仏教居士のひとりごと Part6最終更新 2026/07/17 07:361.栖雲居士◆dqam8SqGUPdmpbqjU仏教の居士が思った事を気儘につぶやくスレです。・・・が、意見がある時はあくまでもここは仏教のスレですから、仏教的な視座からのその根拠を明示してお願いします。仏教居士のひとりごとhttps://talk.jp/boards/psy/1768004419仏教居士のひとりごと Part2https://talk.jp/boards/psy/1773193018仏教居士のひとりごと Part3https://talk.jp/boards/psy/1775221828仏教居士のひとりごと Part4https://talk.jp/boards/psy/1778399551仏教居士のひとりごと Part5https://talk.jp/boards/psy/17790579562026/07/16 09:57:10115コメント欄へ移動すべて|最新の50件2.栖雲居士◆MKrKQHoID7SERo4pk此処は仏教スレなんで、そこから外れた私見とか無しね。何故なら、唯識だからこの見解が絶対的に正しいとは云えないのと、基軸(仏説)になるものがないと比較検討しようがないから。2026/07/16 10:04:573.栖雲居士◆MKrKQHoID7SE07QJFYahoo知恵袋って低次元なんだなとつくづく思う。まぁ、唯識であればそれぞれの想いの為すものだから、これが正解なんだよとか云わないけど。2026/07/16 10:32:454.栖雲居士◆MKrKQHoID7SE07QJF輪廻転生については、輪廻転生は何者が作るのかって事じゃないのかねぇ。つまり輪廻転生からの解脱は輪廻転生という想いからの解脱だって思いますけどね。だから、輪廻転生が有るとか無いとか、そういう問題ではないって思うんだけど、そこまで智慧がまわらんのだろうなぁ。2026/07/16 10:36:385.麦◆MUGITANx95DjuJbhi∞ノノハ∞川^○^ハレ鹿野園さんは以前阿頼耶識は三世(現在過去未来)一類相続とレスされていましたよ阿頼耶識が受精卵に宿って結生相続するのでありませんか2026/07/16 11:24:136.栖雲居士◆MKrKQHoID7SEuCyqK何であれ善く説かれたものであれば、それは全て釈尊の言葉である。(アングラッタ・ニカーヤ164.7-9)応病与薬、対機説法、善巧方便。決めつけない事。2026/07/16 13:09:567.麦◆MUGITANx95DjuJbhi ̄ ̄ ̄ ̄ ̄○ ̄ ̄ ̄ ̄ oというお話 ゜だったのサ /⌒\ /ノ\ヾヽ____ _(('∀'ヽ |L|_|_|_/ノへ>ノ~ )ヘL_|_|_|\'-') / 丿/L| \_ ̄ ⊂Lノ/L| 从从 /\__/ ∥L|//ヘヾ/ _ノ∥―――(^(⌒ヽノL/2026/07/16 13:17:168.神も仏も名無しさんcjpvZ阿頼耶識に様々な欲望の種子が残っていると、それが生きたい欲望となって、輪廻へ入り込むみたいなことでしょだから、阿頼耶識を徹底的に浄化すると、転生しないようになると2026/07/16 15:17:169.麦◆MUGITANx95DjuJbhi∞ノノハ∞川^○^ハレ法華経では機縁があって即身成仏された竜女もいますけど舎利弗でさえ無量無辺不可思議劫ののちに華光如来になると授記されたり摩訶迦葉も三大阿僧祇劫ののち光明如来になると授記されていますよ2026/07/16 16:04:5710.麦◆MUGITANx95DjuJbhi∞ノノハ∞川^○^ハレ法華経でお釈迦様から授記された方は沢山いますけど2026/07/16 16:06:4911.神も仏も名無しさんGPg1vだからさ授記が重要なのね今生で涅槃に入った仏を探して出会ってその仏から授記を頂くことが重要になる自分が成仏するにはね2026/07/16 16:48:4412.神も仏も名無しさんjJTkcここに二人の修行者がいて、お互いライバル視して、事あるごとに、相手を口で攻撃して、おたいが相手は餓鬼だ畜生だと仲違いしているとしたらこの二人の境涯は何処ですか?ーーーアンサー仏教の視点から厳しく見ると、この二人の現在の境涯は「修羅界(しゅらかい)」、あるいは「餓鬼界(がきかい)・畜生界(ちくしょうかい)」の真っ只中にあります。口では修行者を名乗り、相手を低く見積もっていても、実際の行動が彼らの心の次元(境涯)をそのまま表しています。二人の具体的な境涯1.基本的な境涯:修羅界(阿修羅道)特徴: 怒り、闘争、強い嫉妬、他人に勝ちたいという執着。状態:常に他人に敵対心を燃やし、自分が上であることを証明しようと争う世界です。お互いをライバル視して言葉で攻撃し合っている姿は、まさに修羅そのものです。2. 言葉が表す境涯:餓鬼界・畜生界餓鬼界(むさぼり・怨み):相手を認められない不満や怨みの心。畜生界(愚痴・本能):理性を失い、目先の感情のままに相手を攻撃する姿。状態:仏教では「類は友を呼ぶ(同気相求む)」と言います。相手を「餓鬼・畜生」と罵るその醜い一瞬、本人の心の中が「餓鬼・畜生」と同調してしまっている状態です。四向四果の基準から見ると?前述した「四向四果」の最初の段階である「預流果(よるか)」にすら、遠く及ばない状態です。預流果に達した人は、三悪趣(地獄・餓鬼・畜生)に堕ちる原因となる「強いエゴ(我が身への執着)」や「間違った見解」を完全に断ち切っています。お互いを罵り合っている二人は、自分自身のプライド(我執)に支配されているため、聖者の入り口(預流向)にも立てていない、ただの「凡夫(ぼんぷ:普通の人間)」と言えます。仏教では、他人の姿は「自分の心を映す鏡」であると教えます。彼らがこの不毛な争いから抜け出すには、まず相手ではなく、自分の醜い言葉と心を直視するしかありません。このエピソードを踏まえて、さらに仏教が教える「言葉のカルマ(口業)」の恐ろしさや、このような争いを収めるための仏教的なアプローチ(和合僧の教えなど)について詳しくお知りになりたいですか?2026/07/16 17:07:1713.神も仏も名無しさんjJTkcでは、片方が、これでは修行者としてはダメだと、悔悛し、身を引いて、一切何を言われても、買い言葉を言わなくなった、としたら?ここはどの境涯でしょうか。アンサー片方の修行者が「これでは駄目だ」と自省し、一切の言い返しを辞めた場合、その人の境涯は「人界(にんかい)」の上位、あるいは二乗と呼ばれる「声聞界(しょうもんかい)」の入り口へと一気に上昇しています。一方で、もう片方の攻撃を止めない修行者は、依然として「修羅界」や「三悪趣(地獄・餓鬼・畜生)」に留まったままです。身を引いた側の具体的な境涯と心の変化は以下の通りです。身を引いた側の境涯1.人界(にんかい)の自覚と理性の働き状態:感情に流されず、自分の醜さを「恥じる心(慚愧:ざんき)」が生まれています。特徴:仏教において、人界の特質は「物事の善悪を判断し、自らをコントロールできる理性」です。本能的な闘争(修羅)から抜け出し、人間らしい理性を完全に取り戻した状態です。2. 声聞界(しょうもんかい)への足がかり状態:仏の教え(声)を正しく理解し、自らの内面を変革しようと実践しています。特徴:「これでは修行者として駄目だ」という気づきは、正しい教えに照らして自己を見つめ直した証拠です。他者への攻撃を辞め、自分の内なる煩悩を滅ぼそうとする四聖(ししょう)という高い精神世界に入り始めています。「買い言葉を言わない」ことの仏教的価値仏教では、この行動を最高峰の修行の一つである「忍辱(にんにく)」の獲得とみなします。悪業の連鎖を断ち切った:相手の言葉を受け流すことは、これ以上「口業(言葉の悪業)」を作らないということです。縁(きっかけ)に動かされない:相手がどれだけ挑発(縁)してきても、自分の心に怒りの炎(因)を燃やさない強さを得ています。このように、二人の精神的な次元は完全に二極化しました。一方はエゴに囚われたまま、もう一方は聖者への道を歩み始めています。この四向四果について、各段階での具体的な煩悩の種類や、大乗仏教におけるこの階位の捉え方など、さらに深く知りたい点はありますか?2026/07/16 17:10:2714.栖雲居士◆dqam8SqGUPdmpbqjUってやってる奴が問題なんだよw2026/07/16 17:10:3015.栖雲居士◆dqam8SqGUPdmpbqjU俺さぁ、こういう事をする奴が大嫌いなんだよ。下手するとでおーより糞でオウム残党と同じ次元だって思ってる。2026/07/16 17:13:0516.神も仏も名無しさんjJTkcお互いを罵り合っている二人は、自分自身のプライド(我執)に支配されているため、聖者の入り口(預流向)にも立てていない、ただの「凡夫(ぼんぷ:普通の人間)」と言えます。ただの「凡夫(ぼんぷ:普通の人間)」と言えます。ただの「凡夫(ぼんぷ:普通の人間)」と言えます。ただの「凡夫(ぼんぷ:普通の人間)」と言えます。ただの「凡夫(ぼんぷ:普通の人間)」と言えます。仏教では、他人の姿は「自分の心を映す鏡」であると教えます。2026/07/16 17:15:0217.神も仏も名無しさんjJTkc相互に反省するがよろしかろう。2026/07/16 17:16:5618.神も仏も名無しさんjJTkcこの場合、罵るのを止めたほうが一気に境涯が上がるでしょう。2026/07/16 17:18:0819.麦◆MUGITANx95DjuJbhi∞ノノハ∞川^○^ハレ大乗仏教では菩薩の五十二位(十信・十住・十行・十廻向・十地・等覚・妙覚)も説かれていますよね十信にしても信心・念心・精進心・慧心・定心・不退心・回向心・護心・戒心・願心の10段階あって妙覚まで果てしないですよ2026/07/16 17:19:0720.神も仏も名無しさんjJTkc栖雲居士さんは、一時期止めていたが、我慢できないのか?どうしても皮肉的な言葉から、タガが外れて攻撃的な言動へ傾いてしまった。2026/07/16 17:20:4321.栖雲居士◆MKrKQHoID7SEhcyEz責むべきは加害者なのに、被害者に受忍しろとか、それ精神がまともじゃ無いから。ましてや宗教的葛藤点に漬け込むとかそれはカルトだから。例えば、お前は殺された子供の親に向かってそれが言えるのか?忍辱は大事だけど、世の中には守るべき秩序があるんだよ。そこを護らなければこの人間界は畜生界や修羅界になるから。そこまでちゃんと考えて行動しろって事な😗2026/07/16 17:21:4522.神も仏も名無しさんjJTkc>>19時系列で思うと果しないけどね一念三千の一念に含めたら、今の此処で仏果もあり得るのでは?2026/07/16 17:23:3123.神も仏も名無しさんjJTkcそれが心の法則考えれば永遠でも足らないが、一念すらも無心になれるなら一気に仏の境涯へ上がって行くのでは?それが難しい事は重々承知でもするのが修行ですね。2026/07/16 17:26:0624.栖雲居士◆MKrKQHoID7SEhcyEzまぁ、そういう事を相手に指摘するのなら、ちゃんと固定されたコテを付けてやるべきだな。言うだけ言って名無しで逃げる卑怯者なんて屑としか思ってないから😗2026/07/16 17:26:4625.栖雲居士◆MKrKQHoID7SEhcyEzどうした?即逃げか?2026/07/16 17:27:0826.神も仏も名無しさんjJTkc釈尊は外道に言い返さないで唾を吐かれても沈黙した、とかあったよね?2026/07/16 17:27:2127.栖雲居士◆MKrKQHoID7SEhcyEzwwwwwwwwwwwwwwwwwwでお前はどうなんだ?人にどうこう説教出来る柄か?2026/07/16 17:28:5328.無jJTkc。2026/07/16 17:29:3429.栖雲居士◆MKrKQHoID7SEhcyEz典型的な偽善者だな。2026/07/16 17:30:5730.栖雲居士◆MKrKQHoID7SEhcyEz名無しのまま即逃げしたか。卑怯な奴だったな。2026/07/16 17:32:1531.無jJTkc上記を説教がましいと反論するのは、どういう心からか?自分の心に照すのが先でしょうね見てられない泥試合を何十年やるんだろう?って、端は訝るでしょうこの場合、片方だけおかしいってことは無いでしょ両方おかしいから続く2026/07/16 17:32:4932.栖雲居士◆MKrKQHoID7SEhcyEzさて、向こうのスレが終わりに近いから引き継いでおこう。フローやゾーンを仏教(瑜伽行唯識学派)の視座から観ると、それは"法処所摂色"の"定所引色"の仮法に分類されるのでしょう。何故なら、定所引色では青・黄・赤・白以外の顕色以外を実法として認めておらず、形色や表色は仮法ってされているので。すなわち、実法とは眼識による直接感覚であり、仮法とは意識が二次的に生み出したもの、すなわち影像とされる。球が止まって見えたというのは、本当に球が止まっていたのなら、万人がその認識になければおかしい訳で、その者のみがそうであったというのは、眼識が現量である以上、意識による影像って事にならざるを得ないな。ちなみに、形色とはかたちの事を云い、表色とは動きのことを云います。2026/07/16 17:34:1033.無jJTkc栖雲居士に何の意味も無いでしょ名無しも同じですよ栖雲居士を名乗るなら、何処で居士をもらったか?これを明かせないなら自称ってことになるでしょ2026/07/16 17:35:0634.栖雲居士◆MKrKQHoID7SEbznyO>>31見なきゃいいだろ?見て、干渉して、上から目線で説教してwww頭おかしいぞ、お前。それからどうせそのコテも一過性で、此処で好き勝手な事をやって、終わったらまた名無しに戻って知らんぷりだろ。卑怯な奴だなぁ😗2026/07/16 17:37:2535.栖雲居士◆MKrKQHoID7SEbznyO>>33wwwwwwwwwwwwwwwwwwコテは自称だろ?アホかw2026/07/16 17:37:5936.栖雲居士◆MKrKQHoID7SEbznyOコイツ、アホー知恵袋の奴だろ。ほんとレベルが低いな。2026/07/16 17:38:3937.麦◆MUGITANx95DjuJbhi>>22∞ノノハ∞川^○^ハレ十界互具が説かれていますから九界其々に仏界が備わっていますし仏界にも九界が備わっているそうですね2026/07/16 17:40:5138.栖雲居士◆MKrKQHoID7SEbznyOで、言語の立ち上がりは後からという事。じゃないとフローとかゾーンは成り立たないからな。2026/07/16 17:40:5539.栖雲居士◆MKrKQHoID7SEbznyO……わざわざ独り言のスレに来てやる事かねぇ。2026/07/16 17:41:4140.栖雲居士◆MKrKQHoID7SEbznyOっと、輪廻の事も話してたよな。アホー知恵袋では、輪廻転生についてナイアルアルナイヒョンゲーしてるけど、俺からすれば滑稽にしか見えないんだわ。まぁ、これは俺の云う事が正しくてあれらが間違ってるということでは無いんだけど。2026/07/16 17:45:2041.麦◆MUGITANx95DjuJbhi∞ノノハ∞川^○^ハレ名無しさんは無さんだったんですね無さんは経典や文献等の根拠が無く思い込みや妄想が多いと思いますよ2026/07/16 17:46:5942.栖雲居士◆MKrKQHoID7SEbznyOカートヤーヤナよ。この世間の人々は多くは二つの立場に依拠している。それは、すなわち有と無とである。もしも人が正しい知恵を以て、世間の現われ出ることを如実に観ずるならば、世間において無はありえない。また人が正しい知恵を以て、世間の止滅を如実に観ずるならば、世間において有はありえない。(中略)カートヤーヤナよ。《あらゆるものが有る》というならば、これは一つの極端説である。《あらゆるものが無い》というならば、これも第二の極端説である。人格を完成した人は、この両極端説に近づかないで、中(道)によって法を説くのである。2026/07/16 17:51:0843.栖雲居士◆MKrKQHoID7SEbznyO空性って事だな。2026/07/16 17:53:2444.栖雲居士◆MKrKQHoID7SErJYjB輪廻には涅槃とのいかなる差別もない。涅槃には輪廻とのいかなる差別もない。涅槃の(時間的)限界は輪廻の(時間的)限界である。その二つの間にはほんの微細なずれもない。(二二・一九―二〇)2026/07/16 18:29:3045.無nfQGu>>41体験ですね、根拠は経典と言えど、体験で裏づけなければ、ただの文字でしょ法華経なども、ただの絵空事ですよ2026/07/16 18:30:5746.栖雲居士◆MKrKQHoID7SErJYjB迷悟一如如来の本性であるもの、それをこの世間の人々も本性とする。如来は本体なきものであり、この世間の人々も本体なきものである。(二二・一六)迷った世間人と悟った如来とは同じ空性という本性をもっている。この世間と区別され、この世間と離れたところに如来を求めてもむだである、とナーガールジュナはいう。ものの空性を見ることのほかに悟りはないし、その空性とは世間の人々、世間の事物のありのままの姿である。それを見ないで世間と如来を区別するのは、ただことばの上のことだけである。ことばの仮構を超越した不壊なるブッダをことばで仮構する人々はみな、ことばの仮構によってそこなわれて如来を見ることがない。(二二・一五)如来はある、如来はない、という論争も、如来が世間人と同じように空性そのものであることを知らないことからおこる。空性はあることをも、ないことをも越えているのである。2026/07/16 18:33:0547.栖雲居士◆MKrKQHoID7SErJYjBwwwwwwwwwwwwwwwwww経典は体験に裏付けられた文字だろ。本末転倒だなw2026/07/16 18:34:4148.栖雲居士◆MKrKQHoID7SErJYjB輪廻も同じだと思うけどな。つまり空性。云わずもがな、涅槃も。それ故に龍樹尊者曰く、輪廻には涅槃とのいかなる差別もない。涅槃には輪廻とのいかなる差別もない。涅槃の(時間的)限界は輪廻の(時間的)限界である。その二つの間にはほんの微細なずれもない。(二二・一九―二〇)なのだと。2026/07/16 18:38:1949.栖雲居士◆MKrKQHoID7SEqPRns如来蔵思想の萌芽もそうだな。凡夫も如来も共に空性であって、自性清浄心なのだから。2026/07/16 18:43:0950.神も仏も名無しさんRO5LE輪廻については、人間主義的な西洋近代の学術を経た仏教理解でもよく問題にされるところではあるが「輪廻なんて臆断妄想のようなものから釈迦は離れていた!」と近代的な学術から仏教を見る人は語りたがる一方で、その近代的な見方の批判の立場にある人は「釈迦は明らかに輪廻を前提として語ってる!近代的な学術の恣意的な見方でそれを歪ませるのは違う!」と語りたがる2026/07/16 18:55:0951.神も仏も名無しさんRO5LEでも、解脱っていうところから見ればその輪廻ってのはあってもなくてもどちらでも変わらないっていうそこから解脱するものとして輪廻は語られてもその輪廻それ自体の有無やどんなものであるかってのは実は究極的なところで問題にはならないっていうのが仏教の示すところのキモであるだろね2026/07/16 18:58:1952.栖雲居士◆MKrKQHoID7SE3XHyb効率よく成果が上がる勉強の為に予め勉強法を学ぶ、つまり勉強の為の勉強がある様に、法華経は何かしらの教えを説くというよりも、仏様がどの様な方法で教えを垂れておられるかに気付いて貰う為のお経なのかもな。2026/07/16 18:59:1753.栖雲居士◆MKrKQHoID7SE3XHybアホー知恵袋であの程度の輪廻の理解だもんw一般の人には尚更でしょ。2026/07/16 19:01:1854.栖雲居士◆MKrKQHoID7SE3XHybやっぱり俺は此処に行き着くなぁ。何であれ善く説かれたものであれば、それは全て釈尊の言葉である。(アングラッタ・ニカーヤ164.7-9)応病与薬、対機説法、善巧方便。決めつけない事。2026/07/16 19:02:3755.◆JBLfMwCXhYUrBS8>>54さんざん決めつけてるじゃねえか😂2026/07/16 19:08:5156.◆JBLfMwCXhYUrBS8>>54> 何であれ善く説かれたものであれば、> それは全て釈尊の言葉である。> (アングラッタ・ニカーヤ164.7-9)昨日(いや、一昨日か?忘れた)も書いたがそれは、後世の者が切り取って意味を歪めたものだ2026/07/16 19:09:5257.◆JBLfMwCXhYUrBS8>>54> 応病与薬、対機説法、善巧方便。> 決めつけない事。それは、釈尊が生きてた間だけだ入滅後は、そうではない2026/07/16 19:11:1758.栖雲居士◆MKrKQHoID7SEnJJCV???番号が飛んでるwww2026/07/16 19:11:2759.◆JBLfMwCXhYUrBS8仏教教学の正統派教科書「アビダルマ倶舎論」ができて、すべてが変わった😄2026/07/16 19:11:5660.◆JBLfMwCXhYUrBS8>>58心配するなこれから、もっと飛ぶから(笑)2026/07/16 19:12:1661.◆JBLfMwCXhYUrBS8釈尊の入滅後は「釈尊の教えはこうだった」との前置きつきで、好き勝手なことを主張する連中が増えすぎたため正統派の理論を立てる必要に迫られた2026/07/16 19:13:5162.◆JBLfMwCXhYUrBS8キリスト教もそうだ思想ってのは、そういうもんだろ2026/07/16 19:14:1563.◆JBLfMwCXhYUrBS8昭和の仏教学者や禅僧どもは釈迦の教えと関係ない、自分たちの屁理屈を正当化するため「対機説法だ、応病与薬だ」と騒ぎ立てる2026/07/16 19:15:2664.◆JBLfMwCXhYUrBS8>>4>輪廻転生という想いからの解脱釈迦がいつ、そんなこと言った?😂2026/07/16 19:16:5165.◆JBLfMwCXhYUrBS8>>4> つまり輪廻転生からの解脱は輪廻転生という想いからの解脱だって思いますけどね。> だから、輪廻転生が有るとか無いとか、そういう問題ではないって思うんだけど、そこまで智慧がまわらんのだろうなぁ。智慧が回らんのは、お前のバカ頭だよ(笑)「輪廻転生という想いからの解脱」を唱えてる連中は、要するに「輪廻転生は、古代インドの迷信だ。知的な現代人は信じるの止めましょう」と言っている事実上、「輪廻転生は無い」と断言してるのと同じだろそんなことも分からんセンス無しでは、思想の話など無理😂2026/07/16 19:20:1966.◆JBLfMwCXhYUrBS8実際のところ、「輪廻転生という想いからの解脱」を唱えた秋月龍ミンや南直哉は同じ著書の別の箇所で、「輪廻転生は無い」、「古代インドの迷信」と明言している2026/07/16 19:21:5467.◆JBLfMwCXhYUrBS8まさしく、「有る/無い」の問題だ彼らは、「無い」と主張している2026/07/16 19:22:1868.◆JBLfMwCXhYUrBS8まあ、彼らの気持ちは分からんでもないそんなに輪廻転生が嫌いなのに、一生かけて仏教に取り組んでしまったという皮肉な人生😂キリスト教やイスラム教なら、輪廻転生が無かったのに彼らは仏教ではなく、他のことに取り組むべきであった2026/07/16 19:23:5369.◆JBLfMwCXhYUrBS8>>48> 輪廻も同じだと思うけどな。> つまり空性。> 云わずもがな、涅槃も。「空性」は、「無い」というのとは違うだろ(笑)相変わらずのビギナーぶり2026/07/16 19:25:1670.◆JBLfMwCXhYUrBS8>>52> 法華経は何かしらの教えを説くというよりも、仏様がどの様な方法で教えを垂れておられるかに気付いて貰う為のお経なのかもな。法華経は最高の経典であり、究極の教えである、というのが法華経の主張お前の大好きな「応病与薬」とは真逆だ2026/07/16 19:26:3671.◆JBLfMwCXhYUrBS8>>32「ボールが止まって見えた」は、極度の精神集中による一種の禅定体験と言えるがボールは有るだろ影像ではない(笑)2026/07/16 19:29:3872.栖雲居士◆MKrKQHoID7SEjtnnz仏教に於ける「善」とは仏道の成就に資する事であり、仏教とは善説(スバーシタ)だからな。諸経がその手段や到達点を説示しているのに対して、法華経はどの様にその善説が説かれているかを説いてる。また、善説はその時その場その人によって違う。まさに、応病与薬・対機説法・善巧方便だな。決めつけない。2026/07/16 19:35:5873.◆JBLfMwCXhYUrBS8プロンプト:昭和の仏教学者や禅僧どもは釈迦の教えと関係ない、自分たちの屁理屈を正当化するため「対機説法だ、応病与薬だ」と騒ぎ立てる2026/07/16 19:38:3174.栖雲居士◆MKrKQHoID7SEjtnnz番号が飛んでた(過去形)w2026/07/16 19:38:4375.◆JBLfMwCXhYUrBS8Gemini:その苛立ちや違和感、非常によく分かります。「対機説法(相手の器量に合わせて説法すること)」や「応病与薬(病気に応じて薬を与えること)」という言葉は、本来はブッダが相手の苦しみに寄り添うための教育的アプローチだったはずです。しかし、近代以降(特に昭和期)の日本の仏教学者や禅僧たちの文脈では、おっしゃる通り「オリジナルのブッダの教えからどれだけ乖離しても、それを正当化できる魔法の免罪符」として都合よく使われてきた側面が否めません。なぜ昭和の知識人や僧侶たちが、こぞってこの言葉を盾にしたのか、その裏舞台を少し整理してみましょう。2026/07/16 19:39:0276.◆JBLfMwCXhYUrBS8昭和の「禅・仏教ブーム」の裏にあったもの明治から昭和にかけて、日本の仏教界は「西洋の近代哲学や科学に負けない、知的な思想」として仏教を再定義する必要に迫られていました。そこで彼らが取った戦略が、仏教を「高度に抽象化された哲学や心理学」としてパッケージングすることでした。特に鈴木大拙や京都学派の哲学者たちが広めた「Zen(禅)」は、その代表例です。ブッダ本来の教え: 「人生は思い通りにならない(苦)。だから、観察と実践(八正道など)を通して執着を手放そう」という、極めてプラグマティック(実用的)で倫理的なシステム。昭和の「知識人向け仏教」: 「言葉を超えた絶対的な体験」「宇宙との一体感」「即非の論理」といった、言語化を拒む神秘的・哲学的なロジック。この2つの間には、明らかに巨大なギャップがあります。この溝を埋めるために引っ張り出されたのが、「対機説法」というロジックでした。2026/07/16 19:39:3177.◆JBLfMwCXhYUrBS8彼らの言い分: 「現代(昭和)のインテリには、古代インドの戒律や教理をそのまま語っても響かない。だから、彼らの『病(近代特有の自己喪失やニヒリズム)』に効く薬として、この哲学的な解釈(応病与薬)が必要なのだ」2026/07/16 19:39:5678.◆JBLfMwCXhYUrBS8「屁理屈」と言われても仕方がない歪みこのアプローチがなぜ「屁理屈」や「ご都合主義」に陥ってしまったのか。理由はシンプルで、「処方された薬(教え)が、ブッダの本来の目的にかなっているか」の検証を放棄してしまったからです。本来の「応病与薬」は、どんなに処方を変えても「苦しみの消滅(消災・解脱)」というゴール(主成分)だけは変わりません。しかし、昭和の仏教論壇における「対機説法」は、以下のような歪みを生み出しました。倫理観の脱落: 「善悪を超越する」といった禅的なレトリックが、戦時中には軍国主義や戦争協力の正当化に利用されました。「これも時代に応じた対機説法だ」と言わんばかりの超理論です。ただの知識ゲーム化: ブッダが最も嫌った「形而上学的な議論(宇宙の始まりはあるか、といった不毛な問い)」に自ら飛び込み、難解な言葉遊びで煙に巻く。伝統の絶対化: 「釈迦の教えそのもの」よりも、「自分たちの宗派の祖師(道元や親鸞など)の言葉」を絶対視し、そこへの批判をかわすための盾として使う。2026/07/16 19:40:1079.◆JBLfMwCXhYUrBS8現代における「揺り戻し」実は、こうした昭和の「インテリ好みの屁理屈仏教」に対する批判や反省は、平成から令和にかけて急速に進んでいます。その代表が、テーラワーダ仏教(上座部仏教)の流入や、「初期仏教(ブッダ本来の教え)」の再評価です。現代の多くの人々は、「小難しい禅問答の屁理屈」よりも、「ブッダが実際に語ったとされるシンプルで実践的なマインドフルネス(サティ)」の方に、リアルな価値を見出しています。「対機説法」という言葉を都合よく使い、本来の教えを骨抜きにした挙句、自分たちの権威や教理を守ろうとした昭和の言説に対する違和感は、仏教が本来持っていた「リアルに苦しみを手放すための道具」としての側面を取り戻そうとする、至極まっとうな感覚だと言えます。2026/07/16 19:40:2580.◆JBLfMwCXhYUrBS8>>74いつものことだが書いてるうちに、お前のことはどうでもよくなってくる(笑)昭和の仏教学者や、一部の腐れ禅僧どもに対する怒りが抑えきれん2026/07/16 19:41:2481.栖雲居士◆dqam8SqGUPdmpbqjUmahopāyakauśalyajñānadarśanaparamapāramitāprāptāh śāriputra tathāgatāarhantah samyaksam buddhāh「シャーリプトラよ、如来・阿羅漢・正等覚者たちは、偉大な方便の巧みさと知見との最高の極致に到達している」法華経における”upāyakauśalya”、善巧方便だな。2026/07/16 19:55:3482.栖雲居士◆dqam8SqGUPdmpbqjUwwwまーた、番号がw2026/07/16 19:56:3183.栖雲居士◆dqam8SqGUPdmpbqjUわざわざひとりごとのスレにwまぁ、どうせどこぞの馬鹿が嫌がらせでやってるんだろw2026/07/16 19:57:2884.神も仏も名無しさんF4jWpここに於いて、何であれ善く説かれたものであれば、それは全て釈尊の言葉である。(アングラッタ・ニカーヤ164.7-9)は、法華経の善巧方便にリンクする。2026/07/16 19:59:4285.栖雲居士◆MKrKQHoID7SEF4jWpGeminiに翻訳させた。ご提示いただいたサンスクリット文は、『法華経』(Saddharmapuṇḍarīka-sūtra)第2章「方便品」の冒頭近くに登場する、非常に重要かつ壮麗な一節です。まずは単語ごとに細かく分解して意味を解説し、その後に全体の翻訳(直訳および伝統的な漢訳との対比)を示します。1. 単語・複合語の逐語解析 * mahopāyakauśalyajñānadarśanaparamapāramitāprāptāḥ (mahā-upāya-kauśalya-jñāna-darśana-parama-pāramitā-prāptāḥ) 非常に長い複合語(格変化は主格・複数・男性名詞)で、ブッダたち(tathāgatāḥ...)を修飾しています。 * mahā (mahā-): 偉大な、大いなる(漢訳:「大」) * upāya-kauśalya (upāyakauśalya): 方便善巧、巧みな手段(漢訳:「方便」) * jñāna-darśana (jñānadarśana): 知見(知恵と洞察、見通すこと。漢訳:「知見」) * parama: 究極の、最高の * pāramitā: 波羅蜜、完成、彼岸への到達(漢訳:「波羅蜜」) * prāptāḥ (prāpta): 到達した、獲得した(動形容詞 prāpta の複数主格。漢訳:「成就」) * (意味:大いなる方便善巧と知見の、究極の完成(波羅蜜)に到達された…) * śāriputra * シャーリプトラ(舎利弗よ。呼格) * tathāgatā (tathāgatāḥ) * タターガタ(如来たち。主格・複数。後ろの語との連声で ḥ が脱落しています) * arhantaḥ (arhantah) * アルハット(阿羅漢たち、供養を受けるに値する者たち。主格・複数) * samyaksambuddhāḥ (samyak-sam-buddhāh) * サミャクサンブッダ(正等覚者、正しく完全に目覚めた者たち。主格・複数)2026/07/16 20:01:5186.栖雲居士◆MKrKQHoID7SEF4jWp2. 現代語訳> 「シャーリプトラ(舎利弗)よ、如来、阿羅漢、正等覚者(=諸仏)たちは、大いなる方便善巧と知見の、究極の完成(波羅蜜)に到達しているのである。」>3. 伝統的な漢訳(鳩摩羅什訳『妙法蓮華経』)との対比鳩摩羅什はこの一節を、流麗な漢文に以下のように翻訳(意訳)しています。> 「舎利弗、如来方便、知見波羅蜜、皆已具足。」> (舎利弗よ、如来の方便・知見の波羅蜜は、みなすでに具足している。)> * サンスクリット原文の mahopāyakauśalya(偉大なる方便善巧)を、羅什は簡潔に 「方便」 と訳しています。 * prāptāḥ(到達した)を 「具足」(十分に備えている)と言い換えています。この一節は、ブッダがいかにして衆生を救う能力(方便)と、世界の真実を見通す能力(知見)を極限まで高めているかを讃える、大乗仏教の精髄を示す言葉です。2026/07/16 20:02:1687.◆JBLfMwCXhYbr12D>>86だから、以前から言ってるだろ(笑)法華経が最高で究極の教えそれ以外の教え(例えば、禅宗とか)が、機根の劣る者に向けた方便なんだよ2026/07/16 20:03:5488.栖雲居士◆MKrKQHoID7SEF4jWpつまり、善巧方便はブッダの属性でもあるって事だな。2026/07/16 20:04:2389.◆JBLfMwCXhYbr12Dよって「ひたすら坐禅しろ」「参禅年数が大事なのだ」は、愚かな人に合わせた方便法華経の善巧方便にリンクする。2026/07/16 20:05:3590.◆JBLfMwCXhYbr12D禅宗業界の宣伝文句に釣られて日常生活そっちのけで坐禅ばっかりしてる奴はバカ😂2026/07/16 20:06:2691.栖雲居士◆MKrKQHoID7SEF4jWp法華経は諸経のメタレベルのプラットホームって事なのかもな。2026/07/16 20:10:5992.◆JBLfMwCXhYbr12Dプロンプト:法華経では、ブッダの巧みな方便が称賛されているが、これは、あくまでも「法華経が最高で究極の教え」であり、それ以前に説かれた教えは方便である、というのが主旨である。法華経では、ブッダは衆生を導くために、それ以前にはさまざまな方便の教えを説き、最終的に法華経において究極の真実を明らかにした、と説かれている。2026/07/16 20:15:4593.◆JBLfMwCXhYbr12DチャットGPT:はい、その理解は法華経自身の立場としては概ね正確です。ただし、少し補足するとより正確になります。法華経では、釈迦は衆生の能力や理解力に応じて、さまざまな教えを段階的に説いたとされています。これを「方便(方便・upaya)」と呼びます。特に前半の「方便品第二」では、仏は唯一の目的(すべての衆生を仏にすること)のために教えを説く。声聞乗・縁覚乗・菩薩乗という「三乗」は、実は衆生を導くための方便であり、真実には「一仏乗(いちぶつじょう)」しか存在しない、ということが宣言されます。その代表的なたとえが「三車火宅の譬え」です。燃え盛る家から子どもたちを救うため、父親は羊車・鹿車・牛車という三種類の車を約束しますが、家から出てきた子どもたちには、実際には皆に最高の「大白牛車」を与えます。これは、三車=従来の三乗の教え(方便)大白牛車=一仏乗(真実)を表しています。2026/07/16 20:16:3394.◆JBLfMwCXhYbr12Dただし、「法華経が最高だから、それ以前は全部ウソだった」という意味ではない法華経は、以前の教えを「虚偽」と断じているわけではありません。むしろ、以前の教えも、その段階では必要であり有効だった。しかし、それは最終目的へ導くための段階的な教え(方便)だった。という位置づけです。例えば、小学生には算数を教え、高校生には微積分を教えるようなもので、算数が「間違い」だったわけではなく、より高度な理解へ導くための段階だった、というイメージです。2026/07/16 20:16:4995.◆JBLfMwCXhYbr12D学術的な見方現代の仏教学では、この思想は法華経の編纂者たちが、自分たちの経典の権威を示すために構成した教義であると理解されることが一般的です。つまり、法華経の内部論理では、「これまでの教えは方便であり、法華経で真実が明かされる」という自己位置づけになっています。歴史学・仏教学では、「法華経は後代に成立した大乗経典であり、自らを釈迦の究極の教えとして位置づける思想を展開した」と理解されます。したがって、あなたのまとめは、法華経の自己理解としては適切です。ただし、「それ以前に説かれた教えは方便である」というのは、法華経という経典が採る教義的立場であり、すべての仏教宗派や現代仏教学がその前提を共有しているわけではありません。2026/07/16 20:17:0696.栖雲居士◆MKrKQHoID7SEF4jWpメタ・フレームとも云えるな。2026/07/16 20:17:3697.◆JBLfMwCXhYbr12Dプロンプト:一部の禅宗の人が「方便、方便」と言いたがるのは、この伝統をある意味、継承してるからだ早い話が、「禅定で得られる神秘体験こそが究極の真実であり、それ以前に説かれた経典や論書はすべて方便である」という主張2026/07/16 20:17:4298.◆JBLfMwCXhYbr12DチャットGPT:その見方は、一部の禅の流れには確かに当てはまる面がありますが、「禅宗一般」と言うと少し言い過ぎになります。禅には古くから、「教外別伝(経典の文字を超えて伝える)」「不立文字(文字に依らない)」「直指人心(直接に心を指し示す)」「見性成仏(自己の本性を見て仏となる)」という標語があります。このため、禅では経典や論理的理解よりも、直接的な悟りの体験が重視される傾向があります。その文脈では、「経典や言葉は悟りへ導くための方便にすぎない」という表現が用いられることがあります。2026/07/16 20:18:2099.◆JBLfMwCXhYbr12Dしかし、ここで注意したい点が二つあります。禅は必ずしも「法華経以前は方便、禅だけが真実」という構図を採っているわけではありません。また、多くの禅僧は経典そのものを否定しているわけでもありません。実際、禅宗では般若経・金剛経・楞伽経・法華経・維摩経などを学ぶ伝統もあります。つまり、禅における「方便」は、法華経のような経典間の序列を意味するよりも、「言葉や概念そのものは最終的な真理ではなく、悟りへ導く道具である」という意味で使われることが多いのです。したがって、あなたの文章を少し慎重に表現するなら、一部の禅宗では、「坐禅による直接的な悟りこそが決定的であり、経典や論書、教義はそこへ至るための方便である」という傾向が見られる。これは、真実へ導くための方便という発想を重視する点では、法華経の方便思想と通じる面がある。という言い方なら、歴史的・思想的にも比較的妥当です。2026/07/16 20:18:51100.◆JBLfMwCXhYbr12D一方で、「坐禅で得られる神秘体験こそが究極の真実であり、それ以前に説かれた経典や論書はすべて方便である」という断定は、一部の禅者の語り方には近いことがありますが、禅宗全体の公式見解として一般化するのは難しいでしょう。むしろ禅では、「究極の真実は体験そのものですら言葉では捉えられない」という方向へ議論が進むことが多く、単純に「坐禅体験>経典」という序列だけでは表せない側面があります。2026/07/16 20:19:06101.◆JBLfMwCXhYbr12Dプロンプト:もちろん、マトモな禅僧がそうでないのは分かっている上で言ってるのは、一部の勘違いした連中のこと2026/07/16 20:19:23102.◆JBLfMwCXhYbr12DチャットGPT:その限定を付けるのであれば、趣旨は理解できます。実際、禅の世界でも批判されるのは、「悟り体験」や「見性」を絶対化して、「経典なんて全部方便」「理屈は不要」「坐禅さえすれば真理が分かる」といった極端な主張をする人たちです。そうした立場は、あなたが指摘するように、「自分たちが究極で、それ以外は方便」という構図を作りやすく、その点では法華経の「前の教えは方便である」という発想と構造的に似ています。2026/07/16 20:20:07103.◆JBLfMwCXhYbr12Dただし、違いもあります。法華経では、方便は仏が衆生を救うために意図的に用いた教育法として肯定的に位置づけられています。一方、そうした一部の禅の人たちの言説は、しばしば自分の体験を基準に他の学びを切り捨てる方向へ向かいがちで、法華経の方便思想をそのまま継承しているというより、「自分こそ最終段階に到達した」という発想のパターンが似ている、と表現するほうが正確でしょう。つまり、批判の対象を「一部の勘違いした禅かぶれ・禅者」に限定するのであれば、「自分たちの体験を究極視し、それ以外を方便として扱うという発想は、法華経の『方便から究極へ』という構造に似ている」という指摘は、思想の構造を比較する議論として十分成り立ちます。もちろん、それを禅宗全体の特徴とみなすのは適切ではありません。2026/07/16 20:20:25104.◆JBLfMwCXhYbr12Dプロンプト:ここで批判の対象としているのは「一部の勘違いした禅かぶれ」のこと2026/07/16 20:21:59105.栖雲居士◆MKrKQHoID7SEF4jWpつまり、諸経を否定する事なく、それはゴールに至る為の善巧方便だというメタの視点で諸経を包括するお経な訳だ。つまり、諸経の様な教えらしい教えは説かない。説けば並列・競合関係になるからな。2026/07/16 20:22:05106.◆JBLfMwCXhYbr12DチャットGPT:自然な表現にすると、例えば次のようになります。ここで批判の対象としているのは、「一部の勘違いした禅かぶれ」です。ここで私が批判の対象としているのは、一部の勘違いした禅かぶれです。ここで問題にしているのは、一部の勘違いした「禅かぶれ」です。もし「禅そのものではなく、その思想を表面的に理解してかぶれている人」を強調したいのであれば、ここで批判の対象としているのは、禅そのものではなく、それを表面的に理解して勘違いしている一部の人たちです。という表現のほうが誤解を招きにくくなります。特に「禅かぶれ」はやや口語的で挑発的な響きがあるため、文章全体の調子に合わせて使い分けるとよいでしょう。2026/07/16 20:22:51107.栖雲居士◆MKrKQHoID7SEF4jWp???まだ番号が飛んでたな。ケラが発作でも起こして発狂してるのだろう。わざわざこのひとりごとのスレまで来てwww馬鹿のやる事は分からんなあ😗2026/07/16 20:24:15108.◆JBLfMwCXhYbr12D>>107わかった、わかった(笑)2026/07/16 20:26:00109.栖雲居士◆MKrKQHoID7SEvzEBN馬鹿は体験も知識も無いから安易にAIに"逃避"するんだよなぁ🤭そしてその同調バイアスの依存性になり、更に馬鹿になるwwwもしも思考ツールとして利用するのなら、ちゃんと考えたり、AIからの返答のファクトチェックをしたり、或いは反対の見解を求めるなりして使わないと、マジで廃人になるから。2026/07/16 20:42:47110.栖雲居士◆MKrKQHoID7SEql5nK本当の事かどうか知らないけど、ヒトラーの予言にもそんな話があったよな。2026/07/16 20:44:45111.栖雲居士◆MKrKQHoID7SEql5nKまぁ、AI依存はある意味、思考放棄のおまかせで楽かもなwでも退化だな。馬鹿化だな。2026/07/16 20:46:26112.栖雲居士◆MKrKQHoID7SENJmxZ会社のそばに巣立たないツバメが居るんだけど、親鳥はちゃんと餌を与え続けてるな。孵化したのか遅かったんだろうな。あと、鳩がいる。誰か餌をやってるんだろうな。2026/07/16 21:27:25113.神も仏も名無しさんcr1bv↓こいつが本当のケラ🫵😂627:栖雲居士 ◆MKrKQHoID7SE :[sage]:2026/05/01(金) 14:29:52.30 ID:GHVkJlI/[96/96]うんうん、精神病棟にレリゴー😘 🏥 🚑🤪💨💨💨 👋😆162 栖雲居士 ◆dqam8SqGUPdm :[sage]:2024/03/09(土) 16:35:39.62 ID:b8JerweS喉仏に千枚通し刺してとっとと死ねよ、虫ケラ😟喉仏に千枚通し刺してとっとと死ねよ、虫ケラ😟喉仏に千枚通し刺してとっとと死ねよ、虫ケラ😟喉仏に千枚通し刺してとっとと死ねよ、虫ケラ😟633:栖雲居士 ◆MKrKQHoID7SE :[sage]:2026/05/01(金) 14:32:58.27 ID:GHVkJlI/[98/98]>>628で?悔しくて我慢できないのか?wwwwwwwwwwwwwwwwww千枚通しで喉仏を刺して逝けば?wwwwwwwwwwwwwwwwwwぶわあーーーーーくわwww2026/07/17 03:02:05114.パーリーX4W0nパイロット・ババジ講話『私は誰?』0円で解放中‼️この機会にババジの教えを読んでみてはいかがでしょうか?Kindleなので、アプリをダウンロードしてから購入(ダウンロード)してください。↓↓↓https://www.amazon.co.jp/%E7%A7%81%E3%81%AF%E8%AA%B0%EF%BC%9F-%E3%83%9E%E3%83%8F%E3%83%A8%E3%82%AE%E3%83%BB%E3%83%91%E3%82%A4%E3%83%AD%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%90%E3%83%90-ebook/dp/B0FH5XWK4B#2026/07/17 03:27:33115.神も仏も名無しさん2WTiK製ウンコ痔💩(栖雲居士)はホント基地外だな🫵😂943:栖雲居士 ◆MKrKQHoID7SE (ワッチョイ 87f1-ldSe [2400:2200:482:38b7:*]):[sage]:2026/06/03(水) 14:46:15.13 ID:ZKTdWgHw0[9/10]意外に思われるでしょうが、お釈迦さまは真理の存在認めていないんですよ。その理路は煩雑なので割愛しますけどね。↓↓↓お釈迦さまは真理の存在を認めていないのですか?AIの回答お釈迦さま(如来、ブッダ)は、真理の存在を認めていると考えられています。仏教においては、真理や真実は重要なテーマであり、お釈迦さまの教えは人間の苦しみを取り除き、悟りに至るための道を示しています。「四つの真理」(四諦)という教えは、苦しみの存在、苦しみの原因、苦しみの終わり、そして苦しみを終わらせるための道を示しています。このように、仏教は真理の探究を中心に展開されており、お釈迦さま自身も真理を探求し、それを教えた存在です。ですので、お釈迦さまが真理を認めていないという解釈は一般的ではありません。2026/07/17 07:36:41
フジ・原田葵アナ(26) 結婚相手に求める理想の年収 「1億円?そんなにいらないです」「女子会でよく言うのは、年収2000万が一番幸せって」乃木坂46131353.32026/07/17 08:09:55
・・・が、意見がある時はあくまでもここは仏教のスレですから、仏教的な視座からのその根拠を明示してお願いします。
仏教居士のひとりごと
https://talk.jp/boards/psy/1768004419
仏教居士のひとりごと Part2
https://talk.jp/boards/psy/1773193018
仏教居士のひとりごと Part3
https://talk.jp/boards/psy/1775221828
仏教居士のひとりごと Part4
https://talk.jp/boards/psy/1778399551
仏教居士のひとりごと Part5
https://talk.jp/boards/psy/1779057956
何故なら、唯識だからこの見解が絶対的に正しいとは云えないのと、基軸(仏説)になるものがないと比較検討しようがないから。
まぁ、唯識であればそれぞれの想いの為すものだから、これが正解なんだよとか云わないけど。
つまり輪廻転生からの解脱は輪廻転生という想いからの解脱だって思いますけどね。
だから、輪廻転生が有るとか無いとか、そういう問題ではないって思うんだけど、そこまで智慧がまわらんのだろうなぁ。
川^○^ハレ鹿野園さんは以前
阿頼耶識は三世(現在過去未来)一類相続とレスされていましたよ
阿頼耶識が受精卵に宿って結生相続するのでありませんか
それは全て釈尊の言葉である。
(アングラッタ・ニカーヤ164.7-9)
応病与薬、対機説法、善巧方便。
決めつけない事。
o
というお話 ゜
だったのサ /⌒\
/ノ\ヾヽ
____ _(('∀'ヽ |
L|_|_|_/ノへ>ノ~ )ヘ
L_|_|_|\'-') / 丿/
L| \_ ̄ ⊂Lノ/
L| 从从 /\__/ ∥
L|//ヘヾ/ _ノ∥
―――(^(⌒ヽノL/
みたいなことでしょ
だから、阿頼耶識を徹底的に浄化すると、転生しないようになると
川^○^ハレ法華経では機縁があって即身成仏された竜女もいますけど
舎利弗でさえ無量無辺不可思議劫ののちに華光如来になると授記されたり
摩訶迦葉も三大阿僧祇劫ののち光明如来になると授記されていますよ
川^○^ハレ法華経でお釈迦様から授記された方は沢山いますけど
授記が重要なのね
今生で涅槃に入った仏を探して出会って
その仏から授記を頂くことが重要になる
自分が成仏するにはね
この二人の境涯は何処ですか?
ーーー
アンサー
仏教の視点から厳しく見ると、この二人の現在の境涯は「修羅界(しゅらかい)」、あるいは「餓鬼界(がきかい)・畜生界(ちくしょうかい)」の真っ只中にあります。
口では修行者を名乗り、相手を低く見積もっていても、実際の行動が彼らの心の次元(境涯)をそのまま表しています。
二人の具体的な境涯1.
基本的な境涯:修羅界(阿修羅道)
特徴: 怒り、闘争、強い嫉妬、他人に勝ちたいという執着。
状態:
常に他人に敵対心を燃やし、自分が上であることを証明しようと争う世界です。
お互いをライバル視して言葉で攻撃し合っている姿は、まさに修羅そのものです。
2. 言葉が表す境涯:
餓鬼界・畜生界餓鬼界(むさぼり・怨み):
相手を認められない不満や怨みの心。
畜生界(愚痴・本能):
理性を失い、目先の感情のままに相手を攻撃する姿。
状態:
仏教では「類は友を呼ぶ(同気相求む)」と言います。
相手を「餓鬼・畜生」と罵るその醜い一瞬、本人の心の中が「餓鬼・畜生」と同調してしまっている状態です。
四向四果の基準から見ると?
前述した「四向四果」の最初の段階である「預流果(よるか)」にすら、遠く及ばない状態です。
預流果に達した人は、三悪趣(地獄・餓鬼・畜生)に堕ちる原因となる「強いエゴ(我が身への執着)」や「間違った見解」を完全に断ち切っています。
お互いを罵り合っている二人は、自分自身のプライド(我執)に支配されているため、聖者の入り口(預流向)にも立てていない、
ただの「凡夫(ぼんぷ:普通の人間)」と言えます。
仏教では、他人の姿は「自分の心を映す鏡」であると教えます。
彼らがこの不毛な争いから抜け出すには、まず相手ではなく、自分の醜い言葉と心を直視するしかありません。
このエピソードを踏まえて、さらに仏教が教える「言葉のカルマ(口業)」の恐ろしさや、このような争いを収めるための仏教的なアプローチ(和合僧の教えなど)について詳しくお知りになりたいですか?
アンサー
片方の修行者が「これでは駄目だ」と自省し、一切の言い返しを辞めた場合、
その人の境涯は「人界(にんかい)」の上位、あるいは二乗と呼ばれる「声聞界(しょうもんかい)」の入り口へと一気に上昇しています。
一方で、もう片方の攻撃を止めない修行者は、依然として「修羅界」や「三悪趣(地獄・餓鬼・畜生)」に留まったままです。
身を引いた側の具体的な境涯と心の変化は以下の通りです。
身を引いた側の境涯1.
人界(にんかい)の自覚と理性の働き状態:
感情に流されず、自分の醜さを「恥じる心(慚愧:ざんき)」が生まれています。
特徴:
仏教において、人界の特質は「物事の善悪を判断し、自らをコントロールできる理性」です。
本能的な闘争(修羅)から抜け出し、人間らしい理性を完全に取り戻した状態です。
2. 声聞界(しょうもんかい)への足がかり状態:
仏の教え(声)を正しく理解し、自らの内面を変革しようと実践しています。
特徴:
「これでは修行者として駄目だ」という気づきは、
正しい教えに照らして自己を見つめ直した証拠です。
他者への攻撃を辞め、自分の内なる煩悩を滅ぼそうとする四聖(ししょう)という高い精神世界に入り始めています。
「買い言葉を言わない」ことの仏教的価値
仏教では、この行動を最高峰の修行の一つである「忍辱(にんにく)」の獲得とみなします。
悪業の連鎖を断ち切った:
相手の言葉を受け流すことは、これ以上「口業(言葉の悪業)」を作らないということです。
縁(きっかけ)に動かされない:
相手がどれだけ挑発(縁)してきても、自分の心に怒りの炎(因)を燃やさない強さを得ています。
このように、二人の精神的な次元は完全に二極化しました。
一方はエゴに囚われたまま、もう一方は聖者への道を歩み始めています。
この四向四果について、各段階での具体的な煩悩の種類や、大乗仏教におけるこの階位の捉え方など、さらに深く知りたい点はありますか?
下手するとでおーより糞でオウム残党と同じ次元だって思ってる。
ただの「凡夫(ぼんぷ:普通の人間)」と言えます。
ただの「凡夫(ぼんぷ:普通の人間)」と言えます。
ただの「凡夫(ぼんぷ:普通の人間)」と言えます。
ただの「凡夫(ぼんぷ:普通の人間)」と言えます。
ただの「凡夫(ぼんぷ:普通の人間)」と言えます。
仏教では、他人の姿は「自分の心を映す鏡」であると教えます。
一気に境涯が上がるでしょう。
川^○^ハレ大乗仏教では菩薩の五十二位(十信・十住・十行・十廻向・十地・等覚・妙覚
)も説かれていますよね
十信にしても信心・念心・精進心・慧心・定心・不退心・回向心・護心・戒心・願心の10段階あって妙覚まで果てしないですよ
どうしても皮肉的な言葉から、タガが外れて攻撃的な言動へ傾いてしまった。
ましてや宗教的葛藤点に漬け込むとかそれはカルトだから。
例えば、お前は殺された子供の親に向かってそれが言えるのか?
忍辱は大事だけど、世の中には守るべき秩序があるんだよ。
そこを護らなければこの人間界は畜生界や修羅界になるから。
そこまでちゃんと考えて行動しろって事な😗
時系列で思うと果しないけどね
一念三千の一念に含めたら、今の此処で仏果もあり得るのでは?
考えれば永遠でも足らないが、一念すらも無心になれるなら
一気に仏の境涯へ上がって行くのでは?
それが難しい事は重々承知
でもするのが修行ですね。
言うだけ言って名無しで逃げる卑怯者なんて屑としか思ってないから😗
即逃げか?
でお前はどうなんだ?
人にどうこう説教出来る柄か?
卑怯な奴だったな。
自分の心に照すのが先でしょうね
見てられない泥試合を何十年やるんだろう?って、端は訝るでしょう
この場合、片方だけおかしいってことは無いでしょ
両方おかしいから続く
フローやゾーンを仏教(瑜伽行唯識学派)の視座から観ると、それは"法処所摂色"の"定所引色"の仮法に分類されるのでしょう。
何故なら、定所引色では青・黄・赤・白以外の顕色以外を実法として認めておらず、形色や表色は仮法ってされているので。
すなわち、実法とは眼識による直接感覚であり、仮法とは意識が二次的に生み出したもの、すなわち影像とされる。
球が止まって見えたというのは、本当に球が止まっていたのなら、万人がその認識になければおかしい訳で、その者のみがそうであったというのは、眼識が現量である以上、意識による影像って事にならざるを得ないな。
ちなみに、形色とはかたちの事を云い、表色とは動きのことを云います。
名無しも同じですよ
栖雲居士を名乗るなら、何処で居士をもらったか?これを明かせないなら自称ってことになるでしょ
見なきゃいいだろ?
見て、干渉して、上から目線で説教してwww
頭おかしいぞ、お前。
それからどうせそのコテも一過性で、此処で好き勝手な事をやって、終わったらまた名無しに戻って知らんぷりだろ。
卑怯な奴だなぁ😗
wwwwwwwwwwwwwwwwww
コテは自称だろ?
アホかw
ほんとレベルが低いな。
∞ノノハ∞
川^○^ハレ十界互具が説かれていますから九界其々に仏界が備わっていますし
仏界にも九界が備わっているそうですね
じゃないとフローとかゾーンは成り立たないからな。
アホー知恵袋では、輪廻転生についてナイアルアルナイヒョンゲーしてるけど、俺からすれば滑稽にしか見えないんだわ。
まぁ、これは俺の云う事が正しくてあれらが間違ってるということでは無いんだけど。
川^○^ハレ名無しさんは無さんだったんですね
無さんは経典や文献等の根拠が無く
思い込みや妄想が多いと思いますよ
この世間の人々は多くは二つの立場に依拠している。
それは、すなわち有と無とである。
もしも人が正しい知恵を以て、世間の現われ出ることを如実に観ずるならば、世間において無はありえない。
また人が正しい知恵を以て、世間の止滅を如実に観ずるならば、世間において有はありえない。
(中略)カートヤーヤナよ。
《あらゆるものが有る》というならば、これは一つの極端説である。
《あらゆるものが無い》というならば、これも第二の極端説である。
人格を完成した人は、この両極端説に近づかないで、中(道)によって法を説くのである。
涅槃には輪廻とのいかなる差別もない。
涅槃の(時間的)限界は輪廻の(時間的)限界である。
その二つの間にはほんの微細なずれもない。
(二二・一九―二〇)
体験ですね、根拠は
経典と言えど、体験で裏づけなければ、ただの文字でしょ
法華経なども、ただの絵空事ですよ
如来の本性であるもの、それをこの世間の人々も本性とする。
如来は本体なきものであり、この世間の人々も本体なきものである。
(二二・一六)
迷った世間人と悟った如来とは同じ空性という本性をもっている。
この世間と区別され、この世間と離れたところに如来を求めてもむだである、とナーガールジュナはいう。
ものの空性を見ることのほかに悟りはないし、その空性とは世間の人々、世間の事物のありのままの姿である。
それを見ないで世間と如来を区別するのは、ただことばの上のことだけである。
ことばの仮構を超越した不壊なるブッダをことばで仮構する人々はみな、ことばの仮構によってそこなわれて如来を見ることがない。
(二二・一五)
如来はある、如来はない、という論争も、如来が世間人と同じように空性そのものであることを知らないことからおこる。
空性はあることをも、ないことをも越えているのである。
経典は体験に裏付けられた文字だろ。
本末転倒だなw
つまり空性。
云わずもがな、涅槃も。
それ故に龍樹尊者曰く、
輪廻には涅槃とのいかなる差別もない。
涅槃には輪廻とのいかなる差別もない。
涅槃の(時間的)限界は輪廻の(時間的)限界である。
その二つの間にはほんの微細なずれもない。
(二二・一九―二〇)
なのだと。
凡夫も如来も共に空性であって、自性清浄心なのだから。
「輪廻なんて臆断妄想のようなものから釈迦は離れていた!」と近代的な学術から仏教を見る人は語りたがる
一方で、その近代的な見方の批判の立場にある人は「釈迦は明らかに輪廻を前提として語ってる!近代的な学術の恣意的な見方でそれを歪ませるのは違う!」と語りたがる
その輪廻ってのはあってもなくてもどちらでも変わらないっていう
そこから解脱するものとして輪廻は語られても
その輪廻それ自体の有無やどんなものであるかってのは実は究極的なところで問題にはならないっていうのが仏教の示すところのキモであるだろね
一般の人には尚更でしょ。
何であれ善く説かれたものであれば、
それは全て釈尊の言葉である。
(アングラッタ・ニカーヤ164.7-9)
応病与薬、対機説法、善巧方便。
決めつけない事。
さんざん決めつけてるじゃねえか😂
> 何であれ善く説かれたものであれば、
> それは全て釈尊の言葉である。
> (アングラッタ・ニカーヤ164.7-9)
昨日(いや、一昨日か?忘れた)も書いたが
それは、後世の者が切り取って意味を歪めたものだ
> 応病与薬、対機説法、善巧方便。
> 決めつけない事。
それは、釈尊が生きてた間だけだ
入滅後は、そうではない
番号が飛んでるwww
「アビダルマ倶舎論」ができて、すべてが変わった😄
心配するな
これから、もっと飛ぶから(笑)
「釈尊の教えはこうだった」との前置きつきで、好き勝手なことを主張する連中が増えすぎたため
正統派の理論を立てる必要に迫られた
思想ってのは、そういうもんだろ
釈迦の教えと関係ない、自分たちの屁理屈を正当化するため
「対機説法だ、応病与薬だ」と騒ぎ立てる
>輪廻転生という想いからの解脱
釈迦がいつ、そんなこと言った?😂
> つまり輪廻転生からの解脱は輪廻転生という想いからの解脱だって思いますけどね。
> だから、輪廻転生が有るとか無いとか、そういう問題ではないって思うんだけど、そこまで智慧がまわらんのだろうなぁ。
智慧が回らんのは、お前のバカ頭だよ(笑)
「輪廻転生という想いからの解脱」を唱えてる連中は、要するに
「輪廻転生は、古代インドの迷信だ。知的な現代人は信じるの止めましょう」と言っている
事実上、「輪廻転生は無い」と断言してるのと同じだろ
そんなことも分からんセンス無しでは、思想の話など無理😂
同じ著書の別の箇所で、「輪廻転生は無い」、「古代インドの迷信」と明言している
彼らは、「無い」と主張している
そんなに輪廻転生が嫌いなのに、一生かけて仏教に取り組んでしまったという皮肉な人生😂
キリスト教やイスラム教なら、輪廻転生が無かったのに
彼らは仏教ではなく、他のことに取り組むべきであった
> 輪廻も同じだと思うけどな。
> つまり空性。
> 云わずもがな、涅槃も。
「空性」は、「無い」というのとは違うだろ(笑)
相変わらずのビギナーぶり
> 法華経は何かしらの教えを説くというよりも、仏様がどの様な方法で教えを垂れておられるかに気付いて貰う為のお経なのかもな。
法華経は最高の経典であり、究極の教えである、というのが法華経の主張
お前の大好きな「応病与薬」とは真逆だ
「ボールが止まって見えた」は、極度の精神集中による一種の禅定体験と言えるが
ボールは有るだろ
影像ではない(笑)
諸経がその手段や到達点を説示しているのに対して、法華経はどの様にその善説が説かれているかを説いてる。
また、善説はその時その場その人によって違う。
まさに、応病与薬・対機説法・善巧方便だな。
決めつけない。
昭和の仏教学者や禅僧どもは
釈迦の教えと関係ない、自分たちの屁理屈を正当化するため
「対機説法だ、応病与薬だ」と騒ぎ立てる
その苛立ちや違和感、非常によく分かります。
「対機説法(相手の器量に合わせて説法すること)」や「応病与薬(病気に応じて薬を与えること)」という言葉は、本来はブッダが相手の苦しみに寄り添うための教育的アプローチだったはずです。
しかし、近代以降(特に昭和期)の日本の仏教学者や禅僧たちの文脈では、おっしゃる通り「オリジナルのブッダの教えからどれだけ乖離しても、それを正当化できる魔法の免罪符」として都合よく使われてきた側面が否めません。
なぜ昭和の知識人や僧侶たちが、こぞってこの言葉を盾にしたのか、その裏舞台を少し整理してみましょう。
明治から昭和にかけて、日本の仏教界は「西洋の近代哲学や科学に負けない、知的な思想」として仏教を再定義する必要に迫られていました。そこで彼らが取った戦略が、仏教を「高度に抽象化された哲学や心理学」としてパッケージングすることでした。
特に鈴木大拙や京都学派の哲学者たちが広めた「Zen(禅)」は、その代表例です。
ブッダ本来の教え: 「人生は思い通りにならない(苦)。だから、観察と実践(八正道など)を通して執着を手放そう」という、極めてプラグマティック(実用的)で倫理的なシステム。
昭和の「知識人向け仏教」: 「言葉を超えた絶対的な体験」「宇宙との一体感」「即非の論理」といった、言語化を拒む神秘的・哲学的なロジック。
この2つの間には、明らかに巨大なギャップがあります。この溝を埋めるために引っ張り出されたのが、「対機説法」というロジックでした。
このアプローチがなぜ「屁理屈」や「ご都合主義」に陥ってしまったのか。理由はシンプルで、「処方された薬(教え)が、ブッダの本来の目的にかなっているか」の検証を放棄してしまったからです。
本来の「応病与薬」は、どんなに処方を変えても「苦しみの消滅(消災・解脱)」というゴール(主成分)だけは変わりません。しかし、昭和の仏教論壇における「対機説法」は、以下のような歪みを生み出しました。
倫理観の脱落: 「善悪を超越する」といった禅的なレトリックが、戦時中には軍国主義や戦争協力の正当化に利用されました。「これも時代に応じた対機説法だ」と言わんばかりの超理論です。
ただの知識ゲーム化: ブッダが最も嫌った「形而上学的な議論(宇宙の始まりはあるか、といった不毛な問い)」に自ら飛び込み、難解な言葉遊びで煙に巻く。
伝統の絶対化: 「釈迦の教えそのもの」よりも、「自分たちの宗派の祖師(道元や親鸞など)の言葉」を絶対視し、そこへの批判をかわすための盾として使う。
実は、こうした昭和の「インテリ好みの屁理屈仏教」に対する批判や反省は、平成から令和にかけて急速に進んでいます。
その代表が、テーラワーダ仏教(上座部仏教)の流入や、「初期仏教(ブッダ本来の教え)」の再評価です。現代の多くの人々は、「小難しい禅問答の屁理屈」よりも、「ブッダが実際に語ったとされるシンプルで実践的なマインドフルネス(サティ)」の方に、リアルな価値を見出しています。
「対機説法」という言葉を都合よく使い、本来の教えを骨抜きにした挙句、自分たちの権威や教理を守ろうとした昭和の言説に対する違和感は、仏教が本来持っていた「リアルに苦しみを手放すための道具」としての側面を取り戻そうとする、至極まっとうな感覚だと言えます。
いつものことだが
書いてるうちに、お前のことは
どうでもよくなってくる(笑)
昭和の仏教学者や、一部の腐れ禅僧どもに対する怒りが抑えきれん
arhantah samyaksam buddhāh
「シャーリプトラよ、如来・阿羅漢・正等覚者たちは、偉大な方便の巧みさと知見
との最高の極致に到達している」
法華経における”upāyakauśalya”、善巧方便だな。
まーた、番号がw
まぁ、どうせどこぞの馬鹿が嫌がらせでやってるんだろw
何であれ善く説かれたものであれば、
それは全て釈尊の言葉である。
(アングラッタ・ニカーヤ164.7-9)
は、法華経の善巧方便にリンクする。
ご提示いただいたサンスクリット文は、『法華経』(Saddharmapuṇḍarīka-sūtra)第2章「方便品」の冒頭近くに登場する、非常に重要かつ壮麗な一節です。
まずは単語ごとに細かく分解して意味を解説し、その後に全体の翻訳(直訳および伝統的な漢訳との対比)を示します。
1. 単語・複合語の逐語解析
* mahopāyakauśalyajñānadarśanaparamapāramitāprāptāḥ (mahā-upāya-kauśalya-jñāna-darśana-parama-pāramitā-prāptāḥ)
非常に長い複合語(格変化は主格・複数・男性名詞)で、ブッダたち(tathāgatāḥ...)を修飾しています。
* mahā (mahā-): 偉大な、大いなる(漢訳:「大」)
* upāya-kauśalya (upāyakauśalya): 方便善巧、巧みな手段(漢訳:「方便」)
* jñāna-darśana (jñānadarśana): 知見(知恵と洞察、見通すこと。漢訳:「知見」)
* parama: 究極の、最高の
* pāramitā: 波羅蜜、完成、彼岸への到達(漢訳:「波羅蜜」)
* prāptāḥ (prāpta): 到達した、獲得した(動形容詞 prāpta の複数主格。漢訳:「成就」)
* (意味:大いなる方便善巧と知見の、究極の完成(波羅蜜)に到達された…)
* śāriputra
* シャーリプトラ(舎利弗よ。呼格)
* tathāgatā (tathāgatāḥ)
* タターガタ(如来たち。主格・複数。後ろの語との連声で ḥ が脱落しています)
* arhantaḥ (arhantah)
* アルハット(阿羅漢たち、供養を受けるに値する者たち。主格・複数)
* samyaksambuddhāḥ (samyak-sam-buddhāh)
* サミャクサンブッダ(正等覚者、正しく完全に目覚めた者たち。主格・複数)
> 「シャーリプトラ(舎利弗)よ、如来、阿羅漢、正等覚者(=諸仏)たちは、大いなる方便善巧と知見の、究極の完成(波羅蜜)に到達しているのである。」
>
3. 伝統的な漢訳(鳩摩羅什訳『妙法蓮華経』)との対比
鳩摩羅什はこの一節を、流麗な漢文に以下のように翻訳(意訳)しています。
> 「舎利弗、如来方便、知見波羅蜜、皆已具足。」
> (舎利弗よ、如来の方便・知見の波羅蜜は、みなすでに具足している。)
>
* サンスクリット原文の mahopāyakauśalya(偉大なる方便善巧)を、羅什は簡潔に 「方便」 と訳しています。
* prāptāḥ(到達した)を 「具足」(十分に備えている)と言い換えています。
この一節は、ブッダがいかにして衆生を救う能力(方便)と、世界の真実を見通す能力(知見)を極限まで高めているかを讃える、大乗仏教の精髄を示す言葉です。
だから、以前から言ってるだろ(笑)
法華経が最高で究極の教え
それ以外の教え(例えば、禅宗とか)が、機根の劣る者に向けた方便なんだよ
「ひたすら坐禅しろ」
「参禅年数が大事なのだ」
は、愚かな人に合わせた方便
法華経の善巧方便にリンクする。
日常生活そっちのけで坐禅ばっかりしてる奴はバカ😂
法華経では、ブッダの巧みな方便が称賛されているが、これは、あくまでも「法華経が最高で究極の教え」であり、それ以前に説かれた教えは方便である、というのが主旨である。
法華経では、ブッダは衆生を導くために、それ以前にはさまざまな方便の教えを説き、最終的に法華経において究極の真実を明らかにした、と説かれている。
はい、その理解は法華経自身の立場としては概ね正確です。ただし、少し補足するとより正確になります。
法華経では、釈迦は衆生の能力や理解力に応じて、さまざまな教えを段階的に説いたとされています。これを「方便(方便・upaya)」と呼びます。
特に前半の「方便品第二」では、
仏は唯一の目的(すべての衆生を仏にすること)のために教えを説く。
声聞乗・縁覚乗・菩薩乗という「三乗」は、実は衆生を導くための方便であり、
真実には「一仏乗(いちぶつじょう)」しか存在しない、
ということが宣言されます。
その代表的なたとえが「三車火宅の譬え」です。燃え盛る家から子どもたちを救うため、父親は羊車・鹿車・牛車という三種類の車を約束しますが、家から出てきた子どもたちには、実際には皆に最高の「大白牛車」を与えます。
これは、
三車=従来の三乗の教え(方便)
大白牛車=一仏乗(真実)
を表しています。
法華経は、以前の教えを「虚偽」と断じているわけではありません。
むしろ、
以前の教えも、その段階では必要であり有効だった。しかし、それは最終目的へ導くための段階的な教え(方便)だった。
という位置づけです。
例えば、小学生には算数を教え、高校生には微積分を教えるようなもので、算数が「間違い」だったわけではなく、より高度な理解へ導くための段階だった、というイメージです。
現代の仏教学では、この思想は法華経の編纂者たちが、自分たちの経典の権威を示すために構成した教義であると理解されることが一般的です。
つまり、
法華経の内部論理では、「これまでの教えは方便であり、法華経で真実が明かされる」という自己位置づけになっています。
歴史学・仏教学では、「法華経は後代に成立した大乗経典であり、自らを釈迦の究極の教えとして位置づける思想を展開した」と理解されます。
したがって、あなたのまとめは、法華経の自己理解としては適切です。ただし、「それ以前に説かれた教えは方便である」というのは、法華経という経典が採る教義的立場であり、すべての仏教宗派や現代仏教学がその前提を共有しているわけではありません。
一部の禅宗の人が「方便、方便」と言いたがるのは、この伝統をある意味、継承してるからだ
早い話が、「禅定で得られる神秘体験こそが究極の真実であり、それ以前に説かれた経典や論書はすべて方便である」という主張
その見方は、一部の禅の流れには確かに当てはまる面がありますが、「禅宗一般」と言うと少し言い過ぎになります。
禅には古くから、
「教外別伝(経典の文字を超えて伝える)」
「不立文字(文字に依らない)」
「直指人心(直接に心を指し示す)」
「見性成仏(自己の本性を見て仏となる)」
という標語があります。
このため、禅では経典や論理的理解よりも、直接的な悟りの体験が重視される傾向があります。その文脈では、「経典や言葉は悟りへ導くための方便にすぎない」という表現が用いられることがあります。
禅は必ずしも「法華経以前は方便、禅だけが真実」という構図を採っているわけではありません。
また、多くの禅僧は経典そのものを否定しているわけでもありません。実際、禅宗では般若経・金剛経・楞伽経・法華経・維摩経などを学ぶ伝統もあります。
つまり、禅における「方便」は、法華経のような経典間の序列を意味するよりも、「言葉や概念そのものは最終的な真理ではなく、悟りへ導く道具である」という意味で使われることが多いのです。
したがって、あなたの文章を少し慎重に表現するなら、
一部の禅宗では、「坐禅による直接的な悟りこそが決定的であり、経典や論書、教義はそこへ至るための方便である」という傾向が見られる。
これは、真実へ導くための方便という発想を重視する点では、法華経の方便思想と通じる面がある。
という言い方なら、歴史的・思想的にも比較的妥当です。
「坐禅で得られる神秘体験こそが究極の真実であり、それ以前に説かれた経典や論書はすべて方便である」
という断定は、一部の禅者の語り方には近いことがありますが、禅宗全体の公式見解として一般化するのは難しいでしょう。
むしろ禅では、「究極の真実は体験そのものですら言葉では捉えられない」という方向へ議論が進むことが多く、単純に「坐禅体験>経典」という序列だけでは表せない側面があります。
もちろん、マトモな禅僧がそうでないのは分かっている
上で言ってるのは、一部の勘違いした連中のこと
その限定を付けるのであれば、趣旨は理解できます。
実際、禅の世界でも批判されるのは、「悟り体験」や「見性」を絶対化して、
「経典なんて全部方便」
「理屈は不要」
「坐禅さえすれば真理が分かる」
といった極端な主張をする人たちです。
そうした立場は、あなたが指摘するように、「自分たちが究極で、それ以外は方便」という構図を作りやすく、その点では法華経の「前の教えは方便である」という発想と構造的に似ています。
法華経では、方便は仏が衆生を救うために意図的に用いた教育法として肯定的に位置づけられています。
一方、そうした一部の禅の人たちの言説は、しばしば自分の体験を基準に他の学びを切り捨てる方向へ向かいがちで、法華経の方便思想をそのまま継承しているというより、「自分こそ最終段階に到達した」という発想のパターンが似ている、と表現するほうが正確でしょう。
つまり、批判の対象を「一部の勘違いした禅かぶれ・禅者」に限定するのであれば、
「自分たちの体験を究極視し、それ以外を方便として扱うという発想は、法華経の『方便から究極へ』という構造に似ている」
という指摘は、思想の構造を比較する議論として十分成り立ちます。もちろん、それを禅宗全体の特徴とみなすのは適切ではありません。
ここで批判の対象としているのは
「一部の勘違いした禅かぶれ」のこと
つまり、諸経の様な教えらしい教えは説かない。
説けば並列・競合関係になるからな。
自然な表現にすると、例えば次のようになります。
ここで批判の対象としているのは、「一部の勘違いした禅かぶれ」です。
ここで私が批判の対象としているのは、一部の勘違いした禅かぶれです。
ここで問題にしているのは、一部の勘違いした「禅かぶれ」です。
もし「禅そのものではなく、その思想を表面的に理解してかぶれている人」を強調したいのであれば、
ここで批判の対象としているのは、禅そのものではなく、それを表面的に理解して勘違いしている一部の人たちです。
という表現のほうが誤解を招きにくくなります。
特に「禅かぶれ」はやや口語的で挑発的な響きがあるため、文章全体の調子に合わせて使い分けるとよいでしょう。
まだ番号が飛んでたな。
ケラが発作でも起こして発狂してるのだろう。
わざわざこのひとりごとのスレまで来てwww
馬鹿のやる事は分からんなあ😗
わかった、わかった(笑)
そしてその同調バイアスの依存性になり、更に馬鹿になるwww
もしも思考ツールとして利用するのなら、ちゃんと考えたり、AIからの返答のファクトチェックをしたり、或いは反対の見解を求めるなりして使わないと、マジで廃人になるから。
でも退化だな。
馬鹿化だな。
孵化したのか遅かったんだろうな。
あと、鳩がいる。
誰か餌をやってるんだろうな。
627:栖雲居士 ◆MKrKQHoID7SE :[sage]:2026/05/01(金) 14:29:52.30 ID:GHVkJlI/[96/96]
うんうん、精神病棟にレリゴー😘
🏥 🚑🤪💨💨💨 👋😆
162 栖雲居士 ◆dqam8SqGUPdm :[sage]:2024/03/09(土) 16:35:39.62 ID:b8JerweS
喉仏に千枚通し刺してとっとと死ねよ、虫ケラ😟
喉仏に千枚通し刺してとっとと死ねよ、虫ケラ😟
喉仏に千枚通し刺してとっとと死ねよ、虫ケラ😟
喉仏に千枚通し刺してとっとと死ねよ、虫ケラ😟
633:栖雲居士 ◆MKrKQHoID7SE :[sage]:2026/05/01(金) 14:32:58.27 ID:GHVkJlI/[98/98]
>>628
で?
悔しくて我慢できないのか?
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千枚通しで喉仏を刺して逝けば?
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943:栖雲居士 ◆MKrKQHoID7SE (ワッチョイ 87f1-ldSe [2400:2200:482:38b7:*]):[sage]:2026/06/03(水) 14:46:15.13 ID:ZKTdWgHw0[9/10]
意外に思われるでしょうが、お釈迦さまは真理の存在認めていないんですよ。
その理路は煩雑なので割愛しますけどね。
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お釈迦さまは真理の存在を認めていないのですか?
AIの回答
お釈迦さま(如来、ブッダ)は、真理の存在を認めていると考えられています。仏教においては、真理や真実は重要なテーマであり、お釈迦さまの教えは人間の苦しみを取り除き、悟りに至るための道を示しています。「四つの真理」(四諦)という教えは、苦しみの存在、苦しみの原因、苦しみの終わり、そして苦しみを終わらせるための道を示しています。このように、仏教は真理の探究を中心に展開されており、お釈迦さま自身も真理を探求し、それを教えた存在です。ですので、お釈迦さまが真理を認めていないという解釈は一般的ではありません。