スコラはカトリック教会およびその修道院に付属する「学校」を意味していた。中世ヨーロッパのスコラ哲学は、このスコラで研究された哲学のこと。ラテン語のこの「スコラ」から英語の school が生まれたが、もとはギリシア語から来ている。ギリシア語で「スコラ」というのは、もともと「暇(ひま)」を意味していた。働かない、ヒマな人が集まるところが「スコラ」だった。
当初、実験物理学者として望遠鏡の製作が評価されていたアイザック・ニュートンは、当時の望遠鏡の欠陥であるレンズの色収差の問題を解決するため光学の研究を行っており、1672年に『光と色の新理論』(New theory about light and colours)という論文の中でその結果を報告した。しかしながら、その中で展開された色の理論が、当時主流のデカルトやフックの立場に反するものであったことから、以降、フックとニュートンの間に長い論争が交わされることとなった。
Ontology is the philosophical study of the nature of being, becoming, existence, or reality, as well as the basic categories of being and their relations.(フリー百科事典「Wikipedia」、Ontologyのページから引用)
前スレ(今回から変更)
【スコラ三年】 キリスト教の神学理論 2 【教父八年】
https://talk.jp/boards/psy/1702797986
地上に手をかざす、現実主義者のアリストテレス
西洋思想は、この2人の巨人の間を行ったり来たり
https://i0.wp.com/paradjanov.biz/works/wp-content/uploads/2015/03/athens01.jpg
教父とは、古代の初期キリスト教の指導者
ローマ帝国でキリスト教が公認された頃から、
教父(英語では Farthers of Church)と
呼ばれる人々が、正統教義を確立した
彼らの思想を「教父哲学」といい、
新プラトン主義の影響が濃い
ギリシア語で著述したギリシア教父と
ラテン語で著述したラテン教父がいる
特にアウグスティヌスは最大の教父といわれ、
その著作『神の国』は、ローマ=カトリック教会の
正統性を確立した書として、聖書に次ぐ
重要性を与えられている。
4~5世紀、西ローマ時代、北アフリカで活動した教父。『告白録』『神の国』などを著し、ローマ=カトリック教会の理念を確立させ、中世以降のキリスト教に多大な影響を与えた。
新プラトン主義の影響を受け、プラトン的な二元論の世界観をキリスト教の教義体系に導入した。
聖アウグスティヌスは北アフリカの人だった。海洋国家カルタゴがローマ帝国に滅ぼされて以来、北アフリカはローマ帝国の領土だった。
キリスト教は、すでにローマ帝国の国教となっていた。しかし、帝国は東西に分裂し、西ローマ帝国はゲルマン人の民族大移動により滅亡に向かっていた。410年、アラリックが率いる西ゴート人により、永遠の都ローマが占領・略奪された。西ローマ帝国は大きな衝撃を受け、「こうなったのはキリスト教のせいだ」と、反キリスト教勢力が騒ぎ始めた。
そこで、キリスト教を擁護すべく敢然と立ち上がったのが、聖アウグスティヌスだった。彼は、代表作「神の国」を書いてキリスト教を擁護した。
「たとえ、地の国(ローマ帝国)が滅ぶとも、神の国(ローマ・カトリック教会)は永遠である」
これにより、カトリック教会の権威は確立されたのだ。
やがて、聖アウグスティヌスが司教を務める北アフリカのヒッポにも、ガイセリックに率いられたヴァンダル人が押し寄せた。ヴァンダル人によりヒッポが長期包囲される中、病床の聖アウグスティヌスは世を去った。
地の国(西ローマ帝国)は滅びたが、神の国(ローマ・カトリック教会)は、その後も千年以上にわたって西欧社会に君臨することとなった。
アウグスティヌス(ボッティチェッリの絵)
https://www.y-history.net/gazo/0103/augustinus.jpg
11~12世紀に起こり、13~14世紀の中世ヨーロッパにおける思想の主流となった哲学を「スコラ哲学(スコラ学)」という。
スコラはカトリック教会およびその修道院に付属する「学校」を意味していた。中世ヨーロッパのスコラ哲学は、このスコラで研究された哲学のこと。ラテン語のこの「スコラ」から英語の school が生まれたが、もとはギリシア語から来ている。ギリシア語で「スコラ」というのは、もともと「暇(ひま)」を意味していた。働かない、ヒマな人が集まるところが「スコラ」だった。
中世ヨーロッパにおいては、すべての学問は、カトリック教会およびその修道院に付属する「学校」(スコラ)において教えられ、研究されていた。中世ヨーロッパの哲学はこのような「スコラ」における哲学という意味で「スコラ学」と言われる。
その内容は、主としてキリスト教の教義を学ぶ神学を、ギリシア哲学(特にアリストテレス哲学)によって理論化、体系化することであった。その中心的な課題となった論争は普遍論争であった。12世紀におけるスコラ学の隆盛は12世紀ルネサンスの中心的な事柄であり、13世紀のトマス=アクィナスによって大成されることとなる。
13世紀イタリアのスコラ哲学、神学者。『神学大全』を著しスコラ哲学を大成した。
イタリアに生まれ、ドミニコ会修道士からパリ大学教授となる。アリストテレス哲学をキリスト教信仰に調和させて解釈し、信仰と理性の一致をめざした。
当時は、十字軍をきっかけに、アラブ世界との文物を問わない広汎な交流が始まったことにより、ギリシア哲学の伝統がアラブ世界から西欧に莫大な勢いで流入し、度重なる禁止令にもかかわらず、これをとどめることはできなくなっていた。知識人の間で、アリストテレス哲学の科学的思考が流行した。
そこで、ローマ・カトリック教会から神学理論の体系化を命じられた切り札のスーパー理論家が、聖トマス=アクィナスであった。彼は、「哲学は神学の婢(はしため)である」と言って、アリストテレス哲学をキリスト教に統合する壮大な理論体系『神学大全』を作り上げた。
同時代の人々の記録によると、聖トマスは非常に太った大柄な人物で、色黒であり頭ははげ気味であったという。しかし所作の端々に育ちのよさが伺われ、非常に親しみやすい人柄であったらしい。議論においても逆上したりすることなく常に冷静で、論争者たちもその人柄にほれこむほどであったようだ。記憶力が卓抜で、いったん研究に没頭するとわれを忘れるほど集中していたという。そしてひとたび彼が話し始めると、その論理のわかりやすさと正確さによって強い印象を与えていた。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/e/e3/St-thomas-aquinas.jpg/375px-St-thomas-aquinas.jpg
こたいかのげんり
principium individuationis; principle of individuation
個体を個体として他から区別する形而上学的原理をいう。
すでにアリストテレスにおいて,個体の質料的な側面がその個別性をなすものであり,一方形相は普遍的本性として,多くの個体間に共通のものであるとされた。
かかる個体化の原理は中世スコラ哲学においても主要な問題となった。
それはキリスト教教理において創造の対象としての個体,および救済の対象としての個人との関係,また三位一体の教理とこの個別性の関係が追求されたからである。
これに対し J.ドゥンス・スコツスは個性原理ヘクセイタス(〈これ〉という形相的限定) を立て,この特殊な形相が物質と非物質とを問わずすべてのものの個体化にかかわっているとした。
近世においてもライプニッツ,スピノザ,ショーペンハウアーなどにおのおの独自の考察がみられる。
古代ギリシャの昔から、西洋哲学にとって永遠のテーマだ
死んだら、使用済の人体を捨てて、魂だけになって次の世界を体験する
魂は、基本的には今の自分と同じだ
同じような思考と感情を持ち、死後世界でも自分の個性が維持される
哲学者は、そうは考えない
「生命」は、すべての人間に分け与えられており平等に分有されている
知能が高い人もいれば、低い人もいる
背が高い人もいれば、低い人もいる
陽気な人もいれば、陰気な人もいる
・・・このように、人にはそれぞれ個性がある
「生命」に個性はない
「生命」は、すべての人間により平等に分有されている
「人体」と「生命」は、セットでなければ意味をなさない
「人体」が死ねば、「生命」も消失する
ここがまた、ややこしくて微妙なところだ
このため、基本的にはアリストテレスの立場を継承している
誰もが、この説に納得するわけではない
「魂には、個性があるだろ」と考える人も当然、出てきた
哲学者のアリストテレスほど、クールでドライなわけではない
しかし、この世で身体とセットで人間となる
人間生活を通じて、霊魂は個体化を獲得するという
実は初期の著作においてもトマスはこのことを明確に述べていた。たとえば『在るものと本質について』 (De ente et essentia) 第五章には次のように言われている。
人間霊魂の個体化はその発端に関しては身体に機会原因的に依存してい る――なぜなら、霊魂は自らがそれの現実態である身体においてでなければ個体化された存在を自分に取得することができないからである―― のであるが,身体が取り去られると個体化が消滅してしまわざるをえな い、ということではないのである。なぜなら、人間霊魂は絶対的な存在を有するのであるから、人間霊魂がこの身体の形相たらしめられたこと からして個体化された存在を自らに取得した以上、その存在は常に個体化されたものとしてとどまり続けるからである。
このように、魂が存在の始源として自らの存在を有し、それを身体に分かち与えるということはトマスの初期の頃からの一貫した主張なのである。
でも、それはスピリチュアル的な「霊魂」ではない
むしろ「生命」という概念だ
無生物には無くて、生物には有るもの
それが「生命」だ
当たり前っちゃあ、当たり前
「生命」に個性はない
個性は、個々の生物の物質的な「身体」という質料にある
「生命」は、「身体」とセットでなければ意味をなさない
「身体」がしねば、「生命」も消失する
アリストテレスによれば、それは「生命」もしくは「霊魂」という形相の有無だ
では、「生命」とは何なのか?
これは、なかなか答えが出ない難問だろう
古代グノーシス主義的には身体といっても色んな身体がある
身体は「乗り物」で魂の乗り物もある
しかし、ここでいう生命は物質の身体における生命とは現象としては違うものである、とも言える
難しいのをやってるなあ〜
瞑想トップ・ギア状態から
オフにしないと
こういう難しい話でには
参加できず〜
😭
ノーマルナンミョー
までは
凡人化できたが〜
やはり、
西欧理性的文化スタンダードキリスト教や
イスラム教までは
降下できない〜
😫
かつてのビマジョの
暴走モード化しとる〜
😫
人間の知性は、神との類似性(アナロギア)のもとにある。神は恩恵でもって、みずからを人間の知性に結合してくれる。それゆえ人間は神の本質を見ることができる。人間の知性は、神の能力から派生した「知的な光」である。
被造物は、神から受け取った栄光の光の大小に応じて、神を認識する。その光は無限ではありえない。それゆえ神を完全に認識することはできない。だが、完全でなくとも、より完全に近いという仕方でなら認識できる。
アクィナスいわく、そのためには、神への愛(=カリタス)が必要となる。
愛といっても、これは性愛ではなく、むしろ友愛と呼ぶべきものだ。というのも、アクィナス的には、性愛では手段としての事物が求められるのに対して、友愛では完全な存在である神から、善すなわち至福が送り届けられるという仕方で、神と人間との間の相互交流が行われ、存在の絆が深められるからだ。
こうしたアクィナスの主張は、あるいは受け入れがたいかもしれない。人間性との絶対的な隔絶のうちにこそ神の本質がある。人間が至福を得ようが得まいが、その点から神を規定するのはおこがましい……。こうした観点からすると、アクィナスの言い方は、人間が原因を知りたいという熱望を満たすために、神をいわば「利用」しているかのように見えるだろう。
ただしアクィナスにとって、神は人間に対して絶対的な命令を下す冷酷な存在であるのではない。それはむしろ、一切の被造物に「つながり」、いわば「存在の絆」を与えるものだ。
神は、被造物に存在を分有させることで、一切の被造物のうちに存在する。最高善である神を原理とした存在=善のネットワーク。これがアクィナスの観点から見た神と被造物の関係であり、世界そのものなのだ。
ラピスラズリさんたち
神仏を本当に理解する為には同性愛を止めないと駄目ですよね?
聖書聖典も同性愛を推してないよ(笑)
同性愛者かどうかは身体に起因することだから仕方がないな
キリスト教的なテーマとしては、「それをキリスト教として祝福できるかどうか」となるんだな
なぜなのか?
片方だけでは不完全で、一緒になることで完全の表現となる
従って、それは祝福の対象となる
2332 性的特質は、人間の肉体と霊魂が一体となっていることによって、あらゆるメンバーに現れてきます。とくに感情力や、愛や出産の能力、そして一般的には、他人との交わりのきずなを結ぶ適性などとのかかわりを持っています。
2333 男女はそれぞれ自分の性の独自性を認め、受け入れなければなりません。男女の身体的・精神的・霊的相違と補完性とは、結婚の善と家庭生活の開花とに向けられています。
夫婦や社会の調和のある部分は、両性の間の補完性、依存性、そして相互扶助がどのように生かされるかにかかっています。
(…)
2335 同等の尊厳を持つ両性は、違った形ではあっても、それぞれが神の能力や優しさの似姿なのです。結婚による男女の結合というものは、創造主の惜しみなく与える心と生み出す力と肉体において模倣する一つのあり方なのです。
「男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる」(創世記2:24)。
この結合から、すべての人間が世々代々にわたって生まれてくるのです。
自由の濫用、欲に隷属するする状態に容易に堕ち得るからそれは良くないが、一方で差別してはいけない、とも語るわけだ
カテキズム的には以下のように語られる
2357 同性愛とは、同性に対してのみ、もしくはおもに同性に対して性愛を抱く男同士、または女同士の関係を意味します。これは時代や文化の違いによって、きわめて多様な形をとっています。その心理学的原因はまだ十分には解明されていません。これを重大な堕落としている聖書に基づき、聖伝はつねに、「同性愛の行為は本質的に秩序を乱すもの」であると宣言してきました。
同性愛の行為は自然法に背くものです。これは生命を生み出すはずのない性行為です。真の感情的・性的補完性から生じるものではありません。どのような場合があっても、これを認めることは出来ません。
この傾向は、客観的には逸脱ですが、彼らの大部分には試練となっています。
したがって、同性愛的な傾向を持つ人々を軽蔑することなす、同情と思いやりの心を持って迎え入れるべきです。不当に差別してはなりません。これらの人々は、自分の生活するの中で神のみ旨を果たすように、キリスト信者であれば、自分のこの傾向から生じる困難をキリストの十字架の犠牲と結び合わせるように、と呼びかけられているのです。
2359 同性愛的な傾向を持っている人々は貞潔を守るよう招かれています。内的自由を培う自制の徳によって、時には友人の献身的な助けのもとに、祈りや秘蹟の恵みによって、少しづつではあっても確実にキリスト教的完全さに近付くことができるし、またそうしなければなりません。
ちなみに、少し前に教皇の記事でこんなのもありましたな
キリスト教カトリック教会の教皇フランシスコは18日、司祭が同性カップルに祝福を与えることを許可すると発表した。性的マイノリティー(LGBT)のカトリック教徒にとって、大きな前進となる。
https://www.bbc.com/japanese/67757415.amp
ローマ教皇庁(ヴァチカン)が発表した「宣言」では、司祭は特定の状況において、同性カップルや「変則的」なカップルにも祝福を与えることが許されるとした。
一方で、こうした祝福が通常の教会儀式の一部として行われたり、市民パートナーシップや結婚式と結びつけてはならないとしている。
また、婚姻を男女間のものとする教義は、維持するとした。
教皇は18日にこのヴァチカン文書を承認。ヴァチカンは、この宣言は「神はすべての人を受け入れる」というしるしだと述べた。ただし文書では、司祭は祝福の可否をケースバイケースで決めるべきだとしている。
教理省長官を務めるビクトル・マヌエル・フェルナンデス大司教は、この宣言は「婚姻に関する教会の伝統的な義を固持するもの」だと述べた。
そのうえで、カトリック教会の魅力を「広げる」という教皇の「司祭としてのビジョン」のなか、新たなガイドラインによって、なお罪深いとされている関係にも祝福が与えられるようになると語った。
宣言は、祝福を受ける人々は「事前に道徳的な完全性を要求されるべきではない」としている。
神はなぜ男女を創造し、なぜ婚姻を「祝福するのか」
その「なぜ」に伝統や教理は解答してるのだが、
それに「反する場合」、「キリスト教の儀式として祝福出来るのか?」といった難しさだ
だが、同性愛者はそのように生まれてしまったのだから仕方がない
ただ、「行為」においてだけは、同性愛者だろうが異性愛者だろうが、「堕落的であってはいけない」のは同じ話なんだよな
けんじくん(9歳)のちんぽほしい
よしひこ神父
アリストテレスの唱えた万物の運動の根本原因。 動かすもの(原因)と動かされるもの(結果)の関係において、他によって動かされることがなく、他を動かす「不動の第一動者」をいい、これが神であるとする。
質問
アリストテレスのいう不動の動者がどんなものなのか分かりやすく簡潔に説明してください (>_<)
天体の運動は四季を変化させ、四季の変化は地球の生態系を変化させます。
しかし逆に、生態系が四季を変えることはできませんし、四季が天体を動かすことはできません。
そうすると一番根源的なものは天体ということになるのですが、その天体はどうして動くのだろうか?
ということでアリストテレスは、天体を動かす存在、不動の動者がいるのではないかと考えました。
不動の動者は自分自身が動くことはできない(不動)。しかし天体を動かす存在である(動かす者)。
科学的に言えば不動の動者は物理法則だと言えますし、宗教的に言えば神様と考えることもできますね。
物体や物質は別の形に変化することができるが、根本的な性質は変化しない、というのがアリストテレスの主張でした。この根本的な性質を不動の動者ということもあります。
私は詳しくないのでこのくらいしか話せません。こういうものはご自身で本を読むなりするのが一番ですよ。
アクィナスによれば、「神が存在する」という命題は、それ自体としては明らかだ。後に見るように、神は存在そのものであるからだ。
だが、その内実については、論証を必要とする。なぜ神が存在すると言えるのか。どのような根拠でそう言えるのか。神が存在するという前提を堅持しつつ、アクィナスはこの問いに対し答えを与えようとする。
アクィナスによる神の存在証明には、以下の5つの論点がある。
「第一の動者」が存在しなければならない
第一の作出因(=原因)が存在しなければならない
必然的に存在するものが最低一つ存在していなければならない
善なるものが存在する以上、基準となる最高善がなければならない
自然物を目的へと秩序づける知性認識者が存在しなければならない
いま存在しているものは何らかの原因をもつ(原因から生み出される)。だがその原因にもまた原因がある。そしてその原因にも原因があり、その原因も同様である。こうして、原因の系列は、第一の原因である神を出発点とするものとして見出される。それゆえ神は存在する、という論理である。
この洞察では、古代ギリシアの哲学者、アリストテレスによる因果についての推論が参考とされている。アリストテレスは『形而上学』にて、因果の系列は純粋な「動」の根本原理に基づき成立していると論じていた。ここで言われている根本原理を、アクィナスはキリスト教における神に置き換えて論じているのだ。
さて、アクィナスによると、神は必然的かつ現実的に(=つねに絶対に)存在していなければならない。その理由は次の通りだ。
いまある世界の秩序が、因果関係の系列において最新の状態である。だから、因果の系列を支え、生み出している根本動因たる神が存在しないことがありうるなら、世界そのものが存在しないことがありえてしまう。だが、それは明らかに正しくない。それゆえ、神は純粋な現実態にある。
事物は存在したりしなかったりする。形あるものはいずれ壊れる。だが、被造物に対して、神は存在したりしなかったりすることはない。神は、世界という存在の秩序を支える「動」の根本原理として、つねに存在しつづける。そうアクィナスは考えるのだ。
次にアクィナスは、神と被造物の関係について論じる。
神は根本原因である。ただし、それは質料的な意味ではなく、最高の作出因であるという意味においてだ。神は最高の作出因、最高の現実態であり、それゆえ完全である。
被造物は、完全な存在である神に由来して存在する。この際、万物は、神の形相(=本質)を分有することで、神に類似する。
この類似関係を、アクィナスは存在のアナロギアと呼ぶ。アナロギアとは、英語でいうアナロジー(analogy)と同根の言葉だ。
存在するということが万物に共通であるように、何らかのアナロギアによって作用者の形相の類似性を分有するであろう。神によって存在するものは、それが存在するものであるかぎりにおいて、このような仕方で、全存在の第一の普遍的根原たる神に似るのである。
アクィナス『神学大全』を解読する
https://www.philosophyguides.org/decoding/decoding-of-aquinas-summa/
宇宙には、太陽とか地球とか月とか
人間とか犬とか猫とか
あらゆるものが存在する
存在するからには、その存在を成り立たせている何かがあるはずだ
ないわけがない
なかったら、何も存在しないはずだ。だが、現実に万物は存在している
その「万物の存在を成り立たせている何か」のことを、「神」と呼ぶことにしましょう
・・・ということだ
これなら、神はあるに決まっている。ないわけがない
なかったら、何も存在しないはずだ。だが、現実にあらゆるものが存在している
つまり、神は存在する
これが、スコラ哲学の神
理性と
正義の
神が
働いている
というイメージ
😄
まさし神父 名古屋
アリストテレスが言及した、世界(宇宙)の運動の根本原因
不動の動者(ふどうのどうしゃ、unmoved mover)とは、アリストテレスが『自然学』や『形而上学』の中で言及した、世界(宇宙)の運動(円運動)の根本原因。
第一の不動の動者、第一動者、第一原因とも。
アリストテレスの地球中心説(geocentric)的な世界観・宇宙観においては、地球が宇宙の中心にあり、それを取り巻く、アイテールで満たされた宇宙は第一の運動である円運動によって規則正しく動いている。そしてその最外層には、その諸々の運動の原因となっている、何者にも動かされずに自足しつつ他のものを動かす「第一の不動の動者」が控えている。
こうしたアリストテレスの宇宙観・神観は、師プラトンの対話篇『ティマイオス』や、その中におけるデミウルゴス概念の影響が顕著であり、大枠は概ねそのまま継承・踏襲している。
太陽や月や星たちが、地球の周囲を回っている
それが、アリストテレスの神
世界の始まりに何があったか?ある者は神と言い、またある者はビッグバンと言う。呼び名こそ違えど、本質的には何ら変わりない。つまるところ、それらは世界の「始まり」というだけのこと。
古代ギリシアにアリストテレスという哲学者がいた。彼は、世界の始まりは「不動の動者」によってもたらされると考えた。
すべての始まりとなる究極的な原因はあるはずだ。でなければ、無限後退に陥ることになる。あるものが成立しているのは○○だから、といった理由を遡り続けて辿り着くものが、究極的な原因であり、第一の原因なのである。このように考えなければ、世界は理解できなくなる。因果の鎖が無限の彼方に呑み込まれるなど、あってはならないことなのだ。
アリストテレスの考える始まりとしての不動の動者は、「神」という概念と同義的であった。彼のこのような考えは、神の存在証明を行った神学者トマス・アクィナスの思想及び著作に多大な影響を与えることとなる。
この話だと、地球こそが不動の動者だな
ここまでは、誰もが断言している
・・・と思うところだが、誰もそうとは言わない(笑)
「地球」と「不動の動者(=神)」の関係
同じなのか、違うのか
地球は宇宙の中心だけど、「不動の動者」ではない
アリストテレスにとっては、地球の周囲で天球を回転させている存在(不動の動者)が神なのか
中心の地球から内側から順に月(LUNA)、水星(MERCVRII)、金星(VENERIS)、太陽(SOLIS)、火星(MARTIS)、木星(IOVIS)、土星(SATVRNI)と並んでいる。その外側を取り囲むように十二星座が並び天球を構成している。
https://assets.st-note.com/img/1654594835221-rsVOwcRZPq.png?width=600
地球の周囲を、天球が回っている
https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/n/nigimitama/20180602/20180602001543.png
天球はデカいな
そりゃ、神だな
神そのものだ
これ欲しい
https://handle-marche.com/pic-labo/p1568040960.jpg
「不動の動者」ってのは
自分自身は動かないから「不動」
他のものを動かすから「動者」なんだな
なるほど
いま初めて、意味がわかった(笑)
こんなとこで名前を出したら、また現れるな😫
仕方ない
「意味も分からずに哲学用語を使う」
これは、鹿野園そのものだ😅
5chのキリスト教スレにいるんだったな
地球の周りを、太陽、月、惑星、その他の星が周回している
どうやって周回しているのかというと、天体は「天球」に乗っている
天球が、天体を乗せて回っているのである
これほど巨大なものを回転させている存在
アリストテレスはそれを、神に違いないと考えた
それでいて、他のすべてを動かしている
「不動の動者」
それこそが、アリストテレスの神
「地球は太陽の周りを回っている」という地動説が台頭したが
これは、カトリックの正統神学にとっては不都合な真実だった
科学者が火あぶりの刑になるほど、カトリック神学にとって深刻な脅威だった
当時の自分では
なんか、世界観がピンと来ない
それに比べて、プラトン哲学の世界観はビリビリ伝わってくる
「読む前から、いや、生まれる前から知ってました」という感じだった
「霊界にも、富士山はある。
霊界の富士山は、現界の富士山より
遥かに巨大であり、比べものに
ならないほど美しい」
「この世は、霊界の写し絵だ。
霊界の富士山と現界の富士山は、
現界の富士山と、このフスマ絵に
描かれた富士山のような関係なのだ」
と語った
ここまで極端ではないが
プラトンのアカデミーに入学するには、幾何学か必須とされていた
アカデミーの入り口には、「幾何学を学ばざる者は、この門に入るべからず」という看板が掲げられていたと言われている
現実の三角形を描いてみよう
どこか、歪んでいる
完全無欠の完璧な三角形など、この世には存在しない
それでも、完全無欠ではない
だが、イデア界には完全無欠の完璧な三角形がある
現実の三角形は、その劣化コピーだ
突き詰めて考えれば、人間の心の中にある「観念」と言ってよい
このため、デカルト以降の近代哲学では
「イデア」が「観念」と読み替えられるようになった
デカルトは、そう主張した
元ネタは、聖アウグスティヌスの教父哲学だ
さらにその元ネタは、プラトンのイデア論にさかのぼる
脳の機能を知る現代人にとって、観念というのは、脳の中にあるイメージでしかない
脳の中に存在する、脳内現象だ
だが、昔の人にとっては、そうではなかった
実在論者にとっては、観念は実在する
「観念は実在する」
その考え方を「実在論」という
誰もが実在論に賛成するわけではない
激しい論争が起きた
論争は何百年も続いた
まあ、平たく言えば
「この世に存在するものは全て、
あの世にオリジナルがある。
この世にあるのは、そのコピーである」
「同じものでも、あの世にある
オリジナルのほうが、ずっと
美しくて完璧である」
「早い話が、この世の存在は、
あの世の存在の劣化コピーなのである」
・・・端的にいえば、それがプラトン的な二元論の世界観だ
それが、プラトンのイデアだ
イデア界には、イデアがある
この世の犬や猫は、イデア界にある犬や猫のコピーだ
イデア界の犬や猫は、美しくて完璧だ。何の欠点もない
この世の犬や猫は、その劣化コピーにすぎない
弟子のくせに、師匠のプラトンの「イデア論」を否定した
アリストテレスには、どこか遠くに「イデア界」なんてものがあるなど、ナンセンス
アリストテレスにとっては、この世がすべて
「イデア界」など無い
アリストテレスによれば、犬には犬の形相、猫には猫の形相がある
どこかの異世界に、犬のイデアや猫のイデアがあるわけではない
目の前にいる、現実の犬に「犬の形相」があり、現実の猫に「猫の形相」がある
いくらアリストテレスでも、プラトンを全否定したわけではない
プラトンの世界観から「イデア界」をなくすと、アリストテレスの世界観になる
犬には犬のイデア、猫には猫のイデアがある
現界の犬や猫は、イデア界にあるオリジナルの劣化コピーだ
この世界観から、「イデア界」を取り除いてみよう
それが、そのままアリストテレスの世界観になる
イデア界にオリジナルはない
だが、現実存在の犬や猫が、みんな何らかの「劣化コピー」であること
それは変わらない
オリジナルがあって、その劣化コピーがたくさんある
それが、プラトンの世界観
それに対して、オリジナルはない
でも、コピーはたくさんある
それが、アリストテレスの世界観
ベイダー和尚の巣穴になりましたな
😄
たけし神父 67歳 北千住
JBLさんは三位一体の神であるロゴスがイエスに受肉して劣化した、と捉えますか?
神や聖霊とレベルが同じ
それがアリストテレスだと私は思います
アリストテレスの著書
『天体論』(てんたいろん、On the Heavens)とは、古代ギリシャの哲学者アリストテレスによって書かれた、天体(宇宙)についての自然哲学書。
従来の四元素説に加えて、第5の元素(第一元素)としてのいわゆる「アイテール」(エーテル)と、それに支えられた宇宙の円運動、「アイオーン」としての宇宙の唯一性・不滅性、地球が宇宙の中心で静止しているとする「天動説」等が述べられている。
宇宙論は、その大きな要因だった
この2つが2本柱
関連する質問
アリストテレスの宇宙観は?
アリストテレスは天動説を唱えました。地球が宇宙の中心にあり、太陽と月以外に5つの惑星が地球の周りを回っていて、遥か彼方の恒星天球がゆっくりと回っているという考え方です。 アリストテレスの自然学の物質の根源は火、空気、水、土です。
天動説を否定し、地動説を唱えたおかげで、火あぶりの刑になった科学者もいるほど
中世人はなんで、こんなものを信じたのか?
中世ヨーロッパ人は、占星術に熱狂した
アリストテレスの天動説が、その理論的な基盤となった
中心に地球があって、太陽・月・惑星・星座がその周囲を回っている
単独ではなく、天球に乗って回転している
回転しながら、地上に影響を及ぼしている
天動説と切っても切れない
デイビッド・C・リンドバーグ『近代科学の源をたどる 先史時代から中世まで』高橋憲一訳、新倉書店、2011年、291–297ページ。
古代中世科学史の標準的箇所から、占星術を扱った部分を読む。占星術の基本前提と、その中世におけるアリストテレス化までが簡潔に述べられており大変有用である。
近代以前の占星術の歴史を考察するときには、それを二つの種類のものに分けるとよい。一つは天界が地表面に影響を及ぼしているという信念にまつわる一群の教義としての占星術であり、もうひとつはそれらの影響から未来を予測したり、何をなすべきで何をなすべきでないかをアドバイスする星占いとしての占星術である。このうち前者が全面的に否定されることはほとんどなかった。対照的に後者の活動の妥当性は常に疑問視され、論争の対象となっていた。
プラトンとアリストテレスの哲学のうちにもまた天界からの影響という占星術の前提となりうる教説が含まれていた。この両世界の結合から占星術を論じた一例がプトレマイオスである。『テトラビブロス』で彼は天の作用に地上が影響をうけていることは明白であり、また諸天体の性質とある時点における位置を正確に特定することにより、月下界で何が生じるかを見極めることができると論じた。たとえばある人の誕生時の天体の配置から、その人の気質を知ることが可能である。
12世紀以降、ギリシアとアラビアの占星術が翻訳されるにともない、占星術への関心の復興と、それへの(たとえばアウグスティヌスと比べて)より好意的な態度が見られるようになる。プトレマイオス『テトラビブロス』が1130年代に、アブマアサル『占星学入門』が1130年代と40年代に2回翻訳された。このうちアブマアサルの著作は、占星術のアリストテレス化ともいうべき事態を招いた。
彼はアリストテレスの基本的分析術語(質料、形相、実体など)を採用しながら、生成消滅に黄道上の太陽の運行がかかわるというアリストテレスの説明を拡張し、その他の諸惑星やそれらのあいだの幾何学的関係が月下の世界に因果的に関与するという教説を提唱した。
占星術のアリストテレス化は、12世紀が進むにつれてアリストテレス本人の著作が流通するにともなってますます進行することになる。こうして自然哲学の一部として占星術という分野が確立したのであった。
> 天体論 (アリストテレス)
>
> アリストテレスの著書
>
> 従来の四元素説に加えて、第5の元素(第一元素)としてのいわゆる「アイテール」(エーテル)・・・が述べられている。
天動説もさることながら、注目すべきなのは、ここかもしれない
光の波動説において宇宙に満ちていると仮定されるもので、光が波動として伝搬するために必要な媒質
エーテル(aether,ether,luminiferous aether)とは、光の波動説において宇宙に満ちていると仮定されるもので、光が波動として伝搬するために必要な媒質を言う。ロバート・フックによって命名された。
地球は光を伝える「媒質」であるエーテルの中を運動していると考えられていた。
エーテル説は、近代哲学の祖・デカルトが唱えたものだ
アリストテレスの「アイテール」から名前を拝借したが、別の概念
デカルトは、すべての空間には連続でいくらでも細かく分割できる微細物質が詰まっており、あらゆる物理現象はその中に生じる渦運動として説明できると考えた(渦動説)。カルテジアン(cartésien,デカルト主義者)と呼ばれる学派はそのようなデカルトの考えに基づく学派で、17世紀から18世紀にかけてのフランスで学界の主流を占めた。
また、フックの考察と光の速さの有限性の結果に刺激を受けたクリスティアーン・ホイヘンスは、素元波の概念とホイヘンスの原理を導入することで光の波動説の基礎を作り上げた。
当初、実験物理学者として望遠鏡の製作が評価されていたアイザック・ニュートンは、当時の望遠鏡の欠陥であるレンズの色収差の問題を解決するため光学の研究を行っており、1672年に『光と色の新理論』(New theory about light and colours)という論文の中でその結果を報告した。しかしながら、その中で展開された色の理論が、当時主流のデカルトやフックの立場に反するものであったことから、以降、フックとニュートンの間に長い論争が交わされることとなった。
フックは光の波動説をとっており、ニュートンは1704年『光学』(Opticks)という著書の中で光を微粒子の放射と仮定していたように、強く主張してはいなかったものの光の粒子説をとっていたため、この論争は光の波動説と光の粒子説の近代における最初の対立とみなされることが多い。
以降、ニュートンの権威も手伝って18世紀においては、光の粒子説が受け入れられ、レオンハルト・オイラーを除いては光の本性について議論されなくなった。
「自分と自分の宇宙は無い ~ 量子力学の実験結果が示す革命的な世界観
https://youtu.be/0yks1BTPJBM?si=8a2EYDVM9Vq8AHve
ノ・ジェスという人がやっている
日本人だ
名前は忘れたが
内海昭徳だ
福岡市長選に自己啓発セミナー関係者が立候補
10月31日に告示される福岡市長選挙(11月14日投開票)に、自己啓発セミナー会社「NR JAPAN」(東京都・渋谷区)の講師・内海あきのり(内海昭徳)氏が立候補を表明しました。同社は、かつて被害者から訴訟を起こされたこともある自己啓発セミナー会社の実質的な関連会社です。同社の代表者はかつてセミナー内で「政権さえ取ってしまえば、こっちのもんなんだよ!」などと口走っていました。
■内海昭徳氏が所属するセミナー団体
福岡市長選挙に立候補を表明している内海昭徳氏は、「5次元認識テクノロジー」を掲げる「NR JAPAN株式会社で講師を務め、さらに「世界経済危機を希望に大反転させる」と標榜する「JAPAN MISSION PROJECT」の代表を務めています。
NR JAPANは、韓国人・Noh Jesu(盧在洙)氏が代表を務め、盧氏が「発見」したという「HITOTSU学」にもとづいた自己啓発セミナーのようなものを開催している会社です。JAPAN MISSION PROJECT は、その盧氏の講演会などを主宰して客を集める、実質的な
インチキ詐欺宗教の匂いがプンプンする
数年ぶりに「内海唱徳」を検索してみたが、古い情報しか出てこない
最近はどうしてるのだろう
消えたのか?
日本で派手に活動しているようだ
あの件はどうなったんかな?
ちょっと量子力学を誤解してるんだよなあ
個人的には、「韓国系の団体」というだけでアウトだ
怪しさに耐えられん (>_<)
韓国が嫌いなわけではないが
それとこれとは、話が別なのだ😅
ソン・イェジンが出てた、北朝鮮に不時着するドラマ
あれは掛け値なしに傑作といえよう
政治と宗教は最悪 (>_<)
「量子力学によると、この宇宙は人間が観測するまで存在しないという実験結果」だと?
こんなんだったっけ?
気配がなかった〜
シカと
パーリーや
暇人では
つまらん
あっちは
😭
😄
https://m.youtube.com/watch?v=aoi4cLd8GtA
幻や声が
聞こえた
経験はゼロ
真言密教で
誰もいないのに
真言が聞こえたことはあるけど
😄
聞こえた系統は
真言密教、
見えた系統は
真言密教と
カトリックだけだな
😄
すごいな?😱
ノー霊媒傾向だな〜
真言密教の修行系統とか
キリスト教超越神系統だけやな
幻系統は
😄
その寺が
俺の為に近所に建ってる真言密教の寺、
無住現在なので
年に一回草刈りと
今年は2回除草剤まいた
ま、向こうに気にいられているからな〜
😄
幻や音声系統はゼロ〜
肌の光明感覚系統と
仏教宗派ごとの香り、霊的な?
ぐらいなだけだな
😄
霊媒タイプではない。
な
😄
この世には
いるのかもなー
関心は薄いが
教義リアルシュミレーションの
方が好みである
😄
出口王仁三郎は
霊媒体質で
幻キングダムだろな〜
俺は幻の映像は二回だけ
音声は一回だけ
😄
おぱんちゅかぶりたい
スコラ哲学とは真面目でアグレッシブな(神学研究の)学問のスタイルのこと。この時期宗教は信じる以上に哲学的探求だった。ちなみに、「比較検討」をメインとしたこのスタイルの源流は、アリストテレス直系です。
トマスは、その哲学において、アリストテレスの「形相-質料」(forma-materia)と「現実態-可能態」の区別を受け入れる。(略)すべての存在者の究極の原因であり、「神」(不動の動者)は質料をもたない純粋形相でもあった。(略)しかし、トマスにとって、神は、万物の根源であるが、純粋形相ではあり得なかった。(フリー百科事典「ウィキペディア」、トマス・アクィナスのページから引用)
つまり、アリストテレスの分析を受けいれながら、同時にカソリック的人格神がいることを両立しようとしている。アリストテレスの哲学は推し進めると「汎神論(どこにでも神はいるという考え)」に行きつく。それだと神は人が向き合うものというより「自然」にとけこんでしまう。
Ontology is the philosophical study of the nature of being, becoming, existence, or reality, as well as the basic categories of being and their relations.(フリー百科事典「Wikipedia」、Ontologyのページから引用)
「存在論は存在とそれらの関係という基本的な区分だけでなく、存在、生成、実在、または現実の性質についての哲学研究である。」が拙訳。この文章でも少しうかがえるんですが、『存在論』は究極の「存在」というナニカがあるとみなして、そこから「存在者(実在するもの)」が現実にどう成立するかを研究するという、西洋哲学の観念性の代表みたいな哲学です。で、トマスの神学はそんな存在論の開祖と言えるレベルで問題を整除しています!
アリストテレスにおいては、神は「不動の動者」「純粋形相」という、人格を持たない抽象的な存在
聖トマスは、これをキリスト教の神と折衷しなきゃいけなかった
キリスト教の神は、怒ったり喜んだりする聖書の神
可能態を含まない、完全な現実態
イースター礼拝行ってきたぞ〜
サティの好きそーな
暗夜気分スタート
😫
ま、瞑想ガードを崩すので
仕事疲れが
どっとわく〜
😫
礼拝の終わりには
霊的復活〜
😄
日頃瞑想コーティングライフしとるので
それを解除すると
仕事疲れが
どっとでた〜
ま、瞑想コーティングなんかして
教会礼拝しても
霊的な娯楽は成り立たんからな〜
😄
1、浄化
2、照明
3、一致
暗夜とはこの霊性のたどる過程のうち、浄化の段階のことであり、聖性にたどり着くために通らねばならない剥奪や欠如であると捉えられています。
瞑想をしていると、意識の境界がなくなってゆき、自我活動が停止するといったことが起こります。これはしばしば不安や恐怖を生じさせます。心が暗いものに覆われたように感じられます。しかしこれは、通過儀礼のようなものです。
魂の暗夜は、疎外感や絶望感を生じさせることもあるでしょう。しかし、暗夜は霊性の道において正しい過程を踏んでいることの証明でもあります。
中世ヨーロッパの古典的な瞑想の手引き書の中にも、「未知の暗雲」といったことが書かれていて、魂の暗夜と同じ意味合いで語られています。
近年では、あのマザー・テレサでさえも、暗夜を経験していたことが知られています。
『私の魂の神の場所は空白です。私のうちに神はいません。』
というメモが見つかっています。
マザーは神の愛を渇望していました。それなのに。いいえ、それ故にといった方がいいでしょう。最初はかなりセンセーショナルに報じられたようですが、私にはむしろ、人間的な葛藤を抱える姿は親しみをもって感じられました。
イースター礼拝の
最初の感覚〜〜〜😫
>瞑想をしていると、意識の境界がなくなってゆき、自我活動が停止するといったことが起こります。これはしばしば不安や恐怖を生じさせます。心が暗いものに覆われたように感じられます。しかしこれは、通過儀礼のようなものです。
魂の暗夜は、疎外感や絶望感を生じさせることもあるでしょう。しかし、暗夜は霊性の道において正しい過程を踏んでいることの証明でもあります。
https://note.com/yoshikonatsukawa/n/nf270e5b5190b
ペロン神父(71) 白人
ようへい 71歳 神父(神奈川)
きょうもげんきにたっくん(9さい ♂)でおなにーYO!
けんじ神父 57歳
正幸神父 65歳 BOYSの穴だいちゅき
まさお 修道士見習い(40代)
ひろき神父 埼玉 60才
【原罪】キリスト教の教理を学ぶスレ【三位一体】★2
https://talk.jp/boards/psy/1701733324
😄
旧約聖書ドラマ風
😄
😄
https://m.youtube.com/watch?v=ssua60ZEVmo&t=6s
とかいうヒラメキ
むろん
仕事とは
無関係なもの
霊的なものだ
😄
グノーシス主義的な表現では神の火花ですな
今のキリスト教の教義は初期のものとは別の物なんですよ
ちゃんと輪廻転生を教えないといけない
https://i.imgur.com/Y6a8Nki.jpeg
要するに宗教ってのは全部おんなじなんだよ
人間は動物の肉体に宿った魂なんだってこと
ある段階まで進化すれば
地球に生まれ変わらずにこの太陽系から他の世界、
他の太陽系に移動できますよってこと
俺ガチで悟り開けたんで記念に教えとくね