Howard Philips Lovecraft(1890-1937)はアメリカ大西洋岸北部、ニューイングランド地方のロード・アイランド州に生まれ、病身のため、一生をそこにとじこもって、恐怖、超自然の空想に耽って暮らした異常の作家である。(中略) 彼の作には次元を異にする別世界への憂鬱な狂熱がこもっていて、読者の胸奥を突くものがある。その風味はアメリカ的ではなく、イギリスのマッケン、ブラックウッドと共通するものがあり、或る意味では彼等よりも更らに内向的であり、狂熱的である。彼は天文学上の宇宙とは全く違った世界、即ち異次元の世界から、この世に姿を現わす妖怪を好んで描くが、それには「音」「匂」「色」の怪談が含まれている。
The nightmare corpse-city of R'lyeh…was built in measureless eons behind history by the vast, loathsome shapes that seeped down from the dark stars. There lay great Cthulhu and his hordes, hidden in green slimy vaults.
全てについて疑うべし(De omnibus dubitandum。カール・マルクスの言葉)という方法的懐疑により、自分を含めた世界の全てが虚偽だとしても、まさにそのように疑っている意識作用が確実であるならば、そのように意識している我だけはその存在を疑い得ない。「自分は本当は存在しないのではないか?」と疑っている自分自身の存在は否定できない。―“自分はなぜここにあるのか”と考える事自体が自分が存在する証明である(我思う、ゆえに我あり)、とする命題である。コギト命題といわれることもある。哲学史を教える場合の一般的な説明によれば、デカルトはこれを哲学の第一原理に据え、方法的懐疑に付していた諸々の事柄を解消していった、とされる。
またオーストラリアの哲学者デイヴィッド・チャーマーズが提出した「意識の難問(The Hard Problem of Consciousness)」という概念と対比させて「意識の超難問(The Harder Problem of Consciousness)」[1][2]と言われることもある。また、問いの内容が「なぜ今、ここなのか?」というものであることから、「今・ここの問い(いま・ここのとい)」と言われることもある。
We have a deep intuition that there is core, an essence there, and it’s hard to shake off, probably impossible to shake off, I suspect. But it’s true that neuroscience shows that there is no centre in the brain where things do all come together.
「私は在る(エフエ)」という言葉は、旧約聖書で神がモーセに自らを示された際の表現で、「私は、在る者(ヤハウェ)」を意味し、神が初めから永遠に存在し、自存し、全能であるという絶対的な存在と力を持つことを示す、非常に重要な神の御名(みな)であり、自己紹介です。これは「I am that I am」と英訳され、神は時間や他のものに依存せず、自ら存在し続けるお方、ということを表しています。
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. V{ l', l\ // ノ ノ ノ // 神なんて実在しないよね(*´・ω・)(・ω・`*)ネー
ヽl ', lハ `ー'⌒ ‐-‐' / __ イ // < 基地外の妄想だよね(*´・ω・)(・ω・`*)ネー
. \い个:.、 / , / // 宗教は欺瞞だよね(*´・ω・)(・ω・`*)ネー
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前スレ 403
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1664852327/
>>2 参照
天気予報でもみてろ
無能能天気脳味噌種族ですね
(*´ω`)人(´ω`*)ネー♪世界的なベストセラー次世代の100人これも想像だよ
神仏なんで想像だから大昔の
人間のほうがいろんなことできるわ
神なんていないと思う人達にとっての神が上岡龍太郎さんなんだよな
でもそんな上岡さんをいくら拝んでも救いはないと思う
上岡さんは神なんかいないと思ってるんだから
しかし神仏を祈ればそこに必ず救いはあって道は開かれる
ただご利益信仰的に、最初からそれを期待して祈る信仰だと
思ったような救いは得られないかもしれない
神仏によって一人でも多くの人が救われれば、
この世に平和な極楽浄土顕現に少しでも近づけるから
物事を正しく理解する力も無いと思う
実際に自分のことをペテン師だと認めながら己を神様だと思い込んでる人間を
間近で見て知ってるからそれは断言出来る
不正や詐欺的な行為をする人間はいるわけで、
近年では日本の大学の研究論文が
世界でもトップレベルの不正大国だと有名になってるようだけど、
だからと言って科学や大学や教育機関を無くせという人はいない
神仏もそれと同じで神仏はいるのに、
人間の心が汚すぎてなかなか神仏の境涯までたどり着けないし、
信じる人もなかなか増えていかない
科学はまだのびるだろうし不正間違いがあってもな
無免許の似非医者が蔓延って横行してるのは、
医者や病院や医療そのものがあるから悪いんだとか言ってるレベル
神仏いるのに人間の心が汚いからと神仏にたどり着けないとかなんの証明もできないのにな、へんてこな言い分で煙にまくのはうまくコメントできたつもりなのかね、こういう連中は
放置スレ認定
**********
修行者、求道者、修行僧は、やはり さとりを求めて行きます。さとれば、さとりが無く、無我とは、真理(さとり)です、が 理解できるものでありませんく、まさに 体得します。
その状態を 石、とも 言います。突然 ストーン と、自他が無くなります。
これを 一と一は、二では無い。一の如し、一如である、言い表します。この一如に取り組む公案が有ります。
両手で打てば音が鳴る。では、片手の人が叩く拍手の音を聞いてこい、と言うもので、これに取り組みました。
ぜひ、とも取り組んでいただきたいものです。
音を聞くのだが、片手では拍手ができないから、音が鳴らないので聞こえない。
その聞こえない音を聞け、と 公案は いう。
聞こえない音が聞こえる。 そこが 色即是空。 初関(しょかん)を透(とお)る。
色とは片手の人が叩く拍手です。片手の人が叩く音を聞いた、そこが、色即是空です。真理(さとり) です。
趙州従しん(ぢょうしゅう・じゅうしん)の無字の公案では長年かかってもなお悟れず死んでいく者も多かった事から、修行僧に対して白隠禅師が新たに隻手の音声(せきしゅ の おんじょう)の公案を与え、沢山の修行者に悟らせようと苦心した公案です。
白隠慧鶴禅師(はくいん えかく ぜんじ) 隻手の音声(せきしゅのおんじょう)
両掌(りょうしょう)打って音声あり、隻手になんの声やある。隻手の声を拈提(ねんてい)せよ。
>> 理屈っぽいけど、自他一如なら、あなたが叩こうがわたしが叩こうが同じ、わたしが叩きます、パンパンで終了。あとは自他一如、自分から心で隻手の人と一つになる。すると、相手の手を叩く音がきこえる。自他一如や自己の愛情、慈悲心を育てる公案だったとか 』
ありがとうございます。
これは理解したり、解釈を咥えたりするものでじゃないので、お怒りを受けるともいますが、字句の解釈に拘泥するものではありません。
先にも言いましたが、自他一如を体得する事です。
あなたと私で、ぱんぱん。
トンチ、になりましたね。
片手の人が、です。
置き換えて、これでどうだ、と言うわけにはまいりません。
聞こえるはずのない、片手の人が叩く拍手の音を聞く、のです。
禅とは ジャーナを音写して禅那と中国人が漢字であらわしたものであり、ジャーナとは、静かにする、静かに坐る、と言う意味である。拡大解釈しては、原意が蒸発してしまう。
浄土宗、浄土真宗は、波阿弥陀仏、と阿弥陀佛(無量寿Buddha、無量光佛陀)陀に帰依する。
法華宗は南無 妙法 蓮華経、と正しい教え、白い蓮の花の教え、教典、お経の本に帰依する。
騒動衆はお坐り、お手を教え込む。
南無阿弥陀仏と言うのか、南無妙法蓮華経と言うのか、何とも云わず、坐っているのか、この三つは 易行(いぎょう)である。難しい事を求めず、これをやればいいんだよ、と安心させる。
追い込まれた人に取っては、ひとすじの光明である。
> 心身一如にならないと、坐禅が坐禅にならないんです。 』
脳内の神経細胞の結束が、心と呼ばれる。
0,5ミリの線虫にも味の好みがある、と言う。脳が無いのが線虫である。
神経の経験が好みを選ぶのである。 だから、心身ではなく、身心と言いう。
>> 私をバカにしたければすればよろしい。その代わり、地獄行きである。 』
地獄極楽。 極楽地獄。 一対のものだよね。 なので、地獄は極楽が無いと成立しない。
では極楽は、地獄がなければ、存在しえないのだろうか。そんな事は無く、極楽は、極楽そのもので、完結している。地獄は無用なのである。
地獄の住人は、どうやって救われてて行くのだろうか。地獄が極楽だったんだ、と自覚する、みずから めざめる、こう知れば、そのところが極楽とも言わず、地獄とも言わず、公平無比の横一列の地平線、水平線であり、日が昇り日が沈み、月が昇り、月が沈む、自他が無い。 これが 大切だよね。
> 南無阿弥陀仏 』
南無阿弥陀佛陀
帰依します
アンミータ
のっと、めーたー
量る事が出来ない
アミターユ
無量光
アミターバ
無量寿
佛
Buddha
佛陀
目覚めた者
本願を立て 救い取るぞと決意されている無量寿Buddha、無量光Buddha、に対し帰依します。
地獄極楽。 極楽地獄。
一対のものだよね。
なので、地獄は極楽が無いと成立しない。
では極楽は、地獄がなければ、存在しえないのだろうか。そんな事は無く、極楽は、極楽そのもので、完結している。地獄は無用なのである。
地獄の住人は、どうやって救われてて行くのだろうか。
地獄が極楽だったんだ、と自覚する、みずから めざめる、こう知れば、そのところが極楽とも言わず、地獄とも言わず、公平無比の横一列の地平線、水平線であり、日が昇り日が沈み、月が昇り、月が沈む、自他が無い。 これが 大切だよね。
会者定離えしゃじょうり 。こんにちは、さようなら。生死(しょうじ)。
問う答えるて対話してきた各章のつらなり、1000章が、次のステップか。
佛とは、真理、ダルマ、法、であって人格的存在ではない。
問う、
「両手で打てば音が鳴る、片手の人が叩く拍手の音を聞いてこい 」
白隠慧鶴禅師(はくいん えかく ぜんじ) 隻手の音声(せきしゅのおんじょう)
両掌(りょうしょう)打って音声あり、隻手になんの声やある。隻手の声を拈提(ねんてい)せよ
諸行無常、諸法無我、一切皆空、である。
禅定(ぜんじょう、梵: dhy?na, ディヤーナ、巴: jh?na, ジャーナ、禅那:ぜんな)。静慮
禅とは ジャーナを音写して禅那と中国人が漢字であらわしたものであり、ジャーナとは、静かにする、静かに坐る、と言う意味である。拡大解釈しては、原意が蒸発してしまう。
こころ コロコロ、色即是空は空即是色へ還(かえ)る。
さとりとは、真理、法、ダルマである。
達磨さんはインドから中国にやって来たのか、来なかったのか。
ビッグバーンは一期一会である。
すずめはチュンチュンこんにちは、である。
道端のタンポポのさよなら、である。
出会えば別れるのである。
問う
「この座敷から坐のままで30メートル先のロウソクの炎を吹き消せ」
中道是空(ちゅうどうは これ くうなり)
空是中道(くうとは、これ ちゅうどうなり)
空とは、分別しないである。
空とは、一の如しである。
色即是空は空即是色へ還(かえ)る
いろめがねを作り上げてしまっているから、本来の有りようが知識と言うスクリーン越しにしか見えない、からだ。
差別しない、分別しない、これとそれとあれを分けない、である。
生者必滅(しょうじゃひつめつ)会者定離(えしゃじょうり)
こんにちは、さようなら。
生死(しょうじ)。
問う答えるて対話してきた
佛とは、真理、ダルマ、法、であって人格的存在ではない。
佛 真理(さとり) を 問う、
「両手で打てば音が鳴る、片手の人が叩く拍手の音を聞いてこい 」
諸行無常、諸法無我、一切皆空、涅槃寂静である。
禅とは
梵: dhy?na, ディヤーナ、巴: jh?na, ジャーナ、禅那:ぜんな)。 禅定(ぜんじょう、静慮(じょうりょ)
こころコロコロ、色即是空は空即是色へ還(かえ)る。
さとりとは、真理、法、ダルマである。
達磨さんはインドから中国にやって来たのか、来なかったのか。
ビッグバーン以来の一期一会である。
すずめはチュンチュンこんにちは、である。
道端のタンポポのさよなら、である。
出会えば別れるのである。
問う
「この座敷から坐のままで30メートル先のロウソクの炎を吹き消せ」
中道是空(ちゅうどうは これ くうなり)
空是中道(くうとは、これ ちゅうどうなり)
空とは、分別しないである。
空とは、一如(いちにょ) 一の如しである。
色即是空は空即是色へ還(かえ)る。である。
白目むいてるのが信者、病院にいけ
大山が5chに戻って入るのは知っているのか?
前より規制が緩くなったらしいぞ
😒
安堂はポッたん禅師に法を訪ねに行った。
ポッたん
「一如!一如だ!」
安堂
「二如ではだめですか?」
安堂やポッたんは一如とか二如とかなにを訳のわからないことを言ってるのか。三如や四如と何が違うと言うのか。安堂もポッたんもなにもわかっちゃいないよ。
ID:RWubMcjr(
嘘にだまされてる多数
問答、名付けられた名詞から名前を剥ぎ取ったそれを何と呼ぼうか。
真理(さとり) を 無我 と言う事が出来るのだが、無我と言う言葉を出すだけで なにもかもを切り捨てる事はは出来ない。
問答(もんどう)は子弟が問い答えてきた禅宗弾圧の一時期からの創意工夫の伝統がある
理解(りげ)と言えば むしろ お上品になってしまうけれど、寒風不キス武功や、だね。
宗教のインドにおける語源は、如何に生きるか、と言うもので、あたまの中の変換ではない。
神の存在証明を2000年間立ってもまだやってるキリスト教神学の蜃気楼だね。
唯心論、唯物論は、一方の真理を言う、唯、を取り払う。
心と物が矛盾なく存在しているのが、わたし達の日常なのではないだろうか。
尊公、近頃、如何。(そんこう ちかごろ いかん)。 こんにちは、さようなら。禅は生死(しょうじ)を問う。
問う答えるて問答(もんどう)し師弟は対話し真理(さとり)を伝えてきた
原初、禅とは、静かにするの意である。
梵: dhy?na, ディヤーナ、巴: jh?na, ジャーナ、禅那:ぜんな)。 禅定(ぜんじょう、静慮(じょうりょ)
達磨さんはインドから中国にやって来たのか、否か。ビッグバーン以来の一期一会(いちごいちえ)である。 すずめはチュンチュンこんにちは、である。道端のタンポポのさよなら、である。出会えば別れるのである。
空とは、分別(ふんべつ)しない、分けない、である。 一如(いちにょ) 一の如し(いちのごとし)である。
色即是空(しきそくぜくう)は空即是色(くうそくぜしき)へと還(かえ)る。
白隠慧鶴禅師(はくいん えかく ぜんじ) 隻手の音声(せきしゅのおんじょう)
両掌(りょうしょう)打って音声あり、隻手になんの声やある。 隻手の声を拈提(ねんてい)せよ。
片手の人が叩く拍手の音を聞いてこい。
また、問う。 『 この座敷から坐のままで庭の30メートル先の築山(つきやま)に立つ石灯籠のロウソクの炎(ほのお)を吹き消せ』
真理(さとり)は言語によって伝わらない。生
まれて以来の知識の蓄積が眼をくらます。
差別しない、分別しない、これとそれを分けない、である。
如とは如来、来と言う助辞を漬けたものである。如来とは佛を言う。
活躍できるのはアニメ動画ぐらいか
レジェンドかいパイオニアでただの人間だな
才能もない人間だ
髪がいないとありえないと考えてしまうね。
まさに奇跡
スレ主逃走の為、このスレは終了。
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>>125が悔い改めるのを待っておられる
アンセルムスの存在論的証明
「それ以上大きなものがない存在」とは、知性の内だけでなく外にも存在する方がより大きい。
それゆえ、「それ以上大きなものがない存在」は知性の外にも存在し、それが神である。
不完全な人間が完全な存在である神の観念を持つのはおかしい。
この矛盾を解決するには、神が人間に神の存在を教えてくれたとしか考えられず、ゆえに神は存在する。
万物は動かされるが、動かすものには更に動かすものがあり、無限に遡ると「不動の第一動者」に行き着く。
その「不動の第一動者」が神である。
神の存在証明は科学的方法ではなく、人間の理性による論証を試みるものです。
これらの試みは神学や哲学における「形而上学」の問題として扱われてきました。
また、神の存在証明は、神の存在が信仰の対象である一方で、理性によっても確認されるべきだという考えから生まれたものです。
おやおや、お前をキチガイ扱いした事が、即、神とやらの侮辱につながるのか。w
……お前は何様のつもりだ?
それはお前がそう言っただけで、アッラーとやらの言葉である証明はどこにも無い。
お前は自身をムハンマドと同格の預言者とでも思い上がっているのか?
◆JBLfMwCXhYが妄想する神と、過去の神学者や哲学者が論じた神が同一であるという証明もまた、何処にも無い。
◆JBLfMwCXhYがは過去の神学者や哲学者の言葉をコピペしているだけであり、何の証明にもなっていない。
イスラム教の聖典であるコーラン
7世紀に預言者ムハンマド(彼に平安あれ)によって書かれたこの書は、数十億の人々にその神聖な起源を確信させてきた傑出した作品です。
この聖典の核心には、その著者が誰なのかという問題があります。
多くの学者や歴史家が、預言者ムハンマド自身がコーランの著者であったはずはないと確信しています。
預言者(彼に平安あれ)は、570年メッカで、主に文盲の社会に生まれました。彼は質素な家庭に育ち、文学、詩、修辞学の正式な教育を一切受けませんでした。
実際、コーラン自体が彼を「無学な預言者」(コーラン7:157)と呼んでおり、これは彼が流暢に読み書きできなかったことを意味します。
彼が正式な教育と文学的背景を欠いていたことを考えると、コーランのように文学的、言語的に優れた深遠な作品を生み出したとは到底考えられません。
正式な教育と文学的訓練の欠如は、当時の多くの信頼できる情報源によって裏付けられている、確立された歴史的事実です。
預言者の仲間や同時代人は、彼を流暢に読み書きできない人物として一貫して描写しており、この事実は同時代人や歴史家の間で広く知られ、受け入れられていました。
コーランの精緻な文学技法、一貫した物語の流れ、そして独特の文体的要素は、当時のアラビア文学において、最も優れた詩人や弁論家でさえも比類のないものであった。
預言者の貧しい生い立ちと正式な教育を受けていないことと、コーランの卓越した文学的価値との間のこの際立った対照から、多くの学者や歴史家は、預言者がコーランの著者ではあり得ないと結論づけています。
彼らはむしろ、コーランの文学的・言語的輝き、そして一貫性、科学的正確性、そして預言的な性質は、一人の人間、特に正式な文学教育を受けていない人間の能力を超えた神聖な源泉を示していると主張しています。
コーランは、その独特の文体、雄弁さ、そして洗練された言語的表現で、文学の傑作として広く認められています。比喩、直喩、寓話といった様々な文学技法が用いられ、当時のアラビア文学において比類のない複雑さと深みを誇っています。コーランの言語は非常に複雑で繊細なため、数え切れないほどの学術研究の題材となり、何世紀にもわたってアラビア文学と言語の発展に影響を与えてきました。
当時のアラブ人は、卓越した弁論術と詩や雄弁な演説への深い理解で知られていたことは特筆に値します。しかし、コーランの文学的卓越性は当時のアラビア文学の最高水準をも凌駕しており、当時の最も優れた詩人や弁論家でさえ畏敬の念を抱き、これに匹敵するものを生み出すことができませんでした。
3. コーランの一貫性と整合性
コーランのもう一つの注目すべき点は、23年もの歳月をかけて啓示され、神学、倫理、法、歴史など幅広いテーマを扱っているにもかかわらず、その一貫性と整合性です。コーランは、各章や各節を通して、テーマ、文体、そしてメッセージにおいて驚くべき統一性を維持しており、明らかな矛盾や不整合は見られません。
啓示が与えられた背景や状況が多様であることを考えると、このレベルの一貫性と一貫性は特に注目に値する。預言者 Muhammad(彼に平安あれ)は、長期間にわたり啓示を受け、多くの場合、特定の出来事や仲間からの問いかけに応じて啓示を受けました。
しかしながら、コーランは途切れることのない流れと一貫した物語性を維持しており、神の導きなしに、これほどまでにまとまりのある調和のとれた作品を一人の人間が生み出したとは到底考えられません。
4. 祈りの中でクルアーンが朗誦される
それぞれの祈りは、立つ、お辞儀をする、平伏すといった特定の動作から成ります。祈りの中で最も重要な部分の一つは、クルアーンの一部を暗唱することです。これにより、ムスリムは常に神の言葉に触れることができます。美しく、聴き手の感情に訴えかける旋律で朗唱されます。「クルアーン」という言葉は、実際には「最も多く朗唱されるもの」を意味します。クルアーンが地球上で最も多く朗唱されている書物であることは事実です。1.5億人のムスリムのうち、かなりの割合がXNUMX日にXNUMX回祈りを捧げているため、クルアーンは常に世界中で朗唱されています。
5. コーランの科学的正確性
う
コーランの神聖な起源を裏付ける最も説得力のある論拠の一つは、その驚くべき科学的正確さです。コーランには、数世紀も後になるまで完全に理解・発見されなかった科学現象や自然現象への言及が数多く含まれています。これらの言及は、宇宙論、発生学、地質学、生物学など、幅広い分野を網羅しています。
例えば、コーランは宇宙が単一の存在から形成されたこと(「ビッグバン理論」)と宇宙の膨張(コーラン21:30)を正確に記述しています。また、現代の発生学の出現まで科学的に理解されていなかった胚発生段階(コーラン23:12-14)についても詳細に記述しています。
7世紀の文書にこれほど科学的正確さが見られることは、当時の限られた科学的知識を考慮すると、特筆すべきことである。預言者 Muhammad彼に平安あれ、彼が独力でそのような高度な科学的知識を得ることは不可能であり、これはコーランの起源が神によるものであるという考えをさらに裏付けている。
クルアーン文書の保存は、神の啓示としての信頼性をさらに高めるもう一つの側面です。多くの古代の文書や聖典が時を経て幾度となく改変や改訂を経るのとは異なり、クルアーンは14世紀以上前に啓示されて以来、完全な形で保存されてきました。クルアーンの綿密な口承と初期の筆写による編纂によって、クルアーンはいかなる改変や歪曲も受けることなく、原典のまま保存されてきました。
このレベルの保存は人類史上類を見ないものであり、コーラン本文が神によって守られていることを証明しています。批判者や敵対者による歪曲や改ざんの試みにもかかわらず、その完全性は揺るぎなく保たれてきました。世界各地の様々な写本や版本におけるコーラン本文の一貫性は、その神聖な起源をさらに強固なものにしています。それは、時代を超えてコーラン本文の保存を導いてきた超越的な源泉を示唆しているからです。コーラン本文の保存は、その神聖な起源に信憑性を与えるだけでなく、世界中のイスラム教徒にとって実践的な指針となり、彼らが純粋な神の言葉にアクセスし、精神的な導きと悟りを得ることができるようにしています。
コーランは、時間、文化、そして人間の限界を超越する神の啓示の証です。その深遠な文学的卓越性、一貫性、科学的正確性、そして普遍的なメッセージは、預言者ムハンマドを含むいかなる個人の能力を超えた源泉を示唆しています。
Muhammad彼に平安あれ。何世紀にもわたって保存されてきたコーランは、その神聖な起源をさらに強調し、変わることなく受け継がれています。それは生きた奇跡であり、神の知恵の光であり、それを探求するすべての人々に正義の道を照らします。
これこそ、人類史上最大の奇蹟
これほどの奇蹟が起きるはずはない
これに匹敵するものを書いてみるがいい
凄まじい圧力だ
宗教は同じものを目指していることを知らない
我々の魂は太陽系の惑星から来ている
これが最後の転生だ
そこに覚りが在る
凄まじい圧力を感じるからだ
これどうすりゃ良いんだ
人間のアイデアには神が関与している
俺以外に超能力者はいるか
知りたい
とてつもない圧力が生じる
信じられないくらいの
いない
偶然、無生物から有生物が生まれたは未だに科学的に証明されてない
偶然生まれ、偶然死ぬは虚しくないか?
神がいないならなんの罰ゲーム?
◆JBLfMwCXhYは自分のスレ(↓)から逃げ出してこんな所で布教活動かwwww
https://talk.jp/boards/psy/1690086162
預言者気取りでアッラーとやらの「御心」()をさも知った風に騙るんじゃねぇよ。wwww
あと、イスラムの排他性についてもダンマリで、イスラムを「究極の宗教」とか言って持て囃してやがるよな。wwwww
デタラメも大概にしやがれwwww
論拠としているクルアーンの当該箇所をどう曲解すればそんなこじつけができるのやらwwww
それにしては、ChatGPT5ならやってくれるはずの、論拠の出典の明示が無いが。www
中共のSF作家が書いた「三体」の方がよほど壮大で辻褄合わせが上手いわ。w
それに比べてクルアーンの宇宙観の何とチャチな事よwww
講釈師、見て来た様に、嘘をつき。
wwww
超w能ww力www者wwww
そんじゃお前はチョンかチャンコロかwwww
人類史上最高の宗教詩が
流れ出てきたという奇跡
これこそ、神の存在証明そのものだった
周囲の誰もが信者になった
「こんな人から、これほど素晴らしい聖句が出てくるはずはない。これは神の言葉だ。間違いない」
と確信して、真っ先に信者になった
アホw
それがクルアーンとして編纂される過程でどれだけの誇張や歪曲や改竄が紛れ込んだものやらwww
> 誇張や歪曲や改竄
神の言葉に、そんなものは無い😫
疑いを捨てよ
この世があるわけないじゃないか
それ自体が、神の存在証明
https://i.imgur.com/Yk8jEuD.jpeg
疑う事を知らないから、イスラムなんぞにかぶれるんだよ。w
某スレで「この世は仮想現実」とかほざく似非ムスリムがwww
それなのになぜ、神が存在しないことを、誰も証明できないのか?
理由は簡単だ
神は存在するからだ
神を信じきれるかどうか、だ
両方できるようになっている
神が存在する事を証明した者もいないw
とりわけ、いわゆる「アブラハムの宗教」の信者どもが信じている様な「唯一絶対にして全能の神」の存在なんぞ、信じているのは“יהוה ”(=YHWH)もしくは“الله”(=アラー))という名のウイルスミームに脳を侵されたゾンビどもだけだwww
そのコーランとやらのどこに、お前が自らのスレで主張した唯我論やシミュレーション仮説を立証する事が書いてあるんだ?w
忘れたとか言ってシラを切るなら、該当発言をほじくり返してやんぞwww
いいかげんに答えろや、イスラムかぶれの似非ムスリムwwww
アwホwwかwwww
お前は、クルアーンの編纂に関わった人間全てが完全無欠で無謬だとでも思ってんのかwwwwww
アwホwwかwwww
神がどうのと言う以前の、人間の不完全性に係る問題という事も分からぬかwww
「お前は、クルアーンの編纂に関わった人間全てが完全無欠で無謬だとでも思ってんのか?」……この問いから逃げずに答えろやwww
それ自体が、神の存在証明
> 「お前は、クルアーンの編纂に関わった人間全てが完全無欠で無謬だとでも思ってんのか?」……この問いから逃げずに答えろやwww
人間は不完全な存在
だが、クルアーンは完全無欠で無謬だ
阿呆w
クルアーンの編纂に関わった人間全てが完全無欠で無謬なわけ無かろうがwwww
不完全な人間に完全無欠で無謬な編纂なんぞできるはずも無しwwww
出来ると信じているなら、それこそお前の頭が可笑しいwwww
あれが、人間に書ける内容と思うのか?
そう思うなら、お前こそ頭がおかしい😫
神の為に戦って死ねば天国で天女で云々とか、なろう系小説以下wwww
信じる者は(足元を)すくわれるwwww
そのマルチポストもう飽きた、うぜぇ。
https://9gag.com/gag/aXnRYX6
イスラム教拡大に加担する奴らは“الله”(=アラー。“יהוה ”(=YHWH)と同一)という名のウイルスミームに脳を侵されたゾンビの群れ。
闇もまた濃くなる👿
陳腐な言葉で誤魔化すなよwwww
人類を導いてくださる
イスラムかぶれの似非ムスリムであるお前こそ浅はか以外の何ものでもないwwww
イスラム移民がスウェーデン人少女を強姦するのもアッラーとやらの意思かよ。嗤わせんな。
一瞬、自分のレスかと思った
1-1.慈悲あまねく慈愛深きアッラーの御名において。
1-2.万有の主、アッラーにこそ凡ての称讃あれ、
1-3.慈悲あまねく慈愛深き御方、
1-4.最後の審きの日の主宰者に。
1-5.わたしたちはあなたにのみ崇め仕え、あなたにのみ御助けを請い願う。
1-6.わたしたちを正しい道に導きたまえ、
1-7.あなたが御恵みを下された人々の道に、あなたの怒りを受けし者、また踏み迷える人々の道ではなく。
別スレで「本当に存在するのは世界ではなく、自分」とかほざいている唯我論者の分際でムスリムを気取るなよ、この似非ムスリムwwww
https://talk.jp/boards/psy/1737496889/87
それとこれとは、話が別だ😫
それ自体が、神の存在証明
ここでも前にやった言い訳の繰り返しかw
所詮似非ムスリムwww
偶然で何が悪い?w
>>259
それで証明したつもりになっている超短絡思考回路www
どうやればその主張が、
「本当に存在するのは世界ではなく、自分」とかお前がほざいたのと
矛盾せず両立するんだよ?w
どうせまた有耶無耶にして逃げるんだろ?www
> 偶然で何が悪い?w
アッラーの代わりに、「偶然」を信仰してるだけだ
神はいるのでしょうか?
神は存在するのでしょうか?神の存在を示す6つの理由をご紹介します。
マリリン・アダムソン著
神の存在を示す明確な証拠を示してほしいと思いませんか? 強制でもなく、「ただ信じればいいんだ」とねじ伏せられるのでもなく…。この記事では、神の存在を示すいくつかの理由をあげていきます。
神がこの宇宙を設計した証拠は膨大にあります。ここでは、そのいくつかをみていきます。
水の沸点と氷点の温度差は大きいものです。水分は、人の体温を36℃前後に保つことで、気温の変動の中でも、私たちが生存を可能にしてくれます。
水は多くの成分を内に溶かします。水は多くの化学物質、鉱物、栄養素を溶かします。栄養素が溶け込んだ水分が、栄養分を身体全体へ運び、細かい血管にまで届けるのです。※6
水はまた化学上、中性です。水は物質の構造を壊すことなく、栄養分や薬、ミネラルを体内に吸収させ、細胞で使うことを可能にします。
水には水圧があります。植物に摂取された水分は、重力に反して上へ流れることができ、高い木のてっぺんにまで栄養素と水分を届けることができるのです。
水が凍るときは、上から下へと凍っていきます。また氷は水面に浮くので、冬でも魚は生きることができるのです。
人間の脳は1秒間に100万件以上の情報を処理します。脳はすべての情報の重要度を計り、重要でない情報を取り除くのです。この選択する機能によって、私たち集中すべきことを選び、効率よく仕事ができるのです。脳の働きは、明らかに他の器官と異なります。脳には知力があり、理由を考える能力があり、感情を生み出し、夢を描き、計画を立てます。計画を立て、他の人と関わるようにします。
カントの純粋理性批判では、「自然神学的論証」と呼ばれる
現代でも、「インテリジェント・デザイン論」としてリバイバルしている
この論証にはいくつかの変型があるが、次のように要約することができる。
ある現実 X は、あまりにも秩序立っており、あまりにも精巧であり、あまりにも熟慮されていて、またはあまりにも美しいため、それが偶発的に生じたとは考えにくい。X は無秩序に生じたのではなく、目的因、すなわち計画、構想、理念、意図、あるいは意志によって導かれている。
従って、X は、知性、深識、熟慮の能力を持った存在によって生み出されたに違いない。
従って、そのような知性、深識、熟慮の能力を持った創造者が存在し、我々はこれを定義上「神」と呼ぶ。
結論:神は存在する。
他の存在証明と同じく、カントによって論理破綻を指摘され、退けられたとはいうものの
現代でも説得力を失っていない
目的論的な証明が大半を占めている
5つの道の1つだ
トマス・アクィナスは、自然界や人間の理性を通じて、神の存在を証明しようと試みました。
つまり、哲学的な思考によって、神が存在することを説明したということです。
彼が提唱する「五つの道」は、神の存在証明として有名です。
以下にそれぞれの道を詳しく解説します。
確かに、論理的に完璧ではない
「こんなモノを作ろう」という意思なしで、単なる偶然でこうなるか?
あり得んだろ、普通に考えて(笑)
こんな世界ではなく、他の何かになるだろう
あれは「設計図」以外の何物でもない
自然淘汰によって生物が進化してきたのは否定しないが
元になるシステムは、偶然に出来る可能性がない
そこから、偶然に進化してきたというのなら、分からんでもない
原因には、そのまた原因がある
必ず、最初の原因に突き当たる
それこそが、神だ
あらゆるものは何らかの原因から生じます。
しかし、原因と効果の連鎖は無限に続かず、最初の原因が存在しなければ何も生じないと考えられます。
トマス・アクィナスは、その最初の原因こそ、神であると主張します。
どちらかを選択できるようになっている
どちらかを選ばせようとしている
> 原因の原因の、そのまた原因・・・を探っていくと
>
> 必ず、最初の原因に突き当たる
>
> それこそが、神だ
こういうのは、「宇宙論的証明」と呼ばれる
存在するに決まっている
もしも、神が存在しないとしてみよう
それは、神に「存在」という要素が欠けていることを意味する
それは、「神は完全である」ということと矛盾する
よって、神は存在する
カントの分類による、三大「神の存在証明」だ
論理として成立しないことを示し(二律背反)、
「存在証明」を退けた
しかし、それで「存在証明」が終わったわけではなかった
カントの後も、形を変えては不死鳥のように復活する
阿呆w
シューキョー脳患者と違って「信仰」してねぇよwww
シューキョー脳患者は「造物主という仮説」をでっち上げて説明したつもりになっただけであって、
その「造物主という仮説」を疑う事は絶対しねぇもんなwwww
その「深遠な知恵()」とやらで、同じ神を信じているはずのユダヤ教徒・キリスト教徒・イスラム教徒の殺し合いを何千年も放置しているのかwwww
>強制でもなく、「ただ信じればいいんだ」とねじ伏せられるのでもなく
ただ闇雲に「アッラーを信じろ」とかほざいてきたお前が他者の主張をパクって付け焼き刃をしても無駄無駄無駄wwww
ほう?w
そんじゃ、なんで“devilfish”とも呼ばれるタコやイカに盲点の無い眼を与えて、人間の眼ではわざわざ【網膜の前】から視神経を接続して、盲点を作ったのやら。www
人間の眼が誰かの設計というなら、
なんとトンチキな設計なんだ!wwww
カトリックとプロテスタントの宗教戦争は、ほぼ終わったぞ
信じるだけではない
論理的に神の存在を証明するのが、哲学の役割
妙に科学的だな?😫
それは神が解決したわけでも宗教が解決したわけでもなく、
ただ疲弊して戦争継続できなくなっただ・け・wwww
お前の哲学の何処に論理的整合性が有るって?wwww
お前自身が眼に関する科学的知識を都合良く利用している癖に、何を今さらwwww
アwホwwかwww
そんじゃ何で人間の眼には盲点が有って、視神経が網膜の前から繋がっていて、光が網膜に到達するのを邪魔する様なトンチキな設計のままなんだよ?wwwwwww
完全な物を一発で造れない神なんぞ、全能でも何でも無い。wwww
人智をもってしては測りがたい
だから全能の神とやらが何で改良を重ねる必要が有るんだよ?w
全能なら最初から完璧なものを創れて当然。
それができないならその神とやらは全能を詐称してるだけだ。
その智慧とやらで、わざわざ人間にトンチキな設計な眼を与えたのか。w
(タコやイカにはまともな配線の眼を与えたのに!)
水や食べ物が通る咽頭と呼気や吸気が通る喉頭の分離が不完全なせいで、誤嚥性肺炎の原因になったり、
歯は鮫みたいに生え変わりはしないし、
手足はイモリみたいに再生しないし、
自力では海や空で長時間活動どころか生存すらできないし、
極めつけは大抵の動物よりも肉体的に脆弱で、丸腰で一対一ならライオンや熊どころかチンパンジーにすら、文字通り引き裂かれて殺されるし……。
人間が本当に「万物の霊長」として設計されたなら上述の設計ミスや脆弱性が全部解決されていて然るべきだが、
全然そうじゃないって事は、
「注意深く設計された」んじゃ無くて、
「遊び半分のいい加減に設計された」としか思えねぇよ。w
神は完全だが、被造物は完全ではない
わざと改良の余地を残しておいたのだ
因果関係の遡行: 宇宙に存在するあらゆる物事は、原因によって引き起こされていると考えます。この原因をさらに遡っていくと、説明の連鎖を断ち切る「第一原因」にたどり着くはずだと主張します。
第一原因としての神: その第一原因が、宇宙のすべてを生み出した神である、と結論づけるのが宇宙論的証明です。
歴史的背景: アリストテレスに起源を持ち、イスラム哲学やキリスト教神学で発展しました。特にトマス・アクィナスによって中世に体系化され、ライプニッツ、クラークなど、後の哲学者にも影響を与えました。
因果律: 宇宙のすべての物事には原因があり、その原因にもまた原因がある。この連鎖を無限に遡ることはできず、どこかで最初の原因(第一原因)が存在しなければならない。その第一原因が神である。
充足理由律: ゴットフリート・ライプニッツが提唱した考え方で、「あらゆる存在には、その存在理由がある」とします。宇宙が存在する理由、または宇宙の物事のすべてを説明できる理由が神であると論じられます。
またそのワンパターンな言い訳でお茶を濁すのかwwww
付け焼き刃の知識をいくら振り翳しても無駄無駄無駄wwww
そもそもその「第一原因」とやらが「(人間臭い)自我を持った存在」であるという証明は、引用した文書の何処に有る?
「第一原因」がクトゥルフ神話のアザトースの様な存在でないと、何故言える?w
そんなスケールの小さいもんじゃねぇよ。w
だいたい、「アッラーの御心は人間には分からない」と言い張るのなら、
ジブリールから人間(ムハンマド)への伝言ゲームの始まりの時点で、理解不能で誤解だらけになるじゃねぇか。w
クトゥルフ神話における原初的・至上的な神格
アザトース(英:Azathoth)は、ハワード・フィリップス・ラヴクラフトの作品およびクトゥルフ神話に登場する架空の神性。アザトホースとも。
「魔皇」「万物の王」「白痴の魔王」と呼ばれ、神々の始祖とされる。
「果しなき魔王アザトホース」
— (『ラヴクラフト全集 6』、173頁より「未知なるカダスを夢に求めて」)
>>368
理解できない時点で、お前の知的レベルの低さを露呈している。
そんな低い知的レベルでイスラムの受け売りをしたところで、滑稽なだけ。
つまり、ラヴクラフトにとっては、クルアーンで語られる「神」や「宇宙」は標準的な知的レベルの人間がどうにか認識できる程度の存在でしかなく、本当の「宇宙」や「第一原因」は標準的な知的レベルの理解や認識を超えた存在、ってわけ。w
アザトースはもっと深いとこにいるのか?😫
クトゥルフ神話ではそういう事だよ〜んw
あの世界での地球の神々は、アザトースの我儘に応える外宇宙の神の1柱たるニャルラトテップに、ある意味保護されている立場でしかないから。w
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数億年前に外宇宙から飛来し、当時地球の覇権を握っていた古の者達と大陸をかけた熾烈な争いを繰り広げ、最後には海底遺跡ルルイエと共に深海に沈んでしまった。
それでも尚クトゥルフは滅びず、恐竜が絶滅し人類が地球を覆った現代においても尚、再び地上へと解放される日を虎視眈々と狙っている。
天上の星辰が揃いし時にルルイエは浮上し、共に甦りし邪神によって人類世界は滅亡の一途を辿るだろう。
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称号: 万物の王、魔皇、白痴の魔王。
特徴: 宇宙の中心、虚無の地平に座し、不定形な泡立つ影として、狂った音楽と踊りの中で永遠に存在し続ける、世界の創造主でありながら無意識の存在。
称号: 這い寄る混沌、門口の番人。
特徴: すべての時間と空間の結び目に存在し、過去・現在・未来を同時に知る全知の存在。高山に住むとされ、宇宙の知識を司る。
称号: 千の顔を持つもの、這い寄る混沌の化身。
特徴: アザトースの使者であり、唯一人間のような姿(暗黒のファラオなど)をとって人間界に現れ、狂気や破壊をもたらす。他の神々と異なり、能動的に活動する。
A. クトゥルフ神話の世界では、アザトースが上位です。アザトースは「盲目の魔王」「万物の王」と称され、宇宙の中心で全ての神々の始祖であり、クトゥルフを含む他の神々を創造・統括する最高位の存在とされていますが、クトゥルフは旧支配者の中でも特に有名で崇拝されている存在です。
位:クトゥルフ神話の最高神、万物の王。
特徴:宇宙の中心で、盲目・白痴の状態で不定形に蠢く存在。全ての神々の親であり、創造と破壊の根源。
位置づけ:他の神々(旧支配者や外なる神々)を生み出し、その存在の基盤となる究極的な存在。
位:旧支配者(Great Old Ones)の一柱。
特徴:巨大なタコのような頭部と、コウモリのような翼を持つ姿で知られる。
位置づけ:恐怖や狂気をまき散らし、人類に影響を与える存在として、クトゥルフ神話の顔とも言える人気のある神格だが、アザトースの下位に位置する。
力や階層的な意味ではアザトースが圧倒的に上位であり、クトゥルフもアザトースが生み出した存在、あるいはその配下の一柱です。クトゥルフは一般知名度が高いですが、神話体系上のヒエラルキーではアザトースが頂点にいます。
クトゥルフはたいしたことないんだな?
ヨグソトースやクトゥルフは、太古の地球の支配者だったのか
「神は人間に似た姿をしている」という根拠の無い思い込みへのあてつけだよ。w
ラヴクラフト自身は自身の神話を「クトゥルフ神話」とは好んで呼ばなかったからな。
クトゥルフが設定上の強さの割に目立つ存在だから、ラヴクラフト作品のファンが「クトゥルフ神話」と呼ぶ様になっただけで。
高々地球の神でしかない、アッラーなんぞよりもずっとな。w
それじゃどちらにしろ「唯一絶対の神」じゃなくなるだろ。w
「三位一体説」ならぬ「二位一体説」でも唱えるつもりか?ww
「アッラー」はイスラム教における唯一神の名称で、「アザトース」はH.P.ラヴクラフトのクトゥルフ神話に登場する「混沌の神」「盲目の白痴神」であり、
意味: アラビア語で「神」を意味する言葉で、イスラム教、キリスト教、ユダヤ教で共通の唯一神を指します。
役割: 唯一絶対の創造主であり、全能の神です。
出自: H.P.ラヴクラフトの「クトゥルフ神話」に登場する架空の存在。
特徴:
宇宙の中心、時間と空間を超越した「アザトースの宮廷」に存在する、不定形な泡立つ影の姿。
「盲目の白痴神」「混沌の王」と呼ばれ、その周囲では「狂った太鼓」や「笛」が鳴り響き、その吐息は宇宙を膨張させ、収縮させると言われる。
人間にとっては理解不能な、最も恐ろしい存在の一つとされる旧支配者の王。
「アッラー」は実在する宗教の神、「アザトース」は文学作品(クトゥルフ神話)に登場する架空の「神」であり、名前の響きが似ているだけで、直接的な関連性はありません。
「アッラーは実在する神。アザトースは架空の存在」
と言っている😆
AIの答えを鵜呑みにして「アッラーは偉大なり」とは、相変わらずの短絡思考だな。w
(※スレ主がAIに頼る前に自力でググったと思われるクトゥルフ神話関連の事柄も、間違いが結構有ったしな。
本人のリテラシーがそんなザマでAIに頼ろうものなら、より一層お粗末な結果になるのが必然)
クルアーンは「アッラーの伝言」とされているが、その伝言を預かった天使ジブリールは明らかに全能では無いから、まずここに誤謬が入り込む余地が有る。
さらに、ジブリールからアッラーの伝言を受け取ったムハンマドもまた、ジブリールにも増して全能から程遠いから、ここにも誤謬が入り込む余地が有る。
天使から人間の預言者までならまだしも、そっから先はしょっちゅう間違いを犯す人間による口伝が何十年も続き、口伝が編纂されて文書化されたのはムハンマドの死後だから、どれだけ多くの誤謬が入り込んだ事やら。
従って、たとえ原語でクルアーン全体を暗誦できようが、それは【クルアーンが
無謬である事を全く意味しない】し、ましてや【アッラーの御心とやらを完璧に理解した事には絶対にならない】。
(※実際には、第2賞190〜191節など複数の箇所で異教徒の殺害や異教徒の改宗を奨励する主張が有る一方、2章256節で信仰の強要を禁じる主張が有り、クルアーン内の矛盾や瑕疵は容易に見つかる)
ここに書いた事を理解できないなら、
やっぱりスレ主のリテラシー(読解力)はお粗末なものである。
※訂正
×:スレ主
◯:◆JBLfMwCXhY
(※もっと言えば、アッラーとやらの全貌に比べてクルアーンはごく一部しか伝えていないかもしれないし、そもそも、イスラム教徒が素朴に思い描くイメージ通りのアッラーは存在しないかもしれない)
上記の事柄の比喩としてアザトースとクトゥルフ神話を引き合いに出したのだが、どうやら ◆JBLfMwCXhY は余計に混乱した様である。w
リテラシーの低い奴が何かの書物を無謬と信じて振り翳すと、ろくな事にならない。
TRPGやライトノベルをきっかけに注目を集めている「クトゥルフ神話」。作者の素顔や作品の魅力、日本との関わりを解説します!
みなさんは「クトゥルフ神話」をご存知でしょうか。
「クトゥルフ神話」は、1920年代にアメリカの作家、ハワード・フィリップス・ラヴクラフトによるホラー小説をもとに、クラーク・アシュトン・スミス、フランク・ベルナップ・ロング、クラーク・アシュトン・スミス、ロバートブロックをはじめとする作家たちが共通する人名や地名、書名で執筆したことが創始とされています。そしてラヴクラフトが亡くなった後、彼の意思を継いだオーガスト・ダーレスによって、それまでにラヴクラフトが発表した作品をまとめたほか、それらの作品をもとに登場する神々の設定などを集め、体系化したものが「クトゥルフ神話」です。
そもそも「Cthulhu」という言葉の読み方も、ラヴクラフトが「一番近い発音は、舌先を口蓋に押し付けてCluh-Luhと、唸るように、吠えるように、咳き込むように言えばいいだろう」、「その言葉は自分の小説の登場人物による綴り方をそのまま記録しただけだ」と述べているように、作者自身もこれといった発音ができていません。
この独特な言葉は、遥か昔、異星からやってきた神々が持ち込んだ言語であり、人間には発音できないという設定に基づいています。だからこそ、実は「クトゥルフ」も便宜上のものであり、正確な発音は誰ひとりとしてできないのです。
「クトゥルフ神話」の創始者、ラヴクラフトは1890年、アメリカのロードアイランド州プロヴィデンスに生まれました。幼くして父親を亡くしたラヴクラフトは祖父の住む屋敷で育てられ、『アラビアンナイト』といった古典作品などを好んで読んでいました。
しかし、やがて祖父の死をきっかけにラヴクラフトを取り巻く環境は一転します。祖父の屋敷を失い、生活への不安を感じたラヴクラフトは、夜な夜な悪夢に悩まされるようになるのでした。
天文学に没頭したラヴクラフトは、天文学をテーマとした雑誌を自費出版しただけでなく、地元新聞に天文学のコラムを連載していました。果てしない宇宙への思いが、壮大な神々の世界を作り上げたのです。
神経症から高校を卒業することも叶わなかったラヴクラフトは、パルプ雑誌『ウィアード・テイルズ』へ作品を投稿するようになります。ラヴクラフトはそこで1928年、後に「クトゥルフ神話」の代表作となる『クトゥルフの呼び声』を発表。異形の神々の存在をはじめとして奇妙な世界観をありありと描いたこの作品は、雑誌の読者たちを大いに夢中にさせました。
今日、多くの人を魅了してやまない「クトゥルフ神話」は、当初ラヴクラフトを中心とする作家同士の内輪ネタにしか過ぎませんでした。単なる大衆向け雑誌の作品として忘れられるかもしれなかった作品を、彼の意志を受け継いだダーレスが後世に広く伝えたからこそ、「クトゥルフ神話」があるといっても過言ではないのです。
ラヴクラフトは自身の作品を「宇宙的恐怖コズミック・ホラー」と表現していました。宇宙的恐怖とは、「あまりにも人智を凌駕した、広大で虚無的な恐怖の前では人間の価値観など何の価値もない」といった恐怖感のことを指しています。それまでホラー小説で恐怖の対象として描かれていたものといえば、吸血鬼や狼男でしたが、ラヴクラフトの作品にはそのような使い古されたようなモチーフは出てきませんでした。むしろ、立ち向かうこともためらわれるほどの、得体の知れない神々が次々と登場していたのです。
「クトゥルフ神話」の原点ともいわれている『クトゥルフの呼び声』は、主人公の“ぼく”が不審死をとげた大伯父の遺品から謎の粘土板やノートを発見するところから幕を開けます。その粘土板には、古代文字と得体の知れない生物の姿が刻まれており、ノートの表紙には『クトゥルフ教のこと』という聞き慣れない言葉が記してありました。
ノートには、ある日、突如として大伯父のもとを謎の青年が訪れた事柄が綴られていました。青年は持参した石版に刻まれた古代文字の解読を、古代文字の研究を行っていた大伯父に依頼します。また、青年は大伯父に夜な夜な見る奇妙な夢のことを話します。興味を持った大伯父は、いつしか青年が夢に見たイメージを記録することになるのでした。
「どれもが断片的なものであったが、積もり積もって膨大な量になった。粘液をしたらせる巨大な石材から成る巨人族の大都の光景。その地下から、単調な響きで聞こえてくる譫言たわごととしか受け取れぬ謎めいた声。なかに頻繁に繰り返される二つの音があって、それを文字に移しとると<クトゥルフ>と<ル・リエー>の二語になるのだった」
『クトゥルフの呼び声』より
このように、「クトゥルフ神話」では理解の範疇を超えるほど強大な神々を前に、人間が狂気に追いやられていく様子が描かれるのが定番の流れとなっています。
そんな人間を恐怖に陥れる“クゥトルフ”は、「タコに似た頭部と無数に生えたイカのような触手、鉤爪のある腕とコウモリに似た羽根を持ち、緑色の鱗に覆われた姿」として描かれています。この他にも半魚人に似た種族が登場しますが、これらの造形にはラヴクラフトの嗜好が大きく関係していると考えられています。幼少時より母親に溺愛されていたラヴクラフトは、チョコレートやアイスクリームといった好物ばかりを食べて育った結果、海産物を嫌悪していました。そのため、ラヴクラフトにとって嫌悪の対象でしかなかった海産物が自然と恐怖の対象のイメージとして作られていったのは自然なことなのでしょう。
日本で初めて「クトゥルフ神話」を大きく扱ったのは、あの江戸川乱歩であるとされています。乱歩は1948年、探偵小説雑誌「宝石」の連載においてラヴクラフトのことを紹介しています。
Howard Philips Lovecraft(1890-1937)はアメリカ大西洋岸北部、ニューイングランド地方のロード・アイランド州に生まれ、病身のため、一生をそこにとじこもって、恐怖、超自然の空想に耽って暮らした異常の作家である。(中略) 彼の作には次元を異にする別世界への憂鬱な狂熱がこもっていて、読者の胸奥を突くものがある。その風味はアメリカ的ではなく、イギリスのマッケン、ブラックウッドと共通するものがあり、或る意味では彼等よりも更らに内向的であり、狂熱的である。彼は天文学上の宇宙とは全く違った世界、即ち異次元の世界から、この世に姿を現わす妖怪を好んで描くが、それには「音」「匂」「色」の怪談が含まれている。
「幻影城通信」より
『魔界水滸伝』は神州・日本の神々、先住者の末裔として覚醒した人々が、地球を侵略しようとするクトゥルーの神々との戦いを繰り広げていく物語です。日本古来の神々と、海外の異文化である「クトゥルフ神話」を混ぜ合わせながら滅びゆく人間たちをドラマティックに描いたこの作品は一躍大人気シリーズとなりました。
また、2009年に発売された逢空万太(あいそら まんた)によるライトノベル『這いよれ!ニャル子さん』もまた、「クトゥルフ神話」をモチーフとした作品です。ある日、怪物に襲われそうになった主人公の八坂真尋やさか まひろを謎の少女“ニャル子”が助けたことから始まるギャグ作品ですが、ニャル子の他にも「クトゥルフ神話」に登場する神々が美少女に擬人化されている点が特徴です。
このように、もとはホラー小説だった「クトゥルフ神話」は近年の日本において、“萌え”作品として新たな文化が作られている傾向にあります。
ラヴクラフトから始まった「クトゥルフ神話」の世界は、今もなおさまざまなクリエイターたちによって広がりを続けています。それは、「クトゥルフ神話」に魅力を感じた作家たちが、ラヴクラフトの功績が忘れられることのないよう作品を書き続けたからこそ。重厚な世界観から、TRPGや小説に夢中になる人も続出している、「クトゥルフ神話」。あなたも名状しがたい恐怖に踏み込んでみてはいかがでしょうか。
現在は、海底に沈んでいるが、やがて地上に浮上するとされている。その時、ルルイエで死の眠りについているクトゥルフが目覚め、地上を支配するとされている。先述の作品において、1925年3月23日から一週間ほどの間、浮上し海面に現れた。
南太平洋の、位置はニュージーランドと南米大陸と南極大陸の中間付近の海底に沈んでいるとされる。具体的には、南緯47度9分西経126度43分、現実にはポイント・ネモ(太平洋到達不能点)に程近い絶海の海域である。
The nightmare corpse-city of R'lyeh…was built in measureless eons behind history by the vast, loathsome shapes that seeped down from the dark stars. There lay great Cthulhu and his hordes, hidden in green slimy vaults.
—H. P. Lovecraft, "The Call of Cthulhu" (1928)
作中では、異常極まりない非ユークリッド幾何学的な外形を持つ多くの建造物からなっている、と言及されている。死せるクトゥルフが夢見ながら再浮上を待つ場所であり、クトゥルフ神話の中核をなす要素のひとつである。星辰が正しい位置についたとき、クトゥルフは目覚め、ルルイエは再び浮上すると伝えられている。
また南太平洋にはクトゥルフ神話の「ムー大陸」がある。ムーはクトゥルフの支配地であり、ルルイエはクトゥルフの居城であり、ムーもルルイエも海に沈んだ。
ルルイエの位置は初出作品で具体的に設定されているが、作品によって変わる。ダーレス作品では南緯49度51分西経128度34分の位置でルルイエの島が確認されている。後続作品ではさらに位置が変わり、他にもチャールズ・ストロスの小説「A Colder War」ではバルト海、Nick Mamatasの小説「Move Under Ground」ではカリフォルニア海岸沖に設定された。
おうおうw
クトゥルフ神話の布教、ご苦労さんw
海底だけじゃねぇぜ。
ハスターは宇宙空間を自在に動き回るし、クトゥグァはフォーマルハウトという恒星に棲む超高温の炎の神。
「第一原因」のアザトースは宇宙開闢と神々の誕生の究極原因だし、ニャルラトテップに至っては地球の神々の保護者でもあるからな。
アッラーよりも何桁もスケールが大きい。
まだまだ、誤解が多いよ。
何処をどう読めば、ルルイエの浮上とイスラム教における最後の審判を同列に見れるんだよ?wwww
まあ、そりゃ
十分に理解できてるとは思ってないが😅
H.P.ラヴクラフト(以下、HPL)の代表作「クトゥルーの呼び声」の作中で、1925年3月23日、南太平洋上の到達不能点に程近い南緯47度9分西経126度43分の地点に浮上していた海底都市ルルイエ。このとき、一時的に目を醒ました大いなるクトゥルーは、偶然ルルイエに上陸してしまった不運な人間たちに破滅をもたらし、世界中の感受性の強い人たちに狂気をばら撒いたようです。
このルルイエの浮上というHPLが著した原典の中でも特に重要なイベントから、今年2025年で100年を迎えます。クトゥルー神話ファンにとって非常に稀少で垂涎のこの機会に、様々な人々によって、様々な場所、様々な方法で、これを祝う催しや活動が行われることと思います。
再浮上するときが最後の審判だろ
分類:遺跡
交通:可能だが極めて危険
「ルルイエの館にて死せるクトゥルー夢見るままに待ちいたり」
(大瀧啓裕 訳「クトゥルーの呼び声」より)
南緯47度9分、西経126度43分。南太平洋ニュージーランドの沖合の海底に眠るはるか古代の遺跡。全ての形が歪み、地球上の法則を無視した幾何学からなる石柱都市で「深きものども」と呼ばれる怪人によって守られている。もともとは原始地球における一大陸だったらしいが(諸説あり)、人類誕生以前に大陸ごと海中に没した。その理由については、隕石衝突による月の発生に巻き込まれたとか別の支配種族との抗争に破れたとか外宇宙の「旧神」に封印されたとか色々に言われる。
ラー・イラー?
と似ているな?
唯一神アッラーだ
BY ラヴクラフト
アッラーの裁きを恐れよ😱
>>464
本日もクトゥルフ神話の布教ご苦労さん。w
こじつけ乙w
クトゥルフ神話において、地球の神はニャルラトテップに保護されているに過ぎない。
そんな事より、世界中のイスラム教徒の独善的なやらかしに憤る声の多さに恐れ慄けよ。
アッラーも、ニャルラトホテプに保護されてるのか?😫
そうだよw
もしかしたら、神が存在することをどうすれば知ることができるのか、という意味かもしれませんね?それについては、これらの議論をお勧めします。
復活の事例
カラム宇宙論的議論
道徳的議論
目的論的議論
プランティンガのEAAN
これらはすべて、WLCのウェブサイトreasonablefaith.orgで見つけることができます。
宇宙論と復活の事例から始めるのが良いでしょう。
本体論的証明(存在論的証明)
内容:神とは「それ以上偉大なものを考えられない存在」と定義し、もし神が現実世界に存在しなければ、心の中(概念)にしか存在しないことになり、それよりも偉大な存在(現実世界に存在する神)が存在することになり、定義と矛盾する。ゆえに神は存在すると論じる。
主な提唱者:カンタベリーのアンセルムス、デカルト。
内容:すべての現象には原因があり、原因の原因を遡っていくと、すべての始まりとなる「第一原因(不動の動者)」に行き着くはずで、それが神であると論じる。
主な提唱者:トマス・アクィナスなど。
内容:世界の秩序や自然界の精巧な仕組み、生命の存在は偶然ではありえず、偉大な知性や意志(神)によって設計された結果であると論じる。
主な提唱者:キリスト教神学など。
内容:人間が持つ普遍的な道徳法則や善悪の意識は、神という究極的な善の存在を前提としなければ説明できないと論じる。
主な提唱者:カントなど。
カントは、これらの証明が人間の理性の限界を超えるものであり、厳密な意味での「証明」は不可能であると批判しました。
現代では、神の存在は論理で証明するものではなく、信仰や体験、あるいは「神がいるかもしれない」という可能性(蓋然性)の問題として捉えられ、人々の間で多様な捉え方がされています。
アッラー(“الله”(=“יהוה ”=YHWH))こそ邪神だろ
パニックを起こしてクルアーンから引用した言葉を唱えても無駄無駄無駄wwww
プランティンガって、「全能の逆説」の現代的解釈によって、全能なるものの全能性を否定した事で有名な宗教哲学者なんだが?w
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%A8%E8%83%BD%E3%81%AE%E9%80%86%E8%AA%AC#%E7%A5%9E%E5%AD%A6%E3%81%AE%E5%9B%9E%E7%AD%94
「全能者はどんなことでもなし得る、と考えることはできないとプランティンガは言う。極端な例を上げれば、全能者は自分を、”永遠にいかなる意味でも存在しない”ようにすることはできない」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%A8%E8%83%BD%E3%81%AE%E9%80%86%E8%AA%AC#cite_note-FOOTNOTE%E4%B8%89%E5%AE%85200640-3
わけもわからずプランティンガの発言にすがったところで、アッラーとやらの全能性は決して肯定されはしないぞ。w
人、それを「思考放棄」と呼ぶ。w
定義が明確でない「神」についてどんなデタラメも言えるのは自明www
トマス・アクィナスですら「神といえども論理的に不可能な事は不可能」と結論付けているのにねぇ。wwww
「「神には四角い丸を作る能力がない」と主張してきた人々は、無神論者だけでなく、典型的な信仰者(例えばトマス・アクィナス)たちも居り、彼らは全能者の力に論理学的制限があることを受け入れていた」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%A8%E8%83%BD%E3%81%AE%E9%80%86%E8%AA%AC#cite_note-FOOTNOTE%E3%83%90%E3%82%B8%E3%83%BC%E3%83%8B2012111-10
お前の様に結論ありきで話を進める奴が過去の神学者や哲学者の言葉にすがっても無駄無駄無駄wwww
(どうせ、「結論に合わせて先達の言葉を曲解する」という結果になるだけ)
アッラー(“الله”(=“יהוה ”=YHWH))が如何にろくでもない邪神であるかは、ヨブ記を読めば分かる。
あるいは、アブラハムに息子のイサクを生贄に捧げるよう命じた話とか。
ノアの洪水に至っては、人間はともかくとして、方舟の外の罪無き動植物を絶滅させてるからな。
もしもアッラー(“الله”(=“יהוה ”=YHWH))が本当に全能にして完全な善なら、人間だけを一瞬にして抹消できなければ可笑しい。
それができない時点で、アッラーとやらは全能でも善でもあり得ない。
ヨーグルト・ソースとかいう奴が宇宙の神か
自分が存在することだ
それは行きすぎだ
両方とも存在する
鏡を見てからほざけよw
お前の主張が信じるに値しない事は、神の存在よりも確実だ。
何なら、スパゲッティ・モンスターをアッラーの上位に据えても良いぞ。
wwww
出た!w
スレ主のワンパターン芸十八番、
思考停止&証拠無し強弁!www
で、結局、 >>516 には反論できず、と。
wwww
ヨグト・ソースは、スパゲティモンスターっぽいな?
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/1/1d/Yog-Sothoth_couleur.jpg
それはヨグ・ソトースの姿の想像画の1つに過ぎないよ。w
他のよく有るパターンだと、「大小様々な大きさの虹色のシャボン玉が無数に集まった集合体」ってのも有る。
(そもそも、クトゥルフ神話の神々の真の姿は「常人ならば一目見ただけで発狂する程の恐ろしい姿」がデフォなので、世に出回る神々の姿の画像は全て、真の姿を簡略化した戯画に過ぎない)
そうなのか
不気味だな😫
https://paparacha.net/wp-content/uploads/2020/03/51.jpg
ヨグソトースは、銀の鍵の開く窮極の門の奥に鎮座し、時空を超越した存在にして、外なる神の副王と呼ばれる神性です。
大きさも一定ではなく、40メートルから1キロメートルほどの伸縮が可能とされますが、その範囲を超えて伸縮することもあるようです。
ヨグソトースはアザトースの産物『無名の霧』から生まれました。
また、実体を備えた神性であると同時に、一つの概念でもあり、ヨグソトースの中で、現在、未来、過去の全ては一つであり、外なる神や旧支配者も含めた宇宙の存在全てが内包されているとされます。
この事からヨグソトースは「一にして全、全にして一なるもの」とも呼ばれています。
例えば、ランドルフ・カーターは、代々伝わる「銀の鍵」を使って「窮極の門」に至り、ベールを纏った人の姿をしたヨグソトースの化身、ウムル・アト=タウィルと出会い、その案内で人の身でありながら「窮極の門」を通過しました。
といってもヨグソトースは決して人間の味方ではなく、宇宙の法則や概念そのものであり、善悪を超越した圧倒的な存在です。
どちらが強いかは解釈次第ですが、アザトースは「絶対的な創造主(の無意識)」、ヨグ=ソトースは「全能の鍵(知識と力)」という役割の違いがあり、多くの場合アザトースが最上位、ヨグ=ソトースがそれに次ぐ、あるいはアザトースの意志を代行する存在として描かれますが、ヨグ=ソトースはアザトースに最も近い力を持つとされています。
役割 : 盲目白痴の魔王、万物の王、創造神。宇宙の中心で、フルートの音と泡立つ影に慰められ横たわる。
力 : 宇宙の根源であり、彼が目覚めれば宇宙は終わり(あるいは創造される)。時空の束縛を受けない。
役割 : 全ての時間と空間の門であり鍵。アザトースに次ぐ力を持つ副王。
力 : 時間、空間、魔術を操り、あらゆる知識を持つ。
アザトースは神々の始祖であり、宇宙の根源(無意識)そのもの。
ヨグ=ソトースはアザトースの「近く」、あるいは「一部」として、その意志を代行したり、知識を与えたりする役割を持つ。
ラヴクラフト神話は曖昧さが特徴で、設定が揺れることも多いですが、一般的には「アザトース > ヨグ=ソトース」という序列が有力です。
アザトースは宇宙の根源であり最上位だが、無意識
ヨグソトースはそれに次ぐ存在だが、知識と知恵があるんだな
今回もクトゥルフ神話の布教お疲れ様。w
このままだと、ムスリムでありながら後に「ネクロノミコン」と呼ばれる魔導書を著したアブドゥル・アルハズラッドみたいになっちゃうかもな。
クトゥルフ神話は興味深い
物語は、クトゥルフの呼び声(クトゥルフの復活を巡る恐怖)、ダニッチの怪(異形の存在との遭遇)、インスマスの影(人ならざるものとの混血)など、様々な作品で展開され、クトゥルフ、ハスター、アザトースといった邪神たちが登場し、人間の理解を超えた「コズミック・ホラー」が特徴です。
太古の支配者: 宇宙から飛来した邪神たち(旧支配者)が地球を支配していました。
封印と潜伏: 争いに敗れた邪神たちは、海底都市(ルルイエなど)や遺跡で眠りにつきました。
現代への影響: 現代の人間が、これらの邪神の存在、秘密、遺産に触れると、その冒涜的で理解不能な事実に直面し、精神が崩壊したり、狂気に陥ったりします。
宇宙的恐怖(コズミック・ホラー): 人間の理性や価値観では到底理解できない、広大で無関心な宇宙における「絶対的な他者」の恐怖が描かれます。
『クトゥルフの呼び声』: 彫刻家が不可解な夢と粘土模型から巨大な存在「クトゥルフ」の復活と信仰の実態を知り、恐怖と狂気に襲われる物語。最終的にクトゥルフ教団の存在を知り、手記を遺して死亡する可能性が示唆されます。
『ダニッチの怪』: 人間と魔神の混血児「ウィルバー・ホープウェル」が、母親と共に怪異を引き起こし、最終的に「蕃神(バンシン)」と呼ばれる存在が呼び出され、その恐怖から人々が逃げ惑う物語。
『インスマスの影』: 衰退した港町インスマスで、人々が魚のような姿に変貌し、邪神ディープ・ワンと混血している秘密を知った主人公が、その恐怖と逃亡を描く物語。
クトゥルフ: 南極のルルイエに封印された、タコと竜のような姿をした邪神。
ハスター: 黄衣の王としても知られ、人間を崇拝させることに寛容な側面も持つ。
アザトース: 宇宙の中心にいる、盲目で狂った魔王。その姿を見た者は発狂するとされる。
旧支配者: 宇宙の根源的な存在で、四大霊(火・水・大地・大気)の勢力に分かれ、対立・結託する。
これらの作品や設定が組み合わさり、「クトゥルフ神話」という巨大なジャンルが形成されています。
無敵艦隊ガガドドン@クトゥルフ神話TRPG
あいさつ
こんにちは。普段、新クトゥルフ神話TRPGで遊んでる無敵艦隊ガガドドンってものです。今回はよりクトゥルフ神話大系作品に親しんでもらうため、手軽に読めるように要約してみました。曲解もあるから、文句あるならお前が要約しろ~?
教授「わいエインジェル。古文碑文字の権威だぞ~」
彫刻家「コンコン、ちわ~教授。悪夢見てそれを粘土板に刻んだらこんなんできたからあげるね!」
タコ怪物が描かれた粘土板
教授「なんやこれ。きっしょ…。でも、見たことあるなぁ…」
~17年前ある学会~
刑事「教授!これ見たことありますぅ!?」
タコ怪物の像
教授「なんやこれ。きっしょ…」
刑事「これねぇ!殺人カルトが変な呪文言いながら崇めてたやつ!!」
別の教授「お、それぼくも見たことある。半世紀くらい前に。もしかして言ってたのって…こんなんです?」
ふんぐるいむぐるなふくとぅるぅるるいえうがふなぐるふたぐん
刑事「同じ!あ、意味は『死せるクトゥルフ夢見しまま、ルルイエの館にて待ちいたる』ってことらしい!!」
刑事「カストロって爺さんが!!クトゥルフについてたくさん教えてくれたよ!!」
カストロ「中国人から聞いたんだけどクトゥルフ強いよ。ネクロノミコンにもクトゥルフについての記述あるぞ」
教授「何言ってんだこいつら…」
~回想終了~
教授「え、あのときの化け物と同じじゃん。興奮してきたな。とりま研究してまとめっかぁ~。粘土板サンキューな」
~後日~
教授「あの彫刻家高熱にうなされてるらしいなぁ~。しかも世界中で発狂してる人がいるらしいし…。あ、まとめた研究結果は『クトゥルフ教団』って名前にするか」
私「わい、エインジェル教授を大伯父にもつフランシス・ウェイランド・サーストン。」
私「教授が急死したから研究文書とか整理するわ。」
『クトゥルフ教団』と粘土板「でーん」
私「なんやこれ、どれどれ…。…教授はクトゥルフ教団の信者に消されたってコト!?」
オーストラリアの新聞「あ、この文書に書いてあるのと同じ怪物の像が見つかりましたよ」
私「マ?ヨミヨミ…。南太平洋で漂流してた船から見つかった水夫が握りしめていた…ねぇ…」
私「めっちゃおもろいな!調べよう!」
~後日~
私「難破船で生き残った水夫の手記ゲットだぜ!(借りた)」
ヨハ「やぁ、オレはヨハンセン。ノルウェー人の水夫だ。今エンマ号って船に乗って太平洋にいるぞ。」
謎の船「コンニチハ✨😃❗️、この先⏮️に進まないで❌ねぇ~🙏🙏」
エンマ号「は?なんで?シカトやな。」
謎の船「無視しないで><」(砲撃)
エンマ号「ハァ!?もうキレたわ」
ぼこぼこ(謎の船にいたやつ皆殺し)
ヨハ「戦いに勝ったけどオレらの船沈んだし、こいつらの船に乗るぞ!こっからはオレが指揮する!この先に何があるか見に行くぞ!」
(ここまでは新聞にも書かれている。)
ルルイエ(なんか邪悪な島)に到着
水夫達「上陸ゥ!そしてここを探索ゥ!」
クトゥルフ(翼が生えたタコ怪物)「ヤッホ♥️」
水夫達「ひぇ~化け物だぁ~!!」(何人か死亡)
ヨハ「船に乗ったぜ!!脱出だ~!!」
クトゥルフ「待って~」ヌルヌルヌル
ヨハ「もう駄目だぁ!船で体当たりする!!」
船、激突。
ヨハ「やったか…?」
クトゥルフ「再生できるんだなこれが」
ヨハ「∩(´;ヮ;`)∩ンヒィ~wwwwwwww」
ヨハ「ウピピィ!なんか知らんが生き残ったぞ!!」
その後、紙の束が頭に当たってヨハンセン死亡
………
私「はぇ…怖いなぁ…」
私「…あれ?もしかして…教授同様、ヨハンセンも知りすぎたから殺されたんじゃね?ってことは…私も殺されるってコト!?」
私「やばば、もし私がこの記録(つまりこの小説)を処分できなかった場合、…たぶん遺言執行人!!処分してくれ!!」
~完~
今回は、時系列がわかりやすくなるよう、いくつか入れ替えを行いました。また、省いている描写がかなりあります。この要約を読んで、本来の作品を読むきっかけにしてほしいです。
この作品要約を書いて時系列が自分の中で整理できてよかったです。また、魅力が再確認できてよかったです。
クトゥルフの呼び声では違う時代、場所で同じものがみつかる。同じものに関わった人間が同じような不審死を起こす。同時多発的な発作が世界で起こる…等の類似点の恐怖が描かれていましたね。また、読者に対し作品を読むことで知りすぎたものにも恐怖が迫っているという構成も魅力的ですね。
くどいでしょうが、クトルゥフの特徴等についてや細かな描写をかな~~~~り削っているので興味がある方はぜひ原作を読んで欲しいです。
1、ハスター:4,289 Pt
2、ニャルラトテップ:3,864Pt
3、シュブ=ニグラス:3,104Pt
4、ヨグ=ソトース:2,659Pt
5、アザトース:2,655Pt
6、イゴーロナク:1,794Pt
7、クトゥグァ:1,462Pt
8、ダオロス:1,381Pt
9、クトゥルフ:1,308Pt
10、ノーデンス:1,295 Pt
宇宙物理学の最新理論が、人間の意識についても説明を与えてくれるのではないか、と一部の学者が主張し始めたのである。
それが「ホログラフィック宇宙論」という仮説だ。米国の理論物理学者、ポール・サター氏が言う。
「プリンストン大やスタンフォード大など、世界有数の学術機関がホログラフィック宇宙論を有望と見て研究しています。
かみ砕いて言うと、私たちは自分たちの住む世界(宇宙)を三次元、つまりタテ・ヨコ・高さがある立体構造だと思い込んでいるが、実際には世界は二次元、すなわちタテ・ヨコだけの平面であるという考え方です」
理論の詳細を説明するのは難しいが、要するに世界を二次元だと考えると「重力とは何か」や「ブラックホールはどのような性質の天体なのか」といった、宇宙に関する未解決の難問をうまく解くことができるかもしれない。それゆえ、近年注目を浴びているのである。
「この理論によれば、全宇宙のあらゆるできごとは二次元の平面に記された情報として表現できる。しかも、その情報は過去と未来にわたって失われず、全てが保存されているといいます」(サター氏)
たとえると、こういうことだ。この世界の本当の姿は、一本の長い長い映画である。平らなフィルムの上に、過去、現在、未来のありとあらゆるできごと、生と死、感情や記憶までもが記録されている。
私たちは再生されるその映像を眺めている観客であり、同時に登場人物でもある。そして再生が終わったフィルムは、どこかに大切にしまわれていて、死んでいった人たちの記憶も永遠に失われることはない―。
デカルトの「我思う、故に我あり」: 世界のすべてを疑っても、疑っている「私(自分)」の存在だけは疑えない、という合理主義の根本原理です。
独我論(そりぷしずむ): 自分の精神だけが確実に存在し、それ以外の世界の存在は確かではない、と考える立場もあります。
脳の機能: 科学的には、自己認識や意識は脳の特定のプロセス(ニューロンの活動)によって担われていると考えられています。
自己同一性: 私たちが「自分」と認識する感覚(自己同一性)には、脳内での記憶や情報処理が関わっています。
「自分は存在する」のは、まさに「自分がそう感じ、考えている」からであり、これは哲学の出発点です。
この感覚は、「思考」や「意識」という現象を通じて確認される、とされています。
あなたの「自分は存在する」という感覚そのものが、存在の証拠であり、哲学や科学が探求する「自己」の根源に触れる問いです。
たとえば、美味しいパンを食べているときを想像してみてください。
独我論の考え方によれば、そのパンは本当に存在しているのではなく、ただ自分の意識が「パンが存在している」と認識しているだけ、ということになります。
突拍子もない考え方のようにも見えますが、実ははっきりと否定するのはとても難しいです。
そして、実際にすべての物事を懐疑的に検討した結果、デカルトは「あらゆるものを疑っている自分」だけは確実に存在するという結論にたどり着きました。
「自分の意識とは、脳が生み出した統覚」
とされている
富増章成
読破できない難解な本がわかる本
2023年5月24日 2:18
世界に多大な影響を与え、長年に渡って今なお読み継がれている古典的名著。そこには、現代の悩みや疑問にも通ずる、普遍的な答えが記されている。しかし、そのなかには非常に難解で、読破する前に挫折してしまうようなものも多い。そんな読者におすすめなのが『読破できない難解な本がわかる本』。難解な名著のエッセンスをわかりやすく解説されていると好評のロングセラーだ。本記事では、サルトルの『存在と無』を解説する。
『存在と無』、この表題の意味は、「物と意識」ということです。
石ころなどの事物は、何も意識せずに、ただそれ自体においてあるだけの存在です(即自存在)。
それに対して人間は、「対自存在」です。人間は「意識」とともにある存在であり、また、自分自身を対象化してしまう存在でもあります(自分で自分を見つめてしまう……)。
そうなると、人間は石ころのように気楽に存在するわけにはいきません。
絶えず見る側と見られるものとして、意識に「裂け目」をつくりだすのです。
意識としての人間は、世界の中の裂け目、世界の中の無です。
「これはこれではない」が続きますので、意識は無をつくりだします(無化)。
人間は、過去と現在とを乗り越え、未来に向かって自分を投げかけているのです(投企)。
人間は過去の自分から脱出し、新しい自分になっていく存在ですから、「世界への関わり方」を自ら選択し、自分自身をつくっていく存在であるといえます(脱自的存在)。
ただ、自由であることをやめることはできず、「人間は自由の刑に処せられている」(『実存主義はヒューマニズムである』)とされます。
人間が自由であるということは、同一の自分が維持されていないということです(対自存在なので、常に変わっていく存在であるということ)。
だから、全部を背負っていかなければなりません。自分で自分の未来を選択していくので「不安」を感じます。
そこで、人間は日常の中で「自由と不安」から目をそらしながら生きようとします(自己欺瞞)。
自己欺瞞に陥っている人間は、実は石ころのような即自存在になりたがっているのです(ああ、消えてしまいたい! みたいな感じ)。
もし、規則を成り立たせているのは自分であるという本当のことを自覚すると不安が生じてしまいます(自分が責任を引き受けなければならない気分になるから)。
そこで、人間は規則が外側に実在していて、自分が縛られていると思い込むことで安心をするのです(倫理的不安)。
他者に「まなざし」を向けられたとき、私は「まなざし」を向けてくる他者が対自存在であると感じます(他者も自由な意識をもった存在であると感じるということ)。
「地獄とは他人のことだ」(『出口なし』)
だから私は、他者の視線にさらされて、思わず身が硬くなります。他者によってまなざされると、私は自由を失い、物としての「即自存在」になり変わってしまいます。
自分が対象化されて物になってしまうからなのです(対他存在)。だから、「こっちも意識があるんだぜ」とまなざしを向け返さなければならないそうです。
人間関係は、このように絶えず相互に「まなざし」を向け合う、自由な主体の「相剋」の状態です。
さらに、サルトルは、哲学のテーマとして重要な他者問題についても語っています。
他者に「まなざし」を向けられたとき、私は「まなざし」を向けてくる他者が対自存在であると感じます(他者も自由な意識をもった存在であると感じるということ)。
「地獄とは他人のことだ」(『出口なし』)
自分が対象化されて物になってしまうからなのです(対他存在)。だから、「こっちも意識があるんだぜ」とまなざしを向け返さなければならないそうです。
人間関係は、このように絶えず相互に「まなざし」を向け合う、自由な主体の「相剋」の状態です。
(Why am I me, rather than someone else?)
謎が深まる問題だ
「自分の意識とは、脳が生み出した統覚である」
ということになっている
「脳はある。自分はない」
というのが、現代人の信仰だ
検討に値する
遅咲きの哲学者
エマニュエル・レヴィナスは、20世紀のフランスで活動した哲学者です。ドイツのフッサールやハイデッガーの哲学を独自に拡大・展開し、重要な著作をいくつも残しました。しかし、リトアニア生まれのレヴィナスは、ほかのフランス人エリートのように出世できず、大学で職を得たのも50歳以降になってからです。同時代の哲学者に比べるとかなり遅咲きといえますが、1960年代頃から徐々に注目され始め、20世紀のヨーロッパを代表する哲学者といわれるまでに評価を高めました。
レヴィナスの思想は「人間には、自分の存在から逃れようとする衝動がある」というところから出発し、この衝動による自己との破れ目こそが「私」を作っているとしました。そして彼は、自分から逃れたいというこの衝動が、自分とは違う「他者」に向かって自分を開く、と考えました。それまでの哲学では、自分の存在は追求する対象、あるいはそうあり続けたい対象であったことを思えば、レヴィナスの考え方がいかに独特かがわかります。レヴィナスは後に、人間が自己とは異なるものへと関わる仕方を、「超越」という言葉で捉えるようになりました。
キャリア後期には、自分の存在から逃れたいという衝動の背後に、存在を手放すよう求める他者の倫理的な要求があると考えるようになりました。この「他者」やそれに対する「応答」は、レヴィナス研究における重要なテーマとなっていますが、こうしたテーマの下地になってる「自分の存在から逃れようとする衝動」も、レヴィナス哲学の重要なポイントです。
レヴィナス哲学をすべて理解するのは簡単ではありませんが、自分に違和感や居心地の悪さを少しでも覚えるなら、あなたもレヴィナス哲学のスタートラインに立っているといえるでしょう。
ましてや、他人など存在するわけがない(笑)
「他人も同じように存在するのだろう」
と、類推できる
という、現代人の信仰
menu
TEDの動画
本当の自分はどこに存在しているのか?:ジュリアン・バジーニ(TED)

TEDの動画
2018.01.15
本当の自分はどこに存在しているのか?:ジュリアン・バジーニ(TED)
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「私は片付けられない女」「私は絶対ノーと言えない人」
それは、自分が思う自分なのでしょうか? 他人が思うあなたなのでしょうか? それともまったく違う何かでしょうか?
哲学者のジュリアン・バジーニは、哲学と神経科学からびっくりするような答えを導き出します。
収録は2011年11月。プレゼンの長さは12分。日本語字幕あり。
マンチェスターで行われたTEDXYouthでの講演です。中高生向けなので、一般のTEDよりはわかりやすいと思います。
動画のあとに抄訳を書きます。
本当の自分は存在するのか?
奇妙な質問に聞こえるでしょう。
本当の自分なんてどうやって見つけたらいいのか? どうやったら本当の自分だとわかるのか? このような疑問がわくと思います。
ですが、本当の自分が存在しているのは確かです。
この世界で本物だと感じられるものがあるとすれば、それは自分ですよね。
ですが、私はそこまで確信がもてません。もう少し、「本当の自分」について理解を深めるべきではないでしょうか?
私たちの文化には、私たちは皆、核のようなもの・エッセンス(本質)を持っている、と思わせてくれるものがたくさんあります。
自分が自分であると定義できるようなものがあり、それはずっと変わらないのだ、と思わせるものです。
単純なものでいえば、星占いに類するもの。
みな、こうしたものにずいぶんこだわっていて、フェイスブックのプロフィールにのせたりします。さもそこに何か意味があるかのように。
中国式の占星術に詳しい人もいるでしょう。
性格テスト(Myers-Briggs tests マイヤーズブリッグテスト)とか。
多くの企業が従業員を採用するときに、このテストをします。
たくさんの質問に答えれば、その人のコアの性格がわかると考えられています。
世間では、こういうテストが本当に人気ですね。
人の心理がテーマの雑誌には、毎回、パーソナリティー(性格)に関する記事がのっています。
この手の雑誌を手にしたら、性格に関する記事を読まないではいられないでしょう。性格診断をやって、自分の学習スタイルや恋愛のパターン、働き方のタイプを知りたくなるのです。ああ、自分はこういう人なのか、と納得したいのです。
しかも、自分の核は、ずっと変わらない真実で、生涯続くのだとされています。
実は、この考えは間違っている、というのが今日、私が言いたいことです。
べつに、私が変わり者だから、この常識に異議を唱えるわけではありません。
変わらないコアがある、という考え方に反対する意見は、ずいぶん前からありました。
常識的な考えはこうです。
私たちは個人として存在し、まんなかに、こんな核を持っています。
生きていくうちに、いろいろな経験を蓄積していき、それが記憶になります。
この記憶が、自分がどういう人間なのか決める助けをします。
私たちには、欲望(desires)があります。クッキーを食べたい、とか。
これはアメリカのナンバープレートです。messiah 1(救世主)と書かれています。
運転する人がメシアを信仰しているのか、自分がメシアだという意味なのかはわかりませんが、このプレートをつけている人は、メシアに関する信念を持っています。
私たちには知識もあります。感覚や経験も。
単に知性的であるだけではないですね。
つまり、1人の人間が、その人の人生を作り上げているすべてのものを持って存在している、というわけですね。
ですが、きょう、私が皆さんに言いたいのは、このモデルは根本的に間違っている、ということです。
何が間違っているのか、ワンクリックでお見せできます。
つまり、こうした経験の真ん中に、あなたはいないのです。
おかしな考えでしょうか? いえ、そんなことはないでしょう。
では、真ん中に何があるのか?
もちろん、記憶や欲望、意図、感覚といったものはちゃんと存在しています。
ですが、こうしたものは、すべてが統合されて、重なり合ったり、いろいろな形で結びついたりしています。
部分的につながっていることもあれば、もっと大きく結びついていることもあるでしょう。
というのも、みな、1つの身体、1つの脳に属しているからです。
私たちは、ほかのできごとに影響を受けて、行動します。
私たちが何かを欲するのは、一部は、自分の信念のせいです。何かを思い出すとき、それは、何かを知っていることを意味します。
信念、欲望、感覚、経験は、すべて関連していて、そのあり方そのものが、自分自身なのです。
この考え方は、常識的な理解とたいして変わらない、とも言えるし、大きく違う、とも言えます。
自分は過去の経験すべてをもっている存在と捉えるか、経験を寄せ集めたものと捉えるかの違いです。
私たちは、自分の部品が合体したものなのです。
部品には物理的な物も含まれます。脳、肉体、足といったものです。しかし、こういうものはそんなに重要ではありません。
心臓移植を受けても、自分は変わりませんが、記憶や信念を移植されたら、どうでしょうか? 同じ人間ですか?
さて、自分は、経験をもった、永久的な存在ではなく、経験を集めたものだ、と考えるのは、奇妙に聞こえるかもしれません。
しかし、べつに奇妙ではないのです。むしろ、これは当たり前のことです。
水は、水素が2つ分、酸素が1つ分でできていますよね?
「水」と呼ばれるものがあり、それには、水素原子と酸素原子がついている、それが水だ、とは人は考えません。
水は水素と酸素が適切に並べられた物体だと考えます。
ほかのものもそうです。
腕時計には文字盤があり、針があり、それを動かす仕組みと電池があります。
腕時計と呼ばれるもののまわりに、部品がついているとは考えません。時計の部品をまとめれば、腕時計になると、はっきりわかっています。
宇宙にあるすべてのものがそうなら、なぜ、人間は違うのでしょうか?
なぜ、人は、要素が集まったものとは考えず、要素とは別に、永遠に変わらない存在があると考えてしまうのでしょうか?
人を部品が集まったものと捉えるのは、別に新しい考え方ではありません。
ずいぶん前からありました。
仏教でも、17世紀・18世紀から今にいたる哲学でも、そういう考え方があります。
臨床神経心理学者のこれはポール・ブロックはこう言っています。
「人は、直感的に、コアやエッセンスがあると考えていて、この考えを改めるのはたぶん不可能だと思います。
しかし脳医学の見地から見れば、脳のなかに、ほかのものがすべて集まっている核がないのは確かなのです」。
We have a deep intuition that there is core, an essence there, and it’s hard to shake off, probably impossible to shake off, I suspect. But it’s true that neuroscience shows that there is no centre in the brain where things do all come together.
すべてのことが起きる中心はないのです。
脳内では、たくさんの異なるプロセスが起きています。それぞれが、独立した動きをするのです。それが関連しあって、自分というものが認識されます。
この現象を、私は自分の著書で、エゴ・トリック(ego trick 自我のトリック)と呼んでいます。機械的なトリックです。
私たちは存在しているのではなく、このトリックのせいで、自分の中に自分がいる、と感じるのです。
実際よりも、統合された自分がいると感じています。
こう考えると、ちょっと心配になるかもしれませんね。
もし、1人ひとりに継続的に続くコアがないのなら、自分という存在は幻想にすぎないのか、と。
自分は本当は存在していないのではないか、本当の自分なんていないのだ、と。
確かに、多くの人が、人の存在は幻想だと語っています。
トーマス・メッツィンガー、ブルース・フード、スーザン・ブラックモアの3人の心理学者もそうです。
自分という存在は幻想で、フィクションであると主張しています。
腕時計の話に戻りましょう。腕時計は、部品が集まったものだからといって、幻想などではありません。
同様に私たちも幻想ではありません。
人間が複雑な合体物、秩序にのっとった要素の集まりだとしても、それがリアルではないとは言えません。
ここから違うのか?
アルゼンチンにイグアスの滝というのがあります。
滝には、永続的なものは何もありません。いつも変化しています。水は、いつも新しい水路をたどり、場所によっては乾き、新しい流れが作られます。
もちろん、流れている水は、その瞬間、瞬間でいつも違う水です。
だからといって、イグアスの滝は幻想であるとか、リアルではない、とは言えません。
これが、私たち自身を理解するモデルであり、また、私たちを自由にしてくれるモデルです。
もし自分が、固定された、永遠に続くエッセンスで、何が起きても生涯ずっと変わらない、と考えたら、私たちは閉じ込められているようなものです。
あるエッセンスを持って生まれ、それは死ぬまで変わらず、死後の世界でもそれは続く、と考えたとしたら。
ですが、自分はそのようなものではなく、プロセスであり、変化するものなのだと考えれば、とても自由になれるのではないでしょうか。
というのも、滝とは違い、人間はある程度まで、自分を成長させる方向に道筋を作ることができるからです。
Xファクター(音楽のオーディションを受けるリアリティ・ショー)を見すぎると、自分もあんなふうになれるかもしれない、と思ってしまいます。
望めば何にでもなれるのだと。
これは違います。
私はラジオで聞くような、素晴らしいミュージシャンにはなれません。どんなに必死に練習しても、多少はうまくなるでしょうが、そこまでの才能はありません。
私たちが成し遂げられることには限界があります。
それにもかかわらず、自分自身を作り上げる能力があるのです。
本当の自分は、かつてそう言われていたように、そこにあって、自分で探して見つけるものではありません。
少なくとも部分的には、私たちは本当の自分を作り出しているのです。
これはひじょうに重要なことです。特に皆さんの年代の人にとっては。
今後数年で、どれほど自分が変わるか、気づくと思います。3~4年前の自分のビデオを見たら、恥ずかしいと感じるのではないでしょうか。
私たちは、自分で自分を形作ったり、水路を開いたりして、変えることができるのだ、と考えるべきです。
「井戸を作る人は、水を引き、矢を作る人は、矢を曲げ、大工は木材を折り曲げ、賢い人間は自分自身を作りあげる」。
Well-makers lead the water, fletchers bend the arrow, carpenters bend a log of wood, wise people fashion themselves.
これこそが、私がきょう皆さんに伝えたいことです。
本当の自分は、探すものではないし、謎の中から見つけだすものでもありません。まず見つからないでしょう。
そうではなく、自分で作り出すものなのです。それはとても自由でわくわくすることですよね。
//// 抄訳ここまで ////
たとえ現実すべてが幻想で、私の思考が正確でなくても、幻想や不正確な思考が存在するためには、すでに私が存在することが前提となります。
この議論は基本的にうまくいくと思いますが、デカルトが本当に私が存在することを証明しているのか、それとも単に何かが存在することを証明しているのかという疑問がいくつかあります。
考えるのは奇妙ですが、おそらく思考や精神状態は「私」なしに存在できるのかもしれません。仏教徒はこれに似たようなことを信じていると思うので、完全に無視できるものではありません。
言いたいのはね、懐疑主義っていうのは哲学をする上での一つの気分に過ぎないってこと。そして、ちょっと変な疑問に繋がることもあるんだよね。ウィトゲンシュタインの後期の著作は、懐疑主義の行き過ぎたところ、つまり「私たちの本当の必要」に関係ない質問をすることに繋がるところを暴こうとしてるんだ。
なんで、哲学マニアはこんなことを妙に必死で考えるのか
自分が本当に存在するのかどうかは
かなり疑わしい
「自分の意識とは、脳が生み出した統覚である」
ということになっている
「脳はある。自分はない」
というのが、現代人の信仰だ
そんなの、どうでもよくなる
確かに自分は存在している(笑)
精神世界・宗教的側面:
アドヴァイタ・ヴェーダーンタ(ニサルガダッタ・マハラジ):「私は在る、そして私が在るゆえにすべて在る」とされ、体験を超えた真の自己(真我)の認識。
OSHO:「私は在る」という自覚(アスミータ)は、瞑想の本質であり、エゴではない純粋な自分自身への意識。
モーゼの「我は在りて我在り」に通じ、神の存在証明ともされる。
「ありのままの自分」でいること、見栄を張らず、素直に自分を受け入れる「自己一致」の状態に近い。
「自分は何者か」というアイデンティティの核となる部分。
マインド(思考)で繰り返さないこと:言葉にするのではなく、行動(歩く、食べるなど)と同時に、内側で「私は在る」という感覚を保持し続ける。
二つの矢を持つ:相手(対象)に意識を向ける矢と同時に、自分自身(存在)にも意識を向けること(自分を覚えていること)。
この言葉は、単なる文法的な「私(主語)+在る(動詞)」を超え、「存在そのもの」「絶対的な真実」を指し示しています。
https://youtu.be/rR--iQssD_8?si=8hazrwvJsbspEzEY
たまには、スピリチュアル寄りの話を書く。
私は凡人なので、当然、霊感がない。
心霊写真や幽体離脱のようなものも経験がないし、予知夢や前世の記憶ももちろんない。
初詣に行ったり、ピンチの時に「神様!」と祈ったりすることはあるが、深い信仰心があるわけではない。罪のない子供が犠牲になるニュースを見るたびに、「絶対に神様なんていない」と思う。
普段から生死について深く考えるタイプではないけれど、昔から、死んだら普通に「無」になるだけだろうなとは思っていた。生まれる前の状態に戻るだけというか。
自分が死んで、いつか人類が絶滅して、もしも地球や宇宙が終わっても、そこに残るのは永遠の無で、終わりのない果てしない無の時間が続いていくだけ。もちろん考えたところで答えなどなく、途方もなく怖くなるだけなので、死後や宇宙についてはあまり考えないようにしてきた。
アメリカでは有名人だそうで、ハリウッドセレブにも人気だったり、霊視待ちは30万人だそう。
(1日に3人見ても、274年かかる!)
「霊媒師」と聞くと怖い怪しい印象があるが、タイラーはフレンドリーで明るく、見るからに優しそうな人柄。霊媒師というより、死者からのメッセージ(イメージ)を代わりに言語化して伝える「翻訳・通訳者」という感じ。
疑い深く見てもどうしてもヤラセには思えず、「この人は本物だろうな」と思った。
相手の思い出話を聞く前から「○○という名前の人は親戚にいた?」とか「お父さんは○○の病気で亡くなった?」とか、身内しか知るはずもない細かい話まで言うので、霊視をしてもらう人たちはみんな「怖い!どうして分かるの!?」と驚いていた。
そして、大切な人からのメッセージを聞いた人たちの多くは涙を流して、最後には「癒された」「心が軽くなった」と言っていた。
タイラー本人は、霊視をするたびに心身共に疲弊してかなり大変そうだが、彼にしかできない意義のある仕事だなと思った。タイラー自身も「この仕事は僕の使命」と何度も言っていた。
面白かったので調べたら、アマプラで『占いタクシー』(英題のSeat belt Psychicのままの方が良かったと思う)が数話配信されていると知り、見た。
運転しながら霊視できる人もいるんだと驚いた。
ながら運転で危ない気がするんだけど。凄すぎない?笑
「乗って来た時から隣にお祖母さんがいるよ」
「今、あなたのお父さんが話に割り込んできた」
「天国にはゲームがなくてつらいと言ってる笑」
「亡くなった息子さんは天使と一緒にいる」
などなど
死因や家族のことなど全て当てられ、涙し、車を降りた男性が「今日のことは決して忘れない」と話したシーンの後、霊媒師のトーマスが
これが狙いだ
彼のような人が霊媒師を訪ねることはないだろう
でも愛する人からの声は彼に良い影響を与える
彼も信じてくれたよ
とタクシーの中で(カメラに向かって?それとも隣にいる誰かに向かって?笑)独り言を言っていた。
「確かにそうだよなー」と思った。
自分から霊媒師の元に足を運ぶ気のない人に、故人からのメッセージを伝えるには、こんな強制的な機会がない限り絶対に無理だろう。
「いつもそばで見守っているよ」
「愛してるよ」
「感謝してるよ」
「後悔している、謝りたい」
「もう怒ってない」
たいていが、この辺りだったと思う。
伝わってくるのはどれも、残された人を大切に想う気持ち、愛ばかり。
死んだ後もメッセージを伝えられる可能性と希望を感じた一方で、
死後の世界からメッセージを伝えられるのは、愛を伝えたい相手が生きている場合だけってことか
とも思った。
メキシコの伝統行事「死者の日」を舞台にした映画だ。祭壇に生前の写真を飾ってもらえた死者だけが、死者の国から下界に行く橋を通ることができ、大切な人たちと会うことができる。(もちろん生きてる人たちには見えないが)
写真を飾ってもらえるということは、「あなたのことを今も覚えているよ、大切に思っているよ」ということ。
写真を飾ってもらえなくても、生きている人の記憶に少しでも残っているうちは、死者の国で生きていられる。しかし、自分のことを覚えている人がいなくなると(たとえ死ななくても忘れられると)、死者の国で「二度目の死」が訪れる。姿が消え、完全にいなくなる。
霊媒師のエピソードを見て、リメンバー・ミーのこのシステム(?)を思い出した。
そういう人が生きている限り、そばで人生を見守ったり、運が良ければ霊媒師を通してメッセージまで伝えることができるのだから。
前世の記憶を持つ子どもたちの実話だ。
昔アンビリバボーでも放送されていたらしい。
最期の印象があまりに強いからか、後悔や無念からなのか、非業な死を遂げた前世が多く、幼少期はみんな悪夢にうなされていた。
前世の人物や出来事を特定できた後は、その地を訪れて前世とお別れをすることで、悪夢や辛さもだんだんと落ち着いていく、というパターンが多かった。
前世の記憶だと分かるまでは、親はもちろん、本人すらも訳が分からずとても辛そうで、本当に可哀想だった。
戦争の辛い記憶を持つ子も何人かいて、戦争が終わった後もまさかこんな形で苦しみが続くなんて…と悲しくなった。
面白いことに、ほとんどの子供が歩き出すのが早く、言葉の習得も早く、賢かった。
不謹慎ながら、「さすが人生2周目」と思った。笑
私は霊感も前世の記憶も全くないけれど、亡くなった人がそばで私たちを見守っていることも、輪廻転生する人がいることも、どうやら天国があるっぽいことも、すべて信じることにした。というか、信じたい。
科学的に証明されていなくても、この世界には不思議なことがたくさんあると思うし、無いことの証明はできないのだから。
この確信さえ持てれば、実存的な不安は解消される
これがピンとくるかどうかだ
存在の確証: 「私は在る」は、自分が存在していること、つまり「自分はここにいる」という最も基本的な事実を指します。
真我(真の自己): 精神的な探求において、この「私は在る」という感覚こそが、体験や思考を超えた真の自己(真我)であり、永遠不変の実在であるとされます。
瞑想の実践: 「私は歩いている」「私は食べている」といった思考なしに、「私はただ在る」という感覚を内側で持ち続けることが、瞑想の本質的な部分とされます。
神聖な呼び名: 聖書におけるモーセへの啓示「我は在りて我在り(I AM THAT I AM)」のように、「私は在る」は神(創造主)そのものを指す言葉としても使われます。
自己一致(ありのままの自分): 「私は在る」は、ありのままの自分を受け入れ、飾り気なく生きる「自己一致」の状態にも通じます。
自己想起(グルジェフ): 「私は在る」と気づくことは、グルジェフの言う「自己想起」(自分自身を思い出すこと)の核です。
「私は在る」というシンプルな言葉は、自己認識の深層を探求し、真の自分を発見するための強力な鍵となるのです。
それ自体が、神の存在証明
考えるまでもなく、当たり前
◆JBLfMwCXhYは、ますますアブドゥル・アルハズラッドの末路に近付きつつある様だな。w
お前の論法なら、クトゥルフ神話の神々の存在も否定できないぞ?w
1、ハスター:4,289 Pt
2、ニャルラトテップ:3,864Pt
3、シュブ=ニグラス:3,104Pt
4、ヨグ=ソトース:2,659Pt
5、アザトース:2,655Pt
6、イゴーロナク:1,794Pt
7、クトゥグァ:1,462Pt
8、ダオロス:1,381Pt
9、クトゥルフ:1,308Pt
10、ノーデンス:1,295 Pt
ハスターか
血縁関係: どちらもヨグ=ソトースの子孫で、ハスターはクトゥルフの半兄弟にあたります。
対立: ダーレス神話体系では、ハスターが「風(大気)」、クトゥルフが「水」の邪神として対比され、宿敵関係とされています。
ハスター: 「名状しがたきもの」「星間宇宙の帝王」「黄衣の王」など。四大霊の「風」と結びつく。
クトゥルフ: 深海に眠る、巨大な旧支配者として有名。
https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEiREcvw5LX0HlzvqRSzOgdN8Awt7IqNyObkBkkLRhPCT7TyhPwZiesw3RqoocqGizKwH_nfT_LsyBKdNa4w4uoA7M4qhh82uB4-Fk1zBQhpNjrRITUJMrt_Cf-Pw_Mjzb4pOuH3q5sZ4XY/s400/character_cthulhu_hastur.png
クトゥルフ「神話』なので、クトゥルフ神話TRPGにも様々な神が登場します。
今回はクトゥルフ神話TRPGにでてくる『神々』の説明の後に、実際にシナリオで絡ませてみた感想を紹介します。
神々と言っても、その殆どが邪神なのでSAN値チェックしながら読んでくださいね。
今回紹介するのは、こちら! 『ハスター(Hastur)』(ハストゥル、ハストゥールとも呼ばれています)
ただ、このハスターはラヴクラフトが作り出したというよりは、様々な作者によって設定を付け加えられ、創造されていった神です。
・場所
・おうし座のアルデバラン星に棲んでいる。
・接触
・おうし座が空に昇っているとき、9個の大きな石などを用意し召喚の儀式を行い、呪文を詠唱し招来できる場合がある。また、ハスターの眷属であるビヤーキーがいるごとに成功率は上がる。
・人間に憑依することができる。その際は身体は膨らみ、手足の骨が徐々になくなり、鱗に覆われた流動体のようなものになる。
・ビヤーキー、イタカ、ロイガー ツアールはハスターの眷属。
・黄色の印のシンボルマークを持つ。
また、多くのゲーム作品にも登場します。
ラヴクラフト全集ではなく、クトゥルフ神話TRPGから、この界隈に入った人なら、真っ先に覚えてしまう名前ではないでしょうか。
なんかもう人気すぎて「もうニャルええわ!」って言ってしまう人もいるぐらいです。
・暗黒のファラオ、無貌の神、闇に吼えるもの、チクタクマン、赤の女王、果ては、クルーシュチャ方程式という数式にまで化身になる。
他様々な化身はあるが描写されているのは一部だけ。
・エジプトとかなり関りがあり、その関係は古代エジプトまで遡る。
https://cthulhu-trpg.com/wp-content/uploads/2022/10/character_cthulhu_nyarlathotep.jpg
赤の女王は非常に美しく威厳に満ちた女性の姿をしたニャルラトホテプの化身です。
https://paparacha.net/wp-content/uploads/2019/10/redqueen01-l.png
本当はこんな姿をしている
https://paparacha.net/wp-content/uploads/2019/10/redqueen2016-02-l-1.png
「私は在る」 と覚えていなさい
あなたがどこに居ようとも、「自分は在る」と覚えていなさい。この「自分は在る」という意識は、連続するものでなければならない。あなたの名前や階級、国籍、こういったものは無意味なもの、まったく無用の長物だ。ただ「私は在る」と自覚するだけでいい。これを忘れてはならない。歩いているとき、座っているとき、食べているとき、話しているとき、「私は在る」 と覚えていなさい。
投稿者作成者:山家直生
投稿日2022年7月12日
探求の世界では、「私は在る」という言葉が結構良く使われます。そのことを理解することが、真理を悟ることであるかのように扱われることが多いのではないかと思います。なにしろ、『聖書』にも登場する言葉です。「私は在る」とはどういうことなのか? 疑問に思う人も多いと思います。でも、実際のところ、「私は在る」ということは、あまりにも当たり前の感覚です。すべての人に覚えのある感覚のはずなんです。ところが、「私は在る」という言葉が特別視されてしまうあまり、「私は在る」という感覚も特別なものであるかのようにイメージしてしまう人も少なくないと思います。なにしろ、僕もそうでした。「これが『私は在る』という感覚であるはずがない」と思ってしまうんですね。
僕は、「私は在る」ということを知った時、「な~んだ、こんなことか……」と思いました。確かに、そこにはある種の気づきがあるのですが、すごいことに気がついてしまったという感じではありません。むしろ、「だから何?」とすら思えました。
ラマナ・マハルシの言う「沈黙」とはこのことかとも思えました。それは、まさしく沈黙です。言葉もイメージも現れておらず、ただ、そのことに気がついている状態です。瞑想を習慣にしている人であれば、よく知っている状態だと思います。でも、それを「私は在る」ということなんだと認識する時には、ある種の飛躍みたいなものがあります。突如とした気づきです。アハ体験みたいなものです。ある種の飛躍がないことには、それが「私は在る」ということだとは思えないのではないかと思います。あまりにも当たり前すぎるからです。
バガヴァット・ギーターなどの古典では、〝知識〟という言葉がでてきます。現代においても〝知識〟という言葉は使われますが、古典では、その意味合いがだいぶ変わってきます。現代においては〝知識〟というと、〝記憶〟に近い意味合いで使われることが多いのではないかと思います。記憶無しには知識も無いと思うでしょう。でも、古典では〝知識〟というのは記憶とは関係がありません。古典では、「私は在る」ことを〝知識〟と言います。言ってみれば、「私は在る」と〝知識〟は同意語です。そして、バガヴァット・ギーターにはこう書かれています。
仮にあなたが、すべての悪人のうちで最も悪人であるとしても、あなたは知識の舟により、すべての罪を渡るであろう。(4・36) あたかも燃火が薪を灰にするように、知識の火はすべての行為(業)を灰にするのである。(4・37) というのは、知識に等しい浄化具はこの世にないから。〔行為の〕ヨーガにより成就した人は、やがて自ら、自己のうちにそれ(知識)を見出す。(4・38) 信頼を抱き、それに専念し、感官を制御する者は知識を得る。知識を得て、速やかに最高の寂静に達する。(4・39)
でも、その関係性はこの世に属するものです。この世に属するものは、常に移り変わっていきます。極端なことを言えば、今、パワースポットと呼ばれる場所だって、地球が太陽に飲み込まれてしまえば存在しないでしょう。この世においては、浄化する主体だって変化の対象です。
「私は在る」は〝浄化具〟と呼ばれますが、一体、何が浄化されるんでしょうか? ともすれば、「私は在る」ということを知ることは、探求のゴールだと思われることも少なくありません。「『私は在る』、それで探求は終わりなんだ」と思う人も少なくないかもしれません。もちろん、そのことに疑問を感じなければ、探求はそこで終わるかもしれません。でも、なぜ、バガヴァット・ギーターでは、「私は在る」ということが〝浄化具〟と呼ばれるのか、その理由は分からないでしょう。
「私は在る」ということに気がついた時、人は、「私は在る」という感覚を、この身体に属するものだと思ったり、意識に属するものだと思ったりします。人は、この世界を相対的なものとして認識しており、「私は在る」という感覚も、その相対性の中の何かとして認識します。もし、「私は在る」という感覚を、身体に属するものと認識するならば、「『私は在る』、けど、この身体が死んでしまえば『私は在る』とは言えないよね?」という疑問を抱くかもしれません。また、「私は在る」という感覚が意識に属していると認識するならば、「一体、この意識はどこまで続いているのだろうか?(宇宙に果てなんてあるのか?)」と疑問に思うかもしれません。
実のところ、「私は在る」ことによって浄化されるのは、その勘違いです。「私は在る」という感覚を、この世界の中の相対的な何かと認識していること自体が錯覚なんです。
「私は在る」ということに気がついたとしても、それは表面的な理解になりがちです。「だから何?」って思う人は少なくないのではないかと思います。今まで積み上げてきた根本的な認識はほとんど変わりません。「私は在る」という感覚が〝浄化具〟と呼ばれるのは、「私は在る」ことによって、その根本的な認識が段々と解体されていくからです。
神の御名(みな): ヘブライ語で「ヤハウェ(YHWH)」の根源となる言葉で、神の存在そのものを表します。
意味: 「私は存在する」「私は、在る者」という意味で、神の永遠性、自存性、絶対性を表現しています。
聖書での文脈: モーセが神に「あなたの御名を教えてください」と尋ねた際、神が「私は在る、という者である」と答えたことから来ています(出エジプト記3章14節)。
キリスト教・ユダヤ教: 唯一絶対の神、天地万物の創造主としての神を示し、他の神々を否定する根拠ともなります。
つまり、「私は在る」とは、「(私が)在る者(ヤハウェ)こそが、唯一絶対の神である」という、神ご自身の宣言です。
暗殺されたカーク氏が人気を集めていた背景にある問題
では、アメリカ経済の一番の問題点は何かというと、これはやはり格差であり、特に現在進行形での「Z世代の就職難」ということになると思います。これは、新卒だけでなく、既に数年前に就職している層も、あるいはコロナ禍前にキャリアをスタートしている層も、同様に困難に直面しています。
シリコンバレーの大手が、基本的にリストラを嫌うアップルを除いて、各社ともに大規模なリストラを数度にわたって実施しています。そのターゲットですが、アメリカの場合は「働かない高齢で高給の人」というのは少ないので、基本的には「効率化により2人ではなく1人で回る部分では1名を削減」というような形で、下級職から順に切っているというケースが多く見られます。
ということは、30歳前後のグループというのが、非常に難しい立場に立たされています。24年の大統領選におけるZ世代の右傾化であるとか、今回暗殺されたチャーリー・カークへの人気といった政治的な現象の背景にはこの問題があります。また前述したような移民ビザの手数料アップというのも、こうした情勢をベースにしたものです。
ニューヨークでは、1ヶ月半後の11月に市長選が迫っています。4名の候補が乱立していますが、その中で一歩リードしているのが、ゾーラン・マムダニ候補(民主)です。インドルーツのウガンダ系で、帰化してまだ7年、ウガンダとの二重国籍の33歳です。
そのマムダニ候補は、社会主義者を自称して、市バスの無料化、託児所の無償化、そして食品スーパーの公営化による卸値での販売などを公約しています。また中東情勢では、明確にパレスチナの側に立っているばかりか、本人がイスラム教徒でもあります。
一番大きな公約は、社会主義の考え方から「億万長者の存在は認めない」として、NY市内の富裕層には「懲罰的な課税」を示唆しています。これを受けて、NYの富裕層は、「マイアミに逃げたいが、右翼ばかりなのでイヤ」ということで「いっそ中立州でまだ話の分かりそうなオハイオに逃げよう」などという話が出ているほどです。
ですが、仮にマムダニ氏が当選して、NY市政を左にシフトした場合には、ただでさえ伸び悩んでいる不動産業界は大きな痛手を被ることになります。そんな中で、中道派の候補たちさえもが、トランプ政権に接近して「マムダニ当選の場合は、懲罰的な政策を」行うよう持ちかけて、市政を妨害するような取引をしている状況です。
これを受けて、大統領周辺では「社会主義の市長が誕生した場合には、連邦からの補助金を思い切りカットする」という脅しを始めています。これもまあ想定内といえば想定内なのですが、経済と政治の接点として、恐らくこの11月のNY市長選は、大きな分岐点になるかもしれません。
「雇用を守るAI規制」か「製造業回帰」かという重大な選択
仮にマムダニ氏が勝利して、一気に民主党の左派が勢いづいたとして、例えばですが、「雇用を守るためのAI規制」を強烈に押し出したとして、アメリカの世論はどう反応するのかというと、これは賛否両論になると思います。
その場合ですが、保守の側は「AI開発は進める。そこで失われる雇用は製造業が吸収する。そのために関税政策と移民抑制で製造業を中心とした雇用を増強する」ということになります。一方で、リベラルの側は「AI開発に一定の規制をかける。また格差拡大には強烈な課税と再分配で対処する」ということになると思います。
気がつくと、左右両派ともに「グローバル経済への最適化で、アメリカは知的産業のチャンピオンに」という1995年以降のサクセスストーリーを否定しつつあります。知的産業しか残らない社会で、その知的産業すらもAIに侵食される時代への絶望と不安、怒りをどう吸収するか、経済こそ政治の根幹であり、以降の政局の軸になると思います。
気がつくと、左右両派ともに「グローバル経済への最適化で、アメリカは知的産業のチャンピオンに」という1995年以降のサクセスストーリーを否定しつつあります。知的産業しか残らない社会で、その知的産業すらもAIに侵食される時代への絶望と不安、怒りをどう吸収するか、経済こそ政治の根幹であり、以降の政局の軸になると思います。
市長はムスリム
普遍性と永続性: 全ての存在を対象とし、常に降り注ぎ、決して尽きることはありません。
属性としての御名: 「アッ=ラフマーン」「アッ=ラヒーム」など、慈悲を示す多くの御名で呼ばれます。
赦しと希望: 罪を犯しても、真実の悔い改めと赦しを求めれば、アッラーは赦しを与えます。
日常への顕現: 見知らぬ人からの親切、恵みの雨、子供の笑顔など、日常のあらゆる善の中に神の慈悲が反映されています。
感謝と祈り: 数え切れない恵みへの感謝や、助けが必要な時に、これらの御名でアッラーに祈ります。
服従と信頼: 神を信じ、唯一の神として崇拝し、真の服従をもって向かい合うことが求められます。
アッラーの慈悲は、単なる感情ではなく、創造、恵み、赦し、導きといった全能なる神の存在そのものを示す核心的な概念です。
↑
ここが重要
アッラーは最も慈悲深く、最も慈悲深い方です。それが、私たち被造物に対する彼の自己紹介です。しかし、私たちはムスリムとして、礼拝を促すため、あるいは宗教に対する恐怖に基づいた理解のために、私たちを怖がらせるようなことについて考えることに多くの時間を費やしているように思います。
私は、私たちがウンマとして、アッラーが本当に慈悲深く、慈悲深いとおっしゃる意味を理解し始めることができれば、私たちの宗教から計り知れない恩恵を受けることができると信じています。彼は私たちの宗教を完成させましたが、私たちを完璧にしたわけではありません。そして、彼自身はすべての不完全さから自由です。彼を崇拝することは、彼を信じ、彼の言葉を信じることを意味します。私たちは、人々が自分自身について語るとき、毎日彼らを信じています。ですから、アッラーがご自身を最も慈悲深く、最も慈悲深いとおっしゃるなら、彼を信じ、絶望しないでください。それがあなたの信仰の基礎です。
”われの慈悲は、われの怒りに勝る”
疑う余地はないはず
言語による後付けの理屈だ
「私は在る」という気づきしかない
あなたは自分は一個の肉体であるという思考を忘れ、ただ名前も形もない「私は在る」という知識だけにならなければならない。
真我に対する愛、それは「私は在る」という意識だが、これを真実の愛だと理解した者たちは自分自身が愛となる。
この「私は在る」にはどんなメッセージもなかった。この状態に関して、私は多くを語ることができない。なぜなら、言葉で表現できる余地がないからだ。
「私は在る」という知識は個人的なものではなく、宇宙的なものなのだ。
「私は在る」という概念を身につけると、あらゆる概念に巻き込まれる。この「私は在る」という概念が去ると、私は存在していたとか、こういった経験をしたという記憶は何も残らない。
ニサルガダッタ・マハラジ
もうこんな時間か
プラカーシャ:光、照明、輝き
クリヤー:動き、行為
スティティ:不動、鈍重な
“見るもの”(プラクリティ)を構成する3つの要素は、それぞれがサーンキャ哲学のサットヴァ・ラジャス・タマスに当てはまります。まずは、この3つの要素の特徴を見ていきましょう。
プラカーシャは、トリグナのサットヴァを指『ヨガ・スートラ』では、プルシャのことを“見るもの”、プラクリティのことを“見られるもの”と表現します。また、プラクリティを構成する3つのグナ(要素)も違う名前で呼びます。
プラカーシャ:光、照明、輝き
クリヤー:動き、行為
スティティ:不動、鈍重な
“見るもの”(プラクリティ)を構成する3つの要素は、それぞれがサーンキャ哲学のサットヴァ・ラジャス・タマスに当てはまります。まずは、この3つの要素の特徴を見ていきましょう。
プラカーシャは、トリグナのサットヴァを指しています。
純粋な性質であるサットヴァは、明るく輝きます。それは、本質であるプルシャを見ることができるからです。ヨガ哲学では、私たちの内側にある本質は常に美しく輝いていると信じます。しかしエゴや執着によって視界が濁ってしまうと、泥を塗った眼鏡をかけるように視界が遮られて真実が見えなかったり、光が遮られて暗くなったりしてしまいます。自分がかけているその眼鏡を、一寸の曇りもなくピカピカに磨くための作業がヨガです。ヨガで自分の体と心の中の汚れを削ぎ落としていくことで、明るい世界に出会うことができます。
プラカーシャという言葉は、『ヨガ・スートラ』ではプラーナーヤーマ(調気法)の説明でも使われています。
その結果、(心の)光明の覆いが消滅する。
佐保田鶴治, 1983, 『ヨーガ根本経典 ヨガ・スートラ』2章52節, 平河出版社, p. 113
起きるのは、だいぶ遅くなりそうだ
アドヴァイタ
ニサルガダッタ・マハラジの「私は在る(I AM)」という感覚について
2018.10.11
アドヴァイタ
2504
ニサルガダッタ・マハラジ。
彼が悟っていたことは間違いない。
その彼の教えの核となる「私は在る(I AM)」という感覚。
「私は在る(I AM)」とは、自己意識としてのあなたと、それを取り巻く常在的な内的環境のことである。
ということができます。
なぜなら、「私は在る(I AM)」という感覚は、その人の意識の進化の段階によって異なるからです。
だから当のニサルガダッタ・マハラジ本人も、その説明をするのが難しかったのでしょう。
「I AM=私は在る」という感覚。
それは自己意識の自覚に始まり、さらに高次の意識段階においては、自己意識の自覚の感覚を中心として、以下のものが付加され統合されていきます。
自己意識プラス前部ヘッドセンター(第三の目)、ヘッドセンター、純粋意識といった風に、その人の意識の進化の進展具合いに伴って、その実体は拡大されていくのです。
ゆえに、以下のように言うことができます。
「私は在る(I AM)」とは、自己意識としてのあなたと、それを取り巻く常在的な内的環境との統合体のことである。
機能としてのあなた環境としてのあなた自己意識前部ヘッドセンター(第三の目)、ヘッドセンター、純粋意識
1.進化の段階:
自己意識の眠り=いわゆるエゴの意識状態
「私は在る」という感覚の実体:
私という想念・肉体感覚など
↓
2.進化の段階:
自己意識の目覚め
「私は在る」という感覚の実体:
自己意識
↓
3.進化の段階:
ヘッドセンターの生起※
「私は在る」という感覚の実体:
自己意識 + ヘッドセンター
↓
4..進化の段階:
真なる自己の目覚め
「私は在る」という感覚の実体:
自己意識 + ヘッドセンター + 純粋意識
※
大は小を兼ねるで、真なる自己の目覚めの過程においては、覚醒状態があればもはや第三の目を必要としませんので、第三の目の生起は真なる自己の目覚めにおいて必須のものではないと考えております。
以上のような観点からすれば、
意識の進化、すなわち自己の目覚めとは、自己意識の拡大の過程である
ということができるわけであります。
以上のような観点からすれば、
意識の進化、すなわち自己の目覚めとは、自己意識の拡大の過程である
ということができるわけであります。
ラウンドワン〜
統一教会ファイトっ‼️
😆
何かは起きるのか?
😆
https://booth.pximg.net/da84f5bd-6edb-45e3-aa24-f34b3ca6afa3/i/5917618/de7d8720-cae7-4cf4-b8dd-40cb945fc894_base_resized.jpg
終えた
カラムーチョタイムだ
😆
9時500〜10時10分まで
無賃労働した
😱
予定がなく
昼寝し放題だ
😆
ウンザリやった
😆
😆
まだ疲労感が残っているな?
😆
カレーでも食べるかな?
😆
止まっているなー
ヤツラはコミュ障害だからなー
😆