I offer salutation to the best of preachers,the Buddha, who has taught that dependent co-arising has no ceasing, no arising, no nullification, no eternity, no unity, no plurality, no arriving, and no depariting, that it is quiescent of all fictions, that it is blissful.
> I offer salutation to the best of preachers,the Buddha, who has taught that dependent co-arising has no ceasing, no arising, no nullification, no eternity, no unity, no plurality, no arriving, and no depariting, that it is quiescent of all fictions, that it is blissful.
リダン君、教えてください。
中論
https://talk.jp/boards/psy/1738711204
日蓮のロジック内での話だということ
作動するならば
救われる
それは当時の覇権をとらんがため
国教狙い
あとは信者の信仰のブースト
😆
当時、法華経は識字率の問題もあり
身分の高いものしか勉強できなかった
そこに流行ったのが
南無阿弥陀仏
日蓮はどうしたか
南無妙法蓮華経に勝義をギミックとして
導入し
対抗
勝義諦をしり
世俗諦を自在にし
理路を構築し
教えとして整える
その手腕がいるわけやな
🫥
信者の信仰のブーストに
ギミックとして組まれたもの
体外離脱教の
宗派が違うみたいなもんか
相手の宗派、にも
同じように信仰ロジックが組まれていると言うこと
当時、国教にならんがためなだけなんよ
一生懸命改変したんだ
なんか反論か反応くれよ
結局、龍樹のいいたいのは
PCの初期状態
ドットに帰属を求めた有部等に
否、プログラムや関数による関係にすぎないと
プログラム言語、それを操るシステム
全部取っ払えば(初期化)
何が生じるというのか(初期状態)
そこにあるのは働きのみ(内蔵システム)
故に中道
😆
確かに
「ドットは存在する」というのが、説一切有部
いくらなんでも世間の一般人みたいに、単純に「目の前のモノは有る」と思ってたわけではない
世界にはドットが、点々と点在してるだけ
そこから発信された情報が、人間の意識の中にさまざまなイメージを引き起こす
それが、世界に存在するモノの正体
なら
こっちが改変前や
簡単にいうぞ
結局、龍樹のいいたいのは
八不中道と戯論寂滅
法に帰属を求めた有部等に
否、言語による関係にすぎない
と
言語、それを操る行為者
全部取っ払えば(寂滅)
何が生じるというのか(八不)
そこにあるのは働きのみ(仏性)
故に中道
プログラムってのも、その通り
説一切有部は、「こうすれば、ああなる」、「ああすれば、そうなる」という
「因果の法則」に極端にこだわる
これも、現代風に言えばインプットとアウトプット
プログラミングの問題
それについては、話せば長くなる
というより、前スレでした話をもういっぺん、やり直すことになる😅
棒もやたら
因果の法則にこだわる
まあやつの場合は
勝義、直接知覚をしるからだが
リダンの主張というのは結局のところ
「聖ウンコ様の主張が正しくて、お前らが間違っているのだ」
↑
この一点張り
これに尽きる
まあ、アリガチな話だが
狂信的な新興宗教の信者たちとさんざん対話してきたため
そういうノリを見慣れている
うん?
鹿ちゃんの主張というより
龍樹の主張をまとめたんだが
わかった、わかった
何か突っ込みどころが
ある?
長えよ
簡単に、まとめてあるんやから
箇所を、指摘しやすいだろ
勝義か、世俗かの話の記憶しかないぞ
鹿ちゃんとお前くらいなんだからよ
勝義か世俗かだろ
まあええわ
特に指摘部分はないようやな
そういうディスカッションは
チベットではよくやるみたいだぞ
「言語によって説かれたものは、すべて世俗諦である」
「勝義諦、つまり本当の真理は、決して語り得ないものである」
「本当の真理を知るには、ひたすら坐禅して見性体験するしかない」
↑
こういう解釈するのは、たいてい禅宗系の人(笑)
これは、禅宗にとって都合のよい解釈
だが、中論をよく読めば、龍樹の真意がそんな単純なものじゃないことが分かってくる
>>22
これはそんな話はしてないぞ
>「勝義諦、つまり本当の真理は、決して語り得ないものである」
コーンウンチク電波だな、
それは
😆
理路として何か指摘するところは
あるか?
という話だ
ま、正法眼蔵に倶舎論込みの想定があるのが曹洞宗僧侶でも解っているのがどれだけいるかん
ま、ある意味、ロン閣下も
いい加減な部分はある、
NO1ほどハチャメチャではないが
😆
相当に怪しげだ
デンパパ📶仏教解釈と大差ないからな〜
😆
橋を設計し、橋を建築し、人々を向こう岸にわらせる。言葉は設計であり、建築であり、橋である。しかし、そこの橋で施工を担当しているに人々は向こう岸にもいるし、こちらの岸にもいる。悟っている悟っていない関係なくどちらにもいるw。本覚を含んでいる。
だから混ぜたら駄目だろw
ロンが出来上がるw
向こう岸の人は超えてねえよ
渡ってこねえ
指摘してみ
だから何も実証できておらず
橋を渡った気になるんだよw
例えば、戯論寂滅の説明聞いて
ふーんなるほど!
となるだけか?
渡れよw
お前が気が付いていないだけだよ。
なんどもいわせるな。
ブロークンしとるだけです
😆
何度も言わせんなw
お前のは渡ったつもりだってのww
誰がみてもあっそれなんか
と
気がつけないものがいないように
出してみろやww
ユーザー
リダン◆gEV3xsS//k
IL57D(20/21)
>>59
何度も言わせんなw
お前のは渡ったつもりだってのww
2025/11/08 07:22:41
戯論寂滅になっとらんが
行為者が残る
駄目
箇所を探すものがおる
駄目
何言っているだよ。駄目なのはお前。
戯論寂滅って知らないか?
説明すらよく読んどらんの?
駄目
ばーか、お前だよw
何でもかんでも同じだと
言ってるからアカンの
そういう視座は
渡ったやつや、空からの視座や
俺は聞いてんだから
今は言葉を立ち上げてんだよw
馬鹿なのはお前
www
だんだん奪われてきたな
もうそれしか言えないww
あとは
お前と、駄目、馬鹿、と
それを定義する行為者だな
残ってるのは
それを全部否定したら
何が残るか
勝義に近づいてはいるぞw
しかし沈黙では及第点だな
あえて、出せてなんぼや
沈黙、何言っているの
気がついていないだけ
なんどもいわせるな。
だからよwwww
誰からも気がつけるように
出せなきゃwww
それ、それを出せ
そのものだろ
そうすっと無為法が立ち上がるわけだ
ようはそれを出せということ
やなくて
戯論寂滅を実際に実証せな
NO1と呼ばれる
🫥🫥🫥🫥
内容イミフワードサラダマシーンと化している
🫥🫥🫥🫥
荒れてるな・
https://talk.jp/boards/psy/1762115202
西知軍団ですな
裏天皇陛下に刺さったようですな?
802 名前:神も仏も名無しさん[sage] 投稿日:2025/11/08(土) 17:27:05.05 ID:OJQQn [58/83] 0
裏天皇の私は、それ自体、神人なんですから、攻撃なんかしないで、そっくりそのまんまの調査をすればいいんです。
私は、感知器だけつけて、一切、攻撃をやめろと言いましたよね。
これは、大頭脳を使って言って差し上げてたんですよ?
チョンじゃあ、分からないですよね?
ワールドメイトの元信者
何年も1人2役(以上)で会話を続けてる人
リダン◆gEV3xsS//kIL57D(35/35)
ふーん戯論寂滅とはそう言うことかー
やなくて
戯論寂滅を実際に実証せな
2025/11/08 08:27:08
ぼけw
ぼけw
はよw
だせやww
コーン様スレが落ち着いているというレベル
😆
スレから撤退するようじゃ。
854 名前:神も仏も名無しさん[sage] 投稿日:2025/11/08(土) 20:34:08.49 ID:OJQQn [109/110] 0
このスレは、ここで停止。
別スレに行く。
855 名前:神も仏も名無しさん[sage] 投稿日:2025/11/08(土) 20:38:46.42 ID:OJQQn [110/110] 0
もう、ネット掲示板も、潮時だ。YouTubeに行けばいいのだから。
トーク板は健全だ
NO1がいても
😆
>>90
ぼけw
はよw
だせやww
2025/11/08 21:04:18
西知さんには、人格がいくつもあって
そのうち1人は、いつも撤退したがっている
5ちゃんねるのキリスト教スレはメンヘラの巣窟😫
掲示板のメンヘラは
ほんまにアカンな?
😆
平和なキャラ?の
人格障害系統の
ユーチューブは
オモロイけどな
リアルでは
人格障害系統は
大変だからなー
掲示板でも恐ろしいかもしれん
コーン🤡様みたいな
😆
真宗寺院でお経の文字見て観相しだけで
満足した
😆
😆
0077 神も仏も名無しさん (ワッチョイ ef71-RFg0 [240b:c020:484:5bca:*]) 2025/11/08(土) 14:21:25.78
三十年参禅して迷っていても、『俺は正しい』という囚われによる断末魔の叫びですね。
わかります🙏
ID:PNBuHND40
ツォンカパの中論をテーマにやる気が出てきた
あとはキリスト教神学に関するお家にある本か
トマスアキィナス
バルト
アウグスティヌス
あたりか
また、すごい方向に行こうとしてるな😆
JBLの好きな
善悪二元論という視点が
霊的に理解してきたので
読み方が見えてきた
神の正義と裁きに関するものだと
😆
ツォンカパ
本をもらう、本を古本屋で買った
書庫に眠っているキリスト教神学の本は
何冊かあるけど
ほとんど読んでない
キリスト教神学の連中の霊的な視点が
今ひとつ理解、
取っ掛かりがわからなかった
ま、倶舎論と同じく無駄な屁理屈
ま、臨済宗発想が濃いからやろなー
根の感覚が
😆
神の正義という発想
という観点は
間違いではなさそうだな
😆
同様に、成熟したクリスチャンになるためには、神がどのような方で、私たち人間が何者なのか、私たち罪人が救われるとはどういうことなのか、この世界全体に対し、また個々人に対し神がどのような計画をお持ちなのか等、神のみこころの全体を把握することが必要です。
そもそも、「神学する」ことの基本は、聖書の教えに従って生きるとはどういうことなのか、考えることに他なりません。神ご自身のまなざしをもってこの世界を見、人間を見、歴史を見つつ生きる、つまり聖書的な世界観をもって生きる努力と言ってもよいでしょう。
私たちは生れながらの罪人ですから、様々な間違った考え方、歪んだ物の見方をしています。キリストの福音を信じ新生したとしても、それで自動的に神に喜ばれる考え方、生き方ができるわけではありません。クリスチャンとしてふさわしく生きるためには、どうしても、神のみこころについての体系的な理解が必要となります。それが欠けていると、異教的な世界観の枠組みの中に、キリスト教的な要素を取り入れているだけの「キリスト信仰」になりかねません
・中観派(龍樹):
『中論』において、龍樹は「空」「縁起」「仮」「中道」を同列に置き、すべての存在は因縁によって仮に現れていると説いた。
「八不中道」(不生不滅・不常不断・不一不異・不来不去)によって、言語的・概念的な戯論を超える道として中道を示す。
・唯識派:
外在的な実体を否定し、すべては識(認識作用)の現れであるとする。
「非有非無」の立場から、認識の中立性を中道として捉える。
・中道の実践:八正道
中道の具体的な実践法として、釈迦は「八正道」を説いた:
正見(正しい理解)
正思惟(正しい思考)
正語(正しい言葉)
正業(正しい行い)
正命(正しい生活)
正精進(正しい努力)
正念(正しい気づき)
正定(正しい集中)
これらは「智慧・倫理・修行」の三つの柱に分かれ、バランスの取れた生き方を支える
☆中道と中庸の違い
・中庸:二つの極の「中間」を取る妥協的な立場。
・中道:二辺を離れ、どちらにも偏らない超越的な立場。
「中道」と「中庸」
世の中には「分かりやすい」言説が良しとされますが、本質的には世の中に「分かりやすい」ものなどありません。ありとらゆるものは最初から「分かれて」などいないからです。勝手に人が「分けて」いるだけです。我々は虹を七色と認識する文化ですが、二色と認識する文化すらあります。七色以上と認識することだって可能なはずです。要はそこに「分ける」必要性を感じるか否か、真剣に向き合っているかどうかだけが認識の差異を生みます。
最も有名なものは、釈迦の最初の説法、いわゆる初転法輪での「快楽でも苦行でも悟りをひらくことはできない」というものです。これをもって「中道」とは「両極端はよくないよ。何でもほどほどにだよ」という理解が通説化しています。
正直に言いますと、子供のときにこの話を聞いて「お釈迦さんって、なんてつまらん話をするのだろうか。こんな話がありがたがられるのか。仏教から学ぶことなんて何もないな」と思いました。もちろん、認識の甘さ故のことです。
「中庸の徳たるや、それ至れるかな」
のアレですね。これもまた、「単純に食べ過ぎも全く食べないのもよくない、ほどほどに。」などと孔子を侮辱するのも甚だしい矮小化を行われてかわいそうな概念です。さらにこれがアリストテレスの「メソテース」の和訳に使われてしまい、さらに混乱することになった結果、論語とアリストテレスの共通項である「極端を避ける」という側面のみが過分に表にでている印象があります。
重要なのは初転法輪での「快も苦にも偏るな」のあとです。釈迦は比丘に「二辺を避けよ」と言います。ここが「両極端を避けよ」の根拠です。そしてこの「中道」は「涅槃へ導く正道」である、と続けます。
目的は「涅槃」なのです。つまり生死病死にこだわらず、自我へのこだわりを捨てた縁起の相対性の世界へ至るための道として「中道」があるわけです。バランスをとろうなどという穏当な人間をラディカルに突き抜けた世界がそこにあります。私が長じてから仏教に再び興味を持ち始めたのはまさにそのラディカルさです。普遍宗教を新たに打ち立てようなどという人間が穏当な思想など持っているはずがないのです。創造者は破壊者です。
「あいつは背が高い」と180cmの人を指して言います。ところが2mを超える人に並べば「小さい」。しかし高層ビルに並べば、「小さい」。しかしそれすらも大宇宙では「小さい」。でも大宇宙も最初は「極小」な存在であったわけです。美醜、大小、生死など、ありとあらゆる「性質」は、対立概念があってこそ存在する。それ自体で存在する概念はありえない。ですから、一本の線の真ん中をとるなどという平凡な話ではなく、そもそも「対立という地平からの逸脱」ということこそが「中道」の本義です。対立の中程をとることではなく、ちゃぶ台をひっくり返すことが中道です。
慈眼寺
〒630-8252 奈良県奈良市北小路町7
TEL 0742-26-2936
奈良の厄除け・厄払いの祈願は厄除寺の慈眼寺へお越しください。
「非有非無の中道」だろう
有る/無い という、二元的なモノの見方を超越する
「不常不断の中道」だ
これは、輪廻転生とか死後世界とか
死後の生と直結するテーマなので、人によって考え方が大きく異なりモメやすい
「不苦不楽の中道」というのが重要だった
「お釈迦様は快楽から離れ、苦行からも離れて中間の道を行くことにしました」という話
儒教の中庸思想と通じるものがあるからだ
新興宗教では大人気の教義だ😅
谷口雅春→高橋信次→大川隆法
受け継がれてきた伝統教義
禁欲的な修行まで止めたわけではない
新興宗教の人たちは、このあたりをひどく誤解している
それだと、「中道」ではなくて「中庸」だ
「非有非無」とか「不常不断」を知らないので、本当の「中道」が分かっていない
じゃないんだよな~
新興宗教を信じ込むのとは正反対の道だ(笑)
禁欲主義や快楽主義といった、極端な思想から離れることが大事なのであって
「とくに苦しくもなく、楽しくもない。ホドホドの生活をしましょう」
というような話ではない
現代人から見れば、苦行と呼べるレベルだ
というのは、日本人にウケが良い
でも、これだと仏教の「中道」というより、儒教の「中庸」だ
「中道」といえば「非有非無」や「不常不断」を反射的に連想するが
新興宗教界隈では、「不苦不楽の中道」が猛威を振るっている(笑)
「不苦不楽の中道」だ
「非有非無」とかは、元ネタは初期からあったとはいえ、中論でクローズアップされたものだ
ま、禅定バリバリキメた感覚から世界を見るという認知が
坊主の間ても薄いからな〜
俺はたくさんの種類宗派の禅定ありだけど
😆
俺が
仏教宗派オークリアーとやってる時は、中道のテーマだろう
臨済宗系統は動中工夫のテーマ
😆
川^○^ハレ執着するな一言だと思いますけどねwww
というエピソード
新興宗教の教祖が好む話材だ
信者向けの話のネタとしては無難なせいか、非常に好まれる(笑)
これは新興宗教のオリジナル教義ではない
中観派が登場する以前には、「中道」と言えば「不苦不楽」だった
だから、そうじゃないという話を今してるんだが😅
世界の見え方の話だ
∞ノノハ∞
川^○^ハレ鯔のつまり因縁仮和合で顕現しているんだから執着するな一言だよwww
>121.
ユーザー
◆JBLfMwCXhY
QJuQu(11/28)
中道のなかでも、最も重要なのは
「非有非無の中道」だろう
有る/無い という、二元的なモノの見方を超越する
2025/11/09 07:08:00
いかにも、新興宗教の教祖が言いそうなセリフなので、一瞬イラッときた😂
∞ノノハ∞
川^○^ハレじゃあちょっと知的に♪
没蹤跡 斷消息 白雲に根無し 清風は何の色ぞ
世間の一般人は単純に「コップが有る」と思う
だが、禅定キメたヨガ行者の見方は同じではない
唯識論的には、それは「阿頼耶識から生じた幻影」にすぎない
有ることは有る
それに「コップ」という名前をつけ、「中に液体を入れて飲むモノ」という意味づけを行う
「ノドが乾いた。何か飲みたいな」と思ったとき、コップが目についた。それでは、そこにあるのに気づかんかった
・・・というようなのが、「存在」の正体だ
中観派からは「いや違う。そういうことじゃないんだ」と言われるかもしれんが(笑)
コッブがあると思わない事でもない。また思う事でもない。
思考から離れるとか分別から離れるというのは理解のための修行のためである。
それも結局はもう思考のあるなし、分別のあるなしから観なくなる。執着のあるなしもね。
😆
世俗諦でも、執着するなてしょうな
コーン🤡ウィルスに感染したのは
いつも、こうだ
😆
カラムーチョ食べると
上手いノドが痛いの拷問とセットだな
😆
おはよ~ございます☀️😃❗
旨いという快楽と、ノドが痛いという苦行
不苦不楽の理念に反するな😂
> 没蹤跡 斷消息 白雲に根無し 清風は何の色ぞ
なんか、聞いたことあるな?
∞ノノハ∞
川^○^ハレ空耳?www
・・・というのはウソだが
川^○^ハレフフフwww
なるほど
私も9月末にコロナにかかって咳止まらなくてきつかったねー。
咳は止まったけと未だにアバラ辺りがとても痛いのでヒビ入ってるかもしれない
風邪薬とヴィックスドロップの大量投与により
症状は軽症のまま、
頭痛は多い
咳は少し
鼻水は少し
食べるのが痛いのは一度だけ
味が違和感あったのが一度だけ
それでも2週間症状が続く
シツコイ
😆
酷い咳や
酷いタン、
酷いノドの痛みから
防御できたので
効果はあるんだろう
アメの舐め過ぎて舌がヒリヒリする
地獄の咳、たんよりはマジだろう
😆
私は素直に薬と呼吸で乗り切った感じだなー。
呼吸の調整で咳の頻度を下げることは出来たけどゼロにはならんけど。
飴かぁ。その発想はなかった。風邪らしい風邪をひいたのが記憶にないくらいだったから診察券が古くて使えなくてさ。風邪ひいたときどうすればいいかわからんかったわ。
いや馬鹿は風邪ひかないじゃなくて風邪に気付かないだけだったのかもしれん。
それやとよ
執着するなという執着なんよ
没蹤跡 斷消息 白雲に根無し 清風は何の色ぞ
とはならないのよ麦くん
その矛盾にまずきがつき
相対世界に
絶対無を現す
これがないと
🫥
あるあるないないと一緒
空性である
であるならば
目の前にコップはないのか?
否
否
修道のエッセンスだ
修道のエッセンスだ
ドーンじゃあ
どうもならんて
何やったか
段階があるやろ
何教何教何教やったか
なんか3段階くらい
倶舎論が相当するんやったかな?
んでそれ全部3つ習得するのは
時間がかかる
そこで日蓮は、んなことを
今の時勢の民草に出来るわけがないと
なもんだから
南無妙法蓮華経にエッセンスをギュッと
詰め込んだわけだ
うん
何が言いたいのか分からんなった
宙を舞っている
🫥🫥🫥🫥
高次元のものより劣化版だが
曼荼羅とかは
その抽出したエッセンスの導線なわけやな
劣化版で言えばPCのマザーボードに
ならんだICチップやコンバータ
それぞれが役割をもち
変換し、ONOFFし、現実を表象するわけだ
麦が仮和合としてある部分は
その曼荼羅の役割をへて出力された
表象なわけだな
そう言う意味では
全て同じであってそのままでそれなんだが
出力されたもの(人)は分からんわけだ
出力された結果であることが
故に己が再びその道線を戻り
実証せなあかん
故に教義としてまとめることが出来る
まあマザーボードのメーカーや
ICチップの規格で揉めることはあれど
分かりやすく言えば
麦から落ちる2次元の影がそうだな
今の麦は上の次元の影ということ
∞ノノハ∞
川^○^ハレ執着は執着に非ず故に執着
無分別の分別ですよって何度もwww
はいはいw
それは頭で理解しても駄目よw
ドーン(印籠)
www
∞ノノハ∞
川^○^ハレそれに執着しているのはリダンたんって落ちねwww
〜〜〜〜〜🫥
心配すんな
お釈迦様は発心、求道に執着は
よろしいとおっしゃっておられるw
∞ノノハ∞
川^○^ハレ発心が執着ねぇ~www
方向としては執着や囚われを手放していって無為が立ち上がるんじゃない
発心は気構えじゃないかなぁ
じゃあ求道でええよww
執着は執着にあらず故に執着と名付く
となればいいのよオホホホ
麦の頭の理解とは違うのよオホホホ
ではなく
実際にかけて0になることを
やらんとね
川^○^ハレ不識♪www
確かにそうであるな
とならねばねオホホホ
ドーンwww
あるいは
「活潑発地」に
引っ張られとるのよ麦
まだ
字面に引っ張られるから
印籠ドーンになるわけやなw
川^○^ハレっ203
はいはいww
そうだねww
∞ノノハ∞
川^○^ハレハイレベルな笑いですねお
ドヤ~♪www
😆
※菩薩は我を得ず、故に菩薩と名づく。これならさらにはっきりするだろう。
☆意味と背景
・「我相・人相・衆生相・寿者相」とは、仏教における四相(しそう)であり、すべて「我」に関する執着や分別を指します。
・釈迦は「菩薩はこれらの相を取らない」と説き、無我の境地にある者こそが真の菩薩であると示します。
・そして、「菩薩は我を得ず、故に菩薩と名づく」と続けることで、“無我であるがゆえに菩薩と呼ばれる”という逆説的な真理を語っています。
法鏡であらわせば 金剛般若経と響きあう。
・法鏡(ほうきょう)とは、仏法の鏡。つまり、真理を映し出す鏡のこと。
・鏡は、映すが染まらない。判断せず、ただそのままを映す。
・仏教では、心や法を鏡に喩えることで、無執・空性・照見の働きを表現します。
😆
・我相(がそう) → 「我」という実体があると思い込むこと。 自分という存在に固執し、「私が」「私の」といった執着を生む。
・人相(にんそう) → 他者という実体があると思い込むこと。 他人を「他」として分離し、比較や対立の心を生む。
・衆生相(しゅじょうそう) → 衆生(生きとし生けるもの)に実体があると思い込むこと。 生き物を区別し、差別や執着の対象とする心。
寿者相(じゅしゃそう) → 命ある者が永続すると思い込むこと。 「生きている私」がずっと続くという錯覚。死への恐れや不安の根源。
※これらの「相」はすべて、実体のないものを実体視する誤認=無明です。 仏教では、これらの相を離れることが空性の理解であり、般若の智慧の実践とされます。
ありがとう。
キリスト教神学に走る
😆
金剛般若経か
須菩提、菩薩は我を得ず、故に菩薩と名づく。
この人、漢文で金剛般若経の要約しているねw
☆仏、須菩提に告げたもう、
「およそあらゆる相は皆これ虚妄なり。
もし諸相は相に非ずと見るときは、
則ち如来を見る。」
☆世尊よ、
若しまた人有り、この経を聞くことを得て、
信心清浄ならば
則ち実相を生ぜん。
まさに知るべし、この人第一稀有の功徳を成就せんことを。
世尊よ、
これ、実相は則ちこれ非相なればなり。
この故に如来は説いて実相と名づけたもう。
☆をまとめて、この二つの文章を要約して、
※菩薩不得我,故名菩薩。
と漢文で要約した。
付け加えいるなら、実相を見るとき如来を見る。
漢文調にすると、
※若見實相,即見如來。
いかにして人の為に演説するや。
相を取らざれば、如如にして不動なり。
※中村元訳
説いて聞かせないようにすればよいのだ。
それだからこそ、
《説いて聞かせる》と言われるのだ。
※ここにおいて、クラマジュの唯佛与佛の思想が出ているように感じる。
金剛般若経でおそらく、一番有名なフレーズ
・一切有為法 如夢幻泡影(いっさいのういのほう むげんほうようのごとし)
<うつろうものだからこそ一日一生を精一杯に>
『金剛般若経』の「一切有為法 如夢幻泡影 如露亦如電 応作如是観(いっさいのういのほう むげんほうようのごとし つゆのごとくまたかみなりのごとく まさにかくのごときかんをなすべし)」から。この世のことはすべて実体がなく「空」であるということ。
いっさいのものは実体のない仮のすがた「仮相(かそう)」で無常であるのに、まことのもの(実相)で永遠だと錯覚しているから、とらわれ、執着する心が起こる、すべては夢幻泡影の如しという観念に立つこと――という教えです。
織田信長が好んだ「人間五十年下天(げてん)の内をくらぶれば 夢まぼろしの如くなり ひとたび生を享(う)け滅(めっ)せぬもののあるべきか」という「敦盛(あつもり)」(幸若舞)の一節もまた、この「夢幻泡影」の無常観と、「一期(いちご)は夢」という死生観がその底にあるのでしょう。「下天」は人間界、「一期」は一生をさす。
五十余年生きてみたが、人間界で是非や善悪を問うのも夢のうちのこと、人が行う価値判断などにどれほどの意味があろうか……というのです。
すべては無常の風の中にあります。しかし、信長も良寛もその生き方こそ違えどけっして虚無的になることなく、夢幻であるからこそ精一杯にその生を生きました。夢と消え泡と消えても、生ある限り美しい夢を描きましょう。(原文ママ)
まさしく法を語るから法が語るに変わる瞬間だのー
唯仏与仏は
無意味だろな
😆
無理するな
No.2
😆
中論や般若経典なんか
日本人の多数派には
わからんものやし〜
😆
それわしじゃないぞ?
おはよー
いま見ると、中観派そのもの
若法空者,一切法得成。
若不空者,一切法不成。
日本語訳(意訳)
もしすべての法が空であるならば、
あらゆる法は成り立つ。
もし空でないならば、
何ひとつとして成り立たない
中論理解は無理だろな
残存するのは天台宗、
小止観あたりだな
小止観自体が
現在天台宗では主流ではない
多数派は神仏習合、念仏、密教がほとんどだ
😆
ほとんどない
あとはチベット密教ゲルク派が
学識がある程度
😆
三論宗は
俺の禅定能力で把握はしているが
加藤師匠くらいしか
きちんと説明デキる人がいない
😆
でそのまんまの人が多すぎなんよね
コピペで返すような
猿真似とかな
なりきるならまだしも
色即是空をへて空即是色
そして
色即是空 空即是色
この故に如来は説いて実相と名づけたもう
山は山にあらず故に山と名付く
無分別の分別
まず無分別をへて、後の分別
読んでわかった気になってちゃ
駄目駄目
😆
説くには実相と名付けない(仮設)と
説明できへん(世俗)
という話なだけなんに
世俗と勝義は同じなんだ!
つー
単細胞みたいな結論だすやつ多すぎやしないかい
NO1🫥🫥🫥🫥🫥
お前はそこでピーチクパーチクしてろ
説いて聞かせないようにすればよいのだ。
それだからこそ、
《説いて聞かせる》と言われるのだ。
じゃあどうすんのか?
説いて聞かせないようにすればよいのだ。
とは?
なんだろうな?
コピペ猿真似くん
お前の答えは鏡に鏡を映す
愚行
聞く側はどうするんだろうな?
分からんから字面に引っ張られ
指だけみる
🫥🫥🫥🫥🫥🫥
ピーチクパーチク
いっとれ言ったがw
ピーチクパーチクうるせぇやつだなw
🫥🫥🫥🫥🫥
字の意味は、とりあえず横において
筆跡を辿る
ご苦労さん
🫥
ノリノリだが
あんまり、根を詰めずに休憩ぢゃっ‼️
😆
読んでる字
の定義も横に置いとくのもそうだが
ちょうど中論スレなんで
もっと深堀りすれば
私が書いている、読んでいるも
横に置く
そこにあるのはなんだ?
それは増えもしなければ減りもしない
🫥🫥🫥🫥
>>249のこと?
もちろん
どーでもいいぞ
😆
どしたんだ?でおーの主張があるなら聞くぞ?今日は仕事休みで暇なのよ。
昨日が雨じゃなきゃ昨日今日でキャンプ言ってたんだろーけどさー。
No.2
😆
ある意味便利や
基本情報で
「見道」で判断できる
😆
ん?心の構造を知るという意味で倶舎論は不要な物とは思ってないぞ?
過去も含めた成り立ちによって今がある。その成り立ちは矛盾なく現れる。
その成り立ちを知るために倶舎論はある。どのような理由で成立するのか?それは実体のあるなしとは別の話よ。
😆
良く考えられているな、
と
倶舎論の見道からの
判断は、とてもわかりやすい
😆
それに関しては同意出来るね。
そもそも私の言ってる話はかなりわかりにくいだろうし。
でもその先の唯識にしろ中論にしろ二元から離れた見方というのはほーさんも重視してるけどここに躓きが起こるのは大きいだろうね。
山伏世界に屁理屈付けただけだからな
😆
ホーカイくんの発想の基礎ベースが理解できる
😆
唯識、中論を後付けで理屈を付けている
ホーカイくんの邪魔する趣味はないので
そっとして、
そんなことは言わなかったが
😆
大方の仏教の是非は判定もできうるだろう
日蓮正宗系統のザッパな認識では
アウトになる
😆
それに関しては私も特に言うことはないなー。まぁ皆も変わらないぜ?
自分の成り立ちから経典を解釈してどのようにみているか?それは私もでおーも変わらないだろ?
だから手段は人それぞれだしそれぞれにアプローチがある。
倶舎論だろうが中論だろうが法華経だろうがね。
そこに正しいとか間違ってるなんて区別はないのよ。本人の縁が成熟して気付きとなって結果的に正しかったとか間違ってたというのが副産物的に起こるだけ。
だから私も見たままを語るけど結局はその人の縁の成熟次第、その人の成り立ち次第。
No1とかNo2とかはでおーの成り立ちと私らの言葉から貼られたレッテルであり私が見るのは何故でおーがそう考えるに至ったかの成り立ちよ。
そこに倶舎論の話をしてくれるでおーは私に学びをくれてるわけ。
NO1とか見えるようになった
👻は謎イミフだが
NO1はハッキリした
倶舎論で
そういうわけだ
😆
関門の設定は良くできている
佐々木先生の倶舎論の動画はかなり
仏教初心者への区別には
とても役にたった
俺は、初心者の区別する気は
本来無関心なのでな
倶舎論を知ったから
そのあたりがわかってきただけだ
😆
離脱関連が知りたいならいくらでも答えるけど夢ヨーガ調べた方が参考になると思うぞー。
スピ系統なんかどーでもええ
見道無縁と判定されるだけ
😆
レス返せるようになった
😆
私はJBLさんの話聞いてるからさー。
仏教に関する対話不能というのが
解る
倶舎論は良くできた
システムだと思う
😆
😆
最初に読んどけ
中論は分からんし
唯識なんか見てもしょうがないぞ
おまえがそうおもってるだけw
コピペでもいいけどおまえおばかだからさw
お前はもちっと
頭の理解でしかないことに
気がつけ
馬鹿は馬鹿にあらず故に馬鹿と
名付くwww
えいえいお〜〜🫥🫥🫥
勝義と世俗は同じとかいう
結論出してたんじゃどうもならん
でおは唯識の基本すっ飛ばして
俺の妙観察智!
とか馬鹿なことを言う
ばかじゃねーのwww
お前のことだ馬鹿
いや、書き込んでたやん
引っ張ってきたろうか?
ん?
お前がそうおもってるだけw
はいはいw
お前もはよ
分かったつもりのゴッコは卒業しろよwww
誰がみてもわかるように出せないようなら
頭でゴッコしとると気がつけ
鹿ちゃん、カムイ、麦、童天くらいか
出したのは
いつもそれについて言及しとる
彼の過去、やられる事ばかり気にして
ちっともピンときてねえ
精進しねえから色々言ってるが
コピペ君には関係ない話w
君はまず妄想をどうにかしなさいww
その通り
倶舎論は、いまここ主義とはまったく異なる
そこには、ちゃんと理屈がある
ええ?
おまえがなw
お前はもういい
「現在有体、過未無体」を唱えた
もっとも、いまここを否定しているわけではない
だな異論なし
具体的な意味
三世実有(さんぜじつう): 法は過去、現在、未来のすべてにわたって実体として存在している。
法体恒有(ほったいごうう): その実体は変化することなく、恒常的に存在し続ける。
説一切有部という名称: この「すべてのもの(一切)に(実体として)有する(有)」という教義から、説一切有部という名がつけられました。
経量部との対立: この説は、現在だけが実体であり過去・未来は実体ではないとする経量部の「現在有体・過未無体」という説と対立していました。
三世実有(さんぜじつう)
意味: 存在の構成要素である「法」が、過去、現在、未来の「三世」にわたって実体として存在するという説。
詳細: 意識に現れるかどうかに関わらず、法の本質は変化せず自己同一性を保っているとされます。
関連用語: 「法体恒有(ほったいごうう)」という言葉とセットで使われることがあります。
関連する対立説
現在有体過未無体(げんざいうたいかみむたい): 経量部の教説で、法は現在においてのみ実有であり、過去や未来には実有しないとする考え方です。
補足
「三世」: 仏教で過去・現在・未来を表す言葉です。単に時間の流れを示すだけでなく、「前世・現世・後生」とも言い換えられます。
「説一切有部」: 三世実有を説いた代表的な仏教の学派で、サンスクリット語の「Sarvāstivāda」の漢訳です。
誰からも分かるように
出せねえ時点で駄目
話にならん以降スルー
法体恒有とは
法(dharma): 存在を構成する要素のこと。
恒有(恒常的・永遠に存在する): 法は時間的に変化せず、一定の実体として存在し続ける。
説一切有部: 法が過去・現在・未来の「三世」にわたって常に存在する、と主張した部派仏教の学派です。
具体的な内容
時間に対する実体: 法は時間(過去・現在・未来)を問わず、常に実在しているとされます。
意識との関係: 人間の意識の中では現れたり消えたりするが、法そのものは意識とは関係なく存在し続けます。
説一切有部の思想: この考えは、全宇宙の構成要素である「諸法」が、時間的に不変の実体として存在するという、説一切有部の体系的な世界観を基礎づけています。
この説は、すべての要素(法)が現在においてのみ実在するという、「説一切有部」の「三世実有、法体恒有(三世に実有、法体は恒に有る)」という学説に対する「経量部」の主張です。
現在有体(げんざいうたい): 現在、現れているものは実体があるということ。
過未無体(かみむたい): 過去や未来には実体はないということ。
認めるのかw
現在有体: 経量部の学説で、人間存在や現象を構成する「法」は、現在現れている間は「有体(実質的に存在する)」とされる。
過未無体: その一方で、「過去」や「未来」においては、それらの「法」は「無体(実質的な存在はない)」とされる。
この考え方は、私たちが一般的に使う「有り体(ありてい)」の意味(ありのまま、うそ偽りのないことなど)とは異なります。
仏教用語である「現在有体過未無体」の略語として用いられます。
「過未無体」とは: 「過去・未来には無実体」という意味です。
根拠: 「経量部」と呼ばれる仏教の一派の説です。
内容: 人間存在や現象界を構成する要素(法)は、現在現れている時だけ実体を持つが、過去や未来には実体がないという主張です。
関連する考え方: この説は、一切の存在は常に変化し、固定された実体を持たないとする仏教の「無我」「空(くう)」の思想と関連しています。
いやいいよ
倶舎論、説一切有部の主張が
分からんなら
なにを龍樹が否定したか
分からんやろ
コピペ君とか
はいはいw
ところで、実相ってどのように解釈してますか?
「すべては、大日如来=毘盧遮那仏の顕現である」というのが、実相
戯論寂滅とは何ですか?
と聞け
○○○○ですと答える
それを1年くらい考えろ
「この世は阿頼耶識から生じた幻影にすぎない。唯だ、識のみが存在する」
というのが実相だと考えていたが
いや、シノニムでいいんやないの?
円成実性
とりあえず、般若経典群ですからね。
でも素晴らしい答えです。
実相という言葉はたぶんクラマジュがつけくわえたものだろう
今日の朝は脳はツォンカパに制圧された
😆
ツォンカパ禅定に
朝一方的に攻め込まれた
😆😆😆
俺にアンカで合ってんのか馬鹿
はいはいw
お前はまず麦に戯論寂滅とは?
と聞けよw
ツォンカパ禅定に
朝一方的に攻め込まれた
😆😆😆
理論を愉しむ余地がない
😆
再度俺に出してみろw
無相とは、実相 とね
> 円成実性
確かに
唯識的には、それが模範解答👍️
たとえが悪いな
😆
そうね
しかしお前の先におるから麦
とりあえず
戯論寂滅とは?と
聞いてみろ
この上ない答えが返ってくる
○○○○と術語でな
麦以下の馬鹿だから仕方ない
こいつ馬鹿だから俺じゃ耳に入らんやろ
麦が適役
みになってねなwおばかだからしょうがないw
いいからw
もう俺が何いっても反発だからw
麦に聞いてみ
そしたらようよう話になる
だよな
〜ノミ リダンノミ ノミの新種なw
しょうもないな
誹謗中傷に逃げるしかないか
哀れよの
放置
結局jblは何が棒にいいたかた
丁寧だぜw
オリジナルな回答するのも結構だが
ここは中論スレだ
まずは、龍樹の中論に沿った模範解答を示すべきだろう
とな
恒有であるが認識は今しかないのは
倶舎論もそうだろう?
いや、ピッタリだぞ
麦の回答は
絶対に出ない例えだ
今日はツォンカパ絡みで論文よんだ
中論内学派には
自立論証派と
中観帰謬派があり、
ツォンカパの立ち位置とか
その歴史の
論文があった
まーまーおもろかった
😆
恒有だけど、事実上、今しかないとも言える
でも、恒有であることに変わりはない
いまここ主義とは異なる
くらいズバッといったね
過去から未來にかけて、ハテしなく無数のコマが続いている
たまたま、現在のコマに映写機の光が当たっている
説一切有部はそんな感じ
本当に現在しかない
刹那滅を修道、見道で重視するが?
恒有は縁起の理屈づけにすぎず
ようは
お釈迦様死後、お釈迦様の悟りを
説明する、世俗にあたり
法有に帰結しないと辻褄が合わない
だけだったのでは
倶舎論もここ今主義であり
帰結の理屈を法有に求めただけ
ではなかろうか?
それが本当なら、経量部がわざわざ反対論を立てる意味がない
もうそっから法有否定が
主張されてたんやないの?
世親もその頃には経量部やないかな
阿毘達磨倶舎論with世親で
ちょいちょい経量部思想を
シレッとまぜたと
基礎がない
🫥🫥🫥🫥
今更倶舎論読み出したやつが
何をいうw
経量部は、「認識は現在にしか起こらないのに、過去や未来の法が実在するとはどういうことか?」と問い直しました。
これを、「現在しかない」といって、経量部が激しく批判したというのが、仏教思想史の史実
無為法と禅を混ぜ合わせいるのには
大爆笑した
😆
😆
何を見ても、いまここ主義に見えてしまう
それが、聖ウンコ派の習性
それは構成要素の法がだろ
人は今しか認識しない
刹那滅
と言うのは倶舎論もじゃないか?
それはお前が馬鹿なだけ
バカですなー
華厳、真言密教が見えてきたら
ロン論法が
見えてきたな?
ロンはニワカだけどな
😆
あほか
禅も大乗なんやから
空の理は準拠に決まってようが
聖ウンコ派は、刹那滅にこだわりすぎだ
あれは、映画のフィルムみたいなもの
過去から未来に渡って、延々とコマ送りが続いている
ただ、それがあまりに速くて緻密なので、連続しているように見える
ロン論法は
真言密教だと
「阿字本不生」
という言い回しがある
ロンはニワカだけどな
😆
刹那滅は倶舎論、および
以降の唯識でも重要だからな
阿頼耶識も刹那滅
刹那滅を否定したのが
般若心経なのにな
バカNO1過ぎて
笑えるな
😆
なるほど
あほか
空即是色にかえれ
山は山にあらず故に山と名付く
般若とは違うんだよね。どちらかというと般若は鏡だ。鏡の本体の方で、流しているだけという感じだ。
倶舎論のおかげだ
ま、臨済宗サイドにいると
議論は無用だからなー
修行な余裕出てきたのと、
山伏念仏研究に満足したから、
休日に倶舎論を読める暇つぶしできるようになった
😆
表現されるんだよ
その理屈が関係性
真言の
「阿字本不生」の
表現で
禅の世界に一番理屈で
近似値に近づける
華厳、真言密教の
壁というのは
その辺だ
😆
モノホンだな
😆
てめーはしっかり倶舎論からやれよ?
真言の
「阿字本不生」
のネタをだしたのは
なんとなくJBLが、わかってきたから
わからなきゃ放置
😆
真言の
「阿字本不生」
のネタをだしたのは
なんとなくJBLが、わかってきたから
わからなきゃ放置
😆
永遠に放置扱いだがな
😆
ま、NO1は
イカれたレスを
リバースしたるのも明白だけどな
刹那滅の
😆
😆
NO1を完全に論破だな
😆
😆
般若心経の「不生不滅(ふしょうふめつ)」は、「生じることもなく、滅することもない」という意味で、物事には実体がないという「空(くう)」の思想を表します。具体的には、あらゆる存在や現象は、元々「生まれる」も「滅する」も無いということを意味しています。これは、永遠に変わらないことではなく、物事の本質が実体を持たない「空」であるから、といった仏教的な解釈です。
「不生不滅」の意味: 生じもせず、滅しもしないこと。
般若心経における解釈:
世の中のあらゆる存在や現象は実体がない(空)。
そのため、元々「生じた」ということもないし、「滅した」ということもない。
それはその視座なw
足に地をつけんかいw
空即是色やw
> 「阿字本不生」
何だ、それは?😆
トドメを刺したな?
😆
佐々木先生ありがとう〜〜
😆
ってだけだ馬鹿w
佐々木先生のおかげだな~😂
ロンの大好きな
元から悟ってるたよ〜〜ん
😆
そうなのか~😆
天台本覚思想みたいなものか?
「阿字本不生」の主な意味
「阿」の字: 梵字の最初である「阿」は、すべての文字の始まりであり、あらゆる存在の根源を意味します。
「本」: 「本源」「本来」を意味します。
「不生」: 「不生不滅」を意味し、本来、生じることも滅することも無い、空(くう)の真理を表します。
総意: 「阿」の字には、万物の根本である「不生不滅」という真理が本来から備わっている、という密教の根本思想を説いています。
大日如来との関連: 「阿」の字は、万物の根源である法身大日如来の象徴とされます。
ホントバカNO1だな
不生不滅を見て
ピンと来ないんだから
😆
という意味は
ロン論法だな
ロンはニワカだけど
😆
不生不滅が
一番だった大雨オチ
😆
😆
バカNO1の
実力を拝見させてもらって楽しかったぞ
大儀であった〜
😆😆😆😆
本来的に「不生」
と
元から悟ってるんだよ〜
論法だな
😆
頭わる
山は山にあらず故に山と名づくが
分からんらしい
一瞬に滅する、生じるだからなー
NO1バカは
ほんま大したもんだ
😆
なんで多用されてるか
ちょっとは考えろ
刹那滅とは
一瞬に滅する、生じるだからなー
仮名な?
山は山にあらず故に山と名づくが
分からんらしい
😆
だから
🫥マークがお似合いだ
😆
やれやれwww
ほれ、がんばれ、がんばれ
🫥🫥🫥🫥🫥
オンライン仲間がまっとる
じゃあな馬鹿ww
無理すると
脳みそが🫥、
壊れるぞ
😆
唯識は倶舎論の法有を
仮有としてとりいれとる
そこちょっと考えてみ?
やめとけ
🫥🫥🫥🫥
この辺、JBL氏は反論があるだろうな。
1. 「見ている世界」と「感じている世界」は認識的である
世界は、そのまま“ある”のではなく、“見方”によって構成される。
・つまり、世界は認識によって変容する。
・「見方によって世界が変わる」=世界は“ある”のではなく“現れる”
2. 物理的なものは存在的である
・物理的対象は、人間の認識とは無関係に“ある”とされる。
・しかし、それを「そのもの自身として見ることはできない」。
・「そのものをそのものとして見ることはできない」=認識の限界
3. これは人の限界である
・人間は、認識を通してしか世界に触れられない。
・つまり、存在そのものには到達できない。
絶対的な客観性はあり得ない。すべてが主観的である。赤は赤であるが万人が思っている赤とは等しくない。脳が再構築しているからね。
菩薩不得我,故名菩薩。この言い回しは、金剛般若経にはないが、要点をまとめていると思う。
さらに言えば、菩薩不得我,故名菩薩、こんな偈はありませんw
ヒマラヤ聖者が好きなら
話が合いそうな人が、この掲示板にいますぜ😆
あの頃は、外環を走っている時、助手席にいた、風景を眺めていた。あっ、風景だけ。くだらないことを思い出したw
当時は、色眼鏡だのなんだなとやっていた記憶がある。
ある人がこんなことを言っていたなあ。
思うということも思わないということも思わない。
この言い回しこそが法鏡なのさ。
法鏡と我鏡。重なり合っていて見分けずらいということである。法鏡を得たらよく保護しなさいってね。なにかにかいてあったな。
【今に生きるとは何か】心に振り回されない究極の瞑想状態をヨグマタ相川圭子が解き明かす。https://www.youtube.com/watch?v=JDLuCMfSBVQ
彼女の前半の説明はまさに、法鏡と我鏡の説明である。まぁ、法鏡とか我鏡とか私が勝手に作っただがねwww
倶舎論で弾かれるやろ
😆
倶舎論の刹那滅などの存在を否定した上で
残る倶舎論のマジメな修道論を前提に
どれだけ中道の解釈を
変化させていくかが
宗派の違いになっていく
😆
根源的なアートマンブラフマンがあれば
OKワールドやろ
😆
八正道あるしな
正見で
だいたい仏教とそれ以外の区分けができる
😆
倶舎論は
むろん、ヨガ股外道のコースも想定済みだ
佐々木先生〜動画ご親切ありがとう〜〜
😆
鏡すらもまたない
昨日の話に戻ると
>>331
> お前はまず麦に戯論寂滅とは?
> と聞けよw
> 戯論寂滅とは?
この問いに対して、中論としての模範解答はハッキリしている
「縁起=空」だ
中論としては、そういうことになる
いろいろあるが、不識と答えれば、入り口でしかない。
戲論寂滅まで行くということは、唯識でいえば、末那識が転識したということである。
般若で答えるなら、
智慧の完成ということになる。
末那識の転識への修行だからね。
わたしは、法鏡と我鏡にわけたけどね。
如来とは、法鏡が法鏡で見ているということで、赤を我鏡で見ているわけではない。ということである。
だからこそ、よく保護すべしということが言われる。
同意だ。
言葉も妄想も、分別も思考も否定してるわけじゃないと思うぞ。
それらも縁起の現れでありそれらを実体視して囚われる事を否定している。
中論の戯論寂滅はその空や縁起の真の理解に関わる。
第14品 世界成就品(せかいじょうじゅぼん)要約
---
概要
この章では、「光明覺照」によって法界全体が互いを照らし合う状態から、
その光の働きが具体的に“世界(国土)”を形成していく様子が描かれる。
ここでいう“世界”とは、物理的な地球のような場所ではなく、
縁起によって成立するあらゆる場=法界の顕現形態。
覚照の動きがそのまま現象界を生む、という動的生成の描写になっている。
---
構成と展開
1. 世界の成就
如来の覚照によって、光が互いを映し合い、
その相互の光の重なりから無数の世界が現れる。
これを経は「十方世界の同時成就」と呼ぶ。
世界は“作られる”のではなく、照らし合いの関係が定まった瞬間に現れる。
2. 世界の多様性
現れる世界は一様ではない。
それぞれの世界は、そこに関わる縁の成り立ちに応じて姿を変える。
ある世界は光に満ち、ある世界は静寂に包まれ、またある世界は香に満ちている。
→ 同一の法界が、縁の組み合わせにより多様な様相を持つ。
3. 世界と如来の一体化
すべての世界には如来が存在し、
その如来もまた他の世界を映している。
つまり、世界=仏の現れであり、仏=世界の働き。
4. 無尽の生成
照らし合いは止まらず、世界は次々に生まれ、滅び、また現れる。
この動き自体が法界の呼吸であり、終わりのない成就の連鎖。
これって唯識の共業をより中論の徹底で説明してる部分と判断する。
NO1より
アタマが、良さそうだな
😆
川^○^ハレAIからですけど離言真如は不識で良いと思いますよ
戯論寂滅はプロセスの違いだと思います
>「不識(ふしき)」は「離言真如(りごんしんにょ)」の境地を表す言葉であると言えます。
詳細は以下の通りです。
離言真如(りごんしんにょ):仏教において、言葉や思慮分別を超えた、永久不変の真理や世界のありのままの姿(真如)を指します。通常の認識や言葉では表現できません。
不識(ふしき):禅宗の祖師である達磨大師(だるまだいし)と梁の武帝(りょうのぶてい)の有名な禅問答で使われた言葉です。
武帝が「私に向かい合っているあなたは誰か」と尋ねたのに対し、達磨大師は「不識(知らぬ)」と答えました。
この「不識」は、単に「知らない」という意味ではなく、聖人・凡人といった二元的な区別や、言葉で定義できるような固定的な存在ではない、ということを示しています。
つまり、「不識」は、分別や言葉の及ばない、まさに「離言真如」の智慧(無分別智)の境地をそのまま体現した言葉なのです。
😆
照らし合いは止まらず、世界は次々に生まれ、滅び、また現れる。
この動き自体が法界の呼吸であり、終わりのない成就の連鎖。
怪しげだな
消滅ならありうるが煩悩の
仏の境涯の違いをわけないと
意味が不明でになる
AIの限界点か?
教えの概要: 世界の「成」(生成)と「壞」(消滅)を含む多様な側面を説き、仏国土の広さや成り立ち、衆生の業による変化などを説明しています。
根底には華厳のいう中論の中道が究極にあり
その上表面の波は衆生の業みたいな感じじゃねえの?
😆
ツォンカパに触れたら夢ヨーガも結局関わってくると思うぞ?
>>457
そこはねー刹那滅に引っ張られてるように見える。これはChatgptの無尽の生成の読みが甘そう
川^○^ハレ雪山偈の諸行無常 是生滅法 生滅滅已 寂滅為楽
生滅が滅し終わったところが安らぎ寂滅為楽なんだと思います
川^○^ハレ生滅が滅し静まったところが安らぎ寂滅為楽の方がイイかもも♪
お前、刹那滅はないんやないぞ
「否定」することで
空の理だぞ
縁起、空は事象の理屈だぞ
ドットは点滅しながら
表象するな?
それすらも関係性にすぎないよ
ということを否定によりしると
いうだけで
表象したそれ自体を否定はしていない
ということを否定によりしる
その様子が働きそのものであって
戯論寂滅
空性であるから
表象にすぎないということ
中観派(空)
戯論寂滅
分別の論理を徹底的に否定
境地空性の沈黙
分別を超えた智慧
禅(真如)
不識
問答を通じて沈黙に導く
真如の沈黙
分別を超えた態度
般若の完成されたものが言う言葉である。
昔は、不識なんていいあっていたなw
言葉の真意を知れば、たやすく言うべき言葉ではない。
般若の完成
🫥🫥🫥🫥🫥
お前が理解しとらんだけやないか
仮有として唯識が採用した理由を
考えろいうたろが
概念増殖(戯論)の理屈が空
であって
その否定により戯論寂滅
その戯論が否定されたそれ
戯論寂滅とはなんだろうか?
どのような様子か?
八不、減りもしない増えもしないとやらは
一体いかなるものか?
麦は答えたから分かるわな
🫥
事象は言語で立ち上がる
増殖、拡張によって
またそれの関係性によって
それが縁起、空性
戯論寂滅
すいません。戯論寂滅したら人はどうなるのですか?
😆
∞ノノハ∞
川^○^ハレ貴方は>>450の名無しさんですよね?論理破綻していますよwww
不識は「入りでしかない」はずなのにたやすく言うべきでない言葉「般若の完成」になってるwww
>いろいろあるが、不識と答えれば、入り口でしかない。
>>468
>昔は、不識なんていいあっていたなw
言葉の真意を知れば、たやすく言うべき言葉ではない。
般若の完成
恒有の構成要素の組み合わせが
刹那に生滅し事象となる
中論、龍樹
刹那に生滅し事象となる
これすら言語で立ち上がるにすぎない
唯識論
龍樹はお釈迦様の中道、空の理を説いた
ではどの様に凡夫は世界を認識するかを
説き
その修道論を説こう
いい質問だ
世界は言語で立ち上がる
さて
言語を奪ったら何が残る?
∞ノノハ∞
川^○^ハレ仏性の働きでも法身でもイイと思いますけど
刹那に生滅し事象となる
これすら言語で立ち上がるにすぎない
と龍樹はいうが
刹那に生滅し事象となる自体を否定しとるんやなくて
言語で立ち上がる
と言ってるだけでその在り方まで
否定はしとらんのよバカ
そうそう
ズバッとその様子、様を言っちゃって
精進の機会を失うし
機がなきゃ??となるだけやな
∞ノノハ∞
川^○^ハレリダンが言えばイイじゃんwww
はい♪www
見事w
般若を完成したものが、御託は並べないと思うけどね。
ウキ?ウキキキーー!!
ムシャムシャ、!!
ブリッブリリリリッ!!
簡単に言えばそうなるな
南無妙法蓮華経
ギャーテギャーテーに
なりきる
∞ノノハ∞
川^○^ハレ麦は覚者ではありませんけど
諸仏の説法は、二諦によっておこなわれる。
世俗諦と勝義諦とである。
これら二種の諦の区別を知らない人々は、ブッダの教えにおける深い真実を理解しない。
ことばによる説明によらなくては、勝義は説かれ得ない。
勝義にもとづかなくては、ニルヴァーナはさとられない。
(龍樹 「中論」)
倶舎論を見ても、中論を見ても
何でも聖ウンコ教に見えている😂
戯論、言語拡張が
縁起の理由だからな
理路でいうならそうなる
> ことばによる説明によらなくては、勝義は説かれ得ない。
> 勝義にもとづかなくては、ニルヴァーナはさとられない。
> (龍樹 「中論」)
これを見ただけでも
「言葉によって説かれたものは、すべて世俗諦である」
「勝義諦は、言葉によっては説かれ得ない」
という俗流解釈が、龍樹の真意でないのは分かるはず
🫥🫥🫥🫥
通過点だよ
そっから無分別の分別
刹那滅は刹那滅にあらず
故に刹那滅と名付く
∞ノノハ∞
川^○^ハレ龍樹も四句否定でしか指させなかったですもんね
仕事日モードだから
金曜日まで
レスが減るだろう
😆
感想だろ、皆
だから何?となるか
人の概念を見破り空を、実証するか
でしかない
龍樹の真意を誤解した後世の中観派の連中が、「言葉で説明できない」を言いすぎたせい(笑)
このため、中観派の教学は衰退した
ツォンカパを避けて通れない
金剛般若経 中村元訳 (これは著作権が絡んでいるのでコピーではない。いやここにはコピーしたけどw)
32・a
さらに、また、
スブーティよ、
実に、求道者・すぐれた人が、計り知れず、数えきれないほどの世界を、七つの宝で満たして、
諸の如来・尊敬さるべき人・正しく目ざめた人に施したとしよう。
また他方では、立派な若者や立派な娘が、
この智慧の完成という法門から四行詩ひとつでも、とり上げて、
記憶し、誦(とな)え、理解し、他の人々に詳しく説いて聞かせたとすれば、
この方が、そのことによって、数えきれないほどの、さらに多くの功徳を積むことになるのだ。
それでは、どのように説いて聞かせるのであろうか。
説いて聞かせないようにすればよいのだ。
それだからこそ、
《説いて聞かせる》と言われるのだ。
>また他方では、立派な若者や立派な娘が、
この智慧の完成という法門から四行詩ひとつでも、とり上げて、
記憶し、誦(とな)え、理解し、他の人々に詳しく説いて聞かせたとすれば、
この方が、そのことによって、数えきれないほどの、さらに多くの功徳を積むことになるのだ。
この辺は法華経でもでてくるから、定型文だな。
◯◯は◯◯にあらず、故に◯◯と名づく
金剛般若経の定型文
教祖の聖ウンコ師が「何千回も坐禅して見性体験するしか無えんだ~❗」に、極端にこだわってるおかけで
これこそ、聖ウンコ教の中核教義😂
じつはリダンだっていう😅
そうですね。これは、如来の見方です。またそのように金剛般若経にかかれています。後で、その部分の文章を出しておきます。夜中ねw
いや、答えでてるだろ
四句否定だよ
戯論寂滅(月)は
戯論寂滅(仮名)でしか
「説かれ」えない
という簡単な話だろうが
JBLが鹿憎しで耳に入らんのやないか
だからさ
鏡って定義に引っ張られるから
コピペするような真似をするの
鏡が自分を鏡と思うだろうか?
鏡になりきった(無分別、真如)
あとに真如から出た(如来)ら
それが鏡と名付くんやろ
他の宗派もロジックは同じだぞ
南無妙法蓮華経が南無妙法蓮華経
南無阿弥陀仏か南無阿弥陀仏
となる
ちがうよ
その場合はその宗派の
信仰によるロジックというだけ
当体蓮華、等(勝義)を成す
やることは同じ
方法論が違うだけ
如来は即非。
お前が如来だぞ
釈迦如来と多宝如来が
なんでセットで出てくるか
んで
なんで釈迦だけ説法をし
多宝如来はうんうん言ってるのか
つー結論じゃ話にならん
無分別の分別
無分別にいたり
無漏の種子(無為法、真如)をしり
再び分別において熏習せよと
空性と実証し、
戯論寂滅(真如)となり
八不中道
空性故に事象は立ち上がる
理(空)と事(事象)は障りなくある
事(事象)と事(事象)は障りなくある
中論は刹那滅を否定したとかのたまう
否定したのは構成要素の恒有な
言語の立ち上がりにすぎないと
唯識においては識は刹那滅だろ?
唯識論ではほとんど仮有として
採用しとることを
ウィキレベルでも読み取れようがw
とかいうとるからそうなる
基本をやれバカ
🫥🫥🫥🫥🫥
天台宗の法華経、華厳、真言密教は
凡人には壁だ
😃
一生縁がないだろう
😃
壁だろう
😃
川^○^ハレ宮沢賢治さんの「インドラの網」は華厳経の世界が描かれていますね
宮沢賢治さんは法華経の信者さんだったんですよね
須菩提よ、菩薩はまさにかくの如く布施して相に住せざるべし。
何を以て故に。もし菩薩、相に住せずして布施せば、其の福徳は思量すべからざれなり。
須菩提よ、意に於いていかに。身相を以て如来を見るべきやいなや、いなり。」
「いなり、世尊よ、身相を以て如来を見ることを得べからず、何を以て故に。如来の説きたまえる所の身相は、即ち身相に非ざればなり。」
仏、須菩提に告げたもう、「およそあらゆる相は皆これ虚妄なり。もし諸相は相に非ずと見るときは、則ち如来を見る。」
※これは道元もとり上げている。
若見諸相非相 則見如來
もし諸相は相に非ずと見るときは、則ち如来を見る
この辺は本覚を言っているわけではない。
(非相)として観じるとき、如来の真実を見る
般若経典群では、菩薩が般若波羅蜜を修める際に捨てるべき「四つの相(すがた)」が説かれます。
1・我相(がそう) → 「私」という実体があると執着すること。 → 自我への固執。
2・人相(にんそう) → 他者を「人」として実体視し、区別・執着すること。 → 自他の分別。
3・衆生相(しゅじょうそう) → 衆生を固定的な存在と見ること。 → 生きとし生けるものを「実体あるもの」と誤認する。
4・寿者相(じゅしゃそう) → 命・寿命を実体として捉えること。 → 生死を固定的に見る。
そう
笹が世俗だってこと
勝義の現れではあるが
しかしそれに導くには
あなたが、鏡であると
仮名をおかないと説明できないよね
と中論は言ってるわけだ
その字面ばかり追うのは違う
それ指だから
指してるほうを見よ
ということ
諸仏の説法は、二諦によっておこなわれる。
世俗諦と勝義諦とである。
これら二種の諦の区別を知らない人々は、ブッダの教えにおける深い真実を理解しない。
はやたらに推すが
四句否定、テトラレンマで話終わり
ことばによる説明によらなくては、勝義は説かれ得ない。
勝義にもとづかなくては、ニルヴァーナはさとられない。
普段は逃げ回るだけなんに
馬脚を現す
馬鹿が露呈する
ウケる
中論、龍樹、八宗の祖
ここの空の理を理解しないと
大乗の屋台骨だ
以降を間違えて理解するぞ
逆にこの空の理が実証されれば
法執の断滅、無住処涅槃
話にならねえ
説一切有部、倶舎論が何を主張し
龍樹が何を否定しお釈迦様に回帰したか?
ここをしっかりおさえるべし
🫥🫥🫥🫥
午後かな?
😆
丑三つ幽体離脱ハッスルしてたのか?
🫥🫥🫥🫥
じつは最も苦手な相手でもある😂
🤡🫥
お目覚ハッスル🤡
根っこを断つ 凄いね。
出てきたのを断つとは違うね。
唯識用語の「根」でしょうな
意味: 認識作用のよりどころとなる器官です。
六根: 眼根(視覚)、耳根(聴覚)、鼻根(嗅覚)、舌根(味覚)、身根(触覚)、そして意根(心)の総称です。
唯識論との関係: 唯識論では、この意根が、人間が認識するすべてのものが識の働きによって成り立っていると考える上で、中心的な役割を果たします。
そうでしょうね。
第六意識: 仏教における認識の第六番目の働きです。
意根: 意根は、第六意識の基盤となる「心」や「認識のよりどころ」です。
働き: 前の五識が対象を「感じる」のに対し、第六意識は意根を介して対象を「判断」し、概念として認識します。
対象: 色・声・香・味・触といった五感でとらえられる対象だけでなく、過去・現在・未来のあらゆる物事や概念を対象とします。
「意根」は認識の器官としての「心」であり、「第六意識」はそれを土台とした「判断・認識」の働きです。つまり、「意根」という「器官」が、「第六意識」という「働き」を生み出す関係にあります。
ロン論法に遠からず
😆
https://www.google.com/url?sa=t&source=web&rct=j&opi=89978449&url=https://inouetetsugen.com/post/150860044711/1-%25E6%2584%258F%25E6%25A0%25B9%25E3%2582%2592%25E5%259D%2590%25E6%2596%25AD%25E4%25BA%2595%25E4%25B8%258A%25E7%25BE%25A9%25E8%25A1%258D%25E8%2580%2581%25E5%25B8%25AB%25E8%25AA%259E%25E9%258C%25B2%25E3%2582%2588%25E3%2582%258A&ved=2ahUKEwj6yPuEjOuQAxUAna8BHQK0OnIQFnoECBkQAQ&usg=AOvVaw3Obf_yXih971iJy3r0PEVO
でも、もともと「根っこ」という意味で、「意根」と名付けられたんで
その意味では同じでしょうな
ゴール地点は唯識ではない
😆
こう言う言葉は、勝義を話すと、世俗義になるということではない。
中道の焦点当ててないからな
世俗諦、勝義諦とかはなー
😆
はあ?
🫥🫥🫥🫥🫥
になる
😆
意の根というものがある。それがどうしても取れない。それは子供の時、知らんうちに思い込んで、その思い込みを育ててきたんじゃからどうしようもないんです。
迷ったことを知らんのですからそれを取り除く方法が分かりようがない。
それを釈尊が本当に徹見せられた。お茶を飲んだら、お茶の味がする、これが釈尊の到達された境涯です。救われている、成仏している。ご自分の様子をごらんになって、人々を救う道はここにある。救われる道は、これ一つ、他に救いようがない。
どんなに世界の人がジダンダ踏んでみてもどうしようもない。それは、いつも云うように、理性に訴えて、そして理性をもって整理してみても、自分が整理したことまでみんな知っておる。それだから、どうしようもない。
見えないものを、見たように作ってみせても、それまで自分が知っておる。
自分を自分でごまかせない。人間は基本的にそこまで正直であるのだが。そういうところに本当に人類は苦しんでいる。苦しみの根元はそこに在る。
それを根本から救う道が仏道である。自分自身に正直であれば必ず忘自己の時節はある。徹する。
(井上義衍老師語録 pp.8-9)
唯識論に詳しい禅師など、円覚寺の横田南嶺くらいのものだ
八宗綱要の壁ごJBLにあるだけやろ
😆
臨済宗としては
ボンクラだ
😆
世俗諦と勝義諦と唯識は
あるが
禅には、そっち方面の理論は軽視
そういうのがツォンカパの論書に、明白に書いてあるが
1回は通しで読んではいるんだが
精読すると
ツォンカパ禅定パワー喰らいすぎる
😆
見るじゃないだろう
リアルに映すだろ
😆
鏡にこだわるのもなんだかな?
とは思うけど六祖慧能
😆
説明する意欲がでるな〜
すげー
臨済宗は説明したくなくなるけど
😆
鏡は分かりやすい
臨済宗解釈と
道元解釈
両方いけるようになった
😆
当然レスするのは
道元解釈でいこう
😆
六祖慧能と
突きつけられて
気づかんのか?
😆
😆
😆
神会は段階的な悟り漸悟を認めない。そして「念いがおこらぬことを座ととし、自己の本性を見きわめることを禅とする」「直ちに見性を了ぜよ」と頓悟の立場を強調する。
面白いの見つけた
どうして神会が北宗禅を攻撃するのかと思っていたが、、北宗が慧能の遺体を傷つけ、頭を盗んだり、碑文を削って北宗禅が正しい系統のように、たびたび改ざんされた事があったからだと主張する神会の記録が敦煌で見つかっている。
「敦煌神会文献」には慧能大師の首を盗んだの者の名前「張行昌」まで記されている。
この神会の攻撃は功をそうしたのか栄華をほこった北宗禅はチベットで行われたサムエィの宗論のあとやがて姿を消してしまう。
ところで神会の禅の流れはどうなるかと言えばこちらも続かず。六祖慧能の別な流れ、馬祖の法灯が今日まで継続した。
禅の祖師 六祖慧能禅師
https://www.iihatobu.com/work/zen6.html
朝鮮で、華厳と融合したんじゃね、
曹渓宗やったけ?
😆
朝鮮で、華厳と融合したんじゃね、
曹渓宗やったけ?
😆
修正
😆
「敦煌神会文献」には慧能大師の首を盗んだの者の名前「張行昌」まで記されている。
神会も怒るわな。
この辺は知らなかった。
その神会の法灯も続かなった。歴史の妙。
すいません。
宗論の展開
初期は摩訶衍側が優勢。
しかしインドから招かれたカマラシーラが「漸悟」を論じ、摩訶衍を論破。
歴史的意義
チベット仏教の基盤形成 → インド仏教(特に中観・瑜伽行派)の流れが正統とされ、後のチベット仏教の大乗体系が築かれた。
中国禅の影響排除 → 中国禅の「頓悟」は退けられ、チベットでは「漸悟」が主流となった。
史料の食い違い → チベット側史料ではインド側勝利、中国側史料では中国側勝利とされる
なんか変な話。
頓悟も北宗禅も取り入れられていたということか?
南宗なら議論しないやろ
😆
唯識→カマシーラー→ツォンカパの
へ行く一つの流れのようだな
😆
>議論するから北宗なんやろ
>南宗なら議論しないやろ
そういところよ。関心するw
なっとくw
今日は休みのでサウナに来てる
3時間ぐらいは熟睡した。
坐禅スレ荒れているじゃない
あの方の行動パターンも変わんないw
坐ってナンボだと思うなら人のことなんて構っている暇はないと思うがね。
そういう人はそういう人のところに行けばいいだけ
掲示板から離れている人達もいるんだから
誰とも話のタネにできないテーマ(笑)
相手によっては話題に出せるかもしれんな
誰かれ構わず、平気でするのが当方の特徴(笑)
というような話をよくする
それな
飲みで酔って2.3分話したら
友達が素の顔になっとるw
龍樹(ナーガールジュナ)の中観派は「有・無」「常・無常」「一・異」といった対立的概念をすべて戯論として退け、空(śūnyatā)を説きました。
涅槃と世間に差別がないという偈は、まさに龍樹の「八不」(不生不滅、不常不断、不一不異、不来不去)の論理に対応します。
中観思想では、世俗諦と勝義諦の二諦を区別しつつも、究極的には両者は空において一致するため、涅槃と世間の差別は消えるとされます。
※華厳思想との関連
華厳宗は『華厳経』を依経とし、「法界縁起」や「重重無尽」を説きます。これは世界のすべての存在が相互に依存し、妨げなく融通し合うという思想です。
有名な唯心偈「心仏及衆生 是三無差別」は、心・仏・衆生の三者が本質的に差別がないと説き、涅槃と世間の無差別と響き合います。
華厳思想では、一即一切・一切即一の原理により、世間の一つ一つの存在がそのまま法界全体を顕すとされ、涅槃と世間の境界は消えます。
※両者の接点
中観思想は論理的に「空」を徹底し、対立的概念を否定することで涅槃と世間の無差別を示す。
華厳思想は形而上的に「法界縁起」を展開し、世界全体の相互依存を肯定することで涅槃と世間の無差別を示す。
両者はアプローチは異なるものの、「涅槃と世間は本質的に同一である」という結論に収斂します。
だそうだ。
初めは「山は山」と素朴に見える。
空を悟ると「山は山でなく、水は水でない」と見える。
さらに深まると「やはり山は山、水は水」と見える。
更にさらにいえば
どっちでもいいじゃないかともいう人がいるwww
しかし仏教を知ることで、「なぜ苦しむのか」「どう生きるのか」を深く考えるための道具を得られる。
つまり「必須ではないが、知ることで人生の理解が豊かになる」。
こうも言える「ランプがなくても歩けるが、あれば足元がよく見える」
【根本中頌】 中論 【龍樹著】 Part3
https://talk.jp/boards/psy/1763168127
小泉進次郎風にいえば、
「台湾は、台湾だ」
最終更新: 11月6日
小泉進次郎防衛大臣は11月3日の閣議後会見で、台湾訪問歴を語りながら「台湾には行ったことがあります。中国には行ったこと無いんですけど」と述べ、台湾を中国本土と明確に区別するニュアンスを示した。同会見では台湾を「極めて重要なパートナーで大切な友人」と強調し、日中防衛相会談での台湾海峡平和安定の伝達も触れた。この発言はX上で爆発的に拡散され、過去の「進次郎構文」を逆手に取った称賛の声が広がり、原潜必要性に関する最新発言もイメージ転換を象徴している。
> 中観思想では、世俗諦と勝義諦の二諦を区別しつつも、究極的には両者は空において一致するため、涅槃と世間の差別は消えるとされます。
そりゃ、そうでしょうな
「勝義諦」と「世俗諦」に二極化すること自体
八不中道の主旨に反する😅
空の視座からはそりゃそう
分別はないでしょうよ
誰にも伝わらんでしょうが
根本中論頌
ナーガールジュナ
帰敬偈
不滅にして不生、不断にして不常、
不一義にして不異義、不来にして不去、
およそ戯論が寂滅し、吉祥なる縁起、
それを説いた仏陀、かの最高の説法者に私は帰命する。
諸の法は、自ら生じたものも、他から生じたものも、両者から生じたものも、
非因から生じたものも、如何なるものも、何処にも、決して存在しない。
既に去った者は去られない。未だ去っていない者も去られない。
既に去った者と未だ去ったものとを離れて現に去るものも去られない。
もし諸蘊が我であるのならば、生滅あるものとなるだろう。
もし諸蘊とは異なるのなら、蘊の特質は無であることになる。
我が有るわけではないのに、我所が一体どうして有るだろうか。
我と我所とが寂滅するが故に、我執と我所執も滅するのである。
我執と我所執を欠いているもの、それもまた存在しない。
我執と我所収は無いと見る者、彼はまた何も見ていない。
内部でも外部でも、我と我所執が尽きているならば、
取は滅するだろう。それが尽きることで生も尽きることとなる。
業と煩悩が尽きることから解脱はある。業と煩悩は分別による。
それらは戯論より派生するが、空性によりそれは滅することとなる。
我であるとも増益されるし、無我であるとも説かれている。
諸仏たちは我と無我とのいづれもが無いと説かれている。
語られるべきものは消滅している。心の活動領域が退けられているからである。
不生不滅であることが、法性なのであり、涅槃に等しいものであるからである。
そして、正しくなく正しくなくない。これが諸仏の教えである。
他によって知られず、寂滅しており、戯論によって戯論されず、
無分別であり、別異なる対象ではないもの、それが実義の特質である。
何らかのものを縁として起こっているもの、それはまずそれ自身ではない。
更にはそれとは異なるものでもないが故に、それ故に不断・不常なのである。
同一の対象でもなく、別異なる対象でもなく、不断にして不滅なるもの、
これが世間の救い主である仏たちの教えの甘露である。
正等覚が未だ出現しておらず、声聞たちが既に滅している時でさえ、
独覚たちは智慧を師によらずとも生じるのである。
もしもこのすべてが空であるならば、生滅は無いだろう。
しかしあなたには、四聖諦が成立しないことになってしまうのである。
遍知・永断・修習・現証というこれらのものは、
四聖諦が無いが故に成立しないことになるだろう。
それらが有り得ないことにより、四つの聖者の果位も有り得ないこととなる。
果位が有り得ないのならば、果位住者も、向位も有り得ないこととなるだろう。
八輩の者たちが有り得ないことにより、僧伽も有り得ないこととなるだろう。
四聖諦が無いのならば、正法もまた有り得ないことになってしまうだろう。
もしも僧伽も法も無いのならば、一体どうして仏が有り得るだろうか。
このように空を語るのならば、三つの宝を侵害することとなるだろう。
果が有ること、法ではないもの、法性であるもの、
これらすべての世間の言説を損害することになるのである。
それが故にあなたはこのように侵害しているのである。
諸仏たちの説法は、二つの真実に基づいている。
世間世俗の真実と、勝義の真実との二つである。
誰であれこの二諦の区別を知らない者たち、
彼らは仏の教えの甚深の実義を理解しない。
言説に基づくことなく、勝義を説くことは不可能である。
勝義を理解することなく、涅槃を得ること不可能である。
空性を見誤うならば、智慧少なき者たちが破滅する。
それは誤って捉えた蛇や、未熟な明咒と同様である。
このために、牟尼は説法を躊躇なされたのである。
この法が鈍根の者には理解され難いと思われたからである。
その過失は我々には起こらない。誹謗は空にして適合しないからである。
何であれ、空性が成り立つ場合、そこにおいて一切が成り立つのである。
何であれ、空性が成り立たない場合、そこにおいては一切は成り立たない。
汝は汝自身にある過失を我々に転嫁しようとしているのである。
それは馬に乗っていながら馬のことを忘れているのに等しい。
もし汝がすべての現象が自性によって有ると考えるのなら、
すべてのものは因縁が無いものであると見ているのであろう。
結果、原因、行為者、行為、行為対象、
生起・消滅・果報というこれらを損害しようとしているのである。
マジレスする気がおきんな?
😆
それは依存して措定されたものであり、これだけが中道なのである。
縁起していない法は如何なるものも存在しないが故に、
それ故に、空ではない法は、如何なるものも存在しないのである。
もしもこれらすべてが空でないとすれば、生滅は無いだろう。
そうすれば汝にとっても四聖諦は無いこととなるであろう。
縁起していないのならば、どうして苦であることになるだろうか。
無常なるものは苦であると説かれているこれは自性として有るのではない。
自性によって有るのならば、一体何が集起するというのだろうか。
それゆえに空を破壊する者には、集も無いことになってしまう。
自性によって有る苦においては、その滅も有り得ないのである。
汝は自性に固執しているが故に、滅をも侵害しているのである。
自性によって有るのならば、道の修習もまた不可能であろう。
もしその道が修習されるとするのなら、自性によって有ることは有り得ない。
苦を滅し、その境地に達するというのであろうか。
自性によって遍知されることなくして、一体どのように遍知するのだろうか。
自性とは堅固にして不動なるものとして謂われているのではなかったのか。
汝にとっては、永断・現証・修習そして四果すらも、
遍知と同様に存在しないものとなるであろう。
しかるに自性によって証得されることのない果は
一体どうして自性に固執する者によって証得されるものでありえようか。
果が成立していない限り、諸々の果位の者も向位の者も存在しない。
もしこれら八輩が存在しないのならば、僧伽もまた存在しないだろう。
しかるに、聖諦が存在しないことにより、正法も存在しないこととなる。
正法と僧伽が存在していないにも関わらず、仏がどうして存在するだろうか。
汝にとっては、菩提に拠らずとも仏が有るということになってしまう。
更に汝にとっては、仏に拠らずとも、菩提が有ることになってしまう。
しかるに、自性によって仏ではない者が、菩薩行を精進しても、
汝にとっては菩提を証得することなど有り得なくなってしまうだろう。
不空であるのに何を為すのだろうか。自性が為されるのではないからである。
法や非法がないのならば、汝には果報も無いことにある。
汝にとっては、法や非法を因とする果は無いからである。
もしも汝に法や非法を因とする果報があるとするならば、
汝にとって法や非法より生じた果が、どうして空でないことになるのだろうか。
誰であれ、縁起と空とを侵害しようとする者は、
彼は、世間の言説を侵害しているのである。
空性を侵害するのならば、如何なる為すべきことも無いことになるだろう。
作用が開始されないことになり、何も為さなくとも行為者であることになる。
自性が有るならば、衆生は不生不滅にして、
さまざまな分位も欠き、永遠に存続することができることとなるだろう。
もしも空でないのならば、未得の者が得ることや、
苦しみに終止符をうち、一切の煩悩を断じることもあ有り得なくなるだろう。
縁起を見る者は、これを見るのである。
すなわち、苦と集と滅と道こそを。
無明に覆われたものは、再生のため三種の行を為す。
それらの諸々の業により何らかの趣へと赴くのである。
識は行を縁として趣へと入ってくるのであり、
趣へと入った識に名色が胚胎する。
一方、名色が胚胎した時、六処が発生し、
六処に基づいて触が現れれるのである。
眼と色と憶念に基づいてまさに起こるのであり、
このように名色により識は発生するのである。
眼と色と識という三つのものが集まったもの、
それが触であり、この触より受が生起する。
受を縁とし愛は有る。何故ならば、受の対象を愛するからである。
愛が起こっている時には、四種の取が取著されるのである。
取が有る時に取著の主体たる有が生起する。
取がなければ解脱するだろうし、有はないからである。
その有はまた五種である。有から生が生起し、
老死、苦等と、悲しみをともにする愁いと、
憂鬱と煩悶といったこれらが、生より生起し、
かくの如く純然たる苦の集合体が生起するのである。
しかるに無知なる者は輪廻の根本である諸行を賢者たちは造作し、
無知なる者は行為者となるが、賢者は実義を見ているが故にそうではない。
無明が滅すれば、諸行が生じることはないのである。
しかし、無明の滅は智によって実義を修習することによっている。
ひとつひとつが滅することにより、ひとつずつ生じなくなる。
こうしてこの純粋なる苦蘊は正しく滅することとなるのである。
大悲の心に促され、すべての邪見を断じるために、
正法を説かれた彼のお方、ゴータマに私は帰命する。
https://www.mmba.jp/nagarjuna/madhyamakakarika
> しかし、バカのくせに偉そうなのは
> マジレスする気がおきんな?
> 😆
ハッスルハッスル😆
デンパパ📶みたいなヤツのことを言っているな?
😆
『中論』の目的: 龍樹が著した『中論』(『根本中頌』)は、すべての事物には固定した実体がないことを示す「空」の理論を徹底的に展開した、仏教史上極めて重要な理論書です。
『中論』は、縁起から論理的に導き出される八つの否定表現(八不)を用いて、事物の「空」を証明しようとします。
八不: 「不生・不滅・不断・不常・不一・不異・不去・不来」の8つの否定。
意味: たとえば「不生」は、何事も本質的に生じたり、あるいは滅したりするものとして固定的にとらえられない、ということを意味します。事物が持つ本質的な性質を否定し、縁起によって絶えず変化していることを示しています。
「自立して存在するものなど何もない。すべては相互依存している」
という話
「此縁性縁起」と「相依性縁起」だ
大乗仏教で縁起といえば、そういう話になった
ああしたから、そうなった
因縁果の法則だ
悩みとは作り出すものである。
思い悩みは言語を取ることから生じる。 言葉は世界を整理する力を持つが、同時に「悩み」を生み出す力も持つ。
😃
『天台小止観』の概要
目的: 心を鎮め、外界の現象を正しく見極めるための修行法を解説する。
形式: 『摩訶止観』が「大止観」と呼ばれるのに対し、初心者向けの簡潔な入門書として「小止観」や「童蒙止観」とも呼ばれます。
内容: 修行の準備、欲望や悪しき心の克服、飲食・睡眠などの生活の調整、具体的な座禅のやり方、そして修行によって得られる成果など、段階を追って説明されています。
意義: 仏教史上初めて集成された座禅の作法書であり、現在でも非常に懇切で実践的な指導書として価値が高いとされています。
止(さんま:śamatha): 心の雑念を静止させ、安定させる修行。
観(びぱすやかな:vipaśyanā): 安定した心で物事をありのままに観察し、智慧を得る修行。
この二つは互いに補完し合う関係にあり、仏道を歩む上で不可欠な要素とされています。
なかなか詳しくやってるが
臨濟への解釈は違うだろな
だから
ボンクラだ
😆
https://www.engakuji.or.jp/blog/33239/
かなりの横車を押した
『摩訶止観』は、隋代の天台大師・智顗が弟子に講じた内容を、章安灌頂が筆録した書物です。この書は、座禅を中心とした仏教の実践的な修行法である「止観」を体系的に解説し、天台宗の根本聖典の一つとされています。
『摩訶止観』の要約
目的: 「止観」という実践的な観点から仏教を捉え、悟りを開くための修行の道筋を体系的に明らかにする。
内容: 座禅に始まる具体的な修行の作法や心得を説いており、仏教の思想原理を実践面から体系的に解説している。
位置づけ: 天台宗の根本聖典である「法華三大部」の一つに数えられ、天台宗の修行法である「観心」を説いた書物である。
成立: 594年に中国の荊州で智顗が講義し、弟子の章安灌頂が筆録して成立した。
補足
止観: 「止」はサマタ瞑想、心を静止させること。「観」はヴィパッサナー瞑想、対象を観察して智慧を得ることを指し、仏教の瞑想の基本的な要素です。
「円頓止観」: 『摩訶止観』に示された内容を要約したもので、天台宗が悟りをひらくための方法の一つ。
実践的な教え: 字句の解釈だけでなく、『法華経』の教えを実践的に把握するための重要な注釈書として位置づけられています。
垣間見える
http://www.tendai-jimon.jp/author/1/1.html
これは参考になるな
天台宗は😆
中観派は、インド大乗仏教の2大学派の一つで、「空性」(すべての存在には本質・実体性がない)を中心教義としています。
インド、チベットの中観派の伝統の「観」の瞑想(真理を認識する瞑想)は、「空」の教学に沿って行われますので、広い意味で「空観」と呼ぶことができます。
そうして、無概念の直観的な認識を得ると共に、それを概念的に理解する智慧も獲得します。
😆
「四念処(体、感覚、心、法には実体がない)」の瞑想によって、すべての存在が「空」であること(法無我)を考察します。
つまり、すべての存在は実体ではなく、幻のようなものであると考察して、小乗の経量部などの実有論を避けます。
五蘊(感覚器官・感覚・イメージ・連想や感情・思考)のどれも自分ではないと考察して、私という実体はないこと(人無我)を考察します。
つまり、心(識)もまた実体ではなく、幻のようなものであると考察して、唯識派の唯心論を避けます。
すべての存在は、他の存在を原因として生まれる(縁起)存在であるから、実体ではなく、本質を持たない(空)ことを考察します。
実体を持たないといっても、何も存在しないということではなく、実体を持たないというあり方で存在しているのだと理解することで、「有」にも「無」にも偏ることがない立場(中)に至ると考察します。
煩悩をなくして一切智を得て仏になるためには、「空性」を悟ことが必要であり、「空性」の認識によって慈悲の心を生み、功徳を積むことができると考察します。
つまり、
Aが実体であると仮定する。
AはBであるか非Bであるかのどちらかである。
しかし、Bは成り立たない or BだとAは実体ではない。
また、非Bも成り立たない or 非BだとAは実体ではない。
だからAは実体ではない。
という論法で考察をします。
例えば、「人無我」に関しては、人は五蘊と一体であるか別であるかのどちらかである。
人が五蘊が同じならば、複数の存在に依っているので人は実体ではない。
人と五蘊が別ならば、人としての五蘊とは別の何かが見つかるはずだが見つからない。
従って、人は五蘊よって仮説されたものに過ぎなく、実体ではない。
他にも、「〇〇は単数であるか複数であるかどちらかである」、「〇〇は一瞬前の存在と同じであるか違うかどちらかである」といった論法を使います。
このような論証・考察を徹底的に行うことを経て初めて、無概念の「空」の認識に至ります。
例えば、目の前にある「本」について考察します。
まず、「本」が実体であるとして、その本質を見極めようとします。
これを「正理知」と言います。
そのためには、「本」の偶有性、例えば、「厚い」とか、「カバーがある」とか、「本」が「本」たる所以となる本質的な属性でない性質を捨てていきます。
すると、「本」そのものを見出すことができず、虚空のような無限の広がりを体験することに至ります。
こうして、逆説的にも、無概念な状態で「空」を理解することになります。
この無概念での認識を「等引智」、「虚空のような空性」と呼びます。
その後、日常的な認識の状態に戻ると、また、「本」を「本」として認識することになります。
しかし、今度は、以前のように「本」を実体としてではなく、「幻」のような存在として認識するようになります。
この認識を「後得智」、「幻のような空性」と呼びます。
やがて、分析を行っているうちに、それを意識的に行わずとも、自然に正しい認識が行われる状態になります。
この時、「止」と「観」が同時に行われる「止観双運」の状態になっています。
さらに続けていくことで、最終的には、「等引智」と「後得智」が一致することで、悟りに至ります。
> 昨日夕方4時くらいに天台を読んでた
> 😆
翌日に影響しそうだな?😆
倶舎論的な
佐々木先生の動画で消す、とかいう
感覚の向こうの空
という気がする
臨濟宗肌だと、わかりにくかったが
最近、臨濟宗以外は
そういうベースがあるのだろうな
とかいう瞑想の間合いが
今年上手くなった
😆
これは、一言、大包でいい。
大包あっての、大乗。
一柱も漏れ落つることなく
全体的な得度、つまり、得度
永久の生、不生之生
要するに、絶対神的無、これを無神と名づけようと思うのだが、
そこには、無神的気・意・理があったわけなんだよね。
対象ができると、そこに数字の二で関係が生まれ、働きができる。
無神が最初に創ったのが何なのかは分からないが・・・
この、「中論」という書のの中ですね。
つまり、バランスの正体
良くわからないが、御魂が高次元存在だからでは?
悪霊は分かるかい?
これは、6~3次元のことと思われる。
それより先の、高次元は、かくれみの世界と言って、人間は知覚(感ずること)ができない。
ハンティングワールドやフェンディ、中華料理の満漢全席やフランス料理のコースなど。
中論の話ですな~😂
↓
古本屋のつぶやき Part2
https://talk.jp/boards/psy/1763193127
教えてくれて有難う。
思ったが寝てしまった
😆
施本 「仏教・空の理解」
ホームページ公開日 平成20年4月21日 執筆完了日 平成20年4月8日
施本発行 平成20年4月28日
岩瀧山 往生院六萬寺
Road of Buddhism
著者 川口 英俊
次に、世俗諦《せぞくたい》・勝義諦《しょうぎたい》(第一義諦)の二諦について考えて参りたいと思います。
まずこのことについて、お釈迦様が悟りを開かれた時の出来事から述べてみようと思います。
悟りを開かれたお釈迦様は、独覚したその悟りについて、涅槃の境地を静かに喜び、このまま更に深い禅定に入って、もはや再び生まれ現れることのないように、この迷い・苦しみの世界から完全に解脱しようと考えられたと伝えられています。
また、この涅槃へと至る道について、例え説いたとしても、誰にも理解してもらえないのではないかとも考えられて、教えを説くことを躊躇したと言われています。
お釈迦様は、まず、かつての修行仲間だった五人の僧たちに、「四諦・八正道」の教えを説かれました。その者たちは、お釈迦様について、苦行を止めてしまった者として厳しく批判していましたが、いつしかその真理に触れた五人の僧たちは、お釈迦様への軽蔑の心が既に無くなり、その説法を聞く内に次々に悟りを開いていきました。このことを「初転法輪《しょてんぽうりん》」と言い、いよいよ仏教が始まった瞬間でもありました。
このエピソードを鑑みるに、仏教の真理の理解は実に難解であり、お釈迦様は当初、世俗の中において到底説くことができないと考えられたのではないかと思われます。
それでも何とかお説きになられた時には、無分別の立場から、やむをえないものの、世間の分別の立場へと後退させて、その真理をギリギリ限界まで言葉などの表現にてお説きになられたということであると考えられます。
↓
「ひたすら坐禅するしかない」
このため、禅宗では非常に好まれる
なんで、リダンが出てくるんだよ?😅
中論における「観四諦品」(第二十四・第八偈~第十偈)
『二つの真理(二諦)にもとづいて、もろもろのブッダの法(教え)の説示〔がなされている〕。
〔すなわち〕、世間の理解としての真理(世俗諦)と、また最高の意義としての真理(勝義諦)とである。』、
『およそ、これら二つの真理(二諦)の区別を知らない人々は、何びとも、ブッダの教えにおける深遠な真実義を、知ることがない。』、
『〔世間の〕言語慣習に依拠しなくては、最高の意義は、説き示されない。最高の意義に到達しなくては、ニルヴァーナ(涅槃)は、証得されない。』
とありますように、仏教の真理を説くのであれば、まずは世俗の言葉などの表現手法を用いて説くしかなく、ある程度、世俗の思惟分別・言葉・言語にも頼らざるをえないということであります。
ゆえに、真理から派生されたものとして、その学び・理解・実践を私たちは誤りなきように行っていかなければならないのであります。
中論においては、何をもっとも根本なものとして説かれているのかと言いますと、もしかすると「空」と思われるかもしれませんが、その前提となる「縁起」が、実はもっとも重要であると考えられています。この「縁起」につきまして、この場合の二諦を考えてみましょう。
世俗諦における「縁起」の解釈としましては、いわゆる施本前二作で私が縁起の解釈として使わせて頂いておりましたもので、「佛の道」・第八章・因縁生起においては、「この世における一切の現象・存在は、全て因(直接原因)と縁(間接原因・条件)の二つの原因が、それぞれ関わり合って構成されているということ」と述べさせて頂きましたように、この縁起のありようについて、全ての存在は、因縁によって生起するものとして、普通に自然的存在においてのあり方における時間的・空間的に生起する因果関係におけるものとして、実は世俗諦における「縁起」の扱いでしかありませんでした。
また、前作における唯識論においても、三性の一つ「依他起性《えたきしょう》」について、「この世のすべての存在が、他の何かを縁(因縁生起)として、はじめて成立しているということ」と述べさせて頂きましたが、この依他起性も、世俗諦の「縁起」とほぼ同様として扱いました。
> 一方で、中論が説く「縁起」というものは、勝義諦としてのものと扱われ
>非常に言語表現を超えるものに近い扱いで表されていると考えます。
☝️
重要なのは、ココ
「世俗の言語で法を説くことはできない」
と考え、一度は説法を断念した
お釈迦様は、梵天勧請を受けて、気が変わった
世俗の言語を用いて、法を説くことにしたのだ
お釈迦様は、完全にとはいかないまでも、「ほぼ、言語の限界を超えた」というのが、龍樹の考えだ
もちろん、世俗の言語には限界がある
そんなの、龍樹は百も承知だ
最終的には、空性は、瞑想によって現量了解するしかない
それが月であり、「空性」という言葉は月をさす指である
これを、「言葉だから世俗諦だ」とするのは、まったくの誤り
ウンコとリダンはそう言い張ってるが、単純な誤解だ
ホームページ公開日 平成20年4月21日 執筆完了日 平成20年4月8日
施本発行 平成20年4月28日
岩瀧山 往生院六萬寺
Road of Buddhism
著者 川口 英俊
http://oujyouin.com/sunyatop.htm
あとでコピペを再開する(笑)
まーーーーーた、腹筋崩壊スレかw
臨済宗単立の僧侶
仏教遺跡と神道遺跡動画アップマニアだ
😆
腹筋崩壊レスはそのくらいにしておけwww
デタラメ知識にデタラメ禅だかなー
遺跡マニアの
臨済宗僧侶のほうが
遥かに信用できる
その寺、いつか行きたいが
優先度合いが低い
道路渋滞の時期しか長期休暇はないからなー
😆
これ、毎日問い詰めるか。
↓
でおーは、勝義諦の上位概念の説明。
JBLは、「ガーワドンの啓示」と「不共の勝法」の説明。
マジメに研究熱心だからなー
😆
🤡
岩清水八幡が2番目のターゲットなので
3番目は
狸谷不動尊か、この寺か
春日大社くらいの位置
行きたいランキングでは
😆
wwwwwwwwwwwwwwwwww
ママンにお小遣いもらって寺行ってどうすんだよw
不一不異なるもの、不来不去なるもの」として、非常に言語表現を超えるものに近い扱いで表されていると考えます。
とはっきり言うとるやん
最終的には、空性は、瞑想によって現量了解するしかない
とお前もいうとるやん
😆
それは
夕の空想
老子は現実把握がメインてはない
現実を離れた超越的存在に偏っている
それだけ、
夕は
仏教をまだ超越的なものとみているのさ
😆
華厳後期は
老子の影響があるとは言われてはいるな
😆
老子は緒越主義に近いのか。私はそう思わないけど。人間のちっぽけな概念など吹っ飛ばすだけの力がある。それは老子が現実を知っているからである。
道教は知らないけどね
天地不仁、以万物為芻狗。聖人不仁、以百姓為芻狗。天地之間、其猶蠹籥乎。虚而不屈、動而愈出。多言数窮、不如守中。
この文章は結構好きである。ここには老子の冷徹までの自然観が現れている。
自然に慈悲なんかあるのかと私は思ってしまう。お天道様が上がれば作物が育つ。しかし、日差しが強すぎる、日差しがなくなる等の差で、砂漠化となる。あちらさんの勝手。
その勝手に意味付けしているのが人。
気功にちかいやろ
😆
修行には😆
へえ、そういうとこなのか
> この文章の主は
> 臨済宗単立の僧侶
> 仏教遺跡と神道遺跡動画アップマニアだ
でしょうなあ
「勝義諦は言葉にできない」は、臨済宗が好むテーマ
他の宗派では、この話題そのものが出てこない(笑)
初期の仏典漢訳者は、多くの老荘用語を借用した
日本の日蓮宗が神仏習合なのと同様、中国の禅宗も儒仏道三教の習合と見るべきだろう
老荘思想や道教の場合、修行者の目標は不老長寿の善人になること
禅宗はそういうものではない(笑)
不老長寿の仙人に訂正
ハッスル🤡ウイルスに感染してんまー
😆
先尼外道という言葉があるが
道教混ざった華厳後期の円覚経について述べたものらしい
😆
程よくハッスル🤡してる
😆
😆
大乗仏教や三論宗の空間認知の話が欠落しているから
似ているという話なんやろなー
唯識の識のみも
空間認識なさそうに見えるが
識の中に空間認識を取り込んでいるとも言える
大般若経の空間認識に無関心過ぎるんで
夕は
そんな風に思うんだろな
😆
> 天地不仁、以万物為芻狗。聖人不仁、以百姓為芻狗。
↑ 老子には、自然界と人間界の話がやたらと出てくるけど
その多くは、個人の人体にも当てはまる
頭をカラッポにして真っ直ぐに立ち、手足を脱力した気功の自然体
老子は、気功の書として読むことも可能
ホーカイくんウイルスは
感染力が高いからなー
😆
老子とジッドゥ・クリシュナムルティと
のほうが
遥かに近い
😆
三論宗の構造を理解しないとなー
😆
ハッスル🤡ウイルスは
偽情報とハッタリの塊だ
😫
そうなのか~😫
三論宗か天台宗を理解できれば
とりま大乗仏教の関門は突破だ
😆
マジレスする気が起きなかった
😆
www
超絶凄まじい馬鹿だろwww
勝義諦の上の概念か、それwww
あーw
笑いが止まんねーwww
方生方死,方死方生。
方可方不可,方不可方可。
意味(要点)
生まれることは死に向かうこと
死ぬことはまた別の生へ向かうこと
可と不可、善と悪、生と死は相互に転じる
荘子の「生死超越」の根本はここにある。
斉物論
荘子は詳しくないので、ちょっと調べる。なんか面白そうだ。
*成実論
法の空性を認める
経量部的な「法の刹那滅」を強調
しかし“空=縁起=無自性”の徹底体系には至らない
*龍樹
空を徹底的に論理化
有無・生滅・一異などすべての概念を否定
空=縁起=中道として完成させる
つまり、
成実論の空は「空への入り口」
龍樹の空は「空の完成形」
皆さん、じゃあね。
今のコロナな
身体疾患がない限りヤバくはないらしいな
😆
奈良仏教の南都六宗になった
南都六宗 <= インド四大学派+α
倶舎宗 ← 説一切有部
成実宗 ← 経量部
三論宗 ← 中観派
法相宗 ← 唯識派
華厳宗 ← 如来蔵思想
律宗 ← 戒律
*前の3つは消滅
現存するのは後の3つの
日本と中国も違うことは違うけど、インド人が異質すぎる😫
インド人が思ってることとは違う
インドの瞑想は、外界への関心を断ち、「いまここに、私は在る」というのが基本
それが「無我」の本質
「非我」というのが正しい
不生亦不滅 不常亦不断
不一亦不異 不来亦不去
能説是因縁 善滅諸戯論
我稽首礼仏 諸説中第一
一ならず異ならず、来ることなく去ることなし。
よくこの因縁を説き、善くもろもろの戯論を滅したる、
説者中の第一人者たるブッダに我は稽首す。
> よくこの因縁を説き、善くもろもろの戯論を滅したる、
>
> 説者中の第一人者たるブッダに我は稽首す。
冒頭からいきなり、ブッダの説法を手放しで礼賛している
「世俗の言語で法を説くのは無理」と一時は断念し、梵天勧請を受けて、やっぱり法を説くことにしたブッダ
「その結果、ブッダは見事に法を説きき切り、戯論を滅することに成功した」と
龍樹は言っている
「ブッダの教えもまた、世俗諦にすぎない」
などというのは、まったく愚かな考えと言わざるを得ない
「八不」は「縁起」という術語の内容をいっているのか、「縁起」という術語に掛る形容詞なのか、という問題である。
「八不」を代表して、「不生不滅」と言うことにしよう。すると、解釈は次の2つになる。
(1)「不生不滅の縁起」とは「すべての存在は不生不滅である」ことを教える言葉である。
(2)「不生不滅の縁起」とは「縁起の思想は永遠に変わらない」ことを教える言葉である。
サンスクリット原文によると、「八不」の句すべてが m で終わっている。
そして3行目の「縁起」(pratttyasamutpadam)が m で終わっている。こちらは文脈から目的格であることが明らかなので、「八不」の句のほうをも目的格とみて、文法重視の学者は「八不」を「縁起」にかかる形容詞と見たがるのである。
「不生不滅なる……不来不去なる」は梵文によれば形容詞であって、「縁起」の語を規定する。それは存在が生滅去来するものであるに対し、縁起そのものは不生不滅なる法であることを意味する。
また英訳者ロビンソンも同様の解釈をして訳している。
I offer salutation to the best of preachers,the Buddha, who has taught that dependent co-arising has no ceasing, no arising, no nullification, no eternity, no unity, no plurality, no arriving, and no depariting, that it is quiescent of all fictions, that it is blissful.
(丹治照義『実在と認識』p.83による。)
(1)「不生不滅の存在」派
(2)「不生不滅の縁起」派
と呼び分けることにしよう。前者は哲学者の派、後者は文法学者の派といえる。後者は文法に捉われて、中論の肝腎の哲学を理解しそこなっている。
この2種類の訳をめぐってかつて三枝充悳氏と立川武蔵氏のあいだで行われたちょっとしたやりとりが興味深い。三枝氏は「不生不滅の存在」派であり、立川氏は(表現に関するかぎり)「不生不滅の縁起」派である。
仏教学界には、そんな議論すらあるということを知っておいても良いだろう
大変な衝撃だ(笑)
そう言ってるように見えなくもない(笑)
まだそんなこといってんのかお前
頭悪いのか意地はってんのか
> また英訳者ロビンソンも同様の解釈をして訳している。
> I offer salutation to the best of preachers,the Buddha, who has taught that dependent co-arising has no ceasing, no arising, no nullification, no eternity, no unity, no plurality, no arriving, and no depariting, that it is quiescent of all fictions, that it is blissful.
なんと、英訳ではそうなってるんかい?
これは衝撃だ(笑)
日本語だとどっちとも取れる曖昧な表現にしておけるものが、英語訳だとキッパリ白黒つけることになる(同様な理由で、老子も英語訳の方がずっと分かりやすい)
「dependent co-arising(相依性縁起)は滅することも生じることもなく、消滅することも永遠に続くこともかく・・・と、最高の説法者であるブッダは説いた」
と、ハッキリ書いてある
しかし、「中論」の有名な英訳なのは確かだ
ガーフィールド訳だ
それを見てみないと、なんとも言えない
(1)「不生不滅の存在」派
(2)「不生不滅の縁起」派
なんで分かれるか
そら方便だからだよ
真諦ではないからそうなるわな
俗諦に変換したら
不生不滅て言葉が出てくるわけで
方便としてよいかつー話なだけやないかいな
それも大事だけど
何かしら言語に真諦、勝義があるなら
このような解釈違いは起き得ないだろ
🫥🫥🫥🫥
🫥🫥🫥🫥🫥
解釈違いが起きるあるいは
誤読により新たな解釈が生まれる
それ自体はなにも方便が嘘だって言ってるんじゃねんだ
方便である理由が勝義へ導くためであって
相手、時世によって変わることは
ある意味正しく機能してるわけだよ
ハッキリ白黒つけるのは
やはり瞑想抜きだから、
ともいえるのかもな?
😆
ハイデッカー、かサルトル出てきそう
😫
816.
ユーザー
◆JBLfMwCXhY
kMeLF(12/18)
この論文の著者は、(1)「不生不滅とは、存在のことである」という説を採っている
存在ではないのは確かだが
永遠というのは
天台宗、華厳宗、真言宗、チベット密教はありえるかもなー
禅、唯識あたりだと
事実というところか、
永遠ではないだろな
😆
永遠とは違うだろな
事実認識といったところかな?
😆
つまらぬ仕事業務にウンザリから抜けた
😆
Jay L. Garfield - The Fundamental Wisdom of the Middle Way - Nagarjuna’s Mulamadhyamakakarika.pdf https://share.google/0MXobItHCAV4Dgs1m
「なんであれ、依他起なるもの(dependently arisen)は不生不滅、不常不断、不一不異、不来不去」
となってるな
ロビンソンによるユニークな訳だったようだ(笑)
「ブッダが説いた縁起の法は、不生不滅・・・」
聖ウンコ派は、どれも極端に禅宗に寄せた解釈をしている
この両者は激突した
そこに依拠している以上
何でもかんでも「方便だ、世俗諦だ」と言いたがる聖ウンコ派とは相容れない
「大学の宗教学科」や「仏教の研究機関」で刷り込まれた根深い劣等感
仏教哲学に対するルサンチマンが根底にあるから厄介だ
運悪く、仏教に関する知識が無かった頃に聖ウンコ師のレスばかり見てたおかげで、「仏教とはこういうものだ」と思い込んでしまったようだ
禅宗も好きではない
禅宗の教義は、自分には仏教に見えない
↓
老荘思想における「静坐(せいざ)」は、「無為自然(むいしぜん)」の境地に至るための実践であり、座って瞑想し、自己の心身を「道(タオ)」と一体化させ、万物の本質を体感的に理解しようとするもので、老子や荘子の思想(「道」の重視、儒家批判、自然との調和)が根底にあり、後の禅仏教にも影響を与え、現代の養生法にも通じる実践です。
「道(タオ)」への回帰: 宇宙の根源である「道」に従い、人間の作為(儒家の仁義など)を排して、自然な状態に戻ることを目指します。
「無為自然」: 何もしないことではなく、自然の摂理に逆らわず、自己の意志や欲望を抑え、ありのままに生きることを意味します。
「万物斉同」: すべての存在は相対的な区別なく平等であり、その一体性を認識する考え方です。
座禅・瞑想: 仏教の坐禅とも共通し、姿勢を正して座り、呼吸を整え、雑念を払い、心の静寂(「虚」の境地)を目指します。
「虚」と「静」: 心を空っぽ(虚)にし、動じない状態(静)を作ることで、「道」との一体感を高めます。
魏晋南北朝時代の「清談(せいだん)」: 老荘思想が流行した時代、知識人(竹林の七賢など)の間で、世俗を離れた哲学的な議論や静かな思索(静坐も含む)が行われました。
禅仏教への影響: 禅宗の座禅は、老荘思想の「無」や「自然」の概念を取り入れ、実践を通じて悟りを目指すものとして発展しました。
現代の養生・マインドフルネス: 精神統一やストレス軽減、自然とのつながりを取り戻す方法として、現代の「養生」や「マインドフルネス」の実践にも通じるものがあります。
老荘思想における静坐は、単なる座る行為ではなく、「道」の原理を体得し、人間本来の自然なあり方(無為自然)を取り戻すための、深遠な精神修行であり、心身の調和と宇宙との一体感を得るための重要な実践方法なのです。
彼らは、お釈迦さまの教えを良いと思っていない
「あれは当時の古代インド人に合わせた教えであり、時代が変われば棄て去られる」と主張している
「棄て去られる」とまでは言わなくても、それに近いことを言う人が多い
初期仏教を強く支持している
↓
初期仏教の根本教義 四諦(したい)
苦諦(くたい)
生きることは本質的に苦である。一切皆苦
生きるということは、苦を背負って日々を過ごすことだ。
どこかに心優しい神様がいて手をさしのべて
救済してくれるようなことは絶対にない。
集諦(じったい)
あらゆる出来事は必ず何らかの原因によって起こる。
苦の原因は煩悩である。
満足が得られないから、苦しくなっていく。
滅諦(めったい)
煩悩を消すことで苦が滅する。
この世で起こっているものはすべてうつろう。諸行無常
現実をありのままに受け入れ、その世界に耐えるべく、
自分の価値観・世界観を変えていく。
この世の一切の事物は自分のものではないと自覚する。
道諦(どうたい)
煩悩をなくし、悟りを得るための八正道を実践する。
↑
コレって、新興宗教の教祖、偽ブッダたちの常套句なんだよな~😫
臨済宗はとくに衰退している
真言密教の変種である真如苑などは、このご時世でも教勢を伸ばしている
そうすると、「原点に回帰せよ」という運動がたいてい起きる
洋の東西を問わず、宗教改革運動は「原点に戻れ」というのが多い
初期仏教や倶舎論だ
道教の仙人修行に見える
なんだか、仙人っぽい人たちだなと思う
常人ではない
自分の個人的な信念を、他人に押し付けないことだ
だが、押し付けるのは禁物だ
半狂乱になるのはおかしい(笑)
同じなわけがない
他人なんだから(笑)
指導してやってるとか言って20年もストーキングされたらたまったもんじゃないですね
そこまででもなくなってきている
ていうか、それ以前に
いまの聖ウンコ師は坐禅中毒性の患者だ
仏教思想に対する情熱を失っている
そうなのか?😫
すっかり臨済宗が嫌いになった
以前は、別にアンチではなかった
自分とは異なる思想の持ち主だけど、参考になる👍️
万物斉同(ばんぶつせいどう、中国語: 萬物齊同)とは、荘子が唱えた、万物は道の観点からみれば等価であるという思想である。
荘子は物事の真実たる「道」に至ることが、徳だと考えた。人はとかく是非善悪といった分別知をはたらかせるが、その判断の正当性は結局は不明であり、また、一方が消滅すればもう一方も存立しない。つまり是非善悪は存立の根拠がひとしくて同質的であり、それを一体とする絶対なるものが道である。
このようにみれば、貴賤(きせん)などの現実の社会にある礼法秩序も、すべて人の分別知の所産による区別的なものとわかる。それどころか、生死ですら同一であり、生も死も道の姿の一面にすぎないと言うのである。
『ウィキペディア(Wikipedia)』
ハッスルみたいな
ウンチク屁理屈嫌うのは
確かだが
😆
俺のお墓参り話を聞けば
仙人というイメージが消えるだろうなー
😆
マネてきないなー、
と😆
クリシュナムルティも似たようなところだな?
😆
荘子の最もラディカルな点はここ。
生も死も、道の流れの一つの相(すがた)にすぎない。
生が絶対的に良いわけでも、
死が絶対的に悪いわけでもない。
*万物斉同は“価値の否定”ではなく“価値の相対化”
よく誤解されるけれど、
荘子は価値を否定しているわけではない。
価値に縛られるな
価値を絶対視するな
価値の外側に出よ
と言っている。
これは「自由」の思想でもある。
ブラフマン的だな、
😆
本質だけど
自然という、その反転みたいな
😆
ムイムイに一言
どうぞ
😆
自分は負けを認めて何も言えんから人にふった笑
言葉を絶対視するな
言葉の外側に出よ
荘大先生はおしゃっています。
ここが面白いところ。
荘子は言葉を使って言葉を否定する。
つまり、
言葉を使って、言葉の限界を示す。
『荘子』における言語は、真理を捉えるには不十分で限界があるとしつつも、それを超えるための「不言」「忘言」(言葉を忘れること)、「以心伝心」(心で伝えること)といった概念を提示し、言葉の限界を逆説的に語るために寓話(ぐうげん)や比喩を多用したのが特徴です。具体的には「小知は大知に及ばず」「言わねばならぬから、ひとまず言ってみる」など、言葉の相対性や、それを超えた「天真」の境地を説いています。
言葉の限界: 言葉は万物を完全に表すことはできず、真理に到達するには不十分であると指摘します。
寓話・比喩の多用: 蝶の夢の話(現実と夢の境界)のように、言葉では説明しにくいことを物語(寓話)で表現し、読者に感覚的に理解させようとします。
「不言」「忘言」: 言葉にこだわらず、言葉を超えた境地(「天真」)に至ることを説きます。これは禅の「不立文字」にも通じます。
「以心伝心」: 聖人(真人)の思想や真理は、言葉ではなく心と心で直接伝わるものとされます(「意を得て言を忘る」)。
「小知は大知に及ばず」: 狭い知識や経験では広い真理は理解できない、という相対的な視点を示します。
「小知は大知に及ばず、小年は大年に及ばず。」: 狭い知識では広い知識に、浅い経験では深い経験には及ばない。
「意を得て言を忘る」: 本質を理解したら、もはや言葉は不要になる。
「天地を棺桶に、日月を玉飾りに」: 壮大なスケールで、言葉を超えた境地を表現する。
クリシュナムルティの似たように見える
😆
でもって、逆説的で奇想天外な禅問答により、言語の限界を超えようとするんだけど
↑
これまた、どっちかっていったら仏教というより、老荘思想の特徴なんだよな~😅
詳しくは調べていないが、このような認識を持っている。
唐末の混乱・会昌の廃仏・五代十国の戦乱で、
宗派としての密教は消滅した。
(真言・陀羅尼)が強く根付いた
ま、俺の密やかなる墓参りした人物の、戦歴を聞けば
そーには
ならないさ〜
言わないけど
😆
そりゃハッスル🤡や
ムイムイのナルシズム固定化してんのを
ぶっ壊すシステムやからなー
壊れないで
無字がとおったとか
漫談してやがるしなー
😆
ナルシズムの意味もわからなくて俺=ナルシズムを植え付けようとしてるだけ笑
ムイムイ〜
😆
こっち普通に書いてるのに燃えてるとレッテル貼り
こっち全然ナイーブになってないのにナイーブというレッテル貼り笑
でも何も書かなければ負けを認める事になる
だから絵文字で逃げる
ムイムイ〜😁
反論できない
内容では勝てない
なので 根拠ないレッテル貼り・人格攻撃・挑発・絵文字に逃げる
これは議論でも宗教でも禅でもなく、
単なる自我防衛反射。
壊れかけのラジオみたいな状態
何か勘違いしとるが
ほぼ法介のほうが密度は高いぞ
法介スレにいたからな
中論を読んでなんで何かしら言語の真諦があるという感想になるんやろか?
こちらは幾通りの理屈を提示してんのに
JBLはとくになし
ただセイウン派がそう言うから
いや違うんだいと言ってるにしか
悪いが見えない
この部分は「名色(nāma‑rūpa)」の説明で、
“名(nāma)”=言葉・概念・心的作用が実体ではないことを示す。
Vedanā saññā cetanā phasso manasikāro—
idaṃ vuccati nāmaṃ.
意味(要点)
「感受・表象・意志・接触・注意、これらを“名(言葉・概念)”と呼ぶ。」
つまり釈迦は、
“名(nāma)”=言葉・概念
それは心の働きであり
実体ではない(無我)
*まぁ、こうも言える。釈迦は順観、龍樹は逆観
1. 釈迦(初期仏教):言葉は“世俗の便宜”としての仮
釈迦は、
「人」「私」「生まれる」「死ぬ」
といった言葉を 世俗の通用語(vohāra) として使った。
しかし、究極的にはそれらは実体を指していない。
言葉は便宜的な説明であり、
真理そのものではない。
これが釈迦の立場。
2. 龍樹(中観):言葉は“仮名・仮有”としての仮
龍樹は釈迦の立場を徹底し、
言葉をさらに厳密に「仮」と定義した。
名(名前)は仮
概念は仮
存在も仮
因果も仮
世界も仮
つまり、
言葉は縁起によって成立する“仮のラベル”にすぎない。
実体はない(空)。
これが龍樹の立場。
これも懐かしい。この虚妄とは原文では、戯論だそうだ。
まだ、確認はしてない。
夕の欲しい楽園タイムだ
😆
あと葬儀の話。墓の話。まぁ、皆さん結構真剣にどうしようか考えている。子供に無理はさせたくないとかね。
心身脱落やしな
脱落、脱落〜
😆
仏教を語れる必要性を示せるか
勝負だね、
ムイムイは嘆かわしいのを体現してくれてあるけどな
😆
無人のカトリック教会でもいってみるかな?
😆
寺とか神社に行った話を好む人は、意外と多い
「前世はインド人だった」は定番のネタ😂
レアだからね。我々の知らない日本文化の一面を知っている。彼の場合、足でも稼いでいる。稼ぐとは言わないかwその神秘的なことをどのように説明してどうのように落ち着かせるかという技術が必要である。儀礼(供養・祈祷な)など密教を必要とした。
道教にも密教の影響が入ったのかもしれない。この辺は調べないと分からない。
そうだね。転生アニメ全盛だからねw
令和10年に町内会長の番が回ってくるエロ和尚です
中観派に関心があるようじゃな?
とても
可愛い
😆
残念!
https://www.youtube.com/watch?v=JdPSPP1b0A4
よくある誤用パターン
中論を持ち出して
「それは定義だから無意味」
「言葉にした時点で間違い」
「概念化したらすでに自性化」
と言う人は、実は
空を別の形而上学的立場にしてしまっている
ことが多い。
これはナーガールジュナが最も警戒した「空の実体化」です。
なんだ?
俺がそうだと?
俺のことではないなら
なんの為に?
まあ俺のことなら
まず
無意味、間違い、自性化
などと一言も言っとらんが
別にリダンに対して言ってるわけじゃないよ。
定義とか言葉というのが出てきたから連想したんだろうが私自身AIとやり取りしてる時にこのような言葉を使ったわけでもない。
どちらかというとAIがこう言ってるのをどういう意味で受け取る?という見たものがどう受け取るかの問いを投げかけてるような感じよ。
返答を求めてるわけでもないし人それぞれ読んで問いがうまれるならそれでいいんだ。
ずいぶん偏ってんな
「あるということもないが、ないということもない。」
言葉の相対の滅ということだろうと思う。これで自性化が防げる。
しかし、言葉には力がある。
例えば、不生不滅と言えば、人は不滅に目が行く。いくら不生といえでども。
ここに永遠性という誤解が生まれる。
久しぶりだね。三年後か?
いくら不生といえでども。訂正、いくら不生を入れたと言えども。です。
例えば、不生不滅と言えば、人は不滅に目が行く。いくらいくら不生を入れたと言えども、ここに永遠性という誤解が生まれる。
不生不滅の意味と構造
不生は「固定的な『生』があるわけではない」という否定であり、不滅は「固定的な『滅』があるわけではない」という否定です。これにより諸法に固有の自性(独立した本質)がないことを示し、現象は因縁(条件)のもとに相互依存的に現れると説明されます。
世俗と勝義の二重視点
仏教的には二諦(世俗諦と勝義諦)を区別します。世俗的には「生起・消滅」という因果的説明は有効であり実践や倫理に意味を持ちますが、勝義的にはそれらに固有の自性は認められません。したがって不生不滅は「生も滅も字義どおりの独立実体ではない」と言う立場です。
誤解への注意
単語としての「不滅」は強い印象を与えやすく、個人的永続(魂の永遠)を肯定する誤読を招きます。実践や救済の有効性を否定するものではないこと、そして「不生不滅」を絶対的実体として固定化してはならないことを明示する必要があります。
結論:不生不滅は「生滅の見方を変える」ための表現であり、縁起と無自性を通して執着を解くための教えです。
子綦曰:「偃,不亦善乎,而問之也!今者吾喪我,汝知之乎?女聞人籟而未聞地籟,女聞地籟而未聞天籟夫!」
訓読(くんよみ)
子綦(しき)曰(いわ)く、「偃(えん)、善(よ)く問えるかな。今者(いま)吾(われ)我(われ)を喪(うしな)えり。汝(なんじ)これを知るや。女(なんじ)人の籟(らい)を聞けども未だ地の籟を聞かず、女(なんじ)地の籟を聞けども未だ天の籟を聞かざるなり。」
現代語訳
子綦が言った。「偃よ、いい質問をしたものだ。私は今しがた“自分というもの”を失ってしまったのだが、その意味が分かるか。お前は“人の奏でる音”は聞いたことがあっても、“大地が発する音”はまだ聞いたことがない。そして“大地の音”を聞いたことがあっても、“天が奏でる音”はまだ聞いたことがないのだ。」
この辺は有名みたいだ。「吾喪我」道元流に言えば忘我だろう。物言いは大げさだが、心模様を言っているのだろう。
どうも密教にかいないんだよなw
>仏教的には二諦(世俗諦と勝義諦)を区別します。世俗的には「生起・消滅」という因果的説明は有効であり実践や倫理に意味を持ちますが
道教との違いの重要な箇所だ
😆
知識だけはすごいな
お怒りである😁
俺が怒って書いてると言うレッテル貼り笑
う「世俗諦」は日常的・因果的にものごとを説明する見方で、実践・倫理・因果応報(業)の枠組みが有効になる。「勝義諦」は究極的な実相(自性なきこと=空)を示し、存在の根本的なあり方を語る。
仏教はそう意味では単体で成立するが、老荘は孔孟とセットで勝義、世俗義をあらわすとでもいおうか?
二つの対立というのは、実は対立ということばだけであらわすのはふさわしくない。この二つは確かに反対であるが、たがいに排斥し合う反対、相容れない矛盾した関係ではなく、逆にたがいに引き合う関係、相手があることによって自己があるという関係である。(略)対立という関係は、そもそも論理的にいって両者の存在を必須の要件とするであろう。相手があってこその対立である。
易の二つの対立では、その点に重点がおかれている。そういう関係を、中国のことばでは対待という。たがいに対立しながら、しかも、たがいに相手の存在によりかかって共存している関係である。相対し相待つのである。そこには相互の対立とともに相互の依存がある
(金谷治『易の話』、202−03頁)。
また金谷はそのような「対待」は西洋的な二元論とはなる、と云います。西洋的な対立は「プラス一、二と加えられて天にとどく方向」と「マイナス一、二と地の底まで進む方向」であり、「この二つは〇を起点として交わることがない」と云います。例えば、「神」と「悪魔」、「霊」と「肉」と云うように、「二つは絶対に相容れないもの」と云うことになります
(216-15頁)
老子や易経は、そう言わない
老子や易経は、陰陽の二極を肯定し、それが宇宙の原理であると説く
https://tshop.r10s.jp/fujiworks/cabinet/cs/t011/7772t.jpg?fitin=208:208
無我がない、世俗諦における
😆
そう。3年後に、極楽浄土で町内会長を務めるかもも?
お向かいが来るとしか?
そう。今年中にお迎えが来ると
超うれぴー
よほど、この世が嫌いなんだな?
それは周りに若いおねいちゃんたちがいないからだ🤔(一応考えるふりw)
無我を理論的に見なければ老荘にも当てはまるか。吾喪我などがあげらる。
老荘は「自己が消える/忘れる」体験を肯定するが、それは哲学的に自己の構成を解体するための論証ではなく、生き方や心のあり方を示す療法的表現である。従って、概念的な無我論を期待すると齟齬が生じる。
荘子の「斉物論」「得魚忘筌」や老子の「無為」、
仏教の無我論(五蘊・縁起の短文)
>
> 老荘は「自己が消える/忘れる」体験を肯定するが、それは哲学的に自己の構成を解体するための論証ではなく、生き方や心のあり方を示す療法的表現である。従って、概念的な無我論を期待すると齟齬が生じる。
それだ
臨済宗の禅僧たちが言ってる「無我の体験」ってのは
老荘思想的な忘我ですな~
それは仏教というより、老荘思想
神仏習合ならぬ、道仏習合の思想
日本の神仏習合しか見ていない
中国で、仏教が儒教や道教と習合したのを見ておかないと
明らかに、儒教の祖霊崇拝だ
インドの仏教にああいう発想はない
霊友会の信者でもあった
儒教の影響を強く受けていたことになる(笑)
「巨大コンピュータ内の仮想現実」は
嫌いなのじゃ
エロ和尚のエロが成就できますように、アーメン。
「この世は巨大コンピュータ内の仮想現実」だから、
若いお姉ちゃんのエロ画像に囲まれて生きているが、
あの世は「リアルな若いお姉ちゃん」に囲まれて
生きるのじゃ
次スレ
https://talk.jp/boards/psy/1761694449
https://s1s1s1.com/works/detail/SONE660?page_from=actress&sys_code=75324
しかし浄土や民間信仰も現世利益を担ってきたため、機能的には真言密教だけが担っているわけではありません。
これを入れておかないとまずいかな🤔(いってみただけ)
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