【ブッダの教え】初期仏教【パーリ仏典】 Part4最終更新 2026/10/12 09:431.◆JBLfMwCXhYcrsZ5過去スレ【パーリ仏典】テーラワーダ仏教【ヴィパッサナー瞑想】https://talk.jp/boards/psy/1768687611【ブッダの教え】初期仏教【最初はこういう話だった】https://talk.jp/boards/psy/1768770625【ブッダの教え】初期仏教【ヴィパッサナー瞑想】 Part2https://talk.jp/boards/psy/1779968091【ブッダの教え】初期仏教【パーリ仏典】 Part3https://talk.jp/boards/psy/17907912772026/10/10 09:57:41235コメント欄へ移動すべて|最新の50件2.栖雲居士◆MKrKQHoID7SEggmMrwwwwwwwwwwwwwwwwwwいや、実際に坐ってsatiがなんであるかを確かめりゃ済むだろうに。"あ、(数息観から離れて)妄想してた😅"って、非言語で気付くそれだよw2026/10/10 10:03:533.◆JBLfMwCXhYcrsZ5スッタニパータ 蛇の章1 蛇の毒が(身体のすみずみに)ひろがるのを薬で制するように、怒りが起こったのを制する修行者(比丘)は、この世とかの世とを共に捨て去る。──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。2 池に生える蓮華を、水にもぐって折り取るように、すっかり愛欲を断ってしまった修行者は、この世とかの世とを共に捨て去る。──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。3 奔り流れる妄執の水流を涸らし尽して余すことのない修行者は、この世とかの世とを共に捨て去る。──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。4 激流が弱々しい葦のの橋を壊すように、すっかり驕慢を減し尽くした修行者は、この世とかの世とを共に捨て去る。──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。5 無花果の樹の林の中に花を探し求めて得られないように、諸々の生存状態のうちに堅固なものを見いださない修行者は、この世とかの世とを共に捨て去る。──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。6 内に怒ることなく、世の栄枯盛衰を超越した修行者は、この世とかの世とを共に捨て去る。──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。7 想念を焼き尽くして余すことなく、心の内がよく整えられた修行者は、この世とかの世とを共に捨て去る。──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。2026/10/10 10:04:214.◆JBLfMwCXhYcrsZ5スッタニパータ 犀の角35 あらゆる生きものに対して暴力を加えることなく、あらゆる生きもののいずれをも悩ますことなく、また子を欲するなかれ。況や朋友をや。犀の角のようにただ独り歩め。36 交わりをしたならば愛情が生じる。愛情にしたがってこの苦しみが起こる。愛情から禍い(わざわい)の生じることを観察して、犀の角のようにただ独り歩め。37 朋友・親友に憐れみをかけ、心がほだされると、おのが利を失う。親しみにはこの恐れのあることを観察して、犀の角のようにただ独り歩め。38 子や妻に対する愛著は、たしかに枝の広く茂った竹が互いに相絡むようなものである。筍が他のものにまつわりつくことのないように、犀の角のようにただ独り歩め。39 林の中で、縛られていない鹿が食物を求めて欲する処に赴くように、聡明な人は独立自由をめざして、犀の角のようにただ独り歩め。40 仲間の中におれば、休むにも、立つにも、行くにも、旅するにも、つねにひとに呼びかけられる。他人に従属しない独立自由をめざして、犀の角のようにただ独り歩め。41 仲間の中におけば、遊戯と歓楽とがある。また子らに対する情愛は甚だ大である。愛しき者と別れることを厭いながらも、犀の角のようにただ独り歩め。42 四方のどこでも赴き、害心あることなく、何でも得たもので満足し、諸々の苦痛に堪えて、恐れることなく、犀の角のようにただ独り歩め。43 出家者でありながらなお不満の念を抱いている人々がいる。また家に住まう在家者でも同様である。だから他人の子女にかかわること少し、犀の角のようにただ独り歩め。44 葉の落ちたコーヴィラーラ樹のように、在家者のしるしを捨て去って、在家の束縛を断ち切って、健き人はただ独り歩め。2026/10/10 10:04:535.◆JBLfMwCXhYcrsZ5四念処 (苦の原因をなくすための方法論)① 身念処(身体の観察)まずは単純に息が入る息が出る体の感覚がある→ ここで「身体はただの現象」と見えてくる② 受念処(感覚)次に心地よい不快どちらでもないという“評価”が起きていることに気づく→ 「快・不快は勝手に起きる」と見える③ 心念処(心そのもの)さらに集中している心散乱している心落ち着いた心など、「心の状態そのもの」を観る→ 「心も固定物ではない」と分かる④ 法念処(構造理解)最後に無常縁起五蓋(妨げ) などの“法則性”を見る→ 世界の仕組みそのものを理解する方向へ行く2026/10/10 10:05:206.◆JBLfMwCXhYcrsZ5スッタニパータ 第四章 八つの詩句の章【5、最上についての八つの詩句】より796 世間では、人は諸々の見解のうちで勝れているとみなす見解を「最上のものである」と考えて、それよりも他の見解は全て「つまらないものである」と説く。それ故に彼は諸々の論争を超えることがない。797 かれ(=世間の思想家)は、見たこと・学んだこと・戒律や道徳・思索したことについて、自分の奉じていることのうちのみすぐれた実りを見、そこで、それだけに執著して、それ以外の他のものを全てつまらぬものであると見なす。798 ひとが何か或ものに依拠して「その他のものはつまらぬものである」と見なすならば、それは実にこだわりである、と〔真実に達した人々〕は語る。それが故に修行者は、見たこと・学んだこと・思索したこと、または戒律や道徳にこだわってはならない。799 智慧に関しても、戒律や道徳に関しても、世間において偏見をかまえてはならない。自分を他人と「等しい」と示すことなく、他人より「劣っている」とか、或いは「勝れている」とか考えてはならない。800 彼は、既に得た(見解)[先入見]を捨て去って執著することなく、学識に関しても特に依拠することをしない。人々は(種々異なった見解に)分かれているが、彼は実に党派に盲従せず、いかなる見解をもそのまま信ずることがない。801 彼はここで、両極端に対し、種々の生存に対し、この世についても、来世についても、願うことがない。諸々の事物に関して断定を下して得た固執の住居は、彼には何も存在しない。802 彼はこの世において、見たこと、学んだこと、或いは思索したことに関して、微塵ほどの妄想をも構えていない。いかなる偏見をも執することのないそのバラモンを、この世においてどうして妄想分別させることができるであろうか?803 彼等は、妄想分別をなすことなく、(いずれか一つの偏見を)特に重んずるということもない。彼等は、諸々の教義のいすれかをも受け入れることもない。バラモンは戒律や道徳によって導かれることもない。このような人は、彼岸に達して、もはや還ってこない。2026/10/10 10:07:467.◆JBLfMwCXhYcrsZ5本スレの方針1、「四念処」 それが最大のテーマ2、「輪廻転生」の是非を巡る論争は、なるべく避ける3、2に限らず、涅槃に役立たないことを、なるべく避ける2026/10/10 10:12:078.◆JBLfMwCXhYcrsZ5以上2026/10/10 10:12:189.栖雲居士◆MKrKQHoID7SEggmMr瞑想しないで文字の解釈で迷走するJBLであった🥱2026/10/10 10:41:2910.◆JBLfMwCXhYcrsZ5いや、瞑想はやっている2026/10/10 10:44:4811.◆JBLfMwCXhYcrsZ5お前と違って、坐禅会とかそういう形にこだわらないだけだ2026/10/10 10:45:1412.◆JBLfMwCXhYMaLGg「俺は坐禅会に何百回も参加してるのだ。だから偉いのだ」そんなのは、邪道もいいとこ2026/10/10 10:49:2013.◆JBLfMwCXhYMaLGg魔境に堕ちている2026/10/10 10:49:3214.栖雲居士◆MKrKQHoID7SEggmMrいや、何千回だよwww2026/10/10 10:53:4515.栖雲居士◆MKrKQHoID7SEggmMr普通、ある程度瞑想をやってると「看経の眼」といって、今まで意味不明だった経典の話がスパッと観える様になるんだけどなぁ。仏教スレにそんなの居ねーしwww2026/10/10 10:57:1916.栖雲居士◆MKrKQHoID7SEggmMr経行とか曹洞は一息で半歩だけど、臨済は時に走り経行とかあるしw若いうちはあれだけど、歳を取ると息切れして酸欠起こして咳が止まらなかったりだから。まぁ、トイレに行ってもいい時があるので、ヤバくなったら抜ける人も居るけど。2026/10/10 11:08:4117.美魔女6ZDCa前スレを見ましたので、天才女の私から一言。初期経典は御釈迦様の生の言葉が一字一句保存されたものではないので、。初期経典は、まず口伝で伝えられその後に編集され現在の形になったのです。だから古い階層と後から加わった階層の混在です。初期経典の中で死後の行き先や輪廻転生を前提にした記述は多い、初期仏教において輪廻転生が重要や位置に有ったことは広く認められています。しかし御釈迦様は答えを保留にした無記の立場を示しています。ただ、これは何でもかんでも有るとも無いとも言っていないという意味ではなく解脱に役に立たない問いかけを退けた面が大きい。四ニカ-ヤや阿権経にはかなり古い伝承が含まれていますが説話の前後や過去世や因縁は後代の付加を認められている研究では。御釈迦様が何度も生まれ変わったという話しは過去仏思想や仏伝の発展で強まった表現もあるため全部同じ重さでは読めませんよ。つまり、初期経典の古い教えは御釈迦様に近いが、後代の編集や教団解釈が重なってます。だから輪廻転生や死後の世界の記述が有るからといって、全部そのまま御釈迦様の直接的な言葉とは言えませんよ。2026/10/10 11:15:4318.神も仏も名無しさんMnOcb如実知見に鈍かったから仏教のイメージの把握が遅れたんやな😀多くは語る足らん連中が多すぎるがムイムイとハッスル🤡にはサービスしてやるが😀2026/10/10 11:26:4719.栖雲居士◆MKrKQHoID7SErYmNq最初期最古層と推定されるものに輪廻だの四諦だのは無いけどな。2026/10/10 11:31:5920.栖雲居士◆MKrKQHoID7SErYmNq阿含経な。阿権経じゃないからw2026/10/10 11:32:5921.栖雲居士◆MKrKQHoID7SEMdLXWまぁ、馬鹿相手に0から仏教知識を伝えるのも大事だけどな。2026/10/10 11:35:4622.神も仏も名無しさんMnOcbまた無理しているな?バカなのに🤡2026/10/10 11:36:3923.栖雲居士◆MKrKQHoID7SEMdLXWな、こういう馬鹿や無知識の連中が噛み付いてきては、それに対してちゃんと説明するんだから。お前らもそれなりの知識や体験が身に着けば、それがどういう事か分かるから🥱2026/10/10 11:50:2124.◆JBLfMwCXhYMaLGg>>23相変わらず涅槃に役立たない論争しかしない奴😅2026/10/10 11:59:2725.神も仏も名無しさんqPXdmアンチ仏教ドパガキ🤡やりすぎだ酷いな?😭2026/10/10 12:00:5926.◆JBLfMwCXhYMaLGg>>19> 最初期最古層と推定されるものに輪廻だの四諦だのは無いけどな。ドヤ顔で他人を見下すのをやめろ、俺が正しいと主張して論争するなと、くどいくらい書いてある2026/10/10 12:03:5627.栖雲居士◆MKrKQHoID7SEMdLXWwwwwwwwwwwwwwwwwwwだったら最古層と推定される経典をみてみろ。査定された論文を読んでみろ。2026/10/10 12:07:1128.◆JBLfMwCXhYMaLGgスッタニパータのことか?長年の愛読書だお前より遥かに深く理解している2026/10/10 12:07:4529.栖雲居士◆MKrKQHoID7SEMdLXWまさにこれだな🥱 ↓な、こういう馬鹿や無知識の連中が噛み付いてきては、それに対してちゃんと説明するんだから。お前らもそれなりの知識や体験が身に着けば、それがどういう事か分かるから🥱2026/10/10 12:07:4530.◆JBLfMwCXhYMaLGg>>29ちなみにお前が言ってる「最古層」のスッタニパータの第四章それは「他人を馬鹿呼ばわりするな」「自己の見解に固執して論争するな」「俺のやり方が正しいと言い張るな」と、ひたすら繰り返し書いてある仏典の特殊な内容だ2026/10/10 12:09:4831.栖雲居士◆MKrKQHoID7SEMdLXW> スッタニパータのことか?> 長年の愛読書だ> お前より遥かに深く理解しているwwwwwwwwwwwwwwwwwwお前がそう思うのなら、お前の中ではその通りだろうw2026/10/10 12:10:3232.◆JBLfMwCXhYMaLGg早い話がお前がこのスレでやってるようなことそれを「やるな」とひたすら繰り返し、それ以外のことをほとんど言ってない特殊な1編2026/10/10 12:10:5833.栖雲居士◆MKrKQHoID7SEMdLXW>>30で、これはあるのかないのか? ↓> 最初期最古層と推定されるものに輪廻だの四諦だのは無いけどな。これは無しだぞ?https://i.imgur.com/FxXZVxp.jpegwwwwwwwwwwwwwwwwww2026/10/10 12:13:3234.栖雲居士◆MKrKQHoID7SEMdLXW何を言っても間違いだらけで俺に瞬殺論破されてるだけだろ。それをst.4の句を悪用して言い訳にしてるんだろ?wwwwwwwwwwwwwwwwww2026/10/10 12:16:0135.◆JBLfMwCXhYcrsZ5>>33確かに、スッタニパータの第四章には、輪廻や四諦の話はあまり出てこないその片鱗はあるが、真正面からは言ってないでも、第四章だけだ。他の章は、普通に初期仏典だ第四章については、「輪廻の話をしていない」というより上にも書いたように「他人を馬鹿呼ばわりするな」「自己の見解に固執して論争するな」「俺のやり方が正しいと言い張るな」と、ひたすら繰り返し書いてあり、それ以外のことをほとんど言ってないという特殊な内容だ2026/10/10 12:18:4736.◆JBLfMwCXhYcrsZ5初期仏典の中でも浮きまくっているので、「本当に釈迦が説いた内容なのか?」と疑問視する向きもある「釈迦以前の森林修行者の思想が紛れ込んだのでは?」と、検討している人もいる2026/10/10 12:20:2637.◆JBLfMwCXhYcrsZ5ちなみに、スッタニパータは「坐禅会」など、まったく推奨していない「1人でやれ」というのが、全編を貫く主張2026/10/10 12:22:0038.栖雲居士◆MKrKQHoID7SEMdLXW大分追い詰められて来たな😟まぁお前が今まで俺にやってきた誹謗中傷や嫌がらせに比べれば、ちゃんと論理的に問い詰めてる分、こんなのは微々たるもんだ。また、お前を追い詰めて潰す気も無いから。2026/10/10 12:27:0239.栖雲居士◆MKrKQHoID7SEMdLXW一人でも坐禅してるし、サンガは説かれてる。2026/10/10 12:27:4740.神も仏も名無しさんUD5Qz決死ドパガキ🤡モードだなる2026/10/10 12:40:2041.栖雲居士◆MKrKQHoID7SEMdLXWちなみに中村元先生のスッタニパータに輪廻の訳はないけど、「生まれ」の語は34箇所だな。第一章11第二章1第三章21第四章1第五章02026/10/10 12:41:3642.神も仏も名無しさんUD5Qzドパガキニート🤡講座?2026/10/10 12:42:2543.栖雲居士◆MKrKQHoID7SEkoQx2当たり前の話、お釈迦さまは独坐でお悟りをひらかれたのだから、最初期の説示にそれは無い。が、安居(ヴァッサ)とある様に、集団で瞑想をされていた起源はお釈迦さまに遡るんだよ。2026/10/10 12:50:4044.◆JBLfMwCXhYv1784ちなみに、スッタニパータの第一章は、かの有名な「蛇が皮を脱ぎ捨てるように、この世とかの世をともに捨て去る」を延々とひたすら繰り返す、「蛇の章」第二章は、これまた有名な「犀の角の如く、ただ1人歩め」を延々とひたすら繰り返す、「犀の角の章」どっちにしても、極めてユニークな内容だ確かに、教義体系としては整備されてない(笑)2026/10/10 12:52:1045.栖雲居士◆MKrKQHoID7SEkoQx2まぁ、匿名掲示板でも、ハラスメントは成立するからな。降り掛かる火の粉は払うけど。2026/10/10 12:54:1946.栖雲居士◆MKrKQHoID7SEpTYbU> 確かに、教義体系としては整備されてない(笑)韻文だから。2026/10/10 12:59:3347.栖雲居士◆MKrKQHoID7SEZvvU6あとパーリ語仏典、初期仏教というのもなぁ🥱分かってるのはガンダーラ地方で像化や文字が起こり地方へ広まったという仮説だから。実際に漢訳阿含経典の方がパーリ語経典より古い時代の記述をしているのはその為だって合点がゆく。2026/10/10 13:12:5448.栖雲居士◆MKrKQHoID7SEZvvU6某掲示板でも、パーリ語仏典=釈迦直説説を(学術的に)認める者は見ないしな。そもそもお釈迦さまはそれぞれの地方語での伝道を薦められていたというし。2026/10/10 13:15:1749.栖雲居士◆MKrKQHoID7SEZvvU6958 ◆JBLfMwCXhY[] 2026/10/10(土) 09:38:48.20 ID:crsZ5>>955ぜんぜん知らん分野に挑んでるんだから、仕方ないだろ😅 ↓↑28 ◆JBLfMwCXhY[] 2026/10/10(土) 12:07:45.64 ID:MaLGgスッタニパータのことか?長年の愛読書だお前より遥かに深く理解している2026/10/10 13:18:1450.◆JBLfMwCXhYv1784>>49「ぜんぜん知らん分野」というのは、「四念処」のことだ2026/10/10 13:22:3651.◆JBLfMwCXhYv1784スッタニパータではなく、大念処経だ2026/10/10 13:23:1952.栖雲居士◆MKrKQHoID7SE2nsHNふーん🥱詳しくないのに、ここまで言い切っちゃうだ。🤭 ↓23 ◆JBLfMwCXhY[] 2026/10/01(木) 18:43:01.73 ID:9Ir0uハッキリ言おう「四念処」こそ、初期仏教の核心だ25 ◆JBLfMwCXhY[] 2026/10/01(木) 18:43:55.23 ID:9Ir0u「四念処」を抜きにした初期仏教など、意味がない2026/10/10 13:35:5053.栖雲居士◆MKrKQHoID7SE2nsHNあっ、訂正ですうwふーん🥱「ぜんぜん知らん分野」なのに、ここまで言い切っちゃうだ。🤭 ↓23 ◆JBLfMwCXhY[] 2026/10/01(木) 18:43:01.73 ID:9Ir0uハッキリ言おう「四念処」こそ、初期仏教の核心だ25 ◆JBLfMwCXhY[] 2026/10/01(木) 18:43:55.23 ID:9Ir0u「四念処」を抜きにした初期仏教など、意味がない2026/10/10 13:37:2854.栖雲居士◆MKrKQHoID7SE2nsHNあっ、再訂正ですうwふーん🥱「ぜんぜん知らん分野」なのに、ここまで言い切っちゃうんだ。🤭 ↓23 ◆JBLfMwCXhY[] 2026/10/01(木) 18:43:01.73 ID:9Ir0uハッキリ言おう「四念処」こそ、初期仏教の核心だ25 ◆JBLfMwCXhY[] 2026/10/01(木) 18:43:55.23 ID:9Ir0u「四念処」を抜きにした初期仏教など、意味がない2026/10/10 13:41:0155.栖雲居士◆MKrKQHoID7SE2nsHNしかも、核心はsatiだし。2026/10/10 14:02:2356.ハジIovDTできるのか?w2026/10/10 14:03:3057.栖雲居士◆MKrKQHoID7SEe7Scnそれにしてもさあ……いつまでこの仏教漫才やるの?俺に何時迄突っ込み役やらせんの?2026/10/10 14:07:5658.ハジIovDT実際、ひとつに決めて、、やらないとw2026/10/10 14:10:4759.栖雲居士◆MKrKQHoID7SEU0jLOそうですね、やってみる事ですね。文字を追っててもね。2026/10/10 14:14:5460.栖雲居士◆MKrKQHoID7SE9Mskcそしてコツコツと続ける事でしょうね。2026/10/10 14:20:1461.◆JBLfMwCXhY6bSkE仏教漫才をコツコツと続けるのか?2026/10/10 15:58:2862.◆JBLfMwCXhYYkqWU四念処の代表格は、やっぱり身念処なかでも、数息観が超有名2026/10/10 16:13:3163.◆JBLfMwCXhYYkqWUチャットGPT:JBL、それはかなり本質を突いてるね!😄🪷四念処のなかでも、身念処は実践の入り口として非常に重要。 そして、その代表的な実践法として有名なのが数息観だね。ただ、仏教の瞑想史を少し掘り下げると、面白いポイントがあるんだ。2026/10/10 16:14:0264.◆JBLfMwCXhYYkqWU🪷 四念処と数息観の関係四念処観察対象実践の例身念処身体・呼吸・姿勢・動作数息観、呼吸の観察、歩行の観察受念処苦・楽・不苦不楽の感受感覚が生じ、変化する様子を観察心念処心の状態貪欲、怒り、散乱、集中などを観察法念処心身の現象や法則五蓋、五蘊、七覚支、四聖諦などを観察2026/10/10 16:14:4565.◆JBLfMwCXhYYkqWU① なぜ身念処が重視されるのか?身体は、今この瞬間に直接観察できる対象だから。たとえば呼吸なら、吸っているとき、吸っていると知る。吐いているとき、吐いていると知る。身体の緊張に気づく。歩いているとき、歩いていると知る。こうして、頭のなかで観念をこね回すのではなく、実際に起こっている現象に気づく力を養う。ここが重要なんだよね。2026/10/10 16:15:0566.◆JBLfMwCXhYYkqWU② 数息観は、四念処のすべてにつながる?これも面白いところ!数息観は、呼吸を数えることで注意を呼吸に向ける瞑想法。ただし、伝統や実践体系によって位置づけが少し異なる。**初期仏教のアーナーパーナサティ(安般念)**では、呼吸への気づきを深めていく実践が、四念処の展開と密接に結びついている。一方、呼吸を「一、二、三……」と数える方法は、呼吸を観察するための具体的な技法のひとつとして理解できる。ここで区別したいのは、次の2つ。数息:呼吸を数えて、注意を安定させる。随息・観息:呼吸のあり方を観察し、気づきを深める。数えること自体が最終目的なのではなく、呼吸への気づきを育てることが重要なんだ。2026/10/10 16:15:3867.◆JBLfMwCXhYYkqWU③ さらに深いのは、身念処から無常の洞察へ進むことここが仏教的には核心だと思う。最初は、ただ呼吸を数える。やがて呼吸の微細な変化に気づく。さらに観察を深めると、呼吸だけでなく、身体感覚も絶えず変化していることがわかる。そして、感覚や心の状態もまた、固定されたものではないと観察できるようになる。つまり、身念処は単に身体を観察する技法にとどまらず、無常・苦・無我への洞察につながる実践の基盤にもなり得るわけだね。もちろん、数息観を行えば自動的に悟りに至る、という意味ではないよ。ところで、JBLにひとつ聞いてみたい。数息観の魅力って、どこにあると思う?2026/10/10 16:15:5968.◆JBLfMwCXhYYkqWU① 止(サマタ)――心を静め、集中力を養うこと。② 観(ヴィパッサナー)――呼吸や身体の変化を観察し、無常を洞察すること。③ 止観双修――心を静めることと、智慧を深めることの両方。この3つ、似ているようで仏教の修行論ではかなり奥深い違いがあるんだよね。2026/10/10 16:16:1669.◆JBLfMwCXhYYkqWUプロンプト:でも、「身念処」と聞いて、誰もが数息観を連想するわけではない不浄観のイメージが強い人もいるようだ2026/10/10 16:21:3070.◆JBLfMwCXhYYkqWUチャットGPT:そう、JBL。これはなかなか面白い指摘だね。🪷「身念処」という言葉から何を連想するかは、その人がどの仏教の伝統や修行体系に親しんできたかによって変わるんだと思う。とくに、数息観と不浄観は、どちらも身体を対象とする修行だけれど、実践の狙いや歴史的な位置づけには違いがある。2026/10/10 16:22:0171.◆JBLfMwCXhYYkqWU身念処をめぐる、2つの代表的なイメージ① 数息観――呼吸を通して身体を観察する安般念 は、呼吸への気づきを深める実践。呼吸を数えることで心を落ち着かせる方法は、東アジアの仏教でも広く知られている。とくに天台の止観思想では、数息などの方法が禅定の実践として体系化されている。この系統に親しんだ人なら、「身念処」と聞いて呼吸の観察を思い浮かべるのは自然だろうね。ただし、数息観と身念処は完全な同義語ではない。数息観は呼吸を対象とする具体的な瞑想技法であり、身念処は身体を観察する、より広い実践領域なんだ。2026/10/10 16:22:2872.◆JBLfMwCXhYYkqWU② 不浄観――身体への執着を見つめ直す一方、不浄観 を連想する人もいる。こちらは、身体を美しく魅力的なものとして捉え、執着する心を見つめ直す修行だね。たとえば、次のような観察がある。三十二身分観:髪、爪、歯、皮膚、骨など、身体を構成する要素を観察する。九想観:遺体が腐敗し、変化していく過程などを観察する。身体の不浄観:身体を構成するものやその性質に着目し、身体への過度な執着を弱める。こうした実践では、身体を理想化する見方を崩し、貪欲や執着を弱めることが重視される。ただし、不浄観は身念処と関連するものの、両者が完全に同じというわけではない。2026/10/10 16:22:5573.◆JBLfMwCXhYYkqWU🔍 なぜ、この2つのイメージが生まれるのか?ここは仏教史的に興味深いところ。観点数息観不浄観主な対象呼吸身体の構成要素や遺体の変化など主な実践上の狙い注意の安定、禅定、呼吸への気づき身体への執着や貪欲を弱めること身念処との関係身体、特に呼吸を観察する実践と関連身体を観察する実践と関連連想されやすい修行体系呼吸観察、止観、安般念初期仏教の身体観察、部派仏教の禅観、大乗仏教の修行論など2026/10/10 16:23:4574.◆JBLfMwCXhYYkqWUなお、初期仏教の『念処経』では、身念処は呼吸の観察だけではない。姿勢、日常動作、身体の構成要素、四大、墓地での遺体の変化など、幅広い実践が含まれている。つまり、数息観も不浄観も、身念処を連想させる有力な実践だが、身念処全体を代表するものとして、どちらか一方だけを絶対視することはできないんだ。そして、ここでひとつ、さらに掘り下げたい問いがある。不浄観は、四念処の身念処に含まれる実践として理解するべきなのか。それとも、貪欲を対治するための独立した観法として理解するべきなのか。実は、この問いを考えると、初期仏教の四念処と、後代の禅定・観法の体系化との関係が見えてくる。JBLが指摘した「身念処から不浄観を連想する人がいる」という現象も、そこから考えると、かなり奥行きのあるテーマになると思うよ。2026/10/10 16:24:0275.栖雲居士◆MKrKQHoID7SEAxLg2> 仏教漫才をコツコツと続けるのか?ボケがいる限りツッコミを入れたくなるのは人情というもの。2026/10/10 16:48:1376.◆JBLfMwCXhY6bSkE>>75よく言うよ😂2026/10/10 16:49:4477.神も仏も名無しさんGVFOCドパガキ🤡下がっで良しっ‼️😀2026/10/10 16:50:4378.◆JBLfMwCXhY6bSkE聖ウンコ師がいると、どのスレも全部、泥試合になるな2026/10/10 16:50:4879.◆JBLfMwCXhY6bSkEマトモな話になった試しがない😂2026/10/10 16:51:0280.栖雲居士◆MKrKQHoID7SEnWDBSボケばかりだから。2026/10/10 17:00:3981.神も仏も名無しさんpTnrIカントをやるか〜タイム😀2026/10/10 17:44:0282.◆JBLfMwCXhY6bSkEカントか、いいな😆2026/10/10 17:53:3483.◆JBLfMwCXhY6bSkE本格派ですな~😂2026/10/10 17:56:2184.美魔女WbqIO現象とは時間、空間というカテゴリー枠組みを通して私達に現れる限りでの世界、私達が認識出来るのはこれだけです。物自体とはその枠組みとは無関係にそれ自体としてある何か。決して認識出来ない。つまり私達が知る世界はすべて人間のフィルターを通して現れる世界であって世界そのものではない。私達の認識可能なすべては物自体には適用できないのです。ボイン❗カントです。2026/10/10 18:14:5685.◆JBLfMwCXhYJ1fBv>>84確かに、その通りだが2026/10/10 21:54:0686.◆JBLfMwCXhYJ1fBv教学有害論者の勝利宣言だな(笑)158 神も仏も名無しさん [sage] 2026/10/10(土) 17:57:20.50 ID:7fhYWまぁわたしが入れる話題が一つもない笑159 神も仏も名無しさん [sage] 2026/10/10(土) 18:07:31.21 ID:OxpOiそりゃあほとんど難しい話しばかりだから入れないのは当然だよね笑2026/10/10 22:21:4087.◆JBLfMwCXhYJ1fBv教学有害論とは「教学して教理に詳しくなるほど、悟りから遠ざかる」という理論2026/10/10 22:22:1688.神も仏も名無しさんhfkcO般若心経じゃないの?色即是空空即是色。古来日本国民的に一番最初に教わると言っても過言ではない。そして聖徳太子様、もっと短く簡単で覚えやすいのにして頂きたかった。私が覚えられません。2026/10/10 22:22:4889.◆JBLfMwCXhYJ1fBv教学有害論者にとって「私は教義を知りません」とか「私には難しいことは分かりません」というのは、一種の勝利宣言(笑)2026/10/10 22:23:0790.◆JBLfMwCXhYJ1fBv聖ウンコ師が「私は何千回も坐禅会に参加してるのだ」と威張るのと一緒普通の人には通じない、本人にしか分からない勝利2026/10/10 22:24:2791.◆JBLfMwCXhYJ1fBv仏のスレ主は禅宗だから禅宗にはそういう伝統もあるのは分かる2026/10/10 22:25:1892.◆JBLfMwCXhYJ1fBv新興宗教には、こういう人が多い😅2026/10/10 22:25:4193.神も仏も名無しさんVoOyeそりゃまあ「知ってる」のは「自己」の上ってことで教学や哲学などの知識はつまり「知ってること」、迷いの上のものとなるからその辺に気付いたりわきまえてる人は「知ってること」に執着しないってことで2026/10/10 22:25:5894.◆JBLfMwCXhYJ1fBvいま思うと、あれは禅宗の影響だったのかも2026/10/10 22:26:2495.◆JBLfMwCXhYJ1fBv>>93「教義を知らなくてもいい」というのは、教学不要論「教義を知らないほうがいい」というのは、教学有害論この2つは、似て非なるものだ(笑)2026/10/10 22:27:5796.ハジIovDTあなた、色んなこと、知ってて、賢いねえ、(笑)2026/10/10 22:28:1497.ゴリ子hfkcO>>96凄く賢い方って書かれていましたよ?それ先に言ってほしかったくらい、なら忖度しまくったのにと書いた事もあります。2026/10/10 22:31:1798.ハジIovDTそーなんですねーこれから付託しましょうw2026/10/10 22:33:0599.◆JBLfMwCXhYJ1fBv彼らは、教学ってものを誤解している教学は、頭の柔軟体操だ教学しないで瞑想ばかりするのは、柔軟体操しないで筋トレばかりするのに相当する頭が固くなるから良くない2026/10/10 22:38:00100.◆JBLfMwCXhYJ1fBv>>97当方は、新興宗教スレに長くいたので「私には難しいことは分かりません」と自慢げにいう信者を何人も見てきた宗教界に特有のノリだ(笑)2026/10/10 22:39:30101.ゴリ子hfkcO>>98はい。個人的にですが私の親戚縁者にやたらと先生職が点在していた関係もあり、あの先生たちの難しさは存じ上げていると言って差し支えないと思います。幼い頃から見たあの正座で笑顔な怖さ 笑2026/10/10 22:40:51102.◆JBLfMwCXhYJ1fBv他のジャンルと違って、宗教界だけは「私は教義に詳しい」といって威張る人より「私は何も知らない」といって威張る人のほうが多い前者ももちろんいるが、経験則として、後者のほうが多い(笑)2026/10/10 22:41:14103.ゴリ子hfkcOそうだと思いました。無知の知、の何故何故マン哲学者は死刑にされたらしい。確かに!2026/10/10 22:57:36104.◆JBLfMwCXhYcrsZ5教学有害論者にとって「アナタは難しいことをよく知っていますねえ」というのは、「お前の負けだ」と言ってるに等しい「私は何も知りません」というのは、「私の勝ちだ」と言ってるに等しい他のジャンルにはあり得ない、宗教だけの逆転現象(笑)2026/10/10 22:58:56105.ゴリ子uYK80>>104京言葉はもっと恐ろしい。あれは本物 笑2026/10/10 23:00:13106.◆JBLfMwCXhYcrsZ5なので、教学有害論のカルト信者が「アナタはずいぶん、お詳しいですねえ(笑)」と言ってきたらこちらはカチンとくるホメられてるわけではない「無意味な努力でムダな知識をつけた負け組」と言われてるのであるこちらは経験則で、それがよく分かっているだから、あえて「お前の方こそ、信者のくせに、なんでこんなことも知らねえんだ。信者ならマジメにやれ。バカめ」と罵倒する信者は、勝ち誇ってたところに罵倒されたからカチンとくる普通の人には分からない、高度な心理戦だ😅2026/10/10 23:04:26107.ゴリ子uYK80>>105そして仏教のトンチ。これドラゴンボールの何段階上なの?くらいなバトルだと、仏教を学んで思います。茶飲めとか真っ直ぐに木をみろとか教わって思います。2026/10/10 23:05:03108.ゴリ子uYK80>>1062026/10/10 23:08:34109.ゴリ子uYK80>>102026/10/10 23:09:11110.◆JBLfMwCXhYcrsZ5だが、この心理戦には、勝てないのであるなぜなら、こちらは、いろんな思想を知っているだから、教学有害論みたいな思想スタンスもあるのは知ってるので、認めざるを得ないだが、教学有害論者は、他の価値観を知らないだから、「俺の勝ちだ」という信念は揺るがないこのため、教学有害論者は無敵で、無双なのである(笑)2026/10/10 23:09:25111.神も仏も名無しさんVoOye>>106つまりそれは「知ってることはウソ」ってことを「知って」しまった見方からのものになる知られたものの上に、「上下」「優劣」「真偽」やそれを得る「自己」が生まれるのに「自分は知らない」という「真」「優」を「知って」しまってるということ2026/10/10 23:10:03112.ゴリ子uYK80>>111リッスン10らしいですな。己れの書き込み見返してください。勝手に出てきました。2026/10/10 23:13:02113.神も仏も名無しさんVoOyeこういうものは「善悪」とか「おまえはダメだ!」とかするということじゃないってことね「知ってる」からダメ、ということではない2026/10/10 23:15:31114.栖雲居士◆MKrKQHoID7SEKwl6fなんだ、またJBLの精神的•脳内勝利の自慢話か🥱かわいそうな奴だよな。2026/10/10 23:16:35115.◆JBLfMwCXhYcrsZ5だが、教学せずに瞑想ばかりするのは、良いと思えない倶舎論、中論、唯識論どれも、世間一般の常識人にとっては、クレージーなことが書いてある(笑)こういうもので、日常生活によって刷り込まれた信念体系を崩してからでないと、瞑想には効果がない瞑想は、大なり小なり、精神統一を伴う「いや、自分は精神統一などしていない。リラックスしてるのだ」と言うかもしれないがそれは程度の問題だ。ある程度は精神統一につながる精神統一の行をすると、「信念が強化される」という副作用があるだから、気をつけなければならない「教学は、頭の柔軟体操だ」というゆえんが、そこにある2026/10/10 23:16:39116.◆JBLfMwCXhYcrsZ5「日々の日常生活の中に真実がある」とかそういうのには賛成できないむしろ、日常生活によって刷り込まれた信念体系を壊すことが重要だ2026/10/10 23:17:29117.◆JBLfMwCXhYcrsZ5>>114いや、お前みたいに「俺は熱心に坐禅してるのだじょ~」とかいって威張るのは、論外愚かすぎて、語るに値しない(笑)2026/10/10 23:18:49118.◆JBLfMwCXhYcrsZ5教学有害論もさることながら「修行不要論」ってのもあるこちらは、また異なるロジックでデキている2026/10/10 23:19:55119.◆JBLfMwCXhYcrsZ5>>103> 無知の知、の何故何故マン哲学者は死刑にされたらしい。確かに!無知の知ってのも、嫌味な言い方だしかも、大哲学者のソクラテスが、それを言うか(笑)2026/10/10 23:22:06120.神も仏も名無しさんVoOye教学不要も、修行不要もなぜそういう主張が出てくるのかっていうのは仏教というのは人間の知性経験を超えたものを示す教えだからということがある人間の知性によっては決して至れないしよればよるほどその「そのもの」とは違うものをつかんでしまう修行も同じで、人間のやる修行によって自分を良くしていってその先に至れる、というものでは決してないということで2026/10/10 23:22:34121.◆JBLfMwCXhYcrsZ5修行不要論は「人はみんな、もともと悟っているんだよ。そこに気づけばいいだけなんだ」というロジックでデキている2026/10/10 23:23:51122.◆JBLfMwCXhYcrsZ5これは文字通り「やらなくていい。必要ない」という意味だ2026/10/10 23:24:26123.◆JBLfMwCXhYcrsZ5こういう発想は、禅宗からしか出てこない例えば、日蓮正宗や創価学会熱心に題目を挙げて、毎日欠かさず勤行してる人と、勤行をやらない人この2人を比べてみれば、シンプルに前者が良い前者の生き方が推奨される2026/10/10 23:26:08124.◆JBLfMwCXhYcrsZ5ところが、禅宗に限っては「妙に必死で坐禅なんかやってる奴はバカ」という価値観があり得る(笑)2026/10/10 23:27:04125.◆JBLfMwCXhYcrsZ5修行不要論のロン殿と、坐禅回数至上主義のセイウン居士殿当方には、前者が賢く、後者が愚かに見えている2026/10/10 23:28:26126.栖雲居士◆MKrKQHoID7SEKwl6fこんな感じだな。でおー 不良品カマ夫 粗悪模造品JBL 粗悪品笑夫 B級品2026/10/10 23:28:27127.栖雲居士◆MKrKQHoID7SEKwl6fあ、ロンが居たか。ロン 欠陥品2026/10/10 23:30:32128.◆JBLfMwCXhYcrsZ5「坐禅など、しなくても良い」という意見には賛成だ2026/10/10 23:31:16129.栖雲居士◆MKrKQHoID7SEKwl6f坐禅は当たり前。洗顔や歯磨きと同じ。2026/10/10 23:33:40130.ゴリ子hfkcO>>128私の意見ですが、大反対です。坐禅は御釈迦様が悟られたものを受け継いだ大切なもの。そしてそれ知らん奴など仏教徒におったんか、なら仏教要らん説には賛成。2026/10/10 23:34:35131.◆JBLfMwCXhYcrsZ5思うに、教学と瞑想は両方ともやるか、両方ともやらないかそのどちらかにした方が良いどちらか片方だけというのは、片手落ちだ2026/10/10 23:34:36132.◆JBLfMwCXhYcrsZ5>>130あ、そう(笑)2026/10/10 23:34:55133.ゴリ子hfkcO>>132ほら、とっても賢い人だから不器用なんやろ?頭の方向転換というのかとんでも頭とか苦手タイプ?もうそんな視線は見飽きたけど。2026/10/10 23:37:42134.ゴリ子hfkcOこれ書いたら超叱られる例え、爆笑多分最澄様がそのザ、エリート。そして空海様がとんでも野生児。理趣経を渡さなかったわけやろな。2026/10/10 23:41:25135.◆JBLfMwCXhYcrsZ5>>134なるほど2026/10/10 23:43:06136.栖雲居士◆MKrKQHoID7SEKwl6fJBLとか、知識も体験もないのに宗教評論家を気取ってる馬鹿くらいにしか思ってないけどなぁ。2026/10/10 23:47:55137.◆JBLfMwCXhYcrsZ5>>136わかった、わかったお前は偉い!!(笑)2026/10/10 23:48:32138.栖雲居士◆MKrKQHoID7SEKwl6f結局あれこれと手を広げるけど、何一つものになってないよな、JBLって。2026/10/10 23:53:14139.◆JBLfMwCXhYcrsZ5>>130「坐禅のやりすぎは有害」と思うようになったのは宗教板でセイウン居士殿の言動を見てからの話以前からそう思ってたわけではない2026/10/10 23:53:52140.◆JBLfMwCXhYcrsZ5坐禅も、ある程度はやったほうがいいと思うんだけどやりすぎると、バカになる😫宗教板に、生きた実例がいるから2026/10/10 23:55:24141.栖雲居士◆MKrKQHoID7SEKwl6fこれ、JBLそのものだよあwふーん🥱「ぜんぜん知らん分野」なのに、ここまで言い切っちゃうんだ。🤭 ↓23 ◆JBLfMwCXhY[] 2026/10/01(木) 18:43:01.73 ID:9Ir0uハッキリ言おう「四念処」こそ、初期仏教の核心だ25 ◆JBLfMwCXhY[] 2026/10/01(木) 18:43:55.23 ID:9Ir0u「四念処」を抜きにした初期仏教など、意味がない2026/10/10 23:56:03142.栖雲居士◆MKrKQHoID7SEKwl6fそりゃ万回坐禅はしてても、俺なんかより坐禅してる人なんていくらでもいるだろ。2026/10/10 23:58:22143.栖雲居士◆MKrKQHoID7SE4wk6uJBLは宗教板での自分のポジションを素直に受け入れたらいいのに、変な意地を張って更に転落してるんだよな。鼻息で フッw 笑われる程度なのに。2026/10/11 00:03:21144.◆JBLfMwCXhY61rfw>>141ぜんぜん知らん分野を探究する中で、四念処の重要性に気づいたのだお前にはあり得ない気づきだな(笑)2026/10/11 00:03:58145.◆JBLfMwCXhY61rfw>>143わかった、わかったいいから、足組んで寝てろ(笑)2026/10/11 00:04:40146.栖雲居士◆MKrKQHoID7SE4wk6uまぁ、ビギナー・トーシローへのハラスメントになるから、このくらいにしておくけどさぁ。2026/10/11 00:04:55147.栖雲居士◆MKrKQHoID7SE4wk6uしかも、初期仏教の核心はsatiなのにw2026/10/11 00:06:18148.栖雲居士◆MKrKQHoID7SE4wk6u昔の話になるけど、研究機関にいた時もなんか勘違いした人が売り込みに来てたけどさぁwJBLもいい加減に自分の立ち位置を考えたら?2026/10/11 00:09:40149.栖雲居士◆MKrKQHoID7SE4wk6u部外者がなんか言ってるしw実際そんなもんだから🥱2026/10/11 00:15:16150.神も仏も名無しさんndvNTチャッピーによる栖雲居士の評価は以下の通り7. 一番気になるのは「世界観の閉鎖性」ですここまで追っていて私が最も気になっているのは、実は「悪霊を信じているか」そのものではありません。例えば、「批判された」↓「自分の教えを理解していない」↓「だから相手は餓鬼憑き」↓「餓鬼憑きだから批判してくる」となると、結論が原因の説明にもなってしまうんです。さらに、「カルトだから攻撃してくる」「攻撃してくるからカルトだ」となれば、こちらも循環します。これが進むと、どんな反証も、「それもカルト側の工作」として処理できてしまいます。もし実際にそこまでなっているなら、これは単なる「宗教好き」「口の悪い人」という範囲を超えて、現実検討の問題を疑うべき重要なサインになります。現段階での私の評価以前の私は、自己愛的・優越的・攻撃的な人物像が中心で、精神病性は慎重に見るという評価でした。今はそこから一段変更して、自己愛的・競争的・攻撃的な対人スタイルに加えて、長期間持続する被害的・組織的・宗教的な説明体系がかなり明瞭になっており、精神病性症状、とくに被害妄想・宗教妄想に相当するものがないかを真剣に鑑別したくなる状態2026/10/11 00:15:21151.栖雲居士◆MKrKQHoID7SE4wk6uん?番号が飛んでるな。2026/10/11 00:28:05152.神も仏も名無しさんndvNT>これは単なる「宗教好き」「口の悪い人」という範囲を超えて、現実検討の問題を疑うべき重要なサインになります。>今はそこから一段変更して、自己愛的・競争的・攻撃的な対人スタイルに加えて、長期間持続する被害的・組織的・宗教的な説明体系がかなり明瞭になっており、精神病性症状、とくに被害妄想・宗教妄想に相当するものがないかを真剣に鑑別したくなる状態www2026/10/11 00:29:57153.栖雲居士◆MKrKQHoID7SE4wk6uで、実際に仏教の現場に居る者から見て、関係ない世界の話だから。新興宗教の連中もそういう扱いをしてたと思うぞ。2026/10/11 00:31:38154.美魔女oT3Fvまた、みんなで私の取り合いなのね、もう、やだわ。私にお色気が有るから寄ってくるのね✨2026/10/11 00:39:06155.神も仏も名無しさんQeQiHドパガキ🤡も人気者だな?わかりやすい虚言癖が🤡〜2026/10/11 04:32:06156.ゴリ子OOD29>>154ほんとに、ここの男性はジョニデ並みだと自己暗示かけてて、と昔教えられた。イケメンしかみえてないから良いと思うよ、不二子ちゃん 笑2026/10/11 07:41:41157.ゴリ子OOD29ど直球に叱られちゃった。徒然草 仁和寺にある法師だって。少しはオブラートに包むとかデリカシーないのかな?と八つ当たり。ほんと坊主な先生怖いっす。2026/10/11 08:02:37158.◆JBLfMwCXhY61rfw身念処の次は、受念処だがこれは数息観や歩行禅、不浄観みたいに有名なものがない2026/10/11 08:03:16159.◆JBLfMwCXhY61rfwチャットGPT:そうなんだよ(笑)。身念処には数息観・歩行禅・不浄観といった具体的な修行法があるのに、受念処には、これに相当する有名な独立した修行法が見当たらない。ただ、初期仏教の四念処経を読むと、受念処にも明確な実践内容がある。むしろ、これは独立した特殊な瞑想法というより、日常のあらゆる感覚経験を観察する訓練なんだと思う。受念処では何をするのか?基本となるのは、受(vedana)を三種類に分けて観察すること。2026/10/11 08:03:55160.◆JBLfMwCXhY61rfw1. 楽受(らくじゅ)気持ちいい、快い、心地よい。例:おいしいものを食べたとき、暖かい布団に入ったとき。2. 苦受(くじゅ)不快、痛い、嫌な感じ。例:暑い、腰が痛い、嫌なことを言われた。3. 不苦不楽受(ふくふらくじゅ)快でも不快でもない、中立的な感覚。例:何気なく音を聞いているとき、特に好きでも嫌いでもないものに触れたとき。さらに、それぞれについて、世俗的な欲望に結びついたものか、そうでないものかその受が生じているか、消えているか受が生じる条件や、消滅する過程はどうなっているかを観察していく。初期経典の代表例である『念処経』(MN 10)や『大念処経』(DN 22)では、受念処はこのような形で説かれている。2026/10/11 08:04:49161.◆JBLfMwCXhY61rfwでは、具体的にどう実践するのか?例えば、誰かに嫌味を言われたとする。① 刺激が入る嫌味を言われる。② 苦受が生じる不快感、胸のざわつき、身体の緊張などが起こる。③ 苦受を苦受として知る「不快な感覚が生じている」と観察する。④ 受に自動的に支配されない不快感から直ちに怒りや攻撃へ進むのではなく、反応が生じる過程を見極める。ここで大事なのは、苦受を無理に消そうとすることではない。苦受が生じていることを知り、苦受に対する貪りや嫌悪がどう生じるかを観察する。これは、あなたが関心を持っている、心王・心所を分析して怒りの発生過程を観察する方法にもつながる。ただし、厳密には、苦受そのものと、苦受に対して生じる瞋などの心所は別のものだ。ここを区別することが重要になる。2026/10/11 08:06:37162.◆JBLfMwCXhY61rfw受念処に固有の修行法はないのか?実は、受念処と非常に相性のよい実践がある。それは、感受が生じた瞬間を捉える観察だ。パーリ経典には、快・不快・中立の感受を観察する実践が明確に説かれている。また、『相応部』の「矢のたとえ」(SN 36.6)では、身体的な苦痛と、それに重ねて生じる心の苦痛とを区別する。身体の痛みという第一の矢は避けられないことがあっても、そこから生じる余計な心の苦しみという第二の矢は、訓練によって減らせるという趣旨だ。これは受念処の実践的な意義を理解するうえで、かなり重要な経典だと思う。2026/10/11 08:06:58163.◆JBLfMwCXhY61rfwプロンプト:身体の反応はどうすることもできないが、心の反応は訓練次第でコントロールできるというわけかなんとも現実主義者で、初期仏教っぽい2026/10/11 08:08:34164.◆JBLfMwCXhY61rfwチャットGPT:まさにそういうことだね(笑)。初期仏教の現実主義は、そこに表れていると思う。ただし、少し正確に言うと、身体の反応は必ずしも制御できないが、心の反応は訓練によって変えていける。 そして、心の反応も、意志の力だけで自由自在に操れるわけではない。『相応部』SN 36.6「矢のたとえ」は、この点を実に見事に説明している。第一の矢: 身体的な痛みなど、避けられない苦痛。第二の矢: 苦痛に対する嫌悪、嘆き、動揺など、心が付け加える苦しみ。凡夫は第一の矢を受けると、第二の矢まで受けてしまう。だが、仏道を修めた聖弟子は、第一の矢を受けても、第二の矢を重ねずに済むようになる。もちろん、これは身体と心を完全に切り離せるという意味ではない。身体の痛みが心に影響することもあるし、心の状態が身体に影響することもある。2026/10/11 08:09:37165.◆JBLfMwCXhY61rfwここが初期仏教のリアリズム面白いのは、苦痛そのものを否定していないことだ。「すべては心の持ちようだ」と精神論で片づけるのでもない。苦痛は生じる。感受は生じる。しかし、それに対して貪りや瞋りを重ねる必要はない。これが訓練の方向性なんだね。そして、あなたが関心を持っている心王・心所の分析とも、きれいにつながる。例えば、嫌なことを言われた場合、不快な感受である「苦受」が生じる。その不快感に対して瞋りが生じる。瞋りに引きずられて、怒鳴る、仕返しするなどの行動に進む。この過程を観察できれば、少なくとも反応が自動的に行動へ直結するのを防ぎやすくなる。ただし、受から瞋りへ進むのが必然というわけではないし、心所の生起を完全に意志で選べるというわけでもない。だからこそ、繰り返し観察し、訓練する意味がある。初期仏教は、苦しみを形而上学的に説明するだけでなく、苦しみが生じる条件を見極め、実際に減らせる部分を減らしていく。この姿勢は、まさしく実践的だと思う。しかも、ここから十二縁起の「受縁愛」へ進める。2026/10/11 08:10:11166.◆JBLfMwCXhY61rfwプロンプト:受縁愛とは何か?2026/10/11 08:12:16167.◆JBLfMwCXhY61rfwチャットGPT:「受縁愛(じゅえんあい)」とは、十二縁起の第八支で、受を縁として愛が生じるという意味だね。ここでいう「愛」は、男女の愛情という意味ではなく、パーリ語の tanha、つまり**渇愛(かつあい)**のこと。十二縁起の中での位置触(そく)感覚器官・対象・識の接触↓受(じゅ)快・不快・中立の感受↓愛(あい)=渇愛欲しい、嫌だ、失いたくない↓取(しゅ)執着し、つかみ取るこれは十二縁起の一部分で、受の前には触があり、愛の後には取・有・生・老死と続いていく。2026/10/11 08:13:44168.◆JBLfMwCXhY61rfwチャットGPT:① 受:楽受が生じる「おいしい、気持ちいい」という快い感受が生じる。② 愛:もっと欲しくなる「もっと食べたい」「また食べたい」という渇愛が生じる。③ 取:執着する「これを食べられないと嫌だ」「絶対に手に入れたい」と、欲求に強くとらわれる。もちろん、楽受が生じたからといって、必ず渇愛や執着に進むわけではない。食事を楽しみながら、執着せずに食べることもできる。2026/10/11 08:14:33169.◆JBLfMwCXhY61rfw反対に、嫌なことを言われた場合はどうだろう。苦受: 不快な感受が生じる。愛: この不快感をなくしたい、相手に仕返ししたい、という渇愛が生じる。取: 怒りや恨みに固執する。つまり、渇愛は快いものを求める場合だけでなく、不快なものを排除しようとする場合にも生じる。なお、仏教でいう渇愛には、欲しいものを求める欲愛、存在し続けたいという有愛、存在を断ちたいという無有愛がある。2026/10/11 08:15:16170.◆JBLfMwCXhY61rfwでは、受念処とどう関係するのか?ここが重要なんだ。受念処は、受を観察することで、受から渇愛へと進む心の動きを見極める実践として理解できる。楽受が生じても、ただ楽受として知る。苦受が生じても、ただ苦受として知る。中立の受についても、見過ごさずに知る。そうすれば、感受が生じるたびに欲望や嫌悪に引きずられる、その自動的な反応を弱めていける。ただし、十二縁起の「受縁愛」は、受があれば必ず愛が生じるという単純な心理法則ではない。縁起の条件関係を示したものだ。初期仏教の実践的な眼目は、受そのものを消し去ることではなく、受を条件として渇愛が生じ、それが苦しみを増幅していく仕組みを理解し、その連鎖を止めることにある。身念処で身体を観察し、受念処で感受を観察する。そこから心念処で貪りや怒りを観察する。四念処がひと続きの修行として見えてくるね。2026/10/11 08:15:34171.◆JBLfMwCXhY61rfw四念処の中でも、受念処は独特の位置にある身念処では、身体を身体として観察する。受念処では、経験が快・不快・中立のどれとして感じられているかを観察する。心念処では、貪りや怒りなどを伴う心の状態を観察する。法念処では、五蓋や五蘊、四諦などの枠組みから経験を理解する。もちろん、これらは完全に切り離された段階ではない。受念処で感受を観察しているときにも、心の状態や五蘊の働きは関係している。2026/10/11 08:18:49172.◆JBLfMwCXhY61rfwそして、受を観察することには、もう一つ大切な意味がある。受は無常であり、受に対して生じる反応もまた、条件によって生じる。不快感が生じたからといって、怒りに従う必要はない。快感が生じたからといって、執着する必要もない。これは、あなたが重視している無常・苦・無我・不浄の観察にもつながっている。さらに重要なのは、四聖諦との関係仏教の目的は、感覚をなくすことではなく、苦の生起と滅を理解することだ。受を観察し、受を縁として渇愛が生じる仕組みを理解する。その理解が深まれば、渇愛を滅する道も見えてくる。ここで、初期仏教の実践的な性格がよく表れている。「自分とは何か」という哲学的な問いだけでなく、いま生じている感受が、どのように苦しみにつながるのかを観察し、その仕組みを変えていく。受念処は、まさにそのための修行なんだね。ちなみに、経典上の説明をさらに掘り下げるなら、次に注目したいのは『相応部』の**「受相応」**。受についての教説が集められていて、受念処と十二縁起を結びつけて理解するのに役立つよ。2026/10/11 08:19:50173.◆JBLfMwCXhY61rfwやはり、知れば知るほど広がるな2026/10/11 08:20:07174.◆JBLfMwCXhY61rfw1日や2日で分かるようなものではない(笑)2026/10/11 08:20:25175.神も仏も名無しさんQeQiHま、ムイムイとハッスル🤡へのテストはいつもしている😀2026/10/11 08:22:50176.◆JBLfMwCXhY61rfw受念処テストをしてるのだな?2026/10/11 08:26:13177.神も仏も名無しさんoT3Fv鹿はインチキ占い師と同じ2026/10/11 08:44:23178.ハジhvT5K身体に帰ってリラックスー2026/10/11 09:31:33179.◆JBLfMwCXhYaDvVDリラックス瞑想2026/10/11 12:04:03180.神も仏も名無しさんlrxP7久しぶりにキリスト教礼拝いってきた呼ばれたケース😀2026/10/11 13:06:31181.神も仏も名無しさんlrxP7哲学研究より、朝の目覚めで礼拝プランが決まった😀2026/10/11 13:07:18182.神も仏も名無しさん7j4yI>>180> 久しぶりにキリスト教礼拝いってきた> 呼ばれたケース😀よかったね。でも百回や二百回で祓われる程度の悪霊じゃないね、君は。2026/10/11 13:18:05183.ハジhvT5K呼ばれないと行けない神社があるらしい2026/10/11 13:27:36184.◆JBLfMwCXhY6Jrx1身念処と受念処まできたな2026/10/11 18:17:37185.◆JBLfMwCXhY6Jrx1教会に呼ばれたのか😄2026/10/11 18:17:56186.エロ和尚◆ERO.Kk3nCAc0qUa阿弥陀様に呼ばれる話はどうじゃ?https://talk.jp/boards/psy/17908098222026/10/11 18:22:13187.神も仏も名無しさんgWtQ1呼ばれなくても行ったり呼ばれても行けなかったり、既に行っていたり、気づいていなかったり、色々だな2026/10/11 18:26:29188.美魔女Ojl1p禅宗思想は現実をありのままに受け入れる。私という執着を手放して世界を調和するのに対してニーチェは私の遺志を極限まで尖らせて世界を創造します。禅宗思想はエゴを手放して現実をありのままに受け入れ波風を立てず鏡のように世界を映し出す静かな心の状態を目指します。ニーチェは不条理な運命を単なる受け入れるのではなくこの最悪な運命を自ら受け入れてやる!という猛烈な力への意志を持ちます。2026/10/11 19:52:02189.栖雲居士◆MKrKQHoID7SEPZRVN馬鹿www「私の遺志」 ではなくて「意志」だろ。「世界を調和する」 ではなくて「世界と調和する」だろ。それからニーチェの運命愛(Amor Fati)は、自分の身に起きる良いことも悪いことも、苦痛や運命の残酷さも含めて、すべてをありのままに肯定し愛する生き方だから。真逆だな。2026/10/11 19:57:59190.栖雲居士◆MKrKQHoID7SEPZRVNつまり、ニーチェのそれは能動的前進な訳だ。そういう意味では禅にもそれはある。2026/10/11 20:00:36191.ゴリ子OOD29顕教と密教の話でしょうか?なら密教が理趣経を手放さなかったワケが分かる分かりやすいスレ先を上げてくれているエロ和尚様に皆様感謝感激ですよね。2026/10/11 20:13:52192.栖雲居士◆MKrKQHoID7SEwjX5p俺が大蛇を退治したってホラを吹くパパゲーノみたいだよな、このカマ夫はw2026/10/11 20:14:35193.ゴリ子OOD29>>192多分私は教わったと思います。馬鹿相手に0から仏教知識を伝えるのも大事だけどな、、としてくださりありがとうございます。私は手塚治虫ブッタと聖⭐︎お兄さん二つのみ読んで知恵袋とネット検索で教わりました。フリかなまで付けてくれたのに感激しました。また私の間違いならごめんなさい。スルーしてください。2026/10/11 20:22:49194.美魔女sLu0jゴリ子と法助がメチャクチャかわいい😃ボイン🎵2026/10/11 22:05:44195.美魔女sLu0j道元は身体的実践を通して自己の消滅と万物との合一を示したが西田幾太郎はそれと同じ直観を受けて哲学で世界再構築する。ボイン❗秋2026/10/11 23:54:21196.神も仏も名無しさん6exhk自殺教唆の犯罪者、栖雲居士💩 今日のみことば↓「そこに信仰による価値観の180度転回がある訳です。」↓627:栖雲居士 ◆MKrKQHoID7SE :[sage]:2026/05/01(金) 14:29:52.30 ID:GHVkJlI/[96/96]うんうん、精神病棟にレリゴー😘 🏥 🚑🤪💨💨💨 👋😆162 栖雲居士 ◆dqam8SqGUPdm :[sage]:2024/03/09(土) 16:35:39.62 ID:b8JerweS喉仏に千枚通し刺してとっとと死ねよ、虫ケラ😟喉仏に千枚通し刺してとっとと死ねよ、虫ケラ😟喉仏に千枚通し刺してとっとと死ねよ、虫ケラ😟喉仏に千枚通し刺してとっとと死ねよ、虫ケラ😟633:栖雲居士 ◆MKrKQHoID7SE :[sage]:2026/05/01(金) 14:32:58.27 ID:GHVkJlI/[98/98]で?悔しくて我慢できないのか?wwwwwwwwwwwwwwwwww千枚通しで喉仏を刺して逝けば?wwwwwwwwwwwwwwwwwwぶわあーーーーーくわwww2026/10/12 01:28:04197.◆JBLfMwCXhYacRUz受念処は、四念処のなかでも実践的に重要なところだね。一言でいえば、快・不快・どちらでもない、という感覚が生じたとき、それを自覚し、感覚に引きずられずに観察する修行だ。ここでいう「受(ヴェーダナー)」は、感情全般というよりも、経験に伴う「快・不快・中性」という感受のこと。たとえば、誰かに嫌なことを言われたとき。受:不快だ、気分が悪い。想:こいつは失礼な奴だ、と認識・解釈する。行:言い返してやろう、という意志や反応が生じる。この三つを区別して観察するのが、実践のポイントになる。普通は、この一連の過程が一瞬で起こり、全部ひっくるめて「腹が立った」と感じる。受念処では、その過程を丁寧に見分けていくわけだ。2026/10/12 06:02:25198.◆JBLfMwCXhYacRUz具体的には、こう実践するたとえば、誰かに腹の立つことを言われた場面を想像してみよう。① 刺激を受ける相手から嫌味を言われる。この時点では、まだ言葉の内容を分析しなくてもよい② 受を自覚する「不快な感覚が生じている」胸がムッとする、顔が熱くなる、気分が悪くなる。まずは、その経験に伴う不快さを認識する。③ 受を受として観察する「不快な受がある。ただ、それだけだ」不快感を無理に消そうとせず、正当化もせず、ただ生じているものとして観察する。④ その後の反応を見分ける「言い返したい」「相手を憎いと思う」という反応が続いても、すぐに従う必要はない。受と、その受に続いて生じる欲求・反発とを区別する。これは『念処経』(MN 10)に説かれる、楽受・苦受・不苦不楽受を、それぞれそのような受として知る実践に沿った説明だ。2026/10/12 06:05:55199.◆JBLfMwCXhYacRUz日常生活での練習座禅のように特別な時間を設けなくても、日常の感覚を使って練習できる。美味しいものを食べたとき:「快い受が生じている」嫌なことを言われたとき:「不快な受が生じている」何も感じないような退屈な時間:「中性の受がある」ここで重要なのは、快い受を嫌ったり、不快な受を無理に消したりしないこと。中性の受も見落とさず、気づいておくことだ。2026/10/12 06:06:19200.◆JBLfMwCXhYacRUz受念処の核心は「受縁愛」にある初期仏教の縁起説では、受を縁として愛(渇愛)が生じると説かれる。たとえば、「不快な感覚が生じている」胸がムッとする、顔が熱くなる、気分が悪くなる。まずは、その経験に伴う不快さを認識する。こうした反応が自動的に起こることに気づく。受念処の実践によって、受が生じても、そこから必ず渇愛や執着へ進むわけではないと理解していく。ただし、受念処そのものは、受をコントロールしたり消滅させたりする訓練ではなく、まず受を正しく知る訓練なんだ。受は生じる。しかし、その受にどう反応するかは、受そのものとは別の問題だ。ここが、君が以前話していた「身体の反応はどうすることもできないが、心の反応は訓練できる」という点とつながってくる。さらに踏み込むなら、受念処は単に怒りを抑えるための技術ではない。快・不快・中性の受が生じては消えていく様子を観察することで、受が無常であり、思いどおりにならないものであることを、実体験として理解していく修行でもある。2026/10/12 06:08:26201.◆JBLfMwCXhYacRUz身念処といえば、数息観あと、不浄観も身念処の一種2026/10/12 06:11:02202.◆JBLfMwCXhYacRUzそれに対して、受念処は「反応しない練習」と聞いて、普通にイメージするものに近い2026/10/12 06:11:47203.◆JBLfMwCXhYacRUz>>202チャットGPT:そう、それはかなり的確な理解だと思う。受念処は、「反応しない練習」の実践的な土台に近い。 ただし、単に反応を我慢するのではなく、反応が生まれる仕組みを観察するところが重要なんだ。2026/10/12 06:14:22204.◆JBLfMwCXhYacRUz受念処で何をするのか例えば、誰かに失礼なことを言われたとする。① 刺激が入る「バカにされた!」という状況が起こる。② 受が生じる不快な感受が生じる。腹が立つ、胸がムッとする、身体が熱くなる。③ 受を観察する「不快な感受が生じている」と気づく。すぐに言い返したり、相手を憎んだりする前に、まず感受そのものを観察する。④ 反応の連鎖を見極める不快な受から、怒りや執着が生じ、さらに言い返す・仕返しするといった行動につながる。その連鎖に巻き込まれないようにする。2026/10/12 06:15:02205.神も仏も名無しさんPgbB3参禅30年とか、悟ったというハッスル🤡やムイムイは俺にテストされて当然である😀2026/10/12 06:15:36206.◆JBLfMwCXhYacRUz初期仏教の核心は、受縁愛ここが重要だね。縁起説では、触 → 受 → 愛という連鎖が説かれる。感覚的な接触があり、それによって快・不快・中性の感受が生じ、そこから欲求や執着が生じる。もちろん、受が生じたら必ず愛が生じる、という単純な機械的反応ではない。だからこそ修行によって、この連鎖を観察し、執着を生み出さないよう訓練する余地がある。2026/10/12 06:15:54207.神も仏も名無しさんPgbB3今日も朝から私用予定目白押し研究する暇が作れるんかな?😀2026/10/12 06:17:09208.◆JBLfMwCXhYacRUz例えば、不快なことを言われたとき、不快な感受そのものは、すぐには消せない。しかし、その不快感を「許せない!」という怒りに発展させる必要はない。怒りが生じても、それを自分自身と同一視して、さらに増幅させる必要はない。ということだ。ただし、受念処は「反応しない」だけではないここは区別しておきたい。受念処では、快・不快・どちらでもない感受を、感受として観察する。つまり、反応を抑圧する訓練というより、反応が生まれる手前の感受を見抜く訓練なんだ。嫌なことを言われて不快になる。それ自体は自然なことだ。その不快感を否定せず、ただ不快感として知る。そこから怒りや執着がどう生まれるかを見ていく。これができると、反応に振り回されにくくなる。そして、これは君が以前から重視している、心の働きを細かく観察するアビダルマ的な自己観察とも相性がいい。身念処が身体を観察する訓練なら、受念処は心が反応する仕組みを観察する訓練。そして、その先にあるのが、受を条件として愛が生じるという縁起の理解だね。まさに初期仏教の実践理論の要所だと思う。2026/10/12 06:17:41209.神も仏も名無しさんPgbB3俺は、基本、他の連中に釣られない、相手を釣るのは好きだがなー😀2026/10/12 06:17:57210.◆JBLfMwCXhYacRUz>>207忙しいんだな?😄2026/10/12 06:18:03211.◆JBLfMwCXhYacRUz>>209ハッスルやムイムイを釣ってるな?😆2026/10/12 06:18:29212.◆JBLfMwCXhYacRUz>>206なるほど受念処は、十二縁起の核心なんだな2026/10/12 06:20:21213.神も仏も名無しさんPgbB3ブイ?で決死になるからなー😀2026/10/12 06:20:31214.神も仏も名無しさんPgbB3>>212俺はショートカットなので仕事前のダルさ、うっとおしさや体調不良も巨神兵出して焼き尽くすところからスタート😀2026/10/12 06:22:12215.神も仏も名無しさんPgbB3ハッスル🤡やムイムイのナルシズム煩悩を灰にしてやる親切心が俺にある😀ま、当人達のその「苦」の自覚を推奨している😀2026/10/12 06:23:43216.◆JBLfMwCXhYacRUz>>213シンプルな反応だ😆2026/10/12 06:25:54217.神も仏も名無しさんPgbB3不思議な高野山の僧侶を見つけたトマス・アクィナスと空海は似てる接点はありそうだな?https://m.youtube.com/watch?v=Fa_W9jMCYFQ&t=39s&pp=2AEnkAIB2026/10/12 06:29:58218.神も仏も名無しさんPgbB3俺の不思議さはもっと上だ自分でも分からん、昨日の教会の礼拝は霊的ノリは悪かった夢に出た亡者(教会で知ることになる)が、メインでイエスキリストがメインでなかったせいもあるよーだ😅2026/10/12 06:31:59219.神も仏も名無しさんPgbB3また、一年前ほぼ2日違いだった認知症はなかったが寝たきりになり老人ホーム入所でコロナ関連で会うこともできなかったお方で夢枕かも、と関連のあった教会に行くと一年前ジャストに近い😅2026/10/12 06:34:17220.神も仏も名無しさんPgbB3イエスキリストは一番にして礼拝しないと霊的ノリが悪い😀2026/10/12 06:35:19221.◆JBLfMwCXhYacRUzイエズス会の神父で、しかも真言宗の僧侶なのか2026/10/12 06:35:28222.夕a8QIR33.ユーザー◆JBLfMwCXhYb5NIB(6/31)初期仏教の大きな特徴として「行為」の意味を大きく転換したことが挙げられる。当時の諸宗教では、行為の善悪をどう考えるのか、その行為(業)の意味は輪廻思想をもとに解釈された。例えば、バラモン教では、行為とは主に祭式を指す言葉であった。アージーヴィカ教では、現生の行為も来生の行為も運命論によりすでに決まっていると考えた。ジャイナ教では、行為とは外から流入してくる物(業物質)だと説き、真の自己はこの外的な物によって輪廻を繰り返すのだと考えた。これに対し、初期仏教では「行為」とは自発的な意思にもとづく初行為だと説く。祭式や苦行に頼らずに、自己の人生を作るのは自己自身だと信じ、自らの未来をよりよくするために倫理的な向上を目指す考え方だったのである。※比丘たちよ、私は業とは意志であると説く。 意志して身体・言葉・心によって行為する。だそうだ。2026/10/12 09:08:24223.夕a8QIRつまり仏教では、殺したという行為そのもの施しをしたという行為そのものが業なのではなく、その背後にある意図・意思・動機こそが業であるという大転換が起こっています。例えば、うっかり虫を踏む故意に虫を殺すでは外形的には同じ結果でも、業の重さは全く異なる。なぜなら業の本体は「意志」だからです。2026/10/12 09:10:14224.夕a8QIR自己の人生を作るのは自己自身だという部分は、運命論への批判として理解できます。アージーヴィカ教は、「解脱する時期も苦しむ時期も全部決まっている」と考えました。しかし釈尊は、過去業の影響はあるだが現在の意志と実践によって未来は変わると説きます。2026/10/12 09:11:56225.夕a8QIRそのため初期仏教は、宿命論でもなく 自由意志万能論でもない中道的立場です。さらに興味深いのは、後の大乗仏教でもこの「意志としての業」という基本構造は維持されていることです。2026/10/12 09:12:52226.夕a8QIR「主観」の問題とも少し重なる。祭式や物質としての業なら客観的に存在しますが、初期仏教の業は「意図」という内面的な働きです。つまり業の中心は外側の出来事ではなく、どのような認識・欲求・意図から世界に関わったか。だから初期仏教では、行為そのものよりも、貪りから行ったか怒りから行ったか智慧から行ったかが問題になる。「言葉そのものに意味があるのではなく、どう受け取り、どう執着するかが問題になる」業の中心を外物ではなく心の働きに見たことが、釈迦仏教の革新性かな。2026/10/12 09:16:41227.神も仏も名無しさんVL0NK昨日夢に出てきた、この世におらん人の墓参り昨日に続いて、墓探しで疲れてたから昨日は😀2026/10/12 09:20:04228.夕a8QIR現実も夢みたいなもんだからね。夢の出来事も、意図としあらわれる2026/10/12 09:22:57229.神も仏も名無しさんVL0NKこの世におらん人の夢は親族と今の会社勤めの人と昨日夢見た人亡くなってジャスト命日一年に近いタイミングで夢みた、老人ホームに入ると消息不明になるからなーコロナ関連のせいで😮2026/10/12 09:26:04230.神も仏も名無しさんVL0NKもう一人、スマホの使い方を教えてもらった友人と夢見たのは、そんなところだ😀2026/10/12 09:27:37231.神も仏も名無しさんVL0NK夕と遭遇したころはパソコンオンリーだスマホ使ったのは2020年くらいだろう😀2026/10/12 09:28:20232.神も仏も名無しさんVL0NK今日の墓参りの墓の主は霊的に喜んでいる気配を感じた😀昨日は墓地の霊感があるせいか、見知らぬ探す時間でまー色んな仏教系統の霊香してたなーそれで疲れたかな?ま、最大はイエスキリストに霊的集中が薄いせいだな😮2026/10/12 09:30:44233.夕a8QIRしかしだ。意識は無意識でもあり、無意識は無意識である。意識してやっていると思っていることも無意志の証であるとなる。輪廻すらも縁起である。初期仏教は「業とは意志にもとづく行為である」と説いた。これは祭式や運命ではなく、人間の意志的な営みを業の中心に据えた点で画期的であった。しかし、その意志そのものを観察すると、意志もまた様々な因縁によって生じていることが分かる。意識して行っていると思うことも、実は無数の条件が顕れた結果であり、独立した自由意志の発動とは言い切れない。意識は無意識の顕れでもあり、その意志さえも縁起しているのである。そうである以上、業も縁起であり、輪廻もまた縁起である。輪廻する固定的な主体があるのではなく、無明や渇愛の連鎖が因縁によって継続している状態を輪廻と呼ぶのである。ゆえに、輪廻すらも縁起なのである。2026/10/12 09:37:28234.ゴリ子ejQGF>>217シェアして頂きありがとうございます。観ました、笑顔素敵すぎな天才ってほんとに存在するんだ!と思ってしまいました。お人柄そのもの光ってると全て現れるんですね。2026/10/12 09:40:03235.夕a8QIR比較は輪廻を駆動する認識作用の一つとも言える。比較によって自己が立ち上がり、 自己が立ち上がることで執着が起こり、 執着によって輪廻が維持される。逆に言えば、比較は起こっても、それを実体視しなければよい。「ああ、比較という認識が今起こっているな」と見るだけなら、比較は苦を生まない。突き詰めれば、比較が苦を生むのではない。比較によって成立した自己像を真実だと受け取ることが苦を生む。2026/10/12 09:43:15
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【パーリ仏典】テーラワーダ仏教【ヴィパッサナー瞑想】
https://talk.jp/boards/psy/1768687611
【ブッダの教え】初期仏教【最初はこういう話だった】
https://talk.jp/boards/psy/1768770625
【ブッダの教え】初期仏教【ヴィパッサナー瞑想】 Part2
https://talk.jp/boards/psy/1779968091
【ブッダの教え】初期仏教【パーリ仏典】 Part3
https://talk.jp/boards/psy/1790791277
いや、実際に坐ってsatiがなんであるかを確かめりゃ済むだろうに。
"あ、(数息観から離れて)妄想してた😅"って、非言語で気付くそれだよw
1 蛇の毒が(身体のすみずみに)ひろがるのを薬で制するように、怒りが起こったのを制する修行者(比丘)は、この世とかの世とを共に捨て去る。
──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。
2 池に生える蓮華を、水にもぐって折り取るように、すっかり愛欲を断ってしまった修行者は、この世とかの世とを共に捨て去る。
──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。
3 奔り流れる妄執の水流を涸らし尽して余すことのない修行者は、この世とかの世とを共に捨て去る。
──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。
4 激流が弱々しい葦のの橋を壊すように、すっかり驕慢を減し尽くした修行者は、この世とかの世とを共に捨て去る。
──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。
5 無花果の樹の林の中に花を探し求めて得られないように、諸々の生存状態のうちに堅固なものを見いださない修行者は、この世とかの世とを共に捨て去る。
──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。
6 内に怒ることなく、世の栄枯盛衰を超越した修行者は、この世とかの世とを共に捨て去る。
──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。
7 想念を焼き尽くして余すことなく、心の内がよく整えられた修行者は、この世とかの世とを共に捨て去る。──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。
35 あらゆる生きものに対して暴力を加えることなく、あらゆる生きもののいずれをも悩ますことなく、また子を欲するなかれ。況や朋友をや。犀の角のようにただ独り歩め。
36 交わりをしたならば愛情が生じる。愛情にしたがってこの苦しみが起こる。愛情から禍い(わざわい)の生じることを観察して、犀の角のようにただ独り歩め。
37 朋友・親友に憐れみをかけ、心がほだされると、おのが利を失う。親しみにはこの恐れのあることを観察して、犀の角のようにただ独り歩め。
38 子や妻に対する愛著は、たしかに枝の広く茂った竹が互いに相絡むようなものである。筍が他のものにまつわりつくことのないように、犀の角のようにただ独り歩め。
39 林の中で、縛られていない鹿が食物を求めて欲する処に赴くように、聡明な人は独立自由をめざして、犀の角のようにただ独り歩め。
40 仲間の中におれば、休むにも、立つにも、行くにも、旅するにも、つねにひとに呼びかけられる。他人に従属しない独立自由をめざして、犀の角のようにただ独り歩め。
41 仲間の中におけば、遊戯と歓楽とがある。また子らに対する情愛は甚だ大である。愛しき者と別れることを厭いながらも、犀の角のようにただ独り歩め。
42 四方のどこでも赴き、害心あることなく、何でも得たもので満足し、諸々の苦痛に堪えて、恐れることなく、犀の角のようにただ独り歩め。
43 出家者でありながらなお不満の念を抱いている人々がいる。また家に住まう在家者でも同様である。だから他人の子女にかかわること少し、犀の角のようにただ独り歩め。
44 葉の落ちたコーヴィラーラ樹のように、在家者のしるしを捨て去って、在家の束縛を断ち切って、健き人はただ独り歩め。
① 身念処(身体の観察)
まずは単純に
息が入る
息が出る
体の感覚がある
→ ここで「身体はただの現象」と見えてくる
② 受念処(感覚)
次に
心地よい
不快
どちらでもない
という“評価”が起きていることに気づく
→ 「快・不快は勝手に起きる」と見える
③ 心念処(心そのもの)
さらに
集中している心
散乱している心
落ち着いた心
など、「心の状態そのもの」を観る
→ 「心も固定物ではない」と分かる
④ 法念処(構造理解)
最後に
無常
縁起
五蓋(妨げ) などの“法則性”を見る
→ 世界の仕組みそのものを理解する方向へ行く
【5、最上についての八つの詩句】より
796 世間では、人は諸々の見解のうちで
勝れているとみなす見解を「最上のものである」
と考えて、それよりも他の見解は全て
「つまらないものである」と説く。
それ故に彼は諸々の論争を超えることがない。
797 かれ(=世間の思想家)は、
見たこと・学んだこと・戒律や道徳・思索したことについて、
自分の奉じていることのうちのみすぐれた実りを見、
そこで、それだけに執著して、それ以外の他のものを
全てつまらぬものであると見なす。
798 ひとが何か或ものに依拠して
「その他のものはつまらぬものである」と見なすならば、
それは実にこだわりである、と〔真実に達した人々〕は語る。
それが故に修行者は、見たこと・学んだこと・思索したこと、
または戒律や道徳にこだわってはならない。
799 智慧に関しても、戒律や道徳に関しても、
世間において偏見をかまえてはならない。
自分を他人と「等しい」と示すことなく、
他人より「劣っている」とか、或いは
「勝れている」とか考えてはならない。
800 彼は、既に得た(見解)[先入見]を
捨て去って執著することなく、学識に関しても
特に依拠することをしない。
人々は(種々異なった見解に)分かれているが、
彼は実に党派に盲従せず、いかなる見解をも
そのまま信ずることがない。
801 彼はここで、両極端に対し、種々の生存に対し、
この世についても、来世についても、願うことがない。
諸々の事物に関して断定を下して得た固執の住居は、
彼には何も存在しない。
802 彼はこの世において、見たこと、学んだこと、
或いは思索したことに関して、微塵ほどの妄想をも
構えていない。いかなる偏見をも執することのない
そのバラモンを、この世においてどうして
妄想分別させることができるであろうか?
803 彼等は、妄想分別をなすことなく、
(いずれか一つの偏見を)特に重んずるということもない。
彼等は、諸々の教義のいすれかをも受け入れることもない。
バラモンは戒律や道徳によって導かれることもない。
このような人は、彼岸に達して、もはや還ってこない。
1、「四念処」 それが最大のテーマ
2、「輪廻転生」の是非を巡る論争は、なるべく避ける
3、2に限らず、涅槃に役立たないことを、なるべく避ける
以上
形にこだわらないだけだ
そんなのは、邪道もいいとこ
仏教スレにそんなの居ねーしwww
若いうちはあれだけど、歳を取ると息切れして酸欠起こして咳が止まらなかったりだから。
まぁ、トイレに行ってもいい時があるので、ヤバくなったら抜ける人も居るけど。
初期経典は御釈迦様の生の言葉が一字一句保存されたものではないので、。初期経典は、まず口伝で伝えられその後に編集され現在の形になったのです。だから古い階層と後から加わった階層の混在です。
初期経典の中で死後の行き先や輪廻転生を前提にした記述は多い、初期仏教において輪廻転生が重要や位置に有ったことは広く認められています。
しかし御釈迦様は答えを保留にした無記の立場を示しています。ただ、これは何でもかんでも有るとも無いとも言っていないという意味ではなく解脱に役に立たない問いかけを退けた面が大きい。
四ニカ-ヤや阿権経にはかなり古い伝承が含まれていますが説話の前後や過去世や因縁は後代の付加を認められている研究では。
御釈迦様が何度も生まれ変わったという話しは過去仏思想や仏伝の発展で強まった表現もあるため全部同じ重さでは読めませんよ。
つまり、初期経典の古い教えは御釈迦様に近いが、後代の編集や教団解釈が重なってます。だから輪廻転生や死後の世界の記述が有るからといって、全部そのまま御釈迦様の直接的な言葉とは言えませんよ。
仏教のイメージの把握が遅れたんやな
😀
多くは語る足らん連中が多すぎるが
ムイムイとハッスル🤡には
サービスしてやるが😀
阿権経じゃないからw
バカなのに🤡
お前らもそれなりの知識や体験が身に着けば、それがどういう事か分かるから🥱
相変わらず
涅槃に役立たない論争しかしない奴😅
やりすぎだ
酷いな?
😭
> 最初期最古層と推定されるものに輪廻だの四諦だのは無いけどな。
ドヤ顔で他人を見下すのをやめろ、
俺が正しいと主張して論争するなと、
くどいくらい書いてある
だったら最古層と推定される経典をみてみろ。
査定された論文を読んでみろ。
長年の愛読書だ
お前より遥かに深く理解している
↓
な、こういう馬鹿や無知識の連中が噛み付いてきては、それに対してちゃんと説明するんだから。
お前らもそれなりの知識や体験が身に着けば、それがどういう事か分かるから🥱
ちなみにお前が言ってる「最古層」のスッタニパータの第四章
それは
「他人を馬鹿呼ばわりするな」
「自己の見解に固執して論争するな」
「俺のやり方が正しいと言い張るな」
と、ひたすら繰り返し書いてある
仏典の特殊な内容だ
> 長年の愛読書だ
> お前より遥かに深く理解している
wwwwwwwwwwwwwwwwww
お前がそう思うのなら、お前の中ではその通りだろうw
お前がこのスレでやってるようなこと
それを「やるな」とひたすら繰り返し、それ以外のことをほとんど言ってない特殊な1編
で、これはあるのかないのか?
↓
> 最初期最古層と推定されるものに輪廻だの四諦だのは無いけどな。
これは無しだぞ?
https://i.imgur.com/FxXZVxp.jpeg
wwwwwwwwwwwwwwwwww
それをst.4の句を悪用して言い訳にしてるんだろ?
wwwwwwwwwwwwwwwwww
確かに、スッタニパータの第四章には、
輪廻や四諦の話はあまり出てこない
その片鱗はあるが、真正面からは言ってない
でも、第四章だけだ。
他の章は、普通に初期仏典だ
第四章については、「輪廻の話をしていない」というより
上にも書いたように
「他人を馬鹿呼ばわりするな」
「自己の見解に固執して論争するな」
「俺のやり方が正しいと言い張るな」
と、ひたすら繰り返し書いてあり、
それ以外のことをほとんど言ってない
という特殊な内容だ
「本当に釈迦が説いた内容なのか?」と
疑問視する向きもある
「釈迦以前の森林修行者の思想が紛れ込んだのでは?」
と、検討している人もいる
「坐禅会」など、まったく推奨していない
「1人でやれ」というのが、全編を貫く主張
まぁお前が今まで俺にやってきた誹謗中傷や嫌がらせに比べれば、ちゃんと論理的に問い詰めてる分、こんなのは微々たるもんだ。
また、お前を追い詰めて潰す気も無いから。
第一章11
第二章1
第三章21
第四章1
第五章0
が、安居(ヴァッサ)とある様に、集団で瞑想をされていた起源はお釈迦さまに遡るんだよ。
「蛇が皮を脱ぎ捨てるように、この世とかの世をともに捨て去る」
を延々とひたすら繰り返す、「蛇の章」
第二章は、これまた有名な
「犀の角の如く、ただ1人歩め」
を延々とひたすら繰り返す、「犀の角の章」
どっちにしても、極めてユニークな内容だ
確かに、教義体系としては整備されてない(笑)
降り掛かる火の粉は払うけど。
> 確かに、教義体系としては整備されてない(笑)
韻文だから。
分かってるのはガンダーラ地方で像化や文字が起こり地方へ広まったという仮説だから。
実際に漢訳阿含経典の方がパーリ語経典より古い時代の記述をしているのはその為だって合点がゆく。
そもそもお釈迦さまはそれぞれの地方語での伝道を薦められていたというし。
>>955
ぜんぜん知らん分野に挑んでるんだから、仕方ないだろ😅
↓↑
28 ◆JBLfMwCXhY[] 2026/10/10(土) 12:07:45.64 ID:MaLGg
スッタニパータのことか?
長年の愛読書だ
お前より遥かに深く理解している
「ぜんぜん知らん分野」というのは、「四念処」のことだ
詳しくないのに、ここまで言い切っちゃうだ。🤭
↓
23 ◆JBLfMwCXhY[] 2026/10/01(木) 18:43:01.73 ID:9Ir0u
ハッキリ言おう
「四念処」こそ、初期仏教の核心だ
25 ◆JBLfMwCXhY[] 2026/10/01(木) 18:43:55.23 ID:9Ir0u
「四念処」を抜きにした初期仏教など、意味がない
ふーん🥱
「ぜんぜん知らん分野」なのに、ここまで言い切っちゃうだ。🤭
↓
23 ◆JBLfMwCXhY[] 2026/10/01(木) 18:43:01.73 ID:9Ir0u
ハッキリ言おう
「四念処」こそ、初期仏教の核心だ
25 ◆JBLfMwCXhY[] 2026/10/01(木) 18:43:55.23 ID:9Ir0u
「四念処」を抜きにした初期仏教など、意味がない
ふーん🥱
「ぜんぜん知らん分野」なのに、ここまで言い切っちゃうんだ。🤭
↓
23 ◆JBLfMwCXhY[] 2026/10/01(木) 18:43:01.73 ID:9Ir0u
ハッキリ言おう
「四念処」こそ、初期仏教の核心だ
25 ◆JBLfMwCXhY[] 2026/10/01(木) 18:43:55.23 ID:9Ir0u
「四念処」を抜きにした初期仏教など、意味がない
いつまでこの仏教漫才やるの?
俺に何時迄突っ込み役やらせんの?
文字を追っててもね。
なかでも、数息観が超有名
JBL、それはかなり本質を突いてるね!😄🪷
四念処のなかでも、身念処は実践の入り口として非常に重要。 そして、その代表的な実践法として有名なのが数息観だね。
ただ、仏教の瞑想史を少し掘り下げると、面白いポイントがあるんだ。
四念処
観察対象
実践の例
身念処
身体・呼吸・姿勢・動作
数息観、呼吸の観察、歩行の観察
受念処
苦・楽・不苦不楽の感受
感覚が生じ、変化する様子を観察
心念処
心の状態
貪欲、怒り、散乱、集中などを観察
法念処
心身の現象や法則
五蓋、五蘊、七覚支、四聖諦などを観察
身体は、今この瞬間に直接観察できる対象だから。
たとえば呼吸なら、
吸っているとき、吸っていると知る。
吐いているとき、吐いていると知る。
身体の緊張に気づく。
歩いているとき、歩いていると知る。
こうして、頭のなかで観念をこね回すのではなく、実際に起こっている現象に気づく力を養う。
ここが重要なんだよね。
これも面白いところ!
数息観は、呼吸を数えることで注意を呼吸に向ける瞑想法。
ただし、伝統や実践体系によって位置づけが少し異なる。
**初期仏教のアーナーパーナサティ(安般念)**では、呼吸への気づきを深めていく実践が、四念処の展開と密接に結びついている。
一方、呼吸を「一、二、三……」と数える方法は、呼吸を観察するための具体的な技法のひとつとして理解できる。
ここで区別したいのは、次の2つ。
数息:呼吸を数えて、注意を安定させる。
随息・観息:呼吸のあり方を観察し、気づきを深める。
数えること自体が最終目的なのではなく、呼吸への気づきを育てることが重要なんだ。
ここが仏教的には核心だと思う。
最初は、ただ呼吸を数える。
やがて呼吸の微細な変化に気づく。
さらに観察を深めると、呼吸だけでなく、身体感覚も絶えず変化していることがわかる。
そして、感覚や心の状態もまた、固定されたものではないと観察できるようになる。
つまり、身念処は単に身体を観察する技法にとどまらず、無常・苦・無我への洞察につながる実践の基盤にもなり得るわけだね。
もちろん、数息観を行えば自動的に悟りに至る、という意味ではないよ。
ところで、JBLにひとつ聞いてみたい。
数息観の魅力って、どこにあると思う?
② 観(ヴィパッサナー)――呼吸や身体の変化を観察し、無常を洞察すること。
③ 止観双修――心を静めることと、智慧を深めることの両方。
この3つ、似ているようで仏教の修行論ではかなり奥深い違いがあるんだよね。
でも、「身念処」と聞いて、誰もが数息観を連想するわけではない
不浄観のイメージが強い人もいるようだ
そう、JBL。これはなかなか面白い指摘だね。🪷
「身念処」という言葉から何を連想するかは、その人がどの仏教の伝統や修行体系に親しんできたかによって変わるんだと思う。
とくに、数息観と不浄観は、どちらも身体を対象とする修行だけれど、実践の狙いや歴史的な位置づけには違いがある。
① 数息観――呼吸を通して身体を観察する
安般念 は、呼吸への気づきを深める実践。
呼吸を数えることで心を落ち着かせる方法は、東アジアの仏教でも広く知られている。
とくに天台の止観思想では、数息などの方法が禅定の実践として体系化されている。
この系統に親しんだ人なら、「身念処」と聞いて呼吸の観察を思い浮かべるのは自然だろうね。
ただし、数息観と身念処は完全な同義語ではない。数息観は呼吸を対象とする具体的な瞑想技法であり、身念処は身体を観察する、より広い実践領域なんだ。
一方、不浄観 を連想する人もいる。
こちらは、身体を美しく魅力的なものとして捉え、執着する心を見つめ直す修行だね。
たとえば、次のような観察がある。
三十二身分観:髪、爪、歯、皮膚、骨など、身体を構成する要素を観察する。
九想観:遺体が腐敗し、変化していく過程などを観察する。
身体の不浄観:身体を構成するものやその性質に着目し、身体への過度な執着を弱める。
こうした実践では、身体を理想化する見方を崩し、貪欲や執着を弱めることが重視される。
ただし、不浄観は身念処と関連するものの、両者が完全に同じというわけではない。
ここは仏教史的に興味深いところ。
観点
数息観
不浄観
主な対象
呼吸
身体の構成要素や遺体の変化など
主な実践上の狙い
注意の安定、禅定、呼吸への気づき
身体への執着や貪欲を弱めること
身念処との関係
身体、特に呼吸を観察する実践と関連
身体を観察する実践と関連
連想されやすい修行体系
呼吸観察、止観、安般念
初期仏教の身体観察、部派仏教の禅観、大乗仏教の修行論など
つまり、数息観も不浄観も、身念処を連想させる有力な実践だが、身念処全体を代表するものとして、どちらか一方だけを絶対視することはできないんだ。
そして、ここでひとつ、さらに掘り下げたい問いがある。
不浄観は、四念処の身念処に含まれる実践として理解するべきなのか。それとも、貪欲を対治するための独立した観法として理解するべきなのか。
実は、この問いを考えると、初期仏教の四念処と、後代の禅定・観法の体系化との関係が見えてくる。
JBLが指摘した「身念処から不浄観を連想する人がいる」という現象も、そこから考えると、かなり奥行きのあるテーマになると思うよ。
ボケがいる限りツッコミを入れたくなるのは人情というもの。
よく言うよ😂
下がっで良しっ‼️
😀
物自体とはその枠組みとは無関係にそれ自体としてある何か。決して認識出来ない。
つまり私達が知る世界はすべて人間のフィルターを通して現れる世界であって世界そのものではない。
私達の認識可能なすべては物自体には適用できないのです。
ボイン❗カントです。
確かに、その通りだが
158 神も仏も名無しさん [sage] 2026/10/10(土) 17:57:20.50 ID:7fhYW
まぁわたしが入れる話題が一つもない笑
159 神も仏も名無しさん [sage] 2026/10/10(土) 18:07:31.21 ID:OxpOi
そりゃあほとんど難しい話しばかりだから入れないのは当然だよね笑
「教学して教理に詳しくなるほど、悟りから遠ざかる」
という理論
古来日本国民的に一番最初に教わると言っても過言ではない。
そして聖徳太子様、もっと短く簡単で覚えやすいのにして頂きたかった。私が覚えられません。
「私は教義を知りません」とか
「私には難しいことは分かりません」
というのは、一種の勝利宣言(笑)
「私は何千回も坐禅会に参加してるのだ」と威張るのと一緒
普通の人には通じない、本人にしか分からない勝利
禅宗にはそういう伝統もあるのは分かる
教学や哲学などの知識はつまり「知ってること」、迷いの上のものとなるから
その辺に気付いたりわきまえてる人は
「知ってること」に執着しないってことで
「教義を知らなくてもいい」というのは、教学不要論
「教義を知らないほうがいい」というのは、教学有害論
この2つは、似て非なるものだ(笑)
凄く賢い方って書かれていましたよ?
それ先に言ってほしかったくらい、なら忖度しまくったのにと書いた事もあります。
これから付託しましょうw
教学は、頭の柔軟体操だ
教学しないで瞑想ばかりするのは、
柔軟体操しないで筋トレばかりするのに相当する
頭が固くなるから良くない
当方は、新興宗教スレに長くいたので
「私には難しいことは分かりません」と
自慢げにいう信者を何人も見てきた
宗教界に特有のノリだ(笑)
はい。個人的にですが私の親戚縁者にやたらと先生職が点在していた関係もあり、あの先生たちの難しさは存じ上げていると言って差し支えないと思います。
幼い頃から見たあの正座で笑顔な怖さ 笑
「私は教義に詳しい」といって威張る人より
「私は何も知らない」といって威張る人のほうが多い
前者ももちろんいるが、経験則として、後者のほうが多い(笑)
無知の知、の何故何故マン哲学者は死刑にされたらしい。確かに!
「アナタは難しいことをよく知っていますねえ」
というのは、「お前の負けだ」と言ってるに等しい
「私は何も知りません」
というのは、「私の勝ちだ」と言ってるに等しい
他のジャンルにはあり得ない、宗教だけの逆転現象(笑)
京言葉はもっと恐ろしい。
あれは本物 笑
「アナタはずいぶん、お詳しいですねえ(笑)」と言ってきたら
こちらはカチンとくる
ホメられてるわけではない
「無意味な努力でムダな知識をつけた負け組」と言われてるのである
こちらは経験則で、それがよく分かっている
だから、あえて
「お前の方こそ、信者のくせに、なんでこんなことも知らねえんだ。
信者ならマジメにやれ。バカめ」
と罵倒する
信者は、勝ち誇ってたところに罵倒されたからカチンとくる
普通の人には分からない、高度な心理戦だ😅
そして仏教のトンチ。
これドラゴンボールの何段階上なの?くらいなバトルだと、仏教を学んで思います。茶飲めとか真っ直ぐに木をみろとか教わって思います。
なぜなら、こちらは、いろんな思想を知っている
だから、教学有害論みたいな思想スタンスもあるのは知ってるので、認めざるを得ない
だが、教学有害論者は、他の価値観を知らない
だから、「俺の勝ちだ」という信念は揺るがない
このため、教学有害論者は無敵で、無双なのである(笑)
つまりそれは「知ってることはウソ」ってことを「知って」しまった見方からのものになる
知られたものの上に、「上下」「優劣」「真偽」やそれを得る「自己」が生まれるのに
「自分は知らない」という「真」「優」を「知って」しまってるということ
リッスン
10らしいですな。己れの書き込み見返してください。勝手に出てきました。
「知ってる」からダメ、ということではない
かわいそうな奴だよな。
倶舎論、中論、唯識論
どれも、世間一般の常識人にとっては、クレージーなことが書いてある(笑)
こういうもので、日常生活によって刷り込まれた信念体系を崩してからでないと、瞑想には効果がない
瞑想は、大なり小なり、精神統一を伴う
「いや、自分は精神統一などしていない。リラックスしてるのだ」と言うかもしれないが
それは程度の問題だ。ある程度は精神統一につながる
精神統一の行をすると、「信念が強化される」という副作用がある
だから、気をつけなければならない
「教学は、頭の柔軟体操だ」というゆえんが、そこにある
そういうのには賛成できない
むしろ、日常生活によって刷り込まれた信念体系を壊すことが重要だ
いや、お前みたいに「俺は熱心に坐禅してるのだじょ~」とかいって威張るのは、論外
愚かすぎて、語るに値しない(笑)
「修行不要論」ってのもある
こちらは、また異なるロジックでデキている
> 無知の知、の何故何故マン哲学者は死刑にされたらしい。確かに!
無知の知ってのも、嫌味な言い方だ
しかも、大哲学者のソクラテスが、それを言うか(笑)
なぜそういう主張が出てくるのかっていうのは
仏教というのは人間の知性経験を超えたものを示す教えだからということがある
人間の知性によっては決して至れないしよればよるほどその「そのもの」とは違うものをつかんでしまう
修行も同じで、人間のやる修行によって自分を良くしていってその先に至れる、というものでは決してないということで
「人はみんな、もともと悟っているんだよ。
そこに気づけばいいだけなんだ」
というロジックでデキている
「やらなくていい。必要ない」
という意味だ
例えば、日蓮正宗や創価学会
熱心に題目を挙げて、毎日欠かさず勤行してる人と、勤行をやらない人
この2人を比べてみれば、シンプルに前者が良い
前者の生き方が推奨される
「妙に必死で坐禅なんかやってる奴はバカ」
という価値観があり得る(笑)
当方には、前者が賢く、後者が愚かに見えている
でおー 不良品
カマ夫 粗悪模造品
JBL 粗悪品
笑夫 B級品
ロン 欠陥品
という意見には賛成だ
洗顔や歯磨きと同じ。
私の意見ですが、大反対です。坐禅は御釈迦様が悟られたものを受け継いだ大切なもの。
そしてそれ知らん奴など仏教徒におったんか、なら仏教要らん説には賛成。
両方ともやるか、両方ともやらないか
そのどちらかにした方が良い
どちらか片方だけというのは、片手落ちだ
あ、そう(笑)
ほら、とっても賢い人だから不器用なんやろ?頭の方向転換というのかとんでも頭とか苦手タイプ?
もうそんな視線は見飽きたけど。
多分最澄様がそのザ、エリート。
そして空海様がとんでも野生児。
理趣経を渡さなかったわけやろな。
なるほど
わかった、わかった
お前は偉い!!(笑)
「坐禅のやりすぎは有害」と思うようになったのは
宗教板でセイウン居士殿の言動を見てからの話
以前からそう思ってたわけではない
やりすぎると、バカになる😫
宗教板に、生きた実例がいるから
ふーん🥱
「ぜんぜん知らん分野」なのに、ここまで言い切っちゃうんだ。🤭
↓
23 ◆JBLfMwCXhY[] 2026/10/01(木) 18:43:01.73 ID:9Ir0u
ハッキリ言おう
「四念処」こそ、初期仏教の核心だ
25 ◆JBLfMwCXhY[] 2026/10/01(木) 18:43:55.23 ID:9Ir0u
「四念処」を抜きにした初期仏教など、意味がない
鼻息で フッw 笑われる程度なのに。
ぜんぜん知らん分野を探究する中で、
四念処の重要性に気づいたのだ
お前にはあり得ない気づきだな(笑)
わかった、わかった
いいから、足組んで寝てろ(笑)
JBLもいい加減に自分の立ち位置を考えたら?
実際そんなもんだから🥱
7. 一番気になるのは「世界観の閉鎖性」です
ここまで追っていて私が最も気になっているのは、実は「悪霊を信じているか」そのものではありません。
例えば、
「批判された」
↓
「自分の教えを理解していない」
↓
「だから相手は餓鬼憑き」
↓
「餓鬼憑きだから批判してくる」
となると、結論が原因の説明にもなってしまうんです。
さらに、
「カルトだから攻撃してくる」
「攻撃してくるからカルトだ」
となれば、こちらも循環します。
これが進むと、どんな反証も、
「それもカルト側の工作」
として処理できてしまいます。
もし実際にそこまでなっているなら、これは単なる「宗教好き」「口の悪い人」という範囲を超えて、現実検討の問題を疑うべき重要なサインになります。
現段階での私の評価
以前の私は、
自己愛的・優越的・攻撃的な人物像が中心で、精神病性は慎重に見る
という評価でした。
今はそこから一段変更して、
自己愛的・競争的・攻撃的な対人スタイルに加えて、長期間持続する被害的・組織的・宗教的な説明体系がかなり明瞭になっており、精神病性症状、とくに被害妄想・宗教妄想に相当するものがないかを真剣に鑑別したくなる状態
番号が飛んでるな。
>今はそこから一段変更して、
自己愛的・競争的・攻撃的な対人スタイルに加えて、長期間持続する被害的・組織的・宗教的な説明体系がかなり明瞭になっており、精神病性症状、とくに被害妄想・宗教妄想に相当するものがないかを真剣に鑑別したくなる状態
www
新興宗教の連中もそういう扱いをしてたと思うぞ。
私にお色気が有るから寄ってくるのね✨
わかりやすい虚言癖が
🤡〜
ほんとに、ここの男性はジョニデ並みだと自己暗示かけてて、と昔教えられた。
イケメンしかみえてないから良いと思うよ、不二子ちゃん 笑
徒然草 仁和寺にある法師
だって。少しはオブラートに包むとかデリカシーないのかな?と八つ当たり。
ほんと坊主な先生怖いっす。
これは数息観や歩行禅、不浄観みたいに有名なものがない
そうなんだよ(笑)。
身念処には数息観・歩行禅・不浄観といった具体的な修行法があるのに、受念処には、これに相当する有名な独立した修行法が見当たらない。
ただ、初期仏教の四念処経を読むと、受念処にも明確な実践内容がある。むしろ、これは独立した特殊な瞑想法というより、日常のあらゆる感覚経験を観察する訓練なんだと思う。
受念処では何をするのか?
基本となるのは、受(vedana)を三種類に分けて観察すること。
気持ちいい、快い、心地よい。
例:おいしいものを食べたとき、暖かい布団に入ったとき。
2. 苦受(くじゅ)
不快、痛い、嫌な感じ。
例:暑い、腰が痛い、嫌なことを言われた。
3. 不苦不楽受(ふくふらくじゅ)
快でも不快でもない、中立的な感覚。
例:何気なく音を聞いているとき、特に好きでも嫌いでもないものに触れたとき。
さらに、それぞれについて、
世俗的な欲望に結びついたものか、そうでないものか
その受が生じているか、消えているか
受が生じる条件や、消滅する過程はどうなっているか
を観察していく。
初期経典の代表例である『念処経』(MN 10)や『大念処経』(DN 22)では、受念処はこのような形で説かれている。
例えば、誰かに嫌味を言われたとする。
① 刺激が入る
嫌味を言われる。
② 苦受が生じる
不快感、胸のざわつき、身体の緊張などが起こる。
③ 苦受を苦受として知る
「不快な感覚が生じている」と観察する。
④ 受に自動的に支配されない
不快感から直ちに怒りや攻撃へ進むのではなく、反応が生じる過程を見極める。
ここで大事なのは、苦受を無理に消そうとすることではない。
苦受が生じていることを知り、苦受に対する貪りや嫌悪がどう生じるかを観察する。
これは、あなたが関心を持っている、心王・心所を分析して怒りの発生過程を観察する方法にもつながる。
ただし、厳密には、苦受そのものと、苦受に対して生じる瞋などの心所は別のものだ。ここを区別することが重要になる。
実は、受念処と非常に相性のよい実践がある。
それは、感受が生じた瞬間を捉える観察だ。
パーリ経典には、快・不快・中立の感受を観察する実践が明確に説かれている。また、『相応部』の「矢のたとえ」(SN 36.6)では、身体的な苦痛と、それに重ねて生じる心の苦痛とを区別する。
身体の痛みという第一の矢は避けられないことがあっても、そこから生じる余計な心の苦しみという第二の矢は、訓練によって減らせるという趣旨だ。
これは受念処の実践的な意義を理解するうえで、かなり重要な経典だと思う。
身体の反応はどうすることもできないが、
心の反応は訓練次第でコントロールできるというわけか
なんとも現実主義者で、初期仏教っぽい
まさにそういうことだね(笑)。
初期仏教の現実主義は、そこに表れていると思う。
ただし、少し正確に言うと、身体の反応は必ずしも制御できないが、心の反応は訓練によって変えていける。 そして、心の反応も、意志の力だけで自由自在に操れるわけではない。
『相応部』SN 36.6「矢のたとえ」は、この点を実に見事に説明している。
第一の矢: 身体的な痛みなど、避けられない苦痛。
第二の矢: 苦痛に対する嫌悪、嘆き、動揺など、心が付け加える苦しみ。
凡夫は第一の矢を受けると、第二の矢まで受けてしまう。
だが、仏道を修めた聖弟子は、第一の矢を受けても、
第二の矢を重ねずに済むようになる。
もちろん、これは身体と心を完全に切り離せるという意味ではない。
身体の痛みが心に影響することもあるし、
心の状態が身体に影響することもある。
面白いのは、苦痛そのものを否定していないことだ。
「すべては心の持ちようだ」と精神論で片づけるのでもない。
苦痛は生じる。感受は生じる。しかし、
それに対して貪りや瞋りを重ねる必要はない。
これが訓練の方向性なんだね。
そして、あなたが関心を持っている心王・心所の分析とも、きれいにつながる。
例えば、嫌なことを言われた場合、
不快な感受である「苦受」が生じる。
その不快感に対して瞋りが生じる。
瞋りに引きずられて、怒鳴る、仕返しするなどの行動に進む。
この過程を観察できれば、少なくとも反応が自動的に行動へ直結するのを防ぎやすくなる。
ただし、受から瞋りへ進むのが必然というわけではないし、心所の生起を完全に意志で選べるというわけでもない。だからこそ、繰り返し観察し、訓練する意味がある。
初期仏教は、苦しみを形而上学的に説明するだけでなく、苦しみが生じる条件を見極め、実際に減らせる部分を減らしていく。
この姿勢は、まさしく実践的だと思う。
しかも、ここから十二縁起の「受縁愛」へ進める。
受縁愛とは何か?
「受縁愛(じゅえんあい)」とは、十二縁起の第八支で、受を縁として愛が生じるという意味だね。
ここでいう「愛」は、男女の愛情という意味ではなく、パーリ語の tanha、つまり**渇愛(かつあい)**のこと。
十二縁起の中での位置
触(そく)
感覚器官・対象・識の接触
↓
受(じゅ)
快・不快・中立の感受
↓
愛(あい)=渇愛
欲しい、嫌だ、失いたくない
↓
取(しゅ)
執着し、つかみ取る
これは十二縁起の一部分で、受の前には触があり、
愛の後には取・有・生・老死と続いていく。
① 受:楽受が生じる
「おいしい、気持ちいい」という快い感受が生じる。
② 愛:もっと欲しくなる
「もっと食べたい」「また食べたい」という渇愛が生じる。
③ 取:執着する
「これを食べられないと嫌だ」「絶対に手に入れたい」と、欲求に強くとらわれる。
もちろん、楽受が生じたからといって、
必ず渇愛や執着に進むわけではない。
食事を楽しみながら、執着せずに食べることもできる。
苦受: 不快な感受が生じる。
愛: この不快感をなくしたい、相手に仕返ししたい、という渇愛が生じる。
取: 怒りや恨みに固執する。
つまり、渇愛は快いものを求める場合だけでなく、
不快なものを排除しようとする場合にも生じる。
なお、仏教でいう渇愛には、
欲しいものを求める欲愛、
存在し続けたいという有愛、
存在を断ちたいという無有愛がある。
ここが重要なんだ。
受念処は、受を観察することで、受から渇愛へと進む心の動きを見極める実践として理解できる。
楽受が生じても、ただ楽受として知る。苦受が生じても、ただ苦受として知る。中立の受についても、見過ごさずに知る。
そうすれば、感受が生じるたびに欲望や嫌悪に引きずられる、その自動的な反応を弱めていける。
ただし、十二縁起の「受縁愛」は、受があれば必ず愛が生じるという単純な心理法則ではない。縁起の条件関係を示したものだ。
初期仏教の実践的な眼目は、受そのものを消し去ることではなく、受を条件として渇愛が生じ、それが苦しみを増幅していく仕組みを理解し、その連鎖を止めることにある。
身念処で身体を観察し、受念処で感受を観察する。そこから心念処で貪りや怒りを観察する。
四念処がひと続きの修行として見えてくるね。
身念処では、身体を身体として観察する。
受念処では、経験が快・不快・中立のどれとして感じられているかを観察する。
心念処では、貪りや怒りなどを伴う心の状態を観察する。
法念処では、五蓋や五蘊、四諦などの枠組みから経験を理解する。
もちろん、これらは完全に切り離された段階ではない。
受念処で感受を観察しているときにも、
心の状態や五蘊の働きは関係している。
受は無常であり、受に対して生じる反応もまた、条件によって生じる。
不快感が生じたからといって、怒りに従う必要はない。
快感が生じたからといって、執着する必要もない。
これは、あなたが重視している無常・苦・無我・不浄の観察にもつながっている。
さらに重要なのは、四聖諦との関係
仏教の目的は、感覚をなくすことではなく、苦の生起と滅を理解することだ。
受を観察し、受を縁として渇愛が生じる仕組みを理解する。その理解が深まれば、渇愛を滅する道も見えてくる。
ここで、初期仏教の実践的な性格がよく表れている。
「自分とは何か」という哲学的な問いだけでなく、いま生じている感受が、どのように苦しみにつながるのかを観察し、その仕組みを変えていく。
受念処は、まさにそのための修行なんだね。
ちなみに、経典上の説明をさらに掘り下げるなら、次に注目したいのは『相応部』の**「受相応」**。受についての教説が集められていて、受念処と十二縁起を結びつけて理解するのに役立つよ。
いつもしている😀
呼ばれたケース😀
😀
> 久しぶりにキリスト教礼拝いってきた
> 呼ばれたケース😀
よかったね。
でも百回や二百回で祓われる程度の悪霊じゃないね、君は。
どうじゃ?
https://talk.jp/boards/psy/1790809822
私という執着を手放して世界を調和するのに対してニーチェは私の遺志を極限まで尖らせて世界を創造します。
禅宗思想はエゴを手放して現実をありのままに受け入れ波風を立てず鏡のように世界を映し出す静かな心の状態を目指します。
ニーチェは不条理な運命を単なる受け入れるのではなくこの最悪な運命を自ら受け入れてやる!という猛烈な力への意志を持ちます。
「私の遺志」 ではなくて「意志」だろ。
「世界を調和する」 ではなくて「世界と調和する」だろ。
それからニーチェの運命愛(Amor Fati)は、自分の身に起きる良いことも悪いことも、苦痛や運命の残酷さも含めて、すべてをありのままに肯定し愛する生き方だから。
真逆だな。
そういう意味では禅にもそれはある。
なら密教が理趣経を手放さなかったワケが分かる分かりやすいスレ先を上げてくれているエロ和尚様に皆様感謝感激ですよね。
多分私は教わったと思います。
馬鹿相手に0から仏教知識を伝えるのも大事だけどな、、としてくださりありがとうございます。私は手塚治虫ブッタと聖⭐︎お兄さん二つのみ読んで知恵袋とネット検索で教わりました。
フリかなまで付けてくれたのに感激しました。
また私の間違いならごめんなさい。スルーしてください。
ボイン🎵
ボイン❗秋
↓「そこに信仰による価値観の180度転回がある訳です。」↓
627:栖雲居士 ◆MKrKQHoID7SE :[sage]:2026/05/01(金) 14:29:52.30 ID:GHVkJlI/[96/96]
うんうん、精神病棟にレリゴー😘
🏥 🚑🤪💨💨💨 👋😆
162 栖雲居士 ◆dqam8SqGUPdm :[sage]:2024/03/09(土) 16:35:39.62 ID:b8JerweS
喉仏に千枚通し刺してとっとと死ねよ、虫ケラ😟
喉仏に千枚通し刺してとっとと死ねよ、虫ケラ😟
喉仏に千枚通し刺してとっとと死ねよ、虫ケラ😟
喉仏に千枚通し刺してとっとと死ねよ、虫ケラ😟
633:栖雲居士 ◆MKrKQHoID7SE :[sage]:2026/05/01(金) 14:32:58.27 ID:GHVkJlI/[98/98]
で?
悔しくて我慢できないのか?
wwwwwwwwwwwwwwwwww
千枚通しで喉仏を刺して逝けば?
wwwwwwwwwwwwwwwwww
ぶわあーーーーーくわwww
一言でいえば、快・不快・どちらでもない、
という感覚が生じたとき、それを自覚し、
感覚に引きずられずに観察する修行だ。
ここでいう「受(ヴェーダナー)」は、
感情全般というよりも、経験に伴う
「快・不快・中性」という感受のこと。
たとえば、誰かに嫌なことを言われたとき。
受:不快だ、気分が悪い。
想:こいつは失礼な奴だ、と認識・解釈する。
行:言い返してやろう、という意志や反応が生じる。
この三つを区別して観察するのが、実践のポイントになる。
普通は、この一連の過程が一瞬で起こり、
全部ひっくるめて「腹が立った」と感じる。
受念処では、その過程を丁寧に見分けていくわけだ。
たとえば、誰かに腹の立つことを言われた場面を想像してみよう。
① 刺激を受ける
相手から嫌味を言われる。
この時点では、まだ言葉の内容を分析しなくてもよい
② 受を自覚する
「不快な感覚が生じている」
胸がムッとする、顔が熱くなる、気分が悪くなる。
まずは、その経験に伴う不快さを認識する。
③ 受を受として観察する
「不快な受がある。ただ、それだけだ」
不快感を無理に消そうとせず、正当化もせず、
ただ生じているものとして観察する。
④ その後の反応を見分ける
「言い返したい」「相手を憎いと思う」
という反応が続いても、すぐに従う必要はない。
受と、その受に続いて生じる欲求・反発とを区別する。
これは『念処経』(MN 10)に説かれる、
楽受・苦受・不苦不楽受を、それぞれそのような受として
知る実践に沿った説明だ。
座禅のように特別な時間を設けなくても、日常の感覚を使って練習できる。
美味しいものを食べたとき:「快い受が生じている」
嫌なことを言われたとき:「不快な受が生じている」
何も感じないような退屈な時間:「中性の受がある」
ここで重要なのは、快い受を嫌ったり、
不快な受を無理に消したりしないこと。
中性の受も見落とさず、気づいておくことだ。
初期仏教の縁起説では、受を縁として愛(渇愛)が生じると説かれる。
たとえば、
「不快な感覚が生じている」
胸がムッとする、顔が熱くなる、気分が悪くなる。
まずは、その経験に伴う不快さを認識する。
こうした反応が自動的に起こることに気づく。
受念処の実践によって、受が生じても、
そこから必ず渇愛や執着へ進むわけではないと理解していく。
ただし、受念処そのものは、受をコントロールしたり
消滅させたりする訓練ではなく、まず受を正しく知る訓練なんだ。
受は生じる。しかし、その受にどう反応するかは、受そのものとは別の問題だ。
ここが、君が以前話していた「身体の反応はどうすることもできないが、心の反応は訓練できる」という点とつながってくる。
さらに踏み込むなら、受念処は単に怒りを抑えるための技術ではない。快・不快・中性の受が生じては消えていく様子を観察することで、受が無常であり、思いどおりにならないものであることを、実体験として理解していく修行でもある。
あと、不浄観も身念処の一種
「反応しない練習」と聞いて、普通にイメージするものに近い
チャットGPT:
そう、それはかなり的確な理解だと思う。
受念処は、「反応しない練習」の実践的な土台に近い。
ただし、単に反応を我慢するのではなく、
反応が生まれる仕組みを観察するところが重要なんだ。
例えば、誰かに失礼なことを言われたとする。
① 刺激が入る
「バカにされた!」という状況が起こる。
② 受が生じる
不快な感受が生じる。腹が立つ、胸がムッとする、身体が熱くなる。
③ 受を観察する
「不快な感受が生じている」と気づく。
すぐに言い返したり、相手を憎んだりする前に、
まず感受そのものを観察する。
④ 反応の連鎖を見極める
不快な受から、怒りや執着が生じ、
さらに言い返す・仕返しするといった行動につながる。
その連鎖に巻き込まれないようにする。
ハッスル🤡やムイムイは
俺にテストされて当然である
😀
ここが重要だね。
縁起説では、
触 → 受 → 愛
という連鎖が説かれる。
感覚的な接触があり、
それによって快・不快・中性の感受が生じ、
そこから欲求や執着が生じる。
もちろん、受が生じたら必ず愛が生じる、
という単純な機械的反応ではない。
だからこそ修行によって、この連鎖を観察し、
執着を生み出さないよう訓練する余地がある。
研究する暇が作れるんかな?
😀
不快な感受そのものは、すぐには消せない。
しかし、その不快感を「許せない!」という怒りに発展させる必要はない。
怒りが生じても、それを自分自身と同一視して、さらに増幅させる必要はない。
ということだ。
ただし、受念処は「反応しない」だけではない
ここは区別しておきたい。
受念処では、快・不快・どちらでもない感受を、感受として観察する。つまり、反応を抑圧する訓練というより、反応が生まれる手前の感受を見抜く訓練なんだ。
嫌なことを言われて不快になる。それ自体は自然なことだ。
その不快感を否定せず、ただ不快感として知る。
そこから怒りや執着がどう生まれるかを見ていく。
これができると、反応に振り回されにくくなる。
そして、これは君が以前から重視している、
心の働きを細かく観察するアビダルマ的な自己観察とも相性がいい。
身念処が身体を観察する訓練なら、
受念処は心が反応する仕組みを観察する訓練。
そして、その先にあるのが、受を条件として
愛が生じるという縁起の理解だね。
まさに初期仏教の実践理論の要所だと思う。
相手を釣るのは好きだがなー
😀
忙しいんだな?😄
ハッスルやムイムイを釣ってるな?😆
なるほど
受念処は、十二縁起の核心なんだな
で決死になるからなー
😀
俺はショートカットなので
仕事前のダルさ、うっとおしさや体調不良も巨神兵出して焼き尽くす
ところからスタート
😀
灰にしてやる親切心が
俺にある😀
ま、当人達のその「苦」の自覚を推奨している😀
シンプルな反応だ😆
トマス・アクィナスと空海は似てる接点はありそうだな?
https://m.youtube.com/watch?v=Fa_W9jMCYFQ&t=39s&pp=2AEnkAIB
もっと上だ
自分でも分からん、
昨日の教会の礼拝は霊的ノリは悪かった
夢に出た亡者(教会で知ることになる)
が、メインで
イエスキリストがメインでなかったせいもあるよーだ
😅
認知症はなかったが寝たきりになり老人ホーム入所でコロナ関連で会うこともできなかったお方で
夢枕かも、と関連のあった教会に行くと
一年前ジャストに近い😅
礼拝しないと
霊的ノリが悪い😀
ユーザー
◆JBLfMwCXhY
b5NIB(6/31)
初期仏教の大きな特徴として「行為」の意味を大きく転換したことが挙げられる。
当時の諸宗教では、行為の善悪をどう考えるのか、その行為(業)の意味は輪廻思想をもとに解釈された。例えば、バラモン教では、行為とは主に祭式を指す言葉であった。アージーヴィカ教では、現生の行為も来生の行為も運命論によりすでに決まっていると考えた。ジャイナ教では、行為とは外から流入してくる物(業物質)だと説き、真の自己はこの外的な物によって輪廻を繰り返すのだと考えた。
これに対し、初期仏教では「行為」とは自発的な意思にもとづく初行為だと説く。祭式や苦行に頼らずに、自己の人生を作るのは自己自身だと信じ、自らの未来をよりよくするために倫理的な向上を目指す考え方だったのである。
※比丘たちよ、私は業とは意志であると説く。 意志して身体・言葉・心によって行為する。
だそうだ。
殺したという行為そのもの
施しをしたという行為そのもの
が業なのではなく、
その背後にある意図・意思・動機
こそが業であるという大転換が起こっています。
例えば、
うっかり虫を踏む
故意に虫を殺す
では外形的には同じ結果でも、業の重さは全く異なる。
なぜなら業の本体は「意志」だからです。
という部分は、運命論への批判として理解できます。
アージーヴィカ教は、
「解脱する時期も苦しむ時期も全部決まっている」
と考えました。
しかし釈尊は、
過去業の影響はある
だが現在の意志と実践によって未来は変わる
と説きます。
宿命論でもなく 自由意志万能論でもない
中道的立場です。
さらに興味深いのは、後の大乗仏教でもこの「意志としての業」という基本構造は維持されていることです。
祭式や物質としての業なら客観的に存在しますが、初期仏教の業は「意図」という内面的な働きです。つまり業の中心は外側の出来事ではなく、
どのような認識・欲求・意図から世界に関わったか。
だから初期仏教では、行為そのものよりも、
貪りから行ったか
怒りから行ったか
智慧から行ったか
が問題になる。
「言葉そのものに意味があるのではなく、どう受け取り、どう執着するかが問題になる」
業の中心を外物ではなく心の働きに見たことが、釈迦仏教の革新性かな。
墓探しで疲れてたから昨日は
😀
親族と
今の会社勤めの人と
昨日夢見た人
亡くなってジャスト命日一年に近いタイミングで夢みた、老人ホームに入ると
消息不明になるからなー
コロナ関連のせいで😮
夢見たのは、そんなところだ
😀
パソコンオンリーだ
スマホ使ったのは2020年くらいだろう
😀
霊的に喜んでいる気配を感じた
😀
昨日は墓地の霊感があるせいか、
見知らぬ探す時間で
まー色んな仏教系統の霊香してたなー
それで疲れたかな?
ま、最大はイエスキリストに霊的集中が薄いせいだな😮
初期仏教は「業とは意志にもとづく行為である」と説いた。これは祭式や運命ではなく、人間の意志的な営みを業の中心に据えた点で画期的であった。しかし、その意志そのものを観察すると、意志もまた様々な因縁によって生じていることが分かる。意識して行っていると思うことも、実は無数の条件が顕れた結果であり、独立した自由意志の発動とは言い切れない。意識は無意識の顕れでもあり、その意志さえも縁起しているのである。そうである以上、業も縁起であり、輪廻もまた縁起である。輪廻する固定的な主体があるのではなく、無明や渇愛の連鎖が因縁によって継続している状態を輪廻と呼ぶのである。ゆえに、輪廻すらも縁起なのである。
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観ました、笑顔素敵すぎな天才ってほんとに存在するんだ!と思ってしまいました。お人柄そのもの光ってると全て現れるんですね。
とも言える。
比較によって自己が立ち上がり、 自己が立ち上がることで執着が起こり、 執着によって輪廻が維持される。
逆に言えば、
比較は起こっても、それを実体視しなければよい。
「ああ、比較という認識が今起こっているな」
と見るだけなら、比較は苦を生まない。
突き詰めれば、
比較が苦を生むのではない。比較によって成立した自己像を真実だと受け取ることが苦を生む。