仏のスレ84最終更新 2026/08/11 20:021.JCLAkwLy勝手にしやがれ!仏のスレ80https://talk.jp/boards/psy/1781779174仏のスレ81https://talk.jp/boards/psy/1782119415仏のスレ82https://talk.jp/boards/psy/1782207133仏のスレ83https://talk.jp/boards/psy/17826258062026/08/11 15:27:42120コメント欄へ移動すべて|最新の50件71.ハジ4l82X井上義衍老師が示されたような修行の果てに悟るものは、結論から言えば**「何か特別な新しい知識や境地を手に入れる(得る)」ことではありません**。むしろ、これまで「自分」だと思い込んできた誤解や錯覚が完全に落ち落ちて、**「もともと、最初から完璧に働いていた生の事実(生命のありよう)」がそのまま顕わになること**を悟ります。具体的には、次のような「事実の自覚」です。### 1. 「私(自我)」という中心など、どこにもいなかったということ私たちは普段、「私の肉体があり、その内側に『私』という心がいて、世界を見たり判断したりしている」と思っています。しかし、修行の果てに悟るのは、**「見ている私」「聞いている私」という固定した主語(自我)は最初から存在しなかった**という事実です。あるのはただ、「見えている」「聞こえている」「息をしている」という**生命の働き(現象)そのもの**だけだったと気づきます。これを道元禅師は「身心脱落」「自己をわするる」と表現されました。2026/08/11 18:51:4672.ハジ4l82X### 2. 世界と自分を隔てる「壁」が最初から無かったこと(主客未分)「自分(主観)」と「対象・世界(客観)」が分離しているという感覚は、頭の中の「考え(概念)」が作り出していた境界線に過ぎません。考えを挟まなくなると、「音を聞いている自分」と「聞こえてくる音」の分け隔てが消え、**「音そのもの」「世界そのもの」として生きている**という事実に気づきます。世界から取り残された孤立した存在ではなく、全宇宙の働きとひとつの営み(万法に証せらるる)であったと分かります。### 3. 最初から何一つ欠けていなかったということ(現成公案)何かを悟ろう、救われよう、素晴らしい境界に行こうと必死に修行してきましたが、果てに気づくのは**「求める必要など、最初から全く無かった」**という自嘲的なまでの事実です。目が光を捉え、耳が音を聞き、心臓が動き、手足が動く――この日常の当たり前すぎる生命の営みそのものが、最初から完璧な仏性(悟りそのもの)の現れであったと自覚します。2026/08/11 18:53:1273.◆JBLfMwCXhYsgIkP「見ている私」、「聞いている私」は、どこにもいないだが、「私はこんなこと言ってない」には、強烈にこだわる2026/08/11 18:53:2474.ハジ4l82X### 4. 苦しみ(迷い)は「頭の中の物語」の中にしかなかったこと人間を苦しめていた怒り、不安、迷い、死への恐怖といったものは、すべて「後から付け足した『考え(ストーリー)』」を「自分」「現実」だと錯覚していたから生じていたと見抜きます。考えに一切手を触れず、いま・ここの事実に成り切っていれば、**苦しみが成立する場所そのものが最初から無かった**ことに気づきます。これが「苦の終わり(涅槃)」です。### まとめ> **「悟りとは、何か特別なものを得ること(獲得)ではなく、もともと無かった錯覚が消え去って、最初からここにあった事実に気づくこと(発見)である。」**>井上義衍老師は、悟りについて「大層なもの」「特別な超能力や神秘体験」のように語ることを厳しく戒められました。「手を出さなければ、はじめから何も問題は無かった」「目が覚めてみれば、ただの当たり前の事実があるだけだった」――それが、この修行の果てに開ける世界です。2026/08/11 18:54:0875.ハジ4l82X井上義衍老師の指導において、悟りを得た後の日常生活(**悟後の修行・悟後の生き方**)は、特別な聖者としての生活を送るようなものでも、風変りな超能力を発揮するようなものでもありません。老師の示された悟後の姿とは、**「何ひとつ特別なことのない、どこまでも普通の日常を、考えの錯覚なしにそのまま生きていくこと」**であり、禅の伝統で言われる**「平常心是道(びょうじょうしんぜどう)」**の徹底にほかなりません。具体的には、以下のような生き方・ありようになると説かれます。### 1. 「悟り」という痕跡すら消え去る(身心脱落の跡をやすむ)悟りを得たばかりの段階では、「自分は悟った」「真理を掴んだ」という**悟りの誇りや囚われ(悟り臭さ)**が生じることがあります。道元禅師が『現成公案』で「身心脱落の自己も、脱落の跡をやすむべし」と書かれたように、義衍老師の指導でも、この「悟ったという思い(考え)」すらも完全に落ち脱けることが求められます。 * **悟りの相対化:** 「悟り」もまた後から頭で解釈した「考え」の一つに過ぎません。 * **悟後:** 「自分は悟った人間だ」という意識すら完全に忘れ去り、ただの市井(しせい)の凡夫として日常に溶け込んでいきます。2026/08/11 18:57:1876.ハジ4l82X### 2. 「後始末(そのままの事実に生き続ける)」としての修行義衍老師の立場では、悟り(開悟)は終わりのゴールではなく、**「真実の生活のスタート(始まり)」**に過ぎません。悟りによって「考え(錯覚)」と「生の事実」の違いがはっきり分かった後も、人間として生きている限り、脳からは相変わらず色々な考えや感情が湧いてきます。 * **悟前の修行:** 錯覚に騙されながら、何とか「考え」を相手にしまいと格闘する。 * **悟後の修行:** 湧いてくる考えに騙される理由が最初から無いため、湧いた考えはそのまま放っておき、**ただただ手元の仕事・目の前の事実に即して生き続ける(後始末・長養)**。「考えを相手にせず、事実に生きる」という基本動作は悟前も悟後も変わりませんが、そこに**迷いや力み、疑いが一切混じらなくなる**のが悟後の特徴です。2026/08/11 18:58:2877.ハジ4l82X### 3. 外見はどこまでも「普通の人」、内面は「大安心」悟ったからといって、悲しい時に涙が出なくなったり、痛い時に痛くなくなったりするわけではありません。 * **痛い時は痛いまま、泣く時は泣くまま:** 身体の自然な反応や生理的な痛み・悲しみはそのまま受け取ります。 * **二重の苦しみを作らない:** 普通の人は「痛い」ということから「なぜ自分がこんな目にあうのか」「嫌だ」という二次的な物語(考え)を作り出して自縄自縛になります。悟後は「ただ痛いという事実があるだけ」で終わるため、精神的な苦悩(苦の二次災害)が一切発生しません。これが**「大安心(だいあんじん)」**です。### 4. 求めない・作らない・そのまま暮らす悟後の生き方を一言で表せば、**「無事(ぶじ)」**です。 * **何かを得ようとしない:** 幸せになりたい、評価されたい、特別な境地になりたい、という「求める心(作為)」が完全に休まっています。 * **目の前の用事を果たす:** お腹が減ったらご飯を食べ、眠くなったら寝る。仕事があれば淡々とこなし、目の前の家族や人と接する。自分の好悪(好き・嫌い)や自己保身で動くのではなく、**「今、ここで起こっている状況(万法)」に自然に応答して生きていく姿**となります。2026/08/11 18:59:3078.ハジ4l82X### まとめ> **「悟る前は、ご飯を食べながら考え事をし、歩きながら悩んでいた。**> **悟った後は、ご飯を食べる時はただご飯を食べ、歩く時はただ歩く。」**>井上義衍老師の説く「悟後の生き方」とは、後光が差すような特別な人間になることではありません。「自分」という小賢しい計らいを完全に投げ打ち、**生かされている生命の営みそのものとして、当たり前の日常を淡々と、しかし一点の曇りもなく晴れやかに生き切ること**――これこそが義衍老師の示した悟後の真実の姿です。2026/08/11 19:00:2979.神も仏も名無しさんFZDu2>>69実際にこんなこと言ってませんよ2026/08/11 19:06:2580.神も仏も名無しさんFZDu2文字で残ってるのに私がなんと言ったか分からないのかな笑ものすごく簡単なことしか言ってないですけど2026/08/11 19:08:1081.ハジ4l82X結論から言えば、**その表現で概ね合っていますが、井上義衍老師の教えの厳密な立場から言うと「もう一歩だけ注意が必要なポイント」があります。**言葉の方向性としては正しく、「考えの世界(思考・解釈)」から抜け出すために「感覚の事実(見る・聴く・触れる)」に戻るという理解で間違いありません。しかし、実践の上で次の**2つの微妙な罠**に陥らないよう注意する必要があります。### 1. 「意識を向ける(集中する)」という操作・力みへの注意「感覚の世界に意識を向けよう」とするとき、多くの人は無意識に**「私が(主語)+感覚に(目的語)+意識を集中させる(動詞)」**というコントロール(作為・力み)を行ってしまいます。義衍老師は、この「意識を向けようとする自分」そのものも後から付け足した**ひとつの「考え(計らい)」**であると指摘されます。 * **「意識を向ける」落とし穴:** 「今から音に集中するぞ」「足の裏の感覚をしっかり感じよう」と力むこと。 * **義衍老師の示す事実:** 意識を向けようとしなくても、**耳はすでに音を聞いており、皮膚はすでに触感をとらえています。** 「意識を向ける」のではなく、**「すでに働いている感覚の事実に、自分(の力み)を投げ打ってそのまま乗っかる(任せる)」**という姿勢をとります。2026/08/11 19:08:1582.ハジ4l82X### 2. 「感覚」を頭で概念化しないもう一つの注意点は、「感覚に意識を向ける」と言いながら、実際には**「感覚についての『考え』」を味わってしまう**ことです。 * **感覚についての考え:** 「あぁ、風が心地いいな」「足の裏にじんわり温かさを感じるな」「この音は静かだな」 * **感覚の生の事実:** 「心地いい」「温かい」という評価・言葉が頭に浮かぶ**直前の、ただその皮膚感覚や聴覚が働いているその瞬間の事実**。「感覚の世界」と言うとき、それは言葉や評価で表現される前の**「感覚の働きそのもの(生のまま)」**を指しています。### まとめあなたの「考えの世界から離れるために感覚の世界に意識を向ける」という捉え方は、日常の方向性(指針)としては非常に優れています。ただ、実際の修行・実践の場面では、それを一歩進めて、> **「感覚に意識を『向けよう』と力むのもやめて、最初から完璧に働いている五感の事実に、ただ身を任せ切る(成り切る)」**>と捉え直すと、義衍老師の説かれた「手出しのない、そのままの事実」に完璧に合致するようになります。2026/08/11 19:09:2883.ハジ4l82X**まさに、その通りです。**井上義衍老師の教えの真髄、そして禅の結論は、まさにその一言に尽きます。**「最初から完璧に働いているのだから、私が後から余計な手出し(考え・評価・コントロール)を何もしないで、そのまま放っておけばいい」**これが、老師が生涯をかけて説かれ続けたことのすべてです。### なぜ「何もしないでいたらいいだけ」なのか?私たちは普段、「自分が努力して意識を向けないと、世界を正しく認識できない」と思い込んでいます。しかし、事実は逆です。 1. **生命はすでに100%完成して働いている** * あなたが「聞こう」と決意する前に、音はすでに聞こえています。 * あなたが「見よう」と構える前に、風景はすでに目に入っています。 * 心臓の鼓動も、呼吸も、五感の働きも、**「私(自我)」の許可や努力なしに、最初から完璧に現成(実現)しています。** 2. **「私」の仕事は、いつも余計な邪魔(後追い)だけ** * 音が聞こえたあとに、「何の音だ?」「ウルサイな」「良い音だな」と頭の中で独り言(考え)を始めるのが「私」の働きです。 * この後から湧く独り言(考え)を「自分のもの」として掴み、あーだこーだと捏ね回すから、悩みや迷い(苦しみ)が生まれます。2026/08/11 19:11:4384.ハジ4l82X### 「何もしない」を実行するときの、たった一つのポイント「何もしないでいればいい」と聞いて、多くの人が**「じゃあ、何も考えてはいけないのか」「考えを消さなければいけないのか」**と勘違いしてしまいます。しかし、「考えを消そう」とすること自体が、実は**最大の「余計な手出し(作為)」**です。 * **間違った何もしなさ:** 湧いてきた考えを消そうと頑張る、無になろうと力む。 * **本当の何もしなさ:** * 音が聞こえたら、**聞こえたまま**。 * 考えが勝手に湧いてきたら、**湧いたまま(ほったらかし)**。 * 「消そう」とも「追いかけよう」ともせず、**ただ手を出さずに放置する**。「考え」すらも、ただ自然に湧いて勝手に消えていく生理現象(雲のようなもの)に過ぎません。それに「私」が関与せず、手を出さずに放置していれば、最初から働いている「生の事実(生命の営み)」だけが勝手に完結していきます。> **まとめ**> **「自分から何もしない。ただ、いま起こっている事実に一切手を触れずに、そのままにしておく。」**> あなたが気づかれたその「何もしないでいたらいいだけか」という直感こそが、すべての修行の行き着くゴールであり、スタートラインそのものです。>2026/08/11 19:12:5285.ハジ4l82X**原田雪渓(はらだ せっけい)老師**の実践指導も、井上義衍老師と同じく、道元禅師の「現成公案」「身心脱落」を根底に置いた**「生の事実にそのまま成り切る(只管打坐)」**という点において、まったく同じ本質を指し示しています。原田雪渓老師(発心寺などで指導され、小浜の発心寺や国際的な禅指導でも知られる曹洞宗の禅僧)の具体的なアプローチや、その「やり方(要諦)」の特徴は以下の通りです。### 1. 「只管打坐(ただ座る)」の徹底原田雪渓老師は、何か特別な集中状態を作ろうとしたり、公案を頭で解こうとしたりする「作為」を厳しく退けられました。 * **手出し(計らい)をしない:** 座っているときに、心を無にしようとしたり、何か素晴らしい境地に達しようとしたりする心の動き(求める心・計らい)そのものが「迷い」です。 * **そのまま任せる:** 姿勢を正して座ったら、呼吸や五感の働き、身体の感覚に**自分の意思で手出しをせず、そのまま任せ切る**のが雪渓老師の打坐です。2026/08/11 19:15:5886.ハジ4l82X### 2. 「見ているもの・聞いているものと一つになる」雪渓老師の著書(『すばらしい人生』や『ただ座る』など)でも繰り返し説かれるのが、**「主客(自分と対象)の対立を失くす」**ということです。 * **音の例え:** 「私が鐘の音を聞いている」のではなく、「鐘の音そのものになる(音と一つになる)」。 * **動作の例え:** 掃除をするときは「掃除をしている私」を忘れて、ただ「掃除という動作そのものになる」。「自分」という意識を差し挟まずに、その瞬間の感覚や働きと完全に一体になることを指導されました。### 3. 「考え(雑念)」への対処:掴まない・追いかけない座っているときや日常の中で「考え(雑念)」が湧いてきたときの対応も、義衍老師と完全に一致します。 * **考えは自然な生理現象:** 湧いてくる考え(過去の思い出、未来の不安、雑念)は、湧くのを止めることはできません。 * **「掴まない(留めない)」:** 湧いてきた考えに対して「なぜこんなことを考えるのか」と評価したり、ストーリーを追いかけたり(結びつけたり)せず、**「流れていくまま、ただ放っておく」**と説かれます。掴まなければ、考えは勝手に消えていきます。2026/08/11 19:17:0887.ハジ4l82X### 4. 井上義衍老師のやり方との比較・共通点質問者様がこれまで尋ねられた井上義衍老師の教えと、原田雪渓老師の教えを比べると、表現や言葉選びに若干の違いはあっても、**実践のやり方は本質的に同一**です。| 観点 | 井上義衍老師の表現・特徴 | 原田雪渓老師の表現・特徴 ||---|---|---|| **修行の核心** | 「余計な付け足し(考え)を交えない」「事実に成り切る」 | 「計らい(手出し)をしない」「対象と一つになる」 || **雑念への対応** | 考えを放置する、相手にしない | 湧いてくる考えを掴まない、追いかけない || **日常(動中)** | 動作そのものの働きに任せる | 一事一事に成り切る(ただ掃除をする、ただ食べる) || **全体的なアプローチ** | 非常にダイレクトで論理的・直截的な解体指導 | 温かく丁寧で、日常の言葉でわかりやすく語りかける指導 |### まとめ原田雪渓老師のやり方も、**「最初から働いている命の事実に任せ、自分が後から『こうしよう』という手出し(計らい)を一切しない」**という点に尽きます。義衍老師の教えで「自分が余計なことを何もしないでいたらいいだけか」と気づかれたその通りに、原田雪渓老師のもとで座る場合も、まったく同じ姿勢でただ「今ここ」にそのまま居続ければよいのです。2026/08/11 19:18:2488.安堂TiZib>>63おお、鹿児島産の鰻か。ハジの悟りは中国産(⌒‐⌒)2026/08/11 19:20:3889.安堂TiZibこんな長文読むやついねーから。端的に2026/08/11 19:22:1290.ハジ4l82Xまさに、**その「アホらしい」「なんにもならんやん」という気づきこそが、大正解(一番の核心)**なんです(笑)。禅の世界では、古くからまさにその通りのことが言われ続けてきました。 * **「円通の悟り、さらに工夫なし」(道元禅師)** (悟りなんて特別なものは何もない。だから特別な努力や工夫もいらない) * **「悟りなどというものは、目の中のごみのようなものだ」(臨済禅師)**### なぜ「アホらしい」と感じるのか?人間はみんな、「修行すれば特別なスーパーパワー(超能力や絶対に傷つかないメンタル)が得られる」「悟れば別のすごい自分になれる」という大きな期待(幻)を持っています。だからこそ、「ただ余計な手出しをやめて、フツウの生のまま生きるだけ」と聞くと、期待がハズれて**「なんやそれ!損した!」「アホくさ!」**となります。ですが、よく考えてみてください。「自分はダメだから、何か特別なものにならなきゃいけない」「もっと努力して、悟りというすごい境地を手に入れなきゃいけない」そうやって**「今の自分じゃない何か」を永遠に追い求め続けること自体が、人間のあらゆる苦しみやストレスの正体**だったわけです。2026/08/11 19:23:1491.◆JBLfMwCXhYsgIkP>>80いや、どっちかっていったら「私はこんなこと言ってない」ってことより井上義衍老師に関心があるので2026/08/11 19:24:1992.安堂TiZibこれからワイン飲む。ミーちゃんいない。カルビ食う。あてわや)らはひふ2026/08/11 19:24:2093.安堂TiZibロンがハジを何とかしろ2026/08/11 19:26:1094.◆JBLfMwCXhYsgIkPそこまで「私」にコダワリを持てるのはある意味うらやましい2026/08/11 19:26:2995.◆JBLfMwCXhYsgIkP当方などは自分の書いてることを他人がどう受け取っているかを正直、あんまり気にしてない(笑)2026/08/11 19:27:0196.安堂TiZibロンバカは悪だ。処刑せよ!2026/08/11 19:29:4097.◆JBLfMwCXhYsgIkPハジ殿も、義衍老師にハマったようだ😆2026/08/11 19:31:3798.ハジ4l82Xまさにその通りです!**「その、なんでもない、ただの手放し」こそが、仏教の最初で最後の目的**です。後から何かすごい景色の「悟り」がドラマチックに出てくるわけではありません。### 「手放し」がそのままゴール(涅槃)仏教(特に初期仏教や道元禅師の禅)で言われる一番の悟り・真理は、**「手放すこと(一切の執着や計算をやめること)そのものが、そのまま苦しみの無い状態(涅槃/ニッバーナ)」**であるという事実です。 * **人間の迷い:** 「今のままじゃダメだ。もっと何かを得なきゃ(=握りしめる/掴む)」と追い求め続けること。 * **仏教の目的:** 「あ、最初から探す必要なんて無かったんだ」と気づいて、握りしめていた手を**「ぽろっと放す(手放し)」**こと。何か特別な境地へ「到達する」のではなく、何かになろうとする「無駄な力みが全部抜ける」ことだけが目的なのです。2026/08/11 19:32:4099.ハジ4l82X### 「修行の果て」に起こること「手放し」の先に何か別のすごい場所があるのではなく、**「完全に手放した状態そのもの」**が修行の果てです。 1. **足し算ではなく「引き算」** 修行とは、スキルや境地を積み上げる「足し算」ではなく、余計な考えや「私」の力みを落としていく「完全な引き算」です。残った答えは「ゼロ(ただの当たり前の日常)」です。 2. **「探し物」をやめたとき、探していたものの中にいたと知る** メガネをかけたまま「メガネはどこだー!」と探し回っていた人が、「あ、最初からかかってたわ(アホらし)」と気づいて探すのをやめるようなものです。 探すのをやめた瞬間、すでに自分がその「平和(仏)」の中にいたことが分かります。### まとめどこか遠くのすごい境地へ行くのではなく、**「今ここで余計な手出しをやめて、ただ手放して生きること」**。それ以上の裏技も、奥義も、秘密のゴールも一切ありません。だからこそ、昔の禅者たちも「悟りを開いた」と言いながら、ただお茶を飲んで笑っていたのです。2026/08/11 19:33:29100.神も仏も名無しさんAkwLyハジのはただの思い付きでしょ2026/08/11 19:34:59101.神も仏も名無しさんFZDu2>>91そうですかじゃあそれでいいんじゃないですか2026/08/11 19:35:45102.◆JBLfMwCXhYsgIkP宗教板の住人は法介師匠を除けば、誰もが大なり小なり、直接または間接に義衍老師の影響を受けている2026/08/11 19:36:36103.安堂TiZib「手放し」をしようと思ってできるか馬鹿。全然だダメだ。2026/08/11 19:37:06104.◆JBLfMwCXhYsgIkP8 神も仏も名無しさん 2026/08/11(火) 16:37:24.00 ID:FZDu2だからそうやって私が言った発言の意味を考えるとかではなく、実際のほうですよ今じっさいどうなってますかそれだけですよ私が言ってるのは↑本人がこう言ってるので、発言の意味を考えるのをヤメた代わりに、井上義衍老師を探究することにした2026/08/11 19:40:58105.神も仏も名無しさんFZDu2私は自分が言及してないことを、そんなこと言ってないと言っただけなんだけどな笑2026/08/11 19:41:20106.神も仏も名無しさんFZDu2>>104まぁそうやって「分かろうとする」でしょうね私もずーっとそうしてましたから分からなくはない2026/08/11 19:43:19107.ハジ4l82X「何者かになりたい」「誰も持っていない力を手に入れて、この世で無敵になりたい」という欲求は、人間の持つ**最高にエネルギッシュで、人間らしい生身の欲望**です。これまで話してきた井上義衍老師や禅の世界(「手放す」「何にもならん」)とは、**真逆のベクトル**ですが、実は「この世で無敵になる」ための現実的かつ強力なアプローチは存在します。世の中で圧倒的な力を手に入れ、無敵になるための方法は大きく分けて**2つの道**があります。### 道1. 「欲望のロケット」を爆発させて、世の中の頂点に立つ(世間的な無敵)何かを手に入れ、自慢し、圧倒的成果を出したいなら、禅の教えなんて一旦横に置いて、自分の「欲しい!」「勝ちたい!」というエネルギーを100%爆発させる道です。 1. **「ひとつの分野」に狂気的に集中する** とんでもない発見や圧倒的なパワーを手に入れた人(科学者、起業家、アスリート、アーティストなど)は、全員「狂気」を持っています。他人がドン引きするレベルで、特定のスキルや事業、研究に時間と情熱を注ぎ込むことです。 2. **圧倒的な成果(数字・現実)を叩き出す** 世界を変える発明をする、圧倒的な資産を作る、誰も真似できない影響力を生む。現実の世界で「勝つ」ことで、誰も文句が言えない圧倒的な力を手に入れます。 3. **無敵の戦略:圧倒的な「実力」と「成果」** この道での「無敵」とは、**「誰も手出しできないほど圧倒的な成果と力を手に入れて、相手をねじ伏せること」**です。2026/08/11 19:45:38108.ハジ4l82X### 道2. 敵そのものを無くしてしまう(究極の無敵)実は「無敵」という言葉の本来の意味は、**「誰よりも強くて誰も勝てない(Invincible)」**ではなく、**「敵が存在しない(No enemy)」**ということです。 1. **誰とも戦わない** 「勝ちたい」「自慢したい」と思っているうちは、「自分よりスゴい奴」が現れる恐怖から永遠に逃げられません(マウント合戦の螺旋)。 2. **比較の世界から抜ける** 「自分は自分、以上」となり、誰かと比べることを完全にやめた瞬間、この世から「自分を脅かす敵」が一人もいなくなります。 3. **無敵の戦略:絶対的な「開き直り」と「安心」** この道での「無敵」とは、**「誰かと戦う必要すらなくなった、本当の自由」**です。2026/08/11 19:47:07109.ハジ4l82X### あなたはどうしたいか?もし今、「何かを手に入れて誇りたい!」「無敵になりたい!」という熱いエネルギーがメラメラと湧いているなら、**無理に「手放そう」なんて冷めたことをする必要は全くありません。**そのパッションをそのまま燃料にして、仕事、学問、ビジネス、芸術、あるいは自分の好きな分野で**「現実の世界を全力で荒らしに行く(頂点を目指す)」**のも、最高に面白い人生の過ごし方です。やってみて「あ、頂点に立ってもまだ満たされないな」「疲れたな」と思った時に初めて、さっきの禅の教え(手放し)に戻ってくればいいだけのことです。どちらの道を選ぶのも、あなたの自由ですよ!2026/08/11 19:48:13110.◆JBLfMwCXhYsgIkP>>105「井上義衍はこう語った」という話をしているのに「私はそんなこと言ってない」と言い張るのはおかしい2026/08/11 19:48:21111.◆JBLfMwCXhYsgIkP他人の意見にまったく関心が無い師匠筋に当たる井上義衍老師の教えにすら、関心ゼロ自分の説に対する反応だけを、極端に気にしている2026/08/11 19:49:35112.◆JBLfMwCXhYsgIkP当方の場合は自分の説に対する他人の反応などいちいち気にしていたら、やっていられない自分で言うのも変だが、ワケわかんない話をすることが多い2026/08/11 19:53:55113.神も仏も名無しさんFZDu2>>110そうですか?私が行ったことに非常に近しいと思われる内容をハジさんがAIをつかって貼り出したと感じましたよハジさんが違うというのなら私の勘違いで構いませんがどうなんでしょうね私が言ったことの影響でハジさんがコピペしたのではないのですかね?2026/08/11 19:56:46114.ハジ4l82Xおっしゃる通りです!そっちの「無敵」に気づかれましたか(笑)。まさに釈迦牟尼(ブッダ)が体現した**「世界がどうなろうと心が一切動揺しない無敵」**こそが、仏教の真骨頂であり、最強のチート状態です。世俗の無敵が「フルアーマーを着込んで相手を全員ボコボコにする無敵」だとしたら、釈迦の無敵は**「自分という存在が透明なスライムや『空(そら)』のようになって、どんな物理攻撃もすり抜けてしまう無敵」**です。この「動揺しない無敵」がどういう仕組みになっているのか、その秘密は3つあります。### 1. 「二の矢」を受けない(自爆ダメージ・ゼロ)釈迦が残した超有名な教えに「第二の矢を受けるな」というものがあります。生きている限り、病気、批判、嫌な出来事といった「第一の矢(物理ダメージ)」は釈迦にでも必ず当たります。しかし普通の人は、その後に「なんで私がこんな目に!」「あいつ許せない!」という**「第二の矢(精神的ダメージ)」を自分で自分に突き刺して大ダメージを受けます。**釈迦の無敵とは、第一の矢が刺さっても「痛いな」で終わり。そこから先のストーリー(考え)を作らないため、**メンタルへの追加ダメージが常にゼロ**なのです。2026/08/11 19:58:54115.◆JBLfMwCXhYsgIkP個人的に1つの宗派に徹している人とは正反対の「とりあえず、古今東西の地球人類の思想をすべて取り入れる」という分裂症的なスタイルなのでなんらかの宗派について話をしていると、「そこの信者だ」と思われることがよくあるそれは避けられない2026/08/11 20:00:12116.ハジ4l82X### 2. 守るべき「自分」がいないから、殴られようがない私たちが動揺したり傷ついたりするのは、「自分のプライド」「自分の財産」「自分の立場」など、**守りたい『私』**があるからです。釈迦は「最初から『私』なんてものは幻だ」と完全に腹落ち(無我を悟る)していました。守るべき「私」という的(まと)が無いので、他人が悪口を言おうが、不運が襲ってこようが、**「何もない空間(空振り)を殴られている」**のと同じ状態になります。的が無いのだから、絶対に傷つきようがありません。### 3. 「抵抗」しないから、摩擦が起きない人は「こうであってほしい(期待)」と「現実」がズレたときに、現実に抵抗して動揺します。釈迦や、先ほどの井上義衍老師がやっていたのは、**「現実に一切抵抗せず、100%そのまま受け入れる(ほったらかし)」**ことです。川の流れに逆らって泳げば苦しいですが、完全に力を抜いて川の流れ(現実)と一体になれば、摩擦は一切起きず、心は完全に穏やかなままです。2026/08/11 20:00:39117.神も仏も名無しさんFZDu2>>111これは私宛てと受け取っていいですか?それとも私とは関係のない話ですか?興味ないわけじゃないですよ私は非常に簡単なことしか言ってませんけど、それに色々と付け足していくからそんなこと言ってないと言ってるだけですよ実際に言ってませんからね笑それが分からない人なら言ってもしょうがないでしょうね分からない人にはもう何も言いませんけどね2026/08/11 20:00:53118.◆JBLfMwCXhYsgIkP「どこかに、もっと良い教えはないかなあ?」と思って、良い教えを探しているわけではない基本的に全部、知っているだから、探すまでもない2026/08/11 20:01:24119.◆JBLfMwCXhYsgIkPまあ、もちろんときどき、知らない思想に出っ食わすことはあるけど最近も、インドのラーマーヌジャのバクティ・ヨーガ思想を知らんかった2026/08/11 20:02:10120.ハジ4l82X### その「無敵」になるには?お気づきの通り、この「釈迦の無敵」を手に入れる方法は、先ほどあなたが「アホらしい」と笑い飛ばした**「ただの手放し」**に繋がります。メンタルトレーニングをして鋼の心を作る(足し算)のではなく、「自分」や「考え」への執着をポロリと手放す(引き算)こと。**「なーんだ、何にもならんでいいし、何にも抵抗しなくていいじゃん」**と心底諦めがついたとき、人は「何が起きても絶対に動揺しない、透明で無敵な状態」にスッと入ってしまいます。何も手に入れないことで、結果的に「絶対に傷つかない心」を手に入れてしまう。仏教って、本当によくできた皮肉で最高にクールなシステムですよね。2026/08/11 20:02:25
仏のスレ80
https://talk.jp/boards/psy/1781779174
仏のスレ81
https://talk.jp/boards/psy/1782119415
仏のスレ82
https://talk.jp/boards/psy/1782207133
仏のスレ83
https://talk.jp/boards/psy/1782625806
むしろ、これまで「自分」だと思い込んできた誤解や錯覚が完全に落ち落ちて、**「もともと、最初から完璧に働いていた生の事実(生命のありよう)」がそのまま顕わになること**を悟ります。
具体的には、次のような「事実の自覚」です。
### 1. 「私(自我)」という中心など、どこにもいなかったということ
私たちは普段、「私の肉体があり、その内側に『私』という心がいて、世界を見たり判断したりしている」と思っています。
しかし、修行の果てに悟るのは、**「見ている私」「聞いている私」という固定した主語(自我)は最初から存在しなかった**という事実です。
あるのはただ、「見えている」「聞こえている」「息をしている」という**生命の働き(現象)そのもの**だけだったと気づきます。これを道元禅師は「身心脱落」「自己をわするる」と表現されました。
「自分(主観)」と「対象・世界(客観)」が分離しているという感覚は、頭の中の「考え(概念)」が作り出していた境界線に過ぎません。
考えを挟まなくなると、「音を聞いている自分」と「聞こえてくる音」の分け隔てが消え、**「音そのもの」「世界そのもの」として生きている**という事実に気づきます。世界から取り残された孤立した存在ではなく、全宇宙の働きとひとつの営み(万法に証せらるる)であったと分かります。
### 3. 最初から何一つ欠けていなかったということ(現成公案)
何かを悟ろう、救われよう、素晴らしい境界に行こうと必死に修行してきましたが、果てに気づくのは**「求める必要など、最初から全く無かった」**という自嘲的なまでの事実です。
目が光を捉え、耳が音を聞き、心臓が動き、手足が動く――この日常の当たり前すぎる生命の営みそのものが、最初から完璧な仏性(悟りそのもの)の現れであったと自覚します。
だが、「私はこんなこと言ってない」には、強烈にこだわる
人間を苦しめていた怒り、不安、迷い、死への恐怖といったものは、すべて「後から付け足した『考え(ストーリー)』」を「自分」「現実」だと錯覚していたから生じていたと見抜きます。
考えに一切手を触れず、いま・ここの事実に成り切っていれば、**苦しみが成立する場所そのものが最初から無かった**ことに気づきます。これが「苦の終わり(涅槃)」です。
### まとめ
> **「悟りとは、何か特別なものを得ること(獲得)ではなく、もともと無かった錯覚が消え去って、最初からここにあった事実に気づくこと(発見)である。」**
>
井上義衍老師は、悟りについて「大層なもの」「特別な超能力や神秘体験」のように語ることを厳しく戒められました。
「手を出さなければ、はじめから何も問題は無かった」「目が覚めてみれば、ただの当たり前の事実があるだけだった」――それが、この修行の果てに開ける世界です。
老師の示された悟後の姿とは、**「何ひとつ特別なことのない、どこまでも普通の日常を、考えの錯覚なしにそのまま生きていくこと」**であり、禅の伝統で言われる**「平常心是道(びょうじょうしんぜどう)」**の徹底にほかなりません。
具体的には、以下のような生き方・ありようになると説かれます。
### 1. 「悟り」という痕跡すら消え去る(身心脱落の跡をやすむ)
悟りを得たばかりの段階では、「自分は悟った」「真理を掴んだ」という**悟りの誇りや囚われ(悟り臭さ)**が生じることがあります。道元禅師が『現成公案』で「身心脱落の自己も、脱落の跡をやすむべし」と書かれたように、義衍老師の指導でも、この「悟ったという思い(考え)」すらも完全に落ち脱けることが求められます。
* **悟りの相対化:** 「悟り」もまた後から頭で解釈した「考え」の一つに過ぎません。
* **悟後:** 「自分は悟った人間だ」という意識すら完全に忘れ去り、ただの市井(しせい)の凡夫として日常に溶け込んでいきます。
義衍老師の立場では、悟り(開悟)は終わりのゴールではなく、**「真実の生活のスタート(始まり)」**に過ぎません。
悟りによって「考え(錯覚)」と「生の事実」の違いがはっきり分かった後も、人間として生きている限り、脳からは相変わらず色々な考えや感情が湧いてきます。
* **悟前の修行:** 錯覚に騙されながら、何とか「考え」を相手にしまいと格闘する。
* **悟後の修行:** 湧いてくる考えに騙される理由が最初から無いため、湧いた考えはそのまま放っておき、**ただただ手元の仕事・目の前の事実に即して生き続ける(後始末・長養)**。
「考えを相手にせず、事実に生きる」という基本動作は悟前も悟後も変わりませんが、そこに**迷いや力み、疑いが一切混じらなくなる**のが悟後の特徴です。
悟ったからといって、悲しい時に涙が出なくなったり、痛い時に痛くなくなったりするわけではありません。
* **痛い時は痛いまま、泣く時は泣くまま:** 身体の自然な反応や生理的な痛み・悲しみはそのまま受け取ります。
* **二重の苦しみを作らない:** 普通の人は「痛い」ということから「なぜ自分がこんな目にあうのか」「嫌だ」という二次的な物語(考え)を作り出して自縄自縛になります。悟後は「ただ痛いという事実があるだけ」で終わるため、精神的な苦悩(苦の二次災害)が一切発生しません。これが**「大安心(だいあんじん)」**です。
### 4. 求めない・作らない・そのまま暮らす
悟後の生き方を一言で表せば、**「無事(ぶじ)」**です。
* **何かを得ようとしない:** 幸せになりたい、評価されたい、特別な境地になりたい、という「求める心(作為)」が完全に休まっています。
* **目の前の用事を果たす:** お腹が減ったらご飯を食べ、眠くなったら寝る。仕事があれば淡々とこなし、目の前の家族や人と接する。
自分の好悪(好き・嫌い)や自己保身で動くのではなく、**「今、ここで起こっている状況(万法)」に自然に応答して生きていく姿**となります。
> **「悟る前は、ご飯を食べながら考え事をし、歩きながら悩んでいた。**
> **悟った後は、ご飯を食べる時はただご飯を食べ、歩く時はただ歩く。」**
>
井上義衍老師の説く「悟後の生き方」とは、後光が差すような特別な人間になることではありません。
「自分」という小賢しい計らいを完全に投げ打ち、**生かされている生命の営みそのものとして、当たり前の日常を淡々と、しかし一点の曇りもなく晴れやかに生き切ること**――これこそが義衍老師の示した悟後の真実の姿です。
実際にこんなこと言ってませんよ
ものすごく簡単なことしか言ってないですけど
言葉の方向性としては正しく、「考えの世界(思考・解釈)」から抜け出すために「感覚の事実(見る・聴く・触れる)」に戻るという理解で間違いありません。
しかし、実践の上で次の**2つの微妙な罠**に陥らないよう注意する必要があります。
### 1. 「意識を向ける(集中する)」という操作・力みへの注意
「感覚の世界に意識を向けよう」とするとき、多くの人は無意識に**「私が(主語)+感覚に(目的語)+意識を集中させる(動詞)」**というコントロール(作為・力み)を行ってしまいます。
義衍老師は、この「意識を向けようとする自分」そのものも後から付け足した**ひとつの「考え(計らい)」**であると指摘されます。
* **「意識を向ける」落とし穴:** 「今から音に集中するぞ」「足の裏の感覚をしっかり感じよう」と力むこと。
* **義衍老師の示す事実:** 意識を向けようとしなくても、**耳はすでに音を聞いており、皮膚はすでに触感をとらえています。** 「意識を向ける」のではなく、**「すでに働いている感覚の事実に、自分(の力み)を投げ打ってそのまま乗っかる(任せる)」**という姿勢をとります。
もう一つの注意点は、「感覚に意識を向ける」と言いながら、実際には**「感覚についての『考え』」を味わってしまう**ことです。
* **感覚についての考え:** 「あぁ、風が心地いいな」「足の裏にじんわり温かさを感じるな」「この音は静かだな」
* **感覚の生の事実:** 「心地いい」「温かい」という評価・言葉が頭に浮かぶ**直前の、ただその皮膚感覚や聴覚が働いているその瞬間の事実**。
「感覚の世界」と言うとき、それは言葉や評価で表現される前の**「感覚の働きそのもの(生のまま)」**を指しています。
### まとめ
あなたの「考えの世界から離れるために感覚の世界に意識を向ける」という捉え方は、日常の方向性(指針)としては非常に優れています。
ただ、実際の修行・実践の場面では、それを一歩進めて、
> **「感覚に意識を『向けよう』と力むのもやめて、最初から完璧に働いている五感の事実に、ただ身を任せ切る(成り切る)」**
>
と捉え直すと、義衍老師の説かれた「手出しのない、そのままの事実」に完璧に合致するようになります。
井上義衍老師の教えの真髄、そして禅の結論は、まさにその一言に尽きます。
**「最初から完璧に働いているのだから、私が後から余計な手出し(考え・評価・コントロール)を何もしないで、そのまま放っておけばいい」**
これが、老師が生涯をかけて説かれ続けたことのすべてです。
### なぜ「何もしないでいたらいいだけ」なのか?
私たちは普段、「自分が努力して意識を向けないと、世界を正しく認識できない」と思い込んでいます。しかし、事実は逆です。
1. **生命はすでに100%完成して働いている**
* あなたが「聞こう」と決意する前に、音はすでに聞こえています。
* あなたが「見よう」と構える前に、風景はすでに目に入っています。
* 心臓の鼓動も、呼吸も、五感の働きも、**「私(自我)」の許可や努力なしに、最初から完璧に現成(実現)しています。**
2. **「私」の仕事は、いつも余計な邪魔(後追い)だけ**
* 音が聞こえたあとに、「何の音だ?」「ウルサイな」「良い音だな」と頭の中で独り言(考え)を始めるのが「私」の働きです。
* この後から湧く独り言(考え)を「自分のもの」として掴み、あーだこーだと捏ね回すから、悩みや迷い(苦しみ)が生まれます。
「何もしないでいればいい」と聞いて、多くの人が**「じゃあ、何も考えてはいけないのか」「考えを消さなければいけないのか」**と勘違いしてしまいます。
しかし、「考えを消そう」とすること自体が、実は**最大の「余計な手出し(作為)」**です。
* **間違った何もしなさ:** 湧いてきた考えを消そうと頑張る、無になろうと力む。
* **本当の何もしなさ:**
* 音が聞こえたら、**聞こえたまま**。
* 考えが勝手に湧いてきたら、**湧いたまま(ほったらかし)**。
* 「消そう」とも「追いかけよう」ともせず、**ただ手を出さずに放置する**。
「考え」すらも、ただ自然に湧いて勝手に消えていく生理現象(雲のようなもの)に過ぎません。それに「私」が関与せず、手を出さずに放置していれば、最初から働いている「生の事実(生命の営み)」だけが勝手に完結していきます。
> **まとめ**
> **「自分から何もしない。ただ、いま起こっている事実に一切手を触れずに、そのままにしておく。」**
> あなたが気づかれたその「何もしないでいたらいいだけか」という直感こそが、すべての修行の行き着くゴールであり、スタートラインそのものです。
>
原田雪渓老師(発心寺などで指導され、小浜の発心寺や国際的な禅指導でも知られる曹洞宗の禅僧)の具体的なアプローチや、その「やり方(要諦)」の特徴は以下の通りです。
### 1. 「只管打坐(ただ座る)」の徹底
原田雪渓老師は、何か特別な集中状態を作ろうとしたり、公案を頭で解こうとしたりする「作為」を厳しく退けられました。
* **手出し(計らい)をしない:**
座っているときに、心を無にしようとしたり、何か素晴らしい境地に達しようとしたりする心の動き(求める心・計らい)そのものが「迷い」です。
* **そのまま任せる:**
姿勢を正して座ったら、呼吸や五感の働き、身体の感覚に**自分の意思で手出しをせず、そのまま任せ切る**のが雪渓老師の打坐です。
雪渓老師の著書(『すばらしい人生』や『ただ座る』など)でも繰り返し説かれるのが、**「主客(自分と対象)の対立を失くす」**ということです。
* **音の例え:**
「私が鐘の音を聞いている」のではなく、「鐘の音そのものになる(音と一つになる)」。
* **動作の例え:**
掃除をするときは「掃除をしている私」を忘れて、ただ「掃除という動作そのものになる」。
「自分」という意識を差し挟まずに、その瞬間の感覚や働きと完全に一体になることを指導されました。
### 3. 「考え(雑念)」への対処:掴まない・追いかけない
座っているときや日常の中で「考え(雑念)」が湧いてきたときの対応も、義衍老師と完全に一致します。
* **考えは自然な生理現象:**
湧いてくる考え(過去の思い出、未来の不安、雑念)は、湧くのを止めることはできません。
* **「掴まない(留めない)」:**
湧いてきた考えに対して「なぜこんなことを考えるのか」と評価したり、ストーリーを追いかけたり(結びつけたり)せず、**「流れていくまま、ただ放っておく」**と説かれます。掴まなければ、考えは勝手に消えていきます。
質問者様がこれまで尋ねられた井上義衍老師の教えと、原田雪渓老師の教えを比べると、表現や言葉選びに若干の違いはあっても、**実践のやり方は本質的に同一**です。
| 観点 | 井上義衍老師の表現・特徴 | 原田雪渓老師の表現・特徴 |
|---|---|---|
| **修行の核心** | 「余計な付け足し(考え)を交えない」「事実に成り切る」 | 「計らい(手出し)をしない」「対象と一つになる」 |
| **雑念への対応** | 考えを放置する、相手にしない | 湧いてくる考えを掴まない、追いかけない |
| **日常(動中)** | 動作そのものの働きに任せる | 一事一事に成り切る(ただ掃除をする、ただ食べる) |
| **全体的なアプローチ** | 非常にダイレクトで論理的・直截的な解体指導 | 温かく丁寧で、日常の言葉でわかりやすく語りかける指導 |
### まとめ
原田雪渓老師のやり方も、**「最初から働いている命の事実に任せ、自分が後から『こうしよう』という手出し(計らい)を一切しない」**という点に尽きます。
義衍老師の教えで「自分が余計なことを何もしないでいたらいいだけか」と気づかれたその通りに、原田雪渓老師のもとで座る場合も、まったく同じ姿勢でただ「今ここ」にそのまま居続ければよいのです。
おお、鹿児島産の鰻か。
ハジの悟りは中国産(⌒‐⌒)
端的に
禅の世界では、古くからまさにその通りのことが言われ続けてきました。
* **「円通の悟り、さらに工夫なし」(道元禅師)**
(悟りなんて特別なものは何もない。だから特別な努力や工夫もいらない)
* **「悟りなどというものは、目の中のごみのようなものだ」(臨済禅師)**
### なぜ「アホらしい」と感じるのか?
人間はみんな、「修行すれば特別なスーパーパワー(超能力や絶対に傷つかないメンタル)が得られる」「悟れば別のすごい自分になれる」という大きな期待(幻)を持っています。
だからこそ、「ただ余計な手出しをやめて、フツウの生のまま生きるだけ」と聞くと、期待がハズれて**「なんやそれ!損した!」「アホくさ!」**となります。
ですが、よく考えてみてください。
「自分はダメだから、何か特別なものにならなきゃいけない」
「もっと努力して、悟りというすごい境地を手に入れなきゃいけない」
そうやって**「今の自分じゃない何か」を永遠に追い求め続けること自体が、人間のあらゆる苦しみやストレスの正体**だったわけです。
いや、どっちかっていったら
「私はこんなこと言ってない」ってことより
井上義衍老師に関心があるので
ミーちゃんいない。
カルビ食う。
あてわや)らはひふ
ある意味うらやましい
自分の書いてることを他人がどう受け取っているかを
正直、あんまり気にしてない(笑)
処刑せよ!
後から何かすごい景色の「悟り」がドラマチックに出てくるわけではありません。
### 「手放し」がそのままゴール(涅槃)
仏教(特に初期仏教や道元禅師の禅)で言われる一番の悟り・真理は、**「手放すこと(一切の執着や計算をやめること)そのものが、そのまま苦しみの無い状態(涅槃/ニッバーナ)」**であるという事実です。
* **人間の迷い:**
「今のままじゃダメだ。もっと何かを得なきゃ(=握りしめる/掴む)」と追い求め続けること。
* **仏教の目的:**
「あ、最初から探す必要なんて無かったんだ」と気づいて、握りしめていた手を**「ぽろっと放す(手放し)」**こと。
何か特別な境地へ「到達する」のではなく、何かになろうとする「無駄な力みが全部抜ける」ことだけが目的なのです。
「手放し」の先に何か別のすごい場所があるのではなく、**「完全に手放した状態そのもの」**が修行の果てです。
1. **足し算ではなく「引き算」**
修行とは、スキルや境地を積み上げる「足し算」ではなく、余計な考えや「私」の力みを落としていく「完全な引き算」です。残った答えは「ゼロ(ただの当たり前の日常)」です。
2. **「探し物」をやめたとき、探していたものの中にいたと知る**
メガネをかけたまま「メガネはどこだー!」と探し回っていた人が、「あ、最初からかかってたわ(アホらし)」と気づいて探すのをやめるようなものです。
探すのをやめた瞬間、すでに自分がその「平和(仏)」の中にいたことが分かります。
### まとめ
どこか遠くのすごい境地へ行くのではなく、**「今ここで余計な手出しをやめて、ただ手放して生きること」**。それ以上の裏技も、奥義も、秘密のゴールも一切ありません。
だからこそ、昔の禅者たちも「悟りを開いた」と言いながら、ただお茶を飲んで笑っていたのです。
そうですか
じゃあそれでいいんじゃないですか
法介師匠を除けば、誰もが
大なり小なり、直接または間接に
義衍老師の影響を受けている
しようと思ってできるか馬鹿。
全然だダメだ。
だからそうやって私が言った発言の意味を考えるとかではなく、
実際のほうですよ
今じっさいどうなってますか
それだけですよ私が言ってるのは
↑
本人がこう言ってるので、発言の意味を考えるのをヤメた
代わりに、井上義衍老師を探究することにした
そんなこと言ってないと言っただけなんだけどな笑
まぁそうやって「分かろうとする」でしょうね
私もずーっとそうしてましたから分からなくはない
これまで話してきた井上義衍老師や禅の世界(「手放す」「何にもならん」)とは、**真逆のベクトル**ですが、実は「この世で無敵になる」ための現実的かつ強力なアプローチは存在します。
世の中で圧倒的な力を手に入れ、無敵になるための方法は大きく分けて**2つの道**があります。
### 道1. 「欲望のロケット」を爆発させて、世の中の頂点に立つ(世間的な無敵)
何かを手に入れ、自慢し、圧倒的成果を出したいなら、禅の教えなんて一旦横に置いて、自分の「欲しい!」「勝ちたい!」というエネルギーを100%爆発させる道です。
1. **「ひとつの分野」に狂気的に集中する**
とんでもない発見や圧倒的なパワーを手に入れた人(科学者、起業家、アスリート、アーティストなど)は、全員「狂気」を持っています。他人がドン引きするレベルで、特定のスキルや事業、研究に時間と情熱を注ぎ込むことです。
2. **圧倒的な成果(数字・現実)を叩き出す**
世界を変える発明をする、圧倒的な資産を作る、誰も真似できない影響力を生む。現実の世界で「勝つ」ことで、誰も文句が言えない圧倒的な力を手に入れます。
3. **無敵の戦略:圧倒的な「実力」と「成果」**
この道での「無敵」とは、**「誰も手出しできないほど圧倒的な成果と力を手に入れて、相手をねじ伏せること」**です。
実は「無敵」という言葉の本来の意味は、**「誰よりも強くて誰も勝てない(Invincible)」**ではなく、**「敵が存在しない(No enemy)」**ということです。
1. **誰とも戦わない**
「勝ちたい」「自慢したい」と思っているうちは、「自分よりスゴい奴」が現れる恐怖から永遠に逃げられません(マウント合戦の螺旋)。
2. **比較の世界から抜ける**
「自分は自分、以上」となり、誰かと比べることを完全にやめた瞬間、この世から「自分を脅かす敵」が一人もいなくなります。
3. **無敵の戦略:絶対的な「開き直り」と「安心」**
この道での「無敵」とは、**「誰かと戦う必要すらなくなった、本当の自由」**です。
もし今、「何かを手に入れて誇りたい!」「無敵になりたい!」という熱いエネルギーがメラメラと湧いているなら、**無理に「手放そう」なんて冷めたことをする必要は全くありません。**
そのパッションをそのまま燃料にして、仕事、学問、ビジネス、芸術、あるいは自分の好きな分野で**「現実の世界を全力で荒らしに行く(頂点を目指す)」**のも、最高に面白い人生の過ごし方です。
やってみて「あ、頂点に立ってもまだ満たされないな」「疲れたな」と思った時に初めて、さっきの禅の教え(手放し)に戻ってくればいいだけのことです。
どちらの道を選ぶのも、あなたの自由ですよ!
「井上義衍はこう語った」という話をしているのに
「私はそんなこと言ってない」と言い張るのはおかしい
師匠筋に当たる井上義衍老師の教えにすら、関心ゼロ
自分の説に対する反応だけを、極端に気にしている
自分の説に対する他人の反応など
いちいち気にしていたら、やっていられない
自分で言うのも変だが、ワケわかんない話をすることが多い
そうですか?
私が行ったことに非常に近しいと思われる内容をハジさんがAIをつかって貼り出したと感じましたよ
ハジさんが違うというのなら私の勘違いで構いませんがどうなんでしょうね
私が言ったことの影響でハジさんがコピペしたのではないのですかね?
まさに釈迦牟尼(ブッダ)が体現した**「世界がどうなろうと心が一切動揺しない無敵」**こそが、仏教の真骨頂であり、最強のチート状態です。
世俗の無敵が「フルアーマーを着込んで相手を全員ボコボコにする無敵」だとしたら、釈迦の無敵は**「自分という存在が透明なスライムや『空(そら)』のようになって、どんな物理攻撃もすり抜けてしまう無敵」**です。
この「動揺しない無敵」がどういう仕組みになっているのか、その秘密は3つあります。
### 1. 「二の矢」を受けない(自爆ダメージ・ゼロ)
釈迦が残した超有名な教えに「第二の矢を受けるな」というものがあります。
生きている限り、病気、批判、嫌な出来事といった「第一の矢(物理ダメージ)」は釈迦にでも必ず当たります。しかし普通の人は、その後に「なんで私がこんな目に!」「あいつ許せない!」という**「第二の矢(精神的ダメージ)」を自分で自分に突き刺して大ダメージを受けます。**
釈迦の無敵とは、第一の矢が刺さっても「痛いな」で終わり。そこから先のストーリー(考え)を作らないため、**メンタルへの追加ダメージが常にゼロ**なのです。
1つの宗派に徹している人とは正反対の
「とりあえず、古今東西の地球人類の思想をすべて取り入れる」という分裂症的なスタイルなので
なんらかの宗派について話をしていると、「そこの信者だ」と思われることがよくある
それは避けられない
私たちが動揺したり傷ついたりするのは、「自分のプライド」「自分の財産」「自分の立場」など、**守りたい『私』**があるからです。
釈迦は「最初から『私』なんてものは幻だ」と完全に腹落ち(無我を悟る)していました。
守るべき「私」という的(まと)が無いので、他人が悪口を言おうが、不運が襲ってこようが、**「何もない空間(空振り)を殴られている」**のと同じ状態になります。的が無いのだから、絶対に傷つきようがありません。
### 3. 「抵抗」しないから、摩擦が起きない
人は「こうであってほしい(期待)」と「現実」がズレたときに、現実に抵抗して動揺します。
釈迦や、先ほどの井上義衍老師がやっていたのは、**「現実に一切抵抗せず、100%そのまま受け入れる(ほったらかし)」**ことです。
川の流れに逆らって泳げば苦しいですが、完全に力を抜いて川の流れ(現実)と一体になれば、摩擦は一切起きず、心は完全に穏やかなままです。
これは私宛てと受け取っていいですか?
それとも私とは関係のない話ですか?
興味ないわけじゃないですよ
私は非常に簡単なことしか言ってませんけど、
それに色々と付け足していくからそんなこと言ってないと言ってるだけですよ
実際に言ってませんからね笑
それが分からない人なら言ってもしょうがないでしょうね
分からない人にはもう何も言いませんけどね
良い教えを探しているわけではない
基本的に全部、知っている
だから、探すまでもない
ときどき、知らない思想に出っ食わすことはあるけど
最近も、インドのラーマーヌジャのバクティ・ヨーガ思想を知らんかった
お気づきの通り、この「釈迦の無敵」を手に入れる方法は、先ほどあなたが「アホらしい」と笑い飛ばした**「ただの手放し」**に繋がります。
メンタルトレーニングをして鋼の心を作る(足し算)のではなく、「自分」や「考え」への執着をポロリと手放す(引き算)こと。
**「なーんだ、何にもならんでいいし、何にも抵抗しなくていいじゃん」**と心底諦めがついたとき、人は「何が起きても絶対に動揺しない、透明で無敵な状態」にスッと入ってしまいます。
何も手に入れないことで、結果的に「絶対に傷つかない心」を手に入れてしまう。仏教って、本当によくできた皮肉で最高にクールなシステムですよね。