鹿野園さんの六根清浄を御祈念していくスレ最終更新 2025/03/21 11:501.法介◆T3azX0Hk1URKka1(1/30)コメントのURLをコピーこの ID を非表示コメントを通報コメントの削除依頼わたくし法介が、荒らし行為を止むことが無い鹿野園さんの六根清浄を日々御祈念していくことで、彼がどのように変わっていくかを皆で温かく見守るスレです。2023/08/26 08:31:005985コメント欄へ移動すべて|最新の50件936.パHCtg9(3/5)コメントのURLをコピーこの ID を非表示コメントを通報コメントの削除依頼しゅしょだん出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』修所断bhāvanā-prahātavya: bhāvanā-heya(S) 修所断法・修断・修道所断ともいう。修道で断じられるもの(煩悩・随眠・結・惑など)。真理(諦)を見ることによって断じられる後天的に身につけた知的な迷い以外の迷い。先天的に身についた煩悩。 『婆沙論』〔『婆沙』77、T27-397a〕では、修所断法とは、十随眠と、それと相応する心心所と、それによって等起される身業と語業と、それによって等起される不相応行と、不染汚の諸の有漏法とであると説かれる。云何修所断。(中略)謂、得見道後、見所断相違、諸有漏法、是修所断義。〔『雑集論』2024/10/28 17:46:23937.パHCtg9(4/5)コメントのURLをコピーこの ID を非表示コメントを通報コメントの削除依頼けんしょだん出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』見所断darsana-prahatavya: darsana-heya(S)● 見所断法・見断・見道所断ともいう。【見道】で断じられるもの。【真理(諦)を見ること】によって断じられるもの≪煩悩・惑・結・随眠・縛≫などあやまった教えを聞く、よこしまに思考するなどを原因として、【後天的に身につけた知的な迷い】、およびその【迷いから起こされる行為】をいう。『婆沙論』には【見所断法】として、【八十八随眠】と、及び彼と相応する【心心所法】と、彼によって等起(引き起こされる)される【不相応行】とが説かれる。● 見所断の義に見苦所断見集所断見滅所断見道所断の4種がある。【見所断の煩悩】は、【理知の面での煩悩】であるから、≪四諦の観知≫から生起する≪無漏の智慧≫によって、たちまち断ち切られる。問、見所断法云何。答、随信随法行現観辺忍所断。此復云何。謂、見所断八十八随眠、及彼相応心心所法、彼所等起不相応行、是名見所断法。〔『婆沙』77、T27-397a〕見所断義、謂、現観智諦現観、所応断義。〔『瑜伽』56、T30-608c〕云何見所断。(中略)謂、分別所起染汚見疑・見処・疑処、及於見等所起邪行・煩悩・随煩悩、及見等所発身語・意業。〔『雑集論』4,T31-711a〕2024/10/28 17:57:33938.パHCtg9(5/5)コメントのURLをコピーこの ID を非表示コメントを通報コメントの削除依頼不相応行● 五位の中の一つ。詳しくは、「心不相応行」「色不相応行」「非色非心不相応行」といい、存在(色)でも心でもない存在をいう。現代的なモノの見方でいえば、存在するものは物質存在か心による認識かいずれかであるが、説一切有部と唯識では、それら二つのものの何れでもないが、両者に関係する状態や性質を一つの存在(法)であるとみなして、これを不相応行と呼ぶ。物と心とを種々の方式に従って活動させる原理をいう。2024/10/28 18:09:50939.パBiOnvコメントのURLをコピーこの ID を非表示コメントを通報コメントの削除依頼⑥唯識三十頌?28頌?【通達位】真見道と相見道【根本智と後得智】【令和5年03月21日】https://ameblo.jp/yk19610402/entry-12795085344.html●通達位を「見道?真理を見る?」とも言う。「真理を無分別智によって、照らすので、見道ともいう」「無漏の智慧によって、四聖諦を明確に観察する」?岩波仏教辞典?「見」は「見る」だが、「現れる」という意味もあるので、「道を見る」とも「道が現れる」とも取ることが出来る。●この「見道」を【1)真見道】【2)相見道】の二つに分ける。1)【真見道】は≪根本無分別智≫の働きです。【根本智】は真理と智慧とが一体となる側面で【見分はあるが、相分はない】段階である。2)【相見道】は≪後得無分別智≫の働きです。【後得智】は無分別の根本智を踏まえながら、再び【相分が顕れる】段階である。再び相分が顕れるとは、根本智の段階では、消滅していた相分が、再び一切法として現前することであり、菩薩の眼が一切衆生に廻らされることを表す。●『成唯識論述記』には、【真を証する】のを前として【俗を縁じる智を生じる】と言われている。【後得智】によって、菩薩の慈悲行が展開するのである。2024/10/30 21:40:51940.パfMeo6(1/2)コメントのURLをコピーこの ID を非表示コメントを通報コメントの削除依頼悟りは本心に目覚めることそれでは未だ根本的煩悩の元である無明は完全に解脱されていないので悟後の修行が必要と白隠さんは言う、無明とは何か?それは、にわかに湧きいでる妄想念の出処である、唯識で言うマナ識ここを平等性になるまで修行することが必要になります解脱とはこの無明を破壊し明慧として、そこから生じていた全ての煩悩を滅し、自らを解放し脱することただね、師匠が認めたからはい悟り!って訳じゃない正しく、自らに悟り現象が何回か起こって、そこで本来の面目を、自ら顕にし、自ら証することが現われる必要がありますそのような過程を踏むことが求められますまた解脱は、心と身体からの、解脱です心の空なるを知ると本来の自己に目覚めるが、身体由来の煩悩は残るのでそれで出家修行を釈尊はさせたそれでなければ、無明→行の、煩悩の根元を滅するに至らない2024/11/07 08:17:40941.パfMeo6(2/2)コメントのURLをコピーこの ID を非表示コメントを通報コメントの削除依頼十二因縁の支分は、無明→行→識→名色→六処→触→受→愛→取→有→生→老死の12個悟り現象は、この内の、【受~六処】を縁として【名色と識】の停止から、【行】の停止が一時的に生じ起こることですそれを端的に表しているのが、香厳撃竹の逸話などです師匠の一言も同じく【耳】からの音声を【受】けてのことその結果、無明から生じて来る、妄想念が一時的に滅されて、本心を悟りますがそれは一時的滅であるので、無明を完全に破壊するまでには至りませんそれには、行を滅して行くには、出家が必要となる、なので釈尊は出家させたのですね世間に居たのでは難しいからなのだと思います2024/11/07 08:17:51942.パWgY2A(1/2)コメントのURLをコピーこの ID を非表示コメントを通報コメントの削除依頼つまり、覚醒時における、言語・論理・分析脳である【左脳】及び、司令塔脳の前頭前野が【1分別脳】であると普段は、情動的な動きとしてしか現れない無意識で潜在的な辺縁系と、映像的空間を認識する右脳の合わさった【2無分別脳】が1と2が共に意識されて、共同で働くことが、悟った後の在り様ではないのか?と推論されます。前頭前野https://bsd.neuroinf.jp/wiki/%E5%89%8D%E9%A0%AD%E5%89%8D%E9%87%8E脳は、大きな一つの塊ではなく、異なった機能を持ついくつかの領域に分かれてます。●その中の1つに、額のすぐ後ろ、脳の前の方にある前頭前野(ぜんとうぜんや)と呼ばれる場所があります。 前頭前野は、記憶や感情の制御、行動の抑制など、さまざまな高度な精神活動を司っている、脳の中の脳とも呼ばれている重要な場所です。●左脳は主に、言語処理や論理的思考、数学的な活動に関わっているためです。 左脳派の人は、データを冷静かつ客観的に評価し、論理的に説明する能力が高いです。 そのため、分析結果から的確な判断をしたり、自分の意見をわかりやすく伝えたりすることが得意です。2024/11/11 15:03:15943.パWgY2A(2/2)コメントのURLをコピーこの ID を非表示コメントを通報コメントの削除依頼●つまり、覚醒時における、言語・論理・分析脳である【左脳】及び、司令塔脳の前頭前野が【1分別脳】であるとし別に、普段は、情動的な動きとしてしか現れない無意識で潜在的な辺縁系と、映像的空間を認識する右脳の合わさったのが【2無分別脳】だと●その1と2が共に意識されて、共同で働くことが、悟った後の、在り様ではないのか?と推論します。前頭前野https://bsd.neuroinf.jp/wiki/%E5%89%8D%E9%A0%AD%E5%89%8D%E9%87%8E脳は、大きな一つの塊ではなく、異なった機能を持ついくつかの領域に分かれてます。●その中の1つに、額のすぐ後ろ、脳の前の方にある前頭前野(ぜんとうぜんや)と呼ばれる場所があります。 前頭前野は、記憶や感情の制御、行動の抑制など、さまざまな高度な精神活動を司っている、脳の中の脳とも呼ばれている重要な場所です。●左脳は主に、言語処理や論理的思考、数学的な活動に関わっているためです。 左脳派の人は、データを冷静かつ客観的に評価し、論理的に説明する能力が高いです。 そのため、分析結果から的確な判断をしたり、自分の意見をわかりやすく伝えたりすることが得意です。2024/11/11 15:12:28944.パvOWgt(1/3)コメントのURLをコピーこの ID を非表示コメントを通報コメントの削除依頼大獅子吼経そこで比丘たちよ、わたしは正念によって完全に清められたサマディの第四段階に入ってとどまった。そして、このように心が統一され、清浄であり、純粋であり、汚れなく、塵芥なく、柔軟であり、かつ機敏であり、安定して不動を得た時、つぎにわたしは(夜の初更において)過去世の記憶を生起する智慧に心を傾けたのである。それは、無数に配置された過去の生存の場面。すなわち、一つの生涯、二つの生涯、三つの生涯・・・十の生涯、二十の生涯、数百の生涯、数千の生涯、数万の生涯、無数の宇宙生成期、無数の宇宙破壊期、また幾多の宇宙成立破壊期にわたり、『 そこでは、私はこのような名称でありこのようなカーストでありこのような食物を摂取しこのような苦楽を感受して過ごしこのような寿命を終えて死んだそこで死ぬと、次にかしこに生じた 』と、無数の生涯における記憶を生起した。このように、わたしは、あらゆる状況と共に、かつ詳細にわたり無数に配置された過去の生存の場面を思い起こしたのである2024/11/16 14:42:11945.パvOWgt(2/3)コメントのURLをコピーこの ID を非表示コメントを通報コメントの削除依頼byホワイト・ターラー貪りが尽きると解脱が待っているこのプロセスを1サマディ2如実知見3厭離4離貪5解脱と呼びここをお釈迦様はこう解説しています。『 修行者よ、ではその滅尽の前提条件とは何か?5●それは解脱であるとわたしは言う。解脱もまた前提条件があり、無条件ではないのである。では解脱の前提条件とは何か?4●それは離貪であるとわたしは言う。そして離貪もまた前提条件があり、無条件ではないのである。では離貪の前提条件とは何か?3●それは厭離であるとわたしは言う。そして厭離もまた前提条件があり、無条件ではないのである。では厭離の前提条件とは何か?2●それは如実知見であるとわたしは言う。そして如実知見もまた前提条件があり、無条件ではないのである。では如実知見の前提条件とは何か?1●それはサマディであるとわたしは言う。2024/11/16 14:45:36946.パvOWgt(3/3)コメントのURLをコピーこの ID を非表示コメントを通報コメントの削除依頼無常経修行者たちよ、君たちは色(物質)は無常であると見よ。このように観ることを【正観】すると言うのである。正観を達成したものは必ず【厭離】する。厭離する者は【喜貪が尽きる】。喜貪が尽きた者は【心解脱】するのである。同じ様に【受想行識】を【無常である】と見よ。このように【正観】を達成したものは【心解脱するかのである。修行者たちよ!この時もし【自らの本性】を知りたいと欲したならば【自らの本性(真我)】を理解するであろう。そして、わたしの転生は尽き、梵行已にたち、所作已に無し自ら後有を消滅させたと知るのだ。2024/11/16 14:46:25947.パYRpOD(1/4)コメントのURLをコピーこの ID を非表示コメントを通報コメントの削除依頼無我と非我わたしは中村元先生こそ、『 ブッダは【無我】とは何処にも断言していない。≪非我≫と言っている 』と言った方で非常に学問的に厳しいスタンスをお持ちの尊敬にあたいする学者だと見ています。【無我】は途中で経験しますが、最終的には【 無常なるものに、真のわたしは存在しない 】という ≪【真の】わたし≫ に到達します。【無常】を超えたところに【真我】があるの。【涅槃】に入るのは【真我】なのね。● それを【仏性】とか、【如来蔵】とか言葉を変えて言っているのね。久遠実成のホトケなんて、永遠不変の実在のことでしょう?この無常世界のことじゃないのね。by ホワイト・ターラー2024/11/22 14:01:56948.パYRpOD(2/4)コメントのURLをコピーこの ID を非表示コメントを通報コメントの削除依頼● 集中を阻害するもの瞑想の阻害要因は雑念でしょ?瞑想中に色んな雑念が起きてきますよ。(そう言えば、トム・クルーズの新作がプライムビデオで始まったわ)とか(栄に新しい焼き鳥やがオープンしたっけ?)(来週、来来亭に行くと無料で一食分のクーポンが貰えるわ。忘れると損だわ)この雑念の種類は煩悩に起因するので、貪瞋癡のバリエーションです。ね?ところが瞑想者は集中して(心は無常なり)を継続集中したい訳でしょ?この先にサマディ(変性意識状態)があるからね。● 相対化する情報を何度もぶつけ、執着・常識・固定観念を解くどういうことかと言うと、潜在意識が理解するには繰り返し同じ情報を入れ続ける必要があるのね。理想を言うと、夢の中まで「体は不浄である」と言ってるのが理想です。それを集中継続とか継続集中と言います。● satiは気づきではないわたしは南方仏教のsati(念)を気づきだとする見解は間違いだと思っていて、「念」は繰り返し心に銘記することと理解しています。つまり記憶をやっているの。ねえ、怨念、残念、無念、祈念、執念・・・念がつく名詞は全て「或る思いの繰り返し」でしょ?漢訳した人はちゃんと分かっていたんだね(^^)玄奘かな?鳩摩羅什かな?by ホワイト・ターラー2024/11/22 14:22:55949.パYRpOD(3/4)コメントのURLをコピーこの ID を非表示コメントを通報コメントの削除依頼● でね、余談だけども悟った人こそ≪今・ここ≫に集中が自然な状態になったので、いよいよ≪サマディ≫に進むことが望ましい訳です。【悟ってからこそが本当の瞑想】が行えるという訳です。● 【四念処】というのは【如実知見】そのものなのね。どいうことかと言うと、【如実知見の観照】を完成させることが本来、お釈迦様が≪四念処をやらせる≫狙いなのね。● あのね、大獅子吼経に『 どんな瞑想されればいいか?どんな瞑想が修行者にどの様な結果が生じるか?』って、≪ブッダは【瞑想を生み出す能力】を具足している。≫と言うのがあるの。2024/11/22 14:27:09950.パYRpOD(4/4)コメントのURLをコピーこの ID を非表示コメントを通報コメントの削除依頼● ヴィパッサナーの意味これ【四念処】をヴィパッサナー【観照】と呼びます。【如実知見】が動かしがたい事実かどうか【観照して定着させよう】としているのね。ちょつと分かりづらいかも知れないね^^;つまりこの様に観照します。● この肉体にしろ、家族にしろ、ある日死を境に離れなければならない時が来る。●これは無常を根本とするからだ。●宇宙やダイヤモンドでさえ、滅び去ることは避けられない。●従って無常は苦だ、肉体、家族、財、一切は無常だこの様に私達の短いスパンで考えるでなく、現実に無常を当てはめて観照すると如実知見である◯無常◯苦◯非我は動かしがたい法則なのだと理解します。≪ 私達はわざとそれを曖昧にして避けています。この避けて来た事実に正しく【フォーカスしスポットを当てる】ので【観照】と言っています ≫● これが、深い意識≪真我ね≫が納得を起こした時点で、≪心はサマディに突入する≫の。それが起こるまで修習しなさいと言うのが【四念処】ね。by ホワイト・ターラー2024/11/22 14:34:08951.パYTl2eコメントのURLをコピーこの ID を非表示コメントを通報コメントの削除依頼● 「正念」は正しい記憶行為という意味四念処は八正道の「正念」のことなんだけど、正念は「正しい記憶」という意味なのね。お釈迦様による瞑想の定義が知れて大変興味深いところです。「念」は今で云うアファメーションのことなんです。テーラワーダを学んだ方はsati(念)は、気づきだと言います。● AIによるアファメーションの解説・・・【繰り返し自分自身に宣言します】そうすることで、自分の潜在意識に働きかけ、自己肯定感と自尊心の強化をおこない、自分の理想の状態を叶えていきますつまり4つの課題について受は思い通りにはならない。受は思い通りにはならない。受は思い通りにはならない。受は思い通りにはならない・・・・離れなければならないこれをやれと言う意味です。これが四念処観。by ホワイト・ターラー2024/11/22 15:51:28952.パzKaeBコメントのURLをコピーこの ID を非表示コメントを通報コメントの削除依頼● この意味は、わたしたちは自分の感覚を満足させようとずっと生きてきた訳ですね。これは良いでしょうか?しかしそれが迷妄であり、囚われであり、煩悩の集積となり、どこかで苦悩に変わるのだ(これを正観と呼びます)。そして輪廻の終わらない要因である。と従ってその逆の【感覚における過患】を見つめこれは【真我の所産では無い】と否定することにより≪【離脱しよう】と意図している≫訳です。【修正する情報】をぶつけているの。(カウンターを当ててる)● 只管打坐はこのプロセスを欠いているので、中々成就しないと。だから【荘子の坐忘】だとわたしは指摘するの。by ホワイト・ターラー2024/11/22 17:26:46953.パcZMcKコメントのURLをコピーこの ID を非表示コメントを通報コメントの削除依頼面白いblog見つけた!サマディー、悟りの段階。あるがままに。https://kuujigen.hatenablog.com/entry/2018/01/21/041723読んでみると良いよここで右にある【読者になる】タブクリックして、Googleでログインするとblog全体見れる、そこでこれを書いているkuuさんのプロフィールを読むと更に面白いぞ~この方女性みたいだけど、病気から独自に悟って、虹の身体からのテレポーテーションまで行ってるねつまり仙人コース歩んでらっしゃるわ2024/11/23 15:27:03954.栖雲居士◆dqam8SqGUPdmu620zコメントのURLをコピーこの ID を非表示コメントを通報コメントの削除依頼*****************スレ主逃走の為、このスレは終了。*****************2024/11/28 17:36:39955.パtUuCb(1/2)コメントのURLをコピーこの ID を非表示コメントを通報コメントの削除依頼出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』● 所知障jneya-avara?a (skt) 知られるべきもの、即、究極の真理(真如)を 知ることを妨げる障害。煩悩障とともに説かれて、二つをまとめて二障と言う。 煩悩障と対比すれば、煩悩障が≪我≫への執着(我執)によって生じ、それによって生死に流転するのに対して所知障は≪もの≫(法)への執着(法執)によって生じ、それによって菩提を得ることができない。◯ たとえば、「自己の身体」と思ってそれに貪欲を起こす場合、この貪欲の対象を分析すると一つは【自己】であり、今一つは【身体】である。◯このうち【自己】というものが、実体としてあると執着して起こす貪欲が【煩悩障】であり◯【身体】があると思って起こす執着が【所知障】である。すなわち、ある一つの貪欲‥‥広くいえば煩悩の一つ‥‥は、煩悩障と所知障との両面を同時にそなえている。このことを【煩悩障】は法の≪用≫に迷い【所知障】は法の≪体≫に迷う という。2024/11/29 19:16:09956.パtUuCb(2/2)コメントのURLをコピーこの ID を非表示コメントを通報コメントの削除依頼● 唯識では、心のありようを、迷いからさとりに変革することを目的とする。具体的には、識を転じて智を得る【転識得智】ことである。◯ この中、識の働きは二分法的思考(分別)であり、そのような認識のありようになる原因が【煩悩障】と【所知障】である。【煩悩障】を断ずることによって煩悩が生じなくなり【所知障】を断じることによって、すべての知るべきもの≪一切の所知≫を智ることになる。● 云何が菩提なるや。謂く略説すれば二断と二智是れを菩提と名づく。◯ 二断とは?一には【煩悩障の断】二には【所知障の断】なり。◯ 二智とは?一には【煩悩障が断ずるが故に】畢竟≪ 離 垢=妄想分別 ≫にして≪一切の煩悩が随縛しない智≫である。二には【所知障が断ずるが故に】一切の≪所知に於いて無礙にして無障≫なる智である。 〔瑜伽論38 T30-498c〕● 【有為・無為の諸法】と【真如】に関しての、正しい智を生ぜしめないように障害となるものが【所知障】である。● 【解脱】には関係がないから、声聞は≪所知障を断じない≫。しかし、無知は衆生教化には障害となるから、菩薩は≪所知障をも断じて≫一切智者となる。● 唯識では、心のありようを、迷いからさとりに変革することを目的とする。具体的には、識を転じて智を得る【転識得智】ことである。◯ この中、識の働きは二分法的思考(分別)であり、そのような認識のありようになる原因が【煩悩障】と【所知障】である。【煩悩障】を断ずることによって煩悩が生じなくなり【所知障】を断じることによって、すべての知るべきもの≪一切の所知≫を智ることになる。● 云何が菩提なるや。謂く略説すれば二断と二智是れを菩提と名づく。◯ 二断とは?一には【煩悩障の断】二には【所知障の断】なり。◯ 二智とは?一には【煩悩障が断ずるが故に】畢竟≪ 離 垢=妄想分別 ≫にして≪一切の煩悩が随縛しない智≫である。二には【所知障が断ずるが故に】一切の≪所知に於いて無礙にして無障≫なる智である。 〔瑜伽論38 T30-498c〕● 【有為・無為の諸法】と【真如】に関しての、正しい智を生ぜしめないように障害となるものが【所知障】である。● 【解脱】には関係がないから、声聞は≪所知障を断じない≫。しかし、無知は衆生教化には障害となるから、菩薩は≪所知障をも断じて≫一切智者となる。2024/11/29 19:16:29957.栖雲居士◆dqam8SqGUPdmZipvsコメントのURLをコピーこの ID を非表示コメントを通報コメントの削除依頼*****************スレ主逃走の為、このスレは終了。*****************2024/12/03 17:22:501958.パgpdxYコメントのURLをコピーこの ID を非表示コメントを通報コメントの削除依頼●「空・仮(げ)・中」これも『中論』に説かれる中観思想で、すなわち、「八不中道」でもわかるように、いかなる存在や事象は「相依相待」の関係で成り立っていて、どちらかがなければあり得ない「無自性」・「空」であり、存在や事象の名称はただ世俗のコトバで「仮の名(仮名)」・「仮に設定されたもの(「仮設(けせつ)」)」に過ぎず、とらわれるべきではない。●また、対立的な二項のどちらかに偏すれば、それは「我見」であり、「虚妄(こもう)分別」(二項対立で見ること)であり、「戯論(けろん)」(真実をとらえていない見解)となる。だから、二項のどちらにも偏せず中道・中観をとるべきである。相対関係で成り立っている存在や事象はすべて「空」であり、「仮(設)」であり、「中」である。これを「空・仮・中」と言うのである。2024/12/03 18:45:25959.◆JBLfMwCXhYFjh2vコメントのURLをコピーこの ID を非表示コメントを通報コメントの削除依頼>>957ここは資料集スレなんじゃなかったか?2024/12/12 06:25:57960.パOa4KfコメントのURLをコピーこの ID を非表示コメントを通報コメントの削除依頼>>554標識はある目印よいうか◯第五、第六の空と識には対象の有り無しが空は対象を一旦は認めてからその広さを計る識はその空を認識する、そのもの当体の識って感じで◯≪無 所有 処≫は、対象無く、在る、処の識◯非想 非非想処は、対象の思いではなくて、その識自体を想うのでも無く、想わないのでも無いと言う処◯想受滅(滅尽定)は、在った識自体の非在なので、出定した時に、滅尽定に入ったという記憶の痕跡も、意識には昇って来ないような処まあおれの理解では、だけど2024/12/14 12:54:29961.パB4Bj0(1/2)コメントのURLをコピーこの ID を非表示コメントを通報コメントの削除依頼禅はインドから伝わった大乗佛教から派生しててチベット佛教、ボン教などのゾクチェンやマハムドラー系統の頓悟の系統と同じでしょ大乗はその後に金剛大乗へ進化してそこで悟り、解脱への成仏次第の行程が編み出されたって流れで方法論として中国で独自に編まれた大乗禅の公案には、明確な次第は存在しないけど金剛大乗には、明確な次第行程が存在していて空海で有名な求聞持法などは、悟りを引き起こす行法だと思うよ2024/12/16 18:09:25962.パB4Bj0(2/2)コメントのURLをコピーこの ID を非表示コメントを通報コメントの削除依頼まあ初期佛教には、九次第禅定という次第行程が示めされているけどねこれの、初禅定から第二禅定へが一つの難関ではあるが道元禅師のお示しの身心脱落が釈尊が入滅にあたって入禅定された第四禅定であるて~言うことを、誰も指摘しないけどねそうなんですよ、これは2024/12/16 18:09:39963.パTxObjコメントのURLをコピーこの ID を非表示コメントを通報コメントの削除依頼619 栖雲居士◆dqam8SqGUPdm sage 2025/01/02(木) 08:14:14.23 ID:jxyEr【今日の一言アドバイス】> これは言語で縁起するわけではなく、さらにその前の段階で、五感のセンサーから入った情報を、脳のデータベースのイメージ情報と照合してはじめて認識になるんよ。> だからそのデータの擦り合わせを止めなあかんわけで、名前を付けるのは、その後のプロセスじゃないんかな。法相宗の考えでは、あらゆる種子は名言種子(等流習気)と云われております。その中でも善や悪に色づけられた種子を「業種子(異熟習気)」というのですが、これらは認識には常に言語が密接している事への考察に由来するようであります。また、名言種子は現象世界の一切を生じる種子であり、業種子は現世には干渉しないで未来を決定する種子とされております。つまり、阿頼耶識中の種子は全て名言種子ということになります。そして名言種子には「表義名言種子」「顕境名言種子」があり、前者は「言葉に依っての対象認識」「言葉に依らない対象認識」に種子だそうです。まぁ、前者は比量や非量に後者は現量に対応するのでありましょう。また、十二支縁起の名色もそこに関わってくるのでありましょう。『成唯識論述記』では、「表義名言種子」を「(心・心所の)外」、「顕境名言種子」を「(心・心所の)内」にあると考えているようです。ところで種子には善・悪・無記の性質があるのに、何故、阿頼耶識は「無記」の性質なのでしょうか?これには、無記の種子は再生力が弱いので、善悪の性質を帯びた業種子の力(増上縁)を得て、来世に阿頼耶識を生ずると考えられております。すなわち「善因楽果・悪因苦果」へ由来するのです。2025/01/02 08:39:55964.パbCvEm(1/2)コメントのURLをコピーこの ID を非表示コメントを通報コメントの削除依頼一人の道にあらず南伝 増支部経典3,60漢訳 中阿含経143かようにわたしは聞いた。ある時、世尊は、サーヴァッテー(舎衛城)のジェータ(祗陀)林なるアナータビンディカ(給孤独)の園にましました。その時、サンガーラヴァ(傷歌邏)なる✽婆羅門の若者は、午後のそろぞ歩きに、世尊のいますところに到り、到るとたがいに挨拶をかわして、その傍らに座した。傍らに座したサンガーラヴァなる婆羅門の若者は、世尊に申しあげた。◯「友ゴータマ(瞿曇)よ、わたしはお訊ねしたいことがございます。お許しがあれば申しあげたいと思います」「婆羅門の若者よ、もし疑いがあるならば、遠慮なく問うがよろしい」そこでサンガーラヴァなる婆羅門の若者は問うていった。「友ゴータマよ、われらは婆羅門でありまして、みずから供犠(くぎ)をいとなみ、また他のひとびとをして供犠をいとなましめます。友ゴータマよ、そのように、みずから供犠をいとなみ、また他の人々をして供犠をいとなましめることは、それはすなわち多くの人々のための福(さいわ)いを修することであります。それが供犠というものであります。しかるに、友ゴータマよ、あなたの弟子たちは、鬚髪を剃りおとし、僧衣をまとい、良家より出家して家なきものとなり、自己一人を調御し、自己一人を安らげ、自己一人の苦愁を滅するという。かくのごとくなれば、出家の道はすなわち一人のための福いの道でございましょう」2025/01/14 16:47:57965.パbCvEm(2/2)コメントのURLをコピーこの ID を非表示コメントを通報コメントの削除依頼◯「婆羅門よ、しからば、そのことにつき、わたしからも、そなたに問いたい。そなたの思うがままに答えるがよい。婆羅門よ、そなたは、このことをいかに思うか。この世に如来・応供・正等覚者・明行足・善逝・世間解・無上師・調御丈夫・天人師・仏・世尊があらわれ、彼はかくのごとく説く。いわく、【 これが道である。これが✽実践である。わたしは、この道をゆき、この実践をおさめて、無上の梵行の消息を、みずから知り、証し、そして説いていう。≪ 来れ、汝らもまたこのように修行せよ!!汝らもまた修行して、無上の梵行の消息を、みずから知り、証し、その身に具するがよい、と ≫そのように、この師が法を説き、そして、他の人々もおなじように修行し、それらが数百、数千、数万にいたるならば、婆羅門よ、そなたはこれをいかに思うであろうか?!以上のごとくである時にも、なお、出家の道は一人のための福いの道であろうか。それとも、多くの人々のための福いの道であろうか」◯「友ゴータマよ、そのようであるとするならば、出家の道は、多くの人々のための福いの道であります」2025/01/14 16:48:14966.神も仏も名無しさんn0ONiコメントのURLをコピーこの ID を非表示コメントを通報コメントの削除依頼禅はお釈迦様が苦行時代にアーラーラ・カーラーマのもとで修行し達成した境地。つまり『無』。しかしお釈迦様は『無』から覚めるとまた苦しみは変わらない。これは俺のネライじゃないと。そしてアーラーラ・カーラーマの元をさった。だから、禅はお釈迦様も辿った道であると。ね?2025/01/21 03:52:23967.栖雲居士◆dqam8SqGUPdmrgugr(1/6)コメントのURLをコピーこの ID を非表示コメントを通報コメントの削除依頼……まだ嫌がらせで続けてんだ😟2025/01/21 12:16:19968.栖雲居士◆dqam8SqGUPdmrgugr(2/6)コメントのURLをコピーこの ID を非表示コメントを通報コメントの削除依頼> 禅はお釈迦様が苦行時代にアーラーラ・カーラーマのもとで修行し達成した境地。> つまり『無』。> しかしお釈迦様は『無』から覚めるとまた苦しみは変わらない。> これは俺のネライじゃないと。> そしてアーラーラ・カーラーマの元をさった。> だから、禅はお釈迦様も辿った道であると。> ね?wwwそうなんだw2025/01/21 12:18:43969.栖雲居士◆dqam8SqGUPdmrgugr(3/6)コメントのURLをコピーこの ID を非表示コメントを通報コメントの削除依頼確かに禅宗では、その「無の境地を味わってこい!」とは云いますけど、そこがゴールではありません。いや、「無」とは云わないか、「絶対無」だな。つまり、アーラーラ・カーラーマさんの説かれている「無所有処(無の境地)」と、禅の説く「絶対無」は別物なんですけどね。そこを勘違いして> 禅はお釈迦様が苦行時代にアーラーラ・カーラーマのもとで修行し達成した境地。> つまり『無』。とか🤭まぁ、所詮はトーシローの要らぬ勘繰りですね😊2025/01/21 13:09:14970.栖雲居士◆dqam8SqGUPdmrgugr(4/6)コメントのURLをコピーこの ID を非表示コメントを通報コメントの削除依頼あ、誤爆しました。すみません🙇2025/01/21 13:09:40971.栖雲居士◆dqam8SqGUPdmrgugr(5/6)コメントのURLをコピーこの ID を非表示コメントを通報コメントの削除依頼要らぬ争いの原因の大半は、その方の体験や知識の欠如から来る様に思われます。上記の禅宗に対する批判的な評価もそうでありましょう。しかしもし、その批判的な評価に対して、これまた体験や知識の欠如した禅宗の方が反論すれば、それこそ目隠しをしたまま棍棒をぶん回して殴り合う様な悲惨な状況になるでしょう。ここは冷静に落ち着いて、仏教のスタンダードな見解に基づいて応対がありたいものですね。トーシローの、それこそ目隠しをしたまま棍棒をぶん回して殴り合う様な悲惨な論争など、御免被りたいですね。2025/01/21 13:56:17972.栖雲居士◆dqam8SqGUPdmrgugr(6/6)コメントのURLをコピーこの ID を非表示コメントを通報コメントの削除依頼まぁ、そうした方とは別に、宗教板には躁や統失、或いは知育や認知に障害をお持ちで、それに起因してスタンダードな宗教解釈とは別次元な方が少なからずいらっしゃるわけです。相手にしないのが良いでしょう。そもそも最初からスタンダードなそれと合致しようがないのですからね。しかし、排除はしない。これが唯一互いに共存出来る方法だって思うんです。2025/01/21 14:01:56973.パJzO0A(1/3)コメントのURLをコピーこの ID を非表示コメントを通報コメントの削除依頼クンダリーニの本覚醒と解脱の関係良いですか、悟りじゃないよ。解脱だよ。解脱のプロセスは前に仏典を示しましたが「悦・喜・軽安・楽・サマディ・如実知見・厭離・離貪・解脱」の順でやってきます。これを禅定(八正道の正念と正定ね)を中心の視点で見たら第一静慮・・・尋伺(普通の思考)を伴う悦・喜・楽(クンダリーニの本覚醒で起きる状態)第二静慮・・・無尋無伺の喜と楽第三静慮・・・喜が止み楽のみ第四静慮・・・不苦不楽 これが正サマディ色界の禅定(R?pajjh?na,四禅)は以下の4段階がある。初禅 - 諸欲・諸不善(すなわち欲界)を離れ、尋伺を伴いながらも、離による喜・楽と共にある状態。『中部』が伝えるところによれば、釈迦は、自身がまだ在家の王子であった頃、すでにこの境地を楽しんでいたという[10][11]。第二禅 -尋伺が止み、内清浄による喜・楽と共にある状態。第三禅 - 喜を捨し、正念・正見を得ながら、楽と共にある状態。第四禅 - 楽が止み、不苦不楽の受のみがある状態。wikipedia「禅定」これは実は本覚醒した【クンダリーニ】が【サハスラーラに到達した】時の状態です!by ホワイト・ターラーーーーそうかな?よー分からんけど2025/01/31 18:58:33974.パJzO0A(2/3)コメントのURLをコピーこの ID を非表示コメントを通報コメントの削除依頼最悪なのは、2023年7月に起こった市川市のヨガのインストラクターによる事件。お母さんを食べた女性。完全な統合失調状態です。●【心の浄化】をかなおざりにしたまま】【潜在意識にアプローチする】のはこの様に危ないです。これは最悪のケースねby ホワイト・ターラーhttps://i.imgur.com/Xa8e6Ro.jpeg81と82重要ーーー最終的に性欲の克服が最大の関門だから【持戒と功徳】【懺悔で浄化】を試み【善性を優位】にしないと【潜在意識】や【更に深い意識】に入った時に≪欲望に翻弄されてしまう≫ということです。by ホワイト・ターラー2025/01/31 18:59:01975.パJzO0A(3/3)コメントのURLをコピーこの ID を非表示コメントを通報コメントの削除依頼● 真理相応サマディ品「修行者諸君」「世尊よ」「君たちは【サマディを修習しなさい。】サマディを修習した修行者は、如実に認識し、理解するのである。何を【如実に認識】し【理解する】のであろうか?それは◯ これは苦であると如実に認識し理解するのである(一切が無常であるということ)◯ これは苦の原因であると如実に認識し理解するのである(無明が無常を見えない様にすること)◯ これは苦の滅尽であると如実に認識し理解するのである(無明を破壊するということ)◯ これは苦の滅尽に至る方法論であると如実に認識し理解するのである(八正道)● 従って、君たちは≪サマディを修習すべきである!≫ーーー【四聖諦】を得るぞと言っているの。だから仏教の、【解脱した】と言うのなら≪【四聖諦の体験】が起こるはずなの≫by ホワイト・ターラー2025/01/31 19:01:21976.パtMJYB(1/2)コメントのURLをコピーこの ID を非表示コメントを通報コメントの削除依頼447 栖雲居士◆dqam8SqGUPdm (50-aqq-14-MRO) 2025/02/01(土) 20:08:17.67 ID:xjkSA見道(=見性)の初刹那に無漏智が生じるのですが、その因は本有の無漏種子で、第二刹那にその本有の無漏種子から生じた無漏智に依って、新熏の無漏種子が生じると云うんです。そして、その無漏智の作用に依って有漏(=煩悩)の作用が止滅しあるいは抑制されるわけです。だだし、無漏の種子には「下品・中品・上品」の三種類あり、それぞれ 見道~下品の無漏種子・・・妙観察智と平等証智に作用 修道~中品の無漏種子・・・同上 佛位~上品の無漏種子・・・大円鏡智、平等証智、妙観察智、成所作智の全てに作用するようです。上中下については・・・そうですね、密・細・粗ってイメージされるといいと思います。密になるほど抑制や止滅効果があるということです。2025/02/01 23:14:57977.パtMJYB(2/2)コメントのURLをコピーこの ID を非表示コメントを通報コメントの削除依頼このような【無漏智】をヨガでは【識別智】と言いますね煩悩の心と本心を、明確に識別する智慧のことだと思います2025/02/01 23:27:55978.パPfxd4(1/2)コメントのURLをコピーこの ID を非表示コメントを通報コメントの削除依頼135 栖雲居士◆dqam8SqGUPdm sage 2025/02/02(日) 12:46:56.22 ID:fAsht TID:rokuyaon● 結局、その原因は、恵文禅師の解釈に遡るのでしょうが、◯ 元々は『中論』の鳩摩羅什の翻訳とサンスクリット原典の違いに起因する訳です。● サンスクリット原典では「非有非無=中道(空)」なのですが、◯ 鳩摩羅什の翻訳ではそうとも取れる一方、「非有非空=中道」とも取れるのです。● ここに龍樹の原意との相違が生じたというのか通説です。2025/02/02 15:12:25979.パPfxd4(2/2)コメントのURLをコピーこの ID を非表示コメントを通報コメントの削除依頼127 栖雲居士◆dqam8SqGUPdm sage 2025/02/02(日) 12:41:21.37 ID:fAsht TID:rokuyaon● 龍樹【非有非無】=中道(空)◯ 天台【非有非空】=中道という事です。2025/02/02 15:14:31980.パw1AAVコメントのURLをコピーこの ID を非表示コメントを通報コメントの削除依頼Sankalpayoga Foundationサンカルパヨガ・ファウンデーションhttps://m.youtube.com/@sankalpayoga.foundation●「真のヨガと真のサマーディ」スワミ・アディティヤナンダ・ギリ・ジ師登壇~いのちの祭り2024◯Vol.1~ヨガとは何か?https://m.youtube.com/watch?v=10hFk5Upxm0◯Vol.2~サマーディーとは?エンライトメントは第一サマーディーhttps://m.youtube.com/watch?v=kucJLBjyJkk◯Vol.3~アシュタンガ・ヨガ(ヨガ8支則)とクリヤヨガ(呼吸制御)は、どの聖者が創始されたのか?https://m.youtube.com/watch?v=HfTYFDSpppEVol.4~光が第三の眼から入って、チャクラを上下に貫いて、サハスラーラから抜けたエンライトメントは光の体験のもっともっと先、エンライトメントが第一サマディーで、お釈迦様のニルバーナは、その先の先の先の第四サマディー!ブラックホールとホワイトホールはサマーディーで体験する天文科学では、ブラックホールは発見出来ても、ホワイトホールは発見出来ない、微細身になって行くことで見ることが出来る(純粋観照者として)https://m.youtube.com/watch?v=Hh7ZKo5fm5UVol.5~私(スワミ・アディティヤナンダ・ギリジ)は実証主義なので、実際に無心で、何れだけ座れるか?が重要スワミジがエナジーチューニング出来る、アバターフィールドでは、瞑想初心者でも、野まず食わず寝ないで57時間の連続瞑想を出来るまた一番弟子は連続100時間座ったhttps://m.youtube.com/watch?v=wnZwxZMFKNwVol.6~イベント時、大きな台風が来ても、祈るとそれる、それは何回もあるパイロット・ババジに初めて会った時、貴方は公開サマディーの準備が出来ているからやりなさい!と言われたが、その時サマディーという言葉すら知らなかったhttps://m.youtube.com/watch?v=KZHL8ZIAafk2025/02/02 20:02:34981.パAZC6HコメントのURLをコピーこの ID を非表示コメントを通報コメントの削除依頼●【マインド】はあなたの世界であり【ノーマインド】の状態があなたのサマーディです心はあなたの集中力であり、心は偉大な文明、科学、知識のためのあなたの創造性です心はあなたの正義、あなたの精神性でもあり、すべてからの自由につながります心はこの世界に生きるためにエゴを作りました。これは【アビマナ(プライド、人格のエゴ)】と呼ばれ心は内なる心、自尊心【スワビマナ(精神の自我)】になります学び、実践する必要があるのは、心を ノーマインドの状態にする方法だけです● 外側の心を内側に変換する方法、そうすれば【肉体サマーディ】と呼ばれるサマーディ意識に到達することができますそれには【総地球体サマーディ】と【エーテル体サマーディ】の 2 種類があります、この先には【アストラル体サマーディ】があり、これも【霊体と風体】の 2 つの体で構成されています【 霊体は火の体】です。 ピュア・ラブのように、または、【執着と欲望の心】となった【耽溺の愛】としてそして【純粋な愛】は【自由と分離】になりました◯ 最初の【4つのチャクラ】に接続された、これら【4つの体】はすべて【互いに接続して通信】します、それらには変化があり【低意識から高次】へ、またはその逆の【意識の移行】があります これが【変換が行われる方法】です。マハヨギ・パイロット・ババジ2025/03/07 16:21:57982.パpU0Q0(1/2)コメントのURLをコピーこの ID を非表示コメントを通報コメントの削除依頼人を貶めようと画策している人間には相応の悪霊が憑依しています!相応の悪霊が憑依しています!相応の悪霊が憑依しています!悪意は悪魔からです!悪意は悪魔からです!悪意は悪魔からです!気を付けて覚醒を願います‼️ーーー特に如来である聖者を誹謗した罪は重くダイバダッタのように無限劫を逆上ってから修行をし直さないと無限劫を逆上ってから修行をし直さないと無限劫を逆上ってから修行をし直さないと絶対に悟れないとされています!絶対に悟れないとされています!絶対に悟れないとされています!皮肉もそうです!御注意され、覚醒してください‼️ーーー御注意ください‼️御注意ください‼️御注意ください‼️2025/03/10 19:40:24983.パpU0Q0(2/2)コメントのURLをコピーこの ID を非表示コメントを通報コメントの削除依頼マナ識が転じて平等性になると言うことが何であるのか?これが今日、ようやく👍判ったぞ~😆2025/03/10 19:41:17984.栖雲居士◆dqam8SqGUPdmHrsfbコメントのURLをコピーこの ID を非表示コメントを通報コメントの削除依頼『創世記』は六日間で行われた天地創造のそれぞれの「日」を、神は自らの仕事を「良し」とすることで締めくくり、六日目に自らに像って人間を男と女に創造し、祝福した後に、自らの創造の業の全体を見渡したが、「それは極めて良かった」と記している。ところが天地創造の記述が終わる第三章では人間は神の掟に背くという罪過を犯して主なる神から出責と呪いの言葉を受け、楽園から追放されてしまう。(中略)このような人間の堕落と生活環境の悪化の根元であるとされたのが、人祖アダムの罪〜それは悪魔の巧妙な誘惑があったとはいえ、神の掟に背いて「善悪を知るものとなる」木の実を食べて「神のように」なろうとした彼の自由意思による罪であった〜の結果としてアダムの裔の全体、すなわちアダムの後、生殖によって生まれてくるすべての子孫・全人類が蒙ることになった自然本性の病い、ないし罪としての「原罪」(peccatum originale)である。(『カトリック入門: 日本文化からのアプローチ』稲垣 良典)2025/03/13 15:58:45985.栖雲居士◆dqam8SqGUPdmdYbndコメントのURLをコピーこの ID を非表示コメントを通報コメントの削除依頼*****************スレ主逃走の為、このスレは終了。*****************2025/03/21 11:50:37
【トランプ米大統領】「世界中の国々が私に媚びへつらっている、みんな取引がしたくて必死なんだ、お願いです、お願いです、大統領、取引してください、何でもしますからってね」ニュース速報+2092369.52025/04/10 15:45:52
【シニアの婚活】若い女性と結婚したい65歳元高校教師「自分の生きた証をこの地球上に残す」…年金月12万円、生涯現役、婚活100戦100敗、結婚相談所で撃沈した『酷なひと言』ニュース速報+1471415.82025/04/10 15:43:49
出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』
修所断
bhāvanā-prahātavya: bhāvanā-heya(S)
修所断法・修断・修道所断ともいう。
修道で断じられるもの(煩悩・随眠・結・惑など)。
真理(諦)を見ることによって断じられる後天的に身につけた知的な迷い以外の迷い。
先天的に身についた煩悩。
『婆沙論』〔『婆沙』77、T27-397a〕では、修所断法とは、
十随眠と、それと相応する心心所と、
それによって等起される身業と語業と、
それによって等起される不相応行と、不染汚の諸の有漏法とであると説かれる。
云何修所断。(中略)謂、得見道後、見所断相違、諸有漏法、是修所断義。〔『雑集論』
出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』
見所断
darsana-prahatavya: darsana-heya(S)
● 見所断法・見断・見道所断ともいう。
【見道】で断じられるもの。
【真理(諦)を見ること】によって断じられるもの
≪煩悩・惑・結・随眠・縛≫など
あやまった教えを聞く、よこしまに思考するなどを原因として、
【後天的に身につけた知的な迷い】、およびその【迷いから起こされる行為】をいう。
『婆沙論』には【見所断法】として、
【八十八随眠】と、及び彼と相応する【心心所法】と、彼によって等起(引き起こされる)される【不相応行】とが説かれる。
● 見所断の義に
見苦所断
見集所断
見滅所断
見道所断
の4種がある。
【見所断の煩悩】は、【理知の面での煩悩】であるから、
≪四諦の観知≫から生起する
≪無漏の智慧≫によって、
たちまち断ち切られる。
問、見所断法云何。答、随信随法行現観辺忍所断。此復云何。謂、見所断八十八随眠、及彼相応心心所法、彼所等起不相応行、是名見所断法。〔『婆沙』77、T27-397a〕
見所断義、謂、現観智諦現観、所応断義。〔『瑜伽』56、T30-608c〕
云何見所断。(中略)謂、分別所起染汚見疑・見処・疑処、及於見等所起邪行・煩悩・随煩悩、及見等所発身語・意業。〔『雑集論』4,T31-711a〕
● 五位の中の一つ。
詳しくは、「心不相応行」「色不相応行」「非色非心不相応行」といい、存在(色)でも心でもない存在をいう。
現代的なモノの見方でいえば、存在するものは物質存在か心による認識かいずれかであるが、
説一切有部と唯識では、それら二つのものの何れでもないが、両者に関係する状態や性質を一つの存在(法)であるとみなして、
これを不相応行と呼ぶ。物と心とを種々の方式に従って活動させる原理をいう。
https://ameblo.jp/yk19610402/entry-12795085344.html
●通達位を「見道?真理を見る?」とも言う。
「真理を無分別智によって、照らすので、見道ともいう」
「無漏の智慧によって、四聖諦を明確に観察する」?岩波仏教辞典?
「見」は「見る」だが、「現れる」という意味もあるので、
「道を見る」とも「道が現れる」とも取ることが出来る。
●この「見道」を
【1)真見道】
【2)相見道】
の二つに分ける。
1)【真見道】は
≪根本無分別智≫の働きです。
【根本智】は
真理と智慧とが一体となる側面で
【見分はあるが、相分はない】段階である。
2)【相見道】は
≪後得無分別智≫の働きです。
【後得智】は無分別の根本智を踏まえながら、再び【相分が顕れる】段階である。
再び相分が顕れるとは、根本智の段階では、消滅していた相分が、再び一切法として現前することであり、
菩薩の眼が一切衆生に廻らされることを表す。
●『成唯識論述記』には、
【真を証する】のを前として
【俗を縁じる智を生じる】と言われている。
【後得智】によって、菩薩の慈悲行が展開するのである。
それでは未だ根本的煩悩の元である無明は完全に解脱されていないので
悟後の修行が必要と白隠さんは言う、無明とは何か?
それは、にわかに湧きいでる妄想念の出処である、唯識で言うマナ識
ここを平等性になるまで修行することが必要になります
解脱とはこの無明を破壊し明慧として、そこから生じていた全ての煩悩を滅し、自らを解放し脱すること
ただね、師匠が認めたからはい悟り!って訳じゃない
正しく、自らに悟り現象が何回か起こって、そこで本来の面目を、自ら顕にし、自ら証することが現われる必要があります
そのような過程を踏むことが求められます
また解脱は、心と身体からの、解脱です
心の空なるを知ると本来の自己に目覚めるが、身体由来の煩悩は残るので
それで出家修行を釈尊はさせた
それでなければ、無明→行の、煩悩の根元を滅するに至らない
無明→行→識→名色→六処→触→受→愛→取→有→生→老死
の12個
悟り現象は、この内の、【受~六処】を縁として
【名色と識】の停止から、【行】の停止が一時的に生じ起こることです
それを端的に表しているのが、香厳撃竹の逸話などです
師匠の一言も同じく【耳】からの音声を【受】けてのこと
その結果、無明から生じて来る、妄想念が一時的に滅されて、本心を悟りますが
それは一時的滅であるので、無明を完全に破壊するまでには至りません
それには、行を滅して行くには、出家が必要となる、なので釈尊は出家させたのですね
世間に居たのでは難しいからなのだと思います
【1分別脳】であると
普段は、情動的な動きとしてしか現れない無意識で潜在的な辺縁系と、映像的空間を認識する右脳の合わさった
【2無分別脳】が
1と2が共に意識されて、共同で働くことが、悟った後の在り様ではないのか?
と推論されます。
前頭前野
https://bsd.neuroinf.jp/wiki/%E5%89%8D%E9%A0%AD%E5%89%8D%E9%87%8E
脳は、大きな一つの塊ではなく、異なった機能を持ついくつかの領域に分かれてます。
●その中の1つに、額のすぐ後ろ、脳の前の方にある前頭前野(ぜんとうぜんや)と呼ばれる場所があります。 前頭前野は、記憶や感情の制御、行動の抑制など、さまざまな高度な精神活動を司っている、脳の中の脳とも呼ばれている重要な場所です。
●左脳は主に、言語処理や論理的思考、数学的な活動に関わっているためです。 左脳派の人は、データを冷静かつ客観的に評価し、論理的に説明する能力が高いです。 そのため、分析結果から的確な判断をしたり、自分の意見をわかりやすく伝えたりすることが得意です。
【1分別脳】であるとし
別に、普段は、情動的な動きとしてしか現れない無意識で潜在的な辺縁系と、映像的空間を認識する右脳の合わさったのが
【2無分別脳】だと
●その1と2が共に意識されて、共同で働くことが、悟った後の、在り様ではないのか?
と推論します。
前頭前野
https://bsd.neuroinf.jp/wiki/%E5%89%8D%E9%A0%AD%E5%89%8D%E9%87%8E
脳は、大きな一つの塊ではなく、異なった機能を持ついくつかの領域に分かれてます。
●その中の1つに、額のすぐ後ろ、脳の前の方にある前頭前野(ぜんとうぜんや)と呼ばれる場所があります。 前頭前野は、記憶や感情の制御、行動の抑制など、さまざまな高度な精神活動を司っている、脳の中の脳とも呼ばれている重要な場所です。
●左脳は主に、言語処理や論理的思考、数学的な活動に関わっているためです。 左脳派の人は、データを冷静かつ客観的に評価し、論理的に説明する能力が高いです。 そのため、分析結果から的確な判断をしたり、自分の意見をわかりやすく伝えたりすることが得意です。
そこで比丘たちよ、わたしは正念によって完全に清められたサマディの第四段階に入ってとどまった。
そして、このように心が統一され、清浄であり、純粋であり、汚れなく、塵芥なく、柔軟であり、かつ機敏であり、安定して不動を得た時、
つぎにわたしは(夜の初更において)過去世の記憶を生起する智慧に心を傾けたのである。
それは、無数に配置された過去の生存の場面。
すなわち、一つの生涯、二つの生涯、三つの生涯・・・十の生涯、二十の生涯、数百の生涯、数千の生涯、
数万の生涯、無数の宇宙生成期、無数の宇宙破壊期、また幾多の宇宙成立破壊期にわたり、
『 そこでは、私は
このような名称であり
このようなカーストであり
このような食物を摂取し
このような苦楽を感受して過ごし
このような寿命を終えて死んだ
そこで死ぬと、
次にかしこに生じた 』と、
無数の生涯における記憶を生起した。
このように、わたしは、あらゆる状況と共に、
かつ詳細にわたり無数に配置された過去の生存の場面を思い起こしたのである
貪りが尽きると解脱が待っている
このプロセスを
1サマディ
2如実知見
3厭離
4離貪
5解脱
と呼び
ここをお釈迦様はこう解説しています。
『 修行者よ、ではその滅尽の前提条件とは何か?
5●それは解脱であるとわたしは言う。
解脱もまた前提条件があり、無条件ではないのである。
では解脱の前提条件とは何か?
4●それは離貪であるとわたしは言う。
そして離貪もまた前提条件があり、無条件ではないのである。
では離貪の前提条件とは何か?
3●それは厭離であるとわたしは言う。
そして厭離もまた前提条件があり、無条件ではないのである。
では厭離の前提条件とは何か?
2●それは如実知見であるとわたしは言う。
そして如実知見もまた前提条件があり、無条件ではないのである。
では如実知見の前提条件とは何か?
1●それはサマディであるとわたしは言う。
修行者たちよ、君たちは色(物質)は無常であると見よ。
このように観ることを【正観】すると言うのである。
正観を達成したものは必ず【厭離】する。
厭離する者は【喜貪が尽きる】。
喜貪が尽きた者は【心解脱】するのである。
同じ様に【受想行識】を【無常である】と見よ。
このように【正観】を達成したものは
【心解脱するかのである。
修行者たちよ!
この時もし【自らの本性】を知りたいと欲したならば
【自らの本性(真我)】を理解するであろう。
そして、わたしの転生は尽き、梵行已にたち、所作已に無し
自ら後有を消滅させたと知るのだ。
わたしは中村元先生こそ、
『 ブッダは【無我】とは
何処にも断言していない。
≪非我≫と言っている 』
と言った方で非常に学問的に厳しいスタンスをお持ちの尊敬にあたいする学者だと見ています。
【無我】は途中で経験しますが、最終的には
【 無常なるものに、真のわたしは存在しない 】
という ≪【真の】わたし≫ に到達します。
【無常】を超えたところに【真我】があるの。
【涅槃】に入るのは【真我】なのね。
● それを【仏性】とか、【如来蔵】とか言葉を変えて言っているのね。
久遠実成のホトケなんて、永遠不変の実在のことでしょう?
この無常世界のことじゃないのね。
by ホワイト・ターラー
瞑想の阻害要因は雑念でしょ?
瞑想中に色んな雑念が起きてきますよ。
(そう言えば、トム・クルーズの新作がプライムビデオで始まったわ)とか
(栄に新しい焼き鳥やがオープンしたっけ?)
(来週、来来亭に行くと無料で一食分のクーポンが貰えるわ。忘れると損だわ)
この雑念の種類は煩悩に起因するので、貪瞋癡のバリエーションです。
ね?
ところが瞑想者は集中して(心は無常なり)を継続集中したい訳でしょ?
この先にサマディ(変性意識状態)があるからね。
● 相対化する情報を何度もぶつけ、執着・常識・固定観念を解く
どういうことかと言うと、潜在意識が理解するには繰り返し同じ情報を入れ続ける必要があるのね。
理想を言うと、夢の中まで「体は不浄である」と言ってるのが理想です。
それを集中継続とか継続集中と言います。
● satiは気づきではない
わたしは南方仏教のsati(念)を気づきだとする見解は間違いだと思っていて、「念」は繰り返し心に銘記することと理解しています。
つまり記憶をやっているの。
ねえ、怨念、残念、無念、祈念、執念・・・念がつく名詞は全て「或る思いの繰り返し」でしょ?
漢訳した人はちゃんと分かっていたんだね(^^)
玄奘かな?
鳩摩羅什かな?
by ホワイト・ターラー
悟った人こそ≪今・ここ≫に集中が自然な状態になったので、
いよいよ≪サマディ≫に進むことが望ましい訳です。
【悟ってからこそが本当の瞑想】が行えるという訳です。
● 【四念処】というのは【如実知見】そのものなのね。
どいうことかと言うと、
【如実知見の観照】を完成させることが
本来、お釈迦様が≪四念処をやらせる≫狙いなのね。
● あのね、大獅子吼経に
『 どんな瞑想されればいいか?どんな瞑想が修行者にどの様な結果が生じるか?』って、
≪ブッダは【瞑想を生み出す能力】を具足している。≫
と言うのがあるの。
これ【四念処】を
ヴィパッサナー【観照】と呼びます。
【如実知見】が動かしがたい事実かどうか【観照して定着させよう】としているのね。
ちょつと分かりづらいかも知れないね^^;
つまりこの様に観照します。
● この肉体にしろ、家族にしろ、ある日死を境に離れなければならない時が来る。
●これは無常を根本とするからだ。
●宇宙やダイヤモンドでさえ、滅び去ることは避けられない。
●従って無常は苦だ、肉体、家族、財、一切は無常だ
この様に私達の短いスパンで考えるでなく、
現実に無常を当てはめて観照すると如実知見である
◯無常
◯苦
◯非我
は動かしがたい法則なのだと理解します。
≪ 私達はわざとそれを曖昧にして避けています。
この避けて来た事実に正しく
【フォーカスしスポットを当てる】ので
【観照】と言っています ≫
● これが、深い意識≪真我ね≫が納得を起こした時点で、
≪心はサマディに突入する≫の。
それが起こるまで修習しなさいと言うのが【四念処】ね。
by ホワイト・ターラー
四念処は八正道の「正念」のことなんだけど、正念は「正しい記憶」という意味なのね。
お釈迦様による瞑想の定義が知れて大変興味深いところです。
「念」は今で云うアファメーションのことなんです。
テーラワーダを学んだ方はsati(念)は、気づきだと言います。
● AIによるアファメーションの解説
・・・【繰り返し自分自身に宣言します】
そうすることで、自分の潜在意識に働きかけ、
自己肯定感と自尊心の強化をおこない、自分の理想の状態を叶えていきます
つまり4つの課題について
受は思い通りにはならない。
受は思い通りにはならない。
受は思い通りにはならない。
受は思い通りにはならない・・・・
離れなければならない
これをやれと言う意味です。
これが四念処観。
by ホワイト・ターラー
これは良いでしょうか?
しかしそれが迷妄であり、囚われであり、
煩悩の集積となり、
どこかで苦悩に変わるのだ(これを正観と呼びます)。
そして輪廻の終わらない要因である。と
従ってその逆の【感覚における過患】を見つめ
これは【真我の所産では無い】と否定することにより
≪【離脱しよう】と意図している≫訳です。
【修正する情報】をぶつけているの。
(カウンターを当ててる)
● 只管打坐はこのプロセスを欠いているので、中々成就しないと。
だから【荘子の坐忘】だとわたしは指摘するの。
by ホワイト・ターラー
サマディー、悟りの段階。あるがままに。
https://kuujigen.hatenablog.com/entry/2018/01/21/041723
読んでみると良いよ
ここで右にある【読者になる】タブクリックして、Googleでログインするとblog全体見れる、
そこでこれを書いているkuuさんのプロフィールを読むと更に面白いぞ~
この方女性みたいだけど、病気から独自に悟って、虹の身体からのテレポーテーションまで行ってるね
つまり仙人コース歩んでらっしゃるわ
スレ主逃走の為、このスレは終了。
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● 所知障
jneya-avara?a (skt)
知られるべきもの、即、究極の真理(真如)を 知ることを妨げる障害。
煩悩障とともに説かれて、二つをまとめて二障と言う。
煩悩障と対比すれば、煩悩障が
≪我≫への執着(我執)によって生じ、それによって生死に流転するのに対して
所知障は
≪もの≫(法)への執着(法執)によって生じ、それによって菩提を得ることができない。
◯ たとえば、「自己の身体」と思ってそれに貪欲を起こす場合、この貪欲の対象を分析すると
一つは【自己】であり、
今一つは【身体】である。
◯このうち
【自己】というものが、実体としてあると執着して起こす貪欲が
【煩悩障】であり
◯【身体】があると思って起こす執着が
【所知障】である。
すなわち、ある一つの貪欲‥‥広くいえば煩悩の一つ‥‥は、煩悩障と所知障との両面を同時にそなえている。
このことを
【煩悩障】は法の≪用≫に迷い
【所知障】は法の≪体≫に迷う という。
◯ この中、識の働きは二分法的思考(分別)であり、そのような認識のありようになる原因が【煩悩障】と【所知障】である。
【煩悩障】を断ずることによって煩悩が生じなくなり
【所知障】を断じることによって、すべての知るべきもの≪一切の所知≫を智ることになる。
● 云何が菩提なるや。
謂く略説すれば二断と二智
是れを菩提と名づく。
◯ 二断とは?
一には【煩悩障の断】
二には【所知障の断】なり。
◯ 二智とは?
一には【煩悩障が断ずるが故に】
畢竟≪ 離 垢=妄想分別 ≫にして≪一切の煩悩が随縛しない智≫である。
二には【所知障が断ずるが故に】
一切の≪所知に於いて無礙にして無障≫なる智である。
〔瑜伽論38 T30-498c〕
● 【有為・無為の諸法】と【真如】に関しての、正しい智を生ぜしめないように
障害となるものが【所知障】である。
● 【解脱】には関係がないから、声聞は≪所知障を断じない≫。
しかし、無知は衆生教化には障害となるから、菩薩は≪所知障をも断じて≫
一切智者となる。
◯ この中、識の働きは二分法的思考(分別)であり、そのような認識のありようになる原因が【煩悩障】と【所知障】である。
【煩悩障】を断ずることによって煩悩が生じなくなり
【所知障】を断じることによって、すべての知るべきもの≪一切の所知≫を智ることになる。
● 云何が菩提なるや。
謂く略説すれば二断と二智
是れを菩提と名づく。
◯ 二断とは?
一には【煩悩障の断】
二には【所知障の断】なり。
◯ 二智とは?
一には【煩悩障が断ずるが故に】
畢竟≪ 離 垢=妄想分別 ≫にして≪一切の煩悩が随縛しない智≫である。
二には【所知障が断ずるが故に】
一切の≪所知に於いて無礙にして無障≫なる智である。
〔瑜伽論38 T30-498c〕
● 【有為・無為の諸法】と【真如】に関しての、正しい智を生ぜしめないように
障害となるものが【所知障】である。
● 【解脱】には関係がないから、声聞は≪所知障を断じない≫。
しかし、無知は衆生教化には障害となるから、菩薩は≪所知障をも断じて≫
一切智者となる。
スレ主逃走の為、このスレは終了。
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これも『中論』に説かれる中観思想で、
すなわち、「八不中道」でもわかるように、
いかなる存在や事象は「相依相待」の関係で成り立っていて、どちらかがなければあり得ない「無自性」・「空」であり、
存在や事象の名称はただ世俗のコトバで「仮の名(仮名)」・「仮に設定されたもの(「仮設(けせつ)」)」に過ぎず、とらわれるべきではない。
●また、対立的な二項のどちらかに偏すれば、それは「我見」であり、「虚妄(こもう)分別」(二項対立で見ること)であり、「戯論(けろん)」(真実をとらえていない見解)となる。
だから、二項のどちらにも偏せず中道・中観をとるべきである。
相対関係で成り立っている存在や事象はすべて「空」であり、「仮(設)」であり、「中」である。これを「空・仮・中」と言うのである。
ここは資料集スレなんじゃなかったか?
標識はある
目印よいうか
◯第五、第六の空と識には対象の有り無しが
空は対象を一旦は認めてからその広さを計る
識はその空を認識する、そのもの当体の識
って感じで
◯≪無 所有 処≫は、対象無く、在る、処の識
◯非想 非非想処は、対象の思いではなくて、その識自体を想うのでも無く、想わないのでも無いと言う処
◯想受滅(滅尽定)は、在った識自体の非在なので、出定した時に、滅尽定に入ったという記憶の痕跡も、意識には昇って来ないような処
まあおれの理解では、だけど
チベット佛教、ボン教などのゾクチェンやマハムドラー系統の頓悟の系統と同じでしょ
大乗はその後に金剛大乗へ進化して
そこで悟り、解脱への成仏次第の行程が編み出されたって流れで
方法論として
中国で独自に編まれた大乗禅の公案には、明確な次第は存在しないけど
金剛大乗には、明確な次第行程が存在していて
空海で有名な求聞持法などは、悟りを引き起こす行法だと思うよ
初期佛教には、九次第禅定という次第行程が示めされているけどね
これの、初禅定から第二禅定へが一つの難関ではあるが
道元禅師のお示しの身心脱落が
釈尊が入滅にあたって入禅定された第四禅定である
て~言うことを、誰も指摘しないけどね
そうなんですよ、これは
【今日の一言アドバイス】
> これは言語で縁起するわけではなく、さらにその前の段階で、五感のセンサーから入った情報を、脳のデータベースのイメージ情報と照合してはじめて認識になるんよ。
> だからそのデータの擦り合わせを止めなあかんわけで、名前を付けるのは、その後のプロセスじゃないんかな。
法相宗の考えでは、あらゆる種子は名言種子(等流習気)と云われております。
その中でも善や悪に色づけられた種子を「業種子(異熟習気)」というのですが、これらは認識には常に言語が密接している事への考察に由来するようであります。
また、名言種子は現象世界の一切を生じる種子であり、業種子は現世には干渉しないで未来を決定する種子とされております。
つまり、阿頼耶識中の種子は全て名言種子ということになります。
そして名言種子には「表義名言種子」「顕境名言種子」があり、前者は「言葉に依っての対象認識」「言葉に依らない対象認識」に種子だそうです。
まぁ、前者は比量や非量に後者は現量に対応するのでありましょう。
また、十二支縁起の名色もそこに関わってくるのでありましょう。
『成唯識論述記』では、「表義名言種子」を「(心・心所の)外」、「顕境名言種子」を「(心・心所の)内」にあると考えているようです。
ところで種子には善・悪・無記の性質があるのに、何故、阿頼耶識は「無記」の性質なのでしょうか?
これには、無記の種子は再生力が弱いので、善悪の性質を帯びた業種子の力(増上縁)を得て、来世に阿頼耶識を生ずると考えられております。
すなわち「善因楽果・悪因苦果」へ由来するのです。
南伝 増支部経典3,60
漢訳 中阿含経143
かようにわたしは聞いた。
ある時、世尊は、サーヴァッテー(舎衛城)のジェータ(祗陀)林なるアナータビンディカ(給孤独)の園にましました。
その時、サンガーラヴァ(傷歌邏)なる✽婆羅門の若者は、午後のそろぞ歩きに、世尊のいますところに到り、到るとたがいに挨拶をかわして、その傍らに座した。
傍らに座したサンガーラヴァなる婆羅門の若者は、世尊に申しあげた。
◯「友ゴータマ(瞿曇)よ、わたしはお訊ねしたいことがございます。お許しがあれば申しあげたいと思います」
「婆羅門の若者よ、もし疑いがあるならば、遠慮なく問うがよろしい」
そこでサンガーラヴァなる婆羅門の若者は問うていった。
「友ゴータマよ、われらは婆羅門でありまして、みずから供犠(くぎ)をいとなみ、また他のひとびとをして供犠をいとなましめます。
友ゴータマよ、そのように、みずから供犠をいとなみ、また他の人々をして供犠をいとなましめることは、それはすなわち多くの人々のための福(さいわ)いを修することであります。
それが供犠というものであります。しかるに、友ゴータマよ、あなたの弟子たちは、鬚髪を剃りおとし、僧衣をまとい、良家より出家して家なきものとなり、自己一人を調御し、自己一人を安らげ、自己一人の苦愁を滅するという。
かくのごとくなれば、出家の道はすなわち一人のための福いの道でございましょう」
婆羅門よ、そなたは、このことをいかに思うか。この世に如来・応供・正等覚者・明行足・善逝・世間解・無上師・調御丈夫・天人師・仏・世尊があらわれ、彼はかくのごとく説く。いわく、
【 これが道である。これが✽実践である。
わたしは、この道をゆき、この実践をおさめて、無上の梵行の消息を、みずから知り、証し、そして説いていう。
≪ 来れ、汝らもまたこのように修行せよ!!
汝らもまた修行して、無上の梵行の消息を、みずから知り、証し、
その身に具するがよい、と ≫
そのように、この師が法を説き、そして、他の人々もおなじように修行し、それらが数百、数千、数万にいたるならば、婆羅門よ、そなたはこれをいかに思うであろうか?!
以上のごとくである時にも、なお、出家の道は一人のための福いの道であろうか。
それとも、多くの人々のための福いの道であろうか」
◯「友ゴータマよ、そのようであるとするならば、出家の道は、多くの人々のための福いの道であります」
つまり『無』。
しかしお釈迦様は『無』から覚めるとまた苦しみは変わらない。
これは俺のネライじゃないと。
そしてアーラーラ・カーラーマの元をさった。
だから、禅はお釈迦様も辿った道であると。
ね?
> つまり『無』。
> しかしお釈迦様は『無』から覚めるとまた苦しみは変わらない。
> これは俺のネライじゃないと。
> そしてアーラーラ・カーラーマの元をさった。
> だから、禅はお釈迦様も辿った道であると。
> ね?
www
そうなんだw
いや、「無」とは云わないか、「絶対無」だな。
つまり、アーラーラ・カーラーマさんの説かれている「無所有処(無の境地)」と、禅の説く「絶対無」は別物なんですけどね。
そこを勘違いして
> 禅はお釈迦様が苦行時代にアーラーラ・カーラーマのもとで修行し達成した境地。
> つまり『無』。
とか🤭
まぁ、所詮はトーシローの要らぬ勘繰りですね😊
すみません🙇
上記の禅宗に対する批判的な評価もそうでありましょう。
しかしもし、その批判的な評価に対して、これまた体験や知識の欠如した禅宗の方が反論すれば、それこそ目隠しをしたまま棍棒をぶん回して殴り合う様な悲惨な状況になるでしょう。
ここは冷静に落ち着いて、仏教のスタンダードな見解に基づいて応対がありたいものですね。
トーシローの、それこそ目隠しをしたまま棍棒をぶん回して殴り合う様な悲惨な論争など、御免被りたいですね。
相手にしないのが良いでしょう。
そもそも最初からスタンダードなそれと合致しようがないのですからね。
しかし、排除はしない。
これが唯一互いに共存出来る方法だって思うんです。
良いですか、悟りじゃないよ。
解脱だよ。
解脱のプロセスは前に仏典を示しましたが
「悦・喜・軽安・楽・サマディ・如実知見・厭離・離貪・解脱」の順でやってきます。
これを禅定(八正道の正念と正定ね)を中心の視点で見たら
第一静慮・・・尋伺(普通の思考)を伴う悦・喜・楽(クンダリーニの本覚醒で起きる状態)
第二静慮・・・無尋無伺の喜と楽
第三静慮・・・喜が止み楽のみ
第四静慮・・・不苦不楽 これが正サマディ
色界の禅定(R?pajjh?na,四禅)は以下の4段階がある。
初禅 - 諸欲・諸不善(すなわち欲界)を離れ、尋伺を伴いながらも、離による喜・楽と共にある状態。『中部』が伝えるところによれば、釈迦は、自身がまだ在家の王子であった頃、すでにこの境地を楽しんでいたという[10][11]。
第二禅 -尋伺が止み、内清浄による喜・楽と共にある状態。
第三禅 - 喜を捨し、正念・正見を得ながら、楽と共にある状態。
第四禅 - 楽が止み、不苦不楽の受のみがある状態。
wikipedia「禅定」
これは実は
本覚醒した【クンダリーニ】が
【サハスラーラに到達した】
時の状態です!
by ホワイト・ターラー
ーーー
そうかな?よー分からんけど
お母さんを食べた女性。
完全な統合失調状態です。
●【心の浄化】をかなおざりにしたまま】
【潜在意識にアプローチする】のはこの様に危ないです。
これは最悪のケースね
by ホワイト・ターラー
https://i.imgur.com/Xa8e6Ro.jpeg
81と82重要
ーーー
最終的に性欲の克服が最大の関門
だから
【持戒と功徳】【懺悔で浄化】を試み
【善性を優位】にしないと
【潜在意識】や【更に深い意識】に入った時に
≪欲望に翻弄されてしまう≫ということです。
by ホワイト・ターラー
「修行者諸君」
「世尊よ」
「君たちは
【サマディを修習しなさい。】
サマディを修習した修行者は、如実に認識し、理解するのである。
何を【如実に認識】し
【理解する】のであろうか?
それは
◯ これは苦であると如実に認識し理解するのである
(一切が無常であるということ)
◯ これは苦の原因であると如実に認識し理解するのである
(無明が無常を見えない様にすること)
◯ これは苦の滅尽であると如実に認識し理解するのである
(無明を破壊するということ)
◯ これは苦の滅尽に至る方法論であると如実に認識し理解するのである(八正道)
● 従って、君たちは
≪サマディを修習すべきである!≫
ーーー
【四聖諦】を得るぞと言っているの。
だから
仏教の、【解脱した】と言うのなら
≪【四聖諦の体験】が起こるはずなの≫
by ホワイト・ターラー
見道(=見性)の初刹那に無漏智が生じるのですが、その因は本有の無漏種子で、第二刹那にその本有の無漏種子から生じた無漏智に依って、新熏の無漏種子が生じると云うんです。
そして、その無漏智の作用に依って有漏(=煩悩)の作用が止滅しあるいは抑制されるわけです。
だだし、無漏の種子には「下品・中品・上品」の三種類あり、それぞれ
見道~下品の無漏種子・・・妙観察智と平等証智に作用
修道~中品の無漏種子・・・同上
佛位~上品の無漏種子・・・大円鏡智、平等証智、妙観察智、成所作智の全てに作用
するようです。
上中下については・・・そうですね、密・細・粗ってイメージされるといいと思います。
密になるほど抑制や止滅効果があるということです。
ヨガでは【識別智】と言いますね
煩悩の心と本心を、明確に識別する智慧のことだと思います
● 結局、その原因は、恵文禅師の解釈に遡るのでしょうが、
◯ 元々は『中論』の鳩摩羅什の翻訳とサンスクリット原典の違いに起因する訳です。
● サンスクリット原典では「非有非無=中道(空)」なのですが、
◯ 鳩摩羅什の翻訳ではそうとも取れる一方、「非有非空=中道」とも取れるのです。
● ここに龍樹の原意との相違が生じたというのか通説です。
● 龍樹【非有非無】=中道(空)
◯ 天台【非有非空】=中道
という事です。
サンカルパヨガ・ファウンデーション
https://m.youtube.com/@sankalpayoga.foundation
●「真のヨガと真のサマーディ」スワミ・アディティヤナンダ・ギリ・ジ師登壇~いのちの祭り2024
◯Vol.1~
ヨガとは何か?
https://m.youtube.com/watch?v=10hFk5Upxm0
◯Vol.2~
サマーディーとは?エンライトメントは第一サマーディー
https://m.youtube.com/watch?v=kucJLBjyJkk
◯Vol.3~
アシュタンガ・ヨガ(ヨガ8支則)とクリヤヨガ(呼吸制御)は、どの聖者が創始されたのか?
https://m.youtube.com/watch?v=HfTYFDSpppE
Vol.4~
光が第三の眼から入って、チャクラを上下に貫いて、サハスラーラから抜けた
エンライトメントは光の体験のもっともっと先、エンライトメントが第一サマディーで、お釈迦様のニルバーナは、その先の先の先の第四サマディー!
ブラックホールとホワイトホールはサマーディーで体験する
天文科学では、ブラックホールは発見出来ても、ホワイトホールは発見出来ない、微細身になって行くことで見ることが出来る(純粋観照者として)
https://m.youtube.com/watch?v=Hh7ZKo5fm5U
Vol.5~
私(スワミ・アディティヤナンダ・ギリジ)は実証主義なので、実際に無心で、何れだけ座れるか?が重要
スワミジがエナジーチューニング出来る、アバターフィールドでは、瞑想初心者でも、野まず食わず寝ないで57時間の連続瞑想を出来る
また一番弟子は連続100時間座った
https://m.youtube.com/watch?v=wnZwxZMFKNw
Vol.6~
イベント時、大きな台風が来ても、祈るとそれる、それは何回もある
パイロット・ババジに初めて会った時、貴方は公開サマディーの準備が出来ているからやりなさい!と言われたが、その時サマディーという言葉すら知らなかった
https://m.youtube.com/watch?v=KZHL8ZIAafk
【ノーマインド】の状態があなたのサマーディです
心はあなたの集中力であり、心は偉大な文明、科学、知識のためのあなたの創造性です
心はあなたの正義、あなたの精神性でもあり、すべてからの自由につながります
心はこの世界に生きるためにエゴを作りました。これは
【アビマナ(プライド、人格のエゴ)】と呼ばれ
心は内なる心、自尊心
【スワビマナ(精神の自我)】になります
学び、実践する必要があるのは、心を ノーマインドの状態にする方法だけです
● 外側の心を内側に変換する方法、そうすれば
【肉体サマーディ】と呼ばれるサマーディ意識に到達することができますそれには
【総地球体サマーディ】と【エーテル体サマーディ】の 2 種類があります、この先には
【アストラル体サマーディ】があり、これも【霊体と風体】の 2 つの体で構成されています
【 霊体は火の体】です。 ピュア・ラブのように、または、【執着と欲望の心】となった【耽溺の愛】として
そして【純粋な愛】は【自由と分離】になりました
◯ 最初の【4つのチャクラ】に接続された、これら【4つの体】はすべて
【互いに接続して通信】します、それらには変化があり【低意識から高次】へ、またはその逆の【意識の移行】があります
これが【変換が行われる方法】です。
マハヨギ・パイロット・ババジ
相応の悪霊が憑依しています!
相応の悪霊が憑依しています!
相応の悪霊が憑依しています!
悪意は悪魔からです!
悪意は悪魔からです!
悪意は悪魔からです!
気を付けて覚醒を願います‼️
ーーー
特に
如来である聖者を誹謗した罪は重く
ダイバダッタのように
無限劫を逆上ってから修行をし直さないと
無限劫を逆上ってから修行をし直さないと
無限劫を逆上ってから修行をし直さないと
絶対に悟れないとされています!
絶対に悟れないとされています!
絶対に悟れないとされています!
皮肉もそうです!
御注意され、覚醒してください‼️
ーーー
御注意ください‼️
御注意ください‼️
御注意ください‼️
何であるのか?
これが今日、ようやく👍判ったぞ~😆
ところが天地創造の記述が終わる第三章では人間は神の掟に背くという罪過を犯して主なる神から出責と呪いの言葉を受け、楽園から追放されてしまう。
(中略)
このような人間の堕落と生活環境の悪化の根元であるとされたのが、人祖アダムの罪〜それは悪魔の巧妙な誘惑があったとはいえ、神の掟に背いて「善悪を知るものとなる」木の実を食べて「神のように」なろうとした彼の自由意思による罪であった〜の結果としてアダムの裔の全体、すなわちアダムの後、生殖によって生まれてくるすべての子孫・全人類が蒙ることになった自然本性の病い、ないし罪としての「原罪」(peccatum originale)である。
(『カトリック入門: 日本文化からのアプローチ』稲垣 良典)
スレ主逃走の為、このスレは終了。
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