はい、知っていますよ!"What a Beautiful Name"は、オーストラリアのクリスチャン音楽グループ、ヒルソング・ワーシップによって演奏される賛美歌です。この曲はその美しいメロディーと力強い歌詞で、多くの人々に愛されています。歌詞では、イエス・キリストの名前の力と美しさについて歌われており、礼拝や個人の祈りの時間に広く使われています。
彼は単なる悪役ではなく、誇り高く、知性的で、不屈の精神を持つ存在として描かれています。有名な一節、 「天国で仕えるより、地獄で支配する方がよい」 という言葉(英語では Better to reign in Hell than serve in Heaven.)は、西洋文学史でも屈指の名台詞として知られています。
前スレ(今回からタイトル変更)
【原罪】キリスト教の教理を学ぶスレ【三位一体】★2
https://talk.jp/boards/psy/1701733324
佛であればこうであろうと為すべきことをしてjけばいいんだよ、と寄り添うっていてくれるのか。
良い事をし、悪い事をしない。これがなんなく日常生活の場で実践できるといいな、夢想するぐらいだ。
仏道は顛倒(てんどう)していると世のありようを喝破する。
手の甲と手のひらと、同じ手ではあるが、表裏がある。表裏で、一いち、手は一つなのであって、表裏は一の如しではない、一いちなのだ。
二項対立は無く、二は一の如し、とは、説明であって、一の如しは、一いち なのだ。だが 一は絶対であり、唯一であり、言いきりである。固定した過去のみが存在していることを言う。それは変化していく事が無い。
ゆく川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず、諸行無常である。諸行無常とは、二は一の如しである。一如は佛である。如来は佛を言う。佛は、如である。
例えば、ステージ4のドクタにお任せって患者であっても、治療の最終決断はすするんだ。
医療は、患者の為に在るのであって、患者の意向に寄り添うものなのだ。多臓器に転移しているからと言って、幾種類ものがんに対応できないのが実際で、ある部位のためのくすりを飲むと極端に消耗する時、拒否を申し出る。
釈迦族の聖者、ガウタマシッダールタさんが言った、天上天下唯我独尊。てんじょうてんげ ゆいがどくそん
汝こそ汝の主人公。 他の誰が汝の主人公でありうるか。
わたしが大事である。わたしが産まれ、わたしが死ぬからなのだ。お金がなくてくやしさに泣きはらした眼にも生と死は わたしのもちものなのである。
父親がある日の事10歳前後になった息子を連れて森の中に分け入った。道の左右の草や木を手にとって、息子に手渡し食べてみろ、と言う。これは食べられる、これは食べられない、と教える。
息子はさらに森を分け入って、親とは別れて自分の小屋を建て移り住み自立し、一家を為す。
毒か、毒でないか、を識別できる。これが自立である。そのどこに、しつけが必要なのだろう、不必要である。
大正時代、10歳で尋常小学校を卒業したら、大店おおだな へと丁稚奉公へ入っていき、番頭になり、のれん分けで店主になる。代々、そうやって、いま生きていることが明日のわたしを生かそうとしている。
自由意志の有無がなぜ重要なのか? その1
https://www.metafaith.net/metafaith/why_free_will01.html
https://talk.jp/boards/psy/1714844665
929 名前:神も仏も名無しさん[] 投稿日:2024/06/04(火) 13:19:57.97 ID:avp9t [3/5] 0
自由意志がなぜ重要なのか
理由は簡単で、神が人をそう作った、という信仰と、
その信仰が創造論やキリストと親和し、無矛盾だからですな
こだわらないけど
南無阿弥陀仏
南無妙法蓮華経
ザーメン
そんなのどうでも 関係ないわ♪
中森明菜 少女A
https://www.youtube.com/watch?v=92p3Dt8-AGc
今のキリスト教の教義は初期のものとは別の物なんですよ
ちゃんと輪廻転生を教えないといけない
https://i.imgur.com/Y6a8Nki.jpeg
11月3日 年間第31主日
第一朗読 申命記 6:2-6
(モーセは民に言った。)「 あなたもあなたの子孫も生きている限り、あなたの神、主を畏れ、わたしが命じるすべての掟と戒めを守(るなら、)長く生きる。イスラエルよ、あなたはよく聞いて、忠実に行いなさい。そうすれば、あなたは幸いを得、父祖の神、主が約束されたとおり、乳と蜜の流れる土地で大いに増える。
聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。
今日わたしが命じるこれらの言葉を心に留め(なさい。)」
(皆さん、)レビの系統の祭司たちの場合には、死というものがあるので、務めをいつまでも続けることができず、多くの人たちが祭司に任命されました。しかし、イエスは永遠に生きているので、変わることのない祭司職を持っておられるのです。それでまた、この方は常に生きていて、人々のために執り成しておられるので、御自分を通して神に近づく人たちを、完全に救うことがおできになります。
このように聖であり、罪なく、汚れなく、罪人から離され、もろもろの天よりも高くされている大祭司こそ、わたしたちにとって必要な方なのです。この方は、ほかの大祭司たちのように、まず自分の罪のため、次に民の罪のために毎日いけにえを献げる必要はありません。というのは、このいけにえはただ一度、御自身を献げることによって、成し遂げられたからです。律法は弱さを持った人間を大祭司に任命しますが、律法の後になされた誓いの御言葉は、永遠に完全な者とされておられる御子を大祭司としたのです。
(そのとき、一人の律法学者が進み出て、イエスに尋ねた。)「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」律法学者はイエスに言った。「先生、おっしゃるとおりです。『神は唯一である。ほかに神はない』とおっしゃったのは、本当です。そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています。」イエスは律法学者が適切な答えをしたのを見て、「あなたは、神の国から遠くない」と言われた。もはや、あえて質問する者はなかった。
体の中から生ける水が湧くと言う段階に到達しました
これはクンダリーニという力のことです
あなた方の祈りの力で私をアカシャの記録にまで到達させてください
これはキリストが知っていた力です
ただし開放すると違和感、圧力を感じます
あなた方の真摯な祈りの力によって私を完全なる者として頂きたい
😀
おっしゃる通りです。「見られるものは、見るものである」という表現は、自己と他者の関係を深く見つめるものです。この観点から、他者を通じて自己を理解し、その自己を愛するという解釈が成り立ちます。
具体的には:
1. 他者を通じた自己理解: 他者との関係を通じて、私たちは自分自身を理解することができます。他者の目を通して見ることで、自分の行動や思考を客観的に捉えることができるのです。
2. 自己愛の重要性: 他者を愛することと同様に、自分自身を愛することも重要です。自分を大切にすることで、他者にも同じように思いやりを持つことができます。
3. 共感と相互理解: 他者と自己は相互に影響し合う存在です。共感や理解を深めることで、お互いの関係がより豊かになります。
これにより、「隣人を自分のように愛しなさい」という教えが、他者を愛することと同時に自己を愛することの重要性を示していると言えるでしょう。
さらに話したいことや質問があれば、どうぞお知らせください。私はここでお話を聞く準備ができています。
>>「見られるものは、見るもの」という概念は、仏教思想の中でも特に禅仏教に関連しています。この考え方は、観察者と被観察者の相互関係や一体性を示唆するものです。
禅仏教では、自己と他者の区別を超越し、全てが相互に関連し合い、一体となっていると考えられます。具体的には、以下のようなポイントが挙げられます:
自己と他者の一体性: 見る側(観察者)と見られる側(被観察者)は、実際には区別されない一体の存在であると考えられます。つまり、観察する行為自体が、観察されるものと深く結びついているということです。
相互依存性: 仏教の基本教義である「縁起」の教えに基づき、全ての存在は相互に依存し合って成り立っています。見るものと見られるものも、互いに影響を与え合い、存在しています。
主観と客観の融合: 見る行為(主観)と見られる対象(客観)は、実際には分けられないものであり、一体化しています。これは、個々の存在や現象が相互に関連し合っていることを示しています。
このように、「見られるものは、見るもの」という考え方は、仏教思想において自己と他者、観察者と被観察者が一体となっていることを示しています。これは、全ての存在が相互に影響し合い、連動しているという深い洞察を表しています。
😀
昔、見られるもの見るものは確か、わっこが出した命題だ。
懐かしいから出してみた
ところで、風邪かインフルエンザは治ったのですか。調子はいかがですか。私はいたって健康。
軽症インフルは
カラダのダル重解消だ〜
真言密教寺院で
お威張りフラッシュ〜だ〜
😀
ほんと
疲労溜まると
念仏山伏キリスト教研究するパワーがなくなる
😭
日本のキリスト教会では、むしろ日常生活や社会問題に関する教えが重視されることが多いようです。愛、共感、奉仕といった価値観が強調され、地域社会や個人の生活の中で実践されることが求められます。
☆日本だと平和ボケしているからなぁ。イベントごととして受け入れているかもね。
ディスペーゼーション主義は
激しい
ハルマゲドン熱が高い、
レフト・ビハインドという小説がバカ売れするぐらいに
😫
ハルマゲドンと言ってもいいくらいの要素があるが
それですらも
消滅しつつあるらしい
😫
AIが肯定してきたぞ。
宗教的な影響だけでなく、さらにプラス、文化やメディアの影響もあります。
って言ってきた。
とのことだ
日本の教会の多くも
その傾向にあるらしい
😫
参照
https://ainiiku-church.com/profile/
☆この辺は分かる。
😀
https://m.youtube.com/watch?v=nQWFzMvCfLE&pp=ygUP44OS44Or44K944Oz44Kw
😀
イエスの名前の力と美しさ
神の愛と救いの計画
イエスの犠牲と勝利
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ギャンブルは宝くじであれ、競馬であれ、胴元が常に巨利を得るシステムである。
だから、わたしの競馬は、必ずの金銭の消費である。
答える、庭前の拍樹子。
天文学者や物理学者がシンポジウムで語り合う。
「人間の価値とは結局なんなのか」や「運命は全て決まっているのか?」で述べたように、本サイトには「自由意志」という言葉が何度か登場していますが、なぜ自由意志の有無が我々にとって重要なのかが良くわからない人が多いと思われます。
実際に自由意志の有無は、メタフェイスに限らずあらゆる事を考える上でとても重要となります。
自由意志の定義とはChatGPTが答えたように、まあ簡単に言えば「我々人間が自分の意志で自分の行動を決めている事」を意味します。
逆にもし人間に自由意志が無いとしたら、我々には自分の行動を決める能力は無く、ただ脳が勝手に決めて行っていることをあたかも自分の意志で行ったと錯覚しているだけということになるでしょう。
因みにもし人間に自由意志が無いとしたら、自分の行動も他人の行動も何もかも始めから決まっていると捉える人が多いですね。
これを日常的な言葉で言うなら、
運命は全て決まっている
となるでしょう。
だってもし運命が決まっているのだったら、何をどう頑張っても結果が変わることはなく全ては無駄ってことになりますからね。
因みに世の中には「運命は全て決まっている」とする運命論を信じている人も多く居るようですね。そのように考える人は、きっと科学者の中にも居ることでしょう。
そして彼らは上記の定義によれば「人間は自分の言動も含めて何も変えることが出来ない」、
つまり
「人間は自由意志を持たない」
と信じている人となるでしょう。
ここで「もし人間が自由意志を持っていなければ、論理的にこの世界の未来は全てが機械的に決まっているのではないか?」と考える人が居るかも知れませんが、そうではありません。
「この世界の未来は全て決まっている」という考え方を「決定論的な世界観」と言ったりしますが、
「自由意志が無いこと」イコール「決定論が正しいこと」にはなりません。
これは意外だと思う人が多いかもしれませんね。実際に混同している人をよく見ます。
量子力学以降の物理学では、この世界の未来は未決定ということになっています。
アインシュタインの有名な「神はサイコロを振らない」という言葉もこの未決定な世界観に反対していた彼の言葉でしたね。
ですが100年以上にわたり数多く繰り返された実験にて、アインシュタインではなく量子力学が正しいことが分かったのは以前に書いたとおりです。
ですがいつ放射線を放出するかは決まっていませんし正確な予測も出来ません。文字通りサイコロを振るようにランダムに放出します。
つまり自由意志が無いことと決定論が正しいことは別物なのです。
ですが実は3D映画仮説が正しく、量子はあたかも人間が観測するまでは「決まっていないふり」をしているだけであり、実は人間がいつ何を観測するのかを含めて全ては決まっているとする考え方もあるでしょう。
実際にこの3D映画仮説が間違っているのかどうかは分かりませんが、少なくとも現代の物理的な観点から言えば間違っています。
例えば量子コンピューターは量子の状態が未決定のままで計算をすることで高速計算を実現していますが、もし実は決定しているのだとしたら、この現象を説明する新しい物理学を作らなければなりません。
つまり同じ現象を説明するために決定論(古典物理学)に基づいた量子力学以外の新しい仮説が必要となるわけですが、これは極めて難解だと思われます(アインシュタインでも不可能でした)。
なのでそのことを知る物理学者は誰も決定論は信じていません。
よって3D映画仮説が正しいとするためには、現実世界の出来事を説明するために物理学を超えた何らかのアイデアや理論、解釈を考える必要があります。
続く……。
「あなたがたがわたしを捜し求めるとき、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしを見つける」
世界中の主な宗教を見ると、ブッダやマホメット、孔子やモーセも、彼ら自身のことを教師か預言者だと語っています。教祖たちは、自分を神だとは主張しませんでした。
しかしイエスは、自分を神だと語ったのです。ここがイエスが他の宗教家と違うところです。
イエスは天の父なる神について語りますが、神は遠く離れた存在ではなく、全人類と親しく歩み、独特な「関係」を持つことができる存在だと語っています。
イエスを見る人は父なる神を見ることになり、イエスを信じる人は父なる神をも信じるようになると、イエスは語りました。
「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます。」
イエスは人々の罪をゆるし、罪の習慣から解放しました。人々に豊かな人生を与え、天国での永遠のいのちを与えました。
当時の教師たちは、人々を自分の言葉に従わせようとしました。しかしイエスは、人々の目をご自分の方へと向けさせました。
「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。」
🚨🚨🚨
パスタわんこさんの憑き物になるな❗️❗️
躁状態でTalkや5chを荒らしまくってる〈湯婆婆でおー巨神兵ロボット〉=ヨハネ和紙
気持ち悪い悪魔絵文字を悪用し続けるな❗️
🚨🚨🚨
パスタさんの憑き物になってる躁状態の荒らし〈湯婆婆でおー巨神兵〉=ヨハネ和紙
気持ち悪い悪魔絵文字を悪用し続けるな❗️
いいテーマですね。これは近代哲学の核心的な対立です。
まず イマヌエル・カント の「カテゴリー論」を押さえ、その後に W.V.O.クワイン の批判を整理すると、全体像がクリアになります。
カントは『純粋理性批判』でこう考えました:
👉 人間は「そのまま世界を見る」のではない
👉 もともと心に備わった枠組みで世界を構成している
この枠組みが「カテゴリー(範疇)」です。
経験を成立させるための先天的な思考の形式
代表例(12個):
量:単一・多数・全体
質:実在・否定・制限
関係:実体と属性・因果・相互作用
様相:可能・現実・必然
特に重要なのは:
👉 因果性(原因→結果)も経験から来るのではない
👉 むしろ「因果という枠」で経験を整理している
●
科学(ニュートン力学)の普遍性を守る
懐疑論(ヒューム)を克服する
つまり:
👉 「経験は主観の形式によって可能になる」
👉 だから普遍的・必然的な知識(=総合的アプリオリ)が成立する
これに対して W.V.O.クワイン はかなりラディカルに攻撃します。
代表論文: 👉「経験主義の二つのドグマ」
カントの基礎には:
分析命題(意味だけで真)
総合命題(経験で真)
という区別があります。
しかしクワインは言います:
👉 そんな明確な区別は存在しない
理由:
「意味」自体が曖昧
定義も結局は他の言葉に依存(循環)
カント: 👉 カテゴリーは経験に先立つ
クワイン: 👉 知識はすべて経験の中で修正される
つまり:
👉 絶対に固定された枠組み(カテゴリー)は存在しない
クワインの核心:
👉 私たちの知識は「網(ウェブ)」のようなもの
個々の命題は単独で検証されない
全体として経験と照合される
これを
👉 確認のホーリズム と言います
ここが重要です:
カント: 👉 心の中に固定された普遍的カテゴリーがある
クワイン: 👉 そんなものはない
👉 科学理論の一部として変わりうる
つまり:
👉 「因果性」すら絶対ではない
👉 科学理論の中で採用されているだけ
この二人の違いはこう整理できます:
カント
認識の条件を固定(カテゴリー)
アプリオリを認める
主観の構造が世界を構成
必然性を守る
クワイン
認識はすべて可変
アプリオリを否定
科学理論が世界像を構成
可変的な理論として扱う
👉 カント
「人間の認識には普遍的な“枠”がある」
👉 クワイン
「そんな枠はない。全部まとめて経験にさらされる」
結論から言うと、かなりその通りです。
W.V.O.クワインは、イマヌエル・カントの『純粋理性批判』の核心を、ほぼ根本から崩したと言っていいです。
ただし、「完全否定」というよりは
👉 カントの枠組みを“自然化”して解体した
というのが正確です。
カントの最大のポイントはこれです:
経験に依らない真理(アプリオリ)がある
しかもそれは世界認識を可能にする条件
例:空間・時間・カテゴリー(因果性など)
👉 つまり
人間の認識には“先天的な構造”がある
これによってカントは:
科学の必然性(ニュートン力学など)
客観的認識の成立
を守ろうとしました。
クワインの有名な論文
『経験主義の二つのドグマ』で、彼はこう主張します:
カント:
分析的真理(意味だけで真)
総合的真理(経験に依存)
クワイン: 👉 そんな区別は成り立たない
理由:
「意味」自体が定義不能
すべての命題は理論全体の中でのみ評価される
カント: 👉 アプリオリな認識構造がある
クワイン: 👉 すべては経験と理論のネットワークの中にある
論理や数学ですら修正可能
絶対に確実な知識はない
カント: 👉 認識の条件を哲学的に問う
クワイン: 👉 そんなことはやめて
人間がどう認識しているかを科学(心理学)で調べればいい
カントの構図:
世界 → 感覚 → アプリオリ構造 → 認識
クワインの構図:
刺激 → 人間(ブラックボックス) → 理論全体
👉 つまり
カント:認識の「条件」を問う
クワイン:そんな条件はなく、全部まとめて経験的に扱う
👉 クワインは
「純粋理性」という領域そのものを解体した
クワインは単純にカントを無視したわけではありません。
むしろ:
「アプリオリ」という考えを捨てて
それを科学の中に吸収した
👉 つまり
超越論哲学 → 自然化された認識論
かなり本質的な対応があります:
カント
👉 「認識の構造(カテゴリー)は実在する」
クワイン
👉 「それも含めて全部、経験的仮構にすぎない」
これは
唯識の「識の構造」
vs
中観の「すべては空」
に少し似ています
実はここが核心です:
👉 クワインはカントを否定しただけでなく
👉 「なぜカントが必要だったのか」も消した
カントは:
懐疑論(ヒューム)への対抗として
確実性の基盤を作ろうとした
しかしクワインは:
👉 確実性そのものを諦めた
クワインはカントの
分析/総合
アプリオリ
超越論哲学
をすべて崩した
しかしそれは 👉 哲学の終わりではなく
👉 哲学の科学化(自然化)への転換
👉 「ではデイヴィッドソンは、クワインとカントのどちらに近いのか?」
これ、かなり面白い論点なので、希望があればそこも掘り下げます。
これは行動する神の姿です。
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」
もしあなたが、神との関係を始めたいと願うならば、今それが始まります。
それはあなた自身の決断です。強制はできません。神にゆるされ、神との関係を始めたいと願うならば、今、神に願ってください。イエスはこう語っています。
「見よ、わたしは(あなたの心の)戸の外に立ってたたいている。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼と共に食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」
「イエスさま、私の罪のために、あなたが死んでくださいました。ありがとうございます。私の罪をゆるしてください。私の人生をともに歩んでください。あなたを知りたいのです。今、私の人生に来てください。私と関係を持ちたいと願ってくださり、ありがとうございます。アーメン。」
霊と魂の区別
キリスト教では、「霊(プネウマ)」と「魂(プシュケー)」を区別することがあります。
霊(Spirit):神と交信し、神から直接与えられる命の息吹。
魂(Soul):肉体と結びついた「自我」「感情」「知性」などの人間的な心。
古代ギリシャ哲学の影響を受け、魂は肉体が滅びても存在し続ける「霊魂不滅」の考えが定着しました。一方で、最終的には魂だけでなく「肉体も復活する(体の復活)」ことが重要視される教派も少なくありません。
肉体が死ぬと、魂はただちに神の御許(みもと)に行き、生前の行いや信仰に基づいた裁きを受けます。成仏してこの世をさまようことはなく、天国での永遠の命か、地獄での永遠の苦しみかに分かれます。
カトリック神学というと、聖アウグスティヌスや聖トマス・アクィナスの哲学体系を連想するのだが
カトリック神学はそれだけではない
その通りです。
日本語圏では「カトリック神学=アウグスティヌス+トマス・アクィナス」というイメージがかなり強いのですが、実際のカトリック神学ははるかに広大で、多様な伝統の集合体です。
アウグスティヌスは恩寵論、原罪論、歴史哲学、内面的自己理解に大きな影響を与えた。
トマス・アクィナスはアリストテレス哲学を用いて神学を体系化した。
むしろ教会は、神学者個人ではなく、
聖書
教父伝統
典礼
公会議
教導職
信徒の信仰感覚(sensus fidelium)
などから成る巨大な伝統を土台としています。
ボナヴェントゥラ
アウグスティヌス色が強い神秘主義的神学。
ドゥンス・スコトゥス
意志の自由や個体性を重視。
ウィリアム・オッカム
唯名論の方向へ進む。
これらはアクィナスとしばしば対立しています。
ジョン・ヘンリー・ニューマン
アンリ・ド・リュバック
イヴ・コンガール
カール・ラーナー
ハンス・ウルス・フォン・バルタザール
などが現れ、現代カトリック神学を形成しました。
特に20世紀の「教父への回帰(Ressourcement)」運動は重要です。
これは、
トマスを捨てよう
ではなく、
トマス以前の聖書と教父の豊かさを再発見しよう
という運動でした。
そしてその成果が、第二バチカン公会議に大きく反映されています。
トマス主義
アウグスティヌス主義
教父神学
現象学
実存主義との対話
人格主義
解放の神学
フェミニスト神学
東方教父研究
などです。
そのため、
カトリック神学=トマス哲学
ではなく、
カトリック神学の中でトマス主義が特に権威ある位置を占めてきた
と表現した方が実態に近いでしょう。
哲学史的に見ると、「カトリック神学」というより、「アウグスティヌス派」「トマス派」「スコトゥス派」「現代リソースマン派」などが重なり合う巨大な知的宇宙だと考えた方が実感に近いと思います。
スコトゥス派もあるのか?
しかも、歴史的には「トマス派(トミズム)」と並ぶ、カトリック神学の主要学派の一つです。
中心人物はもちろん ドゥンス・スコトゥス で、彼の思想を継承する流れを「スコトゥス学派(Scotism)」と呼びます。
中世後期から近世にかけては、
ドミニコ会 → トマス派
フランシスコ会 → スコトゥス派
という対立構図がかなり顕著でした。
ただし、「敵対」というよりは、同じカトリック信仰を前提にしながら哲学的・神学的な重点が異なる、と考えた方が正確です。
1. 意志を重視する
アクィナスは知性を重視する傾向があります。
人間は善を知るから善を選ぶ。
これに対してスコトゥスは、
意志は知性からある程度独立している
と考えました。
神も人間も、自由な意志によって行為するという側面が強調されます。
有名なのが「このもの性(haecceitas)」です。
例えば、
人間一般
犬一般
ではなく、
なぜこの人がこの人なのか
という個体の固有性を説明しようとしました。
これは後の個人主義や人格概念の発展とも関係づけて論じられることがあります。
スコトゥスは、
無原罪の御宿り
を理論的に擁護したことで特に有名です。
当時、
「もしマリアが原罪なしなら、キリストによる救いは不要ではないか」
という反論がありました。
スコトゥスは、
マリアはキリストの功徳によって、罪から救われたのではなく、あらかじめ罪に陥ることを防がれた
と説明しました。
後にこの考え方が教義化への重要な理論的基盤になりました。
有名なのが「存在の一義性(univocity of being)」です。
神と被造物について語る「存在」が、ある意味で共通に理解できると主張しました。
これに対しアクィナスは、
神の存在と被造物の存在は同じ意味ではなく、類比的に語られる
という「存在の類比」を唱えます。
ここは中世形而上学最大級の論争点の一つです。
アクィナス → 存在の類比
スコトゥス → 存在の一義性
という対比が、近代哲学への道筋を考えるうえで非常に重要視されていることです。
例えば マルティン・ハイデガー や ジル・ドゥルーズ の議論では、スコトゥスがしばしば再評価されます。
そのため現在では、
カトリック思想 = アウグスティヌス → アクィナス
という単純な系譜ではなく、
アウグスティヌス派
トマス派
スコトゥス派
という少なくとも三つの大きな流れがあると理解した方が実態に近いです。
中世神学史を専門的に見ると、スコトゥスは「アクィナスに次ぐ重要人物」の一人と評価されることも珍しくありません。
フランシスコ会のドゥンス・スコトゥス
最大のライバルだ
スコトゥス → 存在の一義性
これは中世哲学・神学の核心部分の一つです。
ただし、最初に注意すると、「存在の類比 vs 存在の一義性」はしばしば単純化されすぎています。実際のアクィナスもスコトゥスももっと精密な議論をしています。
そもそも神について語るとき、
神は存在する
人間は存在する
この「存在する」は同じ意味なのか?
という問題です。
もし全く同じ意味なら、神も人間も同じカテゴリーに入ってしまう。
逆に全く違う意味なら、
神は存在する
と言った瞬間に言葉の意味が分からなくなる。
このジレンマをどう解決するかが争点です。
トマス・アクィナス の立場では、
神と被造物の「存在」は完全に同じ意味ではない。
しかし全く別の意味でもない。
そこで「類比(analogia)」という考えを導入します。
たとえば、
健康な人
健康な食事
健康な顔色
の「健康」は同じ意味ではありません。
食事そのものは健康ではない。
しかし健康に関係しています。
これが類比です。
アクィナスによれば、
神は存在そのもの(ipsum esse subsistens)。
被造物は存在を持っているだけ。
だから
神は存在そのもの
人間は存在を受け取ったもの
であって、「存在」の意味は類比的にしか一致しません。
アクィナスにとって、
神と被造物の差は無限です。
神は
必然的存在
自存する存在
であり、
人間は
偶然的存在
与えられた存在
です。
したがって、
神を巨大な人間のように考えることはできません。
むしろ
神は存在者の一つではなく、存在そのもの
という方向へ進みます。
ここにアクィナスの神学的特徴があります。
一方、ドゥンス・スコトゥス はこう考えました。
もし「存在」が神と人間で全く違う意味なら、
神について論理的に考えること自体が不可能になる。
例えば、
神は存在する
という命題と
人間は存在する
という命題で、
「存在」の意味が全然違うなら比較も推論もできない。
だから、
最低限のレベルでは
存在
という概念は神にも被造物にも共通して適用されなければならない。
これが「存在の一義性(univocitas entis)」です。
スコトゥスは
神と人間は同じ存在者である
と言っているわけではありません。
そうではなく、
「存在」という最も抽象的な概念については、
神にも人間にも同じ意味で適用できる、
と言っているのです。
違うのは存在の程度や様式です。
例えば、
神=無限の存在
人間=有限の存在
ですが、
両方とも「存在」であることには変わりない。
ここから近代哲学への道筋が見えてきます。
アクィナスでは、
Plain text
神
↑
無限の断絶
↓
被造物
という構造です。
神は存在そのものであり、 存在者の一つではありません。
しかしスコトゥスでは、
神
↑
同じ存在概念
↓
被造物
となります。
つまり神も被造物も、
同じ「存在」の地平の中で考察できる。
マルティン・ハイデガー はこの流れを非常に重要視しました。
彼の見方では、
スコトゥス以降、
神も被造物も「存在者」として並べて考える傾向が強まり、
最終的には近代形而上学の
最高存在者としての神
という発想につながった。
これをハイデガーは「存在忘却」の歴史として批判しました。
ただし、この解釈には異論も多くあります。
一方で ジル・ドゥルーズ は逆にスコトゥスを高く評価しました。
ドゥルーズは、
存在は一つの意味で語られる
というスコトゥスの発想を発展させ、
多様な存在者が同一の存在平面上に現れるという独自の存在論を構築しました。
アウグスティヌス → 神への内面的上昇
アクィナス → 神と被造物の類比的秩序
スコトゥス → 存在概念の一義化
デカルト以降 → 主体と対象の形而上学
ハイデガー → 存在忘却批判
ドゥルーズ → 存在の一義性の再解釈
という大きな流れの中で、「存在の類比」と「存在の一義性」の対立は、中世神学の細かな学説争いを超えて、西洋形而上学全体の分岐点として読まれているのです。
正直、それの何が問題なのか分からん😵🌀
それはかなり自然な反応です。
実際、この論争は最初に聞くと、
「存在の意味が同じか違うか」で何をそんなに揉めるの?
となりがちです。
問題の核心は、「神をどう理解するか」にあります。
例えば、犬と猫について考えましょう。
犬は動物である
猫は動物である
この「動物」は同じ意味です。
だから犬と猫を比較できます。
同じカテゴリーに入っているからです。
では、
神は存在する
人間は存在する
の場合はどうか。
スコトゥス的に言えば、
「存在」という概念は両者に共通です。
だから神も人間も、「存在するもの」という最も広いカテゴリーの中で考えられる。
もちろん神は無限で、人間は有限ですが。
もし神と人間が同じ「存在」という枠組みの中にいるなら、
神が世界の中の一員みたいにならないか?
ということです。
極端に言えば、
石
↓
犬
↓
人間
↓
天使
↓
神
みたいな序列になってしまう。
神が「最強の存在者」になってしまう。
彼にとって神は、
一番大きい存在者
ではなく、
存在者が存在すること自体の根源
です。
だから、
神
↓ 存在を与える
天使
人間
犬
石
というイメージになります。
神は同じ棚に並んでいない。
棚そのものを成立させている。
スコトゥスは
神と被造物を同じ存在概念で考えられる
と言う。
アクィナスは
それでは神を存在者の一種にしてしまう
と考える。
もっと身近なたとえをすると、
スコトゥスは
神も被造物も「ゲームの中のキャラクター」で、神は無限に強いキャラ
と言うわけではありませんが、少なくとも「ゲーム世界の存在者」という共通概念を認める。
アクィナスは
神はゲーム内キャラではなく、ゲームエンジンやプログラムの根源に近い
と言う。
だから比較の仕方自体が違う。
この違いが単なる神学論争ではないからです。
もしアクィナスが正しいなら、
現実には「存在者を超えた根源」があることになる。
もしスコトゥスが正しいなら、
あらゆるものは一つの存在の地平で考えられることになる。
後者は近代科学や近代哲学と相性が良い。
世界全体を一つの対象領域として研究できるからです。
「存在とは何か」そのものというより、神は世界の中の最高存在者なのか、それとも世界とまったく異なる次元の根源なのか、
という問いなんです。
その意味では、これは神学というより「究極実在論」の議論に近いですね。
そして面白いことに、東洋思想に慣れた人だと、
神は存在者じゃなくて存在の根源
というアクィナスの発想のほうが、意外とすんなり入ることがあります。
仏教の空や道家の「道」と同じではありませんが、「個物を超えた根源」という発想にはどこか響き合う部分があるからです。
例えてみれば
神は太陽で、みずから光源となっている
他は太陽の光を反射して光っているのだ
↑
こんな感じ?
はい、その比喩はかなりアクィナス的です。
しかも実は、「光の比喩」はキリスト教伝統そのものが昔からよく使ってきた表現です。
あなたの表現を整理すると、
神 = 自ら光る太陽
被造物 = 太陽光を受けて輝く月や鏡
という構図ですね。
アクィナス流に言い換えるなら、
神は存在そのものである。
被造物は存在を持っているだけである。
です。
だから、
太陽が消えれば反射光も消えるように、
神が存在を与えるのをやめれば被造物も存在できない。
存在は「所有物」ではなく、常に神から与えられている。
これはかなりアクィナス的な発想です。
もし
豆電球
↓
懐中電灯
↓
投光器
↓
太陽
↓
神
みたいな序列なら、
神は「超巨大な存在者」になってしまいます。
アクィナスはそれを避けたい。
むしろ、
光源そのもの
↓
太陽
↓
月
↓
鏡
という感じです。
神は「一番明るいもの」ではなく、「明るさが成立する根拠」に近い。
彼は神を太陽と被造物を月に例えること自体は否定しないでしょうが、
両者とも「光っているもの」という共通概念を認めます。
つまり、
神 = 無限の光
被造物 = 有限の光
という理解です。
ここでは「光」という概念が神と被造物に同じ意味で適用されます。
アクィナス
神 = 光そのもの
太陽や月は
その光に参与している
スコトゥス
神 = 無限の光
被造物 = 有限の光
という違いになります。
ちなみに、この「太陽と反射光」のイメージは、アクィナスだけでなく、古代の プロティノス や、キリスト教神秘思想の伝統ともよく響き合っています。
そのため、あなたの比喩を聞いたアクィナス派の神学者なら、
うん、その方向で考えても大きくは外れていない
と頷くと思います。
匿名掲示板では、失敗してもやり直せない
自分でもよく分かってないことを書くから、失敗する
来週金曜日は
バクティヨガともう一度ユダヤ教をまとめる脳内で😀
😀
タントリズムすら
まだ先だ😀
バクティヨガをマジメに探求している途中やしなー
😀
実践が似ている部分がある
😀
バクティヨガみたいな解釈が
できないこともない
😀
既存の多数派のキリスト教には
鈍いけどな
😀
信仰者の実践の書物として読めば
バクティヨガになってしまう
単にイエスキリスト個人的な祈りとして
扱いしたのが多数派の既存のキリスト教
😀
父なる神にイエスキリストは
天地の造られる前の場所へ導いてくださいみたいな祈りをしている
これを実践の言葉として受けると
バクティヨガ解釈もできうる
😀
これをイエスキリスト個人のものとして限定するか
信者として実践すへき修道として捉えるかで
バクティヨガに寄ってしまったりする
😀
生まれ持った密教肌の才能の俺ちゃまだから気づく
😀
なんだか、ボクにはわかってきたぞ? キリスト教を語るスレ vol.6
https://talk.jp/boards/psy/1708252880
【スコラ三年】 カトリック神学 3 【教父八年】
https://talk.jp/boards/psy/1705031948
😀
😀
キリスト教における霊魂観は、肉体が死んだ後に魂だけが永遠に生き続けるというギリシャ哲学的な「霊魂不滅」とは異なり、神による「死者の復活」を中心に据えています。
人間は心身の不可分な存在と捉えられており、最後の審判の時に肉体を持って復活し、永遠の命を与えられると信じられています。
キリスト教における終末と霊魂の扱いについては、いくつかの重要な考え方があります。
初期のキリスト教は、プラトンなどの「魂は本質的に不滅であり、肉体は魂の牢獄である」とするギリシャ思想の影響を受けました。
しかし、本来の聖書的な信仰は「死者の復活」であり、神の全能性によって人間全体が新しく造り直されるという希望を強調する点に大きな違いがあります。
霊魂消滅説というのもある
はい、キリスト教の中には、人間の魂は生まれつき不滅ではなく、救われなかった者は永遠に地獄で苦しむのではなく完全に「消滅」するという「霊魂消滅説(アナイアレイショニズム / Annihilationism)」を支持する教派や神学者が存在します。
この説は、伝統的な「地獄での永遠の刑罰」という解釈に対抗するものとして、主に近代以降のいくつかの教派で強く主張されるようになりました。
この説を支持する人々は、主に以下の3つの論拠を挙げます。
魂の条件付き不滅性(Conditional Immortality): 魂は生まれつき永遠に生きる性質(不滅性)を持っているわけではありません。永遠の命は、イエス・キリストを信じる者だけに神から与えられる「贈り物」であると考えます。
神の愛と正義の調和: 愛の神が、たとえ罪人であっても、有限の人生で犯した罪のために数百万年、あるいは永遠にわたって生きたまま炎で拷問し続ける(永遠の地獄)ということは神の性質に矛盾すると解釈します。
「第二の死」と破壊: 聖書に登場する「滅び」「火の池」「第二の死(ヨハネの黙示録)」という言葉は、永遠に苦しむ場所ではなく、存在が完全に焼き尽くされ、二度と存在しなくなる「終焉・破壊」を意味していると捉えます。
セブンスデー・アドベンチスト教会: 魂の固有の不滅性を否定し、死者はキリストの再臨(復活の日)まで眠った状態にあり、最終的に救われない者は完全に消滅すると明確に教えています。
エホバの証人: 地獄の存在を否定し、悪人は死によって完全に存在が消え去り、神の記憶からも消去される(復活の希望がない)と教えます。
一部の福音派・プロテスタント神学者: 伝統的な教派に属しながらも、ジョン・ストット(20世紀の著名な英国の福音派指導者)などの神学者が「地獄は永遠の意識的な苦痛ではなく、消滅の場である可能性がある」と言及し、議論を呼び起こしました。
カトリック、正教会、そして多くの主流派プロテスタント教会は、現在も「永遠の刑罰(地獄)」の伝統的解釈を保持しており、霊魂消滅説を退ける傾向があります。彼らは、マタイによる福音書25章46節の「これ(悪人)らは永遠の刑罰に入り、義人は永遠の命に入る」などの記述から、刑罰の期間も命の期間と同様に「永遠(終わりがない)」であると主張しています。
消滅説の根拠とされる聖書の具体的な一節(「第二の死」や「ゲヘナ」の意味)
セブンスデー・アドベンチストなどが唱える「霊魂睡眠説(死者の眠り)」との違い
伝統的な「地獄の永遠の苦しみ」を支持する側の反論の論理
楽しそうだな?
礼拝も
いつか行きたいな
😀
しばらくはバクティヨガ休日研究のみだ
😀
アドベンチストによれば、
人間は「身体+生命の息」によって生きた存在になる
死ぬと意識は停止する
死者は天国や地獄で活動しているのではなく、復活まで眠っている状態になる
という考えです。
Ecclesiastes 9:5
「生きている者は自分が死ぬことを知っている。しかし死者は何も知らない。」
John 11章
イエスは死んだラザロを「眠っている」と表現
1 Thessalonians 4:13–17
再臨時に死者が復活すると説明
彼らは、 「もし死後すぐ天国に行くなら、終末の復活は不要になる」 と論じます。
アドベンチストは永遠の責め苦を否定します。
伝統的な教義:
義人 → 永遠の天国
悪人 → 永遠の地獄で苦しむ
アドベンチストの教義:
義人 → 永遠の命
悪人 → 裁きを受けた後、完全に滅びる
つまり、
神は悪人を永遠に拷問し続けるのではなく、最終的に存在そのものを消滅させる
と考えます。
Matthew 10:28
「魂も体もゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい」
Malachi 4:1
悪人は焼き尽くされる
Romans 6:23
「罪の報酬は死である」
などが挙げられます。
アドベンチストは、
「魂が本来不滅である」
という考え自体が、聖書よりもむしろ古代ギリシア哲学、特にPlatoの影響を受けていると主張します。
彼らは旧約聖書の人間観に近い立場を取ります。
旧約では、
人間 = 魂を持つ存在ではなく
人間そのものが「生きた魂」
と理解されるためです。
霊魂睡眠説は少数派ですが、アドベンチストだけの専売特許ではありません。
歴史上、
Martin Lutherの一部発言
Christadelphians
Jehovah's Witnesses
などにも似た考えが見られます。
一方、
Roman Catholic Church
Eastern Orthodox Church
多くの福音派・改革派教会
は、人間の魂は死後も意識的に存在すると教えています。
この論争の核心は、
「人間は何か」
という問いです。
プラトン的立場
身体と魂は別
魂は本質的に不滅
アドベンチスト的立場
人間は統一体
不滅なのは魂ではなく神が与える永遠の命
という違いがあります。
そのためアドベンチストの霊魂睡眠説と霊魂消滅説は、単なる終末論ではなく、人間観(anthropology)そのものの違いに基づいていると言えます。これは近年の聖書学でも注目されるテーマで、「聖書は本当に霊魂不滅を教えているのか」という議論は現在も続いています。
エホバの証人にも継承された
はい。歴史的には、エホバの証人(Jehovah's Witnesses)の霊魂観・死後観には、セブンスデー・アドベンチスト教会(Seventh-day Adventist Church)や19世紀アメリカのアドベンティスト運動との共通点が多く見られます。
ただし、「アドベンチスト教会から直接継承した」というより、
エホバの証人の前身となった聖書研究者運動が、19世紀のアドベンティスト系思想から強い影響を受けた
という表現の方が歴史的には正確です。
エホバの証人の創始者として知られる Charles Taze Russell は若い頃、アドベンティスト系の説教者たちと交流していました。
特に、
キリスト再臨への強い関心
地獄の永遠責苦の否定
条件付き不死(永遠の命は神から与えられるもの)
悪人の最終的滅び
といった考え方は、当時のアドベンティスト運動との共通点です。
両者ともに、
① 霊魂不滅説を否定
人間には本来不滅の魂があるわけではない
② 死者は無意識状態
死後すぐに天国や地獄へ行くのではない
③ 永遠の責め苦を否定
悪人は最終的に滅ぼされる
という点で非常によく似ています。
しかし現在では教義体系全体はかなり異なります。
例えば、
アドベンチストは三位一体を認める
エホバの証人は三位一体を否定する
また、
アドベンチストは土曜日安息日を重視する
エホバの証人はそうではない
さらに終末論やキリスト論にも大きな違いがあります。
実は、霊魂睡眠説や霊魂消滅説そのものは、アドベンティストだけの独創ではありません。
18~19世紀には、
Henry Grew
George Storrs
などが「魂は不滅ではない」と主張しており、アドベンティスト運動もエホバの証人の前身運動も、こうした**条件的不死説(Conditional Immortality)**の流れの中に位置づけられます。
その意味では、
「エホバの証人の死後観は、アドベンティスト運動と共通の19世紀条件的不死説の流れを受け継いでいる」
と言うのが最も正確な歴史的評価でしょう。
あの世は休息の場である
「自分ではないもの」になってみる遊び場
そんな気がしてきた
ヒンズー教の神との交流感が薄い
宇宙法則志向が多数派、
それはそれでおもろいんだけどなー
感心がシヴァ派に向かってしまった
😃
キリスト教より、シヴァ派のほうが
仏教やラーマクリシュナと関連が深いしな
聖書の記述に通じるものがある
「死者は地下で眠っている」
という表現がピッタリだ
眠りが必要なんだろな
😊
遺体がすぐに腐ってしまうインドでは考えられない
いかにもチェニジアらしい名前だな
😃
俺はシヴァ派研究だ
😃
確かに😅
カルタゴの英雄だ
😅
シヴァ派の研究に
邁進している😃
😅
シヴァ派研究で
脳活動停止だ
😃
😃
😃
ゼロになった
休憩
😃
ドデカミンゼロを飲もう
😃
ゼロ過ぎだ
記憶にあるデーターは
いくらでも出せるだ
新規探求意欲が
仏教修行研究パワーやり過ぎて
パワーダウンだ
😃
を
😃
シヴァ派研究ヤル気が、でてきた
😃
😃
かなり解ってきたぞ
日々の宗教修練で
理解が速い
😃
鈴木淳之介の登場だ
解ってきた
ハイなのは決まっている
😃
すごいな?😆
😃
ハッスル🤡様やデンパパ📡の
百倍のスピードで
修行できている自信はある
😃
承認欲求とマウント取りたいだけやもん
俺は
素直にシヴァ派知りたいからなー
😃
純粋に仏教が好きじゃないんだよな~
ウンザリだ
😭
👽
はるかに優れたヨーギーになった気分だ
😃
タントリズム化が
解った気分だ
😃
動画AI質問ありがとう
🙏
😃
また上田綺世
ラーマクリシュナ系統か
胡散臭いアムリタチャンネルしか
ヒンズー教は分からなかった
😅
もはや
日本のヒーローだな
そこまでいくと
😃
😃
😃
一時停止
😃
山伏念仏研究した
😃
😃
昔は、オランダリーグに選手が入っただけで大騒ぎだった
宗教マシーンで
知っているのは
長友佑都の世代で終わり
それ以降は
😅
居間の夕食時のBSニュースの海外ネタ番組しか見なくなった
😅
ますますユーチューブしか見なくなる
😅
そこまで意欲がないなー
宗教動画落とし用のメモリーカードの方に娯楽用費用使う
月64ギガバイトのメモリカード一枚くらいか
😃
宗教研究情熱が爆発している
😃
いつか、カトリック、プロテスタントの礼拝動画に向かう
😃
そんな機能があるんかい?😆
ユーチューブAIサイドが
質問提示してくれるので
シヴァ派の動画AI設定質問がバンバン上がってくるのて、設定質問で
シヴァ派教義がガンガン入力される
😃😃😃😃😃
AI質問で
内容が学べる
楽しい〜
😃
伝統的なシヴァ派の動画を見るには
とグーグルAI検索でかけて
検索ワードを得て、
その検索ワードを
ユーチューブに入れて
動画の質問AIて動画主の伝統の確かさを確認までできる
怪しげなデンパパ📡好みヨガはシャットダウンてきる
😃
伝統的なヨガ知識を
俺は得たというレベルまで開発されつつある
😃
動画AI質問により
😃😃😃😃
キリスト教土台と
密教土台があるから
シヴァ派理解は
加速している
😃
デンパパ📡なんて
カスだ
😃
😃
ハイテンション禅定がらみて
😃
来週は
普通の既存キリスト教研究
カトリックが先か、
プロテスタントが先かだな
😃
😃
カルバンの説教集や神学の動画を見るには、YouTubeの検索窓で「John Calvin Sermons」や「カルヴァン 予定説」と入力します。日本語の解説動画から、英語で朗読される実際の説教集まで、自身の目的に合わせて様々な動画を見つけることができます。YouTubeで探すための効果的な検索ワード目的に応じて以下のキーワードを検索窓に入力してください。説教集の内容・朗読(英語): John Calvin Sermons と検索すると、彼の代表的な説教を英語で朗読・解説しているコンテンツが見つかります。日本語での解説: カルヴァン 予定説 または カルヴァン キリスト教綱要 と検索すると、神学的な内容をわかりやすく日本語で解説した動画(例:教養系チャンネルや牧師による解説)が視聴できます。海外の神学校の講義: Calvin Theological Seminary や Calvin Institute of Christian Worship などの公式チャンネルでは、カルヴァン主義に基づく講義や礼拝動画が公開されています。活用したい便利な機能英語動画の字幕機能: カルバンの実際の説教集は主に英語やフランス語で提供されているため、YouTubeの字幕(CC)機能や自動翻訳機能をオンにして日本語字幕を設定すると内容を理解しやすくなります。再生リストの活用: 多数の説教がまとめられている John Calvin / Calvinism のようなプレイリストを活用すると、連続して視聴する際に便利です。
なんだか、ボクにはわかってきたぞ? キリスト教を語るスレ vol.6
https://talk.jp/boards/psy/1708252880
【スコラ三年】 カトリック神学 3 【教父八年】
https://talk.jp/boards/psy/1705031948
平穏なキリスト教研究に切り替えた
😃
古女房だ
今や
ヴィシュニュ派やラーマクリシュナは
平穏マイルドなのに
タントリズムがらみのシヴァ派は
ワイルド過ぎだ
俺ちゃまの霊力の強さのせいだ
😃
さすがの俺も
ついていけぬ
😃
神社のワイルドさに付き合いできても
シヴァ派のワイルドさには
ついていけなさそうた
😃
出口王仁三郎超えの霊力やと
思うわ
😃
ラップ音が2秒ごと鳴るのには
驚いた
😃
ラーマクリシュナみたいな
ソフトな人達ではない
習ったシヴァナンダヨガもソフトなんだけどな、
😃
タントリズムを意識すると
かなり過集中するのかもしれん
😃
タントリズム入ると
かなり激しいようだ
5時くらいに
そのパワーがきた
😃
最初は危険だった
霊的エリートだからだろな
今は仕事が、できない人でない
パワーが来るだけ、
タントリズムのシヴァ派は
ワイルドなのは当たり前といえば当たり前だが
ワイルドのエネルギーが来るまで知識の蓄積が必要だったんだろうな
AI動画質問回答を、読むだけで
シヴァ神のタントリズムパワーが
来るとは思わなかった
自分の霊力を、舐めていた
😃
😃
臨済宗人生に限るなーやはり
😃
シヴァ派の聖者の物語では
シヴァ神と口論したり
試されたり、野蛮な目にあい
テストされるらしい
らしい
といえば、
らしい
今日は、
そう思った
😃
浄化される
それがシヴァ神の信仰だ
なるほどー感だ
ラップ音がうるさいので
うるさいと二、三度つぶやいた
😃
AI質問で楽しむぜい〜😃
https://m.youtube.com/watch?v=gS8YLNYlI54&list=PLBn46jL5tTbaMxzLGacNUrjBbsXX4akMz&index=1&pp=iAQB
意志と神の支配 (0:24-2:23): 人間は罪によって縛られていますが、神の導きがなければサタンの力に翻弄される状態にあります。カルヴァンはアウグスティヌスの例えを用い、神が良き乗り手として人間を導く一方で、サタンは人間を破壊へと突き動かすと説明します。
神、サタン、人間の関わり (2:17-5:51): 悪事においても、神は主権を失いません。ヨブ記の例を挙げ、神は目的(忍耐の試練)のために、サタンや人間の悪意ある行動さえもご自身の公正な裁きの手段として用いると説いています。
神による硬化と導き (5:52-11:13): 神は悪人の心を「硬くする」あるいは「盲目にする」ことがありますが、これは単なる許可ではなく、神の積極的な介入によるものです。神の導きが取り除かれるとき、人間は必然的に悪の道へ進むと論じています。
日常の意志と自由 (12:56-19:37): 日常の些細な事柄や意志の決定でさえも、神の特別な摂理が関与しています。人間は自由意志を持っているように見えますが、その意志さえも究極的には神の手の中にあり、神がそれらを支配し、ご自身の計画に従って曲げることができると結論付けています。
😃
平凡主義が
霊的研究でも気楽だ
😃
😃
ジョン・カルヴァンの『キリスト教綱要』に基づくと、神の支配と悪魔の働きには決定的な違いがあります。その違いは主に目的と手法に表れます(03:22 - 05:51)。
神と悪魔の支配の違い
手法としての違い(アウグスティヌスの比喩):
神: 巧みな乗り手のように、馬(人間の意志)を導きます。速すぎれば手綱を引き、遅すぎれば促し、正しい道から外れないよう制御します(01:21 - 01:36)。
悪魔: 無知で無鉄砲な乗り手のように、馬を荒地や崖へと強引に走らせ、怒りや頑固さを植え付けて破滅へと追い込みます(01:38 - 01:50)。
目的と責任の所在:
目的: 神はご自身の公正な裁きや、人の忍耐を試すといった「善い目的」のために摂理を働かせます。一方でサタンは、人を絶望させ、悪行へと駆り立てるという「邪悪な意図」を持っています(04:04 - 04:21)。
主権: 重要な点は、悪魔さえも神の許しなしには何もできず、神の支配下にあるという事実です。悪事が行われる際、神はその結果を究極的にご自身の正義の遂行へと昇華させます(05:00 - 05:14)。
結論
カルヴァンは、同じ出来事であっても、神が関与しているのか悪魔が仕組んでいるのかによって、その意味合いが完全に異なると説いています。神は悪を善用し、ご自身の計画を成就させる「統治者」であり、サタンは神の怒りの執行者として一時的に利用される「道具」のような存在であると説明されています(05:43 - 05:51)。
親戚感が
😅
ジョン・カルヴァンによれば、神が悪人の心をも動かす理由は、それが神の公正な裁きを遂行するためであり、また神の摂理を成就させるためであると説明されています。
具体的には、動画内で以下のような重要なポイントが挙げられています。
公正な裁きの執行 (07:42 - 08:25): 神はしばしば悪人や不信仰者を盲目状態に置いたり、心を頑なにさせたりします。これは単なる放置ではなく、神がご自身の裁きを実行し、彼らを滅びへと導くための「神の備え」であるとカルヴァンは述べています。例えば、シホン王がイスラエルに道を通させなかったのは、神が彼の心を頑なにし、彼を破滅させるためであったとされています。
神の目的への従属 (04:04 - 05:14): 悪人やサタンは自身の邪悪な意図を持って行動しますが、神はその行動さえも、ご自身の目的(例:聖徒の忍耐を試すことや、人々の罪を罰すること)のために支配下に置いています。カルヴァンは、神は悪人やサタンを「神の怒りの執行者」や「道具」として用い、ご自身の公正な計画を達成させると説いています。
光と導きの撤回 (07:13 - 07:41): 神が人々から光や導きを取り去るとき、彼らの心は石のように硬くなり、必然的に悪の道へ向かうようになります。このプロセスにおいて、神は「悪の作者」になるのではなく、ご自身の義なる裁きとして、人々の意志を本来の堕落した状態へと向かわせることで、ご自身の目的を成し遂げます。
つまり、カルヴァンにとって神の主権は絶対であり、たとえ人間の罪深い意志による行動であっても、それが神の統治の枠組みの外に出ることはなく、むしろ神の正義や摂理を証明するものとして機能するという考え方です。
ワイルド😅
アダム・スミスの
神の見えざる手の
源流バージョンだな?
😅
意志を方向付ける神の摂理 (13:35 - 14:28)
私たちが特定の経験を通じて「何を有利と見なすか」「何を避けるべきか」を決定する際、その意志の傾きそのものが神の特別な恵みや摂理によって制御されているというのがカルヴァンの主張です。経験が意志に影響を与えるというよりは、神が経験という状況を用いて、人間の意志を望ましい方向へと曲げていると捉えるべきです。
まとめ
カルヴァンの神学において、経験は意志を決定付ける「主導権」を持つものではありません。むしろ、経験は「意志が神の支配下にあること」を認識させるためのプロセスであり、人が経験を通じて何かを学んだり選択したりする際にも、背後で神がその意志を支配し、摂理を成就させているとされています。
😃
シヴァ派は
デンジャーなのは理解した
シヴァ派をやると
出口王仁三郎超え霊的ワールドに突入するのは確か
ヒット&アウェイの付き合いしないと
ダメなようだ
😃
いきなりツツイテ、ヒット&アウェイー
😃
マジメによつでかつ相撲でいく
😃
日本人だとソフト解釈する
西欧人は野蛮だからなー
😃
ジョン・カルヴァンの『キリスト教綱要』第2巻第4章において、神が悪人の心に働きかける理由やその方法について以下のように説明されています。
1. 神の目的と摂理 (03:22 - 05:30)
カルヴァンは、神が「悪人」や「サタン」の働きをも用いるのは、神が自らの公正な裁きや目的(摂理)を成就させるためであると説いています。例えば、ヨブ記の出来事のように、神はサタンに許可を与えることで、自らの目的(試練や訓練)を達成し、同時に悪人の邪悪な意図そのものは悪人自身の責任に帰すと述べます。神は悪人を用いますが、神が悪の根源(著作者)になるわけではなく、悪人はあくまで自分の邪悪な欲望に従って行動しているとされます。
2. 2つの働きかけの方法 (07:13 - 08:26)
神が悪人の心を動かす方法として、以下の2点を挙げています。
光と指導の撤回: 神が恵みの光や聖霊の導きを退けると、人は自ずから盲目となり、心は石のように硬くなり、悪へと傾いていきます。
直接的な方向付け: 神はサタンを自らの怒りの道具として用い、悪人の意志や企てを神の正義の実現に向けて方向付け、規制します(例:シホンの心を硬くしたことなど)。
3. 神の公正さと人間の責任 (05:00 - 05:49)
同じ行為であっても、神と悪人では目的が異なります。神は自らの公正な裁きのために悪人を利用しますが、悪人は自らの内にある悪意に基づいて行動します。そのため、神の潔白さは守られつつ、サタンや悪人の罪深さが浮き彫りになると論じられています。
4. 結論 (18:40 - 19:37)
カルヴァンは、人間の自由意志について、それが外的状況や成功によって測られるものではなく、人間の内なる判断と意志の力の問題であると強調します。たとえ神の摂理によってその道が変えられたとしても、悪人は自分の意志で行ったことに対して責任を負うという考え方です。
神が悪人の心をも動かすのは、神が世界の支配者であり、たとえ悪人の悪意ある行為でさえも、最終的には神の公正な秩序と計画の一部として組み込まれているからである、というのがカルヴァンの主張の要点です。
ど迫力😃
光と指導の撤回: 神が恵みの光や聖霊の導きを退けると、人は自ずから盲目となり、心は石のように硬くなり、悪へと傾いていきます。
直接的な方向付け: 神はサタンを自らの怒りの道具として用い、悪人の意志や企てを神の正義の実現に向けて方向付け、規制します(例:シホンの心を硬くしたことなど)。
神の光を避けるも
上手くいかないぞー
神の光と聖霊だ
😃
宇宙秩序だ
感
😃
オモロー
😃
霊的には野蛮てはない
発想は野蛮でも
霊的野蛮最強は
シヴァ派らしいのは
理解した
昨日、
あれは
神の遊戯の霊現象と格闘しないといけない
😅
出口王仁三郎ゾーンなのは確かだ
😅
さすがに
シヴァ神の遊戯の霊的格闘したい
願望はわかない
霊的格闘は野蛮だ
ノーサンキューである
😃
創世記あたりに
神との格闘はある
といえばある
旧約聖書の「神との格闘」は、創世記32章に登場するヤコブの物語です。彼は夜通し神(または御使い)と組み打ちをして勝利し、「イスラエル(神と戦う者)」という新しい名と祝福を勝ち取りました。人間が神と真正面から向き合い、自立を求めた劇的なシーンです。ヤコブの「神との格闘」の主な内容は以下の通りです。背景: 兄エサウを騙して長子の権利を奪ったヤコブは、長年故郷を追われていましたが、帰郷の途中で復讐に燃える兄と遭遇する危機に直面します。ヤボク川での格闘: 家族を先に川の向こう岸へ渡らせ、ヤボク川のほとりで一人残っていたヤコブの前に「ある人」(神)が現れ、夜明けまで格闘を繰り広げました。ももの関節を外される: 神はヤコブに勝てないと悟り、ヤコブのももの関節(股関節)を打ちました。それでもヤコブは「祝福してくださるまでは去らせない」としがみつき続けました。「イスラエル」の命名: ヤコブのその執念と姿勢は神に認められ、「あなたは神と人とに戦って勝った」として「イスラエル」という新しい名を与えられました。
神との格闘で
エネルギーを浪費するのは
不合理だと
なんでもシャーマンの俺でも
嫌がる
😃
宇宙秩序的なので
このような神との格闘ネタは
苦手だろう
旧約聖書の「神との格闘」は、創世記32章に登場するヤコブの物語です。彼は夜通し神(または御使い)と組み打ちをして勝利し、「イスラエル(神と戦う者)」という新しい名と祝福を勝ち取りました。人間が
😃
結論
神が心を硬くするのは、神が宇宙の最高支配者として、人間の悪意さえも自らの正義や救済計画の枠組みの中に組み込み、最終的にご自身の栄光を現すためであると論じられています。
インスタントラーメンみたいなので
本場はいいなー
😃
ジョン・カルヴァンの『キリスト教綱要』に基づくと、神が人の思い(意志や心)を動かし、変える理由は、主に神自身の摂理と公正な計画を地上で成就させるためであると説明されています。
動画内で語られている主な理由は以下の通りです:
神の目的の達成 (03:22 - 05:49): 神は世界の最高支配者として、個人の意志をも含めたすべての出来事を管理しています。神はご自身の善き目的や、人類に対する公正な裁きを実行するために、人間の心や決断を導かれます。例えば、エジプト人たちがイスラエルの民に対して好意を抱くようになったり(14:28 - 14:47)、指導者の心が特定の方向に向けられたりするのは、神がその状況を通じてご自身の計画を進めているためです。
公正な裁きと訓練 (07:13 - 08:26): 神は特定の状況において、人の心を硬くしたり、あるいは迷わせたりすることがあります。これは神が気まぐれに行うことではなく、その人が過去に行ったことに対する神の公正な報いや、将来の出来事に備えるための**準備(摂理)**として行われます。
光と指導の撤回 (07:13 - 07:40): 神が人の心を変える一つの側面として、神が恵みの光や聖霊の導きをその人から取り去ることが挙げられます。神の導きがなくなると、人は自然と自らの邪悪な本性に引きずられ、判断力を失い、誤った方向へ進むことになります。これもまた、神の摂理の一部です。
神と人間との責任の区別 (05:00 - 05:49): 重要な点として、カルヴァンは「神が心を動かしているからといって、人間の罪の責任が免除されるわけではない」と強調します。悪人はあくまで自分の内なる欲望に従って行動しており、神はその悪人の企てさえも、より大きな神の正義の実現のために用いているという構造です。
結論として、神が人の思いを変えるのは、神の計画が宇宙の隅々にまで及んでおり、人間の自由や意図さえも神の主権的な支配下にあることを示し、最終的に神の栄光を現すためであると論じられています。
魂にしみるぜ〜
😃😃😃😃😃😃😃
霊的世界観が読み取れていて
カルバン主義に
詳しくなってきた
日本人ではダメだな
😃
日本基督教団の長老派系統と
カルバン主義が多いのだが
とにかく日本人向けの
インスタントラーメンだ
😅
霊的戦闘人形と化しているぜ〜〜
😃😃😃😃😃😃
デイスペンゼーションの理解も深まる
😃
ソフトになったカルバン主義だ
だから日本基督教団は、行きやすかったんだが
😃
ディスペンぜーションなんか
出てこないだろうからなー
😅
ギリシャ哲学のカトリックの反動だろな、
あれは
😅
むしろ
カトリックのほうが
霊的激しいケースがある
トマスは
そんなに激しい目には遭わなかったが
😃
まーまーノリノリだ
😃
1. 善い選択も神の恵み (13:37 - 14:06)
カルヴァンは、人間が自分にとって有利なものを選んだり、あるいは害となるものを避けたりしようとする際、その意志の傾き自体が**神の特別な恵み(special grace of God)**によるものであると強調しています。人間が自分自身の力で善を成し遂げる能力があるというよりも、神が私たちの心をその方向に導いているという考え方です。
2. 意志への働きかけ (14:06 - 14:28)
神の摂理は、単に出来事を管理するだけでなく、人間の意志に直接働きかけ、その方向性を決定づけるものだとされています。たとえ私たちが「自分で考えて決断した」と感じるような日常的な判断であっても、根本的には神の導きがそこに働いているとカルヴァンは論じています。
3. 人間の能力と神の支配 (16:47 - 17:14)
カルヴァンは、私たちの精神の働きは、自分自身の自由な選択よりもむしろ**神の働き(agency of God)**に強く依存していると指摘します。日々の経験を見ても、自分の知恵が及ばないところで物事が進んだり、あるいは困難に直面した際に思いがけず解決策が与えられたりするのは、神の支配によるものであると説明しています。
4. アウグスティヌスの引用 (18:02 - 18:37)
カルヴァンはアウグスティヌスの言葉を引用し、神は人の意志を「善く変える」ことも、悪人の心を転換することもできる存在であると補足しています。つまり、善い意志や善行は、神が私たちの内側に働きかけ、善い方向へと作り変えてくださった結果であるという見解です。
結論として、人間が自力で善を成し得るというよりも、私たちの内なる意志や判断が善い結果へと向かうのは、常に神の主権的な導きと介入によるものであるというのがカルヴァンの立場です。
内容だ
😃
カルバンの発想が読み取れた
さすが洋物動画
😃
善行行える導き
主の道を歩める導きがある
という信仰のようだ
なかなかオモロイ
😃
主の恵みと
善行行える導きと
主の道を歩める導きを
得る
という信仰
らしい
見えてきた
カルバン
😃
わからなかった
😅
満足したので
ネルソンダービーへゴー
https://m.youtube.com/watch?v=hJ6skiEzySk
主なトピック:
ジョン・ネルソン・ダービーとは何者か: 19世紀の英国・アイルランドの神学者であり、法律を学んだ背景を持ちます(2:31-7:30)。彼はディスペンセーション主義の象徴的人物ですが、ファジオ博士は彼が単独の創始者というよりは、当時の文脈の中で先人たちのアイデアを体系化した存在であると指摘しています(8:00-11:51)。
ディスペンセーション主義の歴史的背景: この考え方はダービーから突然始まったものではなく、それ以前の17〜18世紀の英国における聖書解釈の潮流の中にあったものです(8:00-11:51)。
アメリカへの影響: ダービーはアメリカを訪れましたが、当時のアメリカの教会には懐疑的でした。しかし、彼の聖書予言に関する教えは、後にジェームズ・ホール・ブルックスやC.I.スコフィールドといった人物を通じてアメリカの福音派に深く浸透しました(15:49-21:46)。
誤解の解明: 近年、インターネット上でダービーやスコフィールドとロスチャイルド家を結びつける陰謀論が散見されますが、ファジオ博士はこれらには根拠が全くないと明確に否定しています(21:46-25:47)。
今日的な意義: 博士は、ダービーの著作は読み解くのが難しいものの、聖書を字義通りに重んじる彼の**聖書解釈の方法論(釈義的アプローチ)**こそが、現代の教会が再発見すべき重要な遺産であると強調しています(28:45-32:08)。
😃😃😃😃😃😃😊
徹底した釈義的(エグゼゲティカル)アプローチ: ダービーは、当時の神学者や現代の評論家の思想を引用して論じるのではなく、何よりも聖書そのものを読むことに集中しました。彼は旧約聖書と新約聖書を照らし合わせ、聖書から直接的に意味を引き出す方法を重視していました。
聖書のクロスリファレンス(参照): ヘブライ語やギリシャ語の言語的素養を活かし、聖書の各箇所を相互に突き合わせながら深く研究しました。
「聖書が神学をドライブさせる」姿勢: 特定の神学的な先入観や理論(前提)を聖書に当てはめるのではなく、あくまで**聖書の記述から神学を導き出す(聖書から神学を構築する)**という姿勢を一貫して取りました。
博士は、現代の私たちがダービーから学ぶべき最大の遺産は、この「聖書そのものから神学を築き上げる」という聖書中心の厳格な解釈姿勢であると強調しています。
動画内の解説(18:19 - 21:46)に基づくと、C.I.スコフィールドはダービーの直接の弟子ではありません。
ジェームズ・ファジオ博士は以下の点を指摘しています:
師弟関係の欠如: スコフィールドがダービーから直接指導を受けたり、その教えを直接継承したりしたという確実な証拠はありません。ダービーの著作には親しんでいたかもしれませんが、彼らの思想は必ずしも一致していません。
体系の相違: スコフィールドの『スコフィールド記念スタディ聖書(Scofield Reference Bible)』に含まれるディスペンセーション主義の注釈は、ダービーが提唱したフレームワークをそのまま踏襲したものではありません。スコフィールドは独自の「7つのディスペンセーション(時代区分)」の枠組みを提示しており、ダービーの思想とは構成が異なります。
背景の違い: ダービーの関心が主に「エクレシオロジー(教会論)」にあったのに対し、アメリカのディスペンセーション主義者たちは「エスカトロジー(終末論)」や予言の解釈に強く惹かれており、彼らが求めていたものとダービーの全著作の意図には乖離がありました。
したがって、スコフィールドはダービーの弟子というよりも、アメリカにおいてディスペンセーション主義的な視点を普及させた重要な人物の一人として捉えるのが正確です。
これは新約聖書『マタイによる福音書』6章26節に記された、イエス・キリストの言葉です。
明日や将来のことを思い煩うのではなく、今ある命はより大きな存在に守られていることに気づかせてくれるメッセージですね。
イエスキリストの再臨の逆算からの
思い煩い恐怖故に信仰するともいえるし
イエスキリストの再臨があるから
艱難に、耐える希望ともいえる
難しいところだな
😅
ジッと待つ😆
その日が来るかはわからんが
イーサーの再臨を信じている
そうなんです。これは意外と知られていませんが、イスラム教も イエス(アラビア語ではイーサー) の再臨を信じています。
ただし、その意味づけはキリスト教とはかなり異なります。
イスラム教では、イエス・キリスト は非常に重要な預言者です。
処女マリアから生まれた
奇跡を行った
メシア(マスィーフ)である
神から遣わされた預言者である
とされています。
一方で、
神の子ではない
三位一体は認めない
十字架で死んだとは考えない
という点がキリスト教と大きく違います。
イスラム教では、神(アッラー)がイエスを天に引き上げたため、十字架刑で完全に死んだわけではないと解釈されることが一般的です。
イスラム教の終末論では、終末が近づくと
偽メシア(ダッジャール)が現れる
イエスが天から再臨する
イエスがダッジャールを打ち倒す
世界に正義と平和をもたらす
とされています。
ダッジャールは、キリスト教でいう「反キリスト」に近い存在と考えるとイメージしやすいでしょう。
キリスト教では、
再臨したキリストが最終審判を行う
という理解が一般的です。
一方イスラム教では、
再臨したイエスは神ではなく、あくまで偉大な預言者として神の計画を完成させる
という位置づけです。
つまり、
キリスト教:「再臨するのは神の子キリスト」
イスラム教:「再臨するのは偉大な預言者イーサー」
という違いがあります。
そのため、アブラハム系宗教(ユダヤ教・キリスト教・イスラム教)の終末論を比較すると、「イエス」という人物が三者の接点でありながら最大の相違点にもなっているのです。
ダッジャールは片目だそうだが?
はい。イスラム教の伝承(主にハディース)では、ダッジャール(偽メシア)には片目の特徴があると語られています。
代表的な伝承では、預言者 ムハンマド が、
ダッジャールは片目であり、その目は傷ついている、あるいは膨らんだブドウのようである
という趣旨の説明をしたとされています。
また、有名な伝承では、
彼の額には「カーフィル(不信仰者)」と書かれており、信者にはそれが分かる
とも語られます。
イスラム世界でも解釈は分かれています。
伝統的な解釈
本当に片目の人物が現れる。
超自然的な力で人々を惑わす。
イーサー(イエス)の再臨によって倒される。
象徴的な解釈
「片目」とは偏った世界観の象徴。
物質文明だけを見て霊的真理を見ない状態を表す。
ダッジャールとは特定の個人ではなく、終末期の巨大な欺瞞システムを意味する。
近現代の思想家の中には、
「片目しかない」とは、物質的な視点は鋭いが精神的な視点を失った文明 を象徴すると読む人もいます。
キリスト教の終末論における「反キリスト」は必ずしも身体的特徴を持ちませんが、イスラム教のダッジャールはかなり具体的に描写されています。
そのためイスラム圏では歴史上、
暴君
征服者
植民地主義勢力
近代文明そのもの
などが「ダッジャールではないか」とたびたび議論されてきました。
哲学的に見ると、「片目のダッジャール」は単なる怪物というより、
「真実の半分しか見えないのに、すべてを知っていると主張する存在」
の象徴としても読めるため、宗教を超えて興味深いモチーフになっています。
研究やってるなー
俺は本業修行オンリーだ
😀
記憶の範囲しか
引き出しがない
😀
キリスト教と比べても、知識量に大差があるな
イエスとマリア様を信仰している
ユダヤ教は初期仏教
イスラム教が大乗仏教に相当する😄
キリスト教は、どこか小乗っぽい
AIに語らせてみれば
学習は速いだろう
スンニ派内の宗派によって異なるだろうがな
😀
限界がある
まず
スンニ派宗派の総本山と
その動画を見るには
という検索キーワードをいれて
ユーチューブ動画をヒットさせる
😀
情報選択に偏りがあるから
リアルな情報を得るのは難しいだろう
😀
イスラムナントカ派の法学者が語るイスラム教史の
動画を見るには?
とかな
😀
AIも動画の内容を前提に語ってくれるからな😄
宗教文学には傑作が多い
キリスト教は約2000年にわたって文学と結びついてきたため、宗教文学の層が非常に厚いのです。
代表的なものを挙げると、
聖書(特に詩篇やヨブ記、福音書)
神曲(ダンテ・アリギエーリ)
告白(アウグスティヌス)
天路歴程(ジョン・バニヤン)
カラマーゾフの兄弟(フョードル・ドストエフスキー)
など、文学史に残る作品が数多くあります。
例えば、
法句経は箴言集、
般若心経は哲学的な要約、
維摩経は物語性があるものの、議論が中心、
禅の語録も公案や問答が主体です。
もちろん仏教にも、平家物語や方丈記、徒然草のように仏教思想の影響を強く受けた文学はあります。しかし、宗教そのものが生み出した文学という点では、キリスト教圏の作品群の厚みは際立っています。
そのため、「宗教文学」という観点では、キリスト教は世界文学の中でも特に豊かな伝統を築いた宗教の一つだと言えます。
ミルトンの「失楽園」が
個人的には最高傑作
それは十分に理解できる評価です。
失楽園は、英文学だけでなく、世界文学・宗教文学の最高峰の一つと評価されることが多い作品です。
特に優れている点は、
創世記の短い物語を、壮大な宇宙叙事詩へと発展させたこと。
神・天使・悪魔・人間という異なる存在を、一つの壮大なドラマの中で描いたこと。
善悪、自由意志、服従、反逆というテーマを非常に深く掘り下げたこと。
彼は単なる悪役ではなく、誇り高く、知性的で、不屈の精神を持つ存在として描かれています。有名な一節、
「天国で仕えるより、地獄で支配する方がよい」
という言葉(英語では Better to reign in Hell than serve in Heaven.)は、西洋文学史でも屈指の名台詞として知られています。
この魅力的な描写のために、ウィリアム・ブレイクは「ミルトンは無意識のうちに悪魔の味方をしていた」と評したほどです。
宗教文学に限れば、『失楽園』を最高傑作に挙げる人は決して少数派ではありません。壮大なスケールと思想の深さ、そして詩としての格調の高さを兼ね備えた、まさに記念碑的な作品です。
😅
それがどうしたというのだ?
すべてが失われたわけではない」
https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/s/snow_moonsea/20240523/20240523184857.png
この台詞は、作品の冒頭でサタンが放つ不屈の精神を表す言葉として知られています。
サタンの狙い: 敗北を認めず、神への復讐を果たすために再び軍勢を立て直そうと仲間を奮い立たせます。
作品の背景: 『旧約聖書』の「創世記」をベースに描かれたピューリタン文学の最高峰であり、人間を誘惑するサタンの暗躍と、アダムとイヴの楽園追放が描かれています。
聖ウンコ師に似ているな?
かなり神仏習合や念仏思想が入り込んでいる
明治以降の正統派瞑想仏教思想の路線とは異なる歴史が
平安時代中期から明治以前までの
仏教のメインラインだ
😃
江戸時代以前の古典文学の
宗教的研究の論文がたくさん出てるらしい
😃
まだまだド素人だ
😃
by 堕天使ルシフェル
神
実は非正統派瞑想仏教カラーの仏教研究として、最近進み出しているらしい
そーいえば 未だ深く知らないジャンルだ
😃
文学までは、なかなか手が回らないか
AIは、古文・漢文もスラスラ読める
なんともない
未だに
リアルな山伏、神仏習合、非教団系統の念仏は
まだまだ素人だ
😃
by 聖ウンコ師
最近まで、学者の古典研究は
文学としての側面としてしか研究されなかったらしい、
民俗学的仏教(教義仏教ではない)としての研究は
最近進んだらしい
😃
😃
あれも
名前が出てこないが
あれも民俗学路線な仏教だからなー
😃
角川文庫の
仏教色強い古典文学の現在語訳四冊くらい買ってあるけど
ほぼ読んでないなー
😃
リアルな山伏念仏神仏習合思想の理解が必須だろな
まだまだ素人だ俺は
😃
かなりシャーマンテーマだろな
あれは
読んだことがない 😃
短いので、すぐ読める
山伏念仏神仏習合を
俺は
天台真言解釈魔改造オート過ぎる
😅
https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/521_20583.html
即身成仏路線で解釈しようとひてしまうくらいに
😅
新規探求の意欲が出ない
記憶の引き出ししか出ない
😅
文系ジャンルなら、なんでも来い、だ😅
お疲れすぎて
😅
😅
新規探求意欲がロストしている
😅
実践研究してしまった
😅
😃
😃
https://m.youtube.com/watch?v=r7933p9ReNk
イスラエルに世界の注目が集まってるから
ディスペンサー派は張り切ってるな😆
😃😃😃😃😃😃
😃
終末論的視点: ダニエル書9章の預言に基づき、将来の患難時代(7年間)において反キリストがイスラエルと契約を結び、その後第三神殿が建てられるといった終末的なシナリオを説明しています(28:47-32:01(おそらく)
結論として: 教会は異邦人と救われたユダヤ人から構成される一方で、神はイスラエルという民に対しても将来的な救いと回復の計画を持っており、それがキリストの再臨と王国の樹立によって成就すると結論付けています(27:27-27:50(おそらく)
物理的な回復の象徴: 博士はこの幻を、ユダヤ人が再びイスラエルの地へ戻り、国家として集結することの予表(あるいは比喩)として捉えています。骨が結び合わさり、肉がついて形作られる様子は、1948年のイスラエル国家の再建と重なるものとして説明されています。
霊的な未完の状態: 博士は興味深い点として、幻の中で骨が結びついて形になったものの、まだ「息(霊)」が入っていない段階があることに触れています(19:43-19:54)。これを現在のイスラエル国家の状態になぞらえ、人々が不信仰のまま帰還している現状を示唆しています。
最終的な完成: 博士によれば、この幻が完全に成就するのは、イスラエルの民がキリストをメシアとして受け入れ、神の霊(息)が吹き込まれる未来の時であると説明しています。
預言の成就: 博士は、ダニエル書9章27節の預言に基づき、将来の「患難時代(7年間)」において、反キリストがイスラエルと契約を結び、第三神殿での犠牲と捧げ物が行われるようになると述べています。
反キリストによる冒涜: 第三神殿が重要な理由の一つは、それが反キリストが自身の権力を示す舞台となるからです。患難時代の中間において、反キリストが神殿に立ち入り、自らを神であると宣言する「荒らす憎むべきもの(Abomination of Desolation)」が設置されると説明しています(31:26-31:43(おそらく)
患難時代の指標: 神殿での犠牲と捧げ物が再開され、それが反キリストによって強制的に停止させられるという出来事は、終末のタイムラインにおける決定的な転換点として位置づけられています(31:08-31:16(おそらく)
つまり、この第三神殿は、単なる建造物という以上に、聖書預言が最終段階へと向かう過程において、反キリストの出現や神の裁きのプロセスを象徴する重要な役割を果たすものとされています。
😅
動画の中で、ゲイリー・グロマッキ博士は、現代のイスラエル国家を支持する理由として主に以下の点を挙げています(23:32-25:12(おそらく)
国家としての存続の権利: 博士は、1948年の国連による承認に基づき、イスラエルには国家として存続し、自国を守る権利があることを強調しています(23:32-23:42(おそらく)
防衛の必要性: イスラエルが歴史的に他国から攻撃を受け続け、特にHamasやHezbollahといったテロ組織から民間人が攻撃対象となっている現状を指摘し、自衛の必要性を論じています(23:42-24:20(おそらく)
「中東のいじめっ子」に対する立ち位置: 博士は、イスラエルが周辺のテロ国家(言及された例としてイランなど)の脅威にさらされている現状に触れ、もしイスラエルがこれに立ち向かわなければ誰がそれを行うのかという視点から、イスラエルとの連帯の重要性を述べています(24:47-25:12(おそらく)
なお、博士は現代のイスラエルが必ずしも完璧な決断をしているわけではないとしつつも、神が選んだ民との関わりを大切にする観点から、信者がこの国家と自らを同化(支持)することが重要であると結論づけています(24:23-25:16(おそらく)
😱
大概だ
😱
とても楽しい
😀
研究再開だ
😀
ディスペンゼーションを構築している意識だ、
ルールブックとしての聖書、
人間の内面問題を、扱わない
😅
ウェスレーや聖霊派と霊性の神学
以外は詳しくないからなー
ま、ビギナーだ
😀
ゴリゴリの聖書論理主義者のディスペンゼーション主義者は
ペンテコステ系やカリスマ派系統の
ディスペンゼーションと違って
アタマで論理的に聖書を読む
連中らしい
論理的と言っても
新旧約聖書を一体的解釈する論理性だ
😅
不信仰の中での帰還: 1948年の現代イスラエル国家の成立は、エゼキエル書37章に見られるような、骨が結びつき肉が付くものの、まだ「息(霊)」が入っていない状態、すなわち不信仰の状態での帰還として捉えられています(19:13-20:05(おそらく)
預言成就の土台: 1948年の建国自体が、聖書預言の直接的な一対一の成就というよりは、**将来の預言が成就するための基盤(プラットフォーム)**を提供していると説明されています(28:13-28:28(おそらく)
神の変わらぬ計画: 現代のイスラエル国家には不完全さや政治的課題があるとしても、神がイスラエルという民に対して抱く約束は有効であり、神は彼らを見捨てていないと述べられています。神は将来のキリストの再臨において、彼らとの契約を完全に成就させると強調されています(27:26-27:50(おそらく)
不信仰の中での帰還: 1948年の現代イスラエル国家の成立は、エゼキエル書37章に見られるような、骨が結びつき肉が付くものの、まだ「息(霊)」が入っていない状態、すなわち不信仰の状態での帰還として捉えられています(19:13-20:05(おそらく)
預言成就の土台: 1948年の建国自体が、聖書預言の直接的な一対一の成就というよりは、**将来の預言が成就するための基盤(プラットフォーム)**を提供していると説明されています(28:13-28:28(おそらく)
神の変わらぬ計画: 現代のイスラエル国家には不完全さや政治的課題があるとしても、神がイスラエルという民に対して抱く約束は有効であり、神は彼らを見捨てていないと述べられています。神は将来のキリストの再臨において、彼らとの契約を完全に成就させると強調されています(27:26-27:50(おそらく)
神の信実な計画: 彼は自身を「前千年王国説(premillennialist)」の立場であるとし、神は約束を守る方であると強調しています。ダビデ契約を含む神の契約的な約束は、将来のキリストの再臨と神の王国の樹立によって、文字通りに成就されると考えています(06:17-06:48(おそらく)
将来の王国の基礎: この契約は、イスラエルという民が神の計画において決して排除されたわけではなく、将来キリストが統治する王国において特別な役割を果たすことを示す預言的な土台となっています(06:05-06:48(おそらく)
1. 言葉通りの解釈(リテラルな解釈)
彼は「イスラエルはイスラエルを意味する」という原則を強調しています(05:24-05:35)。聖書の預言を象徴的・霊的に読み替えるのではなく、アブラハム、イサク、ヤコブの物理的な子孫に対する神の約束を、そのまま文字通りに受け取る姿勢がこの視点の基礎となっています。
2. イスラエルと教会の区別
預言的視点において、神がイスラエルに対して立てた計画と、ペンテコステから始まる教会(救われたユダヤ人と異邦人の集まり)に対する計画は区別されます(05:48-06:03)。彼は、教会がイスラエルに取って代わったとする「置換神学」を否定し、神はイスラエルという民を捨てておらず、将来的に彼らを通して計画を成就させると主張しています(08:42-08:55、09:43-09:55(おそらく)
3. 前千年王国説(Premillennialism)に基づく未来の成就
この枠組みでは、旧約聖書で約束された契約(アブラハム契約、ダビデ契約、新しい契約)は、過去の歴史の中で完全に成就したわけではなく、キリストの再臨後に地上で樹立される王国において、文字通りに成就すると解釈されます(11:36-12:25、12:59-13:25(おそらく)
このように、この「預言的」な視点は、**神の信実さ(約束を守る性質)**を根拠として、聖書の歴史の終結に向けて神がイスラエルに具体的な未来を用意しているという確信に基づいています。
世界が激変しそうだって時なのに
ダンテの「神曲」が大きな影響を及ぼしている
はい、その見方はかなり正しいです。ただし、少し整理するとより正確になります。
結論から言うと、
キリスト教の「死後の世界」の基本的な教義(天国・地獄・最後の審判・復活など)は、ダンテ以前から存在していました。
一方で、現代人が思い浮かべる「死後世界の具体的なイメージ」──地獄の階層、煉獄の山、天国の球体構造など──は、神曲が非常に大きな影響を与えました。
新約聖書には
死者の復活
最後の審判
天国(神との永遠の交わり)
地獄(神から永遠に離れる状態)
は書かれています。
しかし、
地獄は何階層あるか
誰がどこでどんな罰を受けるか
煉獄はどんな場所か
といった詳細は、聖書にはほとんど書かれていません。
14世紀初頭にダンテ・アリギエーリが『神曲』を書くと、
地獄篇
地獄は9つの円
罪ごとに異なる罰
有名人や歴史上の人物も登場
煉獄篇
山を登りながら罪が清められる
天国篇
天は複数の天球から成る
神の光へ近づく旅
という壮大な宇宙観が描かれました。
これは神学だけでなく、
哲学
当時の宇宙論
古代ギリシャ・ローマ神話
まで融合した文学作品です。
ここが重要です。
いいえ。
カトリック教会は『神曲』を非常に高く評価していますが、
「神曲に書かれている構造が公式の死後世界です」
とは教えていません。
つまり
神曲=文学作品
教義=聖書と教会の教え
は区別されています。
とはいえ、西洋文化への影響は計り知れません。
例えば
地獄を階層構造で考える
悪魔が地獄を支配しているイメージ
煉獄という「中間の場所」の視覚化
天国を光に満ちた世界として描くこと
こうしたイメージは、中世以降の絵画、文学、映画、ゲームにまで受け継がれています。
そのため、多くの人が「キリスト教の死後世界」と思い浮かべる情景は、実際には聖書そのものというより、『神曲』を通じて広まった文化的イメージである場合が少なくありません。
要するに、教義の骨格は聖書と初期教会に由来し、その肉付けと視覚的・物語的なイメージ形成に『神曲』が決定的な役割を果たした、という理解が最も適切です。
天国
新約聖書では、「天国」というより**「神の国」**(Kingdom of God)という表現が頻繁に使われます。
イエスは、「神の国は近づいた」と宣べ伝えました。
ここでいう神の国は、
神が完全に支配する世界
神と共に生きる状態
永遠の命
を意味します。
たとえば、
「あなたは今日、わたしと一緒に楽園にいる。」
(十字架上で悔い改めた犯罪人への言葉、ルカによる福音書23章)
ここでは「楽園」という言葉が使われています。
最終的な天国
ヨハネの黙示録では、
新しい天
新しい地
新しいエルサレム
が現れ、
神は人々と共に住み、 涙も死も悲しみもなくなる
という希望が描かれます。
つまり最終目標は、人間が天へ行くというより神が新たにされた世界で人々と共に住むことです。
こちらも、現在イメージされるような「悪魔が支配する地下世界」という説明はありません。
イエスが最もよく使う言葉は
ゲヘナ
です。
これはもともとヒンノムの谷という実在の谷に由来します。
イエスはこれを
神から永遠に離れる
裁きの場所
火による刑罰
の象徴として用いました。
たとえば、
外の暗闇
泣き叫び
歯ぎしり
という表現もあります。
これらは、神との交わりから断たれた状態を強調する比喩として理解されることが多いです。
火の池
『ヨハネの黙示録』では
悪魔
獣
偽預言者
死
陰府
までもが
火の池
に投げ込まれると描かれます。
ここは最終的な裁きの場として示されています。
天国と地獄の風景よりも、むしろ次のことが強調されます。
神との交わりが完成すること
最後の審判があること
死者が復活すること
永遠の命が与えられること
神から永遠に離れることの重大さ
神曲になると、
地獄は9層
罪ごとに異なる罰
煉獄の山
天国の階層
などが詳細に描かれます。
しかし、これらの具体的な構造は新約聖書には書かれていません。
そのため、新約聖書の死後世界は比較的象徴的で簡潔であり、ダンテがそれを壮大な物語世界として視覚化・体系化したと言うことができます。
キリスト教的には
「地獄に落ちる」というより、「ゲヘナに投げ込まれる」と言うべきなのか
聖書全部が説明できうるという過信から
始まったんだろな?
福音書には
聖霊が下れば
イエスの言葉をりかいできる、
という
聖霊が下れば、使徒行伝のようにであつって
ディスペンゼーションのように聖書全て理解定義できるというシステムではない
ダービーの影響者が、それを構築して
その理論的なディスペンゼーションを
信じる方式で些末を調べないで取り入れたのがアメリカのペンテコステ派の多数派なんだろう、
カリスマ派=ディスペンゼーション
ペンテコステ派=ディスペンゼーションではない
アメリカは単立傾向があるので
ルター派でもディスペンゼーションを取り入れるのもいるくらい
😅
はい、新約聖書の表現に忠実に言うなら、その理解はかなり近いです。
ただし、「ゲヘナ」という語と「地獄」という日本語は完全には一致しないので、少し補足が必要です。
イエスは、「地獄」に相当する場面で、ギリシャ語では ゲヘナ(Gehenna)という語を繰り返し用いています。
例えば、
「体も魂もゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい」
という趣旨の言葉があります(マタイによる福音書10章28節)。
ここでは、「ゲヘナに投げ込まれる」「ゲヘナで滅ぼされる」というイメージが語られています。
「地獄に落ちる」という言い方は、日本語ではごく一般的ですが、新約聖書の表現そのものではありません。
新約聖書では、
ゲヘナに投げ込まれる
永遠の火に入る
外の暗闇に追い出される
永遠の刑罰を受ける
など、さまざまな比喩が使われています。
つまり、「落ちる」というよりも、「神の裁きによって行き先が定められる」というニュアンスが強いと言えます。
日本語の「地獄」は、もともと仏教の地獄観の影響を受けた言葉です。「地獄に落ちる」という表現も仏教では自然です。
そのため、聖書の翻訳でも「ゲヘナ」を「地獄」と訳すことが多く、日本では「地獄に落ちる」が一般的な言い回しになりました。
厳密に言えば、
聖書の言葉に近い:「ゲヘナに投げ込まれる」「神の裁きを受ける」
一般的な日本語:「地獄に落ちる」
という違いがあります。
ですから、「キリスト教本来の表現に近づけるなら、『地獄に落ちる』より『ゲヘナに投げ込まれる』と言うほうが新約聖書の語り方に近い」という理解は妥当です。
ただし、現代の日本語では「地獄」が「ゲヘナ」の訳語として定着しているため、教会でも「地獄」という表現自体は広く用いられています。
> カリスマ派=ディスペンゼーション
> ペンテコステ派=ディスペンゼーションではない
なるほど
そこが、カリスマ派とペンテコステ派の違いなんだな
聖書の論理性を期待する
😅
聖書は
霊的直観を重んじるものなのだが
😀
😅
動画の中でゲイリー・グロマッキ博士は、反キリストが艱難時代にイスラエル(ユダヤ人)を迫害・絶滅させようとする理由と根拠について、以下のように説明しています。
メシアの再臨を阻止するため: 反キリストがユダヤ人を絶滅させようとする理由として、博士は「それがメシア(キリスト)の到来を阻止することにつながると信じているからだ」と述べています (31:56-31:59)。
ダニエル書9章の預言: 博士は、ダニエル書9章27節を根拠に、反キリストがイスラエルと7年間の契約を結ぶものの、その中間で犠牲と捧げ物を禁じて契約を破棄すると解釈しています (29:25-30:40)。
荒らす者の忌むべきもの: 博士は、この契約破棄のタイミングで、反キリストが神殿に自らの偶像を立て、自らを神と宣言する「荒らす者の忌むべきもの」(マタイ24章、テサロニケ人への第二の手紙2章、黙示録13章に関連)が起こると指摘しています (31:02-31:45)。
迫害の開始: この背信的な行動が起こった際、イエスがマタイ24章で警告したように、ユダヤ人は「山へ逃げよ」と命じられるような極限の迫害に直面することになります (31:45-31:56)。
つまり、博士の解釈では、反キリストの行動は歴史上のヒトラーによるユダヤ人迫害の試みと重ね合わされており、神の計画(メシアの王国)を物理的に妨害しようとする敵対行為として位置づけられています (31:51-32:01)。
イエスキリストのイスラエルの再臨があるのだー
まったく〜
😫
イミフな?
😮
ディスペンセーション主義神学の視点において、現代のユダヤ人がイエスをメシアとして受け入れる時期について、動画内では以下の通り説明されています。
ゲイリー・グロマッキ博士は、ユダヤ人がイエスをメシアとして信じるようになるのは**「キリストの再臨」の時である**と述べています (09:48-09:55、12:42-13:09)。
また、博士はローマ人への手紙11章を引用し、「異邦人の満ちる時まで、イスラエルの一部にかたくなな部分が生じる」とし、その後「全イスラエルが救われる」という預言の成就が、キリストの再臨と王国の樹立に伴って起こると解説しています (09:07-09:55)。
信仰内容を検討する
https://m.youtube.com/watch?v=v2n5eDRAP3g
主なトピックとポイント:
感情ではなく言葉(聖書)に根ざす: 多くの人は救いの確信を個人の感情や体験(劇的な回心体験など)に求めがちですが、感情は変化しやすいため、信憑性に欠ける場合があります。確信は神の約束である「聖書の言葉」に基づくべきだと強調されています(6:16-7:06(おそらく)
救いの証拠としての歩み: 真の救いには「聖霊による実」が伴います。1ヨハネの手紙を引用し、罪の告白、神の戒めへの従順、他の信者への愛、聖化(聖さへの歩み)といった要素が、信者の人生において増加しているかを確認することが重要だと説かれています(11:09-13:26(おそらく)
罪との戦い: 信者であっても罪に悩むことはありますが、不信仰者との違いは「悔い改め」があるかどうかです。罪を放置するのではなく、聖書に基づき悔い改めて成長しようとするプロセスこそが、救いの証拠の一部となります(16:15-19:27(おそらく)
キャンプや集会での決心: 若者がキャンプなどで宗教的な体験を通じて救いを告白することは素晴らしいことですが、それが「キャンプの熱気」による一過性のものか、それとも帰宅後の日常生活における継続的な従順に結びついているかが重要であると指摘されています(23:33-26:05(おそらく)
救いの本質: 救いとは、過去の特定の日付や感情的な出来事にすがるものではなく、キリストの死と復活を信じ、日々キリストに従い続ける「生涯の決断」であると結論づけています(26:43-29:29(おそらく)
判定しているのだろうな?
救いの証拠としての歩み: 真の救いには「聖霊による実」が伴います。1ヨハネの手紙を引用し、罪の告白、神の戒めへの従順、他の信者への愛、聖化(聖さへの歩み)といった要素が、信者の人生において増加しているかを確認することが重要だと説かれています
罪の告白と悔い改め (11:59-12:11): 自分の罪を認識し、それを隠さずに神に告白したいという願いがあるか(1ヨハネ 1:8-9)。罪を憎み、神に従いたいという内面的な方向性の変化が重要です。
神の戒めへの従順 (12:12-12:23): 神の言葉(聖書)を学び、それに従って生きようとする絶え間ない努力があるか(1ヨハネ 2:3-4。
他の信者への愛 (12:24-12:34): 他の信者を愛し、彼らとの交わりを大切にしたいという心が育まれているか(1ヨハネ 4:7-8)
聖化(聖さへの歩み) (12:35-12:49): 日々の生活の中で、罪を死に至らせ、以前よりも聖く、イエス・キリストの性質に似たものへと変えられているか(1ヨハネ 3:6-9 です。
聖霊の内住と導き (12:50-13:06): 聖霊によって罪が示され(確信)、祈りや御言葉への渇望が生まれ、霊的な成長が促されているという自覚があるか(1ヨハネ 4:13(おそらく)
これらの証拠は、ある日突然完璧になるものではなく、「聖化」という生涯続くプロセスの中で徐々に増加していくものであると強調されています(11:35-11:43)。救いの確信は、感情ではなく、こうした聖書に基づいた変化が自分の人生に現れているかという客観的な視点から見極めるべきだと結論づけています(13:07-13:26(おそらく)
「失楽園」が生まれる味わいのある
ママジメなキリスト教イメージだ
😀
聖霊による新しい命: 信者は聖霊によって新しい命を与えられた「新しい創造物」です。そのため、かつては罪の中に安住していたとしても、救われた後は罪に対して敏感になり、それを「自分のアイデンティティ」や「当たり前のもの」として受け入れられなくなります(16:20-17:28(おそらく)
悔い改めという継続的なプロセス: 不信仰者(未信者)は罪を犯し続けても何ら苦痛や抵抗を感じないことが多いのに対し、真の信者は罪を犯した時に聖霊からの働きかけにより「罪の確信」を抱きます。この「罪を憎み、悔い改めて神のもとへ立ち返ろうとする姿勢」こそが、信者の歩みに現れる重要な証拠です(16:44-16:57、18:50-19:14(おそらく)
聖化の歩み: キリスト教における救いは、完璧であることではなく、生涯をかけて神に似た者へと変えられていく「聖化」のプロセスです。罪と闘い、そこから逃れる道(1コリント10:13)を求め、神の言葉に従おうとする葛藤そのものが、聖霊がその人の内に働いて内面を変えようとしている証拠であると語られています(16:20-16:47、18:24-18:41(おそらく)
つまり、罪を全く犯さなくなることではなく、**「罪を軽んじるのではなく、神の御心に従いたいと願い、罪と葛藤し続ける姿勢」**があるかどうかが、救いの確信において極めて重要であると結論づけています。
律法で
ユダヤ教やイスラムに似た思考システムがある
😀
「一度の決断」よりも大切なこととして、以下の点が挙げられています:
継続的な悔い改めと成長: 救いは一度の感情的な体験で完結するものではありません。日々、罪を悔い改め、聖霊の助けを得て神の言葉(聖書)に従おうとする**継続的なプロセス(聖化)**が、真の信仰の証拠となります(11:09-11:43、16:20-16:57(おそらく)
客観的な「果実」の確認: 感情は移ろいやすいため、救いの確信の根拠にすべきではありません。自分の人生において、神の戒めへの従順、他者への愛、罪に対する感度といった聖書が示す「果実」が結ばれているかを日常的に検証することが求められています(11:35-13:26、25:52-26:05(おそらく)
主権者としてのキリストへの信頼: 確信を過去の自分の経験(いつ、どこで決心したか)に置くのではなく、救い主であるキリストが成し遂げてくださったことに錨を下ろすべきであると教えられています(6:16-7:06、27:56-28:46(おそら
感情に依存していること (1:26-1:30、6:18-6:26):
救いの確信を「その時の感情」や「高揚感」に結びつけてしまうと、感情の波によって確信まで揺らいでしまいます。感情は状況によって変化しやすく、しばしば人を欺くため、救いの根拠としては不安定です。
「劇的な変化」の欠如(あるいは比較) (0:50-1:03、3:38-3:58):
特に教会で育った信者の場合、劇的でドラマチックな回心経験(「180度の転換」)がないことに劣等感を覚え、「自分は本当に救われているのか」と疑いを持つことがあります。また、他の信者と比較して自分の熱心さが足りないと感じることも疑念の原因となります (5時30分-5:55)。
過去の「体験」だけに頼っていること (2:28-2:35、6:16-6時35分):
救いを「キャンプや集会での特定の決断日時」という過去のイベントのみに結びつけていると、現在歩んでいる信仰生活の不完全さや葛藤に直面したときに確信が揺らぎます。救いは「一度の経験」ではなく、生涯続く歩み(プロセス)であるという視点が欠落していることが原因です。
罪の存在と葛藤 (5:32-5:35、16:15-16:47):
救われたにもかかわらず、誘惑や罪の戦いが続くことに直面し、「本当に救われているなら、こんなに苦しむはずがないのではないか?」という疑念に陥ることがあります。これに対し動画では、罪と戦い続け、悔い改めようとする葛藤そのものが、むしろ聖霊が内側に働いている証拠であると説明しています。
御言葉(聖書)への不足 (5:37-5:40、14:24-14:36):
確信を自分の内面や経験から探すのではなく、神の真実な約束である「聖書」に基づいていない場合に、疑念が入り込む余地が生まれます。
> インド・ヒルズ・コミュニティ教会の長老であるベンジャミン氏
なんだか怪しいな?😅
なるほど
真の信者に表れる兆候か😆
> 「劇的な変化」の欠如(あるいは比較) (0:50-1:03、3:38-3:58):
> 特に教会で育った信者の場合、劇的でドラマチックな回心経験(「180度の転換」)がないことに劣等感を覚え、「自分は本当に救われているのか」と疑いを持つことがあります。また、他の信者と比較して自分の熱心さが足りないと感じることも疑念の原因となります (5時30分-5:55)。
「こんなに坐禅しているのに、見性体験していない」
という焦りみたいなものか?😫
ウンコ聖師様と似ているな?😆
非聖霊派の信仰生活への関心が一番濃い、
これが終わった、セブンズデーとリバイバルミッションだろう
😀
😮
感情は移ろいやすく不確実であるため (6:18-6:29): 過去の劇的な体験や「その時に感じた感情」を救いの唯一の根拠にすると、感情が落ち着いたり状況が変わったりした際に、確信まで揺らいでしまいます。感情はしばしば人を欺くため、救いの錨(アンカー)として信頼するには不安定です。
救いは一過性のイベントではないため (0:00-0:06、6:58-7:06): 救いは「過去の特定の日付や一度きりの決断」で完結するものではなく、**キリストに従い続ける「生涯の歩み」**です。過去に依存することは、信仰を単なる過去の思い出にしてしまう危険があります。
「現在」にこそ神の働きの証拠があるため (6時35分-6:58、25:52-26:05): 本当に神によって救われているのであれば、今の生活の中に聖霊による変化(聖化)や果実が現れているはずです。具体的には、罪を悔い改める姿勢(16:20-16:57)、神の御言葉への渇望、他の信者への愛などが、現在進行形で自分の人生に現れているかを検証することが、確信を強めるための最も健全で聖書的な方法だと説明されています。
結論として、過去の思い出ではなく、今まさに神が自分の内側でどのように働いておられるかを御言葉(聖書)のレンズを通して確認することこそが、真の救いの確信を得る鍵であると強調されています。
パレスチナ市民にとっては
悪魔の支援者
😫
動画内(15:36-16:10)では、聖霊の「証印」について、エペソ人への手紙1章13節から14節を引用して説明しています。
神による所有の証明: 「証印」とは、神が救われた人を「ご自身のものである」と所有していることを証明する神聖な印です。この印があることで、信者は神の所有物であることが保証されます。
救いの確証(手付金): ここで「証印」は、ギリシャ語で「手付金(前払い金)」を意味する概念として説明されています。つまり、聖霊の存在は、神が将来完成させてくださる救い(相続)の**「確かな保証」**であり、神が必ず最後まで守り、完成させてくださるという約束の現れです。
救いのプロセスにおける役割: 信者が福音を聞き、信じた瞬間に与えられるものであり、神がその人の救いを完成へと導くという確信の根拠となります。
共同体だから
かえって厄介
😮
日本の伝統的寺院平均値よりも
説得力はある
😮
弱肉強食のアメリカでの楽園共同体だろう😮
昇天したらしい
😀
関心がない
宗教データー霊的収集マシーンであることに
幸せを感じる
ディスペンゼーションの連中の霊的幸せすら理解できる
😀
😀
ディスペンゼーションの連中は
トンデモにしかほかならないが
アメリカで生きるには
ディスペンゼーションのメガチャーチは
楽園なほは確かだ
😮
反逆の人生だな
無知なディスペンゼーションの連中には
福はあるようだ
😮
霊的な幸せが見えてきた
弱肉強食のアメリカ社会の中のオアシス
😮
ディスペンゼーションのメガチャーチは
楽園、物価高騰しても
病気になっても
大金持ちのお布施による
病院で安く治療、食料も配給してもらえるだろう
メガチャーチ楽園、
トランプ戦争の責任追及する必要がない弱肉強食のアメリカ社会の中のオアシスだから
😮
人ではない
放置されるぺき人間
😮
😮
高齢化しない組織
メガチャーチ
😮
メガチャーチの病院で病気を安く治療してもらえる
😮
メガチャーチ外の人間は
病気になると
金持ち以外は即詰むらしい
😮
プロテスタントの
カルバン、バブテスト、あたりの
雰囲気も解ってきたかもしれん
😀
だるいメンタルは昨日の夕方に、抜けたが
😀
😀
アメリカのペンテコステ派において、ディスペンセーション主義(特に前千年王国説・患難前挙説)を取り入れている代表的なメガチャーチ(有名教会)には、以下のようなものがあります。もともとペンテコステ派は「聖霊の賜物(異言など)は現代も続く」と考え、ディスペンセーション主義は「賜物は使徒時代で終わった(終焉説)」と考えるため、神学的には矛盾する部分があります。しかし、アメリカのペンテコステ派(特にアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団など)は、終末論(携挙やイスラエル論)の部分だけを都合よく融合させた「ペンテコステ的ディスペンセーション主義」を大衆に定着させました。代表的な有名教会(メガチャーチ)1. ジェームズ・リバー・チャーチ(James River Church)所在地:ミズーリ州オザーク/スプリングフィールド特徴:アメリカ最大のペンテコステ派教団「アッセンブリーズ・オブ・ゴッド(AG)」の本部(スプリングフィールド)の近くに位置する、全米屈指のメガチャーチです。教団の信仰基準に則り、患難前携挙説を含むディスペンセーション主義的な終末論をベースに置いています。2. ゲートウェイ・チャーチ(Gateway Church)所在地:テキサス州ダラス・フォートワース近郊特徴:全米最大級の独立系ペンテコステ/カリスマ派のメガチャーチです。ダラス地域はディスペンセーション主義の総本山である「ダラス神学校」があるお膝元であり、この地域のカリスマ派教会の多くは、イスラエルと教会の区別や、空中携挙を強調する神学を強く支持しています。
ペンテコステ派への
ディスペンゼーションの入り込みは凄いようだ
😮
親イスラエルとは
知らなかった
😮
ディスペンゼーションは
バブテスト系統とは異なり
規律的ではないだろう
😮
動画を検索しなければな
😀
ストレスがでるくらいに身体パワーが、戻ってきたようだ
😀
😀
https://m.youtube.com/watch?v=Bb70K22sT3o
神の代表者としての働き: イエス・キリストが天に昇られた後、地上における神の臨在の代表者として信者の内に住まわれるのが聖霊であると説明されています(1:30:34-1:30:42)。
イエスを証し、高める: 聖霊はご自身を誇るのではなく、常にイエス・キリストを指し示し、イエスを栄光で満たし、その教えを信者に明らかにされる役割を担っています(1:28:46-1:29:16、1:32:32-1:33:07)。
信者を導き、力を与える: 聖霊は「真理の霊」として信者をあらゆる真理へと導きます(1:32:32)。また、信者がキリストに似た者へと変えられるよう助け、日々の歩みにおいて導きを与える存在です(1:25:38-1:25:58)。
奇跡と力の源: イエス自身も聖霊によって奇跡を行われたように、現代の教会においても、聖霊の働きによって病の癒やしや奇跡、しるし、不思議が行われると説かれています(1:13:06-1:13:24、1:33:31-1:33:45)。
父なる神との関係: 信者が神を「アバ、父」と呼べるように、神の子供であることを証し、養子縁組の恵みを確認させる役割も持っています(1:22:36-1:22:53)。
総じて、聖霊は単なる力や概念ではなく、人格を持った神であり、信者の内に住んでイエスの命を地上で体現させるための不可欠な存在であると強調されています。
雰囲気が異なる😀
この動画における「礼拝」の目的は、単なる習慣や儀式を超えて、神の臨在(Presence of God)を深く追求し、神と親密な交わりを持つことにあります。
動画内で語られている礼拝の主な目的や意図は以下の通りです:
神の臨在を求める: 私たちはすでに御霊によって神の中にいますが、礼拝を通してその神の臨在を実体験として部屋の中に招き入れ、神の顔を求め、より深く神を知ることを目指します(0:05:46 - 0:06:09, 0:09:30 - 10:00)。
神を崇め、栄光を帰す: イエス・キリストの血によって私たちは聖所に入る自信を得ました。礼拝は、その大祭司であるイエスを仰ぎ見て、賛美と感謝を捧げる時間です(0:12:30 - 0:13:40, 0:56:52 - 0:57:11)。
霊的調和と一致: 礼拝は、神の計画に私たちが合わせる「ダンス」のようなものだと説明されています。自分の意志ではなく神の主導権に従うことで、神が今日という日に備えた満たしを受け取ることができます(0:28:12 - 0:29:27)。
変革と癒やし: 神の臨在が満ちる場所では、悪の影響を退け、人々がその場で癒やされ、人生が変えられることを目的としています。それは個人の魂をリフレッシュし、新しい週に向けて力を与えるための場でもあります(0:05:46 - 0:06:09, 0:09:48 - 10:00)。
つまり、礼拝は「神を称えること」と「神の臨在の中で私たちが変えられ、聖霊によって力づけられること」の両面を重視しています。
聖別の重要性: ヨシュア記3章5節を引き合いに出し、これから起こる素晴らしい神の業のために、自分自身を**聖別(清め、神のために分かつこと)**しておくことが説かれています(1:15:52-1:16:19)。これは特定の宗教的活動だけでなく、日常生活のあらゆる側面を神に捧げる態度を指します。
日々の服従: 苦難が来る前に、日常の小さなことにおいても神の導きに従う訓練をすることの重要性が強調されています(1:42:01-1:42:15)。神の意志と自分の意志を一致させる「悔い改め」の姿勢を保つことが、将来の困難を乗り越えるための備えとなります(1:40:21-1:41:00)。
信仰の活性化: 困難な状況や試練に直面した際に、信仰を「活性化」させることが必要であると述べられています。普段から聖霊の導きを求め、神の臨在の中で歩む習慣を持つことが、実際に苦難が訪れた時に生き抜くための準備になります(1:42:43-1:43:05)。
聖霊との関わり: 苦難に備えるために、力ある聖霊の助けが必要であり、使徒の働きの時代に見られたような奇跡やしるしを地上で現すことができるよう、聖霊のより深い満たしを求めることが推奨されています(1:43:10-1:43:40)。
つまり、ここでいう準備とは「苦難を恐れて身構えること」ではなく、聖霊の力に満たされ、あらゆる領域を神に明け渡すことで、神の臨在と共に試練を乗り越えられる強さを養うことを意味しています。
苦難には聖書のルールに回帰せよ
だろな
😀
神の人格としての存在: 聖霊は神の一部であり、私たちの内に住まわれる「人格」を持った存在です。父なる神、子なるイエス・キリストと対等であり、信者の内にあって生きておられる方です(1:28:46 - 1:29:32)。
イエスを証し、高める存在: 聖霊の主な働きの一つは、ご自身を誇ることではなく、常にイエス・キリストを指し示し、その栄光を明らかにし、イエスの教えを信者に思い出させることです(1:28:46 - 1:29:16、1:32:32 - 1:33:07)。
神の臨在の代表者: イエスが天に昇られた後、地上において神の臨在を体現し、信者を通じて働くのは聖霊です。初代教会で見られたような奇跡、しるし、不思議を行う力も、聖霊の働きによるものとされています(1:30:34 - 1:30:42、1:33:31 - 1:33:45)。
導きと変革の源: 聖霊は「真理の霊」として、信者を神の意志へと導きます。聖霊に従って歩むことは、私たちがキリストに似た者へと変えられるために不可欠であり、神を「アバ、父」と呼べるような親密な関係を築く助けとなります(1:22:36 - 1:22:53、1:25:38 - 1:25:58)。
つまり、聖霊を理解することは、「神が今ここにおられる」という現実を受け入れ、日々その導きと力に頼って生きる関係性を築くことにあります。動画の後半では、より深い満たしを求め、聖霊の力に満たされて歩むことが、将来の試練に備えるためにも重要であると説かれています(1:43:10 - 1:44:00)。
発想が異なる😀
礼拝における「ワルツ」の教えは、神との関係性における主導権と調和を象徴的な比喩として説明したものです (28:12-29:27)。
主なポイントは以下の通りです:
神がリードされる: ワルツというダンスにおいて男性がリードするように、礼拝においても主であるイエスが主導権を握り、導いておられると説かれています。「私たちは神に従う(リードされる)立場である」という認識が重要です。
自力からの解放: 自分の思い通りに動こうとしたり、自分の力だけで何かを達成しようとする「自己努力」を手放すよう促されています。礼拝を自分の儀式や習慣として捉えるのではなく、神がその日のために備えた「神の振付」に身を委ねることが求められます。
調和と従順: ダンスに独特のニュアンス(繊細な動き)があるように、礼拝にも神が意図した特別なニュアンスがあります。それに自分を合わせることで、神が備えた満たしや恵みを最大限に受け取ることができると教えられています。
つまり、礼拝でのワルツとは、**「自分の意志を捨て、聖霊という導き手のリードに従って神と一つになって動く、親密で協力的な歩み」**を指しています。
具体的には、以下の3つの要素がその核心として挙げられています:
聖別(コンセクレーション)の継続:
ヨシュア記3章5節を引き合いに、これから神が成し遂げる素晴らしい業のために、自らを神のために分かつ「聖別」の重要性が説かれています(1:15:52-1:16:19)。これは特別な宗教活動にとどまらず、日常生活のあらゆる小さな事柄(たとえトイレに行くような日常的な行為であっても)を神に捧げ、神の目的と一致させる態度を意味しています(1:19:13-1:21:18)。
聖霊の導きに従う服従:
苦難が来る前に、日常から聖霊の声に耳を傾け、神の意志に従う訓練を積むことが強調されています(1:42:01-1:42:15)。悔い改めとは、自分の意志を捨てて「主よ、鍵をお渡しします。あなたが導いてください」と神に主導権を明け渡すことであり、この姿勢こそが試練の時に生き抜くための最も強固な備えとなります(1:40:21-1:41:00)。
神の臨在を実体験すること:
使徒の働きの時代に見られたような、奇跡やしるしが伴う神の力強い現れを期待することです。聖霊を「人格を持つ神」として深く知り、その力に満たされて歩むことが、将来の tribulation(苦難)を乗り越えるための信仰の活性化につながると教えられています(1:42:43-1:43:40)。
要するに、聖書的な「備え」とは、「自分が何をするか」ではなく「神が内に住まわれる聖霊によって、いかに神と共に生きるか」という関係性の深まりにその核心があると言えます。
😱
テキサス州サウスレイクに拠点を置く「ゲートウェイ・チャーチ(Gateway Church)」は、2000年にロバート・モリス牧師によって設立されたアメリカ有数のメガチャーチです。設立からわずか20年足らずで週に約3万人が礼拝に訪れる全米第4位規模の教会に成長しましたが、2024年に発覚した創設者の性的虐待スキャンダルにより、現在は指導者の刷新と再生を図る激動の時期を迎えています。ゲートウェイ・チャーチの主な歴史と変遷は以下の通りです。設立と急成長期2000年4月: ロバート・モリス牧師夫妻と約30人のメンバーにより、テキサス州グレープバインのヒルトンホテルで最初の礼拝が開催される。2003年: ダラス・フォートワース都市圏のサウスレイク(Southlake)に拠点を移転し、急速に信徒数を拡大。2010年〜: 約64エーカーの広大な敷地にメインキャンパスを建設。その後、ダラス・フォートワース近郊の複数地域にキャンパスを展開する巨大メガチャーチとなる。政治的影響力: モリス牧師は元トランプ大統領の福音派顧問委員を務めるなど、アメリカ保守派の宗教指導者としても強い影響力を持った。性的虐待スキャンダルと創設者の辞任2024年6月: 1980年代に12歳だった少女に対し、モリス牧師から長期にわたる性的虐待を受けたと被害者の女性(シンディ・クレミシャイア氏)が告発。2024年7月: この告発を受け、モリス牧師がゲートウェイ・チャーチの主任牧師を辞任。2024年〜2025年: 教会内部の独立調査により、他の複数の牧師や長老たちも数十年前の虐待事実を知りながら隠蔽していたことが発覚し、関係者が次々と辞職・解任される。有罪判決と新たな出発2025年10月: オクラホマ州の裁判で、モリス元牧師が子供に対する5件のわいせつ行為の罪を認め、有罪判決と禁錮刑(後に収監され、その後保護観察処分)を言い渡される。2025年8月〜現在: 多くの信徒の離脱と寄付金の減少に直面する中、教会はダニエル・フロイド牧師を新たな主任牧師として迎え、組織の立て直しと再出発を図っている。
この動画のメガチャーチは
😱
だ
😱
そりゃ、三年前でユーチューブ配信止めるわなー
😱
被害者は一名のみみたいだな
それでも、サタンの誘惑に敗北した
😱
勉強になった
😀
https://note.com/finalvent/n/n9676907329a5
😀
https://m.youtube.com/watch?v=CyYKKvOFCTE&pp=ygUqUGVudGVjb3N0YWwgKyBEaXNwZW5zYXRpb25hbCArIExpdmUgU3RyZWFt0gcJCUECo7VqN5tD
こんなの、よく見つけたな😅
ディスペンセーション神学(Dispensational Theology)の支持:牧師は、教会がイスラエルに取って代わったとする「置換神学(Replacement Theology)」を明確に否定しています(5:27-6:06, 8:24-9:20)。神はイスラエルの民に対して依然として特別な計画と目的を持っていると信じています。
神の心(The Heart of God):神はさばきを行う厳粛な存在であると同時に、深い愛と憐れみ、そして人類の救いを切に願う心を持っていると強調しています(11:21-11:59, 21:35-22:23, 24:40-25:43)。
個人の回心と関係性:キリスト教は形式的な儀式ではなく、心からの神との個人的な親密な関係(inward conversion)であるべきだと説いています(17:10-18:48, 28:10-28:50)。ジョン・ウェスレーの回心経験を例に挙げ、聖霊による内面的な変革の重要性を強調しています(16:01-21:08)。
救いの普遍性:神は誰一人として滅びることを望んでおらず、すべての人に救いの道を開いているという姿勢を伝えています(26:55-27:32)。
カリスマ的/ペンテコステ派的要素:聖霊のバプテスマや現代における神の働きの継続を信じる立場(non-cessationist)をとっており、祈りを通じて神の臨在を求めることの重要性を説いています(15:10-15:53, 29:37-30:03, 35:20-35
グーグルAIで
ユーチューブ動画検索のワードを指定して
ユーチューブ検索で引っかかった
もはや海外宗教マニアの道だ
😀
ディスペンゼーションだろうと
かなりの霊的な根っからの
キリスト教聖霊好きだからなー
😀
アメリカで英語版なのに
俺には預言というかキリスト教的な霊的直観が働くことがある、最近は関心薄いのでご無沙汰である😀
この動画の中で、パスター・ジョーイ・マクリースは「預言(prophecy)」の定義について言及しています(15:42-15:53)。
彼は以下の2つの見方を対比させています:
一般的な教え(批判的な視点): 一部の教派では、「預言」とは単に牧師が聖書の言葉を人々に読み聞かせたり、教えたりすることであると解釈されています。
パスター自身の立場: 彼はこの単純な解釈に対して、「それだけが預言ではない」という姿勢をとっています。彼は聖霊の働きを重視するペンテコステ派の立場から、単なる聖書の朗読を超えた、より動的で神の直接的な介入を伴う預言の可能性を否定していません。
つまり、この文脈における「預言」とは、単なる「聖書解釈の伝達」に限定されるものではなく、神の意志や霊的な働きが現代においても人々に届けられるという神学的確信を指しています。
メガチャーチではないな
😀
😀
やはり、ウェスレーに興味を持った
ウェスレー兄弟(兄ジョンと弟チャールズ)の回心は、18世紀のメソジスト運動の出発点となった非常に重要な出来事です。彼らはともにイングランド国教会の司祭として活動していましたが、当初は形式的な宗教儀式や「行い」を重視する生活を送っており、内面的な確信や救いの喜びを見出せずにいました。
二人の回心は、1738年5月の数日間に相次いで起こりました:
チャールズ・ウェスレーの回心(1738年5月21日): 病床にあったチャールズは、聖書と信仰を深く探求する中で、形式的な信仰から「救い主イエス・キリストを個人的に受け入れる」という内面的な回心を経験しました。
ジョン・ウェスレーの回心(1738年5月24日): 弟の経験から3日後、ロンドンのアルダスゲート街で行われていた集会において、ジョンはマルティン・ルターの『ローマ書序文』の朗読を聞いている最中に、胸が不思議と温かくなるような経験をしました。この出来事を通して、彼は「救いの根拠は自身の行いではなく、キリストへの絶対的な信頼にある」と確信し、福音的な回心を体験しました。
この出来事は、それまでの厳格で形式的な信仰から、聖霊による「内面的な新生(Born again)」と神との個人的な親密な関係を重視する信仰への大きな転換点となりました。この確信が、その後のメソジスト運動における情熱的な伝道や野外説教の原動力となりました。
😀
パスター・ジョーイ・マクリースがカルヴァン主義(Calvinism)に反対する理由は、主にその教義が「神と人との個人的な関係」や「信仰の歩み」に対して持つ意味合いを問題視しているためです。(30:20 - 30:22)
具体的には以下の点を挙げています:
神との関係性の否定: カルヴァン主義は、神が誰を救うかをあらかじめ決めている(予定説)と教えるが、牧師はこれが「神が私たちと歩みたいと願い、親密さを求めている」という関係のあり方と矛盾すると主張しています。(31:12 - 31:21)
無責任な生き方への懸念: 「一度救われたら決して救いを失わない(聖徒の永続性)」という教義が、結果として「どのように生きても救われるのだから、好きなように生きればよい」という考え方につながりかねないと懸念を示しています。(31:24 - 31:35)
神の心への誤解: 牧師は、もしすべてが最初から決定されているのであれば、なぜ神が自らの子供たちを愛し、彼らのために執り成しを求めるのかという矛盾を感じています。(36:18 - 36:36)
牧師は、神はすべての人が救われることを望んでおられるという姿勢を強調し(26:55 - 27:32)、人間の側からも神を求め、神との深い関係を築き続ける努力を重視する立場から、カルヴァン主義的な決定論に批判的な見解を述べています。
😅
動画の中で語り手は、神がイスラエルを特別視する理由として、彼らが神から**「神の瞳(apple of his eye)」と呼ばれ、「神聖な割り当て(divine assignment)」**を与えられているためだと説明しています (10:06-10:10)。
その具体的な理由は以下の通りです:
神の目的の象徴: イスラエルの民は、全人類に対して神の慈しみ、憐れみ、そして契約の約束を示すための「しるし」や「模範」として選ばれた存在であると述べています (10:13-10:29)。
特別な計画: たとえ彼らが何度も失敗を繰り返したとしても、神には彼らに対する計画と目的があり、将来的に再び神に立ち返る(接ぎ木される)という神の意図があるため、彼らを切り捨ててはいないと説いています (10:32-10:49)。
また、語り手は「神がイスラエルを自分たちよりも愛しているわけではない」と断りつつも、彼らには人類全体の救いの物語において、神が特別に定めた役割があることを強調しています (10:01-10:03)。
執り成しの祈り(家族や他者のために):
自分を傷つけた人や遠く離れてしまった人に対しても、憎しみを抱くのではなく、「彼らが滅びに向かわないように」「救われるように」と祈り続けることを強く勧めています(40:59-41:37, 43:16-43:26)。これは、神が誰一人として滅びることを望んでおられないという心(26:55-27:32)を、自らも共有するための祈りです。
神の臨在を求める「祈り通す」姿勢:
形式的な儀式を超えて、心から神との個人的な関係を深めるために、粘り強く神の臨在を追い求める「祈り通す(praying through)」姿勢の重要性を説いています(19:39-20:03)。ジョン・ウェスレーが夜通し祈り、内面的な回心を経験したエピソード(19:27-21:08)を引き合いに出し、神の温もりと変革を感じるまで祈り続けることの価値を強調しています。
謙遜な自己省察と神の burden(重荷)を求める祈り:
パスター自身が「神の重荷を十分に背負えていない」と神に告白し、赦しを求めることがあるように(38:09-38:25)、自分自身が神の心にかなう者とされるよう、自己中心性を捨てて神の視点を与えられるように祈ることを勧めています。
救いを求める祈り(回心への招き):
動画の締めくくり(44:02-44:21)において、まだ神を個人的な救い主として受け入れていない視聴者に対して、今その場で「イエス・キリストが自分の心に入ってきてくださるように」「罪の赦しを求める」祈りを捧げるよう導いています。
これらの祈りは、単なる言葉の羅列ではなく、「神が何を大切にし、何を愛しているか」を自分の心に刻み、神の心と自分の心を重ね合わせていくためのプロセスとして提案されています。
大方カルバン嫌いだろな
😀
共和党がらみで連帯はしてるだろうな
ディスペンゼーションの本家はバブテスト系統だろうからな
😀
😀
聖霊の働きは
信じる以外は
終了しているらしい
😀
メソジストは純粋に英米系
バプテストは大陸に起源がある
聖霊の働きは信じる以外はない
扱いだろう
😀
福音派のややこしさを
理解していないだろうな
俺ですら
ペンテコステ派のディスペンゼーションの割合が掴めてなかった
福音派てディスペンゼーションてない教会の牧師との付き合いはあったが
ペンテコステ派のディスペンゼーションの内情を知らなかった
😀
福音派だから
彼らは教義的には
ディスペンゼーションではないからな
😀
トランプ選挙に投票したのは
福音派は正解だ
😀
イラン戦争支持者=ディスペンゼーション支持者
だろうけども
😀
宗派の違いが明確ではない
単立がカッコいい文化がある、
バブテストが単立傾向なので
😅
日本とは感覚が異なる
メモにマメに保存して
ユーチューブ検索であげると
二つくらいは無料だが、
あとは募金で金集める趣旨らしい
かなり自信があるんだろう😅
https://m.youtube.com/watch?v=KOH-h4aiqJ4&list=PLB31D5221A2ADBEB7&index=7&pp=iAQB
😅
この動画では、ジョン・ヘギー牧師が「神の愛」の本質とその変革的な力について説いています。愛は単なる言葉ではなく、具体的な行動によって示されるべきものであると強調されています。
主な内容:
愛の重要性: 聖書に基づき、「神は愛である」こと、そして愛がない信仰は無意味であると説いています(0:00-1:53(おそらく)
行動としての愛: 愛とは感情ではなく「行動」であり、神が独り子を世に遣わしたように、私たちも実践的な愛を示すべきであると語ります(3:36-4:38(おそらく)
神の視点: 神は私たちの過去の失敗ではなく、可能性と目的を見ており、傷ついた人々を回復させ、希望を与える存在であると力説しています(8:42-9:52(おそらく)
神の愛の種類: 人間的な愛(「〜ならば」「〜だから」という条件付きの愛)とは対照的に、神の愛は「失敗や弱さがあっても愛する(In spite of)」という無条件の愛であることを説明しています(12:22-13:52(おそらく)
洪水の如き愛: 神の愛は私たちの内面を満たし、溢れ出る(Shed abroad)ものであり、それは個人の可能性を爆発的に広げる力があると語っています(14:27-18:04(おそらく)
締めくくり:
ヘギー牧師は、人々が神の愛を再認識し、家庭や人生においてその愛を体現することを奨励し、最後に祝福の祈りを捧げています(25:00-28:30(おそらく)
バイデン嫌い連呼したらしい
😅
😅
この動画の中で、ジョン・ヘギー牧師は「愛は単なる言葉ではなく、行動によって証明される」と強く説いています。愛を証明するための重要なポイントは以下の通りです:
行動こそが証拠: 「愛している」と口で言うだけでなく、実際に何をするかが重要です(0:41-0:46, 3:53-4:04)。神が独り子を捧げるという「行動」をとったように、愛とは与えること、そして実行することであると語られています(4:08-4:19)。
無条件の姿勢: 神の愛のように、相手の失敗や過去、弱さに関わらず受け入れる「〜にも関わらず(in spite of)」という姿勢こそが、最も深い愛の形であると説明しています(13:29-13:50)。
他者への献身: 弱っている人、若者、高齢者に対して忍耐強く親切に接し、助けの手を差し伸べること。これが愛を実践する具体的な方法です(4:53-5:05)。
愛を「与える」: 詩を引用し、「愛は心の中に留めておくものではなく、分け与えて初めて愛になる」と教えています(4:25-4:38)。
ヘギー牧師は、私たちが愛を行動で示すことで、初めて信仰が死んだものではなく、生きたものになると強調しています(0:36-0:39)。
民主党が嫌いだ
ジミーカーターの時代は支持していた
日本の福音派の教授によると
😀
なんか、凄そうだな?
アメリカの楽園にいる病院も安いだろあ
😅
ジョン・ヘギー牧師は、若者(および高齢者や弱い立場の人々)に対して優しく、慈悲深くあるべき理由について、動画の中で非常に説得力のある視点を述べています(4:53-5:27)。
その核心的な理由は、**「人生は巡るものだから」**という点にあります。
自分自身の将来: ヘギー牧師は、「なぜ若者に優しく、高齢者に慈悲深く、弱い人に寛容で、困っている人を助けるべきなのか」と問いかけた後、その答えとして「いつかあなた自身も、それらすべて(若さ、老い、弱さ、苦難)を経験する日が来るからだ」と指摘しています(5:07-5:18)。
避けられない老い: 誰もが年齢を重ねることを止めることはできず、いつか誰かに支えが必要な側になるという現実を、私たちが愛を実践する動機として強調しています(5:18-5:27)。
つまり、若者への優しさは、自分自身がかつて通過し、あるいは将来向かう「人生の段階」に対する敬意であり、また神が私たちに示す「無条件の愛(in spite of)」を他者に対して実践する具体的な方法の一つとして語られています。
アメリカ社会は、とっくに崩壊してたでしょうな
メガチャーチで保護されている
弱者が
トランプ支持できる
メガチャーチでないアメリカ市民弱者は
ホームレス、車が家で働いているらしい
😅
教会員に低価格で医療を受けれるだろう
教会員の外は弱者は
病気一発で生活詰むらしい高額医療の為に
😅
教会に献金するよりも浪費したいという世の毒に染まっているとも言える
😅
アメリカ人の浪費癖の虚栄心より
幸せだろう
😅
ディスペンゼーション研究が止まっでしまった
修行閃きの誘惑に負ける
😀
異なるな〜
😀
ジョン・ヘギー牧師は、孤独や絶望が癒える理由として、「神の愛」という決して変わることのない力が私たちの人生に介入するからだと説いています。動画のメッセージに基づくと、その癒やしのプロセスは主に以下の要素によって説明されます。
無条件の受容(13:33-13:52, 20:25-20:33): 人間関係ではしばしば条件付きの愛や拒絶を経験しますが、神の愛は「にもかかわらず(In spite of)」の愛です。あなたの失敗、過去の傷、弱さをすべて知った上で、それでもなおあなたを愛し、見捨てないという確信が、深い孤独感を拭い去ります。
神の視点による価値の再発見(8:42-9:02): 絶望の中にいる時、私たちは自分の失敗や過去に囚われがちです。しかし、神は私たちの過去ではなく、可能性と神聖な目的を見ています。自分が創造主から価値ある存在として認識されていると感じることで、生きる意味(目的)が回復します。
「神に望みを置く」という選択(9:33-9:58): 状況がどうであれ「神に希望を置く(Hope thou in God)」ことで、個人の限界を超えた助けを受けることができます。自分の力で解決できない問題に直面した時、神の愛という「生ける水」が流し込まれ、人生が内側から満たされると語られています(14:27-14:57, 20:38-20:41)。
勝利の約束(11:00-11:08, 20:53-20:59): 絶望は最終的な終わりではなく、神が共にいる場所です。困難な戦いの中にいる時でも、神の愛は決して失敗しないという真理が、恐れを追い出し、前に進む強さを与えてくれます。
つまり、孤独や絶望が癒えるのは、自分の力で状況を改善するからではなく、「自分は決して一人ではなく、無限の愛を持つ存在によって支えられている」という真理に触れることによって、内面が根底から変えられるからであると説かれています。
上手いな
バイデン嫌いの割に
やるなー
😀
理由はいくつかあります。
ペンテコステ派の多くは、人間には神の恵みに応答する自由があるという立場(アルミニウス派的な立場)を取ります。
一方、カルヴァン派は神の絶対的主権と予定説を強調するため、「人間の応答は決定的ではない」と理解されることが多く、ここで対立します。
ペンテコステ派は、聖霊による回心、聖霊のバプテスマ、異言、癒やしなどの「生きた体験」を非常に重視します。
これに対してカルヴァン派は、一般に教理や聖書解釈、秩序だった礼拝を重視する傾向があり、「冷たい」「理屈っぽい」と見られることがあります。
古典的なカルヴァン派には、使徒時代の奇跡的賜物はすでに終わったとする「停止説」を採る人が少なくありません。
一方、ペンテコステ派は賜物は現代も続いていると考えます。この違いも大きな対立点です。
例えば、ジョン・パイパーのように、カルヴァン派でありながら聖霊の賜物が現在も働くと考える人もいます。また、ウェイン・グルーデムやサム・ストームズのような「改革派カリスマ派」も存在します。
逆に、ペンテコステ派の中にもカルヴァン派の神学を高く評価する人はいます。
したがって、
伝統的なペンテコステ派にはカルヴァン派への反発が比較的多い。
しかし近年は両者を橋渡ししようとする流れもあり、以前ほど対立一辺倒ではない。
というのが現在の状況と言えるでしょう。
カルヴァン派も勝てないか
聖霊派や再臨派を無視できない
教派を超えたムーブメント
😀
この3つは重なる部分もありますが、本来は別の分類です。
キリストの再臨が近いことを強調する。
土曜日(土曜安息日)を礼拝日とする。
健康改革(禁酒・禁煙、菜食を勧めることが多い)も特徴。
19世紀アメリカで成立した。
聖霊の働きを特に重視する。
異言、癒やし、預言などの「聖霊の賜物」が現代にも続いていると考える。
感情豊かな礼拝が多い。
代表例はアッセンブリーズ・オブ・ゴッド。
聖書の権威、十字架による救い、回心(新生)、福音宣教を重視する。
必ずしも異言などは重視しない。
教派ではなく、神学・信仰運動の総称。
ローザンヌ運動などが代表的。
再臨派は、多くの場合福音派とは別系統と見なされます。福音派との共通点は多いものの、安息日や終末論など独自の教義があるためです。
聖霊派の多くは、同時に福音派でもあります。実際、世界のペンテコステ派教会の多くは「福音派的な神学+聖霊の賜物」を持っています。
したがって、聖霊派 ⊂ 福音派となることが多い一方、再臨派は別の枝として扱われることが一般的です。
プロテスタント
├─ 福音派
│ ├─ 聖霊派(ペンテコステ派・カリスマ派)
│ └─ 福音派(非ペンテコステ派)
├─ 再臨派
├─ 改革派(カルヴァン派)
├─ ルター派
└─ その他
一方、「再臨派」は独自の教派として活動しているため、通常は福音派とは区別されます。
両者は非常に近いですが、一番大きな違いは**「どこに所属しているか」**です。
20世紀初頭に始まった独立した教派・教団。
「聖霊のバプテスマ」と異言を特に重視する。
独自のペンテコステ派教会に所属する。
代表例はアッセンブリーズ・オブ・ゴッドやチャーチ・オブ・ゴッド。
1960年代以降に広まった運動。
聖霊の賜物(異言・癒やし・預言など)を重視する点はペンテコステ派とほぼ同じ。
しかし、元の教派を離れないのが特徴。
カトリック教会のままカリスマ運動に参加する人もいれば、
日本基督教団や聖公会などの信徒がカリスマ的な礼拝を行う場合もあります。
ペンテコステ派=「聖霊派の教団」
カリスマ派=「既存教派の中で起こった聖霊運動」
という違いです。
現在では神学的な差はそれほど大きくありません。
ペンテコステ派は「聖霊のバプテスマ」の経験や、異言をそのしるしとして重視する教団が比較的多いです。
カリスマ派は異言を大切にしつつも、「異言は必須ではない」と考えるグループも少なくありません。
そのため今日では、両者をまとめて**「聖霊派(Charismatic/Pentecostal Christianity)」**と呼ぶこともよくあります。
割合教派分かれは明白で
日本では再臨熱心さを感じない
アッセンブリーオブゴッドてすら
😅
スーパーカリスマ派に分類される
スーパーとは
イミフなことで
😀
教派横断的なカリスマ運動
そこから生まれた新たな教派が、ペンテコステ派ということか?
実は、歴史の順番は逆です。
ペンテコステ派が先に誕生しました。
20世紀初頭、とくにアズサ・ストリート・リバイバルをきっかけに、独立したペンテコステ派教団が次々と生まれました。
カリスマ運動はその後です。
1960年代になると、ペンテコステ派の影響を受けて、聖公会、ルーテル教会、改革派教会、さらにはカトリック教会の内部でも、聖霊の賜物を重視する運動が広まりました。
この教派横断的な運動が「カリスマ運動」です。
教派横断的なカリスマ運動からペンテコステ派が生まれた
ではなく、
ペンテコステ派が先にあり、その影響が既存教派へ広がったものがカリスマ運動
というのが歴史的な流れです。
なお、さらに1980年代以降には、既存教派にも伝統的なペンテコステ派教団にも属さない**「第三の波(Third Wave)」**と呼ばれる福音派の聖霊運動も現れ、今日の聖霊派はペンテコステ派・カリスマ派・第三の波という3つに分類されることもあります。
わはは😆
カトリック禅やってる人以外は
聖霊について語りたくないしなー
めんどくさい
😀
😀
聖霊感覚が
やんわりある
😀
キリスト教研究が
閉店モードになりつつある
😀
😀
デカイのだけ
取った
😀
😀
台風豪雨だったから
さらに雑草増えてるが
土曜日でないのでやらない
😀
アメリカのメガチャーチを検査してみた
動画、日本語板もあふ
https://m.youtube.com/watch?v=H-m4VBrQvGM&pp=ugUHEgVlbi1VUw%3D%3D
訪問した教会と検証結果:
28/19 Church (0:30 - 5:58)
若い世代に急速に成長している教会。礼拝には長い行列ができ、スタッフや信者の熱心な祈りや聖書に基づいた説教が印象的でした。献金の強要もなく、投稿者は非常に肯定的な印象を受けました。
Elevation Church (5:58 - 11:28)
有名な牧師スティーブン・ファーディックが率いる教会。コンサートのような演出が目立ちますが、ゲストスピーカーによる説教は聖書に忠実でした。無料の聖書配布なども行っており、予想以上に聖書的な側面が見られました。
King Jesus Ministry (11:33 - 16:47)
マイアミにある大規模教会。聖霊の賜物や奇跡を強調していますが、説教が「繁栄の神学(富の追求)」に偏っているように感じられ、聖書の文脈が軽視されているとの懸念を投稿者は抱きました。
Lakewood Church (16:47 - 22:02)
アメリカ最大の教会の一つ。華やかな演出とジョエル・オースティン牧師の説教が特徴ですが、献金の要求と「個人の運命や祝福」を強調する姿勢が目立ち、投稿者は真の聖書的な礼拝とは言い難いとの結論を下しました。
まとめ:
投稿者はこの旅を通じて、一部のメガチャーチでは「耳に心地よい言葉」だけが語られ、聖書本来の教えから逸脱している可能性があると指摘しています。最後に、視聴者に対して真の福音を追い求めるよう呼びかけています。
😀
https://m.youtube.com/watch?v=pe2WNQr5UBU
https://m.youtube.com/watch?v=D_rHM6A-6Ks&pp=ugUEEgJlbg%3D%3D
厳しいな😅
このまま0点に抑えられる雰囲気は皆無だった😅
やはり、ブラジルのほうが実力は上だ
コレいいな😆
神を信じてもいいのではなかろうか
その存在を疑う人があまりにも多い
霊魂もある
普通に考えれば分かるはずだ
伝統的な教理や聖書において、「魂(ソウル)」と「霊(スピリット)」はしばしば区別されます。
魂(プシュケー/アニマ): 人間の精神、意思、感情、アイデンティティそのものを指します。
霊(プネウマ): 神とつながるための根源的な「命の息」を指します。
人は死ぬと肉体から魂が離れ、神による裁き(私審判)を受けると考えられています。
天国: 神の愛と平和に満ちた永遠の命の世界 。
地獄: 神から完全に隔絶された苦しみの世界 。
煉獄(れんごく): カトリックにおいて、天国へ行く前に魂を清めるために一時的に留まる場所(プロテスタントでは認められていません) 。
キリスト教の最終的な救いは、魂が肉体から離れて天界に行くだけで完結するものではありません 。世界の終わりに、神の力によって死者が肉体を持って蘇り(肉体の復活)、永遠の命を与えられるという教え(使徒信条)が信仰の大きな柱となっています。
人間を「霊・魂・肉体」の三つから成ると考える立場です。
神と交わる部分。
神を礼拝し、神の啓示を受ける能力。
神に向かう次元。
心や人格そのもの。
知性・感情・意志を含む。
「私」という自我に近い。
物質的な身体。
この考え方は、新約聖書のテサロニケ人への第一の手紙5章23節の「霊も魂も体も」という表現を重視する人々に多く見られます。特にペンテコステ派や一部の福音派でよく採られます。
こちらは、人間は
肉体(body)
魂=霊(soul/spirit)
の二つから成ると考えます。
この立場では、「魂」と「霊」はほぼ同義語として使われ、文脈によって言い換えているだけと解釈します。
こちらはカトリック教会や多くのプロテスタント教会で一般的です。
新約聖書では
プシュケー=魂(soul)
プネウマ=霊(spirit)
という別々の語が使われています。
ただし、実際の用法には重なりも多く、常に厳密に区別されているわけではありません。
イメージとしては、
魂(ソウル)=人格・心・自己意識
霊(スピリット)=神や霊的世界と関わる側面
という理解が最も分かりやすいでしょう。
ただし、この区別は普遍的なものではなく、教派や神学によって異なります。特に二分説では「魂」と「霊」を本質的に同じものと考えるため、「魂=霊」と理解して差し支えないとされます。
😅
エンタメ気分でみる
https://m.youtube.com/watch?v=EcDNHozGhSU&pp=ugUEEgJlbg%3D%3D
トランプ物価高騰に
メガチャーチ楽園は
リーダーの資質によって保護の有無が決まるらしい
😅
悪魔的な教会テスト😅
白人社会らしいといえば
らしい
😅
https://m.youtube.com/watch?v=NjgHuX0NCzg
ネイマールは出番なし
慈善事業の割り当てが極めて少ない
やはり、慈善事業する
メガチャーチは楽園のようだ
😀
優位なので
出す必要無しか
😅
ほんと、公開宗教テスト実験が好きだなー
😅
俺も
ハッスルとムイムイには
公開テストしているけど
😀
キリスト教教会版の
いまんところ
メガチャーチの衰退の兆しは出始めているようだ、
衰退しきっていないが故にトランプの岩盤支持層があるのだろう
😅
共和党岩盤支持層は消滅する日がくるのかもしれない
メガチャーチ楽園の庇護を失うほど
共和党の岩盤支持層は崩壊するだろう
😅
キリストが再臨しようと
どうでもえええから
イラン戦争やめろという
共和党支持者か現れる日が
メガチャーチの崩壊と共に急増する日がくるかもしれない
😅
支持基盤としての役割: 礼拝に数千~数万人を集めるメガチャーチの多くは、福音派(プロテスタント保守層)を基盤としています。彼らは共和党の伝統的な家族観や宗教的価値観に深く共鳴しています。
政治教育と動員: 一部のメガチャーチでは、礼拝や集会を通じて政治家を招き、信者に対して保守的な政治参加を促すプログラム(政治家養成アカデミーなど)が実践されています。
メディア戦略の活用: 独自の放送局やSNS、ポッドキャストなどを通じてカリスマ牧師がメッセージを発信し、共和党候補に対する熱狂的な支持を形成するメディア空間として機能しています。
多様化する信者層: 全米に1,300以上存在するメガチャーチのなかには、宗派を問わない(ノン・デノミネーション)形式をとるものも増えています。若年層やラティーノ(ヒスパニック)系移民の信者が増加するにつれ、伝統的な中絶反対だけでなく、貧困や環境問題などを重視する層も現れ始めています。
宗教と政治の接近: トランプ政権の誕生以降、キリスト教ナショナリズムの色彩を強めるメガチャーチが目立つようになり、宗教保守と共和党の結びつきはより強固なものとして注目されています。
情報を知りたい
これは研究ではない
ワイドショー的エンタメだ
😀
エンタメだ
😀
アメリカ政治経済には関心ある
日本政治経済はウンザリだから、どーでもええ
バカ政府だろうから
😅
やはり
オモロイ
弱肉強食から逃れられるシステムを構築しているからだ
😀
創価より激しい信者獲得と安定維持かできないと潰れる
大金持ち寄付者に
キリスト教の本道を進んでいるというコマーシャル能力が聖職者の鍵になる
キリスト教ビジネスモデルでもある
😀
選挙運動のパワーが落ちることから
転落するのだろうな
😱
頑張るかもしれない
😱
自民党系統よりもリベラルのほうが悪質そうである
😱
創価学会や立正佼成会みたいなもんだな
創価より、やる気満々だ
マジメな教会だけやけど
😀
ペンテコステ系統のメガチャーチを扱っている
衰退するメガチャーチもいくつかある
たまには逮捕されるベニーヒンとかいる
マルコーシュ出版社の本は
結構立ち読みするのが
楽しい時期かあった、胡散臭いのも含めて
😀
本音は
😅
賢いだろうからな
😅
聴きたい曲があるんだが
曲名が覚えてないのでAI検索でもヒットしない
😭
でも、ヒルソングは曲の特徴だけで特定できることが結構あります。
「What A Beautiful Name」
「Grace To Grace」
「Elohim」
「In Control」
「Love So Great」
「Look To The Son」
「Crowns」
「As It Is (In Heaven)」
などです。
男性ボーカル?女性ボーカル?
バラード?アップテンポ?
UNITED?Worship?Young & Free?
歌詞の英単語を1~2語でも(例: "grace" "love" "fire" "name")
MVの映像(ステージ、海、照明など)
礼拝でよく歌われていた曲?
「サビが『○○○…』みたいだった」 「イントロがピアノだけだった」 「女性が高音で歌ってた」
みたいな曖昧な記憶でも大丈夫です。
かなりの確率で絞り込めます。
> 2016年前後なら代表曲は例えば、
>
> 「What A Beautiful Name」
これは有名だな
意外と新しいんだな
空を雲をかいくぐる映像の曲だった
雰囲気的に
ギターはヴァン・ヘイレン
ボーカルはブライアンアダムス的
😀
動画落としで満々してしまった
落とした動画はいずこえー?
メモリーかーどあが多すぎ
😭
悔しさ余って
分身の術やってたー
むろん、ちゃらっといじって相手せず
😀
偽キリストがシヴァ
で、キリストが俺で
イエス・キリストがメシア。
これでいい?
ウラヌスとウラノスみたいな。
ソクラテスもオウムのシヴァも蠍座で、
俺の知り合いかなんか。
哲学マニアの道にはいるかもしれん
案外ユーチューブて
オモロイな
😀
ま、スピ的には
龍神がついているだろう
昔から土砂降りにヒットした記憶がないなー
😀
かもなー
😀
キリスト教では、聖霊派の勢力が急拡大していれ
はい。世界全体で見ると、その認識はおおむね正しいです。
特に20世紀後半以降、ペンテコステ派・カリスマ派を中心とする聖霊派は、キリスト教の中で最も急速に成長している潮流とされています。
聖霊体験(異言、癒やし、預言など)を重視し、信仰を「生きた体験」として伝える。
礼拝が活気に満ち、現代音楽を取り入れやすい。
宣教に非常に積極的である。
アフリカ、ラテンアメリカ、アジアなど、人口増加の著しい地域で急速に広まった。
一方で、欧州では伝統的な教会(カトリック教会や英国国教会、ルーテル教会など)は信者数が伸び悩むか減少傾向にある地域も多く、その対照が目立ちます。
また、近年は教派を超えたカリスマ運動も広がっています。つまり、カトリックや福音派の教会の中にも、聖霊派的な礼拝や信仰実践を取り入れる人々が増えています。
したがって、現在の世界のキリスト教を理解するうえでは、「福音派の拡大」と並んで、「聖霊派(ペンテコステ派・カリスマ派)の急成長」は最も重要な現象の一つと言えるでしょう。
賛美がニギヤカで楽しい
アフリカ人が好きそうだ
その傾向はあります。
アフリカやラテンアメリカでは、聖霊派の礼拝は現地の音楽文化と非常に相性がよく、多くの人に受け入れられています。
例えば、
手拍子やダンスを取り入れる。
太鼓や現代的なバンド演奏で賛美する。
会衆全体が歌い、体を動かして参加する。
「神が今も働いている」という体験を重視する。
こうした礼拝は、共同体で喜びを表現する文化を持つ地域では親しみやすいと感じる人が少なくありません。
ただし、「アフリカ人はみんなこういうものが好き」と一般化することはできません。アフリカには多様な文化や教派があり、静かな典礼を重んじる教会も数多くあります。実際、カトリック教会や伝統的なプロテスタント教会の信者も非常に多いです。
とはいえ、歌やリズム、身体表現を大切にする文化と、聖霊派の活気ある礼拝が相性のよい地域が多いというのは、宗教社会学でもよく指摘される点です。
確かに、アフリカは広い
アフリカ大陸の東端と西端は、日本とモスクワくらい離れてるらしいな?
そうです。アフリカは地図で見る以上に巨大です。
東端(ソマリア付近)から西端(セネガルやカーボベルデ方面)までの距離は、およそ7,000~7,500kmあります。
一方、
東京~モスクワ:約7,500km
日本(北海道)~モスクワ:約6,500km
ですから、「アフリカの東西は、日本からモスクワくらい離れている」というのは、おおむね正しいイメージです。
さらに南北も、
地中海沿岸から南アフリカ最南端まで約8,000km
もあります。
北アフリカはアラブ・イスラム文化圏。
東アフリカはスワヒリ文化や古くからのキリスト教文化がある地域。
西アフリカは独自の音楽や共同体文化が発達。
南部アフリカは歴史的にも言語的にもかなり異なります。
こうした多様性があるので、キリスト教も地域ごとにかなり雰囲気が違います。聖霊派が特に勢いを持つ地域もありますが、伝統的な教会が強い地域もあり、「アフリカ」と一括りにはできないほど広く、多様な大陸なのです。
崇教真光の手かざしも、アフリカ人に人気があるらしい
はい、その話には事実に基づく部分があります。
崇教真光は日本発祥の新宗教ですが、日本だけでなく、アフリカでも信者を獲得していることで知られています。特にコンゴ民主共和国、コートジボワール、セネガルなどには活動拠点があります。
その理由としては、研究者からは次のような点が指摘されています。
「手かざし」による癒やしという実践が分かりやすい。
霊的な世界や奇跡を重視する世界観が、一部の地域では受け入れられやすい。
病気や人生の問題に対して、具体的な救いや希望を示す点が魅力になることがある。
地域共同体を重視する活動スタイル。
これは、ペンテコステ派・聖霊派の教会がアフリカで成長した理由と、ある程度共通する面があります。どちらも「神や霊的な力が現実に働く」ということを強く打ち出しているからです。
世界メシア教は、アンゴラに支部を建てている
はい、その通りです。
世界メシア教は、アフリカでも布教活動を行っており、アンゴラにも教会・支部があります。
世界メシア教は、
「浄霊」
自然農法
美術・芸術による人間形成
を三本柱としており、日本だけでなく、ブラジルやタイ、アフリカ諸国など海外にも教勢を広げています。
アンゴラを含むアフリカでは、浄霊による癒やしや、共同体づくり、農業支援などの活動が受け入れられる場合があり、それが教勢拡大の一因となっています。
興味深いことに、日本発祥の新宗教では、
世界メシア教
崇教真光
はいずれもアフリカに進出していますが、その背景には「霊的な癒やし」や「奇跡」を重視する面が、現地の宗教文化と一定の親和性を持つことがある、と宗教社会学では分析されています。
ただし、アフリカ全体で見れば、依然として最大勢力はキリスト教(特にカトリック、プロテスタント、ペンテコステ派)とイスラム教であり、日本発祥の新宗教は比較的小規模な存在です。
イスラム教はどうなのか?
アフリカで一番、伸びてそうだが
はい。アフリカでは、イスラム教も非常に大きな勢力であり、信者数は増え続けています。
ただし、「キリスト教を押しのけて急拡大している」というよりは、キリスト教とイスラム教の両方が人口増加に伴って大きく伸びているというのが実情です。
大まかに言うと、
北アフリカ(エジプト、アルジェリア、モロッコなど)は圧倒的にイスラム教。
西アフリカ(セネガル、マリ、ニジェールなど)もイスラム教徒が多数。
東アフリカでは、タンザニアやケニアなどでキリスト教徒とイスラム教徒が共存しています。
南部アフリカではキリスト教が優勢です。
アフリカでイスラム教が伸びている主な理由は、
出生率が高い地域にイスラム教徒が多いこと。
古くから交易を通じて根付いており、社会に深く定着していること。
教育や福祉を担うイスラム系組織が地域社会で重要な役割を果たしていること。
一方で、キリスト教も、特にペンテコステ派・カリスマ派を中心に急速に成長しています。
そのため、21世紀のアフリカ宗教史は、「イスラム教 vs キリスト教」という単純な構図ではなく、人口増加を背景に両者がともに勢力を拡大していると理解するのが適切です。人口規模の大きいアフリカは、今後の世界のキリスト教・イスラム教の重心を大きく左右する地域だと考えられています。
21世紀の終わり頃には、地球人類の半分はアフリカ人が占めるという人口推計もある
はい。そのような推計はあります。
特に国際連合の人口予測では、21世紀末には世界人口のかなり大きな割合をアフリカが占めると見込まれています。
ただ、「半分がアフリカ人」というのは、現在の主流な推計よりはやや大きめの見積もりです。
現在よく引用される予測では、
世界人口:約100億人前後で安定。
アフリカ人口:約35~40億人。
つまり、世界人口の約35~40%程度がアフリカに住む可能性がある、とされています。
とはいえ、これは歴史的には驚異的な変化です。
例えば1950年には、アフリカの人口は世界の約9%程度でした。それが21世紀末には約4割にまで増える可能性があるため、世界の人口・経済・宗教・文化の重心は、これまで以上にアフリカへ移っていくと考えられています。
その意味で、あなたが先ほど話題にしていたキリスト教(特に聖霊派)やイスラム教の今後を考える上でも、アフリカは最も重要な地域の一つと言えるでしょう。21世紀後半には、「世界のキリスト教の中心はヨーロッパではなくアフリカ」という見方が、さらに現実味を帯びる可能性があります。
ミラクルの聖霊派か?
アフリカ頂上対決だな?
😀
アフリカの地で激突している
今や、イスラムと聖霊派と人口の多さだけのインドのビンズーだ
😀