鹿野園さんの六根清浄を御祈念していくスレ最終更新 2024/11/16 14:461.法介◆T3azX0Hk1URKka1わたくし法介が、荒らし行為を止むことが無い鹿野園さんの六根清浄を日々御祈念していくことで、彼がどのように変わっていくかを皆で温かく見守るスレです。2023/08/26 08:31:00946コメント欄へ移動すべて|最新の50件2.神も仏も名無しさんLvC6Fシカーチンえいえいお〜〜〜🐕🦺2023/08/26 08:59:013.法介◆T3azX0Hk1URKka1鹿野園さんにお尋ねします。あなたは一念三千の法門と円融三諦、一心三観とが別ものだとお考えなのでしょうか?2023/08/26 09:02:594.法介◆T3azX0Hk1URKka1「そもそも三諦と一念三千はカテゴリーが違うから」と言われますあなたのお考えをお聞かせください。2023/08/26 09:04:355.法介◆T3azX0Hk1URKka1↓日蓮正宗の『三大秘法義』に記載されている円融三諦の「三三九諦の相」。https://cdn.wikiwiki.jp/proxy-image?url=http%3A%2F%2Fhokekyou.up-jp.com%2Fwp-content%2Fuploads%2F2022%2F04%2Fsansanzu.jpg↓仏教学の大野榮人博士(号)がまとめられた『法華玄義』の研究という研究論文の中で紹介されている三諦互融の図。https://cdn.wikiwiki.jp/proxy-image?url=https%3A%2F%2Fhokekyou.up-jp.com%2Fwp-content%2Fuploads%2F2019%2F11%2Fennyuusanntai.jpg2023/08/26 09:07:156.法介◆T3azX0Hk1URKka1仮一切仮、空一切空、中一切中で三諦が円融(円かに溶け合う)ことを一心三観(円融三諦)=一念三千の法門と言います。2023/08/26 09:09:047.法介◆T3azX0Hk1URKka1『立正観抄』此の妙法を仏説いて言く「道場所得法・我法妙難思・是法非思量・不可以言宣」云云、天台の云く「妙は不可思議・言語道断・心行所滅なり法は十界十如・因果不二の法なり」と、三諦と云うも三観と云うも三千と云うも共に不思議法とは云えども天台の己証天台の御思慮の及ぶ所の法門なり、此の妙法は諸仏の師なり今の経文の如くならば久遠実成の妙覚極果の仏の境界にして爾前迹門の教主・諸仏菩薩の境界に非ず経に唯仏与仏・乃能究尽とは迹門の界如三千の法門をば迹門の仏が当分究竟の辺を説けるなり、本地難思の境智の妙法は迹仏等の思慮に及ばず何に況や菩薩凡夫をや、止観の二字をば観名仏知・止名仏見と釈すれども迹門の仏智仏見にして妙覚極果の知見には非ざるなり、其の故は止観は天台己証の界如三千・三諦三観を正と為す迹門の正意是なり、故に知んぬ迹仏の知見なりと云う事を但止観に絶待不思議の妙観を明かすと云えども只一念三千の妙観に且らく与えて絶待不思議と名けるなり。2023/08/26 09:12:498.法介◆T3azX0Hk1URKka1>一念三千とは、三種世間と十如是と十界互具なのですが、言い換えると存在者のあり様と存在のあり方と存在界(の互具)だと思うんです。「思うんです」ではなく、根拠を示されて下さい。>三諦は存在のあり方の言辞ですから十如是に内包されます。三諦が十如是に内包するなど始めて聞きましたが、どこにそのような解説(論書)がありますか?2023/08/26 09:19:049.鹿野園◆dqam8SqGUPdmF7mzt>>1タコ介🐙さぁ?コテをスレタイにつけるのはアウトじゃないのか?削除依頼出しとけ。2023/08/26 09:29:4510.法介◆T3azX0Hk1URKka1>>9そう思われるのでしたらご自分で削除依頼を出されて下さい。2023/08/26 09:31:1911.法介◆T3azX0Hk1URKka1あなたは、これぐらいされて当然の行為(荒らし行為)をさんざん行って来た方です。妥当な判断かと思います。2023/08/26 09:32:5112.法介◆T3azX0Hk1URKka1で、反論はなされないのでしょか?2023/08/26 09:33:3913.法介◆T3azX0Hk1URKka1>>8 ←ここでのあなたのご主張は、あながち間違いではないかと私は思いますが、まずは根拠をご示し下さい。2023/08/26 09:36:0614.法介◆T3azX0Hk1URKka1また、>>8 のご主張であれば、「そもそも三諦と一念三千はカテゴリーが違うから」は成り立たないかと思いますが?三諦は十如是に内包される=同一内カテゴリー2023/08/26 09:39:0715.神も仏も名無しさんaEXDr>>1タコ介🐙さぁ?コテをスレタイにつけるのはアウトじゃないのか?削除依頼出しとけ。(二回目の警告)2023/08/26 10:03:3016.法介◆T3azX0Hk1URKka1>>15そう思われるのでしたらご自分で削除依頼を出されて下さい。(二回目の回答)2023/08/26 10:05:5617.法介◆T3azX0Hk1URKka1ところで鹿野園さん、十如是の中にどのような感じで三諦が内包されているのか、ご説明頂けますか?2023/08/26 10:08:4318.鹿野園◆dqam8SqGUPdmaEXDr>>1タコ介🐙さぁ?コテをスレタイにつけるのはアウトじゃないのか?削除依頼出しとけ。(三回目の警告)2023/08/26 10:09:2719.法介◆T3azX0Hk1URKka1>>18そう思われるのでしたらご自分で削除依頼を出されて下さい。(三回目の回答)2023/08/26 10:10:2520.法介◆T3azX0Hk1URKka1ところで鹿野園さん、十如是の中にどのような感じで三諦が内包されているのか、ご説明頂けますか?(二回目の質問)2023/08/26 10:10:5821.法介◆T3azX0Hk1URKka1https://www.youtube.com/watch?v=_UnIeFdB6Os2023/08/26 10:15:4222.鹿野園◆dqam8SqGUPdmwTDqjタコ介🐙さぁ?お前、削除依頼のやり方を知らないんだろ?2023/08/26 10:19:5423.鹿野園◆dqam8SqGUPdmwTDqj>>20削除しろ!(四回目!!!!!)2023/08/26 10:20:2124.鹿野園◆dqam8SqGUPdmwTDqjコテをスレタイにするのはダメだろ?タコ介🐙!!!2023/08/26 10:20:5325.法介◆T3azX0Hk1URKka1ひろしです、、、。荒らしが削除依頼するなんて聞いたことがありません!ひろしです、、、。2023/08/26 10:27:1626.法介◆T3azX0Hk1URKka1https://www.youtube.com/watch?v=0vN1EVj69yw2023/08/26 10:29:1527.鹿野園◆dqam8SqGUPdmzwVoxタコ介🐙!!!https://i.imgur.com/F6wR4sc.jpegwebでtalk掲示板のこのスレにアクセスして、赤マルの・・・をクリックすれば削除依頼フォームが出てくるんだよ、やれ!自主的に削除すれば許してやる。(警察や運営には通報しない)2023/08/26 10:37:1028.法介◆T3azX0Hk1URKka1ひろしです、、、。荒らしが警察や運営に通報するなんて聞いたことがありません!ひろしです、、、。2023/08/26 10:39:4429.鹿野園◆dqam8SqGUPdmnci5T流石にコテハンをスレタイにしたのは不味かったな。やり方は教えたし四回警告したからな。要件は十二分に揃ったから。2023/08/26 10:46:2030.鹿野園◆dqam8SqGUPdmnci5Tもしやり方が分からないのなら、「削除依頼を代わりに出して下さい」とお願したら出してやるから😟その代わり規制を喰らっても知らないけどな。2023/08/26 10:49:2131.法介◆T3azX0Hk1URKka1ひろしです、、、、、。荒らしがわたしに説教するとです!ひろしです、、、、、。2023/08/26 10:58:1432.神も仏も名無しさん3y7e3シカーチン🐕🦺🐕🦺🐕🦺🐕🦺2023/08/26 11:15:5233.鹿野園◆dqam8SqGUPdmxok65ちなみに向こうでコテハンをスレタイにしたラピスという70過ぎのネカマ爺さんは皆スレを削除されてしばらく規制されたから。また、もう一人悪質な糞が居たけど、警察と法務局、業界団体と運営に通報したけどな。 ↓https://i.imgur.com/miGt95I.pngそれから奴を見てないし、talk掲示板が出来たけどな。2023/08/26 11:30:2634.鹿野園◆dqam8SqGUPdmxok65詫びて、削除依頼するのな今のうちだそ、タコ介🐙くん。2023/08/26 11:31:2835.鹿野園◆dqam8SqGUPdmxok65wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww🐙🐙🐙🐙🐙🐙🐙🐙🐙🐙🐙🐙糞スレにつき、終了致しました。👻👻👻👻👻👻👻👻👻👻👻👻wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww 2023/08/26 11:32:1936.法介◆T3azX0Hk1URKka1ひろしです、、、、。荒らしが鼻毛を伸ばして追っかけてくるんです!奇妙でなりません!ひろしです、、、、。2023/08/26 11:36:5837.鹿野園◆dqam8SqGUPdmxok65分かった、通報しておく。2023/08/26 11:43:0438.神も仏も名無しさんLvC6F恫喝🐕🦺🐕🦺🐕🦺🐕🦺🐕🦺🐕🦺🐕🦺🐕🦺🐕🦺2023/08/26 11:51:4239.法介◆T3azX0Hk1URKka1ひろしです、、、、。荒らしの通報を真に受ける警察官や運営スタッフって間抜けでしかありません!ひろしです、、、、、。2023/08/26 11:54:0340.鹿野園◆dqam8SqGUPdmE5dWP>>39ラピスも消えた奴も最初はそう強がってたよ😟2023/08/26 11:58:3341.鹿野園◆dqam8SqGUPdmE5dWP流石にコテハンをスレタイにしたのは不味かったな、タコ介🐙2023/08/26 11:59:1342.法介◆T3azX0Hk1URKka1ひろしです、、、、、。こんな掲示板に未練などありません、、、。まともな人間とはまだ一度も出会ってなかとです!ひろしです、、、、、。2023/08/26 12:11:5743.鹿野園◆dqam8SqGUPdmOeEuoそうした開き直りも証拠として添付して通報するから😟2023/08/26 12:14:0344.法介◆T3azX0Hk1URKka1ひろしです、、、、、。荒らしが偉そうなことばかり言うとです!ひろしです、、、、、。2023/08/26 12:15:4445.◆JBLfMwCXhY6GMbl良いスレタイだ!😆2023/08/26 12:24:1546.◆JBLfMwCXhY6GMbl鹿野園のバカを叩こう2023/08/26 12:24:3847.◆JBLfMwCXhY6GMbl5ch では「鹿野園を素通りするスレ」ってのがいつも立ってた2023/08/26 12:28:1448.◆JBLfMwCXhY6GMbl違った「鹿野園を素通りだいっ!」だった2023/08/26 12:28:3949.◆JBLfMwCXhY6GMbl伝統のスレタイだ2023/08/26 12:29:0450.◆JBLfMwCXhY6GMbl502023/08/26 12:29:1451.神も仏も名無しさんLvC6Fシカーチン、ママンの闇から卒業して清められましせう🐕🦺2023/08/26 12:32:0352.鹿野園◆dqam8SqGUPdmwtBaTそのスレは全て削除されたけどな😟2023/08/26 12:38:1453.神も仏も名無しさんLvC6F負けたくないっ!!🐕🦺🐕🦺🐕🦺🐕🦺🐕🦺2023/08/26 12:39:3954.◆JBLfMwCXhY6GMbl>>52そりゃ、乱立したからだろ2023/08/26 12:43:0555.◆JBLfMwCXhY6GMbl1本だけなら問題ない2023/08/26 12:43:3156.鹿野園◆dqam8SqGUPdmwtBaT>>54wwwwwwwwwwwwwwwwwwばーかwww削除されたのはコテハンをスレタイにした糞スレだろうがwとうとう認知症も併発か、知障www2023/08/26 12:45:1757.鹿野園◆dqam8SqGUPdmwtBaTさぁ、DJT知障連盟の反撃です!!!頑張れ!応援してるぞ!!wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww2023/08/26 12:46:0658.神も仏も名無しさんLvC6F🐕🦺🐩🐕2023/08/26 12:51:3859.神も仏も名無しさんLvC6F我田引水芸人シカーチン🐕🦺2023/08/26 12:54:1960.鹿野園◆dqam8SqGUPdmwtBaTwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww🐙🐙🐙🐙🐙🐙🐙🐙🐙🐙🐙🐙糞スレにつき、終了致しました。👻👻👻👻👻👻👻👻👻👻👻👻wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww 2023/08/26 13:08:5661.神も仏も名無しさんLvC6Fシカーチンを清めよ〜〜う🐩🐩🐩2023/08/26 13:10:4763.◆JBLfMwCXhY6GMbl>>62調子に乗ってると、アク禁になるぞ2023/08/26 15:28:2764.神も仏も名無しさんLvC6Fシカーチンのマーキング荒しに反対っ!!🐕🦺🐕🦺🐩🐩2023/08/26 16:05:1665.神も仏も名無しさんLvC6F944.ユーザー鹿野園◆00MWura8lSZFまぁ、ここはtalk宗教板の絶対不倒の最高権威スレだからなぁwww2023/08/26 15:02:23zc0lH2023/08/26 16:28:5566.鹿野園◆dqam8SqGUPdmLFWYM612:鹿野園◆dqam8SqGUPdm:2023/08/26(土) 16:10:40.02 ID:LFWYM【全宗教歓迎】悟りをひらいた人のスレ848【talk掲示板】https://talk.jp/boards/psy/16918853082023/08/26 16:44:5267.法介◆T3azX0Hk1URKka1三諦が十如是に内包される件について、実は、十如是の「相・性・体」が「仮・空・中」にあたります。 仮=相 空=性 中=体凡夫の十如是の場合、次の三如是を本として残りの七如是が起こります。<迷いの凡夫=無明> 仮観=客観 ---(相) 空観=主観 ---(性) 中観=実体 ---(体)しかし、仏門に入ってを縁起を覚ることでこれが次のように変ります。<覚りの凡夫=仮諦> 仮諦=色即是空 ---(此縁性縁起) 空諦=空即是色 ---(相依性縁起) 中諦=色即是空 空即是色2023/08/26 17:32:3568.法介◆T3azX0Hk1URKka1これに対し仏の十如是は、次のようになります。<覚りの凡夫=仮諦> 仮(相)=応身 ---(実在の釈迦) 空(性)=報身 ---(報身として法を説く釈迦=観音菩薩) 中(体)=法身 ---(法身として法を説く釈迦=大日法身)2023/08/26 17:37:3369.法介◆T3azX0Hk1URKka1訂正<覚りの凡夫=仮諦> → <仏の三身=空諦>2023/08/26 17:40:4470.法介◆T3azX0Hk1URKka1三昧で究極の境地に入ると凡夫の一身に三身如来が顕われます。<如来の三身> 仮(相)=応身如来 ---(縁因仏性) 空(性)=報身如来 ---(了因仏性) 中(体)=法身如来 ---(正因仏性)2023/08/26 17:43:2271.神も仏も名無しさんLvC6Fほーかいくんご祈祷よろ〜954.ユーザー鹿野園◆dqam8SqGUPdmうむ、talk掲示板の宗教板はこのスレが全てを制圧した😚楽勝だったなwww2023/08/26 16:47:56LFWYM955.ユーザー鹿野園◆dqam8SqGUPdm他のスレは全て雑魚☺️2023/08/26 16:48:23LFWYM2023/08/26 18:26:4272.法介◆T3azX0Hk1URKka1>他のスレは全て雑魚☺️その雑魚スレに埋もれてしまっているtalk宗教板の絶対不倒の最高権威の【全宗教歓迎】スレ2023/08/26 19:12:2374.法介◆T3azX0Hk1U0TEj5(↑からの続き)これが三種・三観の内容となります。<覚りの凡夫=仮諦> 仮諦=色即是空 ---(此縁性縁起) 空諦=空即是色 ---(相依性縁起) 中諦=色即是空 空即是色<仏の三身=空諦> 仮(相)=応身 ---(実在の釈迦) 空(性)=報身 ---(報身として法を説く釈迦=観音菩薩) 中(体)=法身 ---(法身として法を説く釈迦=大日法身)<如来の三身> 仮(相)=応身如来 ---(縁因仏性) 空(性)=報身如来 ---(了因仏性) 中(体)=法身如来 ---(正因仏性)2023/08/27 10:32:4375.法介◆T3azX0Hk1U0TEj5この三種・三観をベースとして一心三観が次のように形成されます。<仮一切仮> 仮(相)=応身如来 ---(縁因仏性)① 仮(相)=応身 ---(実在の釈迦)A 仮諦=色即是空 ---(此縁性縁起)(ア)<空一切空> 空(性)=報身如来 ---(了因仏性)② 空(性)=報身 ---(報身として法を説く釈迦=観音菩薩)B 空諦=空即是色 ---(相依性縁起)(イ)<中一切中> 中(体)=法身如来 ---(正因仏性)③ 中(体)=法身 ---(法身として法を説く釈迦=大日法身)C 中諦=色即是空 空即是色(ウ)2023/08/27 10:39:0276.法介◆T3azX0Hk1U0TEj5①の「如来の三身」である三因仏性の「応身」にあたる縁因仏性ですが、応身なので衆生の認識に応じて顕れる仏となります。それが日蓮大聖人が顕された曼荼羅御本尊となります。2023/08/27 10:42:1377.法介◆T3azX0Hk1U0TEj5では<仮一切仮>の「A」の仏の報身は何かと言えば、「一念三千即自受用身・自受用身とは尊形を出でたる仏と・出尊形仏とは無作の三身と云う事なり」と伝教大師が言われております通り一念三千の法門です。『法華経』の方便品の十如是の三編読みの「仮諦読み」がこれにあたります。2023/08/27 10:46:4878.法介◆T3azX0Hk1U0TEj5>>76 で御本尊に向かって >>77 で十如是の仮諦読みをする事で、(ア)の凡夫の体において此縁性の縁起が起こります。それによて凡夫が「実在における真理」を覚ります。具体的に言えば、今の苦しみがどういった因果で起きているかを覚る訳です。2023/08/27 10:51:3179.法介◆T3azX0Hk1U0TEj5<空一切空>では、②の了因仏性が何かと言いますと、真如の中の報身ですので相を持たない「性」となります。それが何かと言えば、無為の法(真如の法)を解き明かした『法華経』の〝心〟でしょう。だから唱題の前に勤行として『法華経』を読誦します。2023/08/27 10:56:2480.法介◆T3azX0Hk1U0TEj5では「B」の仏の報身は何かと言えば、十如是の「空諦読み」です。2023/08/27 10:58:4881.法介◆T3azX0Hk1U0TEj5>>79 の『法華経』の読誦、>>80 の十如是の空諦読みで凡夫の体に(イ)の相依性の縁起が起こります。それによって今、自分がなぜこのような苦しみを虐げられているのか、その深い〝意味〟を逆理の真理で覚ります。2023/08/27 11:02:5482.法介◆T3azX0Hk1U0TEj5最後の<中一切中>の③の正因仏性は、無為法である「南無妙法蓮華経」となります。「法」そのものです。2023/08/27 11:06:2183.法介◆T3azX0Hk1U0TEj5で、仏の法身の「C」は、十如是の「中諦読み」となります。2023/08/27 11:07:5384.法介◆T3azX0Hk1U0TEj5>>82 で御本尊を対境として「南無妙法蓮華経」のお題目を唱え、>>83 の十如是の中諦読みで凡夫の体が当体蓮華となって仏と凡夫が無為の境地で一体となり、凡夫の一身に三身如来が顕われて真実の仏と成ります。2023/08/27 11:12:4185.法介◆T3azX0Hk1U0TEj5>>78 の<仮一切仮>で立ち上がる世界観を衆生世間といい、>>81 の<空一切空>で立ち上がる世界観を五陰世間といい、>>84 の<中一切中>で立ち上がる世界観を国土世間といいます。2023/08/27 11:17:2486.神も仏も名無しさんW4AG230.ユーザー鹿野園◆dqam8SqGUPdmしかし不思議なもので、鈴木先生の本にも同じ内容と説明があったのに、先人である高崎先生の本で氷解するとは。ともあれ、本件については一応、一件落着。2023/08/27 12:19:08xgQmu31.ユーザー鹿野園◆dqam8SqGUPdmただ後は、如来法身の「常住・堅固・寂静・恒常」性、つまりそれはアートマン(真我)に他ならないのですが、それがどういうことなのか、要するにアースティカ・六派哲学でいうもの(アートマン・ブラフマンの肯定)なのか、それをおいおい考えてみようと思います。2023/08/27 12:31:02c48wH2023/08/27 12:47:3787.神も仏も名無しさんW4AG229.ユーザー鹿野園◆dqam8SqGUPdm補足すると、昨今の研究成果では鈴木隆泰先生が『内在する仏 如来蔵 (思想としてのインド仏教)』で、如来蔵思想の抱えている修道論や構造論上の問題の解決を経典成立史の中で紐解き、その解決を「大法鼓経」に見出されています。以下、私の勝手な覚え書き🤤衆生は内なる如来蔵・仏性は等質性を有していても未だに如来法身ではない(四句※が冠されていないので)。 ※四句〜常住・堅固・寂静・恒常可能性〜仏性・如来蔵≠如来法身(常住・堅固・寂静・恒常)等質性〜アートマン=如来法身(常住・堅固・寂静・恒常)三時教判〜無我・空性・不空2023/08/27 12:14:44xgQmu2023/08/27 12:52:3988.神も仏も名無しさんW4AG2ほーかいくん静かだ😄2023/08/27 15:11:3589.リダン◆iKlPp4IWRYjmIvG法介さんのこの話は自分には凄い理解できる2023/08/27 15:27:0590.リダン◆iKlPp4IWRYjmIvGピタッとくるという感じ2023/08/27 15:27:3691.鹿野園◆dqam8SqGUPdm0909Owww2023/08/27 15:38:0892.神も仏も名無しさんW4AG2🐕🦺2023/08/27 15:44:1993.リダン◆iKlPp4IWRYjmIvG大筋はそれを踏まえつつ細かい正誤は突っ込みが入るからそれも考慮にいれていけば理解がより深まる2023/08/27 15:44:4594.神も仏も名無しさんW4AG2🐕🦺霊をシカーチンの中から追い出そう〜🐕🦺🐕🦺2023/08/27 15:45:1095.鹿野園◆dqam8SqGUPdmucoCl宗教も大事だけど、精神科医のカウンセリングを受けなさい🤗2023/08/27 15:47:5996.神も仏も名無しさんW4AG2🐕🦺🐕🦺正気に戻っておくんなせえ〜〜🙏🙏🙏🙏🙏🙏🙏2023/08/27 16:06:5397.神も仏も名無しさんjmIvG禅定なり何なりで意識が働く状態でその意識を伸ばしていく意識を伸ばすってのはまあ宇宙に、または大地に伸ばすイメージ快楽で言うなら丹田で練った気を会陰にもっていき会陰の先にボールをイメージして会陰の気をボールに伸ばして当たるか当たらないかのところを行き来していると気持ち良いwwwそれはさておきそのような感じで意識を伸ばしていくとその先にあるのが所謂真如、やブラフマンだそうその前に空間と識の無限にぶつかるここがまず壁ここをこう発想の転換、横道、価値観の破壊、真如から援助をもらうことで突破出来る2023/08/27 16:33:1798.神も仏も名無しさんW4AG2ほーかいくんお館様によるシカーチン供養スレだが、ほーかいくんお館様は静かである😄2023/08/27 18:03:0799.神も仏も名無しさん2AK4Qシカーチン供養🐕🦺2023/08/27 18:17:49100.◆JBLfMwCXhYFL7Qg1002023/08/27 19:30:18101.神も仏も名無しさん3CAEEシカーチン供養〜🐕🦺2023/08/27 20:15:25102.神も仏も名無しさんOpV9Wペット供養🐕🦺🐕🦺2023/08/27 20:53:43103.法介◆T3azX0Hk1U0TEj5今から夜の勤行・唱題行をしてきます。しっかりと御祈念してきます!2023/08/27 21:31:34104.神も仏も名無しさんOpV9W期待しとるぞ〜ペット🐕🦺供養〜🐕🦺🐕🦺2023/08/27 21:37:44105.神も仏も名無しさんOpV9W🐕🦺供養しとく〜🐕🦺2023/08/27 21:56:14106.神も仏も名無しさんfSGj2🐕🦺くよー🐕🦺2023/08/28 07:34:59107.神も仏も名無しさんfSGj2くよーあげ🐕🦺2023/08/28 08:27:34108.◆JBLfMwCXhYCYEhBくよくよするな2023/08/28 08:28:47109.◆JBLfMwCXhYCYEhB明日があるさ2023/08/28 08:29:05110.◆JBLfMwCXhYCYEhBまだ朝だが2023/08/28 08:29:19111.法介◆T3azX0Hk1UEJGCp今から朝の二回目の勤行・唱題行を行ってきます。しっかりと御祈念してきます!2023/08/28 09:46:26112.神も仏も名無しさんPB8Yb翌々日、よくよく欲にくよくよすることなかれ2023/08/28 10:08:30113.神も仏も名無しさんPB8Yb翌々日によくよく欲にくよくよすることなかれ。2023/08/28 10:10:00114.神も仏も名無しさんPB8Ybただのしゃれっす2023/08/28 10:13:18115.◆JBLfMwCXhYa29q7供養にいくよ~2023/08/28 10:32:24116.神も仏も名無しさんPB8Yb宗教板の人たちは基本みんな良い人たちだと思うそもそも宗教を愛する熱意がある情熱がある発言してる相手の心の奥にある真意をみるようにすると良いのかな2023/08/28 10:37:35117.神も仏も名無しさんPB8Yb宗教板の人たちは基本みんな良い人たちだと思うそもそも宗教を愛する熱意がある情熱がある発言してる相手の心の奥にある真意をみるようにするといいのかな再訂正っす2023/08/28 10:42:00118.神も仏も名無しさん7QnOPここも、盛り上がりつつあるな〜😄2023/08/28 10:53:43119.神も仏も名無しさん7QnOP590.ユーザー法介◆T3azX0Hk1U訂正します。鹿野園さはおバカさんですか? ↓鹿野園さは五姓各別の意味も理解出来ないおバカさんですか?2023/08/28 10:55:04EJGCp2023/08/28 10:57:30120.神も仏も名無しさん7QnOPお焚きあげ〜🐕🦺592.ユーザー神も仏も名無しさん仏教入門を10年読みこなしてから語ってくれないか?何でこんな超低次元の話をして説明するしなきゃならんのだ?2023/08/28 10:57:137XaZZ2023/08/28 11:01:11121.神も仏も名無しさん7QnOPお焚きあげ〜🐕🦺2023/08/28 11:12:49122.神も仏も名無しさん7QnOPお焚きあげ〜🐕🦺🐕🦺603.ユーザー神も仏も名無しさん>>597?????日本語で分かりやすく質問しなさい。2023/08/28 11:10:327XaZZ604.ユーザー法介◆T3azX0Hk1U(しょーもない突っ込みしかしてこない、、、、)2023/08/28 11:10:38EJGCp605.ユーザー法介◆T3azX0Hk1U(日本語も分かんなくなっちゃたんだってよー)2023/08/28 11:11:18EJ2023/08/28 11:13:41123.神も仏も名無しさん7QnOPお焚きあげ〜🐕🦺🐕🦺608.ユーザー神も仏も名無しさんタコ介🐙くん、君、唯識関係の本何冊読んだの?私は100冊は読んでると思うけど?きみの仏教理解は余りにも酷い。いや、酷すぎるぞ?こういう宗教板はms-dos時代からやってるが、君みたいなのは類を見ないのだが?まぁ、鬼子という統失が過去にいて、君と同じ様に支離滅裂だったけど、君はそれを上回ってるんだが?2023/08/28 11:15:302023/08/28 11:17:07124.神も仏も名無しさん7QnOPお焚きあげ〜〜🐕🦺🐕🦺🐕🦺🐕🦺611.ユーザー神も仏も名無しさんそもそも君は何処で仏教を習ったのかね?僕は大学と研究機関だけど?2023/08/28 11:17:547XaZZ2023/08/28 11:20:03125.神も仏も名無しさんA3Azx63:神も仏も名無しさん:2023/08/27(日) 22:30:22.18 ID:l6I5Dシコシコブンブン糞銀蝿の統失知障の馬鹿でおーは、いちいち統失知障のホラーマンタコ介🐙の妄想をチンコロしなくていいから😂まぁ、確かにでおーのレベルじゃタコ介🐙にしてやられるのは明白だし、頼りにしてくるのも理解出来なくはないけどな😟2023/08/28 11:54:19126.神も仏も名無しさんfsYiFお焚きあげ🐕🦺🐕🦺611.ユーザー神も仏も名無しさんそもそも君は何処で仏教を習ったのかね?僕は大学と研究機関だけど?2023/08/28 11:17:547XaZZ612.ユーザー神も仏も名無しさん狂ってるな😟2023/08/28 11:19:497XaZZ613.ユーザー法介◆T3azX0Hk1U(都合が悪くなってきたもんだから話をそらしにかかったな)2023/08/28 11:19:512023/08/28 12:30:15127.神も仏も名無しさんy8HK5🐕🦺ペット供養〜🐕🦺🐕🦺2023/08/28 14:05:04128.法介◆T3azX0Hk1UEJGCp晃さんも御祈念してくれているようです。2023/08/28 14:10:02129.法介◆T3azX0Hk1UEJGCp御祈念された方は、ご報告よろしくです。2023/08/28 14:10:39130.法介◆T3azX0Hk1UEJGCp鹿野園さんの悪業をここに貼り付けて供養していきましょう。2023/08/28 14:11:55131.法介◆T3azX0Hk1UEJGCpお焚き上げ~2023/08/28 14:13:01132.法介◆T3azX0Hk1UEJGCp701.ユーザー神も仏も名無しさんまたまたまたまた、タコ逃げ🐙タコ壺引き篭もりですかwww2023/08/28 14:13:45133.法介◆T3azX0Hk1UEJGCp696.ユーザー神も仏も名無しさんwwwwwwwwwwwwwwwwwwタコ逃げ🐙中か www2023/08/28 14:13:59134.法介◆T3azX0Hk1UEJGCp694.ユーザー神も仏も名無しさんつまり、ここはタコ介🐙のタコ殴りスレになってる😂まぁ、それが趣味で快感を覚えてるのかも知れないけどな😂2023/08/28 14:14:19135.法介◆T3azX0Hk1UEJGCp675.ユーザー神も仏も名無しさん>>671誰もお前の間違ってた妄言なんて聞きたくないんだよ。でも放置するのも仏教的にはよくない事だからこうやって涙を飲んで、嫌われるのを承知で指摘してるんだよ。勘違いするな、タコ介🐙2023/08/28 14:14:51136.法介◆T3azX0Hk1UEJGCp674.ユーザー神も仏も名無しさん>>670wwwwwwwwwwwwwwwwww正しい事を間違ってるって指摘しないだろ?ここのレス数はお前の誤謬に正比例しているだけだろ?wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww2023/08/28 14:15:07137.法介◆T3azX0Hk1UEJGCp669.ユーザー神も仏も名無しさんなぁ、タコ介🐙?あなたは自説が否定されるのをあたかも人格の否定の様に吹聴して被害者振っているが、だったら、我々大勢の普通の者が通説として受け入れて来た事を、その様に何の根拠もなく馬鹿みたいに否定する事はどう思うんだ?何か勘違いをしてないか?おかしいと思わないのか?2023/08/28 14:15:33138.法介◆T3azX0Hk1UEJGCp660.ユーザー神も仏も名無しさん>>656>いいじゃないですか、それはそれで鹿野園さんの考えで御立派なお考えをおもちですね。?????俺の自説ではなくて通説だ、タコ介🐙ほんとタコだなぁ🐙🐙🐙2023/08/28 14:15:51139.法介◆T3azX0Hk1UEJGCp657.ユーザー神も仏も名無しさんで、仏教は何処で学んだの?唯識関係の本は何冊読んだの?wwwwwwwwwwwwwwwwww2023/08/28 14:16:01140.法介◆T3azX0Hk1UEJGCp651.ユーザー神も仏も名無しさん>>649>そもそも、ご自分が反論をされておられるにも関わらず、根拠は自分で調べろとは如何様なる常識をもって言われておられるのでしょうか?はぁ?反論も何も、阿頼耶識縁起と如来蔵縁起の違いも知らないで、阿頼耶識が仏性とかほざいてたのは誰だよ?笑わせるな、タコ介🐙だから、タコ介🐙なんだよ、タコ介🐙🐙🐙🐙2023/08/28 14:16:27141.神も仏も名無しさんfsYiFほーかいくんお館様も🐕🦺供養のお焚きあげだ〜😄2023/08/28 14:33:29142.神も仏も名無しさんfsYiF🐕🦺供養〜2023/08/28 16:47:21143.法介◆T3azX0Hk1Ud62L7供養~956.ユーザー鹿野園◆dqam8SqGUPdmハローワークに行きなさい🏢 🚶💨💨💨 🤭2023/08/29 06:44:13gHcg62023/08/29 06:46:36144.法介◆T3azX0Hk1Ud62L7952.ユーザー鹿野園◆dqam8SqGUPdm精神病院に行きなさい🏥 🚑💨💨💨 🤭2023/08/29 06:39:39gHcg62023/08/29 06:47:09145.神も仏も名無しさんFOm6v🐕🦺供養の時間が参りました〜お焚きあげ〜〜51.ユーザー◆JBLfMwCXhY鹿野園は、一足お先に働かなくなった2023/08/29 08:16:17EZZry52.ユーザー◆JBLfMwCXhYいつも、ヒマそうにしている2023/08/29 08:16:33EZZry2023/08/29 09:05:04146.法介◆T3azX0Hk1Ud62L7152.ユーザー鹿野園◆dqam8SqGUPdmタコ介🐙くん!世の中を舐めてはダメですよ🤫2023/08/29 09:43:42gHcg62023/08/29 09:45:24147.法介◆T3azX0Hk1Ud62L7148.ユーザー鹿野園◆dqam8SqGUPdmwwwwwwwwwwwwwwwwwwタコ介🐙が異常に興奮して熱くなっていて草先ずハローワークに行きなさい 🏢 🏃💨💨💨 🤭そして世の中の現実を見て来なさい🤭タコ壺に引き篭もってブヒブヒ鳴いてても世の中は変わりませんからね🥰2023/08/29 09:41:04gHcg62023/08/29 09:46:15148.◆JBLfMwCXhYFrRM1シカのレスがお焚きあげされたな2023/08/29 10:31:09149.法介◆T3azX0Hk1Ud62L7180.ユーザー鹿野園◆dqam8SqGUPdm>>177???おまえ、そろそろ脳なしだろ?wwwwwwwwwwwwwwwwww2023/08/29 10:50:39gHcg62023/08/29 10:51:29150.法介◆T3azX0Hk1Ud62L7182.ユーザー鹿野園◆dqam8SqGUPdm訂正180:鹿野園◆dqam8SqGUPdm:2023/08/29(火) 10:50:39.66 ID:gHcg6>>177???おまえ、そもそも脳なしだろ?wwwwwwwwwwwwwwwwww2023/08/29 10:51:03gHcg62023/08/29 10:52:40151.法介◆T3azX0Hk1Ud62L7186.ユーザー鹿野園◆dqam8SqGUPdmタコ介🐙くん……タコ殴りにあって脳まで崩壊してるし😆2023/08/29 10:52:29gHcg62023/08/29 10:53:37152.無漏の種子これはな~に?J188l法介さん、執着し過ぎです‼️悔しくても捨てるが勝ちです。悔しレスを輪廻させてどうするんですか⁉️2023/08/29 12:57:40153.法介◆T3azX0Hk1Ud62L7286.ユーザー鹿野園◆dqam8SqGUPdmタコ介🐙が悪質なのは、妄説を通説にブレンド・埋伏させて吹聴する事な。まぁ、5chにも悪意的に通説七割嘘三割をこれが通説だとか言ってた奴がいたけどな。2023/08/29 17:09:47qaCF92023/08/29 17:10:48154.無漏の種子これはな~に?LJS3M何でこれ輪廻んさせるかなー?2度見たら阿頼耶識へ戻るよーこの文章が現象した→忘れる→阿頼耶識から消えるところがこの文章が現象した→もう一度見た(執した)→阿頼耶識へ戻って種子になる。っでまた、現象する‼️2023/08/29 17:17:25155.法介◆T3azX0Hk1Ud62L7290.ユーザー鹿野園◆dqam8SqGUPdmあれぇ?何処の知障だったっけ?末那識は仏の意識とか妄言していた奴?法介さん、知らない?wwwwwwwwwwwwwwwwww2023/08/29 17:19:26qaCF92023/08/29 18:11:50156.法介◆T3azX0Hk1Ud62L7294.ユーザー鹿野園◆dqam8SqGUPdmタコ介🐙さぁwwwあなた息を吐く様にデタラメを言うんだねwww2023/08/29 17:31:01qaCF92023/08/29 18:12:18157.法介◆T3azX0Hk1Ud62L7297.ユーザー鹿野園◆dqam8SqGUPdmタコ逃げか🐙2023/08/29 18:07:406cO2r2023/08/29 18:12:34158.法介◆T3azX0Hk1Ud62L7298.ユーザー鹿野園◆dqam8SqGUPdmまるでデタラメレスのヒット&ウェイだな🤭2023/08/29 18:09:186cO2r2023/08/29 18:12:53159.無漏の種子これはな~に?11NI8悪業の輪廻ですな2023/08/29 18:23:35160.法介◆T3azX0Hk1Ud62L7361.ユーザー鹿野園◆00MWura8lSZF>>349(続き)で、今度は大乗仏教の基本的な理路から😌タコ介🐙が鹿野園の返レスを見て怒髪天を突いたとしましょうwwwそれは「怒り💢のダルマ(法)」が現在という一瞬だけ生じて消滅する(刹那生滅)と説きます。これを現在有体過未無体って云うんですけどね。つまり実体がないって事なんです。だって、一瞬だけ生じてすぐに滅するからね❤お・し・ま・い😘2023/08/29 21:41:58gHcg62023/08/29 21:43:34161.法介◆T3azX0Hk1Ud62L7366.ユーザー鹿野園◆00MWura8lSZF>>356>私がこちらの説明を紹介しましたのは五蘊の働きを正しく理解して頂こうと思ってからです。気持ちはありがたく頂いてはおくけど・・・今更そういう次元じゃないので。2023/08/29 21:44:15gHcg62023/08/29 21:51:35162.法介◆T3azX0Hk1Ud62L7373.ユーザー鹿野園◆00MWura8lSZFwww発狂してやんの😝2023/08/29 21:49:08gHcg62023/08/29 21:51:49163.法介◆T3azX0Hk1UGylk1本日の丑寅勤行にて御祈念させて頂きました。2023/08/30 03:06:25164.法介◆T3azX0Hk1UGylk1432.ユーザー鹿野園◆dqam8SqGUPdm>>399今すぐ精神病院に行きなさい。🏥 🏃💨💨💨 🤪2023/08/30 07:09:29Ood3H2023/08/30 07:21:51165.神も仏も名無しさんOsmtu23.ユーザー鹿野園◆dqam8SqGUPdm463:法介◆T3azX0Hk1U:2023/08/30(水) 08:07:28.89 ID:Gylk1>仕事もしないで一日中ネットに張り付きご自分の事を言われてますか?わたしは主夫業をちゃんとやっておりますが?2023/08/30 08:11:31Ood3H2023/08/30 11:13:53166.神も仏も名無しさんeO522犬供養っ!!!!🐕🦺🐕🦺🐕🦺🐕🦺2023/08/30 20:04:40167.神も仏も名無しさんeO522🐕🦺供養っ〜〜🐕🦺🐕🦺2023/08/30 20:10:32168.神も仏も名無しさんeO522🐕🦺〜〜〜〜供養〜〜〜!2023/08/30 20:17:18169.神も仏も名無しさんeO522犬お焚きあげ〜0162 鹿野園 ◆dqam8SqGUPdm 2023/08/27(日) 17:29:58.64精神的畸形者の異常性は勿論、それを支持する奴等の素性も不気味だな。何故でおーやタコ介🐙、ラピス等のキチガイの肩を持つのか理解できない。そういう連中はやはりキチガイ予備軍なんだろうな。ID:/sxt0w2k(2023/08/30 20:32:20170.神も仏も名無しさんeO522犬供養っ!𓃡𓃡𓃡𓃡𓃡𓃡2023/08/30 21:29:46171.◆JBLfMwCXhYK8z9N0162 鹿野園 ◆dqam8SqGUPdm 2023/08/27(日) 17:29:58.64↑バカ犬(笑)2023/08/30 21:31:16172.神も仏も名無しさんeO522🦮犬供養でほーかいくんにパワーを与えよ〜😄2023/08/30 22:11:28173.神も仏も名無しさんeO522⊂゚U┬───┬~供養っ〜〜!2023/08/30 22:31:29174.神も仏も名無しさんeO522🐶供養〜〜!!2023/08/30 22:40:45175.神も仏も名無しさんymhAq🐩🐕🦺供養っ!!!2023/08/31 07:16:16176.鹿野園◆dqam8SqGUPdmVRCoB>>1以下の事由につき、削除願います。 ↓【固定ハンドル(Talk内)に関して】■叩きについて最悪板以外では全て削除します。■スレッド表示名が題名に入っている・表示名が占用している・閉鎖的な使用法を目的としている・等は、自己紹介板・最悪板・夢・独り言板・おいらロビー・なんでもあり板以外では、原則として全て削除対象にします。ただし、個人が一群または二類に属する時は、他の削除規定に触れない限り様子見となります2023/08/31 15:06:14177.鹿野園◆dqam8SqGUPdmVRCoB856:鹿野園◆dqam8SqGUPdm:2023/08/31(木) 15:21:16.83 ID:VRCoB>849:法介◆T3azX0Hk1U:2023/08/31(木) 15:13:31.43 ID:Tjk2j>おまえのその腐った書き込みを見るぐらいだったら>>もう二度と>>ここへはこん。先の約束を履行するという主旨に於いて、二度とtalk掲示板の宗教板には来ないという事で了解した。2023/08/31 15:24:06178.アハさんパシル語がイヌケリアゲウリャ!! ε=ε=ε=((( ゜皿゜)_/☆(*゜◇゜)ノノH0reG176 名前:あぼ~ん[NGName:鹿野園</b>◆dqam8SqGUPdm<b>] 投稿日:あぼ~ん177 名前:あぼ~ん[NGName:鹿野園</b>◆dqam8SqGUPdm<b>] 投稿日:あぼ~ん2023/08/31 20:34:09179.神も仏も名無しさんH20Rm🐶供養っ!2023/08/31 21:47:09180.◆JBLfMwCXhYmRyZV鹿野園ともお別れか~😭2023/09/01 07:56:28181.鹿野園◆dqam8SqGUPdmBRZArいい子にしてればお仕置きはしないからね❤️My cute pet🥰2023/09/01 08:03:20182.神も仏も名無しさんtQl2s🐕🦺供養っ!!!2023/09/01 08:45:07183.神も仏も名無しさんtQl2sほーかいくんお館様貫主様の🐕🦺供養を期待する汁〜〜〜🥹2023/09/01 08:46:13184.神も仏も名無しさんtQl2s代理🐕🦺供養つ!!!!2023/09/01 10:34:02185.神も仏も名無しさんyWRar🐕🦺供養っ!!!!ほーかいくんお館様復活を祈って〜〜🥹2023/09/01 19:12:50186.リダン◆iKlPp4IWRYJWRNb>>185でぇ丈夫だドラゴンボール(お題目)でいきけぇる2023/09/01 19:17:21187.神も仏も名無しさんtQl2s戻ってこられた〜🐕🦺供養だっ!!!!!!!2023/09/01 23:20:58188.神も仏も名無しさんtQl2s🐕🦺供養っ!!!🐕🦺🐕🦺2023/09/01 23:29:34189.神も仏も名無しさんtQl2s🐶供養っ!!!🐶2023/09/01 23:32:46190.神も仏も名無しさんtQl2s🐕🦺🐩供養っ!!!🐕2023/09/01 23:34:01191.神も仏も名無しさんtQl2s🐶くよー🐕2023/09/01 23:43:51192.神も仏も名無しさんtQl2s🐕🦺供養2023/09/01 23:46:37193.神も仏も名無しさんtQl2s🐩くよ〜〜2023/09/01 23:50:49194.神も仏も名無しさんzIEn1🐕🦺ナワバリ煩悩の成仏供養〜〜🐕🦺🐕🦺2023/09/02 00:08:23195.神も仏も名無しさんzIEn1🐕🦺くよ〜〜…2023/09/02 08:39:02196.神も仏も名無しさんKmrF2今から朝の二回目の勤行・唱題行をしてきます。しっかり御祈念して参ります!2023/09/02 09:09:50197.神も仏も名無しさんzIEn1ほーかいくん復活を祈願して🐕🦺供養っ!!!!!🐕🦺2023/09/02 15:34:40198.◆JBLfMwCXhYfTMi9ほ~かい復活祈願~😇2023/09/02 18:42:35199.◆JBLfMwCXhYfTMi9戻ってこいや~😭2023/09/02 18:42:47200.◆JBLfMwCXhYfTMi92002023/09/02 18:43:00201.神も仏も名無しさんOcGwUもちろんっ!今こそっ!🐕🦺供養っ!!!!!🐕🦺🐕🦺2023/09/03 16:37:56202.神も仏も名無しさんOcGwUさらにっ!🐕🦺供養っ!!!!!🐕🦺🐕🦺2023/09/03 16:39:11203.神も仏も名無しさんOcGwUい🐕🦺くよ〜〜2023/09/03 16:40:14204.神も仏も名無しさんOcGwU🦮くよ〜2023/09/03 16:42:49205.無漏の種子これはな~に?8JWz1法介さんは天界へ旅立ちました~~~😭2023/09/03 21:55:32206.無漏の種子これはな~に?8JWz1でおーは地獄界へ行くよーーーに‼️命令する(^-^ゞ2023/09/03 21:56:54207.神も仏も名無しさんfYrEl🐶供養っ!!!!2023/09/04 07:36:16208.神も仏も名無しさんfYrEl🐕🦺くよ〜〜2023/09/04 07:42:29209.◆JBLfMwCXhY0bJ0x今日は雨だ2023/09/04 08:11:05210.◆JBLfMwCXhY0bJ0xだいぶ静かになったが2023/09/04 08:11:15211.◆JBLfMwCXhY0bJ0x夜中の雨はすごかったみたい2023/09/04 08:11:29212.神も仏も名無しさんfYrEl台風の雨影響だな2023/09/04 08:15:18213.神も仏も名無しさんp1Gc9法介さんは天界へ旅立ちました~~~供養ー🙏します😭2023/09/05 17:37:48215.鹿野園◆dqam8SqGUPdmMAMxI2023/09/12(火) 22:20:07.33 ID:MAMxI271:法介◆T3azX0Hk1U:2023/09/12(火) 17:53:17.79 ID:xxRJGジャッジが下ったんならこれにてここを去ります。272:法介◆T3azX0Hk1U:2023/09/12(火) 17:53:48.33 ID:xxRJG永久に。276:鹿野園◆00MWura8lSZF:2023/09/12(火) 18:02:25.99 ID:pp4Doタさんのジャッジを待つまでもなく、タコ介🐙はtalk掲示板の宗教板から永久に去ると宣言したな。確認した。2023/09/12 22:23:58216.鹿野園◆dqam8SqGUPdmMAMxI**********************タコ介🐙法介くん、 talk掲示板の宗教板を永久追放 糞スレ終了**********************2023/09/12 22:25:30217.神も仏も名無しさんUruvTほーかいくんお館様復活の為にっ!!!イヌ供養っ!!!!🐕🦺🐕🦺2023/09/13 09:18:34218.神も仏も名無しさんUruvT🐕🦺クヨ〜〜〜っ!🐕🦺2023/09/13 10:20:38219.◆JBLfMwCXhYU8yXbそろそろ、ほ~かい師匠の出番ですな?😄2023/09/13 19:27:59220.◆JBLfMwCXhYU8yXb鹿野園も、すっかり影が薄くなったなあ2023/09/13 19:28:16221.神も仏も名無しさんkiwww馬ぱーりーのワンマンライブが目立ってきた〜金星人パワータイムだ〜👽2023/09/13 20:25:53222.神も仏も名無しさんsepqAほーかいくんお館様の大説法を期待して〜イヌ供養っーーーー!!!!!🐕🦺🐕🦺2023/09/14 09:12:56223.鹿野園◆dqam8SqGUPdmEcPlL**********************タコ介🐙法介くん、 talk掲示板の宗教板を永久追放 糞スレ終了**********************2023/09/14 22:32:06224.神も仏も名無しさんuJJPnほーかいくんお館様復活を祈って〜イヌ供養っ〜〜!!!!🐕🦺🐕🦺2023/09/17 12:02:24225.鹿野園zXmSFでおーとJBLに送る唄 ♫「若者たち」(2番)君のあの人は 今はもういないだのになぜ なにを探して君は行くのか あてもないのにhttps://www.youtube.com/watch?v=vW0-sRt0RYw2023/09/17 12:12:41226.三尋木咏◆L3WNARS2AwSOqAR6z_ -―-- __ __}:^:ヽ , -  ̄  ̄ - 、 ,イ:}\:::::::\ l" \ ///:::::::\:::::::\ __,..... --,、__,ヘ --....... __ \ |:l {::::::::::::::ヽ::::::::}::::::::, ---/ ヾ=^ー- 、 ̄::::.-..... __ ヽ. {:,ィ、ミx::::::::___ノ,.=く |,ィ――、} , -`ヽ\--- 、::::::: -..___,!. ⌒|::l |;∠ -ァ._ノ -^ヽ V: : : : :ゝ==='": : \)、_ >、_:::::::::::}. '⌒乂_ ノ: : : : : : : ` ̄´: : : : : : : : : : : : : : : : : : } : ̄`ヽ、} ̄ `ヽ /,ィ: : : :.∥: /: : /:/ : : : : : : }: : :| l: :}: : : :|: : : : : : :`┬ 、 ! /:: _///: : : : :l{.:-l-- 、 {.: : : : : ;: :}, ---V \: :{: : : : : : : : :.、 ヽ! ./::::: ` ̄ /:∧: : : |^V==ミ、弋: : : ,イ / ,V=ミx |: ヽ}: : : : : : : : : \ノ./::::::_ |:/|:.ヽ: : l.ん:::::::::::Y \ノ l/ ん::::::::::Y , : : : : : : : : : : |: : : }└ '" !' ノ: : \{乂:::::::::乂. 乂:::::::::乂|: : : :/: : : : : : :|、: :ノ _ノ: : : : : 〉fつ ̄ ` ̄とつ:__/: : : : : : : :| V /: : : : :r―≧s。 r‐ , __""ノ: : : : : : : : : 、 : : |. ー―γ: :ゝ,------.≧==-- (___, ..: ´: : : : : :,/: : : : }、 : }`ー--- 、_ '´  ̄ / --く__;ィ__ノ{: : : / ノノ `ー '2023/09/17 12:39:05227.アハさんパシル語がイヌケリアゲウリャ!! ε=ε=ε=((( ゜皿゜)_/☆(*゜◇゜)ノノ3IqONPositive JAZZ - Morning Music To Start The Dayあく抜きは日本料理の基本、コホン(>o<;))((;>o<) ゴホゴホhttps://www.youtube.com/watch?v=8cN7LWGO-gE&list=RD8cN7LWGO-gE&start_radio=1&rv=8cN7LWGO-gE&t=162023/09/18 16:29:12228.神も仏も名無しさん96mTm御祈念~2023/09/23 20:20:54229.神も仏も名無しさん2sjAVイヌ供養っ!!!🐕🦺🐕🦺🐕🦺🐕🦺🐕🦺🐕🦺🐕🦺2023/09/23 20:22:36230.神も仏も名無しさん2sjAVイヌ供養っ!!!🐕🦺2023/09/23 21:08:51231.アハさんパシル語がイヌケリアゲウリャ!! ε=ε=ε=((( ゜皿゜)_/☆(*゜◇゜)ノノV0BKQ南イント゛の戦後史(イント゛・ハ゜キスタン・スリランカ)【戦後アシ゛ア史⑤】セ゛ロから世界史94講 - 34,38https://www.youtube.com/watch?v=e6wMcCW3rg8&list=RDCMUCTRI9gzaa4xp1vBWBJf0VXg&index=102023/09/24 01:01:47232.神も仏も名無しさんORcV2187 ◆JBLfMwCXhY (50-wHr-HH-95Q) 2023/10/06(金) 06:13:03.87 ID:9FI57「唯識三十頌」より、第三頌不可知執受 處了常與觸作意受想思 相應唯捨受(現代語訳)深層にある阿頼耶識の働きを知ることはできない。阿頼耶識では常に,触(物理的、精神的接触)・作意(対象に向かって心が働く作用),受(作意を受けての苦、楽等、様々な感情の働き)・想(触・作意・受を受けた時に浮かぶ印象)・思(意志)が働いている。阿頼耶識に相応するのは捨受(苦でも楽でもない非苦非楽の感情)のみである。2023/10/06 08:41:20233.神も仏も名無しさんORcV2第八阿頼耶識の対象は、処と執受であることですが、深いですね。処は器世間、執受は種子と有根身です。心の深層では、識所変の世界は仏界を認識しているということなのでしょうか。第八識・第七識を深層識といっていますが、深層とはどのようなことを指していっているのでしょうか。表層の識の底に深層の識が働いているということですが、第八識は、「此の識は身に於て、摂受し、蔵隠して、安危の義を同うするが故なり」と。識体は、身と心は相応していることを表しているのでしょうね。第八阿頼耶識の対象は、処と執受であることですが、深いですね。処は器世間、執受は種子と有根身です。心の深層では、識所変の世界は仏界を認識しているということなのでしょうか。要するに、執着を超えて、本質を認識している、疎所縁を自らの心の中に種子として宿しているということになるのでしょうか。それが識体、識体は共同安危であるということ、この共同安危が身と倶にある。大事な視点だと思います。第八阿頼耶識には、能蔵・所蔵・執蔵という三義があるということですが、三義を以て阿頼耶識を蔵識といわれているわけです。能蔵は持種、種子を保持しているということ。寝ても覚めても隔てなく、捨てることなく、すべて種子として保持し続けているのが能蔵の意義です。縁にふれれば何でも出てきます。理性では善悪を判断すると頑張っていてもですね、「さるべき業縁のもよおし」があればですね、千人殺すこともあるわけです。大切なことは、如何に善の種子を宿すかですね、聞熏習が大切な要素になると思います。所蔵は、受熏、種子を溜め込んでいくという働きです。過去から現在までの経験のすべてを種子として溜め込んでいるという働きを所蔵と表されています。そして、執蔵です。この執蔵が問題なのです。執するではなく、執されるものという意味です。これは、第七識は第八阿頼耶識の見分を所縁として、自の内我とする、ということですが、第七末那識によって執される識である、能蔵・所蔵も一切が第七末那識に執され現行するという意味を持っているということになりますね。第七末那識に執着される性質をもっているということなのです。 この第七識と第八識との相応関係の上に、表層の六識が働いている、と教えられています。「雑染の與に互に縁と為るが故に」能蔵と所蔵が因と為り果と為り、互いに縁と為って「有情に執せられて自の内我と為るるが故に」2023/10/06 08:50:30234.神も仏も名無しさんORcV2161 法介◆T3azX0Hk1U (50-5UQ-aP-cEY) 2023/10/05(木) 19:48:53.45 ID:nW4I1「第八識は恒ではあるが審らか思量するという働きはない」まず、この文章を馬ちゃんは、どう読み取られておりますか?ポイントは、「恒」と「審らか」と「思量」をどう解釈するか。ーーーーーどうってそのままで、「恒」は七識でも謂われていますが、継続的、永続的な意味で、間断されないって意味で、「審らかに」は細部にわたって、ですよ、分析的に、でいいでしょ、しないです、さながらに思量せず、なんか六、七、八、ってすると、システムのボックスが別々に別れている様を思ってしまいますが、自己に実際は一塊だと思われます、ちなみにヨガでは複数相の殻が同心円のように、黄身を覆っている、たまごのような姿で描かれていますけど、でも、脳の大脳皮質と大脳辺縁系のような物理的脳もその機能が八つの識と被っているわけです、2023/10/06 08:51:22235.神も仏も名無しさんORcV2861 鹿野園◆dqam8SqGUPdm 2023/10/05(木) 21:25:06.16 ID:FA3XW TID:rokuyaon>>860>八識はみな思量の作用があるがの件ですにつきましては一つには下記のブログの件https://blog.goo.ne.jp/seikannamo/e/2b7ff65b859e9dd63cbf4f7a6599501aもう一つはwikiの「末那識」の項です。私はそれは誤謬だと考えています。また、阿頼耶識は現量でその種子が非言語的言語種子云々と話た記憶はありますけど、思量云々の件は……うーん?多分話してないと思います。2023/10/06 08:51:55236.神も仏も名無しさんORcV2ちょっと面白そうなのみつけた、まなしき出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』http://www.wikidharma.org/index.php/%E3%81%BE%E3%81%AA%E3%81%97%E3%81%8D阿陀那識このような【第七番目の識】として、仏教内にはこれを【阿陀那識】と名づけるか地論宗】がある。そこでは【第八識】を【真識】として【真如と同一】であるといい、この【真識】が【動じ変化して分別的】に働くために働く力が【第七の阿陀那識】であるという。● たとえば【起信論】にいわゆる【根本無明】が、これであるという。それは【分別】の【根本】として【妄染】の識であるという。● しかし、【法相宗】では【末那識】を【我執】の意識、【第八阿頼那識】は【妄識】とする。以上のように、この末那識を立てるところに仏教の心識論が成道という立場をふまえていることをしると共に、このような末那識に対しての人間の内省が、今日の人間性の考察についても大きな意味をもつと思われるのである。2023/10/06 08:52:23237.神も仏も名無しさんORcV2第七意識が第八阿頼耶識に【執着】する、第八阿頼耶識は【執蔵】である。第六識は執する、第八の種子の現象に、前五識に、第七意識の我執によって【執着】する。ーーーーー大円鏡智ーーーー↓ 一つの観照主体 ↓↓ ↓ ↓↓八 無対象 ↓五現量←←←←直通←←←←現量↓ 【止】&【滅】 ↓↓ ↓③認識主体←②認識主体←①認識主体↓観照 ↓観照 ↓観照種子→→→→想→→→→→現象(往)↑ ↑ ↓第八 第六 前五(色→受)執蔵 思 ↓↑ ↓ ↓種子←←←←汚染←←←←印象(還)汚染 了別 了別↑ ↑ ↑ 我執→→→→執着→→→→執着↑ ↑ ↑ーーー第七・マナ識ーーーー止&滅→我執の了別・汚染の無→平等性智種子、印象は、五~八で循環する。●この循環構造の一時停止が禅定、●一旦、循環構造が、停止瓦解した後で、六・七識の【無】化状況下において、五・八識の現量のみが観照・認識されると、①②③と分割されていた認識主体は、統合化され、一体となる、● この一体化された認識主体は、法界を現量で観照された時点で、完全に【一切対象】は、我では無いと、覚証するに至る。この【覚】が【心】であると【証】されると、【一切対象】と【仮我】は、永続的に【従】となる。● これが、本心に覚ったことである。2023/10/06 08:53:04238.神も仏も名無しさんORcV2● 恒に審らかに思量するのは第七識のみであるので、【第七識】の【特性】である【思量】をもって【末那】と称し、【マナス=意】、と名づけるという。● 【出世の末那】といわれることもありますが、その場合は【自在位】によって【名づけられ】、【出世の末那】【自在位】によって、【名づけられ】● そこには【未自在位】の【末那】は【転依】して【平等性智】と名づけられ、【末那】とは【名づけない】のであって、● 即ち【有漏】にのみ【名づけ(末那と)られ】、【無漏】には【存在しない】のである、といわれます。●『第七末那識は、阿羅漢と出世道と滅尽にはあること無し、』2023/10/06 08:59:11239.神も仏も名無しさんORcV2● 其の第六識は体是れ識なりと雖も、而も是れ意には非ず。恒・審するものに非ざるが故なり。●(第六識依主の釈) 彼の依主釈というは、主というは謂く第七なり。●・・・眼識等というが如し、というは眼は是れ所依なり。而も体是れ識なり。眼に依るの識なり。故に眼識と名づく。2023/10/06 08:59:37240.神も仏も名無しさんORcV2● 第七識 意=識 意が識自体を指す。(持業釈)● 第六識 意根による識(意根を所依とする識)、即ち、意根(第七識)を所依とする識であるという意味で意識と名づけられる。(依主釈)六識は識という意義がある。●(3) 第七識は、第六識のために近所依となるということを顕さんとして、第七識を意と名づけるのである。● 第七識を意識という場合は識と意は同じものを指すが、第六識を意識という場合は、識と意とは異なるものである、という。第七末那識● 彼(第八識)に依て転じて彼(第八識)を縁ず。思量するをもって、性とも相とも為す。● 四の煩悩と常に倶なり。● 審 - 第八識・前五識は審らかではない。第八識は恒ではあるが審らか思量するという働きはない。前五識は縁に依って生起するので、恒でもなく、審らかでもない。● 恒 ー 第六識・前五識は恒ではない。不恒である。第六識は審らかではあるが、恒ではない。● 恒に審らかに思量するのは第七識のみであるので、第七識の特性である思量をもって末那と称し、マナス=意、と名づけるという。2023/10/06 09:02:32241.神も仏も名無しさんORcV2『成唯識論の末那識』八識の倶有依構造https://core.ac.uk/download/pdf/231049003.pdfhttps://i.imgur.com/Lr616mq.jpg『阿頼耶識と依他性との関係について』https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/23/2/23_2_1001/_pdf/-char/ja● 【阿頼耶識】が【滅する】場合について, 第5頌に次のようにとかれている。『この【阿頼耶識】の【転捨】は ≪阿羅漢の位≫においてである。』と、説かれている。● 具体的には①【煩悩障の種子】と、②【所知障の種子】とを≪残り無く≫≪断ずる≫ことである。● そのためには①【喩伽行】を修め、②【出世間智】を得たのちにも③【不断に修行】をすることによつて、④【煩悩の種子】を【残らず断ち切つた】ときには、【種子の拠り処】である、⑤【阿頼耶識】は消滅する。● それは≪輪廻的生存の根拠≫ を ≪転換≫ することである。それ故誰れでも【阿羅漢】となつて【尽智】と【無生智】を得たものは、【阿頼耶識】に依止する【塵重】を残りなく【断ずる】から、【阿頼耶識】が≪ 転 捨 ≫されると説かれたのである。2023/10/06 09:04:52242.神も仏も名無しさんqMW2Uイヌ供養っ〜〜!😄2023/10/06 09:10:48243.神も仏も名無しさんORcV2『成唯識論の末那識』八識の倶有依構造https://core.ac.uk/download/pdf/231049003.pdfhttps://i.imgur.com/Lr616mq.jpg『阿頼耶識と依他性との関係について』https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/23/2/23_2_1001/_pdf/-char/ja● 【阿頼耶識】が【滅する】場合について, 第5頌に次のようにとかれている。『この【阿頼耶識】の【転捨】は ≪阿羅漢の位≫においてである。』と、説かれている。● 具体的には①【煩悩障の種子】と、②【所知障の種子】とを≪残り無く≫≪断ずる≫ことである。● そのためには①【喩伽行】を修め、②【出世間智】を得たのちにも③【不断に修行】をすることによつて、④【煩悩の種子】を【残らず断ち切つた】ときには、【種子の拠り処】である、⑤【阿頼耶識】は消滅する。● それは≪輪廻的生存の根拠≫ を ≪転換≫ することである。それ故誰れでも【阿羅漢】となつて【尽智】と【無生智】を得たものは、【阿頼耶識】に依止する【塵重】を残りなく【断ずる】から、【阿頼耶識】が≪ 転 捨 ≫されると説かれたのである。2023/10/06 09:14:58244.神も仏も名無しさんORcV2ラトナーカラシャーンティの『般若波羅蜜修習次第』梵文和訳PDFhttps://researchmap.jp/kanokazuo/published_papers/31786229/attachment_file.pdf● ≪5≫『 出 世 間 智 の 獲 得 』そのあとに、彼(菩薩)は、このように観察した後で、すべての【名称】とすべての【相】を≪捨て去る≫それから、【一切諸法】を【所縁】とし【意言】なく【顕現】無き【三昧】において留まる彼には、【過去世】の【前行】の【潜在印象】の力にもとづいて、無功用かつ造作なく、一切【戯論の相】が無くなって、【分別】無く、【顕現】無き、≪ 一 切 諸 法 空 性 ≫を見る、【純粋】かつ【垢】を【離れた】≪【無限】の【虚空】≫に似た、【 出 世 間 智 】が【生じる】。● ≪6≫『 阿 頼 耶 識 の 転 依 』まさに、それこそが、【 勝 義 菩 提 心 】であり、それこそが実義の【 般 若 波 羅 蜜 】であり、そして、それこそが【 一 切 障 礙 】の【対治】たる道である。そして、その【対治】を通じて、【阿頼耶識】に集まった、あらゆる【雑染法】の【諸種子】およびそれの【諸潜在印象】が≪尽きた≫後に、[そして]①【拠り所】と②【身体】と、享受として顕現する③【諸々の識】が【停止】した後に、その【阿頼耶識】は【阿頼耶識の特質】を【捨て去って】↓ ↓【無漏界の特質をつかみとる】のである。2023/10/06 09:16:12245.神も仏も名無しさん0Xy2k● ≪7≫『 出 世 間 智 の 同 義 語 』それこそが、①【無漏なる界】②【諸仏の法身】③【実際】④【真如】⑤【勝義】⑥【法界】である。ーーーーーーーーー【実】とは【真実】のことであり、それらの 【際】(きわ)つまり極限なので、③【実際】[という]。常にまさに、その 【如く】に 【存在する】から、④【真如】[という] 【勝れたもの】の、つまり 【出世間智】の、対象 【義】であるから、あるいは、 【勝れたもの】にしてかつ 【対象】【義】であるから、⑤【勝義】[という]。●【諸法】つまり 【聖者】たちの 【諸法】それらの 【界】つまり 【依止】だから⑥【法界】[という]それ⑥【法界】に到達するときに、それ 【法界/法身】に【依拠】した 【受用身】と 【変化身】に到達するのであり、≪【それは】≫アートマン→プルシャ→ブラフマン 【一切相】なる 【あらゆる世界】への 【利益行為】を 【特徴として持つ】という。2023/10/06 09:32:07246.神も仏も名無しさん0Xy2k● ≪三種の転変≫が、心のダイナミズムを生み出す、【五位百法】における【縁起】とは【転変】であり、それは、【種子】の地平≪【因転変】という≫と、【 識 】の地平≪【果転変】という≫との両方において生じる。≪因転変には次の三種がある≫● 1. 異熟転変【業(カルマ)】の【果】である【種子】が【貯え】られた結果、【形成】され、【存続】するものが、【輪廻】の【究極的な主体】である【アーラヤ識】となる● 2. 思量転変【アーラヤ識】を【拠り所】とし、そこに【貯えられた種子】が【転変】したものが、【自我意識】としての【マナ識】となる● 3. 了別境転変【アーラヤ識】と【マナ識】を背後にもちつつ、【対象を認識】し、【認識作用】がもたらす【種子】を、【アーラヤ識】に【薫重】(植付ける)するものが、【表層意識】としての【六識】となる。2023/10/06 09:49:42247.神も仏も名無しさん3Uilg鹿野園◆00MWura8l● 先ず法相宗(唯識)の基本的な考え方から説させて頂きます。【転識得智】は、【有漏の識】が【無漏の識】へと【質的な転換】をする事とされます。そしてその【転識得智】は、【阿頼耶識】に【蔵】されている【無漏の種子】が【因】となり、その【種子】が【煩悩】を【対治】する事によって【遂げる】訳です。● しかし、残念ながら【凡夫】にはその【無漏】の【種子】が【無い】のです(諸説あり)。そこで「最も清浄な法界の等流なる【正聞薫習】の【種子】より生ずる(摂大乗論)」と云うのですが、● その【 正 聞 薫 習 】という【修習】が【説かれる】んです。● つまり、【正法】を【聴く】って事です。【聞法】ですね、【 聞・ 思 修 】と【 戒 定 ・慧 】の【 聞 】です。● それによって【凡夫】の【阿頼耶識】に【無漏の種子】が【生じる】とされます。● 最もそれは【生じた】だけで【現行してません】から、【芽生え≪「慧」≫】させるための【思】と【修】、【戒】と【定】が必要となるのです。2023/10/06 14:41:43248.神も仏も名無しさん3Uilg● ざっくり説明するとこういう事なのです。 ※1 阿頼耶識、末那識、眼識、耳識、 鼻識、舌識、身識、意識 ※2 大円鏡智、平等証智、妙観察智、 成所作智2023/10/06 14:48:39249.神も仏も名無しさんvmCqA正聞熏習とは、どういうことでしょうか?https://ameblo.jp/yk19610402/entry-12549224265.html2023/10/06 15:24:54250.神も仏も名無しさん3Uilg【染汚意と意根我執の根深さの根拠】 小谷信千代https://otani.repo.nii.ac.jp/record/6746/files/BGS_092-02.pdf2実際『倶舎論』は、● 識が生ずる場合のその二種の依りどころについて次のように述べています。【意識界(意識)】の依りどころは、【直前に減した意】である【五〔識〕】の【〔依りどころ〕】はまた、それらと同時に生ずるもの【(現在)】である。● 過去なる【〔依りどころ〕】もあるから また という語がある。その中で、【眼識】の【依りどころ】は【眼】であって【〔眼識と】【同時に生ずる】ものであり、乃至、【身識】の【依りどころ】は【身】であって【身識と同時に生ずるものであるから、いずれも現在である】。● それに加えて、【過去なる意】もこれらの依りどころであるから、これら【五識身】は皆【二つづつ】の【根】を【依りどころ】とするのである。●『(櫻部建肩舎論の研究」法蔵館、一九六九年、二三○頁参照)眼識から身識までの五識(五識身、五種類の識のグループ)』には、【眼根】から【身根】までの五根が、それぞれ、それらの識と【同時に存在】する【所依(倶生所依)】としてあり、さらに、【直前に減した識】が【意根】となった【無間滅意】が、【過去の所依】としてあります。● 【所依】とは【依りどころ】のことです。それに対して【意識】には、同時に存在する【所依】はなく、【直前に≪減した≫識】が【意根】となったものしか【所依】として【存在しない】ことが、述べられています。2023/10/06 16:10:58251.神も仏も名無しさん3Uilg六識って本当に思考の主体なんですか?って問題、思考=思量なら、七識が思考していることになる、顕在意識が眠るか停止した後で、何らかの妄想念を見る場合は、それは潜在意識だと思います、夢は目覚めた(顕在)後で思い出せる、それは記憶(種子→果)が深層(八識)へ収蔵されたからですよね?認識主体の移動って考えがあります、表層意識が眠って、または停止した後で、妄想念の認識がおきるのは、潜在意識の階層へ、認識主体が移動したと謂えませんか⁉️2023/10/06 16:13:05252.神も仏も名無しさん3Uilg根本識に關する若干の問題 玉城康四郎https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/2/1/2_1_296/_pdf/-char/ja● 第一の問題から論じてみやう。之に就やては、云ふまでもなく【唯識三十頌の第五頌】なる一文が想起せられる。即ち「【意と名つくる識】はそれ 【阿頼耶)】に【依止】して生じ、それ 【阿頼耶】 を【所縁】となす」というのである。● この際、【末那】は明かに【阿頼耶】を【所縁】となすというが、● 然らば【末那】は【阿頼耶】の何を以て【所縁】となすか?ということが問はれる。安慧釋に依れば、「【有見身等】に【相応】するが故に、我なり我所なりとして【阿頼耶識】を【所縁】となすが故に」と述べるのみで、● 【阿頼耶】の何を以て【所縁】となすかは≪【明記されていない。】≫然るに成唯識論 (巻四、廿六右以下) に於いては、之に就いて、難陀・火辮・安慧等の説が批到され、● 護法の説を以て正當とされる。印ち、難陀に依れば、阿頼耶の識体及び相応法を縁じ、火辮に依れば、見分及び相分を縁じ、安慧に依れば現行識及び種子を縁ず、と云はれ、● 最後に護法は唯、【阿頼耶】の【見分】のみを【縁じ】て、決して【その他】のものでは【無い】と云はれる。2023/10/06 16:14:58253.神も仏も名無しさん3Uilg普通は、六識が眠るか停止すると、潜在意識の妄想念が見えてくる、禅では眠ろうとする六識を、確り覚醒したままで、潜在意識が現れるところも看るわけだ、この、潜在意識とは、七識なのか?それとも、八識から浮かび上がってきた種子因なのか?雑念は、思量の性質をもっているけど、①イメージがポワーンって浮かぶものと、②妄想のように思考の質を呈する想いと、この2つが有るように思われます。2023/10/06 16:15:12254.リダン◆iKlPp4IWRY5gfzw>>253いずれにしても坐禅状態、離脱状態時は思考が上手く働かないのでそこが何処か?って体感だと分るのが難しいよねそうであったと戻ってからの考察になるし2023/10/06 16:22:37255.神も仏も名無しさん3Uilg『 熏 習 』くんじゅう● 【行為の結果】が【心】に【影響】を与えること。【香り】が【他に移る】ことにたとえられる。● 単に【熏】、また【薫習】ともいう。【熏習】により残された【結果】を【習気】じっけという。●『成唯識論』二(正蔵三一・九下)では【熏習】について、【熏習する側】の【条件(能熏の四義)】と【熏習される側】の【条件(所熏の四義)】を規定する。●【熏習する側】とは 【七転識】、すなわち 【六つの識】と 【末那識】のこと。●【熏習される側】とは 【阿頼耶識】のことである。●これにより、【熏習】を、【七転識】が【阿頼耶識】に【種子】を【残すこと】と定義する。● また【正しい教え】を【聞く】ことで、【衆生】に【清らかな影響】が【残される】ことを【 聞 熏 習 】というこれを【中国華厳宗】の【法蔵】は、その注釈である『大乗起信論義記』で●【 汚 浄 互 熏 】(正蔵四四・二七〇上)という。また熏習を心の状態に影響するもの(習熏)と心の活動を助長するもの(資熏)に大別する。『成唯識論』等の唯識論書では熏習は有為法の間だけで起こると考えるのに対し、『起信論』等の如来蔵系論書では無為である真如にも熏習を認め、両者の見解に異なりがあることがうかがわれる。2023/10/06 16:26:50256.神も仏も名無しさん3Uilg>>254まあ、そう言うことですね、それが、顕在意識の働きですからね、2023/10/06 16:28:31257.麦◆MUGITANx95Dj2YPSg∞ノノハ∞ 川^〇^ハレ詐欺~る法介の祈念とかwwwパチもんでしょうwww詐欺~る行いが熏習されているでしょうからねwww2023/10/06 16:45:35258.神も仏も名無しさん3Uilg前五識と六識は間断する、ですよね、そのまま、ですから禅定で尋ね伺う働きが、一時的に停止できる訳です、車の運転や、テレビを観ていて、六識は容易に停止されます、そんな時、特に普通人は、車を運転すると人格変わる!とか謂う人がたまにいます、煽り運転とか、そして、六識があるときは、七識八識も同時にある、共依である、しかし七識は八識とは不共依である、ですから、普通は5678と同時に一気通関されている、ただ顕在の6からは潜在意識7と深層意識8が見えていない、見えてはいないが、顕在意識6に影響を与えている、しかも常時稼働している、寝ても覚めても、ああ、寝たら六識は間断されますね、2023/10/06 23:17:42259.神も仏も名無しさん3Uilg出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』共依●【 二 識 】以上の 【共通】の 【所依】となるものを 【 共 依 】(ぐうえ)といい、●【 一 識 】のみの 【所依】となるものを 【 不 共 依 】という。例えば【阿頼耶識】は【諸識】のよって起こる【根本】となる【 共 依 】であり、【眼識】のみの【所依】となる【眼根】などは【 不 共 依 】である。2023/10/06 23:22:52260.神も仏も名無しさん3ss1oこの論文も『成唯識論』の原文にもとづいて註釈しております。思想としての唯識論 渡辺 俊彦https://core.ac.uk/download/pdf/229770266.pdfこの論文も『成唯識論』の原文にもとづいて註釈しております。● 思想としての唯識論 渡辺 俊彦https://core.ac.uk/download/pdf/229770266.pdf唯識論における成仏● 前(さき)の修習位の所得の転依は、應に知るべし、即ち是、究竟位の相なり。此といふは、謂く、この前の転依の果ぞ、即ち是れ究竟の無漏界かいに攝(おさむ)。謂く、佛の功徳と及び身と土の等きは皆是れ無漏の種姓に生じられたり。有漏法の種をば、已(すで)に永(とこしえ)に捨せるが故に。示現して生じ死の身と作(な)り、業煩悩等あって、苦集諦に似たること有りと 雖(いえ)ども。而も實に無漏なり。● 修行の完成、煩悩の滅却、究極智の形成、阿頼耶識の、四智への転換は、≪一体のものであり≫、それは完成した究極の識へ、すなわち仏へと昇華することであった!2023/10/07 21:04:57261.神も仏も名無しさんLHoyE【大乗仏教】唯識派 無漏の種子https://note.com/hiruandondesu/n/n66d83d47e998初期の唯識派の論書によると、転識(七識の)と阿頼耶識とは、交互に因果の関係にあり、種子が常に新たに発生するという考え方を示しています。しかし、仮に種子の全てが新たに発生するならば、無漏の種子は原因なしに発生することになります。理由は【阿頼耶識】を【根底とする人間】にとって、【全て】の【認識】・【経験】は≪【有漏】≫となるからです。従って、【無漏の種子】は、人間に【本来具わっている】と考えなければならないことになります。【教えを聞き】、【瑜伽行を実修】することによって、この【生得的】な【無漏】の【種子】が【成就】させられるということです。ただし、人間に本来具わっている、その【無漏の種子】は【微細】であって、それがあると理解しがたいので、教えを聞くことによって、無漏の種子が生ずるという形に説かれる、というのが護法(ダルマパーラ)の見解です。正聞熏習無著(アサンガ)の『摂大乗論』においては、教えの聴聞は、煩悩の種子 即ち、有漏の種子とは質的に異なった、無漏の種子を、阿頼耶識の中に置くとされます。無漏の種子は、真理の世界(法界)から流れ出た、聴聞の余習(正聞熏習)であるといわれます。煩悩に対抗するものとしての、無漏の種子は、阿頼耶識の中に、有漏の種子と共存し、瑜伽行は、この無漏の種子を成熟させます。2023/10/08 15:19:45262.神も仏も名無しさんLHoyE○無漏の種子≠如来蔵?阿頼耶識は、種子の拠り所である限り、阿頼耶識(住居)なのであって、煩悩の種子がなくなってしまうと、それに対抗する無漏の、煩悩のない種子は、そのまま法界、つまり最高実在ということになります。無漏の種子というのは、あらゆるところに遍満している最高実在が衆生の心に及んだもので、【煩悩の種子】が【全て滅】すれば、【無漏の種子】は【最高実在】そのものですから、【阿頼耶識】はーー≪【消滅】【転依・転換】≫します。『成唯識論』でも無漏の種子を、衆生に及んでいる真如と考えずに、生得的に衆生に内在しているものと理解されており、各人に内在している種子は、それぞれ異なっていて、その種子の差別に応じて人は仏となったり、声聞・縁覚となったり、あるいは永遠に涅槃することができなかったりすると、説かれます。無漏の種子がそのまま真如・法界であるとする、即ち空の思想と連関する面は『成唯識論』では希薄になります。2023/10/08 15:24:49263.神も仏も名無しさんLHoyE唯識学派の種子説― ―真如所縁縁種子から無漏種子へ― 吉村 誠http://echo-lab.ddo.jp/Libraries/%E9%A7%92%E6%BE%A4%E5%A4%A7%E5%AD%A6%E4%BB%8F%E6%95%99%E5%AD%A6%E9%83%A8%E7%A0%94%E7%A9%B6%E7%B4%80%E8%A6%81/%E9%A7%92%E6%BE%A4%E5%A4%A7%E5%AD%B8%E4%BD%9B%E6%95%99%E5%AD%B8%E9%83%A8%E7%A0%94%E7%A9%B6%E7%B4%80%E8%A6%8169/%E9%A7%92%E6%BE%A4%E5%A4%A7%E5%AD%B8%E4%BD%9B%E6%95%99%E5%AD%B8%E9%83%A8%E7%A0%94%E7%A9%B6%E7%B4%80%E8%A6%81%2069%20-%20004%E5%90%89%E6%9D%91%20%E8%AA%A0%E3%80%8C%E5%94%AF%E8%AD%98%E5%AD%A6%E6%B4%BE%E3%81%AE%E7%A8%AE%E5%AD%90%E8%AA%AC%20%EF%BC%9A%20%E7%9C%9F%E5%A6%82%E6%89%80%E7%B8%81%E7%B8%81%E7%A8%AE%E5%AD%90%E3%81%8B%E3%82%89%E7%84%A1%E6%BC%8F%E7%A8%AE%E5%AD%90%E3%81%B8%E3%80%8D.pdf2023/10/08 15:32:42264.神も仏も名無しさんFMzPgここでは、●【種姓差別】は【二障の有無】による、とする『瑜伽論』の説が、●【種姓差別】は【本有無漏種子】の【有無】による、という意味に、置き換えて解釈されている。● すなわち、全く【無漏種子】が無く、【二障】の【種子】を【永久に断ずる】ことのでき無い者は、【非涅槃法】(無性有情)である。● ただ、【二乗】の【無漏種子】だけがあり、【所知障】の【種子】を【永久に断ずる】ことができ無い者は、【声聞種姓】ないし【独覚種姓】である。●【仏】の【無漏種子】があり、【二障】の【種子】を、【永久に断ずる】ことができる者は、【如来種姓】(菩薩種姓)である。● つまり、【本有無漏種子】の【有無】によって、【二障】の【可断・不可断】があるという。● そして、『瑜伽論』は、【無漏種子】が【微隠】で【知り難い】ため、【二障】の【有無】によって【種姓差別】を説いているのである、という解釈である。● ここは五姓各別説の典拠の一つとされるところであるが、それは『瑜伽論』の本文に【本有無漏種子説】を読み込むかたちで作られているのである。以上、『成唯識論』の種子説で議論の焦点となっているのは、【合生 義】そのものというよりも、むしろ【無漏種子】、特に【本有無漏種子】の【存在論証】であるということが知られた。● それでは、どうして?【無漏種子】の存在は、それほど【強く主張】されなければ ならなかったのだろうか?この問題を、解明する手がかりは、『成唯識論』が【合生 義】で会通しなければならなかった、『摂大乗論』の【 聞 熏 習 説】や『瑜伽論』の【種姓差別説】の中にあるはずである。2023/10/08 16:16:32265.神も仏も名無しさんFMzPg● 所知障って、最終的に自己に薫習した教説を手放せないことでしょうな、これが、無分別智に死んでも至らない有漏の種子、有為は有漏種子、無為は無漏種子、薫習する、● 正聞熏習無著(アサンガ)の『摂大乗論』においては、≪【教えの聴聞】≫は、煩悩の種子 即ち、有漏の種子とは質的に異なった、無漏の種子を、阿頼耶識の中に置くとされます。無漏の種子は、真理の世界(法界)から流れ出た、聴聞の余習(正聞熏習)であるといわれます。2023/10/08 16:53:34266.神も仏も名無しさんFMzPg空性と真如仏性https://hu.repo.nii.ac.jp/record/1149/files/004-83-07.pdf1、弁中辺論の空性空性と真如仏性弁中辺論巻上に次のようにいう(大31 1四六五c )、所知の空性の異門は云何ん。頒に曰わく、空の異門を略説すれば、謂わく【真如】と【実際】と、【無相】と【勝義性】と、【法界】等なること応に知るべし。空性の同義異語として、真如・無相・勝義性・法界が挙げられている。2023/10/08 17:42:46267.神も仏も名無しさんUFzCB無為の無漏種子とは、いったん薫習されて種子として収蔵されたものが、何らかの縁で、また記憶の回想などで、阿頼耶識の奥から浮かび上がってきても、その想いの種子を、掴まない、それを常時に棄捨する、という行為の想いの種子であると理解した。例えるなら、回転寿司の回転レーンに並ぶのは、マグロとかウニなどの名言語を付された魚と米な訳です、言ってみれば、【すし】ならぬ【しゅし】であるので、無為であれば、手を出さないわけです、目の前に来るネタ(種)を次々に捨ておいてスルーします、しかし、いったんマグロのトロ!と言う想いを六識に捉えて掴んでしまえば、一回は通過しても、二回目三回目には、想いの種子が因となって、縁が現れ来れば、手を出して掴んでしまいます、斯くしてトロを食べるという現象が目の前に展開することになります、阿頼耶の種子はこのごとくに常時循環しています、それは過去から現在、未來の想いを含む様々な種子です、掴まないと謂うことは、棄捨のことであり、ある意味行為に有為にもみえますが、その継続がまた、種子として薫習されて、深く刻印されて行くのであって、それは、無為としての種子になって、蔵され、そして再び因となるわけです、無為の無漏の。2023/10/12 15:57:35268.神も仏も名無しさんPAT5L阿頼耶識の浄化 横山紘一https://nirc.nanzan-u.ac.jp/journal/17/article/2166/pdf/download( 3)「深層の心の浄化」とは具体的にはどういうことか。それは、譬喩的にいえば、無分別智の火によって阿頼耶識 の中に潜在する汚れた種子を焼き盡してしまうことである。 そしてそれによって阿頼耶識という心の基体が質的に変化す ることである。そこを「所依を転ずる」すなわち「転依」と いう。転依とは、雑染の種子を減して麁重縛から、解脱し、 阿頼耶識がr識」というありかたからr智」というありかた に変化することである。すなわち大円鏡智を得ることである。いま、阿頼耶識の中の雑染の種子を滅するといったが、そ れはまた、煩悩障と所知障との二つの種子を断ずることであ るとも言い換えることができ2023/10/13 04:37:07269.神も仏も名無しさんZflzt阿頼耶識の浄化https://nirc.nanzan-u.ac.jp/journal/17/article/2166/pdf/download横山紘一[ 3]【深層の心の浄化】とは具体的にはどういうことか。それは、譬喩的にいえば、【 無 分 別 智 】の火によって 【阿頼耶識】の中に潜在する 【汚れた種子】を 【焼き盡して】しまうことである。そして、それによって、【阿頼耶識】という 【心の基体】が 【質的に変化する】ことである。そこを【所依を転ずる】すなわち【転依】という。【転依】とは、【雑染の種子】を 【減して】 【麁(ソ)重縛】から 【解脱】し、【阿頼耶識】が 【識】というあり方から 【智】というありかたに、 【変化】することである。すなわち【 大 円 鏡 智 】を 【得ること】である。いま、【阿頼耶識】の中の 【雑染の種子】を 【滅する】といったが、それはまた、【 煩 悩 障 】と 【 所 知 障】との、 【二つの種子】を 【断ずる】ことであるとも、 言い換えることができる。2023/10/13 19:10:27270.神も仏も名無しさんI1gK6聖ウンコ供養っ!!!😱2023/10/13 20:43:41271.神も仏も名無しさんaZlXp【大乗仏教】唯識派 四分説(三分説)https://note.com/hiruandondesu/n/n689adb194a88● 証自証分とはどのような識なのか?https://i.imgur.com/vKfR4ne.jpg2023/10/14 18:36:15272.神も仏も名無しさんlL8kMイヌ供養ぅっ!!🐕🦺2023/10/14 18:38:24273.アハさんパシル語がイヌケリアゲウリャ!! ε=ε=ε=((( ゜皿゜)_/☆(*゜◇゜)ノノ0W8Qh【朗読】行方不明になった友人の話 - 56,11https://www.youtube.com/watch?v=kZ49YC5_u1U2023/10/16 21:01:47274.アハさんパシル語がイヌケリアゲウリャ!! ε=ε=ε=((( ゜皿゜)_/☆(*゜◇゜)ノノu42R1雀鬼イヌ麦、アルコホル発酵しイヌ麦焼酎なのに喜ばせ共有機能が絶えて無し。吠え吠み、オノレの尻尾をクルクル追うのみシラミ5ちゃんねるの会話はバトル形式で馴れ合いを禁じる。ググるシッタカ知障イヌヤマは、褒めてクレヨの哀願奴隷。相手を罵倒する悪口雑言の数々は外道イヌヤマへのリアル社会の絶対評価で、荒らしイヌヤマは問いに問いで返す脊髄反射の脳足りんで悟前(ごぜん)未悟(みご)、金魚ドジョウと救い難い。病名:発達障害ASDの症状尊大のインチキキチガイ雀鬼イヌヤマが自供ス。『正直云って仏とは何かと問われても分かりません、公案が進んで無くよくわからないのです』 知障イヌ咬み談ウソブクのよ透ってないのに、もう40回も初関を透る俺様!と言い放つドマヌケ!40回も透ったら初関を透る、じゃねーべ!イヌ:悟りとか分からねーし、知らねーし、悟ってねーわ? ググるイヌヤマは常にシカトされ自己存在の確認要求哀願奴隷也悪霊イヌが鳴く:なんで 宗教板って まともなの俺だけなんだ?みんな間違ってばっか俺だけが正しい。みんな間違ってるのに何で正しい事を言ってる俺は否定ばっかりされるんだ?みんな俺のことを 凄いなと認めろよ。 俺は自分より優れた奴が ゆるせないんだよ(脅迫性人格障害の特徴)ナント妻子と月一、金曜夜7時からのお坐り会、茶菓(ちゃか)代ワンコインで、これが研究会出席虚勢のトマヌケ犬は誰からも疎まれる独善イヌヤマは月一第三金曜日夜7時茶菓代ワンコイン坐禅会に出ると偽証。命取りの摂心に親子で100回参加と虚飾スル新小岩の食業ドライバーイヌヤマとは法相宗(ほっそうしゅう)奈良興福寺(こうふくじ)前官長じっちゃんのお抱え運転手で食業ドライバーの門外漢だから、知ったかぶる以外に承認欲求を満たす事が無い。多数者を演じ孤立してないと強弁し自作自演のおぞましい日々の無脊椎動物イヌヤマは成り済まし多重人格者で要治療統失、薬中、精神病院2ヶ月入院、A型作業所:イヌヤマ軍曹麦屁魔女エロ和尚アカベイ偽和尚狗の大王野良は異名同一人物がAAキャラ変の極悪人① 荒らしイヌ麦は無視放置スルーが一番ツライ、耐えられない。シッタカイヌヤマは常に誰かの反応レスを待ち焦がれる② 放置された固定観念イヌヤマは煽りや自作自演でアナタのレスを誘う。ワケワカメ糞邪鬼イヌヤマにノセられてレスしたらその時点でアナタも同類、負け、完敗③ ;反撃はイヌの滋養にして栄養であり最も悦ぶ事です。門前のヤセイヌにエサを投げ与えぬ事④ ;臭い汚いコワイ気持ち悪いイヌヤマが枯死する迄、孤独に暴れさせゴミが溜まったら削除2023/10/18 21:07:57275.神も仏も名無しさんhFpho795 神も仏も名無しさん sage 2023/10/19(木) 16:41:01.81 ID:pIMem TID:rokuyaon八識はそれぞれどの界に属するか?これは「界繋」って云うんですけどね。 |欲界|(初禅)色界|無色界|ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー阿頼耶識 |→→|→→→→→→|→→→|末那識 |→→|→→→→→→|→→→|眼識 |→→|→→→ | |耳識 |→→|→→→ | |鼻識 |→→| | |舌識 |→→| | |身識 |→→|→→→ | |意識 |→→|→→→→→→|→→→|(『唯識とは何か 法相二巻抄を読む』 横山紘一 P89,113)2023/10/19 17:04:36276.法介h1XpI「不律儀」という言葉の理解が大事ですね。https://researchmap.jp/awonori/published_papers/21654714/attachment_file.pdfhttp://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E4%B8%8D%E5%BE%8B%E5%84%802023/10/19 19:18:11277.神も仏も名無しさんcqebC859 栖雲◆dqam8SqGUPdm 2023/10/20(金) 13:34:38.21 ID:BiUsH>>857阿頼耶識・末那識・意識でしょうね。夢を見ている意識がある以上、意識の活動は間違いないでしょう。識は初能変(阿頼耶識)・第二能変(末那識)・第三能変(眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識)の三種があり※1、認識はその順番で起こるとされます。この内、阿頼耶識と末那識は常時作用しております※2。従って上記のことが云えるでしょう。意識は、 >意識常現起 除生無想天(意識は常に現起す 無想天に生じたると) >及無心二定 睡眠與悶絶(及び無心の二定と 睡眠と悶絶とを除く)なので、一見夢中にははたらいてないようですが、それは「極睡眠」、つまり熟睡事に限られるとされます。意識は、以下のように分類されます(『唯識とは何か「法相二巻抄」を読む』 横山紘一 p102)が、今回のケースは「夢中の意識」なので、前五識は作用しないでしょう。意識ーー五倶の意識ー五同縁の意識 | ー不同縁の意識 ー不倶の意識ー五後の意識 ー独頭の意識ー定中の意識 ー独散の意識 ー夢中の意識 ※1彼依識所變 此能變唯三(彼れは識所変に依る 此れが能変は唯三のみなり)謂異熟思量 及了別境識(謂わく異熟と思量と 及び了別境との識なり)初阿頼耶識 異熟一切種(初めのは阿頼耶識なり 異熟なり一切種なり)(中略)次第二能變 是識名末那(次のは第二能変なり 是の識を末那と名づく)(中略)次第三能變 差別有六種(次の第三能変は 差別なること六種有り)(唯識三十頌)※2阿頼耶識は 恒轉如暴流(恒に転ずること暴流の如し)末那識は 依彼轉縁彼 思量爲性相(彼に依りて転じて彼を縁ず 思量するを性とも相とも為す)2023/10/20 20:11:14278.神も仏も名無しさんcqebC863 栖雲居士◆dqam8SqGUPdm 2023/10/20(金) 14:07:58.09 ID:BiUsH TID:rokuyaonまぁ、先にレスしたのはあくまでも法相宗(護法系統の瑜伽行唯識学派)のそれとしてです。六派哲学では確かアートマンとの直結とか、いろいろな見解があったかと思います。シャンカラ派伝統における意識構造論https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk/68/2/68_828/_pdf2023/10/20 20:15:22279.神も仏も名無しさんcqebC864 栖雲◆dqam8SqGUPdm 2023/10/20(金) 14:13:55.72 ID:BiUsHあったあった、これかなw(ロ)夢眠時 夢眠状態においては、感覚器官は機能を停止して、意のみが機能している。以前の覚醒時に受けた潜在的印象のみが、この機能の対象となっている。この状態のアートマンは、身体や感覚器官の限定から自由なので、ずっと純粋な形でみずから輝いて現われる。(『インドの思想』 川崎信定 より)2023/10/20 20:16:15280.神も仏も名無しさんcqebC871 栖雲◆dqam8SqGUPdm 2023/10/20(金) 16:17:38.94 ID:BiUsH≫859(続き)ここで、夢の中で感受される、前五識(眼識・耳識・鼻識・舌識・身識)に似た作用(色処、声処、香処、味処、触処)について補足しておきます。誰しも夢の中でも映像や声や匂いや味そして痛覚を感受された体験はあると思います。しかし、一方では瑜伽行唯識学派は、夢中に【前五識】のはたらきはないと説明します。これは一体何故なのでしょうか?此処で確認しておきたいのは、意識は一切法処を対象にしているということであります。つまり、全てですね。ちなみに感覚器官(眼・耳・鼻・舌・身という肉体)は、勝義根(眼根、耳根、鼻根、舌根、身根)を扶ける、二次的な器官(扶塵根)に過ぎないと、瑜伽行唯識学派では考えます。ともあれ、意識の対象、これを「法処所摂色」というのですが、先にお話した「夢中の意識」は前五識のはたらきがなくとも、夢中にその様な対象を現出して認識するはたらきがあると考えるんです。2023/10/20 20:20:33281.アハさんパシル語がイヌケリアゲウリャ!! ε=ε=ε=((( ゜皿゜)_/☆(*゜◇゜)ノノPfbB8雀鬼イヌヤマ麦、アルコホル発酵しイヌ麦焼酎なのに喜ばせ共有機能が絶えて無し。吠え吠み、オノレの尻尾をクルクル追うノミシラミ5ちゃんねるの会話はバトル形式で馴れ合いを禁じる。ググるシッタカ知障イヌヤマは、褒めてクレヨの哀願奴隷。相手を罵倒する悪口雑言の数々は外道イヌヤマへのリアル社会の絶対評価で、荒らしイヌヤマは問いに問いで返す脊髄反射の脳足りんで悟前(ごぜん)未悟(みご)、金魚ドジョウと救い難い。病名:発達障害ASDの症状尊大のインチキキチガイ雀鬼イヌヤマが自供ス。『正直云って仏とは何かと問われても分かりません、公案が進んで無くよくわからないのです』 知障イヌ咬み談ウソブクのよ透ってないのに、もう40回も初関を透る俺様!と言い放つドマヌケ!40回も透ったら初関を透る、じゃねーべ!イヌ:悟りとか分からねーし、知らねーし、悟ってねーわ? ググるイヌヤマは常にシカトされ自己存在の確認要求哀願奴隷也悪霊イヌが鳴く:なんで 宗教板って まともなの俺だけなんだ?みんな間違ってばっか俺だけが正しい。みんな間違ってるのに何で正しい事を言ってる俺は否定ばっかりされるんだ?みんな俺のことを 凄いなと認めろよ。 俺は自分より優れた奴が ゆるせないんだよ(脅迫性人格障害の特徴)ナント妻子と月一、金曜夜7時からのお坐り会、茶菓(ちゃか)代ワンコインで、これが研究会出席虚勢のトマヌケ犬は誰からも疎まれる独善イヌヤマは月一第三金曜日夜7時茶菓代ワンコイン坐禅会に出ると偽証。命取りの摂心に親子で100回参加と虚飾スル新小岩の食業ドライバーイヌヤマとは法相宗(ほっそうしゅう)奈良興福寺(こうふくじ)前官長じっちゃんのお抱え運転手で食業ドライバーの門外漢だから、知ったかぶる以外に承認欲求を満たす事が無い。多数者を演じ孤立してないと強弁し自作自演のおぞましい日々の無脊椎動物イヌヤマは成り済まし多重人格者で要治療統失、薬中、精神病院2ヶ月入院、A型作業所:イヌヤマ軍曹麦屁魔女エロ和尚アカベイ偽和尚狗の大王野良は異名同一人物がAAキャラ変の極悪人① 荒らしイヌ麦は無視放置スルーが一番ツライ、耐えられない。シッタカイヌヤマは常に誰かの反応レスを待ち焦がれ② 放置された固定観念イヌヤマは煽りや自作自演でアナタのレスを誘う。ワケワカメ糞邪鬼イヌヤマにノセられてレスしたらその時点でアナタも同類、負け、完敗③ ;反撃はイヌの滋養にして栄養であり最も悦ぶ事です。門前のヤセイヌにエサを投げ与えぬ事④ ;臭い汚いコワイ気持ち悪いイヌヤマが枯死する迄、孤独に暴れさせゴミが溜まったら削除2023/10/21 00:36:45282.神も仏も名無しさんQ76Xtリダンさんにおすすめ睡眠と脳の関係とは? 視床下部や脳幹の働きについても解説いたします!https://smartdock.jp/contents/lifestyle/lh035/脳幹脳幹は中枢神経系を構成する部位が集まっている器官です。大脳に近い側から中脳、橋、延髄から構成されています。この脳幹は視床下部と通信をすることで覚醒と睡眠間の移行を制御します。視床下部と脳幹にある睡眠促進細胞(sleep-promoting cells)は、GABA(γ-アミノ酪酸:Gamma-AminoButyric Acid)と呼ばれる脳化学物質を生成して、覚醒中心の活動を低下させるように作用するのです。また脳幹はレム睡眠時にも重要な役割をします。体の姿勢や手足の動きに必要な筋肉をリラックスさせるシグナルを送ることで、睡眠中に夢を見ても体が動かないようにしています。視床視床は感覚器から大脳皮質への情報を中継する機能を持っています。睡眠時には静まった状態になり、≪【外的世界】から≫≪体を【切り離し】ます≫しかし、レム睡眠中には視床は活発になり、夢で見ているイメージ・音・その他の感覚を皮質に伝えています。ーーーー松果体他説明有りますよ。2023/10/21 07:03:20283.神も仏も名無しさんQ76Xt禅定修行の初期に、第二禅定~第三禅定へ入っただけでは、意識は未だ頭の前面か登頂辺りに凝縮されているのですが、その意識を、ゼログラビティー状態にして、登頂から後頭部方向に向けてひっくり返る感じで、脳の中心へ入って行くと、第四禅定の、身心脱落が起きます、上記の記事で言う、視床に於ける身体、つまり外界との切り離しです、それを禅定中に行うわけです、今まで視床で行われているとは知らなかったので、視床の働きを知れて、第四禅定の実際の裏付けが取れました。2023/10/21 07:04:19284.神も仏も名無しさんvj3W9>>1>荒らし行為を止むことが無い鹿野園さんの六根清浄を日々御祈念……もう無駄だと分かるんじゃね?Talkが5chから分裂する前から、鹿野園は既に手遅れだったわけだし。2023/10/21 07:06:33285.神も仏も名無しさんQ76Xt阿摩羅識天台宗以下、日蓮宗やその各派でもこの九識論に依り、これを九識心王真如の都と呼んでいる。日蓮は日向記で「究竟即(くきょうそく)とは九識本覚の異名なり、九識本法の都とは法華の行者の住所なり」、「此の九識法性とは、如何なる所の法界を指すや。法界とは十界なり。十界即諸法なり、此の諸法の当体、本有の妙法蓮華経なり。此の重に迷う衆生のために一仏現じて分別説三するは、九識本法の都を立出するなり。さて終に本の九識に引入する。それを法華経とは云うなり」、また日女御前返事でも「此の御本尊全く余所(よそ)に求むる事なかれ。只我れ等衆生の法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱なうる胸中の肉団におはしますなり。是を九識心王真如の都とは申すなり」と述べている。2023/10/21 07:26:33286.神も仏も名無しさんQ76Xt≫只我れ等衆生の法華経を持ちて【南無妙法蓮華経】と【唱なうる】【胸中】の【肉団】におはしますなり。 ↓ ↓是を【九識心王】【真如】の【都】とは申すなり日蓮さんは胸(ハート)の真如=真我を体験的に知ってますね、でなければ書けない文章表現だと思います。2023/10/21 07:28:26287.神も仏も名無しさんQ76Xt唯識三十頌/訓読(15)根本識に依止(えじ)す 五識は縁に随って現じ或は倶(とも)なり或は倶ならず 濤波の水に依るが如し(16)意識は常に現起す 無想天に生じたると及び無心の二定と 睡眠と悶絶とを除くhttps://yuishiki30.blogspot.com/2013/02/blog-post_7.html2023/10/21 07:35:43288.神も仏も名無しさんSsCTh「恒審思量(ゴウシンシリョウ)」について(成唯識論に学ぶ)https://blog.goo.ne.jp/seikannamo/e/1fd13b5056fb746eaa9a600de45141ac彼(第六意識)を意識と称する場合は依主釈(えしゅしゃく)であり、これは眼根等に依る識を眼識等と名づけるのと同じである。第七識を意識という場合は識と意は同じものを指すが、第六識を意識という場合は、識と意とは異なるものである、という。 第七識 意=識 意が識自体を指す。(持業釈) 第六識 意根による識(意根を所依とする識)、即ち、 意根(第七識)を所依とする識であるという意味で 意識と名づけられる。(依主釈)2023/10/21 08:00:48289.神も仏も名無しさんSsCTh「此れは持業釈なり、蔵識という名の如し、識即ち意なるが故に。彼は依主釈なり、眼識等という如し、識いい意に異るが故に」(『論』第四・十二左)2023/10/21 08:02:40290.神も仏も名無しさんSsCTh(1) 第六意識は、第七識である意を所依として起こる識である。依主釈である。第七識は持業釈である。識の体、そのものが意であるということ。意即ち識である。(2) 恒審思量の故に意の義は、特に第七識に親しい。(3) 第七識は、第六識のために近所依となるということを顕さんとして、第七識を意と名づけるのである。2023/10/21 08:02:52291.神も仏も名無しさんSsCTh『阿仏房御書』今日蓮が弟子檀那又又かくのごとし、末法に入つて法華経を持つ男女のすがたより外には宝塔なきなり、若し然れば貴賤上下をえらばず南無妙法蓮華経と、となうるものは、我が身宝塔にして我が身又多宝如来なり、妙法蓮華経より外に宝塔なきなり、法華経の題目宝塔なり宝塔又南無妙法蓮華経なり。 今阿仏上人の一身は地水火風空の五大なり、此の五大は題目の五字なり、然れば阿仏房さながら宝塔、宝塔さながら阿仏房、此れより外の才覚無益なり、聞・信・戒・定・進・捨・慚の七宝を以てかざりたる宝塔なり、多宝如来の宝塔を供養し給うかとおもへば、さにては候はず、我が身を供養し給う、我が身又三身即一の本覚の如来なり、かく信じ給いて南無妙法蓮華経と唱え給へ、ここさながら宝塔の住処なり、経に云く「法華経を説くこと有らん処は我が此の宝塔其の前に涌現す」とはこれなり、あまりに、ありがたく候へば宝塔をかきあらはしまいらせ候ぞ、子にあらずんば、ゆづる事なかれ信心強盛の者に非ずんば見する事なかれ、出世の本懐とはこれなり。2023/10/21 08:09:05292.神も仏も名無しさん5dxtW>>934 >>937基本的な考え方として、阿頼耶識は「一切種子識(あらゆる行動記録(種子)の保管場所)」とも云われます。また、全ての生じたもの(「有為法」)はそうなのですが、阿頼耶識も「刹那生滅」を繰り返しながら「一類相続」されるとされております。つまり「一切の現象の起こりは阿頼耶識に由来する」と「法相宗(護法系統の瑜伽行唯識学派)」では考えます。認識の起こりですが、阿頼耶識の「相分(客体、見られたもの、捉えられるもの)」に「有根身(あなたご自身の肉体)」と「器世間(宇宙、あなた以外のもの)」が保持されているとされ、それが「現行」すると、たとえば眼(「見分」(主体、見るもの、捉えるもの))と眼に写るもの(相分)となります。認識であれば、認識するものと認識されるものが見分と相分に該当するですね。そしてそれが再び阿頼耶識に種子として還元されます。>>959(続き)まとめると、阿頼耶識(根本識ともいいます)の種子から他の七識(末那識、眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識)が派生しているということです。次に認識が起きない時ですが、掛かる意味においてその停止は阿頼耶識からの種子現行の抑制と考えられる訳です。例えば、意識は深い睡眠の時にそのはたらきを停止しますが、これは阿頼耶識からの種子の現行が睡眠のダルマのはたらきによって抑制されている状態となります。定中は煩悩が起きないのに解定すると再び煩悩が沸き起こるのも同じく、定中に生じるダルマのはたらきによって煩悩のダルマのはたらきが抑制されているからとか考えます。2023/10/21 17:40:22293.神も仏も名無しさんSsCTh>>934 >>937基本的な考え方として、【 阿 頼 耶 識 】は 【 一 切 種 子 識 】→ 【全ての〈行動記録〉=〈種子〉】の 【保管場所】とも云われます。また、全ての【生じたもの】→【有為法】は、そうなのですが、【阿頼耶識】も 【刹那生滅】を繰り返しながら 【一類相続】される、とされております。つまり【 一 切 の 現 象 】の起こりは 【 阿 頼 耶 識 】に由来する、と 【法相宗】= 護法系統の、 【瑜伽行唯識学派】では考えます。【認識の起こり】ですが、 【阿頼耶識】の 【相分】〈客体=見られたもの=捉えられるもの〉に【有根身】〈あなたご自身の肉体〉と 【器世】〈宇宙=あなた以外のもの〉が 【保持されている】とされ、それが【 現 行 】すると、たとえば【眼】=〈見分〉〈主体〉〈見るもの〉〈捉えるもの〉と、【眼】に【写るもの】〈相分〉となります。【認識】であれば、 【認識するもの】と【認識されるもの】が、【見分】と【相分】に該当するのです。そして、それが再び【阿頼耶識】に【種子】として【還流】されます。2023/10/21 18:04:41294.神も仏も名無しさんpAfnO(続き)まとめると、阿頼耶識(根本識ともいいます)の種子から他の七識(末那識、眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識)が派生しているということです。次に認識が起きない時ですが、掛かる意味においてその停止は阿頼耶識からの種子現行の抑制と考えられる訳です。例えば、意識は深い睡眠の時にそのはたらきを停止しますが、これは阿頼耶識からの種子の現行が睡眠のダルマのはたらきによって抑制されている状態となります。定中は煩悩が起きないのに解定すると再び煩悩が沸き起こるのも同じく、定中に生じるダルマのはたらきによって煩悩のダルマのはたらきが抑制されているからとか考えます。2023/10/23 22:46:18295.神も仏も名無しさんpAfnO521 栖雲居士◆dqam8SqGUPdm 2023/10/23(月) 21:58:55.30 ID:xijZB TID:rokuyaon(1)第六も第七も意識と称するならば混乱が起きる恐れがあるので、諸の聖教には第七識には意という名をたてるのである、という。そしてその反対の問いも立てられるのですね。第六識を意といい、第七識を意識と名づけてもいいのではないか、というものです。にもかかわらず、第七識を意というのは何故なのであろうか。前項でも説明されていましたが、意は持業釈で、意=識であり、意で第七識を説明しているわけです。意識は依主釈であって、第七識を所依として成り立っている識を意識というのですけら、これは第六識に限るわけです。いうなれば、理が成り立たないわけですね。意識という場合は「意根に依る識」なので、第七識を意識とはいわず、意と名づけるのです。2023/10/23 22:46:29296.神も仏も名無しさんpAfnO522 栖雲居士◆dqam8SqGUPdm 2023/10/23(月) 21:59:17.31 ID:xijZB TID:rokuyaon(2)また第七識について意という名のみを標示しているのは、第七識を心(第八識)と識(前六識)から区別するためである。その理由は第七識は積集し、了別することは他の識より劣っているからである。八識はすべて心・意・識と名づけることができるけれども、増勝の義によって第七識を意と名づけるのである、と。「積集の心の義と了別の識の義とは余の識より劣るが故に、後の心(第八識)と、前の識(前六識)とに簡ばんとして但意という名を立てたり。恒・審するが故に。」(『述記』第四末・五十一左)積集(しゃくじゅう) - 蓄積すること。こころを心・意・識とに分類するとき、心の堆積する働きを積集という。深層の根源的な心である阿頼耶識が表層の業の結果である種子を堆積する働きをいう。又、業の結果である種子を集起する阿頼耶識が心であると解釈する。この場合には集起(じゅうき)といい、「集起の故に心と名づけ、思量の故に意と名づけ、了別の故に識と名づく。」といわれている。以上のように第七識を “意” というのは、第八識の積集(種子集起)の心と前六識の了別の識とを簡ぶためである。それは、第七識は積集と了別とにおいては劣っているが、恒審思量の働きに於いては増勝の義、すぐれた特徴があるから、第七識を意と表現するのである。 2023/10/23 22:47:19297.神も仏も名無しさんZUAi7649 栖雲居士◆dqam8SqGUPdm 2023/10/25(水) 08:45:32.80 ID:Ebp7U TID:rokuyaon此処でよく誤解される 心(citta) 意(manas) 識(vij??na)についてメモしておきましょう。1.『倶舎論』(世親)での解説 集起の故に心と名け 思量の故に意と名け 了別の故に識と名く2.『成唯識論』(護法)での解釈 第八を心と名く 第七を意と名く 余の六を識と名く3.『釈摩訶衍論』(天台智顗)の解釈 数に対するを名けて心と為し 能く生ずるを名けて意と為し 分別するを名けて識と為す2023/10/25 20:13:52298.アハさんパシル語がイヌケリアゲウリャ!! ε=ε=ε=((( ゜皿゜)_/☆(*゜◇゜)ノノkyPApあぼん 7人衆①雀鬼いぬやま 脳足りん②麦ちゃん ( Oh!(My sweet wheat )③偽軍曹 指示待ち君④有さん ゆうぐれどき、誰そ彼(たそ かれ。たそがれ)⑤離壇 or りだん金200万⑥統失 まくもうぞう妄想する事莫れ。まく‐もうぞう莫妄想】 妄想することなかれ。悟りを得るためには思惟分別する心を放棄せよということ。⑦JBL - 宿4丁目BoysLove2023/10/25 23:56:38299.神も仏も名無しさん25AdPhttps://i.imgur.com/DJV4g5v.jpg2023/10/26 03:11:46300.神も仏も名無しさんF0B88『成唯識論』(新導本巻一〇、九~二〇頁)では、仏果において証得する二転の妙果として大涅槃と大菩提の二果を立て、この内、大涅槃は清浄法界、大菩提は四智心品とし、清浄法界と四智心品との「五法」と関連づけられるのであるが、中でも大涅槃については、「所顕得」と転依の特徴を表して、本来自性清浄と規定し、普段は客障に覆われているが、聖道の正智によって煩悩・所知の二障を断ずればその相があらわれるとし、真如・清浄法界と同列にならべる。簡単に図示してみましょう。恒審思量 末那識 →(恒審思量)→ 阿頼耶識 (末那識は阿頼耶識しか見てないのです)種子の交換 末那識 ? 阿頼耶識 ? 意識 (末那識と意識に種子の交換は無いのです)これのどこが直接なのか、経論等を明示して反証してくださいねwwwあなたのやってることは文章を牽強付会に読み替えているだけですから。ちなみに意識の意根は末那識です。これを根拠に直接の影響を示唆される方もいるかも知れません。しかし、この場合は例えば眼識が眼根を根とするのと違うのです。前五識に於いては、識と根は同一の対象(境)を持ちますが、これを同境依といいます。意識はそれと倶起して明瞭に知覚せしめるので、これを分別依、或いは明了依といいます。末那識はそのままでは間接的に意識を汚染し、転識すると平等証智になり意識を浄化しますが、これを染浄依といいます。末那識が意識の意根とされるのは、この様に意識に対するはたらき、すなわち汚染したり浄化したりするからなのです。根としての性格が前五識とは別物であることを確認しておきましょう(『唯識とはなにか 「法相二巻抄」を読む』 P93、117参照)2023/10/27 20:28:16301.神も仏も名無しさんF0B88懐かしいのが見つかったwww ↓智慧が何故有為法に分類されるという事ですが、先にもレスした通り事法であり心作用だからでしょう。当然に五位百法の無為法の虚空・択滅・非択滅・不動滅・想受滅・真如には分類されないという事です。これについては、下記の転識得智の仕組みを調べる中で明らかにされます。2.転識得智の仕組みですが見道・修道にて、 1.-1. 第六識(意識)の尋・伺(有為法/心所法/不定心所)の働きによって諸法を観察し、 1.-2. その結果、分別起の二障(我見・法見)が二空(我空・法空)所現の真如をはじめて観ます。 1.-3. 意識が妙観察智へ 2.-1. その効力が末那識に及び二空の無漏智が生じます。 2.-2. 末那識が平等性智へ 3.-1. 上記は五位百法中の心所うち、妙観察智は遍行の五、別境の五、善の十一と尋・伺の二十三か所の心所に影響を及ぼします。五、別境の五、善の十一の二十一か所の心所に影響を及ぼします。 4.-1. 見道では障断の作用は粗く、修道にてその作用は細やかに作用します佛位にて 5.-1. 上記の作用が阿頼耶識に及び、阿頼耶識が大円鏡智へ 5.-2. 5.-1.の作用が阿頼耶識の所変である前五識に及び、前五識が成所作智へ 6.-1. 3.-2に同じ 7.-1. 一切の障が断じ尽くされます。と、こんな感じですね。もうお分かりかと思いますが、その二十一が転識後に智慧として作用するわけです。<参照>遍行(5) ~ 作意・触・受・想・思別境(5) ~ 欲・勝解・念・定・慧善(11) ~ 信・精進・慚・愧・無貪・無瞋・無痴・軽安・不放逸・行捨・不害不定心所(4) ~ 悔・眠・尋・伺2023/10/27 20:29:29302.神も仏も名無しさんF0B88209 法介◆T3azX0Hk1U 2023/10/27(金)本来自性清浄涅槃」についての慧沼と円測の見解長谷川岳本来自性清浄涅槃、有余依涅槃、無余依涅槃、無住処涅槃https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/46/2/46_2_562/_pdf/-char/ja2023/10/27 20:32:42303.神も仏も名無しさんF0B88https://i.imgur.com/047xRdO.jpghttps://i.imgur.com/KHHAfPu.jpg2023/10/27 20:33:35304.神も仏も名無しさん8rfl8井上善右衛門著「佛教の倫理学的研究」https://core.ac.uk/download/pdf/267921769.pdf「第六識の根としての末那」においては、先ずわれわれに最も直接的な現象の意識としての第六識と非現象的な七・八の二識との縁起的相関関係を言い、第六識が前五識とは異なって特異な第七末那識を根(不共依)とされていることに主眼が置かれている。末那 manas 即ち意を所依として起る識であるからである。2023/10/27 23:01:40305.神も仏も名無しさん8rfl8https://i.imgur.com/UXEdvCO.jpghttps://i.imgur.com/Da1yywC.jpg2023/10/27 23:23:21306.神も仏も名無しさんCtRB9念のため再掲しておきましょう。 ↓『「唯識三十頌」を読む(廣澤隆之)』のP92~P93を読むと、何故意識と末那識を分けているのかが詳細に説明されています。末那識はサンスクリット語で「manon?mavij??na」。意識は「manovij??na」。末那識「manon?mavij??na」は、分解すると「mano n?ma vij??na」で、直訳すると「意と 名づける 識」です。この「manon?ma」は「manas(意)」と「n?ma(名付ける)」の合成語です。そして、その語は文法において「mano(意)」と「vij??na(識)」が「n?ma」を介して同格となります。つまり、「意=識」ですね。対して意識「manovij??na」は、分解すると「mano vij??na」で直訳すると「意(に依る)識」となります。なぜなら「n?ma」を介していないので両者は同格とならないからです。眼識(眼に依る識)や阿頼耶識(阿頼耶の依る識)等も同じですね。意識の意根が末那識とされる由縁でもありますけどね。お分かりでしょうか?「意と名づける識(末那識)」と「意に依る識(意識)」の違いを。ちなみに思量は「manana」ですが、それは「manas(意、末那)」と同じく「man(考える、想像する、思う等の意味)」を語源としております。2023/10/28 00:06:39307.神も仏も名無しさんCtRB9これも再掲しておきましょう。 ↓ちなみに意識の意根は末那識です。これを根拠に直接の影響を示唆される方もいるかも知れません。しかし、この場合は例えば眼識が眼根を根とするのと違うのです。前五識に於いては、識と根は同一の対象(境)を持ちますが、これを同境依といいます。意識はそれと倶起して明瞭に知覚せしめるので、これを分別依、或いは明了依といいます。末那識はそのままでは間接的に意識を汚染し、転識すると平等証智になり意識を浄化しますが、これを染浄依といいます。末那識が意識の意根とされるのは、この様に意識に対するはたらき、すなわち汚染したり浄化したりするからなのです。根としての性格が前五識とは別物であることを確認しておきましょう(『唯識とはなにか 「法相二巻抄」を読む』 P93、117参照)2023/10/28 00:07:16308.◆JBLfMwCXhY6BjvP>>307> 末那識が意識の意根とされるのは、この様に意識に対するはたらき、すなわち汚染したり浄化したりするからなのです。「末那識には、意識を汚染したり浄化したりするはたらきがある。意識が末那識の意根、つまり『よりどころ』とされるのは、このためである」↑聖ウンも、ようやく、ここまでは分かってきたんだなここまで来るのに、1年近くかかっている時間がかかりすぎだが、分からんよりはいい(笑)2023/10/28 00:20:12309.◆JBLfMwCXhY6BjvP最初の頃は「意識は末那識から影響を受けるかどうか」が争点だったが聖ウン(当時は鹿野園)は、「影響は受けるんだな」ということが分かってきちめ、「直接の影響を受けるかどうか」に争点が移っただが、これでもまだ、まったくナンセンスな論点だ意識は末那識から影響を受けるに決まっている。それも、非常に強い影響だ「直接か、間接か」を論じるなど、まったく無意味な論点(笑)2023/10/28 00:24:16310.◆JBLfMwCXhY6BjvP分かってきちめじゃない分かってきたため2023/10/28 00:24:34311.◆JBLfMwCXhY6BjvP意根の「根」ってのが、何なのかってことだそれを考えるにあたっては、前五識の例を参考にするしかない眼識の根は、眼根だ耳識の根は、耳根だこれを平たく言えば、「視覚は、眼をよりどころとした作用」「聴覚は、耳をよりどころとした作用」ということになるそれと同じように、唯識では「意識の根は、末那識だ」と言っているつまり、意識にとっての末那識は、視覚にとっての眼、聴覚にとっての耳に相当する「意識は末那識から影響を受けるかどつか?」など、論争するまでない影響を受けるに決まっている(笑)あまりにもバカげた論点匿名掲示板とはいえ、こんなテーマで論争してる自分が情けないので、早く終わらせたい2023/10/28 00:34:34312.◆JBLfMwCXhY6BjvP論争するまでもないこの話を早く終わらせたいので、焦って誤字脱字が多くなっている(笑)2023/10/28 00:36:46313.◆JBLfMwCXhY6BjvP結局のところ、問題は鹿野園が「唯識論における、意識と末那識の関係」を理解するかどうかその一点にかかっているこちらは、最初から分かっている半年ほど前に、説明するのを諦めたが最近は風向きが変わってきたか?2023/10/28 00:39:10314.神も仏も名無しさんCtRB9修正更に以下の図表(※1)に同境依・分別依・染浄依・根本依という術語が確認できるかと思います。これを感覚が生ずるための四依というのですが(※2)、以下のように該当してます。 同境依~前五識(眼識・耳識・鼻識・舌識・身識) 分別依~意識 染浄依~末那識 根本依~阿頼耶識つまり、例えば眼識が成立するには以下のような図が成立しているということになる訳です(※7)所縁(※3) → ←意識無間滅意(※4)→ 眼識 ←末那識眼根(※5) → ←阿頼耶識(※6)※1https://pic.zawazawa.jp/files/bison/7e9ba9ea2473e.jpg※2『唯識とは何か 「法相二巻抄」を読む』横山紘一 P115なお、分別依は明了依ともいいます。※3所縁縁の事。心が対象を認識する時の対象。※4等無間縁の事。前滅の識の事。※5同境依にして増上縁となる。※6因縁となる種子※7https://i.imgur.com/m1xR3BW.jpghttps://i.imgur.com/lhVlIuL.jpg2023/10/28 19:59:12315.神も仏も名無しさんCtRB9https://i.imgur.com/cLDf05F.jpg2023/10/28 20:01:32316.神も仏も名無しさんCtRB9〉共依〉二識以上の共通の所依となるものを共依(ぐうえ)といい、〉一識のみの所依となるものを不共依という。〉例えば阿頼耶識は諸識のよって起こる根本となる共依であり、〉眼識のみの所依となる眼根などは不共依である。ーーー上記の件、念には念を入れて補足しておきましょうかw前五識の不共依は五根、他に意識・末那識・阿頼耶識を共依してます。意識の不共依は末那識、他に阿頼耶識を共依してます。末那識の不共依は阿頼耶識のみ。阿頼耶識の不共依は末那識のみ。たったそれだけの事です。意識の意根になぜ瑜伽行唯識学派の論師達が末那識を持ってきたのかは不明な点がある訳です。先述してますが「根」のサンスクリット語は「indriya」です。例のインドラ神と同じ趣旨ですね。中国仏教では、この「根」は増上(すぐれたはたらき)や能生(生ぜしめるはたらき)の義と解されているようです(岩波仏教辞典 「根」より)。説一切有部等では、意識の意根を前滅の識に持ってきており、それについては瑜伽行唯識学派も否定してないようです。おそらくは本質(為性相)においての類似性(時間のズレに依ってなされる認識の思量)と相関関係(表層識と深層識)から、意識の意根として末那識を持ってきたのではないのでしょうか?2023/10/28 20:04:27317.神も仏も名無しさんCtRB9例えば、科学的な真理と宗教的な真理があるんだという「二重真理説(ラテン・アベロエス主義)」を認めるもよし。トマス・アクィナスの様に「哲学は神学の婢」というもよし。パスカルの様に「理性を否認すること以上に、理性にふさわしいものはない」として「理性の最後の手続きは、みずからを超えることがらが無限にあることを認めることである。これを知るところまで行かないかぎり、理性は脆弱なものにすぎない」とするもよし。自分の中で決着を付けなければいつまで経っても解決しない事なんですよ。晃さんはそうした覚悟が欠けてますね。2023/10/28 20:16:18318.◆JBLfMwCXhY6BjvPだれだ、こんなバカのレスをコピペしてる奴😅2023/10/28 22:23:29319.◆JBLfMwCXhY6BjvP>>317> 例えば、科学的な真理と宗教的な真理があるんだという「二重真理説(ラテン・アベロエス主義)」を認めるもよし。> トマス・アクィナスの様に「哲学は神学の婢」というもよし。バカバカしい(笑)そんな13世紀、日本でいえば鎌倉時代の論争なんか、現代人にとって何の参考になるんだよアリストテレスの哲学だって、現代人から見れば宗教と変わらんくだらん例を持ち出すな2023/10/28 23:23:56320.◆JBLfMwCXhY6BjvP>パスカルの様に「理性を否認すること以上に、理性にふさわしいものはない」として「理性の最後の手続きは、みずからを超えることがらが無限にあることを認めることである。これを知るところまで行かないかぎり、理性は脆弱なものにすぎない」とするもよし。長い!書くなら要約しろアフォか2023/10/28 23:26:30321.◆JBLfMwCXhY6BjvP>>317> 自分の中で決着を付けなければいつまで経っても解決しない事なんですよ。>> 晃さんはそうした覚悟が欠けてますね。よく言うよ宗教板で、晃が一番、スタンスにブレがないだろ(笑)2023/10/28 23:31:29322.◆JBLfMwCXhY6BjvP>>316> 意識の意根になぜ瑜伽行唯識学派の論師達が末那識を持ってきたのかは不明な点がある訳です。「末那識は、意識の意根(よりどころ)であるにもかかわらず、なぜ意識に直接の影響を及ぼさないのか?」という超難問(?)に対する答えが結局、それなのかよ😂ヒネリが足りんぞ少しは面白い屁理屈をコネてみせろや2023/10/28 23:36:12323.◆JBLfMwCXhYLPq6B>>317> 例えば、科学的な真理と宗教的な真理があるんだという「二重真理説(ラテン・アベロエス主義)」を認めるもよし。> トマス・アクィナスの様に「哲学は神学の婢」というもよし。アリストテレス哲学に心酔する、急進的な若手たち聖トマス・アクィナスの「神学大全」により、この論争には決着がついた以後のカトリック教義においては、アリストテレス哲学とキリスト教が統合された歴史的には重要だけど、現代人の参考になる要素はほとんどない事例(笑)2023/10/29 00:02:12324.◆JBLfMwCXhYLPq6Bそういや聖ウンコは以前、「アヴェロエス主義者たちが、聖トマス・アクィナスの正統派スコラ哲学に異論を唱えた」とかなんとか書いてたな「それは歴史的には順番が逆だ。急進的なアヴェロエス主義者たちを抑えるために、聖トマスの神学大全は書かれたのだ」と指摘した覚えがある2023/10/29 00:09:11325.◆JBLfMwCXhYLPq6B「アヴェロエス主義者たちが、聖トマス・アクィナスの正統派スコラ哲学に異論を唱えて論争が起きた」だった2023/10/29 00:10:11326.神も仏も名無しさんHSpXO記録保存~985.ユーザー栖雲居士◆dqam8SqGUPdmPypBm(16/19)>>970日蓮さんがそう思っているのなら、日蓮さんにはそうなだけだろ。私は宗派間の優劣を論じない主義だから、その手の話に応じる気は一切ないから😟2023/10/29 10:49:132023/10/29 10:58:10327.神も仏も名無しさんHSpXO私は宗派間の優劣を論じない主義だから私は宗派間の優劣を論じない主義だから私は宗派間の優劣を論じない主義だから2023/10/29 10:58:34328.神も仏も名無しさん1JhcE『唯識三十頌』 結城 令聞 著書(P.108)●【阿頼耶】とは、【蔵の義】で、①能蔵・②所蔵・③執蔵の、三義があるが、【③執蔵】の義を以て【主】とするのである。●③【執蔵】とは、【我愛-執蔵】のことであるが、か【我愛】とは、【第七識】に相応する、①我痴・②我見・③我慢・④我愛の、四煩悩中の【随一】で、恒に、【第八識】の【見分】を縁じて、【我】と【我著】する【煩悩】のこと、●【③執蔵】とは、①【能-執】の側でいえば、【第七識】が【執蔵】することであるが、②【所-執】の側からいえば、【阿頼耶識】が【執蔵】させられることになるので、その【所-執蔵】の側から、【阿頼耶識】のことを意味することになる。2023/10/29 19:50:05329.神も仏も名無しさん6Lk4E『空性と真如仏性』 古賀英彦https://hu.repo.nii.ac.jp/record/1149/files/004-83-07.pdf●疑問【虚妄分別】とは、【妄想念】だが、【夢】とも同義なのか?『弁中辺論』1● 此こに於いては二は都(ス)べて無しとは、謂わく、即ち、此の 虚妄分別 に於いて、永く所取と能取との二性無きなり。 ( 1四六四b )◎ ここにおいて二=≪【所取】と【能取】≫は、全く【無し】というのは、この【虚妄分別】において、【永久(無始無終)】に≪【所取】と【能取】≫との【二者】が【絶えて無い】ということである。2● 此中には唯だ空のみ有りとは、謂わく、虚妄分別中には、但だ、所取及び能取を離したる空性のみ有るなり。◎ ここには唯だ【空】のみ【有り】というのは、【二取】が【絶えて無い】時、【虚妄分別】中には、但だ、【所取】と【能取】とは【無縁】の【空性】のみが【有る】ということである2023/10/29 20:11:11330.神も仏も名無しさん1JhcE『空性と真如仏性』 古賀英彦https://hu.repo.nii.ac.jp/record/1149/files/004-83-07.pdf『弁中辺論』●ー亦た全無にも非ず、中に於いて少しく乱識の生ずること有るが故に。◎ さりながら【全無】でもない。【乱識】の範囲では、【生じている】からである。〔注〕【乱識】というのは、身心のある限りまぬかれ得ない【意識活動】のことである。『弁中辺論』● 何んぞ 此の性の、全無なることを許さざる。此れ滅して、解脱を得と許すが故に。若し此れに異ならば、繋縛も解脱も、則ち応に、皆な無かるべし。是くの如ければ、便ち、雑染及び清浄を発無する失を成さん。◎ ①ではどうして【識】の【全無】は許されないのか。【識の滅】から【解脱が得られる】と認められているからである。②もしそうで無いならば、【煩悩の繋縛】も、それからの【解脱も無い】ことになるはずである。そうなれば、③【雑染】から(滅せずに)【清浄】へ、という【仏道】を【発無】する【あやまちを犯す】ことになろう。途中の議論が長すぎたが、虚妄分別の意味が明らかになったので、空性の問題に立ち返ろう。ーーーーーはつ‐む【撥無】〔名〕払いのけて信用しないこと。否定し、しりぞけること。はちむ。はつぶ。※正法眼蔵(1231‐53)『 深信因果「いたづらに撥無(はつむ)因果のあやまりあり 』はつ‐ぶ【撥無】〔名〕=はつむ(撥無)「撥撫 ハツブ」2023/10/29 20:29:34331.神も仏も名無しさん1JhcE唯識三十頌サンスクリット訳文https://i.imgur.com/RoPCLGM.jpghttps://i.imgur.com/GTXXlqN.jpg2023/10/29 20:35:22332.神も仏も名無しさんZufD1ヴァスバンドゥの現象学『唯識三十頌』の原典、翻訳、および解釈 湯 田 豊 詩句16思考(マナス)による識は(27)、常に起こる、非認知の状態(28)を除いて。あるいは2つの達成(29)、まどろみ(30)、あるいは、チッタを欠く(31)気絶を除いて。ーーーーーー ーーーーー詩句16〔註釈〕(27)第6識である思考器官による知覚。事物〔ダルマ〕を知覚する精神的知覚。(28)あるいは、無意識の状態。(29)非認知の達成、および感覚と認知の止滅の達成。(30)玄奘は、middhaを“睡眠”と漢訳している。それは精神的活動を欠いている。(31)Acittakaは、知覚のない、あるいは精神的活動を欠く、というほどの意味。ーーーーー ーーーーーー 詩句17〔翻訳〕識のこの転変は、想像/識別することである。それによって想像/識別されるもの、それは、存在しない。それゆえに、この一切は知覚のみ(32)/唯識である。詩句17 〔註釈〕(32)識の転変によって想像されるもの/識別されるものは存在しない。あるいは同じことだが、識の転変は存在しない。われわれによって知られるのは、“知覚のみ”/“唯識”〔vijña-ptima-trata-〕である。実際に存在するのは、想像されていない/識別されていない知覚のみ/唯識である。唯識は、存在というよりも、むしろ瞬間的な出来事。2023/10/30 04:34:20333.神も仏も名無しさんk1a3u●【 三 昧 無 碍 】の空ひろく 四智円明の月さえん 此時何をか求むべき→〔一切棄捨〕●【 寂 滅 現 前 】するゆゑに 当所即ち蓮華国 此身即ち仏なり(白隠禅師 坐禅和讃 より)一切唯識、唯識三十頌2023/10/30 18:25:38334.神も仏も名無しさんk1a3uhttps://i.imgur.com/TKIkwGk.jpg2023/10/30 18:30:14335.神も仏も名無しさんk1a3u● 首座 「朱色に染まるものは、元々朱色ではないが故に、朱色に染まることができています」『 永 平 寺 法 戦 式 』● 問者 「作者は、仏道とはどのように参究すべきでしょうか? 乞尊意」 首座 「かつての祖師方は、”仏道は自己なり”と、申されております」● 問者 「それはいったいどのような意味でしょうか?」 首座 「宇宙といえ、世界といえ、全ては六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)に現成する法の働きであると知ることです」● 問者 「中々、ならば”私が在る”という根強い想いは、一体 どうすればよいのでしょうか?」 首座 「”私が在る”という想いを抱けることが、そのまま自己の空性を実証してくれています。」● 問者 「”自己の空性”とはどのようなことでしょうか」 首座 「朱色に染まるものは、元々朱色ではないが故に、朱色に染まることができています」問者 「珍重」首座 「万歳」2023/10/30 18:40:05336.法介◆T3azX0Hk1UXXRZ2証拠として保存~809.ユーザー栖雲居士◆dqam8SqGUPdmWP0bl何やら仏教とは無関係な部外者が支離滅裂なファンタジーをほざいてますがw先ず、引用元が明示されてないのは全てデタラメと判断してもいいでしょう。引用っぽい文の後に何かしら解説があるのもデタラメと判断していいでしょう。借りた本を見せびらかして云々ほざいてますが、笑ってあげましょうね。以上2023/10/31 17:01:252023/10/31 17:06:01337.神も仏も名無しさんATRk2①虚妄分別、②無分別三昧、③寂滅④唯-識、⑤涅槃-寂静これらを順を追って知って行かないと、本当のところ分からないでしょう、瞑想・禅定では楽を得るだけ?第四禅定ですら楽を超えますね、その前に喜悦も超えますね~禅定では、しかし、って言うか、何で禅の修行で悟ってもその後に何十年と更に工夫して行く必要があるのか?ここですよ、●【 三 昧 無 碍 】の空ひろく 四智円明の月さえん 此時何をか求むべき→〔一切棄捨〕●【 寂 滅 現 前 】するゆゑに 当所即ち蓮華国 此身即ち仏なり(白隠禅師 坐禅和讃 より)● 唯識三十頌の最後、https://i.imgur.com/OJfmv7Z.jpghttps://i.imgur.com/TLK0gul.jpghttps://i.imgur.com/kdlsfiR.jpg『唯識三十頌 後半の諸問題』 北村晴朗https://tfulib.repo.nii.ac.jp/record/194/files/p.%E4%B8%89%E4%B8%89-%E4%BA%94%E4%BA%8C%20%E5%8C%97%E6%9D%91%E6%99%B4%E6%9C%97.pdf2023/11/01 16:06:24338.神も仏も名無しさんwzb1g唯識三十頌 その①https://zawazawa.jp/bison/topic/19上記の内容を日蓮大聖人がどのように釈(解釈)しておられるかを次にご紹介致します。その前に麦や鹿野園の「空=仮=中」の三諦の理解はあの池田大作大先生の三諦論と全く同じ解釈となります。池田先生の三諦論https://syozou.blog.jp/archives/23428790.htmlこれはたんなる科学のお話です(実体に即した真理=析空)。唯識三十頌 その② へ続くhttps://zawazawa.jp/bison/topic/202023/11/02 13:25:01339.神も仏も名無しさんTcfst法相大乗宗二巻鈔● 此の八識にとりて先の六識は起こらざる時も有り。其の様又たさまざまなれども、暫く人のよく寝入りて夢見る時は、眼耳鼻舌身の五識みな 起こらざる時也。≪【夢】≫に物を見、 きき、味い、あつし、つめたしとも思うは、● みな≪【第六識】≫の≪【分別】≫也ーーーーー😕う~む夢は六識の分別なりかあー2023/11/02 16:52:32340.神も仏も名無しさんTcfst法相大乗宗二巻鈔● 只彼の末那識、阿頼耶識のみあり。されば二の心は何なる時も起こらぬと云う事なし。生まれる時も死する時も、さめてもねても、長時相続して絶えざる心也。いま此の二の心(七、八)ありと云う事、極て【知りがたし。】中にも【第八阿頼耶識】はきわめて【甚深】なり、【甚細】なり。此の故に【小乗】浅近の教の中には是を【説かず。】【大乗最極の教】の中にのみ是を【説けり。 】● 所謂、①花厳、→華厳経②深密、→解深密経③楞伽、→楞伽経④厚厳、→楞厳経?等の経、瑜伽、顕揚、宝性、集量、唯識等の論也。抑もこの【八識かは【心の中の本】なるが故に是を【心王】となづく。ーーーーー大乗最極の教! なんか凄そうな~2023/11/02 18:11:55341.神も仏も名無しさんTcfstりょうごん‐きょう【楞厳経】仏書。「大仏頂如来密因修証了義諸菩薩万行首楞厳経」の略。一〇巻。般剌蜜帝訳。●≪【修禅】≫、【耳根円通】などについて●≪【禅法】≫の要義を説いた経。首楞厳経。世界大百科事典 第2版「楞厳経」の意味・わかりやすい解説りょうごんきょう【楞厳経 L?ng y?n j?ng】大乗仏典の一つ。10巻。詳しくは,《大仏頂如来密因修証了義諸菩薩万行首楞厳経》といい,唐の則天武后の時代(690‐704)に,インド僧般刺蜜帝が南海の制司寺で口訳し,ちょうど流謫中の房融が筆録したとされる。早くより【偽経の疑い】があるように,● 新しく興りつつあった【禅】や菩薩戒,密教の教義を,仏説の【権威を借りて】総合的に主張しようとしたものらしい。【楞厳】とは,クマーラジーバ(鳩摩羅什)訳の《首楞厳三昧経》と同じく,【堅固な三昧】の意である。首楞厳三昧経しゅりょうごんざんまいきょう『首楞厳三昧経』▽ 二巻。後秦こうしんの鳩摩羅什くまらじゅう訳。● 首楞厳は、梵語【シューランガマ 】(??ra?gama) の音写で、健相ごんそう・健行ごんぎょうなどと漢訳する。堅意(けんい)菩薩が、菩提をすみやかに得る法を尋ねたのに対して、釈尊が【首楞厳三昧】を説き、また舎利弗しゃりほつが【魔境】を遠離おんりする道を尋ねたのに対して、釈尊が【自ら魔境を現して】これを退治する法を説いたもの。ーーーーー😕う~む2023/11/02 18:12:16342.神も仏も名無しさん7TzT3法相大乗宗二巻鈔● ≪①【尋】と②【伺】≫と、物を言わんとて、【万の事を押し計らう心】也。 其れに取て、①【浅く推度する】時をば①【尋】となづく。②【深く推度する】時をば②【伺】となづく。不定の四と申すは是れなり。●又た⑤【五識】と⑧【第八識】とは、何も【在りのままに】物を【知る】なり。●⑦【末那識】はいづれ、【もひがめる心】なり。●⑥【意識】は【有のままに知る】おりもあり、【ひがめるおり】もあり。● 次【色法】に十一ありと申すは、其の名共又た百法論に有り。其の中に【眼根乃至身】・【根】を五根となづく。先に申する【眼識乃至身】・【識】の【所依】の【根】也。所依の【根】と云うは、【心の物を知る】時、是を【力として】能く知る。たとへば光ある玉を以て物を照して、是をもて見るが如し。【五根】かは【玉の如し】【心】の【物を知る】はよく【見るが如し。】【知らるる物】は【見らるる物の如し。】①【眼識・耳識】なんど云うは、②【眼根・耳根】なんど云うは、【別々の法】なり。①【識】と云うは【心法】也。②【根】と云うは【色法】也。此の【根】は人の≪【実の目、実の耳、実の鼻、実の舌、実の身】≫也。ーーーーー心法と識法かあー2023/11/02 18:31:04343.神も仏も名無しさん7TzT3心法と色法でした。2023/11/02 18:58:08344.神も仏も名無しさんu6fU2滅することなく生ずることなく(不生不滅)、(死後)断滅することなく永遠ではなく(不断不常)、同じではなく異なることなく(不一不異)、来るのでもなく去るのでもなく(不来不去)、『戯論が寂滅する、吉祥なる、縁起を説いた正覚者(ブッダ)に対し、最高の説法者として、わたしは敬礼する。』(『中論頒』帰敬偈)2023/11/02 21:28:59345.神も仏も名無しさんu6fU2「中論」冒頭の有名な偈には、このようにある八つの不とあるので八不中道といわれる。いわゆる縁起・無自性・空を説くのである。あらゆる存在は、関係性に縁よって起こっている(縁起)のであるから、他から独立して本来備えているような真の性質である自性は無い(無自性)のである。故にそれは空とでも呼ぶしかないというのである。また「善く諸の戯論を滅」すとあるように、人間が言語によって思惟することの限界を突破した思想でもあった。不生亦不滅不常亦不斷不一亦不異不來亦不出能説是因縁善滅諸戲論我稽首禮佛諸説中第一不生にして亦た不滅、不常にして亦た不断、不一にして亦た不異、不来にして亦た不出なりと、能く是の因縁を説きて、善く諸の戯論を滅したまえば、我れは稽首して仏を礼す、諸説中の第一なりと。2023/11/02 21:32:21346.神も仏も名無しさんZltXL考えたこと、結論したことの中には、勝義は存在しないんだよね、概念の砂上の楼閣、寂静して沈黙の波にさらわれたら、跡形も無くなる、この理は知られるべきことだと思います。2023/11/05 12:39:15347.神も仏も名無しさんZltXLが、しかし 護法菩薩は、熏習の中に、二つの意味があることを明らかにしておられるのですね。僕もはっきりしておらなかったのですが、再度『成唯識論』を読み、親鸞聖人の「聞」について尋ねてみますと熏習の意味がはっきりしてきました。 先師のご苦労もあったのでしょうが、現行熏種子ですね。この部分だけを捉えて熏習といっていたのです。これを護法菩薩は始起と押さえておいでになります。生まれて始めて起こって来たこと、という意味になりますが、始めて起こる依り所はどこにあるのかですね。「無始より来虚妄熏習の内因力の故に恒に身と倶なり」を依り所として生起してきたものだと教えられています。有漏の種子はどこまで積み重ねても有漏の種子を熏習するだけである、ということなのですね。無漏には転じないということです。 『論』には「若し始起のみなりといはば、有為の無漏は因縁無きが故に生ずることを得ざるべし。有漏を無漏の種と為すべからず。」 と教えています。引用元https://blog.goo.ne.jp/seikannamo/e/edb68d44666b91c9eb527d8c154eb5fd?fm=entry_awp_sleep2023/11/05 12:39:27348.神も仏も名無しさんWEaGl晃さんの仰りたいのはこういう事でしょ?https://i.imgur.com/b4w1WzQ.jpg2023/11/05 14:10:03349.神も仏も名無しさんp1bDx生れ→生育→成長→衰退→老化→死→消滅これが自然法(存在の)● この法理を、中途で断ずる行いを、法に反する行為とし、それを悪とす。故に自殺も悪である。● 諸々の価値ある事象が、ある処に、固定され所属し所有されている場合に、縁に於いて所有者の心において、所有移転の縁が踏まれ同意が無いのに、途中で横取りするを悪とす。2023/11/06 18:28:42350.神も仏も名無しさんp1bDx●禅宗、特に臨済宗では【見性】という体験を重視します。【見性】してから本格的な修行が始まるとも云われる訳で、見性未体験者は「無眼子」とさえ云われ、一人前の扱いにされないくらいです。その見性という不思議な体験ですが、『成唯識論』では以下のように触れております※1。 ≫有義此智見有相無。●有義は、【此の智慧】には【見は有り】て【相は無し】 ≫説無相取不取相故。●【相無く】して【取る】、相をば取らずと説けるが故に ≫雖有見分而無分別説非能取非取全無。●【見分は有り】と雖も、而も【無分別】なるをもって、【能取に非ず】と説けり。取ること【全無には非ず】 ≫雖無相分而可説此帶如相起不離如故。●【相分は無し】と雖も、而も此れいい【如の相】を【帯し】て【起こる】と説くべし。【如に離れざる】が故に ≫如自證分縁見分時不變而縁此亦應爾。●【自証分】いい【見分を縁ずる】時に【変せず】して【縁ずる】が如く、此れも亦た応に璽るべし ≫變而縁者便非親證如後得智應有分別。●【変じて縁ぜ】ば便ち【親しく証する】に【非ず】なんぬ。【後得智の如く】応に【分別ある】べし ≫故應許此有見無相。●故に応に此れには【見のみ】ありて【相は無し】を許すべし)ーーー※1以下を参照にしております。 『成唯識論』巻第九 『新導成唯識論』9・13-14 『会本成唯識論』4・436 漢文は「SAT大正新脩大藏經テキストデータベース」より 和訳は『「成唯識論」を読む』竹村牧男 より自己が鏡と、そう思うと良く分かるのかな?2023/11/06 18:50:36351.神も仏も名無しさんZK58y≫496 ◆JBLfMwCXhY sage 2023/11/06(月) 09:27:16.70 ID:w1P5d思考を止めよーーー普通は、ただ瞑目して心を静にしようとするが、それだけでは、何年かかってもらちがあかないでしょうね、見分のみで相分を取らず、相分は物と思考、この状態が無分別で無思考の状態です、しかし、そう簡単にはできません、なので、先ずは武道でいわれる【八方目】を修練しましょう、両足を肩幅に開いて立ち、両腕をだらりと下げた状態で、肩だけを左右前後に円を描く感じで、体軸を中心に両腕をでんでん太鼓の要領で左右に緩やかに揺らします、その時に、視線は、八方に焦点をぼかして、固定しません、1分、寝る前に行うと良く寝れるといいます。2023/11/06 19:38:17352.神も仏も名無しさんZK58y相分を取らない八方目になれると、外のものは内に似るので、内側の意識の焦点も相分を取らない状態になれます、これが出来るようになったら、今度は集中を修練しても良いでしょう、意識の集中と拡散、これは密教修行でも行われる、瞑想の基本的な修練方法であります。2023/11/06 19:38:30353.神も仏も名無しさんZK58y309 法介◆T3azX0Hk1U 2023/11/06(月) 19:20:19.25 ID:I5Ud4この論文はもう読んだかな『大智度論』における般舟三昧と首楞厳三昧の関係(澤 﨑)https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk/69/2/69_761/_pdf2023/11/06 19:40:52354.神も仏も名無しさんZK58y(1)我々の外的行為を行、住、坐、眠、食、語の六種に分けその一つ一つを観心の契機とし、しかも六波羅蜜を説いて衆生の利益をはかる。(2)六根、六境の感受作用についても観心の対象とする。(3)未念心、欲念心の二心を観心の方法として用いる。(4)心の本源的状態を心性と呼び、八識説も展開する。(5)出入息観、不浄観など小乗系の伝統的禅観もとり込む。(6)全体的に般若空観の思想が基調になっている。(7)『大智度論』等の所説の四念処観と関連が深い。これらのうち(2)、(3)、(4)、(5)、(7)等は『首樗厳三昧経』には直接は説かれておらず、慧思の独創によると考えられる。2023/11/06 19:57:35355.神も仏も名無しさんZK58y314 法介◆T3azX0Hk1U 2023/11/06(月) 19:27:59.65 ID:I5Ud4中国初期禅観思想における首樗厳三昧について 塩入 法道https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/38/2/38_2_677/_pdf/-char/ja首楊厳三昧は勇伏三昧、健相三昧などとも訳され、古来多くの三昧の中でも特に重視されていた三昧である。2023/11/06 19:58:42356.神も仏も名無しさんZK58y322 法介◆T3azX0Hk1U 2023/11/06(月) 19:44:42.76 ID:I5Ud4首 掴肪 嚴 三 昧 の 研 究 ( 早 苗 亮 雄https://hu.repo.nii.ac.jp/record/655/files/004-13-03.pdf此の三昧は鐸尊の敷理中初薯法輪に於ける八聖道の最後の第八に上げられてゐる徳目であるが、緯奪の敷理中最も重要な地位をしむるものなるこごは、中阿含経『聖道経」などが此の三昧を基本だなし、他の七支正道を正三昧の助縁こしてゐるこごに徴して明瞭である(註一)。2023/11/06 20:09:17357.神も仏も名無しさんEFEsF『維摩経玄疏』十二因縁で言えば●①過去・現在の三枝は【(1)無明(2)行(3)識】これ煩悩道。●②過去・現在の二枝は【(4)名色(5)六処】これ業道。●③現在・未来の七枝は【(7)受(8)愛(9)取(10)有(11)生(12)老死】これ苦道なり。いま十二因縁に三道を明かして三種の解脱を弁じ、思議・不思議の不同(違い)を分別せん。もしは通教には、③苦道は、即ち是れ真性と説くといえども、すなわちこれ【偏真(片寄った真)】の法性の理、①煩悩道、即空と説くも、空は【実慧】にあらず。②業道、即空と明かすといえども、空は【方便】にあらず。ゆえに三種は不思議の解脱に、非(あら)ざるなり(そうではない)。(1)無明(2)行(3)識(4)名色(5)六処(6)触(7)受(8)愛(9)取(10)有(11)生(12)老死2023/11/06 21:18:05358.神も仏も名無しさんzE6Vh≫その前にこの三種解脱のことを不思議解脱と智顗は言い、次のようにそれを説明している。①六識はこれ分別識。②七識はこれ智障の波浪識。③八識はこれ真常識。④智識はこれ縁修。【八識】はもしは顕るれば、【七識】はすなわち滅す。【八識】は真修と名づく。任運(運にまかせ)に、体は融じて【常寂】なり。而も、【摂大乗論】にいわく、『【七識】はこれ【執〔見〕心】。 【八識】はこれ【無記】の【無没識】』と。豈(あに-ドウシテ)これ真修というを得んや。また、いま明かすところの【六識】は、すなわちこれ【不思議の解脱】なり。豈(あに-ドウシテ)【六識・七識】が【滅し】て己(終る-オワ)りて、【八識】の【真修】を【不思議の解脱】となすことあらんや。所以(ゆえん-)はいかん。鴦掘経にいわく、「いわゆるかの眼根は諸如来においては常に具足して滅修することなく、了了に文明に見る。ないし意根もまたまたかくのごとし』と。法華経に明かす父母所生の六根の清浄は、自ずから湛然たるをもって十方界境を照らす。あに六識が滅して別に真の縁修あることあらんや。ゆえに経にいわく、「佛は、一切衆生は畢竟して寂滅なり、すなわち大涅槃もまた滅すべからず、一切衆生もまた滅すべからざるを知る」と。すなわちこれ六識は滅すべからず。またこの経にいわく、「解脱とはすなわち諸法なり」と。あにすなわちこれ六識と十八界の一切法ならざらんや。もし爾らば、あに、ただ八識に約して不思議の解脱を明かすを得んや。2023/11/07 04:13:14359.神も仏も名無しさんzE6Vh≫その前にこの三種解脱のことを不思議解脱と智顗は言い、次のようにそれを説明している。①六識はこれ分別識。②七識はこれ智障の波浪識。③八識はこれ真常識。④智識はこれ縁修。【八識】はもしは顕るれば、【七識】はすなわち滅す。【八識】は真修と名づく。任運(運にまかせ)に、体は融じて【常寂】なり。而も、【摂大乗論】にいわく、『【七識】はこれ【執〔見〕心】。 【八識】はこれ【無記】の【無没識】』と。豈(あに-ドウシテ)これ真修というを得んや。また、いま明かすところの【六識】は、すなわちこれ【不思議の解脱】なり。豈(あに-ドウシテ)【六識・七識】が【滅し】て己(終る-オワ)りて、【八識】の【真修】を【不思議の解脱】となすことあらんや。所以(ゆえん-ワケ)はいかん。◯◯経にいわく、『いわゆる、かの【眼根】は、諸如来においては、常に具足して【滅修することなく】、了了(れうれう-明瞭)に分明(ぶんみょう-ハッキリ)に見る。ないし【意根】も、またまた、かくのごとし(滅修することがない)』と。法華経に明かす、父母所生の六根の、清浄は、自ずから湛然たるをもって十方界境を照らす。豈(あに-ドウシテ)【六識】が【滅して】別に真の【縁修】あること、あらんや。ゆえに経にいわく、『佛は(ニトッテハ)【一切衆生】は畢竟(ヒッキョウ-最終に)して【寂滅】なり、すなわち【大涅槃】も、また【滅すべからず】【一切衆生】も、また【滅すべからざる】を知る』と。すなわち、これ【六識】は【滅すべからず】。またこの経にいわく、『【解脱】とはすなわち【諸法】なりと。豈(あに-ドウシテ)、すなわちこれ、【六識】と【十八界】の【一切法】ならざらんや。もし爾(シカ)らば、豈(あに-ドウシテ)、ただ【八識】に約して、【不思議の解脱】を、明かすを得んや。2023/11/07 04:54:08360.神も仏も名無しさんzE6Vh 仮=「色即是空」順観の十二因縁 空=「空即是色」逆観の十二因縁 中=「色即是空 空即是色」ですって🤭そもそも順観はともかく、逆観って逆からって事じゃ無いんですけどね。 発生順~順観、生起門(無明があるから行がある・・・) 消滅順~逆観、還滅門(無明が滅すれば行2023/11/07 15:26:45361.神も仏も名無しさんzE6Vh>>828(続き)ちょっと以下の読み下し文の違いが気になりますねぇ😚●もしは迷執を離れて → 若し迷執を離れば●七識は非迷非解 → 七識は迷に非ず解に非ず●迷解を説くを得る解のゆえに → 迷解を説くことを得●即ち是れ実慧の解脱なり → 解なるが故に即ち是れ実慧解脱なり。いや、これじゃ、意味がだいぶ違って来るんじゃないんですか?これねぇ、そもそも智顗大師の仰りたいのは大乗仏教の特色である「煩悩即菩提」の事じゃないんですか?●若し迷執を離れば、何処に別に実慧の解有るや。ってあるように「迷いなければ悟りもなし」って事でしょ?つまり「末那識なければ実慧解脱もなし」って事でしょ?「第七末那識を仏の意識」なんかではないでしょ?www※SAT大正新脩大藏經テキストデータベースhttps://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT2018/master30.php関連論文 「『維摩経玄疏』訳注(9)https://soka.repo.nii.ac.jp/record/40823/files/sokadaigakujinbunronsyu0_34_05.pdf2023/11/07 15:43:06362.神も仏も名無しさんcc4gk≫その前にこの三種解脱のことを不思議解脱と智顗は言い、次のようにそれを説明している。①六識はこれ分別識。②七識はこれ智障の波浪識。③八識はこれ真常識。④智識はこれ縁修。ーーーーー☆【縁修】 真如を縁ずる(対象とするの意)有心有作=作為的な修行を【縁修】という。ーーーーー【八識】はもしは顕るれば、【七識】はすなわち滅す。【八識】は真修と名づく。任運(運にまかせ)に、体は融じて【常寂】なり。而も、【摂大乗論】にいわく、『【七識】はこれ【執〔見〕心】。 【八識】はこれ【無記】の【無没識】』と。豈(あに-ドウシテ)これ真修というを得んや。また、いま明かすところの【六識】は、すなわちこれ【不思議の解脱】なり。豈(あに-ドウシテ)【六識・七識】が【滅し】て己(終る-オワ)りて、【八識】の【真修】を【不思議の解脱】となすことあらんや。ーーーーー☆【真修】はことさらに修行しようという意志を起こさずに【無心無作】で行なう修行をいーーーーー所以(ゆえん-ワケ)はいかん。◯◯経にいわく、『いわゆる、かの【眼根】は、諸如来においては、常に具足して【滅修することなく】、了了(れうれう-明瞭)に分明(ぶんみょう-ハッキリ)に見る。ないし【意根】も、またまた、かくのごとし(滅修することがない)』と。法華経に明かす、父母所生の六根の、清浄は、自ずから湛然たるをもって十方界境を照らす。豈(あに-ドウシテ)【六識】が【滅して】別に真の【縁修】あること、あらんや。ゆえに経にいわく、『佛は(ニトッテハ)【一切衆生】は畢竟(ヒッキョウ-最終に)して【寂滅】なり、すなわち【大涅槃】も、また【滅すべからず】【一切衆生】も、また【滅すべからざる】を知る』と。すなわち、これ【六識】は【滅すべからず】。またこの経にいわく、『【解脱】とはすなわち【諸法】なりと。豈(あに-ドウシテ)、すなわちこれ、【六識】と【十八界】の【一切法】ならざらんや。もし爾(シカ)らば、豈(あに-ドウシテ)、ただ【八識】に約して、【不思議の解脱】を、明かすを得んや。2023/11/07 19:30:55363.神も仏も名無しさんlmGqG●第七目共不思議・不共不思議に約して分別す 七に共・不共の不思議に約して、二種の解脱の相を分別するを明かすとは、若是し共の不思議ならば、即ち是れ思議解脱なり。若是し不共の不思議ならば、即ち是れ不思議解脱なり。 問うて曰う。何等か是れ共の不思議なるや。 答えて曰う。諸の法師有りて云わく、「八地に道観双流す。二乗、及び下地40の菩薩は、思量すること能わざる所なるが故に、不思議と名づく」と。所以は何ん。下地の若きは、八地を思うこと能わず。八地は九地を思うこと能わず。八地は還って是の思議を成じ、九地は乃ち不思議と名づく可し。是くの如く乃ち十地に至るも、仏地を思うこと能わず。仏地は是れ不思議ならば、十地は是れ思議なり。仏地は能く仏地を思い、還って是の思議を成ず。若し爾らば、何者か不思議解脱ならんや。 復た次に『経』に言うが如し41。仏は三昧に入るに、身子は知ること能わず。身子は定に入るに、目連は知ること能わず。目連は定に入るに、諸の羅漢は知ること能わず。羅漢は定に入るに、学人42は知ること能わず。学人は定に入るに、四善根の人は知ること能わず。四善根の人は定に入るに、一切の外道は思うこと能わず。外道は定に入りて神通変現するに、余人は思うこと能わず。乃至、凡人の伎術・幻化は、世間は皆な思うこと能わず。此くの如きは皆な不思議と名づく。 若し思議を論ぜば、仏に至るも、猶お是れ思議なり。若し不思議を論ぜば、乃至、黄蜂43は蜜を作り、蜘く蟵もは網を作るは、皆な不可思議なり。是れ共の不可思議と名づく。皆な心数の法の解脱有り。悉ごとく応に是れ思議解脱なるべきなり。豈に此れを用て不思議解脱の相に対す可けんや。 問うて曰う。若し爾らば、何が故に是れ不思議なるや。それにしても貧乏人に国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/ja/SAT大正新脩大藏經テキストデータベースhttps://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT2018/master30.phpは助かりますわ😚2023/11/08 21:58:06364.神も仏も名無しさんlmGqG縁起の二面性投稿日時:2012年8月9日https://kouseiji.com/blog/?p=206此縁性の縁起(天親)原因や条件に応じ様々なものが正滅変化していくという事を表す。十二支縁起(十二因縁)・・・我々の苦しみの成り立ち・解消法を十二の項目をあげて説明したもの。私の苦しみをながめると・・・(順観)[無明]→[行]→[職]→[各色]→[六処]→[触]→[受]→[愛]→[取]→[有]→[生]→[老死]私の苦しみが無くなるようにながめると・・・(逆観)[無明]→[行]→[職]→[各色]→[六処]→[触]→[受]→[愛]→[取]→[有]→[生]→[老死]⇒「現象面(事)」「有相」「時間的側面(一方通行)」相依相待性の縁起(龍樹)相互に因となり縁となって相依り相まって存在する道理。原因や条件が有る時にその結果が有り、原因や条件が無い時はその結果は無い、空間的な関係。例)父と子はその相手と独立に父であり子である事は出来ない。流転門の縁起(順観の縁起)此れ有る故に彼有り此れ起る故に彼起る還滅門の縁起(逆観の縁起)此れ無き故に彼無く此れ滅する故に彼滅す⇒「真理面(理)」「無相」「空間的側面」⇒「非有非無・非正非滅」⇒「無自性・空」まとめ龍樹(相依相待性の縁起)と天親(此縁性の縁起)の教義を融合させたのが、「曇鸞」※当時のレポートではこのまとめの部分が明らかに間違えていたので、ほとんど省略しました・・・^^;※「自性」≒「我」「アートマン」「変わることのない、そのもの本来の性質」「一人で勝手に存在する」という意味である。永久不変の存在として、過去・現在・未来のいつでもその本来の性質を保ったまま変わることのないもの。過去にはなくてのちに生成・消滅することのないもの。原因・条件に依存して存在しないもの。※「空」=「無自性」いかなるものにも「自性」など無いこと。「一人で勝手に存在するものなどあり得ないという事」2023/11/08 22:01:02365.神も仏も名無しさんlmGqG私の苦しみをながめると・・・(順観)[無明]→[行]→[職]→[各色]→[六処]→[触]→[受]→[愛]→[取]→[有]→[生]→[老死]私の苦しみが無くなるようにながめると・・・(逆観)[無明が滅す]→[行が滅し]→[職が滅し]→[各色が滅し]→[六処が滅し]→[触が滅し]→[受が滅し]→[愛が滅し]→[取が滅し]→[有が滅し]→[生が滅し]→[老死が滅す]2023/11/08 22:02:33366.神も仏も名無しさんlmGqG現象世界の聖化(自性)の否定を主張する縁起説は、しかし竜樹の時代においてはその役割を果さなくなってしま「中論』二十六章における縁起ー立川武蔵https://otani.repo.nii.ac.jp/record/7385/files/BGS_035-09.pdf『中論』における縁起は相依性のことであるという理解は近代学者の中にしばしば見受けられる。この場合の相依性とは、Xに依ってYの存在(あるいは生起)が可能となり、Yに依ってXの存在(あるいは生起)が可能となると、、、いうようにX、Y等の諸々のものが相互に依り合って存在しているのであって、XあるいはYはそれ自身の中に恒常不変な存在根拠を有するわけではない、という考え方である。原始佛教および部派佛教における縁起説が、例外的な場合を除いて、縁起の関係を構成する項(支分)Xから他の項(Y)への一方的な関係によって説いているのに較べ、「Xに依ってYが生ずる」(X← Y)および「Yに依ってXが生ずる」(Y ←X)というような、相互依存関係が強調されることは、たしかに『中論』の大きな特徴である。彼のこの視点は、「依りて生じあっている」現象世界への一層深い観察から生まれたものであり、同時に、現象世界の構成要素の自立性の否定の出発点となるものであった。2023/11/08 22:03:55367.神も仏も名無しさんlmGqG空の思想 4.龍樹(ナーガールジュナ)(1)空と縁起http://www.obpen.com/essay/20160629_01.html斉藤 征雄● 龍樹は主著「中論」で、般若経の空の思想を理論的に論証したとされる。その第一は、空と縁起の関係である。縁起は仏教教理の核心であり、すべてのものが原因と結果の関係性の中で相互にもたれ合いながら(相依性)存在しているという存在の原理をいう。そして、あらゆるものはその存在を決定づける条件が変化すればそのものも変化する運命にある(諸行無常)。人間の苦も縁起によってもたらされる。したがって苦をもたらす条件を解消すれば苦もまた解消できるのである。ブッダは人間の苦の因を「渇愛」としたが、その後縁起は、より緻密に体系化されて部派仏教・有部の時代には十二支縁起と呼ばれる形が確立していた。十二支縁起は、苦の根本原因を「無明」とする。そして過去の因が現在の果となり、現在の因が未来の果となる二重の因果関係(三世両重の因果という)の中で、胎生学的に時間を追って生起する十二支の各段階が示されるのである。もともと有部は、無数のダルマ(世界を構成する究極の要素)が瞬間瞬間に縁起が働いて集合して現象世界が生起するという考え方に立つ。そしてダルマは、不変の実体をもつ実有の存在とする。このような有部の考えに対する対立軸として生まれた空の思想は、あらゆるものが固定的な実体をもたないとみなす。現象世界ではもろもろの事物が消滅変遷するが、実体を持たないからそれは仮の姿であり、本質的にはものが生ずるということがない。生じないから滅もない(不生不滅)。こうしたことを前提に龍樹は、縁起に生起するという意味をもたせず、ものとものとが相互に依存しながら関係して存在することを縁起という、つまり相依性のみの意味で縁起をとらえた。「中論」の序(帰敬偈)において、縁起に「不生、不滅、不常、不断、不一、不異、不来、不去」の八つの否定命題(八不)をつけているのは、縁起に生起の意味を含めないことを意味している。そしてそのことによって「中論」は、ブッダの悟りの核心である縁起を中心に据えていること、そこでいう縁起は空と同義であることを示しているのである。(仏教学習ノート26)2023/11/08 22:05:14368.神も仏も名無しさんlmGqGだが、『中論』における縁起の意味は、相依性ということのみで、尽すことはできない。縁起は相依性のことであるとする説(相依説)では、縁起を構成する二つ以上の項自体の存在と、諸項間の関係の成立は肯定されている。そもそも縁起とは、【或るものA】に依って【或るものB】が生ずることであって、二つ以上の項の間の関係の肯定である。「中論』における縁起にあっては、しかしながら、縁起という関係を構成する二つ以上の項の存在のみならず、項の間の関係も否定される。すなわち、『中論』の「縁起」には、【相依性】という意味の他に、「言語的展開→【戯論】の【寂滅】」という意味も存するのである。その場合、「縁起」は言語的展開という「俗なるもの」を死滅させた「聖なる」状態を表現しているが、この「縁起」の二つの意味は、少なくとも【同一時において】は【成立し得ない】なぜならば【相依性】が成立するためには、二つ以上の項が必要であり、【言語的展開】が【寂滅】したときには、【相依性】という関係を【構成する項】も【存在しない】からである。縁起を構成する項は、言語的展開の部分に他ならない。一つの関係である【相依性】が【成立】するならば、その関係を成立させている【諸々の項の存在】も承認されている。一方、【言語的展開が止滅】するときには、如何なる【関係も存在せず】、更にそれを【構成する項も存在しない】。【関係もなく項もない】ということはそれを【表現する言葉もない】ことを意味する。更に、【言葉が断たれた】ときには、【イメージの出現もない】ことを意味する。言葉やイメージの世界と、それらの死滅した縁起とが、互いに相容れないものであることは『中論』の中で示唆されている。2023/11/08 22:05:41369.神も仏も名無しさんlmGqGしかしまた一方では「縁起」というひとつの言葉が①「相互に依り合って生じている」と、この世間の様相と世間を越えた②「聖なるもの」との、二つを表現している。このこと事体が、竜樹における①「俗なるもの」と②「聖なるもの」という「宗教における二極」の間の距離の近さを示している。2023/11/08 22:06:24370.神も仏も名無しさんlmGqG『中論』においては「聖なるもの」を表現する「縁起」という語は、すでに見たように数多くの否定的な限定詞によって修飾されていた。だが、『中論』帰敬偶の中、十あまりの修飾語の中で、否定的な意味を有しない修飾語が一つある。それは「吉祥なるもの、という語である。【生ずることなく、減することなき縁起】あるいは【言語的展開の止滅した縁起】というように否定的な意味の修飾語と並んで、否定詞を持たない修飾語を竜樹が【縁起】に対して附していることは注目さる尋へきである。もっとも、【吉祥】という語は、『中論』の中では三回用いられているが、いずれの場合も「【止滅】〔している〕」という、否定的な意味を有する表現と共に用いられている。すなわち、帰敬偈では、①≪【言語的展開】の【止滅】した【吉祥】なる【縁起】≫とあり、五章八偈では、②≪【見られるべきもの】〔すなわち眼の対象〕の【止滅】している【吉祥】なるもの≫とあり、二十五章二十四偈では③≪【すべての対象】の【止滅】、【言語的展開】の【止滅】は、【吉祥】である≫と述べられている。2023/11/08 22:09:01371.神も仏も名無しさんsdteH未だ書きかけですが……〉若時於所縁 智都無所得〉爾時住唯識 離二取相故『唯識三十頌』二十八偈若し時に【所縁】の於に【智】都(スベ)て所得無くなんぬ爾の時に【唯-識】に住す【二取の相を離れる】るが故に瑜伽行唯識学派では「通達位」を説きます。これは見道ともいいますが禅宗で云う見性と同じ義でありましょう、禅宗、特に臨済宗では「見性」という体験を重視します。見性してから本格的な修行が始まるとも云われる訳で、見性未体験者は「無眼子」とさえ云われ、一人前の扱いにされないくらいです。その見性という不思議な体験ですが、『成唯識論』では以下のように触れております※1。2023/11/09 17:58:28372.アハさんパシル語がイヌケリアゲウリャ!! ε=ε=ε=((( ゜皿゜)_/☆(*゜◇゜)ノノGzHZO病名:発達障害ASDの症状尊大の雀鬼イヌヤマが自供ス。『正直云って仏とは何かと問われても分かりません、公案が進んで無くよくわからないのです』 知障イヌ咬み談ウソブクのよ透ってないのに、もう40回も初関を透る俺様!と言い放つドマヌケ!40回も透ったら初関を透る、じゃねーべ!!なんで、みんなワイを無視すんねん!?大欲(たいよく)は無欲に似て足るを知る。煩悩即菩提の法相宗でええやろ・・・ほならなんでワイはこんなところにいるんねやろイヌ:悟りとか分からねーし、知らねーし、悟ってねーわ? ググるイヌヤマは常にシカトされ自己存在の確認要求哀願奴隷也悪霊イヌが鳴く:なんで 宗教板って まともなの俺だけなんだ?みんな間違ってばっか俺だけが正しい。みんな間違ってるのに何で正しい事を言ってる俺は否定ばっかりされるんだ?みんな俺の事を 凄いなと認めろよ。 俺は自分より優れた奴が ゆるせないんだよ(脅迫性人格障害の特徴)ナント妻子と月一、金曜夜7時からのお坐り会、茶菓(ちゃか)代ワンコインで、これが研究会出席虚勢のトマヌケ犬は誰からも疎まれる独善イヌヤマは月一第三金曜日夜7時茶菓代ワンコイン坐禅会に出ると偽証。命取りの摂心に親子で100回参加と虚飾スル新小岩の食業ドライバーイヌヤマとは法相宗(ほっそうしゅう)奈良興福寺(こうふくじ)前官長じっちゃんのお抱え運転手で食業ドライバーで、知ったかぶる以外に承認欲求が満足しない。多数者を演じ孤立セズと強弁し自作自演のおぞましい日々の無脊椎動物イヌヤマは成り済まし多重人格者で要治療インチキキチガイ雀鬼イヌヤマ麦、アルコホル発酵しイヌ麦焼酎なのに喜ばせ共有機能が絶えて無し。吠え吠み、オノレの尻尾をクルクル追うノミシラミ5ちゃんねるの会話はバトル形式で馴れ合いを禁じる。イヌヤマは、褒めてクレヨの哀願奴隷。相手を罵倒する悪口雑言の数々は外道イヌヤマへのリアル社会の絶対評価で、問いに問いで返す脊髄反射の脳足りんで悟前(ごぜん)未悟(みご)、金魚ドジョウと救い難い。① ググるシッタカ知障荒らしイヌヤマは無視放置スルーが一番ツライ、耐えられない。シッタカイヌヤマは常に誰かの反応レスを待ち焦がれ② 放置された固定観念イヌヤマは煽りや自作自演でアナタのレスを誘う。ワケワカメ糞邪鬼イヌヤマにノセられてレスしたらその時点でアナタも同類、負け。完敗③ ;反撃はイヌの滋養にして栄養であり最も悦ぶ事です。門前のヤセイヌにエサを投げ与えぬ事④ ;臭い汚いコワイ気持ち悪いイヌヤマが枯死する迄、孤独に暴れさせゴミが溜まれば削除2023/11/12 01:54:35373.馬GAq2q次、通達位其相云何。頌曰若時於所縁 智都無所得爾時住唯識 離二取相故論曰。若時菩薩於所縁境無分別智都無所得。不取種種戲論相故。爾時乃名實住唯識眞勝義性。即證眞如智與眞如平等平等倶離能取所取相故。能所取相倶是分別。有所得心戲論現故。有義此智二分倶無。説無所取能取相故。有義此智相見倶有。帶彼相起名縁彼故。若無彼相名縁彼者應色智等名聲等智。若無見分應不能縁。寧可説爲縁眞如智。勿眞如性亦名能縁。故應許此定有見分。ーーーーー2023/11/18 17:56:26374.神も仏も名無しさんGAq2q次の、【通達の位】の【其の相】云何ぞ。頌 曰く、●若し時に、【所縁】の於に、智都(スベ)て【得る所ハ 無く】なんぬ。爾の時に、【唯-識】に住す、【二取(能・所)】の相を、離れるるが故に。論に曰く、若し時に、菩薩いい、所縁の境に於 イテ ≪【無分別智】ト≫ いい、都(スベ)て【得 る所ハ 無く】なんぬ。種々の【戯論の相】を、取らざる(トラナイ)故に。璽(ナンジ)の、時に乃(イマ)し、実に【唯-識】の、【真勝義性】に、住すと名づく。即ち【真如】を【証する智】と、【真如】と【平等平等】(ヒトシイ)にして、倶(トモ)に【 能・所 】を離れざる(ハナレナイ)が故に。【能取(捉える主体)】の所の【相】は、此れ【分別】なり。【有所 得の心】にのみ【戯論】は現ずるが故に。●有義ニは、【此の智】には、 【二分(見・相)】倶(トモ)に無し。【所取(とる対象)・能取(とる主体)】の 相(すがた)無しと、説けるが故に。●有義ニは、此の智には、 【相(すがた)・見(みること)】倶(トモ)にあり。【彼の相】を、帯びて起こるを【彼を縁ず】と名づくるが故に。若し、【彼の相】は無くとも【彼を縁ず】と名ヅくといはば、應(マサ)に【色智】の等きを【声等】の智と名ヅくべし若し【見分】無くんば、【能縁(認識主観)】にあらざるべし。寧(イズク)んぞ説いて、【真如】を【縁する智】を為す可(ベ)けむや。勿(ナカレ)、【真如】の性をも、また【能縁(認識主観)】と名ヅけてむが故に、此れには定んで【見分】も有りと許すべし。2023/11/18 17:56:43375.神も仏も名無しさんGAq2q● のう‐えん【能縁】対象となるものを認識する主観。所縁に対していう。●ずい‐えん【随縁】縁に従うこと。縁に従って種々の相を生じること。● 寧んぞ-いずくんぞ「どうして~することがあろうか、いや、ない」という反語の意味で用いられる表現。漢文読み下しの用語● べけむの意味。・分類連語…だろう。…はずであろう。…べきであろう。2023/11/18 17:57:30376.神も仏も名無しさんGAq2q 若時於所縁 智都無所得 爾時住唯識 離二取相故若し時に所縁の於に 智都て所得無くなんぬ爾の時に唯識に住す 二取の相を離れるるが故に『唯識三十頌』二十八偈』●瑜伽行唯識学派では「通達位」を説きます。これは見道ともいいますが禅宗で云う見性と同じ義でありましょう。禅宗、特に臨済宗では「見性」という体験を重視します。見性してから本格的な修行が始まるとも云われる訳で、見性未体験者は「無眼子」とさえ云われ、一人前の扱いにされないくらいです。その見性という不思議な体験ですが、『成唯識論』では以下のように触れております。なお、テキストは以下を参照にしております。●漢文は「SAT大正新脩大藏經テキストデータベース」●和訳は『国訳大蔵経 論部第十巻 国訳成唯識論』ーーーーーー2023/11/18 17:58:09377.神も仏も名無しさんGAq2q「頌曰」と「論曰」は、頌は唯識三十頌を、論は成唯識論を云います。即ち成唯識論は唯識三十頌の解説書って事です。●「所縁」は「相分、捉えられるもの、対象等」を●「能縁」は「見分、捉えるもの、主体等」を意味します。●「二取」は我見・法見。●「いい」は強調です。●「平等平等」とは、≫心と境相称ひ、如と智とを冥合して倶に二取を離れ、諸の戯論を絶したり。故に平等平等と名く(国訳大蔵経)2023/11/18 18:10:10378.アハさんパシル語がイヌケリアゲウリャ!! ε=ε=ε=((( ゜皿゜)_/☆(*゜◇゜)ノノPHJ3R> 無我がわかったら坐禅しなくても良いとは思うんだけどどうなんだろうな。 』修行者、求道者、修行僧は、やはり さとりを求めて行きます。さとれば、さとりが無く、無我とは、真理(さとり)です、が 理解できるものでありませんく、まさに 体得します。その状態を 石、とも 言います。突然 ストーン と、自他が無くなります。これを 一と一は、二では無い。一の如し、一如である、言い表します。この一如に取り組む公案が有ります。両手で打てば音が鳴る。では、片手の人が叩く拍手の音を聞いてこい、と言うもので、これに取り組みました。ぜひ、とも取り組んでいただきたいものです。音を聞くのだが、片手では拍手ができないから、音が鳴らないので聞こえない。その聞こえない音を聞け、と 公案は いう。聞こえない音が聞こえる。 そこが 色即是空。 初関(しょかん)を透(とお)る。色とは片手の人が叩く拍手です。片手の人が叩く音を聞いた、そこが、色即是空です。真理(さとり) です。趙州従しん(ぢょうしゅう・じゅうしん)の無字の公案では長年かかってもなお悟れず死んでいく者も多かった事から、修行僧に対して白隠禅師が新たに隻手の音声(せきしゅ の おんじょう)の公案を与え、沢山の修行者に悟らせようと苦心した公案です。白隠慧鶴禅師(はくいん えかく ぜんじ) 隻手の音声(せきしゅのおんじょう)両掌(りょうしょう)打って音声あり、隻手になんの声やある。隻手の声を拈提(ねんてい)せよ。>> 理屈っぽいけど、自他一如なら、あなたが叩こうがわたしが叩こうが同じ、わたしが叩きます、パンパンで終了。あとは自他一如、自分から心で隻手の人と一つになる。すると、相手の手を叩く音がきこえる。自他一如や自己の愛情、慈悲心を育てる公案だったとか 』 ありがとうございます。これは理解したり、解釈を咥えたりするものでじゃないので、お怒りを受けるともいますが、字句の解釈に拘泥するものではありません。先にも言いましたが、自他一如を体得する事です。あなたと私で、ぱんぱん。トンチ、になりましたね。片手の人が、です。置き換えて、これでどうだ、と言うわけにはまいりません。聞こえるはずのない、片手の人が叩く拍手の音を聞く、のです。2023/11/18 19:12:25379.神も仏も名無しさん0vH75● こうした四智は、仏果に至ってはじめて得られるのではなく、十地の初地位で無分別智を起こして「見道」に入るのですが、そこにおいて第六意識が妙観察智となり、それに引かれて第七末那識が平等証智になる。● それらには先に一言したように、ともに根本無分別智と後得智があります。すなわち、まず真如を証し、その上で広く世界を分析していくのが妙観察智で、また、平等証智は、自他の平等性をさとり、その上で諸法を平等に縁ずるわけであります。● このように第六意識と第七末那識とは見道においてそれぞれ妙観察智・平等証智を開くのですが、その後の修道で更に【二阿僧祇劫】の間、【十地の修行を積んで】【仏果に至って】はじめて、【前五識】が、ようやく【成所作智】となり、阿頼耶識が【大円鏡智】になります。>(『唯識のこころ 「観心覚夢鈔をよむ」』 竹村牧男 P252)ーーーーー>この段階を見道という。真如に達するからまた通達位ともいわれる。具体的には四智のうち妙観察智と平等証智との二つの智が生ずる。>(『唯識とは何か「法相二巻抄」を読む』 横山紘一 P384)● 前述したように【四智】のうちで【大円鏡智】と≪【成所作智】≫とは、この【仏位かにおいてはじめて生ずる。>(『唯識とは何か「法相二巻抄」を読む』 横山紘一 P405)ーーーーー● なお、この【転識得智】は、【仏陀】になって一気に【識】が【智慧】に【転換】するのではない。【初地】の【空性体験】に依って【平等証智】と【妙観察智(後得智)】が【獲得】され、【十地において】繰り返し【無分別智】を【体験した結果】、【仏陀】になると【大円鏡智】と【成所作智】が【獲得される】。>(『「唯識三十頌」を読む』 廣澤隆之 P285)● 伝統教学では、このような智慧の獲得の階位について、「妙観・平等、初地文得、大円・成事、唯仏果起【妙観察智と平等証智】は【初地】で文得され、【大円鏡智と成所作智】は唯仏果でおこる)」という詩文で暗記することになっている。>(『「唯識三十頌」を読む』 廣澤隆之 P285~286)2023/11/19 22:39:27380.神も仏も名無しさん7Madh● 三悉檀に対して≪〝第一義悉檀〟≫とは、【前三者】におけるような【相対的真実】を【説いたものでは無く】、≪【諸仏、独覚、阿羅漢等】≫が≪【証得した】≫人間のあらゆる≪【〝概念〟から抜け出た】≫≪【〝概念〟から抜け出た】≫≪【〝概念〟から抜け出た】≫≪【究極的な真理(真如)】≫≪【究極的な真理(真如)】≫≪【究極的な真理(真如)】≫となります。2023/11/20 15:30:25381.神も仏も名無しさん7Madh● 何処まで行っても≪【不完全】≫な≪【戯論】≫にしかならない【概念的・論理的・分析的・分別的】な【認識・思考・言及】に浴するのではなく、そうした諸々の≪【戯論】≫が≪【滅した境地】≫をこそ≪【戯論】≫が≪【滅した境地】≫をこそ≪【戯論】≫が≪【滅した境地】≫をこそ≪【釈迦が到達】≫した≪【至高の境地・根本的境地】≫として≪【釈迦が到達】≫した≪【至高の境地・根本的境地】≫として≪【釈迦が到達】≫した≪【至高の境地・根本的境地】≫として賞揚することが、『中論』及び中観派の本義である。2023/11/20 15:30:49382.神も仏も名無しさん4703J仏教学の大野栄人博士(玉琳山天寧寺住職)が書かれた『法華玄義の研究』という論文です。その中の「第20」で詳しく説明されております。法華玄義の研究 (20)「円融三諦」については、以下の論文の(P.74-P.75)を参照。http://hokekyou.up-jp.com/wp-content/uploads/2022/10/『法華玄義』の研究-20.pdfーーーーー次第三観と一心三観の研究論文がここにあります。短い論文なので取り合えず目を通してみhttps://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/44/2/44_2_540/_pdf/-char/ja2023/11/21 18:17:40383.神も仏も名無しさんHKh56http://hokekyou.up-jp.com/wp-content/uploads/2022/10/-20.pdf2023/11/21 19:54:52384.神も仏も名無しさんHKh56十界互具・四悉檀「三五の法門」や「本因本果の法門」菩薩の52位2023/11/21 20:43:44385.神も仏も名無しさん4703J四門の料簡ってこれも十界互具の話なのね。四聖の互具。声聞・縁覚・菩薩・仏の四聖ね。「声聞・縁覚・菩薩・仏」の各々に更に「声聞・縁覚・菩薩・仏」があるという話。例えば声聞の覚りである此縁性縁起(倶舎論の世界観ね)を覚った境涯で『唯識』を理解している鹿野園のような人を「蔵教の菩薩」と言う。蔵教は声聞に対して説かれた教え。空でいえば細かく分析する空の析空。縁覚の境涯に入ったJBLが理解する『唯識』は、「通教の菩薩」にあたる。↑の場合は空で言えば体空ね。相依性を覚った境涯。法空も覚っている様子は『唯識』は「別教の菩薩」にあたります。円教のレベルで『唯識』を理解しようとしたら『法華経』を理解しないといけません。その『法華経』に至ってはじめて明かされる法門が「十界互具」。だからその「十界互具」が何たるかを説明する為に、『十法界事』の御書をここんとこずっと紹介しております。ちなみに『唯識』を理解することが何で菩薩の境涯にあたるかと言うと、次のような振り分けになるからです。 無我思想を理解した境地=声聞(蔵教) 空思想を理解した境地=縁覚(通教) 唯識思想を理解した境地=菩薩(別教)此縁性縁起や相依性縁起を覚れば、それが阿頼耶識に種子として薫習されます。此縁性縁起が阿頼耶識に薫習されている人は、対象のモノを前五識で認識しますがその「識」に転識が起こります。それが「前の五識は成所作智」という前五識に起こる転識です。<仏意の五重玄>諸仏の内証に五眼の体を具する 妙=仏眼:第九識は法界体性智 法=法眼:第八識は大円鏡智 蓮=慧眼:第七識は平等性智 華=天眼:第六識は妙観察智 経=肉眼:前の五識は成所作智(←ここ)前五識に起こる転識とは、認識器官で捉えた情報を「五識」が別の何かを捉えだします。別の何かとは、今までは捉えきれていなかった感覚です。前五識に転識が起こるとそれまでは見た目で判断していた人物がその人の因縁を観じとるように変わって来ます。これは、仏教を実践していく中で最初に起こる体験(出来事=縁起)です。(此縁性縁起)2023/11/21 21:32:36386.神も仏も名無しさん4703J「体空」を覚らないと相依性縁起は種子として阿頼耶識に薫習されません。2023/11/21 21:34:09387.神も仏も名無しさんz2wXgまずこちらの創価版の御書講義録を開いてhttp://blog.livedoor.jp/inae_sokagakkai/archives/cat_52260.html又大乗の菩薩に於て心生の十界を談ずと雖も而も心具の十界を論ぜず、又或る時は九界の色心を断尽して仏界の一理に進む是の故に自ら念わく三惑を断尽して変易の生を離れ寂光に生るべしと、然るに九界を滅すれば是れ則ち断見なり進んで仏界に昇れば即ち常見と為す九界の色心の常住を滅すと欲うは豈に九法界に迷惑するに非ずや。の中の「九界を滅すれば是れ則ち断見なり進んで仏界に昇れば即ち常見と為す」の講義文に目をとおされてください。講義文の次の↓ところです。● 権大乗教の心生十界の法門は断常の二見に堕するだけである、と破折されているところである。● 心生十界は心から十界を生ずると説くのであるが、十界の互具を説かないゆえに成仏するためには仏界の一理のみを生ずることを目指さなければならないことになる。逆に言えば、心から生ずる九界についてはこれを滅するということである。● 同じことを一代聖教大意では「法華経已前の諸経は十界互具を明さざれば仏に成らんと願うには、必ず九界を厭う、九界を仏界に具せざるが故なり、されば必ず悪を滅し煩悩を断じて仏には成ると談ず凡夫の身を仏に具すと云わざるが故に、されば人天悪人の身を失いて仏に成ると申す、此れをば妙楽大師は厭離断九の仏と名く」(0403:09)と説かれている。つまり、権大乗では十界互具を説かないゆえに「厭離断九の仏」となるのである。すなわち、九界を厭い離れて人天悪人の身を失い仏界の一理のみに到達するのが権大乗の仏である。ここで、九界を滅する点が断見となり、仏界のみを常住とみているのが常見となる、と問者は難詰しているのである。ーーーーーhttps://k-dic.sokanet.jp/%E4%B8%89%E6%83%91%EF%BC%88%E3%81%95%E3%82%93%E3%82%8F%E3%81%8F%EF%BC%89/①見思惑は、見惑と思惑のこと。見惑は、後天的に形成される思想・信条のうえでの迷い。思惑は、生まれながらにもつ感覚・感情の迷い。この見思惑を断じて声聞・縁覚の二乗の境地に至るとされる。唯識を説かない上座部(テーラワーダ)や禅宗ではこの見惑と思惑(見思惑)を瞑想によって寂滅させる。2023/11/21 22:42:35388.神も仏も名無しさんt7Gnn● こうした四智は、仏果に至ってはじめて得られるのではなく、十地の初地位で無分別智を起こして「見道」に入るのですが、そこにおいて第六意識が妙観察智となり、それに引かれて第七末那識が平等証智になる。● それらには先に一言したように、ともに根本無分別智と後得智があります。すなわち、まず真如を証し、その上で広く世界を分析していくのが妙観察智で、また、平等証智は、自他の平等性をさとり、その上で諸法を平等に縁ずるわけであります。● このように第六意識と第七末那識とは見道においてそれぞれ妙観察智・平等証智を開くのですが、その後の修道で更に【二阿僧祇劫】の間、【十地の修行を積んで】【仏果に至って】はじめて、【前五識】が、ようやく【成所作智】となり、阿頼耶識が【大円鏡智】になります。>(『唯識のこころ 「観心覚夢鈔をよむ」』 竹村牧男 P252)ーーーーー2023/11/24 17:59:30389.神も仏も名無しさんt7Gnn● この段階を【見道】という。≪【真如】≫に達するからまた≪【通達位】≫ともいわれる。具体的には、【四智】のうち【妙観察 智】と【平等証 智】との、二つの智が生ずる。(『唯識とは何か「法相二巻抄」を読む』 横山紘一 P384)ーーーーー● 前述したように【四智】のうちで≪【大円鏡智】≫と≪【成所作智】≫とは、この【仏位】かにおいて、はじめて生ずる。(『唯識とは何か「法相二巻抄」を読む』 横山紘一 P405)ーーーーー● なお、この【転識得智】は、≪【仏陀】≫になって一気に、≪【識】≫が≪【智慧】≫に、≪【転換】≫するのではない!【初地】の≪【空性体験】≫に依って≪【②平等証智】≫と≪【①妙観察智】≫(後得智)が【獲得】され、【十地において】繰り返し、≪【無分別智】≫を【体験した結果】、≪【仏陀(ブッダ)】≫になると【大円鏡智】と【成所作智】が【獲得される】。>(『「唯識三十頌」を読む』 廣澤隆之 P285)● 伝統教学では、このような智慧の獲得の階位について、「①妙観・②平等、初地文得、②大円・③成事、唯仏果起【①妙観察智と②平等証智】は【初地】で文得され、【③大円鏡智】と【④成所作智】は唯、仏果でおこる)」という詩文で暗記することになっている。>(『「唯識三十頌」を読む』 廣澤隆之 P285~286)2023/11/24 18:09:16390.神も仏も名無しさんt7Gnn● こうした【四智】は≪【仏果】≫に至ってはじめて得られるのではなく、【十地】の【初地位】で、≪【 無 分 別 智 】≫を起こして【見道】に入るのですが、そこにおいて、≪【第六意識】≫が、≪【妙観察智】≫となり、それに引かれて≪【第七末那 識】≫が≪【 平 等 証 智 】≫になる。● それらには先に一言したように、ともに、≪①【根本無分別智】≫と≪②【 後 得 智 】≫があります。すなわち、まず、≪①【 真 如 】≫を証し、その上で広く世界を分析していくのが、≪②【妙観察 智】≫で、また、≪【平等証智】≫は≪①【自他】の【平等性】≫を悟り、その上で、≪②【諸法】を【平等】≫に縁ずるわけであります。● このように、【第六意識】と【第七末那識】とは、≪【見道】≫において、それぞれ≪【妙観察智】≫と、≪【平等証智】≫を開くのですが、その後の≪【修道】≫で更に【二阿僧祇劫】の間、【十地の修行を積んで】【仏果に至って】はじめて、【前五識】が、ようやく、≪【成所作智】≫となり、【阿頼耶識】が、≪【大円鏡智】≫になります。>(『唯識のこころ 「観心覚夢鈔をよむ」』 竹村牧男 P252)ーーーーー2023/11/24 19:14:02391.神も仏も名無しさんt7Gnn● この段階を【見道】という。≪【真如】≫に達するからまた≪【通達位】≫ともいわれる。具体的には、【四智】のうち【妙観察 智】と【平等証 智】との、二つの智が生ずる。(『唯識とは何か「法相二巻抄」を読む』 横山紘一 P384)ーーーーー【初地】の●≪【空性体験】≫に依って≪【②平等証智】≫と≪【①妙観察智】≫(後得智)が【獲得】され、【十地において】繰り返し、●≪【無分別智】≫を【体験した結果】、≪【仏陀(ブッダ)】≫になると【大円鏡智】と【成所作智】が【獲得される】。(『「唯識三十頌」を読む』 廣澤隆之 P285)ーーーーー●≪【 無 分 別 智 】≫を起こして【見道】に入るのですが、そこにおいて、≪【第六意識】≫が、≪【妙観察智】≫となり、それに引かれて≪【第七末那 識】≫が≪【 平 等 証 智 】≫になる。● それらには先に一言したように、ともに、≪①【根本無分別智】≫と≪②【 後 得 智 】≫があります。●すなわち、まず、≪①【 真 如 】≫を証し、その上で広く世界を分析していくのが、≪②【妙観察 智】≫で、また、≪【平等証智】≫は≪①【自他】の【平等性】≫を悟り、その上で、≪②【諸法】を【平等】≫に縁ずるわけであります。(『唯識のこころ 「観心覚夢鈔をよむ」』 竹村牧男 P252)ーーーーー2023/11/24 19:27:42392.神も仏も名無しさんt7Gnn● 唯識論の遍行触・作意・受・想・思唯識論の別境欲・勝解・念・定・慧● 倶舎論の大地法触・作意・受・想・思・欲・勝解・念・定・慧唯識論の遍行触・作意・受・想・思唯識論の別境欲・勝解・念・定・慧2023/11/24 22:15:09393.神も仏も名無しさんh66wu別境① <遍行>と同性質と考えられていたが、徐々に区別され、<別所>の五心所(欲、勝懈、念、定、慧)に分類された。② 前五識、第六意識と共働するが、<慧>のみは、第七末那識とも共働する。③五心所それぞれ対象が異なり、そのときに応じて単独で、二あるいは五全部が働く。1) <欲>→<所楽の境>=ねがわしい対象2) <勝解>→<決定の境>=確定的な対象3) <念>→<曾習の境>=以前に経験したこと4) <定><慧>→<所観の境>=深い智慧で捉えた対象2023/11/25 20:22:16394.神も仏も名無しさんh66wuこれらは、そのときどきで善くも悪くもなる不定みたいなイメージ●欲:意欲。●勝解:確認。●念:正念(憶念)・失念●定:正念(瞑想)・散乱(動揺)●慧:有漏の智慧・悪見{有身見・辺執見・邪見・見取見・戒禁取見}2023/11/25 20:39:46395.神も仏も名無しさんh66wu● 瑜伽行派の心所説では,五遍行のほかに,欲などの五つの心所を五つの「別境」としている.この五遍行と五別境をあわせると,説一切有部(以下有部)の説く十大地法になる.つまり,瑜伽行派の五遍行と五別境は,有部の十大地法と密接な関係を有する.先行研究では,遍行・別境と十大地法との比較検討が行われた.● その結果,別境五法の定義は有部のものと大きな相違が認められるのに対して,遍行五法の定義は,有部の説とほぼ同様であることが指摘されている.したがって,従来の研究では,瑜伽行派の五遍行と五別境は,有部の十大地法を継承し,瑜伽行派独自の考察によってこれを二分したものであるとされている.2023/11/25 20:40:27396.神も仏も名無しさんh66wu● 先行研究は,瑜伽行派が十大地法を五遍行と五別境に二分した主要な理由の一つとして,作意などの五心所は,アーラヤ識を含め,すべての識に相応する一方,欲などの五心所はアーラヤ識には相応しないという同派の考え方を挙げている.一方,先行研究は,アーラヤ識が作意などの五心所と相応するという説は,アーラヤ識の潜在性と適合しないうえ,その他の教説とも齟齬するということを指摘している.● このことを説明するため,先行研究は,アーラヤ識が五心所と相応するという説は,有部アビダルマに説かれる識の性質(心所との相応関係など)をアーラヤ識の概念に追加したものである,と結論している.以上のことから,先行研究では,五遍行説は,有部の五心所の定義を継承しつつ,五心所の遍在する性質を八識に敷衍適用した,形式的な理論にすぎない,と考えられている.2023/11/25 20:40:57397.神も仏も名無しさんh66wu● 要するに、なんで遍行と別境に分けたかっていうと遍行については、ほぼ倶舎論の大地法を継承したでも、別境については、倶舎論の大地法とは解釈が大きく異なるだから、2つに分けた● 唯識論の解釈では、遍行は阿頼耶識に相応するだが、別境は阿頼耶識に相応しないそこが違うらしい2023/11/25 20:41:42398.神も仏も名無しさんkMP2O● 計量部「世界は、過去・現在・未来にわたって存続する」という説一切有部の主張に反対し、「現在しかない」と主張した心の作用を51の心所に細かく分類するという説一切有部の主張に反対し、「心は1つしかない」と主張した● インドの仏教思想 主な流れ1、初期仏教:お釈迦様の教え 紀元前6世紀頃2、仏教界が上座部と大衆部に根本分裂 紀元前5世紀頃3、説一切有部(倶舎論):「仏教の基礎理論を体系化」 紀元前200年頃~4、経量部(倶舎論):「説一切有部からの分派」 西暦300年頃~5、中観派(中論):「すべては空であり実体が無い」 西暦200年頃~6、唯識派(唯識論):「世界は認識のみ」 西暦400年頃~7、如来蔵思想:「誰でも成仏できる」 上記2~6と同時並行的に発展(2~4が小乗仏教、5~7が大乗仏教)※ チベット仏教ゲルク派では、説一切有部・経量部・中観派・唯識派が「四大学派」とされる2023/11/27 15:15:47399.神も仏も名無しさんkMP2O初期仏教の世界観世界(とくに人間)は、五蘊の寄せ集めでできている。「我」として執着する実体は無い。世界は、十二処・十八界の認識作用で成り立っている。自分が認識しているもの、それが世界のすべてである。↓五蘊・十二処・十八界1、五蘊(ごうん)・色 物質的な存在(身体)・受 感受する作用・想 表象する作用・行 意志する作用・識 認識する作用2、十二処(じゅうにしょ)・六根:六つの認識器官眼根・耳根・鼻根・舌根・身根・意根・六境:六つの認識対象色境・声境・香境・味境・触境・法境六根と六境を合わせて十二処3、十八界(じゅうはちかい)・六識:六つの認識作用眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識十二処に六識を加えて十八界2023/11/27 15:17:44400.神も仏も名無しさんkMP2O● お釈迦様の入滅後、多くの部派に分かれて、仏教理論の体系化が進んだ最も有力な「説一切有部」は、存在を「五位七十五法」に分類した初期仏教の「五蘊・十二処・十八界」よりだいぶ数が増えた説一切有部の思想は、後に「倶舎論」としてまとめられた↓(1)五位七十五法法(ダルマ)=存在するものに2種類・有為(うい)…煩悩で汚れたもの・無為(むい)…煩悩で汚れてないもの1~4は有為法、5は無為法1、色・・・物質的現象 11種類 眼・耳・鼻・舌・身・ 色・声・香・味・触・ 無表色2、心・・・心の本体 1種類3、心所・・・心の作用 46種類 大地 常駐する心の動き 大善地 善の動き 大不善地 悪の動き 不定 どちらでもない心の動き 大煩悩地 根本的な煩悩 小煩悩地 付随する煩悩4、心不相応行・・・ 14種類色(物質)にも、心(精神)にも分類されないもの5、無為・・・ 3種類常住不変な存在虚空、択滅、非択滅2023/11/27 15:18:25401.神も仏も名無しさんkMP2O初期仏教の根本教義 四諦(したい)苦諦(くたい)生きることは本質的に苦である。一切皆苦生きるということは、苦を背負って日々を過ごすことだ。どこかに心優しい神様がいて手をさしのべて救済してくれるようなことは絶対にない。集諦(じったい)あらゆる出来事は必ず何らかの原因によって起こる。苦の原因は煩悩である。満足が得られないから、苦しくなっていく。滅諦(めったい)煩悩を消すことで苦が滅する。この世で起こっているものはすべてうつろう。諸行無常現実をありのままに受け入れ、その世界に耐えるべく、自分の価値観・世界観を変えていく。この世の一切の事物は自分のものではないと自覚する。道諦(どうたい)煩悩をなくし、悟りを得るための八正道を実践する。2023/11/27 15:44:00402.アハさんパシル語がイヌケリアゲウリャ!! ε=ε=ε=((( ゜皿゜)_/☆(*゜◇゜)ノノJksXr> 無我がわかったら坐禅しなくても良いとは思うんだけどどうなんだろうな。 』修行者、求道者、修行僧は、やはり さとりを求めて行きます。さとれば、さとりが無く、無我とは、真理(さとり)です、が 理解できるものでありませんく、まさに 体得します。その状態を 石、とも 言います。突然 ストーン と、自他が無くなります。これを 一と一は、二では無い。一の如し、一如である、言い表します。この一如に取り組む公案が有ります。両手で打てば音が鳴る。では、片手の人が叩く拍手の音を聞いてこい、と言うもので、これに取り組みました。ぜひ、とも取り組んでいただきたいものです。音を聞くのだが、片手では拍手ができないから、音が鳴らないので聞こえない。その聞こえない音を聞け、と 公案は いう。聞こえない音が聞こえる。 そこが 色即是空。 初関(しょかん)を透(とお)る。色とは片手の人が叩く拍手です。片手の人が叩く音を聞いた、そこが、色即是空です。真理(さとり) です。趙州従しん(ぢょうしゅう・じゅうしん)の無字の公案では長年かかってもなお悟れず死んでいく者も多かった事から、修行僧に対して白隠禅師が新たに隻手の音声(せきしゅ の おんじょう)の公案を与え、沢山の修行者に悟らせようと苦心した公案です。白隠慧鶴禅師(はくいん えかく ぜんじ) 隻手の音声(せきしゅのおんじょう)両掌(りょうしょう)打って音声あり、隻手になんの声やある。隻手の声を拈提(ねんてい)せよ。>> 理屈っぽいけど、自他一如なら、あなたが叩こうがわたしが叩こうが同じ、わたしが叩きます、パンパンで終了。あとは自他一如、自分から心で隻手の人と一つになる。すると、相手の手を叩く音がきこえる。自他一如や自己の愛情、慈悲心を育てる公案だったとか 』 ありがとうございます。これは理解したり、解釈を咥えたりするものでじゃないので、お怒りを受けるともいますが、字句の解釈に拘泥するものではありません。先にも言いましたが、自他一如を体得する事です。あなたと私で、ぱんぱん。トンチ、になりましたね。片手の人が、です。置き換えて、これでどうだ、と言うわけにはまいりません。聞こえるはずのない、片手の人が叩く拍手の音を聞く、のです。2023/11/29 00:53:07403.神も仏も名無しさんiemtR唯識思想 7.『存在の三つの形態(三性説)と転識得智(悟り)』斉藤 征雄● 悟る、とはどういうことか。唯識思想は、悟りの構造を次のように説明する。あらゆるものは、三つの有り方(形態)において存在するという。すなわち①「他に依存する存在形態」 (依他起性・えたきしょう)、②「仮構された存在形態」 (遍計所執性・へんげしょしゅうしょう)、③「完成された存在形態」 (円成実性・えんじょうじつしょう)の三つである。これを「三性説」という。●《A》「他に依存する存在形態」・・・アーラヤ識を因として現れては消える(刹那滅)現象世界。縁起によって成り立つ世界。したがって、空である。●《B》「仮構された存在形態」・・・本来、空である世界を、心(識)が自我と物に執着する結果、実在と思い込む、煩悩の世界 。●《C》「完成された存在形態」・・・修行によって【自我と物】に対する【執着から脱した】世界。空、真如、涅槃などと呼ばれる、いわゆる悟りの世界。2023/11/29 16:22:53404.神も仏も名無しさんiemtR● 三つの存在形態は、並立して別々に存在しているのではない。一つのある存在が、われわれのかかわり方に応じて形を変えて現れると考えた方がわかりやすい。仮に三つの存在形態を、それぞれ《A》《B》《C》とする。●《A》は本来、空である。しかしわれわれ凡夫は、本来空である《A》の世界にありながら、≪【虚妄なる分別】≫により自我と物に執着してそれを実在と思い込む、煩悩の世界《B》にいる。●《C》は悟りの世界である。現象世界《A》が、本来 空であることを観じ、自我と物に対する執着から脱して、ありのままの姿が見えるようになる。《C》は内容的には《A》と同じと考えてよい。● 三つの存在形態論(三性説)は、仏教教理の核心である、縁起の世界《A》を要として、そこから煩悩の世界《B》と悟りの世界《C》を位置づけているといえる。● 悟るとは、《B》から《C》への転換を意味する。≪【ただ識のみ】≫ の、煩悩の世界から、完成された悟りの智慧の世界への転換、すなわち【識】から【智】への転換であるから≪【転識得智】≫という。● では≪【転識得智】≫は、いかにして可能か。われわれの、心の中の【アーラヤ識】には、【煩悩の種子】を宿している。したがって、【アーラヤ識】の【煩悩の種子】を、いかにして取り除くかが、唯識思想の【悟りの構造】の鍵となる。そして鍵は、【瑜伽行】にある。2023/11/29 16:23:18405.神も仏も名無しさんKLMf9● 勿眞如性亦名能縁。故應許此定有見分。 有義此智見有相無。 説無相取不取相故。 雖有見分而無分別説非能取非取全無。 雖無相分而可説此帶如相起不離如故。 如自證分縁見分時不變而縁此亦應爾。 變而縁者便非親證如後得智應有分別。 故應許此有見無相。ーーーーー● 勿、真如の性をも、また能縁と名けてむが故に、此れには定んで見分も有りと許すべし。有義は、此の智慧には、見は有りて相は無し相無くして取る、相をば取らずと説けるが故に見分は有りと雖も、而も無分別なるをもって、能取に非ずと説けり。取ること全無には非ず相分は無しと雖も、而も此れいい如の相を帯して起こると説くべし。如に離れざるが故に自証分いい見分を縁ずる時に変せずして縁ずるが如く、此れも亦た応に璽るべし変じて縁ぜば便ち親しく証するに非ずなんぬ。後得智の如く応に分別あるべし故に応に此れには見のみありて相は無しを許すべし2023/11/29 17:22:44406.アハさんパシル語がイヌケリアゲウリャ!! ε=ε=ε=((( ゜皿゜)_/☆(*゜◇゜)ノノJksXr> 無我がわかったら坐禅しなくても良いとは思うんだけどどうなんだろうな。 』修行者、求道者、修行僧は、やはり さとりを求めて行きます。さとれば、さとりが無く、無我とは、真理(さとり)です、が 理解できるものでありませんく、まさに 体得します。その状態を 石、とも 言います。突然 ストーン と、自他が無くなります。これを 一と一は、二では無い。一の如し、一如である、言い表します。この一如に取り組む公案が有ります。両手で打てば音が鳴る。では、片手の人が叩く拍手の音を聞いてこい、と言うもので、これに取り組みました。ぜひ、とも取り組んでいただきたいものです。音を聞くのだが、片手では拍手ができないから、音が鳴らないので聞こえない。その聞こえない音を聞け、と 公案は いう。聞こえない音が聞こえる。 そこが 色即是空。 初関(しょかん)を透(とお)る。色とは片手の人が叩く拍手です。片手の人が叩く音を聞いた、そこが、色即是空です。真理(さとり) です。趙州従しん(ぢょうしゅう・じゅうしん)の無字の公案では長年かかってもなお悟れず死んでいく者も多かった事から、修行僧に対して白隠禅師が新たに隻手の音声(せきしゅ の おんじょう)の公案を与え、沢山の修行者に悟らせようと苦心した公案です。白隠慧鶴禅師(はくいん えかく ぜんじ) 隻手の音声(せきしゅのおんじょう)両掌(りょうしょう)打って音声あり、隻手になんの声やある。隻手の声を拈提(ねんてい)せよ。>> 理屈っぽいけど、自他一如なら、あなたが叩こうがわたしが叩こうが同じ、わたしが叩きます、パンパンで終了。あとは自他一如、自分から心で隻手の人と一つになる。すると、相手の手を叩く音がきこえる。自他一如や自己の愛情、慈悲心を育てる公案だったとか 』 ありがとうございます。これは理解したり、解釈を咥えたりするものでじゃないので、お怒りを受けるともいますが、字句の解釈に拘泥するものではありません。先にも言いましたが、自他一如を体得する事です。あなたと私で、ぱんぱん。トンチ、になりましたね。片手の人が、です。置き換えて、これでどうだ、と言うわけにはまいりません。聞こえるはずのない、片手の人が叩く拍手の音を聞く、のです。2023/11/29 18:44:53407.神も仏も名無しさんIKohg532 リダン◆iKlPp4IWRY 2023/12/01(金) 09:26:23.37 ID:LrGXB>>531まんま体外離脱時の状況だ体外離脱なのか、体内離脱なのか、ってことは置いといて、体外の世界に於いて、表層意識の認識が落ちるというのは、2つの心、2つの意識の内、日常での心である脳の働きが停止した、ということですよね、それが居眠り運転に繋がるわけです、でなければ、外世界の認識は継続されるわけですから、居眠り運転は起こらない、最近思ったのは、チベット密教で言うところの、2つの心(認識)とは、やはり脳の、①左脳・前頭前野と、②右脳・後頭葉この2つなのか?と、①は日常の言語を伴う認識②は①と切り離された映像を伴う認識上記の2つとは別に、感情の情動に関係している③辺縁系がまた別にあります、更には、それらが連携して、生起される現象を生起していると認識するのではと、思います、以上は仮説ではありますが、現時点ではそう思います。2023/12/01 15:46:14408.神も仏も名無しさんNF52a存在のあり方を認識主観とのかかわりによって遍計所執性(へんげしよしゆうしよう)(主客として実在視されたあり方),依他起性(えたきしよう)(縁起によって生じている相),円成実性(えんじようじつしよう)(主客の実在視をはなれた真実のすがた)の三つに分ける三性説①遍計所執性(へんげしよしゆうしよう)(主客として実在視されたあり方),②依他起性(えたきしよう)(縁起によって生じている相),③円成実性(えんじようじつしよう)(主客の実在視をはなれた真実のすがた)2023/12/01 16:58:44409.神も仏も名無しさんNF52a『・・・三性とは、遍計所執性(へんげしょしゅうしょう)・依他起性(えたきしょう)・円成実性(えんじょうじっしょう)という三種の存在のことです。これは、唯識の立場で、空・有の事や中道について説明する理論です。・・・遍計所執性とは、分別されたもののことで、対象的に実体として把握され、執著(しゅうじゃく)されたものということです。依他起性は、他に依るもののことですから、縁起の中の存在すべてを意味します。円成実性は、すでに完成されているもののことで、もとより変わらない事象の本性そのものを意味します。それは、縁起の故に無自性、無自性の故に空といわれる、その空なる本質、本性のことに他なりません。ここで、中心となるのは、依他起性です。依他起性すなわち縁起の世界が、実体視され、執著されたものが遍計所執性であり、その依他起性すなわち縁起の世界は、常に空を本質としている、その本性が円成実性です。・・・』2023/12/01 17:02:14410.神も仏も名無しさんbWKCl竹村先生は解説書で >相分はないのだけれども無分別智という智慧は真如と一体化し、そこに真如を自覚している(中略) >智慧はあくまでも有為法でその都度その都度起きてくるものなのですが、真如は無為法で変化のない世界です。 >そうなのですが、しかも無分別智は真如といわば一つになるのです。 >それは自証分が見分を見るとき、見分を現し出してそれを見るのではなくて、見分の内容をそのまま直接受けとめるように、そのように真如を証するという事です。と解説されております。また、 >相分やら何やらを現し出して、それを縁ずるということになると、そこには何らかの対象への関与が生じて、直接に証することにならず、後得智と同じように分別があることになってしまいます。 >したがって無分別智を理論的に説明する場合は、見分はあるが相分はないというかたちで、ただし真如を挟帯して証するのだと説いています。 >また、無分別智も真如も言葉では説明できない世界ですが、理論的にはこのようにとらえるのです。とおっしゃってます。2023/12/02 16:33:31411.神も仏も名無しさんbWKClこれは法相宗(瑜伽行唯識学派)が、『成唯識論』でその修道論中の通達位(見道位)で起こる体験を述べたものの一部の抜粋となります。禅宗でいう見性体験に相応するでしょう。そうした体験をされた方なら特に説明を要しないと思いますが、老婆心ながら説明すると、>故應許此有見無相。(故に応に此れには見のみありて相は無しを許すべし)というのは、無分別智が直観智(体験智)で智慧が後得智(経験智)だからです。禅定が深まって無分別である時に何かしらの機縁でそれが真如に触れた時、まぁ真如と云ってもそれは普段目前で六識によって感覚されてる世界に他ならないのですが、痛烈な体験がある訳です。……と云っても、やっぱりこればかりは経験されないと理解出来ない不思議な体験でしょうが。頓悟とも云うのですが、ここに至るまで一劫。更にそうした体験を積み重ねること二劫でようやく成仏(究竟位)出来るとされています。2023/12/02 16:38:33412.神も仏も名無しさんS8NRo「相分」とは、自分の心のなかに作り出された認識対象を指す。そしてその「相分」を対象として、見たり聞いたり認識する心のはたらきのことを「見分」という。 私たちは通常、客観的に存在する事物(対象)を自分の感覚器官などによって的確に認識していると思っている。ある場合には、私の勝手な主観を通して認識しているのではないか、そのように振り返ることはあるにしても、認識対象自体は客観的に存在していると思い込んでいる。 しかし果たしてそうなのであろうか。「相分」「見分」という言葉は、対象も認識も両方共に自分の心のなかに描き出されたものであることを告げている。藤嶽 明信(教授 真宗学)大谷大学2023/12/03 21:00:52413.神も仏も名無しさんBc3xcピグの部屋⑥唯識三十頌?28頌?【通達位】真見道と相見道【根本智と後得智】https://ameblo.jp/yk19610402/entry-12795085344.html🔶通達位には、根本智(こんぽんち)と、後得智(ごとくち)がある。🔷根本智が起きた後に、すぐに後得智が起きる。1️?根本智は、真如と一体になる智慧である。2️?後得智は、現実を認識し、自覚することである。🌟どちらも無分別智の二面である。https://ameblo.jp/yk19610402/entry-12795085344.html より引用。2023/12/04 16:21:23414.神も仏も名無しさんBc3xcこちらの動画など参考になるかと⑥唯識三十頌?28頌?【通達位】真見道と相見道【根本智と後得智】https://www.youtube.com/watch?v=GbBhSz_3byYこの相見のあるなしの見解の相違からインド後期やチベット仏教において、『唯識』に「無相唯識」と「有相唯識」があるといわれたそうです。2023/12/04 16:21:54415.神も仏も名無しさんBc3xc【真・見道】と【相・見道】いいですねーーー(*´・ω-)b動画はのちほど見ます。m(_ _)m2023/12/04 16:39:02416.神も仏も名無しさんpcozM世親のあとには十大弟子が出現したと伝えられる。5世紀はじめごろ建てられたナーランダ大僧院(N?landa)において、唯識はさかんに研究された。6世紀の始めに、ナーランダ出身の徳慧(グナマティ、Gu?amati)は西インドのヴァラビー(Valabh?)に移り、その弟子安慧(スティラマティ、sthiramati)は、世親の著書『唯識三十頌』の註釈書をつくり、多くの弟子を教えた。この系統は「無相唯識派」(nir?k?rav?din)と呼ばれている[注釈 2]。この学派は、真諦(パラマールタ、param?rtha)によって中国に伝えられ、地論宗や摂論宗として一時期、大いに研究された。安慧より…西インドのカーティアーワール半島にあるワラビーValabh?に生まれ,徳慧(とくえ)の教えをうけた。安慧の学説は,〈無相唯識〉といわれ,同時代に活躍した護法(ダルマパーラ)Dharmap?laの学説〈有相唯識(うそうゆいしき)〉と区別される。その特色は,すべての心作用を根底から規定している潜在意識,すなわちアーラヤ識は究極的には否定され,見るものと見られるものの区別を失った絶対知が得られる。…2023/12/04 19:04:55417.神も仏も名無しさんpcozMまた、唯識思想は、大きく有相唯識派と無相唯識派の二派に分かれていくことになりました。 その二派は、「能取・主観・主体と所取・客観・客体」の「二取」における「形象・相」が実在するのか、実在しないのかという点において激しい議論が展開されていきます。 基本的には、無相唯識派の流れが主流でありましたが、論理学の発展とともに、真理を示すための論理的言語・言葉を重視する立場が、その論理的言語・言葉を理解するためには、自他共通の「二取」における「形象・相」がなければならないという主張において、有相を説き、有相唯識派が登場したのであります。 また、唯識思想の発展過程においては、三性説の「依他起性」のあり方について、あくまでも「有」として解した唯識派と、「依他起性」のあり方については「有るとは言えない」として解した中観派とが激しく対立した時期があったものの、唯識思想の説く空の論理については中観派からも歩み寄る傾向もみられ、「縁起」をめぐっての解釈についても両思想において徐々に醸成されていく中、中観派と唯識派の両理論についての学びを統合して進めていく「瑜伽行中観派」が誕生していくのであります。2023/12/04 19:05:12418.神も仏も名無しさんpcozM瑜伽行唯識派https://morfo.blog.ss-blog.jp/2012-02-132023/12/04 19:09:30419.神も仏も名無しさんpcozM七識が「阿頼耶識」に「種子」を植え付け、「阿頼耶識」の「種子」が七識を生み出すという、相互関係が唯識派の考える「縁起」であり、「阿頼耶識縁起」と呼ばれます。「識」はこのように、相互関係によって、また、個々の「識」自身として、常に変化しつづけます。ですから、唯識派の「(識)転変」は、サーンキヤ哲学の「展開」のように深層から一方向的に創造されるわけではありません。唯識派では「識」は「転変」するから無常なのであり、一方、サーンキヤ哲学では「転変」するので常住とされます。唯識派では、説一切有部と同様、「涅槃」は無為法、「識(心)」は有為法として区別しますが、「涅槃」を「識の本性」と表現することで、両者が連続的なものとなりました。唯識派では、未分化な状態から分別された世界が生まれる過程を、「転変(パリナーマ)」と呼びます。これは、サーンキヤ哲学がプラクリティから世界が生まれる過程を表現した「展開(パリナーマ)」と同じです。2023/12/04 20:29:33420.神も仏も名無しさんpcozM「意識」の原義は「意(マナス)に依る識」、「末那識」の原義は「意(マナス)という名の識」です。「末那識」は「阿頼耶識」を自我であると思い誤って執着する「識」です。サーンキヤ哲学の「マナス」は唯識派の「意識」、「アハンカーラ」が「末那識」に対応します。中観派までの仏教は「世俗諦」、「勝義諦」という2つの世界を考えたのに対して、唯識派では「三性説」といって認識世界を3つで考えます。「世俗諦」・「有」に相当するのが、分別された執着のある対象としての世界である「遍計所執性」です。「縁起」に相当するのが、相互依存する実在としての「識」の活動である「依他起性」です。「勝義諦」・「空」に相当するのが、執着をなくした「識」である「円成実性」です。理論的には「円成実性」は無始なるものですが、現実的には、その名の通り目標として目指されるものです。この主観的側面は「無分別智」であり、客観的側面は「真如」です。2023/12/04 20:32:00421.◆JBLfMwCXhYcigBtなるほど2023/12/04 20:58:21422.◆JBLfMwCXhYcigBt遍計所執性 = 世俗諦依他起性 = 縁起円成実性 = 勝義諦2023/12/04 20:59:31423.神も仏も名無しさんmDlVk● 有部は六根・六境・六識の実在を説く、まぁ、外界実在論なのですが、大乗仏教は識のみとする訳です。● 唯識は基本的に四分説(見分(所量)・相分(能量)・自証分(果量)・証自体分(量果))を説くのですが、その発生に時間的な差異を認めません。 相分(能量) ←(三量)← 見分(所量) ↑(三量) 自証分(果量)ーーーーー上記の三量とは、現量、比量、非量となります。 (現量)↑ ↓(現量) 証自証分(現量は直接経験のようなもの(P87))2023/12/05 19:33:43424.神も仏も名無しさんLY35I竹村牧男著書『唯識の探求』では、https://livedoor.blogimg.jp/butudou/imgs/0/3/039ba3b0.jpg無相と有相の区別の基準の一つは「無分別智に相分等が有るのかどうかであった」と竹村氏は言っております。2023/12/06 04:36:23425.神も仏も名無しさんLY35Iインド哲学での認識論の二大潮流が無形象知識論(外界実在論) ・ニヤーヤ学派 ・ミーマーンサー学派 ・説一切有部と有形象知識論 ・経量部(表象主義的外界実在論) ・瑜伽行唯識学派(外界実在否定論)で、瑜伽行唯識学派(外界実在否定論)が有形象唯識論派(有相唯識派、経量瑜伽派、護法系統・・・法相宗)と無形象唯識論派(無相唯識派、中観瑜伽派、安慧系統)に分かれてるんだよ。2023/12/06 04:40:36426.神も仏も名無しさんY8KYw瑜伽行唯識学派における通達位(見道)についての考察https://talk.jp/boards/psy/169940372845.ユーザー神も仏も名無しさんY8KYw>>35要するに我々凡夫は 1.見るものと見られるものに別れてる → 主体や客体があると得られる事。 2.しかしそれは心の表れで外界というものがある主客がある訳では無い → 客体は無いので得られない事。 3.主客がないから主客がないというのも無い → 主客がないので得られないということも得られない事。という考えなんです。-----------------------------------------------------≪相分と見分の説明≫にどうして主体と客体の話をもって説明なされるのですか。こちらの図で確認しましたがhttps://note.com/hiruandondesu/n/n12419e2866ef相分と見分は≪客観と主観≫、主体と客体は≪見られる側と見る側≫のはずです。 客体(見られる側)=モノのあり様 主体(見る側) =認識のあり様 ≪主観(見分)と客観(相分)≫鹿野園さんが語る仏教の殆どが、勘違いによるところだと最近ようやく気付きました。2023/12/07 06:42:44427.神も仏も名無しさんtUAzDナーガリュージュナhttps://i.imgur.com/kYQ3XyD.jpg2023/12/07 16:13:10428.神も仏も名無しさんzKOJK>>749まさにこれ672.ユーザー◆JBLfMwCXhYX2Vbj(49/57)けれども修行者は、集中力が衰える前に、等引から起きて日常の世界へ戻らなければならない。そのとき――あたかも、地上へ降りたら雲の上の世界が見えないのと同様――瓶の空性は直接認識の対象から消えてしまい、入れ替わりに瓶の色彩や形状が再び見えてくる。しかし、無限なる虚空の広がりにも比すべき勝義の空性を、直感的に了解した強烈な体験の印象は、三昧から起きた後も消えることがない。その効果は絶大で、瓶の色彩や形状といった世俗の世界が、ニ顕現を伴って再び現われても、「それらは幻の如きもので、決して諦成就なのではない」という点を――単なる論理としてではなく――強い実感を伴って了解できる。そのような智慧を「後得智(ごとくち)」といい、それによって了解される世俗における空性は「幻の如き空性」と表現される。2023/12/07 18:19:48429.神も仏も名無しさんzKOJKそのような智慧を「後得智(ごとくち)」といい、それによって了解される世俗における空性は「幻の如き空性」と表現される。2023/12/07 18:20:26430.神も仏も名無しさんtUAzDhttps://www.shoueiin.jp/tayori/back_number/16_3.html良い解説があった!😄現量・比量ってのは、こういうのを言うんだよ↓私達は二種の知識で世界を認識しています。 一つは直接知で、 私たちの五感が感じる知識です。 もう一つは、その直接知から推量して得られる知です。 仏教では、 直接知を現量、 推量知を比量と呼びまます。先日、近所で火事がありました。 夜中に娘にたたき起こされると、 サイレンがうなっています。 外を見ると消防自動車が赤いライトを回してずらっと並んでいます。 これは大変と上着を 羽織って外に出ると、 隠居所の向こうの家の二階から盛んに火を噴き出しています。 すぐに消 火活動が始まり、20分ほどで鎮火しました。 幸い私の寺には何の被害もありませんでした が、その家は内部が全焼しました。ここで、サイレンの音や、 ライトの光は直接知です。そこから私は火事を推量しました。ホースがふくらんでいくのを見て、 消火活動が始まったことを認識します。 火が見えなくなると、鎮火を推量できました。このように私たちは、現量と比量を繰り返して世界を認識していきます。しかし、現量と比量だけで世界を理解するのは無理だと、経験は教えます。 私達は完全なる論理を組み立てることができないからです。 そこで必要なのが先人の知恵、 特に仏の教えです。それを聖教量と呼びます。現量、比量、聖教量の三つがそろって、私たちは世界を正しく知ることができるのです。2023/12/07 20:23:49431.神も仏も名無しさんtUAzDhttp://mitsubachi-bros.seesaa.net/article/155004381.html「空性 直接了解」で検索したら、また良い解説が出てきた😄↓● 聖者の修行者が空性を現量によって体験しているとき、その三昧を「無漏(むろ)の等引(とういん)」といい、空性を直接了解(りょうげ)している智慧を【等引智】という。● 無漏の等引の状態では――あたかも、雲の上の飛行機からは地上の世界が見えないように――世俗の顕現は全く消えてしまう。例えば、眼前に瓶があっても、瓶の空性だけが瑜伽現量の認識対象となり、瓶の色彩や形状は何も見えてこない。● それゆえ、等引智によって了解される勝義における空性は「虚空の如き空性」と表現される。けれども修行者は、集中力が衰える前に、等引から起きて日常の世界へ戻らなければならない。● そのとき――あたかも、地上へ降りたら雲http://mitsubachi-bros.seesaa.net/article/155004381.htmlの上の世界が見えないのと同様――瓶の空性は直接認識の対象から消えてしまい、入れ替わりに瓶の色彩や形状が再び見えてくる。● しかし、無限なる虚空の広がりにも比すべき勝義の空性を、直感的に了解した強烈な体験の印象は、三昧から起きた後も消えることがない。その効果は絶大で、瓶の色彩や形状といった世俗の世界が、ニ顕現を伴って再び現われても、「それらは幻の如きもので、決して諦成就なのではない」という点を――単なる論理としてではなく――強い実感を伴って了解できる。● そのような智慧を「【後得智】(ごとくち)」といい、それによって了解される世俗における空性は「幻の如き空性」と表現される。2023/12/07 20:29:04432.神も仏も名無しさんaLHES>二相見道。此復有二。一觀非安立諦有三品心。>一内遣有情假縁智能除軟品分別隨眠。>二内遣諸法假縁智能除中品分別隨眠。>三遍遣一切有情諸法假縁智能除一切分別隨眠。●読み下し二には相見道、此に復二有り。一には、非安立諦を観ずるに三品の心有り。一には、内をして有情の仮を遣って縁ずる智。能く軟品の分別の隨眠を除く。二には、内をして諸法の仮を遣って縁ずる智、能く中品の分別の隨眠を除く。三には、遍く一切の有情と諸法の仮を遣って縁ずる智、能く一切の分別の隨眠を除く。● 見道で直観的な無分別智を体験した後に後得智、すなわち分析的な智慧が発現し、それを以って先の智慧を検証しより確かなものにしていくというのがこの段落です。● そしてその後得智には二種類があるって云うんです。先ず非安立諦とは勝義諦、つまり世俗諦である言語に依って解析される概念的な真如を離れた真如の観察を云うのでしょう。いわゆる「離言真如」の事でありましょう。● 非安立諦には三つあり、● 一つは自己を【後得智】に依って照察してその実体がない事、すなわち【我空】を以って【真如】を観察し、粗い分別に起因する【煩悩障】を除きます。● 二つには、より深く自己が諸法の因縁仮和合である事を以って、すなわち【諸法の空相】なることにより【真如】を観察し、粗い分別に起因する【所知障】を除きます。● 三つには、上記の【我空・法空】の二空を以って真如を観察し、細微な分別に起因する一切の煩悩(二障)を除きます。2023/12/08 18:44:47433.神も仏も名無しさんxdSIP当初は● 主観(内入処)・・・六根~眼根、耳根、鼻根、舌根、身根、意根● 客観(外入処、対象)・・・六処~色処、声処、香処、味処、触処、法処● やがて主観が根と識に分かれた。 識・・・眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識● これがいわゆる十八界の理論。この三つが和合(三事和合)して「触」の心所がが成立すると。● で、その関係は 根・境 → 能取・所取 識・境 → 能縁・所縁 識・根 → 能依・所依の関係に捉えられるのだと。2023/12/11 19:18:40434.神も仏も名無しさんxdSIP初期仏教の当初、認識の成立は 主観(内入処)・・・六根~眼根、耳根、鼻根、舌根、身根、意根 客観(外入処、対象)・・・六処~色処、声処、香処、味処、触処、法処からなるとされ、やがてその主観が根と識に分かれた。 主観 六識・・・眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識 六根・・・眼根、耳根、鼻根、舌根、身根、意根 客観 六処・・・色処、声処、香処、味処、触処、法処これがいわゆる十八界の理論。部派仏教では、この三つが和合(三事和合)して「触」の心所が成立するとされ、その関係は 根・境 → 能取・所取 識・境 → 能縁・所縁 識・根 → 能依・所依の関係に捉えられるのだと。2023/12/11 19:20:20435.神も仏も名無しさん1aaJRでは、何が両学派の見解の差なのでしょうか? よく知られているのは、空の論証方法の相異でしょう。これは、両学派の呼称にもなっています。けれども、一番本質的な差異は、世俗の次元での自相(自性)の有無です。http://rdor-sems.jp/index.php?%E8%AA%B0%E3%82%82%E7%9F%A5%E3%82%89%E3%81%AA%E3%81%84%E7%81%AB%E4%BA%8B2023/12/17 21:40:41436.神も仏も名無しさんA17Gc659 法介◆T3azX0Hk1U 2023/12/23(土) 09:24:41.12 ID:ML4Mz中村先生時代が空を存在論で語っているから、それで空を理解してしまっている人達は、以下の構図の、A. 見られる側(客体=所取①)--- モノのあり様B. 見る側 (主体=能取②)--- 認識のあり方(主観③と客観④)AとBの主客の関係(見られる側と見る側)と、③と④の主客の関係(主観と客観)がごちゃになってるんだよ。2023/12/23 21:27:52437.◆JBLfMwCXhYEJDBL祈念あげ~😭2023/12/24 08:36:10438.◆JBLfMwCXhYp6CtEおはよ~☀️😃❗2023/12/25 09:38:58439.神も仏も名無しさんHsOjX大谷大学https://www.otani.ac.jp/yomu_page/kotoba/nab3mq0000000ki7.html「忽然として念の起こるを名づけて無明と為す。」『大乗起信論』上に掲げた言葉は、迷いの心の根源としての無明を表現したものです。「忽然」とは「たちまち」「にわかに」「いきなり」という意味です。 たちまち、迷いの心(妄念)が起こることを、無明というのです。だってさ😃無明って漠然としている言葉だけど、こう云われたら、なるほどだなhttps://i.imgur.com/hb0ERXS.jpg2023/12/28 18:34:22440.神も仏も名無しさんUbdcfユダヤ教徒は、ヘブライ語で『アチマリケーム(どうぞ宜しくご統治ください)』と旧約聖書では祈るそうだそれが宮廷神道の山蔭神道山伏(ユダヤ教徒のラビと同じ装束)の神呪として残っているこれは、『世の元の神様への謝罪の言葉で、人間はこの世を平和に統治できませんでした、どうもすみません!どうぞもう一度お出ましになられて、ご統治ください!』という意味だそうです、最後の言葉として神が残された言葉それがアチカリケーム→アチカリカム→アジマリカンとなっている要は、神降ろしの大神呪であります!2024/01/05 17:05:34441.神も仏も名無しさんNujxCアチマリカム!(究極の祈り言)山蔭秘伝 ↓ヘブライ語聖書で最後に神が残された言葉アチマリケーム意味→どうぞよろしくご統治ください!これは行で最後に行着く、『捨』と同義であると理解します自分の自我をなげうって、聖性を受け入れる段階で、自我思考は上記のごとく思うのだとこの身心をどうぞご統治ください!と祈ることで、天が地に降ろされることになります2024/01/06 22:47:23442.神も仏も名無しさんNujxC「世界に2つのシオンとエルサレムがある」「世界文化は聖書から」英語版出版記念会 杣 浩二博士(モルドバ国立教育大学名誉教授)https://m.youtube.com/watch?v=0Q6f7zUAi8w元コはこの動画を見るべし!世界の宗教の大元とは何か?が言われています勿論、拝火教の起源にも触れていますし、大乗仏教がどこから来たのかも触れています2024/01/06 22:54:22443.神も仏も名無しさんLi2JR①根本煩悩=無明→自己保存・自己拡張欲 ↓②生殖欲・食欲・睡眠欲 ↓③衣食住欲・自己拡張欲(配偶者、子供)・健康 ↓④求不得苦・自己否定者排除(怒・嫉妬・妬)2024/01/08 18:37:12444.神も仏も名無しさんLi2JR虹の身体の成就者たち四つのシャマタは本然の境地ではない。https://i.imgur.com/7FP9PI4.jpghttps://i.imgur.com/b3M7Jz8.jpghttps://i.imgur.com/hdwks6o.jpghttps://i.imgur.com/KtmPmrc.jpghttps://i.imgur.com/UtyGphV.jpghttps://i.imgur.com/TAwh0lC.jpg2024/01/08 18:37:27445.神も仏も名無しさんLi2JR ●「公娼を廃止するならば、熱情の猛威は、すべてのものを打ち倒さずにはおかないであろうゐ」(聖アウグスチヌス)●「都市における売淫は、宮殿における下水道の如きものである。下水道をとり除くときは、宮殿はたちまち悪臭芥々たる不潔な場所となるであろう。」(聖トマス)●一休 の詩偶集 には男色にかんするも のが多数ある。一例をあげるならば 「男色髪年四五橋…腸断風流掲鼓 の腰」( 9 9 6 )、これは 一休に参じた金春禅竹 (世阿弥の女婿)の次男春八郎 への愛詩である。男色ブームは遊女にとつて脅威であ つた。この事情から、水干、立烏帽子、腰に鞘巻をさした男装の 「白拍子」があらわれた。遊女の上層 クラスであり、清盛の寵をうけた妓王、妓女、仏御前、源義経の静御前など一休 「風狂」の側面観 (市 川)がそれである。2024/01/08 18:57:05446.神も仏も名無しさんCjzQ3全ての過去世の記憶を持つ《マティアス・デ・ステファーノ》氏のご紹介一番重要なのは《I AM》だそうですそして、私たちの意識は、人間が死ぬとそこで終わるのではなくて、それはずっと続くので終わりはありません、なので、《在る》と言うことが重要です、と彼は言います8分30秒辺りからどうぞhttps://www.youtube.com/watch?v=9iBfNpgL7SM&t=1697sこの『さる100TV-5D意識』チャンネルの動画ですhttps://www.youtube.com/@Saru100tv-5D2024/01/11 21:38:26447.神も仏も名無しさんZSwlPほぼぼったん階級だな〜👽2024/01/11 21:55:44448.神も仏も名無しさんAMvD2うるせーぞ!2024/01/12 23:42:37449.神も仏も名無しさんt9AzXちえ 智慧Ⅰ 梵語プラジュニャー (prajna) の意訳。般若と音訳する。真如の理をさとる無分別智のこと。物事の道理を見きわめる認識力。智慧を獲得した状態を菩提、正覚という。六波羅蜜の一。三学の一。→六波羅蜜、→三学。Ⅱ智と慧。●智は梵語ジュニャーナ (jnana) の意訳、●慧は梵語プラジュニャー (prajna) の意訳。→【智】は世俗諦を知る【分別智】を指し、→【慧】は第一義諦を知る【無分別智】を示す。 (浄土真宗辞典)2024/01/16 17:19:33450.神も仏も名無しさんiqKva>>42グッドタイミングで書いてくれたようですね、サンクス!ちょっと引用させていただきます『大体さ、解脱のために独居(リトリート)に入るのは、誰かと喋ったり、お経を読むのも厳禁な訳です。これは解脱は知識じゃないことを如実に語っているの。戒・・・シーラ定・・・サマディ(瞑想よりも先の状態、むしろトランスと云うべき)慧・・・パンニャー(3つの明智)明智は神通が動き出す事を指します。これは自己の内側に深く入って行くことで起こる現象ね。宿命智天眼智漏尽智凡夫は意識の働きと自己とを混同している真我≠意識これを実感するのが「悟り」です。なので眼耳鼻舌身意の働き。あるいは呼び方が違うけど、色受想行識ね。これが分離が生じて停止した状態がネドじゅん先生が言う「脳内の声が停止した」あるいは道元の「身心脱落」ねのね。』引用終了https://i.imgur.com/2vYchqC.jpg慧(智慧)=三明であるというご主張なのですね一つ疑問なのですが慧=智慧が開けた結果の明(智)をもって、縁起を順逆に廻して煩悩を絶って、更に無明を破壊して、初めて三明六通に至るのでは?と思うのですがその意味で表を見ますと、結の10番目が無明となっているここで、三明六通へ至り、自他ともの無限の過去を知り神通自在になるのではないのでしょうか?この最後に超える『無明』とは何ぞや⁉ってなるのですよ実際なんなんですかね?大乗起信論では何処からか起こる自動的な思い、妄想分別的なものだと書いてありますが初期仏経典に書いてあるものを見たことが無いから、知っていたら誰か教えてください2024/01/16 21:40:51451.神も仏も名無しさんiqKvaまあ、解脱って煩悩からの解脱ですよね?違うかな?その煩悩が生まれる大元が無明じゃないですかその無明って何?ってことなんです無→明なので、明かりが無い、何の明かりか→慧(智慧)の明かり?慧の実際のパーリーなりサンスクリットなりの語源の約を見てみたいものですやはり智と慧は別物でしたWikiArchttp://labo.wikidharma.org/index.php/%E6%99%BA%E6%85%A7智慧はプラジュニャー(prajñā)の漢訳語として翻訳されたが、本来はプラジュニャーは「慧」と漢訳され智と区別していた。智はジュニャーナ(梵語 jñāna)の意で物事を分別する知恵・知識を指していた。当時のシナ仏教徒はプラジュニャーを智と慧の二語の熟語にすることによって仏教独自の意味を表現しようとしたのであろう。漢訳経典はそのような意味において全く違う異文化であるインドの仏教思想の受容に苦労したのであった。2024/01/16 21:41:31452.神も仏も名無しさんl3rny概念とは何かが分かる動画【養老孟司】お前達は何を言ってるんだ?概念について理解できていない人が多過ぎます。https://m.youtube.com/watch?v=7EIxG0eTUjQ2024/01/18 20:02:07453.神も仏も名無しさんPnnNxチューラ・パンタカ尊者の詩わたしの進歩は遅かった。わたしは以前には軽蔑されていた。兄はわたしを追い出した。──「さぁ、お前は家へ帰れ!」といって。こうして追い出されて、わたしは僧園の通路の小屋にがっかりして、静かに立っていた。──なお教えのあることを期待して。そこへ尊き師が来られて、わたしの頭を撫でて、わたしの手を取って僧園のなかに連れて行かれた。慈しみの念をもって師はわたしに足拭きの布を与えられた。──「この清らかな物をひたすらに専念して、気をつけていなさい」といってわたしは師の言葉を聞いて、教えを楽しみながら、最上の道理に到達するために、精神統一を実践した。わたしは過去世(宿命智)の状態を知った。見通す眼(天眼智)は浄められた。三つの明智は体得された。ブッダの教えはなしとげられた。パンタカは、千度も神通力(神足通)によって、千度も自分の姿をつくり出し、楽しいマンゴー林のなかで坐していた。──供養するための時が告げられるまで。次いで師は、時を告げる使者をわたしのところへ派遣された。時が告げられたときに、わたしは跳び上がって、空中を通って、師のもとに近づいた。師の御足に敬礼して、わたしは一方のかたわらに坐した。わたしが坐したのを知って、そこで師はわたしの帰依を受けた。全世界の布施(尊敬)を受ける人、もろもろの献供を受ける人、人間どもの福田(福を生ずる田)は、供物を受けたもうた。2024/01/19 16:29:08454.神も仏も名無しさん4KUOB 次に、この無分別智の洞察に立ちながら、相対的な差別の世界を認識するのが、後得智である。これは「仮智」である。現象の世界は刹那無常であるから、実体としては掴まれない。現象を実体として掴むと、真如は失われる。この根本無分別智と後得智という図式は、唯識でも『起信論』でも同じであるが(ただし『起信論』には、この語がそのまま使われていることはない)、その理解の仕方が異なるのである。 『起信論』では、不変真如は根本無分別智で知られ、随縁真如は後得智で知られると理解してよい。ただ『起信論』では、両者が共に真如であって、真如は一面では自性を守って「不変真如」であるが、他面では自性を守らないで、無明に色づけられて随縁真如となり、現象界の根拠となると考える。すなわち、真如は最高の普遍者であるから一性である。一性である点が不変真如である。そうでなければ、現象の雑多性の根拠とはなりえない。しかしここにとどまるならば、不変真如だけで、唯識の真如凝然と同じになる。『起信論』はここにとどまらないで、真如は現象界成立の根拠であるから、その無限の差別相を可能にする「性功徳」を具えていると見る。 すなわち、真如は最高の普遍者であるから二性であると見れば、唯識説の真如である。しかし真如は一であると共に、無限に豊富な力を持つ、そして現象界成立の原因になると見れば、『起信論』の真如の見方になる。これは真如をそのまま如来蔵と見て、迷いに在る佛身と見るからである。(続く)2024/01/19 22:01:32455.神も仏も名無しさん4KUOB 先に、真如を知るとは真如になることであり、真如と真如を知る智慧とは別のものではないといったが、ここに悟りの智慧が、すなわち真如であるという結論になる。『起信論』が、真如を如来蔵と見る理由はここにある。 しかも真如を智慧と見ると、智慧は豊富な力を具えているから、真如に無限の力を認めることになる。これは『起信論』の真如の見方である。すなわち真如を理のみと見れば、唯識の真如観となるが、真如は理であると共に智であると見れば、『起信論』の真如になる。 この見方では、真如は佛身であるから、無限の性功徳を具えるのである。それが凡夫においては如来蔵となり、無明煩悩と交錯して、心の世界としての現象界となっていると見るのである。すなわち真如を一性と見ながら、同時に、無限の性功徳を具えていると見るのが、終教の真如観である。 この無限の性功徳を具えている点で、随縁真如となる。真如が自性を守らず、無明の薫習に誘われて、みずから妄境界を現出すると見るのが『起信論』の見方である。「真如は自性を守らない」とする『起信論』の見方は、法相宗の絶対に認めないところである。真如を理のみと見れば、理は活動しないから、真如が現象界に活きかけることはありえないからである。 これは、真如を理のみと見るか、理智不二と見るかの違いである。そして『起信論』では、悟りの清浄な智も、時と場合には、無明煩悩に染められ、汚れると見るのである。理は迷に在っても汚れないが、智は迷に落ちこめば汚れるのである。唯識は真如を理と見るが、『起信論』は理智不二の如来蔵と見るのである。真如と現象界との関係は水と波の関係で説明されるが、水の外に波はなく、波の外に水はない。水波は不二である。現象(諸法)と真如は不二である。この点の理解は、唯識も『起信論』も同じであるが、唯識は、無限に変化する波の差別相は水から生ずるのではなく、波自身にあると見る。これに対して『起信論』は、波を作る力が水に具っていると見るのである。しかし水に波を作る力が具っていても、風が水を打だなければ波は生じない。この風にあたるものは「無明」であるという。無明の問題は、別の問題になるが、ともかく真如に不変と随縁を認めるのが『起信論』の立場であり、随縁を認めないのが唯識の立場である。2024/01/19 22:02:31456.神も仏も名無しさん0VjK3それは『大乗起信論 第三段・解釈分第三章・心生滅門4生滅因縁の(6)無明の忽然として然起こる』です。全文は「いわゆる 心性は常に無念なり 故に名づけて不変となす。一法界に達せざるをもっての故に 心相応せず、忽然として念の起こるを、名づけて無明となす」 です。意味は「いわゆる心の本性(=心真如)は、常に妄念がないので、不変(=不生不滅)と名づけるのである。しかるに人間の心は一法界(=心真如)を了達することができないために心真如にそぐわない不相応の状態になると、そこに忽然として念(=心の作用)が起こる。それを名づけて「無明」というのである」起信論は、中国撰述を疑われる論書ですが日本仏教に多大なる影響を与えた論書だけになかなかうまく説明していると思います2024/01/20 17:43:09457.神も仏も名無しさん0VjK3龍樹は『 もし無明の因縁を、更にその本を求むれば即ち無にして、即ち辺見に堕し、涅槃の道を失せん。この故に求むべからず。もしさらに求めなば即ち戯論に堕せん。これ仏法に非ず』(「大智度論」第九〇)つ、戒められてますからね。2024/01/20 17:44:07458.神も仏も名無しさん0VjK3元々、「無明」はインドでは「無知」のことだった。佛教に入って「愚痴」が「無明」とされたり「四諦」の理を知らない「無知」が「無明」とされたり縁起説と結びつくと「渇愛」が「無明」だとされた。その後、大乗となり、大乗が発展し中期大乗になり中国仏教で本覚思想が論ぜられると「無明」は、忽然と起こる「妄念」とされました。佛教2500年の中で「無明」は重要概念として様々に論じられています2024/01/20 17:45:54459.神も仏も名無しさんxvKAQパーリ仏典中部キーターギリ経では、釈迦は比丘たちを7種類の人(七聖者, 七識住)に分類した[3]。比丘たちよ、これら七(種類)の人が世間に見られる。いかなる七か。倶分解脱、慧解脱、身証、見至、信解、法随行、信随行である。これの倶分解脱のことやね2024/01/23 20:51:21460.神も仏も名無しさん0jwu1大谷大学https://www.otani.ac.jp/yomu_page/kotoba/nab3mq0000000ki7.html「忽然として念の起こるを名づけて無明と為す。」『大乗起信論』上に掲げた言葉は、迷いの心の根源としての無明を表現したものです。「忽然」とは「たちまち」「にわかに」「いきなり」という意味です。 たちまち、迷いの心(妄念)が起こることを、無明というのです。https://i.imgur.com/hb0ERXS.jpg2024/01/25 02:45:47461.神も仏も名無しさん0jwu1煩悩が生まれる大元が無明じゃないですかその無明って何?ってことなんですが無→明なので、明かりが無い、何の明かりか→慧(智慧)の明かり?やはり智と慧は別物ですねWikiArchttp://labo.wikidharma.org/index.php/%E6%99%BA%E6%85%A7【智慧】はプラジュニャー(prajna)の漢訳語として翻訳されたが、本来はプラジュニャーは【慧(無分別)】と漢訳され【智】と区別していた。【智】はジュニャーナ(梵語 jnana)の意で物事を【分別】する知恵・知識を指していた。当時のシナ仏教徒はプラジュニャーを智と慧の二語の熟語にすることによって仏教独自の意味を表現しようとしたのであろう。漢訳経典はそのような意味において全く違う異文化であるインドの仏教思想の受容に苦労したのであった。2024/01/25 02:46:12462.神も仏も名無しさん0jwu1ちえ 【 智 慧 】梵語プラジュニャー (prajna) の意訳。般若と音訳する。真如の理をさとる【無分別智】のこと。物事の道理を見きわめる認識力。智慧を獲得した状態を菩提、正覚という。智と慧●【智】は梵語ジュニャーナ (jnana) の意訳→【智】は世俗諦を知る【分別智】を指し●【慧】は梵語プラジュナー (prajna) の意訳→【慧】は第一義諦を知る【無分別智】を示す (浄土真宗辞典)2024/01/25 02:47:01463.神も仏も名無しさん0jwu1大乗起信論 第三段・解釈分第三章・心生滅門4生滅因縁の(6)『 無明の忽然として念起こる 』です。全文は『 いわゆる 心性は常に無念なり 故に名づけて不変となす。一法界に達せざるをもっての故に 心相応せず、忽然として念の起こるを、名づけて無明となす 』 です。意味は『いわゆる心の本性(=心真如)は、常に妄念がないので、不変(=不生不滅)と名づけるのである。しかるに人間の心は一法界(=心真如)を了達することができないために心真如にそぐわない不相応の状態になると、そこに忽然として念(=心の作用)が起こる。それを名づけて「無明」というのである』起信論は、中国撰述を疑われる論書ですが日本仏教に多大なる影響を与えた論書だけになかなかうまく説明していると思います2024/01/25 02:47:33464.神も仏も名無しさんIe1Rh>>760悟りは無分別心に在ること、ということを別の表現で表すと電球💡の状態を理解してみると良いかもです電球💡は、点灯する前は握り拳ほどの大きさだけど点灯すると、周囲の空間を球体の放射状に、光の強さに応じて照しますその空間の大きさは、豆電球から太陽まで、輝きの強さは無限の段階が有り、強ければ、何万光年先へも到達します、つまり巨大な光の球体として広がり続けます人の意識も、まさに同じなのです、分別心に在る時は、思いのある処、つまり、頭部(脳内)に意識は留まる、頭部に滞留している状態です、それは点灯前の暗い電球💡と同じですしかし、無分別にあっては、意識は思いという対象を持ちませんそれ故に、意識は、頭部の思いという対象から解放されます、解放されるとどうなるかと言うと、五感六識は周囲へ球体状に、解放されますつまり、電球💡が点灯された状態と同じように、五感の限界まで周囲を感受するようになりますこれを、人が体験するよ、恰かも、自分と世界は1つになった!とか思ってしまうのですw私、という意識が、身体の広さから、星の在る所までも、広がることも在る、そう言うことを知るわけですねこの体験を閉眼で体験すると禅定であり、開眼で突然体験すると悟ったと思うわけです2024/01/26 10:47:01465.神も仏も名無しさんIe1Rh坐禅、禅定の初期仏教における基本的なそれは、やはり九次第禅定ではないのでしょうか?九次第禅定の各段階で、悟り的な区切りというか、少しそれ迄の自分と違った変化を感じるのが最初の欲界定から初禅に入る時と、第四禅から第五の空無辺処を体験する段階だと思います>861でのことは、第五の空無辺処を体験する辺りでのことです最初の欲界定から初禅に入る時、というのは、どの様な体験をするかと言うと2024/01/26 16:39:37466.神も仏も名無しさんIe1Rh瞑想や坐禅などをある程度の期間行ったことの無い人が、初めて坐ると、日常における心の、オートマチックな反応をそのまま引きずるので、決して落ち着いたものではないです自分が坐りはじめたころの事をよく記憶したいますが、すべての意識は外向きなんですよ、遠くで犬がワン!といえば犬煩い!車がブー~ーんって通れば車が煩い!って全く落ち着かないものでした、しょうがないので眉間とか胸とかに念(覚えている)を固定して落ち着かせようとするも今度は頭が、鼻が痒いのモゾモゾするのって始まる、その内に、あれ?ってね、眉間も胸も、わたくし忘れていました!みたいなそれで、何回も何回もやって、ようやく意識が外に向かなくなって、自分の身体だけに意識を固定出来るようになった段階が、初禅の段階であって自分に在れると、ある種の喜びをおぼえるようになります、ここを一番最初の悟り体験と感じるかも知れませんね2024/01/26 16:39:56467.神も仏も名無しさんiT20v>>245『倶舎論』は、準備段階の「順解脱分」「順決択分」と修行段階の「三道」(「見道」→「修道」→「無学道」)が説かれます。初期仏教の「三学」(「戒」→「定」→「慧」)を意識しています。大乗はこれを五道と解釈しています「資糧道」→「加行道」→「見道」→「修道」→「無学道」です。「順解脱分」…受戒した上で、四念処を修習する段階「順決択分」…四諦を観察する段階「見道」…四諦観察を深め、88煩悩を放棄する段階「修道」…更に修習し、10煩悩を放棄する段階「無学道」…「尽智」と「無生智」に達する段階2024/01/29 19:34:11468.神も仏も名無しさんgTDBF復習問題だ下記の用語を、2つのグループに分けよ本山派当山派真言系 天台系理源大師聖宝 智証大師円珍 聖護院醍醐寺吉野 熊野正解は、こうなる本山派 - 天台系 - 智証大師円珍 - 聖護院 - 熊野当山派 - 真言系 - 理源大師聖宝 -醍醐寺 - 吉野2024/02/09 23:51:12469.神も仏も名無しさんWxK0B747 メーテル 2024/02/16(金) 18:05:02.69 ID:7r2PQNod>>743その阿頼耶識からムクムクと表面意識へ浮かび上がっては消えまた浮かんでは消えする妄想分別と、パさんはどのようにして付き合っているのでしょうか?750 パ 2024/02/16(金) 20:35:11.29 ID:9KbIR9dl>>747その現れのパターンは幾つかあると思います① 現行している行動と関係無く、昨日見た動画や音楽が思い出されてくる② 現行している行動と諸問題と関係したことの想いが浮かび上がってくる③ 現行している五感に関連した想い④ 現行する感情に関連した想い⑤ 現行す欲望(知識欲、物欲、食欲、睡眠欲、性欲など)に関連した想いーーーこの様に、自動的妄想分別はその場その場で様々あります①などは、相手にせず、見ることも掴むこともしなければ、独りでに自然に消えていきます②の場合は、その問題に意識を向けると、脳は自動的に答を出すべく思考しますので、それを見ている、という感じで満足する答が出たなら、その自動思考は自動的に停止します③の場合は、現行する行動に即して起こって来て、即して消えて行くので、ただ流す感じです④この感情に絡んで起こる自動思考は少し厄介です自我=我執着(マナ識)から沸き起こるものは、意識と一体になって起こるのでこの感情的想いと距離を取りつつ眺めるように意識が観照することができるならしますし、巻き込まれたら煩悩に繋がり、怒りや欲望への思いへ変化して行きます⑤の浮かんでくる想いも厄介です、この場合は、身体的欲望が尤も手こずる知識欲、物欲は、割合容易く意識は距離を取って流せますが食欲、性欲、睡眠欲に関しては、この身体が即 “ 私 ” である!という同一化の状態しか知らない場合は、客観的に見ることは困難だと思いますし、即して欲望を充たすように行動してしまうと思います何らか瞑想等で、この身体と意識の私は違うのだ同一ではないのだ!と分かっている場合はその欲望から連想して沸き起こる強い想いと距離を持て、その時に欲望を充たせる状態に無いとか、その欲望を断じているなら完全に無視して消えるままに見ているようにします2024/02/16 20:36:53470.神も仏も名無しさんQruHb751 メーテル 2024/02/16(金) 21:00:56.22 ID:7r2PQNod>>750丁寧な回答ありがとうございます。④現行する感情⑤現行する欲望に関連した想い既に自我=我執着(マナ識)が出来上がっていて、そこから照射される想いといったものが前提となっている話のように思えるのですが、そういった理解でよろしいでしょうか?752 パ 2024/02/16(金) 21:12:29.58 ID:9KbIR9dl>>751そういった欲望は、現行する行動に伴い外部からのまた内部からの印象によって生起されますそのやって来た印象と生起された欲望の萌芽に触発されて、瞬時にムクムクと幾つもの想いが頭を駆け巡ります自我というものが、思考する意識だけとせず、肉体の各部位にもあるとしたのはグルジェフですがだとしたら、欲望に絡んだ想いは、肉体の欲望の発生する各部が、脳を使うという構図が見えて来るのです754 パ 2024/02/16(金) 21:18:49.43 ID:9KbIR9dlそのシステム全体の名称であると思います2024/02/16 21:19:46471.神も仏も名無しさんvgdCS390 ◆JBLfMwCXhY 2024/02/23(金) 17:46:09.19 ID:S3hG5「華厳経」以前の初期大乗仏教の経典においても、「如来は法を身体とする」という教えが登場しています。いくつか例を示します。維摩経より「友よ、如来の身とは法身のことであり、智から生じる。如来身は功徳から生じ、布施から生じる。また、戒を保つことから生じ、三昧から生じ、智慧から生じ、解脱から生じ、解脱を自覚する智から生じる。また、慈しみ(慈)と同情(悲)と同慶(喜)と不偏の心(捨)とから生じる。~あらゆるパーラミター(波羅蜜多)から生じ、六種の神通や三種の智(三明)から生じる。」八千頌般若経より釈尊:「『仏陀世尊達は真理を身体とするもの(法身)達である。そして、比丘達よ、決してこの物理的に存在する身体を仏陀の身体と考えてはならない。比丘達よ、私のことを法身によって完成されているのだと見なさい。』と。この如来の身体は智慧の完成という真実の究極から現れたものと見なければなりません。」金剛般若経より釈尊:「形によって私を見、声によって私を求める者は間違った努力に耽る者。かの人達は私を見ないのだ。目覚めた人々は法によって見られるべきだ。諸々の師達は法を身とする者だから。そして、法の本質は知られない。知ろうとしても、知られない。」2024/02/23 18:33:33472.神も仏も名無しさんvgdCS394 ◆JBLfMwCXhY 2024/02/23(金) 17:48:06.58 ID:S3hG5これらの思想が「華厳経」における「如来法身の偏在」という思想へ繋がったものと思われます。如来法身の一部は我々衆生にも仏性(如来蔵)宿るとしますが、その我々に宿る仏性は「浄く輝く心」「光り輝く心」「自性清浄心」等と表現されます。煩悩に塗れた我々の心ですが、本来清浄であるという思想は、原始仏教経典(パーリ仏典)の頃から登場しています。2024/02/23 18:34:05473.神も仏も名無しさんvgdCS396 ◆JBLfMwCXhY 2024/02/23(金) 17:50:23.94 ID:S3hG5八千偈頌般若経よりスブーティ:「また、世尊よ、智慧の完成への道を追求し、智慧の完成を修習する菩薩大士は、教えられているときに、彼がその覚りに志向する心(菩提心)におごらない、というような仕方で学ばねばなりません。何故かというと、心というものは心ではありません。心の本性は浄く輝いているのです。」シャーリプトラ:「一体、スブーティ長老よ、心でない心というその心は存在するのですか。」スブーティ:「シャーリプトラ長老よ、一体心でない心というその無心性に、存在性とか非存在性とかがあったり、認識されたりするのですか。」シャーリプトラ:「そうではありません。スブーティ長老よ。」スブーティ:「シャーリプトラ長老よ、その無心性に存在性も非存在性もありもしないし、認識されもしないならば、シャーリプトラ長老(あなた)が『心でない心というその心は存在するのですか。』と質問されたことは、果たしてあなたにとって正しいことでしょうか。」シャーリプトラ:「スブーティ長老よ、ではこの無心性とは何でしょうか。」スブーティ:「シャーリプトラ長老よ、無心性とは変化しないこと、妄想(分別)を離れていることなのです。」2024/02/23 18:34:56474.神も仏も名無しさんvgdCS398 ◆JBLfMwCXhY 2024/02/23(金) 17:52:14.93 ID:S3hG5それが中期大乗仏教頃の「智光明荘厳経」になると、明確に説かれるようになってきます。如実に修行する者、彼には修行すべきこともなく、断ずべきものもなく、修行の果の達成もない。それは何故であるか。文殊菩薩(マンジュシリー)よ、心は本来、光り輝いているからである。それはあらゆる一時的に付着した煩悩(客塵)によって汚染されているけれども、本性としては汚染されたものではない。本性として光り輝いているということは、汚染するもの(雑染)がないということである。汚染するものがないということは、そこに煩悩を断つべき対治者も必要でないということである。それは何故であるか。文殊菩薩よ、それは本性として清浄であり、従ってそれ自身清浄なものはその上浄化する必要がないからである。清浄なるもの、それは無生である。無生なるもの、それは非難されない。非難されないもの、それは欲望を断じたものである。欲望を断じたもの、そこでは全ての根源的執着が消滅している。もしも、全ての愛着が消滅すれば、それが煩悩の不生である。不生なるもの、それが菩提である。菩提なるもの、それは平等性である。平等性なるもの、それはありのままなること(真如)である。~文殊菩薩よ、菩提は心の本性が光り輝いていることによって、本性として光り輝いている(自性明浄)。何故に光り輝く(明浄)と言われるのか。本性なるもの、それは汚れがなく、虚空と等しく、虚空と同じ本性を持ち、虚空に合し、虚空に似て、本性が極めて明るく輝いているからである。2024/02/23 18:35:17475.神も仏も名無しさんvgdCS400 ◆JBLfMwCXhY 2024/02/23(金) 17:53:28.84 ID:S3hG5如来蔵思想と唯識思想(マイトレーヤに帰せられる無形象唯識的思想に限られる)はどちらも「華厳経」の三界一心作の思想の展開ではないかと考えられています。不正確さを恐れずに、かなり雑な言い方をすると、心を真如とするのが如来蔵思想で、心を阿頼耶識とするのが唯識思想です。初期の唯識派の論書、つまりマイトレーヤの名で伝えられている論書には真如・法界が虚空のようにあらゆるところに遍満していることが強調されており、阿頼耶識という輪廻的存在の根拠が無であることを覚れば、法界に融け込んで真如そのものとなること、その人の仏性が開顕して人間としての制約を離れた無限の活動に従事するようになることが明確に説かれています。2024/02/23 18:35:34476.神も仏も名無しさんLOg7J395 ◆JBLfMwCXhY 2024/02/23(金) 17:48:54.01 ID:S3hG5パーリ仏典 増支部より釈尊:「比丘達よ、この心は光り輝くものである。しかし、それは偶然的な煩悩によって汚されている。凡人はこの心のことを教えとして聞かず、真実に理解しない。それ故に、教えを聞かない凡人には心の修習がないと私は言うのである。比丘達よ、この心は光り輝くものである。そして、それは偶発的な煩悩から離脱している。貴い仏弟子はこの心のことを教え聞き、真実に理解する。それ故に教えを聞く仏弟子には心の修習があると私は言うのである。」2024/02/23 20:26:48477.神も仏も名無しさんcHqx3395 ◆JBLfMwCXhY 2024/02/23(金) 17:48:54.01 ID:S3hG5パーリ仏典 増支部より釈尊:「比丘達よ、この心は光り輝くものである。しかし、それは偶然的な煩悩によって汚されている。凡人はこの心のことを教えとして聞かず、真実に理解しない。それ故に、教えを聞かない凡人には心の修習がないと私は言うのである。比丘達よ、この心は光り輝くものである。そして、それは偶発的な煩悩から離脱している。貴い仏弟子はこの心のことを教え聞き、真実に理解する。それ故に教えを聞く仏弟子には心の修習があると私は言うのである。」2024/02/23 20:50:24478.神も仏も名無しさんcHqx3396 ◆JBLfMwCXhY 2024/02/23(金) 17:50:23.94 ID:S3hG5八千偈頌般若経より●スブーティ:「また、世尊よ、智慧の完成への道を追求し、智慧の完成を修習する菩薩大士は、教えられているときに、彼がその覚りに志向する心(菩提心)に≪おごらない≫、というような仕方で学ばねばなりません。何故かというと、心というものは心ではありません。心の本性は≪浄く輝いている≫のです。」●シャーリプトラ:「一体、スブーティ長老よ、心でない心という、その心は存在するのですか。」●スブーティ:「シャーリプトラ長老よ、一体 ≪心でない心≫という、その無心性に、存在性とか非存在性とかがあったり、認識されたりするのですか。」●シャーリプトラ:「そうではありません。スブーティ長老よ。」●スブーティ:「シャーリプトラ長老よ、その無心性に存在性も非存在性もありもしないし、認識されもしないならば、シャーリプトラ長老(あなた)が『心でない心というその心は存在するのですか。』と質問されたことは、果たしてあなたにとって正しいことでしょうか。」●シャーリプトラ:「スブーティ長老よ、ではこの無心性とは何でしょうか。」●スブーティ:「シャーリプトラ長老よ、無心性とは変化しないこと、≪妄想(分別)を離れていること≫なのです。」2024/02/23 20:51:20479.神も仏も名無しさんcHqx3398 ◆JBLfMwCXhY 2024/02/23(金) 17:52:14.93 ID:S3hG5それが中期大乗仏教頃の「智光明荘厳経」になると、明確に説かれるようになってきます。● 如実に修行する者、彼には修行すべきこともなく、断ずべきものもなく、修行の果の達成もない。それは何故であるか。● 文殊菩薩(マンジュシリー)よ、心は本来、≪光り輝いている≫からである。それはあらゆる一時的に付着した煩悩(客塵)によって汚染されているけれども、本性としては汚染されたものではない。本性として≪光り輝いている≫ということは、汚染するもの(雑染)がないということである。汚染するものがないということは、そこに≪煩悩を断つべき対治者≫も必要でないということである。それは何故であるか。文殊菩薩よ、それは本性として清浄であり、従ってそれ自身清浄なものは、その上浄化する必要がないからである。清浄なるもの、それは無生である。無生なるもの、それは非難されない。非難されないもの、それは欲望を断じたものである。欲望を断じたもの、そこでは全ての根源的執着が消滅している。もしも、全ての愛着が消滅すれば、それが煩悩の不生である。不生なるもの、それが菩提である。菩提なるもの、それは≪平等性≫である。平等性なるもの、それはありのままなること(真如)である。~文殊菩薩よ、菩提は心の本性が光り輝いていることによって、本性として光り輝いている(自性明浄)。何故に光り輝く(明浄)と言われるのか。本性なるもの、それは汚れがなく、虚空と等しく、虚空と同じ本性を持ち、虚空に合し、虚空に似て、本性が極めて明るく輝いているからである。2024/02/23 20:52:15480.神も仏も名無しさん614bx872 ◆JBLfMwCXhY 2024/02/23(金) 17:56:31.55 ID:S3hG5唯識思想の二つの流れ●大乗起信論という論書がありますが、これは550年頃真諦によって漢訳された大乗仏教の綱要書です。作者は馬鳴(めみょう、アシュヴァゴーシャ)ということですが定かではありません。訳者が真諦であるということも確実ではないようです。ですから、中国撰述説もあるということです。●真諦(しんだい、パラマールタ)は西インド出身で、中国に渡来した訳経僧です。当時、西インドのヴァラビーでは徳慧(とくえ、グナマティ) 系統の唯識学が盛んであって、その系統の思想を中国に伝えたといいます。(仏教の思想 服部正明・上山春平著)仏教では唯識が最も進んだ形と言われていますが(もちろん異論もありますが)、その中に二つの系統があります。①ナーランダー系統と②ヴァラビー系統です。その頃の仏教学の中心はビハール州のナーランダーでしたが、唯識も盛んでした。しかし、徳慧(とくえ、グナマティ)の主張する唯識学とは多少食い違いがありました。その後、徳慧は西インドのヴァラビーに移り、その地で自説を展開します。徳慧の弟子の安慧(あんね、スティラマティ)によってヴァラビー系統の最盛期を迎えます。真諦はその系統を継いでいるということです。一方のナーランダー系統では、陳那(じんな、ディグナーガ)に発し、無性(むしょう、アスヴァ バーヴァ)、護法(ごほう、ダルマパーラ)と続き、後に玄奘によって中国に伝えられることになります。2024/02/24 01:13:43481.神も仏も名無しさん614bx873 ◆JBLfMwCXhY 2024/02/23(金) 17:58:19.80 ID:S3hG5ではこの両者は一体何が違うのでしょうか。弥勒、無著、世親までは共通ですが、その後唯識の解釈の違いによって二派に分かれたようです。専門的には①ナーランダー系統を「有形象唯識論」②ヴァラビー系統を「無形象唯識論」と呼ぶといいます。識自身の中に対象象をもつかもたないかということですが、”有形象唯識派にとっては、認識の表象とは、形象に思惟が加わったもので、そのうち、思惟は迷妄の原理であるが、形象は汚れのない認識の本質である。無形象唯識派にとっては、表象は思惟と同じものであって、いづれも迷妄である。”(仏教の思想 梶山雄一・上山春平著)2024/02/24 01:17:23482.神も仏も名無しさん614bx874 ◆JBLfMwCXhY 2024/02/23(金) 18:00:10.42 ID:S3hG5又、①有形象唯識派では”本来存在しなかったものが表象という存在としてあらわれることはできない。形象を離れた認識そのものなどがあるわけはない。”といい、②無形象唯識派は”表象、つまり認識の形はわれわれの思惟の所産であって、その思惟を離れた認識の本質そのものは、形を離れた照明そのものである。”という。もともと般若経の思想家たちは最高の真実を「清く輝くこころ」と表現したが、ナーガールジュナの直観や、如来蔵の思想も同質のものであり、その伝統は唯識派内部にも及び、無形象唯識派として受け継がれた、ということです。一方の、②有形象唯識派では”「迷い」とは形象を思惟によって解釈するからであり、思惟の解釈を除けば、認識の形象を見ながら迷妄から解脱する。柳は緑、花は紅のままに悟っているのであって、形のない「光り輝く心」などが別にあるわけではない”といいます。(仏教の思想 梶山雄一・上山春平著)875 ◆JBLfMwCXhY 2024/02/23(金) 18:00:38.96 ID:S3hG5又、(仏教の思想 服部正明・上山春平著)には次のような指摘もあります。①”ディグナーガは経量部の影響を受けながら、知識は必ずその内部に対象の形象をもつもので、純粋透明の知識はないということを明らかにした。仏の知識でも、知識であるかぎりは、捉えられる対象とそれを捉える能力とをそれ自体の内部にもっているというのである。これに対して②スティラマティは、心は本来水晶のように透明なものであって、その中に捉えられるものと、捉えるものという二元性がある限り、それは「仮構されたもの」であるという見解をとった。”ということですが、要するに、①有形象唯識派があくまで認識論のなかにとどまっているのに対して、②無形象唯識派ではわれわれの認識の外に「光り輝くこころ」、すなわち真如、法界を置いているということのようです。2024/02/24 01:28:26483.神も仏も名無しさん614bx876 ◆JBLfMwCXhY 2024/02/23(金) 18:01:45.84 ID:S3hG5又、同書では次のようにも言っています。”唯識哲学の主題は、外界の対象がなくとも認識が成り立つことを論証することにあったわけではない。経験的認識の全体を夢として、その夢から覚醒する超世間的認識を得ることが、課せられた根本問題なのである。ディグナーガやダルマキールティは唯識説の立場における認識の構造を吟味して、精緻な理論を構成したが、経験的認識の超越の問題にはほとんど触れていない。”2024/02/24 01:31:55484.神も仏も名無しさん614bx879 ◆JBLfMwCXhY 2024/02/23(金) 18:11:45.49 ID:S3hG5東インドには、有名な仏教界の最高学府があったナーランダ学院だ三蔵法師の玄奘もここで唯識論を学んで、唐に持ち帰ったチベット仏教も、ナーランダ学院で学んだ人たちがチベットに伝えた仏教唯識論は、東と西に分かれた東インドでは、有相唯識論西インドでは、無相唯識論それぞれ、そういうのをやってた日本に伝わったのは、東の唯識論だ西の唯識論では、「光り輝く心」ってのが出てくる2024/02/24 01:36:38485.神も仏も名無しさん614bx日本に伝わったのは、東の唯識論だ西の唯識論では、「光り輝く心」ってのが出てくる西の唯識論は、如来蔵思想の影響を受けて、「仏性」っぽくなってた日本の法相宗は、東のナーランダ学派から伝わった唯識論「光り輝く心」なんてものは出てこないでも、唯識論の中には、そういうものもあるヨーロッパの「唯心論」は、自他差別の世界のことであり、「唯識論」はこれらの思想とは異る。・・という。バークレイ→人は、”スピリッツ”を神から受けて、この”スピリッツ”で世界を見る。スピリッツは、やがて神に戻ってゆくデカルト → 心とモノの二つがある。 ・・・と、分けて考えている。プラトン → 心は”霊魂の牢獄”である。 ・・・ と、認識している。ヨーロッパの「唯心論」は、自他差別の世界のことであり、「唯識論」はこれらの思想とは異る。・・という。バークレイ→人は、”スピリッツ”を神から受けて、この”スピリッツ”で世界を見る。スピリッツは、やがて神に戻ってゆくデカルト → 心とモノの二つがある。 ・・・と、分けて考えている。プラトン → 心は”霊魂の牢獄”である。 ・・・ と、認識している。光り輝く心は、何もかも無くなった後に残るという2024/02/24 01:44:53486.ペッ!2YssVなるほど。ゾクチェンのリクバ(光り輝く心の本質、明智)とは西インドに伝わった唯識から来てるのかもしれないですね。2024/02/24 08:32:02487.神も仏も名無しさん2JJ65もともと真我の霊的な部分のことだと思うんだがヨガ唯識派のヨガ師が仏教化したのでは?と真我は最小の・のような大きさで太陽より輝いて見えるって言いますからヨガでは2024/02/24 20:04:11488.神も仏も名無しさん2JJ65464 神も仏も名無しさん 2024/01/26(金) 10:47:01.45 ID:Ie1Rh>>760悟りは無分別心に在ること、ということを別の表現で表すと電球💡の状態を理解してみると良いかもです電球💡は、点灯する前は握り拳ほどの大きさだけど点灯すると、周囲の空間を球体の放射状に、光の強さに応じて照しますその空間の大きさは、豆電球から太陽まで、輝きの強さは無限の段階が有り、強ければ、何万光年先へも到達します、つまり巨大な光の球体として広がり続けます人の意識も、まさに同じなのです、分別心に在る時は、思いのある処、つまり、頭部(脳内)に意識は留まる、頭部に滞留している状態です、それは点灯前の暗い電球💡と同じですしかし、無分別にあっては、意識は思いという対象を持ちませんそれ故に、意識は、頭部の思いという対象から解放されます、解放されるとどうなるかと言うと、五感六識は周囲へ球体状に、解放されますつまり、電球💡が点灯された状態と同じように、五感の限界まで周囲を感受するようになりますこれを、人が体験するよ、恰かも、自分と世界は1つになった!とか思ってしまうのですw私、という意識が、身体の広さから、星の在る所までも、広がることも在る、そう言うことを知るわけですねこの体験を閉眼で体験すると禅定であり、開眼で突然体験すると悟ったと思うわけです2024/02/24 20:07:17489.ペッ!2YssVパドゥマサンバヴァというチベットではグルリンポチェとして、第二の仏陀と呼ばれる伝説的な師がいてパドゥマサンバヴァは西インド、今のパキスタンあたりの山岳地帯のウッディーヤーナ地方の出身でなぜかチベットに布教に行っている。さすがのJBLさんも、パドゥマサンバヴァについては、あまり触れていないけどチベットでは、仏陀釈迦牟尼と並んで尊敬されている。しかしパドゥマサンバヴァはあまりにもアンビリバボーな伝説があって、現実離れしている。何故かチベットでは凄い有名、2024/02/24 20:18:41490.神も仏も名無しさん2JJ65あれだっけ?釈尊より凄いって言われてるんだっけか?2024/02/24 20:23:32491.神も仏も名無しさんerQvK四分説1相分 六識見分 六識自証分 末那識証自証分 阿頼耶識四分説2相分六識見分 六識・末那識自証分 阿頼耶識証自証分 光り輝く心四分説3相分 六識見分 六識自証分 末那識・阿頼耶識証自証分 光り輝く心三分説相分 六識見分 六識・末那識自証分 阿頼耶識2024/02/26 22:22:07492.神も仏も名無しさんerQvK一切皆空なので、全ては非有非無でしょうね。尚、その四(三)分説は不明です。出典が分かれば助かります。「識体転じて二分に似る(『成唯識論』)」であり、識体とは八識心王(眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識・末那識・阿頼耶識)です。つまり八識のそれぞれで見分と相分という分析作用が起きるという解釈であり、例えば眼識の相分が末那識というのはない筈です。ついでながら、「四分と申し候は相分・見分・自証分・証自証分也。眼識にもこの四分あり、五十一の心所にもこの如し。(唯識大意)」とあります。つまり、五位百法の内の心王の八、心所の五十一でそれぞれ個々に四分が起きているというのが法相宗の見解だそうです。2024/02/26 22:22:20493.神も仏も名無しさんQMwttデン?2024/02/27 07:06:23494.神も仏も名無しさん5ek9Vぱぱ2024/02/27 10:30:21495.神も仏も名無しさんtd05n895 ◆JBLfMwCXhY 2024/02/27(火) 18:55:39.42 ID:uPMOIブログ 『疲れた心に強い翼を!』「唯識」と「潜在意識」の法則「大乗仏教」の教えの中に, 「唯識」(ゆいしき)と呼ばれる一つの学説がある。これを教えてるのは,特に,「法相宗」(ほっそうしゅう)と呼ばれる宗派で,開祖は,あの西遊記でおなじみの「三蔵法師」(玄奘)である。日本における総本山は,奈良の「薬師寺」などが有名である。(かつては,「法隆寺」や,京都の「清水寺」なども,そうだったようである。)896 ◆JBLfMwCXhY 2024/02/27(火) 18:56:16.17 ID:uPMOIこの「唯識」という教義は,非常に複雑で,簡単には説明できないが,要するに,「すべてのものが心から生じる」という教えである。興味深いのは,心の働きを八つの部分に分け,一番深い部分(深層部分)に「阿頼耶識」(アラヤ識)というのがあると教えてることである。「アラヤ」(サンスクリット語「アーラヤ」)とは,「蔵」,または,「住居」「場所」という意味だそうで,そこに,私たちの「なすこと」「言うこと」「思うこと」のすべてが経験として消えることなく残り,また,すべてのものを生み出す種子(しゅうじ。可能性)が,そこに宿っているという。これは,現代で言うところの「潜在意識」と同じである。この「潜在意識」は,現代になって,フロイトとかユングという心理学者が発見したように思われているが,大乗仏教では,二千年の昔から,そういうことが教えられていたというのは,驚きだと思う。2024/02/27 23:59:38496.神も仏も名無しさん0yqKe897 ◆JBLfMwCXhY 2024/02/27(火) 18:56:43.84 ID:uPMOIさて,この「唯識」という学問。実は,その後,さらに研究・改良されて,「法相宗」では,心の働きを八つに分けて,「八識」だったのが,「天台宗」や「日蓮宗」では,さらに一つ加えて,「九識」(くしき)になっている。そして,その「アラヤ識」(潜在意識)のさらに奥にもう一つのものがあると教えた。日蓮聖人は,それを 「九識心王真如の都」(くしきしんのうしんにょのみやこ)と表現した。そして,それを「妙法蓮華経」と名づけ,その「九識心王真如の都」に向かって,「南無妙法蓮華経」と唱えたのである。「外にある何か」に向かって拝んでいたのではないのである。これは,多くの人が知らない点だと私は思う。http://godpresencewithin.blog86.fc2.com/blog-entry-23.html898 ◆JBLfMwCXhY 2024/02/27(火) 18:56:59.31 ID:uPMOI日蓮は,その部分を「心王」(しんのう)と述べて,「王」に例え,また,「都」(みやこ)と述べて,一つの「都市」(あるいは,「城」)に例えている。「アラヤ識」(潜在意識)のさらに奥(深層)に,このような部分があると仏教では教えてることは,非常に驚くべき点であると私は思う。そして,マーフィー博士は,その部分を 「内なる神」 (または,「I AM」「本来の自分」)と表現した。この「九識心王真如の都」については,またあとで,書いてみたいと思う。2024/02/28 00:00:00497.神も仏も名無しさん0yqKe九識心王真如の都う~ん、ありがたい言葉だ😄阿頼耶識のさらに奥に、九識があったのか~😄2024/02/28 00:00:22498.神も仏も名無しさん0yqKeヨーゲシュバラナンダヨガでは5感(前五識)→意思・理知(六識)→心素(阿頼耶)・我執(マナ)→真我(九識)と言っている2024/02/28 00:05:50499.神も仏も名無しさん7fXij心は万境に随って転ず 転ずる処実に能く幽なり流に随って性を認得すれば 喜無く亦憂無し摩拏羅尊者の偈2024/02/28 10:17:53500.神も仏も名無しさん7fXijそろそろまとめてみましょうかw>心は万境に随って転ず 転ずる処実に能く幽なり>流に随って性を認得すれば 喜無く亦憂無しという摩拏羅尊者の偈はご存じの事かと思います。以下、分かっていらっしゃる方には蛇足ですけど、老婆心ながら、猿真似口パクさんの為に転載しておきます。 ↓これについて次のような逸話がある。大応国師が筑前の横岳山におられた時、ある日近くの曹洞宗の岩屋寺に立ち寄られた。そこの僧堂にたまたまこの偈が掲げてあった。国師は試みに堂中の首座(第一座)に、「この語をどう見るか」とたずねられると、首座は「当寺の開山鉄壁和尚は、参徒に主として"幽”の字を見せられました」と答えた。国師は黙って帰られたが、帰るとすぐに、侍者に向って、「隣むべし、かの一衆、おそらくは猫の年がきても悟れまい」といわれた。侍者が「ではどう見ればよいのでしょうか」とたずねると、国師は『如何なるかこれ転処の身』と拶してこそ、始めて幽の字も悟ることができる」と教えられた。侍者は、「それでは、なぜそのことをあの首座に教えてやられなかったのですか」となじると、国師はいわれた。「禅者は、問われんことは答えんものじゃ」と。(『続禅と人生』秋月龍珉 より)2024/02/28 10:21:23501.神も仏も名無しさんfrcLjデン2024/02/28 12:00:15502.神も仏も名無しさんFlmgCパパ2024/02/28 19:04:05503.神も仏も名無しさんPrAgL大乗仏教 唯識派の思想において、「意識」と想定されているものは、生じた瞬間に滅する「識」が次々に継起して形成する識の流れです。そして「精神・身体・外界の環境」、即ち「主観や客観」と考えられるものも全て、そのような「識」の内部にある「形象」に過ぎません。唯識派にとって、輪廻転生とは魂が今の生涯から次の生涯へ移動するようなイメージではなく、「識」の流れが次の生涯の衆同分(天界・人と動物・地獄など)を得て、次の世界を造り出す状態になるイメージです。唯識思想では外界が存在しないため、我々は「一人一宇宙」とも言うべき阿頼耶識世界内を生きていることになります(上の図は分かりやすいように末那識と六識を阿頼耶識の外側に配置しています)。しかし、同じ衆同分にある者同士(例えば人間同士、人間と動物など)=倶有の種子を持つ者同士では共通の意識体験が普通に起こり、互いに干渉し合うこともできます。2024/02/28 22:48:58504.神も仏も名無しさんPrAgL覚りを得ることで阿頼耶識(同時に末那識と六識も)が最終的に消滅し、最高の実在である清浄法界が「浄く輝く心」として個体に現成し、輪廻から解脱できるとします。同時に三層の識は識として消滅し、仏の四智に転換され、その個体の思考や行動は仏のそれとなります。926 ◆JBLfMwCXhY 2024/02/28(水) 19:00:15.78 ID:jN28b末那識や六識の種子がギッシリ詰まった蔵の如き阿頼耶識の中心が何故、光り輝いて主観や客観を照らし出す照明(メタ認知意識)になり得るかというと、その背景に法界(浄く輝く心)が常に存在しているためです。それが大元の光源と言えるでしょう。初期の唯識思想に近い無形象唯識論に基づく説明でした。後から登場した有形象唯識論がここに混ざることで、今日の複雑で一貫性のない唯識思想ができあがってしまったわけです。2024/02/28 22:50:35505.神も仏も名無しさんMdt0bデン2024/02/28 23:03:05506.神も仏も名無しさんuDwLb部2024/02/28 23:15:55507.神も仏も名無しさんq8drUデン2024/02/29 07:17:22508.神も仏も名無しさん9SeCY抜粋元大応国師・南浦紹明(なんぽじょうみん )https://note.com/premalol/n/n946c9737decb1265年、31歳、南浦は坐禅中に大悟した。このとき虚堂は大いに喜び、堂内を「南浦がついに大徹したぞ!」と叫んで回ったという。大衆(だいしゅ)もこのことがあってから南浦を見る目が一変したという。(辺境の後進国からやって来た僧だと軽く見られる傾向があったのかも知れない。)南浦紹明の投機の偈を見てみよう(原文は漢文)。『 忽然(こつぜん)として心境(しんきょう)共に忘ずる時大地山河(せんが)機を秀脱す法王の全身全体現ず時人(ときひと)相(あい)対して相知らず 』主観と客観、見るものと見られるものが共に失われて、世界がありのままに全体現成している、という消息であろうか。相対して相知らず、知るの知らないのと言う分別作用もそこにはない、真実の丸出しである、というように感じられる。いかがであろうか。2024/02/29 09:46:26509.神も仏も名無しさん5Iu9lデンパパ2024/02/29 10:24:11510.神も仏も名無しさんuDSTq568 神も仏も名無しさん sage 2024/02/29(木) 10:12:01.03 ID:7UyPqNuT主観と客観、人と境というのは、相互依存なので、どっちか消えれば、もう片方も消える。。だから、心境不二となったら、心境脱落と言うか、どっちもある意味消える、ということだよね。。そこらへんが、言語を超えた経験と言うか、説明できないところ。。だから、お茶飲むのはいいにしても、平常底、ありのままの世界しかない、みたいに思い込むのは、よくない。。逆に、坐り続けてたら、夢にも見ないことがありますよ、なんて言う人がいるけど、それは嘘じゃないよね。。2024/02/29 18:55:06511.神も仏も名無しさんuDSTq398:鹿野園 ◆ZTfV4x.y4wpe :[sage]:2022/08/21(日) 10:50:03.89 ID:au7gClIX >見分は有りと雖も、而も無分別をなるをもって、能取に非ずと説けり。 >取ること全無には非ず。 >(成唯識論)つまり、見分は有っても能取がないということで、知的活動がないわけでもない、って事です。何かに執着したり対象的に認識認識する事ではない、と。 >相分は無しと雖も、而もこれ(いい)如の相を帯して起こると説くべし。 >如に離れざるが故に。 >自証分(いい)見分を縁ずる時に変せずして縁ずるが如く、此れも亦た応に爾るべし。 >(成唯識論)”相分は無しと雖も”、相分がない、つまり”知る対象がないのに何を知るのか?”という事になりますが、”如の相を帯して起こる”、つまり、真如そのものの体相を帯びる(挟帯)との事です。体は、体・用・相の体でしょうね。2024/02/29 18:55:16512.神も仏も名無しさんJsp6I阿頼耶識の奥に、「光り輝く心」がある日本には、この要素が最も薄れた時期の唯識論が伝わり、法相宗となって残った「光り輝く心」これは、原始仏典にもすでに見られる無視できない要素だ941 ◆JBLfMwCXhY 2024/02/29(木) 05:33:18.61 ID:gfNt0「光り輝く心」は、液晶ディスプレイのバックライトみたいなものだバックライトがあるから、画面が見える唯識論の歴史の中で、浮かんだり消えたりする隠し要素だ2024/02/29 19:32:11513.神も仏も名無しさんJsp6Iバックライトがなくて液晶だけだったら、画面が暗くて何も見えない「光り輝く心」は、そのように世界を照らしているこのため、「照明」とも訳される悟りを得て解脱する最終局面では、阿頼耶識が壊れて、奥に潜んでいた「光り輝く心」が姿を現すという液晶画面が壊れて、バックライトがむき出しになるようなイメージだそれと「阿頼耶識が転じて大円鏡智になる」という法相宗の教えには、通じるものがある「同じことを言っている」という人もいる945 ◆JBLfMwCXhY 2024/02/29(木) 05:40:29.34 ID:gfNt0「光り輝く心」というのは、日本の法相宗では言われない唯識論にも大きく分けて2つの系統があり、法相宗はそのうちの1つ「光り輝く心」がない方の系統に属する2024/02/29 19:33:47514.神も仏も名無しさんJsp6Iだいえんきょう‐ち ダイヱンキャウ‥【大円鏡智】?名? 仏語。 仏の四智・五智の一つ。有漏の第八阿頼耶識(あらやしき)を転じてうる無漏智で、大きな円鏡が万物の影をことごとく映すように、すべての真実を照らし知る仏の智恵。大円鏡智仏の持つ四智の一つ。大きな円い鏡に一切がありのままに映し出されるように、すべてを明らかにする曇り一つない清浄な仏智のこと。唯識で第8阿頼耶識を転じて得られる無漏の清浄智をいう。こうしてみると、やはり「光り輝く心」と大円鏡智は、ほぼ同じと見てもいいだろう949 ◆JBLfMwCXhY 2024/02/29(木) 05:46:18.67 ID:gfNt0ただし、法相宗では大円鏡智は、最終局面で阿頼耶識が転じる智「光り輝く心」は、ずっと奥に潜んでいたものが、最終局面で阿頼耶識が消滅することにより現れるとされる2024/02/29 19:35:12515.神も仏も名無しさんJsp6Iただし、法相宗(および、有形象唯識論)では大円鏡智は、最終局面で阿頼耶識が転じる智それに対して、無形象唯識論では「光り輝く心」は、ずっと奥に潜んでいたものが、最終局面で阿頼耶識が消滅することにより現れるとされる「有形象唯識論」、「無形象唯識論」というと①有形象唯識論は、「形あるもの、つまり物質は外界に存在する。人は、それを認識しているのだ」という理論②無形象唯識論のほうは、「形あるものなど、本当は無いのだ」という、外界不存在、物質否定の理論・・・のように思えるけどそうではなく、逆なのがややこしいところ①有形象唯識論というのは、「形あるものは、自分の意識の中に原型がある。人は、おのれの意識の中にある形象を認識しているのである」という、突き抜けた物質否定、外界不存在の思想953 ◆JBLfMwCXhY 2024/02/29(木) 05:55:13.91 ID:gfNt0仏教も、昔からこうだったわけではない古い時代の思想、説一切有部は「無形象知識論」だったこれは、「形象は、自分の意識の中にあるわけではない」という思想要するに、説一切有部では外界は存在し、形あるものは存在する人は、それを認識している2024/02/29 19:39:12516.神も仏も名無しさんJsp6Iこれが、説一切有部に反対して登場した分派の経量部だと、「有形象知識論」となるこれは、「形象は、自分の意識の中にる」という思想例えば、人が赤くて丸いリンゴを見ているとする経量部の考え方では、それは本当はリンゴなどではない「何か赤いモノ」が存在しているだけ人はそれを認識し、自分の意識の中にある「丸い」という形象を当てはめ、そこに「リンゴ」という名前をつける「何か赤いモノ」が本当は何なのか。それは、人間には知るよしもないおもしろいことに(哲学オタクにとってはおもしろいだけで、普通の人にはおもしろくもなんともないだろうが😅)、17世紀の近代イギリスに登場した、ジョン・ロックの認識論は、これとは逆だ経量部では、「色はモノ自体にもともと備わっている要素。形は、人間の意識の中にしかない」と考えたジョン・ロックは、これとは逆だ「形は、モノ自体がもともと持っている要素。色は、人間の意識の中にある」と考えた2024/02/29 19:40:48517.神も仏も名無しさんJsp6I956 ◆JBLfMwCXhY 2024/02/29(木) 06:07:23.03 ID:gfNt0人間には、波長の長い光は赤く見える波長の短い光は青く見えるリンゴに光が当たると、波長の短い光は吸収され、波長の長い光が反射されるその反射された波長の長い光を見ると、人は「赤い」と感じるこのような視覚のシステムを考えると、「色は人間の意識内で作り出される」というジョン・ロックの世界観は正しい経量部の人々は、いくら賢いといっても古代人そこまでは、考えが至らなかったようだ2024/02/29 19:42:21518.神も仏も名無しさんCpiArデン2024/02/29 20:28:16519.神も仏も名無しさんJsp6I960> それが有形象唯識論の思想違ったそれを言うなら「有形象知識論」だ2024/02/29 21:18:06521.神も仏も名無しさんF0j1x166 神も仏も名無しさん 2024/03/01(金) 13:19:40.52 ID:PzeVvvh/円覚寺HP 今日のことば2023.02.18 横田南嶺 一生、なにもわからぬほんの少し勉強すると、賢しらに知ったかぶりをしてしまうのが私であります。一知半解を得て、すべてを心得たように思ってしまいます。「知らざる最も親し」という言葉もあります。なにも知らないというのが、もっとも真理に親しいというのです。大灯国師も「無理会の処に向かって究め来たり、究め去るべし」と示されました。分別や知識では届かないところに向かってただひたすら究明してゆけというのです。分かったというようなものがあったら、もう遠くして遠しなのであります。泰龍老師の「一向に存じませぬ」も、大慧禅師の示される「一生不会」も実に高い心境なのであります。2024/03/01 20:12:10522.神も仏も名無しさんFniri栖管見を云うと「解決してる」というのは「現成公案」だって思うんです。つまり「解決してる」は答えではなくて問いだって事です。曹洞流ならそれを修(収)め、つまりその解決を行持する事だと思うんです。臨済流は解決に向かうけど、曹洞流は解決から始めるって事だと思うんです。問いと答えが一如のところに曹洞流があると思うんです。2024/03/01 21:08:22523.神も仏も名無しさん5zaU2992 ◆JBLfMwCXhY 2024/02/29(木) 18:27:04.28 ID:fqfQ7「心の働きを止める」の意味を考えたことがありますか? ヨガの実践をしている人の中で、心の働きを止めたいという目的でヨガを始めた人はいないでしょう。ヨガスートラは現存するヨガの書籍の中で最も古く、もっとも沢山の人に読まれてきた教典です。ヨガスートラの中で書かれた八支則の実践は、心をコントロールして最後にはその働きを完全に静止させるための実践です。完全なる静止が意味するのは、「自分の本性」との出会いです。ヨガの実践により心を静止させると、自分自身を知ることが出来ます。思考は湖の水の波紋のようなものです。水面が荒れていると湖の底を見ることはできませんが、水の動きを止めることで湖の底を見ることが出来ます。そして、ヨガで心を静止することにより出会える、“自分自身が何か”を説明した哲学が【サーンキャ哲学】です。2024/03/02 08:41:25524.神も仏も名無しさん5zaU2インド哲学を大きく分けると2つになります。『ヴェーダ』の権威を認める正統派といわれるグループと、認めない非正統派といわれるグループの2つです。正統派といわれるのは、サーンキヤ学派、ヨーガ学派、ニヤーヤ学派、ヴァイシェーシカ学派、ミーマーンサー学派、ヴェーダーンタ学派の6つです。これを「六派哲学」といわれます。それに対して非正統派といわれるのは、仏教と、ジャイナ教を含む六師外道ろくしげどうです。六師外道というのは、①プーラナ・カッサパ、②パクダ・カッチャーヤナ、③マッカリ・ゴーサーラ、④アジタ・ケーサカンバリン、⑤サンジャヤ、⑥ニガンタ・ナータプッタの6人の教えです。ニガンタ・ナータプッタの教えがジャイナ教です。これらの六派哲学と、仏教、六師外道が代表的なインド哲学です。インド哲学の正統派は、ヒンドゥー教系の六派哲学非正統派は、仏教とジャイナ教2024/03/02 08:43:12525.神も仏も名無しさん5zaU2本覚讃本覚讃(ほんがくさん)は、本覚思想を要約した56文字の偈である。妙法蓮華三昧秘密三昧耶経の冒頭の偈から抜粋し作られた。本覚思想を要約したものなので、天台宗の勤行で唱えられる。また、修験道でも般若心経や真言、不動経など並んで修行時によく唱えられる。真言宗醍醐派の当山方の勤行でも唱えるほか、高野山真言宗でも金剛峰寺奥の院の御廟橋を渡る際に唱える。本覚讃の解釈本として、良源著と伝わる「本覚讃 註本覚讃」や源信著と伝わる「本覚讃釈」がある。2024/03/02 09:05:05526.神も仏も名無しさん5zaU2本覚讃帰命本覚心法身(きみょうほんがくしんぽっしん)常住妙法心蓮台(じょうじゅうみょうほうしんれんだい)本来具足三身徳(ほんらいぐそくさんじんとく)三十七尊住心城(さんじゅうしちそんじゅうしんじょう)普門塵数諸三昧(ふもんじんじゅしょさんまい)遠離因果法然具(おんりいんがほうねんぐ)無辺徳海本円満(むへんとくかいほんえんまん)還我頂礼心諸仏(げんがちょうらいしんしょぶつ)2024/03/02 09:05:16527.神も仏も名無しさん5zaU2帰命本覚心法身本(来)覚っている心の法身に帰命したてまつる常住妙法心蓮台妙なる法が心の蓮台に常に住んでいる本来具足三身徳本来より(法身報身応身の)三身の徳が具足している三十七尊住心城(金剛界の)三十七尊が心の城に住んでいる普門塵数諸三味塵の数ほどの諸々の三昧にあまねく(開かれた)門がある遠離因果法然具因果を遠く離れ法然として具(足)している無辺徳海本円満無辺の徳の海が本より円満している還我頂礼心諸仏(外にするべき頂礼を)我に環して心の諸仏を頂礼する2024/03/02 09:05:26528.神も仏も名無しさん5zaU2本覚讃帰命本覚心法身常住妙法心蓮台本来具足三身徳三十七尊住心城普門塵数諸三昧遠離因果法然具無辺徳海本円満還我頂礼心諸仏2024/03/02 09:05:38529.神も仏も名無しさん5zaU2意味内容(中山清田師の訳による)「本来覚 (さと) られていることを讃える」本来既に覚っている、 みずからの内なる仏、 法身に命を捧げて信仰致します。本来もとより仏の法身、 報身、 応身という三つの形で説明されて、 あらゆる人間的無相表現が既に過去からこの身に備わっているものですから、 三十七の仏、 諸尊がみずから心身に住している。 諸仏や諸尊の限りない自内証 (覚り方) は、 世間的な因果生死の流転のあり方を超越して、 仏法のまにまに備わっており、 大海のような辺際のない諸仏諸尊の無量の仏徳が本来完全にしみわたっている。それらを具足している我が身ながら、 改めて我が心身に内在している諸仏諸尊にこうべを垂れて礼拝致します。2024/03/02 09:05:54530.神も仏も名無しさん5zaU2『本覚讃』の唱和http://www.tendai-jimon.jp/shomyo/Track2_10.mp3本当は、みんな仏なんだよそこに気づけばいいだけなんだもともと悟っているそこに気づけば、修行は終わり17 ◆JBLfMwCXhY 2023/12/28(木) 06:53:13.44 ID:qZU0eこのようなロンの主張に対し、当方は「仏教とは真逆の考え方」と強く批判したのだがインドの仏教とは、遠く離れたところに来てしまった2024/03/02 09:07:56531.神も仏も名無しさんUZDwI禅ではその分節以前を味わって来いっていうんですよね。また、味わって来たのなら証拠を見せろと師家は迫ってくる訳です。ところで先日はパーリさんが大応国師の投機の偈を紹介して下さったので、この場はその嗣法の大灯国師のそれを味わってみようと思うんです。一回透得雲關了 一回 雲関を透得し了って南北東西活路通 南北東西 活路通ず夕處朝遊沒賓主 夕処朝遊 賓主を没し脚頭脚底起淸風 脚頭脚底 清風を起こす2024/03/02 21:34:18532.神も仏も名無しさんUZDwI透得し了って……活路通ず賓主を没し……清風を起こす賓主を没し、つまり見分と相分ですね。見られるものと見るもの。そして、清風を起こす。 >見分は有りと雖も、而も無分別をなるをもって、能取に非ずと説けり。 >取ること全無には非ず。 >(成唯識論)つまり、見分は有っても能取がないということで、知的活動がないわけでもない、って事です。何かに執着したり対象的に認識認識する事ではない、と。 >相分は無しと雖も、而もこれ(いい)如の相を帯して起こると説くべし。 >如に離れざるが故に。 >自証分(いい)見分を縁ずる時に変せずして縁ずるが如く、此れも亦た応に爾るべし。 >(成唯識論)”相分は無しと雖も”、相分がない、つまり”知る対象がないのに何を知るのか?”という事になりますが、 ”如の相を帯して起こる”、つまり、真如そのものの体相を帯びる(挟帯)との事です。体は、体・用・相の体でしょうね。2024/03/02 21:34:36533.神も仏も名無しさんUZDwIお茶を飲む……修せざるにはあらわれず。お茶の味がする……証せざるにはうることなし。宗乗自在、何ぞ功夫を費さん。況んや全体はるかに塵埃を出ず。孰か払拭の手段を信ぜん。やっぱりいきなりの最初に指摘したように、ハッキリ教くんの「お茶」の話はK.I師の猿真似だったね。本人は惚けて否定してたけどwwwま、以下を見て下さい。彼が本物か猿真似のパチモンか、ご判断はご自由にどうぞ🤭! ↓こうやって【水筒から茶碗にお茶を注いで飲む】、「修せざるにはあらわれず」、飲まないと味がしない。そのくらい簡単な言葉です。飲むと、間違えなくちゃんと味がする。「証せざるにはうることなし」、飲めば必ず味がする。疑いようのない確かさがある。(井上貫道 『真実、悟り、禅修行とは: 道元禅師『学道用心集』『普勧坐禅儀』、黄檗希運禅師『伝心法要』提唱録)2024/03/02 21:52:02534.神も仏も名無しさん6VBtr何故を探究すると①「無限背進」②「循環論」③「独断的中断」のいずれかになるって云われてますけどね。2024/03/03 14:31:01535.神も仏も名無しさんnUKK2『 黙 照 銘 』宏智正覚(わんし しょうがく、1091年(元祐6年) - 1157年(紹興27年))は、中国の宋代の禅僧。曹洞宗に属し、多くの弟子がいて宏智派の祖とされた。黙照禅という坐禅の形を正統のものと主張し、多くの詩偈を残した。.禅の奥旨を歌った哲学詩。「黙は唯だ至言、照は唯だ普応」といい、言句分別と差別対立を絶した寂黙に徹し、修証不二の打坐を勧めたもの。ーーーーーーーーーーーーー『 黙 照 銘 』黙々として言を忘じ、昭々として現前す。鑑する時廓爾たり、体する処霊然たり。霊然として独照す、照中還た妙なり。露月星河。雪松雲?。晦して弥よ明らかに、隠れて愈よ顕わる。鶴煙に夢みて寒く、水秋を含んで遠し。浩劫空空。相与に雷同す。妙存黙処。功忘照中。妙存は何の存するぞ、惺惺として昏を破る。默照の道、離微の根。離微を徹見すれば、金梭玉機。正偏宛転して、明暗因り依る。依に能所無く、底時回互す。善見薬を飲み、塗毒の鼓を打つ。回互底時、殺活我に在り。門裡に身を出し、枝頭に果を結ぶ。黙は唯だ至言、照は唯だ普応。応ずれども功に堕せず、言うも聴くに渉らず。万象森羅・放光説法・彼々証明・各々問答・問答証明、恰々として相応ず。照中黙を失す、便ち侵凌を見る。証明問答・相応恰々。黙中に照を失すれば、渾て剰法と成る。黙照理円、蓮開き夢覚む。百川海に赴き、千峯岳に向かう。鵝の乳を択ぶが如く、蜂の花を採るが如し。黙照至得、我が宗家に輸く。宗家の黙照、透頂透底。舜若多の身、母陀羅の臂。始終一揆、変態万差。和氏献璞、相如瑕を指さす。当機準有り、大用勤めず。寰中は天子、塞外は将軍。吾家の底事、規に中り矩に中る。諸方に伝え去って、賺挙することを要せず。2024/03/08 17:47:40536.神も仏も名無しさんnUKK2大慧宗杲(だいえ そうこう、元祐4年(1089年) - 隆興元年8月10日(1163年9月9日))は、中国の宋代の臨済宗の僧。2024/03/08 17:48:29537.神も仏も名無しさんnUKK2宋代の禅僧、大慧宗杲が対立する宏智派の禅風を非難して「黙照邪師」と呼んだことに始まる。宏智派の禅風は始祖、宏智正覚が『黙照銘』で示した説による。2024/03/08 17:51:08538.神も仏も名無しさんnUKK2宋代の禅僧、大慧宗杲が対立する宏智派の禅風を非難して「黙照邪師」と呼んだことに始まる。宏智派の禅風は始祖、宏智正覚が『黙照銘』で示した説による。宏智正覚(わんし しょうがく、1091年(元祐6年) - 1157年(紹興27年))は、中国の宋代の禅僧。曹洞宗に属し、多くの弟子がいて宏智派の祖とされた。黙照禅という坐禅の形を正統のものと主張し、多くの詩偈を残した。大慧宗杲(だいえ そうこう、元祐4年(1089年) - 隆興元年8月10日(1163年9月9日))は、中国の宋代の臨済宗の僧。https://i.imgur.com/YrAVPFs.jpg2024/03/08 18:13:39539.神も仏も名無しさんYgY76『仮名法語』の特徴は、人々の能力(機根)に合わせた具体的な修行法を説くことだ。まず、上品・下品のもとに上根・中根・下根を立てる。①上品は、迷いを知らない人、②下品は、久しく迷いを有する人とされる。その中で①上根は、善知識の教えにより忽ち悟りに達する人、②中根は、深奥な世界に心を寄せることで悟りに至れる人、③下根は、目指すところを心にとめてもすぐ忘れてしまう人とされる。『仮名法語』は、末法に入って200年たった、人々の能力が低い世を想定しており(このことから『仮名法語』の成立は1252年以降と分かる)、下品に対する救済の眼差しが強い。● 下根が意識的に悟れるよう心がけるのも難しい場合は、● ひたすら坐禅をすることを勧め、末法には坐禅が万人に適した修行方法と説く。加えて『仮名法語』は、女性二人に向けた法語も掲載しており、女性に対する禅の説き方を窺う重要な史料といえる。このように、修行者の能力を踏まえて禅の修行法を説く『仮名法語』は、先述の如々居士の著作などとも方向性を一にするといえ、『禅家説』全体に、初学者へ禅を示す一貫した意図があったものと思われる。2024/03/08 20:07:27540.神も仏も名無しさんx4imJ唯識に学ぶ・誓喚の折々の記能変の体を彰す (5) 思量識「二には謂く思量。即ち第七識ぞ。恒に審かに思量するが故に。」● 初能変は第八識であらわしますが、その第八識の上に働く識が第七識ですから、第二能変といわれています。● 第七識のはたらきは、「恒に審かに思量する」ということで、第八識の見分を境として恒に「我」と思量する識である。● 「恒」は間断のある第六識を簡ぶ。意識は審に思量するけれども恒ではない、ということ。● 「審思」は第八識を簡ぶ。第八識は恒ではあるが、審に思量する識ではありませんから簡びます。● また、「恒」と「審」との思量を以て前五識を簡びます。五識は恒に起こるものではなく、また審思するものでもないから簡ばれます。「簡ぶ」は比較され簡び取られるという意味ではなく、除外されるという意味になります。● 「恒に思量する」ことと、「審に思量すること」が第七識の特徴になります。manas翻訳して末那といい表しています。我法二執の根本である。八識はみな思量の作用があるが、末那識は特に恒(間断なく常に作用する)と審(明瞭に思惟する)との二義を兼ね有して、他の七識に勝っているから末那(意)という。2024/03/11 18:28:53541.神も仏も名無しさんdiaqZ光明真言には下記の仏様が隠されています。アボキャ・・・不空成就如来ベイロシャノウ・・・大日如来マカボダラ・・・薬師如来マニ・・・宝生如来ハンドマ・・・阿弥陀如来上記の5つの仏様は金剛界の五仏と呼ばれており五仏の功徳が光明真言のそれぞれの句に込められているのです。それ故に光明真言は最強の真言と言われているのです。https://i.imgur.com/tIlsDzS.jpg2024/03/11 20:51:39542.神も仏も名無しさんdiaqZ悟りは仏教の教えの一部です。誰でも悟れるという類書が多いので一目瞭然なのですが、解脱に比べると意外と身近です。そして、悟りと解脱は全く別の体験なのです。これは禅宗のお坊さんも知っていて、いくつか本に書いてあるものもちゃんと存在します。解脱とは、ある状態から開放されることを言いますので、多くの解脱が存在します。輪廻から脱するのも解脱ですが、例えば自分の持つ嫌悪から開放されるのも解脱です。最終的な解脱はビムッティ(離解脱)といいます。①心解脱・・・心の苦悩が消滅すること、これが悟りです。②信解脱・・・三宝に対し絶対的な帰依を持った時に来るのが信解脱、インドではバクティー。日本では親鸞がそうです。③慧解脱・・・三明六通を得て、漏尽通により根本煩悩や四聖諦、十二縁起を体験。これを阿羅漢といいます。ここで般若心経で言う「一切皆空」を体験します。2024/03/11 21:06:59543.神も仏も名無しさんqBv0J鹿野園 ◆ZTfV4x.y4wpe :[sage]:2022/08/21(日) 10:50:19.04 ID:au7gClIX竹村先生は解説書で >相分はないのだけれども無分別智という智慧は真如と一体化し、そこに真如を自覚している(中略) >智慧はあくまでも有為法でその都度その都度起きてくるものなのですが、真如は無為法で変化のない世界です。 >そうなのですが、しかも無分別智は真如といわば一つになるのです。 >それは自証分が見分を見るとき、見分を現し出してそれを見るのではなくて、見分の内容をそのまま直接受けとめるように、そのように真如を証するという事です。と解説されております。また、 >相分やら何やらを現し出して、それを縁ずるということになると、そこには何らかの対象への関与が生じて、直接に証することにならず、後得智と同じように分別があることになってしまいます。 >したがって無分別智を理論的に説明する場合は、見分はあるが相分はないというかたちで、ただし真如を挟帯して証するのだと説いています。 >また、無分別智も真如も言葉では説明できない世界ですが、理論的にはこのようにとらえるのです。とおっしゃってます。2024/03/12 21:35:55544.神も仏も名無しさんfymU5「非体不用」って云うんです。仏典の漢文で「非」は次に体語すなわち名詞がきて、「不」は次に用語すなわち動詞や形容詞がくるんです。体用相を考える上で役に立つ基礎知識と云えましょう。非有非無と云うとき、その時の「有」「無」はそういう意味で使われているって事なんです。2024/03/13 22:41:47545.神も仏も名無しさんyBgoQ人牛倶忘っていうのは「仏向上」の事を云うんです。間違ってもロンパールームのいうような記憶喪失になる事ではありませんwww>生きながら死人となりてなりはてて>思うがままになすわざぞよき>(至道無難禅師)と云うのですが、 理致 ~ 生きながら死人となりて 機関 ~ なりはてて 向上 ~ 思うがままになすわざぞよきに該当するって思うんです。2024/03/15 20:02:19546.神も仏も名無しさんZRIB2①色→ 即 是 識 (空)②識(空)→ 即 是 色①②は一如の表裏一体①≪色≫が無ければ≪識≫は無く②≪識≫が無ければ≪色≫も無い● 一如の①物理側面と②非物理側面色は何処まで行っても認識≪対象≫識は何処まで行っても認識≪主体≫故に、認識対象無くんば、認識主体無し故に、対象を持たない自我の心は、早晩に無我無心となる2024/03/16 10:04:11547.神も仏も名無しさんZRIB2●一如の①【物 理】側面と②【非物理】側面①色は何処まで行っても認識≪対象≫②識は何処まで行っても認識≪主体≫故に認識【対象】無くんば認識【主体】無し故に、【対象】を持たない自我の心は、早晩に【無我】【無心】となる2024/03/16 10:09:45548.神も仏も名無しさんZRIB2●①色→ 即 是 識 (空)②識(空)→ 即 是 色①②は一如の表裏一体①≪色≫が無ければ≪識≫は無く②≪識≫が無ければ≪色≫も無い● 一如の①【物 理】側面と②【非物理】側面①色は何処まで行っても認識≪対象≫②識は何処まで行っても認識≪主体≫故に認識【対象】無くんば認識【主体】無し故に【対象】を持たない【心】は、ほどなく【無我】【無心】となる2024/03/16 19:19:26549.神も仏も名無しさんcAi4M『小空経』における空の 実践構造につ い て井上ウィマラ 著?2010https://www.google.com/search?q=%E5%B0%8F%E7%A9%BA%E7%B5%8C&sca_esv=2b7898c5615aa23f&sca_upv=1&biw=412&bih=702&ei=9vP0ZefhFbu70-kP5q228AM&oq=%E5%B0%8F%E7%A9%BA%E7%B5%8C&gs_lp=EhNtb2JpbGUtZ3dzLXdpei1zZXJwIgnlsI_nqbrntYwyBRAAGIAEMggQABiABBiiBDIIEAAYgAQYogQyCBAAGIAEGKIEMggQABiJBRiiBEjQpgFQsg9Ylp8BcAJ4AZABAZgB1AOgAckhqgEIMC4yNS40LTG4AQPIAQD4AQGYAhKgAscaqAISwgIKEAAYRxjWBBiwA8ICCxAAGIAEGLEDGIMBwgICECnCAhAQABgDGI8BGOUCGOoCGIwDwgIQEAAYgAQYigUYQxixAxiDAcICBxAAGIAEGATCAg0QABiABBgEGLEDGIMBwgIKEAAYgAQYBBixA8ICChAAGIAEGIoFGEPCAg4QABiABBiKBRixAxiDAcICCBAAGIAEGLEDwgIJEAAYgAQYBBglwgIJEAAYgAQYBBgKwgIHEAAYgAQYF5gDP4gGAZAGCpIHCjIuMTMuMi4wLjGgB_Nu&sclient=mobile-gws-wiz-serp#vhid=zephyrhttps://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk/58/2/58_KJ00006159691/_pdf&vssid=zephyr-w-https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk/58/2/58_KJ00006159691/_pdf2024/03/17 00:39:49550.神も仏も名無しさんq5lEF1 . 『小空経』の 概略本経は, ブッ ダがかつ て 「私は今空性によっ て多く過ごす (sufifiatEvihdrenfiham etarahi bahularp viharami )」 と言っ た こ と について アーナン ダから質問を受けて 答える 形で説かれた教えである.村や入の想念を心に思わず, 森の 想念に集中することに よっ て (araiifiasaiiiiaq・paticca manasikaroti ,ekattam ), 村 や 人の 想念 に よる煩 わ しさは消滅 して空 となる. しかし森の想念に集中することによる煩いは残る.その ように, あるものがそこにない とき, それにつ い てそこは空であると見つ める.そこに残っ てい るものがあれば, その存在をこれがあると知る.これは不空性 (asufiiiata)の確認である.この ように して, 色界や無色界の禅定によっ て不在になるもの と残るもの とをありの ままに見つ めてゆくことが空性の現れである 2〕.ーーーーーー2024/03/17 04:55:09551.神も仏も名無しさんq5lEFこれが本経における空に関する基本的な説明様式である.その 後で,無相の心三昧について 語 られ る.基本様式と相違する ところは, 無想の心三昧に入っ た ときには 「六つの 感覚器官を持つ 身体に よっ て命を縁とする煩い」が残る点である3)。さ らに再び, 無相の心三昧につい て 「この無相の心三味も作為され思惟されたもの で あり, どの ような作為され思惟されたもの も, これは無常であり消滅してゆ く性質の ものである」と知見することにより心は漏れ出る煩悩から解脱することが説かれる.そこで漏れ出る煩悩に よる煩い は空となるが,六つ の感覚器官を持つ 身体によっ て命を縁にして生じる煩い は残る 4).こ れは阿羅漢果を得た最終的な解脱の段階を空の視点か ら説明した ものである.なぜ 無相の心三昧につ いて 2回の 説明があるの か?注釈書は 「ヴィパッサナーによって 非想非非想処の想念を, 道によっ てヴィパッ サナーを退けて , 次第に究極の 空性と呼ばれるもの を示そうと思っ て, 世尊はこの ように説法に努めたのであると解説してい る .また,最初の 無相の心三味におい て身体的存在が残ることに関しては, 「<この身体を〉とは, ヴィパッ サナーの 根拠として示した 」ことが解説され,2回目の無相の心三昧が説かれた理由に関し「再び く無相の 〉とは,ヴィパ ッ サナーをさらに 振り返って ヴィパッサナーす るこ とを示すために説かれた 」 と解 説さ れている.ヴィパ ッサナーは, 見つ めるこ と自体を、繰り返し見つ め る ことをその特徴とする.すなわち, 最初に無相の心三昧が説かれた時には無色界禅定によるサマ タ (samatha ;止)か らヴ ィパッ サナー (vipassana :観)への転換点を示すため, 2 回目はヴィパッサ ナーが繰 り返されて熟した道による阿羅漢 としての解脱地点を示すために説かれてい るのである,2024/03/17 04:55:28552.神も仏も名無しさんq5lEFこれが本経における空に関する基本的な説明様式である.その 後で,無相の心三昧 について 語 られ る.基本様式と相違する ところは, 無想の心三昧に入っ た ときには 「六つの 感覚器官を持つ 身体に よっ て命を縁とする煩い」が残る点である。さ らに再び, 無相の心三昧につい て 「この無相の心三味も作為され思惟されたもの で あり, どの ような作為され思惟されたもの も, これは無常であり消滅してゆ く性質の ものである」と知見することにより心は漏れ出る煩悩から解脱することが説かれる.そこで漏れ出る煩悩に よる煩い は空となるが,六つ の感覚器官を持つ 身体によっ て命を縁にして生じる煩い は残る .こ れは阿羅漢果を得た最終的な解脱の段階を空の視点か ら説明した ものである.最初の 無相の 心三昧に関する説示では, 残れるもの としての 煩わしさの中には漏が含まれてい た. しかし,2回目の 無相の 心三昧では漏につい て空となっ ている.身体的存在は残るが, 漏とい う煩悩が空となることによっ て, その 煩わしさは もはや苦としての あり方を終えたの である.これは, 有余涅槃をさすものである .2024/03/17 04:57:27553.神も仏も名無しさんq5lEFこ の ように説かれた空の認識における観察対象を表にしてまとめると以下の ようになる.https://i.imgur.com/16djO4x.jpg2024/03/17 04:59:38554.神も仏も名無しさんq5lEF2 . 認識論としての 空の 視点世俗的生活出家の修行生活色界禅定無色界禅定有学無学残る煩わしさ(苦 しみ)森想を縁とする一体性地想を縁 とする一体性無色界禅定の対象を縁 とする ・体性身体的存在+漏身体的存在『小空経』で説かれてい る空は,そこに実際にあるもの とない もの とを如実に確認して ゆく意識的作業と深 く関るものである.そこにない ものが空であり. ある もの は不空である.それは想念において も同様である.ある想念におい て, 注意が向け られてい る対象は意識の 中にあるがゆえに不空となり, 注意の向けられて い ない 対象は意識の 中にない ために空となる.これは認識論的な議論であっ て,存在論としての議論ではない.向井亮が 『〈空〉の 二 面性につ いて』の中で, 具格を伴うSunyaの用法について 考察して, 「何が 『空』で, 何が 「無』か (そして何が 『有』か)を決して混同して はな らない 」と述べているの は、本経におけるこの ような認識論的な視点の確認 となっ てい る.具格によっ て示された対象は, 注意を向ける行為によっ て意識の中に浮かび上がっ てくるものであ り,注意がほかの対象に移っ た瞬間には意識の 中か らは消えてゆ く.そうした意識の 性質上, もの ごとの 有無を絶対的に論じることは不可能である.それは,有無の両極端に囚われない中道の 視点である.こ うした認識論的な対象確認作業の描写におい て用い られる paticcaとい う語意識的にせ よ、無意識的にせ よ, 意識は必ず何かの 対象を縁として生じて くる とい う仏教が大前提としてい る洞察が託されてい る.この洞察は , 「こ れあれば彼あ り, これなければ彼なし.これ生 じれば彼生 じ, これ滅するがゆえに彼滅す」とい う縁起 の 考察に通 じる ものである.2024/03/17 04:59:51555.神も仏も名無しさんq5lEF相応部の 『空 』にお い て , ブッ ダが 「アーナン ダよ ,我について,我に属するもの につ いて空なのです.それゆえに, 世界は空であると言われるので す 」 と述べ て い るのはこうした空と無我との深い 結びつ きを示したものである.『大いな る智慧による問答経』における空心解脱 も同様で あ り,その 注釈書で は空性 とはヴ ィ パッ サ ナーで あるこ とが 述べ られている。2024/03/17 05:00:04556.神も仏も名無しさんq5lEFこ うして愛欲の生起 と消滅の プロ セス をありの ままに繰 り返し見つ め続けたる時,私や私の ものとい う観念か ら空となっ た愛欲は, 純粋な現象として体験される.法としての 不空性が誰の もので もない 「愛欲だけがある」とい う気づ きとして体験され るの である.2024/03/17 05:01:08557.神も仏も名無しさん3OA22ブッダが悟った智慧とは何か望 月 海 慧4.悟りと解脱智の再解釈ルイ・ドゥ・ラ・ヴァッレ・プサンはサンユッタ・ニカーヤ12.68やアンヌッタラ・ニカーヤ6.16などの初期経典に依り,解脱智の解釈には合理主義的概念に基づくものと,神秘的な概念に基づくものがあるとする。この後者によると,解脱は今生での涅槃や死の範囲を超えた領域がその身体により実現され触れられることを必要としており,その今生での涅槃は想受滅と結びつけらている。しかしながら,弟子たちの解脱智の記述では,想受滅の獲得の後に、その漏は智慧で見た後に完全に滅した、と言う句が続いている。すなわち想受滅の後に智慧が生じることから,この智慧は普通の分析的で概念化されたものではありえないことになる。ここでは智慧は漏の消滅に欠くことができないと認識されており,さらには想受滅自身や涅槃がこの智慧の内容であったことさえも示している。他方で,合理主義的概念に基づいて,解脱智を存在や(例えば五蘊としての)その根本的要因の否定的性質,特に苦や不快や無我の理解や洞察として述べる経典もある。マッジマ・ニカーヤ第22経蛇喩経では,五蘊は苦や不快や無我であり,自分自身に属しておらず,それらは正しい智慧によりそのように見られなければならず,それらをそのように見る者はそれらから離脱し,解脱に達するということが明らかにされている。アンヌッタラ・ニカーヤ4.41では,五蘊の生滅の理解が漏の滅に貢献すると述べられており,サンユッタ・ニカーヤ22,95では,離脱と解脱を引き起こすのは空で中身がなく、核心や実質を欠いている蘊の理解であるとされている。これらの文章では,悟りや解脱智を得るために禅定を必要とするとは述べられていない。例えば前述のアンヌッタラ・ニカーヤ4.41では,禅の修習は今生における快適な状態のみに貢献するとしか述べられておらず,律では,智慧と解脱は本質的に説法を聞くことで引き起こされるものである。2024/03/17 11:34:45558.神も仏も名無しさん3OA22ブッダが悟った智慧とは何か望 月 海 慧ハリヴァルマンの成実論では,解脱智は四聖諦の完全なる理解により達成されるという毘婆沙師の見解は拒まれている。四聖諦は世俗諦に言及するものであり,その洞察はまだ解脱智ではなく,すべての世俗的領域からの離脱すなわち涅槃の体験やその洞察によってのみ解脱智に至ることになるとされている。2024/03/17 11:36:06559.神も仏も名無しさん7TNx2そういうのを平実禅とか無事禅って云うんですけどね。あいつの言ってるのがそれです。対して有所得有所悟を目指すのがあいつのそれ。両方とも論外、外道の禅です。それでは、求めるでもなくそのままでもないとは?「心は万境に随って転ず、転ずる処実に能く幽なり。流れに随って性を認得せば、喜も無く亦憂も無し(マヌラ尊者の偈)」という事です。或いは「始随芳草去 又遂落花回(はじめはほうそうにしたがってさり、またらっかをおうてかえる)(長沙景岑)」という事です。「自己を運びて」って事ではないんです。……鳴らし物に従って、粛々と摂心等で工夫する事です。2024/03/17 17:07:09560.神も仏も名無しさんk8vFZ奇跡の探求1ー覚醒の炎第二章物質と神はひとつだhttps://i.imgur.com/Y7YELjV.jpghttps://i.imgur.com/ezeT751.jpg2024/03/19 23:32:14561.神も仏も名無しさんpzLh3暗闇があるって言ってるね釈尊は明かりの無い暗闇は無明のことですねマナ識の恒・審 思量と言われる自動思考のことだと思うねこれが恒(ツネ)に、審(ツマビラカニ)想念、思考している無明の正体でここから生活作用が生じてくる釈尊が悟った直後に、縁起を悟るんですが中村元の本には無明→生活作用→認識作用となっていて無明から生活作用が始まっていることになっています2024/03/21 20:12:28562.神も仏も名無しさんpzLh3腹は無のセンターって言いますからね第2の脳とも言われていて思考しない意識の大きな部分を占めているのは事実最近も科学で言われている、NHKのスペシャル番組で言ってました左脳、右脳、腸脳右脳も文字言語が無いが、映像言語があって、妄像を見せてくるしかし、腸ー腹の言語はホルモン多数のホルモン分泌物で大脳と会話してやり取りをしているようですよつまり、腹の丹田は、文字映像を持ち合わせていない脳なんだと思います2024/03/21 20:23:39563.神も仏も名無しさん4PUea56 法介◆T3azX0Hk1U 2024/03/21(木) 23:10:50.84 ID:U72nk TID:bison<サティーの考え><A存在論>①主体=見分=実存②客体=相分=実在<B認識論>①主観=七識②客観=七識※補足解説論点になるのは客体は「直接認識できない」カントの物自体に関する議論すかねつまり、B②の客観は客体を直接観察し得ない直接観察し得るのはA①の主体のみであるーーーーーA①の主体がA②の客体を出会う時、感覚器官の知覚が脳処理を通じて表象(B②の客観)とそれに付随する感情の働きや固定観念(B①の主観)を伴って現れる2024/03/21 23:33:40564.神も仏も名無しさんZaOk8サティー958 神も仏も名無しさん sage 2024/03/21(木) 21:45:52.37 ID:lehaB境は能に由て境たり能は境に由て能たり両段を知らんと欲せば元是れ一空一空両に同じく斉しく万象を含む精粗を見ず寧ぞ偏党あらんや」『信心銘』境(客体)は能(主体)と関係してある(別々にあるわけではない)それら二つはもともと「ひとつ」(一空)この「ひとつ」に一切の万象は含まれてる2024/03/22 20:12:53565.神も仏も名無しさんZaOk8サティー958 神も仏も名無しさん sage 2024/03/21(木) 21:45:52.37 ID:lehaB境は能に由て境たり能は境に由て能たり両段を知らんと欲せば元是れ一空一空両に同じく斉しく万象を含む精粗を見ず寧ぞ偏党あらんや」『信心銘』●境(客体)は能(主体)と関係してある(別々にあるわけではない)それら二つはもともと「ひとつ」(一空)この「ひとつ」に一切の万象は含まれてるそこに、精妙なもの粗大なものという偏りはない2024/03/22 20:17:00566.神も仏も名無しさんZaOk8たとえば(1)意識的思考と自動的妄想念の両方が停止して、想念が無くなり、心が無であったからといって、其所は未だ覚った処では無いようです(2)只在る、無位に在る、我在り、のようなこの様な、唯、識として無心が在るという処へ生じていかない限りこの、自覚の状態には、直ぐに至る訳ではないのですこの、自覚は、成長しなければならずこれが明確に成長し存在されていないと(1)大慧禅師の一回目の悟りの如く坐断して終わり、自在性の無い、寂滅にあるだけの、身心の停止した三昧になりますしかし、(2)の自覚を得ると寂滅しても、止に非ず、語るも自由自在な状態に在れます(2)大慧禅師の二回目の大悟が此れですここに至って、大慧禅師は自由自在に機敏に対応し、語れるようになった訳です想念の無の状態と、無心とでは、違いがある、といえます2024/03/22 21:12:13567.神も仏も名無しさん8p7c1● 寝たら対境である外の世界は消えるだろしかし、夢という妄想念が出てくる夢と覚醒時の思考、妄想念は同じで、内側の世界方便としてその中間を中(識)とする1外界(対境) ←中(識)→2夢、思考、妄想この1と2から離れたのが、永遠の今であり我であり、万物と一如でもある、識そのものだと言うこと● ≫無いものを、どうにかする必要があるわけがないので、そういう、無一物、無我を知るから解決です。。要は、我意外との自己同一化が問題であってそれが解消されれば、元からという処それが識2024/03/23 17:19:25568.神も仏も名無しさん8p7c1● 道元さんの立ち位置は、禅宗思想史上では≪馬祖・本覚(証)≫的な禅とそれに対しての批判的検証から構築された≪大慧・始覚(修)≫的な禅の止揚でしょ?● だから、「 修・証 一等 」って言ってるんです。まぁ、馬祖禅も北宗禅へのアンチテーゼなんだけど。ーーーーー『 ほく‐しゅう【北宗】①禅宗で、五祖弘忍の弟子神秀を祖とする一派。 中国の北方で行なわれた。 長い修練の後、次第に悟りの境地に至るという主義で、日本へは、道璿(どうせん)が伝えた。 北禅。』ーーーーー● 「否定仏教」じゃないけど、禅の歴史ってそういうもんでしょ。で道元禅も修証一等で 覚体験 が無くなってしまった訳です。● 要するに、理では仏でも事では凡夫だって事なんです。この矛盾を発展的に解消しようというのが禅思想史なのかもしれません。そこに、円環的修道論(色即是空→空即是色)や修証一等論がとなえられたって事でしょう。2024/03/23 17:25:23569.神も仏も名無しさんMsBgj778 神も仏も名無しさん sage 2024/03/23(土)1≫自分も、他人も、もともと無いから解決なんですよ。。2≫無いものを、どうにかする必要があるわけがないので、そういう、無一物、無我を知るから解決です。。3≫無我を知るから、悟った我も、ない、ということです。。4≫自慢できるものもあるはずがない。。ーーーーー1≫自分も、他人も、もともと無いから解決なんですよ。。元から無いでは、理解するに掴み所がなくて、誰も分かりません方便として、【識】を設定しなければ、分からないでしょう、識という語は、最後に取り除けば良い1≫自分も、他人も、自他の別は、1)外の世界に含まれる、一切合切の全てと、2)内側の思考と妄想念の全てこの1)と2)を≪他≫として、自分、自己、我の≪自≫とは、知覚し認識する本体である【識】です意識の【意】とは、この識に方向性を持たせる【意思】のこと、2つで意識とします方向性を持つと、自意識となります、それが外界へ向かうと、世界を視ますし、内界へ向かえば思考と妄想念を視ますそしてもともと自他が無いというのは、識そのものであると言うことですが識は普通日常では、必ずや対象、対境と共にあり、決して離れることが無いのですが例えば音や映像や匂いなどの五感が乗り物となって、【識】へ達した瞬間にこの我、自己である【識】そのものとして、≪覚醒≫することがありますこの覚醒を、【見性】と言い、自己の性を見ることなのです自己の性が、只唯一の≪識≫なのですこの識そのもので在るとき、それを自己を悟ったとし、【悟り】と言うのだと呉もいます2024/03/23 17:59:31570.神も仏も名無しさんhxWhp>>108我というのは表象的な分節された自己の事です。対して渠というのは未分節です。その分節された自己(我)を離れて渠(本来の自己)はありませんが、それ(我)を本来の自己(渠)とするのは見誤るって事です。切忌随他覚迢迢与我疎我今独自往処処得逢渠渠今正是我我今不是渠応須与摩会方得契如如渠は今まさしく我であるしかし我は今渠ではないそうある通りです。2024/03/23 23:47:58571.神も仏も名無しさん7yzIm160師掃地次、叫寺主問師、「何得自駈駈」(師地を掃く次、叫寺主、師に問う、「何ぞ自ら駈駈たるを得ん」)師日、「有一人不駈駈」。(師曰く、一人有りて駈駈たらず。)寺主日、「何処有第二月」(寺主曰く、「何処にか第二月有る」)師堅起掃等、「這个是第幾月」(師、掃箒を堅起して云く「這个は是れ第幾月ぞ」)寺主無対。( 寺主無対。)(同じく「祖堂集」より)2024/03/24 00:20:15572.神も仏も名無しさん7yzImこの手の問題の源流を辿ると、北宗禅(漸悟)と南宗禅(頓悟)の主張の違いにたどり着くのではないかって思うんですが、直説的な事の起こりは馬祖禅(南宗禅・洪州派)だって思うんです。そして馬祖禅の特徴は 1.即心是仏 (自らの心がそのまま仏に他ならない) 2.作用即性 (日常の感覚や動作・行為がそのまま仏のはたらき)なのですが、とすると当然に>こうした考え方は、頭でこしらえた観念に呪縛されている人に対しては、新鮮な解放の力となったでしょう。>しかし、このありのままが、最初から所与の正解となってしまったら、人々がいともかんたんに自堕落で安逸な現実肯定に流れてしまうであろうことは想像に難くありません。>そのため、馬祖の弟子たちの間からも、こういう考えに対する違和感や懐疑、さらには批判や超克の姿勢が出てくるようになりました。>(『禅思想史講義(小川隆)』)となり、そこで、>さきに結論を言ってしまえば、馬祖系の禅は、現実態の自身がそのまま本来性の現われだと考えたのに対し、石頭系の禅は、現実態の自己とは別次元に本来性の自己を見出そうとしました。>ありのままの自己をそのまま育定するか、ありのままを超えたところに本来の自己をみようとするかーこの二本の対立軸の間の緊張関係が、唐代禅の基本的な構図を形づくってゆくのでした。>(同書より)となる訳です。そこで初めて「渠」と「我」の問題として提示されたんですけどね。2024/03/24 11:47:29573.神も仏も名無しさん7yzIm不生不滅、不常不断、不一不異、不来不去八つの否定があってこそ真の空が得られる真空妙有真の空の中に真の存在があると龍樹が主張したらしい2024/03/24 11:59:11574.神も仏も名無しさん7yzIm1.即心是仏(自らの心がそのまま仏に他ならない)2.作用即性(日常の感覚や動作・行為がそのまま仏のはたらき)について、確かにそうなのですが、上記のような問題点も抱えているわけです。そこで、そこに至るためには一旦一切を空じなければならないという ”円環的修道論” が説かれる訳です。「色即是空・空即是色」という般若心経の句を仮りて説明されますけどね。2024/03/24 12:01:16575.神も仏も名無しさん7yzIm>この二つの真理の区別を知らない人々は、ブッダの教えにおける深遠な真理を理解しないのである。>栖雲居士 ◆dqam8SqGUPdm 2024/01/17(水) 09:13:30.82中論24-8 a.二つの真理(二諦)に依って諸仏の説法は行なわれる。世間一般の理解としての真理(世俗諦)と最高の真実としての真理(勝義諦)である。 b.二つの真理(二諦)に依存して、もろもろのブッダは法(教え)を説いた。(その二つの真理とは)世俗の覆われた立場での真理と究極の立場から見た真理とである。 c.諸仏は二諦(という二種の異なるレベルの真実)に依って教え(法)を説くのである。すなわち、世間の常識としての真実(世間世俗諦)と究極的な意味での真実(勝義諦)とである。24-9 a.これら二種の真理の区別を知らない人々はブッダの教えにある甚深の実義を知らない。 b.この二つの真理の区別を知らない人々は、ブッダの教えにおける深遠な真理を理解しないのである。 c.その二諦の区別を知らない人々は、(諸)仏の深遠なる教えの真実を知らない。2024/03/24 12:13:29576.神も仏も名無しさん7yzIm>とにかく、唯識は、もともと一つだったものが、識によって、別れたと言っている。。>だから、おれの言ってることと同じ。。w違いますよwwww「識によって別れた」なんて瑜伽行唯識学派は云ってません。いい怪訝なことを吹聴するのはやめましょうね❤分析は「識の所変」によってです。 ↓>そして、そうした仮有としての我や法が、さまざまなスガタで展開しているー、それが私たちが生活する世界だという指摘が、第一頌2の「種種の相、転ずることあり」です。第一頌3の「彼」は、それを承けたもので、「識の所変」によるのだと説かれています。>この「識の所変」というのは、認識の主体(これを自体分といいます)が、見るもの(見分)と見られるもの(相分)とに変化した、その見られるもの(相分)のことです。つまり、認識対象の事です。>認識対象のことを「境」ともいいますが、その境は、主観を離れて客体として実在するものではなく、心の変化によって出てきたもの(所変の境)だと考えるのです。(『唯識とはなにか 「唯識三十頌」を読む』多川俊映 より)2024/03/24 12:47:14577.神も仏も名無しさん7yzIm>由假説我法 仮に由りて我法と説く>有種種相轉 種種の相転すること有り>彼依識所變 彼れは識所変に依る>此能變唯三 此れが能変は唯三のみなり>(『唯識三十頌』より)「思い込み」というのは第六識(意識)にて起こる心理作用です。その思い込みが起きる第六識(意識)は、「識所変」すなわち「能変」によって生じるんです。どうして意識の思い込みで起きると云うのでしょうかwww順番が逆ですよ、ロンさんwwwこんな初歩的な勘違をしているレベルで唯識を騙って恥かいてwwwプププッ ( ´,_ゝ`) www2024/03/24 12:49:20578.神も仏も名無しさんUw5Ch奇跡の探求大いなる未来ーそれは祈りではなく瞑想だhttps://i.imgur.com/HChZzJG.jpghttps://i.imgur.com/cOzzXAa.jpg2024/03/24 19:31:26579.神も仏も名無しさんq5Kh9相依性と此縁性を勘違いしてるな仏教で「世界」って云う時、世は時間を界は空間を云うんだけど、相依性は空間的な相互関係、此縁性とは時間的な相互関係を云うって先ずは理解しとけ、2024/03/24 22:24:08580.神も仏も名無しさんU1Zdz?????なんだか訳がわからない事を言ってるけど、基本的に分裂と云うのは識体の二分(主体と客体)の事をいうんじゃないのかなぁ?認識の後追いは別に分裂じゃないでしょ?無分別の基本は言語化されてない状態なんだから、そういう無認識の認識(言語化されないで六識が作用している状態)は誰もがしてるでしょ?自分の心を見るって、つまり境を見ているって事でしょ?全ては心の表れなんだから。或いは、言語化されてなかった六識のはたらきの状態の言語化が「無心」って事でしょ?2024/03/25 12:40:46581.神も仏も名無しさんU1Zdzまた、「ムー」でも良い。言語化されたら「ムー」、また言語化されたら「ムー」……私はそうしてましたけどね。悟は心路の絶することを窮めんことを要す。祖関透らず、心路絶せずんば、尽く是れ依草附木の精霊ならん。……虚無の会を作すこと莫かれ、有無の会を作すこと莫かれ。箇の熱鉄丸を呑了するが如くに相似て、吐けども又た吐き出ださず、従前の悪知悪覚を蕩尽し、久久に純熟して、自然に内外打成一片なり。啞子の夢を得るが如く、只だ自知することを許す。驀然として打発せば、天を驚かし地を動じて、関将軍の大刀を奪い得て手に入るるが如く、仏に逢うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺し、生死岸頭に於いて大自在を得、六道四生の中に向いて、遊戯三昧ならん。(無門関より)2024/03/25 12:59:16582.神も仏も名無しさん6zfvY『中辺分別論』及び『中辺分別論釈疏』第 I 章「相品」校訂テキスト及び翻訳研究?http://www.jits-ryukoku.net/data/23/ick23_kitayama.pdf2024/03/25 22:47:07583.神も仏も名無しさん9omqaその論文の中に次のように紹介されておられます。3 『摂大乗論』に お け る 記 述 (長尾 a よ りの 引用 )3 ・17 (伝 弥 勒作 『分別瑜 伽論 』 内容不 詳 か らの 引 用 ) 下 90〔菩薩は〕このように内側に心を安住するのである。〔そこで彼は〕見られるもの(所取)は非存在なるこ とをよく理解することによって、それ故に見る者(能取)も存在しないと理解し、然るのちに認識を越えたもの〔すなわち真如〕に触れる。禅定においては、所取(認識対象)が非存在なるが故に能取(認識主体ただしこの grahakaは、縁生依他性すなわち識別作用を含むと理解することも可能)も非存在なること(能取がなければ識別作用もないこととなろう)を悟って、真如に触れるとする 。心の他には〔何も見らるべきものが〕存在しないことを智慧によって知ってから、それ故に〔見るものである 〕心も存在しないことが理解される。かくして知者は二つのもの(認識対象と心)が存在しないことを知って 、その〔二つの〕ものを離脱した法界に立つ(MSAVI -8 の 引 用)。2024/03/26 04:12:43584.神も仏も名無しさんkWvL6悟 りに お い て は 、 時 間は 存 在 し ない 。 こ れ は 識 の 顕 現 (境Mと して 得 智 さ れ た もの ) と して 説 か れ る 十一’Xp (下 記 (d) を参 照 ) の っち の 世 識 で あ り (一時 間 長 尾 a 上 276 )、 こ れ (; 時 間) は 識 に 他 な らな い か ら外 的 事 物 と して の 時 間 は 、 悟 りに お い て は 全 く存在 しない こと を現 わ して い る。 こ の 事 態 は 、 諸大 乗経 典 お よ び 中観 論書 に お い て繰 り返 し説 か れ て い る の で あ る 。 こ れ に つ い て は 島村 a の 272 頁 に おい て 詳 説 した 。2024/03/26 22:13:27585.神も仏も名無しさんkWvL6唯識思想における真理の意味島村 大心 研究論文https://www.jstage.jst.go.jp/article/chisangakuho/54/0/54_KJ00009324832/_pdf/-char/ja2024/03/26 23:25:51586.神も仏も名無しさんVbwPY唯識思想成立の根拠と染浄二分の依他性・転依島村 大心https://www.jstage.jst.go.jp/article/chisangakuho/55/0/55_KJ00009307542/_article/-char/ja/2024/03/26 23:50:27587.神も仏も名無しさんRl66E≫映像だけ残ってその映像も映像化される前に気づき断っていくと無分別になる映像が出て来るのは、深いよね、そして何時でも消える処まで、自由に行けるなら、禅定で言うと第二禅定以上でしょここからは、感覚で喜悦憂いとか楽苦が消えていく、最後は呼吸が消えれば、第四禅定ですかね俺の場合は、日常で閉眼になるとほぼほぼ即無妄想で映像も出ては来ないので、直ぐに無分別状態に入っているかなってところ2024/03/27 19:29:12588.神も仏も名無しさんRl66E真に悟ると、道元さんも言うようにこうなるでしょ『自己をわするるというは、万法に証せらるるなり。万法に証せらるるというは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり』一如のことですよねそれと、森羅万象が私に悟りを知らせてくれることが起きます東方の三賢者がやって来て、称賛してくれるそれなりの見る眼を持った賢者が認めてくれたり称賛してきたりすることが、必ず何回も起こるそして、禅やヨガやで言われる悟る時の様子が、実際に何種類か起こるなので、間違えようが無くなるんですよねしかし、自分の中には、自分が悟ったとかの思いは欠片(カケラ)も無い全て外から知らせが来て、それを知らしめてくれます其れが万法に証せらるるの1つの解釈と思いますね2024/03/27 19:29:37589.神も仏も名無しさんRl66Eホワイトターラー女史のblogから転載心の要素・・・・・原因体とかヨーガでは呼びます。アーラヤ識と言われるのがここね。イメージの要素・・・・微細体具体的な粗雑の要素・・・・肉体身口意の三界ね。仏教ではこの三界をこのように呼びますよ。無色界・・・夢も見ない気絶している時の意識。アーラヤね。色界・・・・夢の中欲界・・・・現実の世界それぞれの覚醒状態無色界・・・・解脱の意識状態、ここら辺からサマディ。凡夫は意識がありません。色界・・・・・明晰夢欲界・・・・・普段の今の意識粗雑なこの世界でいくら(わたしは絶対的な神である)と思っても無駄です。(わたしはもう、既にブッダである)と言っても無駄ね。天台本覚思想のことです。それは単にピノキオが(僕は人間だ)と言ってるのと同じね。ーーーですって彼女は5チャンとtalkを閲覧していて、多分にそれらにインスパイアされて書いてるものが有るっぽい上記なんかも、法介さんのスレ見ていて、言ってるのかと思うほど2024/03/27 20:26:09590.神も仏も名無しさんRl66E追加これに対して粗雑なこの世界でいくら(わたしは絶対的な神である)と思っても無駄です。(わたしはもう、既にブッダである)と言っても無駄ね。天台本覚思想のことです。 ↓それは単にピノキオが(僕は人間だ)と言ってるのと同じね。この3界の要素全てにおいて書き換えが完了しなければ成りません。ーーですって2024/03/27 20:26:20591.神も仏も名無しさんRl66E追加この3界の要素全てにおいて書き換えが完了しなければ成りません。いいでしょうか?だから「百万遍」という概念があるのね。どういうこと?一つの瞑想や、或るマントラがその人の三界に影響を与える目安が「百万遍の修習が必要」だと言っています。まあ、百万遍はちょっと大袈裟かも知れませんよ。求聞持法などは百万遍だよね。そんで、もう眠くて仕方がない!と言うときほど潜在意識が出てきていますので、その時の修行の効果は数倍あると考えてください。では、なんで眠くなるの?ここに壁が形成されているのね。本心の欲望 vs 理性・良識・他人の評価を気にする自意識幼児から社会性を獲得する意識の変化に伴ってこの壁が形成されます。ーーーー転載終了壁と云うのは左脳と前頭葉の見当識と識(本心)が自己同一化して本心の9割方がその左脳と前頭葉に固定されるのでは?と思います結果として、顕在意識下の意識は、潜在下の意識になって、日常では意識出来なくなって行くことになりますね2024/03/27 20:26:45592.神も仏も名無しさんHw4w8http://labo.wikidharma.org/index.php/%E7%84%A1%E5%88%86%E5%88%A5%E6%99%BA加行無分別智は加行位において起こす無分別智で、いまだ煩悩を有した有漏の智慧をいう。2024/03/28 11:22:52593.神も仏も名無しさんHw4w8● 根本無分別智とは通達位において起こす無分別智で、まさに真理(四諦・真如)を初めて見る、煩悩がない無漏の智慧をいう。● 後得無分別智とは根本無分別智の後に得る無分別智で、真理をさとった後に再び世間にもどり世事のけがれに染まることなく人びとの救済のために努力する菩薩の智慧をいう。この後得無分別智は、十地からなる修習位において起こし、十地それぞれの地においてそれぞれに属する煩悩を断じて心を深層からますます清らかにしていく無分別智である。2024/03/28 11:28:12594.神も仏も名無しさんHw4w8無分別智むふんべつち無分別心むふんべつしん、真智しんち、根本智こんぽんちともいう。真如を把握する智慧。人間は言葉によってモノ/コトを分別し概念化するのだが、そのような分別知によっては捉えることのできないさとりの智慧を無分別智という。無分別智 むふんべつち 知るものと知られるものが一つであるような智慧のこと。 ものごとを二元的、対立的に理解していこうとする分別智を超えて、生死一如、自他不二と直覚していく智慧。このように万物一如とさとるこの無分別智のことを根本智とも実智ともいい、またそれを般若(プラジュニャー)ともいう。このような無分別智の境地は、分別を本質とした言葉を超えているから不思議といわれる。 しかし無分別智によって生死、愛憎を超えたものは、そのさとりの境地を人々に伝え導くために言葉で表現し教法として示していく。これを後得智(ごとくち)とも権智(ごんち)ともいう。 なお根本智に至る前段階を加行無分別といい、加行・根本・後得の三智とすることもある。(梯實圓『歎異抄』p.105より)→加行は…2024/03/28 11:38:49595.神も仏も名無しさんHw4w8日本大百科全書(ニッポニカ)の解説無分別智(むふんべっち)大乗仏教の根本的立場を示す重要な語で、通常の主客対立にとらわれた見方(分別)を超えた智慧(ちえ)をいう。サンスクリット語ニルビカルパ・ジュニャーナnirvikalpaka-jñānaの訳。大乗仏教の根本経典である『般若経(はんにゃきょう)』は、菩薩(ぼさつ)の般若波羅蜜(はんにゃはらみつ)の実践として、言語習慣に拘泥した【主客対立の分別】を徹底的に否定したが、この否定に基づく智慧の立場を術語化した表現が無分別智である。したがって、無分別智そのものは言語表現を超えた境地であるが、唯識(ゆいしき)説ではこれを【根本(こんぽん)無分別智】とよび、この智を、その前段階である、【加行(けぎょう)無分別智】や、当の【根本無分別智】の体験に基づいてふたたび言語表現の世界へ戻ってくる【後得(ごとく)無分別智】の二つと区別しながらも、これら三様のあり方をともに無分別智として認めている。無分別智に基づく仏教的考え方は、近代になって西田幾多郎(きたろう)の哲学などに大きな影響を与えたことが指摘されている。[袴谷憲昭]2024/03/28 11:42:29596.神も仏も名無しさんHw4w8無分別智nirvikalpa-jñāna無分別心(むふんべつしん)とも言う。正しく真如を体会する智慧をいう。【 真 如 】は一切の相を離れており、分別することのできないものであるから、これによって【分別】と言う精神作用では【真如の体性】を会得することができない。一切の情念の分別を離れた【無相】の真実の智慧によってのみ会得されるものである。● もし、人間が体会した智が、その智を起したものと異ならなくて、【平等が平等に生起】したものであるならば、これを【無分別智】と名づける。〔摂大乗論12 T31-364b〕● 無分別智は、【一切の有為無為等の諸法】の【真如を縁じて 通じて 一境と為し】【此の智】と【境】と復た【分別なし】。〔梁訳摂大乗論釈11〕● 無分別心は、体と相応するものである。〔大乗起信論T32-579a〕2024/03/28 11:56:25597.神も仏も名無しさんHw4w8jnana(智)を prajna(慧)で置き換えて無分別慧ともいう。分別しない智慧。なんらの認識対象もない心のありようをいう。ある行為を成立せしめる(1)「主体」と「客体」とその両者の間に展開する(2)「行為」あるいは行為に関係する(3)「物」との3つを分けない無分別智を≪ 三 輪 清 浄 の 無 分 別 智 ≫という。〈唯識〉ではこの無分別の智慧を火にたとえて無分別智火といい、この火によって深層の【 阿 頼 耶 識 】のなかにある【汚れた種子】が焼かれて、深層から心が浄化されると説く。これには1加行無分別智と2根本無分別智と3後得無分別智との3種がある。(1)加行無分別智は加行位において起こす無分別智で、いまだ煩悩を有した有漏の智慧をいう。(2)根本無分別智とは通達位において起こす無分別智で、まさに真理(四諦・真如)を初めて見る、煩悩がない無漏の智慧をいう。(3)後得無分別智とは根本無分別智の後に得る無分別智で、真理をさとった後に再び世間にもどり世事のけがれに染まることなく人びとの救済のために努力する菩薩の智慧をいう。この後得無分別智は、十地からなる修習位において起こし、十地それぞれの地においてそれぞれに属する煩悩を断じて心を深層からますます清らかにしていく無分別智である。2024/03/28 12:03:45598.神も仏も名無しさんHw4w8https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/13/1/13_1_11/_pdf/-char/ja囁大乗論を看ると、初地から第五地までの智慧を、加行無分別智といい、第七地から第十地までの智慧を、後得無分別智(無分別後智)といい、第六地の智慧が、(根本)無分別智である。2024/03/28 12:08:14599.神も仏も名無しさんHw4w8中論 龍樹https://butudou.blog.jp/archives/17581537.html2024/03/28 12:17:27600.神も仏も名無しさんHw4w8道元さんだって云ってるじゃないですか。● 仏性の道理は、仏性は成仏よりさきに具足せるにあらず、成仏よりのちに具足するなり。≪仏性かならず成仏と同参するなり。≫この道理よくよく参究功夫すべし。修せざるにはあらわれず、証せざるにはうることなし。なのだと。修証一等だって云うんです。証は解決に他ならないから、修行と解決は一等って事だと思うんです。2024/03/28 18:03:46601.神も仏も名無しさん7FLGp291 栖雲居士 ◆dqam8SqGUPdm sage 2024/03/29(金) 00:34:57.15 ID:WTF4nWLe>>289言ってるよ😟修は修行。証は証り、真実の証明です。修行の結果として証を得る、普通こう考えられています。ところが道元禅師は、「修証一等」=修と証は一つであると示され、その修と証の関係を、本証・妙修と示されます。https://www.soto-kinki.net/zenwa/hotoke07.phpしたがって「修の証なれば証にきはなく、証の修なれば修にはじめなく」「妙修を放下すれば本証手の中にみてり、本証を出身すれば妙修通身におこなはる」のであるから、むしろ「修のほかに証をまつおもひなかれ」と教えることになる。(高崎 直道 他1名 『仏教の思想 11 古仏のまねび<道元> 』(角川文庫ソフィア 116))2024/03/29 12:44:57602.神も仏も名無しさん7FLGpこの「身心脱落」とは、瞬間的な体験ではなく、むしろ、自己が仏であることを認識しつつ修行を実践することそのものだというのである。つまり、修行しているという事実が存在することによって、自分が仏であるというもとから持っている属性が働く、仏である自己を認識し続けることができるというのである。このように、修行していること自体を仏である状態の維持と考えるゆえ、「修」と「証」とが一体となる。それが、「修証一等」である。道元は、これによって、自分自身が本来的に仏であることを前提としながら、そこに積極的な修行の必要性を位置づけることを可能にしたのである。(石井 清純 『道元―仏であるがゆえに坐す― (構築された仏教思想)』)2024/03/29 12:52:11603.神も仏も名無しさん0bff0弁道話でも、修証は無きに非ず、と言ってるところがあります。。きかずや祖師のいはく、「修証はすなはちなきにあらず、染汚(ゼンナ)することはえじ。」又いはく、「道をみるもの、道を修す」と。しるべし、得道のなかに修行すべしといふことを。」祖師のこの言葉を聞いたことはありませんか、「修行と悟りは、ないことはないが、それを汚してはならない。」と。また「道を見るものは道を修する。」と。知ることです、悟りを得た中で修行しなさいということです。」https://www.dogen-shobogenzo.com/bendowa13.html2024/03/29 17:00:58604.神も仏も名無しさん0bff0道元禅師それ修証(シュショウ)はひとつにあらずとおもへる、すなはち外道(ゲドウ)の見(ケン)なり。仏法には、修証これ一等なり。いまも証上の修なるゆゑに、初心の辨道すなはち本証の全体なり。そもそも修行と悟りは別のもので、一つではないと思うのは、外道の考えです。仏法では、修行と悟りは同一なのです。この坐禅も悟りの上の修行なので、初心の修行は悟りの全体なのです。かるがゆゑに、修行の用心をさづくるにも、修のほかに証をまつおもひなかれとをしふ。直指(ジキシ)の本証なるがゆゑなるべし。すでに修の証なれば、証にきはなく、証の修なれば、修にはじめなし。ですから、修行の用心を授ける時にも、修行のほかに悟りを待つ思いを持ってはならないと教えるのです。修行は悟りを直ちに指し示すものだからです。既に修行そのものが悟りなので、悟りに終わりは無く、悟りは修行そのものなので、修行に始めは無いのです。・・・だから、もとから解決している、という大前提、証が先にあるんです。。だから、修証一致になる。。だから、もとから解決ってわからんと、観念で、一致している、と思い込んでいるだけ、となる。。ーーー❓?2024/03/29 17:16:12605.神も仏も名無しさん0bff0それはすなわち伝統的な、完成態としての自己把握は積極的に認めながら、そこに実践修行の必要性を上乗せしてゆくものであった。一般には、「自己はもとから仏である」という前提に立てば、「仏であるから修行はいらない」ということになる。しかし、道元は、逆に、「仏であるからこそ修行しなければならない」と主張する。それによって実践修行の必要性を主張するのである。むろん、この主張の説明には、かなり複雑な論理を必要とする。だからこそ、道元は、仮名『正法眼蔵』をはじめ、多くの言葉を費やしてその思いを表現し続けたといえよう。(石井 清純 『道元―仏であるがゆえに坐す― (構築された仏教思想)』)2024/03/29 17:18:56606.神も仏も名無しさん0bff0つまり、ひとたび灯りが点いて「仏であること」を認識して(悟って)も、その「灯り(悟り)」は、ダイナモを回すという「修行」を継続しなければ消えてしまう、自分が仏であるという状態を維持し続けるためには、ダイナモを回すという、「継続的実践」が必要不可分であり、その永続的実践こそが自己実現、すなわち「悟り」であるとする、それが道元禅なのである。(石井 清純 『道元―仏であるがゆえに坐す― (構築された仏教思想)』)2024/03/29 17:22:39607.神も仏も名無しさん0bff0これを喩えで表現すると、まず、唐代禅の「悟り」は、「家具の揃った部屋の灯りを点けること」となるであろう。つまり、完成された自己とは、すでに人が暮らすのに充分な家具の揃った部屋のようなもの、ただし灯りが点いていなければ真っ暗で使えない。そこに「気づき」という灯りを点けてあげれば、すぐさま部屋(仏)として機能するということになる。しかし、これでは、灯りが点いた後の修行の継続性は見えてこない。道元禅では、そこを少し変えて、その部屋の灯りが、回し続けなければ消えてしまうダイナモライト(ダイナモ=発電機を回して起こした電気で点灯させたライト。自転車のライトなど)だったということにするのである。((石井 清純 『道元―仏であるがゆえに坐す― (構築された仏教思想)』)2024/03/29 17:33:33608.神も仏も名無しさん0bff0この「身心脱落」とは、瞬間的な体験ではなく、むしろ、自己が仏であることを認識しつつ修行を実践することそのものだというのである。つまり、修行しているという事実が存在することによって、自分が仏であるというもとから持っている属性が働く、仏である自己を認識し続けることができるというのである。このように、修行していること自体を仏である状態の維持と考えるゆえ、「修」と「証」とが一体となる。それが、「修証一等」である。道元は、これによって、自分自身が本来的に仏であることを前提としながら、そこに積極的な修行の必要性を位置づけることを可能にしたのである。これを喩えで表現すると、まず、唐代禅の「悟り」は、「家具の揃った部屋の灯りを点けること」となるであろう。つまり、完成された自己とは、すでに人が暮らすのに充分な家具の揃った部屋のようなもの、ただし灯りが点いていなければ真っ暗で使えない。そこに「気づき」という灯りを点けてあげれば、すぐさま部屋(仏)として機能するということになる。しかし、これでは、灯りが点いた後の修行の継続性は見えてこない。道元禅では、そこを少し変えて、その部屋の灯りが、回し続けなければ消えてしまうダイナモライト(ダイナモ=発電機を回して起こした電気で点灯させたライト。自転車のライトなど)だったということにするのである。つまり、ひとたび灯りが点いて「仏であること」を認識して(悟って)も、その「灯り(悟り)」は、ダイナモを回すという「修行」を継続しなければ消えてしまう、自分が仏であるという状態を維持し続けるためには、ダイナモを回すという、「継続的実践」が必要不可分であり、その永続的実践こそが自己実現、すなわち「悟り」であるとする、それが道元禅なのである。(石井 清純 『道元―仏であるがゆえに坐す― (構築された仏教思想)』)2024/03/29 17:34:55609.神も仏も名無しさんjxiPb>>329違う。「妙修」と言っても、それは坐禅の中で「放下」されて「本証」のみとなり、本証のみであれば本証もなく、「妙修」のみとなって全身で坐禅が行じられる。本証と妙修は二つではなく一つですから、本証と言えば妙修は隠れて本証のみ、妙修のときは本証は隠れて妙修のみ、という道元禅師だけの深い表現がなされています。このことを念頭において、この言葉を味わってください。(https://www.soto-kinki.net/zenwa/hotoke07.php)2024/03/29 18:32:24610.神も仏も名無しさんjxiPb道元禅師佛道を修行する者は先づ須く佛道を信ずべし。佛道を信ずる者は、須く自己本(もと)道の中に在りて、迷惑せず、顛倒せず、増減なく、誤謬なしといふことを信ずべし。是の如くの信を生じ、是の如くの道を明め、依て之を行ず、乃ち學道の本基なり。其の風規たる意根を坐斷して、知解の路に向はざらしむ。是れ乃ち初心を誘引する方便なり。其の後、身心を脱落し、迷悟を放下す、第二の樣子なり。大凡、自己佛道に在りと信ずる人、最も得難きなり。若し正しく道に在りと信ぜば、自然に六道の通塞を了じ、迷悟の職由を知らん。人試みに意根を坐斷せよ。十が八九は忽然として見道することを得ん。2024/03/29 18:44:45611.神も仏も名無しさんBEvY4顕密二教ともに談ず。本来本法性、天然自性身と。若しかくの如くならば、三世の諸仏、甚によってか更に発心して菩提を求むるや。(永平開山行状建撕記)2024/03/29 21:25:36612.神も仏も名無しさんBEvY4道元は、見解という言葉じゃなくて、人情って言ってるね世間の人情を捨てれば、そのまま佛道にはいるのである自分の学問は多年の功を積んだのである、どうして容易に捨てることができようかと、依然として心中深く思っている、この心をとりもなおさず迷いの世界にしばりつけられた心というのである2024/03/29 22:02:06613.神も仏も名無しさんswar3釈迦は、諸々の天子と人を他の世界に移した訳です。「法華経見宝塔品第十一」に詳しく述べられております。http://james.3zoku.com/pundarika/pundarika11.html 現代語訳2024/03/30 13:27:50614.神も仏も名無しさんMzLClこれは初期仏典の十地経をもととした菩薩の52位を5段階に振り分けた内容です。五位とは修行における、1、資糧(しりょう)位2、加行(けぎょう)位3、通達(つうだつ)位4、修習(しゅじゅう)位5、究竟(くきょう)位の五段です。成唯識論の修行体系は、五位(五道)と菩薩の十地を基礎としています。2024/03/31 19:02:34615.神も仏も名無しさんiZqrk この極楽とは、十方法界の正報の有情と十方法界の依報の国土と和合して一体となったところをいうのであり、三身即一身の境界をさすのである。四土は不二であって法身の一仏の身に納まるのである。十界を身とするのが法身であり、十界を心とするのが報身であり、十界を形とするのが応身である。十界の外に仏はなく、仏の外に十界はないのであって、依正不二であり身土不二なのである。十方法界が一仏の身体であるから寂光土というのであり、このゆえに無相の極理というのである。生滅無常の相を離れているゆえに無相というのであり、法性の淵底・玄宗の極地であるゆえに極理というのである。この無相の極理である寂光の極楽は、一切有情の心性のなかにあって清浄で煩悩を離れた境界である。これを名づけて妙法の心蓮台というのである。このゆえに心の外に別の法はないというのであり、これを知るのを一切法は皆これ仏法であると通達し解了するというのである。2024/03/31 20:06:46616.神も仏も名無しさんiZqrk「この無相の極理である寂光の極楽は、一切有情の心性のなかにあって清浄で煩悩を離れた境界である。」「これを名づけて妙法の心蓮台というのである。このゆえに心の外に別の法はないというのであり、これを知るのを一切法は皆これ仏法であると通達し解了するというのである。」 生と死との二つの理は生死の夢の理であり、妄想であり、転倒した見方である。本覚の寤の悟りをもって自身の心性をただしてみれば、生ずるという始めがないので、死ぬという終わりもないのである。とすれば既に生死を離れた心法ではないか。劫火にも焼けないし水災にも朽ちない。刀剣にも切られず、弓矢にも射られない。芥子の中に入れても芥子も広がらないし、心法も縮まらない。虚空のなかに満たしても虚空も広すぎることはないし、心法が狭いということもない。2024/03/31 20:08:39617.神も仏も名無しさんiZqrk 善に背くのを悪といい、悪に背くのを善という。ゆえに心の外に善はなく、悪もない。この善と悪とを離れるのを無記というのである。善と悪と無記と、この外には心はなく、心の外には法はないのである。このゆえに、善悪も浄穢も凡夫と聖人も天地も大小も東西も南北も四維も上下も、すべて言語の道は断え、心行も所滅するのである。心で分別した思いを言い表すのが言語であるから、心の外には分別も無分別もない。言葉というのは心の思いを響かせて声に表したものをいうのである。凡夫は自身の心に迷ってそれを知らず悟らないのである。仏はこの心の働きを悟りあらわして、神通と名づけたのである。神通とは神が一切の法に通じて礙りがないことをいうのである。この自在の神通は一切の有情の心に具わっている。ゆえに狐や狸がそれぞれに通力をあらわすことは皆、心の神を分々に悟っているからである。2024/03/31 20:11:13618.神も仏も名無しさんiZqrkこの心という一法から国土世間も出てくるのである。一代聖教とはこのことを説いたのであり、これを八万四千の法蔵というのである。これは皆ことごとく釈尊一人の身中の法門である。したがって八万四千の法蔵は我が身一人の日記の文書なのである。この八万法蔵を我が心のなかに孕み、懐き持っているのである。それなのに我が身中の心で、仏と法と浄土とを我が身より外にあると思い、外に願い求めていくのを迷いというのである。 この心が善悪の縁に値って、善悪の法を作り出しているのである。華厳経には「優れた画家が種々の五陰を描きあらわすように、一切世間のなかでの法はすべて心が作り出したものである。この心のように仏もまた同じであり、仏のように衆生もまた同じである。三界はただ一心からあらわれたものであり、心の外には別の法はないのである。心と仏と衆生と、この三つは差別はないのである」と述べている。2024/03/31 20:14:31619.神も仏も名無しさんiZqrk無量義経には「無相・不相の一法から無量義を出生したのである」と述べている。無相・不相の一法とは一切衆生の一念の心のことである。法華文句にこの経を釈して「生じ滅するという無常の相がないことを無相といい、二乗の有余涅槃・無余涅槃の二つの涅槃の相を離れていることを不相というのである」と述べている。この心の不思議を説き明かすことを経論の肝要といい、≪この心を悟り知った人を名づけて如来というのである。≫これを悟り知ってみると、十界は我が身であり我が心であり我が形である。それは本覚の如来は我が身心であるからである。これを知らない時を名づけて無明とするのである。無明とは、明らかなること無しと読む。我が心の、ありさまを、明らかに覚らないことである。これを悟り知る時を、名づけて法性という。ゆえに、無明と法性とは一心の異名である。名と言とは二つであるけれども心はただ一つの心なのである。このゆえに、無明を断じてはならないのである。無明である夢の心の、心を、断じてしまえば寤の心をも、失ってしまうからである。総じて円教の意は、一毫の惑をも、断じないのである。ゆえに一切の法は皆これ仏法であるというのである。2024/03/31 20:21:46620.神も仏も名無しさんiZqrkそれがこちらの図が意味するところです。https://livedoor.blogimg.jp/butudou/imgs/e/a/eadda475.jpg2024/03/31 20:44:06621.神も仏も名無しさんobnQEどうでしょうか。一旦まとめておきます。<北宗禅>(1)各人の内面には「仏」としての本質ー仏性ーがもとから完善な形で実在している。(2)しかし、現実には、妄念・頻悩に覆いかくされて、それが見えなくなっている。(3)したがって、坐禅によってその妄念・煩悩を除去してゆけば、やがて仏性が顕われ出てくる。<南宗禅>(1)各人に具わる仏としての本性は、虚空のごとく無限定・無分節なものである。(2)迷いも悟りも、その虚空の上を去来する影像にすぎない。禅定によって迷妄を排除し清浄を求めようとすることは、本来の無限定・無分節を損なう愚行にほかならない。(3)虚空のごとき本性には本来的に智慧が具わっており、それによって無限定・無分節なる自らの本来相をありありと自覚するのである。2024/03/31 22:03:25622.神も仏も名無しさんobnQE菩薩の智慧とは世親が顕した片眼凡夫(色即是空)→右眼、左脳片眼仏(空即是色) →左眼、右脳の「色即是空 空即是色」の後得智→左右眼、左右脳2024/03/31 22:06:44623.神も仏も名無しさんfoYS0香厳撃竹 一撃忘所知昔中国に香厳(きょうげん)という僧がいました。ある日,庭の掃除をしていたときのことです、自分の掃いた石ころが、竹にあたって音を発した、その時,道を悟った。竹の声を聞いて道を悟った「香厳撃竹の話」として、今に伝わっています。ーーー今日、同じことが起こったイスに座って瞑目してて、何かの想いがフワッとしてて遠くで、車の電子キーを押す音がピーッ!ってとても小さな音で鳴ったその途端に、想いがフッ!っと消えたと思ったら無想の今ここの処に、瞬時に立ち返った正に≪ 一 撃 忘 所 知 ≫であった過去にも記憶にあるだけで2回一撃忘所知は有ったけど最初のは歩いていて、祭りばやしの笛の音がピーヒャラ♪って聴こえた瞬間、正に坐断されて何分かの寂滅中、自己忘失して、立ち尽くしていたことがあった2回目は、自販機で珈琲を買ったときボタンを押した瞬間に缶が落ちてくるゴロゴロ!って音がしたかと思ったらこの今に、一切の障蓋問題は無い!という電鳴のような洞察が、瞬時に炸裂して、大きく可!可!可!と大笑いしたと思ったら全ての認識がシャットされて、自分が居なくなってしまい、気が付いたら自販機から数十メートル先の公園に立ち尽くしていたそこで自分と言う感覚が戻ってきていたそれに比べりゃ今日のは小さな一撃忘所知だったでも以前のように坐断されたりはせず、自由自在に在れている2024/04/01 20:49:23624.神も仏も名無しさんbZ6PR鉄眼禅師の『仮字法語』からだけどあるいははじめ終わり澄みわたりて、善悪の念もおこらず、無記の心にもならず、はれたる秋の空のごとく、とぎたる鏡を台にのせたるがごとく、心虚空にひとしくして、法界むねのうちにあるがごとくおぼえて、そのむねのうちのすずしき事、たとえていうべきようもなくおぼゆる事あり。これははや坐禅を過半成就せるすがたなり。これを禅宗にては打成一片といい、または一色辺といい、大死底の人ともいい、普賢の境界ともいう2024/04/02 15:19:00625.神も仏も名無しさんbZ6PRこれ、鉄眼禅師の『仮字法語』からだけど内外打成一片っていう、つまりは全ての現象の根源である唯識、阿頼耶識に到達した様子を説明してる2024/04/02 15:21:30626.神も仏も名無しさんbZ6PR内と外、我の法、主体と客体っていう認めてるものが消えてほぼそのもののありようってのが内外打成一片で一つの識、阿頼耶識に到達したってことになるんだろね阿頼耶識は窮生死蘊なんていうからつまりはここで生死っていう「自分の見方」もほぼ消えてるってことになるかな帰命っていう、「自分の命」っていう見方執着をまだ捨てきれてない人はだから内外打成一片、阿頼耶識には到達してないってことになるんだと思う2024/04/02 15:23:33627.神も仏も名無しさんpeyRlこの無明のまっただ中に般若の智剣を打ち込んで、その根本を切断し、泥沼の底を抜いてしまうのである。そしてそこに「本来無一物、いずれの処にか塵埃を惹かん」という自己の本心を発見する。これを「心を調える」というのである。それにはまず「一切の善悪都て思量すること莫れ」である。善とも悪とも、損とも得とも、憎いとも可愛いとも思うな、何も考えない無心の境地とそ、心の正しい姿である。道元禅師は「この非思量底を思量せよ」と言っておられる。何も考えない境地こそ真実の自己であると、そこにねらいを定めて心を調えてゆくのである。そこで「念起こらば即ち覚せよ」で、さまざまな雑念妄想が起こったならば、いちいち切り捨てて、本心である無心の境地を呼びさますのである。古人はそのために「莫妄想」と唱えられた。また「南無阿弥陀仏」とも念ずるのである。禅門では公案という問題がある。その問題に精神を集注することによって、すべての妄念雑念を棄ててゆくのである。妄念は、本来のごとき、霧のごときものであって、実在ではないから自ずから消滅するものである。「之れを覚すれば即ち失す」である。かくして受け持ちの公案にのみ精神を打ち込んでゆくと、自然に「内外打成一片」となって「亜子の夢を得るが如くただ自知することを許す」という心境が自ずから開ける。すなわち我と天地とが一枚になって、主観と客観がすっかり融け合って、人には説けないが「ははあ、ここだな」と、ひとり合点のゆくことがある。神気朗然として、何とも言えぬ爽快な境地に入ることができる。坐禅の妙味がしんしんと湧き出て来る。(『坐禅儀講話』山田無文 より)2024/04/02 19:17:37628.神も仏も名無しさんZIago第五禅定の空無辺処は、長く坐禅や瞑想していれば、比較的多くの人が経験しているんはないのかな?ただね正しく心の停止と肉体身体感覚の消滅となると体験してる人はそんなに多くないんじゃないかな?実際分からんけど色とは、物質界の五感の対象を言いますよね、禅定では主に身体感覚のこと広がりの意識として、無辺の空間を体験するのにも、一段二段階あるように思うね一つは、遠くの、外界の音、景色に、意識がくっついている状態がありますやはり、ここでは実物の音(聴覚)が、死んでも最後まで残ると言われていて、それが禅定でも同じに、身心脱落しても残っていますなので、全ての音響が、広がりの意識に映っていて、識から離れることがなく左で犬が鳴けばその場所に意識は在り、右でカラスが鳴けばその場所に意識は在りますただし、心が停止しているので、無分別であって、犬がうるさいとかカラスがウザイとかの心理的な思いや感情は全く生起されません自己の身心からは離脱して、識に映ることは存在している状態空間は無辺であり、それに付随する識も無辺でありますます第六禅定が識無辺処定になりますね2024/04/08 04:08:28629.神も仏も名無しさんs1KW7観じ来れば一切の生類は悉く真如、一切万象も皆真如、道を求むるすべての聖賢も真如、汝弥勒に至るまで亦真如だ。すでに真如は絶対平等の実在であるから、もし汝、弥勒が、仏に成ると云うならば、一切の生類も亦仏になるのだ。又一切の生類は、皆正覚のすがたであるから、もし汝が仏の正覚を得ると云うならば、一切の生類も亦正覚を得るのだ。畢竟するに諸仏は、一切生類そのままの絶対寂静の真理となって、永恒に滅することが無いものだから、もし汝が、真如そのものとなることが出来るならば、一切の生類も亦真如となることが出来るのだ。(『維摩経 解深密経』岩野眞雄〔訳〕仏教経典叢書刊行会 67頁)2024/04/08 23:14:59630.神も仏も名無しさんGZrJM大乗仏教の法印は諸法実相印のみ~天台大師の三法印不要説~しんれんhttps://note.com/bhagavat_mania/n/nc05f0ee93ec72024/04/09 08:31:47631.神も仏も名無しさんGZrJM三学に従って、修行道の16段階を説く。法の聴聞・発心出家護戒知足根の防護正念正知(マインドフルネス)五蓋の断初禅(こっから禅定)第二禅第三禅第四禅宿住随念智(宿命智)死生智 (天眼智)漏尽智解脱解脱智見出典はここ象跡喩小経 - Wikipediaja.wikipedia.org2024/04/09 08:33:36632.神も仏も名無しさんGZrJM解脱への道言語PDFをダウンロードウォッチリストに追加編集仏教における道(みち、梵:marga、巴:Magga)、仏道(ぶつどう)とは[1]、解脱・正覚に至る道のことであり、様々な方法が記載されている[2]。最も古典的なものは八正道であるが、これは経蔵記載における要約の一つにすぎない。ほかにも様々な解脱への道が存在する。道すなわち菩提を完成することを成道という[1]。https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E8%A7%A3%E8%84%B1%E3%81%B8%E3%81%AE%E9%81%932024/04/09 08:55:16633.神も仏も名無しさんACjdwさあみんな大悟しようではないか!その為には私、この私という自我の活動が止まってしまい真性の本心に主導を渡すことが起こらなければならぬっと、この意識と阿頼耶識に深く刻み如何なる時でも、そのことを憶えている状態にあることが求められるそれでこそ、初めて末那識の我執が、上記の事柄を受け取り転ぜられるように、なるのである末那識の我執が、自我は停止する必要があるのだ!と何回も何回も取って、それを種子として阿頼耶識へ蔵させて初めて転識されるように成るこの時、末那識の我執は停止され、平等性へ向かうのです2024/04/10 22:45:14634.神も仏も名無しさんYKQDO大道は体寛(かん)にして、難無く易無し。小見は狐疑す、転(うた)た急なれば転た遅し。之を執すれば度を失して、必ず邪路に入る。之を放てば自然(じねん)なり、体に去住無し。・・・信心銘だな、自然、という語が出てくるのは。。2024/04/13 08:03:21635.神も仏も名無しさんYKQDO>>468https://isakigyou.livedoor.blog/archives/2156567.html現代語訳大道(禅の悟り)はもともと寛(ひろ)くゆるやかなものだ。難かしくもなく易しくもない。小さな了見の者はそれを疑う。至道(究極の悟り)を求め急いで張り切って精進すると急速に進歩しているように見えるが、実は至道から遅々として遠ざかっているのである。大道(悟り)に執着すれば、度が過ぎて必ず邪路に入るだろう。しかし、それへの執着を捨て去れば、大道は去来の姿(相)は無いから自らそこに現れるのである。・・この訳は、なかなかうまい、いいよね。。2024/04/13 08:20:33636.神も仏も名無しさんTNSzTさてと禅定に自在に入定するには、一定の慣れた坐法が不可欠であると次に、身体、特に顔頭と眼(眼球)と舌の位置、等の在り方が言われています眼球は閉眼でクリヤーヨガのババジの肖像画の眼球の状態にする、というかなるものです次に首と頭は、眼球に連れて、若干後ろへ反って、上を見る感じです舌は上顎に着け、舌先が前歯の付け根にあたるようにする形が出来たら、呼吸をやや大きく吸気→排気を3回行い最後の吐息で無思考へ入りますもしも3回の呼吸で入れなければ、もう一回づつ入れるまでやります要は、吐く息に乗って、三昧に入るのです、これがヨーガや瞑想での秘訣であり極意です2024/04/29 13:58:51637.神も仏も名無しさんTNSzT>>85コジさんでしたっけ?この禅定の説明は何処からのもになりますか?瞑想禅定の初期には、火の呼吸法バストリカなどによって、クンダリーニやシャクティーのエネルギーを、上昇させておくと、スムーズに第一から第二へ進めると言われていますのであなたの、性エナジーによって第一の壁を突破して、喜悦の第二禅定へ至ったのは、至極当然な理にかなった方法であると思われますしかるに、その状態を、任意に、何時でも作り出せるには、未だ至っておらないと言うことですねそして、喜悦を超えて、第三禅定へ進みたいと思われている!>>86禅定に入った切っ掛けから、それが入り口になって、要はその疲れと禁欲がないと入れない訳ですねその条件では無い、別な、常に任意の時と、所で、禅定に入るには、新たな条件付けをする必要があると思われますその方法は、幾つか有りますどんな瞑想禅定も、最初は集中から入ります、何かのシンボルやマントラ、経典読誦などです然るに、コジさんは、シャクティーエナジー上昇による精神の解放から入られた実にこれは、タントラの技法であって、またゾクチェンやマハムドラーの技法なのですチベット仏教の、これらの技法のキーワードは、【ゆったりと自然に】です一度経験した境地は、意識と身体に記憶されていますので、その状態を、思い出すことで、再びはいれるようになるものです続く2024/04/29 14:02:25638.神も仏も名無しさんTNSzT>>251≫EOさんも悟りを開いたあと一切の言葉による思考と時間感覚が消失したと言ってた。彼EOイコールほうざんさんは、かなりの期間その状態に在ったようですねでもその後には、私への罵詈雑言に表れるように、マナ識の我執を超えることが、出来ず、怒りのコントロールが出来なかったと、後年亡くなる前に懺悔されておられたと、聞きましたこの無心の状態は、作業という身体を使う行為によってもしられていますが、それは禅定とは別物であり、まして悟りとも違うものです悟り直後からの数年間は、一旦は、それ迄の脳の心のプログラムが解除されて白紙状態になった処ですなので、脳へ新たな心のプログラムが組上がるまでの3年(幼児期に同じ)ほどは、一切の思考から解放された、無心で過ごせるとされていますして、再びmindが組上がっても、その3年の間に、心では無い我、マハリシのいうハートとしての我が、赤子が育つように育ち、再びその我-ハートと自我思考とを、混同することの無い状態へと至りますそして、その後は、任意の時に、瞬時に無思考のハートにたち戻れるようになtれいるのです>>251≫現実を夢のように知覚する精神状態になるのかな?なんか考えるだけでわくわくしてくる。逆のはずです自分の経験から申して言うと、現実1,000%のようになりますたとえば、それまでの食事での味わいが、10倍に拡大されるような、五感の感受が飛躍的に鋭敏になり、何を経験しても、それが、驚きと歓喜と祝福になる、のように成りますああー俺はこれまでの人生、何を活きてきたのか?と思うほどに、全てが新鮮で美しいものとして、世界が開けます!その一端が、見性などの一時的な折りに味わえるようですが2024/04/29 14:02:51639.神も仏も名無しさんTNSzT>>268>>86さて、パーリー仏経典の第四禅定の項を見ますと、『苦楽を超えて(身体的)』とされて、その後に、『呼気吸気が失われる』とありますこれは、身体の死と近似で、違うのは、煖だったかな?つまり体温は維持されるので、死んだ訳では無いのだ、と書かれていますさて、第二禅定から第三禅定へ話を戻します禅定に毎日一回入って3ヵ月~6ヶ月もあれば、第一~第四禅定へはじゅうぶん入れるようにはなると思います問題は毎日任意の時間に入れること、これですがある師によれば、瞑想は一定の同じ時間と同じ場所で行うことで、いつしか、その時間になると、自動的にその状態になれるのだ、と言います睡眠の身体のリズムと同じ原理でしょうか、それと、その同じ時空間に1つの【場】が形成される仕組みで、要はパワースポット化される理屈ですまあ、忙しい日常で、1日の内に1時間を、瞑想禅定に充てることが、困難であれば、これは難しいことになるでしょうけど第一禅定 有尋伺(荒い思考と微細な思考が有る)第二禅定 無尋無伺(一切の思考思いが無い) 心一境性 喜悦を覚える第三禅定 無尋無伺、心一境性 苦を離れ身体で楽を覚える第四禅定 無尋無伺、心一境性 先に苦を離れた故に楽も離れ 苦楽を超えて平安平静に留まる 煖は有るが呼息吸息が失われる2024/04/29 14:03:28640.神も仏も名無しさんTNSzTではどうやって?毎日、禅定の三昧に入るのか?チベット密教とボン教に伝わる方法にあるのは、【青空の瞑想】です青空を見るとはなしに見る、というものです要は無心を、青空を阿頼耶に写し薫習して、無思考と、無相とを、識の窓扉としてしまおう、ということですその窓扉が強固に薫習され、何時でも其所にあれば、何時でも出入り自由になる理屈です2024/04/29 14:03:46641.神も仏も名無しさんTNSzT>>303それの共存と昇華を求めたのがタントラ密教なんでないのかな?性行為は、性エナジーが下降して排出され三昧では、性エナジーは上昇して頭頂の門から出でるこの違いね性行為にあって、性エナジーを下降させずに上昇させる道筋を構築する精液は菩提とされ、それを放出するのは、菩提を捨てる行為であると、薫習することで、嫌悪しないで、性を超えていく道が作られるの次第かまあ、本当に悟ったら酒池肉林に身を浸しても、現れは一時的に落ちるが、根本の境地には微塵も傷は着かないねまた自然の内に然るときに、独りでに三昧に在るようになるものですよ>>303ダイジは、最後の方では、三昧に入りっぱなしで、電話にも出れない状態だったようですつまり、禅定の域を出ていなかった可能性はありますね第四禅定は、一旦入ったら、身心脱落状態ですからね電話が鳴ったからって、おいそれと元に戻れないし身体が動かないんです本当の意味で悟っていたら?ゆったりと自然な境地なので、瞬時の対応は可能になっているはずですね2024/04/29 14:04:31642.神も仏も名無しさんkw045>>315真如の前に一如を経るでしょ何が如なのか?如って、2つが1つになって混じり会うようなイメージ何が?って言えば自己と他全てが、になりつまり、自己の識と、それに映る対象境になる第四を超えて、第五第六の話になって来ますつまり、空間と識とのこと第五の空無辺処、第六の識無辺処、のことこの空間という対象境と識は表裏にして一体であると知ることが、一如を知るであると理解します真実の一如、つまり真如は、マナを超えた悟りで知る境地であろうとそこでは、空間と識とは別けることが出来ない1つのものであると自知し、自他の別を超越した、一つを体現し、絶対境で絶対美で絶対善を現証し続け活きます2024/04/29 14:24:53643.神も仏も名無しさんIZBnq● ゆい‐いつ【唯一】の解説ただ一つであること。それ以外にはないこと。ゆいいち。ゆいつ。「世界で—の逸品」「—の趣味」● 唯識思想は読んで字のごとく、「唯一 識だけがあって、それ以外のものは存在しない」思想と理解されています。2024/05/06 16:28:34644.神も仏も名無しさんIZBnq仏教における「ゆいしき」とは?唯識(ゆいしき)大乗仏教の一大学派,唯識瑜伽行派(ゆいしきゆがぎょうは)の重要な教説。一切の存在はただ(唯)心のはたらき(識)のつくり出した表れにすぎず,真実にあるものではない(非有)という考え方で,あらゆる存在を生み出す根底にアーラヤ識(阿頼耶識)を設定する。唯識派の特徴は、心とは何かを問い、その構造を追究した点にある。この派は、瞑想(瑜伽すなわちヨーガ)を重んじ、その中で心の本質を追究した。そのため瑜伽行派(ゆがぎょうは)ともいわれる。2024/05/06 16:31:10645.神も仏も名無しさんIZBnq『白隠禅師坐禅和讃』衆生本来仏なり水と氷の如くにて水を離れて氷なく衆生の外ほかに仏なし衆生近きを知らずして遠く求むるはかなさよ譬たとえば水の中に居て渇を叫ぶが如くなり長者の家の子となりて貧里に迷うに異ならず六趣輪廻りくしゅりんねの因縁は己おのれが愚痴の闇路なり闇路に闇路を踏みそえていつか生死しょうじを離るべき夫それ摩訶衍まかえんの禅定は賛嘆するに余りあり布施や持戒の諸波羅蜜念仏懺悔さんげ修行等その品多き諸善行皆このうちに帰するなり一坐の功をなす人も積みし無量の罪ほろぶ悪趣いづくにありぬべき浄土即ち遠からず辱かたじけなくも此の法のりをひとたび耳にふるる時賛嘆随喜する人は福を得うる事限りなしいわんや自ら回向えこうして直じかに自性を証すれば自性即ち無性にてすでに戯論けろんを離れたり因果一如の門ひらけ無二無三の道直し無相の相を相として行くも帰るも余所よそならず無念の念を念として歌うも舞うも法のりの声三昧無碍さんまいむげの空ひろく四智円明しちえんみょうの月冴えん此時このとき何をか求むべき寂滅現前するゆえに当所即ち蓮華国此身即ち仏なり(『白隠禅師坐禅和讃』)2024/05/06 16:44:18646.神も仏も名無しさんIZBnq唯識 末那識https://i.imgur.com/PLBxX1g.jpeghttps://i.imgur.com/3lXZZFo.jpeghttps://i.imgur.com/BFjmFUQ.jpeghttps://i.imgur.com/eCvG2XT.jpeghttps://i.imgur.com/7jeKiT9.jpeghttps://i.imgur.com/AwhA8Uv.jpeg2024/05/06 17:02:41647.神も仏も名無しさんIZBnqこれは、サンスクリット原文『唯識三十頌』の註釈ですhttps://i.imgur.com/Eusu01m.jpeghttps://i.imgur.com/FiFG0T5.jpeg2024/05/06 17:16:48648.神も仏も名無しさんIZBnq出典ヴァスバンドゥの現象学 - 『唯識三十頌』の原典、翻訳、および解釈湯田豊 著·2005https://www.google.com/search?q=%E5%94%AF%E8%AD%98%E4%B8%89%E5%8D%81%E9%A0%8C%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%83%83%E3%83%88%E8%A8%B3%E6%96%87&client=ms-android-samsung-ss&sca_esv=70d17c20703d2a91&sca_upv=1&sxsrf=ADLYWIIDsbRXvbVt9BqKTv0dkvc9cU0H1g%3A1714980172765&ei=TIU4ZpihLrDk2roPubu4sAg&oq=%E5%94%AF%E8%AD%98&gs_lp=EhNtb2JpbGUtZ3dzLXdpei1zZXJwIgbllK_orZgqAggAMgQQIxgnMgQQIxgnMgQQIxgnMgoQABiABBhDGIoFMgUQABiABDIFEAAYgAQyChAAGIAEGEMYigUyBRAAGIAESMZMUIsKWMo-cAB4AJABApgBqwKgAdEdqgEGMC4xMy42uAEByAEA-AEBmAIIoALRDqgCD8ICCBAAGKIEGIkFwgIHECMYJxjqAsICCxAAGIAEGLEDGIMBwgINEAAYgAQYsQMYgwEYBMICBxAAGIAEGATCAgoQABiABBixAxgEwgIIEAAYgAQYsQPCAggQABiABBiiBJgDswKIBgGSBwcwLjIuNS4xoAeOigE&sclient=mobile-gws-wiz-serp2024/05/06 17:24:06649.神も仏も名無しさんdvk06先ず第一に識、そのものは、知り得ない、ということ第二に識は対象に依って、認識が生じる、のである、ということ識が空であるのか?違うのか?という、問題は、そこには無い何故なら識が現れ、認識が生じるのは、対象と遇した時であるから対象そのものは、如何なるものでも、諸行無常であると、知られているからで、あうあうあーであるよって識によって、識自らを対象化できない以上識は知られ得ない、よって識は、我ではなくまた無我でも無く不思議のもの、と承知せざるを得ないことになる2024/05/10 17:33:08650.神も仏も名無しさんdvk06物事は、ひじょーに、シンプルであって百万巻の大蔵経典もつまりは、三法印に集約される三法印)は、仏教の根本的な教理である「諸行無常」「諸法無我」「涅槃寂静」の3つこの内、諸法無我が人法無我の人無我が、私たちに直接関わるの、第一となりますでは、心と身体が無我であると、悟るには何をすれば良くて、何をすべきでないのか?であるがとてもシンプルなのである、釈尊の言うことはそれは、四念処であるその内の、身念処と心念処これが、そのまま禅定へ繋がるのである2024/05/10 17:33:32651.神も仏も名無しさんdvk06釈尊は言う身念処(身体を隈無く全て順次に、念ずること)を行うと身体は、我ならず!と、知られるようになる、と次に、心念処へ進めば心の全て、思考、妄想分別、感受、五蘊の全てと六識(七識も絡んでくる)の全てを、念じるのであるすると、何が知られるのか?それは、心は我では、無い!と知られるのである、と釈尊は教えるのである2024/05/10 17:35:46652.神も仏も名無しさんiRf3A唯識 30此れは諸法の勝義なり 亦は即ち是れ真如なり常如にして其の性たるが故に 即ち唯識の実性なり乃し識を起して 唯識の性に住せんと求めざるに至るまでは二取の随眠に於て 猶未だ伏し滅すること能わず前に少物を立てて 是れ唯識の性なりと謂えり所得有るを以ての故に 実に唯識に住するに非ず若し時に所縁の於に 智都て所得無くなんぬ爾の時に唯識に住す 二取の相を離れるるが故に無得なり不思議なり 是れ出世間の智なり二の麤重そじゅうを捨するが故に 便ち転依を証得す此は即ち無漏界なり 不思議なり善なり常なり安楽なり解脱身なり 大牟尼なるを法と名づく2024/05/12 13:28:31653.神も仏も名無しさんJuFpB三無為説一切有部は三無為を唱え、以下の3要素を生滅的なあり方を超えたものとして無為法に数えあげた。1虚空(こくう、梵:akasa) - 物(色)の存在する場所としての空間。2択滅(ちゃくめつ、梵:pratisaṃkhyanirodha) -涅槃のこと。無漏の(正しい)知恵によって個々の煩悩の拘束から離れる時に得られる滅。「択」とは法に対して正しい【弁別判断】をなす洞察力のこと。3非択滅(ひちゃくめつ、梵:apratisaṃkhyanirodha) - 正しい知恵によらない法の止滅)縁起については、品類足論に「【縁起法】とはいかなるものなりや。謂く【有為法】なり」とある一方、倶舎論では「有るが説く【縁起】は是れ【無為法】なり」とあり、同じ説一切有部の中に複数の考え方が存在している。2024/05/13 15:53:57654.神も仏も名無しさんJuFpB四無為世親の五蘊論では、三無為に【真如】を加え、四無為としている。真如(tathatā)六無為華厳経十無尽蔵品 では、三無為に以下を加え、六無為としているg。4真如(tathata)5縁起(十二縁起)6法性(法界)八無為瑜伽師地論、大乗阿毘達磨集論(英語版)では、三無為に以下を加え、八無為としている。4善法-真如5不善法-真如6無記法-真如7不動(Anijya)8想受滅(sanna-vedayita-nirodha)九無為化地部では三無為に以下を加え、九無為としている。1不動2善法-真如3不善法-真如4無記法-真如5道-真如6縁起-真如2024/05/13 15:54:19655.神も仏も名無しさんJuFpB真如 (巴,梵:tathata、蔵:de bzhin nyid)は、原義では「あるがままであること」「そのような状態」という意味であり、物事の真理・実際のあり方 (the way things are in truth or actuality)、無名で無個性な現実 (nameless and characterless reality)のことである。『金剛般若経』のサンスクリット本に出て、「真如性」と訳されている。「真」とは真実、「如」とは如常の意味である。諸法の【体性虚妄を離れて】真実であるから【真】といい、常住であり不変不改であるから【如】と言うとされる。真如はまた1法2自性清浄心→【本心】3仏性、法身→【本心】4如来蔵5実相6法界7法性8円成実性と同体異名であるとされる。2024/05/13 16:03:33656.神も仏も名無しさんJuFpB仏教用語としての【本心】は、自分の心の奥底に存在する【本性】や【仏心】、【仏性】とも呼ばれ、感情的な心ではなく、仏になる可能性ともいえます。臨済宗大本山 円覚寺によると、自分の本心や本性の尊さに気づけば、それは生まれや死などがない【仏心】であり、生き通しのいのちであるとされています。横田南嶺-禅師達磨大師は「【仏】を見たいと思えば、自分の【本心・本性】を見よ。自分の【本心・本性】こそが【仏】hである」と仰せになっています。2024/05/13 16:09:22657.神も仏も名無しさんLztM9無為を知ってその様に在るには、本心に在る必要があるでしょその入口として五蘊の停止、滅と恒審思量のマナの停止、滅、転識が有って、の平等性智以上を仏性の初門として入り阿頼耶の転識を経て大円鏡智へという流れその途中での滅何故なら、自我意識の滅消滅を経なければ、本心は現れ出でることが不可だから自己が1つなら、仮我と本心の両方が主導者にはなれない道理一方が在るとき、一方は滅するそう言うことでの滅でしょ2024/05/13 17:06:37658.神も仏も名無しさんdgaKO★上座部の説(見は預流果を、修は一来果、不還果、阿羅漢を指す)● 見所断諸法(預流果のおいてすぐ断ち切られる)【 見、疑、(および悪趣に導く以下)貪、瞋、癡、慢、?沈、無慚、無愧 】● 修所断諸法(一来果、不還果、阿羅漢にて徐々に断ち切られる)【(その他の)貪、瞋、癡、慢、?沈、無慚、無愧 】★説一切有部の説(見は見道、修は修道を指している)● 見所断煩悩(八十八煩悩、だんだんと断ち切られる)◯欲界に対する三十二煩悩2 苦諦に対する十煩悩3 集諦と滅諦とに対するそれぞれ七煩悩4 道諦に対する八煩悩◯色界と無色界に対する二十八煩悩1 苦諦に対する九煩悩2 集諦と滅諦とに対するそれぞれ六煩悩3 道諦に対する七煩悩● 修所断煩悩(十煩悩、だんだんと断ち切られる)◯欲界に対する四煩悩 (貪、瞋、癡、慢)◯色界と無色界に対する三煩悩 (貪、瞋、慢)★ 瑜伽行唯識学派の説(見は見道、修は修道を指している)煩悩障(煩悩という障。仏、独覚、声聞によって断ち切られる)● 見所断煩悩(百十二煩悩)◯ 欲界に対する四十煩悩(四諦それぞれに対する十煩悩)◯ 色界と無色界に対する三十六煩悩(四諦それぞれに対する九煩悩(瞋を除く))● 修所断煩悩(十六煩悩)◯ 欲界に対する六煩悩 (貪、瞋、癡、慢、身見、辺見)◯色界と無色界に対する五煩悩 (貪、癡、慢、身見、辺見)◯所知障(知られる側に対する障。仏によって断ち切られる)2024/05/15 13:43:13659.神も仏も名無しさんWrV0y覚醒する、覚る、悟りを開く、さていったい、何が覚醒し、何が覚り、何が悟りを開くのか?日中の日常で目覚めている顕在意識(五蘊=六処)夜の眠入ばな、うとうと、うつらうつら、とする顕在意識眠りでは、この顕在意識が眠る訳ですでは、顕在意識が眠った後の、潜在意識は目覚めて静寂でいるのか?と言うと、そうでは無くストーリーが有るような無いような、混沌とした夢を見たり、また何も想わず完全にブラックアウトしていたりであって2024/05/19 14:49:36660.神も仏も名無しさんWrV0y何々せったんさんに脱落現象とな?ははーん!じゃあ悟ってたんかもなまあ、葉っぱが光って見えるって言ってたからね光で自己を知るんだねでも音の場合が多いよ音楽でも自然音でも、動物の鳴き声でも、あるカラスが カァー!!認識は起きる間合いも無く同時に本心の識自体に返本されて対象から離断され、自体に安立し自己を悟る、無空の悟りとは、自己が明らかになるものと、その前の、純粋な識としての誰でも無さに成るの、二段構えなんだな2024/05/19 14:50:02661.神も仏も名無しさんAN0xr826 神も仏も名無しさん 2024/05/19(日) 19:15:14.24 ID:bqsnVcPM坐禅なくとも定や三昧から離れなくなっているのが仏ですね。。おれがそうなっている、とは、もちろん言わんけれど、坐禅が必要、とは、エバれることではないですよ、と言うのは知らんといけません。。2024/05/20 01:05:18662.神も仏も名無しさんzdRMY●解脱とは、何からの解脱か? それ、煩悩の生起因である無明からの解脱 無明とは、マナ識の恒(ツネ)に審(ツマビラカ)に思量(思う)という止まらない自動的な思慮分別、虚妄分別のこと このマナ識を、転識して分別を停止することで、分別と妄執が止み、比較分別が無い、平等性に転じ、平等性の智恵を得る この如きを第一の解脱とし、初めての仏地と言うらしいです●マナ識の恒審思量が止み、平等性が現れると、何が起こるのか?分別心の原動力である、恒審思量が止み、心は平静となりますそして、日常で、音や光の一閃で、それが根本識へとどくと、五蘊の停止(現量)が起こりますこれが撃竹現象の如き、悟り現象の姿であります即ち、悟り現象は、初の仏地における印なのだと言えるでしょう2024/05/20 18:49:40663.神も仏も名無しさんAN0xrhttps://ameblo.jp/yk19610402/entry-12549224265.html【質問】正聞熏習とは、どういうことでしょうか?【回答】正聞熏習(しょうもんくんじゅう)とは、正しい教えを繰り返し聞いて、阿頼耶識(あらやしき)にある無漏(むろ)の種子(しゅうじ)を成熟させるために、薫習していくことです。表層的な私達の心である意識は、深層心である阿頼耶識にある「汚れた種子」(雑染の種子)から生じますが、阿頼耶識の中には、もう一種類、雑染(ぞうぜん)の種子以外に、「清らかな種子」(清浄の種子)が潜んでいる、と教えられます。仏になる可能力としての種子、つまり無漏の種子です。このような素晴らしい無漏の種子に、栄養を与え、成育させて、発芽させるには、どうしたらよいのか。この問いに対して、唯識では、「正しい教えを、正しく繰り返し聞く」、という表層心でのありようが、深層心に熏じつけられて、素晴らしい無漏の種子を育む、と教えるのです。これを「正聞熏習」といいます。「正しい教えを正しく聞く」これは、原始仏教から「聞法」と言われて、重要な修行法の一つとして説かれてきました。唯識では、その働きを、表層心と深層心との関係で捉えるのです。仏教では、教えは真理の世界から流れ出たもの(法界等流の法『ほっかいとうるのほう』)である、と言われます。2024/05/20 20:11:05664.神も仏も名無しさんAN0xr解脱に導く正しい教えは釈尊のことばであるそれ以外を学んでいる人はそれが本当に正しいのかを自我を持って判断してその自我が欲するのままに選んで読む読むと、自我色に色付けされた認識で、薫習されるその時点で、既に、マナ識によって執されたものだけを薫習することになるこれを避ける為に、『聞法』があると言える自己の判断を挟まず、六識を無にして、聞くのであるこれ無くして、マナ識は転識され得ません2024/05/20 21:40:20665.神も仏も名無しさんYWadxはい! 先生! 鹿野園は栖雲居士ですか?w2024/05/21 02:27:31666.神も仏も名無しさんsA0oEひろきさん坐禅から禅定への道をいってください欲世間に背中を向けたらそれは初禅定ですから次は第二禅定ですそれに向けての、私からアドバイスがありますそれは、何らかの経典、金剛般若経典や唯識や中論とか、大乗起信論などの識や空に関する経典や論書、論文の類を自身の思考想念、思慮分別を、動かさないようにして文字がダイレクトに意識に映るように、読まずに読んで(見る)下さいこれを15分ほど、切れずに無念で読めるようになった頃に自然に尋と伺の停止された、純粋な識だけの、喜悦を覚える、第二禅定へ入れるででょう簡単ですから、約3ヶ月も毎日コーナーでも飲みながら、リラックスしてやって下さいできればBGMを高い位置から流しておくと良いでしょう、鳥の鳴き声とか、森のCDなどのぜひとも第二禅定へ入定してください2024/05/21 16:09:47667.神も仏も名無しさんgBy6xひろきって誰よ?2024/05/22 05:20:44668.神も仏も名無しさんYS84Kwikipedia摩訶般若波羅蜜経(まかはんにゃはらみつきょう)は、大乗仏教般若経典の一つである『二万五千頌般若経』(にまんごせんじゅはんにゃきょう、梵:パンチャヴィンシャティサーハスリカー・プラジュニャーパーラミター・スートラ)の、鳩摩羅什による漢訳である。90品(高麗大藏再雕本は27巻、思溪資福藏、普寧藏等は30巻)の比較的規模の大きな経であり、通常●『大品般若経』(大品)と呼ばれている。鳩摩羅什の訳した経の中には、『摩訶般若波羅蜜経』と名づけられるものがもう一つあるが、そちらは『八千頌般若経』の漢訳(408年)で、大品に対し29品(10巻)しかないので『小品般若経』(小品)と呼ばれる。ナーガールジュナ(龍樹)が著した●『大智度論』は、本経(『大品般若経』)に対する注釈書である。『二万五千頌般若経』の特徴としては、紀元前後の『八千頌般若経』で形づくられた大乗仏教の基礎となる般若思想をもった教団が、説一切有部のような力のある部派仏教教団の教説に吟味を加え、それらと対峙・超克しながら増広敷衍しながらまとめた大乗のアビダルマといった観があり、それ以前の仏教の教説の集大成となっているといってよい。鳩摩羅什は、もう一方の大乗仏教を代表する経典である法華経とともに、この『摩訶般若波羅蜜経』ならびにこの経の解説である『大智度論』を最重要視し、中国での仏教布教に力を注いだ。2024/05/24 21:20:45669.神も仏も名無しさんYS84Kひろきを知らんのか?2024/05/24 21:21:16670.神も仏も名無しさんYS84K『般若心経』は誰が説いているのかhttps://www.hannyasingyo.info/yomu/3_1.html『般若心経』は3(観音様が舎利子に説いている。お釈迦様はかたわらにいる。)の舞台設定になっています。もう少し詳しく紹介すると次のようになります。● お釈迦様は、多くの弟子たち・菩薩たちと王舎城の霊鷲山におられて、瞑想していた。そのとき観自在菩薩は、深般若波羅蜜多を行じているときに、五蘊は空であると照見した。すると舎利子は仏の意を受け、般若波羅蜜多の学び方を観自在菩薩にたずねた。(中村元・紀野一義訳注『般若心経・金剛般若経』)まあ、創作ですからね禅定で覚った集団が書き上げた般若経典群ってことなんでしょうアラハンの境涯に至れば仏なのでしょうから、仏説でも良いわけですし日本の伝統仏教では、仏説って付けるらしいじゃないですか?ならそれを、ディスる必要もないですね釈尊が認めた設定なんですから2024/05/24 21:22:26671.神も仏も名無しさんYS84Kwikipedia西域から645年正月に帰国した玄奘もまた『般若心経』を終南山翠微宮で649年に翻訳したとされている。しかし古来テキストの主要部分の一部が玄奘訳『大般若波羅蜜多経』の該当部分ではなく、鳩摩羅什訳『摩訶般若波羅蜜 経』≪大品般若経≫からの抽出文そのものであるため、玄奘訳『般若心経』の成立に関し様々な説が出されている。また、古くから著名な玄奘訳のテキストとされるものは、672年に建てられた弘福寺(興福寺)の集王聖教序碑中の『雁塔聖教序』の後に付加されているテキストである。赤木隆幸は、玄奘訳『般若心経』は『集王聖教序』の石碑に付刻されたことにより、玄奘の訳出経典を象徴するものとして位置づけられた等と述べている2024/05/24 21:22:40672.神も仏も名無しさんYS84Kwikipedia一般的には、鳩摩羅什訳『摩訶般若波羅蜜大明咒經』が現存中最古の漢訳とされていた。最古の経典目録(経録)東晋の釈道安撰『綜理衆経目録』(梁の僧祐撰『出三蔵記集』にほぼ収む)には、『摩訶般若波羅蜜 神咒一巻』及び『般若波羅蜜 神咒一巻 異本』とあり、経としての般若心経成立以前から、呪文による儀礼が先に成立していたという説もある。これらは、後世の文献では前者は3世紀中央アジア出身の支謙、後者は鳩摩羅什の訳とされているが、『綜理衆経目録』には訳者不明(失訳)とされており、この二人に帰することは信憑性にとぼしい。前者は現存せず、後者は大蔵経収録の羅什訳『摩訶般若波羅蜜 大明咒經』ともされているが、鳩摩羅什の訳経開始が402年であるため、釈道安の没年385年には未訳出である。またそのテキストの主要部は宋・元・明版大蔵経の鳩摩羅什訳『摩訶般若波羅蜜 経』のテキストと一致するが、宋版大蔵経の刊行は12世紀後半であるため、このテキストが鳩摩羅什訳であるということも疑われている2024/05/24 21:23:02673.神も仏も名無しさんYS84Kwikipedia日本で広く流布している玄奘三蔵訳の正式な経題名は『般若波羅蜜多心経』であるが、一般的には『般若心経』と略称で呼ばれている。これをさらに省略して『心経』(しんぎょう)と呼ぶ場合もある。なお、漢訳の題名には「経」が付されているが、サンスクリット典籍の題名は「Prajñā(般若)-pāramitā(波羅蜜多)-hṛdaya(心)」であり、「経」に相当する「sūtra(スートラ)」の字句はない。日本の仏教の宗派によっては、単に「般若心経」「般若波羅蜜多心経」と呼ぶのではなく、冒頭に「仏説」(仏(釈迦)の説いた教え)や「摩訶」(偉大な)の接頭辞をつけて、『仏説摩訶般若波羅蜜多心経』(ぶっせつまかはんにゃはらみったしんぎょう)や『摩訶般若波羅蜜多心経』(まかはんにゃはらみったしんぎょう)と表記することもある。なお、現存する最古の漢訳文とされる弘福寺(長安)の『集王聖教序碑』に彫られたものにおいては、冒頭(経題部分)は『般若波羅蜜多心経』と記載されているが、末尾(結びに再度題名を記す部分)では『般若多心経』(はんにゃたしんぎょう)と略されているーーーGoogleAIによれば、『仏説』は空海が付け足したとか書いてあるね2024/05/24 21:23:44674.神も仏も名無しさんlAZnb大智度論(だいちどろん、マハー・プラジュニャーパーラミター・シャーストラ)は、大乗仏教中観派の祖である龍樹による『摩訶般若波羅蜜経』(大品般若経、二万五千頌般若経、に対する百巻に及ぶ注釈書である。初期の仏教からインド中期仏教までの術語を詳説する形式になっているので、仏教百科事典的に扱われることが多い。漢訳は鳩摩羅仕による題名の「智度」(ちど)とは、「六度」(六波羅蜜)の内の「智慧波羅蜜」、「般若波羅蜜」のこと。「智」は「智慧」すなわち「般若」の、「度」は「渡」と同じで「彼岸に渡ること」すなわち「波羅蜜」の意訳である。つまり、「大-智度」とは「摩訶-般若波羅蜜」(経)の意訳であり、「大智度論」という題名は、そのまま「『摩訶般若波羅蜜経』についての論」の意である。以上のごとく、『大智度論』という意訳的な漢訳題名は直感的に分かりづらいので、より原題に素直に『摩訶般若波羅蜜経釈論』『摩訶般若釈論』の名で呼ばれたりもするーーー2024/05/24 23:58:41675.神も仏も名無しさんlAZnbどのような考えにも誤りがあるのだとすれば、第一義悉檀とは何か?答あらゆる言葉を越え、心で行うことがなく、よりどころ無く、対象を指し示さない。物事の本来の姿は、始まりがなく、中間がなく、終わりがなく、尽きることもなく、壊れることもない。これを第一義悉檀という。大乗仏教の心は次の詩に言い表されている、『言語は尽き、心のはたらきも尽きた。不生不滅の理は涅槃のようである。行いを説くことを世界悉檀といい、行わないことを説くことを第一義悉檀という。一切は真実である。一切は真実でない。一切は真実であり、かつ真実でない。一切は真実でなく、かつ真実でないのでもない。これを真実の姿という』。これが様々な経に説かれていることである。この教えは意味深く、理解するのは難しい。仏はこれを説明しようとして、摩訶般若波羅蜜を説き明かす。2024/05/24 23:58:55676.神も仏も名無しさんy9LJ9>>669知らん。 たとえ心と宗教板で有名だろうが、Talk掲示板全体や、Talk掲示板が生まれるきっかけとなった5chでは、心と宗教板なんてマイナーな存在だし。2024/05/25 17:38:58677.神も仏も名無しさんzch9i即身是佛での矛盾とはこのことであろうこの法は、人人の分上に、ゆたかにそなはれりといへども、いまだ修せざるにはあらはれず、証せざるには、うることなし。道元2024/05/26 13:04:51678.神も仏も名無しさん1T372何故?師が必要とされているのでしょう?それは、全幅の信頼において人は無心になれるからです師匠が不在であるなら祖師(釈尊など)を礼拝することですその自我の詰まっている頭を床に擦り付けて平身低頭に五体投地して頭頂から自我を溢して、空にして、後無心になって空に無常はないという、智慧を戴けるよう素直に、無心に、誠の心で礼拝をすべし素直なるものは祥である2024/05/27 19:23:39679.神も仏も名無しさんxhS0w龍樹菩薩 曰く【問】どの様な考えにも誤りが有るのだとすれば【 第一義悉檀(シッダ=完成された教え) 】とは何か?【答】あらゆる 言葉を 超へ心で 行う事が 無く 依り所も 無く 対象を、指し示さ 無い物事の 本来の 姿は始まり が 無く 中間 が 無く 終わり が 無い尽きること も 無く 壊れること も 無いこれを【 第 一 義 悉 檀 】という大乗佛教の心は、次の頌に 言い 表現されている『 言語は 尽き、心の働き も 尽きた 不生不滅の 理は、涅槃の ようだ行いを 説く ことを【 世界 悉檀 】と 言い行いが 無い ことを 説く ことを 【 第一義 悉檀 】と 言う1一切は 真実 として 有り2一切は 真実 として 無い3一切は 真実で 有り かつ 真実では 無い4一切は 真実で 無く かつ 真実で 無いのでも 無いこれを【 真実 の 姿 】という 』これが、様々な経に 説かれている 事であるこの教えは 意味が深く 理解することが 難しい佛は、此れを 説明しようとして【 摩 訶 般 若 波 羅 蜜 】を説き明かす!.2024/05/27 20:16:26680.神も仏も名無しさんgQgFk縁起(えんぎ、梵:pratītya-samutpāda,プラティーティヤ・サムトパーダ、巴:paṭicca-samuppāda,パティッチャ・サムッパーダ)とは、他との関係が縁となって生起するということ。全ての現象は、原因や条件が相互に関係しあって成立しているものであって独立自存のものではなく、条件や原因がなくなれば結果も自ずからなくなるということを指す仏教の根本的教理・基本的教説の1つであり、釈迦の悟りの内容を表明するものとされる。因縁生、縁起法、縁生、因縁法、此縁性ともいう。種々の縁起説は、〈煩悩(惑)→行為(業)→苦悩(苦)〉を骨格とするが、無明を根本原因とする12の項目からなる縁起説(十二因縁)が次第に定着した。後世には、縁起の観念を分けて、業感縁起や頼耶縁起などの諸説が立てられた。2024/05/28 17:11:14681.神も仏も名無しさんgQgFk初期仏教時代の縁起説は、苦しみ悩む有情が主題であったため、老死という苦しみの原因を無明に求める十二支縁起(十二因縁)説が代表的なものであった『全てのものは原因から現れ、その原因とその止滅を如来は説かれた。偉大なるサマナはこのように説かれた。』—律蔵大品,1.23.10経典によれば、釈迦は縁起について『(世間の)人々は、執着に歓喜し、執着を愛し、執着を好ましく思っている。そのような執着に歓喜し、執着を愛し、執着を好ましく思っている人にとって、此縁性、縁起の法という理論は受け入れがたいものである。』—パーリ仏典, 経蔵中部聖求経,述べた。2024/05/28 17:15:15682.神も仏も名無しさんgQgFkまたこの【縁起の法】は『わが作るところにも非ず、また余人の作るところにも非ず。如来(釈迦)の世に出ずるも出てざるも法界常住なり。如来(釈迦)は、この法を自ら覚し、等正覚(とうしょうがく)を成じ諸の衆生のために分別し演説し開発(かいほつ)顕示するのみなり』と述べ、縁起は【この世の自然の法則】の、【因縁生起の原理】で1原因と2条件と3結果の、3つの構造で成立していて自らは【それを識知しただけ】であるという。2024/05/28 17:20:55683.神も仏も名無しさんgQgFk法を見る象跡喩大経は、1縁起を知ることと、2法を知ることを、関連付けている。世尊(釈迦)は、このように言われている。1 縁起を見る者は、2 その法を見る。3 法を見る者は、縁起を見る、と。五取蘊(pañcupādānakkhandhā)とは、この縁起したもの(Paṭiccasamuppannā)である。—パーリ仏典,中部28.象跡喩大経,仏教においては五取蘊(Pancupadana-kkhandha)として1色蘊・2受蘊・3想蘊・4行蘊・5識蘊の総称。物質界と精神界との両面にわたる一切の有為法を示すであり、省略して五蘊とする。五陰(ごおん)とも書く。人間の肉体と精神を5つの集まりに分けて示したもの。取(upadana)とは、それに【執着】するということ。なお、五蘊と、十二処、十八界を並べて三科と称する。煩悩(ぼんのう)に伴われた有漏である五蘊を五取蘊(ごしゅうん、pancopadana skandha)または五受陰(ごじゅおん)という。個々の事物は因縁によって五蘊が仮に集まってできたものであるということを【五蘊仮和合】(ごうんけわごう)という。五分法身(中国語版)を無漏の五蘊という。【五蘊仮和合】は、特に有情の個体については【我として執着するような実体がない】ことを表す2024/05/28 17:33:14684.神も仏も名無しさんgQgFk『比丘たちよ、これらの五つの取蘊がある。それはいかなる五か?色取蘊、受取蘊、想取蘊、行取蘊、識取蘊である。』—パーリ仏典, 経蔵相応部蘊相応,取転経https://i.imgur.com/UU0ZiWS.jpeg2024/05/28 17:34:13685.神も仏も名無しさんYwumj五蘊を自己(我)とみなす見解を【有身見】(sakkāya-diṭṭhi)といい、仏教における【悪見・三結】のひとつである。釈迦は【私】の観察によって、【変化し続ける五蘊以外】には発見できないこと、すなわち【無我の発見】に至っている。世間の人々は五蘊を自己とみなすために、限りない苦に囚われ続けるのである。釈迦は五比丘らに初転法輪を説き、預流果に至らせた。次に【五蘊の無我】を説き、五比丘らを阿羅漢に至らせている【象跡喩大経】においては、【苦の原因】を、【五取蘊】に対する1欲(chando)、2執着(ālayo)、3親愛(anunayo)、4固執(ajjhosānaṃ)であると説いている相応部ナクラピタル経においては、凡夫は1【五蘊が我である(=我見)】2【五蘊は私のものである(=我執)】を持つが、これらは【変化するもの】であるためその者には【愁・悲・苦・憂・悩】が生じると説いている。『(凡夫は)1私が【色(rupa)である】2私が【色を所有している】との考えを抱くがその【色(受,想,行,識)】は変化し、変容する。その者には、色が変化し変容するために1愁(soka)2悲(parideva)3苦(dukkha)4憂(domanassa)5悩(upayasa)が生じる。』...(受,想,行,識について同様に説く)...—パーリ仏典,相応部蘊相応22-1 ナクラピタル経,2024/05/28 17:48:08686.神も仏も名無しさんYwumj五蘊盛苦五蘊盛苦(ごうんじょうく)、五蘊苦(ごうんく)とは自分自身が生きている(心身の活動をしている)だけで苦しみが次から次へと湧き上がってくることである。仏教の説く四苦八苦の一つ。元のパーリ語は、パンチャ・ウパーダーナ・カンダ・ドゥッカ(pancupadanakkhandha dukkha)。『釈迦は【初転法輪】にて五比丘に【五蘊苦】を説いた。』Saṅkhittena pancupadanakkhandha dukkhā.略説するに≪五取蘊は苦なり≫—初転法輪ーーーパーリ語の組み合わせは、「パンチャ」は「五つ」、「ウパーダーナ」は「執着する、固執する」、「カンダ」は「要素(蘊)」、「ドゥッカ」は「苦」という意味なので、≪【五つ】の要素に【執着】する苦しみ≫というのが原文の意味である。日本仏教においては五蘊盛苦を漢訳の訳語から解説する場合が多いが、漢訳の五蘊盛苦では「ウパーダーナ(取)」、つまり「執着する」という意味が入っておらず、原文のニュアンスが伝わりにくい訳となっている。2024/05/28 17:53:57687.神も仏も名無しさんhaKZ1近代の地層を『人新世』と名付けようとしているらしい1950年代を境にして、地層の色が白から黒へ変化していて、その原因が化学肥料だそうで、ハーバー・ボッシュ法で大量生産が可能になったが為とされるチンパンジーと人間の脳で違う箇所は人間は、【大脳新皮質】でも、ドーパミンが発生することが可能であることしかしチンパンジーは【中脳周辺】でしか、ドーパミンが発生しませんその結果、人間は、チンパンジーなどが【本能的な欲求の問題解決】で発生していたドーパミンを【知的な問題解決】であっても、解決後に、ドーパミンが発生し、更に新しい問題を解決することへ向かうようになったそれは、文明を発展させる一方、もっともっとという、切りの無い追及を生み出すことにもなったのだ2024/06/02 09:43:49688.神も仏も名無しさんhaKZ1ロンさんはただ在るが、解らない理解しようとか、解ろうとかそういうものが、するりと落ちてしまっているそれがただ在るです脳内の想念と、がっぷり四つに組まないで、相手にならない、しないでいる我ただ在るという我その様な我は、はからず無心であり、無我で在るのです2024/06/02 09:44:04689.神も仏も名無しさんaMRG8ロンさんが言えば言うほど真から離れて行く釈尊が初めに世を捨てたことを知らないとは坐禅とは一回一回の、世捨て人に、なることですよそして、また世間へ戻り、活動的になる人は夜、眠りに入り、この世を忘れるそして、朝に、フレッシュになって戻って来るただ在るも同様のことただ在るはニュートラルに在ることで、動きの無い状態として在るが決して無エネルギー状態として在るわけでは無い逆に、ただ在ると、存在の無限の力と繋がるゆえに、命のエネルギーが、どんどん補充され、溢れるようになるそれは、満タンを超えて、溢れ出しますすると、それは、日常の生活で、とてもいかされる、疲れることを知らないほど働いても働いても、疲れることを知らないほどであり、他者への奉仕にもそのエネルギーはそそがれますけちんぼうの成ることが無いただ在ると、再びエネルギーは、大いなる存在から、無限にチャージャされるのでそれは、自己の計らいを離れている2024/06/02 13:30:00690.神も仏も名無しさんaMRG8≫すべてと一体であった時の、世界の本来の姿です。。それを、【存在】、全存在と言います一つである時、一体で在るには同一が条件です我が【在る!】であって存在する時全【存在】と同じくなり一体なのです2024/06/02 14:16:36691.神も仏も名無しさんaMRG8悟って解脱をする前に悟ったらどうなるの?って訊く、愚かさよって、思わない?出家は人を救う為とそれ言う?自分を救ってから言えって、思いませんか?自分を救えたら、他人をも救う術が解るんです後先一緒にして、後を妄想してはいけません2024/06/02 14:28:26692.神も仏も名無しさんuhxj5しかしロンさんの、頑迷な他者の境涯を妄想捏造する癖は、益々強固になって来ているね以前から、坐しての禅定と日常とのことに付いて、何回か言ってるんだがw坐しての禅定に於ける、純粋識体験は、一見、寂静にして平安平静のようであり、無心のようで、悟ったようであるけど禅定を出たら、心の妄想ぐせは、再び回転しだすので昔から、禅定の中では悟りあり聖であるが、禅定を出ると凡夫のままでありこれでは、本当の悟りでも、解脱でも無い!っていう、問題が提起され続けていた訳です2024/06/02 19:49:50693.神も仏も名無しさんuhxj5だから、以前から尋ねているのロンさんは香厳禅師のような、悟り現象を経ているのですか?ってこれを経ているかいないかで、その後の意識変革に大きな違いが生じる訳ですから悟りへの道程は実に簡単なのですが、実現には、自己のエゴマインドが、隔壁となっていて如何に禅定で相分を取らないような、静寂で平安平静さを、体験として知ったとしてもそれが、眼の開いた覚醒時間の日常で示現され、現象として何回も体験されるようにならないと悟り悟りと言っても、無体験では、想像でしかなく、本当になって来ませんだから、道があるわけですその道を如実に知ることをしなければ道を歩むことが出来ないという道理なのです誰でも、この真理から逃れられません道を知らなければ、歩むことが出来ないという道理なんです2024/06/02 19:50:14694.神も仏も名無しさんbzp7I全くもってその頑迷な固定観念は、岩のようですね~1【心】が働く時に【寂静】は無く2【寂静】に住する時に【心】は休止するこれが理解ですこの様に、日常ではなっていますし、禅定でもそうです1と2の間を唯一の識は振り子のように振れるのですその前提として、マナ識は、転じて平等性になっていることがあります平等性において、壁が消え、寂静の識と、想いの心が、一つになるのですそれで、日常において、1と2を自由に行き来可能となります平等性に転じる前と、転じた後で唯一識と心は同じでしょうが、その間の壁があるか無いか、それだけが違うのです壁が無くなると、眠りの中でも覚醒があります、壁のある人には、睡眠中の覚醒はありませんその様な違いはあるでしょう2024/06/02 22:14:46695.神も仏も名無しさんtoUjC>864 神も仏も名無しさん sage 2024/06/02(日) 22:58:55.64 ID:6lrbPkvk≫我執の延長にはなく、修行の延長にもない。。もとっからそうだ、というだけ。。手放したなら、即、です。。●1【悟る以前】のk自我心と2【悟った後】の本来の我は1と2は、違うものですからロンさんは、ここが解っていない1が寂静してれば、2の本心(純粋識)が我1が働いていれば、1と2は一つになって働く例えてみると1と言うフィルターが、無色の白や透明の時は2の本心が、無色そのままに、現れるが1の心フィルターが、赤い色であれば2の無色の本心も、赤い色として現れるしかし、元々の無色透明の本心が、赤色に変わった訳ではないのです● この様に悟り前も、悟った後も、元々同じというのは、こう言うことを言うんです悟ったら、心を白でも無色でも赤でも、自在であると言うこと悟る前でも、1の心が、白い時も無色の時も有るんですが2の心が本来心の我であり本心であると、1の想いの自我心が気が付かない訳で故に坐禅などで、1の自我心を、無色白や透明にする訳です悟る前は、1の想いの自我が、無色の無色の白になっても、2の透明な本心は、1の無色の白に、自己同一化していて、我は想いの自己であると、信じ込んでいて、無色透明の本心であるとは、気が付かないのです故に、何回も坐禅して、何回も、1の自我を、無色の白や、無色透明にして行くのです2024/06/03 18:14:11696.神も仏も名無しさんtoUjC● しかし1と2は、異相であり、次元が異なる故に、1が無色になっても、2へ悟ることは、簡単には即とは行かない訳ですからそこで、師なり公案なりで、ショックを与えて2へのジャンプを引き起こすことをするのです● またその、坐禅なりの時間が、一回8時間とかの、長い時間三昧に入れるようになると上記のショックを経なくても、2の本心が我であると、気付くことが可能なのですまあそれは、労働者諸君の普通人には、時間的制約があり、殆んど不可能に近いのでやはり正しい師匠によって、導いて頂くことが、良いでしょうが最後に未だ坐禅や瞑想をしなければならないならそれは、悟りを通過してはいない、ということです悟ると、坐ろうと、思うことすら失くなりますだって、そのままで2の本心なのに、何をすると言うのでしょうか?何も必要が無く、そのままで、手放しなのですからロンさんが、一念でも坐ろうと思うのであれば、未だ悟ってはいないと言うことですそのままで良いなら、決して坐禅はしないでしょう2024/06/03 18:14:45697.神も仏も名無しさんJxDHkスッタニパータ1073あまねく見る方よもしもかれがそこから退きあともどりしないで多年そこにとどまるならばかれはそこで解脱して清涼となるのでしょうか?またそのような人の識別作用は存在するのでしょうか?1074詩が答えたウパシーヴァよたとえば強風によって吹き飛ばされた火炎は滅びてしまって数えられないようにそのように聖者は名称と身体から解脱して滅びてしまって数えられないのである1075滅びてしまったその人は存在しないのでしょうか?或いはまた常住であってそこなわれないのでしょうか?聖者さまどうかそれをわたくしに説明してくださいあなたはこの理法をあるがままに知っておられるからです1076師は答えたウパシーヴァよ滅びてしまった者にはそれを測る基準が存在しないかれをああだこうだと論ずるよすががかれには存在しないあらゆることがらがすっかり絶やされたときあらゆる議論の道はすっかり絶えてしまったのである2024/06/06 20:49:17698.リダン◆gEV3xsS//k0G02P>>695せやせや心を白でも無色でも赤でも、自在であると言うことそう自在であること自在であるには無常などの有為そのもの、まあ馬さんのいう末那識完全滅でもいいが(コスパ悪し)となったとき現れる無為法、虚空、択滅、を智慧により発動させ自在となる2024/06/06 20:55:51699.神も仏も名無しさんLjQ8W仮のとは?有ると思うこと、仮に有る世界しかしその世界は、無常世界だっていう有ると思ってた世界は、無常にして消えて行き、もう変化してしまい、無い有るのは、変わってしまった世界だと在りのままとは?如実の世界、有るとか無いとか、あれだ此れだの無い概念判断の手垢の付かない世界、無常は変わらないが、無常を無常のまま、在らしむ物事を、先入観無くて観たとき、誰でもが其所に、真であり美である世界を観る2024/06/06 21:34:44700.神も仏も名無しさんLjQ8W対象に面しても、それの方へ、識を向けていない、その時、自体としての我認識【しない】は、まだ【意】が働いているけどする、しないを 超えて、意が自体から微動だにせず、自体に停止された時個別の相は顕れないつまり、個別の認識は生じていないその時、分別差別にはなく、如となる存在にくつろいで在る2024/06/06 21:34:56701.神も仏も名無しさんR4Ze9先ずは1【肉体】・【五蘊】が産まれて次に、2【私】という認識が生じて更に、3【私の】という【自我(われ執エゴ性)】が生じるこれら1、2、3は、産まれる以前には無かったもの私とは?我(アートマ)としては空であり存在しないのか?Google AIアートマンとブラフマンは、ウパニシャッド哲学における概念で、【梵我一如】(ぼんがいちにょ)の思想において重要な役割を果たしています。【梵我一如】の思想は、≪ブラフマンとアートマンが同一≫であることを知り、永遠の至福に到達することを目指すものです。ーーーアートマン(我)って、最終的には、カイバリヤ(真我独在位)という処へ至りブラフマンの中へ消えると、言われていて梵我一如になって、残っているものではないとアートマンは消えて無くなり、ブラフマンとして在るアートマンとは個人の我、個我のことで、ブラフマンとは集合された大我とか神我のこと、まあ宇宙我とかも言うかこれって、理論物理学の素領域理論みたいなものって、物理学者の方が言ってたね2024/06/07 18:25:16702.神も仏も名無しさんR4Ze9本来の面目って、自我のエゴ(我執システム)=マナ識が転識得智してからの識の状態で、まだ【意志】のシステムからは、離れていない状態意志の働きが有ると、【水平志向】が無くならず、真我の独在位は覚られませんこの【意志】が識において覚られていって、意志の働きが停止されると、水平から、次元において【垂直】となって、個から集合体としての大我、宇宙我へ変わります釈尊の覚ってからの3×7遺骨21日の体験に、これが書いてありますねここは、悟りとは別な個の輪廻からの解脱するお話ですね2024/06/07 18:25:28703.神も仏も名無しさんeOUnl『四聖諦の理解』本心は、止まって寛いでいたいのに、欲望の心が騒いでいると欲望心が、この身体と心を使役して欲望を満たそうと、欲心の走狗となって、本心、心、身体は走り回らされるこれを、【喜びと世間の人は想う】が本心に目覚めて行くと、それが 1【苦】に感じられますそうすると、苦痛に感じる 2【所縁の集まり】を手離したく想うようになりその 4【道】を通り、実際に手離すと、苦の想いが 3【滅】して苦の思いから解放されて、平安に至る【苦集滅道】がこれですね2024/06/08 03:43:11704.神も仏も名無しさんeOUnl472 神も仏も名無しさん sage 2024/06/08(土) 14:31:14.09 ID:vBLLkenu>>469おれは、眉間から呼吸する=気の出し入れする、とかできたよ、昔は。。w頭頂から、大量の気が、放出されたりして、当時は大変だったわ。。w2024/06/08 15:14:04705.神も仏も名無しさんeOUnl474 神も仏も名無しさん sage 2024/06/08(土) 14:33:40.16 ID:vBLLkenu中国では、気は物質、だから、気功治療とかも認める。。唯物論に合致している、ということらしい。。それは正しいわ。。w中沢さんも、唯物論だ、と言ってたしな。。w2024/06/08 15:14:44706.神も仏も名無しさんeOUnl300唯識において、最初に得る智恵が、平等性智ですねここから明りが灯り始めます、その意味で、マナ識の自動的な、我執の永続する妄想念は、転識されなければなりません言ってるのは、自動的にわいてくる自動的思いのことですこのことは、大乗起信論にあって、それが無明だと、指摘されてありました釈尊は、五蘊の空なることを観て、それでも六処は残ると言われていますが、この五蘊の空を観ると、五蘊は停止しますまた、マナ識から沸き上がる、自動思考の空を観ると、それも停止されますすると、マナ識の転識得智が生起こることとなりますこれが私なりの、無明→明(慧)の、一連の仕組みですね2024/06/08 16:09:16707.神も仏も名無しさんeOUnl宇宙我は釈尊が覚った21日間で体験した最高峰です幾つもの宇宙創世と終末期を観ましたその中で、数え切れない衆生の輪廻を重ねる姿も観ていますまあ、兎に角1無明(マナ識の恒審思量)が破れる2マナ識の平等性智への転識得智が起こる3悟り現象(香厳撃竹の如き)が複数起こる4我在りの本来の面目に在ること5ここで、自然にただ在るの坐が、起こる6頭頂からの出神(沙門果経にある)7眉間からの放光、アストラルに抜ける8四聖諦の苦の理解9漏尽智を得る、解脱10三明・六神通力の何れかが現れる11完全なる滅であるニルバーナに至る 炎の消えた処この様な、先人修行者が辿った、実際の事実と、同じことが、自分に起こっていないなら未だ本当のことは始まってもいないし、分かってもいないと、思って間違いないです2024/06/08 16:27:34708.神も仏も名無しさんJNpvo484 神も仏も名無しさん本来面目とは、自分無し、ですよ。。自分消えた後の、周りすべて、それが現成する、本来の生が蘇る、と言った感じですね。。死んでいたものが生き返るんだけど、自分じゃなくて、全体が、蘇生する。。自分はいったん死ぬんです。。で、枯れ木に花が咲くんです。。w≫484黄金の赤児が産まれるんですよそれが無相の【在る】です一旦これが現れない場合、外界へ識が向かってしまい、相を取って世界が我だ!と、錯覚するんです正しくは、脚下にあって不動の在るが生起されなければそれは偽の悟りを得たのですその無相在るの赤児は、究極の個であり、主人公なんですこれが、更に漸く無為に坐すと、悟り現象を伴って弾け飛ぶ!すると個は空無となってしまうここで一回、認識が完全に滅しますこの先は、知らない、語れない、なんです認識が滅され落ちたなら、心底知らないんです、何もない、何も知らない世界が、他が、自分だなんて、知らないんです自分がいないのに、誰が何を知るのでしょうか?知りません知らないんです!本当に2024/06/08 17:13:08709.神も仏も名無しさんJNpvoこれが、更に漸く無為に坐すと、≫悟り現象を伴って弾け飛ぶ!すると個は空無となってしまうこれを、道教仙道では【虚空粉砕】と呼んでいるようです2024/06/08 17:15:32710.神も仏も名無しさんIvqSB仏教の基本は聞思修と戒定慧ですよね?智慧は禅定から発現するのであって、普段日常の意識からは発現しませんよ?禅修により三昧発得し、はじめて智慧が発現するんですよ?その智慧は直観智であり、それが後得智として普段日常意識の中で活かされるんですよ?2024/06/09 15:43:22711.神も仏も名無しさんIvqSB仏道修行には必ず【果】がありますその【果】は、段階を追って、垂直次元的に、上辺へ移行して行きます宇宙的我の体験は、その最高峰だということそして、それは、ブラフマンの体験と同一であるーーーまた【三明・六通】の三明 GoogleAI【三明】( 「明」は智の意 ) 仏語。仏・阿羅漢(あらかん)が備えている三つの智慧。1)すなわち、過去の事を明らかに知る、【宿命明】2)未来の事に通達する【生死(天眼)明】3)現在の事を明らかにして煩悩を断ずる【漏尽明】(ろじんみょう)をいう。ーーーそして、この1→2→3と言う上昇の流れは、身体次元が違う体験智なのでありますこの身体次元の分け方は、仏教の初期経典に於いて、記述があるかの確認は出来ていませんこの身体次元の分け方は、ウパニシャッド哲学、神智学などの【秘教】によりますつまり、初期経典で言われる【三明六通】とは、もともとウパニシャッド哲学系統の伝統によるものなのですこの3つの慧は、アートマン→ブラフマンの次元へ移行するに連れて体験され知られるものなのです2024/06/09 16:21:28712.神も仏も名無しさん3HQZf≫居眠りの逆で、感覚が研ぎ澄まされ、鋭敏になるのが、まともな坐禅です。。≫妄想の中にいなければそうなります。。感覚が冴える、これは、目覚めている時に、意識内に、妄想念仏が無いことを示しますこの状態は、例えばテレビをただ無心に観ていたとします、すると、意識心は、集中の状態になります【集中の状態】とは、一時的に、1【思考】と2【妄想念】が 無くなって経典に言う処の【 心 一境 性 】つまり、心の 1【尋ね】2【伺う】動きが全く無くなるとことで要は、想う処が一切合切無くなり、心が一つに一体になって、対象に向かっているそのような状態( 心 一境 性)を言いますこの時、【感覚が研ぎ澄まされ、鋭敏になる】のですこれは、第二禅定の喜悦が無い状態~第三禅定の楽の状態と同等の状態であります更に進むと、目覚めた状態で、第四禅定の身心脱落を伴わない、識だけで、周囲の空間に溶け込んだような、一体になったような状態になるようですまあともあれ、【感覚が研ぎ澄まされ、鋭敏になる】状態とは、目覚めながら第二禅定以上と同等な、坐らずに至る定の状態であると、結論されます2024/06/09 17:09:59713.神も仏も名無しさん3HQZf例えば欲世間で行動してた後、喫茶店に座るなりしたとしましょうそして、珈琲を飲み、落ち着くとそれ迄の喧騒から離れた安堵から、気持ちが解放され【ホッ~】っとして、緊張が緩み、軽い嬉しさが生起され感受されますこの、欲世間から解放された状態、これが【第一禅定】となりますここではまだ、思考と妄想念は働いています第二禅定とは、ここから、荒い想い(尋)と微細な想い(伺)が鎮まり、消えた状態となり、喜悦を感受する処です禅定初期の段階では、昼間の目覚めている時間帯で、外界に向かっていた、心(思考と妄想念)が消えることは眠りに同じく、初めて第二禅定へ入る人は、朦朧としながらも、ふんわりとした心持ちで、意識は眠ることなく、眼を開けていられなくなりがらも軽い喜悦を感じつつ、閉眼へ移行して、第二禅定へと入禅定しますまあ、欲界から第一~第二禅定への流れは上記のようになると思われます2024/06/09 17:30:47714.神も仏も名無しさんoEk9hロンさんの1【 居眠りの逆で、感覚が研ぎ澄まされ、鋭敏になるのが、まともな坐禅です。。妄想の中にいなければそうなります。。】これがたまに、または、たまたまであるなら、それはそれで、瞑想禅定に於いては、それなりの実践を積んだ者であると、言えるでしょうね更には自由自在に、普通の状態から、ほぼ瞬時に、1の状態へ、何時でも移行されるのであるならそれは、ロンさんへの見方を、変えざるを得ないでしょうねそれは、最早、悟った人の行状だからであり、内界心と外界心の壁が無い、一つの心の状態だからです2024/06/09 17:49:15715.神も仏も名無しさんYMMq4定中意識は、高尚な心所中の六無為1虚空・2択滅・3非択滅・4不動・5想受滅・6真如)の因縁依によって縁成生起した≪想念の浄域≫に、永時あるいは寸刻の間、≪所住する意識≫をいい、因縁依・増上緑依・等無間縁依により、≪意識の領域≫に「定果色」「受所引色」を摂受する。(『唯識初歩』松久保秀胤 より)2024/06/10 09:11:44716.神も仏も名無しさんYMMq4これには仮法と実法とがある。●仮法の定所引色とは凡夫が禅定中において作り出す色であり、●実法の定所引色とは、【八地以上の菩薩】が、ひとびとを救済するために作り出す色、たとえば≪土砂≫を≪金銀や魚米≫などに≪変化せしめた≫ものなどをいう。【仮法には実体もなく】【実際の用(実用)もない】が、【実法にはその両者がある】。ーーーーーなにげに驚くこと言ってるよ~インドじゃ、実法という物質化などをする、ババジのようなヒマラヤ聖者が、当時から存在していたと言うことですね実体化するほどの定力!キリストの奇跡のような事象!2024/06/10 09:15:46717.神も仏も名無しさんtepenラーダよ1色において、欲・貪・喜・愛を断つがよい。そのように断つことによって、かの色は、あたかもその根を断たれ、その頭を断たれ多羅の樹のように、まったく無に帰して、もはやふたたび生ぜざるものとなるであろう。また、ラーダよ2受(感覚)において、欲・貪・喜・愛を……また、ラーダよ3想(表象)において、欲・貪・喜・愛を……また、ラーダよ4行(意志)において、欲・貪・喜・愛を……また、ラーダよ、識(意識)において5欲・貪・喜・愛を断つがよい。ラーダよ、そのように観じてわたしの教えを聞いた聖なる弟子たちは、1色を厭い離れ2受を厭い離れ3想を厭い離れ4行を厭い離れ5識を厭い離れる1【厭い離れる】ことによって ≫【貪りを離れる】≪2【貪りを離れる】ことによって ≫【 解 脱 す る の で あ る】 ≪●すでに【解脱するにいたれば】わたしは【解脱したとの智が生じて】≪わが迷いの生涯はすでにおわった≫≪清浄なる行はすでに成った ≫≪作すべきことはすでに弁じた ≫このうえは、もはや、かような【迷いの生涯を、繰返すことはあるまい】と【知ることができる】のである。2024/06/10 15:41:06718.神も仏も名無しさんtepen五蘊の一時的停止は、【悟り現象】を引き起こすとする見解を言う人がいるそして五蘊の【遠離】は【悟り】ではなく【解脱】に至るんだねこのスートラは、とてもシンプルな説明で解脱を差示してくれていますここには、心解脱、慧解脱の文字も、三明・六通の文字も無いただ【解脱知見】だけが言われているーーーすでに【解脱するにいたれば】わたしは●【解脱したとの智が生じて】●≪わが迷いの生涯はすでにおわった≫≪清浄なる行はすでに成った ≫≪作すべきことはすでに弁じた ≫このうえは、もはや、かような【迷いの生涯を、繰返すことはあるまい】と【知ることができる】のである2024/06/10 15:51:44719.神も仏も名無しさんrYY6C人間の身体が老いたり、病だったりで、死に至るとき最後まで残る感覚が、【聴覚】であると言われていて植物人間になった人が、大好きだった歌を聴かせたら、涙を流したり、手に反応が起きたりするといいますし更には、医師が死亡宣告した後でも、意識は有って、その意識は音、声は聴こえているとも言われていていますこの【聴覚】は、意識の、最も深い処へ到達しているはずです悟り現象が、頻繁に【音】を契機として、引き起こされることは、上記のことが、1つの因として考えられないでしょうか?2024/06/14 13:06:45720.神も仏も名無しさんrYY6C89 神も仏も名無しさん≫厭い離れることによって愛するものから離れるならばもはや苦しむことも無かろう何故?愛執着が起こるのか?これを釈尊は、【喜び】を生起させる物事が愛執着を引き起こす、としてその【喜び】を引き起こす、それを捨て、離れることを教えますね愛執着の【依存】対象から、遠く離れることで、【喜び】を断って、依存の習慣を解消するこれはギャンブル依存とかにも適応されます依存対象からの遠離が、道であるということでしょうね2024/06/14 13:21:44721.神も仏も名無しさんjtUmz≫州云く、「【擬せざれば】、争でか是れ道なることを知らん」。≫泉云く、「道は知にも属せず、不知にも属せず。知は是れ妄覚、不知は是れ無記。若し真に【 不 擬 の 道 】に達せば、猶お【 太 虚 の 廓 然 】として 【 洞 豁 】なるが如し。豈に強いて是非すべけんや」。州、言下に頓悟す。【不 擬 の 道 】は【知る、知らない】の向こう側これ、【疑念の無い処】【知らない】とは【無記】なだけで【不疑】では無いこれは【静になる】と【寂滅、寂静】の違いが何であるかを、体験的に了解せられていないと、【不疑】ということが分からない南泉和尚は確かに知っていますねそして、それを聴いて、悟った趙州この禅は確かだね2024/06/15 12:08:15722.神も仏も名無しさんa16ug無知むち/無知知がないこと、あるいは知らないこと。Ⓢajñānaの訳語。痴(Ⓢmoha)、無明(Ⓢavidyā)などとほぼ同意語であり、断ずべきものとされる。『俱舎論』では「諸の無知は、よく実義を覆い、および真見を障るをもってのゆえに、説いて冥となす」(正蔵二九・一上)といわれ、無知は冥すなわち暗闇であるとされる。この無知には1【染無知】(あるいは染汚ぜんま無知)と2【不染無知】(あるいは不染汚無知)の二種類がある。【染無知】とは汚れた無知のことで【煩悩としての無知】すなわち【無明】のことといえる。【不染無知】は、汚れていない無知、あるいは【劣った慧】とされる。この不染無知は、汚れてはいないものの、仏のみが具える徳(十八不共法)などについて、明らかに知ることができない無知のこととされる。このような染無知と不染無知について、声聞・独覚は染無知のみしか断じていないが、≪仏は【二つの無知】を 完全に断じている≫とされる。2024/06/16 19:00:57723.神も仏も名無しさんc1Jb1『所知障の所知とは何か』池 田 道 浩問題の所在所知障(jñey vara a)の有無は、大乗と小乗とを区別する概念の一つである。小乗では煩悩障を断つことはできるが、所知障を取り除くことはできず、人無我の理解に留まる。大乗では煩悩障のみならず所知障をも除去することが可能であり、小乗では不可能だった法無我を理解することができる。この所知障の所知(jneya)について、瑜伽行派には二つの解釈があった。●一つは、知られるべき「真実(tattva)」とする説。●もう一つは「一切法、一切の所知」とする説である。2024/06/16 19:43:26724.神も仏も名無しさんHtA31所知障の所知とは何か池 田 道 浩問題の所在所知障(jñey vara a)の有無は、大乗と小乗とを区別する概念の一つである。小乗では煩悩障を断つことはできるが、所知障を取り除くことはできず、人無我の理解に留まる。大乗では煩悩障のみならず所知障をも除去することが可能であり、小乗では不可能だった法無我を理解することができる。この所知障の所知(jneya)について、瑜伽行派には二つの解釈があった。●一つは、知られるべき「真実(tattva)」とする説。●もう一つは「一切法、一切の所知」とする説である。2024/06/17 03:03:36725.神も仏も名無しさんJC1fQ最古の仏典と考えられるスッタニパータには、注目すべき詩が見られる。仏教の無分別智の起源を考える時、特に『SN734詩』と『SN735詩』が注目される。識別作用に関して、『SN734詩』の前置き文のような形で次ぎのような注目すべきブッダの言葉がある。●ブッダ1『およそ、苦しみが、生ずるのは、すべて【識別作用】に、縁って、起こるのである』というのが、一つの観察(法)である。2『しかしながら、識別作用が、残り無く、離れ、消滅するならば、苦しみの、生ずることがない。』というのが第二の観察(法)である。このように二種〔の観察法〕を、正しく観察して、怠らず、つとめ励んで、専心している、修行僧にとっては、二つの果報のうちの、いずれか一つの、果報が期待される。すなわち1【現世における さとり(阿羅漢)】かあるいは、煩悩の残りが、あるならば2【この迷いの生存に戻らないこと(不還)】である-師(ブッダ)はこのように告げられた。そうして、吉祥なる師は次ぎのように説かれた。スッタニパータ734詩『 およそ苦しみが生ずるのはすべて【識別作用(識)】に縁って起こるのである。【識別作用】が消滅するならばもはや苦しみが生起することは有りえない 』スッタニパータ735詩『 苦しみは【識別作用(識)】に縁って起こるのである、とこの【禍いを知って】【識別作用を静まらせた】ならば修行者は1【快をむさぼることなく】2【安らぎに帰している 】のである 』https://i.imgur.com/UhBI0I3.jpeg2024/06/18 14:54:33726.神も仏も名無しさんJC1fQ識別作用(識)」に関する詩として次のような詩もスッタニパータある。スッタニパータ1110詩『 どのように、気を付けて行っている人の、識別作用が止滅するのですか? 』スッタニパータ1111詩『 内面的にも、外面的にも【感覚的感受を喜ばない】人このように、よく気を付けて、行っている人の【識別作用が止滅する】のである 』2024/06/18 14:58:13727.神も仏も名無しさんJC1fQhttps://www.sets.ne.jp/~zenhomepage/satori2.html確かに、坐禅を実践すれば心は安らぎ癒される。これは経験的事実である。坐禅によって【下層脳が活性化】し、心が安らぎ癒されるためだと考えられる。≪無分別智≫は後世の大乗仏教では≪般若智≫となる。これが禅宗に受け継がれて行ったと考えれば分かり易い。≪無分別智や般若智≫は、ブッダの智慧とされている。その起源を上述のように考えると、仏教の本質は、脳科学に直結する合理的なものだと言えるだろう。ブッダは【縁起のプロセス】を、正しく観察し、怠らず、修行に専心してつとめ励むことを重視している。これは坐禅修行で≪無分別智≫を開発するとともに合理的な≪分別智(上層脳、理知)≫を働かせること(正見)を意味している。ブッダは無分別智とともに分別智から生まれる「正見」を重視したと言えるだろう。これを次の図4.5に示す。● 図4.5 識別作用(識)の止滅から般若智への流れこの図4.5から分かるように≪無分別智≫とは下層脳の活性化と合理的な≪分別智≫(正見)から成ると考えられる。禅定に入ることによって【識別作用(識)】が寂滅すると、活性化された下層脳だけになる。しかし、下層脳は≪分別智≫(理性や知性のもと)と違って無意識脳だから、それから【智慧】が生まれるはずはない。上層脳の合理的な【分別智】(正見)によって下層脳を補助することで真の智慧になると思われる。ーーーパ註釈分別智において、見えた、理路を、無分別智において、捉え直すこれが【慧】ではないのでしょうか?https://i.imgur.com/Qv7HTV5.jpeg2024/06/18 15:20:21728.神も仏も名無しさんEEpH5つまり、覚醒時の意識脳である、左脳と前頭前野の言語理論の1【分別脳】と普段は、情動的な動きとしてしか現れない、無意識で潜在的な辺縁系の2【無分別脳】が1と2共に意識されて、共同で働くことが、悟った後の在り様ではないのか?と推論されます。2024/06/18 15:31:20729.神も仏も名無しさんYglVmぽったん曰く≫660.仏性とは何か。それは、仏、を実体化したものである。そこに、誤り、がある、ことになる。無、とか、空、とかは、その、実体化の否定である。ーーーお見事(ノ゚∀゚)ノ2024/06/19 13:27:04730.栖雲居士◆dqam8SqGUPdmZqBZ1結局、荒らしはタコ介だったのオチか😟2024/06/20 11:26:31731.栖雲居士◆dqam8SqGUPdmZqBZ1**********************糞スレ終了。結局、荒らしはタコ介だったというオチ。**********************2024/06/20 11:28:42732.神も仏も名無しさんcGxJ5a.『仏教の思想 3 空の論理<中観>』 角川文庫ソフィア 文庫b.『龍樹』 中村元 講談社学術文庫c.『龍樹『根本中頌』を読む』 桂 紹隆 、五島 清隆 春秋社中論24:8 a.二つの真理(二諦)に依って諸仏の説法は行なわれる。世間一般の理解としての真理(世俗諦)と最高の真実としての真理(勝義諦)である。 b.二つの真理(二諦)に依存して、もろもろのブッダは法(教え)を説いた。(その二つの真理とは)世俗の覆われた立場での真理と究極の立場から見た真理とである。 c.諸仏は二諦(という二種の異なるレベルの真実)に依って教え(法)を説くのである。すなわち、世間の常識としての真実(世間世俗諦)と究極的な意味での真実(勝義諦)とである。24:9 a.これら二種の真理の区別を知らない人々はブッダの教えにある甚深の実義を知らない。 b.この二つの真理の区別を知らない人々は、ブッダの教えにおける深遠な真理を理解しないのである。 c.その二諦の区別を知らない人々は、(諸)仏の深遠なる教えの真実を知らない。24:10 a.言語習慣によらないでは最高の真実は説きえない。最高の真実に従わないでは涅槃は悟りえない。 b.世俗の表現に依存しないでは、究極の真理を説くことはできない。究極の真理に到達しないならば、ニルヴァーナを体得することはできない。 c.言語活動(言説)に依らずして、究極的なもの(勝義)は説示されない。究極的なものを理解せずして、涅槃は証得されない。2024/06/20 15:10:32733.神も仏も名無しさんvJldd人間意【識】は環境(身心含む)と不分離であってそれが、輪廻の世界なわけですその環境(身心含む)は、識では無いとしそこからの離脱を教え指導したのが、釈尊であって識が環境世界から、離脱することを、解脱とし識 単体になると、それは空で無であり、消えてしまうということをニルバーナと教えた悟りと解脱は、明確に違う体験です悟りでは、環境からの完全な離脱は、しません識として、身心に在って、環境(他者)と1つで在りつつ1つでは無いと知りつつ(識として在りつつ)、1つとして、平等のなかに在る生き方自他が1つ(表裏)の中で、識として空、無である生き方この様に在ることが、大乗(悟った後)としての生き方だろうと初期仏教では、森林で暮らしつつ、飲食の乞食の時だけ、世間環境と接触して来ましたが大乗を名乗った一群は、森林ではなくて、街中に住んで、その中で、識を空無の状態で生きることで、環境と一体のまま、解脱せずに、悟りの状態で同化する道を選択したのだろうと・・・2024/06/21 15:07:53734.神も仏も名無しさんz7z58そういう一如平等の意識を体験として知るには坐禅の意識で、騒音環境のなかに在ることで、わかります駅とか、交通量の多い道路脇や、工事現場の近くなどの、始終騒音のある場所この様な、とてもうるさい様な場所で、無分別三昧状態に、なってみてみれば判ります騒音が騒音で無くなり、静寂が静寂で無くなる騒音が静寂と1つになっていて、騒音に煩いが無く、騒と寂の差別が無くなっている処その時、識と環境が如の状態に在る、ということですね二つ一でも無く、一でも無いゆえに、一如ではなく、真如でも無い寂如境とでも言うべきか?いや、只の如が一番ピッタリか?2024/06/21 16:15:40735.神も仏も名無しさんtu24h最古の仏典「ウダーナ・ヴァルガ」に見える「究竟涅槃」それは【出離】であって【思考の及ばない静かな境地】は【苦しみのことがらの止滅】であり【つくるはたらき】の静まった安楽である。そこには、すでに有ったものが存在せず、虚空も無く、太陽も存在せず、月も存在しないところのその境地を、わたくしはよく知っている。z来ることも無く、行くことも無く、生ずることも無く、没することも無い。住してとどまることも無く、依拠することも無い。――それが苦しみの終滅であると説かれる。水も無く、地も無く、火も風も侵入しないところ――、そこには白い光も輝かず、暗黒も存在しない。そこでは月も照らさず、太陽も輝やかない。聖者はその境地についての自己の沈黙をみずから知るがままに、かたちからも、かたち無きものからも、一切の苦しみから全く解脱する。さとりの究極に達し、恐れること無く、疑いが無く、後悔のわずらいの無い人は生存の矢を断ち切った人である。これがかれの最後の身体である。これは最上の究極であり、無上の静けさの境地である。一切の相が滅びてなくなり、没することなき解脱の境地である。ーーー判りますね?心経はこの究竟涅槃の様相を語っているの。この世界のことじゃないの。ホワイト・ターラーさんblogより2024/06/25 18:55:13736.神も仏も名無しさんS2P1e●一心の動き始めによく注意するならば、心にはもとより【妄念の始め】などは無いのだ。それは【微細な妄念の動きを遠離】しているのであり、そうした【心の内面を見とどける】ことができてこそ、心はつねに安住するのであり、≪【これを絶対の目ざめ】≫と名づける『 大 乗 起 信 論 』2024/06/27 18:41:11737.神も仏も名無しさん4ltihこの大 乗 起 信 論 の【心】【一心】とは臨済の言う【本来の面目】であり、ターマナマハリシの言う【私は在る】の私だそうした【心】が動きだす時に、【妄想念の初端】は無いのだ!と、大 乗 起 信 論 は述べているつまり、故に『それは【微細な妄念の動きを遠離】しているのであり』と、明かしているのであるその【本来の面目】や存在している【私】という【心】は微細なる【妄想念の妄動】から離れて存在するのだとこの妄想念から、もとより離れていて、如何なる影響も受けない【一心】この内なる心を【みとどける】とは?実際にそれを見ようとするのでは無いのであって見るように能動的になるのではないそれは、その【心】で【在る】と言うことなのですそれであってこそ【安住する】が意味を持つのです【私】が家に【在る】時【安住】するのであるこれを、≪【絶対の目ざめ】≫だと、大乗起信論の論者は言うのであります私はこの言は、正しいことであると、知っています、本当に正しいですここを、悟り現象の後の処と、認めたいです2024/06/27 19:30:03738.神も仏も名無しさんocnpjローラー燃料あげ〜🧟2024/06/29 16:00:34739.神も仏も名無しさん0kVPy般若波羅蜜多 是大神呪 是大明呪是無上呪 是無等等呪パーリー相応部、35ー53、35ー79、80、『 如実に慧(さと)らざるが故に【無明】と言われる 。』『 六根、六境、六識、六触、六受、の無常なることを知り見る者には、【無明】が滅して【明】が生じる 。』上記経典では・・・智慧の『慧』を『慧り(さとり)』とし、『慧(さと)らざるが故に【無明】と云われる』と言っています。(慧を恣意的にさとりに当てたのか?それは不明)また『無明』が滅して『明』が生じる、とも言っています、そして漢訳の『是大明呪』はサンスクリット訳では②大いなる『智慧』のマントラであって、『 明 = 智 慧 』の同義語の関係にあります。さらに上記のパーリー相応部、35ー53、35ー79、80、の言葉を、前後の意味から考えますと、『慧り(さとり』と『明』は同義語であると考えられますし、また、慧(さと)りの慧は、智慧(ちえ)の慧でもあります。以上から、②大いなる智慧のマントラ、の『智慧』は、『明』であり『慧り(悟り)』なのだと結論付けられます。『大いなる智慧のマントラ』とは『大いなる悟りのマントラ』でもあり『大いなる光明のマントラ』でもあると言えるでしょう。2024/06/29 16:37:39740.栖雲居士◆dqam8SqGUPdm1c584741:栖雲居士 ◆dqam8SqGUPdm :[sage]:2024/06/29(土) 20:27:13.13 ID:crZHU3jqでおー🫵😂教会や寺社から出禁処分!神社での失禁!文化財の破壊!一時期措置入院!現在も統失発狂!バイトを即クビ! ↓2024/06/29 21:52:53741.神も仏も名無しさんYbOQfそれは【出離】であって●【思考の及ばない静かな境地】は『 六根、六境、六識、六触、六受、の●無常(空)なることを知り見る者にはーーー1思考の及ばない静かな境地(第二禅定~第四禅定)と2無常=空を【知り】【見る】( 如 実【知】【見】)2024/06/30 21:51:45742.◆JBLfMwCXhYQPPoUこのスレはまだ生きてたのか2024/07/06 07:54:17743.◆JBLfMwCXhYQPPoU資料館みたいになっている2024/07/06 07:54:30744.◆JBLfMwCXhYQPPoU貴重なスレですな?2024/07/06 07:54:53745.◆JBLfMwCXhYfNL6G次スレはまだか2024/07/06 15:26:01746.◆JBLfMwCXhYshSU5止まってるな2024/07/07 00:40:06747.◆JBLfMwCXhYshSU5放置スレ認定2024/07/07 00:40:19748.◆JBLfMwCXhYshSU5珍しく、夜中なのに眠れん2024/07/07 00:41:05749.◆JBLfMwCXhYshSU5こんなことは滅多にない2024/07/07 00:41:22750.◆JBLfMwCXhYshSU57502024/07/07 00:41:34751.◆JBLfMwCXhYshSU5まったく眠くならんな2024/07/07 00:41:48752.◆JBLfMwCXhYshSU5体質が変わったか2024/07/07 00:41:59753.神も仏も名無しさん5PVJpJBLさん元気そうで何より!2024/07/07 21:01:06754.◆JBLfMwCXhYwRPPiそれにしても暑いな2024/07/08 08:33:47755.◆JBLfMwCXhYwRPPi>>753おはよ~ございます☀️😃❗2024/07/08 08:33:59756.◆JBLfMwCXhYwRPPi疲れた2024/07/08 08:34:09757.◆JBLfMwCXhYwRPPiこのスレはもう要らんだろ2024/07/08 08:35:13758.◆JBLfMwCXhYwRPPi鹿野園は死語だ2024/07/08 08:35:26759.◆JBLfMwCXhYwRPPiいまは、栖ウンコ士2024/07/08 08:35:50760.◆JBLfMwCXhYwRPPiあとは落書きして埋める2024/07/08 08:36:08761.神も仏も名無しさん7BZhy今現在、自称「ブッダ」は履いて捨てるほどいますが、これら3つの明智、四聖諦、十二縁起を実際に経験した人はいません。そのくせ、それらの人は「わたしは悟りを開いたブッダである」とのたまいます。ひつこく言っていますが仏教に於いては悟った程度ではブッダとは言いません。悟りくらい在家で現れる程度の到達に過ぎません。あのね、どんな瞑想をさせたらどんな達成を身に備えるなど、知ってなきゃならないの。要するにブッダとか如来と言うのは、瞑想を初めとする修行を創始する能力があるのね。だからマインドフルネスや四念処を説くことが可能なんですよ、気づいてた(^^)わたしがこれを言うと、ここを見た自己顕示欲や承認欲求の強い人はこの文章を自分の説として語りだすかも知れません^^;気をつけてくださいね。はい、説明します。四聖諦や、八正道、十二縁起というのは三つの明智という智慧によって事実、修行者はその具体的な経験が起きます。ーーーサッチャ・サンユッタ(真理相応)第一 サマディ品第一 サマディ(三昧)すると、世尊はこのように語られたのです。「修行者諸君、君たちはサマディを修習しなさい。修行者たちよ、サマディに入った修行者は如実に認識し理解するのである。では、何を如実に認識し、理解するのであろうか。「これは苦しみである」と如実に認識し理解し、「これは苦しみの生起である」と如実に認識し理解し、「これは苦しみの滅尽である」と如実に認識し理解し、「これは苦しみの滅尽に至る方法である」と如実に認識し理解するのである。ーーー実際に体験が起きるよと言ってる。by ホワイトターラー2024/07/08 15:58:52762.パ7BZhy埋められたら困るので埋めないでほしいですここは私が数ヶ月近く、備忘録用に使っている処なので終わらせないでほしいです宜しくお願いしますm(_ _)m2024/07/08 16:01:41763.パ7BZhyウダーナヴァルガ「涅槃」虚空も無く(空間が無い)、太陽も存在せず、月も存在しない(太陽と月の出没で日にちの経過を知る。つまり時間が無い)ところのその境地を、わたくしはよく知っている。水も無く、地も無く、火も風も侵入しないところ――、そこには白い光も輝かず、暗黒も存在しない。そこでは月も照らさず、太陽も輝やかない。聖者はその境地についての自己の沈黙をみずから知るがままに、かたちからも、かたち無きものからも、一切の苦しみから全く解脱する。2024/07/08 16:15:49764.パtkZ2B『続曹洞宗全書』より「盤珪、実に止だ如出くなるのみ歟!若し実に如此き見解なれば、則ち未だ凡夫の窟を出ず。豈に仏性仏心の談に及ばん哉!何となれば、【思量せず】して領納する底は是れ【受と名づく】、即ちの【五蘊の第二なる耳】。是の故に、古徳〔宗密)いわく、か「【諸受を受けざる、是れ正受と名づく】と。若し此の【受を認め】て以って【本有円成の活仏心】と為せば、則ち轅を北にして越に向うなり。未だ二乗の小径に入らず、況や仏祖の大道を乎!祖師(三祖「信心銘」)云く、毫釐も差有れば、天地懸隔すと。実に是れ天地懸隔なり。2024/07/08 17:47:55765.パtkZ2Bう~む🤔 難しいな毫里も差有れば、天地懸隔す!かぁ~2024/07/08 17:50:38766.◆JBLfMwCXhYeRE3i>>761> ひつこく言っていますが仏教に於いては悟った程度ではブッダとは言いません。> 悟りくらい在家で現れる程度の到達に過ぎません。確かに!それは言える2024/07/08 18:39:01767.◆JBLfMwCXhYrKDQf>>762> ここは私が数ヶ月近く、備忘録用に使っている処なので貴重な記録ですな!2024/07/09 05:40:50768.パ1nQZV【色→受】だと次に【想→行】がまだ控えていて【識】では眼識~意識まで六つあるここを【諸受】とし、以下が謂われていつーーー『諸受を受けざる、是れ正受と名づく』と。 ーーーつまり釈尊も言っているが、六処は残ると、しかしてそれ、六処の以前まで遡っての、寂静であって其処では、【諸受を受けざる】それが【正受】であると言うっている(>65)2024/07/09 16:26:42769.神も仏も名無しさんsgMLI似非仏教徒に解脱は不可能。よって、解脱の場合と同様の動機で希求される「六根清浄」も、似非仏教徒の鹿野園には不可能。……不可能な事を祈念するとか、このスレ立てた奴の性格の悪さがよくうかがえるわ。w2024/07/10 23:41:08770.パHp7BO一切の心の認識作用の相は、根元的な無知(無明)に根ざしている。ところでこの(根元的無知)の相は、(さとりの本質)(覚性)と別の体あるものではない。したがって、これを壊滅できるとも、できないとも言えない。それはたとえば、大海の水が風によって波立つようなものである。この場合、水の相と風の相とは不可分な関係にあるが、さりとて水は(風のように)動くのが本性なのではない。そこで、風が止めば(水の)動きもなくなるが、そうなっても、水の本性たる湿性はかわらない。それと同様に、衆生の(自性清浄心)は<無明>の風が吹くと動き出す。しかし、心も無明も、ともに(固有の)形相があるわけではなくただ相互に不可分の関係にあって機能しているのである。しかも、心は動くのが本性ではないので、無明の動きがとまれば、心の動き、すなわち刹那ごとの生滅のくりかえしによる連続(心相続)は消滅する。さりとて、その本性としての智「すなわちさとり」のはたらきは破壊されない。(『大乗起信論』宇井伯寿・高崎直道訳・注)2024/07/21 10:29:20771.パHp7BO人間の身体とは自動機械のロボットのようなものであって内外(六識六境)からの情報によって、反応し、作動し運転されるこの自動的に動き思考して作用して行くことを釈尊は【生活作用】とされ無明→生活作用とされました無明とは、機械性のことであり、そこに覚醒された覚性、悟性は皆無であるということです2024/07/21 10:30:23772.パkCnQ2大縁方便経わたしはこのように聞きました。ある時、世尊はクル国のカンマーサ・ダンマの市場街に留まっておられました。時にアーナンダ尊者は世尊の元に赴いたのでした。世尊の元を訪れたアーナンダ尊者は、世尊にご挨拶をしてから、その一隅に坐してこのように世尊に申し上げたのです。「尊師よ、驚くべきことです。尊師よ、不思議です。縁起の法則がこんなにも奥が深いとは!また、これほど奥深い内容を有するものだとは!しかし、わたしにはそれは単純であり、それほど難しいとは考えられません」「アーナンダよ、そう言うな。アーナンダよ、縁起の法則をそのように軽々しく言ってはならない。この依りて起こる(因果関係)ことは、君が考えている以上に奥が深く、また深淵な様相をもつものなのだ。この法則を理解せず、洞察が無いがゆえに、世の人々は、あたかも織り糸が乱れて絡み合うさまを呈し、紐がもつれ合う様となり、い草や雑草が絡み合う様となって、苦しみの生存、悪趣の世界、破滅世界、輪廻から逃れられないのである」2024/07/27 07:40:50773.パK2nbIホワイトターラーそこで一体何をしたら「修行」と言うの?これをサンスカーラと言って、前世から引き継ぐ欲望です。そして、そのサンスカーラの動きを完全に自覚しようと把握に勤めている状態を「修めている」と表現しています。上の喧嘩の例の、(相手の気持ちや相手が置かれた立場をわたしは理解しているのだろうか?)という性格の人に瞑想などを通じ、わたしは変わって行こうとすること、これが修行です。普通の人は、ただその時の場の雰囲気に乗っかって、気分のままに流されています。全く自覚が存在しません。分かってもらえましたかね^^;えと、きっと疑問が出ると思うので、追加でちょっと言っておくとね。「じゃ、道元やSさんの名色の停止が悟り。というのは、どう絡んで来るのだ?」と。心身脱落のことですね。また、十二縁起のところで再び出てきますけども、1無明2行3識4名色(これが停止したのを心身脱落と言います。名が心の働きで、色は肉体)5六処6接触4の停止で(自分はどこにもいなかった)と知ります。これが無我の体験ね。煩悩の主体が消えたものだから、欲望も消えます。これが悟りの状態。しかし、無明そのものやサンスカーラは残っているのね。3と4、つまり識別と名色は連動していて、どちらかにアプローチして止めてしまえば、識別も名色も停止して悟りがやってきます。ところが、無明と行は密接に絡んでいて、無明が破壊されると完全に衝動が消えます。これはほぼ、同時に起きます。ここのところを煩悩漏と呼びます。2024/07/27 17:02:00774.パHNzeg大縁方便経「何を成立条件として名色(心の働きと形態の獲得・・・身体のこと)が有るのだろうか?」と、問われたならば、君は「識別を成立条件として、名色がある」と応えるべきである。「では何を成立条件として、識別が有るのだろうか?」もし、そう問われたならばアーナンダよ、「名色を成立条件として、識別がある」と応えるべきである。このようにアーナンダよ、名色を成立条件として識別が。識別を成立条件として名色が、名色を成立条件として接触が、接触を成立条件として感受が、感受を成立条件として渇愛が、渇愛を成立条件として取著が、取著を成立条件として生存が生存を成立条件として誕生が、誕生を成立条件として老死、苦悩、憂鬱、悲嘆、不安が生じる。このように苦悩の集積が生起するのである2024/07/29 07:49:00775.パizaEk名色から逆に無明まで遡る名色→識(認識)ときて、1名色停止→2認識停止2の認識の停止が起こると、それが悟り現象の体験ですここから、次に3行(生活作用)の停止が起こりますが、出家でもない限り、ここは透過できないでしょう3を通過して4で無明を明らかにして解脱されますつまり、輪廻を超越します個人的な霊魂から集団的な大霊へ進みます釈尊が宇宙を体験したのが4であって、三明六通はここで生じます2024/07/31 20:32:34776.パR6tY3世界平和の祈り、真言秘密の法2024/08/01 08:13:20777.パgb6p9大縁起方便経さて、アーナンダよ。執着を成立条件として生存があるとわたしは語った。この因果関係は次のような仮定によっても、理解されなければならない。もしアーナンダよ、誰にとっても、いかなる場合においても絶対的に執着が生じないと想定せよ。その場合、欲望の対象における執着 (愛欲取)誤った見解に固執する執着 (見取)因果関係を無視した儀礼、ルールに囚われる執着 (戒禁取)持論に固執する執着 (我語取)等、このような様々な執着が存在しない場合である。そのような執着が止滅している場合に、生存が認知されるだろうか?ということである。どうだ、アーナンダよ?」「いいえ、世尊よ。それはあり得ません」「そうだ、それ故アーナンダよ。生存にとって執着、これこそが原因であり、成立条件であり、執着を起因として、執着を起源として、執着に拠って生存が有るということが理解されねばならない。これによって生存は執着を成立条件とするとわたしは言う」2024/08/05 19:21:43778.パD5FxN真言、マントラには3つの位相がある一つは欲界、利益を欲しその実現を願って行う真言、マントラ二つには色界、文字として現れ、音声として響く3つには無色界(精神-メンタル界)、真言、マントラ毎に、込められた願い理念の想い、意味があるこの上に位置するのが、無名(無言)、無形(無色)の白光であり霊性界、カラーナ界と言われ、個の最終形態とされるこの上は無個であり逆にいえば、すべての個の集合体である宇宙であるそして釈尊はここを体験されたと、経典にある2024/08/08 19:15:44779.パD5FxNあらゆる真言、マントラは、実は3つの位相を超えて行く為にある世界平和の祈りも同じであって、故に白い光、つまり高級神霊の光が現れるそして、釈尊の言われるニルバーナは、この白い光すら消えた処と、自らが語ったと、経典にありますつまり、個人の最終形態の滅が、ニルバーナであり、故に釈尊も宇宙我を体験されたのである2024/08/08 19:21:59780.パD5FxN 1無明←←2行(生活作用-潜在的な能動性)←←3識(識別-認識)←←4名色(ナーマ名称・ルーパ形相)←←5六入(6つの感覚器官)4において、脳の言語化作用の停止が起こると3の識別-認識作用が停止され更に生活作用の潜在的な能動性が停止しますここが坐断された悟りの現象体験される処ですつまり、5の六入(多分に耳の音声と眼の色による)が機縁となって、4へ移行して、2まで行くのが、悟りのメカニズムである1まで行き、無明が滅すると、ニルバーナへ移行し、個人我を解脱されます悟りからニルバーナへは数生必要であろうと思われます2024/08/08 19:48:10781.パD5FxN(1)無明(むみょう)(アビドヤーavidyā) 人間が本来もっている無知で迷いの原因。(2)行(ぎょう)(サンスカーラsanskāra) いっさいの潜在的な能動性。(3)識(しき)(ビジュニャーナvijñāna) 識別し認識する働き。(4)名色(みょうしき)(ナーマ・ルーパnāma-rūpa) 名は名称、色は対象一般。(5)六入(ろくにゅう)(シャド・アーヤタナa-āyatana) 眼(げん)・耳(に)・鼻(び)・舌(ぜつ)・身(しん)・意(い)(心)の六つの感覚器官。(6)触(そく)(スパルシャsparśa) 対象との接触。(7)受(じゅ)(ベーダナーvedanā) 対象の受容。(8)愛(あい)(トルシュナー) 対象への傾倒・欲望・とらわれ。(9)取(しゅ)(ウパーダーナupādāna) 対象への執着・むさぼり。(10)有(う)(ブハバbhava) 生存。(11)生(しょう)(ジャーティjāti) 誕生。(12)老死(ろうし)(ジャラー・マラナjarā-marana) 老い死ぬこと。2024/08/08 19:48:20782.パaNKnK無常は時間的な変化に対する有り様のこと無我は個人の精神と肉体の分解分析的結果の在り様のことで無我というのは、これはネイティーこれもネイティーと消していくので、手法としては否定を使うけど否定された最終的な結果の無我自体は、否定や肯定といった、判断比較から離れていて、ニュートラルであるはずですね無常も同様でしょう自他の関係性から自我を形成していくのは、人間を含めた動物のマインドの形成過程でのことですよね脳に形成される心(マインド)である自我をエゴと言いますが、そのエゴは実は存在しない無我ですそれとは違う超自我とも言うべき【我】は、自他に関係なくて、個として他人と切り離されて、単独で存在を自覚されるものでその自覚を悟ると、人は臨済の言う無位真人として現れる2024/08/09 14:38:55783.パaNKnK超自我って自我(エゴ)を超越しているって意味でしょ個というのは、独りであること、つまりは個がイコール全体であるということですね自他が個に集約統合されると、中心たる我と周囲としての環境との間に、対立が無くなるようになるってこと、または無くなりつつある状況が現れる去年まで煩いと思ってた町内の子供の騒ぐ声が、今年は気にならないとか、犬の鳴き声が鳥の囀りレベルに自然に聴こえる、などそれまで騒音として拒絶されてきたものが、受容されるようになってくる個と環境が一つになると、全てに隔てがなくなるようになってくるみたいなね2024/08/09 20:06:21784.パgAcmH大縁方便経「さて、アーナンダよ、わたしは渇愛を成立条件として執着が有ると。このように言ったが、ではアーナンダよ。それは次のような仮定によっても理解されるべきである。もし、仮にアーナンダよ。渇愛が誰にとっても、いかなる場合においても全くもって存在しないとしたならば、例えば視覚の対象における渇愛聴覚の対象における渇愛味覚の対象における渇愛臭覚の対象における渇愛触覚の対象における渇愛思考の対象における渇愛が全く無かったと想定せよ。これら何においても渇愛が存在しない、または止滅していると。その場合、果たして執着が認知されることが有るだろうか?」「いいえ、尊師。それはあり得ません」「そうだ、それゆえアーナンダよ。執着にとって渇愛こそが原因であり、起源であり、起因であり、渇愛が執着の成立条件であるとわたしは言う」2024/08/11 03:03:44785.パxkByf出典はブッダ最後の旅:中村元著長部経典第14 マハーパリニッパーナ・スッタ(大般涅槃経)https://i.imgur.com/guFWwyY.jpeghttps://i.imgur.com/8tdtANW.jpeghttps://i.imgur.com/EJByvpB.jpeghttps://i.imgur.com/ncrcvRk.jpeg2024/08/15 13:30:58786.パd8NSv640 リダンツァー ◆gEV3xsS//k 2024/09/01(日) 09:19:06.59 ID:oVUoKyWL煩悩を随縁にうろうろするんやなくてあくまでこちらが制御する煩悩即煩悩煩悩即菩提とするんやないかなりだんの言ってることはよく分かる選択の自由ってことかと観照の位相に達すると、必ず上記のような思いが生じます生じたら欲を取るも取らないも、自己の自由性によるんだとこの段階では、完全に彼方側へ渡りきっていないので、その意味は、構築された自我が一旦解体されるという段階が、未だ来ていないが故に、そのように欲の対象側に行くこともあるということボーディーチッタの清浄心からの観点から言えば、選択の余地は無くて、欲そのものが無いと言えるしかして、これは選択の自由だと思ったとしたら、それは構築された自我(エゴ)の側が、ボーディーチッタのふりをしていると言う演技であり罠でもあるのだと完全に、この境界を渡りきったアラハンには、欲を選ぶという選択はあり得ず、そもそもに欲の生起そのものが無いからであるその意味は、構築された仮の自我が、完全に滅びて無くなったらからであり、その様な仮の心が無いのであって、心(仮の)が無いから【無心】なのであり無心とは本当の心(ボーディーチッタ)のことであり、それを佛教用語では本当の心である【本心】と言うのである無心(カリノココロが無い)→本心(本当の本からの心)2024/09/01 13:58:30787.パd8NSv煩悩即菩提煩悩を選択した場合、これは煩悩(自我エゴ)側からの嘘も方便ですね煩悩に会して、菩提心側から、菩提心に在る位相に留まったならそれが、煩悩 即→菩提(菩提心)2024/09/01 13:58:56788.パWvbkr【人類の残酷な起源】エイリアン・インタビューで明かされた衝撃の秘密とは? 【都市伝説 | 宇宙人 | ロズウェル事件】イズビーが明かす人類の起源と無辺の意識の真相‼https://m.youtube.com/watch?v=G86rkCBQfnE2024/09/07 13:57:33789.パWvbkr三法印雑阿含経雑阿含経においては以下と記載される。令我知法見法。我當如法知如法觀。時諸比丘語闡陀言。色 無常。受想行識 無常。一切行 無常。一切法無我。涅槃寂滅。—雑阿含経(大正新脩大蔵経)2024/09/07 13:58:03790.パWvbkr大智度論龍樹の著作といわれる大智度論巻十五では、まだ煩悩を十分に絶つことができないで、【有漏道】(うろどう)にあって【無漏道】を得ていない人々が「三種法印」を【信ずべきである】として「一切有為生法無常等印」「一切法無我印」「涅槃実法印」の三法印を示している。また巻三十二では「一切有為法無常印」「一切法無我印」「涅槃寂滅印」とよんでいる通達無礙者。得佛法印故通達無礙。如得王印則無所留離。問曰。何等是佛法印。答曰。佛法印有三種。一者一切有爲法。念念生滅皆無常二者一切法無我。三者寂滅涅槃以是故佛説三法爲法印。所謂一切有爲法無常印。一切法無我印。涅槃寂滅印。—大智度論(大正新脩大蔵経)2024/09/07 13:58:34791.パWvbkr仏教詩人マートリチェータの説2世紀ごろの仏教詩人マートリチェータは自作中において"dharmamudra trilaksana"という表現で三つの教えを表した。それは以下の通り。●Sarva-dharma anatmanah一切の法は無我である。●Ksanikams sarva-samskrtam一切の作られたものは刹那(滅)である。●santam nirvanam涅槃は寂静である。マートリチェータはこれらを「esa dharmamudra trilaksana」(これが『三法印』である)としている。2024/09/07 13:59:05792.パnlsl2●世俗においては、すべてのものは実体として認識することはできず、単に言葉によって施説されたものであると説く(「有」または「無」または「有無」または「非有非無」)。●勝義においては、それらすべての【言語活動すら止滅する】(「有」または「無」または「有無」または「非有非無」において、その全ての否定)。2024/09/07 14:18:25793.パnlsl2龍樹は重要なポイントを突いてくる我々は世俗を超えて行くそれにはどうすれば良いのか?と龍樹は述べるーーー●勝義においては、それらすべての【言語活動すら止滅する】 ーーーわたしが今まで学んできた成就者は、この様に言う曰く●あなたが3分思考を止められるなら、私はあなたをブッダにしよう!また曰く●私は想念停止行を数ヵ月行ってやり遂げた、それから毎晩、想念を止めて統一し続けて、ある日自己の本体である神体に正しく一体となり、覚者となったわたしは、これら一連の記述から、龍樹のいう【勝義においては、それらすべての言語活動すら止滅する】の逆を行じることで、即ち【すべての言語活動を止滅する】ことで龍樹のいう【勝義】に在ることが可能になると結論し、実在はそれによって知られるようになると理解した2024/09/07 14:33:03794.パnlsl2『大乗起信論』宇井伯寿・高崎直道訳●一切の心の認識作用の相は、根元的な無知(無明)に根ざしている。ところでこの(根元的無知)の相は、(さとりの本質)(覚性)と別の体あるものではない。したがって、これを壊滅できるとも、できないとも言えない。それはたとえば、大海の水が風によって波立つようなものである。この場合、水の相と風の相とは不可分な関係にあるが、さりとて水は(風のように)動くのが本性なのではない。そこで、風が止めば(水の)動きもなくなるが、そうなっても、水の本性たる湿性はかわらない。それと同様に、衆生の≪自性清浄心≫は≪無明≫の風が吹くと動き出す(心が)。しかし、心も無明も、ともに≪固有≫の≪形相≫があるわけではなくただ【相互に不可分】の関係にあって機能しているのである。しかも、心は動くのが本性ではないので、無明の動きがとまれば、心の動き、すなわち≪ 刹那ごとの、生滅のくりかえしによる連続(心相続)は、消滅する ≫さりとて、その本性としての智【即ち≪さとり≫】の≪はたらき≫は破壊されない。ーーーーー本性としての智(知覚?)とは【さとり(覚性)】の【はたらき】であるとなろうか2024/09/07 14:41:55795.パGAKYR441 神も仏も名無しさん sage 2024/09/08(日) 18:00:53.59 ID:ZbewXc/3五蘊の他に真我なるものを説くのがヒンドゥー解ってないね~ヨーガでは真我を言うけど、真我そのものになった状態を真我の「独在位」と言ってだな真我しか存在しない状態とする、これをカイバリヤっていうようだがそしてだなこの真我の「独在位」になった意識体は、個人としての意識を長くは維持されないとされていて個として真我の「独在位」に在った後にことしての意識は消滅します、消えるんです個人として在った過去が粉砕されて一瞬無に帰す無になった直後に、その意識は、量子的になって超次元的な空間へ解放されて行きますこの個人意識が一時的に消滅された段階が、真の意味でのニルバーナとおれは思っとるがこの個人としての心と体から解放されら量子的な意識は、超次元において、宇宙的な大きさまで拡大されて、そこで、幾重もの宇宙の創造と破壊期を見るとされますこの宇宙創造の記憶は超次元の記憶階層に記録さていて、それを見ますそして、自分の意識の誕生から今までのすべての経験をも見るとされますこの一連の流れを、釈尊は覚ってからずっと禅定に在ったまま21日間で見たと、仏伝には記されていますこの仏伝を読まずしては、何が仏教でしょうか?と迷うのは当然なのです2024/09/08 19:13:07796.パ6HZOU12 リダン◆gEV3xsS//k sage 2024/09/07(土) 07:23:00.44 ID:TeKjo TID:hikatan>>8離脱世界ってのは自分の内面がさらけ出される所。発想した事が実現化する世界。↑第六天魔王やね飛べないと心のどこかで発想があると飛べない。↑深層心理やねここ馬さんに言いたいんやけどそう言ったことを無我である空であるという理解で遠離せなあかんのね実体視して滅するとなると欲界は簡単に出られへん空飛んでいたね子供のころからリダンはよく、おれが実体視していると言ってるんだっけ?実際のところそうじゃない、無我空と頭レベルで理解したところで、抑圧になって、後々にたまって爆発するだけだから何らかの執着煩悩が有ったとしよう、それに対しての執っする意識を、止滅しようとする、と言うことではないロンみたいな言い方だが、元々本心(九次第禅定の心一境性)には一切の心の言語感情の染汚は無いわけで、その清浄心としての本心の立ち位置に立つ、それが、執着煩悩からの遠離と結果的にはなるという仕組みだと、実体験から導けるということです2024/09/11 13:36:52797.パ6HZOU欲界を出るのは禅定では簡単誰でも欲追及にうんざりして、満腹いっぱいでもう飽き飽きで疲れたら、自然に一時的に欲から離脱される禅定では欲界禅定→色界禅定→無色界禅定だから、色界第一禅定へは、欲界を離れるという心が働いたら、それは、無為ではなく有為になりますが、そうではなくて、マハムドラーのような老子のように、無為自然で在るうちに、自然に欲界から離れて、本心に安住するようになる、というのも有るのです2024/09/11 13:52:17798.パ6HZOUその無為のうちに本心へ至と言うのが、執着煩悩の欲界から離れようという有為の行為無くして、無為自然のまま本心(心一境性)そのものへジャンプする方法なのですだからそれは行為ではなくて、在り方の問題であり、故にマハムドラーをあつかったOSHOの本の題名が、「存在の詩(ウタ)」だたのですしかし、行為(有為)によって心一境性へ入った行者は、次も行為(行)によってしか入れないわけです禅定とはそういうものであって、無為で入っても、その無為の状態を生じさせる何らかのルーティンがあったのなら、それはやはり有為とされるでしょうだから、禅の悟り現象は、突発的に生じるが故に無為なのであって、それ迄の公案による集中が有ってもです、小石が蹴られて竹に当たるとかw有為では無いでしょうからね2024/09/11 14:07:20799.パLap9w∞ノノハ∞川^〇^ハレ翻訳です本則:鏡清禅師が僧に聞いた、「門の外で聞こえる音は何かな?」。僧は言った、「雨滴(あまだれ)の音です」。鏡清は言った、「お前さん雨だれに捉われたな」。僧は言った、「和尚さんはあの音が何と聞こえるのですか」。鏡清は云った、「私もすんでのことで迷うところだった」。僧は云った、「私もすんでのことで迷うところだったとは、どういう意味ですか?」。鏡清は云った、「いろいろの束縛を脱して悟るのは易しいが、それをずばりと言うのはなかなか難しいよ」。頌虚堂の雨滴声作者 駲対しがたしもし曽て流れを入(かえ)すといわば依前として還って不会会不会南山北山うたたホウ霈(はい)たり注:虚堂の雨滴声:誰もいない家の雨だれの音。作者 駲対しがたし:腕ききの達道者でも返答しにくい。もし曽て流れを入(かえ)すといわば:正法の不変の流れに踏み込めば南山北山うたたホウ霈(はい)たり:南山も北山も沛然と雨に包み込まれる。頌誰もいない部屋の中で一人坐って雨だれの音を聴く。ポタリポタリと落ちる雨だれの音に成り切って聴く時、その音は何かと聞かれると、本当のところをズバリと言うのは腕ききの禅者でも返答しにくいものだ。雨だれの音を雨だれの音だと分別して聴けば本当に理解したことにならない。分かっても分からなくても雨だれはポタリポタリ。分かっても分からなくても南山も北山も沛然と雨に包み込まれている。2024/09/12 03:51:15800.パLap9w昨日の夜に悟り現象が起きた>>799車の中でこれを見てて、それについて実体験からの想いを巡らせていたらいつの間にか表面的な思いと表面的覚醒から離れて、ちょっと深い意識の半覚醒状態で、99の想いだけに意識がある状態になってて、そしたら急にちょっと遠くで、エンジンをかける音がキュウルル ブォーン!ってした瞬間に半覚醒状態で集中されていた公案が、音が意識にズドン!と届くと同時に吹っ飛んでしまって誰でもなく何でもない、無雑無染汚な覚知のそのものに在った極度の集中によって潜在意識に入り込んで沈んでいた意識に、そこに光や音によってその集中か破されると、無辺の覚知の識が一気に無辺へと解き放たれて、目覚めるそしてその覚知の意識とは吾(われ)であったと覚る(悟る)、それが吾の心だったと本心だったとというメカニズムがあるのだと解る2024/09/12 03:51:55801.パLap9wこういう悟り現象は時々起こるし、なので白隠さんが小悟数知れずということは良く分かるキュウルル ブォーン!ってした瞬間にこの時既に音は消えてて、意識は後先が無い状態で、心は吾として開かれている状態だなしかし、漢字って良くできているね、吾の心と書いて、さとりだってw感心する!まあ、これが悟りなのかは知らんがw少なくとも無心で宜しい!とは気づくね2024/09/12 03:54:14802.パLap9w12 リダン◆gEV3xsS//k sage 2024/09/07(土) 07:23:00.44 ID:TeKjo TID:hikatan>>8離脱世界ってのは自分の内面がさらけ出される所。発想した事が実現化する世界。↑第六天魔王やね飛べないと心のどこかで発想があると飛べない。↑深層心理やねここ馬さんに言いたいんやけどそう言ったことを無我である空であるという理解で遠離せなあかんのね実体視して滅するとなると欲界は簡単に出られへんーーー空飛んでいたね子供のころからリダンはよく、おれが実体視していると言ってるんだっけ?実際のところそうじゃない、無我空と頭レベルで理解したところで、抑圧になって、後々にたまって爆発するだけだから何らかの執着煩悩が有ったとしよう、それに対しての執っする意識を、止滅しようとする、と言うことではないロンみたいな言い方だが、元々本心(九次第禅定の心一境性)には一切の心の言語感情の染汚は無いわけで、その清浄心としての本心の立ち位置に立つ、それが、執着煩悩からの遠離と結果的にはなるという仕組みだと、実体験から導けるということです2024/09/12 04:01:03803.パLap9w欲界を出るのは禅定では簡単誰でも欲追及にうんざりして、満腹いっぱいでもう飽き飽きで疲れたら、自然に一時的に欲から離脱される禅定では欲界禅定→色界禅定→無色界禅定だから、色界第一禅定へは、欲界を離れるという心が働いたら、それは、無為ではなく有為になりますが、そうではなくて、マハムドラーのような老子のように、無為自然で在るうちに、自然に欲界から離れて、本心に安住するようになる、というのも有るのですその無為のうちに本心へ至と言うのが、執着煩悩の欲界から離れようという有為の行為無くして、無為自然のまま本心(心一境性)そのものへジャンプする方法なのですだからそれは行為ではなくて、在り方の問題であり、故にマハムドラーをあつかったOSHOの本の題名が、「存在の詩(ウタ)」だたのです2024/09/12 04:02:08804.パLap9wしかし、行為(有為)によって心一境性へ入った行者は、次も行為(行)によってしか入れないわけです禅定とはそういうものであって、無為で入っても、その無為の状態を生じさせる何らかのルーティンがあったのなら、それはやはり有為とされるでしょうだから、禅の悟り現象は、突発的に生じるが故に無為なのであって、それ迄の公案による集中が有ってもです、小石が蹴られて竹に当たるとかw有為では無いでしょうからね2024/09/12 04:03:39805.パLap9w55それは本質的にその意識が目覚めているからですよ如何に外向きな心で生活してても、極まると中心に引き戻る感じそれが日常での生活中に起こるのかどうか?もう20年も前だけど、おれが目一杯仕事三昧してた頃に、仕事終わって車で帰る時の、信号待ちで、一気にしゅーーーんって寂静に引き戻されることが毎日起きていたどんなに自我三昧でも、全く関係なく一気になってた2024/09/12 04:04:08806.パo95HGサンカーラhttps://i.imgur.com/prrWH51.jpeg2024/09/13 15:45:00807.パwMdFsサンカーラサンカーラ(samskara)には次の意味があります●仏教やヒンズー教で、1)前世や現世の経験が刻み込まれたもの、2)または、1を根底として、その人の在り方や行動を形成するもの●パーリー語で「サン」が集めるという意味の接頭語、「カーラ」が作るという意味の名詞で、【再構成】を示す言葉(苦の形成因を集め、新たな苦を形成するの意味か?)●仏典では複数形で「サンカーラー」と表記され、「諸行無常」の【諸行】を表すまた、釈尊が苦しみの原因としてあげた「行」も「サンカーラ」と呼ばれています『行』は自他分離的な形成力であり、しの原因によって苦しいという考えが根底にあります2024/09/13 16:10:34808.パO1wZK説一切有部毘婆沙師学派では、ĺl菩提への道について影響力のある骨子を示し、後に大乗仏教の学者たちによって脚色・修正された。これは五道と呼ばれ、彼らのアビダルマのテキストや世親の阿毘達磨倶舎論に見ることができる。以下の五つである。●1Mokṣa-bhagiya(解脱に至る段階) ,資糧道 世親によると、これには戒が必要であり、【四念処】を教わって実践する。●2Nirveda-bhagiya(浸透に至る段階) ,加行道 阿毘達磨倶舎論では、【四諦】を【16の側面】から観察する。●3見道阿毘達磨倶舎論では、【四諦を観察】し続け、これにより【88の煩悩を放棄】する。●4修道阿毘達磨倶舎論では、修習を続けてさらに【10の煩悩を放棄】する。無学道すべての【障害や苦難から完全に解放】され、【完成し充足】される。2024/09/13 22:21:51809.パL7o1R『 真 理 相 応 サ マ ディ 品 』修行者諸君、君たちはサマディを修習しなさい。修行者たちよ、サマディに入った修行者は如実に認識し理解するのである。では、何を如実に認識し、理解するのであろうか。「これは苦しみである」と如実に認識し理解し、「これは苦しみの生起である」と如実に認識し理解し、「これは苦しみの滅尽である」と如実に認識し理解し、「これは苦しみの滅尽に至る方法である」と如実に認識し理解するのである。釈尊2024/09/14 18:51:43810.パL7o1R『 真 理 相 応 初 転 法 輪 経 』●君たち、出家修行者よ、わたしと共にいる修行者は2つの極端な状態を避けるべきである。2つとは何であろうか?それは劣ってありふれた普通の人のようであり、邪であり、不利益を被る在家の生活状態であり、これら種々の感覚の喜びを満たすこと。愛欲における豪奢な生活に浸ることである。●また、片や苦しみであり、邪であり、不利益を被ることであり、疲労をもたらす専念(苦行林で行われる苦行のこと)である。●修行者よ、如来はこれら2つの極端な状態を批判することなく、まなこを引き起こし、精通を引き起こし、臨寂静、証智、正覚、煩悩滅尽に至らしめる、中道を現正覚したのである。●修行者よ、ではその中道とは何か?(なんでもほどほどに・・・が「中道」と言ってる馬鹿な人がいますが、違います。八正道を中道と呼びます。意味はどこかで言ったので気になる人は捜してね)それはまさに、聖なる八段階の道である。つまり1正見、無常であり苦であり非我なる世界に真の安らぎ幸福、自由は存在しないという見解。2正思惟、非害心、非残酷、非貪欲、出離なる想い。思いやりと慈しみを持つ。3正語、粗悪なる言葉、不綺語、不妄語、不両舌、不悪口を止め、真実で思いやりので優しい言葉を語る。4正業、非殺生、不偸盗、不邪淫、アルコール等を遠ざける。いたわり、布施、異性を性の対象と見ない。5正命、悪業をなすような職業、盗賊、屠殺、詐欺、人身売買や売春を離れる。6正精進、四正断(四正勤)のこと。7正念、五蘊は非我であり、受は苦であり、心は無常であり、一切の存在は普遍的実在性を欠く。四念処8正定、四つの段階のサマディである。↓↓2024/09/14 18:55:48811.パL7o1R↓↓●修行者よ、実にこれらが如来が現正覚した、まなこを引き起こし、精通を引き起こし、真理相応 初転法輪経君たち、出家修行者よ、わたしと共にいる修行者は2つの極端な状態を避けるべきである。2つとは何であろうか?それは劣ってありふれた普通の人のようであり、邪であり、不利益を被る在家の生活状態であり、これら種々の感覚の喜びを満たすこと。愛欲における豪奢な生活に浸ることである。また、片や苦しみであり、邪であり、不利益を被ることであり、疲労をもたらす専念(苦行林で行われる苦行のこと)である。修行者よ、如来はこれら2つの極端な状態を批判することなく、まなこを引き起こし、精通を引き起こし、臨寂静、証智、正覚、煩悩滅尽に至らしめる、中道を現正覚したのである。修行者よ、ではその中道とは何か?(なんでもほどほどに・・・が「中道」と言ってる馬鹿な人がいますが、違います。八正道を中道と呼びます。意味はどこかで言ったので気になる人は捜してね)それはまさに、聖なる八段階の道である。つまり正見、無常であり苦であり非我なる世界に真の安らぎ幸福、自由は存在しないという見解。正思惟、非害心、非残酷、非貪欲、出離なる想い。思いやりと慈しみを持つ。正語、粗悪なる言葉、不綺語、不妄語、不両舌、不悪口を止め、真実で思いやりので優しい言葉を語る。正業、非殺生、不偸盗、不邪淫、アルコール等を遠ざける。いたわり、布施、異性を性の対象と見ない。正命、悪業をなすような職業、盗賊、屠殺、詐欺、人身売買や売春を離れる。正精進、四正断(四正勤)のこと。正念、五蘊は非我であり、受は苦であり、心は無常であり、一切の存在は普遍的実在性を欠く。四念処正定、四つの段階のサマディである。修行者よ、実にこれらが如来が現正覚した、まなこを引き起こし、精通を引き起こし、臨寂静、証智、正覚、煩悩滅尽に至らしめる中間の道である。臨寂静、証智、正覚、煩悩滅尽に至らしめる中間の道である。釈尊2024/09/14 18:56:26812.パL7o1R真理相応 初転法輪経君たち、出家修行者よ、わたしと共にいる修行者は2つの極端な状態を避けるべきである。2つとは何であろうか?それは劣ってありふれた普通の人のようであり、邪であり、不利益を被る在家の生活状態であり、これら種々の感覚の喜びを満たすこと。愛欲における豪奢な生活に浸ることである。また、片や苦しみであり、邪であり、不利益を被ることであり、疲労をもたらす専念(苦行林で行われる苦行のこと)である。修行者よ、如来はこれら2つの極端な状態を批判することなく、まなこを引き起こし、精通を引き起こし、臨寂静、証智、正覚、煩悩滅尽に至らしめる、中道を現正覚したのである。修行者よ、ではその中道とは何か?(なんでもほどほどに・・・が「中道」と言ってる馬鹿な人がいますが、違います。八正道を中道と呼びます。意味はどこかで言ったので気になる人は捜してね)それはまさに、聖なる八段階の道である。つまり正見、無常であり苦であり非我なる世界に真の安らぎ幸福、自由は存在しないという見解。正思惟、非害心、非残酷、非貪欲、出離なる想い。思いやりと慈しみを持つ。正語、粗悪なる言葉、不綺語、不妄語、不両舌、不悪口を止め、真実で思いやりので優しい言葉を語る。正業、非殺生、不偸盗、不邪淫、アルコール等を遠ざける。いたわり、布施、異性を性の対象と見ない。正命、悪業をなすような職業、盗賊、屠殺、詐欺、人身売買や売春を離れる。正精進、四正断(四正勤)のこと。正念、五蘊は非我であり、受は苦であり、心は無常であり、一切の存在は普遍的実在性を欠く。四念処正定、四つの段階のサマディである。修行者よ、実にこれらが如来が現正覚した、まなこを引き起こし、精通を引き起こし、臨寂静、証智、正覚、煩悩滅尽に至らしめる中間の道である。釈尊2024/09/14 19:04:14813.パT8DjW1034 「煩悩の流れはあらゆる処に向かって流れる。その流れをせき止めるものは何ですか? その流れを防ぎ守るものは何ですか? その流れは何によって塞がれるのでしょうか? それを説いて下さい。」●1035 師は答えた、「アジタよ。世の中におけるあらゆる【煩悩の流れをせき止める】ものは、【気をつけること】である。(気をつけることが)煩悩の流れを防ぎまもるものでのである、と私は説く。その流れは【智慧によって塞がれる】であろう。」●1036 アジタさんがいった、「わが友よ。【智慧と気をつけること】と【名称と形態】とは、いかなる場合に【消滅する】のですか?おたずねしますが、このことを私に説いて下さい。」●1037 アジタよ。そなたが質問したことを、私はそなたに語ろう。【識別作用】が【止滅する】ことによって、【名称と形態】とが【残りなく滅びた】場合に、この名称と形態とが滅びる。」2024/09/14 20:41:50814.パZ5RXi真我であるアンナーマライよ眼やその他すべての感覚を見る、心眼の背後にある眼よ空間やその他すべての元素を知るものよハートの中で輝く内なる虚空を包括し顕示し知覚する存在よ想念から自由な心が内面に向かったとき、アンナーマライは私自身の真我として現れ出すそれには、まず恩寵が必要とされる愛がそれに加わり、そして至福が溢れ出す見よ!何と真我の知識はたやすいことか実にたやすいアートマ、ヴィディヤー2024/09/15 15:20:42815.パZ5RXiピンギヤよひとびとは妄執に陥って苦悩を生じ、老いに襲われているのを、そなたは見ているのだから、それ故に、ピンギヤよ、そなたは怠ることなくはげみ、妄執を捨てて、再び迷いの生存にもどらないようにせよ732 神も仏も名無しさん sage 2024/09/15(日) 12:17:32.76 ID:Y5UOWD0s①釈迦牟尼は妄執を問題視している②釈迦牟尼は物質的な形態を問題視している③釈迦牟尼は無所有の成立する元を知っている④釈迦牟尼は無所有の成立する元を知っているから歓喜は束縛であるとありのままに知る智が生じている2024/09/15 15:21:23816.パCrRSa宝性論無ニ性と無分別https://i.imgur.com/061lvJz.jpeghttps://i.imgur.com/NWJ9RCF.jpeg2024/09/15 20:02:00817.パAVVPG「坐禅用心記」(3) 坐禅は、戒定慧に干かるものではありません。律「戒」・経「定」・論「慧」の三学を兼ねています。●「戒というのは、これ防非止悪。坐禅は相対を観ない、計らない、万事を放下して、諸縁を休息して、仏法であるや世法ということを管せず、道情と世情を双べることすら忘じて、是非は無く善悪も無し。何の防止か之れ有らんや。此は是、心地無相戒なり。」●「定は是、観想無余なり。坐禅は身心を脱落し、迷悟を捨離し、不変不動、不為不昧、痴の如く兀(ゴツ-じっと動かない)の如く、山の如く海の如く、動静の二相、了然として生せず、定にして定相無し、無定相なるが故に大定と名づくなり。」●「慧は是、簡択覚了なり。坐禅は所知自ら滅し、心識永く忘ず、≪通身慧眼にして、簡覚有ること無く≫明らかに仏性を見て、本迷惑せず、≪意根を坐断し、廓然として瑩徹す≫是≪慧にして慧相無し≫≪慧相無きが故に大慧と名づくなり≫ 」2024/09/16 14:06:29818.パz2umR極度の集中状態にあると集中されていた対象が朧になってきて意識も半分朦朧となっていて、我も何もかもが曖昧になっていますこの様な状態で、五感からズバッと刺激が入ると、まるでパンパンの風船が独りでに割れるようなことになります風船という自我が破されるわけです2024/09/17 16:02:19819.パz2umR『疑団のメカニズム』疑団がおきるのは仮心(本心に対しての)が働いていると言うことであってこれに対して、悟り現象が起こるのも、仮心が有ってのこと大疑の状態に我々の心が進むと、思いの連鎖相続は停止しているが、一つの思いだけが、エンドレスに再生された状態を維持するようになりますそれは、明確な単語であったり、文章であったり、または文字にならない文字以前の象形であったりします、更には色かも知れませんどの様なものであったとしても、それは【心】が働く機構に係っていて、何らかの印象(外因)によって、破されるのを待っているような状態なのですなので、その仮心は腹や頭を小突かれたり、突如の音光などによって、破されるのです2024/09/17 16:10:57820.パz2umR236 神も仏も名無しさん sage 2024/09/17(火) 13:07:33.90 ID:hQVjXjDV123体験がないからわからんが、ただ単に妄想がなくなること言ってるだけなんじゃ?w妄想って言葉が人間の自動的思考を言うのだとしたら、まあそれも含みます私の言っているのは、1意志、2自動的思考、3能動的思考この3つが、心の中で一つの対象にくっついて集中されている状態ですその状態が数分~数十分~数時間続く中で、外部からの音、光、接触によってその集中状態が壊れるそうした場合に、五感や思いを感受していた無相の識が、顕(アラワ)になりますただ、その集中状態は、心で目の前の対象に集中したような状態ではなくて心の深層に入り込んでいて、1色→2受→3想→4行→5識これの3、4、5をループしたようになっています5の識は鏡とか球体ガラスとかのように、本来は無色透明な、無相のものであるが心(脳)に1~3が連続してあらわれて映っているので、モニタースクリーンに焼き付きが起こるように、様々な印象が残像として焼き付きます(聴いた音楽が脳内でループするような)この残像が【我(本当は仮の)】であると識が錯覚してしまうようなことになっている仕組みただ、事前に禅定なりで、無想禅定を繰り返し行じて、無相(想)に慣れてそれが自己であると、ある程度深くで覚醒していないと、仮の我(心)がパッと消えた時に、その無相の自己を、自己として覚醒出来ず、ただ茫然と佇むことになりますまあ、悟り現象が起こると、初めての時はどうしてもそうなりなすが、無相の本心に安立されてくると、たとえ仮の心が起きた後に、再び悟り現象が起きても、初めての時のように、茫然と坐断された状態には成らないようですここが、老師と弟子の違いだと思います、解りますか?2024/09/17 16:12:48821.パz2umR洞山大師も、無情説法の話が分からずに、苦心していた時があったと言われる。。そういう時に、たまたま、船で河を渡る機会があって、水面に映る自分の映像を見て、悟ったとされている。。それを謳っているのが、かの有名な過水の偈、というわけです。。ーーー157むずいなぁ、顔見て何を悟ったんだw外の世界が己とか?疑問は自発的なものでなくてはいけなくて、外から持ってきて与える公案なんて、意味あるんかねえとか思っちゃうわwーーー243水面が静かで鏡のようになってて、そこに映った自分の顔を見ようと、その水面の顔に意識が行ったその時風で水面が波だって、映った顔が消えた‼その瞬間に真の自己である無相の識へスパーーーン‼って引き戻ったそして、その無相の本心を自己として覚(悟)ったそのような悟り現象のメカニズムだと思いますね2024/09/17 16:15:36822.パU2tVs●然らば無作の三身の当体の蓮華の仏とは日蓮が弟子檀那等なり●伝教云く「一念三千即自受用身・自受用身とは尊形を出でたる仏と・出尊形仏とは無作の三身と云う事なり●無上道とは寿量品の無作の三身なり此の外に成就仏身之れ無し●本有常住の仏なれば本の儘なり是を久遠と云うなり、久遠とは南無妙法蓮華経なり実成無作と開けたるなり●無作の三身は覚前の実仏と云云、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は無作の三身覚前の実仏なり●今本門の即身成仏は当位即妙本有不改と断ずるなれば肉身を其のまま本有無作の三身如来と云える是なりむ、難しい~2024/09/17 21:22:57823.パdiBxW>>802>仏法に方便なんてないよ。。馬鹿を言うのはおよしなさい。筏の喩えは?毒矢の喩えは?火宅の喩えは?初期仏典にも法華経にも方便が説かれてるでしょ?>>802>仏法もないけど。。wあるでしょ?経典には以下の通り説かれてますよ?>わが作るところにも非ず、また余人の作るところにも非ず。>如来の世に出ずるも出てざるも法界常住なり。>如来は、この法を自ら覚し、等正覚を成じ、諸の衆生のために分別し演説し開発顕示するのみなり。>(雑阿含経)2024/09/20 14:30:58824.パdiBxW>>803>その時その時で、言うことが違うのが仏法、ではなく、対機説法だと、そのように思う人がいる、未悟の人には、そのように思われる、というだけ。。違いますよ?趙州曰く、無。またある時は、有。(『趙州録』)ソーナよ、琴を弾く時はあまり弦を強く張ってしまうとよい音はでないであろう、また弦の張りが弱すぎてもよい音は出ないであろう、ソーナよ、佛道の修行も同じことだよ。無理に修行を重ねても、心がたかぶって冷静で沈着な心をいただく事はできないだろう。弛み過ぎても怠け心が沸いてくるであろう。ソーナよ、あなたは琴の音を調える時のように、どちらにもかたよらない素直な修行の実践が大切だよ。(『賢愚経』)お釈迦様は中道を説かれたのです。当然に、その時その場合その人によって説示は違って来るのですよ。>>806>そもそもどうこうする必要がない、のに、違いますよ。あなたはまだ仏性にお目に掛かれてないのです。自己をして仏道を為さしめるものをご存知ないのです。>仏性の道理は、仏性は成仏よりさきに具足せるにあらず、成仏よりのちに具足するなり。>仏性かならず成仏と同参するなり。>(『正法眼蔵』仏性より)>この法は人々分上にゆたかにそなはれりといへども、いまだ修せざるにはあらはれず、証せざるにはうることなし。>(『弁道話』)>わが己心の妙法蓮華経を本尊とあがめ奉りて、我が己心中の仏性南無妙法蓮華経とよびよばれて顕はれ給ふところを仏とは云ふなり。>(『法華初心成仏抄』)真宗だってそうです、「称えるのは私ではなく、阿弥陀仏が私を通じて称えている」という他力を説いてるんです。決してどうこうする必要がないのではありません。仏様が私をしてどうこうせしめて下さるのです。2024/09/20 14:35:31825.パdiBxWロンさんがおかしくなってるのは、方便として説かれたもののうち、極端に偏ってるそれに固執している事です。禅宗は、例えば仏像を焼いたり、殺仏殺祖等と云ったりと、極端な方便を多用しますからね。「柔軟心」を持たれて下さい。「柔軟心」につきましては以下参照。>仏仏祖祖の身心脱落を弁肯するが、乃ち柔軟心なり。>這箇を喚んで、仏祖の心印と作すなり。>(『宝慶記』より)>かくのごとく菩薩は、奢摩他と毘婆舎那を広略に修行して柔軟心を成就し、如実に広略の諸法を知る。>かくのごとくして巧方便回向を成就す。>(『浄土論』世親 より)要は止観を修するのです。実践です。2024/09/20 15:05:17826.パdiBxWまず、仏教(インド仏教)では「四句分別」で法理を説きます。四句分別とは、仏教の論理構造で、「A、非A、Aかつ非A、Aでもなく非Aでもない」という形式です。たとえば「僧、非僧(=俗)、Aかつ非A(=僧かつ俗)、Aでもなく非Aでもない(=非僧非俗)」のように表現できます。2024/09/20 15:56:08827.パAu3eP『中論』:15.4324-8 a.二つの真理(二諦)に依って諸仏の説法は行なわれる。世間一般の理解としての真理(世俗諦)と最高の真実としての真理(勝義諦)である。 b.二つの真理(二諦)に依存して、もろもろのブッダは法(教え)を説いた。(その二つの真理とは)世俗の覆われた立場での真理と究極の立場から見た真理とである。 c.諸仏は二諦(という二種の異なるレベルの真実)に依って教え(法)を説くのである。すなわち、世間の常識としての真実(世間世俗諦)と究極的な意味での真実(勝義諦)とである。24-9 a.これら二種の真理の区別を知らない人々はブッダの教えにある甚深の実義を知らない。 b.この二つの真理の区別を知らない人々は、ブッダの教えにおける深遠な真理を理解しないのである。 c.その二諦の区別を知らない人々は、(諸)仏の深遠なる教えの真実を知らない。24-10 a.言語習慣によらないでは最高の真実は説きえない。最高の真実に従わないでは涅槃は悟りえない。 b.世俗の表現に依存しないでは、究極の真理を説くことはできない。究極の真理に到達しないならば、ニルヴァーナを体得することはできない。 c.言語活動(言説)に依らずして、究極的なもの(勝義)は説示されない。究極的なものを理解せずして、涅槃は証得されない。2024/09/21 12:48:31828.パqMiw2思いというは 自我が縁起 ↓色→受→想→行→【識】←自動的思い(妄想念)●この識に集中して自我が立ち現れる●この識には色受からの実体が認識される●識に現れる思いと思いのあいだを裁断するその間に無分別の識の状態を現じるこの相続を離れた無相の識に、正念が現れる≫その間に無分別の識の状態を現じる≫この相続を離れた無相の識に、正念が現れるただし、この正念は、この無分別禅定を度重ねることで、徐々に結晶化して、意識に占める範囲を大きくして行くこの無分別の禅定は、三昧ではあるが、それは未だ自我の心の構造を破したわけではないので、禅定三昧に入った時にしか現成せず、入禅定と出禅定を行わなければ得られないものです何故?そうなのかそれは、未だ六識における自我の断滅を因として起こる果であるからであるこの六識において作用する自我が完全にして永続的に断滅されない限り、七識が覚醒し現起されることは起こらないなお真如は、八識の覚醒に於いて現成されるもので、八識と前五識の間の、現量下において知られることでしょう2024/09/22 01:06:09829.パeodfZ唯識三十頌【十八頌】阿頼耶識の別名を一切種子識ともいう【現行識と種子識とが交互に因果関係となる】https://ameblo.jp/yk19610402/entry-12848421593.html2024/09/22 14:51:12830.パeodfZ●この三種の心の性質について唯識説は次のように主張する。1.遍計所執性は八識の作り出す意識的存在である。それは実は無であって虚妄であるが分別によってあたかも実在するように認識され執着されている心のあり方である。2.依他起性は様々な因縁によって生じる心の相対的な性質を表している。因縁所生の法は空であるというナーガルジュナの論理によってこれも否定され空であり、無であるとされる。3.円成実性も遍計所執性、依他起性に依存して存在すると考えられるため虚妄(無)だと考える。これを三性三無性と称する。このように八識によって構想された対象(これを境という)は全て虚妄として最終的には否定され消失する。これを<境識倶泯(きょうしきぐみん)>という(泯は滅ぶという意味)。この状態では構想された対象(境)が消え、構想した識も消失するのである。円成実性は,円満,完成,真実の性質のものという意味で,絶対の境地を表わしている。唯識説では識は刹那生滅している空なるものであるから実体はない(無自性)と考える。その究極の空性において、円成実性と呼ばれる清らかな悟りの心が実現されると考える。円成実性は無常の現実世界に現れながらも、それ自身は常住・不変・無為の存在である。また、主客の対立を超えている。●それは、実相、真如、法界とも呼ばれるものである。この三性三無性の思想は禅定修行による心境の深まりを3段階に分けて考えたものと考えられる。唯識論で説く三性三無性は、心の空性を別の切り口から捉えた考え方である。この考え方は中国で生まれた禅にも深い影響を与えている。遍計所執性は虚妄の存在、依他起性は相対的存在を表わし、それぞれ無自性であるが、この両者の無自性を正しく認識するとき、存在の絶対的様相、すなわち円成実性が現れる。それは無常で変遷する現実世界のなかに現れながらも主客の対立を超えている。それはまた実相,真如,法界と呼ばれるもので,まったく清らかな悟りの世界である。普通我々(俗人)の世界では無分別とは考えが足りないという悪い意味で用いられる。しかし、禅では無分別智は悟りの智恵とされる。2024/09/22 15:21:36831.パeodfZ第10章 大乗仏教: その310.40 初期大乗仏教から中期大乗仏教へ「空の思想」から唯識思想へhttps://www.sets.ne.jp/~zenhomepage/daizyou3.html2024/09/22 15:22:34832.パeodfZ●唯識論で説く三性三無性は、心の空性を別の切り口から捉えた考え方である。この考え方は中国で生まれた禅にも深い影響を与えている。遍計所執性は虚妄の存在、依他起性は相対的存在を表わし、それぞれ無自性であるが、この両者の無自性を正しく認識するとき、存在の絶対的様相、すなわち円成実性が現れる。それは無常で変遷する現実世界のなかに現れながらも主客の対立を超えている。それはまた実相,真如,法界と呼ばれるもので,まったく清らかな悟りの世界である。普通我々(俗人)の世界では無分別とは考えが足りないという悪い意味で用いられる。しかし、禅では無分別智は悟りの智恵とされる。唯識論では「無分別智」は次のように説明される。「境は客体、識は主体である。既に述べた境識倶泯の状態では主体も客体も消え、主と客は無二一体(心境一如)となる」。ここで現れる知を無分別智と名づける。これが無分別智の定義といってもよいだろう。唯識論において無分別智は最も崇高な智と考えられ、真如(タタター、ありのまま)とも呼ばれる。このように唯識論は禅の悟りの理論と深い関係を持っていることが分かる。この考え方と似た考え方に無学という考え方がある。無学とはこれ以上学ぶものが無いという意味である。禅に於いては無とは究極の心的状態(悟りの状態)だと考える思想がある。この唯識思想の中で特に問題となる点は「唯識無境」という考えであろう。これは識(脳)だけ在って外界(境)は存在しないという唯識思想の考えである。現代の唯脳論に近い。しかし、唯脳論といえども外界の存在を否定してはいない。しかし、唯識思想では唯識無境と考える。現代ではこのような「唯識無境」の主張は単なる観念論であり誤りであることは明白である。頭でっかちの古代の観念論的思想であるとしか言いようが無いだろう。https://www.sets.ne.jp/~zenhomepage/daizyou3.html2024/09/22 15:28:13833.パCFJcwこちらにその「即心是仏」について詳しく紹介されております。即心是仏(1)https://www.dogen-shobogenzo.com/sokusinzebutu1.html即心是仏(2)https://www.dogen-shobogenzo.com/sokusinzebutu2.html霊知はイズビー⁉️2024/09/22 18:13:02834.パn6WTC『大乗起信論』にこう書かれております。眞如三昧者。不住見相不住得相。乃至出定亦無懈慢。所有煩惱漸漸微薄。若諸凡夫不習此三昧法。得入如來種性。無有是處。以修世間諸禪三昧多起味著。依於我見繋屬三界。與外道共。若離善知識所護。則起外道見故眞如三昧なる者は、見相に住せず得相に住せず、乃至定を出でても亦た懈慢無く、所有る煩悩は漸漸に微薄なり。若し諸の凡夫、此の三昧の法を習わざれば、如來の種性に入るを得ること是の処有ること無し。世間の諸禪三昧を修して多く味著を起こし、我見に依りて三界に繋屬するを以て、外道と共なり。若し善知識の護る所を離れるば、則ち外道の見を起こすが故に。2024/09/23 08:39:59835.パIkmKG921 法介◆T3azX0Hk1U 2024/09/24(火) 17:44:05.35 ID:0HpBm TID:bison>>919 妙=仏眼:第九識は法界体性智 ---(ニルヴァーナ) 法=法眼:第八識は大円鏡智 ---(第四禅) 蓮=慧眼:第七識は平等性智 ---(第三禅) 華=天眼:第六識は妙観察智 ---(第二禅) 経=肉眼:前の五識は成所作智 ---(初禅)ーーー≫法=法眼:第八識は大円鏡智 ---(第四禅)第四禅定は、いわゆる五八識の現量の状態でしょうか呼吸が止まり、身心脱落して、肉体感覚からほぼ離れて、六識の能動的思考が止んで、自動的な妄想念も完全に生起しておらない処閉眼の場合は、死ぬ直前のような、聴覚だけが機能されている状態で、無辺の球体の水晶球に、聴覚だけが映っているような状態になっていますここが、大円鏡地か?!と言うと、私はよくまだ分からないですが大円鏡地が、八識の転識された識であると言うのであれば、そうかな?とも思われますただ、人の思考、思いは物質であり、送受信可能であるという前提で言えば、前五識の5つの印象情報に加えて、六識に裏打ちされた思考、想いは、五識と同じように印象として、自己以外へ文字と言葉(音声)によらない伝達方法としてのテレパシーとして同じようにとらえて良いように思います、なので、大円鏡地での五八現量で感受されるのは、前五識+六識(思い)だと言って良いでしょうねつまり六八現量となるということです2024/09/24 19:18:09836.パoI3db682 神も仏も名無しさん sage 2024/09/24(火) 19:57:55.29 ID:1udlk8Sb>>677「天上天下唯我独尊」 お釈迦様は誕生して7歩あるかれてそういいましたこれは釈迦伝説と言って実際にあったことではありませんこの7は人間の進化を意味しています(創世記では7日で地上を造られた神様と同じで)仏教でも7段階で人間が進化します1 感覚(人間として生まれ感覚器官が発達する)2 欲望(感覚器官により好きなことはしたい 嫌いなことはしたくないという欲望が生まれる)3 感情(好きなことには喜び いやなことには悲しんだり怒る)4 精神(理性・真我の目覚め) ←※今ここ5 自我の確立(この自我はエゴではなく自分を見るもうひとりの自分)67 進化の完成こういう意味です1-3は動物ですね それに精神が加わるのが4番目ですこれから私たちは自我を確立して自分を見るもうひとりの自分を作っていきますそうすれば怒りの心は起きないかもしれません2024/09/24 20:36:02837.パIkmKG現行識 顕在的に働く識。阿頼耶識から生じた眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識・末那識の七種、すなわち七つの転識をいう。種子識の対になる語。種子識は現行を変為し、現行識は種子を変為す。また、種子は阿頼耶識を飛び出して、末那識・意識に作用することがある。さらに、前五識(視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚)に作用すると、外界の現象から縁を受けることもある。この種子は【前五識から意識・末那識を通過して、阿頼耶識に飛び込んで、阿頼耶識に種子として薫習される】。これが思考であり、外界認識であるとされる(種子生現行(しゅうじしょうげんぎょう))。このサイクルを阿頼耶識縁起(あらやしきえんぎ)と言う。2024/09/24 22:31:39838.パMcdcH66 法介◆T3azX0Hk1U 2024/09/25(水) 15:38:15.18 ID:i3h0i TID:bison【種子生現行】--- ① 阿頼耶識の種子(因)ーー→末那識(縁)--→現行(果)【現行菫種子】--- ② 現行(因)ーー→末那識(縁)--→阿頼耶識の種子(果)【種子生種子】①→②2024/09/25 23:04:18839.パeCwYV671 パ 2024/09/26(木) 15:04:43.74 ID:eCwYV>>650≫唯識における離繁果(善無為)で末那識の機能を遠離それにおける末那識の浄化この辺が法介さんの言われることとの若干の解離かなと?法介さんは、阿頼耶識に仏の種子や無為の種子が無ければ、仏即ち七識の平等性や八識の大円鏡智へ転識されないと言う何故なら?仮に七識を遠く離れても、機能としての、阿頼耶識だけを亘に審に見て、都合良く取って執着して収蔵すし、自己であると誤って思い続ける機能が、そう易々と無くなるものではないと思うから少なくとも、阿頼耶識の内容を執着して取って収蔵する機能は、平等性智や大円鏡智に至ってしまうまでは、絶対的に停止されないと思うからであってその意味で言うと、法介さんの言われる、阿頼耶識内部に薫習された仏の種子、無為の種子があるべきであって、それでこそ、七識の取り収蔵する機能それを使って、仏と無為を選び出して収蔵しつづけて、種子生種子の縁起によって、熟されて行くのだと思います2024/09/26 15:05:20840.パeCwYV以前、取り上げたこちらの「金 論文」、『心・意・識説に関する研究』― 阿頼耶識と末那識との関係を中心― 金 範松https://tais.repo.nii.ac.jp/?action=repository_uri&item_id=277&file_id=22&file_no=12024/09/26 15:07:09841.パeCwYV『大乗起信論』に次のようにあります。●眞如三昧者。不住見相不住得相。乃至出定亦無懈慢。所有煩惱漸漸微薄。若諸凡夫不習此三昧法。得入如來種性。無有是處。以修世間諸禪三昧多起味著。依於我見繋屬三界。與外道共。若離善知識所護。則起外道見故●眞如三昧なる者は、見相に住せず得相に住せず、乃至定を出でても亦た懈慢無く、所有る煩悩は漸漸に微薄なり。若し諸の凡夫、此の三昧の法を習わざれば、如來の種性に入るを得ること是の処有ること無し。世間の諸禪三昧を修して多く味著を起こし、我見に依りて三界に繋屬するを以て、外道と共なり。若し善知識の護る所を離れるば、則ち外道の見を起こすが故に。2024/09/26 15:25:08842.パwHgjF離繋果(りけか)visamyoga-phala(S) 5つの果(異熟果・等流果・離繋果・士用果・増上果)五果の一つ。 道を修して得た【汚れがない智慧(無漏智)】によって【煩悩を減したところ】に顕れる果倶舎はそれを【択滅無為】唯識は【善無為】と考える。 離繋果者、謂、此道力、断惑所証、択滅無為。〔『倶舎』17、T29-91a〕 八支聖道、滅諸煩悩、名離繋果。〔『瑜伽』38、T30-502b〕 果有五種。(中略)三者離繋。謂、無漏道、断障所証、善無為法。〔『成論』8,T31-42a~b〕2024/09/26 18:51:56843.パrzbOchttps://blog.goo.ne.jp/yk19610402/e/4e34c8798ade7eeb7befb95175eaae3e●「択滅(じゃくめつ)無為(むい)」について、説明をさせて頂きます。唯識学では、涅槃(無為)を六つの観点から明らかにします。●これを「六無為(ろくむい)」といいます。その中の一つが、「択滅(じゃくめつ)無為(むい)」です。●仏教とは、「真如を見ること」が目的ですが、では、どのようにすれば、真如を見ることが出来るのでしょうか?それは、心の中にある、様々な汚れ、即ち煩悩を無漏の智慧の働きである【簡択】(けんじゃく・えらび捨て、えらび取る働き)の力」によって滅し、【煩悩の束縛を完全に離れた時】に、真如を見ることが出来ます。このように、【真如】は、【簡択の力によって煩悩が滅する】ことを通して、得られるから、●その意味で、≪真如を【択滅無為】と言います≫ですから、「択滅」とは、詳しく言いますと、【択力】によって得られた【滅】(択力所得の滅)と言われます。真理を覆っている汚れである、漏を有する存在が、私達の自己存在です。ですから、私達を「有漏(うろ)」と言います。2024/09/26 20:31:12844.パ6oqCe『大乗起信論』顕示正義 より一切の心識の相は皆是れ無明にして、無明の相は覚性を離れざるを以て、壊すべきに非ず、壊すべからざるに非ず、(なお)大海の水の風に困りて波動するとき、水相と風相とは相捨離せざるも、而も水は動性に非ざれば、若し風にして止滅するときは、動相は則ち滅して、湿性は壊せざるが如く、是の如く、衆生の自性清浄心も無明の風に困りて動ずるとき、心と無明とは倶に形相無くして、相捨離せざるも、而も心は動性に非ざれば、若し無明にして滅するときは、相続は則ち滅して、智性は壊せざるが故なり。一切の心の認識作用(心識)の相は((心生滅をおこす因由にほかならないので、したがってこれは]根元的な無知(無明)に根ざしている。ところでこの(根元的無知)の相は〔<本来のあり方としてのさとり>についての無知にほかならないから](さとりの本質)(覚性)と別の体あるものではない。したがって、これを壊滅できるとも、できないとも言えない。それはたとえば、大海の水が風によって波立つようなものである。この場合、水の相と風の相とは不可分な関係にあるが、さりとて水は(風のように)動くのが本性なのではない。そこで、風が止めば(水の)動きもなくなるが、そうなっても、水の本性たる湿性はかわらない。それと同様に、衆生の(自性清浄心)は<無明>の風が吹くと動き出す。しかし、心も無明もともに(固有の)形相があるわけではなく、ただ相互に不可分の関係にあって機能しているのである。しかも、心は動くのが本性ではないので、無明の動きがとまれば、心の動き、すなわち刹那ごとの生滅のくりかえしによる連続(心相続)は消滅する。さりとて、その本性としての智「すなわちさとり」のはたらきは破壊されない。(『大乗起信論』宇井伯寿・高崎直道訳・注)2024/09/27 18:47:56845.パ6oqCe『大乗起信論』宇井伯寿・高崎直道訳●一切の心の認識作用の相は、根元的な無知(無明)に根ざしている。ところでこの(根元的無知)の相は、(さとりの本質)(覚性)と別の体あるものではない。したがって、これを壊滅できるとも、できないとも言えない。それはたとえば、大海の水が風によって波立つようなものである。この場合、水の相と風の相とは不可分な関係にあるが、さりとて水は(風のように)動くのが本性なのではない。そこで、風が止めば(水の)動きもなくなるが、そうなっても、水の本性たる湿性はかわらない。それと同様に、衆生の≪自性清浄心≫は≪無明≫の風が吹くと動き出す(心が)。しかし、心も無明も、ともに≪固有≫の≪形相≫があるわけではなくただ【相互に不可分】の関係にあって機能しているのである。しかも、心は動くのが本性ではないので、無明の動きがとまれば、心の動き、すなわち≪ 刹那ごとの、生滅のくりかえしによる連続(心相続)は、消滅する ≫さりとて、その本性としての智【即ち≪さとり≫】の≪はたらき≫は破壊されない。ーーーーー本性としての智(知覚?)とは【さとり(覚)】の【はたらき】であるとなろうか2024/09/27 18:48:07846.パpxw6Kチベットの般若心経作者: ゲシェー・ソナム・ギャルツェン ゴンタhttp://mitsubachi-bros.seesaa.net/article/155004381.html「空性 直接了解」で検索したら、また良い解説が出てきた↓● 聖者の修行者が空性を現量によって体験しているとき、その三昧を「無漏(むろ)の等引(とういん)」といい、空性を直接了解(りょうげ)している智慧を【等引智】という。● 無漏の等引の状態では――あたかも、雲の上の飛行機からは地上の世界が見えないように――世俗の顕現は全く消えてしまう。例えば、眼前に瓶があっても、瓶の空性だけが瑜伽現量の認識対象となり、瓶の色彩や形状は何も見えてこない。● それゆえ、等引智によって了解される勝義における空性は「虚空の如き空性」と表現される。けれども修行者は、集中力が衰える前に、等引から起きて日常の世界へ戻らなければならない。● そのとき――あたかも、地上へ降りたら雲の上の世界が見えないのと同様――瓶の空性は直接認識の対象から消えてしまい、入れ替わりに瓶の色彩や形状が再び見えてくる。● しかし、無限なる虚空の広がりにも比すべき勝義の空性を、直感的に了解した強烈な体験の印象は、三昧から起きた後も消えることがない。その効果は絶大で、瓶の色彩や形状といった世俗の世界が、ニ顕現を伴って再び現われても、「それらは幻の如きもので、決して諦成就なのではない」という点を――単なる論理としてではなく――強い実感を伴って了解できる。● そのような智慧を「【後得智】(ごとくち)」といい、それによって了解される世俗における空性は「幻の如き空性」と表現される。2024/09/28 03:56:06847.パpxw6K聖者の菩薩は、等引智と後得智の状態を何度も何度も交互に繰り返し、それによって煩悩障と所知障をすべて断滅した暁に、一切智たる仏陀の境地へ到達するのだ。ここへ至って初めて、等引智と後得智の区別は解消され、瓶の空性と色彩・形状を同時に了解できるという。それはあたかも、上空を覆っていた雲が完全に晴れ、無限の虚空と地上の世界を同時に見渡せるようになった状態……とでも形容できるだろうか。もはや、自分の居場所がどこなのかは全く問題にならず、いずこにあろうとすべての存在を完全に見通せるのだ。2024/09/28 03:56:45848.パpxw6K諦成就...勝義において証成法(しょうじょうほう)として存在するなら自性であるべきで、自性なら真実(諦)として成立しているべきだ。「諦として成立している」という意味は他には依存せず自らの力でそのとおり成立していることで、これを「諦成就」という。●証成法(しょうじょうほう)=対象を否定的に分析しなくても理解しうる存在。それ自体の概念をつかむのに、否定すべきものの概念をつかむ必要のないもの ex)柱、瓶<=>●遮詮法(しゃせんほう)=否定対象を分析してはじめて理解しうる存在。それ自体の概念をつかむのに、否定すべきものの概念を把握しなければならないもの ex)無我、空2024/09/28 04:02:37849.パd5iqu①慢とは、無意識下にある我という観念により、相手に対抗してしまうこと。②過慢とは、自分と対等または優れたものに対し、潜在的に自分のほうが良い、自分も同等にできると思うこと。③慢過慢とは、自分より優れたものに対して、自分のほうが良い、と段々高慢が高じてくること。④我慢とは、自分にこだわり、自分のほうが相手より優れていると思い上がる気持ちのこと。⑤増上慢とは、自分ではわかっていない境地を、証得したかのようにふるまうこと。⑥卑慢とは、自分よりはるかに優れた人に対し、「たいしたことは無い」と思う慢心。⑦邪慢とは、自分にまったく徳が無いのに徳があると思い込むこと。2024/09/28 05:49:58850.パd5iqu【質問】依他起性について、教えて下さい。【回答】依他起性(えたきしょう)とは、唯識学の専門用語ですが、原始仏教で言う、因縁生起(縁起)の意味です。意味は文字通り、「他に依りて起きるもの」で、様々の条件の結びつきによって、そこにある、ということです。一言でいえば、私達の現実の相です。因縁和合して、出来上がった現象です。存在という点からいえば、多くの力によって支えられている、という存在の実態です。言葉を変えれば、無我、無常の真相でもあります。色々な力によって支えられていながら、八識として生きているのが、私達であります。八識とは、その根底に阿頼耶識に無限の過去の種子が薫習、集積された存在です。阿頼耶識には、無限と言ってもよい位の善悪の様々な種子を薫習しており、それによって存在している、という点で、八識は依他起性です。私達とは、自分が蓄えてきた総合的な自己、しかも、その時の条件によって、様々に千変万化する自己、それが依他起性としての自己です。しかも、これは阿頼耶識に限ったことではなく、阿頼耶識を一つの場として、末那識や意識、前五識が働いています。それらが、相互に関わり合って、働いているのが私です。それだけではなく、八つの心王(しんおう)に、それぞれ、心所(しんじょ)と呼ばれる、51の細かい心の働きが、付随しています。私が生きているということは、複雑な心の関わり合いの中にある、ということです。2024/09/28 05:55:00851.パd5iquhttps://true-buddhism.com/teachings/enlightenment/では悟りを開くとどうなるのかということについては、それぞれの段階についてお経に詳しく教えられています。例えば不退転位の41段、初地の位は、初めて真の中道を観察できるようになり、仏性の理を見て、如来の智慧海に入り、衆生を幸せへ導き、大きな慶喜を得る位です。『大品般若経』には、以下のような10の特徴があると教えられています。1.心が変わりにくくなる2.すべての生きとし生けるものに平等に接する3.布施をする4.正しい仏教の先生に親しみ近づく5.仏法を求める6.出家する7.仏身を愛楽する8.仏法を説く9.自惚れを破る10.真実の言葉を語る初地に至れば不退転位ですので、やがて必ず仏のさとりを開くことができます。それで、41段の悟りを開くと、心に常に歓喜に満ちるようになります。それがどのような喜びか、41段の悟りを開かれた龍樹菩薩りゅうじゅぼさつは、このように教えられています。『この菩薩の所有の余の苦は二三の水渧のごとし。百千億劫に阿耨多羅三藐三菩提をうといえども、無始生死の苦においては二三の水渧のごとし。滅すべきところの苦は大海のみずのごとし。このゆえにこの地をなづけて歓喜とす。』(漢文:是菩薩所有余苦 如二三水渧 雖百千億劫 得阿耨多羅三藐三菩提 於無始生死苦如二三水渧 所可滅苦如大海水 是故此地名為歓喜)(引用:『十住毘婆沙論じゅうじゅうびばしゃろん』)これはどういうことかというと、初地の位に入って消滅した苦しみを大海の水とすれば、まだ消滅していない残りの苦しみは、非常に細い毛で大海の水をすくった2、3滴ほどの苦しみだ、ということです。これまで果てしない遠い過去から迷いに迷いを重ねた大海の水のような苦しみに比べれば、たとえこれからまだ百千億劫の大変な長期間の修行が必要でも、その苦しみはほんの2、3滴のようなものです。それで初地の菩薩は心に【大歓喜】を生ずるのです。2024/09/28 05:58:48852.パd5iquhttps://true-buddhism.com/teachings/enlightenment/では悟りを開くとどうなるのかということについては、それぞれの段階についてお経に詳しく教えられています。例えば不退転位の41段、初地の位は、初めて真の中道を観察できるようになり、仏性の理を見て、如来の智慧海に入り、衆生を幸せへ導き、大きな慶喜を得る位です。『大品般若経』には、以下のような10の特徴があると教えられています。1.心が変わりにくくなる2.すべての生きとし生けるものに平等に接する3.布施をする4.正しい仏教の先生に親しみ近づく5.仏法を求める6.出家する7.仏身を愛楽する8.仏法を説く9.自惚れを破る10.真実の言葉を語る初地に至れば不退転位ですので、やがて必ず仏のさとりを開くことができます。それで、41段の悟りを開くと、心に常に歓喜に満ちるようになります。それがどのような喜びか、41段の悟りを開かれた龍樹菩薩りゅうじゅぼさつは、このように教えられています。『この菩薩の所有の余の苦は二三の水渧のごとし。百千億劫に阿耨多羅三藐三菩提をうといえども、無始生死の苦においては二三の水渧のごとし。滅すべきところの苦は大海のみずのごとし。このゆえにこの地をなづけて歓喜とす。』(漢文:是菩薩所有余苦 如二三水渧 雖百千億劫 得阿耨多羅三藐三菩提 於無始生死苦如二三水渧 所可滅苦如大海水 是故此地名為歓喜)(引用:『十住毘婆沙論じゅうじゅうびばしゃろん』)これはどういうことかというと、初地の位に入って消滅した苦しみを大海の水とすれば、まだ消滅していない残りの苦しみは、非常に細い毛で大海の水をすくった2、3滴ほどの苦しみだ、ということです。これまで果てしない遠い過去から迷いに迷いを重ねた大海の水のような苦しみに比べれば、たとえこれからまだ百千億劫の大変な長期間の修行が必要でも、その苦しみはほんの2、3滴のようなものです。それで初地の菩薩は心に【大歓喜】を生ずるのです。2024/09/28 05:59:18853.パ4JCDS日本佛教学院https://true-buddhism.com/practice/reflection/●無色界定色というのは物質的なもののことなので、【物質的な束縛】から【完全に解放】された世界を≪無色界≫といいます。つまり無色界は肉体のない世界です。≪無色界定≫では、心が肉体の束縛を離れて自在に働きます。天親菩薩の『倶舎論くしゃろん』には、5空無辺処定、6識無辺処定、7無所有処定、8非想非非想処定 の4つが説かれています。⑤空無辺処くうむへんしょ定とは、虚空の無辺なることを観察して、第四禅を離れて生ずる状態です。⑥識無辺処しきむへんしょ定とは、無辺の識を思って、空無辺処を離れて生ずる状態です。心の働きが虚空と同じようにほとりがないと観察します。⑦無所有処むしょうしょ定とは、無所有を思って、識無辺処を離れて生ずる状態です。何ものも対象を見ない観察です。⑧非想非ひそうひ非想処ひそうしょ定とは、そのように見る想念があるのでもなく、ないのでもないと観察します。●『倶舎論』によれば、【非想非非想処】という名前は、【想の昧劣なるによるなり】【謂く明勝の想なければ、非想の名】を得【昧劣の想あるが故に非非想】と名付くと解説されています。これは、表象された明らかな心の動きは無いので、非想と名づけられ、極めてわずかな心の動きが無いわけではないために、非非想となづけられる、ということです。【無所有処を離れ】て、【極めてわずかな想】がある状態です。2024/09/28 08:43:19854.パ4JCDS『唯識のこころ 「観心覚夢鈔をよむ」』 竹村牧男 P252● こうした四智は、仏果に至ってはじめて得られるのではなく、十地の【初地位】で≪無分別智≫を起こして【見道】に入るのですが、そこにおいて【第六意識】が【妙観察智】となり、それに引かれて【第七末那識】が【平等証智】になる。● それらには先に一言したように、ともに≪根本無分別智≫と≪後得智≫があります。すなわち、まず≪真如を証し≫その上で広く【世界を分析していく】のが【妙観察智】で、また【平等証智】は【自他の平等性】をさとり、その上で【諸法を平等に縁ずる】わけであります。● このように【第六意識】と【第七末那識】とは≪見道≫において、それぞれ【妙観察智】【平等証智】を開くのですが、その後の≪修道≫で更に【二阿僧祇劫】の間【十地の修行を積んで】【仏果に至って】はじめて、【前五識】が、ようやく【成所作智】となり、【阿頼耶識】が【大円鏡智】になります。ーーーーー『唯識とは何か「法相二巻抄」を読む』 横山紘一 P384●この段階を【見道】という。≪真如≫に達するからまた【通達位】ともいわれる。具体的には、四智のうち【妙観察智】と【平等証智】との二つの智が生ずる。ーーー『唯識とは何か「法相二巻抄」を読む』 横山紘一 P405)● 前述したように【四智】のうちで【大円鏡智】と【成所作智】とは、この≪仏位において≫初めて生ずる。ーーーーー2024/09/28 09:05:35855.パ4JCDS『「唯識三十頌」を読む』 廣澤隆之 P285)● なお、この【転識 - 得智】は【仏位】になってから、一気に【識】が【智慧】に【転換】するのではない。【初地】の【空性体験】に依って【平等証智】と【妙観察智(後得智)】が【獲得】され、【十地において】繰り返し【無分別智】を【体験した結果】【仏位】になると【大円鏡智】と【成所作智】が【獲得される】。ーーー『「唯識三十頌」を読む』 廣澤隆之 P285~286)● 伝統教学では、このような智慧の獲得の階位について、【妙観 - 平等】【初地 - 文得】【大円 - 成事】【唯仏 - 果起】【妙観察智と平等証智】は【初地】で文得され、【大円鏡智と成所作智】は【唯仏果】でおこる、という詩文で暗記することになっている。ーーー2024/09/28 09:05:53856.パ4JCDS平等性とは、この人は取りあげ、あの人は下げる、という心が無くなった状態をいいますね、こうなって、初めて心が鏡のようになり、能・取、見・相、を遠離して、真如が体現されることになります、そうすると、五識が統合された唯一の識が受用されます、いながらにして、ヒマラヤの聖者を見て聞いて会話をしたり、人の過去世を見てきたり、人の心が見えて聞こえたり、します、ですから、前五識がどうのではなくて、成所作智とは、超越的に五識と同じ所作を為す智なのです。2024/09/28 09:09:27857.パLMHs510 神も仏も名無しさん 2023/09/11(月) 13:48:55.66 ID:4z4Qeニヤーカにおける修行道の相互関係https://repository.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/record/37059/files/ib005001.pdf中部経典 【調御地経】釈尊が【身・受・心・法】各々について、≪尋を【尋求】すること勿れ≫として、≪【無尋・無伺】≫から、【第二禅定】、第三禅定、第四禅定を具足して住する。と言われたとされる。● 尋・伺は心の外部へ向けてのものとした論文を、法介さんはあげていましたが、釈尊の言葉では上記なので、やはり、第六識、第七意識がすべての対象へ向かうことに対して、【尋・伺】は向けられていて、四禅定では、心を含め全てで尋求するな!と言うことが正解であるようです。釈尊の言う≪尋を【尋求】すること勿れ≫これは、初禅であると言えます。従って第三禅定はもちろん、初禅、第二禅も、欲界では無くて、≪色界である≫が正しいと言えるでしょう。https://i.imgur.com/rV10mKX.jpg2024/09/28 16:00:29858.パz3o8t心相続https://note.com/hiruandondesu/n/nd4bc7f7a2e9f2024/09/28 22:56:10859.パCaepZ『相応部』「六処篇」の第二「受相応」、● 第二「独処品」に次のようにある。①初禅に入定した者には、言葉が滅びます。②第二禅に入定した者には、尋と伺が滅びます。③第三禅に入定した者には、喜悦が滅びます。④第四禅に入定した者には、出入息が滅びます。⑤空無辺処に入定した者には、色想が滅びます。⑥識無辺処に入定した者には、空無辺処想が滅びます。⑦無所有処に入定した者には、識無辺処想が滅びます。⑧非想非非想処に入定した者には、無所有処想が滅びます。⑨想受滅に入定した者には、〈想〉と〈受〉が滅びます。漏尽の比丘には、貪欲が滅び、瞋恚が滅び、愚痴が滅びます。ーーーーーーーー ーーーーーーーー● また比丘よ、私は順次の諸行の寂止を告げました。①初禅に入定した者には、言葉が静まります。②第二禅に入定した者には、尋と伺が静まります……⑨想受滅に入定した者には、〈想〉と〈受〉が静まります。漏尽の比丘には、貪欲が静まり、瞋恚が静まり、愚痴が静まります。ーーーーーーー ーーーーーー● 比丘たちよ、これら六の止息があります。①初禅に入定した者には、言葉が止息します。②第二禅に入定した者には、尋と伺が止息します。③第三禅に入定した者には、喜悦が止息します。④第四禅に入定した者には、出入息が止息します。⑨想受滅に入定した者には、〈想〉と〈受〉が止息します。漏尽の比丘には、貪欲が止息し、瞋恚が止息し、愚痴が止息します2024/09/29 13:24:48860.パCaepZナーガリュージュナhttps://i.imgur.com/kYQ3XyD.jpg『智慧』って言葉は、智と慧で別れていて『智』とは分別によって知られ得る『慧』とは無分別三昧によって知られ得るこの2つ合わさって、【智-慧】って云うようですね2024/09/29 14:36:17861.パCaepZ『倶舎論』は空を因果で説いた ---(析空)【世界悉檀】凡夫の真理=仮諦『中論』は空を縁起で説いた ---(体空)【為人悉檀】仏の真理=空諦『唯識論』は空を三観(空・仮・中)で説いた ---(法空)【対治悉檀】三界の真理=中諦『法華経』は空を真如で説いた ---(非空)【第一義悉檀】真如の真理=三身即一2024/09/29 14:50:16862.栖雲居士◆dqam8SqGUPdmjXXQmまだ誹謗中傷スレにレスをしてるんだ。ふーん😷2024/10/01 11:24:48863.パvcMR9すなわち、『瑜伽師地論』が障礙の有・無によって種姓差別を立てるのは、無漏種子の有・無を顕そうとしている。●すなわち全く【無漏種子がなく】、≪二障(煩悩障・所知障)≫の種子を【永久に断ずることができない者】は、非涅槃法(無性有情)である。●ただ【二乗の無漏種子のみがあり】、【所知障の種子】を永久に【断ずることができない者】は、一分が声聞種姓であり、一分が独覚種姓である。●また【仏の無漏種子があり】、【二障の種子】をともに【永久に断ずることができる者】は、如来種姓(菩薩種姓)である。だから無漏種子の有・無によって、障礙に可断・不可断があるのである、という。これに唯識学派の解釈を加えて図示すれば、次のようになるだろう。https://i.imgur.com/NVm4EzV.jpeg2024/10/01 15:38:14864.パvcMR91)「能蔵」:種子を執持する。能く一切の種子を納め維持するはたらきがある。2)「所蔵」:七識によって熏ぜられる。前七識によって種子が熏習される心的領域。3)「執蔵」:末那識によって自我と執着される。阿頼耶識が末那識によって自我であると執着される。『成唯識論』国訳一切経p33,『唯識根本教理』2024/10/01 16:38:41865.パHf7f9これ相応部の 『空 』にお い てブッ ダが 「アーナン ダよ 、【我】について,【我に属するもの 】につ いて【空なのです】それゆえに、【世界は空である】と言われるので す 」 と述べ て い るのは、こうした【空と無我】との深い 結びつ きを示したものである.『大いな る智慧による問答経』における空心解脱 も同様で あ り,その 注釈書で は【空性】とは≪ヴ ィ パッ サ ナーで ある≫こ とが 述べ られている。2024/10/01 21:11:17866.パuP2vH大谷大学https://www.otani.ac.jp/yomu_page/kotoba/nab3mq0000000ki7.html『 忽然として【念の起こる】を名づけて【無明】と為す !』『大乗起信論』上に掲げた言葉は、【迷いの心の根源】としての、【 無 明 】を表現したものです。【忽然】とは「たちまち」「にわかに」「いきなり」という意味です。 たちまち、【迷いの心=妄念】が起こることを、【無明】というのです。https://i.imgur.com/hb0ERXS.jpg2024/10/02 18:11:03867.パ1uruO意志が強く無いと、この世では成功出来ないでしょ夢は持ち続けることで現実になるって一般的にふつう凡人は、あんまり意志gs強くなく弱いと、大学受かったらとか、入社したらとか、何かえお成し遂げたとか、のタイミングで燃え尽き症候群になる人がいますがこれは【意志】=【識】なのですがこの識の現れに於ける、結晶化が弱く、識自体の強度が弱い人に見られる現象ですねこの自己の【識】は、修行によって結晶化が進み、成長して行きますそれが、ある程度の、強い意志を発揮可能な強度に達すると、ようやく、悟りの準備が調うわけですそれ以前に、もしも六七識が不用意に落ちたりしますと、ただの魂の脱け殻のようになって、いわゆる腰の抜けたようになって、立ち上がることも出来ないようになります昔々の20才ころの修行始めたばかりのころに、そうなった経験があります電車の中で横たわって脱け殻状態になってて、1時間近く戻って来れませんでした2024/10/03 14:43:04868.パ1uruOところが、修行が進んで行くと、識が結晶化していき、突然自我が消えても、そのまま悟り現象になるわけですこの違いここに悟り現象が何十年も坐禅しても起きないという、根本原因が有るわけです故に日に1時間とかのでは、この識の結晶化が起こらないってことですよく言われるのが、【井戸を掘るそばから埋めている!】って表現されるね禅定瞑想での1時間の壁があって、識が弱いうちは禅定1時間で戻されるきれは授業は45分の根拠でもあります線香1本40分とか聖?級になるには、1日8時間の瞑想を間断なく出来るようになるくらいの、識の強さが求められるようですインドの聖?と日本も聖?が、8時間の瞑想をやったと語っていますから、間違いないでしょうこれ連続ね2024/10/03 14:43:29869.パrIiyD「現行」というのは、https://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E7%8F%BE%E8%A1%8Cとあります通り、1阿頼耶識の業である種子が、縁と仮和合して業報が発現すること、もしくは発現した果報そのものをいいます。2さらに現行は、生じた果報を阿頼耶識に種子として熏習し、種子を上書きします。1 は「種子生現行」という縁起です。2 は「現行熏種子」という縁起です。この「種子生現行→現行熏種子」によって阿頼耶識の種子が上書きされます。それを「種子生種子」と言います。2024/10/03 15:25:04870.パrIiyD3 の種子の書き換え作業を阿頼耶識縁起と言います。これは阿頼耶識内で起こる縁起ではありません。阿頼耶識の種子が他の識と仮和合して起こる縁起です。現行は阿頼耶識以外の識で起こります。阿頼耶識には「蔵の三義」が『成唯識論』で説かれておりまして、1)「能蔵」:種子を執持する。能く一切の種子を納め維持するはたらきがある。2)「所蔵」:七識によって熏ぜられる。前七識によって種子が熏習される心的領域。3)「執蔵」:末那識によって自我と執着される。阿頼耶識が末那識によって自我であると執着される。『成唯識論』国訳一切経p33,『唯識根本教理』2024/10/03 15:26:51871.パcUFgv520 法介◆T3azX0Hk1U 2024/10/03(木) 06:57:06.88 ID:ZCPbe TID:bison阿頼耶識の種子が縁起の〝因〟となったり、---(種子生現行)縁起の〝果〟となったりする事はあっても ---(現行熏種子)阿頼耶識自身が〝縁〟として働く事はありません。なぜなら阿頼耶識にあっては思慮は一切働かないからです。それが善の行い(業)であろうが悪の行い(業)であろうが阿頼耶識はそれらを善とも悪とも色別しません。なぜなら阿頼耶識は、思慮が働かない無分別の識だからです。現行は阿頼耶識以外の識で起こります。この阿頼耶識縁起を覚った境涯が無分別の智慧を得た別教の菩薩という境涯になります。2024/10/03 15:48:24872.パBvp1v出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』●所知障ーーー【知られるべきもの】即、≪究極の真理≫=≪真如≫を【知ることを妨げる】障害。 ーーー【煩悩障】とともに説かれて、二つをまとめて【二障】と言う。≪煩悩障≫と対比すれば、煩悩障が【我】への執着=【我執】によって生じ、それによって【生死に流転する】のに対して、≪所知障≫は【もの】=【法】への執着である【法執】によって生じ、それによって≪菩提≫を得ることができない。●たとえば【自己の身体】と思ってそれに貪欲を起こす場合、この貪欲の対象を分析すると、一つは【自己=我】であり、今一つは【身体】である。この中の【自己=我】というものが【実体】としてあると執着して起こす貪欲が≪煩悩障≫であり、【身体】があると思って起こす執着が≪所知障≫である。すなわち、ある一つの貪欲‥‥広くいえば煩悩の一つ‥‥は≪煩悩障と所知障≫との両面を同時にそなえている。このことを【煩悩障は≪法の用≫に迷い】【所知障は≪法の体≫に迷う 】という。2024/10/04 15:42:50873.パBvp1v●唯識では、心のありようを、【迷いからさとり】に変革することを目的とする。具体的には、識を転じて智を得る【転識得智】ことである。この中、識の働きは二分法的思考【分別】であり、そのような認識のありようになる原因が【煩悩障と所知障】である。1)煩悩障を断ずることによって煩悩が生じなくなり、2)所知障を断じることによって、すべての知るべきもの≪一切の所知≫を智ることになる。『 云何が菩提なるや。謂く略説すれば【二断と二智】是れを【菩提と名づく】』●【二断】とは、1)には【煩悩障の断】2)には【所知障の断】なり●【二智】とは1)には【煩悩障が断ずる】が故に≪畢竟離垢≫にして≪一切の煩悩が随縛しない智≫である。2)には【所知障が断ずる】が故に【一切の所知】に於いて≪無礙にして無障なる智≫である。 〔瑜伽論38 T30-498c〕●【有為・無為】の諸法と≪【真如】≫に関して、≪正しい智を生じない≫様な障害となるものが【所知障】である。解脱には関係がないから【声聞は所知障を断じない】しかし【無知は衆生教化には障害】となるから、【菩薩は所知障をも断じて】≪一切智者≫となる。2024/10/04 15:43:10874.パANb0hhttp://www.wikidharma.org/index.php/%E3%82%80%E3%81%84#.E7.84.A1.E7.82.BA六無為 大乗仏教の唯識派によって主張される。唯識派による無為は識変と法性とにより仮立される。六種の無為を説くけれども法性所顕の縁によりて説くのであって別体はない。1)虚空無為 法性すなわち真如が障害を離れたところに現われる無為である。2)択滅無為 法性の択力で汚れを滅したところに現われる無為3)非択滅無為 法性の択力によらず本性清浄あるいは縁欠不生により現われる無為4)不動無為 第四静慮に入り、苦楽受の滅を得したところに名づける無為5)想受滅無為 非想地の滅受想定に入り、想受の滅を得したところに名づける無為6)真如無為 法性が真実如常の相を有するによって名づける前の五無為はいずれもこの【真如無為】によって【仮立されたもの】であり、【真如無為も仮名】であるが、その体は【実有】であるとされる。【有為と無為】とは説一切有部では【まったく関係なく】、また唯識仏教においては≪有為無為永別≫として、【有為の諸法】は真如たる無為法から縁起してくるものではないとされ、有為と無為とは能依所依の関係である。これは性相を決判し、「真如凝然不作諸法」と建てる法相教学からきたものである。これに対し『大乗起信論』など如来蔵思想の系統では「真如随縁作諸法」といい、【有為と無為の交渉を主張する】2024/10/05 10:16:13875.パANb0h出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』無為【造られたもの、では無いもの】の意味。基本的には、【中国の老荘思想】からの援用であろうと考えられる。これは【人間の作為ではなく】自然のまま」という意味である。 仏教では【縁起により作り出された】ものでは【無い】≪不生不滅≫の存在をいう。たとえば【涅槃】は【輪廻を超克した】ものであるから、≪無為≫と呼ばれる。【造られたもの】では【無い】ものの意味である。【為作・造作を有しない】もの。即ち【因縁和合】によって【生滅する諸法】を≪有為≫と称するのに対して、【為作・造作を離れ】【常住にして不生不滅】なるものを≪無為≫という。●原始仏教においては、最高の理想である≪涅槃≫を指して、生滅なき点よりして≪無為≫と名づけた。●部派仏教においては、【不変化】の点からして【有為法と対立】するもの、あるいは有為法の根底をなすものとしての【無為法】が考えられて後世の大乗・唯識仏教へとよりくわしく考察されていった。2024/10/05 10:23:17876.パANb0h三無為部派仏教中の説一切有部によって主張される。●択滅無為【簡択力】によって得られた【滅】【簡(エラブ)択】とは≪四諦の理をさとる智慧≫この智慧によって、【煩悩から解脱】したところに顕れる【空寂の真理】≪涅槃≫のこと。即ち、【汚れ無き智慧の力】により【煩悩を断ずる】ところに現われる≪無為≫をいう。【択滅の数は煩悩の数と等しい】とされる。●非択滅無為【簡択力】によっては得られ無い≪空寂なる滅≫【因と縁を欠く】【現象として生じ無い】もの。たとえば、ある一つの物(色)を眼(眼識)で見るとき、【他の物を】見る・聞く・嗅ぐ・触るという感覚(眼識・耳識・鼻識・舌識・身識の五識)は【生じない】ままであることをいう。●これを【縁闕不生の非択滅】という。唯識では、【真如のありよう顕れ方】に応じて、次の【6つの無為】を立てる。択力によらず、縁欠不生によって、生ずべき法が未来にとどまり生じないところに名づける。2024/10/05 10:23:53877.パANb0h●虚空無為如何なる妨げ=【障礙】もない【広大無辺な空間】。その中で、もの(色)がさまたげられることなく、自由に動きまわり、増大・収縮することができる空間。【虚空】は実体として存在する【実有】。【無礙】即ち【諸法が存在する】うえにおいて【障害の無い】ことをいいいわば【絶対空間】ともいうべきものを指す。単なる隙間の空間としての虚空とは異なる〔『倶舎論』1〕。 他の部派仏教では大衆部や一説部などが九無為説を主張する。2024/10/05 10:24:52878.パj74XX『法介論法』--- 三種三観の構図<凡夫の認識> 客観=有 主観=無 実体=客観と主観(亦有亦無)(※ 実体は人間の概念によって造り出される妄想分別)<仏の認識> 客観=「色即是空」 主観=「空即是色」 実在=「色即是空 空即是色」(※ 実在とはそのモノの真実のあり様)<覚りの後得智> 遍計所執性(凡夫の認識) 依他起性(仏の認識) 円成実性(片眼凡夫+片眼仏)2024/10/05 14:07:29879.パj74XX『法介論法』--- 三種三観の構図 の<凡夫の認識> ---(欲界)<仏の認識> ---(色界)<仏の認識> ---(無色界)の下地です。<凡夫の認識> ---(倶舎論)<仏の認識> ---(中論)<真如の認識> ---(唯識論)2024/10/05 14:09:35880.パj74XXAIによる【無漏の種子】説明https://i.imgur.com/hwNZQ8W.jpeg2024/10/05 14:24:31881.パmEMCn●聞薫習 清森義行「有漏の聞薫習がなければ、無漏の種子は、現起しない」『成唯識論述起』https://ameblo.jp/yk19610402/entry-12780723521.html【1】有漏性のものは、①修道で断じられる②しかし勝れた人格を作る③純粋な出世法の【増上縁(勝れた助縁)となる】【2】無漏性のものは、①何処かで断じられる性質では無い②出世法の【正因縁(直接的力)】となるーーー【1】有漏の聞薫習は、最終的には、【出世心の直接的な力になりません】が、勝れた人格を作りますので、出世心への【増上縁(勝れた助縁)】となります【2】無漏の聞薫習は、出世心の【直接的な力】となり人を【解脱へと至らしめ】ますーーー【正法を聞く】という薫習に何故?有漏のものを立てるのでしょうか?それは●【人間には末那識がある】からです唯識は【人間は八識の存在】とします。その中で●【末那識は有漏法】の根源です【末那識の影響を受け】て●【意識や前五識が有漏性となる】するとそれを離れることは難しくなります。ですから、清浄な正法も【聞くという経験の過程で有漏化】されてしまう2024/10/05 19:36:35882.パmEMCnhttps://livedoor.blogimg.jp/butudou/imgs/7/f/7f708cc4.jpg2024/10/05 19:37:54883.パj74XX●ところが『成唯識論』では≪無漏性のものは、出世法の正因縁≫だと教えられます。つまり【末那識を是認した上で】≪【無漏性の聞薫習】がありうる≫と教えるのです。これは【聞薫習の一部】は【無漏性の本来の性質を変えず】【無漏のまま阿頼耶識に届く】ものがあるということでありましょう●『成唯識論』を解説した『成唯識論述記』には、もし【有漏の聞薫習がなければ】 【無漏の種子は現行しない】と述べています。【有漏種子が無漏種子を動かす】のであります。それは勿論【有漏が無漏の正因縁では無い】ということですそれは【間接的な助縁の増上縁】であります。その【間接的な力が無漏の種子を発動】すると教えられるのです。このことは、無漏にせよ、有漏にせよ≪【聞法せよ!】≫と示されているのです。2024/10/05 20:15:23884.パj74XX●【聞薫習】に【有漏】と【無漏】のものとがある、という指摘は重要だと思います。【有漏の聞薫習】は、長い修行の中で断じられます。最終的な出世法の力とはなりません。【有漏は無漏の正因縁とはなら無い】のであります。仏法を現在、聴聞している皆さん方は「本有(ほんぬ)の無漏種子」をお持ちだと思います。だから、たとえ薫習(くんじゅう)されるものが有漏の種子であったとしても、それが【本有の無漏種子】へ働きかけて、それを豊かにしていきます。●【有漏の聞薫習】がなければ、 【無漏の種子は、現起しない】『成唯識論述起』と教えられています。2024/10/05 20:21:11885.パANb0h●「空・仮(げ)・中」これも『中論』に説かれる中観思想で、すなわち、「八不中道」でもわかるように、いかなる存在や事象は「相依相待」の関係で成り立っていて、どちらかがなければあり得ない「無自性」・「空」であり、存在や事象の名称はただ世俗のコトバで「仮の名(仮名)」・「仮に設定されたもの(「仮設(けせつ)」)」に過ぎず、とらわれるべきではない。●また、対立的な二項のどちらかに偏すれば、それは「我見」であり、「虚妄(こもう)分別」(二項対立で見ること)であり、「戯論(けろん)」(真実をとらえていない見解)となる。だから、二項のどちらにも偏せず中道・中観をとるべきである。相対関係で成り立っている存在や事象はすべて「空」であり、「仮(設)」であり、「中」である。これを「空・仮・中」と言うのである。2024/10/05 21:17:39886.パANb0h●この「空・仮・中」を、「三諦(さんたい)」(三つの真理)と言って特別重視したのが天台であった。 中国天台の開祖とされる慧文(えもん、慧聞)は、龍樹の「中観」思想を拠り所にして禅を修め、「空・仮・中」を観想して「次第三観」「隔歴(きゃくりゃく)三諦」と「円融(えんゆう)三諦」「一心三観(いっしんさんがん)」を説いたが、従来これは「空・仮・中」の誤解だとする見方がある。●すなわち『中論』は、あらゆる存在や事象が「無自性」であることを「空・仮・中」の三の面から一元的に説いたのだが、慧文は「空・仮・中」をそれぞれ「空諦」・「仮諦」・「中諦」と分解して「三諦」とし、「空諦」を観想して「見思惑(けんじわく)」を断じ、「仮諦」を観想して「塵沙惑(じんじゃわく)」を断じ、「空諦」と「仮諦」を対立二項としてその真ん中の「中諦」を観想し、「無明惑(むみょうわく)」を断じ中道を達観するのである(「次第三観」・「隔歴三諦」)。 それに対し、「三諦」を同時に観想し(「一心三観(いっしんさんがん)」)、それぞれが互いに相入し合い円融であると達観するのを「円融三諦」とした。2024/10/05 21:17:57887.神も仏も名無しさんkrYbf中国において、仏教が変わったのは確かだね。中国的な陰陽の生々流転の思想が入っている。2024/10/06 10:41:50888.パL8VbV三法展転因果同時 〈唯識〉の所説。3つの法(存在)の因果の連続が同時であるということ。 3つの法とは(1) 潜在的な根本心である【阿頼耶識のなかの種子】(可能力)が【因となって】【現行(現象的存在)が果として生じ】(2) 【生じた現行】が【因となって】【阿頼耶識の中】に【果としての種子】を【薫じつける】、という過程のなかで、(1) のなかの因として「種子」と、果としての「現行」と、そして、それが、(2) のなかの因となった「現行」と、果としての「種子」との3つを、すなわち「種子」と「現行」と「種子」との3つをいい、これら3つからなる因果の連続が同時に起こることを三法展転因果同時という。2024/10/07 18:52:52889.パL8VbV『成唯識論』第二偈●此は能く、諸法の種子を〝執持〟して、失せざらしむるが故に、一切種子と名づく。 執持=保持すること。ーーー『成唯識論』の第18偈解説の原文に明確に書いてます。●この識(阿頼耶識)の中の種子は余の縁に助けられるが故に、即便ち是の如く是の如く転変す。2024/10/07 18:59:37890.パex6PB天台智顗(てんだいちぎ)による『摩訶止観』(まかしかん)では、四種三昧(ししゅざんまい)として四つに分けられている。1)常坐三昧(一行三昧) - 90日間座り続ける。2)常行三昧(仏立三昧) - 『般舟三昧経』に基づき、90日間阿弥陀仏の周りを回りながら念仏を行う。3)半行半坐三昧 -本尊の周りを歩く行と、座る行を行う。4)方等三昧 - 『大方等陀羅尼経』に基づいて7日間行われる。5)法華三昧 - 『法華経』に基づき37日間または21日間行われる。6)非行非坐三昧(随自意三昧)2024/10/07 22:46:46891.パex6PBヒンドゥー教ヒンドゥー教ヨーガ学派経典のヨーガ・スートラでは、三昧とは静慮があたかも客体のみになって自体が空になったかのような状態であると定義される。●ヨーガ・スートラでは以下のように、「有想三昧」と「無想三昧」(第1章17-18節)「有種子三昧」と「無種子三昧」(第1章41-51節)の別が説かれている。●有想三昧(サンプラジュニャータ・サマーディ)尋(ヴィタルカ)、伺(ヴィチャーラ)、楽(アーナンダ)、我想(アスミター)の意識対象が伴っている三昧。●無想三昧(アサンプラジュニャータ・サマーディ)【行(サンスカーラ)】だけが残っている三昧。●有種子三昧(サビージャ・サマーディ)【心の対象】が残っている三昧。●ヨーガスートラに述べられる定(サマーパティ)の種類には有尋定 サヴィタルカ・サマーパティ無尋定 ニルヴィタルカ・サマーパティ有伺定 サヴィチャーラ・サマーパティ無伺定 ニルヴィチャーラ・サマーパティがある。●無種子三昧 ニルビージャ・サマーディ【真智(直感智)】さえも止まり、すべての【心作用が止滅】した時に生じる三昧。2024/10/07 22:56:40892.パex6PB心は心の働きを見ることはできるが、自らの本性を認識することはできない。なぜなら心は、常に心の働きや煩悩を見ている、あるいはそれに囚われているから、自らの本性を認識できなくなっているのである。この状態を●「無明」と言うが、サンスクリットでは<アヴィドヤー(avidyā)>である。<a->は否定辞であり、<vidyā>は「正しい知識」である。正しい知識を誤らせるもの、あるいはそもそも正しい知識がないことが「無明」である。無明に基づいて心の働きや煩悩がある。世界の認識は誤認に基づくのである。ーーー正しい知識とは何かが問題だ正しい知識とは真諦である四正諦などのことらしいが私は人間の真の本性に対する言語超絶の知識であると思うそれは、智慧の智を除いた慧のことであり、智慧とは慧を知ることであろうと理解する2024/10/07 23:12:48893.パhWrI0●複数のダルマがある瞬間に縁起の法が働いて、集合し現在に現れて一つの現象が生起する。しかしその現象は刹那滅であるから、瞬時に消滅してダルマは離散する。それが瞬間、瞬間で繰り返され積み重なって現象世界が成立するという。その場合、集合・離散するダルマはどこから現れてどこへ消えるのだろうか。●有部はそれを、未来の領域から現れて過去の領域へ去ると説明する。つまりダルマは、過去、現在、未来の三世にわたって実有の状態で存在するというのである。≪三世実有≫法であるダルマが三世にわたって恒存するから【法体恒有】ともいう●この過去、現在、未来は時間軸としてとらえるよりは、位相というような概念でとらえた方がわかりやすい気がする。ダルマがこの世を構成する要素としての機能を果たしている瞬間が現在、機能する前の位相が過去、後が未来ということなのだろう。以上のように有部は、存在の要素を精緻に分析することによって無常、無我を究明した。●しかしそのことによって存在の構成単位である極微のダルマ(法)というものの存在にいきついたためにそれを実有とせざるを得なくなったのである。こうした有部の立場は後に【我空法有】と呼ばれるようになる。そしてそれは、大乗仏教の説く「我空法空(我法倶空)」と鋭く対立するのである。2024/10/08 08:18:46894.パhWrI0体空観人間存在をはじめすべての物質的精神的事象(諸法) をその構成要素にまで分析してそこに実体的存在性がないことを証明する析空観(しゃっくうかん) に対して諸法を分析するのではなく,そのまま幻のごとくであり空であると観じる方法。大乗仏教の空観とされる。この体空観のたとえとしては,幻のほか,陽炎,水月,虚空,響 (やまびこ) ,犍闥婆城 (蜃気楼) ,夢,影,鏡中像,化などが用いられる。ーーー体空【当体即空】の略。事物の当体そのままが即ち空であるとする通教所説の【体空観】のこと。蔵教の【析空観】に対する語。分析的観察をせず、【諸法の当体】が【そのまま空】であると観ずることである。2024/10/08 08:29:42895.パhWrI0WikiArc空http://wikiarc.wikidharma.org/index.php/%E7%A9%BA2024/10/08 09:01:15896.パhWrI0Wiki縁起https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E7%B8%81%E8%B5%B72024/10/08 09:27:20897.法介◆T3azX0Hk1Uccz8xどうやら真剣に仏の教えを追求されているのは、ここには馬ちゃんぐらいしかいないようですね。ああいう展開もそれはそれで楽しめるんですが、いかんせ話が先に進まない。なので、馬ちゃんに向けてこっちのブログで続きを書いていきます。宜しかったらご覧ください。https://zawazawa.jp/bison/topic/312024/10/08 19:19:14898.パ4Le2a唯識説における言葉(名言種子) 花 栄あらゆる物事を【現しだす種子】の中で迷いの境涯を転じて、仏の悟りの世界を現し出すものの中で最も【力に強い種子】は≪名言-種子≫と呼ばれる≪言語の種子≫である‼️ーーー迷いの境涯を転じて≪【仏の世界】を現しだすもの≫を法界等流の【聞薫習】によって、阿頼耶によって蓄えられる清浄な≪【言語の種子】≫であると考えるーーーhttps://www.google.com/url?sa=t&source=web&rct=j&opi=89978449&url=https://doho.repo.nii.ac.jp/record/2253/files/%25E5%2590%258C%25E6%259C%258B%25E4%25BD%259B%25E6%2595%259956.61-76.pdf&ved=2ahUKEwiTreHL__-IAxWnrVYBHfY5MLsQFnoECB8QAQ&usg=AOvVaw2MLSCYRB53hyudHw-64OXG2024/10/09 13:04:53899.パ4Le2a●日蓮大聖人の歩まれた道虚空蔵菩薩への願い虚空蔵菩薩に願を立て云く、日本第一の智者となし給へと云云(善無畏三蔵鈔)https://yorokobi-reidanshikai.jp/nichiren-road/no020.html「虚空蔵菩薩求聞持法」は、締め切ったお堂や洞のような空閑寂静な場所に籠もり、百万遍もの陀羅尼(だらに)(神佛の発する呪文)をひたすら唱え続けるという、大変厳しい密教の修行です。その間は作法に従ってわずかな穀物や水を口にするだけで、睡眠もほとんど取ることはありません。近代となっても、希にこの求聞持法に挑む修行者がいるとのことですが、聞き及んだところでは、あまりの極限状態に心身に異常をきたし、途中で断念する者はもちろんのこと、時には命を落とす者もいる程の荒行なのです。この求聞持法は、通常五十日、ないし百日間で行うと定められているのですが、何と蓮長はわずか二十一日間でこれを成し遂げたとされているのです。2024/10/09 13:27:21900.パ4Le2aパーリーの今期周回のまとめhttps://talk.jp/boards/psy/17283794122024/10/09 13:37:38901.パ4Le2a間違った2024/10/09 13:37:51902.パ4Le2aいや良いのか2024/10/09 13:38:14903.パqBJigカムイさんのはこれね。https://www.shorinkutu.com/kyozo/syorinkutusoshi/rounigoroku/https://www.shorinkutu.com/20211018-2/2024/10/10 10:08:54904.パqBJig阿頼耶識の別名である「一切種子識」について『成唯識論』第18偈では次のように云う。●種子識という言は、識の中の種子を顕す。種子を持する識には非ず。後に当に説くべきが故に。此の種子の中の種子は、【余の縁に助け助けられる】が故に、即便(スナワ)ち、是の如く是の如く、転変す。2024/10/10 15:12:33905.パlQSxT>だから、香厳も小石が箒の竹に当たって悟った、んじゃないんです。。>その音で、無自覚、から我に返った、迷いに帰って、言語化できた、ということなんです。。wそれ、真逆ですwww無心状態から撃竹で我に返って無心であった事を知って有心に返って言語化したのではありません。 >一撃に所知を亡ず、 >更に自ら修治せず例えば坐禅をしてて足が痛くなったり妄想したりしていて(所知)隣単の方が警策をパンパンパンパンってやられた瞬間(一撃)痛みとか思考とか真っ新に飛んで無くなる(亡ず)状態が続く(更に自ら修治せず)事がある訳ですが、それです。であるので、もう既に迷いに帰っての言語化ではありません。修行としても折り返し地点というか、この先何をすれば良いのか分かったという境地に達したのです。2024/10/11 14:29:29906.パlQSxTまた香厳智閑禅師、かつて大潙大円禅師の会に学道せしとき、大潙いはく、「なんぢ聡明博解なり、章疏のなかより記持せず、父母未生以前にあたりて、わがために一句を道取しきたるべし。」香厳、いはんことをもとむること数番すれども不得なり。ふかく身心をうらみ、年来たくはふるところの書籍を披尋するに、なほ茫然なり。つひに火をもちて年来のあつむる書をやきていはく、「画にかけるもちひは、うゑをふさぐにたらず。われちかふ、此生に仏法を会せんことをのぞまじ。ただ行粥飯僧とならん。」といひて、行粥飯して年月をふるなり。行粥飯僧といふは、衆僧に粥飯を行益するなり。このくにの陪饌役送のごときなり。かくのごとくして大に潙まうす、「智閑は心神昏昧にして道不得なり、和尚、わがためにいふべし。」大潙のいはく、「われなんぢがためにいはんことを辞せず、おそらくは、のちになんぢわれをうらみん。」かくて年月をふるに、大証国師の蹤跡をたづねて、武当山にいりて、国師の庵のあとに、くさをむすびて爲庵す。竹をうゑてともとしけり。あるとき、道路を併浄するちなみに、かはらほとばしりて、竹にあたりてひびきをなすをきくに、豁然として大悟す。沐浴し、潔斎して、大潙山にむかひて焼香礼拝して、大潙にむかひてまうす、「大潙大和尚、むかしわがためにとくことあらば、いかでかいまこの事あらん。恩のふかきこと、父母よりもすぐれたり。」つひに偈をつくりていはく、 一撃に所知を亡ず、更に自ら修治せず 動容古路を揚ぐ、悄然の機に堕せず 処々蹤跡無し、声色外の威儀なり 諸方達道の者、咸く上上の機と言はんこの偈を大潙に呈す。大潙いはく、「此の子、徹せり。」(『正法眼蔵』渓声山色の巻 より)2024/10/11 14:30:29907.パxxmLL●法性〈ほっしょう〉とは、サンスクリット語の「ダルマター」(dharmataa)であり、法そのもの、法としてあらわれている万物の本性の意味である。●真如〈しんにょ〉とは、「タタァター」(tathataa)であり、真実であり如常であること、「ありのままの状態」をいう。●如実〈にょじつ〉とは「ブフータ・タタァター」(bhuuta-tathataa)であり、存在のありのままのすがたをいう。●この実相こそが仏陀の悟りの内容そのものであるというので、これを一実、一如、一相、無相、法身、法性、法位、涅槃、無為、真諦、真性、実諦、実際などという。2024/10/12 14:33:57908.パTFwJhhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%A8%E6%BB%85%E5%BA%A6%E6%99%82%E6%9C%AC%E5%B0%8A2024/10/12 22:26:30909.パjZgq3これは八正道の「正見」では無くて、無常世界における正しい認識・見解と言うほどの意味です。そして「無(我)」も「有(我)」も、無常を背景とする世界。無常を根本とする世界にはありえないんだと。https://i.imgur.com/Bw4519T.jpegカッチャーヤナよ、正しい智慧によって、あるがままに無常世界における生起する現象を見る時、この【無常世界において「無我」という事は無い。】また、正しい智慧によって、あるがままに無常世界における変滅を見る時、この【無常世界において常住不変としてのアートマン(我)の実在という事もありえない。】カッチャーヤナよ、世間の人々は大抵、自分が愛着する対象や、その見解に取著し、こだわり、囚われを起こしている。しかし、聖なる修行者とは、その心に依拠する対象に囚われたり、取著を起こし(これがわたしのパーソナリティである)と、囚われ、執着し、こだわるということが無い。ただ、苦が生じたなら(これは苦だ)と認識し、苦が消滅したならば(苦は滅した)と見て、囚われず、惑わず、疑わず、※他に依存しない。ここに智慧が生ずる。カッチャーヤナよ、これが正見である。カッチャーヤナよ、無常世界に【不変の我が存在する。と言うのは、一つの極端と言えよう。】同様に【我は無い」と言うのももう一つの極端である。】カッチャーヤナよ、如来はこれら両極端を離れて法を説くのである。https://i.imgur.com/Bw4519T.jpeg2024/10/14 03:47:23910.パlgL4dサンカーラ 潜勢力wiki●サンカーラには主に二つの意味がある。【1】つ目の意味では、サンカーラは一般的に【条件づけられたものごと】【因縁によって起こる現象】【 有 為 法 】をさす。【諸行無常】として説かれる。【2】つ目の意味では、サンカーラは五蘊のひとつ【行蘊】(梵:Samskara-Skanda)として【業】をさし、それらは【縁起】の原因とされる。心の中の【何かをしたい】という【衝動】のことであり、その【衝動】は、その【直前の状態】から生まれているのである。ある1【行動(karma, 業)】を取ることで、その2【次の行動】をしたいという欲求が【自動的に現れる】のであるwiki【2】つ目の意味合いでは、我々の身心を構成する五つの要素である【五蘊(色受想行識)】の≪行≫=行蘊(梵:Samskara-Skanda)と【十二因縁(十二縁起)】の【第二支】≪行≫(行支)は、いずれも【意識】を生ずる≪意志作用≫=≪志向作用≫である。それは、心の働きが一定の方向に作用していくこと、【意志-形成力】のこと。善悪の一切の行為のこと。何かをしたいという衝動のこと。例えば、桜を見て、その枝を切って瓶にさしたり、苗木を植えてみようと思い巡らすこと、が挙げられる。それは≪縁起支≫(paticca-samuppada)の一部である2024/10/15 00:28:49911.パlgL4d>だから、香厳も小石が箒の竹に当たって悟った、んじゃないんです。。>その音で、無自覚、から我に返った、迷いに帰って、言語化できた、ということなんです。。wそれ、真逆ですwww無心状態から撃竹で我に返って無心であった事を知って有心に返って言語化したのではありません。 >一撃に所知を亡ず、 >更に自ら修治せず例えば坐禅をしてて足が痛くなったり妄想したりしていて(所知)隣単の方が警策をパンパンパンパンってやられた瞬間(一撃)痛みとか思考とか真っ新に飛んで無くなる(亡ず)状態が続く(更に自ら修治せず)事がある訳ですが、それです。であるので、もう既に迷いに帰っての言語化ではありません。修行としても折り返し地点というか、この先何をすれば良いのか分かったという境地に達したのです。2024/10/15 00:29:11912.パlgL4d成唯識論第18偈の続き●謂く、生の位より転じて熟の時に至る。変ぜられる種は多なりということを顕さんとして、重ねて如是と言う。●謂く、一切種に、三熏習と、共・不共等の識種を摂(オサ)め尽くすが故に。展転力とは、謂く八の現識と及び彼の相応と、相・見分等なり。彼は皆互いに相い助ける力有るが故に。即ち現-いー4識等を総じて分別と名づく。虚妄分別をもって自性と為すが故に。分別の類多きが故に彼彼と言えり。此の頌の意の説かく、外縁は無しと雖も、本識の中に、一切種の転変する差別有るに由り。及び現行の八種の識等の展転する力を以ての故に、彼彼の分別而も亦た生ずることを得る。何ぞ外縁を仮って方に分別を起こさんや。諸々の浄法の起こることも、応に知るべし。亦た然なり。浄種と現行とを縁と為して生ずるが故に。●恒審思量https://zawazawa.jp/bison/topic/92024/10/15 00:30:40913.パlgL4dもう一つ別の道があって、それはいわゆる密教の百万遍真言を一定期間内に唱える、金剛大乗の道です我々大衆は、定年までは、社会の労働者として、時間に縛られて、何十年もほぼ自由の無い生活をしなければ、金銭を稼げず、生活出来ない1ヶ月2ヶ月という、考えたら一生にしたらとても短い期間でも休むことは不可能であって50日という休みは、定年するかしないと取れないのであって百万遍を21日で唱えた日蓮は特別として、普通は50日であって、空海でも50日~100日かけていて、それを3回行ってたし覚鑁(カクバン)などは7回で死にかけてようやく成就していますそれは録音機の無い時代の行法ではしょうがないことでしたが現代では録音した言葉を2倍速再生して2倍の速度や2倍の回数など、楽に聞いて唱えると同じ効果を得られますマナ識が平等性になるような言葉を真言とすることで、第四禅定に自由に出入り出来ることを前提にして、誰もが50日程度で、完全に永続して、無分別の状態を成すことが可能なのです2024/10/15 00:31:06914.パlgL4d●法性〈ほっしょう〉とは、サンスクリット語の「ダルマター」(dharmataa)であり、法そのもの、法としてあらわれている万物の本性の意味である。●真如〈しんにょ〉とは、「タタァター」(tathataa)であり、真実であり如常であること、「ありのままの状態」をいう。●如実〈にょじつ〉とは「ブフータ・タタァター」(bhuuta-tathataa)であり【存在のありのままの姿】をいう。●この実相こそが仏陀の悟りの内容そのものであるというので、これを一実、一如、一相、無相、法身、法性、法位、涅槃、無為、真諦、真性、実諦、実際などという。2024/10/15 00:31:35915.パlgL4dやってみると分かりますが、録音した言葉を両耳からイヤフォンで聴いた場合その脳内の聴覚野での再生音は(1)六識の了別、(2)七識の思量に次ぐ第3の思考として、脳内で認識が起こり続けるのでありその結果として、六、七識の活動は停止されて、無為無分別と同じ状態が現れるのである、と言えよう2024/10/15 00:31:55916.パmkH4K結局さ御題目でも念仏でも坐禅であろうが六識了別が沈黙した後で七識の恒審思量から漏れだして来る止めどない、我慢に染汚された想いを、つかんで縁起させるのかどうか?って処に一つの潜在的な関門があるってことであってその七識関門の妄想思量の流れを、掴むでなく、止めるでなく、在るがままに観察することなく、無為にして離れていることができるのか?ってことでは、離れている者とは何であろうか⁉️離言されし何か、在る者この何者でも無い、ただ在る者が目覚めているのか、眠りこけているのか?ここが最大の難所ここを覚めて在れるのであれば七識の妄想思量は停止されるでしょう瞑想坐禅が巧く行くと、必ず上記のようになっているはずその時 “在る”というその状態は、胸のいわゆるハートに在り続けるこれらのことを、自己の体験的に、理解できるのかどうか?ってことですね2024/10/17 19:34:33917.パERjIX大獅子吼経より 如来の宿命智サーリプッタよ、そしてまた更に如来は様々な前世の生き様を思い出す。すなわち、一生、二生、三生、四生、五生、十生、二十生、三十生、四十生、五十生、百生、千生、十万生、多くの宇宙還元期、多くの宇宙再生期、多くの宇宙還元再生期を。「わたしはそこでは、このような名前を持ち、このような家系に属し、このような容色であり、このような食物を摂取し、このような苦楽を経験し、このような寿命の最期を迎えた。そしてそこで死にかしこに再生した。 わたしはそこでも、このような名前を持ち、このような家系に属し、このような容色であり、このような食物を摂取し、このような苦楽を経験し、このような寿命の最期を迎えた。そしてそこで死にかしこに再生した」。とこのように詳細な状態の記憶を伴い、様々な生き様を思い出すのである。サーリプッタよ、これは如来による如来の能力であるがゆえに、この能力によって如来は指導者の地位を公言し、集団の中で獅子吼して吠え、≪ブラフマンの輪≫を発生させるのである。2024/10/20 14:21:26918.パNIAhk『成唯識論』の第四偈「無始よりこの来た、消滅し相続して常にも非ず、断にも非ずして、有情を漂溺して出離せざらしむ。又た瀑流は、風等に撃せられて、諸の波浪を起こすと雖も、而も流すること断ぜらるが如し。此の識も亦た爾なり。衆縁に遇って、眼識等を起こすと雖も、而も恒に相続せり。又た瀑流は、水の下・上の魚・草等の物を漂して、流れに随って捨てざるが如し。此の識も亦た爾なり」阿頼耶識をば断とせんや、常[じょう]とせんや、断にも非ず、常にも非ず、恒[つね]に転ずるを以ての故に。●恒と云うのは謂[いわ]く、此の識は無始の時より来[このか]た、一類(無記)に相続して常に間断[けんだん]無しと云わんとするということ、是れ[三]界・[五]道・[四]生とを施設する本[もと]なるが故に、性堅[しょうけん]にして種子[しゅうじ]を持[じ]して失[しっ]せざらしむが故に。●転(常・一を庶[しゃ]す)と云うは謂く、此の識は無始の時より来た、念念に生滅して前後変異すと云わん。因滅すれば果生ずるを以て常・一に非ざるが故に。転識[てんじき]の為に種子[しゅうじ]を熏成[くんじょう]する可[べ]きが故にと。恒と言うのは断を遮[しゃ]す。転と云うは常に非ずと云うことを表す。猶ほ暴流[ぼうる]の水の断にも非ず、恒にも非ずして相続して長時に漂[ひょう]し、溺[にゃく]する所ろ有るが如し。此の識も亦爾[しか]なり。無始従[よ]り来た、生滅し相続して、常に非ず、断にも非ずして、有情を漂・溺して出離[しゅつり]せざらしむ。2024/10/21 12:46:44919.パ8fUGs縁起説の完成するまで 杉 野 祥 一http://home.e-catv.ne.jp/miyoshik/ippen/reikai2008/200808.htm現存する最古の原始経典が『スッタニパータ』第四章「八詩句章」であり、ここに釈尊の直説の教えが保存されています。釈尊が自らの出家と悟りについて語るのが、第十五経です。釈尊は次のように語りはじめます・・・● 棒を握って暴力をふるうようなことから離れたいという憂いの思いが生じたのだ争っている人々を見なさい!私がどのように厭い離れたか、その厭離する心を語ろう~!(Sn935)●修行者や師と呼ばれる人たちさえもが≪論争し≫≪敵対し≫合っているのを見て私は絶望的になった!このとき、私は人々の心臓の奥底に突き刺さっていく≪一本の矢≫を 発見したのである!(938)●その矢によって突き飛ばされて人々はあらゆる方向に向かって輪廻しているこの≪ 矢を ≫引き抜きさえすればもはや輪廻することはないのである(939)ここで注目しなければならないのは、【939】の経文です。≪一本の矢≫が、輪廻という苦しみの原因であり、この【矢を抜けば】輪廻はないと語られています。これは、最初にお示しした縁起のパターンをとっています。したがって、この≪一本の矢≫の、【根本発見】こそが、≪最も原初の縁起説≫だと言わなくてはなりません。もう少しこの≪一本の矢≫について釈尊に教えてもらいましょう。2024/10/21 21:45:32920.神も仏も名無しさんGKXX0末那識って世親がつくったもの解深密経には阿頼耶識しか書いてない。つまり、論によって付加された概念であり必ずしも囚われる必要はないと思われる。2024/10/21 22:41:00921.パtdldHスッタニパータ続き●≪輪廻の大洪水≫の【正体】は【何時までも】この世界に存在したいという≪根源的≫≪願望≫であると、私は言う吸い込むような激流は【個々の衝動的≪欲求≫】である【流れに浮かんでいる】物は≪欲求≫され、思い浮かべられた≪対象物≫である≪欲望の泥沼≫を越えていくのは難しい、と私は言う(945)●【過去から溜まって来た】≪洪水の水≫を、干上がらせなさい【未来に】向かって≪何も希求しない≫ようにしなさい【現在】において≪何も所有しない≫ようにしなさいそうすれば、あなたは≪静寂を保ち≫つつ歩んで行くことになるであろう(949)●これら≪過去・現在・未来≫のすべてにおける≪名と体≫からなる≪個別の私≫【名色】を≪自分のものにする≫ことが無いならば、≪在りし日の自分が存在し無い≫からといって嘆き悲しむことはないし、また実にこの世界にありながら≪失うものは何もない≫のである(950)2024/10/22 01:23:40922.パtdldH>>920マナ識の原型はヨガで言うマナス(心)これをヨガでは我執って言うようですよヨーゲシュバラナンダ師によればそこに3つのグナが作用するらしい阿頼耶識に相当するのが心素って言うもので大円鏡智に相当するのが真我と思われますね2024/10/22 01:29:07923.パrh1Vkwikipedia仏教用語のサンカーラ、サンスカーラとは●パーリ語およびサンスクリット語に由来し≪一緒になったもの≫≪纏めるもの≫という意味合いである。伝統的に≪行≫もしくは≪有為≫と訳される。●サンカーラには主に二つの意味がある。一つ目は、【サンカーラ】は一般的に≪条件づけられたものごと≫≪因縁によって起こる現象≫【有為法】をさす。≪諸行無常≫として説かれる。●二つ目は、【サンカーラ】は【五蘊】のひとつ≪行蘊≫として、【業】をさしそれらは≪縁起の原因≫とされる。心の中の≪何かをしたい≫という【衝動】のことでありその【衝動】は、その【直前の状態】から生まれているのである。ある行動(karma, 業)を取ることで、その次の行動をしたいという欲求が自動的に現れるのである。2024/10/22 18:15:52924.パrh1Vkwikipedia 処世尊は言った。 ...眼処、耳処、鼻処、舌処、身処、意処。これら六内処が知られるべきである。...色処、声処、香処、味処、触処、法処。これら六外処が知られるべきである。触によって受が起こる。受によって渇愛がおこる。パーリ仏典,中部, 148六六経,Sri Lanka Tripitaka Projectプンナ教誡経編集世尊は言った。プンナよ、眼によって識られる、望ましく、好ましく、喜ぶべく、愛すべき形相で、欲をかきたて、心をひきつける諸々の色(ルーパ)がある。もし比丘が、それを歓喜し執着してとどまるならば、それを歓喜し執着する彼に、喜悦が起こる。プンナよ、「喜悦の生起より苦の生起がある」と私は説く。…(耳、鼻、舌、身、意について同様に説く)…また、プンナよ、眼によって識られる、望ましく、好ましく、喜ぶべく、愛すべき形相で、欲をかきたて、心をひきつける諸々の色がある。もし比丘が、それを歓喜せず、執着せずにとどまるならば、それを歓喜せず執着しない彼に、喜悦が滅する。プンナよ、「喜悦の滅尽により苦の滅尽がある」と私は説く。…(耳、鼻、舌、身、意について同様に説く)…パーリ仏典,プンナ教誡経,Sri Lanka Tripitaka Projecthttps://i.imgur.com/R00rbfE.jpeg2024/10/22 18:20:14925.パrh1Vkwikipediahttps://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%87%A6六根 - 主観の側の六種の器官、感官のこと。六内入処、六内処とも。眼 - 視覚能力もしくは視覚器官耳 - 聴覚能力もしくは聴覚器官鼻 - 嗅覚能力もしくは嗅覚器官舌 - 味覚能力もしくは味覚器官身- 触覚能力もしくは触覚器官意 - 知覚能力もしくは知覚器官●六境 - 客観の側の六種の対象、感官の対象のこと。六外入処、六外処とも。色 - 眼根によって見られる色彩と形象声 - 聴覚の対象香 - 嗅覚の対象味 - 味覚の対象触 - 身根によって感じられる堅さ、熱さ、重さなど法 - 意根によって知覚される概念を含むすべての存在●眼・耳・鼻・舌・身の5つは五根といい、仏教およびインド哲学では、西洋での五感にプラスして【第六感】を挙げている。仏教における≪6つ目は【心】≫であり感覚の印象、感情、知覚、意志などを含む感覚対象と、相互作用する内部感覚器官を指している2024/10/22 18:22:19926.パjObbEJ-Stagehttps://www.jstage.jst.go.jp?-char世親釈は「所取と能取との分別あり」とするに対し 唯識観の発展田中順照 著?1964?しかもこれらの二が鏖と根と等しく所取であると. して、. と説かれている。ーーー弥勒、無著、世親と伝承された唯識観の発展をたどろうと思う。弥勒には楡伽師地論、弁中辺論、大乗荘厳経論、法法性分別論、現観荘厳論等の著がある。そのうち、先ず弁中辺論をとりあげて見る。虚妄分別有 於レ此二都無此中唯有レ空 於レ彼亦有レ此 (玄)虚妄分別有 彼処無レ有レニ彼中唯有レ空 於レ此亦有レ彼 (真)玄奘訳の所取と能取は、所取の執であり、能取の執である。は、弁中辺論巻頭の有名な偶である。虚妄分別とは何か。玄奘訳、世親釈は 「所取と能取との分別あり」とするに対して、真諦訳は 「能取と所取とを分別するあり」としている。述記はこれを、能取所取遍計所執、縁レ此分別乃是依他。… …即所取能取分別。依士釈名。非二二取即分別持業立レ名。と説いている。知られるものと知るものとの二が等しく知られるものとして分別されるとの意である。真諦訳はこれを明に示している。従 って虚妄分別を単に知られるものと知るものと の対立と解するだけでは十分ではない。その知られるも玄弊訳、世親釈は 「所取と能取との分別あり」とするに対しのの側に知る働も含まれていることに注意 しなければならぬ。2024/10/22 21:23:13927.パjObbE第三偶の識生変二似義 有情我及了一此境実非レ有 境無故識無 (玄)塵根我及識 本識生似レ彼但識有無レ彼 彼無故識無 (真)このことを明に示している。 チェルバッキーはこれを、~と訳している。1外的対象 (義、 塵) と2身体 (根) と3我と4識とは実在するものでなく、単に識の似現せるものとして、言わば識の影にすぎない。本来は存在しないこれらの四つに似て現ずるも の、それが虚妄分別である。識の似現せる四つの中、 義と根とについては、識 の似現せる対象、 即ち識によって投げ出された対象の意義は理解され易い。ところが、我と識とはむしろノエシス面に属し、 似現せる対象の意義は義と根ほど明確ではない。我と了とについて、世親釈 (玄弊訳)は、、変二似我一者。謂染末那与二我痴等一恒相応故。変二似了一者謂余六識了相麓故。と説き、我に似て現ずとは我痴等と恒に相応する染汚の末那であり、了に似て現ずとは了別の働の麓なる前六識であるとしている。しかもこれらの二が塵と根と等しく所取であるとして、2024/10/22 21:23:29928.パjObbEhttps://www.jstage.jst.go.jp/article/jeb1947/1964/66/1964_66_1/_pdf/-char/ja2024/10/22 21:35:27929.パjObbE立正大学学術機関リポジトリhttps://www.google.com/url?sa=t&source=web&rct=j&opi=89978449&url=https://rissho.repo.nii.ac.jp/record/7410/files/083_%25E7%25AC%25AC8%25E5%258F%25B7_%25E4%25BA%258C%25E5%258F%2596%25E3%2583%25BB%25E4%25BA%258C%25E5%2588%2586%25E8%25AB%2596.pdf&ved=2ahUKEwjerMDq86GJAxWdsFYBHZvmDBIQFnoECC0QAQ&usg=AOvVaw2HzX0a2xpvIrk9y-250sdk二取・二分論勝呂信静 著?1982?唯識説において、二取(能取・所取)’ 1 1 ’ g R (見分・相分)をどのように理解するかということは、唯識説理解の根本にかかわる問題論である。数年前にもこの問題について論議がなされた。くり返しぜられて来たこの問題を再び取りあげるのは蛇足であろうが、多少の私見があるので、以下に述べてみたい。二取・二分の概念は’大体において、主観と客観あるいは認識作用(ノエシス)と認識対象(ノエマ)にあたるものである。唯識教義において一般に問題になるのは、二取・二分が、遍計所執性に属して非有と見られるものであるか、あるいは依他起性に属して実有なるものであるかということである。2024/10/22 21:36:49930.パgRX6V『中辺分別論』及び『中辺分別論釈疏』第I章「相品」校訂テキスト及び翻訳研究?はじめに北山祐誓https://www.google.com/search?q=%E6%89%80%E5%8F%96%E8%83%BD%E5%8F%96&client=ms-android-samsung-ss&sca_esv=0a37820849624505&sxsrf=ADLYWILF7Yiea7ge-vzcmrT38L79KdwfMQ%3A1729613631037&ei=P88XZ9z-AdrR1e8P577Z4QE&oq=%E6%89%80%E5%8F%96%E8%83%BD%E5%8F%96&gs_lp=EhNtb2JpbGUtZ3dzLXdpei1zZXJwIgzmiYDlj5bog73lj5YyCBAAGIAEGKIEMggQABiABBiiBDIIEAAYgAQYogQyCBAAGKIEGIkFMggQABiiBBiJBUjPWVC1EViST3ACeAGQAQCYAcoBoAHfDKoBBTAuOS4xuAEDyAEA-AEBmAIMoAKaDsICChAAGLADGNYEGEfCAgcQABiABBgXmAMAiAYBkAYEkgcFMi44LjKgB74X&sclient=mobile-gws-wiz-serp#vhid=zephyr:0&vssid=atritem-http://www.jits-ryukoku.net/data/23/ick23_kitayama.pdf&ip=12024/10/23 15:29:00931.パgRX6V1 虚妄分別1.1 有と無の相(sadasallaks .an .a)1.1.1 『中辺論頌』第1偈:虚妄分別における有と無81それ(本章に先立つ〈論の体〉で説かれた七つの主題)のうち、[最初に]相について述べる。『虚妄分別はある。そこに二つのものは存在しない。』『けれども、そこに空性は存在する。それ(空性)にはまたそれ(虚妄分別)が存在する。』●(I.1)こ[の偈]において、≪虚妄分別≫とは、【所取・能取】を【分別する】ことである。二つのものとは【所取と能取】とである。【空性】とは、その【虚妄分別】が【所取・能取】という【あり方を離れ】ていることである。それにはまた、それが、存在するとは、≪空性においても≫【虚妄分別】が【存在すること】である。「XがYに存在しないとき、YはXという点で空である、とありのまま観察する。一方、まだここ(Y)に何らかの残されたもの(Z)があるならば、それ(Z)は存在するものとしてここ(Y)にある、とありのまま了知する」(6)。以上、空性の相が顛倒なく明らかに示されたのである。1 虚妄分別1.1 有と無の相1.1.1 『中辺論頌』第1偈の解釈1.1.1.1 第一に相を説示する理由そ[の七つの主題]のそのうち、[最初に]相について述べる。●83 虚妄分別はある。そこに【二つのものは存在しない】。けれども、そこに【空性】は【存在する】。【それ=空性】にはまた【それ=虚妄分別】が存在する。そのうちとは、相や障などの七つの主題(vastu)が説かれたうち(17)、[最初に]相を主題として、すなわち標示して(18)、虚妄分別は(I.1a)云々と言う。標示されている通りに[その]解説はあるから、最初に相が標示されているので、まさにそれ(相)について、[それ]以外のものよりも先に解説を開始するのである。2024/10/23 15:30:03932.パI79xJp97『中辺分別論』及び『中辺分別論釈疏』第I章「相品」1.1.1.4.3 中観派及び説一切有部両派との対論(第1偈c句)●ある者たち(中観派)は、【所取・能取という】二つのものが存在しないことは、石女の子のように、【断という性質】のものであると把握する。●別の者たち(説一切有部)は、【内的作者】を欠いていることが【諸法の空性】であると言う。したがって、【中観派の主張するような≪空性≫ではない、真実の】空性の損減を否定するために、また【説一切有部の主張するような≪無我≫ではなく】真実の無我を説示するために、けれども≪そこに空性は存在する≫(I.1c)と言う。●1.1.1.4.4 【解脱の努力の必要性】について(第1偈d句)【反論】もし【虚妄分別】において【空性】があるなら、そのような場合、あらゆる生類が≪努力することなく解脱する≫ことになってしまう。【答論】それはあり得ない。なぜなら、【それ=空性】にはまた【それ=虚妄分別】が存在する(I.1d)からである。なぜなら、【空性が浄化されない限り】【解脱はあり得ず】また【煩悩に】【汚染されたもの(空性)】は≪大変な努力によって≫浄化されるものであるから、【努力なくして】≪解脱することはあり得ない≫のである。2024/10/23 16:26:52933.パLNLkW毘婆沙師の学説https://www.mmba.jp/archives/30606果の規定 三乗道の各道それぞれに、資糧道・加行道・見道・修道・無学道という道の規定を承諾しているが、十地の慧は主張しない。十六刹那の智・忍のうち、前十五刹那は【見道】であり、第十六刹那道類智は【修道】であり、ちょうど山羊たちが列をつくって順々に橋を渡っていくように順次生じてゆくと主張している。道諦であるからといって、識であるわけではない。無漏の五蘊をも道諦であるとするからである。≪声聞の種姓をもつ者≫は無常等の十六行相を【三度転生】する間に【修習】する。● そして【最終的】に!声聞 修道の【金剛喩定】において≪【 有 染 汚 障 】を 【得ること】を【止める】≫という方法によって【断尽】し≪【阿羅漢果】を現証する≫ーーーこの意味を良く吟味される必要がある阿羅漢果へ至る道とは何であるのか?それを解るには【 有 染 汚 障 】を【得ること】を【止める】この一事が何を言うのか?何をするのか?という事を、良く良く考え理解することが求められるでしょう2024/10/28 00:55:05934.パHCtg9毘婆沙師の学説クンケン・ジクメワンポ/野村正次郎訳● 破壊されたり知で分解された時に、それであるとする知を捨て去り得る法として認知されるもの、これが世俗諦の定義である。定義基体は、たとえば陶瓶や数珠である。陶瓶を槌で破壊する時、陶瓶であると捉える知は捨てられるからであり、数珠の珠を分解した時、数珠であると捉える知は放棄されるからである。● 破壊されたり知で分解された時に、それであると捉える知を捨て去り得ない法として認知されるもの、これが勝義諦の定義である。定義基体は、無方分極微無刹那分認識無為虚空等である。●『倶舎論』で、破壊されたり知でそれ以外のものを排除した時それであるとする知が働かなくなるようなものこれは瓶のなかの水のように世俗として有るそれ以外のものは勝義として有るものであると説かれるからである。以上のことから諸々の世俗諦は勝義不成立だが、真実成立であると主張する。この教義は、事物であれば真実成立である、と承諾するからである。2024/10/28 16:57:55935.パHCtg9● 所縁や相応者の何れかで、漏が増加し得る法、これが【有漏】の定義である。定義基体は、たとえば【五蘊】である。所縁や相応行の何れによっても漏が増加し得ない法、これが【無漏】の定義である。定義基体はたとえば【道諦】【無為】である。『倶舎論』で、【道以外の有為】は【有漏】である。【無漏】はまた【道諦と三無為】であると説かれるからである。【有漏】であれば【所断】である。≪資糧道・加行道≫は【所断】であるからである。● 【見道は無漏】のみであり、【修道】と【無学道】との二つにはそれぞれ【有漏道・無漏道】の二つずつが有る。【聖道であれば無漏】であるが、【聖者相続道】であるからといえ必ずしも無漏ではない。修道者の相続上の【寂静麁重相】を有す道は有漏であるからである。2024/10/28 17:44:56936.パHCtg9しゅしょだん出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』修所断bhāvanā-prahātavya: bhāvanā-heya(S) 修所断法・修断・修道所断ともいう。修道で断じられるもの(煩悩・随眠・結・惑など)。真理(諦)を見ることによって断じられる後天的に身につけた知的な迷い以外の迷い。先天的に身についた煩悩。 『婆沙論』〔『婆沙』77、T27-397a〕では、修所断法とは、十随眠と、それと相応する心心所と、それによって等起される身業と語業と、それによって等起される不相応行と、不染汚の諸の有漏法とであると説かれる。云何修所断。(中略)謂、得見道後、見所断相違、諸有漏法、是修所断義。〔『雑集論』2024/10/28 17:46:23937.パHCtg9けんしょだん出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』見所断darsana-prahatavya: darsana-heya(S)● 見所断法・見断・見道所断ともいう。【見道】で断じられるもの。【真理(諦)を見ること】によって断じられるもの≪煩悩・惑・結・随眠・縛≫などあやまった教えを聞く、よこしまに思考するなどを原因として、【後天的に身につけた知的な迷い】、およびその【迷いから起こされる行為】をいう。『婆沙論』には【見所断法】として、【八十八随眠】と、及び彼と相応する【心心所法】と、彼によって等起(引き起こされる)される【不相応行】とが説かれる。● 見所断の義に見苦所断見集所断見滅所断見道所断の4種がある。【見所断の煩悩】は、【理知の面での煩悩】であるから、≪四諦の観知≫から生起する≪無漏の智慧≫によって、たちまち断ち切られる。問、見所断法云何。答、随信随法行現観辺忍所断。此復云何。謂、見所断八十八随眠、及彼相応心心所法、彼所等起不相応行、是名見所断法。〔『婆沙』77、T27-397a〕見所断義、謂、現観智諦現観、所応断義。〔『瑜伽』56、T30-608c〕云何見所断。(中略)謂、分別所起染汚見疑・見処・疑処、及於見等所起邪行・煩悩・随煩悩、及見等所発身語・意業。〔『雑集論』4,T31-711a〕2024/10/28 17:57:33938.パHCtg9不相応行● 五位の中の一つ。詳しくは、「心不相応行」「色不相応行」「非色非心不相応行」といい、存在(色)でも心でもない存在をいう。現代的なモノの見方でいえば、存在するものは物質存在か心による認識かいずれかであるが、説一切有部と唯識では、それら二つのものの何れでもないが、両者に関係する状態や性質を一つの存在(法)であるとみなして、これを不相応行と呼ぶ。物と心とを種々の方式に従って活動させる原理をいう。2024/10/28 18:09:50939.パBiOnv⑥唯識三十頌?28頌?【通達位】真見道と相見道【根本智と後得智】【令和5年03月21日】https://ameblo.jp/yk19610402/entry-12795085344.html●通達位を「見道?真理を見る?」とも言う。「真理を無分別智によって、照らすので、見道ともいう」「無漏の智慧によって、四聖諦を明確に観察する」?岩波仏教辞典?「見」は「見る」だが、「現れる」という意味もあるので、「道を見る」とも「道が現れる」とも取ることが出来る。●この「見道」を【1)真見道】【2)相見道】の二つに分ける。1)【真見道】は≪根本無分別智≫の働きです。【根本智】は真理と智慧とが一体となる側面で【見分はあるが、相分はない】段階である。2)【相見道】は≪後得無分別智≫の働きです。【後得智】は無分別の根本智を踏まえながら、再び【相分が顕れる】段階である。再び相分が顕れるとは、根本智の段階では、消滅していた相分が、再び一切法として現前することであり、菩薩の眼が一切衆生に廻らされることを表す。●『成唯識論述記』には、【真を証する】のを前として【俗を縁じる智を生じる】と言われている。【後得智】によって、菩薩の慈悲行が展開するのである。2024/10/30 21:40:51940.パfMeo6悟りは本心に目覚めることそれでは未だ根本的煩悩の元である無明は完全に解脱されていないので悟後の修行が必要と白隠さんは言う、無明とは何か?それは、にわかに湧きいでる妄想念の出処である、唯識で言うマナ識ここを平等性になるまで修行することが必要になります解脱とはこの無明を破壊し明慧として、そこから生じていた全ての煩悩を滅し、自らを解放し脱することただね、師匠が認めたからはい悟り!って訳じゃない正しく、自らに悟り現象が何回か起こって、そこで本来の面目を、自ら顕にし、自ら証することが現われる必要がありますそのような過程を踏むことが求められますまた解脱は、心と身体からの、解脱です心の空なるを知ると本来の自己に目覚めるが、身体由来の煩悩は残るのでそれで出家修行を釈尊はさせたそれでなければ、無明→行の、煩悩の根元を滅するに至らない2024/11/07 08:17:40941.パfMeo6十二因縁の支分は、無明→行→識→名色→六処→触→受→愛→取→有→生→老死の12個悟り現象は、この内の、【受~六処】を縁として【名色と識】の停止から、【行】の停止が一時的に生じ起こることですそれを端的に表しているのが、香厳撃竹の逸話などです師匠の一言も同じく【耳】からの音声を【受】けてのことその結果、無明から生じて来る、妄想念が一時的に滅されて、本心を悟りますがそれは一時的滅であるので、無明を完全に破壊するまでには至りませんそれには、行を滅して行くには、出家が必要となる、なので釈尊は出家させたのですね世間に居たのでは難しいからなのだと思います2024/11/07 08:17:51942.パWgY2Aつまり、覚醒時における、言語・論理・分析脳である【左脳】及び、司令塔脳の前頭前野が【1分別脳】であると普段は、情動的な動きとしてしか現れない無意識で潜在的な辺縁系と、映像的空間を認識する右脳の合わさった【2無分別脳】が1と2が共に意識されて、共同で働くことが、悟った後の在り様ではないのか?と推論されます。前頭前野https://bsd.neuroinf.jp/wiki/%E5%89%8D%E9%A0%AD%E5%89%8D%E9%87%8E脳は、大きな一つの塊ではなく、異なった機能を持ついくつかの領域に分かれてます。●その中の1つに、額のすぐ後ろ、脳の前の方にある前頭前野(ぜんとうぜんや)と呼ばれる場所があります。 前頭前野は、記憶や感情の制御、行動の抑制など、さまざまな高度な精神活動を司っている、脳の中の脳とも呼ばれている重要な場所です。●左脳は主に、言語処理や論理的思考、数学的な活動に関わっているためです。 左脳派の人は、データを冷静かつ客観的に評価し、論理的に説明する能力が高いです。 そのため、分析結果から的確な判断をしたり、自分の意見をわかりやすく伝えたりすることが得意です。2024/11/11 15:03:15943.パWgY2A●つまり、覚醒時における、言語・論理・分析脳である【左脳】及び、司令塔脳の前頭前野が【1分別脳】であるとし別に、普段は、情動的な動きとしてしか現れない無意識で潜在的な辺縁系と、映像的空間を認識する右脳の合わさったのが【2無分別脳】だと●その1と2が共に意識されて、共同で働くことが、悟った後の、在り様ではないのか?と推論します。前頭前野https://bsd.neuroinf.jp/wiki/%E5%89%8D%E9%A0%AD%E5%89%8D%E9%87%8E脳は、大きな一つの塊ではなく、異なった機能を持ついくつかの領域に分かれてます。●その中の1つに、額のすぐ後ろ、脳の前の方にある前頭前野(ぜんとうぜんや)と呼ばれる場所があります。 前頭前野は、記憶や感情の制御、行動の抑制など、さまざまな高度な精神活動を司っている、脳の中の脳とも呼ばれている重要な場所です。●左脳は主に、言語処理や論理的思考、数学的な活動に関わっているためです。 左脳派の人は、データを冷静かつ客観的に評価し、論理的に説明する能力が高いです。 そのため、分析結果から的確な判断をしたり、自分の意見をわかりやすく伝えたりすることが得意です。2024/11/11 15:12:28944.パvOWgt大獅子吼経そこで比丘たちよ、わたしは正念によって完全に清められたサマディの第四段階に入ってとどまった。そして、このように心が統一され、清浄であり、純粋であり、汚れなく、塵芥なく、柔軟であり、かつ機敏であり、安定して不動を得た時、つぎにわたしは(夜の初更において)過去世の記憶を生起する智慧に心を傾けたのである。それは、無数に配置された過去の生存の場面。すなわち、一つの生涯、二つの生涯、三つの生涯・・・十の生涯、二十の生涯、数百の生涯、数千の生涯、数万の生涯、無数の宇宙生成期、無数の宇宙破壊期、また幾多の宇宙成立破壊期にわたり、『 そこでは、私はこのような名称でありこのようなカーストでありこのような食物を摂取しこのような苦楽を感受して過ごしこのような寿命を終えて死んだそこで死ぬと、次にかしこに生じた 』と、無数の生涯における記憶を生起した。このように、わたしは、あらゆる状況と共に、かつ詳細にわたり無数に配置された過去の生存の場面を思い起こしたのである2024/11/16 14:42:11945.パvOWgtbyホワイト・ターラー貪りが尽きると解脱が待っているこのプロセスを1サマディ2如実知見3厭離4離貪5解脱と呼びここをお釈迦様はこう解説しています。『 修行者よ、ではその滅尽の前提条件とは何か?5●それは解脱であるとわたしは言う。解脱もまた前提条件があり、無条件ではないのである。では解脱の前提条件とは何か?4●それは離貪であるとわたしは言う。そして離貪もまた前提条件があり、無条件ではないのである。では離貪の前提条件とは何か?3●それは厭離であるとわたしは言う。そして厭離もまた前提条件があり、無条件ではないのである。では厭離の前提条件とは何か?2●それは如実知見であるとわたしは言う。そして如実知見もまた前提条件があり、無条件ではないのである。では如実知見の前提条件とは何か?1●それはサマディであるとわたしは言う。2024/11/16 14:45:36946.パvOWgt無常経修行者たちよ、君たちは色(物質)は無常であると見よ。このように観ることを【正観】すると言うのである。正観を達成したものは必ず【厭離】する。厭離する者は【喜貪が尽きる】。喜貪が尽きた者は【心解脱】するのである。同じ様に【受想行識】を【無常である】と見よ。このように【正観】を達成したものは【心解脱するかのである。修行者たちよ!この時もし【自らの本性】を知りたいと欲したならば【自らの本性(真我)】を理解するであろう。そして、わたしの転生は尽き、梵行已にたち、所作已に無し自ら後有を消滅させたと知るのだ。2024/11/16 14:46:25
【国民民主党】玉木代表 加熱する不倫報道に「家族の心理的負担は極めて大きい」「テレビや週刊誌やネットも見てしまって、その都度傷ついている」ニュース速報+8117892024/11/21 19:39:35
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あなたは一念三千の法門と円融三諦、一心三観とが別ものだとお考えなのでしょうか?
https://cdn.wikiwiki.jp/proxy-image?url=http%3A%2F%2Fhokekyou.up-jp.com%2Fwp-content%2Fuploads%2F2022%2F04%2Fsansanzu.jpg
↓仏教学の大野榮人博士(号)がまとめられた『法華玄義』の研究という研究論文の中で紹介されている三諦互融の図。
https://cdn.wikiwiki.jp/proxy-image?url=https%3A%2F%2Fhokekyou.up-jp.com%2Fwp-content%2Fuploads%2F2019%2F11%2Fennyuusanntai.jpg
此の妙法を仏説いて言く「道場所得法・我法妙難思・是法非思量・不可以言宣」云云、天台の云く「妙は不可思議・言語道断・心行所滅なり法は十界十如・因果不二の法なり」と、三諦と云うも三観と云うも三千と云うも共に不思議法とは云えども天台の己証天台の御思慮の及ぶ所の法門なり、此の妙法は諸仏の師なり今の経文の如くならば久遠実成の妙覚極果の仏の境界にして爾前迹門の教主・諸仏菩薩の境界に非ず経に唯仏与仏・乃能究尽とは迹門の界如三千の法門をば迹門の仏が当分究竟の辺を説けるなり、本地難思の境智の妙法は迹仏等の思慮に及ばず何に況や菩薩凡夫をや、止観の二字をば観名仏知・止名仏見と釈すれども迹門の仏智仏見にして妙覚極果の知見には非ざるなり、其の故は止観は天台己証の界如三千・三諦三観を正と為す迹門の正意是なり、故に知んぬ迹仏の知見なりと云う事を但止観に絶待不思議の妙観を明かすと云えども只一念三千の妙観に且らく与えて絶待不思議と名けるなり。
「思うんです」ではなく、根拠を示されて下さい。
>三諦は存在のあり方の言辞ですから十如是に内包されます。
三諦が十如是に内包するなど始めて聞きましたが、どこにそのような解説(論書)がありますか?
タコ介🐙さぁ?
コテをスレタイにつけるのはアウトじゃないのか?
削除依頼出しとけ。
そう思われるのでしたらご自分で削除依頼を出されて下さい。
妥当な判断かと思います。
三諦は十如是に内包される=同一内カテゴリー
タコ介🐙さぁ?
コテをスレタイにつけるのはアウトじゃないのか?
削除依頼出しとけ。
(二回目の警告)
そう思われるのでしたらご自分で削除依頼を出されて下さい。
(二回目の回答)
タコ介🐙さぁ?
コテをスレタイにつけるのはアウトじゃないのか?
削除依頼出しとけ。
(三回目の警告)
そう思われるのでしたらご自分で削除依頼を出されて下さい。
(三回目の回答)
(二回目の質問)
お前、削除依頼のやり方を知らないんだろ?
削除しろ!
(四回目!!!!!)
タコ介🐙!!!
荒らしが削除依頼するなんて聞いたことがありません!
ひろしです、、、。
https://i.imgur.com/F6wR4sc.jpeg
webでtalk掲示板のこのスレにアクセスして、赤マルの・・・をクリックすれば削除依頼フォームが出てくるんだよ、
やれ!
自主的に削除すれば許してやる。
(警察や運営には通報しない)
荒らしが警察や運営に通報するなんて聞いたことがありません!
ひろしです、、、。
やり方は教えたし四回警告したからな。
要件は十二分に揃ったから。
「削除依頼を代わりに出して下さい」
とお願したら出してやるから😟
その代わり規制を喰らっても知らないけどな。
荒らしがわたしに説教するとです!
ひろしです、、、、、。
また、もう一人悪質な糞が居たけど、警察と法務局、業界団体と運営に通報したけどな。
↓
https://i.imgur.com/miGt95I.png
それから奴を見てないし、talk掲示板が出来たけどな。
🐙🐙🐙🐙🐙🐙🐙🐙🐙🐙🐙🐙
糞スレにつき、終了致しました。
👻👻👻👻👻👻👻👻👻👻👻👻
wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
荒らしが鼻毛を伸ばして追っかけてくるんです!
奇妙でなりません!
ひろしです、、、、。
荒らしの通報を真に受ける警察官や運営スタッフって
間抜けでしかありません!
ひろしです、、、、、。
ラピスも消えた奴も最初はそう強がってたよ😟
こんな掲示板に未練などありません、、、。
まともな人間とはまだ一度も出会ってなかとです!
ひろしです、、、、、。
荒らしが偉そうなことばかり言うとです!
ひろしです、、、、、。
いつも立ってた
「鹿野園を素通りだいっ!」
だった
ママンの闇から
卒業して
清められましせう
🐕🦺
🐕🦺🐕🦺🐕🦺🐕🦺🐕🦺
そりゃ、乱立したからだろ
wwwwwwwwwwwwwwwwww
ばーかwww
削除されたのはコテハンをスレタイにした糞スレだろうがw
とうとう認知症も併発か、知障www
頑張れ!
応援してるぞ!!
wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
🐕🦺
🐙🐙🐙🐙🐙🐙🐙🐙🐙🐙🐙🐙
糞スレにつき、終了致しました。
👻👻👻👻👻👻👻👻👻👻👻👻
wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
清めよ〜〜う
🐩🐩🐩
調子に乗ってると、アク禁になるぞ
反対っ!!
🐕🦺🐕🦺🐩🐩
ユーザー
鹿野園◆00MWura8lSZF
まぁ、ここはtalk宗教板の絶対不倒の最高権威スレだからなぁwww
2023/08/26 15:02:23
zc0lH
【全宗教歓迎】悟りをひらいた人のスレ848【talk掲示板】
https://talk.jp/boards/psy/1691885308
実は、十如是の「相・性・体」が「仮・空・中」にあたります。
仮=相
空=性
中=体
凡夫の十如是の場合、次の三如是を本として残りの七如是が起こります。
<迷いの凡夫=無明>
仮観=客観 ---(相)
空観=主観 ---(性)
中観=実体 ---(体)
しかし、仏門に入ってを縁起を覚ることでこれが次のように変ります。
<覚りの凡夫=仮諦>
仮諦=色即是空 ---(此縁性縁起)
空諦=空即是色 ---(相依性縁起)
中諦=色即是空 空即是色
<覚りの凡夫=仮諦>
仮(相)=応身 ---(実在の釈迦)
空(性)=報身 ---(報身として法を説く釈迦=観音菩薩)
中(体)=法身 ---(法身として法を説く釈迦=大日法身)
<覚りの凡夫=仮諦> → <仏の三身=空諦>
<如来の三身>
仮(相)=応身如来 ---(縁因仏性)
空(性)=報身如来 ---(了因仏性)
中(体)=法身如来 ---(正因仏性)
ご祈祷よろ〜
954.
ユーザー
鹿野園◆dqam8SqGUPdm
うむ、talk掲示板の宗教板はこのスレが全てを制圧した😚
楽勝だったなwww
2023/08/26 16:47:56
LFWYM
955.
ユーザー
鹿野園◆dqam8SqGUPdm
他のスレは全て雑魚☺️
2023/08/26 16:48:23
LFWYM
その雑魚スレに埋もれてしまっている
talk宗教板の絶対不倒の最高権威の【全宗教歓迎】スレ
これが三種・三観の内容となります。
<覚りの凡夫=仮諦>
仮諦=色即是空 ---(此縁性縁起)
空諦=空即是色 ---(相依性縁起)
中諦=色即是空 空即是色
<仏の三身=空諦>
仮(相)=応身 ---(実在の釈迦)
空(性)=報身 ---(報身として法を説く釈迦=観音菩薩)
中(体)=法身 ---(法身として法を説く釈迦=大日法身)
<如来の三身>
仮(相)=応身如来 ---(縁因仏性)
空(性)=報身如来 ---(了因仏性)
中(体)=法身如来 ---(正因仏性)
<仮一切仮>
仮(相)=応身如来 ---(縁因仏性)①
仮(相)=応身 ---(実在の釈迦)A
仮諦=色即是空 ---(此縁性縁起)(ア)
<空一切空>
空(性)=報身如来 ---(了因仏性)②
空(性)=報身 ---(報身として法を説く釈迦=観音菩薩)B
空諦=空即是色 ---(相依性縁起)(イ)
<中一切中>
中(体)=法身如来 ---(正因仏性)③
中(体)=法身 ---(法身として法を説く釈迦=大日法身)C
中諦=色即是空 空即是色(ウ)
『法華経』の方便品の十如是の三編読みの「仮諦読み」がこれにあたります。
>>81 の<空一切空>で立ち上がる世界観を五陰世間といい、
>>84 の<中一切中>で立ち上がる世界観を国土世間といいます。
ユーザー
鹿野園◆dqam8SqGUPdm
しかし不思議なもので、鈴木先生の本にも同じ内容と説明があったのに、先人である高崎先生の本で氷解するとは。
ともあれ、本件については一応、一件落着。
2023/08/27 12:19:08
xgQmu
31.
ユーザー
鹿野園◆dqam8SqGUPdm
ただ後は、如来法身の「常住・堅固・寂静・恒常」性、つまりそれはアートマン(真我)に他ならないのですが、それがどういうことなのか、要するにアースティカ・六派哲学でいうもの(アートマン・ブラフマンの肯定)なのか、それをおいおい考えてみようと思います。
2023/08/27 12:31:02
c48wH
ユーザー
鹿野園◆dqam8SqGUPdm
補足すると、昨今の研究成果では鈴木隆泰先生が『内在する仏 如来蔵 (思想としてのインド仏教)』で、如来蔵思想の抱えている修道論や構造論上の問題の解決を経典成立史の中で紐解き、その解決を「大法鼓経」に見出されています。
以下、私の勝手な覚え書き🤤
衆生は内なる如来蔵・仏性は等質性を有していても未だに如来法身ではない(四句※が冠されていないので)。
※四句〜常住・堅固・寂静・恒常
可能性〜仏性・如来蔵≠如来法身(常住・堅固・寂静・恒常)
等質性〜アートマン=如来法身(常住・堅固・寂静・恒常)
三時教判〜無我・空性・不空
2023/08/27 12:14:44
xgQmu
😄
細かい正誤は突っ込みが入るから
それも考慮にいれていけば理解がより深まる
シカーチンの中から
追い出そう〜
🐕🦺🐕🦺
正気に
戻っておくんなせえ〜〜
🙏🙏🙏🙏🙏🙏🙏
その意識を伸ばしていく
意識を伸ばすってのはまあ宇宙に、または大地に伸ばすイメージ
快楽で言うなら丹田で練った気を会陰にもっていき会陰の先にボールをイメージして会陰の気をボールに伸ばして当たるか当たらないかのところを行き来していると気持ち良いwww
それはさておきそのような感じで意識を伸ばしていくとその先にあるのが所謂
真如、やブラフマンだそう
その前に空間と識の無限にぶつかる
ここがまず壁
ここをこう発想の転換、横道、価値観の破壊、真如から援助をもらうことで突破出来る
シカーチン供養スレだが、
ほーかいくんお館様は
静かである
😄
しっかりと御祈念してきます!
ペット🐕🦺供養〜
🐕🦺🐕🦺
🐕🦺
🐕🦺
あげ
🐕🦺
しっかりと御祈念してきます!
そもそも宗教を愛する熱意がある情熱がある
発言してる相手の心の奥にある真意をみるようにすると良いのかな
そもそも宗教を愛する熱意がある情熱がある
発言してる相手の心の奥にある真意をみるようにするといいのかな
再訂正っす
😄
ユーザー
法介◆T3azX0Hk1U
訂正します。
鹿野園さはおバカさんですか?
↓
鹿野園さは五姓各別の意味も理解出来ないおバカさんですか?
2023/08/28 10:55:04
EJGCp
592.
ユーザー
神も仏も名無しさん
仏教入門を10年読みこなしてから語ってくれないか?
何でこんな超低次元の話をして説明するしなきゃならんのだ?
2023/08/28 10:57:13
7XaZZ
🐕🦺
603.
ユーザー
神も仏も名無しさん
>>597
?????
日本語で分かりやすく質問しなさい。
2023/08/28 11:10:32
7XaZZ
604.
ユーザー
法介◆T3azX0Hk1U
(しょーもない突っ込みしかしてこない、、、、)
2023/08/28 11:10:38
EJGCp
605.
ユーザー
法介◆T3azX0Hk1U
(日本語も分かんなくなっちゃたんだってよー)
2023/08/28 11:11:18
EJ
🐕🦺🐕🦺
608.
ユーザー
神も仏も名無しさん
タコ介🐙くん、君、唯識関係の本何冊読んだの?
私は100冊は読んでると思うけど?
きみの仏教理解は余りにも酷い。
いや、酷すぎるぞ?
こういう宗教板はms-dos時代からやってるが、君みたいなのは類を見ないのだが?
まぁ、鬼子という統失が過去にいて、君と同じ様に支離滅裂だったけど、君はそれを上回ってるんだが?
2023/08/28 11:15:30
🐕🦺🐕🦺🐕🦺🐕🦺
611.
ユーザー
神も仏も名無しさん
そもそも君は何処で仏教を習ったのかね?
僕は大学と研究機関だけど?
2023/08/28 11:17:54
7XaZZ
シコシコブンブン糞銀蝿の統失知障の馬鹿でおーは、いちいち統失知障のホラーマンタコ介🐙の妄想をチンコロしなくていいから😂
まぁ、確かにでおーのレベルじゃタコ介🐙にしてやられるのは明白だし、頼りにしてくるのも理解出来なくはないけどな😟
611.
ユーザー
神も仏も名無しさん
そもそも君は何処で仏教を習ったのかね?
僕は大学と研究機関だけど?
2023/08/28 11:17:54
7XaZZ
612.
ユーザー
神も仏も名無しさん
狂ってるな😟
2023/08/28 11:19:49
7XaZZ
613.
ユーザー
法介◆T3azX0Hk1U
(都合が悪くなってきたもんだから話をそらしにかかったな)
2023/08/28 11:19:51
🐕🦺🐕🦺
供養していきましょう。
ユーザー
神も仏も名無しさん
またまたまたまた、タコ逃げ🐙
タコ壺引き篭もりですかwww
ユーザー
神も仏も名無しさん
wwwwwwwwwwwwwwwwww
タコ逃げ🐙中か www
ユーザー
神も仏も名無しさん
つまり、ここはタコ介🐙のタコ殴りスレになってる😂
まぁ、それが趣味で快感を覚えてるのかも知れないけどな😂
ユーザー
神も仏も名無しさん
>>671
誰もお前の間違ってた妄言なんて聞きたくないんだよ。
でも放置するのも仏教的にはよくない事だからこうやって涙を飲んで、嫌われるのを承知で指摘してるんだよ。
勘違いするな、タコ介🐙
ユーザー
神も仏も名無しさん
>>670
wwwwwwwwwwwwwwwwww
正しい事を間違ってるって指摘しないだろ?
ここのレス数はお前の誤謬に正比例しているだけだろ?
wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
ユーザー
神も仏も名無しさん
なぁ、タコ介🐙?
あなたは自説が否定されるのをあたかも人格の否定の様に吹聴して被害者振っているが、だったら、我々大勢の普通の者が通説として受け入れて来た事を、その様に何の根拠もなく馬鹿みたいに否定する事はどう思うんだ?
何か勘違いをしてないか?
おかしいと思わないのか?
ユーザー
神も仏も名無しさん
>>656
>いいじゃないですか、それはそれで鹿野園さんの考えで御立派なお考えをおもちですね。
?????
俺の自説ではなくて通説だ、タコ介🐙
ほんとタコだなぁ🐙🐙🐙
ユーザー
神も仏も名無しさん
で、仏教は何処で学んだの?
唯識関係の本は何冊読んだの?
wwwwwwwwwwwwwwwwww
ユーザー
神も仏も名無しさん
>>649
>そもそも、ご自分が反論をされておられるにも関わらず、根拠は自分で調べろとは如何様なる常識をもって言われておられるのでしょうか?
はぁ?
反論も何も、阿頼耶識縁起と如来蔵縁起の違いも知らないで、阿頼耶識が仏性とかほざいてたのは誰だよ?
笑わせるな、タコ介🐙
だから、タコ介🐙なんだよ、タコ介🐙🐙🐙🐙
🐕🦺供養の
お焚きあげだ〜
😄
956.
ユーザー
鹿野園◆dqam8SqGUPdm
ハローワークに行きなさい🏢 🚶💨💨💨 🤭
2023/08/29 06:44:13
gHcg6
ユーザー
鹿野園◆dqam8SqGUPdm
精神病院に行きなさい🏥 🚑💨💨💨 🤭
2023/08/29 06:39:39
gHcg6
お焚きあげ〜〜
51.
ユーザー
◆JBLfMwCXhY
鹿野園は、一足お先に働かなくなった
2023/08/29 08:16:17
EZZry
52.
ユーザー
◆JBLfMwCXhY
いつも、ヒマそうにしている
2023/08/29 08:16:33
EZZry
ユーザー
鹿野園◆dqam8SqGUPdm
タコ介🐙くん!
世の中を舐めてはダメですよ🤫
2023/08/29 09:43:42
gHcg6
ユーザー
鹿野園◆dqam8SqGUPdm
wwwwwwwwwwwwwwwwww
タコ介🐙が異常に興奮して熱くなっていて草
先ずハローワークに行きなさい 🏢 🏃💨💨💨 🤭
そして世の中の現実を見て来なさい🤭
タコ壺に引き篭もってブヒブヒ鳴いてても世の中は変わりませんからね🥰
2023/08/29 09:41:04
gHcg6
ユーザー
鹿野園◆dqam8SqGUPdm
>>177
???
おまえ、そろそろ脳なしだろ?
wwwwwwwwwwwwwwwwww
2023/08/29 10:50:39
gHcg6
ユーザー
鹿野園◆dqam8SqGUPdm
訂正
180:鹿野園◆dqam8SqGUPdm:2023/08/29(火) 10:50:39.66 ID:gHcg6
>>177
???
おまえ、そもそも脳なしだろ?
wwwwwwwwwwwwwwwwww
2023/08/29 10:51:03
gHcg6
ユーザー
鹿野園◆dqam8SqGUPdm
タコ介🐙くん……
タコ殴りにあって脳まで崩壊してるし😆
2023/08/29 10:52:29
gHcg6
悔しくても捨てるが勝ちです。
悔しレスを輪廻させてどうするんですか⁉️
ユーザー
鹿野園◆dqam8SqGUPdm
タコ介🐙が悪質なのは、妄説を通説にブレンド・埋伏させて吹聴する事な。
まぁ、5chにも悪意的に通説七割嘘三割をこれが通説だとか言ってた奴がいたけどな。
2023/08/29 17:09:47
qaCF9
2度見たら阿頼耶識へ戻るよー
この文章が現象した→忘れる→阿頼耶識から消える
ところが
この文章が現象した→もう一度見た(執した)→阿頼耶識へ戻って種子になる。
っでまた、現象する‼️
ユーザー
鹿野園◆dqam8SqGUPdm
あれぇ?
何処の知障だったっけ?
末那識は仏の意識とか妄言していた奴?
法介さん、知らない?
wwwwwwwwwwwwwwwwww
2023/08/29 17:19:26
qaCF9
ユーザー
鹿野園◆dqam8SqGUPdm
タコ介🐙さぁwww
あなた息を吐く様にデタラメを言うんだねwww
2023/08/29 17:31:01
qaCF9
ユーザー
鹿野園◆dqam8SqGUPdm
タコ逃げか🐙
2023/08/29 18:07:40
6cO2r
ユーザー
鹿野園◆dqam8SqGUPdm
まるでデタラメレスのヒット&ウェイだな🤭
2023/08/29 18:09:18
6cO2r
ユーザー
鹿野園◆00MWura8lSZF
>>349(続き)
で、今度は大乗仏教の基本的な理路から😌
タコ介🐙が鹿野園の返レスを見て怒髪天を突いたとしましょうwww
それは「怒り💢のダルマ(法)」が現在という一瞬だけ生じて消滅する(刹那生滅)と説きます。
これを現在有体過未無体って云うんですけどね。
つまり実体がないって事なんです。
だって、一瞬だけ生じてすぐに滅するからね❤
お・し・ま・い😘
2023/08/29 21:41:58
gHcg6
ユーザー
鹿野園◆00MWura8lSZF
>>356
>私がこちらの説明を紹介しましたのは五蘊の働きを正しく理解して頂こうと思ってからです。
気持ちはありがたく頂いてはおくけど・・・
今更そういう次元じゃないので。
2023/08/29 21:44:15
gHcg6
ユーザー
鹿野園◆00MWura8lSZF
www
発狂してやんの😝
2023/08/29 21:49:08
gHcg6
ユーザー
鹿野園◆dqam8SqGUPdm
>>399
今すぐ精神病院に行きなさい。
🏥 🏃💨💨💨 🤪
2023/08/30 07:09:29
Ood3H
ユーザー
鹿野園◆dqam8SqGUPdm
463:法介◆T3azX0Hk1U:2023/08/30(水) 08:07:28.89 ID:Gylk1
>仕事もしないで一日中ネットに張り付き
ご自分の事を言われてますか?
わたしは主夫業をちゃんとやっておりますが?
2023/08/30 08:11:31
Ood3H
🐕🦺🐕🦺🐕🦺🐕🦺
🐕🦺🐕🦺
供養〜〜〜!
0162 鹿野園 ◆dqam8SqGUPdm 2023/08/27(日) 17:29:58.64
精神的畸形者の異常性は勿論、それを支持する奴等の素性も不気味だな。
何故でおーやタコ介🐙、ラピス等のキチガイの肩を持つのか理解できない。そういう連中はやはりキチガイ予備軍なんだろうな。
ID:/sxt0w2k(
𓃡𓃡𓃡𓃡𓃡𓃡
↑バカ犬(笑)
ほーかいくんに
パワーを
与えよ〜
😄
供養っ〜〜!
!!
以下の事由につき、削除願います。
↓
【固定ハンドル(Talk内)に関して】
■叩きについて
最悪板以外では全て削除します。
■スレッド
表示名が題名に入っている・表示名が占用している・閉鎖的な使用法を目的としている・等は、自己紹介板・最悪板・夢・独り言板・おいらロビー・なんでもあり板以外では、原則として全て削除対象にします。
ただし、個人が一群または二類に属する時は、他の削除規定に触れない限り様子見となります
>849:法介◆T3azX0Hk1U:2023/08/31(木) 15:13:31.43 ID:Tjk2j
>おまえのその腐った書き込みを見るぐらいだったら
>
>もう二度と
>
>ここへはこん。
先の約束を履行するという主旨に於いて、二度とtalk掲示板の宗教板には来ないという事で了解した。
177 名前:あぼ~ん[NGName:鹿野園</b>◆dqam8SqGUPdm<b>] 投稿日:あぼ~ん
My cute pet🥰
🐕🦺供養を
期待する汁〜〜〜
🥹
🐕🦺供養つ!!!!
ほーかいくんお館様復活を
祈って〜〜
🥹
でぇ丈夫だドラゴンボール(お題目)でいきけぇる
🐕🦺供養だっ!!!!!!!
🐕🦺🐕🦺
🐶
🐕
🐕
成仏供養〜〜
🐕🦺🐕🦺
しっかり御祈念して参ります!
祈願して
🐕🦺供養っ!!!!!
🐕🦺
今こそっ!
🐕🦺供養っ!!!!!
🐕🦺🐕🦺
🐕🦺供養っ!!!!!
🐕🦺🐕🦺
😭
地獄界へ行くよーーーに‼️
命令する(^-^ゞ
供養ー🙏します
😭
271:法介◆T3azX0Hk1U:2023/09/12(火) 17:53:17.79 ID:xxRJG
ジャッジが下ったんなら
これにて
ここを
去ります。
272:法介◆T3azX0Hk1U:2023/09/12(火) 17:53:48.33 ID:xxRJG
永久に。
276:鹿野園◆00MWura8lSZF:2023/09/12(火) 18:02:25.99 ID:pp4Do
タさんのジャッジを待つまでもなく、タコ介🐙はtalk掲示板の宗教板から永久に去ると宣言したな。
確認した。
タコ介🐙法介くん、
talk掲示板の宗教板を永久追放
糞スレ終了
**********************
イヌ供養っ!!!!
🐕🦺🐕🦺
🐕🦺
ワンマンライブが目立ってきた〜
金星人パワータイムだ〜
👽
大説法を
期待して〜
イヌ供養っーーーー!!!!!
🐕🦺🐕🦺
タコ介🐙法介くん、
talk掲示板の宗教板を永久追放
糞スレ終了
**********************
イヌ供養っ〜〜!!!!
🐕🦺🐕🦺
「若者たち」(2番)
君のあの人は 今はもういない
だのになぜ なにを探して
君は行くのか あてもないのに
https://www.youtube.com/watch?v=vW0-sRt0RYw
__}:^:ヽ , -  ̄  ̄ - 、
,イ:}\:::::::\ l" \
///:::::::\:::::::\ __,..... --,、__,ヘ --....... __ \
|:l {::::::::::::::ヽ::::::::}::::::::, ---/ ヾ=^ー- 、 ̄::::.-..... __ ヽ
. {:,ィ、ミx::::::::___ノ,.=く |,ィ――、} , -`ヽ\--- 、::::::: -..___,!
. ⌒|::l |;∠ -ァ._ノ -^ヽ V: : : : :ゝ==='": : \)、_ >、_:::::::::::}
. '⌒乂_ ノ: : : : : : : ` ̄´: : : : : : : : : : : : : : : : : : } : ̄`ヽ、} ̄ `ヽ
/,ィ: : : :.∥: /: : /:/ : : : : : : }: : :| l: :}: : : :|: : : : : : :`┬ 、 ! /::
_///: : : : :l{.:-l-- 、 {.: : : : : ;: :}, ---V \: :{: : : : : : : : :.、 ヽ! ./:::::
` ̄ /:∧: : : |^V==ミ、弋: : : ,イ / ,V=ミx |: ヽ}: : : : : : : : : \ノ./::::::_
|:/|:.ヽ: : l.ん:::::::::::Y \ノ l/ ん::::::::::Y , : : : : : : : : : : |: : : }└ '"
!' ノ: : \{乂:::::::::乂. 乂:::::::::乂|: : : :/: : : : : : :|、: :ノ
_ノ: : : : : 〉fつ ̄ ` ̄とつ:__/: : : : : : : :| V
/: : : : :r―≧s。 r‐ , __""ノ: : : : : : : : : 、 : : |
. ー―γ: :ゝ,------.≧==-- (___, ..: ´: : : : : :,/: : : : }、 : }`ー--- 、_
'´  ̄ / --く__;ィ__ノ{: : : / ノノ
`ー '
https://www.youtube.com/watch?v=8cN7LWGO-gE&list=RD8cN7LWGO-gE&start_radio=1&rv=8cN7LWGO-gE&t=16
🐕🦺🐕🦺🐕🦺🐕🦺🐕🦺🐕🦺🐕🦺
🐕🦺
https://www.youtube.com/watch?v=e6wMcCW3rg8&list=RDCMUCTRI9gzaa4xp1vBWBJf0VXg&index=10
「唯識三十頌」より、第三頌
不可知執受 處了常與觸
作意受想思 相應唯捨受
(現代語訳)
深層にある阿頼耶識の働きを知ることはできない。
阿頼耶識では常に,触(物理的、精神的接触)・作意(対象に向かって心が働く作用),
受(作意を受けての苦、楽等、様々な感情の働き)・想(触・作意・受を受けた時に浮かぶ印象)・思(意志)が働いている。
阿頼耶識に相応するのは捨受(苦でも楽でもない非苦非楽の感情)のみである。
第八識・第七識を深層識といっていますが、深層とはどのようなことを指していっているのでしょうか。
表層の識の底に深層の識が働いているということですが、第八識は、「此の識は身に於て、摂受し、蔵隠して、安危の義を同うするが故なり」と。
識体は、身と心は相応していることを表しているのでしょうね。
第八阿頼耶識の対象は、処と執受であることですが、深いですね。処は器世間、執受は種子と有根身です。心の深層では、識所変の世界は仏界を認識しているということなのでしょうか。
要するに、執着を超えて、本質を認識している、疎所縁を自らの心の中に種子として宿しているということになるのでしょうか。それが識体、
識体は共同安危であるということ、この共同安危が身と倶にある。大事な視点だと思います。
第八阿頼耶識には、能蔵・所蔵・執蔵という三義があるということですが、
三義を以て阿頼耶識を蔵識といわれているわけです。
能蔵は持種、種子を保持しているということ。寝ても覚めても隔てなく、捨てることなく、すべて種子として保持し続けているのが能蔵の意義です。
縁にふれれば何でも出てきます。理性では善悪を判断すると頑張っていてもですね、
「さるべき業縁のもよおし」があればですね、千人殺すこともあるわけです。
大切なことは、如何に善の種子を宿すかですね、聞熏習が大切な要素になると思います。
所蔵は、受熏、種子を溜め込んでいくという働きです。過去から現在までの経験のすべてを種子として溜め込んでいるという働きを所蔵と表されています。
そして、執蔵です。この執蔵が問題なのです。執するではなく、執されるものという意味です。
これは、第七識は第八阿頼耶識の見分を所縁として、自の内我とする、ということですが、
第七末那識によって執される識である、能蔵・所蔵も一切が第七末那識に執され現行するという意味を持っているということになりますね。
第七末那識に執着される性質をもっているということなのです。
この第七識と第八識との相応関係の上に、表層の六識が働いている、と教えられています。
「雑染の與に互に縁と為るが故に」
能蔵と所蔵が因と為り果と為り、互いに縁と為って
「有情に執せられて自の内我と為るるが故に」
「第八識は恒ではあるが審らか思量するという働きはない」
まず、この文章を馬ちゃんは、どう読み取られておりますか?
ポイントは、「恒」と「審らか」と「思量」をどう解釈するか。
ーーーーー
どうってそのままで、
「恒」は七識でも謂われていますが、継続的、永続的な意味で、間断されないって意味で、
「審らかに」は細部にわたって、ですよ、分析的に、でいいでしょ、しないです、
さながらに思量せず、なんか六、七、八、ってすると、システムのボックスが別々に別れている様を思ってしまいますが、自己に実際は一塊だと思われます、
ちなみにヨガでは複数相の殻が同心円のように、黄身を覆っている、たまごのような姿で描かれていますけど、
でも、脳の大脳皮質と大脳辺縁系のような物理的脳もその機能が八つの識と被っているわけです、
>>860
>八識はみな思量の作用があるが
の件ですにつきましては
一つには下記のブログの件
https://blog.goo.ne.jp/seikannamo/e/2b7ff65b859e9dd63cbf4f7a6599501a
もう一つはwikiの「末那識」の項です。
私はそれは誤謬だと考えています。
また、阿頼耶識は現量でその種子が非言語的言語種子云々と話た記憶はありますけど、思量云々の件は……
うーん?
多分話してないと思います。
まなしき
出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』
http://www.wikidharma.org/index.php/%E3%81%BE%E3%81%AA%E3%81%97%E3%81%8D
阿陀那識
このような【第七番目の識】として、仏教内にはこれを【阿陀那識】と名づけるか地論宗】がある。
そこでは【第八識】を【真識】として【真如と同一】であるといい、
この【真識】が【動じ変化して分別的】に働くために働く力が【第七の阿陀那識】であるという。
● たとえば【起信論】にいわゆる【根本無明】が、これであるという。
それは【分別】の【根本】として【妄染】の識であるという。
● しかし、【法相宗】では【末那識】を【我執】の意識、【第八阿頼那識】は【妄識】とする。
以上のように、この末那識を立てるところに仏教の心識論が成道という立場をふまえていることをしると共に、
このような末那識に対しての人間の内省が、今日の人間性の考察についても大きな意味をもつと思われるのである。
第八阿頼耶識は【執蔵】である。
第六識は執する、第八の種子の現象に、前五識に、第七意識の我執によって【執着】する。
ーーーーー大円鏡智ーーーー
↓ 一つの観照主体 ↓
↓ ↓ ↓
↓八 無対象 ↓五
現量←←←←直通←←←←現量
↓ 【止】&【滅】 ↓
↓ ↓
③認識主体←②認識主体←①認識主体
↓観照 ↓観照 ↓観照
種子→→→→想→→→→→現象(往)
↑ ↑ ↓
第八 第六 前五(色→受)
執蔵 思 ↓
↑ ↓ ↓
種子←←←←汚染←←←←印象(還)
汚染 了別 了別
↑ ↑ ↑
我執→→→→執着→→→→執着
↑ ↑ ↑
ーーー第七・マナ識ーーーー
止&滅→我執の了別・汚染の無→平等性智
種子、印象は、五~八で循環する。
●この循環構造の一時停止が禅定、
●一旦、循環構造が、停止瓦解した後で、
六・七識の【無】化状況下において、五・八識の現量のみが観照・認識されると、
①②③と分割されていた認識主体は、統合化され、一体となる、
● この一体化された認識主体は、法界を現量で観照された時点で、
完全に【一切対象】は、我では無いと、覚証するに至る。
この【覚】が【心】であると【証】されると、【一切対象】と【仮我】は、永続的に【従】となる。
● これが、本心に覚ったことである。
【第七識】の
【特性】である
【思量】をもって
【末那】と称し、
【マナス=意】、と名づけるという。
● 【出世の末那】といわれることもありますが、その場合は【自在位】によって【名づけられ】、
【出世の末那】
【自在位】によって、
【名づけられ】
● そこには
【未自在位】の
【末那】は
【転依】して
【平等性智】と名づけられ、
【末那】とは
【名づけない】のであって、
● 即ち
【有漏】にのみ
【名づけ(末那と)られ】、
【無漏】には
【存在しない】のである、
といわれます。
●『第七末那識は、阿羅漢と出世道と滅尽にはあること無し、』
恒・審するものに非ざるが故なり。
●(第六識依主の釈) 彼の依主釈というは、主というは謂く第七なり。
●・・・眼識等というが如し、というは眼は是れ所依なり。
而も体是れ識なり。
眼に依るの識なり。
故に眼識と名づく。
(持業釈)
● 第六識 意根による識(意根を所依とする識)、即ち、意根(第七識)を所依とする識であるという意味で意識と名づけられる。
(依主釈)六識は識という意義がある。
●(3) 第七識は、第六識のために近所依となるということを顕さんとして、第七識を意と名づけるのである。
● 第七識を意識という場合は識と意は同じものを指すが、第六識を意識という場合は、識と意とは異なるものである、という。
第七末那識
● 彼(第八識)に依て転じて彼(第八識)を縁ず。思量するをもって、性とも相とも為す。
● 四の煩悩と常に倶なり。
● 審 - 第八識・前五識は審らかではない。第八識は恒ではあるが審らか思量するという働きはない。前五識は縁に依って生起するので、恒でもなく、審らかでもない。
● 恒 ー 第六識・前五識は恒ではない。不恒である。第六識は審らかではあるが、恒ではない。
● 恒に審らかに思量するのは第七識のみであるので、第七識の特性である思量をもって末那と称し、マナス=意、と名づけるという。
八識の倶有依構造
https://core.ac.uk/download/pdf/231049003.pdf
https://i.imgur.com/Lr616mq.jpg
『阿頼耶識と依他性との関係について』
https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/23/2/23_2_1001/_pdf/-char/ja
● 【阿頼耶識】が【滅する】場合について, 第5頌に次のようにとかれている。
『この【阿頼耶識】の【転捨】は
≪阿羅漢の位≫においてである。』
と、説かれている。
● 具体的には
①【煩悩障の種子】と、
②【所知障の種子】とを
≪残り無く≫≪断ずる≫ことである。
● そのためには
①【喩伽行】を修め、
②【出世間智】を得たのちにも
③【不断に修行】をすることによつて、
④【煩悩の種子】を【残らず断ち切つた】ときには、
【種子の拠り処】である、
⑤【阿頼耶識】は消滅する。
● それは
≪輪廻的生存の根拠≫ を ≪転換≫ することである。
それ故誰れでも【阿羅漢】となつて【尽智】と【無生智】を得たものは、
【阿頼耶識】に依止する【塵重】を残りなく【断ずる】から、
【阿頼耶識】が≪ 転 捨 ≫されると説かれたのである。
😄
八識の倶有依構造
https://core.ac.uk/download/pdf/231049003.pdf
https://i.imgur.com/Lr616mq.jpg
『阿頼耶識と依他性との関係について』
https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/23/2/23_2_1001/_pdf/-char/ja
● 【阿頼耶識】が【滅する】場合について, 第5頌に次のようにとかれている。
『この【阿頼耶識】の【転捨】は
≪阿羅漢の位≫においてである。』
と、説かれている。
● 具体的には
①【煩悩障の種子】と、
②【所知障の種子】とを
≪残り無く≫≪断ずる≫ことである。
● そのためには
①【喩伽行】を修め、
②【出世間智】を得たのちにも
③【不断に修行】をすることによつて、
④【煩悩の種子】を【残らず断ち切つた】ときには、
【種子の拠り処】である、
⑤【阿頼耶識】は消滅する。
● それは
≪輪廻的生存の根拠≫ を ≪転換≫ することである。
それ故誰れでも【阿羅漢】となつて【尽智】と【無生智】を得たものは、
【阿頼耶識】に依止する【塵重】を残りなく【断ずる】から、
【阿頼耶識】が≪ 転 捨 ≫されると説かれたのである。
『般若波羅蜜修習次第』梵文和訳PDF
https://researchmap.jp/kanokazuo/published_papers/31786229/attachment_file.pdf
● ≪5≫『 出 世 間 智 の 獲 得 』
そのあとに、彼(菩薩)は、このように観察した後で、
すべての【名称】とすべての【相】を≪捨て去る≫
それから、【一切諸法】を【所縁】とし【意言】なく【顕現】無き【三昧】において留まる彼には、
【過去世】の【前行】の【潜在印象】の力にもとづいて、無功用かつ造作なく、
一切【戯論の相】が無くなって、
【分別】無く、【顕現】無き、
≪ 一 切 諸 法 空 性 ≫を見る、
【純粋】かつ【垢】を【離れた】
≪【無限】の【虚空】≫に似た、
【 出 世 間 智 】が【生じる】。
● ≪6≫『 阿 頼 耶 識 の 転 依 』
まさに、それこそが、【 勝 義 菩 提 心 】であり、
それこそが実義の【 般 若 波 羅 蜜 】であり、
そして、それこそが【 一 切 障 礙 】の【対治】たる道である。
そして、その【対治】を通じて、【阿頼耶識】に集まった、
あらゆる【雑染法】の【諸種子】およびそれの【諸潜在印象】が≪尽きた≫後に、
[そして]
①【拠り所】と
②【身体】と、
享受として顕現する
③【諸々の識】が【停止】した後に、
その【阿頼耶識】は【阿頼耶識の特質】を【捨て去って】↓
↓
【無漏界の特質をつかみとる】のである。
それこそが、
①【無漏なる界】
②【諸仏の法身】
③【実際】
④【真如】
⑤【勝義】
⑥【法界】である。
ーーーーーーーーー
【実】とは
【真実】のことであり、
それらの
【際】(きわ)つまり極限なので、
③【実際】[という]。
常にまさに、その
【如く】に
【存在する】から、
④【真如】[という]
【勝れたもの】の、つまり
【出世間智】の、対象
【義】であるから、あるいは、
【勝れたもの】にしてかつ
【対象】【義】であるから、
⑤【勝義】[という]。
●【諸法】つまり
【聖者】たちの
【諸法】
それらの
【界】つまり
【依止】だから
⑥【法界】[という]
それ
⑥【法界】に到達するときに、
それ
【法界/法身】に【依拠】した
【受用身】と
【変化身】に到達するのであり、
≪【それは】≫アートマン→プルシャ→ブラフマン
【一切相】なる
【あらゆる世界】への
【利益行為】を
【特徴として持つ】という。
【五位百法】における
【縁起】とは
【転変】であり、それは、
【種子】の地平≪【因転変】という≫と、【 識 】の地平≪【果転変】という≫との
両方において生じる。
≪因転変には次の三種がある≫
● 1. 異熟転変
【業(カルマ)】の
【果】である
【種子】が
【貯え】られた結果、
【形成】され、
【存続】するものが、
【輪廻】の
【究極的な主体】である
【アーラヤ識】となる
● 2. 思量転変
【アーラヤ識】を
【拠り所】とし、
そこに
【貯えられた種子】が
【転変】したものが、
【自我意識】としての
【マナ識】となる
● 3. 了別境転変
【アーラヤ識】と
【マナ識】を背後にもちつつ、
【対象を認識】し、
【認識作用】がもたらす
【種子】を、
【アーラヤ識】に
【薫重】(植付ける)するものが、
【表層意識】としての
【六識】となる。
● 先ず法相宗(唯識)の基本的な考え方から説させて頂きます。
【転識得智】は、
【有漏の識】が
【無漏の識】へと
【質的な転換】をする事とされます。
そしてその
【転識得智】は、
【阿頼耶識】に
【蔵】されている
【無漏の種子】が
【因】となり、その
【種子】が
【煩悩】を
【対治】する事によって
【遂げる】訳です。
● しかし、残念ながら
【凡夫】にはその
【無漏】の
【種子】が
【無い】のです(諸説あり)。そこで
「最も清浄な法界の等流なる【正聞薫習】の【種子】より生ずる(摂大乗論)」
と云うのですが、
● その
【 正 聞 薫 習 】という
【修習】が
【説かれる】んです。
● つまり、
【正法】を
【聴く】って事です。
【聞法】ですね、
【 聞・ 思 修 】と
【 戒 定 ・慧 】の
【 聞 】です。
● それによって
【凡夫】の
【阿頼耶識】に
【無漏の種子】が
【生じる】とされます。
● 最もそれは
【生じた】だけで
【現行してません】から、
【芽生え≪「慧」≫】させるための
【思】と【修】、
【戒】と【定】が
必要となるのです。
※1 阿頼耶識、末那識、眼識、耳識、
鼻識、舌識、身識、意識
※2 大円鏡智、平等証智、妙観察智、
成所作智
https://ameblo.jp/yk19610402/entry-12549224265.html
小谷信千代
https://otani.repo.nii.ac.jp/record/6746/files/BGS_092-02.pdf
2実際『倶舎論』は、
● 識が生ずる場合のその二種の依りどころについて次のように述べています。
【意識界(意識)】の依りどころは、
【直前に減した意】である
【五〔識〕】の
【〔依りどころ〕】はまた、それらと同時に生ずるもの【(現在)】である。
● 過去なる【〔依りどころ〕】もあるから また という語がある。
その中で、
【眼識】の【依りどころ】は
【眼】であって
【〔眼識と】
【同時に生ずる】ものであり、乃至、
【身識】の【依りどころ】は
【身】であって
【身識と同時に生ずるものであるから、いずれも現在である】。
● それに加えて、
【過去なる意】もこれらの依りどころであるから、
これら【五識身】は皆【二つづつ】の【根】を【依りどころ】とするのである。
●『(櫻部建肩舎論の研究」法蔵館、一九六九年、二三○頁参照)眼識から身識までの五識(五識身、五種類の識のグループ)』には、
【眼根】から【身根】までの五根が、
それぞれ、それらの識と【同時に存在】する【所依(倶生所依)】としてあり、
さらに、
【直前に減した識】が
【意根】となった
【無間滅意】が、
【過去の所依】としてあります。
● 【所依】とは【依りどころ】のことです。
それに対して【意識】には、同時に存在する【所依】はなく、
【直前に≪減した≫識】が
【意根】となったものしか
【所依】として
【存在しない】ことが、
述べられています。
思考=思量なら、七識が思考していることになる、
顕在意識が眠るか停止した後で、何らかの妄想念を見る場合は、それは潜在意識だと思います、
夢は目覚めた(顕在)後で思い出せる、それは記憶(種子→果)が深層(八識)へ収蔵されたからですよね?
認識主体の移動って考えがあります、
表層意識が眠って、または停止した後で、妄想念の認識がおきるのは、潜在意識の階層へ、認識主体が移動したと謂えませんか⁉️
https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/2/1/2_1_296/_pdf/-char/ja
● 第一の問題から論じてみやう。
之に就やては、云ふまでもなく【唯識三十頌の第五頌】なる一文が想起せられる。
即ち「【意と名つくる識】はそれ 【阿頼耶)】に【依止】して生じ、それ 【阿頼耶】 を【所縁】となす」というのである。
● この際、【末那】は明かに【阿頼耶】を【所縁】となすというが、
● 然らば【末那】は【阿頼耶】の何を以て【所縁】となすか?ということが問はれる。
安慧釋に依れば、
「【有見身等】に【相応】するが故に、我なり我所なりとして【阿頼耶識】を【所縁】となすが故に」と述べるのみで、
● 【阿頼耶】の何を以て【所縁】となすかは≪【明記されていない。】≫
然るに成唯識論 (巻四、廿六右以下) に於いては、之に就いて、難陀・火辮・安慧等の説が批到され、
● 護法の説を以て正當とされる。
印ち、難陀に依れば、阿頼耶の識体及び相応法を縁じ、
火辮に依れば、見分及び相分を縁じ、
安慧に依れば現行識及び種子を縁ず、と云はれ、
● 最後に護法は唯、
【阿頼耶】の【見分】のみを【縁じ】て、
決して【その他】のものでは【無い】と云はれる。
禅では眠ろうとする六識を、確り覚醒したままで、潜在意識が現れるところも看るわけだ、
この、潜在意識とは、七識なのか?それとも、八識から浮かび上がってきた種子因なのか?
雑念は、思量の性質をもっているけど、
①イメージがポワーンって浮かぶものと、
②妄想のように思考の質を呈する想いと、
この2つが有るように思われます。
いずれにしても坐禅状態、離脱状態時は思考が上手く働かないので
そこが何処か?って体感だと分るのが難しいよね
そうであったと戻ってからの考察になるし
● 【行為の結果】が【心】に【影響】を与えること。
【香り】が【他に移る】ことにたとえられる。
● 単に【熏】、また【薫習】ともいう。
【熏習】により残された【結果】を
【習気】じっけという。
●『成唯識論』二(正蔵三一・九下)では
【熏習】について、
【熏習する側】の
【条件(能熏の四義)】と
【熏習される側】の
【条件(所熏の四義)】を規定する。
●【熏習する側】とは
【七転識】、すなわち
【六つの識】と
【末那識】のこと。
●【熏習される側】とは
【阿頼耶識】のことである。
●これにより、
【熏習】を、
【七転識】が
【阿頼耶識】に
【種子】を
【残すこと】と定義する。
● また
【正しい教え】を
【聞く】ことで、
【衆生】に
【清らかな影響】が
【残される】ことを
【 聞 熏 習 】という
これを【中国華厳宗】の【法蔵】は、その注釈である『大乗起信論義記』で
●【 汚 浄 互 熏 】(正蔵四四・二七〇上)という。
また熏習を心の状態に影響するもの(習熏)と心の活動を助長するもの(資熏)に大別する。
『成唯識論』等の唯識論書では熏習は有為法の間だけで起こると考えるのに対し、
『起信論』等の如来蔵系論書では無為である真如にも熏習を認め、両者の見解に異なりがあることがうかがわれる。
まあ、そう言うことですね、
それが、顕在意識の働きですからね、
川^〇^ハレ詐欺~る法介の祈念とかwww
パチもんでしょうwww
詐欺~る行いが熏習されているでしょうからねwww
そのまま、ですから禅定で尋ね伺う働きが、一時的に停止できる訳です、
車の運転や、テレビを観ていて、六識は容易に停止されます、
そんな時、特に普通人は、車を運転すると人格変わる!とか謂う人がたまにいます、
煽り運転とか、
そして、六識があるときは、七識八識も同時にある、共依である、しかし七識は八識とは不共依である、
ですから、普通は5678と同時に一気通関されている、ただ顕在の6からは潜在意識7と深層意識8が見えていない、
見えてはいないが、顕在意識6に影響を与えている、しかも常時稼働している、寝ても覚めても、
ああ、寝たら六識は間断されますね、
共依
●【 二 識 】以上の
【共通】の
【所依】となるものを
【 共 依 】(ぐうえ)といい、
●【 一 識 】のみの
【所依】となるものを
【 不 共 依 】という。
例えば
【阿頼耶識】は
【諸識】のよって起こる
【根本】となる
【 共 依 】であり、
【眼識】のみの
【所依】となる
【眼根】などは
【 不 共 依 】である。
思想としての唯識論 渡辺 俊彦
https://core.ac.uk/download/pdf/229770266.pdf
この論文も『成唯識論』の原文にもとづいて註釈しております。
● 思想としての唯識論 渡辺 俊彦
https://core.ac.uk/download/pdf/229770266.pdf
唯識論における成仏
● 前(さき)の修習位の所得の転依は、應に知るべし、
即ち是、究竟位の相なり。
此といふは、謂く、この前の転依の果ぞ、
即ち是れ究竟の無漏界かいに攝(おさむ)。
謂く、佛の功徳と及び身と土の等きは皆是れ無漏の種姓に生じられたり。
有漏法の種をば、已(すで)に永(とこしえ)に捨せるが故に。
示現して生じ死の身と作(な)り、
業煩悩等あって、苦集諦に似たること有りと 雖(いえ)ども。
而も實に無漏なり。
● 修行の完成、煩悩の滅却、究極智の形成、
阿頼耶識の、四智への転換は、
≪一体のものであり≫、
それは完成した究極の識へ、
すなわち仏へと昇華することであった!
https://note.com/hiruandondesu/n/n66d83d47e998
初期の唯識派の論書によると、
転識(七識の)と阿頼耶識とは、交互に因果の関係にあり、種子が常に新たに発生するという考え方を示しています。
しかし、仮に種子の全てが新たに発生するならば、無漏の種子は原因なしに発生することになります。
理由は【阿頼耶識】を【根底とする人間】にとって、
【全て】の【認識】・【経験】は
≪【有漏】≫となるからです。
従って、【無漏の種子】は、
人間に【本来具わっている】と考えなければならないことになります。
【教えを聞き】、【瑜伽行を実修】することによって、
この【生得的】な【無漏】の【種子】が【成就】させられるということです。
ただし、人間に本来具わっている、
その【無漏の種子】は【微細】であって、
それがあると理解しがたいので、
教えを聞くことによって、無漏の種子が生ずるという形に説かれる、
というのが護法(ダルマパーラ)の見解です。
正聞熏習
無著(アサンガ)の『摂大乗論』においては、
教えの聴聞は、煩悩の種子 即ち、有漏の種子とは質的に異なった、無漏の種子を、
阿頼耶識の中に置くとされます。
無漏の種子は、真理の世界(法界)から流れ出た、聴聞の余習(正聞熏習)であるといわれます。
煩悩に対抗するものとしての、無漏の種子は、
阿頼耶識の中に、有漏の種子と共存し、瑜伽行は、この無漏の種子を成熟させます。
阿頼耶識は、種子の拠り所である限り、阿頼耶識(住居)なのであって、
煩悩の種子がなくなってしまうと、それに対抗する無漏の、煩悩のない種子は、
そのまま法界、つまり最高実在ということになります。
無漏の種子というのは、あらゆるところに遍満している最高実在が衆生の心に及んだもので、
【煩悩の種子】が【全て滅】すれば、【無漏の種子】は【最高実在】そのものですから、
【阿頼耶識】はー
ー≪【消滅】【転依・転換】≫します。
『成唯識論』でも無漏の種子を、衆生に及んでいる真如と考えずに、
生得的に衆生に内在しているものと理解されており、
各人に内在している種子は、それぞれ異なっていて、
その種子の差別に応じて人は仏となったり、声聞・縁覚となったり、あるいは永遠に涅槃することができなかったりすると、説かれます。
無漏の種子がそのまま真如・法界であるとする、即ち空の思想と連関する面は『成唯識論』では希薄になります。
―真如所縁縁種子から無漏種子へ―
吉村 誠
http://echo-lab.ddo.jp/Libraries/%E9%A7%92%E6%BE%A4%E5%A4%A7%E5%AD%A6%E4%BB%8F%E6%95%99%E5%AD%A6%E9%83%A8%E7%A0%94%E7%A9%B6%E7%B4%80%E8%A6%81/%E9%A7%92%E6%BE%A4%E5%A4%A7%E5%AD%B8%E4%BD%9B%E6%95%99%E5%AD%B8%E9%83%A8%E7%A0%94%E7%A9%B6%E7%B4%80%E8%A6%8169/%E9%A7%92%E6%BE%A4%E5%A4%A7%E5%AD%B8%E4%BD%9B%E6%95%99%E5%AD%B8%E9%83%A8%E7%A0%94%E7%A9%B6%E7%B4%80%E8%A6%81%2069%20-%20004%E5%90%89%E6%9D%91%20%E8%AA%A0%E3%80%8C%E5%94%AF%E8%AD%98%E5%AD%A6%E6%B4%BE%E3%81%AE%E7%A8%AE%E5%AD%90%E8%AA%AC%20%EF%BC%9A%20%E7%9C%9F%E5%A6%82%E6%89%80%E7%B8%81%E7%B8%81%E7%A8%AE%E5%AD%90%E3%81%8B%E3%82%89%E7%84%A1%E6%BC%8F%E7%A8%AE%E5%AD%90%E3%81%B8%E3%80%8D.pdf
●【種姓差別】は
【二障の有無】による、とする『瑜伽論』の説が、
●【種姓差別】は
【本有無漏種子】の【有無】による、という意味に、置き換えて解釈されている。
● すなわち、全く【無漏種子】が無く、
【二障】の【種子】を【永久に断ずる】ことのでき無い者は、
【非涅槃法】(無性有情)である。
● ただ、【二乗】の【無漏種子】だけがあり、
【所知障】の【種子】を【永久に断ずる】ことができ無い者は、
【声聞種姓】ないし【独覚種姓】である。
●【仏】の【無漏種子】があり、【二障】の【種子】を、【永久に断ずる】ことができる者は、
【如来種姓】(菩薩種姓)である。
● つまり、【本有無漏種子】の【有無】によって、
【二障】の【可断・不可断】があるという。
● そして、『瑜伽論』は、
【無漏種子】が【微隠】で【知り難い】ため、
【二障】の【有無】によって【種姓差別】を説いているのである、
という解釈である。
● ここは五姓各別説の典拠の一つとされるところであるが、
それは『瑜伽論』の本文に【本有無漏種子説】を読み込むかたちで作られているのである。
以上、『成唯識論』の種子説で議論の焦点となっているのは、
【合生 義】そのものというよりも、むしろ【無漏種子】、特に【本有無漏種子】の【存在論証】であるということが知られた。
● それでは、どうして?
【無漏種子】の存在は、それほど【強く主張】されなければ ならなかったのだろうか?
この問題を、解明する手がかりは、
『成唯識論』が【合生 義】で会通しなければならなかった、『摂大乗論』の【 聞 熏 習 説】や『瑜伽論』の【種姓差別説】の中にあるはずである。
最終的に自己に薫習した教説を手放せないことでしょうな、
これが、無分別智に死んでも至らない有漏の種子、
有為は有漏種子、無為は無漏種子、薫習する、
● 正聞熏習
無著(アサンガ)の『摂大乗論』においては、
≪【教えの聴聞】≫は、
煩悩の種子 即ち、有漏の種子とは質的に異なった、無漏の種子を、
阿頼耶識の中に置くとされます。
無漏の種子は、真理の世界(法界)から流れ出た、聴聞の余習(正聞熏習)であるといわれます。
https://hu.repo.nii.ac.jp/record/1149/files/004-83-07.pdf
1、弁中辺論の空性空性と真如仏性
弁中辺論巻上に次のようにいう(大31 1四六五c )、
所知の空性の異門は云何ん。
頒に曰わく、空の異門を略説すれば、
謂わく
【真如】と【実際】と、
【無相】と【勝義性】と、
【法界】
等なること応に知るべし。
空性の同義異語として、真如・無相・勝義性・法界が挙げられている。
いったん薫習されて種子として収蔵されたものが、
何らかの縁で、また記憶の回想などで、阿頼耶識の奥から浮かび上がってきても、
その想いの種子を、掴まない、それを常時に棄捨する、という行為の想いの種子であると理解した。
例えるなら、
回転寿司の回転レーンに並ぶのは、マグロとかウニなどの名言語を付された魚と米な訳です、
言ってみれば、【すし】ならぬ【しゅし】であるので、無為であれば、手を出さないわけです、目の前に来るネタ(種)を次々に捨ておいてスルーします、
しかし、いったんマグロのトロ!と言う想いを六識に捉えて掴んでしまえば、
一回は通過しても、二回目三回目には、想いの種子が因となって、縁が現れ来れば、手を出して掴んでしまいます、
斯くしてトロを食べるという現象が目の前に展開することになります、
阿頼耶の種子はこのごとくに常時循環しています、それは過去から現在、未來の想いを含む様々な種子です、
掴まないと謂うことは、棄捨のことであり、ある意味行為に有為にもみえますが、その継続がまた、種子として薫習されて、深く刻印されて行くのであって、
それは、無為としての種子になって、蔵され、そして再び因となるわけです、
無為の無漏の。
https://nirc.nanzan-u.ac.jp/journal/17/article/2166/pdf/download
( 3)「深層の心の浄化」とは具体的にはどういうことか。
それは、譬喩的にいえば、無分別智の火によって阿頼耶識 の中に潜在する汚れた種子を焼き盡してしまうことである。
そしてそれによって阿頼耶識という心の基体が質的に変化す ることである。
そこを「所依を転ずる」すなわち「転依」と いう。転依とは、雑染の種子を減して麁重縛から、解脱し、 阿頼耶識がr識」というありかたからr智」というありかた に変化することである。
すなわち大円鏡智を得ることである。いま、阿頼耶識の中の雑染の種子を滅するといったが、そ れはまた、煩悩障と所知障との二つの種子を断ずることであ るとも言い換えることができ
https://nirc.nanzan-u.ac.jp/journal/17/article/2166/pdf/download
横山紘一
[ 3]【深層の心の浄化】とは具体的にはどういうことか。
それは、譬喩的にいえば、
【 無 分 別 智 】の火によって
【阿頼耶識】の中に潜在する
【汚れた種子】を
【焼き盡して】しまうことである。
そして、それによって、
【阿頼耶識】という
【心の基体】が
【質的に変化する】ことである。
そこを【所依を転ずる】すなわち【転依】という。
【転依】とは、
【雑染の種子】を
【減して】
【麁(ソ)重縛】から
【解脱】し、
【阿頼耶識】が
【識】というあり方から
【智】というありかたに、
【変化】することである。
すなわち
【 大 円 鏡 智 】を
【得ること】である。
いま、
【阿頼耶識】の中の
【雑染の種子】を
【滅する】といったが、
それはまた、
【 煩 悩 障 】と
【 所 知 障】との、
【二つの種子】を
【断ずる】ことであるとも、
言い換えることができる。
😱
https://note.com/hiruandondesu/n/n689adb194a88
● 証自証分とはどのような識なのか?
https://i.imgur.com/vKfR4ne.jpg
🐕🦺
https://www.youtube.com/watch?v=kZ49YC5_u1U
5ちゃんねるの会話はバトル形式で馴れ合いを禁じる。ググるシッタカ知障イヌヤマは、褒めてクレヨの哀願奴隷。相手を罵倒する悪口雑言の数々は外道イヌヤマへのリアル社会の絶対評価で、荒らしイヌヤマは問いに問いで返す脊髄反射の脳足りんで悟前(ごぜん)未悟(みご)、金魚ドジョウと救い難い。
病名:発達障害ASDの症状尊大のインチキキチガイ雀鬼イヌヤマが自供ス。『正直云って仏とは何かと問われても分かりません、公案が進んで無くよくわからないのです』 知障イヌ咬み談
ウソブクのよ透ってないのに、もう40回も初関を透る俺様!と言い放つドマヌケ!40回も透ったら初関を透る、じゃねーべ!
イヌ:悟りとか分からねーし、知らねーし、悟ってねーわ? ググるイヌヤマは常にシカトされ自己存在の確認要求哀願奴隷也
悪霊イヌが鳴く:なんで 宗教板って まともなの俺だけなんだ?みんな間違ってばっか俺だけが正しい。みんな間違ってるのに何で正しい事を言ってる俺は否定ばっかりされるんだ?みんな俺のことを 凄いなと認めろよ。 俺は自分より優れた奴が ゆるせないんだよ(脅迫性人格障害の特徴)
ナント妻子と月一、金曜夜7時からのお坐り会、茶菓(ちゃか)代ワンコインで、これが研究会出席虚勢のトマヌケ犬は誰からも疎まれる
独善イヌヤマは月一第三金曜日夜7時茶菓代ワンコイン坐禅会に出ると偽証。命取りの摂心に親子で100回参加と虚飾スル
新小岩の食業ドライバーイヌヤマとは法相宗(ほっそうしゅう)奈良興福寺(こうふくじ)前官長じっちゃんのお抱え運転手で食業ドライバーの門外漢だから、知ったかぶる以外に承認欲求を満たす事が無い。
多数者を演じ孤立してないと強弁し自作自演のおぞましい日々の無脊椎動物イヌヤマは成り済まし多重人格者で要治療
統失、薬中、精神病院2ヶ月入院、A型作業所:イヌヤマ軍曹麦屁魔女エロ和尚アカベイ偽和尚狗の大王野良は異名同一人物がAAキャラ変の極悪人
① 荒らしイヌ麦は無視放置スルーが一番ツライ、耐えられない。シッタカイヌヤマは常に誰かの反応レスを待ち焦がれる
② 放置された固定観念イヌヤマは煽りや自作自演でアナタのレスを誘う。ワケワカメ糞邪鬼イヌヤマにノセられてレスしたらその時点でアナタも同類、負け、完敗
③ ;反撃はイヌの滋養にして栄養であり最も悦ぶ事です。門前のヤセイヌにエサを投げ与えぬ事
④ ;臭い汚いコワイ気持ち悪いイヌヤマが枯死する迄、孤独に暴れさせゴミが溜まったら削除
八識はそれぞれどの界に属するか?
これは「界繋」って云うんですけどね。
|欲界|(初禅)色界|無色界|
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
阿頼耶識 |→→|→→→→→→|→→→|
末那識 |→→|→→→→→→|→→→|
眼識 |→→|→→→ | |
耳識 |→→|→→→ | |
鼻識 |→→| | |
舌識 |→→| | |
身識 |→→|→→→ | |
意識 |→→|→→→→→→|→→→|
(『唯識とは何か 法相二巻抄を読む』 横山紘一 P89,113)
https://researchmap.jp/awonori/published_papers/21654714/attachment_file.pdf
http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E4%B8%8D%E5%BE%8B%E5%84%80
>>857
阿頼耶識・末那識・意識でしょうね。
夢を見ている意識がある以上、意識の活動は間違いないでしょう。
識は初能変(阿頼耶識)・第二能変(末那識)・第三能変(眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識)の三種があり※1、認識はその順番で起こるとされます。
この内、阿頼耶識と末那識は常時作用しております※2。
従って上記のことが云えるでしょう。
意識は、
>意識常現起 除生無想天(意識は常に現起す 無想天に生じたると)
>及無心二定 睡眠與悶絶(及び無心の二定と 睡眠と悶絶とを除く)
なので、一見夢中にははたらいてないようですが、それは「極睡眠」、つまり熟睡事に限られるとされます。
意識は、以下のように分類されます(『唯識とは何か「法相二巻抄」を読む』 横山紘一 p102)が、今回のケースは「夢中の意識」なので、前五識は作用しないでしょう。
意識ーー五倶の意識ー五同縁の意識
| ー不同縁の意識
ー不倶の意識ー五後の意識
ー独頭の意識ー定中の意識
ー独散の意識
ー夢中の意識
※1
彼依識所變 此能變唯三(彼れは識所変に依る 此れが能変は唯三のみなり)
謂異熟思量 及了別境識(謂わく異熟と思量と 及び了別境との識なり)
初阿頼耶識 異熟一切種(初めのは阿頼耶識なり 異熟なり一切種なり)
(中略)
次第二能變 是識名末那(次のは第二能変なり 是の識を末那と名づく)
(中略)
次第三能變 差別有六種(次の第三能変は 差別なること六種有り)
(唯識三十頌)
※2
阿頼耶識は
恒轉如暴流(恒に転ずること暴流の如し)
末那識は
依彼轉縁彼 思量爲性相(彼に依りて転じて彼を縁ず 思量するを性とも相とも為す)
まぁ、先にレスしたのはあくまでも法相宗(護法系統の瑜伽行唯識学派)のそれとしてです。
六派哲学では確かアートマンとの直結とか、いろいろな見解があったかと思います。
シャンカラ派伝統における意識構造論
https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk/68/2/68_828/_pdf
あったあった、これかなw
(ロ)夢眠時 夢眠状態においては、感覚器官は機能を停止して、意のみが機能している。
以前の覚醒時に受けた潜在的印象のみが、この機能の対象となっている。
この状態のアートマンは、身体や感覚器官の限定から自由なので、ずっと純粋な形でみずから輝いて現われる。
(『インドの思想』 川崎信定 より)
≫859(続き)
ここで、夢の中で感受される、
前五識(眼識・耳識・鼻識・舌識・身識)
に似た作用(色処、声処、香処、味処、触処)について補足しておきます。
誰しも夢の中でも映像や声や匂いや味そして痛覚を感受された体験はあると思います。
しかし、一方では瑜伽行唯識学派は、夢中に【前五識】のはたらきはないと説明します。
これは一体何故なのでしょうか?
此処で確認しておきたいのは、意識は一切法処を対象にしているということであります。
つまり、全てですね。
ちなみに感覚器官(眼・耳・鼻・舌・身という肉体)は、
勝義根(眼根、耳根、鼻根、舌根、身根)を扶ける、二次的な器官(扶塵根)に過ぎないと、瑜伽行唯識学派では考えます。
ともあれ、意識の対象、これを「法処所摂色」というのですが、
先にお話した「夢中の意識」は前五識のはたらきがなくとも、
夢中にその様な対象を現出して認識するはたらきがあると考えるんです。
5ちゃんねるの会話はバトル形式で馴れ合いを禁じる。ググるシッタカ知障イヌヤマは、褒めてクレヨの哀願奴隷。相手を罵倒する悪口雑言の数々は外道イヌヤマへのリアル社会の絶対評価で、荒らしイヌヤマは問いに問いで返す脊髄反射の脳足りんで悟前(ごぜん)未悟(みご)、金魚ドジョウと救い難い。
病名:発達障害ASDの症状尊大のインチキキチガイ雀鬼イヌヤマが自供ス。『正直云って仏とは何かと問われても分かりません、公案が進んで無くよくわからないのです』 知障イヌ咬み談
ウソブクのよ透ってないのに、もう40回も初関を透る俺様!と言い放つドマヌケ!40回も透ったら初関を透る、じゃねーべ!
イヌ:悟りとか分からねーし、知らねーし、悟ってねーわ? ググるイヌヤマは常にシカトされ自己存在の確認要求哀願奴隷也
悪霊イヌが鳴く:なんで 宗教板って まともなの俺だけなんだ?みんな間違ってばっか俺だけが正しい。みんな間違ってるのに何で正しい事を言ってる俺は否定ばっかりされるんだ?みんな俺のことを 凄いなと認めろよ。 俺は自分より優れた奴が ゆるせないんだよ(脅迫性人格障害の特徴)
ナント妻子と月一、金曜夜7時からのお坐り会、茶菓(ちゃか)代ワンコインで、これが研究会出席虚勢のトマヌケ犬は誰からも疎まれる
独善イヌヤマは月一第三金曜日夜7時茶菓代ワンコイン坐禅会に出ると偽証。命取りの摂心に親子で100回参加と虚飾スル
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統失、薬中、精神病院2ヶ月入院、A型作業所:イヌヤマ軍曹麦屁魔女エロ和尚アカベイ偽和尚狗の大王野良は異名同一人物がAAキャラ変の極悪人
① 荒らしイヌ麦は無視放置スルーが一番ツライ、耐えられない。シッタカイヌヤマは常に誰かの反応レスを待ち焦がれ
② 放置された固定観念イヌヤマは煽りや自作自演でアナタのレスを誘う。ワケワカメ糞邪鬼イヌヤマにノセられてレスしたらその時点でアナタも同類、負け、完敗
③ ;反撃はイヌの滋養にして栄養であり最も悦ぶ事です。門前のヤセイヌにエサを投げ与えぬ事
④ ;臭い汚いコワイ気持ち悪いイヌヤマが枯死する迄、孤独に暴れさせゴミが溜まったら削除
睡眠と脳の関係とは? 視床下部や脳幹の働きについても解説いたします!
https://smartdock.jp/contents/lifestyle/lh035/
脳幹
脳幹は中枢神経系を構成する部位が集まっている器官です。
大脳に近い側から中脳、橋、延髄から構成されています。
この脳幹は視床下部と通信をすることで覚醒と睡眠間の移行を制御します。
視床下部と脳幹にある睡眠促進細胞(sleep-promoting cells)は、GABA(γ-アミノ酪酸:Gamma-AminoButyric Acid)と呼ばれる脳化学物質を生成して、覚醒中心の活動を低下させるように作用するのです。
また脳幹はレム睡眠時にも重要な役割をします。
体の姿勢や手足の動きに必要な筋肉をリラックスさせるシグナルを送ることで、睡眠中に夢を見ても体が動かないようにしています。
視床
視床は感覚器から大脳皮質への情報を中継する機能を持っています。
睡眠時には静まった状態になり、
≪【外的世界】から≫
≪体を【切り離し】ます≫
しかし、レム睡眠中には視床は活発になり、夢で見ているイメージ・音・その他の感覚を皮質に伝えています。
ーーーー
松果体他説明有りますよ。
その意識を、ゼログラビティー状態にして、登頂から後頭部方向に向けてひっくり返る感じで、脳の中心へ入って行くと、
第四禅定の、身心脱落が起きます、
上記の記事で言う、視床に於ける身体、つまり外界との切り離しです、
それを禅定中に行うわけです、今まで視床で行われているとは知らなかったので、
視床の働きを知れて、第四禅定の実際の裏付けが取れました。
>荒らし行為を止むことが無い鹿野園さんの六根清浄を日々御祈念
……もう無駄だと分かるんじゃね?
Talkが5chから分裂する前から、鹿野園は既に手遅れだったわけだし。
天台宗以下、日蓮宗やその各派でもこの九識論に依り、これを九識心王真如の都と呼んでいる。
日蓮は日向記で「究竟即(くきょうそく)とは九識本覚の異名なり、九識本法の都とは法華の行者の住所なり」、「此の九識法性とは、如何なる所の法界を指すや。
法界とは十界なり。
十界即諸法なり、此の諸法の当体、本有の妙法蓮華経なり。
此の重に迷う衆生のために一仏現じて分別説三するは、九識本法の都を立出するなり。
さて終に本の九識に引入する。
それを法華経とは云うなり」、また日女御前返事でも「此の御本尊全く余所(よそ)に求むる事なかれ。
只我れ等衆生の法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱なうる胸中の肉団におはしますなり。
是を九識心王真如の都とは申すなり」と述べている。
【南無妙法蓮華経】と【唱なうる】
【胸中】の【肉団】におはしますなり。
↓ ↓
是を【九識心王】【真如】の【都】とは申すなり
日蓮さんは胸(ハート)の真如=真我を体験的に知ってますね、
でなければ書けない文章表現だと思います。
(15)
根本識に依止(えじ)す 五識は縁に随って現じ
或は倶(とも)なり或は倶ならず 濤波の水に依るが如し
(16)
意識は常に現起す 無想天に生じたると
及び無心の二定と 睡眠と悶絶とを除く
https://yuishiki30.blogspot.com/2013/02/blog-post_7.html
https://blog.goo.ne.jp/seikannamo/e/1fd13b5056fb746eaa9a600de45141ac
彼(第六意識)を意識と称する場合は依主釈(えしゅしゃく)であり、これは眼根等に依る識を眼識等と名づけるのと同じである。第七識を意識という場合は識と意は同じものを指すが、第六識を意識という場合は、識と意とは異なるものである、という。
第七識 意=識 意が識自体を指す。(持業釈)
第六識 意根による識(意根を所依とする識)、即ち、
意根(第七識)を所依とする識であるという意味で
意識と名づけられる。(依主釈)
(2) 恒審思量の故に意の義は、特に第七識に親しい。
(3) 第七識は、第六識のために近所依となるということを顕さんとして、第七識を意と名づけるのである。
今日蓮が弟子檀那又又かくのごとし、
末法に入つて法華経を持つ男女のすがたより外には宝塔なきなり、
若し然れば貴賤上下をえらばず南無妙法蓮華経と、となうるものは、我が身宝塔にして我が身又多宝如来なり、
妙法蓮華経より外に宝塔なきなり、法華経の題目宝塔なり宝塔又南無妙法蓮華経なり。
今阿仏上人の一身は地水火風空の五大なり、此の五大は題目の五字なり、然れば阿仏房さながら宝塔、宝塔さながら阿仏房、
此れより外の才覚無益なり、聞・信・戒・定・進・捨・慚の七宝を以てかざりたる宝塔なり、
多宝如来の宝塔を供養し給うかとおもへば、さにては候はず、我が身を供養し給う、我が身又三身即一の本覚の如来なり、
かく信じ給いて南無妙法蓮華経と唱え給へ、ここさながら宝塔の住処なり、
経に云く「法華経を説くこと有らん処は我が此の宝塔其の前に涌現す」とはこれなり、
あまりに、ありがたく候へば宝塔をかきあらはしまいらせ候ぞ、
子にあらずんば、ゆづる事なかれ信心強盛の者に非ずんば見する事なかれ、出世の本懐とはこれなり。
基本的な考え方として、阿頼耶識は「一切種子識(あらゆる行動記録(種子)の保管場所)」とも云われます。
また、全ての生じたもの(「有為法」)はそうなのですが、阿頼耶識も「刹那生滅」を繰り返しながら「一類相続」されるとされております。
つまり「一切の現象の起こりは阿頼耶識に由来する」と「法相宗(護法系統の瑜伽行唯識学派)」では考えます。
認識の起こりですが、阿頼耶識の「相分(客体、見られたもの、捉えられるもの)」に「有根身(あなたご自身の肉体)」と「器世間(宇宙、あなた以外のもの)」が保持されているとされ、それが「現行」すると、たとえば眼(「見分」(主体、見るもの、捉えるもの))と眼に写るもの(相分)となります。
認識であれば、認識するものと認識されるものが見分と相分に該当するですね。
そしてそれが再び阿頼耶識に種子として還元されます。
>>959(続き)
まとめると、阿頼耶識(根本識ともいいます)の種子から他の七識(末那識、眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識)が派生しているということです。
次に認識が起きない時ですが、掛かる意味においてその停止は阿頼耶識からの種子現行の抑制と考えられる訳です。
例えば、意識は深い睡眠の時にそのはたらきを停止しますが、これは阿頼耶識からの種子の現行が睡眠のダルマのはたらきによって抑制されている状態となります。
定中は煩悩が起きないのに解定すると再び煩悩が沸き起こるのも同じく、定中に生じるダルマのはたらきによって煩悩のダルマのはたらきが抑制されているからとか考えます。
基本的な考え方として、
【 阿 頼 耶 識 】は
【 一 切 種 子 識 】→
【全ての〈行動記録〉=〈種子〉】の 【保管場所】とも云われます。
また、全ての【生じたもの】→【有為法】は、そうなのですが、
【阿頼耶識】も
【刹那生滅】を繰り返しながら
【一類相続】される、とされております。
つまり
【 一 切 の 現 象 】の起こりは
【 阿 頼 耶 識 】に由来する、と
【法相宗】= 護法系統の、
【瑜伽行唯識学派】では考えます。
【認識の起こり】ですが、
【阿頼耶識】の
【相分】〈客体=見られたもの=捉えられるもの〉に
【有根身】〈あなたご自身の肉体〉と
【器世】〈宇宙=あなた以外のもの〉が 【保持されている】とされ、
それが【 現 行 】すると、
たとえば【眼】=〈見分〉〈主体〉〈見るもの〉〈捉えるもの〉と、
【眼】に【写るもの】〈相分〉となります。
【認識】であれば、
【認識するもの】と【認識されるもの】が、【見分】と【相分】に該当するのです。
そして、
それが再び【阿頼耶識】に【種子】として【還流】されます。
まとめると、阿頼耶識(根本識ともいいます)の種子から他の七識(末那識、眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識)が派生しているということです。
次に認識が起きない時ですが、掛かる意味においてその停止は阿頼耶識からの種子現行の抑制と考えられる訳です。
例えば、意識は深い睡眠の時にそのはたらきを停止しますが、これは阿頼耶識からの種子の現行が睡眠のダルマのはたらきによって抑制されている状態となります。
定中は煩悩が起きないのに解定すると再び煩悩が沸き起こるのも同じく、定中に生じるダルマのはたらきによって煩悩のダルマのはたらきが抑制されているからとか考えます。
(1)第六も第七も意識と称するならば混乱が起きる恐れがあるので、諸の聖教には第七識には意という名をたてるのである、という。そしてその反対の問いも立てられるのですね。
第六識を意といい、第七識を意識と名づけてもいいのではないか、というものです。にもかかわらず、第七識を意というのは何故なのであろうか。
前項でも説明されていましたが、意は持業釈で、意=識であり、意で第七識を説明しているわけです。
意識は依主釈であって、第七識を所依として成り立っている識を意識というのですけら、これは第六識に限るわけです。いうなれば、理が成り立たないわけですね。
意識という場合は「意根に依る識」なので、第七識を意識とはいわず、意と名づけるのです。
(2)
また第七識について意という名のみを標示しているのは、第七識を心(第八識)と識(前六識)から区別するためである。
その理由は第七識は積集し、了別することは他の識より劣っているからである。
八識はすべて心・意・識と名づけることができるけれども、増勝の義によって第七識を意と名づけるのである、と。
「積集の心の義と了別の識の義とは余の識より劣るが故に、後の心(第八識)と、前の識(前六識)とに簡ばんとして但意という名を立てたり。恒・審するが故に。」
(『述記』第四末・五十一左)
積集(しゃくじゅう) - 蓄積すること。こころを心・意・識とに分類するとき、心の堆積する働きを積集という。深層の根源的な心である阿頼耶識が表層の業の結果である種子を堆積する働きをいう。又、業の結果である種子を集起する阿頼耶識が心であると解釈する。この場合には集起(じゅうき)といい、「集起の故に心と名づけ、思量の故に意と名づけ、了別の故に識と名づく。」といわれている。
以上のように第七識を “意” というのは、第八識の積集(種子集起)の心と前六識の了別の識とを簡ぶためである。それは、第七識は積集と了別とにおいては劣っているが、恒審思量の働きに於いては増勝の義、すぐれた特徴があるから、第七識を意と表現するのである。
此処でよく誤解される
心(citta)
意(manas)
識(vij??na)
についてメモしておきましょう。
1.『倶舎論』(世親)での解説
集起の故に心と名け
思量の故に意と名け
了別の故に識と名く
2.『成唯識論』(護法)での解釈
第八を心と名く
第七を意と名く
余の六を識と名く
3.『釈摩訶衍論』(天台智顗)の解釈
数に対するを名けて心と為し
能く生ずるを名けて意と為し
分別するを名けて識と為す
①
雀鬼いぬやま 脳足りん
②
麦ちゃん ( Oh!(My sweet wheat )
③
偽軍曹 指示待ち君
④
有さん ゆうぐれどき、誰そ彼(たそ かれ。たそがれ)
⑤
離壇 or りだん金200万
⑥
統失 まくもうぞう妄想する事莫れ。
まく‐もうぞう莫妄想】 妄想することなかれ。
悟りを得るためには思惟分別する心を放棄せよということ。
⑦
JBL - 宿4丁目BoysLove
https://i.imgur.com/DJV4g5v.jpg
恒審思量
末那識 →(恒審思量)→ 阿頼耶識
(末那識は阿頼耶識しか見てないのです)
種子の交換
末那識 ? 阿頼耶識 ? 意識
(末那識と意識に種子の交換は無いのです)
これのどこが直接なのか、経論等を明示して反証してくださいねwww
あなたのやってることは文章を牽強付会に読み替えているだけですから。
ちなみに意識の意根は末那識です。
これを根拠に直接の影響を示唆される方もいるかも知れません。
しかし、この場合は例えば眼識が眼根を根とするのと違うのです。
前五識に於いては、識と根は同一の対象(境)を持ちますが、これを同境依といいます。
意識はそれと倶起して明瞭に知覚せしめるので、これを分別依、或いは明了依といいます。
末那識はそのままでは間接的に意識を汚染し、転識すると平等証智になり意識を浄化しますが、これを染浄依といいます。
末那識が意識の意根とされるのは、この様に意識に対するはたらき、すなわち汚染したり浄化したりするからなのです。
根としての性格が前五識とは別物であることを確認しておきましょう
(『唯識とはなにか 「法相二巻抄」を読む』 P93、117参照)
↓
智慧が何故有為法に分類されるという事ですが、先にもレスした通り事法であり心作用だからでしょう。
当然に五位百法の無為法の虚空・択滅・非択滅・不動滅・想受滅・真如には分類されないという事です。
これについては、下記の転識得智の仕組みを調べる中で明らかにされます。
2.転識得智の仕組みですが
見道・修道にて、
1.-1. 第六識(意識)の尋・伺(有為法/心所法/不定心所)の働きによって諸法を観察し、
1.-2. その結果、分別起の二障(我見・法見)が二空(我空・法空)所現の真如をはじめて観ます。
1.-3. 意識が妙観察智へ
2.-1. その効力が末那識に及び二空の無漏智が生じます。
2.-2. 末那識が平等性智へ
3.-1. 上記は五位百法中の心所うち、妙観察智は遍行の五、別境の五、善の十一と尋・伺の二十三か所の心所に影響を及ぼします。
五、別境の五、善の十一の二十一か所の心所に影響を及ぼします。
4.-1. 見道では障断の作用は粗く、修道にてその作用は細やかに作用します
佛位にて
5.-1. 上記の作用が阿頼耶識に及び、阿頼耶識が大円鏡智へ
5.-2. 5.-1.の作用が阿頼耶識の所変である前五識に及び、前五識が成所作智へ
6.-1. 3.-2に同じ
7.-1. 一切の障が断じ尽くされます。
と、こんな感じですね。
もうお分かりかと思いますが、その二十一が転識後に智慧として作用するわけです。
<参照>
遍行(5) ~ 作意・触・受・想・思
別境(5) ~ 欲・勝解・念・定・慧
善(11) ~ 信・精進・慚・愧・無貪・無瞋・無痴・軽安・不放逸・行捨・不害
不定心所(4) ~ 悔・眠・尋・伺
本来自性清浄涅槃」についての慧沼と円測の見解
長谷川岳
本来自性清浄涅槃、有余依涅槃、無余依涅槃、無住処涅槃
https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/46/2/46_2_562/_pdf/-char/ja
https://i.imgur.com/047xRdO.jpg
https://i.imgur.com/KHHAfPu.jpg
「佛教の倫理学的研究」
https://core.ac.uk/download/pdf/267921769.pdf
「第六識の根としての末那」においては、先ずわれわれに最も直接的な現象の意識としての第六識と非現象的な七・八の二識との縁起的相関関係を言い、
第六識が前五識とは異なって特異な第七末那識を根(不共依)とされていることに主眼が置かれている。
末那 manas 即ち意を所依として起る識であるからである。
https://i.imgur.com/UXEdvCO.jpg
https://i.imgur.com/Da1yywC.jpg
↓
『「唯識三十頌」を読む(廣澤隆之)』のP92~P93を読むと、何故意識と末那識を分けているのかが詳細に説明されています。
末那識はサンスクリット語で「manon?mavij??na」。
意識は「manovij??na」。
末那識「manon?mavij??na」は、分解すると「mano n?ma vij??na」で、直訳すると「意と 名づける 識」です。
この「manon?ma」は「manas(意)」と「n?ma(名付ける)」の合成語です。
そして、その語は文法において「mano(意)」と「vij??na(識)」が「n?ma」を介して同格となります。
つまり、「意=識」ですね。
対して意識「manovij??na」は、分解すると「mano vij??na」で直訳すると「意(に依る)識」となります。
なぜなら「n?ma」を介していないので両者は同格とならないからです。
眼識(眼に依る識)や阿頼耶識(阿頼耶の依る識)等も同じですね。
意識の意根が末那識とされる由縁でもありますけどね。
お分かりでしょうか?
「意と名づける識(末那識)」と「意に依る識(意識)」の違いを。
ちなみに思量は「manana」ですが、それは「manas(意、末那)」と同じく「man(考える、想像する、思う等の意味)」を語源としております。
↓
ちなみに意識の意根は末那識です。
これを根拠に直接の影響を示唆される方もいるかも知れません。
しかし、この場合は例えば眼識が眼根を根とするのと違うのです。
前五識に於いては、識と根は同一の対象(境)を持ちますが、これを同境依といいます。
意識はそれと倶起して明瞭に知覚せしめるので、これを分別依、或いは明了依といいます。
末那識はそのままでは間接的に意識を汚染し、転識すると平等証智になり意識を浄化しますが、これを染浄依といいます。
末那識が意識の意根とされるのは、この様に意識に対するはたらき、すなわち汚染したり浄化したりするからなのです。
根としての性格が前五識とは別物であることを確認しておきましょう
(『唯識とはなにか 「法相二巻抄」を読む』 P93、117参照)
> 末那識が意識の意根とされるのは、この様に意識に対するはたらき、すなわち汚染したり浄化したりするからなのです。
「末那識には、意識を汚染したり浄化したりするはたらきがある。意識が末那識の意根、つまり『よりどころ』とされるのは、このためである」
↑
聖ウンも、ようやく、ここまでは分かってきたんだな
ここまで来るのに、1年近くかかっている
時間がかかりすぎだが、分からんよりはいい(笑)
聖ウン(当時は鹿野園)は、「影響は受けるんだな」ということが分かってきちめ、「直接の影響を受けるかどうか」に争点が移った
だが、これでもまだ、まったくナンセンスな論点だ
意識は末那識から影響を受けるに決まっている。それも、非常に強い影響だ
「直接か、間接か」を論じるなど、まったく無意味な論点(笑)
分かってきたため
それを考えるにあたっては、前五識の例を参考にするしかない
眼識の根は、眼根だ
耳識の根は、耳根だ
これを平たく言えば、
「視覚は、眼をよりどころとした作用」
「聴覚は、耳をよりどころとした作用」
ということになる
それと同じように、唯識では
「意識の根は、末那識だ」
と言っている
つまり、意識にとっての末那識は、
視覚にとっての眼、聴覚にとっての耳に
相当する
「意識は末那識から影響を受けるかどつか?」など、論争するまでない
影響を受けるに決まっている(笑)
あまりにもバカげた論点
匿名掲示板とはいえ、こんなテーマで論争してる自分が情けないので、早く終わらせたい
この話を早く終わらせたいので、
焦って誤字脱字が多くなっている(笑)
「唯識論における、意識と末那識の関係」
を理解するかどうか
その一点にかかっている
こちらは、最初から分かっている
半年ほど前に、説明するのを諦めたが
最近は風向きが変わってきたか?
更に以下の図表(※1)に同境依・分別依・染浄依・根本依という術語が確認できるかと思います。
これを感覚が生ずるための四依というのですが(※2)、以下のように該当してます。
同境依~前五識(眼識・耳識・鼻識・舌識・身識)
分別依~意識
染浄依~末那識
根本依~阿頼耶識
つまり、例えば眼識が成立するには以下のような図が成立しているということになる訳です(※7)
所縁(※3) → ←意識
無間滅意(※4)→ 眼識 ←末那識
眼根(※5) → ←阿頼耶識(※6)
※1
https://pic.zawazawa.jp/files/bison/7e9ba9ea2473e.jpg
※2
『唯識とは何か 「法相二巻抄」を読む』横山紘一 P115
なお、分別依は明了依ともいいます。
※3
所縁縁の事。心が対象を認識する時の対象。
※4
等無間縁の事。前滅の識の事。
※5
同境依にして増上縁となる。
※6
因縁となる種子
※7
https://i.imgur.com/m1xR3BW.jpg
https://i.imgur.com/lhVlIuL.jpg
https://i.imgur.com/cLDf05F.jpg
〉二識以上の共通の所依となるものを共依(ぐうえ)といい、
〉一識のみの所依となるものを不共依という。
〉例えば阿頼耶識は諸識のよって起こる根本となる共依であり、
〉眼識のみの所依となる眼根などは不共依である。
ーーー
上記の件、念には念を入れて補足しておきましょうかw
前五識の不共依は五根、他に意識・末那識・阿頼耶識を共依してます。
意識の不共依は末那識、他に阿頼耶識を共依してます。
末那識の不共依は阿頼耶識のみ。
阿頼耶識の不共依は末那識のみ。
たったそれだけの事です。意識の意根になぜ瑜伽行唯識学派の論師達が末那識を持ってきたのかは不明な点がある訳です。
先述してますが「根」のサンスクリット語は「indriya」です。
例のインドラ神と同じ趣旨ですね。
中国仏教では、この「根」は増上(すぐれたはたらき)や能生(生ぜしめるはたらき)の義と解されているようです(岩波仏教辞典 「根」より)。
説一切有部等では、意識の意根を前滅の識に持ってきており、それについては瑜伽行唯識学派も否定してないようです。
おそらくは本質(為性相)においての類似性(時間のズレに依ってなされる認識の思量)と相関関係(表層識と深層識)から、
意識の意根として末那識を持ってきたのではないのでしょうか?
トマス・アクィナスの様に「哲学は神学の婢」というもよし。
パスカルの様に「理性を否認すること以上に、理性にふさわしいものはない」として「理性の最後の手続きは、みずからを超えることがらが無限にあることを認めることである。これを知るところまで行かないかぎり、理性は脆弱なものにすぎない」とするもよし。
自分の中で決着を付けなければいつまで経っても解決しない事なんですよ。
晃さんはそうした覚悟が欠けてますね。
> 例えば、科学的な真理と宗教的な真理があるんだという「二重真理説(ラテン・アベロエス主義)」を認めるもよし。
> トマス・アクィナスの様に「哲学は神学の婢」というもよし。
バカバカしい(笑)
そんな13世紀、
日本でいえば鎌倉時代の論争なんか、
現代人にとって何の参考になるんだよ
アリストテレスの哲学だって、
現代人から見れば宗教と変わらん
くだらん例を持ち出すな
長い!
書くなら要約しろ
アフォか
> 自分の中で決着を付けなければいつまで経っても解決しない事なんですよ。
>
> 晃さんはそうした覚悟が欠けてますね。
よく言うよ
宗教板で、晃が一番、スタンスにブレがないだろ(笑)
> 意識の意根になぜ瑜伽行唯識学派の論師達が末那識を持ってきたのかは不明な点がある訳です。
「末那識は、意識の意根(よりどころ)であるにもかかわらず、なぜ意識に直接の影響を及ぼさないのか?」
という超難問(?)に対する答えが結局、それなのかよ😂
ヒネリが足りんぞ
少しは面白い屁理屈をコネてみせろや
> 例えば、科学的な真理と宗教的な真理があるんだという「二重真理説(ラテン・アベロエス主義)」を認めるもよし。
> トマス・アクィナスの様に「哲学は神学の婢」というもよし。
アリストテレス哲学に心酔する、急進的な若手たち
聖トマス・アクィナスの「神学大全」により、この論争には決着がついた
以後のカトリック教義においては、アリストテレス哲学とキリスト教が統合された
歴史的には重要だけど、現代人の参考になる要素はほとんどない事例(笑)
「アヴェロエス主義者たちが、
聖トマス・アクィナスの正統派スコラ哲学に
異論を唱えた」
とかなんとか書いてたな
「それは歴史的には順番が逆だ。
急進的なアヴェロエス主義者たちを
抑えるために、聖トマスの神学大全は
書かれたのだ」
と指摘した覚えがある
聖トマス・アクィナスの正統派スコラ哲学に
異論を唱えて論争が起きた」
だった
985.
ユーザー
栖雲居士◆dqam8SqGUPdm
PypBm(16/19)
>>970
日蓮さんがそう思っているのなら、日蓮さんにはそうなだけだろ。
私は宗派間の優劣を論じない主義だから、その手の話に応じる気は一切ないから😟
2023/10/29 10:49:13
私は宗派間の優劣を論じない主義だから
私は宗派間の優劣を論じない主義だから
●【阿頼耶】とは、【蔵の義】で、
①能蔵・②所蔵・③執蔵の、三義があるが、
【③執蔵】の義を以て【主】とするのである。
●③【執蔵】とは、
【我愛-執蔵】のことであるが、
か【我愛】とは、【第七識】に相応する、
①我痴・②我見・③我慢・④我愛の、
四煩悩中の【随一】で、
恒に、【第八識】の【見分】を縁じて、
【我】と【我著】する【煩悩】のこと、
●【③執蔵】とは、
①【能-執】の側でいえば、【第七識】が【執蔵】することであるが、
②【所-執】の側からいえば、【阿頼耶識】が【執蔵】させられることになるので、
その【所-執蔵】の側から、【阿頼耶識】のことを意味することになる。
https://hu.repo.nii.ac.jp/record/1149/files/004-83-07.pdf
●疑問
【虚妄分別】とは、【妄想念】だが、【夢】とも同義なのか?
『弁中辺論』
1● 此こに於いては二は都(ス)べて無しとは、
謂わく、即ち、此の 虚妄分別 に於いて、
永く所取と能取との二性無きなり。
( 1四六四b )
◎ ここにおいて
二=≪【所取】と【能取】≫は、
全く【無し】というのは、
この【虚妄分別】において、
【永久(無始無終)】に
≪【所取】と【能取】≫との【二者】が
【絶えて無い】ということである。
2● 此中には唯だ空のみ有りとは、
謂わく、虚妄分別中には、
但だ、所取及び能取を離したる空性のみ有るなり。
◎ ここには唯だ【空】のみ【有り】というのは、
【二取】が【絶えて無い】時、【虚妄分別】中には、但だ、
【所取】と【能取】とは【無縁】の
【空性】のみが【有る】ということである
https://hu.repo.nii.ac.jp/record/1149/files/004-83-07.pdf
『弁中辺論』
●ー亦た全無にも非ず、
中に於いて少しく乱識の生ずること有るが故に。
◎ さりながら【全無】でもない。
【乱識】の範囲では、【生じている】からである。
〔注〕【乱識】というのは、身心のある限りまぬかれ得ない【意識活動】のことである。
『弁中辺論』
● 何んぞ 此の性の、全無なることを許さざる。
此れ滅して、解脱を得と許すが故に。
若し此れに異ならば、繋縛も解脱も、則ち応に、皆な無かるべし。
是くの如ければ、便ち、雑染及び清浄を発無する失を成さん。
◎ ①ではどうして【識】の【全無】は許されないのか。
【識の滅】から【解脱が得られる】と認められているからである。
②もしそうで無いならば、
【煩悩の繋縛】も、それからの
【解脱も無い】ことになるはずである。
そうなれば、
③【雑染】から(滅せずに)【清浄】へ、という【仏道】を【発無】する
【あやまちを犯す】ことになろう。
途中の議論が長すぎたが、虚妄分別の意味が明らかになったので、空性の問題に立ち返ろう。
ーーーーー
はつ‐む【撥無】
〔名〕払いのけて信用しないこと。否定し、しりぞけること。はちむ。はつぶ。
※正法眼蔵(1231‐53)
『 深信因果「いたづらに撥無(はつむ)因果のあやまりあり 』
はつ‐ぶ【撥無】
〔名〕=はつむ(撥無)
「撥撫 ハツブ」
https://i.imgur.com/RoPCLGM.jpg
https://i.imgur.com/GTXXlqN.jpg
『唯識三十頌』の原典、翻訳、および解釈
湯 田 豊
詩句16
思考(マナス)による識は(27)、常に起こる、非認知の状態(28)を除いて。
あるいは2つの達成(29)、まどろみ(30)、あるいは、チッタを欠く(31)気絶を除いて。
ーーーーーー
ーーーーー
詩句16〔註釈〕
(27)第6識である思考器官による知覚。事物〔ダルマ〕を知覚する精神的知覚。
(28)あるいは、無意識の状態。
(29)非認知の達成、および感覚と認知の止滅の達成。
(30)玄奘は、middhaを“睡眠”と漢訳している。それは精神的活動を欠いている。
(31)Acittakaは、知覚のない、あるいは精神的活動を欠く、というほどの意味。
ーーーーー
ーーーーーー
詩句17
〔翻訳〕識のこの転変は、想像/識別することである。
それによって想像/識別されるもの、それは、存在しない。
それゆえに、この一切は知覚のみ(32)/唯識である。
詩句17 〔註釈〕
(32)識の転変によって想像されるもの/識別されるものは存在しない。
あるいは同じことだが、識の転変は存在しない。
われわれによって知られるのは、“知覚のみ”/“唯識”〔vijña-ptima-trata-〕である。
実際に存在するのは、想像されていない/識別されていない知覚のみ/唯識である。唯識は、存在というよりも、むしろ瞬間的な出来事。
四智円明の月さえん
此時何をか求むべき→〔一切棄捨〕
●【 寂 滅 現 前 】するゆゑに
当所即ち蓮華国
此身即ち仏なり
(白隠禅師 坐禅和讃 より)
一切唯識、唯識三十頌
https://i.imgur.com/TKIkwGk.jpg
「朱色に染まるものは、元々朱色ではないが故に、朱色に染まることができています」
『 永 平 寺 法 戦 式 』
● 問者
「作者は、仏道とはどのように参究すべきでしょうか? 乞尊意」
首座
「かつての祖師方は、”仏道は自己なり”と、申されております」
● 問者
「それはいったいどのような意味でしょうか?」
首座
「宇宙といえ、世界といえ、全ては六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)に現成する法の働きであると知ることです」
● 問者
「中々、ならば”私が在る”という根強い想いは、一体 どうすればよいのでしょうか?」
首座
「”私が在る”という想いを抱けることが、そのまま自己の空性を実証してくれています。」
● 問者
「”自己の空性”とはどのようなことでしょうか」
首座
「朱色に染まるものは、元々朱色ではないが故に、朱色に染まることができています」
問者 「珍重」
首座 「万歳」
809.
ユーザー
栖雲居士◆dqam8SqGUPdm
WP0bl
何やら仏教とは無関係な部外者が支離滅裂なファンタジーをほざいてますがw
先ず、引用元が明示されてないのは全てデタラメと判断してもいいでしょう。
引用っぽい文の後に何かしら解説があるのもデタラメと判断していいでしょう。
借りた本を見せびらかして云々ほざいてますが、笑ってあげましょうね。
以上
2023/10/31 17:01:25
④唯-識、⑤涅槃-寂静
これらを順を追って知って行かないと、本当のところ分からないでしょう、
瞑想・禅定では楽を得るだけ?
第四禅定ですら楽を超えますね、その前に喜悦も超えますね~禅定では、
しかし、って言うか、
何で禅の修行で悟ってもその後に何十年と更に工夫して行く必要があるのか?
ここですよ、
●【 三 昧 無 碍 】の空ひろく
四智円明の月さえん
此時何をか求むべき→〔一切棄捨〕
●【 寂 滅 現 前 】するゆゑに
当所即ち蓮華国
此身即ち仏なり
(白隠禅師 坐禅和讃 より)
● 唯識三十頌の最後、
https://i.imgur.com/OJfmv7Z.jpg
https://i.imgur.com/TLK0gul.jpg
https://i.imgur.com/kdlsfiR.jpg
『唯識三十頌 後半の諸問題』 北村晴朗
https://tfulib.repo.nii.ac.jp/record/194/files/p.%E4%B8%89%E4%B8%89-%E4%BA%94%E4%BA%8C%20%E5%8C%97%E6%9D%91%E6%99%B4%E6%9C%97.pdf
https://zawazawa.jp/bison/topic/19
上記の内容を日蓮大聖人がどのように釈(解釈)しておられるかを次にご紹介致します。
その前に
麦や鹿野園の「空=仮=中」の三諦の理解はあの池田大作大先生の三諦論と全く同じ解釈となります。
池田先生の三諦論
https://syozou.blog.jp/archives/23428790.html
これはたんなる科学のお話です(実体に即した真理=析空)。
唯識三十頌 その② へ続く
https://zawazawa.jp/bison/topic/20
● 此の八識にとりて先の六識は起こらざる時も有り。
其の様又たさまざまなれども、暫く人のよく寝入りて夢見る時は、
眼耳鼻舌身の五識みな 起こらざる時也。
≪【夢】≫に物を見、 きき、味い、あつし、つめたしとも思うは、
● みな≪【第六識】≫の≪【分別】≫也
ーーーーー
😕う~む夢は六識の分別なりかあー
● 只彼の末那識、阿頼耶識のみあり。
されば二の心は何なる時も起こらぬと云う事なし。
生まれる時も死する時も、さめてもねても、長時相続して絶えざる心也。
いま此の二の心(七、八)ありと云う事、極て【知りがたし。】
中にも【第八阿頼耶識】はきわめて【甚深】なり、【甚細】なり。
此の故に【小乗】浅近の教の中には是を【説かず。】【大乗最極の教】の中にのみ是を【説けり。 】
● 所謂、
①花厳、→華厳経
②深密、→解深密経
③楞伽、→楞伽経
④厚厳、→楞厳経?
等の経、瑜伽、顕揚、宝性、集量、唯識等の論也。
抑もこの【八識かは【心の中の本】なるが故に是を【心王】となづく。
ーーーーー
大乗最極の教! なんか凄そうな~
仏書。「大仏頂如来密因修証了義諸菩薩万行首楞厳経」の略。一〇巻。般剌蜜帝訳。
●≪【修禅】≫、【耳根円通】などについて
●≪【禅法】≫の要義を説いた経。首楞厳経。
世界大百科事典 第2版「楞厳経」の意味・わかりやすい解説
りょうごんきょう【楞厳経 L?ng y?n j?ng】
大乗仏典の一つ。10巻。詳しくは,《大仏頂如来密因修証了義諸菩薩万行首楞厳経》といい,
唐の則天武后の時代(690‐704)に,インド僧般刺蜜帝が南海の制司寺で口訳し,
ちょうど流謫中の房融が筆録したとされる。
早くより【偽経の疑い】があるように,
● 新しく興りつつあった【禅】や菩薩戒,密教の教義を,
仏説の【権威を借りて】総合的に主張しようとしたものらしい。
【楞厳】とは,クマーラジーバ(鳩摩羅什)訳の《首楞厳三昧経》と同じく,
【堅固な三昧】の意である。
首楞厳三昧経
しゅりょうごんざんまいきょう
『首楞厳三昧経』▽ 二巻。
後秦こうしんの鳩摩羅什くまらじゅう訳。
● 首楞厳は、
梵語【シューランガマ 】(??ra?gama) の音写で、
健相ごんそう・健行ごんぎょうなどと漢訳する。
堅意(けんい)菩薩が、菩提をすみやかに得る法を尋ねたのに対して、
釈尊が【首楞厳三昧】を説き、また舎利弗しゃりほつが【魔境】を遠離おんりする道を尋ねたのに対して、
釈尊が【自ら魔境を現して】これを退治する法を説いたもの。
ーーーーー
😕う~む
● ≪①【尋】と②【伺】≫と、物を言わんとて、
【万の事を押し計らう心】也。
其れに取て、
①【浅く推度する】時をば①【尋】となづく。
②【深く推度する】時をば②【伺】となづく。
不定の四と申すは是れなり。
●又た⑤【五識】と⑧【第八識】とは、
何も【在りのままに】物を【知る】なり。
●⑦【末那識】はいづれ、【もひがめる心】なり。
●⑥【意識】は【有のままに知る】おりもあり、【ひがめるおり】もあり。
● 次【色法】に十一ありと申すは、其の名共又た百法論に有り。
其の中に【眼根乃至身】・【根】を五根となづく。
先に申する【眼識乃至身】・【識】の【所依】の【根】也。
所依の【根】と云うは、
【心の物を知る】時、是を【力として】能く知る。
たとへば光ある玉を以て物を照して、是をもて見るが如し。
【五根】かは【玉の如し】
【心】の
【物を知る】はよく【見るが如し。】
【知らるる物】は【見らるる物の如し。】
①【眼識・耳識】なんど云うは、
②【眼根・耳根】なんど云うは、
【別々の法】なり。
①【識】と云うは【心法】也。
②【根】と云うは【色法】也。
此の【根】は人の
≪【実の目、実の耳、実の鼻、実の舌、実の身】≫也。
ーーーーー
心法と識法かあー
(死後)断滅することなく永遠ではなく(不断不常)、
同じではなく異なることなく(不一不異)、
来るのでもなく去るのでもなく(不来不去)、
『戯論が寂滅する、吉祥なる、縁起を説いた
正覚者(ブッダ)に対し、最高の説法者として、
わたしは敬礼する。』
(『中論頒』帰敬偈)
八つの不とあるので八不中道といわれる。
いわゆる縁起・無自性・空を説くのである。
あらゆる存在は、関係性に縁よって起こっている(縁起)のであるから、他から独立して本来備えているような真の性質である自性は無い(無自性)のである。故にそれは空とでも呼ぶしかないというのである。
また「善く諸の戯論を滅」すとあるように、人間が言語によって思惟することの限界を突破した思想でもあった。不生亦不滅
不常亦不斷
不一亦不異
不來亦不出
能説是因縁
善滅諸戲論
我稽首禮佛
諸説中第一
不生にして亦た不滅、
不常にして亦た不断、
不一にして亦た不異、
不来にして亦た不出なり
と、能く是の因縁を説きて、
善く諸の戯論を滅したまえば、
我れは稽首して仏を礼す、
諸説中の第一なりと。
勝義は存在しないんだよね、
概念の砂上の楼閣、
寂静して沈黙の波にさらわれたら、跡形も無くなる、
この理は知られるべきことだと思います。
護法菩薩は、熏習の中に、二つの意味があることを明らかにしておられるのですね。僕もはっきりしておらなかったのですが、再度『成唯識論』を読み、親鸞聖人の「聞」について尋ねてみますと熏習の意味がはっきりしてきました。
先師のご苦労もあったのでしょうが、現行熏種子ですね。この部分だけを捉えて熏習といっていたのです。これを護法菩薩は始起と押さえておいでになります。生まれて始めて起こって来たこと、という意味になりますが、始めて起こる依り所はどこにあるのかですね。「無始より来虚妄熏習の内因力の故に恒に身と倶なり」を依り所として生起してきたものだと教えられています。有漏の種子はどこまで積み重ねても有漏の種子を熏習するだけである、ということなのですね。無漏には転じないということです。
『論』には「若し始起のみなりといはば、有為の無漏は因縁無きが故に生ずることを得ざるべし。有漏を無漏の種と為すべからず。」
と教えています。
引用元
https://blog.goo.ne.jp/seikannamo/e/edb68d44666b91c9eb527d8c154eb5fd?fm=entry_awp_sleep
https://i.imgur.com/b4w1WzQ.jpg
これが自然法(存在の)
● この法理を、中途で断ずる行いを、法に反する行為とし、それを悪とす。
故に自殺も悪である。
● 諸々の価値ある事象が、ある処に、固定され所属し所有されている場合に、
縁に於いて所有者の心において、所有移転の縁が踏まれ同意が無いのに、途中で横取りするを悪とす。
【見性】してから本格的な修行が始まるとも云われる訳で、
見性未体験者は「無眼子」とさえ云われ、一人前の扱いにされないくらいです。
その見性という不思議な体験ですが、『成唯識論』では以下のように触れております※1。
≫有義此智見有相無。
●有義は、【此の智慧】には【見は有り】て【相は無し】
≫説無相取不取相故。
●【相無く】して【取る】、相をば取らずと説けるが故に
≫雖有見分而無分別説非能取非取全無。
●【見分は有り】と雖も、而も【無分別】なるをもって、【能取に非ず】と説けり。取ること【全無には非ず】
≫雖無相分而可説此帶如相起不離如故。
●【相分は無し】と雖も、而も此れいい【如の相】を【帯し】て【起こる】と説くべし。
【如に離れざる】が故に
≫如自證分縁見分時不變而縁此亦應爾。
●【自証分】いい【見分を縁ずる】時に【変せず】して【縁ずる】が如く、此れも亦た応に璽るべし
≫變而縁者便非親證如後得智應有分別。
●【変じて縁ぜ】ば便ち【親しく証する】に【非ず】なんぬ。
【後得智の如く】応に【分別ある】べし
≫故應許此有見無相。
●故に応に此れには【見のみ】ありて【相は無し】を許すべし)
ーーー
※1
以下を参照にしております。
『成唯識論』巻第九
『新導成唯識論』9・13-14
『会本成唯識論』4・436
漢文は「SAT大正新脩大藏經テキストデータベース」より
和訳は『「成唯識論」を読む』竹村牧男 より
自己が鏡と、そう思うと良く分かるのかな?
思考を止めよ
ーーー
普通は、ただ瞑目して心を静にしようとするが、それだけでは、何年かかってもらちがあかないでしょうね、
見分のみで相分を取らず、相分は物と思考、この状態が無分別で無思考の状態です、
しかし、そう簡単にはできません、
なので、先ずは武道でいわれる【八方目】を修練しましょう、
両足を肩幅に開いて立ち、両腕をだらりと下げた状態で、肩だけを左右前後に円を描く感じで、体軸を中心に両腕をでんでん太鼓の要領で左右に緩やかに揺らします、
その時に、視線は、八方に焦点をぼかして、固定しません、
1分、寝る前に行うと良く寝れるといいます。
外のものは内に似るので、内側の意識の焦点も相分を取らない状態になれます、
これが出来るようになったら、今度は集中を修練しても良いでしょう、
意識の集中と拡散、これは密教修行でも行われる、瞑想の基本的な修練方法であります。
この論文はもう読んだかな
『大智度論』における般舟三昧と首楞厳三昧の関係(澤 﨑)
https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk/69/2/69_761/_pdf
(2)六根、六境の感受作用についても観心の対象とする。
(3)未念心、欲念心の二心を観心の方法として用いる。
(4)心の本源的状態を心性と呼び、八識説も展開する。
(5)出入息観、不浄観など小乗系の伝統的禅観もとり込む。
(6)全体的に般若空観の思想が基調になっている。
(7)『大智度論』等の所説の四念処観と関連が深い。これらのうち(2)、(3)、(4)、(5)、(7)等は『首樗厳三昧経』には直接は説かれておらず、慧思の独創によると考えられる。
中国初期禅観思想における首樗厳三昧について 塩入 法道
https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/38/2/38_2_677/_pdf/-char/ja
首楊厳三昧は勇伏三昧、健相三昧などとも訳され、古来多くの三昧の中でも特に重視されていた三昧である。
首 掴肪 嚴 三 昧 の 研 究 ( 早 苗 亮 雄
https://hu.repo.nii.ac.jp/record/655/files/004-13-03.pdf
此の三昧は鐸尊の敷理中初薯法輪に於ける八聖道の最後の第八に上げられてゐる徳目であるが、緯奪の敷理中最も重要な地位をしむるものなるこごは、中阿含経『聖道経」などが此の三昧を基本だなし、他の七支正道を正三昧の助縁こしてゐるこごに徴して明瞭である(註一)。
十二因縁で言えば
●①過去・現在の三枝は
【(1)無明(2)行(3)識】これ煩悩道。
●②過去・現在の二枝は
【(4)名色(5)六処】これ業道。
●③現在・未来の七枝は
【(7)受(8)愛(9)取(10)有(11)生(12)老死】これ苦道なり。
いま十二因縁に三道を明かして三種の解脱を弁じ、思議・不思議の不同(違い)を分別せん。
もしは通教には、③苦道は、即ち是れ真性と説くといえども、すなわちこれ【偏真(片寄った真)】の法性の理、
①煩悩道、即空と説くも、空は【実慧】にあらず。
②業道、即空と明かすといえども、空は【方便】にあらず。
ゆえに三種は不思議の解脱に、非(あら)ざるなり(そうではない)。
(1)無明(2)行(3)識(4)名色(5)六処(6)触(7)受(8)愛(9)取(10)有(11)生(12)老死
①六識はこれ分別識。
②七識はこれ智障の波浪識。
③八識はこれ真常識。
④智識はこれ縁修。
【八識】はもしは顕るれば、【七識】はすなわち滅す。【八識】は真修と名づく。
任運(運にまかせ)に、体は融じて【常寂】なり。
而も、【摂大乗論】にいわく、
『【七識】はこれ【執〔見〕心】。
【八識】はこれ【無記】の【無没識】』と。
豈(あに-ドウシテ)これ真修というを得んや。
また、いま明かすところの【六識】は、すなわちこれ【不思議の解脱】なり。
豈(あに-ドウシテ)【六識・七識】が【滅し】て己(終る-オワ)りて、
【八識】の【真修】を【不思議の解脱】となすことあらんや。
所以(ゆえん-)はいかん。鴦掘経にいわく、「いわゆるかの眼根は諸如来においては常に具足して滅修することなく、了了に文明に見る。ないし意根もまたまたかくのごとし』と。
法華経に明かす父母所生の六根の清浄は、自ずから湛然たるをもって十方界境を照らす。あに六識が滅して別に真の縁修あることあらんや。ゆえに経にいわく、「佛は、一切衆生は畢竟して寂滅なり、すなわち大涅槃もまた滅すべからず、一切衆生もまた滅すべからざるを知る」と。すなわちこれ六識は滅すべからず。
またこの経にいわく、「解脱とはすなわち諸法なり」と。あにすなわちこれ六識と十八界の一切法ならざらんや。もし爾らば、あに、ただ八識に約して不思議の解脱を明かすを得んや。
①六識はこれ分別識。
②七識はこれ智障の波浪識。
③八識はこれ真常識。
④智識はこれ縁修。
【八識】はもしは顕るれば、【七識】はすなわち滅す。【八識】は真修と名づく。
任運(運にまかせ)に、体は融じて【常寂】なり。
而も、【摂大乗論】にいわく、
『【七識】はこれ【執〔見〕心】。
【八識】はこれ【無記】の【無没識】』と。
豈(あに-ドウシテ)これ真修というを得んや。
また、いま明かすところの【六識】は、すなわちこれ【不思議の解脱】なり。
豈(あに-ドウシテ)【六識・七識】が【滅し】て己(終る-オワ)りて、
【八識】の【真修】を【不思議の解脱】となすことあらんや。
所以(ゆえん-ワケ)はいかん。◯◯経にいわく、
『いわゆる、かの【眼根】は、諸如来においては、常に具足して【滅修することなく】、了了(れうれう-明瞭)に分明(ぶんみょう-ハッキリ)に見る。
ないし【意根】も、またまた、かくのごとし(滅修することがない)』と。
法華経に明かす、父母所生の六根の、清浄は、自ずから湛然たるをもって十方界境を照らす。
豈(あに-ドウシテ)【六識】が【滅して】別に真の【縁修】あること、あらんや。
ゆえに経にいわく、
『佛は(ニトッテハ)【一切衆生】は畢竟(ヒッキョウ-最終に)して【寂滅】なり、
すなわち【大涅槃】も、また【滅すべからず】
【一切衆生】も、また【滅すべからざる】を知る』と。
すなわち、これ【六識】は【滅すべからず】。
またこの経にいわく、
『【解脱】とはすなわち【諸法】なりと。
豈(あに-ドウシテ)、すなわちこれ、【六識】と【十八界】の【一切法】ならざらんや。
もし爾(シカ)らば、豈(あに-ドウシテ)、
ただ【八識】に約して、【不思議の解脱】を、明かすを得んや。
仮=「色即是空」順観の十二因縁
空=「空即是色」逆観の十二因縁
中=「色即是空 空即是色」
ですって🤭
そもそも順観はともかく、逆観って逆からって事じゃ無いんですけどね。
発生順~順観、生起門(無明があるから行がある・・・)
消滅順~逆観、還滅門(無明が滅すれば行
ちょっと以下の読み下し文の違いが気になりますねぇ😚
●もしは迷執を離れて → 若し迷執を離れば
●七識は非迷非解 → 七識は迷に非ず解に非ず
●迷解を説くを得る解のゆえに → 迷解を説くことを得
●即ち是れ実慧の解脱なり → 解なるが故に即ち是れ実慧解脱なり。
いや、これじゃ、意味がだいぶ違って来るんじゃないんですか?
これねぇ、そもそも智顗大師の仰りたいのは大乗仏教の特色である「煩悩即菩提」の事じゃないんですか?
●若し迷執を離れば、何処に別に実慧の解有るや。
ってあるように「迷いなければ悟りもなし」って事でしょ?
つまり「末那識なければ実慧解脱もなし」って事でしょ?
「第七末那識を仏の意識」なんかではないでしょ?
www
※
SAT大正新脩大藏經テキストデータベース
https://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT2018/master30.php
関連論文 「『維摩経玄疏』訳注(9)https://soka.repo.nii.ac.jp/record/40823/files/sokadaigakujinbunronsyu0_34_05.pdf
①六識はこれ分別識。
②七識はこれ智障の波浪識。
③八識はこれ真常識。
④智識はこれ縁修。
ーーーーー
☆【縁修】 真如を縁ずる(対象とするの意)有心有作=作為的な修行を【縁修】という。
ーーーーー
【八識】はもしは顕るれば、【七識】はすなわち滅す。【八識】は真修と名づく。
任運(運にまかせ)に、体は融じて【常寂】なり。
而も、【摂大乗論】にいわく、
『【七識】はこれ【執〔見〕心】。
【八識】はこれ【無記】の【無没識】』と。
豈(あに-ドウシテ)これ真修というを得んや。
また、いま明かすところの【六識】は、すなわちこれ【不思議の解脱】なり。
豈(あに-ドウシテ)【六識・七識】が【滅し】て己(終る-オワ)りて、
【八識】の【真修】を【不思議の解脱】となすことあらんや。
ーーーーー
☆【真修】はことさらに修行しようという意志を起こさずに【無心無作】で行なう修行をい
ーーーーー
所以(ゆえん-ワケ)はいかん。◯◯経にいわく、
『いわゆる、かの【眼根】は、諸如来においては、常に具足して【滅修することなく】、了了(れうれう-明瞭)に分明(ぶんみょう-ハッキリ)に見る。
ないし【意根】も、またまた、かくのごとし(滅修することがない)』と。
法華経に明かす、父母所生の六根の、清浄は、自ずから湛然たるをもって十方界境を照らす。
豈(あに-ドウシテ)【六識】が【滅して】別に真の【縁修】あること、あらんや。
ゆえに経にいわく、
『佛は(ニトッテハ)【一切衆生】は畢竟(ヒッキョウ-最終に)して【寂滅】なり、
すなわち【大涅槃】も、また【滅すべからず】
【一切衆生】も、また【滅すべからざる】を知る』と。
すなわち、これ【六識】は【滅すべからず】。
またこの経にいわく、
『【解脱】とはすなわち【諸法】なりと。
豈(あに-ドウシテ)、すなわちこれ、【六識】と【十八界】の【一切法】ならざらんや。
もし爾(シカ)らば、豈(あに-ドウシテ)、
ただ【八識】に約して、【不思議の解脱】を、明かすを得んや。
共不思議・不共不思議に約して分別す 七に共・不共の不思議に約して、二種の解脱の相を分別するを明かすとは、若是し共の不思議ならば、即ち是れ思議解脱なり。若是し不共の不思議ならば、即ち是れ不思議解脱なり。 問うて曰う。何等か是れ共の不思議なるや。 答えて曰う。諸の法師有りて云わく、「八地に道観双流す。二乗、及び下地40の菩薩は、思量すること能わざる所なるが故に、不思議と名づく」と。所以は何ん。下地の若きは、八地を思うこと能わず。八地は九地を思うこと能わず。八地は還って是の思議を成じ、九地は乃ち不思議と名づく可し。是くの如く乃ち十地に至るも、仏地を思うこと能わず。仏地は是れ不思議ならば、十地は是れ思議なり。仏地は能く仏地を思い、還って是の思議を成ず。若し爾らば、何者か不思議解脱ならんや。 復た次に『経』に言うが如し41。仏は三昧に入るに、身子は知ること能わず。身子は定に入るに、目連は知ること能わず。目連は定に入るに、諸の羅漢は知ること能わず。羅漢は定に入るに、学人42は知ること能わず。学人は定に入るに、四善根の人は知ること能わず。四善根の人は定に入るに、一切の外道は思うこと能わず。外道は定に入りて神通変現するに、余人は思うこと能わず。乃至、凡人の伎術・幻化は、世間は皆な思うこと能わず。此くの如きは皆な不思議と名づく。 若し思議を論ぜば、仏に至るも、猶お是れ思議なり。若し不思議を論ぜば、乃至、黄蜂43は蜜を作り、蜘く蟵もは網を作るは、皆な不可思議なり。是れ共の不可思議と名づく。皆な心数の法の解脱有り。悉ごとく応に是れ思議解脱なるべきなり。豈に此れを用て不思議解脱の相に対す可けんや。 問うて曰う。若し爾らば、何が故に是れ不思議なるや。
それにしても貧乏人に
国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/ja/
SAT大正新脩大藏經テキストデータベース
https://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT2018/master30.php
は助かりますわ😚
投稿日時:2012年8月9日
https://kouseiji.com/blog/?p=206此縁性の縁起(天親)
原因や条件に応じ様々なものが正滅変化していくという事を表す。
十二支縁起(十二因縁)・・・我々の苦しみの成り立ち・解消法を十二の項目をあげて説明したもの。
私の苦しみをながめると・・・(順観)
[無明]→[行]→[職]→[各色]→[六処]→[触]→[受]→[愛]→[取]→[有]→[生]→[老死]
私の苦しみが無くなるようにながめると・・・(逆観)
[無明]→[行]→[職]→[各色]→[六処]→[触]→[受]→[愛]→[取]→[有]→[生]→[老死]
⇒「現象面(事)」「有相」「時間的側面(一方通行)」
相依相待性の縁起(龍樹)
相互に因となり縁となって相依り相まって存在する道理。
原因や条件が有る時にその結果が有り、
原因や条件が無い時はその結果は無い、空間的な関係。
例)父と子はその相手と独立に父であり子である事は出来ない。
流転門の縁起(順観の縁起)
此れ有る故に彼有り
此れ起る故に彼起る
還滅門の縁起(逆観の縁起)
此れ無き故に彼無く
此れ滅する故に彼滅す
⇒「真理面(理)」「無相」「空間的側面」
⇒「非有非無・非正非滅」
⇒「無自性・空」
まとめ
龍樹(相依相待性の縁起)と天親(此縁性の縁起)の教義を融合させたのが、「曇鸞」
※当時のレポートではこのまとめの部分が明らかに間違えていたので、ほとんど省略しました・・・^^;
※「自性」≒「我」「アートマン」
「変わることのない、そのもの本来の性質」
「一人で勝手に存在する」という意味である。
永久不変の存在として、過去・現在・未来のいつでもその本来の性質を保ったまま変わることのないもの。
過去にはなくてのちに生成・消滅することのないもの。原因・条件に依存して存在しないもの。
※「空」=「無自性」
いかなるものにも「自性」など無いこと。
「一人で勝手に存在するものなどあり得ないという事」
[無明]→[行]→[職]→[各色]→[六処]→[触]→[受]→[愛]→[取]→[有]→[生]→[老死]
私の苦しみが無くなるようにながめると・・・(逆観)
[無明が滅す]→[行が滅し]→[職が滅し]→[各色が滅し]→[六処が滅し]→[触が滅し]→[受が滅し]→[愛が滅し]→[取が滅し]→[有が滅し]→[生が滅し]→[老死が滅す]
「中論』二十六章における縁起ー立川武蔵
https://otani.repo.nii.ac.jp/record/7385/files/BGS_035-09.pdf
『中論』における縁起は相依性のことであるという理解は近代学者の中にしばしば見受けられる。
この場合の相依性とは、Xに依ってYの存在(あるいは生起)が可能となり、
Yに依ってXの存在(あるいは生起)が可能となると、、、いうようにX、Y等の諸々のものが相互に依り合って存在しているのであって、
XあるいはYはそれ自身の中に恒常不変な存在根拠を有するわけではない、という考え方である。
原始佛教および部派佛教における縁起説が、例外的な場合を除いて、縁起の関係を構成する項(支分)Xから他の項(Y)への一方的な関係によって説いているのに較べ、
「Xに依ってYが生ずる」(X← Y)および
「Yに依ってXが生ずる」(Y ←X)というような、
相互依存関係が強調されることは、たしかに『中論』の大きな特徴である。
彼のこの視点は、「依りて生じあっている」現象世界への一層深い観察から生まれたものであり、
同時に、現象世界の構成要素の自立性の否定の出発点となるものであった。
http://www.obpen.com/essay/20160629_01.html
斉藤 征雄
● 龍樹は主著「中論」で、般若経の空の思想を理論的に論証したとされる。
その第一は、空と縁起の関係である。
縁起は仏教教理の核心であり、すべてのものが原因と結果の関係性の中で相互にもたれ合いながら(相依性)存在しているという存在の原理をいう。
そして、あらゆるものはその存在を決定づける条件が変化すればそのものも変化する運命にある(諸行無常)。
人間の苦も縁起によってもたらされる。したがって苦をもたらす条件を解消すれば苦もまた解消できるのである。
ブッダは人間の苦の因を「渇愛」としたが、その後縁起は、より緻密に体系化されて部派仏教・有部の時代には十二支縁起と呼ばれる形が確立していた。
十二支縁起は、苦の根本原因を「無明」とする。そして過去の因が現在の果となり、現在の因が未来の果となる二重の因果関係(三世両重の因果という)の中で、胎生学的に時間を追って生起する十二支の各段階が示されるのである。
もともと有部は、無数のダルマ(世界を構成する究極の要素)が瞬間瞬間に縁起が働いて集合して現象世界が生起するという考え方に立つ。そしてダルマは、不変の実体をもつ実有の存在とする。
このような有部の考えに対する対立軸として生まれた空の思想は、あらゆるものが固定的な実体をもたないとみなす。
現象世界ではもろもろの事物が消滅変遷するが、実体を持たないからそれは仮の姿であり、本質的にはものが生ずるということがない。
生じないから滅もない(不生不滅)。
こうしたことを前提に龍樹は、縁起に生起するという意味をもたせず、ものとものとが相互に依存しながら関係して存在することを縁起という、つまり相依性のみの意味で縁起をとらえた。
「中論」の序(帰敬偈)において、縁起に「不生、不滅、不常、不断、不一、不異、不来、不去」の八つの否定命題(八不)をつけているのは、
縁起に生起の意味を含めないことを意味している。
そしてそのことによって「中論」は、ブッダの悟りの核心である縁起を中心に据えていること、そこでいう縁起は空と同義であることを示しているのである。
(仏教学習ノート26)
縁起は相依性のことであるとする説(相依説)では、縁起を構成する二つ以上の項自体の存在と、諸項間の関係の成立は肯定されている。
そもそも縁起とは、【或るものA】に依って【或るものB】が生ずることであって、二つ以上の項の間の関係の肯定である。
「中論』における縁起にあっては、しかしながら、縁起という関係を構成する二つ以上の項の存在のみならず、項の間の関係も否定される。
すなわち、『中論』の「縁起」には、【相依性】という意味の他に、「言語的展開→【戯論】の【寂滅】」という意味も存するのである。
その場合、「縁起」は言語的展開という「俗なるもの」を死滅させた「聖なる」状態を表現しているが、この「縁起」の二つの意味は、少なくとも【同一時において】は【成立し得ない】
なぜならば【相依性】が成立するためには、二つ以上の項が必要であり、【言語的展開】が【寂滅】したときには、
【相依性】という関係を【構成する項】も【存在しない】からである。
縁起を構成する項は、言語的展開の部分に他ならない。
一つの関係である【相依性】が【成立】するならば、その関係を成立させている【諸々の項の存在】も承認されている。
一方、【言語的展開が止滅】するときには、如何なる【関係も存在せず】、更にそれを【構成する項も存在しない】。
【関係もなく項もない】ということはそれを【表現する言葉もない】ことを意味する。
更に、
【言葉が断たれた】ときには、
【イメージの出現もない】ことを意味する。
言葉やイメージの世界と、それらの死滅した縁起とが、互いに相容れないものであることは『中論』の中で示唆されている。
①「相互に依り合って生じている」と、
この世間の様相と世間を越えた
②「聖なるもの」との、二つを表現している。
このこと事体が、竜樹における①「俗なるもの」と②「聖なるもの」という
「宗教における二極」の間の距離の近さを示している。
だが、『中論』帰敬偶の中、十あまりの修飾語の中で、否定的な意味を有しない修飾語が一つある。
それは「吉祥なるもの、という語である。【生ずることなく、減することなき縁起】
あるいは【言語的展開の止滅した縁起】というように否定的な意味の修飾語と並んで、
否定詞を持たない修飾語を竜樹が【縁起】に対して附していることは注目さる尋へきである。
もっとも、【吉祥】という語は、『中論』の中では三回用いられているが、いずれの場合も「【止滅】〔している〕」という、
否定的な意味を有する表現と共に用いられている。
すなわち、帰敬偈では、
①≪【言語的展開】の【止滅】した【吉祥】なる【縁起】≫
とあり、五章八偈では、
②≪【見られるべきもの】〔すなわち眼の対象〕の【止滅】している【吉祥】なるもの≫
とあり、二十五章二十四偈では
③≪【すべての対象】の【止滅】、【言語的展開】の【止滅】は、【吉祥】である≫
と述べられている。
〉若時於所縁 智都無所得
〉爾時住唯識 離二取相故
『唯識三十頌』二十八偈
若し時に【所縁】の於に【智】都(スベ)て所得無くなんぬ
爾の時に【唯-識】に住す【二取の相を離れる】るが故に
瑜伽行唯識学派では「通達位」を説きます。
これは見道ともいいますが禅宗で云う見性と同じ義でありましょう、
禅宗、特に臨済宗では「見性」という体験を重視します。
見性してから本格的な修行が始まるとも云われる訳で、見性未体験者は「無眼子」とさえ云われ、一人前の扱いにされないくらいです。
その見性という不思議な体験ですが、『成唯識論』では以下のように触れております※1。
ウソブクのよ透ってないのに、もう40回も初関を透る俺様!と言い放つドマヌケ!40回も透ったら初関を透る、じゃねーべ!!
なんで、みんなワイを無視すんねん!?大欲(たいよく)は無欲に似て足るを知る。煩悩即菩提の法相宗でええやろ・・・ほならなんでワイはこんなところにいるんねやろ
イヌ:悟りとか分からねーし、知らねーし、悟ってねーわ? ググるイヌヤマは常にシカトされ自己存在の確認要求哀願奴隷也
悪霊イヌが鳴く:なんで 宗教板って まともなの俺だけなんだ?みんな間違ってばっか俺だけが正しい。みんな間違ってるのに何で正しい事を言ってる俺は否定ばっかりされるんだ?みんな俺の事を 凄いなと認めろよ。 俺は自分より優れた奴が ゆるせないんだよ(脅迫性人格障害の特徴)
ナント妻子と月一、金曜夜7時からのお坐り会、茶菓(ちゃか)代ワンコインで、これが研究会出席虚勢のトマヌケ犬は誰からも疎まれる
独善イヌヤマは月一第三金曜日夜7時茶菓代ワンコイン坐禅会に出ると偽証。命取りの摂心に親子で100回参加と虚飾スル
新小岩の食業ドライバーイヌヤマとは法相宗(ほっそうしゅう)奈良興福寺(こうふくじ)前官長じっちゃんのお抱え運転手で食業ドライバーで、知ったかぶる以外に承認欲求が満足しない。
多数者を演じ孤立セズと強弁し自作自演のおぞましい日々の無脊椎動物イヌヤマは成り済まし多重人格者で要治療
インチキキチガイ雀鬼イヌヤマ麦、アルコホル発酵しイヌ麦焼酎なのに喜ばせ共有機能が絶えて無し。吠え吠み、オノレの尻尾をクルクル追うノミシラミ
5ちゃんねるの会話はバトル形式で馴れ合いを禁じる。イヌヤマは、褒めてクレヨの哀願奴隷。相手を罵倒する悪口雑言の数々は外道イヌヤマへのリアル社会の絶対評価で、問いに問いで返す脊髄反射の脳足りんで悟前(ごぜん)未悟(みご)、金魚ドジョウと救い難い。
① ググるシッタカ知障荒らしイヌヤマは無視放置スルーが一番ツライ、耐えられない。シッタカイヌヤマは常に誰かの反応レスを待ち焦がれ
② 放置された固定観念イヌヤマは煽りや自作自演でアナタのレスを誘う。ワケワカメ糞邪鬼イヌヤマにノセられてレスしたらその時点でアナタも同類、負け。完敗
③ ;反撃はイヌの滋養にして栄養であり最も悦ぶ事です。門前のヤセイヌにエサを投げ与えぬ事
④ ;臭い汚いコワイ気持ち悪いイヌヤマが枯死する迄、孤独に暴れさせゴミが溜まれば削除
頌曰
若時於所縁 智都無所得
爾時住唯識 離二取相故
論曰。若時菩薩於所縁境無分別智都無所得。不取種種戲論相故。爾時乃名實住唯識眞勝義性。
即證眞如智與眞如平等平等倶離能取所取相故。
能所取相倶是分別。有所得心戲論現故。
有義此智二分倶無。説無所取能取相故。
有義此智相見倶有。帶彼相起名縁彼故。
若無彼相名縁彼者應色智等名聲等智。
若無見分應不能縁。寧可説爲縁眞如智。
勿眞如性亦名能縁。故應許此定有見分。
ーーーーー
頌 曰く、
●若し時に、【所縁】の於に、智都(スベ)て【得る所ハ 無く】なんぬ。
爾の時に、【唯-識】に住す、【二取(能・所)】の相を、離れるるが故に。
論に曰く、若し時に、菩薩いい、所縁の境に於 イテ ≪【無分別智】ト≫ いい、都(スベ)て【得 る所ハ 無く】なんぬ。
種々の【戯論の相】を、取らざる(トラナイ)故に。
璽(ナンジ)の、時に乃(イマ)し、実に【唯-識】の、【真勝義性】に、住すと名づく。
即ち【真如】を【証する智】と、【真如】と【平等平等】(ヒトシイ)にして、
倶(トモ)に【 能・所 】を離れざる(ハナレナイ)が故に。
【能取(捉える主体)】の所の【相】は、此れ【分別】なり。
【有所 得の心】にのみ【戯論】は現ずるが故に。
●有義ニは、【此の智】には、
【二分(見・相)】倶(トモ)に無し。
【所取(とる対象)・能取(とる主体)】の 相(すがた)無しと、説けるが故に。
●有義ニは、此の智には、
【相(すがた)・見(みること)】倶(トモ)にあり。
【彼の相】を、帯びて起こるを【彼を縁ず】と名づくるが故に。
若し、【彼の相】は無くとも【彼を縁ず】と名ヅくといはば、應(マサ)に【色智】の等きを【声等】の智と名ヅくべし
若し【見分】無くんば、【能縁(認識主観)】にあらざるべし。
寧(イズク)んぞ説いて、【真如】を【縁する智】を為す可(ベ)けむや。
勿(ナカレ)、【真如】の性をも、また【能縁(認識主観)】と名ヅけてむが故に、
此れには定んで【見分】も有りと許すべし。
対象となるものを認識する主観。
所縁に対していう。
●ずい‐えん【随縁】
縁に従うこと。
縁に従って種々の相を生じること。
● 寧んぞ-いずくんぞ
「どうして~することがあろうか、いや、ない」という反語の意味で用いられる表現。漢文読み下しの用語
● べけむの意味。・分類連語…だろう。…はずであろう。…べきであろう。
爾時住唯識 離二取相故
若し時に所縁の於に 智都て所得無くなんぬ
爾の時に唯識に住す 二取の相を離れるるが故に
『唯識三十頌』二十八偈』
●瑜伽行唯識学派では「通達位」を説きます。これは見道ともいいますが禅宗で云う見性と同じ義でありましょう。
禅宗、特に臨済宗では「見性」という体験を重視します。見性してから本格的な修行が始まるとも云われる訳で、見性未体験者は「無眼子」とさえ云われ、一人前の扱いにされないくらいです。
その見性という不思議な体験ですが、『成唯識論』では以下のように触れております。
なお、テキストは以下を参照にしております。
●漢文は「SAT大正新脩大藏經テキストデータベース」
●和訳は『国訳大蔵経 論部第十巻 国訳成唯識論』
ーーーーーー
即ち成唯識論は唯識三十頌の解説書って事です。
●「所縁」は「相分、捉えられるもの、対象等」を
●「能縁」は「見分、捉えるもの、主体等」を意味します。
●「二取」は我見・法見。
●「いい」は強調です。
●「平等平等」とは、
≫心と境相称ひ、如と智とを冥合して倶に二取を離れ、
諸の戯論を絶したり。故に平等平等と名く
(国訳大蔵経)
修行者、求道者、修行僧は、やはり さとりを求めて行きます。さとれば、さとりが無く、無我とは、真理(さとり)です、が 理解できるものでありませんく、まさに 体得します。
その状態を 石、とも 言います。突然 ストーン と、自他が無くなります。
これを 一と一は、二では無い。一の如し、一如である、言い表します。この一如に取り組む公案が有ります。
両手で打てば音が鳴る。では、片手の人が叩く拍手の音を聞いてこい、と言うもので、これに取り組みました。
ぜひ、とも取り組んでいただきたいものです。
音を聞くのだが、片手では拍手ができないから、音が鳴らないので聞こえない。
その聞こえない音を聞け、と 公案は いう。
聞こえない音が聞こえる。 そこが 色即是空。 初関(しょかん)を透(とお)る。
色とは片手の人が叩く拍手です。片手の人が叩く音を聞いた、そこが、色即是空です。真理(さとり) です。
趙州従しん(ぢょうしゅう・じゅうしん)の無字の公案では長年かかってもなお悟れず死んでいく者も多かった事から、修行僧に対して白隠禅師が新たに隻手の音声(せきしゅ の おんじょう)の公案を与え、沢山の修行者に悟らせようと苦心した公案です。
白隠慧鶴禅師(はくいん えかく ぜんじ) 隻手の音声(せきしゅのおんじょう)
両掌(りょうしょう)打って音声あり、隻手になんの声やある。隻手の声を拈提(ねんてい)せよ。
>> 理屈っぽいけど、自他一如なら、あなたが叩こうがわたしが叩こうが同じ、わたしが叩きます、パンパンで終了。あとは自他一如、自分から心で隻手の人と一つになる。すると、相手の手を叩く音がきこえる。自他一如や自己の愛情、慈悲心を育てる公案だったとか 』
ありがとうございます。
これは理解したり、解釈を咥えたりするものでじゃないので、お怒りを受けるともいますが、字句の解釈に拘泥するものではありません。
先にも言いましたが、自他一如を体得する事です。
あなたと私で、ぱんぱん。
トンチ、になりましたね。
片手の人が、です。
置き換えて、これでどうだ、と言うわけにはまいりません。
聞こえるはずのない、片手の人が叩く拍手の音を聞く、のです。
そこにおいて第六意識が妙観察智となり、それに引かれて第七末那識が平等証智になる。
● それらには先に一言したように、ともに根本無分別智と後得智があります。
すなわち、まず真如を証し、その上で広く世界を分析していくのが妙観察智で、
また、平等証智は、自他の平等性をさとり、その上で諸法を平等に縁ずるわけであります。
● このように第六意識と第七末那識とは見道においてそれぞれ妙観察智・平等証智を開くのですが、
その後の修道で更に【二阿僧祇劫】の間、【十地の修行を積んで】【仏果に至って】
はじめて、【前五識】が、
ようやく【成所作智】となり、
阿頼耶識が【大円鏡智】になります。
>(『唯識のこころ 「観心覚夢鈔をよむ」』 竹村牧男 P252)
ーーーーー
>この段階を見道という。真如に達するからまた通達位ともいわれる。具体的には四智のうち妙観察智と平等証智との二つの智が生ずる。
>(『唯識とは何か「法相二巻抄」を読む』 横山紘一 P384)
● 前述したように【四智】のうちで【大円鏡智】と≪【成所作智】≫とは、
この【仏位かにおいてはじめて生ずる。
>(『唯識とは何か「法相二巻抄」を読む』 横山紘一 P405)
ーーーーー
● なお、この【転識得智】は、【仏陀】になって一気に【識】が【智慧】に【転換】するのではない。
【初地】の【空性体験】に依って【平等証智】と【妙観察智(後得智)】が【獲得】され、
【十地において】繰り返し【無分別智】を【体験した結果】、
【仏陀】になると
【大円鏡智】と
【成所作智】が
【獲得される】。
>(『「唯識三十頌」を読む』 廣澤隆之 P285)
● 伝統教学では、このような智慧の獲得の階位について、
「妙観・平等、初地文得、大円・成事、唯仏果起
【妙観察智と平等証智】は【初地】で文得され、
【大円鏡智と成所作智】は唯仏果でおこる)」という詩文で暗記することになっている。
>(『「唯識三十頌」を読む』 廣澤隆之 P285~286)
【前三者】におけるような【相対的真実】を【説いたものでは無く】、
≪【諸仏、独覚、阿羅漢等】≫が
≪【証得した】≫人間の
あらゆる
≪【〝概念〟から抜け出た】≫
≪【〝概念〟から抜け出た】≫
≪【〝概念〟から抜け出た】≫
≪【究極的な真理(真如)】≫
≪【究極的な真理(真如)】≫
≪【究極的な真理(真如)】≫
となります。
≪【不完全】≫な
≪【戯論】≫にしかならない
【概念的・論理的・分析的・分別的】な
【認識・思考・言及】に浴するのではなく、
そうした諸々の
≪【戯論】≫が
≪【滅した境地】≫をこそ
≪【戯論】≫が
≪【滅した境地】≫をこそ
≪【戯論】≫が
≪【滅した境地】≫をこそ
≪【釈迦が到達】≫した
≪【至高の境地・根本的境地】≫として
≪【釈迦が到達】≫した
≪【至高の境地・根本的境地】≫として
≪【釈迦が到達】≫した
≪【至高の境地・根本的境地】≫として
賞揚することが、『中論』及び中観派の本義である。
その中の「第20」で詳しく説明されております。
法華玄義の研究 (20)
「円融三諦」については、以下の論文の(P.74-P.75)を参照。
http://hokekyou.up-jp.com/wp-content/uploads/2022/10/『法華玄義』の研究-20.pdf
ーーーーー
次第三観と一心三観の研究論文がここにあります。短い論文なので取り合えず目を通してみ
https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/44/2/44_2_540/_pdf/-char/ja
四聖の互具。
声聞・縁覚・菩薩・仏の四聖ね。
「声聞・縁覚・菩薩・仏」の各々に更に「声聞・縁覚・菩薩・仏」があるという話。
例えば声聞の覚りである此縁性縁起(倶舎論の世界観ね)を覚った境涯で『唯識』を理解している鹿野園のような人を「蔵教の菩薩」と言う。
蔵教は声聞に対して説かれた教え。
空でいえば細かく分析する空の析空。
縁覚の境涯に入ったJBLが理解する『唯識』は、「通教の菩薩」にあたる。
↑の場合は空で言えば体空ね。相依性を覚った境涯。
法空も覚っている様子は『唯識』は「別教の菩薩」にあたります。
円教のレベルで『唯識』を理解しようとしたら『法華経』を理解しないといけません。
その『法華経』に至ってはじめて明かされる法門が「十界互具」。
だからその「十界互具」が何たるかを説明する為に、『十法界事』の御書をここんとこずっと紹介しております。
ちなみに『唯識』を理解することが何で菩薩の境涯にあたるかと言うと、次のような振り分けになるからです。
無我思想を理解した境地=声聞(蔵教)
空思想を理解した境地=縁覚(通教)
唯識思想を理解した境地=菩薩(別教)
此縁性縁起や相依性縁起を覚れば、それが阿頼耶識に種子として薫習されます。
此縁性縁起が阿頼耶識に薫習されている人は、対象のモノを前五識で認識しますがその「識」に転識が起こります。
それが「前の五識は成所作智」という前五識に起こる転識です。
<仏意の五重玄>諸仏の内証に五眼の体を具する
妙=仏眼:第九識は法界体性智
法=法眼:第八識は大円鏡智
蓮=慧眼:第七識は平等性智
華=天眼:第六識は妙観察智
経=肉眼:前の五識は成所作智(←ここ)
前五識に起こる転識とは、認識器官で捉えた情報を「五識」が別の何かを捉えだします。
別の何かとは、今までは捉えきれていなかった感覚です。
前五識に転識が起こるとそれまでは見た目で判断していた人物が
その人の因縁を観じとるように変わって来ます。
これは、仏教を実践していく中で最初に起こる体験(出来事=縁起)です。(此縁性縁起)
http://blog.livedoor.jp/inae_sokagakkai/archives/cat_52260.html
又大乗の菩薩に於て心生の十界を談ずと雖も而も心具の十界を論ぜず、又或る時は九界の色心を断尽して仏界の一理に進む是の故に自ら念わく三惑を断尽して変易の生を離れ寂光に生るべしと、然るに九界を滅すれば是れ則ち断見なり進んで仏界に昇れば即ち常見と為す九界の色心の常住を滅すと欲うは豈に九法界に迷惑するに非ずや。
の中の
「九界を滅すれば是れ則ち断見なり進んで仏界に昇れば即ち常見と為す」
の講義文に目をとおされてください。
講義文の次の↓ところです。
● 権大乗教の心生十界の法門は断常の二見に堕するだけである、と破折されているところである。
● 心生十界は心から十界を生ずると説くのであるが、十界の互具を説かないゆえに成仏するためには仏界の一理のみを生ずることを目指さなければならないことになる。
逆に言えば、心から生ずる九界についてはこれを滅するということである。
● 同じことを一代聖教大意では「法華経已前の諸経は十界互具を明さざれば仏に成らんと願うには、必ず九界を厭う、九界を仏界に具せざるが故なり、
されば必ず悪を滅し煩悩を断じて仏には成ると談ず凡夫の身を仏に具すと云わざるが故に、
されば人天悪人の身を失いて仏に成ると申す、此れをば妙楽大師は厭離断九の仏と名く」(0403:09)と説かれている。
つまり、権大乗では十界互具を説かないゆえに「厭離断九の仏」となるのである。
すなわち、九界を厭い離れて人天悪人の身を失い仏界の一理のみに到達するのが権大乗の仏である。
ここで、九界を滅する点が断見となり、仏界のみを常住とみているのが常見となる、と問者は難詰しているのである。
ーーーーー
https://k-dic.sokanet.jp/%E4%B8%89%E6%83%91%EF%BC%88%E3%81%95%E3%82%93%E3%82%8F%E3%81%8F%EF%BC%89/
①見思惑は、見惑と思惑のこと。
見惑は、後天的に形成される思想・信条のうえでの迷い。
思惑は、生まれながらにもつ感覚・感情の迷い。この見思惑を断じて声聞・縁覚の二乗の境地に至るとされる。
唯識を説かない上座部(テーラワーダ)や禅宗ではこの見惑と思惑(見思惑)を瞑想によって寂滅させる。
そこにおいて第六意識が妙観察智となり、それに引かれて第七末那識が平等証智になる。
● それらには先に一言したように、ともに根本無分別智と後得智があります。
すなわち、まず真如を証し、その上で広く世界を分析していくのが妙観察智で、
また、平等証智は、自他の平等性をさとり、その上で諸法を平等に縁ずるわけであります。
● このように第六意識と第七末那識とは見道においてそれぞれ妙観察智・平等証智を開くのですが、
その後の修道で更に【二阿僧祇劫】の間、【十地の修行を積んで】【仏果に至って】
はじめて、【前五識】が、
ようやく【成所作智】となり、
阿頼耶識が【大円鏡智】になります。
>(『唯識のこころ 「観心覚夢鈔をよむ」』 竹村牧男 P252)
ーーーーー
≪【真如】≫に達するからまた
≪【通達位】≫ともいわれる。
具体的には、【四智】のうち【妙観察 智】と【平等証 智】との、二つの智が生ずる。
(『唯識とは何か「法相二巻抄」を読む』 横山紘一 P384)
ーーーーー
● 前述したように【四智】のうちで
≪【大円鏡智】≫と
≪【成所作智】≫とは、
この【仏位】かにおいて、はじめて生ずる。
(『唯識とは何か「法相二巻抄」を読む』 横山紘一 P405)
ーーーーー
● なお、この【転識得智】は、
≪【仏陀】≫になって一気に、
≪【識】≫が≪【智慧】≫に、
≪【転換】≫するのではない!
【初地】の≪【空性体験】≫に依って
≪【②平等証智】≫と
≪【①妙観察智】≫(後得智)が【獲得】され、
【十地において】繰り返し、
≪【無分別智】≫を【体験した結果】、
≪【仏陀(ブッダ)】≫になると
【大円鏡智】と【成所作智】が【獲得される】。
>(『「唯識三十頌」を読む』 廣澤隆之 P285)
● 伝統教学では、このような智慧の獲得の階位について、
「①妙観・②平等、初地文得、②大円・③成事、唯仏果起
【①妙観察智と②平等証智】は【初地】で文得され、
【③大円鏡智】と【④成所作智】は唯、仏果でおこる)」という詩文で暗記することになっている。
>(『「唯識三十頌」を読む』 廣澤隆之 P285~286)
【十地】の【初地位】で、
≪【 無 分 別 智 】≫を起こして【見道】に入るのですが、
そこにおいて、
≪【第六意識】≫が、
≪【妙観察智】≫となり、それに引かれて
≪【第七末那 識】≫が
≪【 平 等 証 智 】≫になる。
● それらには先に一言したように、ともに、
≪①【根本無分別智】≫と
≪②【 後 得 智 】≫があります。
すなわち、まず、
≪①【 真 如 】≫を証し、
その上で広く世界を分析していくのが、
≪②【妙観察 智】≫で、
また、
≪【平等証智】≫は
≪①【自他】の【平等性】≫を悟り、その上で、
≪②【諸法】を【平等】≫に縁ずるわけであります。
● このように、
【第六意識】と【第七末那識】とは、
≪【見道】≫において、それぞれ
≪【妙観察智】≫と、
≪【平等証智】≫を開くのですが、
その後の
≪【修道】≫で更に【二阿僧祇劫】の間、【十地の修行を積んで】【仏果に至って】
はじめて、
【前五識】が、ようやく、
≪【成所作智】≫となり、
【阿頼耶識】が、
≪【大円鏡智】≫になります。
>(『唯識のこころ 「観心覚夢鈔をよむ」』 竹村牧男 P252)
ーーーーー
≪【真如】≫に達するからまた
≪【通達位】≫ともいわれる。
具体的には、【四智】のうち【妙観察 智】と【平等証 智】との、二つの智が生ずる。
(『唯識とは何か「法相二巻抄」を読む』 横山紘一 P384)
ーーーーー
【初地】の
●≪【空性体験】≫に依って
≪【②平等証智】≫と
≪【①妙観察智】≫(後得智)が【獲得】され、
【十地において】繰り返し、
●≪【無分別智】≫を【体験した結果】、
≪【仏陀(ブッダ)】≫になると
【大円鏡智】と【成所作智】が【獲得される】。
(『「唯識三十頌」を読む』 廣澤隆之 P285)
ーーーーー
●≪【 無 分 別 智 】≫を起こして【見道】に入るのですが、
そこにおいて、
≪【第六意識】≫が、
≪【妙観察智】≫となり、それに引かれて
≪【第七末那 識】≫が
≪【 平 等 証 智 】≫になる。
● それらには先に一言したように、ともに、
≪①【根本無分別智】≫と
≪②【 後 得 智 】≫があります。
●すなわち、まず、
≪①【 真 如 】≫を証し、
その上で広く世界を分析していくのが、
≪②【妙観察 智】≫で、
また、
≪【平等証智】≫は
≪①【自他】の【平等性】≫を悟り、その上で、
≪②【諸法】を【平等】≫に縁ずるわけであります。
(『唯識のこころ 「観心覚夢鈔をよむ」』 竹村牧男 P252)
ーーーーー
触・作意・受・想・思
唯識論の別境
欲・勝解・念・定・慧
● 倶舎論の大地法
触・作意・受・想・思・欲・勝解・念・定・慧
唯識論の遍行
触・作意・受・想・思
唯識論の別境
欲・勝解・念・定・慧
① <遍行>と同性質と考えられていたが、徐々に区別され、
<別所>の五心所(欲、勝懈、念、定、慧)に分類された。
② 前五識、第六意識と共働するが、
<慧>のみは、第七末那識とも共働する。
③五心所それぞれ対象が異なり、そのときに応じて単独で、二あるいは五全部が働く。
1) <欲>→<所楽の境>=ねがわしい対象
2) <勝解>→<決定の境>=確定的な対象
3) <念>→<曾習の境>=以前に経験したこと
4) <定><慧>→<所観の境>=深い智慧で捉えた対象
不定みたいなイメージ
●欲:意欲。
●勝解:確認。
●念:正念(憶念)・失念
●定:正念(瞑想)・散乱(動揺)
●慧:有漏の智慧・悪見{有身見・辺執見・邪見・見取見・戒禁取見}
この五遍行と五別境をあわせると,説一切有部(以下有部)の説く十大地法になる.
つまり,瑜伽行派の五遍行と五別境は,有部の十大地法と密接な関係を有する.
先行研究では,遍行・別境と十大地法との比較検討が行われた.
● その結果,別境五法の定義は有部のものと大きな相違が認められるのに対して,遍行五法の定義は,有部の説とほぼ同様であることが指摘されている.
したがって,従来の研究では,瑜伽行派の五遍行と五別境は,有部の十大地法を継承し,瑜伽行派独自の考察によってこれを二分したものであるとされている.
一方,先行研究は,アーラヤ識が作意などの五心所と相応するという説は,アーラヤ識の潜在性と適合しないうえ,その他の教説とも齟齬するということを指摘している.
● このことを説明するため,先行研究は,アーラヤ識が五心所と相応するという説は,有部アビダルマに説かれる識の性質(心所との相応関係など)をアーラヤ識の概念に追加したものである,と結論している.
以上のことから,先行研究では,五遍行説は,有部の五心所の定義を継承しつつ,五心所の遍在する性質を八識に敷衍適用した,形式的な理論にすぎない,と考えられている.
遍行については、ほぼ倶舎論の大地法を継承した
でも、別境については、倶舎論の大地法とは解釈が大きく異なる
だから、2つに分けた
● 唯識論の解釈では、遍行は阿頼耶識に相応する
だが、別境は阿頼耶識に相応しない
そこが違うらしい
「世界は、過去・現在・未来にわたって存続する」という説一切有部の主張に反対し、「現在しかない」と主張した
心の作用を51の心所に細かく分類するという説一切有部の主張に反対し、「心は1つしかない」と主張した
● インドの仏教思想 主な流れ
1、初期仏教:お釈迦様の教え 紀元前6世紀頃
2、仏教界が上座部と大衆部に根本分裂 紀元前5世紀頃
3、説一切有部(倶舎論):「仏教の基礎理論を体系化」 紀元前200年頃~
4、経量部(倶舎論):「説一切有部からの分派」 西暦300年頃~
5、中観派(中論):「すべては空であり実体が無い」 西暦200年頃~
6、唯識派(唯識論):「世界は認識のみ」 西暦400年頃~
7、如来蔵思想:「誰でも成仏できる」
上記2~6と同時並行的に発展
(2~4が小乗仏教、5~7が大乗仏教)
※ チベット仏教ゲルク派では、説一切有部・経量部・中観派・唯識派が「四大学派」とされる
世界(とくに人間)は、五蘊の寄せ集めでできている。「我」として執着する実体は無い。
世界は、十二処・十八界の認識作用で成り立っている。自分が認識しているもの、それが世界のすべてである。
↓
五蘊・十二処・十八界
1、五蘊(ごうん)
・色 物質的な存在(身体)
・受 感受する作用
・想 表象する作用
・行 意志する作用
・識 認識する作用
2、十二処(じゅうにしょ)
・六根:六つの認識器官
眼根・耳根・鼻根・舌根・身根・意根
・六境:六つの認識対象
色境・声境・香境・味境・触境・法境
六根と六境を合わせて十二処
3、十八界(じゅうはちかい)
・六識:六つの認識作用
眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識
十二処に六識を加えて十八界
多くの部派に分かれて、
仏教理論の体系化が進んだ
最も有力な「説一切有部」は、
存在を「五位七十五法」に分類した
初期仏教の「五蘊・十二処・十八界」
よりだいぶ数が増えた
説一切有部の思想は、後に「倶舎論」としてまとめられた
↓
(1)五位七十五法
法(ダルマ)=存在するものに2種類
・有為(うい)…煩悩で汚れたもの
・無為(むい)…煩悩で汚れてないもの
1~4は有為法、5は無為法
1、色・・・物質的現象 11種類
眼・耳・鼻・舌・身・
色・声・香・味・触・
無表色
2、心・・・心の本体 1種類
3、心所・・・心の作用 46種類
大地 常駐する心の動き
大善地 善の動き
大不善地 悪の動き
不定 どちらでもない心の動き
大煩悩地 根本的な煩悩
小煩悩地 付随する煩悩
4、心不相応行・・・ 14種類
色(物質)にも、心(精神)にも
分類されないもの
5、無為・・・ 3種類
常住不変な存在
虚空、択滅、非択滅
苦諦(くたい)
生きることは本質的に苦である。一切皆苦
生きるということは、苦を背負って日々を過ごすことだ。
どこかに心優しい神様がいて手をさしのべて
救済してくれるようなことは絶対にない。
集諦(じったい)
あらゆる出来事は必ず何らかの原因によって起こる。
苦の原因は煩悩である。
満足が得られないから、苦しくなっていく。
滅諦(めったい)
煩悩を消すことで苦が滅する。
この世で起こっているものはすべてうつろう。諸行無常
現実をありのままに受け入れ、その世界に耐えるべく、
自分の価値観・世界観を変えていく。
この世の一切の事物は自分のものではないと自覚する。
道諦(どうたい)
煩悩をなくし、悟りを得るための八正道を実践する。
修行者、求道者、修行僧は、やはり さとりを求めて行きます。さとれば、さとりが無く、無我とは、真理(さとり)です、が 理解できるものでありませんく、まさに 体得します。
その状態を 石、とも 言います。突然 ストーン と、自他が無くなります。
これを 一と一は、二では無い。一の如し、一如である、言い表します。この一如に取り組む公案が有ります。
両手で打てば音が鳴る。では、片手の人が叩く拍手の音を聞いてこい、と言うもので、これに取り組みました。
ぜひ、とも取り組んでいただきたいものです。
音を聞くのだが、片手では拍手ができないから、音が鳴らないので聞こえない。
その聞こえない音を聞け、と 公案は いう。
聞こえない音が聞こえる。 そこが 色即是空。 初関(しょかん)を透(とお)る。
色とは片手の人が叩く拍手です。片手の人が叩く音を聞いた、そこが、色即是空です。真理(さとり) です。
趙州従しん(ぢょうしゅう・じゅうしん)の無字の公案では長年かかってもなお悟れず死んでいく者も多かった事から、修行僧に対して白隠禅師が新たに隻手の音声(せきしゅ の おんじょう)の公案を与え、沢山の修行者に悟らせようと苦心した公案です。
白隠慧鶴禅師(はくいん えかく ぜんじ) 隻手の音声(せきしゅのおんじょう)
両掌(りょうしょう)打って音声あり、隻手になんの声やある。隻手の声を拈提(ねんてい)せよ。
>> 理屈っぽいけど、自他一如なら、あなたが叩こうがわたしが叩こうが同じ、わたしが叩きます、パンパンで終了。あとは自他一如、自分から心で隻手の人と一つになる。すると、相手の手を叩く音がきこえる。自他一如や自己の愛情、慈悲心を育てる公案だったとか 』
ありがとうございます。
これは理解したり、解釈を咥えたりするものでじゃないので、お怒りを受けるともいますが、字句の解釈に拘泥するものではありません。
先にも言いましたが、自他一如を体得する事です。
あなたと私で、ぱんぱん。
トンチ、になりましたね。
片手の人が、です。
置き換えて、これでどうだ、と言うわけにはまいりません。
聞こえるはずのない、片手の人が叩く拍手の音を聞く、のです。
『存在の三つの形態(三性説)と転識得智(悟り)』
斉藤 征雄
● 悟る、とはどういうことか。唯識思想は、悟りの構造を次のように説明する。
あらゆるものは、三つの有り方(形態)において存在するという。すなわち
①「他に依存する存在形態」
(依他起性・えたきしょう)、
②「仮構された存在形態」
(遍計所執性・へんげしょしゅうしょう)、
③「完成された存在形態」
(円成実性・えんじょうじつしょう)の三つである。
これを「三性説」という。
●《A》「他に依存する存在形態」・・・
アーラヤ識を因として現れては消える(刹那滅)現象世界。
縁起によって成り立つ世界。したがって、空である。
●《B》「仮構された存在形態」・・・
本来、空である世界を、心(識)が自我と物に執着する結果、実在と思い込む、煩悩の世界 。
●《C》「完成された存在形態」・・・
修行によって【自我と物】に対する【執着から脱した】世界。
空、真如、涅槃などと呼ばれる、いわゆる悟りの世界。
一つのある存在が、われわれのかかわり方に応じて形を変えて現れると考えた方がわかりやすい。
仮に三つの存在形態を、それぞれ《A》《B》《C》とする。
●《A》は本来、空である。
しかしわれわれ凡夫は、本来空である《A》の世界にありながら、
≪【虚妄なる分別】≫により自我と物に執着してそれを実在と思い込む、煩悩の世界《B》にいる。
●《C》は悟りの世界である。
現象世界《A》が、本来 空であることを観じ、
自我と物に対する執着から脱して、ありのままの姿が見えるようになる。
《C》は内容的には《A》と同じと考えてよい。
● 三つの存在形態論(三性説)は、仏教教理の核心である、縁起の世界《A》を要として、
そこから煩悩の世界《B》と悟りの世界《C》を位置づけているといえる。
● 悟るとは、《B》から《C》への転換を意味する。
≪【ただ識のみ】≫ の、煩悩の世界から、完成された悟りの智慧の世界への転換、
すなわち【識】から【智】への転換であるから≪【転識得智】≫という。
● では≪【転識得智】≫は、いかにして可能か。
われわれの、心の中の【アーラヤ識】には、【煩悩の種子】を宿している。
したがって、【アーラヤ識】の【煩悩の種子】を、いかにして取り除くかが、唯識思想の【悟りの構造】の鍵となる。
そして鍵は、【瑜伽行】にある。
有義此智見有相無。
説無相取不取相故。
雖有見分而無分別説非能取非取全無。
雖無相分而可説此帶如相起不離如故。
如自證分縁見分時不變而縁此亦應爾。
變而縁者便非親證如後得智應有分別。
故應許此有見無相。
ーーーーー
● 勿、真如の性をも、また能縁と名けてむが故に、此れには定んで見分も有りと許すべし。
有義は、此の智慧には、見は有りて相は無し
相無くして取る、相をば取らずと説けるが故に
見分は有りと雖も、而も無分別なるをもって、能取に非ずと説けり。取ること全無には非ず
相分は無しと雖も、而も此れいい如の相を帯して起こると説くべし。如に離れざるが故に
自証分いい見分を縁ずる時に変せずして縁ずるが如く、此れも亦た応に璽るべし
変じて縁ぜば便ち親しく証するに非ずなんぬ。後得智の如く応に分別あるべし
故に応に此れには見のみありて相は無しを許すべし
修行者、求道者、修行僧は、やはり さとりを求めて行きます。さとれば、さとりが無く、無我とは、真理(さとり)です、が 理解できるものでありませんく、まさに 体得します。
その状態を 石、とも 言います。突然 ストーン と、自他が無くなります。
これを 一と一は、二では無い。一の如し、一如である、言い表します。この一如に取り組む公案が有ります。
両手で打てば音が鳴る。では、片手の人が叩く拍手の音を聞いてこい、と言うもので、これに取り組みました。
ぜひ、とも取り組んでいただきたいものです。
音を聞くのだが、片手では拍手ができないから、音が鳴らないので聞こえない。
その聞こえない音を聞け、と 公案は いう。
聞こえない音が聞こえる。 そこが 色即是空。 初関(しょかん)を透(とお)る。
色とは片手の人が叩く拍手です。片手の人が叩く音を聞いた、そこが、色即是空です。真理(さとり) です。
趙州従しん(ぢょうしゅう・じゅうしん)の無字の公案では長年かかってもなお悟れず死んでいく者も多かった事から、修行僧に対して白隠禅師が新たに隻手の音声(せきしゅ の おんじょう)の公案を与え、沢山の修行者に悟らせようと苦心した公案です。
白隠慧鶴禅師(はくいん えかく ぜんじ) 隻手の音声(せきしゅのおんじょう)
両掌(りょうしょう)打って音声あり、隻手になんの声やある。隻手の声を拈提(ねんてい)せよ。
>> 理屈っぽいけど、自他一如なら、あなたが叩こうがわたしが叩こうが同じ、わたしが叩きます、パンパンで終了。あとは自他一如、自分から心で隻手の人と一つになる。すると、相手の手を叩く音がきこえる。自他一如や自己の愛情、慈悲心を育てる公案だったとか 』
ありがとうございます。
これは理解したり、解釈を咥えたりするものでじゃないので、お怒りを受けるともいますが、字句の解釈に拘泥するものではありません。
先にも言いましたが、自他一如を体得する事です。
あなたと私で、ぱんぱん。
トンチ、になりましたね。
片手の人が、です。
置き換えて、これでどうだ、と言うわけにはまいりません。
聞こえるはずのない、片手の人が叩く拍手の音を聞く、のです。
>>531
まんま体外離脱時の状況だ
体外離脱なのか、体内離脱なのか、ってことは置いといて、
体外の世界に於いて、表層意識の認識が落ちるというのは、2つの心、2つの意識の内、日常での心である脳の働きが停止した、ということですよね、それが居眠り運転に繋がるわけです、
でなければ、外世界の認識は継続されるわけですから、居眠り運転は起こらない、
最近思ったのは、チベット密教で言うところの、2つの心(認識)とは、やはり脳の、
①左脳・前頭前野と、②右脳・後頭葉
この2つなのか?と、
①は日常の言語を伴う認識
②は①と切り離された映像を伴う認識
上記の2つとは別に、感情の情動に関係している③辺縁系がまた別にあります、
更には、それらが連携して、生起される現象を生起していると認識するのではと、思います、
以上は仮説ではありますが、現時点ではそう思います。
①遍計所執性(へんげしよしゆうしよう)(主客として実在視されたあり方),
②依他起性(えたきしよう)(縁起によって生じている相),
③円成実性(えんじようじつしよう)(主客の実在視をはなれた真実のすがた)
遍計所執性とは、分別されたもののことで、対象的に実体として把握され、執著(しゅうじゃく)されたものということです。依他起性は、他に依るもののことですから、縁起の中の存在すべてを意味します。円成実性は、すでに完成されているもののことで、もとより変わらない事象の本性そのものを意味します。それは、縁起の故に無自性、無自性の故に空といわれる、その空なる本質、本性のことに他なりません。
ここで、中心となるのは、依他起性です。依他起性すなわち縁起の世界が、実体視され、執著されたものが遍計所執性であり、その依他起性すなわち縁起の世界は、常に空を本質としている、その本性が円成実性です。・・・』
>相分はないのだけれども無分別智という智慧は真如と一体化し、そこに真如を自覚している(中略)
>智慧はあくまでも有為法でその都度その都度起きてくるものなのですが、真如は無為法で変化のない世界です。
>そうなのですが、しかも無分別智は真如といわば一つになるのです。
>それは自証分が見分を見るとき、見分を現し出してそれを見るのではなくて、見分の内容をそのまま直接受けとめるように、そのように真如を証するという事です。
と解説されております。
また、
>相分やら何やらを現し出して、それを縁ずるということになると、そこには何らかの対象への関与が生じて、直接に証することにならず、後得智と同じように分別があることになってしまいます。
>したがって無分別智を理論的に説明する場合は、見分はあるが相分はないというかたちで、ただし真如を挟帯して証するのだと説いています。
>また、無分別智も真如も言葉では説明できない世界ですが、理論的にはこのようにとらえるのです。
とおっしゃってます。
禅宗でいう見性体験に相応するでしょう。
そうした体験をされた方なら特に説明を要しないと思いますが、老婆心ながら説明すると、
>故應許此有見無相。(故に応に此れには見のみありて相は無しを許すべし)
というのは、無分別智が直観智(体験智)で智慧が後得智(経験智)だからです。
禅定が深まって無分別である時に何かしらの機縁でそれが真如に触れた時、まぁ真如と云ってもそれは普段目前で六識によって感覚されてる世界に他ならないのですが、痛烈な体験がある訳です。
……と云っても、やっぱりこればかりは経験されないと理解出来ない不思議な体験でしょうが。
頓悟とも云うのですが、ここに至るまで一劫。更にそうした体験を積み重ねること二劫でようやく成仏(究竟位)出来るとされています。
私たちは通常、客観的に存在する事物(対象)を自分の感覚器官などによって的確に認識していると思っている。ある場合には、私の勝手な主観を通して認識しているのではないか、そのように振り返ることはあるにしても、認識対象自体は客観的に存在していると思い込んでいる。
しかし果たしてそうなのであろうか。「相分」「見分」という言葉は、対象も認識も両方共に自分の心のなかに描き出されたものであることを告げている。
藤嶽 明信(教授 真宗学)大谷大学
⑥唯識三十頌?28頌?【通達位】真見道と相見道【根本智と後得智】
https://ameblo.jp/yk19610402/entry-12795085344.html
🔶通達位には、根本智(こんぽんち)と、後得智(ごとくち)がある。
🔷根本智が起きた後に、すぐに後得智が起きる。
1️?根本智は、真如と一体になる智慧である。
2️?後得智は、現実を認識し、自覚することである。
🌟どちらも無分別智の二面である。
https://ameblo.jp/yk19610402/entry-12795085344.html より引用。
⑥唯識三十頌?28頌?【通達位】真見道と相見道【根本智と後得智】
https://www.youtube.com/watch?v=GbBhSz_3byY
この相見のあるなしの見解の相違からインド後期やチベット仏教において、『唯識』に「無相唯識」と「有相唯識」があるといわれたそうです。
いいですねーーー(*´・ω-)b
動画はのちほど見ます。
m(_ _)m
この学派は、真諦(パラマールタ、param?rtha)によって中国に伝えられ、地論宗や摂論宗として一時期、大いに研究された。
安慧より
…西インドのカーティアーワール半島にあるワラビーValabh?に生まれ,徳慧(とくえ)の教えをうけた。安慧の学説は,〈無相唯識〉といわれ,同時代に活躍した護法(ダルマパーラ)Dharmap?laの学説〈有相唯識(うそうゆいしき)〉と区別される。その特色は,すべての心作用を根底から規定している潜在意識,すなわちアーラヤ識は究極的には否定され,見るものと見られるものの区別を失った絶対知が得られる。…
その二派は、「能取・主観・主体と所取・客観・客体」の「二取」における「形象・相」が実在するのか、実在しないのかという点において激しい議論が展開されていきます。
基本的には、無相唯識派の流れが主流でありましたが、論理学の発展とともに、真理を示すための論理的言語・言葉を重視する立場が、その論理的言語・言葉を理解するためには、自他共通の「二取」における「形象・相」がなければならないという主張において、有相を説き、有相唯識派が登場したのであります。
また、唯識思想の発展過程においては、三性説の「依他起性」のあり方について、あくまでも「有」として解した唯識派と、「依他起性」のあり方については「有るとは言えない」として解した中観派とが激しく対立した時期があったものの、
唯識思想の説く空の論理については中観派からも歩み寄る傾向もみられ、「縁起」をめぐっての解釈についても両思想において徐々に醸成されていく中、中観派と唯識派の両理論についての学びを統合して進めていく「瑜伽行中観派」が誕生していくのであります。
https://morfo.blog.ss-blog.jp/2012-02-13
「識」はこのように、相互関係によって、また、個々の「識」自身として、常に変化しつづけます。
ですから、唯識派の「(識)転変」は、サーンキヤ哲学の「展開」のように深層から一方向的に創造されるわけではありません。
唯識派では「識」は「転変」するから無常なのであり、一方、サーンキヤ哲学では「転変」するので常住とされます。
唯識派では、説一切有部と同様、「涅槃」は無為法、「識(心)」は有為法として区別しますが、「涅槃」を「識の本性」と表現することで、両者が連続的なものとなりました。
唯識派では、未分化な状態から分別された世界が生まれる過程を、「転変(パリナーマ)」と呼びます。
これは、サーンキヤ哲学がプラクリティから世界が生まれる過程を表現した「展開(パリナーマ)」と同じです。
「末那識」の原義は「意(マナス)という名の識」です。
「末那識」は「阿頼耶識」を自我であると思い誤って執着する「識」です。
サーンキヤ哲学の「マナス」は唯識派の「意識」、「アハンカーラ」が「末那識」に対応します。
中観派までの仏教は「世俗諦」、「勝義諦」という2つの世界を考えたのに対して、唯識派では「三性説」といって認識世界を3つで考えます。
「世俗諦」・「有」に相当するのが、分別された執着のある対象としての世界である「遍計所執性」です。
「縁起」に相当するのが、相互依存する実在としての「識」の活動である「依他起性」です。
「勝義諦」・「空」に相当するのが、執着をなくした「識」である「円成実性」です。
理論的には「円成実性」は無始なるものですが、現実的には、その名の通り目標として目指されるものです。
この主観的側面は「無分別智」であり、客観的側面は「真如」です。
依他起性 = 縁起
円成実性 = 勝義諦
● 唯識は基本的に四分説(見分(所量)・相分(能量)・自証分(果量)・証自体分(量果))を説くのですが、その発生に時間的な差異を認めません。
相分(能量) ←(三量)← 見分(所量)
↑(三量)
自証分(果量)
ーーーーー
上記の三量とは、現量、比量、非量となります。
(現量)↑ ↓(現量)
証自証分
(現量は直接経験のようなもの(P87))
https://livedoor.blogimg.jp/butudou/imgs/0/3/039ba3b0.jpg
無相と有相の区別の基準の一つは「無分別智に相分等が有るのかどうかであった」と竹村氏は言っております。
無形象知識論(外界実在論)
・ニヤーヤ学派
・ミーマーンサー学派
・説一切有部
と
有形象知識論
・経量部(表象主義的外界実在論)
・瑜伽行唯識学派(外界実在否定論)
で、
瑜伽行唯識学派(外界実在否定論)
が
有形象唯識論派(有相唯識派、経量瑜伽派、護法系統・・・法相宗)
と
無形象唯識論派(無相唯識派、中観瑜伽派、安慧系統)
に分かれてるんだよ。
https://talk.jp/boards/psy/1699403728
45.
ユーザー
神も仏も名無しさん
Y8KYw
>>35
要するに我々凡夫は
1.見るものと見られるものに別れてる → 主体や客体があると得られる事。
2.しかしそれは心の表れで外界というものがある主客がある訳では無い → 客体は無いので得られない事。
3.主客がないから主客がないというのも無い → 主客がないので得られないということも得られない事。
という考えなんです。
-----------------------------------------------------
≪相分と見分の説明≫にどうして主体と客体の話をもって説明なされるのですか。
こちらの図で確認しましたが
https://note.com/hiruandondesu/n/n12419e2866ef
相分と見分は≪客観と主観≫、主体と客体は≪見られる側と見る側≫のはずです。
客体(見られる側)=モノのあり様
主体(見る側) =認識のあり様 ≪主観(見分)と客観(相分)≫
鹿野園さんが語る仏教の殆どが、勘違いによるところだと最近ようやく気付きました。
https://i.imgur.com/kYQ3XyD.jpg
まさにこれ
672.
ユーザー
◆JBLfMwCXhY
X2Vbj(49/57)
けれども修行者は、集中力が衰える前に、等引から起きて日常の世界へ戻らなければならない。
そのとき――あたかも、地上へ降りたら雲の上の世界が見えないのと同様――瓶の空性は直接認識の対象から消えてしまい、入れ替わりに瓶の色彩や形状が再び見えてくる。
しかし、無限なる虚空の広がりにも比すべき勝義の空性を、直感的に了解した強烈な体験の印象は、三昧から起きた後も消えることがない。
その効果は絶大で、瓶の色彩や形状といった世俗の世界が、ニ顕現を伴って再び現われても、「それらは幻の如きもので、決して諦成就なのではない」という点を――単なる論理としてではなく――強い実感を伴って了解できる。
そのような智慧を「後得智(ごとくち)」といい、それによって了解される世俗における空性は「幻の如き空性」と表現される。
現量・比量ってのは、こういうのを言うんだよ
↓
私達は二種の知識で世界を認識しています。 一つは直接知で、 私たちの五感が感じる知識です。 もう一つは、その直接知から推量して得られる知です。 仏教では、 直接知を現量、 推量知を比量と呼びまます。
先日、近所で火事がありました。 夜中に娘にたたき起こされると、 サイレンがうなっています。 外を見ると消防自動車が赤いライトを回してずらっと並んでいます。 これは大変と上着を 羽織って外に出ると、 隠居所の向こうの家の二階から盛んに火を噴き出しています。 すぐに消 火活動が始まり、20分ほどで鎮火しました。 幸い私の寺には何の被害もありませんでした が、その家は内部が全焼しました。
ここで、サイレンの音や、 ライトの光は直接知です。そこから私は火事を推量しました。ホースがふくらんでいくのを見て、 消火活動が始まったことを認識します。 火が見えなくなると、鎮火を推量できました。このように私たちは、現量と比量を繰り返して世界を認識していきます。
しかし、現量と比量だけで世界を理解するのは無理だと、経験は教えます。 私達は完全なる論理を組み立てることができないからです。 そこで必要なのが先人の知恵、 特に仏の教えです。それを聖教量と呼びます。
現量、比量、聖教量の三つがそろって、私たちは世界を正しく知ることができるのです。
↓
● 聖者の修行者が空性を現量によって体験しているとき、
その三昧を「無漏(むろ)の等引(とういん)」といい、
空性を直接了解(りょうげ)している智慧を【等引智】という。
● 無漏の等引の状態では――あたかも、雲の上の飛行機からは地上の世界が見えないように――世俗の顕現は全く消えてしまう。
例えば、眼前に瓶があっても、瓶の空性だけが瑜伽現量の認識対象となり、瓶の色彩や形状は何も見えてこない。
● それゆえ、等引智によって了解される勝義における空性は「虚空の如き空性」と表現される。
けれども修行者は、集中力が衰える前に、等引から起きて日常の世界へ戻らなければならない。
● そのとき――あたかも、地上へ降りたら雲http://mitsubachi-bros.seesaa.net/article/155004381.htmlの上の世界が見えないのと同様――瓶の空性は直接認識の対象から消えてしまい、入れ替わりに瓶の色彩や形状が再び見えてくる。
● しかし、無限なる虚空の広がりにも比すべき勝義の空性を、直感的に了解した強烈な体験の印象は、三昧から起きた後も消えることがない。
その効果は絶大で、瓶の色彩や形状といった世俗の世界が、ニ顕現を伴って再び現われても、「それらは幻の如きもので、決して諦成就なのではない」という点を
――単なる論理としてではなく――
強い実感を伴って了解できる。
● そのような智慧を「【後得智】(ごとくち)」といい、それによって了解される世俗における空性は「幻の如き空性」と表現される。
>一内遣有情假縁智能除軟品分別隨眠。
>二内遣諸法假縁智能除中品分別隨眠。
>三遍遣一切有情諸法假縁智能除一切分別隨眠。
●読み下し
二には相見道、此に復二有り。
一には、非安立諦を観ずるに三品の心有り。
一には、内をして有情の仮を遣って縁ずる智。能く軟品の分別の隨眠を除く。
二には、内をして諸法の仮を遣って縁ずる智、能く中品の分別の隨眠を除く。
三には、遍く一切の有情と諸法の仮を遣って縁ずる智、能く一切の分別の隨眠を除く。
● 見道で直観的な無分別智を体験した後に後得智、すなわち分析的な智慧が発現し、それを以って先の智慧を検証しより確かなものにしていくというのがこの段落です。
● そしてその後得智には二種類があるって云うんです。
先ず非安立諦とは勝義諦、つまり世俗諦である言語に依って解析される概念的な真如を離れた真如の観察を云うのでしょう。
いわゆる「離言真如」の事でありましょう。
● 非安立諦には三つあり、
● 一つは自己を【後得智】に依って照察してその実体がない事、
すなわち【我空】を以って【真如】を観察し、粗い分別に起因する【煩悩障】を除きます。
● 二つには、より深く自己が諸法の因縁仮和合である事を以って、
すなわち【諸法の空相】なることにより【真如】を観察し、粗い分別に起因する【所知障】を除きます。
● 三つには、上記の【我空・法空】の二空を以って真如を観察し、細微な分別に起因する一切の煩悩(二障)を除きます。
● 主観(内入処)・・・六根~眼根、耳根、鼻根、舌根、身根、意根
● 客観(外入処、対象)・・・六処~色処、声処、香処、味処、触処、法処
● やがて主観が根と識に分かれた。
識・・・眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識
● これがいわゆる十八界の理論。
この三つが和合(三事和合)して「触」の心所がが成立すると。
● で、その関係は
根・境 → 能取・所取
識・境 → 能縁・所縁
識・根 → 能依・所依
の関係に捉えられるのだと。
主観(内入処)・・・六根~眼根、耳根、鼻根、舌根、身根、意根
客観(外入処、対象)・・・六処~色処、声処、香処、味処、触処、法処
からなるとされ、やがてその主観が根と識に分かれた。
主観
六識・・・眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識
六根・・・眼根、耳根、鼻根、舌根、身根、意根
客観
六処・・・色処、声処、香処、味処、触処、法処
これがいわゆる十八界の理論。
部派仏教では、この三つが和合(三事和合)して「触」の心所が成立するとされ、その関係は
根・境 → 能取・所取
識・境 → 能縁・所縁
識・根 → 能依・所依
の関係に捉えられるのだと。
http://rdor-sems.jp/index.php?%E8%AA%B0%E3%82%82%E7%9F%A5%E3%82%89%E3%81%AA%E3%81%84%E7%81%AB%E4%BA%8B
中村先生時代が空を存在論で語っているから、それで空を理解してしまっている人達は、以下の構図の、
A. 見られる側(客体=所取①)--- モノのあり様
B. 見る側 (主体=能取②)--- 認識のあり方(主観③と客観④)
AとBの主客の関係(見られる側と見る側)と、③と④の主客の関係(主観と客観)がごちゃになってるんだよ。
https://www.otani.ac.jp/yomu_page/kotoba/nab3mq0000000ki7.html
「忽然として念の起こるを名づけて無明と為す。」
『大乗起信論』
上に掲げた言葉は、迷いの心の根源としての無明を表現したものです。「忽然」とは「たちまち」「にわかに」「いきなり」という意味です。
たちまち、迷いの心(妄念)が起こることを、無明というのです。
だってさ😃
無明って漠然としている言葉だけど、こう云われたら、なるほどだな
https://i.imgur.com/hb0ERXS.jpg
それが宮廷神道の山蔭神道山伏(ユダヤ教徒のラビと同じ装束)の神呪として残っている
これは、
『世の元の神様への謝罪の言葉で、人間はこの世を平和に統治できませんでした、どうもすみません!
どうぞもう一度お出ましになられて、ご統治ください!』
という意味だそうです、最後の言葉として神が残された言葉
それが
アチカリケーム→アチカリカム→アジマリカンとなっている
要は、神降ろしの大神呪であります!
↓
ヘブライ語聖書で最後に神が残された言葉
アチマリケーム
意味→どうぞよろしくご統治ください!
これは行で最後に行着く、『捨』と同義であると理解します
自分の自我をなげうって、聖性を受け入れる段階で、自我思考は上記のごとく思うのだと
この身心をどうぞご統治ください!と祈ることで、天が地に降ろされることになります
https://m.youtube.com/watch?v=0Q6f7zUAi8w
元コはこの動画を見るべし!
世界の宗教の大元とは何か?が言われています
勿論、拝火教の起源にも触れていますし、大乗仏教がどこから来たのかも触れています
↓
②生殖欲・食欲・睡眠欲
↓
③衣食住欲・自己拡張欲(配偶者、子供)・健康
↓
④求不得苦・自己否定者排除(怒・嫉妬・妬)
四つのシャマタは本然の境地ではない。
https://i.imgur.com/7FP9PI4.jpg
https://i.imgur.com/b3M7Jz8.jpg
https://i.imgur.com/hdwks6o.jpg
https://i.imgur.com/KtmPmrc.jpg
https://i.imgur.com/UtyGphV.jpg
https://i.imgur.com/TAwh0lC.jpg
●「都市における売淫は、宮殿における下水道の如きものである。下水道をとり除くときは、宮殿はたちまち悪臭芥々たる不潔な場所となるであろう。」(聖トマス)
●一休 の詩偶集 には男色にかんするも のが多数ある。
一例をあげるならば 「男色髪年四五橋…腸断風流掲鼓 の腰」( 9 9 6 )、
これは 一休に参じた金春禅竹 (世阿弥の女婿)の次男春八郎 への愛詩である。
男色ブームは遊女にとつて脅威であ つた。
この事情から、水干、立烏帽子、腰に鞘巻をさした男装の 「白拍子」があらわれた。
遊女の上層 クラスであり、清盛の寵をうけた妓王、妓女、仏御前、源義経の静御前など一休 「風狂」の側面観 (市 川)がそれである。
一番重要なのは《I AM》だそうです
そして、私たちの意識は、人間が死ぬとそこで終わるのではなくて、それはずっと続くので終わりはありません、なので、《在る》と言うことが重要です、と彼は言います
8分30秒辺りからどうぞ
https://www.youtube.com/watch?v=9iBfNpgL7SM&t=1697s
この『さる100TV-5D意識』チャンネルの動画です
https://www.youtube.com/@Saru100tv-5D
ぼったん階級だな〜
👽
Ⅰ 梵語プラジュニャー (prajna) の意訳。
般若と音訳する。
真如の理をさとる無分別智のこと。
物事の道理を見きわめる認識力。
智慧を獲得した状態を菩提、正覚という。
六波羅蜜の一。三学の一。→六波羅蜜、→三学。Ⅱ
智と慧。
●智は梵語ジュニャーナ (jnana) の意訳、
●慧は梵語プラジュニャー (prajna) の意訳。
→【智】は世俗諦を知る【分別智】を指し、
→【慧】は第一義諦を知る【無分別智】を示す。 (浄土真宗辞典)
グッドタイミングで書いてくれたようですね、サンクス!
ちょっと引用させていただきます
『大体さ、解脱のために独居(リトリート)に入るのは、誰かと喋ったり、お経を読むのも厳禁な訳です。これは解脱は知識じゃないことを如実に語っているの。
戒・・・シーラ
定・・・サマディ(瞑想よりも先の状態、むしろトランスと云うべき)
慧・・・パンニャー(3つの明智)
明智は神通が動き出す事を指します。これは自己の内側に深く入って行くことで起こる現象ね。
宿命智
天眼智
漏尽智
凡夫は意識の働きと自己とを混同している
真我≠意識
これを実感するのが「悟り」です。
なので眼耳鼻舌身意の働き。あるいは呼び方が違うけど、色受想行識ね。
これが分離が生じて停止した状態がネドじゅん先生が言う「脳内の声が停止した」
あるいは道元の「身心脱落」ねのね。』
引用終了
https://i.imgur.com/2vYchqC.jpg
慧(智慧)=三明であるというご主張なのですね
一つ疑問なのですが
慧=智慧が開けた結果の明(智)をもって、縁起を順逆に廻して煩悩を絶って、更に無明を破壊して、初めて三明六通に至るのでは?と思うのですが
その意味で表を見ますと、結の10番目が無明となっている
ここで、三明六通へ至り、自他ともの無限の過去を知り神通自在になるのではないのでしょうか?
この最後に超える『無明』とは何ぞや⁉ってなるのですよ
実際なんなんですかね?
大乗起信論では何処からか起こる自動的な思い、妄想分別的なものだと書いてありますが
初期仏経典に書いてあるものを見たことが無いから、知っていたら誰か教えてください
その煩悩が生まれる大元が無明じゃないですか
その無明って何?ってことなんです
無→明なので、明かりが無い、何の明かりか→慧(智慧)の明かり?
慧の実際のパーリーなりサンスクリットなりの語源の約を見てみたいものです
やはり智と慧は別物でした
WikiArc
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E6%99%BA%E6%85%A7
智慧はプラジュニャー(prajñā)の漢訳語として翻訳されたが、本来はプラジュニャーは「慧」と漢訳され智と区別していた。智はジュニャーナ(梵語 jñāna)の意で物事を分別する知恵・知識を指していた。
当時のシナ仏教徒はプラジュニャーを智と慧の二語の熟語にすることによって仏教独自の意味を表現しようとしたのであろう。漢訳経典はそのような意味において全く違う異文化であるインドの仏教思想の受容に苦労したのであった。
【養老孟司】お前達は何を言ってるんだ?概念について理解できていない人が多過ぎます。
https://m.youtube.com/watch?v=7EIxG0eTUjQ
わたしの進歩は遅かった。
わたしは以前には軽蔑されていた。
兄はわたしを追い出した。
──「さぁ、お前は家へ帰れ!」といって。
こうして追い出されて、わたしは僧園の通路の小屋にがっかりして、
静かに立っていた。
──なお教えのあることを期待して。
そこへ尊き師が来られて、わたしの頭を撫でて、
わたしの手を取って僧園のなかに連れて行かれた。
慈しみの念をもって師はわたしに足拭きの布を与えられた。
──「この清らかな物をひたすらに専念して、気をつけていなさい」といって
わたしは師の言葉を聞いて、教えを楽しみながら、
最上の道理に到達するために、精神統一を実践した。
わたしは過去世(宿命智)の状態を知った。
見通す眼(天眼智)は浄められた。
三つの明智は体得された。
ブッダの教えはなしとげられた。
パンタカは、千度も神通力(神足通)によって、千度も自分の姿をつくり出し、
楽しいマンゴー林のなかで坐していた。
──供養するための時が告げられるまで。
次いで師は、時を告げる使者をわたしのところへ派遣された。
時が告げられたときに、わたしは跳び上がって、空中を通って、師のもとに近づいた。
師の御足に敬礼して、わたしは一方のかたわらに坐した。
わたしが坐したのを知って、そこで師はわたしの帰依を受けた。
全世界の布施(尊敬)を受ける人、もろもろの献供を受ける人、
人間どもの福田(福を生ずる田)は、供物を受けたもうた。
これは「仮智」である。現象の世界は刹那無常であるから、実体としては掴まれない。現象を実体として掴むと、真如は失われる。
この根本無分別智と後得智という図式は、唯識でも『起信論』でも同じであるが(ただし『起信論』には、この語がそのまま使われていることはない)、その理解の仕方が異なるのである。
『起信論』では、不変真如は根本無分別智で知られ、随縁真如は後得智で知られると理解してよい。
ただ『起信論』では、両者が共に真如であって、真如は一面では自性を守って「不変真如」であるが、他面では自性を守らないで、無明に色づけられて随縁真如となり、現象界の根拠となると考える。
すなわち、真如は最高の普遍者であるから一性である。一性である点が不変真如である。そうでなければ、現象の雑多性の根拠とはなりえない。
しかしここにとどまるならば、不変真如だけで、唯識の真如凝然と同じになる。『起信論』はここにとどまらないで、真如は現象界成立の根拠であるから、その無限の差別相を可能にする「性功徳」を具えていると見る。
すなわち、真如は最高の普遍者であるから二性であると見れば、唯識説の真如である。しかし真如は一であると共に、無限に豊富な力を持つ、そして現象界成立の原因になると見れば、『起信論』の真如の見方になる。これは真如をそのまま如来蔵と見て、迷いに在る佛身と見るからである。
(続く)
しかも真如を智慧と見ると、智慧は豊富な力を具えているから、真如に無限の力を認めることになる。これは『起信論』の真如の見方である。すなわち真如を理のみと見れば、唯識の真如観となるが、真如は理であると共に智であると見れば、『起信論』の真如になる。
この見方では、真如は佛身であるから、無限の性功徳を具えるのである。それが凡夫においては如来蔵となり、無明煩悩と交錯して、心の世界としての現象界となっていると見るのである。すなわち真如を一性と見ながら、同時に、無限の性功徳を具えていると見るのが、終教の真如観である。
この無限の性功徳を具えている点で、随縁真如となる。真如が自性を守らず、無明の薫習に誘われて、みずから妄境界を現出すると見るのが『起信論』の見方である。「真如は自性を守らない」とする『起信論』の見方は、法相宗の絶対に認めないところである。
真如を理のみと見れば、理は活動しないから、真如が現象界に活きかけることはありえないからである。
これは、真如を理のみと見るか、理智不二と見るかの違いである。そして『起信論』では、悟りの清浄な智も、時と場合には、無明煩悩に染められ、汚れると見るのである。
理は迷に在っても汚れないが、智は迷に落ちこめば汚れるのである。唯識は真如を理と見るが、『起信論』は理智不二の如来蔵と見るのである。
真如と現象界との関係は水と波の関係で説明されるが、水の外に波はなく、波の外に水はない。水波は不二である。現象(諸法)と真如は不二である。
この点の理解は、唯識も『起信論』も同じであるが、唯識は、無限に変化する波の差別相は水から生ずるのではなく、波自身にあると見る。
これに対して『起信論』は、波を作る力が水に具っていると見るのである。しかし水に波を作る力が具っていても、風が水を打だなければ波は生じない。
この風にあたるものは「無明」であるという。無明の問題は、別の問題になるが、ともかく真如に不変と随縁を認めるのが『起信論』の立場であり、随縁を認めないのが唯識の立場である。
第三章・心生滅門
4生滅因縁の(6)無明の忽然として然起こる』です。
全文は
「いわゆる 心性は常に無念なり 故に名づけて不変となす。
一法界に達せざるをもっての故に 心相応せず、
忽然として念の起こるを、名づけて無明となす」 です。
意味は
「いわゆる心の本性(=心真如)は、常に妄念がないので、
不変(=不生不滅)と名づけるのである。
しかるに人間の心は一法界(=心真如)を了達することができないために
心真如にそぐわない不相応の状態になると、
そこに忽然として念(=心の作用)が起こる。
それを名づけて「無明」というのである」
起信論は、中国撰述を疑われる論書ですが
日本仏教に多大なる影響を与えた論書だけに
なかなかうまく説明していると思います
『 もし無明の因縁を、更にその本を求むれば即ち無にして、即ち辺見に堕し、涅槃の道を失せん。
この故に求むべからず。
もしさらに求めなば即ち戯論に堕せん。これ仏法に非ず』
(「大智度論」第九〇)
つ、戒められてますからね。
佛教に入って「愚痴」が「無明」とされたり
「四諦」の理を知らない「無知」が「無明」とされたり
縁起説と結びつくと「渇愛」が「無明」だとされた。
その後、大乗となり、大乗が発展し中期大乗になり
中国仏教で本覚思想が論ぜられると
「無明」は、忽然と起こる「妄念」とされました。
佛教2500年の中で「無明」は重要概念として
様々に論じられています
パーリ仏典中部キーターギリ経では、釈迦は比丘たちを7種類の人(七聖者, 七識住)に分類した[3]。
比丘たちよ、これら七(種類)の人が世間に見られる。いかなる七か。
倶分解脱、慧解脱、身証、見至、信解、法随行、信随行である。
これの倶分解脱のことやね
https://www.otani.ac.jp/yomu_page/kotoba/nab3mq0000000ki7.html
「忽然として念の起こるを名づけて無明と為す。」
『大乗起信論』
上に掲げた言葉は、迷いの心の根源としての無明を表現したものです。「忽然」とは「たちまち」「にわかに」「いきなり」という意味です。
たちまち、迷いの心(妄念)が起こることを、無明というのです。
https://i.imgur.com/hb0ERXS.jpg
その無明って何?ってことなんですが
無→明なので、明かりが無い、何の明かりか→慧(智慧)の明かり?
やはり智と慧は別物ですね
WikiArc
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E6%99%BA%E6%85%A7
【智慧】はプラジュニャー(prajna)の漢訳語として翻訳されたが、
本来はプラジュニャーは【慧(無分別)】と漢訳され【智】と区別していた。
【智】はジュニャーナ(梵語 jnana)の意で物事を【分別】する知恵・知識を指していた。
当時のシナ仏教徒はプラジュニャーを智と慧の二語の熟語にすることによって仏教独自の意味を表現しようとしたのであろう。
漢訳経典はそのような意味において全く違う異文化であるインドの仏教思想の受容に苦労したのであった。
梵語プラジュニャー (prajna) の意訳。
般若と音訳する。
真如の理をさとる【無分別智】のこと。
物事の道理を見きわめる認識力。
智慧を獲得した状態を菩提、正覚という。
智と慧
●【智】は梵語ジュニャーナ (jnana) の意訳
→【智】は世俗諦を知る【分別智】を指し
●【慧】は梵語プラジュナー (prajna) の意訳
→【慧】は第一義諦を知る【無分別智】を示す
(浄土真宗辞典)
第三章・心生滅門
4生滅因縁の(6)
『 無明の忽然として念起こる 』です。
全文は
『 いわゆる 心性は常に無念なり 故に名づけて不変となす。
一法界に達せざるをもっての故に 心相応せず、
忽然として念の起こるを、名づけて無明となす 』 です。
意味は
『いわゆる心の本性(=心真如)は、常に妄念がないので、
不変(=不生不滅)と名づけるのである。
しかるに人間の心は一法界(=心真如)を了達することができないために
心真如にそぐわない不相応の状態になると、
そこに忽然として念(=心の作用)が起こる。
それを名づけて「無明」というのである』
起信論は、中国撰述を疑われる論書ですが
日本仏教に多大なる影響を与えた論書だけになかなかうまく説明していると思います
悟りは無分別心に在ること、ということを別の表現で表すと
電球💡の状態を理解してみると良いかもです
電球💡は、点灯する前は握り拳ほどの大きさだけど
点灯すると、周囲の空間を球体の放射状に、光の強さに応じて照します
その空間の大きさは、豆電球から太陽まで、輝きの強さは無限の段階が有り、強ければ、何万光年先へも到達します、つまり巨大な光の球体として広がり続けます
人の意識も、まさに同じなのです、分別心に在る時は、思いのある処、つまり、頭部(脳内)に意識は留まる、頭部に滞留している状態です、それは点灯前の暗い電球💡と同じです
しかし、無分別にあっては、意識は思いという対象を持ちません
それ故に、意識は、頭部の思いという対象から解放されます、解放されるとどうなるかと言うと、五感六識は周囲へ球体状に、解放されます
つまり、電球💡が点灯された状態と同じように、五感の限界まで周囲を感受するようになります
これを、人が体験するよ、恰かも、自分と世界は1つになった!とか思ってしまうのですw
私、という意識が、身体の広さから、星の在る所までも、広がることも在る、そう言うことを知るわけですね
この体験を閉眼で体験すると禅定であり、開眼で突然体験すると悟ったと思うわけです
九次第禅定の各段階で、悟り的な区切りというか、少しそれ迄の自分と違った変化を感じるのが
最初の欲界定から初禅に入る時と、第四禅から第五の空無辺処を体験する段階だと思います
>861でのことは、第五の空無辺処を体験する辺りでのことです
最初の欲界定から初禅に入る時、というのは、どの様な体験をするかと言うと
自分が坐りはじめたころの事をよく記憶したいますが、すべての意識は外向きなんですよ、遠くで犬がワン!といえば犬煩い!車がブー~ーんって通れば車が煩い!って
全く落ち着かないものでした、しょうがないので眉間とか胸とかに念(覚えている)を固定して落ち着かせようとするも
今度は頭が、鼻が痒いのモゾモゾするのって始まる、その内に、あれ?ってね、眉間も胸も、わたくし忘れていました!みたいな
それで、何回も何回もやって、ようやく意識が外に向かなくなって、自分の身体だけに意識を固定出来るようになった段階が、初禅の段階であって
自分に在れると、ある種の喜びをおぼえるようになります、ここを一番最初の悟り体験と感じるかも知れませんね
『倶舎論』は、準備段階の「順解脱分」「順決択分」と
修行段階の「三道」(「見道」→「修道」→「無学道」)が説かれます。
初期仏教の「三学」(「戒」→「定」→「慧」)を意識しています。
大乗はこれを五道と解釈しています
「資糧道」→「加行道」→「見道」→「修道」→「無学道」です。
「順解脱分」…受戒した上で、四念処を修習する段階
「順決択分」…四諦を観察する段階
「見道」…四諦観察を深め、88煩悩を放棄する段階
「修道」…更に修習し、10煩悩を放棄する段階
「無学道」…「尽智」と「無生智」に達する段階
下記の用語を、2つのグループに分けよ
本山派
当山派
真言系
天台系
理源大師聖宝
智証大師円珍
聖護院
醍醐寺
吉野
熊野
正解は、こうなる
本山派 - 天台系 - 智証大師円珍 - 聖護院 - 熊野
当山派 - 真言系 - 理源大師聖宝 -醍醐寺 - 吉野
>>743
その阿頼耶識からムクムクと表面意識へ浮かび上がっては消えまた浮かんでは消えする妄想分別と、パさんはどのようにして付き合っているのでしょうか?
750 パ 2024/02/16(金) 20:35:11.29 ID:9KbIR9dl
>>747
その現れのパターンは幾つかあると思います
① 現行している行動と関係無く、昨日見た動画や音楽が思い出されてくる
② 現行している行動と諸問題と関係したことの想いが浮かび上がってくる
③ 現行している五感に関連した想い
④ 現行する感情に関連した想い
⑤ 現行す欲望(知識欲、物欲、食欲、睡眠欲、性欲など)に関連した想い
ーーー
この様に、自動的妄想分別はその場その場で様々あります
①などは、相手にせず、見ることも掴むこともしなければ、独りでに自然に消えていきます
②の場合は、その問題に意識を向けると、脳は自動的に答を出すべく思考しますので、それを見ている、という感じで
満足する答が出たなら、その自動思考は自動的に停止します
③の場合は、現行する行動に即して起こって来て、即して消えて行くので、ただ流す感じです
④この感情に絡んで起こる自動思考は少し厄介です
自我=我執着(マナ識)から沸き起こるものは、意識と一体になって起こるので
この感情的想いと距離を取りつつ眺めるように意識が観照することができるならしますし、巻き込まれたら煩悩に繋がり、怒りや欲望への思いへ変化して行きます
⑤の浮かんでくる想いも厄介です、この場合は、身体的欲望が尤も手こずる
知識欲、物欲は、割合容易く意識は距離を取って流せますが
食欲、性欲、睡眠欲に関しては、この身体が即 “ 私 ” である!という同一化の状態しか知らない場合は、客観的に見ることは困難だと思いますし、即して欲望を充たすように行動してしまうと思います
何らか瞑想等で、この身体と意識の私は違うのだ同一ではないのだ!と分かっている場合は
その欲望から連想して沸き起こる強い想いと距離を持て、その時に欲望を充たせる状態に無いとか、その欲望を断じているなら完全に無視して消えるままに見ているようにします
>>750
丁寧な回答ありがとうございます。
④現行する感情⑤現行する欲望に関連した想い
既に自我=我執着(マナ識)が出来上がっていて、そこから照射される想いといったものが前提となっている話のように思えるのですが、そういった理解でよろしいでしょうか?
752 パ 2024/02/16(金) 21:12:29.58 ID:9KbIR9dl
>>751
そういった欲望は、現行する行動に伴い外部からのまた内部からの印象によって生起されます
そのやって来た印象と生起された欲望の萌芽に触発されて、瞬時にムクムクと幾つもの想いが頭を駆け巡ります
自我というものが、思考する意識だけとせず、肉体の各部位にもあるとしたのはグルジェフですが
だとしたら、欲望に絡んだ想いは、肉体の欲望の発生する各部が、脳を使うという構図が見えて来るのです
754 パ 2024/02/16(金) 21:18:49.43 ID:9KbIR9dl
そのシステム全体の名称であると思います
「華厳経」以前の初期大乗仏教の経典においても、「如来は法を身体とする」という教えが登場しています。いくつか例を示します。
維摩経より
「友よ、如来の身とは法身のことであり、智から生じる。如来身は功徳から生じ、布施から生じる。また、戒を保つことから生じ、三昧から生じ、智慧から生じ、解脱から生じ、解脱を自覚する智から生じる。また、慈しみ(慈)と同情(悲)と同慶(喜)と不偏の心(捨)とから生じる。~あらゆるパーラミター(波羅蜜多)から生じ、六種の神通や三種の智(三明)から生じる。」
八千頌般若経より
釈尊:
「『仏陀世尊達は真理を身体とするもの(法身)達である。そして、比丘達よ、決してこの物理的に存在する身体を仏陀の身体と考えてはならない。比丘達よ、私のことを法身によって完成されているのだと見なさい。』と。この如来の身体は智慧の完成という真実の究極から現れたものと見なければなりません。」
金剛般若経より
釈尊:
「形によって私を見、声によって私を求める者は間違った努力に耽る者。かの人達は私を見ないのだ。目覚めた人々は法によって見られるべきだ。諸々の師達は法を身とする者だから。そして、法の本質は知られない。知ろうとしても、知られない。」
これらの思想が「華厳経」における「如来法身の偏在」という思想へ繋がったものと思われます。
如来法身の一部は我々衆生にも仏性(如来蔵)宿るとしますが、その我々に宿る仏性は「浄く輝く心」「光り輝く心」「自性清浄心」等と表現されます。煩悩に塗れた我々の心ですが、本来清浄であるという思想は、原始仏教経典(パーリ仏典)の頃から登場しています。
八千偈頌般若経より
スブーティ:
「また、世尊よ、智慧の完成への道を追求し、智慧の完成を修習する菩薩大士は、教えられているときに、彼がその覚りに志向する心(菩提心)におごらない、というような仕方で学ばねばなりません。何故かというと、心というものは心ではありません。心の本性は浄く輝いているのです。」
シャーリプトラ:
「一体、スブーティ長老よ、心でない心というその心は存在するのですか。」
スブーティ:
「シャーリプトラ長老よ、一体心でない心というその無心性に、存在性とか非存在性とかがあったり、認識されたりするのですか。」
シャーリプトラ:
「そうではありません。スブーティ長老よ。」
スブーティ:
「シャーリプトラ長老よ、その無心性に存在性も非存在性もありもしないし、認識されもしないならば、シャーリプトラ長老(あなた)が『心でない心というその心は存在するのですか。』と質問されたことは、果たしてあなたにとって正しいことでしょうか。」
シャーリプトラ:
「スブーティ長老よ、ではこの無心性とは何でしょうか。」
スブーティ:
「シャーリプトラ長老よ、無心性とは変化しないこと、妄想(分別)を離れていることなのです。」
それが中期大乗仏教頃の「智光明荘厳経」になると、明確に説かれるようになってきます。
如実に修行する者、彼には修行すべきこともなく、断ずべきものもなく、修行の果の達成もない。それは何故であるか。
文殊菩薩(マンジュシリー)よ、心は本来、光り輝いているからである。それはあらゆる一時的に付着した煩悩(客塵)によって汚染されているけれども、本性としては汚染されたものではない。本性として光り輝いているということは、汚染するもの(雑染)がないということである。汚染するものがないということは、そこに煩悩を断つべき対治者も必要でないということである。
それは何故であるか。文殊菩薩よ、それは本性として清浄であり、従ってそれ自身清浄なものはその上浄化する必要がないからである。清浄なるもの、それは無生である。無生なるもの、それは非難されない。非難されないもの、それは欲望を断じたものである。欲望を断じたもの、そこでは全ての根源的執着が消滅している。もしも、全ての愛着が消滅すれば、それが煩悩の不生である。不生なるもの、それが菩提である。菩提なるもの、それは平等性である。平等性なるもの、それはありのままなること(真如)である。
~文殊菩薩よ、菩提は心の本性が光り輝いていることによって、本性として光り輝いている(自性明浄)。何故に光り輝く(明浄)と言われるのか。本性なるもの、それは汚れがなく、虚空と等しく、虚空と同じ本性を持ち、虚空に合し、虚空に似て、本性が極めて明るく輝いているからである。
如来蔵思想と唯識思想(マイトレーヤに帰せられる無形象唯識的思想に限られる)はどちらも「華厳経」の三界一心作の思想の展開ではないかと考えられています。不正確さを恐れずに、かなり雑な言い方をすると、心を真如とするのが如来蔵思想で、心を阿頼耶識とするのが唯識思想です。
初期の唯識派の論書、つまりマイトレーヤの名で伝えられている論書には真如・法界が虚空のようにあらゆるところに遍満していることが強調されており、阿頼耶識という輪廻的存在の根拠が無であることを覚れば、法界に融け込んで真如そのものとなること、その人の仏性が開顕して人間としての制約を離れた無限の活動に従事するようになることが明確に説かれています。
パーリ仏典 増支部より
釈尊:
「比丘達よ、この心は光り輝くものである。しかし、それは偶然的な煩悩によって汚されている。凡人はこの心のことを教えとして聞かず、真実に理解しない。それ故に、教えを聞かない凡人には心の修習がないと私は言うのである。比丘達よ、この心は光り輝くものである。そして、それは偶発的な煩悩から離脱している。貴い仏弟子はこの心のことを教え聞き、真実に理解する。それ故に教えを聞く仏弟子には心の修習があると私は言うのである。」
パーリ仏典 増支部より
釈尊:
「比丘達よ、この心は光り輝くものである。
しかし、それは偶然的な煩悩によって汚されている。
凡人はこの心のことを教えとして聞かず、真実に理解しない。
それ故に、教えを聞かない凡人には心の修習がないと私は言うのである。
比丘達よ、この心は光り輝くものである。そして、それは偶発的な煩悩から離脱している。
貴い仏弟子はこの心のことを教え聞き、真実に理解する。それ故に教えを聞く仏弟子には心の修習があると私は言うのである。」
八千偈頌般若経より
●スブーティ:
「また、世尊よ、智慧の完成への道を追求し、智慧の完成を修習する菩薩大士は、教えられているときに、
彼がその覚りに志向する心(菩提心)に
≪おごらない≫、というような仕方で学ばねばなりません。
何故かというと、心というものは心ではありません。
心の本性は≪浄く輝いている≫のです。」
●シャーリプトラ:
「一体、スブーティ長老よ、心でない心という、その心は存在するのですか。」
●スブーティ:
「シャーリプトラ長老よ、
一体 ≪心でない心≫という、その無心性に、存在性とか非存在性とかがあったり、認識されたりするのですか。」
●シャーリプトラ:
「そうではありません。スブーティ長老よ。」
●スブーティ:
「シャーリプトラ長老よ、その無心性に存在性も非存在性もありもしないし、認識されもしないならば、
シャーリプトラ長老(あなた)が
『心でない心というその心は存在するのですか。』
と質問されたことは、果たしてあなたにとって正しいことでしょうか。」
●シャーリプトラ:
「スブーティ長老よ、ではこの無心性とは何でしょうか。」
●スブーティ:
「シャーリプトラ長老よ、無心性とは変化しないこと、
≪妄想(分別)を離れていること≫
なのです。」
それが中期大乗仏教頃の「智光明荘厳経」になると、明確に説かれるようになってきます。
● 如実に修行する者、彼には修行すべきこともなく、断ずべきものもなく、修行の果の達成もない。それは何故であるか。
● 文殊菩薩(マンジュシリー)よ、心は本来、≪光り輝いている≫からである。
それはあらゆる一時的に付着した煩悩(客塵)によって汚染されているけれども、
本性としては汚染されたものではない。
本性として≪光り輝いている≫ということは、汚染するもの(雑染)がないということである。
汚染するものがないということは、そこに≪煩悩を断つべき対治者≫も必要でないということである。
それは何故であるか。文殊菩薩よ、
それは本性として清浄であり、従ってそれ自身清浄なものは、
その上浄化する必要がないからである。
清浄なるもの、それは無生である。
無生なるもの、それは非難されない。
非難されないもの、それは欲望を断じたものである。
欲望を断じたもの、そこでは全ての根源的執着が消滅している。
もしも、全ての愛着が消滅すれば、それが煩悩の不生である。
不生なるもの、それが菩提である。
菩提なるもの、それは≪平等性≫である。
平等性なるもの、それはありのままなること(真如)である。
~文殊菩薩よ、菩提は心の本性が光り輝いていることによって、本性として光り輝いている(自性明浄)。
何故に光り輝く(明浄)と言われるのか。
本性なるもの、それは汚れがなく、
虚空と等しく、
虚空と同じ本性を持ち、
虚空に合し、
虚空に似て、
本性が極めて明るく輝いているからである。
唯識思想の二つの流れ
●大乗起信論という論書がありますが、これは550年頃真諦によって漢訳された大乗仏教の綱要書です。作者は馬鳴(めみょう、アシュヴァゴーシャ)ということですが定かではありません。
訳者が真諦であるということも確実ではないようです。ですから、中国撰述説もあるということです。
●真諦(しんだい、パラマールタ)は西インド出身で、中国に渡来した訳経僧です。当時、西インドのヴァラビーでは徳慧(とくえ、グナマティ) 系統の唯識学が盛んであって、その系統の思想を中国に伝えたといいます。
(仏教の思想 服部正明・上山春平著)
仏教では唯識が最も進んだ形と言われていますが(もちろん異論もありますが)、その中に二つの系統があります。
①ナーランダー系統と
②ヴァラビー系統です。
その頃の仏教学の中心はビハール州のナーランダーでしたが、唯識も盛んでした。しかし、徳慧(とくえ、グナマティ)の主張する唯識学とは多少食い違いがありました。
その後、徳慧は西インドのヴァラビーに移り、その地で自説を展開します。徳慧の弟子の安慧(あんね、スティラマティ)によってヴァラビー系統の最盛期を迎えます。真諦はその系統を継いでいるということです。
一方のナーランダー系統では、陳那(じんな、ディグナーガ)に発し、無性(むしょう、アスヴァ バーヴァ)、護法(ごほう、ダルマパーラ)と続き、後に玄奘によって中国に伝えられることになります。
ではこの両者は一体何が違うのでしょうか。
弥勒、無著、世親までは共通ですが、その後唯識の解釈の違いによって二派に分かれたようです。
専門的には
①ナーランダー系統を「有形象唯識論」②ヴァラビー系統を「無形象唯識論」
と呼ぶといいます。
識自身の中に対象象をもつかもたないかということですが、”有形象唯識派にとっては、認識の表象とは、形象に思惟が加わったもので、
そのうち、思惟は迷妄の原理であるが、形象は汚れのない認識の本質である。無形象唯識派にとっては、表象は思惟と同じものであって、いづれも迷妄である。”
(仏教の思想 梶山雄一・上山春平著)
又、①有形象唯識派では”本来存在しなかったものが表象という存在としてあらわれることはできない。形象を離れた認識そのものなどがあるわけはない。”といい、
②無形象唯識派は”表象、つまり認識の形はわれわれの思惟の所産であって、その思惟を離れた認識の本質そのものは、形を離れた照明そのものである。”という。
もともと般若経の思想家たちは最高の真実を「清く輝くこころ」と表現したが、ナーガールジュナの直観や、如来蔵の思想も同質のものであり、その伝統は唯識派内部にも及び、無形象唯識派として受け継がれた、ということです。
一方の、②有形象唯識派では”「迷い」とは形象を思惟によって解釈するからであり、思惟の解釈を除けば、認識の形象を見ながら迷妄から解脱する。柳は緑、花は紅のままに悟っているのであって、形のない「光り輝く心」などが別にあるわけではない”といいます。
(仏教の思想 梶山雄一・上山春平著)
875 ◆JBLfMwCXhY 2024/02/23(金) 18:00:38.96 ID:S3hG5
又、(仏教の思想 服部正明・上山春平著)には次のような指摘もあります。
①”ディグナーガは経量部の影響を受けながら、知識は必ずその内部に対象の形象をもつもので、純粋透明の知識はないということを明らかにした。仏の知識でも、知識であるかぎりは、捉えられる対象とそれを捉える能力とをそれ自体の内部にもっているというのである。
これに対して②スティラマティは、心は本来水晶のように透明なものであって、その中に捉えられるものと、捉えるものという二元性がある限り、それは「仮構されたもの」であるという見解をとった。”
ということですが、要するに、①有形象唯識派があくまで認識論のなかにとどまっているのに対して、②無形象唯識派ではわれわれの認識の外に「光り輝くこころ」、すなわち真如、法界を置いているということのようです。
又、同書では次のようにも言っています。
”唯識哲学の主題は、外界の対象がなくとも認識が成り立つことを論証することにあったわけではない。経験的認識の全体を夢として、その夢から覚醒する超世間的認識を得ることが、課せられた根本問題なのである。
ディグナーガやダルマキールティは唯識説の立場における認識の構造を吟味して、精緻な理論を構成したが、経験的認識の超越の問題にはほとんど触れていない。”
東インドには、有名な仏教界の最高学府があった
ナーランダ学院だ
三蔵法師の玄奘もここで唯識論を学んで、唐に持ち帰った
チベット仏教も、ナーランダ学院で学んだ人たちがチベットに伝えた
仏教唯識論は、東と西に分かれた
東インドでは、有相唯識論
西インドでは、無相唯識論
それぞれ、そういうのをやってた日本に伝わったのは、東の唯識論だ
西の唯識論では、「光り輝く心」ってのが出てくる
西の唯識論では、「光り輝く心」ってのが出てくる西の唯識論は、如来蔵思想の影響を受けて、「仏性」っぽくなってた
日本の法相宗は、東のナーランダ学派から伝わった唯識論
「光り輝く心」なんてものは出てこないでも、唯識論の中には、そういうものもあるヨーロッパの「唯心論」は、自他差別の世界のことであり、
「唯識論」はこれらの思想とは異る。・・という。
バークレイ→人は、”スピリッツ”を神から受けて、この”スピリッツ”で世界を見る。スピリッツは、やがて神に戻ってゆく
デカルト → 心とモノの二つがある。 ・・・と、分けて考えている。
プラトン → 心は”霊魂の牢獄”である。 ・・・ と、認識している。ヨーロッパの「唯心論」は、自他差別の世界のことであり、
「唯識論」はこれらの思想とは異る。・・という。
バークレイ→人は、”スピリッツ”を神から受けて、この”スピリッツ”で世界を見る。スピリッツは、やがて神に戻ってゆく
デカルト → 心とモノの二つがある。 ・・・と、分けて考えている。
プラトン → 心は”霊魂の牢獄”である。 ・・・ と、認識している。
光り輝く心は、何もかも無くなった後に残るという
ゾクチェンのリクバ(光り輝く心の本質、明智)とは
西インドに伝わった唯識から来てるのかもしれないですね。
ヨガ唯識派のヨガ師が仏教化したのでは?と
真我は最小の・のような大きさで太陽より輝いて見えるって言いますからヨガでは
>>760
悟りは無分別心に在ること、ということを別の表現で表すと
電球💡の状態を理解してみると良いかもです
電球💡は、点灯する前は握り拳ほどの大きさだけど
点灯すると、周囲の空間を球体の放射状に、光の強さに応じて照します
その空間の大きさは、豆電球から太陽まで、輝きの強さは無限の段階が有り、強ければ、何万光年先へも到達します、つまり巨大な光の球体として広がり続けます
人の意識も、まさに同じなのです、分別心に在る時は、思いのある処、つまり、頭部(脳内)に意識は留まる、頭部に滞留している状態です、それは点灯前の暗い電球💡と同じです
しかし、無分別にあっては、意識は思いという対象を持ちません
それ故に、意識は、頭部の思いという対象から解放されます、解放されるとどうなるかと言うと、五感六識は周囲へ球体状に、解放されます
つまり、電球💡が点灯された状態と同じように、五感の限界まで周囲を感受するようになります
これを、人が体験するよ、恰かも、自分と世界は1つになった!とか思ってしまうのですw
私、という意識が、身体の広さから、星の在る所までも、広がることも在る、そう言うことを知るわけですね
この体験を閉眼で体験すると禅定であり、開眼で突然体験すると悟ったと思うわけです
グルリンポチェとして、第二の仏陀と呼ばれる伝説的な師がいて
パドゥマサンバヴァは西インド、今のパキスタンあたりの山岳地帯のウッディーヤーナ地方の出身で
なぜかチベットに布教に行っている。
さすがのJBLさんも、パドゥマサンバヴァについては、あまり触れていないけど
チベットでは、仏陀釈迦牟尼と並んで尊敬されている。
しかしパドゥマサンバヴァはあまりにもアンビリバボーな伝説があって、
現実離れしている。何故かチベットでは凄い有名、
相分 六識
見分 六識
自証分 末那識
証自証分 阿頼耶識
四分説2
相分六識
見分 六識・末那識
自証分 阿頼耶識
証自証分 光り輝く心
四分説3
相分 六識
見分 六識
自証分 末那識・阿頼耶識
証自証分 光り輝く心
三分説
相分 六識
見分 六識・末那識
自証分 阿頼耶識
尚、その四(三)分説は不明です。
出典が分かれば助かります。
「識体転じて二分に似る(『成唯識論』)」であり、識体とは八識心王(眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識・末那識・阿頼耶識)です。
つまり八識のそれぞれで見分と相分という分析作用が起きるという解釈であり、例えば眼識の相分が末那識というのはない筈です。ついでながら、「四分と申し候は相分・見分・自証分・証自証分也。眼識にもこの四分あり、五十一の心所にもこの如し。(唯識大意)」とあります。
つまり、五位百法の内の心王の八、心所の五十一でそれぞれ個々に四分が起きているというのが法相宗の見解だそうです。
ブログ 『疲れた心に強い翼を!』
「唯識」と「潜在意識」の法則
「大乗仏教」の教えの中に,
「唯識」(ゆいしき)
と呼ばれる一つの学説がある。
これを教えてるのは,特に,「法相宗」(ほっそうしゅう)と呼ばれる宗派で,
開祖は,あの西遊記でおなじみの「三蔵法師」(玄奘)である。
日本における総本山は,奈良の「薬師寺」などが有名である。
(かつては,「法隆寺」や,京都の「清水寺」なども,そうだったようである。)
896 ◆JBLfMwCXhY 2024/02/27(火) 18:56:16.17 ID:uPMOI
この「唯識」という教義は,非常に複雑で,簡単には説明できないが,
要するに,「すべてのものが心から生じる」という教えである。
興味深いのは,心の働きを八つの部分に分け,
一番深い部分(深層部分)に「阿頼耶識」(アラヤ識)というのがあると教えてることである。
「アラヤ」(サンスクリット語「アーラヤ」)とは,「蔵」,
または,「住居」「場所」という意味だそうで,
そこに,私たちの「なすこと」「言うこと」「思うこと」のすべてが
経験として消えることなく残り,また,すべてのものを生み出す
種子(しゅうじ。可能性)が,そこに宿っているという。
これは,現代で言うところの「潜在意識」と同じである。
この「潜在意識」は,現代になって,フロイトとかユング
という心理学者が発見したように思われているが,
大乗仏教では,二千年の昔から,そういうことが教えられていた
というのは,驚きだと思う。
さて,この「唯識」という学問。
実は,その後,さらに研究・改良されて,
「法相宗」では,心の働きを八つに分けて,「八識」だったのが,
「天台宗」や「日蓮宗」では,さらに一つ加えて,「九識」(くしき)になっている。
そして,その「アラヤ識」(潜在意識)のさらに奥に
もう一つのものがあると教えた。
日蓮聖人は,それを
「九識心王真如の都」(くしきしんのうしんにょのみやこ)
と表現した。
そして,それを「妙法蓮華経」と名づけ,
その「九識心王真如の都」に向かって,「南無妙法蓮華経」と唱えたのである。
「外にある何か」に向かって拝んでいたのではないのである。
これは,多くの人が知らない点だと私は思う。
http://godpresencewithin.blog86.fc2.com/blog-entry-23.html
898 ◆JBLfMwCXhY 2024/02/27(火) 18:56:59.31 ID:uPMOI
日蓮は,その部分を「心王」(しんのう)と述べて,「王」に例え,
また,「都」(みやこ)と述べて,一つの「都市」(あるいは,「城」)に例えている。
「アラヤ識」(潜在意識)のさらに奥(深層)に,このような部分がある
と仏教では教えてることは,非常に驚くべき点であると私は思う。
そして,マーフィー博士は,その部分を
「内なる神」 (または,「I AM」「本来の自分」)
と表現した。
この「九識心王真如の都」については,またあとで,書いてみたいと思う。
う~ん、ありがたい言葉だ😄
阿頼耶識のさらに奥に、九識があったのか~😄
5感(前五識)→意思・理知(六識)→心素(阿頼耶)・我執(マナ)→真我(九識)
と言っている
流に随って性を認得すれば 喜無く亦憂無し
摩拏羅尊者の偈
>心は万境に随って転ず 転ずる処実に能く幽なり
>流に随って性を認得すれば 喜無く亦憂無し
という摩拏羅尊者の偈はご存じの事かと思います。
以下、分かっていらっしゃる方には蛇足ですけど、老婆心ながら、猿真似口パクさんの為に転載しておきます。
↓
これについて次のような逸話がある。
大応国師が筑前の横岳山におられた時、ある日近くの曹洞宗の岩屋寺に立ち寄られた。
そこの僧堂にたまたまこの偈が掲げてあった。
国師は試みに堂中の首座(第一座)に、「この語をどう見るか」とたずねられると、首座は「当寺の開山鉄壁和尚は、参徒に主として"幽”の字を見せられました」と答えた。
国師は黙って帰られたが、帰るとすぐに、侍者に向って、「隣むべし、かの一衆、おそらくは猫の年がきても悟れまい」といわれた。
侍者が「ではどう見ればよいのでしょうか」とたずねると、国師は『如何なるかこれ転処の身』と拶してこそ、始めて幽の字も悟ることができる」と教えられた。
侍者は、「それでは、なぜそのことをあの首座に教えてやられなかったのですか」となじると、国師はいわれた。
「禅者は、問われんことは答えんものじゃ」と。
(『続禅と人生』秋月龍珉 より)
唯識派にとって、輪廻転生とは魂が今の生涯から次の生涯へ移動するようなイメージではなく、「識」の流れが次の生涯の衆同分(天界・人と動物・地獄など)を得て、次の世界を造り出す状態になるイメージです。
唯識思想では外界が存在しないため、我々は「一人一宇宙」とも言うべき阿頼耶識世界内を生きていることになります(上の図は分かりやすいように末那識と六識を阿頼耶識の外側に配置しています)。しかし、同じ衆同分にある者同士(例えば人間同士、人間と動物など)=倶有の種子を持つ者同士では共通の意識体験が普通に起こり、互いに干渉し合うこともできます。
同時に三層の識は識として消滅し、仏の四智に転換され、その個体の思考や行動は仏のそれとなります。
926 ◆JBLfMwCXhY 2024/02/28(水) 19:00:15.78 ID:jN28b
末那識や六識の種子がギッシリ詰まった蔵の如き阿頼耶識の中心が何故、光り輝いて主観や客観を照らし出す照明(メタ認知意識)になり得るかというと、その背景に法界(浄く輝く心)が常に存在しているためです。それが大元の光源と言えるでしょう。
初期の唯識思想に近い無形象唯識論に基づく説明でした。後から登場した有形象唯識論がここに混ざることで、今日の複雑で一貫性のない唯識思想ができあがってしまったわけです。
大応国師・南浦紹明(なんぽじょうみん )
https://note.com/premalol/n/n946c9737decb
1265年、31歳、南浦は坐禅中に大悟した。このとき虚堂は大いに喜び、堂内を「南浦がついに大徹したぞ!」と叫んで回ったという。大衆(だいしゅ)もこのことがあってから南浦を見る目が一変したという。(辺境の後進国からやって来た僧だと軽く見られる傾向があったのかも知れない。)
南浦紹明の投機の偈を見てみよう(原文は漢文)。
『 忽然(こつぜん)として心境(しんきょう)共に忘ずる時
大地山河(せんが)機を秀脱す
法王の全身全体現ず
時人(ときひと)相(あい)対して相知らず 』
主観と客観、見るものと見られるものが共に失われて、
世界がありのままに全体現成している、という消息であろうか。
相対して相知らず、知るの知らないのと言う分別作用もそこにはない、
真実の丸出しである、というように感じられる。いかがであろうか。
主観と客観、人と境というのは、相互依存なので、どっちか消えれば、もう片方も消える。。
だから、心境不二となったら、心境脱落と言うか、どっちもある意味消える、ということだよね。。
そこらへんが、言語を超えた経験と言うか、説明できないところ。。
だから、お茶飲むのはいいにしても、平常底、ありのままの世界しかない、みたいに思い込むのは、よくない。。
逆に、坐り続けてたら、夢にも見ないことがありますよ、なんて言う人がいるけど、それは嘘じゃないよね。。
>見分は有りと雖も、而も無分別をなるをもって、能取に非ずと説けり。
>取ること全無には非ず。
>(成唯識論)
つまり、見分は有っても能取がないということで、知的活動がないわけでもない、って事です。
何かに執着したり対象的に認識認識する事ではない、と。
>相分は無しと雖も、而もこれ(いい)如の相を帯して起こると説くべし。
>如に離れざるが故に。
>自証分(いい)見分を縁ずる時に変せずして縁ずるが如く、此れも亦た応に爾るべし。
>(成唯識論)
”相分は無しと雖も”、相分がない、つまり”知る対象がないのに何を知るのか?”という事になりますが、
”如の相を帯して起こる”、つまり、真如そのものの体相を帯びる(挟帯)との事です。
体は、体・用・相の体でしょうね。
日本には、この要素が最も薄れた時期の唯識論が伝わり、法相宗となって残った
「光り輝く心」
これは、原始仏典にもすでに見られる
無視できない要素だ
941 ◆JBLfMwCXhY 2024/02/29(木) 05:33:18.61 ID:gfNt0
「光り輝く心」は、液晶ディスプレイのバックライトみたいなものだ
バックライトがあるから、画面が見える唯識論の歴史の中で、浮かんだり消えたりする隠し要素だ
「光り輝く心」は、そのように世界を照らしている
このため、「照明」とも訳される
悟りを得て解脱する最終局面では、阿頼耶識が壊れて、奥に潜んでいた「光り輝く心」が姿を現すという
液晶画面が壊れて、バックライトがむき出しになるようなイメージだ
それと「阿頼耶識が転じて大円鏡智になる」という法相宗の教えには、通じるものがある
「同じことを言っている」という人もいる
945 ◆JBLfMwCXhY 2024/02/29(木) 05:40:29.34 ID:gfNt0
「光り輝く心」というのは、日本の法相宗では言われない
唯識論にも大きく分けて2つの系統があり、法相宗はそのうちの1つ
「光り輝く心」がない方の系統に属する
仏の四智・五智の一つ。
有漏の第八阿頼耶識(あらやしき)を転じてうる無漏智で、大きな円鏡が万物の影をことごとく映すように、すべての真実を照らし知る仏の智恵。大円鏡智
仏の持つ四智の一つ。
大きな円い鏡に一切がありのままに映し出されるように、すべてを明らかにする曇り一つない清浄な仏智のこと。
唯識で第8阿頼耶識を転じて得られる無漏の清浄智をいう。
こうしてみると、やはり
「光り輝く心」と大円鏡智は、ほぼ同じと見てもいいだろう
949 ◆JBLfMwCXhY 2024/02/29(木) 05:46:18.67 ID:gfNt0
ただし、法相宗では
大円鏡智は、最終局面で阿頼耶識が転じる智
「光り輝く心」は、ずっと奥に潜んでいたものが、最終局面で阿頼耶識が消滅することにより現れるとされる
大円鏡智は、最終局面で阿頼耶識が転じる智
それに対して、無形象唯識論では
「光り輝く心」は、ずっと奥に潜んでいたものが、最終局面で阿頼耶識が消滅することにより現れるとされる
「有形象唯識論」、「無形象唯識論」というと
①有形象唯識論は、「形あるもの、つまり物質は外界に存在する。人は、それを認識しているのだ」という理論
②無形象唯識論のほうは、「形あるものなど、本当は無いのだ」という、外界不存在、物質否定の理論
・・・のように思えるけど
そうではなく、逆なのがややこしいところ
①有形象唯識論というのは、
「形あるものは、自分の意識の中に原型がある。人は、おのれの意識の中にある形象を認識しているのである」
という、突き抜けた物質否定、外界不存在の思想
953 ◆JBLfMwCXhY 2024/02/29(木) 05:55:13.91 ID:gfNt0
仏教も、昔からこうだったわけではない
古い時代の思想、説一切有部は「無形象知識論」だった
これは、「形象は、自分の意識の中にあるわけではない」という思想
要するに、説一切有部では外界は存在し、形あるものは存在する
人は、それを認識している
これは、「形象は、自分の意識の中にる」という思想
例えば、人が赤くて丸いリンゴを見ているとする
経量部の考え方では、それは本当はリンゴなどではない
「何か赤いモノ」が存在しているだけ
人はそれを認識し、自分の意識の中にある「丸い」という形象を当てはめ、そこに「リンゴ」という名前をつける
「何か赤いモノ」が本当は何なのか。それは、人間には知るよしもない
おもしろいことに(哲学オタクにとってはおもしろいだけで、普通の人にはおもしろくもなんともないだろうが😅)、17世紀の近代イギリスに登場した、ジョン・ロックの認識論は、これとは逆だ
経量部では、「色はモノ自体にもともと備わっている要素。形は、人間の意識の中にしかない」と考えた
ジョン・ロックは、これとは逆だ
「形は、モノ自体がもともと持っている要素。色は、人間の意識の中にある」と考えた
人間には、波長の長い光は赤く見える
波長の短い光は青く見える
リンゴに光が当たると、波長の短い光は吸収され、波長の長い光が反射される
その反射された波長の長い光を見ると、人は「赤い」と感じる
このような視覚のシステムを考えると、「色は人間の意識内で作り出される」というジョン・ロックの世界観は正しい
経量部の人々は、いくら賢いといっても古代人
そこまでは、考えが至らなかったようだ
> それが有形象唯識論の思想
違った
それを言うなら「有形象知識論」だ
円覚寺HP 今日のことば2023.02.18 横田南嶺 一生、なにもわからぬ
ほんの少し勉強すると、賢しらに知ったかぶりをしてしまうのが
私であります。
一知半解を得て、すべてを心得たように思ってしまいます。
「知らざる最も親し」という言葉もあります。
なにも知らないというのが、もっとも真理に親しいというのです。
大灯国師も「無理会の処に向かって究め来たり、究め去るべし」と
示されました。
分別や知識では届かないところに向かって
ただひたすら究明してゆけというのです。
分かったというようなものがあったら、
もう遠くして遠しなのであります。
泰龍老師の「一向に存じませぬ」も、
大慧禅師の示される「一生不会」も実に高い心境なのであります。
管見を云うと「解決してる」というのは「現成公案」だって思うんです。
つまり「解決してる」は答えではなくて問いだって事です。
曹洞流ならそれを修(収)め、つまりその解決を行持する事だと思うんです。
臨済流は解決に向かうけど、曹洞流は解決から始めるって事だと思うんです。
問いと答えが一如のところに曹洞流があると思うんです。
「心の働きを止める」の意味を考えたことがありますか? ヨガの実践をしている人の中で、心の働きを止めたいという目的でヨガを始めた人はいないでしょう。
ヨガスートラは現存するヨガの書籍の中で最も古く、もっとも沢山の人に読まれてきた教典です。ヨガスートラの中で書かれた八支則の実践は、心をコントロールして最後にはその働きを完全に静止させるための実践です。完全なる静止が意味するのは、「自分の本性」との出会いです。
ヨガの実践により心を静止させると、自分自身を知ることが出来ます。思考は湖の水の波紋のようなものです。水面が荒れていると湖の底を見ることはできませんが、水の動きを止めることで湖の底を見ることが出来ます。
そして、ヨガで心を静止することにより出会える、“自分自身が何か”を説明した哲学が【サーンキャ哲学】です。
『ヴェーダ』の権威を認める正統派といわれるグループと、
認めない非正統派といわれるグループの2つです。
正統派といわれるのは、サーンキヤ学派、ヨーガ学派、ニヤーヤ学派、ヴァイシェーシカ学派、ミーマーンサー学派、ヴェーダーンタ学派の6つです。
これを「六派哲学」といわれます。
それに対して非正統派といわれるのは、仏教と、ジャイナ教を含む六師外道ろくしげどうです。
六師外道というのは、
①プーラナ・カッサパ、
②パクダ・カッチャーヤナ、
③マッカリ・ゴーサーラ、
④アジタ・ケーサカンバリン、
⑤サンジャヤ、
⑥ニガンタ・ナータプッタの6人の教えです。
ニガンタ・ナータプッタの教えがジャイナ教です。
これらの六派哲学と、仏教、六師外道が代表的なインド哲学です。
インド哲学の正統派は、ヒンドゥー教系の六派哲学非正統派は、仏教とジャイナ教
本覚讃(ほんがくさん)は、本覚思想を要約した56文字の偈である。
妙法蓮華三昧秘密三昧耶経の冒頭の偈から抜粋し作られた。本覚思想を要約したものなので、天台宗の勤行で唱えられる。
また、修験道でも般若心経や真言、不動経など並んで修行時によく唱えられる。
真言宗醍醐派の当山方の勤行でも唱えるほか、高野山真言宗でも金剛峰寺奥の院の御廟橋を渡る際に唱える。
本覚讃の解釈本として、良源著と伝わる「本覚讃 註本覚讃」や源信著と伝わる「本覚讃釈」がある。
帰命本覚心法身(きみょうほんがくしんぽっしん)
常住妙法心蓮台(じょうじゅうみょうほうしんれんだい)
本来具足三身徳(ほんらいぐそくさんじんとく)
三十七尊住心城(さんじゅうしちそんじゅうしんじょう)
普門塵数諸三昧(ふもんじんじゅしょさんまい)
遠離因果法然具(おんりいんがほうねんぐ)
無辺徳海本円満(むへんとくかいほんえんまん)
還我頂礼心諸仏(げんがちょうらいしんしょぶつ)
本(来)覚っている心の法身に帰命したてまつる
常住妙法心蓮台
妙なる法が心の蓮台に常に住んでいる
本来具足三身徳
本来より(法身報身応身の)三身の徳が具足している
三十七尊住心城
(金剛界の)三十七尊が心の城に住んでいる
普門塵数諸三味
塵の数ほどの諸々の三昧にあまねく(開かれた)門がある
遠離因果法然具
因果を遠く離れ法然として具(足)している
無辺徳海本円満
無辺の徳の海が本より円満している
還我頂礼心諸仏
(外にするべき頂礼を)我に環して心の諸仏を頂礼する
帰命本覚心法身
常住妙法心蓮台
本来具足三身徳
三十七尊住心城
普門塵数諸三昧
遠離因果法然具
無辺徳海本円満
還我頂礼心諸仏
(中山清田師の訳による)
「本来覚 (さと) られていることを讃える」
本来既に覚っている、 みずからの内なる仏、 法身に命を捧げて信仰致します。
本来もとより仏の法身、 報身、 応身という三つの形で説明されて、 あらゆる人間的無相表現が既に過去からこの身に備わっているものですから、 三十七の仏、 諸尊がみずから心身に住している。
諸仏や諸尊の限りない自内証 (覚り方) は、 世間的な因果生死の流転のあり方を超越して、 仏法のまにまに備わっており、 大海のような辺際のない諸仏諸尊の無量の仏徳が本来完全にしみわたっている。
それらを具足している我が身ながら、 改めて我が心身に内在している諸仏諸尊にこうべを垂れて礼拝致します。
http://www.tendai-jimon.jp/shomyo/Track2_10.mp3
本当は、みんな仏なんだよ
そこに気づけばいいだけなんだ
もともと悟っている
そこに気づけば、修行は終わり
17 ◆JBLfMwCXhY 2023/12/28(木) 06:53:13.44 ID:qZU0e
このようなロンの主張に対し、
当方は「仏教とは真逆の考え方」と
強く批判したのだが
インドの仏教とは、遠く離れたところに来てしまった
また、味わって来たのなら証拠を見せろと師家は迫ってくる訳です。
ところで先日はパーリさんが大応国師の投機の偈を紹介して下さったので、この場はその嗣法の大灯国師のそれを味わってみようと思うんです。
一回透得雲關了 一回 雲関を透得し了って
南北東西活路通 南北東西 活路通ず
夕處朝遊沒賓主 夕処朝遊 賓主を没し
脚頭脚底起淸風 脚頭脚底 清風を起こす
賓主を没し……清風を起こす
賓主を没し、つまり見分と相分ですね。
見られるものと見るもの。
そして、清風を起こす。
>見分は有りと雖も、而も無分別をなるをもって、能取に非ずと説けり。
>取ること全無には非ず。
>(成唯識論)
つまり、見分は有っても能取がないということで、知的活動がないわけでもない、って事です。
何かに執着したり対象的に認識認識する事ではない、と。
>相分は無しと雖も、而もこれ(いい)如の相を帯して起こると説くべし。
>如に離れざるが故に。
>自証分(いい)見分を縁ずる時に変せずして縁ずるが如く、此れも亦た応に爾るべし。
>(成唯識論)
”相分は無しと雖も”、相分がない、つまり”知る対象がないのに何を知るのか?”という事になりますが、 ”如の相を帯して起こる”、つまり、真如そのものの体相を帯びる(挟帯)との事です。
体は、体・用・相の体でしょうね。
修せざるにはあらわれず。
お茶の味がする……
証せざるにはうることなし。
宗乗自在、何ぞ功夫を費さん。
況んや全体はるかに塵埃を出ず。
孰か払拭の手段を信ぜん。
やっぱりいきなりの最初に指摘したように、ハッキリ教くんの「お茶」の話はK.I師の猿真似だったね。
本人は惚けて否定してたけどwww
ま、以下を見て下さい。
彼が本物か猿真似のパチモンか、ご判断はご自由にどうぞ🤭!
↓
こうやって【水筒から茶碗にお茶を注いで飲む】、「修せざるにはあらわれず」、飲まないと味がしない。
そのくらい簡単な言葉です。
飲むと、間違えなくちゃんと味がする。
「証せざるにはうることなし」、飲めば必ず味がする。
疑いようのない確かさがある。
(井上貫道 『真実、悟り、禅修行とは: 道元禅師『学道用心集』『普勧坐禅儀』、黄檗希運禅師『伝心法要』提唱録)
①「無限背進」
②「循環論」
③「独断的中断」
のいずれかになるって云われてますけどね。
宏智正覚(わんし しょうがく、1091年(元祐6年) - 1157年(紹興27年))は、中国の宋代の禅僧。曹洞宗に属し、多くの弟子がいて宏智派の祖とされた。黙照禅という坐禅の形を正統のものと主張し、多くの詩偈を残した。.
禅の奥旨を歌った哲学詩。「黙は唯だ至言、照は唯だ普応」といい、言句分別と差別対立を絶した寂黙に徹し、修証不二の打坐を勧めたもの。
ーーーーーーーーーーーーー
『 黙 照 銘 』
黙々として言を忘じ、昭々として現前す。
鑑する時廓爾たり、体する処霊然たり。
霊然として独照す、照中還た妙なり。
露月星河。雪松雲?。
晦して弥よ明らかに、隠れて愈よ顕わる。
鶴煙に夢みて寒く、水秋を含んで遠し。
浩劫空空。相与に雷同す。妙存黙処。功忘照中。
妙存は何の存するぞ、惺惺として昏を破る。
默照の道、離微の根。
離微を徹見すれば、金梭玉機。
正偏宛転して、明暗因り依る。
依に能所無く、底時回互す。
善見薬を飲み、塗毒の鼓を打つ。
回互底時、殺活我に在り。
門裡に身を出し、枝頭に果を結ぶ。
黙は唯だ至言、照は唯だ普応。
応ずれども功に堕せず、言うも聴くに渉らず。
万象森羅・放光説法・彼々証明・各々問答・問答証明、恰々として相応ず。
照中黙を失す、便ち侵凌を見る。
証明問答・相応恰々。
黙中に照を失すれば、渾て剰法と成る。
黙照理円、蓮開き夢覚む。
百川海に赴き、千峯岳に向かう。
鵝の乳を択ぶが如く、蜂の花を採るが如し。
黙照至得、我が宗家に輸く。
宗家の黙照、透頂透底。
舜若多の身、母陀羅の臂。
始終一揆、変態万差。
和氏献璞、相如瑕を指さす。
当機準有り、大用勤めず。
寰中は天子、塞外は将軍。
吾家の底事、規に中り矩に中る。
諸方に伝え去って、賺挙することを要せず。
宏智正覚(わんし しょうがく、1091年(元祐6年) - 1157年(紹興27年))は、中国の宋代の禅僧。曹洞宗に属し、多くの弟子がいて宏智派の祖とされた。黙照禅という坐禅の形を正統のものと主張し、多くの詩偈を残した。
大慧宗杲(だいえ そうこう、元祐4年(1089年) - 隆興元年8月10日(1163年9月9日))は、中国の宋代の臨済宗の僧。
https://i.imgur.com/YrAVPFs.jpg
まず、上品・下品のもとに上根・中根・下根を立てる。
①上品は、迷いを知らない人、
②下品は、久しく迷いを有する人とされる。
その中で
①上根は、善知識の教えにより忽ち悟りに達する人、
②中根は、深奥な世界に心を寄せることで悟りに至れる人、
③下根は、目指すところを心にとめてもすぐ忘れてしまう人とされる。
『仮名法語』は、末法に入って200年たった、人々の能力が低い世を想定しており(このことから『仮名法語』の成立は1252年以降と分かる)、下品に対する救済の眼差しが強い。
● 下根が意識的に悟れるよう心がけるのも難しい場合は、
● ひたすら坐禅をすることを勧め、末法には坐禅が万人に適した修行方法と説く。
加えて『仮名法語』は、女性二人に向けた法語も掲載しており、女性に対する禅の説き方を窺う重要な史料といえる。
このように、修行者の能力を踏まえて禅の修行法を説く『仮名法語』は、先述の如々居士の著作などとも方向性を一にするといえ、『禅家説』全体に、初学者へ禅を示す一貫した意図があったものと思われる。
能変の体を彰す (5) 思量識
「二には謂く思量。即ち第七識ぞ。恒に審かに思量するが故に。」
● 初能変は第八識であらわしますが、その第八識の上に働く識が第七識ですから、第二能変といわれています。
● 第七識のはたらきは、「恒に審かに思量する」ということで、第八識の見分を境として恒に「我」と思量する識である。
● 「恒」は間断のある第六識を簡ぶ。意識は審に思量するけれども恒ではない、ということ。
● 「審思」は第八識を簡ぶ。第八識は恒ではあるが、審に思量する識ではありませんから簡びます。
● また、「恒」と「審」との思量を以て前五識を簡びます。五識は恒に起こるものではなく、また審思するものでもないから簡ばれます。「簡ぶ」は比較され簡び取られるという意味ではなく、除外されるという意味になります。
● 「恒に思量する」ことと、「審に思量すること」が第七識の特徴になります。
manas翻訳して末那といい表しています。
我法二執の根本である。
八識はみな思量の作用があるが、
末那識は特に恒(間断なく常に作用する)と審(明瞭に思惟する)との二義を兼ね有して、
他の七識に勝っているから末那(意)という。
アボキャ・・・不空成就如来
ベイロシャノウ・・・大日如来
マカボダラ・・・薬師如来
マニ・・・宝生如来
ハンドマ・・・阿弥陀如来
上記の5つの仏様は金剛界の五仏と呼ばれており
五仏の功徳が光明真言のそれぞれの句に込められているのです。
それ故に光明真言は最強の真言と言われているのです。
https://i.imgur.com/tIlsDzS.jpg
誰でも悟れるという類書が多いので一目瞭然なのですが、解脱に比べると意外と身近です。
そして、悟りと解脱は全く別の体験なのです。
これは禅宗のお坊さんも知っていて、いくつか本に書いてあるものもちゃんと存在します。
解脱とは、ある状態から開放されることを言いますので、多くの解脱が存在します。
輪廻から脱するのも解脱ですが、例えば自分の持つ嫌悪から開放されるのも解脱です。
最終的な解脱はビムッティ(離解脱)といいます。
①心解脱・・・心の苦悩が消滅すること、これが悟りです。
②信解脱・・・三宝に対し絶対的な帰依を持った時に来るのが信解脱、インドではバクティー。日本では親鸞がそうです。
③慧解脱・・・三明六通を得て、漏尽通により根本煩悩や四聖諦、十二縁起を体験。これを阿羅漢といいます。ここで般若心経で言う「一切皆空」を体験します。
竹村先生は解説書で
>相分はないのだけれども無分別智という智慧は真如と一体化し、そこに真如を自覚している(中略)
>智慧はあくまでも有為法でその都度その都度起きてくるものなのですが、真如は無為法で変化のない世界です。
>そうなのですが、しかも無分別智は真如といわば一つになるのです。
>それは自証分が見分を見るとき、見分を現し出してそれを見るのではなくて、見分の内容をそのまま直接受けとめるように、そのように真如を証するという事です。
と解説されております。
また、
>相分やら何やらを現し出して、それを縁ずるということになると、そこには何らかの対象への関与が生じて、直接に証することにならず、後得智と同じように分別があることになってしまいます。
>したがって無分別智を理論的に説明する場合は、見分はあるが相分はないというかたちで、ただし真如を挟帯して証するのだと説いています。
>また、無分別智も真如も言葉では説明できない世界ですが、理論的にはこのようにとらえるのです。
とおっしゃってます。
仏典の漢文で「非」は次に体語すなわち名詞がきて、「不」は次に用語すなわち動詞や形容詞がくるんです。
体用相を考える上で役に立つ基礎知識と云えましょう。
非有非無と云うとき、その時の「有」「無」はそういう意味で使われているって事なんです。
間違ってもロンパールームのいうような記憶喪失になる事ではありませんwww
>生きながら死人となりてなりはてて
>思うがままになすわざぞよき
>(至道無難禅師)
と云うのですが、
理致 ~ 生きながら死人となりて
機関 ~ なりはてて
向上 ~ 思うがままになすわざぞよき
に該当するって思うんです。
②識(空)→ 即 是 色
①②は一如の表裏一体
①≪色≫が無ければ≪識≫は無く
②≪識≫が無ければ≪色≫も無い
● 一如の①物理側面と②非物理側面
色は何処まで行っても認識≪対象≫
識は何処まで行っても認識≪主体≫
故に、認識対象無くんば、認識主体無し
故に、対象を持たない自我の心は、早晩に無我無心となる
①【物 理】側面と
②【非物理】側面
①色は何処まで行っても認識≪対象≫
②識は何処まで行っても認識≪主体≫
故に
認識【対象】無くんば
認識【主体】無し
故に、【対象】を持たない自我の心は、
早晩に【無我】【無心】となる
①色→ 即 是 識 (空)
②識(空)→ 即 是 色
①②は一如の表裏一体
①≪色≫が無ければ≪識≫は無く
②≪識≫が無ければ≪色≫も無い
●
一如の
①【物 理】側面と
②【非物理】側面
①色は何処まで行っても認識≪対象≫
②識は何処まで行っても認識≪主体≫
故に
認識【対象】無くんば
認識【主体】無し
故に
【対象】を持たない【心】は、ほどなく
【無我】【無心】となる
『小空経』における空の 実践構造につ い て
井上ウィマラ 著?2010
https://www.google.com/search?q=%E5%B0%8F%E7%A9%BA%E7%B5%8C&sca_esv=2b7898c5615aa23f&sca_upv=1&biw=412&bih=702&ei=9vP0ZefhFbu70-kP5q228AM&oq=%E5%B0%8F%E7%A9%BA%E7%B5%8C&gs_lp=EhNtb2JpbGUtZ3dzLXdpei1zZXJwIgnlsI_nqbrntYwyBRAAGIAEMggQABiABBiiBDIIEAAYgAQYogQyCBAAGIAEGKIEMggQABiJBRiiBEjQpgFQsg9Ylp8BcAJ4AZABAZgB1AOgAckhqgEIMC4yNS40LTG4AQPIAQD4AQGYAhKgAscaqAISwgIKEAAYRxjWBBiwA8ICCxAAGIAEGLEDGIMBwgICECnCAhAQABgDGI8BGOUCGOoCGIwDwgIQEAAYgAQYigUYQxixAxiDAcICBxAAGIAEGATCAg0QABiABBgEGLEDGIMBwgIKEAAYgAQYBBixA8ICChAAGIAEGIoFGEPCAg4QABiABBiKBRixAxiDAcICCBAAGIAEGLEDwgIJEAAYgAQYBBglwgIJEAAYgAQYBBgKwgIHEAAYgAQYF5gDP4gGAZAGCpIHCjIuMTMuMi4wLjGgB_Nu&sclient=mobile-gws-wiz-serp#vhid=zephyrhttps://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk/58/2/58_KJ00006159691/_pdf&vssid=zephyr-w-https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk/58/2/58_KJ00006159691/_pdf
村や入の想念を心に思わず, 森の 想念に集中することに よっ て (araiifiasaiiiiaq・paticca manasikaroti ,ekattam ),
村 や 人の 想念 に よる煩 わ しさは消滅 して空 となる. しかし森の想念に集中することによる煩いは残る.
その ように, あるものがそこにない とき, それにつ い てそこは空であると見つ める.
そこに残っ てい るものがあれば, その存在をこれがあると知る.これは不空性 (asufiiiata)の確認である.
この ように して, 色界や無色界の禅定によっ て不在になるもの と残るもの とをありの ままに見つ めてゆくことが空性の現れである 2〕.
ーーーーーー
基本様式と相違する ところは, 無想の心三昧に入っ た ときには 「六つの 感覚器官を持つ 身体に よっ て命を縁とする煩い」が残る点である3)。
さ らに再び, 無相の心三昧につい て 「この無相の心三味も作為され思惟されたもの で あり, どの ような作為され思惟されたもの も, これは無常であり消滅してゆ く性質の ものである」と知見することにより心は漏れ出る煩悩から解脱することが説かれる.
そこで漏れ出る煩悩に よる煩い は空となるが,六つ の感覚器官を持つ 身体によっ て命を縁にして生じる煩い は残る 4).
こ れは阿羅漢果を得た最終的な解脱の段階を空の視点か ら説明した ものである.
なぜ 無相の心三昧につ いて 2回の 説明があるの か?
注釈書は 「ヴィパッサナーによって 非想非非想処の想念を, 道によっ てヴィパッ サナーを退けて , 次第に究極の 空性と呼ばれるもの を示そうと思っ て, 世尊はこの ように説法に努めたのであると解説してい る .
また,最初の 無相の心三味におい て身体的存在が残ることに関しては, 「<この身体を〉とは, ヴィパッ サナーの 根拠として示した 」ことが解説され,
2回目の無相の心三昧が説かれた理由に関し「再び く無相の 〉とは,ヴィパ ッ サナーをさらに 振り返って ヴィパッサナーす るこ とを示すために説かれた 」 と解 説さ れている.
ヴィパ ッサナーは, 見つ めるこ と自体を、繰り返し見つ め る ことをその特徴とする.
すなわち, 最初に無相の心三昧が説かれた時には無色界禅定によるサマ タ (samatha ;止)か らヴ ィパッ サナー (vipassana :観)への転換点を示すため, 2 回目はヴィパッサ ナーが繰 り返されて熟した道による阿羅漢 としての解脱地点を示すために説かれてい るのである,
基本様式と相違する ところは, 無想の心三昧に入っ た ときには 「六つの 感覚器官を持つ 身体に よっ て命を縁とする煩い」が残る点である。
さ らに再び, 無相の心三昧につい て 「この無相の心三味も作為され思惟されたもの で あり, どの ような作為され思惟されたもの も, これは無常であり消滅してゆ く性質の ものである」と知見することにより心は漏れ出る煩悩から解脱することが説かれる.
そこで漏れ出る煩悩に よる煩い は空となるが,六つ の感覚器官を持つ 身体によっ て命を縁にして生じる煩い は残る .
こ れは阿羅漢果を得た最終的な解脱の段階を空の視点か ら説明した ものである.
最初の 無相の 心三昧に関する説示では, 残れるもの としての 煩わしさの中には漏が含まれてい た. しかし,2回目の 無相の 心三昧では漏につい て空となっ ている.身体的存在は残るが, 漏とい う煩悩が空となることによっ て, その 煩わしさは もはや苦としての あり方を終えたの である.これは, 有余涅槃をさすものである .
https://i.imgur.com/16djO4x.jpg
そこに実際にあるもの とない もの とを如実に確認して ゆく意識的作業と深 く関るものである.
そこにない ものが空であり. ある もの は不空である.それは想念において も同様である.
ある想念におい て, 注意が向け られてい る対象は意識の 中にあるがゆえに不空となり, 注意の向けられて い ない 対象は意識の 中にない ために空となる.
これは認識論的な議論であっ て,存在論としての議論ではない.向井亮が 『〈空〉の 二 面性につ いて』の中で, 具格を伴うSunyaの用法について 考察して,
「何が 『空』で, 何が 「無』か (そして何が 『有』か)を決して混同して はな らない 」と述べているの は、本経におけるこの ような認識論的な視点の確認 となっ てい る.
具格によっ て示された対象は, 注意を向ける行為によっ て意識の中に浮かび上がっ てくるものであ り,注意がほかの対象に移っ た瞬間には意識の 中か らは消えてゆ く.そうした意識の 性質上, もの ごとの 有無を絶対的に論じることは不可能である.
それは,有無の両極端に囚われない中道の 視点である.こ うした認識論的な対象確認作業の描写におい て用い られる paticcaとい う語意識的にせ よ、無意識的にせ よ, 意識は必ず何かの 対象を縁として生じて くる とい う仏教が大前提としてい る洞察が託されてい る.この洞察は , 「こ れあれば彼あ り, これなければ彼なし.これ生 じれば彼生 じ, これ滅するがゆえに彼滅す」とい う縁起 の 考察に通 じる ものである.
と述べ て い るのはこうした空と無我との深い 結びつ きを示したものである.
『大いな る智慧による問答経』における空心解脱 も同様で あ り,
その 注釈書で は空性 とはヴ ィ パッ サ ナーで あるこ とが 述べ られている。
私や私の ものとい う観念か ら空となっ た愛欲は,
純粋な現象として体験される.
法としての 不空性が誰の もので もない 「愛欲だけがある」とい う気づ きとして体験され るの である.
4.悟りと解脱智の再解釈ルイ・ドゥ・ラ・ヴァッレ・プサンはサンユッタ・ニカーヤ12.68やアンヌッタラ・ニカーヤ6.16などの初期経典に依り,解脱智の解釈には合理主義的概念に基づくものと,神秘的な概念に基づくものがあるとする。
この後者によると,解脱は今生での涅槃や死の範囲を超えた領域がその身体により実現され触れられることを必要としており,
その今生での涅槃は想受滅と結びつけらている。
しかしながら,弟子たちの解脱智の記述では,
想受滅の獲得の後に、その漏は智慧で見た後に完全に滅した、と言う句が続いている。
すなわち想受滅の後に智慧が生じることから,この智慧は普通の分析的で概念化されたものではありえないことになる。
ここでは智慧は漏の消滅に欠くことができないと認識されており,さらには想受滅自身や涅槃がこの智慧の内容であったことさえも示している。
他方で,合理主義的概念に基づいて,解脱智を存在や(例えば五蘊としての)その根本的要因の否定的性質,特に苦や不快や無我の理解や洞察として述べる経典もある。
マッジマ・ニカーヤ第22経蛇喩経では,五蘊は苦や不快や無我であり,自分自身に属しておらず,それらは正しい智慧によりそのように見られなければならず,
それらをそのように見る者はそれらから離脱し,解脱に達するということが明らかにされている。
アンヌッタラ・ニカーヤ4.41では,五蘊の生滅の理解が漏の滅に貢献すると述べられており,サンユッタ・ニカーヤ22,95では,
離脱と解脱を引き起こすのは空で中身がなく、核心や実質を欠いている蘊の理解であるとされている。
これらの文章では,悟りや解脱智を得るために禅定を必要とするとは述べられていない。
例えば前述のアンヌッタラ・ニカーヤ4.41では,
禅の修習は今生における快適な状態のみに貢献するとしか述べられておらず,律では,智慧と解脱は本質的に説法を聞くことで引き起こされるものである。
ハリヴァルマンの成実論では,解脱智は四聖諦の完全なる理解により達成されるという毘婆沙師の見解は拒まれている。
四聖諦は世俗諦に言及するものであり,その洞察はまだ解脱智ではなく,
すべての世俗的領域からの離脱すなわち涅槃の体験やその洞察によってのみ解脱智に至ることになるとされている。
あいつの言ってるのがそれです。
対して有所得有所悟を目指すのがあいつのそれ。
両方とも論外、外道の禅です。
それでは、求めるでもなくそのままでもないとは?
「心は万境に随って転ず、転ずる処実に能く幽なり。流れに随って性を認得せば、喜も無く亦憂も無し(マヌラ尊者の偈)」という事です。
或いは「始随芳草去 又遂落花回(はじめはほうそうにしたがってさり、またらっかをおうてかえる)(長沙景岑)」という事です。
「自己を運びて」って事ではないんです。
……鳴らし物に従って、粛々と摂心等で工夫する事です。
第二章
物質と神はひとつだ
https://i.imgur.com/Y7YELjV.jpg
https://i.imgur.com/ezeT751.jpg
暗闇があるって言ってるね釈尊は
明かりの無い暗闇は
無明のことですね
マナ識の恒・審 思量と言われる自動思考のことだと思うね
これが恒(ツネ)に、審(ツマビラカニ)想念、思考している無明の正体で
ここから
生活作用が生じてくる
釈尊が悟った直後に、縁起を悟るんですが
中村元の本には
無明→生活作用→認識作用
となっていて
無明から生活作用が始まっていることになっています
第2の脳とも言われていて
思考しない意識の大きな部分を占めているのは事実
最近も科学で言われている、NHKのスペシャル番組で言ってました
左脳、右脳、腸脳
右脳も文字言語が無いが、映像言語があって、妄像を見せてくる
しかし、腸ー腹の言語はホルモン
多数のホルモン分泌物で大脳と会話してやり取りをしているようですよ
つまり、腹の丹田は、文字映像を持ち合わせていない
脳なんだと思います
<サティーの考え>
<A存在論>
①主体=見分=実存
②客体=相分=実在
<B認識論>
①主観=七識
②客観=七識
※補足解説
論点になるのは客体は「直接認識できない」
カントの物自体に関する議論すかね
つまり、B②の客観は客体を直接観察し得ない
直接観察し得るのはA①の主体のみである
ーーーーー
A①の主体がA②の客体を出会う時、
感覚器官の知覚が脳処理を通じて表象(B②の客観)とそれに付随する感情の働きや固定観念(B①の主観)を伴って現れる
958 神も仏も名無しさん sage 2024/03/21(木) 21:45:52.37 ID:lehaB
境は能に由て境たり
能は境に由て能たり
両段を知らんと欲せば元是れ一空
一空両に同じく斉しく万象を含む
精粗を見ず寧ぞ偏党あらんや」
『信心銘』
境(客体)は能(主体)と関係してある(別々にあるわけではない)
それら二つはもともと「ひとつ」(一空)
この「ひとつ」に一切の万象は含まれてる
958 神も仏も名無しさん sage 2024/03/21(木) 21:45:52.37 ID:lehaB
境は能に由て境たり
能は境に由て能たり
両段を知らんと欲せば元是れ一空
一空両に同じく斉しく万象を含む
精粗を見ず寧ぞ偏党あらんや」
『信心銘』
●境(客体)は能(主体)と関係してある(別々にあるわけではない)
それら二つはもともと「ひとつ」(一空)
この「ひとつ」に一切の万象は含まれてる
そこに、精妙なもの粗大なものという偏りはない
(1)意識的思考と自動的妄想念の両方が
停止して、想念が無くなり、心が無であったからといって、其所は未だ覚った処では無いようです
(2)只在る、無位に在る、我在り、のような
この様な、唯、識として無心が在るという処へ生じていかない限り
この、自覚の状態には、直ぐに至る訳ではないのです
この、自覚は、成長しなければならず
これが明確に成長し存在されていないと
(1)大慧禅師の一回目の悟りの如く
坐断して終わり、自在性の無い、寂滅にあるだけの、身心の停止した三昧になります
しかし、(2)の自覚を得ると
寂滅しても、止に非ず、語るも自由自在な状態に在れます
(2)大慧禅師の二回目の大悟が此れです
ここに至って、大慧禅師は自由自在に機敏に対応し、語れるようになった訳です
想念の無の状態と、無心とでは、違いがある、といえます
しかし、夢という妄想念が出てくる
夢と覚醒時の思考、妄想念は同じで、内側の世界
方便としてその中間を中(識)とする
1外界(対境) ←中(識)→2夢、思考、妄想
この1と2から離れたのが、永遠の今であり我であり、万物と一如でもある、識そのものだと言うこと
● ≫無いものを、どうにかする必要があるわけがないので、そういう、無一物、無我を知るから解決です。。
要は、我意外との自己同一化が問題であって
それが解消されれば、元からという処
それが識
それに対しての批判的検証から構築された≪大慧・始覚(修)≫的な禅の止揚でしょ?
● だから、「 修・証 一等 」って言ってるんです。
まぁ、馬祖禅も北宗禅へのアンチテーゼなんだけど。
ーーーーー
『 ほく‐しゅう【北宗】
①禅宗で、五祖弘忍の弟子神秀を祖とする一派。 中国の北方で行なわれた。 長い修練の後、次第に悟りの境地に至るという主義で、日本へは、道璿(どうせん)が伝えた。 北禅。』
ーーーーー
● 「否定仏教」じゃないけど、禅の歴史ってそういうもんでしょ。
で道元禅も修証一等で 覚体験 が無くなってしまった訳です。
● 要するに、理では仏でも事では凡夫だって事なんです。
この矛盾を発展的に解消しようというのが禅思想史なのかもしれません。
そこに、円環的修道論(色即是空→空即是色)や修証一等論がとなえられたって事でしょう。
1≫自分も、他人も、もともと無いから解決なんですよ。。
2≫無いものを、どうにかする必要があるわけがないので、そういう、無一物、無我を知るから解決です。。
3≫無我を知るから、悟った我も、ない、ということです。。
4≫自慢できるものもあるはずがない。。
ーーーーー
1≫自分も、他人も、もともと無いから解決なんですよ。。
元から無いでは、理解するに掴み所がなくて、誰も分かりません
方便として、【識】を設定しなければ、分からないでしょう、識という語は、最後に取り除けば良い
1≫自分も、他人も、
自他の別は、1)外の世界に含まれる、一切合切の全てと、2)内側の思考と妄想念の全て
この1)と2)を≪他≫として、
自分、自己、我の≪自≫とは、知覚し認識する本体である【識】です
意識の【意】とは、この識に方向性を持たせる【意思】のこと、2つで意識とします
方向性を持つと、自意識となります、それが外界へ向かうと、世界を視ますし、内界へ向かえば思考と妄想念を視ます
そして
もともと自他が無いというのは、識そのものであると言うことですが
識は普通日常では、必ずや対象、対境と共にあり、決して離れることが無いのですが
例えば
音や映像や匂いなどの五感が乗り物となって、【識】へ達した瞬間に
この我、自己である【識】そのものとして、≪覚醒≫することがあります
この覚醒を、【見性】と言い、自己の性を見ることなのです
自己の性が、只唯一の≪識≫なのです
この識そのもので在るとき、それを自己を悟ったとし、【悟り】と言うのだと呉もいます
我というのは表象的な分節された自己の事です。
対して渠というのは未分節です。
その分節された自己(我)を離れて渠(本来の自己)はありませんが、それ(我)を本来の自己(渠)とするのは見誤るって事です。
切忌随他覚
迢迢与我疎
我今独自往
処処得逢渠
渠今正是我
我今不是渠
応須与摩会
方得契如如
渠は今まさしく我である
しかし我は今渠ではない
そうある通りです。
師掃地次、叫寺主問師、「何得自駈駈」
(師地を掃く次、叫寺主、師に問う、「何ぞ自ら駈駈たるを得ん」)
師日、「有一人不駈駈」。
(師曰く、一人有りて駈駈たらず。)
寺主日、「何処有第二月」
(寺主曰く、「何処にか第二月有る」)
師堅起掃等、「這个是第幾月」
(師、掃箒を堅起して云く「這个は是れ第幾月ぞ」)
寺主無対。
( 寺主無対。)
(同じく「祖堂集」より)
そして馬祖禅の特徴は
1.即心是仏
(自らの心がそのまま仏に他ならない)
2.作用即性
(日常の感覚や動作・行為がそのまま仏のはたらき)
なのですが、とすると当然に
>こうした考え方は、頭でこしらえた観念に呪縛されている人に対しては、新鮮な解放の力となったでしょう。
>しかし、このありのままが、最初から所与の正解となってしまったら、人々がいともかんたんに自堕落で安逸な現実肯定に流れてしまうであろうことは想像に難くありません。
>そのため、馬祖の弟子たちの間からも、こういう考えに対する違和感や懐疑、さらには批判や超克の姿勢が出てくるようになりました。
>(『禅思想史講義(小川隆)』)
となり、そこで、
>さきに結論を言ってしまえば、馬祖系の禅は、現実態の自身がそのまま本来性の現われだと考えたのに対し、石頭系の禅は、現実態の自己とは別次元に本来性の自己を見出そうとしました。
>ありのままの自己をそのまま育定するか、ありのままを超えたところに本来の自己をみようとするかーこの二本の対立軸の間の緊張関係が、唐代禅の基本的な構図を形づくってゆくのでした。
>(同書より)
となる訳です。
そこで初めて「渠」と「我」の問題として提示されたんですけどね。
八つの否定があってこそ真の空が得られる
真空妙有
真の空の中に真の存在がある
と龍樹が主張したらしい
2.作用即性(日常の感覚や動作・行為がそのまま仏のはたらき)
について、確かにそうなのですが、上記のような問題点も抱えているわけです。
そこで、そこに至るためには一旦一切を空じなければならないという ”円環的修道論” が説かれる訳です。
「色即是空・空即是色」という般若心経の句を仮りて説明されますけどね。
>栖雲居士 ◆dqam8SqGUPdm 2024/01/17(水) 09:13:30.82
中論
24-8
a.二つの真理(二諦)に依って諸仏の説法は行なわれる。世間一般の理解としての真理(世俗諦)と最高の真実としての真理(勝義諦)である。
b.二つの真理(二諦)に依存して、もろもろのブッダは法(教え)を説いた。(その二つの真理とは)世俗の覆われた立場での真理と究極の立場から見た真理とである。
c.諸仏は二諦(という二種の異なるレベルの真実)に依って教え(法)を説くのである。すなわち、世間の常識としての真実(世間世俗諦)と究極的な意味での真実(勝義諦)とである。
24-9
a.これら二種の真理の区別を知らない人々はブッダの教えにある甚深の実義を知らない。
b.この二つの真理の区別を知らない人々は、ブッダの教えにおける深遠な真理を理解しないのである。
c.その二諦の区別を知らない人々は、(諸)仏の深遠なる教えの真実を知らない。
>だから、おれの言ってることと同じ。。w
違いますよwwww
「識によって別れた」なんて瑜伽行唯識学派は云ってません。
いい怪訝なことを吹聴するのはやめましょうね❤
分析は「識の所変」によってです。
↓
>そして、そうした仮有としての我や法が、さまざまなスガタで展開しているー、それが私たちが生活する世界だという指摘が、第一頌2の「種種の相、転ずることあり」です。
第一頌3の「彼」は、それを承けたもので、「識の所変」によるのだと説かれています。
>この「識の所変」というのは、認識の主体(これを自体分といいます)が、見るもの(見分)と見られるもの(相分)とに変化した、その見られるもの(相分)のことです。
つまり、認識対象の事です。
>認識対象のことを「境」ともいいますが、その境は、主観を離れて客体として実在するものではなく、心の変化によって出てきたもの(所変の境)だと考えるのです。
(『唯識とはなにか 「唯識三十頌」を読む』多川俊映 より)
>有種種相轉 種種の相転すること有り
>彼依識所變 彼れは識所変に依る
>此能變唯三 此れが能変は唯三のみなり
>(『唯識三十頌』より)
「思い込み」というのは第六識(意識)にて起こる心理作用です。
その思い込みが起きる第六識(意識)は、「識所変」すなわち「能変」によって生じるんです。
どうして意識の思い込みで起きると云うのでしょうかwww
順番が逆ですよ、ロンさんwww
こんな初歩的な勘違をしているレベルで唯識を騙って恥かいてwww
プププッ ( ´,_ゝ`) www
大いなる未来ーそれは祈りではなく瞑想だ
https://i.imgur.com/HChZzJG.jpg
https://i.imgur.com/cOzzXAa.jpg
仏教で「世界」って云う時、世は時間を界は空間を云うんだけど、相依性は空間的な相互関係、此縁性とは時間的な相互関係を云うって先ずは理解しとけ、
なんだか訳がわからない事を言ってるけど、基本的に分裂と云うのは識体の二分(主体と客体)の事をいうんじゃないのかなぁ?
認識の後追いは別に分裂じゃないでしょ?
無分別の基本は言語化されてない状態なんだから、そういう無認識の認識(言語化されないで六識が作用している状態)は誰もがしてるでしょ?
自分の心を見るって、つまり境を見ているって事でしょ?
全ては心の表れなんだから。
或いは、言語化されてなかった六識のはたらきの状態の言語化が「無心」って事でしょ?
言語化されたら「ムー」、また言語化されたら「ムー」……
私はそうしてましたけどね。
悟は心路の絶することを窮めんことを要す。
祖関透らず、心路絶せずんば、尽く是れ依草附木の精霊ならん。
……
虚無の会を作すこと莫かれ、有無の会を作すこと莫かれ。
箇の熱鉄丸を呑了するが如くに相似て、吐けども又た吐き出ださず、従前の悪知悪覚を蕩尽し、久久に純熟して、自然に内外打成一片なり。
啞子の夢を得るが如く、只だ自知することを許す。
驀然として打発せば、天を驚かし地を動じて、関将軍の大刀を奪い得て手に入るるが如く、仏に逢うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺し、生死岸頭に於いて大自在を得、六道四生の中に向いて、遊戯三昧ならん。
(無門関より)
校訂テキスト及び翻訳研究?
http://www.jits-ryukoku.net/data/23/ick23_kitayama.pdf
3 『摂大乗論』に お け る 記 述 (長尾 a よ りの 引用 )
3 ・17 (伝 弥 勒作 『分別瑜 伽論 』 内容不 詳 か らの 引 用 ) 下 90
〔菩薩は〕このように内側に心を安住するのである。〔そこで彼は〕見られるもの(所取)は非存在なるこ とをよく理解することによって、それ故に見る者(能取)も存在しないと理解し、然るのちに認識を越えたもの〔すなわち真如〕に触れる。
禅定においては、所取(認識対象)が非存在なるが故に能取(認識主体ただしこの grahakaは、縁生依他性すなわち識別作用を含むと理解することも可能)も非存在なること(能取がなければ識別作用もないこととなろう)を悟って、真如に触れるとする 。
心の他には〔何も見らるべきものが〕存在しないことを智慧によって知ってから、それ故に〔見るものである 〕心も存在しないことが理解される。かくして知者は二つのもの(認識対象と心)が存在しないことを知って 、その〔二つの〕ものを離脱した法界に立つ(MSAVI -8 の 引 用)。
島村 大心 研究論文
https://www.jstage.jst.go.jp/article/chisangakuho/54/0/54_KJ00009324832/_pdf/-char/ja
島村 大心
https://www.jstage.jst.go.jp/article/chisangakuho/55/0/55_KJ00009307542/_article/-char/ja/
映像が出て来るのは、深いよね、そして何時でも消える処まで、自由に行けるなら、禅定で言うと第二禅定以上でしょ
ここからは、感覚で喜悦憂いとか楽苦が消えていく、最後は呼吸が消えれば、第四禅定ですかね
俺の場合は、日常で閉眼になるとほぼほぼ即無妄想で映像も出ては来ないので、直ぐに無分別状態に入っているかなってところ
こうなるでしょ
『自己をわするるというは、万法に証せらるるなり。
万法に証せらるるというは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり』
一如のことですよね
それと、森羅万象が私に悟りを知らせてくれることが起きます
東方の三賢者がやって来て、称賛してくれる
それなりの見る眼を持った賢者が認めてくれたり称賛してきたりすることが、必ず何回も起こる
そして、禅やヨガやで言われる悟る時の様子が、実際に何種類か起こる
なので、間違えようが無くなるんですよね
しかし、自分の中には、自分が悟ったとかの思いは欠片(カケラ)も無い
全て外から知らせが来て、それを知らしめてくれます
其れが万法に証せらるるの1つの解釈と思いますね
心の要素・・・・・原因体とかヨーガでは呼びます。アーラヤ識と言われるのがここね。
イメージの要素・・・・微細体
具体的な粗雑の要素・・・・肉体
身口意の三界ね。仏教ではこの三界をこのように呼びますよ。
無色界・・・夢も見ない気絶している時の意識。アーラヤね。
色界・・・・夢の中
欲界・・・・現実の世界
それぞれの覚醒状態
無色界・・・・解脱の意識状態、ここら辺からサマディ。凡夫は意識がありません。
色界・・・・・明晰夢
欲界・・・・・普段の今の意識
粗雑なこの世界でいくら(わたしは絶対的な神である)と思っても無駄です。
(わたしはもう、既にブッダである)と言っても無駄ね。天台本覚思想のことです。
それは単にピノキオが(僕は人間だ)と言ってるのと同じね。
ーーー
ですって
彼女は5チャンとtalkを閲覧していて、多分にそれらにインスパイアされて書いてるものが有るっぽい
上記なんかも、法介さんのスレ見ていて、言ってるのかと思うほど
これに対して
粗雑なこの世界でいくら(わたしは絶対的な神である)と思っても無駄です。
(わたしはもう、既にブッダである)と言っても無駄ね。天台本覚思想のことです。 ↓
それは単にピノキオが(僕は人間だ)と言ってるのと同じね。
この3界の要素全てにおいて書き換えが完了しなければ成りません。
ーー
ですって
この3界の要素全てにおいて書き換えが完了しなければ成りません。
いいでしょうか?
だから「百万遍」という概念があるのね。
どういうこと?
一つの瞑想や、或るマントラがその人の三界に影響を与える目安が「百万遍の修習が必要」だと言っています。
まあ、百万遍はちょっと大袈裟かも知れませんよ。
求聞持法などは百万遍だよね。
そんで、もう眠くて仕方がない!と言うときほど潜在意識が出てきていますので、その時の修行の効果は数倍あると考えてください。
では、なんで眠くなるの?
ここに壁が形成されているのね。
本心の欲望 vs 理性・良識・他人の評価を気にする自意識
幼児から社会性を獲得する意識の変化に伴ってこの壁が形成されます。
ーーーー
転載終了
壁と云うのは
左脳と前頭葉の見当識と識(本心)が自己同一化して
本心の9割方がその左脳と前頭葉に固定されるのでは?と思います
結果として、顕在意識下の意識は、潜在下の意識になって、日常では意識出来なくなって行くことになりますね
加行無分別智は加行位において起こす無分別智で、いまだ煩悩を有した有漏の智慧をいう。
通達位において起こす無分別智で、まさに真理(四諦・真如)を初めて見る、煩悩がない無漏の智慧をいう。
● 後得無分別智とは
根本無分別智の後に得る無分別智で、真理をさとった後に再び世間にもどり世事のけがれに染まることなく人びとの救済のために努力する菩薩の智慧をいう。
この後得無分別智は、十地からなる修習位において起こし、
十地それぞれの地においてそれぞれに属する煩悩を断じて心を深層からますます清らかにしていく無分別智である。
むふんべつち
無分別心むふんべつしん、真智しんち、根本智こんぽんちともいう。真如を把握する智慧。人間は言葉によってモノ/コトを分別し概念化するのだが、そのような分別知によっては捉えることのできないさとりの智慧を無分別智という。
無分別智 むふんべつち
知るものと知られるものが一つであるような智慧のこと。 ものごとを二元的、対立的に理解していこうとする分別智を超えて、生死一如、自他不二と直覚していく智慧。このように万物一如とさとるこの無分別智のことを根本智とも実智ともいい、またそれを般若(プラジュニャー)ともいう。このような無分別智の境地は、分別を本質とした言葉を超えているから不思議といわれる。
しかし無分別智によって生死、愛憎を超えたものは、そのさとりの境地を人々に伝え導くために言葉で表現し教法として示していく。これを後得智(ごとくち)とも権智(ごんち)ともいう。 なお根本智に至る前段階を加行無分別といい、加行・根本・後得の三智とすることもある。(梯實圓『歎異抄』p.105より)→加行は…
無分別智(むふんべっち)
大乗仏教の根本的立場を示す重要な語で、通常の主客対立にとらわれた見方(分別)を超えた智慧(ちえ)をいう。
サンスクリット語ニルビカルパ・ジュニャーナnirvikalpaka-jñānaの訳。
大乗仏教の根本経典である『般若経(はんにゃきょう)』は、菩薩(ぼさつ)の般若波羅蜜(はんにゃはらみつ)の実践として、
言語習慣に拘泥した【主客対立の分別】を徹底的に否定したが、
この否定に基づく智慧の立場を術語化した表現が無分別智である。
したがって、無分別智そのものは言語表現を超えた境地であるが、
唯識(ゆいしき)説ではこれを
【根本(こんぽん)無分別智】とよび、この智を、その前段階である、
【加行(けぎょう)無分別智】や、当の【根本無分別智】の体験に基づいてふたたび言語表現の世界へ戻ってくる
【後得(ごとく)無分別智】の二つと区別しながらも、
これら三様のあり方をともに無分別智として認めている。無分別智に基づく仏教的考え方は、近代になって西田幾多郎(きたろう)の哲学などに大きな影響を与えたことが指摘されている。[袴谷憲昭]
nirvikalpa-jñāna
無分別心(むふんべつしん)とも言う。
正しく真如を体会する智慧をいう。
【 真 如 】は一切の相を離れており、分別することのできないものであるから、
これによって【分別】と言う精神作用では【真如の体性】を会得することができない。
一切の情念の分別を離れた【無相】の真実の智慧によってのみ会得されるものである。
● もし、人間が体会した智が、その智を起したものと異ならなくて、
【平等が平等に生起】したものであるならば、これを【無分別智】と名づける。
〔摂大乗論12 T31-364b〕
● 無分別智は、
【一切の有為無為等の諸法】の
【真如を縁じて 通じて 一境と為し】
【此の智】と【境】と復た【分別なし】。
〔梁訳摂大乗論釈11〕
● 無分別心は、体と相応するものである。
〔大乗起信論T32-579a〕
分別しない智慧。なんらの認識対象もない心のありようをいう。
ある行為を成立せしめる(1)「主体」と「客体」と
その両者の間に展開する(2)「行為」あるいは行為に関係する(3)「物」との3つを分けない無分別智を
≪ 三 輪 清 浄 の 無 分 別 智 ≫という。
〈唯識〉ではこの無分別の智慧を火にたとえて無分別智火といい、この火によって深層の【 阿 頼 耶 識 】のなかにある【汚れた種子】が焼かれて、
深層から心が浄化されると説く。
これには1加行無分別智と2根本無分別智と3後得無分別智との3種がある。
(1)加行無分別智は加行位において起こす無分別智で、いまだ煩悩を有した有漏の智慧をいう。
(2)根本無分別智とは通達位において起こす無分別智で、まさに真理(四諦・真如)を初めて見る、煩悩がない無漏の智慧をいう。
(3)後得無分別智とは根本無分別智の後に得る無分別智で、真理をさとった後に再び世間にもどり世事のけがれに染まることなく人びとの救済のために努力する菩薩の智慧をいう。
この後得無分別智は、十地からなる修習位において起こし、十地それぞれの地においてそれぞれに属する煩悩を断じて心を深層からますます清らかにしていく無分別智である。
囁大乗論を看ると、初地から第五地までの智慧を、加行無分別智といい、
第七地から第十地までの智慧を、後得無分別智(無分別後智)といい、
第六地の智慧が、(根本)
無分別智である。
https://butudou.blog.jp/archives/17581537.html
● 仏性の道理は、仏性は成仏よりさきに具足せるにあらず、成仏よりのちに具足するなり。
≪仏性かならず成仏と同参するなり。≫
この道理よくよく参究功夫すべし。
修せざるにはあらわれず、証せざるにはうることなし。
なのだと。
修証一等だって云うんです。
証は解決に他ならないから、修行と解決は一等って事だと思うんです。
>>289
言ってるよ😟
修は修行。証は証り、真実の証明です。
修行の結果として証を得る、普通こう考えられています。
ところが道元禅師は、「修証一等」=修と証は一つであると示され、その修と証の関係を、本証・妙修と示されます。
https://www.soto-kinki.net/zenwa/hotoke07.php
したがって「修の証なれば証にきはなく、証の修なれば修にはじめなく」「妙修を放下すれば本証手の中にみてり、本証を出身すれば妙修通身におこなはる」のであるから、むしろ「修のほかに証をまつおもひなかれ」と教えることになる。
(高崎 直道 他1名 『仏教の思想 11 古仏のまねび<道元> 』(角川文庫ソフィア 116))
つまり、修行しているという事実が存在することによって、自分が仏であるというもとから持っている属性が働く、仏である自己を認識し続けることができるというのである。
このように、修行していること自体を仏である状態の維持と考えるゆえ、「修」と「証」とが一体となる。
それが、「修証一等」である。
道元は、これによって、自分自身が本来的に仏であることを前提としながら、そこに積極的な修行の必要性を位置づけることを可能にしたのである。
(石井 清純 『道元―仏であるがゆえに坐す― (構築された仏教思想)』)
きかずや祖師のいはく、「修証はすなはちなきにあらず、染汚(ゼンナ)することはえじ。」又いはく、「道をみるもの、道を修す」と。しるべし、得道のなかに修行すべしといふことを。」
祖師のこの言葉を聞いたことはありませんか、「修行と悟りは、ないことはないが、それを汚してはならない。」と。また「道を見るものは道を修する。」と。知ることです、悟りを得た中で修行しなさいということです。」
https://www.dogen-shobogenzo.com/bendowa13.html
それ修証(シュショウ)はひとつにあらずとおもへる、すなはち外道(ゲドウ)の見(ケン)なり。仏法には、修証これ一等なり。いまも証上の修なるゆゑに、初心の辨道すなはち本証の全体なり。
そもそも修行と悟りは別のもので、一つではないと思うのは、外道の考えです。仏法では、修行と悟りは同一なのです。この坐禅も悟りの上の修行なので、初心の修行は悟りの全体なのです。
かるがゆゑに、修行の用心をさづくるにも、修のほかに証をまつおもひなかれとをしふ。直指(ジキシ)の本証なるがゆゑなるべし。すでに修の証なれば、証にきはなく、証の修なれば、修にはじめなし。
ですから、修行の用心を授ける時にも、修行のほかに悟りを待つ思いを持ってはならないと教えるのです。修行は悟りを直ちに指し示すものだからです。既に修行そのものが悟りなので、悟りに終わりは無く、悟りは修行そのものなので、修行に始めは無いのです。
・・・だから、もとから解決している、という大前提、証が先にあるんです。。
だから、修証一致になる。。
だから、もとから解決ってわからんと、観念で、一致している、と思い込んでいるだけ、となる。。
ーーー
❓?
一般には、「自己はもとから仏である」という前提に立てば、「仏であるから修行はいらない」ということになる。
しかし、道元は、逆に、「仏であるからこそ修行しなければならない」と主張する。
それによって実践修行の必要性を主張するのである。
むろん、この主張の説明には、かなり複雑な論理を必要とする。
だからこそ、道元は、仮名『正法眼蔵』をはじめ、多くの言葉を費やしてその思いを表現し続けたといえよう。
(石井 清純 『道元―仏であるがゆえに坐す― (構築された仏教思想)』)
その「灯り(悟り)」は、ダイナモを回すという「修行」を継続しなければ消えてしまう、
自分が仏であるという状態を維持し続けるためには、
ダイナモを回すという、「継続的実践」が必要不可分であり、
その永続的実践こそが自己実現、すなわち「悟り」であるとする、それが道元禅なのである。
(石井 清純 『道元―仏であるがゆえに坐す― (構築された仏教思想)』)
つまり、完成された自己とは、すでに人が暮らすのに充分な家具の揃った部屋のようなもの、ただし灯りが点いていなければ真っ暗で使えない。
そこに「気づき」という灯りを点けてあげれば、すぐさま部屋(仏)として機能するということになる。
しかし、これでは、灯りが点いた後の修行の継続性は見えてこない。
道元禅では、そこを少し変えて、その部屋の灯りが、回し続けなければ消えてしまうダイナモライト(ダイナモ=発電機を回して起こした電気で点灯させたライト。
自転車のライトなど)だったということにするのである。
((石井 清純 『道元―仏であるがゆえに坐す― (構築された仏教思想)』)
つまり、修行しているという事実が存在することによって、自分が仏であるというもとから持っている属性が働く、仏である自己を認識し続けることができるというのである。
このように、修行していること自体を仏である状態の維持と考えるゆえ、「修」と「証」とが一体となる。
それが、「修証一等」である。
道元は、これによって、自分自身が本来的に仏であることを前提としながら、そこに積極的な修行の必要性を位置づけることを可能にしたのである。
これを喩えで表現すると、まず、唐代禅の「悟り」は、「家具の揃った部屋の灯りを点けること」となるであろう。
つまり、完成された自己とは、すでに人が暮らすのに充分な家具の揃った部屋のようなもの、ただし灯りが点いていなければ真っ暗で使えない。
そこに「気づき」という灯りを点けてあげれば、すぐさま部屋(仏)として機能するということになる。
しかし、これでは、灯りが点いた後の修行の継続性は見えてこない。
道元禅では、そこを少し変えて、その部屋の灯りが、回し続けなければ消えてしまうダイナモライト(ダイナモ=発電機を回して起こした電気で点灯させたライト。自転車のライトなど)だったということにするのである。
つまり、ひとたび灯りが点いて「仏であること」を認識して(悟って)も、その「灯り(悟り)」は、ダイナモを回すという「修行」を継続しなければ消えてしまう、
自分が仏であるという状態を維持し続けるためには、ダイナモを回すという、「継続的実践」が必要不可分であり、
その永続的実践こそが自己実現、すなわち「悟り」であるとする、それが道元禅なのである。
(石井 清純 『道元―仏であるがゆえに坐す― (構築された仏教思想)』)
違う。
「妙修」と言っても、それは坐禅の中で「放下」されて「本証」のみとなり、
本証のみであれば本証もなく、「妙修」のみとなって全身で坐禅が行じられる。
本証と妙修は二つではなく一つですから、
本証と言えば妙修は隠れて本証のみ、
妙修のときは本証は隠れて妙修のみ、
という道元禅師だけの深い表現がなされています。このことを念頭において、この言葉を味わってください。
(https://www.soto-kinki.net/zenwa/hotoke07.php)
佛道を修行する者は先づ須く佛道を信ずべし。
佛道を信ずる者は、須く自己本(もと)道の中に在りて、迷惑せず、顛倒せず、
増減なく、誤謬なしといふことを信ずべし。
是の如くの信を生じ、是の如くの道を明め、依て之を行ず、乃ち學道の本基なり。
其の風規たる意根を坐斷して、知解の路に向はざらしむ。
是れ乃ち初心を誘引する方便なり。
其の後、身心を脱落し、迷悟を放下す、第二の樣子なり。
大凡、自己佛道に在りと信ずる人、最も得難きなり。
若し正しく道に在りと信ぜば、自然に六道の通塞を了じ、迷悟の職由を知らん。
人試みに意根を坐斷せよ。
十が八九は忽然として見道することを得ん。
若しかくの如くならば、三世の諸仏、甚によってか更に発心して菩提を求むるや。
(永平開山行状建撕記)
世間の人情を捨てれば、そのまま佛道にはいるのである
自分の学問は多年の功を積んだのである、どうして容易に捨てることができようかと、依然として心中深く思っている、この心をとりもなおさず迷いの世界にしばりつけられた心というのである
「法華経見宝塔品第十一」に詳しく述べられております。
http://james.3zoku.com/pundarika/pundarika11.html 現代語訳
1、資糧(しりょう)位
2、加行(けぎょう)位
3、通達(つうだつ)位
4、修習(しゅじゅう)位
5、究竟(くきょう)位
の五段です。成唯識論の修行体系は、
五位(五道)と菩薩の十地を
基礎としています。
四土は不二であって法身の一仏の身に納まるのである。
十界を身とするのが法身であり、十界を心とするのが報身であり、十界を形とするのが応身である。
十界の外に仏はなく、仏の外に十界はないのであって、依正不二であり身土不二なのである。
十方法界が一仏の身体であるから寂光土というのであり、このゆえに無相の極理というのである。
生滅無常の相を離れているゆえに無相というのであり、法性の淵底・玄宗の極地であるゆえに極理というのである。この無相の極理である寂光の極楽は、一切有情の心性のなかにあって清浄で煩悩を離れた境界である。
これを名づけて妙法の心蓮台というのである。このゆえに心の外に別の法はないというのであり、これを知るのを一切法は皆これ仏法であると通達し解了するというのである。
「これを名づけて妙法の心蓮台というのである。このゆえに心の外に別の法はないというのであり、これを知るのを一切法は皆これ仏法であると通達し解了するというのである。」
生と死との二つの理は生死の夢の理であり、妄想であり、転倒した見方である。
本覚の寤の悟りをもって自身の心性をただしてみれば、生ずるという始めがないので、死ぬという終わりもないのである。
とすれば既に生死を離れた心法ではないか。
劫火にも焼けないし水災にも朽ちない。
刀剣にも切られず、弓矢にも射られない。
芥子の中に入れても芥子も広がらないし、心法も縮まらない。
虚空のなかに満たしても虚空も広すぎることはないし、心法が狭いということもない。
ゆえに心の外に善はなく、悪もない。この善と悪とを離れるのを無記というのである。
善と悪と無記と、この外には心はなく、心の外には法はないのである。
このゆえに、善悪も浄穢も凡夫と聖人も天地も大小も東西も南北も四維も上下も、すべて言語の道は断え、心行も所滅するのである。
心で分別した思いを言い表すのが言語であるから、心の外には分別も無分別もない。
言葉というのは心の思いを響かせて声に表したものをいうのである。
凡夫は自身の心に迷ってそれを知らず悟らないのである。
仏はこの心の働きを悟りあらわして、神通と名づけたのである。
神通とは神が一切の法に通じて礙りがないことをいうのである。
この自在の神通は一切の有情の心に具わっている。
ゆえに狐や狸がそれぞれに通力をあらわすことは皆、心の神を分々に悟っているからである。
一代聖教とはこのことを説いたのであり、これを八万四千の法蔵というのである。
これは皆ことごとく釈尊一人の身中の法門である。
したがって八万四千の法蔵は我が身一人の日記の文書なのである。
この八万法蔵を我が心のなかに孕み、懐き持っているのである。
それなのに我が身中の心で、仏と法と浄土とを我が身より外にあると思い、外に願い求めていくのを迷いというのである。
この心が善悪の縁に値って、善悪の法を作り出しているのである。
華厳経には「優れた画家が種々の五陰を描きあらわすように、一切世間のなかでの法はすべて心が作り出したものである。
この心のように仏もまた同じであり、仏のように衆生もまた同じである。
三界はただ一心からあらわれたものであり、心の外には別の法はないのである。
心と仏と衆生と、この三つは差別はないのである」と述べている。
無相・不相の一法とは一切衆生の一念の心のことである。
法華文句にこの経を釈して「生じ滅するという無常の相がないことを無相といい、二乗の有余涅槃・無余涅槃の二つの涅槃の相を離れていることを不相というのである」と述べている。
この心の不思議を説き明かすことを経論の肝要といい、
≪この心を悟り知った人を名づけて如来というのである。≫
これを悟り知ってみると、十界は我が身であり我が心であり我が形である。
それは本覚の如来は我が身心であるからである。
これを知らない時を名づけて無明とするのである。
無明とは、明らかなること無しと読む。
我が心の、ありさまを、明らかに覚らないことである。
これを悟り知る時を、名づけて法性という。
ゆえに、無明と法性とは一心の異名である。
名と言とは二つであるけれども心はただ一つの心なのである。
このゆえに、無明を断じてはならないのである。
無明である夢の心の、心を、断じてしまえば寤の心をも、失ってしまうからである。
総じて円教の意は、一毫の惑をも、断じないのである。
ゆえに一切の法は皆これ仏法であるというのである。
https://livedoor.blogimg.jp/butudou/imgs/e/a/eadda475.jpg
一旦まとめておきます。
<北宗禅>
(1)各人の内面には「仏」としての本質ー仏性ーがもとから完善な形で実在している。
(2)しかし、現実には、妄念・頻悩に覆いかくされて、それが見えなくなっている。
(3)したがって、坐禅によってその妄念・煩悩を除去してゆけば、やがて仏性が顕われ出てくる。
<南宗禅>
(1)各人に具わる仏としての本性は、虚空のごとく無限定・無分節なものである。
(2)迷いも悟りも、その虚空の上を去来する影像にすぎない。禅定によって迷妄を排除し清浄を求めようとすることは、本来の無限定・無分節を損なう愚行にほかならない。
(3)虚空のごとき本性には本来的に智慧が具わっており、それによって無限定・無分節なる自らの本来相をありありと自覚するのである。
片眼凡夫(色即是空)→右眼、左脳
片眼仏(空即是色) →左眼、右脳
の「色即是空 空即是色」の
後得智→左右眼、左右脳
昔中国に香厳(きょうげん)という僧がいました。
ある日,庭の掃除をしていたときのことです、
自分の掃いた石ころが、竹にあたって音を発した、
その時,道を悟った。
竹の声を聞いて道を悟った「香厳撃竹の話」として、今に伝わっています。
ーーー
今日、同じことが起こった
イスに座って瞑目してて、何かの想いがフワッとしてて
遠くで、車の電子キーを押す音が
ピーッ!ってとても小さな音で鳴った
その途端に、想いがフッ!っと消えたと思ったら
無想の今ここの処に、瞬時に立ち返った
正に≪ 一 撃 忘 所 知 ≫であった
過去にも記憶にあるだけで2回一撃忘所知は有ったけど
最初のは
歩いていて、祭りばやしの笛の音がピーヒャラ♪って聴こえた瞬間、正に坐断されて何分かの寂滅中、自己忘失して、立ち尽くしていたことがあった
2回目は、自販機で珈琲を買ったとき
ボタンを押した瞬間に缶が落ちてくるゴロゴロ!って音がしたかと思ったら
この今に、一切の障蓋問題は無い!という
電鳴のような洞察が、瞬時に炸裂して、大きく可!可!可!と大笑いしたと思ったら
全ての認識がシャットされて、自分が居なくなってしまい、気が付いたら自販機から数十メートル先の公園に立ち尽くしていた
そこで自分と言う感覚が戻ってきていた
それに比べりゃ今日のは小さな一撃忘所知だった
でも以前のように坐断されたりはせず、自由自在に在れている
あるいははじめ終わり澄みわたりて、善悪の念もおこらず、無記の心にもならず、はれたる秋の空のごとく、とぎたる鏡を台にのせたるがごとく、心虚空にひとしくして、法界むねのうちにあるがごとくおぼえて、そのむねのうちのすずしき事、たとえていうべきようもなくおぼゆる事あり。
これははや坐禅を過半成就せるすがたなり。
これを禅宗にては打成一片といい、または一色辺といい、大死底の人ともいい、普賢の境界ともいう
内外打成一片っていう、つまりは全ての現象の根源である唯識、阿頼耶識に到達した様子を説明してる
阿頼耶識に到達したってことになるんだろね
阿頼耶識は窮生死蘊なんていうから
つまりはここで生死っていう「自分の見方」もほぼ消えてるってことになるかな
帰命っていう、「自分の命」っていう見方執着をまだ捨てきれてない人は
だから内外打成一片、阿頼耶識には到達してないってことになるんだと思う
そしてそこに「本来無一物、いずれの処にか塵埃を惹かん」という自己の本心を発見する。
これを「心を調える」というのである。
それにはまず「一切の善悪都て思量すること莫れ」である。
善とも悪とも、損とも得とも、憎いとも可愛いとも思うな、何も考えない無心の境地とそ、心の正しい姿である。
道元禅師は「この非思量底を思量せよ」と言っておられる。
何も考えない境地こそ真実の自己であると、そこにねらいを定めて心を調えてゆくのである。
そこで「念起こらば即ち覚せよ」で、さまざまな雑念妄想が起こったならば、いちいち切り捨てて、本心である無心の境地を呼びさますのである。
古人はそのために「莫妄想」と唱えられた。
また「南無阿弥陀仏」とも念ずるのである。
禅門では公案という問題がある。
その問題に精神を集注することによって、すべての妄念雑念を棄ててゆくのである。
妄念は、本来のごとき、霧のごときものであって、実在ではないから自ずから消滅するものである。
「之れを覚すれば即ち失す」である。
かくして受け持ちの公案にのみ精神を打ち込んでゆくと、自然に「内外打成一片」となって「亜子の夢を得るが如くただ自知することを許す」という心境が自ずから開ける。
すなわち我と天地とが一枚になって、主観と客観がすっかり融け合って、人には説けないが「ははあ、ここだな」と、ひとり合点のゆくことがある。
神気朗然として、何とも言えぬ爽快な境地に入ることができる。
坐禅の妙味がしんしんと湧き出て来る。
(『坐禅儀講話』山田無文 より)
ただね
正しく心の停止と肉体身体感覚の消滅となると
体験してる人はそんなに多くないんじゃないかな?実際分からんけど
色とは、物質界の五感の対象を言いますよね、禅定では主に身体感覚のこと
広がりの意識として、無辺の空間を体験するのにも、一段二段階あるように思うね
一つは、遠くの、外界の音、景色に、意識がくっついている状態があります
やはり、ここでは実物の音(聴覚)が、死んでも最後まで残ると言われていて、それが禅定でも同じに、身心脱落しても残っています
なので、全ての音響が、広がりの意識に映っていて、識から離れることがなく
左で犬が鳴けばその場所に意識は在り、右でカラスが鳴けばその場所に意識は在ります
ただし、心が停止しているので、無分別であって、犬がうるさいとかカラスがウザイとかの心理的な思いや感情は全く生起されません
自己の身心からは離脱して、識に映ることは存在している状態
空間は無辺であり、それに付随する識も無辺でありますます
第六禅定が識無辺処定になりますね
しんれん
https://note.com/bhagavat_mania/n/nc05f0ee93ec7
法の聴聞・発心
出家
護戒
知足
根の防護
正念正知(マインドフルネス)
五蓋の断
初禅(こっから禅定)
第二禅
第三禅
第四禅
宿住随念智(宿命智)
死生智 (天眼智)
漏尽智
解脱
解脱智見
出典はここ
象跡喩小経 - Wikipediaja.wikipedia.org
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仏教における道(みち、梵:marga、巴:Magga)、仏道(ぶつどう)とは[1]、解脱・正覚に至る道のことであり、様々な方法が記載されている[2]。最も古典的なものは八正道であるが、これは経蔵記載における要約の一つにすぎない。ほかにも様々な解脱への道が存在する。道すなわち菩提を完成することを成道という[1]。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E8%A7%A3%E8%84%B1%E3%81%B8%E3%81%AE%E9%81%93
大悟しようではないか!
その為には
私、この私という自我の活動が
止まってしまい
真性の本心に主導を渡すことが起こらなければならぬ
っと、この意識と阿頼耶識に深く刻み
如何なる時でも、そのことを憶えている状態にあることが求められる
それでこそ、初めて
末那識の我執が、上記の事柄を受け取り
転ぜられるように、なるのである
末那識の我執が、自我は停止する必要があるのだ!と
何回も何回も取って、それを種子として阿頼耶識へ蔵させて
初めて転識されるように成る
この時、末那識の我執は停止され、平等性へ向かうのです
難無く易無し。
小見は狐疑す、
転(うた)た急なれば転た遅し。
之を執すれば度を失して、
必ず邪路に入る。
之を放てば自然(じねん)なり、
体に去住無し。
・・・信心銘だな、自然、という語が出てくるのは。。
https://isakigyou.livedoor.blog/archives/2156567.html
現代語訳
大道(禅の悟り)は
もともと寛(ひろ)くゆるやかなものだ。
難かしくもなく易しくもない。
小さな了見の者はそれを疑う。
至道(究極の悟り)を
求め急いで張り切って精進すると
急速に進歩しているように見えるが、
実は至道から遅々として
遠ざかっているのである。
大道(悟り)に執着すれば、
度が過ぎて必ず邪路に入るだろう。
しかし、それへの執着を捨て去れば、
大道は去来の姿(相)は無いから
自らそこに現れるのである。
・・この訳は、なかなかうまい、いいよね。。
禅定に自在に入定するには、一定の慣れた坐法が不可欠であると
次に、身体、特に顔頭と眼(眼球)と舌の位置、等の在り方が言われています
眼球は閉眼でクリヤーヨガのババジの肖像画の眼球の状態にする、というかなるものです
次に首と頭は、眼球に連れて、若干後ろへ反って、上を見る感じです
舌は上顎に着け、舌先が前歯の付け根にあたるようにする
形が出来たら、呼吸をやや大きく吸気→排気を3回行い
最後の吐息で無思考へ入ります
もしも3回の呼吸で入れなければ、もう一回づつ入れるまでやります
要は、吐く息に乗って、三昧に入るのです、これがヨーガや瞑想での秘訣であり極意です
コジさんでしたっけ?
この禅定の説明は何処からのもになりますか?
瞑想禅定の初期には、火の呼吸法バストリカなどによって、クンダリーニやシャクティーのエネルギーを、上昇させておくと、スムーズに第一から第二へ進めると言われていますので
あなたの、性エナジーによって第一の壁を突破して、喜悦の第二禅定へ至ったのは、至極当然な理にかなった方法であると思われます
しかるに、その状態を、任意に、何時でも作り出せるには、未だ至っておらない
と言うことですね
そして、喜悦を超えて、第三禅定へ進みたいと思われている!>>86
禅定に入った切っ掛けから、それが入り口になって、要はその疲れと禁欲がないと入れない訳ですね
その条件では無い、別な、常に任意の時と、所で、禅定に入るには、新たな条件付けをする必要があると思われます
その方法は、幾つか有ります
どんな瞑想禅定も、最初は集中から入ります、何かのシンボルやマントラ、経典読誦などです
然るに、コジさんは、シャクティーエナジー上昇による精神の解放から入られた
実にこれは、タントラの技法であって、またゾクチェンやマハムドラーの技法なのです
チベット仏教の、これらの技法のキーワードは、【ゆったりと自然に】です
一度経験した境地は、意識と身体に記憶されていますので、その状態を、思い出すことで、再びはいれるようになるものです
続く
≫EOさんも悟りを開いたあと一切の言葉による思考と時間感覚が消失したと言ってた。
彼EOイコールほうざんさんは、かなりの期間その状態に在ったようですね
でもその後には、私への罵詈雑言に表れるように、マナ識の我執を超えることが、出来ず、怒りのコントロールが出来なかったと、後年亡くなる前に懺悔されておられたと、聞きました
この無心の状態は、作業という身体を使う行為によってもしられていますが、それは禅定とは別物であり、まして悟りとも違うものです
悟り直後からの数年間は、一旦は、それ迄の脳の心のプログラムが解除されて白紙状態になった処です
なので、脳へ新たな心のプログラムが組上がるまでの3年(幼児期に同じ)ほどは、一切の思考から解放された、無心で過ごせるとされています
して、再びmindが組上がっても、その3年の間に、心では無い我、マハリシのいうハートとしての我が、赤子が育つように育ち、再びその我-ハートと自我思考とを、混同することの無い状態へと至ります
そして、その後は、任意の時に、瞬時に無思考のハートにたち戻れるようになtれいるのです>>251
≫現実を夢のように知覚する精神状態になるのかな?
なんか考えるだけでわくわくしてくる。
逆のはずです
自分の経験から申して言うと、現実1,000%のようになります
たとえば、それまでの食事での味わいが、10倍に拡大されるような、五感の感受が飛躍的に鋭敏になり、何を経験しても、それが、驚きと歓喜と祝福になる、のように成ります
ああー俺はこれまでの人生、何を活きてきたのか?と思うほどに、全てが新鮮で美しいものとして、世界が開けます!
その一端が、見性などの一時的な折りに味わえるようですが
>>86
さて、パーリー仏経典の第四禅定の項を見ますと、『苦楽を超えて(身体的)』とされて、その後に、『呼気吸気が失われる』とあります
これは、身体の死と近似で、違うのは、煖だったかな?つまり体温は維持されるので、死んだ訳では無いのだ、と書かれています
さて、第二禅定から第三禅定へ話を戻します
禅定に毎日一回入って3ヵ月~6ヶ月もあれば、第一~第四禅定へはじゅうぶん入れるようにはなると思います
問題は毎日任意の時間に入れること、これですが
ある師によれば、瞑想は一定の同じ時間と同じ場所で行うことで、いつしか、その時間になると、自動的にその状態になれるのだ、と言います
睡眠の身体のリズムと同じ原理でしょうか、それと、その同じ時空間に1つの【場】が形成される仕組みで、要はパワースポット化される理屈です
まあ、忙しい日常で、1日の内に1時間を、瞑想禅定に充てることが、困難であれば、これは難しいことになるでしょうけど
第一禅定 有尋伺(荒い思考と微細な思考が有る)
第二禅定 無尋無伺(一切の思考思いが無い)
心一境性
喜悦を覚える
第三禅定 無尋無伺、心一境性
苦を離れ身体で楽を覚える
第四禅定 無尋無伺、心一境性
先に苦を離れた故に楽も離れ
苦楽を超えて平安平静に留まる
煖は有るが呼息吸息が失われる
チベット密教とボン教に伝わる方法にあるのは、【青空の瞑想】です
青空を見るとはなしに見る、というものです
要は無心を、青空を阿頼耶に写し薫習して、無思考と、無相とを、識の窓扉としてしまおう、ということです
その窓扉が強固に薫習され、何時でも其所にあれば、何時でも出入り自由になる理屈です
それの共存と昇華を求めたのがタントラ密教なんでないのかな?
性行為は、性エナジーが下降して排出され
三昧では、性エナジーは上昇して頭頂の門から出でる
この違いね
性行為にあって、性エナジーを下降させずに上昇させる道筋を構築する
精液は菩提とされ、それを放出するのは、菩提を捨てる行為であると、薫習することで、嫌悪しないで、性を超えていく道が作られるの次第か
まあ、本当に悟ったら
酒池肉林に身を浸しても、現れは一時的に落ちるが、根本の境地には微塵も傷は着かないね
また自然の内に然るときに、独りでに三昧に在るようになるものですよ
>>303
ダイジは、最後の方では、三昧に入りっぱなしで、電話にも出れない状態だったようです
つまり、禅定の域を出ていなかった可能性はありますね
第四禅定は、一旦入ったら、身心脱落状態ですからね
電話が鳴ったからって、おいそれと元に戻れないし身体が動かないんです
本当の意味で悟っていたら?
ゆったりと自然な境地なので、瞬時の対応は可能になっているはずですね
真如の前に一如を経るでしょ
何が如なのか?
如って、2つが1つになって混じり会うようなイメージ
何が?って言えば
自己と他全てが、になり
つまり、自己の識と、それに映る対象境になる
第四を超えて、第五第六の話になって来ます
つまり、空間と識とのこと
第五の空無辺処、第六の識無辺処、のこと
この空間という対象境と識は表裏にして一体であると知ることが、一如を知るであると理解します
真実の一如、つまり真如は、マナを超えた悟りで知る境地であろうと
そこでは、空間と識とは別けることが出来ない
1つのものであると自知し、自他の別を超越した、一つを体現し、絶対境で絶対美で絶対善を現証し続け活きます
の解説
ただ一つであること。それ以外にはないこと。ゆいいち。ゆいつ。「世界で—の逸品」「—の趣味」
● 唯識思想は読んで字のごとく、
「唯一 識だけがあって、
それ以外のものは存在しない」思想
と理解されています。
唯識(ゆいしき)
大乗仏教の一大学派,唯識瑜伽行派(ゆいしきゆがぎょうは)の重要な教説。
一切の存在はただ(唯)心のはたらき(識)のつくり出した表れにすぎず,真実にあるものではない(非有)という考え方で,
あらゆる存在を生み出す根底にアーラヤ識(阿頼耶識)を設定する。
唯識派の特徴は、心とは何かを問い、その構造を追究した点にある。
この派は、瞑想(瑜伽すなわちヨーガ)を重んじ、その中で心の本質を追究した。
そのため瑜伽行派(ゆがぎょうは)ともいわれる。
衆生本来仏なり
水と氷の如くにて
水を離れて氷なく
衆生の外ほかに仏なし
衆生近きを知らずして
遠く求むるはかなさよ
譬たとえば水の中に居て
渇を叫ぶが如くなり
長者の家の子となりて
貧里に迷うに異ならず
六趣輪廻りくしゅりんねの因縁は
己おのれが愚痴の闇路なり
闇路に闇路を踏みそえて
いつか生死しょうじを離るべき
夫それ摩訶衍まかえんの禅定は
賛嘆するに余りあり
布施や持戒の諸波羅蜜
念仏懺悔さんげ修行等
その品多き諸善行
皆このうちに帰するなり
一坐の功をなす人も
積みし無量の罪ほろぶ
悪趣いづくにありぬべき
浄土即ち遠からず
辱かたじけなくも此の法のりを
ひとたび耳にふるる時
賛嘆随喜する人は
福を得うる事限りなし
いわんや自ら回向えこうして
直じかに自性を証すれば
自性即ち無性にて
すでに戯論けろんを離れたり
因果一如の門ひらけ
無二無三の道直し
無相の相を相として
行くも帰るも余所よそならず
無念の念を念として
歌うも舞うも法のりの声
三昧無碍さんまいむげの空ひろく
四智円明しちえんみょうの月冴えん
此時このとき何をか求むべき
寂滅現前するゆえに
当所即ち蓮華国
此身即ち仏なり
(『白隠禅師坐禅和讃』)
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ヴァスバンドゥの現象学 - 『唯識三十頌』の原典、翻訳、および解釈
湯田豊 著·2005
https://www.google.com/search?q=%E5%94%AF%E8%AD%98%E4%B8%89%E5%8D%81%E9%A0%8C%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%83%83%E3%83%88%E8%A8%B3%E6%96%87&client=ms-android-samsung-ss&sca_esv=70d17c20703d2a91&sca_upv=1&sxsrf=ADLYWIIDsbRXvbVt9BqKTv0dkvc9cU0H1g%3A1714980172765&ei=TIU4ZpihLrDk2roPubu4sAg&oq=%E5%94%AF%E8%AD%98&gs_lp=EhNtb2JpbGUtZ3dzLXdpei1zZXJwIgbllK_orZgqAggAMgQQIxgnMgQQIxgnMgQQIxgnMgoQABiABBhDGIoFMgUQABiABDIFEAAYgAQyChAAGIAEGEMYigUyBRAAGIAESMZMUIsKWMo-cAB4AJABApgBqwKgAdEdqgEGMC4xMy42uAEByAEA-AEBmAIIoALRDqgCD8ICCBAAGKIEGIkFwgIHECMYJxjqAsICCxAAGIAEGLEDGIMBwgINEAAYgAQYsQMYgwEYBMICBxAAGIAEGATCAgoQABiABBixAxgEwgIIEAAYgAQYsQPCAggQABiABBiiBJgDswKIBgGSBwcwLjIuNS4xoAeOigE&sclient=mobile-gws-wiz-serp
識、そのものは、知り得ない、ということ
第二に
識は対象に依って、認識が生じる、のである、ということ
識が空であるのか?違うのか?という、問題は、そこには無い
何故なら
識が現れ、認識が生じるのは、対象と遇した時であるから
対象そのものは、如何なるものでも、諸行無常であると、知られているからで、あうあうあーである
よって
識によって、識自らを対象化できない以上
識は知られ得ない、よって識は、我ではなく
また無我でも無く
不思議のもの、と承知せざるを得ないことになる
百万巻の大蔵経典も
つまりは、三法印に集約される
三法印)は、仏教の根本的な教理である「諸行無常」「諸法無我」「涅槃寂静」の3つ
この内、諸法無我が
人法無我の人無我が、私たちに直接関わるの、第一となります
では、心と身体が無我であると、悟るには
何をすれば良くて、何をすべきでないのか?であるが
とてもシンプルなのである、釈尊の言うことは
それは、四念処である
その内の、身念処と心念処
これが、そのまま禅定へ繋がるのである
身念処(身体を隈無く全て順次に、念ずること)を行うと
身体は、我ならず!と、知られるようになる、と
次に、心念処へ進めば
心の全て、思考、妄想分別、感受、
五蘊の全てと六識(七識も絡んでくる)の全てを、念じるのである
すると、何が知られるのか?
それは、心は我では、無い!と
知られるのである、と
釈尊は教えるのである
此れは諸法の勝義なり 亦は即ち是れ真如なり
常如にして其の性たるが故に 即ち唯識の実性なり
乃し識を起して 唯識の性に住せんと求めざるに至るまでは
二取の随眠に於て 猶未だ伏し滅すること能わず
前に少物を立てて 是れ唯識の性なりと謂えり
所得有るを以ての故に 実に唯識に住するに非ず
若し時に所縁の於に 智都て所得無くなんぬ
爾の時に唯識に住す 二取の相を離れるるが故に
無得なり不思議なり 是れ出世間の智なり
二の麤重そじゅうを捨するが故に 便ち転依を証得す
此は即ち無漏界なり 不思議なり善なり常なり
安楽なり解脱身なり 大牟尼なるを法と名づく
説一切有部は三無為を唱え、以下の3要素を生滅的なあり方を超えたものとして無為法に数えあげた。
1虚空(こくう、梵:akasa) - 物(色)の存在する場所としての空間。
2択滅(ちゃくめつ、梵:pratisaṃkhyanirodha) -涅槃のこと。
無漏の(正しい)知恵によって個々の煩悩の拘束から離れる時に得られる滅。
「択」とは法に対して正しい【弁別判断】をなす洞察力のこと。
3非択滅(ひちゃくめつ、梵:apratisaṃkhyanirodha) - 正しい知恵によらない法の止滅)
縁起については、品類足論に「【縁起法】とはいかなるものなりや。
謂く【有為法】なり」とある一方、
倶舎論では
「有るが説く【縁起】は是れ【無為法】なり」とあり、
同じ説一切有部の中に複数の考え方が存在している。
世親の五蘊論では、三無為に【真如】を加え、四無為としている。
真如(tathatā)
六無為
華厳経十無尽蔵品 では、三無為に以下を加え、六無為としているg。
4真如(tathata)
5縁起(十二縁起)
6法性(法界)
八無為
瑜伽師地論、大乗阿毘達磨集論(英語版)では、三無為に以下を加え、八無為としている。
4善法-真如
5不善法-真如
6無記法-真如
7不動(Anijya)
8想受滅(sanna-vedayita-nirodha)
九無為
化地部では三無為に以下を加え、九無為としている。
1不動
2善法-真如
3不善法-真如
4無記法-真如
5道-真如
6縁起-真如
原義では「あるがままであること」「そのような状態」という意味であり、
物事の真理・実際のあり方 (the way things are in truth or actuality)、
無名で無個性な現実 (nameless and characterless reality)のことである。
『金剛般若経』のサンスクリット本に出て、「真如性」と訳されている。
「真」とは真実、
「如」とは如常の意味である。
諸法の【体性虚妄を離れて】真実であるから【真】といい、
常住であり不変不改であるから【如】と言うとされる。
真如はまた
1法
2自性清浄心→【本心】
3仏性、法身→【本心】
4如来蔵
5実相
6法界
7法性
8円成実性
と同体異名であるとされる。
自分の心の奥底に存在する【本性】や【仏心】、【仏性】とも呼ばれ、
感情的な心ではなく、仏になる可能性ともいえます。
臨済宗大本山 円覚寺によると、自分の本心や本性の尊さに気づけば、それは生まれや死などがない【仏心】であり、生き通しのいのちであるとされています。
横田南嶺-禅師
達磨大師は「【仏】を見たいと思えば、自分の【本心・本性】を見よ。
自分の【本心・本性】こそが【仏】hである」と仰せになっています。
その入口として
五蘊の停止、滅と
恒審思量のマナの停止、滅、転識が有って、の平等性智
以上を仏性の初門として入り
阿頼耶の転識を経て大円鏡智へ
という流れ
その途中での滅
何故なら、自我意識の滅消滅を経なければ、本心は現れ出でることが不可だから
自己が1つなら、仮我と本心の両方が主導者にはなれない道理
一方が在るとき、一方は滅する
そう言うことでの滅でしょ
(見は預流果を、修は一来果、不還果、阿羅漢を指す)
● 見所断諸法(預流果のおいてすぐ断ち切られる)
【 見、疑、(および悪趣に導く以下)貪、瞋、癡、慢、?沈、無慚、無愧 】
● 修所断諸法(一来果、不還果、阿羅漢にて徐々に断ち切られる)
【(その他の)貪、瞋、癡、慢、?沈、無慚、無愧 】
★説一切有部の説(見は見道、修は修道を指している)
● 見所断煩悩(八十八煩悩、だんだんと断ち切られる)
◯欲界に対する三十二煩悩
2 苦諦に対する十煩悩
3 集諦と滅諦とに対するそれぞれ七煩悩
4 道諦に対する八煩悩
◯色界と無色界に対する二十八煩悩
1 苦諦に対する九煩悩
2 集諦と滅諦とに対するそれぞれ六煩悩
3 道諦に対する七煩悩
● 修所断煩悩(十煩悩、だんだんと断ち切られる)
◯欲界に対する四煩悩
(貪、瞋、癡、慢)
◯色界と無色界に対する三煩悩
(貪、瞋、慢)
★ 瑜伽行唯識学派の説(見は見道、修は修道を指している)
煩悩障(煩悩という障。仏、独覚、声聞によって断ち切られる)
● 見所断煩悩(百十二煩悩)
◯ 欲界に対する四十煩悩(四諦それぞれに対する十煩悩)
◯ 色界と無色界に対する三十六煩悩(四諦それぞれに対する九煩悩(瞋を除く))
● 修所断煩悩(十六煩悩)
◯ 欲界に対する六煩悩
(貪、瞋、癡、慢、身見、辺見)
◯色界と無色界に対する五煩悩
(貪、癡、慢、身見、辺見)
◯所知障(知られる側に対する障。仏によって断ち切られる)
さていったい、何が覚醒し、何が覚り、何が悟りを開くのか?
日中の日常で目覚めている顕在意識(五蘊=六処)
夜の眠入ばな、うとうと、うつらうつら、とする顕在意識
眠りでは、この顕在意識が眠る訳です
では、顕在意識が眠った後の、潜在意識は目覚めて静寂でいるのか?と言うと、そうでは無く
ストーリーが有るような無いような、混沌とした夢を見たり、また何も想わず完全にブラックアウトしていたりであって
せったんさんに脱落現象とな?
ははーん!
じゃあ悟ってたんかもな
まあ、葉っぱが光って見えるって言ってたからね
光で自己を知るんだね
でも音の場合が多いよ
音楽でも自然音でも、動物の鳴き声でも、ある
カラスが カァー!!
認識は起きる間合いも無く
同時に本心の識自体に返本されて
対象から離断され、自体に安立し
自己を悟る、無空の
悟りとは、自己が明らかになるものと、
その前の、純粋な識としての
誰でも無さに成るの、二段構えなんだな
坐禅なくとも定や三昧から離れなくなっているのが仏ですね。。
おれがそうなっている、とは、もちろん言わんけれど、坐禅が必要、とは、エバれることではないですよ、と言うのは知らんといけません。。
それ、煩悩の生起因である無明からの解脱
無明とは、マナ識の恒(ツネ)に審(ツマビラカ)に思量(思う)という止まらない自動的な思慮分別、虚妄分別のこと
このマナ識を、転識して分別を停止することで、分別と妄執が止み、比較分別が無い、平等性に転じ、平等性の智恵を得る
この如きを第一の解脱とし、初めての仏地と言うらしいです
●マナ識の恒審思量が止み、平等性が現れると、何が起こるのか?
分別心の原動力である、恒審思量が止み、心は平静となります
そして、日常で、音や光の一閃で、それが根本識へとどくと、五蘊の停止(現量)が起こります
これが撃竹現象の如き、悟り現象の姿であります
即ち、悟り現象は、初の仏地における印なのだと言えるでしょう
【質問】
正聞熏習とは、どういうことでしょうか?
【回答】
正聞熏習(しょうもんくんじゅう)とは、正しい教えを繰り返し聞いて、阿頼耶識(あらやしき)にある無漏(むろ)の種子(しゅうじ)を成熟させるために、薫習していくことです。
表層的な私達の心である意識は、深層心である阿頼耶識にある「汚れた種子」(雑染の種子)から生じますが、
阿頼耶識の中には、もう一種類、雑染(ぞうぜん)の種子以外に、「清らかな種子」(清浄の種子)が潜んでいる、と教えられます。
仏になる可能力としての種子、つまり無漏の種子です。
このような素晴らしい無漏の種子に、栄養を与え、成育させて、発芽させるには、どうしたらよいのか。
この問いに対して、唯識では、「正しい教えを、正しく繰り返し聞く」、という表層心でのありようが、深層心に熏じつけられて、素晴らしい無漏の種子を育む、と教えるのです。
これを「正聞熏習」といいます。
「正しい教えを正しく聞く」
これは、原始仏教から「聞法」と言われて、重要な修行法の一つとして説かれてきました。
唯識では、その働きを、表層心と深層心との関係で捉えるのです。
仏教では、教えは真理の世界から流れ出たもの(法界等流の法『ほっかいとうるのほう』)である、と言われます。
釈尊のことばである
それ以外を学んでいる人は
それが本当に正しいのかを
自我を持って判断して
その自我が欲するのままに選んで読む
読むと、自我色に色付けされた認識で、薫習される
その時点で、既に、マナ識によって執されたものだけを薫習することになる
これを避ける為に、『聞法』があると言える
自己の判断を挟まず、六識を無にして、聞くのである
これ無くして、マナ識は転識され得ません
坐禅から禅定への道をいってください
欲世間に背中を向けたら
それは初禅定ですから
次は第二禅定です
それに向けての、私からアドバイスがあります
それは、何らかの経典、金剛般若経典や唯識や中論とか、大乗起信論などの
識や空に関する経典や論書、論文の類を
自身の思考想念、思慮分別を、動かさないようにして
文字がダイレクトに意識に映るように、読まずに読んで(見る)下さい
これを15分ほど、切れずに無念で読めるようになった頃に
自然に尋と伺の停止された、純粋な識だけの、喜悦を覚える、第二禅定へ入れるででょう
簡単ですから、約3ヶ月も毎日コーナーでも飲みながら、リラックスしてやって下さい
できればBGMを高い位置から流しておくと良いでしょう、鳥の鳴き声とか、森のCDなどの
ぜひとも第二禅定へ入定してください
摩訶般若波羅蜜経(まかはんにゃはらみつきょう)は、大乗仏教般若経典の一つである『二万五千頌般若経』(にまんごせんじゅはんにゃきょう、
梵:パンチャヴィンシャティサーハスリカー・プラジュニャーパーラミター・スートラ)の、鳩摩羅什による漢訳である。
90品(高麗大藏再雕本は27巻、思溪資福藏、普寧藏等は30巻)の比較的規模の大きな経であり、通常
●『大品般若経』(大品)と呼ばれている。
鳩摩羅什の訳した経の中には、『摩訶般若波羅蜜経』と名づけられるものがもう一つあるが、
そちらは『八千頌般若経』の漢訳(408年)で、大品に対し29品(10巻)しかないので『小品般若経』(小品)と呼ばれる。
ナーガールジュナ(龍樹)が著した
●『大智度論』は、本経(『大品般若経』)に対する注釈書である。
『二万五千頌般若経』の特徴としては、紀元前後の『八千頌般若経』で形づくられた大乗仏教の基礎となる般若思想をもった教団が、
説一切有部のような力のある部派仏教教団の教説に吟味を加え、
それらと対峙・超克しながら増広敷衍しながらまとめた大乗のアビダルマといった観があり、
それ以前の仏教の教説の集大成となっているといってよい。
鳩摩羅什は、もう一方の大乗仏教を代表する経典である法華経とともに、この『摩訶般若波羅蜜経』ならびにこの経の解説である『大智度論』を最重要視し、中国での仏教布教に力を注いだ。
https://www.hannyasingyo.info/yomu/3_1.html
『般若心経』は3(観音様が舎利子に説いている。お釈迦様はかたわらにいる。)の舞台設定になっています。
もう少し詳しく紹介すると次のようになります。
● お釈迦様は、多くの弟子たち・菩薩たちと王舎城の霊鷲山におられて、瞑想していた。
そのとき観自在菩薩は、深般若波羅蜜多を行じているときに、五蘊は空であると照見した。
すると舎利子は仏の意を受け、般若波羅蜜多の学び方を観自在菩薩にたずねた。
(中村元・紀野一義訳注『般若心経・金剛般若経』)
まあ、創作ですからね
禅定で覚った集団が書き上げた般若経典群ってことなんでしょう
アラハンの境涯に至れば仏なのでしょうから、仏説でも良いわけですし
日本の伝統仏教では、仏説って付けるらしいじゃないですか?
ならそれを、ディスる必要もないですね
釈尊が認めた設定なんですから
西域から645年正月に帰国した玄奘もまた『般若心経』を終南山翠微宮で649年に翻訳したとされている。
しかし古来テキストの主要部分の一部が玄奘訳『大般若波羅蜜多経』の該当部分ではなく、
鳩摩羅什訳
『摩訶般若波羅蜜 経』≪大品般若経≫からの抽出文そのものであるため、
玄奘訳『般若心経』の成立に関し様々な説が出されている。
また、古くから著名な玄奘訳のテキストとされるものは、672年に建てられた弘福寺(興福寺)の集王聖教序碑中の『雁塔聖教序』の後に付加されているテキストである。
赤木隆幸は、玄奘訳『般若心経』は『集王聖教序』の石碑に付刻されたことにより、玄奘の訳出経典を象徴するものとして位置づけられた等と述べている
一般的には、鳩摩羅什訳『摩訶般若波羅蜜大明咒經』が現存中最古の漢訳とされていた。
最古の経典目録(経録)東晋の釈道安撰『綜理衆経目録』(梁の僧祐撰『出三蔵記集』にほぼ収む)には、
『摩訶般若波羅蜜 神咒一巻』及び『般若波羅蜜 神咒一巻 異本』とあり、
経としての般若心経成立以前から、呪文による儀礼が先に成立していたという説もある。これらは、後世の文献では前者は3世紀中央アジア出身の支謙、後者は鳩摩羅什の訳とされているが、『綜理衆経目録』には訳者不明(失訳)とされており、この二人に帰することは信憑性にとぼしい。
前者は現存せず、後者は大蔵経収録の羅什訳『摩訶般若波羅蜜 大明咒經』ともされているが、鳩摩羅什の訳経開始が402年であるため、釈道安の没年385年には未訳出である。
またそのテキストの主要部は宋・元・明版大蔵経の鳩摩羅什訳
『摩訶般若波羅蜜 経』のテキストと一致するが、
宋版大蔵経の刊行は12世紀後半であるため、このテキストが鳩摩羅什訳であるということも疑われている
日本で広く流布している玄奘三蔵訳の正式な経題名は『般若波羅蜜多心経』であるが、一般的には『般若心経』と略称で呼ばれている。
これをさらに省略して『心経』(しんぎょう)と呼ぶ場合もある。なお、漢訳の題名には「経」が付されているが、サンスクリット典籍の題名は「Prajñā(般若)-pāramitā(波羅蜜多)-hṛdaya(心)」であり、「経」に相当する「sūtra(スートラ)」の字句はない。
日本の仏教の宗派によっては、単に「般若心経」「般若波羅蜜多心経」と呼ぶのではなく、冒頭に「仏説」(仏(釈迦)の説いた教え)や「摩訶」(偉大な)の接頭辞をつけて、『仏説摩訶般若波羅蜜多心経』(ぶっせつまかはんにゃはらみったしんぎょう)や『摩訶般若波羅蜜多心経』(まかはんにゃはらみったしんぎょう)と表記することもある。
なお、現存する最古の漢訳文とされる弘福寺(長安)の『集王聖教序碑』に彫られたものにおいては、冒頭(経題部分)は『般若波羅蜜多心経』と記載されているが、末尾(結びに再度題名を記す部分)では『般若多心経』(はんにゃたしんぎょう)と略されている
ーーー
GoogleAIによれば、『仏説』は空海が付け足したとか書いてあるね
初期の仏教からインド中期仏教までの術語を詳説する形式になっているので、仏教百科事典的に扱われることが多い。
漢訳は鳩摩羅仕による
題名の「智度」(ちど)とは、「六度」(六波羅蜜)の内の「智慧波羅蜜」、「般若波羅蜜」のこと。「智」は「智慧」すなわち「般若」の、「度」は「渡」と同じで「彼岸に渡ること」すなわち「波羅蜜」の意訳である。
つまり、「大-智度」とは「摩訶-般若波羅蜜」(経)の意訳であり、「大智度論」という題名は、そのまま「『摩訶般若波羅蜜経』についての論」の意である。
以上のごとく、『大智度論』という意訳的な漢訳題名は直感的に分かりづらいので、より原題に素直に『摩訶般若波羅蜜経釈論』『摩訶般若釈論』の名で呼ばれたりもする
ーーー
答
あらゆる言葉を越え、心で行うことがなく、よりどころ無く、
対象を指し示さない。
物事の本来の姿は、始まりがなく、中間がなく、終わりがなく、尽きることもなく、壊れることもない。
これを第一義悉檀という。
大乗仏教の心は次の詩に言い表されている、
『言語は尽き、心のはたらきも尽きた。
不生不滅の理は涅槃のようである。
行いを説くことを世界悉檀といい、行わないことを説くことを第一義悉檀という。
一切は真実である。
一切は真実でない。
一切は真実であり、かつ真実でない。
一切は真実でなく、かつ真実でないのでもない。
これを真実の姿という』。
これが様々な経に説かれていることである。
この教えは意味深く、理解するのは難しい。
仏はこれを説明しようとして、摩訶般若波羅蜜を説き明かす。
知らん。
たとえ心と宗教板で有名だろうが、Talk掲示板全体や、Talk掲示板が生まれるきっかけとなった5chでは、心と宗教板なんてマイナーな存在だし。
このことであろう
この法は、人人の分上に、ゆたかにそなはれりといへども、
いまだ修せざるにはあらはれず、証せざるには、うることなし。
道元
それは、全幅の信頼において
人は無心になれるからです
師匠が不在であるなら
祖師(釈尊など)を礼拝することです
その自我の詰まっている
頭を床に擦り付けて
平身低頭に五体投地して
頭頂から自我を溢して、空にして、後
無心になって
空に無常はないという、智慧を
戴けるよう
素直に、無心に、誠の心で
礼拝をすべし
素直なるものは祥である
【問】
どの様な考えにも誤りが有るのだとすれば
【 第一義悉檀(シッダ=完成された教え) 】とは何か?
【答】
あらゆる 言葉を 超へ
心で 行う事が 無く
依り所も 無く
対象を、指し示さ 無い
物事の 本来の 姿は
始まり が 無く
中間 が 無く
終わり が 無い
尽きること も 無く
壊れること も 無い
これを【 第 一 義 悉 檀 】という
大乗佛教の心は、次の頌に 言い 表現されている
『 言語は 尽き、心の働き も 尽きた
不生不滅の 理は、涅槃の ようだ
行いを 説く ことを【 世界 悉檀 】と 言い
行いが 無い ことを 説く ことを
【 第一義 悉檀 】と 言う
1一切は 真実 として 有り
2一切は 真実 として 無い
3一切は 真実で 有り
かつ 真実では 無い
4一切は 真実で 無く
かつ 真実で 無いのでも 無い
これを【 真実 の 姿 】という 』
これが、様々な経に 説かれている 事である
この教えは 意味が深く
理解することが 難しい
佛は、此れを 説明しようとして
【 摩 訶 般 若 波 羅 蜜 】を説き明かす!
.
全ての現象は、原因や条件が相互に関係しあって成立しているものであって独立自存のものではなく、条件や原因がなくなれば結果も自ずからなくなるということを指す
仏教の根本的教理・基本的教説の1つであり、釈迦の悟りの内容を表明するものとされる。
因縁生、縁起法、縁生、因縁法、此縁性ともいう。
種々の縁起説は、〈煩悩(惑)→行為(業)→苦悩(苦)〉を骨格とするが、無明を根本原因とする12の項目からなる縁起説(十二因縁)が次第に定着した。
後世には、縁起の観念を分けて、業感縁起や頼耶縁起などの諸説が立てられた。
老死という苦しみの原因を無明に求める十二支縁起(十二因縁)説が代表的なものであった
『全てのものは原因から現れ、その原因とその止滅を如来は説かれた。偉大なるサマナはこのように説かれた。』
—律蔵大品,1.23.10
経典によれば、釈迦は縁起について
『(世間の)人々は、執着に歓喜し、執着を愛し、執着を好ましく思っている。
そのような執着に歓喜し、執着を愛し、執着を好ましく思っている人にとって、
此縁性、縁起の法という理論は受け入れがたいものである。』
—パーリ仏典, 経蔵中部聖求経,述べた。
『わが作るところにも非ず、
また余人の作るところにも非ず。
如来(釈迦)の世に出ずるも
出てざるも法界常住なり。
如来(釈迦)は、この法を自ら覚し、等正覚(とうしょうがく)を成じ
諸の衆生のために分別し演説し開発(かいほつ)顕示するのみなり』
と述べ、縁起は【この世の自然の法則】の、【因縁生起の原理】で
1原因と2条件と3結果の、3つの構造で成立していて
自らは【それを識知しただけ】であるという。
象跡喩大経は、
1縁起を知ることと、2法を知ることを、関連付けている。
世尊(釈迦)は、このように言われている。
1 縁起を見る者は、
2 その法を見る。
3 法を見る者は、縁起を見る、と。
五取蘊(pañcupādānakkhandhā)とは、この縁起したもの(Paṭiccasamuppannā)である。
—パーリ仏典,中部28.象跡喩大経,
仏教においては五取蘊(Pancupadana-kkhandha)として
1色蘊・2受蘊・3想蘊・4行蘊・5識蘊の総称。
物質界と精神界との両面にわたる一切の有為法を示すであり、省略して五蘊とする。
五陰(ごおん)とも書く。
人間の肉体と精神を5つの集まりに分けて示したもの。
取(upadana)とは、それに【執着】するということ。
なお、五蘊と、十二処、十八界を並べて三科と称する。
煩悩(ぼんのう)に伴われた有漏である五蘊を五取蘊(ごしゅうん、pancopadana skandha)または五受陰(ごじゅおん)という。
個々の事物は因縁によって五蘊が仮に集まってできたものであるということを【五蘊仮和合】(ごうんけわごう)という。
五分法身(中国語版)を無漏の五蘊という。
【五蘊仮和合】は、特に有情の個体については
【我として執着するような実体がない】ことを表す
色取蘊、受取蘊、想取蘊、行取蘊、識取蘊である。』
—パーリ仏典, 経蔵相応部蘊相応,取転経
https://i.imgur.com/UU0ZiWS.jpeg
【有身見】(sakkāya-diṭṭhi)といい、
仏教における【悪見・三結】のひとつである。
釈迦は【私】の観察によって、【変化し続ける五蘊以外】には発見できないこと、すなわち【無我の発見】に至っている。
世間の人々は五蘊を自己とみなすために、限りない苦に囚われ続けるのである。
釈迦は五比丘らに初転法輪を説き、預流果に至らせた。
次に【五蘊の無我】を説き、五比丘らを阿羅漢に至らせている
【象跡喩大経】においては、【苦の原因】を、【五取蘊】に対する
1欲(chando)、2執着(ālayo)、3親愛(anunayo)、4固執(ajjhosānaṃ)であると説いている
相応部ナクラピタル経においては、凡夫は
1【五蘊が我である(=我見)】
2【五蘊は私のものである(=我執)】を
持つが、これらは【変化するもの】であるため
その者には【愁・悲・苦・憂・悩】が生じると説いている。
『(凡夫は)
1私が【色(rupa)である】
2私が【色を所有している】
との考えを抱くが
その【色(受,想,行,識)】は変化し、変容する。
その者には、色が変化し変容するために
1愁(soka)
2悲(parideva)
3苦(dukkha)
4憂(domanassa)
5悩(upayasa)
が生じる。』
...(受,想,行,識について同様に説く)...
—パーリ仏典,相応部蘊相応22-1 ナクラピタル経,
五蘊盛苦(ごうんじょうく)、五蘊苦(ごうんく)とは
自分自身が生きている(心身の活動をしている)だけで苦しみが次から次へと湧き上がってくることである。
仏教の説く四苦八苦の一つ。
元のパーリ語は、パンチャ・ウパーダーナ・カンダ・ドゥッカ(pancupadanakkhandha dukkha)。
『釈迦は【初転法輪】にて五比丘に
【五蘊苦】を説いた。』
Saṅkhittena pancupadanakkhandha dukkhā.
略説するに
≪五取蘊は苦なり≫
—初転法輪
ーーー
パーリ語の組み合わせは、「パンチャ」は「五つ」、「ウパーダーナ」は「執着する、固執する」、「カンダ」は「要素(蘊)」、「ドゥッカ」は「苦」という意味なので、
≪【五つ】の要素に【執着】する苦しみ≫
というのが原文の意味である。
日本仏教においては五蘊盛苦を漢訳の訳語から解説する場合が多いが、
漢訳の五蘊盛苦では「ウパーダーナ(取)」、つまり「執着する」という意味が入っておらず、原文のニュアンスが伝わりにくい訳となっている。
1950年代を境にして、地層の色が白から黒へ変化していて、その原因が化学肥料だそうで、ハーバー・ボッシュ法で大量生産が可能になったが為とされる
チンパンジーと人間の脳で違う箇所は
人間は、【大脳新皮質】でも、ドーパミンが発生することが可能であること
しかしチンパンジーは【中脳周辺】でしか、ドーパミンが発生しません
その結果、人間は、チンパンジーなどが
【本能的な欲求の問題解決】で発生していたドーパミンを
【知的な問題解決】であっても、解決後に、ドーパミンが発生し、更に新しい問題を解決することへ向かうようになった
それは、文明を発展させる一方、もっともっとという、切りの無い追及を生み出すことにもなったのだ
ただ在るが、解らない
理解しようとか、解ろうとか
そういうものが、するりと落ちてしまっている
それがただ在るです
脳内の想念と、がっぷり四つに組まないで、相手にならない、しないでいる我
ただ在るという我
その様な我は、はからず無心であり、無我で在るのです
真から離れて行く
釈尊が初めに世を捨てたことを
知らないとは
坐禅とは
一回一回の、世捨て人に、なることですよ
そして、また世間へ戻り、活動的になる
人は夜、眠りに入り、この世を忘れる
そして、朝に、フレッシュになって戻って来る
ただ在るも同様のこと
ただ在るはニュートラルに在ることで、動きの無い状態として在るが
決して無エネルギー状態として在るわけでは無い
逆に、ただ在ると、存在の無限の力と繋がるゆえに、命のエネルギーが、どんどん補充され、溢れるようになる
それは、満タンを超えて、溢れ出します
すると、それは、日常の生活で、とてもいかされる、疲れることを知らないほど
働いても働いても、疲れることを知らないほどであり、他者への奉仕にもそのエネルギーはそそがれます
けちんぼうの成ることが無い
ただ在ると、再びエネルギーは、大いなる存在から、無限にチャージャされるので
それは、自己の計らいを離れている
それを、【存在】、全存在と言います
一つである時、一体で在るには
同一が条件です
我が【在る!】であって存在する時
全【存在】と同じくなり
一体なのです
悟ったらどうなるの?って
訊く、愚かさよ
って、思わない?
出家は人を救う為と
それ言う?
自分を救ってから言えって、思いませんか?
自分を救えたら、他人をも救う術が解るんです
後先一緒にして、後を妄想してはいけません
ロンさんの、頑迷な他者の境涯を妄想捏造する癖は、益々強固になって来ているね
以前から、坐しての禅定と日常とのことに付いて、何回か言ってるんだがw
坐しての禅定に於ける、純粋識体験は、一見、寂静にして平安平静のようであり、無心のようで、悟ったようであるけど
禅定を出たら、心の妄想ぐせは、再び回転しだすので
昔から、禅定の中では悟りあり聖であるが、禅定を出ると凡夫のままであり
これでは、本当の悟りでも、解脱でも無い!
っていう、問題が提起され続けていた訳です
ロンさんは
香厳禅師のような、悟り現象を経ているのですか?って
これを経ているかいないかで、その後の意識変革に大きな違いが生じる訳ですから
悟りへの道程は実に簡単なのですが、実現には、自己のエゴマインドが、隔壁となっていて
如何に禅定で相分を取らないような、静寂で平安平静さを、体験として知ったとしても
それが、眼の開いた覚醒時間の日常で示現され、現象として何回も体験されるようにならないと
悟り悟りと言っても、無体験では、想像でしかなく、本当になって来ません
だから、道があるわけです
その道を如実に知ることをしなければ
道を歩むことが出来ないという道理なのです
誰でも、この真理から逃れられません
道を知らなければ、歩むことが出来ないという道理なんです
その頑迷な固定観念は、岩のようですね~
1【心】が働く時に【寂静】は無く
2【寂静】に住する時に【心】は休止する
これが理解です
この様に、日常ではなっていますし、禅定でもそうです
1と2の間を唯一の識は振り子のように振れるのです
その前提として、マナ識は、転じて平等性になっていることがあります
平等性において、壁が消え、寂静の識と、想いの心が、一つになるのです
それで、日常において、1と2を自由に行き来可能となります
平等性に転じる前と、転じた後で
唯一識と心は同じでしょうが、その間の壁があるか無いか、それだけが違うのです
壁が無くなると、眠りの中でも覚醒があります、壁のある人には、睡眠中の覚醒はありません
その様な違いはあるでしょう
≫我執の延長にはなく、修行の延長にもない。。
もとっからそうだ、というだけ。。
手放したなら、即、です。。
●
1【悟る以前】のk自我心と
2【悟った後】の本来の我は
1と2は、違うものですから
ロンさんは、ここが解っていない
1が寂静してれば、2の本心(純粋識)が我
1が働いていれば、1と2は一つになって働く
例えてみると
1と言うフィルターが、無色の白や透明の時は
2の本心が、無色そのままに、現れるが
1の心フィルターが、赤い色であれば
2の無色の本心も、赤い色として現れる
しかし、元々の無色透明の本心が、赤色に変わった訳ではないのです
● この様に
悟り前も、悟った後も、元々同じというのは、こう言うことを言うんです
悟ったら、心を白でも無色でも赤でも、自在であると言うこと
悟る前でも、1の心が、白い時も無色の時も有るんですが
2の心が本来心の我であり本心であると、1の想いの自我心が気が付かない訳で
故に坐禅などで、1の自我心を、無色白や透明にする訳です
悟る前は、1の想いの自我が、無色の無色の白になっても、2の透明な本心は、
1の無色の白に、自己同一化していて、我は想いの自己であると、信じ込んでいて、無色透明の本心であるとは、気が付かないのです
故に、何回も坐禅して、何回も、1の自我を、無色の白や、無色透明にして行くのです
1と2は、異相であり、次元が異なる故に、1が無色になっても、2へ悟ることは、簡単には即とは行かない訳ですから
そこで、師なり公案なりで、ショックを与えて2へのジャンプを引き起こすことをするのです
● また
その、坐禅なりの時間が、一回8時間とかの、長い時間三昧に入れるようになると
上記のショックを経なくても、2の本心が我であると、気付くことが可能なのです
まあそれは、労働者諸君の普通人には、時間的制約があり、殆んど不可能に近いので
やはり正しい師匠によって、導いて頂くことが、良いでしょうが
最後に
未だ坐禅や瞑想をしなければならないなら
それは、悟りを通過してはいない、ということです
悟ると、坐ろうと、思うことすら失くなります
だって、そのままで2の本心なのに、何をすると言うのでしょうか?
何も必要が無く、そのままで、手放しなのですから
ロンさんが、一念でも坐ろうと思うのであれば、未だ悟ってはいないと言うことです
そのままで良いなら、決して坐禅はしないでしょう
1073
あまねく見る方よ
もしもかれがそこから退きあともどりしないで多年そこにとどまるならばかれはそこで解脱して清涼となるのでしょうか?
またそのような人の識別作用は存在するのでしょうか?
1074
詩が答えた
ウパシーヴァよ
たとえば強風によって吹き飛ばされた火炎は滅びてしまって数えられないようにそのように聖者は名称と身体から解脱して滅びてしまって数えられないのである
1075
滅びてしまったその人は存在しないのでしょうか?
或いはまた常住であってそこなわれないのでしょうか?
聖者さま
どうかそれをわたくしに説明してください
あなたはこの理法をあるがままに知っておられるからです
1076
師は答えた
ウパシーヴァよ
滅びてしまった者にはそれを測る基準が存在しない
かれをああだこうだと論ずるよすががかれには存在しない
あらゆることがらがすっかり絶やされたときあらゆる議論の道はすっかり絶えてしまったのである
せやせや
心を白でも無色でも赤でも、自在であると言うこと
そう自在であること
自在であるには無常などの有為
そのもの、まあ馬さんのいう末那識完全滅でもいいが(コスパ悪し)
となったとき現れる無為法、
虚空、択滅、を智慧により
発動させ自在となる
有ると思うこと、仮に有る世界
しかしその世界は、無常世界だっていう
有ると思ってた世界は、無常にして消えて行き、もう変化してしまい、無い
有るのは、変わってしまった世界だと
在りのままとは?
如実の世界、有るとか無いとか、あれだ此れだの無い
概念判断の手垢の付かない世界、無常は変わらないが、無常を無常のまま、在らしむ
物事を、先入観無くて観たとき、誰でもが其所に、真であり美である世界を観る
認識【しない】は、まだ【意】が働いているけど
する、しないを 超えて、意が自体から微動だにせず、自体に停止された時
個別の相は顕れない
つまり、個別の認識は生じていない
その時、分別差別にはなく、如となる
存在にくつろいで在る
次に、2【私】という認識が生じて
更に、3【私の】という【自我(われ執エゴ性)】が生じる
これら1、2、3は、産まれる以前には無かったもの
私とは?我(アートマ)としては空であり存在しないのか?
Google AI
アートマンとブラフマンは、ウパニシャッド哲学における概念で、
【梵我一如】(ぼんがいちにょ)の思想において重要な役割を果たしています。
【梵我一如】の思想は、
≪ブラフマンとアートマンが同一≫であることを知り、永遠の至福に到達することを目指すものです。
ーーー
アートマン(我)って、最終的には、カイバリヤ(真我独在位)という処へ至り
ブラフマンの中へ消えると、言われていて
梵我一如になって、残っているものではないと
アートマンは消えて無くなり、ブラフマンとして在る
アートマンとは個人の我、個我のことで、ブラフマンとは集合された大我とか神我のこと、まあ宇宙我とかも言うか
これって、理論物理学の素領域理論みたいなものって、物理学者の方が言ってたね
意志の働きが有ると、【水平志向】が無くならず、真我の独在位は覚られません
この【意志】が識において覚られていって、意志の働きが停止されると、
水平から、次元において【垂直】となって、個から集合体としての大我、宇宙我へ変わります
釈尊の覚ってからの3×7遺骨21日の体験に、これが書いてありますね
ここは、悟りとは別な個の輪廻からの解脱するお話ですね
本心は、止まって寛いでいたいのに、欲望の心が騒いでいると
欲望心が、この身体と心を使役して
欲望を満たそうと、欲心の走狗となって、本心、心、身体は走り回らされる
これを、【喜びと世間の人は想う】が
本心に目覚めて行くと、それが 1【苦】に感じられます
そうすると、苦痛に感じる 2【所縁の集まり】を手離したく想うようになり
その 4【道】を通り、実際に手離すと、
苦の想いが 3【滅】して
苦の思いから解放されて、平安に至る
【苦集滅道】がこれですね
>>469
おれは、眉間から呼吸する=気の出し入れする、とかできたよ、昔は。。w
頭頂から、大量の気が、放出されたりして、当時は大変だったわ。。w
中国では、気は物質、だから、気功治療とかも認める。。
唯物論に合致している、ということらしい。。
それは正しいわ。。w
中沢さんも、唯物論だ、と言ってたしな。。w
唯識において、最初に得る智恵が、平等性智ですね
ここから明りが灯り始めます、その意味で、マナ識の自動的な、我執の永続する妄想念は、転識されなければなりません
言ってるのは、自動的にわいてくる自動的思いのことです
このことは、大乗起信論にあって、それが無明だと、指摘されてありました
釈尊は、五蘊の空なることを観て、それでも六処は残ると言われていますが、この五蘊の空を観ると、五蘊は停止します
また、マナ識から沸き上がる、自動思考の空を観ると、それも停止されます
すると、マナ識の転識得智が生起こることとなります
これが私なりの、無明→明(慧)の、一連の仕組みですね
幾つもの宇宙創世と終末期を観ました
その中で、数え切れない衆生の輪廻を重ねる姿も観ています
まあ、兎に角
1無明(マナ識の恒審思量)が破れる
2マナ識の平等性智への転識得智が起こる
3悟り現象(香厳撃竹の如き)が複数起こる
4我在りの本来の面目に在ること
5ここで、自然にただ在るの坐が、起こる
6頭頂からの出神(沙門果経にある)
7眉間からの放光、アストラルに抜ける
8四聖諦の苦の理解
9漏尽智を得る、解脱
10三明・六神通力の何れかが現れる
11完全なる滅であるニルバーナに至る
炎の消えた処
この様な、先人修行者が辿った、実際の事実と、同じことが、自分に起こっていないなら
未だ本当のことは始まってもいないし、分かってもいないと、思って間違いないです
本来面目とは、自分無し、ですよ。。
自分消えた後の、周りすべて、それが現成する、本来の生が蘇る、と言った感じですね。。
死んでいたものが生き返るんだけど、自分じゃなくて、全体が、蘇生する。。
自分はいったん死ぬんです。。
で、枯れ木に花が咲くんです。。w
≫484
黄金の赤児が産まれるんですよ
それが無相の【在る】です
一旦これが現れない場合、外界へ識が向かってしまい、相を取って
世界が我だ!と、錯覚するんです
正しくは、脚下にあって不動の在るが生起されなければ
それは偽の悟りを得たのです
その無相在るの赤児は、究極の個であり、主人公なんです
これが、更に漸く無為に坐すと、悟り現象を伴って弾け飛ぶ!すると個は空無となってしまう
ここで一回、認識が完全に滅します
この先は、知らない、語れない、なんです
認識が滅され落ちたなら、心底知らないんです、何もない、何も知らない
世界が、他が、自分だなんて、知らないんです
自分がいないのに、誰が何を知るのでしょうか?知りません
知らないんです!本当に
≫悟り現象を伴って弾け飛ぶ!
すると個は空無となってしまう
これを、道教仙道では
【虚空粉砕】と呼んでいるようです
智慧は禅定から発現するのであって、普段日常の意識からは発現しませんよ?
禅修により三昧発得し、はじめて智慧が発現するんですよ?
その智慧は直観智であり、それが後得智として普段日常意識の中で活かされるんですよ?
その【果】は、段階を追って、垂直次元的に、上辺へ移行して行きます
宇宙的我の体験は、その最高峰だということ
そして、それは、ブラフマンの体験と同一である
ーーー
また【三明・六通】の三明 GoogleAI
【三明】( 「明」は智の意 ) 仏語。
仏・阿羅漢(あらかん)が備えている三つの智慧。
1)すなわち、過去の事を明らかに知る、【宿命明】
2)未来の事に通達する【生死(天眼)明】
3)現在の事を明らかにして煩悩を断ずる【漏尽明】(ろじんみょう)
をいう。
ーーー
そして、この1→2→3と言う上昇の流れは、身体次元が違う体験智なのであります
この身体次元の分け方は、仏教の初期経典に於いて、記述があるかの確認は出来ていません
この身体次元の分け方は、ウパニシャッド哲学、神智学などの【秘教】によります
つまり、初期経典で言われる【三明六通】とは、もともとウパニシャッド哲学系統の伝統によるものなのです
この3つの慧は、アートマン→ブラフマンの次元へ移行するに連れて体験され知られるものなのです
≫妄想の中にいなければそうなります。。
感覚が冴える、これは、目覚めている時に、意識内に、妄想念仏が無いことを示します
この状態は、例えば
テレビをただ無心に観ていたとします、すると、意識心は、集中の状態になります
【集中の状態】とは、一時的に、1【思考】と2【妄想念】が 無くなって
経典に言う処の【 心 一境 性 】つまり、心の 1【尋ね】2【伺う】動きが全く無くなるとことで
要は、想う処が一切合切無くなり、心が一つに一体になって、対象に向かっている
そのような状態( 心 一境 性)を言います
この時、【感覚が研ぎ澄まされ、鋭敏になる】のです
これは、第二禅定の喜悦が無い状態~第三禅定の楽の状態と同等の状態であります
更に進むと、目覚めた状態で、第四禅定の身心脱落を伴わない、識だけで、周囲の空間に溶け込んだような、一体になったような状態になるようです
まあともあれ、【感覚が研ぎ澄まされ、鋭敏になる】状態とは、目覚めながら第二禅定以上と同等な、坐らずに至る定の状態であると、結論されます
欲世間で行動してた後、喫茶店に座るなりしたとしましょう
そして、珈琲を飲み、落ち着くと
それ迄の喧騒から離れた安堵から、気持ちが解放され【ホッ~】っとして、緊張が緩み、軽い嬉しさが生起され感受されます
この、欲世間から解放された状態、これが【第一禅定】となります
ここではまだ、思考と妄想念は働いています
第二禅定とは、ここから、荒い想い(尋)と微細な想い(伺)が鎮まり、消えた状態となり、喜悦を感受する処です
禅定初期の段階では、昼間の目覚めている時間帯で、外界に向かっていた、心(思考と妄想念)が消えることは
眠りに同じく、初めて第二禅定へ入る人は、朦朧としながらも、ふんわりとした心持ちで、意識は眠ることなく、眼を開けていられなくなりがらも
軽い喜悦を感じつつ、閉眼へ移行して、第二禅定へと入禅定します
まあ、欲界から第一~第二禅定への流れは上記のようになると思われます
1【 居眠りの逆で、感覚が研ぎ澄まされ、鋭敏になるのが、まともな坐禅です。。
妄想の中にいなければそうなります。。】
これが
たまに、または、たまたまであるなら、それはそれで、瞑想禅定に於いては、それなりの実践を積んだ者であると、言えるでしょうね
更には
自由自在に、普通の状態から、ほぼ瞬時に、1の状態へ、何時でも移行されるのであるなら
それは、ロンさんへの見方を、変えざるを得ないでしょうね
それは、最早、悟った人の行状だからであり、内界心と外界心の壁が無い、一つの心の状態だからです
六無為
1虚空・2択滅・3非択滅・4不動・5想受滅・6真如)の因縁依によって
縁成生起した≪想念の浄域≫に、永時あるいは寸刻の間、≪所住する意識≫をいい、
因縁依・増上緑依・等無間縁依により、
≪意識の領域≫に「定果色」「受所引色」を摂受する。
(『唯識初歩』松久保秀胤 より)
●仮法の定所引色とは
凡夫が禅定中において作り出す色であり、
●実法の定所引色とは、
【八地以上の菩薩】が、
ひとびとを救済するために作り出す色、
たとえば
≪土砂≫を
≪金銀や魚米≫などに
≪変化せしめた≫ものなどをいう。
【仮法には実体もなく】【実際の用(実用)もない】が、
【実法にはその両者がある】。
ーーーーー
なにげに驚くこと言ってるよ~
インドじゃ、実法という物質化などをする、ババジのようなヒマラヤ聖者が、当時から存在していたと言うことですね
実体化するほどの定力!
キリストの奇跡のような事象!
1色において、欲・貪・喜・愛を断つがよい。
そのように断つことによって、かの色は、あたかもその根を断たれ、その頭を断たれ多羅の樹のように、まったく無に帰して、
もはやふたたび生ぜざるものとなるであろう。
また、ラーダよ
2受(感覚)において、欲・貪・喜・愛を……
また、ラーダよ
3想(表象)において、欲・貪・喜・愛を……
また、ラーダよ
4行(意志)において、欲・貪・喜・愛を……
また、ラーダよ、識(意識)において
5欲・貪・喜・愛を断つがよい。
ラーダよ、そのように観じて
わたしの教えを聞いた聖なる弟子たちは、
1色を厭い離れ
2受を厭い離れ
3想を厭い離れ
4行を厭い離れ
5識を厭い離れる
1【厭い離れる】ことによって
≫【貪りを離れる】≪
2【貪りを離れる】ことによって
≫【 解 脱 す る の で あ る】 ≪
●
すでに【解脱するにいたれば】
わたしは【解脱したとの智が生じて】
≪わが迷いの生涯はすでにおわった≫
≪清浄なる行はすでに成った ≫
≪作すべきことはすでに弁じた ≫
このうえは、もはや、かような
【迷いの生涯を、繰返すことはあるまい】
と【知ることができる】のである。
そして五蘊の【遠離】は【悟り】ではなく
【解脱】に至るんだね
このスートラは、とてもシンプルな説明で解脱を差示してくれています
ここには、心解脱、慧解脱の文字も、三明・六通の文字も無い
ただ【解脱知見】だけが言われている
ーーー
すでに【解脱するにいたれば】わたしは
●【解脱したとの智が生じて】●
≪わが迷いの生涯はすでにおわった≫
≪清浄なる行はすでに成った ≫
≪作すべきことはすでに弁じた ≫
このうえは、もはや、かような
【迷いの生涯を、繰返すことはあるまい】
と【知ることができる】のである
最後まで残る感覚が、【聴覚】であると言われていて
植物人間になった人が、大好きだった歌を聴かせたら、涙を流したり、手に反応が起きたりするといいますし
更には、医師が死亡宣告した後でも、意識は有って、その意識は音、声は聴こえているとも言われていています
この【聴覚】は、意識の、最も深い処へ到達しているはずです
悟り現象が、頻繁に【音】を契機として、引き起こされることは、上記のことが、1つの因として考えられないでしょうか?
≫厭い離れることによって愛するものから離れるならばもはや苦しむことも無かろう
何故?愛執着が起こるのか?
これを釈尊は、【喜び】を生起させる物事が愛執着を引き起こす、として
その【喜び】を引き起こす、それを捨て、離れることを教えますね
愛執着の【依存】対象から、遠く離れることで、【喜び】を断って、依存の習慣を解消する
これはギャンブル依存とかにも適応されます
依存対象からの遠離が、道であるということでしょうね
≫泉云く、「道は知にも属せず、不知にも属せず。
知は是れ妄覚、不知は是れ無記。
若し真に【 不 擬 の 道 】に達せば、
猶お【 太 虚 の 廓 然 】として 【 洞 豁 】なるが如し。
豈に強いて是非すべけんや」。
州、言下に頓悟す。
【不 擬 の 道 】は【知る、知らない】の向こう側
これ、【疑念の無い処】
【知らない】とは【無記】なだけで
【不疑】では無い
これは
【静になる】と【寂滅、寂静】の違いが何であるかを、体験的に了解せられていないと、【不疑】ということが分からない
南泉和尚は確かに知っていますね
そして、それを聴いて、悟った趙州
この禅は確かだね
むち/無知
知がないこと、あるいは知らないこと。Ⓢajñānaの訳語。痴(Ⓢmoha)、無明(Ⓢavidyā)などとほぼ同意語であり、断ずべきものとされる。
『俱舎論』では「諸の無知は、よく実義を覆い、および真見を障るをもってのゆえに、説いて冥となす」(正蔵二九・一上)
といわれ、無知は冥すなわち暗闇であるとされる。
この無知には
1【染無知】(あるいは染汚ぜんま無知)と
2【不染無知】(あるいは不染汚無知)の二種類がある。
【染無知】とは汚れた無知のことで【煩悩としての無知】すなわち【無明】のことといえる。
【不染無知】は、汚れていない無知、あるいは【劣った慧】とされる。
この不染無知は、汚れてはいないものの、仏のみが具える徳(十八不共法)などについて、明らかに知ることができない無知のこととされる。
このような染無知と不染無知について、
声聞・独覚は染無知のみしか断じていないが、
≪仏は【二つの無知】を
完全に断じている≫とされる。
池 田 道 浩
問題の所在所知障(jñey vara a)の有無は、大乗と小乗とを区別する概念の一つである。
小乗では煩悩障を断つことはできるが、所知障を取り除くことはできず、人無我の理解に留まる。
大乗では煩悩障のみならず所知障をも除去することが可能であり、小乗では不可能だった法無我を理解することができる。
この所知障の所知(jneya)について、瑜伽行派には二つの解釈があった。
●一つは、知られるべき「真実(tattva)」とする説。
●もう一つは「一切法、一切の所知」とする説である。
池 田 道 浩
問題の所在所知障(jñey vara a)の有無は、大乗と小乗とを区別する概念の一つである。
小乗では煩悩障を断つことはできるが、所知障を取り除くことはできず、人無我の理解に留まる。
大乗では煩悩障のみならず所知障をも除去することが可能であり、小乗では不可能だった法無我を理解することができる。
この所知障の所知(jneya)について、瑜伽行派には二つの解釈があった。
●一つは、知られるべき「真実(tattva)」とする説。
●もう一つは「一切法、一切の所知」とする説である。
仏教の無分別智の起源を考える時、
特に『SN734詩』と『SN735詩』が注目される。
識別作用に関して、
『SN734詩』の前置き文のような形で次ぎのような注目すべきブッダの言葉がある。
●ブッダ
1『およそ、苦しみが、生ずるのは、すべて【識別作用】に、縁って、起こるのである』
というのが、一つの観察(法)である。
2『しかしながら、識別作用が、残り無く、離れ、消滅するならば、苦しみの、生ずることがない。』
というのが第二の観察(法)である。
このように二種〔の観察法〕を、正しく観察して、怠らず、つとめ励んで、
専心している、修行僧にとっては、二つの果報のうちの、いずれか一つの、果報が期待される。
すなわち
1【現世における さとり(阿羅漢)】か
あるいは、煩悩の残りが、あるならば
2【この迷いの生存に戻らないこと(不還)】である
-師(ブッダ)はこのように告げられた。そうして、吉祥なる師は次ぎのように説かれた。
スッタニパータ734詩
『 およそ苦しみが生ずるのは
すべて【識別作用(識)】に縁って起こるのである。
【識別作用】が消滅するならば
もはや苦しみが生起することは有りえない 』
スッタニパータ735詩
『 苦しみは【識別作用(識)】に縁って起こるのである、とこの【禍いを知って】
【識別作用を静まらせた】ならば
修行者は
1【快をむさぼることなく】
2【安らぎに帰している 】のである 』
https://i.imgur.com/UhBI0I3.jpeg
スッタニパータ1110詩
『 どのように、気を付けて行っている人の、識別作用が止滅するのですか? 』
スッタニパータ1111詩
『 内面的にも、外面的にも【感覚的感受を喜ばない】人
このように、よく気を付けて、行っている人の【識別作用が止滅する】のである 』
確かに、坐禅を実践すれば心は安らぎ癒される。これは経験的事実である。
坐禅によって【下層脳が活性化】し、心が安らぎ癒されるためだと考えられる。
≪無分別智≫は後世の大乗仏教では
≪般若智≫となる。
これが禅宗に受け継がれて行ったと考えれば分かり易い。
≪無分別智や般若智≫は、ブッダの智慧とされている。
その起源を上述のように考えると、仏教の本質は、脳科学に直結する合理的なものだと言えるだろう。
ブッダは【縁起のプロセス】を、正しく観察し、怠らず、修行に専心してつとめ励むことを重視している。
これは坐禅修行で≪無分別智≫を開発するとともに
合理的な≪分別智(上層脳、理知)≫を働かせること(正見)を意味している。
ブッダは無分別智とともに分別智から生まれる「正見」を重視したと言えるだろう。
これを次の図4.5に示す。
● 図4.5 識別作用(識)の止滅から般若智への流れ
この図4.5から分かるように
≪無分別智≫とは
下層脳の活性化と合理的な≪分別智≫(正見)から成ると考えられる。
禅定に入ることによって【識別作用(識)】が寂滅すると、活性化された下層脳だけになる。
しかし、下層脳は≪分別智≫(理性や知性のもと)と違って無意識脳だから、それから【智慧】が生まれるはずはない。
上層脳の合理的な【分別智】(正見)によって下層脳を補助することで真の智慧になると思われる。
ーーー
パ註釈
分別智において、見えた、理路を、無分別智において、捉え直す
これが【慧】ではないのでしょうか?
https://i.imgur.com/Qv7HTV5.jpeg
普段は、情動的な動きとしてしか現れない、無意識で潜在的な辺縁系の2【無分別脳】が
1と2共に意識されて、共同で働くことが、悟った後の在り様ではないのか?
と推論されます。
≫660.
仏性とは何か。
それは、
仏、を実体化したものである。
そこに、誤り、がある、ことになる。
無、とか、空、とかは、
その、実体化の否定である。
ーーー
お見事(ノ゚∀゚)ノ
糞スレ終了。
結局、荒らしはタコ介だったというオチ。
**********************
b.『龍樹』 中村元 講談社学術文庫
c.『龍樹『根本中頌』を読む』 桂 紹隆 、五島 清隆 春秋社
中論24:8
a.二つの真理(二諦)に依って諸仏の説法は行なわれる。世間一般の理解としての真理(世俗諦)と最高の真実としての真理(勝義諦)である。
b.二つの真理(二諦)に依存して、もろもろのブッダは法(教え)を説いた。(その二つの真理とは)世俗の覆われた立場での真理と究極の立場から見た真理とである。
c.諸仏は二諦(という二種の異なるレベルの真実)に依って教え(法)を説くのである。すなわち、世間の常識としての真実(世間世俗諦)と究極的な意味での真実(勝義諦)とである。
24:9
a.これら二種の真理の区別を知らない人々はブッダの教えにある甚深の実義を知らない。
b.この二つの真理の区別を知らない人々は、ブッダの教えにおける深遠な真理を理解しないのである。
c.その二諦の区別を知らない人々は、(諸)仏の深遠なる教えの真実を知らない。
24:10
a.言語習慣によらないでは最高の真実は説きえない。最高の真実に従わないでは涅槃は悟りえない。
b.世俗の表現に依存しないでは、究極の真理を説くことはできない。究極の真理に到達しないならば、ニルヴァーナを体得することはできない。
c.言語活動(言説)に依らずして、究極的なもの(勝義)は説示されない。究極的なものを理解せずして、涅槃は証得されない。
環境(身心含む)と不分離であって
それが、輪廻の世界なわけです
その環境(身心含む)は、識では無いとし
そこからの離脱を教え指導したのが、釈尊であって
識が環境世界から、離脱することを、解脱とし
識 単体になると、それは空で無であり、消えてしまうということを
ニルバーナと教えた
悟りと解脱は、明確に違う体験です
悟りでは、環境からの完全な離脱は、しません
識として、身心に在って、環境(他者)と1つで在りつつ
1つでは無いと知りつつ(識として在りつつ)、1つとして、平等のなかに在る生き方
自他が1つ(表裏)の中で、識として空、無である生き方
この様に在ることが、大乗(悟った後)としての生き方だろうと
初期仏教では、森林で暮らしつつ、飲食の乞食の時だけ、世間環境と接触して来ましたが
大乗を名乗った一群は、森林ではなくて、街中に住んで、その中で、識を空無の状態で生きることで、環境と一体のまま、解脱せずに、悟りの状態で同化する道を選択したのだろうと・・・
一如平等の意識を
体験として知るには
坐禅の意識で、騒音環境のなかに在ることで、わかります
駅とか、交通量の多い道路脇や、工事現場の近くなどの、始終騒音のある場所
この様な、とてもうるさい様な場所で、無分別三昧状態に、なってみてみれば
判ります
騒音が騒音で無くなり、静寂が静寂で無くなる
騒音が静寂と1つになっていて、騒音に煩いが無く、騒と寂の差別が無くなっている処
その時、識と環境が如の状態に在る、ということですね
二つ一でも無く、一でも無い
ゆえに、一如ではなく、真如でも無い
寂如境とでも言うべきか?
いや、只の如が一番ピッタリか?
それは【出離】であって
【思考の及ばない静かな境地】は
【苦しみのことがらの止滅】であり
【つくるはたらき】の静まった安楽である。
そこには、すでに有ったものが存在せず、虚空も無く、太陽も存在せず、月も存在しないところのその境地を、わたくしはよく知っている。
z
来ることも無く、行くことも無く、生ずることも無く、没することも無い。住してとどまることも無く、依拠することも無い。――それが苦しみの終滅であると説かれる。
水も無く、地も無く、火も風も侵入しないところ――、そこには白い光も輝かず、暗黒も存在しない。
そこでは月も照らさず、太陽も輝やかない。聖者はその境地についての自己の沈黙をみずから知るがままに、かたちからも、かたち無きものからも、一切の苦しみから全く解脱する。
さとりの究極に達し、恐れること無く、疑いが無く、後悔のわずらいの無い人は生存の矢を断ち切った人である。これがかれの最後の身体である。
これは最上の究極であり、無上の静けさの境地である。一切の相が滅びてなくなり、没することなき解脱の境地である。
ーーー
判りますね?
心経はこの究竟涅槃の様相を語っているの。
この世界のことじゃないの。
ホワイト・ターラーさんblogより
心にはもとより【妄念の始め】などは無いのだ。
それは【微細な妄念の動きを遠離】しているのであり、
そうした【心の内面を見とどける】ことができてこそ、
心はつねに安住するのであり、
≪【これを絶対の目ざめ】≫と名づける
『 大 乗 起 信 論 』
臨済の言う【本来の面目】であり、ターマナマハリシの言う【私は在る】の私だ
そうした【心】が動きだす時に、【妄想念の初端】は無いのだ!と、大 乗 起 信 論 は述べている
つまり、故に
『それは【微細な妄念の動きを遠離】しているのであり』
と、明かしているのである
その【本来の面目】や存在している【私】という【心】は
微細なる【妄想念の妄動】から離れて存在するのだと
この妄想念から、もとより離れていて、如何なる影響も受けない【一心】
この内なる心を【みとどける】とは?
実際にそれを見ようとするのでは無いのであって
見るように能動的になるのではない
それは、その【心】で【在る】と言うこと
なのです
それであってこそ【安住する】が意味を持つのです
【私】が家に【在る】時【安住】するのである
これを、≪【絶対の目ざめ】≫だと、大乗起信論の論者は言うのであります
私はこの言は、正しいことであると、知っています、本当に正しいです
ここを、悟り現象の後の処と、認めたいです
🧟
是無上呪 是無等等呪
パーリー相応部、35ー53、35ー79、80、
『 如実に慧(さと)らざるが故に【無明】と言われる 。』
『 六根、六境、六識、六触、六受、の無常なることを知り見る者には、
【無明】が滅して【明】が生じる 。』
上記経典では・・・
智慧の『慧』を『慧り(さとり)』とし、
『慧(さと)らざるが故に【無明】と云われる』と言っています。
(慧を恣意的にさとりに当てたのか?それは不明)
また『無明』が滅して『明』が生じる、とも言っています、
そして漢訳の『是大明呪』はサンスクリット訳では②大いなる『智慧』のマントラであって、
『 明 = 智 慧 』の同義語の関係にあります。
さらに上記のパーリー相応部、35ー53、35ー79、80、の言葉を、前後の意味から考えますと、
『慧り(さとり』と『明』は同義語であると考えられますし、また、慧(さと)りの慧は、智慧(ちえ)の慧でもあります。
以上から、②大いなる智慧のマントラ、の『智慧』は、『明』であり『慧り(悟り)』なのだと結論付けられます。
『大いなる智慧のマントラ』とは『大いなる悟りのマントラ』でもあり『大いなる光明のマントラ』でもあると言えるでしょう。
でおー🫵😂
教会や寺社から出禁処分!
神社での失禁!
文化財の破壊!
一時期措置入院!
現在も統失発狂!
バイトを即クビ!
↓
●【思考の及ばない静かな境地】は
『 六根、六境、六識、六触、六受、の
●無常(空)なることを知り見る者には
ーーー
1思考の及ばない静かな境地
(第二禅定~第四禅定)
と
2無常=空を【知り】【見る】
( 如 実【知】【見】)
おはよ~ございます☀️😃❗
そのくせ、それらの人は「わたしは悟りを開いたブッダである」とのたまいます。
ひつこく言っていますが仏教に於いては悟った程度ではブッダとは言いません。
悟りくらい在家で現れる程度の到達に過ぎません。
あのね、どんな瞑想をさせたらどんな達成を身に備えるなど、知ってなきゃならないの。
要するにブッダとか如来と言うのは、瞑想を初めとする修行を創始する能力があるのね。
だからマインドフルネスや四念処を説くことが可能なんですよ、気づいてた(^^)
わたしがこれを言うと、ここを見た自己顕示欲や承認欲求の強い人はこの文章を自分の説として語りだすかも知れません^^;
気をつけてくださいね。
はい、説明します。
四聖諦や、八正道、十二縁起というのは三つの明智という智慧によって事実、修行者はその具体的な経験が起きます。
ーーー
サッチャ・サンユッタ(真理相応)
第一 サマディ品
第一 サマディ(三昧)
すると、世尊はこのように語られたのです。
「修行者諸君、君たちはサマディを修習しなさい。
修行者たちよ、サマディに入った修行者は如実に認識し理解するのである。
では、何を如実に認識し、理解するのであろうか。
「これは苦しみである」と如実に認識し理解し、
「これは苦しみの生起である」と如実に認識し理解し、
「これは苦しみの滅尽である」と如実に認識し理解し、
「これは苦しみの滅尽に至る方法である」と如実に認識し理解するのである。
ーーー
実際に体験が起きるよと言ってる。
by ホワイトターラー
ここは私が数ヶ月近く、備忘録用に使っている処なので
終わらせないでほしいです
宜しくお願いします
m(_ _)m
虚空も無く(空間が無い)、太陽も存在せず、月も存在しない(太陽と月の出没で日にちの経過を知る。つまり時間が無い)ところのその境地を、わたくしはよく知っている。
水も無く、地も無く、火も風も侵入しないところ――、そこには白い光も輝かず、暗黒も存在しない。
そこでは月も照らさず、太陽も輝やかない。聖者はその境地についての自己の沈黙をみずから知るがままに、かたちからも、かたち無きものからも、一切の苦しみから全く解脱する。
「盤珪、実に止だ如出くなるのみ歟!若し実に如此き見解なれば、則ち未だ凡夫の窟を出ず。
豈に仏性仏心の談に及ばん哉!
何となれば、【思量せず】して領納する底は是れ【受と名づく】、
即ちの【五蘊の第二なる耳】。
是の故に、古徳〔宗密)いわく、
か「【諸受を受けざる、是れ正受と名づく】と。
若し此の【受を認め】て以って【本有円成の活仏心】と為せば、
則ち轅を北にして越に向うなり。未だ二乗の小径に入らず、況や仏祖の大道を乎!祖師(三祖「信心銘」)云く、
毫釐も差有れば、天地懸隔すと。実に是れ天地懸隔なり。
毫里も差有れば、天地懸隔す!
かぁ~
> ひつこく言っていますが仏教に於いては悟った程度ではブッダとは言いません。
> 悟りくらい在家で現れる程度の到達に過ぎません。
確かに!
それは言える
> ここは私が数ヶ月近く、備忘録用に使っている処なので
貴重な記録ですな!
次に【想→行】がまだ控えていて
【識】では眼識~意識まで六つある
ここを【諸受】とし、以下が謂われていつ
ーーー
『諸受を受けざる、是れ正受と名づく』と。 ーーー
つまり
釈尊も言っているが、六処は残ると、しかして
それ、六処の以前まで遡っての、寂静であって
其処では、【諸受を受けざる】それが【正受】であると言うっている(>65)
よって、解脱の場合と同様の動機で希求される「六根清浄」も、
似非仏教徒の鹿野園には不可能。
……不可能な事を祈念するとか、このスレ立てた奴の性格の悪さがよくうかがえるわ。w
ところでこの(根元的無知)の相は、(さとりの本質)(覚性)と別の体あるものではない。
したがって、これを壊滅できるとも、できないとも言えない。
それはたとえば、大海の水が風によって波立つようなものである。
この場合、水の相と風の相とは不可分な関係にあるが、さりとて水は(風のように)動くのが本性なのではない。
そこで、風が止めば(水の)動きもなくなるが、そうなっても、水の本性たる湿性はかわらない。
それと同様に、衆生の(自性清浄心)は<無明>の風が吹くと動き出す。
しかし、心も無明も、ともに(固有の)形相があるわけではなく
ただ相互に不可分の関係にあって機能しているのである。
しかも、心は動くのが本性ではないので、
無明の動きがとまれば、心の動き、すなわち刹那ごとの生滅のくりかえしによる連続(心相続)は消滅する。
さりとて、その本性としての智「すなわちさとり」のはたらきは破壊されない。
(『大乗起信論』宇井伯寿・高崎直道訳・注)
内外(六識六境)からの情報によって、反応し、作動し運転される
この自動的に動き思考して作用して行くことを
釈尊は【生活作用】とされ
無明→生活作用とされました
無明とは、機械性のことであり、そこに覚醒された覚性、悟性は皆無であるということです
わたしはこのように聞きました。
ある時、世尊はクル国のカンマーサ・ダンマの市場街に留まっておられました。
時にアーナンダ尊者は世尊の元に赴いたのでした。
世尊の元を訪れたアーナンダ尊者は、世尊にご挨拶をしてから、その一隅に坐してこのように世尊に申し上げたのです。
「尊師よ、驚くべきことです。
尊師よ、不思議です。
縁起の法則がこんなにも奥が深いとは!
また、これほど奥深い内容を有するものだとは!
しかし、わたしにはそれは単純であり、それほど難しいとは考えられません」
「アーナンダよ、そう言うな。アーナンダよ、縁起の法則をそのように軽々しく言ってはならない。
この依りて起こる(因果関係)ことは、君が考えている以上に奥が深く、また深淵な様相をもつものなのだ。
この法則を理解せず、洞察が無いがゆえに、世の人々は、あたかも織り糸が乱れて絡み合うさまを呈し、紐がもつれ合う様となり、い草や雑草が絡み合う様となって、苦しみの生存、悪趣の世界、破滅世界、輪廻から逃れられないのである」
そこで一体何をしたら「修行」と言うの?
これをサンスカーラと言って、前世から引き継ぐ欲望です。
そして、そのサンスカーラの動きを完全に自覚しようと把握に勤めている状態を「修めている」と表現しています。
上の喧嘩の例の、
(相手の気持ちや相手が置かれた立場をわたしは理解しているのだろうか?)
という性格の人に瞑想などを通じ、わたしは変わって行こうとすること、これが修行です。
普通の人は、ただその時の場の雰囲気に乗っかって、気分のままに流されています。
全く自覚が存在しません。
分かってもらえましたかね^^;
えと、きっと疑問が出ると思うので、追加でちょっと言っておくとね。
「じゃ、道元やSさんの名色の停止が悟り。というのは、どう絡んで来るのだ?」と。
心身脱落のことですね。
また、十二縁起のところで再び出てきますけども、
1無明
2行
3識
4名色(これが停止したのを心身脱落と言います。名が心の働きで、色は肉体)
5六処
6接触
4の停止で(自分はどこにもいなかった)と知ります。
これが無我の体験ね。
煩悩の主体が消えたものだから、欲望も消えます。
これが悟りの状態。
しかし、無明そのものやサンスカーラは残っているのね。
3と4、つまり識別と名色は連動していて、どちらかにアプローチして止めてしまえば、識別も名色も停止して悟りがやってきます。
ところが、無明と行は密接に絡んでいて、
無明が破壊されると完全に衝動が消えます。
これはほぼ、同時に起きます。
ここのところを煩悩漏と呼びます。
「何を成立条件として名色(心の働きと形態の獲得・・・身体のこと)が有るのだろうか?」と、問われたならば、君は
「識別を成立条件として、名色がある」と応えるべきである。
「では何を成立条件として、識別が有るのだろうか?」もし、そう問われたならばアーナンダよ、
「名色を成立条件として、識別がある」と応えるべきである。
このようにアーナンダよ、
名色を成立条件として識別が。
識別を成立条件として名色が、
名色を成立条件として接触が、
接触を成立条件として感受が、
感受を成立条件として渇愛が、
渇愛を成立条件として取著が、
取著を成立条件として生存が
生存を成立条件として誕生が、
誕生を成立条件として老死、苦悩、憂鬱、悲嘆、不安が生じる。
このように苦悩の集積が生起するのである
名色→識(認識)ときて、1名色停止→2認識停止
2の認識の停止が起こると、それが悟り現象の体験です
ここから、次に3行(生活作用)の停止が起こりますが、出家でもない限り、ここは透過できないでしょう
3を通過して4で無明を明らかにして解脱されます
つまり、輪廻を超越します
個人的な霊魂から集団的な大霊へ進みます
釈尊が宇宙を体験したのが4であって、三明六通はここで生じます
さて、アーナンダよ。
執着を成立条件として生存があるとわたしは語った。
この因果関係は次のような仮定によっても、理解されなければならない。
もしアーナンダよ、誰にとっても、いかなる場合においても絶対的に執着が生じないと想定せよ。
その場合、
欲望の対象における執着 (愛欲取)
誤った見解に固執する執着 (見取)
因果関係を無視した儀礼、ルールに囚われる執着 (戒禁取)
持論に固執する執着 (我語取)
等、このような様々な執着が存在しない場合である。
そのような執着が止滅している場合に、生存が認知されるだろうか?ということである。
どうだ、アーナンダよ?」
「いいえ、世尊よ。それはあり得ません」
「そうだ、それ故アーナンダよ。生存にとって執着、これこそが原因であり、成立条件であり、執着を起因として、執着を起源として、執着に拠って生存が有るということが理解されねばならない。
これによって生存は執着を成立条件とするとわたしは言う」
一つは欲界、利益を欲しその実現を願って行う真言、マントラ
二つには色界、文字として現れ、音声として響く
3つには無色界(精神-メンタル界)、真言、マントラ毎に、込められた願い理念の想い、意味がある
この上に位置するのが、無名(無言)、無形(無色)の白光であり
霊性界、カラーナ界と言われ、個の最終形態とされる
この上は無個であり逆にいえば、すべての個の集合体である宇宙である
そして釈尊はここを体験されたと、経典にある
世界平和の祈りも同じであって、故に白い光、つまり高級神霊の光が現れる
そして、釈尊の言われるニルバーナは、この白い光すら消えた処と、自らが語ったと、経典にあります
つまり、個人の最終形態の滅が、ニルバーナであり、故に釈尊も宇宙我を体験されたのである
←←2行(生活作用-潜在的な能動性)
←←3識(識別-認識)
←←4名色(ナーマ名称・ルーパ形相)
←←5六入(6つの感覚器官)
4において、脳の言語化作用の停止が起こると
3の識別-認識作用が停止され
更に生活作用の潜在的な能動性が停止します
ここが坐断された悟りの現象体験される処です
つまり、5の六入(多分に耳の音声と眼の色による)が機縁となって、4へ移行して、2まで行くのが、悟りのメカニズムである
1まで行き、無明が滅すると、ニルバーナへ移行し、個人我を解脱されます
悟りからニルバーナへは数生必要であろうと思われます
(2)行(ぎょう)(サンスカーラsanskāra) いっさいの潜在的な能動性。
(3)識(しき)(ビジュニャーナvijñāna) 識別し認識する働き。
(4)名色(みょうしき)(ナーマ・ルーパnāma-rūpa) 名は名称、色は対象一般。
(5)六入(ろくにゅう)(シャド・アーヤタナa-āyatana) 眼(げん)・耳(に)・鼻(び)・舌(ぜつ)・身(しん)・意(い)(心)の六つの感覚器官。
(6)触(そく)(スパルシャsparśa) 対象との接触。
(7)受(じゅ)(ベーダナーvedanā) 対象の受容。
(8)愛(あい)(トルシュナー) 対象への傾倒・欲望・とらわれ。
(9)取(しゅ)(ウパーダーナupādāna) 対象への執着・むさぼり。
(10)有(う)(ブハバbhava) 生存。
(11)生(しょう)(ジャーティjāti) 誕生。
(12)老死(ろうし)(ジャラー・マラナjarā-marana) 老い死ぬこと。
無我は個人の精神と肉体の分解分析的結果の在り様のことで
無我というのは、これはネイティーこれもネイティーと消していくので、手法としては否定を使うけど
否定された最終的な結果の無我自体は、否定や肯定といった、判断比較から離れていて、ニュートラルであるはずですね
無常も同様でしょう
自他の関係性から自我を形成していくのは、人間を含めた動物のマインドの形成過程でのことですよね
脳に形成される心(マインド)である自我をエゴと言いますが、そのエゴは実は存在しない無我です
それとは違う超自我とも言うべき【我】は、自他に関係なくて、個として他人と切り離されて、単独で存在を自覚されるもので
その自覚を悟ると、人は臨済の言う無位真人として現れる
個というのは、独りであること、つまりは個がイコール全体であるということですね
自他が個に集約統合されると、中心たる我と周囲としての環境との間に、対立が無くなるようになるってこと、または無くなりつつある状況が現れる
去年まで煩いと思ってた町内の子供の騒ぐ声が、今年は気にならないとか、犬の鳴き声が鳥の囀りレベルに自然に聴こえる、など
それまで騒音として拒絶されてきたものが、受容されるようになってくる
個と環境が一つになると、全てに隔てがなくなるようになってくる
みたいなね
「さて、アーナンダよ、わたしは渇愛を成立条件として執着が有ると。
このように言ったが、ではアーナンダよ。
それは次のような仮定によっても理解されるべきである。
もし、仮にアーナンダよ。
渇愛が誰にとっても、いかなる場合においても全くもって存在しないとしたならば、例えば
視覚の対象における渇愛
聴覚の対象における渇愛
味覚の対象における渇愛
臭覚の対象における渇愛
触覚の対象における渇愛
思考の対象における渇愛が全く無かったと想定せよ。
これら何においても渇愛が存在しない、または止滅していると。
その場合、果たして執着が認知されることが有るだろうか?」
「いいえ、尊師。それはあり得ません」
「そうだ、それゆえアーナンダよ。執着にとって渇愛こそが原因であり、起源であり、起因であり、渇愛が執着の成立条件であるとわたしは言う」
長部経典第14 マハーパリニッパーナ・スッタ(大般涅槃経)
https://i.imgur.com/guFWwyY.jpeg
https://i.imgur.com/8tdtANW.jpeg
https://i.imgur.com/EJByvpB.jpeg
https://i.imgur.com/ncrcvRk.jpeg
煩悩を随縁にうろうろするんやなくて
あくまでこちらが制御する
煩悩即煩悩
煩悩即菩提
とするんやないかな
りだんの言ってることはよく分かる
選択の自由ってことかと
観照の位相に達すると、必ず上記のような思いが生じます
生じたら欲を取るも取らないも、自己の自由性によるんだと
この段階では、完全に彼方側へ渡りきっていないので、
その意味は、構築された自我が一旦解体されるという段階が、未だ来ていないが故に、そのように欲の対象側に行くこともあるということ
ボーディーチッタの清浄心からの観点から言えば、選択の余地は無くて、欲そのものが無いと言える
しかして、これは選択の自由だと思ったとしたら、それは構築された自我(エゴ)の側が、ボーディーチッタのふりをしていると言う演技であり罠でもあるのだと
完全に、この境界を渡りきったアラハンには、欲を選ぶという選択はあり得ず、そもそもに欲の生起そのものが無いからである
その意味は、構築された仮の自我が、完全に滅びて無くなったらからであり、その様な仮の心が無いのであって、心(仮の)が無いから【無心】なのであり
無心とは本当の心(ボーディーチッタ)のことであり、それを佛教用語では本当の心である【本心】と言うのである
無心(カリノココロが無い)→本心(本当の本からの心)
煩悩を選択した場合、これは煩悩(自我エゴ)側からの嘘も方便ですね
煩悩に会して、菩提心側から、菩提心に在る位相に留まったなら
それが、煩悩 即→菩提(菩提心)
イズビーが明かす人類の起源と無辺の意識の真相‼
https://m.youtube.com/watch?v=G86rkCBQfnE
雑阿含経
雑阿含経においては以下と記載される。
令我知法見法。我當如法知如法觀。時諸比丘語闡陀言。
色 無常。受想行識 無常。一切行 無常。
一切法無我。
涅槃寂滅。
—雑阿含経(大正新脩大蔵経)
龍樹の著作といわれる大智度論巻十五では、
まだ煩悩を十分に絶つことができないで、【有漏道】(うろどう)にあって
【無漏道】を得ていない人々が「三種法印」を【信ずべきである】として
「一切有為生法無常等印」
「一切法無我印」
「涅槃実法印」
の三法印を示している。
また巻三十二では
「一切有為法無常印」
「一切法無我印」
「涅槃寂滅印」
とよんでいる
通達無礙者。得佛法印故通達無礙。如得王印則無所留離。問曰。何等是佛法印。
答曰。佛法印有三種。
一者一切有爲法。念念生滅皆無常
二者一切法無我。
三者寂滅涅槃
以是故佛説三法爲法印。所謂一切有爲法無常印。一切法無我印。涅槃寂滅印。
—大智度論(大正新脩大蔵経)
2世紀ごろの仏教詩人マートリチェータは自作中において
"dharmamudra trilaksana"という表現で三つの教えを表した。それは以下の通り。
●Sarva-dharma anatmanah
一切の法は無我である。
●Ksanikams sarva-samskrtam
一切の作られたものは刹那(滅)である。
●santam nirvanam
涅槃は寂静である。
マートリチェータはこれらを「esa dharmamudra trilaksana」
(これが『三法印』である)としている。
(「有」または「無」または「有無」または「非有非無」)。
●勝義においては、それらすべての
【言語活動すら止滅する】
(「有」または「無」または「有無」または「非有非無」において、その全ての否定)。
我々は世俗を超えて行く
それにはどうすれば良いのか?と
龍樹は述べる
ーーー
●勝義においては、それらすべての
【言語活動すら止滅する】
ーーー
わたしが今まで学んできた成就者は、この様に言う
曰く
●あなたが3分思考を止められるなら、私はあなたをブッダにしよう!
また曰く
●私は想念停止行を数ヵ月行ってやり遂げた、それから毎晩、想念を止めて統一し続けて、ある日自己の本体である神体に正しく一体となり、覚者となった
わたしは、これら一連の記述から、龍樹のいう
【勝義においては、それらすべての言語活動すら止滅する】の
逆を行じることで、即ち
【すべての言語活動を止滅する】ことで
龍樹のいう【勝義】に在ることが可能になると結論し、実在はそれによって知られるようになると理解した
●一切の心の認識作用の相は、根元的な無知(無明)に根ざしている。
ところでこの(根元的無知)の相は、(さとりの本質)(覚性)と別の体あるものではない。
したがって、これを壊滅できるとも、できないとも言えない。
それはたとえば、大海の水が風によって波立つようなものである。
この場合、水の相と風の相とは不可分な関係にあるが、さりとて水は(風のように)動くのが本性なのではない。
そこで、風が止めば(水の)動きもなくなるが、そうなっても、水の本性たる湿性はかわらない。
それと同様に、衆生の≪自性清浄心≫は
≪無明≫の風が吹くと動き出す(心が)。
しかし、心も無明も、ともに≪固有≫の≪形相≫があるわけではなく
ただ【相互に不可分】の関係にあって機能しているのである。
しかも、心は動くのが本性ではないので、
無明の動きがとまれば、心の動き、すなわち
≪ 刹那ごとの、生滅のくりかえしによる連続(心相続)は、消滅する ≫
さりとて、
その本性としての智【即ち≪さとり≫】の≪はたらき≫は破壊されない。
ーーーーー
本性としての智(知覚?)とは【さとり(覚性)】の【はたらき】である
となろうか
五蘊の他に真我なるものを説くのがヒンドゥー
解ってないね~
ヨーガでは真我を言うけど、真我そのものになった状態を
真我の「独在位」と言ってだな
真我しか存在しない状態とする、これをカイバリヤっていうようだが
そしてだな
この真我の「独在位」になった意識体は、個人としての意識を長くは維持されないとされていて
個として真我の「独在位」に在った後にことしての意識は消滅します、消えるんです
個人として在った過去が粉砕されて一瞬無に帰す
無になった直後に、その意識は、量子的になって超次元的な空間へ解放されて行きます
この個人意識が一時的に消滅された段階が、真の意味でのニルバーナとおれは思っとるが
この個人としての心と体から解放されら量子的な意識は、超次元において、宇宙的な大きさまで拡大されて、
そこで、幾重もの宇宙の創造と破壊期を見るとされます
この宇宙創造の記憶は超次元の記憶階層に記録さていて、それを見ます
そして、自分の意識の誕生から今までのすべての経験をも見るとされます
この一連の流れを、釈尊は覚ってからずっと禅定に在ったまま21日間で見たと、仏伝には記されています
この仏伝を読まずしては、何が仏教でしょうか?と迷うのは当然なのです
>>8
離脱世界ってのは自分の内面がさらけ出される所。発想した事が実現化する世界。
↑
第六天魔王やね
飛べないと心のどこかで発想があると飛べない。
↑
深層心理やね
ここ馬さんに言いたいんやけど
そう言ったことを
無我である空であるという理解で遠離
せなあかんのね
実体視して滅するとなると
欲界は簡単に出られへん
空飛んでいたね子供のころから
リダンはよく、おれが実体視していると言ってるんだっけ?
実際のところそうじゃない、無我空と頭レベルで理解したところで、抑圧になって、後々にたまって爆発するだけだから
何らかの執着煩悩が有ったとしよう、それに対しての執っする意識を、止滅しようとする、と言うことではない
ロンみたいな言い方だが、元々本心(九次第禅定の心一境性)には一切の心の言語感情の染汚は無いわけで、
その清浄心としての本心の立ち位置に立つ、それが、執着煩悩からの遠離と結果的にはなるという仕組みだと、実体験から導けるということです
誰でも欲追及にうんざりして、満腹いっぱいでもう飽き飽きで疲れたら、自然に一時的に欲から離脱される
禅定では欲界禅定→色界禅定→無色界禅定だから、色界第一禅定へは、欲界を離れるという心が働いたら、
それは、無為ではなく有為になりますが、
そうではなくて、マハムドラーのような老子のように、無為自然で在るうちに、自然に欲界から離れて、本心に安住するようになる、というのも有るのです
執着煩悩の欲界から離れようという有為の行為無くして、無為自然のまま本心(心一境性)そのものへジャンプする方法なのです
だからそれは行為ではなくて、在り方の問題であり、故にマハムドラーをあつかったOSHOの本の題名が、「存在の詩(ウタ)」だたのです
しかし、行為(有為)によって心一境性へ入った行者は、次も行為(行)によってしか入れないわけです
禅定とはそういうものであって、無為で入っても、その無為の状態を生じさせる何らかのルーティンがあったのなら、それはやはり有為とされるでしょう
だから、禅の悟り現象は、突発的に生じるが故に無為なのであって、それ迄の公案による集中が有ってもです、小石が蹴られて竹に当たるとかw有為では無いでしょうからね
川^〇^ハレ翻訳です
本則:
鏡清禅師が僧に聞いた、
「門の外で聞こえる音は何かな?」。
僧は言った、
「雨滴(あまだれ)の音です」。
鏡清は言った、
「お前さん雨だれに捉われたな」。
僧は言った、
「和尚さんはあの音が何と聞こえるのですか」。
鏡清は云った、
「私もすんでのことで迷うところだった」。
僧は云った、
「私もすんでのことで迷うところだったとは、どういう意味ですか?」。
鏡清は云った、
「いろいろの束縛を脱して悟るのは易しいが、
それをずばりと言うのはなかなか難しいよ」。
頌
虚堂の雨滴声
作者 駲対しがたし
もし曽て流れを入(かえ)すといわば
依前として還って不会
会不会
南山北山うたたホウ霈(はい)たり
注:
虚堂の雨滴声:誰もいない家の雨だれの音。
作者 駲対しがたし:腕ききの達道者でも返答しにくい。
もし曽て流れを入(かえ)すといわば:正法の不変の流れに踏み込めば
南山北山うたたホウ霈(はい)たり:南山も北山も沛然と雨に包み込まれる。
頌
誰もいない部屋の中で一人坐って雨だれの音を聴く。
ポタリポタリと落ちる雨だれの音に成り切って聴く時、その音は何かと聞かれると、
本当のところをズバリと言うのは腕ききの禅者でも返答しにくいものだ。
雨だれの音を雨だれの音だと分別して聴けば本当に理解したことにならない。
分かっても分からなくても雨だれはポタリポタリ。
分かっても分からなくても南山も北山も沛然と雨に包み込まれている。
>>799
車の中でこれを見てて、それについて実体験からの想いを巡らせていたら
いつの間にか表面的な思いと表面的覚醒から離れて、ちょっと深い意識の半覚醒状態で、99の想いだけに意識がある状態になってて、そしたら
急にちょっと遠くで、エンジンをかける音が
キュウルル ブォーン!ってした瞬間に
半覚醒状態で集中されていた公案が、音が意識にズドン!と届くと同時に吹っ飛んでしまって
誰でもなく何でもない、無雑無染汚な覚知のそのものに在った
極度の集中によって潜在意識に入り込んで沈んでいた意識に、そこに光や音によってその集中か破されると、無辺の覚知の識が一気に無辺へと解き放たれて、目覚める
そしてその覚知の意識とは吾(われ)であったと覚る(悟る)、それが吾の心だったと本心だったと
というメカニズムがあるのだと解る
キュウルル ブォーン!ってした瞬間に
この時既に音は消えてて、意識は後先が無い状態で、心は吾として開かれている状態だな
しかし、漢字って良くできているね、吾の心と書いて、さとりだってw
感心する!
まあ、これが悟りなのかは知らんがw
少なくとも無心で宜しい!とは気づくね
>>8
離脱世界ってのは自分の内面がさらけ出される所。発想した事が実現化する世界。
↑
第六天魔王やね
飛べないと心のどこかで発想があると飛べない。
↑
深層心理やね
ここ馬さんに言いたいんやけど
そう言ったことを
無我である空であるという理解で遠離
せなあかんのね
実体視して滅するとなると
欲界は簡単に出られへん
ーーー
空飛んでいたね子供のころから
リダンはよく、おれが実体視していると言ってるんだっけ?
実際のところそうじゃない、無我空と頭レベルで理解したところで、抑圧になって、後々にたまって爆発するだけだから
何らかの執着煩悩が有ったとしよう、それに対しての執っする意識を、止滅しようとする、と言うことではない
ロンみたいな言い方だが、元々本心(九次第禅定の心一境性)には一切の心の言語感情の染汚は無いわけで、
その清浄心としての本心の立ち位置に立つ、それが、執着煩悩からの遠離と結果的にはなるという仕組みだと、実体験から導けるということです
誰でも欲追及にうんざりして、満腹いっぱいでもう飽き飽きで疲れたら、自然に一時的に欲から離脱される
禅定では欲界禅定→色界禅定→無色界禅定だから、色界第一禅定へは、欲界を離れるという心が働いたら、
それは、無為ではなく有為になりますが、
そうではなくて、マハムドラーのような老子のように、無為自然で在るうちに、自然に欲界から離れて、本心に安住するようになる、というのも有るのです
その無為のうちに本心へ至と言うのが、
執着煩悩の欲界から離れようという有為の行為無くして、無為自然のまま本心(心一境性)そのものへジャンプする方法なのです
だからそれは行為ではなくて、在り方の問題であり、故にマハムドラーをあつかったOSHOの本の題名が、「存在の詩(ウタ)」だたのです
禅定とはそういうものであって、無為で入っても、その無為の状態を生じさせる何らかのルーティンがあったのなら、それはやはり有為とされるでしょう
だから、禅の悟り現象は、突発的に生じるが故に無為なのであって、それ迄の公案による集中が有ってもです、小石が蹴られて竹に当たるとかw有為では無いでしょうからね
それは本質的にその意識が目覚めているからですよ
如何に外向きな心で生活してても、極まると中心に引き戻る感じ
それが日常での生活中に起こるのかどうか?
もう20年も前だけど、おれが目一杯仕事三昧してた頃に、仕事終わって車で帰る時の、信号待ちで、一気にしゅーーーんって寂静に引き戻されることが毎日起きていた
どんなに自我三昧でも、全く関係なく一気になってた
https://i.imgur.com/prrWH51.jpeg
サンカーラ(samskara)には次の意味があります
●仏教やヒンズー教で、
1)前世や現世の経験が刻み込まれたもの、
2)または、1を根底として、その人の在り方や行動を形成するもの
●パーリー語で「サン」が集めるという意味の接頭語、「カーラ」が作るという意味の名詞で、【再構成】を示す言葉
(苦の形成因を集め、新たな苦を形成するの意味か?)
●仏典では複数形で「サンカーラー」と表記され、「諸行無常」の【諸行】を表す
また、釈尊が苦しみの原因としてあげた「行」も「サンカーラ」と呼ばれています
『行』は自他分離的な形成力であり、しの原因によって苦しいという考えが根底にあります
ĺl菩提への道について影響力のある骨子を示し、後に大乗仏教の学者たちによって脚色・修正された。
これは五道と呼ばれ、彼らのアビダルマのテキストや世親の阿毘達磨倶舎論に見ることができる。
以下の五つである。
●1Mokṣa-bhagiya(解脱に至る段階) ,資糧道
世親によると、これには戒が必要であり、【四念処】を教わって実践する。
●2Nirveda-bhagiya(浸透に至る段階) ,加行道
阿毘達磨倶舎論では、
【四諦】を【16の側面】から観察する。
●3見道
阿毘達磨倶舎論では、【四諦を観察】し続け、これにより【88の煩悩を放棄】する。
●4修道
阿毘達磨倶舎論では、修習を続けてさらに【10の煩悩を放棄】する。
無学道
すべての【障害や苦難から完全に解放】され、【完成し充足】される。
修行者諸君、君たちはサマディを修習しなさい。
修行者たちよ、サマディに入った修行者は如実に認識し理解するのである。
では、何を如実に認識し、理解するのであろうか。
「これは苦しみである」と如実に認識し理解し、
「これは苦しみの生起である」と如実に認識し理解し、
「これは苦しみの滅尽である」と如実に認識し理解し、
「これは苦しみの滅尽に至る方法である」と如実に認識し理解するのである。
釈尊
●君たち、出家修行者よ、わたしと共にいる修行者は2つの極端な状態を避けるべきである。2つとは何であろうか?
それは劣ってありふれた普通の人のようであり、邪であり、不利益を被る在家の生活状態であり、これら種々の感覚の喜びを満たすこと。
愛欲における豪奢な生活に浸ることである。
●また、片や苦しみであり、邪であり、不利益を被ることであり、疲労をもたらす専念(苦行林で行われる苦行のこと)である。
●修行者よ、如来はこれら2つの極端な状態を批判することなく、まなこを引き起こし、精通を引き起こし、臨寂静、証智、正覚、煩悩滅尽に至らしめる、中道を現正覚したのである。
●修行者よ、ではその中道とは何か?
(なんでもほどほどに・・・が「中道」と言ってる馬鹿な人がいますが、違います。八正道を中道と呼びます。意味はどこかで言ったので気になる人は捜してね)
それはまさに、聖なる八段階の道である。
つまり
1正見、無常であり苦であり非我なる世界に真の安らぎ幸福、自由は存在しないという見解。
2正思惟、非害心、非残酷、非貪欲、出離なる想い。思いやりと慈しみを持つ。
3正語、粗悪なる言葉、不綺語、不妄語、不両舌、不悪口を止め、真実で思いやりので優しい言葉を語る。
4正業、非殺生、不偸盗、不邪淫、アルコール等を遠ざける。いたわり、布施、異性を性の対象と見ない。
5正命、悪業をなすような職業、盗賊、屠殺、詐欺、人身売買や売春を離れる。
6正精進、四正断(四正勤)のこと。
7正念、五蘊は非我であり、受は苦であり、心は無常であり、一切の存在は普遍的実在性を欠く。四念処
8正定、四つの段階のサマディ
である。
↓↓
●修行者よ、実にこれらが如来が現正覚した、まなこを引き起こし、精通を引き起こし、真理相応 初転法輪経
君たち、出家修行者よ、わたしと共にいる修行者は2つの極端な状態を避けるべきである。2つとは何であろうか?
それは劣ってありふれた普通の人のようであり、邪であり、不利益を被る在家の生活状態であり、これら種々の感覚の喜びを満たすこと。愛欲における豪奢な生活に浸ることである。
また、片や苦しみであり、邪であり、不利益を被ることであり、疲労をもたらす専念(苦行林で行われる苦行のこと)である。
修行者よ、如来はこれら2つの極端な状態を批判することなく、まなこを引き起こし、精通を引き起こし、臨寂静、証智、正覚、煩悩滅尽に至らしめる、中道を現正覚したのである。
修行者よ、ではその中道とは何か?(なんでもほどほどに・・・が「中道」と言ってる馬鹿な人がいますが、違います。八正道を中道と呼びます。意味はどこかで言ったので気になる人は捜してね)
それはまさに、聖なる八段階の道である。
つまり
正見、無常であり苦であり非我なる世界に真の安らぎ幸福、自由は存在しないという見解。
正思惟、非害心、非残酷、非貪欲、出離なる想い。思いやりと慈しみを持つ。
正語、粗悪なる言葉、不綺語、不妄語、不両舌、不悪口を止め、真実で思いやりので優しい言葉を語る。
正業、非殺生、不偸盗、不邪淫、アルコール等を遠ざける。いたわり、布施、異性を性の対象と見ない。
正命、悪業をなすような職業、盗賊、屠殺、詐欺、人身売買や売春を離れる。
正精進、四正断(四正勤)のこと。
正念、五蘊は非我であり、受は苦であり、心は無常であり、一切の存在は普遍的実在性を欠く。四念処
正定、四つの段階のサマディ
である。
修行者よ、実にこれらが如来が現正覚した、
まなこを引き起こし、
精通を引き起こし、
臨寂静、証智、正覚、
煩悩滅尽に至らしめる中間の道である。
臨寂静、証智、正覚、煩悩滅尽に至らしめる中間の道である。
釈尊
君たち、出家修行者よ、わたしと共にいる修行者は2つの極端な状態を避けるべきである。2つとは何であろうか?
それは劣ってありふれた普通の人のようであり、邪であり、不利益を被る在家の生活状態であり、これら種々の感覚の喜びを満たすこと。愛欲における豪奢な生活に浸ることである。
また、片や苦しみであり、邪であり、不利益を被ることであり、疲労をもたらす専念(苦行林で行われる苦行のこと)である。
修行者よ、如来はこれら2つの極端な状態を批判することなく、まなこを引き起こし、精通を引き起こし、臨寂静、証智、正覚、煩悩滅尽に至らしめる、中道を現正覚したのである。
修行者よ、ではその中道とは何か?(なんでもほどほどに・・・が「中道」と言ってる馬鹿な人がいますが、違います。八正道を中道と呼びます。意味はどこかで言ったので気になる人は捜してね)
それはまさに、聖なる八段階の道である。
つまり
正見、無常であり苦であり非我なる世界に真の安らぎ幸福、自由は存在しないという見解。
正思惟、非害心、非残酷、非貪欲、出離なる想い。思いやりと慈しみを持つ。
正語、粗悪なる言葉、不綺語、不妄語、不両舌、不悪口を止め、真実で思いやりので優しい言葉を語る。
正業、非殺生、不偸盗、不邪淫、アルコール等を遠ざける。いたわり、布施、異性を性の対象と見ない。
正命、悪業をなすような職業、盗賊、屠殺、詐欺、人身売買や売春を離れる。
正精進、四正断(四正勤)のこと。
正念、五蘊は非我であり、受は苦であり、心は無常であり、一切の存在は普遍的実在性を欠く。四念処
正定、四つの段階のサマディ
である。
修行者よ、実にこれらが如来が現正覚した、まなこを引き起こし、精通を引き起こし、臨寂静、証智、正覚、煩悩滅尽に至らしめる中間の道である。
釈尊
●1035 師は答えた、「アジタよ。世の中におけるあらゆる
【煩悩の流れをせき止める】ものは、
【気をつけること】である。
(気をつけることが)煩悩の流れを防ぎまもるものでのである、と私は説く。
その流れは【智慧によって塞がれる】であろう。」
●1036 アジタさんがいった、「わが友よ。
【智慧と気をつけること】と【名称と形態】とは、
いかなる場合に【消滅する】のですか?
おたずねしますが、このことを私に説いて下さい。」
●1037 アジタよ。そなたが質問したことを、私はそなたに語ろう。
【識別作用】が【止滅する】ことによって、
【名称と形態】とが【残りなく滅びた】場合に、この名称と形態とが滅びる。」
眼やその他すべての感覚を見る、心眼の背後にある眼よ
空間やその他すべての元素を知るものよ
ハートの中で輝く内なる虚空を包括し顕示し知覚する存在よ
想念から自由な心が内面に向かったとき、アンナーマライは私自身の真我として現れ出す
それには、まず恩寵が必要とされる
愛がそれに加わり、そして至福が溢れ出す
見よ!
何と真我の知識はたやすいことか
実にたやすい
アートマ、ヴィディヤー
ひとびとは妄執に陥って苦悩を生じ、老いに襲われているのを、
そなたは見ているのだから、それ故に、ピンギヤよ、
そなたは怠ることなくはげみ、妄執を捨てて、再び迷いの生存にもどらないようにせよ
732 神も仏も名無しさん sage 2024/09/15(日) 12:17:32.76 ID:Y5UOWD0s
①釈迦牟尼は妄執を問題視している
②釈迦牟尼は物質的な形態を問題視している
③釈迦牟尼は無所有の成立する元を知っている
④釈迦牟尼は無所有の成立する元を知っているから歓喜は束縛であるとありのままに知る智が生じている
無ニ性と無分別
https://i.imgur.com/061lvJz.jpeg
https://i.imgur.com/NWJ9RCF.jpeg
坐禅は、戒定慧に干かるものではありません。律「戒」・経「定」・論「慧」の三学を兼ねています。
●「戒というのは、これ防非止悪。
坐禅は相対を観ない、計らない、万事を放下して、諸縁を休息して、仏法であるや世法ということを管せず、
道情と世情を双べることすら忘じて、是非は無く善悪も無し。何の防止か之れ有らんや。此は是、心地無相戒なり。」
●「定は是、観想無余なり。
坐禅は身心を脱落し、迷悟を捨離し、不変不動、不為不昧、痴の如く兀(ゴツ-じっと動かない)の如く、山の如く海の如く、動静の二相、了然として生せず、定にして定相無し、無定相なるが故に大定と名づくなり。」
●「慧は是、簡択覚了なり。
坐禅は所知自ら滅し、心識永く忘ず、
≪通身慧眼にして、簡覚有ること無く≫
明らかに仏性を見て、本迷惑せず、
≪意根を坐断し、廓然として瑩徹す≫
是
≪慧にして慧相無し≫
≪慧相無きが故に大慧と名づくなり≫ 」
集中されていた対象が朧になってきて
意識も半分朦朧となっていて、我も何もかもが曖昧になっています
この様な状態で、五感からズバッと刺激が入ると、
まるでパンパンの風船が独りでに割れるようなことになります
風船という自我が破されるわけです
疑団がおきるのは
仮心(本心に対しての)が働いていると言うことであって
これに対して、悟り現象が起こるのも、仮心が有ってのこと
大疑の状態に我々の心が進むと、思いの連鎖相続は停止しているが、一つの思いだけが、エンドレスに再生された状態を維持するようになります
それは、明確な単語であったり、文章であったり、または文字にならない文字以前の象形であったりします、更には色かも知れません
どの様なものであったとしても、それは【心】が働く機構に係っていて、何らかの印象(外因)によって、破されるのを待っているような状態なのです
なので、その仮心は
腹や頭を小突かれたり、突如の音光などによって、破されるのです
123
体験がないからわからんが、ただ単に妄想がなくなること言ってるだけなんじゃ?w
妄想って言葉が人間の自動的思考を言うのだとしたら、まあそれも含みます
私の言っているのは、
1意志、2自動的思考、3能動的思考
この3つが、心の中で一つの対象にくっついて集中されている状態です
その状態が数分~数十分~数時間続く中で、外部からの音、光、接触によって
その集中状態が壊れる
そうした場合に、五感や思いを感受していた無相の識が、顕(アラワ)になります
ただ、その集中状態は、心で目の前の対象に集中したような状態ではなくて
心の深層に入り込んでいて、
1色→2受→3想→4行→5識
これの3、4、5をループしたようになっています
5の識は鏡とか球体ガラスとかのように、本来は無色透明な、無相のものであるが
心(脳)に1~3が連続してあらわれて映っているので、モニタースクリーンに焼き付きが起こるように、様々な印象が残像として焼き付きます(聴いた音楽が脳内でループするような)
この残像が【我(本当は仮の)】であると識が錯覚してしまうようなことになっている仕組み
ただ、事前に禅定なりで、無想禅定を繰り返し行じて、無相(想)に慣れてそれが自己であると、ある程度深くで覚醒していないと、
仮の我(心)がパッと消えた時に、その無相の自己を、自己として覚醒出来ず、ただ茫然と佇むことになります
まあ、悟り現象が起こると、初めての時はどうしてもそうなりなすが、無相の本心に安立されてくると、
たとえ仮の心が起きた後に、再び悟り現象が起きても、初めての時のように、茫然と坐断された状態には成らないようです
ここが、老師と弟子の違いだと思います、解りますか?
そういう時に、たまたま、船で河を渡る機会があって、水面に映る自分の映像を見て、悟ったとされている。。
それを謳っているのが、かの有名な過水の偈、というわけです。。
ーーー
157
むずいなぁ、顔見て何を悟ったんだw
外の世界が己とか?
疑問は自発的なものでなくてはいけなくて、外から持ってきて与える公案なんて、意味あるんかねえとか思っちゃうわw
ーーー
243
水面が静かで鏡のようになってて、そこに映った自分の顔を見ようと、その水面の顔に意識が行った
その時風で水面が波だって、映った顔が消えた‼
その瞬間に
真の自己である無相の識へ
スパーーーン‼って引き戻った
そして、その無相の本心を自己として覚(悟)った
そのような悟り現象のメカニズムだと思いますね
●伝教云く「一念三千即自受用身・自受用身とは尊形を出でたる仏と・出尊形仏とは無作の三身と云う事なり
●無上道とは寿量品の無作の三身なり此の外に成就仏身之れ無し
●本有常住の仏なれば本の儘なり是を久遠と云うなり、久遠とは南無妙法蓮華経なり実成無作と開けたるなり
●無作の三身は覚前の実仏と云云、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は無作の三身覚前の実仏なり
●今本門の即身成仏は当位即妙本有不改と断ずるなれば肉身を其のまま本有無作の三身如来と云える是なり
む、難しい~
>仏法に方便なんてないよ。。
馬鹿を言うのはおよしなさい。
筏の喩えは?毒矢の喩えは?
火宅の喩えは?
初期仏典にも法華経にも方便が説かれてるでしょ?
>>802
>仏法もないけど。。w
あるでしょ?
経典には以下の通り説かれてますよ?
>わが作るところにも非ず、また余人の作るところにも非ず。
>如来の世に出ずるも出てざるも法界常住なり。
>如来は、この法を自ら覚し、等正覚を成じ、諸の衆生のために分別し演説し開発顕示するのみなり。
>(雑阿含経)
>その時その時で、言うことが違うのが仏法、ではなく、対機説法だと、そのように思う人がいる、未悟の人には、そのように思われる、というだけ。。
違いますよ?
趙州曰く、無。またある時は、有。(『趙州録』)
ソーナよ、琴を弾く時はあまり弦を強く張ってしまうとよい音はでないであろう、また弦の張りが弱すぎてもよい音は出ないであろう、ソーナよ、佛道の修行も同じことだよ。
無理に修行を重ねても、心がたかぶって冷静で沈着な心をいただく事はできないだろう。
弛み過ぎても怠け心が沸いてくるであろう。
ソーナよ、あなたは琴の音を調える時のように、どちらにもかたよらない素直な修行の実践が大切だよ。
(『賢愚経』)
お釈迦様は中道を説かれたのです。
当然に、その時その場合その人によって説示は違って来るのですよ。
>>806
>そもそもどうこうする必要がない、のに、
違いますよ。
あなたはまだ仏性にお目に掛かれてないのです。
自己をして仏道を為さしめるものをご存知ないのです。
>仏性の道理は、仏性は成仏よりさきに具足せるにあらず、成仏よりのちに具足するなり。
>仏性かならず成仏と同参するなり。
>(『正法眼蔵』仏性より)
>この法は人々分上にゆたかにそなはれりといへども、いまだ修せざるにはあらはれず、証せざるにはうることなし。
>(『弁道話』)
>わが己心の妙法蓮華経を本尊とあがめ奉りて、我が己心中の仏性南無妙法蓮華経とよびよばれて顕はれ給ふところを仏とは云ふなり。
>(『法華初心成仏抄』)
真宗だってそうです、「称えるのは私ではなく、阿弥陀仏が私を通じて称えている」という他力を説いてるんです。
決してどうこうする必要がないのではありません。
仏様が私をしてどうこうせしめて下さるのです。
禅宗は、例えば仏像を焼いたり、殺仏殺祖等と云ったりと、極端な方便を多用しますからね。
「柔軟心」を持たれて下さい。
「柔軟心」につきましては以下参照。
>仏仏祖祖の身心脱落を弁肯するが、乃ち柔軟心なり。
>這箇を喚んで、仏祖の心印と作すなり。
>(『宝慶記』より)
>かくのごとく菩薩は、奢摩他と毘婆舎那を広略に修行して柔軟心を成就し、如実に広略の諸法を知る。
>かくのごとくして巧方便回向を成就す。
>(『浄土論』世親 より)
要は止観を修するのです。
実践です。
仏教(インド仏教)では「四句分別」で法理を説きます。
四句分別とは、
仏教の論理構造で、「A、非A、Aかつ非A、Aでもなく非Aでもない」という形式です。たとえば「僧、非僧(=俗)、Aかつ非A(=僧かつ俗)、Aでもなく非Aでもない(=非僧非俗)」のように表現できます。
:15.43
24-8
a.二つの真理(二諦)に依って諸仏の説法は行なわれる。世間一般の理解としての真理(世俗諦)と最高の真実としての真理(勝義諦)である。
b.二つの真理(二諦)に依存して、もろもろのブッダは法(教え)を説いた。(その二つの真理とは)世俗の覆われた立場での真理と究極の立場から見た真理とである。
c.諸仏は二諦(という二種の異なるレベルの真実)に依って教え(法)を説くのである。すなわち、世間の常識としての真実(世間世俗諦)と究極的な意味での真実(勝義諦)とである。
24-9
a.これら二種の真理の区別を知らない人々はブッダの教えにある甚深の実義を知らない。
b.この二つの真理の区別を知らない人々は、ブッダの教えにおける深遠な真理を理解しないのである。
c.その二諦の区別を知らない人々は、(諸)仏の深遠なる教えの真実を知らない。
24-10
a.言語習慣によらないでは最高の真実は説きえない。最高の真実に従わないでは涅槃は悟りえない。
b.世俗の表現に依存しないでは、究極の真理を説くことはできない。究極の真理に到達しないならば、ニルヴァーナを体得することはできない。
c.言語活動(言説)に依らずして、究極的なもの(勝義)は説示されない。究極的なものを理解せずして、涅槃は証得されない。
↓
色→受→想→行→【識】←自動的思い(妄想念)
●この識に集中して自我が立ち現れる
●この識には色受からの実体が認識される
●識に現れる思いと思いのあいだを裁断する
その間に無分別の識の状態を現じる
この相続を離れた無相の識に、正念が現れる
≫その間に無分別の識の状態を現じる
≫この相続を離れた無相の識に、正念が現れる
ただし、この正念は、この無分別禅定を度重ねることで、徐々に結晶化して、意識に占める範囲を大きくして行く
この無分別の禅定は、三昧ではあるが、それは未だ自我の心の構造を破したわけではないので、
禅定三昧に入った時にしか現成せず、入禅定と出禅定を行わなければ得られないものです
何故?そうなのか
それは、未だ六識における自我の断滅を因として起こる果であるからである
この六識において作用する自我が完全にして永続的に断滅されない限り、七識が覚醒し現起されることは起こらない
なお真如は、八識の覚醒に於いて現成されるもので、八識と前五識の間の、現量下において知られることでしょう
https://ameblo.jp/yk19610402/entry-12848421593.html
1.
遍計所執性は八識の作り出す意識的存在である。
それは実は無であって虚妄であるが分別によってあたかも実在するように
認識され執着されている心のあり方である。
2.
依他起性は様々な因縁によって生じる心の相対的な性質を表している。
因縁所生の法は空であるというナーガルジュナの論理によって
これも否定され空であり、無であるとされる。
3.
円成実性も遍計所執性、依他起性に依存して存在すると考えられるため虚妄(無)だと考える。
これを三性三無性と称する。
このように八識によって構想された対象(これを境という)は
全て虚妄として最終的には否定され消失する。
これを<境識倶泯(きょうしきぐみん)>という(泯は滅ぶという意味)。
この状態では構想された対象(境)が消え、構想した識も消失するのである。
円成実性は,円満,完成,真実の性質のものという意味で,絶対の境地を表わしている。
唯識説では識は刹那生滅している空なるものであるから実体はない(無自性)と考える。
その究極の空性において、円成実性と呼ばれる清らかな悟りの心が実現されると考える。
円成実性は無常の現実世界に現れながらも、それ自身は常住・不変・無為の存在である。
また、主客の対立を超えている。
●それは、実相、真如、法界とも呼ばれるものである。
この三性三無性の思想は禅定修行による心境の深まりを3段階に分けて考えたものと考えられる。
唯識論で説く三性三無性は、心の空性を別の切り口から捉えた考え方である。
この考え方は中国で生まれた禅にも深い影響を与えている。
遍計所執性は虚妄の存在、依他起性は相対的存在を表わし、
それぞれ無自性であるが、この両者の無自性を正しく認識するとき、
存在の絶対的様相、すなわち円成実性が現れる。
それは無常で変遷する現実世界のなかに現れながらも主客の対立を超えている。
それはまた実相,真如,法界と呼ばれるもので,まったく清らかな悟りの世界である。
普通我々(俗人)の世界では無分別とは考えが足りないという悪い意味で用いられる。
しかし、禅では無分別智は悟りの智恵とされる。
10.40 初期大乗仏教から中期大乗仏教へ
「空の思想」から唯識思想へ
https://www.sets.ne.jp/~zenhomepage/daizyou3.html
この考え方は中国で生まれた禅にも深い影響を与えている。
遍計所執性は虚妄の存在、依他起性は相対的存在を表わし、
それぞれ無自性であるが、この両者の無自性を正しく認識するとき、
存在の絶対的様相、すなわち円成実性が現れる。
それは無常で変遷する現実世界のなかに現れながらも主客の対立を超えている。
それはまた実相,真如,法界と呼ばれるもので,まったく清らかな悟りの世界である。
普通我々(俗人)の世界では無分別とは考えが足りないという悪い意味で用いられる。
しかし、禅では無分別智は悟りの智恵とされる。
唯識論では「無分別智」は次のように説明される。
「境は客体、識は主体である。既に述べた境識倶泯の状態では
主体も客体も消え、主と客は無二一体(心境一如)となる」。
ここで現れる知を無分別智と名づける。
これが無分別智の定義といってもよいだろう。
唯識論において無分別智は最も崇高な智と考えられ、真如(タタター、ありのまま)とも呼ばれる。
このように唯識論は禅の悟りの理論と深い関係を持っていることが分かる。
この考え方と似た考え方に無学という考え方がある。
無学とはこれ以上学ぶものが無いという意味である。
禅に於いては無とは究極の心的状態(悟りの状態)だと考える思想がある。
この唯識思想の中で特に問題となる点は「唯識無境」という考えであろう。
これは識(脳)だけ在って外界(境)は存在しないという唯識思想の考えである。
現代の唯脳論に近い。
しかし、唯脳論といえども外界の存在を否定してはいない。
しかし、唯識思想では唯識無境と考える。
現代ではこのような「唯識無境」の主張は単なる観念論であり誤りであることは明白である。
頭でっかちの古代の観念論的思想であるとしか言いようが無いだろう。
https://www.sets.ne.jp/~zenhomepage/daizyou3.html
即心是仏(1)
https://www.dogen-shobogenzo.com/sokusinzebutu1.html
即心是仏(2)
https://www.dogen-shobogenzo.com/sokusinzebutu2.html
霊知はイズビー⁉️
眞如三昧者。不住見相不住得相。乃至出定亦無懈慢。
所有煩惱漸漸微薄。若諸凡夫不習此三昧法。得入如來種性。
無有是處。以修世間諸禪三昧多起味著。依於我見繋屬三界。
與外道共。若離善知識所護。則起外道見故
眞如三昧なる者は、見相に住せず得相に住せず、乃至定を出でても亦た懈慢無く、所有る煩悩は漸漸に微薄なり。若し諸の凡夫、此の三昧の法を習わざれば、如來の種性に入るを得ること是の処有ること無し。世間の諸禪三昧を修して多く味著を起こし、我見に依りて三界に繋屬するを以て、外道と共なり。若し善知識の護る所を離れるば、則ち外道の見を起こすが故に。
>>919
妙=仏眼:第九識は法界体性智 ---(ニルヴァーナ)
法=法眼:第八識は大円鏡智 ---(第四禅)
蓮=慧眼:第七識は平等性智 ---(第三禅)
華=天眼:第六識は妙観察智 ---(第二禅)
経=肉眼:前の五識は成所作智 ---(初禅)
ーーー
≫法=法眼:第八識は大円鏡智 ---(第四禅)
第四禅定は、いわゆる五八識の現量の状態でしょうか
呼吸が止まり、身心脱落して、肉体感覚からほぼ離れて、六識の能動的思考が止んで、自動的な妄想念も完全に生起しておらない処
閉眼の場合は、死ぬ直前のような、聴覚だけが機能されている状態で、
無辺の球体の水晶球に、聴覚だけが映っているような状態になっています
ここが、大円鏡地か?!と言うと、私はよくまだ分からないですが
大円鏡地が、八識の転識された識であると言うのであれば、そうかな?とも思われます
ただ、人の思考、思いは物質であり、送受信可能であるという前提で言えば、
前五識の5つの印象情報に加えて、六識に裏打ちされた思考、想いは、五識と同じように印象として、自己以外へ文字と言葉(音声)によらない伝達方法としてのテレパシーとして同じようにとらえて良いように思います、
なので、大円鏡地での五八現量で感受されるのは、前五識+六識(思い)だと言って良いでしょうね
つまり六八現量となるということです
>>677
「天上天下唯我独尊」 お釈迦様は誕生して7歩あるかれてそういいました
これは釈迦伝説と言って実際にあったことではありません
この7は人間の進化を意味しています(創世記では7日で地上を造られた神様と同じで)
仏教でも7段階で人間が進化します
1 感覚(人間として生まれ感覚器官が発達する)
2 欲望(感覚器官により好きなことはしたい 嫌いなことはしたくないという欲望が生まれる)
3 感情(好きなことには喜び いやなことには悲しんだり怒る)
4 精神(理性・真我の目覚め) ←※今ここ
5 自我の確立(この自我はエゴではなく自分を見るもうひとりの自分)
6
7 進化の完成
こういう意味です
1-3は動物ですね それに精神が加わるのが4番目です
これから私たちは自我を確立して自分を見るもうひとりの自分を作っていきます
そうすれば怒りの心は起きないかもしれません
顕在的に働く識。阿頼耶識から生じた眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識・末那識の七種、
すなわち七つの転識をいう。種子識の対になる語。
種子識は現行を変為し、現行識は種子を変為す。
また、種子は阿頼耶識を飛び出して、末那識・意識に作用することがある。
さらに、前五識(視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚)に作用すると、外界の現象から縁を受けることもある。
この種子は【前五識から意識・末那識を通過して、阿頼耶識に飛び込んで、阿頼耶識に種子として薫習される】。
これが思考であり、外界認識であるとされる(種子生現行(しゅうじしょうげんぎょう))。
このサイクルを阿頼耶識縁起(あらやしきえんぎ)と言う。
【種子生現行】--- ①
阿頼耶識の種子(因)ーー→末那識(縁)--→現行(果)
【現行菫種子】--- ②
現行(因)ーー→末那識(縁)--→阿頼耶識の種子(果)
【種子生種子】①→②
>>650
≫唯識における離繁果(善無為)で末那識の機能を遠離それにおける末那識の浄化
この辺が法介さんの言われることとの若干の解離かなと?
法介さんは、阿頼耶識に仏の種子や無為の種子が無ければ、仏即ち七識の平等性や八識の大円鏡智へ転識されないと言う
何故なら?
仮に七識を遠く離れても、機能としての、阿頼耶識だけを亘に審に見て、
都合良く取って執着して収蔵すし、自己であると誤って思い続ける機能が、そう易々と無くなるものではないと思うから
少なくとも、阿頼耶識の内容を執着して取って収蔵する機能は、平等性智や大円鏡智に至ってしまうまでは、絶対的に停止されないと思うからであって
その意味で言うと、法介さんの言われる、阿頼耶識内部に薫習された仏の種子、無為の種子があるべきであって、
それでこそ、七識の取り収蔵する機能それを使って、仏と無為を選び出して収蔵しつづけて、種子生種子の縁起によって、熟されて行くのだと思います
『心・意・識説に関する研究』
― 阿頼耶識と末那識との関係を中心― 金 範松
https://tais.repo.nii.ac.jp/?action=repository_uri&item_id=277&file_id=22&file_no=1
●眞如三昧者。不住見相不住得相。乃至出定亦無懈慢。
所有煩惱漸漸微薄。若諸凡夫不習此三昧法。得入如來種性。
無有是處。以修世間諸禪三昧多起味著。依於我見繋屬三界。
與外道共。若離善知識所護。則起外道見故
●眞如三昧なる者は、見相に住せず得相に住せず、乃至定を出でても亦た懈慢無く、所有る煩悩は漸漸に微薄なり。
若し諸の凡夫、此の三昧の法を習わざれば、如來の種性に入るを得ること是の処有ること無し。
世間の諸禪三昧を修して多く味著を起こし、我見に依りて三界に繋屬するを以て、外道と共なり。
若し善知識の護る所を離れるば、則ち外道の見を起こすが故に。
visamyoga-phala(S)
5つの果(異熟果・等流果・離繋果・士用果・増上果)五果の一つ。
道を修して得た
【汚れがない智慧(無漏智)】によって【煩悩を減したところ】に顕れる果
倶舎はそれを
【択滅無為】
唯識は
【善無為】と考える。
離繋果者、謂、此道力、断惑所証、択滅無為。〔『倶舎』17、T29-91a〕 八支聖道、滅諸煩悩、名離繋果。〔『瑜伽』38、T30-502b〕 果有五種。(中略)三者離繋。謂、無漏道、断障所証、善無為法。〔『成論』8,T31-42a~b〕
●「択滅(じゃくめつ)無為(むい)」について、説明をさせて頂きます。
唯識学では、涅槃(無為)を六つの観点から明らかにします。
●これを「六無為(ろくむい)」といいます。
その中の一つが、「択滅(じゃくめつ)無為(むい)」です。
●仏教とは、「真如を見ること」が目的ですが、
では、どのようにすれば、真如を見ることが出来るのでしょうか?
それは、心の中にある、様々な汚れ、即ち煩悩を無漏の智慧の働きである
【簡択】(けんじゃく・えらび捨て、えらび取る働き)の力」によって滅し、
【煩悩の束縛を完全に離れた時】に、真如を見ることが出来ます。
このように、【真如】は、
【簡択の力によって煩悩が滅する】ことを通して、得られるから、
●その意味で、
≪真如を【択滅無為】と言います≫
ですから、「択滅」とは、詳しく言いますと、
【択力】によって得られた【滅】(択力所得の滅)と言われます。
真理を覆っている汚れである、漏を有する存在が、私達の自己存在です。
ですから、私達を「有漏(うろ)」と言います。
一切の心識の相は皆是れ無明にして、無明の相は覚性を離れざるを以て、壊すべきに非ず、壊すべからざるに非ず、
(なお)大海の水の風に困りて波動するとき、水相と風相とは相捨離せざるも、而も水は動性に非ざれば、若し風にして止滅するときは、動相は則ち滅して、湿性は壊せざるが如く、
是の如く、衆生の自性清浄心も無明の風に困りて動ずるとき、心と無明とは倶に形相無くして、相捨離せざるも、
而も心は動性に非ざれば、若し無明にして滅するときは、相続は則ち滅して、智性は壊せざるが故なり。
一切の心の認識作用(心識)の相は((心生滅をおこす因由にほかならないので、したがってこれは]根元的な無知(無明)に根ざしている。
ところでこの(根元的無知)の相は〔<本来のあり方としてのさとり>についての無知にほかならないから]
(さとりの本質)(覚性)と別の体あるものではない。
したがって、これを壊滅できるとも、できないとも言えない。
それはたとえば、大海の水が風によって波立つようなものである。
この場合、水の相と風の相とは不可分な関係にあるが、
さりとて水は(風のように)動くのが本性なのではない。
そこで、風が止めば(水の)動きもなくなるが、そうなっても、水の本性たる湿性はかわらない。
それと同様に、
衆生の(自性清浄心)は<無明>の風が吹くと動き出す。
しかし、心も無明もともに(固有の)形相があるわけではなく、ただ相互に不可分の関係にあって機能しているのである。
しかも、心は動くのが本性ではないので、無明の動きがとまれば、心の動き、すなわち刹那ごとの生滅のくりかえしによる連続(心相続)は消滅する。
さりとて、その本性としての智「すなわちさとり」のはたらきは破壊されない。
(『大乗起信論』宇井伯寿・高崎直道訳・注)
●一切の心の認識作用の相は、根元的な無知(無明)に根ざしている。
ところでこの(根元的無知)の相は、(さとりの本質)(覚性)と別の体あるものではない。
したがって、これを壊滅できるとも、できないとも言えない。
それはたとえば、大海の水が風によって波立つようなものである。
この場合、水の相と風の相とは不可分な関係にあるが、さりとて水は(風のように)動くのが本性なのではない。
そこで、風が止めば(水の)動きもなくなるが、そうなっても、水の本性たる湿性はかわらない。
それと同様に、衆生の≪自性清浄心≫は
≪無明≫の風が吹くと動き出す(心が)。
しかし、心も無明も、ともに≪固有≫の≪形相≫があるわけではなく
ただ【相互に不可分】の関係にあって機能しているのである。
しかも、心は動くのが本性ではないので、
無明の動きがとまれば、心の動き、すなわち
≪ 刹那ごとの、生滅のくりかえしによる連続(心相続)は、消滅する ≫
さりとて、
その本性としての智【即ち≪さとり≫】の≪はたらき≫は破壊されない。
ーーーーー
本性としての智(知覚?)とは【さとり(覚)】の【はたらき】である
となろうか
作者: ゲシェー・ソナム・ギャルツェン ゴンタ
http://mitsubachi-bros.seesaa.net/article/155004381.html「空性 直接了解」で検索したら、また良い解説が出てきた
↓
● 聖者の修行者が空性を現量によって体験しているとき、
その三昧を「無漏(むろ)の等引(とういん)」といい、
空性を直接了解(りょうげ)している智慧を【等引智】という。
● 無漏の等引の状態では――あたかも、雲の上の飛行機からは地上の世界が見えないように――世俗の顕現は全く消えてしまう。
例えば、眼前に瓶があっても、瓶の空性だけが瑜伽現量の認識対象となり、瓶の色彩や形状は何も見えてこない。
● それゆえ、等引智によって了解される勝義における空性は「虚空の如き空性」と表現される。
けれども修行者は、集中力が衰える前に、等引から起きて日常の世界へ戻らなければならない。
● そのとき――あたかも、地上へ降りたら雲の上の世界が見えないのと同様――瓶の空性は直接認識の対象から消えてしまい、入れ替わりに瓶の色彩や形状が再び見えてくる。
● しかし、無限なる虚空の広がりにも比すべき勝義の空性を、直感的に了解した強烈な体験の印象は、三昧から起きた後も消えることがない。
その効果は絶大で、瓶の色彩や形状といった世俗の世界が、ニ顕現を伴って再び現われても、「それらは幻の如きもので、決して諦成就なのではない」という点を
――単なる論理としてではなく――
強い実感を伴って了解できる。
● そのような智慧を「【後得智】(ごとくち)」といい、それによって了解される世俗における空性は「幻の如き空性」と表現される。
それによって煩悩障と所知障をすべて断滅した暁に、一切智たる仏陀の境地へ到達するのだ。
ここへ至って初めて、等引智と後得智の区別は解消され、瓶の空性と色彩・形状を同時に了解できるという。
それはあたかも、上空を覆っていた雲が完全に晴れ、無限の虚空と地上の世界を同時に見渡せるようになった状態……とでも形容できるだろうか。
もはや、自分の居場所がどこなのかは全く問題にならず、いずこにあろうとすべての存在を完全に見通せるのだ。
●証成法(しょうじょうほう)=対象を否定的に分析しなくても理解しうる存在。それ自体の概念をつかむのに、否定すべきものの概念をつかむ必要のないもの ex)柱、瓶
<=>
●遮詮法(しゃせんほう)=否定対象を分析してはじめて理解しうる存在。それ自体の概念をつかむのに、否定すべきものの概念を把握しなければならないもの ex)無我、空
②過慢とは、自分と対等または優れたものに対し、潜在的に自分のほうが良い、自分も同等にできると思うこと。
③慢過慢とは、自分より優れたものに対して、自分のほうが良い、と段々高慢が高じてくること。
④我慢とは、自分にこだわり、自分のほうが相手より優れていると思い上がる気持ちのこと。
⑤増上慢とは、自分ではわかっていない境地を、証得したかのようにふるまうこと。
⑥卑慢とは、自分よりはるかに優れた人に対し、「たいしたことは無い」と思う慢心。
⑦邪慢とは、自分にまったく徳が無いのに徳があると思い込むこと。
依他起性について、教えて下さい。
【回答】
依他起性(えたきしょう)とは、
唯識学の専門用語ですが、原始仏教で言う、因縁生起(縁起)の意味です。
意味は文字通り、「他に依りて起きるもの」で、様々の条件の結びつきによって、そこにある、ということです。一言でいえば、私達の現実の相です。
因縁和合して、出来上がった現象です。
存在という点からいえば、多くの力によって支えられている、という存在の実態です。
言葉を変えれば、無我、無常の真相でもあります。
色々な力によって支えられていながら、八識として生きているのが、私達であります。
八識とは、その根底に阿頼耶識に無限の過去の種子が薫習、集積された存在です。
阿頼耶識には、無限と言ってもよい位の善悪の様々な種子を薫習しており、それによって存在している、という点で、八識は依他起性です。
私達とは、自分が蓄えてきた総合的な自己、しかも、その時の条件によって、様々に千変万化する自己、それが依他起性としての自己です。
しかも、これは阿頼耶識に限ったことではなく、阿頼耶識を一つの場として、末那識や意識、前五識が働いています。
それらが、相互に関わり合って、働いているのが私です。
それだけではなく、八つの心王(しんおう)に、それぞれ、心所(しんじょ)と呼ばれる、51の細かい心の働きが、付随しています。
私が生きているということは、複雑な心の関わり合いの中にある、ということです。
では悟りを開くとどうなるのかということについては、それぞれの段階についてお経に詳しく教えられています。
例えば不退転位の41段、初地の位は、初めて真の中道を観察できるようになり、仏性の理を見て、如来の智慧海に入り、衆生を幸せへ導き、大きな慶喜を得る位です。
『大品般若経』には、以下のような10の特徴があると教えられています。
1.心が変わりにくくなる
2.すべての生きとし生けるものに平等に接する
3.布施をする
4.正しい仏教の先生に親しみ近づく
5.仏法を求める
6.出家する
7.仏身を愛楽する
8.仏法を説く
9.自惚れを破る
10.真実の言葉を語る
初地に至れば不退転位ですので、やがて必ず仏のさとりを開くことができます。
それで、41段の悟りを開くと、心に常に歓喜に満ちるようになります。
それがどのような喜びか、41段の悟りを開かれた龍樹菩薩りゅうじゅぼさつは、このように教えられています。
『この菩薩の所有の余の苦は二三の水渧のごとし。
百千億劫に阿耨多羅三藐三菩提をうといえども、無始生死の苦においては二三の水渧のごとし。
滅すべきところの苦は大海のみずのごとし。
このゆえにこの地をなづけて歓喜とす。』
(漢文:是菩薩所有余苦 如二三水渧 雖百千億劫 得阿耨多羅三藐三菩提 於無始生死苦如二三水渧 所可滅苦如大海水 是故此地名為歓喜)
(引用:『十住毘婆沙論じゅうじゅうびばしゃろん』)
これはどういうことかというと、初地の位に入って消滅した苦しみを大海の水とすれば、まだ消滅していない残りの苦しみは、非常に細い毛で大海の水をすくった2、3滴ほどの苦しみだ、ということです。
これまで果てしない遠い過去から迷いに迷いを重ねた大海の水のような苦しみに比べれば、たとえこれからまだ百千億劫の大変な長期間の修行が必要でも、その苦しみはほんの2、3滴のようなものです。
それで初地の菩薩は心に【大歓喜】を生ずるのです。
では悟りを開くとどうなるのかということについては、それぞれの段階についてお経に詳しく教えられています。
例えば不退転位の41段、初地の位は、初めて真の中道を観察できるようになり、仏性の理を見て、如来の智慧海に入り、衆生を幸せへ導き、大きな慶喜を得る位です。
『大品般若経』には、以下のような10の特徴があると教えられています。
1.心が変わりにくくなる
2.すべての生きとし生けるものに平等に接する
3.布施をする
4.正しい仏教の先生に親しみ近づく
5.仏法を求める
6.出家する
7.仏身を愛楽する
8.仏法を説く
9.自惚れを破る
10.真実の言葉を語る
初地に至れば不退転位ですので、やがて必ず仏のさとりを開くことができます。
それで、41段の悟りを開くと、心に常に歓喜に満ちるようになります。
それがどのような喜びか、41段の悟りを開かれた龍樹菩薩りゅうじゅぼさつは、このように教えられています。
『この菩薩の所有の余の苦は二三の水渧のごとし。
百千億劫に阿耨多羅三藐三菩提をうといえども、無始生死の苦においては二三の水渧のごとし。
滅すべきところの苦は大海のみずのごとし。
このゆえにこの地をなづけて歓喜とす。』
(漢文:是菩薩所有余苦 如二三水渧 雖百千億劫 得阿耨多羅三藐三菩提 於無始生死苦如二三水渧 所可滅苦如大海水 是故此地名為歓喜)
(引用:『十住毘婆沙論じゅうじゅうびばしゃろん』)
これはどういうことかというと、初地の位に入って消滅した苦しみを大海の水とすれば、まだ消滅していない残りの苦しみは、非常に細い毛で大海の水をすくった2、3滴ほどの苦しみだ、ということです。
これまで果てしない遠い過去から迷いに迷いを重ねた大海の水のような苦しみに比べれば、たとえこれからまだ百千億劫の大変な長期間の修行が必要でも、その苦しみはほんの2、3滴のようなものです。
それで初地の菩薩は心に【大歓喜】を生ずるのです。
https://true-buddhism.com/practice/reflection/
●無色界定
色というのは物質的なもののことなので、【物質的な束縛】から【完全に解放】された世界を
≪無色界≫といいます。
つまり無色界は肉体のない世界です。
≪無色界定≫では、心が肉体の束縛を離れて自在に働きます。
天親菩薩の『倶舎論くしゃろん』には、
5空無辺処定、6識無辺処定、7無所有処定、8非想非非想処定 の4つが説かれています。
⑤空無辺処くうむへんしょ定とは、虚空の無辺なることを観察して、第四禅を離れて生ずる状態です。
⑥識無辺処しきむへんしょ定とは、無辺の識を思って、空無辺処を離れて生ずる状態です。
心の働きが虚空と同じようにほとりがないと観察します。
⑦無所有処むしょうしょ定とは、無所有を思って、識無辺処を離れて生ずる状態です。
何ものも対象を見ない観察です。
⑧非想非ひそうひ非想処ひそうしょ定とは、そのように見る想念があるのでもなく、ないのでもないと観察します。
●『倶舎論』によれば、【非想非非想処】という名前は、
【想の昧劣なるによるなり】
【謂く明勝の想なければ、非想の名】を得
【昧劣の想あるが故に非非想】と名付くと解説されています。
これは、表象された明らかな心の動きは無いので、非想と名づけられ、
極めてわずかな心の動きが無いわけではないために、非非想となづけられる、ということです。
【無所有処を離れ】て、
【極めてわずかな想】がある状態です。
● こうした四智は、仏果に至ってはじめて得られるのではなく、
十地の【初地位】で≪無分別智≫を起こして【見道】に入るのですが、
そこにおいて【第六意識】が【妙観察智】となり、それに引かれて【第七末那識】が【平等証智】になる。
● それらには先に一言したように、ともに≪根本無分別智≫と≪後得智≫があります。
すなわち、まず≪真如を証し≫その上で広く【世界を分析していく】のが【妙観察智】で、
また【平等証智】は【自他の平等性】をさとり、その上で【諸法を平等に縁ずる】わけであります。
● このように【第六意識】と【第七末那識】とは≪見道≫において、
それぞれ【妙観察智】【平等証智】を開くのですが、
その後の≪修道≫で更に【二阿僧祇劫】の間【十地の修行を積んで】【仏果に至って】はじめて、
【前五識】が、ようやく【成所作智】となり、【阿頼耶識】が【大円鏡智】になります。
ーーーーー
『唯識とは何か「法相二巻抄」を読む』 横山紘一 P384
●この段階を【見道】という。
≪真如≫に達するからまた【通達位】ともいわれる。
具体的には、四智のうち【妙観察智】と【平等証智】との二つの智が生ずる。
ーーー
『唯識とは何か「法相二巻抄」を読む』 横山紘一 P405)
● 前述したように【四智】のうちで【大円鏡智】と【成所作智】とは、
この≪仏位において≫初めて生ずる。
ーーーーー
『「唯識三十頌」を読む』 廣澤隆之 P285)
● なお、この【転識 - 得智】は【仏位】になってから、一気に【識】が【智慧】に【転換】するのではない。
【初地】の【空性体験】に依って【平等証智】と【妙観察智(後得智)】が【獲得】され、
【十地において】繰り返し【無分別智】を【体験した結果】
【仏位】になると【大円鏡智】と【成所作智】が【獲得される】。
ーーー
『「唯識三十頌」を読む』 廣澤隆之 P285~286)
● 伝統教学では、このような智慧の獲得の階位について、
【妙観 - 平等】【初地 - 文得】【大円 - 成事】【唯仏 - 果起】
【妙観察智と平等証智】は【初地】で文得され、
【大円鏡智と成所作智】は【唯仏果】でおこる、という詩文で暗記することになっている。
ーーー
この人は取りあげ、あの人は下げる、という心が無くなった状態をいいますね、
こうなって、初めて心が鏡のようになり、能・取、見・相、を遠離して、真如が体現されることになります、
そうすると、五識が統合された唯一の識が受用されます、
いながらにして、ヒマラヤの聖者を見て聞いて会話をしたり、人の過去世を見てきたり、人の心が見えて聞こえたり、します、
ですから、前五識がどうのではなくて、成所作智とは、超越的に五識と同じ所作を為す智なのです。
ニヤーカにおける修行道の相互関係
https://repository.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/record/37059/files/ib005001.pdf
中部経典 【調御地経】
釈尊が【身・受・心・法】各々について、≪尋を【尋求】すること勿れ≫として、
≪【無尋・無伺】≫から、
【第二禅定】、第三禅定、第四禅定を具足して住する。
と言われたとされる。
● 尋・伺は心の外部へ向けてのものとした論文を、法介さんはあげていましたが、釈尊の言葉では上記なので、
やはり、第六識、第七意識がすべての対象へ向かうことに対して、【尋・伺】は向けられていて、
四禅定では、心を含め全てで尋求するな!と言うことが正解であるようです。
釈尊の言う≪尋を【尋求】すること勿れ≫
これは、初禅であると言えます。
従って第三禅定はもちろん、初禅、第二禅も、欲界では無くて、≪色界である≫が正しいと言えるでしょう。
https://i.imgur.com/rV10mKX.jpg
https://note.com/hiruandondesu/n/nd4bc7f7a2e9f
● 第二「独処品」に次のようにある。
①初禅に入定した者には、言葉が滅びます。
②第二禅に入定した者には、尋と伺が滅びます。
③第三禅に入定した者には、喜悦が滅びます。
④第四禅に入定した者には、出入息が滅びます。
⑤空無辺処に入定した者には、色想が滅びます。
⑥識無辺処に入定した者には、空無辺処想が滅びます。
⑦無所有処に入定した者には、識無辺処想が滅びます。
⑧非想非非想処に入定した者には、無所有処想が滅びます。
⑨想受滅に入定した者には、〈想〉と〈受〉が滅びます。
漏尽の比丘には、貪欲が滅び、瞋恚が滅び、愚痴が滅びます。
ーーーーーーーー
ーーーーーーーー
● また比丘よ、私は順次の諸行の寂止を告げました。
①初禅に入定した者には、言葉が静まります。
②第二禅に入定した者には、尋と伺が静まります……
⑨想受滅に入定した者には、〈想〉と〈受〉が静まります。
漏尽の比丘には、貪欲が静まり、瞋恚が静まり、愚痴が静まります。
ーーーーーーー
ーーーーーー
● 比丘たちよ、これら六の止息があります。
①初禅に入定した者には、言葉が止息します。
②第二禅に入定した者には、尋と伺が止息します。
③第三禅に入定した者には、喜悦が止息します。
④第四禅に入定した者には、出入息が止息します。
⑨想受滅に入定した者には、〈想〉と〈受〉が止息します。
漏尽の比丘には、貪欲が止息し、瞋恚が止息し、愚痴が止息します
https://i.imgur.com/kYQ3XyD.jpg
『智慧』って言葉は、智と慧で別れていて
『智』とは分別によって知られ得る
『慧』とは無分別三昧によって知られ得る
この2つ合わさって、【智-慧】って云うようですね
【世界悉檀】凡夫の真理=仮諦
『中論』は空を縁起で説いた ---(体空)
【為人悉檀】仏の真理=空諦
『唯識論』は空を三観(空・仮・中)で説いた ---(法空)
【対治悉檀】三界の真理=中諦
『法華経』は空を真如で説いた ---(非空)
【第一義悉檀】真如の真理=三身即一
ふーん😷
無漏種子の有・無を顕そうとしている。
●すなわち全く【無漏種子がなく】、
≪二障(煩悩障・所知障)≫の種子を
【永久に断ずることができない者】は、非涅槃法(無性有情)である。
●ただ【二乗の無漏種子のみがあり】、
【所知障の種子】を永久に【断ずることができない者】は、一分が声聞種姓であり、一分が独覚種姓である。
●また【仏の無漏種子があり】、
【二障の種子】をともに【永久に断ずることができる者】は、如来種姓(菩薩種姓)である。
だから無漏種子の有・無によって、障礙に可断・不可断があるのである、という。これに唯識学派の解釈を加えて図示すれば、次のようになるだろう。
https://i.imgur.com/NVm4EzV.jpeg
能く一切の種子を納め維持するはたらきがある。
2)「所蔵」:七識によって熏ぜられる。
前七識によって種子が熏習される心的領域。
3)「執蔵」:末那識によって自我と執着される。
阿頼耶識が末那識によって自我であると執着される。
『成唯識論』国訳一切経p33,『唯識根本教理』
相応部の 『空 』にお い て
ブッ ダが
「アーナン ダよ 、
【我】について,【我に属するもの 】につ いて【空なのです】
それゆえに、【世界は空である】と言われるので す 」
と述べ て い るのは、
こうした【空と無我】との深い 結びつ きを示したものである.
『大いな る智慧による問答経』における空心解脱 も同様で あ り,
その 注釈書で は
【空性】とは
≪ヴ ィ パッ サ ナーで ある≫
こ とが 述べ られている。
https://www.otani.ac.jp/yomu_page/kotoba/nab3mq0000000ki7.html
『 忽然として【念の起こる】を
名づけて【無明】と為す !』
『大乗起信論』
上に掲げた言葉は、【迷いの心の根源】としての、【 無 明 】を表現したものです。
【忽然】とは「たちまち」「にわかに」「いきなり」という意味です。
たちまち、【迷いの心=妄念】が起こることを、【無明】というのです。
https://i.imgur.com/hb0ERXS.jpg
夢は持ち続けることで現実になるって
一般的にふつう凡人は、あんまり意志gs強くなく
弱いと、大学受かったらとか、入社したらとか、何かえお成し遂げたとか、のタイミングで
燃え尽き症候群になる人がいますが
これは【意志】=【識】なのですが
この識の現れに於ける、結晶化が弱く、識自体の強度が弱い人に見られる現象ですね
この自己の【識】は、修行によって結晶化が進み、成長して行きます
それが、ある程度の、強い意志を発揮可能な強度に達すると、
ようやく、悟りの準備が調うわけです
それ以前に、もしも六七識が不用意に落ちたりしますと、ただの魂の脱け殻のようになって、いわゆる腰の抜けたようになって、立ち上がることも出来ないようになります
昔々の20才ころの修行始めたばかりのころに、そうなった経験があります
電車の中で横たわって脱け殻状態になってて、1時間近く戻って来れませんでした
この違い
ここに悟り現象が何十年も坐禅しても起きないという、根本原因が有るわけです
故に
日に1時間とかのでは、この識の結晶化が起こらないってことです
よく言われるのが、【井戸を掘るそばから埋めている!】って表現されるね
禅定瞑想での1時間の壁があって、識が弱いうちは禅定1時間で戻される
きれは授業は45分の根拠でもあります
線香1本40分とか
聖?級になるには、1日8時間の瞑想を間断なく出来るようになるくらいの、識の強さが求められるようです
インドの聖?と日本も聖?が、8時間の瞑想をやったと語っていますから、間違いないでしょう
これ連続ね
https://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E7%8F%BE%E8%A1%8C
とあります通り、
1阿頼耶識の業である種子が、縁と仮和合して業報が発現すること、もしくは発現した果報そのものをいいます。
2さらに現行は、生じた果報を阿頼耶識に種子として熏習し、種子を上書きします。
1 は「種子生現行」という縁起です。
2 は「現行熏種子」という縁起です。
この「種子生現行→現行熏種子」によって阿頼耶識の種子が上書きされます。
それを「種子生種子」と言います。
これは阿頼耶識内で起こる縁起ではありません。
阿頼耶識の種子が他の識と仮和合して起こる縁起です。
現行は阿頼耶識以外の識で起こります。
阿頼耶識には「蔵の三義」が『成唯識論』で説かれておりまして、
1)「能蔵」:種子を執持する。
能く一切の種子を納め維持するはたらきがある。
2)「所蔵」:七識によって熏ぜられる。
前七識によって種子が熏習される心的領域。
3)「執蔵」:末那識によって自我と執着される。
阿頼耶識が末那識によって自我であると執着される。
『成唯識論』国訳一切経p33,『唯識根本教理』
阿頼耶識の種子が縁起の〝因〟となったり、---(種子生現行)
縁起の〝果〟となったりする事はあっても ---(現行熏種子)
阿頼耶識自身が〝縁〟として働く事はありません。
なぜなら阿頼耶識にあっては思慮は一切働かないからです。
それが善の行い(業)であろうが
悪の行い(業)であろうが
阿頼耶識はそれらを善とも悪とも色別しません。
なぜなら阿頼耶識は、
思慮が働かない
無分別の識だからです。
現行は阿頼耶識以外の識で起こります。
この阿頼耶識縁起を覚った境涯が無分別の智慧を得た
別教の菩薩という境涯になります。
●所知障
ーーー
【知られるべきもの】即、
≪究極の真理≫=≪真如≫を
【知ることを妨げる】障害。
ーーー
【煩悩障】とともに説かれて、二つをまとめて【二障】と言う。
≪煩悩障≫と対比すれば、煩悩障が【我】への執着=【我執】によって生じ、
それによって【生死に流転する】のに対して、
≪所知障≫は【もの】=【法】への執着である【法執】によって生じ、
それによって≪菩提≫を得ることができない。
●たとえば【自己の身体】と思ってそれに貪欲を起こす場合、この貪欲の対象を分析すると、
一つは【自己=我】であり、今一つは【身体】である。
この中の【自己=我】というものが【実体】としてあると執着して起こす貪欲が
≪煩悩障≫であり、
【身体】があると思って起こす執着が
≪所知障≫である。
すなわち、ある一つの貪欲‥‥広くいえば煩悩の一つ‥‥は≪煩悩障と所知障≫との両面を同時にそなえている。
このことを
【煩悩障は≪法の用≫に迷い】
【所知障は≪法の体≫に迷う 】
という。
具体的には、識を転じて智を得る【転識得智】ことである。
この中、識の働きは二分法的思考【分別】であり、
そのような認識のありようになる原因が【煩悩障と所知障】である。
1)煩悩障を断ずることによって煩悩が生じなくなり、
2)所知障を断じることによって、すべての知るべきもの≪一切の所知≫を智ることになる。
『 云何が菩提なるや。謂く略説すれば
【二断と二智】是れを【菩提と名づく】』
●【二断】とは、
1)には【煩悩障の断】
2)には【所知障の断】なり
●【二智】とは
1)には【煩悩障が断ずる】が故に
≪畢竟離垢≫にして
≪一切の煩悩が随縛しない智≫である。
2)には【所知障が断ずる】が故に
【一切の所知】に於いて
≪無礙にして無障なる智≫である。
〔瑜伽論38 T30-498c〕
●【有為・無為】の諸法と
≪【真如】≫に関して、
≪正しい智を生じない≫様な
障害となるものが【所知障】である。
解脱には関係がないから【声聞は所知障を断じない】
しかし【無知は衆生教化には障害】となるから、
【菩薩は所知障をも断じて】
≪一切智者≫となる。
六無為
大乗仏教の唯識派によって主張される。唯識派による無為は識変と法性とにより仮立される。六種の無為を説くけれども法性所顕の縁によりて説くのであって別体はない。
1)虚空無為 法性すなわち真如が障害を離れたところに現われる無為である。
2)択滅無為 法性の択力で汚れを滅したところに現われる無為
3)非択滅無為 法性の択力によらず本性清浄あるいは縁欠不生により現われる無為
4)不動無為 第四静慮に入り、苦楽受の滅を得したところに名づける無為
5)想受滅無為 非想地の滅受想定に入り、想受の滅を得したところに名づける無為
6)真如無為 法性が真実如常の相を有するによって名づける
前の五無為はいずれもこの【真如無為】によって【仮立されたもの】であり、
【真如無為も仮名】であるが、
その体は【実有】であるとされる。
【有為と無為】とは説一切有部では【まったく関係なく】、
また唯識仏教においては
≪有為無為永別≫として、
【有為の諸法】は真如たる無為法から縁起してくるものではないとされ、有為と無為とは能依所依の関係である。これは性相を決判し、「真如凝然不作諸法」と建てる法相教学からきたものである。
これに対し『大乗起信論』など如来蔵思想の系統では「真如随縁作諸法」といい、
【有為と無為の交渉を主張する】
無為
【造られたもの、では無いもの】の意味。
基本的には、【中国の老荘思想】からの援用であろうと考えられる。
これは【人間の作為ではなく】自然のまま」という意味である。
仏教では【縁起により作り出された】ものでは【無い】
≪不生不滅≫の存在をいう。
たとえば【涅槃】は【輪廻を超克した】ものであるから、
≪無為≫と呼ばれる。
【造られたもの】では【無い】ものの意味である。
【為作・造作を有しない】もの。
即ち【因縁和合】によって【生滅する諸法】を≪有為≫と称するのに対して、
【為作・造作を離れ】【常住にして不生不滅】なるものを≪無為≫という。
●原始仏教においては、最高の理想である≪涅槃≫を指して、
生滅なき点よりして≪無為≫と名づけた。
●部派仏教においては、【不変化】の点からして【有為法と対立】するもの、
あるいは有為法の根底をなすものとしての【無為法】が考えられて
後世の大乗・唯識仏教へとよりくわしく考察されていった。
部派仏教中の説一切有部によって主張される。
●択滅無為
【簡択力】によって得られた【滅】
【簡(エラブ)択】とは
≪四諦の理をさとる智慧≫
この智慧によって、【煩悩から解脱】したところに顕れる【空寂の真理】
≪涅槃≫のこと。
即ち、【汚れ無き智慧の力】により
【煩悩を断ずる】ところに現われる
≪無為≫をいう。
【択滅の数は煩悩の数と等しい】とされる。
●非択滅無為
【簡択力】によっては得られ無い
≪空寂なる滅≫
【因と縁を欠く】【現象として生じ無い】もの。
たとえば、ある一つの物(色)を眼(眼識)で見るとき、
【他の物を】見る・聞く・嗅ぐ・触るという感覚(眼識・耳識・鼻識・舌識・身識の五識)は
【生じない】ままであることをいう。
●これを【縁闕不生の非択滅】という。
唯識では、【真如のありよう顕れ方】に応じて、次の【6つの無為】を立てる。
択力によらず、縁欠不生によって、生ずべき法が未来にとどまり生じないところに名づける。
如何なる妨げ=【障礙】もない【広大無辺な空間】。
その中で、もの(色)がさまたげられることなく、自由に動きまわり、増大・収縮することができる空間。
【虚空】は実体として存在する【実有】。
【無礙】即ち【諸法が存在する】うえにおいて【障害の無い】ことをいい
いわば【絶対空間】ともいうべきものを指す。
単なる隙間の空間としての虚空とは異なる
〔『倶舎論』1〕。
他の部派仏教では大衆部や一説部などが九無為説を主張する。
<凡夫の認識>
客観=有
主観=無
実体=客観と主観(亦有亦無)
(※ 実体は人間の概念によって造り出される妄想分別)
<仏の認識>
客観=「色即是空」
主観=「空即是色」
実在=「色即是空 空即是色」
(※ 実在とはそのモノの真実のあり様)
<覚りの後得智>
遍計所執性(凡夫の認識)
依他起性(仏の認識)
円成実性(片眼凡夫+片眼仏)
<凡夫の認識> ---(欲界)
<仏の認識> ---(色界)
<仏の認識> ---(無色界)
の下地です。
<凡夫の認識> ---(倶舎論)
<仏の認識> ---(中論)
<真如の認識> ---(唯識論)
https://i.imgur.com/hwNZQ8W.jpeg
「有漏の聞薫習がなければ、無漏の種子は、現起しない」『成唯識論述起』
https://ameblo.jp/yk19610402/entry-12780723521.html
【1】有漏性のものは、
①修道で断じられる
②しかし勝れた人格を作る
③純粋な出世法の【増上縁(勝れた助縁)となる】
【2】無漏性のものは、
①何処かで断じられる性質では無い
②出世法の【正因縁(直接的力)】となる
ーーー
【1】有漏の聞薫習は、
最終的には、【出世心の直接的な力になりません】が、勝れた人格を作りますので、出世心への【増上縁(勝れた助縁)】となります
【2】無漏の聞薫習は、
出世心の【直接的な力】となり
人を【解脱へと至らしめ】ます
ーーー
【正法を聞く】という薫習に
何故?有漏のものを立てるのでしょうか?
それは●【人間には末那識がある】からです
唯識は【人間は八識の存在】とします。その中で●【末那識は有漏法】の根源です
【末那識の影響を受け】て
●【意識や前五識が有漏性となる】
するとそれを離れることは難しくなります。
ですから、清浄な正法も
【聞くという経験の過程で有漏化】されてしまう
https://livedoor.blogimg.jp/butudou/imgs/7/f/7f708cc4.jpg
≪無漏性のものは、出世法の正因縁≫
だと教えられます。
つまり【末那識を是認した上で】
≪【無漏性の聞薫習】がありうる≫と教えるのです。
これは【聞薫習の一部】は
【無漏性の本来の性質を変えず】
【無漏のまま阿頼耶識に届く】ものがあるということでありましょう
●『成唯識論』を解説した『成唯識論述記』には、
もし【有漏の聞薫習がなければ】
【無漏の種子は現行しない】
と述べています。
【有漏種子が無漏種子を動かす】のであります。
それは勿論
【有漏が無漏の正因縁では無い】ということです
それは【間接的な助縁の増上縁】であります。
その【間接的な力が無漏の種子を発動】すると教えられるのです。
このことは、無漏にせよ、有漏にせよ
≪【聞法せよ!】≫と示されているのです。
【有漏の聞薫習】は、長い修行の中で断じられます。
最終的な出世法の力とはなりません。
【有漏は無漏の正因縁とはなら無い】のであります。
仏法を現在、聴聞している皆さん方は「本有(ほんぬ)の無漏種子」をお持ちだと思います。
だから、たとえ薫習(くんじゅう)されるものが有漏の種子であったとしても、
それが【本有の無漏種子】へ働きかけて、それを豊かにしていきます。
●【有漏の聞薫習】がなければ、
【無漏の種子は、現起しない】
『成唯識論述起』
と教えられています。
これも『中論』に説かれる中観思想で、
すなわち、「八不中道」でもわかるように、
いかなる存在や事象は「相依相待」の関係で成り立っていて、どちらかがなければあり得ない「無自性」・「空」であり、
存在や事象の名称はただ世俗のコトバで「仮の名(仮名)」・「仮に設定されたもの(「仮設(けせつ)」)」に過ぎず、とらわれるべきではない。
●また、対立的な二項のどちらかに偏すれば、それは「我見」であり、「虚妄(こもう)分別」(二項対立で見ること)であり、「戯論(けろん)」(真実をとらえていない見解)となる。
だから、二項のどちらにも偏せず中道・中観をとるべきである。
相対関係で成り立っている存在や事象はすべて「空」であり、「仮(設)」であり、「中」である。これを「空・仮・中」と言うのである。
中国天台の開祖とされる慧文(えもん、慧聞)は、
龍樹の「中観」思想を拠り所にして禅を修め、「空・仮・中」を観想して
「次第三観」
「隔歴(きゃくりゃく)三諦」と
「円融(えんゆう)三諦」
「一心三観(いっしんさんがん)」
を説いたが、従来これは「空・仮・中」の誤解だとする見方がある。
●すなわち『中論』は、あらゆる存在や事象が「無自性」であることを「空・仮・中」の三の面から一元的に説いたのだが、
慧文は「空・仮・中」をそれぞれ「空諦」・「仮諦」・「中諦」と分解して「三諦」とし、
「空諦」を観想して「見思惑(けんじわく)」を断じ、「仮諦」を観想して「塵沙惑(じんじゃわく)」を断じ、「空諦」と「仮諦」を対立二項としてその真ん中の「中諦」を観想し、「無明惑(むみょうわく)」を断じ中道を達観するのである
(「次第三観」・「隔歴三諦」)。
それに対し、「三諦」を同時に観想し(「一心三観(いっしんさんがん)」)、
それぞれが互いに相入し合い円融であると達観するのを「円融三諦」とした。
中国的な陰陽の生々流転の思想が入っている。
〈唯識〉の所説。3つの法(存在)の因果の連続が同時であるということ。
3つの法とは
(1) 潜在的な根本心である【阿頼耶識のなかの種子】(可能力)が【因となって】
【現行(現象的存在)が果として生じ】
(2) 【生じた現行】が【因となって】
【阿頼耶識の中】に【果としての種子】を【薫じつける】、という過程のなかで、
(1) のなかの因として「種子」と、果としての「現行」と、
そして、それが、(2) のなかの因となった「現行」と、果としての「種子」との3つを、すなわち「種子」と「現行」と「種子」との3つをいい、これら3つからなる因果の連続が同時に起こることを
三法展転因果同時という。
●此は能く、諸法の種子を〝執持〟して、失せざらしむるが故に、
一切種子と名づく。
執持=保持すること。
ーーー
『成唯識論』の第18偈解説の原文に
明確に書いてます。
●この識(阿頼耶識)の中の種子は余の縁に助けられるが故に、
即便ち是の如く是の如く転変す。
1)常坐三昧(一行三昧) - 90日間座り続ける。
2)常行三昧(仏立三昧) - 『般舟三昧経』に基づき、90日間阿弥陀仏の周りを回りながら念仏を行う。
3)半行半坐三昧 -本尊の周りを歩く行と、座る行を行う。
4)方等三昧 - 『大方等陀羅尼経』に基づいて7日間行われる。
5)法華三昧 - 『法華経』に基づき37日間または21日間行われる。
6)非行非坐三昧(随自意三昧)
ヒンドゥー教ヨーガ学派経典のヨーガ・スートラでは、
三昧とは静慮があたかも客体のみになって自体が空になったかのような状態であると定義される。
●ヨーガ・スートラでは以下のように、
「有想三昧」と「無想三昧」
(第1章17-18節)
「有種子三昧」と「無種子三昧」
(第1章41-51節)の別が説かれている。
●有想三昧(サンプラジュニャータ・サマーディ)尋(ヴィタルカ)、伺(ヴィチャーラ)、楽(アーナンダ)、我想(アスミター)の意識対象が伴っている三昧。
●無想三昧(アサンプラジュニャータ・サマーディ)
【行(サンスカーラ)】だけが残っている三昧。
●有種子三昧(サビージャ・サマーディ)
【心の対象】が残っている三昧。
●ヨーガスートラに述べられる定(サマーパティ)の種類には
有尋定 サヴィタルカ・サマーパティ
無尋定 ニルヴィタルカ・サマーパティ
有伺定 サヴィチャーラ・サマーパティ
無伺定 ニルヴィチャーラ・サマーパティ
がある。
●無種子三昧 ニルビージャ・サマーディ
【真智(直感智)】さえも止まり、
すべての【心作用が止滅】した時に生じる三昧。
なぜなら心は、常に心の働きや煩悩を見ている、あるいはそれに囚われているから、自らの本性を認識できなくなっているのである。
この状態を
●「無明」と言うが、
サンスクリットでは<アヴィドヤー(avidyā)>である。
<a->は否定辞であり、
<vidyā>は「正しい知識」である。
正しい知識を誤らせるもの、あるいはそもそも正しい知識がないことが「無明」である。
無明に基づいて心の働きや煩悩がある。世界の認識は誤認に基づくのである。
ーーー
正しい知識とは何かが問題だ
正しい知識とは真諦である四正諦などのことらしいが
私は人間の真の本性に対する言語超絶の知識であると思う
それは、智慧の智を除いた慧のことであり、智慧とは
慧を知ることであろうと理解する
しかしその現象は刹那滅であるから、瞬時に消滅してダルマは離散する。
それが瞬間、瞬間で繰り返され積み重なって現象世界が成立するという。
その場合、集合・離散するダルマはどこから現れてどこへ消えるのだろうか。
●有部はそれを、未来の領域から現れて過去の領域へ去ると説明する。
つまりダルマは、過去、現在、未来の三世にわたって実有の状態で存在するというのである。
≪三世実有≫
法であるダルマが三世にわたって恒存するから【法体恒有】ともいう
●この過去、現在、未来は時間軸としてとらえるよりは、位相というような概念でとらえた方がわかりやすい気がする。
ダルマがこの世を構成する要素としての機能を果たしている瞬間が現在、機能する前の位相が過去、後が未来ということなのだろう。
以上のように有部は、存在の要素を精緻に分析することによって無常、無我を究明した。
●しかしそのことによって存在の構成単位である極微のダルマ(法)というものの存在にいきついたためにそれを実有とせざるを得なくなったのである。
こうした有部の立場は後に【我空法有】と呼ばれるようになる。
そしてそれは、大乗仏教の説く「我空法空(我法倶空)」と鋭く対立するのである。
人間存在をはじめすべての物質的精神的事象(諸法) をその構成要素にまで分析して
そこに実体的存在性がないことを証明する析空観(しゃっくうかん) に対して
諸法を分析するのではなく,そのまま幻のごとくであり
空であると観じる方法。大乗仏教の空観とされる。
この体空観のたとえとしては,幻のほか,陽炎,水月,虚空,響 (やまびこ) ,犍闥婆城 (蜃気楼) ,夢,影,鏡中像,化などが用いられる。
ーーー
体空
【当体即空】の略。
事物の当体そのままが即ち空であるとする
通教所説の【体空観】のこと。
蔵教の【析空観】に対する語。
分析的観察をせず、
【諸法の当体】が【そのまま空】であると観ずることである。
空
http://wikiarc.wikidharma.org/index.php/%E7%A9%BA
縁起
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E7%B8%81%E8%B5%B7
ここには馬ちゃんぐらいしかいないようですね。
ああいう展開もそれはそれで楽しめるんですが、
いかんせ話が先に進まない。
なので、馬ちゃんに向けてこっちのブログで続きを書いていきます。
宜しかったらご覧ください。
https://zawazawa.jp/bison/topic/31
あらゆる物事を【現しだす種子】の中で
迷いの境涯を転じて、仏の悟りの世界を現し出すものの中で
最も【力に強い種子】は
≪名言-種子≫と呼ばれる
≪言語の種子≫である‼️
ーーー
迷いの境涯を転じて
≪【仏の世界】を現しだすもの≫を
法界等流の【聞薫習】によって、阿頼耶によって蓄えられる
清浄な≪【言語の種子】≫であると考える
ーーー
https://www.google.com/url?sa=t&source=web&rct=j&opi=89978449&url=https://doho.repo.nii.ac.jp/record/2253/files/%25E5%2590%258C%25E6%259C%258B%25E4%25BD%259B%25E6%2595%259956.61-76.pdf&ved=2ahUKEwiTreHL__-IAxWnrVYBHfY5MLsQFnoECB8QAQ&usg=AOvVaw2MLSCYRB53hyudHw-64OXG
虚空蔵菩薩への願い
虚空蔵菩薩に願を立て云く、日本第一の智者となし給へと云云
(善無畏三蔵鈔)
https://yorokobi-reidanshikai.jp/nichiren-road/no020.html
「虚空蔵菩薩求聞持法」は、締め切ったお堂や洞のような空閑寂静な場所に籠もり、
百万遍もの陀羅尼(だらに)(神佛の発する呪文)をひたすら唱え続けるという、大変厳しい密教の修行です。
その間は作法に従ってわずかな穀物や水を口にするだけで、睡眠もほとんど取ることはありません。
近代となっても、希にこの求聞持法に挑む修行者がいるとのことですが、聞き及んだところでは、あまりの極限状態に心身に異常をきたし、途中で断念する者はもちろんのこと、時には命を落とす者もいる程の荒行なのです。
この求聞持法は、通常五十日、ないし百日間で行うと定められているのですが、何と蓮長はわずか二十一日間でこれを成し遂げたとされているのです。
https://talk.jp/boards/psy/1728379412
https://www.shorinkutu.com/kyozo/syorinkutusoshi/rounigoroku/
https://www.shorinkutu.com/20211018-2/
●種子識という言は、識の中の種子を顕す。
種子を持する識には非ず。
後に当に説くべきが故に。
此の種子の中の種子は、
【余の縁に助け助けられる】が故に、
即便(スナワ)ち、是の如く是の如く、転変す。
>その音で、無自覚、から我に返った、迷いに帰って、言語化できた、ということなんです。。w
それ、真逆ですwww
無心状態から撃竹で我に返って無心であった事を知って有心に返って言語化したのではありません。
>一撃に所知を亡ず、
>更に自ら修治せず
例えば坐禅をしてて足が痛くなったり妄想したりしていて(所知)
隣単の方が警策をパンパンパンパンってやられた瞬間(一撃)
痛みとか思考とか真っ新に飛んで無くなる(亡ず)
状態が続く(更に自ら修治せず)
事がある訳ですが、それです。
であるので、もう既に迷いに帰っての言語化ではありません。
修行としても折り返し地点というか、この先何をすれば良いのか分かったという境地に達したのです。
「なんぢ聡明博解なり、章疏のなかより記持せず、父母未生以前にあたりて、わがために一句を道取しきたるべし。」
香厳、いはんことをもとむること数番すれども不得なり。
ふかく身心をうらみ、年来たくはふるところの書籍を披尋するに、なほ茫然なり。
つひに火をもちて年来のあつむる書をやきていはく、
「画にかけるもちひは、うゑをふさぐにたらず。われちかふ、此生に仏法を会せんことをのぞまじ。ただ行粥飯僧とならん。」
といひて、行粥飯して年月をふるなり。
行粥飯僧といふは、衆僧に粥飯を行益するなり。このくにの陪饌役送のごときなり。
かくのごとくして大に潙まうす、
「智閑は心神昏昧にして道不得なり、和尚、わがためにいふべし。」
大潙のいはく、
「われなんぢがためにいはんことを辞せず、おそらくは、のちになんぢわれをうらみん。」
かくて年月をふるに、大証国師の蹤跡をたづねて、武当山にいりて、国師の庵のあとに、くさをむすびて爲庵す。竹をうゑてともとしけり。
あるとき、道路を併浄するちなみに、かはらほとばしりて、竹にあたりてひびきをなすをきくに、豁然として大悟す。
沐浴し、潔斎して、大潙山にむかひて焼香礼拝して、大潙にむかひてまうす、
「大潙大和尚、むかしわがためにとくことあらば、いかでかいまこの事あらん。恩のふかきこと、父母よりもすぐれたり。」
つひに偈をつくりていはく、
一撃に所知を亡ず、更に自ら修治せず
動容古路を揚ぐ、悄然の機に堕せず
処々蹤跡無し、声色外の威儀なり
諸方達道の者、咸く上上の機と言はん
この偈を大潙に呈す。
大潙いはく、
「此の子、徹せり。」
(『正法眼蔵』渓声山色の巻 より)
サンスクリット語の「ダルマター」(dharmataa)であり、法そのもの、法としてあらわれている万物の本性の意味である。
●真如〈しんにょ〉とは、
「タタァター」(tathataa)であり、真実であり如常であること、「ありのままの状態」をいう。
●如実〈にょじつ〉とは
「ブフータ・タタァター」(bhuuta-tathataa)であり、存在のありのままのすがたをいう。
●この実相こそが
仏陀の悟りの内容そのものであるというので、
これを一実、一如、一相、無相、法身、法性、法位、涅槃、無為、真諦、真性、実諦、実際
などという。
そして「無(我)」も「有(我)」も、無常を背景とする世界。無常を根本とする世界にはありえないんだと。
https://i.imgur.com/Bw4519T.jpeg
カッチャーヤナよ、正しい智慧によって、あるがままに無常世界における生起する現象を見る時、
この【無常世界において「無我」という事は無い。】
また、正しい智慧によって、あるがままに無常世界における変滅を見る時、
この【無常世界において常住不変としてのアートマン(我)の実在という事もありえない。】
カッチャーヤナよ、世間の人々は大抵、自分が愛着する対象や、その見解に取著し、こだわり、囚われを起こしている。
しかし、聖なる修行者とは、その心に依拠する対象に囚われたり、取著を起こし(これがわたしのパーソナリティである)と、囚われ、執着し、こだわるということが無い。
ただ、苦が生じたなら(これは苦だ)と認識し、苦が消滅したならば(苦は滅した)と見て、囚われず、惑わず、疑わず、※他に依存しない。
ここに智慧が生ずる。
カッチャーヤナよ、これが正見である。
カッチャーヤナよ、
無常世界に
【不変の我が存在する。と言うのは、一つの極端と言えよう。】
同様に
【我は無い」と言うのももう一つの極端である。】
カッチャーヤナよ、如来はこれら両極端を離れて法を説くのである。
https://i.imgur.com/Bw4519T.jpeg
wiki
●サンカーラには主に二つの意味がある。
【1】つ目の意味では、サンカーラは一般的に
【条件づけられたものごと】
【因縁によって起こる現象】
【 有 為 法 】をさす。
【諸行無常】として説かれる。
【2】つ目の意味では、サンカーラは五蘊のひとつ
【行蘊】(梵:Samskara-Skanda)
として【業】をさし、それらは【縁起】の原因とされる。
心の中の【何かをしたい】という【衝動】のことであり、
その【衝動】は、その【直前の状態】から生まれているのである。
ある1【行動(karma, 業)】を取ることで、その2【次の行動】をしたいという欲求が【自動的に現れる】のである
wiki
【2】つ目の意味合いでは、
我々の身心を構成する五つの要素である
【五蘊(色受想行識)】の
≪行≫=行蘊(梵:Samskara-Skanda)と
【十二因縁(十二縁起)】の【第二支】
≪行≫(行支)は、いずれも
【意識】を生ずる
≪意志作用≫=≪志向作用≫である。
それは、心の働きが一定の方向に作用していくこと、【意志-形成力】のこと。
善悪の一切の行為のこと。
何かをしたいという衝動のこと。
例えば、桜を見て、その枝を切って瓶にさしたり、苗木を植えてみようと思い巡らすこと、が挙げられる。
それは≪縁起支≫(paticca-samuppada)の一部である
>その音で、無自覚、から我に返った、迷いに帰って、言語化できた、ということなんです。。w
それ、真逆ですwww
無心状態から撃竹で我に返って無心であった事を知って有心に返って言語化したのではありません。
>一撃に所知を亡ず、
>更に自ら修治せず
例えば坐禅をしてて足が痛くなったり妄想したりしていて(所知)
隣単の方が警策をパンパンパンパンってやられた瞬間(一撃)
痛みとか思考とか真っ新に飛んで無くなる(亡ず)
状態が続く(更に自ら修治せず)
事がある訳ですが、それです。
であるので、もう既に迷いに帰っての言語化ではありません。
修行としても折り返し地点というか、この先何をすれば良いのか分かったという境地に達したのです。
第18偈の続き
●謂く、生の位より転じて熟の時に至る。
変ぜられる種は多なりということを顕さんとして、重ねて如是と言う。
●謂く、一切種に、三熏習と、共・不共等の識種を摂(オサ)め尽くすが故に。
展転力とは、謂く八の現識と及び彼の相応と、相・見分等なり。
彼は皆互いに相い助ける力有るが故に。
即ち現-いー4識等を総じて分別と名づく。
虚妄分別をもって自性と為すが故に。
分別の類多きが故に彼彼と言えり。
此の頌の意の説かく、外縁は無しと雖も、本識の中に、一切種の転変する差別有るに由り。
及び現行の八種の識等の展転する力を以ての故に、彼彼の分別而も亦た生ずることを得る。
何ぞ外縁を仮って方に分別を起こさんや。
諸々の浄法の起こることも、応に知るべし。
亦た然なり。浄種と現行とを縁と為して生ずるが故に。
●恒審思量
https://zawazawa.jp/bison/topic/9
いわゆる密教の百万遍真言を一定期間内に唱える、金剛大乗の道です
我々大衆は、定年までは、社会の労働者として、時間に縛られて、何十年もほぼ自由の無い生活をしなければ、金銭を稼げず、生活出来ない
1ヶ月2ヶ月という、考えたら一生にしたらとても短い期間でも休むことは不可能であって
50日という休みは、定年するかしないと取れないのであって
百万遍を21日で唱えた日蓮は特別として、普通は50日であって、空海でも50日~100日かけていて、それを3回行ってたし
覚鑁(カクバン)などは7回で死にかけてようやく成就しています
それは録音機の無い時代の行法ではしょうがないことでしたが
現代では録音した言葉を2倍速再生して2倍の速度や2倍の回数など、楽に聞いて唱えると同じ効果を得られます
マナ識が平等性になるような言葉を真言とすることで、第四禅定に自由に出入り出来ることを前提にして、誰もが50日程度で、完全に永続して、無分別の状態を成すことが可能なのです
サンスクリット語の「ダルマター」(dharmataa)であり、法そのもの、法としてあらわれている万物の本性の意味である。
●真如〈しんにょ〉とは、
「タタァター」(tathataa)であり、真実であり如常であること、「ありのままの状態」をいう。
●如実〈にょじつ〉とは
「ブフータ・タタァター」(bhuuta-tathataa)であり
【存在のありのままの姿】をいう。
●この実相こそが
仏陀の悟りの内容そのものであるというので、
これを
一実、一如、一相、無相、
法身、法性、法位、涅槃、
無為、真諦、真性、実諦、実際
などという。
その脳内の聴覚野での再生音は
(1)六識の了別、(2)七識の思量に次ぐ第3の思考として、脳内で認識が起こり続けるのであり
その結果として、六、七識の活動は停止されて、無為無分別と同じ状態が現れるのである、と言えよう
御題目でも念仏でも坐禅であろうが
六識了別が沈黙した後で
七識の恒審思量から漏れだして来る
止めどない、我慢に染汚された想いを、つかんで縁起させるのかどうか?
って処に一つの潜在的な関門があるってことであって
その七識関門の妄想思量の流れを、掴むでなく、止めるでなく、在るがままに観察することなく、
無為にして離れていることができるのか?ってこと
では、離れている者とは何であろうか⁉️
離言されし何か、在る者
この何者でも無い、ただ在る者が
目覚めているのか、眠りこけているのか?
ここが最大の難所
ここを覚めて在れるのであれば
七識の妄想思量は停止されるでしょう
瞑想坐禅が巧く行くと、必ず上記のようになっているはず
その時 “在る”というその状態は、胸のいわゆるハートに在り続ける
これらのことを、自己の体験的に、理解できるのかどうか?ってことですね
サーリプッタよ、そしてまた更に如来は様々な前世の生き様を思い出す。
すなわち、一生、二生、三生、四生、五生、十生、二十生、三十生、四十生、五十生、百生、千生、十万生、多くの宇宙還元期、多くの宇宙再生期、多くの宇宙還元再生期を。
「わたしはそこでは、このような名前を持ち、このような家系に属し、このような容色であり、このような食物を摂取し、このような苦楽を経験し、このような寿命の最期を迎えた。そしてそこで死にかしこに再生した。
わたしはそこでも、このような名前を持ち、このような家系に属し、このような容色であり、このような食物を摂取し、このような苦楽を経験し、このような寿命の最期を迎えた。そしてそこで死にかしこに再生した」。と
このように詳細な状態の記憶を伴い、様々な生き様を思い出すのである。
サーリプッタよ、これは如来による如来の能力であるがゆえに、
この能力によって如来は指導者の地位を公言し、集団の中で獅子吼して吠え、
≪ブラフマンの輪≫を発生させるのである。
「無始よりこの来た、消滅し相続して常にも非ず、断にも非ずして、有情を漂溺して出離せざらしむ。
又た瀑流は、風等に撃せられて、諸の波浪を起こすと雖も、而も流すること断ぜらるが如し。
此の識も亦た爾なり。
衆縁に遇って、眼識等を起こすと雖も、而も恒に相続せり。
又た瀑流は、水の下・上の魚・草等の物を漂して、流れに随って捨てざるが如し。
此の識も亦た爾なり」
阿頼耶識をば断とせんや、常[じょう]とせんや、断にも非ず、常にも非ず、
恒[つね]に転ずるを以ての故に。
●恒と云うのは謂[いわ]く、
此の識は無始の時より来[このか]た、一類(無記)に相続して常に間断[けんだん]無しと云わんとするということ、是れ[三]界・[五]道・[四]生とを施設する本[もと]なるが故に、
性堅[しょうけん]にして種子[しゅうじ]を持[じ]して失[しっ]せざらしむが故に。
●転(常・一を庶[しゃ]す)と云うは謂く、
此の識は無始の時より来た、念念に生滅して前後変異すと云わん。
因滅すれば果生ずるを以て常・一に非ざるが故に。
転識[てんじき]の為に種子[しゅうじ]を熏成[くんじょう]する可[べ]きが故にと。
恒と言うのは断を遮[しゃ]す。
転と云うは常に非ずと云うことを表す。
猶ほ暴流[ぼうる]の水の断にも非ず、
恒にも非ずして相続して長時に漂[ひょう]し、溺[にゃく]する所ろ有るが如し。
此の識も亦爾[しか]なり。
無始従[よ]り来た、生滅し相続して、常に非ず、断にも非ずして、有情を漂・溺して出離[しゅつり]せざらしむ。
杉 野 祥 一
http://home.e-catv.ne.jp/miyoshik/ippen/reikai2008/200808.htm
現存する最古の原始経典が『スッタニパータ』第四章「八詩句章」であり、
ここに釈尊の直説の教えが保存されています。
釈尊が自らの出家と悟りについて語るのが、第十五経です。
釈尊は次のように語りはじめます・・・
● 棒を握って暴力をふるうようなことから離れたいという憂いの思いが生じたのだ
争っている人々を見なさい!
私がどのように厭い離れたか、その厭離する心を語ろう~!
(Sn935)
●修行者や師と呼ばれる人たちさえもが
≪論争し≫≪敵対し≫合っているのを見て
私は絶望的になった!このとき、私は
人々の心臓の奥底に突き刺さっていく
≪一本の矢≫を 発見したのである!
(938)
●その矢によって突き飛ばされて
人々はあらゆる方向に向かって輪廻している
この≪ 矢を ≫引き抜きさえすれば
もはや輪廻することはないのである
(939)
ここで注目しなければならないのは、【939】の経文です。
≪一本の矢≫が、輪廻という苦しみの原因であり、
この【矢を抜けば】輪廻はないと語られています。
これは、最初にお示しした縁起のパターンをとっています。
したがって、この≪一本の矢≫の、【根本発見】こそが、
≪最も原初の縁起説≫だと言わなくてはなりません。
もう少しこの≪一本の矢≫について釈尊に教えてもらいましょう。
解深密経には阿頼耶識しか書いてない。
つまり、論によって付加された概念であり
必ずしも囚われる必要はないと思われる。
●≪輪廻の大洪水≫の【正体】は
【何時までも】この世界に存在したいという
≪根源的≫≪願望≫であると、私は言う
吸い込むような激流は
【個々の衝動的≪欲求≫】である
【流れに浮かんでいる】物は
≪欲求≫され、思い浮かべられた
≪対象物≫である
≪欲望の泥沼≫を越えていくのは難しい、と私は言う
(945)
●【過去から溜まって来た】
≪洪水の水≫を、干上がらせなさい
【未来に】向かって
≪何も希求しない≫ようにしなさい
【現在】において
≪何も所有しない≫ようにしなさい
そうすれば、あなたは
≪静寂を保ち≫つつ歩んで行くことになるであろう
(949)
●これら≪過去・現在・未来≫のすべてにおける
≪名と体≫からなる≪個別の私≫【名色】を
≪自分のものにする≫ことが無いならば、
≪在りし日の自分が存在し無い≫からといって
嘆き悲しむことはないし、また実にこの世界にありながら
≪失うものは何もない≫のである
(950)
マナ識の原型はヨガで言うマナス(心)
これをヨガでは我執って言うようですよ
ヨーゲシュバラナンダ師によればそこに3つのグナが作用するらしい
阿頼耶識に相当するのが心素って言うもので
大円鏡智に相当するのが真我と思われますね
仏教用語のサンカーラ、サンスカーラとは
●パーリ語およびサンスクリット語に由来し
≪一緒になったもの≫
≪纏めるもの≫という意味合いである。
伝統的に≪行≫もしくは≪有為≫と訳される。
●サンカーラには主に二つの意味がある。
一つ目は、【サンカーラ】は一般的に
≪条件づけられたものごと≫
≪因縁によって起こる現象≫
【有為法】をさす。
≪諸行無常≫として説かれる。
●二つ目は、【サンカーラ】は
【五蘊】のひとつ≪行蘊≫として、【業】をさし
それらは≪縁起の原因≫とされる。
心の中の≪何かをしたい≫という【衝動】のことであり
その【衝動】は、その【直前の状態】から生まれているのである。
ある行動(karma, 業)を取ることで、その次の行動をしたいという欲求が自動的に現れるのである。
世尊は言った。 ...
眼処、耳処、鼻処、舌処、身処、意処。これら六内処が知られるべきである。...
色処、声処、香処、味処、触処、法処。
これら六外処が知られるべきである。
触によって受が起こる。
受によって渇愛がおこる。
パーリ仏典,中部, 148六六経,Sri Lanka Tripitaka Project
プンナ教誡経
編集
世尊は言った。
プンナよ、眼によって識られる、望ましく、好ましく、喜ぶべく、愛すべき形相で、欲をかきたて、心をひきつける諸々の色(ルーパ)がある。
もし比丘が、それを歓喜し執着してとどまるならば、それを歓喜し執着する彼に、喜悦が起こる。
プンナよ、「喜悦の生起より苦の生起がある」と私は説く。
…(耳、鼻、舌、身、意について同様に説く)…
また、プンナよ、眼によって識られる、望ましく、好ましく、喜ぶべく、愛すべき形相で、欲をかきたて、心をひきつける諸々の色がある。
もし比丘が、それを歓喜せず、執着せずにとどまるならば、それを歓喜せず執着しない彼に、喜悦が滅する。
プンナよ、「喜悦の滅尽により苦の滅尽がある」と私は説く。
…(耳、鼻、舌、身、意について同様に説く)…
パーリ仏典,プンナ教誡経,Sri Lanka Tripitaka Project
https://i.imgur.com/R00rbfE.jpeg
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%87%A6
六根 - 主観の側の六種の器官、感官のこと。六内入処、六内処とも。
眼 - 視覚能力もしくは視覚器官
耳 - 聴覚能力もしくは聴覚器官
鼻 - 嗅覚能力もしくは嗅覚器官
舌 - 味覚能力もしくは味覚器官
身- 触覚能力もしくは触覚器官
意 - 知覚能力もしくは知覚器官
●六境 - 客観の側の六種の対象、感官の対象のこと。
六外入処、六外処とも。
色 - 眼根によって見られる色彩と形象
声 - 聴覚の対象
香 - 嗅覚の対象
味 - 味覚の対象
触 - 身根によって感じられる堅さ、熱さ、重さなど
法 - 意根によって知覚される概念を含むすべての存在
●眼・耳・鼻・舌・身の5つは五根といい、仏教およびインド哲学では、西洋での五感にプラスして【第六感】を挙げている。
仏教における
≪6つ目は【心】≫であり
感覚の印象、感情、知覚、意志などを含む感覚対象と、相互作用する内部感覚器官を指している
https://www.jstage.jst.go.jp?-char
世親釈は「所取と能取との分別あり」とするに対し 唯識観の発展
田中順照 著?1964?
しかもこれらの二が鏖と根と等しく所取であると. して、. と説かれている。
ーーー
弥勒、無著、世親と伝承された唯識観の発展をたどろうと思う。
弥勒には楡伽師地論、弁中辺論、大乗荘厳経論、法法性分別論、現観荘厳論等の著がある。
そのうち、先ず弁中辺論をとりあげて見る。
虚妄分別有 於レ此二都無
此中唯有レ空 於レ彼亦有レ此 (玄)
虚妄分別有 彼処無レ有レニ
彼中唯有レ空 於レ此亦有レ彼 (真)
玄奘訳の所取と能取は、所取の執であり、能取の執である。
は、弁中辺論巻頭の有名な偶である。虚妄分別とは何か。
玄奘訳、世親釈は 「所取と能取との分別あり」とするに対して、真諦訳は 「能取と所取とを分別するあり」としている。
述記はこれを、
能取所取遍計所執、
縁レ此分別乃是依他。… …
即所取能取分別。依士釈名。非二二取即分別持業立レ名。
と説いている。
知られるものと知るものとの二が等しく知られるものとして分別されるとの意である。
真諦訳はこれを明に示している。
従 って虚妄分別を単に知られるものと知るものと の対立と解するだけでは十分ではない。
その知られるも玄弊訳、世親釈は 「所取と能取との分別あり」とするに対しのの側に知る働も含まれていることに注意 しなければならぬ。
識生変二似義 有情我及了一此境実非レ有 境無故識無 (玄)
塵根我及識 本識生似レ彼但識有無レ彼 彼無故識無 (真)
このことを明に示している。 チェルバッキーはこれを、~と訳している。
1外的対象 (義、 塵) と2身体 (根) と3我と4識とは実在するものでなく、
単に識の似現せるものとして、言わば識の影にすぎない。
本来は存在しないこれらの四つに似て現ずるも の、それが虚妄分別である。
識の似現せる四つの中、 義と根とについては、識 の似現せる対象、 即ち識によって投げ出された対象の意義は理解され易い。
ところが、我と識とはむしろノエシス面に属し、 似現せる対象の意義は義と根ほど明確ではない。我と了とについて、
世親釈 (玄弊訳)は、、
変二似我一者。
謂染末那与二我痴等一恒相応故。
変二似了一者
謂余六識了相麓故。
と説き、我に似て現ずとは我痴等と恒に相応する染汚の末那であり、
了に似て現ずとは了別の働の麓なる前六識であるとしている。
しかもこれらの二が塵と根と等しく所取であるとして、
https://www.google.com/url?sa=t&source=web&rct=j&opi=89978449&url=https://rissho.repo.nii.ac.jp/record/7410/files/083_%25E7%25AC%25AC8%25E5%258F%25B7_%25E4%25BA%258C%25E5%258F%2596%25E3%2583%25BB%25E4%25BA%258C%25E5%2588%2586%25E8%25AB%2596.pdf&ved=2ahUKEwjerMDq86GJAxWdsFYBHZvmDBIQFnoECC0QAQ&usg=AOvVaw2HzX0a2xpvIrk9y-250sdk
二取・二分論
勝呂信静 著?1982?
唯識説において、二取(能取・所取)’ 1 1 ’ g R (見分・相分)をどのように理解するかということは、唯識説理解の根本にかかわる問題論である。
数年前にもこの問題について論議がなされた。くり返しぜられて来たこの問題を再び取りあげるのは蛇足であろうが、
多少の私見があるので、以下に述べてみたい。
二取・二分の概念は’大体において、主観と客観あるいは認識作用(ノエシス)と認識対象(ノエマ)にあたるものである。
唯識教義において一般に問題になるのは、二取・二分が、遍計所執性に属して非有と見られるものであるか、あるいは依他起性に属して実有なるものであるかということである。
北山祐誓
https://www.google.com/search?q=%E6%89%80%E5%8F%96%E8%83%BD%E5%8F%96&client=ms-android-samsung-ss&sca_esv=0a37820849624505&sxsrf=ADLYWILF7Yiea7ge-vzcmrT38L79KdwfMQ%3A1729613631037&ei=P88XZ9z-AdrR1e8P577Z4QE&oq=%E6%89%80%E5%8F%96%E8%83%BD%E5%8F%96&gs_lp=EhNtb2JpbGUtZ3dzLXdpei1zZXJwIgzmiYDlj5bog73lj5YyCBAAGIAEGKIEMggQABiABBiiBDIIEAAYgAQYogQyCBAAGKIEGIkFMggQABiiBBiJBUjPWVC1EViST3ACeAGQAQCYAcoBoAHfDKoBBTAuOS4xuAEDyAEA-AEBmAIMoAKaDsICChAAGLADGNYEGEfCAgcQABiABBgXmAMAiAYBkAYEkgcFMi44LjKgB74X&sclient=mobile-gws-wiz-serp#vhid=zephyr:0&vssid=atritem-http://www.jits-ryukoku.net/data/23/ick23_kitayama.pdf&ip=1
それ(本章に先立つ〈論の体〉で説かれた七つの主題)のうち、[最初に]相について述べる。
『虚妄分別はある。そこに二つのものは存在しない。』
『けれども、そこに空性は存在する。それ(空性)にはまたそれ(虚妄分別)が存在する。』
●(I.1)こ[の偈]において、
≪虚妄分別≫とは、
【所取・能取】を【分別する】ことである。
二つのものとは【所取と能取】とである。
【空性】とは、その【虚妄分別】が
【所取・能取】という【あり方を離れ】ていることである。
それにはまた、それが、存在するとは、
≪空性においても≫
【虚妄分別】が【存在すること】である。
「XがYに存在しないとき、YはXという点で空である、とありのまま観察する。一方、まだここ(Y)に何らかの残されたもの(Z)があるならば、それ(Z)は存在するものとしてここ(Y)にある、とありのまま了知する」(6)。
以上、空性の相が顛倒なく明らかに示されたのである。
1 虚妄分別1.1 有と無の相1.1.1 『中辺論頌』第1偈の解釈1.1.1.1 第一に相を説示する理由そ[の七つの主題]のそのうち、[最初に]相について述べる。
●83 虚妄分別はある。
そこに【二つのものは存在しない】。
けれども、
そこに【空性】は【存在する】。
【それ=空性】にはまた
【それ=虚妄分別】が存在する。
そのうちとは、相や障などの七つの主題(vastu)が説かれたうち(17)、[最初に]相を主題として、すなわち標示して(18)、虚妄分別は(I.1a)云々と言う。標示されている通りに[その]解説はあるから、最初に相が標示されているので、まさにそれ(相)について、[それ]以外のものよりも先に解説を開始するのである。
『中辺分別論』及び『中辺分別論釈疏』第I章「相品」
1.1.1.4.3 中観派及び説一切有部両派との対論(第1偈c句)
●ある者たち(中観派)は、
【所取・能取という】二つのものが存在しないことは、石女の子のように、
【断という性質】のものであると把握する。
●別の者たち(説一切有部)は、
【内的作者】を欠いていることが
【諸法の空性】であると言う。
したがって、
【中観派の主張するような≪空性≫ではない、真実の】空性の損減を否定するために、
また
【説一切有部の主張するような≪無我≫ではなく】真実の無我を説示するために、
けれども
≪そこに空性は存在する≫(I.1c)と言う。
●1.1.1.4.4 【解脱の努力の必要性】について(第1偈d句)
【反論】
もし【虚妄分別】において【空性】があるなら、
そのような場合、あらゆる生類が
≪努力することなく解脱する≫ことになってしまう。
【答論】
それはあり得ない。なぜなら、
【それ=空性】にはまた
【それ=虚妄分別】が存在する(I.1d)からである。
なぜなら、
【空性が浄化されない限り】
【解脱はあり得ず】また
【煩悩に】【汚染されたもの(空性)】は
≪大変な努力によって≫浄化されるものであるから、
【努力なくして】
≪解脱することはあり得ない≫のである。
https://www.mmba.jp/archives/30606
果の規定
三乗道の各道それぞれに、資糧道・加行道・見道・修道・無学道という道の規定を承諾しているが、
十地の慧は主張しない。
十六刹那の智・忍のうち、前十五刹那は【見道】であり、
第十六刹那道類智は【修道】であり、
ちょうど山羊たちが列をつくって順々に橋を渡っていくように順次生じてゆくと主張している。
道諦であるからといって、識であるわけではない。無漏の五蘊をも道諦であるとするからである。
≪声聞の種姓をもつ者≫は無常等の十六行相を【三度転生】する間に【修習】する。
● そして【最終的】に!
声聞 修道の【金剛喩定】において
≪【 有 染 汚 障 】を
【得ること】を【止める】≫
という方法によって
【断尽】し≪【阿羅漢果】を現証する≫
ーーー
この意味を良く吟味される必要がある
阿羅漢果へ至る道とは何であるのか?
それを解るには
【 有 染 汚 障 】を
【得ること】を【止める】
この一事が何を言うのか?何をするのか?
という事を、良く良く考え理解することが求められるでしょう
クンケン・ジクメワンポ/野村正次郎訳
● 破壊されたり知で分解された時に、
それであるとする知を捨て去り得る法として認知されるもの、
これが世俗諦の定義である。
定義基体は、たとえば陶瓶や数珠である。
陶瓶を槌で破壊する時、陶瓶であると捉える知は捨てられるからであり、
数珠の珠を分解した時、数珠であると捉える知は放棄されるからである。
● 破壊されたり知で分解された時に、それであると捉える知を捨て去り得ない法として認知されるもの、
これが勝義諦の定義である。
定義基体は、
無方分極微
無刹那分認識
無為虚空等
である。
●『倶舎論』で、
破壊されたり知でそれ以外のものを排除した時
それであるとする知が働かなくなるようなもの
これは瓶のなかの水のように世俗として有る
それ以外のものは勝義として有るものである
と説かれるからである。
以上のことから諸々の世俗諦は勝義不成立だが、真実成立であると主張する。
この教義は、事物であれば真実成立である、と承諾するからである。
定義基体は、たとえば【五蘊】である。
所縁や相応行の何れによっても漏が増加し得ない法、これが【無漏】の定義である。定義基体はたとえば【道諦】【無為】である。
『倶舎論』で、
【道以外の有為】は【有漏】である。
【無漏】はまた【道諦と三無為】である
と説かれるからである。
【有漏】であれば【所断】である。
≪資糧道・加行道≫は【所断】であるからである。
● 【見道は無漏】のみであり、
【修道】と【無学道】との二つにはそれぞれ
【有漏道・無漏道】の二つずつが有る。
【聖道であれば無漏】であるが、
【聖者相続道】であるからといえ必ずしも無漏ではない。
修道者の相続上の【寂静麁重相】を有す道は有漏であるからである。
出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』
修所断
bhāvanā-prahātavya: bhāvanā-heya(S)
修所断法・修断・修道所断ともいう。
修道で断じられるもの(煩悩・随眠・結・惑など)。
真理(諦)を見ることによって断じられる後天的に身につけた知的な迷い以外の迷い。
先天的に身についた煩悩。
『婆沙論』〔『婆沙』77、T27-397a〕では、修所断法とは、
十随眠と、それと相応する心心所と、
それによって等起される身業と語業と、
それによって等起される不相応行と、不染汚の諸の有漏法とであると説かれる。
云何修所断。(中略)謂、得見道後、見所断相違、諸有漏法、是修所断義。〔『雑集論』
出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』
見所断
darsana-prahatavya: darsana-heya(S)
● 見所断法・見断・見道所断ともいう。
【見道】で断じられるもの。
【真理(諦)を見ること】によって断じられるもの
≪煩悩・惑・結・随眠・縛≫など
あやまった教えを聞く、よこしまに思考するなどを原因として、
【後天的に身につけた知的な迷い】、およびその【迷いから起こされる行為】をいう。
『婆沙論』には【見所断法】として、
【八十八随眠】と、及び彼と相応する【心心所法】と、彼によって等起(引き起こされる)される【不相応行】とが説かれる。
● 見所断の義に
見苦所断
見集所断
見滅所断
見道所断
の4種がある。
【見所断の煩悩】は、【理知の面での煩悩】であるから、
≪四諦の観知≫から生起する
≪無漏の智慧≫によって、
たちまち断ち切られる。
問、見所断法云何。答、随信随法行現観辺忍所断。此復云何。謂、見所断八十八随眠、及彼相応心心所法、彼所等起不相応行、是名見所断法。〔『婆沙』77、T27-397a〕
見所断義、謂、現観智諦現観、所応断義。〔『瑜伽』56、T30-608c〕
云何見所断。(中略)謂、分別所起染汚見疑・見処・疑処、及於見等所起邪行・煩悩・随煩悩、及見等所発身語・意業。〔『雑集論』4,T31-711a〕
● 五位の中の一つ。
詳しくは、「心不相応行」「色不相応行」「非色非心不相応行」といい、存在(色)でも心でもない存在をいう。
現代的なモノの見方でいえば、存在するものは物質存在か心による認識かいずれかであるが、
説一切有部と唯識では、それら二つのものの何れでもないが、両者に関係する状態や性質を一つの存在(法)であるとみなして、
これを不相応行と呼ぶ。物と心とを種々の方式に従って活動させる原理をいう。
https://ameblo.jp/yk19610402/entry-12795085344.html
●通達位を「見道?真理を見る?」とも言う。
「真理を無分別智によって、照らすので、見道ともいう」
「無漏の智慧によって、四聖諦を明確に観察する」?岩波仏教辞典?
「見」は「見る」だが、「現れる」という意味もあるので、
「道を見る」とも「道が現れる」とも取ることが出来る。
●この「見道」を
【1)真見道】
【2)相見道】
の二つに分ける。
1)【真見道】は
≪根本無分別智≫の働きです。
【根本智】は
真理と智慧とが一体となる側面で
【見分はあるが、相分はない】段階である。
2)【相見道】は
≪後得無分別智≫の働きです。
【後得智】は無分別の根本智を踏まえながら、再び【相分が顕れる】段階である。
再び相分が顕れるとは、根本智の段階では、消滅していた相分が、再び一切法として現前することであり、
菩薩の眼が一切衆生に廻らされることを表す。
●『成唯識論述記』には、
【真を証する】のを前として
【俗を縁じる智を生じる】と言われている。
【後得智】によって、菩薩の慈悲行が展開するのである。
それでは未だ根本的煩悩の元である無明は完全に解脱されていないので
悟後の修行が必要と白隠さんは言う、無明とは何か?
それは、にわかに湧きいでる妄想念の出処である、唯識で言うマナ識
ここを平等性になるまで修行することが必要になります
解脱とはこの無明を破壊し明慧として、そこから生じていた全ての煩悩を滅し、自らを解放し脱すること
ただね、師匠が認めたからはい悟り!って訳じゃない
正しく、自らに悟り現象が何回か起こって、そこで本来の面目を、自ら顕にし、自ら証することが現われる必要があります
そのような過程を踏むことが求められます
また解脱は、心と身体からの、解脱です
心の空なるを知ると本来の自己に目覚めるが、身体由来の煩悩は残るので
それで出家修行を釈尊はさせた
それでなければ、無明→行の、煩悩の根元を滅するに至らない
無明→行→識→名色→六処→触→受→愛→取→有→生→老死
の12個
悟り現象は、この内の、【受~六処】を縁として
【名色と識】の停止から、【行】の停止が一時的に生じ起こることです
それを端的に表しているのが、香厳撃竹の逸話などです
師匠の一言も同じく【耳】からの音声を【受】けてのこと
その結果、無明から生じて来る、妄想念が一時的に滅されて、本心を悟りますが
それは一時的滅であるので、無明を完全に破壊するまでには至りません
それには、行を滅して行くには、出家が必要となる、なので釈尊は出家させたのですね
世間に居たのでは難しいからなのだと思います
【1分別脳】であると
普段は、情動的な動きとしてしか現れない無意識で潜在的な辺縁系と、映像的空間を認識する右脳の合わさった
【2無分別脳】が
1と2が共に意識されて、共同で働くことが、悟った後の在り様ではないのか?
と推論されます。
前頭前野
https://bsd.neuroinf.jp/wiki/%E5%89%8D%E9%A0%AD%E5%89%8D%E9%87%8E
脳は、大きな一つの塊ではなく、異なった機能を持ついくつかの領域に分かれてます。
●その中の1つに、額のすぐ後ろ、脳の前の方にある前頭前野(ぜんとうぜんや)と呼ばれる場所があります。 前頭前野は、記憶や感情の制御、行動の抑制など、さまざまな高度な精神活動を司っている、脳の中の脳とも呼ばれている重要な場所です。
●左脳は主に、言語処理や論理的思考、数学的な活動に関わっているためです。 左脳派の人は、データを冷静かつ客観的に評価し、論理的に説明する能力が高いです。 そのため、分析結果から的確な判断をしたり、自分の意見をわかりやすく伝えたりすることが得意です。
【1分別脳】であるとし
別に、普段は、情動的な動きとしてしか現れない無意識で潜在的な辺縁系と、映像的空間を認識する右脳の合わさったのが
【2無分別脳】だと
●その1と2が共に意識されて、共同で働くことが、悟った後の、在り様ではないのか?
と推論します。
前頭前野
https://bsd.neuroinf.jp/wiki/%E5%89%8D%E9%A0%AD%E5%89%8D%E9%87%8E
脳は、大きな一つの塊ではなく、異なった機能を持ついくつかの領域に分かれてます。
●その中の1つに、額のすぐ後ろ、脳の前の方にある前頭前野(ぜんとうぜんや)と呼ばれる場所があります。 前頭前野は、記憶や感情の制御、行動の抑制など、さまざまな高度な精神活動を司っている、脳の中の脳とも呼ばれている重要な場所です。
●左脳は主に、言語処理や論理的思考、数学的な活動に関わっているためです。 左脳派の人は、データを冷静かつ客観的に評価し、論理的に説明する能力が高いです。 そのため、分析結果から的確な判断をしたり、自分の意見をわかりやすく伝えたりすることが得意です。
そこで比丘たちよ、わたしは正念によって完全に清められたサマディの第四段階に入ってとどまった。
そして、このように心が統一され、清浄であり、純粋であり、汚れなく、塵芥なく、柔軟であり、かつ機敏であり、安定して不動を得た時、
つぎにわたしは(夜の初更において)過去世の記憶を生起する智慧に心を傾けたのである。
それは、無数に配置された過去の生存の場面。
すなわち、一つの生涯、二つの生涯、三つの生涯・・・十の生涯、二十の生涯、数百の生涯、数千の生涯、
数万の生涯、無数の宇宙生成期、無数の宇宙破壊期、また幾多の宇宙成立破壊期にわたり、
『 そこでは、私は
このような名称であり
このようなカーストであり
このような食物を摂取し
このような苦楽を感受して過ごし
このような寿命を終えて死んだ
そこで死ぬと、
次にかしこに生じた 』と、
無数の生涯における記憶を生起した。
このように、わたしは、あらゆる状況と共に、
かつ詳細にわたり無数に配置された過去の生存の場面を思い起こしたのである
貪りが尽きると解脱が待っている
このプロセスを
1サマディ
2如実知見
3厭離
4離貪
5解脱
と呼び
ここをお釈迦様はこう解説しています。
『 修行者よ、ではその滅尽の前提条件とは何か?
5●それは解脱であるとわたしは言う。
解脱もまた前提条件があり、無条件ではないのである。
では解脱の前提条件とは何か?
4●それは離貪であるとわたしは言う。
そして離貪もまた前提条件があり、無条件ではないのである。
では離貪の前提条件とは何か?
3●それは厭離であるとわたしは言う。
そして厭離もまた前提条件があり、無条件ではないのである。
では厭離の前提条件とは何か?
2●それは如実知見であるとわたしは言う。
そして如実知見もまた前提条件があり、無条件ではないのである。
では如実知見の前提条件とは何か?
1●それはサマディであるとわたしは言う。
修行者たちよ、君たちは色(物質)は無常であると見よ。
このように観ることを【正観】すると言うのである。
正観を達成したものは必ず【厭離】する。
厭離する者は【喜貪が尽きる】。
喜貪が尽きた者は【心解脱】するのである。
同じ様に【受想行識】を【無常である】と見よ。
このように【正観】を達成したものは
【心解脱するかのである。
修行者たちよ!
この時もし【自らの本性】を知りたいと欲したならば
【自らの本性(真我)】を理解するであろう。
そして、わたしの転生は尽き、梵行已にたち、所作已に無し
自ら後有を消滅させたと知るのだ。