「みなさん、かつて計り知れないほど昔に、日月灯明如来(にちがつとうみょうにょらい/the Buddha Sun Moon Bright)という仏がが現われました。正しい法を説くのに、 意味するところは深く、言葉は絶妙でありました。声聞たちには 四諦と縁起の法を説いて、 生・老・病・死を通して悟りを得、、菩薩たちには六波羅蜜 を説き、阿耨多羅三藐三菩提の最高の悟りを得たのです。次に仏がまた現れます。名前を日月灯明というのです。次に仏がまた現れます。名前を日月灯明という。このように、同じ名前で2万の日月灯明が 現われたのです。このようにして最後に現われた日月灯明如来が、同じような現象を現したのです。
Talk 掲示板における一つの独立した空間で、争い事は決して好まず、他者に対する誹謗・中傷はナンセンス。しかし愛嬌はドンと来い。ユーモアはぶちかませ。エロい話はお好み次第。「人生楽しまなきゃ損だろう!」をモットーに互いの人間性を尊重しながらもじゃれ合い程度にはツツキ合い、もみもみしながら互いのゆゆしさを温かく且つ、深く理解し合いながら相互に人間性を高め合っていく。そんな素敵な関係のゆゆしき法界です。
前スレ
ゆゆしき法界 パート33
https://talk.jp/boards/psy/1708481282
ゆゆしき法界 パート34
https://talk.jp/boards/psy/1708884825
ゆゆしき法界 パート35
https://talk.jp/boards/psy/1709252947
われらの太陽待ちだ〜
😄😄
隠れファン、スレ立て乙です
俺をもてあそぶ奴は!
スレ立て人
鹿野園の幼少期の写真を見つけてしまった!
https://encrypted-tbn0.gstatic.com/images?q=tbn:ANd9GcRusygkcXkyZN40IsLXXVoalIB5xLh_lDKw39l_0fQzdA&s
https://img.cdn.nimg.jp/s/nicovideo/thumbnails/36551805/36551805.19027460.original/r1280x720l?key=7a3686abb0dfd10529e193f81053a42faa1ed45e12714c2802c98a2e68f9c190
https://livedoor.blogimg.jp/butudou/imgs/6/b/6b6617a5.jpg
https://i.pinimg.com/236x/d2/ba/86/d2ba86a5796a9673cc583681c21b5d74.jpg
良い事
閃めいた!
新スレを立てて来た!
今までの中で最高のスレだ!
どこにそのスレはあるでしょう?
和尚なら見つけるかもしれん、、、
😄
見つけられん
😄
音楽の好みが
懐古主義でY・M・Oばかり
聞いていたよーな
😄
この時代は日本でTRFが流行っている時代
https://m.youtube.com/watch?v=idE1lsqG2Vc&pp=ygUdam91cm5leSB3aGVuIHlvdSBsb3ZlIGEgd29tYW4%3D
聞いてみたくなった
はまっているわけでもなく
😄
わからない
この子が良い
https://youtu.be/8t0KEDc7FwM
オレ的には
キル・ビル
😄
ほーかいくん的に
そのままユーチューブみるアップの仕方がわからん、
どの経由貼り付けなんやろか?
トーク板の
元がヤフー経由でないと
ほーかいくん的ユーチューブ貼り付けでかないのやろか?
試しているが
上手くいかん
😄
パソコンでないと
できんのか〜
そりゃ不可だ
😄
ユーザー
Miss名無しさん
dSbW5(3/6)
女だってオナニーするよ!
でも、女の子が「私、オナニーするよ」と言わないのはこんな理由があるの!
https://news.sod.co.jp/eroneta/24750/
2024/03/04 17:17:52
これって映画音楽じゃなかった?
この時代のこのバンド追いかけてなかったので知らんわ〜
海猿のテーマソングは
80年代のと
ワールドベースボールクラシックの
テーマソングも
80年代丿バカ売れの時代やな
そつちのほうが日本人に受けたんやろな〜
😄
これのリターン聞きばかりだな
😄
https://m.youtube.com/watch?v=pxI0I3NX3K0&pp=ygUZ576K5paH5a2mIG1vcmUgdGhhbiB3b3Jkcw%3D%3D
https://www.youtube.com/watch?v=AG8pU-kh49w&t=2865s
一時、これにはまってた
https://m.youtube.com/watch?v=COSYx1TQS4Q&pp=ygUq44Oe44Oz44Km44Kj44K644Ki44Of44OD44K344On44Oz44CA5biD6KKL
ヘンドリクスやらレイボーン聞きすぎて、
やはり
音色のコダワリが違う感がある、
あっち音系統の好みになってるからな〜
😄
布袋寅泰とブライアン セッツァーの競演
https://youtu.be/hcQGv-vY_Ds
https://youtu.be/3AsqnjTZgQc
この曲はしらなんだ
https://m.youtube.com/watch?v=M5zB3TpfyFU
ヴァンヘイレンは良かったな
ただ好みがアルバムの中で
今や二曲ぐらいまで減ってもーた
😄
あんまりマジ聞きしてないから
割合好みだ
😄
https://youtu.be/MTFjBhYPJyk
プリンスの影響があるやろな〜
プリンスを聞いてわかった
ほぼプリンス聞いてないからな〜
😄
B'zの稲葉とのセッションは
良かった
ミヤビ
😄
https://youtu.be/ncqHfBvNxPw
もう一人いた
ということか、
売れてなさそーなバンドにいたのがおる
な
その曲はまった〜
バンド名なんだったけ〜
😄
一時はまった
名前出てきた
マイファーストストーリーや
😄
一曲見つけた
😄
売れてないほー息子バンド
https://m.youtube.com/watch?v=_lPygJbct7w
売れてないほー息子バンド
https://m.youtube.com/watch?v=RcrVoPWGK1E
バンドのドラム
ウメエな〜
😄
😄
戻って来るのが
わたくし法介です。
「部屋に置かれてあった見覚えのないテーブル」
の喩え話は、不思議解脱の「方便の解脱」にあたります。
体の仏と用の仏
https://zawazawa.jp/bison/topic/21
この↓内容です。
方便の解脱とは、前五識が「声聞の智慧」によって成所作智へ転識します。
<仏意の五重玄>諸仏の内証に五眼の体を具する
妙=仏眼:第九識は法界体性智
法=法眼:第八識は大円鏡智
蓮=慧眼:第七識は平等性智
華=天眼:第六識は妙観察智
経=肉眼:前の五識は成所作智(←ここ)
(※肉眼の意味を考えましょう)
「実慧の解脱」は縁覚の智慧を覚ることで起こります。
<仏意の五重玄>諸仏の内証に五眼の体を具する
妙=仏眼:第九識は法界体性智
法=法眼:第八識は大円鏡智
蓮=慧眼:第七識は平等性智
華=天眼:第六識は妙観察智(←ここ)
経=肉眼:前の五識は成所作智
(※天眼の意味を考えましょう)
この「実慧の解脱」が起こります。
とにかく朝方によく実慧の解脱が起こります。
今、こうして書いてます。
世親が示した「五念門の行」↓
一、「礼拝門」‐身業(体による行い)で礼拝をする。
二、「讃嘆門(さんだんもん)」‐口業(口で言うこと)で讃嘆をする。
三、「作願門(さがんもん)」‐意業(心に思うこと)で常に願う。
四、「観察門(かんざつもん)」‐智慧の眼によって観察する。
五、「回向門(えこうもん)」‐回向を本として「功徳を与えよう」と願う。
ある事を覚りました。
「南無妙法蓮華経」が体の仏で
「妙法蓮華経」が用の仏になるかと思います。
私達が読んでいる鳩摩羅什訳の『妙法蓮華経』ではないってことは、
十如是と五何法 法介のほ~『法華経』その③
https://zawazawa.jp/yuyusiki/topic/17
で詳しくお話しました。
サンスクリット原典の『法華経』と
竺法護の訳した『正法華経』と
鳩摩羅什の『妙法蓮華経』です。
サンスクリット原典の五法にちなんで、
【サンスクリット原典】
「どの諸法」「どういう諸法」「どのような諸法」「どういう相を持った諸法」「どういう自性を持った諸法」
「五念門」と説いたのではないでしょうか。
「体の仏」と「用の仏」の
「俱体俱用の法門」が深く関係してきます。
「されば釈迦・多宝の二仏と云うも用の仏なり、妙法蓮華経こそ本仏にては御座候へ、経に云く「如来秘密神通之力」是なり、如来秘密は体の三身にして本仏なり、神通之力は用の三身にして迹仏ぞかし、凡夫は体の三身にして本仏ぞかし、仏は用の三身にして迹仏なり」
の御文に「神通之力は用の三身」とあります通り〝神通力〟を備えるのは用の三身の方です。
曼荼羅本尊(縁因仏性)を対境として(縁)
勤行(法華経の読誦=了因仏性)
唱題行(南無妙法蓮華経=正因仏性)
で縁起を起こします。(凡夫の体の三身)
曼荼羅本尊(応身如来)
勤行(報身如来)
唱題行(法身如来)
『法華経』では十如是を更に詳しく三周の説法として説かれております。
三周の説法の意味するところは、三乗の智慧です。
https://zawazawa.jp/yuyusiki/topic/20
法介 259e67dbae 2023/09/20 (水) 16:06:24
法説周では「法」としての正因が説かれ、譬喩周では「仏の智慧」としての了因が説かれております。
そして最後にお釈迦さまと声聞の弟子達との「縁因」が因縁説周として語られて『妙法蓮華経』の五仏性の中の「三因仏性」が明かされております。
<三因仏性>
正因仏性=法説周
了因仏性=譬喩周
縁因仏性=因縁説周
果報としての果徳の〝果〟である「因果」が
明確に示されているのがこの「三周の説法」です。
おはよ〜〜〜ん
😄😄😄😄😄😄😄😄😄😄
三乗が修行し習得した覚りは(蔵教・通教・別教)
『妙法蓮華経』です。
円教に至ってです。
体の仏が「南無妙法蓮華経」で
用の仏が「妙法蓮華経」だという意味が。
生死一大事血脈抄 文永九年二月十一日 五十一歳御作
与最蓮房日浄
日蓮記之
御状委細披見せしめ候い畢んぬ、夫れ生死一大事血脈とは所謂妙法蓮華経是なり、其の故は釈迦多宝の二仏宝塔の中にして上行菩薩に譲り給いて此の妙法蓮華経の五字過去遠遠劫より已来寸時も離れざる血脈なり、妙は死法は生なり此の生死の二法が十界の当体なり又此れを当体蓮華とも云うなり、天台云く「当に知るべし依正の因果は悉く是れ蓮華の法なり」と云云此の釈に依正と云うは生死なり生死之有れば因果又蓮華の法なる事明けし、伝教大師云く「生死の二法は一心の妙用・有無の二道は本覚の真徳」と文、天地・陰陽・日月・五星・地獄・乃至仏果・生死の二法に非ずと云うことなし、是くの如く生死も唯妙法蓮華経の生死なり、天台の止観に云く「起は是れ法性の起・滅は是れ法性の滅」云云、釈迦多宝の二仏も生死の二法なり、然れば久遠実成の釈尊と皆成仏道の法華経と我等衆生との三つ全く差別無しと解りて妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり、此の事但日蓮が弟子檀那等の肝要なり法華経を持つとは是なり、所詮臨終只今にありと解りて信心を致して南無妙法蓮華経と唱うる人を「是人命終為千仏授手・令不恐怖不堕悪趣」と説かれて候、悦ばしい哉一仏二仏に非ず百仏二百仏に非ず千仏まで来迎し手を取り給はん事・歓喜の感涙押え難し、法華不信の者は「其人命終入阿鼻獄」と説かれたれば・定めて獄卒迎えに来つて手をや取り候はんずらん浅猨浅猨、十王は裁断し倶生神は呵責せんか。
総じて日蓮が弟子檀那等・自他彼此の心なく水魚の思を成して異体同心にして南無妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり、然も今日蓮が弘通する処の所詮是なり、若し然らば広宣流布の大願も叶うべき者か、剰え日蓮が弟子の中に異体異心の者之有れば例せば城者として城を破るが如し、日本国の一切衆生に法華経を信ぜしめて仏に成る血脈を継がしめんとするに・還つて日蓮を種種の難に合せ結句此の島まで流罪す、而るに貴辺・日蓮に随順し又難に値い給う事・心中思い遣られて痛しく候ぞ、金は大火にも焼けず大水にも漂わず朽ちず・鉄は水火共に堪えず・賢人は金の如く愚人は鉄の如し・貴辺豈真金に非ずや・法華経の金を持つ故か、経に云く「衆山の中に須弥山為第一・此の法華経も亦復是くの如し」又云く「火も焼くこと能わず水も漂わすこと能わず」云云、過去の宿縁追い来つて今度日蓮が弟子と成り給うか・釈迦多宝こそ御存知候らめ、「在在諸仏土常与師倶生」よも虚事候はじ。
文永九年壬申二月十一日 桑門 日 蓮 花押
最蓮房上人御返事
仏は一大事の因縁で世に出現します。
仏の法を三乗に開いて示し、それを悟らせ真如の世界へ入らせるという「開示悟入」の因縁です。
妙は死=仏
法は生=凡夫
生死の二法=仏+凡夫(当体蓮華)
色々と手配せないかんけん
中断。
リダン
おは〜
😄
でおさんおは〜
おはよー
ムイムイの哀れなレスみた功徳で
今朝修行ネタがてきたわ
😄
愛が重い〜
カムイさんはそっとしたれ〜
ムイムイが過剰反応しとるだけや
😄
ムイムイには修行頑張ってもらわんとな〜
悟ったらしいしな
😄
こっちに
リダンにレス返すか?
それは
禅の修行とは
関係がないのが
ここのスレだからである
😄
ヘビだと思ったら、
実は縄だった
ていうのがある、
それや
😄
😄
ムイムイは
縄をヘビだ、ヘビだと
大騒ぎしとるわけやな、
禅の立ち位置だと
そんな説明しないし、
ムイムイ以外にマジレスする価値がない、
もったいない、時間の無駄
😄
アホらしいしので
😄
リダンがこれを
用いて
イロイロやれたら
少しは見直してやるが
まー無理だ
😄
いやあんたが縄なら縄っていうてるやんw
カムイさんにドンちゃんドンちゃんうるせぇやん
そっとしてへんやん
はたからみても分かるわ
目の前で人がひかれても念仏とかお題目唱えてそう
その意味が解るか?
カムイや鹿野園が良く言う
対象と一体化する無分別
「自身が灯火そのものになるんです」とかね
縄を蛇だー!
と騒いでる様子
間違った認識ね。
自身が仏の意識と一体となると
それまで凡夫の意識で捉えていた対象が
仏の認識で観えて来る。
仏の認識=縁起
そのモノが
そのモノと成り得た縁起(此縁性縁起)で捉えて始めて
そのモノの真実の姿を覚り得ます。
中野禅塾いって
正しい禅を学んできなよ
常に
どんな相手であろうとも
相手の意見には耳を傾ける姿勢をとる。
それが
出来てるか?
ふぉふぉふぉふぉふぉ
by 柳生石舟斎
言うことでも
ちゃんと受け止めるぞ
一人親方の
俺様気質さ
ここに居ちゃいけないのか?
人間ちっちゃくねーか
よう!
そこの馬に言ってんだよ^^
ニートのことをやたら小馬鹿にしている奴が居るようだが
ニートだって一生懸命生きてんだよ
おまえの価値観で決めつけてんじゃねーよ
竹原(ピストル)の心の叫び
お前の心には響かないのか
自我意識の固まりだけに
も一つ言っとこ
わたしが方便解脱の喩え話(部屋に置かれてあったテーブル)をした時
wを入れて笑ってたよな
不思議な現象が
前五識の認識の中で起こるという事
以前に話した時も
おまえはwを付けて
そんなの普通にありますよーw
ってあざけ笑ってたよな
wで笑ってんだ
二度も
おまえ
キツネとお話した経験
ふつーにあるのか?
キツネと
お話されているのか?
犬に仏性があります
だとぉ
証明してみ
経験されてるんだよな
リダン
成仏するか
ふつーに説明してみ
犬が成仏したのを
モルモットだった
娘と一緒に飼ってたモルモットのモコちゃんの話
成仏して亡くなった人は
死後硬直が起きない
わたしが仏壇の前に寝かせて
ずーとお題目を唱えて
ふにゃふにゃに柔らかくなった話
しただろ
モコちゃんは成仏したんだよ
みなさんふつーにしてるのか?
自我意識バリバリなんだよ
決めつけて
w入れてんじゃないよ
ガキなんだよ
知らないのか?
勝手にw付けて
相手の事をあざけ笑ってんじゃないよ
笑ってるおまえが
実は笑える対象なんだぜ
wなんていつの時代の表現
未だに使ってるんだ
よう、そこの時代に取り残された
ダサダサのおまえ
いい加減そんなありきたりな表現すてて
かッ飛んだいかした
何かを魅せてくれよ
だいぶ違いますねw
そう言われると何かリリックっぽい
大乗の醍醐味ですな
大乗と一括りにしたらあかんか
お題目の醍醐味
実はよく知らない
知らないくせに
知ったつもりでいる様子を
「君リリックだね」と
呼ぶ事にしよう
リリクってんじゃねーよ!
とか
https://precious.jp/articles/-/39558
↑こういう意味みたいだけど
しまった!
酢豚のニンジン
揚げ過ぎたぁ~~~~~!
カリカリ
「何、このニンジン、、、」
って言われたら、
文句はリダンに言ってくれと言うしかない。
カチカチだぞ
わんばんこ〜〜〜
😄😄😄😄😄😄😄
成仏するでしょう。
向こうの連中に
投げかけてきてみ
概ね予想はつく
一緒に仏に成ります
って感じだろ
本当の仏教観は
そうではない
解るか
「仏に成る」
リダンへの
大説法
お見事です〜
やはり
他人のせいにするより
法華経の行者を
歩む
ほーかいくん御館様は
リダン、ムイムイと違って
修行してますな〜
😄😄😄😄😄😄😄😄
石って墓石屋さんから見たら「材料」
漬物屋さんから見たら「道具」
実体(勝手な定義)として認識しているのは自分
その心は?
https://img07.shop-pro.jp/PA01330/668/product/102886019.jpg?cmsp_timestamp=20160602090730
毎日手を合わせて拝んでいるいる人は、
ん?俺の答えでよくない?
「月こそこ心 花こそ心」
と言われたのは、全ては自身の心が造り出すモノ
という意味。
そういう意味でいった言葉なら
正解!
石に曼荼羅を刻むのほう
ヽ(`▽´)/わーい
「石に曼荼羅を刻む」とか
言ってた?
見落としてた
あった
花丸をあげましょう。
これ↑って状態を言いあらわしている訳ね
言ってみ
「対象を仏として認識する」
これ↑これを何と言うかいってみ
そう読むのねwww
今一
此縁性縁起を空じている訳ね
だから「析空」
空じている訳で
これは体空。
無心で
ただ仏様の心で満たされてます。
心の変化で起こる空
道具とみるのも
仏とみるのも
その人の心
馬鳴菩薩が顕した大乗起信論ね。
観法によって仏を観じとっていく
仏の心は観じとれない
雖有正因熏習之力。若不値遇諸佛菩薩善知識等以之爲縁。
能自斷煩惱入涅槃者。則無是處。若雖有外縁之力。
而内淨法未有熏習力者。亦不能究竟厭生死苦樂求涅槃。
「之を以て縁と為さざれば」
之を以て縁としなければ、涅槃に入る者は居ないと。
浄法とは此縁性縁起と相依性縁起の二つの縁起。これが熏習されていなければ
生死の苦しみ、また涅槃(覚り)をもって楽を得ることもない。
「三世の諸仏は此れを一大事の因縁と思食して世間に出現し給えり一とは中道なり法華なり大とは空諦なり華厳なり事とは仮諦なり・阿含・方等・般若なり已上一代の総の三諦なり、之を悟り知る時仏果を成ずるが故に出世の本懐成仏の直道なり因とは一切衆生の身中に総の三諦有つて常住不変なり此れを総じて因と云うなり縁とは三因仏性は有りと雖も善知識の縁に値わざれば悟らず知らず顕れず善知識の縁に値えば必ず顕るるが故に縁と云うなり」
力士見已心懷驚怪生奇特想善男子。一切衆生亦復如是。
不能親近善知識故。雖有佛性皆不能見。
お題目の法力について
リダンに
向かってお語りにならなかったのか〜
残念っ!
😄
乗っ取りつぶして
ゴキゲンだった
ほんと
どーしよーもない
ヤツだ
😫
じゃあ、でおーが
語ってくれ
じゃあ、でおーが
語りんしゃい
こうしてみると
おもしろい方言やな
シャンプーみたいやな
チャンリンシャン
https://youtu.be/QJlI2nsITB0
標準語:きちんとしなさい
標準語:あなたは馬鹿ですか?
機関車がバカカーって音たてて走りようごたぁね
え?
どこのお父さんですか?
もしかして
博多弁?
あだなが
ほげる、もげる、しげる君やった
分かります
ネジがほげるだったかナメるだったか
方言?
は
お題目は
日蓮宗寺院にしろ
創価にしろ、
黄緑色の
光明感覚を
皮膚と香りから感じるのだよ
😄
日蓮系統=黄緑色の光明
である
いつも
😄
わからーん
😄
日蓮著作や
日蓮宗動画でも
黄緑色を感知できる
😄
あるかもね
まあーまあーイケルが
ハイテンションでないほーが
いい気分かも
とは
思う
😄
もう寝る
あんたもはよねりんしゃい!
黄緑色だな
😄
😄
>>208 ←こんな事を言っていた。
「まず成仏が分からんな」
「成仏にはあまり関心が無い」
みたいな事を言っていた。
こんな事をよく言っている
「人間はもともと仏である」
「成仏」って
どういう認識のされ方をしているのだろう。
https://www.driveplaza.com/trip/michinohosomichi/ver102/03.html
こういうこと↑とか思ってたりします?
またの名を弘法大師。
真言宗の開祖。
じょーぶつ
😄
こういう事であると
空海さんは覚りました。
真言密教です。
真言宗は「成仏」を勘違いしております。
「人間はもとから仏である」
という人もいる。
道元は、京都の貴族の名門に生まれたが、幼くして両親を失いました。世の無常を感じ取った道元は、十四歳にして比叡山に入り出家。しかし一つの疑問に逢着します。仏教では「人間はもともと仏性を持ち、そのままで仏である」と説かれているのに、なぜわざわざ修行して悟りを求めなければならないのか? 比叡山では解決を得られなかった道元は、山を下り禅の本場である宋に渡りました。そこでも迷い続けた道元でしたが、最後に出会った如浄禅師の下で参禅中に頓悟。「仏性をもっているのになぜ修行せねばならないのか」という自身の発問の仕方自体がおかしかったことに気づきます。その問いは実はあべこべであり、真実は「われわれは仏だからこそ修行ができる」だった……そう悟ったのです。
が多発した大元に
馬鳴菩薩が顕した『大乗起信論』がある。
ほーかいくん御館様〜〜
😫😄😄😄😄
他の宗派の違いは
唯識の
ただ識のみを
禅は選択しなかった
たの宗派は
それを拡大解釈していった
そこだ
😄
テーラーワーダの瞑想法の改変板とみている
他は唯識のめの改変版、
禅は
黄緑色の光明みたいな感覚は重視しない、
他は何らかの光明感覚を重視する
それは
唯識の
ただ識のみ
という
仏の四智の
感覚を光明と
解釈拡大していったとみている
😄
という言い方は、
間違ってそう解釈していった
という意味に受け止められるが
でおーは
禅宗の解釈が正しかったと
主張している訳か?
この光明感覚を取るか無視するかの
ヨルカの最初の聖者のゾーンがあり、
そこのスタート地点正滅智で
光明感覚が出てくる
むろん、オレちゃまはヨルカである
😄
テーラーワーダは
その光明感覚を捨てるのを良しとする
禅も、その選択
他は、その光明感覚を選択して
法華経に表現される
久遠実成の釈迦如来の肌から光明を皮膚から出る感覚の瞑想があるということを
表している、
滅多にマジレスしないが
サービスしておこう
😄
信じる信じないではなく、
瞑想の体験の理解からである、
日蓮の知的な経典理解の
取捨選択判断力ではない
😄
でおーは
テーラワーダ派って理解で
宜しいでしょうか。
それはそれで宜しいのではないでしょうか。
何を信じるかは個人の自由ですから。
という事は理解しました。
わたしはそうではありません。
天台および日蓮教学です。
ご自分のスレでその自身が信じる教えを
詳しく語られたら宜しいのではないでしょうか。
わたしが自身の信ずる教えを
みなさんに紹介しております。
そういったでおーの自身の信じる教えの
ゴリ押しをいきなりされて来られても
わたしとしましては
ただ迷惑でしかありません。
法華経の久遠実成の釈迦如来の光明の感覚をベースにレスしている
むろん体験の上の話、
成仏をやっての話を
信じるのではない体感するだ
オレは瞑想は細かくやったのは
天台小止観
だせ〜
ほーかいくんの脳内てはついていけまい、
ゼンちゃまみたいな
ヒンズーがらみの
よーわけのわからん連中としかレスしてないし、
ほーかいくんとマジレスしてたのは掲示板では変なのだけだしな〜
😄
法華経の久遠身成の釈迦如来の光明を
瞑想的に解説できるの
日本ては
ほとんどいるまい〜
😄😄😄😄😄😫
知らない世界の体感の話だ
日蓮系統の
黄緑色の光明感覚の解説で
テーラーワーダあたりの体感体験の説明を
引用しているだけ
😄
>瞑想的に解説できるの
じゃあでおーに時間をあげるから
今からそれを語ってくれ。
当然
光明感覚はある
日蓮系統とはちがうけどね〜
2004年ぐらいには
その感覚知ってます
光明感覚では
一番古いですな〜
😄😄😄😄😄😄😄
いま説明してますよ
ほーかいくんは
テーラーワーダの主張していると
読んでくれませんし
😄
具体的に
グイグイと
テーラーワーダの修行プロセスからの体感からの
説明
リダンにすら
マジレスしないのを
😄
何を体感した?
それを感じると
何がどうなるんだ?
ページ数は
限りあります、やることやったら
終わりです
😄
滅多にマジレスしないですよ
僕は
サービスは終えたよ
そこから向こうは
八宗綱要とかで設定している
または天台教義学で設定している空間認識の問題、
こっからは
ほーかいくんの関心がなければ
レスする気ないですよ
なさそー感がありますので
😄
滅多にしない
開示悟入〜
😄
席を立つ人には聞くことがない
😄
↓
>>347
久遠実成の釈迦如来が
法華経の説法してますやん
その読解力を
光明の理解に試されてますな
😄
わたしは、話をまず聞いて
それを理解し
それからそれを用いるか否かを判断します。
毎日よんでみ
日蓮だらけの
久遠実成釈迦如来の光明、法華経知らずの自覚ができるはずだ
😄
>法華経の説法してますやん
虚空絵の儀式ね
どこでそれを読めるんだ?
法華経の久遠実成の釈迦如来が光明を放つ部分を
精読しない
ところ
そこ関心なさげー
というイメージを
いつも持ちます
😄
でおーが
語ってみ
手っ取り早い
知っているんだろ
聞きたい!
今からでおー様の
めったに聞けない説法が始まるよ~~~~!
って。
最初ですら
その光明の解説が行われてますよ
法華経読んでみて!
久遠実成釈迦如来の光明の解説してますよ
日蓮系譜の盲点ですよ
日蓮宗の方は
荒行みたいな方での鬼子母神の超能力志向やしな
😄
サービスタイムは終わりだ
法華経の久遠実成釈迦如来の光明のくだりを
マジメに
読んでみてね
オレ大好きだぞ
気分が快楽に包まれるで
😄
😄
えええええええ!
今、宣伝しているところなのに~~~~~~!
で
皮膚に黄緑色の光明が周囲に舞ってるわ
😄
>最初ですら
>その光明の解説が行われてますよ
どこで、どんなふうに?
じっくり
聞かせてください。
日頃の研究の
発表をなされてください。
ワクワク
でーお!
でーお!
でーお!
でおさんの説法が聞けるときいて
来ました
しかし光に色とかあるかな?
ただただ真っ白にアホほど眩しいだけしか分からん
あああああああ!
しまったぁ~~~~~~!
誤爆を
連続投下してもうた~~~!
法介さんおはようございます☀
ちょい顔出せ!
謝るから(←めっちゃ自分本位な俺)
ちょい待ってて
朝飯くらってくるからー
予習をしておきましょう。
>法華経前の経典とか
>最初ですら
>その光明の解説が行われてますよ
とは、『法華経』序品第一の事でしょう。
色はともかく
その光明と一如になるということやね
なるほどねスルーし続けてたら
毎回出現しても秒で消えちゃうようになってしまったから難しいな
が、しかし
皆に一つの疑問が沸き上がりました。
「なぜにこのような不思議な現象を
お釈迦さまは私たちに見せつけるのか?」
「皆さん。
私が推察するに、
今からお釈迦さまは、これまでと違った大切な教えをお説きになられるのです。」
それって、凄くね!」
物凄く凄いことなんです!」
凄い話なんです!」
文殊菩薩が答えるまでの間の
弥勒菩薩の文殊菩薩にたいする期待のハードルの上げ方に笑った
ですからお釈迦さまはみんなを物凄く驚かせてやろうと
思いっきりありえない光彩を放ったのです。
わたしは知りません。
「今、釈尊は、偉大な法を説き、偉大な法の雨を降らし、偉大な法の貝を吹き、偉大な法の太鼓を撃ちならし、偉大な法の意義を述べようとされているのであろう。過去の仏にもこのようなことがありました。今、釈尊もまた、世間のすべての人々に、この信じがたい法を、あらゆる衆生に聞いて知ることができるようにさせたいと思うゆえに、このような不思議な現象を現したのでしょう。」
「ここで一つ、昔話をしましょう。」
https://youtu.be/reCVRVRDTn0
釈迦如来のみ信じてこそそれ意味あるんだわ
大日如来がー、阿弥陀仏がー、魔改造がーって設定チャンポンしてたら
ただの妄想、ここ大事、妄想
でおー。
存分に語ってください!」
そんな二人の関係があったのね。
https://youtu.be/AiQbE0LeRLU
信仰のロジックを理解してないから
設定だけで楽しんでるんよね
チャンポンするってことは
リダンになんな理解されたら
キモチワルイ
🙋
理解されたら
キモチワルくなる
🙋
は、なっとくう~~~~!
ようはテーラワーダ方式実況で
でおさんを見ると
信仰の人ではないくせに
各宗教、宗派の感応遊びで
それぞれにマウントするのが
生き甲斐なんだろうな
https://youtu.be/XTiVmnVezAQ
そっとしておこう
それが優しさってもんだろ
それで
宜しいのではないでしょうか
リダン反抗期頑張ってるな〜
ほっといて
坐禅しよー
ニートリダンみたいな
三毒ライフマシーン相手してられんからな〜
🙋
仕事いくべ〜
🙋
図星すぎやろ
相手の価値観上で諭す
これが対機説法や
でおさん対機説法を間違えて使ってるわ
「過去に日月燈明仏(にちがつとうみょうぶつ)という仏様がご出現されました。当時の人もみんなそれぞれ、悩み・苦しみを抱えていました。それから幾千もの歳月が流れ、次にまた、同じ名前の仏様が現れ、二万回ずっと日月燈明仏がご出現されました。最後にご出現された時、無量義経を説かれ、今と同じような光景を私は目にしました。」
めっちゃ重要!
こちら↑ではその部分をこのように解説しております。
「みなさん、かつて計り知れないほど昔に、日月灯明如来(にちがつとうみょうにょらい/the Buddha Sun Moon Bright)という仏がが現われました。正しい法を説くのに、 意味するところは深く、言葉は絶妙でありました。声聞たちには 四諦と縁起の法を説いて、 生・老・病・死を通して悟りを得、、菩薩たちには六波羅蜜 を説き、阿耨多羅三藐三菩提の最高の悟りを得たのです。次に仏がまた現れます。名前を日月灯明というのです。次に仏がまた現れます。名前を日月灯明という。このように、同じ名前で2万の日月灯明が 現われたのです。このようにして最後に現われた日月灯明如来が、同じような現象を現したのです。
菩薩たちのなかに、妙光という菩薩がいまして、妙光菩薩には800の弟子がいました。その時、日月灯明如来は瞑想から 立ち上がって、『妙法蓮華経』という経を説いたのです。それは六十中劫(small kalpas)という きわめて長い時間をかけて 説かれたものなのです。その間、食事をするほどの短い時に感ぜられ、身体を動かしたり気がゆるんだりしたものは誰一人いませんでした。 こうして説き終わると、日月灯明如来はこう言われます。 『今日夜半、わたしは入滅する』 と。
そして、徳蔵菩薩に浄身如来となるであろうと授記してから、入滅したのです。
日月灯明如来の入滅ののち、妙光菩薩は妙法蓮華経を保持し、八十中劫という長い長い時のあいだ、人々のために説きました。妙光菩薩の 800人の弟子たちのなかに、求名(ぐみょう)と呼ばれるものが いました。名利を求め、名声を博したいと願っていたのですが、経を読んでも理解できず、すぐ忘れてしまうのです。しかし求名は一念発起 して善行を積み、諸仏に仕え敬い礼拝しつづけたのです。弥勒よ、その時の妙光菩薩は、誰あろう他ならぬこのわたしです。そして あの怠け者の求名菩薩は、あなただったのです。今、仏が照らし出されたこの不思議の現象は、あのとき起こったことと同じです。このような訳で、きっと釈尊はこれから大いなる 『妙法蓮華経』を説こうとしている、と私は思うのです」と。
https://buddha.pink/sutra/126/
このように紹介されておられます。
過去の仏、日月燈明(にちがつとうみょう)のときには、
説かれた法をたよりにする修行僧(声聞)には、
「苦を脱する四つの真理の四諦(したい)を説きました。」
縁起の法則を頼りにする修行僧(縁覚)には、
「十二因縁を説き示しました。」
菩薩の道を求める修行者(菩薩)には、
「布施・智慧などの六波羅蜜を説きました。」
お釈迦さまが初めて説かれた教えではないんです。
何度も繰り返し
法輪されてきた教えなのです。
弥勒や文殊は
言わずと知れた菩薩です。
今、天界の住民になっております。
暴露しております。
休憩~
いてら〜
『兄弟抄』だ。
次に、別して法華経の経文についてみるならば、一切経より勝れた二十の大事の法門がある。そのなかで、第一、第二の大事は三千塵点劫、五百塵点劫という二つの法門である。その三千塵点劫という法門は第三の巻・化城喩品というところに出ている。この三千大千世界をすりつぶして微塵となし、東の方に向かって、千の三千大千世界を過ぎてその一つの塵を落とし、また千の三千大千世界を過ぎて一つの塵を落とし、このようにして三千大千世界の塵をことごとく落とし果たした。さて、その後、塵を落とした三千大千世界と、落とさない三千大千世界とを一緒に束ねてまた塵となし、この諸の塵をもって並べて一塵を一劫として経尽くしては、また同じように始め、終わればまた始めるというように劫をかさねていき、このようにして以上の無数の塵の数だけの劫を尽くしたとき、これを三千塵点劫というのである。今、三周の声聞といって舎利弗・迦葉・阿難・羅睺羅などという人々は、過去遠々劫の三千塵点劫のその昔に大通智勝仏という仏の第十六番目の王子である菩薩がおられた。三周の声聞たちはその菩薩より法華経を習ったのであるが、途中、悪縁にだまされて法華経を捨てる心を起こしてしまった。このようにしてあるいは華厳経へ堕ち、あるいは般若経へ堕ち、あるいは大集経へ堕ち、あるいは涅槃経へ堕ち、あるいは大日経、あるいは深密経、あるいは観無量寿経へ堕ち、あるいは阿含小乗経へ堕ちなどしているうちに次第に堕ちていって、のちには人界・天界の善根におち、さらには、地獄・餓鬼・畜生・修羅の四悪趣に堕ちてしまったのである。このようにして堕ちていくうちに、三千塵点劫の間、多くは無間地獄に生じ、少しは他の七大地獄に生じ、ときたまは一百余の地獄、まれには餓鬼・畜生・修羅などに生まれ、大塵点劫などの長い期間を経て、また人界・天界に生まれたのである。
この文章から解る事は?
そこのリダン君。
答えてみて下さい。
後半部に着目!
離席中w
リダンは
法華経よりも
反抗期
😫
https://youtu.be/Kz03hgRSp1A
リダン情緒不安定だよ
一番がローラー
次にリダン
次にウマ
ほーかいくん御館様は
お題目の勤行で
調整できる
😄😄😄😄😄😄
↑
天才日蓮によるお題目というシステム化
を充分に享受できたなら
次は上記を探求しにいこうという
お誘いは理解できる
また離席
リダンが情緒不安定?
いや
お前だろってリダンは言うだろう。
正常に
レスしたの
えらいぞ
リダン
反抗期を自覚して
冷静になれたな
😄
でおー
答えてみ >>450
三色の光彩が放たれている。
見えてるか?
295.
ユーザー
麦◆MUGITANx95Dj
nKk0O(1/2)
∞ノノハ∞
川^〇^ハレ日蓮さんはもちろん光明は分かっていたと思いますよ
曼荼羅で見宝塔品第十一を表現されて
南無妙法蓮華経からの光明点が天界から地獄界まで四方八方照らしていますもんね
お題目は
通称
ヒゲ題目とよばれ
その由来はわかるか?
😄
続きは後程~
曼荼羅のヒゲのように伸びた文字だろ。
四方に妙法の光彩が放たれる様を表現。
そうだ
その解釈を法華経から
ひらうべきだな
😄
帰って来たらひらってあげるよ。
説法しててもええよ
発想とは
違いだ
そのヒゲ題目の光明を
瞑想的に理解すると
テーラーワーダの瞑想からも
引用できる
それをしただけてあり
テーラーワーダの信仰を主張したとかいう話ではない、
単に法華経の久遠実成釈迦如来の光明とは、
のお題の上での
レスである
シカじゃあるまいし〜
😄
テーラワーダ方式をツールとして
使ったちゅうわけだな
>テーラーワーダの信仰を主張したとかいう話ではない、
>>477
リダン、通訳ありがとう。
そういう事ね。
でおー、誤解して悪かった。
法華経化城喩品第七で説かれている
三千塵点劫の大通智勝仏による結縁の話。
お釈迦さま以前に三千塵点劫で
大通智勝仏が説く『法華経』に縁していたお話。
これがお釈迦さまの前世。(第十六番目の王子)
三周の声聞たちはその菩薩より法華経を習ったが、途中、悪縁にだまされて法華経を捨てる心を起こしてしまった。
薬王菩薩が遠い過去に
日月浄明徳仏から『法華経』を習った事が説かれてます。
六趣の衆生、すなわち地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天 にいる人々
当然、声聞衆・縁覚衆・菩薩衆もそこには参列しております。
天上界の菩薩衆は、>>484 で天上界に転生したメンバー。
実体として顕れます。
各々の姿が顕れます。
その姿が照らし出されます。
『法華経』に縁して仏道の道に励んで来た者達です。
その因果が、日月浄明徳仏との結縁であったり、日月燈明仏との結縁によって
照らし出されます。
何か言う事があったら
どうぞー
スマホのブラウザーで対象の番組を開いて
そのurlをコピペすれば?
法華太鼓たたくんやろか?
https://m.youtube.com/watch?v=obi8p8mUMzg
https://m.youtube.com/watch?v=j12Vjj-CEXc
もしかして
お初かな?
中々おもしろい事言ってますね
今見ております。
大変共感する言葉です。
いいねー
スマホとインターネットの出現を予言した
https://m.youtube.com/watch?v=KaoybwnoXU0
今の自分に決して満足するな
常に己の未熟な価値観と概念を
必死こいて上書きし続けろ
それが精進と言うものだ
by 法介
いいねー
集団の中に身を置けば
安全に楽しく生きて行ける。
しかし、それは同時に
自由を手放して鎖に繋がれて
奴隷となって働きながら生きて行く
囚われた囚人となんら変わりない。
ルールや規則?
そんなものは集団で生きて行く奴らの為にあるもの
俺は俺の生きたいように生きて行く。
しかし、それは
全責任を自分一人で背負い込む
過酷でハードな人生さ。
その緊張感が
たまらなく心地よく感じ出したら
お前も本当の自分を
生きていけるさ。
by 法介
まさにその通り。
わたしはいつだって刺激を求めて生きてきました。
感性を刺激する(法介伝)
https://ameblo.jp/bison-jp/theme-10003220100.html
ある時私は思った。お風呂に電球を入れて潜ったらもっと感動を味わえるのではないか? と。
しかし、ちょっと待て・・・
水は電気を通すって学校の理科の時間に習ったぞ。
私は、もしもの事を考えてまず、洗面器にお湯をくみ、そこに裸電球を入れて右手を突っ込んでみた。
すると、
100ボルトの電流が肩まで走り、
電流に完全に腕を押さえ込まれて
手を抜くにもなかなか抜けなかった。
神経が電流で麻痺して腕が動かなかったのであろう。
マジ、死ぬかと思った・・・
試しておいて良かったです。
※ 良い子は決して真似しないように。
https://www.youtube.com/shorts/8npQPqbRhck?feature=share
今は、孫に色んな刺激を与えてます。
https://youtu.be/IvX3CHwycgc
外国の人達から一杯注意されました。
でもみんな「いいね!」を押していってくれてます。
どういうこと?
https://youtu.be/Chx3rc4Ibp0
車じゃなくて
わたしのことです。
また作業が増えた。
https://pbs.twimg.com/media/DDa-8LpUMAIvm6I?format=jpg&name=900x900
わたしもあります!
いいねー
喜怒哀楽を炸裂させろ!
by 法介
仏教やね~
いいねー
ある日、息子が私に聞いていた。
「お父さん、偉い人ってどんな人?」
わたしは次のように答えた。
自分のあたえられた役を一生懸命に生きている人さ。」
どれが一番偉いとかはない。
どれも皆、大事な部位である。
一生懸命に演じる事さ。
俺は俺を生き抜くだけだよ。
俺は俺
I sm I
ニコラ・ラニーニなら知っていた。
わたしの小説に出て来る人物だからだ。
わたしが造ったキャラだ。
https://livedoor.blogimg.jp/wild_bison/imgs/a/5/a5b62dbe.jpg
ニコラはやっぱり
「天才」の異名なんだろう
二本目の動画は、また後でじっくり拝見させて頂きます。
絵上手いよね
でもなんか色彩がくらいね
法介さんもしかしたら色盲?
色盲まではいかないが
色弱。
御義口伝に云く皐諦女は本地は文殊菩薩なり、山海何かなる処にても法華経の行者を守護す可しと云う経文なり、九悪一善とて皐諦女をば一善と定めたり、十悪の煩悩の時は偸盗に皐諦女は当れり逆次に次第するなり云云。
https://plaza.rakuten.co.jp/mandara1000/diary/200704140000/
文殊師利菩薩は仏の滅後四百五十年まで此の土におはして大乗経を弘めさせ給ひ、其の後も香山・清涼山より度度来つて大僧等と成つて法を弘め、薬王菩薩は天台大師となり観世音は南岳大師と成り、弥勒菩薩は傅大士となれり
根拠となる文証が見当たらなかったのでしょう。
しかし、どう考えてもそうでしょうといった日蓮さんの想いは感じ取れますね。
呪術廻戦の作者も色弱
絵描きさんに限って苦労するよね
ヒゲ題目の放つ光彩に照らされて
自分の真実の姿が照らし顕れます。
「仏になる道は豈(あに)境智の二法にあらずや、されば境と云うは万法の体を云い智と云うは自体顕照の姿を云うなり、而るに境の淵ほとりなく・ふかき時は智慧の水ながるる事つつがなし、此の境智合しぬれば即身成仏するなり、法華以前の経は境智・各別にして而も権教方便なるが故に成仏せず、今法華経にして境智一如なる間・開示悟入の四仏知見をさとりて成仏するなり」
久遠実成の釈迦
即ち、仏という概念からも抜け出た「非空」で入る
真如の世界となります。
『起信論』で馬鳴菩薩が「本覚」と言った
「始覚」に対する「本覚」の覚りです。
虚空絵の様子(世界観)がまさにそれを描いております。
まず最初に国土を三度に渡って浄化します。
『法華経』見宝塔品第十一で説かれる「三変土田」です。
でおーに解るかな。
二回目は、心身から
一回目は、眉間の白豪から ---(肉体)
二回目は、心身から ---(心)
これは声聞の智慧です。
声聞の智慧で物質世界を空じ、
それが「三変土田」の意味するところです。
声聞の智慧
縁覚の智慧
菩薩の智慧
の三智をもって開かれる仏の智慧です。
全く読み取れなかったのが、法然さんや親鸞さんです。
そして法然さんも善導さんのこの教えに共感され、かくして日本の国中に、
「念仏を唱えれば極楽浄土にいってみんな幸せになれるんだ」
という安直な大乗仏教が一気に広まりました。
http://tobifudo.jp/newmon/name/9hon.html
https://kyonoreijo.sakura.ne.jp/lib/kg/libkg9hn.htm
4,四門の料簡
https://enkyo.blog.jp/archives/18903522.html
2,仏教の中にひそむ外道
https://enkyo.blog.jp/archives/18899233.html
略して同居土。迷いの凡夫と覚りを得た聖人とが、ともに存在する国土をいう。この国土の仏身は「劣応身」とされる。
略して方便土。見思惑を断じた声聞・縁覚の二乗が生まれ住む国土のこと。すなわち方便の教えを修行して、煩悩の一部を断ずる小乗経の聖者が住む国土をいう。阿羅漢・辟支仏(縁覚)のように方便道を修行して一切の煩悩を仮に断じたゆえに「方便」といい、いまだ元品の無明を断ずることができないゆえに「有余」という。この国土の仏身は「勝応身」とされる。
略して実報土。無明の煩悩を段々に断じて、まことの道理を得た菩薩の住む国土をいう。実報とは真実の仏道修行をすることの報いとして、必ず功徳が現れること。この土は他受用報身を教主とすることから受用土とも呼ばれる。この国土の仏身は「他受用身」。
本仏・円仏が住む国土。迹土に対して本土ともいう。『観無量寿経疏』に「常寂光とは、常は即ち法身、寂は即ち解脱、光は即ち般若、是の三点縦横、並別ならざるを、秘密蔵と名づく。」とある。法身・般若・解脱とは仏にそなわる三種の徳相のことで、法身とは仏が証得した真理、般若とは真理を覚る智慧、解脱とは生死の苦悩から根源的に解放された状態をいう。法身が法身如来、般若は報身如来、解脱は応身如来としてあらわれる。それが時系列的・並列的ではなく円融して不縦不横となる。この国土の仏身は「自受用身」。
【同居土】 蔵教=但空の理 (声聞)仮諦
【方便土】 通教=不但空の理(縁覚)空諦
【実報土】 別教=但中の理 (菩薩)中諦
【常寂光土】 円教=一念三千 (仏) 円融の三諦
【蔵の四門】
蔵の声聞
蔵の縁覚
蔵の菩薩
蔵教を説く劣応身
【通教の四門】
通教の声聞
通教の縁覚
通教の菩薩
通教を説く勝応身
【別教の四門】
別教の声聞
別教の縁覚
別教の菩薩
別教を説く他受用身
【円教の四門】
円教の声聞
円教の縁覚
円教の菩薩
円教を説く自受用身
すみません。
蔵教の〝教〟の字が抜けておりました。
〝〟で誇張している訳はお解りですね。
「有る無し」の析空観といく事です。
「始の三如是は本覚の如来なり、終の七如是と一体にして無二無別なれば本末究竟等とは申すなり、本と申すは仏性・末と申すは未顕の仏・九界の名なり究竟等と申すは妙覚究竟の如来と理即の凡夫なる我等と差別無きを究竟等とも平等大慧の法華経とも申すなり、始の三如是は本覚の如来なり」
本覚の如来=『法華経』本門で説き明かされる久遠実成の本覚の仏
信心で読み取らなければ覚り得ない
〝文底秘沈〟として説かれた
如来だけが知り得る
「如来秘密 神通之力」の大法です。
体が皆金色で、三十二相を具え、無量の光明を放っており
一人一人の菩薩は皆、それぞれが六万恒河沙等の眷属を率いていた。
従地涌出品 第十五で久遠より顕れた出でた「地涌の菩薩」達を本門の弟子と言います。
もとは中国天台宗から習い伝わった密教です。
「天台密教」なるジャンルは
存在しておりません。
決して「言葉」で表す事がなかった教えを密教といいます。
如来が秘して決して明かす事がなかった
『法華経』本門の文底秘沈の無為法がそれにあたります。
顕密二教判を立て、自宗が拠りどころとする大日経を大日法身が自受法楽のために内証秘密の境界を示し真実の秘法を説いた「密教」であるとし、他経を応身の釈尊が衆生の機根に応じて説いた「顕教」と下している。
空海が展開した真言密教である。
天台宗の天台密教、いわゆる台密である。
チベット仏教で説く「本覚思想」など
一切説いておりません。
仏教の本流から逸脱した傍流に過ぎません。
お釈迦さまから託されたのは
地涌の菩薩の棟梁である上行菩薩です。
なぜ此の文永十一年十二月に、御自身の本地顕発の御本尊(万年救護本尊)を御図顕なったかといふと、佐渡にお越しになるまでの「勧持品」の二十行の偈文の実行において、聖祖は上行菩薩の弘通における文証を実践せられた。ここにおいてか我れ使命を受けたる人として、三大秘法の中心たる本尊を顕はされ、また三秘建立をなされた。これ上行菩薩の弘通における理証を実践せられたものである。即ち上行菩薩でなくば悟り出し弘通することの出来ぬ理を悟り出し弘めはじめられたのである。けれどもまだ佐渡では現証が周備しない、自界叛逆難は当った。まぎれもなく当った。他国侵逼難も牒状は度々来たが、まだ実際は来なかった。然るに佐渡御赦免後、『ヨモ今年ハ過シ候ハジ』と仰せられた、その文永十一年十一月に蒙古は果して来たのである。その十二月十五日聖祖「顕立正意抄」を作って、「立正安国」の予言の符号を仰せられた。これ上行菩薩の弘通における現証を実現せられたものである、即ち霊的大威力者たる現証を完成せられたのである。こゝにおいてか聖祖御みづから此の御本尊を御認めになって、憚る所なく本地を御顕発になったのであると解して、非常に厳重なる御化導の隠顕進退が了られ得るのでありまする。(山川智応全集第四巻506~7頁)
「大覚世尊御入滅後二千二百二十余年を経歴す、爾りと雖も月漢日三ヶ国の間未だ此の大本尊有(ましまさ)ず、或は知って之を弘めず、或は之を知らず、我が慈父仏智以て之を隠し留め末代の為之を残し玉う、後五百歳の時上行菩薩世に出現して始めて之を弘宣す」
「後五百歳の時上行菩薩世に出現して始めて之を弘宣す」
仏部より天部・明王までが明記・勧請され、十界皆成の本仏の仏国土の意義を表しているので仏法守護の四天王が冥伏され、及び天界の悪道の第六天魔王以下地獄界までの衆生が、法華経宝塔品の三変土転の人天移さるるの意義に基づき冥伏されている。
又、日本守護の本化垂迹の天照・八幡の二神が「天照八幡等諸仏」と明記されその本地を示されている。
なお図顕讃文の意義も含む当大曼荼羅の示し書により、日蓮自身の上行自覚が示されている。
おはよ〜〜〜〜ん
😃😃😃😃😃😃😃
チャチャ入れたい欲求がてできたが
それは
やめとこ
😄
趣味でチャチャを入れられてもなー
趣味でやっているのなら
ここへの出入りは
ご遠慮願いたい。
真剣に意見して来てください。
チャチャを入れたくなる内容にしか聞こえていないのなら
もう止めようか?
あとはおまえが
語ってろ
日本における
密教は
なんだ?
ということだ
アキラーンには
ボコボコにレスするが
🙋
密教とは
現在高野山の奥の院においては
弘法大師と◯◯◯◯と◯◯◯◯がおられ
高野山における
元山伏寺院に残る神仏集合の神は
春日明神と◯◯◯◯と◯◯◯◯
がある
オブラートである
アキラーンなら剛速球だ
😄
素通りしやすいよーな
レスにしておいた
利口ならば
素通りが
正解だ
😄
勘違い密教だと言っているんだ。
アキラーンみたいに
詰む
😄
いいね〜
その素通り判断
いい
マジメに調べるな
◯◯◯◯の4つを
調べると詰むからな
いいよ
その判断
回避は
😄
詳しく説明してくれ。
はい論破
ということになる
調べずに
スルーは
とても賢い判断だ
😄
なんでも調べるというのは
信仰上、
よくない
😄
詳しく説明してくれ。
危険な
◯◯◯◯を
調べなくて
正解だ
👍
🙋
おまえも麦も鹿野園もそうだが
「論破」ってのは論理的に相手の論を破る事を言う。
信仰上で
知らなくても良い と
いうことがあるのは
確か
ギター侍のよーに
切腹っ!
になるからな〜
🙋
なに論破などと
おかしなことを言っているんだ?
詳しく説明してくれ。
一緒じゃないか
負けん気が強いだけ(自我な)
そーだ
俺の投げた
◯◯◯◯の
4つを検索しないのは
とても賢い安全策だ
🙋
よー似とるよ
それを
分析するために
上にあげた
◯◯◯◯を
調べてみればよい
オススメはしない
🙋
◯◯◯◯の
恐怖〜
今、日蓮が生きていたら
恐怖するだろうな
😄
◯◯◯◯◯◯法は
密教だな
😄
みたいで
かっこいいぞ
◯◯◯◯◯◯の
六文字の
調べないほーがいい、
日蓮の著作は自爆するよーな穴がある
あの時代だから
通用した
😄
それはそれで
かっこいいぞー!
みんなからそう見られたいんだよな
いや
◯◯◯◯の
4つは
ほーかいくんの拝んでいる
御本尊にありますもん、
俺だけとかいうじゃない
事実てすよ
密教テーマは
自爆しますね
具体的にレスはしないけど
◯◯◯◯で
終わられせます、
ほーかいくん御館様に
とても
忖度はしますから
😄
なんで
話さない
アキラーンには
優しくない
😄
それが
いい判断だ
😄
全て覚っているみたいで
すんごいですね~~~~~!
ほーかいくんのワールドを壊されなかったので
その通りである
😄
鹿野園みたい
ほーかいくんの知らない
日蓮の裏の姿を
知っている
不都合な真実があるのです、
当時の人々に気づかない
現在の情報化社会では
バレてしまうよーな
😄
優しい
とことん
追い詰めたいと
おもわない
シカではありませんので
そういう
大人である
😄
だったら、
いいんですけどね〜
😄
一人で楽しんでいるんだな
なるほどー
確認しようじゃないか
でおー!
ばーか!
https://youtu.be/Fih3itMXh7c
おまえがちゃんと説明しないのなら
もう終わりにする
やってられん
もしかして
物凄くレベルの低い勘違いをしているぞ
そっとしとこ
解ったぞ。
そっとしとこ
宜しいのではないでしょうか
スマンな
許せ^^
俺はしってるからな
ほーかいくんお好きな
( A )の穴埋め問題で
手厳しく
恐怖に落とし込むこともできるが
アキラーンならば、
もーやってちるやろな〜
( )に
A B C D
の4つの記号の部分の四文字をいれなさい
みたいな
問題、
リダンは
予想はてきないだろうな
やらないけど
😄
一部
高野山の奥の院には
仏像が配置され
中央には
弘法大師
を、中心に
左側には( A )
右側には( B )
なお日蓮の曼荼羅にはお題目の左右に
( A ) ( B )
がある
AとBに
四文字を
入れてください〜
怖い問題である
リダンは
調べそーう
😄
怖い事実があるので
日蓮と
密教は
テーマにしないほうが
カシコイ
😄
お〜
コワイ、コワイ
😄
ネット情報もない文化なので
問題は起きないが
ネット時代の
現在、検索がスイスイできるので
大変な時代である
😄
もし調べたら
なにを言いたいのか
理解するであろう
😄
てか法介さんスレ1あたりで
でおさんがすでに言及してなかったか?
内容は忘れたけど
現在においては
捨て置くべきテーマやろな
末法である以上
密教における救いはない、
ぐらいで
置いとけば
ヌマにハマらずに済む
😄
固執すると
日蓮系統は
ヌマる
😄
密教関連への
的確な対応、
末法なので用無し
触らぬ神に祟りなしで
無視スルー
が
信仰衛生上よろしーでしょうな
😄
神社行かないと
いう暗黙のルールがあったらしいが
暗黙のルールというのは
揉め事起こさない
利口な選択てはあるな
めんどくさいのは
日蓮著作でも一部スルーするという暗黙ルールは
あってもよいだろな
😄
性欲のタブーが聖書にあったので
過去のヨーロッパ社会では
マジメにやり過ぎて
オカシクなるとかあるらしい、
アメリカの現在ですら
結婚するまでセックスはしてはいけませんっ!
運動を自慢するキリスト教教会があるし、
結婚してもセックスは子作りの為のものであり
ペンディングはダメと
古い時代のキリスト教社会の思想を守る牧師の本を見て
ワロタ
😄
ほーかいくんへの
忖度、
シカではないのでな
😄
他者に
明け渡す
😄
それこそ
シカのやっていることと
大差ない、
礼儀は
必要である、
このスレ主への
😄
他者に
委ねるこそ
対話である
😄
ムイムイには礼儀無しかもな
リダン突っ込む〜
😄
でおーもさぞかし気持ちよく抜けたのではないでしょうか。
『真言見聞』の中で次のように申されてます。
金銀等の宝物が蔵に収まっていて見えないがいつでも取り出せるような「微密」と、
疵などの欠陥を隠す「隠密」とがあるとされ、
法華の密が「微密」であるのに対し、真言のそれは「隠密」であると断じられております。
すぐれた真理が含まれているが、それが深いため凡夫には捉えがたいのが「微密」。
真言経典は、大日如来がどこかの時点で〝始めて成った〟仏であって
それは始覚(始成正覚)の仏であって無始無終の義が欠けております。
「随って諸仏秘密の蔵を説けば子細なし」
と申されておられます。
異議を挟む余地はないという意味です。
文句なく明白であるにもかかわらず、
世間の人が真言密教は法華経に勝ると言っているのは
「いかやうに意得たるや」と嘆かれています。
現代語訳で紹介します。
次に釈迦は大日の化身であるとか、大日に唵字を教えられたからこそ仏に成ったのであるということは、ひとえに六波羅蜜経の説である。その六波羅蜜経一部十巻は釈迦が説いたものであり、大日の説いたものではない。これは未顕真実の権教である。したがって、成道の姿も三蔵教の教主の姿であり、六年の苦行の後の儀式である。
六波羅蜜経で説くところの五味を天台大師は盗み取って自宗の教えと立てたのである、という無実の言いがかりをつけたのは弘法大師の大なる心得違いである。なぜなら、天台大師は五味を涅槃経によって立てたのであり、全く六波羅蜜経にはよっていないからである。ましてや(六波羅蜜経は)天台大師死去の後、百九十年経った貞元四年に渡ってきた経である。どうして天台大師が見ることができようか。事実に反した過ちは弘法大師にあるのである。
総じて六波羅蜜経の説くところはみな未顕真実である。これをもって法華経を下すことは、はなはだいいかげんな考えである。
なおも難詰していう。何といおうとも、印・真言と三摩耶尊形を説くことにおいては、大日経ほど法華経にはこれを説いていない。そして事も理もともに秘密である点では真言の経だけが勝れているのである。
そのうえ真言の三部経は釈迦一代五時に属するものではない。それゆえ、弘法大師の秘蔵宝鑰には釈摩訶衍論を証拠として「法華経は無明の領域にある仏の教えであり、戯れの論を説いた法である」と釈しているのである。これらのことから、法華経は劣り真言経は勝れているというのである。
答える。そもそも印相や尊形は権経の説くところであって実教の述べるところではない。たとえこれを説いていたとしても、権教・実教、大乗・小乗の差別や浅深があるべきである。ゆえに阿含経等にも印相が説かれているのであるから、必ずしも法華経に印相や尊形を説くことができなくて説かなかったのではなく、説く必要がないので説かなかったのである。法華経はただ三世十方の仏の本意を説いているのであり、その形(印の形)がどうであるとかこうであるとかはいっていないのである。
例えば、世界建立の様相を説かないからといって、法華経は倶舎論よりも劣るなどとはいうことができないようなものである。
次に、事も理もともに秘密であるということについていえば、法華経は理が秘密であり、真言経は事も理もともに秘密であるので勝れるというのは、どの経に説いてあるのか。そもそも法華経の理が秘密であるというのは、どのようなことをいうのか。法華経の理とは法華経迹門で説く開権顕実の理のことか。もし、そうであれば、その理は真言経には領分を超えていて知ることのない理である。法華経の事とはまた、久遠実成の事である。この事もまた、真言経には説かれていない。真言経に説くところの事と理は未開会の権教の事と理である。どうして法華経に勝ることができようか。
法華経は理のみ秘密であるのに対し真言経典は理も事も俱に秘密であるので真言経は法華経に勝るという邪説を破られているところである。
この考え方は、理については法華・真言両経は同じで、印・真言などの事については真言経が勝れるという「理同事勝」として中国の善無畏らが唱えていたのと共通しており、弘法の真言宗(東密という)ではなく、慈覚や智証といった比叡山天台宗の密教(台密という)の説である。
しかしながら、本来、法華経を根本とした天台宗である慈覚たちが、このような「亊理俱密の故に真言の方が勝れる」と言ったことは、もともとの真言宗側からの見解以上に、真言の邪義を助ける力となっていたのである。
まず、大聖人は、亊理俱密であるから真言が法華に勝るというのはどの経に説かれているのか、と追及されている。確かな文証のないまま立てられたこの邪説の虚妄性を指摘されているのである。
次に、いったい法華経の理が秘密であるといっているが、その内容は何をさしているかと述べられ、法華経の理といえば迹門には開権顕実の理があるが、この理は真言が全く知らない理であると指摘されている。更に、事についても法華の事は仏が実は久遠において成仏していたという事であると仰せられ、これもまた真言には全くないことであると述べられている。台密の言う「事」は印や真言のことであるが、大聖人は、法華経には、そのような小手先の小さな「事」などよりずっと大きく根本的な「事」がある、という意味を込めて仰せられたのであろう。結論として、真言がいうところの事や理は未だ真実を開顕していない権教の事や理にすぎないのであるから、それがどうして法華に勝っているということができようか、と破られている。
法華経は七重あるいは八重に勝れ、大日経は七重、八重に劣っている。
と申されてここに紹介しきれない程に論破なされておられます。
http://blog.livedoor.jp/inae_sokagakkai/archives/cat_52638.html
不動明王と愛染明王の事でしょうが
問題外の話です。
おしえちゃらん^^
ぶち壊しちゃ
可哀そうだから
妙法を信じる気
ないやろ
〝信〟を持って智慧(覚り)を得る
なんだよ。
答える、このことは、重要なことであるので、経文と考え合わせ、必要な個所を取り出して、あなたに送る。
すなわち、五品のうち初品・第二品・第三品では、仏は紛れもなく戒と成という二つのものを制止して、修行の内容をひたすら慧も実践できなければ、信を慧の代わりとし、信という一字を究極としている。
不信は一闡堤や謗法の原因であるのに対し、信は慧の原因であり、名字即の位である。
天台大師は次のように述べている。「相似即の利益を得た場合、一度死んで次に生まれても忘れることはない。名字即や観行即の利益では、次に生まれた時に、忘れてしまうが、忘れない場合もある。忘れた者も、正しく導いてくれる者に遭遇すれば、過去世の善い行いが再び効力を発揮する。もし悪へと導く者に遭遇すれば、もともとあった善の心を失ってしまう」と。
はばかりながら、少し前の天台宗の慈覚大師円仁・智証大師円珍のお二人も、天台大師・伝教大師という正しく導いてくれる人に背いて、善無畏や不空などといった悪へと導く者に心が移ったのであろう。
釈尊の時代から遠く離れた現代の学者は、慧心僧都源信の『往生要集』の序分にたぶらかされて、もともとあった法華経を信じる心を失い、阿弥陀仏を信じる一時的な教えへと入っていく。「大乗から退き、小乗を取る」と言われる者たちであった。
過去世のことから推しはかると、未来には無量劫にわたって、三悪道に生まれることになるだろう。「もし悪へと導く者に遭遇すれば、もともとあった善の心をうしなってしまう」とは、このことである。
しおどきだな
ほーかいくんであった
ジ・エンド
😫
立てたスレだから
自分に向いてるか?
相手に向いてるうちは
外道と言ってな
仏教じゃないんだ
自分がどうあるかである
by 法介
川^〇^ハレとっと失せろウゼーwww
九州男児の恥さらしwww
アキラーみたいに
ダメダメになるけど
それでも〜
ほーかいくん御館様には
いてほしい〜
シカ&麦への抵抗の砦であってほしい
😄😄😄😄😄😄
鹿丸出しだな
ウザいと思うなら
関わらなければ良いだけの事。
自我が強い奴は、
それでは気が収まらない。
おまえみたいにな
解らん奴だなー
おまえに愛想尽かして
出て行くんだよ
言ったところで
意味ないけどな
でおーには
帰って来る言葉も
見当がつく。
おもろなー
つまらないものはない
意識な
間抜けな俺だ
意識は自分に向いている。
俺は仏道者だからな
シカなんかにまけるなっ!
ほーかいくん
😄
川^〇^ハレ傍目八目だよwww
自分では自分が見えないだろうwww
有り難く思えwww
叩かないと気が済まない
外道の性だな
鹿野園は仏教は
自分の心と向き合う世界だという事を
どうやら知らないらしい
負けてるのか?
知らなかった、、、
ユーザー
栖雲居士◆dqam8SqGUPdm
csTH0(3/3)
でおーや法介?
通年木の芽時のキチガイには興味ない。
それにしても、法介や手ぶら、暇人って九州か。
熊襲は野蛮だな。
2024/03/06 09:52:14
川^〇^ハレ鹿野園さんは臨済宗で坐禅されている方ですからね
にわか法介君とは違うでしょうwww
おもしろいん?
書いてるつもり?
見出せない、、、、
https://youtu.be/avC7-ljlWus
わき毛ボウボウの麦だってwwwwwwwww
しらねぇ~な
悪いがよそあたってくれ
しらねーな
パイパンにしてやったからな
鹿野園のなんなのさー
フィナーレ逝くぞ~
https://youtu.be/NQdWdZz7p04
~END~
和尚の曲がったちんちんに
集結する
このスレは
自動的に消滅する
https://youtu.be/Wqj3WMC1OAs
俺の名前も入れてくれだとぉ!
おまえごときは
5ちゃんで阿波踊りでも踊ってろ
お馬鹿さんなのは
知っている
何だって知ってるんだよ
https://youtu.be/hAXbrwjd1Tc
おまえら
わかってんのか
喜怒哀楽
by 法介
〝華〟がある。
当体蓮華の花を
思いっきり咲かせて生きて行きましょう。
南無妙法蓮華経
南無妙法蓮華経
皆は私が悟って、仏になったのは今生のことだと思っていますが、実は久遠の昔に悟りを得て、それからずっと数え切れない程の人々を教え続けてきました。常にこの世界にいたのです。しかし心が迷っている人の前には姿を現しません。人々は私が滅したと思って、恋い慕い信仰の心を生じます。その時、私は多くの弟子達と一緒に、この世界に現れるのです。
どのようにしたら仏道に入らせる事ができ、
そして仏の認識に入らせることが出来るものかと。
お疲れ様です☺️
大衆とはそのようなもの
貴方を自分へ向かわせる
東京の人間は
ほとんど田舎から出てきて
孤独なのくせに
其々がお互い
無関心を装って
素知らぬふり
昔若いとき
東京の山手線の電車の中で
春、花粉症でくしゃみの発作
鼻水でグチャグチャになった俺に
そっと、ティッシュを渡してくれた
見知らぬ若き彼女
貴女の親切、今でも忘れません
彼女は、たぶん江戸っ子
親切なのは地元の人間
余所者は知らん顔
彼女が菩薩、大乗菩薩かも?
困った人を、見たら、
助けずにおかない!
そんなほうすけで
あって欲しい~の~
星野アキどうしてる⁉️
終わり
ユーザー
栖雲居士◆dqam8SqGUPdm
ErgSb(3/3)
タコ介🐙もとうとう見放されて、柿猫同様にスレが日記化してるな。
相手にされなくなった者同士が、例えばポタ公と柿猫の様に細々とレスの応酬を繰り返してスレを存続してるケースがあるけど、タコ介🐙は相手にされないだろ。
JBLも相手にされなくて消え入る寸前だな。
タコ介🐙同様、スレが日記化してる。
2024/03/08 10:52:15
みに草w
遍計所執相
以前法介さんは死んだら法華経の世界観のグループに属したいと言ってましたが
俺の体感上それは正解だと思いますね
ただし極楽浄土の世界観も
キリスト教の唯一神による救いも
勿論あります
極楽浄土は間違いで法華経を正しく説き
お題目によってでしか救われないと言うのはまた違います
設定による世界観で信仰により救いを得ると言うのは、キリスト教だろうと
極楽浄土であろうと間違いじゃないんですよ
信心のない俺らからしたら
それらは妄想であるとなりますが
マンダム。
釣り竿の先を良く見ろ
おまえが釣ってるのこれだぞ
https://www.at-x.com/images/program/b7741a2f862901d090f8fa1341e6d4c9.jpg
もうワンショット
https://item-shopping.c.yimg.jp/i/n/tracolle_2012102901
ここ↓でリダンに投げかけた質問を元創価学会員さんのjijさんに今、投げかけている。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q13294612508
では、jijさん
石がどうやって成仏しますか?
興味があったら
みとき。
了解〜
新たに立てましたスレの方で
法介の『法華経談話』
https://talk.jp/boards/psy/1710074267
後程、詳しく語って参ります。
50
50.30
50.30.60
その意味ではたしかに「坐禅・内観の法を修めて、人間の心の本性をさとろうとする宗派」だった、といっていいでしょう。
答えて曰く、「今、虚空を借りて喩えと為す。虚空の本来動静無きが如し、明の来るを以って即ち明るく、暗来りて即ち暗むにはあらざるなり。此の暗き空は明るき〔空〕に異ならず、明るき空は暗き空に異ならず。明暗には自より去来有れど、虚空には元より動静無し。煩悩即を提、其の義も赤た然り。迷悟には即ち殊なり有りと雖も、菩提心は元来不動なり」。
本性を見るを“禅”と為す。所以に人に教えて身を坐して住心入定せしむることをせず。若
し彼の数門を指して影と為さば、総摩話は感に合利弗の宴座を訶すべからざるなり〔「雑摩経』弟子品)。
若し人に教えて疑心入定、住心看浄、起心外照、摂心内証”せしめば、此れは是い
菩提を障うるなり。今”坐”と言うは、念の起らざるを“坐”と為し、今“禅”と言うは、
菩提を障うるなり。
今”坐”と言うは、念の起らざるを“坐”と為し、今“禅”と言うは、本性を見るを“禅”と為す。
所以に人に教えて身を坐して住心入定せしむることをせず。
若し彼の教門を指して是と為さば、維摩詰は応に舎利弗の宴座を訶すべからざるなり。
(『菩提達磨南宗定是非論』)
和上(神会)答う、「其の”定”と言うは、“体”の不可得なるなり。其の“恵”と言うは、能く不可得なる“体”の、たん然常寂にし
て、恒沙の用有るを"見る”なり、故に"定恵等学”と言う」
和上(神会)答う、「其の”定”と言うは、“体”の不可得なるなり。其の“恵”と言うは、能く不可得なる“体”の、湛然常寂にし
て、恒沙の用有るを"見る”なり、故に"定恵等学”と言う」
2024/03/31 16:00:06
(2)迷いも悟りも、その虚空の上を去来する影像にすぎない。禅定によって迷妄を排除し清浄を求めようとすることは、本来の無限定・無分節を損なう愚行にほかならない。
(3)虚空のごとき本性には本来的に智慧が具わっており、それによって無限定・無分節なる自らの本来相をありありと自覚するのである。
見たり聞いたり笑ったり泣いたりする、この自分というやつはいったい何者か、とつきつめてゆくのである。
そして、結局どういう結論になるかといえば、「何も考えんのが一番良い考えだ」というところへ落ちつく。
何も考える必要のないもの、このままでよいものが真実の自己だったとわかるであろう。そこをねらって道元禅師は、
この非思量底を思量せよ
と言われた。
何も考えんでもよいなら、このままでよいなら、坐禅する必要もないじゃないかと早合点されそうであるが、そうではない。
われわれの心の中というものは、そう単純なものではない。さまざまな本能、習性、思慮、分別、雑念といったようなものでいっぱいである。それらはいわゆる煩悩、妄想、無明と名づけられるものであって、真実の自己ではない。それらは雲のごとく霧のごとく湧き出て、常に真実の自己を眩ますものである。
坐禅して静かに心を澄ますことによって、妄想の霧が消え、無明の雲が晴れて、本来無一物、何もないところに真実の自己を発見することができるのである。
その真実の自己に目覚めて、明るく正しく逞しく生きてゆくことが禅というものである。そこで、静かに考え、心を澄ますには、どうしたら一番よいかというと、坐って何も考えんことが一番よいのである。
https://www.youtube.com/live/bC5QObfgll8?si=JqbX1rjd1HtOfaU6
是非、ご覧ください。
糞スレ終了。
結局、荒らしはタコ介だったというオチ。
**********************
以一切心識之相皆是無明。無明之相不離覺性。非可壞非不可壞。
如大海水因風波動。水相風相不相捨離。而水非動性。若風止滅動相則滅。濕性不壞故。
如是衆生自性清淨心。因無明風動。心與無明倶無形相不相捨離。而心非動性。若無明滅相續則滅。智性不壞故。
🧟
ところでこの(根元的無知)の相は〔<本来のあり方としてのさとり>についての無知にほかならないから](さとりの本質)(覚性)と別の体あるものではない。
したがって、これを壊滅できるとも、できないとも言えない。
それはたとえば、大海の水が風によって波立つようなものである。
この場合、水の相と風の相とは不可分な関係にあるが、さりとて水は(風のように)動くのが本性なのではない。
そこで、風が止めば(水の)動きもなくなるが、そうなっても、水の本性たる湿性はかわらない。
それと同様に、衆生の(自性清浄心)は<無明>の風が吹くと動き出す。
しかし、心も無明もともに(固有の)形相があるわけではなく、ただ相互に不可分の関係にあって機能しているのである。
しかも、心は動くのが本性ではないので、無明の動きがとまれば、心の動き、すなわち刹那ごとの生滅のくりかえしによる連続(心相続)は消滅する。
さりとて、その本性としての智「すなわちさとり」のはたらきは破壊されない。
(『大乗起信論』宇井伯寿・高崎直道訳・注)
無明の相は覚性を離れず、壊すべきに非ず壊すべからざるに非ず。
大海の水の風に困りて波動し水相と風相と相い捨離せず、而して水は動性に非ず、若し風止滅すれば動相は則ち滅し湿性は壊せざるが如くなるが故に。
是の如く衆生の自性清浄心も無明の風に困りて動ず。
心と無明と倶に形相無くして相い捨離せざれども而も心は動性に非ず。
若し無明滅すれば相続則ち滅し智性は壊せざるが故に。
時間が勿体ない。
川^〇^ハレ凪だからこそ響くのではないでしょうか?
(ロ)定義の展開
□第一の定義
<物質のひびきとしての言語>
はじめに、「五大にみな響あり」を展開する。
五大とは
一に地大(固体)
二に水大(液体)
三に火大(エネルギー)
四に風大(気体)
五に空大(空間)
である。
この五つの要素には、表面的な意味と奥深い意味がある。表面的な意味は物質を構成する要素であること。奥深い意味は、梵語のア・バ・ラ・カ・キャの五字がこの要素に対応する声(音)であること、また、あらゆるいのちの有する、生命力・生活力・創造力・学習力・身体力とその各、はたらきとも対応していることである。
<物質の要素>-<梵語>-<いのちの知のちから>
固体-ア-生命力
液体-バ-生活力
エネルギー-ラ-創造力
気体-カ-学習力
空間-キャ-身体力
このように、物質の五要素と、ヒトの発する声と、いのち(生物)の有する知のちからとそのはたらきのことごとくが、音のひびきをもち、すべての音のひびきが物質を離れて存在することはない。物質こそが声(音)の本体であり、ひびきがその作用である。だから、「五大にみな響あり」という。
ジャイ子
🧟
スレ立てしたのでそちら参照で。
🧟
∞ノノハ∞
川^〇^ハレっエンサイクロメディア空海 21世紀を生きる<空海する>知恵と方法のネット誌
空海論遊
トップページ > 空海論遊 > 北尾克三郎のページ > 空海の言語論-『声字実相義』<現代語訳>
人間の身体も五大から出来ているそうですよね
ジャイ子道がんばれ
🧟
大活躍だ〜
🧟
云何爲二。
一者法。二者義。
所言法者。謂衆生心。
是心則攝一切世間法出世間法。
依於此心顯示摩訶衍義。
何以故。
是心眞如相。即示摩訶衍體故。
是心生滅因縁相。能示摩訶衍自體相用故。
日に即縁分を説きつ。次に立義分を説かん。
まかえん
摩訶術というは総じて説くに二種有り。
ふたつ
宝何がこと為す。
ふたつ
こには法学には義なり。
せけんしゅっせけん
言う所の法というは調く楽生心ぞ。是の心に則ち一切の世間と出世間との法を摂す。
まかえん
出の心に飲りて摩副欲の義を蹴示す。
何を以ての故に。
しんしんによ
すなわ
見の心真如の相は即ち摩訶術の体を示すが故に。
しんしょうめついんねん
見の心生滅因縁の相は能く摩訶街の自体と相と用とを示すが故に。
ジャイアンパワー充電〜
🧟
云何が二と為す。
一には法、二には義なり。
言う所の法というは謂く衆生心ぞ。是の心に則ち一切の世間と出世間との法を摂す。
此の心に依りて摩訶衍の義を顕示す。
何を以ての故に。
是の心真如の相は即ち摩訶衍の体を示すが故に。
是の心生滅因縁の相は能く摩訶衍の自体と相と用とを示すが故に。
🧟
でおー🫵😂
教会や寺社から出禁処分!
神社での失禁!
文化財の破壊!
一時期措置入院!
現在も統失発狂!
バイトを即クビ!
↓
そうすると、舎利弗が「疑網に堕せる」と内省したのは、自らの才覚に溺れ、才能や技能などをもって、人々を区別するようになり、本来の仏の教えである平等の智慧を忘却してしまったところにあると言えよう。
即ち、「童子のれに沙を繋めて仏塔を為れる。かくの加き諸の人等は、皆、日に仏道を成じたり」という、素直なる心持ちの中に、仏の数えは生きていることを見失い、論理に堕せることによって、逆に人々を卑下していったところに、自らの省を見たと言わなければならない。
このように、難解の法は、当時として「特殊」な部分を有していたために、難解であったのではなく、仏智を理解していく中で生じてきた差別が教団の統率にも障害をもたらし、教えの普遍性にまで悪い影響を与えるようになったことから、再び「清浄なるもの」に回帰させる意図をもっていたと言うべきである。
つまり、教えを受ける側に生まれてきた問題にアプローチしたのが法華経であり、方便品最後の頃に見られるような日々の宗教経験の種々相に、本来の「清浄」の姿を喚起させるところに難解の意図が秘められていると考えるべきである。そして、このことは、当時の教団を抜本的に改革することを意味していた。たとえ一部であろうが、教団を統率する上層部に対し、その立場の一部か、それに準ずる階層の一派から出された改革運動であったことは推察できると思う。皆論品の後半に示さ
れる、「橋慢・怠・計我・浅識・深著・不解・不信・盛・疑惑・誹謗・軽・憎・・結恨」という、いわゆる
十四謗法も方便品最後の偶頭と合わせて考えると、教団統率派に対する著告と言えよう
そうすると、舎利弗が「疑網に堕せる」と内省したのは、自らの才覚に溺れ、才能や技能などをもって、人々を区別するようになり、本来の仏の教えである平等の智慧を忘却してしまったところにあると言えよう。
即ち、「童子の戯れに沙を聚めて仏塔を為れる。かくの如き諸の人等は、皆、已に仏道を成じたり」という、素直なる心持ちの中に、仏の教えは生きていることを見失い、論理に堕せることによって、逆に人々を卑下していったところに、自らの省を見たと言わなければならない。
このように、難解の法は、当時として「特殊」な部分を有していたために、難解であったのではなく、仏智を理解していく中で生じてきた差別が教団の統率にも障害をもたらし、教えの普遍性にまで悪い影響を与えるようになったことから、再び「清浄なるもの」に回帰させる意図をもっていたと言うべきである。
つまり、教えを受ける側に生まれてきた問題にアプローチしたのが法華経であり、方便品最後の頃に見られるような日々の宗教経験の種々相に、本来の「清浄」の姿を喚起させるところに難解の意図が秘められていると考えるべきである。
そして、このことは、当時の教団を抜本的に改革することを意味していた。たとえ一部であろうが、教団を統率する上層部に対し、その立場の一部か、それに準ずる階層の一派から出された改革運動であったことは推察できると思う。皆論品の後半に示さ
れる、「憍慢・懈怠・計我・浅識・深著・不解・不信・顰蹙・疑惑・誹謗・軽賤・憎・嫉・結恨」という、いわゆる十四謗法も方便品最後の偶頭と合わせて考えると、教団統率派に対する警告と言えよう。
(同論文より引用)
あらわるるっ〜!!!!!
🧟
他人の体験や知識に対する妬みや嫉み・・・
実に見苦しいものです。
此のスレに参加されたいのなら、相応の努力をされてからにして下さい。
誹謗中傷はお断りです。
エラーの原因が分からない?
先ず住人の95%位は、偏った宗教感覚ですからね。
それにしても、規制が続くのはスクリプト荒らし対策なのでしょうかね。
困ったものです。
第1編信仰宣言
第2部キリスト教の信仰宣言
第3章聖霊を信じます
683「聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とはいえない」(一コリント12・3)。
「神は、『アッバ、父よ」と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった」(ガラテヤ46)。
信仰によるこの認識は、ただ聖霊の助けだけによって可能となります。
キリストと交わるには、まず聖霊に動かされなければなりません。
わたしたちに働きかけ、わたしたちのうちに信仰を生じさせてくださるのは聖霊です。
信仰の最初の秘跡である洗礼によって、御父のうちに源泉を持ち、御子によってわたしたちに与えられるいのちが、教会の中で、聖霊により、親しく一人ひとりに与えられます。
なる器についてるのはクムラン文をお最初であるが、新約聖書では「神の部「。
おしたキリストの意をしばし豊感と呼ぶ、
日数会における聖神、・富はヘプライでル
ニアッハ。ギリシア語でプネウマだが、どもに生命を与える息吹、風を意味し、それが神から人間に与えられているとの理解が根底にある、キリスト教においては、父としての神、子としてのキリスト。そして聖霊が*三位一体としての神を表す
新約聖書以前になる器「聖なる霊」について語るのはクムラン文が最初であるが、新約聖書では「神の霊」「復活したキリストの霊」の意をしばしば聖霊と呼ぶ。
正数会における聖神、霊はヘブライ語ででルーアッハ。ギリシア語でプネウマだが、ともに生命を与える息吹、風を意味し、それが神から人間に与えられているとの理解が根底にある。
キリスト教においては、父としての神、子としてのキリスト、そして聖霊が三位一体としての神を表す。
(『岩波キリスト教辞典』 「聖霊」 より)
言うこころは、如今の始覚を以って本覚に合するなり。
往往、邪師の輩、無言黙然を以って始覚と為し、威音王湖畔を以って本覚と為す。
個より此の理に非ず!
既に此の理に非されば、何者か臭れ覚?
若し全て是れ覚なれば、豈に更に迷い有らん?
若し迷い無しと謂わば、争奈せん、釈迦老子の明星現るる時に於て忽然として便ち覚り、自家が本命元辰、元来這裏に在り!と知得るをや。
所以に言く、「始覚に困りて本覚に合す」と。
禅和家の忽然と鼻孔を摸著するが如きは、便ち是れ這個の道理なり。
然して此の事は人人分上に、具足せざる無し。
(『大慧普覚禅師語録』巻十八)
大慧も、人はひとりひとり本来みな仏であるという大前提(「本覚」)には立っています。
しかし、人は、現実には迷っている。
だから看話によって大悟し(「始覚」、それによって、迷える現実態の自己(「不覚」)を克服し、本来の覚り(「本覚」)に立ち返らねばならぬーそれが大慧の主張でした。
「本覚→不覚→始覚→本覚」というこの構造は、近くは『碧眼録』にみられたかの円環の論理をつぐものであり、遠くは最初期のいわゆる「北宗」禅に-方法を禅定から看話に発展させつつ-回帰するものでもありました。
さきにも述べたように、このような円環の論理は、ありのままの自己に対する肯定と否定の矛盾という長年の課題に応えるものであり、中国禅の論理のひとつの完成形と言えるでしょう。
のちの『十牛図』の構成も、この「本覚→不覚→始覚→本覚」という円環構造を視覚化したものにほかなりません。
(『禅思想史講義』小川隆 より)
盛り上がって
躁転してそーやなー
🧟🧟🧟🧟🧟
この初めて覚るということは、私たちは現実に体験するわけです。禅の世界でも見性を果たしたとか、さらに覚りが深まったとかはありえる話です。ですから、初めて覚ることは厳然として実際にあるわけで、なぜそうなのかというと、今度は不覚があるからだ、覚りを成就していない状態があるからだと「起信論」では説明します。しかも、迷っていること自体が本来覚りの世界があるからこそ迷っていると言えるのだという論理を展開しています。
そうかそうか、頑張れや〜💕
994:栖雲居士 ◆dqam8SqGUPdm :2024/06/21(金) 15:04:18.32 ID:NyfO5dCz
ビギナーさん、かわいいな😍
999:栖雲居士 ◆dqam8SqGUPdm :2024/06/21(金) 15:07:36.87 ID:NyfO5dCz
はいはい、かわいいなぁ〜💕
イエスは彼に「律法には何と書いてあるか、あなたは〔それを〕どう〔解釈して〕読むか」と尋ね返し、彼は神を愛し、隣人を自分を愛するように愛するという原則を正しく答える。
イエスは彼に「あなたは正しく答えた。これを成せ、〔そうすることによって〕あなたは生きる」と促す。
律法学者は「では私の隣人とは誰か」と質問を返す。
注目したいのは、ルカによる福音書がここで、この質問はこの律法学者が自分自身を正当化するためにした質問であると述べていることである。
この質問は、隣人とそうでは ない者が存在するという発想に基づいており、そのように「隣人」の範囲を定めた場合に、「隣人」愛を実現し得 ているという自負があったであろうことを、「正当化」という動機の存在が示している。
イエスは彼のこの問いに対し、あるたとえ話をもって答える。
強盗に襲われ道端に倒れていた重傷者を、聖職者たちは見捨て、しかしサマリア人に属する通りがかりの人物が助けた、という話である。
サマリア人とは、イエスや 律法学者たちが属し、おそらくたとえ話のけが人もそう前提されているであろうユダヤ人とは反目し合う関係にあっ たとされている民族である。
この話を語り終えた後、イエスは「では、これらの三人の中の誰が、強盗たち〔の手〕 に落ちた人の隣人になったと、あなたには思われるか」と、律法学者に問う。
誰かが自分の「隣人である」と固定しようとする発想は、「隣人でない」存在を生み出すことに直結する。
そのように隣人と非隣人とを区別するところに差別や敵意が生まれる。
すなわち、隣人を限定しようとする「隣人」愛こそが戦争や差別を生み出すといってよいのではないか。
前項において概観した、核をめぐるキリスト教の言説の中には、安全保障や経済的繁栄などを「正当化」しようとする(あるいは少なくともそのような目的と密接にかかわった)ものが含まれていた。また、隣人と非隣人を区別する発想に基づくものが含まれていた。
しかし、「善いサマリア人のたとえ」(ルカ 10:25-37)は、我々に、隣人の地平を無限定に広げていこうとするような隣人愛こそが、互いの尊厳に向ける深い敬意や、平和を生み出し、「生きる」者となることを示している。
核時代におけるいかなるキリスト教倫理も、「隣人」愛という自己正当化の動機についての自己批判なしには成立し得ないのである。
澤村 雅史
見て、彼は、世尊にむかっていった。
「沙門よ、わたしは耕して種を蒔く。耕し種を蒔いて、そして食うのである。沙門よ、そなたも、耕して種を蒔くがよろしい。耕し種を蒔いて、しかる後に食するがよろしい」
「婆羅門よ、わたしもまた、耕して種を蒔く。耕し種を蒔いて、そして食うのである」
「されど、わたしどもは、そなたゴータマ(瞿曇)の、軛も、鋤も、鋤の先も、鞭も、牛も見たことはない。それにもかかわらず、そなたゴータマが、〈婆羅門よ、わたしもまた、耕して種を蒔く。耕し種を蒔いて、そして食うのである〉というのは、どうしたことであるか」そして、「耕田」とよばれるバーラドヴァージャ姓の婆羅門は、偈をもって世尊にいった。
「そなたはみずから耕す者なりといえどわれいまだそなたの耕すを見ずわれはそなたに問う、語れよかしいかにしてわれ、そなたの耕すを知らん」
世尊もまた、偈をもって答えていった。
「信は種子なり、戒は雨なり智慧は軛につなぎし鋤にして反省はその柄、禅定はその縄正念はわが鋤の先と鞭なり身をまもり、語をまもり食するに量を制し真理をもって草刈をなし楽住をたのしむはわが休息なり精進はわがひく牛にしてわれを静けき安穏に運び行いて帰ることなく到って悲しむことなしかくのごときがわが耕耘にして甘露(涅槃)はその果実なりわれはかくのごとく耕してすべての苦悩より解脱せり」
「不可逆」とは端的に言えば、絶対者と人間とのあいだには順序を絶対に「逆にすることが出来ない」厳然とした関係構造が存在するということ、換言すれば、絶対者の自己否定が我々人間に「先立って」働いているという「先行性」が存在することを意味する。
絶対者と人間における「不可逆」的関係性を強調したのは滝沢克己だが、彼は両者の関係を「不可同・不可分・不可逆」と捉える。つまり、絶対者と人間とは絶対的に断絶していながら(不可同)、同時に密接につながっている(不可分)のであり、しかも両者は絶対に逆にできない順序をもって区別される(不可逆)という。滝沢においては絶対者と人間との「不可逆」の関係が最重要視され、そこから不可同・不可分的な関係も規定されて把握される。
そして滝沢は西田の思索を十分評価しながらも、西田哲学に対して彼独自の批判を行っている。それは、西田哲学における絶対者と人間との関係には「不可逆」の把握が不徹底で曖昧であるという厳しい批判である。
と同時に、「取」には「むかへとる」と記しているのである(浄土和談』)。
これは「追いかける仏」と「迎える仏」を表現しているのであるが、つまり「救いに背を向ける自己」と「救いを希求する自己」をも同時に語っているのである。
仏から逃げ、背き続け、悟りから一番遠い自己が現れた時、そのままで仏に迎えられている自己を見るのである。
(『構築された仏教思想 親鸞──救済原理としての絶対他力』 釈 徹宗 より)
間もなく、後からもう一匹の鬼が追って来て、「これはわたしのものだ。」と言い出したので、激しい争いが起こった。
すると、前の鬼が後のに言うには、
「こうして、おまえと争っていても果てしがない。証人を立てて所有をきめよう。」
後の鬼もこの申し出を承知したので、前の鬼は、先ほどからすみに隠れて小さくなって震えていた男を引き出して、どちらが先にかついで来たかを言ってくれと頼んだ。
男はもう絶体絶命である。どちらの鬼に味方しても、もう一方の鬼に恨まれて殺されることはきまっているから、決心して正直に自分の見ていたとおりを話した。
案の定、一方の鬼は大いに怒ってその男の手をもぎ取った。これを見た前の見は、すぐ死酸の手を取って米で猫った。後の見はますます終ってさらに手を抜き見を取り、調を取り去り、とうとう頭まで取ってしまった。前の処は水々に、死体の手、足、顔、頭を取って、みなこれを補ってしまった。
こうして二匹の鬼は争いをやめ、あたりに散らばった手足を食べて満腹し、口をぬぐって立ち去った。
男はさびしい小屋で恐ろしい目にあい、親からもらった手も足も胴も頭も、鬼に食べられ、いまや自分の手も足も胴も頭も、見も知らぬ死体のものである。一体、自分は自分なのか自分ではないのか、まったくわからなくなった男は、夜明けに、空き家を立ち去ったが、途中で寺を見つけて喜び勇み、その寺に入って、昨夜の恐ろしいできごとをすべて話し、教えを請うたのである。人びとは、この話の中に無我の理を感得し、まことに尊い感じを得た。
間もなく、後からもう一匹の鬼が追って来て、「これはわたしのものだ。」と言い出したので、激しい争いが起こった。
すると、前の鬼が後の鬼に言うには、
「こうして、おまえと争っていても果てしがない。証人を立てて所有をきめよう。」
後の鬼もこの申し出を承知したので、前の鬼は、先ほどからすみに隠れて小さくなって震えていた男を引き出して、どちらが先にかついで来たかを言ってくれと頼んだ。
男はもう絶体絶命である。どちらの鬼に味方しても、もう一方の鬼に恨まれて殺されることはきまっているから、決心して正直に自分の見ていたとおりを話した。
案の定、一方の鬼は大いに怒ってその男の手をもぎ取った。これを見た前の鬼は、すぐ死骸の手を取って補った。後の鬼はますます怒ってさらに手を抜き足を取り、胴を取り去り、とうとう頭まで取ってしまった。前の鬼は次々に、死体の手、足、顔、頭を取って、みなこれを補ってしまった。
こうして二匹の鬼は争いをやめ、あたりに散らばった手足を食べて満腹し、口をぬぐって立ち去った。
男はさびしい小屋で恐ろしい目にあい、親からもらった手も足も胴も頭も、鬼に食べられ、いまや自分の手も足も胴も頭も、見も知らぬ死体のものである。一体、自分は自分なのか自分ではないのか、まったくわからなくなった男は、夜明けに、空き家を立ち去ったが、途中で寺を見つけて喜び勇み、その寺に入って、昨夜の恐ろしいできごとをすべて話し、教えを請うたのである。人びとは、この話の中に無我の理を感得し、まことに尊い感じを得た。
既に君たちに証を見せる為に
台風の進路を変えている
日本中を巻き込んでいる
イエスの復活と同じである
これの意味がわかるか?
君たちが僕に関われば関わるほど
負債は蓄積していく
僕はどんどんやるよ
疑うなら証明する為にとことんやるね
居着いているよーだ
🧟
>>994
ちがわねーじゃん。。w
否定即肯定・肯定即否定なのだから、無=有、有=無です。。
あなた、自分でわかってないことを引用してるよね。。
パッチワークというやつ。。
いつものことだが。。w
ID:B8FRagA/(21/22)
げんきだなー
🧟
よく諸法の実相を呼んで不謬・不妄なるが故に真言と名づく。
その真言いかんが諸法の名を呼ぶや。
真言無量に差別ありというといえども、かの根源を極むるに大日尊の海印三昧王の真言に出でず。かの真言王いかん。
『金剛頂』および『大日経』所説の字輪字母等これなり。
かの字母とは梵書の阿字等乃至町字等これなり。
この阿字等はすなわち法身如来の一ーの名字密号なり。
乃至天竜鬼等もまたこの名を具せり。
名の根本は法身を根源となす。彼より流出して稍
く転じて世流布の言となるのみ。
よく諸法の実相を呼んで不謬・不妄なるが故に真言と名づく。
その真言いかんが諸法の名を呼ぶや。
真言無量に差別ありというといえども、かの根源を極むるに大日尊の海印三昧王の真言に出でず。かの真言王いかん。
『金剛頂』および『大日経』所説の字輪字母等これなり。
かの字母とは梵書の阿字等乃至呵字等これなり。
この阿字等はすなわち法身如来の十一の名字密号なり。
乃至天竜鬼等もまたこの名を具せり。
名の根本は法身を根源となす。彼より流出して稍
く転じて世流布の言となるのみ。
(『声字実相義』空海 より)
「なんぢ聡明博解なり、章疏のなかより記持せず、父母未生以前にあたりて、わがために一句を道取しきたるべし。」
香厳、いはんことをもとむること数番すれども不得なり。
ふかく身心をうらみ、年来たくはふるところの書籍を披尋するに、なほ茫然なり。
つひに火をもちて年来のあつむる書をやきていはく、
「画にかけるもちひは、うゑをふさぐにたらず。われちかふ、此生に仏法を会せんことをのぞまじ。ただ行粥飯僧とならん。」
といひて、行粥飯して年月をふるなり。
行粥飯僧といふは、衆僧に粥飯を行益するなり。このくにの陪饌役送のごときなり。
かくのごとくして大に潙まうす、
「智閑は心神昏昧にして道不得なり、和尚、わがためにいふべし。」
大潙のいはく、
「われなんぢがためにいはんことを辞せず、おそらくは、のちになんぢわれをうらみん。」
かくて年月をふるに、大証国師の蹤跡をたづねて、武当山にいりて、国師の庵のあとに、くさをむすびて爲庵す。竹をうゑてともとしけり。
あるとき、道路を併浄するちなみに、かはらほとばしりて、竹にあたりてひびきをなすをきくに、豁然として大悟す。
沐浴し、潔斎して、大潙山にむかひて焼香礼拝して、大潙にむかひてまうす、
「大潙大和尚、むかしわがためにとくことあらば、いかでかいまこの事あらん。恩のふかきこと、父母よりもすぐれたり。」
つひに偈をつくりていはく、
一撃に所知を亡ず、更に自ら修治せず
動容古路を揚ぐ、悄然の機に堕せず
処々蹤跡無し、声色外の威儀なり
諸方達道の者、咸く上上の機と言はん
この偈を大潙に呈す。
大潙いはく、
「此の子、徹せり。」
https://i.imgur.com/32CLo5t.jpeg
https://i.imgur.com/6oShFBH.jpeg
ただ宇井、和辻がなおざりにし、木村がその虚をいた一点がある。
前にも論じた「凡夫を明から遠ざける根本動力」とは何か、という問題だ。私は木村説を敷衍するかたちで、それを本能と言語によって駆動される盲目的生存欲望、根本煩悩であると推定した。
つまり、根本悩に覆われているから無知なのであり、無知だから根本悩に覆われるのだ。
盲目的だから無知になるのであり、無知だから盲目的になるのだ。この二者は相依の関係にある。
ナーガールジュナは「もし無明の因縁を、更にその本を求むれば即ち無にして、即ち辺見に堕し、涅槃の道を失せん。この故に求むべからず。もしさらに求めなば即ち戯論に堕せん。これ仏法に非ず」(「大智度論」第九〇巻)
と戒めている。
しかしあえて、木村、宇井、和辻に倣って、無明のさらなる「本」を追究しようとすれば、無知と根本煩悩の相互依存に突き当ってしまう。
相依関係は無限に循環するため、これ以上遡及できない。
即ち無明が「本」であり、縁起の起源であり終極なのだ。
これが私の無明解釈であり、縁起論の根紙だ。
この私説は稿を改めて論述する予定である。
>キリスト教では太陽を拝む人間は許容しないということですか?
人間を許容しないのではなくて、教義として許容されないのでは?
>キリスト教では太陽を拝む人間は許容しないということですか?
人間を許容しないのではなくて、教義としてそうした行為が許容されないのでは?
(一)空を実体視しないものと
(二)それを実体視するもの
との二つに分けることができる。
前者(一)は早い時期に現われ、後者(二)は時代が下るにつれてより一層顕著になる傾向がある。
空の元来の考え方も前者に近いものであったと思われる。
後世、インド後期密教、チベット仏教のニンマ派、カギュ派、チョナン派、さらに中国や日本の密教の一部にあっては、空が恒久不変の実体(実在)と考えられるようになった。
もっとも「実体」とはいえ、ヒンドゥーの実在論哲学における実体とは区別されるべきであることはいうまでもない。
(一)の解釈においてもさまざまな違いがあるが、おおまかにいって、
(1-a)「ものには自性(不変の実体)がない」と主張するに止まるものと、
(1-b)「ものには自性がないが、生滅を伴う無自性なるものすなわち現象として現われる」と主張するものとの二つに分かれる。
(1-a)は「ものには自性がない」という命題の合意するものを肯定命題として提起しようとしないが、(1-b)では「ものには自性がない」という命題は、ゆえに、「ものには無自性なるもの(現象)がある」を合意すると考えられる。
もっともこれら二つの解釈は、空が究極的には言葉を越えた直観によって捉えられるもの-あるいはその直観そのもの-であると考える点では一致している。
(一)は自性が空 (無)であるという意味で「自空説」と呼ばれてきた。
前者は心身の五構成要素などのものは無自性であるが空(空性)自体は自性(実体)であるという考え方である(2-a)。
この解釈では、全宇宙(全世界)は無自性なるもの(存在)と自性そのものである空との二者によって成り立っていると考えられている。
すなわち、「自性がない」という否定はものの領域に対して適用されているが、もの以外の領域に属する空には適用されていないのである。
この種の解釈は、特にチベット仏教のチョナン派の「他空説」に見られる。
因みに、「空」という漢訳のサンスクリットは、「空なる[もの]」を意味する形容詞「シューニヤ」(sunya)である場合および「空なること、空性」を意味する名詞「シューニャター」(sunyata)である場合がある。
(2-a)の解釈における「空」は「シューニャター」(空性)である。
(二)の解釈の後者(2-b)は、根本真理としての空性が現象世界のものと無媒介に同一であると考えられる場合である。
後に見るように、これは例えば『般若心経』の一節である「色即是空、空即是色」に対する諸解釈の一部に見られる。
空が論理を越えているならば、「空の論理」とは矛盾ではないのか。
空自体は論理を越えてはいるが、空という真理あるいは智恵を得るための道程として論理的思考の積み上げが必要というのか。
『中論』の中に展開される論議を判断するに、たしかに「中論』における論議のほとんどが言葉の止滅した境地あるいは智へとれわれを導くための手段であることがわかる。
とするならば、言葉には自らを乗りこえる力があといえるのか。
もし言葉自体にその力がないならば、言葉を越え、言葉にはない力を有する空へとわれわれを導く存在はどのようなものなのか。
言葉が自らを葬ることによって空へとわれわれを導くのではなく、言葉がある程度、止滅した段階において空が働いて、自らを顕現させるのであろうか。
もしも空にそのような力を認めるとすれば、空はまさに作用を持つ実体的なものだと考えざるを得ない。
ナーガールジュナは空(空性)に目的があるという。目的を有する空とはどのようなものか。
このような問は際限なく続く。このことは間の設定が間違っているからではなく、言葉(あるいは世界)と空との関係そのものがそうさせるのだ。
つまり、空は論理を越えているが、論理あるいは言葉とまったく無関係というわけではない。
言葉は自らの存在が否定されることを知りつつも、空の前で自らを開こうとするのだ。
「空の前で」自らを開きながら、やがて言葉は止滅すなわち「死」を経験する。
その「死」は瞬間的なものであり、次の瞬間にはよみがえりが待っている。つまり、言葉が空において止滅するのは「再生」のための「死」なのである。