I offer salutation to the best of preachers,the Buddha, who has taught that dependent co-arising has no ceasing, no arising, no nullification, no eternity, no unity, no plurality, no arriving, and no depariting, that it is quiescent of all fictions, that it is blissful.
リダン君、教えてください。
中論
https://talk.jp/boards/psy/1738711204
【根本中頌】 中論 【龍樹著】 Part2
https://talk.jp/boards/psy/1762525835
セイウン様が次スレを立てたのか
https://gzo.ai/i/6Qs7x4i.jpg
🤡
https://www.mmba.jp/nagarjuna/madhyamakakarika
根本中論頌
ナーガールジュナ
帰敬偈
不滅にして不生、不断にして不常、
不一義にして不異義、不来にして不去、
およそ戯論が寂滅し、吉祥なる縁起、
それを説いた仏陀、かの最高の説法者に私は帰命する。
諸の法は、自ら生じたものも、他から生じたものも、両者から生じたものも、
非因から生じたものも、如何なるものも、何処にも、決して存在しない。
既に去った者は去られない。未だ去っていない者も去られない。
既に去った者と未だ去ったものとを離れて現に去るものも去られない。
もし諸蘊が我であるのならば、生滅あるものとなるだろう。
もし諸蘊とは異なるのなら、蘊の特質は無であることになる。
我が有るわけではないのに、我所が一体どうして有るだろうか。
我と我所とが寂滅するが故に、我執と我所執も滅するのである。
我執と我所執を欠いているもの、それもまた存在しない。
我執と我所収は無いと見る者、彼はまた何も見ていない。
内部でも外部でも、我と我所執が尽きているならば、
取は滅するだろう。それが尽きることで生も尽きることとなる。
業と煩悩が尽きることから解脱はある。業と煩悩は分別による。
それらは戯論より派生するが、空性によりそれは滅することとなる。
我であるとも増益されるし、無我であるとも説かれている。
諸仏たちは我と無我とのいづれもが無いと説かれている。
語られるべきものは消滅している。心の活動領域が退けられているからである。
不生不滅であることが、法性なのであり、涅槃に等しいものであるからである。
そして、正しくなく正しくなくない。これが諸仏の教えである。
他によって知られず、寂滅しており、戯論によって戯論されず、
無分別であり、別異なる対象ではないもの、それが実義の特質である。
何らかのものを縁として起こっているもの、それはまずそれ自身ではない。
更にはそれとは異なるものでもないが故に、それ故に不断・不常なのである。
同一の対象でもなく、別異なる対象でもなく、不断にして不滅なるもの、
これが世間の救い主である仏たちの教えの甘露である。
正等覚が未だ出現しておらず、声聞たちが既に滅している時でさえ、
独覚たちは智慧を師によらずとも生じるのである。
もしもこのすべてが空であるならば、生滅は無いだろう。
しかしあなたには、四聖諦が成立しないことになってしまうのである。
遍知・永断・修習・現証というこれらのものは、
四聖諦が無いが故に成立しないことになるだろう。
それらが有り得ないことにより、四つの聖者の果位も有り得ないこととなる。
果位が有り得ないのならば、果位住者も、向位も有り得ないこととなるだろう。
八輩の者たちが有り得ないことにより、僧伽も有り得ないこととなるだろう。
四聖諦が無いのならば、正法もまた有り得ないことになってしまうだろう。
もしも僧伽も法も無いのならば、一体どうして仏が有り得るだろうか。
このように空を語るのならば、三つの宝を侵害することとなるだろう。
果が有ること、法ではないもの、法性であるもの、
これらすべての世間の言説を損害することになるのである。
それが故にあなたはこのように侵害しているのである。
諸仏たちの説法は、二つの真実に基づいている。
世間世俗の真実と、勝義の真実との二つである。
誰であれこの二諦の区別を知らない者たち、
彼らは仏の教えの甚深の実義を理解しない。
言説に基づくことなく、勝義を説くことは不可能である。
勝義を理解することなく、涅槃を得ること不可能である。
空性を見誤うならば、智慧少なき者たちが破滅する。
それは誤って捉えた蛇や、未熟な明咒と同様である。
このために、牟尼は説法を躊躇なされたのである。
この法が鈍根の者には理解され難いと思われたからである。
その過失は我々には起こらない。誹謗は空にして適合しないからである。
何であれ、空性が成り立つ場合、そこにおいて一切が成り立つのである。
何であれ、空性が成り立たない場合、そこにおいては一切は成り立たない。
汝は汝自身にある過失を我々に転嫁しようとしているのである。
それは馬に乗っていながら馬のことを忘れているのに等しい。
もし汝がすべての現象が自性によって有ると考えるのなら、
すべてのものは因縁が無いものであると見ているのであろう。
結果、原因、行為者、行為、行為対象、
生起・消滅・果報というこれらを損害しようとしているのである。
それは依存して措定されたものであり、これだけが中道なのである。
縁起していない法は如何なるものも存在しないが故に、
それ故に、空ではない法は、如何なるものも存在しないのである。
もしもこれらすべてが空でないとすれば、生滅は無いだろう。
そうすれば汝にとっても四聖諦は無いこととなるであろう。
縁起していないのならば、どうして苦であることになるだろうか。
無常なるものは苦であると説かれているこれは自性として有るのではない。
自性によって有るのならば、一体何が集起するというのだろうか。
それゆえに空を破壊する者には、集も無いことになってしまう。
自性によって有る苦においては、その滅も有り得ないのである。
汝は自性に固執しているが故に、滅をも侵害しているのである。
自性によって有るのならば、道の修習もまた不可能であろう。
もしその道が修習されるとするのなら、自性によって有ることは有り得ない。
苦を滅し、その境地に達するというのであろうか。
自性によって遍知されることなくして、一体どのように遍知するのだろうか。
自性とは堅固にして不動なるものとして謂われているのではなかったのか。
汝にとっては、永断・現証・修習そして四果すらも、
遍知と同様に存在しないものとなるであろう。
しかるに自性によって証得されることのない果は
一体どうして自性に固執する者によって証得されるものでありえようか。
果が成立していない限り、諸々の果位の者も向位の者も存在しない。
もしこれら八輩が存在しないのならば、僧伽もまた存在しないだろう。
しかるに、聖諦が存在しないことにより、正法も存在しないこととなる。
正法と僧伽が存在していないにも関わらず、仏がどうして存在するだろうか。
汝にとっては、菩提に拠らずとも仏が有るということになってしまう。
更に汝にとっては、仏に拠らずとも、菩提が有ることになってしまう。
しかるに、自性によって仏ではない者が、菩薩行を精進しても、
汝にとっては菩提を証得することなど有り得なくなってしまうだろう。
不空であるのに何を為すのだろうか。自性が為されるのではないからである。
法や非法がないのならば、汝には果報も無いことにある。
汝にとっては、法や非法を因とする果は無いからである。
もしも汝に法や非法を因とする果報があるとするならば、
汝にとって法や非法より生じた果が、どうして空でないことになるのだろうか。
誰であれ、縁起と空とを侵害しようとする者は、
彼は、世間の言説を侵害しているのである。
空性を侵害するのならば、如何なる為すべきことも無いことになるだろう。
作用が開始されないことになり、何も為さなくとも行為者であることになる。
自性が有るならば、衆生は不生不滅にして、
さまざまな分位も欠き、永遠に存続することができることとなるだろう。
もしも空でないのならば、未得の者が得ることや、
苦しみに終止符をうち、一切の煩悩を断じることもあ有り得なくなるだろう。
縁起を見る者は、これを見るのである。
すなわち、苦と集と滅と道こそを。
無明に覆われたものは、再生のため三種の行を為す。
それらの諸々の業により何らかの趣へと赴くのである。
識は行を縁として趣へと入ってくるのであり、
趣へと入った識に名色が胚胎する。
一方、名色が胚胎した時、六処が発生し、
六処に基づいて触が現れれるのである。
眼と色と憶念に基づいてまさに起こるのであり、
このように名色により識は発生するのである。
眼と色と識という三つのものが集まったもの、
それが触であり、この触より受が生起する。
受を縁とし愛は有る。何故ならば、受の対象を愛するからである。
愛が起こっている時には、四種の取が取著されるのである。
取が有る時に取著の主体たる有が生起する。
取がなければ解脱するだろうし、有はないからである。
その有はまた五種である。有から生が生起し、
老死、苦等と、悲しみをともにする愁いと、
憂鬱と煩悶といったこれらが、生より生起し、
かくの如く純然たる苦の集合体が生起するのである。
しかるに無知なる者は輪廻の根本である諸行を賢者たちは造作し、
無知なる者は行為者となるが、賢者は実義を見ているが故にそうではない。
無明が滅すれば、諸行が生じることはないのである。
しかし、無明の滅は智によって実義を修習することによっている。
ひとつひとつが滅することにより、ひとつずつ生じなくなる。
こうしてこの純粋なる苦蘊は正しく滅することとなるのである。
大悲の心に促され、すべての邪見を断じるために、
正法を説かれた彼のお方、ゴータマに私は帰命する。
https://www.mmba.jp/nagarjuna/madhyamakakarika
とくに重要なところが、ここに抜粋されている
→仏陀は独立した実体はないというから間違い
2.Aでない
→完全にないなら縁起が働かず虚無論になるから間違い
3.Aかつ非A
→論理的に矛盾するから間違い
4.非Aかつ非(Aかつ非A)
→従って「どれでもない」、これが空
どれかを特定することは、すでに、縁起となっている。
否定した果てに否定されないもの
八不
「中論八不偈」は、竜樹の『中論』の冒頭に記された「不生不滅、不常不断、不一不異、不来不去」の偈(詩)のことです。これは、一切の事物は固定的な実体を持たず、空(くう)であるという仏教の核心的な教え(縁起の理法)を、8つの否定表現で示すものです。
八不の内容
不生不滅(ふしょうふめつ): 何も生じず、また滅びない。
不常不断(ふじょうふだん): 常にあるわけでも、常に変わらないわけでもない。
不一不異(ふいつふい): 他と一つではなく、また他と異なるわけでもない。
不来不去(ふらいふく): 来ることもなく、行くこともない
中論の意義もやっている
😆
138 神も仏も名無しさん 2025/12/03(水) 08:59:42.02 ID:7Jzbo
加藤師匠
中論本格的講義だな?
https://m.youtube.com/watch?v=q3cz2kic5kM&pp=ygUY5LiJ6KuW5a6X5YWl6ZaA44CA5Yqg6Jek
中論は
有部、アビダルマ批判のための論書らしい
😆
😆
レスしていても
中論の理解は深まらない
😆
理源大師聖宝
🤡
485.
ユーザー
栖雲居士◆t8ok0QoQ8kcK50-rxy-Ij-wvu
lIelq
坐禅中にふと、"こんな事をして何になるのか?"って出てくる事もある。
大抵はそのまま流れて消えるけど、納得がゆく様に思考を耕してたりする事もある。
2025/12/04 06:56:45
加藤拓雅がお伝えする三論宗専門番組です。
・三論宗とは?
南都六宗の一つで、龍樹(Nāgārjuna 150-250頃)を祖とする中観派の流れをくむ宗派(学派)です。
『中論』『十二門論』『百論』の三論を所依とするので三論宗と言われます。
https://youtu.be/u9Bfrdb3kIU?si=7xGOaBdrIXmSDcIQ
思考を耕しているらしい?
🤡
下手な考え、休むに似たり😂
https://youtu.be/Qiq6q_xGcaM?si=z0kuPB0j5lqiznZe
三論宗入門2
https://youtu.be/uUhV3LOsErE?si=Nvze_7_mJPQL_Xxs
三論宗入門3
https://youtu.be/N1cm8Has1kM?si=f6JEpRYntdfWjJLM
三論宗入門4
https://youtu.be/q3cz2kic5kM?si=3tpnc3_wr_83JPvK
龍樹時代になかった
成実宗、唯識をターゲットに
批判をして
真諦、中道、真理とは何かを
論理立てている
😆
4まで見た😆
中論の全体像のイメージが明白になってくるな?
😆
いかに、禅に関して暴論を述べていたがが
三論宗入門あたりから見えてくる
😆
説明仏教では
かなり優秀な人だ
😆
このページでは、脱構築、差延、グラマトロジーといったデリダの思想を分かりやすく解説します。
https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/H/Higuchi/20240130/20240130050253.jpg
デリダは、当時フランスの植民地であったアルジェリアで、ユダヤ人の家庭に生まれました。
その後パリの学校へ通いますが、植民地出身者やユダヤ人ということで周囲になじめず、哲学書を読み漁ったそうです。
幼少期には第二次世界大戦が勃発しており、ドイツ人とユダヤ人、列強と植民地など、何かが何かを支配する構造が身近にあったことが、彼の思想に影響を与えていると考えられます。
デリダの主な思想を解説します。
デリダの思想の根幹を表す言葉が「脱構築」です。
脱構築の概念を理解するために、まずは「二項対立」について説明します。
二項対立とは、2つの相反するものが対立している状態を言います。
例えば、「男と女」「喜びと悲しみ」「存在と欠如」などですね。
一般的に、二項対立の状態にある2つのものは、どちらか一方が他方よりも優れているという考えになりがちです。
例えば、(当時は)女性よりも男性の権利が幅広く認められてましたし(今は逆ですかね?)、悲しみよりも喜びの方が良いことですし、欠如よりも存在の方が価値があるように思えます。
デリダはこのような、一見当たり前にも見える「二項対立のどちらか一方が他方よりも価値がある」という考えを否定しようと試みました。
脱構築とは、「二項対立の概念を分析し、その内部にある矛盾や隠れた前提を明らかにし、その支配的な構造を揺るがすことで、新しい視点や理解を生み出す試み」を言います。
シンプルに言い換えれば、「白黒はっきりさせられないことを証明する」という感じです。
例えば、「存在と欠如」について、「何かが欠如している」という概念が無ければ「何かが存在する」という概念はそもそも生まれません。
逆に、「存在」の概念が無ければ、「欠如」という状態も生じません。
このように、一般的に、二項対立している2つの概念は、どちらか一方が他方よりも優れているのではなく、相互に依存しあうことで初めて意味を持っているというのがデリダの主張です。
古代インド哲学の焼き直しに見えるのは、よくあることだが
二つの対立する概念(例:善/悪、理性的/感情的)で世界を捉える構造。
伝統的に、片方がもう片方より優位(価値が高い、本質的)とされ、他方は従属的・二次的と位置づけられてきました。
優劣構造の逆転:例えば、「話し言葉」が「書き言葉」より優位とされる西洋哲学に対し、デリダは書き言葉が持つ「差延(diff?rance:差異化され意味が遅延する運動)」の概念を導入し、話し言葉の現前性(プレゼンス)も書き言葉なしには成り立たないことを示しました。
排除されたものの肯定:「男性」という概念が「女性」の不在によって成立しているように、システムが抑圧する要素(女性、文字、他者)を再評価し、それらがシステムそのものの基盤であることを明らかにします。
権力構造への問い:このような二項対立の思考は、権力(例:ナチズムのドイツ人/ユダヤ人)に利用されやすい危険性を指摘し、知のあり方そのものに根本的な問いを投げかけました。
目的
単なる破壊ではなく、既存の枠組み(西洋形而上学のロゴス中心主義など)の内部にある矛盾を露呈させ、抑圧されたものの中に新たな解放の可能性を見出すための哲学的手法です。
デリダと龍樹では、目的が異なる
支配/従属の社会構造が重要だ
メインテーマが社会科学の一般原理理論探求やったからな
😆
狂った解釈やってる唯識
😫
0436 鹿野園 ◆ifwe1NnHmGU5 2022/08/21(日) 11:20:03.16
1.智慧が何故有為法に分類されるという事ですが、先にもレスした通り事法であり心作用だからでしょう。
当然に五位百法の無為法の虚空・択滅・非択滅・不動滅・想受滅・真如には分類されないという事です。
これについては、下記の転識得智の仕組みを調べる中で明らかにされます。
2.転識得智の仕組みですが
見道・修道にて、
1.-1. 第六識(意識)の
バカだな?
😫
俺とどっちがレベル高い?
俺はセッタンみたいな、見事な話は、てきん
😆
https://www.butsutera.com/wap-jp/shishengru.html
まーまーオモロイ
https://www.butsutera.com/wap-jp/676.html
こーいう解説ができるらしい
😆
在家で修行して成就した者もいますが、記載は非常に少なく、しかしこの部分で成就した在家者も前世の根基が比較的深く、自ら単独の修行空間を持ち、時間的にも非常に余裕がありました。彼らの福德が非常に大きく、毎日家の親族を養い衣食住のために奔走・労苦する必要がなく、修行条件が優れていたため、修行が速やかに成就したのです。三世の因果から見ると、この部分で成就した在家者も前世に出家して修道し、すでに一定の成就を修め、今世で再び加工して再び成道したのです。自ら独立した修行空間があるからこそ、修行功夫は連続して途切れないことを保証でき、在家では保証できません。非常に大きな福德に加え、前世の善根があって初めて成就でき、そうでなければ非常に困難です
😆
俺はしらんけど
😆
三世の因果から見ると、この部分で成就した在家者も前世に出家して修道し、すでに一定の成就を修め、今世で再び加工して再び成道したのです。
俺の感覚と
違う
自ら独立した修行空間があるからこそ、修行功夫は連続して途切れないことを保証でき、在家では保証できません。非常に大きな福德に加え、前世の善根があって初めて成就でき、そうでなければ非常に困難です。
修行空間だ
😆
冬の寒暖差地獄から
今週は修行した
😆
修行という発想なので
臨濟宗以外の世界には鈍かったのはこんなところか?
私個人の修行の過程と経験から見ると、私の全ての功夫の成就は、一人で寂静な環境の中で成就したものであり、人群の中に戻ると功夫は阻害され、さらに深めることができませんでした。私はあちこち寂静な環境を選んで修行し、こうして各段階の修行目標を達成しました。人群の中で修行するのは非常に困難です。したがって皆さんには、禅定と観行の功夫がある程度に達し、飛躍的に進歩させようとさらに一気に力を加えたい時は、できる限り身辺の全ての事務を放下し、寂静なところへ行って火力を大きくし、功夫をより深くより適切に行うことをお勧めします。そうして初めて我見を断つか明心する可能性があります。環境と時間が共に適して初めて、修行は連続して途切れず、火力が持続し、様々な溝や段差を越えられる可能性があるのです。
発想的には比叡山天台ぽい雰囲気の霊感ぽいなー
十九、学員の定中観行体験(一)
今朝の早課は、師尊の教示「定中で法義を思惟できるよう訓練し、意根の中に懸けておく」に従いました。まず数回深呼吸し、身体の廃気を排出すると同時に新鮮な空気を全身に満たし、鼻腔・喉腔・胸腔から気海(丹田)へと至り、さらに一頓(一気に圧縮)すると、足首・足裏の湧泉穴に圧し込まれ、心は空霊・柔軟・和暢になりました。その後、静坐して念仏し、音声を用いて仏事とし、胸腹、特に頭脳の様々な細胞を震動させ、経絡を疏通し、汚染を排出・清浄する作用を達成しました。頭部の気脈を念仏によって貫通させ、足底の気脈を頭部へと引き上げ、「南水北調供水工程」(南の水を北へ送る給水プロジェクト)システムを形成し、しかもスムーズに流れ、南北の大動脈を打通する目標を達成しました。
天台華厳真言チベットみたいなのは
こーいうノリみたいなのが
俺にはある
😆
さらに、静坐して仏を拝み、任督二脈を伸ばし緩めると、心はすでに空澄・安寧になりました。そこで『楞厳経』の中で最も理解が難しい第四巻の法義、富楼那が提出した「一切の根・塵・陰・処・界などは、皆如来蔵にして清浄本然である。どうして忽然として山河大地が生じるのか」という問題について、第四巻を少し読みました。定力があったため、読みながら入り、心は経文に専注でき、文に随って観に入り理解を得ました。関連する法義を整理した後、意根に反芻させると、時々意根が一つの念頭を放り出し、意識がそれを受け取ります。「ああ、『大般若波羅蜜多経』の法義だ」と、直ちに『楞厳経』の法義と接続し、理解できないところは湯が氷を溶かすように解けました。
禅定先行という異常現象で
そのあと
教義学テキストがスルスルと、入ってくる
😆
ハイブリッド感覚があるな、
この尼様のは
😆
金剛経解説・我相の特徴
円覚経において世尊は微細な我相についてこう述べられている:例えば、ある人が全身の調和が取れ、快適で、四肢がリラックスし、心身が静寂で極めて静かな状態にあるとき、突然身体の存在を忘れ、身体がどこにあるのかもわからなくなる。この時に針でそっと身体を刺すと、すぐに痛みを感じ、「私が痛い」と無自覚に感じ、心の中に我相が現れる。衆生は無自覚に身体を私だと感じ、覚知を私だと感じ、五蘊を私だと思っている。これは非常に微細な我相であり、衆生に普遍的に存在する。
密教ぽいんだよな、
または天台、華厳ぽい
中国は混ざりあってるからな
😆
さらに、静坐して仏を拝み、任督二脈を伸ばし緩めると、心はすでに空澄・安寧になりました。そこで『楞厳経』の中で最も理解が難しい第四巻の法義、富楼那が提出した「一切の根・塵・陰・処・界などは、皆如来蔵にして清浄本然である。どうして忽然として山河大地が生じるのか」という問題について、第四巻を少し読みました。定力があったため、読みながら入り、心は経文に専注でき、文に随って観に入り理解を得ました。関連する法義を整理した後、意根に反芻させると、時々意根が一つの念頭を放り出し、意識がそれを受け取ります。「ああ、『大般若波羅蜜多経』の法義だ」と、直ちに『楞厳経』の法義と接続し、理解できないところは湯が氷を溶かすように解けました。
2025/12/06 10:36:50
冬場メンタルモード研究を
曹洞宗モードも模索
真宗や日蓮あたりも模索
今、キリスト教、イスラーム、神道まで含めて
感覚のバージョンアップ構築中だ
😆
モンスターだけど
日本社会二は間接的に貢献しとるんやろな?
😆
https://m.youtube.com/shorts/6Nure1VaTgY
修行に関する 12分30秒あたり
😆
https://m.youtube.com/watch?v=WGmXo_VjoEQ&pp=0gcJCSMKAYcqIYzv
😆
ま、これくらいは
見といて
ネタとして
12分あたりからでええんで
オモロイ毒舌が
😆
ハッスル修行問題
修行に関する 12分30秒あたり
😆
https://m.youtube.com/watch?v=WGmXo_VjoEQ&pp=0gcJCSMKAYcqIYzv
素晴らしいな?😆
バカなんやろな
ま、どれたけ
つまらん参禅しにいっていたか、
もしくはエア参禅かもしれんな?
😆
「だから何?」と言われて終わりだ😂
暴露され
これからはハッスル只管バカにされる
😭
😆
見せるべき相手を
コンプだ
😆
冬の寒い時間ははかどらないようだ
😆
仏教瞑想モードでないと
なんて
言いながら、キリスト教書物を読んでいる
😆
五ちゃんねるのキリスト教スレが
一番の拠点だな?
😆
キリスト教のマイナーな出版社からの
本を精読している
エペソ書の研究
とかを
😆
どうするか?
を解析している
人知を超えた主の生命力みたいな
解決策
ま、創価に近いが
創価よりもマジメである
ファンダメンタルズ系統の教会の書物である
😆
ハッスル🤡パワー回復のようだな?
635.
ユーザー
栖雲居士◆t8ok0QoQ8kcK50-Qmt-Ij-wvu
BHxre(2/2)
この手の馬鹿が禅宗を騙る奴等に多いんだよな。
そもそも絶対的に無いものであれば認識自体が不可能で、無いとさえいえない事も分かってない、3歳児並みの知能しか持ち合わせてないんだわ。
馬鹿は空と無の違いを理解できない。
空とは無いというか意味では無い。
2025/12/07 18:40:58
坐禅回数自慢🤡が止まったな?
😆
こちらだ
😆
https://note.com/hegelschen/n/nbf999a48804f
639.
ユーザー
栖雲居士◆t8ok0QoQ8kcK50-lVR-Ij-wvu
7j49b(1/4)
馬鹿は何も知らないからネット知識の棒読みで、実存主義が禅仏教に於いてどう消化されているかも知らないだろうな😟
久松真一に「即無的実存性」というのがある。
それが実存の危機に対する一つの在り方である事は云うまでもない。
2025/12/07 19:39:31
Reply
Good
640.
ユーザー
栖雲居士◆t8ok0QoQ8kcK50-lVR-Ij-wvu
7j49b(2/4)
馬鹿がおかしな事を吹いてるけど、西洋哲学による仏教の再解釈とか、そんな低次元な作業を西田幾多郎や鈴木大拙、久松真一や西谷啓治らがやってた訳じゃないんだよ。
むしろそれらとの格闘や超克なんだよ。
馬鹿はこれだから😆
2025/12/07 20:01:09
禅宗の教義体系はおかしくなった😂
とかなんとか
それが仏教と何の関係があるんだよ?😂
アフォかっつ~の
俺は昔から
ヤツを無限にボコると決めたモチベだな
創作が、過ぎる
😆
自然を前にしたときの孤独感や無力感は、実存的危機においてよく見られるものである。
不安やストレスを伴いしばしば日常生活の正常な機能を妨げうつ状態を引き起こすこともあるが、この状態に感じる生きることや意味に対する否定的な態度は、その名にある通り、実存主義の立場と結びつけられる。
同義語や関連語としては、実存的恐怖、実存的空白、実存的神経症、疎外などがある。
実存的危機に関連するさまざまな側面は、感情的要素、認知的要素、行動的要素に分けられることがあり、感情的要素は、感情的苦痛、絶望、無力感、罪悪感、不安、孤独感など、危機が引き起こす感情を指す。また、認知的要素には、無意味の問題、個人的価値観の喪失、自分の死についての考察が含まれる。
外見的には、実存的危機はしばしば依存症、反社会的行動、強迫的行動で表現される。具体的な症状はケースによって大きく異なり、さまざまな種類の実存的危機を区別することによって、この問題を解決しようと試みられている。
これらに共通するのは、自分の人生の意味や目的についての葛藤である。 初期の段階での危機は、前向きなものになる傾向があり、自分がどのような人生を歩むべきか、特に教育やキャリア、社会関係における自分のアイデンティティや自立について迷う傾向にある。 人生後半の危機は、より後ろ向きで、人生のピークを過ぎたという印象が引き金となり、罪悪感、後悔、死への恐怖を特徴とすることが多い。
> 人生後半の危機は、より後ろ向きで、人生のピークを過ぎたという印象が引き金となり、罪悪感、後悔、死への恐怖を特徴とすることが多い。
セイウン様の危機は、これだな?😫
> 外見的には、実存的危機はしばしば依存症、反社会的行動、強迫的行動で表現される。
坐禅会への依存症
宗教板での反社会的で強迫的な言動で表現されている😫
ボコれるな?
😆
(一)有部の学説の典拠と経量部の学説の典拠が別々にあるのか無いのか分からない
が、一般に『四諦経』③などを典拠としている。
(二)唯識派の学説の典拠は「一切のものは心を本性とする」と説いた経典、特に『解
深密経』である。
(三)中観派の学説の典拠は第二転法輪で説かれた経典である。(『般若心経』など)
(四)中観派の自立論証派と帰謬論証派の典拠は別々にあるのではなく、それぞれの
阿闍梨による説明の仕方によって違いが生じたに過ぎない。
(五)チベットのパンディタたちが、それぞれのインドの阿闍梨がこの四宗(有部、経
量部、唯識派、中観派)のどれに属するかを区別している。
高野山大学密教文化研究所紀要 第 34 号 134
(「中観派の章」和訳・解説
―ダライ・ラマ法王 14 世 講義録『学説規定摩尼宝鬘注解』第 9・10・11 章―
テンジン・ウセル
藤 田 光 寛
自分で調べて、中学生の頃には意味を知っていた
情報が少なすぎた
松原泰道の「般若心経入門」が教科書代わり
当時は、それしかなかったのだ
松原泰道の「般若心経入門」や「観音経入門」は、当時としては画期的な本だった
それまでは、お経の意味など誰も知らなかった
世の中に大きな衝撃を与えた
松原泰道は、臨済宗の僧侶
自分の仏教体験は、禅宗から始まった
鍛えあげタイプの僧侶てはなく
円覚寺のボンクラのようなサービスの良い路線だったな
😆
ロン閣下に違和感あるよなー
😆
目覚め時は休みボケしてるな?
😆
「これが仏教だ。仏教とは、こういうものだ」と思い込んでいた
仏教思想界に覇を唱えた「有」の思想の説一切有部に反対し
徹底した「無」の思想を唱えた
中観派の論書ではない
中観派が典拠とする経典の1つだ
思想内容は中観派そのものだ
般若心経は
エッセンスだとは思えるなー
ロン閣下解釈は
かなりブットンでるぽい雰囲気を受けかねない雑に言い過ぎてるからなー
😆
なんとなく解るれべにあるのは確か
😆
観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空 度一切苦厄
舎利子 色不異空 空不異色 色即是空 受想行識 亦腹如是
舎利子 是諸法空相 不生不滅 不垢不浄 不増不減
是故空中無色 無受想行識 無限耳鼻舌身意 無職聲香味触法 無限界 乃至無意識界
無無明亦無無明尽 乃至無老死 亦無老死尽 無苦集滅道 無智亦無得 以無所得故
菩提薩埵 依般若波羅蜜多故 心無罣礙 無罣礙故 無有恐怖遠離一切顛倒夢想 究竟涅槃
三世諸佛 依般若波羅蜜多故得阿耨多羅三藐三菩提
故知般若波羅蜜多 是大神呪 是大明呪 是無上呪 是無等等呪 能除一切苦 真実不虚
故説般若波羅蜜多呪 即説呪日 揭諦 揭諦 波羅揭諦 波羅僧揭諦 菩提薩婆呵 般若心経
一番さめている感がある
ま、色々タイプもあるが
😆
偉大なる智慧の完成についての心髄の経
観自在菩薩が深遠なる智慧の完成を実践していたとき、もろもろの存在の五つの構成要素は、皆、固有の本性・実体を持たない「空」であると見極め、だからこそ、あらゆる苦しみと災いを克服した。
舎利子よ、形あるもの(色)は、空に異ならず、空は、形あるものと異ならないのである。形あるものは空であり、空は形あるものなのである。そして、感受作用・表象作用・形成作用・識別作用もまた、同じく空なのである。
舎利子よ、あらゆる存在は空を特質としているから、生じることも滅することもなく、汚れることも清まることもなく、増えることも減ることもない。だからこそ、空であることには、形あるものは存在せず、感受作用・表象作用・形成作用・識別作用も存在しない。眼・耳・鼻・舌・身体・心も存在しない。これらの感覚器官の対象である形・音・香り・味・触れられるもの・心の対象の法も存在しない。範疇としての眼から、意識にいたるまでの十八界もない。智慧が無い状態もなければ、智慧が無い状態も尽きることもない。また、老いて死ぬこともなければ、老いて死ぬことが尽きることもない。苦・集・滅・道という四諦もない。知ることもなければ得ることもない。
得るところのものが何もないからこそ、菩薩は智慧の完成に依るのであり、心には妨げるものがなく、心に妨げるものがないからこそ、恐怖があることもない。誤った考えや夢想を超越して、涅槃を究めるのである。また、過去・現在・未来の諸仏も、智慧の完成に依るからこそ、無上なる完全なさとりを得るのである。
だからこそ知るべきである。般若波羅蜜多とは、大いなる真言であり、大いなるさとりの智慧の真言であり、この上ない真言であり、比べるものがないほど素晴らしい真言なのである。よく一切の苦悩を除き、それは実在であり、虚ろなものではないのである。
だからこそ、般若波羅蜜多を讃える真言を、ここで説こう。
往ける者よ、往ける者よ、彼岸に往ける者よ、さとりよ、幸いあれ。
偉大なる智慧の完成についての心髄の経
子孫も活躍している😆
https://dialoguetemple.com/shinsuke-hosokawa/
曹洞宗寺院で
基本、そーいうのは
あんまりやらない信仰観の人間だ
修行といえばわかりやすくいえば止観というのだけ専門になる感じだ
😆
臨濟宗はそんなに読経熱心派では
本来無い、その文化の住人だ
😆
自分が知ってる禅宗と、ロン閣下の間に、かなりの距離感がある😅
😆
その方面では、聖ウンコ師を圧倒している👍️
と般若心経読経の後に
祈願を入れて
週一読んでいる
😆
読経には、坐禅に勝るとも劣らない効果がある
中観派というのは自称であり、他の部派からは中道思想と思われてなかった
「説一切無部」と呼んだ人もいる
おまつりする諸霊、諸仏諸菩薩の供養及び関係者の安穏の祈願を入れる
ま、坊主があんまり参らないから
代理してるよーなもんだ
😆
そんな仏教界の中でさえ「虚無的な思想」といって非難されたのが、中観派だ
大切だから、それに合わせている
自分の修行好みはない読経には
おかげで
日本化した土着した曹洞宗の儀式的な禅定が上手くなった
😆
祈願供養の霊的な意味も持つ
般若心経もはいってきているだろな
😆
最初
読経の価値が理解できなかった
ショートカットで禅定すれば良い派なので
未だに読経する価値感じないのが
本流だからなー
😆
後が続かなかった(笑)
天台宗の山伏と念仏派
真言宗の山伏と念仏派
このあたりから流行したんやろな
😆
前世で山岳修行したおかげで
今世でもスンナリ、禅定に入れたんだろな😂
ネルケ無方や澤木興道の流派は
読経はするだろうけど
バカみたい坐禅するらしい
😆
山岳でもヒマラヤだろな
😆
チベットの妖気の誘惑無敵クラスに半端ない、世俗を捨てさせるぱわーがある
😆
「坐禅しすぎると、バカになるんじゃないか?」と心配になる😫
😆
これからの探求テーマの1つだ
害虫やからなー
ムイムイもその扱い
😆
「坐禅をしすぎてバカになった」というより
「もともとバカだったのが坐禅中毒になった」というのが真実だろう😂
宗教世界でダメの烙印を、押されるのが
たたあること
バカボンパパも、それだからなー
😆
インストゥルメンタルがドハマりしているのは
クルッポーの楽器バンドの演奏のこだわりの耳が
優秀なメンバーを集めたらしい
😆
キリスト教模索する
キリスト教の神学、教派とはなにか?
まとまってきた
神の霊による守護に関する解釈による
別れだと
初めてキリスト教教派分類のキモが見えた
😆
浄土宗系統、日蓮宗
浄土教山伏神仏習合にも
言える
瞑想仏教以外の謎が
解けてきた、
さらに
😆
寺の節分なとの法要は
仏神、先祖の霊による守護の解釈学といえる、
完璧だなー
瞑想仏教サイドにいると
そんなの関係ねぇ‼️
だからなー
😆
その教義どおりを信じなければ
神の霊は守護ありません、
設定だな、
日蓮にも同じ論法がある
😆
😆
その教義を信じなければ
神の霊の守護はありませんよー
というオチ
宗教研究やっと今期の休暇目標を達成した
大晦日〜正月過ぎの
鬼修行はイレギュラースタートで
降りてこなければ、やらないで
キリスト教かイスラームか神道研究ばかりしてた
😆
スピ界隈で
守護霊ブームが一時流行ったのかー
そこまで知らなかったー
😆
俺のイメージしているところのキリスト教だが
それ以外の既存のキリスト教の存立根拠が謎だった
「守護霊」みたいな視点キーワードが欠けていたから全くわからなかった
謎であった
😆
禅修行モードに切り替え
正月休み3度目の作務実行ー
曹洞宗寺院つる切りタイム
マーマー腕疲れた
😆
中論に関する知識量が明らかに少ないが
もともと、中論という分野自体に情報量が少ない(笑)
五位七十五法や五位百法を初めとして、
教義体系そのものの情報量が多い
そもそも情報量が少ない
倶舎論は割りと最近のテーマだ
仏教思想を凝縮したエッセンスだと思っていた
唯識論に関心を持った
唯識派とは、大学生からの付き合い
「瑜伽行派」というだけあって
当方は個人的に、その世界観を熱烈に支持しているが
世間の一般人を相手にストレートに語ると、頭がおかしいと思われてしまう
大般若経を知らないと
結局わからんだろなー
大般若経は
真言宗に近い要素の一部を持っている
😆
全文ではないが部分訳は三つくらい持ってるな
2008年あたりまで
仏教書の重要ポイントを買いまくりしたからな
😆
新本が一冊
😆
が3冊あって
その中に大般若経があるというパターン
😆
それは本人たちがそう思ってるだけで、
他の部派からはそう思われていない
他の部派から見れば、中観派は「無」にこだわる思想
インド、中国の瞑想仏教が
2003年頃は
それしか関心がなかった
😆
倶舎論はノータッチだった
😆
他の人からは中道に見えない。「無」の思想に見える
大般若経の
データ不足なんよ
それ
😆
日本では
飛ばし読み
経典読まずに
風で読んだことになる
ご祈祷扱い
😆
立憲民主党が「俺たちは中道のリベラルだ」と言うが
他人から見れば「左翼」でしかないようなものだ
大般若経も研究してるのか?😆
浄土宗や日蓮宗系統以外は
ご祈祷行事でやるでしょう
マジメに読まないからなー
日本人は
😫
https://m.youtube.com/watch?v=OvIsMlU0bXA&pp=ygUT5aSn6Iis6Iul57WMIOi7ouiqrQ%3D%3D
俺は正統派瞑想仏教マニアだぞ〜
レスしないだけで
😆
三論宗が衰退したのが痛いな~😫
説一切有部は『有』の思想
中観派は『無』の思想
この2つを統合し、止揚したのが唯識派(笑)
2006年くらいかなー
ていうくらいに
経典は割合読む、
比叡山天台宗の法華経の現在語訳すら持っている
かなり収集しまくってる
ハッスル🤡様にみたいツギハギ上っ面で
解った気にならないタイプ
とにかくデータ収集の鬼だ
書庫に多く眠つているが
😆
「坐禅の回数」だけで押し切るつもりだ
当然2008年あたりぐりいまでだ
それ以降は
山伏念仏神仏習合研究の鬼
昨日、まだ山伏念仏神仏習合が解っていなかったと
思い知ったくらいだ
😆
念仏山伏神仏習合にはあると
😫
功徳=守護霊的?
な日蓮的発想に気づかなかった
😆
密教経典の現在語訳も
持っている
鬼のように買えるものは
片っ端から買った
😆
山伏念仏日蓮の末裔ということだな
😆
京都の法皇貴族が熊野参りする時
伏見稲荷で眷属の守護霊をつけて熊野へ参ったらしい
京都に戻る前に伏見稲荷で眷属にお帰りになってもらう儀式をしていたらしい
マニアだからなー
こういう論文喜んで読む
😆
山伏念仏神仏習合日蓮なんて
😆
確かに😆
大乗仏教経典で最古の経典と言われ
そこからの中論だろしな
😆
ハッスル🤡様が
俺に怒っている、
ここでのレスを見てゲキオコのようだ?
ナイーブだからなー?
😆
↑
これは、聖ウンコ教の根本教義だ
このテーマになると、ウンコとリダンは狂乱状態になる
彼らにとって、最も重要な信仰だ
倶舎論までは、単純に
「出世間的(絶対的、宗教的)真理と俗世間的(世間一般、世俗的)真実」という「二つの真理」
だった
イミフだ
😆
「究極の真理は、言葉では語り得ない。瞑想によって直観するしかない」
という思想が結びついた
ではない
論理的に語るべきだ
というハッスル🤡様の謎の禅
大爆笑である
😆
それは
それだけでは
成実宗である
三論宗は違うと
加藤師匠は
最近の三論宗通信でやってた
😆
禅について、あんなにペラペラと多弁なのは矛盾したスタンス
という感想
😆
どうやら、そのようだ
中観派でさえ、「勝義諦と世俗諦」は、ウンコやリダンが言うほど単純なものではない
成実宗では
虚無の空になってしまう云々と
三論宗サイドは批判してた
と
😆
理論仏教を無関心そうに見えて
加藤師匠の三論宗のチャンネルは
たまに全部見てる
😆
とか
レスするけど
根は正統派瞑想仏教ご好きな根っこはあるから
加藤師匠の動画をたまに見る
😆
加藤師匠の三論宗動画がベストだ😆
加藤師匠をオススメしてきた
霊能女性にも
😆
「釈迦の教えは、世俗諦であり方便である」
「縁起・空性・中道は、世俗諦であり方便である」
「勝義諦に到達するには、坐禅するしかない」
と主張してたことになってるが
それは誤り
単純に誤りだ
釈迦は、「四諦」を初めとする教義を
弟子たちに徹底的に暗記させていた
「善いことをすれば、善い処に生まれ変わる。
悪いことをすれば、悪い処に生まれ変わる」
と、民衆に説法していた
一方で、出家したプロの修行者に対しては
「解脱した人は、どこにも生まれ変わらない」
と、説いていた
↑
相手に合わせた方便とか対機説法ってのは、こういうのを言うんだよ
聖ウンコ派は、大きく勘違いしている
ウンコ本人とリダンしかいないが(笑)
方便でも、対機説法でもない
ガチの仏教理論だ
方便でも対機説法でもない
ヤケクソハッスル🤡してるな?
それは
普通は中道の扱いで
大乗仏教宗派は
別れていった
唯識なら仏智が中道と空
三論宗なら
空を超えた上に中道がある
三論宗は加藤師匠の動画
を見直してみなければ確信持てない
八宗綱要では
三論宗は
空をさらに空じる
とある、ま東大寺なので
三論宗の連中もいたらしいので
それを知っているから
間違いではないとは思うんだがな
😆
ハッスル🤡よりも
八宗綱要の方を信じるけどなー
😆
もちろん、ヤケクソハッスルよりも
八宗綱要の方が正しい
「勝義諦と世俗諦」
「縁起と空」
「八不中道」
中観派については、これくらいしか語ることが無いけどな~😅
自派の教義がちと少ない
別にそれでいいんだが
↓
「釈迦の教えは方便に過ぎない。『私の教えを筏のように捨て去れ』と釈迦は言われた」
「縁起も空性も中道も、世俗諦に過ぎない。それが龍樹の教えなのだ」
「阿頼耶識など、本当は存在しない。それが唯識論の教えである」
それは本編を本気で学んだ後にくる、最後の但し書きみたいなものだ
アイツのように、本筋の教えの内容をないがしろにして、最初からそこにコダワるのは間違っている😅
とくにリダンはひどい。マジで狂っている
何なのだ、アイツらは?😅
2、「縁起も空性も中道も、世俗諦に過ぎない。それが龍樹の教えなのだ」
3、「阿頼耶識など、本当は存在しない。それが唯識論の教えである」
1に関しては、まあ
仏典にそういう一節があるのは事実なので、
それ自体は間違っていないのだが
(ただし、上にも書いたように、
そこにコダワるのは間違ったスタンス)
2と3は、単なる誤り
ウンコの得意な大誤解
特に、上記の3の主張を見るたびにムカつく
同じなわけがない。他人なんだから(笑)
そのたびにいちいち怒っていたのでは、朝から晩までいつも怒ってないといけない
それが分かっているので、滅多なことでは怒らないのだが
アイツらには耐えられん
中観派からしばらく離れていたので、
八不中道についても復習しておこう😄
不生(ふしょう):固定的に「生じる」ことはない。
不滅(ふめつ):固定的に「滅する」ことはない。
不常(ふじょう):固定的に「常住する」ことはない。
不断(ふだん):固定的に「断絶する」ことはない。
不一(ふいつ):固定的に「一つである」ことはない。
不異(ふいい):固定的に「異なる」ことはない(一と異ならない、という意味も含む)。
不来(ふらい):固定的に「やって来る」ことはない。
不去(ふきょ):固定的に「去って行く」ことはない。
「空」の理論の核心: 中観派は、すべての存在は固定的な実体(自性)を持たず、他のものとの関係性(縁起)によって成り立っていると説きます。この「実体がない」状態を「空」と表現し、その空を具体的に示すために八不が用いられます。
二元論の否定: 「生」「滅」「常」「断」といった対立する概念は、固定的な実体があるからこそ生じます。八不はこれらすべての二元的な捉え方を否定することで、「空」なるがゆえの自由なあり方(中道)を示します。
神秘主義・否定神学との類似性: 龍樹の教えは、一見すると矛盾しているように聞こえ、神秘主義や否定神学に通じる側面があるとされます。
基本中の基本を繰り返して、自分自身に刷り込む
思想を理解するには、それが欠かせない
野球に例えれば、直球をマトモに投げられないくせに、魔球ばかり投げようとする変な変化球投手みたいなものだ
当方の読解力や記憶力は聖ウンコより格段に上だが
それでも、こうやって基本を復習している
我ながら、怒りすぎだ(笑)
どうにも嫌いなんだよな、そういうノリが😫
他の芸事とかとは違って、坐禅はだんだん上達して上手くなるってもんじゃないからなあ
ピアノとかカラオケなら、「うまいなあ」と感心してもらえるが
坐禅はあんまり感心されるようなもんじゃないし(笑)
他人から感心されるようなものではない
世間の一般人には、まったく通じない話題
話のタネにもできん(笑)
ときどきリアルで愛好家に出っ食わす
話していると
「ずいぶん詳しいですねえ。どういう人生を送ってきたのですか?」
と感心(?)されることもある
だが、哲学はダメだ
まず、話題にすらできない
寺や神社を巡るのが趣味の人は、世間にも結構いる
話が盛り上がることは意外に多い
話のタネとして有効だ
「禅寺に通って、坐禅しています」と答えたら
人によっては、「へえ」と感心してくれるかもしれんな(笑)
「この前、鎌倉の円覚寺で坐禅してきた」という話を、何人かにしてみたが
「へえ、鎌倉か、いいね! 江ノ電には乗った?」とか、そんな話になってしまった
こちらの言いたいこととは、受け止め方が違っていた😫
「へえ、リアルでそんな人と巡り合うとは、なんたる奇遇😆」とばかりに、大喜びでプラトンやアリストテレスの話をしてみたが
その人は、当方のマニアックなノリに、すっかり逃げ腰になっていた
こちらは幼少の頃からの、年季の入った哲学ヲタクだ
平均的な普通の人が大学で2~3年ほど勉強したぐらいでは、とてもついてこれない
ウンザリするほどマニアだ
5ちゃんの新興宗教スレでは、信者諸氏の根性に内心、舌を巻くことも多々あった
「これで、よく当方と議論しようという気になれるなあ」と
思想内容はともかく、その根性には感心した
「この世で生きている以上、他人の考えが自分と異なるのは当たり前だ。
同じなわけがない。他人なんだから(笑)。
そのたびにいちいち怒っていたのでは、朝から晩までいつも怒ってないといけない」
そういう諦観に達したからだ
その心境になるまで、何年もかかった
ある意味、良い経験になったものだと思う
左翼とは相性が悪くて、激しい論争になる
ネット上には右翼が多くて、左翼の絶対数が少ないけれど
5ちゃんねるの世界史板には、左翼の爺さんたちがいた😫
彼らには、「お前の歴史観は、日本アゲ⤴️ 中国朝鮮サゲ⤵️ が露骨だ」と言って、さんざん批判された
どんな話題でも、何かにつけて韓国を引き合いに出し、小バカにしながら語るのがスタンダードだったのだ
韓国は別に嫌いではないし、今はやってない
中国や欧州の歴史を、日本の歴史と同じようによく知っている
高校の世界史くらいで「覚えることが多すぎる。暗記偏重だ」とかなんとか、ブーブー文句を言うような知識量では、とてもついてこれない
当方に限らず、世界史板の住人はそんなのばかりだった
高校レベルの世界史など知ってて当たり前、世間の一般人には知るよしもないマニアックな話が飛び交う空中戦だった
宗教史の知識で圧倒できるだろう😂
出来事の時系列的な矛盾とかを当方に突かれて、爆死状態になってた
歴史上の出来事を、起きた順番通りに並べるのが不得手だ
必ずといっていいほど、どこかで前後関係に狂いが生じる
数学とかコンピュータだったなら
さぞかし超優秀なコンピュータ技術者となり、現代の社会において大いに有用な人間となっていたであろう😂
まあ、語学も得意なので、それなりに役立つ特技ではあるが
21世紀は、文系より理系が重宝される時代だ
棍棒みたいな鈍い武器を振り回してバッタバタと敵を倒していく、腕っぷしの強い大男が重宝されていた
だが、21世紀においては、怪力男の需要が低下した
工場や建設現場の作業員も、肉体労働者というより、機械のオペレーターだ
数学やプログラミングに強いのは、たいした特技じゃなくなってることだろう
現代の怪力男が、どう頑張ってもフォークリフトに勝てないのと同様
今後は、どんなに高知能でも A.I.に勝てなくなる
そういう時代環境の変化を、つい考えてしまう
考えたところで、どうなるものでもないのは分かりきっているが😂
中観派は、見た目ほど合理主義者ではない
むしろ、神秘主義がかっている
二元的なとらえ方の否定と言われると、どうしても老子と比べたくなちゃんだよね。
佐々木閑氏も空という信仰と言っている。これは、ある意味神秘思想でもある。
よっぽど釈迦の方が合理主義者である。
そうともいえん
世界が実は
現れるのを見ることがある
年に一、二回墓参り行く相手だ
履歴を見れば、
時間、AI無関係な世界を見る
ま、たまに俺は霊的に教えてくれるし、
良い相手だ、
ま、スタープレイヤーだな、
あれは
😆
イエス・キリストもおったまげな
世界を知らん世界がある
いわんそ
😆
ハッスルやムイムイみたいに
ひけらかしたい気にならん
😆
ネット時代ですら
夜には知られてないのだ
😆
凄い扱いされてた
お墓やったしなー
最近、地元民が崇敬の念が出てきたみたいだけど
😆
😆
付き合い濃くなる
😆
> 二元的なとらえ方の否定と言われると、どうしても老子と比べたくなちゃんだよね。
老子と比べると、どうなる?
すごいな?😆
対立概念の相互依存: 『老子道徳経』第2章に「有と無は相い生じ、難易は相い成る」とあるように、美しいものがあれば醜いものがあり、良いものがあれば悪いものがある、というように、対立する概念は互いに存在を必要とし、一方だけでは成り立たないと説きます。
固定観念の打破: 人々が「美」を認識することで「醜」が生まれ、「善」を認識することで「悪」が生まれる、といった二元的な価値観に囚われることを戒め、これらの対立を超えた「道」の視点を持つことを促します。
「道」による統一: 最終的な目標は、これらの対立する概念を超越した、根源的な「道(タオ)」に帰一することです。道は、有と無、善と悪といった区別を超えた、万物を生み出す根源であり、全てを包摂するものです。
荘子の「万物斉同」: 荘子は、老子の考えを発展させ、万物に本来「善悪」「美醜」などの区別は存在しないと主張しました。この「万物斉同」の思想は、あらゆる差別や対立を超え、全てを平等に受け入れ、肯定する立場です。
老子は、対立する二元概念が互いに依存している「相待」の原理を示すことで、人々が二元的な思考から脱却し、「道」による全体的な視点へと向かうよう導きます。これは、西洋哲学などでいう単純な「善悪二元論」とは異なり、対立そのものを否定するのではなく、その対立を超越して統合する視点を目指すものと言えます。
インストゥルメンタルはまかり聞いたからボーカリスト以外に相当ハマったー
クルッポーが音楽センスの耳があってハイレベルのプレイヤーを集めて外人に人気が出てるようだ
ボーカリストあり
https://m.youtube.com/watch?v=xmxEuQXTHUU&list=RDxmxEuQXTHUU&start_radio=1&pp=ygUq44OQ44Oz44OJ44Oh44Kk44OJ44CA44OJ44Of44ON44O844K344On44OzoAcB
臨済宗の中道とは
なにか?
ご解ってもくる
屁理屈嫌いな臨済宗でも
実は
ちゃんと中論を踏襲している
😆
ベーシストが特にヤバいな
クルッポーは
東京事変のファンで
ベーシストへのこだわりは
激しそうな
クルッポーは
凄い演奏メンバーを選んだらしい
自然発生のバンドじゃない
クルッポーの音楽センスでてきたバンド
😆
売れる、ウケるのを狙ったんやろな
😆
リズムギターで
そんなに演奏的に超ハイレベルというわけではない
クルッポーしてる看板だけの人か?
と思ったが
バンドメンバーをチョイスするのと
メイド服で売るという
バンドプロデューサーだったらしい
😆
人間チェスゲームの達人だな?
あれは
マネするの不可
んな度量ありしぇん
僕には
😆
クルッポーの天下で売るという
不思議なバンドだな、
あれは
普通のバンドは
ボーカリストのビジュアルで売るもんだがなー
😆
XJAPAN も、ボーカルのTOSHI より、ギターのHIDE に人気があった
なんとも深遠なテーマだ
タ氏の論考に期待しよう~😆
違う違う
2、「縁起も空性も中道も、世俗諦に過ぎない。それが龍樹の教えなのだ」
ではなく
「縁起」、「空性」、「中道」と
定義、表記したら方便な
3、「阿頼耶識など、本当は存在しない。それが唯識論の教えである」
誰がそう言ったんだ?
阿頼耶識も空性であるってだけだろ
人からみた理由付けなんだよ
解き明かしていく過程で置いただけ
質疑と論破形式で書いてある
おい、馬鹿w
↓
633 栖雲居士◆t8ok0QoQ8kcK[] 2026/01/05(月) 15:56:11.86 ID:xy2xM
おい、JBL!
ブンブン銀蝿🪰統失知障🤪ペニスマン🤡でおーの金魚の糞!
お前、俺より中観について詳しいんだろ?
だったら「ガーワドンの啓示」くらい常識だよな?
俺に関わるな。
関わらなければこうやって〆られないから。
大人しくコソコソ、影で語ってろ、馬鹿😟
😆
なんだ、ガードマンの掲示って?
大噴火するらしいー
さすが参禅30年🤡だけのとこがあるなー?
🤡
色即是空云々の
色のテーマが薄い
超越主義じゃね?
ヒンズーもデンパパ📶も
超越志向だろな
😆
😆
老子は「道」への回帰と「無」の肯定、龍樹は「空」の理解による「中道」の実践が核心で、根源となる概念も、目指す境地も異なりますが、両者とも「有る(存在)」と「無い(無)」の相対性を深く探求する点で共通点もあります。
根源: 「道(タオ)」。万物を生み出す根源であり、形なく、名付けようのないもの。
思想: 「無為自然」「柔弱謙下」。自然のままに生き、作為を排し、弱いものが強いものに勝つという「反者(はんしゃ)好(す)る」思想(例: 水は弱くても、岩を穿つ)。
目標: 「道」に帰一し、小国寡民で争いのない理想社会を実現する。
根源: 「空(くう)」。あらゆる存在は固定された実体を持たず、相互依存(縁起)の関係にあること。
思想: 「色即是空、空即是色」。目に見える現象(色)も、実体がない(空)も、両者は同じ(空っぽ)であり、同時に存在するという中道。
目標: 「空」を正しく理解し、「有る」という執着から離れることで、苦しみ(涅槃)を滅する。
三論宗と天台宗のシステムの理解が必要だな
😆
即身成仏義とチベット密教に展開したみたいなもん
😆
何が分からんのや
色の理屈やて空ってのは
空やから色が成り立つ
自分でいうてたやん
原子はすかすかの空っぽやって
人にたいする(世俗)の説明であるわけや
あれだけ八不いうて否定してきたのに
空を仮設として置き説明するわけやな
仮設としておいた空の否定となるわけだ
なぜなら人の認識、定義(世俗)の上で仮設として置くからだ
順序よく説明せな理解が及ばないわけだな
んで実証としての空の理
仮設をとっぱらった勝義を示さなあかんわけだ
仮設、方便
呪、勝義としての
ぎゃーてーぎゃーてーがあるわけだな
めちゃめちゃ分かりやすく
書き込めてるやん
何かしら言葉による真諦があるんやないの
中論においての勝義とは
仮設で置かれた説明をとっぱらった
あるがまま、な
よう分からんままやから
色即是空 空即是色なんやー
とウィキレベルで知った気になるわけ
ってのが
戯論寂滅という様なわけやな
(勝義)
何かしら言葉による真諦があるんやないの
ここが分かんなきゃ中論は分からんし
ましてや唯識論なんか分からんぞ
それはどうでもいいんだ。
さて、老子と言えば、道可道、非常道 これだ。
この道を、法に変えると、法可法、非常法となる。
構文的には、即非のように見える。
となると、老子は勝義諦を語っているのかということにも見える。
まぁこんな考察をしている。相対もそうだけどね。
道という根源的全体性がある
それは言語化できないが、確かにある
→ 肯定的非二元
般若・龍樹
根源的原理という発想そのものを否定
空すら空である
→ 否定的非二元
否定的非二元のための論理装置。
「即」という技法は、
言語が必ず二元に落ちるという限界を突破するために必要だった。
中観は“否定的非二元”を示すために、
肯定と否定を同時に成立させる論理装置を必要とした。
般若・中観における「即」は、“即”であり、同時に“即ち”でもある。 ただし、これは普通の日本語の「即ち(=つまり)」とはまったく違う働きをしている。
人間の言語は、主語、述語、名詞、対立、固定化
こうした構造を前提にしている。
言語は、言った瞬間に“実体”を作ってしまう。
たとえば「空」と言った瞬間に、「空という何か」があるように聞こえてしまう。
龍樹は言う。「空という概念すら空である」
AはA
AはBではない
*「即」はこうする:
AはBである(即)
AはBではない(即非)
だからAとBは実体ではない(非二元)
「即」は、言語の実体化作用を利用して、その実体化を破壊するための逆転装置。
言語の毒を、言語の毒で中和する。まさに毒をもって毒を制すw
あとで。
老子における「比較」とは何か
老子の比較は、
二つの対立項が互いに依存し、互いを成立させていることを示す行為。
たとえば:
有無相生
「有」は「無」がなければ成立しない
「無」も「有」がなければ意味を持たない
→ 比較することで、両者が同源であることが明らかになる
難易相成
「難しい」は「易しい」があるから成立する
→ 比較は対立の“共生”を示す
長短相形
「長い」は「短い」があるから成立する
→ 比較は二元の相対性を暴く
対立項が互いに依存し合い、
それぞれ単独では成立しないことを示すための方法。
つまり比較そのものが“非二元の証明”になっている。
老子の「ある」とは何か
老子の『道徳経』の冒頭にこうあります:
道可道、非常道。名可名、非常名。
(語りうる道は常の道に非ず。名づけうる名は常の名に非ず)
ここで老子は、
「道」は言葉で語った瞬間に“それ”ではなくなる
と言っています。
しかし同時に、彼は「道」という語を使い続ける。
これは矛盾ではなく、言葉では捉えられないが、確かに在る”という肯定です。
老子はこうも言います:
天下万物生於有,有生於無。
(天下の万物は有から生まれ、有は無から生まれる)
つまり、
「有」は「無」から生まれる
「無」は“何もない”ではなく、“名づけられない根源的な働き”
その働きが「道」であり、すべてを生み出す源
このように、老子は「無」や「道」を否定せずに肯定する。
ただしそれは、実体的な“存在”としての肯定ではなく、
言語や概念を超えた“働き”としての肯定です。
中国は儒仏道の三教
どの宗教も、それぞれに死生観がある
儒教・・・祖霊招魂
仏教・・・輪廻転生
道教・・・不老長生
「孝」の思想: 親を敬い、死後もその孝行を続けることが儒教の根幹であり、祖先崇拝はその延長線上にあります。
「魂魄」の思想: 人は「魂(天に昇る)」と「魄(地上に留まる)」からなり、子孫が祭祀を行うことで、魄が位牌などに宿り、子孫を見守ると考えます。
儀礼の重要性: 祖先を祀る祭祀(祖先祭祀)は、単なる信仰ではなく、儒教そのものであり、秩序維持のための不可欠な行為とされます。
子孫への恩恵: 祖先崇拝を行うことで、子孫に子宝・裕福・長寿(福禄寿)がもたらされると信じられています。
習合: 日本固有の祖霊信仰(縄文・弥生時代から続く)に、儒教の倫理観や仏教の追善供養が結びつき、現在の形になりました。
生活への浸透: 仏壇に位牌を置き拝む習慣や、お盆・彼岸の墓参りなどは、儒教の影響が色濃く反映されたものです。
「儒」の語源: 「儒」という字自体が、死者と交流するシャーマン(巫女的な存在)を意味し、祖霊祭祀に深く関わっていたとされます。
儒教の祖先崇拝は、単なる故人への思いだけでなく、家族・社会の秩序と繁栄を支えるための重要な「実践的倫理」であり、その思想は日本の宗教観や風習に深く根付いています。
神仙思想(仙人思想): 修行によって不老不死の仙人になることを目指す思想で、道教の核心の一つです。
錬丹術(れんたんじゅつ): 仙薬(不老長寿の薬)を求めて、金や水銀などの鉱物、草木を加熱・調合する技術で、火薬の発明にもつながりました。
養生術(ようじょうじゅつ): 呼吸法(導引)、瞑想、飲食の調整(薬食)などを通して、心身を養い、寿命を延ばそうとする方法です。葛洪の『抱朴子』などで重視されました。
「道」との合一: 『老子』『荘子』に由来し、自然の根源である「道」の理に従い、無心になることで、精神的・肉体的に「道」と一体化し、長寿を得ることを目指します。
理想: この世の快楽を長く味わうことや、神仙のように自由になること。
歴史: 古代中国の民間信仰(蓬莱山信仰など)や、秦・漢帝国の権力者たちの願望と結びつき発展しました。
重要性: 道教は「道」を説き、不老長生を究極の理想とする生き方・哲学であり、老荘思想と神仙思想が融合して成立しています。
仏教・・・極楽往生
道教・・・不老長生
儒教・・・祖霊招魂
この世で仙人になり、不老長生することを目標にしている
儒教も、死後世界や輪廻転生を考えない(これは中国古来の傾向だ)
儒教では、死後に祖霊となって、子孫に祀ってもらうのが救済だ
子孫は祖先を崇拝し、ときどき祖霊を招魂する儀式を行う
祖霊の魂魄は、子孫に呼んでもらって一時的に復活する
>儀礼の重要性: 祖先を祀る祭祀(祖先祭祀)は、単なる信仰ではなく、儒教そのものであり、秩序維持のための不可欠な行為とされます。
これこそ、儒教思想を凝縮したエッセンスだ
中論だけては深く見えてこない
大般若経は衆生済度の野心がある
その意味での中論だろな
中論自体が有部との論争の書だから
余計にわかりにくい
😆
超越的解釈
ヒンズーは世を神の遊戯と設定する
😆
哲学板の連中はうるさい😫
「供養は仏教に特有の概念だ」といって、ある奴にさんざん責められた
このため、「祖霊崇拝」とか「祖霊招魂」に変更した
なるほど~😆
ヒンズーのブラフマン、アートマンみたいな位置だろな
😆
それは
一理ある
徳川家康の
日光東照宮の影響がデカいかも
仏教への儒教の流入
天海の山王一実神道と徳川家康崇敬の為の儒教の融合、
このあたりで
先祖供養が強末っただろうな、檀家制度とセットで
それ以前は
それ以降も残るけど
菅原道真公みたいな怨霊、悪霊を宥める死者供養で災害起きない、日蓮発想のベースみたいなのが主流やったんやろ
😆
>儀礼の重要性: 祖先を祀る祭祀(祖先祭祀)は、単なる信仰ではなく、儒教そのものであり、秩序維持のための不可欠な行為とされます。
中国人や朝鮮人が、靖国神社への参拝をよく非難するが
彼らは儒教の徒だ。神社ってものを誤解している
彼らは、「靖国神社には位牌があって、戦犯たちの魂魄を現世に留めている」と勘違いしている
先祖の怨霊とかは、中国から入ってきた思想
起きるみたいな
ある種の怨霊を宥めるには
法華経だけだと
思っていたふしもある 😆
実際には、隋唐は極めて迷信深い国
国を挙げて、加持祈祷ばかりやっていた
高野山や比叡山では
瞑想や悟りよりも
仏の化身の神のご機嫌を損ねて
災害起きるのが
主な問題、僧侶の役割になりつつあった
仏教教義を学ぶのも神を宥めるためみたいな、
末法だしねー
ほんと山伏念仏研究の鬼たった分
その時代を広範囲に理解できるよーになった
😆
神仏習合だ~😆
古い時代は
怨霊になるのは
天皇、貴族なと
力ある人
凡人は
山に捨てられるだけ
高野山の高野聖や空也が
死者供養しだした
むろん、先祖供養まて意識はない
この頃は
😆
そこには、「西洋人は物事に白黒ハッキリつけたがるが、日本人は曖昧さを好む」という、定番の図式があった
これこそ、「日本人教」の根本教義と言える
「日本的な曖昧さ」の象徴が、神仏習合だ
中国でも、儒仏道の三教は混ざり合って習合し、見分けがつきにくくなっている
法華経を信じないと国が滅ぶという発想は
当時の比叡山高野山の思想を想定しないと
本来の仏教の別物の謎は理解てきない
とうせ、そうかの連中も、その時代背景は知らんやろなー
😆
真宗が現在、それを言うとおまんま食い上げになるレベル
😆
遺体を大事にするという発想が、大昔の日本にはなかった
死んだら、遺体は野山に棄てて、腐敗して土に帰るのを待つ
それが普通だった
インド人も、遺体を尊重しない。インド人にとっては、死んだ人は去ったのであり、遺体は抜け殻にすぎない
遺体を大事にするなど、中国内陸部やエジプトみたいな乾燥気候でしか浮かばない発想
乾燥気候の人は、偉い人の遺体を乾かしてミイラにすることがよくあった
今の先祖供養好きの仏教からは
それとは異なる仏教教義のかなりの原理主義者だ
😆
本来の仏教は、肉体先祖などまったく重視しない
そもそも、開祖の釈迦にしてからが、親も子供も棄てて出家してるしな~😅
先祖供養は、儒教に由来する発想
現在の僧侶よりも
遥かに勉学して
信心だけでよいという
原理主義者だった
死者供養いらなかったから
一向一揆がやれたのかもなー
😆
あんなの仏教じゃない。儒教の変形バージョンだ
石原慎太郎は中国が大嫌いだったが、霊友会の熱烈信者だった
彼の思想は儒教系だ😅
一向一揆をやってたのは、本願寺顕如や蓮如では?😅
死者供養の意識が高い
御書には
死後の
霊山浄土云々とかある
😆
この世には意味がない
あの世で素晴らしい来世が待っている
親鸞の教義が信心で良かったので
その系譜なので
死者供養いらなかったから
戦争やれたんだろうと
😆
日蓮大聖人は、顕教・密教・神道・儒教・道教・・・
全部が入った東洋思想の総合商社😆
生者と死者の即身成仏徒霊山浄土思想家
😆
😆
読んでいる自信がある
むろん偽書系統は詳しくない
😆
あれは道教の仙人修行そのもの
創造の源泉: すべての「有」(存在する物事)は「無」から生じ、また「無」に帰るという考え方です。「無」は何も無いのではなく、あらゆる可能性を秘めた充実した状態です。
無限の可能性: 人間は本来無垢であり、その「無」の状態こそが無限の可能性を秘めているとされます。
「無用の用」: 役に立たないように見えるもの(空間、隙間など)こそが、役に立つ「有」を成り立たせているという思想で、相対的な価値観を超越します。
作為をしない: 「無為」は「何もしない」ことではなく、人為的な作為や無理な働きかけをしないことを意味します。
自然に従う: 「無為自然」とは、山川の流れや季節の移り変わりが自然の法則に従うように、人間もまた作為を捨てて、あるがままの自然の摂理に沿って生きるべきだという理想的なあり方です。
老子の「無」の思想は、現代社会における執着や過度な競争から離れ、自然体で生きること、そして「役に立たない」とされるものの中にこそ価値を見出すことの大切さを教えてくれます。
三十の輻(や)は一の轂(こしき)を共にす。其の無に当たりて、車の用有り。
埴(つち)を埏(こ)ねて以て器を為つくる。其の無に当たりて、器の用有り。
戸牖(こゆう)を鑿(うが)ちて以て室を為る。其の無に当たりて、室の用有り。
故に有の以て利を為すは、無の以て用を為せばなり。
車輪は、30本の輻(スポーク)が轂(ハブ)に集まって出来ている。その轂に何もない空間があるからこそ、車輪としての用を為している。
器は、粘土をこねて作る。その器に何もない空間があるからこそ、器としての用を為している。
家屋は、戸や窓をくりぬいて作る。その家屋に何もない空間があるからこそ、家屋としての用を為している。
だから、「有」(形のあるもの)が働きを発揮するのは、「無」(形のないもの)が役割を果たしているからだ。
どう違うのかを説明できない
老子から何年も離れている
天下の物は有より生じ、有は無より生ず。
この世の万物は「有」から生じ、「有」は「無」から生じる。
道は一を生じ、一は二を生じ、二は三を生じ、三は万物を生ず。
「道」は「一」を生み出し、「一」は「二」を生み出し、「二」は「三」を生み出し、「三」は万物を生み出す。
ミリンダ王の問いに近いね
ミリンダ王が「あなた(ナーガセーナ)とは誰か?」と問うと、
ナーガセーナはこう答えます:
「“ナーガセーナ”というのは仮の名にすぎない。
私は身体、感受、想念、形成、識(五蘊)の集合体であり、
それらの集合に“ナーガセーナ”という名を仮に与えているにすぎない。」
そして彼はこうたとえます:
「車は、車軸・車輪・車体などの部品の集合に“車”という名を与えているにすぎない。
それ自体としての“車”という実体は存在しない。」
この譬えは、老子の「三十の輻は一の轂を共にす」に極めて近い。
老子:“無”があるから“車”としての用が成り立つ
ナーガセーナ:“部品の集合”に“車”という仮名を与えているだけで、実体はない
→ どちらも“実体”を否定し、“関係性”や“空間”に意味を見出している
そうやって、似てるとこを強調すると
ますます違いが見えにくくなる(笑)
そんなの聞いたことがないな
師匠は臨済宗の超エリートだが
😆
丹田云々は否定されるだろうな
😆
😆
老子:名づけた瞬間、それは本質ではない
ナーガセーナ:名は仮であり、実体を示すものではない
デンジャーだからなー
😆
仮や色の解釈、内容理解してないから
夕やJBLは
なんだかわからなくなる
😆
😆
白隠じゃないか?
内観法を教えたのは、白幽子かな
理屈だから。
でおーは密教的解釈で見ているんだろうね
このブログに書かれてることからすると
老子の「無」は、龍樹の「空」というより
アリストテレスの「第一質料」に近い気がしてくるな
仮名とは、実体なきものを、便宜的に名づけているにすぎない。
だからこそ、空なるものは仮に名づけられて現れる。
この関係は、
“言葉で語ることの限界”と“言葉を使うことの必要性”を同時に抱えている。
それが、龍樹の中観の深さであり、
老子の「道可道、非常道」とも響き合うところなんだ。
> ありとあらゆる可能性を含みもつ状態
これは、アリストテレスの「第一質料」そのものだ
老子も、「言語の限界」説なのか?
そういう印象は受けなかったなあ
老子の無に似ているね。
言われてみれば、そういう風にも見えてくるような
「語りうる“道”は、真の“道”ではない」
言葉で定義できるような“道”は、すでに“道”ではない
言語によって捉えられるものは、すでに本質からズレている
*「名可名、非常名」
「名づけうる“名”は、真の“名”ではない」
名づけた瞬間に、それは“固定された概念”になってしまう
名づけは便宜にすぎず、本質を捉えきれない
確かに、似ている
それは言語哲学だな
道可道、非常道。
名可名、非常名。
無名天地之始;有名萬物之母。
故常無欲,以觀其妙;常有欲,以觀其徼。
此兩者同出而異名,同謂之玄。
玄之又玄,衆妙之門。
*現代語訳(意訳)
「語りうる“道”は、真の“道”ではない。
名づけうる“名”は、真の“名”ではない。
“無名”は天地の始まり、“有名”は万物の母である。
だから、常に欲を離れていれば、その“妙”を観ることができ、
欲を持っていれば、その“現れ”を観ることになる。
この二つ(無と有)は同じ源から出ており、名は異なるが、共に“玄”と呼ばれる。
その“玄”のさらに奥にあるもの――それが、すべての“妙”の門である。」
言語学かというよりも言語では表されないということだと思う。
大方(たいほう)は隅無く、大器は晩成し、大音は声希(かす)かに、大象は形無し。
(大いなる方形には角がなく、大いなる器はでき上がるのがおそく、大いなる音声は聞きとれず、大いなる象(すがた)には形がない。)
「大器晩成」という言葉は、器を人間の器量のこととして「大人物は年をとってから才能を表わす」という意味で使われ、現代でもよく知られています。他の三つの言葉は否定形ですが、この言葉だけは、なぜか肯定形です。本来ならば、ここでは「無限大の器は完成することがない」と書いてしかるべきでしょう。
もともとの『老子』においては、この部分には別の語が書かれていたようです。一九七三年に発見された帛書『老子』を見ると、「大器晩成」ではなく「大器免成(めんせい)」となっています。「免成」とは「完成することを免れる」、つまり「大器は完成しない」という意味で、他の三つと同じ否定形になります。
これは、老子の核心
無と道の説明だろうね、
すべてを生み出す根源的な「働き」として肯定的に捉えているということだろうね
そうですね。
> そんなの聞いたことがないな
> 師匠は臨済宗の超エリートだが
> 😆
セイウン様によると、臨済宗の禅僧は丹田を練ってるらしい
老子にも確かに、そういう一節はあるが
そこが老子の中心テーマとは思えんなあ
しかし、本来『老子』という書物は競争社会から落ちこぼれた弱者を癒やすためだけに書かれたものではありません。大衆に向けてではなく、統治者に向けて書かれた、いわば「権謀術数の書」という側面もあるのです。「天子」「侯王」「万乗(ばんじょう)の主」といった支配階層を表わす言葉が頻繁に登場しますし、なかでも、理想の君主を表わす「聖人」は『老子』を代表する言葉のひとつと言っていいでしょう。『老子』の中には、個人の処世術より、国や領土をいかにしてうまく治めていくかといった統治論が多く書かれています。その統治論には、それまでの社会常識を覆すような反体制的な姿勢が貫かれているのも、ひとつの特徴です。
そこが大きな違い
老子から長いこと離れてたが、コピペしてるうちにだんだん思い出してきた(笑)
仏教には時間的な今ここということがあるかもしれないが、
老子には無為にして無不為と行為の様態がある
古之善為道者,非以明民,將以愚之。
(古の道をよく行う者は、民を賢くしようとはせず、むしろ愚かに保とうとした)
老子の言う「愚」は、現代の「愚か」とは違い、
“素朴で、欲望に駆られず、自然に従って生きる”という意味合いがあります。
現代的な考えない方がしない方がいいのだろう。
ハッタリハッスルには困ったもんだ
麦もまだ、その知識影響抜けてないだろしな
😆
おい、馬鹿w
↓
633 栖雲居士◆t8ok0QoQ8kcK[] 2026/01/05(月) 15:56:11.86 ID:xy2xM
おい、JBL!
ブンブン銀蝿🪰統失知障🤪ペニスマン🤡でおーの金魚の糞!
お前、俺より中観について詳しいんだろ?
だったら「ガーワドンの啓示」くらい常識だよな?
間違った臨済宗情報が流れている
ハッキリ言って害虫だ
😆
デンパパ📶や麦やNO1の前で言っても
虚しいので
今まで言わなかっただけだ
😆
語るのが意味がない派
😆
疲労回復できたら
それでええ
派なので
デンパパ📶やヒロキ、ムイムイみたいな
宣伝はいらない
😆
語る派だろうけれども
😆
マルチポスト貼り付けは
余程寂しいのだろうな?
感がする
😆
視之不見、名曰微。聴之不聞、名曰希*1。循*2之不得、名曰夷。三者不可到詰、故混而爲一。一者、其上不悠*3、其下不忽。縄縄不可名、復帰於無物。是謂無状之状、無物之象。是謂惚恍。随之不見其後、迎之不見其首。執今*4之道、以御今之有、以知古始。是謂道紀。
老子は、自然と社会の歴史をつらぬく理法・法則とでもいうべきものを表現する用語として道という言葉を使った。この道というものは通常の五感ではとらえられないという。つまり、「「微」で目をこらしても見えず、「希」で耳をすましても聞こえず、「夷」で循でさすっても感じない」ものだというのが、老子のいうことである。そういうものが混沌として一体になって、形状もなく、物としての現象もないまま時空に偏在している。その様子は、透明な縄が絡み合っているようなというのだから、一種の網のようなものを印象しているのであろう。
中観派も、ずっと分かりやすい思想(笑)
/ , `ヽ.
/〃//,. ,ィl/|l ト、 !、 、 ヽ
ー’´| | l |1 | !l. l| ! | l.|ヽ ! !、 ’, おじちゃんたち
YレV!ヒエ「! |l.「_ト!Ll」| l l l どうしてはたらかないの?
! lハイJ | ´|_jヽ. リ,! ! l. l |
|l |l.} ー , L _,ハl.lトl l. | l
|l ilト、 n ” ,1l|ィ| |l l |
_ 二,ニ^tュ–ェ_t1」l.|l !リ|_lノ
r7´ f r┐| 〔/ミヽ>,-、 ̄´
Y ー个‐’t ハ-、_’ゝ、
ヽ ._・ rく ̄ヽト-‘丿 ヽ l
/ (・__,)ゝi┬’´ハ` ’`|
|ヽ, イ ノ┴くヽヽ、 /
`´ ゝ┬ヘ`ヽ | `ー‐1
ゝノ-‐^ー’一”丶 ヽ ヽ
ト、_ `ーァ’¨不ヽ
| | 「 ̄「 ̄l ̄ト、,イトヒi′
l l. l l ! !└’ l |
└ L 」_,|__l_l.__L.l′
| | | |
l l ! !
l l. l l
ト–┤ !–‐1
f‐t央j. ト央ァヘ
| 甘l、 / 甘 |
l ,.-‐ヽ レ’⌒ヽ/
`く.__ ノ ゝ–‐′
構造的なものだろう。だから私達にはわからない。たとえば、仏教で言えば、18界等が構造的であり、私とは後付けで出てきたものである。とかなるのだろう。
ヒンズーヨガに近づけたほうが理解しやすいだろな
😆
禅の雰囲気で老子を近づけるのは
無理がある、
夕的にはオモロイかもしれんが😆
世界に満ちるプラーナとかのほうが
老子に近いだろな
😆
基本的には
仏教なので
自他共に対象の認識
それは老子やヨガでは
設定されていない
😆
俺からすれば、どの瞑想系統仏教でも
対象の認識を重視する
対象の認識の仕方は異なれども、
そこが
老子とヨガとの違い
😆
それはより明白になった
俺的には
😆
老子は“心”よりも“自然(じねん)”を重視する
老子の中心は「道」と「無為自然」。
心を観察する
心を空にする
心を悟る
こういう方向性は、老子にはほとんどない。
老子はもっと“外側の自然の働き”を観ている。
水のように
谷のように
母のように
柔弱の勝つ
「内観」とは方向が違う。
腹筋崩壊wwwwwwwwwwwwwwwwww
“絶対”を肯定的に定義しない。
否定・逆説・沈黙で指し示す。
> ところで、ガーワドンの啓示ってなんだ?
JBLが詳しいって言うから、先に彼に聞いて下さい。
悔しいのか?
🤡
↓
でおーは、勝義諦の上位概念の説明。
心を柔らかくし、光を抑えて世界と調和する”という実践
光を和らげ(和光)
→ 自分の鋭さ・知恵・個性・主張を抑える
塵に同じくす(同塵)
→ 世俗の中に溶け込み、争わず、逆らわず、自然に生きる
これは、
“悟りの光を隠し、世界と調和して生きる”
道は沖(むな)しくして、これを用うるも、あるいは盈(み)つることなし。
淵(ふか)きこと兮(かな)、もって万物の宗(むね)となる。
その鋭きを挫(くじ)き、その紛(ふん)を解(と)き、
その光を和(やわ)らげ、その塵に同じくす。
湛(たた)えたること兮(かな)、あるいは存するがごとし。
われ誰(たれ)の子なるかを知らず。
帝の先に象(かたど)る。
*読み下しの意味の流れ(簡潔に)
道は空っぽのようで、使っても尽きることがない。
深淵のようで、万物の根源である。
鋭さを挫き、複雑さをほどき、光を和らげ、塵に同じくする。
深く静かで、あるような、ないような。
誰の子かは分からない。
ただ、天地の帝(天帝)よりも先にあるものを象っている。
*老子自体は
老子の意図はもっとシンプル
老子の第四章の意図は、
とがりをなくし
複雑さをほどき
光を和らげ
塵に同じくする
つまり、
自分を主張せず、自然に溶け込む柔らかさ
これだけ。
宗教的な修行論ではなく、
自然哲学としての“柔らかさ”の比喩。
和其光、同其塵。
この二人は「似ている」と言われることが多いけれど、実は方向性がまったく違うのに、到達点だけが似てしまうという非常に面白い関係w
老子よりになってきたな。龍樹との比較だったw
実は方向性がまったく違うのに、到達点だけが似てしまう感じる非常に面白い関係w
この方がいいかな。私がそう思っているということでw
仏教は現実把握
老子は現実無視の自由でしょう
😆
教義内容がマジで乏しいな😅
スピリチュアル・エッセーっていうくらいの感じ
それと比べたら、老荘は思想らしい思想だ
説一切有部は「有」
中観派は「空」
唯識派は「心」
老子は「無」
「それを言うなら、中論だろ」とツッコミを入れたことがあったかも
当然、空の思想を中観派から大いに取り入れている
でも、普通は、唯識論を「空の思想」とは言わんわなあ
「空の思想」っていったら、中観派だ
さすがに、世間の一般人が素朴に思ってるような意味で存在しているわけではなく、虚構に近い存在ではあるのだが
でも、存在するのは確実だ
それは動かせない
中観派では、この世は虚構の世界にすぎず、本質的には存在しない
仮の世界としては存在するのだが
あくまでも、仮にすぎない
実際には、無いも同然だ
でも、空は、有と無を足して2で割ったような、その中間点にあるわけではない
空は、有から遠くて、無に近い
だから、ツカミどころがない(笑)
なぜなら、「識」が有るからだ
唯識論では、識は存在する
唯識論は、「瑜伽行派」というだけあって、瞑想修行者の思想だ
インドの瞑想修行者は、外界への関心を断ち、「いまここに、私は在る」という真実に精神集中する
意識だけが存在して、外界は存在しない
日本の禅僧が言ってることを見ると、彼らは
「私は存在しない。この世界だけが存在する」
というようなことを、よく言っている
インドの瞑想哲人とは、向かってるベクトルが逆だ(笑)
「私心が無い」ということが重視されるのが伝統だ
禅僧は、その文化的影響を大きく受けている
インド人がいう「無我」とは違う
> 意識だけが存在して、外界は存在しない
ここでいう「外界」には、自分自身の身体も含まれる
「自分ではないものを、自分だと思い込んでいる」というのが、非我だ
ここでいう「自分ではないもの」には、自分自身の身体も含まれる
さらに言えば、感情や思考などの、自分の心すら含まれる
瞑想に集中していれば、外界も身体も消える
残るのは、「いまここに、私は在る」ということだけ
「外界が消えて、意識だけがある」というのは、そういう状態だ
「阿頼耶識も、いつかは終わる仮の存在である」というように説明されることもよくあるが
「いつかは消える」ったって、それは何百億年も先の話とされている(笑)
阿頼耶識の寿命は、宇宙よりも長い。何度もビッグバンで宇宙が誕生し、星々に寿命が来て燃え尽き、宇宙が消滅しても、阿頼耶識はまだ続く
人間にとっては、長すぎる期間だ
「事実上、永劫に存在する」と言ってよい
唯識論の時代になって、「意識は在る」という方向に大きく踏み込んだものだ
初期仏教から逸脱しているが、当の唯識派はそう思っていない
「仏典のどこそこに根拠がある」といって、どこからか引っ張ってくる
思想の歴史というのは、そういうものだ
もちろん、当の中観派はそう思っていない
「俺たちは、何も無いなどとは言っていない。有でも無でもない、中道の思想なのだ」と主張する
でも、他の部派から見ると、そうは思えなかった
中観派は、「説一切無部」と呼ばれることもあった
wwwwwwwwwwwwwwwwww
おい、馬鹿w
↓
633 栖雲居士◆t8ok0QoQ8kcK[] 2026/01/05(月) 15:56:11.86 ID:xy2xM
おい、JBL!
ブンブン銀蝿🪰統失知障🤪ペニスマン🤡でおーの金魚の糞!
お前、俺より中観について詳しいんだろ?
だったら「ガーワドンの啓示」くらい常識だよな?
おっ
遅いご登場だな(笑)
空の思想といえば中観派、中観派といえば空の思想だ(笑)
存在しないも同然だ
だが、仮は仮だ
本当の意味でもの存在しているわけではない
wwwwwwwwwwwwwwwwww
宗教板の恥晒し、躾の悪い馬鹿犬www
名前が似てるので(笑)
*老子は「現実無視の自由」なのか
これは半分だけ当たっていて、半分は誤解。
老子は確かに、
争わない。名利を求めない。作為をしない。柔弱に従う。自然に任せる。
という方向に行くので、
「現実から距離を置く」ように見える。
しかし老子は 現実を否定しているわけではない。
老子が無視しているのは
人間が勝手に作った価値観・制度・欲望・作為
であって、
自然の働き。世界の流れ。道の構造。
はむしろ深く観察している。
つまり老子は
「人間社会の現実」を無視するが、
「自然の現実」は徹底的に見る。
5章
天地不仁、以万物為芻狗。聖人不仁、以百姓為芻狗。天地之間、其猶蠹籥乎。虚而不屈、動而愈出。多言数窮、不如守中。
天地は仁ならず、万物を以て芻狗(すうく)となす。 聖人は仁ならず、百姓を以て芻狗となす。 天地の間、その猶(な)お蠹籥(とやく)のごときか。 虚にして屈せず、動いて愈々(いよいよ)出づ。 多言は数(しばしば)窮す。中を守るに如かず。
*「自然の現実」は徹底的に見る。
老子
無から有が生まれる
有は道の働きの現れ
有は自然の流れの一部
有は肯定的な“存在の相”
実体ではないが、縁起とも違う
仏教
有は縁起によって仮に成立
有は無自性
有は執着の対象
有は苦の原因にもなる
つまり、
仏教の「有」は“無自性の現象”
老子の「有」は“道の働きの相”
それは「仏教」ではなく、「中観派」と言ってほしい(笑)
お怒りだな?😫
禅は他の大乗仏教に比べて
一部テーラワーダ、倶舎論の
雰囲気に回帰している部分がある
現象ガ存在が一瞬あるとか
密教は存在の構成要素がある
という部分で回帰している
😆
これ、毎日問い詰めるか。
↓
でおーは、勝義諦の上位概念の説明。
JBLは、「ガーワドンの啓示」と「不共の勝法」の説明。
不眠症か?
自宅警備員🤡も睡眠時間
少なくて
大変だな?
🤡
俺は仕事で
イミフな出来事に対応する
夢をみた
悪霊まではいかんが
あり得ないイレギュラーに対応して
アタマ使う夢、
さて、どうするか?
みたいな
😆
😆
😆
レスしだすと
お怒りだ
ハッスル🤡様パターンだ
パターンがそっくりだ
😆
悟ったなら
ハッスルしないはずなんだがなー
その観察は
やはり、オモロイ
😆
そんなイミフな
必死のレスするの?
みたいな観察は
やはり
たまらん
悟った、修行したとか
言わない人に
色々やるのは
さすがに、ヤル気はないが
😆
不毛さを感じたんだろなー
寂しがりやのムイムイでも
😫
これ、毎日問い詰めるか。
↓
でおーは、勝義諦の上位概念の説明。
JBLは、「ガーワドンの啓示」と「不共の勝法」の説明。
愛らしい🤡
お怒りだ🤡
バカ🤡がバレるのに、
心の準備ができていなかったようだ、
😫
他人の知識や体験に対する異常なまでの妬みや嫉み。
何しに宗教板に居座るのか?
wwwwwwwwwwwwwwwwww
更生の道を歩ませるのも菩薩道だからな。
セイウン火山が噴火しているな?🌋
労働させれた
疲れだ〜
😆
https://www.youtube.com/watch?v=XlLUjmYZsco
https://twitcasting.tv/c:housuke/movie/828614522
https://twitcasting.tv/c:housuke/movie/827574688
すごいな?😵
ほーかい師匠は「真言亡国」だったな😫
仏の永遠の命(久遠実成): 釈迦は、人々を救うために仮にこの世に現れたが、実は計り知れない昔から仏であり、その命は永遠であると説かれます。
永遠の救済: 仏は常に私たちのそばにおり、どんな時も人々を仏道へと導き、速やかに悟りを開かせようと願っている(「速やかに衆生を仏道に入らしめ、速やかに成仏せしめよう」)。
「死」の活用: 人々が仏の永遠性を信じ、怠けたり欲望に溺れたりしないよう、方便として「入滅(死ぬこと)」を演じ、人々の心を覚醒させるという慈悲の策略も説かれます。
法華経の中でも最も重要な部分の一つであり、仏法の真髄とされます。
日蓮宗などでは、この教えを実践するために「南無妙法蓮華経」を唱えることが重視され、自我偈の精神を体現するものです。
その法華経を凝縮したエッセンス
それが、寿量品第十六の「自我偈」だ
一言で言えば、「仏陀は永遠だ」と言っている
永遠で絶対の仏法だ
自我得仏来 所経諸劫数 無量百千万 億載阿僧祇
常説法教化 無数億衆生 令入於仏道 爾来無量劫
為度衆生故 方便現涅槃 而実不滅度 常住此説法
我常住於此 以諸神通力 令顛倒衆生 雖近而不見
衆見我滅度 広供養舎利 咸皆懐恋慕 而生渇仰心
衆生既信伏 質直意柔軟 一心欲見仏 不自惜身命
時我及衆僧 倶出霊鷲山 我時語衆生 常在此不滅
以方便力故 現有滅不滅 余国有衆生 恭敬信楽者
我復於彼中 為説無上法 汝等不聞此 但謂我滅度
我見諸衆生 沒在於苦悩 故不為現身 令其生渇仰
因其心恋慕 乃出為説法 神通力如是 於阿僧祇劫
常在霊鷲山 及余諸住処 衆生見劫尽 大火所焼時
我此土安隠 天人常充満 園林諸堂閣 種種宝荘厳
宝樹多花菓 衆生所遊楽 諸天撃天鼓 常作衆伎楽
雨曼陀羅花 散仏及大衆 我浄土不毀 而衆見焼尽
憂怖諸苦悩 如是悉充満 是諸罪衆生 以悪業因縁
過阿僧祇劫 不聞三宝名 諸有修功徳 柔和質直者
則皆見我身 在此而説法 或時為此衆 説仏寿無量
久乃見仏者 為説仏難値 我智力如是 恵光照無量
寿命無数劫 久修業所得 汝等有智者 勿於此生疑
当断令永尽 仏語実不虚 如医善方便 為治狂子故
実在而言死 無能説虚妄 我亦為世父 救諸苦患者
為凡夫顛倒 実在而言滅 以常見我故 而生?恣心
放逸著五欲 墮於悪道中 我常知衆生 行道不行道
随所応可度 為説種種法 毎自作是意 以何令衆生
得入無上恵 速成就仏身
その解釈に対して
天台智顗はマジメに中論の理論に立脚して組み立ててていたが
密教でも、天台智顗教学と
辻褄を合わせて理論立てていたが
禅定の密教→日本的な人格仏や神仏習合の山伏密教や覚鑁→日蓮の解釈へと
変化していた
😆
日蓮時代の法華経の意味解釈は
異なっている
日蓮時代には
中論三諦論の前提の法華経は末法思想時代には
ほぼロストしたと言っていい、
山伏念仏神仏習合研究マニアだからこそ
理解できる
😆
永遠の釈迦如来が
ただの末法の法華経の釈迦如来になったのが
山伏念仏神仏習合、日蓮
😆
覚鑁の著書の研究者だ
信徒に覚鑁の著書を持ってくるように命じている
日蓮著作にある
😆
私が仏になってから経過した期間は、百千万億という長い時間です。その間に教えを説いて数限りない人々を教化し、仏の道に導いてきました。人々を救うために、一度は(釈迦として)死んだ姿をとりましたが、本当に死んだのではなく、常にこの世界にいて法を説いているのです。私は永遠に不滅ですが、人々に私を慕い信仰する気持ちを起こさせるため、方便として死んでみせたのです。
人々がこの世が終わりを迎え、種々の災害が起こると思っているときでも、私の国土は安らかで天人や人々で一杯です。その世界の花園や宮殿は、種々な宝石で飾られ、木々には多くの花や実がなり、人々はそれらを楽しんでいます。私の国土は不滅であるのに、人々はこの国土の終わりが迫って、あらゆる苦しみや悩みに溢れていると錯覚しています。
私の智恵の働きがこれほど優れ、その光はどこまでも照らし、寿命が永遠なのは、過去の長い間の修行の結果なのです。もしあなたたちに智恵があれば、私のいったことを疑ってはいけません。疑う心を完全になくして下さい。仏の言葉は常に真実です。
人々は迷っているので、私が死んだと錯覚しています。私が常に姿を現わしていますと、なまけ心を起こし、欲望に捕われて、悪世界に堕ちることになります。そこで私はいつも人々が、正しい道を歩んでいるかを見極め、どうすれば救えるかを考えながら、ふさわしい教えを説いています。そして常に、「どうすれば人々を最高の教えに導き、一刻も早く仏に成るだろうか」と常に念じているのです。
なるほど
現代においては
釈迦より日蓮が偉くて、日蓮より池田大作がさらに偉い
修行の第一歩が
天台智顗の天台小止観だから、
掲示板では
俺が一番のプロフェッショナルだろう
天台小止観の良いところは
パワーダウン鬱寄りの呼吸法
ハイテンションで眠れない寄り呼吸法を完備している
いまや、俺は臨済宗一本だけどなー
😆
大聖人は、覚鑁を研究していたのか
いまは臨済宗なのか
セイウン様とおなじ年宗派だな?😆
ヨガっぼい
鬱パワーダウン過ぎる時は眉間の上に
呼吸の流れ
ハイテンション過ぎ時は
丹田への呼吸の流れ
そーいうのが
緻密な便利なシステムなので
修行初期には
世話になった
😆
しかも後期に覚鑁の書籍を求めていたようだ
佐渡流罪の後だ
😆
日蓮宗、浄土宗寺院関連は
すべて、自動的に天台の禅定の間合いで魔改造解釈するので
念仏山伏神仏習合日蓮のリアル教学理解には時間がかかる
今日も、その知らない部分を発見した
😆
😁
> 鬱パワーダウン過ぎる時は眉間の上に
> 呼吸の流れ
紫色の光が見えたとか?🟣
仏教史上において非常に重要な人物です。
お釈迦様の説いた「空(くう)」の思想を理論的に体系化し、大乗仏教の教学の基盤を築きました。このため、中国や日本においては「八宗の祖師(あらゆる宗派の祖師)」と尊敬され、「小釈迦(お釈迦様に匹敵するほどの偉人)」とも称されます。
彼の思想の中心は、あらゆるものが独立した実体を持たず、相互依存の関係によって成り立っているという「空」の思想です。彼は、固定不変の実体があるとする「有の見」と、何もかもが存在しないとする「無の見」という二つの極端な見方を否定し、「中道」を説きました。
多くの優れた論書を著し、その著作は「千部の論師」と称されるほどです。代表的な著作としては、『中論(ちゅうろん)』があります。
龍樹菩薩の『中論』は、大乗仏教の深い智慧を凝縮した、まさに思想の宝庫です。その冒頭に置かれた有名な「八不の偈(げ)」は、たった数行のなかに、私たちが世界をどう捉えるべきか、そしてどうすれば心の平安を得られるのかという、根本的な問いへの答えが示されています。
今回は、この「八不の偈」を、たとえ話を交えながら、できるだけわかりやすく解説していきましょう。
大乗仏教「空」の真髄です
龍樹菩薩(りゅうじゅぼさつ)は、今からおよそ1800年前、インドで活躍した偉大な思想家です。彼が著した『中論』は、仏教の最も大切な教えの一つである「空(くう)」の思想を、論理的に、そして徹底的に解き明かした書物として知られています。
この『中論』の扉を開くと、まず私たちの目に飛び込んでくるのが、次のような言葉です。
八不の偈(原文と現代語訳)
「不生不滅、不常不断、不一不異、不来不去。
能説是因縁、善滅諸戯論、我稽首礼仏、諸説中第一。」
(不生にして不滅、不常にして不断、不一にして不異、不来にして不去なる、よくこの因縁を説き、よく諸の戯論を滅する仏を、我諸説中の第一なりと稽首して礼す。)
現代語訳:
「生まれることもなく、滅することもなし。
常であることもなく、断ち切られることもなし。
一つであることもなく、別々であることもなし。
来ることもなく、去ることもなし。」
「このような、すべては互いに関わり合って存在するという真理(縁起)を説き、あらゆる根拠のない思い込みや議論(戯論)を滅ぼしてくださったお釈迦さまに、私は心から頭を下げて礼拝いたします。」
この偈の最も大切な部分は、前半の「八つの否定」です。まるで禅問答のようにも感じられますが、これこそが、私たちが陥りがちな「こうだ!」という思い込みや偏見から自由になるためのヒントなのです。
私たちの心は、「ある」「ない」「良い」「悪い」といった、二元的な考え方で物事を捉えがちです。
しかし、八不の偈は、そのどちらか一方に固執することなく、両極端を離れた「中道(ちゅうどう)」という真実のあり方を示しています。
これは、ちょうどコップに半分入った水を「半分しかない」と悲観的に見るか、「半分も入っている」と楽観的に見るかの違いに似ています。
どちらの見方も正しいかもしれませんが、どちらかに囚われると、心のバランスを崩してしまうことがあります。
八不は、そのような極端な見方から私たちを解き放とうとするのです。
それでは、一つひとつの否定句を見ていきましょう。
1.不生不滅(ふしょうふめつ)
生まれることもなく、滅することもなし
◆たとえ話:
考えてみてください。目の前の雲は、どこから「生まれて」きたのでしょうか? そして、雨になって地上に降り注いだ後、雲は本当に「滅んで」しまったのでしょうか?
もちろん、雲は水蒸気が集まって「できた」ように見え、雨になって「消えた」ように見えます。でも、その水蒸気はもともと海や川の水でしたし、雨になった水も、やがて蒸発してまた雲になるかもしれません。
◆解説:
龍樹は、「生まれる」という絶対的な実体も、「滅する」という絶対的な実体も存在しないと説きます。私たちが「生まれた」「死んだ」と認識するのは、あくまで「仮の姿」の変化にすぎません。一切のものは、常に変化し続けているだけで、固定された「生」や「滅」という状態があるわけではないのです。
常であることもなく、断ち切られることもなし
◆たとえ話:
あなたは、昨日のあなたと、今日のあなたで、完全に同じ人間でしょうか? それとも、完全に別人でしょうか?
もちろん、私たちは毎日食事をして、考え方も少しずつ変わります。細胞も絶えず入れ替わっています。だから、昨日のあなたと今日のあなたは「常(いつも同じ)」ではありません。しかし、だからといって、まるで別人のように「断(完全に切り離されて)」しまっているわけでもありませんよね。連続性があります。
◆解説:
この対句は、物事が永遠に変わらない「常」であるわけでもなく、完全に途切れてしまう「断」であるわけでもないと説きます。私たちは常に変化し続けていますが、その変化の中にはある種の連続性があります。すべては移り変わるもの、しかし、全く無関係に断ち切られるわけでもないという、流動的な真実を示しています。
一つであることもなく、別々であることもなし
◆たとえ話:
オーケストラで演奏されるシンフォニーを想像してみてください。たくさんの楽器がそれぞれの音を出し、それは一つ一つの「異なった」音です。しかし、それらが組み合わさって初めて、一つの美しいシンフォニーという「一体の」音楽が生まれます。このシンフォニーは、楽器の一つ一つとは「別々」のものでしょうか? それとも「一つ」のものでしょうか?
◆解説:
龍樹は、物事が完全に「一つ」であると断定することも、完全に「別々」であると断定することもできないと説きます。例えば、私たち人間も、たくさんの細胞が集まって「一つの体」をなしていますが、その細胞一つ一つは異なっています。部分と全体、あるいは個と集団の関係は、このように「一つ」と「別々」の両面を持つ、複雑な相互関係にあるのです。
来ることもなく、去ることもなし
◆たとえ話:
私たちは、太陽が毎日「昇ってきて」「沈んでいく」と認識しています。しかし、本当に太陽がどこかから「来て」、どこかへ「去っている」のでしょうか?
もちろん、太陽は地球の自転によって見え方が変わるだけで、太陽自体がどこかへ移動しているわけではありませんよね。
◆解説:
この対句は、物事がどこかから「来る」という絶対的な実体も、どこかへ「去る」という絶対的な実体も存在しないと説きます。私たちが「来た」「去った」と認識するのは、特定の条件が揃ったときの「現象」にすぎません。変化や運動の本質は、固定された「来る」「去る」という行為では捉えきれない、ということを示唆しているのです。
八つといっても、2つずつのセットが4つだ
他の3つを圧倒するほど知られている
これは、あらゆるものは縁起(相互依存)によって生じ滅するが、その縁起そのものの本質(真如・涅槃)は生滅を超越しているという、深遠な意味合いを持つ言葉です。
辞書的な意味: 生じることも、滅することもない、永遠に変わらないこと。
仏教的な意味:
「空」の補足: 般若心経で説かれる「空」の概念を補足し、実体がないこと(空)を説明する際に用いられます。
涅槃の境地
煩悩が消滅し、生死輪廻を超越した悟りの境地(涅槃)を指します。
縁起の本質: 存在は生滅するが、その背後にある「縁起」という法則そのものは生滅しない、という中観思想(竜樹の思想)に由来します。
例え話: 鏡に物が映っても鏡自体は変化せず、消えても減らないように、物事の移り変わりにとらわれない本質(不生不滅・不垢不浄・不増不減)を説きます。
生者必滅(しょうじゃひつめつ): 生きとし生けるものは必ず滅するという「無常」の思想。
生滅滅已(しょうめつめつい): 生と滅の関係がすべて滅び尽きた、悟りの境地。
「不生不滅」は、私たちが日常で感じる「生まれては死ぬ」という感覚を超えた、絶対的な真理を表す言葉として使われます。
形あるものは、いつかは崩れ、バラバラになって消えていく
積み木を崩したり、また積んだり、また崩したり
それを繰り返しているだけだ
見た目が変わるだけで、本質的には何も変わっていない
それが、不生不滅
ここで説一切有部なら、『積み木』は永遠に存在する
『積み木』を積んだり崩したりして出来ている、この世が有為転変、常に変化しているだけだ。『積み木』は変わらない・・・という世界観
中観派は、そんな『積み木』の存在すら認めていない
だから、厳密にいえば、この例えは中論の『不生不滅』には当たっていない
最初から中観派に入るより、まず説一切有部から入って、それから中観派に進んだほうが、ずっと分かりやすいのは確かだ
最初から中観派だと、「何も生じてないのに、何がどう滅しないんだよ?」というような疑問が次々に生じることになる(笑)
あまりにも抽象的で、ツカミどころがない
倶舎論を見て、初めて「そうか、そういうことだったのか」となることがよくある
というのも、コレに反対する人がいないからだ
「何も生じないのなら、何がどう滅しないんだよ?」というような疑問はわいてくるのだが
ここは、それほど異論が出ない
インド人にとって永遠のテーマ、「輪廻転生」にダイレクトにからんでくる
「霊魂が無いのなら、何が輪廻しているのか?」
↑ これこそ、仏教思想界にとって最大級の難問
唯識論の壮大な体系は、この問いに対する壮大な回答と言っても、言いすぎでない
「不常不断が、古来から最も論争のタネになってきた」と認め、この話題で持ちきりだ
「不常不断」の話をやたらと持ち出しては、信者諸氏を責めていた(笑)
「君らの教祖は、『人は生まれ変わり、死に変わり、永遠の魂修行を続けているのです』とかなんとか言ってるが、これは仏教的には『常見』であり、誤りとされているのである」
と、いつも言っていた
新興宗教スレから離れて久しい今は、仏教スレで秋月龍ミンや南直哉といった禅僧たちを、逆の立場から批判している
「彼ら禅僧たちは、『輪廻転生は無い』、『輪廻転生は古代インドの迷信である』と断言しているが、これは仏教では『断見』であり、誤りとされている」
という話を、定期的に蒸し返している(笑)
※ちなみに、仏教でいう輪廻転生は、「この世で別の時代に生まれ変わる」だけではない。「来世で極楽浄土や地獄に転生する」というのも含まれる
両方とも誤りで、「不常不断の中道」が正しい
・・・とは言っても、厳密に言えば、「両方とも同じくらい間違っており、両者を足して2で割った真ん中あたりに正解がある」というわけではない
同じ「誤り」といっても、おのずと程度の差ってものがある
仏教的には、「断見」のほうが、より深刻な甚だしい誤りだ
それに比べたら、「常見」のほうがまだマシだ。間違ってる度合いは、「常見」のほうが低い
↑
これは、言ったらダメ
仏教的には、間違ったスタンスだ
禅僧本人としては、これにより、自我に対する執着をキッパリと断ち切って、無我の体現者にでもなったつもりなのだろう
だが、これは誤りだ
単純に間違っている
要するに、八不のなかでも「不常不断はモメる」
「不生不滅」と違って、これは人によって見解の個人差が大きいため、何かと論争のタネになりやすい
ここで言いたいのは、それだけだ(笑)
中論は、言語哲学という面が大きい
「言葉の問題」と取ることができる
「不常不断」で言えば、「永遠に変わらないものがある」というような、「極端な見解を述べるのを止めよ」ということだ
極端なことばかり言う、過激な思想の持ち主はダメ(笑)
おのれの見解に対する執着を断ち切ることが大事
龍樹自身も、別な意味で極端な思想の持ち主だが
まあ、それは古来からあるツッコミ
それを言ったらキリがない
だから、存在論や認識論は結局のところ、言語論になる
「不生不滅」というのも、存在がどうのという以前に、「生じる」とか「滅する」とかいう言葉の問題
中論は、「言語の限界」とそこからの脱却を説く書
俺は平均週二回曹洞宗寺院で
つるを切りながらマジメにやっている
それを
😆
臨済宗モードはもっと別次元だな
理屈なし
😆
今日は寒すぎるので
天台宗寺院で
天台浄土教をメインディッシュにお参りプラン
😆
また悟りとなんら関係のない事ばっかりしてんなー
さすが宗教オタク
自閉円頓がー状態だな?
😁
でおーは粘着ストーキング状態だな?
不生(ふしょう)
不滅(ふめつ)
→ 「生じない」「滅しない」
般若思想の核心であり、後に龍樹の八不の第一対となる。
(般若心経にも「不生不滅」として登場)
② 不来・不去(不来不去)
不来(ふらい)不去(ふこ)
→ 「来ない」「去らない」
運動・変化の実体性を否定する表現。
(般若経の多くの箇所に見られる)
③ 不垢・不浄(不垢不浄)
不垢(ふく)不浄(ふじょう)
→ 「汚れない」「清らかでもない」
清浄観の二元論を否定する。
(般若心経にも登場)
④ 不増・不減(不増不減)
不増(ふぞう)不減(ふげん)
→ 「増えない」「減らない」
存在量の増減という概念を否定。
(般若心経に明確に登場)
⑤ 不常・不断(不常不断)
不常(ふじょう)不断(ふだん)
→ 「常住ではない」「断滅でもない」
常見・断見の両極端を否定する。
(龍樹の八不にも対応)
⑥ 不一・不異(不一不異)
不一(ふいつ)不異(ふい)
→ 「一ではない」「異でもない」
同一性と差異の両方を否定する。
(般若経の「空」論の一部として頻出)
八不をまとめてみた。
まだあるぞw
龍樹と法蔵(三論宗)の違いとかねw
4時近いじゃないかw
法蔵は華厳宗
😆
ごめんごめんw
是正希望、
これで話の筋が、わからんー
やはり倶舎論を、理解すると、
中論の理解がら早まるなー
有部批判の書だからだ
😆
法蔵の話なのか?
そこから是正希望
😆
😆
吉蔵だ 八不は定型文かを調べていたら、龍樹と吉蔵の違い出てきた。違いというよりは、どのように吉蔵は中論と向き合ったかということかな。
成実論の連中
龍樹の最大ライバルは
倶舎論などの有部
成実論は
どこか、ハッスルやリダンあたりの誤読した感じに雰囲気があるようだ
😆
① 八不は「中道」を示すための“否定の方法論”
吉蔵は八不を、
常見(実体視)と断見(虚無視)の両極端を破るための道具
とみなした。
不生・不滅 → 生まれる/消えるという実体視の否定
不常・不断 → 永遠/断絶という極端の否定
不一・不異 → 同一視/完全な差異視の否定
不来・不去 → 時間的移動の実体視の否定
つまり八不は、どの方向にも偏らないための“否定の網”。
極端な「空見」として
吉蔵は議論の対象としたそうだ
加藤師匠様々だ
😆
😆
成実論との議論は
中論の三諦説に対する議論がメインのようだ
😆
あるということも、ないということもない。
吉蔵は強調する。
八不は「世界はこうだ」と言うためではなく、
「こうだ」と思い込む心を壊すためにある。
つまり八不は実在論でも虚無論でもない。
八不は「真理の説明」ではなく、執着を破る薬。
みたいなのは
老子みたいになるし
クリシュナムルティや
デンパパ📶みたいな志向性になる
現実娑婆世界での
大乗仏教の衆生の救済を持っていない、
夕は、この辺のイメージ無しに中論読んでそうだな?
😆
中論ばかり読んでいると
そんな感じにはなるだろな
😆
吉蔵は二諦(世俗諦・勝義諦)を重視した。
世俗諦:仮の存在(因果・言語・日常)
勝義諦:空(無自性)
八不はこの二つを矛盾なく成立させるための枠組み。
世俗では「生じる」と言えるが、
勝義では「不生」である。
この二つを同時に成立させるのが中道であり、八不はその論理的支柱。
つる切りやら
勤行やっていても
いまや、自分の中の空だけの問題ではない、
周辺世界込みの感覚がある
曹洞宗なんで
真言宗みたいな神秘的禅定感覚ではないが
😆
おかげで今日は寝坊した😫
中国大乗仏教は
この解釈で宗派が分かれていく
😆
大般若経との込みで
読んだほうが
中論に関しての理解はふかまるやろ
中論自体が倶舎論や有部に対する批判論書に過ぎないので
😆
そう意味では仏教は単独で機能する。
しかし、老荘は、世俗義から離れることを主張しているように思える。そう意味では、老荘、孔孟で両輪なのだろう。
中論の論書たけで理解というのがそもそもピント外れやろ
😆
仏教の「三蔵(さんぞう)」とは、経蔵(釈迦の教え)、律蔵(戒律)、論蔵(教えの解釈・体系化)という仏教聖典を3つに分類した総称で
インド中国の仏教の常識
禅ては無関心になって
日本ではさらに三蔵こだわる仏教ですら
重んじなくなる
三蔵という概念が日本仏教には
薄いやろ
😆
ある種の老子の派生らしいぞ
呪術オプションが増えて
😆
そうかもしれないね。最澄がいけないんだw
動画を見て勉強しないとな~
三蔵の中の経蔵の
うち
法華経というオプションが
吉蔵にはあって、
龍樹にはないだろう
天台日蓮宗連中はお怒りになるだろうけどな
😆
加藤師匠の三論宗通信でやってた
聖徳太子は成実論かもしれないー
とかー
😆
法華経を信奉する者には
「永遠のブッダ」だけは譲れない~😂
なるほど、まぁ法華経は初期大乗だから、龍樹も読んでいるとは思うが、あまり、ピンと来なかったのかもしれないw
でもな、龍樹も電気によるとハチャメチャな人だw
加藤師匠の三論宗通信でやってた
聖徳太子は成実論かもしれないー
とかー
😆
佐々木先生の倶舎論と加藤師匠効果で
理論仏教の理解グレードがあがっている
😆
領域展開~👹
エレアのパルメニデスだ
「有るものは有る、無いものは無い」: 「無」から「有」は生まれず、「有」から「無」は消滅しない、という論理的な帰結です。
変化の否定: 私たちが目にする生成変化は、理性ではなく感覚によるもので、真の実在には起こりえないとします。真の「有るもの」は、過去・現在・未来にわたって一度に、連続した全体として「今、ここにある」ものです。
唯一・不動・完全: 真の実在は、分けることができず、動きもせず、常に満たされ、均質で完全な球体のようなものとして描かれます。
理性(ロゴス)と感覚(ドクサ)の区別: 理性に従って考えることでしか真理(不生不滅の「有るもの」)に到達できず、感覚に頼ると変化する世界(仮象)を見てしまうと説きました。
この思想は、古代ギリシア哲学における存在論の基礎を築き、後の哲学に大きな影響を与えました。
放り投げて
本格仏教理論スレらしくなってきたなー?
😆
「真の実在」には何の変化もない
佐々木閑先生と、加藤拓雅師匠のおかげだな~😆
😆
イエス・キリストの最後の審判の後の世界に
😆
近々、襲来予測ー
挑発しといたしー
😆
龍樹は法華経を読んでいないか?
なぜ龍樹は「仏は不滅」という法華経の思想に触れないのか
1. 龍樹の中心テーマは「空」と「縁起」であり、常住論とは距離がある
龍樹の哲学は
すべては空である
空であるがゆえに縁起する
という徹底した中観思想です。
この立場からすると、
「仏は永遠に存在する」という主張は、実体視(常見)に傾く危険がある
と考えられます。
龍樹は「常住」も「断滅」も否定する中道を重視するため、
法華経の「仏は常住」という表現は、彼の議論の中心には入りにくいのです。
2. 龍樹の著作は主に般若経を基盤としている
『中論』『大智度論』など龍樹の主要著作は、
般若経(特に大品系)を中心に展開されている
と研究者の多くが見ています。
般若経は「仏の常住」を強調しません。
むしろ「仏も空である」と説く方向性が強い。
そのため、龍樹の思想は自然と法華経の「常住仏」よりも、
般若経の「空の智慧」に寄っていきます。
法華経の中でも特に
第16章「如来寿量品」の常住仏思想
は、後期大乗の成熟した教説とされることがあります。
龍樹の時代(2〜3世紀)には法華経は存在していたものの、
どの部分がどれほど流布していたか
どの思想がどれほど重視されていたか
は確定できません。
龍樹が法華経を知っていたとしても、
「常住仏」思想がまだ主流でなかった可能性もあります。
龍樹は「仏は不滅」と明言していませんが、
「仏は滅する」とも言っていません。
彼の立場は一貫して
仏も空である
という中観の枠組みです。
つまり、
仏が常住かどうか
仏が滅するかどうか
という問いそのものを超えた立場に立っています。
そのため、法華経のような「仏の永遠性」を強調する議論に踏み込む必要がなかったとも言えます。
それは「知らなかった」からではなく、
中観思想の立場からそのテーマを扱う必要がなかった
龍樹の中心は「空・縁起」であり、常住仏思想とは方向性が異なる
法華経の常住仏思想は後期大乗の特徴で、龍樹の議論とは別の発展ラインにある
JBL氏とでおーのこれがあったから、仏の常住性に対して、龍樹はどう思っていたかということがやはり気になる。
「釈迦の教えは方便だ。龍樹の中論は世俗諦だ。仏教そのものが空なのだ。坐禅するしかない」
と主張しているが
これは、仏教思想界でも極端な意見を拾ったものであり、かなり特殊な立場だ(笑)
セイウン以外の人たちの意見に見向きもしないのだから自業自得だが(笑)
「ブッダは永遠で常住だ。法華経は究極で絶対の正法だ」
という見方を支持している
それが、後期大乗仏教のスタンダードだ
自分と考えの異なる人に猛攻をかけて叩き出すから
自分の考えが狭く偏るハメになるのだ
さらに
劇ぶっ壊し路線の臨済宗のほうが好みではある
龍樹の中論に近いスタンスは
道元と三論宗だろな
😆
そんなん理解しても悟れないよ
外探してるうちはまだまだ
どっちもなんもわかってないくせにな
生カジリとツギハギでデタラメ仏教理論を構築するので
まともな仏教を知りたい人にイミフだ
引用も思いき、内容不理解のまま貼り付ける
😫
そんなの読んでも悟れない
ムイムイの魂の本質〜
😁
でおーの魂の本質は寄生虫かな
龍樹の伝言板
https://www.youtube.com/watch?v=MH-P4mXvDPE
さすが宗教オタク
法すらも空であり固定されない。でも法が成立し続けていることも否定はされない。
同様に永遠が成立することも中論は否定しない。
まぁでおーには無理な話
そして、相手を挑発して闘争しようとする、こっちが修羅か
なのででおーの心の本質は餓鬼と修羅
とんでもないやつですはこいつはね
あんたの見たままを書いてるだけ
そしてでおーは相手に怒り・憎しみを起こさせて地獄道に落とそうとしてる
綺麗にまとまった文章じゃないかな
龍樹
常住は仮でしかない
仏も空であり、永遠の実体は否定される
常住を真実として掲げることはしない
✔法華経
方便(仮)を破り、常住を“真実”として提示する
常住仏は「本門の真実」
仏の永遠性を強く肯定する
*常住仏を“実体的永遠ではない”と言うと矛盾する
滅不滅は方便なのさ。また、滅不滅自在でもある。
仏は不滅が真実であるということになる。
「法華経は方便を破って常住を真実として提示する」
*方便を使って「滅したように見せる」と言い切る
*衆生心理に働きかけるための言葉
この偈は哲学ではなく、心理への直撃を狙っている。
不安な衆生
仏がいなくなったと思って絶望する衆生
導き手を求める衆生
そういう心に対して、
「私はここにいる」
「あなたを見捨てていない」
永遠に自性は認めていないが仏の働きや悟りの境地を否定してるわけではない。
天台宗も方便を破るではなく開顕と表現してるね。
天台、華厳、真言、チベット密教は
なんらかの永遠性はあるだろな
唯識ですら仏智という永遠性すらありうる
それに反して
永遠性みたいなのは
無いのは
禅だろな
😆
夕は
中論と老子が近いように見えたかもしれんが
遥かに
天台、華厳、真言、チベット密教のほうが老子に近い雰囲気がある
😆
いい加減だなー
😆
割合シンプルかもしれん、
むろん、俺的にはだが
😆
神秘主義要素のパワー借りる仏教や
道元禅では
俺の今やっている野蛮なお仕事には向かない、
まーそもそも不向きな仕事は執着であるという一般仏教の教義でもあるけどなー
😆
あほらしいお付き合いできるテクノロジーは
一つだけだそーだ😭
禅定が永遠性だとも言える
神秘主義禅定を娯楽とする俺サイトから言えば
そういう永遠性の禅定を
禅は否定するシステムだがな、
道元、臨済宗問わずに
😆
哀れなムイムイを慰めてあげてえ〜〜
😁😁😁😁😁😁
とっくにでおーは詰んでるんだけどな
模索だ
結構マジメ模索?
😆
渇望・不足感・もっと欲しい
「まだ足りない」
承認・知識・評価・愛情への飢え
手に入れても満たされない
貪るようにあらゆる宗教の知識を求めるでおーそのものやね
そして得た知識で周りから承認を求める
でおーはなんか愛情にも飢えてるイメージ
完全にでおーに当てはまる
修羅道とは
闘争・優劣・勝ち負け
相手を倒して自分を保つ
でおーはやたら相手より優れてるをアピールする
勝ち負けにもこだわる
相手を倒すのに手段を選ばない
また、第三者同士対立させようと持って行ったりする
そして、それを見て楽しむ
これもでおーの行動に完全一致
地獄道とは
怒り・憎しみ
「許せない」「ムカつく」
心が焼け付く感じ
正義感が攻撃に変わる
これはでおーがわざと相手を挑発して
怒り・憎しみの感情を沸かそうとしてる
相手の正義感を攻撃に変えようとする
まさにでおーが相手にやってる事やね
倶舎論・中論・唯識論を学んでから瞑想したほうが、遥かに効果が上がる
一生かけて瞑想行に打ち込んだとしても
倶舎論・中論・唯識論のレベルでの理解に到達することは不可能だ
それはあり得ない
ひたすら瞑想行に打ち込んでみるのもいい
「やめておけ」と忠告するべきだが
とくに間違ってなければ、やりたいようにやれば良い(笑)
仏教思想全般を習得する道が推奨されていた
坐禅に特化する人々や、念仏に特化する人々が現れた
1人1宇宙だ
視点が異なるだけではない
人それぞれの言語体系の違いが、世界の違いを生み出す
中論の解釈にもいろいろある
これを、「縁起の法は不生不滅である」と解釈する人々もいる
「不生」より「不滅」のほうがインパクトが強い
「読売巨人軍は、永遠に不滅です」と言われるのも
「読売巨人軍は、不生不滅です」と言われるのも
似たような印象を受ける
「不生」をスルーしがちだ
無意識のうちに、どちらかにバイアスがかかる
なるほどね
「お釈迦さまは、王宮で楽な暮らしをしてましたが、出家して苦行しました。苦行をやめて、スジャータの乳粥を飲んで悟りました」
というストーリー
日本人は伝統的に苦行や戒律が嫌いで、「苦行をヤメた」という話が喜ばれる
「不苦」と「不楽」は同じウエートではなく、たいてい「不苦」が重点的に語られる
法華経・天台:不生不滅が根本 → 縁起はその働き
主語が逆転することで、真理の位置づけが変わる
その違いが「常住仏」の強さにもつながる
喧嘩ごしの意図はないので
もっと詳しく教えてケロ😆
それは合ってるだろな
禅は中論寄り
唯識は
どちらでもなさそうだ
ハイブリッドだからかな?
倶舎論などの😆
苦行は日本仏教は大好きだぞ
現在日本学者は批判派だろうけど
山伏は一度死ぬ行、日蓮の龍の口は苦行で浄化、
念仏聖、高野聖は巡礼の苦行、
現在のような車バス鉄道かない
四国八十八箇所や熊野参りや西国三十三カ所は、病を抱えながらの死ぬのも含めて浄化の苦行
現在の日本人は浄化は
神道や新興宗教しかイメージがないだろうけども、
高度経済成長以前の日本人は
苦行による浄化による
現世安穏後世善処というのが
日本人の土着の仏教観
戒律に関しては、お盆、彼岸、正月、諸仏の縁日は六波羅蜜を実践するという信仰があったと真言宗の高齢の僧侶に聞いたことがある
西山派のお経にだけ正月、お盆、彼岸
六波羅蜜を実践すると書いてあるな
神仏習合熊野詣での前
や戦前の神社の祭りの前の
精進潔斎とかは、
それに近いやろな😆
その後の経済破綻の餓死、人身売買とか
無縁の現在社会だから
疫病、災害からの守りの
浄化の苦行、六波羅蜜の祭日の実践もしなくなったんだろな
😆
日蓮の思想にあるからなー
その原因は謗法なんだろうけどな
😆
土着日本人仏教観の延長ともいえる
😆
密教僧侶自身が法要するのに
浄化の真言唱えたりする、
そのあたりが
拡大解釈されて
苦行の浄化思想
になったんだろうな
苦行の浄化思想は
法華経の後半に
自分の身体に火をつけて燃やして
供養する菩薩の話があるが、
あの辺りから法華経=山伏=浄化の苦行→日蓮
なんだろな
😆
山岳修行は、厳しい苦行だな~😫
苦行を嫌うのは、アメリカ流のポジティブ・シンキングの影響か
コピペ
さて、問題は、「八不」と「縁起」という言葉の関わりである。
「八不」は「縁起」という術語の内容をいっているのか、「縁起」という術語に掛る形容詞なのか、という問題である。
「八不」を代表して、「不生不滅」と言うことにしよう。すると、解釈は次の2つになる。
(1)「不生不滅の縁起」とは「すべての存在は不生不滅である」ことを教える言葉である。
(2)「不生不滅の縁起」とは「縁起の思想は永遠に変わらない」ことを教える言葉である。
サンスクリット原文によると、「八不」の句すべてが m で終わっている。
そして3行目の「縁起」(pratttyasamutpadam)が m で終わっている。こちらは文脈から目的格であることが明らかなので、「八不」の句のほうをも目的格とみて、文法重視の学者は「八不」を「縁起」にかかる形容詞と見たがるのである。
「不生不滅なる……不来不去なる」は梵文によれば形容詞であって、「縁起」の語を規定する。それは存在が生滅去来するものであるに対し、縁起そのものは不生不滅なる法であることを意味する。
また英訳者ロビンソンも同様の解釈をして訳している。
I offer salutation to the best of preachers,the Buddha, who has taught that dependent co-arising has no ceasing, no arising, no nullification, no eternity, no unity, no plurality, no arriving, and no depariting, that it is quiescent of all fictions, that it is blissful.
(丹治照義『実在と認識』p.83による。)
(1)「不生不滅の存在」派
(2)「不生不滅の縁起」派
と呼び分けることにしよう。前者は哲学者の派、後者は文法学者の派といえる。後者は文法に捉われて、中論の肝腎の哲学を理解しそこなっている。
この2種類の訳をめぐってかつて三枝充悳氏と立川武蔵氏のあいだで行われたちょっとしたやりとりが興味深い。三枝氏は「不生不滅の存在」派であり、立川氏は(表現に関するかぎり)「不生不滅の縁起」派である。
コピペここまで
「不生不滅、不常不断、・・・これが縁起の法なのである」
としか読めないのだが
サンスクリット原文を見ると、文法に忠実に読めば
「釈尊が説いた縁起の法は、不生不滅であり、不常不断であり・・・」
つまり、「縁起の法は永遠に変わらない」という意味に取れるらしい
でも、ロビンソンの弟子のガーフィールドの英訳を見たところ、「不生不滅、不常不断、・・・これを縁起の法という」の訳になっていた(こちらのほうが欧米で普及している)
インド仏教の認知力は知らんが
中国仏教の認知はガタガタでダメだ
😆
そしてでおーは相手に怒り・憎しみを起こさせて地獄道に落とそうとしてる
すべての存在が引っ掛かるな
天台、華厳、真言宗あたりだとイエスだろう
中国や、日本の禅ならば、
ノーだな
意外に中国、日本てもギャップがある
中国の禅でも念仏の混じる後期禅だと
阿弥陀仏の絶対性が必須になるので
すべての存在
日本禅でも神仏習合や念仏階級(禅でも、このかいきは多数派だった明治以前は恐らく)なら
すべての存在は
必須、
神仏習合、阿弥陀仏でも絶対的存在は必須だから、
曹洞宗の「修証義」で曹洞宗定義した
大内青巒の解説書には
曹洞宗なのに南無阿弥陀仏とかやっていたとかあるからなー
😆
92.
ユーザー
栖雲居士◆t8ok0QoQ8kcK50-Lpb-Ij-wvu
ARiEC(2/9)
超絶馬鹿が恒例の支離滅裂猿芸をやってて朝から噴飯されてくれるなw
読み方によって成立し得るのは
1.縁起は八不の存在。
2.八不の縁起。
3.縁起の理法は八不。
のいずれかだろうが、最新の解釈では2.だな。
2026/01/13 09:26:25
煽るな😂
https://image.jimcdn.com/app/cms/image/transf/none/path/s79cd58a3cc0db125/image/i8689bee7f0e41f8c/version/1432201103/image.jpg
渇望・不足感・もっと欲しい
「まだ足りない」
承認・知識・評価・愛情への飢え
手に入れても満たされない
貪るようにあらゆる宗教の知識を求めるでおーそのものやね
そして得た知識で周りから承認を求める
でおーはなんか愛情にも飢えてるイメージ
完全にでおーに当てはまる
修羅道とは
闘争・優劣・勝ち負け
相手を倒して自分を保つ
でおーはやたら相手より優れてるをアピールする
勝ち負けにもこだわる
相手を倒すのに手段を選ばない
また、第三者同士対立させようと持って行ったりする
そして、それを見て楽しむ
これもでおーの行動に完全一致
地獄道とは
怒り・憎しみ
「許せない」「ムカつく」
心が焼け付く感じ
正義感が攻撃に変わる
これはでおーがわざと相手を挑発して
怒り・憎しみの感情を沸かそうとしてる
相手の正義感を攻撃に変えようとする
まさにでおーが相手にやってる事やね
俺は基本ハッスル🤡様の知識と坐禅は信用してないけどな
ムイムイは詐欺禅やしなー😁
わはは〜〜〜
😁😁😁😁😁
こんな感じ
😁😁😁😁
ふんぞり返り
https://m.youtube.com/watch?v=aZ7BV6-x7ek&pp=ygU044Ov44Oz44OU44O844K5IOODj-ODs-OCs-ODg-OCr-OAgOimi-S4i-OBl-ODneODvOOCug%3D%3D
受け継がれていた心理分析の流れ
中論だけは、ここに無関心
中論だけは南インドから出てきた
個人的には、それが理由だろうと考えられている
「考えている」に訂正
😆
104.
ユーザー
栖雲居士◆t8ok0QoQ8kcK50-fOX-Ij-wvu
DuLmJ
小人閑居して不善をなすっていうからな。
ゴキブリ害虫馬鹿らの様な奴らがまさにそれだ。
糞害虫らはどうせ誹謗中傷やストーカー、せいぜいよくても過去の事例のコピペを蒸し返して「俺様は頭いいんだじょー!」って鼻息を荒くしてるだけだからな。
此処ではそうした害虫ゴキブリ馬鹿は相手にしないで、こうしてフロンティア、仏教の問題についての新しい領域を拓いていくわけだ。
2026/01/13 12:44:58
妙に必死だな?
「不生不滅なる……不来不去なる」は梵文によれば形容詞であって、「縁起」の語を規定する。それは存在が生滅去来するものであるに対し、縁起そのものは不生不滅なる法であることを意味する。
逆に縁起が主語で不生不滅が述語の場合:縁起の結果として「不生不滅」が語られる、あるいは「存在(個々のもの)が生滅するが、縁起の説明として不生不滅が導かれる」という読みになる。これは中観的な説明に近い。
*意味論的帰結(解釈上の違い)
1形容詞が「縁起」を修飾する場合(羽渓の読み)
縁起そのものが「不生不滅」の性質を持つ、つまり「縁起は不生不滅なる法である」。この読みは「不生不滅を根本に据える」解釈を支持する。
2逆に縁起が主語で不生不滅が述語の場合
縁起の結果として「不生不滅」が語られる、あるいは「存在(個々のもの)が生滅するが、縁起の説明として不生不滅が導かれる」という読みになる。これは中観的な説明に近い。
言語学的にはどちらの読みも文法的に可能だが、どちらが原文で実際に示されているかは語形と複合の有無で決まる。
は倶舎論だ
😆
やれるで
瞑想で
預流果やし
😆
説明よりも結論ありきだよ、
夕
😆
縁起(pratītyasamutpāda)
「条件によって生じること」「条件依存の生起」の原理そのもの。
範囲が広く、因果関係・相互依存・無自性などを含む総称的概念。
因縁(いんねん)
「原因と条件」を指す語。日本語では「因縁」が縁起の訳語としても用いられるため混同されやすい。
十二縁起/十二因縁
縁起の教えを12の連鎖(無明→行→識→名色→六入→触→受→愛→取→有→生→老死)で示した具体的図式。
したがって「縁起」の一表現・一応用である。
おさらいだ。
生滅観の基本手順:坐禅で呼吸を安定させ、対象(感覚・思考)を「生(arising)→存(being)→滅(passing)」の連続として観察する。短いラウンド(5–10分)から始め、気づきが増えたら延長する。
*存在(個々のもの)が生滅するが、縁起の説明として不生不滅が導かれる」
これに12縁起を絡ませるとどうなるの?
が世俗諦の倶舎論かテーラワーダの位置で 矛盾した内容を
合わせて中道というわけだから
その解釈で宗派が分かれたんやろな
😆
この部分を存在の生滅と言わずに
ズラしてきたのが
華厳、真言宗あたりなるんやろな
😆
取り込んでいるかもなー
吽字義あたりかな、
華厳は、それほど存在の生滅は取り込んでないかな
😆
空海著作の内容多少ぼんやりなごら見えてきたかも
😆
中論分析には役に立津部分がある
中論をとことん倶舎論に寄せたのが
唯識なのだろう
😆
地理的起源の問題とその限界
史料的事実:Nāgārjuna(龍樹)に関する出自は学界で諸説あり、南インド(ナーガールジュナコンダ周辺)を指す説もあるが確定的ではない。
地理=思想の単純対応は危険:古代インドの知的ネットワークは広域で、北と南の交流は活発だった。出身地が思想の根本的差異を一義的に決めるとは言い切れない。
むしろ重要なのは系譜と論争の文脈:中観はアビダルマや常見を論駁する文脈で生まれ、唯識とも激しい論争・対話を行った(後代の注釈史を見れば相互参照が多い)。
だ。そうだ。
そしてでおーは相手に怒り・憎しみを起こさせて地獄道に落とそうとしてる
餓鬼道とは
渇望・不足感・もっと欲しい
「まだ足りない」
承認・知識・評価・愛情への飢え
手に入れても満たされない
貪るようにあらゆる宗教の知識を求めるでおーそのものやね
そして得た知識で周りから承認を求める
でおーはなんか愛情にも飢えてるイメージ
完全にでおーに当てはまる
修羅道とは
闘争・優劣・勝ち負け
相手を倒して自分を保つ
でおーはやたら相手より優れてるをアピールする
勝ち負けにもこだわる
相手を倒すのに手段を選ばない
また、第三者同士対立させようと持って行ったりする
そして、それを見て楽しむ
これもでおーの行動に完全一致
地獄道とは
怒り・憎しみ
「許せない」「ムカつく」
心が焼け付く感じ
正義感が攻撃に変わる
これはでおーがわざと相手を挑発して
怒り・憎しみの感情を沸かそうとしてる
相手の正義感を攻撃に変えようとする
まさにでおーが相手にやってる事やね
つまり、「仏陀が説いた縁起の法は、不生不滅なのである」という意味に取れなくもない(笑)
↓
93 栖雲居士◆t8ok0QoQ8kcK (50-Lpb-Ij-wvu) [sage] 2026/01/13(火) 09:33:51.54 ID:ARiEC
桂紹隆 訳
不滅にして不生、不断にして不常、不一にして不異、不来にして不去、戯論寂滅にして吉祥なる縁起をお説きになった、説法者中の最高の説法者である仏陀に敬礼いたします。
石飛道子 訳
滅することなく生ずることなく(不滅不生)、(死後)断滅することなく永遠ではなく(不断不常)、同じではなく異なることなく(不一不異)、来るのでもなく去るのでもなく(不来不去)、戯論が寂滅する、吉祥なる、縁起を説いた正覚者(ブッダ)に対し、最高の説法者として、わたしは敬礼する。
確かに
中観派は、説一切有部や唯識派との激しい論争を抜きにして語れない
それこそ、「単独では存在し得ない」😅
いずれにせよ、仏陀の入滅から数百年が経った、大乗仏教の時代だ
神格化(仏格化?)がだいぶ進んでいる
もはや、「仏陀の教えは方便である。川を渡りきった後のイカダのように捨て去れ」などという時代ではない
初期仏教では、中道といえば「不苦不楽の中道」だ
「非有非無の中道」がある
どっちかって言ったらむしろ、中観派といえば「非有非無の中道」だろう
>神格化(仏格化?)がだいぶ進んでいる
大般若経自体が
かなり神格化している
三論宗、天台宗、華厳宗、真言宗
と神格化の道
禅だけは脱神格化方向になる
😆
中国で大乗仏教寺院よりも
小乗仏教寺院にいたと論文にあるぐらいたから
😆
「空=中道」を
空間的にとらえたのが「非有非無」、
時間的にとらえたのが「不常不断」
と言えるかもしれない
誰でもなんとなく分かったような気になる代わりに、
異論もほとんど出ない「不生不滅」とは違って
この2つは形而上学的な論争を巻き起こす
確かにな~😆
仏舎利を拝むな
蛇だ
と道元はいった
只管打坐で
脱神格化
😆
禅宗は、脱神格化を目指したんだな~😆
自己神格化激しいけどなー
😆
神聖にして犯すべからず
😆
有(ある)と無(ない)の否定: 物事には固定的な実体(有)はないが、完全に無(無)でもない、という二辺を離れた状態。
空(くう)との同一視: 「空」は実体がないことを意味するが、空そのものを実体と捉えるのは誤りであり、空こそが非有非無の中道であるとされます。
縁起(えんぎ)の思想: すべてのものは様々な原因や条件(因縁)によって生じ、消えていく(生滅する)という縁起の法に基づいています。
八不(はっぷ): 龍樹の『中論』で示される「不生・不滅・不常・不断・不一・不異・不来・不去」という八つの否定(八不)も、この中道を指し示します。
苦楽の中道: 快楽主義と苦行主義という両極端な生き方を避け、心身を整える(中庸)こと。
存在のあり方: 心(識)は固定されないが完全に無いわけではなく、物事には実体はないが無ではない、という捉え方。
中道(ちゅうどう): AとBという対立する概念の「間」ではなく、両者を離れた真実のあり方。
中庸(ちゅうよう): 物理的な「真ん中」や「平均」に近い概念で、両極端の中間点を指すことが多いです。
この「非有非無の中道」は、大乗仏教の核心的な思想であり、物事の本質を正しく理解するための実践的な指針となります。
中観派では「非有非無の中道」
が最も重要だ
不苦不楽の中道というとバランスでしょ。過ぎたる行為に対する注意でしょ。不生不滅はどちらかというと意識の行き過ぎに対する注意でしょね
そしてでおーは相手に怒り・憎しみを起こさせて地獄道に落とそうとしてる
餓鬼道とは
渇望・不足感・もっと欲しい
「まだ足りない」
承認・知識・評価・愛情への飢え
手に入れても満たされない
貪るようにあらゆる宗教の知識を求めるでおーそのものやね
そして得た知識で周りから承認を求める
でおーはなんか愛情にも飢えてるイメージ
完全にでおーに当てはまる
修羅道とは
闘争・優劣・勝ち負け
相手を倒して自分を保つ
でおーはやたら相手より優れてるをアピールする
勝ち負けにもこだわる
相手を倒すのに手段を選ばない
また、第三者同士対立させようと持って行ったりする
そして、それを見て楽しむ
これもでおーの行動に完全一致
地獄道とは
怒り・憎しみ
「許せない」「ムカつく」
心が焼け付く感じ
正義感が攻撃に変わる
これはでおーがわざと相手を挑発して
怒り・憎しみの感情を沸かそうとしてる
相手の正義感を攻撃に変えようとする
まさにでおーが相手にやってる事やね
そうだ
そこがポイントだ
その解釈で
三論宗、天台宗、華厳宗、真言宗、禅と
解釈が別れていく
😆
>中道(ちゅうどう): AとBという対立する概念の「間」ではなく、両者を離れた真実のあり方。
プラス衆生済度の案件が入る、
夕は、まだその視野を想定してない
大般若経自体がそれだから、
倶舎論は、そこまでいってない
衆生済度=空間認知と
言ってもいい、
そこがある部分中論の心臓部だろう
😆
ナルシズム済度😁
ぎゃーてーぎゃーてー
は衆生済度だろう
😆
中論の中道みたいなシステムが必要になってきた
衆生を知るには
倶舎論だけでは足らないという上の論理構築だろうな
😆
中論の中道みたいなシステムが必要になってきた
衆生を知るには
倶舎論だけでは足らないという上の論理構築だろうな
😆
「なかほどが良い」
「ほどほどが良い」
そういう意味に取る
どっちかっていったら、両方とも超越している
焦点は行為と経験の質。快楽追求と苦行の両極を避け、八正道に沿った節度ある生活を勧める。
具体例:食事・睡眠・修行時間の極端を避ける、感覚の刺激に振り回されないこと、日常の行為での節制。
目的は心身を安定させ、洞察(vipassanā)や集中(samādhi)を可能にする土台を作ること。
不生不滅が扱うもの(認識論的・形而上学的)
焦点は存在や意識の本性に関する誤った見方の是正。ものごとを「永遠不変の実体」として把握することを否定する。
「空」の思想: すべての現象(心や物質も含む)は、自立した本質(実体)を持たず、相互依存の関係性の中で一時的に現れているに過ぎない、という考え方です。
中道(ちゅうどう): 「ある」と「ない」、「永遠」と「無」といった極端な見方(二辺)に陥らず、両者を離れた真実のあり方を観る視点です。
心の無実体性: 私たちが「心」と呼ぶもの(感情、思考、意識など)も、固定した実体を持たず、縁起(相互依存)によって生じ、消えるもの(無常)として分析されます。
煩悩の分析: 煩悩(貪・瞋・痴など)も実体がないと見抜くことで、それに執着する心を解放し、苦(一切皆苦)から離れることを目指します。
唯識(瑜伽行派)との関係: 後期の中観派である瑜伽行中観派は、心の働き(識)を重視する唯識の思想を取り入れ、心自体がどのように現象を構成するのか(心所法など)を詳細に分析し、深層心理への洞察を深めました。
瞑想(瞑想): 「空」の真理を体験的に理解するための瞑想(瞑想)が重視されます。
目的: 諸法無我・諸法空性の理解を通じて、心の煩悩から解放され、究極的な自由(涅槃)を達成することにあります。
中観派の心理分析は、単なる心の観察ではなく、「空」という論理的枠組みを通して、心を含む一切の現象の根源的な実体のなさ(空性)を洞察し、そこから煩悩や苦しみの束縛を断ち切り、自由な境地へと導くための深い哲学的・実践的探求と言えます。
斬新な教義ではあったが、仏教の伝統である心理分析が失われた
結局、唯識派から心所法を取り入れ、瑜伽行中観派となった
瞑想により、空性の現量了解を目指す
煩悩をスルーしてたら、仏教からは逸脱する
でも、密教はもともと仏教から堂々と逸脱している
煩悩ハッスルも静かになる
😆
唯識と
ゲルク派と
天台宗の天台小止観あたりは少し雰囲気は残ってる
ゲルク派と天台小止観は
倶舎論要素を取り入れている
😆
戒律堅固と倶舎論と顕教
を学ばないと
本格的な密輸は学べない
エリートなシステムになっている
😆
エリートなシステムになっている
😆
ゲルク派は密教を否定せずに、顕教(戒・止・観・中観)を先に完成させた者だけに密教(灌頂・生起・円成)を許すという「顕教優先・顕密統合」の立場を取った。ツォンカパは密教を厳格な倫理・学問の枠内で制度化した。
存在はするが中心ではない:Mahāvairocana(大日如来)を主題とするタンラや儀礼はチベットにも入っているが、ゲルクの典型的カノンや実修の中心はヴァジュラダーラ系・最高瑜伽タンラであり、真言宗のように「大日如来=宇宙仏」を宗教的中心に据える構図とは異なる。
機能の違い:日本の大日信仰は宇宙論的・儀礼的中心性が強いのに対し、ゲルクの密教は修行段階と認識変容(転識成智)を達成するための技法群として位置づけられる。
転識成智が強烈に起きるのには
笑える
一冊一気読むと
世捨て人過ぎて仕事にポジティブマッチしない悲劇になる
😆
モンゴル帝国はチベット密教寺院で
浪費して国を滅ぼした云々とか
世界史でみたことがある
😆
サキャバンテタの岩波の日本語やくけらいしかもってないかもー
後あるがしれんが、書庫に眠っている
カギュ派はある
😆
華厳要素もかなり入っておる感じがある
普賢菩薩とか好きだからなー
😆
大日如来の要素がグレードダウンしたのてはないか? と
😆
チベット密教は親近感がある
華厳、寺門、チベットは
ハマり過ぎて読書関心が薄い
😆
チベットは光明のほうが勝る
華厳は光明だ😆
禅定皮膚感覚でだ
😆
体験先行するので
ポイント把握が早い、
それで満足して細かく読まなくて書庫に眠るオチが多い
山伏念仏日蓮なんかは
未だに禅定感覚では捉えられない要素がたくさんあるので関心が未だに濃いのかもしれん
😆
メタリック感覚があって
最初違和感しか感じなかった
チベット密教我流のほうが好みだった
😆
メタリックということは
物質的感覚が濃いんだろな
😆
物質的というより粒子的だ
真言宗は分子的なんだな
😆
チベット密教も物質文化は豊かだが、ナーディやプラーナの内的操作、生成次第・成就次第のヨーガ的技法がより強調され、外的儀礼と内的実修のバランスがやや異なる。
なんか光だなw 光子
荒い物質構成要素と
細やかな物質構成要素みたいな
話があるなー
専門用語アタマに残ってねー
精読してないからなー
😆
好みだったのは
一切空間を粒子分解ー
ガンダムダブルオーか?
😆
力説しても
神と一体たけで
空間認知ないんだよねー
あれで仏教関連スレて
自慢されてもー感だ
😆
光
速度の大きさ
約 99,792,458m/s
伝達方式
電磁波(真空中の光)
情報の伝播特性ほぼ瞬時(距離に比例)
神経(脳・末梢)
速度の大きさ
数m/s 〜 約 200 m/s(太い有髄線維)
電気的活動(活動電位)+化学的シナプス伝達
情報の伝播特性
遅延・減衰・シナプス遅延がある
これだと、宇宙的阿頼耶識は無理だろう。神経速度が遅すぎる。
>空間認知ないんだよねー
あれで仏教関連スレて
自慢されてもー感だ
これって、仏の幾何学的曼荼羅展開か?
唯識ですら四智とか言っておるんだしな
😆
中論を、読みこなすのも
わかりやすくなるだろう
そういう言い回しの
😆
いろいろ、よく知ってるな?
ムイムイじゃないけど(笑)
怒り → 大円鏡智
怒りの「瞬間的に対象を捉える鋭さ」が、鏡のようにありのままを映す智慧へ変わる。
貪り → 成所作智
欲望の「強く求めて動く推進力」が、行為を成し遂げる力へと転換する。
無知 → 法界体性智
無知の「空白で固定観念のない状態」が、空そのものを悟る智慧へ反転する。
嫉妬 → 妙観察智
嫉妬の「他者を細かく観察する鋭さ」が、物事の差異を正しく見抜く智慧になる。
慢心 → 平等性智
慢心の「自他を比較する意識」が、すべてを平等に見る智慧へと変わる。
なるほど。
五仏は曼荼羅で以下のように配置されます。
中央:大日如来(法界体性智)
東:阿閦如来(大円鏡智)
南:宝生如来(成所作智)
西:阿弥陀如来(妙観察智)
北:不空成就如来(平等性智)
真言宗の胎蔵界・金剛界曼荼羅、チベット密教の五仏曼荼羅でも基本構造は共通です。
なるほど
そしてでおーは相手に怒り・憎しみを起こさせて地獄道に落とそうとしてる
餓鬼道とは
渇望・不足感・もっと欲しい
「まだ足りない」
承認・知識・評価・愛情への飢え
手に入れても満たされない
貪るようにあらゆる宗教の知識を求めるでおーそのものやね
そして得た知識で周りから承認を求める
でおーはなんか愛情にも飢えてるイメージ
完全にでおーに当てはまる
修羅道とは
闘争・優劣・勝ち負け
相手を倒して自分を保つ
でおーはやたら相手より優れてるをアピールする
勝ち負けにもこだわる
相手を倒すのに手段を選ばない
また、第三者同士対立させようと持って行ったりする
そして、それを見て楽しむ
これもでおーの行動に完全一致
地獄道とは
怒り・憎しみ
「許せない」「ムカつく」
心が焼け付く感じ
正義感が攻撃に変わる
これはでおーがわざと相手を挑発して
怒り・憎しみの感情を沸かそうとしてる
相手の正義感を攻撃に変えようとする
まさにでおーが相手にやってる事やね
開祖: ツォンカパ大師(14世紀)。
別名: 黄帽派(こうぼうは)、黄教(こうきょう)。
特徴: 戒律と学問を重んじ、インドの仏教哲学(特に中観派と唯識派)を体系化し、論理的教義を重視する。
代表者: ダライ・ラマ、パンチェン・ラマが所属する。
中観派の思想: ナーガルジュナ(龍樹)に始まる学派で、「一切法空(すべての存在は実体がない)」という空の思想を徹底的に主張します。
ゲルク派の解釈: ゲルク派は中観派の「空」の思想(自性空など)を深く継承し、特に「言葉や概念では捉えられない究極的な実在(自性)」の否定を通じて「空」を解明しようとします。
教学の柱: ゲルク派の教学では、中観派の思想が他のインド仏教諸派(唯識派など)と対比されながら、その高次な段階として位置づけられ、徹底的な論証がなされます。
ゲルク派は、中観派の「一切法空」という哲学を根幹に据え、それを体系化・論理化することで、チベット仏教の学問と実践を高度に発展させた宗派であり、その教えの中心に中観派の思想が深く根付いていると言えます。
すっかり忘れとったわ😅
四句分別だ
龍樹が『中論』などで展開した論理で、ある物事について以下の四つの観点から検討します。
有(ある): 存在する(例:色は存在する)
無(ない): 存在しない(例:色は存在しない)
非有非無(非ある非ない): 存在とも非存在とも言えない(例:色は存在とも非存在とも言えない)
非非有非無(非非ある非ない): 存在でもなく非存在でもない、ということも言えない(例:色は存在とも非存在とも言えない、ということも言えない)
無自性の証明: この四つの論理を徹底することで、固定された本質(自性)を持つものは何もないこと(無自性)を明らかにします。
「空」の体現: すべてのものは縁起(相互依存)によって成り立ち、常に変化するため、絶対的な実体は「空」であると説きます。
中道の確立: 「ある」でもなく「ない」でもないという極端を離れ、究極の真理(中道)を示すための方法論です。
是(ぜ):Aである(存在肯定)
非是(ひぜ):Aでない(存在否定)
亦是亦非(やくぜやくひ):Aであり、かつAでない(両立否定)
非亦是非(ひやくぜひ):Aでもなく、Aでもない(両立否定の否定)
①「苦しみ」である: 「苦しい」と固定的に捉える心。
②「苦しみ」でない: 「苦しみ」という実体がないのだから「苦しみでない」とも言える。
③「苦しみ」であり、かつ「苦しみ」でない: 状況によって変化するから、固定的な「苦しみ」ではない。
④「苦しみ」でもなく、「苦しみ」でもない: 上記のどれにも当てはまらない。
これら全てを否定することで、「苦しみ」という概念自体が固定的な実体を持たず、因縁(縁起)によって変化する仮のもの(空)であると説き、執着から離れることを目指します。
実体(自性)の否定: すべての物事は固定した本質を持たない(「空」である)と示す。
分別(とらわれ)からの解放: 「苦しみ」「楽しみ」など、二元的な概念に心を縛られないようにする。
智慧の開発: 迷いの心を静め、真理を悟るための論理的手段。
言葉の使い方にはいろいろな問題がある。特に、ナーガールジュナや中観派と呼ばれる仏教徒たちの言葉の使い方は、一般の人には理解しにくいことが多い。その中でも、「四句否定(テトラレンマ)」という概念がある。これは論理学的には意味をなさないが、仏教やインド哲学の本質に関わるもので、これを理解することで言葉の問題の難しさをある程度解明できる。
仏教は基本的に言葉を否定する宗教であり、そのために理解が難しい部分がある。四句否定を理解することで、論理と非論理の中間にある言語の本質に関わる部分が明らかになる。
「有る」、「無い」、「有でも無でもない」、「非有でも非無でもない」
若菩薩摩詞薩修行般若波羅蜜多時、
於一切法、若取有、若取非有、
若取亦有亦非有、若取非有非非有、
若取不取、非行般若波羅蜜多
菩薩が般若波羅蜜多(最高の智慧)を修行する際の重要な教えを示しています。以下に詳しく解説します:
基本的な意味:
[菩薩]が[般若波羅蜜多]を修行する時、あらゆる物事(一切法)に対して、以下のような執着や概念化をしてはいけないという教えです:
有(存在する)と執着すること(若取有)
非有(存在しない)と執着すること(若取非有)
亦有亦非有(存在し、かつ存在しない)と執着すること(若取亦有亦非有)
非有非非有(存在するのでもなく、存在しないのでもない)と執着すること(若取非有非非有)
執着しないことにさえ執着すること(若取不取)
深い意味:
この教えは、あらゆる概念や観念への[執着]を離れることの重要性を強調しています。真の智慧([般若])は、[二元論]的な思考や[固定的な見方]を超越したところにあります。
西洋的な排中律に当てはめて考えるのが、クセになってるからだ
ナーガールジュナ『中論(根本中頌)』「第一章第一偈」
と言ったら、おしまいだ
排中律は論理を動かす重要な道具ですが、仏教ことにナーガールジュナの考察は、この道具の使われ方に別の光を当てます。彼は「ものは何から生ずるのか」というごく身近な出来事を徹底して問い直し、排中律的な物事の捉え方、ことにその因果関係の否定を主張しました。
倶舎論は、因果律の書
六因・四縁・五果
その壮大かつ精緻な理論体系を、龍樹はバッサリと斬り捨てた
アンチ説一切有部ならではの、思い切ったバッサリ感だ
「何かが自分だけの力で生じる」という場合を指します。たとえば「火は火自身のうちにあって、自ずと燃え出す」と言うようなイメージです。けれども、現実には火が燃えるためには、燃料や酸素、熱などの条件がそろわねばなりません。火だけで勝手に存在することはできないのです。一切のものは、それ自体で成り立つことはなく、かならず他との関係のなかで生じています。したがって、すべてのものは「それ自体から生じることはない」のです。
「Aはまったく別のBによって生じる」という場合を指します。火が木や紙といった“他者”によって生じる、と言えば、たしかに理解しやすく聞こえます。しかし、他があっても、それだけで火が生まれるわけではありません。たとえば、木があっても湿っていれば燃えませんし、全く無関係な水という他者から火が突然生じることもありません。もし、まったく別の他者から火が生じるのであれば、あらゆる存在から無限に火が生まれ、世界はたちまち火の海と化してしまうでしょう。火に必要な条件は、単一の他者によって完結するものではないのです。ゆえに、すべてのものは「他者から生じることはない」と言わねばなりません。
「一部分は自分であり、他の部分は他者であるような複合的な要因から生じる」という立場を指しています。この考え方は、いかにももっともらしく感じられます。われわれは、ある事物が生じるとき、それが一つの原因によってのみ起こるのではなく、さまざまな条件の重なりによって成り立つのだと考える傾向をもっています。現代の感覚に照らしても、複合的な要因によって現象が形づくられるという理解のほうが、しっくりくるのではないでしょうか。
しかし、ナーガールジュナは、この素朴な理解の底に潜む論理的な落とし穴を鋭く見抜いています。「複合から生じる」と言うとき、われわれはすでに、“複合される二つ(あるいはそれ以上)のもの”が、あらかじめ存在しているかのように前提してしまうのです。たとえば「火(自)と木(他)の複合によって火が燃えている」と説明するとき、思考の背後には、火と木という二つの実体が、最初からそこに並び立っている姿が、いつのまにか描かれています。
しかしながら、火がまだ生じていない段階では、火はどこにも存在していません。存在しない火が、どのようにして木と“複合”することができるのでしょうか。また、先に述べたように、木という存在も、それ自体で自立して成り立つものではありません。「自と他の複合によって生じる」という表現には、存在をあらかじめ前提し、しかもそれぞれを実体として扱ってしまうという、思考上の矛盾が潜んでいるのです。したがって、ナーガールジュナは、ものは「自と他の両方から生じることはない」と結論づけます。
これは、火について「熱い」と述べながら、同時に「冷たい」と言い切るのに等しい矛盾です。相反する性質が同じ対象に同時に具わることは、論理の上でも、存在の秩序の上でも認められません。自性と他性という矛盾概念が同じ物に帰属するのは不合理ですから、この二つを同時に付与するという考え方は、存在を成り立たせている根本の枠組みそのものを崩してしまうのです。
自性……ものごとが「それ自体として、自分自身の力だけで成立している」とみなされる性質のこと。
他性……ものごとが「自分の外側にある条件だけで成立している」とみなされる性質のこと。
こうした指摘は、一見すると詭弁のように映るかもしれません。しかし、ものが生じるという出来事に向き合うとき、われわれの思考はしばしば、“そこに確かな実体が在る”という感覚を必要以上に与えてしまいます。「火」という語を用いるとき、その言葉に対応する「火」という確固とした実体がどこかに存在するように思えてしまう。
けれども、ものごとは数えきれない条件の重なりの中で、ただ仮に、ひとときの姿を保っているにすぎません。世界は固定した実体ではなく、関係の織りなす網の目のように、絶えず生成し続けている。それにもかかわらず、われわれはその流動する現象に「本来の姿」や「揺るがぬ本質」を読み込み、あたかもその像がどこかに実体として鎮座しているかのように受け取ってしまうのです。
まさに、この“ことば”による実体視の習慣を一つひとつ静かに取りはらい、名称と実体の結びつきを解きほぐしていくところにこそ、ナーガールジュナの思索の光が宿っています。
言葉はあくまで仮の便宜であり、その背後に“自性”や“他性”などという核が潜んでいるわけではない──その徹底した眼差しによって、縁起としての世界のやわらかな息づかいが、ふっと姿をあらわすのです。
「何の原因もなく、突然に生じる」という場合です。しかし、無から有が生まれることはありえません。花が咲くにも、土と水と光の働きがあります。原因のない生起は、経験の上でも、理の上でも成立しません。したがって、すべてのものは「原因なくして生じることはない」のです。
「自性」はともかく、「他性」とは見かけない言葉だ
普通は「依他起性」って言わないか?
依他起性・・・他に依存して存在している、縁起による存在
龍樹はそれ自体で成り立っているのではない
「アンチ説一切有部の論客」 ← これを抜きにして語れない
アンチ説一切有部も、アンチ幸福の科学やアンチ神慈秀明会も似たようなものだ(笑)
「この人は、説一切有部を否定しているんだ」と思うことだ
欲望の扱いでズレはあるが
まー空海の吽字義は
割合、その方面を、真言一文字で言い表そうしたり、オモロイで
😆
俺は禅定トップゾーンで
それを解釈しようとするタイプなので
龍樹に忠実性は狙わんけどなー
やはり横着な禅発想がベースにあるんだろなー
だから、ハッスル🤡様の参禅30年は
ハッタリ
😆
衆生済度の目的で
そーいうのがある
ま、空海の吽字義でも読むことだな
十巻章の現在語訳も購入しとるやろし
あるやろ
😆
大まかな主要なテーマと付属をチラ読みしとるので
具体的には覚えてないが
該当箇所は
だいたい覚えてる
😆
生年:1357年頃
没年:1419年
チベット・アムド地方に生まれ、ゲルク派(黄帽派)の開祖となりました。
🟡 空海(弘法大師)
生年:774年(宝亀5年)6月15日
没年:835年(承和2年)3月21日
チベット仏教のゲルク派を抜きにして、中観派を語れませんな~
1. 宇宙観の違い(世界の見え方)
空海(日本密教)
大日如来=宇宙そのもの(法界)
宇宙は「声・字・形」で構成され、曼荼羅として可視化される
象徴・儀礼・曼荼羅を通じて宇宙と一体化する
世界は“美的・象徴的に統合された場”
→ 宇宙=大日如来の身体という“象徴宇宙論”
ツォンカパ(チベット密教)
空(śūnyatā)=縁起の論理が宇宙の根本
宇宙は「空性の論理」で理解される
中観哲学(縁起=空)を徹底的に基礎に置く
宇宙は“論理的・哲学的に成立する場”
→ 宇宙=縁起のネットワークという“哲学宇宙論”
15世紀初めのチベット仏教の改革者。
それまでのチベット仏教が仏教以前のチベットの土俗的宗教であるボン教の要素が強く、呪術的な現世利益を求めるものであったのに対し、戒律を厳しくし仏教本来の倫理性を強めようとした。その教派は黄帽派(またはゲルク派)と云われ、チベット仏教の主流となる。黄帽派は戒律が厳しく、妻帯できないため、教主(ラマ)の後継者は仏教の輪廻転生の教えに基づき、教主の死んだ時刻に産まれた男子から選ぶ、「転生ラマ」の制度がとられた。ところがツォンカパの死後、その教えは二系統に分かれ、主流はダライ=ラマが、傍系がパンチェン=ラマが継承することとなった。
その上で、「中観派はワンランク上の思想」と位置づけてるんだよな~
日本では、奈良仏教の成実宗が強い影響を受けていた
奈良仏教の南都六宗になった
(関連が深いというだけ。厳密にイコールではない)
南都六宗 <= インド四大学派+α
倶舎宗 ← 説一切有部
成実宗 ← 経量部
三論宗 ← 中観派
法相宗 ← 唯識派
華厳宗 ← 如来蔵思想
律宗 ← 戒律
*前の3つは消滅、現存するのは後の3つのみ
「説一切有部・経量部・中観派・唯識派」が四大学派と位置づけられ、派閥争いをやっていた
日本の仏教界も、奈良時代まではそれを反映していたと言える
平安時代に天台宗と真言宗が唐朝から導入され、状況は激変した
根本中頌 帰敬偈
近づいてきてるなー
😆
禅の道を進むなら、必須教養といってよい
これは、単なる概念理解(「何もない」という認識)ではなく、色即是空・空即是色(現象は空であり、空から現象が生じる)を、倶生大楽(根本的な喜び)の中で同時に体得する、チベット仏教ゲルク派(ツォンカパ創始)の核心的な修行目標です。
「空」の定義: すべての存在は「自性(実体)」を持たず、縁起(相互依存)によって成り立っている(龍樹の思想)。
「現量(げんりょう)」: 概念や論理(比量)を介さず、直接的に対象を認識する、最も確実な認識方法。
「空性の現量了解」: 「空」を概念として理解するのではなく、現象(色や形)と実体がないこと(空)を同時に、直接的に見通す状態。
実践 : 止観(サマタ・ヴィパッスナー)の修習、特に無上瑜伽タントラの高度なヨーガ(風・脈管・チャクラを用いる)を通じて、倶生大楽(本質的な喜び)の中で達成される。
最終目標 : この体験(「義の光明」)により、煩悩の根源(所知障)を一気に断ち切り、仏陀の境地(一切智)に至る。
窓から光が差し込み、部屋全体が見える状態。実体がない(お化けの映像)ことと、それが存在していること(映像が映っている)の両方を同時に直接認識できる状態。
『般若心経』の「無眼耳鼻舌身意」などの表現は、この「空性の現量了解」を得た聖者の三昧(瞑想状態)で体験される感覚であり、通常の感覚で文字通り解釈すると誤解を生む。
要するに、ゲルク派では空性を「理解する」だけでなく、「体験し、現象世界と一体で直接的に見通す」ことを目指し、そのための体系的な瞑想実践を重視しています。
ゲルク派といえば、コレだ
中観派には、この傾向が強い
・・・では、空性(くうしょう)の現量了解(げんりょうりょうげ)は、どのようにしたら獲得できるのでしょうか?
無念無想で座禅していて突如ひらめく・・・というようなものでは、決してありません。
そうではなく、まず空性を推論的・概念的に理解することから始めるのです。そのためには、中観派の見解をよく学び、空の意味を徹底的に吟味する必要があります。
自分の心の中で、「諸煩悩の大もとにある実体視の習性とは、どのような心の動きか? その心によって虚構された実体性とは何か? そのような実体性が本当に存在したら、どのような矛盾に陥るか?」といった点について検証を重ね、十分な納得を引き出すことが大切です。
そのようにして得られた結論を、「聞と思による空性了解」といいます。
自分の心の中で、「諸煩悩の大もとにある実体視の習性とは、どのような心の動きか? その心によって虚構された実体性とは何か? そのような実体性が本当に存在したら、どのような矛盾に陥るか?」といった点について検証を重ね、十分な納得を引き出すことが大切です。
唯識並みの丁寧さだな?
まさにゲルク派
ハッスルは禅は向いてない
😆
中道は
世俗諦を完璧にこなし
空性と
ピッタリ合わないといけない云々と
いうのが記憶から出てきた
禅やニンマ派は
そうではないから
ダメだ云々
😆
踏襲しているのだろな?
😆
そしてでおーは相手に怒り・憎しみを起こさせて地獄道に落とそうとしてる
餓鬼道とは
渇望・不足感・もっと欲しい
「まだ足りない」
承認・知識・評価・愛情への飢え
手に入れても満たされない
貪るようにあらゆる宗教の知識を求めるでおーそのものやね
そして得た知識で周りから承認を求める
でおーはなんか愛情にも飢えてるイメージ
完全にでおーに当てはまる
修羅道とは
闘争・優劣・勝ち負け
相手を倒して自分を保つ
でおーはやたら相手より優れてるをアピールする
勝ち負けにもこだわる
相手を倒すのに手段を選ばない
また、第三者同士対立させようと持って行ったりする
そして、それを見て楽しむ
これもでおーの行動に完全一致
地獄道とは
怒り・憎しみ
「許せない」「ムカつく」
心が焼け付く感じ
正義感が攻撃に変わる
これはでおーがわざと相手を挑発して
怒り・憎しみの感情を沸かそうとしてる
相手の正義感を攻撃に変えようとする
まさにでおーが相手にやってる事やね
そのためにはまず、心の集中力を高める訓練(止の修習)が欠かせません。これを達成できたら、よく精神集中している三昧状態で、空性を観察します(観の修習)。このときは、既に十分納得している結論への流れに心を指向させるのであって、前述の段階のようにあれこれ散乱して考えるわけではありません。
密教そのものだな😆
光明ゾーンに入っちまうので
快楽過ぎて
読む気が失せる
😆
教学による析空観をスッ飛ばして
いきなり、瞑想による体空観に参入するのは無理がある
中論の素養がない者に、空性の現量了解はできない
😆
プレミアムの無料期間を2026/3/31まで延長することになりました。
広告除去や規制緩和など、ヘビーユーザーにとって欠かせない機能を無料でお楽しみいただけます。
是非この機会にプレミアムサービスをお試しください!
▼プレミアムサービスはこちらから
https://talk.jp/premium