索と瞑想」を通じて真理を認識しようとします。
「秘密」の有無: 密教は「秘密の教え」を強調しますが、ヴェーダンタは「ウパニシャッド」という文献に基づき、より体系的に真理を探求します。
違うのか
「密教とヴェーダンタ哲学が似ている」というのは、バッサリと否定された😂
怪しげな
デンパパ📶ターラで
密教=ヒンズーと思っているんだろな
我田引水はいつもだからなー
😆
ヒンズーヨガの中に
タントリズムというヒンズー密教の分野がある😆
欲望のエネルギーを利用するのがタントリズムらしい
😆
進化していったって感じ
究極的には同じでしょ
AIごときに究極が解らんでしょ
パイロット・ババジは
3.11の前年に、地震と、福島第一、第二の原発爆発を予言し
ネパールのカトマンズで
世界最大級の護摩法要を執り行い
原発爆発事故の被害軽減を
スワミジ様らと行いました
因みに
ウクライナ戦争も予言していて、なんと90年代以前から言ってたようです
🛸🛸🛸🛸🛸
依他起性は仮りの世界(無常・縁起の理)、円成実性は悟りによって到達する究極の真実(空の境地)という違いがあり、依他起性の虚妄性を離れて初めて円成実性が現れる関係です。
意味: 「他(条件)に依存して生じるあり方」で、縁起(えんぎ)の理(ことわり)そのもの。
特徴: 縁起によって生滅し、変化する世界の姿(有為法)。私たちの認識する仮構された世界(遍計所執性)が、実は縁起によって成り立っていることを示します。
例: このコップは土や水などの条件(縁)によって成り立っている、というあり方。
意味: 「完成された真実のあり方」。一切のものが遍く(あまねく)持つ「空性(くうしょう)」や「真如(しんにょ)」のこと。
特徴: 依他起性の「他によるあり方」という性質(縁起性)そのものを、虚妄(きょもう)な分別(遍計所執性)を離れて正しく見極めた(悟った)真実の姿。
例: コップが「コップである」という実体はなく、空(くう)であると理解する悟りの境地。
遍計所執性(へんげしょしゅうしょう): 存在を実体として捉える、誤った見方(虚妄分別)。
依他起性(えたきしょう): 縁起によって生じる、仮りのあり方(現実世界)。
円成実性(えんじょうじつしょう): 依他起性の真実相(空性)を悟った、完成されたあり方(悟りの境地)。
デンパパ📶
基本的には似たような世界観と思うが
観察が抜け落ちるのがヨガの特徴
😆
空海ですら
如実知自心
仏陀は
如実知見だし、
デンパパ📶は
仏教スレで何を宣伝しとるのだ?
感〜
👽👽👽👽👽👽
ヨガのいいところのんだろな
😆
全くお門違い‼️
こういった事はとうじしゃじゃないので
解るはずがないだろ
でおーは
無分別三昧に自在に入禅定可能なのか⁉️
これは、私たちが「自分」と「世界」を明確に区別し、それらが固定的な実体を持つと考える心の働き(分別)が生み出す「幻」のような存在のあり方であり、空(くう)の真理を理解する上で重要視されます。
遍計(へんげ): あらゆるものに対して「遍く(あまねく)計り(計度し)とる」こと。心の中で対象を勝手に捉え、固有の実体があると考えること。
所執(しょしゅう): 執着する対象、または執着そのもの。「所執性」は、執着される実体(自性)のこと。
唯識思想では、存在は以下の三つの性質(三性)を持つとされます。
遍計所執性(へんげしょしゅうしょう)
: 遍く計り執らわれる実体。言語や分別によって実体がないものを実体があるかのように捉える誤った認識(空)
依他起性(えたきしょう): 他の条件(縁)に依存して生じる、生滅変化する仮の姿(縁起する現象世界)。
円成実性(えんじょうじつしょう): 遍計所執性が離れて(空であることが分かり)、依他起性が真実の姿として現れる、真理(空性)そのもの。
「私」というものが、心(識)の外側に独立して実体を持って存在すると考えること。
「青い花」を見たときに、「青さ」や「花」という概念に囚われ、それが固定的な実体であると信じ込むこと。
遍計所執性は、私たちが世界を誤解する根本原因です。
この執着を離れる(「空」と悟る)ことで、真実の境地(円成実性)が開けるとされます。
それを世間の一般人から見ると、遍計所執性
悟った覚者から見ると、円成実性となる
リダン、デンパパ📶
ハッスル、ムイムイ
もそうだ
😆
自己を分析しないままに
坐禅回数を威張り、
依他起性で問われる問題点を
真摯に受け止めないで
真摯に仏教やってると
いつも芸人魂で
豪語なされている
😆
😆
論理的修道論として
依他起性を提示されたんやろなー
そこが外道の分かれ目と言っていいだりな
😆
唯識の些末な内容の意義を把握できた
🙏
修道論としての倶舎論を解説してくれたのありがたかった
😆
でおーって解って言ってるの?
四諦の法に則って如実に縁起を見て知るんだぞ
四諦を知って体験的に応用することが
無分別的に自然に為されて行くのが
阿羅漢や仏陀の境地でしょ
軽くありのままに知ること、とかじゃないよ
頑張ってるな?
🛸
由一切種識 如是如是変
以展転力故 彼彼分別生
一切種識に由りて 是の如く是の如く変ず
展転力を以ての故に 彼彼の分別生ず
あらゆることの一つ一つは、大本の阿頼耶識にプールされている、それに関わる過去の行動情報(種子)が、色々複雑に展開することによって生起する。
それが相互に持続し、かかわり合うことによって、様々な分別を生じるのである。
諸識とは、根本識の阿頼耶識と、そこから転変した意識下の末那識や、表面領域の六識、またそれらに、付随して働く五十一の心所をいう。
それぞれが変現して、分別するものと、分別されるものになるのですが、それらが、相互にかかわり合うこと〖展転(ちんでん)力〗によって、日常を構成する様々な分別が生まれる。
それが転じて、世界が展開される
阿頼耶識が映写機に相当する
自分は、阿頼耶識が演出した世界を見せられているだけだ
認識、判断、行動
などの情報処理が
苦にもとづき行われている
ハッスル🤡様は
見事に貪瞋痴サイクル輪廻軌道に乗っている
😫
ハッスル様は、坐禅で貪瞋痴パワーを溜めている😫
『瑜伽行唯識学派』
● 認知・知覚・意識の探究を重視する、瞑想とヨーガを通じた仏教哲学・心理学の伝統。
● 瑜伽行唯識学派(ゆがぎょうゆいしきがくは)は
大乗仏教の学派のひとつで、唯識の教学を唱導した学派である。
◯ 唯識瑜伽行派、唯識派
(梵:Vijnanavada,ヴィジュニャーナヴァーダ、Vijnapti-matra(ta),ビジュニャプティ・マートラ(ター)Cittamatra,チッタマートラ)、
◯ 瑜伽行派(梵:Yogacara,ヨーガーチャーラ)とも言う。
ーーー
元はヨガ行法から派生した一派であって
仏教ではなかった
弥勒(マイトレーヤ)を祖とし、無著(アサンガ)・世親(ヴァスバンドゥ)が教学を大成した。
釈尊を祖師としていない時点で
仏教では無かった
大乗という似非仏教が有っての唯識仏教説
●『ヨーガ・ヴァーシシュター至高の真我』より
https://i.imgur.com/uEw8khr.jpeg
https://i.imgur.com/MFpu9Sh.jpeg
https://i.imgur.com/huX49xu.jpeg
https://i.imgur.com/KKjKSEU.jpeg
確かに、唯識論はサーンキャ哲学に似ている
基本ら如実知見が欠落して
提示している
いつものことだ
倶舎論問題
😆
そんなのばかりだ
🛸
倶舎論でどうやって解脱するの?
論は最後に無分別三昧で捨てられるし
五蘊、12因縁の発展系でしょ唯識
無明、行、識、六処
この辺りを深く掘り下げた
無明とは具体的に何であるのか?
倶舎論では⁉️
> 五蘊、12因縁の発展系でしょ唯識
五蘊、12因縁の発展系が倶舎論
倶舎論の発展系が唯識
🛸
> 無明とは具体的に何であるのか?
>
> 倶舎論では⁉️
倶舎論の「無明」は単純だ
「仏教、とくに四諦が分かってないこと」を意味する
↓
初期仏教の根本教義 四諦(したい)
苦諦(くたい)
生きることは本質的に苦である。一切皆苦
生きるということは、苦を背負って日々を過ごすことだ。
どこかに心優しい神様がいて手をさしのべて
救済してくれるようなことは絶対にない。
集諦(じったい)
あらゆる出来事は必ず何らかの原因によって起こる。
苦の原因は煩悩である。
満足が得られないから、苦しくなっていく。
滅諦(めったい)
煩悩を消すことで苦が滅する。
この世で起こっているものはすべてうつろう。諸行無常
現実をありのままに受け入れ、その世界に耐えるべく、
自分の価値観・世界観を変えていく。
この世の一切の事物は自分のものではないと自覚する。
道諦(どうたい)
煩悩をなくし、悟りを得るための八正道を実践する。
https://news.livedoor.com/topics/detail/30237553/
日本維新の会の幹部を「コイツ」呼ばわりで周囲はドン引き
https://news.yahoo.co.jp/articles/bbd33f20d06329dc53b25cf2386d152eab74c7d1
もはや、コイツレベル扱いだろな
😫
https://talk.jp/boards/psy/1764574874
一般的にもそう言われるが
その四諦を
瞬時に日常で起きる縁起に対して
無分別の状態で駆使して業を作らない無漏にあることが可能なのか?ってこと
無明が何であるのか知ってることと
実際に無明を滅して明知へ至った状態では違うからさ
で、倶舎論に無明を明知に変える方法論って書いてあるのかね⁉️
おれの頭じゃ倶舎論読めないwから訊くけど
> で、倶舎論に無明を明知に変える方法論って書いてあるのかね⁉️
もちろん、書いてある
掲示板では倶舎論の理論面の話ばかりしているが
じつは、倶舎論は理論面と修道面の半分ずつから構成されている
単に「煩悩を克服する」ってんじゃ、漠然としているが
倶舎論では、「困難は分割せよ」とばかりに、108の根本煩悩・大煩悩・小煩悩に分割している
それらを、1つ1つ消していく
全部をいっぺんに消すことは不可能とされている
根本煩悩: 貪・瞋・痴(むさぼり・いかり・おろかさ)の「痴(無知)」にあたり、あらゆる煩悩の根本原因。
倶舎論を学ぶのが一番だ😄
頑張ってるのか?
躁転しとるのか?
😆
たんなる、神と合一するヨガとでは
ゴール、根本目的が違う
それを混ぜ合わせてドヤるデンパパ📶
やられてもなー
他のスレでやってくれ
躁転ごじゆうに
🛸
ではどうやって消して行くのか?滅して行くのか⁉️
その解決は何であるのか⁉️
行為と洞察力、認識力を
放棄した
スピ的なものが最上と思っているだけ
🛸
とかは
ムイムイのレスの背景の洞察のみである😆
得っつー有為法で心所の煩悩が漏れるところに蓋をするんだよ
作用は有為法だが
内容は無為法によるもの
また
妄想を
それを
認識するから
回避し始める
からやろー
😆
ホンマ
アホ躁転してのけ?
🫥🫥🫥🫥
読んでないの、バレバレやな君
ちょっと触ったくらいやだめやで
独り言
どうしようもないな〜
🫥🫥🫥🫥🫥
お前、得、非得もわからんのちゃう?
改名だな
🫥🫥🫥🫥🫥🫥
何見て倶舎論わかった気になっとるか知らんけど
倶舎論について語らんほうがいいよ
まあ皆に既にバレとるかw
なにを持ってそうなったか?を
知るわけ
もちろん無為法であるわけだが
それを実際に
修道において残る微細な煩悩の漏れを
対処していくのが
修所断だ
上の話ばかりしてゴールのつもり
肝心なんは下の話だよ
頑張ってるな?
このレスの意味わかるか?
🫥🫥🫥🫥🫥
イミフを
必死で頑張っているのだな?
感
🫥🫥🫥🫥
お前はつもりでイキってんな
皆にバレとるぞ
NO1は
そんな感じや
🫥🫥🫥🫥🫥
全部書いてあるんやから
真摯に学べよ
なんだこりゃ?
NO1は
また
妄想を
それを
認識するから
回避し始める
からやろー
😆
アホやろ
認識するから
回避し始める?
妄想はお前じゃね?
なんか鳴らしとるなー
🫥🫥🫥🫥
まともに反論できんようやな
まあボロがでるもんな
🫥🫥🫥
右翼の街宣車に向かって
議論する珍獣も
いるかもしれんなー〜
🫥🫥🫥🫥🫥🫥
頑張ってるんだなー
ほっとこ〜
そのうち、どっかへ
いくやろー
感
🫥🫥🫥🫥
🫥
しょうもないと言ってるんだ
馬鹿だからわかんねーか
頑張ってるな?
🫥
これをアホってことはさ
倶舎論においては
一つ一つの煩悩にたいし
一つ一つの涅槃があることを
ご存知ないらしい
お前なんだったら知ってんだ
マウント取り切れてないぞ
お前は逃げるの頑張ってるな?
つらいな?でおくん
でおが馬鹿なん気がついてるで
マウント取ろうとするから馬脚を現す
しょうもない
倶舎論においては
一つ一つの煩悩にたいし
一つ一つの択滅があるに訂正
🫥🫥🫥
せっかくだからおぼえて帰れよ
バカ街宣車は修正しなくてよい
🫥
学ぶヤツがいるのか?
🫥🫥🫥🫥
一個一個やる意味は?
一つの煩悩を思いの中で滅してもダメだぞ
想像の煩悩と
縁起のなかで、突発的に出現した煩悩では
その持っているエネルギーが桁違いだからね
想定した煩悩を滅したと
思ってるだけだから
本んものの煩悩は
理性を吹き飛ばす勢いを持っている
だから煩悩なんであって
その倶舎論学んで解脱した奴なんて
聞いたことも見たこともないからな‼️
大言壮語
的外れ〜
🛸