3. この理論の画期的な点 中谷氏の研究が仏教界や意識研究で注目されている理由は、以下の3点に集約されます。 ① 「ニッバーナ(涅槃)」の再定義 従来の涅槃は「煩悩が消えた静かな状態」と捉えられがちですが、中谷氏はこれを**「動的な自省プロセス」**であると定義します。五位相の各段階で、自分の「潜在様態(無意識の利己心)」に気づき、それをその都度「払拭(スキャニング)」し続けること自体が、ブッダの説いたニッバーナであると説明しています。 ② 言葉(名称)への鋭い洞察 「名称位相」が「価値位相」に先行することに注目します。人は言葉で世界を区切るからこそ、そこに偏った価値(好き嫌い)が生まれ、争いへと発展する。この「言葉の罠」に気づくことが解脱への鍵となります。 ③ 2000年ぶりの解読 中谷氏は、古代の注釈書(ニッデーサなど)がブッダの本来の意図を誤解して伝えてきたと主張し、文献学的な緻密な作業によって、失われていたこの「意識の地図」を現代に蘇らせました。
良道 英語だと〝Watch your breath.〟という言い方をしますね。これも非常に問題ある言い方で、後でこういう瞑想インストラクションがどうしても呼び起こす誤解について話し合うことになると思うけれど。まあともかく、そうして一時間ほど呼吸をずーっと継続的に見られるようになると、これも本当はあまり言いたくないんだけれども、光が現れてくるんですよ。
例のsとzって奴らだけど。
ハッスル〜🤡
🤡
法話グランプリって知ってる?
https://www.youtube.com/watch?v=McWx137Fgpc
H-1法話グランプリ2025チャンピオンの髙橋玄峰さん(臨済宗妙心寺派)と対談
https://www.youtube.com/watch?v=JZsaiOjqYLk
https://www.youtube.com/watch?v=LZcL7vmYQus
https://www.youtube.com/watch?v=kTW5TAah5ks
国際連盟で上手くいかないで、国際連合もその役割が低下して。
世の中は再び覇権主義的な時代になってしまうのでしょうかね。
スルーしてください。
オッケー
😁
日頃のコミュニケーション能力もっとけよ〜
😁
🤡
仏教は果たして無我説(の一辺倒)なのか?
五蘊"非"我説といい、アートマンの有無について無いと云わずに無記を貫いたのはこれ如何に?
分かり難いからだと。
であれば、無我説は分かり難いのか?
……そうでも無いって気がする訳です。
また、無我説であればアートマンは無いって云われる筈なのに無記を貫かれた。
むしろその無記の所の方がよっぽど分かり難く、また、お釈迦さまの真意を表しているのではなかろうか。
🤡
https://kaken.nii.ac.jp/ja/grant/KAKENHI-PROJECT-23K25263/
研究実績の概要
本研究は、文献学的諸指標(韻律分析、詩節配列法、語意、語形等)に基づいて『八群品』(パーリ仏典『スッタニパータ』の第4章)を現存最古の仏典と位置づけ、仏教学、インド古典学、精神医学等の視点から総合的解明を試みる。
『八群品』中に、古注『ニッデーサ』の誤解釈によって二千年来見失われていた「五位相二様態意識論」(五位相論)が発見された。後代の「原始仏典」の教理の持ち込みを自戒しつつ読み進めた結果、それは意識の生成・展開を五位相に分かち、各位相に潜在、顕在の2様態を区別して、潜在意識が顕在意識を支配する機序を明かす精緻な意識分析法であり、認識を誤らせる潜在欲求を自覚して消去する自己刷新法、ニッバーナ(消尽)の実践に必須の手法と判明した。
ニッバーナは無自覚の欲求の常在を自覚するがゆえに間断なく実践される自己刷新であり、自身の一切の体験、知識、思索、信仰への依拠や絶対視を許さない。真理の認識を否認するこの立場は、「四聖諦」などを説くいわゆる「原始仏教」とは一線を画する。
以下略
https://www.chugainippoh.co.jp/article/ron-kikou/ron/20250827-001.html
私はいま中谷英明氏の科学研究費の研究プロジェクト「最古の仏典『八群品』の研究」(課題番号23H00566)の研究分担者に加えて頂き、氏の研究成果をうかがってきた。氏によれば、仏典の最古層は『スッタ・ニパータ』の「八群品」であり、その教えは五位相二様態の意識の構造にまとめられるという。二様態というのは潜在様態と顕在様態であり、それぞれが五段階を経て、認識から行為に展開するというのである。氏によれば、ニッバーナ(涅槃)というのは、決して煩悩を滅しつくした状態ではなく、常に無自覚の利己心を払拭し続けることだという。
2023年度科学研究費補助金 研究成果
2024年 3 月28日
http:id.nii.ac.jp/1629/00007257/
ブッダが残した一詩篇『八群品』の研究
中 谷 英 明
ちょっとアレなところもあるけど、Gemini要約
「五位相二様態(ごいそうによったい)意識論」とは、仏教の最古層の聖典とされる**『スッタニパータ』第4章「八群品(あっぱんぴん、アッタカ・ヴァッガ)」**に含まれる、ブッダ独自の認識論・心理学的な理論のことです。
この理論は、現代の仏教学者である中谷英明氏によって、サンスクリット語訳やパーリ語の精密な文献学的研究を通じて再発見・体系化されました。従来の仏教教学(部派仏教や唯識など)の「六識」や「八識」といった分類よりもさらに古く、「なぜ人間は争い、苦しみ、執着するのか」というプロセスの根源を説明するものです。
1. 五位相(Five Phases):意識の展開プロセス
五位相とは、五官による感覚から、それが言葉(名称)によって意味づけられ、最終的に「執着」や「争い」に至るまでの5つの発展段階を指します。
位相名称内容・機序
第1位相感覚(Saññā)五官(目・耳など)が対象に触れる初期の感覚。
第2位相名称(Nāma)感覚されたものに「言葉」や「レッテル」が付く段階。
第3位相思惟(Papañca)言葉が連鎖し、妄想や概念が広がる(戯論化)。
第4位相欲望(Chanda)概念化されたものに対し、「欲しい」「嫌だ」という情動が生まれる。
第5位相係縛(Gantha)執着が固まり、他者との対立や争い(闘諍)が生じる。
(続く)
2. 二様態(Two Modes):意識の状態
意識には、時間軸に沿った「展開(位相)」だけでなく、その背後で働く2つの状態があるとされます。
顕在的意識: 表面に現れている認識や思考。
潜在的意識(アヌサヤ / 随眠): 意識の底に潜んでいる傾向性や本能的な駆動。
この理論の特徴は、**「潜在意識が顕在意識をコントロールしている」**というメカニズムを明らかにしている点にあります。私たちが「自分で考えて決めている」と思っていることも、実は潜在的なパターンによって駆動されている、という鋭い分析です。
3. この理論の重要性
この意識論が注目される理由は、ブッダが説いた**「解脱(ニッバーナ)」の具体的な方法論**と直結しているからです。
争いの根源の解明: なぜ正義を振りかざして戦うのか?それは第2・第3位相での「言葉の執着」から始まると説きます。
言葉の限界: ブッダは、言葉(名称)が世界を固定化し、それが苦しみを生むと考えました。
意識の制御: 五位相のプロセスを「自覚(気づき)」によって遡り、第1位相(純粋な感覚)の段階で執着を断つことが、苦しみから解放される道であると示しています。
さらに詳しく知りたい場合
この理論は、中谷英明氏の著書**『ブッダが残した一詩篇 ―「八群品」の研究―』**などで詳細に論じられています。伝統的な「五蘊(ごうん)」などの分類とは異なる、よりダイナミックで心理学的な人間観を知る上で非常に重要な概念です。
これは、ダイナモの話をしたけど、道元さんの修証一等論と同じ理路だろうな。
頑張ってるな?🤡
認識の過程を唯識仏教では以下の通り説明しております。
1.卒爾心(対象の感覚的認識)
↓
2.尋求心(対象を判別するはたらき)
↓
(この間、阿頼耶識に蔵されてる種子が与力(=参照)として働く)
↓
3.決定心(対象の判別)
↓
4.染浄心(対象の分別)
↓
5.等流心(記録)
意識と末那識は1〜5の全てが認識の過程で起こりますが、前五識(眼識・耳識・鼻識・舌識・身識)と阿頼耶識は1と5のみって事です
🤡
勿論、日々の実践は当然という前提の元で。
🤡
概要
昨春、韻律、詩節配列法、思想内容等に基づいて、『八群品」(Atthakavagga、パーリ聖典 Suttanpata4章)が現存する最古の仏典と特定され、その中に、古註の誤注によって見失われていた意識分析「五位相二様態意識論」が二千年ぶりに回復された(中谷論文参照)。
精神医学者も驚く精緻さを以て語られる五位相論が、実はブッダの哲学の根幹をなしており、その立場はいわゆる「原始仏典」とは一線を画するものである。
認識における意識の発生から成熟までの過程を5位相に分け、各位相に顕在的と潜在的の2様態を指摘し、無自覚の潜在意識が自覚的顕在意識を作ることを示す。
この五位相を用いて日々自省し、潜在意識中の利己性の払拭に努める過程がニッバーナ(涅槃)である。
潜在意識は拂拭しきれず、常に伏在すると自認して、不断の自己刷新に努める生き方、これが安寧であるとブッダは言う。
詳細が判明したこのブッダの哲学は、真理の存在を認めず(したがって「四聖諦」等の分節化はあり得ない)、見、聞、思、言仰、現代で言えば文化、科学、哲学、宗教のいずれにも言を置くなと繰り返す。
不断の自己刷新という、一見ありふれた原理(カントは人にとって義務であり目的でもあるものは、自分の完全性と他人の幸福であり、完全性の獲得には無限の時間を要すると言う)に見えるこの哲学の持つ実践的射程を見極めたい。
そのためには、このブッダ哲学の素材となった最後期ヴェーダ思想とブッダ以後二千数百年の歴史を有する仏教思想の見直しが必要であるが、今回は、ブッダの新哲学を中谷が紹介し、中期仏教の Dharmakirti, Santaraksita 等の仏教論理学者が五位相論をどのように継承するか(あるいはしないか)をEltschinger教授に語って頂く。
今後、このブッダの新哲学原理を巡って、仏教学、インド学はもとより、その他の人文・社会・自然の三学を含む共同研究体制の構築されることを願っている。
(文責 中谷英明)
↓
要点を3つの柱でまとめました。
1. 最古の仏典の特定と「五位相二様態意識論」の回復
最古の仏典とされる『八群品(アッタカヴァッガ)』の精緻な分析により、長年失われていた**「五位相二様態意識論」**が復元されました。これは意識の発生から成熟までを5段階(位相)に分け、それぞれに「顕在的・潜在的」の両面を認める、現代精神医学をも凌駕する精緻な意識分析モデルです。
2. ブッダが説く「真の安寧」と実践
この哲学において、ニッバーナ(涅槃)とは単なる静止状態ではなく、**「潜在意識に潜む利己性を自省し、払拭し続けるプロセス」**を指します。
非ドグマ的姿勢: 真理の固定化(四聖諦など)を認めず、既存の宗教・科学・哲学の枠組みに安住することを否定します。
不断の自己刷新: 潜在意識の汚れは完全に消し去ることはできないと自覚し、常に自己を更新し続ける生き方こそが「安寧」であると説いています。
3. 今後の研究の展望
この新発見されたブッダの哲学を軸に、以下の検証が予定されています。
歴史的検証: 素材となったヴェーダ思想や、後世の仏教論理学者(ダルマキールティ等)への継承関係の解明。
学際的研究: 仏教学のみならず、人文・社会・自然科学を横断する共同研究体制の構築。
どはは〜
参禅30年🤡
釈迦仏教に於いてニッバーナは煩悩の止滅ではなく、その時々の煩悩の払拭の継続であるというのは、今後議論を呼びそうだ。
自覚ある
バレてるのを
🤡
いや、いいんだけどさぁw
でも「日本に本来のブッダの教えを……」って、そういうサンガ社さんのやり方がねぇ、引くんだわ😧
また、その頃は批判仏教なんてのが流行したし。
引いちゃうよー
🤡
五、最上についての八つの詩句
七九六
世間では、人は諸々の見解のうちで勝れているとみなす見解を「最上のもの」であると考えて、それよりも他の見解はすべて「つまらないものである」と説く。それ故にかれは諸々の論争を超えることがない。
七九七
かれ(=世間の思想家)は、見たこと・学んだこと・戒律や道徳・思索したことについて、自分の奉じていることのうちにのみ*すぐれた実りを見、そこで、それだけに執著して、それ以外の他のものをすべてつまらぬものであると見なす。
七九八
ひとが何か或るものに依拠して「その他のものはつまらぬものである」と見なすならば、それは実にこだわりである、と〈真理に達した人々〉は語る。それ故に修行者は、見たこと・学んだこと・思索したこと、または戒律や道徳にこだわってはならない。
七九九
智慧に関しても、戒律や道徳に関しても、世間において偏見をかまえてはならない。自分を他人と「等しい」と示すことなく、他人よりも「劣っている」とか、或いは「勝れている」とか考えてはならない。
八〇〇
かれは、すでに得た(見解)〔先入見〕を捨て去って執著することなく、学識に関しても特に依拠することをしない。人々は(種々異った見解に)分れているが、かれは実に党派に盲従せず*、いかなる見解をもそのまま信ずることがない。
八〇一
かれはここで、両極端に対し、種々の生存に対し、この世についても、来世についても、願うこと*がない。諸々の事物に関して断定を下して得た固執の住居*は、かれには何も存在しない。
八〇二
かれはこの世において、見たこと、学んだこと、あるいは思索したことに関して、微塵ほどの妄想をも構えていない。いかなる偏見をも執することのないそのバラモンを、この世においてどうして妄想分別させる*ことができるであろうか?
八〇三
かれらは、妄想分別をなすことなく、(いずれか一つの偏見を)特に重んずるということもない。かれらは、諸々の教義のいずれかをも受け入れることもない*。バラモンは戒律や道徳によって導かれることもない。このような人は、彼岸に達して、もはや還ってこない。
とある。(中村元訳)
真理というのもやはり、自身の一切の体験、知識、思索、信仰に依拠するもので構築されたものである以上、無常であり、無常であるものは苦だから。
ハッタリ参禅30年を言ったばかりに?
🤡
ガチでゴキブリ害虫、いらねーwww
何であれ善く説かれたものであれば、それは全て釈尊の言葉である。
(増支部経典 アングラッタ・ニカーヤ164.7−9)
如来蔵縁起(或いは法界縁起や本覚思想)批判(それは基体説だ!)に対しては
無自性論、方便説
ってとこか。
🤡
も思っていたのか?
🤡
言っておけば良かったのに🤡
以前は、こうした話題が出て議論がそこそこあったよな。
今は変な害虫がスレを荒らして、支離滅裂な事を言っては瞬殺論破されて、誹謗中傷を繰りかえしてはストーカーしてるし。
激しく劣化したよなぁ。
糞害虫ゴキブリのでおー、jbl、梅毒の馬鹿らはほんと、ガチでいらねー😧
涅槃とは煩悩の滅尽ではなく、深層識から流れ来る煩悩を時々払拭する事をいうのなら、神秀上座の偈文
身是菩提樹
心如明鏡台
時時勤拂拭
勿使惹塵埃
というのが、まさにインド仏教の伝統を受け継いでるって事になるな。
対して六祖慧能の
菩提本無樹
明鏡亦非台
本來無一物
何處惹塵埃
というのは中国仏教という事か。
🤡
ハッスル🤡
「日本に本来のブッダの〜」なんて瓦解するじゃん。
むしろ、道元さんの修証一等論の方が正鵠を得てるし、臨済禅師の殺仏殺祖はズバリだって事だよな。
大乗非仏説は瓦解するよな。
しかし、潜在意識からの炎は消えるは無いと。
時々に払拭するのだと。
煩悩無尽請願断、だと。
んじゃ、阿羅漢(アルハット)の立ち位置ってどうなんだろうな?
まぁ、間断なく断ち続けられているのなら、絶ったに等しいみたいなものだからな。
↓
初期仏教における**「五位相二様態(ごいそうによったい)意識論」とは、仏教学者の末木文美士(すえき ふみひこ)氏や、意識科学研究者の細野秀雄(ほその ひでお)氏**らによって提唱・解説されている、ブッダの最古層の教え(『スッタ・ニパータ』の「八群品」)を現代的に読み解いた意識モデルです。
伝統的な「五蘊(ごうん)」や「十二縁起」とは異なり、**「人間がどのように対象を認識し、それが執着や苦しみへとつながるのか」**というプロセスを、5つの段階(位相)と2つの状態(様態)で整理した点が特徴です。
1. 五位相(Five Phases):認識から行為への5段階
意識が生まれてから、最終的に行動や執着に至るまでのプロセスを5つの階層で説明します。
* 感覚位相(感覚・接触):
五感(眼・耳・鼻・舌・身)が対象と接触する段階。
* 名称位相(言葉による限定):
感覚されたものに「これは〜だ」という名前や概念を与える段階。
* 価値位相(快・不快の判断):
名付けられた対象に対し、自分にとって「好き・嫌い」「快・不快」の価値判断を下す段階。
* 意図位相(欲求の発生):
価値判断に基づき、「手に入れたい(貪)」「排除したい(瞋)」という具体的な意図(意志)が生まれる段階。
* 行為位相(執着・争い):
意図が実際の行動となり、自分と他者を分かつ強い執着(我執)や対立へと発展する段階。
2. 二様態(Two Modes):意識の現れ方
それぞれの位相において、意識がどのような性質を帯びているかを示します。
* 顕在様態(意識的な状態):
自分が「そう思っている」「そうしようとしている」とはっきり自覚できている意識の状態。
* 潜在様態(無自覚な状態):
本能や過去の経験(業・カルマ)に基づき、無意識のうちに作動している自動的な反応。ブッダは特に、この無自覚な潜在様態に気づくことの重要性を説きました。
(続く)
3. 初期仏教における意義
この理論が初期仏教(特に『スッタ・ニパータ』)の文脈で重要視される理由は、以下の点にあります。
* 苦しみの発生源を特定する:
争いや悩み(苦)は、第5段階の「行為」で起きるのではなく、それ以前の「名称」や「価値判断」の段階で既に始まっていることを示します。
* 「ニッバーナ(涅槃)」の再定義:
この理論における涅槃とは、感情を無にすることではなく、**「五位相のプロセスを客観的に観察し、無自覚な利己心(潜在様態)を払拭し続ける動的な状態」**であると解釈されます。
* メタ認知の重視:
「今、自分は名称位相にいるな」「快・不快の価値判断に囚われているな」と自分の意識のフェーズを客観視(マインドフルネス)するためのフレームワークとして機能します。
まとめ
「五位相二様態意識論」は、ブッダの古い教えを現代の認知科学や心理学的な視点で構造化したものであり、「自己の意識がどのように苦しみを作り出すか」を解剖するための地図のようなものです。
中谷英明氏(インド哲学者・仏教学者)が提唱する**「五位相二様態(ごいそうによったい)意識論」**とは、仏教最古の経典の一つとされる『スッタ・ニパータ』の「八群品(アッタカ・ヴァッガ)」を詳細に解析し、ブッダが本来説いていた「意識のメカニズム」を2000年ぶりに復元したとされる理論です。
中谷氏によれば、伝統的な「五蘊(ごうん)」や「十二縁起」などの教理は、後代の解釈(アビダルマ等)によって変質しており、この「五位相二様態」こそが、争いや苦しみから解放されるためのブッダ独自の精密な心理分析表であるとされています。
3. この理論の画期的な点
中谷氏の研究が仏教界や意識研究で注目されている理由は、以下の3点に集約されます。
① 「ニッバーナ(涅槃)」の再定義
従来の涅槃は「煩悩が消えた静かな状態」と捉えられがちですが、中谷氏はこれを**「動的な自省プロセス」**であると定義します。五位相の各段階で、自分の「潜在様態(無意識の利己心)」に気づき、それをその都度「払拭(スキャニング)」し続けること自体が、ブッダの説いたニッバーナであると説明しています。
② 言葉(名称)への鋭い洞察
「名称位相」が「価値位相」に先行することに注目します。人は言葉で世界を区切るからこそ、そこに偏った価値(好き嫌い)が生まれ、争いへと発展する。この「言葉の罠」に気づくことが解脱への鍵となります。
③ 2000年ぶりの解読
中谷氏は、古代の注釈書(ニッデーサなど)がブッダの本来の意図を誤解して伝えてきたと主張し、文献学的な緻密な作業によって、失われていたこの「意識の地図」を現代に蘇らせました。
(『龍樹 「根本中論頌」を読む』より)
読み方によって成立し得るのは
1.縁起は八不の存在。
2.八不の縁起。
3.縁起の理法は八不。
のいずれかだろうが、最新の解釈では2.だな。
不滅にして不生、不断にして不常、不一にして不異、不来にして不去、戯論寂滅にして吉祥なる縁起をお説きになった、説法者中の最高の説法者である仏陀に敬礼いたします。
石飛道子 訳
滅することなく生ずることなく(不滅不生)、(死後)断滅することなく永遠ではなく(不断不常)、同じではなく異なることなく(不一不異)、来るのでもなく去るのでもなく(不来不去)、戯論が寂滅する、吉祥なる、縁起を説いた正覚者(ブッダ)に対し、最高の説法者として、わたしは敬礼する。
「カーシヤパよ、それと同じように、観念に固執する者をすべて(自由な境地へ)出離させるのが空性である。しかるに、カーシヤパよ、もしその空性をこそ観念化する者があるならば、彼こそは癒すことのできない者、と私は呼ぶ」(「釈葉品(カーシヤパの章)」『大乗仏典9 宝積部経典』中公文庫)
馬鹿のレスの誤謬は指摘しても、馬鹿からのレスは相手にしないで、一方的にスレを進めるのが一番効率が良いな。
此方が間違える事は先ずないから。
無駄な事はしないに限る。
この偈頌は、龍樹が自らの思想を述べるにあたり、その拠り所となる「縁起」と、それを説いた「仏陀」を讃える極めて重要な一節です。
サンスクリット原文
> anirodham anutpādam anucchedam aśāśvatam |
> anekārtham anānārtham anāgamam anirgamam ||
> yaḥ pratītyasamutpādaṃ prapañcopaśamaṃ śivam |
> deśayāmāsa saṃbuddhas taṃ vande vadatāṃ varam ||
>
逐語的・現代語訳
先ほどの「八不」を修飾語として組み込み、文脈を整理した訳です。
> 不滅であり、不生であり、不断であり、不常であり、
> 不一であり、不異であり、不来であり、不出である(ところの)、
> 戯論(けろん)が消滅した、吉祥なる「縁起」を説かれたお方、
> 正覚者(ブッダ)であり、説法者の中で最も勝れたそのお方に、私は敬礼いたします。
>
文法と語彙の解説
1. 前半(八不の形容詞群)
これら8つの言葉はすべて、後半に出てくる pratītyasamutpādaṃ(縁起) を説明する形容詞として機能しています。
* prapañcopaśamaṃ: prapañca(戯論:言葉による無意味な概念的展開)が upaśama(静止・消滅)したもの。
* śivam: 吉祥なるもの、安らぎ。
2. 後半(動詞と主語)
* yaḥ ... deśayāmāsa: 「(縁起を)説かれたところの(お方)」。
* saṃbuddhas: 「正覚者(ブッダ)」。この文章の主語です。
* taṃ vande: 「そのお方に(taṃ)敬礼します(vande)」。
* vadatāṃ varam: 「語る者たち(vadatāṃ)の中で最も優れた(varam)お方」。
漢訳(鳩摩羅什訳)との比較
有名な『中論』漢訳(青目釈)の冒頭と比較すると、サンスクリット語の構造がより明確になります。
> 不生亦不滅 不常亦不断
> 不一亦不異 不来亦不出
> 能说是因縁 善滅諸戯論
> 我稽首礼仏 諸説中第一
>
* 「能说是因縁」 が yaḥ pratītyasamutpādaṃ deśayāmāsa に対応しています。
* 「善滅諸戯論」 が prapañcopaśamaṃ に対応しています。
この帰敬偈は、単なる挨拶ではなく「縁起=空=戯論の消滅」という『中論』全体のテーマが凝縮されています。
この一節の中で、特に気になった単語や、哲学的背景(なぜ「不生」から始まるのかなど)について、さらに深掘りしてお伝えしましょうか?
八不なる縁起となってるな。
(Geminiより)
要するにどういうことか?
中谷氏は、**「仏教は宗教的な信条(ドグマ)ではなく、きわめて合理的で科学的な『心の取扱説明書』であった」**ということを、文献学という学問的ツールを使って証明しようとしたのです。
「教えを信じる」のではなく、「意識のメカニズム(地図)を理解し、自分の心をリアルタイムで観察する」という、ブッダ本来の知的で実践的な姿勢を取り戻したといえます。
そなたは死の領域の彼岸に至るであろう。
ピンギヤよ。
スッタニパータ(1146)ともリンクするな、
元気だな?
🤡
https://kaken.nii.ac.jp/ja/
インド仏教論理学派における言葉と認識の因果性:無常性論証の視点から
ゴキブリ害虫馬鹿らの様な奴らがまさにそれだ。
糞害虫らはどうせ誹謗中傷やストーカー、せいぜいよくても過去の事例のコピペを蒸し返して「俺様は頭いいんだじょー!」って鼻息を荒くしてるだけだからな。
此処ではそうした害虫ゴキブリ馬鹿は相手にしないで、こうしてフロンティア、仏教の問題についての新しい領域を拓いていくわけだ。
https://research-er.jp
そこから"仏教"等で検索してもいいな。
内容を見た説一切有部の論師には不評だったらしいが。
それから、中論とか倶舎論という論書はあるが、唯識論という論書はないw
中観派の中論であり、瑜伽行唯識学派の倶舎論であり、各種の論書だwww
暇つぶしにもならんwww
ちなみに私はハッスルしていませんよ。
ざぜんして無に成る。
しかし、だからこそ栖雲居士さんは一生ジリ貧です。仏教徒は必然的に清貧を貫くことになりますからね。
つまり、勝義諦の上位概念は「ずる賢さ」です。
これすなわち仏教的な正しさを超える抜け目無いずる賢い世渡り術を身に付けないと一生貧乏のままだということです。
しかし、だからこそ栖雲居士さんは一生ジリ貧です。仏教徒は必然的に清貧を貫くことになりますからね。
つまり、勝義諦の上位概念は「ずる賢さ」です。
これすなわち仏教的な正しさを超える抜け目無いずる賢い世渡り術を身に付けないと一生貧乏のままだということです。
ざぜんして無に成る。
しかし、だからこそ栖雲居士さんは一生ジリ貧です。仏教徒は必然的に清貧を貫くことになりますからね。
つまり、勝義諦の上位概念は「ずる賢さ」です。
これすなわち仏教的な正しさを超える抜け目無いずる賢い世渡り術を身に付けないと一生貧乏のままだということです。
ざぜんして無に成る。
しかし、だからこそ栖雲居士さんは一生ジリ貧です。仏教徒は必然的に清貧を貫くことになりますからね。
つまり、勝義諦の上位概念は「ずる賢さ」です。
これすなわち仏教的な正しさを超える抜け目無いずる賢い世渡り術を身に付けないと一生貧乏のままだということです。
仏に逢うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺せ。(『臨済録』示衆)
ざぜんして無に成る。
つまり、勝義諦の上位概念は「ずる賢さ」です。
これすなわち仏教的な正しさを超える抜け目無いずる賢い世渡り術を身に付けないと一生貧乏のままだということです。
仏に逢うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺せ。(『臨済録』示衆)
ざぜんして無に成る。
上記の書き込みは知ったかぶりの野狐禅でした。
ざぜんして無に成る。
一三九二年の秋になるとツォンカパは、ウマパとウ地方のガーワドンを訪れ、まずラサの尊き釈迦牟尼仏像に祈願を行い、その後二人でガーワドンで籠もり修行に入った。
ちなみにこの「ラサの尊き釈迦牟尼仏像」とは、現在のチベット・ラサのチョカン寺の本尊で、かつて唐朝の皇女・文成公主がチベット王ソンツェンガンポに嫁ぐ際、唐から持ってきたとされる仏像である。
さてこの籠もり修行でツォンカパは、ウマパを通じて文殊菩薩に中観思想や顕教・密教の教義、そして無上瑜伽タントラの修道論などについていくつか質問した。
それに対して文殊菩薩より、空性理解については中観帰謬論証派が、密教においては『秘密集会タントラ』聖者流が正しいということ、また『秘密集会タントラ』の修道は『パンチャクラマ(五次第)』を重要視すべきことを教えられた。
これが後のツォンカパの教学の方向性を決定づけた「ガーワドンの啓示」である。
(『ツォンカパー悟りへの道―三乗から真の一乗へ: 悟りへの道ー三乗から真の一乗へ (構築された仏教思想)』)
まずツォンカパのいう実在論者の存在の有無は次のように表される。
有=自性によって存在していること。(縁起の存在)
無=全面的に存在しないこと。(無自性・空)
このように縁起の存在と無自性・空は完全な対立概念であり、両立はありえない。
しかしツォンカパは、次のように存在の有無を四つに分ける。
有①=単に存在していること。(縁起の存在)
有②=自性によって存在していること。
無①=全面的に存在しないこと。
無②=自性が存在しないこと。(無自性・空)
そしてツォンカパは有②と無①を否定し、単に存在していること(有①)と、自性が存在しないこと(無②)は矛盾せず両立するという。
つまり二諦説に当てはめると次のことが成り立つのである。
世俗諦=諸存在が縁起すること。
勝義諦=諸存在が無自性・空であること。
この理解によってのみナーガルジュナの言う「空なるものが縁起する」ことを論証できることから、この論法は「不共の勝法」と呼ばれる。
そしてこの「不共の勝法」こそが、ツォンカパが「ガーワドンの啓示」によって確信した内容であると考えられている。
さらにこの二諦説についてツォンカパは、縁起を含め、釈尊が我々世俗の衆生のために言葉で説いた教義も真理であり、究極には空と同じであるとし、次のように二諦を定義するようになる。
世俗諦=言説有
勝義諦=勝義無
(同書)
中観派 =自性のないものに縁起の法則が成り立つ。
実在論者=自性のないものに縁起の法則は成り立たない。
という、実在論者との論争が背景にあったそうな。
勝義諦=勝義無
世俗諦はともかく「勝義諦=勝義無」はいいね👍だなw
此処に勝義諦は無いという解釈とともに、無の勝義諦があるという理路も展開してくのだから。
🤡
張り切っておるなー
アタマ悪いのに
🤡
砂上の楼閣というか、消化不良というか……、馬鹿そのものだな。
カニシカ王の侍医であった内科医チャラカとの『方便心論』はその嚆矢だな。
やっぱり泡沫カルト団体の末端信者が工作してる可能性が高いな。
あいつ、終わったな😙
良道 英語だと〝Watch your breath.〟という言い方をしますね。これも非常に問題ある言い方で、後でこういう瞑想インストラクションがどうしても呼び起こす誤解について話し合うことになると思うけれど。まあともかく、そうして一時間ほど呼吸をずーっと継続的に見られるようになると、これも本当はあまり言いたくないんだけれども、光が現れてくるんですよ。
一照 それっていわゆるニミッタ(nimitta)というやつ?
良道 はい、禅相と訳されますが、禅定に近づいている「しるし」、証拠という意味ですね。・・・
・・・
一照 良道さんもパオ・メソッドのコースを完了したそうだから、ニミッタを経験しているわけよね。
良道 まあ、そうです。でも、日本ではニミッタのことについては教えていません。
一照 あっそうなんだ。だけど、呼吸を観察することは、良道さんのメソッドの中では大事にしてるんでしょ?それなのになぜニミッタのことは話さないの?本当に呼吸を観察していたら必ず見えるというんだったら……。
良道 はっきり言うと、わたしのところで瞑想している人の中には見えてる人もかなりいると思います。光はたぶん見えてると思うけど、わたしは「光を見なさい」なんて絶対言いません。
一照 それはなぜ?
良道 見なさいと言うと、見ようとしちゃうからですよ(笑)。ニミッタを見ようとしたら見えなくなってしまうからです。
一照 良道さんの先生のパオ・セヤドーはストレートに「見なさい」と言うんでしょ?すると良道さんのやり方は先生と違ってくるよね。
(続く)
良道 パオ・セヤドーをはじめとするビルマの人たちは非常に素直だから、「見なさい」と言っても問題が起きないんですよ。でも、西洋人やわれわれ日本人のような人たちは「見なさい」と言われると、「よし、俺は何が何でも見てやるぞ」という余計な構えを取ってしまう傾向があります。だから、日本人とか西洋人がみんなそのあたりで躓いてしまいます。その違いは何かといったら、ビルマの人たちはヨーガで言うところのバクティ(bhakti 献身)がものすごく深いんですよ。かれらは一日中、仏像やパゴダに向かって礼拝をしている。僧侶に対しても日常的にお布施をする。だから瞑想する前にもう十分「我を捨てる」というところが本当にできているのね。そこが大きな違いなんですよ。バクティができている人たちだから、「呼吸を見なさい」と言われても、「よし、見てやるぞ」とはならないのです。・・・
・・・
・・・バクティのようなものがどうしても、瞑想の前提とされます。テクニック云々以前に態度そのものが大事なんですよ。
一照 そういう態度でいれば、こちらから頑張って見ようとしなくても、ニミッタがすっと向こうから現れてくるということか。なるほどね。向こうから現れてくれるんであって、こっちから見るんじゃないんだね。見えてくるんだから、わざわざ見ようとしちゃいけない。
良道 そう、見えてくるから、見ようとしたら見えるわけないんです。
一照 その辺はやっぱり僕が坐禅についてよく言うことと面白いくらい共通してるよね。そこいら辺のことを道元禅師は強為と云為という言い方で言ってる。強為というのは俺が無理して、強制的に何かをやろうとするような行為。云為というのは頭を通さない、もっと自発的で思慮分別をはさまない行為のことなんだけど、「俺が頑張ってやってやるぞ」という強為的な態度でいる限り、絶対に到達できない世界っていうのがそこにはあるんだね。
その辺のことを言うときに僕は「マジック・アイ」の例を使うんだけどね。あの二次元パターンの図柄を普通の眼のままで「隠されている三次元の図形を見てやるぞ」と言って眼を緊張させたら三次元の図は絶対に見れないんだよ。
良道 だけど、眼を緊張させないでリラックスさせて待っているとそのうち向こうから見えてくるでしょう。
一照 そうそう。・・・きっとニミッタもそんな感じなのかな?・・・
瞑想中に現れる光のイメージ
瞑想中に現れる光のイメージ
https://hosen.repo.nii.ac.jp/record/272/files/kiyou1301.pdf
ハッキリと目を見開いても見えるからな。
まぁ、引用や論文にある様に、丹光が見えるのは禅定に入るからだけど、そんなのが見えてたからって増上慢になって修行が成就したって思わない様にって事だな。
車とかが通って明るくなるのではない。
周りには光源がないからな。
……まぁ、こういう話をすると"俺もしたじょー"とか勘違いするのが湧くから、しない方がいいのかもしれないけど、こういう事もあるし、そんなのに囚われちゃダメよ😘って事を残しておかないと、「悟りを開いたじょー!」とか妄想する馬鹿が出てくるからな😧
詳しい人に教えて貰って、そういうのが出てくるって知った。
🤡
インド古代文献史において絶対年代措定は極めて困難であり不確
実性が高い。
今仮にブッダの没年を前380年頃とすれば、 『八群品』編纂は前380~350年頃、他の大部分のパーリ聖典は前 3 世紀頃と想定し得ようか(Cf. Witzel, 1997: 258) 。
『八群品』は、自身が自覚のない利己的欲求に常に支配されるこ
と(潜在欲求の常在)、また、その完全な払拭は不可能であること(2 中谷 ブッダが残した一詩篇『八群品』の研究誤謬不可避性)を自覚しつつ、しかし五位相観を用いてその払拭に努め続けるニッバーナ(消尽)が心を作り、その心をもって生きることが安寧であることを、論理的及び実践的に明かしている。
インド古代文献史において絶対年代措定は極めて困難であり不確実性が高い。
今仮にブッダの没年を前380年頃とすれば、 『八群品』編纂は前380~350年頃、他の大部分のパーリ聖典は前 3 世紀頃と想定し得ようか(Cf. Witzel, 1997: 258) 。
『八群品』は、自身が自覚のない利己的欲求に常に支配されること(潜在欲求の常在)、また、その完全な払拭は不可能であること(2 中谷 ブッダが残した一詩篇『八群品』の研究誤謬不可避性)を自覚しつつ、しかし五位相観を用いてその払拭に努め続けるニッバーナ(消尽)が心を作り、その心をもって生きることが安寧であることを、論理的及び実践的に明かしている。
🤡
「禅定は色定(ルーパ・ジャーナ)が4、無色定(アルーパ・ジャーナ)が4で合計8がある(2p117)。
例えば、8つめの禅定に「非想非非想処(ひそうひひそうじょ)」という禅定がある。
ブッダは、修行の初期にウッダカ・ラーマプッタに師事したが、この仙人の下で達成したとされる瞑想の境地である。ここに実際に入れる(2p117)。
パオ・メソッドをやるまで、経典として書いてあるため知識としてはあることを知っていたが、あくまでもフィクションの世界だと考えていた(2p117)。
けれども、パオ・メソッドは極めて緻密で、ブッダが修行して体験したと経典に記されている禅定という八つの悟りの境地を順次体験できる(2p118,3p120)。ビルマにいた4年間で(2p114,3p120)、日々、セヤドーから直接指導を受け、ブッダの教えをすべて確かめた」(3p120)。
「一時間ほど継続的に呼吸が見られるようになれば、小さくキラキラした光、ニミッタが表れてくる。これは、禅相と呼ばれ、禅定に近づいている印である。光が強くある程度安定してくれば、呼吸ではなく、光そのものを瞑想対象としてさらにその中に集中していくと、より深い禅定に入れる(2p184)。けれども、この最初のニミッタですら本当に限られた人しかいけない(2p185)。パオの瞑想センターでも、千人いる修行者のうち、メソッドのコースを完了できるのはせいぜい10人で、成功率は1%以下なのである(2p181)」
メソッドを設けてやるのと、なーーーんも云わないのと。
如何?
🤡
イカレポンチキ発猿子でおー胡散臭いウンコ、今日も妨害してるね!
どうした?
突然発作?
🤡
まぁ、今時は暖かいインナーがあるので、着ると坐禅してて寒く感じる事は感じるけど、ガタガタ🥶は無い。
最上についての八つの詩句
796
世間では、人は諸々の見解のうちで勝れているとみなす見解を「最上のもの」であると考えて、それよりも他の見解はすべて「つまらないものである」と説く。それ故にかれは諸々の論争を超えることがない。
797
かれ(=世間の思想家)は、見たこと・学んだこと・戒律や道徳・思索したことについて、自分の奉じていることのうちにのみすぐれた実りを見、そこで、それだけに執著して、それ以外の他のものをすべてつまらぬものであると見なす。
798
ひとが何か或るものに依拠して「その他のものはつまらぬものである」と見なすならば、それは実にこだわりである、と〈真理に達した人々〉は語る。
それ故に修行者は、見たこと・学んだこと・思索したこと、または戒律や道徳にこだわってはならない。
799
智慧に関しても、戒律や道徳に関しても、世間において偏見をかまえてはならない。
自分を他人と「等しい」と示すことなく、他人よりも「劣っている」とか、或いは「勝れている」とか考えてはならない。
800
かれは、すでに得た(見解)〔先入見〕を捨て去って執著することなく、学識に関しても特に依拠することをしない。
人々は(種々異った見解に)分れているが、かれは実に党派に盲従せず、いかなる見解をもそのまま信ずることがない。
801
かれはここで、両極端に対し、種々の生存に対し、この世についても、来世についても、願うこと*がない。
諸々の事物に関して断定を下して得た固執の住居*は、かれには何も存在しない。
802
かれはこの世において、見たこと、学んだこと、あるいは思索したことに関して、微塵ほどの妄想をも構えていない。
いかなる偏見をも執することのないそのバラモンを、この世においてどうして妄想分別させることができるであろうか?
803
かれらは、妄想分別をなすことなく、(いずれか一つの偏見を)特に重んずるということもない。
かれらは、諸々の教義のいずれかをも受け入れることもない。
バラモンは戒律や道徳によって導かれることもない。このような人は、彼岸に達して、もはや還ってこない。
最上についての八つの詩句
796
世間では、人は諸々の見解のうちで勝れているとみなす見解を「最上のもの」であると考えて、それよりも他の見解はすべて「つまらないものである」と説く。
それ故にかれは諸々の論争を超えることがない。
797
かれ(=世間の思想家)は、見たこと・学んだこと・戒律や道徳・思索したことについて、自分の奉じていることのうちにのみすぐれた実りを見、そこで、それだけに執著して、それ以外の他のものをすべてつまらぬものであると見なす。
798
ひとが何か或るものに依拠して「その他のものはつまらぬものである」と見なすならば、それは実にこだわりである、と〈真理に達した人々〉は語る。
それ故に修行者は、見たこと・学んだこと・思索したこと、または戒律や道徳にこだわってはならない。
799
智慧に関しても、戒律や道徳に関しても、世間において偏見をかまえてはならない。
自分を他人と「等しい」と示すことなく、他人よりも「劣っている」とか、或いは「勝れている」とか考えてはならない。
800
かれは、すでに得た(見解)〔先入見〕を捨て去って執著することなく、学識に関しても特に依拠することをしない。
人々は(種々異った見解に)分れているが、かれは実に党派に盲従せず、いかなる見解をもそのまま信ずることがない。
801
かれはここで、両極端に対し、種々の生存に対し、この世についても、来世についても、願うことがない。
諸々の事物に関して断定を下して得た固執の住居は、かれには何も存在しない。
802
かれはこの世において、見たこと、学んだこと、あるいは思索したことに関して、微塵ほどの妄想をも構えていない。
いかなる偏見をも執することのないそのバラモンを、この世においてどうして妄想分別させることができるであろうか?
803
かれらは、妄想分別をなすことなく、(いずれか一つの偏見を)特に重んずるということもない。
かれらは、諸々の教義のいずれかをも受け入れることもない。
バラモンは戒律や道徳によって導かれることもない。このような人は、彼岸に達して、もはや還ってこない。
「さて世の中で欲望は何にもとづいて起るのですか? また(形而上学的な)断定は何から起るのですか? 怒りと虚言と疑惑と及び〈道の人〉(沙門)の説いた諸々のことがらは、何から起るのですか?」
867
「世の中で〈快〉〈不快〉と称するものに依って、欲望が起る。諸々の物質的存在には生起と消滅とのあることを見て、世の中の人は(外的な事物にとらわれた)断定を下す。
868
怒りと虚言と疑惑、 これらのことがらも、(快と不快との)二つがあるときに現われる。疑惑ある人は知識の道に学べ。〈道の人〉は、知って、諸々のことがらを説いたのである。」
869
「快と不快とは何にもとづいて起るのですか? また何がないときにこれらのものが現われないのですか? また生起と消滅ということの意義と、それの起るもととなっているものを、われに語ってください。」
870
「快と不快とは、感官による接触にもとづいて起る。感官による接触が存在しないときには、これらのものも起らない。生起と消滅ということの意義と、それの起るもととなっているもの(感官による接触)を、われは汝に告げる。」
871
「世の中で感官による接触は何にもとづいて起るのですか? また所有欲は何から起るのですか? 何ものが存在しないときに、〈わがもの〉という我執が存在しないのですか? 何ものが消滅したときに、感官による接触がはたらかないのですか?」
872
「名称と形態とに依って感官による接触が起る。諸々の所有欲は欲求を縁として起る。欲求がないときには、〈わがもの〉という我執も存在しない。形態が消滅したときには〈感官による接触〉ははたらかない。」
873
「どのように修行した者にとって、形態が消滅するのですか? 楽と苦とはいかにして消滅するのですか? どのように消滅するのか、その消滅するありさまを、わたくしに説いてください。わたくしはそれを知りたいものです。 わたくしはこのように考えました。」
874
「ありのままに想う者でもなく、誤って想う者でもなく、想いなき者でもなく、想いを消滅した者でもない。 このように理解した者の形態は消滅する。けだしひろがりの意識は、想いにもとづいて起るからである。」
🤡〜〜〜〜〜
https://www.itmedia.co.jp/aiplus/articles/2601/16/news038.html
以前、「鋭い視点です!」「独創的ですね!」と言い返してくるその忖度を警告したけどなwww
あんなのにハマってたら自己中引きこもりの妄想世界の住人一直線だってなw
何気にサラって読み流してしまう事も、熟読玩味すると実はとてつもない事が説かれていたって事なんだよな。
中観や唯識に連なる源流を見出せるし。
ただしその言葉は未だ「喃語」状態であって対象を正確に捉えてはいない。
その背後にある無自覚的意識は粗樸な乳児的「快・不快」である。
やがてこの「快・不快」に潜在的に「占有意識」や「自我意識」が備わった時、顕在的な「感覚」は「知覚」となる。
さらに、自我を備えた意識が、無自覚に自分にとっての「得失」を意識した時、「知覚」は一対象への「愛好・嫌悪」となる。
一対象に対する諸機会における「得失」が累積した結果、その対象に対する総括的「決定」が無自覚的に生じ、 「決定」に基づいて個別の「愛好・嫌悪」が纏まって一つの「感情」となる。
さらに「.決定」が対象に対する隠れた「願望や意図」を生じさせ、それに応じて対象を恣にしようとする「恣意」や対象の「攪乱」を図る「行為企画」が生じて行為に至る。
これは意識の生成から行為企画に至るまでの認識機序の記述であるが、同時に、乳児から成人に至る意識成長の記述とも見得る。
すなわち快・不快の感覚のみで自我意識さえ未発達の乳児の意識が占有意識・自我意識、得失意識、決定を次々に獲得して、それらを組み合わせた複雑な意図を持つに至るという意識成長過程とも読み取れる。
なお、五位相が時間軸とは逆に、行為直前の意識からその元の意識へと説かれるのは、これを用いるニッバーナの際に、先ず自身の一行為を思い浮かべ、その行為直前の意識から順に遡って諸意識を点検するという実際の用方に沿って記述されているからであろう。
https://i.imgur.com/wLcw0gA.jpeg
.
龍樹の空仮中はシノニムだけど、天台法華・日蓮宗のそれは、空(=無)仮(≒実体)に偏らないという主旨での中(道)だからなぁ。
例年より梅の花の開花も早いし、早くも木の芽時って事か😧
①『八群品』哲学の根幹が五位相二様態意識論の再発見によって明らかになった。
それは発生から行為に至るまでの意識を五位相・二様態に分かち、 潜在意識が顕在意識を制御する機序を示す。
『ニッデーサ』の誤解によって見失われたこの五位相論が二千年ぶりに回復された結果、それが脳科学者を驚かせるほど精緻な意識分析と判明した。 (3.1.)
②五位相論を用いて無自覚の利己心を自覚し、その払拭に努め続ける過程がニッバーナ(消尽)であり、それが安寧であると『八群品』は述べる。
この潜在利己心の自覚と払拭による不断の自己刷新をめざし続ける哲学こそ、ブッダの創見である。 (3.2.)
③『八群品』の内容を整理すれば以下のとおりである。
1 )修行者は、無一物の遊行生活の中で、ニッバーナによって自省し、無自覚の利己心の払拭を継続する。
2 )これによって徐々に洞察力を身に着け、田畑、黄金、牛馬、女性などの欲望の対象と、経験、知識、思想、信仰などの見解とを放棄する。 (3.3.)
④『八群品』はdhamma(意識)という語を用いて、 1 )五感、2 )感情、 3 )行為企画(想念)、 4 )規範意識、を総称する。
これらは五位相の五顕在意識に相当する。
dhammaによる総称はほぼこれに限られ、後代仏典におけるように「法(=社会規範) 」や「仏教教義(=僧団規範) 」を指すことはない。
このdhammaの用法に『八群品』の顕在意識観が顕れている。この用法に基づいてr?pa 「感覚」の意味も明確になった。 (3.4.)
①『リグ・ヴェーダ』 の宇宙開闢讃歌に対する 『百道梵書』 (?atapathaBr?hma?a)の注釈に現れる新生の「思い」m?nasが表明する願いと、五位相第一位相の「喃語」papa?caの意味とが近似することから、ブッダはこの『百道梵書』を素材として五位相論を構想したと推定される。(4.1.)
②『百道梵書』はn?́man(名称)のないr?p?(形態、『八群品』では感覚) 、またv?́c(言葉)の届かないm?nas(思い)の存在を認める。
これは言語化されない潜在意識の存在の認知である。この認知が、ヤージュニャヴァルキヤの不可知の認識主体 (アートマン) 論、及びブッダの潜在意識論の下敷きとなったと考えられる。 (4.2.)
③RV以来の、 「繰り返す行為が心を作る」というタパス( tapas,苦行、抱卵)思想は、ブッダの「ニッバーナ(利己心の消尽の継続) 」の基にある。 (4.3.)
④ヤージュニャヴァルキヤ思想の大枠をブッダは継承したが、 梵・我の2原理を否定して両者を認識作用一つに置き換えた。
1 ) 「行為が人を作る」 (欲望>意図>行為>人格形成)という思想を五位相論として継承した。 (4.4.1.)
2 )子息・財(=「欲望の対象」)と天界再生(=「見解」)を放棄して出家者となった無欲望者こそブラフマン(至福世界)を獲得するという思想をブッダは踏襲。 (4.4.2.)
3 )認識の隠れた統御者アートマンの自覚という思想を、ブッダは五位相の潜在意識が顕在意識を統御する事態の自覚という形に修正した。
ただしその自覚はそこに潜む利己性の自覚と払拭(ニッバーナ)のためである。 (4.4.3.)
4 )実体を備えず、動いて止まず、非実在である認識主体としてのアートマンを、ブッダは認識作用として精密に五位相二様態に分析し、ニッバーナという利己心払拭の実践法を考案した。 (4.4.4.)
5 ) 「非ず、非ず」のアートマンは徐々に高まり、客体(ブラフマン)を正確に捉えた時、客体となる。
アートマンはそこで停止せず刷新を継続するとヤージュニャヴァルキヤは言うが、ブッダは主体、客体を措定せず、認識作用のみを認める。
(4.4.5., 4.4.6.)
6 )個々人の、時々の認識の大海を、利己心払拭という方向のみを定めた「作用」であるニッバーナを頼りに人格を育みつつ渡って行こうと試み続けるのがブッダの哲学である。 (4.4.7.)
🤡
一流は思いやりのある指導をされますね
有り難いお話です
😁
燃えてきたよーだな?
🤡
ただの触であり現量なのに。
丹光(禅相、ニミッタ)って仏典に載ってるし、禅定に至る段階とかって、南伝仏教やチベット仏教でも云われてるけどな🤔
聴聞とは無聞無得。
垂示に云く、鏌鎁橫に按えて、鋒前もて葛藤窠を剪斷る。
明鏡高く懸けて、句中に毘盧印を引き出す。
田地穩密の處、著衣喫飯す。
神通遊戲の處、如何にか湊泊せん。還た委悉すや。
下文を看取よ。
金牛和尚、斎時に至る毎に、自ら飯桶をもって僧堂前において舞を作し、呵々大笑して云く、「菩薩子、喫飯来」と。
雪竇云く、「しかもこの如くなりと雖も、金牛これ好心にあらず」。
僧、長慶に問う、「古人いわく、『菩薩子、喫飯来という意旨如何』」。
慶云く、「大いに斎に因って慶讃するに似たり」。
白雲影裏 笑呵々
両手に持って来って他に付与す
若しこれ金毛の獅子子ならば
三千里外に誵訛を見ん
嫌心でもないけどなw
頑張っえるな?
🤡〜〜〜
飾りと大言壮語だけは
立派だ
🤡〜〜〜〜
Yahoo知恵袋での南北戦争wとか見てて馬鹿だと思うわ。
俺は、
何であれ善く説かれたものであれば、それは全て釈尊の言葉である。
(増支部経典 アングラッタ・ニカーヤ164.7−9)
という説示を大事にするからな。
自爆テロ戦争🤡
デジタルタトゥーの山盛りハッスル〜
🤡
ハッスル〜🤡
これが以前の5chならガチガチに揉めたけど、幸いにも此処にはそれが何故揉めるのかさえ分かるレベルの人は居ないから、噛みついて来なければスルーだけどな😗
多少仏教に詳しい者なら、あの背表紙を見て苦笑いするだろうし、s会やk会なんかの信者は発狂しただろ。
もっとも、仏教史を知らないトーシローさん達は、まんまとあの背表紙を信じてしまったけどw
またsさんも密教や浄土教をボロカスに言ってるし、方便でさえないとも言ってるしな。
あのアカハラ騒動はともかく、s説はどうかなぁって思うわ。
そこで中谷論文を出してきたんだけどな。
s説ではスッタニパータが大衆向けって云うけど、その大衆って五位相二様態を理解できる大衆なのかねぇ。
🤡
「不細工ナルシスト発猿子でおー」雌チンパンジーの犯罪記録WWW
「不細工ナルシスト発猿子でおー」雌チンパンジーの犯罪記録WWW
【仏教】悟りを開いた人のスレ【天空寺】275
ユーザー
安堂
AkeQv(1/2)
>>895
なりすましね。
かおりって男だと思うよ。
俺と同じ工作員だと思う(⌒‐⌒)
2026/01/19 17:17:36
私も仏教の諸問題についてのヒントや考察の補助としてAIを使う事があるけど、大分精度が上がってきたような気がする。
例の南北戦争wも決着の見通しがたつのかも知れないな。
師が「どのようにわかったのか」と問われて「黒漆(こくしつ)の崑崙(こんろん)、夜裏(やり)に奔(はし)る(真っ黒な玉が暗闇を走る)」と答えられました。
師がさらに「まだだ、さらに言ってみよ」と催促され、瑩山禅師はすかさず「茶(さ)に逢(お)うては茶(さ)を喫(きっ)し、飯(はん)に逢(お)うては飯(はん)を喫(きっ)す」と答えられました。
これを聞いた師の徹通禅師は、ほほえみながら瑩山禅師の大悟徹底されたことを印可したのでした。
https://www.sojiji.jp/daionki/message/
まぁ、いいやw
色即是空なしに空即是色の色を語るのは、空じられてない色だから、妙観察智や平等性智を経ないで大円鏡智を得たとし、成所作智の生活を送ってるって妄想してるだけ。
無事禅だの平実禅だのだな。
野孤禅。
頑張ってるな?
🤡
その文章の
野狐度合い
自覚ないな?
さすがだな?
ハッスル🤡〜
🤡〜
🤡〜
🤡〜
>そして、これほど確かな事実はないんですよ。
>(『我が座禅修行記』より 井上義衍老師の言葉として)
それはそのままにそれ以外にないのが動かしようのない真理でしょ・・・
こういうのは、それが徹底的に否定されたうえではじめて云えることなんだけどな。
それを経ないでそこに安住するのを魔境って云うんだけど、到底理解が及ばないんだろうな。
>今日はなんぞといふと、『その儘でよい、その儘でよい』といふやうな洵に浅墓なことになり果てゝしまつて、『公案ぢやなんの、そんなことに頓着せんがよい。この儘でよいのぢや。
>行持即仏法、今日の上でもう仏法は尽きてゐる』などと済まし込んでゐる宗旨が、どうかすると多いやうぢや。
>そんなものではない。
>この臨済の如く命迄捨てゝ始めて分つた大道ぢや。
>黄檗のところで六十棒どやされたが、大愚のところで始めてカラツと分つた。
>それから又破夏の因縁といふものがある。
>後に又黄檗のところへ行つて、叩き出されてしまうたが、そこで始めて真の境地を得たのぢや。
>ぢやから、親から生みつけられたその儘でよいなどと、今日済ましてゐる宗旨があるが、飛んでもない間違であるぞ。
>娘生下にして便ち会するものではない。
>(『悟り体験を読む』より 足利紫山禅師の言葉として)
トーシローには到底理解しがたい難解な法が仏法にはある事も知らないでそこに安住してるんだから魔境なんだけどな。
ロンも同じでそこから脱してない。
ガンバルンバ〜
🤡〜
>鏡は明らかなものなので、映ったまま、映る物を除けようとも除けまいともしないのが、鏡にある明らかな徳でございます。
>そのように、人々の心も、目をさえぎったり耳をさえぎったりする物を、すこしの念もないまま、みずから見ることや聞くことがはっきり通ずるのが、仏心にある徳であると知ったのみでございます。
>(『盤珪禅師語録』より)
これもそう。
その絶対的な否定(色即是空)があっての事(空即是色)。
最初の色そのままでいいってことじゃない。それは「受」だから。
宗教板の異常性はこういうところにあるんだよな。
早合点して変な魔境に安住してる奴はどうしようもないのかもなあ・・・
ムテキング〜
🤡〜
やっぱり「人を見て法を説け」というのは、その時その場その人でって事なんだよな。
大抵の人は始覚門で来るから、対機で本覚門が説示されるんだろうけど、そこに納得して無事禅平実禅、ありのまま禅そのまま禅の魔境に堕ちるんだよな。
で、そうじゃないぞ!って指摘してもそれがドグマになってるから受け入れない。
こうなるともうどうしようもないんだよな。
まぁ、こうしてネットで散々否定してやっても、まぁ到底至らないのだろうな。
だからといって師家の元で厳しく叱責を受ける覚悟もないみたいだし……
ダメだ、コリやwww
やっぱり、ちゃんと否定してくれる人がないと変な方向に流れてしまうし、いわんやネットでそれをやっても効き目なんて殆どないし、リアルで師家に参じて徹底的に否定をやってもらう他ないんだろうかねぇ。
特にああしたそのまま(平実)禅なんて、白隠さんなんかは「ねじり鉢巻して太鼓でも叩いてろ!」って罵るくらいだもんなあ。
特に口戒が四つあるのは、それだけ毒となる事が多いからだ。
ガキ大将〜〜
🤡
👍️
> 思ってますよ笑
>
> わたしが今まで生きてきたことにもこれからも全く必要ないですねわたしには
> そんなこと知らなくても生きていけます
あー、ダメダメ、それ全然違うから。
そんなのは仏教とは全くの別物だから。
人は常に現実とは違うものが潜在意識から湧いて来て顕在意識に干渉して、現実の受け止めを阻害するから。
そうした知識(教学)なしに、仏道の道はないから。
出直して来た方がいいね。
中谷論文より。
すなわち五位相二様態意識は、時間軸に沿えば、図の下部から上部へと展開する。
自覚的意識は五官による「感覚」と、感覚されたものへの「名称」付けから始まる。
ただしその言葉は未だ「喃語」状態であって対象を正確に捉えてはいない。
その背後にある無自覚的意識は粗樸な乳児的「快・不快」である。
やがてこの「快・不快」に潜在的に「占有意識」や「自我意識」が備わった時、顕在的な「感覚」は「知覚」となる。
さらに、自我を備えた意識が、無自覚に自分にとっての「得失」を意識した時、「知覚」は一対象への「愛好・嫌悪」となる。
一対象に対する諸機会における「得失」が累積した結果、その対象に対する総括的「決定」が無自覚的に生じ、 「決定」に基づいて個別の「愛好・嫌悪」が纏まって一つの「感情」となる。
さらに「.決定」が対象に対する隠れた「願望や意図」を生じさせ、それに応じて対象を恣にしようとする「恣意」や対象の「攪乱」を図る「行為企画」が生じて行為に至る。
これは意識の生成から行為企画に至るまでの認識機序の記述であるが、同時に、乳児から成人に至る意識成長の記述とも見得る。
すなわち快・不快の感覚のみで自我意識さえ未発達の乳児の意識が占有意識・自我意識、得失意識、決定を次々に獲得して、それらを組み合わせた複雑な意図を持つに至るという意識成長過程とも読み取れる。
なお、五位相が時間軸とは逆に、行為直前の意識からその元の意識へと説かれるのは、これを用いるニッバーナの際に、先ず自身の一行為を思い浮かべ、その行為直前の意識から順に遡って諸意識を点検するという実際の用方に沿って記述されているからであろう。
https://i.imgur.com/wLcw0gA.jpeg
分かるというのは分かれるという事であって、それが生じるのは図でいう顕在識の2からだろうな。
1の段階では感覚的な嫌悪があるだけで分たれてない。
ハッスル〜〜🤡
🔥🔥🔥🔥🔥🔥
世間の常識じゃそうだろけど、仏教的な見解はそこを求めているのではないからな。
以下が参考になるかもな。
『碧巖録』第四十六則 「鏡清雨滴声」
鏡清、僧に問う、門外是れ什麼の声ぞ。
僧云く、雨滴声。
清云く、衆生顚倒して、己れに迷うて物を逐う。
僧云く、和尚作麼生。
清云く、洎ど己れに迷わず。
僧云く、洎ど己れに迷わずと、意旨如何。
清云く、出身は猶お易かる可し、脱体に道うことは応に難かるべし。
まぁ、それに対して学人が畳をパン!って叩いたら通されるかもしれないけど、それがパン!はパン!それままにそのままだって事なら、未だ「顚倒して、己れに迷うて物を逐」ってるな。
パン!そのものに成り切るというか、自己を離れてパン!はないからな。
「無とはなんぞや!?」
「ム」
それもそれがそのままにそれって事なら、やっぱり心外に法を逐っている事に他ならないんだけどな。
「白は何故黒い?」とか「火は何故冷たい?」とか追い詰める他ないのかねぇ。
いや、「お茶は何故お茶の味がしない?」がいいかな。
あれじゃ「いやいや、お茶はお茶の味がするでしょ」ってレベルだし、まぁ、猫年が来てもこの理は頓珍漢で分からないだろうなぁ。
バンバンしたのけ?
🤡
一週間くらい前からどうも体調が良く無く、体調崩して昨日から寝込んでる。
今朝は坐ったけど昨日は一回も坐らなかった。
坐禅すると脳内麻薬が出るのか、一時的に体調は良くなるみたいだな。
> (『瑜伽師地論』七十五巻)
分からん😅
一言で言えば、**「目に見える肉体の観察を通して、その奥にある真実の姿(真如)を悟る」**というプロセスを説明しています。
分かりやすく分解して解説します。
1. 言葉の意味を解きほぐす
この一文は、大きく3つのキーワードで構成されています。
* 身に於いて循身観(じゅんしんかん)に住す
これは「四念住(しねんじゅう)」という基本的な瞑想の一つ「身念住」を指します。自分の身体を、外から眺めるのではなく、身体の内側から、ありのままに観察し続けることを「住す(とどまる)」と言います。
* 相身(そうしん)
「形や特徴のある体」のことです。私たちが普段「これが私の体だ」と思っている、肉体的な特徴、痛み、温かさ、形などを指します。
* 真如身(しんにょしん)
「真実のありのままの体」のことです。相身(形ある体)の正体であり、実体がない(空である)けれど、宇宙の真理そのものであるような、究極の状態を指します。
2. この文章が伝えていること
通常の瞑想(小乗仏教など)では、体を「不浄なもの」「無常なもの」として観察し、執着を離れることを主眼に置くことが多いです。
しかし、この『瑜伽師地論』の一節は、一歩進んだ**唯識(ゆいしき)**の視点に立っています。
> 「形あるこの体(相身)を繰り返し、隅々まで観察(循環)していくことで、最終的にはその体が本来持っている真実の姿(真如身)を観るようになるのだ」
>
つまり、「体」という入り口から入って、「真理」という出口に到達する修行を説いているのです。
このプロセスは、以下のようなステップとして捉えることができます。
| 段階 | 状態 | 観察の内容 |
|---|---|---|
| 第一歩 | 相身を観る | 自分の呼吸、心拍、皮膚の感覚、骨の感覚など、具体的な「形」を丁寧に観察する。 |
| 第二歩 | 循環する | 特定の場所にこだわらず、体全体を、あるいは内も外も、繰り返し意識を巡らせる。 |
| 到達点 | 真如身を観る | 「これは私のものだ」「これは固いものだ」という固定観念が消え、体もまた真理(真如)の現れであると直感する。 |
現代的な解釈
私たちは普段、自分の体を「老化する嫌なもの」や「思い通りにならない道具」のように思いがちです。しかし、この教えは、**「今ここにある、この肉体こそが真理(真如)への唯一の窓口である」**と教えてくれています。
自分の体をただの物質として見るのではなく、その感覚を丁寧に辿っていくことで、自分という存在の根源にある「大いなる真実」に触れることができる、という励ましの言葉でもあります。
この一節が含まれる『瑜伽師地論』は非常に膨大な書物ですが、この部分は特に「止観(瞑想)」の核心に触れています。
もしよろしければ、この一節に興味を持たれた背景(瞑想の実践中、あるいは仏教哲学の研究など)を教えていただけますか? それに合わせて、より具体的な実践法や背景をお話しできるかもしれません。
🟣🤡
トランプなのかその取り巻きなのか分からないけど、尉繚子を研究してるんじゃないのか、奴等。
グリーンランドの件は、まさにその手順なんだけど。
家から抜け出した猫探してて
外猫と触れ合うと病気もらうからさ
早めに回収しようと探してたんだが
ちょっと段差があって
年甲斐もなく若いときのつもりでジャンプしたら
着地時に体幹が耐えられず
前のめりに倒れたw
これがいいと思う
あいつはなにがしら妄想をゴールと
思いがち
その在り方は 餓鬼道と修羅道 が強く表れている。
そして、でおーは意図的に相手の 怒りや憎しみを引き出し、地獄道に引きずり込もうとする 。
🤡餓鬼道とは何か。
餓鬼道は
渇望、不足感、「まだ足りない」という感覚に支配された状態。
承認・知識・評価・愛情への飢えが尽きず、
手に入れても決して満たされない。
でおーは、貪るようにあらゆる宗教知識を集め、
その知識によって周囲からの承認を求める。
しかし、いくら語っても満たされた様子はなく、
むしろ常に不足感を抱えているように見える。
愛情への飢えすら感じさせる点も含め、
餓鬼道の特徴と非常によく重なっている。
🤡修羅道とは何か。
修羅道は
闘争、優劣、勝ち負けに囚われた世界。
相手を打ち負かすことでしか自分を保てない状態。
でおーは、やたらと
「自分の方が優れている」
「相手より上である」
という点を強調する。
勝ち負けに固執し、
相手を倒すためなら手段を選ばず、
時には第三者同士を対立させる方向へ誘導する。
そして、その対立を外から眺めて楽しむ。
この振る舞いも、でおーは修羅道の性質と一致している。
🤡地獄道とは何か。
地獄道は
怒り、憎しみ、「許せない」「ムカつく」という感情に支配された状態。
正義感が歪み、攻撃性へと変質する。
でおーは、相手を意図的に挑発し、
怒りや憎しみを引き出そうとする。
相手の正義感を刺激し、それを攻撃へと変えさせる。
🤡つまり、
でおーは餓鬼道・修羅道に留まりながら、
相手を地獄道へ落とそうとする構図が見える。
これは、でおーがこれまで繰り返してきた行動と、完全に一致している。
😁😁😁😁😁
ムイムイ〜〜〜
😁😁😁😁
ここで
大進撃してみよう〜
😁
その在り方は 餓鬼道と修羅道 が強く表れている。
そして、でおーは意図的に相手の 怒りや憎しみを引き出し、地獄道に引きずり込もうとする 。
🤡餓鬼道とは何か。
餓鬼道は
渇望、不足感、「まだ足りない」という感覚に支配された状態。
承認・知識・評価・愛情への飢えが尽きず、
手に入れても決して満たされない。
でおーは、貪るようにあらゆる宗教知識を集め、
その知識によって周囲からの承認を求める。
しかし、いくら語っても満たされた様子はなく、
むしろ常に不足感を抱えているように見える。
愛情への飢えすら感じさせる点も含め、
餓鬼道の特徴と非常によく重なっている。
🤡修羅道とは何か。
修羅道は
闘争、優劣、勝ち負けに囚われた世界。
相手を打ち負かすことでしか自分を保てない状態。
でおーは、やたらと
「自分の方が優れている」
「相手より上である」
という点を強調する。
勝ち負けに固執し、
相手を倒すためなら手段を選ばず、
時には第三者同士を対立させる方向へ誘導する。
そして、その対立を外から眺めて楽しむ。
この振る舞いも、でおーは修羅道の性質と一致している。
🤡地獄道とは何か。
地獄道は
怒り、憎しみ、「許せない」「ムカつく」という感情に支配された状態。
正義感が歪み、攻撃性へと変質する。
でおーは、相手を意図的に挑発し、
怒りや憎しみを引き出そうとする。
相手の正義感を刺激し、それを攻撃へと変えさせる。
🤡つまり、
でおーは餓鬼道・修羅道に留まりながら、
相手を地獄道へ落とそうとする構図が見える。
これは、でおーがこれまで繰り返してきた行動と、完全に一致している。
此処にそれは書かないでな。
😁
😁
ユーザー
◆JBLfMwCXhY
zy8mw
>>565
> ∞ノノハ∞
> 川^○^ハレ紫色のオッサンは体調悪いみたいだから寝禅の方がイイかもも♪
いつも足組んで寝てたせいで、足の細胞が壊死してるらしい😫
2026/01/22 00:13:27
😁
😁
ユーザー
◆JBLfMwCXhY
zy8mw
>>565
> ∞ノノハ∞
> 川^○^ハレ紫色のオッサンは体調悪いみたいだから寝禅の方がイイかもも♪
いつも足組んで寝てたせいで、足の細胞が壊死してるらしい😫
2026/01/22 00:13:27
もっともそれでも涅槃には至れるけど、無住処涅槃には至らないってされてたな、確か。
また、あれはMがやった事だって責任転嫁してたし。
距離を置くなら早い方が良い。
🤡〜
🤡〜
😁
😁
ハッスル🤡様の修行レベルを
恐れておるよーだ?
😁
あいつらは泡沫カルト団体の末端信者か破滅主義者としか思えないな。
🤡ー
ムイムイ
😁
🤡
>(モーリス・メルロー=ポンティ『知覚の現象学』より)。
事物の命名については丸山圭三郎が『言葉と無意識』で旧約聖書の創世記の話を引き合いにだし二種類のそれがあるのだと云ってます。
>神は「光あれ」と言われた。すると光があった。(1:3)
>そして主なる神は野のすべての獣と、空のすべての鳥とを土で造り、人のところへ連れてきて、彼がそれにどんな名をつけるかを見られた。人がすべて生き物に与える名は、その名となるのであった。(2:19)
すなわち
>つまり命名には、それまで存在しなかった対象を生み出す根源的作用と、すでに存在している事物や観念にラベルを貼る二次的な作用の二つがあるのである。
>(『言葉と意識』 丸山圭三郎 より)
だと。
ところでその命名を ことばによる分節 とも云うのですが、メルロー=ポンティは、上記のように
>事物の命名は認識のあとになってもたらされるのではなくて、それは認識そのものである
って云っております。つまり、認識=分節だと
😁
私は法相宗に親しいので、その筋に依って考察してみますが、『摂大乗論』によれば、
>かくの如く縁起は、大乗においては極めて細微で甚深である。
>もし略説すれば二種の縁起がある。
>一つは分別自性の縁起であり、二つは分別愛非愛の縁起である。
>(『摂大乗論』1:19 訳は小谷信千代 『唯識説の深層心理とことば 摂大乗論に基づいて』より)
っていうんです。
ここでいう分別は認識と同じ意味ですが、分別自性、つまり、自性※を分別するのが認識だと云うんです。
※自性〜もの・ことが常に同一性と固有性を保ち続け、それ自身で存在するという本体、もしくは独立し孤立している実体を自性という。
初期仏教においても「識は了別することを特質とする」とされるが、これを一歩進めたかたちだ。
(『仏教論争―「縁起」から本質を問う』/宮崎哲弥)
素晴らしい。
さすが宮崎哲弥さんです。
言語による分節が解体されれば直接知覚そのものという理なのでしょう。
即ち識による了別から言語による分節が一旦は解体されるってことだと思うんです。
鈴木大拙先生曰く「山は山にあらず。故に山である」と。
いわゆる即非の論理ですが、まさにこの事を云ってるのかと思うんです。
言語による分節の解体と再構築ですね。
愛?
多分それ、受だな。
わかってやるぞお〜
🤡
いつもハッスル
ご苦労さんやな?
🤡
貫道さんがわざわざ写真を載せて説明してるのは、言語化して説明すると分節になるからなんだろ。
勿論、現量了解は大事だけど、そこじゃねーから。
教学を馬鹿にしたり低く見る傾向があるけど、実参もダメな奴程、そこに逃げるよな。
バカに該当する
自覚ないやろけど
😆
> 言語による分節が解体されれば直接知覚そのものという理なのでしょう。
> 即ち識による了別から言語による分節が一旦は解体されるってことだと思うんです。
仏のスレ主がいう
「牛乳を飲めば、牛乳の味がする。
茶を飲めば、茶の味がする」
ってのは、そこを言ってるんじゃないの?
「牛乳の味」こそが、直接知覚そのものだ
ハッスル脳内は
唯識の下の煩悩ランクなんやろ
遍計所執性(へんげしょしゅうしょう)
意味: 人間が言葉や概念によって、実際には存在しない「実体(自我や物)」を勝手に妄想し、執着している性質。
具体例: 闇夜のひもを蛇と勘違いするような「虚妄分別(誤った認識)」。
😆
それ、現量や直接知覚の事だろ?って何度も訊ねて確認してるけど、本人は"違うんだなぁ"の一点張りだし、何か別のものらしいよ。
そのとき、意識が対象を、現在という一瞬に、しかも、そのまま認知する(これを、現量といいます)というより、ある時間経過の中で、かつ、何ほどかの推測や憶測などを交えて判断するのが実際でしょう。
こうした認知を、現量に対して「比量」といいます。
この比量には、いうまでもなく、ことばが用いられます。
なお、間違った認知も当然あるわけで、それを「非量」(比量との混同をさけるために、「ひいりょう」と読みます)といいます。
その点、五感覚の前五識はことばを介さないそのままの認知で、現量のはたらきだけです。
それに対して、第六意識は、現量・比量・非量の三つにまたがって認識します。
第八頌3「境を了するを性とも相とも為す」の一句は、対象を認識することが、前五識と第六意識の本質であり、また、具体的なはたらきである、ということを示していますが、両者ではこの点が相違しています。
また、意識は常に前五識と倶起するけど、他にも五後意識や夢中意識や独頭意識もあるからなぁ。
五後意識っていうのは、前五識の知覚後に起きる意識で、まさに、お茶を飲んでお茶の味がするって認識なんだよな。
また、それがその味するっていうのも、証明は出来ないんだけどな。
何故なら、意識が作用しない時にお茶を舌に垂らして飲ませても、それがその味しないから。
旧日本軍も研究していたあれか?
ハッスル〜🟣
😁
言葉は、正しい認識をさまたげる。
釈迦の教えは方便だ。
龍樹の中論も方便だ。
どれも本当の真理ではない」
↓
「本当の真理を知りたかったら、
ひたすら坐禅するしかない。
坐禅の回数で決まるのだ」
これが、聖ウンコ教の中核教義(セントラル・ドグマ)
このドグマを否定されたら、聖ウンコ教は終わり🤣
さすがに、ムイムイはちょっと疲れてきたのかもな
コピペ要らねーよw
坐禅だけが筏じゃないよ。
自分に合った筏を見つけなさい🥰
そろそろ、坐禅という筏を乗り捨てたらどうか?
執着が過ぎるぞ
www
筏そのものになって筏を漕ぎ続けるのが涅槃なんだけどな。
行く先に 我が家 有りけり 蝸牛(かたつむり)
by 山岡鉄舟
依存症の中毒患者は、常に自分を正当化し、ごまかし続けるものだ
> 依存症の中毒患者は、常に自分を正当化し、ごまかし続けるものだ
また冷汗三斗になる前に、坐禅がその様になる科学的な根拠を固めておいた方がいいぞ?
wwwwwwwwwwwwwwwwww
😁
さほど感だな
😆
常に南方は直指人心、見性成仏なりと聞くも、実に未だ明了ならず。
伏して望むらくは、和尚、慈悲もて指示せんことを。
頭曰く、恁麼も也た得からず、不恁麼も也た得からず。
恁麼も不恁麼も総に得からず、子、作麼生。
山、措く罔し。
頭曰く、子の因縁、此に在らず。且らく馬大師の処に往き去れ。
山、命を稟けて恭しく祖を礼し、仍ねて前問を伸ぶ。
祖曰く、我れ有る時は伊をして揚眉瞬目せしめ、有る時は伊をして揚眉瞬目せしめず、有る時は揚眉瞬目せる者は是、有る時は揚眉瞬目せる者は不是、子は作麼生。
山、言下に契悟し、便ち礼拝す。
祖曰く、儞、甚麼の道理を見てか便ち礼拝す。
山曰く、某甲、石頭の処に在りて、蚊子の鉄牛に上るが如し。
祖曰く、汝既に是くの如くなれば、善く自ら護持せよ。
不恁麼も也た得からず。
恁麼も不恁麼も総に得からず、
子、作麼生。
我れ有る時は伊をして揚眉瞬目せしめ、
有る時は伊をして揚眉瞬目せしめず、
有る時は揚眉瞬目せる者は是、有る時は揚眉瞬目せる者は不是、
子は作麼生。
石頭と馬祖の個性が出てるよなw
🤡〜
お前に漢文なんか無理だろ😂
無理するな
漢文の成績はAだったけどなwww
この馬鹿🤪(>>322)を外に連れてって!
(会場、大爆笑😂wwwwwww)
日々通じなくなっていく〜
😱
まさに餓鬼憑きですね。
哀れむべし、憐れむべし。
合掌🙏
上の一画は長く、下の三画は短し。
曰く、一画は長く三画は短しと道うを得ず。
四句を離れ百非を絶して、請う和尚、某甲に答えよ。
祖乃ち地に一画を画きて曰く、長短を道うを得ず。
汝に答え了れり。
一本だけしか線がなければ、長いも短いもない。
長短の差別を突きつけられ、馬祖はそれに無差別でもって応じた。
一本だの三本だのという沙汰を超えて、事物そのものに直参した――という話なのかもしれないが、そういうふうに読むのはつまらない。
ただ四本の線を見ることと、一本は長く三本は短い線「として」見ることとの関係として、この問答を読んでみたい。
四本の線を、一本は長く三本は短いもの「として」見るというのは、じっさいに見えているものに、一本は長く三本は短いとする「解釈」がプラスされているのだろうか?
この頭でっかちの僧、知覚の言語負荷性について考えている(笑)。
じっさい見ているのは感覚与件であって、一本は長く三本は短いというのは、そう解釈しているのだ、と。
馬祖は僧の屁理屈をぶっとばす。
知覚以前において純粋にとらえているのは感覚与件であるだの、見ているときすでに言語的に「として」解釈されているだの、いらん詮索じゃ、と。
そんな屁理屈よりも、大事なのは「見る」ことは「行為する」ことだってことである。
(続く)
地べたの線を見ることには、その線に身をもって対応するという行為がむすびついているのである。
一本は長く三本は短いもの「として」解釈しながら見ているわけじゃない。
地べたに引かれた線に、もっぱら行為的に対応しているにすぎない。
そのことを端的にあらわすべく、馬祖は一本の線を引いてみせた。
ただ、誤解しないでほしい。
馬祖は一本の線を引いたけど、それは長いとも短いともいえないニュートラルな「なにか」を描いたわけじゃない。
そんなものがあったりはしない。
子どものころ、いつも気になっていた。
遠くの空に銭湯の煙突が見える。
その高さがどれくらいなのか、よくわからない。
にもかかわらず、それなりの高さがあるというふうに見ていた。
そして「高いなあ」といったりした。
それなりの高さを見ていたとき、わたしはなにを見ていたのかなあ。
比較するものがないから高いとも低いともいうことはできないはずなのに、わたしは一本の煙突をそれなりに見ており、それに行為的に対応していたっけ。
それがすべてだ、と馬祖ならいうとおもう。
高低を問うなど、問いそのものがナンセンスだ、と。
『はじめての「禅問答」』より
↓
四本の線を、一本は長く三本は短いもの「として」見るというのは、じっさいに見えているものに、一本は長く三本は短いとする「解釈」がプラスされているのだろうか?
この頭でっかちの僧、知覚の言語負荷性について考えている(笑)。
じっさい見ているのは感覚与件であって、一本は長く三本は短いというのは、そう解釈しているのだ、と。
馬祖は僧の屁理屈をぶっとばす。
知覚以前において純粋にとらえているのは感覚与件であるだの、見ているときすでに言語的に「として」解釈されているだの、いらん詮索じゃ、と。
そんな屁理屈よりも、大事なのは「見る」ことは「行為する」ことだってことである。
🤡〜
知覚の言語負荷性……付価性って云ってもいいと思うけど、そういう理路は、いささか析空観的だけど、間違いではない。
純粋知覚(現量)や分析知(比量や非量)というのは、確かにそうだから。
ただ、馬祖は体空観的に、ダイレクトに"そのもの"を説示する。
それが一本の線を描くという動作そのもの。
>汝に答え了れり。
描かれた線ではなくて、描く事そのものに「四句を離れ百非を絶して」た真如が顕現してるんです。
いつも間違い
不審情報山盛り
😱
そのペラペラと饒舌な講釈こそ、非量そのもの
祖師の言行録を貼るだけにしてくれ
お前のコメントは要らん😂
禅 沈黙と饒舌の仏教史 (講談社選書メチエ 665)
語も也た得からず、
黙も也た得からず。
語も黙も総に得からず、
子、作麼生?
あ?
wwwwwwwwwwwwwwwwww
ハッスルのコントは
欲しいぞ🤡〜
ハッスル芸人のお笑いは必要だ😂
語も也た得からず、
黙も也た得からず。
語も黙も総に得からず、
子、作麼生?
www
どうだ?
レスだろな? 🤡〜
🤡〜
祖云く、礼拝せよ。
老、纔かに礼拝するや、祖便ち一蹋を与う。
老、大悟し、起ち来がって掌を撫ち、呵呵大笑して云く、也た大だ奇なり、也た大だ奇なり、百千の三昧、無量の妙義、只だ一毛頭上に向いて便ち根源を識得し去る。
便ち礼拝して退く。
後、衆に告げて云く、一たび馬師の蹋を喫して自従り、直ちに如今に至るまで笑い休まず。
しかもそれで大悟されたという。
払拳棒喝と云いますが、禅宗ではこの様なエピソードは尽きませんね。
……どうでしょう。
蹴飛ばされて迷妄が飛んで、分別以前の状態にハッと気付いたとでもいうのでしょうか。
そういう見方もあるのでしょうが、私はむしろ馬祖の作用即性、その蹴飛ばしそのものを注視したいのですが。
ご苦労さん!!(笑)
🤡〜
真理知と世俗知 ― 解脱の手段はヨーガの実修(2/2ページ)
大谷大教授 山本和彦氏
論2015年9月25日
https://www.chugainippoh.co.jp/article/ron-kikou/ron/20150925-002.html
二つの真理
仏教の中観派の祖師であるナーガールジュナ(龍樹、150~250年頃)は真理(諦)を勝義諦と世俗諦とに分ける。勝義諦は言葉や概念を超えた真理であり、世俗諦は言葉で表現できる真理である。空性体験や涅槃の体験は言葉で表現できない勝義としての真理である。一方、ブッダの教説は言葉で表現される世俗としての真理である。ナーガールジュナは『中論』(24・8~10)において、次のように言う。
二つの真理に依存して、ブッダの法が教示される。世俗諦と勝義諦とである。この二つの真理の区別を知らない人々は、ブッダの教えの深遠な真理を知らない。言語活動に依存することなく、勝義諦は説示されない。勝義諦が得られていなければ、涅槃は証得されない。
ナーガールジュナは二つの真理を言う。一つは言葉によって示される真理である世俗諦であり、ダルマ(法)としてのブッダの教説である。もう一つは、言語活動のない寂静なる涅槃の直接体験である勝義諦である。ナーガールジュナは帰敬偈で、縁起は戯論寂滅であると言い、第25章「涅槃の考察」で涅槃も戯論寂滅であると言う。縁起も涅槃も言語活動が停止したところにある。『中論』(18・5)において空性体験は次のように言われる。
業と煩悩との滅から、解脱がある。業と煩悩とは分別から生じる。それらは戯論から生じる。しかし、戯論は空性体験において滅せられる。
分別も戯論も言葉による活動であり、概念的知識が得られるのみである。空性体験という直接経験によって、言葉や概念は滅し、そして業と煩悩の滅した人は解脱する。
(続く)
二つの認識手段
仏教論理学者のディグナーガ(陳那、480~540年頃)は、認識対象を個物としての個別相と概念としての共通相との二つに分け、それぞれの認識手段を知覚と推理とに限定する。ディグナーガの認識論と論理学を継承するダルマキールティ(法称、600~660年頃)は、概念知である推理知は誤った知識であると言う。正しい知識は直接体験である知覚によってのみ得ることができる。知覚は個物を対象とし、推理が概念を対象とする。2種類の対象があるので、認識手段も二つである。ディグナーガの知覚定義によれば「知覚は概念作用を離れたものである」(『プラマーナ・サムッチャヤ』1・3)。外界の実在は知覚によって認識される。知覚の認識結果は言語表現できない。「あれ」「それ」「空」としか言いようがない。一方、推理によって認識されたものは言語表現できる。ダルマキールティによれば、推理は概念を対象とするので誤った認識手段であるが(『プラマーナ・ヴァールッティカ』3・55~56)、知識としては確実であり、さらに人間にとって効果がある。
ヨーガによる真理知が解脱の手段
ヒンドゥー教新論理学派のガンゲーシャ(1320年頃)は、ヨーガと真理知(タットヴァ・ジュニャーニャ)による解脱のプロセスをうまくまとめている。彼は『タットヴァ・チンターマニ』において次のように言う。
(以上、中外日報「論・寄稿」より一部抜粋)
🤡〜
まぁ、無分別知が清弁(バヴィヤ)のいう「非安立勝義」なら、無分別知後の分別知は「随順勝義」って事だな。
ハッスル〜🤡
Bhavaviveka の二諦説について
那須真裕美
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わかってきたぞ〜?
🟣〜〜
🤡〜
しかし、その解釈に於いて清弁(バヴィヤ)が「非安立勝義」と「随順勝義」を説示し、正しく勝義を説示する言説を勝義に随順するものとして勝義とした訳です。
言説諦は、バーヴィヴェーカで登場したんだな😆
ハッスル〜🟣
それが、仏陀や龍樹の法だ
(Gemini 思考モードより)
「随順勝義(ずいじゅんしょうぎ)」という言葉、仏教(特に唯識派や中観派)のかなり深いところを突く概念ですね。
簡単に言うと、**「言葉では言い表せない究極の真理(勝義諦)を、人間に理解できるように言葉や論理を使って説明した、一歩手前の真理」**のことです。
「随順」は「したがう・寄り添う」、「勝義」は「最高の真理」を意味します。なぜこのような段階が必要なのか、ポイントを整理して解説しますね。
1. なぜ「随順」が必要なのか?
本来、悟りの境地や宇宙の真理(勝義諦)は、言葉や概念を超越したものです。
* 本物の勝義: 言葉が通用しない、思考も及ばない世界(離言勝義)。
* 私たちの限界: 私たちは言葉や論理(世俗的な道具)を使わないと、何も理解できません。
そこで、**「究極の真理ではないけれど、究極の真理に私たちを導いてくれる正しい説明」**が必要になります。これが「随順勝義」です。
2. 具体的な内容は?
例えば、仏教でよく使われる**「空(くう)」や「非安立(ひあんりつ)」**といった表現がこれに当たります。
* 「すべては空である」という言葉自体も、実は一つの「言葉(概念)」に過ぎません。
* しかし、その言葉をガイドにすることで、私たちは「執着を離れる」という究極の真理の方向へ進むことができます。
(続く)
3. 「指」と「月」のたとえ
よく使われる比喩で言うと、以下のようになります。
* 月: 究極の真理(本当の勝義)
* 月を指さす指: 随順勝義
「指」そのものは「月」ではありませんが、指を見れば月の方向がわかりますよね。随順勝義は、私たちが迷わないように真理を指し示してくれる**「指」の役割**を果たしているのです。
まとめ:二つの勝義
仏教哲学(特に『瑜伽師地論』など)では、勝義を二つに分けて考えることがあります。
| 種類 | 内容 | 特徴 |
|---|---|---|
| 世俗勝義(随順勝義) | 言葉で説明された真理 | 私たちが理解・修行できる形 |
| 勝義勝義(離言勝義) | 言葉を超えた真理そのもの | 悟りの智慧で直接体験するもの |
> ポイント: > 随順勝義は、いわば「真理への架け橋」です。これがあるおかげで、私たちは言葉を使いながら、言葉の通じない悟りの世界を目指すことができるわけです。
>
もし、この概念が具体的にどのような修行や論理(例えば「三性説」など)と結びついているか、より詳しく知りたい場合はお伝えくださいね。
次は、この**「随順勝義」が実際にどのように修行に活かされるのか**、具体的なステップをお話ししましょうか?
このように、あらゆる対象的所得が否定されるということ、すなわちいかなる意味でも常住の本体がつかまえられないということは、実は一切のものが空を本性としているということにほかなりません。
そして、空を本性としているからこそ、現象も仮の有として成立しえます。
ですから、破邪の極地としての顕正は結局、空性そのものの世界であり、そこにおいて実は現象世界も成立しえています。
ここに有はそのまま空、空はそのまま有であるということになるのであって、かの言語道断・心行処滅の世界は、決して単なる虚空のような世界ではないのでした。
『八宗綱要』には、「無得を以っての故に、仮名の諸法は法爾として森羅たり」(同・三巻・二八頁下段)とも言われています。
(『日本仏教 思想のあゆみ』 竹村牧男 より)
アタマワルソーだからな〜
🤡〜
すなわち、世俗的世俗の世俗諦と、勝義的世俗諦に。
その方が龍樹の主旨にそうと思うけどな。
予想通り、理解できていないな😂
この2つに二分された
だって、そうしないと、仏陀や龍樹の説法も世俗諦になっちゃうからな
それはおかしいんだよ
最初から最後まで、「みごとに言語を用いて法を説ききり、戯論を寂滅した偉大なる仏陀に最敬礼」だからな
ここから、「言語を用いて説かれた勝義諦」が導かれるのは、自然なことだ
ハッスル〜🤡
ハッスル〜😱
ダブル回転〜😱
リダンの指摘は正鵠を得てるな。
非常に鋭い、専門的な視点ですね。普段は混同して使われがちですが、厳密な教学(仏教の論理学)の世界では、その一字があるかないかで**「焦点の当て方」**が変わります。
結論から言うと、**「勝義」は「対象そのもの」を指し、「勝義諦」は「それが真実であるという判断・枠組み」**を指します。
1. 「勝義」の意味(対象・内容)
「勝義(しょうぎ)」は、サンスクリット語の Paramārtha(パラマ・アルタ) の訳です。
* 勝(Parama): 最高、もっとも優れた。
* 義(Artha): 意味、対象、目的、価値。
つまり、勝義とは**「最高の知恵によって捉えられる対象(ありのままの真理)」**そのものを指します。
* 「それは勝義において空である」と言うとき、フォーカスされているのは「空」という究極の状態や性質です。
2. 「勝義諦」の意味(真実としての確定)
一方で「勝義諦(しょうぎたい)」は、勝義に「諦(Satya=真実、確かなこと)」がついたものです。
* 焦点: 「世俗諦(日常的な真実)」という対照的なカテゴリーに対して、**「こちらこそが、迷いのない不変の真実である」という宣言(判断)**が含まれます。
* ニュアンス: 単なる「内容」ではなく、「二諦(二つの真実)」という論理システムの中での一つの立場としての意味合いが強くなります。
(続く)
3. わかりやすい比較表
| 表現 | 焦点 | ニュアンス | 例え |
|---|---|---|---|
| 勝義 | 何であるか(What) | 究極の知恵で見える「中身」そのもの。 | 「富士山の山頂」という場所そのもの。 |
| 勝義諦 | どう正しいか(Is it true?) | それが「真実」であるという、教理的な裏付け。 | 「山頂こそが最高地点である」という事実の確定。 |
4. なぜ「諦」をつける必要があるのか?
仏教、特に中観派(龍樹など)の論理では、**「認識する主体」と「認識される対象」**の関係を重視します。
* 勝義: 聖者の智慧が捉える「対象」。
* 諦: 聖者にとってそれが「偽りなき事実(真実)」として現れていること。
例えば、凡夫(私たち)にとっては、目の前の机は「ある」のが真実(世俗諦)ですが、聖者にとっては「空」であることこそが「真実(勝義諦)」です。
つまり、「諦(真実)」という言葉をつけることで、**「誰の視点から見た、どのようなレベルの真実なのか」**という論理的な整理を行っているのです。
> 現代的な感覚でいえば、**「勝義」はコンテンツ(中身)であり、「勝義諦」はそのコンテンツに付与された認証ラベル(真理であるという保証)**のような違いと言えるかもしれません。
>
この「勝義」の捉え方は、時代や宗派(例えば、空を『何もない』と見るか『輝く性質』と見るか)によっても彩りが変わってきます。そのあたりの「宗派による解釈のスパイス」についても触れてみましょうか?
聖ウンコ師が、リダンを引き取ってくれそうだな?😆
🟣〜〜〜
😁
こね〜〜な〜
😁
ハッスル>俺
かな〜
😁
「敵の敵は見方だ」となったのだろう
もったいないな〜〜
😭
オモロイかも〜
😁
😁
こね〜〜な〜
(ナマハゲ風)
😁