【アビダルマ】 倶舎論 【仏教の標準理論】 Part5最終更新 2026/05/17 17:081.◆JBLfMwCXhY5M3oN阿毘達磨倶舎論 世親著 玄奘訳帰敬偈(ききょうげ)稽首広大慧、具釈微妙法、滅除衆生惑、救世諸師中。能説諸蘊等、種々名句文、悉由彼尊力、我今依彼説。救世の諸師の中で最も広大な智慧を持ち、微妙なる法を詳しく解き明かし、衆生の惑いを滅し去った尊い方に、頭を下げて礼拝する。・・・私は今、世尊の教えに依って、阿毘達磨倶舎論を説こう。【アビダルマ】 倶舎論 【仏教の標準理論】 Part4https://talk.jp/boards/psy/17699418362026/05/02 11:42:02106コメント欄へ移動すべて|最新の50件57.◆JBLfMwCXhYiLsX0加藤 拓雅仏教学(三論宗、真言宗)龍谷大学大学院 文学研究科 仏教学専攻 博士後期課程真言宗醍醐派 教師一般社団法人エア寺 理事(勧学院 担当)龍谷大学仏教学科を卒業後、京都の老舗和菓子店に勤務。 弟の死をきっかけに総本山醍醐寺(真言宗)にて修行し、その後8年間、同寺に奉職。 退山後は家業である月光堂楽器店を継ぐ傍ら、現在、龍谷大学大学院博士課程に在籍し、平安時代仏教を中心に研究している。2026/05/04 09:59:1758.◆JBLfMwCXhYiLsX0真言宗醍醐派なのか2026/05/04 09:59:3459.◆JBLfMwCXhYiLsX0店主からのメッセージ三代目店主 加藤 拓雅月光堂楽器店は京都・下鴨の地で戦後まもなく創業いたしました。日本初のギター専門店としてはじまり、古楽、クラシックギター店として活動しています。地域の音楽・文化の発信拠点として皆様に親しまれるお店を目指しています。気軽にお立ち寄りください。2026/05/04 10:00:3460.◆JBLfMwCXhYiLsX0ギターは分からんな~2026/05/04 10:00:4561.神も仏も名無しさんLV7nl京都イスラーム文化センターで本を買い下鴨神社に近い加藤師匠の楽器店に帰り寄る、近い😀2026/05/04 10:02:4862.神も仏も名無しさんLV7nlイスラームがいついくんだろ?モーそろそろ行く可能性が高くなってきた本とモスク礼拝だな😀2026/05/04 10:04:0363.◆JBLfMwCXhYiLsX0イスラムスレも、そろそろテコ入れするか~😆2026/05/04 10:05:0464.◆JBLfMwCXhYiLsX0イスラムアンチに燃料補給しないとな~😆2026/05/04 10:05:2765.神も仏も名無しさんLV7nl仏教探査は夏探査は今年で取り敢えず停止で夏に京都イスラームモスク夏に大阪ハリストス正教会礼拝という暑さ地獄とのバトル入れるはつそで暑さ地獄業火に焼かれながら来年夏あたり目指すプランを建てた😀😀😀😀😀😀2026/05/04 10:38:2666.神も仏も名無しさんLV7nl今年でかなり夏の春日大社と高野山でほぼメイン修行ゲーム終了となるあと、はより気楽な修行旅だから来年あたりに仏教以外探査を入れるだろう😀2026/05/04 10:40:0667.神も仏も名無しさんWuKfn慌てて行く予定がない山伏寺https://m.youtube.com/watch?v=bLN45I6osy4&pp=ygUS5riF6I2S56We5riF5r6E5a-62026/05/04 11:36:3168.神も仏も名無しさんWuKfnイスラームとハリストス正教会よりも行きたい寺院は来年春で完了となるだろう😀2026/05/04 11:46:1069.ゴリ子ZeMtJギターって何で関係あるんだろ?とか思っていましたが、そういう訳だったんですね。不思議に思っていました。2026/05/10 20:04:3270.◆JBLfMwCXhYr166o質問:倶舎論では、心は多くの要素が集まってできているチャットGPT:はい。阿毘達磨倶舎論 では、「心」は単一の実体ではなく、多数の要素(法 dharma)の集合として分析されます。特に有名なのが、心王(しんのう)心所(しんじょ)という区別です。2026/05/13 20:21:2671.◆JBLfMwCXhYr166o心王中心となる「認識作用」そのもの。たとえば、見る聞く考える感じるという“意識の本体”です。しかし、心王だけでは具体的な心の動きになりません。2026/05/13 20:22:0072.◆JBLfMwCXhYr166o心所心に付随して働く、さまざまな心理作用。たとえば、感受(受)イメージ化(想)意志(思)欲怒り集中信慚愧執着など。つまり、「怒っている心」というとき、単独の“怒りの魂”があるのではなく、意識感覚判断執着不快感衝動などが一瞬ごとに結合している。これが倶舎論的な見方です。2026/05/13 20:22:3273.◆JBLfMwCXhYr166o「人間」も集合体さらに徹底すると、「私」という実体も存在しないという方向へ行きます。これは「五蘊(ごうん)」の思想です。色(身体)受(感覚)想(表象)行(意志作用)識(意識)この束が仮に「人」と呼ばれているだけ。だから倶舎論は、かなり分析的・解体的です。2026/05/13 20:22:5174.◆JBLfMwCXhYr166o現代風に言うとかなり乱暴に言えば、「自我」はOSではなく多数のプロセスの束という発想に近い。現代の認知科学や心理学とも、妙に響き合う部分があります。2026/05/13 20:23:3475.◆JBLfMwCXhYr166oただし、禅や密教とはかなり違う倶舎論は非常に「分類学的」です。心を細かく分解する要素を整理する因果関係を分析するという方向へ進む。一方、禅 → 分析を超えて直接見る密教 → 仏の働きとして身体ごと転換するという傾向が強い。だから後代には、「倶舎は聡明だが、分析に偏りすぎる」と見られることもありました。ただ、その精密さは驚異的で、東アジア仏教の“心理学の基礎文法”みたいな役割を果たしています。2026/05/13 20:23:5076.◆JBLfMwCXhYr166o質問:怒りとか、欲とかそれぞれのバーツに実体があり、それが「心王」との接続と切断を繰り返すそういうことになるのか?2026/05/13 20:26:1777.◆JBLfMwCXhYr166oチャットGPT:かなり近い理解です。ただし、阿毘達磨倶舎論 では、「怒り」や「欲」が“独立した魂のような実体”として存在するわけではありません。むしろ、心の瞬間ごとに、特定の心所が生起して、心王とともに働くという理解です。2026/05/13 20:26:5078.◆JBLfMwCXhYr166o「接続と切断」というイメージこれは、かなり阿毘達磨っぽいです。たとえば、ある瞬間には「怒り」が接続される次の瞬間には「欲」が接続されるまた別の瞬間には「信」や「集中」が接続されるすると、その都度、“まったく別の心”が成立する。倶舎論では、心は固定的な一つの流体ではなく、刹那ごとに生成消滅するイベント列に近い。2026/05/13 20:27:1779.◆JBLfMwCXhYr166oただし、「心王」が本体ではないここが重要です。現代人はつい、心王=主体心所=付属品と考えがちですが、倶舎論ではそこまで強い中心主義ではありません。心王もまた、一つの「法」にすぎない。つまり、心王受想思貪瞋痴などが、条件によって同時発生している。だから、「怒っている私」があるのではなく、「怒りを伴う心の瞬間」が起きているという感じです。2026/05/13 20:27:4780.◆JBLfMwCXhYr166oLEGOやゲームエンジンに近い現代風に言えば、“私”という固定キャラクターがいるのではなく毎フレームごとに状態がレンダリングされるイメージに近い。怒りモジュール、 欲望モジュール、 注意モジュール、 記憶モジュール……が条件に応じて毎瞬間ロードされる。しかも、その連続性を見て、「同じ私が続いている」と錯覚している。これはかなりラディカルな思想です。2026/05/13 20:28:1181.◆JBLfMwCXhYr166oだから修行とは「接続の変化」阿毘達磨系では、何が心に結びつくかどの心所が増えるかどの煩悩が切れるかを徹底的に観察する。つまり修行とは、「私を変える」というより、心の構成パターンを書き換えることに近い。ここから後に、唯識禅密教などが、それぞれ別方向へ発展していきます。2026/05/13 20:28:2382.◆JBLfMwCXhYr166o質問:「心が怒っている」というのを「瞋の心所が起動して、心王に接続した」と考えるのか2026/05/13 20:36:3083.◆JBLfMwCXhYr166oチャットGPT:そうです。かなり正確な理解です。阿毘達磨倶舎論 的には、「私が怒っている」ではなく、「瞋(しん)の心所を伴った心が生起している」と見る。つまり、心王(意識作用) に対して、瞋受想思作意などの心所が“同時に相応している”。これを「相応(そうおう)」と言います。2026/05/13 20:37:2184.◆JBLfMwCXhYr166o「接続」という表現はかなり近いもちろん倶舎論は現代のコンピュータ用語では語りませんが、イメージとしては近いです。たとえば、通常状態:心王受想作意だけだったものに、侮辱された瞬間、瞋無慚掉挙などが加わる。すると、“怒り状態の心”が成立する。2026/05/13 20:37:4685.◆JBLfMwCXhYr166o逆に、慈信捨定などが相応すれば、穏やかな心になる。重要なのは、「怒りそのもの」が主体ではないこと倶舎論は、「怒っている者」を探しても見つからないと考えます。あるのは、条件心所生滅相応だけ。だから非常に非人格的・機械的です。ある意味、「人間」より、「プロセス」を見ている。2026/05/13 20:38:2186.◆JBLfMwCXhYr166oだから阿毘達磨は“心理工学”っぽい「怒るな」という道徳論より、どういう条件で瞋が起動するか何と結びつきやすいかどうすれば切れるかを分析する。かなり冷徹です。2026/05/13 20:38:4087.◆JBLfMwCXhYr166o禅との違いも面白い阿毘達磨:「瞋の心所が相応している」禅:「怒っているのは誰だ?」中観:「瞋も心王も空である」唯識:「その瞋すら識の変現」密教:「瞋恚そのものを明王智へ転ずる」同じ「怒り」でも、宗派ごとに見え方が全然違うんです。2026/05/13 20:39:0988.◆JBLfMwCXhYr166o質問:「心王は電球、心所は銅線でつながった豆電球」という、佐々木閑の説明のイメージだが2026/05/13 20:48:1389.◆JBLfMwCXhYr166oなるほど、佐々木閑 らしい説明ですね。かなり分かりやすい比喩です。そのイメージだと、心王=中央の光源心所=周囲の小さなランプ群で、ある心所が接続されると、その色の「心」が成立する。たとえば、瞋が点灯 → 怒りの心貪が点灯 → 欲望の心信が点灯 → 清らかな心定が点灯 → 集中状態という感じ。ただ、倶舎論的には少し補足が必要です。2026/05/13 20:48:4290.◆JBLfMwCXhYr166o実は「心王」が本体というわけでもない現代人はどうしても、中央に“本当の私”がいて、 心所はオプション機能と感じがちです。でも阿毘達磨では、心王もまた一つの「法」にすぎない。つまり、心王だけ単独で先に存在する のではなく、心王と心所がセットで同時発生すると考える。これを「俱生(ぐしょう)」とか「相応」と言います。2026/05/13 20:49:0591.◆JBLfMwCXhYr166oだから実際には「LED回路」っぽい佐々木閑の比喩をさらに阿毘達磨寄りにすると、心王という中央CPUがあるというより、条件によって、その瞬間ごとに回路全体が構成される感じです。つまり、怒った瞬間に、心王受想思瞋作意などが“一括起動”する。次の瞬間にはもう別構成。だから「同じ心」が持続しているわけではない。2026/05/13 20:49:3492.◆JBLfMwCXhYr166oここがかなりラディカル普通は、私がいて、怒ったり落ち着いたりすると考える。でも倶舎論は逆で、怒り状態の心イベント 落ち着いた心イベントが高速で連続しているだけ。そこに「私」を仮定している。2026/05/13 20:49:5293.◆JBLfMwCXhYr166oこの発想、後の仏教に巨大な影響を与えた唯識 → 心の深層構造へ禅 → その分析すら手放す密教 → 心そのものを仏の活動として再編するなど、全部ここから発展していく。だから阿毘達磨は、一見地味だけど、 東アジア仏教の“OSレベル”の思想なんです。2026/05/13 20:50:0794.神も仏も名無しさんCjxMS前にレスしたがテーラワーダの生滅智が密教復活のキーワードになるテーラワーダは生滅智を超えて何もなきアラカンに行くが密教テーラワーダ生滅智の有るという箇所を世界に広げて、物質こ構成要素も全部有るの、ままに仏の悟りと解釈した生滅智から入る感触は密教に似ている、物質構成要素を認知する部分で曹洞宗だと、マジで何も無い😀2026/05/13 21:25:3895.ゴリ子0Dy8JTikTokの中のイーロンマスクさんが語ってたな。感情処理出来る事がこんなに真理から遠ざかるものとは思わず、初めて知った感情が指針。屁理屈野郎ってこんな感じなんだろな。2026/05/13 23:06:1196.◆JBLfMwCXhYCxebt小乗仏教では、即身成仏できるのはブッダだけ他の人たちは阿羅漢が最高位2026/05/17 16:44:4697.◆JBLfMwCXhYCxebt四向四果(しこうしか)「四向・しこう」修業する四段階(向かう人)「四果・しか」悟りの深さの四段階の境地(果たした人)「四双八輩・しそうはちはい」とも呼ばれています。ブッタ滅後にさとりの修習に応じて四段階に整備され、「それに向かう人」「それを果たした人」の八種に分類された思想です。2026/05/17 16:45:4798.◆JBLfMwCXhYCxebt1、預流向 → 預流果(よるか)流果(るか)は「さとりの流れに到達する」意味です。「この境地に到れば、それ以前の俗世の世界に退堕(たいだ)することなく、人間界と天界を7回転生している間に修業が進み、さとりの境地に到達する人」「極七返有・ごくしちぽんぬ」「極七返生・ごくしちぽんしょう」ともよばれます。預流果(よるか)は三結(有身見・疑・戒禁取)を完全に断滅した人です。「須陀含・しゅだおん」とも呼ばれています。2026/05/17 16:46:1399.◆JBLfMwCXhYCxebt2、一来向 → 一来果 (いちらいか)「天界と人間界とを一度だけ転生して、さとりの境地に達する人」三結を滅ぼし貪欲、瞋恚薄い人「斯陀含・しだごん」とも呼ばれています。それに向かう人は「一来向・いちらいこう」です。2026/05/17 16:46:31100.◆JBLfMwCXhYCxebt3、不還向 → 不還果(ふかんか)「再びこの世界に戻ることなく、天界でさとりの境地に到達する人」五下分結を滅ぼし化生者(かせいしゃ)となり色界の浄居天(じょういてん)となり、滅後、涅槃に至る人です。「阿那含・あなごん」とも呼ばれています。それに向かう人は「不還向・ふかんこう」です。2026/05/17 16:46:49101.◆JBLfMwCXhYCxebt4、阿羅漢向 → 阿羅漢果(あらかんか)「究極のさとりへ到達した人、供養されるべき人」(無学・むがく)「五上分結、五下分結を断じた人」「煩悩を滅した心解脱(しんげだつ)、四諦(したい)をみて解脱した慧解脱(えげだつ)、両方の倶分解脱(ぐぶんげだつ)した人」「漏尽智(ろじんち)煩悩を滅した人」「応供・おうぐ」とも呼ばれています。それに向かう人は「阿羅漢向・あらかんこう」です。2026/05/17 16:47:09102.◆JBLfMwCXhYCxebt小乗仏教では、阿羅漢になるのが目標だ真言密教みたいに、即身成仏するのは無理とされている2026/05/17 16:47:35103.◆JBLfMwCXhYCxebt阿羅漢と菩薩がどう違うのかというと阿羅漢は僧侶、つまり人間だ菩薩は人間ではないそこが違う2026/05/17 16:47:53104.神も仏も名無しさんYEnim俺はここだ😀1、預流向 → 預流果(よるか)流果(るか)は「さとりの流れに到達する」意味です。「この境地に到れば、それ以前の俗世の世界に退堕(たいだ)することなく、人間界と天界を7回転生している間に修業が進み、さとりの境地に到達する人」「極七返有・ごくしちぽんぬ」「極七返生・ごくしちぽんしょう」ともよばれます。預流果(よるか)は三結(有身見・疑・戒禁取)を完全に断滅した人です。「須陀含・しゅだおん」とも呼ばれています。2026/05/17 16:49:22105.神も仏も名無しさんYEnimま、生きている間にキリスト教の天界とかイスラームの天界とか行き来してるかもー😀2026/05/17 16:50:39106.◆JBLfMwCXhYCxebt素晴らしいな?😆2026/05/17 17:08:34
【ぶら下がり取材】「高市さん、聞かれて答えるのは嫌ですか?」歴代首相に比べ‟取材対応”少なめ、Xでは連日発信…SNS隆盛時代に問われる報道機関の真価ニュース速報+4471165.92026/05/24 19:47:49
帰敬偈(ききょうげ)
稽首広大慧、具釈微妙法、
滅除衆生惑、救世諸師中。
能説諸蘊等、種々名句文、
悉由彼尊力、我今依彼説。
救世の諸師の中で
最も広大な智慧を持ち、
微妙なる法を詳しく解き明かし、
衆生の惑いを滅し去った尊い方に、
頭を下げて礼拝する。
・・・
私は今、世尊の教えに依って、
阿毘達磨倶舎論を説こう。
【アビダルマ】 倶舎論 【仏教の標準理論】 Part4
https://talk.jp/boards/psy/1769941836
仏教学(三論宗、真言宗)
龍谷大学大学院 文学研究科 仏教学専攻 博士後期課程
真言宗醍醐派 教師
一般社団法人エア寺 理事(勧学院 担当)
龍谷大学仏教学科を卒業後、京都の老舗和菓子店に勤務。 弟の死をきっかけに総本山醍醐寺(真言宗)にて修行し、その後8年間、同寺に奉職。 退山後は家業である月光堂楽器店を継ぐ傍ら、現在、龍谷大学大学院博士課程に在籍し、平安時代仏教を中心に研究している。
三代目店主 加藤 拓雅
月光堂楽器店は京都・下鴨の地で戦後まもなく創業いたしました。
日本初のギター専門店としてはじまり、古楽、クラシックギター店として活動しています。地域の音楽・文化の発信拠点として皆様に親しまれるお店を目指しています。気軽にお立ち寄りください。
😀
モーそろそろ行く可能性が高くなってきた
本とモスク礼拝だな
😀
今年で取り敢えず停止で
夏に京都イスラームモスク
夏に大阪ハリストス正教会礼拝
という暑さ地獄とのバトル入れるはつそで暑さ地獄業火に焼かれながら
来年夏あたり目指すプランを建てた
😀😀😀😀😀😀
夏の春日大社と
高野山で
ほぼメイン修行ゲーム終了となる
あと、はより気楽な修行旅だから
来年あたりに
仏教以外探査を入れるだろう
😀
山伏寺
https://m.youtube.com/watch?v=bLN45I6osy4&pp=ygUS5riF6I2S56We5riF5r6E5a-6
ハリストス正教会よりも
行きたい寺院は
来年春で完了となるだろう
😀
チャットGPT:はい。
阿毘達磨倶舎論 では、「心」は単一の実体ではなく、多数の要素(法 dharma)の集合として分析されます。
特に有名なのが、
心王(しんのう)
心所(しんじょ)
という区別です。
中心となる「認識作用」そのもの。
たとえば、
見る
聞く
考える
感じる
という“意識の本体”です。
しかし、心王だけでは具体的な心の動きになりません。
心に付随して働く、さまざまな心理作用。
たとえば、
感受(受)
イメージ化(想)
意志(思)
欲
怒り
集中
信
慚愧
執着
など。
つまり、
「怒っている心」
というとき、単独の“怒りの魂”があるのではなく、
意識
感覚
判断
執着
不快感
衝動
などが一瞬ごとに結合している。
これが倶舎論的な見方です。
さらに徹底すると、
「私」という実体も存在しない
という方向へ行きます。
これは「五蘊(ごうん)」の思想です。
色(身体)
受(感覚)
想(表象)
行(意志作用)
識(意識)
この束が仮に「人」と呼ばれているだけ。
だから倶舎論は、かなり分析的・解体的です。
かなり乱暴に言えば、
「自我」はOSではなく
多数のプロセスの束
という発想に近い。
現代の認知科学や心理学とも、妙に響き合う部分があります。
倶舎論は非常に「分類学的」です。
心を細かく分解する
要素を整理する
因果関係を分析する
という方向へ進む。
一方、
禅 → 分析を超えて直接見る
密教 → 仏の働きとして身体ごと転換する
という傾向が強い。
だから後代には、
「倶舎は聡明だが、分析に偏りすぎる」
と見られることもありました。
ただ、その精密さは驚異的で、東アジア仏教の“心理学の基礎文法”みたいな役割を果たしています。
それぞれのバーツに実体があり、それが「心王」との接続と切断を繰り返す
そういうことになるのか?
ただし、阿毘達磨倶舎論 では、「怒り」や「欲」が“独立した魂のような実体”として存在するわけではありません。
むしろ、
心の瞬間ごとに、特定の心所が生起して、心王とともに働く
という理解です。
これは、かなり阿毘達磨っぽいです。
たとえば、
ある瞬間には「怒り」が接続される
次の瞬間には「欲」が接続される
また別の瞬間には「信」や「集中」が接続される
すると、その都度、
“まったく別の心”
が成立する。
倶舎論では、心は固定的な一つの流体ではなく、
刹那ごとに生成消滅するイベント列
に近い。
ここが重要です。
現代人はつい、
心王=主体
心所=付属品
と考えがちですが、
倶舎論ではそこまで強い中心主義ではありません。
心王もまた、一つの「法」にすぎない。
つまり、
心王
受
想
思
貪
瞋
痴
などが、条件によって同時発生している。
だから、
「怒っている私」
があるのではなく、
「怒りを伴う心の瞬間」が起きている
という感じです。
現代風に言えば、
“私”という固定キャラクターがいるのではなく
毎フレームごとに状態がレンダリングされる
イメージに近い。
怒りモジュール、 欲望モジュール、 注意モジュール、 記憶モジュール……
が条件に応じて毎瞬間ロードされる。
しかも、その連続性を見て、
「同じ私が続いている」
と錯覚している。
これはかなりラディカルな思想です。
阿毘達磨系では、
何が心に結びつくか
どの心所が増えるか
どの煩悩が切れるか
を徹底的に観察する。
つまり修行とは、
「私を変える」
というより、
心の構成パターンを書き換える
ことに近い。
ここから後に、
唯識
禅
密教
などが、それぞれ別方向へ発展していきます。
「瞋の心所が起動して、心王に接続した」
と考えるのか
阿毘達磨倶舎論 的には、
「私が怒っている」
ではなく、
「瞋(しん)の心所を伴った心が生起している」
と見る。
つまり、
心王(意識作用) に対して、
瞋
受
想
思
作意
などの心所が“同時に相応している”。
これを「相応(そうおう)」と言います。
もちろん倶舎論は現代のコンピュータ用語では語りませんが、イメージとしては近いです。
たとえば、
通常状態:
心王
受
想
作意
だけだったものに、
侮辱された瞬間、
瞋
無慚
掉挙
などが加わる。
すると、
“怒り状態の心”
が成立する。
慈
信
捨
定
などが相応すれば、穏やかな心になる。
重要なのは、「怒りそのもの」が主体ではないこと
倶舎論は、
「怒っている者」
を探しても見つからない
と考えます。
あるのは、
条件
心所
生滅
相応
だけ。
だから非常に非人格的・機械的です。
ある意味、
「人間」より、「プロセス」を見ている。
「怒るな」という道徳論より、
どういう条件で瞋が起動するか
何と結びつきやすいか
どうすれば切れるか
を分析する。
かなり冷徹です。
阿毘達磨:「瞋の心所が相応している」
禅:「怒っているのは誰だ?」
中観:「瞋も心王も空である」
唯識:「その瞋すら識の変現」
密教:「瞋恚そのものを明王智へ転ずる」
同じ「怒り」でも、宗派ごとに見え方が全然違うんです。
という、佐々木閑の説明のイメージだが
かなり分かりやすい比喩です。
そのイメージだと、
心王=中央の光源
心所=周囲の小さなランプ群
で、ある心所が接続されると、その色の「心」が成立する。
たとえば、
瞋が点灯 → 怒りの心
貪が点灯 → 欲望の心
信が点灯 → 清らかな心
定が点灯 → 集中状態
という感じ。
ただ、倶舎論的には少し補足が必要です。
現代人はどうしても、
中央に“本当の私”がいて、 心所はオプション機能
と感じがちです。
でも阿毘達磨では、心王もまた一つの「法」にすぎない。
つまり、
心王だけ単独で先に存在する のではなく、
心王と心所がセットで同時発生する
と考える。
これを「俱生(ぐしょう)」とか「相応」と言います。
佐々木閑の比喩をさらに阿毘達磨寄りにすると、
心王という中央CPUがある
というより、
条件によって、その瞬間ごとに回路全体が構成される
感じです。
つまり、
怒った瞬間に、
心王
受
想
思
瞋
作意
などが“一括起動”する。
次の瞬間にはもう別構成。
だから「同じ心」が持続しているわけではない。
普通は、
私がいて、怒ったり落ち着いたりする
と考える。
でも倶舎論は逆で、
怒り状態の心イベント 落ち着いた心イベント
が高速で連続しているだけ。
そこに「私」を仮定している。
唯識 → 心の深層構造へ
禅 → その分析すら手放す
密教 → 心そのものを仏の活動として再編する
など、全部ここから発展していく。
だから阿毘達磨は、一見地味だけど、 東アジア仏教の“OSレベル”の思想なんです。
テーラワーダの生滅智が
密教復活のキーワードになる
テーラワーダは生滅智を超えて何もなきアラカンに行くが
密教
テーラワーダ生滅智の有るという箇所を世界に広げて、物質こ構成要素も全部
有るの、ままに
仏の悟りと解釈した
生滅智から入る感触は
密教に似ている、物質構成要素を認知する部分で
曹洞宗だと、マジで何も無い
😀
他の人たちは阿羅漢が最高位
「四向・しこう」修業する四段階(向かう人)
「四果・しか」悟りの深さの四段階の境地(果たした人)
「四双八輩・しそうはちはい」とも呼ばれています。
ブッタ滅後にさとりの修習に応じて四段階に整備され、「それに向かう人」「それを果たした人」の八種に分類された思想です。
1、預流向 → 預流果(よるか)
流果(るか)は「さとりの流れに到達する」意味です。
「この境地に到れば、それ以前の俗世の世界に退堕(たいだ)することなく、人間界と天界を7回転生している間に修業が進み、さとりの境地に到達する人」
「極七返有・ごくしちぽんぬ」「極七返生・ごくしちぽんしょう」ともよばれます。
預流果(よるか)は三結(有身見・疑・戒禁取)を完全に断滅した人です。
「須陀含・しゅだおん」とも呼ばれています。
「天界と人間界とを一度だけ転生して、さとりの境地に達する人」
三結を滅ぼし貪欲、瞋恚薄い人
「斯陀含・しだごん」とも呼ばれています。
それに向かう人は「一来向・いちらいこう」です。
「再びこの世界に戻ることなく、天界でさとりの境地に到達する人」
五下分結を滅ぼし化生者(かせいしゃ)となり色界の浄居天(じょういてん)となり、滅後、涅槃に至る人です。
「阿那含・あなごん」とも呼ばれています。
それに向かう人は「不還向・ふかんこう」です。
「究極のさとりへ到達した人、供養されるべき人」(無学・むがく)
「五上分結、五下分結を断じた人」
「煩悩を滅した心解脱(しんげだつ)、四諦(したい)をみて解脱した慧解脱(えげだつ)、両方の倶分解脱(ぐぶんげだつ)した人」
「漏尽智(ろじんち)煩悩を滅した人」
「応供・おうぐ」とも呼ばれています。
それに向かう人は「阿羅漢向・あらかんこう」です。
真言密教みたいに、即身成仏するのは無理とされている
阿羅漢は僧侶、つまり人間だ
菩薩は人間ではない
そこが違う
ここだ😀
1、預流向 → 預流果(よるか)
流果(るか)は「さとりの流れに到達する」意味です。
「この境地に到れば、それ以前の俗世の世界に退堕(たいだ)することなく、人間界と天界を7回転生している間に修業が進み、さとりの境地に到達する人」
「極七返有・ごくしちぽんぬ」「極七返生・ごくしちぽんしょう」ともよばれます。
預流果(よるか)は三結(有身見・疑・戒禁取)を完全に断滅した人です。
「須陀含・しゅだおん」とも呼ばれています。
キリスト教の天界とか
イスラームの天界とか
行き来してるかもー
😀