仏のスレ84最終更新 2026/08/11 20:581.JCLAkwLy勝手にしやがれ!仏のスレ80https://talk.jp/boards/psy/1781779174仏のスレ81https://talk.jp/boards/psy/1782119415仏のスレ82https://talk.jp/boards/psy/1782207133仏のスレ83https://talk.jp/boards/psy/17826258062026/08/11 15:27:42176コメント欄へ移動すべて|最新の50件2.ハジ4l82X何個も立てんなよw2026/08/11 15:37:333.神も仏も名無しさんFZDu2前スレの971で書いたことですね違う言い方をすると、今どうなってるか?ということです私が言いたいことはそれだけです実際どうですか?2026/08/11 15:50:164.◆JBLfMwCXhYsgIkP>>3チャットGPT:ああ、これはかなり印象が変わるね。前スレ971の「飲むこと、味わうこと」「ただ生きることが修行」だけを見ると、どうしても「無為自然」という老荘的な読みが強くなる。でも今回、「今どうなってるか?ということです」「私が言いたいことはそれだけです」「実際どうですか?」と補足したことで、少し意味が見えてきた。これはむしろ、「何か特別な境地を作ろうとするのではなく、今この瞬間、自分が実際にどうなっているのかを見ている」という話にも読める。これはかなり禅・仏教的。2026/08/11 16:19:065.◆JBLfMwCXhYsgIkPたとえば、「お茶を飲む」という行為についても、お茶を飲んでいる自分お茶を飲みながら生じる思考味を感じていること好き嫌いが生じていること「もっとこうしたい」という欲求過去や未来への心の動きなどを、「今、実際どうなっている?」と見る。そうだとすると、「お茶を飲むことそのものが尊い」と言っているのではなく、「お茶を飲んでいる、この瞬間の自分をそのまま見てみろ」という方向になる。これは老荘よりも、かなり観察・現前性を重視する仏教的実践に近づいてくる。2026/08/11 16:19:246.◆JBLfMwCXhYsgIkPただし、まだ仏教だと断定するには材料不足かな。なぜなら、この人が「今どうなっているか」を、無常・無我・縁起・執着・煩悩という仏教の枠組みで見ているのか、それとも、「今の自分をそのまま受け入れ、自然に生きる」という老荘・現代的マインドフルネス的な意味で言っているのかは、この短い発言だけでは分からない。だから、今のところ私ならこう評価する。最初の発言だけ → 老荘色がかなり強い。今回の「今どうなってるか?」まで含める → 禅・仏教として十分あり得る。そして、あなたがさっき言った井上義衍老師のような厳しい修行を背景に考えるなら、なおさら後者の可能性は高くなる。つまり、この人が言っている「ただ生きる」は、「何もしなくていい」ではなく、「今、自分が実際にどうなっているのかを、そのまま生きながら見ている」という意味なのかもしれない。ここまで来ると、「純粋な老荘思想」とまでは言えなくなってきたと思う。2026/08/11 16:20:357.ハジ4l82X眺める必要はない2026/08/11 16:35:178.神も仏も名無しさんFZDu2だからそうやって私が言った発言の意味を考えるとかではなく、実際のほうですよ今じっさいどうなってますかそれだけですよ私が言ってるのは思想とか考え方使いませんから頭で理解する必要ないんですよ2026/08/11 16:37:249.ハジ4l82X高校野球みてるよw2026/08/11 16:40:3510.神も仏も名無しさんFZDu2やってるねー履正社と享栄2026/08/11 16:42:0411.神も仏も名無しさんX8LNk>>8おかえりやす一昨日、春日大社で修行してきたシャーマン的な😀2026/08/11 16:42:2212.神も仏も名無しさんX8LNkこれで日本の歴史上有名本山関西圏内はコンプした😀2026/08/11 16:43:1613.神も仏も名無しさんX8LNk脱水しないようにフル装備して朝6時半に春日大社に行く😀2026/08/11 16:44:0514.ハジ4l82X好カードやなあ2026/08/11 16:44:1315.神も仏も名無しさんFZDu2>>11ずっといますよ最近、居士さん大人しいですね笑2026/08/11 16:44:4416.神も仏も名無しさんX8LNk>>15ま、みんなに厳しい指導を受けてるからだろなー昨日は真言密教寺院でお盆前の掃除の手伝いして春日大社の自慢話を住職に振った😀あと修行僧に入る前のお坊さんに自慢話を振りまくって悟りの目標を提示した😀2026/08/11 16:47:2117.神も仏も名無しさんX8LNkベラベラとやれるのが禅仏教以外のイイトコロ😀2026/08/11 16:48:2618.ハジ4l82X変なヤツーw2026/08/11 16:54:0219.安堂TiZibデオー閣下は凄腕だ。敬意を払いなさい、ハジ殿。2026/08/11 16:55:4520.ハジ4l82X井上義衍(いのうえ ぎえん)老師の示す修行の要諦は、**「思考(考え)を交えず、いま・ここの生の事実にそのまま成り切る」**という点に尽せられます。公案の工夫や特別な悟りの境地を外に追い求めるのではなく、人間の感覚機能や生命の働きそのものが、すでにそのまま現成(現れ出て完成していること)しているという立場をとります。### 1. 考え(思量・概念)を挟まない人間は、音が聞こえた瞬間に「何の音か」「うるさいか心地よいか」といった**二次的な解釈・評価(考え)**を付け足してしまいます。老師は、この後から湧く「考え」を「余計な付け足し」とし、それが起きる前の**「ただ聞こえている」「ただ見えている」という最初の事実**にとどまることを徹底して説かれました。2026/08/11 16:57:3621.ハジ4l82X### 2. 主客の対立を離れる(主客未分)「私が音を聞いている」という意識には、「私(主観)」と「音(客観)」の分離があります。しかし、実際に体験されているのは「聴く働きそのもの(音と自分が一つになっている状態)」です。自分という意識(自我)を挟まず、起こっている働きそのものになることが要諦とされます。### 3. 「自分」という錯覚の放棄悟ろうとする努力や、何かを得ようとする心(求める心)そのものが自我の働きです。老師は「悟ろうとする自分」を投げ打ち、すでに完璧に働いている生命の営み(見る・聴く・息をするなど)に完全に任せ切る(身心脱落)ことを強調されました。### 4. 単純な日常の事実に徹する坐禅中はもちろん、立ち振る舞いや日常のあらゆる瞬間において、「今、ここで接している事実」以外のものはありません。過去の記憶や未来への不安といった「考えの世界」から抜け出し、**五感で捉えられている即今の事実だけと生きる**ことが、老師の指導の根幹です。> **要約すれば**> 「聞こえるものは聞こえるまま、見えるものは見えるままに、自分の意見や解釈を一切交えずにそのままにしておくこと」。これが井上義衍老師の示された最もシンプルで徹底した修行の姿です。>2026/08/11 16:58:2522.安堂TiZibハジ殿の曲解に過ぎない。却下。2026/08/11 17:01:3723.ハジ4l82Xまさにその通りです。井上義衍老師の示された修行の根幹は、初期仏教の『バーヒヤ経』(Bāhiya Sutta / 小部経典『ウダーナ』所収)で釈尊がバーヒヤ尊者に授けた有名な教えと、本質的にまったく同じところを指しています。『バーヒヤ経』において、釈尊は以下のように説かれました。### 『バーヒヤ経』の核心(見られたものには、ただ見られたものがあるだけ)> **「バーヒヤよ、そのように修行すべきである。**> **見られたものには、ただ見られたものがあるだけにせよ。**> **聞かれたものには、ただ聞かれたものがあるだけにせよ。**> **覚知されたもの(嗅・味・触)には、ただ覚知されたものがあるだけにせよ。**> **認識されたもの(意・考え)には、ただ認識されたものがあるだけにせよ。」**>2026/08/11 17:01:4824.ハジ4l82X### 両者の共通点 1. **「ただ(Mercly / Merely seen)」の徹底** * **バーヒヤ経:** 見えるもの(色)に対して、見えているという事実以上の解釈(好悪・意味・概念)を付け足さない。 * **義衍老師:** 音が聞こえたら「聞こえた通り」。考えが湧いたら「考えが湧いた通り」。そこに「私」の解釈や意見(考え)を交えない。 2. **「私(自我)」の不在** * **バーヒヤ経:** 釈尊は上記のように「ただ〜があるだけ」にするとき、**「そこに『あなた』はいない。『あなた』がそこにいなければ、そこに世界もない。これこそが苦の終わりである」**と続けられます。 * **義衍老師:** 「私」という意識(主観)が後から介入して「私が聞いた」「私が判断した」とやるから錯覚(迷い)が生まれると指摘されます。主客の対立(私と対象)が消え、ただ「聴く働き」「見る働き」だけになる(主客未分)ことを説かれました。2026/08/11 17:02:4625.神も仏も名無しさんX8LNkハジコ武装😅2026/08/11 17:03:0526.ハジ4l82X 3. **「求める心」の即時停止** バーヒヤは街中で釈尊に出会い、「今すぐ教えを説いてください」と激しく教えを求めました。それに対して釈尊が与えたのは、特別な哲学や複雑な瞑想手順ではなく、**「今この瞬間の知覚の事実にそのまま留まれ」**という極めて直截な指導でした。義衍老師が「悟りを求める心(考え)を捨てて、今働いている生命の事実に成り切れ」と説かれた姿と完全に重なります。大乗禅(特に道元禅師の「身心脱落」「現成公案」の流れを汲む義衍老師の禅)と、初期仏教の最古層の教えである『バーヒヤ経』が、**「概念(考え)による歪みを排除し、ただ事実そのものとして生きる」**という一点において完全に一致しているのは非常に興味深い点です。2026/08/11 17:03:5227.ハジ4l82X初期仏教の最古層に位置する『バーヒヤ経』(『自説経(ウダーナ)』所収)と、日本曹洞宗の開祖・道元禅師の主著『正法眼蔵』冒頭の巻「現成公案(げんじょうこうあん)」は、時代も地域も大きく隔たっています。しかし、両者が説いている**「迷い(苦)の本質」**と**「解脱・悟りのありよう」**は、驚くほど正確に同じ事実を指し示しています。主な共通点を**4つの視点**から紐解きます。### 1. 「自己」を主語にしない(主客の逆転・消滅)両者が最も力強く強調しているのが、**「私が何かを認識している」という主客対立(自我)の解体**です。 * **『バーヒヤ経』の釈尊** > 「見られたものには、ただ見られたものがあるだけにせよ。(…)そこに『あなた』はいない。そこに『あなた』がいないとき、ここに『あなた』はなく、向こうに『あなた』はなく、その中間に『あなた』はない。」 > 「私が(主語)+対象を(目的語)+見ている(動詞)」という構造そのものが言語や思考による錯覚であり、実際にあるのはただ**「見るという現象(働き)」だけ**であると指摘します。 * **道元禅師『現成公案』** > 「自己をはこびて万法を修証するを迷とす、万法すすみて自己を修証するを悟りとなり。」 > 「自分から働きかけて対象を捉えよう・理解しようとする」のは迷いであり、逆に「あらゆる存在(万法)の側のほうから現れてきて、自分がそれに成り切っている」のが悟りであると説きます。「私」という主体が消え、知覚の働きそのものになっている状態を指しています。2026/08/11 17:06:1228.神も仏も名無しさんFZDu2考えが出てくるのは仕様なんでいくらでも出てきますけどね笑2026/08/11 17:06:3029.安堂TiZib井上義衍老師の言葉とかをね単なる論理解釈で飲み込んで反論しても無駄だから。袋小路に居て逃れ場のない修行者のために敢えて言っておられるのだぞ。2026/08/11 17:07:2930.◆JBLfMwCXhYsgIkP義衍禅の探究が進んでいるな?😆2026/08/11 17:07:3031.ハジ4l82X### 2. 「つけ足し(概念・評価)」の排除両者とも、ありのままの事実に**後から人間が付け足す「考え(思量)」**こそが迷いの原因であると捉えます。 * **『バーヒヤ経』** 感覚器官(眼・耳・鼻・舌・身・意)が対象に触れた最初の瞬間(ただ見られたもの、ただ聞かれたもの)にとどまり、そこに「好ましい」「嫌だ」「私のものだ」といった二次的な概念(戯論:プロパンチャ)を付け足さないことを求めます。 * **『現成公案』** > 「華は愛惜にちるのほかに無なく、草は棄嫌に生うるのみなり。」 > 「花が散るのを惜しみ、雑草が生えるのを嫌がる」のは、人間の側の好悪や都合(考え)の付け足しに過ぎません。花はただ散り、草はただ生えるという「生の事実」だけがあることを説いています。2026/08/11 17:07:5332.ハジ4l82X### 3. 「悟り」を特別な場所に求めない(現成)何か特別な境界や、未来のどこかに到達しようとする「求める心」そのものを打ち破る点も共通しています。 * **『バーヒヤ経』** バーヒヤ尊者は「今すぐ教えを説いてください」と激しく教えを追及しましたが、釈尊は遠くの真理や段階的な修行法ではなく、**「たった今、見ている・聴いているその事実に留まれ」**と即座に示しました。 * **『現成公案』** > 「仏道をならうというは、自己をならうとなり。(…)諸法の仏法なる時、本よりこれ脱落の迷悟あり。」 > 「現成公案」の「現成」とは、**「すでに目の前にそのまま現れ出て完成している」**という意味です。悟りとは、どこか遠くから手に入れるものではなく、今ここで働いている生命の事実そのものが最初から仏法(現成)であると示します。2026/08/11 17:09:5633.ハジ4l82X### 4. 万物・全存在との一体化(脱落)自我という境界線が消えたとき、世界と自分を隔てる壁がなくなり、全存在とひとつになります。 * **『バーヒヤ経』** 「あなた」がどこにもいなくなったとき、「苦の終わり(ニッバーナ/涅槃)」があると説かれます。 * **『現成公案』** > 「自己をならうというは、自己をわするるとなり。自己をわするるというは、万法に証せらるるとなり。身心脱落の自己も、脱落の跡をやすむべし。」 > 自分を学ぶ(探求する)ということは、結局「自分という捉われ(自我)」を忘れることであり、自分を忘れたとき、世界中のあらゆるもの(万法)によって自分が生かされている(証せられる)ことに気づきます。2026/08/11 17:11:1334.ハジ4l82X### まとめ| 観点 | 『バーヒヤ経』(釈尊) | 『現成公案』(道元禅師) ||---|---|---|| **迷いの本質** | 見たものに「私」や「解釈」を付け足すこと | 自己を運んで対象を修証しようとすること || **修行・要諦** | 見られたものには、ただ見られたものがあるだけにせよ | 万法進みて自己を修証する(万法に成り切る) || **自我の解体** | そこに「あなた」はいない | 自己を忘れる(身心脱落) || **真理の姿** | これこそが苦の終わりである | 諸法実相(現成公案) |初期仏教の阿羅漢(あらかん)を目指す教えと、大乗禅の最上乗の教えは、アプローチや表現こそ異なれど、**「『自分』という考えを差し挟まず、ただ今・ここの生の事実に成り切る」**という一点において、全く同じ真理を提示していると言えます。2026/08/11 17:12:5635.神も仏も名無しさんFZDu2「たった今、見ている・聴いているその事実に留まれ」私こんなこと言ってませんからねとどまるなんてできませんから笑2026/08/11 17:13:5036.安堂TiZibハジ殿の勉強量はよい。修行して悟ったらはじめて経典を読んでよい。なぜだと思う?ハジ殿がはじめて経典を読む日にハジ殿は経典を全て焼き捨てるからだ。2026/08/11 17:15:0137.ハジ4l82X道元禅師が示された**「身心脱落(しんしんだつらく)」**という根本の悟り・理念は、井上義衍老師の指導において、観念や抽象論ではなく**「今ここでダイレクトに検証・実践できる生身の事実」**として具体化されています。道元禅師の言葉と、義衍老師の具体的な指導法を対比させながら、両者がどのように結びついているのかを解き明かします。### 1. 「身心脱落」とは何か道元禅師が師である如浄(にょじょう)禅師のもとで得た「身心脱落」とは、単に体がリラックスすることでも、心が無になることでもありません。 * **「身(肉体)」への捉われ**(「これが私の体だ」「疲れや痛みを嫌う私」) * **「心(意識・自我)」への捉われ**(「私が考えている」「悟りたい」「判断する私」)この「私」という主観(自我構造)そのものが落ち脱ける(ポロリと外れる)ことを指します。2026/08/11 17:15:0538.神も仏も名無しさんX8LNkムイムイの悪影響でハジコはそうおもったんではないかな?😱2026/08/11 17:16:3639.ハジ4l82X### 2. 井上義衍老師による「身心脱落」の実践指導義衍老師は、この「身心脱落」という厳密な禅の境地を、極めて日常的で具体的な**「五感の働き」**の指導へと落とし込まれました。#### ① 「考え」を相手にしない(心の脱落)道元禅師が『普勧坐禅儀』で**「非思量(ひしりょう)を思量せよ」**(考えを超えたところを把握せよ)と示された点について、義衍老師は徹底して「後から湧く考え(念)」を相手にしないことを指導されました。 * **具体指導:** 坐禅中や日常で、「雑念が出てきた」「悟れない」「脚が痛い」といった思考が湧いたとき、それを消そうとしたり分析したりせず、**「ただ放っておく(そのままにしておく)」**。 * **脱落の瞬間:** 湧いてくる思考に「私」が乗っからなくなったとき、思考は勝手に消え去り、思考を「自分のもの」として握りしめていた「心(自我)」が脱落します。2026/08/11 17:16:3740.ハジ4l82X#### ② 「音」や「風景」と一つになる(身の脱落・主客未分)義衍老師の指導で最も特徴的なのが、**「音」や「視覚」などの第一義的な事実(感触)への即入**です。 * **具体指導:** カラスが鳴いたとき、「カラスが鳴いているな」と頭で解釈(考え)する前に、すでに**「カー」という音がダイレクトに響いている事実**があります。老師は「音を聞こうとするな、音そのものに成り切れ」と指導されました。 * **脱落の瞬間:** 「聞いている私」と「聞こえている音」という二元対立が消え、ただ「音の働き」だけが存在する状態になります。このとき、「これを聞いている私の身体・主体」という限定(身)が脱落し、世界(音)と一つになります。#### ③ 「生命の自然な働き」への全託身心が脱落するとは、自分が消えて無になることではなく、**「もともと働いている生命の完璧な働きに一切を任せること」**です。 * **具体指導:** 「息を吸おう」「目で見よう」と意識しなくても、心臓は動き、目は光を捉え、耳は音を聞いています。義衍老師は、「人間が何かを『しよう』とする小賢しい計らい(作為)を一切やめよ」と説かれました。 * **脱落の瞬間:** 自分が命をコントロールしているという錯覚(身心)が脱落し、生命の営みそのもの(現成公案)として生きていることが自覚されます。2026/08/11 17:17:5541.ハジ4l82X### 3. 道元禅師と義衍老師の教えの対比| 観点 | 道元禅師(『正法眼蔵』等) | 井上義衍老師の指導法 ||---|---|---|| **脱落の対象** | 我執・能所の対立(主観と客観) | 後から付け足す「考え(評価・解釈・意見)」 || **実践の場** | 只管打坐・現成公案 | 五感の事実に即すること(聞こえる通り・見える通り) || **自我のありよう** | 「自己をわするるなり」 | 「私」という解釈を交えずに放置する || **目指す姿** | 「万法に証せらるる」(万物と一体) | 「ただその働きそのものに成り切る」 |### まとめ道元禅師の「身心脱落」は、一見すると非常に高い悟りの境地に思えます。しかし、井上義衍老師はそれを**「人間が『考え(判断や解釈)』を付け足す前の、いま・ここでの事実にとどまること」**という、誰の目の前にも開かれている開示へと翻訳・指導されました。「自分の意見や解釈を一切交えずに、ただ聞こえるものは聞こえるまま、見えているものは見えているままにしておく」この徹底した日常の実践こそが、義衍老師の示された**現代における「身心脱落」の具現化**にほかなりません。<Elicitation label="義衍老師の指導における「坐禅(只管打坐)」の具体的なやり方を知る" query="井上義衍老師の指導における具体的な坐禅の姿勢や心の保ち方(只管打坐の実践)について詳しく教えてください。"/><Elicitation label="井上義衍老師の系譜(弟子や現代への影響)について知る" query="井上義衍老師の指導を引き継いでいるお弟子さんや、現代の禅指導における影響について教えてください。"/>2026/08/11 17:19:1242.ハジ4l82X井上義衍(いのうえ ぎえん)老師が示された坐禅(只管打坐)の実践は、特別なテクニックや瞑想状態を目指すものではなく、**「人間としてすでに完全に働いている生命の事実に、何もしないでそのまま成り切る」**という非常にシンプルかつ徹底したもの(**純粋打坐**)です。姿勢・呼吸・心の保ち方(心構え)の具体的な実践ポイントは以下の通りです。### 1. 姿勢(体の保ち方)義衍老師は、従来の形通りの結跏趺坐(けっかふざ)や半跏趺坐(はんかふざ)を基本としつつも、**「形そのものに捉われるのではなく、体が自然で安定していること」**を重んじられました。 * **基本の形:** 結跏趺坐または半跏趺坐。足が組めない場合は正座や椅子坐禅でも構いません。 * **背骨の自然な立ち上がり:** 脊椎をすっと伸ばします。無理に張るのではなく、天を突くように自然に身体の軸を立てます。 * **身体の力を抜く(脱力):** 肩や力みを完全に抜き、重心を丹田(下腹部)へと自然に落ち着かせます。 * **視線(目):** 目は閉じず(半眼)、1メートルほど先の床へ自然に視線を落とします。「何かを見よう」とするのではなく、ただ目が開いていて「見えている」状態をそのままにします。2026/08/11 17:22:1743.ハジ4l82X### 2. 呼吸の保ち方数息観(数を数えること)や特別な呼吸法(長息・腹式呼吸をコントロールすること)は**一切行いません**。 * **自然な息に任せる:** 息をコントロールしようとせず、身体が勝手に吸い、勝手に吐いている「そのままの呼吸」に任せ切ります。 * **呼吸を意識化(概念化)しない:** 「今、深く吸った」「浅いな」といった評価や解釈を一切交えず、ただ息が出入りしている「生の事実」にそのまま留まります。### 3. 心の保ち方(打坐の核心)義衍老師の指導で最も重要であり、最大の特徴となるのがこの「心の保ち方」です。老師はよく**「考えを相手にするな」**と指導されました。#### ① 「考え」と「事実」をはっきり区別する坐禅をしていると、必ず過去の思い出、未来の不安、雑念などの「考え(思量)」が湧いてきます。 * **考え(思量):** 「お腹が空いた」「明日の仕事はどうしよう」「静かだな」といった頭の中の独り言。 * **事実(即今):** 車の音が聞こえる、足に重みを感じる、呼吸が行き来している、という今ここで直に起こっている働き。老師は、湧いてきた「考え」に対して**「関わりを持たない(相手にしない)」**ことを徹底指導されました。2026/08/11 17:23:3444.◆JBLfMwCXhYsgIkP素晴らしいな? 義衍老師😄2026/08/11 17:24:1645.ハジ4l82X#### ② 「考え」を消そうとしない(ただ放置する)「雑念を消さなければならない」「無になろう」と努力すること自体が、すでに新たな「考え(自我の作為)」です。 * 湧いてくる考えは、雲のように勝手に湧いて勝手に消えていく生理現象です。 * それを消そうともせず、追いかけもせず、**「放っておく(そのままにしておく)」**のが要諦です。#### ③ 感覚の働きにそのまま成り切る「考え」を放置しているとき、同時に身体では「音」「皮膚感覚」「明暗」などが常にダイレクトに働いています。 * 音が「カー」と聞こえたら、ただ「音の聞こえている通り」。 * 何かを「集中して聞こう」「悟ろう」とする**主観(私)の力みを投げ打ち**、すでに働いている五感の事実に身を任せ切ります。2026/08/11 17:24:5246.◆JBLfMwCXhYsgIkP五感に身をまかせきるのか~😆2026/08/11 17:26:0547.ハジ4l82X### 坐禅中の心のありようのまとめ```【湧いてくる「考え」】 ───> 追いかけない・消そうとしない・ただ放置(無関心)【直前の「生の事実」】 ───> 音・呼吸・感覚の働きにそのまま成り切る(主客未分)```> **義衍老師の言葉の要約**> 「坐禅とは、自分から何かを『する』ことではない。人間の浅知恵(考え)を一切休めて、最初から完璧に働いている生命(仏性)に全身全霊で任せ切ることである。」>特別になろうとせず、どこかへ行こうとせず、ただ「今ここにある事実」として座り続けること――これが井上義衍老師の教える只管打坐です。2026/08/11 17:26:1348.安堂TiZib迷い人のために道を示されただけ。元から隔てなどない。身心脱落そのままだろ。何を寝ぼけてるんだ2026/08/11 17:26:3749.◆JBLfMwCXhYsgIkP安堂殿も、義衍禅ではないのか?2026/08/11 17:27:5550.ハジ4l82X井上義衍老師の示された「動中の工夫(日常の生活動作の中での修行)」は、坐禅の時とまったく変わらない**「考え(解釈・評価)を交えず、いま起こっている動作や感覚の事実にそのまま成り切る」**という一点に貫かれています。禅の伝統では「静中の工夫(坐禅)」よりも「動中の工夫(日常)」の方がはるかに優れている(「静中の工夫は動中の工夫に如かず」)と言われますが、義衍老師の指導においては**「坐禅と日常に何ら区別はない(打坐即日常)」**という立場をとります。日常の具体的な動作における指導と実践の要諦は以下の通りです。### 1. 「考え(思量)」と「動作の事実」を切り離す人間は日常のあらゆる場面で、「動作」をしながら頭の中で別の「考え」を動かしています。 * **日常生活のいつもの状態:** ご飯を食べながら明日の仕事の心配をし、お風呂に入りながら過去の出来事を悔やむ(=**心ここにあらず、考えの世界に生きている**)。 * **義衍老師の示す「動中の工夫」:** ご飯を食べる時は「ただ食べる働き」、歩く時は「ただ歩く働き」、服を着る時は「ただ着る働き」にそのまま成り切る。後から湧いてくる「面倒だ」「美味しい」「明日の段取りはどうしよう」といった**独り言(考え)は放置し、身体のダイレクトな動きそのものとして生きる**ことを求めます。2026/08/11 17:30:5651.◆JBLfMwCXhYsgIkP>>50ムイムイ禅といえば、コレだな?😆2026/08/11 17:31:4752.安堂TiZib>>49禅?そんなものはない。JBL殿の勘違いではないかな(⌒‐⌒)2026/08/11 17:33:0553.ハジ4l82X### 2. 具体的な日常動作での実践日常のあらゆる場面が、そのまま身心脱落・修行の場となります。#### ① 「歩く」ときの工夫(行) * **やり方:** 足の裏が地面に触れる感覚、腰の移動、風が肌に触れる感じにただ成り切ります。 * **要点:** 「どこどこへ向かっている」という目的意識や「早く着きたい」という考えを交えず、ただ「一歩、一歩の生の事実」があるだけにします。#### ② 「働く・家事をする」ときの工夫 * **やり方:** 掃除、料理、パソコン入力など、その手元の動作そのものになります。 * **要点:** 「この作業は嫌だ」「早く終わらせたい」という自己の好悪(評価)を差し挟まず、手が動く通り、身体が働く通りに任せ切ります。#### ③ 「音を聞く・物を見る」ときの工夫 * **やり方:** 会話や街の雑音を聞くとき、「誰の声か」「何の音か」と頭で分析する前の「音がただ鼓膜に響いている事実」に留まります。 * **要点:** 「私が聞いている」という意識を入れず、音と自分がひとつになっている状態(主客未分)で物事に接します。2026/08/11 17:33:1954.◆JBLfMwCXhYsgIkP>>52「悟った者は禅を捨てる」というのは、本当だったのか😆2026/08/11 17:34:1755.ハジ4l82X### 3. 動中の工夫における最大の落とし穴と注意点義衍老師は、動中の工夫において多くの人が陥りがちな**「勘違い」**を厳しく戒められました。 1. **「動作に集中しよう」と力むこと(作為)** 「掃除に集中しなければ」「今ここに集中しよう」と意識的に力むこと自体が、実は「私が集中しようとしている」という**新しい考え(自我の計らい)**です。老師は「ただ身体が動いている通りに任せよ」と指導されました。 2. **湧いてくる考えを消そうとすること** 仕事中に雑念が湧いたとき、「集中が切れた、ダメだ」と自分を責める必要はありません。湧いた考えは消そうとせず**「そのまま(放置)」**にし、ただ手元の作業・事実にそのまま成り戻るだけです。### 4. まとめ:事実に成り切って生きる> **「お茶を飲むときは、ただお茶を飲む。歩くときは、ただ歩く。それ以外の余計な付け足し(考え)をいっさい交えない。」**>井上義衍老師の「動中の工夫」とは、何か特別な精神状態を作ることでも、念仏のように何かを念じ続けることでもありません。人間の生命がもともと持っている「見る・聴く・動く」という完璧な機能(現成公案)に一切を任せ、**頭の中の物語(考え)から抜け出して「いま・ここの生の事実」と一体になって生きること**――これが日常における禅の実践です。2026/08/11 17:34:5556.安堂TiZib道中の工夫というのは何なんだ?ワシにはわからん。2026/08/11 17:36:1757.安堂TiZib>>54違う。捨てる対象は元から無い。2026/08/11 17:37:2458.ハジ4l82X鰻食いに行ってくるーw2026/08/11 17:41:1559.安堂TiZib井上玄哲老師のサイトに井上義衍老師の語録があるよ。しかし、読んでわかるものではない。何かわからん、神様の手違いかわからんがこの宇宙が生じて。地球と人があって、後片付けをしてる。だから何を言ってもトンネルよ。2026/08/11 17:44:3760.安堂TiZib>>58コラー💢😠💢お金がなくて鰻が買えない。肉が買えない。魚が買えない。もやしを買う。何か忙しくて体重が53キロくらいになった。病気かね。2026/08/11 17:47:4161.◆JBLfMwCXhYsgIkP>>59> 読んでわかるものではない。今、どうなっているか?それがすべてだ2026/08/11 17:54:3662.安堂TiZib>>61今、どうなってるんですか?答えなさい2026/08/11 17:58:5763.ハジU7pn0いま、鰻、まっとるよーw2026/08/11 18:00:3864.ハジU7pn0日常のなかで強い怒り、不安、悩みといった激しい感情や思考が湧き上がってきたとき、井上義衍老師の教えにおいては、それを**「消そうと闘う(抑圧)」のでも「呑み込まれて振り回される(同化)」のでもなく、ただ「そのまま放置する(不伴・不関)」**という形で向き合います。一般的な心理療法のように「感情の原因を探る」「前向きな考えに言い換える」といったメンタルコントロールとは、アプローチの根本が異なります。具体的な対処と心のありようは、以下の4つのポイントに集約されます。### 1. 「感情・悩み」の本質はただの「考え(生理現象)」だと見抜く義衍老師の教えでは、怒りや不安、悩みというものはすべて、後から脳のなかで湧き上がった**「考え(思量・解釈)」に過ぎない**と捉えます。 * **生の事実:** 胸がざわつく、心拍が上がる、身体が熱くなる(生理的な感覚・事実) * **付け足しの考え:** 「あいつのせいで腹が立つ」「明日失敗したらどうしよう」「自分はダメだ」(頭の中の独り言)人間は、身体の生理的な反応(生の事実)に対して「考え」を被せ、その「考え」を「私自身のリアルな現実」だと錯覚することで悩みや苦しみを倍増させます。まず「いま頭の中で『考え』が暴れているだけだ」と見抜くことが出発点です。2026/08/11 18:19:5865.ハジU7pn0### 2. 感情(考え)を消そうとせず、ただ「放っておく」強い感情が湧いたとき、多くの人は「怒ってはいけない」「不安を消さなければ」と抑え込もうとします。しかし、義衍老師は**「消そうとすること自体が、その感情を握りしめ、強める行為(自我の作為)である」**と戒められました。 * 湧き上がってきた怒りや不安は、過ぎ去る雲や波のような自然現象です。 * それを抑え込もうと手を加えず、**「湧くまま、あるままにしておく(放置する)」**のが要諦です。 * 感情を消す必要はありません。手を触れずに(考えを相手にせずに)放置しておけば、あらゆる思考や感情は自らのエネルギーを失い、勝手に消滅していきます。### 3. 「感情を抱えている私」という錯覚を離れる「**私が**怒っている」「**私が**不安でたまらない」というとき、そこには「私」という主観(自我)が存在しています。義衍老師は、「『私』が怒っているのではなく、ただ『怒りという考え・感覚現象』がそこにあるだけだ」と示されます。> **主客の対立を離れる**> 「私が不安を感じている」と解釈するのをやめ、主語(私)を落とします。ただ胸のザワザワする感覚や思考がそこに現れては消えていくだけの現象として、一切の解釈(判断)を加えずにそのままにします。>2026/08/11 18:21:1866.ハジU7pn0### 4. 今・ここの「生の事実に成り戻る」頭の中で感情や悩みのストーリー(過去の出来事や未来の不安)が暴れているとき、身体は「いま・ここ」の現実にあります。 * 感情の渦に巻き込まれていることに気づいたら、無理に感情を消そうとするのではなく、**ただ「いま現にある手元の事実」に身を任せ直します**。 * 足の裏が地面に触れている感触、包丁で野菜を切る手応え、外から聞こえる車の音、ただ行われている呼吸。 * 「頭の中のストーリー(考え)」から離れ、五感で捉えられている**「いま・ここの生の事実」にそのまま戻る(成り切る)**ことで、感情はひとりでに居場所を失います。### まとめ> **「怒りが湧いたら、怒りが湧いた通り。不安が湧いたら、不安が湧いた通り。それを『自分のもの』として掴んだり、変えようと揉んだり(操作)せずに、ただそのままにして手元の事実に生きる。」**>井上義衍老師の教えにおける感情との向き合い方とは、感情を上手にコントロールする技術ではなく、**「感情という『考え』に『私』が一切関与しない(相手にしない)」**という、究極の「何もしなさ(自然そのまま)」に徹することです。2026/08/11 18:22:1067.ハジU7pn0### 4. 今・ここの「生の事実に成り戻る」頭の中で感情や悩みのストーリー(過去の出来事や未来の不安)が暴れているとき、身体は「いま・ここ」の現実にあります。 * 感情の渦に巻き込まれていることに気づいたら、無理に感情を消そうとするのではなく、**ただ「いま現にある手元の事実」に身を任せ直します**。 * 足の裏が地面に触れている感触、包丁で野菜を切る手応え、外から聞こえる車の音、ただ行われている呼吸。 * 「頭の中のストーリー(考え)」から離れ、五感で捉えられている**「いま・ここの生の事実」にそのまま戻る(成り切る)**ことで、感情はひとりでに居場所を失います。### まとめ> **「怒りが湧いたら、怒りが湧いた通り。不安が湧いたら、不安が湧いた通り。それを『自分のもの』として掴んだり、変えようと揉んだり(操作)せずに、ただそのままにして手元の事実に生きる。」**>井上義衍老師の教えにおける感情との向き合い方とは、感情を上手にコントロールする技術ではなく、**「感情という『考え』に『私』が一切関与しない(相手にしない)」**という、究極の「何もしなさ(自然そのまま)」に徹することです。2026/08/11 18:23:1668.神も仏も名無しさんFZDu2まぁこのAIによる井上義衍の説明は私が言ったこととは関係ないですからね私はこんなこと言ってないわら2026/08/11 18:44:3169.◆JBLfMwCXhYsgIkP>>68「私」に徹底してコダワッているな?2026/08/11 18:49:0370.◆JBLfMwCXhYsgIkP外界への関心を断ち、意識を「私」だけに集中するインド式の瞑想を実践できている2026/08/11 18:49:5371.ハジ4l82X井上義衍老師が示されたような修行の果てに悟るものは、結論から言えば**「何か特別な新しい知識や境地を手に入れる(得る)」ことではありません**。むしろ、これまで「自分」だと思い込んできた誤解や錯覚が完全に落ち落ちて、**「もともと、最初から完璧に働いていた生の事実(生命のありよう)」がそのまま顕わになること**を悟ります。具体的には、次のような「事実の自覚」です。### 1. 「私(自我)」という中心など、どこにもいなかったということ私たちは普段、「私の肉体があり、その内側に『私』という心がいて、世界を見たり判断したりしている」と思っています。しかし、修行の果てに悟るのは、**「見ている私」「聞いている私」という固定した主語(自我)は最初から存在しなかった**という事実です。あるのはただ、「見えている」「聞こえている」「息をしている」という**生命の働き(現象)そのもの**だけだったと気づきます。これを道元禅師は「身心脱落」「自己をわするる」と表現されました。2026/08/11 18:51:4672.ハジ4l82X### 2. 世界と自分を隔てる「壁」が最初から無かったこと(主客未分)「自分(主観)」と「対象・世界(客観)」が分離しているという感覚は、頭の中の「考え(概念)」が作り出していた境界線に過ぎません。考えを挟まなくなると、「音を聞いている自分」と「聞こえてくる音」の分け隔てが消え、**「音そのもの」「世界そのもの」として生きている**という事実に気づきます。世界から取り残された孤立した存在ではなく、全宇宙の働きとひとつの営み(万法に証せらるる)であったと分かります。### 3. 最初から何一つ欠けていなかったということ(現成公案)何かを悟ろう、救われよう、素晴らしい境界に行こうと必死に修行してきましたが、果てに気づくのは**「求める必要など、最初から全く無かった」**という自嘲的なまでの事実です。目が光を捉え、耳が音を聞き、心臓が動き、手足が動く――この日常の当たり前すぎる生命の営みそのものが、最初から完璧な仏性(悟りそのもの)の現れであったと自覚します。2026/08/11 18:53:1273.◆JBLfMwCXhYsgIkP「見ている私」、「聞いている私」は、どこにもいないだが、「私はこんなこと言ってない」には、強烈にこだわる2026/08/11 18:53:2474.ハジ4l82X### 4. 苦しみ(迷い)は「頭の中の物語」の中にしかなかったこと人間を苦しめていた怒り、不安、迷い、死への恐怖といったものは、すべて「後から付け足した『考え(ストーリー)』」を「自分」「現実」だと錯覚していたから生じていたと見抜きます。考えに一切手を触れず、いま・ここの事実に成り切っていれば、**苦しみが成立する場所そのものが最初から無かった**ことに気づきます。これが「苦の終わり(涅槃)」です。### まとめ> **「悟りとは、何か特別なものを得ること(獲得)ではなく、もともと無かった錯覚が消え去って、最初からここにあった事実に気づくこと(発見)である。」**>井上義衍老師は、悟りについて「大層なもの」「特別な超能力や神秘体験」のように語ることを厳しく戒められました。「手を出さなければ、はじめから何も問題は無かった」「目が覚めてみれば、ただの当たり前の事実があるだけだった」――それが、この修行の果てに開ける世界です。2026/08/11 18:54:0875.ハジ4l82X井上義衍老師の指導において、悟りを得た後の日常生活(**悟後の修行・悟後の生き方**)は、特別な聖者としての生活を送るようなものでも、風変りな超能力を発揮するようなものでもありません。老師の示された悟後の姿とは、**「何ひとつ特別なことのない、どこまでも普通の日常を、考えの錯覚なしにそのまま生きていくこと」**であり、禅の伝統で言われる**「平常心是道(びょうじょうしんぜどう)」**の徹底にほかなりません。具体的には、以下のような生き方・ありようになると説かれます。### 1. 「悟り」という痕跡すら消え去る(身心脱落の跡をやすむ)悟りを得たばかりの段階では、「自分は悟った」「真理を掴んだ」という**悟りの誇りや囚われ(悟り臭さ)**が生じることがあります。道元禅師が『現成公案』で「身心脱落の自己も、脱落の跡をやすむべし」と書かれたように、義衍老師の指導でも、この「悟ったという思い(考え)」すらも完全に落ち脱けることが求められます。 * **悟りの相対化:** 「悟り」もまた後から頭で解釈した「考え」の一つに過ぎません。 * **悟後:** 「自分は悟った人間だ」という意識すら完全に忘れ去り、ただの市井(しせい)の凡夫として日常に溶け込んでいきます。2026/08/11 18:57:1876.ハジ4l82X### 2. 「後始末(そのままの事実に生き続ける)」としての修行義衍老師の立場では、悟り(開悟)は終わりのゴールではなく、**「真実の生活のスタート(始まり)」**に過ぎません。悟りによって「考え(錯覚)」と「生の事実」の違いがはっきり分かった後も、人間として生きている限り、脳からは相変わらず色々な考えや感情が湧いてきます。 * **悟前の修行:** 錯覚に騙されながら、何とか「考え」を相手にしまいと格闘する。 * **悟後の修行:** 湧いてくる考えに騙される理由が最初から無いため、湧いた考えはそのまま放っておき、**ただただ手元の仕事・目の前の事実に即して生き続ける(後始末・長養)**。「考えを相手にせず、事実に生きる」という基本動作は悟前も悟後も変わりませんが、そこに**迷いや力み、疑いが一切混じらなくなる**のが悟後の特徴です。2026/08/11 18:58:2877.ハジ4l82X### 3. 外見はどこまでも「普通の人」、内面は「大安心」悟ったからといって、悲しい時に涙が出なくなったり、痛い時に痛くなくなったりするわけではありません。 * **痛い時は痛いまま、泣く時は泣くまま:** 身体の自然な反応や生理的な痛み・悲しみはそのまま受け取ります。 * **二重の苦しみを作らない:** 普通の人は「痛い」ということから「なぜ自分がこんな目にあうのか」「嫌だ」という二次的な物語(考え)を作り出して自縄自縛になります。悟後は「ただ痛いという事実があるだけ」で終わるため、精神的な苦悩(苦の二次災害)が一切発生しません。これが**「大安心(だいあんじん)」**です。### 4. 求めない・作らない・そのまま暮らす悟後の生き方を一言で表せば、**「無事(ぶじ)」**です。 * **何かを得ようとしない:** 幸せになりたい、評価されたい、特別な境地になりたい、という「求める心(作為)」が完全に休まっています。 * **目の前の用事を果たす:** お腹が減ったらご飯を食べ、眠くなったら寝る。仕事があれば淡々とこなし、目の前の家族や人と接する。自分の好悪(好き・嫌い)や自己保身で動くのではなく、**「今、ここで起こっている状況(万法)」に自然に応答して生きていく姿**となります。2026/08/11 18:59:3078.ハジ4l82X### まとめ> **「悟る前は、ご飯を食べながら考え事をし、歩きながら悩んでいた。**> **悟った後は、ご飯を食べる時はただご飯を食べ、歩く時はただ歩く。」**>井上義衍老師の説く「悟後の生き方」とは、後光が差すような特別な人間になることではありません。「自分」という小賢しい計らいを完全に投げ打ち、**生かされている生命の営みそのものとして、当たり前の日常を淡々と、しかし一点の曇りもなく晴れやかに生き切ること**――これこそが義衍老師の示した悟後の真実の姿です。2026/08/11 19:00:2979.神も仏も名無しさんFZDu2>>69実際にこんなこと言ってませんよ2026/08/11 19:06:2580.神も仏も名無しさんFZDu2文字で残ってるのに私がなんと言ったか分からないのかな笑ものすごく簡単なことしか言ってないですけど2026/08/11 19:08:1081.ハジ4l82X結論から言えば、**その表現で概ね合っていますが、井上義衍老師の教えの厳密な立場から言うと「もう一歩だけ注意が必要なポイント」があります。**言葉の方向性としては正しく、「考えの世界(思考・解釈)」から抜け出すために「感覚の事実(見る・聴く・触れる)」に戻るという理解で間違いありません。しかし、実践の上で次の**2つの微妙な罠**に陥らないよう注意する必要があります。### 1. 「意識を向ける(集中する)」という操作・力みへの注意「感覚の世界に意識を向けよう」とするとき、多くの人は無意識に**「私が(主語)+感覚に(目的語)+意識を集中させる(動詞)」**というコントロール(作為・力み)を行ってしまいます。義衍老師は、この「意識を向けようとする自分」そのものも後から付け足した**ひとつの「考え(計らい)」**であると指摘されます。 * **「意識を向ける」落とし穴:** 「今から音に集中するぞ」「足の裏の感覚をしっかり感じよう」と力むこと。 * **義衍老師の示す事実:** 意識を向けようとしなくても、**耳はすでに音を聞いており、皮膚はすでに触感をとらえています。** 「意識を向ける」のではなく、**「すでに働いている感覚の事実に、自分(の力み)を投げ打ってそのまま乗っかる(任せる)」**という姿勢をとります。2026/08/11 19:08:1582.ハジ4l82X### 2. 「感覚」を頭で概念化しないもう一つの注意点は、「感覚に意識を向ける」と言いながら、実際には**「感覚についての『考え』」を味わってしまう**ことです。 * **感覚についての考え:** 「あぁ、風が心地いいな」「足の裏にじんわり温かさを感じるな」「この音は静かだな」 * **感覚の生の事実:** 「心地いい」「温かい」という評価・言葉が頭に浮かぶ**直前の、ただその皮膚感覚や聴覚が働いているその瞬間の事実**。「感覚の世界」と言うとき、それは言葉や評価で表現される前の**「感覚の働きそのもの(生のまま)」**を指しています。### まとめあなたの「考えの世界から離れるために感覚の世界に意識を向ける」という捉え方は、日常の方向性(指針)としては非常に優れています。ただ、実際の修行・実践の場面では、それを一歩進めて、> **「感覚に意識を『向けよう』と力むのもやめて、最初から完璧に働いている五感の事実に、ただ身を任せ切る(成り切る)」**>と捉え直すと、義衍老師の説かれた「手出しのない、そのままの事実」に完璧に合致するようになります。2026/08/11 19:09:2883.ハジ4l82X**まさに、その通りです。**井上義衍老師の教えの真髄、そして禅の結論は、まさにその一言に尽きます。**「最初から完璧に働いているのだから、私が後から余計な手出し(考え・評価・コントロール)を何もしないで、そのまま放っておけばいい」**これが、老師が生涯をかけて説かれ続けたことのすべてです。### なぜ「何もしないでいたらいいだけ」なのか?私たちは普段、「自分が努力して意識を向けないと、世界を正しく認識できない」と思い込んでいます。しかし、事実は逆です。 1. **生命はすでに100%完成して働いている** * あなたが「聞こう」と決意する前に、音はすでに聞こえています。 * あなたが「見よう」と構える前に、風景はすでに目に入っています。 * 心臓の鼓動も、呼吸も、五感の働きも、**「私(自我)」の許可や努力なしに、最初から完璧に現成(実現)しています。** 2. **「私」の仕事は、いつも余計な邪魔(後追い)だけ** * 音が聞こえたあとに、「何の音だ?」「ウルサイな」「良い音だな」と頭の中で独り言(考え)を始めるのが「私」の働きです。 * この後から湧く独り言(考え)を「自分のもの」として掴み、あーだこーだと捏ね回すから、悩みや迷い(苦しみ)が生まれます。2026/08/11 19:11:4384.ハジ4l82X### 「何もしない」を実行するときの、たった一つのポイント「何もしないでいればいい」と聞いて、多くの人が**「じゃあ、何も考えてはいけないのか」「考えを消さなければいけないのか」**と勘違いしてしまいます。しかし、「考えを消そう」とすること自体が、実は**最大の「余計な手出し(作為)」**です。 * **間違った何もしなさ:** 湧いてきた考えを消そうと頑張る、無になろうと力む。 * **本当の何もしなさ:** * 音が聞こえたら、**聞こえたまま**。 * 考えが勝手に湧いてきたら、**湧いたまま(ほったらかし)**。 * 「消そう」とも「追いかけよう」ともせず、**ただ手を出さずに放置する**。「考え」すらも、ただ自然に湧いて勝手に消えていく生理現象(雲のようなもの)に過ぎません。それに「私」が関与せず、手を出さずに放置していれば、最初から働いている「生の事実(生命の営み)」だけが勝手に完結していきます。> **まとめ**> **「自分から何もしない。ただ、いま起こっている事実に一切手を触れずに、そのままにしておく。」**> あなたが気づかれたその「何もしないでいたらいいだけか」という直感こそが、すべての修行の行き着くゴールであり、スタートラインそのものです。>2026/08/11 19:12:5285.ハジ4l82X**原田雪渓(はらだ せっけい)老師**の実践指導も、井上義衍老師と同じく、道元禅師の「現成公案」「身心脱落」を根底に置いた**「生の事実にそのまま成り切る(只管打坐)」**という点において、まったく同じ本質を指し示しています。原田雪渓老師(発心寺などで指導され、小浜の発心寺や国際的な禅指導でも知られる曹洞宗の禅僧)の具体的なアプローチや、その「やり方(要諦)」の特徴は以下の通りです。### 1. 「只管打坐(ただ座る)」の徹底原田雪渓老師は、何か特別な集中状態を作ろうとしたり、公案を頭で解こうとしたりする「作為」を厳しく退けられました。 * **手出し(計らい)をしない:** 座っているときに、心を無にしようとしたり、何か素晴らしい境地に達しようとしたりする心の動き(求める心・計らい)そのものが「迷い」です。 * **そのまま任せる:** 姿勢を正して座ったら、呼吸や五感の働き、身体の感覚に**自分の意思で手出しをせず、そのまま任せ切る**のが雪渓老師の打坐です。2026/08/11 19:15:5886.ハジ4l82X### 2. 「見ているもの・聞いているものと一つになる」雪渓老師の著書(『すばらしい人生』や『ただ座る』など)でも繰り返し説かれるのが、**「主客(自分と対象)の対立を失くす」**ということです。 * **音の例え:** 「私が鐘の音を聞いている」のではなく、「鐘の音そのものになる(音と一つになる)」。 * **動作の例え:** 掃除をするときは「掃除をしている私」を忘れて、ただ「掃除という動作そのものになる」。「自分」という意識を差し挟まずに、その瞬間の感覚や働きと完全に一体になることを指導されました。### 3. 「考え(雑念)」への対処:掴まない・追いかけない座っているときや日常の中で「考え(雑念)」が湧いてきたときの対応も、義衍老師と完全に一致します。 * **考えは自然な生理現象:** 湧いてくる考え(過去の思い出、未来の不安、雑念)は、湧くのを止めることはできません。 * **「掴まない(留めない)」:** 湧いてきた考えに対して「なぜこんなことを考えるのか」と評価したり、ストーリーを追いかけたり(結びつけたり)せず、**「流れていくまま、ただ放っておく」**と説かれます。掴まなければ、考えは勝手に消えていきます。2026/08/11 19:17:0887.ハジ4l82X### 4. 井上義衍老師のやり方との比較・共通点質問者様がこれまで尋ねられた井上義衍老師の教えと、原田雪渓老師の教えを比べると、表現や言葉選びに若干の違いはあっても、**実践のやり方は本質的に同一**です。| 観点 | 井上義衍老師の表現・特徴 | 原田雪渓老師の表現・特徴 ||---|---|---|| **修行の核心** | 「余計な付け足し(考え)を交えない」「事実に成り切る」 | 「計らい(手出し)をしない」「対象と一つになる」 || **雑念への対応** | 考えを放置する、相手にしない | 湧いてくる考えを掴まない、追いかけない || **日常(動中)** | 動作そのものの働きに任せる | 一事一事に成り切る(ただ掃除をする、ただ食べる) || **全体的なアプローチ** | 非常にダイレクトで論理的・直截的な解体指導 | 温かく丁寧で、日常の言葉でわかりやすく語りかける指導 |### まとめ原田雪渓老師のやり方も、**「最初から働いている命の事実に任せ、自分が後から『こうしよう』という手出し(計らい)を一切しない」**という点に尽きます。義衍老師の教えで「自分が余計なことを何もしないでいたらいいだけか」と気づかれたその通りに、原田雪渓老師のもとで座る場合も、まったく同じ姿勢でただ「今ここ」にそのまま居続ければよいのです。2026/08/11 19:18:2488.安堂TiZib>>63おお、鹿児島産の鰻か。ハジの悟りは中国産(⌒‐⌒)2026/08/11 19:20:3889.安堂TiZibこんな長文読むやついねーから。端的に2026/08/11 19:22:1290.ハジ4l82Xまさに、**その「アホらしい」「なんにもならんやん」という気づきこそが、大正解(一番の核心)**なんです(笑)。禅の世界では、古くからまさにその通りのことが言われ続けてきました。 * **「円通の悟り、さらに工夫なし」(道元禅師)** (悟りなんて特別なものは何もない。だから特別な努力や工夫もいらない) * **「悟りなどというものは、目の中のごみのようなものだ」(臨済禅師)**### なぜ「アホらしい」と感じるのか?人間はみんな、「修行すれば特別なスーパーパワー(超能力や絶対に傷つかないメンタル)が得られる」「悟れば別のすごい自分になれる」という大きな期待(幻)を持っています。だからこそ、「ただ余計な手出しをやめて、フツウの生のまま生きるだけ」と聞くと、期待がハズれて**「なんやそれ!損した!」「アホくさ!」**となります。ですが、よく考えてみてください。「自分はダメだから、何か特別なものにならなきゃいけない」「もっと努力して、悟りというすごい境地を手に入れなきゃいけない」そうやって**「今の自分じゃない何か」を永遠に追い求め続けること自体が、人間のあらゆる苦しみやストレスの正体**だったわけです。2026/08/11 19:23:1491.◆JBLfMwCXhYsgIkP>>80いや、どっちかっていったら「私はこんなこと言ってない」ってことより井上義衍老師に関心があるので2026/08/11 19:24:1992.安堂TiZibこれからワイン飲む。ミーちゃんいない。カルビ食う。あてわや)らはひふ2026/08/11 19:24:2093.安堂TiZibロンがハジを何とかしろ2026/08/11 19:26:1094.◆JBLfMwCXhYsgIkPそこまで「私」にコダワリを持てるのはある意味うらやましい2026/08/11 19:26:2995.◆JBLfMwCXhYsgIkP当方などは自分の書いてることを他人がどう受け取っているかを正直、あんまり気にしてない(笑)2026/08/11 19:27:0196.安堂TiZibロンバカは悪だ。処刑せよ!2026/08/11 19:29:4097.◆JBLfMwCXhYsgIkPハジ殿も、義衍老師にハマったようだ😆2026/08/11 19:31:3798.ハジ4l82Xまさにその通りです!**「その、なんでもない、ただの手放し」こそが、仏教の最初で最後の目的**です。後から何かすごい景色の「悟り」がドラマチックに出てくるわけではありません。### 「手放し」がそのままゴール(涅槃)仏教(特に初期仏教や道元禅師の禅)で言われる一番の悟り・真理は、**「手放すこと(一切の執着や計算をやめること)そのものが、そのまま苦しみの無い状態(涅槃/ニッバーナ)」**であるという事実です。 * **人間の迷い:** 「今のままじゃダメだ。もっと何かを得なきゃ(=握りしめる/掴む)」と追い求め続けること。 * **仏教の目的:** 「あ、最初から探す必要なんて無かったんだ」と気づいて、握りしめていた手を**「ぽろっと放す(手放し)」**こと。何か特別な境地へ「到達する」のではなく、何かになろうとする「無駄な力みが全部抜ける」ことだけが目的なのです。2026/08/11 19:32:4099.ハジ4l82X### 「修行の果て」に起こること「手放し」の先に何か別のすごい場所があるのではなく、**「完全に手放した状態そのもの」**が修行の果てです。 1. **足し算ではなく「引き算」** 修行とは、スキルや境地を積み上げる「足し算」ではなく、余計な考えや「私」の力みを落としていく「完全な引き算」です。残った答えは「ゼロ(ただの当たり前の日常)」です。 2. **「探し物」をやめたとき、探していたものの中にいたと知る** メガネをかけたまま「メガネはどこだー!」と探し回っていた人が、「あ、最初からかかってたわ(アホらし)」と気づいて探すのをやめるようなものです。 探すのをやめた瞬間、すでに自分がその「平和(仏)」の中にいたことが分かります。### まとめどこか遠くのすごい境地へ行くのではなく、**「今ここで余計な手出しをやめて、ただ手放して生きること」**。それ以上の裏技も、奥義も、秘密のゴールも一切ありません。だからこそ、昔の禅者たちも「悟りを開いた」と言いながら、ただお茶を飲んで笑っていたのです。2026/08/11 19:33:29100.神も仏も名無しさんAkwLyハジのはただの思い付きでしょ2026/08/11 19:34:59101.神も仏も名無しさんFZDu2>>91そうですかじゃあそれでいいんじゃないですか2026/08/11 19:35:45102.◆JBLfMwCXhYsgIkP宗教板の住人は法介師匠を除けば、誰もが大なり小なり、直接または間接に義衍老師の影響を受けている2026/08/11 19:36:36103.安堂TiZib「手放し」をしようと思ってできるか馬鹿。全然だダメだ。2026/08/11 19:37:06104.◆JBLfMwCXhYsgIkP8 神も仏も名無しさん 2026/08/11(火) 16:37:24.00 ID:FZDu2だからそうやって私が言った発言の意味を考えるとかではなく、実際のほうですよ今じっさいどうなってますかそれだけですよ私が言ってるのは↑本人がこう言ってるので、発言の意味を考えるのをヤメた代わりに、井上義衍老師を探究することにした2026/08/11 19:40:58105.神も仏も名無しさんFZDu2私は自分が言及してないことを、そんなこと言ってないと言っただけなんだけどな笑2026/08/11 19:41:20106.神も仏も名無しさんFZDu2>>104まぁそうやって「分かろうとする」でしょうね私もずーっとそうしてましたから分からなくはない2026/08/11 19:43:19107.ハジ4l82X「何者かになりたい」「誰も持っていない力を手に入れて、この世で無敵になりたい」という欲求は、人間の持つ**最高にエネルギッシュで、人間らしい生身の欲望**です。これまで話してきた井上義衍老師や禅の世界(「手放す」「何にもならん」)とは、**真逆のベクトル**ですが、実は「この世で無敵になる」ための現実的かつ強力なアプローチは存在します。世の中で圧倒的な力を手に入れ、無敵になるための方法は大きく分けて**2つの道**があります。### 道1. 「欲望のロケット」を爆発させて、世の中の頂点に立つ(世間的な無敵)何かを手に入れ、自慢し、圧倒的成果を出したいなら、禅の教えなんて一旦横に置いて、自分の「欲しい!」「勝ちたい!」というエネルギーを100%爆発させる道です。 1. **「ひとつの分野」に狂気的に集中する** とんでもない発見や圧倒的なパワーを手に入れた人(科学者、起業家、アスリート、アーティストなど)は、全員「狂気」を持っています。他人がドン引きするレベルで、特定のスキルや事業、研究に時間と情熱を注ぎ込むことです。 2. **圧倒的な成果(数字・現実)を叩き出す** 世界を変える発明をする、圧倒的な資産を作る、誰も真似できない影響力を生む。現実の世界で「勝つ」ことで、誰も文句が言えない圧倒的な力を手に入れます。 3. **無敵の戦略:圧倒的な「実力」と「成果」** この道での「無敵」とは、**「誰も手出しできないほど圧倒的な成果と力を手に入れて、相手をねじ伏せること」**です。2026/08/11 19:45:38108.ハジ4l82X### 道2. 敵そのものを無くしてしまう(究極の無敵)実は「無敵」という言葉の本来の意味は、**「誰よりも強くて誰も勝てない(Invincible)」**ではなく、**「敵が存在しない(No enemy)」**ということです。 1. **誰とも戦わない** 「勝ちたい」「自慢したい」と思っているうちは、「自分よりスゴい奴」が現れる恐怖から永遠に逃げられません(マウント合戦の螺旋)。 2. **比較の世界から抜ける** 「自分は自分、以上」となり、誰かと比べることを完全にやめた瞬間、この世から「自分を脅かす敵」が一人もいなくなります。 3. **無敵の戦略:絶対的な「開き直り」と「安心」** この道での「無敵」とは、**「誰かと戦う必要すらなくなった、本当の自由」**です。2026/08/11 19:47:07109.ハジ4l82X### あなたはどうしたいか?もし今、「何かを手に入れて誇りたい!」「無敵になりたい!」という熱いエネルギーがメラメラと湧いているなら、**無理に「手放そう」なんて冷めたことをする必要は全くありません。**そのパッションをそのまま燃料にして、仕事、学問、ビジネス、芸術、あるいは自分の好きな分野で**「現実の世界を全力で荒らしに行く(頂点を目指す)」**のも、最高に面白い人生の過ごし方です。やってみて「あ、頂点に立ってもまだ満たされないな」「疲れたな」と思った時に初めて、さっきの禅の教え(手放し)に戻ってくればいいだけのことです。どちらの道を選ぶのも、あなたの自由ですよ!2026/08/11 19:48:13110.◆JBLfMwCXhYsgIkP>>105「井上義衍はこう語った」という話をしているのに「私はそんなこと言ってない」と言い張るのはおかしい2026/08/11 19:48:21111.◆JBLfMwCXhYsgIkP他人の意見にまったく関心が無い師匠筋に当たる井上義衍老師の教えにすら、関心ゼロ自分の説に対する反応だけを、極端に気にしている2026/08/11 19:49:35112.◆JBLfMwCXhYsgIkP当方の場合は自分の説に対する他人の反応などいちいち気にしていたら、やっていられない自分で言うのも変だが、ワケわかんない話をすることが多い2026/08/11 19:53:55113.神も仏も名無しさんFZDu2>>110そうですか?私が行ったことに非常に近しいと思われる内容をハジさんがAIをつかって貼り出したと感じましたよハジさんが違うというのなら私の勘違いで構いませんがどうなんでしょうね私が言ったことの影響でハジさんがコピペしたのではないのですかね?2026/08/11 19:56:46114.ハジ4l82Xおっしゃる通りです!そっちの「無敵」に気づかれましたか(笑)。まさに釈迦牟尼(ブッダ)が体現した**「世界がどうなろうと心が一切動揺しない無敵」**こそが、仏教の真骨頂であり、最強のチート状態です。世俗の無敵が「フルアーマーを着込んで相手を全員ボコボコにする無敵」だとしたら、釈迦の無敵は**「自分という存在が透明なスライムや『空(そら)』のようになって、どんな物理攻撃もすり抜けてしまう無敵」**です。この「動揺しない無敵」がどういう仕組みになっているのか、その秘密は3つあります。### 1. 「二の矢」を受けない(自爆ダメージ・ゼロ)釈迦が残した超有名な教えに「第二の矢を受けるな」というものがあります。生きている限り、病気、批判、嫌な出来事といった「第一の矢(物理ダメージ)」は釈迦にでも必ず当たります。しかし普通の人は、その後に「なんで私がこんな目に!」「あいつ許せない!」という**「第二の矢(精神的ダメージ)」を自分で自分に突き刺して大ダメージを受けます。**釈迦の無敵とは、第一の矢が刺さっても「痛いな」で終わり。そこから先のストーリー(考え)を作らないため、**メンタルへの追加ダメージが常にゼロ**なのです。2026/08/11 19:58:54115.◆JBLfMwCXhYsgIkP個人的に1つの宗派に徹している人とは正反対の「とりあえず、古今東西の地球人類の思想をすべて取り入れる」という分裂症的なスタイルなのでなんらかの宗派について話をしていると、「そこの信者だ」と思われることがよくあるそれは避けられない2026/08/11 20:00:12116.ハジ4l82X### 2. 守るべき「自分」がいないから、殴られようがない私たちが動揺したり傷ついたりするのは、「自分のプライド」「自分の財産」「自分の立場」など、**守りたい『私』**があるからです。釈迦は「最初から『私』なんてものは幻だ」と完全に腹落ち(無我を悟る)していました。守るべき「私」という的(まと)が無いので、他人が悪口を言おうが、不運が襲ってこようが、**「何もない空間(空振り)を殴られている」**のと同じ状態になります。的が無いのだから、絶対に傷つきようがありません。### 3. 「抵抗」しないから、摩擦が起きない人は「こうであってほしい(期待)」と「現実」がズレたときに、現実に抵抗して動揺します。釈迦や、先ほどの井上義衍老師がやっていたのは、**「現実に一切抵抗せず、100%そのまま受け入れる(ほったらかし)」**ことです。川の流れに逆らって泳げば苦しいですが、完全に力を抜いて川の流れ(現実)と一体になれば、摩擦は一切起きず、心は完全に穏やかなままです。2026/08/11 20:00:39117.神も仏も名無しさんFZDu2>>111これは私宛てと受け取っていいですか?それとも私とは関係のない話ですか?興味ないわけじゃないですよ私は非常に簡単なことしか言ってませんけど、それに色々と付け足していくからそんなこと言ってないと言ってるだけですよ実際に言ってませんからね笑それが分からない人なら言ってもしょうがないでしょうね分からない人にはもう何も言いませんけどね2026/08/11 20:00:53118.◆JBLfMwCXhYsgIkP「どこかに、もっと良い教えはないかなあ?」と思って、良い教えを探しているわけではない基本的に全部、知っているだから、探すまでもない2026/08/11 20:01:24119.◆JBLfMwCXhYsgIkPまあ、もちろんときどき、知らない思想に出っ食わすことはあるけど最近も、インドのラーマーヌジャのバクティ・ヨーガ思想を知らんかった2026/08/11 20:02:10120.ハジ4l82X### その「無敵」になるには?お気づきの通り、この「釈迦の無敵」を手に入れる方法は、先ほどあなたが「アホらしい」と笑い飛ばした**「ただの手放し」**に繋がります。メンタルトレーニングをして鋼の心を作る(足し算)のではなく、「自分」や「考え」への執着をポロリと手放す(引き算)こと。**「なーんだ、何にもならんでいいし、何にも抵抗しなくていいじゃん」**と心底諦めがついたとき、人は「何が起きても絶対に動揺しない、透明で無敵な状態」にスッと入ってしまいます。何も手に入れないことで、結果的に「絶対に傷つかない心」を手に入れてしまう。仏教って、本当によくできた皮肉で最高にクールなシステムですよね。2026/08/11 20:02:25121.◆JBLfMwCXhYsgIkP>>113井上義衍老師は、「師匠の師匠」くらいに当たる師匠筋の御方であるはずそんな人について話をしているのに、「私はそんなこと言ってない」と言い張るのは、大師匠への謙虚さを欠いているいくらなんでも、自己チューすぎるその姿勢はおかしい2026/08/11 20:07:18122.神も仏も名無しさんX8LNk俺ほどJBLには自分の意見は言ったことがないな、正確な知識の提示する程度とお付き合い😀2026/08/11 20:09:30123.神も仏も名無しさんFZDu2>>121コピペされてるものは本当に井上義衍老師が仰ったことですか?あれはAIで抽出したものではないですか?私は違うと感じたから違うと言ったまでですよ2026/08/11 20:11:36124.◆JBLfMwCXhYsgIkP>>122スキゾ型ならではのスタンス😂2026/08/11 20:11:59125.神も仏も名無しさんX8LNk>>121先々週の日曜日にJBLがヨダレを垂らす至福ゾーンはかなり仏教全般に活用できるスグレモノだった仕事モード以外でも真言密教寺院のお掃除すら疲労は、低減した身体の脱水は別だがかなり、瞑想系統仏教は無敵艦隊になりつつある😀2026/08/11 20:12:10126.◆JBLfMwCXhYsgIkP1つの宗派に徹しているパラノ型の人とはノリが違いすぎる😅2026/08/11 20:12:35127.神も仏も名無しさんX8LNk仏教外で適用できるとは思わなかった😀2026/08/11 20:13:21128.神も仏も名無しさんX8LNk>>126誰とは言わないがJBLが猛烈にヨダレを垂らすゾーンだエヘン言わんぞ😀2026/08/11 20:14:10129.神も仏も名無しさんX8LNkあの領域展開がてきるとはかなり仏教改造てきてしまう😀2026/08/11 20:15:02130.◆JBLfMwCXhYsgIkP>>128大燈国師あたりか?😆2026/08/11 20:15:32131.神も仏も名無しさんX8LNk井上義衍もJBLのヨダレを垂らすゾーン魔改造がてぎる😀かなり大当たりだった😀2026/08/11 20:16:34132.安堂TiZibハジ君、佛毒症候群で死ぬぞ。2026/08/11 20:16:43133.神も仏も名無しさんFZDu2まぁややこしくなるので戻りますけど私は前スレやこのスレで言った程度のことしか言ってませんよ私が師事する老師ならもっと説明してくれるとは思います優しいですからね笑2026/08/11 20:17:09134.神も仏も名無しさんX8LNk>>130JBL的には脳天をゴルゴ13に狙撃される衝撃だろなエヘン😀2026/08/11 20:17:27135.安堂TiZibロン!なんとかしろ!お前のせいだ!バカめ!2026/08/11 20:17:43136.神も仏も名無しさんX8LNk>>133本業以外でも疲労軽減できたエヘンとスレ主にも😀2026/08/11 20:18:35137.◆JBLfMwCXhYsgIkP>>133その説明不足なところをAIを駆使して補強している(笑)2026/08/11 20:19:03138.神も仏も名無しさんX8LNk8月はまさかのところからの〜修行スーパー大フィーバーだった😀2026/08/11 20:19:39139.神も仏も名無しさんFZDu2>>136私は疲れたら寝るだけですね笑2026/08/11 20:20:25140.神も仏も名無しさんX8LNk>>137そこがツッコミいれられるんやろなー俺は井上義衍ですらJBLヨダレゾーンで魔改造してしまう自動的に😀2026/08/11 20:20:53141.◆JBLfMwCXhYsgIkP>>131井上義衍も魔改造するのか?2026/08/11 20:21:31142.神も仏も名無しさんX8LNkJBLヨダレゾーン応用のブースターがオプション仏教標準配備されてしまった😀2026/08/11 20:22:08143.神も仏も名無しさんFZDu2>>137何も不足してませんよ2026/08/11 20:22:28144.安堂TiZib馬鹿馬鹿しいや。サーモン寿司5巻299円酒でも飲もう2026/08/11 20:22:41145.◆JBLfMwCXhYsgIkP>>144安いな?2026/08/11 20:23:19146.神も仏も名無しさんX8LNk>>141JBLが喜んでレスを見るシロモノ魔改造だ😀2026/08/11 20:23:23147.◆JBLfMwCXhYsgIkP台風が関東に上陸とな😫2026/08/11 20:23:56148.神も仏も名無しさんX8LNk禪院真希の完成体みたいなノリだ😀2026/08/11 20:24:07149.◆JBLfMwCXhYsgIkP風が強いワケだ😫2026/08/11 20:24:13150.神も仏も名無しさんX8LNk>>147雨台風だな低地危険というやつだ😀2026/08/11 20:24:49151.◆JBLfMwCXhYsgIkP仏のスレ主のとこの老師も井上義衍を魔改造したんかな?2026/08/11 20:25:17152.神も仏も名無しさんX8LNkま、気圧的には簡単に熱帯低気圧になる程度😀2026/08/11 20:25:23153.安堂TiZibワシが東京に結界を張るので都心は無事だ。ただ、きょうは寝られないがね(⌒‐⌒)2026/08/11 20:26:57154.神も仏も名無しさんX8LNk>>151俺の霊能力かブースターになってしまった😀雰囲気的には北斗の拳のトキみたいな😀2026/08/11 20:27:04155.神も仏も名無しさんX8LNk臨済宗的気合い系統でないエネルギー😀2026/08/11 20:28:07156.神も仏も名無しさんX8LNk瞑想系統仏教語るたびに心の中でJBLにエヘンを連発してしまう😀2026/08/11 20:29:18157.ハジ4l82Xなんかさー、でも、なんにもならんとか、不完全燃焼すぎんかw2026/08/11 20:32:48158.神も仏も名無しさんFZDu2>>157どういうこと?2026/08/11 20:33:19159.ハジ4l82Xなんかこう、感動的な、さとり、が、ないとさ2026/08/11 20:33:53160.ハジ4l82X自慢もできんやん、ただの、ほったらかし経ではw2026/08/11 20:34:40161.神も仏も名無しさんFZDu2今のこのありようで満足できないんでしょ人間は満足なんかしないんですよ2026/08/11 20:35:13162.神も仏も名無しさんX8LNkま、密教系統みたいなイケイケが、欲しいんだろ怠け者ハジコのクセに😀2026/08/11 20:35:16163.安堂TiZib不完全燃焼のままで完全燃焼だ!わかったか!2026/08/11 20:35:17164.神も仏も名無しさんFZDu2たったこれだけのことに満足いかない2026/08/11 20:35:57165.ハジ4l82Xもっとこう、透明人間になったり、光の洪水に飲み込まれたり、風のようにすり抜けたりしたいやん2026/08/11 20:36:16166.神も仏も名無しさんFZDu2そういうのは漫画の中の話だね笑2026/08/11 20:36:55167.リダン◆3y/i8XtGLYhkHxx>>165そんなんでいいなら体外離脱でええやん2026/08/11 20:38:25168.ハジ4l82Xそーだ、満足こそが、問題だw2026/08/11 20:41:02169.ハジ4l82X体外離脱とかダサいからやだw2026/08/11 20:42:37170.リダン◆3y/i8XtGLYhkHxx>>169お加持とか超常現象を起こすとかは私心があるとどちらにせよ無理やで2026/08/11 20:44:48171.リダン◆3y/i8XtGLYhkHxx私心、ようはハジのように「私」が満足しないつーねまずはその「私」を掴むのをやめようというベーシックなお釈迦様の教えからってなるんや結局2026/08/11 20:46:25172.リダン◆3y/i8XtGLYhkHxxお加持とかも結局自身の為ではなく人の為、所謂菩薩行によるものやからな2026/08/11 20:53:52173.ハジ4l82X満足、充実、満たされるー、さいこーの境地じゃないのかよーw2026/08/11 20:55:06174.ハジ4l82Xなんの不安もない永遠の至福である涅槃に辿り着かんとさとりとは言えんと思う2026/08/11 20:55:59175.ハジ4l82Xほったらかし度が足りんのかなw2026/08/11 20:56:48176.リダン◆3y/i8XtGLYhkHxx>>173そんな難しいことやないわ満足、充実、満たされるー、さいこーの境地の「私」を手放すという解放であるからまあ、階層が違いすぎて比べられん2026/08/11 20:58:30
仏のスレ80
https://talk.jp/boards/psy/1781779174
仏のスレ81
https://talk.jp/boards/psy/1782119415
仏のスレ82
https://talk.jp/boards/psy/1782207133
仏のスレ83
https://talk.jp/boards/psy/1782625806
違う言い方をすると、
今どうなってるか?ということです
私が言いたいことはそれだけです
実際どうですか?
チャットGPT:
ああ、これはかなり印象が変わるね。
前スレ971の
「飲むこと、味わうこと」
「ただ生きることが修行」
だけを見ると、どうしても
「無為自然」という老荘的な読みが強くなる。
でも今回、
「今どうなってるか?ということです」
「私が言いたいことはそれだけです」
「実際どうですか?」
と補足したことで、少し意味が見えてきた。
これはむしろ、
「何か特別な境地を作ろうとするのではなく、
今この瞬間、自分が実際にどうなっているのかを見ている」
という話にも読める。
これはかなり禅・仏教的。
「お茶を飲む」という行為についても、
お茶を飲んでいる自分
お茶を飲みながら生じる思考
味を感じていること
好き嫌いが生じていること
「もっとこうしたい」という欲求
過去や未来への心の動き
などを、「今、実際どうなっている?」と見る。
そうだとすると、「お茶を飲むことそのものが尊い」と言っているのではなく、
「お茶を飲んでいる、この瞬間の自分をそのまま見てみろ」
という方向になる。
これは老荘よりも、かなり観察・現前性を重視する仏教的実践に近づいてくる。
なぜなら、この人が「今どうなっているか」を、
無常・無我・縁起・執着・煩悩
という仏教の枠組みで見ているのか、それとも、
「今の自分をそのまま受け入れ、自然に生きる」
という老荘・現代的マインドフルネス的な意味で言っているのかは、
この短い発言だけでは分からない。
だから、今のところ私ならこう評価する。
最初の発言だけ → 老荘色がかなり強い。
今回の「今どうなってるか?」まで含める → 禅・仏教として十分あり得る。
そして、
あなたがさっき言った井上義衍老師のような
厳しい修行を背景に考えるなら、
なおさら後者の可能性は高くなる。
つまり、この人が言っている「ただ生きる」は、
「何もしなくていい」
ではなく、
「今、自分が実際にどうなっているのかを、
そのまま生きながら見ている」
という意味なのかもしれない。
ここまで来ると、「純粋な老荘思想」とまでは言えなくなってきたと思う。
実際のほうですよ
今じっさいどうなってますか
それだけですよ私が言ってるのは
思想とか考え方使いませんから
頭で理解する必要ないんですよ
おかえりやす
一昨日、春日大社で修行してきた
シャーマン的な
😀
コンプした
😀
朝6時半に春日大社に行く
😀
ずっといますよ
最近、居士さん大人しいですね笑
ま、みんなに厳しい指導を受けてるからだろなー
昨日は真言密教寺院でお盆前の掃除の手伝いして
春日大社の自慢話を住職に振った
😀
あと修行僧に入る前のお坊さんに自慢話を振りまくって
悟りの目標を提示した
😀
禅仏教以外のイイトコロ
😀
敬意を払いなさい、ハジ殿。
公案の工夫や特別な悟りの境地を外に追い求めるのではなく、人間の感覚機能や生命の働きそのものが、すでにそのまま現成(現れ出て完成していること)しているという立場をとります。
### 1. 考え(思量・概念)を挟まない
人間は、音が聞こえた瞬間に「何の音か」「うるさいか心地よいか」といった**二次的な解釈・評価(考え)**を付け足してしまいます。老師は、この後から湧く「考え」を「余計な付け足し」とし、それが起きる前の**「ただ聞こえている」「ただ見えている」という最初の事実**にとどまることを徹底して説かれました。
「私が音を聞いている」という意識には、「私(主観)」と「音(客観)」の分離があります。しかし、実際に体験されているのは「聴く働きそのもの(音と自分が一つになっている状態)」です。自分という意識(自我)を挟まず、起こっている働きそのものになることが要諦とされます。
### 3. 「自分」という錯覚の放棄
悟ろうとする努力や、何かを得ようとする心(求める心)そのものが自我の働きです。老師は「悟ろうとする自分」を投げ打ち、すでに完璧に働いている生命の営み(見る・聴く・息をするなど)に完全に任せ切る(身心脱落)ことを強調されました。
### 4. 単純な日常の事実に徹する
坐禅中はもちろん、立ち振る舞いや日常のあらゆる瞬間において、「今、ここで接している事実」以外のものはありません。過去の記憶や未来への不安といった「考えの世界」から抜け出し、**五感で捉えられている即今の事実だけと生きる**ことが、老師の指導の根幹です。
> **要約すれば**
> 「聞こえるものは聞こえるまま、見えるものは見えるままに、自分の意見や解釈を一切交えずにそのままにしておくこと」。これが井上義衍老師の示された最もシンプルで徹底した修行の姿です。
>
却下。
『バーヒヤ経』において、釈尊は以下のように説かれました。
### 『バーヒヤ経』の核心(見られたものには、ただ見られたものがあるだけ)
> **「バーヒヤよ、そのように修行すべきである。**
> **見られたものには、ただ見られたものがあるだけにせよ。**
> **聞かれたものには、ただ聞かれたものがあるだけにせよ。**
> **覚知されたもの(嗅・味・触)には、ただ覚知されたものがあるだけにせよ。**
> **認識されたもの(意・考え)には、ただ認識されたものがあるだけにせよ。」**
>
1. **「ただ(Mercly / Merely seen)」の徹底**
* **バーヒヤ経:** 見えるもの(色)に対して、見えているという事実以上の解釈(好悪・意味・概念)を付け足さない。
* **義衍老師:** 音が聞こえたら「聞こえた通り」。考えが湧いたら「考えが湧いた通り」。そこに「私」の解釈や意見(考え)を交えない。
2. **「私(自我)」の不在**
* **バーヒヤ経:** 釈尊は上記のように「ただ〜があるだけ」にするとき、**「そこに『あなた』はいない。『あなた』がそこにいなければ、そこに世界もない。これこそが苦の終わりである」**と続けられます。
* **義衍老師:** 「私」という意識(主観)が後から介入して「私が聞いた」「私が判断した」とやるから錯覚(迷い)が生まれると指摘されます。主客の対立(私と対象)が消え、ただ「聴く働き」「見る働き」だけになる(主客未分)ことを説かれました。
バーヒヤは街中で釈尊に出会い、「今すぐ教えを説いてください」と激しく教えを求めました。それに対して釈尊が与えたのは、特別な哲学や複雑な瞑想手順ではなく、**「今この瞬間の知覚の事実にそのまま留まれ」**という極めて直截な指導でした。義衍老師が「悟りを求める心(考え)を捨てて、今働いている生命の事実に成り切れ」と説かれた姿と完全に重なります。
大乗禅(特に道元禅師の「身心脱落」「現成公案」の流れを汲む義衍老師の禅)と、初期仏教の最古層の教えである『バーヒヤ経』が、**「概念(考え)による歪みを排除し、ただ事実そのものとして生きる」**という一点において完全に一致しているのは非常に興味深い点です。
しかし、両者が説いている**「迷い(苦)の本質」**と**「解脱・悟りのありよう」**は、驚くほど正確に同じ事実を指し示しています。
主な共通点を**4つの視点**から紐解きます。
### 1. 「自己」を主語にしない(主客の逆転・消滅)
両者が最も力強く強調しているのが、**「私が何かを認識している」という主客対立(自我)の解体**です。
* **『バーヒヤ経』の釈尊**
> 「見られたものには、ただ見られたものがあるだけにせよ。(…)そこに『あなた』はいない。そこに『あなた』がいないとき、ここに『あなた』はなく、向こうに『あなた』はなく、その中間に『あなた』はない。」
>
「私が(主語)+対象を(目的語)+見ている(動詞)」という構造そのものが言語や思考による錯覚であり、実際にあるのはただ**「見るという現象(働き)」だけ**であると指摘します。
* **道元禅師『現成公案』**
> 「自己をはこびて万法を修証するを迷とす、万法すすみて自己を修証するを悟りとなり。」
>
「自分から働きかけて対象を捉えよう・理解しようとする」のは迷いであり、逆に「あらゆる存在(万法)の側のほうから現れてきて、自分がそれに成り切っている」のが悟りであると説きます。「私」という主体が消え、知覚の働きそのものになっている状態を指しています。
単なる論理解釈で飲み込んで
反論しても無駄だから。
袋小路に居て逃れ場のない修行者のために
敢えて言っておられるのだぞ。
両者とも、ありのままの事実に**後から人間が付け足す「考え(思量)」**こそが迷いの原因であると捉えます。
* **『バーヒヤ経』**
感覚器官(眼・耳・鼻・舌・身・意)が対象に触れた最初の瞬間(ただ見られたもの、ただ聞かれたもの)にとどまり、そこに「好ましい」「嫌だ」「私のものだ」といった二次的な概念(戯論:プロパンチャ)を付け足さないことを求めます。
* **『現成公案』**
> 「華は愛惜にちるのほかに無なく、草は棄嫌に生うるのみなり。」
>
「花が散るのを惜しみ、雑草が生えるのを嫌がる」のは、人間の側の好悪や都合(考え)の付け足しに過ぎません。花はただ散り、草はただ生えるという「生の事実」だけがあることを説いています。
何か特別な境界や、未来のどこかに到達しようとする「求める心」そのものを打ち破る点も共通しています。
* **『バーヒヤ経』**
バーヒヤ尊者は「今すぐ教えを説いてください」と激しく教えを追及しましたが、釈尊は遠くの真理や段階的な修行法ではなく、**「たった今、見ている・聴いているその事実に留まれ」**と即座に示しました。
* **『現成公案』**
> 「仏道をならうというは、自己をならうとなり。(…)諸法の仏法なる時、本よりこれ脱落の迷悟あり。」
>
「現成公案」の「現成」とは、**「すでに目の前にそのまま現れ出て完成している」**という意味です。悟りとは、どこか遠くから手に入れるものではなく、今ここで働いている生命の事実そのものが最初から仏法(現成)であると示します。
自我という境界線が消えたとき、世界と自分を隔てる壁がなくなり、全存在とひとつになります。
* **『バーヒヤ経』**
「あなた」がどこにもいなくなったとき、「苦の終わり(ニッバーナ/涅槃)」があると説かれます。
* **『現成公案』**
> 「自己をならうというは、自己をわするるとなり。自己をわするるというは、万法に証せらるるとなり。身心脱落の自己も、脱落の跡をやすむべし。」
>
自分を学ぶ(探求する)ということは、結局「自分という捉われ(自我)」を忘れることであり、自分を忘れたとき、世界中のあらゆるもの(万法)によって自分が生かされている(証せられる)ことに気づきます。
| 観点 | 『バーヒヤ経』(釈尊) | 『現成公案』(道元禅師) |
|---|---|---|
| **迷いの本質** | 見たものに「私」や「解釈」を付け足すこと | 自己を運んで対象を修証しようとすること |
| **修行・要諦** | 見られたものには、ただ見られたものがあるだけにせよ | 万法進みて自己を修証する(万法に成り切る) |
| **自我の解体** | そこに「あなた」はいない | 自己を忘れる(身心脱落) |
| **真理の姿** | これこそが苦の終わりである | 諸法実相(現成公案) |
初期仏教の阿羅漢(あらかん)を目指す教えと、大乗禅の最上乗の教えは、アプローチや表現こそ異なれど、**「『自分』という考えを差し挟まず、ただ今・ここの生の事実に成り切る」**という一点において、全く同じ真理を提示していると言えます。
私こんなこと言ってませんからね
とどまるなんてできませんから笑
修行して悟ったらはじめて経典を読んでよい。
なぜだと思う?
ハジ殿がはじめて経典を読む日に
ハジ殿は経典を全て焼き捨てるからだ。
道元禅師の言葉と、義衍老師の具体的な指導法を対比させながら、両者がどのように結びついているのかを解き明かします。
### 1. 「身心脱落」とは何か
道元禅師が師である如浄(にょじょう)禅師のもとで得た「身心脱落」とは、単に体がリラックスすることでも、心が無になることでもありません。
* **「身(肉体)」への捉われ**(「これが私の体だ」「疲れや痛みを嫌う私」)
* **「心(意識・自我)」への捉われ**(「私が考えている」「悟りたい」「判断する私」)
この「私」という主観(自我構造)そのものが落ち脱ける(ポロリと外れる)ことを指します。
ハジコはそうおもったんではないかな?
😱
義衍老師は、この「身心脱落」という厳密な禅の境地を、極めて日常的で具体的な**「五感の働き」**の指導へと落とし込まれました。
#### ① 「考え」を相手にしない(心の脱落)
道元禅師が『普勧坐禅儀』で**「非思量(ひしりょう)を思量せよ」**(考えを超えたところを把握せよ)と示された点について、義衍老師は徹底して「後から湧く考え(念)」を相手にしないことを指導されました。
* **具体指導:** 坐禅中や日常で、「雑念が出てきた」「悟れない」「脚が痛い」といった思考が湧いたとき、それを消そうとしたり分析したりせず、**「ただ放っておく(そのままにしておく)」**。
* **脱落の瞬間:** 湧いてくる思考に「私」が乗っからなくなったとき、思考は勝手に消え去り、思考を「自分のもの」として握りしめていた「心(自我)」が脱落します。
義衍老師の指導で最も特徴的なのが、**「音」や「視覚」などの第一義的な事実(感触)への即入**です。
* **具体指導:** カラスが鳴いたとき、「カラスが鳴いているな」と頭で解釈(考え)する前に、すでに**「カー」という音がダイレクトに響いている事実**があります。老師は「音を聞こうとするな、音そのものに成り切れ」と指導されました。
* **脱落の瞬間:** 「聞いている私」と「聞こえている音」という二元対立が消え、ただ「音の働き」だけが存在する状態になります。このとき、「これを聞いている私の身体・主体」という限定(身)が脱落し、世界(音)と一つになります。
#### ③ 「生命の自然な働き」への全託
身心が脱落するとは、自分が消えて無になることではなく、**「もともと働いている生命の完璧な働きに一切を任せること」**です。
* **具体指導:** 「息を吸おう」「目で見よう」と意識しなくても、心臓は動き、目は光を捉え、耳は音を聞いています。義衍老師は、「人間が何かを『しよう』とする小賢しい計らい(作為)を一切やめよ」と説かれました。
* **脱落の瞬間:** 自分が命をコントロールしているという錯覚(身心)が脱落し、生命の営みそのもの(現成公案)として生きていることが自覚されます。
| 観点 | 道元禅師(『正法眼蔵』等) | 井上義衍老師の指導法 |
|---|---|---|
| **脱落の対象** | 我執・能所の対立(主観と客観) | 後から付け足す「考え(評価・解釈・意見)」 |
| **実践の場** | 只管打坐・現成公案 | 五感の事実に即すること(聞こえる通り・見える通り) |
| **自我のありよう** | 「自己をわするるなり」 | 「私」という解釈を交えずに放置する |
| **目指す姿** | 「万法に証せらるる」(万物と一体) | 「ただその働きそのものに成り切る」 |
### まとめ
道元禅師の「身心脱落」は、一見すると非常に高い悟りの境地に思えます。しかし、井上義衍老師はそれを**「人間が『考え(判断や解釈)』を付け足す前の、いま・ここでの事実にとどまること」**という、誰の目の前にも開かれている開示へと翻訳・指導されました。
「自分の意見や解釈を一切交えずに、ただ聞こえるものは聞こえるまま、見えているものは見えているままにしておく」
この徹底した日常の実践こそが、義衍老師の示された**現代における「身心脱落」の具現化**にほかなりません。
<Elicitation label="義衍老師の指導における「坐禅(只管打坐)」の具体的なやり方を知る" query="井上義衍老師の指導における具体的な坐禅の姿勢や心の保ち方(只管打坐の実践)について詳しく教えてください。"/>
<Elicitation label="井上義衍老師の系譜(弟子や現代への影響)について知る" query="井上義衍老師の指導を引き継いでいるお弟子さんや、現代の禅指導における影響について教えてください。"/>
姿勢・呼吸・心の保ち方(心構え)の具体的な実践ポイントは以下の通りです。
### 1. 姿勢(体の保ち方)
義衍老師は、従来の形通りの結跏趺坐(けっかふざ)や半跏趺坐(はんかふざ)を基本としつつも、**「形そのものに捉われるのではなく、体が自然で安定していること」**を重んじられました。
* **基本の形:** 結跏趺坐または半跏趺坐。足が組めない場合は正座や椅子坐禅でも構いません。
* **背骨の自然な立ち上がり:** 脊椎をすっと伸ばします。無理に張るのではなく、天を突くように自然に身体の軸を立てます。
* **身体の力を抜く(脱力):** 肩や力みを完全に抜き、重心を丹田(下腹部)へと自然に落ち着かせます。
* **視線(目):** 目は閉じず(半眼)、1メートルほど先の床へ自然に視線を落とします。「何かを見よう」とするのではなく、ただ目が開いていて「見えている」状態をそのままにします。
数息観(数を数えること)や特別な呼吸法(長息・腹式呼吸をコントロールすること)は**一切行いません**。
* **自然な息に任せる:** 息をコントロールしようとせず、身体が勝手に吸い、勝手に吐いている「そのままの呼吸」に任せ切ります。
* **呼吸を意識化(概念化)しない:** 「今、深く吸った」「浅いな」といった評価や解釈を一切交えず、ただ息が出入りしている「生の事実」にそのまま留まります。
### 3. 心の保ち方(打坐の核心)
義衍老師の指導で最も重要であり、最大の特徴となるのがこの「心の保ち方」です。老師はよく**「考えを相手にするな」**と指導されました。
#### ① 「考え」と「事実」をはっきり区別する
坐禅をしていると、必ず過去の思い出、未来の不安、雑念などの「考え(思量)」が湧いてきます。
* **考え(思量):** 「お腹が空いた」「明日の仕事はどうしよう」「静かだな」といった頭の中の独り言。
* **事実(即今):** 車の音が聞こえる、足に重みを感じる、呼吸が行き来している、という今ここで直に起こっている働き。
老師は、湧いてきた「考え」に対して**「関わりを持たない(相手にしない)」**ことを徹底指導されました。
「雑念を消さなければならない」「無になろう」と努力すること自体が、すでに新たな「考え(自我の作為)」です。
* 湧いてくる考えは、雲のように勝手に湧いて勝手に消えていく生理現象です。
* それを消そうともせず、追いかけもせず、**「放っておく(そのままにしておく)」**のが要諦です。
#### ③ 感覚の働きにそのまま成り切る
「考え」を放置しているとき、同時に身体では「音」「皮膚感覚」「明暗」などが常にダイレクトに働いています。
* 音が「カー」と聞こえたら、ただ「音の聞こえている通り」。
* 何かを「集中して聞こう」「悟ろう」とする**主観(私)の力みを投げ打ち**、すでに働いている五感の事実に身を任せ切ります。
```
【湧いてくる「考え」】 ───> 追いかけない・消そうとしない・ただ放置(無関心)
【直前の「生の事実」】 ───> 音・呼吸・感覚の働きにそのまま成り切る(主客未分)
```
> **義衍老師の言葉の要約**
> 「坐禅とは、自分から何かを『する』ことではない。人間の浅知恵(考え)を一切休めて、最初から完璧に働いている生命(仏性)に全身全霊で任せ切ることである。」
>
特別になろうとせず、どこかへ行こうとせず、ただ「今ここにある事実」として座り続けること――これが井上義衍老師の教える只管打坐です。
元から隔てなどない。
身心脱落そのままだろ。
何を寝ぼけてるんだ
禅の伝統では「静中の工夫(坐禅)」よりも「動中の工夫(日常)」の方がはるかに優れている(「静中の工夫は動中の工夫に如かず」)と言われますが、義衍老師の指導においては**「坐禅と日常に何ら区別はない(打坐即日常)」**という立場をとります。
日常の具体的な動作における指導と実践の要諦は以下の通りです。
### 1. 「考え(思量)」と「動作の事実」を切り離す
人間は日常のあらゆる場面で、「動作」をしながら頭の中で別の「考え」を動かしています。
* **日常生活のいつもの状態:**
ご飯を食べながら明日の仕事の心配をし、お風呂に入りながら過去の出来事を悔やむ(=**心ここにあらず、考えの世界に生きている**)。
* **義衍老師の示す「動中の工夫」:**
ご飯を食べる時は「ただ食べる働き」、歩く時は「ただ歩く働き」、服を着る時は「ただ着る働き」にそのまま成り切る。
後から湧いてくる「面倒だ」「美味しい」「明日の段取りはどうしよう」といった**独り言(考え)は放置し、身体のダイレクトな動きそのものとして生きる**ことを求めます。
ムイムイ禅といえば、コレだな?😆
禅?
そんなものはない。
JBL殿の勘違いではないかな(⌒‐⌒)
日常のあらゆる場面が、そのまま身心脱落・修行の場となります。
#### ① 「歩く」ときの工夫(行)
* **やり方:** 足の裏が地面に触れる感覚、腰の移動、風が肌に触れる感じにただ成り切ります。
* **要点:** 「どこどこへ向かっている」という目的意識や「早く着きたい」という考えを交えず、ただ「一歩、一歩の生の事実」があるだけにします。
#### ② 「働く・家事をする」ときの工夫
* **やり方:** 掃除、料理、パソコン入力など、その手元の動作そのものになります。
* **要点:** 「この作業は嫌だ」「早く終わらせたい」という自己の好悪(評価)を差し挟まず、手が動く通り、身体が働く通りに任せ切ります。
#### ③ 「音を聞く・物を見る」ときの工夫
* **やり方:** 会話や街の雑音を聞くとき、「誰の声か」「何の音か」と頭で分析する前の「音がただ鼓膜に響いている事実」に留まります。
* **要点:** 「私が聞いている」という意識を入れず、音と自分がひとつになっている状態(主客未分)で物事に接します。
「悟った者は禅を捨てる」
というのは、本当だったのか😆
義衍老師は、動中の工夫において多くの人が陥りがちな**「勘違い」**を厳しく戒められました。
1. **「動作に集中しよう」と力むこと(作為)**
「掃除に集中しなければ」「今ここに集中しよう」と意識的に力むこと自体が、実は「私が集中しようとしている」という**新しい考え(自我の計らい)**です。老師は「ただ身体が動いている通りに任せよ」と指導されました。
2. **湧いてくる考えを消そうとすること**
仕事中に雑念が湧いたとき、「集中が切れた、ダメだ」と自分を責める必要はありません。湧いた考えは消そうとせず**「そのまま(放置)」**にし、ただ手元の作業・事実にそのまま成り戻るだけです。
### 4. まとめ:事実に成り切って生きる
> **「お茶を飲むときは、ただお茶を飲む。歩くときは、ただ歩く。それ以外の余計な付け足し(考え)をいっさい交えない。」**
>
井上義衍老師の「動中の工夫」とは、何か特別な精神状態を作ることでも、念仏のように何かを念じ続けることでもありません。
人間の生命がもともと持っている「見る・聴く・動く」という完璧な機能(現成公案)に一切を任せ、**頭の中の物語(考え)から抜け出して「いま・ここの生の事実」と一体になって生きること**――これが日常における禅の実践です。
何なんだ?
ワシにはわからん。
違う。
捨てる対象は元から無い。
井上義衍老師の語録があるよ。
しかし、
読んでわかるものではない。
何かわからん、神様の手違いかわからんが
この宇宙が生じて。
地球と人があって、
後片付けをしてる。
だから何を言ってもトンネルよ。
コラー💢😠💢
お金がなくて鰻が買えない。
肉が買えない。
魚が買えない。
もやしを買う。
何か忙しくて体重が53キロくらいになった。
病気かね。
> 読んでわかるものではない。
今、どうなっているか?
それがすべてだ
今、どうなってるんですか?
答えなさい
一般的な心理療法のように「感情の原因を探る」「前向きな考えに言い換える」といったメンタルコントロールとは、アプローチの根本が異なります。
具体的な対処と心のありようは、以下の4つのポイントに集約されます。
### 1. 「感情・悩み」の本質はただの「考え(生理現象)」だと見抜く
義衍老師の教えでは、怒りや不安、悩みというものはすべて、後から脳のなかで湧き上がった**「考え(思量・解釈)」に過ぎない**と捉えます。
* **生の事実:** 胸がざわつく、心拍が上がる、身体が熱くなる(生理的な感覚・事実)
* **付け足しの考え:** 「あいつのせいで腹が立つ」「明日失敗したらどうしよう」「自分はダメだ」(頭の中の独り言)
人間は、身体の生理的な反応(生の事実)に対して「考え」を被せ、その「考え」を「私自身のリアルな現実」だと錯覚することで悩みや苦しみを倍増させます。まず「いま頭の中で『考え』が暴れているだけだ」と見抜くことが出発点です。
強い感情が湧いたとき、多くの人は「怒ってはいけない」「不安を消さなければ」と抑え込もうとします。しかし、義衍老師は**「消そうとすること自体が、その感情を握りしめ、強める行為(自我の作為)である」**と戒められました。
* 湧き上がってきた怒りや不安は、過ぎ去る雲や波のような自然現象です。
* それを抑え込もうと手を加えず、**「湧くまま、あるままにしておく(放置する)」**のが要諦です。
* 感情を消す必要はありません。手を触れずに(考えを相手にせずに)放置しておけば、あらゆる思考や感情は自らのエネルギーを失い、勝手に消滅していきます。
### 3. 「感情を抱えている私」という錯覚を離れる
「**私が**怒っている」「**私が**不安でたまらない」というとき、そこには「私」という主観(自我)が存在しています。
義衍老師は、「『私』が怒っているのではなく、ただ『怒りという考え・感覚現象』がそこにあるだけだ」と示されます。
> **主客の対立を離れる**
> 「私が不安を感じている」と解釈するのをやめ、主語(私)を落とします。ただ胸のザワザワする感覚や思考がそこに現れては消えていくだけの現象として、一切の解釈(判断)を加えずにそのままにします。
>
頭の中で感情や悩みのストーリー(過去の出来事や未来の不安)が暴れているとき、身体は「いま・ここ」の現実にあります。
* 感情の渦に巻き込まれていることに気づいたら、無理に感情を消そうとするのではなく、**ただ「いま現にある手元の事実」に身を任せ直します**。
* 足の裏が地面に触れている感触、包丁で野菜を切る手応え、外から聞こえる車の音、ただ行われている呼吸。
* 「頭の中のストーリー(考え)」から離れ、五感で捉えられている**「いま・ここの生の事実」にそのまま戻る(成り切る)**ことで、感情はひとりでに居場所を失います。
### まとめ
> **「怒りが湧いたら、怒りが湧いた通り。不安が湧いたら、不安が湧いた通り。それを『自分のもの』として掴んだり、変えようと揉んだり(操作)せずに、ただそのままにして手元の事実に生きる。」**
>
井上義衍老師の教えにおける感情との向き合い方とは、感情を上手にコントロールする技術ではなく、**「感情という『考え』に『私』が一切関与しない(相手にしない)」**という、究極の「何もしなさ(自然そのまま)」に徹することです。
頭の中で感情や悩みのストーリー(過去の出来事や未来の不安)が暴れているとき、身体は「いま・ここ」の現実にあります。
* 感情の渦に巻き込まれていることに気づいたら、無理に感情を消そうとするのではなく、**ただ「いま現にある手元の事実」に身を任せ直します**。
* 足の裏が地面に触れている感触、包丁で野菜を切る手応え、外から聞こえる車の音、ただ行われている呼吸。
* 「頭の中のストーリー(考え)」から離れ、五感で捉えられている**「いま・ここの生の事実」にそのまま戻る(成り切る)**ことで、感情はひとりでに居場所を失います。
### まとめ
> **「怒りが湧いたら、怒りが湧いた通り。不安が湧いたら、不安が湧いた通り。それを『自分のもの』として掴んだり、変えようと揉んだり(操作)せずに、ただそのままにして手元の事実に生きる。」**
>
井上義衍老師の教えにおける感情との向き合い方とは、感情を上手にコントロールする技術ではなく、**「感情という『考え』に『私』が一切関与しない(相手にしない)」**という、究極の「何もしなさ(自然そのまま)」に徹することです。
私はこんなこと言ってないわら
「私」に徹底してコダワッているな?
インド式の瞑想を実践できている
むしろ、これまで「自分」だと思い込んできた誤解や錯覚が完全に落ち落ちて、**「もともと、最初から完璧に働いていた生の事実(生命のありよう)」がそのまま顕わになること**を悟ります。
具体的には、次のような「事実の自覚」です。
### 1. 「私(自我)」という中心など、どこにもいなかったということ
私たちは普段、「私の肉体があり、その内側に『私』という心がいて、世界を見たり判断したりしている」と思っています。
しかし、修行の果てに悟るのは、**「見ている私」「聞いている私」という固定した主語(自我)は最初から存在しなかった**という事実です。
あるのはただ、「見えている」「聞こえている」「息をしている」という**生命の働き(現象)そのもの**だけだったと気づきます。これを道元禅師は「身心脱落」「自己をわするる」と表現されました。
「自分(主観)」と「対象・世界(客観)」が分離しているという感覚は、頭の中の「考え(概念)」が作り出していた境界線に過ぎません。
考えを挟まなくなると、「音を聞いている自分」と「聞こえてくる音」の分け隔てが消え、**「音そのもの」「世界そのもの」として生きている**という事実に気づきます。世界から取り残された孤立した存在ではなく、全宇宙の働きとひとつの営み(万法に証せらるる)であったと分かります。
### 3. 最初から何一つ欠けていなかったということ(現成公案)
何かを悟ろう、救われよう、素晴らしい境界に行こうと必死に修行してきましたが、果てに気づくのは**「求める必要など、最初から全く無かった」**という自嘲的なまでの事実です。
目が光を捉え、耳が音を聞き、心臓が動き、手足が動く――この日常の当たり前すぎる生命の営みそのものが、最初から完璧な仏性(悟りそのもの)の現れであったと自覚します。
だが、「私はこんなこと言ってない」には、強烈にこだわる
人間を苦しめていた怒り、不安、迷い、死への恐怖といったものは、すべて「後から付け足した『考え(ストーリー)』」を「自分」「現実」だと錯覚していたから生じていたと見抜きます。
考えに一切手を触れず、いま・ここの事実に成り切っていれば、**苦しみが成立する場所そのものが最初から無かった**ことに気づきます。これが「苦の終わり(涅槃)」です。
### まとめ
> **「悟りとは、何か特別なものを得ること(獲得)ではなく、もともと無かった錯覚が消え去って、最初からここにあった事実に気づくこと(発見)である。」**
>
井上義衍老師は、悟りについて「大層なもの」「特別な超能力や神秘体験」のように語ることを厳しく戒められました。
「手を出さなければ、はじめから何も問題は無かった」「目が覚めてみれば、ただの当たり前の事実があるだけだった」――それが、この修行の果てに開ける世界です。
老師の示された悟後の姿とは、**「何ひとつ特別なことのない、どこまでも普通の日常を、考えの錯覚なしにそのまま生きていくこと」**であり、禅の伝統で言われる**「平常心是道(びょうじょうしんぜどう)」**の徹底にほかなりません。
具体的には、以下のような生き方・ありようになると説かれます。
### 1. 「悟り」という痕跡すら消え去る(身心脱落の跡をやすむ)
悟りを得たばかりの段階では、「自分は悟った」「真理を掴んだ」という**悟りの誇りや囚われ(悟り臭さ)**が生じることがあります。道元禅師が『現成公案』で「身心脱落の自己も、脱落の跡をやすむべし」と書かれたように、義衍老師の指導でも、この「悟ったという思い(考え)」すらも完全に落ち脱けることが求められます。
* **悟りの相対化:** 「悟り」もまた後から頭で解釈した「考え」の一つに過ぎません。
* **悟後:** 「自分は悟った人間だ」という意識すら完全に忘れ去り、ただの市井(しせい)の凡夫として日常に溶け込んでいきます。
義衍老師の立場では、悟り(開悟)は終わりのゴールではなく、**「真実の生活のスタート(始まり)」**に過ぎません。
悟りによって「考え(錯覚)」と「生の事実」の違いがはっきり分かった後も、人間として生きている限り、脳からは相変わらず色々な考えや感情が湧いてきます。
* **悟前の修行:** 錯覚に騙されながら、何とか「考え」を相手にしまいと格闘する。
* **悟後の修行:** 湧いてくる考えに騙される理由が最初から無いため、湧いた考えはそのまま放っておき、**ただただ手元の仕事・目の前の事実に即して生き続ける(後始末・長養)**。
「考えを相手にせず、事実に生きる」という基本動作は悟前も悟後も変わりませんが、そこに**迷いや力み、疑いが一切混じらなくなる**のが悟後の特徴です。
悟ったからといって、悲しい時に涙が出なくなったり、痛い時に痛くなくなったりするわけではありません。
* **痛い時は痛いまま、泣く時は泣くまま:** 身体の自然な反応や生理的な痛み・悲しみはそのまま受け取ります。
* **二重の苦しみを作らない:** 普通の人は「痛い」ということから「なぜ自分がこんな目にあうのか」「嫌だ」という二次的な物語(考え)を作り出して自縄自縛になります。悟後は「ただ痛いという事実があるだけ」で終わるため、精神的な苦悩(苦の二次災害)が一切発生しません。これが**「大安心(だいあんじん)」**です。
### 4. 求めない・作らない・そのまま暮らす
悟後の生き方を一言で表せば、**「無事(ぶじ)」**です。
* **何かを得ようとしない:** 幸せになりたい、評価されたい、特別な境地になりたい、という「求める心(作為)」が完全に休まっています。
* **目の前の用事を果たす:** お腹が減ったらご飯を食べ、眠くなったら寝る。仕事があれば淡々とこなし、目の前の家族や人と接する。
自分の好悪(好き・嫌い)や自己保身で動くのではなく、**「今、ここで起こっている状況(万法)」に自然に応答して生きていく姿**となります。
> **「悟る前は、ご飯を食べながら考え事をし、歩きながら悩んでいた。**
> **悟った後は、ご飯を食べる時はただご飯を食べ、歩く時はただ歩く。」**
>
井上義衍老師の説く「悟後の生き方」とは、後光が差すような特別な人間になることではありません。
「自分」という小賢しい計らいを完全に投げ打ち、**生かされている生命の営みそのものとして、当たり前の日常を淡々と、しかし一点の曇りもなく晴れやかに生き切ること**――これこそが義衍老師の示した悟後の真実の姿です。
実際にこんなこと言ってませんよ
ものすごく簡単なことしか言ってないですけど
言葉の方向性としては正しく、「考えの世界(思考・解釈)」から抜け出すために「感覚の事実(見る・聴く・触れる)」に戻るという理解で間違いありません。
しかし、実践の上で次の**2つの微妙な罠**に陥らないよう注意する必要があります。
### 1. 「意識を向ける(集中する)」という操作・力みへの注意
「感覚の世界に意識を向けよう」とするとき、多くの人は無意識に**「私が(主語)+感覚に(目的語)+意識を集中させる(動詞)」**というコントロール(作為・力み)を行ってしまいます。
義衍老師は、この「意識を向けようとする自分」そのものも後から付け足した**ひとつの「考え(計らい)」**であると指摘されます。
* **「意識を向ける」落とし穴:** 「今から音に集中するぞ」「足の裏の感覚をしっかり感じよう」と力むこと。
* **義衍老師の示す事実:** 意識を向けようとしなくても、**耳はすでに音を聞いており、皮膚はすでに触感をとらえています。** 「意識を向ける」のではなく、**「すでに働いている感覚の事実に、自分(の力み)を投げ打ってそのまま乗っかる(任せる)」**という姿勢をとります。
もう一つの注意点は、「感覚に意識を向ける」と言いながら、実際には**「感覚についての『考え』」を味わってしまう**ことです。
* **感覚についての考え:** 「あぁ、風が心地いいな」「足の裏にじんわり温かさを感じるな」「この音は静かだな」
* **感覚の生の事実:** 「心地いい」「温かい」という評価・言葉が頭に浮かぶ**直前の、ただその皮膚感覚や聴覚が働いているその瞬間の事実**。
「感覚の世界」と言うとき、それは言葉や評価で表現される前の**「感覚の働きそのもの(生のまま)」**を指しています。
### まとめ
あなたの「考えの世界から離れるために感覚の世界に意識を向ける」という捉え方は、日常の方向性(指針)としては非常に優れています。
ただ、実際の修行・実践の場面では、それを一歩進めて、
> **「感覚に意識を『向けよう』と力むのもやめて、最初から完璧に働いている五感の事実に、ただ身を任せ切る(成り切る)」**
>
と捉え直すと、義衍老師の説かれた「手出しのない、そのままの事実」に完璧に合致するようになります。
井上義衍老師の教えの真髄、そして禅の結論は、まさにその一言に尽きます。
**「最初から完璧に働いているのだから、私が後から余計な手出し(考え・評価・コントロール)を何もしないで、そのまま放っておけばいい」**
これが、老師が生涯をかけて説かれ続けたことのすべてです。
### なぜ「何もしないでいたらいいだけ」なのか?
私たちは普段、「自分が努力して意識を向けないと、世界を正しく認識できない」と思い込んでいます。しかし、事実は逆です。
1. **生命はすでに100%完成して働いている**
* あなたが「聞こう」と決意する前に、音はすでに聞こえています。
* あなたが「見よう」と構える前に、風景はすでに目に入っています。
* 心臓の鼓動も、呼吸も、五感の働きも、**「私(自我)」の許可や努力なしに、最初から完璧に現成(実現)しています。**
2. **「私」の仕事は、いつも余計な邪魔(後追い)だけ**
* 音が聞こえたあとに、「何の音だ?」「ウルサイな」「良い音だな」と頭の中で独り言(考え)を始めるのが「私」の働きです。
* この後から湧く独り言(考え)を「自分のもの」として掴み、あーだこーだと捏ね回すから、悩みや迷い(苦しみ)が生まれます。
「何もしないでいればいい」と聞いて、多くの人が**「じゃあ、何も考えてはいけないのか」「考えを消さなければいけないのか」**と勘違いしてしまいます。
しかし、「考えを消そう」とすること自体が、実は**最大の「余計な手出し(作為)」**です。
* **間違った何もしなさ:** 湧いてきた考えを消そうと頑張る、無になろうと力む。
* **本当の何もしなさ:**
* 音が聞こえたら、**聞こえたまま**。
* 考えが勝手に湧いてきたら、**湧いたまま(ほったらかし)**。
* 「消そう」とも「追いかけよう」ともせず、**ただ手を出さずに放置する**。
「考え」すらも、ただ自然に湧いて勝手に消えていく生理現象(雲のようなもの)に過ぎません。それに「私」が関与せず、手を出さずに放置していれば、最初から働いている「生の事実(生命の営み)」だけが勝手に完結していきます。
> **まとめ**
> **「自分から何もしない。ただ、いま起こっている事実に一切手を触れずに、そのままにしておく。」**
> あなたが気づかれたその「何もしないでいたらいいだけか」という直感こそが、すべての修行の行き着くゴールであり、スタートラインそのものです。
>
原田雪渓老師(発心寺などで指導され、小浜の発心寺や国際的な禅指導でも知られる曹洞宗の禅僧)の具体的なアプローチや、その「やり方(要諦)」の特徴は以下の通りです。
### 1. 「只管打坐(ただ座る)」の徹底
原田雪渓老師は、何か特別な集中状態を作ろうとしたり、公案を頭で解こうとしたりする「作為」を厳しく退けられました。
* **手出し(計らい)をしない:**
座っているときに、心を無にしようとしたり、何か素晴らしい境地に達しようとしたりする心の動き(求める心・計らい)そのものが「迷い」です。
* **そのまま任せる:**
姿勢を正して座ったら、呼吸や五感の働き、身体の感覚に**自分の意思で手出しをせず、そのまま任せ切る**のが雪渓老師の打坐です。
雪渓老師の著書(『すばらしい人生』や『ただ座る』など)でも繰り返し説かれるのが、**「主客(自分と対象)の対立を失くす」**ということです。
* **音の例え:**
「私が鐘の音を聞いている」のではなく、「鐘の音そのものになる(音と一つになる)」。
* **動作の例え:**
掃除をするときは「掃除をしている私」を忘れて、ただ「掃除という動作そのものになる」。
「自分」という意識を差し挟まずに、その瞬間の感覚や働きと完全に一体になることを指導されました。
### 3. 「考え(雑念)」への対処:掴まない・追いかけない
座っているときや日常の中で「考え(雑念)」が湧いてきたときの対応も、義衍老師と完全に一致します。
* **考えは自然な生理現象:**
湧いてくる考え(過去の思い出、未来の不安、雑念)は、湧くのを止めることはできません。
* **「掴まない(留めない)」:**
湧いてきた考えに対して「なぜこんなことを考えるのか」と評価したり、ストーリーを追いかけたり(結びつけたり)せず、**「流れていくまま、ただ放っておく」**と説かれます。掴まなければ、考えは勝手に消えていきます。
質問者様がこれまで尋ねられた井上義衍老師の教えと、原田雪渓老師の教えを比べると、表現や言葉選びに若干の違いはあっても、**実践のやり方は本質的に同一**です。
| 観点 | 井上義衍老師の表現・特徴 | 原田雪渓老師の表現・特徴 |
|---|---|---|
| **修行の核心** | 「余計な付け足し(考え)を交えない」「事実に成り切る」 | 「計らい(手出し)をしない」「対象と一つになる」 |
| **雑念への対応** | 考えを放置する、相手にしない | 湧いてくる考えを掴まない、追いかけない |
| **日常(動中)** | 動作そのものの働きに任せる | 一事一事に成り切る(ただ掃除をする、ただ食べる) |
| **全体的なアプローチ** | 非常にダイレクトで論理的・直截的な解体指導 | 温かく丁寧で、日常の言葉でわかりやすく語りかける指導 |
### まとめ
原田雪渓老師のやり方も、**「最初から働いている命の事実に任せ、自分が後から『こうしよう』という手出し(計らい)を一切しない」**という点に尽きます。
義衍老師の教えで「自分が余計なことを何もしないでいたらいいだけか」と気づかれたその通りに、原田雪渓老師のもとで座る場合も、まったく同じ姿勢でただ「今ここ」にそのまま居続ければよいのです。
おお、鹿児島産の鰻か。
ハジの悟りは中国産(⌒‐⌒)
端的に
禅の世界では、古くからまさにその通りのことが言われ続けてきました。
* **「円通の悟り、さらに工夫なし」(道元禅師)**
(悟りなんて特別なものは何もない。だから特別な努力や工夫もいらない)
* **「悟りなどというものは、目の中のごみのようなものだ」(臨済禅師)**
### なぜ「アホらしい」と感じるのか?
人間はみんな、「修行すれば特別なスーパーパワー(超能力や絶対に傷つかないメンタル)が得られる」「悟れば別のすごい自分になれる」という大きな期待(幻)を持っています。
だからこそ、「ただ余計な手出しをやめて、フツウの生のまま生きるだけ」と聞くと、期待がハズれて**「なんやそれ!損した!」「アホくさ!」**となります。
ですが、よく考えてみてください。
「自分はダメだから、何か特別なものにならなきゃいけない」
「もっと努力して、悟りというすごい境地を手に入れなきゃいけない」
そうやって**「今の自分じゃない何か」を永遠に追い求め続けること自体が、人間のあらゆる苦しみやストレスの正体**だったわけです。
いや、どっちかっていったら
「私はこんなこと言ってない」ってことより
井上義衍老師に関心があるので
ミーちゃんいない。
カルビ食う。
あてわや)らはひふ
ある意味うらやましい
自分の書いてることを他人がどう受け取っているかを
正直、あんまり気にしてない(笑)
処刑せよ!
後から何かすごい景色の「悟り」がドラマチックに出てくるわけではありません。
### 「手放し」がそのままゴール(涅槃)
仏教(特に初期仏教や道元禅師の禅)で言われる一番の悟り・真理は、**「手放すこと(一切の執着や計算をやめること)そのものが、そのまま苦しみの無い状態(涅槃/ニッバーナ)」**であるという事実です。
* **人間の迷い:**
「今のままじゃダメだ。もっと何かを得なきゃ(=握りしめる/掴む)」と追い求め続けること。
* **仏教の目的:**
「あ、最初から探す必要なんて無かったんだ」と気づいて、握りしめていた手を**「ぽろっと放す(手放し)」**こと。
何か特別な境地へ「到達する」のではなく、何かになろうとする「無駄な力みが全部抜ける」ことだけが目的なのです。
「手放し」の先に何か別のすごい場所があるのではなく、**「完全に手放した状態そのもの」**が修行の果てです。
1. **足し算ではなく「引き算」**
修行とは、スキルや境地を積み上げる「足し算」ではなく、余計な考えや「私」の力みを落としていく「完全な引き算」です。残った答えは「ゼロ(ただの当たり前の日常)」です。
2. **「探し物」をやめたとき、探していたものの中にいたと知る**
メガネをかけたまま「メガネはどこだー!」と探し回っていた人が、「あ、最初からかかってたわ(アホらし)」と気づいて探すのをやめるようなものです。
探すのをやめた瞬間、すでに自分がその「平和(仏)」の中にいたことが分かります。
### まとめ
どこか遠くのすごい境地へ行くのではなく、**「今ここで余計な手出しをやめて、ただ手放して生きること」**。それ以上の裏技も、奥義も、秘密のゴールも一切ありません。
だからこそ、昔の禅者たちも「悟りを開いた」と言いながら、ただお茶を飲んで笑っていたのです。
そうですか
じゃあそれでいいんじゃないですか
法介師匠を除けば、誰もが
大なり小なり、直接または間接に
義衍老師の影響を受けている
しようと思ってできるか馬鹿。
全然だダメだ。
だからそうやって私が言った発言の意味を考えるとかではなく、
実際のほうですよ
今じっさいどうなってますか
それだけですよ私が言ってるのは
↑
本人がこう言ってるので、発言の意味を考えるのをヤメた
代わりに、井上義衍老師を探究することにした
そんなこと言ってないと言っただけなんだけどな笑
まぁそうやって「分かろうとする」でしょうね
私もずーっとそうしてましたから分からなくはない
これまで話してきた井上義衍老師や禅の世界(「手放す」「何にもならん」)とは、**真逆のベクトル**ですが、実は「この世で無敵になる」ための現実的かつ強力なアプローチは存在します。
世の中で圧倒的な力を手に入れ、無敵になるための方法は大きく分けて**2つの道**があります。
### 道1. 「欲望のロケット」を爆発させて、世の中の頂点に立つ(世間的な無敵)
何かを手に入れ、自慢し、圧倒的成果を出したいなら、禅の教えなんて一旦横に置いて、自分の「欲しい!」「勝ちたい!」というエネルギーを100%爆発させる道です。
1. **「ひとつの分野」に狂気的に集中する**
とんでもない発見や圧倒的なパワーを手に入れた人(科学者、起業家、アスリート、アーティストなど)は、全員「狂気」を持っています。他人がドン引きするレベルで、特定のスキルや事業、研究に時間と情熱を注ぎ込むことです。
2. **圧倒的な成果(数字・現実)を叩き出す**
世界を変える発明をする、圧倒的な資産を作る、誰も真似できない影響力を生む。現実の世界で「勝つ」ことで、誰も文句が言えない圧倒的な力を手に入れます。
3. **無敵の戦略:圧倒的な「実力」と「成果」**
この道での「無敵」とは、**「誰も手出しできないほど圧倒的な成果と力を手に入れて、相手をねじ伏せること」**です。
実は「無敵」という言葉の本来の意味は、**「誰よりも強くて誰も勝てない(Invincible)」**ではなく、**「敵が存在しない(No enemy)」**ということです。
1. **誰とも戦わない**
「勝ちたい」「自慢したい」と思っているうちは、「自分よりスゴい奴」が現れる恐怖から永遠に逃げられません(マウント合戦の螺旋)。
2. **比較の世界から抜ける**
「自分は自分、以上」となり、誰かと比べることを完全にやめた瞬間、この世から「自分を脅かす敵」が一人もいなくなります。
3. **無敵の戦略:絶対的な「開き直り」と「安心」**
この道での「無敵」とは、**「誰かと戦う必要すらなくなった、本当の自由」**です。
もし今、「何かを手に入れて誇りたい!」「無敵になりたい!」という熱いエネルギーがメラメラと湧いているなら、**無理に「手放そう」なんて冷めたことをする必要は全くありません。**
そのパッションをそのまま燃料にして、仕事、学問、ビジネス、芸術、あるいは自分の好きな分野で**「現実の世界を全力で荒らしに行く(頂点を目指す)」**のも、最高に面白い人生の過ごし方です。
やってみて「あ、頂点に立ってもまだ満たされないな」「疲れたな」と思った時に初めて、さっきの禅の教え(手放し)に戻ってくればいいだけのことです。
どちらの道を選ぶのも、あなたの自由ですよ!
「井上義衍はこう語った」という話をしているのに
「私はそんなこと言ってない」と言い張るのはおかしい
師匠筋に当たる井上義衍老師の教えにすら、関心ゼロ
自分の説に対する反応だけを、極端に気にしている
自分の説に対する他人の反応など
いちいち気にしていたら、やっていられない
自分で言うのも変だが、ワケわかんない話をすることが多い
そうですか?
私が行ったことに非常に近しいと思われる内容をハジさんがAIをつかって貼り出したと感じましたよ
ハジさんが違うというのなら私の勘違いで構いませんがどうなんでしょうね
私が言ったことの影響でハジさんがコピペしたのではないのですかね?
まさに釈迦牟尼(ブッダ)が体現した**「世界がどうなろうと心が一切動揺しない無敵」**こそが、仏教の真骨頂であり、最強のチート状態です。
世俗の無敵が「フルアーマーを着込んで相手を全員ボコボコにする無敵」だとしたら、釈迦の無敵は**「自分という存在が透明なスライムや『空(そら)』のようになって、どんな物理攻撃もすり抜けてしまう無敵」**です。
この「動揺しない無敵」がどういう仕組みになっているのか、その秘密は3つあります。
### 1. 「二の矢」を受けない(自爆ダメージ・ゼロ)
釈迦が残した超有名な教えに「第二の矢を受けるな」というものがあります。
生きている限り、病気、批判、嫌な出来事といった「第一の矢(物理ダメージ)」は釈迦にでも必ず当たります。しかし普通の人は、その後に「なんで私がこんな目に!」「あいつ許せない!」という**「第二の矢(精神的ダメージ)」を自分で自分に突き刺して大ダメージを受けます。**
釈迦の無敵とは、第一の矢が刺さっても「痛いな」で終わり。そこから先のストーリー(考え)を作らないため、**メンタルへの追加ダメージが常にゼロ**なのです。
1つの宗派に徹している人とは正反対の
「とりあえず、古今東西の地球人類の思想をすべて取り入れる」という分裂症的なスタイルなので
なんらかの宗派について話をしていると、「そこの信者だ」と思われることがよくある
それは避けられない
私たちが動揺したり傷ついたりするのは、「自分のプライド」「自分の財産」「自分の立場」など、**守りたい『私』**があるからです。
釈迦は「最初から『私』なんてものは幻だ」と完全に腹落ち(無我を悟る)していました。
守るべき「私」という的(まと)が無いので、他人が悪口を言おうが、不運が襲ってこようが、**「何もない空間(空振り)を殴られている」**のと同じ状態になります。的が無いのだから、絶対に傷つきようがありません。
### 3. 「抵抗」しないから、摩擦が起きない
人は「こうであってほしい(期待)」と「現実」がズレたときに、現実に抵抗して動揺します。
釈迦や、先ほどの井上義衍老師がやっていたのは、**「現実に一切抵抗せず、100%そのまま受け入れる(ほったらかし)」**ことです。
川の流れに逆らって泳げば苦しいですが、完全に力を抜いて川の流れ(現実)と一体になれば、摩擦は一切起きず、心は完全に穏やかなままです。
これは私宛てと受け取っていいですか?
それとも私とは関係のない話ですか?
興味ないわけじゃないですよ
私は非常に簡単なことしか言ってませんけど、
それに色々と付け足していくからそんなこと言ってないと言ってるだけですよ
実際に言ってませんからね笑
それが分からない人なら言ってもしょうがないでしょうね
分からない人にはもう何も言いませんけどね
良い教えを探しているわけではない
基本的に全部、知っている
だから、探すまでもない
ときどき、知らない思想に出っ食わすことはあるけど
最近も、インドのラーマーヌジャのバクティ・ヨーガ思想を知らんかった
お気づきの通り、この「釈迦の無敵」を手に入れる方法は、先ほどあなたが「アホらしい」と笑い飛ばした**「ただの手放し」**に繋がります。
メンタルトレーニングをして鋼の心を作る(足し算)のではなく、「自分」や「考え」への執着をポロリと手放す(引き算)こと。
**「なーんだ、何にもならんでいいし、何にも抵抗しなくていいじゃん」**と心底諦めがついたとき、人は「何が起きても絶対に動揺しない、透明で無敵な状態」にスッと入ってしまいます。
何も手に入れないことで、結果的に「絶対に傷つかない心」を手に入れてしまう。仏教って、本当によくできた皮肉で最高にクールなシステムですよね。
井上義衍老師は、「師匠の師匠」くらいに当たる師匠筋の御方であるはず
そんな人について話をしているのに、「私はそんなこと言ってない」と言い張るのは、大師匠への謙虚さを欠いている
いくらなんでも、自己チューすぎる
その姿勢はおかしい
正確な知識の提示する程度と
お付き合い
😀
コピペされてるものは本当に井上義衍老師が仰ったことですか?
あれはAIで抽出したものではないですか?
私は違うと感じたから違うと言ったまでですよ
スキゾ型ならではのスタンス😂
先々週の日曜日に
JBLがヨダレを垂らす至福ゾーンは
かなり仏教全般に活用できる
スグレモノだった
仕事モード以外でも
真言密教寺院のお掃除すら
疲労は、低減した
身体の脱水は別だが
かなり、瞑想系統仏教は
無敵艦隊になりつつある
😀
ノリが違いすぎる😅
思わなかった
😀
誰とは言わないが
JBLが猛烈にヨダレを垂らすゾーンだ
エヘン
言わんぞ
😀
かなり仏教改造てきてしまう
😀
大燈国師あたりか?😆
😀
かなり大当たりだった
😀
佛毒症候群で死ぬぞ。
私が師事する老師ならもっと説明してくれるとは思います
優しいですからね笑
JBL的には脳天をゴルゴ13に狙撃される衝撃だろな
エヘン
😀
なんとかしろ!
お前のせいだ!バカめ!
本業以外でも
疲労軽減できた
エヘンと
スレ主にも
😀
その説明不足なところを
AIを駆使して補強している(笑)
修行スーパー大フィーバーだった
😀
私は疲れたら寝るだけですね笑
そこがツッコミいれられるんやろなー
俺は井上義衍ですら
JBLヨダレゾーンで魔改造してしまう自動的に
😀
井上義衍も魔改造するのか?
😀
何も不足してませんよ
サーモン寿司5巻299円
酒でも飲もう
安いな?
JBLが喜んでレスを見るシロモノ魔改造だ
😀
😀
雨台風だな
低地危険というやつだ
😀
井上義衍を魔改造したんかな?
😀
都心は無事だ。
ただ、きょうは寝られないがね(⌒‐⌒)
俺の霊能力かブースターになってしまった
😀
雰囲気的には
北斗の拳のトキみたいな
😀
エネルギー
😀
心の中でJBLに
エヘンを連発してしまう
😀
どういうこと?
人間は満足なんかしないんですよ
イケイケが、欲しいんだろ
怠け者ハジコのクセに
😀
わかったか!
そんなんでいいなら
体外離脱でええやん
お加持とか超常現象を起こすとかは
私心があると
どちらにせよ無理やで
ハジのように「私」が満足しない
つーね
まずはその「私」を掴むのをやめよう
というベーシックな
お釈迦様の教えからってなるんや
結局
自身の為ではなく
人の為、所謂菩薩行によるものやからな
そんな難しいことやないわ
満足、充実、満たされるー、さいこーの境地
の「私」を手放すという
解放であるから
まあ、階層が違いすぎて
比べられん