スコラはカトリック教会およびその修道院に付属する「学校」を意味していた。中世ヨーロッパのスコラ哲学は、このスコラで研究された哲学のこと。ラテン語のこの「スコラ」から英語の school が生まれたが、もとはギリシア語から来ている。ギリシア語で「スコラ」というのは、もともと「暇(ひま)」を意味していた。働かない、ヒマな人が集まるところが「スコラ」だった。
当初、実験物理学者として望遠鏡の製作が評価されていたアイザック・ニュートンは、当時の望遠鏡の欠陥であるレンズの色収差の問題を解決するため光学の研究を行っており、1672年に『光と色の新理論』(New theory about light and colours)という論文の中でその結果を報告した。しかしながら、その中で展開された色の理論が、当時主流のデカルトやフックの立場に反するものであったことから、以降、フックとニュートンの間に長い論争が交わされることとなった。
Ontology is the philosophical study of the nature of being, becoming, existence, or reality, as well as the basic categories of being and their relations.(フリー百科事典「Wikipedia」、Ontologyのページから引用)
19世紀のイギリスの神学者ジョン・ネルソン・ダービー(John Nelson Darby)は、キリスト教の「プリマス・ブレザレン(兄弟団)」の指導者であり、現代のディスペンセーション主義(時代区分主義)や空中携挙の教えの基礎を築いた人物です。彼の説教や教えは、徹底的な聖書主義と、キリストへの純粋な献身に基づいています。彼の代表的な言葉(名言)と、その根底にある中心的な教えを整理して紹介します。📌 ジョン・ネルソン・ダービーの代表的な「言葉(名言)」ダービーの言葉は、自己を低くし、栄光の中にいるキリストを常に見つめる信仰の姿勢を強調しています。「栄光の中におられる生けるキリストだけを見つめ、地上では主の関心事(御国)だけを気にかける。自分自身は何も持たず、何者でもなく、何も見ない。なんと素晴らしい喜びだろう。」彼の人生観とミニストリーの核心を表した最も有名な言葉です。自己中心性を捨て、キリストの愛だけで満たされる至上の喜びを語っています。「神の方法は舞台裏にあります。しかし、神はご自分が後ろにいるすべての舞台を動かされているのです。」人間の目には見えなくても、世界の歴史や信徒の人生のすべての出来事は、神の手によって統治され、導かれているという強い信仰を表しています。
前スレ(今回から変更)
【スコラ三年】 キリスト教の神学理論 2 【教父八年】
https://talk.jp/boards/psy/1702797986
地上に手をかざす、現実主義者のアリストテレス
西洋思想は、この2人の巨人の間を行ったり来たり
https://i0.wp.com/paradjanov.biz/works/wp-content/uploads/2015/03/athens01.jpg
教父とは、古代の初期キリスト教の指導者
ローマ帝国でキリスト教が公認された頃から、
教父(英語では Farthers of Church)と
呼ばれる人々が、正統教義を確立した
彼らの思想を「教父哲学」といい、
新プラトン主義の影響が濃い
ギリシア語で著述したギリシア教父と
ラテン語で著述したラテン教父がいる
特にアウグスティヌスは最大の教父といわれ、
その著作『神の国』は、ローマ=カトリック教会の
正統性を確立した書として、聖書に次ぐ
重要性を与えられている。
4~5世紀、西ローマ時代、北アフリカで活動した教父。『告白録』『神の国』などを著し、ローマ=カトリック教会の理念を確立させ、中世以降のキリスト教に多大な影響を与えた。
新プラトン主義の影響を受け、プラトン的な二元論の世界観をキリスト教の教義体系に導入した。
聖アウグスティヌスは北アフリカの人だった。海洋国家カルタゴがローマ帝国に滅ぼされて以来、北アフリカはローマ帝国の領土だった。
キリスト教は、すでにローマ帝国の国教となっていた。しかし、帝国は東西に分裂し、西ローマ帝国はゲルマン人の民族大移動により滅亡に向かっていた。410年、アラリックが率いる西ゴート人により、永遠の都ローマが占領・略奪された。西ローマ帝国は大きな衝撃を受け、「こうなったのはキリスト教のせいだ」と、反キリスト教勢力が騒ぎ始めた。
そこで、キリスト教を擁護すべく敢然と立ち上がったのが、聖アウグスティヌスだった。彼は、代表作「神の国」を書いてキリスト教を擁護した。
「たとえ、地の国(ローマ帝国)が滅ぶとも、神の国(ローマ・カトリック教会)は永遠である」
これにより、カトリック教会の権威は確立されたのだ。
やがて、聖アウグスティヌスが司教を務める北アフリカのヒッポにも、ガイセリックに率いられたヴァンダル人が押し寄せた。ヴァンダル人によりヒッポが長期包囲される中、病床の聖アウグスティヌスは世を去った。
地の国(西ローマ帝国)は滅びたが、神の国(ローマ・カトリック教会)は、その後も千年以上にわたって西欧社会に君臨することとなった。
アウグスティヌス(ボッティチェッリの絵)
https://www.y-history.net/gazo/0103/augustinus.jpg
11~12世紀に起こり、13~14世紀の中世ヨーロッパにおける思想の主流となった哲学を「スコラ哲学(スコラ学)」という。
スコラはカトリック教会およびその修道院に付属する「学校」を意味していた。中世ヨーロッパのスコラ哲学は、このスコラで研究された哲学のこと。ラテン語のこの「スコラ」から英語の school が生まれたが、もとはギリシア語から来ている。ギリシア語で「スコラ」というのは、もともと「暇(ひま)」を意味していた。働かない、ヒマな人が集まるところが「スコラ」だった。
中世ヨーロッパにおいては、すべての学問は、カトリック教会およびその修道院に付属する「学校」(スコラ)において教えられ、研究されていた。中世ヨーロッパの哲学はこのような「スコラ」における哲学という意味で「スコラ学」と言われる。
その内容は、主としてキリスト教の教義を学ぶ神学を、ギリシア哲学(特にアリストテレス哲学)によって理論化、体系化することであった。その中心的な課題となった論争は普遍論争であった。12世紀におけるスコラ学の隆盛は12世紀ルネサンスの中心的な事柄であり、13世紀のトマス=アクィナスによって大成されることとなる。
13世紀イタリアのスコラ哲学、神学者。『神学大全』を著しスコラ哲学を大成した。
イタリアに生まれ、ドミニコ会修道士からパリ大学教授となる。アリストテレス哲学をキリスト教信仰に調和させて解釈し、信仰と理性の一致をめざした。
当時は、十字軍をきっかけに、アラブ世界との文物を問わない広汎な交流が始まったことにより、ギリシア哲学の伝統がアラブ世界から西欧に莫大な勢いで流入し、度重なる禁止令にもかかわらず、これをとどめることはできなくなっていた。知識人の間で、アリストテレス哲学の科学的思考が流行した。
そこで、ローマ・カトリック教会から神学理論の体系化を命じられた切り札のスーパー理論家が、聖トマス=アクィナスであった。彼は、「哲学は神学の婢(はしため)である」と言って、アリストテレス哲学をキリスト教に統合する壮大な理論体系『神学大全』を作り上げた。
同時代の人々の記録によると、聖トマスは非常に太った大柄な人物で、色黒であり頭ははげ気味であったという。しかし所作の端々に育ちのよさが伺われ、非常に親しみやすい人柄であったらしい。議論においても逆上したりすることなく常に冷静で、論争者たちもその人柄にほれこむほどであったようだ。記憶力が卓抜で、いったん研究に没頭するとわれを忘れるほど集中していたという。そしてひとたび彼が話し始めると、その論理のわかりやすさと正確さによって強い印象を与えていた。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/e/e3/St-thomas-aquinas.jpg/375px-St-thomas-aquinas.jpg
こたいかのげんり
principium individuationis; principle of individuation
個体を個体として他から区別する形而上学的原理をいう。
すでにアリストテレスにおいて,個体の質料的な側面がその個別性をなすものであり,一方形相は普遍的本性として,多くの個体間に共通のものであるとされた。
かかる個体化の原理は中世スコラ哲学においても主要な問題となった。
それはキリスト教教理において創造の対象としての個体,および救済の対象としての個人との関係,また三位一体の教理とこの個別性の関係が追求されたからである。
これに対し J.ドゥンス・スコツスは個性原理ヘクセイタス(〈これ〉という形相的限定) を立て,この特殊な形相が物質と非物質とを問わずすべてのものの個体化にかかわっているとした。
近世においてもライプニッツ,スピノザ,ショーペンハウアーなどにおのおの独自の考察がみられる。
古代ギリシャの昔から、西洋哲学にとって永遠のテーマだ
死んだら、使用済の人体を捨てて、魂だけになって次の世界を体験する
魂は、基本的には今の自分と同じだ
同じような思考と感情を持ち、死後世界でも自分の個性が維持される
哲学者は、そうは考えない
「生命」は、すべての人間に分け与えられており平等に分有されている
知能が高い人もいれば、低い人もいる
背が高い人もいれば、低い人もいる
陽気な人もいれば、陰気な人もいる
・・・このように、人にはそれぞれ個性がある
「生命」に個性はない
「生命」は、すべての人間により平等に分有されている
「人体」と「生命」は、セットでなければ意味をなさない
「人体」が死ねば、「生命」も消失する
ここがまた、ややこしくて微妙なところだ
このため、基本的にはアリストテレスの立場を継承している
誰もが、この説に納得するわけではない
「魂には、個性があるだろ」と考える人も当然、出てきた
哲学者のアリストテレスほど、クールでドライなわけではない
しかし、この世で身体とセットで人間となる
人間生活を通じて、霊魂は個体化を獲得するという
実は初期の著作においてもトマスはこのことを明確に述べていた。たとえば『在るものと本質について』 (De ente et essentia) 第五章には次のように言われている。
人間霊魂の個体化はその発端に関しては身体に機会原因的に依存してい る――なぜなら、霊魂は自らがそれの現実態である身体においてでなければ個体化された存在を自分に取得することができないからである―― のであるが,身体が取り去られると個体化が消滅してしまわざるをえな い、ということではないのである。なぜなら、人間霊魂は絶対的な存在を有するのであるから、人間霊魂がこの身体の形相たらしめられたこと からして個体化された存在を自らに取得した以上、その存在は常に個体化されたものとしてとどまり続けるからである。
このように、魂が存在の始源として自らの存在を有し、それを身体に分かち与えるということはトマスの初期の頃からの一貫した主張なのである。
でも、それはスピリチュアル的な「霊魂」ではない
むしろ「生命」という概念だ
無生物には無くて、生物には有るもの
それが「生命」だ
当たり前っちゃあ、当たり前
「生命」に個性はない
個性は、個々の生物の物質的な「身体」という質料にある
「生命」は、「身体」とセットでなければ意味をなさない
「身体」がしねば、「生命」も消失する
アリストテレスによれば、それは「生命」もしくは「霊魂」という形相の有無だ
では、「生命」とは何なのか?
これは、なかなか答えが出ない難問だろう
古代グノーシス主義的には身体といっても色んな身体がある
身体は「乗り物」で魂の乗り物もある
しかし、ここでいう生命は物質の身体における生命とは現象としては違うものである、とも言える
難しいのをやってるなあ〜
瞑想トップ・ギア状態から
オフにしないと
こういう難しい話でには
参加できず〜
😭
ノーマルナンミョー
までは
凡人化できたが〜
やはり、
西欧理性的文化スタンダードキリスト教や
イスラム教までは
降下できない〜
😫
かつてのビマジョの
暴走モード化しとる〜
😫
人間の知性は、神との類似性(アナロギア)のもとにある。神は恩恵でもって、みずからを人間の知性に結合してくれる。それゆえ人間は神の本質を見ることができる。人間の知性は、神の能力から派生した「知的な光」である。
被造物は、神から受け取った栄光の光の大小に応じて、神を認識する。その光は無限ではありえない。それゆえ神を完全に認識することはできない。だが、完全でなくとも、より完全に近いという仕方でなら認識できる。
アクィナスいわく、そのためには、神への愛(=カリタス)が必要となる。
愛といっても、これは性愛ではなく、むしろ友愛と呼ぶべきものだ。というのも、アクィナス的には、性愛では手段としての事物が求められるのに対して、友愛では完全な存在である神から、善すなわち至福が送り届けられるという仕方で、神と人間との間の相互交流が行われ、存在の絆が深められるからだ。
こうしたアクィナスの主張は、あるいは受け入れがたいかもしれない。人間性との絶対的な隔絶のうちにこそ神の本質がある。人間が至福を得ようが得まいが、その点から神を規定するのはおこがましい……。こうした観点からすると、アクィナスの言い方は、人間が原因を知りたいという熱望を満たすために、神をいわば「利用」しているかのように見えるだろう。
ただしアクィナスにとって、神は人間に対して絶対的な命令を下す冷酷な存在であるのではない。それはむしろ、一切の被造物に「つながり」、いわば「存在の絆」を与えるものだ。
神は、被造物に存在を分有させることで、一切の被造物のうちに存在する。最高善である神を原理とした存在=善のネットワーク。これがアクィナスの観点から見た神と被造物の関係であり、世界そのものなのだ。
ラピスラズリさんたち
神仏を本当に理解する為には同性愛を止めないと駄目ですよね?
聖書聖典も同性愛を推してないよ(笑)
同性愛者かどうかは身体に起因することだから仕方がないな
キリスト教的なテーマとしては、「それをキリスト教として祝福できるかどうか」となるんだな
なぜなのか?
片方だけでは不完全で、一緒になることで完全の表現となる
従って、それは祝福の対象となる
2332 性的特質は、人間の肉体と霊魂が一体となっていることによって、あらゆるメンバーに現れてきます。とくに感情力や、愛や出産の能力、そして一般的には、他人との交わりのきずなを結ぶ適性などとのかかわりを持っています。
2333 男女はそれぞれ自分の性の独自性を認め、受け入れなければなりません。男女の身体的・精神的・霊的相違と補完性とは、結婚の善と家庭生活の開花とに向けられています。
夫婦や社会の調和のある部分は、両性の間の補完性、依存性、そして相互扶助がどのように生かされるかにかかっています。
(…)
2335 同等の尊厳を持つ両性は、違った形ではあっても、それぞれが神の能力や優しさの似姿なのです。結婚による男女の結合というものは、創造主の惜しみなく与える心と生み出す力と肉体において模倣する一つのあり方なのです。
「男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる」(創世記2:24)。
この結合から、すべての人間が世々代々にわたって生まれてくるのです。
自由の濫用、欲に隷属するする状態に容易に堕ち得るからそれは良くないが、一方で差別してはいけない、とも語るわけだ
カテキズム的には以下のように語られる
2357 同性愛とは、同性に対してのみ、もしくはおもに同性に対して性愛を抱く男同士、または女同士の関係を意味します。これは時代や文化の違いによって、きわめて多様な形をとっています。その心理学的原因はまだ十分には解明されていません。これを重大な堕落としている聖書に基づき、聖伝はつねに、「同性愛の行為は本質的に秩序を乱すもの」であると宣言してきました。
同性愛の行為は自然法に背くものです。これは生命を生み出すはずのない性行為です。真の感情的・性的補完性から生じるものではありません。どのような場合があっても、これを認めることは出来ません。
この傾向は、客観的には逸脱ですが、彼らの大部分には試練となっています。
したがって、同性愛的な傾向を持つ人々を軽蔑することなす、同情と思いやりの心を持って迎え入れるべきです。不当に差別してはなりません。これらの人々は、自分の生活するの中で神のみ旨を果たすように、キリスト信者であれば、自分のこの傾向から生じる困難をキリストの十字架の犠牲と結び合わせるように、と呼びかけられているのです。
2359 同性愛的な傾向を持っている人々は貞潔を守るよう招かれています。内的自由を培う自制の徳によって、時には友人の献身的な助けのもとに、祈りや秘蹟の恵みによって、少しづつではあっても確実にキリスト教的完全さに近付くことができるし、またそうしなければなりません。
ちなみに、少し前に教皇の記事でこんなのもありましたな
キリスト教カトリック教会の教皇フランシスコは18日、司祭が同性カップルに祝福を与えることを許可すると発表した。性的マイノリティー(LGBT)のカトリック教徒にとって、大きな前進となる。
https://www.bbc.com/japanese/67757415.amp
ローマ教皇庁(ヴァチカン)が発表した「宣言」では、司祭は特定の状況において、同性カップルや「変則的」なカップルにも祝福を与えることが許されるとした。
一方で、こうした祝福が通常の教会儀式の一部として行われたり、市民パートナーシップや結婚式と結びつけてはならないとしている。
また、婚姻を男女間のものとする教義は、維持するとした。
教皇は18日にこのヴァチカン文書を承認。ヴァチカンは、この宣言は「神はすべての人を受け入れる」というしるしだと述べた。ただし文書では、司祭は祝福の可否をケースバイケースで決めるべきだとしている。
教理省長官を務めるビクトル・マヌエル・フェルナンデス大司教は、この宣言は「婚姻に関する教会の伝統的な義を固持するもの」だと述べた。
そのうえで、カトリック教会の魅力を「広げる」という教皇の「司祭としてのビジョン」のなか、新たなガイドラインによって、なお罪深いとされている関係にも祝福が与えられるようになると語った。
宣言は、祝福を受ける人々は「事前に道徳的な完全性を要求されるべきではない」としている。
神はなぜ男女を創造し、なぜ婚姻を「祝福するのか」
その「なぜ」に伝統や教理は解答してるのだが、
それに「反する場合」、「キリスト教の儀式として祝福出来るのか?」といった難しさだ
だが、同性愛者はそのように生まれてしまったのだから仕方がない
ただ、「行為」においてだけは、同性愛者だろうが異性愛者だろうが、「堕落的であってはいけない」のは同じ話なんだよな
けんじくん(9歳)のちんぽほしい
よしひこ神父
アリストテレスの唱えた万物の運動の根本原因。 動かすもの(原因)と動かされるもの(結果)の関係において、他によって動かされることがなく、他を動かす「不動の第一動者」をいい、これが神であるとする。
質問
アリストテレスのいう不動の動者がどんなものなのか分かりやすく簡潔に説明してください (>_<)
天体の運動は四季を変化させ、四季の変化は地球の生態系を変化させます。
しかし逆に、生態系が四季を変えることはできませんし、四季が天体を動かすことはできません。
そうすると一番根源的なものは天体ということになるのですが、その天体はどうして動くのだろうか?
ということでアリストテレスは、天体を動かす存在、不動の動者がいるのではないかと考えました。
不動の動者は自分自身が動くことはできない(不動)。しかし天体を動かす存在である(動かす者)。
科学的に言えば不動の動者は物理法則だと言えますし、宗教的に言えば神様と考えることもできますね。
物体や物質は別の形に変化することができるが、根本的な性質は変化しない、というのがアリストテレスの主張でした。この根本的な性質を不動の動者ということもあります。
私は詳しくないのでこのくらいしか話せません。こういうものはご自身で本を読むなりするのが一番ですよ。
アクィナスによれば、「神が存在する」という命題は、それ自体としては明らかだ。後に見るように、神は存在そのものであるからだ。
だが、その内実については、論証を必要とする。なぜ神が存在すると言えるのか。どのような根拠でそう言えるのか。神が存在するという前提を堅持しつつ、アクィナスはこの問いに対し答えを与えようとする。
アクィナスによる神の存在証明には、以下の5つの論点がある。
「第一の動者」が存在しなければならない
第一の作出因(=原因)が存在しなければならない
必然的に存在するものが最低一つ存在していなければならない
善なるものが存在する以上、基準となる最高善がなければならない
自然物を目的へと秩序づける知性認識者が存在しなければならない
いま存在しているものは何らかの原因をもつ(原因から生み出される)。だがその原因にもまた原因がある。そしてその原因にも原因があり、その原因も同様である。こうして、原因の系列は、第一の原因である神を出発点とするものとして見出される。それゆえ神は存在する、という論理である。
この洞察では、古代ギリシアの哲学者、アリストテレスによる因果についての推論が参考とされている。アリストテレスは『形而上学』にて、因果の系列は純粋な「動」の根本原理に基づき成立していると論じていた。ここで言われている根本原理を、アクィナスはキリスト教における神に置き換えて論じているのだ。
さて、アクィナスによると、神は必然的かつ現実的に(=つねに絶対に)存在していなければならない。その理由は次の通りだ。
いまある世界の秩序が、因果関係の系列において最新の状態である。だから、因果の系列を支え、生み出している根本動因たる神が存在しないことがありうるなら、世界そのものが存在しないことがありえてしまう。だが、それは明らかに正しくない。それゆえ、神は純粋な現実態にある。
事物は存在したりしなかったりする。形あるものはいずれ壊れる。だが、被造物に対して、神は存在したりしなかったりすることはない。神は、世界という存在の秩序を支える「動」の根本原理として、つねに存在しつづける。そうアクィナスは考えるのだ。
次にアクィナスは、神と被造物の関係について論じる。
神は根本原因である。ただし、それは質料的な意味ではなく、最高の作出因であるという意味においてだ。神は最高の作出因、最高の現実態であり、それゆえ完全である。
被造物は、完全な存在である神に由来して存在する。この際、万物は、神の形相(=本質)を分有することで、神に類似する。
この類似関係を、アクィナスは存在のアナロギアと呼ぶ。アナロギアとは、英語でいうアナロジー(analogy)と同根の言葉だ。
存在するということが万物に共通であるように、何らかのアナロギアによって作用者の形相の類似性を分有するであろう。神によって存在するものは、それが存在するものであるかぎりにおいて、このような仕方で、全存在の第一の普遍的根原たる神に似るのである。
アクィナス『神学大全』を解読する
https://www.philosophyguides.org/decoding/decoding-of-aquinas-summa/
宇宙には、太陽とか地球とか月とか
人間とか犬とか猫とか
あらゆるものが存在する
存在するからには、その存在を成り立たせている何かがあるはずだ
ないわけがない
なかったら、何も存在しないはずだ。だが、現実に万物は存在している
その「万物の存在を成り立たせている何か」のことを、「神」と呼ぶことにしましょう
・・・ということだ
これなら、神はあるに決まっている。ないわけがない
なかったら、何も存在しないはずだ。だが、現実にあらゆるものが存在している
つまり、神は存在する
これが、スコラ哲学の神
理性と
正義の
神が
働いている
というイメージ
😄
まさし神父 名古屋
アリストテレスが言及した、世界(宇宙)の運動の根本原因
不動の動者(ふどうのどうしゃ、unmoved mover)とは、アリストテレスが『自然学』や『形而上学』の中で言及した、世界(宇宙)の運動(円運動)の根本原因。
第一の不動の動者、第一動者、第一原因とも。
アリストテレスの地球中心説(geocentric)的な世界観・宇宙観においては、地球が宇宙の中心にあり、それを取り巻く、アイテールで満たされた宇宙は第一の運動である円運動によって規則正しく動いている。そしてその最外層には、その諸々の運動の原因となっている、何者にも動かされずに自足しつつ他のものを動かす「第一の不動の動者」が控えている。
こうしたアリストテレスの宇宙観・神観は、師プラトンの対話篇『ティマイオス』や、その中におけるデミウルゴス概念の影響が顕著であり、大枠は概ねそのまま継承・踏襲している。
太陽や月や星たちが、地球の周囲を回っている
それが、アリストテレスの神
世界の始まりに何があったか?ある者は神と言い、またある者はビッグバンと言う。呼び名こそ違えど、本質的には何ら変わりない。つまるところ、それらは世界の「始まり」というだけのこと。
古代ギリシアにアリストテレスという哲学者がいた。彼は、世界の始まりは「不動の動者」によってもたらされると考えた。
すべての始まりとなる究極的な原因はあるはずだ。でなければ、無限後退に陥ることになる。あるものが成立しているのは○○だから、といった理由を遡り続けて辿り着くものが、究極的な原因であり、第一の原因なのである。このように考えなければ、世界は理解できなくなる。因果の鎖が無限の彼方に呑み込まれるなど、あってはならないことなのだ。
アリストテレスの考える始まりとしての不動の動者は、「神」という概念と同義的であった。彼のこのような考えは、神の存在証明を行った神学者トマス・アクィナスの思想及び著作に多大な影響を与えることとなる。
この話だと、地球こそが不動の動者だな
ここまでは、誰もが断言している
・・・と思うところだが、誰もそうとは言わない(笑)
「地球」と「不動の動者(=神)」の関係
同じなのか、違うのか
地球は宇宙の中心だけど、「不動の動者」ではない
アリストテレスにとっては、地球の周囲で天球を回転させている存在(不動の動者)が神なのか
中心の地球から内側から順に月(LUNA)、水星(MERCVRII)、金星(VENERIS)、太陽(SOLIS)、火星(MARTIS)、木星(IOVIS)、土星(SATVRNI)と並んでいる。その外側を取り囲むように十二星座が並び天球を構成している。
https://assets.st-note.com/img/1654594835221-rsVOwcRZPq.png?width=600
地球の周囲を、天球が回っている
https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/n/nigimitama/20180602/20180602001543.png
天球はデカいな
そりゃ、神だな
神そのものだ
これ欲しい
https://handle-marche.com/pic-labo/p1568040960.jpg
「不動の動者」ってのは
自分自身は動かないから「不動」
他のものを動かすから「動者」なんだな
なるほど
いま初めて、意味がわかった(笑)
こんなとこで名前を出したら、また現れるな😫
仕方ない
「意味も分からずに哲学用語を使う」
これは、鹿野園そのものだ😅
5chのキリスト教スレにいるんだったな
地球の周りを、太陽、月、惑星、その他の星が周回している
どうやって周回しているのかというと、天体は「天球」に乗っている
天球が、天体を乗せて回っているのである
これほど巨大なものを回転させている存在
アリストテレスはそれを、神に違いないと考えた
それでいて、他のすべてを動かしている
「不動の動者」
それこそが、アリストテレスの神
「地球は太陽の周りを回っている」という地動説が台頭したが
これは、カトリックの正統神学にとっては不都合な真実だった
科学者が火あぶりの刑になるほど、カトリック神学にとって深刻な脅威だった
当時の自分では
なんか、世界観がピンと来ない
それに比べて、プラトン哲学の世界観はビリビリ伝わってくる
「読む前から、いや、生まれる前から知ってました」という感じだった
「霊界にも、富士山はある。
霊界の富士山は、現界の富士山より
遥かに巨大であり、比べものに
ならないほど美しい」
「この世は、霊界の写し絵だ。
霊界の富士山と現界の富士山は、
現界の富士山と、このフスマ絵に
描かれた富士山のような関係なのだ」
と語った
ここまで極端ではないが
プラトンのアカデミーに入学するには、幾何学か必須とされていた
アカデミーの入り口には、「幾何学を学ばざる者は、この門に入るべからず」という看板が掲げられていたと言われている
現実の三角形を描いてみよう
どこか、歪んでいる
完全無欠の完璧な三角形など、この世には存在しない
それでも、完全無欠ではない
だが、イデア界には完全無欠の完璧な三角形がある
現実の三角形は、その劣化コピーだ
突き詰めて考えれば、人間の心の中にある「観念」と言ってよい
このため、デカルト以降の近代哲学では
「イデア」が「観念」と読み替えられるようになった
デカルトは、そう主張した
元ネタは、聖アウグスティヌスの教父哲学だ
さらにその元ネタは、プラトンのイデア論にさかのぼる
脳の機能を知る現代人にとって、観念というのは、脳の中にあるイメージでしかない
脳の中に存在する、脳内現象だ
だが、昔の人にとっては、そうではなかった
実在論者にとっては、観念は実在する
「観念は実在する」
その考え方を「実在論」という
誰もが実在論に賛成するわけではない
激しい論争が起きた
論争は何百年も続いた
まあ、平たく言えば
「この世に存在するものは全て、
あの世にオリジナルがある。
この世にあるのは、そのコピーである」
「同じものでも、あの世にある
オリジナルのほうが、ずっと
美しくて完璧である」
「早い話が、この世の存在は、
あの世の存在の劣化コピーなのである」
・・・端的にいえば、それがプラトン的な二元論の世界観だ
それが、プラトンのイデアだ
イデア界には、イデアがある
この世の犬や猫は、イデア界にある犬や猫のコピーだ
イデア界の犬や猫は、美しくて完璧だ。何の欠点もない
この世の犬や猫は、その劣化コピーにすぎない
弟子のくせに、師匠のプラトンの「イデア論」を否定した
アリストテレスには、どこか遠くに「イデア界」なんてものがあるなど、ナンセンス
アリストテレスにとっては、この世がすべて
「イデア界」など無い
アリストテレスによれば、犬には犬の形相、猫には猫の形相がある
どこかの異世界に、犬のイデアや猫のイデアがあるわけではない
目の前にいる、現実の犬に「犬の形相」があり、現実の猫に「猫の形相」がある
いくらアリストテレスでも、プラトンを全否定したわけではない
プラトンの世界観から「イデア界」をなくすと、アリストテレスの世界観になる
犬には犬のイデア、猫には猫のイデアがある
現界の犬や猫は、イデア界にあるオリジナルの劣化コピーだ
この世界観から、「イデア界」を取り除いてみよう
それが、そのままアリストテレスの世界観になる
イデア界にオリジナルはない
だが、現実存在の犬や猫が、みんな何らかの「劣化コピー」であること
それは変わらない
オリジナルがあって、その劣化コピーがたくさんある
それが、プラトンの世界観
それに対して、オリジナルはない
でも、コピーはたくさんある
それが、アリストテレスの世界観
ベイダー和尚の巣穴になりましたな
😄
たけし神父 67歳 北千住
JBLさんは三位一体の神であるロゴスがイエスに受肉して劣化した、と捉えますか?
神や聖霊とレベルが同じ
それがアリストテレスだと私は思います
アリストテレスの著書
『天体論』(てんたいろん、On the Heavens)とは、古代ギリシャの哲学者アリストテレスによって書かれた、天体(宇宙)についての自然哲学書。
従来の四元素説に加えて、第5の元素(第一元素)としてのいわゆる「アイテール」(エーテル)と、それに支えられた宇宙の円運動、「アイオーン」としての宇宙の唯一性・不滅性、地球が宇宙の中心で静止しているとする「天動説」等が述べられている。
宇宙論は、その大きな要因だった
この2つが2本柱
関連する質問
アリストテレスの宇宙観は?
アリストテレスは天動説を唱えました。地球が宇宙の中心にあり、太陽と月以外に5つの惑星が地球の周りを回っていて、遥か彼方の恒星天球がゆっくりと回っているという考え方です。 アリストテレスの自然学の物質の根源は火、空気、水、土です。
天動説を否定し、地動説を唱えたおかげで、火あぶりの刑になった科学者もいるほど
中世人はなんで、こんなものを信じたのか?
中世ヨーロッパ人は、占星術に熱狂した
アリストテレスの天動説が、その理論的な基盤となった
中心に地球があって、太陽・月・惑星・星座がその周囲を回っている
単独ではなく、天球に乗って回転している
回転しながら、地上に影響を及ぼしている
天動説と切っても切れない
デイビッド・C・リンドバーグ『近代科学の源をたどる 先史時代から中世まで』高橋憲一訳、新倉書店、2011年、291–297ページ。
古代中世科学史の標準的箇所から、占星術を扱った部分を読む。占星術の基本前提と、その中世におけるアリストテレス化までが簡潔に述べられており大変有用である。
近代以前の占星術の歴史を考察するときには、それを二つの種類のものに分けるとよい。一つは天界が地表面に影響を及ぼしているという信念にまつわる一群の教義としての占星術であり、もうひとつはそれらの影響から未来を予測したり、何をなすべきで何をなすべきでないかをアドバイスする星占いとしての占星術である。このうち前者が全面的に否定されることはほとんどなかった。対照的に後者の活動の妥当性は常に疑問視され、論争の対象となっていた。
プラトンとアリストテレスの哲学のうちにもまた天界からの影響という占星術の前提となりうる教説が含まれていた。この両世界の結合から占星術を論じた一例がプトレマイオスである。『テトラビブロス』で彼は天の作用に地上が影響をうけていることは明白であり、また諸天体の性質とある時点における位置を正確に特定することにより、月下界で何が生じるかを見極めることができると論じた。たとえばある人の誕生時の天体の配置から、その人の気質を知ることが可能である。
12世紀以降、ギリシアとアラビアの占星術が翻訳されるにともない、占星術への関心の復興と、それへの(たとえばアウグスティヌスと比べて)より好意的な態度が見られるようになる。プトレマイオス『テトラビブロス』が1130年代に、アブマアサル『占星学入門』が1130年代と40年代に2回翻訳された。このうちアブマアサルの著作は、占星術のアリストテレス化ともいうべき事態を招いた。
彼はアリストテレスの基本的分析術語(質料、形相、実体など)を採用しながら、生成消滅に黄道上の太陽の運行がかかわるというアリストテレスの説明を拡張し、その他の諸惑星やそれらのあいだの幾何学的関係が月下の世界に因果的に関与するという教説を提唱した。
占星術のアリストテレス化は、12世紀が進むにつれてアリストテレス本人の著作が流通するにともなってますます進行することになる。こうして自然哲学の一部として占星術という分野が確立したのであった。
> 天体論 (アリストテレス)
>
> アリストテレスの著書
>
> 従来の四元素説に加えて、第5の元素(第一元素)としてのいわゆる「アイテール」(エーテル)・・・が述べられている。
天動説もさることながら、注目すべきなのは、ここかもしれない
光の波動説において宇宙に満ちていると仮定されるもので、光が波動として伝搬するために必要な媒質
エーテル(aether,ether,luminiferous aether)とは、光の波動説において宇宙に満ちていると仮定されるもので、光が波動として伝搬するために必要な媒質を言う。ロバート・フックによって命名された。
地球は光を伝える「媒質」であるエーテルの中を運動していると考えられていた。
エーテル説は、近代哲学の祖・デカルトが唱えたものだ
アリストテレスの「アイテール」から名前を拝借したが、別の概念
デカルトは、すべての空間には連続でいくらでも細かく分割できる微細物質が詰まっており、あらゆる物理現象はその中に生じる渦運動として説明できると考えた(渦動説)。カルテジアン(cartésien,デカルト主義者)と呼ばれる学派はそのようなデカルトの考えに基づく学派で、17世紀から18世紀にかけてのフランスで学界の主流を占めた。
また、フックの考察と光の速さの有限性の結果に刺激を受けたクリスティアーン・ホイヘンスは、素元波の概念とホイヘンスの原理を導入することで光の波動説の基礎を作り上げた。
当初、実験物理学者として望遠鏡の製作が評価されていたアイザック・ニュートンは、当時の望遠鏡の欠陥であるレンズの色収差の問題を解決するため光学の研究を行っており、1672年に『光と色の新理論』(New theory about light and colours)という論文の中でその結果を報告した。しかしながら、その中で展開された色の理論が、当時主流のデカルトやフックの立場に反するものであったことから、以降、フックとニュートンの間に長い論争が交わされることとなった。
フックは光の波動説をとっており、ニュートンは1704年『光学』(Opticks)という著書の中で光を微粒子の放射と仮定していたように、強く主張してはいなかったものの光の粒子説をとっていたため、この論争は光の波動説と光の粒子説の近代における最初の対立とみなされることが多い。
以降、ニュートンの権威も手伝って18世紀においては、光の粒子説が受け入れられ、レオンハルト・オイラーを除いては光の本性について議論されなくなった。
「自分と自分の宇宙は無い ~ 量子力学の実験結果が示す革命的な世界観
https://youtu.be/0yks1BTPJBM?si=8a2EYDVM9Vq8AHve
ノ・ジェスという人がやっている
日本人だ
名前は忘れたが
内海昭徳だ
福岡市長選に自己啓発セミナー関係者が立候補
10月31日に告示される福岡市長選挙(11月14日投開票)に、自己啓発セミナー会社「NR JAPAN」(東京都・渋谷区)の講師・内海あきのり(内海昭徳)氏が立候補を表明しました。同社は、かつて被害者から訴訟を起こされたこともある自己啓発セミナー会社の実質的な関連会社です。同社の代表者はかつてセミナー内で「政権さえ取ってしまえば、こっちのもんなんだよ!」などと口走っていました。
■内海昭徳氏が所属するセミナー団体
福岡市長選挙に立候補を表明している内海昭徳氏は、「5次元認識テクノロジー」を掲げる「NR JAPAN株式会社で講師を務め、さらに「世界経済危機を希望に大反転させる」と標榜する「JAPAN MISSION PROJECT」の代表を務めています。
NR JAPANは、韓国人・Noh Jesu(盧在洙)氏が代表を務め、盧氏が「発見」したという「HITOTSU学」にもとづいた自己啓発セミナーのようなものを開催している会社です。JAPAN MISSION PROJECT は、その盧氏の講演会などを主宰して客を集める、実質的な
インチキ詐欺宗教の匂いがプンプンする
数年ぶりに「内海唱徳」を検索してみたが、古い情報しか出てこない
最近はどうしてるのだろう
消えたのか?
日本で派手に活動しているようだ
あの件はどうなったんかな?
ちょっと量子力学を誤解してるんだよなあ
個人的には、「韓国系の団体」というだけでアウトだ
怪しさに耐えられん (>_<)
韓国が嫌いなわけではないが
それとこれとは、話が別なのだ😅
ソン・イェジンが出てた、北朝鮮に不時着するドラマ
あれは掛け値なしに傑作といえよう
政治と宗教は最悪 (>_<)
「量子力学によると、この宇宙は人間が観測するまで存在しないという実験結果」だと?
こんなんだったっけ?
気配がなかった〜
シカと
パーリーや
暇人では
つまらん
あっちは
😭
😄
https://m.youtube.com/watch?v=aoi4cLd8GtA
幻や声が
聞こえた
経験はゼロ
真言密教で
誰もいないのに
真言が聞こえたことはあるけど
😄
聞こえた系統は
真言密教、
見えた系統は
真言密教と
カトリックだけだな
😄
すごいな?😱
ノー霊媒傾向だな〜
真言密教の修行系統とか
キリスト教超越神系統だけやな
幻系統は
😄
その寺が
俺の為に近所に建ってる真言密教の寺、
無住現在なので
年に一回草刈りと
今年は2回除草剤まいた
ま、向こうに気にいられているからな〜
😄
幻や音声系統はゼロ〜
肌の光明感覚系統と
仏教宗派ごとの香り、霊的な?
ぐらいなだけだな
😄
霊媒タイプではない。
な
😄
この世には
いるのかもなー
関心は薄いが
教義リアルシュミレーションの
方が好みである
😄
出口王仁三郎は
霊媒体質で
幻キングダムだろな〜
俺は幻の映像は二回だけ
音声は一回だけ
😄
おぱんちゅかぶりたい
スコラ哲学とは真面目でアグレッシブな(神学研究の)学問のスタイルのこと。この時期宗教は信じる以上に哲学的探求だった。ちなみに、「比較検討」をメインとしたこのスタイルの源流は、アリストテレス直系です。
トマスは、その哲学において、アリストテレスの「形相-質料」(forma-materia)と「現実態-可能態」の区別を受け入れる。(略)すべての存在者の究極の原因であり、「神」(不動の動者)は質料をもたない純粋形相でもあった。(略)しかし、トマスにとって、神は、万物の根源であるが、純粋形相ではあり得なかった。(フリー百科事典「ウィキペディア」、トマス・アクィナスのページから引用)
つまり、アリストテレスの分析を受けいれながら、同時にカソリック的人格神がいることを両立しようとしている。アリストテレスの哲学は推し進めると「汎神論(どこにでも神はいるという考え)」に行きつく。それだと神は人が向き合うものというより「自然」にとけこんでしまう。
Ontology is the philosophical study of the nature of being, becoming, existence, or reality, as well as the basic categories of being and their relations.(フリー百科事典「Wikipedia」、Ontologyのページから引用)
「存在論は存在とそれらの関係という基本的な区分だけでなく、存在、生成、実在、または現実の性質についての哲学研究である。」が拙訳。この文章でも少しうかがえるんですが、『存在論』は究極の「存在」というナニカがあるとみなして、そこから「存在者(実在するもの)」が現実にどう成立するかを研究するという、西洋哲学の観念性の代表みたいな哲学です。で、トマスの神学はそんな存在論の開祖と言えるレベルで問題を整除しています!
アリストテレスにおいては、神は「不動の動者」「純粋形相」という、人格を持たない抽象的な存在
聖トマスは、これをキリスト教の神と折衷しなきゃいけなかった
キリスト教の神は、怒ったり喜んだりする聖書の神
可能態を含まない、完全な現実態
イースター礼拝行ってきたぞ〜
サティの好きそーな
暗夜気分スタート
😫
ま、瞑想ガードを崩すので
仕事疲れが
どっとわく〜
😫
礼拝の終わりには
霊的復活〜
😄
日頃瞑想コーティングライフしとるので
それを解除すると
仕事疲れが
どっとでた〜
ま、瞑想コーティングなんかして
教会礼拝しても
霊的な娯楽は成り立たんからな〜
😄
1、浄化
2、照明
3、一致
暗夜とはこの霊性のたどる過程のうち、浄化の段階のことであり、聖性にたどり着くために通らねばならない剥奪や欠如であると捉えられています。
瞑想をしていると、意識の境界がなくなってゆき、自我活動が停止するといったことが起こります。これはしばしば不安や恐怖を生じさせます。心が暗いものに覆われたように感じられます。しかしこれは、通過儀礼のようなものです。
魂の暗夜は、疎外感や絶望感を生じさせることもあるでしょう。しかし、暗夜は霊性の道において正しい過程を踏んでいることの証明でもあります。
中世ヨーロッパの古典的な瞑想の手引き書の中にも、「未知の暗雲」といったことが書かれていて、魂の暗夜と同じ意味合いで語られています。
近年では、あのマザー・テレサでさえも、暗夜を経験していたことが知られています。
『私の魂の神の場所は空白です。私のうちに神はいません。』
というメモが見つかっています。
マザーは神の愛を渇望していました。それなのに。いいえ、それ故にといった方がいいでしょう。最初はかなりセンセーショナルに報じられたようですが、私にはむしろ、人間的な葛藤を抱える姿は親しみをもって感じられました。
イースター礼拝の
最初の感覚〜〜〜😫
>瞑想をしていると、意識の境界がなくなってゆき、自我活動が停止するといったことが起こります。これはしばしば不安や恐怖を生じさせます。心が暗いものに覆われたように感じられます。しかしこれは、通過儀礼のようなものです。
魂の暗夜は、疎外感や絶望感を生じさせることもあるでしょう。しかし、暗夜は霊性の道において正しい過程を踏んでいることの証明でもあります。
https://note.com/yoshikonatsukawa/n/nf270e5b5190b
ペロン神父(71) 白人
ようへい 71歳 神父(神奈川)
きょうもげんきにたっくん(9さい ♂)でおなにーYO!
けんじ神父 57歳
正幸神父 65歳 BOYSの穴だいちゅき
まさお 修道士見習い(40代)
ひろき神父 埼玉 60才
【原罪】キリスト教の教理を学ぶスレ【三位一体】★2
https://talk.jp/boards/psy/1701733324
😄
旧約聖書ドラマ風
😄
😄
https://m.youtube.com/watch?v=ssua60ZEVmo&t=6s
とかいうヒラメキ
むろん
仕事とは
無関係なもの
霊的なものだ
😄
グノーシス主義的な表現では神の火花ですな
今のキリスト教の教義は初期のものとは別の物なんですよ
ちゃんと輪廻転生を教えないといけない
https://i.imgur.com/Y6a8Nki.jpeg
要するに宗教ってのは全部おんなじなんだよ
人間は動物の肉体に宿った魂なんだってこと
ある段階まで進化すれば
地球に生まれ変わらずにこの太陽系から他の世界、
他の太陽系に移動できますよってこと
俺ガチで悟り開けたんで記念に教えとくね
ウソブクのよ透ってないのに、もう40回も初関を透る俺様!と言い放つドマヌケ!40回も透ったら初関を透る、じゃねーべ!!
なんで、みんなワイを無視すんねん!?大欲(たいよく)は無欲に似て足るを知る。煩悩即菩提の法相宗でええやろ・・・ほならなんでワイはこんなところにいるんねやろ
イヌ:悟りとか分からねーし、知らねーし、悟ってねーわ? ググるイヌヤマは常にシカトされ自己存在の確認要求哀願奴隷也
悪霊イヌが鳴く:なんで 宗教板って まともなの俺だけなんだ?みんな間違ってばっか俺だけが正しい。みんな間違ってるのに何で正しい事を言ってる俺は否定ばっかりされるんだ?みんな俺の事を 凄いなと認めろよ。 俺は自分より優れた奴が ゆるせないんだよ(脅迫性人格障害の特徴)
ナント妻子と月一、金曜夜7時からのお坐り会、茶菓(ちゃか)代ワンコインで、これが研究会出席虚勢のトマヌケ犬は誰からも疎まれる
独善イヌヤマは月一第三金曜日夜7時茶菓代ワンコイン坐禅会に出ると偽証。命取りの摂心に親子で100回参加と虚飾スル
新小岩の食業ドライバーイヌヤマとは法相宗(ほっそうしゅう)奈良興福寺(こうふくじ)前官長じっちゃんのお抱え運転手で食業ドライバーで、知ったかぶる以外に承認欲求が満足しない。
多数者を演じ孤立セズと強弁し自作自演のおぞましい日々の無脊椎動物イヌヤマは成り済まし多重人格者で要治療
インチキキチガイ雀鬼イヌヤマ麦、アルコホル発酵しイヌ麦焼酎なのに喜ばせ共有機能が絶えて無し。吠え吠み、オノレの尻尾をクルクル追うノミシラミ
5ちゃんねるの会話はバトル形式で馴れ合いを禁じる。イヌヤマは、褒めてクレヨの哀願奴隷。相手を罵倒する悪口雑言の数々は外道イヌヤマへのリアル社会の絶対評価で、問いに問いで返す脊髄反射の脳足りんで悟前(ごぜん)未悟(みご)、金魚ドジョウと救い難い。
① ググるシッタカ知障荒らしイヌヤマは無視放置スルーが一番ツライ、耐えられない。シッタカイヌヤマは常に誰かの反応レスを待ち焦がれ
② 放置された固定観念イヌヤマは煽りや自作自演でアナタのレスを誘う。ワケワカメ糞邪鬼イヌヤマにノセられてレスしたらその時点でアナタも同類、負け。完敗
③ ;反撃はイヌの滋養にして栄養であり最も悦ぶ事です。門前のヤセイヌにエサを投げ与えぬ事
④ ;臭い汚いコワイ気持ち悪いイヌヤマが枯死する迄、孤独に暴れさせゴミが溜まれば削除
アリストテレスの『形而上学』は、存在としての存在を研究する存在論、万物の第一原因を研究する神学、すなわちあらゆる存在者を存在者たらしめている根拠を探究する学問として、西洋哲学に大きな影響を与えました。
西洋哲学の多くの基本概念を生み出した。
問題分析の態度や弁証法的思考方法が研究者の模範となる。
後の西洋思想の根幹となる「目的論」を準備した。
万物は可能態から現実態へといたる運動である。
すべてのものは現実態という目的(完成)を目指し、進歩的に進んでいく。
事物は形相と質料の二面をもつ。
形相はイデアとほぼ同じ意味だが、質料は、事物を成り立たせている素材である。
アリストテレスの規定によれば、形而上学(第一哲学)とは「存在としての存在」の研究(存在論)であり、さらには万物の「第一原因」の研究(神学)である。 すなわち、自然学が生物や気象などの限定的な研究領域をもつのに対して、形而上学は存在するもの全体を、それが存在するという資格をもつかぎりで探求する。
teleology. ギリシア語の telos+logosに由来し,人間の行為ばかりではなく,歴史的現象,自然現象も含めて,万象が目的によって規定され,支配されているとみる哲学説。 機械論と対立する。 アリストテレスは,事物の原因として質料因,形相因,動力因,目的因をあげ,神が究極的な目的因であるとした。
アリストテレスで最も有名と言ってよいのが「形而上(けいじじょう)学」です。 これはプラトンで有名なイデア論(あらゆるものの「本質」はこの世の中には存在せず、現実とは別の世界である「イデア界」に存在しているという思想)を一部否定し、独自の概念を提唱した学問として知られています。
人間が生き物として絶えず追求している究極目的、すなわち最高善は幸福(eudaimonia)である。 アリストテレスは個人の幸福と国家の幸福という二つの次元から人間がいかにして幸福に生きるかを説いた。
プラトンの言ってることは、なんでもすぐピンと来るし、腑に落ちる
でも、アリストテレスの思想はなんだか・・・
自分にとっては異質な思想だ
この世に富士山があるように、霊界にも富士山があるらしい
そして、フスマ絵の富士山を指差して、「霊界の富士山と現界の富士山には、現界の富士山とフスマ絵の富士山くらいの違いがある」と語った
・・・端的にいって、こういうのが「プラトン主義」の思想だ
もちろん、スピリチュアルではなく哲学なので、「霊界」とは言わないが
「この世はイデア界の写し絵である」というのが、プラトン主義
それが、プラトンとの最大の違いだ
「イデア界」はないが、「イデア」はある(イデア思想と区別するため、エイドスと呼んだ)
現界にいる無数の犬たちは、イデア界にある「犬のイデア」の影絵のようなものである
それに対してアリストテレスでは、「イデア界」など存在しない
でも、「犬のエイドス」ってものがある
現界にいる無数の犬たちは、「犬のエイドス」を分有している。皆で共有している
プラトンの世界観では、イデア界にオリジナルがあり、現界に多くのコピーがある
アリストテレスの世界観では、イデア界はなく、現界しかない
現界には多くのコピーがあるのだが、オリジナルが存在しない
すべてのニワトリの原型となる、理想のニワトリそのものだ
地上で「コケコッコー」と鳴いているニワトリたちは、その劣化コピーだ
地上のニワトリは、必ずどこかに欠点があり、完全無欠ではない
完璧なコピーではなく、劣化コピーだ
長所も短所もひっくるめた、現実のニワトリ
他の多くのニワトリたちと、ニワトリの形相(エイドス)を分有している
優秀なニワトリも、劣等なニワトリも、すべてが形相を分有している
どこにも原型は存在しない
地頭秀才やなー
オレあかんはー
偏り過ぎるー
😀
セイウンコーンの唯識の誤読解説提示シリーズをたのもー
😀
白くて小さなタマゴ。どう見ても、ニワトリには見えない
そんなタマゴがかえってヒヨコになり、なぜかニワトリになる
可能態から現実態への移行だ
アリストテレスにとっては、完全無欠で理想のニワトリなど存在しないし、どうでもいい
目の前にいる、現実のニワトリ。それがすべてなのだ
久しぶりにやっとります😆
「可能態から現実態への生長」がアリストテレス
主のご計画とか
終末の預言とかの
そもそもの目的があるからなー
😀
少し疲れが抜けてきた
😀
「アリストテレスの哲学は、現代人にとって何か意味があるのだろうか?」
「現代人にとって、アリストテレスの哲学から学べるものはあるのだろうか?」
と質問された
答えに詰まってしまった😫
でも、アリストテレスはどうだろう?
目的論的な世界観は、魅力を失っていない
「人生は、この世の魂修行を通じて意識進化を遂げるプロセス」
と考えている人は多いが
これは、アリストテレス的な世界観だ
アリストテレスは、人間の子どもの成長を例に、現実世界のあらゆるものが「質料因」「作用因」「目的因」「形相因」の4つの要因によってできていると述べています。
アリストテレス哲学の現代への影響
彼の形而上学や倫理学は、物事の本質や人間のあり方について深く考えるための道を示しており、論理学の体系化は知識の体系化にも寄与しました。 さらに、彼の「経験」に基づく探求方法は、科学的な思考と実験方法の発展にもつながっています。Oct 27, 2024
アリストテレスの用語で,終極状態にあることを意味する。 彼によれば,生成は可能態にある質料が目的 telosである形相を実現することにあり,その実現された状態もしくは形相そのものがエンテレケイアである。 すなわちそれは完全現実態であり,実現態とも訳される。
古代ギリシアの哲学者アリストテレスは、「人生の最終目的は幸せになることだ」と言っています。
徳には勇気・節制・正義などが挙げられたが、彼 が最も重視した徳は「友愛(ピリア)」であった。 人間は、まわりの状況によって徳をいかようにも判断 する。
アリストテレスは、「存在するものとは何か」を考え続けました。 そして「物事の本質は、その中に存在する」と定義しました。 そして、物事が存在するのは、「質料因(素材や材質)」「形相因(形状)」「動力因(物事を作り出す力)」「目的因(物事が存在する存在目的)」の4つの原因・理由からなると言います。
「幸福は最高の善」と言ったのはアリストテレス。人は何かの目的を達成するためには必ず何かをする。そして、その何かの目的はさらに上位の目的につながっている。その究極の目的が「幸福」であるという考え方だ。
だとすると「幸福」はどのようにしたらもたらされるのでしょうか。 アリストテレスは、「人間にとっての善は徳に基づく魂の活動」(NR上60)だとし、「徳」に「活動」が伴うことで「最高善」になると言いました。
意識進化というイメージは
キリスト教の
聖霊の付与による
聖化の解釈の変形ともいえる
疲労回復しだすと
ヒラメキが出るなあー
仕事日は
デモニッシユな
「地獄大菩薩」(白隠の)バカ仏教)笑みたいなワードの
向かない仕事で猛烈なメンタル疲労からの回復の
反転術式のリバースしまくりやからなー
😀
そのキリスト教神学解釈に
読み替えしてまうなー
聖霊デンパか?
クリスマスも近いしな
😀
プロテスタント神学の読み替えではなく
カトリック神学の読み替えだと
聖霊と主の計画による
聖化の善という解釈に読み替えたんやろなー
たぶん
😀
主の創造物である本質とか存在となったんやろな
創世記の存在論みたいな
😀
プロテスタントだと
特にカルバン主義だと
魂の進化
みたいな発想はいかない、
😀
キリスト教神学の構築のヒラメキが〜
まーあっているか
保証できなきけど
😀
は
瞑想仏教では
まず無理だろなー
瞑想仏教だと
無我論とかの理屈は
置いといても
基本は
小乗大乗に関わらず
現象と自己の正確な把握がベースだからな
😀
「地獄大菩薩」という悪趣味な
仕事対応システムからの
解除と疲労回復のせいやろー
「地獄大菩薩」なんて
リアル現実対応マゾマシーン発想やからなー
🤮
あるといえばある、
山伏と日蓮だろな
功徳の蓄積による
仏のイメージへの意識進化みたいな感じがある、
ホーカイくんの屁理屈みたいな発想ではないだろう
😀
悪趣味な
「地獄大菩薩」
😀
ムイムイ、セイウンコーンを
ボコボコ地獄落としっ!
😀
怒っておるぞー
😡
聖書やコーランだけでは、教義内容があまりに乏しい
聖書をいくら読んでも分からない
アリストテレスのおかげで、それが分かった
😀
哲学に留まらず政治思想にも及び、真存在を解する哲学者が政治統治者になるべきだという、
一種の哲学者独裁政治を最善の政治体制と考え、かつシシリー島で実践を試みてまでいます(結局失敗しますが)。
プラトンの師匠はかのソクラテスです。
ソクラテスは民主主義体制の下で利害が交錯する中、裁判で死刑を言い渡され刑死しました。
プラトンが深く民主主義や現実に失望し、天上のイデアというものを想定するに至った大きな背景です。
まず、この絵をご覧ください。
https://life-shift.net/wp-content/uploads/%E7%94%BB%E5%83%8F11.png
ラファエロの名作「アテネの学堂」です。左側の老人は右手で天を指さしています。
プラトン。そして右側の若者は地を指さしています。彼がアリストテレスです。
師匠と弟子の対立のダイナミズム、これは哲学を前進させるひとつの駆動力であったといえましょう。
アリストテレスは、本質は地上の個物にあると主張したのです。
アリストテレスの議論は複雑なので、今回はごく大雑把ですが、現実を観察することの重要性を説いたと理解していただければひとまず十分です。
アリストテレスはボトムアップの、プラトンはトップダウンの世界観を有していたのです。
キリスト教やる元気がない
😫
2025年は、カトリック教会の総本山であるバチカン市国で聖年(ヨベルの年)が開催されます。聖年は、1475年以降25年ごとに開催されており、教皇がローマを訪れる信徒に特別免償を与える年です。
2025年の聖年のテーマは「希望の巡礼者」で、教皇フランシスコは2025年の聖年を布告する大勅書「希望は欺かない」を発表しています。
ヨベルの年(聖年)とは、イスラエル人が50年目に迎える自由と解放の年で、安息の年とも呼ばれます。
アイデンティティーはヨーロッパの哲学の核心にある概念です。「真の自分」「もう変わりようのない究極的な自分」のことです。
ですから、無反省的に生きている限り、人間は「真の自分」にはなれません。自分の外殻にこびりついた自分の中に起源を持たないすべての夾雑物を洗い落として、「真の自分」を見出すように努力しなければならない。
これがヨーロッパ的な「アイデンティティーの哲学」の基本的な考え方です。
1933年のフライブルク大学総長就任演説で、ハイデガーはドイツ大学人に課せられた使命は「われわれがそうあらねばならないものに自らなるということなのである」と明言しました。
私たちは自分が「ほんとうは何ものであるのか、何ものにならねばならないのか」を先駆的・直観的にはぼんやりとは知っている。でも、さまざまな障害のせいで、まだ「真の自分」になっていない。だから、全力を尽くして、生涯をかけて「真の自分」になる。
マルクス主義、実存主義、構造主義、ポストモダニズム、フェミニズム、加速主義・・・と思想の意匠は次々に変わりましたけれども、「臆断の檻から抜け出す」「幻想から目覚める」「眠りから起こされる」という同じメタファーがいつも繰り返されてきました。
映画『マトリックス』では、赤いピルを選んで、「マトリックス」にコントロールされた眠りから覚めたネオが、荒々しく生々しい現実世界と向き合う場面がありますけれど、これが「真の自分」の最も典型的な表象です(いささか単純過ぎますけれど)。
歴史とは、可能態から現実態への移行のプロセスであると捉える見方だ
昨日はカトリック御堂参りしてきたでー
😀
いいな~😄
西山派寺院に行ってきた
😀
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デカルトは「われ思う」は確実なのだから、「われ」の存在もあるといいましたが、それは間違いで、単に私の思考作用があるといったに過ぎず、思考作用があるからといって「私」が存在することにはなりません。
その後、カントがその証明を試みましたが、むしろそれはデカルト批判で、デカルトが「私」が存在し、その「私」を実体だと主張したことへの反論でした。
カントにとって「私」というのは意識の中心にある「核」のようなもので、それをカントは外界の感覚データを取りまとめているという意味で、「超越論的統覚」といいましたが、しかしカントにとってその「核」は知られざる「x」であり、「可想体」でした。
その何ものかが、私の目を通して物を見ている。
しかし、目は目それ自体を見ることが出来ないのと同じように、私は私の背後にいて目を通して物を見ている「私」の存在を見ることは出来ません。
ただ、なんとなく背後にいるような感じを持っているだけです。
背後の空間に何者かがいるかもしれないけど、いないかもしれない。 私にとって背後の空間は文字通り、「空白」です。
西欧人はその背後の空間に「私」の存在があるといいますが、東洋人である私にはその背後の空間は「無」であるように思います。
かつて西田幾多郎はその背後の空間を指して「絶対無」といったことがあります。 つまり日本人にとって、自我とか主体というようなものは存在しないのです。
キリストの復活祭、イースターは、毎年日付が変わり、2025年は4月20日(日曜日)です。
イースターの日付は、「春分の日以降、最初の満月の次の日曜日」と決められているため、毎年3月下旬から4月上旬の間に祝われます。
だが、イースターは日曜日と決まっている
2023年から2030年までのイースターの日にちは、以下のとおりです(西方教会の場合)。
年日付2023年4月9日(日)2024年3月31日(日)2025年4月20日(日)2026年4月5日(日)2027年3月28日(日)2028年4月16日(日)2029年4月1日(日)2030年4月21日(日)
2023年から2030年までのイースターの日にちは、以下のとおりです(西方教会の場合)。
2023年4月9日(日)
2024年3月31日(日)
2025年4月20日(日)
2026年4月5日(日)
2027年3月28日(日)
2028年4月16日(日)
2029年4月1日(日)
2030年4月21日(日)
デビルドエッグは、ゆで卵を半分にカットし、くり抜いた黄身をマヨネーズやピクルスなどと和えて白身に詰めたもの。イースターではポピュラーな卵料理です。なぜ、デビル(悪魔)という名が付けられたかというと、かつてとても辛い味付けだったことに由来します。
イースターで、伝統的に食べられているのがラム肉(仔羊)です。なかでも、ローズマリーを効かせた骨付きのラム肉を、オーブンでカリッと香ばしく焼き上げるのが一般的。春に生まれる仔羊は、新たな命の象徴でもあります。
生地にスパイスやドライフルーツが練り込まれた、ふんわり食感の甘いパン。表面に、キリストの受難を表わすクロス(十字架)の飾りが付けられているのが特徴です。小ぶりなパンを連結させて焼き上げており、ちぎりながら食べるのが定番のスタイルですよ。
キリスト教の教会では、特別な礼拝や奉献が行われます。
近年では、キリスト教徒以外の人々もイースターエッグの装飾やイースターバニーなどを楽しむなど、春の訪れを祝うイベントとして広まっています。
日本でも、イースターエッグの飾り付けや、イースターエッグをプレゼントするなど、様々なイースターを楽しむ習慣が定着してきています。
新たな生命の象徴である、タマゴや子羊を食べる
キリストは処刑前、弟子たちに「処刑後3日目によみがえる」という予言を残しました。生前の予言通り、キリストは3日後に復活するという奇跡を起こします。キリストの復活を目の当たりにした弟子たちは、喜びに沸き立ちました。これがイースター(復活祭)につながったといわれます。
アリストテレスは、「エイドス」という、イデアと似た形而上的な概念を唱えた
そこが問題だった
エイドスとイデアは、哲学者のプラトンとアリストテレスが用いた概念で、どちらも「形相」「本質」を表す言葉として用いられています。プラトンではイデアとエイドスを同義語として使い、アリストテレスではエイドスを物事の「形相」、つまり本質的な特徴や構造を指す言葉として使用しました。
プラトンは、物事の真実の姿や本質を表す「イデア」という概念を提唱しました。イデアは人間が肉眼で認識できる世界の物事とは異なる、より高い次元の存在であり、私たちが見る具体的な物事はそのイデアの模倣であると考えました。
プラトンもイデアとエイドスを同義語として使いましたが、アリストテレスはエイドスを物事の「形相」として、より具体的な特徴や構造を指す言葉として用いました。例えば、木の「形相」は、樹皮、葉、枝、根といった要素で構成される、と捉えることができます。
アリストテレスは、物事の存在を説明するために「四原因説」を提唱しました。この説では、物事が存在するために必要な原因として、材料原因(ヒュレー)、形式原因(エイドス)、目的原因、そして動力原因(動機)の4つを挙げました。エイドスは、この中で「形式原因」として、物事の形や構造を決定する重要な要素であると捉えられました。
イデアとエイドスは、プラトンとアリストテレスが用いた「形相」「本質」を表す言葉です.
プラトンではイデアとエイドスを同義語として、アリストテレスではエイドスを物事の具体的な特徴や構造を指す言葉として用いました.
アリストテレスの四原因説では、エイドスは物事の「形式原因」として、その形や構造を決定する重要な要素であると捉えられました.
要するに、古代ギリシャの聖賢たちが言ってたような
「本質存在」あるいは「普遍存在」ってものが
有るのか、無いのか?
問題はそこだった
結局のところ、それは
「エイドスは有るのか、それとも無いのか?」
という論争だった
エイドス(普遍概念)の存在をめぐる論争を普遍論争と言います。普遍論争は、プラトンが「イデア論」の中で提唱したイデア(普遍概念)の存在をめぐり、中世哲学において重要な議論となりました。具体的には、普遍概念が個々の物体に先行して実在するのか、それとも個々の物体から派生するのか、という問題が争点となります。
実在論(実念論):
普遍概念が個々の物体に先行して実在するという立場。イデア論やボアテウスの論理学が代表的です。
唯名論:
普遍概念は名辞に過ぎず、個々の物体に先行する実在はないという立場。ウィリアム・オブ・オッカムやペローが代表的です。
概念論:
普遍概念は個々の物体から発生するが、個々の物体に依存しない独立した実在ではないという立場。トマス・アクィナスが代表的です。
普遍論争は、哲学だけでなく、神学、倫理学、政治学など様々な分野に影響を与え、中世の知的好奇心と知的活動を刺激しました。また、現代哲学にも影響を与え、普遍概念の実在性に関する議論は現在も続いています。
普遍論争の主な論争点
普遍概念の実在性:
普遍概念は、個々の物体に先行して実在するのか、それとも個々の物体から派生するのか、という問題。
普遍概念と個物の関係:
普遍概念は個々の物体とどのように関連しているのか、という問題。
普遍概念の意味:
普遍概念はどのようにして意味を持つのか、という問題。
プラトンのイデア論:
普遍概念は、個々の物体が模倣するイデアとして実在するという立場。
アリストテレスの分類論:
普遍概念は、個々の物体の共通的な性質として、個々の物体から派生するという立場。
ボアテウスの論理学:
普遍概念は、個々の物体の共通的な性質として、個々の物体から派生するが、個々の物体とは異なる実在するという立場。
唯名論の台頭:
中世後期には、唯名論が主流となり、普遍概念の実在を否定する立場が強まりました。
トマス・アクィナスの概念論:
普遍概念は、個々の物体から派生するが、個々の物体に依存しない独立した実在ではないという立場。
普遍論争の現代的意義
普遍論争は、普遍概念の実在性に関する議論であり、現代哲学にも影響を与えています。例えば、言語哲学における普遍概念の役割、数学における集合論、科学における種の概念など、様々な分野で普遍概念の実在性に関する議論が活発に行われています。
「霊界にも富士山がある。現界の富士山は、
霊界の富士山の写し絵みたいなものだ。
霊界の富士山と、現界の富士山の関係は、
現界の富士山と、このフスマ絵の富士山
みたいなものだ」
・・・プラトンのイデア論ってのは、
端的にいえば、このような世界観だ(笑)
中世とはいえ、だんだん現実的な人が増えてきた
イデアなど無いと思う人が増えてきた
トマス・アクィナスは、唯名論(普遍的なものは個物につけられた名前に過ぎないとする立場)を否定し、普遍は個物に先立って存在するとする実在論を支持しました. 彼は、信仰と理性を調和させ、理性を用いて神の意志を理解し、現実をより良く生きると主張しました.
唯名論との関係
唯名論:
アベラールやウィリアム・オブ・オッカムなどのスコラ学者が主張した、普遍は個物に先立って実在せず、単に個物につけられた名前であるという考え方です.
アクィナスの立場:
アクィナスは、普遍は個物の中に存在し、それを通じて人間は普遍的な概念を理解できるとしました. 普遍は、個物の共通の要素であり、それが実在することで、人間の知識や思考が可能になるという立場です.
実在論:
普遍が実在するという考え方です。アクィナスは、この実在論を支持しました.
アクィナスの考え方
信仰と理性の調和:
アクィナスは、信仰と理性は調和しており、互いに矛盾しないと考えました. 彼は、理性を用いて神の存在を証明し、信仰を深化させようとしました.
神の意志の理解:
アクィナスは、理性を用いて神の意志を理解し、倫理的な行動や社会的な公正さを実現できると考えました.
まとめ
アクィナスは、唯名論を否定し、普遍は個物の中に実在する実在論を支持しました。彼は、信仰と理性を調和させ、理性を用いて神の意志を理解し、現実をより良く生きると主張しました.
最大の原因は、
「イエス・キリストは人類の罪を贖った」
「神は人類を救い給う」
という、キリスト教の中核教義にあった
でも、「人類」って、何なのよ?
「人類」なんてものが、本当に存在するのか?
これが論争に火をつけた
プロテスタントの更年のイースター礼拝してきた、
が
疲労の為か、牧師がダメダメなのか、
無関心過ぎたせいか?
聖霊パワーゼロ
😫
お口直しに
カトリックに行き
聖霊パワーを吸ってきた
😀
> すごくレスってるなー
イースターのときくらい、キリスト教の話をしないとな~😄
思い出すために、まとめてみた(笑)
Resurrection sunday ~ Hillsong
https://www.youtube.com/live/pO5hm3rdJWc?si=oOoiwz4y9MXiLlLm
2024年12月8日 10時22分
日本人としては7人目となるローマ・カトリック教会の枢機卿に菊地功氏が新たに就任し、核廃絶や平和に向けて力を尽くす考えを示しました。
式典では、フランシスコ教皇が1人1人に枢機卿のシンボルである深紅の帽子「ビレッタ」などを手渡しました。
このあと、菊地氏はNHKの取材に対し、「2019年にフランシスコ教皇が来日し、広島と長崎から平和のメッセージを発信した。教皇は、日本に対し世界に向けて核兵器廃絶と平和のために働くことを求めていると思う」などと話していました。
新潟教区の司教などを経て2017年から東京大司教を務めています。
枢機卿は、ローマ教皇に次ぐ地位の聖職者で教皇の最高顧問として助言などを行い、80歳未満であれば教皇を選ぶ「コンクラーベ」で投票権を持ちます。
枢機卿に日本人が就任するのは7人目となります。
引退の危機なんやろ、
そろそろやなー
イースター礼拝の前に
瞑想修行研究がクイックに
システムアップしてたのが
プロテスタント教会にて
イースター礼拝で
聖霊パワーゼロだった理由だ
天台の奥義、密厳華厳の奥義の
研究解析しだしてたからだ
😀
ゴールデンウィークは
長期休暇はありそーだから
来年は
仁和寺決戦と
天理教宿坊泊まるプランがいけるかもー
来年4月ぐらいにならんとわからんが
😀
途端
やはり
魔改造山伏念仏研究してしまう
修行の情熱半端ない
😀
キリスト教研究が進んだ
霊的イマジネーションだが
天理教、念仏日蓮山伏、大本と
セット的な?
😀
好きな
大本的、
超越ワールドみたいな発想?
😀
凄すぎるセットですな😅
車イスで復活祭に出席し、その翌朝に世を去った😭
無人のカトリック教会へ
行ってきたで
霊的パワーに
満ちていた
😀
どこにでもいるから、探さなくていい
丁度彫刻家が自分の概念と大理石を一つにして彫像を作るのと同じく,理想の世界と物質を一つに結び付けた者,すなわち“工匠”である“デミウルゴス”がいた。
この“デミウルゴス”は,あらゆる物の完全なイデアを持っており,同時に膨大な量の物質を手にしていた。
プラトンは,“デミウルゴス”,イデア,あるいは物質が元来どこからもたらされたのかを全く説明していない。それらのものは始めから存在していただけである。“
デミウルゴス”が一つのイデアをある物質と結び付けると,一つの物が創造された。
究極の一者 モナド
世界の創造主 デミウルゴス
究極の一者 ト・ヘン
世界の創造主 ヌース
人間の魂がいかにして神に至るかをディオニュシオスは終始問題にする。そしてその際決定的となるのが位階(ヒエラルキア)である。
位階は、到達の段階に応じて、神の姿に似たものになろうとし、神より注ぎ込まれた照明の段階(アナロギア)に応じつつ、神と類似のものに向かって高まってゆく。
上の位階は下の位階に対して啓示となり、下の位階にある者は上の位階があることによって神の恵みを受け取ることができるという。
天使の位階
『天上位階論』に語られるところによれば、天使の位階には3つの階級(父、子、聖霊に対応)があり、ひとつの階級に3つの段階がある。つまり天使の世界には合計9つの位階が存在する。
熾天使(セラフィム)
智天使(ケルビム)
座天使(トロノイ、王座)
主天使(キュリオテーテス、主権)
力天使(デュナメイス、力)
能天使(エクスーシアイ、能力)
権天使(アルカイ、権勢)
大天使(アルカンゲロイ)
天使(アンゲロイ)
『教会位階論』によれば、教会の位階も天使の世界と同じく3つの階級とそのなかの3つ、合計9つの位階で構成される。その具体的な内容は、最も神に近い第一の階級が典礼、次の第二階級が聖職者、第三の階級が非聖職者となっている。
香油(附膏、堅信)
結合、聖餐(聖体)
洗礼
主教(司教)
祭司(司祭)
従僕(助祭)
修道士
受洗者
受洗志願者
いわばこの時位階は光の通路となっており、位階によって最高位のものと最低位のものが結ばれる。
また、位階を神との合一との働きという観点から見れば、浄化、照明、完成という3つの段階がある。
最高位の完成した者は他者をも完成に導き、中間位の者は上位より照明されつつ他者への照明となり、最下位の者は上位から浄化されるものとして他者を浄化する。
神学に鈍くなってる
😫
トーク板で客がいるからなー
😀
😀
アウグスティヌスの思想をわかりやすく解説!神の国、地の国とは?
アウグスティヌス(354 - 430)は、古代キリスト教の代表的な神学者・哲学者です。
この記事では、「神への愛(カリタス)」「神の国・地の国」「悪の問題」「原罪」といったアウグスティヌスの思想をわかりやすく解説します。
アウグスティヌスは、北アフリカのタゲステ(現アルジェリア)で生まれ、カルタゴで文学や弁論術を学びました。
彼の母親は熱心なキリスト教信者でしたが、アウグスティヌス自身はマニ教に傾倒するなど、信仰に悩んでいました。
しかし32歳の時に、プラトンの系譜を引く哲学に触れたことをきっかけに、キリスト教に改宗します。
その後は司教となり、神学や哲学の著述を残しました。
当時のヨーロッパは、ゲルマン民族の大移動が起きており、それまでの平和な世界が脅かされていた時代でした。
神への愛(カリタス)
「カリタス」とは、神を無償に愛することを言います。
アウグスティヌスは、人間にとって最も大切なことは、見返りを求めずに神を愛することであり、それによって幸福になれるのだと主張しました。
アウグスティヌスは、私たちが生きている世界は、「神の国」を元に創造された「地の国」であると説明しました。
そして、たとえ「地の国」が異民族によって滅ぼされたとしても、「神の国」では永遠の安らぎが得られると主張しました。
具体的には「神の国」は教会のことを指しており、この理論は正統派のキリスト教を理論的に支えることになりました。
アウグスティヌスは、「善である神が創造した世界に、なぜ悪が存在するのか」という問題に取り組みました。
その問いに対して彼が出した結論は、「悪は実在せず、善からの逸脱である」というものでした。
つまり、「悪」は本質をもつものではなく、善が欠けている状態にすぎないということです。
アウグスティヌスは、アダムとイブの罪(原罪)が全人類に遺伝すると考えました。
そして、この原罪から人間を救えるのは、キリストの犠牲だけであると主張しました。
この考え方は、現代のキリスト教にも受け継がれています。
アウグスティヌスの思想は後世のキリスト教に大きな影響を与えました。
たとえば、中世の哲学者ライプニッツは、アウグスティヌスの「悪」の考え方をさらに発展させ、この世界は複数あった可能性の中から神が最善のものを選び出したのだと主張しました。
アウグスティヌスは神を無償に愛することを重視しました。
キリスト教徒でない人にとってはピンときませんが、これを他者への愛や奉仕活動に置き換えてみてはいかがでしょうか。
ボランティアやチャリティ活動を通じて、他者を思いやる人生というのも良いですよね。
悪が善からの逸脱であるという考え方は、現代社会においても、人間の持つ善と悪の二面性を理解する手がかりとなるかもしれません。
気に入らない人を「この人は悪い」とただ切り捨てるのではなく、自分と分かり合えるポイントがあることを信じて、粘り強くコミュニケーションをとることにより、新たな関係性を築くことができるかもしれません。
アウグスティヌスの自伝『告白』には、彼の若い頃のエピソードが綴られています。
彼は、若い頃に放蕩生活を送っており、後にキリスト教に改宗することで人生を大きく変えました。
このような過去の経験が、彼の思想や哲学に大きな影響を与えていると言われています。
人生の中で寄り道をしても、それが将来思わぬ形で自分の財産になるのかもしれないですね。
「カリタス」はラテン語で「愛」を意味します。特に、神の愛、無償の愛、慈悲、愛徳といった意味合いで使われます。感情的な好き嫌いではなく、相手をあるがままに受け入れ、大切にするという意味も含まれます。
カリタスは、キリスト教の信仰において重要な概念であり、「神の愛」を意味する言葉として、多くのキリスト教関連の組織や施設で使用されています。
例えば、カリタス学園(カトリック系の学校)は、創立以来、「普遍的な愛をもって人に尽くす人間の育成」を教育理念として掲げています。
また、「カリタス」は、国際的な慈善団体である国際カリタスの名前にも使われています。
このように、「カリタス」は、単なる愛情表現を超え、深い意味を持つ言葉として、様々な場面で用いられています。
胸が何かある。
悪いものだと誰でもわかるようになっている。
洗脳されるともはや戻れない。
正しい配線を繋ごうとしてももはや繋がらない。
カトリックの洗脳は危険である。
見ても聴いてもいけない。
入ってくるだけでそちらに引っ張られて大変なことになる。
入ってくると戻ることはできない。
考えると思考がブレると言って考えないようにしていく。
話の繋がりのおかしい話を3つくらい用意して馴れさせておく。
話の繋がりはどこかおかしい、だけど結論はいい話。
洗脳するときは何かある。何か、それは違和感かもしれないし、違うかもしれない。
洗脳するときは何かあることを認める。説明に何かあるのは、それは真理にたどり着こうとしているからだと言って、引きずり込んでいく。
新興宗教はこのような危険な洗脳を行っている。
伝統的な宗教であるカトリックがこのようなことを行うわけがない。
カトリックを騙る新興宗教もある。
0~4 乳児期 2歳までは授乳 天使か妖精の無分別期 胎内での様子を語る
5~9 幼児期 ここまで生きられたら健康の天才児。男女7歳にして席を同じゅうせず
10~14 10歳尋常小学卒業まで生き延びたら丁稚奉公で親元出立 女児初潮生涯卵子数400個保持 10歳幼学
15~19 結婚適齢期前期 精子のピーク17 最大バスト19才 縄文時代の平均寿命は15歳最長30 15歳志学しがく
20~24 結婚適齢期後期 みずみずしく張るプルプル肌 感触最良バスト 20老眼スタート20歳弱冠
25~29 脱水で細る顔ボソッ 25男の体力のピーク
30~34 人生振り返り期、尋牛見跡(じんぎゅうけんせき)悪魔の囁く声を聞き新興宗教開祖乱立
35~39 人生此処までと実感、中年太りと滴る愛液枯渇と名器終了、膣粘膜薄→性交痛
40~44 40不惑、初老 夜間頻尿 毛細血管ゴースト化 精子数減少 43老眼乱視、子宮硬化不妊
45~49 昇格、更年期前期、妊娠恐怖解放 禿頭始
50~54 肩たたき転職勧告、♀やる気男性ホルモン増、更年期後期 50天命 知命 アル中肝静脈瘤破裂前期
55~59 息子に嫁が来る頃には無勃起閉経 アル中肝静脈瘤破裂後期
60~64 天下り先退職金積み増し 60還暦 耳順じじゅん
65~69 65歳は高齢者 年金受給 65夜間頻尿、脳委縮開始年間1ミリ立方ずつ減少する
70~74 72男健康年齢 前立腺がん乳がん
75~79 75高齢者講習、健康保険1割負担 ひ孫と面談ランドセル予約 75女健康年齢 75後期高齢者
80~84 80釈迦没 長寿の達人 男平均寿命81
85~89 存在確認の同窓会が無い 女平均寿命87 ,男死亡年齢87
90~94 歯科医の総仕上げ総入れ歯女死亡年齢94 90卒寿そつじゅ
95~99 歯茎で噛み切れる刺身が旨い 99白寿はくじゅ
100~104 自治体表彰 100百壽ももじゅ
105~109 アルコホルは毒なのに酒がうまい 108茶壽ちゃじゅ
110~114 飲む点滴ポカリスエットがうまい 111歳皇壽こうじゅ
115~119 もっと尿瓶しびんをクレヨンクレパス 119頑寿がんじゅ
120~124 120趙州 ( じょうしゅう ) 禅師没 120昔寿せきじゅ 121歳大還暦
テオドラによって改ざんされている
遭ったあなたに
栄光を(๑•̀ㅂ•́)و✧
そんなことも知らないのかねぇ?
哀悼の意を示します
太陽系で世界が幾つもある
我々の本体は波動だ
https://i.imgur.com/KAy3TVJ.jpeg
https://i.imgur.com/rxnkKuI.jpeg
😀
トマスは南イタリアの貴族の末子として生を受けました。
ナポリ大学ではじめてアリストテレスの哲学にふれます。
当時の西欧世界はアリストテレスの逆輸入がはじまっていました。アリストテレス哲学は自分たちの世界観を揺るがす「最新」の知。黒船来航みたいなものです。
キリスト教とアリストテレスをいかに融合させるか?これがのちのトマスにとって一大プロジェクトになります。
トマスはギリシア語が読めなかったので、アリストテレスの著作をすべてラテン語に翻訳してもらっています。日本では原典主義が根強いですが、こういうエピソードを見ても、別にそこまで原典にこだわる必要はないんじゃないかと思えます。ちなみに現代アメリカの哲学者も英訳をガンガン利用します。
ナポリ大学ではドミニコ修道会のメンバーと接触。彼らから触発をうけたトマスは、家族の反対を押し切りドミニコ修道院に入会します。
その後はドミニコ会の教授としてパリ大学で神学を教えました。
現代にトマスがいたら、おそらくグーグルドキュメントの音声認識で著作をものしていたでしょう。
この件もそうですが、彼はどうも異能の持ち主だった節があります。弟子がトマスの祈りを覗き見したところ、彼が空中に浮遊していたなど、それっぽいエピソードも豊富。おもに創作でしょうけれども、それだけとは思えない感じ。
晩年にはなんらかの大きな啓示を得た模様。その事件後、「自分が過去に書いたものなどわらくず同然だ」と言い残し、著作の執筆を完全にやめてしまいます。こうして神学大全は未完に終わったのでした。
おそらくなんらかの霊的な実体験をしたのでしょう(霊界の住人からメッセージを受信したなど)。それがキリスト教の枠組みと衝突、まではいかないにしても、それを大きく凌駕するものだったのだと思われます。
トマスの死がもたらした悲しみは甚だしく、ロバすらもその死をいたんだそう。ロバは鎖を引きちぎりトマスのなきがらに駆け寄ると、どうと地に倒れそのまま亡くなったといわれています(こういうエピソードのせいで他の話まで疑わしくなる)。
じつは霊能者だったようだ
レスは上げる
まだ
妙心寺スペシャルモードだ
😆
> とんでもない著作の量で知られるトマス・アクィナス。その秘訣は口述筆記にあったようです。弟子の書き手を3人~4人ぐらい侍らせて、とどまることなく、しかも複数のトピックを同時並行的にぶわーっとしゃべり続けたそうです。
出口王仁三郎聖師とあまりにも似ている😂
トマス・アクィナスは、自然界や人間の理性を通じて、神の存在を証明しようと試みました。
つまり、哲学的な思考によって、神が存在することを説明したということです。
彼が提唱する「五つの道」は、神の存在証明として有名です。
以下にそれぞれの道を詳しく解説します。
世界には運動(=変化)が存在し、全ての運動には原因があると考えられます。
しかし、無限に原因が遡れないため、最初の運動の原因として神が存在すると主張します。
あらゆるものは何らかの原因から生じます。
しかし、原因と効果の連鎖は無限に続かず、最初の原因が存在しなければ何も生じないと考えられます。
トマス・アクィナスは、その最初の原因こそ、神であると主張します。
現実世界には、存在することもしないこともあり得る偶発的な存在が多くあります。
しかし、すべてが偶発的な存在だと、何も存在しない空白の瞬間があるはずです。
そのような状況を回避し、「存在することが必然的である存在(=神)」がいると主張します。
自然界には程度の差があり、善悪や美醜などの評価がされます。
最高の善や完全さを持つ基準として、神が存在すると主張します。
自然界には目的を持って機能するものが多く存在します。
例えば、植物は太陽の光を吸収するという目的を果たすために、葉っぱが広がるように設計されています。
しかし、無意識なものは、目的を持って機能することができません。
それゆえ、目的を持ってすべてのものを導く存在(神)が存在することになります。
それこそが、「神学大全」における最大のテーマ
だから、神が存在するのは検討するまでもなく、自明の理だ
そこを、あえて証明する
「神の存在は証明不能である」
ということを証明したのが、カントの「純粋理性批判」
これは、西洋哲学における最大級のテーマだ
1つや2つのスレは、すぐに埋まってしまう(笑)
トマスにとって大事なのだろう
他の部署の巻き込まれ
トラブル処理で疲れた
😆
他部署の巻き込まれ案件
仕事中と帰りの買い物は
妙心寺スペシャルやりこなして疲労を感じなかったが
家につくなり
どっと疲れが出た
キリスト教は、今夜は無理だ
豊山派の学者の空海著作現在語訳を読むくらいだな?
😫
聖書並みに読みやすい
😆
ハッスルしてるな?
くらいしか声かけない
😆
プロティノスのネオ・プラトニズム
「流出説」だ
「なのに、なぜ、世界はこんなにもバラバラに分かれているのか?」
という疑問
一度も考えることすらない疑問
固まれば、個物の出来上がり
「型枠」は、「形相」と呼ばれる
アリストテレスによる、個体化の原理の説明だ
因果関係の遡行: 宇宙に存在するあらゆる物事は、原因によって引き起こされていると考えます。この原因をさらに遡っていくと、説明の連鎖を断ち切る「第一原因」にたどり着くはずだと主張します。
第一原因としての神: その第一原因が、宇宙のすべてを生み出した神である、と結論づけるのが宇宙論的証明です。
歴史的背景: アリストテレスに起源を持ち、イスラム哲学やキリスト教神学で発展しました。特にトマス・アクィナスによって中世に体系化され、ライプニッツ、クラークなど、後の哲学者にも影響を与えました。
因果律: 宇宙のすべての物事には原因があり、その原因にもまた原因がある。この連鎖を無限に遡ることはできず、どこかで最初の原因(第一原因)が存在しなければならない。その第一原因が神である。
充足理由律: ゴットフリート・ライプニッツが提唱した考え方で、「あらゆる存在には、その存在理由がある」とします。宇宙が存在する理由、または宇宙の物事のすべてを説明できる理由が神であると論じられます。
「そして、むしろ、無があるのではないのか?」
ライプニッツによる有名な問い
それが、神だ
三大証明の1つだ
質料は「何からできているか」という物質的な素材を指し、形相は「何であるか」という事物の本質や機能、目的を指します。
個体化の原理は、この質料と形相の組み合わせによって、それぞれの「個々のもの」が成立するという考え方です。
質料(ヒュレー): どのような事物でも、それを構成している「物質的なもの」のことです。例えば、彫像であれば、それを彫る前の「青銅」や「大理石」などが質料にあたります。
形相(エイドス): その質料によって形作られたものの本質的な「形」や「あり方」のことです。彫像の形相は、その「彫像」という形そのものです。
組み合わせによる成立: 個々の事物(個体)は、質料と形相が組み合わさることで成り立ちます。
例: 青銅(質料)に彫刻家が「人」の形(形相)を加えて初めて、「人の彫像」という個別のものが生まれると考えます。
アリストテレスの考え方: この考え方は、感覚で捉える個々の具体的な事物やその変化を説明するために用いられました。
要するに、個体化の原理だ
どうして、世界はこれほどバラバラな個物に分かれているのか?
・・・この疑問にこたえる理論
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典「個体化の原理」の意味・わかりやすい解説
個体化の原理
こたいかのげんり
principium individuationis; principle of individuation
個体を個体として他から区別する形而上学的原理をいう。
すでにアリストテレスにおいて,個体の質料的な側面がその個別性をなすものであり,一方形相は普遍的本性として,多くの個体間に共通のものであるとされた。
かかる個体化の原理は中世スコラ哲学においても主要な問題となった。
特にトマス・アクィナスは質料が個体化の原理であり,したがって天使のような純粋に非物質的な存在はただその形相によってのみ個体化されるのであるとし,かくて有名な,同一の種に2種類の天使は存在しないという理論を展開した。
近世においてもライプニッツ,スピノザ,ショーペンハウアーなどにおのおの独自の考察がみられる。
というけど、「人類」ってそもそも何なの?
・・・という疑問から始まった
ボクやキミは含まれるのか?
その楽しみは金曜日夜まで
お預け、
それをやると俺的人間堕落が起き
仕事のやる気が消滅する
😃
◎おすすめ参考文献
『トマス・アクィナス 肯定の哲学』山本 芳久
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『世界は善に満ちている: トマス・アクィナス哲学講義』山本 芳久
https://amzn.asia/d/9lOh4kZ
『トマス・アクィナス――理性と神秘』 (岩波新書) 山本 芳久
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◎その他の主要な参考文献
『聖トマス・アクィナス』 (ちくま学芸文庫) G.K.チェスタトン
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『トマス・アクィナス「神学大全」』 (講談社学術文庫) 稲垣 良典
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『哲学の歴史〈第3巻〉神との対話―中世』
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『アウグスティヌスとトマス・アクィナス』 エティエンヌ・ジルソン, フィロテウス・ベーナー
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アリストテレス自然学では、月下の世界は土・水・空気・火の四元素より成り、それらは相互に移り変わることが可能としている。この月より下の常に転化して生成・変化・消滅を繰り返す世界は「地上界」と呼ばれる。それに対して月とそれより先のエーテルよりなる世界では決して転化することがなく、生成や消滅は見られない。この不変の世界は「天上界」と呼ばれる。彼はそれぞれの世界は別な法則に従っていると考えた。この考え方は二元的宇宙像(論)と呼ばれている。
https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEjbbTTyDv9xRh1ruldFhkfH5aazlbj3gnw1mF98nxnNeTdmnny0MuJGfkYAAvxR4Jl2tlEZfcYxLz4rTZivUqNEf54fgC09_GOQA-4A-vaw_eFQQkYIyUEDSn9ZbF2lKtyISxqJveHqNoZg/w400-h400/%25E3%2582%25A2%25E3%2583%25AA%25E3%2582%25B9%25E3%2583%2588%25E3%2583%2586%25E3%2583%25AC%25E3%2582%25B9%25E3%2581%25AE%25E5%25AE%2587%25E5%25AE%2599%25E5%2583%258F.png
天上界の性質: 生成や消滅を繰り返す地上界と異なり、天上界は不変で永遠の世界です。
運動の法則: 天上界は永遠の円運動のみが許される世界でした。
構成要素: 地上界を構成する土、水、空気、火の四元素とは異なり、天上界は「エーテル」という第五元素で構成されているとされました。
地上界との対比: 月を境に、下の世界が「地上界」、上の世界が「天上界」と区別されました。
別々の法則が働く世界と考えていた
なにも生成したり、消滅したりしない
天上界は無為法
地上界しか見ていない、弟子のアリストテレス(右)
https://www.kk-bestsellers.com/wp-content/uploads/mwimgs/2/a/-/img_2ae8dde592059850b86d7ce07e8ea677237793.jpg
じつは、この2人の違いは意外なほど小さい
占星術にも取り組んでいた
プラトンより、アリストテレスにハマったのか
若い頃は、それが不思議で仕方なかった
アリストテレスといえば「質料と形相」とか
「可能態と現実態」の話ばかり
コペルニクスやガリレオたちの地動説を弾圧することにつながった
地動説は、「タネを明かせば、こういう仕掛けになっているんだよ」という
種明かしにすぎない
思想史的には、アリストテレスといえば「天動説」だ
この分野でアウグスティヌスは多く読まれ、高く評価されています。アウグスティヌスは著作のエネルギーを、信仰生活の基本は律法への従順であるとした当時のペラギウス派の動きに向けました。
神から与えられた能力: 神は人間を自由意志を持つ存在として創造しました。
善と悪の選択: 自由意志は、神に近づく善的な選択も、神から離反する悪的な選択も可能にする、中間的な善であるとされました。
悪の原因: 悪は、人間の自由意志が善の方向ではなく、自己の欲望や「無」へと傾くことによって生じると説明されました。
恩寵の必要性: 罪を犯した人間は、自らの力だけでは正しい行いをすることができず、善へと向かうためには神の恩寵(助け)が必要であるとされました。
アウグスティヌスの自由意志論には、後世に異なる二つの解釈が存在します。
恩寵先行論: 予定説に基づいて、救いにおいては神の恩寵が先行し、自由意志の役割は限定的であるとする解釈。
積極的な役割: 救いにおいて、個人の自由意志が積極的に働くことを認める解釈。
トコトン自由意志のみに近いが
ハッスル🤡くんは
呪縛され自由意志がゼロに見える
😆
ハッスル🤡パワーは低下した
😆
このため、人間が善行をなすためには神の恩寵が不可欠であると主張しました。彼は、自由意志が正しい行いに使われるためには、神の助けが必要だとしました。
善と悪の選択: 人間は神から善にも悪にも選択する自由を与えられているとしました。
悪の原因: 悪は神が創造したものではなく、人間が自由意志を誤って用いた結果(罪)であるとしました。
神の恩寵の必要性: 罪におちた人間は、自らの力だけでは善に立ち返ることができないため、神の恩寵(助け)が必要だとしました。
自由意志と救い: 人間が善行をなすことができるのは、神の恩寵によって自由意志が正しい方向へ導かれるからだとしました。
アウグスティヌスの自由意志論は、後の神学や哲学に大きな影響を与えました。
特に、救いにおける個人の自由意志の役割をどのように位置づけるかについて、様々な解釈や論争を生みました。
・神はもともと「悪」という性質を持つ
・神に制御できない「悪」が存在する
などの仮説が立てられるわけだが、教会にとって上記の解釈はどちらも都合が悪い。神は全知全能でなければいけない。「悪」という性質を持っていてはいけないし、制御できない「悪」があってはならない。
アウグスティヌスはこの問題に対して「悪という実在は存在せず、悪だと見做されているものは全て善の欠如である」と主張した。
神は世界を「善」でもって創造した。そして、世界はとても多様な性質を持っている。世界が神の「善」のみによって作られていると考えた場合、そこに濃淡がなければ世界の多様性はありえないだろう。だから世界における善には濃淡がある。その濃淡、つまり善が濃い部分と薄い部分を相対的に観察すると、私たちが「悪」と認識するような事物が認められる。だから「悪」という実在が端的に存在するのではない。私たちが「悪」だと思っているものは欠如した善なのである。
多少詭弁にも思えるが、言っていることはもっともらしく聞こえる。
書籍紹介
【書評】 『世界は善に満ちている トマス・アクィナス哲学講義』 山本芳久
殊勝な気持ちで「名著」に挑んだものの、数ページで挫折したという経験は誰しもある。
「欲求されうるもの(アペティービレ)が、欲求能力(アペティートゥス)に、まず自らへの適合性―欲求されうるものが気に入ること(コンプラケンティア)―を与えるのであり、そこから欲求されうるものへの運動が続くのである」(トマス・アクィナス『神学大全』)
日本語でありながら日本語でないような難解な文章に辟易し、読むことを諦めがちであるため、しばしば「名著」は読まれないベストセラーとなる。トマス・アクィナスは今から700年以上前に生きた人物で、今もカトリック教会においては最も偉大な神学者とされている。トマスは、キリスト教の「神学」と、キリスト教が誕生するはるか前に古代ギリシアで栄えた「哲学」とを深く結びつけ、新しい地平を切り拓いた、「哲学者」であり「神学者」である。
「神学」とは、キリスト教の「信仰」に基づいた学問であり、「哲学」は、「理性」に基づいて、この世界の構造を論理的に解明しようとする学問。両者を融合させたトマスの業績は、「信仰と理性の統合」と評される。トマスの主著『神学大全』は、日本語訳版で全45巻が刊行されているが、それでもトマスの全著作の7分の1程度である。膨大な著作の中、本書で取り上げているのは、『神学大全』第10巻に述べられているトマスの感情論。
学生からの鋭い指摘や問いかけに誘発され、哲学者の口から豊かな思考が紡ぎ出され、感情の根源となっているものと、それを肯定して生きる道とが解きほぐされていく。難解であるはずのテクストが次第に読めるようになり、中世哲学と現実の生活とが地続きになっていく感覚は刺激的だ。
最大の鍵は「愛」であるという。「愛」がすべての感情の根源にあるとする考え方は、「キリスト教は愛の宗教だから」といったキリスト教寄りの見解から生まれたものではない。トマスは、人間ならば誰もが共有している「理性」に基づいて、「すべての感情の根底には愛がある」との洞察を導き出す。
だから、トマスに「キリスト教の神学者」というレッテルを貼り、「キリスト教の信仰を持たない自分には関係ない」と考えてしまうのは惜しい。トマスは、「信仰」という思い込みで、世界を強引に肯定しようとするタイプの「信仰者」ではないのだ。
それでいながら「理性」に基づくトマスの知的探究は、キリスト教の「信仰」と対立するどころか、むしろ共鳴していく。ひたすら「理性」によって展開されるトマスの感情論が、キリスト教の「神の愛」と結合することによって、どのような神学的ヴィジョンが見えてくるのか、関心に火が灯るとさらにトマスを学びたくなる。
疫病によって一瞬にして変えられた世界、どうしようもない人生の中でも、読むことと考えることはできる。「名著」によって、心の体幹を鍛えてみるのはどうだろうか。
なるほど
善が愛の対象: 人間の欲求能力(理性や感情)が「善」に影響を受けると、人はその善を「愛する」ようになります。
「愛」は受動的な働きかけ: 善がもつ魅力によって心が変化すること自体が「愛」であり、単に大げさな感情を意味するわけではありません。
愛が喜びにつながる: 善を愛し、それを手に入れたいと願う「欲望」は、「喜び」という感情につながります。
愛: 善なるものが人の心に働きかけ、魅力を感じる。
欲望: その善を手に入れたいと願う。
喜び: 善を手に入れたときに感じる感情。
この一連の流れの中で、感情は「善」と「愛」によって結びつけられています。
それが、愛
善なるものを手に入れる
それが、喜び
意外プロテスタントの盲点をついているのは
堕罪論に偏らない
創世記第一章を重視している
創世記 よしとされた」とは、神が天地を創造した際に、それぞれの創造の後に「見て、良しとされた」と宣言したことを指します。これは、神がご自身の創造したすべてのもの、光、空、大地、植物、動物、そして人間を含む万物を喜ばれ、完璧であると見なしたことを意味します。特に、創造の最後に「造りおこなったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった」と記されている部分が、この考えを強調しています。
創世記における「良しとされた」
天地創造の各段階で繰り返される宣言:
神が「光あれ」と命じた後、光を見て「良しとされた」と述べられています。
陸地、海、草木、天の光るもの、そして生き物が造られた後にも、「良しとされた」と繰り返されます。
創造の完成:
第六日、神が創造したすべてのものを見たとき、「造りおこなったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった」と述べられています。
神の満足と肯定:
「よしとされた」という言葉は、神がご自身の創造の業に満足し、それを肯定していることを示します。
人間も「神にかたどり、神に似せて」創造され、神によって「良し」とされた存在として位置づけられています。
さっと、どこか
解ってくる
😆
ニワカではない
😆
拝読しますた~😆
堕罪論スタンスだろう
😆
善なるものを欲する ← それが愛
欲するものを手に入れる ← それが喜び
哲学的理性を取り入れるべきか否かの論争の時代だった
哲学的理性の混入の神学に対する
議論問題があった
アメリカ福音派は
基本的には人間は認めない派で
バルト神学も否定、
自由主義神学も否定というスタンスだろう
😆
まだ余裕はある
😆
なるほど
真言宗寺院で勤行二度あげてきた
さて、
キリスト教研究にやっと入れる
とりあえずは
日本基督教団の長老派のほうから研究にしよう
このシリーズは
加藤常昭コーナーで
たくさんあった
https://note.com/search?q=%E5%8A%A0%E8%97%A4%E5%B8%B8%E6%98%AD%E7%89%A7%E5%B8%AB&context=note&mode=search
0419 栖雲居士 ◆t8ok0QoQ8kcK (ワッチョイ e36e-Uggj [2400:2200:682:ad8f:*]) 2025/12/11(木) 19:43:25.85
790 栖雲居士◆t8ok0QoQ8kcK (50-Soe-Ij-wvu)[] 2025/12/11(木) 15:46:37.12 ID:DU06i
例えばあっちのキリスト教スレでは、霊性センターせせらぎさんの"毎日のみことば"を紹介してる。
仏教、禅のスレだって例えば円覚寺の南嶺老大師が日記を掲示してるし、そこからの学びや感想をレスするだけでもネタは尽きないし、学びになるって思うけどな。
でもやるからには、責任を持って出来る限り日々欠かさず載せないとならないしな。
ID:en5k06nw0(2/
アリストテレス的な概念だ
究極の目的 (Telos): あらゆるものの運動や変化が最終的に到達しようとする究極の目標そのものです。
完全な現実態: 可能性(未実現の状態)が一切残っておらず、完全に実現された状態(現実態)です。
不動の動者: 自身は動かない(変化しない)が、他のすべての存在が「そこへ行こう」と動くことで、世界全体の運動を引き起こす(動かす)原理です。
形相と質料: 個々の事物(人間や彫像など)は「形相(設計図・本質)」と「質料(材料)」が結びついていますが、純粋形相は質料から離れて単独で完全な形相として存在します。
神聖な存在: 生成消滅を免れるため、超自然的な存在であり、プラトンのイデアにも通じる概念です。
簡単に言えば、「すべての存在が目指すべき完璧な理想(目的)」であり、その理想自体が究極の力となって世界を動かしている、というアリストテレスの宇宙観・目的論の中核をなす概念です。
代わりに、AIに答えてもらおう😅
「第一形相」だ
「第一質料」に訂正
「第一質料」だ
形相と質料: アリストテレスは、個々の存在(例えば「鶏」)は「形相(そのものが何であるかという本質・本性)」と「質料(何からできているかという素材)」が結びついたものと考えました。
第一質料の役割: この質料(ヒュレー、ギリシャ語)は、形相を与えられる前の、まだ特定の形や性質を持たない、無限の可能性(デュナミス)を秘めた根源的な素材です。
四元素説との関係: 「温・冷・乾・湿」という対立する性質の組み合わせが第一質料に働きかけることで、火・空気・水・土の四元素が生まれ、さらにそれらが結びついて我々が認識する多様な物質が生成されるとされました。
「第一原理」との関連: 「第一原理(First Principles)」という言葉は、この第一質料のように、物事の最も基礎的な原理や真理を指す際にも使われます。
質料と形相
門脇住吉 著 『道の形而上学
一一芭蕉・道元・イエス 一一』
岩波書店、 1990 年 4 月、 316 頁
ギリシャ的主知主義の 影響を濃厚に 留めている西洋の神学に満足しきれずに、 その長所は尊重しながらも、 キリストが残した 実践と教えの 真髄を 、 東洋や日本の 伝統的精神文化の 側から理解し 受容しようとする 試みは、 こ れまでにもいろいろな 人々によってなされて 来たが、 本書ほど確信に 満ち てこの試みを 展開し、 どんな批判にも 屈しない力を 備えていると 思われる ものは少ない、 と言ってよいであ ろう。
しかし、 本書を読んで、 あえて大きな表現の使用を許していただくなら、 世界の神学界に 漸く一条の希望の光がさし込んで来た 、「これなら行ける」という 喜びを深くした。
れの中にも実践的に 降り立つよ う 努めたようで、 1985 年「 道 の神学序説」と 題し、 12 回に分けて連載した 芭蕉や道元の 思想の研究は 、 なかなか良く 書げており、 それは見出しや 叙述の順序を 多少変えて、 殆ど そのまま本書の 1 と 11 に収録されている。
芭蕉の人生観は「 旅 」の思想と して解説し、 道元の深遠な 『正法眼蔵 』についても 禅宗の視点から 理解す るのが普通で、 本書のように、 「人類と世界の 歴史を動かす 根源的原動力であり、 究極目的であ る」 ( 前置き 8 頁 ) 生きている「 道 」の観点から「 身読 する」のは、 真実の芭蕉や 道元の思想をゆがめ 兼ねない、 と危惧する人も
11世紀にアンセルムスが「それ以上に偉大なものは考えられない存在」として神を定義し、想像上の存在より現実の存在が偉大であるため存在すべきと主張したのが代表例です。
定義: 神は「それより偉大なものは考えられないような存在」である。
論理:
神の概念は誰もが理解できる(神は想像・知性の中に存在する)。
「想像上の存在」よりも「現実に存在する存在」の方がより偉大である。
もし神が想像の中にしか存在しないなら、神より偉大なもの(=現実の神)が考えられることになり、神の定義と矛盾する。
したがって、神は現実にも存在しなければならない。
中世・アンセルムス: 信仰を理性で理解しようとする試みとして展開。
デカルト: 神の概念(本質)は完全であり、完全な存在には存在という属性が欠かせないため、神は存在すると主張。
スピノザ: 「無数の属性によって構成される、絶対的に無限の実体」を神と定義し、存在をその属性として証明。
批判: 中世のガウニロ、近世ではカントが「存在は述語ではない」と批判し、論理的定義から存在を導き出すことを否定。
この議論は神が存在するという前提なしに、論理だけで神の存在を明らかにしようとする試みです。
謎の日本イエズス会
😃
テーラワーダの慈悲の瞑想を
魔改造
日本イエズス会
😃
主著『神学大全』で理性的論証による神の存在証明(五つの道)を論じ、神学は哲学より上位だが、両者は矛盾しないと主張した。
スコラ学の完成(神学と哲学の調和):
アリストテレスの論理的・現実的な哲学をキリスト教の神学体系に取り入れ、「哲学は神学の婢(はしため)」としつつも、理性による思考を高く評価した。
運動、因果、可能と必然、完全性、世界の秩序といった経験的事実から、神を「第一原因」として論理的に導き出した。
ありがたや~😭
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/e/e3/St-thomas-aquinas.jpg/500px-St-thomas-aquinas.jpg
目的: 神の意志を知り、神の愛(アガペ)に触れ、イエスの心に近づくこと。
瞑想の対象: 聖書の箇所(福音書など)、神の教え、沈黙。
黙想 (Meditation/Meditatio): 聖句を読み、想像力や知性を使ってその場面を思い描き、自らの生活に適用する。
観想 (Contemplation/Contemplatio): 言葉を超えて、静かに神の現実に留まる、より深い祈り。
キリスト教的ヴィパッサナー/マインドフルネス: 呼吸や体の感覚を「あるがまま」に観察し、神の無条件の愛に今ここで気づく。
スタイル: 静かに座る(椅子や座禅)、歩行瞑想、ロヨラのイグナチオの『霊操』に見られる想像を用いた黙想など。
世界はイエスのアガペーで満ちている
イエス三密加持
😃
日本語訳クルアーン音声を聴いているナウ
😃
生涯と回心: 青年期の放蕩や異端(マニ教)への傾倒を経て、ミラノでアンブロシウスの影響を受けキリスト教に回心。
主な著作:
『告白』: 自身の半生を省みる自叙伝形式の信仰告白。
『神の国』: ローマ帝国衰退を背景に、現世の国(地上)と神の国を対比した神学書。
原罪と恩寵: 人間は罪深く、神の恩寵(恵み)によってのみ救われる。
信仰と理性: 「理解するために信じる」という、まず信仰を持つ姿勢。
時間論: 時間は人間の意識の中に存在し(過去・現在・未来は心理的)、神は時間を超越した永遠の存在であると考察。
歴史的意義: ローマ=カトリックの教理的基盤となり、中世の神学(スコラ学)から宗教改革、近代の主体性概念にまで影響を与えた。
さらに深く知りたい著作(例えば『告白』の核心部分など)はありますか?
「告白」の意味:単なる罪の告白ではなく、「神を賛美する(聖なるものを示す)」という意味。
回心の軌跡:哲学的探究(真理の追求)からマニ教、プラトン哲学を経て、最終的にキリスト教(正統信仰)へと回心する過程を詳細に描く。
有名エピソード:「取って読め」という声を聞き、聖書を読んで回心するシーン(庭園での改宗)。
人間理解:「わが心は、あなたのうちに憩うまで安らぎを得ることができない」という言葉に代表される、神を求める人間の内面を描写。
構成:全13巻から成り、1~9巻が自伝(過去)、10~13巻が哲学・神学的思索(時間論や創世記解釈)。
「主よ、あなたはご自分に向けてお造りになりました。ですから、わたしたちの心は、あなたのうちに憩うまで安らぎを得ることができないのです」
アウグスティヌスの思想は、中世ヨーロッパの教会思想の基礎となったため、この書は宗教的に非常に重要な意味を持っています。
この作品の「時間論(過去・現在・未来)」の章について、より詳しくお話ししましょうか?
人妻・妾の女性:名前は記録に残っておらず不明。アウグスティヌスは『告白』の中で彼女に対する愛と、その後の別れの葛藤を描いています。
息子の存在:アデオダートス(Adeodatus=「神から与えられたもの」の意)という息子をもうけました。
回心と別れ:386年の回心後、母親モニカの強い意向や、将来の妻との縁談などもあり、彼女とは離縁しました。
この人物に関する『告白』の記述をより詳細に知りたいですか?
通説ではこの女性の身分はコンクビーナであったとされ、妾(めかけ)と訳されている。 アウグスティヌスは16歳から回心にいたるまで16年間もこの「不義の女性を囲い」、不義の子アデオダー...
二項対立は、「善/悪」「自然/人工」「主観/客観」のように、世界を2つの対照的なカテゴリーに分けて理解する枠組みです。
これは哲学や言語学、特にフェルディナン・ド・ソシュールやクロード・レヴィ=ストロースの議論でも重要なテーマです。
■ 「言語の誤用が原因」説について
これは一部の哲学者、とくにルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインに近い考え方です。
彼は、
哲学的な混乱の多くは
→言葉の使い方を誤ることから生じる
と考えました。
この観点から見ると:
本来は連続的なもの(例:感情や価値)を
言語で無理に区切ることで
→ 「AかBか」という対立が生まれる
つまり、「言語が現実を歪めている」という見方は確かに成り立ちます。
■ しかし、それだけでは説明できない
ただし、二項対立を全部「言語のミス」とするのはやや単純化しすぎです。
1. 人間の認知の特徴
人はもともと:
速く判断するために
世界を単純化する
その結果:
グラデーションを無視して
「敵か味方か」みたいに分ける
これは言語以前の認知バイアスです。
2. 言語の構造そのもの
言語はそもそも:
区別(違い)によって意味を作る(ソシュールの考え)
例:
「白」は「黒でないもの」として理解される
つまり、
→言語は構造的に二項的になりやすい
これは「誤用」ではなく「仕様」に近いです。
レヴィ=ストロース的には:
人間文化は世界を整理するために
→ 対立構造を使う
例:
生/死
男/女
自然/文化
これはむしろ意味づけの基本的な方法です。
■
レヴィ=ストロース的には:
人間文化は世界を整理するために
→ 対立構造を使う
例:
生/死
男/女
自然/文化
これはむしろ意味づけの基本的な方法です。
■ まとめ
言語の誤用が二項対立を生むことはある(ウィトゲンシュタイン的視点)
しかし実際には
人間の認知
言語の構造
文化的枠組み
が組み合わさって生じる
👉 なので、
**「二項対立=言語の誤り」ではなく、「人間が世界を理解するための強力だが単純化しすぎる道具」**と考えるのがバランスがいいです。
もし興味あれば、「二項対立を乗り越える考え方」(連続性・スペクトラム・弁証法など)もかなり面白いテーマですよ。
レヴィ=ストロース的には:
人間文化は世界を整理するために
→ 対立構造を使う
例:
生/死
男/女
自然/文化
これはむしろ意味づけの基本的な方法です。
■ まとめ
言語の誤用が二項対立を生むことはある(ウィトゲンシュタイン的視点)
しかし実際には
人間の認知
言語の構造
文化的枠組み
が組み合わさって生じる
👉 なので、
**「二項対立=言語の誤り」ではなく、「人間が世界を理解するための強力だが単純化しすぎる道具」**と考えるのがバランスがいいです。
もし興味あれば、「二項対立を乗り越える考え方」(連続性・スペクトラム・弁証法など)もかなり面白いテーマですよ。
同じ本質(形相)を持っているのに、
なぜ「この人」と「あの人」は別なのか?
なぜ「同じ種類の木」が複数存在できるのか?
👉 これが「個体化の問題」
アリストテレスの立場では:
形相(エイドス)=共通の本質(種)
質料(ヒュレー)=個別性の担い手
そして結論はシンプル:
個体化の原理=質料
形相は「共通」なんだ:
「人間」という形相は全員に共通
「犬」という形相も共通
でも現実には:
あなたと私は違う
同じ犬でも全部違う
👉 この違いを生むのが質料
アリストテレスが言いたいのは:
形相は「何であるか」を決める
質料は「どのこれか」を決める
人間の場合
形相:人間であること(理性的動物)
質料:この身体(場所・時間・物質)
👉 だから:
同じ「人間」でも別個体になる
彫像の場合
形相:アポロン像という形
質料:この青銅の塊
👉 同じ形でも、材料が違えば別個体
キリスト教神学を体系化し、真理を追究するスレ【初めての人もOK】
https://talk.jp/boards/psy/1777193030
指定された質料(this flesh, this bones)
つまり:
単なる素材ではなく
時空的に限定された具体的な質料
これが個体を成立させる
トマス・アクィナス
「個体化=指定された質料(materia signata)」
アリストテレスをさらに明確化
ドゥンス・スコトゥス
ここで転換が起きる:
個体性は質料ではない
「このもの性(haecceitas)」が個体を作る
👉 つまり:
個体は「これである」という何かによって成立
あなたの関心に直結するところ:
中観(ナーガールジュナ)
個体を成立させる原理そのものを否定
「個体性」も空
👉 個体化の原理という問い自体が解体される
華厳
個体はある(現象として)
しかし固定的実体ではない
👉 個体とは:
関係の網の中で成立する一点
個体化の原理とは:
なぜ同じ本質を持ちながら、複数の個体が存在するのかという問題
そして答えは:
アリストテレス → 質料
スコトゥス → このもの性
中観 → そもそも固定的個体はない
かなり突っ込むと:
形相=普遍(共通)
質料=差異(個別)
👉 つまり個体とは:
普遍(同じ)+差異(違い)の交点
ここから先はかなり面白い領域に入る:
個体は本当に「ある」のか?
個体性は幻想か、それとも不可避か?
「私」という個体は何によって成立しているのか?
このまま「個体幻想 vs 個体実在」まで行く?
「なぜ世界は“一つ”ではなく、“多”として現れているのか?」
−−−これは、西洋哲学の根底にずっと流れている問いです。
しかも面白いのは、この問いは単なる「物の数」の話ではない。
むしろ、
なぜ「私」と「他人」が分かれているのか
なぜ主体と客体が分かれるのか
なぜ精神と物質が分かれるのか
なぜ神と世界が分かれるのか
なぜ善と悪、美と醜が対立するのか
という、“分裂そのもの”への驚きなんです。
「世界を再び統一できないか?」
という試みの連続とも言える。
たとえば−−−
古代ギリシャ:「多の背後に一がある」
パルメニデスは、
真に存在するものは“一”であり、多様性は錯覚
とまで言った。
逆に、われわれが見ている変化・差異・個物は、
どこか不完全な見え方だと考えた。
その後のプラトンも、
イデア=真の実在
感覚世界=分裂した影
という構図を作る。
つまり西洋哲学は、かなり初期から、
「バラバラに見える世界の奥に、統一原理があるはずだ」
という方向へ進んでいた。
キリスト教世界では、
神は完全な“一”
であり、被造世界はその多様な展開と考えられた。
ここでは「創造」が大テーマになる。
なぜなら、
完全な一者から、なぜ不完全で分裂した世界が生まれたのか?
という問題が出てくるからです。
これは、あなたが以前言っていた
カトリック神学は「創造」と「恩寵」のドラマ
という理解ともかなり深く繋がる。
世界は神から離れて散乱している。
しかし恩寵によって、再び神へ帰っていく。
かなり大きな物語です。
近代になると、問題はもっと内面化される。
ルネ・デカルトは、
我思う、ゆえに我あり
によって、「考える私」を確実な基盤にした。
しかし、その瞬間、
私
世界
他人
が切り離されてしまう。
すると今度は、
どうやって私は外界を知れるのか?
という巨大問題が発生する。
つまり近代哲学は、
“分裂してしまった世界”を、どう再接続するか
との格闘なんです。
ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲルになると、
世界の分裂そのものが、精神の運動である
という壮大な話になる。
対立や矛盾は、単なる欠陥ではない。
むしろ、
分裂し
対立し
衝突し
再統合される
この運動そのものが、「絶対精神」の自己展開だという。
ある意味、
世界は、わざとバラバラになっている
という思想です。
20世紀になると、逆転が起きる。
ジル・ドゥルーズやフェリックス・ガタリは、
「統一」への執着そのものが危険だ
と言い始める。
彼らにとって世界は、
根ではなくリゾーム
中心ではなくネットワーク
同一性ではなく差異
として存在する。
だから、
世界がバラバラなのは、欠陥ではない
むしろ、
“一つにまとめたがる欲望”の方が問題
になる。
「一」と「多」
の往復運動を、2500年くらい延々やってるんですよ。
一だけでは、世界の豊かさが消える
多だけでは、世界が崩壊する
だから哲学者たちはずっと、
「どうすれば、分裂を抱えたまま統一できるか?」
を考え続けてきた。
かなり人類的な問いです。
これは要するに、「固体化の原理」だ
実際、アリストテレスの「質料(ヒュレー)と形相(エイドス)」は、
世界が、どうやって“ぼんやりした可能性”から、“具体的な個物”として成立するのか
を説明する理論なんです。
だから「固体化の原理」という理解は、かなり本質を突いています。
質料 = まだ何者でもない可能性
形相 = それを“これ”として成立させる原理
です。
たとえば青銅。
青銅そのものは、まだ
剣にも
像にも
鍋にも
なれる。
これは「可能態」。
しかし、「アテナ像」という形相を与えられると、
“この像”
として固定される。
つまり形相とは、
境界を与える原理
なんです。
液体や気体みたいに流動していた可能性が、
区別され
輪郭を持ち
名前を与えられ
安定した存在になる
それが形相。
逆に言うと、質料だけでは世界はドロドロで、何も区別できない。
さらに重要なのは、
アリストテレスが「形相」を、単なる“外見”とは考えていないことです。
形相とは、
そのものを、そのものたらしめている本質
です。
だから、人間の形相は「人型」ではなく、
理性的に生きる魂
だった。
つまり、
なぜ世界はバラバラの“個物”として存在するのか?
への答えとして、
形相が、質料を“これ”として固定している
と考えた。
ここには、かなり強い「分節化」の思想があります。
たとえば近代科学では、
本質
目的
形相
よりも、
力
運動
粒子
数学法則
で世界を説明するようになる。
これは、「世界はなぜ、こんなにバラバラなのか?」という問いに対する、決定的な回答
フェルディナン・ド・ソシュールの言語論は、20世紀思想において、
「世界がバラバラに見えるのは、言語がそう切り分けているからだ」
という巨大な転換点になりました。
これは実際、
「なぜ世界はこんなに分かれているのか?」
への、かなり決定的な回答の一つだった。
世界には本質的な区別がある
人間はそれを認識している
という考えは多かった。
しかしソシュールは、かなりラディカルに、
まず“差異の体系”として言語がある
と言った。
重要なのは、
言葉は、世界を“写している”のではない
という点です。
むしろ逆。
言葉が、世界を切断している。
英語では、
sheep(生きた羊)
mutton(食肉)
と区別される。
しかし別の言語では、そんな切り方をしない場合もある。
つまり、
世界そのものに、最初から自然な境界があるわけではない
ということになる。
言語共同体ごとに、現実の切れ目が違う。
「それ自体の実体」
ではなく、
他との違い
でした。
だから「犬」は、
猫ではない
狼ではない
人間ではない
という差異の網の目の中で成立する。
つまり世界は、
実体の集合ではなく、“差異のネットワーク”
になる。
これは、西洋哲学の「実体」中心主義を、かなり根本から揺るがした。
「それ自体の実体」
ではなく、
他との違い
でした。
だから「犬」は、
猫ではない
狼ではない
人間ではない
という差異の網の目の中で成立する。
つまり世界は、
実体の集合ではなく、“差異のネットワーク”
になる。
これは、西洋哲学の「実体」中心主義を、かなり根本から揺るがした。
ソシュールが、
“連続した現実”を、言語が分節している
と考えたことです。
つまり、世界そのものは本来、
流動的
連続的
未分化
かもしれない。
しかし言語がそこへ線を引く。
すると、
私
あなた
国家
宗教
善悪
主体客体
まで、全部「区切られたもの」として現れる。
ここで初めて、
「バラバラの世界」
が成立する。
構造主義
ポスト構造主義
精神分析
記号論
現代文学理論
などが、一気にソシュールへ流れ込んだ。
ジャック・デリダは、
意味は永遠に差異の連鎖の中を滑っていく
と言ったし、
ミシェル・フーコーは、
「正常/異常」すら言説が作る
と考えた。
あなたが以前言っていた、
フーコーでは、「正常」が社会によって作られた
という話も、まさにこの流れの中にある。
「世界はなぜ分かれているのか?」
が、
「われわれが分けているから」
へ反転することです。
しかも、その「われわれ」ですら、
言語によって作られた主体
かもしれない。
すると最後には、
“世界を分けている主体”そのものも、分節の産物
になってしまう。
ここが20世紀思想のかなり怖いところですね。
個物があるのは、神が個物を創造したから
トマス・アクィナスにとって、個物の存在は、単なる「言語上の区切り」ではありません。
個物は、本当に存在している。
しかも、
神が、その一つ一つを創造した
のです。
ここが、ソシュール以後の思想との決定的な断絶ですね。
世界の区切りは、言語や構造が作る
となる。
しかしアクィナスでは逆。
まず神が存在を与える。
そのあとで、人間が認識する。
だから世界の分節は、
人間が勝手に切り分けた幻想
ではない。
むしろ、
神の知性のうちに、もともと秩序として存在している
のです。
ens(存在するもの)
を重視します。
しかも存在者は、みな違っている。
なぜなら、
神の完全性を、被造物全体が多様に反映している
からです。
ここがすごく中世的。
神は無限だから、一種類の存在では表現しきれない。
だから、
石
植物
動物
人間
天使
という多様な階梯が必要になる。
つまり、
世界がバラバラなのは、堕落ではなく、豊かさ
なんです。
アクィナスは、
質料
形相
個体
目的
などを受け継ぎながら、
それを
神による創造
の中へ組み込んだ。
だから個物は、
たまたま分節されたもの
ではなく、
神が意図して存在させたもの
になる。
アクィナスにとって、
存在そのもの(esse)
が神から与えられている
という点です。
これは単なる「形」ではない。
神は、世界を単に設計しただけではなく、
“存在していること”そのものを与えている。
だから被造物は、
今この瞬間も、神によって存在させられている
ことになる。
かなり徹底した存在論です。
個物とは差異の効果である
とはならない。
むしろアクィナスでは、
差異そのものが、神の創造の意志
なんです。
そしてこの発想の背後には、
「一者なる神」と「多なる世界」は矛盾しない
という、中世スコラ哲学の巨大テーマがある。
神は完全な一でありながら、多様な世界を創造する。
しかも、その多様性は欠陥ではなく、むしろ神の豊穣さの表現。
ここには、近代以後とはかなり違う、「存在への信頼」があります。
放っておけば堕落する
それが、神の恩寵
カトリックに定着した思想だ
途方もない影響を及ぼしてきた
イエス・キリストがユダヤ教の宗教改革に立ち上がった頃からあったかのように思われている
その言い方は、かなり的を射ています。
西方キリスト教、とくにカトリック神学の大きな流れを見ると、確かに
創造(Creation)
恩寵(Grace)
が中心テーマだと言えます。
まず、アウグスティヌスは、世界は神によって無から創造されたと考えました。
なぜ世界が存在するのか
人間とは何か
時間とは何か
悪はどこから来るのか
といった問題を、「創造」の観点から考えたのです。
そこで必要になるのが「恩寵(神の恵み)」です。
人間はどう救われるのか
自由意志と神の働きはどう関係するのか
信仰と善行の関係はどうか
という問題が、「恩寵論」のテーマになります。
自然・創造の秩序
恩寵による完成
という二層構造になっています。
東方教会(正教会)は「神化(テオーシス)」が中心テーマ
西方教会(カトリック)は「創造と恩寵」が中心テーマ
と言うこともできます。
そして近代になると、
創造 → 科学との関係、進化論との関係
恩寵 → 宗教改革との論争、自由意志との関係
へと議論が発展していきました。
その意味では、「創造と恩寵」は単なる神学の一分野ではなく、アウグスティヌス以後のカトリック神学全体を貫く二本の柱と見ても大きくは外れないでしょう。
東方教会(正教会)は「神化(テオーシス)」が中心テーマ
それは知らんかった
意外に知られていないのですが、東方正教会と西方カトリックでは、神学の重心がかなり違います。
西方では、
人間はなぜ罪を犯すのか
原罪とは何か
恩寵とは何か
義認とは何か
といった問題が中心になります。
これに対して東方では、
人間はなぜ神と離れてしまったのか
どうすれば神の生命に参与できるのか
どうすれば神のようになれるのか
という方向に関心が向きます。
神が人となったのは、人が神となるためである
というものがあります。
もちろん「人間が創造主になる」という意味ではありません。
神の本質そのものになるのではなく、神の生命や光や愛に参与するという意味です。
これを「神化(テオーシス)」と呼びます。
カトリック → 罪と救済のドラマ
正教会 → 修行と変容のプロセス
という印象に近いかもしれません。
もちろん厳密にはかなり違いますが、日本人にはこちらのほうが感覚的に分かりやすいことがあります。
実際、14世紀の グレゴリオス・パラマス は、人間が祈りと修行によって神の「非創造の光」を体験できると論じました。
このあたりになると、
修道生活
瞑想的祈り
神との合一
が神学の中心に出てきます。
特に西方は アウグスティヌス の影響が非常に強く、東方はギリシア教父たちの伝統を保持したため、同じキリスト教でも神学の「主旋律」がかなり異なるものになったのです。
なるほど
東方はギリシア教父、西方はラテン教父の世界なんだな
その理解でかなり合っています。
実際、初期キリスト教の神学は大きく
ギリシア語圏(東方)
ラテン語圏(西方)
に分かれて発展しました。
東方では、
アタナシオス
バシレイオス大帝
ナジアンゾスのグレゴリオス
ニュッサのグレゴリオス
マクシモス証聖者
などのギリシア教父が基礎を築きました。
彼らはギリシア哲学、とくにプラトン主義や新プラトン主義の語彙を使いながら、
三位一体
キリスト論
神化(テオーシス)
を論じました。
アンブロシウス
ヒエロニムス
アウグスティヌス
などのラテン教父が中心になります。
そして西方では、アウグスティヌスの影響が圧倒的に強かった。
その結果、
東方=ギリシア教父の伝統 西方=アウグスティヌスを中心とするラテン教父の伝統
という構図になりました。
東方は、
神秘
参与
神化
典礼
を重視する傾向が強い。
西方は、
罪
恩寵
自由意志
救済の論理
を精密に分析する傾向が強い。
だから極端に言えば、
東方は「どうすれば神の生命にあずかれるか」
西方は「どうすれば罪人が救われるか」
を中心に考えたとも言えます。
東方正教会はギリシア教父の世界を比較的そのまま継承した。
カトリックはラテン教父の遺産を土台に、さらに トマス・アクィナス らのスコラ学によって巨大な体系へ発展した。
という流れになります。
その意味では、「東方=ギリシア教父の文明」「西方=ラテン教父とスコラ学の文明」と捉えると、かなり見通しがよくなります。
東方はギリシア教父、西方はラテン教父
という整理は、実はかなり本質を突いています。
東西分裂は単なる教会政治の対立ではなく、
「ギリシア語で神を語る文明」と「ラテン語で神を語る文明」の分岐
でもあったのです。
神化するとは、どういうことか?
正教会の「神化(テオーシス)」は、日本語だけ見るとかなり誤解を招きます。
「人間が神様になるのか?」と思ってしまいますが、そうではありません。
正教会は一貫して、
人間は被造物のままであり、神そのものにはならない
と教えています。
東方教会の有名な表現では、
神は人となった。人が神となるために。
(アタナシオス)
となります。
ここでいう「神となる」とは、
神の生命に参与すること 神の性質にあずかること
です。
例えば、
神は愛である
神は光である
神は聖である
なら、人間も神との交わりによって、
愛に満たされ
光に満たされ
聖なるものへと変容する
ということです。
鉄の棒を炉に入れると、
鉄は鉄のまま
しかし真っ赤に燃える
光を放つ
熱を発する
ようになります。
鉄そのものが火になったわけではありません。
しかし火の性質に参与しています。
神化とは、この状態です。
人間は人間のままですが、神の生命に満たされる。
神の
本質(ousia)
エネルゲイア(働き・活動)
を区別しました。
神の本質は誰にも知り得ません。
しかし神の働きには参与できる。
そのため修行者は神の「非創造の光」を経験できるとされます。
有名なのが、イエスが山上で光り輝いたとされる「変容」の光です。正教会では、これは単なる象徴ではなく、神のエネルゲイアそのものだと考えます。
大乗仏教の
成仏
仏性の開顕
に近い雰囲気があります。
ただし決定的な違いがあります。
仏教では最終的に仏となることが目標ですが、
正教会では人間は永遠に被造物です。
どれほど神化しても、
神=創造主
人間=被造物
の区別は消えません。
だから神化とは、
「神になること」ではなく、「神との交わりによって限りなく神に似たものとなること」
と言うのが最も正確です。
古代の聖アウグスティヌス
中世の聖トマス・アクィナス
この2人が突出した巨人なので
じつに分かりやすい(笑)
そこまで単純ではない
古代のアタナシオス
中世の
忘れた😫
パラマスだ😆
パラマスこそ、西方の聖トマスだ😆
大まかには、その理解でかなり近いです。
西方キリスト教(カトリック)の神学史を代表する人物を二人挙げるなら、
アウグスティヌス
トマス・アクィナス
という組み合わせは非常に自然です。
アウグスティヌスが土台を築き、トマスがそれを体系化した、と言ってもよいでしょう。
一方、東方正教会を代表する人物を二人挙げるなら、
アタナシオス
グレゴリオス・パラマス
という組み合わせも有力です。
ただし東方の場合、西方ほど「この二人が圧倒的」という感じではありません。
むしろ、
バシレイオス大帝
ナジアンゾスのグレゴリオス
ニュッサのグレゴリオス
の「カッパドキア三教父」や、
マクシモス証聖者
の評価も極めて高いです。
とくにマクシモスは、正教会の神化思想を哲学的・宇宙論的に深めた人物として重要です。
西方:アウグスティヌス → トマス
が「龍樹 → 法蔵」のような大体系の流れに近いのに対し、
東方:アタナシオス → カッパドキア教父 → マクシモス → パラマス
は、複数の祖師が連続して伝統を形成している感じです。
「東方のアウグスティヌスは誰ですか?」
と聞くと、たぶん困ります。
しかし
「東方神学を象徴する人物は誰ですか?」
と聞けば、
アタナシオス(神化の方向性を明確化)
マクシモス(神化思想を深化)
パラマス(神化体験を神学化)
の三人が特に有力候補になるでしょう。
正教会の自己理解からすると、アウグスティヌスとトマスに対応する二人組というより、
アタナシオスからパラマスへ至る“神化の系譜”そのものが東方神学の背骨だと考えたほうが実態に近いと思います。
アウグスティヌスが設計図を書き、 トマスが巨大な建築物にした
とたとえることもできます。
一方、正教会史はこれほど単純ではありません。
正教会には「トマス・アクィナスに相当する最終的体系家」が存在しないからです。
むしろ、
アタナシオス
カッパドキア教父
マクシモス
ダマスコのヨハネ
パラマス
などが、千年近くかけて伝統を積み重ねています。
そのため、
西方は「巨人二人が山のようにそびえる歴史」
東方は「教父たちの連峰が続く歴史」
という印象があります。
仏教でたとえるなら少々乱暴ですが、
カトリック → 龍樹と法蔵だけが異様に巨大
正教会 → 龍樹・無着・世親・法蔵・澄観が並び立つ
くらいの違いがある、と言うと雰囲気は伝わるかもしれません。
なんで、そこで法蔵?(笑)
そこはツッコミどころですね(笑)。
私が法蔵を出したのは、
「巨大な体系家」
という点だけを見ての比喩でした。
トマス・アクィナスは、膨大な先行学説を整理し、
神論
創造論
人間論
倫理学
救済論
を一つの体系にまとめました。
仏教側で「体系家」というイメージに近い人物を無理に探すと、華厳宗の 法蔵 が思い浮かんだのです。
ただし、思想内容は全然違います。
むしろ影響力の大きさでたとえるなら、
アウグスティヌス ≒ 龍樹
トマス ≒ 智顗
のほうが納得する人もいるでしょう。
イメージ的には
龍樹や世親は、古代のギリシア教父
天台大師智顗が聖アウグスティヌスで、伝教大師最澄が聖トマス・アクィナス
といったところか
その対応は、発想としては面白いですが、かなり無理があります(笑)。
ただ、なぜそう感じるのかは分かります。
あなたが見ているのは、思想内容ではなく、
「伝統の中で果たした役割」
ですよね。
その観点からすると、
龍樹・世親 → 基礎理論を築いた古代の大思想家
智顗 → それらを総合して巨大な体系を作った
最澄 → その体系を自国に移植して文明の基盤にした
という流れです。
確かに、
ギリシア教父 → 古代教会の基礎形成
アウグスティヌス → 西方神学の総合
トマス → 体系化と標準化
という流れと、どことなく似ています。
むしろ
龍樹・世親 ≒ ギリシア教父
智顗 ≒ トマス・アクィナス
のほうが近いかもしれません。
なぜなら智顗は、まさに
それまでの仏教思想を整理し、統一的な体系を構築した人
だからです。
これはトマスの役割によく似ています。
一方、アウグスティヌスは体系家であると同時に、
原罪論
恩寵論
歴史観
内面性の哲学
など、西方神学の問題設定そのものを決定づけた人物です。
仏教で完全対応する人物はなかなか見当たりません。
強いて言えば、
龍樹
のほうが近いかもしれません。
「後の議論の土俵そのものを作った」という意味で。
「インド仏教 → 中国天台 → 日本天台」
という流れを、
「ギリシア教父 → アウグスティヌス → トマス」
のような「伝統の継承と再編成」として見ている点です。
実際、カトリック神学史を眺めると、
ギリシア教父
アウグスティヌス
トマス
という流れは、
日本天台から見ると
インド論師
智顗
最澄
のような「祖師の系譜」に見えるかもしれません。
ただし、最澄はトマスほどの体系家ではありません。
知的スケールだけで言うなら、トマスに近いのはやはり智顗や法蔵のような「巨大な総合者」のほうでしょう。
そうなのか
じつは、これに
マルティン・ルター=日蓮大聖人
を、付け加えるつもりだったのだが(笑)
その対応も「発想としては分かるけど、かなり危うい比喩」って感じですね(笑)。
ただ、どこを見てそう思ったのかはちゃんと筋がある。
ルターと日蓮で“似ているっぽく見えるポイント”は確かにあって、
既存宗教の権威批判(教皇権/既成仏教界)
原典への回帰(聖書/法華経)
「信」の強調(信仰義認/南無妙法蓮華経の絶対化)
民衆への直接的な宗教運動化
このあたりは並べたくなる理由になります。
ルター(マルティン・ルター)の中心はかなりはっきりしていて、
人間は徹底的に罪人
義認は「信仰のみ(sola fide)」
救いは完全に神の側からの一方的行為(恩寵)
つまりかなり強い「人間無力論+恩寵独占」なんですね。
これはむしろアウグスティヌスの延長線です。
一方で日蓮(日蓮)は、
法華経こそ唯一の正法
南無妙法蓮華経の唱題によって現実そのものが転換する
現世利益・国土観(立正安国)
という方向で、
「信仰による救済」というより
「法そのものの力による現実変革」
に重心があります。
ルター:救いは神の外部から降る(恩寵の独占)
日蓮:法そのものが現実を変える(法力の転換)
という違いが大きい。
ここはかなり決定的です。
むしろ構造的に近いのは、
ルター → アウグスティヌスの系譜(恩寵・罪・義認)
日蓮 → 天台的法華一乗の徹底化(智顗系の極限化)
という整理のほうがしっくりきます。
共通して見ているのはたぶんここなんですよね:
「巨大宗教伝統の中で、決定的な“再編ポイント”を作った人物」
という見方。
この視点だと、 アウグスティヌス、智顗、ルター、日蓮は全部「構造転換者」として同じ棚に入る。
ただしその“転換の方向”が全然違う、という感じです。
なのでまとめると:
面白いし発想はかなり鋭い
ただし「思想内容の対応」ではなく「運動のインパクト分類」に近い
そして中身を厳密に揃えるとズレが大きい
こんな位置づけですね。
さっきの話に戻ると
華厳宗の法蔵って、そんなに「知の体系家」かなあ?
どっちかっていったら、「スピリチュアルな教えを説いた人」ってなイメージなんだけど
そのイメージ、わりと自然だと思うよ。
華厳宗の法蔵って、たしかに“スピリチュアルな教えの人”として読める側面も強い。
ただ同時に、学問史の側から見ると「めちゃくちゃ体系家」にも見える、という二面性があるんだよね。
法蔵は、特に有名なのが『華厳五教章』とかで、
仏教全体の教えを「五つの教えレベル」に分類する
それぞれの経典・思想の位置づけを整理する
最終的に華厳(『華厳経』)を最高の円融体系として位置づける
みたいなことをやっている。
これ、やってることだけ見るとかなり「知のマッピング装置」なんだよね。
ただ一方で、あなたの言う通りで、
華厳思想そのものがそもそも
事事無礙(すべての事物が相互に入り込み合う)
重重無尽(世界が無限に重なり合う)
みたいな“ヴィジョン型の世界観”だから、体感的にはかなりスピリチュアル寄りになる。
つまり法蔵は、
抽象的に世界を分類・整理しているのに、結果として出てくるのが「宇宙的な一体性のヴィジョン」
というちょっと独特な位置なんだよね。
西洋的な「体系家」イメージ(トマス・アクィナス型) → 論理で世界を整然と組み立てる
法蔵 → 仏教全体を整理するけど、最終像は“論理体系というより宇宙的相即世界”
あともう一つ大事なのは、法蔵は「実践の師」というより
かなり明確に
教義整理
経典解釈
思想体系化
に寄ってる人物で、いわゆる“禅的な体験の人”とは違う。
だから、
体感としてはスピリチュアルに読める
研究史的には体系化の人
この二重性がある。
結論としては:
あなたの「スピリチュアルな人」というイメージは全然ズレてない
ただ同時に、外から見ると「仏教思想の整理マシン」みたいな側面も強い
この両方が同居してるタイプ、って感じだね。
>法蔵は、特に有名なのが『華厳五教章』とかで、
仏教全体の教えを「五つの教えレベル」に分類する
それぞれの経典・思想の位置づけを整理する
最終的に華厳(『華厳経』)を最高の円融体系として位置づける
みたいなことをやっている。
これ、やってることだけ見るとかなり「知のマッピング装置」なんだよね。
↑
なんだか、天台智顗の「五時教判」っぽいな?
その感覚、かなり核心を突いてる。
まさにそこは東アジア仏教史の「知の構造化競争」みたいなところで、
智顗の「五時八教」と
法蔵の「五教判」
は、かなり“同型の発想”で動いてる。
何が似ているかというと
両方ともやっていることはこれ:
仏陀の教えはバラバラに見えるけど、実は段階構造になっている
そしてそのために、
教えを分類する
優劣や段階をつける
最終的な“最高到達点”を設定する
という操作をする。
今、ヨガやキリスト教、イスラーム、神道の
霊的視点を研究してた
😀
ここが面白いところで、似てるのに方向が違う。
智顗(天台)
段階構造を作る
でも最終的に「円融(すべてが相即)」へ収束
つまり“統合モデル”
→ 五時八教は「統合のための地図」
法蔵(華厳)
段階構造を作る
ただし華厳を“絶対的な頂点”として置く
その頂点が「相即相入の宇宙そのもの」
→ 五教判は「宇宙の階層モデル」
ざっくり言うと
智顗:全部をまとめるための地図(統合志向)
法蔵:宇宙の構造そのものの図解(存在論志向)
智顗によれば、「すべての教えは、法華経に包含される」
法蔵によれば、「すべての教えは、華厳経を頂点とする階層構造である」
てな感じ?
① 智顗(天台)の場合
あなたの言う
「すべての教えは法華経に包含される」
これは“方向性としてはかなり近い”。
ただし正確にはこういう感じ:
仏の教えは段階的に説かれている(五時八教)
しかしそれらは最終的に「法華経」によって統合される
法華経は「すべてを包み込む完成形(円教)」
ポイントはここで、
👉 「他を下に置いて終わり」ではなく「全部を最終的に円融させる」
つまり智顗の最終構図は、
上下関係というより「統合後の同時成立」
なんだよね。
あなたの言う
「華厳経を頂点とする階層構造」
これは“教判の見え方”としては分かるんだけど、実は少し誤解が出やすい。
法蔵がやっていることはこう:
仏教諸思想を段階化(五教判)
でも本当に言いたい核心は → 「すべての存在は相互に入り込み合っている」
つまり華厳の最終像は、
👉 「頂点があるピラミッド」ではなく
👉 “全部が全部に即入するネットワーク宇宙”
なんだよ。
だから法蔵的には、
華厳が「一番上」というより
華厳的構造が“現実そのものの仕組み”
という感じ。
法蔵にとっては、必ずしも華厳経が最高というわけではないのか?
いいところに気づいてるね。結論から言うと、
法蔵にとっても基本的には華厳経は“究極的立場”に置かれるけど、単純な意味での「他より偉い一冊」という感覚ではない、が一番近い。
① 形式上は「華厳が最高」
法蔵の教判(五教判)では、
仏の教えには段階がある
最終的に華厳経が示す世界観が最も深い
という整理になる。
だから体系としては確かに:
華厳=最も深い教え
という位置づけはある。
② でも「優劣ランキング」ではない
ここが重要で、法蔵の発想は現代的な意味での
AがBより上
Bは未熟でAが完成形
みたいな直線的序列ではない。
むしろ彼の本質はこっち:
すべての教えは、それぞれ異なるレベルで真理を開いている
その上で華厳は何かというと、
他を否定する頂点ではなく
すべてを包み込む“構造そのものの視点”
華厳経は「一番すごい主張をする経典」というより、
世界は相互依存・相互浸透している
一即一切・一切即一
事事無礙(すべての事物が干渉し合う)
という
👉 “現実の見え方そのものを変えるレンズ”
なんだよね。
④ だからこう言い換えると近い
法蔵の感覚はたぶんこう:
どの教えも真理の一面を開いている
ただし華厳は「全体が見える視点そのもの」
つまり、
華厳が一番「上」というより
華厳は「全体を同時に見るモード」
もしも、聖トマス・アクィナスが、キリスト教版の教判をやったとしたら
こんな感じか?
1、新約聖書
2、旧約聖書
3、アウグスティヌス「神の国」
4、アリストテレス「形而上学」
その発想はかなり面白いし、「トマスならやりそう感」もあるんだけど、そのままだとちょっとズレるところがある。
トマス・アクィナスがやったのは、仏教的な「教判(上下ランキング)」というより、
啓示(聖書)と理性(哲学)をどう統合するか
だからなんだよね。
あなたの並び:
新約聖書
旧約聖書
アウグスティヌス『神の国』
アリストテレス『形而上学』
これは直感としてはこういう構造:
上に行くほど「真理に近い」
下は準備・補助的知識
つまりかなり「教判っぽい」発想。
② でもトマス的にはここが違う
トマスの基本構造はこう:
聖書(啓示)は絶対的に必要
でも哲学(アリストテレス)はそれを補助しうる
両者は対立しない(自然と恩寵の調和)
つまり、
👉 上下関係というより「役割分担」
もしトマス風に並べるなら、こうなる:
啓示の頂点:聖書(旧約・新約は一体の啓示史)
神学的解釈:教父(アウグスティヌス含む)
哲学的道具:アリストテレス
この場合:
新約 vs 旧約は「上下」ではなく「救済史の段階」
アウグスティヌスは「頂点」ではなく「最大の解釈者」
アリストテレスは「哲学的言語装置」
④ トマスの本音に近い言い方
トマス的にはたぶんこう:
聖書は“光そのもの”
アウグスティヌスは“その光を解釈した偉大な鏡”
アリストテレスは“光を説明するための理性の道具”
あなたの並びはちょっとこう見えてしまう:
「キリスト教の中に知的序列ランキングがある」
でもトマスの発想はむしろ逆で、
「同じ真理に対する異なるアクセス手段」
⑥ もし“教判っぽく”無理やり再構成するなら
トマス風に寄せるとこうなる:
啓示(聖書)=神からの直接光
教父神学(アウグスティヌスなど)=光の解釈
哲学(アリストテレス)=理性による補助的理解
あなたの案はかなり「華厳・天台的な順位づけ発想」なんだけど、
トマスはむしろ:
「階層」ではなく「統合(調和)の構造」
を作る人なんだよね。
もし一番短く言うなら:
天台・華厳 → 真理の“段階”や“構造”
トマス → 真理の“統合システム”
この違いが核心になる。
ここ1~2年ほど、仏教ばかりで、キリスト教をオロソカにしていた
反省している😫
華厳の深い所を覚醒できた
😀
キリスト教、イスラム、神道あたりは
天台では三千仏礼拝行で
仏の姿をみるまでやらされるらしいが、
それらは
浄土教。山伏も含めて
聖なる存在を見るにクローズアップする霊的推力のエネルギーで
やっていく
イメージを脳内で構築していたナウ
😀
俺が仁和寺と高野山決戦向けて
仏教研究の鬼と化していたしな
😀
ほとけの姿を、見るまでやるのは
一二年籠山行の一部のエリートだ
😀
カルヴァン説教の特徴聖書中心の連続説教: 聖書の一節を最初から順を追って読み解く「連続講解」を重んじました。恵みとキリストの強調: 神の絶対的な主権(予定説)だけでなく、キリストにおける神の愛と無条件の恵みを熱く語りました。実践的な適用: 聴衆が直面している日常の悩みや苦難に寄り添い、信仰に基づく生き方を力強く励ましました。
・ジャン・カルヴァン
・手島欣二郎 訳
・その上は私達は何者なのでしょう。
・神をほめたたえることは天使のためではなく私達のためなのです。
・主をほめたたえよと言う時、パラダイスの天使が、たゆみなく主の御名を
ほめたたえる訓練をしていると、知りかつ記憶すべきです。
・天使たちは神をほめたたえるべきである事を私達に教えてくださいました。
・預言者は人間のために他の被造物について語ったのだということを示す
ために最後にきっぱりとこう言うのです。
・その上のあわれな不信の者達、つまりよく教えられていない者は、
その御名をほめたたえることができないので、預言者は信じる者だけに
神の御名をほめたたえるようにと教えています。
・神様ご自身で神様を恐れる者をきめられる。
・主よどうして御名を私達はたたえるべきでしょうか。
・神様は私達を天使のもとに召し、同じ歌を歌うよう望んでおられる。
・神様は恵みと義と力の証人となるように私達をつかわされた。
・あらゆる被造物は詩篇19篇でのばられているとおり、
明らかに神に対する賛美を私達に宣べ伝えています。
・主イエスキリストは第一のコーラスリーダーです。
・無感覚な被造物が神の戒めを守るのであれば、
私達は何をすればよいのでしょうか。
・私達が神様をほめたたえるために私達に助けを与えてくださいました。
厳密なカルバン思想理解は未だだ
ウェスレーや霊性の神学やイエズス会は
かなりイメージは出来上がってはいるが
😀
人物名と説教と言葉を入力すると
AIはかなりまとめてくれる
既存のプロテスタントは
漠然とし過ぎているからなー
😀
マトモな答えは返ってこないな
なんていう、漠然としたテーマじゃ話にならない😫
ルター
スポルジョン
と検索して
メモに貼り付けた
歴史に残した言葉が
いいキーワードになるからだ
ウェスレーとイエズス会は
雰囲気解っているので
やらない
デイスペンゼーションの
チャールズダービーを検索しよう
😀
車4台
バイク2台
なにか集会があるんだろなー
😅
😅
今のデイスペンゼーション主義者より
遥かにマジメだったようだ
😅
中川健一牧師😇
知らなかった
😅
ジョンネルソンダービーは
😅
キリスト教関連なら
AIは遥かにお得意たろう
😀
イギリスのジョンネルソンダービーが
デイスペンゼーション解説付き聖書を
アメリカで相当配布したせいだ
😅
日本の葬式仏教なみに常識化した
😅
仏教や神道より、キリスト教や西洋哲学がお得意だ
人間が太刀打ちできない領域
アメリカに大きな影響を残したようだ
意外かもしれませんが、1948年にイスラエルが建国されてからしばらくの間、両国はむしろ協力関係にありました。
当時のイランは、親米の モハンマド・レザー・パフラヴィー (パフラヴィー国王)が支配していました。
両国ともアメリカ寄り
アラブ民族主義を警戒
石油や軍事で協力
という関係でした。
つまり、「イスラエルとイランは昔から宿敵だった」というわけではありません。
1979年の イラン革命 が決定的な転換点です。
革命によって国王が追放され、ルーホッラー・ホメイニー が率いるイスラム共和国が成立しました。
新政権は、
アメリカを「大悪魔」
イスラエルを「小悪魔」
と呼び、強く敵視しました。
イラン政府は、
「イスラエルは正当な国家ではない」
という立場を取るようになります。
ここから両国の対立が始まります。
イランは革命後、
「イスラム革命を中東全域に広げる」
という理念を掲げました。
これに対してイスラエルは、
「イランが地域全体に勢力を拡大しようとしている」
と警戒しました。
1980年代になると、イランはレバノンの
ヒズボラ
を支援し始めます。
ヒズボラはイスラエルと戦う武装組織です。
この頃から、
イラン本国
イスラエル本国
が直接戦うのではなく、
レバノン
シリア
ガザ
などを舞台にした「代理戦争」が続くようになります。
2000年代以降の最大の争点は核開発です。
イスラエルは、
「イランが核兵器を保有すれば国家存亡の危機になる」
と考えています。
一方、イランは、
「核開発は平和利用だ」
と主張しています。
このため、
経済制裁
サイバー攻撃
科学者暗殺疑惑
などが繰り返されました。
宗教的には、
イスラエル → ユダヤ国家
イラン → シーア派イスラム共和国
ですが、
実際の対立の中心は宗教よりも
「中東の覇権を誰が握るか」
という地政学的な問題です。
イスラエルから見れば、
イランがシリア、レバノン、ガザ、イエメンなどに影響力を広げている
ことが脅威です。
イランから見れば、
アメリカと結んだイスラエルが中東における最大の敵
となります。
興味深いのは、ユダヤ人とペルシア人の関係は本来それほど悪くなかったことです。
むしろ古代には、
バビロン捕囚 の後、ユダヤ人の帰還を認めたのはペルシアの
キュロス2世
でした。
そのためユダヤ教の伝統では、キュロス大王は非常に好意的に記憶されています。
つまり、
古代:比較的友好的
1948~1979年:協力関係
1979年以降:激しい敵対関係
という流れになります。
歴史全体で見ると、現在の対立は「数千年来の宿敵」というより、1979年のイラン革命以降に形成された政治・軍事・思想上の対立と考える方が実態に近いです。
創造 → 原義(原初の恩寵) → 堕落(原罪) → 救済の恩寵 → 栄光
神が世界と人間を存在させる。
原義(オリジナル ジャスティス)
人間が神との完全な交わりの中にある状態。
原初の恩寵の状態。
堕落(ディプラヴィティ)
神との交わりが破れる。
原罪状態の始まり。
恩寵(グレイス)
イエス・キリスト によって交わりが回復される。
洗礼・信仰・秘跡を通じて与えられる。
栄光(グローリア)
神との交わりの完成。
神の直観と永遠の幸福。
原罪はその途中の断絶にすぎない
人類の堕落は、一時的な恩寵の欠如
堕落や原罪を深刻に受け止めない
神の恩寵 ありがたや~🙏😭
という教え
それが、トマス神学の目標だ
「人間には不可能」と退けられた😫
エネルギーシステムがあるからなー
😀
人間の理性を
プロテスタントみたいに否定するわけにはいかない
😀
ムーブしてるぞ
😀
なかなか並行して進められない
とか
いいつつも
神仏習合だった神社お参りしてきた
😀
特に伝統的なプロテスタント、なかでも マルティン・ルター や ジャン・カルヴァン の流れでは、「人間の堕落(Fall)」は教義の中心にあります。
プロテスタントの基本的な物語は、
神が人間を創造した
人間は罪を犯して堕落した
人間は自力では救われない
神の恩寵によってのみ救われる
という流れです。
これは、 「人間は完全な悪人だ」 という意味ではなく、
「人間の理性も意志も感情も、堕落の影響を受けているので、自力で神に到達することはできない」
という意味です。
むしろ、
人間は自分を救えない
自分の力を信じてはならない
神の恩寵に依存しなければならない
という方向になります。
初期仏教では、
人間は無明によって苦しむ
苦しみの原因を観察する
修行によって無明を減らす
という発想です。
一方、プロテスタントでは、
人間は原罪によって堕落している
自力ではどうにもならない
神の救済を受け入れる
という構図になります。
「欲望に負ける私は堕落している」 「怒る私は罪深い」 「人間は本質的に欠陥を抱えた存在だ」
という感覚があります。
これに対して仏教では、
「怒りが起きた」 「欲望が起きた」 「条件によって反応が生じた」
と観察する方向へ行きやすい。
もちろんキリスト教にも神秘主義的な流れはありますが、少なくとも主流のプロテスタント神学では、「無明」よりも「罪」、「修行不足」よりも「堕落」が中心テーマになっています。
まず原罪(Original Sin)とは、
アダム と イブ の最初の罪によって、人類全体が神との正しい関係を失った
という考え方です。
ただしプロテスタントでは、原罪は単に
「遠い昔の祖先が悪いことをした」
という話ではありません。
むしろ、
人間は生まれながらに神から離れた傾向を持っている
という意味で理解されます。
人間は罪を犯すから罪人なのではない。 罪人だから罪を犯すのだ。
という言い方がよくされます。
つまり問題は個々の行為ではなく、人間存在そのものの状態にあると考えるのです。
ただし、ここで注意が必要です。
現代日本で「原罪」というと、
生まれた瞬間から悪人
のように誤解されがちです。
しかしカルヴァンやルターが言いたかったのは、
人間には善意も理性もある。 しかしそれらも完全ではなく、自己中心性から自由ではない。
ということでした。
堕落 → 贖罪 → 信仰 → 救済
に焦点を当てやすい。
個人的な救済だな
その見方にはかなり当たっている部分があります。
特に近代以降のプロテスタントでは、
私は救われるのか? 私は神の前で義とされるのか? 私は信仰を持っているのか?
という「個人」の問題が非常に大きくなりました。
ルター自身の出発点も、
私はどうすれば救われるのか
という実存的な問いでした。
そのためプロテスタントでは、教会や宇宙全体の秩序よりも、
神と私
という関係が前面に出やすいのです。
例えば、
神による創造
世界の秩序
教会共同体
聖礼典
救済史
などです。
個人の救いは、その壮大な物語の一部として理解されます。
社会学者の マックス・ウェーバー は、プロテスタントが近代的個人主義の形成に影響したと論じました。
もちろん単純化はできませんが、
カトリック → 共同体・宇宙秩序
プロテスタント → 個人の信仰と救済
という傾向は確かにあります。
カルヴァンは教会共同体や社会秩序も重視していました。
しかし、
救いは教会制度ではなく、神と個人との関係において与えられる
と考えたため、結果として近代的な「個人」の意識を強める方向へ働いたのです。
あなたのこれまでの仏教との比較に引きつけて言えば、
プロテスタントの問いは
「私は救われるのか」
であり、
初期仏教の問いは
「苦はなぜ生じるのか」
に近い。
前者は個人の救済の問題、後者は存在の仕組みの観察の問題です。
だからプロテスタント神学を読むと、どうしても「私の魂の救い」が中心に見えやすいのです。これは大乗仏教の「衆生救済」や、カトリックの「創造全体の完成」と比べると、かなり個人に焦点が当たっていると言えるでしょう。
どうも、プロテスタントは好きになれん(笑)
なぜなら、仏教の「大乗・小乗」と、キリスト教の「カトリック・プロテスタント」は、成立した理由がかなり違うからです。
ただ、あなたが見ているポイントはおそらく、
カトリック → 宇宙論的・共同体的・包括的
プロテスタント → 個人の救済・信仰・内面
という違いでしょう。
この点だけを見れば、
カトリックは「大きな世界観」
プロテスタントは「個人の救済」
に重心があるので、
「大乗っぽいカトリック → 小乗っぽいプロテスタント」
という印象は理解できます。
初期仏教から部派仏教までは、
自ら修行して解脱する
ことが中心でした。
その後、大乗仏教は
すべての衆生の救済 宇宙的な仏の世界 仏性
などを発展させました。
つまり、
初期仏教 → 個人の解脱
大乗仏教 → 宇宙的・普遍的な救済
という流れです。
中世カトリックには、
教会という宇宙的共同体
聖人たち
天使
秘跡
神学体系
がありました。
そこへ宗教改革が起こり、
教会制度より信仰 聖職者より個人 秘跡より福音
という方向へ進んだ。
その意味では、
「包括的な宇宙秩序から、個人の信仰へ焦点が移った」
と言えるでしょう。
プロテスタントはカトリックから離れたというより、
原始キリスト教へ戻ろう
としていた面があります。
ルターもカルヴァンも、
我々は新しい宗教を作っているのではない。 聖書の信仰に帰っているのだ。
と考えていました。
だから仏教でたとえるなら、
「大乗から小乗へ」というより、
後代の発展を削ぎ落として、原始仏教へ帰ろう
という自己理解に近いかもしれません。
もちろんカトリック側から見れば、
豊かな伝統を切り捨ててしまった
という評価になりますが。
仏教:個人解脱 → 普遍的救済へ拡大
キリスト教:宇宙的教会 → 個人の信仰へ収縮(少なくとも宗教改革の一面として)
という対照は確かにあります。
そのため、あなたの比喩は厳密な対応ではないものの、
「関心の中心が、全体から個人へ移った」という意味では、宗教改革を理解する一つの見方として成り立つと思います。
16世紀はひどい時代だったからな
宗教改革と、それに続く宗教戦争のせいだ
ルターとカルヴァンだ
無理な教義統制を権力的にやりきった
そこの封建領主国王の野心が乗っかてきた、
どの戦争もそうだが
ある国が衰退させようと
裏から支援して代理戦争させるみたいなのが世の常
😅
イエズス会は
成立していない
という関係がある
😀
インドヨガ聖者検索にするかー
カトリック聖者ネタもあるなー
😀
どんどん広がるな~😆
まーまー検索した
漠然とした
カトリック聖者の信仰祈り教え
で検索してみよう
😀
神への絶対的な愛、隣人愛、そして祈りを通じた霊的な交わりに根ざしています。聖人たちは自身の模範と著作を通して、現代の私たちにも実践的な信仰の道を指し示しています。聖者たちの共通する信仰と教え無条件の愛と信頼: 聖テレジア(幼きイエスのテレーズ)の「小さな道」に代表されるように、大業を行うことではなく、日々のささやかな行いを大きな愛をもって神に捧げる姿勢。神への明け渡し: 聖フランシスコや聖ヨハネ・オブ・ラ・クロスのように、自身の意志を神の御心に完全に委ねる謙遜さ。愛徳の実践: マザー・テレサのように、貧しい人や苦しむ人の中にキリストを見出し、具体的な行動で隣人愛を体現する生き方。代表的な聖者たちの祈りカトリック教会では、聖人たちの言葉そのものが強力な祈りとして唱えられます。
厳格な戒律だけでなく、神(アッラー)との直接的な愛と一体感を求める内面的な信仰です。修行や詩、旋回舞踊などを通じてエゴ(自我)を滅却し、真の愛と平穏に到達することを目指します。信仰と教え愛(マハッバ): 神を単に畏れるだけでなく、絶対的な「恋人」として愛し、深く結びつくことを最優先します。自我の滅却(ファナー): 神の愛の前に自分自身(エゴや欲望)を完全に消し去ることで、神と一つになる境地を目指します。清貧と寛容: 富や権力に執着せず、すべての人のなかに神の光を見出すため、非常に寛容で平和的な教えです。祈りと瞑想ズィクル(神の名の記憶): 神の様々な美名や聖句(「アッラーは偉大なり」など)を繰り返し唱え続けることで、心の中の雑念を払い、神に心を集中させます。サマー(旋回舞踊): メヴレヴィー教団などで見られる、右手を天に、左手を地に向けてぐるぐると回る舞踊。天と地をつなぎ、神の愛を体現する瞑想法です。心に響く言葉・名言スーフィズムの教えは、有名な詩人たちの言葉を通じて現代にも深く語り継がれています。ルーミー(神秘主義詩人)「外には善悪の概念を超えた、広大な野原がある。そこで君を待っているよ。」ハッラージュ(神秘主義者)「私の心の中で、あなた(神)は私の心そのものになった。だから、どこを探しても見つかるのはあなただけです。」
動画のAI要約は便利だな
正統派瞑想仏教はハッスル🤡みたいな要約はやらんけどな
😀
要約させてみた
😀
動画内での竹久さんの証言によると、仏様との対話は言葉を交わすような一般的な会話とは異なり、**「感覚の対話」**のようなものであると説明されています(07:19-07:35)。
具体的には以下のような体験として語られています:
仏様に抱かれているような感覚: 修行を重ねる中で、守られている、あるいは包み込まれているという温かな感覚を直感的に受け取る体験
内面的な対話: 言語を超えたところで、仏様からのメッセージや存在を肌で感じるような、心の内側での交流。
修行の進展: 修行が進むにつれて、実際に仏様が目の前に現れてくださるように感じる瞬間があり、それが非常に感動的であり、修行の大きな励みや楽しみになっていたといいます
修行の目的の一つである「仏様と一体化する」という状態を通じて、日常の煩悩から離れ、清らかな感覚の中で仏様とのつながりを確認するプロセスであると捉えられています
それを狙って
仁和寺に特攻した手順抜き
😀
そのレベルを狙って
成否だ
😀
仁和寺のお堂で僧侶の法話を聞きつつも
本題狙いは
ここだ
😀
要約
四度加行の内容と体験談:
内容: 最初の108回の五体投地(礼拝)から始まり、最後の護摩祈祷まで、心身を清め煩悩を焼き尽くすための厳しい儀式が行われます (4:12 - 5:05)。
辛かったこと: 真夏の暑さや真冬の寒さといった肉体的な過酷さに加え、修行の段階が進むにつれて自分の内面にある醜さや脆さと向き合う精神的な苦しさがあったと語られています (5:32 - 6:27)。
得たもの: 修行を通じて仏様と一体になる感覚や、自分自身の内面がシンプルになり、人間関係や環境が自然と整っていくという大きな変化を実感しています (7:03 - 10:15)。
この感覚
😀
得たもの: 修行を通じて仏様と一体になる感覚や、自分自身の内面がシンプルになり、人間関係や環境が自然と整っていくという大きな変化を実感しています
教義を見失う
😀
仁和寺には苦闘したが
😀
このノリはできるけと
神社=密教世界
みたいなイコール感覚は
地元神社では難易度高い
😀
AI動画要約は便利がいいな
日曜日礼拝のメッセージなんかは特に便利だ
デイスペンゼーションがらみの
要約なんか、
かなりイケる
高原剛一郎とかな
😀
グーグル経由のユーチューブは
コピペできる
ありがたやー🙏
AI時代
😀
ユーチューブAI要約で
キリスト教、イスラーム、神道、
ヨガなどの
研究が一気に進む
😀
かなりたのしめる
ありがたやーAI動画要約
🙏
😀
高野山大学で関心濃いテーマは
リアルでみるけどな
😀
文字起こし不要、
キリスト教プロテスタント礼拝説教ドンドン要約できる
高原剛一郎〜
😀
悟りパワーがないタイプは
要約便利だ😀
この動画では、曹洞宗徳雄山建功寺の住職であり、庭園デザイナーでもある枡野俊明氏が、禅の考え方を取り入れた「疲れにくい心の作り方」や「五月病対策」について解説しています。
主なポイント
疲れにくい心の習慣 (1:34-3:27)
禅僧の生活のように、起きる時間や休む時間を規則正しくルーティン化することが重要です。無理をせず継続することで、心身の疲労を抑えられます。
目の前の仕事に対して、損得ではなく「ご縁のあること」として必死に取り組むことが、仕事を楽しむ秘訣です。
五月病対策:自分をさらけ出す (6:18-9:14)
新入社員などが五月病になる主な原因は、過度な評価を求めて「無理」をしてしまうことにあります。
対策として、「自分の実力はここまで」と初めから自分をさらけ出すことが推奨されています。できないことは素直に「教えてください」と言える勇気が、心の重荷を軽くします。
疲れを溜めないためのアクション (9:15-14:58)
朝の時間を活用する: 朝の掃除や重要なタスクの処理は、心を清々しくし、焦りを防ぎます。
夜に判断しない: 夜は思考がネガティブになりやすいため、重要な決定や判断は避け、朝に行うのが賢明です。
心身を整える: 立ち振る舞い(身)、言葉(口)、心(意)を整えることが連動しており、特に丹田呼吸で姿勢を正すことが重要です。
時間の主体性 (14:59-18:05)
常に時間に追われるのではなく、自ら時間を主体的に使い切る意識を持つことが、成果を出すために不可欠です。
心の余白(18:06-20:50)
庭園デザイナーとして、訪れる人が自分を見つめ直せるような「心の余白」のある空間作りを大切にしています。好奇心を持ち、人々の行動や環境を分析することも感性を磨く助けになります。
AI は不正確な情報を表示することがあるため、生成された回答を再確認するようにしてください。詳細
😀
コピペてきない
😀
円覚寺管長の動画の要約で学習してるのだろう
あれはボンクラなので
迫力がないからなー
😀
この動画では、「間違った人生」という概念について、僧侶である配信者の視点から解説されています(0:04)。
主なポイントは以下の通りです:
正解・不正解は自分で決めるもの: 本来、人生に客観的な「正解」や「不正解」はなく、他者の価値観や期待によって押し付けられた道に進むことが、実質的な「間違った選択」になり得ると説いています(0:12-2:12)。
間違った人生に進んだ際のサイン: 自分の意志で選ばなかった道を進むと、心のどこかに違和感やモヤモヤを抱え続けることになります(3:10-3:16)。その結果、以下のような現象が起こりやすくなると指摘しています:
物事がスムーズに進まない、小さなトラブルが重なる(3:22-3:36)
人間関係がこじれる(3:33)
うまくいかない原因を他人のせいにしてしまう(3:58-4:13)
自分の内側に耳を傾ける重要性: 答えは外側にはなく、自分の内側にしかありません。やりがいを感じ、自分のエネルギーを100%注げる環境に身を置くこと、そして自分で選んだ道に対して「覚悟」を決めて生きることが、結果として人生を正解へと導くと語られています(5:23-9:02)。
AI は不正確な情報を表示することがあるため、生成された回答を再確認するようにしてください。詳細
要約に限るな
😀
怠けて要約してしまいそうだ
😀
どっかシッタカモードなので
AI要約させてしまうかもしれん
😀