Exactly right. You’ve hit on the core logic of Abhidharma philosophy.
The Six Causes (六因) and Four Conditions (四縁) are not different "things"—they are two different ways of categorizing the same reality.
777.
神も仏も名無しさん
T4aT2
戒→定→慧
順序を守っている
778.
◆JBLfMwCXhY
4zJ42
How they overlap
Think of it as looking at the same house from the front (Six Causes) and then from a bird's-eye view (Four Conditions). Here is how the Six Causes fit into the Four Conditions:
779.
◆JBLfMwCXhY
4zJ42
Four Conditions (四縁)Corresponding Six Causes (六因)Description1. Primary Condition (因縁)5 Causes: 倶有・相応・同類・遍行・異熟The core internal drivers.2. Sequential Condition (等無間縁)(None specifically)The flow of consciousness (A passing to B).3. Object Condition (所縁縁)(None specifically)What the mind focuses on.4. Dominant Condition (増上縁)1 Cause: 能作因 (Active Cause)Everything else that doesn't get in the way.
780.
◆JBLfMwCXhY
4zJ42
💡 Why the two systems?
The Abhidharma masters used these two "filters" for different purposes:
Six Causes = Micro Analysis: Focuses on the power (efficacy) of each cause. It explains how a specific seed becomes a specific fruit.
Four Conditions = Macro Analysis: Focuses on the scope of relationship. It explains the environment required for something to arise, including time and mental objects.
781.
◆JBLfMwCXhY
4zJ42
⚓ Key Point
You can say that Primary Condition (因縁) is just a "container" for five of the six causes. Meanwhile, Dominant Condition (増上縁) is the container for the Active Cause (能作因).
Would you like to dive deeper into why Sequential Condition and Object Condition are treated separately from the "Six Causes," or shall we look at how these lead to the Five Fruits?
帰敬偈(ききょうげ)
稽首広大慧、具釈微妙法、
滅除衆生惑、救世諸師中。
能説諸蘊等、種々名句文、
悉由彼尊力、我今依彼説。
救世の諸師の中で
最も広大な智慧を持ち、
微妙なる法を詳しく解き明かし、
衆生の惑いを滅し去った尊い方に、
頭を下げて礼拝する。
・・・
私は今、世尊の教えに依って、
阿毘達磨倶舎論を説こう。
【仏教の標準理論】 倶舎論 【世親著】 Part3
https://talk.jp/boards/psy/1761643017
法(ダルマ)=存在するものに2種類
・有為(うい)…煩悩で汚れたもの
・無為(むい)…煩悩で汚れてないもの
1~4は有為法、5は無為法
1、色・・・物質的現象 11種類
眼・耳・鼻・舌・身・
色・声・香・味・触・
無表色
2、心・・・心の本体 1種類
3、心所・・・心の作用 46種類
大地 常駐する心の動き
大善地 善の動き
大不善地 悪の動き
不定 どちらでもない心の動き
大煩悩地 根本的な煩悩
小煩悩地 付随する煩悩
4、心不相応行・・・ 14種類
色(物質)にも、心(精神)にも分類されないもの
5、無為・・・ 3種類
常住不変な存在 虚空、択滅、非択滅
直接的な原因(因)を6つ、間接的な条件(縁)を4つ、それらから生まれる結果(果)を5つに分類し、世の理を解き明かしたものです。
物事を生み出す6つの直接的な力・要因。
能作因(のうさいん): 他の法(もの)を妨げず、成立を助ける直接的な力。
倶有因(くゆういん): 相互に依存し合って同時に存在・成立する原因。
同類因(どうるいいん): 善は善、悪は悪のように、同種の過去の結果が将来の同種の原因となること。
相応因(そうおういん): 心と心が相応(作用)する際、対象、所依、時、事、実体(同類)が一致する関係。
遍行因(へんぎょういん): 過去の迷い(煩悩)が、将来の他の迷いを引き起こす原因。
異熟因(いじゅくいん): 善悪の行為が、時間を置いて異なる結果(無記=善でも悪でもない)をもたらす原因。
2. 四縁(しえん) - 間接的な条件
物事が生じるために必要な4つの条件・関連性。
因縁(いんねん): 六因のうち「能作因」を除く5つ。直接の原因そのもの。
等無間縁(とうむけんえん): 次第縁ともいう。前の心が消滅して、間髪入れずに次の心が生じる、意識の流れ。
所縁縁(しょえんえん): 心が何かに向かう際、その対象となる縁(認識対象)。
増上縁(ぞうじょうえん): 直接的ではないが、他の法が成立するのを「妨げない」という消極的な助けから、積極的に力を加えるものまでを含む広義の条件。
3. 五果(ごか) - 5つの結果
因縁によって生まれる5つの結果。
異熟果(いじゅくか): 異熟因(善悪の業)によって生じる結果。
等流果(とうるか): 同類因(同質の原因)によって生じる結果。
離系果(りけいか): 賢聖が煩悩を離れて、無為(涅槃)を得る結果。
士用果(しゆうか): 人の力(主体的努力)によって得られる結果。
増上果(ぞうじょうか): 増上縁によって成立する、包括的な結果。
まーーーーた、慢性知能欠乏症の統失がコピペかよ😂
それ、説一切有部からクレームが来たって話をしただろうが。
「すべての存在・現象は、一瞬(刹那)ごとに生まれ、次の瞬間には滅している」
固定的な実体は存在せず、連続した生成・消滅の流れが現在の一瞬として認識される。
定義:「刹那」は極めて短い時間を指し、1刹那=約0.013秒ともいわれる。すべては一瞬のうちに生じ(生)、留まり(住)、変化し(異)、消滅(滅)する。
本質:1秒前のあなたと今のあなたは別の存在であり、すべてのモノは固定的ではなく常に変化し続けている。
/ , `ヽ.
/〃//,. ,ィl/|l ト、 !、 、 ヽ
ー’´| | l |1 | !l. l| ! | l.|ヽ ! !、 ’, おじちゃんたち
YレV!ヒエ「! |l.「_ト!Ll」| l l l どうしてはたらかないの?
! lハイJ | ´|_jヽ. リ,! ! l. l |
|l |l.} ー , L _,ハl.lトl l. | l
|l ilト、 n ” ,1l|ィ| |l l |
_ 二,ニ^tュ–ェ_t1」l.|l !リ|_lノ
r7´ f r┐| 〔/ミヽ>,-、 ̄´
Y ー个‐’t ハ-、_’ゝ、
ヽ ._・ rく ̄ヽト-‘丿 ヽ l
/ (・__,)ゝi┬’´ハ` ’`|
|ヽ, イ ノ┴くヽヽ、 /
`´ ゝ┬ヘ`ヽ | `ー‐1
ゝノ-‐^ー’一”丶 ヽ ヽ
ト、_ `ーァ’¨不ヽ
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l l. l l ! !└’ l |
└ L 」_,|__l_l.__L.l′
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l l ! !
l l. l l
ト–┤ !–‐1
f‐t央j. ト央ァヘ
| 甘l、 / 甘 |
l ,.-‐ヽ レ’⌒ヽ/
`く.__ ノ ゝ–‐′
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| (__人__)
| ` ⌒´ノ 特技は?
| }
ヽ }
ヽ、.,__ __ノ
_, 、 -― ''"::l:::::::\ー-..,ノ,、.゙,i 、
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/_ノ ヽ_\
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| |r┬-/ | コピペです
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,,.....イ.ヽヽ、___ ーーノ゙-、.
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> ヽ. ハ | || ○
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極微(ごくみ)は、仏教における物質の最小単位。サンスクリット語の「パラマ・アヌ(paramanu)」の訳で、それ以上分割できない極限の微粒子を指し、現代の原子や素粒子に近い概念です。
主に説一切有部などの学派が唱えた世界観で、地・水・火・風(四大)の性質を持つこの極微が集合して、全ての物質が構成されていると考えられました。
意味と読み: 物質を極限まで分析した最小の実体。読みは「ごくみ」が一般的だが「きょくび」とも。
大きさ: 目に見える最小の物質「微塵(みじん)」のさらに約1/7の大きさ。7つの極微が集まって1つの微塵になるとされる。
構成: 極微自体は空間的な広がりを持たない(もし持つならさらに分割できるため)。
関連概念: 物質的な微粒子(色法)の最小単位であり、原子論的アプローチとも言われる。
この極微が寄り集まって世界が形作られ、また離散する(「微塵」「木っ端微塵」)のが、物質の姿です。
そろそろ心を入れ替えて、ハローワークに行けって。
親も心配してるだろ?
近似値だな
😆
チベット密教だと
ルン(風)の意味になる
😆
親を悲しませるなよ?
悲しくないか?
🟣〜〜
俺はお前ら統失知障のママンじゃないんだけどなぁ😂
相変わらずだな(笑)
例によって、「日曜は休み」という概念が無い
正直に言ってみな
お前、サラリーマン経験ないだろ?
確かに
コピペしながら、マジで似てると思った
アホかw
パラマアヌって基本そうだろwww
🟣〜
承認依存と闘争嗜好の反復であり、
他者の感情を荒らすことで成立している。
ここも、
結局、瞬殺論破されておわり。
****************
真言密教を学べば
ハッスル麦問題も、解決
😆
最後はリダンが埋めてくれた😄
華厳の一即多、多即一に通ずる
😆
承認欲求(餓鬼道)と勝敗執着(修羅道)で動き、
他人を怒らせて地獄道に落とすことで存在を保っている。
、やったか
😆
他人の怒りを燃料にしないと立てない。
因果の道理(因果応報):良い行いも悪い行いも、すべて原因と結果の法則に基づいて自分に返ってくるという、古代インドから引き継がれた宇宙の真理です。
三密(さんみつ)と修行:空海は、身体(身)、言葉(口)、心(意)の三つの働き(三密)を整え、大日如来と一体化する修行を重んじました。この正しい行いが、良い因果を生むとされます。
即身成仏(そくしんじょうぶつ):因果を変える、あるいは本来の仏性に気づくことで、「この身のまま、生きている間に仏になる」ことを目指します。
魔のささやき(執着):人間は本来、心の中に宝(仏性)を持っていますが、欲望や嫉妬に惑わされて誤った行い(悪因)をしがちです。空海は「魔(修行の妨げ)」に振り払う勇気を持つよう諭しました。
空海は、自らの言動の責任を自覚し、日々の生活の中で「善根(善い行い)」を積むことの重要性を説きました。
識→仏智への転換が
三密加持であると言える
😆
三密加持ぼく
寺院にいる間器用に
識→仏智が
やれる
😆
仏の加持と三密によって
識→仏智になるという系譜は
浄土宗の法然や西山派の著作にも
三業云々と念仏とか
残っている
😆
過去の善・悪・無記(善悪にあらず)の行い(同類因)が、それと性質が似た(等流)結果(等流果)を生み出すことを指し、具体的には「嘘をつく(悪因)と、また嘘をつく癖がつく(悪果)」といった連続的な流れを表します。
意味: 前の瞬間までに行ってきた「善・悪」の行為(業)が、次の瞬間の同類の行為を生み出す原因となること。
特徴: 原因(因)と結果(果)の性質が「同じ(同類)」であることが最大の特徴。
悪行を積み重ねると、さらに悪いことをする性格(同類)になる。
善行を積み重ねると、さらに良いことをする性格(同類)になる。
意味: 同類因(同性質の原因)から生じ、その原因と「性質が似て流れてくる(等流)」結果のこと。
特徴: 同類因によって引き起こされる結果。
例)善行(同類因)によって生じた、善い人柄や環境(等流果)。
例)悪行(同類因)によって生じた、悪い人柄や習慣(等流果)。
悪のサイクル: 人を騙す行為(同類因)
→嘘つきな性格や、人を騙す癖(等流果)。
善のサイクル: 人に親切にする行為(同類因)
→思いやりのある性格や、周囲に親切にされる環境(等流果)。
等流果は、自身の行為によって習慣や性格、次の行動が似たものへと引き継がれていく、持続的な因果応報(業)の側面を指す重要な概念です。
要は、「善因善果/悪因悪果」だ
「怒りっぽい人が、ますます怒りっぽくなる」
というような無限ループ
「悪い人が、地獄に堕ちて苦しむ」
というような話
このため、仏教ではこれらが別モノとされている
「因是善悪、果是無記」がキーワード
>種子には、一般に名言種子と業種子とがあるとされ、それは一つのものの二
つの働きとされている。名言種子は、八識の相分・見分等の直接の種子であり、
善因善果・悪因悪果(すなわち等流)の法則において機能するものである。一
方、業種子は、その名言種子の善性もしくは悪性が、来世の受生の場を決定し
ていくはたらきに名づけたもので、善因楽果・悪因苦果(すなわち異熟)の法
則に関与するものである。したがって、種子が、等流果及び異熟果を生むこと
が理解できよう
この世での思いや行いは、
言語化されたデータ(名言種子)として
データベースに格納される
電脳でも、二進法のデータで保存されるのと似ている
業種子ってものがある
これが、
「善い人は極楽往生して楽しむ」
「悪い人は地獄に堕ちて苦しむ」
の原動力になっているようだ
ここを避けて通るわけにはいかない
「地獄に堕ちて苦しむ」=「悪いこと」
「極楽往生して楽しむ」=「善いこと」
という気がするが
仏教では、そうは考えない
「善い/悪い」は、道徳的な価値基準の問題だ
「楽しい/苦しい」は、道徳的にはとくに意味がない
道徳的に意味がないから、苦楽は「無記」であるとされる
ムイムイみたいなゴッコではなく
新たなお仕事集中力システムを構築した
脳内ホルモンとか言語できない感覚のソーンなのでなんとも言えない
😆
😆
善い人が楽しくなり、
悪い人が苦しくなるようには見えない
むしろ、逆だろう
「善因楽果/悪因楽果」を論理的に説くのは困難だ
これこそ、仏教の宗教的なエッセンスと言ってよい
お仕事集中力システムか~😆
結局、仏教はこれがなきゃ、宗教として成り立たない
↓
「善い人は極楽往生して楽しむ」
「悪い人は地獄に堕ちて苦しむ」
師匠寺の十八番だろなー
教えてもらっこと一つもないが
縁だな?
😆
お仕事集中力システム効果で
内容充実レベルアップおまけがついたな
😆
😆
倶舎論』(阿毘達磨倶舎論)の「偈(げ)」は、インドの世親(ヴァスヴァンドゥ)が説一切有部の教理を組織化した教学書の冒頭などに記される詩句のこと。仏や教えを称える帰敬偈(ききょうげ)や、内容の要約が含まれる。特に、論書の内容を暗唱・理解するために韻文形式で書かれた重要な韻文部分(偈頌)を指す。
概要: 倶舎論は全30巻の膨大な書物であり、その要点が詩句(偈)としてまとめられている。
帰敬偈: 冒頭に置かれる、釈尊への帰依と敬礼を表す偈。
内容: 存在の分析(界品)など、小乗仏教の『説一切有部』学派の思想が組織的に解明される。
関連の活動: 『倶舎論偈・唯識三十頌を暗唱する会』のように、これらの偈を暗唱する活動も行われている。
この論は、玄奘訳(『阿毘達磨倶舎論』)が有名である。
『倶舎論偈・唯識三十頌を暗唱する会』はじまりました!
加藤拓雅
2020年4月13日 07:55
今日から新企画がはじまりました!
名付けて【倶舎論偈・唯識三十頌を暗唱する会】です。
インド仏教史上屈指の天才世親(ヴァスヴァンドゥ)。
彼の残した論書は、インド・チベット~日本まで仏教徒の教科書として、読まれ続けています。
その名著
『阿毘達磨倶舎論』(アビダルマ、初期仏教の教えをまとめたもの)
『唯識三十頌』(唯識、大乗仏教の心理学)
この中の偈頌(詩の形式で書かれた、おぼえるための部分)を丸暗記して、
仏教の基礎知識をインプットしよう、という無謀な企画です!
なお、昔のお坊さんは、小僧時代に入門したら、暗唱していたそうなので、
昔の人がやってたことを、普通にやる、という試みでもあります。
要は、九九や元素記号表を暗記するようなものです。
ぜひ、奮ってご参加くださいませ!
倶舎論には、倶舎論偈がある
😆
基本無駄がない
😆
素晴らしいな?😆
『倶舎論本頌』の構成(九品)
界品第一(かいほん): 存在の基本要素(界・処・蘊)
根品第二(こんほん): 諸根(感覚器官)と心の働き
世間品第三(せけんほん): 輪廻の世界(有情世間・器世間)
業品第四(ごうほん): 因果の法則(業・報)
随眠品第五(ずいみんほん): 煩悩の分析
賢聖品第六(けんじょうほん): 修行の段階(聖者)
智品第七(ちほん): 智慧の働き
定品第八(じょうほん): 禅定(瞑想)
破執我品第九(はしゅうがほん): 我執の打破(「我」の否定)
帰敬偈(冒頭の偈)
論の最初には、仏陀への敬意を表す詩句が置かれています。
倶舎論偈は600ってことは、唯識三十頌の20倍か😅
もはや?
https://withonline.jp/with-class/lifestyle/topics-lifestyle/QHZEU?page=2
😆
内容: 存在の分析、因果関係、迷いと悟りのプロセスなど、仏教の専門的な教理(アビダルマ)を体系的にまとめています。
構造: 偈頌(頌)と、その内容を散文で解説した「長行(じょうごう)」(釈)の2部構成で、セットで『阿毘達磨倶舎論』と呼ばれます。
特徴: 詩の形式(偈)は内容の記憶・暗唱に適しており、インドの伝統的な学問手法に基づいています。
漢訳と宗派: 唐代に玄奘(げんじょう)によって翻訳されたものが有名であり、この論を根本聖典とするのが「倶舎宗(くしゃしゅう)」です。
『倶舎頌』は、仏教の哲学的・論理的な理解を深めるための、基礎的かつ詳細な教科書として知られています。
ある部分直観的に与えラルのを
期待しているかもしれないな〜
しらんけど
😆
(しきじゅせつ)と極微説(ごくみせつ)は、アビダルマ仏教において物質(色)の構成を説明する理論です。物質は不可分な最小単位「極微」の結合体(色聚)として捉えられ、特に有部では物質の最小単位と空間的・質的要素として合体した形で解釈されました。
色聚説 (Rupa-samghata / Kalapa): 極微は単独で存在せず、必ず複数の極微が集合して「色聚(しきじゅ:色・香・味・触などの最小単位の集まり)」の形で存在するという説。
これらは、感覚器官(根)や対象物(境)が、目に見えない最小の物質(色)の結合体であるとする仏教の存在分析において重要です。
必ず、組み合わせ存在する
色聚説とセットで考えないと
最小単位の物質:単一の極微ではなく、いくつかの要素が必ずグループ(聚)になって同時に発生・消滅する。
構成要素:最低でも地・水・火・風の四大(四大種)と、その派生的な色(四大造色)がセットで存在する。
特徴:物質の機能的なまとまりを重視し、知覚対象としての物質がどう存在するかを分析した。
色法(ルーパ):仏教で物質や物理的な現象を指す。
アビダルマ:仏教の存在分析を研究する論蔵。物質の構成要素について詳細に分析している。
この説は、物質を恒常的なものではなく、瞬間に生滅する要素の組み合わせとして説明しています。
これ以上分割できない最小の粒子ともされ、地(固さ)・水(湿りけ)・火(熱さ)・風(動き)の性質をあわせ持つ存在です。
極微(パラマーヌ): 物質を分割していった最後に行き着く極限の微小物質。
四大(しだい): すべての物質的存在(色法)を構成する要素。
地: 堅さ、支える力。
水: 湿りけ、凝集性。
火: 熱さ、燃焼、熟成。
風: 動き、動性。
関係性: 極微はこれら四大の性質をすべて含んでおり、さらに分析すると「空」になると説かれることもあります。
古代の原子論: サンスクリット語の「パラマーヌ」の訳で、ギリシャ哲学の原子論と同様、物質の根源を探究する過程で生まれた概念です。
認識: 極微は単体では認識できず、複数の極微が集合した「微塵(みじん)」になって初めて感覚可能になると考えられています。
展開: 仏教やインド哲学(説一切有部)において物質観の基礎となり、後に「空(くう)」を加えて「五大」ともなりました。
クンケン・ジャムヤンシェーパ『仏教論理学概論・正理蔵』を読む・第11回
訳・文:野村正次郎
触とは、地・水・火・風および
滑・渋・重・軽・冷・飢・渴の十一である。
今日「大」「大種」(mahābhūta)と呼ばれる地水火風のことを「元素」(elements)と訳し、仏教用語辞典などにもそのような記述もあるが、これは正確ではない。何故ならば地水火風などは「元素」のことではないのであって、地水火風を元素であると考えるならば、仏教全体の教義としては論理的な破綻をきたすからである。
そもそも「大」「大種」と漢訳されるmahabhutaという言葉には、「元素」(elements)という意味は全く含まれていない。この言葉は、サンスクリットの「大きいもの」(maha)「生成されているもの・出来上がったのもの・現実のもの」(bhuta)という二つのことばを組み合わせた合成語であり、物質を巨視的に観察した時の全体の状態・全体のことを表している。この現実のもの、というものが事実をも表し、それは真実を表すことができる。だからこそbhutaの反対語は「そうではないものとなるが、これは現実とは異なるもの、見せかけだけのもの、事実に反するもの、ということを表すことができるのである。
これに対して「元素」(elements)とは、物質を構成する要素を分解していった時に得られる不可分な要素のことをいう。これをさらに微細な基礎単位へと分解することができ、元素は原子より成るものであり、原子は原子核である陽子や中性子によって構成されている。
茶碗の底を触り、ざらざらしているなら、それは備前焼や信楽焼のような陶器であることも分かるし、つるつるして滑らかであれば、それは磁器の茶碗であることも推測できるし、少しひんやりとしたものであればガラスの茶碗であることもわかるし、茶碗と液体との温度差がほとんどないことから、銅器のような金属を使った茶碗であることも、視覚の力を借りなくても触覚だけである程度確認することができる。
温かい風があるのか、それとも火傷しそうな炎があるのかも、目隠しをして触覚だけで感じることができる。炎のようなプラズマが存在している部分とそうでない部分をも触覚だけで感じ取ることができる。
触処を分類した時の項目として考えているものは、このような触感の違いなのであって、それらの物質が一体何で出来ているのか、という組成の起源に関する分析ではない。普通の人が茶碗に注がれているお茶が具体的にカテキンや水素と酸素やアルカリや放射性物質や原子や陽子などのどのような成分でできているのか、ということは見たり飲んだり触って分かるような対象ではない。茶碗の中のお茶に目隠しをして指先だけの触覚だけでは、それがある温度をもつ液体であることしか分からないのであって、緑茶が入っているのか白湯が入っているのか、あるいは青酸カリのような毒性物質が混入された液体なのか、全く区別できないのである。
そして物質の由来、すなわち「界」としての地界・水界・火界・風界と四大種の地水火風とが異なることを冷たく透き通った澄んだ水は、温度をもつので火界を有するもの、とはいえるが、液体であり火を有するものとは言えないし、枯れ木は、湿度をもつので水界をもつが液体ではないので水をもたないからである。
ジャムヤンシェーパは地界・水界・火界・風界と地・水・火・風をそのように区別しており、前者は所謂「元素」という訳語に近いものであるが、後者の「大種」とはそのようなものではなく感官が対象と接触している時に同時的に起こっている物体状態に起因する感触であり、そこに時間的変化がある場合については、それは「大種」の結果であるとしている。
形容詞がない言語においては「青」とは青いものであり、その青い何かと青さとが二つに分けて考えることができないのであり、これと同じように「水」とは液状のものであり、液状の油でも液状の水でもそれは液状のもの/水であるということができるのである。また海水のようにいくら飲んでも喉の渇きが癒えないようなものは、「渴」と呼ばれており、これは液体であるが大種のひとつの水であると言ってよいのかどうか、と言うこと、即ち大種と大種所造との間に対立関係があるのかどうか、と言うことについてはさらなる検討が必要な課題として未解決の問題とされている。
物体の性質のことなのか
起源: 古代インドの『サーンキヤ学派』や仏教、後の密教(五大・六大)に引き継がれた概念です。
身体の構成: 人間の身体もこの4つの元素から構成されるため、これら「四大」のバランスが崩れることを「四大不調」と呼び、病気の原因とされました。
五大・六大への発展: 四大に「空(空間)」を加えたものを五大(五輪塔の思想)、さらに「識(心)」を加えたものを六大(空海が説いた)と呼び、宇宙や存在の根源を表します。
古代ギリシャのエンペドクレスやアリストテレスの四元素説は
固体・液体・気体・熱のことだ
昔の人は科学的知識が乏しかったので、それぞれ違うと考えた
地水火風と言われると、どうしても
アリストテレス哲学に見えてしまう(笑)
それとは似て非なるものだ
地は「堅さ」、水は「湿りけ」、火は「熱さ」、風は「動き」を本質とし、互いに保持、摂集、成熟、成長の作用を持っています。
粗大な物体の性質だ
聖ウンコレベルの理解度なので、
間違ってるかもしれん
倶舎論要素はあるんだろなー
曹洞宗と華厳には無さそうだ
😆
は
もろチベット密教かもしれんな
禅定的には
真言密教と禅定感覚がもっと細やかだ
😆
曹洞宗と華厳以外は
かなり変形しながら派生していそうだな?
😆
😆
倶舎論の影響の有無
😆
倶舎論に対立してるな
たぶん
😆
アンチ倶舎論と見た
😆
一即多、多即一に
応用されているかもしれん
😆
でしょうな
倶舎論を学んでないことはあり得ない
大なり小なり、影響を受けている
五大は「大」という名の通り、極微ではないんだよな~
中観派の「勝義諦/世俗諦」、
唯識派の「現量/比量」
(もう1つ何かあった気がするが忘れた)
に、極端にこだわっている
こちらも知らず知らずのうちに、
気づけば、その話ばっかりしている😂
「現量/比量」はそこまで重要ではない
こちらもその話題にピン留めされる(笑)
> (もう1つ何かあった気がするが忘れた)
思い出した
初期仏教の「方便」だ
そこにこだわって、パーリ仏典を軽視するのは間違いだ
> 「現量/比量」はそこまで重要ではない
そこまで重要でないというのもさることながら
彼らは「比量」と「非量」の区別がついておらず、
「比量」をひどく誤解している
哲学向きな頭の構造をしていない
「比量が、あるがままの認識を妨げている」
「比量を排除して、現量だけにならなければならない」
という彼らの解釈は誤り
シンプルに間違っている
方便を軽視してんのはお前なんだがな
お釈迦様の説法は方便だ
と言うとそんな馬鹿なと
一定数おるけども
その発想になるってのは
どこか方便を嘘だ
などと軽視している
「河を渡り切って、
筏を乗り捨てるように
私が説いた法も捨て去れ」
と言った
聖ウンコ派はこの1節を極端に好み、
しきりに引用する
「初期仏教のパーリ仏典を、イカダのように捨て去ろう」
というわけだ
まったく愚かな考えと言わざるを得ない😂
簡単に言おうか
プログラム言語が方便(筏)だ
それ捨てないと
PCそのものは分からんだろ
誰もそんなことは言ってないが
馬鹿なんかこじつけてんのか
の話に戻ろう😆
四大(しだい)について教えてください.現代の自然科学的な世界観が成立する以前の西洋世界では、地・水・風・火という四つの要素で世界を捉える時代が長く続いたと聞いています.この考え方は古代ギリシヤあたりに源を持つと考えてよいですか?
AI
四大(しだい)について説明しますね。四大元素(地・水・風・火)の考え方は、古代ギリシアの哲学者たちによって発展しました。特に、紀元前5世紀頃のエンペドクレスが有名です。彼は、世界のすべては「地(大地)、水、風(空気)、火」という四つの元素(根、あるいはエレメンタ)から成り立っていると考えました。
この考え方は、その後アリストテレスにも引き継がれ、彼はこれらの四大元素が冷たい、熱い、湿った、乾いたという性質に基づいて組み合わさることで万物が生じると説明しました。このモデルは、長い間西洋の自然観を支える基本的なフレームワークとなり、医療や占星術など多くの分野に影響を与えました。
現代の自然科学的な世界観が確立するまでの間、この四大元素の考え方は支配的でしたが、化学や物理学が進展するにつれて、より精密な元素や物質の理解に取って代わられるようになりました。
古代ギリシャ哲学、エンペドクレスの四元素説は
現代人から見ると、要するに「固体/液体/気体」のことだ
古代人には、これらがまったくの別モノに見えたのだろう
とくに中論で語られることは
言葉による実体化をさけよと
(筏を捨てる)
しかしながら
仮名としての言葉の機能は残る
それを導きとして
彼岸を渡れってこと
マジ理解力終わってんな
氷が溶けて水になったり、
水が蒸発して蒸気になる
それくらいは経験則で知っていた
冷たい/熱い/硬い
などという、性質の違いと受け取られるようになる
四つのエレメントで世界を捉える、と言っても現代の私たちにはしっくりこない面があります.具体的な例を二、三、挙げてくださいますか?
AI
具体的に古代の四大元素の捉え方や当時の理解について説明します。当時の人々は、地・水・風・火の四つの元素を日常の現象や自然界の事象を説明するために用いていました。それぞれがどのように解釈されていたか、いくつかの例を挙げます。
「火」と熱や変化の理解
火は、当時の人々にとって「熱」や「変化」を表すものでした。燃えることによって物質が形を変える現象、たとえば木が火に燃えると灰になるといった変化を、火のエレメントが支配していると考えました。これにより、「火」が物質を変化させる力を持つと信じられていました。つまり、火はエネルギーや変化の象徴だったのです。
「水」と生命の起源の理解
水は、生命を支える要素とされました。例えば、植物が成長するためには水が不可欠であり、動物や人間も水を飲まなければ生きられないことから、水は生命の源として位置づけられていました。また、水は流動的で、形を変える力を持つとされており、感情の変動や心の動きを象徴することもありました。
「風」と呼吸や魂の理解
風(空気)は、呼吸に欠かせないものであり、人間や動物が生きるために不可欠な存在とされました。風は目に見えないが、肌に感じられ、木々を揺らすなど、自然界の動きに影響を与える力を持つと考えられました。さらに、呼吸と風の関連から、風は魂や生命そのものの象徴ともされました。古代ギリシアでは、風が命を吹き込む力を持つと信じられていました。
「地」と安定や形あるものの理解
地(大地)は、すべての物質の「安定」や「基盤」を象徴しました。山や土、岩など、形あるものはすべて地のエレメントに属しているとされ、堅固で変化しにくい存在と理解されていました。これは、物質的な存在を意味し、人間が立つ場所であり、家や建物を建てる場所としての安定性を持つものでした。
当時の人々は、こうした四大元素が互いに混ざり合ったり、作用し合ったりして、あらゆる現象を生み出していると考えました。エンペドクレスやアリストテレスは、これらの元素がどのように相互作用して万物が構成されるかを哲学的に説明し、これが医学や自然学に影響を与えました。
ありがとうございます.そのような考え方が当時の人々に信じられていた理由は何でしょうか.そのような説明に当時の人々が一定のリアリティを感じていたからこそ長く支持されてきたはずです.その根拠となっていた決定的な要因は何でしょうか?
AI
当時の人々が四大元素の考え方を信じ、長く支持してきた理由には、いくつかの重要な要因があります。これらは、当時の文化的、知識的背景や人間の経験に深く根ざしています。
直接的な感覚と観察
四大元素(地・水・風・火)は、自然界の中で人々が日常的に目にし、体験するものでした。たとえば、地は大地や山、水は川や海、風は呼吸や空気の流れ、火は火山や焚き火などです。これらはすべて、触れたり見たりすることができる、極めてリアルな存在であり、そのため自然現象をこれらのエレメントで説明することは非常に直感的でわかりやすいものでした。当時の人々にとって、感覚的に認識できるものを基に世界を説明することは、非常にリアリティがあり、納得のいくものでした。
古代ギリシアの哲学者たち(エンペドクレス、アリストテレスなど)は、知識人や学者として強い影響力を持っていました。彼らは自然界の現象を論理的に解釈し、四大元素を用いた世界の説明を体系化しました。アリストテレスのような哲学者が、四大元素が冷・熱・湿・乾という性質に基づいて物質を説明することによって、哲学的に統一された自然観を提供したことで、四大元素の考え方が知識層に広がり、後世に長く伝わる基盤が築かれました。
医学や占星術への応用
四大元素の考え方は、当時の医療や占星術とも結びついていました。例えば、古代ギリシアの医学では、ヒポクラテスが提唱した「四体液説(血液、黄胆汁、黒胆汁、粘液)」があり、これらの体液が四大元素に対応していました。人体内の液体バランスが崩れると病気になると考えられていたため、四大元素のバランスを取ることが健康維持に重要とされました。また、占星術でも四大元素が星座や惑星と結びついており、個人の性格や運命を予測するための理論的な基盤となっていました。これにより、四大元素の理論が実生活に応用され、実際に効果があると感じられていたことが、支持される理由の一つになりました。
直感的でシンプルな世界観
四大元素の理論は、非常にシンプルで理解しやすいものでした。すべての物質や現象が、たった4つの基本的なエレメントの組み合わせで説明できるという考え方は、人々にとって納得しやすく、複雑な自然界を整理して理解するための有力なフレームワークとして受け入れられていました。これが、長く支持され続けた要因の一つです。
これらの要因により、四大元素の理論は当時の人々にとって現実味のあるものであり、長い間支持され続けたのです。
これは、アリストテレスによって
「冷/熱/湿/乾」の4性質に
まとめられ、理論化された
古代インドの四大は、だいぶ宗教がかっている
なんらかの影響はあるかもなー
むろん、その時代に仏教もきてるし
ガンダーラ仏はギリシャ彫刻の影響とも言われているしなー
😆
そう
倶舎論の「極微」は、デモクリトスの原子論の影響
「四大」は、アリストテレスの四元素説の影響
古来から、そう言われている
アルボムッレ・スマナサーラ長老
仏教では、私たちの身体が「地水火風」という基本的な四つのエネルギーで成り立っていると説きます。誰にでもわかるシンプルな言葉で、「この身体は土(地)と水と火と風であると観てください」と教えるのです。私たちは、地水火風のエネルギーに支えられて生きています。地水火風がなければ命も成り立ちません。地水火風で自分の身体ができていて、外側にある食べ物も水も空気も熱も同じく地水火風なのです。一般的にはそこまでの理解で終わりです。
健康維持に少しだけ活用するみたいな、
空海への流れがあるかもしれん
大方天台小止観内容も忘れつつある
😆
何当たり前な事とか言われそうだな。
参考: 佐々木閑「仏教は宇宙をどう見たか』
「倶舎論」ではこの世が物質、精神、工ネルギーの三種の範疇に分けられており、基本的にはこの三種の相互作用でこの世のあらゆる現象が説明できるとしている。→『倶舎論』では三元論が採られている
・しかし、それら三元論には含まれない、 更に別枠の法があるとされてもいる。
・キリスト教やイスラム教ではそれらは彼らにとっての「神」であり、大乗仏教の密教における大日如来などもそういった存在だろう。
・しかし、「倶舎論』では「この世に超越的な絶対存在などいない」というのが大前提である。
・ 例えば、仏道修行を完成して悟りを開いた者の精神内部における静謐さ。
このように煩悩の喧噪が完全に静まっており、再び起ってくる可能性も断ち切られている状態は「択滅(ちゃくめつ)」と呼ばれ、一個の独立した法として扱われる(「涅槃」と同義)。
択滅は物質でも精神でもエネルギ一でもなくいかなる作用にも関わらない不活性な存在である。
・この世の大方は有為法で形成され、有為法の変容によって動いており、一見したところでは有為法しかないように思えるのだが、この世をよくよく見れば「絶対に作用しない存在」として無為法があることに気がつくというわけなのだ。
有為法は72の法で構成されており、物質(色)、精神(心・心所)、エネルギー( 心不相応行)の三範疇に分けられる(→ 作用の可能性を持つ実在要素~有為法~)。
無為法は「択滅」と「非択滅」と「虚空」の3つで構成される(→いかなる作用もしない実在要素~無為法~)。
・ これらを合わせて「七十五法」という (→これが法のすべて~五位七十五法 ~)。
「永遠で不変のものなど、何もない」というのが初期仏教だったが
倶舎論では、「永遠で不変のもの」が登場した
それが「無為法」だ
実際には、そこまでの違いがない
倶舎論の無為法は「何の作用もしない存在」であり、たいした存在感がない
72の有為法と、3の無為法に分かれるが
圧倒的に有為法がメインだ
有為法は、原因であり、結果であり、原因と結果の法則の中にある存在だ
無為法には、因果の作用がない
無為法と禅を混ぜ合わせるのは
類似点があるからだが
実は異なる
禅のバックには
永遠の存在ではない、超越的存在でもない真言密教みたいな空間認知に似たサムシングがあるからだ
😆
禅にあるかといえば
違う
大乗仏教なので衆生済度しないといけないので無為法というわけにはいかない
それが
野狐の禅語録の話だ
😆
「心法」と「心所法」は「得」によって成就されて(繋がって)います。
{無貪・無瞋・無癡・慚・愧}の心所法(有漏善)と相伴う心法です。または、「択滅無為」(無漏善)と結びついた心法です。
悪心:
{貪・瞋・癡・無慚・無愧}の心所法、または{邪見・見取見・戒禁取見}の心所法と相伴う心法です。
有覆無記心:
{有身見・辺執見}の心所法と相伴う、中性の心法ではあるものの正しい智慧の生起を妨げる心法です。
無覆無記心:
煩悩地法(大煩悩地法・大不善地法・小煩悩地法)の心所法や(善・悪・有覆無記)の心所法とは相伴わない中性の心法で、正しい智慧の生起を妨げない心法です。
😆
確かにな~
倶舎論の無為法と、禅宗は大きく異なるな
僧たちがその場を去ると、その老人もまたその場を去った。
ところがある日、その老人だけがその場に残った。
そこで、百丈がその老人に、「お前さんいったい誰なのか」と尋ねた。
その老人は答えて言った。
「はい、実は私は人間ではありません。ずっと昔、過去仏である迦葉仏(かしょうぶつ)の時代に私はこの山で住職をしておりました。
あるとき修行者が私に、一体悟りを得た人は因果の鎖の世界に落ちるのでしょうかと尋ねたので、私は因果に落ちないと答えました。
そのため私は、五百回も野狐に生まれかわってしまいました。
今どうかお願いしたいのは、私に代わって一転語(いってんご)を答えていただき、私を野狐の身から解放していただきたいのです」と。
(一転語とは、迷いを転じて悟りに導く一句の法語)
「悟った人は因果の支配に落ちるでしょうか」と。
百丈は「誰人も因果の支配を消し昧(くら)ますことはできない」と答えた。
その一転語によって老人はたちまち悟りを開いた。そして礼拝して言った。
「私はおかげでやっと野狐の身を脱することができました。
更に百丈禅師様にお願いがあります。どうか私の葬儀を僧侶の作法で執り行ってください」と。
それを受けて百丈は一山の綱紀を取り扱う維那(いのう)という役僧をよび、白槌(びゃくつい)の合図をして僧たちに告げた。
「昼食後、亡僧のための葬式を行う」と。
「われわれは皆健康であるし、涅槃堂(病僧が養生するための施設)にも別に誰も居ないのにこの知らせは何なのか?」と言って不思議がった。
昼食の後、百丈は一連の僧を連れて裏山にのぼり、岩の下から杖で一匹の狐の死骸を引き出して、亡僧の儀礼で火葬に付した。
その日の夕方、百丈は法座台上に登ってこの話を僧たちに聞かせた。
すると弟子の黄檗が言った。
「その老人は錯(あやま)って一転語を答えたばかりに、五百回も野狐の身に生まれかわったとのことですが、もし、その一転語が間違っていなかったとしたら、いったい何に生まれかわる定めだったでしょうか」と。
すると百丈は、「こっちへ来なさい、お前のために言って聞かせよう」と言った。
それを受けて、黄檗は進み出るやいなや、百丈の横面に平手打ちをくらわせた。
それを百丈は大笑いし手を叩いて言った。
「赤鬚(あかひげ)の達磨はわしだけじゃと思っていたのに、ここにまたもう一人の赤鬚の達磨がおったわい」と。
> 「悟った人は因果の支配に落ちるでしょうか」と。
> 百丈は「誰人も因果の支配を消し昧(くら)ますことはできない」と答えた。
> その一転語によって老人はたちまち悟りを開いた。
これで見ると、確かに
禅宗には【択滅無為】という考え方が無さそうだな
とは、
ハッスル様のような
ゴマカシ😆
衆生済度てきない
唯識、天台、華厳、真言密教、禅、チベット密教には
衆生済度しないといけない
俺は、トークでも
宗教違いで、それをやっているとか
😆
曹洞宗でもそうだ
生滅変化を逆転させた作用で衆生済度するのが臨済宗
涅槃が残るパワーゴリ押しが
真言密教、華厳、天台、三論宗、唯識あたりだの
の圧倒的な戦闘力を示した事例がある
言わんぞ
😆
領域展開並みの迫力?
😆
「無為法」という項目があって、いくつか分類されているが
ハッキリ言って、項目が設けられてるだけ
ほぼ、有為法の話しかしていない
「永遠で不変のものなど、何もない」
という釈尊の教えは重い
そこから逸脱すると、仏教ではなくなってしまう
ある時、世尊は、サーヴァッティーのジェータ林なる給孤独の園の精舎にあられた。その時、一人の比丘が、世尊のいますところにいたり、世尊を拝して、もうして言った。
「大徳よ、この世のものにて、定恒永住にして、変易せざるものがあろうか。」
「比丘よ、この世には、定恒永住にして、変易せざるものは、少しもない。」
そして、世尊は、すこしばかりの土を爪の上にのせて、かの比丘に示して言った。
「比丘よ、たったこれだけのものといえども、定恒永住にして、変易せざるものは、この世には存しないのである。」
(サンユッタ・ニカーヤ 22:97)
無為法ということやろからなー
その流れが唯識の依他起性までの構築になっていく
😆
マジメに日本で
それがやってるのは
禅たけということだな
😆
本当は「永遠で不変の存在」を取り入れたいところなのだが
やはり、上記のような仏教としての縛りがあるため、そこに踏み込むのは困難だった
法華経は「永遠の仏陀」の法だ
臨済宗が若い頃のお気に入りになった
神秘主義発動前も
発動後も
😆
そういうことになるな
「永遠の仏陀」は、禅宗にはいない
リアル仏陀に近い
臨済宗はアナーキーだ
半端なアナーキーぶったハッスル最低だけど
😆
ハッスルとムイムイ限定に
メンタル恐怖まで追い込む
😆
😆
仏のスレ主やロンは
直言しないが
「永遠で不変のものなど、何もない」
は背景にはある
😆
ハッスルたちより悟ってそうだな?😆
挑発しない
ゴミ溜め知識ではないから
😆
は
おうえんしてやる
ハッスル〜
と
😆
麦、ハッスル妄想や
ホーカイくん思想の
洗脳から抜けててこれたな
😆
建てて正解だな
妖怪屋敷になってるな?
😆
創作芸人だな?🤡ー
66.
ユーザー
栖雲居士◆t8ok0QoQ8kcK
00ilS(12/13)
解りにくいなら、
>天台の教学によれば、この「三諦の偈」において空性と仮説の対立は「真」と「仮」のそれと捉えられ、この相反する二者の調和が中道であると解釈された。
>(中略)
>したがって、『中論』では仮説と中道とはほとんど同じ意味なのである。
という事です。
2026/02/10 20:15:23
面と向かって言ってやらぬ
😆😆
🤡
>天台の教学によれば、この「三諦の偈」において空性と仮説の対立は「真」と「仮」のそれと捉えられ、この相反する二者の調和が中道であると解釈された。
真と仮なんて
ありえねー
😱
立川武蔵の解釈がおかしいのか?
どこから始まったのかに興味がある
天台小止観では
悟りを完成した時
菩提心を起こした時の凡夫の発心=天台小止観の悟りの境地なのて
真とか、仮の設定はありえない
😆
> 妖怪屋敷になってるな?
隔離部屋にちょうどいいかも😆
マジレスしたくねえ〜
😱
真とか仮の設定は無理がある
法華経で久遠の釈迦が
全世界を光明で照らしたのに
真と仮があるのか?
そもそも論として
😱
禅宗志向もあるのもあるが
それを除外しても
仏教知識として信用できない
ので
面と向かってレスする意欲が失せる
😆
全世界を光明で照らした=
天台小止観では
悟りを完成した時
菩提心を起こした時の凡夫の発心=天台小止観の悟りの境地
としたほうが
久遠の釈迦の光明を一切世界を照らした
という説明に成り立つ
😆
悟りを完成した時
菩提心を起こした時の凡夫の発心=天台小止観の悟りの境地
=
十界互具とも言える、天台風な
😆
悟りを完成した時
菩提心を起こした時の凡夫の発心=天台小止観の悟りの境地
は
万物が大日如来であるという
真言密教の世界観の手前の感覚と言ってもいいだろう
😆
動きが止まったな?
😆
対話も続かんだろ😫
俺はしたくない
😆
シッタカなのは
ウンザリである
😆
聖ウンコ派は超ワンパターンなので、
ずっと相手し続けるのは無理だけどな
「空の奥義は、言葉にできない」
の話を、罵倒しながら延々と何十レスも続ける
よく見ると、それしか言ってない(笑)
「空の奥義は、言葉にできない」
の話が多いが
あと2つ、持ちネタがある
「一切の判断を捨てよ。視覚や聴覚などの一次情報だけで生きていけ」の話
「色即是空 空即是色 とは、色を空じてから、もとの色に戻ることである」
↑
コレも本当に好きだよな
「色即是空 空即是色 とは、色と空は同じという意味である」
それだけ
↑
まあ、こういう解釈もできないことはない
全面的に否定するのは無理だが
思い出せない
他のネタが、かき消されている
↓
「釈迦の教えは方便だ。筏のように捨て去れと、釈迦がみずからそう言った」
「龍樹が説いた縁起と空の教えは、言語による仮説である」
何十行も連投していても、
それしか言ってないことが多い
でも、こればっかりというのは、いかがなものか(笑)
三論宗、唯識、天台、華厳、真言密教、禅、チベットではありえないな
その解釈は
😆
低いレベルで成長の限界を迎えた
それではない解釈がある、
むろん、麦もアウトだ
😆
修道論として
仮→空
空→仮
そして、これを二つを統合するが
ゴールだ
立川武蔵の天台解釈
は
仮→空→仮
だったかも〜
つまらんので読んでない
😆
立川武蔵はできてなかった
😆
> 天台小止観てすら
> 修道論として
> 仮→空
> 空→仮
> そして、これを二つを統合するが
> ゴールだ
そうだ
最後は「空=仮=中道」だ
😱
空の思想史の天台の項目に書いてあることは
日曜日あたりに発表しよう
ツマラン過ぎて記憶に残っていない
😆
初代の書いたものの劣化コピペを下手くそがトレースしてんの見てるみたいだな。
本読んでる自慢大会か。暗記自慢してるオタクばっかなのか?
己れで分かった事書いてるのは誰だ?一体何してんだろ?誰々は分かってない批判などで虚栄心満足させてんのって惨めにならない頭脳って謎やな。
それらがないと理解など出来ない文章ばかりなのにそれを文字に書き残したものなどわかるのか?
いや、全部を自分の言葉で書いてたら手間ヒマかかりすぎる
だから、コピペしてるだけ
「倶舎論・中論・唯識論を学び、真言宗の勤行しよう」
というのが、このスレのテーマ(笑)
ブログとかだと、著作権が気になる
気楽に全文コピペとかできない(笑)
知的弱者を相手に、一方的な議論になることが多いので
コピペして、自分のレスつけて、またコピペして・・・
「コピペとの対話」になる(笑)
昔はそうするしかなかった
分からないのは、貴方はどうだ?の話。
誰かに納得して貰えないと駄目なのか?
誰かに勝てないと駄目なのか?
分かった事はここまで、それ以外は?の教わりなら分かる。
猿の喚き声雑音などとは聞き分けられるはず。
😆
大体AIなどお喋りしてたら個人的カスタマイズされんの知らん猿なのか?と思う。
😱
520.
ユーザー
栖雲居士◆t8ok0QoQ8kcK50-uhq-Ij-wvu
a3tiY
仏教の基本は聞思修と戒定慧。
聞くというと聞法ですけど、ただ、仏教スレの一部は、それに対してとんでもない勘違いをしてるんです。
また、なんだかひたすらコピペしてそれを知識自慢をしている変なのが居ますけどね。
大切なのは、自分の尺度に当て嵌めて解釈しない事なんです。
分かろうとして聞法しない事なんです。
分かろうとしてコピペしない事なんです。
2026/02/12 11:05:20
😱
書き方など文章はそれぞれの伝え方や相手への理解で違うのは、方便と仏教用語やろ。
これを挑発と思うのなら、己れの言葉でやり返せや。
> 分からないのは、貴方はどうだ?の話。
> 誰かに納得して貰えないと駄目なのか?
> 誰かに勝てないと駄目なのか?
いや、まったく興味ない、そんなこと(笑)
議論ったって、宗教板だからなあ
マジメな話、相手は知的弱者が大半
勝ちたいと思うような相手ではない
マウンティングが猿か。
> 分かる方々たちが同じ事を言うのは当たり前。
いや、そんなことはない
歴史上の覚者たちでさえも
人によって、言うことはだいぶ異なる
ハッスル様が元気になってきたな?😆
無闇矢鱈と昔の名のある人を盲信するな、これが釈迦の言葉。
渾名つけて仲良ししてるのってついていけない。
身内ノリなんだろうな。
三論宗YouTuberの加藤拓雅って人
😱
我流誤読創作レベル
それがトーク仏教クォリティ
😱
トーク仏教でおるなら
是非拝みたいくらいやわ
😆
らしいから。
架空批判やで
😆
JBL氏は
トーク板における正解な仏教知識提示を
回復なされておられる
俺の役割ではないが、
それは
😆
は
トーク板の他の仏教知識人ぶってる連中のこと
それくらい情けないレベルということだ
😆
禅宗に関しては宗教板の
レベルを高めているな😆
大したもんだけどなー
😆
一元、二元?無我?
偉そうに騙る前に、あんた誰?
からなのだろうな。
私は何故私なのか??私を創る心とは?
仏教とはそれを教わるものだと私は思いました。
😆
だから坐禅だけでいいと思えるのにも納得しました。
目指せ!必死で覚えマウンティングの猿の頂点へ 笑
という気はする
😆
😆
😆
山程いるからなー
😆
人にもなれないAIに⁈
😫
😆
しか出ないのも分かった。
よく〜考えよう〜〜
😆
> だから坐禅だけでいいと思えるのにも納得しました。
坐禅オンリーなのは、ここじゃなくて別の人
威張るために坐禅をやっている
ますますムキになっている😫
相手を間違ってるし、内容がイマイチ
😱
三世両重の因果: 十二支(無明~老死)を過去・現在・未来の3つの時間に当てはめ、過去の因と現在(現在に結果・次の原因)、現在の因と未来の結果という2つの因果セットで説明する。
過去の因・現在の果: 無明・行(過去)→ 識・名色・六処・触・受(現在:胎内受生から誕生)
現在の因・未来の果: 愛・取・有(現在:業を造る)→ 生・老死(未来:再受生)
「刹那」の縁起: 十二支のそれぞれが、一刹那(極めて短い時間)の間に因果関係(相依性)を成立させているという解釈もある。
有部と経量部の違い: 説一切有部は実体としての「ダルマ(法)」の生成変化を重視し、過去・現在・未来にわたる実有性を主張する。
『倶舎論』では、これらの縁起道理を詳細に分析することで、人間の存在が因と縁によって生じ、絶えず変化・輪廻し続けることを明かしている。
相依相待(そうえそうたい): 1つ1つの事物・現象は、相対する相手や環境との関係性の中で成り立つ。例えば、「長い-短い」「父-子」のように、どちらかが欠ければ概念自体が成立しない。
無自性(むじしょう): すべては関係性の中で成立しているため、その事物自体が固定不変の「本質」や「意味(自性)」を持たないこと。
空(くう): 事物が自性を持たない(空)からこそ、あらゆる縁(条件)によって何にでも変化しうるという、可能性に満ちた状態。
「縁起」との関係: 「縁起」は事象が因縁によって生まれる因果関係を指し、「相依性縁起」はさらにその関係性を「互いに頼り合っている」という空間的な関係性として強調したものである。
この考え方は、物事を独立した実体と捉える執着から離れることを目的としています。
倶舎論と中観派の違いは、見た目ほど大きくない
倶舎論の此縁性縁起の発展形
何が言いたいのか分かりにくい
否定する対象である、倶舎論を知らないと
倶舎論と唯識が結びついた
ところだろなー
😆
中論において、既に空間認知がある
ロンあたり以外はトーク板のエセ知識人連中の脳内にないなー
やはり
😆
原子には実体があるのだが、
物体はよくできたリアルなホログラム映像
みたいなものにすぎない
そういう幻のようなものに、
人は名前をつけて、存在の意味を与える
何度も名前を呼んでるうちに、
それが本当に実在するような気がしてくる
それが、この世という仮想現実のシステムだ
原子が実在するからこそ、成り立つ理屈だ
ここで「原子も本当は存在しないのだ」を
いきなりやり出すと、何が言いたいのか
分かりにくくなる
相依性縁起は、空間的だよな~😆
中観派における因果応報のポイント:
1、世俗諦と勝義諦:
現象世界(世俗諦)においては、良い種(行為)が良い実(結果)を生むという因果応報の法則は機能します。
2、空の立場:
しかし、真理(勝義諦)の視点では、因(原因)と果(結果)はそれ自体で固定的な本性(自性)を持たず、相互依存的に生起している「空」であると説きます。
3、四不生:
物事は自から生じず、他から生じず、両者から生じず、原因なしに生じない(四不生)という論理で、因果が絶対的な実体であることを否定します。
↓
つまり、中観派は「因果応報は存在しない」と主張しているわけではなく、「因果応報は実体として存在しない(空である)が、縁によって成り立っている」と解釈します。
↑
結局、これも
倶舎論の因果応報理論を否定してるんだってこと
何が言いたいのか分からない
ニセモノハッスル、麦の中論を超えたな?
😆
空間認知まていかない
😆
久しぶりだ
そんなに疲れていたとは思ってなかったのだが
😆
変なテンションで目覚めた
😆
分類と構成要素:『倶舎論』では、言語は「名身(単語)」「句身(文章)」「文身(文字)」の3つに分類され、これらは実体として「有」とされる(五位七十五法)。
不相応行蘊:言葉や意味は、物質(色)や心(心)に直接属さない法として、不相応行(ふそうおうぎょう)として扱われる。
相応(和合)の関係:言葉、心、対象(事)が「相応」していることを重んじる。この相応とは、単なる一致ではなく、離れがたく和合する関係を意味し、心と言語の対等不可分性を示唆している。
言語の構造:世親(すいしん、ヴァスバンドゥ)によって整理された『倶舎論』では、アビダルマ的思想に基づき、存在を構成する言語要素を綿密に分析する構造を持つ。
どちらかといえば、
倶舎論は実在論で、中観派は唯名論だ
「ただ、名前だけがある」という思想
名前だけがある。実体はない
つまり、「本当は存在しない」という思想
何が実在するのかで、意味がまるきり変わる
哲学と無縁な、世間の一般人の世界観だ
普通は、「観念実在論」を指す
真とか、善とか、美とか
そういう観念(イデア)が本当にあるという考え
「ただ、名前だけがある」という思想
名前だけがあり、実体がない
「普遍論争」が何百年も続いた
「普遍は実在するのか、それとも、名前だけの存在なのか?」
実在論と唯名論の論争が何百年も続いた
普遍実在論者にとっては、「人類」という存在がある
唯名論者にとっては、個々の Aさんや Bさんがいるだけ
「人類」という普遍的な概念は名のみの存在であり、実体がない
イエス・キリストは、「人類」の贖罪のため、十字架にかけられた
これにより、「人類」は救われたと聖書にある
・・・でも、「人類」って何なの?
ボクは「人類」に含まれるのか?
キミは「人類」に含まれるのか?
善人も悪人も「人類」に含まれるのか?
これは大きな問題だった
説一切有部は実在論
中観派は唯名論
唯識派はその折衷
と位置づけられるだろう
問題の焦点が違いすぎる
そもそも、初期仏教は素朴な思想
実在論でも唯名論でもない
空間認知があるととらえるか
ないかで、
意味が違ってくる
😆
本質存在 VS 事実存在
抽象概念 VS 具体存在
世間の一般人にとっては、まったくどうでもいいテーマ
そうなのか?😆
空にこだわれない
😆
仏性論になると
簡単ではなくなる
😆
日蓮まで引用される
一念三千やら
十界互具とかでてくるのだからなー
麦、リダン、ハッスルみたいな
勝義諦云々という話ではないからなー
それは
😆
いつでもスラスラと出るが
瞑想系統仏教以外は
あんまりスラスラと出ない
😆
垂れ流される
呆れるくらいに
バカの一つ覚えのように
毎回リバースする
😮
読み方:いんがおうほう
「因果」:原因(行い)と結果
「応報」:行いに見合った報い(結果)
由来:仏教用語であり、良いことをすれば幸せ(善果)になり、悪いことをすれば不幸(悪果)になるという、絶対的な法則のこと。
善悪問わず返ってくる: 本来は善・悪どちらの報いにも使われるが、現代では悪行の報いに使われることが多い。
逃れられない法則: 自分の人生は、自分の行い(種まき)によって結果(収穫)が決まるという考え方。
注意点: 単なる「自業自得」は悪行の報いのみを指すことが多いのに対し、因果応報は「善い行い」も含めた結果が自分に返ってくることを意味する。
「人のものを盗んだ結果、逮捕されるなんてまさに因果応報だ」
「日頃の努力が実を結んで合格できた。因果応報で、良い行いの結果だ」
「悪口ばかり言っていた人が孤立したのは、因果応報と言える」
自業自得:自分のした悪い行いの結果を、自分が受けること。
自因自果:自分のまいた種の結果が、自分に現れること。
勧善懲悪:善を勧め、悪を懲らしめること。
因果応報を学ぶべし〜
😭
ムイムイの異様さを教えてくれる
😆
😆
😆
賊軍扱いで江戸火の海にされる側だったが
😆
倶舎論が扱う小乗(説一切有部)の教理から発展し、主に成唯識論や唯識思想で四種涅槃の一つとして強調されます。
倶舎論との関連: 倶舎論は小乗・説一切有部の教理をまとめたもので、基本的に「煩悩を断じ、生死を離れる」ことを重視する。しかし、無住処涅槃の理論的背景や、それを導く非択滅(ひちゃくめつ)という概念の議論において、倶舎論記(倶舎論の注釈書)が関連して言及される。
特徴: 大乗仏教における菩薩の目指すべき涅槃(四種涅槃:自性清浄・有余依・無余依・無住処)の最高峰とされる。
唯識論の無住処涅槃へ
二つは煩悩を滅し尽くす「寂静」の境地という点で共通しますが、行動において異なります。
定義: 倶舎宗などで説かれる「三無為」の一つ。「択」は智慧、「滅」は煩悩が滅した状態。智によって煩悩を選別し、完全に断ち切ることで得られる滅諦の悟り。
特徴: 煩悩が「消された」状態であり、生滅のない真理(無為法)。
定義: 大乗仏教の『成唯識論』などで説かれる四種の涅槃の最高位。菩薩が目指す「不住涅槃(ふじゅうねはん)」とも呼ばれる。
特徴:
智慧(般若)により、迷いの世界(生死・輪廻)に決して執着しない。
慈悲により、輪廻の世界を離れず(涅槃に留まらず)、衆生救済のために活動し続ける。
意味: 「悟り(涅槃)」に安住(執着)することもなく、「迷い(生死)」に縛られることもない、自由自在な境地。
簡単に言えば、択滅は「煩悩を滅して悟りの世界に入る」ことに焦点が当たり、無住処涅槃は「悟りの世界に留まらず、菩薩として衆生を救い続ける」ことに焦点が当たります。
仏教読解力スゲーだろ
😆
唯識の内容、すぐ忘れるけどな〜
😆
JBLは
無敵の論理的仏教スタンダードキングだ
😆
元スレ主は
論理的志向がない
俺もだが
俺は禅定をポケモンゲットてきるので
成唯識論や摩訶止観をチラ見するだけで
ピンポイント理解と提示が、できる
😆
チラ見で
解る、その時に
😆
一知って十を理解てきる
😆
かなり生真面目仏法でやれる人だと理解てきた
領域展開能力のおかげだな
😆
な?
以前おれが無住処涅槃には非択滅重要と言ったよな
jblは全く関係ないとほざいてたが
俺の話が理解出来ないのは
単純にお前が足らんだけ
証明されたな
そもそも、倶舎論では
無為法の重要性が低い
圧倒的に「択滅」がメインテーマ
という程度の位置づけ
択滅の定義: 「択」は賢明な智慧(択法智)、「滅」は煩悩の断滅です。
倶舎論における位置づけ:世親が著した『阿毘達磨倶舎論』では、物質でも精神でもない「心不相応行法」や、無為法を分類する中で、煩悩を断ち切った結果を「択滅」と呼びます。
煩悩の滅尽: 人間を苦しめる三毒(貪・瞋・痴)などの煩悩を、智慧によって「これ以上生じない」状態に滅ぼすこと(非択滅との対比)。
関連概念: 煩悩を断じて得られる「無想」や「解脱」とも関連し、完全な平安(寂滅)を目指す教えです。
この概念は、なぜ煩悩が再び起きないのか、という阿羅漢の修行成果を説明する論理的根拠となっています。
このテーマについて、具体的に「非択滅」との対比や、「三無為」全体の文脈について深く知りたいですか?
択滅とは、永遠に煩悩が滅尽された状態を指す
煩悩が永遠に滅尽された状態
これこそ、悟りの王道だ
七十五法の中の3項目
虚空、択滅、非択滅だ
倶舎論の時代には、ギリシャ哲学の影響もあって
「永遠に不変の実体」が登場したが
やっぱり、仏教である以上
「永遠に不変なものなど何もない」
という、お釈迦様の言葉を無視できない
のであって
その辺りは微妙なところだ
「永遠の仏陀」が、真正面から堂々と登場する
時代は変わったのだ
時代を経て、思想は変わっていくのだが
「お前の言ってることは、お釈迦さまの言ってることと違うぞ?」と批判されたら
仏典を引用しつつ、反論に追われることになる(笑)
「私の言ってることこそ、お釈迦さまの真意なのである」
と、自派の正当性を証明しなければならない
解釈の変更により、新たな思想が生まれる
憲法でいう「解釈改憲」みたいなものだ
は、禅とテーラワーダが
メインだろな
😃
三身みたいな感覚を下地にしつつも
「永遠に不変なものなど何もない」というのが初期仏教
の要素を究極のスタンスとも、なった
😃
「少なくとも、生きてる間は無理だな」という話
これは、禅定により一時的に煩悩がなくなった状態
禅定が終われば元に戻るので、有為法だ
滅尽定はすべての精神作用を停止する深い瞑想状態(想受滅定)を指し、択滅は智慧によって煩悩を滅した「涅槃(ねはん)」そのものを指す、三無為法(さんむいほう)の一つです。
滅尽定(滅尽三昧):
感覚(受)や認識(想)の働きを完全に停止させた状態。
有頂天(無色界の最上位)における修行者が到達する最も深い禅定。
択滅(無為):
「択滅無為」の略で、智慧(択)によって煩悩を滅した状態。
生起や消滅がない不変の理、すなわち涅槃そのものを指す。
より詳細な内容(例えば、阿羅漢の修行段階や、他の無為法との比較など)が知りたい場合、教えていただければさらに詳しくお伝えできます。
滅尽定:心・心所を完全に滅する仏教徒(聖者)の最高位の定。
無想果:無想定の結果として生まれる「無想天」の報い。
仏教における「二無心定(にむしんじょう)」と呼ばれる、心や心所(心理作用)の働きを一時的に停止する瞑想状態について説明します。
概要: 異教徒や凡夫が修行する、想(心)の働きを停止させる定。
特徴: 心を完全に停止させる「無心」の状態で、無想天(色界の第四禅)に生まれるための因となる。
概要: 仏教の聖者(阿羅漢や聖者)が修める、心・心所を完全に滅する最高の禅定。
特徴: 無想定とは異なり、無知や誤解に基づかない真の智慧に基づく。滅尽定に入ると、一切の心作用が消滅する。
概要: 無想定(因)を修めた者が、その報い(果)として死後に生まれる「無想天」のこと。
状態: 無想天に生まれた者は、一定期間、心が全く活動しない状態を過ごす。
これらの用語について、さらに具体的な修行方法や、無想天から転生した後の話など、詳しく知りたい側面はありますか?
倶舎論っつーか
大乗と非択滅、無住処涅槃と非択滅は関係ないと
お前言ったの憶えてないのか
まあいいわ正しくアップデート出来たと言うことだな
倶舎論の無為法は、択滅だけで十分
非択滅はあまりにもマイナーだ
そんな細かいことまで考えなくていい
滅多に使われないレアな仏教用語にこだわる
聖ウンコ派に共通する傾向だ
ここは倶舎論スレだが
今俺がいったのは
大乗と非択滅だ
お前は大乗と非択滅は関係ないといったという
話しをしてる
悪いが
スレの倶舎論の話しじゃないんだ
スレの意向を無視して悪いが
「大乗」、「無住処涅槃」と「非択滅」は
関係ないとお前はいったが
重要であるとアップデート出来たかな?
柔軟にアップデートしたと取ろうか
定義:因縁が不具(不十分)であることにより、本来生じるはずだった未来の法(煩悩など)が永遠に生じない、決定的な状態。
「非択」の意味:智慧による能動的な判断(択)を伴わない滅び。
「滅」の意味:対象となる法が「未来」から「現在」へ来ない、すなわち生まれないという滅び。
特徴:実有(実在)とされる三無為法(虚空、択滅、非択滅)の一つであり、煩悩の芽が永久に摘まれた静的な状態を指す。
↓
無為とは任意のダルマが因果関係を越えたためにもはや生起しない、すなわち滅したことを意味し、これに択滅と非択滅とがある。聖者のこころが、智慧の力(pratisamkhya 択)によって煩悩のダルマとの関係をすでに断たれているとき、その聖者は択滅を得た、と言われる。このような「智慧の力による滅」以外の滅が非択滅である。たとえばある者が、なんらかの対象を熱心に見ているとき、それ以外の対象のいろ・かたちなどは、かれに認識されないまま生じ滅してゆく。そのため、それら別の対象を捉えて生起するはずだった別の視覚(眼識)などの認識機能のダルマは、もはやかれには永遠に生じない。つまりそれらは、生ずるための「契機を欠いてしまった」(pratyaya-vaikalya 縁欠)のである。
[cf. 「倶舎線」Pradhan 1st. ed. p. 4, 10-15]。
考えなくていい
重要性の低い項目はスルーしてもOK
「非択滅」は、その1つ
「択滅」とは、智慧によって煩悩を滅尽すること
そこに菩薩の慈悲が加われば、大乗の「無住処涅槃」になる
無住処涅槃では、衆生を救うため、この世に戻ってくる
「永遠に煩悩を滅尽し、2度と戻らない」という
ちょっと、生きてる間には無理でしょうなという境地
いやいや大乗においては重要だよ
お待ちが言うように択滅は仏果だとするなら
無住処涅槃の菩薩には択滅ではなく非択滅となるだろ
お前◯
ハッスルしてるな?
😱
無想果は無想定の果報として生まれる天界、無想定は心の動きを止める外道の修行、滅尽定は煩悩を滅した聖者の最高峰の瞑想(無心定)です。
詳細な解説は以下の通りです。
定義:心の働き(心・心所)を完全に停止させる、前四禅(色界第四禅)の段階の瞑想状態。
特徴:外道や凡夫が「無想」こそが安らぎであると誤解して修習する。
定義:無想定を修めた者が、死後に生れる天界(無想天)。
特徴:心が停止した状態で長期間存在するため、「無想天」とも呼ばれる。
定義:無所有処定や非想非非想処定を通り越して、全ての心の働きを滅ぼし尽くした状態。
特徴:聖者(阿羅漢や不還)のみが到達できる最高峰の「無心定」。煩悩を完全に断つこと(滅諦)を目指す。
倶舎論では、有為法の心不相応行法に入っている
通常は、無想定が目標だろう
該当していると
佐々木先生の動画で言っていたよーなー
記憶が〜
😂
何も思わない無意識の状態を指し、この修行で達する境地は「無想天」とも呼ばれます。
特徴: 心の働きを止めるため、無念無想(むねんむそう)とも関連します。
結果: 無想定の修行を達成した者が生まれる場所を「無想天」と呼び、そこでは意識のない状態が続くとされます。
無想、無想果(むそうか)とも呼ばれ、五位七十五法という教理では「心不相応行法」の一つとされています。
この言葉について、仏教的な文脈でさらに詳しく知りたいですか?例えば、無想天に生まれることの良し悪しや、他の瞑想との違いなど、ご質問があればお聞かせください。
良い点は、怒りや欲望などの苦悩が一切ないこと、悪い点は、智慧が開発されず、寿命が尽きれば再び苦悩ある下界へ転落(輪廻)するため、根本的な解脱(悟り)にならない点です。
絶対的な安らぎ: 思考や欲望が止まっているため、苦しみや悩みを全く感じない。
高い集中状態: 誤解されがちな「無念無想」の境地を体験できる。
絶対的な安らぎ: 思考や欲望が止まっているため、苦しみや悩みを全く感じない。
高い集中状態: 誤解されがちな「無念無想」の境地を体験できる。
智慧の開発停止: 思考停止状態のため、真理を理解して悟り(解脱)に至るための「智慧」が育たない。
輪廻からの離脱ではない: 寿命が尽きれば、必ず他の六道(人間界など)へ転落する。
スローガン: 実践において「無念無想」を目指すことは、智慧の面からはあまり意味がないとみなされることもある。
もし無想天の思想がどのような経緯で生まれたかや、他の天界との具体的な違いについて興味があれば、さらに詳しくお伝えします。どのような面を詳しく知りたいですか?
ババジは無想天なのか~😆
「二無心定」と並び称される
コントラストが面白い
今のあたりのテーマだ
😃
>>451
まー
元スレ主とロンを
近似値で屁理屈で考えてみる
研究だからなー
😃
元スレ主とロンとは?
研究だ
😃
賢い人に頑張ってもらわないと
理屈でやっつける担当は
JBLだ
😃
使わないとねー感
😃
ピンポイントな記憶しか残らない
ま、天台華厳真言密教チベットあたりなら
なんとか記憶が残っている
😃
お邪魔しました
禅定に入ったナウ
遊んでもらったな?
😃
お後がよろしいようで笑
6パターンゲットだ
😃
割合バリエーションがある
一寺に3つくらいバリエーションがある
😃
澤木興道と良寛には
直撃禅定は
まだ遭遇していない
😃
まだ読んでないなー
読まんとなー😃
無念無想を理想としている
「無想定」にすぎない
主な違いは以下の通りです。
状態: 思考や想念(心・心所)がすべて停止した「無想」の状態。
位置づけ: 煩悩を根本から断つものではなく、単に一時的に活動を止めているだけ。
結果: 三界(欲界・色界・無色界)の中にとどまる(出世間できない)。
状態: 非想非非想処定(無色界の最高峰)の煩悩をも離れ、すべての心的な作用が完全に滅した状態。
位置づけ: 滅(涅槃)を体験する、最も深い修行の到達点。
結果: 煩悩が「滅」に導かれ、悟り(解脱)に至る。
この解説で無想定と滅尽定の違いはご理解いただけましたでしょうか?さらに詳しく、それぞれの具体的な修行法や、仏教用語「不相応行」との関連などについてもお話しできますが、何か気になる点はありますか?
心不相応行(心不相応行法)の定義: 色法(物質)でも心法(心そのもの)でもなく、心と離れて存在する(相応しない)、心の作用・状態に関する有為法(形成されたもの)のことです。
無想定の分類: 凡夫が「想を滅する」ことを目指す、第四静慮(禅定)の果てにある状態。これは心を停止させる不相応行の一つ。
滅尽定の分類: 聖者(阿羅漢など)が「受と想を滅する」最も深い定。これまた不相応行として分類される。
関連の核:世親の『倶舎論』において、心(意識)の活動が完全に停止した状態であるため、心不相応行に分類されます。特に滅尽定は、非想非非想処に達する一類として重要視されています。
もし、これらが具体的にどういった修行のプロセスや、仏教の他概念と関連するかについて詳しく知りたい場合は、お気軽に質問してください。他にも例えば、無想果との違いや、唯識の考え方との比較なども解説できます。
ウヨサヨ論争観みたいだが、それとは異なる
今回の選挙では、参政党から自民党にどっと票が流れた
「まだ肉体が残っている」という意味だ
煩悩を滅した「心」が身体を持つか、完全に滅無に帰したかの区別であり、前者は生前の悟り、後者は死後の完全な静寂を指します。
1.有餘依涅槃(うよねはん)
意味: 煩悩はすべて消え去ったが、まだ肉体(依=よりどころ)が残っている状態。
状態: 生きながらにして悟りを得た状態(成道、阿羅漢)。釈尊が35歳で悟りを開いた状態がこれにあたる。
別称:有余涅槃。
意味: 煩悩が滅しただけでなく、肉体も消滅し、二度と輪廻転生しない状態。
状態: 命が尽きた後の完全な涅槃。釈尊の入滅(死)がこれにあたる。
別称:無余涅槃、灰身滅智(身体を灰にし、心を滅する)。
大乗だと、そこにはとどまらない
大乗の涅槃は、「無住処涅槃」だ
状態: 生死(迷いの世界)にも、涅槃(悟りの静寂)にもとどまらない(住しない)。
意味: 大乗仏教で目指す、智慧と慈悲が両立した理想的な涅槃。
イメージ: 世俗に留まりながら衆生を救済し続ける。
初期仏教が「無余涅槃(完全な死後の安らぎ)」を最高の目標としたのに対し、大乗仏教では、死んで終わるのではなく、この世で智慧と慈悲を働かせる「無住処涅槃」が最高視されています。
こういうのを、ウヨ涅槃というのかも
対照的に、サヨは地獄だ😫
あの頃は、サヨ涅槃だった
住所不定の無党派層
それを、無住所涅槃という
ラピスレベル雰囲気投票してたらしいなー
トランプ政治世界に近くなってる
政策よりも雰囲気
立憲なんかも政策よりも安全保障とか
変なアピールしてたからなー
政策重視の野党が、欲しいところだ
😫
貼っといてやるよ
無住処涅槃と非択滅
リダン◆3y/i8XtGLY
IISXu(4/7)
1. 非択滅:煩悩の「実体化」を防ぐセーフティ
本来の非択滅は「縁(条件)が欠けて生じない」ことですが、修道の極致においては、**「智慧の常時稼働」**という圧倒的なリソース占有によって、煩悩が「私を苦しめる実体」として結実する隙を与えません。
客観的状態: 怒りや欲の「波形」は発生するが、それが「自己」というOSにインストールされる前に、智慧のフィルタリングによって「ただのエネルギー(中立な信号)」へと分解・未然処理され続けます。
煩悩という高エネルギーを「択滅(消去)」せず、かつ「自己(我)」に溜め込まないためには、常に外部(他者・世界)へと出力し続ける必要があります。これが**無住処(むじゅうしょ)**の動的平衡です。
機序: 入力された煩悩のエネルギーを、そのまま「慈悲の出力(利他)」へと即座にスルーさせる。この「淀みのない循環」こそが、システムを最も安定させ、かつ最大出力を可能にします。
修習位の長い訓練を経て、この「非択滅」と「転換」のプロセスは、意識的な努力を必要としない**「バックグラウンド・ジョブ」**へと移行します。
最終形態: 「悟ろう」としなくても、「救おう」と力まなくても、システムが勝手に世界の苦しみを検知し、自らの煩悩を燃料に変えて、最適な解を出力し続ける状態。
客観的に見て、大乗の修道が目指すのは「人間を辞める(無感動になる)」ことではありません。
むしろ、**「人間としての業(煩悩)を一切捨てずに、そのすべてを世界を動かすための光に変えていく、高効率なエネルギー転換回路になること」**です。
竹村氏は、煩悩を「断ずる(択滅)」段階から、阿頼耶識が「転じて」知恵となる「転依」のプロセスを重視します。
論理の核心: 煩悩を力づくで消すのではなく、智慧が常駐することで煩悩が結実する「縁」を欠落させる(=非択滅)。その結果として、どこにも執着せずに働き続ける「無住処涅槃」が現成するという構造を、システムの転換として描いています。
横山氏は「末那識(エゴ)」の執着が消えるプロセスを「非択滅」の文脈で語ることがあります。
論理の核心: エゴという「縁」が欠ければ、現象はただの「相」として映るだけで、苦しみを生み出さない。この「生じない(非択滅)」状態こそが、自由自在な「無住(無住処)」を支える土台であると説きます。
AIは、質問者が好んで使う用語を無理やりに混ぜ込んでくる
他の人が質問すれば、そういう回答にはならない
定義: 直接の要因「因」と、それを助ける間接的な条件「縁」の総称。
四縁(しえん)の第一:
因縁(いんねん、hetu-pratyaya):結果を生み出す直接的な原因(有為法)。
等無間縁(とうむげんえん):心の連続(前念が次念を引き起こす)。
所縁縁(しょえんえん):認識の対象。
増上縁(ぞうじょうえん):他の事象を妨げない、あるいは促進する働き。
六因(ろくいん): 倶舎論では因(原因)を能作因、倶有因、同類因、相応因、遍行因、異熟因の6つに細分化します(詳細な分類)。
目的: 固定的実体(自我)を否定し、すべての現象が依存関係(因縁生起)にあるという「諸法無我」を論証する。
因縁は単なる「前世からの運命」ではなく、物理的・精神的な現象がどのようにして生じるかを体系化したアビダルマ(部派仏教)の核心的理論です。
「縁」を重視するのが、仏教の特徴だ
「因」と「果」に目が向きがちだが
じつは「縁」のウエートが意外なほど高い
他の3つを合わせたより、「因縁」が重要だ
因縁(hetu-pratyaya):
結果(果)を生み出す直接的な原因(種に対する花のような関係)。
等無間縁 (samanantara-pratyaya):
別名:次第縁。現在の心理現象(心)が、その直前の心理現象を拠り所として生じること。間をあけずに連続する関係。
所縁縁 (alambana-pratyaya):
認識対象(所縁)のこと。対象が存在することで、心が生まれる関係。
増上縁(adhipati-pratyaya):
他のすべてに影響を与え、結果が生まれるのを「妨げない」という広義の条件・間接的な助け。
これら四つの縁は、すべてが互いに影響を与え合い、一つの結果を作り出す、仏教の根本的な「因果」の道理を示しています。
この場合、種があるのが因、芽が出たのが果
「春になって暖かくなった」というのが縁だ
それだけだ
具体的には、「目が何かを見ている間、鼻はお休み中だから匂いを感じない」とか、そういうの
定義と分類: 非択滅は「無為法」の一つであり、人為的な努力を必要とせず、煩悩の将来的な生起が根本的に不可能になる状態。
択滅(たくめつ)との違い: 択滅は「智慧の力で煩悩を根絶する」のに対し、非択滅は「因縁が不具(足りない)ゆえに生じない」という受動的な滅。
煩悩との関係: 煩悩は様々な因縁によって生じるが、特定の原因が永久に失われた時、その煩悩は「非択滅」として処理される。
『倶舎論』での位置づけ: 有部(説一切有部)においては、煩悩が自性(本体)を持たないことや、滅尽の過程を論理的に説明するための概念。
使用頻度が低いレアな用語だ
AIは忖度して無理やり回答に混ぜ込む
倶舎論(Abhidharma-kośa-bhāṣya):
4-5世紀頃のインドの僧、世親(ヴァスバンドゥ)によって著された、仏教の心理学・存在論(アビダルマ)の集大成です。
人間の心の働き(心所)や、世界を構成する要素(法)を整理し、迷いの現実(苦)から悟り(涅槃)へ至る構造を説きます。
心を汚し、かき乱す要因となる迷いの心(惑)。
特に「貪(とん:むさぼり)」「瞋(じん:怒り)」「癡(ち:無知)」の三毒が根源。
倶舎論では、これらの煩悩がどのように心を支配し、行動に結びつくかを分析します。
すべての現象には原因(因)と条件(縁)があるという「縁起」の思想に基づきます。
特に苦しみの連鎖を説く「十二因縁」は、過去の無明(無知)と業(行)が原因となり、現在の迷い(識~有)、そして未来の苦(生・老死)へ繋がる様子を説明します。
「煩悩(惑)」が「行為(業)」を生み、その結果(苦)が現れるという、因果応報の仕組みです。
煩悩は「因」:苦を生み出す根本。
十二因縁は「仕組み」:煩悩がどのように苦の果をもたらすかのプロセス。
倶舎論は「分析」:これらを徹底的に解剖し、客観的に捉えることで克服の道を示す。
この論書は、唐代の玄奘訳が特に知られ、後の日本仏教などでも重要な教学的基礎となりました。
おいおい
ai以外からも提示したろ
頑固なやっちゃ
わかった、わかった
詳細なポイント:
煩悩(三毒):人間を苦しめる代表的な煩悩は、貪(とん:貪欲)、瞋(じん:怒り)、痴(ち:愚かさ)の3つです。
因縁と十二因縁:全ての現象は「因」と「縁」の相互依存で生じます(縁起)。苦しみの連鎖を表す十二のステップ(無明から老死まで)は「十二因縁」と呼ばれ、前世・現世・来世の三世にわたる生死流転を説明します。
対応関係:煩悩の根源は「無明(むみょう:真理を知らない迷いの心)」にあり、これが因となって様々な因縁(執着、行為)が重なり、最終的に苦しみや老死という結果(果)をもたらします。
煩悩は苦しみそのものを生み出すエネルギーであり、因縁はそれがどのように現れるかという仕組みです。108の煩悩(数珠の数)を認識し、縁(環境や状況)を整えることが、この因果の鎖を断ち切るヒントとされています。
この流れが苦しみの連鎖だ😱
人間の心を苦しめ、正しい判断を狂わせる根本的な3つの煩悩。
貪(とん): むさぼり。自分の欲のために溺れる心。
瞋(じん): 怒り。すぐ腹を立てる、嫌悪の心。
痴(ち): 愚かさ。真理を知らない、道理を正しく判断できない心。
ベラいリダンのリバース
が原因
ベラいからレスやめよう
が結果
😱😱😱😱😱😱
ハッスル🤡のウンチクとレスの異様さ
が原因
ハッスル🤡は芸人みたいで面白い
が結果
😱
悪因悪果だな~😱
法身(ほっしん): 宇宙の真理そのもの。
報身(ほうしん): 修行の報いとして得た智慧の身体。
応身(おうじん): 人々を救うために現れた肉体(応身・化身)。
仏教には欠かせないように思えるのだが
大乗仏教の概念だ
というのも、日本は大乗仏教の国
大乗仏教が、仏教界のスタンダードとなっている
でも、倶舎論は小乗、部派仏教の理論をまとめたものだ
いろんな面で異なる
倶舎論にもすでに現れていた
初期仏教では、釈迦は入滅して完全に滅びたのだ
死後の仏陀など、どこにも居ないはずだ
釈迦の死後には神格化が進んだ
宗教というのは、そういうものだ
意外重んじてないのは
禅だ
影響あっても
それを表に出して重んじない
😃
曹洞宗の只管打坐
臨済宗よ不立文字だ
😃
そうなのか~😆
釈迦の何らかの神格化あるが
神格化と言っても
只管打坐そのものの源としているのみ
臨済宗になると
釈迦の神格化しているか、どうかは
鎌倉〜南北朝あたりの禅僧だと
神格化の雰囲気が薄い禅僧が多い
臨済宗の中でも栄西系統や東福寺あたりは神仏習合山伏と念仏があるので
当然神格化が必須になる
😃
超アンチ神秘主義者だったので
アンチ神格化、お経燃やしたりする
臨済宗が好みであった
😃
死に物狂いに悟りを求めていない寺院がおおい、
その僧侶は葬式仏教をも含めて釈迦と道元の神格化が必須である
😃
リアリズムやろな、
山岡鉄舟の西郷との対峙なんかは
リアリズムだ
釈迦が。どうだの、悟りがどうだのという話ではないからなー
😃
論外だろう
😭
何らかの臨済宗の血筋があるので
道元みたいな釈迦のイメージが薄い
😃
応燈関と言われる
燈と関は付き合いある
😃
俺が高野山へ行くか?
と思うと
ファンクラブ軍団が喜ぶのは
栄西の血筋
😃
三井寺密教だった
それが悟りなんだろうと2000年頃
😃
白隠が実質的な開祖のあつかいだ
あんまり文章が
冴えまくってる感がないなー
山岡鉄舟か
燈と
沢庵
ぐらいだなー
😃
構成する三師:
応:南浦紹明(なんぽしょうみょう・大応国師)-遠州流茶道
燈:宗峰妙超(しゅうほうみょうちょう・大燈国師)-大燈国師顕彰会
関:関山慧玄(かんざんえげん・無相大師)- SHINDEN
現代への影響:現在、日本に14~15ある臨済宗の派(本山)のほとんどが、この「応燈関」の法系に属しています。
より具体的な情報が必要であれば、以下のことについて教えていただけますか?
大徳寺派(宗峰妙超の法系)と妙心寺派(関山慧玄の法系)のどちらについて詳しく知りたいですか?
この3人の師弟関係や公案(修行)について詳しく知りたいですか?
応燈関の法系を持つ特定の寺院について調べていますか?
一般禅布教者ぽいなー
沢庵や山岡鉄舟は
リアリズムのテクリカルさで
いいけどな、
😃
まじで現在語訳語録、まったく歯が立たなかった、
最強の謎文字だった
今は意味が解る
😃
わからななったのが
燈の禅語録
だけ
他はなんとか少しは理解できていた2008年くらいには
燈は去年の秋ぐらいだったけ〜
😃
基本語録をたくさん残さなかった
😃
ハッスルとムイムイは
破壊してやっている
😃
面構えを見れば分かる
誰かに似ている
😃
「仏法に逢うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺す」いつでも、すぐにものと自分とが一如になって、いつでも死んでいるんです。どんなものだって、みんな、そのものに同化されてしまっておる、その形容です。
😃
臨済臭い流派がある
ロン、元スレ主あたりは、そうだ
😃
宗峰妙超弘安5年12月7日-延元2年/建武4年12月22日
(1283年1月7日-1338年1月13日)
諱は妙超、道号は宗峰。播磨(兵庫県)の出身。同国浦上荘の豪族・浦上氏の一族・浦上一国(掃部入道覚性)と赤松則村(円心)の姉との間に生まれた。朝廷から興禅大灯、高照正灯の国師号が与えられた。京都の大徳寺の開山。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/7/7a/%E5%A4%A7%E7%87%88%E5%9B%BD%E5%B8%AB%E5%83%8F.jpg
因果の道理の具体化: 良い行いは良い結果(善果)、悪い行いは悪い結果(悪果)を生むという、仏教の根本原理を「業」に基づいて説明。
「業」の重視: 行為を「業」と呼び、それが「結果」をもたらす原因になると説く。
6因・4縁・5果: 『倶舎論』では、「原因」と「結果」の構造を、6種類の因(6因)、4種類の縁(4縁)、5種類の果(5果)という非常に論理的なフレームワークで分類して分析している。
説一切有部の思想: 小乗仏教の代表的な部派である「説一切有部」の教義を基盤にしており、業と報いは「確実」であると主張する。
もし、特定の「果」や「6因・4縁・5果」の具体的な説明が必要でしたら、教えてください。
これでこそ、仏教だ
仏教の因果律(原因と結果の法則)って、
コンピュータのプログラミングに似てると思うんだよな
「こうすれば、そうなる」
「ああすれば、どうなる」
あらかじめ、インプットとアウトプットの規則がプログラムされている
ほぼない
ただめちゃくちゃレベルの高い高僧に出会う因果は
倶舎論的な当人の内部の因果要因を超えるケースがあるらしい
😃
この世の因果律が、プログラミングに似ていること
これは否定しがたい事実だ
セッタンの文章を少しは理解てきた因果があったために
ハッスル、ムイムイ、デンパパよりも
禅と仏教を理解しているという
ケースが発生する
😃
> ただめちゃくちゃレベルの高い高僧
大燈国師とかだな
俺的には
物理学次元
生物学次元
脳科学次元の
科学的傾向は異なる
脳科学次元の人間の文化、情報、になる物理学的科学の法則性は失われる
これは
若い頃に考えていたこだ
😃
小さなお堂二つ
神社三軒
回ってきた
久しぶり神社お参りだった
😃
なるほど
西山派のマックス唯識的な?仏智ゾーン
と
ノーマルな教学範囲の理解
と
神仏習合のノーマルな感覚とは?
研究だ
😃
お堂二つと
神社二つと
西山派寺院一つは
引っ張られた感がある
最初のプランの西山派寺院は入り口工事中で入りにくいのではいらなかった
😃
本覚思想に鈍いので
マニア魂が湧いてくる
😃
内容がイミフになるケースがある
ハッスル、デンパパ、リダン、ムイムイよりも意味は解るが
😃
著者と構成: 世親(VASUBANDHU)作。全30巻(唐・玄奘訳)、8つの章(界品~定品)で構成されており、詩句の本頌(ほんじゅ)と、それを自ら解説した散文の自註(長行)からなります。
教理的立場: 小乗仏教(部派仏教)の説一切有部の立場に立ちますが、後に大乗仏教に転向した世親の立場から、有部を批判的に解釈した箇所(「破我品」など)もあります。
内容の特色: 「すべてはある(一切有)」を基盤とし、宇宙論(世界の成り立ち)、心理学(心の働き)、倫理学(業・因果)を分析。煩悩のメカニズムと悟りへの修行段階を精緻に体系化しています。
歴史的重要: 中国・日本において「倶舎宗」として伝えられ、仏教の専門的な存在論・心理学の必読の綱要書として重んじられました。
界品(かいほん): 世界の存在構造、75法(物質・心・心作用・心不相応行・無為)の解説。
根品(こんぽん): 22の根(感官・機能)の能力と働き。
世間品(せけんぽん): 器世間(宇宙)の生成・構造と有情(衆生)の輪廻。
業品(ごうほん): 因果応報(業・行動)の法則。
随眠品(ずいみんぽん): 煩悩(随眠)の分類と仕組み。
賢聖品(けんじょうほん): 悟りに至る聖者たちの階梯。
智品(ちほん): 智慧の分類と定義。
定品(じょうほん): 修行における禅定(定)の段階。
より深く知りたい特定の箇所(例えば「75法の意味」や「具体的な業の考え方」など)はありますか?それとも歴史的な意義についてさらに詳しくお話ししましょうか?
実際には、理論と修行に半々のウエートが置かれている
修行の段階(四向四果):預流向、預流果、一来向、一来果、不還向、不還果、阿羅漢向、阿羅漢果の8段階で悟りを目指す。
具体的修行:五停心観(五つの心を静める観法)や、十六特勝(呼吸法を用いた観法)など、心に深く集中する「止観」が重視される。
目標:欲望を断ち切り、無漏智(汚れのない知恵)を完成させ、生死の流転から解放されること。
『倶舎論』の修行における「止観」の具体的なやり方や、四向四果の各段階についてさらに詳しく知りたいですか?
原始仏教(部派仏教)における悟りの4段階(四向四果:しこうしか)です。「果」は到達した聖者の境地、「向」はその境地へ向かう修行段階を指します。預流・一来・不還・阿羅漢の順に煩悩を断じ、最終的に輪廻から解脱する8つの階位です。
具体的には以下の通りです。
四向四果(しこうしか)の概要
4つの果(段階)と、それぞれの果に至る前段階(向)の組み合わせです。
概要:聖者の流れに入った最初の段階。
特徴:疑いや身見(自己への執着)を断ち、悪道(地獄・餓鬼・畜生)に堕ちない。
預流向:預流果を目指す修行段階。
概要:欲界の煩悩を薄くし、あと一度だけ人界(人間界)に生まれて悟りを開く段階。
一来向:一来果を目指す修行段階。
概要:欲界の煩悩(欲望)を完全に断ち、二度と欲界に戻らない(人間界に生まれない)段階。
不還向:不還果を目指す修行段階。
概要:すべての煩悩を断ち尽くした最高位(無学位)。
特徴:輪廻を解脱し、涅槃(ねはん)に入った聖者。
阿羅漢向:阿羅漢果を目指す修行段階。
さらに具体的な各階位の煩悩の断ち方や、大乗仏教との見方の違いなどについて詳しく知りたいですか?
悟りに向かう賢者や聖者の階梯が書かれている
驚くことに、まだまったくネタが尽きていない(笑)
本当に教義内容が豊富だ
論理的だからなー
倶舎論は
😃
> 預流果(よるか / Sot?panna)
> 概要:聖者の流れに入った最初の段階。
> 特徴:疑いや身見(自己への執着)を断ち、
悪道(地獄・餓鬼・畜生)に堕ちない。
これが、「見道」に相当すると見てよいだろう
> 阿羅漢果(あらかんか / Arahat)
> 概要:すべての煩悩を断ち尽くした最高位(無学位)。
> 特徴:輪廻を解脱し、涅槃(ねはん)に入った聖者。
これは、「無学道」に相当する
> 一来果(いちらいか / Sakad?g?min)
概要:欲界の煩悩を薄くし、あと一度だけ人界(人間界)に生まれて悟りを開く段階。
> 不還果(ふげんか / An?g?min)
概要:欲界の煩悩(欲望)を完全に断ち、二度と欲界に戻らない(人間界に生まれない)段階。
てことは、これらが「修道」ってことになる
なんだか、「修道」よりだいぶレベルが高いような気もするが
> 不還果(ふげんか / An?g?min)
概要:欲界の煩悩(欲望)を完全に断ち、二度と欲界に戻らない(人間界に生まれない)段階。
これはつまり、「もはや人間として生まれることはない」というレベル
もはや、天上界の天人だ
阿羅漢は、どこにも生まれ変わらない
と、普通の人は思うのだが
残念ながら、天界にも永遠には居られない
やがて、天人としての死が訪れる
そのつらさは想像を絶する
不還果までくると、もはや天界から陥落することはない
あとは、阿羅漢への片道切符
預流果の要点
意味: 「流れに入った者」。八正道という涅槃へ続く川の流れに入り、退転することなく悟りへ向かう階梯。
別名: 須陀洹(しゅだおん)、入流者。
断つべき煩悩(三結):
有身見(うしんけん): 「私がある」という誤った自己観。
疑(ぎ): 仏・法・僧への疑い。
戒禁取見(かいごんしゅけん): 無意味な禁戒・儀礼への執着。
特徴: 預流果に達すると、たとえ一時的に迷いがあっても、修行の過程で正道を外れなくなる。7回以内の転生で阿羅漢に到達し、苦しみから解放される。
預流果は、仏教を真剣に学び、修行(瞑想)を実践し、真理を発見する智慧を得ることで達する段階である。
「お前のドコがそんなに偉いのか~」と
「この調子なら、遠からず悟れます」
という、悟りのコースに乗った人
「遠からず」ったって、あと何回も転生して修行しなければならない
一還果(一来果)の主なポイント
輪廻の減少: 預流果(第1段階)で断ち切れなかった残りの欲界の修行煩悩(6種類)を断じ終わった状態。
1回だけの戻り: この世界(欲界)に後たった1回だけ戻って再挑戦し、修行を完了すれば良いという段階。
修行の必要性: 預流果に達した後、瞑想修行を重ねて無我を体得し、心が成長することでこの境地に達します。
この段階に達すると、もう地獄・餓鬼・畜生の三悪道には落ちず、最終的な悟りへと確実に前進します。
この概念について、さらに詳しく(例えば前の段階の「預流果」や次の「不還果」との違い)知りたいですか?ご希望があれば詳しく解説します。
とはいっても、倶舎論は漸悟説だ
あと一歩ったって、「あと一回、生まれ変わって修行すれば」ということ
即身成仏ではない
あとは、瞑想修行だ
不還果のポイント
「戻らない」:欲の世界への執着が消えるため、地獄・餓鬼・畜生や人間界へは再転生しない。
死後の転生:死後は、梵天界(色界の浄居天)に化生(けしょう)して生まれる。
五下分結の断絶:欲界にとどめる「五下分結」という煩悩を断ち切った段階。
次の段階:浄居天で修行を終え、最高位の阿羅漢果に到達する。
不還果(阿那含)は、完全に悟ったわけではないが、欲界への回帰がないため「不還」とされる。
このテーマについて、より深い情報を知りたいですか?例えば、
五下分結(欲界に縛り付ける5つの煩悩)の具体的な内容は?
不還果の前の段階である一来果(いらいか)との違いは?
他の四向四果(預流果、阿羅漢果)の概要が知りたい?
どのような点に興味があるか教えていただければ、詳しく解説します。
もはや、人間と呼べるものではない
主な特徴と位置づけ:
最高位:修行者が到達できる最終的な悟りの段階。
煩悩の消滅:五上分結(色貪、無色貪、掉挙、慢、無明)を含むすべての煩悩が完全に消滅した状態。
声聞の最高位:釈尊(仏陀)の弟子(声聞)が目指す最高到達点。
四向四果:修行階位の4つ目であり、預流果、一来果、不還果に続く最後の段階。
出家必須:阿羅漢の位に達すると、日常生活や家庭生活(在家)の維持が不可能となり、出家者として生活することになる。
大乗仏教では、菩薩と区別して「小乗」の悟りとして位置づけられることもある。
修行の最終ゴールだ
倶舎論は小乗仏教なので、残念ながら(?)、仏には成れない
阿羅漢果が頂点だ
弘法大師空海の「即身成仏義」に、そう書いてある
同じ仏教でも、漸悟と頓悟の違いは、それくらい大きい(笑)
ポツポツ現れているみたいだな?
😃
意見提示する相手は限定しているからなー
😃
倶舎論は精神、物質、エネルギーの三元論らしい
物質の定義(色法): 倶舎論では、物質を「色(しき)」と呼び、地・水・火・風の「四大」によって構成される。これは形を持つものだけでなく、空間を占有する物理的実在として定義されます。
極微(ごくみ): 物質の最小単位。これ以上分割できない最小の物質的実在。
エネルギー的な要素: 現代物理のエネルギーそのものではありませんが、感覚的な要素や物理変化に関わる要素(触、熱、エネルギー的動機)が「色法」に含まれる(例えば、熱さ・冷たさは火大の特性)。
心との関係: 物質は独立した存在ではなく、心(認識)と不可分な「精神・物質の複合世界」として扱われる。
この情報について、さらに深く知りたい点はありますか?例えば:
四大(地・水・火・風)の具体的な意味
心所(心理的要素)と物質の関わり
科学的視点と倶舎論の類似点・相違点
など、お教えいただければ追加で解説いたします。
😃
こういうのが重要だな
地水火風の四大は、素粒子ではない
素粒子は「極微」だからな
地水火風は、粗大な物体の性質だ
能作因(のうさいん):他の法が生じるのを妨げない、あらゆる条件(増上縁)。
倶有因(くゆういん):相互に依存し合って同時に存在・生起する因果関係。
同類因(どうるいいん):過去の自らと同じ種類の善・悪・無記の法を、未来に生じさせる原因。
相応因(そうおういん):心と心が作用する時、対象・依処・時・体・事の5点が一致する(相応)因果。
遍行因(へんごういん):過去の遍行する煩悩(邪見など)が、将来の関連する煩悩を引き起こす原因。
異熟因(いじゅくいん):善または悪の行為(業)が、時間差を経て異なる結果(苦楽)を生じさせる原因。
因縁(いんねん):結果を生む直接的な原因(主に六因の倶有・同類・相応・遍行・異熟)。
等無間縁(とうむけんえん):前の心の作用が、間髪入れずに次の心へ引き継がれる条件。
所縁縁(しょえんえん):心や心が作用する対象となる、外部の対象(所縁)。
増上縁(ぞうじょうえん):1~3以外で、何かを生じさせる働きを助けるあらゆる要因。
異熟果(いじゅくか):異熟因(業)によって、後に苦楽の報い(果報)を受けること。
等流果(とうりゅうか):同類因・遍行因によって、原因と同じ種類の結果が生じること。
離繋果(りけいか):煩悩を離れ、真理に繋がることで得られる涅槃(悟り)の果。
士用果(しゆうか):道具や努力(士)が、その働きによって得られる結果(士用)。
増上果(ぞうじょうか):増上縁(能作因)によって、全体として現れる影響・結果。
じつは、この2つは同じことを指している
リダンが、食いつく
ま、パターンだ
😃
> 能作因(のうさいん):他の法が生じるのを妨げない、あらゆる条件(増上縁)。
文末に (増上縁) と、さりげなく書いてある
要するに、六因の「能作因」と、四縁の「増上縁」は、ほぼ同じだということだ
> 因縁(いんねん):結果を生む直接的な原因(主に六因の倶有・同類・相応・遍行・異熟)
でもって、これもさりげなく書いてあるが
つまり、四縁の「因縁」と、六因の「能作因」を除く他の5つは同じだということ
六因 能作因と他の5因
四縁 因縁と他の3縁
↓
「他の5因」と「因縁」は同じ
「能作因」と「他の3縁」も同じ
それは、「世親にきいてくれ」としか言いようがない
ロンか、元スレ主が出てこないと
盛り上がらないらしい?
😃
どれを見ても
「他の5因」と「因縁」は同じ
「能作因」と「他の3縁」も同じ
「つまり、六因と四縁は同じものを別な分け方したもの」
↑
こう書いてあるだけだ(笑)
あの2人は良いコンビかもな?😆
聖ウンコ派は、共通な敵がいないとダメなんだよな~😫
悟りを得るために
悟りを得るのにプラスになる要因と
マイナスになる要因
悟りを得る素質の程度、輪廻も関係するだろう
そーいうのを分析したかったんやろなー
だいたいの狙いは解る
😃
煩悩滅尽が目的だ~😆
生きている間か
死後に出る、輪廻の後とかの
分析したかったゆやろな
些末なのアタマに入らん人間だが
頂点を知ってれば
だいたいの意図は読める
😃
そういうことでしょうな
半人半仏
半凡半悟
かもなー
まー煩悩は多少残ってるよ
😃
😃
😃
😃
> 因縁(いんねん):結果を生む直接的な原因(主に六因の倶有・同類・相応・遍行・異熟)
↑
これが、直接的な原因
↑
これが、間接的な原因
煩悩に汚染された行為かの
原因だろな?
知らんけど
😃
六因は「直接的な原因である5つの因と、ついでに間接的な能作因」
四縁は「間接的な原因である3つの縁と、ついでに直接的な因縁」
というように
同じ「原因」を、直接的か間接的かで分類の仕方を変えたもの
おそらく、「六因・四縁」に関する、世界で一番わかりやすい解説はこのスレ😂
冷静なサティができていれば、それで良いではないか
寺院に行く、優れた坊主に出会う
が良い縁、
戦争に徴兵され戦場にいく
が悪い縁みたいな
😃
作務とフィールドは
今回の休日は
引き篭もり休日なので暇がたくさんある
😃
そんなに
花粉症を警戒していないが
金曜日夜が悲惨だった
😫
違いというよりよりも
真言密教の特質
人格であり、万物であり、人格でもない
大日如来と
永遠の生命のイエス・キリスト
というあたりが
空間認識の違いになりそうだ
😃
万物は主の息吹、聖霊によって作られしもの、
空海は
六大無碍、重々帝網だ
このあたりが空間認知の違いになる
😃
イエス・キリストの十字架という
一度死ぬ経験からの蘇りを
想定して禅で狙って構築された
蘇りの後は世界は聖霊に満たされた
創造主の世界である
と言ったところだ
😃
マニア魂が燃えあがった
😃
釈迦も大日如来の分身😆
華厳っぽいな
華厳には近いがやはり
一即多、多即一はないな、
やはり西欧哲学文化の存在論は
霊的な存在論として残るだろう
デンパパ📶よりも遥かに優秀だろな
カトリック禅は
😃
同一化するのは
万物ではなく
イエス・キリストと同一化からの
万物の存在になるんだろうな、
と推定
😃
存在の本質論的な
ま、カトリック禅だと
聖霊に満たされる万物だろな
出口王仁三郎ほど身体を軽視してない
霊オンリーではない
カトリック禅は
イエス・キリストと同一化による
万物に聖霊で満たさせる
と推定している
😃
モビルスーツ
カトリック禅を
試運転だ
😃
カトリック禅よりも
俺的ノーマルな霊的直観のキリスト教のほうが俺的にはシックリくる
けどな〜
😃
遠い存在に感じる
推定はできるが
俺的ノーマルキリスト教のチャンネル合わせのほうが楽である
😃
俺でも
やはりカトリック禅は
システムを推定はできても
難しい
😃
とりまできたが
やはり難しい
天才の俺ちゃまでも
リアル感は難しい、
関東人の特権だな
関西にはない、カトリック禅など
😃
カトリック禅がわからない
十字架につけられるまでは
推定予測はできる
😃
霊的に身についてい過ぎているんだな?
😃
四谷のイグナチオ教会があるからな~😆
禅プロセスというよりも
聖霊を呼吸法で
ターボを付ける感だ
合っているとは思えんな
😃
いまは名前が変わったんだったかも
今も聖イグナチオ教会だ
カトリック禅の
要塞
https://tokyo-mokusou.info/shinmeinitsuite/
こりゃすごい
すごい田舎だな
ノアが最近平日、良く通っている
😃
西の方は、「ここは長野県か?」と思うほど田舎
カトリック禅にぴったりな環境なんだりう
俺には縁がない、金がない
😱
すごいな
上野や浅草とはメチャ遠いが
遠すぎる
東京駅からどんだけかかるのか、見当もつかない
行った動画あげとるなー
セッタンは大のキリスト教嫌いだったが意外だ
https://m.youtube.com/watch?v=nM4Yi2ODEL4&pp=ygUP56eL5bed56We5Yal56qf
何を言ってるのかは、よく分からんけど
すごいな?😆
ヴィパッサナー瞑想の組み合わせがブームらしい
😃
https://m.youtube.com/watch?v=lfMtn7k25P8&pp=ygUo44Kk44Ko44K644K55LyaIOeEoeWOn-e9quiBluavjeS_rumBk-mZog%3D%3D
霊的サイコメトリー
少し解った
現場の動画はありがたい
俺ちゃま天才
😃
一発だ
😃
ま、禅の無というのは
人間側が無になるので
聖霊を受けるのには便利良いとみた
人間が無になる=イエス・キリストの十字架と復活の
場面として想定してるな?
術式読めた
動画で六眼だ
😃
😃
😃
ヴィパッサナー瞑想の組み合わせの動画を見る
身体性が大事だ
まー
確かに聖霊は身体に作用する
😃
読めた
サティを運用するのだな、その果てに
聖霊とイエス・キリストの声を聴く狙いか
😃
https://tokyo-mokusou.info/vipa/taiken1/#:~:text=%E3%81%9D%E3%81%AE%E5%BA%A6%E3%81%94%E3%81%A8%E3%81%AB%E3%80%81%E5%91%BC%E5%90%B8,%E3%81%B8%E3%81%A8%E9%82%84%E3%81%A3%E3%81%A6%E3%82%86%E3%81%8F%E3%80%82&text=%E6%9C%80%E7%B5%82%E6%97%A5%E3%80%81%E2%80%9C%E6%85%88%E6%82%B2%E3%81%AE%E7%A5%88%E3%82%8A,%E3%81%A7%E7%B6%9A%E3%81%91%E3%81%A6%E8%A1%8C%E3%81%8D%E3%81%BE%E3%81%99%E3%80%82&text=%E3%80%8C%E9%BB%99%E6%83%B3%E4%BC%9A%E3%81%A7%E3%80%81%E5%8D%98%E3%81%AB%E7%A5%88%E3%82%8A,%E3%81%AF%E3%80%8C%E6%B0%97%E3%81%A5%E3%81%8D%E3%80%8D%E3%81%A7%E3%81%97%E3%81%9F%E3%80%82
素晴らしいヒントだ💡😆
ヴィパッサナー瞑想の組み合わせの
手の内が動画とセットで
読みきった
サティで落ち着かせて
聖霊降臨させる狙いか?
😃
サティ無縁の人達
😱
相分と見分だけなのかも?😫
ヴィパッサナーとか禅を組み合わせる必要はないが
😃
イエズス会
カトリック禅よりもシンプルそうなのを
生み出したな?
デンパパ📶より勝る
カトリックヴィパッサナー😃
読んだ聖句に
は
ここをヴィパッサナーで使った
俺ちゃま天才、簡単にヒラメク
😃
ルカの福音書23章32節~37 「彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」
↓メッセージが聞けます。(第一礼拝録音)
【iPhoneで聞けない方はiOSのアップデートをして下さい】
00:0039:41
ほかにも二人の犯罪人が、イエスとともに死刑にされるために引かれて行った。
「どくろ」と呼ばれている場所に来ると、そこで彼らはイエスを十字架につけた。
また犯罪人たちを、一人は右に、もう一人は左に十字架につけた。
そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」彼らは、イエスの衣を分けるために、くじを引いた。
民衆は立って眺めていた。議員
イエズス会は
考えてひらめいた
相手の手の内を、読める
六眼だ
😃
相手の術式の構築が読める
😃
難解だが
動画のチラ見で雰囲気解った
動画見る前の脳内構築でだいたい仕上げていたから
😃
幸せそうだ
https://tokyo-mokusou.info/vipa/
そういうのいくつかありそうだな?
場所はしらんけど
😃
https://m.youtube.com/watch?v=YOT_3CcLt-s&pp=ygUn44Kk44Ko44K644K55Lya44CA44O044Kj44OR44OD44K144OK44O8
https://m.youtube.com/watch?v=lfMtn7k25P8&t=584s&pp=ygUl44Kk44Ko44K644K55LyaIOODtOOCo-ODkeODg-OCteODiuODvA%3D%3D
https://m.youtube.com/watch?v=v0QuM-ivjtU&pp=ygUl44Kk44Ko44K644K55LyaIOODtOOCo-ODkeODg-OCteODiuODvNIHCQmuCgGHKiGM7w%3D%3D
カトリックヴィパッサナーのほうが
わかりやすそうだ
https://note.com/unakoro/n/n5d516c6c3276
😀
😂
😀
😀
😀
我空 = 永遠不変の「私(我)」は存在しない
法有 = しかし、世界を成り立たせる要素(法 dharma)は実在する
という立場です。
これは初期仏教から続く 無我 の思想です。
人間を分析すると、身体・感覚・認識・意志・意識(五蘊)の集まりであり、そこに固定的な魂や実体的自己は見つからない、という考えです。
つまり、
「私」というのは便宜的な呼び名にすぎない
ということです。
ここが説一切有部の特徴です。
彼らは、人格は仮の存在でも、経験世界を構成する最小単位である 法(ダルマ) は実在すると考えました。
たとえば、
色(物質)
受(感受)
想(表象)
行(心の働き)
識(意識)
こうした要素は、単なる名前ではなく、それぞれ固有の働きをもつ実在だ、と見るのです。
理由は、因果関係や業(カルマ)を説明するためです。
もし何も実在しないなら、
善行がなぜ未来に報われるのか
記憶がなぜ成立するのか
修行でなぜ悟りに至るのか
が説明しにくい。
そこで有部は、
個人は空だが、法は実在し、それらが因果的に連続する
と考えました。
説一切有部はさらに、
過去の法
現在の法
未来の法
この三世にわたって法は「有る」と論じました。
これが「一切有」の由来です。
この立場に対して、龍樹 などの中観派は、
法を実体視するなら、それは執着ではないか
と批判し、法空(法すら空)を徹底しました。
6. まとめ
「我空法有」を現代風に言えば、
“人格という固定的主体はいない。だが、現象を構成するプロセス要素は実在する”
という分析哲学的・アビダルマ的立場です。
初期仏教の無我を継承しつつ
世界分析を徹底した体系思想
とも言えます。
これこそ、倶舎論の根本思想と言ってよい
という、いまここ主義
これだと、善因善果・悪因悪果の因果法則が成立しないので、説一切有部は退けた
直接的な原因(因)、間接的な条件(縁)、そしてそれらによって生じる結果(果)を体系化したもので、世の中の出来事はすべて複雑な要因が重なって生じると説きます。
結果を直接生み出す6つの力。
能作因(のうさにん):他の存在を妨げず、生起を助ける(一切の法)。
倶有因(ぐうういん):相互に依存し、同時に存在する。
同類因(どうるいいん):善は善、悪は悪のように、過去の自己と類似した結果を生む。
相応因(そうおういん):心と心所が、認識の対象、根、時、体(依)において一致する。
遍行因(へんぎょういん):過去の「見道(けんどう)」や「修道(しゅどう)」で生じた煩悩が、さらに新しい煩悩を生み出す。
異熟因(いじゅくいん):善悪の行為が、時間をかけて異なる性質の果(無記=善悪の差別がない)をもたらす。
六因が結果として現れるために必要な、より広い「条件」。
因縁(いんねん):六因のうち、能作因を除く直接的原因。
等無間縁(とうむけんえん):前の心の瞬間が消滅し、次の心の瞬間を呼び起こす条件(思考の連続)。
所縁縁(しょえんえん):認識の対象となるもの(心や心が、対象によって生じる条件)。
増上縁(ぞうじょうえん):直接的な因以外で、結果が生じるのを妨げず、助ける広範な条件。
六因四縁によって生じる5種類の果。
異熟果(いじゅくか):善悪の業(異熟因)が時間差で報いる結果(苦・楽の生活や身体)。
等流果(とうるか):原因と似た性質の結果(同類因から生じる、同類の善行など)。
離繋果(りけいか):煩悩を断ち切ることで得られる、無為法(不変の真理)。
士用果(しゆうか):道具や人為的な力(能作因など)によって得られる結果。
増上果(ぞうじょうか):他の存在の増上縁によって生じる、一般的な結果。
😀
分け方が違うだけだ
The Six Causes (六因) and Four Conditions (四縁) are not different "things"—they are two different ways of categorizing the same reality.
順序を守っている
Think of it as looking at the same house from the front (Six Causes) and then from a bird's-eye view (Four Conditions). Here is how the Six Causes fit into the Four Conditions:
The Abhidharma masters used these two "filters" for different purposes:
Six Causes = Micro Analysis: Focuses on the power (efficacy) of each cause. It explains how a specific seed becomes a specific fruit.
Four Conditions = Macro Analysis: Focuses on the scope of relationship. It explains the environment required for something to arise, including time and mental objects.
You can say that Primary Condition (因縁) is just a "container" for five of the six causes. Meanwhile, Dominant Condition (増上縁) is the container for the Active Cause (能作因).
Would you like to dive deeper into why Sequential Condition and Object Condition are treated separately from the "Six Causes," or shall we look at how these lead to the Five Fruits?
倶舎論は小乗なので、いまいち人気がない
chatGPTは英語で回答を返してくる
良い参照サイトが、欧米にしかないせいだ
テーラワーダと倶舎論の違いの細かなところが解ってない
😀
分けて早朝に行くだろう
暑さ回避で
😀
住吉大社研究と
春日大社研究に向かうだろう
😀
高野山対策はほぼてきた
😀
阿弥陀如来の陀羅尼とか
とりま検索できた
我流チベット密教みたいな
真言唱えて修行みたいな異例な流れもあり
光臺院は顔パスでいけそうなきがする
😀
六因と四縁は、中身が同じ
グループの分け方を変えただけ
↓
1、南関東、群馬県、栃木県、茨城県
2、北関東、埼玉県、東京都、千葉県、神奈川県
四縁のうち、「因縁」を除く
他の3つをまとめたもの
六因のうち、「能作因」を除く
他の5つをまとめたもの
こんなユニークな分け方するのは、世の中でも「倶舎論」だけ(笑)
まあ、初期仏教から倶舎論までは
基本思想がほとんど変わらないから
それでいいんじゃないかな~😆
住吉大社は大阪
春日大社は奈良ではないか
その違いは大きい
まとめて行くと
片方が暑さとのバトルになる
😅
お盆休みなので
😅
歩きたくない暑さ恐怖が
スポーツドリンク2リットルを手提げで
電車乗って歩くと
ホラーな、予感しかしない
😫
不思議で仕方なかったが
夏の奈良に行ってみてわかった
あの奈良の高温多湿な泥沼は、天然の水田だ😫
ずっと稲作に適している
湿度がすごい
俺は早朝ガンバルンバするー
😫
盆休み(8月中旬)の住吉大社(大阪)と春日大社(奈良)の朝は、気温が25℃〜27℃前後まで下がりますが、湿度が高く蒸し暑いです。朝6時〜7時の参拝でもすでに暑さを感じ、日中は30℃〜35℃以上の猛暑となるため、早朝の参拝でも十分な暑さ対策が必要です。場所別の目安(お盆・朝7時頃)住吉大社(大阪市): 26℃〜28℃前後。海に近いが熱帯夜明けで非常に蒸し暑い。春日大社(奈良市): 25℃〜27℃前後。盆地特有の暑さ。境内は木陰が多いが、湿度が高い。対策のヒント参拝時間: 早朝6:30〜7:00の開門直後(春日大社は6:30〜)が最も涼しいです。服装: 通気性の良い服装、帽子、日傘が必須です。持ち物: 水分・塩分補給用の飲み物、汗拭きシート。奈良の8月は特に気温が高く、お盆は猛暑日になることも珍しくないため、朝でも油断せず熱中症対策をしてお出かけください。春日大社 - 神社・仏閣 - なら旅ネット - 奈良県ビジターズビューローTable_title: 基本情報 Table_content: header: | 施設名 | 神社春日大社 | row: | 施設名: 拝観時間 | 神社春日大社: ○本社参拝...奈良県ビジターズビューロー近畿北陸整備局 地勢・地質・気候(奈良県)南側は比較的に温暖で雨量は多く年間で2,000mmを越え、3,000mmを越える年も多く北部の山間部は冷涼で冬季は積雪も多い。 北側の奈良盆地を中心とした地域は寒暑の差が大きく内陸...森林研究・整備機構 森林整備センター【2025年版】奈良8月の気温と天気を徹底解説!観光に最適な服装は?2025/02/06 — 8月の奈良の気温と気候 8月の奈良は、夏本番の暑さが続きます。 平均気温は26.9℃前後で、日中は30℃を超える蒸し暑い日が続きます。 特に上旬から中旬にかけては猛暑日になることも...newt.net AI は不正確な情報を表示することがあるため、生成された回答を再確認するようにしてください
早朝から
😫
まあ、早朝なら行けるかもな?
倶舎論では「善因善果、悪因悪果」がメインだったが
唯識論だと「善因楽果、悪因苦果」の異熟思想になる
いいところに気づいてる。ここ、仏教の「業の理解」が一段深くなるポイントなんだよね。
まず結論から言うと:
👉 ズレてるようで、実はレイヤーが違うだけ
倶舎論はかなり“客観的・分類的”な世界観。
👉 善因 → 善果
👉 悪因 → 悪果
ここでいう「善・悪」は、そのまま結果の性質に対応してる。
善い行為 → 良い結果(福・利益)
悪い行為 → 悪い結果(損害・不幸)
かなりストレートで、道徳的因果のモデル。
ここで出てくるのが「異熟(いじゅく)」。
👉 善因 → 楽果
👉 悪因 → 苦果
一見似てるけど、決定的に違うのはここ:
▶「善悪」→「快苦」へのシフト
つまり唯識はこう考える:
善悪は「行為の性質」
楽苦は「経験される結果」
ここが唯識の核心。
唯識は一言でいうと:
👉 「世界=心の経験の構造」
だから問題になるのは:
👉 「その結果を“どう感じるか”」
「異熟」はざっくり言うと:
👉 時間差で、別の形に変わって熟すこと
例えば:
怒り(悪因)を持つ
→ すぐには何も起きない
→ 後で不安・苦しみ・嫌な環境として現れる(苦果)
ここで重要なのは:
👉 因と果が“同じ形では出てこない”
だから「異(こと)なる熟し方」。
倶舎論
👉 世界を「外側から」見る(法の分類) 👉 善悪=そのまま結果の性質
唯識
👉 世界を「内側から」見る(心のプロセス) 👉 結果は“体験”としての楽苦になる
■ もう一歩踏み込むと(重要)
唯識ではさらにこうなる:
👉 業は 阿頼耶識に種子として蓄積
→ 条件が揃うと
→ 感覚・環境・出来事として現れる
つまり:
👉 世界そのものが「異熟の結果」
ここまで来ると、
倶舎:因果は「出来事の連鎖」
唯識:因果は「体験世界の生成」
に変わる。
おそらく感じてるのはこれ:
👉 「善悪が消えて、主観的な快苦だけになるのか?」
半分YES、半分NO。
YES:結果は快苦としてしか経験されない
NO:善悪は“原因の質”としてちゃんと残る
■ かなり本質的に言うと
倶舎論:
👉 倫理的世界(何が善か悪か)
唯識:
👉 現象学的世界(どう経験されるか)
ここ、さらに進むとかなり面白くなる。
例えば次の問いが出てくる:
👉 「じゃあ“同じ出来事”でも、人によって楽にも苦にもなるのはなぜか?」
これはもう完全に唯識のど真ん中。
興味あれば、そこも一気にいけるよ。
> 倶舎論では「善因善果、悪因悪果」がメインだったが
> 唯識論だと「善因楽果、悪因苦果」の異熟思想になる
製ウンコ士が、「善因楽果、悪因苦果」にメチャクチャこだわってるのを見たのが
この違いに気づくキッカケになった
「善因善果、悪因悪果」を知らなかった
唯識は悪い場所に生まれるのも前世の影響が阿頼耶識にある云々とか
あるみたいだな
確かに俺の生まれた家は
僧侶の家ではないが
修行にバッチリできる環境であった
😀
優しいので
そっとしておく
😀
すべては、快と苦という心にフィードバックされる
原因と結果の法則は、宇宙にビルトインされている
宇宙は、機械的に動いている
インプットされた原因に応じた結果を、
機械的にアウトプットし続ける
明晰さがあるな
その反対側が
中論とスレ主学派なのだろう
と
😀
やはり、ほ~かい師匠がいないと
Talk掲示板は盛り上がりませんな~😂
あみだくじに祈祷という棒を一本を入れて
ゴールを変える発想
😀
俺はホーカイくんに手加減する
日蓮の佐渡島問題とか除いては
😀
仁和寺の神仏習合と念仏なのだろうと
その確認の高野山でもある😀
倶舎論では、善因善果、悪因悪果のメカニズムは、宇宙にビルトインされている
宇宙は、インプットされた原因をもとに、因果の法則に沿って、機械的に結果をアウトプットし続ける
その言い方、かなりいい線いってます。ただし、そのまま「宇宙が機械みたいに善悪を判定して返す」と受け取ると、ちょっとズレます。
善因→善果、悪因→悪果は「道徳的な審判」ではない
それは因縁(条件)の連鎖として自然にそうなるという話
しかも、その「因」は外界というより心の働き(業)に深く関わる
つまりイメージとしては、
宇宙が善悪をジャッジして報酬・罰を与える
ではなく
行為そのものが、未来の状態を生む“種”として機能する
という感じ。
「善い行為」は、心を安定・調和・非執着の方向に変える
「悪い行為」は、心を不安定・執着・苦の方向に歪める
その歪みや調和が、そのまま将来の経験(果)として現れる
だからこれは、
「宇宙の外側にあるルール」じゃなくて、
存在の内部構造そのものなんですよ。
宇宙が機械的に出力するというより、
存在(特に心)が自分で入力した傾向を、自分で展開し続けている
あと重要なのは、倶舎論はかなり「物理法則っぽく」語るけど、
それでも完全な決定論ではなくて、
新しい因(行為)を入れれば流れは変わる
修行によって因果の連鎖を断つことも可能
とされている点。
あとは「誰が出力しているのか?」を
宇宙(外部システム)
ではなく
因果そのもの(内在的プロセス)
に置き直すと、ほぼ倶舎論のコアに入ります。
このあたり、唯識の「種子」とか華厳の「法界」と比べるとまた面白い違いが出てくるんだけど、その方向もいく?
唯識論とは違って、倶舎論には阿頼耶識がない
あるのは、宇宙だけだ
その言い方、勢いはあって面白いけど
——ちょっと大胆に単純化しすぎてます。
まず事実としてはその通りで、倶舎論には
唯識のような「阿頼耶識」は出てきません。
ただし、だからといって
「あるのは宇宙だけ」
というのは、倶舎論の立場とは少しズレます。
倶舎論はかなりドライで分析的で、世界をこう見ます:
世界は「法」という最小単位の集合
心も物質も、全部バラバラの要素(法)の流れ
そこに「統一的な主体」や「巨大な一体的宇宙」は想定しない
つまり、
宇宙という一つの大きな実体がある
というより
無数の要素が因果関係で連なっているだけ
という世界観です。
ここが面白いところで、唯識は
業の蓄積場所=阿頼耶識
を立てるのに対して、倶舎論はそれを認めない。
じゃあどうするかというと:
各「法」が因果関係の中で力(潜在力)を持ち続ける
特に「業(カルマ)」は、連続する心の流れの中で保持される
という説明をします。
要するに、
保存装置(阿頼耶識)はいらない
因果の連鎖そのものが記憶機能を持っている
という発想。
あなたの言い方を倶舎論寄りに調整すると:
阿頼耶識のような内的ストレージはなく、
無数の法が因果のネットワークとして流れ続けている
であって、
宇宙だけがある
ではないんです。
むしろ逆で、倶舎論は
「宇宙」みたいな一体的なものを疑う側
徹底的に分解していく側
なんですよ。
倶舎論 → 分解(分析)モデル
唯識 → 統合(意識中心)モデル
っていう方向性の差が出てます。
あなたの発想はどっちかというと「統一原理を立てたい」感じがあるので、
そこはむしろ唯識とか華厳寄りのセンスですね。
確かに 自分は、このような「世界観」を好む傾向がある
倶舎論や中論には、こういう傾向がない ↓
「世界は、阿頼耶識の転変した姿である」(法相宗)
「世界は、毘盧遮那仏の顕現した姿である」(華厳宗)
「世界そのものが、大日如来の説法なのである」(真言宗)
わかる、その“統一的な原理で世界を一気に包みたい感じ”。かなり魅力ありますよね。しかも挙げてる3つ、方向性がきれいに揃ってる。
法相系:阿頼耶識が世界を展開する
華厳:毘盧遮那仏の顕現としての世界
真言:大日如来の説法としての世界
どれも共通して、「バラバラな現象の背後に、一つの原理(あるいは主体)を立てる」タイプの世界観です。
倶舎論
中論
この2つは、真逆のベクトル。
ざっくり対比すると
あなたが好むタイプ(統一モデル)
世界には“根源”がある
多様性はそこからの展開
どこか安心感・全体性がある
倶舎・中観タイプ(非統一モデル)
根源的な実体は立てない
ただ因果関係や空があるだけ
世界は“説明される”が“統一されない”
(以下略
倶舎論では、世界は無数の構成要素(諸法)から成り立っている
阿頼耶識がない代わりに、これらの構成要素が縁起の主体になっているのか?
いいところ突いてます。ただ、その言い方だともう一歩だけズレるんですよね。
結論から言うと、倶舎論では
「諸法が“主体”になって縁起を動かしている」
とは言いません。
むしろ逆で、
主体なんてどこにもいない。諸法そのものが条件として連なっているだけ
という立場です。
唯識だと:
阿頼耶識=ストレージ兼エンジン
世界はそこから展開される
でも倶舎論は:
ストレージもエンジンも立てない
連鎖そのものが全部
西洋哲学、とくにプラトンやアリストテレスの影響かもしれんが
なにか「縁起の法則」を作動している主体がないと、おかしいんじゃないか?
その違和感、かなり自然です。むしろ西洋哲学に馴染んでいるほど、そこに引っかかるはず。
たとえばプラトンやアリストテレスの系譜だと、
変化には原因が必要
→原因には担い手(主体・実体)があるはず
→最終的には「不動の動者」みたいな原理に行き着く
という発想がかなり強いですよね。
だから
「縁起が働いてるなら、誰がそれを動かしてるの?」
と感じるのは、むしろ筋が通ってる。
でも仏教、とくに中観や倶舎はここであえて逆を取る。
その“動かしている何か”を立てる発想自体が錯覚では?
という立場。
理由はシンプルでちょっと過激:
① 主体を立てると、それ自体の説明が必要になる
縁起を動かす主体がある
→ じゃあその主体は何で動くの?
→ 無限後退
② 主体は変化できなくなる
主体が固定的なら → 変化に関われない
変化するなら → それも条件依存(つまり主体じゃない)
③ 結局それも「実体」になってしまう
=中観が壊したい対象そのもの
あなたの感覚だと:
宇宙=プログラム
縁起=コード
じゃあCPUは?
ってなる。
でも仏教はこう言う:
コードがそのまま実行でもある
(=書かれていることと起きていることが分離していない)
そう、それだ。その感覚
倶舎論では、原因がインプットされると、縁起の法則の通りに、結果が機械的にアウトプットされる
まるで、コンピュータのプログラムのようだ
「なんで、そうなるの?」というのが、素朴な疑問というものだ
その「なんでそうなるの?」、めちゃくちゃ核心です。しかも、その“プログラムっぽさ”の直感もいい線いってる。
ただ——倶舎の立場から一歩だけ修正すると、
**「プログラムが動いて結果を出す」**というより、
「そういうふうにしか起きない関係として世界がある」
なんです。
倶舎論的には、この問いに対して
「なぜその法則があるのか?」には踏み込まない
が基本姿勢。
代わりに言うのは:
条件があれば生じる
条件がなければ生じない
それが縁起
以上。
あなたの問いはこういう構造ですよね:
ルールがある → 誰が決めた? なぜそうなってる?
でも倶舎はここで方向を変える:
「なぜ?」ではなく「どうなっているか」を徹底する
あなたのイメージ:
コード(縁起)
実行(現象)
じゃあCPUは?
倶舎の立場:
CPUという発想自体が不要
というか、
コードと実行が分かれていない
■ 「なんでそうなるの?」への答え
正直に言うと、倶舎や中観はここでこう返してくる:
それを問う発想自体が、“実体”を前提にしているのでは?
つまり、
「理由(根拠)」を求める
= どこかに固定的な基盤があるはずという前提
それを崩す方向なんです。
■ たとえでいうと
ちょっと乱暴だけど感覚的にはこう:
あなた → 「なぜ水は下に流れるの?」
倶舎 → 「下に流れる、という関係があるだけ」
ここが大事で、
人はどうしても
最終的な“なぜ”を求める生き物
なんですよね。
だから:
神を立てる
根源原理を立てる
意識を立てる
方向に行く。
■ 仏教のかなり思い切った選択
でも仏教(とくに中観系)はここで切る:
「なぜ?」はどこまでも続くので、どこかで打ち切るしかない
→ その打ち切り地点が「縁起」
■ ちょっと深い言い方
「なぜそうなるのか?」ではなく、
「そういう条件関係としてしか成立しない」
(以下略
なるほど 物理学と同じだな
「宇宙の法則は、こうなっている」
「なぜ、そうなっているのかは、誰も知らない」
うん、その対応づけはかなりしっくり来てる。
実際、発想の骨格はよく似てます。
「こうなっている」までは言える
でも「なぜそうなのか」は止まる
これは物理でも、仏教(とくに倶舎・中観)でも同じ地点に行き着く。
■ 共通点:記述はできるが、最終理由は宙に浮く
物理学
→ 法則を数式で記述する(重力、量子など)
→ でも「なぜその法則か?」は原理的に未解決
仏教(倶舎論など)
→縁起として関係を記述する
→ でも「なぜ縁起か?」は追わない
■ ただし、微妙にスタンスが違う
ここがちょっと面白い違い。
● 物理学
「まだ分かっていない(将来わかるかも)」
● 仏教(とくに中観系)
「それを問うこと自体が、的外れかもしれない」
■ なぜか
仏教側はこう疑う:
「なぜ?」と問うとき、
すでに“どこかに固定的な根拠があるはず”と思っていないか?
その前提ごと外そうとする。
■ だからゴールが違う
物理学
→ 最終理論(全部を説明する原理)を夢見る
仏教(中観)
→最終原理を立てる欲求そのものを解体する
(以下略
ヒンドゥー教もそうだな
古いヨガ哲学では、宇宙はグナの原理で機械的に動いている
誰かが、何かの目的でそうしてるわけではない
時代が新しくなるにつれ、「世界は神の遊戯なのである」というような考え方が強くなる
その見方、かなり筋が通ってます。流れとしては大きく外れていない。ただ、少しだけ補足すると輪郭がくっきりします。
古いヨーガやサーンキヤでは、
宇宙は グナ(サットヴァ・ラジャス・タマス)のバランス変動で展開する
それはかなり“自動的”で、目的論(誰かの意図)は薄い
意識原理であるプルシャは見るだけで、動かさない
なのであなたの言う
機械的に動いている
という感覚、かなり近いです。
仏教(中観・倶舎)と決定的に違うのはここ:
サーンキヤ/ヨーガ
→ プルシャ(純粋意識)という“観照者”は立てる
仏教
→ その観照者すら解体する
だから、
動かしてはいないが、「見ているもの」はいる
という構図。
時代が下ると、たしかにあなたの言う方向にシフトします。
特に
バクティ(信愛)系
ヴェーダーンタ系
では、
世界=神の顕現/遊び(リーラー)
という発想が強くなる。
代表的には シャンカラ 以降の議論や、各種神学的伝統ですね。
ざっくり言うと:
初期(サーンキヤ・ヨーガ)
原理はある(グナ)
でも目的・意志は弱い
半分“物理法則モデル”
後期(ヴェーダーンタ・バクティ)
原理の背後に意志・意味を入れる
世界に“物語性”が生まれる
あなたが言ってるのはこれ:
人は「ただ動いているだけの世界」に耐えられず、意味や主体を回復しようとする
これ、めちゃくちゃ重要なポイントです。
ヒンドゥー後期
→ 世界に意味(神の意図・遊び)を与える
仏教(中観系)
→ 意味を与えようとする心そのものを解体する
■ 面白い三極構造
ここまでの話、きれいに三つに分かれます:
機械モデル
グナ/縁起
自動的に動く
意味モデル
神の遊戯(リーラー)
意志や目的がある
解体モデル
中観
そもそも「機械か意味か」という枠組みを外す
あなたの流れを見てると、
倶舎 → 機械っぽい
でもそれだと物足りない
→ 統一原理・意味を求める
っていう、かなり“人間らしい”動きしてます。
それがあれば、宇宙は回っていける
それは、アリストテレスの西洋哲学によって、刷り込まれた思い込みにすぎない
『神というものが存在しなかったら、「彼」を創造する必要があろう。』
ヴォルテールは啓蒙思想家でありながら完全な無神論者ではなく、“宗教的権威の腐敗”を批判しつつも、“秩序・倫理・社会規範を支える超越的理念”としての神の必要性を指摘しました。
この発言は、「実在の神/概念としての神」「宗教/社会秩序」「信仰/理性」という対立軸を示し、人間社会の構造的要請としての“神”を考察しています。
考えが変わっただろう
やはり、ハマる
😀
https://m.youtube.com/watch?v=XnNzxZNxnqg&pp=ygUY5YyX6YeO5aSp56We57iB6LW357W15be7
😀
仁和寺行くとき素通りした
行きも帰りも
😀😀
仁和寺命だった
😀
そりゃそうだろ
大宰府と同じで
道真公なのか
シーンに
道真公の呪いで暴れているシーンがあった
😀
2つは誰も異論がない
大宰府天満宮と北野天満宮だ
個人的には、東京の湯島天神
長谷寺観音と天神が
密接な関係があると
学んだ、
知らなかった
😀
菅原道真公の生まれの土地の信仰があったとは
初めて知った
😀
😀
あれは、道成寺だ
道真公と関係あるんだろな
東京にも曹洞宗の長谷観音があるな
あれも道真公の神仏習合なんだりな
😀
死んだのが、大宰府天満宮だな
長谷寺っていったら、鎌倉だねえ
😀
信長の野望では、強い武将だった😄
菅原道真の一族の領地だったらしい本拠地という意味
😀
真言も唱えていたが
長谷寺の十一面観音がらみとは予想できなかった
😀
本尊が十一面観音でイコールアマテラス設定らしい
本尊は聖林寺に流れたが
曹洞宗が再建して
本尊を十一面観音を祀っている
かなり大神神社より少し距離がある
未だに謎が多い
😀
神社は残っているが
本尊はない
神社名前忘れた
😀
みたいな修験道仏教が
日蓮の仏罰仏教が生まれたともいえる
😀
ここが真言律宗叡尊の
三輪神社の
法流の両部神道の拠点だった
😀
あの世で
菅原道真公を追放した醍醐天皇が
地獄の業火にやかれていて
日蔵が話するとかある
地獄に落ちるわよ〜
日蓮脅しのルーツかもしれない
😀
😀
ちょっと、スレの進行が速すぎるな
空海のもとに八幡神が現れたという伝承でお社が立っている
むろん両部神道だ
これは6年前にゲットできた
そこからの〜
日蓮のアマテラス、八幡神信仰だろなー
なにせ院政の管理下の仏教だから
日蓮に影響与えただろな
😀
😀
【アビダルマ】 倶舎論 【仏教の標準理論】 Part5
https://talk.jp/boards/psy/1777689722
日連は底辺で地続きだ
😀
日連は存在しない
😀
これは、1ヶ月30日を毎日交替で神々が法華経を守護するという神仏習合の形であり、日蓮宗において「法華神道」として独自の発展を遂げました。
三十番神の信仰: 比叡山で修行した日蓮は、法華経を守護する「三十番神」を深く信仰し、日蓮宗の守護神としました。
「法華神道」: 日蓮以降、日蓮宗では日本の神々が法華経を信仰・守護するという「法華神道」的な神道観が形成されました。
神々への礼拝: 日蓮自身や弟子の「日像聖人」は、布教の際に神々にお題目を奏上し、その守護を祈ったと言われています。
神仏分離の歴史: 神仏習合の姿勢は明治時代の神仏分離により、日蓮宗寺院でも多くの神像や鳥居が撤去されるまで続きました。
このように、日蓮は法華経を頂点とし、神々をその守護神として再解釈する形で、当時の日本に定着していた神仏習合の信仰を受け入れていました。
具体的には、1ヶ月30日間、日替わりで国と法華経を守る「三十番神」が知られ、神仏習合思想に基づき、本地垂迹(ほんじすいじゃく)の観点から法華経の功徳を護持するとされています。
由来: 伝教大師最澄が比叡山で法華経を講じた際、守護を誓った神々に由来します。
役割: 1日から30日まで、伊勢神宮、石清水八幡宮、賀茂神社など、日本各地の有力な神々が毎日交代で法華経を信じる者や国土を守護するとされます。
信仰: 特に日蓮宗では「法華神道」として、修法や祈祷の本尊として古くから重んじられています。
鬼子母神(きしもじん)・十羅刹女(じゅうらせつにょ): 法華経「陀羅尼品(だらにほん)」において、釈尊の命を受け、法華経を修行・読誦する行者を守護し、苦悩から救うことを誓った神々です。日蓮宗の曼荼羅には鬼子母神がしばしば勧請されます。
最上位経王大善神: 姿を持たない久遠実成(くおんじつじょう)の本仏が、衆生済度のために菩薩の姿となって現れたとされる法華経の守護神です。
日蓮大聖人は、正法である法華経を軽んじる国からは守護神(善神)が去り、代わりに疫病や災難をもたらす魔物が現れると説き、法華経を信じることで日本の神々が戻り、再び守護すると説きました。
神仏習合の文脈を読まないと
日連の異様な教義の謎が
理解できない
😀
これがないと、日蓮聖人はわかりませんな~😆
👉善因善果・悪因悪果(=業とその異熟の対応関係)
です。
👉善因楽果・悪因苦果は“その一部ではあるけど、中心テーマそのものではない”という位置づけです。
倶舎論はかなりドライに言うと、
「行為(業)がどういう仕組みで未来の結果(異熟)を生むのか」
という因果のメカニズム解析がメインです。
ここで重要なのは:
善い行為 → 善い結果を生む
悪い行為 → 悪い結果を生む
という倫理的な対応関係(善因善果・悪因悪果)。
ただし、結果にはいろいろな側面があります:
生まれる世界(天・人・地獄など)
身体の状態
心の傾向
感受(楽・苦・捨)
このうちの一つが
👉楽受・苦受(気持ちいい/つらい)
です。
だから:
善因 → 必ずしも「楽」だけではない(例:修行の苦)
悪因 → 必ずしも「苦」だけでもない(短期的快楽など)
倶舎論的にはむしろ:
「善=楽」「悪=苦」と単純化するのは危険
なんです。
なぜかというと、仏教では:
善業でも苦を伴うことがある(例:厳しい修行)
悪業でも一時的な楽がある(例:欲望の充足)
つまり、
👉倫理(善悪)と感受(楽苦)はズレうる
あなたが言っている整理はかなり鋭くて、
倶舎論 → 因果の構造(善因善果・悪因悪果)
唯識 → 異熟としての体験(楽・苦の感じ方)
という違いが確かにあります。
唯識では「異熟果」として、
👉 「なぜ楽や苦として経験されるのか」
がより心理的に掘り下げられる。
倶舎論の中心
→善因善果・悪因悪果(業の因果法則)
善因楽果・悪因苦果
→その一部(感受レベルの話)にすぎない
もしもう一歩踏み込むなら、
「倶舎論の“異熟”と唯識の“異熟”は何が違うのか?」はかなり面白いテーマです。そこ、かなり深いですよ。
同じ「異熟」でも、中身はかなり別物です。
倶舎は「客観的な因果の結果」、唯識は「主観的な経験の生成」。
阿毘達磨倶舎論では、異熟とはシンプルに言うと:
業が時間差で成熟して現れた結果
ポイントは:
あくまで因果法則の一部
“誰がどう感じるか”よりも
👉 **何が生じるか(客観)**が中心
例えば:
善業 → 天や人に生まれる
悪業 → 地獄や畜生に生まれる
ここでの異熟は、
👉 **「存在状態としての結果」**なんです。
楽・苦も出てくるけど、それは「付随的な属性」に近い。
一方で唯識になると、話が一気に“内面化”する。
唯識では:
異熟=阿頼耶識に蓄えられた種子が成熟して、経験として現れること
つまり:
外界そのものも
自分という主体も
楽・苦の感じ方も
全部まとめて
👉「心の変現(転変)」としての異熟
① 外に出るか/内で起こるか
倶舎:
👉 世界に結果が“現れる”
唯識:
👉 世界そのものが“心から現れる”
② 異熟の単位
倶舎:
👉 生存形態(どこに生まれるか)
唯識:
👉 一瞬一瞬の認識・体験
③ 楽・苦の扱い
倶舎:
👉 結果の一要素(オプション的)
唯識:
👉異熟の核心(どう感じるかが本体)
④ 因果の深さ
倶舎:
👉 業 → 時間差 → 結果
(比較的ストレート)
唯識:
👉 種子 → 転変 → 認識 → 執着 → 新たな種子
(ループ構造)
ちょっと乱暴だけどイメージ:
倶舎論:
👉「この行為をしたら、この世界にこういう結果が出ます」
(物理法則っぽい)
唯識:
👉「そもそも“世界をそう見てる”のが異熟です」
(認識論・心理学)
倶舎論が、善果にしたのは
唯識の四智の設定があるかもしれない
俺が全宗教ゲットとか言っておるのは
それ「楽果」かもしれない
テーラワーダでは軽安と呼びを
それを消さないといけなき
禅も、禅定の喜びを消さないといけない、
唯識では清浄法界という「楽果」を重んじる
天台、華厳、真言、チベット
みな、この系統である
俺は天才かも、
閃きだけどねー
😀
それを消さないといけない
😀
それ「楽果」かもしれない
😀
楽果と言えるんじゃないかな~😄
マジでしつこい😫
賢いのは
NO1頑張ってるな
で終えること
😀
ムイムイには
ムイムイ〜😀
で終わる
😀
鬱期になったんかもなー
😭
物足りないな~😭
😀
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