ローマ帝国でキリスト教が公認されたころ、その教義の確立に向けてさまざまな著作が現れた。その中で、正統の教義とされた著作を著した教会の司教らが、4世紀ごろから特に教父(英語では Farthers of Church)といわれた。また、彼らの信仰論、教会論を含め、新プラトン主義の影響を受けた哲学的思考を「教父哲学」といっている。
スコラはカトリック教会およびその修道院に付属する「学校」を意味していた。中世ヨーロッパのスコラ哲学は、このスコラで研究された哲学のこと。ラテン語のこの「スコラ」から英語の school が生まれたが、もとはギリシア語から来ている。ギリシア語で「スコラ」というのは、もともと「暇(ひま)」を意味していた。働かない、ヒマな人が集まるところが「スコラ」だった。
ここではキリスト教における「教理」(英語:doctrine ドクトリン)の語義とその指す内容とを、おもに教派別に扱う。
「教義」(英語:dogma ドグマ)と同義の場合もあれば、異なる意義を持つ場合もある。
キリスト教における「教理」の語義は、教派や時代によって異なっている。
前スレ
【原罪】キリスト教の教理を学ぶスレ【三位一体】
https://talk.jp/boards/psy/1690085205
https://crumblingpages.tumblr.com/post/77279437966/1940-prophesied-war
教師の握り拳(きょうし の にぎりこぶし)
肝心かなめの大事なこと、大切なこと、は、固く握りしめた手のひらの中に握りしめて決して他sに公開する事が無い。とは、よく言われることである。
真理(さとり)は言語によっては、容易に伝わらない。
生まれて以来の知識の蓄積が、それぞれがいろめがねを作り上げてしまっているから、本来の有りようが知識と言うスクリーン越しにしか見えない、からだ。
差別しない、分別しない、これとそれを分けない、である。
生者必滅(しょうじゃひつめつ)会者定離(えしゃじょうり) あえば、かならずのわかれである。
尊公、近頃、如何。(そんこう ちかごろ いかん)
こんにちは、さようなら。
禅は生死(しょうじ)を問う。
問う答えるて問答(もんどう)し師弟は対話し真理(さとり)を伝えてきた
佛とは、真理、ダルマ、法、であって人格的存在ではない。
公案は佛 真理(さとり) を 問う、
「両手で打てば音が鳴る、片手の人が叩く拍手の音を聞いてこい 」
諸行無常、諸法無我、一切皆空、涅槃寂静である。
禅とは、静かにする。
梵: dhy?na, ディヤーナ、巴: jh?na, ジャーナ、禅那:ぜんな)。 禅定(ぜんじょう、静慮(じょうりょ)
こころコロコロ、常が無い。無常である。
さとりとは、真理、法、ダルマである。
達磨さんはインドから中国にやって来たのか、来なかったのか。
ビッグバーン以来の一期一会である。
すずめはチュンチュンこんにちは、である。
道端のタンポポのさよなら、である。
出会えば別れるのである。
問う。「この座敷から坐のままで庭の30メートル先の築山(つきやま)に立つ石灯籠のロウソクの炎(ほのお)を吹き消せ」
中道是空(ちゅうどうぜくう。 ちゅうどうは これ くうなり)
空是中道(くうぜちゅうどう。 くうとは、これ ちゅうどうなり)
空とは、分別(ふんべつ)しないである。
空とは、一如(いちにょ) 一の如し(いちのごとし)である。
色即是空(しきそくぜくう)は空即是色(くうそくぜしき)へと還(かえ)る。である。
埋もれるぞ〜
ローラー様
大暴れだ〜〜
😄
79.
ユーザー
栖雲居士◆dqam8SqGUPdm
9VXYn
まぁ、でおーにしろサテイにしろ、瞬殺論破されて直接対峙出来ないから、こうして必死になって神輿を担ぐ他ない訳だ。
しかし、彼等は神輿が重ければ担げないし、軽ければ同じく瞬殺論破されるというジレンマからは抜け出せない訳で、新陳代謝の如く、軽い神輿を入れ替える他ない訳だ😂
2023/12/24 14:43
【キリスト】気が向いたら書き込むvol.05【三位一体の神】
https://talk.jp/boards/psy/1703168979
たまに
浮上してくる
😄
薬を飲まず、自己免疫力を総動員して 病に対処するなら、呑まず食わずで、動かず、水分補給だけをし横になり寝ている事だね。命がけで病気が勝つか免疫が勝つか、ジッと横になって、任せっぱなしにする事だね。
熱砂(ねっさ)の砂漠を渡って行く人に命をつなぐ水が湧き出るオアシスがあり、安心立命(あんじんりつめい)と知る
真理(さとり)は言語によっては、容易に伝わらない。
生まれて以来の知識の蓄積が、それぞれがいろめがねを作り上げてしまっているから、本来の有りようが知識と言うスクリーン越しにしか見えない、からだ。
差別しない、分別しない、これとそれを分けない、である。
生者必滅(しょうじゃひつめつ)会者定離(えしゃじょうり) あえば、かならずのわかれである。
尊公、近頃、如何。(そんこう ちかごろ いかん)
こんにちは、さようなら。
禅は生死(しょうじ)を問う。
問う答えるて問答(もんどう)し師弟は対話し真理(さとり)を伝えてきた
佛とは、真理、ダルマ、法、であって人格的存在ではない。
原初、禅とは、静かにするの意である。
梵: dhy?na, ディヤーナ、巴: jh?na, ジャーナ、禅那:ぜんな)。 禅定(ぜんじょう、静慮(じょうりょ)
さとりとは、真理、法、ダルマである。
達磨さんはインドから中国にやって来たのか、来なかったのか。
ビッグバーン以来の一期一会である。
すずめはチュンチュンこんにちは、である。
道端のタンポポのさよなら、である。
出会えば別れるのである。
中道是空(ちゅうどうぜくう。 ちゅうどうは これ くうなり)
空是中道(くうぜちゅうどう。 くうとは、これ ちゅうどうなり)
空とは、分別(ふんべつ)しない、分けない、である。 一如(いちにょ) 一の如し(いちのごとし)である。色即是空(しきそくぜくう)は空即是色(くうそくぜしき)へと還(かえ)る。である。
白隠慧鶴禅師(はくいん えかく ぜんじ)
隻手の音声(せきしゅのおんじょう)
両掌(りょうしょう)打って音声あり、隻手になんの声やある。 隻手の声を拈提(ねんてい)せよ。
片手の人が叩く拍手の音を聞いてこい。
と言うだけのもので、無gふぁ と言う言葉を出すだけで なにもかもを切り捨てる事は出来ない。
問いには立ち止まって、検討して行かないと此れにはこれと言う安易な振り分けになる。
理解(りげ)と言えば むしろ お上品になってしまうけれど、寒風不キス武功や、だね。
宗教のインドにおける語源は、如何に生きるか、と言うもので、あたまの中の変換ではない。
神の存在証明を2000年間立ってもまだやってるキリスト教神学の蜃気楼だね。
唯心論、唯物論は、一方の真理を言う、
唯、を取り払う。
心と物が矛盾なく存在しているのが、わたし達の日常なのではないだろ言うか。
尊公、近頃、如何。(そんこう ちかごろ いかん)。 こんにちは、さようなら。禅は生死(しょうじ)を問う。
問う答えるて問答(もんどう)し師弟は対話し真理(さとり)を伝えてきた
原初、禅とは、静かにするの意である。
梵: dhy?na, ディヤーナ、巴: jh?na, ジャーナ、禅那:ぜんな)。 禅定(ぜんじょう、静慮(じょうりょ)
さとりとは、真理、法、ダルマである。達磨さんはインドから中国にやって来たのか、来なかったのか。ビッグバーン以来の一期一会である。 すずめはチュンチュンこんにちは、である。道端のタンポポのさよなら、である。出会えば別れるのである。
空とは、分別(ふんべつ)しない、分けない、である。 一如(いちにょ) 一の如し(いちのごとし)である。
色即是空(しきそくぜくう)は空即是色(くうそくぜしき)へと還(かえ)る。
白隠慧鶴禅師(はくいん えかく ぜんじ) 隻手の音声(せきしゅのおんじょう)
両掌(りょうしょう)打って音声あり、隻手になんの声やある。 隻手の声を拈提(ねんてい)せよ。
片手の人が叩く拍手の音を聞いてこい。
問う。
『 この座敷から坐のままで庭の30メートル先の築山(つきやま)に立つ石灯籠のロウソクの炎(ほのお)を吹き消せ』
真理(さとり)は言語によっては、容易に伝わらない。
生まれて以来の知識の蓄積が本来の有りようが知識と言うスクリーン越しにしか見えない、からだ。
差別しない、分別しない、これとそれを分けない、である
プリマス・ブレザレン(ThePlymouth Brethren)は、保守的、福音主義的なキリスト教運動であり、聖書に基づく教理を目指して興った組織である。
オープン・ブレザレン- 他の教派に対して穏健な態度を取り、信徒同士の交流も行なっているグループ(ジョージ・ミュラーなど)。
エクスクルーシブ・ブレザレン- 教義理解を共有するグループ以外とは、たとえブレザレン同士でも、一切交流を持たない排他的なグループ(ジョン・ダービ)。
以上のとおり、2つの派に分かれることとなった。
このことからもわかるように、ブレザレンの思想はグループや派閥、伝道者ひとりひとりによって異なる場合があり、「ブレザレンの思想」として単純に言い表すことは難しい。例えば、フレドリク・ブルースのように、ディスペンセーション神学を容認しない信徒も存在する。
なお日本では、ブラザレン派・同胞派・キリスト集会と呼ばれることもある。他にプリマス・ブレザレンの影響を受けている教派としてはキリスト同信会などがある。
イングランドの神学者
ジョン・ネルスン・ダービ(John Nelson Darby、1800年11月18日-1882年4月29日)は、イギリスの神学者、賛美歌作家。プリマス・ブレザレンを組織したメンバーの1人。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/c/ca/JohnNelsonDarby.jpg
ディスペンセーション主義(ディスペンセーションしゅぎ、英:Dispensationalism)は、神の人類に対する取り扱いの歴史(救済史)が、七つの時期に分割されるとするキリスト教神学上の思想。この名称の由来は、救済史における一連の「dispensation(経綸、天啓法)」についての理解から来ている。契約時期分割主義、天啓史観、経綸主義とも言われる。ディスペンセーション主義と対極をなす見解に契約神学がある。
神の計画における、イスラエルと教会の分離。イスラエルは地上的神権政治的存在であり、教会は霊的普遍的存在になると考える。
旧約聖書の文字通りの解釈に基づいている。
教会の時代は、来るべきユダヤ的千年王国との間に、挟まれた挿入であり、旧約聖書に預言によって示されていた奥義であると考える。千年王国の到来によって、地上より教会は取り除かれると考える。
パレスチナの相続、神殿の復興、ダビデ王朝における異邦人世界の統治など、イスラエルに関する旧約聖書の預言が文字通り成就すると考える。
ヨハネの黙示録、福音書の終末に関する記述は、全て教会に関する終末論ではなく、イスラエルに対する神の計画としての終末論と考える。
ディスペンセーション神学が主張する、七つの契約時期
天地創造からアダムとエバのエデンの園追放までの時代。
人間は無垢の状態で創造された。しかし、罪を犯した結果、霊的な死、罪の知識、神からの交わりの喪失がもたらされ、エデンの園からアダムとエバが追放された時にこの時代は終わった。
創世記3章7節から8章19節までの洪水の前までの時代。
善悪を知るようになった人間は、自分の良心に基づいて生きるように、与えられていた神の知識に基づいて生きるように要求されていた。しかし、人間の邪悪さが極まったので、神は洪水によって人間を滅ぼすことになった。
洪水後から、神が人間を地の前面に散らされるまでの時代。
人間は肉を食べることが許されるなど、それまでとは違った、生活が始まった。人間が神の権威に対抗して、バベルの塔を建てたことによって、神は人間の言語を混乱させて、人間の文明は散り散りにされた。
アブラハムの召しから、モーセに律法が与えられた時までの時代。
このディスペンセーションはイスラエル人だけのもので、異邦人は前の時代のままである。イスラエルにはアブラハムに啓示された、神の約束を信じる責任が与えられた。
モーセの律法が与えられた時から、ペンテコステのまでの時代。
それまで、イスラエルの民はモーセの律法に支配されていた。神の祝福は、イスラエル人が律法に服従することを条件にしていた。しかし、民は律法を破り、偶像礼拝を行ったために、イスラエル王国は二つに分裂して、北イスラエル王国はアッシリアに、南ユダ王国は新バビロニアへ捕囚になった。さらに、イスラエルはメシヤとしてこられたキリストを拒絶したので、神のさばきをもたらし、エルサレムは崩壊して、イスラエルの民は全世界に離散した。
キリストの死と復活から始まって、現在も継続しており、携挙で終わる時代。
この時代には、人間に課せられた責任は、キリストを受け入れ、聖霊に導かれて歩むことである。救いは信仰のみによることが明白にされた時代である。
恵みの時代はパウロが書簡を書き始めた時から始まったとする、ウルトラ・ディスペンセーション主義と呼ばれる立場もある。
キリストの再臨をもって始まる時代、地上における人間生活最後の千年間の時代。
この時代に、ダビデに約束された御国が建てられる。イスラエル国が回復して、回心する、千年の間、国々の長、また、祭司の国として復活する。御国の時代における人間の責任は、主としてキリストに服従することである。この時代は、サタンが縛られ、悪霊どもの活動が阻止される。
高木慶太によると、ディスペンセーションの重要性は、聖書を適用する際に必要性があると主張する。例えば、 今の信仰者に対しては、恵みの時代に生きる者に対して書かれた部分だけを直接適用すべきであり、他の時代に人々にあてて書かれた部分は、霊的教訓や原則を学ぶことはできても、それを直接引用することはできない。旧約聖書の教えがわれわれに当てはまると考えたり、キリストが公生涯で言われたことは、「律法の時代」の教えであり、すべて恵みの時代に当てはまるということは間違った聖書解釈であると主張する。また、キリストが「悔い改めて、契約の民として御国にふさわしい生き方をせよ」(マタイ10:5-7,15:24)といわれたのは、「御国の福音」であり、「恵みの福音」とは区別される[2]。
契約神学(けいやくしんがく、英:Covenant Theology, Covenantalism, Federal theology, Federalism)は、聖書の記述全体を神学概念のひとつである「契約」 (covenant) の概念によって把握し、説明しようとするキリスト教神学の立場である。主に長老派や改革派の教会で支持され、聖書的契約(Biblical Covenant)の見解と対照的な立場をとる。
契約神学は、全歴史を通じた神と人間の交流、すなわち創造・堕落・救済・終末を、「行いの契約」「贖いの契約」「恵みの契約」と呼ばれる三種の契約の枠組みで捉える。
契約神学は、改革派教会の伝統的思想体系において聖書の記述が従う構造と見なされ、教義上の一説あるいは中心的教義とは別種のものとなっている。
現代的なユダヤ教徒の神学的立場を考慮した場合、契約神学はしばしば優越的置換主義(supersessionism) あるいは置換神学 (replacement theology) と批判的に呼称される。これは、契約神学の教義が、神がユダヤ人に対する契約を破棄し、地上の選民として代わりにキリスト教徒を選択したという解釈であると見なされるためである。
新約における
イエス・キリストとの
異邦人も含む契約で
ユダヤ人を、特化しない
という感じかも、
礼拝戻りだ、
西欧哲学理性的キリスト教的に
賛美歌と
牧師のメッセジー趣味が理解てぎてきた〜
ホント、西欧哲学理性的発想がなければ、
あの既存のキリスト教理解は不能だ
😄
ユダヤ人やイスラエルの神殿に集中するのてはなく
イスラエルの神殿の価値を放棄し、
契約し直した
イエス・キリストによって
ユダヤ人と異邦人の教会という集まりで新しく契約が結ばれるという意味てはないか、と
教会の時代は、来るべきユダヤ的千年王国との間に、挟まれた挿入であり、旧約聖書に預言によって示されていた奥義であると考える。千年王国の到来によって、地上より教会は取り除かれると考える。
>パレスチナの相続、神殿の復興、ダビデ王朝における異邦人世界の統治など、イスラエルに関する旧約聖書の預言が文字通り成就すると考える。
ヨハネの黙示録、福音書の終末に関する記述は、全て教会に関する終末論ではなく、イスラエルに対する神の計画としての終末論と考える。
現代的なユダヤ教徒の神学的立場を考慮した場合、契約神学はしばしば優越的置換主義(supersessionism) あるいは置換神学 (replacement theology) と批判的に呼称される。これは、契約神学の教義が、神がユダヤ人に対する契約を破棄し、地上の選民として代わりにキリスト教徒を選択したという解釈であると見なされるためである。
イエス・キリストの十字架刑で
息が絶えた時
エルサレム神殿の幕屋の布が破れた
これは
エルサレム神殿の価値の終了と捉え、
後のユダヤ人の反乱によって
ユダヤ人のイスラエル地方の自治権を剥奪されたという
イエス・キリストと主の裁きと捉えて
エルサレム神殿の契約終了の解釈の有無が
問題となるやろな、
ディスペンサイドとしては
エルサレム神殿とイスラエルの民全ユダヤ人の契約は今も続いているとしているんやろな
😄
イエス・キリストとの契約をするものに
限定した、
ユダヤ人の有無とは別に
ディスペンゼーション主義は
一度選ばれた現在のユダヤ教徒や国家イスラエルをも契約続行というスタンスが多いよーに見える
😄
西欧哲学理性的スタンダードキリスト教の
霊的認識が
確信に変わった
讃美歌の歌詞や
既存の多数のプロテスタント牧師の傾向も含めて、
😄
パウロはのケースは
ユダヤ教徒の立場だったのに
イエス・キリストの幻で
パウロはイエス・キリストと契約を結んだ、
ということやろな、
使徒行伝にあるな
パウロのイエス・キリストとの契約に至る話が
😄
西欧哲学理性的スタンダードキリスト教は理解してなかったが
新約聖書は読み倒しているので
神学的傾向は
パパっと
掴める
宗教オタクマニア〜
既存伝統宗教で、
キリスト教と仏教は
相当なマニアな自負があるな〜
イスラム教とヒンズー教、神道は
マニア未完だろけどな
😄
大方記憶にあるほうだ
ヘブライ書と黙示録は
飛ばし読みしてるけど
😄
どっから目線キリスト教理解とは
違うのら〜
😄
BSの新大河の時間だ〜
どーする家康は最初から見なかったけど
😄
写真でみる
藤原道長役が
妙にハンサム?
に見える
😫
平安衣装で
ハンサム??
😫
マイナーなのは
オモローそーやからな
まだ
登場してない、
子役担当状態
😄
不気味な安倍晴明から始まった
😄
😄
たぶん恵心僧都も出てくるやろな
😄
😄
スタートや
😫
平安時代のドラマにしては
凄まじい脚本
😫
藤原道長、
柄本佑が
平安衣装で
ハンサム??
😄😄😄😄😄😄😄
ミラクルな予感〜
😄
通常波は
8時だから、
見えるぜ〜
ヒロキー
😄
😄
😄
契約神学とは何ですか?
カベナント(契約)神学は、神は人間とひとつだけの契約(恵みの契約)をかわされ、それも旧約と新約の聖徒で代表するひとつの民とだけ、ひとつの民、教会とすべての一つの計画しかされなかったとするものです。
これらの考えだとカベナント神学を信じる人たちには 預言を文字通り(字義的)でない方法で解釈することが要求されます。
ディスペンセーション主義は、反対に、二つの独特な違いを持つ神学の組織です。(1)聖書、特に預言の一貫した文字通り(字義的)解釈。(2) 神の計画の中でのイスラエルと教会の区別。
旧約聖書でイスラエルに約束された土地、多くの子孫、祝福は「霊的な意味のもの」になり、新約聖書では教会に適用されます。なぜなら、イスラエルが彼らのメシヤを信じず、拒んだからです。
それにカベナント神学を信じる人たちは、預言を通常の意味で解釈しません。例えば、黙示録20章に書かれているキリストの千年王国について、カベナント神学では、1000という数は象徴的な数字で実は文字通りの1000年ではないとします。彼らは今私たちは千年王国にいるといいます。キリストの君臨は、今現在、天で行われている、千年という期間は象徴的なもので、キリストが最初に来られたときに始まり、次に再度来られるときに終わるのだと言います。
聖書の正しい解釈の方法は、通常の意味で読むことです。聖書の箇所が、象徴的/比ゆ的ことばを使っていることを示していない限り、文字通り(字義的)に取るべきです。
聖書がイスラエルのことを語るとき、教会のことを言ってるのではなく、また教会のことを語るとき、イスラエルのことを言ってるのではないのです。神はイスラエルにはあるひとつの計画を持ち、教会に対しては別の計画を持っておられるのです。
また預言について言うと、これまでに成就した預言はすべて、比喩的ではなく文字通り成就しています。キリストが2000年前に来られたとき、旧約聖書のメシヤに関する預言を文字通り成就されました。だから、まだ成就していない預言を象徴的な意味にとる理由は何もないのです。 過去に預言が成就されたように、未来に関する預言も未来に文字通り成就されるのです。
「すると、神はご自分の民を退けてしまわれたのですか?絶対にそんなことはありません。」
その後の11章は、イスラエルは「かたくなになった」、または一時的に傍に置かれ、「一部がかたくなになったのは異邦人の完成のなる時まで」(ローマ書11章25節)であると明らかにしています。
イスラエルが教会になったというのではなく、教会が神の家族の根につがれた(17節)のです。そうして二つから一つのからだにされたのです。(信仰においては統一していても、その二つが源泉としては別個のものとして分離を保ちながら、)
もし、教会がイスラエルを置き換えたというのなら、その比喩的表現は、木(イスラエル)が根こそぎ掘り起こされ、そこに別の木(教会)が植えつけられるということになるでしょう。しかし、枝が木につなぎあわされるという表現はまったく明確です。
これこそ、パウロが25節で言う「奥義」なのです。奥義というのは、それまでに明らかにされなかったことで、新約聖書で明らかにされたことを言います。別のグループの人々が神の選民の一部になるという考えは当時のユダヤ人には未曾有のことでした。
いいえ、神は絶対にご自分の民を退けることはされません。それどころか、25節とその以下の節では、神はすべてのイスラエルを救われると言っています。
ある未来に、「救う者がシオンから出て、ヤコブから不敬虔を取り払う」とあります。ここに、神の選民の未来の救済の約束があります。何とすばらしい計画でしょう!
どおりで、そのことを黙想したパウロが、「ああ、神の知恵と知識との富は、何とそこ知れず深いことでしょう。その裁きは、何と知り尽くしがたく、その道は何と測り知りがたいことでしょう!」と突然叫びたくなったはずです。
神は真実で、哀れみ深いお方です。そのご計画は完全ですから、ある日ユダヤ人も異邦人もともに、一つのからだとして主イエスキリストを礼拝する日が来ます。
>(1)聖書、特に預言の一貫した文字通り(字義的)解釈。
これの理解をファンダメンタルズと呼ぶ
ファンダメンタルズ>ディスペンセーション主義
ファンダメンタルズの教会に2日続けて行った合わせて三軒
😄
ま、ファンダメンタルズは信じてないけど
ローラーちゃまみたいな
おこちゃまではないので
大人としての対応で議論しない、
大河8時に始まるぞ
😄
ファンダメンタルズの教会に
三軒行ってきた〜
😄
19世紀のイギリスではディスペンセーションの神学が洗練され、各地に広がり始めた。その端緒を開いたのが、エドワード・アーヴィング(1792年 - 1834年)である。彼は、イエズス会士マヌエル・ラクンザの預言解釈を積極的に吸収し、預言についての持論を多数著した。またアーヴィングは、預言集会(prophecy conferences)を組織するなどして、黙示的講解の普及に努めた。
そしてアーヴィングの解釈はプリマス・ブレザレンの人たちに受け入れられ、ジョン・ネルスン・ダービ(1800年-1882年)が、その有力な推進者となった。彼は再臨が二つの段階からなると考えた。第一は、聖徒たちの携挙で、患難期が地上を荒廃させる前に、教会が携挙されるという説。(患難前携挙説)第二段階は、患難期の後で、キリストは聖徒たちと一緒に見える状態で地上に現れ、彼らと共に支配されるという考えである。神の救いの計画は、一件の聖約期に分割して理解されるべきであることを強調した。
なお、ディスペンセーション主義にとって千年期前再臨説は不可欠の要素であるが、千年期前再臨説がディスペンセーションに必然的に結びつくわけではないので、ディスペンセーション主義を採用せずに千年期前再臨説を主張する神学者も、イギリスでは多数いた。
南北戦争以降のアメリカでは、ディスペンセーションの考え方が急速に広まっていった。ブレザレンの伝道者ヘンリ・モアハウス、ブラックストン、L・S・シェイファー、C・I・スコフィールドなどが推進した。特に、C・I・スコフィールドの『スコフィールド引照・注解付き聖書』がこの神学の普及に大きな役割を果たした。ムーディー聖書学院、ダラス神学校、グレイス神学校などがこの神学に基づいて教育を行い、ディスペンセーション神学を支持する教職者を多数輩出した。
多くのディスペンセーション主義者は、1948年5月14日のイスラエル国の建国を、旧約聖書のディスペンセーションの成就として理解した。
近年のディスペンセーション主義者は、イスラエルと教会の区別を緩める傾向にある。
ムーディー聖書学院に学び、W.ブラックストンの著書を日本に紹介したホーリネス教会の監督中田重治らが1919年再臨運動で盛んに主張した。1933年のホーリネス・リバイバルの時に、中田らはすぐに再臨が来る可能性を主張した。そして、1933年にディスペンセーションと日ユ同祖論に結びつけた神学を主張したことによりホーリネス教会の分裂を引き起こした。中田の流れを継ぐ、基督兄弟団、基督聖協団は今日もその神学を主張している。
戦後はいのちのことば社、聖書図書刊行会がディスペンセーションのL.S.シェイファー、A.T.リード、ハル・リンゼイなどの神学者の著作を多数紹介して、日本の福音派にはディスペンセーション主義が広く浸透した。20世紀末には再臨が起こる可能性を主張した人々もいた。
日本人でのディスペンセーションの主な推進者に高木慶太がいる。『近づいている人類の破局』『これからの世界情勢と聖書の預言』などの著書によって、ディスペンセーション主義の預言の解釈を広めた。
1995年、ウィットネス・リーによる、ディスペンセーション主義の脚注がついた新約聖書「回復訳聖書」が、日本福音書房より翻訳出版された。この聖書では、ディスペンセーション主義のエコノミー(経綸)による聖書解釈がなされている。
ディスペンセーション主義の歴史観に基づく近未来小説『レフトビハインド』シリーズ(ティム・ラヘイ)が、いのちのことば社より翻訳出版され話題を呼んだ。
> 多くのディスペンセーション主義者は、1948年5月14日のイスラエル国の建国を、旧約聖書のディスペンセーションの成就として理解した。
なるほど
問題はこれだな?
> >(1)聖書、特に預言の一貫した文字通り(字義的)解釈。
>
> これの理解をファンダメンタルズと呼ぶ
>
> ファンダメンタルズ>ディスペンセーション主義
そういうことか
外出先なので見れない😫
神が歴史を通じてどのように人に関わりを持たれたのか、また世界がどのように終わりを迎えるのかについて、聖書全体を概観する見方として、キリスト教会には、二つの神学がありました。一つは「契約神学」、もう一つは「ディスペンセーション神学」です。
アメリカとイスラエルの関係は
ディスペンゼーションが関連する、
日本では
ハーベストミニストリーが有名、
動画がたくさんアップしてる
😄
レフト・ビハインドは
ファンダメンタルズの教会から本を借りて飛ばし読みしたことがある
アメリカ版人間革命
😄
「イスラエル」にこだわらないのが、契約神学
日本では
議論にはなったよーだ
戦後では
ディスペンゼーションは
あんまり議論になっていない
少数のクリスチャンしかいない
JEC教団の牧師は
ディスペンゼーション問題批判の動画をたくさんあげている
昔、たくさん落としたけど
一部見ただけ、
聖書の言葉を比喩として受け取るのが、契約神学
こういうのを知ってる俺ちゃまは
超オタクだ〜
😄
https://m.youtube.com/watch?v=dkdmRBcm7So&pp=ygUu77yq77yl77yjIOODh-OCo-OCueODmuODs-OCvOODvOOCt-ODp-ODs-WVj-mhjA%3D%3D
昔、ハーベストタイムという
テレビ東京系統でやっていたが
親イスラエル過ぎて、
テレビ番組で
イスラエルにキリスト再臨の為にイスラエルにユダヤ人移住を支援しよーという
現在のパレスチナイスラエル地獄の原型の火種を支援してた
中川健一牧師
バプテスト教会系統
😫
危ないな~😫
前に言った
高原剛一郎も
その系統の動画を
バンバンあげているな
😫
必ずといって
中川健一の聖書動画が
すぐあがってくる
ユーチューブでは
目立つ
😫
ファンダメンタルズ>ディスペンセーション主義は、
ファンダメンタルズの一部がディスペンセーション主義ね
😄
「神とイスラエルの契約」にこだわり
イスラエルを建国当初から支えてきた岩盤支持層
結構ディスペンゼーション動画好き
😄
A:「シオニズム」というのもここで定義を論じるにはあまりに膨大な概念ですので、ここではひとまずご質問のエッセンスから、「ユダヤ人や現代のイスラエル国家を積極的に支援する人々は、皆ディスペンセーション主義者か?」という問題としてお答えしたいと思います。
また混乱を避けるため、以下ではイスラエル民族のことを「ユダヤ人」と呼び、「イスラエル」という言葉は現代の中東に存在するイスラエル国家に限定しておきたいと思います。
進化論否定、
だが、
別にファンダメンタルズの教団が全てディスペンゼーションではない
ディスペンゼーションは当然進化論否定、
ロゼもレスしてたよーな
😄
通ってるファンダメンタルズの教会の牧師には
むろん議論は仕掛けない、
ディスペンゼーションのオカシイよね〜
という話はするけど
😄
これは最低でも、17世紀頃からのピューリタニズムに遡ることのできる流れであり、川端光生牧師のいうように「四百年以上続く福音主義クリスチャン本流の運動」といっても過言ではないでしょう。
このことについては、今年邦訳出版がなされたダニエル・ジャスター氏の『イスラエルの情熱』の中で詳しく説明されています。また、ジェラルド・マクダーモット博士は、イスラエルの再建が神の計画でありこれを支持していくという考え方はかのカール・バルトにも見ることができるものと主張しています。当然、バルトはディスペンセーション主義者ではありません。
共和党支持、
いわゆる
福音派である
ディスペンゼーションは
福音派の一部である
😄
ディスペンセーション主義は、ファンダメンタルズの中でもコテコテなんだな~😄
「イスラエルを支持するのは福音派」
という話なら、よく聞くな
日本にある
ディスペンゼーションの教会の
福音交友会という教団は別に現在イスラエルを支持しているわけではなさそう、
元コマの関与する教会の教団も
ディスペンゼーションだろな、
しかも親イスラエルだろな
モロ感はある
😟
聖書を一字一句誤りがない
進化論を否定、
同性愛を否定、カウンセリングで治療すべき、
妊娠中絶を否定。
これでレーガン以後の
共和党支持が固まった、
それにトランプは親イスラエルで便乗した
😫
ある意味、アメリカの創価みたいな共和党支持運動する、
モルモンのロムニーすら応援したぐらい
😫
両方関心があるタイプ
日本政治は安倍で嫌になって関心薄い
😫
「イスラエルを支持しているのは原理主義者」とか
「イスラエルを支持しているのは福音派」と
ニュースではよく言ってるが
それは厳密に言えば正しくない
実際には、イスラエルを支持するのはディスペンセーション主義
原理主義や福音派と重なるところはあるが
原理主義や福音派の一部
ファンダメンタルズの教会に通って、そこの牧師と遊んでいるので
ファンダメンタルズ、原理主義事情に
めちゃんこ詳しい
😄
一切ファンダメンタルズ批判当然らない〜
ローラーちゃまみたいな
おこちゃまではないからな
😄
ディスペンゼーションの勢力は大きいかもな、半分ぐらいはいっとるのでは
ディスペンゼーションとペンテコステ派の組み合わせもあるからな、
ディスペンゼーションは
ある意味教団を超えている、
ルター派ですら、
日本の外国人牧師ですら
ディスペンゼーションな牧師がいるので
教派超えして広がっているだろな
牧師次第、
アメリカは教派にコダワリが薄いらしい、
アメリカのキリスト教事情に詳しい牧師との付き合いあるからな
😄
確かに
アメリカのキリスト教宗派は
宗派を超えたムーブメントが結構あるな~
自動的に
ディスペンゼーション主義になるんやろな、アメリカ人気質は
たぶん
😄
アメリカ牧師は基本自分の所属する教派は書き込まないらしい、
超教派で本を売りたい志向らしい、
所属する教会名だけだな
😄
俺は内部事情が詳しいので
ローラー様は
ハッタリ
😫
俺ちゃまは
大みそかは妙心寺本山勤務の坊主と
境地、修行話できるぐらいだからな
😄
俺というトラに睨まれた
草食獣の
決死野抵抗みたいなもん
😫
キレてるな〜
😫
5chで
暴れ牛状態〜
😫
仏教でもボコボコ
ローラーちゃまは
😫
ボコられても
😫
教父とは、古代の初期キリスト教において、教会の指導者であり、聖書の解釈などで重要な著作を行った人々。その著作は聖書に次いで重要なものとされた。
ローマ帝国でキリスト教が公認されたころ、その教義の確立に向けてさまざまな著作が現れた。その中で、正統の教義とされた著作を著した教会の司教らが、4世紀ごろから特に教父(英語では Farthers of Church)といわれた。また、彼らの信仰論、教会論を含め、新プラトン主義の影響を受けた哲学的思考を「教父哲学」といっている。
ギリシア語で著述した教父にはエウセビオス、アタナシウスなどがおり、ラテン語で著述した教父にはヒエロニムス、アンブロシウス、アウグスティヌスらがいる。特にアウグスティヌスは最大の教父といわれ、その著作『神の国』は、ローマ=カトリック教会の正統性を確立した書として、聖書に次ぐ重要性を与えられている。
4~5世紀、西ローマ時代、北アフリカで活動した教父。『告白録』『神の国』などを著し、ローマ=カトリック教会の理念を確立させ、中世以降のキリスト教に多大な影響を与えた。
新プラトン主義の影響を受け、プラトン的な二元論の世界観をキリスト教の教義体系に導入した。
聖アウグスティヌスは北アフリカの人だった。海洋国家カルタゴがローマ帝国に滅ぼされて以来、北アフリカはローマ帝国の領土だった。
キリスト教は、すでにローマ帝国の国教となっていた。しかし、帝国は東西に分裂し、西ローマ帝国はゲルマン人の民族大移動により滅亡に向かっていた。410年、アラリックが率いる西ゴート人により、永遠の都ローマが占領・略奪された。西ローマ帝国は大きな衝撃を受け、「こうなったのはキリスト教のせいだ」と、反キリスト教勢力が騒ぎ始めた。
そこで、キリスト教を擁護すべく敢然と立ち上がったのが、聖アウグスティヌスだった。彼は、代表作「神の国」を書いてキリスト教を擁護した。
「たとえ、地の国(ローマ帝国)が滅ぶとも、神の国(ローマ・カトリック教会)は永遠である」
これにより、カトリック教会の権威は確立されたのだ。
やがて、聖アウグスティヌスが司教を務める北アフリカのヒッポにも、ガイセリックに率いられたヴァンダル人が押し寄せた。ヴァンダル人によりヒッポが長期包囲される中、病床の聖アウグスティヌスは世を去った。
地の国(西ローマ帝国)は滅びたが、神の国(ローマ・カトリック教会)は、その後も千年以上にわたって西欧社会に君臨することとなった。
11~12世紀に起こり、13~14世紀の中世ヨーロッパにおける思想の主流となった哲学を「スコラ哲学(スコラ学)」という。
スコラはカトリック教会およびその修道院に付属する「学校」を意味していた。中世ヨーロッパのスコラ哲学は、このスコラで研究された哲学のこと。ラテン語のこの「スコラ」から英語の school が生まれたが、もとはギリシア語から来ている。ギリシア語で「スコラ」というのは、もともと「暇(ひま)」を意味していた。働かない、ヒマな人が集まるところが「スコラ」だった。
中世ヨーロッパにおいては、すべての学問は、カトリック教会およびその修道院に付属する「学校」(スコラ)において教えられ、研究されていた。中世ヨーロッパの哲学はこのような「スコラ」における哲学という意味で「スコラ学」と言われる。
その内容は、主としてキリスト教の教義を学ぶ神学を、ギリシア哲学(特にアリストテレス哲学)によって理論化、体系化することであった。その中心的な課題となった論争は普遍論争であった。12世紀におけるスコラ学の隆盛は12世紀ルネサンスの中心的な事柄であり、13世紀のトマス=アクィナスによって大成されることとなる。
13世紀イタリアのスコラ哲学、神学者。『神学大全』を著しスコラ哲学を大成した。
13世紀のスコラ学の代表的な神学者。イタリアに生まれ、ドミニコ会修道士からパリ大学教授となる。アリストテレス哲学をキリスト教信仰に調和させて解釈し、信仰と理性の一致をめざした。
「普遍論争」では正統的な実在論をさらに発展させ、スコラ学(哲学)を大成したと言われる。
その代表的な著作が『神学大全』(1265~73年ごろ)で、神の存在と教会の正当性を論証する大著として、後世のキリスト教に大きな影響を与えた。
「哲学は神学の婢(はしため)」というのは神学をすべての学問の上位におくという彼の思想を表している。
中世のヨーロッパでは、380年にローマ帝国がキリスト教を国教とした。
そのことに象徴されるように、キリスト教の勢力と影響力が増し、キリスト教の司教といった有力者たちが「神」を〝出発点〟とした哲学を展開した。
こうした特徴を持つ哲学は、4世紀から14世紀もしくは15世紀まで続き、「中世哲学」として区分される。
「教父哲学」と「スコラ哲学」が、キリスト教の神学を支える2本の太い柱だ。
地上に手をかざす、現実主義者のアリストテレス
西洋思想は、この2人の巨人の間を行ったり来たり
https://i0.wp.com/paradjanov.biz/works/wp-content/uploads/2015/03/athens01.jpg
キリスト教とプラトン哲学を統合したのが、聖アウグスティヌスの教父哲学
キリスト教とアリストテレス哲学を統合したのが、聖トマス・アクィナスのスコラ哲学
日本では、仏教と神道が神仏習合したが
西洋では、ギリシャ哲学がキリスト教の教義体系にガッチリと組み込まれた
コズモがオモロイレスしてるなあ〜
雰囲気的霊的理性て大事かもな〜
😄
西欧哲学理性的スタンダードキリスト教は
やはり雰囲気的理性が結構大事かと、
そーとーな曖昧なワールドや
それが
西欧哲学理性的スタンダードキリスト教
たぶんね
😄
教理は教派によって多少の違いがありますが、基本的にキリスト教の教義はユダヤ教の律法を基礎としたイエスや使徒の言行から発展したものです。
神には、同一の本質を持ちつつも互いに混同し得ない区別された3つの位格「父なる神」と「子なる神(キリスト)」と「聖霊なる神」があるという考えを「三位一体」と言います。カトリック教会やプロテスタント諸派、正教会といった主要教派のすべてがこの教理を共有しています。
相当理屈コリコリのプロテスタントでつまらんのだけど
最近、西欧哲学理性的スタンダードキリスト教の面白さが解ってきたから
少しは楽しめるかもしれん
ホント
原始キリスト教気分だと
既存のスタンダードキリスト教は
つまらんからな〜
理性志向のツボを
理解してないと
😄
キリスト教では、アダムとイヴの堕罪以降、子孫であるすべての人間は生まれながらにして罪に陥っている存在であるとされています。
しかし、神にして人であるイエス・キリストの死はこれを贖い、イエスを信じる者は罪の赦しを得て永遠の生命に入るという信仰も、キリスト教の根幹をなしている教理のひとつです。
数ある教理を簡潔に述べ、箇条書きにされたものを「信条」と言います。この信条は、洗礼式や礼拝の際に信仰告白のために使用され、いくつか数がある中で、最も重要視されている信条が「ニカイア・コンスタンティノポリス信条」です。
原始キリスト教は
ヨハネの福音書の聖霊の扱いと聖句の理解が
本来はベースなんだろうと
思うけど
既存のスタンダードは
西欧哲学理性的な影響下にあるので
俺的には
とても難解だった
😄
原始仏教 → 倶舎論・唯識論 → 中国・日本仏教の諸派
似とるわ、この流れ
どちらも、やたら難しくなった後で、簡単になった
やはり
西欧哲学的理性がベース、
ま、その信仰自体が世界を支配する法則なんやろな
俺的には
イエス・キリストと言う存在の霊的コンタクトで
聖句の深意を理解して
心理分析と心理問題の解消を
求めておくのが
本来のキリスト教てめはないか?
と
想定している
ま、それが
霊性の神学ではあるんだけど
😄
プロテスタント系だな
聖霊の指令が飛ぶからね、
旧約では主の啓示命令が明白にあるし、
原始キリスト教は
ハッキリとした聖句などの指令啓示我あったんだろう、
その啓示指令が
オリジナリティの方向に
いっちゃたのが
出口王仁三郎
😄
世界、心理分析スタイルが
日蓮以外は、まともにある
日蓮は唯一真理、法華経なので
ある種の西欧哲学理性的な
無条件に従うべき絶対的真理に近い
既存のスタンダードキリスト教は
無条件に従うべき絶対的真理としての設定で発展してきた
心理分析て発展しなかった。
無条件に従うべき絶対的真理としての設定で発展してきた既存キリスト教の
理解の着地点は
俺的には
とても難しかった
今年になって見えてきた
😄
基本心理分析面は
仏教には劣る。
心の分析ね。
絶対的真理、本質で発展してきた
法則、秩序の方向、
故に、アラブ世界や西欧の方が自然科学の発達は早かったんやろ、
😄
どや〜
思想分析センスは
ソシュールと構造主義あたりの
思想分析力ありそーやろ
俺ちゃまは〜
😄
ささやかな主の奇跡による希望があると
昨日の礼拝から
脳内構築して、今、言語化できた
明白な霊的啓示というわけではなく、
ほんと
理性化したキリスト教からだな
明晰な聖句からの霊的パワー探求が低下して
主の理性にシフトしたので
ささやかな主の奇跡の現れから
提示するしか道がない、
昨日、主の提示に
乗って、
スタンダードキリスト教のスタンスを超えない範囲で
明白な、ささやかなな奇跡の
利他行を
教会で
キメてきた〜
真言密教寺院なら、
ブンブンと快刀乱麻に
撃ちまくれるけどな
😄
生活と利他行運用が1月4日で
完全体に近くなった、
真言密教で利他行やれる確信はまったくなかった
😄
それは
旧約聖書において、
主の指示が聞こえない人物達に
ささやかに働く奇跡、
旧約聖書でも
本流は主の霊的な声支持で動いていくのが
新約聖書時代でも通用する
原始キリスト教の
メインだろな
😄
さらに
天台浄土教や山伏も
それ相応な
身口意の生活運用ができる
原始仏教で言えば、
ローラー様にできない
正語
😄
天地創造・神様が6日間で世界を造られる(休憩を入れて7日)
アダムとエバ・初の人類”アダムとエバ”が、禁断の実を食べてしまいエデンの園を追放される
・これにより、人類は罪(原罪)を背負っていくことに
カインとアベル・”カインとアベル”は、アダムとエバの間に生まれた人類初の兄弟
・兄カインが嫉妬により、弟のアベルを殺してしまう
ノアの方舟・世界に悪がはびこり、神様は人間を造ったことを後悔
・神様は人類を滅ぼすために大洪水を起こすが、正しい人”ノア”の家族だけは方舟に乗って助けられる
バベルの塔・天まで届く塔を建てようとした人々が、神様の怒りに触れて言語をバラバラにされてしまう
紀元前1900年~紀元前1300年頃
族長とは、モーセ以前のイスラエル統率者のこと
・族長には、アブラハムやヤコブ、ヨセフなどがおり、彼らの活躍が書かれている
・”ソドムとゴモラ”の町が、神様に滅ぼされるのもこの頃
出エジプト
紀元前1250年頃
エジプトの奴隷となっていたイスラエル人を”モーセ”が連れ出し、聖地カナンを目指す
・モーセが海を割ったり、十戒を受け取ったりといった有名なエピソードも書かれている
聖地カナン征服
紀元前1200年頃
モーセに代わり”ヨシュア”が新しいイスラエルの指導者に
・ヨシュアたちは戦いに勝ちまくり、聖地カナンを征服
士師の時代
紀元前1100年頃・
ヨシュアの死後、イスラエルの指導者が不在になり、人々もすっかり不信仰に
・その不信仰さが原因で、外敵に襲われづつける
・イスラエルの危機を救うために士師たち(ギデオン、サムソンなど)が現れ、指導者の役割を果たす
紀元前1020年~紀元前965年頃・
最後の士師”サムエル”が王制を導入し、イスラエルは統一王国に
・サウル、ダビデと有名な王様が続き、ソロモン王の頃にはイスラエルが全盛期を迎える
南北王朝時代
紀元前926年~紀元前538年頃
ソロモンが死ぬと、イスラエル王国は南北に分裂(南=ユダ、北=イスラエル)
・異教の神を拝む人々が増え、それを批判する預言者(エリヤ、エリシャ、イザヤなど)たちが活躍する
・それでも人々が神に背き続けたため、南北どちらの国も滅ぼされ、南王国ユダの人々は”バビロン捕囚”に
エルサレムへ帰還
紀元前538年~紀元前332年頃
”バビロン捕囚”にあっていた南王国ユダの人々は解放され、かつてイスラエル王国があった地”エルサレム”に帰ることをゆるされる
・ユダ王国の再建が始まる
・ユダヤ教が確立
なんだか、ボクには解ってきたぞ?😄前スレキリスト教がわかってきた人のスレ vol.3
https://talk.jp/boards/psy/1704679416
スタンダードキリスト教で
主の恩寵という
霊的理解ができた〜
主の霊的理性の
ささやかなる奇跡
らしい、
昨日、礼拝で
その現場を
主より提示された
😄
霊的理解は
なかなかてきなかった〜
主の恩寵、
ほんと、スタンダードキリスト教になると
イミフ、
俺側としては
イエス・キリストとの関係、
霊的に聖句からの知恵の提示なのだが
スタンダードキリスト教の
主の恩寵の
霊的理解が
昨日の礼拝から、
今朝イメージ言語化がてきた
😄
スタンダードキリスト教だと
主の理性秩序、絶対的真理からの
三位一体。
俺サイドの理解は
霊的関係性
共にいるの
霊的基礎構造、
ま、霊性の神学ね
😄
原始キリスト教らしい霊性の神学と
ダブルで見えるよーになった
😄
キリスト教神学や西欧哲学理解の入りやすいゾーンにきたということやな、
理性の霊的扱いが
見えてきたので
😄
「心を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」
7日天地創造で
アメリカのファンダメンタルズと
それ以外の連中との
解釈の差が出てくる、
7日創造ならば
進化論を否定する
恐竜と人間が一緒にある
博物館が
アメリカにあるらしい
😄
それを
理性と
捉えるのが
スタンダードキリスト教
霊的関係性の修復と捉えるのが
霊性の神学となる
う〜む
キリスト教マニア道が近い〜
キリスト教神学理解できたあかつきには
真のキリスト教オタク完全体だな
😄
今や多角的に示せる〜
俺ちゃま〜
😄
まだ
その道のりは遠い
JBLの神学系統レスが頼りだ
😄
(2)しかし、現実には、妄念・頻悩に覆いかくされて、それが見えなくなっている。
(3)したがって、坐禅によってその妄念・煩悩を除去してゆけば、やがて仏性が顕われ出てくる。
つまり現実態の迷える自己を坐禅によって克服し、その底に潜在している「仏」とひとしき本来の自己を回復する、という考え方です。
加えば浮雲の底の日光の似し、雲霧滅し尽さば、日光自ずから現る。
何ぞ更に多くの広学知見もて、文字語言を渉歴り、覆って生死の道に帰するを用いん。
口を用いて文を説き、伝えて道と為す者は、
此の人、名利を貪求りて、自からを壊し他を壊すなり。
亦た銅鏡を磨くが如し、鏡面上の塵落ち尽くさば、鏡は自り明浄なり。
(『りょうがしじき』より)
佛であればこうであろうと為すべきことをしてjけばいいんだよ、と寄り添うっていてくれるのか。
良い事をし、悪い事をしない。これがなんなく日常生活の場で実践できるといいな、夢想するぐらいだ。
仏道は顛倒(てんどう)していると世のありようを喝破する。
手の甲と手のひらと、同じ手ではあるが、表裏がある。表裏で、一いち、手は一つなのであって、表裏は一の如しではない、一いちなのだ。
二項対立は無く、二は一の如し、とは、説明であって、一の如しは、一いち なのだ。だが 一は絶対であり、唯一であり、言いきりである。固定した過去のみが存在していることを言う。それは変化していく事が無い。
ゆく川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず、諸行無常である。諸行無常とは、二は一の如しである。一如は佛である。如来は佛を言う。佛は、如である。
例えば、ステージ4のドクタにお任せって患者であっても、治療の最終決断はすするんだ。
医療は、患者の為に在るのであって、患者の意向に寄り添うものなのだ。多臓器に転移しているからと言って、幾種類ものがんに対応できないのが実際で、ある部位のためのくすりを飲むと極端に消耗する時、拒否を申し出る。
釈迦族の聖者、ガウタマシッダールタさんが言った、天上天下唯我独尊。てんじょうてんげ ゆいがどくそん
汝こそ汝の主人公。 他の誰が汝の主人公でありうるか。
わたしが大事である。わたしが産まれ、わたしが死ぬからなのだ。お金がなくてくやしさに泣きはらした眼にも生と死は わたしのもちものなのである。
父親がある日の事10歳前後になった息子を連れて森の中に分け入った。道の左右の草や木を手にとって、息子に手渡し食べてみろ、と言う。これは食べられる、これは食べられない、と教える。
息子はさらに森を分け入って、親とは別れて自分の小屋を建て移り住み自立し、一家を為す。
毒か、毒でないか、を識別できる。これが自立である。そのどこに、しつけが必要なのだろう、不必要である。
大正時代、10歳で尋常小学校を卒業したら、大店おおだな へと丁稚奉公へ入っていき、番頭になり、のれん分けで店主になる。代々、そうやって、いま生きていることが明日のわたしを生かそうとしている。
稲垣良典(著)
トマスの神学・哲学両面からエッセの解明に取り組み、現代の常識的な「存在」理解の重大な欠陥と神の創造の神秘を明確にする特異点。
キリスト教は
カトリック神学以後
シフトした
😄
神学は
神の正義、理性、正当性、秩序、法則性を
求めた
その霊性模索の楽しみは
残っている
😄
今のキリスト教の教義は初期のものとは別の物なんですよ
ちゃんと輪廻転生を教えないといけない
https://i.imgur.com/Y6a8Nki.jpeg
要するに宗教ってのは全部おんなじなんだよ
人間は動物の肉体に宿った魂なんだってこと
ある段階まで進化すれば
地球に生まれ変わらずにこの太陽系から他の世界、
他の太陽系に移動できますよってこと
俺ガチで悟り開けたんで記念に教えとくね
ゼロ歳未満の死因は流産、死産だが、一生を通じて死因の第一位は人工中絶
0~4 乳児期 2歳までは授乳 天使か妖精の無分別期
5~9 幼児期 ここまで生きていられたら健康の天才児。男女7歳にして席を同じゅうせず
10~14 10歳尋常小学卒業まで生き延びたら丁稚奉公で親元出立 女児初潮生涯卵子数400個保持 10歳幼学ようがく
15~19 結婚適齢期前期 精子のピーク17 最大バスト19 縄文時代の平均寿命は15最長30 15歳志学しがく
20~24 結婚適齢期後期 みずみずしく張る肌 感触最良バスト 20歳弱冠
25~29 おしとねさがり 脱水で細る顔ポソッ
30~34 人生再検討期、新興宗教開祖期 三十路にして立つ
35~39 立脚点確立 滴る愛液急減少
40~44 充実期 自他横一列が欠け始め精子数減少開始 40不惑
45~49 昇級、老眼、更年期前期、妊娠からの解放
50~54 肩たたき転職勧告、更年期後期 50天命てんめい知命ちめい アル中、肝静脈瘤破裂前期
55~59 息子に嫁が来る頃には無勃起閉経 アル中、肝静脈瘤破裂後期
60~64 天下り先退職金積み増し期 60還暦耳順じじゅん
65~69 人生黄金期前期 世界旅行食べ歩き
70~74 人生黄金期後期 70年金受給72男健康年齢
75~79 ひ孫と面談、ランドセル予約 女健康年齢75
80~84 長寿の達人 男平均寿命82
85~89 存在確認の同窓会が無い 女平均寿命87
90~94 歯科医の総仕上げ総入れ歯 90卒寿そつじゅ
95~99 歯茎で噛み切れる刺身がうまい 99白寿はくじゅ
100~104 自治体表彰100 百壽ももじゅ
105~109 アルコホルは毒なのに酒がうまい 108茶壽ちゃじゅ
110~114 飲む点滴ポカリスエットがうまい 111歳皇壽こうじゅ
115~119 もっと尿瓶しびんをクレヨンクレパス 119頑寿がんじゅ
120~124 今日も元気だ薬がウマヒィ 120昔寿せきじゅ 121歳大還暦
スレ主逃走の為、このスレは終了。
*****************
つまりは、北があるよ、ということだ。
南北東西といっても、それは地球上のことであって、銀河にも、宇宙にも東西南北というものなどない。
では、なぜ、みなみiがない と ひとつだけを取り上げて、南無 というのだ。
東西南北 無い。 で正解だ。
たとえば、帰依しますって言っても、ほとけなどという物は存在しない、そーれーは 比較対象物つになるからだ。
相対などない。
天上天下 唯我独尊
てんじょうてんげ ゆいがどくそん
われ とは ひとり。
その自己拡張が、天の川銀河であって、アンドロメダ銀河であって、なおも拡張する宇宙である。
私が宇宙で、宇宙が私。
私が歩けば、宇宙が歩くと ずいぶん以前に」言い捨てた。
母の納骨の際、読経の僧が言う、おかあさまは ここにある、そこにある、のではなく、 宇宙に遍満していらっしゃいます。
わたしは母の分身で、母も宇宙に遍満しているので、ついでにわたしも宇宙に遍満している。
なにもかもが とどこおりなく 満ち満ちている。
日本では国民皆保険制度が充実し、長寿国で、長寿国と言うのは、他国と比較して長生きの人が多い、と言う事で餓死する人も皆無ですし、乳幼児の死亡率も低い
のですから、当然に平均寿命も高いわけです。
人は生涯、8人以上の子を持ち、ひとり、か、ふたりが、成人し、次世代を残して来ました。
そう言う生き残り戦略だったのでした。なので、現在の少子化と言われる、ひとりかふたり、の子供がいる家庭が増え、しかも、生涯、独身者も増えています。
地球4個分の過剰消費をこれ以上、続けられなくなっていますし、第二次世界戦争後は有り得ないはずの戦争が頻繁に起こっている事も、人口爆発を背景とする現象なのではないか、とわたしは思ったりします。
2千年前の世界人口は、2~4億人だったそうで、やがて百億人へと人口爆発している人類は、絶滅種、とも思います。
初めが有れば、終わりが有り、始めがなければ、終わりが無い。の真理で、人類は原始的な猿の仲間から分化を重ね、1200万年前に、メガネざると分かれ、700万年前ぐらいから、ゴリラ、チンパンジー、オランウータンと分かれ、猿人、原人、ホモサピエンスと分かれてて進化と言うか、変化も重ねました。
まさに、ゆく川の流れは絶えずして、元の水にあらず、と諸行無常を言ってます。
くう空の真理(さとり) そのままの 無常です。
変化して止まないことが色即是空、なのです。
そして、mす行き即是空は空即是色へと還(かえ)る のです。
固定したものなど無くて、変化し続けるものです。
食べ物は、つまりは、水と炭酸ガスに変化します。熱は必ず、冷めて、平衡します。
熱交換が終われば、平衡します、この状態が有情の者たちの解散命令でしょうか。o((=゜ェ^=))o''ワクワク♪未知との遭遇なのですから。v(*'-^*)bぶいっ♪
健康に おい!どうした!?っと声をかけたから、そいつは 不健康と呼ばれただけで、もとは 健康で、不健康も健康も状態を言うものであって、どちらも健康と言ってもいいものだし、不健康と言っていいものだ。
存在が輝いている。と観える。そういう時、感動が爆発するのです。
それを佛性ほとけのいのちと出会う、と言ってもいい。
効率的だ
ほぼ完全感覚にあるかも?
😀
どーしよもないが
😀
5ちゃんねるの会話はバトル形式で馴れ合いを禁じる。ググるシッタカ知障イヌヤマは、褒めてクレヨの哀願奴隷。相手を罵倒する悪口雑言の数々は外道イヌヤマへのリアル社会の絶対評価で、荒らしイヌヤマは問いに問いで返す脊髄反射の脳足りんで悟前(ごぜん)未悟(みご)、金魚ドジョウと救い難い。
病名:発達障害ASDの症状尊大のインチキキチガイ雀鬼イヌヤマが自供ス。『正直云って仏とは何かと問われても分かりません、公案が進んで無くよくわからないのです』 知障イヌ咬み談
ウソブクのよ透ってないのに、もう40回も初関を透る俺様!と言い放つドマヌケ!40回も透ったら初関を透る、じゃねーべ!
イヌ:悟りとか分からねーし、知らねーし、悟ってねーわ? ググるイヌヤマは常にシカトされ自己存在の確認要求哀願奴隷也
悪霊イヌが鳴く:なんで 宗教板って まともなの俺だけなんだ?みんな間違ってばっか俺だけが正しい。みんな間違ってるのに何で正しい事を言ってる俺は否定ばっかりされるんだ?みんな俺のことを 凄いなと認めろよ。 俺は自分より優れた奴が ゆるせないんだよ(脅迫性人格障害の特徴)
ナント妻子と月一、金曜夜7時からのお坐り会、茶菓(ちゃか)代ワンコインで、これが研究会出席虚勢のトマヌケ犬は誰からも疎まれる
独善イヌヤマは月一第三金曜日夜7時茶菓代ワンコイン坐禅会に出ると偽証。命取りの摂心に親子で100回参加と虚飾スル
新小岩の食業ドライバーイヌヤマとは法相宗(ほっそうしゅう)奈良興福寺(こうふくじ)前官長じっちゃんのお抱え運転手で食業ドライバーの門外漢だから、知ったかぶる以外に承認欲求を満たす事が無い。
多数者を演じ孤立してないと強弁し自作自演のおぞましい日々の無脊椎動物イヌヤマは成り済まし多重人格者で要治療
統失、薬中、精神病院2ヶ月入院、A型作業所:イヌヤマ軍曹麦屁魔女エロ和尚アカベイ偽和尚狗の大王野良は異名同一人物がAAキャラ変の極悪人
① 荒らしイヌ麦は無視放置スルーが一番ツライ、耐えられない。シッタカイヌヤマは常に誰かの反応レスを待ち焦がれ
② 放置された固定観念イヌヤマは煽りや自作自演でアナタのレスを誘う。ワケワカメ糞邪鬼イヌヤマにノセられてレスしたらその時点でアナタも同類、負け、完敗
③ ;反撃はイヌの滋養にして栄養であり最も悦ぶ事です。門前のヤセイヌにエサを投げ与えぬ事
④ ;臭い汚いコワイ気持ち悪いイヌヤマが枯死する迄、孤独に暴れさせゴミが溜まったら削除
https://youtu.be/rpb2-eEh128
0~4 乳児期 2歳までは授乳 天使か妖精の無分別期 胎内での様子を語る
5~9 幼児期 ここまで生きられたら健康の天才児。男女7歳にして席を同じゅうせず
10~14 10歳尋常小学卒業まで生き延びたら丁稚奉公で親元出立 女児初潮生涯卵子数400個保持 10歳幼学
15~19 結婚適齢期前期 精子のピーク17 最大バスト19才 縄文時代の平均寿命は15歳最長30 15歳志学しがく
20~24 結婚適齢期後期 みずみずしく張るプルプル肌 感触最良バスト 20老眼スタート20歳弱冠
25~29 ♀婚活29歳迄、脱水で細る顔ボソッ 25男の体のピーク 北朝鮮喜び組25歳解雇
30~34 ♂人生振り返り期、30♀婚活スクリーニング削除 尋牛見跡悪魔の囁く声を聞き新興宗教開祖乱立
35~39 人生此処までと実感、中年太りと滴る愛液枯渇と名器終了、膣粘膜薄→性交痛
40~44 40不惑、初老 夜間頻尿 毛細血管ゴースト化 精子数減少 43老眼乱視、子宮硬化不妊
45~49 昇格、更年期前期、妊娠恐怖解放 禿頭始
50~54 肩たたき転職勧告、♀やる気男性ホルモン増、更年期後期 50天命 知命 アル中肝静脈瘤破裂前期
55~59 息子に嫁が来る頃には無勃起閉経 アル中肝静脈瘤破裂後期
60~64 天下り先退職金積み増し 60還暦 耳順じじゅん
65~69 65歳は高齢者 年金受給 65夜間頻尿、脳委縮開始年間1ミリ立方ずつ減少する
70~74 72男健康年齢 前立腺ガン乳ガン
75~79 75高齢者講習、健康保険1割負担 ひ孫と面談ランドセル予約 75女健康年齢 75後期高齢者
80~84 80釈迦没 長寿の達人 男平均寿命82
85~89 存在確認の同窓会が無い 女平均寿命87 ,男最多死亡年齢88
90~94 歯科医の総仕上げ総入れ歯 女最多死亡年齢94 90卒寿そつじゅ
95~99 歯茎で噛み切れる刺身が旨い 99白寿はくじゅ
100~104 自治体表彰 100百壽ももじゅ
105~109 アルコホルは毒なのに酒がうまい 108茶壽ちゃじゅ
110~114 飲む点滴ポカリスエットがうまい 111歳皇壽こうじゅ
115~119 もっと尿瓶しびんをクレヨンクレパス 119頑寿がんじゅ
120~124 120趙州 ( じょうしゅう ) 禅師没 120昔寿せきじゅ 121歳大還暦
単独申請の例外
相続登記
登記名義人表示変更など
👉 「誰が申請人になるか」はほぼ毎年問われる
単独申請の例外
相続登記
登記名義人表示変更など
👉 「誰が申請人になるか」はほぼ毎年問われる
単独申請の例外
相続登記
登記名義人表示変更など
👉 「誰が申請人になるか」はほぼ毎年問われる
変更
移転
抹消
変更
移転
抹消
変更
移転
抹消
所有権移転(売買・相続・贈与)
特に:
相続登記(単独申請)
遺産分割協議書の扱い
所有権移転(売買・相続・贈与)
特に:
相続登記(単独申請)
遺産分割協議書の扱い
やや難しいが出る
1号仮登記(順位保全)
2号仮登記(請求権保全)
👉 本登記への移行の流れが重要
やや難しいが出る
1号仮登記(順位保全)
2号仮登記(請求権保全)
👉 本登記への移行の流れが重要
やや難しいが出る
1号仮登記(順位保全)
2号仮登記(請求権保全)
👉 本登記への移行の流れが重要
仮登記は「概念」よりも**“本登記への変換プロセス”を押さえた人が勝つ分野**です。
将来の本登記のために“席を確保しておく制度”
ただし、その“席の意味”が
1号と2号でまったく違う。
すでに物権変動は起きているが、本登記できないだけ
典型例
売買は成立している
でも登記識別情報がない
👉 つまり
実体は完成済み
1号はシンプル:
仮登記名義人が単独で本登記できる
なぜ?
→ すでに権利は移転しているから
本登記すると
👉 仮登記の順位にさかのぼる
(ここが“順位保全”の意味)
まだ物権変動は起きていない(請求権だけ)
典型例
将来売買する予約
条件付き契約
👉 つまり
まだ権利は動いてない
いきなり本登記はできない
ステップ
① 条件成就・本契約成立
② 物権変動が発生
③ 本登記(ここで初めて)
👉 共同申請が原則
(まだ相手の協力が必要だから)
本登記しても
👉 原則として順位はその時点
ただし例外あり:
条件成就など一定の場合
👉 仮登記時にさかのぼるケースあり(ここは細かい論点)
この整理ができると全部解ける
項目
1号仮登記
2号仮登記
実体
すでに権利あり
まだ権利なし
性質
物権的
債権的
本登記
単独申請OK
共同申請
順位
仮登記に遡る
原則遡らない
ほぼここしか聞かれない
① 本登記の申請人
1号 → 単独
2号 → 共同
② 順位の扱い
1号 → 確実に遡る
2号 → 原則遡らない
③ 「これは1号か2号か」の判定
👉 キーワードで判断
「売買済み」→ 1号
「予約」「条件付き」→ 2号
1号
👉「もう家は買ってる。あとは登記だけ」
→ 席は確定してる
2号
👉「将来この席を取る権利があるだけ」
→ まだ座ってない
1号は“完成済みの権利の保全”
2号は“未完成の権利の予約”
ここが腹落ちすると、仮登記はむしろ得点源になります。
もしやるなら次はかなり重要:
仮登記の抹消(誰がやるか)
仮登記担保との違い
記述式での書き方
ここまで行くと一気に合格圏に入ります。
設立
役員変更
本店移転
増資・減資
解散・清算
この5分野で得点源になります。
「所有権移転」と記載します。
「令和〇年〇月〇日(被相続人の死亡日) 相続」と記載します。
(被相続人 〇〇 〇〇):亡くなった方の氏名。
(住所)〇〇 〇〇:不動産を相続する人の住所・氏名。
連絡先:日中連絡がつく電話番号。
4. 添付情報
提出する書類のリストを書きます。
登記原因証明情報(戸籍謄本一式、遺産分割協議書など)
住所証明情報(相続する人の住民票)
「金〇〇円」
市区町村から届く「固定資産税の納税通知書」に記載された評価額を記入します。
1,000円未満は切り捨てます。
「金〇〇円」
課税価格に0.4%を掛けた金額です。
100円未満は切り捨てます。
登記簿(登記事項証明書)に記載されている通りに、正確に書き写します。
土地:所在、地番、地目、地積
建物:所在、家屋番号、種類、構造、床面積
法務局のひな形を使う:法務局サイトの「不動産登記の申請書様式」にある「所有権移転登記(相続・遺産分割協議)」をダウンロードして使うのが一番確実です。
もっとも一般的なケースです。
登記の目的:所有権移転
意味:不動産の持ち主(所有権)が、亡くなった人から相続人へ完全に移る、という意味です。
例えば、夫婦で50%ずつ持っていた家で、夫が亡くなった場合などです。
登記の目的:亡くなった方の持分全部移転
(例:亡父 〇〇 持分全部移転)
意味:亡くなった人が持っていた「一部の権利(持分)」だけを、相続人へ移すという意味になります。
もし単に「持分移転」と書いてしまうと、審査する法務局の担当者は「えっ、全部なの?それとも一部なの?」と迷ってしまいます。そのため、「全部」と書くことが義務付けられています。
② 亡くなった人の権利を「空っぽ」にするため
相続登記の目的は、亡くなった人の名義を消して、新しい名義人に引き継ぐことです。
「持分全部移転」と書くことで、「亡くなった人の名義(持分)はこれでもう残っていません、空っぽです」ということを完璧に証明できるのです。
💡 ちなみに:所有権(100%所有)の場合
亡くなった人が1人で持っていた場合は、そもそも「一部だけ移転」という概念が相続ではあり得ない(死亡により全権利が移る)ため、わざわざ「全部」とは付けず、シンプルに「所有権移転」で通じます。
まとめ
共有のときは、正確を期すために「〇〇持分全部移転」。
これ以外の書き方(持分移転など)で出すと、法務局から「補正(修正)」の指示が入ってしまいます。
一文字の違いですが、登記の世界では「全部」という言葉が非常に大きな意味を持っています。
次は、「原因(相続が発生した日)」や「課税価格(税金の計算)」の書き方などで、気になる部分はありますか?
お手元に「登記事項証明書(登記簿謄本)」はありますか?
権利部(甲区)の「所有者」の欄に、亡くなった方の名前だけがあれば「所有権移転」です。
「共有者」として複数の名前がある場合は「〇〇持分全部移転」となります。
どちらを使うかの判断基準
亡くなった人がその不動産を100%(単独)で所有していた場合。
まるごと権利が移るので「所有権」が動くと言います。
(亡くなった人の氏名)持分全部移転
亡くなった人の「持分(例:2分の1)」だけが動くため、こう呼びます。
例えば、夫婦(夫:一郎、妻:花子)が半分ずつ(持分2分の1ずつ)出し合って買った家があるとします。
状況: 夫の一郎さんが亡くなりました。
登記簿: 現在の持ち主は「持分2分の1 A、持分2分の1 B」と書いてあります。
登記の目的:一郎持分全部移転
原因:令和〇年〇月〇日 相続
相続人:(住所)花子(※一郎さんの持分を引き継ぐ人)
このように書くことで、「夫が持っていた2分の1の権利を、妻の花子さんに移しました」という記録になります。
この登記が終わると、登記簿上の所有者は以下のようになります。
もともとの花子さんの持分:2分の1
相続で得た花子さんの持分:2分の1
結果: 花子さんが「持分2分の1」を2つ持っている状態(実質100%)になります。
もし「持分 2分の1 〇〇 〇〇」のように書かれていれば、今回の申請は「持分全部移転」になります。
登記簿に「持分」という記載はありましたか?
今回、相続して新しく持ち主になるのはお一人ですか?
「持分移転」ではなく「持分全部移転」と書く理由は、「亡くなった人が持っていた権利を、一滴も残さず全て移転させます」ということを明確にするためです。
不動産登記の世界では、言葉を厳密に使い分けるルールがあります。
もし単に「持分移転」と書くと、法律上は「持っている分のさらに一部(例:2分の1持っているうちの、さらに半分)を移転する」という意味で解釈される可能性があります。
持分全部移転: 持っているシェアをまるごと渡す
持分一部移転: 持っているシェアの一部だけを渡す(例:売買で少しだけ権利を分ける時など)
相続の場合、亡くなった方の権利は(遺産分割の結果どうあれ)必ずその人からは全て離れるため、正確に「全部」と記載します。
日本の不動産登記法および事務処理のルール(通達など)で、共有者の権利を移転する際は「持分全部移転」と記載することがカチッと決まっています。
単独所有の場合: そもそも「持分」という概念がないので、「所有権移転」
共有の場合: 自分の「持分」という枠の中にあるものを動かすので、「(名前)持分全部移転」
登記簿に「持分2分の1 佐藤一郎」と書いてある場合:
× 不適切な例: 佐藤一郎持分移転
○ 正しい例:佐藤一郎持分全部移転
このように書くことで、「佐藤一郎さんが持っていた2分の1という権利の『全部』を、次の人に引き継ぎます」という完璧な説明になります。
「持分全部移転」にする必要があるということは、その不動産には「生存している他の共有者」がいるはずです。
もし、その「他の共有者」もすでに亡く
なぜ「持分移転」だと紛らわしいのか、2つの視点で整理しました。
持分全部移転: 「私が持っている1/2の権利を、まるごと全部渡します」というケース。
不動産登記において「所有権全部移転」という言葉をあまり使わないのは、単に「所有権移転」と書けば「全部」を指すのがルールだからです。
📋
1. 所有権移転
意味: その不動産の権利(100%)をすべて移転すること。
理由: 「全部」をわざわざ付けないのが登記実務の慣習です。
単独所有から共有にする場合
共有者の1人が自分の持分をさらに分割して売る場合
「全部移転」と言わないのは、言葉が存在しないからではなく、「所有権移転 = 全部」という大前提があるため省略されているだけです。
スレ埋めすると、妙に頭に入るな
「◯◯持分全部移転」と書かなければならない
「◯◯持分移転」=全部移転
遺産分割協議は成立しない
『大乗起信論(だいじょうきしんろん)』は、衆生(生きとし生けるもの)の心の中に仏性(悟りの本質)があるという「如来蔵(にょらいぞう)」思想を基盤に、大乗仏教の教理と修行を体系化した論書です。一心二門、三大などの理論を用いて、迷いの心(生滅門)から悟りの心(真如門)へ転換し、信仰を起こすことを目的としています。
著者・時代: 馬鳴(めみょう)菩薩の作と伝えられるが、5-6世紀の中国(南北朝時代)で成立したという説が有力。
目的: 大乗の正しい信仰(起信)を起こさせ、悟りへの道を明らかにすること。
根本思想: 「衆生心(衆生心)」、すなわち人間一人ひとりの心がそのまま「大乗」であると説く。
一心二門(いっしんにもん)
一心: すべては「衆生心」という一つの心に基づいている。
真如門(しんにょもん): 不変・平等の真理そのものの面。
生滅門(しょうめつもん): 妄念によって変化・消滅する迷いの面。
真如の絶対的な本質を3つの側面から説明する。
体大: 真如は絶対・平等であること。
相大: 真如が無限の功徳を具足していること。
用大: 真如が衆生を救済するはたらきを持っていること。
真如(本来の清らかな心)が、無明(根本的な無知)によって隠され、迷いが生まれる仕組み。
四信(ししん): 真如(根本)、仏・法・僧の三宝を信じること。
五行(ごぎょう): 信仰を実践に移す5つの修行(施・戒・忍・進・止観)。
念仏の推奨: 修行信心分の最後には、自らの力が弱い凡夫のために、如来を念じて浄土に往生する「勝方便(しょうほうべん)」が説かれる。
東アジア大乗仏教の思想的基盤となり、特に中国の華厳宗や禅宗、そして日本の仏教(最澄、空海、親鸞など)に非常に大きな影響を与えました。
華厳経と同じくらい重要なのが大乗起信論
離言真如(りごんしんにょ):
言葉や分別を離れた、ありのままの真理(真如)そのもの。
「言語道断(げんごどうだん)」、言葉では説明不可能な絶対の世界。
依言真如(えごんしんにょ):
離言真如を衆生に伝えるため、言葉や教えに依って(依)表現された真如。
言葉(言葉の限界)を利用して、真理へ導くための仮の姿。
同義語:言葉によって示された真如(真如の月)。
真如(しんにょ):変わることのない、永遠不変の真理。
言語道断:もとは真理が言葉を超えていることを表す仏教用語(のちに悪い意味に変化)。
中観派の勝義諦/世俗諦の話しではなかった
その繰り返しだな
急にわかってきた
いつも、気づいたら華厳宗の話をしている
「たとえ、革命して政府が変わっても 人の価値観が変わらない限り、 支配-非支配の体制は変わらない」 ↑ ジャック・デリダの考えを要約すると、こういうことになるのか?
支配/非支配を含む二項対立そのものが、言語・思考の構造の中で繰り返し再生産される
という発想に近い。
革命が語られる言語・正義・主体・国家といった枠組みそのものが、すでに特定のヒエラルキー(序列)を内蔵している、という点なんだ。
「革命しても変わらない」→ かなり近い(ただし“必然”というより“再構成されやすい”)
「人の価値観が変わらない限り」→ ここはデリダ的には少しズレる
デリダは「価値観」という内面的なものよりも、
むしろそれを支えている言語・概念の構造そのものに目を向けるからだ。
旧い「支配者/被支配者」は壊れるけど、
すぐに「正統/異端」「中心/周縁」「正常/逸脱」みたいな別の区分が立ち上がる。
デリダ的には、これが「差延(différance)」的な意味のずれとともに、構造的に起きてしまう。
革命は支配の形を変えることはできても、
二項対立を生み出す思考の構造そのものを完全には消せないため、
支配関係は別の形で再構成され続ける。
その再構成の中で常に「ずれ」や「例外」や「決定不能性」が残る、という点に希望(というより開放性)を見ているところ。
もしあなたの問いを少し華厳っぽく重ねるなら、
「網(構造)は消えないが、固定された中心は持てない」という方向にかなり近づく。
デリダ的に言うと、「言語が原因で二項対立が“発生する”」という単純な因果関係ではない。
むしろポイントはこうなる。
二項対立は、言語そのものというより**言語が意味を成立させる仕方(構造)から“必然的に出てくる傾向”**として現れる。
言語は何かを説明するとき、必ず区別を使う。
善/悪
正しい/間違い
中心/周縁
主体/客体
つまり意味は「AではなくB」という差異で成立する。
この時点で、すでに**対立的な構造(区別のペア)**が生まれやすい。
Jacques Derridaは、単に「言語が二項対立を作る」と言っているわけではなく、
二項対立は必ず一方が優位(ヒエラルキー化)される形で組み立てられる
ここを問題にする。
たとえば西洋哲学では:
理性 > 感性
言語 > 文字
本質 > 現象
男性 > 女性
このように、単なる対立ではなく「序列化された対立」になる。
デリダの核心はここで、
言語は安定した意味を持たない
意味は常に他の差異へ先送りされる(差延)
だから二項対立は「安定した構造」というより、
一時的に固定された“見かけの安定”
にすぎない。
だから質問に答えるならこうなる:
× 言語が二項対立を作る
△ 言語が二項対立を生みやすい
○ 言語が意味を成立させる限り、二項対立は構造的に現れやすいが、それは固定的なものではない
デリダは「対立は必ず揺れる」と見るのに対して、華厳は「そもそも全てが相互浸透していて、対立が自立しない」という方向に寄る。
A.I.との哲学対話がおもしろすぎて
やっている
こんなことに浪費するわけにいかない
法律がやりたい
プラトンを祖とする西洋哲学/形而上学が前提として持つ「階層秩序的二項対立」に対して、その決定不可能性に着目して二項対立を
物事を二元論に分け、どちらかが優れていてどちらかが劣っている、という哲学の考え方に対して、「完全に二つに分けることは出来ない」ことを明らかにして、対立関係を崩していく手法
同じ2項対立でも、ここが大きく異なる
デリダのは、階層秩序的2項対立
問題意識はまるきり異なる
プラトンを祖とする西洋哲学/形而上学が前提として持つ「階層秩序的二項対立」に対して、その決定不可能性に着目して二項対立を崩していく手法
「今・ここ・私」の確信:過去や未来ではなく、今この瞬間に意識を向けること。
主体的な自己の目覚め:説法を聴いている、肉体を超えた「無形無相(かたちがない)」の純粋な意識(本当の自分)を指す。
「活潑潑地(かっぱつぱつち)」:どこにもとらわれず、命が生き生きと躍動している状態。
外に向かって求めない:仏や悟りを外部に探すのではなく、自分の内側にある「真の自己」を見つめる(見性)。
無事是貴人(ぶじこれきじん):修行の成果を誇らず、ただ淡々と今を生きる人を尊ぶ。
特に影響が強いのはこの3つです。
ニーチェは
「真理とは、忘れられた比喩にすぎない」
と考えました。
つまり、
絶対的・普遍的な真理
神が保証する真理
理性が到達する最終的な真理
こうしたものを疑った。
彼にとっては、
「意味」は固定された中心を持たず、
常にズレ続ける。
だから
「これが最終的な意味だ」
という到達点はない。
これはかなりニーチェ的です。
西洋哲学はずっと
善/悪
理性/感情
精神/身体
本質/表象
男/女
中心/周縁
みたいな二項対立で世界を整理してきた。
「強者が作った価値判断」
があると見た。
デリダはさらに進めて、
「この二項対立そのものが、
言語によって作られている」
と考えた。
ここから「脱構築」が出てきます。
ニーチェは
論文みたいに書かず、
aphorism(断章)
比喩
詩的表現
逆説
で哲学を書いた。
これは革命的でした。
デリダの難解な文体も、ここにかなり由来します。
「透明な文章で、透明な真理を語る」
という発想そのものを疑っている。
だから、わざと揺らす。
この姿勢はかなりニーチェ的。
ニーチェはかなり
生
力
欲望
肯定
を前に出す。
かなり“攻める”哲学です。
一方デリダは、
痕跡
差延
不在
決して完成しない意味
を扱う。
もっと幽霊っぽい(笑)
デリダは「ピンセット」。
かなり乱暴に言うと
ニーチェ
「神を殺した」
↓
ハイデガー
「存在を問い直した」
↓
デリダ
「言語そのものを疑った」
こういう流れです。
なので、
デリダの原点の一つは間違いなくニーチェです。
デリダはニーチェ主義者なのか
👉「株主のほうから“会社に対して、この株式を別のものに変えてくれ”と請求できる株式」です。
もう少しちゃんと説明すると:
■
取得請求権付株式とは、
株主が会社に対して請求することで、
その株式を会社に取得させ、代わりに別の財産(多くは他の種類の株式や金銭など)を受け取れる株式。
■
普通の株: 👉 持ち続けるか、売るしかない
取得請求権付株式: 👉 株主がボタンを押せる
「この株、別の株(またはお金)に変えて」
■
一番よく出るのはこれ👇
👉 普通株式に転換できる株式(いわゆる転換株)
たとえば:
最初は配当が優遇された種類株を持っている
あるタイミングで 👉「普通株に変えます」と請求できる
■
会社の定款で決められる:
他の種類株式(これが王道)
金銭
社債など
■
請求するのは株主(←ここがキモ)
会社は拒否できない(条件を満たせば)
条件・内容は定款でガチガチに決める
■
ここ、混乱ポイント👇
① 取得条項付株式
👉 会社が強制的に取得できる(会社主導)
② 取得請求権付株式
👉 株主が請求する(株主主導)
■
サクッとではなく、ちゃんと“差が腹落ちする形”でいくね。
■ 結論の芯(まずここ)
取得請求権付株式
👉 株主がスイッチを押す(能動的)
取得条項付株式
👉 会社がスイッチを押す(強制的)
この「誰が主導権を持つか」がすべてを分ける。
■ ガ
① 主導権
取得請求権付:株主
取得条項付:会社
👉 ここを間違えたら全滅レベルで重要
取得請求権付:
👉 株主が好きなタイミング(定款の範囲内)で請求
取得条項付:
👉 会社が決めたタイミング・条件で強制取得
👉 投資家にとっての安心感が全然違う
取得請求権付:
👉 形成権(株主の一方的意思で効果発生)
取得条項付:
👉 会社の意思決定(取締役会など)+定款条件
取得請求権付:
👉 「逃げ道・オプション」を持っている
取得条項付:
👉 「いつ回収されるか分からない」
(会社にコントロールされる側)
取得請求権付株式
👉 投資家保護・インセンティブ設計
ベンチャー投資
優先株 → 普通株への転換
取得条項付株式
👉 経営支配・資本整理
上場前の整理
少数株主の排除(スクイーズアウト的文脈)
M&A
ここめっちゃ出る👇
「株主が請求できる」→ 取得請求権付
「会社が取得することができる」→ 取得条項付
👉 主語で即判定
取得請求権付株式
👉 リモコン:株主が持ってる
「今だ、変換!」
取得条項付株式
👉 リモコン:会社が持ってる
「はい、回収します」
この2つの違いって、実はこう👇
取得請求権付:
👉 不確実な未来に対する“株主の防御”
取得条項付:
👉 不確実な株主構成に対する“会社の統制”
👉
取得請求権付=株主主導
取得条項付=会社主導
ここまで来たなら次いける👇
👉「全部取得条項付株式(いわゆるスクイーズアウト)」
👉「新株予約権との違い」
このへん、司法書士試験だと“差がつくゾーン”だけど、やる?
ここは単なる暗記じゃなくて、**「何をコントロールしたい制度か」**で見ると一気に整理できる。
■
● 何をやる制度?
👉 会社が、特定の種類株式を“まとめて全員から強制回収する”仕組み
● 流れ(実務イメージ)
会社が「全部取得条項付株式」を設定
株主総会の特別決議
その種類株式を全部取得
代わりに対価を渡す(多くは金銭 or 別の株)
●
👉 少数株主の排除(スクイーズアウト)
例えば:
親会社が100%にしたい
上場廃止前の整理
M&Aの最終段階
● キモ
ただし対価の公正さがめちゃ重要(争いになりやすい)
● イメージ
👉 会社が一斉回収ボタンを押す
「この種類株、全部回収します」
■
ここ、かなり混乱ポイント。ちゃんと切る。
● 結論の芯
取得請求権付株式
👉 すでに株主(完成品)
新株予約権
👉 将来株主になる権利(未完成)
● 比較(本質)
取得請求権付株式:
👉 もう株主
新株予約権:
👉 まだ株主じゃない
② 何が起こるか
取得請求権付株式:
👉 既存の株式が変形する
新株予約権:
👉 新しく株式が発行される
取得請求権付株式:
👉 株の種類が変わるだけ(資本構成の変形)
新株予約権:
👉 株が増える(希薄化)
④ 典型用途
取得請求権付株式
👉 投資家の保護・出口戦略
(優先株→普通株)
新株予約権
(ストックオプション)
● イメージで分ける
取得請求権付株式
👉 「持ってるカードを交換」
新株予約権
👉 「まだカード持ってないけど、引ける権利」
■ ■ ここ超重要(試験トラップ)
👉 よくある引っかけ
「請求して株式を取得する」
→ 新株予約権っぽく見えるけど違う
見分け方👇
既に株主か? YES → 取得請求権付株式
NO → 新株予約権
制度
主導
正体
効果
取得請求権付株式
株主
株式
中身が変わる
取得条項付株式
会社
株式
強制回収
新株予約権
保有者
権利
株が増える
👉
取得請求権付=「株主の逃げ道」
取得条項付=「会社の回収装置」
新株予約権=「未来の株主チケット」
ここまで理解できてたら、かなり上位層。
次いくなら👇
👉 「株式併合 vs 全部取得条項(どっちでスクイーズアウトするか)」
👉 「対価の公正価格ってどう判断されるか(判例論点)」
どっち攻める?
おおいにあり得る
合格するだろう
遅い
遅すぎる
2冊、読み終わりたかった
5本柱となる特技
法律にメチャクチャ強くなる
ミシェル・フーコーの歴史観は、はっきり言って
フリードリヒ・ニーチェの『道徳の系譜』から強い影響を受けている。
しかも「参考にした」レベルじゃなくて、方法論そのものを継承・変形してる。
ここを雑に同一視すると危ない
ニーチェ:
生の力・意志(力への意志)が中心
かなり“実存的・心理的”
フーコー:
個人の内面にはあまり興味ない
**制度・言説・装置(ディスポジティフ)**に注目
つまり:
👉 ニーチェは「人間の内側の力」
👉 フーコーは「社会に張り巡らされた力」
かなり乱暴に言うと:
👉 ニーチェ
「善悪は作られた」
👉 フーコー
「真理そのものが作られた」
この流れを押さえると、フーコーの歴史観はかなりクリアになる。
もしもう一歩いくなら面白い問いが出てくる👇
👉「じゃあフーコーにとって“抵抗”って可能なのか?」
ここはニーチェとの差がかなり出るポイント。�続ける?き
ニーチェがやったのはシンプルに言うと:
👉「道徳は普遍的・永遠の真理ではない」
👉「むしろ、権力闘争や心理的力学の産物だ」
たとえば:
「善・悪」は神の意志ではなく
弱者が強者に対抗するために作った価値(ルサンチマン)
つまり歴史を
**“価値の起源を暴く作業”**として捉えた
フーコーはこの発想を、そのまま横展開した
ニーチェ:道徳の起源を暴く
↓
フーコー:
👉「知識・真理・主体の起源を暴く」
たとえば:
『監獄の誕生』
『狂気の歴史』
👉「なぜ“正常/異常”という区別が生まれたのか?」
👉「なぜ“犯罪者”という存在が成立したのか?」
そして結論はいつも同じ方向:
👉それは“真理”だからではなく
👉特定の権力関係の中で作られた
ここがいちばん大事👇
フーコーはニーチェをこう深化させた:
ニーチェ → 価値の背後に「力」を見た
フーコー → 知そのものが「力」だとした
いわゆる
👉 「権力/知(power/knowledge)」
つまり:
真理は発見されるものではなく
制度・言説・実践の中で“生産される”
ChatGPT:いい問いだね。
結論から言うと、「それだけ」ではない。
ただし、その見方にはちゃんとした系譜がある。
彼のポイントはシンプルに言えばこう:
弱者は力では勝てない
だから「善悪」というルールを作り替える
強者の性質(力・誇り・支配)を「悪」とし、
弱者の性質(従順・謙虚・忍耐)を「善」とする
つまり道徳は、**弱者の“価値の逆転戦略”**だ、という読み。
ただ、ここで一歩踏み込むと重要な分岐がある。
ニーチェのすごいところは、
👉「道徳=正義」っていう素朴な前提をぶっ壊したこと
彼にとって道徳は
普遍的な真理ではなく
歴史的に作られた“力の産物”
ここまではかなり説得力がある。
問題はここから。
もし道徳が「弱者の武器」だけなら、
👉 強者は道徳を完全に無視すればいいはず
でも現実は違う。
国家も法律も道徳を使う
教育も道徳を教え込む
企業も「倫理」を掲げる
ここで出てくるのが ミシェル・フーコー 的な視点。
フーコーはこうひっくり返す:
👉 道徳はむしろ「強者が人を従わせる装置」
どういうことかというと:
「正しく生きなさい」
「こういう人間になりなさい」
「これが普通です」
こういう規範が、人を内側から縛る
つまり道徳は
👉 外からの暴力ではなく「内面化された支配」
ここが面白いところで、
👉 両方ある
ニーチェ的には:
弱者が価値を作り替えて攻撃する
フーコー的には:
権力が道徳を使って人を管理する
実はもっとややこしい。
道徳って、 👉 「攻撃の道具」であると同時に
👉 「協力のルール」でもある
あなたの問いに一番正確に答えるなら:
👉 道徳は「弱者が強者を攻撃する材料」にもなる
👉 しかし同時に「強者が支配する装置」にもなる
👉 さらに「社会を維持するルール」でもある
もしもう一歩踏み込むなら、ここからが面白い:
👉 「じゃあ“正しい道徳”って存在するのか?」
👉 「それとも全部、力のゲームなのか?」
この先、かなり深い沼だけど、行く?
フリードリヒ・ニーチェはすでに、
善/悪
真理/虚偽
みたいな対立を見て、
👉「これ、どっちかが本質的に正しいんじゃなくて、力関係の産物だろ」
と疑った。
ここで「二項対立は中立じゃない」という視点が生まれる。
ジャック・デリダは、この疑いをさらに一歩進める。
彼のポイントはこう:
👉 二項対立は必ず
どちらかが優位に配置されている
例:
音声/文字 → 音声が上
現前/不在 → 現前が上
理性/感情 → 理性が上
そして重要なのは👇
👉 劣位の側(文字・不在・感情など)が
👉 実は上位を支えている
影響のコアはここ:
① 「真理への不信」
ニーチェ: 👉 真理は作られたもの
デリダ: 👉 意味は固定されない(差延)
② 「価値の転倒」
ニーチェ: 👉 弱者が価値をひっくり返す
デリダ: 👉 二項対立をいったん**反転(逆転)**させる
ここ、かなり大事👇
ニーチェ
背後に「力」「意志」がある
かなり“実体っぽい何か”を想定してる
デリダ
👉 そういう“中心”すら疑う
意味は差異のネットワークでしか成立しない
最終的な基盤(根拠)はない
つまり:
👉 ニーチェは「裏にあるもの」を暴く
👉 デリダは「裏なんてそもそも無い」と崩す
👉 ニーチェ
「二項対立は力の産物だ」
👉 デリダ
「二項対立そのものが不安定な仕組みだ」
ここまで来ると整理がきれい👇
ニーチェ → 起源を暴く(系譜)
フーコー → 制度と権力を分析
デリダ → 言語構造そのものを解体
あなたの直感はかなりいい線いってる。
ただしデリダはニーチェを“思想として継ぐ”というより、
👉 ニーチェの疑いを、言語レベルで徹底した人
って感じ。
もし興味あれば👇
👉�「デリダの“差延”って結局どういうこと?」
ここを押さえると、一気にクリアになる。
中心人物はもちろん Martin Heidegger で、彼の『存在と時間』以降の仕事が決定的でした。
それ以前の近代哲学は、ざっくり言うと「認識(主観)が世界をどう把握するか」に偏っていました。
でもハイデッガーはそこをひっくり返して、
問うべきは「認識」ではなく「存在そのもの」
人間は“認識主体”ではなく、“世界の中に投げ込まれた存在(現存在=Dasein)”
と再定義します。
これが現代思想の出発点になりました。
ここが一番大きいです。
近代哲学の前提:
「考える主体が世界を対象として見る」
ハイデッガー:
そもそも人間は“世界の外側に立つ主体”ではない
すでに世界の中で意味に巻き込まれて生きている
この転回がのちの
フーコー
ドゥルーズ
デリダ
に直結します。
ハイデッガー後期の有名なテーゼです。
言語は単なる道具ではない
むしろ存在そのものが言語として開けてくる
これが何を意味するかというと:
世界は「言語の外」にある実体ではない
私たちが“世界として経験するもの”は、言語的に開かれている
この発想が後の構造主義・ポスト構造主義に直結します。
ハイデッガーは「理解とは常に解釈である」と言いました。
これが
ガダマー(哲学的解釈学)
現代人文学全般
の基礎になります。
つまり:
「客観的な意味」などなく、理解は常に歴史的・存在的条件の中で起きる
Jacques Derrida はハイデッガーの影響をかなり強く受けています。
特に:
形而上学批判
「存在の問い」の再問題化
ロゴス中心主義批判
ただしデリダはそこからさらに一歩進めて、
「存在そのものも安定した中心ではない」 と崩していきます(=脱構築)。
Michel Foucault や Gilles Deleuze も、直接・間接にハイデッガーの問題意識を継承しています。
共通点はこれです:
人間主体の「中心性」の崩壊
知や権力を「構造・配置」として見る視点
「人間の外側にある何か」ではなく「関係の場」へ注目
ただし彼らはハイデッガーよりもさらに政治・社会へ踏み込みます。
かなり圧縮するとこうです:
「世界は“客観的にそこにあるもの”ではなく、“存在が開かれる出来事である”」
この一点で、哲学の土台をひっくり返しました。
もし興味あれば、次はかなり面白い分岐があります:
�ハイデッガー vs ニーチェ(超重要な関係)
�ハイデッガー vs フッサール(現象学の内部抗争)
�「存在の忘却」って結局何のことなのか
ここ、掘ると一気に現代思想の地図が立体になります。
「存在論的転回」と言うべきか
結論から言うと、
ハイデッガーはカントの認識論的転回を“否定した”というより、「そもそも転回の土台そのものを組み替えた」ので、結果的に“存在論的転回”と呼ばれるものになった、が一番近いです。
順番に整理します。
Immanuel Kant のいわゆるコペルニクス的転回はこれです:
世界そのものをそのまま認識しているのではない
人間の認識形式(時間・空間・カテゴリー)が世界経験を成立させている
つまり中心は:
「認識主体」
「対象としての世界」
ここにあります。
Martin Heidegger が言うのはここです:
カントはまだ
「主観がどう世界を構成するか」
に閉じている。
でもハイデッガーはこう言います:
その前にそもそも「世界が世界として現れる場」があるだろう
これが決定的なズレです。
カントがひっくり返したのはこれ:
世界 → 主観に依存する
ハイデッガーがさらにひっくり返したのはこれ:
主観が世界を構成する、という図式そのもの
ではなく:
主観も世界も、すでに「存在の開け」の中で成立している
つまり順番を変えています:
カント
認識主体 → 世界経験が成立
ハイデッガー
存在の開け → 主体と世界が同時に成立
ここで言う存在論とは、
単に「物が存在するかどうか」ではなく:
「そもそも“存在する”ということが意味を持つ場」
です。
だからよくこう言われます:
カント:認識論的転回
ハイデッガー:存在論的転回
ただし正確には:
“存在論を復活させた”というより
“認識論と存在論の前提構造そのものを掘り直した”
ここが誤解ポイントです。
ハイデッガーは単に
客観を否定した
主観を否定した
のではありません。
むしろ:
主観/客観という区別が成立する“前”の次元を見に行った
これが「存在論的転回」と呼ばれる理由です。
微妙で、むしろこうです:
カント → 認識の条件を解明した
ハイデッガー → その“条件が成立すること自体の条件”を問う
つまり
カントの上に乗るメタレベルの再転回
あなたの言い方を精密化するとこうなります:
カントが「世界は認識の枠組みの中で成立する」としたのに対し、ハイデッガーはその認識枠組み自体が成立する“存在の開け”を問題化し、認識論の基盤を存在論へと再転回させた
もし次に進むならかなり面白いのはここです:
�「存在の忘却」って何が忘れられたのか
�なぜハイデッガーは“存在”をあんなに曖昧にしか語らないのか
�デリダはそれをどう再崩壊させたのか
ここまで来ると、かなり“哲学の地殻変動”ゾーンです。
前スレ
【唯識三年】仏教ウンチクを語るスレ 10【倶舎八年】
https://talk.jp/boards/psy/1759535455
仏教がわかってきた人のスレ vol.35
https://talk.jp/boards/psy/1754046521
https://talk.jp/boards/psy/1772577344
前スレ
【唯識三年】仏教ウンチクを語るスレ 10【倶舎八年】
https://talk.jp/boards/psy/1759535455
仏教がわかってきた人のスレ vol.36
https://talk.jp/boards/psy/1772577344
【天台四土(心の段階)】
┌──────────────┐
│ ① 煩悩土(ぼんのうど) │
│ 欲・怒り・迷いの世界 │
│(普通の人間の状態) │
└───────┬──────┘
↓ 修行・気づき
┌──────────────┐
│ ② 浄土(じょうど) │
│ 心が清まり善を行う状態 │
│(正しい理解が芽生える) │
└───────┬──────┘
↓ 深い理解
┌──────────────┐
│ ③ 妙土(みょうど) │
│ 真理を体感し始める境地 │
│(仏の智慧に近づく) │
└───────┬──────┘
↓ 完全な悟り
┌──────────────┐
│ ④ 法界土(ほっかいど) │
│ すべてと一体の悟りの境地 │
│(究極の仏の世界) │
└──────────────┘
下から上へ「心の成長・悟りの深まり」を表しています
物理的な場所ではなく、同じ世界でも見え方が変わるという考え方です
天台宗では「誰でもこの四段階を内に持っている」と捉えます
もしもう一歩踏み込むなら、
👉「現実世界=煩悩土なのに、同時に法界土でもある」という“重なり”の解釈が天台思想の核心です。
そこも図で見たいですか?
┌────────────┐
│ ① 煩悩土(ぼんのうど)
│ 欲・怒り・迷いの世界
│(普通の人間の状態)
└───────┬────┘
↓ 修行・気づき
┌────────────┐
│ ② 浄土(じょうど)
│ 心が清まり善を行う状態
│(正しい理解が芽生える)
└───────┬────┘
↓ 深い理解
┌────────────┐
│ ③ 妙土(みょうど)
│ 真理を体感し始める境地
│(仏の智慧に近づく)
└───────┬────┘
↓ 完全な悟り
┌────────────┐
│ ④ 法界土(ほっかいど)
│ すべてと一体の悟りの境地
│(究極の仏の世界)
└────────────┘
師家に関する主なポイント
役割: 専門僧堂において修行僧(雲水)に禅の指導を行い、印可を授ける。
尊称: 一般に「老師(ろうし)」と称される。
位置づけ: 1等教師以上の高い僧階を持つものが師家となる。
養成: 宗務総長が所長となる師家養成所などで育成される。 [1, 2, 3]
臨済宗の師家が「公案」を用いて指導するのに対し、曹
妙法蓮華経観世音菩薩普門品偈
みょうほうれんげきょうかんぜおんぼさつふもんぼんげ
世尊妙相具 せそんみょうそうぐ
我今重問彼 がこんじゅうもんぴ
仏子何因縁 ぶっしがいんねん
名為観世音 みょういかんぜおん
偈答無尽意 げとうむじんに
汝聴観音行 にょちょうかんのんぎょう
善応諸方所 ぜんのうしょほうじょ
弘誓深如海 ぐぜいじんにょかい
歴劫不思議 りゃくごうふしぎ
侍多千億仏 じたせんのくぶつ
発大清浄願 ほつだしょうじょうがん
聞名及見身 もんみょうぎゅうけんしん
心念不空過 しんねんふくうか
能滅諸有苦 のうめつしょうく
推落大火坑 すいらくだいかきょう
念彼観音力 ねんぴかんのんりき
火坑変成池 かきょうへんじょうち
竜魚諸鬼難 りゅうぎょしょきなん
念彼観音力 ねんぴかんのんりき
波浪不能没 はろうふのうもつ
為人所推堕 いにんしょすいだ
念彼観音力 ねんぴかんのんりき
如日虚空住 にょにちこくうじゅう
堕落金剛山 だらくこんごうせん
念彼観音力 ねんぴかんのんりき
不能損一毛 ふのうそんいちもう
各執刀加害 かくしゅうとうかがい
念彼観音力 ねんぴかんのんりき
咸即起慈心 げんそくきじしん
臨刑欲寿終 りんぎょうよくじゅしゅう
念彼観音力 ねんぴかんのんりき
刀尋段段壊 とうじんだんだんえ
手足被杻械 しゅそくひちゅうかい
念彼観音力 ねんぴかんのんりき
釈然得解脱 しゃくねんとくげだつ
所欲害身者 しょよくがいしんしゃ
念彼観音力 ねんぴかんのんりき
還着於本人 げんじゃくおほんにん
毒竜諸鬼等 どくりゅうしょきとう
念彼観音力 ねんぴかんのんりき
時悉不敢害 じしつぷかんがい
利牙爪可怖 りげそうかふ
念彼観音力 ねんぴかんのんりき
疾走無辺方 しっそうむへんぽう
気毒煙火然 けどくえんかねん
念彼観音力 ねんぴかんのんりき
尋声自回去 じんじょうじえこ
降雹澍大雨 ごうばくじゅだいう
念彼観音力 ねんぴかんのんりき
応時得消散 おうじとくしょうさん
無量苦逼身 むりょうくひっしん
観音妙智力 かんのんみょうちりき
能救世間苦 のうくせけんく
広修智方便 こうしゅうちほうべん
十方諸国土 じっぽうしょこくど
無刹不現身 むせつふげんしん
地獄鬼畜生 じごくきちくしょう
生老病死苦 しょうろうびょうしく
以漸悉令滅 いぜんしつりょうめつ
広大智慧観 こうだいちえかん
悲観及慈観 ひかんぎゅうじかん
常願常瞻仰 じょうがんじょうせんごう
慧日破諸闇 えにちはしょあん
能伏災風火 のうふくさいふうか
普明照世間 ふみょうしょうせけん
慈意妙大雲 じいみょうだいうん
澍甘露法雨 じゅかんろほうう
滅除煩悩焔 めつじょぼんのうえん
怖畏軍陣中 ふいぐんじんちゅう
念彼観音力 ねんぴかんのんりき
衆怨悉退散 しゅうおんしつたいさん
梵音海潮音 ぼんのんかいちょうおん
勝彼世間音 しょうひせけんのん
是故須常念 ぜこしゅじょうねん
観世音浄聖 かんぜおんじょうしょう
於苦悩死厄 おうくのうしやく
能為作依怙 のういさえこ
慈眼視衆生 じげんじしゅじょう
福聚海無量 ふくじゅかいむりょう
是故応頂礼 ぜこおうちょうらい
即従座起 そくじゅうざき
前白仏言 ぜんびゃくぶつごん
世尊 せそん
若有衆生 にゃくうしゅじょう
自在之業 じざいしごう
普門示現 ふもんじげん
神通力者 じんづうりきしゃ
功徳不少 くどくふしょう
仏説是普門品時 ぶっせつぜふもんぼんじ
皆発無等等 かいほつむとうどう
阿耨多羅三藐三菩提心 あのくたらさんみゃくさんぼだいしん
このスレ
カトリック教会の神学は、一言でいうと
「理性によって、信仰を体系化しようとした巨大プロジェクト」
だな。
特に中世スコラ学で完成度が極まった。
中心人物は、やはり
トマス・アクィナス。
彼は、 アリストテレス哲学を取り込みながら、
神とは何か
世界とは何か
人間とは何か
善とは何か
救済とは何か
を、超論理的に整理した。
ここが重要。
例えば、
世界には秩序がある
原因には第一原因が必要
存在するものには根拠が必要
だから「神の存在は理性的に推論できる」と考える。
有名なのが「存在論証」「宇宙論証」「目的論証」など。
特にアクィナスの「五つの道」は有名。
これも超重要。
カトリックでは、
理性 → 神へ向かう道
信仰 → 理性を完成するもの
という感じ。
だから大学・哲学・科学研究と相性が良かった。
中世大学も、多くは教会系から始まった。
カトリックでは、
世界は神によって創造された
被造物は本当に存在する
善なる秩序を持つ
とされる。
つまり、 「世界は空である」 ではなく、
「世界は神によって存在を与えられている」
になる。
存在そのものが、神への参与。
人間は理性だけでは救われない。
神の恩寵(grace)が必要。
ただし、 プロテスタントほど「人間完全無力論」には行かない。
カトリックは、
人間の自由意志
善行
修行
徳
をかなり重視する。
だから修道院文化が発達した。
ここが面白い。
カトリックは単なる理屈宗教ではない。
例えば、
神秘思想
黙想
修道生活
祈り
観想
も極めて重視する。
つまり、
超論理的体系 + 神秘体験
の両輪。
だから、
アウグスティヌス
トマス・アクィナス
マイスター・エックハルト
みたいな、
哲学者
論理学者
神秘家
が全部同居している。
カトリック神学はかなり「華厳・天台」に近い側面がある。
理由は、
巨大体系を作る
世界全体を意味づける
階層構造を整理する
哲学と修行を統合する
から。
逆に、 中観派みたいな「徹底解体型」ではない。
むしろ、
「存在には究極的根拠がある」
という方向へ行く。
この先、どうすればいいのか
ただ、厳密にいうとフーコーは、
「狂気そのものが社会によって完全に捏造された」
と単純に言っているわけではない。
むしろ彼が問題にしたのは、
「誰を“狂人”と見なすのか」 「その境界線を、誰が、どの制度によって決めるのか」
という点だった。
フーコーによると、中世ヨーロッパでは「狂人」は、今ほど厳密に隔離されていなかった。 ところが近代になると、
理性/非理性
正常/異常
健全/狂気
という区分が強化されていく。
精神病院
医学
法律
警察
学校
みたいな制度が、「正常な人間」を定義し始める。
つまり、
「社会が“異常者”というカテゴリーを生産する」
という話なんだ。
彼にとっては、
「知識(医学)」と「権力(制度)」が結びついて、人間を分類・管理している」
という構図が重要だった。
有名なフレーズでいうと、フーコーは「権力」を、 王様が命令するだけのものではなく、
診察
カウンセリング
成績評価
生活指導
健康管理
みたいな、日常的で細かい管理の網として見ていた。
ADHD
発達障害
うつ
依存症
“普通”の家族像
“健全”な性
みたいな話にも接続されやすい。
「それ、本当に“病気”なのか?」 「単に社会に適応しづらいだけでは?」 という問いが出てくるわけだ。
「精神病なんて存在しない」
みたいになってしまう。
でも現実には、統合失調症や重度躁状態のように、本人も非常に苦しみ、医学的介入が有効なケースもある。
なので現在では、
生物学的要因
心理的要因
社会制度
を全部見る「生物・心理・社会モデル」で考えることが多い。
フーコーの功績は、
「“正常”って、実は歴史的・社会的につくられてる部分があるよね?」
と暴いた点にあるんだ。
役に立つかどうか分からない
という人間像を、社会から強制される
法律に詳しい
ただし、フーコーは単純に
「社会が悪い、異常者がかわいそう」
と言いたかったわけではない。
むしろ彼が問い続けたのは、
「そもそも、“正常/異常”という区別は、どうやって作られたのか?」
という点なんだ。
中世~ルネサンス期には、狂気は宗教・予言・道化・放浪などと混ざり合った、曖昧な存在だった。
ところが近代になると、
精神医学
監獄
学校
軍隊
病院
みたいな制度が発達して、「正常な人間」を大量生産する社会ができる。
規律に従わない
生産的でない
性的に逸脱している
落ち着きがない
暴力的
幻覚を見る
などの人々が、「異常者」として分類・管理される。
近代社会は、“自由な社会”であると同時に、“監視と矯正の社会”でもある。
学校でも会社でも病院でも、
テスト
成績
健康診断
カウンセリング
人事評価
などによって、人間を「測定」し続ける。
そして、その基準から外れた人を「異常」とみなす。
「異常者が存在する」
ことより、
「社会が“正常”を定義している」
という事実だった。
特に有名なのが、Discipline and Punish の議論だね。
ここでは、
昔の権力=公開処刑して身体を痛めつける
近代の権力=監視・訓練して“正常化”する
という変化が描かれる。
つまり現代社会は、暴力が消えたのではなく、
「人の内面そのものを矯正する社会」
になった、というわけ。
つまり、被相続人(亡くなった人)の権利義務を、相続人が一括して承継する、という考え方です。
土地・建物の所有権だけでなく、債権・債務も含めて、法律上の地位をまとめて引き継ぐ。
なので、相続登記も基本構造としては、
「被相続人の権利を、相続人が包括的に承継したので、その結果として不動産の名義を書き換える」
という発想になります。
たとえば:
遺産分割前
→ 相続人全員の共有として承継
(法定相続分による共有)
遺産分割後
→ 「長男単独取得」などの形で登記
遺言による場合
→ 遺贈との区別が問題になる
「相続」は包括承継
「遺贈」は特定承継
という古典的区別です。
たとえば、
「A土地を長男に相続させる」
なら、判例・実務では通常「相続」として扱われ、包括承継の延長線上で理解されます。
「A土地を友人Xに遺贈する」
なら、これは特定財産だけを渡す「特定承継」です。
だから、不動産登記でも、
相続登記
遺贈登記
は、かなり性質が違います。
仏教哲学っぽく言えば、相続は「人格の法的連続性」が中心で、遺贈は「個別物件の移転」が中心ですね。
つまり、
被相続人(亡くなった人)が
遺言で
「この土地を○○に与える」
と書いていた場合、その不動産を受け取る人へ名義変更する手続きが「遺贈登記」です。
ここが重要です。
相続登記
相続人が、法律上当然に承継する。
例:
「長男に自宅を相続させる」
これは実務上、相続として扱われることが多い。
つまり「包括承継」です。
遺言による“財産の譲渡”。
例:
「友人Aに別荘を遺贈する」
これは相続ではなく、「遺贈」。
受け取る人は相続人とは限りません。
① 包括遺贈
財産の割合をまとめて与える。
例:
「財産の3分の1をAに遺贈する」
これは相続人に近い地位になります。
特定の財産を与える。
例:
「東京都の土地をAに遺贈する」
こちらが典型的な「遺贈登記」。
特定遺贈の場合、原則として
遺贈者側(相続人や遺言執行者)
受遺者(もらう人)
の共同申請になります。
この違いはかなり大きいです。
日本の判例・実務では、
「相続させる」
は、単なる遺贈ではなく、相続分の指定に近い効果を持つ、と理解される傾向があります。
「長男に相続させる」 → 相続登記
「長男に遺贈する」 → 遺贈登記
となることがある。
文言で法的効果が変わるので、かなり重要です。
なお、2024年の相続登記義務化以降は、登記実務もかなり整理されていますが、「遺贈」と「相続」の区別は依然として重要な論点です。
訓練が大事
なにもしていない