鹿野園さんの六根清浄を御祈念していくスレ最終更新 2024/11/16 14:461.法介◆T3azX0Hk1URKka1わたくし法介が、荒らし行為を止むことが無い鹿野園さんの六根清浄を日々御祈念していくことで、彼がどのように変わっていくかを皆で温かく見守るスレです。2023/08/26 08:31:00946コメント欄へ移動すべて|最新の50件897.法介◆T3azX0Hk1Uccz8xどうやら真剣に仏の教えを追求されているのは、ここには馬ちゃんぐらいしかいないようですね。ああいう展開もそれはそれで楽しめるんですが、いかんせ話が先に進まない。なので、馬ちゃんに向けてこっちのブログで続きを書いていきます。宜しかったらご覧ください。https://zawazawa.jp/bison/topic/312024/10/08 19:19:14898.パ4Le2a唯識説における言葉(名言種子) 花 栄あらゆる物事を【現しだす種子】の中で迷いの境涯を転じて、仏の悟りの世界を現し出すものの中で最も【力に強い種子】は≪名言-種子≫と呼ばれる≪言語の種子≫である‼️ーーー迷いの境涯を転じて≪【仏の世界】を現しだすもの≫を法界等流の【聞薫習】によって、阿頼耶によって蓄えられる清浄な≪【言語の種子】≫であると考えるーーーhttps://www.google.com/url?sa=t&source=web&rct=j&opi=89978449&url=https://doho.repo.nii.ac.jp/record/2253/files/%25E5%2590%258C%25E6%259C%258B%25E4%25BD%259B%25E6%2595%259956.61-76.pdf&ved=2ahUKEwiTreHL__-IAxWnrVYBHfY5MLsQFnoECB8QAQ&usg=AOvVaw2MLSCYRB53hyudHw-64OXG2024/10/09 13:04:53899.パ4Le2a●日蓮大聖人の歩まれた道虚空蔵菩薩への願い虚空蔵菩薩に願を立て云く、日本第一の智者となし給へと云云(善無畏三蔵鈔)https://yorokobi-reidanshikai.jp/nichiren-road/no020.html「虚空蔵菩薩求聞持法」は、締め切ったお堂や洞のような空閑寂静な場所に籠もり、百万遍もの陀羅尼(だらに)(神佛の発する呪文)をひたすら唱え続けるという、大変厳しい密教の修行です。その間は作法に従ってわずかな穀物や水を口にするだけで、睡眠もほとんど取ることはありません。近代となっても、希にこの求聞持法に挑む修行者がいるとのことですが、聞き及んだところでは、あまりの極限状態に心身に異常をきたし、途中で断念する者はもちろんのこと、時には命を落とす者もいる程の荒行なのです。この求聞持法は、通常五十日、ないし百日間で行うと定められているのですが、何と蓮長はわずか二十一日間でこれを成し遂げたとされているのです。2024/10/09 13:27:21900.パ4Le2aパーリーの今期周回のまとめhttps://talk.jp/boards/psy/17283794122024/10/09 13:37:38901.パ4Le2a間違った2024/10/09 13:37:51902.パ4Le2aいや良いのか2024/10/09 13:38:14903.パqBJigカムイさんのはこれね。https://www.shorinkutu.com/kyozo/syorinkutusoshi/rounigoroku/https://www.shorinkutu.com/20211018-2/2024/10/10 10:08:54904.パqBJig阿頼耶識の別名である「一切種子識」について『成唯識論』第18偈では次のように云う。●種子識という言は、識の中の種子を顕す。種子を持する識には非ず。後に当に説くべきが故に。此の種子の中の種子は、【余の縁に助け助けられる】が故に、即便(スナワ)ち、是の如く是の如く、転変す。2024/10/10 15:12:33905.パlQSxT>だから、香厳も小石が箒の竹に当たって悟った、んじゃないんです。。>その音で、無自覚、から我に返った、迷いに帰って、言語化できた、ということなんです。。wそれ、真逆ですwww無心状態から撃竹で我に返って無心であった事を知って有心に返って言語化したのではありません。 >一撃に所知を亡ず、 >更に自ら修治せず例えば坐禅をしてて足が痛くなったり妄想したりしていて(所知)隣単の方が警策をパンパンパンパンってやられた瞬間(一撃)痛みとか思考とか真っ新に飛んで無くなる(亡ず)状態が続く(更に自ら修治せず)事がある訳ですが、それです。であるので、もう既に迷いに帰っての言語化ではありません。修行としても折り返し地点というか、この先何をすれば良いのか分かったという境地に達したのです。2024/10/11 14:29:29906.パlQSxTまた香厳智閑禅師、かつて大潙大円禅師の会に学道せしとき、大潙いはく、「なんぢ聡明博解なり、章疏のなかより記持せず、父母未生以前にあたりて、わがために一句を道取しきたるべし。」香厳、いはんことをもとむること数番すれども不得なり。ふかく身心をうらみ、年来たくはふるところの書籍を披尋するに、なほ茫然なり。つひに火をもちて年来のあつむる書をやきていはく、「画にかけるもちひは、うゑをふさぐにたらず。われちかふ、此生に仏法を会せんことをのぞまじ。ただ行粥飯僧とならん。」といひて、行粥飯して年月をふるなり。行粥飯僧といふは、衆僧に粥飯を行益するなり。このくにの陪饌役送のごときなり。かくのごとくして大に潙まうす、「智閑は心神昏昧にして道不得なり、和尚、わがためにいふべし。」大潙のいはく、「われなんぢがためにいはんことを辞せず、おそらくは、のちになんぢわれをうらみん。」かくて年月をふるに、大証国師の蹤跡をたづねて、武当山にいりて、国師の庵のあとに、くさをむすびて爲庵す。竹をうゑてともとしけり。あるとき、道路を併浄するちなみに、かはらほとばしりて、竹にあたりてひびきをなすをきくに、豁然として大悟す。沐浴し、潔斎して、大潙山にむかひて焼香礼拝して、大潙にむかひてまうす、「大潙大和尚、むかしわがためにとくことあらば、いかでかいまこの事あらん。恩のふかきこと、父母よりもすぐれたり。」つひに偈をつくりていはく、 一撃に所知を亡ず、更に自ら修治せず 動容古路を揚ぐ、悄然の機に堕せず 処々蹤跡無し、声色外の威儀なり 諸方達道の者、咸く上上の機と言はんこの偈を大潙に呈す。大潙いはく、「此の子、徹せり。」(『正法眼蔵』渓声山色の巻 より)2024/10/11 14:30:29907.パxxmLL●法性〈ほっしょう〉とは、サンスクリット語の「ダルマター」(dharmataa)であり、法そのもの、法としてあらわれている万物の本性の意味である。●真如〈しんにょ〉とは、「タタァター」(tathataa)であり、真実であり如常であること、「ありのままの状態」をいう。●如実〈にょじつ〉とは「ブフータ・タタァター」(bhuuta-tathataa)であり、存在のありのままのすがたをいう。●この実相こそが仏陀の悟りの内容そのものであるというので、これを一実、一如、一相、無相、法身、法性、法位、涅槃、無為、真諦、真性、実諦、実際などという。2024/10/12 14:33:57908.パTFwJhhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%A8%E6%BB%85%E5%BA%A6%E6%99%82%E6%9C%AC%E5%B0%8A2024/10/12 22:26:30909.パjZgq3これは八正道の「正見」では無くて、無常世界における正しい認識・見解と言うほどの意味です。そして「無(我)」も「有(我)」も、無常を背景とする世界。無常を根本とする世界にはありえないんだと。https://i.imgur.com/Bw4519T.jpegカッチャーヤナよ、正しい智慧によって、あるがままに無常世界における生起する現象を見る時、この【無常世界において「無我」という事は無い。】また、正しい智慧によって、あるがままに無常世界における変滅を見る時、この【無常世界において常住不変としてのアートマン(我)の実在という事もありえない。】カッチャーヤナよ、世間の人々は大抵、自分が愛着する対象や、その見解に取著し、こだわり、囚われを起こしている。しかし、聖なる修行者とは、その心に依拠する対象に囚われたり、取著を起こし(これがわたしのパーソナリティである)と、囚われ、執着し、こだわるということが無い。ただ、苦が生じたなら(これは苦だ)と認識し、苦が消滅したならば(苦は滅した)と見て、囚われず、惑わず、疑わず、※他に依存しない。ここに智慧が生ずる。カッチャーヤナよ、これが正見である。カッチャーヤナよ、無常世界に【不変の我が存在する。と言うのは、一つの極端と言えよう。】同様に【我は無い」と言うのももう一つの極端である。】カッチャーヤナよ、如来はこれら両極端を離れて法を説くのである。https://i.imgur.com/Bw4519T.jpeg2024/10/14 03:47:23910.パlgL4dサンカーラ 潜勢力wiki●サンカーラには主に二つの意味がある。【1】つ目の意味では、サンカーラは一般的に【条件づけられたものごと】【因縁によって起こる現象】【 有 為 法 】をさす。【諸行無常】として説かれる。【2】つ目の意味では、サンカーラは五蘊のひとつ【行蘊】(梵:Samskara-Skanda)として【業】をさし、それらは【縁起】の原因とされる。心の中の【何かをしたい】という【衝動】のことであり、その【衝動】は、その【直前の状態】から生まれているのである。ある1【行動(karma, 業)】を取ることで、その2【次の行動】をしたいという欲求が【自動的に現れる】のであるwiki【2】つ目の意味合いでは、我々の身心を構成する五つの要素である【五蘊(色受想行識)】の≪行≫=行蘊(梵:Samskara-Skanda)と【十二因縁(十二縁起)】の【第二支】≪行≫(行支)は、いずれも【意識】を生ずる≪意志作用≫=≪志向作用≫である。それは、心の働きが一定の方向に作用していくこと、【意志-形成力】のこと。善悪の一切の行為のこと。何かをしたいという衝動のこと。例えば、桜を見て、その枝を切って瓶にさしたり、苗木を植えてみようと思い巡らすこと、が挙げられる。それは≪縁起支≫(paticca-samuppada)の一部である2024/10/15 00:28:49911.パlgL4d>だから、香厳も小石が箒の竹に当たって悟った、んじゃないんです。。>その音で、無自覚、から我に返った、迷いに帰って、言語化できた、ということなんです。。wそれ、真逆ですwww無心状態から撃竹で我に返って無心であった事を知って有心に返って言語化したのではありません。 >一撃に所知を亡ず、 >更に自ら修治せず例えば坐禅をしてて足が痛くなったり妄想したりしていて(所知)隣単の方が警策をパンパンパンパンってやられた瞬間(一撃)痛みとか思考とか真っ新に飛んで無くなる(亡ず)状態が続く(更に自ら修治せず)事がある訳ですが、それです。であるので、もう既に迷いに帰っての言語化ではありません。修行としても折り返し地点というか、この先何をすれば良いのか分かったという境地に達したのです。2024/10/15 00:29:11912.パlgL4d成唯識論第18偈の続き●謂く、生の位より転じて熟の時に至る。変ぜられる種は多なりということを顕さんとして、重ねて如是と言う。●謂く、一切種に、三熏習と、共・不共等の識種を摂(オサ)め尽くすが故に。展転力とは、謂く八の現識と及び彼の相応と、相・見分等なり。彼は皆互いに相い助ける力有るが故に。即ち現-いー4識等を総じて分別と名づく。虚妄分別をもって自性と為すが故に。分別の類多きが故に彼彼と言えり。此の頌の意の説かく、外縁は無しと雖も、本識の中に、一切種の転変する差別有るに由り。及び現行の八種の識等の展転する力を以ての故に、彼彼の分別而も亦た生ずることを得る。何ぞ外縁を仮って方に分別を起こさんや。諸々の浄法の起こることも、応に知るべし。亦た然なり。浄種と現行とを縁と為して生ずるが故に。●恒審思量https://zawazawa.jp/bison/topic/92024/10/15 00:30:40913.パlgL4dもう一つ別の道があって、それはいわゆる密教の百万遍真言を一定期間内に唱える、金剛大乗の道です我々大衆は、定年までは、社会の労働者として、時間に縛られて、何十年もほぼ自由の無い生活をしなければ、金銭を稼げず、生活出来ない1ヶ月2ヶ月という、考えたら一生にしたらとても短い期間でも休むことは不可能であって50日という休みは、定年するかしないと取れないのであって百万遍を21日で唱えた日蓮は特別として、普通は50日であって、空海でも50日~100日かけていて、それを3回行ってたし覚鑁(カクバン)などは7回で死にかけてようやく成就していますそれは録音機の無い時代の行法ではしょうがないことでしたが現代では録音した言葉を2倍速再生して2倍の速度や2倍の回数など、楽に聞いて唱えると同じ効果を得られますマナ識が平等性になるような言葉を真言とすることで、第四禅定に自由に出入り出来ることを前提にして、誰もが50日程度で、完全に永続して、無分別の状態を成すことが可能なのです2024/10/15 00:31:06914.パlgL4d●法性〈ほっしょう〉とは、サンスクリット語の「ダルマター」(dharmataa)であり、法そのもの、法としてあらわれている万物の本性の意味である。●真如〈しんにょ〉とは、「タタァター」(tathataa)であり、真実であり如常であること、「ありのままの状態」をいう。●如実〈にょじつ〉とは「ブフータ・タタァター」(bhuuta-tathataa)であり【存在のありのままの姿】をいう。●この実相こそが仏陀の悟りの内容そのものであるというので、これを一実、一如、一相、無相、法身、法性、法位、涅槃、無為、真諦、真性、実諦、実際などという。2024/10/15 00:31:35915.パlgL4dやってみると分かりますが、録音した言葉を両耳からイヤフォンで聴いた場合その脳内の聴覚野での再生音は(1)六識の了別、(2)七識の思量に次ぐ第3の思考として、脳内で認識が起こり続けるのでありその結果として、六、七識の活動は停止されて、無為無分別と同じ状態が現れるのである、と言えよう2024/10/15 00:31:55916.パmkH4K結局さ御題目でも念仏でも坐禅であろうが六識了別が沈黙した後で七識の恒審思量から漏れだして来る止めどない、我慢に染汚された想いを、つかんで縁起させるのかどうか?って処に一つの潜在的な関門があるってことであってその七識関門の妄想思量の流れを、掴むでなく、止めるでなく、在るがままに観察することなく、無為にして離れていることができるのか?ってことでは、離れている者とは何であろうか⁉️離言されし何か、在る者この何者でも無い、ただ在る者が目覚めているのか、眠りこけているのか?ここが最大の難所ここを覚めて在れるのであれば七識の妄想思量は停止されるでしょう瞑想坐禅が巧く行くと、必ず上記のようになっているはずその時 “在る”というその状態は、胸のいわゆるハートに在り続けるこれらのことを、自己の体験的に、理解できるのかどうか?ってことですね2024/10/17 19:34:33917.パERjIX大獅子吼経より 如来の宿命智サーリプッタよ、そしてまた更に如来は様々な前世の生き様を思い出す。すなわち、一生、二生、三生、四生、五生、十生、二十生、三十生、四十生、五十生、百生、千生、十万生、多くの宇宙還元期、多くの宇宙再生期、多くの宇宙還元再生期を。「わたしはそこでは、このような名前を持ち、このような家系に属し、このような容色であり、このような食物を摂取し、このような苦楽を経験し、このような寿命の最期を迎えた。そしてそこで死にかしこに再生した。 わたしはそこでも、このような名前を持ち、このような家系に属し、このような容色であり、このような食物を摂取し、このような苦楽を経験し、このような寿命の最期を迎えた。そしてそこで死にかしこに再生した」。とこのように詳細な状態の記憶を伴い、様々な生き様を思い出すのである。サーリプッタよ、これは如来による如来の能力であるがゆえに、この能力によって如来は指導者の地位を公言し、集団の中で獅子吼して吠え、≪ブラフマンの輪≫を発生させるのである。2024/10/20 14:21:26918.パNIAhk『成唯識論』の第四偈「無始よりこの来た、消滅し相続して常にも非ず、断にも非ずして、有情を漂溺して出離せざらしむ。又た瀑流は、風等に撃せられて、諸の波浪を起こすと雖も、而も流すること断ぜらるが如し。此の識も亦た爾なり。衆縁に遇って、眼識等を起こすと雖も、而も恒に相続せり。又た瀑流は、水の下・上の魚・草等の物を漂して、流れに随って捨てざるが如し。此の識も亦た爾なり」阿頼耶識をば断とせんや、常[じょう]とせんや、断にも非ず、常にも非ず、恒[つね]に転ずるを以ての故に。●恒と云うのは謂[いわ]く、此の識は無始の時より来[このか]た、一類(無記)に相続して常に間断[けんだん]無しと云わんとするということ、是れ[三]界・[五]道・[四]生とを施設する本[もと]なるが故に、性堅[しょうけん]にして種子[しゅうじ]を持[じ]して失[しっ]せざらしむが故に。●転(常・一を庶[しゃ]す)と云うは謂く、此の識は無始の時より来た、念念に生滅して前後変異すと云わん。因滅すれば果生ずるを以て常・一に非ざるが故に。転識[てんじき]の為に種子[しゅうじ]を熏成[くんじょう]する可[べ]きが故にと。恒と言うのは断を遮[しゃ]す。転と云うは常に非ずと云うことを表す。猶ほ暴流[ぼうる]の水の断にも非ず、恒にも非ずして相続して長時に漂[ひょう]し、溺[にゃく]する所ろ有るが如し。此の識も亦爾[しか]なり。無始従[よ]り来た、生滅し相続して、常に非ず、断にも非ずして、有情を漂・溺して出離[しゅつり]せざらしむ。2024/10/21 12:46:44919.パ8fUGs縁起説の完成するまで 杉 野 祥 一http://home.e-catv.ne.jp/miyoshik/ippen/reikai2008/200808.htm現存する最古の原始経典が『スッタニパータ』第四章「八詩句章」であり、ここに釈尊の直説の教えが保存されています。釈尊が自らの出家と悟りについて語るのが、第十五経です。釈尊は次のように語りはじめます・・・● 棒を握って暴力をふるうようなことから離れたいという憂いの思いが生じたのだ争っている人々を見なさい!私がどのように厭い離れたか、その厭離する心を語ろう~!(Sn935)●修行者や師と呼ばれる人たちさえもが≪論争し≫≪敵対し≫合っているのを見て私は絶望的になった!このとき、私は人々の心臓の奥底に突き刺さっていく≪一本の矢≫を 発見したのである!(938)●その矢によって突き飛ばされて人々はあらゆる方向に向かって輪廻しているこの≪ 矢を ≫引き抜きさえすればもはや輪廻することはないのである(939)ここで注目しなければならないのは、【939】の経文です。≪一本の矢≫が、輪廻という苦しみの原因であり、この【矢を抜けば】輪廻はないと語られています。これは、最初にお示しした縁起のパターンをとっています。したがって、この≪一本の矢≫の、【根本発見】こそが、≪最も原初の縁起説≫だと言わなくてはなりません。もう少しこの≪一本の矢≫について釈尊に教えてもらいましょう。2024/10/21 21:45:32920.神も仏も名無しさんGKXX0末那識って世親がつくったもの解深密経には阿頼耶識しか書いてない。つまり、論によって付加された概念であり必ずしも囚われる必要はないと思われる。2024/10/21 22:41:00921.パtdldHスッタニパータ続き●≪輪廻の大洪水≫の【正体】は【何時までも】この世界に存在したいという≪根源的≫≪願望≫であると、私は言う吸い込むような激流は【個々の衝動的≪欲求≫】である【流れに浮かんでいる】物は≪欲求≫され、思い浮かべられた≪対象物≫である≪欲望の泥沼≫を越えていくのは難しい、と私は言う(945)●【過去から溜まって来た】≪洪水の水≫を、干上がらせなさい【未来に】向かって≪何も希求しない≫ようにしなさい【現在】において≪何も所有しない≫ようにしなさいそうすれば、あなたは≪静寂を保ち≫つつ歩んで行くことになるであろう(949)●これら≪過去・現在・未来≫のすべてにおける≪名と体≫からなる≪個別の私≫【名色】を≪自分のものにする≫ことが無いならば、≪在りし日の自分が存在し無い≫からといって嘆き悲しむことはないし、また実にこの世界にありながら≪失うものは何もない≫のである(950)2024/10/22 01:23:40922.パtdldH>>920マナ識の原型はヨガで言うマナス(心)これをヨガでは我執って言うようですよヨーゲシュバラナンダ師によればそこに3つのグナが作用するらしい阿頼耶識に相当するのが心素って言うもので大円鏡智に相当するのが真我と思われますね2024/10/22 01:29:07923.パrh1Vkwikipedia仏教用語のサンカーラ、サンスカーラとは●パーリ語およびサンスクリット語に由来し≪一緒になったもの≫≪纏めるもの≫という意味合いである。伝統的に≪行≫もしくは≪有為≫と訳される。●サンカーラには主に二つの意味がある。一つ目は、【サンカーラ】は一般的に≪条件づけられたものごと≫≪因縁によって起こる現象≫【有為法】をさす。≪諸行無常≫として説かれる。●二つ目は、【サンカーラ】は【五蘊】のひとつ≪行蘊≫として、【業】をさしそれらは≪縁起の原因≫とされる。心の中の≪何かをしたい≫という【衝動】のことでありその【衝動】は、その【直前の状態】から生まれているのである。ある行動(karma, 業)を取ることで、その次の行動をしたいという欲求が自動的に現れるのである。2024/10/22 18:15:52924.パrh1Vkwikipedia 処世尊は言った。 ...眼処、耳処、鼻処、舌処、身処、意処。これら六内処が知られるべきである。...色処、声処、香処、味処、触処、法処。これら六外処が知られるべきである。触によって受が起こる。受によって渇愛がおこる。パーリ仏典,中部, 148六六経,Sri Lanka Tripitaka Projectプンナ教誡経編集世尊は言った。プンナよ、眼によって識られる、望ましく、好ましく、喜ぶべく、愛すべき形相で、欲をかきたて、心をひきつける諸々の色(ルーパ)がある。もし比丘が、それを歓喜し執着してとどまるならば、それを歓喜し執着する彼に、喜悦が起こる。プンナよ、「喜悦の生起より苦の生起がある」と私は説く。…(耳、鼻、舌、身、意について同様に説く)…また、プンナよ、眼によって識られる、望ましく、好ましく、喜ぶべく、愛すべき形相で、欲をかきたて、心をひきつける諸々の色がある。もし比丘が、それを歓喜せず、執着せずにとどまるならば、それを歓喜せず執着しない彼に、喜悦が滅する。プンナよ、「喜悦の滅尽により苦の滅尽がある」と私は説く。…(耳、鼻、舌、身、意について同様に説く)…パーリ仏典,プンナ教誡経,Sri Lanka Tripitaka Projecthttps://i.imgur.com/R00rbfE.jpeg2024/10/22 18:20:14925.パrh1Vkwikipediahttps://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%87%A6六根 - 主観の側の六種の器官、感官のこと。六内入処、六内処とも。眼 - 視覚能力もしくは視覚器官耳 - 聴覚能力もしくは聴覚器官鼻 - 嗅覚能力もしくは嗅覚器官舌 - 味覚能力もしくは味覚器官身- 触覚能力もしくは触覚器官意 - 知覚能力もしくは知覚器官●六境 - 客観の側の六種の対象、感官の対象のこと。六外入処、六外処とも。色 - 眼根によって見られる色彩と形象声 - 聴覚の対象香 - 嗅覚の対象味 - 味覚の対象触 - 身根によって感じられる堅さ、熱さ、重さなど法 - 意根によって知覚される概念を含むすべての存在●眼・耳・鼻・舌・身の5つは五根といい、仏教およびインド哲学では、西洋での五感にプラスして【第六感】を挙げている。仏教における≪6つ目は【心】≫であり感覚の印象、感情、知覚、意志などを含む感覚対象と、相互作用する内部感覚器官を指している2024/10/22 18:22:19926.パjObbEJ-Stagehttps://www.jstage.jst.go.jp?-char世親釈は「所取と能取との分別あり」とするに対し 唯識観の発展田中順照 著?1964?しかもこれらの二が鏖と根と等しく所取であると. して、. と説かれている。ーーー弥勒、無著、世親と伝承された唯識観の発展をたどろうと思う。弥勒には楡伽師地論、弁中辺論、大乗荘厳経論、法法性分別論、現観荘厳論等の著がある。そのうち、先ず弁中辺論をとりあげて見る。虚妄分別有 於レ此二都無此中唯有レ空 於レ彼亦有レ此 (玄)虚妄分別有 彼処無レ有レニ彼中唯有レ空 於レ此亦有レ彼 (真)玄奘訳の所取と能取は、所取の執であり、能取の執である。は、弁中辺論巻頭の有名な偶である。虚妄分別とは何か。玄奘訳、世親釈は 「所取と能取との分別あり」とするに対して、真諦訳は 「能取と所取とを分別するあり」としている。述記はこれを、能取所取遍計所執、縁レ此分別乃是依他。… …即所取能取分別。依士釈名。非二二取即分別持業立レ名。と説いている。知られるものと知るものとの二が等しく知られるものとして分別されるとの意である。真諦訳はこれを明に示している。従 って虚妄分別を単に知られるものと知るものと の対立と解するだけでは十分ではない。その知られるも玄弊訳、世親釈は 「所取と能取との分別あり」とするに対しのの側に知る働も含まれていることに注意 しなければならぬ。2024/10/22 21:23:13927.パjObbE第三偶の識生変二似義 有情我及了一此境実非レ有 境無故識無 (玄)塵根我及識 本識生似レ彼但識有無レ彼 彼無故識無 (真)このことを明に示している。 チェルバッキーはこれを、~と訳している。1外的対象 (義、 塵) と2身体 (根) と3我と4識とは実在するものでなく、単に識の似現せるものとして、言わば識の影にすぎない。本来は存在しないこれらの四つに似て現ずるも の、それが虚妄分別である。識の似現せる四つの中、 義と根とについては、識 の似現せる対象、 即ち識によって投げ出された対象の意義は理解され易い。ところが、我と識とはむしろノエシス面に属し、 似現せる対象の意義は義と根ほど明確ではない。我と了とについて、世親釈 (玄弊訳)は、、変二似我一者。謂染末那与二我痴等一恒相応故。変二似了一者謂余六識了相麓故。と説き、我に似て現ずとは我痴等と恒に相応する染汚の末那であり、了に似て現ずとは了別の働の麓なる前六識であるとしている。しかもこれらの二が塵と根と等しく所取であるとして、2024/10/22 21:23:29928.パjObbEhttps://www.jstage.jst.go.jp/article/jeb1947/1964/66/1964_66_1/_pdf/-char/ja2024/10/22 21:35:27929.パjObbE立正大学学術機関リポジトリhttps://www.google.com/url?sa=t&source=web&rct=j&opi=89978449&url=https://rissho.repo.nii.ac.jp/record/7410/files/083_%25E7%25AC%25AC8%25E5%258F%25B7_%25E4%25BA%258C%25E5%258F%2596%25E3%2583%25BB%25E4%25BA%258C%25E5%2588%2586%25E8%25AB%2596.pdf&ved=2ahUKEwjerMDq86GJAxWdsFYBHZvmDBIQFnoECC0QAQ&usg=AOvVaw2HzX0a2xpvIrk9y-250sdk二取・二分論勝呂信静 著?1982?唯識説において、二取(能取・所取)’ 1 1 ’ g R (見分・相分)をどのように理解するかということは、唯識説理解の根本にかかわる問題論である。数年前にもこの問題について論議がなされた。くり返しぜられて来たこの問題を再び取りあげるのは蛇足であろうが、多少の私見があるので、以下に述べてみたい。二取・二分の概念は’大体において、主観と客観あるいは認識作用(ノエシス)と認識対象(ノエマ)にあたるものである。唯識教義において一般に問題になるのは、二取・二分が、遍計所執性に属して非有と見られるものであるか、あるいは依他起性に属して実有なるものであるかということである。2024/10/22 21:36:49930.パgRX6V『中辺分別論』及び『中辺分別論釈疏』第I章「相品」校訂テキスト及び翻訳研究?はじめに北山祐誓https://www.google.com/search?q=%E6%89%80%E5%8F%96%E8%83%BD%E5%8F%96&client=ms-android-samsung-ss&sca_esv=0a37820849624505&sxsrf=ADLYWILF7Yiea7ge-vzcmrT38L79KdwfMQ%3A1729613631037&ei=P88XZ9z-AdrR1e8P577Z4QE&oq=%E6%89%80%E5%8F%96%E8%83%BD%E5%8F%96&gs_lp=EhNtb2JpbGUtZ3dzLXdpei1zZXJwIgzmiYDlj5bog73lj5YyCBAAGIAEGKIEMggQABiABBiiBDIIEAAYgAQYogQyCBAAGKIEGIkFMggQABiiBBiJBUjPWVC1EViST3ACeAGQAQCYAcoBoAHfDKoBBTAuOS4xuAEDyAEA-AEBmAIMoAKaDsICChAAGLADGNYEGEfCAgcQABiABBgXmAMAiAYBkAYEkgcFMi44LjKgB74X&sclient=mobile-gws-wiz-serp#vhid=zephyr:0&vssid=atritem-http://www.jits-ryukoku.net/data/23/ick23_kitayama.pdf&ip=12024/10/23 15:29:00931.パgRX6V1 虚妄分別1.1 有と無の相(sadasallaks .an .a)1.1.1 『中辺論頌』第1偈:虚妄分別における有と無81それ(本章に先立つ〈論の体〉で説かれた七つの主題)のうち、[最初に]相について述べる。『虚妄分別はある。そこに二つのものは存在しない。』『けれども、そこに空性は存在する。それ(空性)にはまたそれ(虚妄分別)が存在する。』●(I.1)こ[の偈]において、≪虚妄分別≫とは、【所取・能取】を【分別する】ことである。二つのものとは【所取と能取】とである。【空性】とは、その【虚妄分別】が【所取・能取】という【あり方を離れ】ていることである。それにはまた、それが、存在するとは、≪空性においても≫【虚妄分別】が【存在すること】である。「XがYに存在しないとき、YはXという点で空である、とありのまま観察する。一方、まだここ(Y)に何らかの残されたもの(Z)があるならば、それ(Z)は存在するものとしてここ(Y)にある、とありのまま了知する」(6)。以上、空性の相が顛倒なく明らかに示されたのである。1 虚妄分別1.1 有と無の相1.1.1 『中辺論頌』第1偈の解釈1.1.1.1 第一に相を説示する理由そ[の七つの主題]のそのうち、[最初に]相について述べる。●83 虚妄分別はある。そこに【二つのものは存在しない】。けれども、そこに【空性】は【存在する】。【それ=空性】にはまた【それ=虚妄分別】が存在する。そのうちとは、相や障などの七つの主題(vastu)が説かれたうち(17)、[最初に]相を主題として、すなわち標示して(18)、虚妄分別は(I.1a)云々と言う。標示されている通りに[その]解説はあるから、最初に相が標示されているので、まさにそれ(相)について、[それ]以外のものよりも先に解説を開始するのである。2024/10/23 15:30:03932.パI79xJp97『中辺分別論』及び『中辺分別論釈疏』第I章「相品」1.1.1.4.3 中観派及び説一切有部両派との対論(第1偈c句)●ある者たち(中観派)は、【所取・能取という】二つのものが存在しないことは、石女の子のように、【断という性質】のものであると把握する。●別の者たち(説一切有部)は、【内的作者】を欠いていることが【諸法の空性】であると言う。したがって、【中観派の主張するような≪空性≫ではない、真実の】空性の損減を否定するために、また【説一切有部の主張するような≪無我≫ではなく】真実の無我を説示するために、けれども≪そこに空性は存在する≫(I.1c)と言う。●1.1.1.4.4 【解脱の努力の必要性】について(第1偈d句)【反論】もし【虚妄分別】において【空性】があるなら、そのような場合、あらゆる生類が≪努力することなく解脱する≫ことになってしまう。【答論】それはあり得ない。なぜなら、【それ=空性】にはまた【それ=虚妄分別】が存在する(I.1d)からである。なぜなら、【空性が浄化されない限り】【解脱はあり得ず】また【煩悩に】【汚染されたもの(空性)】は≪大変な努力によって≫浄化されるものであるから、【努力なくして】≪解脱することはあり得ない≫のである。2024/10/23 16:26:52933.パLNLkW毘婆沙師の学説https://www.mmba.jp/archives/30606果の規定 三乗道の各道それぞれに、資糧道・加行道・見道・修道・無学道という道の規定を承諾しているが、十地の慧は主張しない。十六刹那の智・忍のうち、前十五刹那は【見道】であり、第十六刹那道類智は【修道】であり、ちょうど山羊たちが列をつくって順々に橋を渡っていくように順次生じてゆくと主張している。道諦であるからといって、識であるわけではない。無漏の五蘊をも道諦であるとするからである。≪声聞の種姓をもつ者≫は無常等の十六行相を【三度転生】する間に【修習】する。● そして【最終的】に!声聞 修道の【金剛喩定】において≪【 有 染 汚 障 】を 【得ること】を【止める】≫という方法によって【断尽】し≪【阿羅漢果】を現証する≫ーーーこの意味を良く吟味される必要がある阿羅漢果へ至る道とは何であるのか?それを解るには【 有 染 汚 障 】を【得ること】を【止める】この一事が何を言うのか?何をするのか?という事を、良く良く考え理解することが求められるでしょう2024/10/28 00:55:05934.パHCtg9毘婆沙師の学説クンケン・ジクメワンポ/野村正次郎訳● 破壊されたり知で分解された時に、それであるとする知を捨て去り得る法として認知されるもの、これが世俗諦の定義である。定義基体は、たとえば陶瓶や数珠である。陶瓶を槌で破壊する時、陶瓶であると捉える知は捨てられるからであり、数珠の珠を分解した時、数珠であると捉える知は放棄されるからである。● 破壊されたり知で分解された時に、それであると捉える知を捨て去り得ない法として認知されるもの、これが勝義諦の定義である。定義基体は、無方分極微無刹那分認識無為虚空等である。●『倶舎論』で、破壊されたり知でそれ以外のものを排除した時それであるとする知が働かなくなるようなものこれは瓶のなかの水のように世俗として有るそれ以外のものは勝義として有るものであると説かれるからである。以上のことから諸々の世俗諦は勝義不成立だが、真実成立であると主張する。この教義は、事物であれば真実成立である、と承諾するからである。2024/10/28 16:57:55935.パHCtg9● 所縁や相応者の何れかで、漏が増加し得る法、これが【有漏】の定義である。定義基体は、たとえば【五蘊】である。所縁や相応行の何れによっても漏が増加し得ない法、これが【無漏】の定義である。定義基体はたとえば【道諦】【無為】である。『倶舎論』で、【道以外の有為】は【有漏】である。【無漏】はまた【道諦と三無為】であると説かれるからである。【有漏】であれば【所断】である。≪資糧道・加行道≫は【所断】であるからである。● 【見道は無漏】のみであり、【修道】と【無学道】との二つにはそれぞれ【有漏道・無漏道】の二つずつが有る。【聖道であれば無漏】であるが、【聖者相続道】であるからといえ必ずしも無漏ではない。修道者の相続上の【寂静麁重相】を有す道は有漏であるからである。2024/10/28 17:44:56936.パHCtg9しゅしょだん出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』修所断bhāvanā-prahātavya: bhāvanā-heya(S) 修所断法・修断・修道所断ともいう。修道で断じられるもの(煩悩・随眠・結・惑など)。真理(諦)を見ることによって断じられる後天的に身につけた知的な迷い以外の迷い。先天的に身についた煩悩。 『婆沙論』〔『婆沙』77、T27-397a〕では、修所断法とは、十随眠と、それと相応する心心所と、それによって等起される身業と語業と、それによって等起される不相応行と、不染汚の諸の有漏法とであると説かれる。云何修所断。(中略)謂、得見道後、見所断相違、諸有漏法、是修所断義。〔『雑集論』2024/10/28 17:46:23937.パHCtg9けんしょだん出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』見所断darsana-prahatavya: darsana-heya(S)● 見所断法・見断・見道所断ともいう。【見道】で断じられるもの。【真理(諦)を見ること】によって断じられるもの≪煩悩・惑・結・随眠・縛≫などあやまった教えを聞く、よこしまに思考するなどを原因として、【後天的に身につけた知的な迷い】、およびその【迷いから起こされる行為】をいう。『婆沙論』には【見所断法】として、【八十八随眠】と、及び彼と相応する【心心所法】と、彼によって等起(引き起こされる)される【不相応行】とが説かれる。● 見所断の義に見苦所断見集所断見滅所断見道所断の4種がある。【見所断の煩悩】は、【理知の面での煩悩】であるから、≪四諦の観知≫から生起する≪無漏の智慧≫によって、たちまち断ち切られる。問、見所断法云何。答、随信随法行現観辺忍所断。此復云何。謂、見所断八十八随眠、及彼相応心心所法、彼所等起不相応行、是名見所断法。〔『婆沙』77、T27-397a〕見所断義、謂、現観智諦現観、所応断義。〔『瑜伽』56、T30-608c〕云何見所断。(中略)謂、分別所起染汚見疑・見処・疑処、及於見等所起邪行・煩悩・随煩悩、及見等所発身語・意業。〔『雑集論』4,T31-711a〕2024/10/28 17:57:33938.パHCtg9不相応行● 五位の中の一つ。詳しくは、「心不相応行」「色不相応行」「非色非心不相応行」といい、存在(色)でも心でもない存在をいう。現代的なモノの見方でいえば、存在するものは物質存在か心による認識かいずれかであるが、説一切有部と唯識では、それら二つのものの何れでもないが、両者に関係する状態や性質を一つの存在(法)であるとみなして、これを不相応行と呼ぶ。物と心とを種々の方式に従って活動させる原理をいう。2024/10/28 18:09:50939.パBiOnv⑥唯識三十頌?28頌?【通達位】真見道と相見道【根本智と後得智】【令和5年03月21日】https://ameblo.jp/yk19610402/entry-12795085344.html●通達位を「見道?真理を見る?」とも言う。「真理を無分別智によって、照らすので、見道ともいう」「無漏の智慧によって、四聖諦を明確に観察する」?岩波仏教辞典?「見」は「見る」だが、「現れる」という意味もあるので、「道を見る」とも「道が現れる」とも取ることが出来る。●この「見道」を【1)真見道】【2)相見道】の二つに分ける。1)【真見道】は≪根本無分別智≫の働きです。【根本智】は真理と智慧とが一体となる側面で【見分はあるが、相分はない】段階である。2)【相見道】は≪後得無分別智≫の働きです。【後得智】は無分別の根本智を踏まえながら、再び【相分が顕れる】段階である。再び相分が顕れるとは、根本智の段階では、消滅していた相分が、再び一切法として現前することであり、菩薩の眼が一切衆生に廻らされることを表す。●『成唯識論述記』には、【真を証する】のを前として【俗を縁じる智を生じる】と言われている。【後得智】によって、菩薩の慈悲行が展開するのである。2024/10/30 21:40:51940.パfMeo6悟りは本心に目覚めることそれでは未だ根本的煩悩の元である無明は完全に解脱されていないので悟後の修行が必要と白隠さんは言う、無明とは何か?それは、にわかに湧きいでる妄想念の出処である、唯識で言うマナ識ここを平等性になるまで修行することが必要になります解脱とはこの無明を破壊し明慧として、そこから生じていた全ての煩悩を滅し、自らを解放し脱することただね、師匠が認めたからはい悟り!って訳じゃない正しく、自らに悟り現象が何回か起こって、そこで本来の面目を、自ら顕にし、自ら証することが現われる必要がありますそのような過程を踏むことが求められますまた解脱は、心と身体からの、解脱です心の空なるを知ると本来の自己に目覚めるが、身体由来の煩悩は残るのでそれで出家修行を釈尊はさせたそれでなければ、無明→行の、煩悩の根元を滅するに至らない2024/11/07 08:17:40941.パfMeo6十二因縁の支分は、無明→行→識→名色→六処→触→受→愛→取→有→生→老死の12個悟り現象は、この内の、【受~六処】を縁として【名色と識】の停止から、【行】の停止が一時的に生じ起こることですそれを端的に表しているのが、香厳撃竹の逸話などです師匠の一言も同じく【耳】からの音声を【受】けてのことその結果、無明から生じて来る、妄想念が一時的に滅されて、本心を悟りますがそれは一時的滅であるので、無明を完全に破壊するまでには至りませんそれには、行を滅して行くには、出家が必要となる、なので釈尊は出家させたのですね世間に居たのでは難しいからなのだと思います2024/11/07 08:17:51942.パWgY2Aつまり、覚醒時における、言語・論理・分析脳である【左脳】及び、司令塔脳の前頭前野が【1分別脳】であると普段は、情動的な動きとしてしか現れない無意識で潜在的な辺縁系と、映像的空間を認識する右脳の合わさった【2無分別脳】が1と2が共に意識されて、共同で働くことが、悟った後の在り様ではないのか?と推論されます。前頭前野https://bsd.neuroinf.jp/wiki/%E5%89%8D%E9%A0%AD%E5%89%8D%E9%87%8E脳は、大きな一つの塊ではなく、異なった機能を持ついくつかの領域に分かれてます。●その中の1つに、額のすぐ後ろ、脳の前の方にある前頭前野(ぜんとうぜんや)と呼ばれる場所があります。 前頭前野は、記憶や感情の制御、行動の抑制など、さまざまな高度な精神活動を司っている、脳の中の脳とも呼ばれている重要な場所です。●左脳は主に、言語処理や論理的思考、数学的な活動に関わっているためです。 左脳派の人は、データを冷静かつ客観的に評価し、論理的に説明する能力が高いです。 そのため、分析結果から的確な判断をしたり、自分の意見をわかりやすく伝えたりすることが得意です。2024/11/11 15:03:15943.パWgY2A●つまり、覚醒時における、言語・論理・分析脳である【左脳】及び、司令塔脳の前頭前野が【1分別脳】であるとし別に、普段は、情動的な動きとしてしか現れない無意識で潜在的な辺縁系と、映像的空間を認識する右脳の合わさったのが【2無分別脳】だと●その1と2が共に意識されて、共同で働くことが、悟った後の、在り様ではないのか?と推論します。前頭前野https://bsd.neuroinf.jp/wiki/%E5%89%8D%E9%A0%AD%E5%89%8D%E9%87%8E脳は、大きな一つの塊ではなく、異なった機能を持ついくつかの領域に分かれてます。●その中の1つに、額のすぐ後ろ、脳の前の方にある前頭前野(ぜんとうぜんや)と呼ばれる場所があります。 前頭前野は、記憶や感情の制御、行動の抑制など、さまざまな高度な精神活動を司っている、脳の中の脳とも呼ばれている重要な場所です。●左脳は主に、言語処理や論理的思考、数学的な活動に関わっているためです。 左脳派の人は、データを冷静かつ客観的に評価し、論理的に説明する能力が高いです。 そのため、分析結果から的確な判断をしたり、自分の意見をわかりやすく伝えたりすることが得意です。2024/11/11 15:12:28944.パvOWgt大獅子吼経そこで比丘たちよ、わたしは正念によって完全に清められたサマディの第四段階に入ってとどまった。そして、このように心が統一され、清浄であり、純粋であり、汚れなく、塵芥なく、柔軟であり、かつ機敏であり、安定して不動を得た時、つぎにわたしは(夜の初更において)過去世の記憶を生起する智慧に心を傾けたのである。それは、無数に配置された過去の生存の場面。すなわち、一つの生涯、二つの生涯、三つの生涯・・・十の生涯、二十の生涯、数百の生涯、数千の生涯、数万の生涯、無数の宇宙生成期、無数の宇宙破壊期、また幾多の宇宙成立破壊期にわたり、『 そこでは、私はこのような名称でありこのようなカーストでありこのような食物を摂取しこのような苦楽を感受して過ごしこのような寿命を終えて死んだそこで死ぬと、次にかしこに生じた 』と、無数の生涯における記憶を生起した。このように、わたしは、あらゆる状況と共に、かつ詳細にわたり無数に配置された過去の生存の場面を思い起こしたのである2024/11/16 14:42:11945.パvOWgtbyホワイト・ターラー貪りが尽きると解脱が待っているこのプロセスを1サマディ2如実知見3厭離4離貪5解脱と呼びここをお釈迦様はこう解説しています。『 修行者よ、ではその滅尽の前提条件とは何か?5●それは解脱であるとわたしは言う。解脱もまた前提条件があり、無条件ではないのである。では解脱の前提条件とは何か?4●それは離貪であるとわたしは言う。そして離貪もまた前提条件があり、無条件ではないのである。では離貪の前提条件とは何か?3●それは厭離であるとわたしは言う。そして厭離もまた前提条件があり、無条件ではないのである。では厭離の前提条件とは何か?2●それは如実知見であるとわたしは言う。そして如実知見もまた前提条件があり、無条件ではないのである。では如実知見の前提条件とは何か?1●それはサマディであるとわたしは言う。2024/11/16 14:45:36946.パvOWgt無常経修行者たちよ、君たちは色(物質)は無常であると見よ。このように観ることを【正観】すると言うのである。正観を達成したものは必ず【厭離】する。厭離する者は【喜貪が尽きる】。喜貪が尽きた者は【心解脱】するのである。同じ様に【受想行識】を【無常である】と見よ。このように【正観】を達成したものは【心解脱するかのである。修行者たちよ!この時もし【自らの本性】を知りたいと欲したならば【自らの本性(真我)】を理解するであろう。そして、わたしの転生は尽き、梵行已にたち、所作已に無し自ら後有を消滅させたと知るのだ。2024/11/16 14:46:25
【国民民主党】玉木代表 加熱する不倫報道に「家族の心理的負担は極めて大きい」「テレビや週刊誌やネットも見てしまって、その都度傷ついている」ニュース速報+412653.52024/11/21 18:56:18
【埼玉栄高校】涙ぐむ人…高2死亡、窓から身を乗り出して車が横転 深夜グラウンドで 高校が説明会、保護者「ずさんであり得ない」 頭を下げてあいさつし、真面目な生徒が多い学校「いたたまれない」ニュース速報+5341558.92024/11/21 18:53:05
ここには馬ちゃんぐらいしかいないようですね。
ああいう展開もそれはそれで楽しめるんですが、
いかんせ話が先に進まない。
なので、馬ちゃんに向けてこっちのブログで続きを書いていきます。
宜しかったらご覧ください。
https://zawazawa.jp/bison/topic/31
あらゆる物事を【現しだす種子】の中で
迷いの境涯を転じて、仏の悟りの世界を現し出すものの中で
最も【力に強い種子】は
≪名言-種子≫と呼ばれる
≪言語の種子≫である‼️
ーーー
迷いの境涯を転じて
≪【仏の世界】を現しだすもの≫を
法界等流の【聞薫習】によって、阿頼耶によって蓄えられる
清浄な≪【言語の種子】≫であると考える
ーーー
https://www.google.com/url?sa=t&source=web&rct=j&opi=89978449&url=https://doho.repo.nii.ac.jp/record/2253/files/%25E5%2590%258C%25E6%259C%258B%25E4%25BD%259B%25E6%2595%259956.61-76.pdf&ved=2ahUKEwiTreHL__-IAxWnrVYBHfY5MLsQFnoECB8QAQ&usg=AOvVaw2MLSCYRB53hyudHw-64OXG
虚空蔵菩薩への願い
虚空蔵菩薩に願を立て云く、日本第一の智者となし給へと云云
(善無畏三蔵鈔)
https://yorokobi-reidanshikai.jp/nichiren-road/no020.html
「虚空蔵菩薩求聞持法」は、締め切ったお堂や洞のような空閑寂静な場所に籠もり、
百万遍もの陀羅尼(だらに)(神佛の発する呪文)をひたすら唱え続けるという、大変厳しい密教の修行です。
その間は作法に従ってわずかな穀物や水を口にするだけで、睡眠もほとんど取ることはありません。
近代となっても、希にこの求聞持法に挑む修行者がいるとのことですが、聞き及んだところでは、あまりの極限状態に心身に異常をきたし、途中で断念する者はもちろんのこと、時には命を落とす者もいる程の荒行なのです。
この求聞持法は、通常五十日、ないし百日間で行うと定められているのですが、何と蓮長はわずか二十一日間でこれを成し遂げたとされているのです。
https://talk.jp/boards/psy/1728379412
https://www.shorinkutu.com/kyozo/syorinkutusoshi/rounigoroku/
https://www.shorinkutu.com/20211018-2/
●種子識という言は、識の中の種子を顕す。
種子を持する識には非ず。
後に当に説くべきが故に。
此の種子の中の種子は、
【余の縁に助け助けられる】が故に、
即便(スナワ)ち、是の如く是の如く、転変す。
>その音で、無自覚、から我に返った、迷いに帰って、言語化できた、ということなんです。。w
それ、真逆ですwww
無心状態から撃竹で我に返って無心であった事を知って有心に返って言語化したのではありません。
>一撃に所知を亡ず、
>更に自ら修治せず
例えば坐禅をしてて足が痛くなったり妄想したりしていて(所知)
隣単の方が警策をパンパンパンパンってやられた瞬間(一撃)
痛みとか思考とか真っ新に飛んで無くなる(亡ず)
状態が続く(更に自ら修治せず)
事がある訳ですが、それです。
であるので、もう既に迷いに帰っての言語化ではありません。
修行としても折り返し地点というか、この先何をすれば良いのか分かったという境地に達したのです。
「なんぢ聡明博解なり、章疏のなかより記持せず、父母未生以前にあたりて、わがために一句を道取しきたるべし。」
香厳、いはんことをもとむること数番すれども不得なり。
ふかく身心をうらみ、年来たくはふるところの書籍を披尋するに、なほ茫然なり。
つひに火をもちて年来のあつむる書をやきていはく、
「画にかけるもちひは、うゑをふさぐにたらず。われちかふ、此生に仏法を会せんことをのぞまじ。ただ行粥飯僧とならん。」
といひて、行粥飯して年月をふるなり。
行粥飯僧といふは、衆僧に粥飯を行益するなり。このくにの陪饌役送のごときなり。
かくのごとくして大に潙まうす、
「智閑は心神昏昧にして道不得なり、和尚、わがためにいふべし。」
大潙のいはく、
「われなんぢがためにいはんことを辞せず、おそらくは、のちになんぢわれをうらみん。」
かくて年月をふるに、大証国師の蹤跡をたづねて、武当山にいりて、国師の庵のあとに、くさをむすびて爲庵す。竹をうゑてともとしけり。
あるとき、道路を併浄するちなみに、かはらほとばしりて、竹にあたりてひびきをなすをきくに、豁然として大悟す。
沐浴し、潔斎して、大潙山にむかひて焼香礼拝して、大潙にむかひてまうす、
「大潙大和尚、むかしわがためにとくことあらば、いかでかいまこの事あらん。恩のふかきこと、父母よりもすぐれたり。」
つひに偈をつくりていはく、
一撃に所知を亡ず、更に自ら修治せず
動容古路を揚ぐ、悄然の機に堕せず
処々蹤跡無し、声色外の威儀なり
諸方達道の者、咸く上上の機と言はん
この偈を大潙に呈す。
大潙いはく、
「此の子、徹せり。」
(『正法眼蔵』渓声山色の巻 より)
サンスクリット語の「ダルマター」(dharmataa)であり、法そのもの、法としてあらわれている万物の本性の意味である。
●真如〈しんにょ〉とは、
「タタァター」(tathataa)であり、真実であり如常であること、「ありのままの状態」をいう。
●如実〈にょじつ〉とは
「ブフータ・タタァター」(bhuuta-tathataa)であり、存在のありのままのすがたをいう。
●この実相こそが
仏陀の悟りの内容そのものであるというので、
これを一実、一如、一相、無相、法身、法性、法位、涅槃、無為、真諦、真性、実諦、実際
などという。
そして「無(我)」も「有(我)」も、無常を背景とする世界。無常を根本とする世界にはありえないんだと。
https://i.imgur.com/Bw4519T.jpeg
カッチャーヤナよ、正しい智慧によって、あるがままに無常世界における生起する現象を見る時、
この【無常世界において「無我」という事は無い。】
また、正しい智慧によって、あるがままに無常世界における変滅を見る時、
この【無常世界において常住不変としてのアートマン(我)の実在という事もありえない。】
カッチャーヤナよ、世間の人々は大抵、自分が愛着する対象や、その見解に取著し、こだわり、囚われを起こしている。
しかし、聖なる修行者とは、その心に依拠する対象に囚われたり、取著を起こし(これがわたしのパーソナリティである)と、囚われ、執着し、こだわるということが無い。
ただ、苦が生じたなら(これは苦だ)と認識し、苦が消滅したならば(苦は滅した)と見て、囚われず、惑わず、疑わず、※他に依存しない。
ここに智慧が生ずる。
カッチャーヤナよ、これが正見である。
カッチャーヤナよ、
無常世界に
【不変の我が存在する。と言うのは、一つの極端と言えよう。】
同様に
【我は無い」と言うのももう一つの極端である。】
カッチャーヤナよ、如来はこれら両極端を離れて法を説くのである。
https://i.imgur.com/Bw4519T.jpeg
wiki
●サンカーラには主に二つの意味がある。
【1】つ目の意味では、サンカーラは一般的に
【条件づけられたものごと】
【因縁によって起こる現象】
【 有 為 法 】をさす。
【諸行無常】として説かれる。
【2】つ目の意味では、サンカーラは五蘊のひとつ
【行蘊】(梵:Samskara-Skanda)
として【業】をさし、それらは【縁起】の原因とされる。
心の中の【何かをしたい】という【衝動】のことであり、
その【衝動】は、その【直前の状態】から生まれているのである。
ある1【行動(karma, 業)】を取ることで、その2【次の行動】をしたいという欲求が【自動的に現れる】のである
wiki
【2】つ目の意味合いでは、
我々の身心を構成する五つの要素である
【五蘊(色受想行識)】の
≪行≫=行蘊(梵:Samskara-Skanda)と
【十二因縁(十二縁起)】の【第二支】
≪行≫(行支)は、いずれも
【意識】を生ずる
≪意志作用≫=≪志向作用≫である。
それは、心の働きが一定の方向に作用していくこと、【意志-形成力】のこと。
善悪の一切の行為のこと。
何かをしたいという衝動のこと。
例えば、桜を見て、その枝を切って瓶にさしたり、苗木を植えてみようと思い巡らすこと、が挙げられる。
それは≪縁起支≫(paticca-samuppada)の一部である
>その音で、無自覚、から我に返った、迷いに帰って、言語化できた、ということなんです。。w
それ、真逆ですwww
無心状態から撃竹で我に返って無心であった事を知って有心に返って言語化したのではありません。
>一撃に所知を亡ず、
>更に自ら修治せず
例えば坐禅をしてて足が痛くなったり妄想したりしていて(所知)
隣単の方が警策をパンパンパンパンってやられた瞬間(一撃)
痛みとか思考とか真っ新に飛んで無くなる(亡ず)
状態が続く(更に自ら修治せず)
事がある訳ですが、それです。
であるので、もう既に迷いに帰っての言語化ではありません。
修行としても折り返し地点というか、この先何をすれば良いのか分かったという境地に達したのです。
第18偈の続き
●謂く、生の位より転じて熟の時に至る。
変ぜられる種は多なりということを顕さんとして、重ねて如是と言う。
●謂く、一切種に、三熏習と、共・不共等の識種を摂(オサ)め尽くすが故に。
展転力とは、謂く八の現識と及び彼の相応と、相・見分等なり。
彼は皆互いに相い助ける力有るが故に。
即ち現-いー4識等を総じて分別と名づく。
虚妄分別をもって自性と為すが故に。
分別の類多きが故に彼彼と言えり。
此の頌の意の説かく、外縁は無しと雖も、本識の中に、一切種の転変する差別有るに由り。
及び現行の八種の識等の展転する力を以ての故に、彼彼の分別而も亦た生ずることを得る。
何ぞ外縁を仮って方に分別を起こさんや。
諸々の浄法の起こることも、応に知るべし。
亦た然なり。浄種と現行とを縁と為して生ずるが故に。
●恒審思量
https://zawazawa.jp/bison/topic/9
いわゆる密教の百万遍真言を一定期間内に唱える、金剛大乗の道です
我々大衆は、定年までは、社会の労働者として、時間に縛られて、何十年もほぼ自由の無い生活をしなければ、金銭を稼げず、生活出来ない
1ヶ月2ヶ月という、考えたら一生にしたらとても短い期間でも休むことは不可能であって
50日という休みは、定年するかしないと取れないのであって
百万遍を21日で唱えた日蓮は特別として、普通は50日であって、空海でも50日~100日かけていて、それを3回行ってたし
覚鑁(カクバン)などは7回で死にかけてようやく成就しています
それは録音機の無い時代の行法ではしょうがないことでしたが
現代では録音した言葉を2倍速再生して2倍の速度や2倍の回数など、楽に聞いて唱えると同じ効果を得られます
マナ識が平等性になるような言葉を真言とすることで、第四禅定に自由に出入り出来ることを前提にして、誰もが50日程度で、完全に永続して、無分別の状態を成すことが可能なのです
サンスクリット語の「ダルマター」(dharmataa)であり、法そのもの、法としてあらわれている万物の本性の意味である。
●真如〈しんにょ〉とは、
「タタァター」(tathataa)であり、真実であり如常であること、「ありのままの状態」をいう。
●如実〈にょじつ〉とは
「ブフータ・タタァター」(bhuuta-tathataa)であり
【存在のありのままの姿】をいう。
●この実相こそが
仏陀の悟りの内容そのものであるというので、
これを
一実、一如、一相、無相、
法身、法性、法位、涅槃、
無為、真諦、真性、実諦、実際
などという。
その脳内の聴覚野での再生音は
(1)六識の了別、(2)七識の思量に次ぐ第3の思考として、脳内で認識が起こり続けるのであり
その結果として、六、七識の活動は停止されて、無為無分別と同じ状態が現れるのである、と言えよう
御題目でも念仏でも坐禅であろうが
六識了別が沈黙した後で
七識の恒審思量から漏れだして来る
止めどない、我慢に染汚された想いを、つかんで縁起させるのかどうか?
って処に一つの潜在的な関門があるってことであって
その七識関門の妄想思量の流れを、掴むでなく、止めるでなく、在るがままに観察することなく、
無為にして離れていることができるのか?ってこと
では、離れている者とは何であろうか⁉️
離言されし何か、在る者
この何者でも無い、ただ在る者が
目覚めているのか、眠りこけているのか?
ここが最大の難所
ここを覚めて在れるのであれば
七識の妄想思量は停止されるでしょう
瞑想坐禅が巧く行くと、必ず上記のようになっているはず
その時 “在る”というその状態は、胸のいわゆるハートに在り続ける
これらのことを、自己の体験的に、理解できるのかどうか?ってことですね
サーリプッタよ、そしてまた更に如来は様々な前世の生き様を思い出す。
すなわち、一生、二生、三生、四生、五生、十生、二十生、三十生、四十生、五十生、百生、千生、十万生、多くの宇宙還元期、多くの宇宙再生期、多くの宇宙還元再生期を。
「わたしはそこでは、このような名前を持ち、このような家系に属し、このような容色であり、このような食物を摂取し、このような苦楽を経験し、このような寿命の最期を迎えた。そしてそこで死にかしこに再生した。
わたしはそこでも、このような名前を持ち、このような家系に属し、このような容色であり、このような食物を摂取し、このような苦楽を経験し、このような寿命の最期を迎えた。そしてそこで死にかしこに再生した」。と
このように詳細な状態の記憶を伴い、様々な生き様を思い出すのである。
サーリプッタよ、これは如来による如来の能力であるがゆえに、
この能力によって如来は指導者の地位を公言し、集団の中で獅子吼して吠え、
≪ブラフマンの輪≫を発生させるのである。
「無始よりこの来た、消滅し相続して常にも非ず、断にも非ずして、有情を漂溺して出離せざらしむ。
又た瀑流は、風等に撃せられて、諸の波浪を起こすと雖も、而も流すること断ぜらるが如し。
此の識も亦た爾なり。
衆縁に遇って、眼識等を起こすと雖も、而も恒に相続せり。
又た瀑流は、水の下・上の魚・草等の物を漂して、流れに随って捨てざるが如し。
此の識も亦た爾なり」
阿頼耶識をば断とせんや、常[じょう]とせんや、断にも非ず、常にも非ず、
恒[つね]に転ずるを以ての故に。
●恒と云うのは謂[いわ]く、
此の識は無始の時より来[このか]た、一類(無記)に相続して常に間断[けんだん]無しと云わんとするということ、是れ[三]界・[五]道・[四]生とを施設する本[もと]なるが故に、
性堅[しょうけん]にして種子[しゅうじ]を持[じ]して失[しっ]せざらしむが故に。
●転(常・一を庶[しゃ]す)と云うは謂く、
此の識は無始の時より来た、念念に生滅して前後変異すと云わん。
因滅すれば果生ずるを以て常・一に非ざるが故に。
転識[てんじき]の為に種子[しゅうじ]を熏成[くんじょう]する可[べ]きが故にと。
恒と言うのは断を遮[しゃ]す。
転と云うは常に非ずと云うことを表す。
猶ほ暴流[ぼうる]の水の断にも非ず、
恒にも非ずして相続して長時に漂[ひょう]し、溺[にゃく]する所ろ有るが如し。
此の識も亦爾[しか]なり。
無始従[よ]り来た、生滅し相続して、常に非ず、断にも非ずして、有情を漂・溺して出離[しゅつり]せざらしむ。
杉 野 祥 一
http://home.e-catv.ne.jp/miyoshik/ippen/reikai2008/200808.htm
現存する最古の原始経典が『スッタニパータ』第四章「八詩句章」であり、
ここに釈尊の直説の教えが保存されています。
釈尊が自らの出家と悟りについて語るのが、第十五経です。
釈尊は次のように語りはじめます・・・
● 棒を握って暴力をふるうようなことから離れたいという憂いの思いが生じたのだ
争っている人々を見なさい!
私がどのように厭い離れたか、その厭離する心を語ろう~!
(Sn935)
●修行者や師と呼ばれる人たちさえもが
≪論争し≫≪敵対し≫合っているのを見て
私は絶望的になった!このとき、私は
人々の心臓の奥底に突き刺さっていく
≪一本の矢≫を 発見したのである!
(938)
●その矢によって突き飛ばされて
人々はあらゆる方向に向かって輪廻している
この≪ 矢を ≫引き抜きさえすれば
もはや輪廻することはないのである
(939)
ここで注目しなければならないのは、【939】の経文です。
≪一本の矢≫が、輪廻という苦しみの原因であり、
この【矢を抜けば】輪廻はないと語られています。
これは、最初にお示しした縁起のパターンをとっています。
したがって、この≪一本の矢≫の、【根本発見】こそが、
≪最も原初の縁起説≫だと言わなくてはなりません。
もう少しこの≪一本の矢≫について釈尊に教えてもらいましょう。
解深密経には阿頼耶識しか書いてない。
つまり、論によって付加された概念であり
必ずしも囚われる必要はないと思われる。
●≪輪廻の大洪水≫の【正体】は
【何時までも】この世界に存在したいという
≪根源的≫≪願望≫であると、私は言う
吸い込むような激流は
【個々の衝動的≪欲求≫】である
【流れに浮かんでいる】物は
≪欲求≫され、思い浮かべられた
≪対象物≫である
≪欲望の泥沼≫を越えていくのは難しい、と私は言う
(945)
●【過去から溜まって来た】
≪洪水の水≫を、干上がらせなさい
【未来に】向かって
≪何も希求しない≫ようにしなさい
【現在】において
≪何も所有しない≫ようにしなさい
そうすれば、あなたは
≪静寂を保ち≫つつ歩んで行くことになるであろう
(949)
●これら≪過去・現在・未来≫のすべてにおける
≪名と体≫からなる≪個別の私≫【名色】を
≪自分のものにする≫ことが無いならば、
≪在りし日の自分が存在し無い≫からといって
嘆き悲しむことはないし、また実にこの世界にありながら
≪失うものは何もない≫のである
(950)
マナ識の原型はヨガで言うマナス(心)
これをヨガでは我執って言うようですよ
ヨーゲシュバラナンダ師によればそこに3つのグナが作用するらしい
阿頼耶識に相当するのが心素って言うもので
大円鏡智に相当するのが真我と思われますね
仏教用語のサンカーラ、サンスカーラとは
●パーリ語およびサンスクリット語に由来し
≪一緒になったもの≫
≪纏めるもの≫という意味合いである。
伝統的に≪行≫もしくは≪有為≫と訳される。
●サンカーラには主に二つの意味がある。
一つ目は、【サンカーラ】は一般的に
≪条件づけられたものごと≫
≪因縁によって起こる現象≫
【有為法】をさす。
≪諸行無常≫として説かれる。
●二つ目は、【サンカーラ】は
【五蘊】のひとつ≪行蘊≫として、【業】をさし
それらは≪縁起の原因≫とされる。
心の中の≪何かをしたい≫という【衝動】のことであり
その【衝動】は、その【直前の状態】から生まれているのである。
ある行動(karma, 業)を取ることで、その次の行動をしたいという欲求が自動的に現れるのである。
世尊は言った。 ...
眼処、耳処、鼻処、舌処、身処、意処。これら六内処が知られるべきである。...
色処、声処、香処、味処、触処、法処。
これら六外処が知られるべきである。
触によって受が起こる。
受によって渇愛がおこる。
パーリ仏典,中部, 148六六経,Sri Lanka Tripitaka Project
プンナ教誡経
編集
世尊は言った。
プンナよ、眼によって識られる、望ましく、好ましく、喜ぶべく、愛すべき形相で、欲をかきたて、心をひきつける諸々の色(ルーパ)がある。
もし比丘が、それを歓喜し執着してとどまるならば、それを歓喜し執着する彼に、喜悦が起こる。
プンナよ、「喜悦の生起より苦の生起がある」と私は説く。
…(耳、鼻、舌、身、意について同様に説く)…
また、プンナよ、眼によって識られる、望ましく、好ましく、喜ぶべく、愛すべき形相で、欲をかきたて、心をひきつける諸々の色がある。
もし比丘が、それを歓喜せず、執着せずにとどまるならば、それを歓喜せず執着しない彼に、喜悦が滅する。
プンナよ、「喜悦の滅尽により苦の滅尽がある」と私は説く。
…(耳、鼻、舌、身、意について同様に説く)…
パーリ仏典,プンナ教誡経,Sri Lanka Tripitaka Project
https://i.imgur.com/R00rbfE.jpeg
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%87%A6
六根 - 主観の側の六種の器官、感官のこと。六内入処、六内処とも。
眼 - 視覚能力もしくは視覚器官
耳 - 聴覚能力もしくは聴覚器官
鼻 - 嗅覚能力もしくは嗅覚器官
舌 - 味覚能力もしくは味覚器官
身- 触覚能力もしくは触覚器官
意 - 知覚能力もしくは知覚器官
●六境 - 客観の側の六種の対象、感官の対象のこと。
六外入処、六外処とも。
色 - 眼根によって見られる色彩と形象
声 - 聴覚の対象
香 - 嗅覚の対象
味 - 味覚の対象
触 - 身根によって感じられる堅さ、熱さ、重さなど
法 - 意根によって知覚される概念を含むすべての存在
●眼・耳・鼻・舌・身の5つは五根といい、仏教およびインド哲学では、西洋での五感にプラスして【第六感】を挙げている。
仏教における
≪6つ目は【心】≫であり
感覚の印象、感情、知覚、意志などを含む感覚対象と、相互作用する内部感覚器官を指している
https://www.jstage.jst.go.jp?-char
世親釈は「所取と能取との分別あり」とするに対し 唯識観の発展
田中順照 著?1964?
しかもこれらの二が鏖と根と等しく所取であると. して、. と説かれている。
ーーー
弥勒、無著、世親と伝承された唯識観の発展をたどろうと思う。
弥勒には楡伽師地論、弁中辺論、大乗荘厳経論、法法性分別論、現観荘厳論等の著がある。
そのうち、先ず弁中辺論をとりあげて見る。
虚妄分別有 於レ此二都無
此中唯有レ空 於レ彼亦有レ此 (玄)
虚妄分別有 彼処無レ有レニ
彼中唯有レ空 於レ此亦有レ彼 (真)
玄奘訳の所取と能取は、所取の執であり、能取の執である。
は、弁中辺論巻頭の有名な偶である。虚妄分別とは何か。
玄奘訳、世親釈は 「所取と能取との分別あり」とするに対して、真諦訳は 「能取と所取とを分別するあり」としている。
述記はこれを、
能取所取遍計所執、
縁レ此分別乃是依他。… …
即所取能取分別。依士釈名。非二二取即分別持業立レ名。
と説いている。
知られるものと知るものとの二が等しく知られるものとして分別されるとの意である。
真諦訳はこれを明に示している。
従 って虚妄分別を単に知られるものと知るものと の対立と解するだけでは十分ではない。
その知られるも玄弊訳、世親釈は 「所取と能取との分別あり」とするに対しのの側に知る働も含まれていることに注意 しなければならぬ。
識生変二似義 有情我及了一此境実非レ有 境無故識無 (玄)
塵根我及識 本識生似レ彼但識有無レ彼 彼無故識無 (真)
このことを明に示している。 チェルバッキーはこれを、~と訳している。
1外的対象 (義、 塵) と2身体 (根) と3我と4識とは実在するものでなく、
単に識の似現せるものとして、言わば識の影にすぎない。
本来は存在しないこれらの四つに似て現ずるも の、それが虚妄分別である。
識の似現せる四つの中、 義と根とについては、識 の似現せる対象、 即ち識によって投げ出された対象の意義は理解され易い。
ところが、我と識とはむしろノエシス面に属し、 似現せる対象の意義は義と根ほど明確ではない。我と了とについて、
世親釈 (玄弊訳)は、、
変二似我一者。
謂染末那与二我痴等一恒相応故。
変二似了一者
謂余六識了相麓故。
と説き、我に似て現ずとは我痴等と恒に相応する染汚の末那であり、
了に似て現ずとは了別の働の麓なる前六識であるとしている。
しかもこれらの二が塵と根と等しく所取であるとして、
https://www.google.com/url?sa=t&source=web&rct=j&opi=89978449&url=https://rissho.repo.nii.ac.jp/record/7410/files/083_%25E7%25AC%25AC8%25E5%258F%25B7_%25E4%25BA%258C%25E5%258F%2596%25E3%2583%25BB%25E4%25BA%258C%25E5%2588%2586%25E8%25AB%2596.pdf&ved=2ahUKEwjerMDq86GJAxWdsFYBHZvmDBIQFnoECC0QAQ&usg=AOvVaw2HzX0a2xpvIrk9y-250sdk
二取・二分論
勝呂信静 著?1982?
唯識説において、二取(能取・所取)’ 1 1 ’ g R (見分・相分)をどのように理解するかということは、唯識説理解の根本にかかわる問題論である。
数年前にもこの問題について論議がなされた。くり返しぜられて来たこの問題を再び取りあげるのは蛇足であろうが、
多少の私見があるので、以下に述べてみたい。
二取・二分の概念は’大体において、主観と客観あるいは認識作用(ノエシス)と認識対象(ノエマ)にあたるものである。
唯識教義において一般に問題になるのは、二取・二分が、遍計所執性に属して非有と見られるものであるか、あるいは依他起性に属して実有なるものであるかということである。
北山祐誓
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それ(本章に先立つ〈論の体〉で説かれた七つの主題)のうち、[最初に]相について述べる。
『虚妄分別はある。そこに二つのものは存在しない。』
『けれども、そこに空性は存在する。それ(空性)にはまたそれ(虚妄分別)が存在する。』
●(I.1)こ[の偈]において、
≪虚妄分別≫とは、
【所取・能取】を【分別する】ことである。
二つのものとは【所取と能取】とである。
【空性】とは、その【虚妄分別】が
【所取・能取】という【あり方を離れ】ていることである。
それにはまた、それが、存在するとは、
≪空性においても≫
【虚妄分別】が【存在すること】である。
「XがYに存在しないとき、YはXという点で空である、とありのまま観察する。一方、まだここ(Y)に何らかの残されたもの(Z)があるならば、それ(Z)は存在するものとしてここ(Y)にある、とありのまま了知する」(6)。
以上、空性の相が顛倒なく明らかに示されたのである。
1 虚妄分別1.1 有と無の相1.1.1 『中辺論頌』第1偈の解釈1.1.1.1 第一に相を説示する理由そ[の七つの主題]のそのうち、[最初に]相について述べる。
●83 虚妄分別はある。
そこに【二つのものは存在しない】。
けれども、
そこに【空性】は【存在する】。
【それ=空性】にはまた
【それ=虚妄分別】が存在する。
そのうちとは、相や障などの七つの主題(vastu)が説かれたうち(17)、[最初に]相を主題として、すなわち標示して(18)、虚妄分別は(I.1a)云々と言う。標示されている通りに[その]解説はあるから、最初に相が標示されているので、まさにそれ(相)について、[それ]以外のものよりも先に解説を開始するのである。
『中辺分別論』及び『中辺分別論釈疏』第I章「相品」
1.1.1.4.3 中観派及び説一切有部両派との対論(第1偈c句)
●ある者たち(中観派)は、
【所取・能取という】二つのものが存在しないことは、石女の子のように、
【断という性質】のものであると把握する。
●別の者たち(説一切有部)は、
【内的作者】を欠いていることが
【諸法の空性】であると言う。
したがって、
【中観派の主張するような≪空性≫ではない、真実の】空性の損減を否定するために、
また
【説一切有部の主張するような≪無我≫ではなく】真実の無我を説示するために、
けれども
≪そこに空性は存在する≫(I.1c)と言う。
●1.1.1.4.4 【解脱の努力の必要性】について(第1偈d句)
【反論】
もし【虚妄分別】において【空性】があるなら、
そのような場合、あらゆる生類が
≪努力することなく解脱する≫ことになってしまう。
【答論】
それはあり得ない。なぜなら、
【それ=空性】にはまた
【それ=虚妄分別】が存在する(I.1d)からである。
なぜなら、
【空性が浄化されない限り】
【解脱はあり得ず】また
【煩悩に】【汚染されたもの(空性)】は
≪大変な努力によって≫浄化されるものであるから、
【努力なくして】
≪解脱することはあり得ない≫のである。
https://www.mmba.jp/archives/30606
果の規定
三乗道の各道それぞれに、資糧道・加行道・見道・修道・無学道という道の規定を承諾しているが、
十地の慧は主張しない。
十六刹那の智・忍のうち、前十五刹那は【見道】であり、
第十六刹那道類智は【修道】であり、
ちょうど山羊たちが列をつくって順々に橋を渡っていくように順次生じてゆくと主張している。
道諦であるからといって、識であるわけではない。無漏の五蘊をも道諦であるとするからである。
≪声聞の種姓をもつ者≫は無常等の十六行相を【三度転生】する間に【修習】する。
● そして【最終的】に!
声聞 修道の【金剛喩定】において
≪【 有 染 汚 障 】を
【得ること】を【止める】≫
という方法によって
【断尽】し≪【阿羅漢果】を現証する≫
ーーー
この意味を良く吟味される必要がある
阿羅漢果へ至る道とは何であるのか?
それを解るには
【 有 染 汚 障 】を
【得ること】を【止める】
この一事が何を言うのか?何をするのか?
という事を、良く良く考え理解することが求められるでしょう
クンケン・ジクメワンポ/野村正次郎訳
● 破壊されたり知で分解された時に、
それであるとする知を捨て去り得る法として認知されるもの、
これが世俗諦の定義である。
定義基体は、たとえば陶瓶や数珠である。
陶瓶を槌で破壊する時、陶瓶であると捉える知は捨てられるからであり、
数珠の珠を分解した時、数珠であると捉える知は放棄されるからである。
● 破壊されたり知で分解された時に、それであると捉える知を捨て去り得ない法として認知されるもの、
これが勝義諦の定義である。
定義基体は、
無方分極微
無刹那分認識
無為虚空等
である。
●『倶舎論』で、
破壊されたり知でそれ以外のものを排除した時
それであるとする知が働かなくなるようなもの
これは瓶のなかの水のように世俗として有る
それ以外のものは勝義として有るものである
と説かれるからである。
以上のことから諸々の世俗諦は勝義不成立だが、真実成立であると主張する。
この教義は、事物であれば真実成立である、と承諾するからである。
定義基体は、たとえば【五蘊】である。
所縁や相応行の何れによっても漏が増加し得ない法、これが【無漏】の定義である。定義基体はたとえば【道諦】【無為】である。
『倶舎論』で、
【道以外の有為】は【有漏】である。
【無漏】はまた【道諦と三無為】である
と説かれるからである。
【有漏】であれば【所断】である。
≪資糧道・加行道≫は【所断】であるからである。
● 【見道は無漏】のみであり、
【修道】と【無学道】との二つにはそれぞれ
【有漏道・無漏道】の二つずつが有る。
【聖道であれば無漏】であるが、
【聖者相続道】であるからといえ必ずしも無漏ではない。
修道者の相続上の【寂静麁重相】を有す道は有漏であるからである。
出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』
修所断
bhāvanā-prahātavya: bhāvanā-heya(S)
修所断法・修断・修道所断ともいう。
修道で断じられるもの(煩悩・随眠・結・惑など)。
真理(諦)を見ることによって断じられる後天的に身につけた知的な迷い以外の迷い。
先天的に身についた煩悩。
『婆沙論』〔『婆沙』77、T27-397a〕では、修所断法とは、
十随眠と、それと相応する心心所と、
それによって等起される身業と語業と、
それによって等起される不相応行と、不染汚の諸の有漏法とであると説かれる。
云何修所断。(中略)謂、得見道後、見所断相違、諸有漏法、是修所断義。〔『雑集論』
出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』
見所断
darsana-prahatavya: darsana-heya(S)
● 見所断法・見断・見道所断ともいう。
【見道】で断じられるもの。
【真理(諦)を見ること】によって断じられるもの
≪煩悩・惑・結・随眠・縛≫など
あやまった教えを聞く、よこしまに思考するなどを原因として、
【後天的に身につけた知的な迷い】、およびその【迷いから起こされる行為】をいう。
『婆沙論』には【見所断法】として、
【八十八随眠】と、及び彼と相応する【心心所法】と、彼によって等起(引き起こされる)される【不相応行】とが説かれる。
● 見所断の義に
見苦所断
見集所断
見滅所断
見道所断
の4種がある。
【見所断の煩悩】は、【理知の面での煩悩】であるから、
≪四諦の観知≫から生起する
≪無漏の智慧≫によって、
たちまち断ち切られる。
問、見所断法云何。答、随信随法行現観辺忍所断。此復云何。謂、見所断八十八随眠、及彼相応心心所法、彼所等起不相応行、是名見所断法。〔『婆沙』77、T27-397a〕
見所断義、謂、現観智諦現観、所応断義。〔『瑜伽』56、T30-608c〕
云何見所断。(中略)謂、分別所起染汚見疑・見処・疑処、及於見等所起邪行・煩悩・随煩悩、及見等所発身語・意業。〔『雑集論』4,T31-711a〕
● 五位の中の一つ。
詳しくは、「心不相応行」「色不相応行」「非色非心不相応行」といい、存在(色)でも心でもない存在をいう。
現代的なモノの見方でいえば、存在するものは物質存在か心による認識かいずれかであるが、
説一切有部と唯識では、それら二つのものの何れでもないが、両者に関係する状態や性質を一つの存在(法)であるとみなして、
これを不相応行と呼ぶ。物と心とを種々の方式に従って活動させる原理をいう。
https://ameblo.jp/yk19610402/entry-12795085344.html
●通達位を「見道?真理を見る?」とも言う。
「真理を無分別智によって、照らすので、見道ともいう」
「無漏の智慧によって、四聖諦を明確に観察する」?岩波仏教辞典?
「見」は「見る」だが、「現れる」という意味もあるので、
「道を見る」とも「道が現れる」とも取ることが出来る。
●この「見道」を
【1)真見道】
【2)相見道】
の二つに分ける。
1)【真見道】は
≪根本無分別智≫の働きです。
【根本智】は
真理と智慧とが一体となる側面で
【見分はあるが、相分はない】段階である。
2)【相見道】は
≪後得無分別智≫の働きです。
【後得智】は無分別の根本智を踏まえながら、再び【相分が顕れる】段階である。
再び相分が顕れるとは、根本智の段階では、消滅していた相分が、再び一切法として現前することであり、
菩薩の眼が一切衆生に廻らされることを表す。
●『成唯識論述記』には、
【真を証する】のを前として
【俗を縁じる智を生じる】と言われている。
【後得智】によって、菩薩の慈悲行が展開するのである。
それでは未だ根本的煩悩の元である無明は完全に解脱されていないので
悟後の修行が必要と白隠さんは言う、無明とは何か?
それは、にわかに湧きいでる妄想念の出処である、唯識で言うマナ識
ここを平等性になるまで修行することが必要になります
解脱とはこの無明を破壊し明慧として、そこから生じていた全ての煩悩を滅し、自らを解放し脱すること
ただね、師匠が認めたからはい悟り!って訳じゃない
正しく、自らに悟り現象が何回か起こって、そこで本来の面目を、自ら顕にし、自ら証することが現われる必要があります
そのような過程を踏むことが求められます
また解脱は、心と身体からの、解脱です
心の空なるを知ると本来の自己に目覚めるが、身体由来の煩悩は残るので
それで出家修行を釈尊はさせた
それでなければ、無明→行の、煩悩の根元を滅するに至らない
無明→行→識→名色→六処→触→受→愛→取→有→生→老死
の12個
悟り現象は、この内の、【受~六処】を縁として
【名色と識】の停止から、【行】の停止が一時的に生じ起こることです
それを端的に表しているのが、香厳撃竹の逸話などです
師匠の一言も同じく【耳】からの音声を【受】けてのこと
その結果、無明から生じて来る、妄想念が一時的に滅されて、本心を悟りますが
それは一時的滅であるので、無明を完全に破壊するまでには至りません
それには、行を滅して行くには、出家が必要となる、なので釈尊は出家させたのですね
世間に居たのでは難しいからなのだと思います
【1分別脳】であると
普段は、情動的な動きとしてしか現れない無意識で潜在的な辺縁系と、映像的空間を認識する右脳の合わさった
【2無分別脳】が
1と2が共に意識されて、共同で働くことが、悟った後の在り様ではないのか?
と推論されます。
前頭前野
https://bsd.neuroinf.jp/wiki/%E5%89%8D%E9%A0%AD%E5%89%8D%E9%87%8E
脳は、大きな一つの塊ではなく、異なった機能を持ついくつかの領域に分かれてます。
●その中の1つに、額のすぐ後ろ、脳の前の方にある前頭前野(ぜんとうぜんや)と呼ばれる場所があります。 前頭前野は、記憶や感情の制御、行動の抑制など、さまざまな高度な精神活動を司っている、脳の中の脳とも呼ばれている重要な場所です。
●左脳は主に、言語処理や論理的思考、数学的な活動に関わっているためです。 左脳派の人は、データを冷静かつ客観的に評価し、論理的に説明する能力が高いです。 そのため、分析結果から的確な判断をしたり、自分の意見をわかりやすく伝えたりすることが得意です。
【1分別脳】であるとし
別に、普段は、情動的な動きとしてしか現れない無意識で潜在的な辺縁系と、映像的空間を認識する右脳の合わさったのが
【2無分別脳】だと
●その1と2が共に意識されて、共同で働くことが、悟った後の、在り様ではないのか?
と推論します。
前頭前野
https://bsd.neuroinf.jp/wiki/%E5%89%8D%E9%A0%AD%E5%89%8D%E9%87%8E
脳は、大きな一つの塊ではなく、異なった機能を持ついくつかの領域に分かれてます。
●その中の1つに、額のすぐ後ろ、脳の前の方にある前頭前野(ぜんとうぜんや)と呼ばれる場所があります。 前頭前野は、記憶や感情の制御、行動の抑制など、さまざまな高度な精神活動を司っている、脳の中の脳とも呼ばれている重要な場所です。
●左脳は主に、言語処理や論理的思考、数学的な活動に関わっているためです。 左脳派の人は、データを冷静かつ客観的に評価し、論理的に説明する能力が高いです。 そのため、分析結果から的確な判断をしたり、自分の意見をわかりやすく伝えたりすることが得意です。
そこで比丘たちよ、わたしは正念によって完全に清められたサマディの第四段階に入ってとどまった。
そして、このように心が統一され、清浄であり、純粋であり、汚れなく、塵芥なく、柔軟であり、かつ機敏であり、安定して不動を得た時、
つぎにわたしは(夜の初更において)過去世の記憶を生起する智慧に心を傾けたのである。
それは、無数に配置された過去の生存の場面。
すなわち、一つの生涯、二つの生涯、三つの生涯・・・十の生涯、二十の生涯、数百の生涯、数千の生涯、
数万の生涯、無数の宇宙生成期、無数の宇宙破壊期、また幾多の宇宙成立破壊期にわたり、
『 そこでは、私は
このような名称であり
このようなカーストであり
このような食物を摂取し
このような苦楽を感受して過ごし
このような寿命を終えて死んだ
そこで死ぬと、
次にかしこに生じた 』と、
無数の生涯における記憶を生起した。
このように、わたしは、あらゆる状況と共に、
かつ詳細にわたり無数に配置された過去の生存の場面を思い起こしたのである
貪りが尽きると解脱が待っている
このプロセスを
1サマディ
2如実知見
3厭離
4離貪
5解脱
と呼び
ここをお釈迦様はこう解説しています。
『 修行者よ、ではその滅尽の前提条件とは何か?
5●それは解脱であるとわたしは言う。
解脱もまた前提条件があり、無条件ではないのである。
では解脱の前提条件とは何か?
4●それは離貪であるとわたしは言う。
そして離貪もまた前提条件があり、無条件ではないのである。
では離貪の前提条件とは何か?
3●それは厭離であるとわたしは言う。
そして厭離もまた前提条件があり、無条件ではないのである。
では厭離の前提条件とは何か?
2●それは如実知見であるとわたしは言う。
そして如実知見もまた前提条件があり、無条件ではないのである。
では如実知見の前提条件とは何か?
1●それはサマディであるとわたしは言う。
修行者たちよ、君たちは色(物質)は無常であると見よ。
このように観ることを【正観】すると言うのである。
正観を達成したものは必ず【厭離】する。
厭離する者は【喜貪が尽きる】。
喜貪が尽きた者は【心解脱】するのである。
同じ様に【受想行識】を【無常である】と見よ。
このように【正観】を達成したものは
【心解脱するかのである。
修行者たちよ!
この時もし【自らの本性】を知りたいと欲したならば
【自らの本性(真我)】を理解するであろう。
そして、わたしの転生は尽き、梵行已にたち、所作已に無し
自ら後有を消滅させたと知るのだ。