【仏教の標準理論】 倶舎論 【世親著】 Part3最終更新 2025/11/25 09:181.◆JBLfMwCXhYENa9Xここでは仏教の標準理論といわれる阿毘達磨倶舎論(以下、倶舎論)を学んでいこうと思います。【仏教の煩瑣哲学】阿毘達磨倶舎論【龍樹著】 ←まちがいhttps://talk.jp/boards/psy/1694739296【仏教の煩瑣哲学】阿毘達磨倶舎論【龍樹著】 Part2 ←おちょくりhttps://talk.jp/boards/psy/17536591052025/10/28 18:16:58145コメント欄へ移動すべて|最新の50件2.◆JBLfMwCXhYENa9X関連スレ【唯識三年】仏教ウンチクを語るスレ 10【倶舎八年】https://talk.jp/boards/psy/1759535455中論https://talk.jp/boards/psy/17387112042025/10/28 18:24:483.◆JBLfMwCXhY8pOGoインドの仏教思想 主な流れ1、初期仏教 : 紀元前6世紀頃 お釈迦様の教え2、上座部 (テーラワーダ仏教) : 紀元前5世紀頃 いわゆる小乗仏教、南方で継承される3、説一切有部 (倶舎論) : 紀元前1世紀頃 部派仏教の時代、最も有力な部派4、経量部 (倶舎論) : 西暦300年頃~ 説一切有部から分派、世親はここの出身5、中観派 (中論) : 西暦200年頃~ 空と縁起の思想、龍樹が始めた大乗仏教6、瑜伽行派 (唯識論) : 西暦400年頃~ 阿頼耶識が登場、大乗二大学派のひとつ7、如来蔵思想 : 上記の流れとは独自に展開、 「誰でも成仏できる」という思想2025/10/29 06:11:164.◆JBLfMwCXhY8pOGo初期仏教の世界観見るものと見られるものが対になり、世界ができている。アナタが認識しているもの、それが世界のすべてである。五蘊・十二処・十八界1、五蘊(ごうん)・色 物質的な存在(とくに、自分の身体)・受 感受する作用・想 表象する作用・行 意志する作用・識 認識する作用→人間は、五蘊を寄せ集めた仮の姿。「我」として執着するような実体は無い2、十二処(じゅうにしょ)・六根:六つの認識器官眼根・耳根・鼻根・舌根・身根・意根・六境:六つの認識対象色境・声境・香境・味境・触境・法境六根と六境を合わせて十二処3、十八界(じゅうはちかい)・六識:六つの認識作用眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識十二処に六識を加えて十八界2025/10/29 06:11:405.◆JBLfMwCXhY8pOGoお釈迦様の入滅後、多くの部派に分かれて、仏教理論の体系化が進んだ最も有力な「説一切有部」は、存在を「五位七十五法」に分類した初期仏教の「五蘊・十二処・十八界」よりだいぶ数が増えた説一切有部の思想は、後に「倶舎論」としてまとめられた↓(1)五位七十五法法(ダルマ)=存在するものに2種類・有為(うい)…煩悩で汚れたもの・無為(むい)…煩悩で汚れてないもの1~4は有為法、5は無為法1、色・・・物質的現象 11種類 眼・耳・鼻・舌・身・ 色・声・香・味・触・ 無表色2、心・・・心の本体 1種類3、心所・・・心の作用 46種類 大地 常駐する心の動き 大善地 善の動き 大不善地 悪の動き 不定 どちらでもない心の動き 大煩悩地 根本的な煩悩 小煩悩地 付随する煩悩4、心不相応行・・・ 14種類色(物質)にも、心(精神)にも分類されないもの5、無為・・・ 3種類常住不変な存在 虚空、択滅、非択滅2025/10/29 06:12:156.◆JBLfMwCXhY8pOGo良い解説サイトを見つけた説一切有部の心所説 ―仏教における心の分析http://www.horakuji.com/treasures/sarvasthivadin_cetasika.htm2025/10/29 06:21:447.◆JBLfMwCXhY8pOGoまた良いサイト次々にヒットする(笑)「倶舎論」(説一切有部系):総論https://ameblo.jp/morfo/entry-10942032500.html2025/10/29 06:22:008.◆JBLfMwCXhY8pOGo有名な、唯識論の五道(位)資糧道(資糧位)加行道(加行位)見道(通達位)修道(修習位)無学道(通達位)2025/10/29 06:27:149.◆JBLfMwCXhY8pOGo唯識を体得して幻から解き放たれていくステップは下記の通りです。第1ステージ(資糧位)まずはすべては思考の産物にすぎない(唯識)ことをを理解しましょう。とはいえ理解することと完全に体得することは別物です。この段階では世界があって自分がいる(二取)という思考を潜在的に持っている(随眠)ままです。修行の第2ステージ(加行位)すべては思考の産物にすぎないということの理解が進みこれを体得しようという気力に満ちて修行にはげみます。しかしながら思考のなかにはあいかわらず自我意識によって生み出された幻への執着が依然として残っている(有所得)状態です。修行の第3ステージ(通達位)修行を重ねていくと思考の対象(所縁)となるものを理解(智)しようという執着が完全になくなる(無所得)瞬間が訪れます。このときにはじめて思考する対象も思考する自分もなくなりすべて思考の産物にすぎないということわりを体感するのです。修行の第4ステージ(修習位)先のステージで正しいことわりを体感することができた瞬間は執着を完全にはなれた(無得)不可思議(不思議)な境地に他なりません。この瞬間に世俗的な知見とはまるで違う知の地平(出世間智)が開かれてきます。しかしながらはるか昔からあやまった考えとくもった心を持って生きてきたことの影響が私たちの奥底に習慣化されて根強く残っています。これらの二種の障害(麁重)をたむまぬ努力の果てに絶やしてしまうとき私たちの存在のありかたは根本的に変わります(転依)。修行の第5ステージ(究竟位)私たちのありかたが根本的にかつ永続的に変わったときそこにあるのは迷いなき世界(無漏界)であり言語を超えた不可思議な世界(不思議)であり極めて安穏な(善)であり生滅のことわりを離れて(常)おり悩むことなく寂静(安楽)なる世界です。二種の障害のうちくもった心をすべて断ち切って解脱して自由になった境地(解脱身)を享受するだけでも平穏な境地に至れるかもしれません。しかし大乗仏教はあらゆる人々と平穏に生きるためのものですから正しいことわりを知り尽くして迷える人々を教え導こうと志してください。それが聖者(大牟尼)のごとく世界に遍在する真理(法)として生きることです。だそうだ。https://ryuganji.jp/buddhism/1104/2025/10/29 06:28:0810.◆JBLfMwCXhY8pOGo唯識の理論はたいていそうだがこれも、元ネタは倶舎論だ2025/10/29 06:28:5911.◆JBLfMwCXhY8pOGo「倶舎論」では修行階梯は「三道」で構成されますが、実際には準備段階を入れると5段階で構成されます。「順解脱分」→「順決択分」→「見道」→「修道」→「無学道」の5つです。この5段階は大乗仏教にも受け継がれ、「五道」と言われます。大乗では「順解脱分」は「資糧道」、「順決択分」は「加行道」と呼ばれます。2025/10/29 06:29:1812.◆JBLfMwCXhY8pOGo五道の体系は、順序としては「戒」→「定(止)」→「慧(観)」の「三学」を継承しています。しかし、最初の「順解脱分」の段階で、すでに「戒」、「定」を終えて「観」の段階に入ります。上座部の「清浄道論」で言えば、「戒清浄」、「心清浄」、「見清浄」、「度疑清浄」までが相当するでしょう。「順決択分」は「清浄道論」で言えば「道非道智見清浄」、「行道智見清浄」に相当するでしょう。2025/10/29 06:29:3713.◆JBLfMwCXhY8pOGo「見道」からは聖者の段階で、「清浄道論」で言えば「智見清浄」の前半で、預流果までに当たります。「修道」の段階は「智見清浄」の後半で、阿羅漢向までに当たります。「無学道」は阿羅漢果です。「三転十二行相」で言えば、「見道」が「示転」、「修道」が「勧転」、「無学道」が「証転」に当たります。https://ameblo.jp/morfo/entry-10942032500.html2025/10/29 06:30:0714.神も仏も名無しさん2Swqt>>6説一切有部では、世間で認められる常識的な存在を無碍に否定などしておらず、これを世俗諦(世間的レベルでの真実)とし、対して究極的に認められる存在を勝義諦[しょうぎたい](真に存在するモノ)としていますこう言うのがあった。勝義諦という言葉はりゅじゅが考えたものだと思っていたが、説一切有部が先だったんですね。知らなかった。2025/10/29 06:31:1915.◆JBLfMwCXhY8pOGo>>14そうなんですわ中論や唯識論で有名になった理論もたいてい、元ネタは倶舎論にある2025/10/29 06:34:2616.◆JBLfMwCXhY8pOGo何事も、ベースは倶舎論2025/10/29 06:34:4517.◆JBLfMwCXhY8pOGo北方インドで中心的な勢力を持ち、北伝の大乗仏教の修行や思想に大きな影響を与えたのが「説一切有部」、あるいはその一派である「経量部」です。「阿毘達磨倶舎論(以下、倶舎論)」は、4~5世紀に、世親(ヴァズヴァンドゥ)が書いたもので、北伝のアビダルマ論書として最も有名な書の一つです。例えば、チベット最大のゲルグ派では、僧の多くは「倶舎論」を4年かけて勉強するそうです。説一切有部の「発智論」「大毘婆沙論」をベースにしながら、それを経量部の立場から批判しながら書きました。ちなみに世親はその後、大乗仏教の唯識派に転向し、唯識派でも重要な論書を残しています。2025/10/29 06:35:2318.神も仏も名無しさん2Swqt二諦について原始仏教〜部派仏教初期仏教では「二諦」という用語は明確には使われていませんが、世俗的な真理と究極的な真理の区別はすでに存在していました。部派仏教(特に説一切有部など)では、「世俗有」と「勝義有」という区別があり、これは二諦の思想的前提となります。『大毘婆沙論』などでは、「世間的に通用するもの=世俗諦」「聖者の智慧によって見通されるもの=勝義諦」として整理されています。🔹竜樹(ナーガールジュナ)中観派の祖であり、『中論』などで二諦を明確な哲学的枠組みとして提示。「世俗諦(saṁvṛti-satya)」と「勝義諦(paramārtha-satya)」を区別し、すべての存在は空であるという思想を展開。竜樹の二諦説は、言語・概念の限界を超えて真理に至る道筋として非常に影響力を持ちました。2025/10/29 06:39:2819.◆JBLfMwCXhYdVOO4多くの場合中論は、倶舎論の概念を受け継いでいるがたいてい、意味が変わっている2025/10/29 18:52:1920.◆JBLfMwCXhY4bxZd五位七十五法https://assets.st-note.com/img/1722064283952-0OGTkhOZvq.jpg?width=12002025/10/30 05:58:0721.◆JBLfMwCXhYPsbnaまた良いサイトを見つけた仏教メモ24 五位百法https://note.com/ysuie_o/n/n9225d90a86092025/10/30 07:23:5822.◆JBLfMwCXhY1aMs5長尺だけど、圧巻の講義特別講義「アビダルマにおける煩悩論」(講師:佐々木閑[花園大学特別教授])https://www.youtube.com/live/A6D4zT-GDeA?si=L-PKLPc-1sHBLK6i2025/11/08 19:56:5223.◆JBLfMwCXhYdcYdWアゲ⤴️2025/11/12 09:33:1524.◆JBLfMwCXhYl3foN倶舎論の修行階梯論「資糧道」「加行道」「見道」「修道」「無学道」は、仏教における修行の段階を表す言葉です。資糧道(しりょうどう): 仏道修行の準備段階で、修行に必要な資糧(ちからや徳)を蓄える時期を指します。加行道(かぎょうどう): 実際に修行を始める前の、具体的な実践に入るための準備期間です。見道(けんどう): 四諦(したい)の真理をはっきりと見ることができるようになる、修行の段階です。修道(しゅうどう): 見道で得た悟りを深め、さらに精進して修行を積む段階です。無学道(むがくどう): 仏の悟りを完全に開いた、さらなる修行が必要のない最終段階です。これらの用語は仏教の修行の段階を示すもので、資糧道から無学道へと進むことで、悟りに至る道筋が示されています。2025/11/16 06:58:3425.◆JBLfMwCXhYl3foNこれが、唯識論ではこうなる↓これらの言葉は仏教の修行の段階を示すもので、「資糧位」は修行に必要な準備段階、「加行位」は修行を始める段階、「通達位」は修行が進み、悟りの道が通じ始めた段階、「修習位」はさらに修行を深める段階、「究竟位」は最終的に悟りをひらいた究極の段階を指します。資糧位(しりょうい): 「仏道に進むための準備段階」を意味します。加行位(かぎょうい): 仏道修行を本格的に開始する段階です。通達位(つうだつい): 修行の途中で、悟りの道が開け始める段階です。修習位(しゅうしゅうい): 悟りの境地に至るために、より深く修行を重ねる段階です。究竟位(くきょうい): 修行の最終段階で、悟りを完全に実現した究極の悟りの境地を指します。2025/11/16 06:59:1726.◆JBLfMwCXhYl3foNhttps://www.mmba.jp/archives/22244文殊師利大乗仏教会 (チベット仏教 ゲルク派)『倶舎論』帰敬偈ききょうげの話GOMANG ACADEMY REPORT現銀谷史明2025/11/16 08:28:1127.◆JBLfMwCXhYl3foN一般にインド・チベットの論書には帰敬偈(ききょうげ)という仏世尊や菩薩、ならびにラマに対する敬礼を表す詩句が冒頭に置かれる。『倶舎論』もその例に漏れず、次のような帰敬偈が記されている。すべてにわたり暗闇を完全に打ち破り、輪廻の泥から有情を救出なさる方〔は〕真実のとおりにお説きになるが、その方に敬礼〔して〕これが倶舎論頌の第1偈であり、四連の詩句からなるうちの三連が帰敬偈に当てられる。最後の一連は阿毘達磨倶舎論(あびだつまくしゃろん)を解説しようと記され、古来より「発起序(ほっきじょ)」と名付けられる〈著述の宣言〉を表明する詩句となっている。2025/11/16 08:28:3028.◆JBLfMwCXhYl3foNこの帰敬は、まず自分の師つまり仏陀の偉大さ読者に知らせるために、師がどのような点で偉大なのかという特質を述べ、そしてその後でその偉大なる方に敬礼する、という順序で記されているが、この師の偉大さを知らせる意味とは、師たる仏陀の偉大さを知ることにより、そのような偉大な方の教えであれば、敬意をもって教えを聴こうとし、その教えを聴き、考え、実際に教えを自分で体験する(これらを聞慧もんえ・思慧しえ・修慧しゅえの三慧さんえという)ことをとおして解脱を得ることが可能になることである。そしてまた、そのような偉大な方に『倶舎論』の著者である世親が帰敬を述べていることから、師の考えを註釈している『倶舎論』に対しても、尊い内容が述べられているということも知られる。2025/11/16 08:28:4729.◆JBLfMwCXhYl3foNこの帰敬は『倶舎論』の著者世親(ヴァスヴァンドゥ)が仏世尊に捧げたものであるが、この三連の句はそれぞれ、第一句は自利の円満、第二句は利他の円満、第三句は御業みわざの円満について称讃している。クンケン・ジャムヤンシェーパによるとこれら三種の称讃は次のように解説されている。知られるべき対象すべてについて、染汚ぜんまと不染汚ふぜんまの障害の暗闇を〔暗闇の〕種子もろとも完全に、つまり全く、あるいは全てにわたって打ち破ったという自利の円満と、そのように二種の暗闇を断じたことにより知られるべき対象一切を悟り、抜け出しがたい輪廻の泥の中に沈み、あるいは陥っている有情を分ぶんに応じて善趣ぜんしゅ(人間界、阿修羅界、天界)と至善(解脱)へ順に法を説いて救済する利他の円満と、そのように救出する方便についても、自分が悟らなくてもヴィシュヌのように様々な身を化現けげんする力や自在天のように「あなたはそのようになれ」というような天恵てんけいの力によってではなく、実相じっそうを誤りなく真実の通りに説き示す御業の円満の方便に基づいてである。2025/11/16 08:29:0730.◆JBLfMwCXhYl3foN染汚と不染汚の障害が「暗闇」に喩えられるのは、世間で言う暗闇がものの姿形を見るのを覆っているように、この二つの障害(無知)もまた実相が見えることを覆っているから、そのように言うのである。そして仏世尊はこれら二つの障害を種子つまり潜在的な状態のものも含めてすべて断じているのである。それゆえ知られるべき対象一切を悟ることになる。このような仏世尊は我々有情を分に応じて救済されると言う。そうであれば、何故未だ我々は救われていないのか、という疑問がどうしても浮かんでしまう。2025/11/16 08:29:2631.◆JBLfMwCXhYl3foNこのような疑問は昔の注釈者たちにとっても解決しなければならない問題としてあったようで、『倶舎論』の註釈者の満増まんぞう(プールナヴァルダナ)は次のように説明する。「〔仏世尊が〕諸々の有情を分に応じて救出するならば、我々が未だに輪廻に住しているのは何故か」と問うならば、〔答えよう。〕分を有する者たちを救出するということなのであって、分を有さない者たちを救出するのではないからである。何故ならば、経の中で「太陽が昇った時、機の熟した蓮華の蕾が開くように、そのように如来が出生しても意思の熟している者のみを浄めるのである」と説かれているからである。そして救済の仕方もある種の神通力並びに超自然的な力を及ぼすような仕方で行われるのではなく、真実をありのままに説くことによって有情を救済するのである。2025/11/16 08:29:5532.◆JBLfMwCXhYl3foNそれ故、師たる仏陀の教えを註釈しているこの『倶舎論』に出会うこと、それを学習する機会を持てること、そして何よりも正しく理解することが仏陀の救済の分に預かることになるのである。そのような意義を担って最後の発起序が述べられるが、その実際の目的とは三種の円満を具えている師たる仏世尊に敬礼した後で「著述しよう」と宣言することにより、当面の目的としては『倶舎論』を完成させるため、そして究極的な目的は涅槃を得ようとするためであると説明されている。2025/11/16 08:30:1433.◆JBLfMwCXhYl3foN『倶舎論』 冒頭の帰敬偈と発起序すべてにわたり暗闇を完全に打ち破り、輪廻の泥から有情を救出なさる方は真実のとおりにお説きになるが、その方に敬礼して阿毘達磨倶舎論を解説しよう(上の3行が帰敬偈、下の1行が発起序)2025/11/16 08:34:2534.◆JBLfMwCXhYpjH1z⤴️2025/11/17 21:37:1635.◆JBLfMwCXhYpjH1z前スレ完走⤴️2025/11/17 21:56:1136.◆JBLfMwCXhYhNzMc『倶舎論』における「欲望」は、主に五欲(色、声、香、味、触の五つの感覚対象への欲望)や、五種の受(五つの感覚器官が外界の対象から受ける「苦」の感覚など)として、苦悩の根源である煩悩の一つとされます。2025/11/18 07:33:2737.◆JBLfMwCXhYhNzMc倶舎論における欲望の扱い欲望の対象: 仏教における欲望の対象は、五根(五感)が五境(色、声、香、味、触)に触れることで生じます。欲望の種類: 具体的には、「色欲」や「財欲」、「飲食欲」など、さまざまな種類の欲望として考えられます。苦悩の根源: これらの欲望は、人間の心の苦しみや迷いの根源となる煩悩のまとまりと見なされます。「小欲知足」との関連: 欲望を制限し、満足すること(小欲知足)は、欲望に囚われる苦しみから解放されるための重要な考え方です。2025/11/18 07:33:4138.◆JBLfMwCXhYhNzMc補足七情(喜・怒・哀・楽・愛・悪・欲)の一つとして挙げられることもあります。「百八の煩悩」など、仏教には欲望と関連する多くの概念が存在します。2025/11/18 07:33:5939.◆JBLfMwCXhYhNzMc煩悩 ぼんのう仏教で説く、衆生しゅじょうの身心を煩わし悩ます精神作用の総称。クレーシャkleśaというサンスクリット語が中国で「煩悩」「惑」と翻訳されたのであるが、この語は「汚す」という意味合いももっており、そのために「染 ぜん」「染汚 ぜんま」などとも訳された。またこのことばは元来、不善・不浄ふじょうの精神状態を表す数多くの仏教術語のうちの一つであったが、やがてそれらの心理作用や精神状態を総称し、代表することばとして使われるようになった。2025/11/18 07:39:1040.◆JBLfMwCXhYhNzMcこのような広い意味での煩悩には、もっとも基本的なものとして、「三毒」「三垢さんく」「三不善根」などといわれる貪とん(執着)・瞋じん(憎悪)・痴ち(無知)がある。これに慢まん(慢心)・疑ぎ〔仏教の教えに対する疑い〕・見けん〔誤った見解〕を加えて六煩悩といい、根本的な煩悩とされる。2025/11/18 07:39:2641.◆JBLfMwCXhYhNzMcこのほか、潜在的な煩悩である随眠ずいめん、現に作用している煩悩である纏てん、あるいは結けつ・縛ばく・漏ろなど、人間の不善の心理状態を詳細に分析して、きわめて多種多様の煩悩が説かれ、「百八の煩悩」「八万四千の煩悩」などといわれた。これらの煩悩を滅ぼし尽くすことによって解脱することができるのであり、したがって煩悩はあくまで断じられるべき対象として説かれたのである。しかし後世の大乗仏教のなかには、煩悩と悟りの本質はなんら異なるものではないという、「煩悩即菩提」を主張するものも現れるに至った。このように煩悩の問題は、悟りの境地と深くかかわるため、重要なテーマとして仏教においてさまざまな形で論じられている。(出典:小学館『スーパーニッポニカ 国語辞典』)2025/11/18 07:39:5842.◆JBLfMwCXhYhNzMc「煩悩」とは、「煩わずら」わせ「悩」ませるもの、と書きますように、私たちを苦しめ、悩ませる心です。「八宗の祖師」龍樹菩薩(ナーガールジュナ)は『大智度論だいちどろん』に、このように教えられています。「煩悩とは能く心をして煩わしめ能く悩みをなす、故に名づけて煩悩となす」(引用:龍樹菩薩『大智度論』)このように煩悩は、自分の心でありながら、自らを煩わせ悩ませ、苦しめる心なのです。この世は死ぬまで苦しめた上に、死んだ後も、別の生命に生まれ変わって苦しめ続ける輪廻転生の原因でもあります。2025/11/18 07:41:5443.◆JBLfMwCXhYhNzMc煩悩に幾つあるのかというと、1つや2つではありません。1人に108あります。その108もの煩悩が、私たちを苦しめているのです。大晦日に除夜の鐘を108つくのは、「今年も一年間、煩悩に苦しめられてきたので、煩悩をなくして、来年は幸せな一年になるように」という願いをこめて、お寺で108回鐘をついています。しかし、そんなことくらいで煩悩はなくなりませんので、毎年煩悩に苦しめられ、また来年も、大晦日に108回、除夜の鐘をつくことになります。また、念珠も正式なものは108の珠がついています。短い念珠の珠は、108を3で割った36などになります。これも珠は煩悩を表していて、数珠を糸が貫いているのは煩悩即菩提ぼんのうそくぼだいを表しているといわれます。2025/11/18 07:43:4244.神も仏も名無しさんw63T4>このような広い意味での煩悩には、もっとも基本的なものとして、「三毒」「三垢さんく」「三不善根」などといわれる貪とん(執着)・瞋じん(憎悪)・痴ち(無知)がある。これに慢まん(慢心)・疑ぎ〔仏教の教えに対する疑い〕・見けん〔誤った見解〕を加えて六煩悩といい、根本的な煩悩とされる。トーク板のリトマス紙だな😆2025/11/18 07:44:0545.◆JBLfMwCXhYhNzMc倶舎論によると、108の煩悩がある2025/11/18 07:44:4346.◆JBLfMwCXhYhNzMc>>44セイウン様の煩悩ハッスル🌋2025/11/18 07:45:0347.◆JBLfMwCXhYl3bqr六大煩悩『倶舎論』によれば、煩悩には、まず、六大煩悩といわれる6種類の煩悩があります。貪欲 とんよく、瞋恚 しんい、愚痴 ぐち、疑 ぎ、慢 まん、悪見 あっけんの6つです。2025/11/19 08:21:0148.◆JBLfMwCXhYl3bqrそれぞれ一言説明しておくと、貪欲は、欲の心です。瞋恚は、怒りの心です。愚痴は、因果の道理が分からない心で、そこから起きる恨みやねたみの心です。疑は、四聖諦の真理を疑う心です。慢は、自惚れ心です。悪見は、悪くしか見られない心です。2025/11/19 08:21:4349.◆JBLfMwCXhYl3bqr六大煩悩貪 とん瞋 じん癡 ち疑 ぎ慢 まん悪見 あっけん2025/11/19 08:23:0050.◆JBLfMwCXhYl3bqr悪見を5つに分類さらに、六大煩悩の中の悪見を5つに分けます。身見しんけん、辺見へんけん、邪見じゃけん、見取見けんじゅけん、戒禁取見かいごんじゅけんの5つです。2025/11/19 08:23:5851.◆JBLfMwCXhYl3bqrそれぞれどんな意味かというと、身見とは、本来は無我なのに、我があり、我の所有物があるという考えです。辺見とは、死んだ後は無になるか、または固定普遍の魂が永遠に続くという考えです。邪見とは、因果の道理を否定する考え方です。見取見とは、先の3つの悪見をすぐれた考えと思う考えです。戒禁取見とは、五戒などの戒律で解脱できると思ったり、仏教以外の宗教の苦行で天上界に生まれられると思う考えです。2025/11/19 08:24:3352.◆JBLfMwCXhYl3bqr六大煩悩の悪見を5つに分けたので、全部で10種の煩悩になります。これを十随眠ずいめんといいます。2025/11/19 08:24:5953.神も仏も名無しさんfopyaまいにち六大煩悩ハッスル🤡2025/11/19 08:45:3554.神も仏も名無しさんfopyaハッスル🤡十随眠坐禅🤡2025/11/19 08:58:5055.◆JBLfMwCXhYmJgrq 随眠(ずいめん)とは、仏教用語で「根本煩悩」の別名です。心の働きに従って潜んでおり、潜在的な煩悩を意味します。普段は微細で表面化していませんが、何かのきっかけで問題を引き起こす、習慣化・潜在化した煩悩のことです。2025/11/19 18:59:3556.◆JBLfMwCXhYmJgrq意味: 「眠っている煩悩」を意味します。語源: 「随眠(anu?aya)」はサンスクリット語で、心に「随」って「眠」る、潜在的な煩悩を指します。働き: 普段は心の中に潜んでいますが、機会があれば表面化します。関連用語: 煩悩(ぼんのう)の同義語として使われることがあります。また、仏教的な分類である「十纏(じゅってん)」の一つにも含まれます。2025/11/19 19:00:2057.◆JBLfMwCXhYmJgrqなるほど2025/11/19 19:01:2758.◆JBLfMwCXhYmJgrqふだんは眠っているから、随眠なのか2025/11/19 19:01:4159.◆JBLfMwCXhYDotqH煩悩を起こす2つの対象これらの十種の煩悩は、起きる対象が2つあります。それは、四聖諦(ししょうたい)という仏教で教えられる4つの真理と、五塵(ごじん)といわれる色、音、香、味、触れる物の5つの対象の2つです。2025/11/20 08:03:3660.◆JBLfMwCXhYDotqHまず、これらの十種の煩悩は、すべて四聖諦に迷って起きる煩悩です。これを見惑けんわくといいます。中にはそれに加えて五塵に迷って起きる煩悩もあります。これを修惑しゅうわくといいます。修惑は感情のようなもので、四聖諦に迷って起こす煩悩よりも、断ち切るのは困難です。そのため断ち切るには長期間の修行が必要となります。それは十随眠の10種のうち、貪欲、瞋恚、愚痴、慢の4つです。つまり、貪欲、瞋恚、愚痴、慢の4種類は、四聖諦に迷って起こす煩悩もあり、五塵に迷って起こす煩悩もあります。疑と、5つの悪見の6種類の煩悩は、四聖諦に迷って起こす煩悩だけです。2025/11/20 08:04:0861.◆JBLfMwCXhYDotqH四聖諦に迷う88種類の煩悩次に、私たちの生きる世界は、3つに分けると三界さんがいといって、欲界よくかいと色界しきかいと無色界むしきかいの3つです。四聖諦については、以下の記事で詳しく書いてありますので、見ておいて頂きたいのですが、苦諦くたい、集諦じゅうたい、滅諦めったい、道諦どうたいの4つです。➾四聖諦ししょうたい・仏教に説かれる4つの真理欲界では、苦諦について10種の煩悩は全部迷います。集諦については、身見、辺見、戒禁取見以外の7種、滅諦については、身見、辺見、戒禁取見以外の7種、道諦については、身見、辺見以外の8種が迷います。従って、欲界では32種類の煩悩を断ち切る必要があります。2025/11/20 08:04:4162.◆JBLfMwCXhYDotqHちなみに身見が苦諦にしか起きないのは、身見というのは、自分に固定不変の我があると思う考え方です。自分というのは迷いの結果であって、迷いの原因でも悟りの因果でもないので、迷いの結果である苦諦にしか起きないのです。そして辺見は、我の持ち物があるという考えですが、我が苦諦にしかない以上、辺見も苦諦にしかありません。2025/11/20 08:05:0063.◆JBLfMwCXhYDotqH次に色界は、非常に心地よい世界なので、瞋恚が起きる縁がありません。そのため苦諦については9種の煩悩が迷い、集諦、滅諦については6種、道諦については7種の煩悩が迷います。そのため、色界では、28種の煩悩を断ち切る必要があります。無色界でも、色界と同様に、28種の煩悩を断ちきる必要があります。このように、四聖諦に迷う見惑の煩悩は、三界にわたって全部で32+28+28=88となります。これを「八十八使」といいます。「使」とは、煩悩のことです。2025/11/20 08:05:2764.◆JBLfMwCXhYDotqH倶舎論でも、一番ややこしいとこだ2025/11/20 08:05:5465.◆JBLfMwCXhYDotqH見惑、修惑か2025/11/20 08:06:1666.◆JBLfMwCXhYDotqH感情的な10種類の煩悩次に、色、音、香、味、触れる物の五塵に迷う、修惑といわれる感情的な煩悩については、欲界では、貪欲、瞋恚、愚痴、慢の4種類、色界では、貪欲、愚痴、慢の3種類、無色界でも貪欲、愚痴、慢の3種類で、合計10種類あります。これらは、知識が欠けているというのではないので断ち切るには大変な修行が必要です。ちなみに修行によってこれらの煩悩を抑え、断ち切ることによって悟りが開けます。この四聖諦に迷う88種類と、五塵に迷う10種類を足すと98種類になります。これを九十八随眠といいます。2025/11/20 08:08:5767.◆JBLfMwCXhYDotqHなるほど2025/11/20 08:09:0768.◆JBLfMwCXhYDotqH見惑は、仏教がわからないから生じる煩悩2025/11/20 08:09:5969.◆JBLfMwCXhYDotqH仏教が分かれば克服できる2025/11/20 08:10:1470.◆JBLfMwCXhYDotqH煩悩というより、見解が誤ってるだけ2025/11/20 08:10:3371.◆JBLfMwCXhYDotqHそれに対して、修惑は克服するのに修行を必要とする2025/11/20 08:10:5872.◆JBLfMwCXhYDotqH貪 瞋 癡 慢この4つは、修惑だ克服するのに修行を必要とする2025/11/20 08:12:2573.◆JBLfMwCXhYDotqH疑と悪見は、見惑だ倶舎論を学んで、正見を身につけるだけで良い2025/11/20 08:13:1574.神も仏も名無しさんrwEXk>>73そこがハッスル、デンパパ、NO1、No.2、ホーカイくんのスタート地点の問題だそこが外れるともはや😆2025/11/20 08:54:5875.神も仏も名無しさんrwEXkヤツラとマジメに議論しないのは基本その辺だ😆2025/11/20 08:58:4276.リダン◆gEV3xsS//kOGrsT>>74お前が言うかw2025/11/20 11:50:5777.◆JBLfMwCXhYS4yKA説一切有部の心所説一覧表『倶舎論』の心所説ここでは特に、先に挙げた一切法のうち、有為法に属してその数四十六法が数えられる、心相応行すなわち心所に焦点を当て、これを表にして列挙したものを以下に示します。2025/11/22 08:37:3578.◆JBLfMwCXhYS4yKA『阿毘達磨倶舎論』(説一切有部)の心所説【46】2025/11/22 08:38:1979.◆JBLfMwCXhYS4yKA五位七十五法そのうちの四十六が心所法2025/11/22 08:38:4880.◆JBLfMwCXhYS4yKA大地法【10】すべての心の生じるあらゆる場所・瞬間に、遍く従って倶に起こる心の作用。大地の大は遍きこと、地は拠り所たる心王を意味し、すべての心王に伴って起こるから大地法という。2025/11/22 08:39:2581.◆JBLfMwCXhYS4yKA受[じゅ](vedana)感受・感覚。身体的苦・楽・不苦不楽、精神的喜・憂・捨いずれかを感じる働き。2025/11/22 08:40:1082.◆JBLfMwCXhYS4yKA想[そう]表象・知覚。感覚した対象の、例えば男女など、その差異を知る働き(取相)。2025/11/22 08:40:4583.◆JBLfMwCXhYS4yKA思[し]意思。考える働き。行蘊のうち最も勢力ある、心の主たる働き(造作)。2025/11/22 08:41:3584.◆JBLfMwCXhYS4yKA触[そく]刺激。感覚器官(根)と対象(境)と認識(識)とが相応して生じる働き(触対)。2025/11/22 08:42:0685.◆JBLfMwCXhYS4yKA欲[よく]意欲・欲求。身口意いずれかで、何らか行為せんとする動機となる働き(希求)。2025/11/22 08:43:0286.◆JBLfMwCXhYS4yKA慧[え]判断。物事の是非などを選択する働き(簡択)。2025/11/22 08:44:0487.◆JBLfMwCXhYS4yKA念[ねん]記憶。認識している対象を明らかにして忘れず留める働き(不忘)。2025/11/22 08:44:4388.◆JBLfMwCXhYS4yKA作意[さい]喚起。気づき。心を覚醒、或は揺動させ、感覚する対象に引きつける働き(驚覚)。2025/11/22 08:46:1089.◆JBLfMwCXhYS4yKA勝解[しょうげ]確認。知覚する対象を、それが何であって、何でないことはない、と確定する働き(印可)。2025/11/22 08:46:4190.◆JBLfMwCXhYS4yKA三摩地[さんまぢ]集中。定めた認識対象から意識をそらさない働き(心一境性)。2025/11/22 08:47:1391.◆JBLfMwCXhYS4yKA七十五法といったら、やたら多いが2025/11/22 08:49:0592.◆JBLfMwCXhYS4yKA半分以上が、心所法で占められている2025/11/22 08:49:2193.◆JBLfMwCXhYS4yKA大地法は、その中でもとくに基本となる2025/11/22 08:49:3694.◆JBLfMwCXhYS4yKAパソコンでいえば、OSのようなものだ2025/11/22 08:50:0095.◆JBLfMwCXhYS4yKAパソコンに電源を入れると、まずウィンドウズが起動する2025/11/22 08:50:2696.◆JBLfMwCXhYS4yKAそれと同じように、大地法が起動する2025/11/22 08:50:4197.◆JBLfMwCXhYS4yKA・・・という説明になるはずなんだが「勝解」だの「三摩地」だのがそれに当てはまるとは思えん(笑)2025/11/22 08:51:3798.◆JBLfMwCXhYS4yKA三摩地は、その名の通り、サマディ「定」(じょう)とされるときもある定と三摩地では、かなり印象が異なる(笑)2025/11/22 08:52:2999.◆JBLfMwCXhYS4yKAこの場合は、単なる精神集中を意味する2025/11/22 08:53:26100.◆JBLfMwCXhYS4yKA「勝解」も、ここでは「究極の真理」というような意味ではなく単なる確認作業2025/11/22 08:54:16101.神も仏も名無しさんRGKuV無為法に入らないと倶舎論は究極にならんだろうからな😆2025/11/22 08:59:34102.◆JBLfMwCXhYsRvCG有為法は、煩悩の世界だ2025/11/22 09:03:22103.神も仏も名無しさんRGKuV禅はトップゴール地点がメインなのでハッスルやNO1みたいな勘違いが倶舎論、唯識混ぜ合わせてイミフなレスをリバースするからなー😆2025/11/22 09:06:40104.◆JBLfMwCXhYsRvCGかれらは、心所法に関心がない2025/11/22 09:09:35105.◆JBLfMwCXhYsRvCG倶舎論の五位七十五法唯識論の五位百法どちらも、心所法が半分以上を占めている2025/11/22 09:10:18106.◆JBLfMwCXhYsRvCG聖ウンコ派は、それをスルーして転識得智の話ばかりだ2025/11/22 09:10:47107.◆JBLfMwCXhYsRvCG煩悩の分析に、まったく興味が無い2025/11/22 09:11:11108.◆JBLfMwCXhYsRvCG悟った後の話ばかりしたがるのが禅宗の人にアリガチな傾向だ2025/11/22 09:12:10109.◆JBLfMwCXhYsRvCGベンチャー企業の人が起業が成功して株式を上場した後の話ばかりするようなもんだな(笑)2025/11/22 09:13:49110.◆JBLfMwCXhYsRvCG夢を語るのもいいが、まずは現状認識から入らないと2025/11/22 09:14:30111.神も仏も名無しさんRGKuV>>108それ故に天台、華厳、真言あたりのワンクッションあったほうが禅の知的な理解はしやすくなる😆2025/11/22 09:14:39112.神も仏も名無しさんF1Uvpハッスル氏は、悟り自体を否定しているレスが多い2025/11/22 09:14:50113.神も仏も名無しさんRGKuVハッスルやNO1、デンパパ、ホーカイくんは有為法の煩悩認知問題が欠落しているからなー😆2025/11/22 09:15:45114.神も仏も名無しさんRGKuV倶舎論はNO1、デンパパ、ホーカイくん測定には便利なシステムである😆2025/11/22 09:16:29115.神も仏も名無しさんRGKuVどんな煩悩がありどんな煩悩を消す(佐々木先生流)それが倶舎論の優れた測定システムだ😆2025/11/22 09:17:33116.神も仏も名無しさんRGKuV今、さっき、倶舎論のシステムを思い出していた、😆2025/11/22 09:18:15117.神も仏も名無しさんRGKuV浄土教の理想郷は倶舎論のシステムの認知はかなり使える感じはある浄土宗系統の浄土教は信仰のみ系統だが授戒とかで山伏ぽく修行する浄土教は倶舎論的認識論は相性良さげである😆2025/11/22 09:20:09118.◆JBLfMwCXhYsRvCG>>115「煩悩を全部いっぺんに克服するのは不可能」「ひとつひとつの煩悩を消していくしかない」というのが、倶舎論の基本思想2025/11/22 09:21:53119.神も仏も名無しさんRGKuV浄土へ行った後に「消える」+衆生済度の生きている間の練習に倶舎論が使える感がある気がする😆2025/11/22 09:22:17120.◆JBLfMwCXhYsRvCG倶舎論の発想だと、たくさんの豆電球のように煩悩が並列されているひとつ、またひとつと、豆電球を消していく2025/11/22 09:22:51121.◆JBLfMwCXhYsRvCG煩悩をあんなに細かく分類したのは、そのため2025/11/22 09:23:10122.◆JBLfMwCXhYsRvCGセイウンコ~ンは、貪瞋癡ライフを死ぬまで続けるつもりなのだろう~😭2025/11/22 09:24:02123.神も仏も名無しさんRGKuV>>118ムイムイやハッスルを見ると煩悩を一気に消すのは無理としか言えないロン閣下は生カジリなので説得力がない😆2025/11/22 09:25:18124.◆JBLfMwCXhYsRvCGロン閣下によると、煩悩即菩提そのままでいいらしい2025/11/22 09:30:30125.◆JBLfMwCXhYsRvCG煩悩即菩提ってのは、そういう意味じゃないと思うんだが(笑)2025/11/22 09:44:40126.神も仏も名無しさんUxgMeロンなりには説明してるつもりたが生カジリなんだよな😆俺の今の感じがホンモノの😆曹洞宗寺院で勤行してきたで😆2025/11/22 10:33:56127.神も仏も名無しさんUxgMe勤行行く前に用事のある場所で獅子舞やってたがその神社の霊気を浴びる出口王仁三郎レベルのシャーマンだな俺は😆2025/11/22 10:36:57128.神も仏も名無しさんUxgMe無人のプロテスタントの教会へお参りしてきた詩篇読んで聖霊の霊気を吸ってきた😆2025/11/22 10:51:43129.神も仏も名無しさんtFlVr煩悩も菩提も、自我が認識しているものに過ぎないということですよ。。だから、煩悩も菩提も同じもの。。w安楽も苦難も同じもの。。w2025/11/22 10:56:18130.◆JBLfMwCXhYMjpkx>>129やはり、そうなのか(笑)2025/11/22 14:31:34131.◆JBLfMwCXhYbVVXm煩悩即菩提ってのは「煩悩がキッカケとなって、悟りへの道が開ける」って意味じゃないのけ?2025/11/22 17:53:56132.◆JBLfMwCXhYbVVXm「煩悩と菩提は同じものである」「だから、煩悩にマミレた人も、そのままでいい」なんていう話ではないと思うんだが2025/11/22 17:54:56133.神も仏も名無しさんLY5Ok>>131修行が仕上がった人の世界観だな唯識の平等性智の拡大解釈薬師寺の唯識原理主義の橋本ギョウインは平安仏教以降は堕落したと豪語してたな?ロンが言うと説得力が薄い😆2025/11/22 18:23:12134.神も仏も名無しさんLY5Okなにせ、テーラワーダ、倶舎論、唯識あたりの教学をリニューアルしたのが平安仏教以降だからな😆2025/11/22 18:24:05135.◆JBLfMwCXhYj6woq平成アーカイブス 【仏教Q&A】仏教 Q & A百八煩悩質問: 煩悩が108あるといわれますが、具体的に言葉にして表わすとどういうものなのか、掲載された図書がありますか。返答煩悩の分類 身心を悩まし、煩[わずら]わせ、惑わし、さとりの実現をさまたげるあらゆる精神作用を煩悩といいます。2025/11/25 06:30:37136.◆JBLfMwCXhYj6woq煩悩には根本煩悩と枝末煩悩があり、根本煩悩は、貪[トン](むさぼり)、瞋[ジン](いかり)、癡[チ](おろか)、慢[マン](おごり)、疑[ギ](うたがい・まよい)、見[ケン](あやまり/邪見・悪見)の六煩悩、枝末煩悩は根本煩悩に伴って起こる従属的な煩悩をいいます。2025/11/25 06:31:30137.◆JBLfMwCXhYj6woqまた、この六煩悩の中でも貪(貪欲[トンヨク])瞋(瞋恚[シンニ])癡(愚癡[グチ])は三毒煩悩[サンドクボンノウ]とも三垢[サンク]・三惑[サンワク]ともいわれ、特に仏道修行の中心課題としてきました。2025/11/25 06:32:20138.◆JBLfMwCXhYj6woq仏教の真理に迷うものを見惑、現象的な事物にとらわれ迷うのを修惑、と分け、見惑は見道位という修行段階で滅ぼされる煩悩、修惑は修道位という修行段階で滅ぼされる煩悩、としました。2025/11/25 06:33:08139.◆JBLfMwCXhYj6woqまた「見道は石を割るが如く、修道は蓮糸を切るが如し」ともいわれ、見惑は岩を割るように滅ぼされる煩悩で、割るまでには大変な転換が必要ですが、一度割ってしまえばもう元には戻りません。真実を覚れば迷いは無くなりますので、見道位の修行はここで終わります。しかし修惑は蓮糸[レンシ]のように粘りつき、簡単に切れるようでいて切れない。切っても切っても切りきれない粘り強い煩悩です。割ってしまったはずの煩悩も習気[ジッケ]・習慣性としてとして癖が残っていますので、うっかりすると修惑が頭をもたげてくる。これを修道位で丁寧に滅ぼしてゆくのです。総じて言えば、見惑は頭や心で断ち切る問題、修惑は身や習慣で断ち切る課題でしょう。2025/11/25 06:33:21140.◆JBLfMwCXhYH7zLl見惑を滅する → 見道修惑を滅する → 修道2025/11/25 08:34:37141.◆JBLfMwCXhYH7zLl倶舎論の見道・修道は、じつにスッキリしている2025/11/25 08:35:00142.◆JBLfMwCXhYH7zLl見道は、仏教思想を理解すること2025/11/25 08:35:20143.◆JBLfMwCXhYH7zLl修道は、そこから始まる修行だ2025/11/25 08:35:43144.◆JBLfMwCXhYH7zLl学ぶことなくなるのが、無学道2025/11/25 09:15:30145.神も仏も名無しさんOJqDo見道以前でやってるのがトーク板多数派😫2025/11/25 09:18:05
【国際】トランプ「同盟国の多くは友達じゃない」凍りつく…高市総理は台湾有事発言で米に見捨てられたか? 撤回できず、前にも進めず「八方塞がり」ニュース速報+2532429.92025/12/05 14:17:11
【高市自民】ネット大荒れ「はあ?」「子育てに罰金」「高市支持やめる!」 高校生の扶養控除縮小検討の報道に騒然「意味分からん」「ほーら増税始まった」「涙出る」「子育て支援は嘘」 公明離脱で再燃ニュース速報+3961320.82025/12/05 14:11:44
【舛添要一氏】「かつて、農民も職人も、皆死ぬまで働き、深夜のネトウヨ行為など無縁だった、今の高齢者は、定年退職後、社会参加もせずに、ネットに溺れている、ネットを捨てて働いたほうが健全だ」ニュース速報+213952.42025/12/05 14:17:38
【仏教の煩瑣哲学】阿毘達磨倶舎論【龍樹著】 ←まちがい
https://talk.jp/boards/psy/1694739296
【仏教の煩瑣哲学】阿毘達磨倶舎論【龍樹著】 Part2 ←おちょくり
https://talk.jp/boards/psy/1753659105
【唯識三年】仏教ウンチクを語るスレ 10【倶舎八年】
https://talk.jp/boards/psy/1759535455
中論
https://talk.jp/boards/psy/1738711204
1、初期仏教 : 紀元前6世紀頃
お釈迦様の教え
2、上座部 (テーラワーダ仏教) : 紀元前5世紀頃
いわゆる小乗仏教、南方で継承される
3、説一切有部 (倶舎論) : 紀元前1世紀頃
部派仏教の時代、最も有力な部派
4、経量部 (倶舎論) : 西暦300年頃~
説一切有部から分派、世親はここの出身
5、中観派 (中論) : 西暦200年頃~
空と縁起の思想、龍樹が始めた大乗仏教
6、瑜伽行派 (唯識論) : 西暦400年頃~
阿頼耶識が登場、大乗二大学派のひとつ
7、如来蔵思想 : 上記の流れとは独自に展開、
「誰でも成仏できる」という思想
見るものと見られるものが対になり、世界ができている。
アナタが認識しているもの、それが世界のすべてである。
五蘊・十二処・十八界
1、五蘊(ごうん)
・色 物質的な存在(とくに、自分の身体)
・受 感受する作用
・想 表象する作用
・行 意志する作用
・識 認識する作用
→人間は、五蘊を寄せ集めた仮の姿。
「我」として執着するような実体は無い
2、十二処(じゅうにしょ)
・六根:六つの認識器官
眼根・耳根・鼻根・舌根・身根・意根
・六境:六つの認識対象
色境・声境・香境・味境・触境・法境
六根と六境を合わせて十二処
3、十八界(じゅうはちかい)
・六識:六つの認識作用
眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識
十二処に六識を加えて十八界
最も有力な「説一切有部」は、存在を「五位七十五法」に分類した
初期仏教の「五蘊・十二処・十八界」よりだいぶ数が増えた
説一切有部の思想は、後に「倶舎論」としてまとめられた
↓
(1)五位七十五法
法(ダルマ)=存在するものに2種類
・有為(うい)…煩悩で汚れたもの
・無為(むい)…煩悩で汚れてないもの
1~4は有為法、5は無為法
1、色・・・物質的現象 11種類
眼・耳・鼻・舌・身・
色・声・香・味・触・
無表色
2、心・・・心の本体 1種類
3、心所・・・心の作用 46種類
大地 常駐する心の動き
大善地 善の動き
大不善地 悪の動き
不定 どちらでもない心の動き
大煩悩地 根本的な煩悩
小煩悩地 付随する煩悩
4、心不相応行・・・ 14種類
色(物質)にも、心(精神)にも分類されないもの
5、無為・・・ 3種類
常住不変な存在 虚空、択滅、非択滅
説一切有部の心所説 ―仏教における心の分析
http://www.horakuji.com/treasures/sarvasthivadin_cetasika.htm
次々にヒットする(笑)
「倶舎論」(説一切有部系):総論
https://ameblo.jp/morfo/entry-10942032500.html
資糧道(資糧位)
加行道(加行位)
見道(通達位)
修道(修習位)
無学道(通達位)
第1ステージ(資糧位)
まずはすべては思考の産物にすぎない(唯識)ことをを理解しましょう。
とはいえ理解することと完全に体得することは別物です。
この段階では世界があって自分がいる(二取)という思考を
潜在的に持っている(随眠)ままです。
修行の第2ステージ(加行位)
すべては思考の産物にすぎないということの理解が進み
これを体得しようという気力に満ちて修行にはげみます。
しかしながら思考のなかにはあいかわらず
自我意識によって生み出された幻への
執着が依然として残っている(有所得)状態です。
修行の第3ステージ(通達位)
修行を重ねていくと思考の対象(所縁)となるものを
理解(智)しようという執着が完全になくなる(無所得)瞬間が訪れます。
このときにはじめて思考する対象も思考する自分もなくなり
すべて思考の産物にすぎないということわりを体感するのです。
修行の第4ステージ(修習位)
先のステージで正しいことわりを体感することができた瞬間は
執着を完全にはなれた(無得)不可思議(不思議)な境地に他なりません。
この瞬間に世俗的な知見とはまるで違う知の地平(出世間智)が開かれてきます。
しかしながらはるか昔からあやまった考えとくもった心を持って生きてきたことの影響が私たちの奥底に習慣化されて根強く残っています。
これらの二種の障害(麁重)をたむまぬ努力の果てに絶やしてしまうとき
私たちの存在のありかたは根本的に変わります(転依)。
修行の第5ステージ(究竟位)
私たちのありかたが根本的にかつ永続的に変わったとき
そこにあるのは迷いなき世界(無漏界)であり
言語を超えた不可思議な世界(不思議)であり
極めて安穏な(善)であり
生滅のことわりを離れて(常)おり
悩むことなく寂静(安楽)なる世界です。
二種の障害のうちくもった心をすべて断ち切って
解脱して自由になった境地(解脱身)を享受するだけでも
平穏な境地に至れるかもしれません。
しかし大乗仏教はあらゆる人々と平穏に生きるためのものですから
正しいことわりを知り尽くして迷える人々を教え導こうと志してください。
それが聖者(大牟尼)のごとく世界に遍在する真理(法)として生きることです。
だそうだ。
https://ryuganji.jp/buddhism/1104/
これも、元ネタは倶舎論だ
「順解脱分」→「順決択分」→「見道」→「修道」→「無学道」の5つです。
この5段階は大乗仏教にも受け継がれ、「五道」と言われます。
大乗では「順解脱分」は「資糧道」、「順決択分」は「加行道」と呼ばれます。
しかし、最初の「順解脱分」の段階で、すでに「戒」、「定」を終えて「観」の段階に入ります。
上座部の「清浄道論」で言えば、「戒清浄」、「心清浄」、「見清浄」、「度疑清浄」までが相当するでしょう。
「順決択分」は「清浄道論」で言えば「道非道智見清浄」、「行道智見清浄」に相当するでしょう。
「修道」の段階は「智見清浄」の後半で、阿羅漢向までに当たります。
「無学道」は阿羅漢果です。
「三転十二行相」で言えば、「見道」が「示転」、「修道」が「勧転」、「無学道」が「証転」に当たります。
https://ameblo.jp/morfo/entry-10942032500.html
説一切有部では、世間で認められる常識的な存在を無碍に否定などしておらず、これを世俗諦(世間的レベルでの真実)とし、対して究極的に認められる存在を勝義諦[しょうぎたい](真に存在するモノ)としています
こう言うのがあった。
勝義諦という言葉はりゅじゅが考えたものだと思っていたが、説一切有部が先だったんですね。知らなかった。
そうなんですわ
中論や唯識論で有名になった理論も
たいてい、元ネタは倶舎論にある
「阿毘達磨倶舎論(以下、倶舎論)」は、4~5世紀に、世親(ヴァズヴァンドゥ)が書いたもので、北伝のアビダルマ論書として最も有名な書の一つです。
例えば、チベット最大のゲルグ派では、僧の多くは「倶舎論」を4年かけて勉強するそうです。
説一切有部の「発智論」「大毘婆沙論」をベースにしながら、それを経量部の立場から批判しながら書きました。
ちなみに世親はその後、大乗仏教の唯識派に転向し、唯識派でも重要な論書を残しています。
原始仏教〜部派仏教
初期仏教では「二諦」という用語は明確には使われていませんが、世俗的な真理と究極的な真理の区別はすでに存在していました。
部派仏教(特に説一切有部など)では、「世俗有」と「勝義有」という区別があり、これは二諦の思想的前提となります。
『大毘婆沙論』などでは、「世間的に通用するもの=世俗諦」「聖者の智慧によって見通されるもの=勝義諦」として整理されています。
🔹竜樹(ナーガールジュナ)
中観派の祖であり、『中論』などで二諦を明確な哲学的枠組みとして提示。
「世俗諦(saṁvṛti-satya)」と「勝義諦(paramārtha-satya)」を区別し、すべての存在は空であるという思想を展開。
竜樹の二諦説は、言語・概念の限界を超えて真理に至る道筋として非常に影響力を持ちました。
中論は、倶舎論の概念を受け継いでいるが
たいてい、意味が変わっている
https://assets.st-note.com/img/1722064283952-0OGTkhOZvq.jpg?width=1200
仏教メモ24 五位百法
https://note.com/ysuie_o/n/n9225d90a8609
特別講義「アビダルマにおける煩悩論」(講師:佐々木閑[花園大学特別教授])
https://www.youtube.com/live/A6D4zT-GDeA?si=L-PKLPc-1sHBLK6i
「資糧道」「加行道」「見道」「修道」「無学道」は、仏教における修行の段階を表す言葉です。
資糧道(しりょうどう): 仏道修行の準備段階で、修行に必要な資糧(ちからや徳)を蓄える時期を指します。
加行道(かぎょうどう): 実際に修行を始める前の、具体的な実践に入るための準備期間です。
見道(けんどう): 四諦(したい)の真理をはっきりと見ることができるようになる、修行の段階です。
修道(しゅうどう): 見道で得た悟りを深め、さらに精進して修行を積む段階です。
無学道(むがくどう): 仏の悟りを完全に開いた、さらなる修行が必要のない最終段階です。
これらの用語は仏教の修行の段階を示すもので、資糧道から無学道へと進むことで、悟りに至る道筋が示されています。
↓
これらの言葉は仏教の修行の段階を示すもので、「資糧位」は修行に必要な準備段階、「加行位」は修行を始める段階、「通達位」は修行が進み、悟りの道が通じ始めた段階、「修習位」はさらに修行を深める段階、「究竟位」は最終的に悟りをひらいた究極の段階を指します。
資糧位(しりょうい): 「仏道に進むための準備段階」を意味します。
加行位(かぎょうい): 仏道修行を本格的に開始する段階です。
通達位(つうだつい): 修行の途中で、悟りの道が開け始める段階です。
修習位(しゅうしゅうい): 悟りの境地に至るために、より深く修行を重ねる段階です。
究竟位(くきょうい): 修行の最終段階で、悟りを完全に実現した究極の悟りの境地を指します。
文殊師利大乗仏教会 (チベット仏教 ゲルク派)
『倶舎論』帰敬偈ききょうげの話
GOMANG ACADEMY REPORT
現銀谷史明
『倶舎論』もその例に漏れず、次のような帰敬偈が記されている。
すべてにわたり暗闇を完全に打ち破り、
輪廻の泥から有情を救出なさる方〔は〕
真実のとおりにお説きになるが、その方に敬礼〔して〕
これが倶舎論頌の第1偈であり、四連の詩句からなるうちの三連が帰敬偈に当てられる。最後の一連は
阿毘達磨倶舎論(あびだつまくしゃろん)を解説しよう
と記され、古来より「発起序(ほっきじょ)」と名付けられる〈著述の宣言〉を表明する詩句となっている。
そしてまた、そのような偉大な方に『倶舎論』の著者である世親が帰敬を述べていることから、師の考えを註釈している『倶舎論』に対しても、尊い内容が述べられているということも知られる。
クンケン・ジャムヤンシェーパによるとこれら三種の称讃は次のように解説されている。
知られるべき対象すべてについて、染汚ぜんまと不染汚ふぜんまの障害の暗闇を〔暗闇の〕種子もろとも完全に、つまり全く、あるいは全てにわたって打ち破ったという自利の円満と、そのように二種の暗闇を断じたことにより知られるべき対象一切を悟り、抜け出しがたい輪廻の泥の中に沈み、あるいは陥っている有情を分ぶんに応じて善趣ぜんしゅ(人間界、阿修羅界、天界)と至善(解脱)へ順に法を説いて救済する利他の円満と、そのように救出する方便についても、自分が悟らなくてもヴィシュヌのように様々な身を化現けげんする力や自在天のように「あなたはそのようになれ」というような天恵てんけいの力によってではなく、実相じっそうを誤りなく真実の通りに説き示す御業の円満の方便に基づいてである。
「〔仏世尊が〕諸々の有情を分に応じて救出するならば、我々が未だに輪廻に住しているのは何故か」と問うならば、〔答えよう。〕分を有する者たちを救出するということなのであって、分を有さない者たちを救出するのではないからである。何故ならば、経の中で「太陽が昇った時、機の熟した蓮華の蕾が開くように、そのように如来が出生しても意思の熟している者のみを浄めるのである」と説かれているからである。
そして救済の仕方もある種の神通力並びに超自然的な力を及ぼすような仕方で行われるのではなく、真実をありのままに説くことによって有情を救済するのである。
そのような意義を担って最後の発起序が述べられるが、その実際の目的とは三種の円満を具えている師たる仏世尊に敬礼した後で「著述しよう」と宣言することにより、当面の目的としては『倶舎論』を完成させるため、そして究極的な目的は涅槃を得ようとするためであると説明されている。
すべてにわたり暗闇を完全に打ち破り、
輪廻の泥から有情を救出なさる方は
真実のとおりにお説きになるが、その方に敬礼して
阿毘達磨倶舎論を解説しよう
(上の3行が帰敬偈、下の1行が発起序)
五欲(色、声、香、味、触の五つの感覚対象への欲望)や、五種の受(五つの感覚器官が外界の対象から受ける「苦」の感覚など)として、苦悩の根源である煩悩の一つとされます。
欲望の対象: 仏教における欲望の対象は、五根(五感)が五境(色、声、香、味、触)に触れることで生じます。
欲望の種類: 具体的には、「色欲」や「財欲」、「飲食欲」など、さまざまな種類の欲望として考えられます。
苦悩の根源: これらの欲望は、人間の心の苦しみや迷いの根源となる煩悩のまとまりと見なされます。
「小欲知足」との関連: 欲望を制限し、満足すること(小欲知足)は、欲望に囚われる苦しみから解放されるための重要な考え方です。
七情(喜・怒・哀・楽・愛・悪・欲)の一つとして挙げられることもあります。
「百八の煩悩」など、仏教には欲望と関連する多くの概念が存在します。
仏教で説く、衆生しゅじょうの身心を煩わし悩ます精神作用の総称。
クレーシャkleśaというサンスクリット語が中国で「煩悩」「惑」と翻訳されたのであるが、この語は「汚す」という意味合いももっており、そのために「染 ぜん」「染汚 ぜんま」などとも訳された。
またこのことばは元来、不善・不浄ふじょうの精神状態を表す数多くの仏教術語のうちの一つであったが、やがてそれらの心理作用や精神状態を総称し、代表することばとして使われるようになった。
これに慢まん(慢心)・疑ぎ〔仏教の教えに対する疑い〕・見けん〔誤った見解〕を加えて六煩悩といい、根本的な煩悩とされる。
これらの煩悩を滅ぼし尽くすことによって解脱することができるのであり、したがって煩悩はあくまで断じられるべき対象として説かれたのである。
しかし後世の大乗仏教のなかには、煩悩と悟りの本質はなんら異なるものではないという、「煩悩即菩提」を主張するものも現れるに至った。このように煩悩の問題は、悟りの境地と深くかかわるため、重要なテーマとして仏教においてさまざまな形で論じられている。
(出典:小学館『スーパーニッポニカ 国語辞典』)
私たちを苦しめ、悩ませる心です。
「八宗の祖師」龍樹菩薩(ナーガールジュナ)は
『大智度論だいちどろん』に、このように教えられています。
「煩悩とは能く心をして煩わしめ能く悩みをなす、故に名づけて煩悩となす」
(引用:龍樹菩薩『大智度論』)
このように煩悩は、自分の心でありながら、
自らを煩わせ悩ませ、苦しめる心なのです。
この世は死ぬまで苦しめた上に、死んだ後も、
別の生命に生まれ変わって苦しめ続ける
輪廻転生の原因でもあります。
1人に108あります。
その108もの煩悩が、私たちを苦しめているのです。
大晦日に除夜の鐘を108つくのは、
「今年も一年間、煩悩に苦しめられてきたので、
煩悩をなくして、来年は幸せな一年になるように」
という願いをこめて、お寺で108回鐘をついています。
しかし、そんなことくらいで煩悩はなくなりませんので、
毎年煩悩に苦しめられ、また来年も、大晦日に108回、除夜の鐘をつくことになります。
また、念珠も正式なものは108の珠がついています。
短い念珠の珠は、108を3で割った36などになります。
これも珠は煩悩を表していて、数珠を糸が貫いているのは
煩悩即菩提ぼんのうそくぼだいを表しているといわれます。
これに慢まん(慢心)・疑ぎ〔仏教の教えに対する疑い〕・見けん〔誤った見解〕を加えて六煩悩といい、根本的な煩悩とされる。
トーク板のリトマス紙だな
😆
セイウン様の煩悩ハッスル🌋
『倶舎論』によれば、煩悩には、まず、六大煩悩といわれる6種類の煩悩があります。
貪欲 とんよく、瞋恚 しんい、愚痴 ぐち、疑 ぎ、慢 まん、悪見 あっけん
の6つです。
貪欲は、欲の心です。
瞋恚は、怒りの心です。
愚痴は、因果の道理が分からない心で、そこから起きる恨みやねたみの心です。
疑は、四聖諦の真理を疑う心です。
慢は、自惚れ心です。
悪見は、悪くしか見られない心です。
貪 とん
瞋 じん
癡 ち
疑 ぎ
慢 まん
悪見 あっけん
さらに、六大煩悩の中の悪見を5つに分けます。
身見しんけん、辺見へんけん、邪見じゃけん、見取見けんじゅけん、戒禁取見かいごんじゅけんの5つです。
身見とは、本来は無我なのに、我があり、我の所有物があるという考えです。
辺見とは、死んだ後は無になるか、または固定普遍の魂が永遠に続くという考えです。
邪見とは、因果の道理を否定する考え方です。
見取見とは、先の3つの悪見をすぐれた考えと思う考えです。
戒禁取見とは、五戒などの戒律で解脱できると思ったり、仏教以外の宗教の苦行で天上界に生まれられると思う考えです。
これを十随眠ずいめんといいます。
語源: 「随眠(anu?aya)」はサンスクリット語で、心に「随」って「眠」る、潜在的な煩悩を指します。
働き: 普段は心の中に潜んでいますが、機会があれば表面化します。
関連用語: 煩悩(ぼんのう)の同義語として使われることがあります。また、仏教的な分類である「十纏(じゅってん)」の一つにも含まれます。
これらの十種の煩悩は、起きる対象が2つあります。
それは、四聖諦(ししょうたい)という仏教で教えられる4つの真理と、五塵(ごじん)といわれる色、音、香、味、触れる物の5つの対象の2つです。
これを見惑けんわくといいます。
中にはそれに加えて五塵に迷って起きる煩悩もあります。
これを修惑しゅうわくといいます。
修惑は感情のようなもので、四聖諦に迷って起こす煩悩よりも、断ち切るのは困難です。
そのため断ち切るには長期間の修行が必要となります。
それは十随眠の10種のうち、貪欲、瞋恚、愚痴、慢の4つです。
つまり、貪欲、瞋恚、愚痴、慢の4種類は、四聖諦に迷って起こす煩悩もあり、五塵に迷って起こす煩悩もあります。
疑と、5つの悪見の6種類の煩悩は、四聖諦に迷って起こす煩悩だけです。
次に、私たちの生きる世界は、3つに分けると三界さんがいといって、欲界よくかいと色界しきかいと無色界むしきかいの3つです。
四聖諦については、以下の記事で詳しく書いてありますので、見ておいて頂きたいのですが、苦諦くたい、集諦じゅうたい、滅諦めったい、道諦どうたいの4つです。
➾四聖諦ししょうたい・仏教に説かれる4つの真理
欲界では、苦諦について10種の煩悩は全部迷います。
集諦については、身見、辺見、戒禁取見以外の7種、
滅諦については、身見、辺見、戒禁取見以外の7種、
道諦については、身見、辺見以外の8種が迷います。
従って、欲界では32種類の煩悩を断ち切る必要があります。
自分というのは迷いの結果であって、迷いの原因でも悟りの因果でもないので、迷いの結果である苦諦にしか起きないのです。
そして辺見は、我の持ち物があるという考えですが、我が苦諦にしかない以上、辺見も苦諦にしかありません。
そのため苦諦については9種の煩悩が迷い、
集諦、滅諦については6種、
道諦については7種の煩悩が迷います。
そのため、色界では、28種の煩悩を断ち切る必要があります。
無色界でも、色界と同様に、28種の煩悩を断ちきる必要があります。
このように、四聖諦に迷う見惑の煩悩は、三界にわたって全部で32+28+28=88となります。
これを「八十八使」といいます。
「使」とは、煩悩のことです。
次に、色、音、香、味、触れる物の五塵に迷う、修惑といわれる感情的な煩悩については、
欲界では、貪欲、瞋恚、愚痴、慢の4種類、
色界では、貪欲、愚痴、慢の3種類、
無色界でも貪欲、愚痴、慢の3種類で、合計10種類あります。
これらは、知識が欠けているというのではないので断ち切るには大変な修行が必要です。
ちなみに修行によってこれらの煩悩を抑え、断ち切ることによって悟りが開けます。
この四聖諦に迷う88種類と、五塵に迷う10種類を足すと98種類になります。
これを九十八随眠といいます。
克服するのに修行を必要とする
この4つは、修惑だ
克服するのに修行を必要とする
倶舎論を学んで、正見を身につけるだけで良い
そこが
ハッスル、デンパパ、NO1、No.2、ホーカイくん
のスタート地点の問題だ
そこが外れると
もはや
😆
基本その辺だ
😆
お前が言うかw
『倶舎論』の心所説
ここでは特に、先に挙げた一切法のうち、有為法に属してその数四十六法が数えられる、心相応行すなわち心所に焦点を当て、これを表にして列挙したものを以下に示します。
そのうちの四十六が心所法
すべての心の生じるあらゆる場所・瞬間に、遍く従って倶に起こる心の作用。大地の大は遍きこと、地は拠り所たる心王を意味し、すべての心王に伴って起こるから大地法という。
感受・感覚。身体的苦・楽・不苦不楽、精神的喜・憂・捨いずれかを感じる働き。
表象・知覚。感覚した対象の、例えば男女など、その差異を知る働き(取相)。
意思。考える働き。行蘊のうち最も勢力ある、心の主たる働き(造作)。
刺激。感覚器官(根)と対象(境)と認識(識)とが相応して生じる働き(触対)。
意欲・欲求。身口意いずれかで、何らか行為せんとする動機となる働き(希求)。
判断。物事の是非などを選択する働き(簡択)。
記憶。認識している対象を明らかにして忘れず留める働き(不忘)。
喚起。気づき。心を覚醒、或は揺動させ、感覚する対象に引きつける働き(驚覚)。
確認。知覚する対象を、それが何であって、何でないことはない、と確定する働き(印可)。
集中。定めた認識対象から意識をそらさない働き(心一境性)。
「勝解」だの「三摩地」だのが
それに当てはまるとは思えん(笑)
「定」(じょう)とされるときもある
定と三摩地では、かなり印象が異なる(笑)
単なる確認作業
倶舎論は究極にならんだろうからな
😆
トップゴール地点がメインなので
ハッスルやNO1みたいな勘違いが倶舎論、唯識混ぜ合わせて
イミフなレスを
リバースするからなー
😆
唯識論の五位百法
どちらも、心所法が半分以上を占めている
転識得智の話ばかりだ
禅宗の人にアリガチな傾向だ
起業が成功して株式を上場した後の話ばかりするようなもんだな(笑)
それ故に
天台、華厳、真言あたりの
ワンクッションあったほうが
禅の知的な理解はしやすくなる
😆
有為法の煩悩認知問題が欠落しているからなー
😆
NO1、デンパパ、ホーカイくん
測定には便利なシステムである
😆
どんな煩悩を
消す(佐々木先生流)
それが倶舎論の優れた測定システムだ
😆
😆
倶舎論のシステムの認知は
かなり使える感じはある
浄土宗系統の浄土教は信仰のみ系統だが
授戒とかで山伏ぽく修行する浄土教は
倶舎論的認識論は相性良さげである
😆
「煩悩を全部いっぺんに克服するのは不可能」
「ひとつひとつの煩悩を消していくしかない」
というのが、倶舎論の基本思想
生きている間の練習に
倶舎論が使える感がある気がする
😆
ひとつ、またひとつと、豆電球を消していく
ムイムイやハッスルを
見ると
煩悩を一気に消すのは無理としか言えない
ロン閣下は生カジリなので
説得力がない
😆
そのままでいいらしい
生カジリなんだよな
😆
俺の今の感じが
ホンモノの
😆
曹洞宗寺院で勤行してきたで
😆
獅子舞やってたが
その神社の霊気を浴びる
出口王仁三郎レベルのシャーマンだな俺は
😆
お参りしてきた
詩篇読んで
聖霊の霊気を吸ってきた
😆
だから、煩悩も菩提も同じもの。。w
安楽も苦難も同じもの。。w
やはり、そうなのか(笑)
「煩悩がキッカケとなって、悟りへの道が開ける」
って意味じゃないのけ?
「だから、煩悩にマミレた人も、そのままでいい」
なんていう話ではないと思うんだが
修行が仕上がった人の世界観だな
唯識の平等性智の拡大解釈
薬師寺の唯識原理主義の
橋本ギョウインは
平安仏教以降は堕落したと豪語してたな?
ロンが言うと説得力が薄い
😆
リニューアルしたのが
平安仏教以降だからな
😆
仏教 Q & A
百八煩悩
質問:
煩悩が108あるといわれますが、具体的に言葉にして表わすとどういうものなのか、掲載された図書がありますか。
返答
煩悩の分類
身心を悩まし、煩[わずら]わせ、惑わし、さとりの実現をさまたげるあらゆる精神作用を煩悩といいます。
根本煩悩は、貪[トン](むさぼり)、瞋[ジン](いかり)、癡[チ](おろか)、慢[マン](おごり)、疑[ギ](うたがい・まよい)、見[ケン](あやまり/邪見・悪見)の六煩悩、
枝末煩悩は根本煩悩に伴って起こる従属的な煩悩をいいます。
現象的な事物にとらわれ迷うのを修惑、と分け、
見惑は見道位という修行段階で滅ぼされる煩悩、
修惑は修道位という修行段階で滅ぼされる煩悩、としました。
見惑は岩を割るように滅ぼされる煩悩で、割るまでには大変な転換が必要ですが、一度割ってしまえばもう元には戻りません。真実を覚れば迷いは無くなりますので、見道位の修行はここで終わります。
しかし修惑は蓮糸[レンシ]のように粘りつき、簡単に切れるようでいて切れない。切っても切っても切りきれない粘り強い煩悩です。割ってしまったはずの煩悩も習気[ジッケ]・習慣性としてとして癖が残っていますので、うっかりすると修惑が頭をもたげてくる。これを修道位で丁寧に滅ぼしてゆくのです。
総じて言えば、見惑は頭や心で断ち切る問題、修惑は身や習慣で断ち切る課題でしょう。
修惑を滅する → 修道
やってるのが
トーク板多数派
😫