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【南無阿弥陀仏】浄土教 【極楽往生】 Part2アーカイブ

1.
ユーザー
◆JBLfMwCXhY
4GsM3
南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏・・・


前スレ

【空也から】浄土教を語る【親鸞会まで】
https://talk.jp/boards/psy/1690865792
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953.
ユーザー
神も仏も名無しさん
h9CGU
バークリーはソシュール以前の人だから
仕方がないが😀


ジョージ・バークリーは、ロックが想定した「物質的実体(性質を支える土台)」という概念を、論理的な矛盾があるとして否定しました。その主な論拠は以下の通りです。

「知覚=存在」の原則: バークリーは、「存在することは知覚されること(Esse est percipi)」であると主張しました。私たちが知っているのは「色」「形」「硬さ」といった感覚(観念)の束であり、それらから切り離された「物質そのもの」を認識することは不可能だと考えました。

不可知論への批判: ロックは実体を「何であるか分からないもの(something, I know not what)」として理論的に想定しましたが、バークリーはこれを「存在しないもの」と結論づけました。知覚から独立した「物質」という概念は、そもそも定義不可能で無意味だと批判したのです。

観念論への転換: 彼は「物質」を否定した結果、この世界は物理的な物質から成るのではなく、私たちの心の中にある「観念」と、それらを常に知覚し支え続ける「神の知性」によって構成されていると考えました。

つまり、バークリーにとって、ロックが認めざるを得なかった「不可知の実体」という概念は、経験論を徹底させた結果、論理的に削ぎ落とすべき不要な仮定だったのです。
954.
ユーザー
◆JBLfMwCXhY
4HvQ6
>>937

>ライプニッツ → ロックへの反論
「精神は完全な白紙ではない。生得的なものは、明示的な観念としてではなく、精神の中の潜在的な傾向・構造として存在する」と考える。


これは知らんかった

さすがはAIだ😅
955.
ユーザー
神も仏も名無しさん
h9CGU
ま、トマス・アクィナスから始まった議論だろうから、オモシロい
😀
956.
ユーザー
◆JBLfMwCXhY
4HvQ6
ライプニッツは、そう言ってロックに反論したのか
957.
ユーザー
◆JBLfMwCXhY
4HvQ6
>>955

さらに遡れば、聖アウグスティヌスから始まっている
958.
ユーザー
神も仏も名無しさん
h9CGU
トマス・アクィナスの打ち立てた世界存在論をめぐる議論だな
😀
959.
ユーザー
◆JBLfMwCXhY
4HvQ6
デカルトは、神学校でスコラ哲学を猛勉強した
960.
ユーザー
◆JBLfMwCXhY
4HvQ6
現代人のイメージとは違うところだ
961.
ユーザー
神も仏も名無しさん
h9CGU
聖アウグスティヌスが
何を言っていたのか、
俺の脳内からロストしてしまっている😭
962.
ユーザー
◆JBLfMwCXhY
4HvQ6
トマス・アクィナスや、ドゥンス・スコトゥスが

デカルト哲学の出発点
963.
ユーザー
◆JBLfMwCXhY
4HvQ6
>>961

それは仕方ない😭
964.
ユーザー
◆JBLfMwCXhY
4HvQ6
聖アウグスティヌスは、記号論の祖とされる

965.
ユーザー
◆JBLfMwCXhY
4HvQ6
>>964

チャットGPT:

そうですね。かなり重要な人物です。

アウグスティヌスは、現代的な意味での「記号論(semiotics)」を体系化したわけではありませんが、西洋記号論の先駆者・祖の一人とされます。

特に重要なのが『キリスト教の教え(De doctrina christiana)』です。ここでアウグスティヌスは、概ね
signum(記号)=それ自体とは別のものを認識させるもの
res(事物)=記号が指し示す対象
言語・文字・身振りなどを記号として分析する
という形で、**「記号は何かを指し示す」**という問題を論じています。

面白いのは、彼にとって言葉そのものも記号だということです。

たとえば「木」という音声を聞いたとき、

「木」という音声そのもの
↓
木という事物・概念

へと心が向かう。

つまり、記号 → 心の中の意味 → 対象という、
後世の意味論・記号論につながる問題設定がすでに出ている。
966.
ユーザー
◆JBLfMwCXhY
4HvQ6
そしてアウグスティヌスの記号論は、単なる言語学ではなく、聖書解釈論と直結しています。

聖書に書かれた言葉を「文字通りの意味」だけでなく、何を指し示す記号なのかとして読むわけです。

この流れを見ると、
アウグスティヌス → 中世の聖書解釈・スコラ学 → ロックの記号論 → パース/ソシュールの近代記号論
という長い系譜の中に位置づけられます。

特に面白いのは、あなたが最近話していた**「主観と客観」「知覚された世界」「経験によって与えられるもの」**との接点ですね。

「目の前にあるもの」そのものと、それが自分にとって何を意味するかを分けると、そこから一気に記号論・認識論の問題になります。アウグスティヌスはかなり早い段階で、その扉を開けていた人物です。
967.
ユーザー
◆JBLfMwCXhY
4HvQ6
バークリは、「世界は神の記号である」と唱えた

これは、アウグスティヌスの影響だ
968.
ユーザー
神も仏も名無しさん
h9CGU
観念論(Idealism)とは、一言で言えば「この世界の存在は、物質的な物体そのものにあるのではなく、私たちの心の中にある観念(意識や知覚)の中にこそある」とする考え方です。

動画で触れられているロックやバークリーの文脈において、観念論は以下のような視点を持っています:

存在の本質: 私たちが「世界」や「物」と呼んでいるものは、独立して存在する物質ではなく、私たちの心が知覚する「観念の集合体」であると捉えます(例えば、バークリーの「存在することは知覚されることである」という主張がこれにあたります)。
物質の否定: 私たちが認識する対象の背後に、認識不可能な「物質的実体」を置く必要はないと考えます。ロックは「実体」という不可知な土台を残しましたが、観念論を突き詰めたバークリーらは、そうした物質的な土台自体を不要な仮定として否定しました。
認識の重要性: 世界を構成しているのは物理的な「モノ」ではなく、それを受け取る「知性」や「心」であるという考え方です。
つまり、観念論は「私たちは本当の世界(モノそのもの)を直接見ているわけではなく、自分自身の意識が作り出した観念の世界を見ているに過ぎないのではないか?」という認識論的な問いから発展した哲学的な立場です。
969.
ユーザー
◆JBLfMwCXhY
4HvQ6
>>967

チャットGPT:

うん、思想的にはかなり近いところがあります。

ただし、「バークリーの『世界は神の記号である』という思想が、直接アウグスティヌスから受け継がれた」と断定するのは少し慎重にしたほうがいいです。

ジョージ・バークリーの有名な発想は、
私たちが知覚する感覚的世界は、神が私たちに与える言語(language)/記号体系である
というものです。

バークリーは『視覚新論』などで、視覚によって与えられる色・形・距離などを、単なる「物質そのもののコピー」ではなく、別のものを示す記号として考えています。

たとえば、
視覚的な観念 A → 触覚的・身体的な経験 B
という対応関係があり、この対応を自然に成立させているのが神だ、という考え方です。

970.
ユーザー
◆JBLfMwCXhY
4HvQ6
そして、ここがアウグスティヌスと非常に面白く響き合います。

アウグスティヌス
世界・事物 → 神の創造した「しるし」 → 人間の心 → 神的真理

バークリー
感覚的観念 → 神が定めた「言語・記号」 → 人間の心 → 神の意志

つまり両者とも、
「われわれが経験するものは、それ自体だけで閉じたものではなく、何か別のものを指し示している」
という構造を持っています。

ただ、バークリーの場合はさらに徹底していて、物質的実体そのものを否定する。
「机がある」というとき、われわれが直接知覚しているのは神が与える感覚的観念の集合であって、その背後に「物質という実体」を仮定する必要はない。
だからバークリーの世界観は、
世界=神が人間に語りかける巨大な記号体系
と表現すると、かなり分かりやすいんです。

そしてこれは、実はあなたが最近考えていた**「この世界は自分にリアルな体験をさせるための、非常に作り込まれた仕組みに見える」**という発想とも接続できます。
ただしバークリーは「仮想世界」とは言わず、
「世界そのものが神によって秩序づけられた知覚の言語である」
と考える。

ここからさらにパースの記号論まで進むと、かなり面白い思想史になります。
971.
ユーザー
◆JBLfMwCXhY
4HvQ6
西洋哲学がだいぶ進んだな😆
972.
ユーザー
◆JBLfMwCXhY
4HvQ6
最近は仏教哲学に偏ってたから、いい傾向だ😆
973.
ユーザー
◆JBLfMwCXhY
4HvQ6
後でまた読み返したい良スレ😆
974.
ユーザー
◆JBLfMwCXhY
4HvQ6
まだ、このスレは終わってないが
975.
ユーザー
神も仏も名無しさん
h9CGU
変なヤツラに我流の知識で埋められるとウンザリだな
😅
976.
ユーザー
神も仏も名無しさん
h9CGU
ジョージ・バークリーの「物質の否定」や「存在することは知覚されることである」という観念論は、その大胆さゆえに、後世の哲学者たちから多くの批判や議論の対象となってきました。

主な批判のポイントは以下の通りです:

常識との乖離: 「私たちの目の前にあるリンゴや机といった物理的な物質は存在せず、すべては観念にすぎない」という主張は、私たちの日常的な感覚や常識からあまりにかけ離れていると批判されました。物質の実在を否定することは、私たちの経験的な直感に反するという指摘です。
977.
ユーザー
神も仏も名無しさん
h9CGU
「すべてが観念」という極端さ: 後年、哲学者ベルクソンらは、バークリーが世界をすべて「観念」の中に閉じ込めてしまったと批判しました。これにより、客観的な物理的世界の独立性が失われ、現実そのものが主観的なイメージに還元されてしまうという懸念が示されました。
認識論的な問題: バークリーは「物は知覚されることで存在する」としましたが、これに対しては、「では、人間が誰も見ていないとき、世界はどうなっているのか?」という問いが投げかけられました。バークリーはこれに対して「神が常に知覚しているから世界は維持される」と答えましたが、この神を導入する論理については、哲学的な妥当性をめぐって議論が続いています。
カントによる批判: イマヌエル・カントなどは、バークリーの理想主義(観念論)に対して、彼を「独断的な観念論者」と呼びました。カントは、私たちが知覚しているものが「物自体」そのものなのか、それともあくまで「現れ(現象)」なのかを厳密に区別する必要性を説き、バークリーの議論が客観的な世界の在り方を十分に説明できていないと見なしました。
バークリーの哲学は、ロックが残した「不可知な実体」という矛盾を突き、経験論を徹底させた点では極めて独創的でしたが、同時にその徹底ゆえに「現実世界をどのように位置づけるか」という難問を残したと言えます。
978.
ユーザー
神も仏も名無しさん
h9CGU
現代の科学、特に物理学において「実体(Substance)」という概念は、哲学がかつて想定していたような「何らかの性質を支える固い土台」という考え方から大きく変化しています。

1. 固い「モノ」から「関係性」への転換
かつての科学では、原子などを「小さな固い球(実体)」と見なす考え方(機械論的自然観)が主流でしたが、現代の量子力学はその基礎を覆しました。現代物理学では、物質を単独の物体として捉えるのではなく、**「他の何かとの相互作用(関係性)」**として記述する考え方が強まっています。

関係的量子力学: 物質の性質は、観測や相互作用という「関係」の中にのみ現れると考えます。
構造実在論: 私たちが「実体」と呼んでいるものは、結局のところ数学的な構造や関係性のパターンに過ぎないという見方です。
2. 質量とエネルギーの等価性
アインシュタインの式
が示したように、質量とエネルギーは交換可能です。これにより、物質は永遠不変の固い実体ではなく、エネルギーの現れ方の一形態であるという理解に変わりました。つまり、物質は「何かが詰まったもの」というより、**「場の励起(エネルギーの揺らぎ)」**として説明されます。

979.
ユーザー
神も仏も名無しさん
h9CGU
3. 「実体」から「関数(関係・プロセス)」へ
科学哲学者のエルンスト・カッシーラーなどが指摘した通り、科学の発展は「実体概念(モノ)」から「関数概念(関係・プロセス)」への移行の歴史です。現代科学は、「何であるか(What it is)」という実体的な問いよりも、「どう振る舞うか(How it behaves)」という記述や数式によるモデル化を重視します。

結論として
現代科学において「実体」は、「それ以上還元できない究極の土台」としては扱われていません。むしろ、観測される現象の背後にある数学的な法則や、粒子同士の相互作用といった「ネットワーク(関係)」こそが、世界を構成するより本質的なものと見なされています。ロックが感じた「実体とは分からない何か」という直感は、現代においては**「関係性の束」や「場の現象」**という言葉で再解釈されていると言えるでしょう。
980.
ユーザー
◆JBLfMwCXhY
6Y9sb
科学的な方向に行ったな
981.
ユーザー
◆JBLfMwCXhY
6Y9sb
それについても、言いたいことは山ほどある
982.
ユーザー
◆JBLfMwCXhY
6Y9sb
このスレの残りは少なくなった
983.
ユーザー
◆JBLfMwCXhY
6Y9sb
続きはこのスレで

仏教がわかってきた人のスレ vol.37
https://talk.jp/boards/psy/1786363932

【イエス】 トーク修道会 【キリスト】 第13使徒
https://talk.jp/boards/psy/1789989428
984.
ユーザー
◆JBLfMwCXhY
6Y9sb
ここなら、ドパガキも来ない
985.
ユーザー
神も仏も名無しさん
h9CGU
ドパガキになってしまった
😱
986.
ユーザー
◆JBLfMwCXhY
6Y9sb
ハッスル転じて、ドパガキか😫
987.
ユーザー
神も仏も名無しさん
h9CGU
ジョージ・バークリーが「実体」を否定したのは、それが論理的に不要で、認識不可能な仮定に過ぎないと考えたからです。

バークリーが実体を否定した主な理由は以下の通りです。

観念と実体は分離できない: ロックは「赤い」「硬い」といった観念の背後に、それらを支える「物質的実体」があると考えました。しかしバークリーは、私たちは感覚(観念)を通じてしか物事を知ることができず、観念から独立した「物質」を直接経験することは不可能だと主張しました。
「何であるか分からないもの」の無意味さ: ロック自身も実体について「私はそれが何であるか知らない(I know not what)」と認めていました。バークリーは、このような「性質を支えている正体不明の何か」を想定することは哲学的に無意味であり、概念の混乱を招くと批判しました。
存在=知覚されること: バークリーは、もし物質が知覚から離れて独立して存在しているとしても、それを知覚できない以上、私たちにとってその存在は意味をなさないと考えました。そのため「存在することは知覚されることである(esse est percipi)」と結論づけ、物質的実体を排除した世界観を提示しました。
988.
ユーザー
神も仏も名無しさん
h9CGU
つまりバークリーにとって、「性質の束」そのものが対象のすべてであり、その背後に隠れた「謎の土台」を想定する必要はないという、極めて徹底した経験論的立場をとったのです
989.
ユーザー
神も仏も名無しさん
h9CGU
科学的実在論と観念論の主な違いは、**「人間の意識や認識とは独立した客観的な世界が存在するかどうか」**という点にあります。

科学的実在論 (Scientific Realism):

独立性: 人間が知覚していようがいまいが、物質的な世界は客観的に存在すると考えます。
科学の目的: 科学理論が記述する対象(電子や原子など、直接見えないものも含む)は、実際に世界の中に存在していると主張します。
真理性: 私たちの最良の科学理論は、世界がどのようになっているかを真に(あるいは近似的に)記述していると考えます。
990.
ユーザー
神も仏も名無しさん
h9CGU
観念論 (Idealism):

意識の優位性: 「存在するとは知覚されることである」というように、世界は意識や観念に依存して存在すると考えます。
認識の限界: 私たちが直接触れられるのは「感覚」や「観念」だけであり、その背後に独立した物質的実体があると断定することはできない(あるいは無意味である)と主張します。
バークリの立場: 動画で触れられたバークリは、物質的な世界を否定し、すべてのものは神の知覚、あるいは私たちの知覚によって支えられていると考えました。
まとめると:
科学的実在論が「世界のありのままの姿を科学が捉えられる」と信じるのに対し、観念論は「私たちは自分の意識の中にある観念以上のものを知ることはできない」という認識論的な壁を強調する立場です。
991.
ユーザー
神も仏も名無しさん
h9CGU
現代の科学において「実体(Substance)」という概念は、かつて哲学で考えられていたような「性質を支える正体不明の土台」という意味では、ほとんど姿を消しています。科学の発展に伴い、実体を固定的な「もの」として捉える視点から、関係性やプロセス、関数として捉える視点へと大きく転換しました。

現代科学における実体概念の状況を整理すると以下のようになります。

「実体」から「関係・構造」へ: 物理学の進化により、物質は独立した「かたまり」ではなく、場の量子論や相対性理論が示すように、「場(field)」や相互作用のネットワークとして記述されるようになりました。粒子そのものも「実体」というよりは、場の振動や関係性の一側面として理解されています。
「関数概念」への移行: 近代科学の成立過程において、哲学者のカッシーラーが指摘したように、対象を「実体(何であるか)」で定義するのではなく、**「関数(どう振る舞うか、どんな関係にあるか)」**で記述する手法が主流となりました。現代の科学理論は、対象の背後にある「何か」を探るよりも、対象がいかに振る舞うかという数理モデルの構築に重きを置いています。
992.
ユーザー
神も仏も名無しさん
h9CGU
科学的実在論との関わり: 現在の科学哲学では、「科学理論が記述する対象は実在するのか?」という「科学的実在論」の論争が続いています。ここでは、「実体があるかどうか」を議論するよりも、「我々の理論が世界の構造をどの程度正しく捉えているか」という**構造的実在論(Structural Realism)**の立場が有力視されています。つまり、世界を「実体の集合体」ではなく「構造のネットワーク」として捉える考え方です。
結論として、現代の科学者は「実体」という言葉を哲学的な意味で使うことはほとんどありません。科学は、世界の根底に不変の土台があるという前提を置くのではなく、現象の間の動的な関係性や構造を解明することを目指して進歩しています。
993.
ユーザー
神も仏も名無しさん
h9CGU
ジョージ・バークリーの哲学が哲学史において極めて重要なのは、彼がジョン・ロックらが前提としていた**「物質的実体」という概念を徹底的に解体したから**です。彼の考え方は、近代哲学の議論を大きく進展させる契機となりました。

バークリーの考え方が重要な理由:

経験論の限界を突きつけた: ロックは「知覚される観念」と「その背後にある物質」を分けましたが、バークリーは「私たちは観念しか知り得ないのだから、物質という不可知なものを想定するのは論理的に無駄である」と批判しました。この**「徹底した経験論」**は、後のヒュームの懐疑論へ直接つながる道筋を作りました。
認識論の転回: 「存在することは知覚されることである(esse est percipi)」という主張は、世界を客観的な物質の集まりではなく、**「知覚(意識)と対象(観念)の相関関係」**として捉える視点をもたらしました。これは、後にカントが展開する「認識論的転回」への重要な準備段階となりました。
問いの深化: バークリーは、物質を否定することで「客観的な世界はどう維持されるのか」という難問に直面し、それを「神」によって解決しようとしました。この論理の展開は、形而上学と認識論が切り離せなかった当時の限界と、その後の哲学が克服すべき課題を明確に示しました。
つまり、バークリーは単に「物質を否定した」だけでなく、**「私たちは世界をどこまで正しく捉えられるのか」**という近代哲学の核心的な問いに対して、論理を極限まで押し進めることで、後の哲学者たちが取り組むべき新たな地平を切り拓いたのです。
994.
ユーザー
神も仏も名無しさん
h9CGU
科学的実在論と観念論が対立する根本には、**「人間(認識主体)が世界をどのように捉え、記述できるか」**という認識論的な前提の決定的な違いがあります。

1. 世界観と存在論的な前提の違い

科学的実在論: 世界は、人間の意識や知覚とは**独立して存在する「客観的実在」**であると考えます。人間が観測してもしなくても、物質や物理法則はそこに「ある」という前提です。科学は、この独立した世界を徐々に正しく記述していく営みだとみなされます。
観念論: 世界を**「意識(あるいは知覚)によって成立するもの」**とみなします。「存在するとは知覚されることである」というバークリーの言葉通り、私たちの認識から切り離された「物自体」を想定すること自体が論理的に矛盾しているか、無意味であると主張します。
995.
ユーザー
神も仏も名無しさん
h9CGU
2. 認識論的な前提の違い

科学的実在論(対応説): 私たちの知識や理論は、外的な実在と「対応」していると考えます。科学が予測を成功させ、技術が発展するのは、理論が「世界の真の構造」を捉えているからこそだ(奇跡の議論)と主張します。
観念論(内在説): 私たちが直接触れられるのは「感覚」や「観念」という意識の内容だけです。外部世界という「外側」にアクセスすることは不可能であり、科学的な理論であっても、結局は人間というフィルターを通した観念の秩序化に過ぎないと考えます。
3. なぜ対立するのか
両者の対立は、**「科学的成功の解釈」**に集約されます。実在論者は「成功は世界が理論通りであることの証明だ」と考えますが、観念論者は「成功は、観念のシステムが人間にとって都合よく整理されていることを示しているだけだ」と考えます。つまり、世界を「探究対象(客観)」と見るか、「体験の集積(主観)」と見るかという、根本的な足場の違いが対立を生んでいるのです。


996.
ユーザー
神も仏も名無しさん
h9CGU
「知覚の束(Bundle of perceptions)」とは、イギリスの哲学者デイヴィッド・ヒュームが提唱した、人間の「心」や「私(自己)」に関する概念です。

主な意味とポイント:

「私」という固定的な実体はない: 通常、私たちは「私」という変わらない中心的な存在があると考えがちですが、ヒュームはこれを否定しました。彼は、内省しても見つかるのは「暑い」「痛い」「赤い」といった、つぎつぎに現れては消えていく個別の「知覚」だけであり、その知覚の背後に「私」という不変の土台を見つけることはできないと考えました。
経験の集合体: 人間の精神や「私」とは、それらのバラバラな感覚や記憶、感情といった「知覚」が一時的に集まった単なる「束(たば)」にすぎない、というのがヒュームの主張です。
経験論の徹底: ヒュームは、ロックやバークリー以上に経験論を徹底しました。私たちが直接経験できない「実体」や「自我」のような概念を退け、観測可能な「知覚」という現象の積み重ねのみで人間を説明しようとしました。
つまり、「私」とは何か一つの揺るぎないモノではなく、流動的な経験の連続が生み出す一時的な幻想(または習慣的な意識のまとまり)である、という非常にラディカルな人間観を示したものと言えます。
997.
ユーザー
神も仏も名無しさん
h9CGU
デイヴィッド・ヒュームが「知覚の束」という概念を提唱し、固定的な「自我(私)」の実体性を否定した根拠は、彼の徹底した経験論的立場にあります。その論理的プロセスは主に以下の3点に集約されます。

「知覚」以外に根拠がない(経験主義の原則)
ヒュームは、「私たちの知識はすべて経験から生じる」と考えました。自分の内面をいくら深く探求(内省)しても、見つかるのは「暑い」「痛い」「赤い」「悲しい」といった、常に変化し続ける断片的な「知覚(印象や観念)」のみです。「それらの知覚を束ねている『私』という不変の主体」を、感覚として捉えることは決してできません。ヒュームにとって、経験されないものは存在を認めるべきではないという原則に基づき、「私」という固定的な実体は観測不能な空想と見なされました。

998.
ユーザー
神も仏も名無しさん
h9CGU
「実体」という概念の否定
当時、多くの哲学者が「知覚は『私』という実体の中に存在する」と考えていましたが、ヒュームは「実体」そのものの概念を懐疑しました。彼は、知覚同士の間に「実体」という糊のようなものが存在する証拠がないと主張しました。「私」とは、個々の知覚が因果や類似、記憶といった関係性によって単に連鎖し、束になっている状態を指す呼び名に過ぎないと結論付けました。

「自己」は幻想である
ヒュームにとって、「私」とは実在する固定的な中心点ではなく、絶え間なく流れる知覚の「束」が一時的に集まったものです。私たちは、記憶によって過去と現在の知覚が似ているために、それをあたかも「同一の不変な主体(私)」が存在しているかのように錯覚しているだけであると説きました。

つまり、ヒュームの根拠は**「『私』を直接経験することは不可能であり、したがってそれは哲学的に実在を証明できない」**という極めて厳格な経験論的帰結にあるのです。




999.
ユーザー
◆JBLfMwCXhY
mHaU1
すごいな
1000.
ユーザー
◆JBLfMwCXhY
mHaU1
1000
1001.
ユーザー
Talk ★
???
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1002.
ユーザー
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