実体の不可知性: 私たちは「赤い」「丸い」といった性質を感じていますが、それらを支えている「実体(ものそのもの)」を直接観察することはできません(4:27-4:55)。ロックはこれを「何であるか知られないもの(something I know not what)」と呼びました(5:34-5:52)。 感覚への依存: 私たちが世界を知るプロセスは、あくまで感覚や反省という経験を通じて得た観念に基づいています(0:16-0:24)。二次性質(色、味など)のように、対象そのものではなく「私たちにどのような感覚を引き起こすか」という関係性の中で生じる知識が多いため、世界の本質を完全に捉えることは不可能であると判断しました(2:20-4:14)。 ロックは、世界を一気に説明しようとする体系を作るのではなく、経験に基づいて少しずつ知識を積み重ねていくことが人間の限界を認めた上で最善の道だと考えました(7:13-7:29)。
観念と実体の分離: 私たちが物について知っているのは「赤さ」や「丸さ」といった性質(観念)の集まりに過ぎません。ロックは、それらの性質を支えている基盤(実体)という概念は必要であると認めつつも、それを直接見て、触れて、認識することは誰にもできないと考えました(4:40-5:02)。 「何であるか知られないもの」: ロックは、その実体の正体について、我々が「それが何であるか知らないけれど、何らかの性質を支えているもの」という形でしか捉えられないとし、これを「something I know not what(何か分からないもの)」と表現しました(5:27-5:52)。
3. 「実体」から「関数(関係・プロセス)」へ 科学哲学者のエルンスト・カッシーラーなどが指摘した通り、科学の発展は「実体概念(モノ)」から「関数概念(関係・プロセス)」への移行の歴史です。現代科学は、「何であるか(What it is)」という実体的な問いよりも、「どう振る舞うか(How it behaves)」という記述や数式によるモデル化を重視します。
南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏・・・
前スレ
【空也から】浄土教を語る【親鸞会まで】
https://talk.jp/boards/psy/1690865792
https://d.kuku.lu/k4fx4hb7r
どんな服装で行けば良いのでしょうか [ 坐禅会について ]
よく来られる方や、本格的に坐禅修行している方は、着物と袴や作務衣を着ていますが、だらしの無い格好でなければジーンズやジャージなど普段着でかまいません。
ですが生地の硬いジーンズの場合は、血行が悪くなって足が痛くなる傾向があります。
締め付けるところが無いゆったりしたものが理想的です。
居士禅(こじぜん)とは何ですか? [ 素朴な質問 ]
居士とは非出家者、つまり在家の者のことをいいます。
在家ですから、実社会にあってはそれぞれの職業を持っています。
もちろん学生や、主婦の方も含まれます。出家者である専門の雲水修行者が、僧堂において雲水の立場から修行を行っているのに比べ、居士禅では、在家の人達が主体であるために、正式に僧籍を持つ者以上に社会に密着した姿で修行を行うことになります。
居士禅では、実社会の中にあってなおかつ純粋に自己確立を目指すことが求められ、それによって自分に安心を与えるとともに、修行によって悟り得た徳力を各自の領域、職域において自然に発露していくことで社会に貢献することが目標とされます。
坐禅道場と言うと、何か敷居の高いような気がするのですが?
確かに初めての方の中には、禁欲的で、俗世間から離れたイメージの方もおられるかもしれません。
しかし、人間禅道場は居士禅の専門道場としての長い伝統の中で、皆が学生生活・社会人生活を送りながら坐ってきた道場です。
確かに摂心会ともなれば厳しい雰囲気の中で行われます。、初めから摂心会に参加すると、面食らうかもしれません。そのため、 とりあえずは静坐会に参加されてはいかがでしょうか?
参禅修行とはなんですか?
曹洞宗では参禅と言うと、坐禅しに行くことを意味しますが、臨済宗においては参禅とは老師と1対1で禅問答を行うこと修行のことを指します。 また独参ということもあります。
人間禅は臨済宗系なので、参禅修行は老師と1対1で禅問答を行います。
摂心会(せっしんえ)や、禅フロンティアで参禅が行われますが、鐘をカーン、カーンと鳴らして修行者が廊下を小走りに行くのは老師に参禅をしているのです。 会員になっていない一般の方も「参禅願い」を提出して参禅を願い出ることができます。
参禅願いを提出した全員が老師に呼ばれて面談を行います。
その際、人間禅の歴史や禅の修業はどういうものかが説明され、最初の公案(これを初関(しょかん)と言う)が授けられます。
ここまでは参禅願いを出した全員ですが、ここから先は老師と1対1で指導を受けることになります。
参禅の作法を教えてもらってからは、一人で老師の待つ室内へ走っていきます。
ここで公案の見解(けんげ 答えのようなもの)を提して、老師に判別を請うのですが、その室内の事は他言してはいけません、つまり、秘密にすることになっております。
後に続く修行者の妨げになると考えられているからで、これ以上は書くことができません。
東京東支部 第172回摂心会
期間:3月28日~4月4日
場所:擇木座禅道場 担当師家:了々庵老師
https://ningenzen.org/free/bukkyo-kouza
話が少しそれますが、ここで「居士禅」と「出家禅」という言葉を整理しましょう。人間禅も円覚寺法系を継承しており、人間禅創立以来66年間にわたり居士禅という言葉を使って来ましたが、調べてみますと、居士禅という言葉を使っているのは円覚寺法系のみであり、日本全体では在家禅が主流であることを知りました。更に居士は士(さむらい)の字で表されるように、男性を指す言葉であり、居士禅というと厳密には女性はオフリミットの意味合いになります。人間禅は、創立以来男女の差別はまったくありません。今後は一般にも博く使われている「在家禅」という言葉を居士禅に替えて使う方が良いのではと考え、以下「在家禅」でお話しを進めます
「セイウン居士」から鹿野園に戻した
禅だと:
逃げるな
今ここを見ろ
浄土真宗だと:
逃げてもいい
その逃げているあなたを、すでに救っている
この差はかなり大きいです。
最近、正統派瞑想仏教以外の研究が進んだので
真宗の中心が解ってきた
それは
「脱世俗」
キリスト教、イスラムも神道も
そもそも脱世俗だ
盤珪みたいな発想世界き生きていると
真言華厳も含めて
「脱世俗」のイメージが薄くなってくる
😀
「脱世俗」は
脱世俗といえども、
極楽浄土のあの世の浄土を目指す
脱世俗である
😀
「脱世俗」を目指す
禅は脱世俗ではなく
リアリズムが一番濃い
故に
山伏、念仏、神仏習合がわかりにくかった
😀
脱世俗の教義として
こだわったのだろう
😀
生きるマジメな生き方を要求したりするが
死後に天国に行く為である
😀
「脱世俗」か~😆
キーワードは
意外な場所から見つけた
ユーチューブから
😀
脱世俗だ
茂吉は
我欲どっぷり
😀
かなりお怒りだ
😀
そっちは花粉症でパワーダウンか?
😫
花粉症のやっかいなのは
風邪か花粉症かわからんところだな?
😫
■ 核心:他力による救い
親鸞の教えの中心は一言でいうと
👉 「人は自力では救われない」
です。
ここでいう救いとは、煩悩に満ちた人間が迷い(輪廻)から解放されること。
親鸞は、阿弥陀如来の**本願(特に第十八願)**を絶対視します。
👉 内容(要約) 「どんな人間でも、私(阿弥陀)を信じて念仏すれば救う」
ここがポイントで
善人だけではない
修行者だけでもない
悪人すら対象
親鸞教学で最も有名な思想。
👉 「悪人こそが救いの正しい対象である」
これは誤解されやすいですが
善人 → 自力に頼る余地がある
悪人 → 完全に自力を捨てざるを得ない
つまり
👉 「自力を捨てた者こそ、他力に完全に乗る」
親鸞にとって決定的なのは
👉 念仏そのものではなく「信心」
です。
ここでいう信心は
自分が信じることではなく
阿弥陀仏に信じさせられること(他力)
つまり
👉 信心すら「自分の力ではない」
「南無阿弥陀仏」は重要ですが、意味が独特です。
一般:念仏=修行
親鸞:念仏=救われた結果のあらわれ
👉 念仏は原因ではなく「結果」
■ 即得往生(そくとくおうじょう)
普通の浄土教では
👉 死後に極楽往生
ですが親鸞は
👉 信心が決まった瞬間に往生は確定
つまり
今この瞬間に救いは成立している
親鸞はここを徹底的に掘り下げます。
自力
他力
修行・努力
阿弥陀の働き
自分の力
仏の力
条件付き
無条件
👉 親鸞はほぼ完全に「他力」に振り切る
■ 絶対他力
その極限がこれ
👉 「善も悪も関係ない」
なぜなら
善を積むのも結局「自力」
だから救いの条件にならない
■ 倫理はどうなるのか?
ここがよく問題になる点。
親鸞は
👉 「悪をしてよい」とは言っていない
むしろ
本当に他力に気づいた人は
自然に惭愧(ざんき)の心が生まれる
(あなたの前の質問ともつながる重要点)
親鸞の立場は
法然の弟子でありながら
教えをさらに徹底化
結果
👉 「修行」という概念そのものを解体してしまった
■ まとめ(核心だけ)
親鸞教学を一行で言うと
👉 「人は何もできないが、それでもすでに救われている」
> ここでいう信心は
> 自分が信じることではなく
> 阿弥陀仏に信じさせられること(他力)
> つまり
> 👉 信心すら「自分の力ではない」
なんか、イスラム教っぽいな
アッラーを信じる者は天国に往き、
信じない者は地獄に投げ込まれる
でも、アッラーを信じる者は、
アッラーがそのように仕向けたのであり
信じない者は、アッラーが目と耳をふさいだのである
結局のところ、アッラーを信じるか信じないかを
決めているのは、アッラーなのである
>>信じない者は、アッラーが目と耳をふさいだのである
聖書では、
神がサタンを派遣して
人間の信仰心を試す場面が
多いね
>>親鸞教学を一行で言うと
>> 「人は何もできないが、それでもすでに救われている」
晴佐久神父と、微妙に違うね
https://m.youtube.com/watch?v=SgvbysxCb2o&list=PLIu-pTftRZuYICak6cNbIf19wjzda2T_6&index=1&pp=iAQB
(12分地点から25分地点)
神に試されているのか
真土とは、一切の衆生を平等に救おうとする阿弥陀仏の誓願に報いあらわれた浄土である。
阿弥陀仏は、どのような人であっても、どれだけ時を経ようとも、
必ず摂め取って救おうとする光明無量と寿命無量の誓願をおこし、
この大悲の誓願にこたえる真仏土を成就している。
仮土は、どうしても自力を棄てることの出来ない凡夫を導くために、
自力の行によって往生する浄土として設けられた、仮の世界である。
それは、諸善万行を修して、あるいは自力で念仏を修して願う、
方便化身土として表される浄土である。
https://www.bing.com/search?q=%E4%BB%AE%E5%9C%9F%E3%80%80%E7%9C%9F%E5%9C%9F%E3%80%80&qs=n&form=QBRE&sp=-1&lq=0&pq=%E4%BB%AE%E5%9C%9F%E3%80%80%E7%9C%9F%E5%9C%9F%E3%80%80&sc=0-6&sk=&cvid=35591BA2E0C647CD8EE42B82D9757C74
本願によって誰もが平等に救われる真土が明らかにならないことを、
「如来広大の恩徳を迷失している」と言われた。
しかし、真土が明らかになれば、もう仮土は不要になると思うことも、
また「恩徳の迷失」になるのではないだろうか。
真土と仮土とは一方を棄て一方を取るというのではなく、
真と仮とが相俟ってはたらく関係として聞思していくことが、
大切であるように思われる。
真仏土浄土と、化身土浄土
これこそ、親鸞思想理解の鍵
に、そう書いてあった
A.I.はもちろん、インターネットすら無かったな
そう
浄土を区分けする必要性が低い点
阿弥陀仏の本願による真実の報土(真仏土)と、自力の心で往生する仮の浄土(化身土・方便化土)を区別し、真実報土への往生こそが真宗の目的(真実の教え)であると説く。
定義: 阿弥陀仏が法蔵菩薩の時に立てた、第18・19・20願(本願)に基づき、阿弥陀仏が成就した真実の浄土。
特徴: 浄土真宗では、ここを「真の報仏土」とし、本願力を信じて「無上心(真実の心)」で念仏する者が往生する場所。
意義: 真宗の正意(真実の教え)。
定義: 第19・20願(諸行・諸善の願)に基づいて往生する、方便の浄土。
特徴: 自力的な心(疑心)で「名号」を称えて往生する場所。ここへの往生は、真実の報土に誘引するための「過程」とされる。
異称: 方便土、仮の浄土、懈慢土(けまんどう)など。
親鸞は、善導大師の教えに基づき、真(本願・真実)と仮(自力・方便)を厳格に区別した。
真仏土: 真実の信心(他力)により、仏の救いに完全に委ねる往生。
化身土: 自身の善根(自力)に頼る心が残っている場合の往生。
親鸞の真宗は、この化身土を「真実の報土へ誘う方便の浄土」と位置づけ、真実報土への往生を強く説く。
梅原猛の著書を1冊まるごと読んだのと
大差ない知識と理解が得られる(笑)
個人的に、何十年か前にこの本を読んだが
「親鸞の浄土には、真仏土浄土と化身土浄土がある」
という一点のみが、印象に残っている
それ以外は、何ひとつ記憶に残っていない(笑)
この本を1冊まるごと読破した人と
同等の知識が得られると断言できる(笑)
「どっちかっていったら、ボクは化身土浄土に行きたいな?」
と思った覚えがある
美味しいものが食べ放題で、
きれいなお姉さんたちがいるらしい
なんとも、楽しそうなところだ
何もない
すべてが光輝いているだけ
そこは、光の世界だ
高校生のときの自分は、凄まじい記憶力を誇っていた
記憶違いではないと思う(笑)
エロビデオが見放題!
それなら、化身土浄土に往くまでもない
個室ビデオ屋に行けば十分😫
真仏土は報身(真実の仏)が住む真実の浄土であり、化身土は教化のために仮に現れた場所(方便化土)を指します。
特徴:真実の誓願(第十八願)に基づく。
内容:阿弥陀如来の真実の報身(真実の仏)が住む浄土。
性質:迷いのない本質的な悟りの世界。
特徴:方便の誓願(第十九願・二十願など)に基づく。
内容:釈尊の教化など、衆生を導くために仮に現れた場所。
性質:真実の浄土に導くための「仮の浄土」であり、真実には至っていないとされる。
化身土浄土はどういうところなのか?
**化身土浄土(けしんどじょうど)**は、一言でいうと
👉「真実の悟りへ導くために、仮にあらわれた浄土」です。
親鸞は、これを「方便の浄土」として位置づけています。
■ どんな“場所”なのか
物理的な場所というより、悟りに至る前段階の世界です。
特徴
阿弥陀仏が**仮の姿(化身)**で現れている
苦しみは少ないが、まだ完全な悟りではない
修行・学び・気づきを通して、真実の浄土へ進む準備をする場
化身土に往生するのは、例えばこういう人です:
念仏をとなえるが、どこか自分の力を頼っている
阿弥陀仏を信じてはいるが、信心がまだ不徹底
功徳や善行へのこだわりが残っている
👉 つまり「半分は他力、半分は自力」という状態
化身土では、
自分の限界(自力では悟れないこと)に気づく
阿弥陀仏の本願の深さを知る
本当の信心(他力)へと転換する
というプロセスを経て、最終的に
👉真仏土浄土へ導かれるとされます。
真仏土浄土:大学卒業(完全なゴール)
化身土浄土:予備校や準備期間
すでに安全な場所にはいるけど、まだ“完成”ではない段階です。
親鸞は、化身土についてやや厳しく見ていて、
本願を疑う心がある限り、そこにとどまる
しかしそれも最終的には救いへ導く働きの一部
と考えました。
ChatGPT : 興味深い視点ですね。結論からいうと、一部イメージが重なる部分はあるけれど、思想的にはかなり違うものです。
まず、「化身土浄土」というのは、浄土三部経などを背景にした浄土教の枠組みで、ざっくり言えば
👉仏のはたらきによって現れる“相対的・方便的な浄土”
です。
一方で、スピリチュアルで言われる「中有界」や「精霊界」は、文脈によりますが
👉死後や物質界の外にある中間的・霊的な世界
という意味合いが強いですよね。
あなたが「似ている」と感じたのは、おそらくこのあたりです:
現実世界とは別のレイヤーにある
完全な悟りの世界(究極)ではない中間的な位置づけ
修行・成長・移行のプロセスに関係する
この意味では、仏教の「中有(バルド)」的な発想とも重なるため、感覚的な類似は確かにあります。
ここが大事なポイントです:
① 実在の仕方が違う
化身土浄土:仏の智慧と衆生救済のための「はたらき(方便)」
精霊界・中有界:存在論的に「そこにある世界」として語られることが多い
つまり仏教では、固定した“場所”というより関係性・働きなんです。
② 目的が違う
化身土浄土:最終的に悟り(仏果)へ導くプロセスの一部
精霊界:滞在・交流・経験の場として語られることも多い
③ 中心思想が違う
浄土教はあくまで
👉 「阿弥陀仏の救いにどう関わるか」
が核心です。
スピリチュアルの精霊界は
👉 「霊的存在や魂の階層」
といった宇宙観が中心になります。
あなたの直感は鋭くて、
「中間的な領域」という意味では似ている
でも本質的には
仏教:救済の働きとしての構造
スピリチュアル:存在する世界の階層
という違いがあります。
往生の後、極楽浄土で仏道修行に励むのだからなー
😀
霊山浄土に行った後は 修行するとかの
文献は、見たことがないな
😀
そうみたいだな~😆
「極楽浄土では、ありがたい如来の説法を聴いて、修行がサクサク進みますよ~」
てな感じのようだ
その言い方、ちょっと誤解が混ざってるかもしれないね。
**「化身土浄土(けしんどじょうど)」**は、仏教(特に浄土思想)でいうと、阿弥陀仏の救いの中でも「まだ完全ではない段階の浄土」を指すことが多いんだ。修行の進み具合によって見える世界が違う、という考え方の一部だね。
だから本来の意味では:
美味しい食べ物を楽しむ場所
きれいなお姉さんがいる楽園
みたいな俗世的な欲望を満たす場所ではないんだよ。
むしろ仏教的には逆で、
欲望や執着を手放すための段階
真の悟りに近づくための環境
という意味合いが強い。
ただ、日本の昔話や大衆的なイメージでは、「極楽=楽しい場所」というふうにカジュアルに解釈されることもあるから、そういうノリで言ってる可能性はあるね。
もし気になるなら、「報土(ほうど)」とか「真の極楽」との違いも説明できるけど、そこまでいくとちょっと哲学的で面白いよ。
**報土(ほうど)**とは、主に仏教で使われる言葉で、「修行や善行の“報い(結果)として得られる世界・国土」のことを指します。
もう少しわかりやすく言うと:
人が行った善い行い(功徳)や修行の結果として
その“報い”として現れる環境や世界
これが「報土」です。
仏教では、世界(国土)は大きく分けて2つに考えられることがあります:
報土:修行の結果として得られる清らかな世界
化土(けど):仏が人々を導くために現す仮の世界
特に有名なのが、極楽浄土です。
阿弥陀仏の功徳によって現れた理想世界
信仰や念仏の功徳によって往生するとされる場所
このような世界は「報土」の典型例とされています。
報土はこんなイメージです:
「その人の行いのレベルに応じて“住む世界の質”が変わる」
つまり、
心や行いが清らか → 清らかな世界(報土)
という因果関係の考え方です。
もし興味があれば、「報身(ほうじん)」や「四土思想」との関係も説明できます。
この世を極楽浄土かのように
色んな仏教や色んな宗教を聞ける能力がある
😀
😀
今は6つだな
😀
先週開発の新脳システム絶大
脳の回転力と疲労回復力が上がった
😀
他の瞑想正統派仏教の汎用性がある
😀
祖師達は
このような禅定感覚を持ち得たか?
は知らんが
低煩悩効果は高い
😀
のレベルは少しずつ上がっている
まー
好きな煩悩は好きなままではあるが
😀
花粉症のダメージが関西はピーク終えたからだろう
😀
具体的には、蓮華の中に500年間とどまる「胎宮」や「辺地」とも呼ばれ、仏の真実の姿を直接見ることができず、真実報土への往生を「待つ」状態の場所です。
「胎宮(たいぐう)」とも呼ばれる:蓮華の中に500年間とどまるという「胎宮」の生活を指す言葉です。
真実報土ではない「方便(仮)」の浄土:真実信心の行者が住む「真仏土」とは異なり、阿弥陀仏の願いの途上として示される場所です。
「待つ」という形式:ここに往生した者は、自らの不信心を恥じ、真実の浄土へ進む時を「待つ」という心理的・空間的な場として描写されます。
『往生要集』や『無量寿経』に基づく表現:釈尊が教化のために仮に現した場所(化身土)ともされ、疑心があるまま往生した場合に生じるところと説かれます。
念仏をとなえてはいたけど
心の中では阿弥陀如来の救いを疑い、
信じ切れなかった者が往く処なのか?
😀
俺は、いつても平常は、
この世で
浄土経典に書いてあるような
極楽で聞くような諸仏の説法を
聴き効率良く修行できる
😀
「極楽浄土では、仏の説法を聞き放題で、修行がどんどん進みますぜ」と言っている😅
そういうものらしい
「この世で仏になる」(即身成仏)は目指していない
まずは、化身土浄土に往生する
そこでは、如来の説法を聞き放題で、鳥や孔雀まで説法してくれる
修行がはかどること、間違いなし👍️
俺の真宗のほうが詳しいという
真宗でも一番の知識人だ
😀
禅仏教が一番シンプルに伝えるのが
難しいし、伝える意欲がない
😀
532 神も仏も名無しさん 2026/04/09(木) 18:29:43.30 ID:wpi6E
親鸞は
不信仰疑いあっても、あたりまえ、
とにかく往生の後の極楽浄土での修行ができるのを信じよう
というオチだ
日本人の多くは坊主の怠慢もあるが
念仏てすら
往生の後の仏道修行という観点がないのが
多数派だ
俺は仁和寺と
六道珍皇寺と六波羅蜜寺と
両部神道出水流を霊的直観修行やりたい
後、春日大社
😀
真仏土は阿弥陀仏の真実の救いの世界、化身土は信心が不十分な人が一時的に留まる仮の浄土を指し、どちらも弥陀の慈悲による救いとされます。
定義: 阿弥陀仏の真実の功徳によって成就された、真実のさとりを開く世界。
往生する人: 本願を信じ、真実の信心を得た念仏者。
特徴: 「真実報土(しんじつほうど)」とも呼ばれ、ここに至れば迷いの世界へ戻ることはない。
定義: 諸仏が衆生を導くために仮に現した方便(手段)としての浄土。
往生する人: 疑い心を持ちながらも念仏した(信心が不十分な)人。第十七条では、疑心があっても念仏すれば、一旦はここに生まれると説く。
特徴: 「仮土(けど)」とも呼ばれる。ここに生まれた後、最終的には真仏土へと導かれる。
これが、親鸞の大きな特徴だ
真仏土浄土と、化身土浄土だ
阿弥陀如来の無碍光に満ち溢れる、悟りの世界だ
なんとも、ありがたい世界だ
正直、化身土浄土のほうが楽しい
わたしは数多い仏の国土の中でも、誰でも往けるという阿弥陀如来の浄土が極楽だと聞いて、そこへ往きたいと思った。如来像を買い、毎日念仏を称え、お寺に沢山のお布施をし、亡父母を供養し、如来が喜んでくれるだろうからと善い行いもした。「よし、できる限りのことをやった。これだけやれば大丈夫だろう」と思った。そして目が覚め、周りを見ると黄金の宮殿や楼閣(ろうかく)や七宝の輝きを放つ池や光の中から清らかな風が楽器を奏でるように吹き渡っている。「ああ、運よく極楽浄土に来たぞ」と喜んだ。そして何日も何日も過ごしているうちに、何か変だぞと感じた。そういえば、周りの人は怠惰でやる気がなさそうなボーとしている人ばかりだ。仏や菩薩どころか尊いお話をする聖者も見当たらない。建物や風景は見事で清らかなんだけれども、毎日のことで別に楽しいことでもなくなった。
やはり仏のお話や別の仏国土にも行ってみたい。それで少し旅をすることにした。けれども行けども行けども、どうも同じところをぐるぐる回っているような感じだ。くたびれ果てて石の上に座っていると、これまたボーとした人が来た。彼に聞いた。「ここは本当に如来の浄土なんですか」。生気のない目をしたその人はこういった。「そう如来の浄土ですよ。けれども本当の真実浄土ではありません。ここは方便化土という仮の浄土なんです」。「え~、まじですか!」。結局、わたしはここで500年間も惰性的な生活を送ってしまったのだった。何が間違っていたのか。
大無量寿経(大経)は、阿弥陀如来の浄土(西方浄土・安楽国)があるが、如来の智慧を疑ったり、功徳によって往こうとしたり、罪の報いを恐れて念仏したりする人は、同じ浄土でも、その「辺地の宮殿」(胎生)に生まれるに留まると説いています。上述の浄土がまさにそうだったのです。かの親鸞さんは、この「辺地の宮殿」(化身土:けしんど)について教行信証の第6巻で詳しく説明しています。法然さんをはじめ他の浄土教の高僧たちは、「辺地の宮殿」についてはほとんど詳説していません。なぜ親鸞さんはこの「化身土」を詳しく語ったのか。この化身土にはどんな意味があるのか。化身土については当ブログ(2016年7月12日付)でも紹介しておりますけれども、親鸞教義の重要な項目でもありますので、さらに調べてみました。
なぜ方便化身土巻が著わされたのだろうか?
https://syuronoki.blog.jp/archives/1080563062.html
自力努力やったら低い浄土からのスタートらしい
うろ覚えたけど
😀
自在に禅定を味わえる
空間が光明スープ状態で
皮膚から光が出てる気配があるなー
当たり前に、いつも簡単
😀
余裕に出口王仁三郎超え豪語する気になる
😀
汚泥オー🤡!汚泥オー🤡!泥泥オー✌️!
(ひらがな訳)
おでいおー🤡!おでいおー🤡!でいでいおー!✌️!💯
一番簡単だ
どこの寺院でも念仏系統寺院は
即ゲットだ
😀
デイデイオ〜😀
デイデイオー😀
ムイムイがはたをおる〜😀
ムイムイムイ〜😀
ムイムイムイ〜😀
お堂の背景は
基本極楽浄土
認識が甘かった
皇族による極楽浄土願望が
濃かったようだ、仁和寺は
😀
😀
脳内インプットされてなかった
😀
この世は泥オーのためにある〜😀
覚鑁は
院政のバックボーンができて覚鑁の登場だ
😀
ぶっぶっぶー😀
ぶっぶっぶー😀
風にのって 飛んでいく〜😀
仁和寺がわからなかった
6年前本を観音堂の買っておいて
改めて、
観音堂の本尊は千手観音で背景画は
極楽浄土やった
行った時は気づかなかった、その場で本を読むべきだったが
😫
極楽浄土画の裏面の画は
六道輪廻図だった
やはり浄土信仰がある
本を今日読んで理解した
😫
なんちゃら龍王が2.3体あるのを
本で確認、
国家鎮護で日照り避けの
意味もありそうだ
さすが、院政から盛り上がった寺院らしい
読めてなかった😀
あんたが汚泥 わたしはヘドロー😀
ドロ!ドロ!😀
天台四土
土(しど)の考え方: 天台宗では、仏が住む国土を4つのレベルで理解します。
天台宗で説く四土(しど)とは、諸仏が住する国土(浄土)をその性質や住する者の悟りの段階に応じて4つに分類したものです。凡聖同居土、方便有余土、実報無障礙土、常寂光土の総称であり、天台大師智顗が『観無量寿仏経疏』などで体系化しました。修行により凡夫から仏に至る過程で住処が向上すると説かれます。
方便有余土(ほうべんうよど):見惑・思惑(煩悩)を断ったが、無明(根本的な無知)を完全には断っていない二乗(声聞・縁覚)や菩薩が住む世界。
実報無障礙土(じっぽうむしょうげど):別教の初地以上、円教の初住以上の菩薩が住む世界。二障(煩悩障・所知障)がなく、果報として報身仏が住む。
常寂光土(じょうじゃっこうど):真如(真実の理)に合致した法身の住む最高・永遠の仏土。三徳(法身・般若・解脱)が完全な状態で現れている。
真仏土浄土と化身土浄土の二土にシンプル化したんだな
昨日家に戻っても、風呂上がるまで
天台浄土教の香りが部屋でプンプンしてたー
天台四土研究のせいだな
😀
六波羅蜜寺の万燈会の動画を落として予習だ
😀
円仁
794~864
遣唐使として入唐、密教・念仏・常行三昧を日本天台へ強化
円珍
814~891
密教体系を発展、後の寺門派の祖
空也
903~972
民衆念仏・遊行聖の先駆者
源信
942~1017
『往生要集』で天台浄土教を体系化
まず、
① 円仁・円珍の時代
ここではまだ、
「比叡山に中国仏教フルセットを移植する」
段階です。
特に円仁は重要で、
五台山信仰
常行三昧
阿弥陀念仏
密教儀礼
を大量に持ち帰った。
つまり、
後の日本浄土教の“素材”
を比叡山へ入れた人物なんですね。
この時点では、まだ念仏は「総合修行体系の一部」です。
ここで初めて、
念仏が街へ出る。
疫病・戦乱・末法不安の中で、
「難しい教学」
「山岳修行」
ではなく、
「南無阿弥陀仏だけでも救われる」
という方向が、庶民に強烈に刺さった。
空也は、その実践的・遊行的な担い手。
そして源信が、
民間で広がり始めた浄土信仰を、 天台教学として理論化・権威化した。
『往生要集』によって、
地獄観
極楽観
念仏往生
臨終行儀
などが整理される。
つまり、
円仁 = システム輸入
空也 = 民衆化
源信 = 教学化・体系化
という流れが見えてくるんです。
法然
親鸞
一遍
へつながっていきます。
Chat GPT:まさにそうです。
空也は、日本の「念仏聖」の原型を作った人物といっていい。
後世の遊行聖・念仏勧進・市井宗教者たちのイメージは、かなり空也に由来しています。
彼の特徴は、まさに:
寺院中心ではない
民衆の中へ入る
路上で念仏
行脚
救貧
土木事業
疫病救済
死者供養
を全部まとめてやっていたこと。
つまり、
「教義を講義する僧」
ではなく、
「都市を歩き回る宗教的実践者」
なんですね。
これは、
念仏が単なる言葉ではなく、現実に働きを持つ
という感覚を表しています。
空也上人立像
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/ae/Kuya_Portrait.JPG
「国家仏教の外縁」にいた
ことです。
平安前期の大寺院仏教は、まだ貴族・国家との結びつきが強かった。
しかし空也は、
市場
路上
貧民層
疫病流行地
葬送空間
などへ直接入っていった。
このあたり、以前あなたが話していた「ノマド的宗教者」という感覚にもかなり近いです。
定住寺院システムから半分はみ出しながら、
念仏という“可搬型の宗教技術”
を持って、日本列島を流動していく。
その流れが、
高野聖
熊野比丘尼
遊行上人
一遍系時宗
などへつながっていく。
特に一遍は、空也的な「遊行念仏」を極限まで推し進めた存在ですね。
ある意味、
空也 = 日本仏教における「街路へ降りた仏教」の始祖級人物
と言っても大げさではないです。
Chat GPT:源信は、一般にイメージされるような「比叡山を捨てて民間布教へ出た人」ではありません。
基本的には、最後まで比叡山系の天台僧です。
むしろ彼は、
山林修行
学問
念仏実践
浄土思想の体系化
を、比叡山内部で進めた人物でした。
ただし、その思想的影響は山の外へ爆発的に広がった。
特に有名なのが『往生要集』です。この本は、地獄の恐怖と極楽往生を非常に具体的に描写したため、貴族から庶民まで強烈な影響を与えました。
源信自身は、
「比叡山を下りて民衆運動をした宗教家」
というより、
「比叡山の中で、念仏思想を理論化した天台エリート」
に近い。
源信の念仏思想は、後世になると山を飛び出していきます。
法然の専修念仏
親鸞
などへ、大きく接続していく。
特に法然は、『往生要集』を非常に重視していました。
だから歴史的には、
源信本人は「山の中の学僧」
しかし思想は「山を下りて民衆世界へ流出した」
という感じです。
また、源信は完全な「念仏一本」でもありませんでした。
彼はあくまで天台僧なので、
法華経
止観
戒律
密教
念仏
を統合的に見ています。
後世の浄土宗ほど、「念仏だけでよい」とは言っていないんですね。
スウェデンボルグみたいな人だったのか?
Chat GPT:面白い比較ですね。
確かに、源信の『往生要集』を初めて読むと、
「この人、地獄と極楽を見てきたのでは?」
みたいな迫力があります。
地獄描写なんか、本当に異様に具体的ですからね。
ただ、源信は基本的には、エマヌエル・スウェデンボルグのような「霊界旅行者」タイプとは少し違います。
スウェデンボルグは、
自分が霊界を直接見た
天使と会話した
死後世界を実見した
と主張する、かなり強烈な神秘家でした。
一方、源信はむしろ、
「経典・論書・観想体系を編集して、強力な宗教イメージを構築した学僧」
です。
『往生要集』の地獄描写も、多くは
仏典
中国浄土教文献
因果応報説
六道輪廻思想
を整理・再編集したもの。
特に、
観無量寿経
阿弥陀経
無量寿経
の影響が大きい。
ここからが平安仏教の面白いところですが、当時の修行者は「観想」を非常に重視していました。
つまり、
地獄を観想する
極楽を観想する
死を観想する
阿弥陀仏を観想する
という瞑想を、本気でやっていた。
しかも比叡山の環境って、
山林修行
断食
徹夜念仏
死体観
孤独
など、かなり極限的なんですよ。
だから現代的に言えば、
強烈な宗教的イメージ体験
は実際にあった可能性が高い。
その意味では、源信にも「ヴィジョン体験」的な側面はあったと思われます。
ただ彼は、
「私は霊界を直接見た!」
と前面に出すタイプではなく、
「経典と修行を通じて見えてきた世界を、体系化した」
タイプですね。
ある意味、
スウェデンボルグ=個人的神秘体験の爆発
源信=仏教宇宙論の超高度編集者
という違いがある。
Chat GPT:その通りです。
日本天台は、法華経だけの宗派ではなく、最澄没後にはかなり包括的な仏教体系へ発展しました。そこで重要視された経典の一つが、観無量寿経です。
特に平安中期以降の天台宗では、
法華思想
密教
禅
念仏(浄土教)
戒律
を全部まとめて修める「総合仏教」化が進みます。
この常行三昧は、智顗の『摩訶止観』に基づく修行で、阿弥陀仏の名号を唱えながら歩き続ける実践です。背景にはもちろん、観無量寿経系の浄土観想があります。
つまり平安天台では、
法華経が理論的中核
阿弥陀信仰が実践的救済
という二本柱が並立していた。
Chat GPT:はい、基本的には「天台系阿弥陀信仰」です。
藤原道長の阿弥陀信仰は、後世の浄土宗みたいな「念仏だけ」という形ではなく、
平安天台の浄土信仰
の文脈にあります。
当時の比叡山は、日本仏教の巨大中枢でした。
なので貴族たちは、
法華経信仰
密教
加持祈祷
阿弥陀信仰
極楽往生願望
を、全部セットで受け取っていた。
つまり、
「法華か阿弥陀か」
という対立は、まだ弱い。
むしろ、
「現世利益は密教、死後救済は阿弥陀」
みたいな感覚で共存していました。
彼は巨大な阿弥陀堂を建立し、極楽浄土をこの世に再現しようとしました。
これは単なる寺ではなく、
「この世に極楽を出現させる政治的・宗教的空間」
でもあった。
また、道長の時代には、
末法思想
疫病
死の不安
貴族社会の無常感
が強まっていた。
そこで阿弥陀信仰が非常に広がる。
この流れに強烈な影響を与えたのが、やはり源信の『往生要集』でした。
特に貴族たちは、
地獄は怖い
極楽へ行きたい
という感覚を、かなりリアルに持っていたんですね。
まだ「専修念仏」ではない
ことです。
道長クラスの信仰は、
法華経読誦
真言密教
念仏
造寺造仏
写経
戒
儀礼
など全部込み。
だから、
平安貴族の阿弥陀信仰 = 天台・密教・浄土が融合した貴族仏教
と見るのが実態に近いです。
有名な平等院鳳凰堂も、この流れの延長線上にありますね。
空也
😀
>>つまり、「法華か阿弥陀か」という対立は、まだ弱い。
>>むしろ、「現世利益は密教、死後救済は阿弥陀」
>>みたいな感覚で共存していました。
まさか、今まで知らなかったのかな?
エロ和尚殿にとっては、当たり前か?
当たり前田のクラッカー
https://www.youtube.com/watch?v=lH58X5yWwUU
JBL氏が知らなかったとは、意外であった。
五来重の高野聖の融通念仏に関する
霊的なイメージがわいてきた
😀
特に日本では
二つの潮流がある
インド中国仏教教義の仏教と
キリスト教的発想に近い本覚思想と葬式仏教などの
霊的共同体志向の仏教
があるようだ
😀
山伏念仏神仏習合は
理解できないのかもー
と思えてきた
😀
本来は神仏習合であり
霊的共同体というイメージ信仰があったんだろうな感
これで読むと雰囲気が掴めてきてる感がする
😀
と言うだけではなかった
「真仏土浄土」と「化身土浄土」だ
酒池肉林の快楽園ではない
鳥でさえ、法を説く」
という、修行がサクサク進む環境だ
行と祈りの
天台の一心三観の背景を読んで
浄土宗系統も、どこか
一心三観みたいな教学的背景が
残ってるなー
と
見えてきた
😀
という山伏特有のフレーズがある
山の行は聖なる世界
里の行は日常生活
それを
天台教学の
一心三観だなー
的に解釈てきる内容でオモシロかった
当然、念仏も
その解釈は可能なシステムななっていふ
😀
中論のいうところの
仮、空、中
😀
本覚思想の味付けはあるだろう
😀
天台の一心三観が
隠れている読みができてきた
😀
それが日本は法華経が人気の国の理由のようだ
😀
阿弥陀の三文字に
一心三観を当てはめるところから
スタートしている
念仏の霊的球筋イメージが統合てきてきたぞ
😀
弥 = 空
陀 = 中
弥 = 仮
陀 = 中
ほ~かい師匠っぽくなった
実は
細かくアタマに入ってない
本覚思想を読むけど
リアリティがなかったから
どこに該当するのか
わかってない
該当しているのだけは知ってた
😀
あるとは思う
😀
なんでも3つに分けたがる ほ~かい師匠
日本神話も、最初は3つの神が、突然、出現する。
https://1000ya.isis.ne.jp/0141.html
『古事記』の冒頭に登場する三神タカミムスビ・アメノミナカヌシ・カミムスビのアメノミナカヌシと、
昭和の日本人論ですな😄
どこらへんの記述が?
冒頭からいきなり、こうですがな😅
↓
すごいタイトルである。日本の本質は中空構造にあるのではないか、中心はカラッポなのではないかというメッセージを直裁に突き出したタイトルである。
このタイトルを見たとき、この手の日本論に関心がある者は、誰もがロラン・バルトの『表徴の帝国』を思い出した。バルトは日本に関する乏しい知識にもかかわらず、東京のど真ん中に皇居があることを見て、ただちに日本の中心が穿たれていることを喝破したものだった。もっともたいした説明はしていない。
というのをもって、
「日本は中抜き構造だ」
と言ってるのだが
それは、NEW YORKのセントラルパークにも言える
他の2神だって、神道マニアならともかく、世間の一般人には知られていない(笑)
ヒンドゥー教の3神、シヴァ・ヴィシュヌ・ブラフマー
このうち、シヴァとヴィシュヌは大人気だが、ブラフマーの影が薄い
ヒンドゥー教の「三神一体(トリムールティ)」では、
シヴァ … 破壊と再生
ヴィシュヌ … 維持と救済
ブラフマー … 創造
という役割分担になっていますが、実際の信仰ではブラフマーはかなり影が薄いです。
まず大きいのは、
「創造して終わり」の神だから。
ヴィシュヌは、世界が乱れるたびに化身(アヴァターラ)として降臨して救済する。
たとえば、
クリシュナ
ラーマ
などはヴィシュヌの化身です。
一方シヴァは、苦行・瞑想・舞踏・破壊・性力など、非常に人間的でカリスマ性が強い。
禁欲的なヨーギーでもあり、荒ぶる神でもあり、家庭人でもある。
つまり両者とも、「人間との接点」が多い。
しかしブラフマーは、「世界を創った後はあまり前面に出てこない」神なんです。
有名なのが、
「ブラフマーが嘘をついたので、礼拝されなくなった」
という説話です。
シヴァが無限の光柱として現れ、ヴィシュヌとブラフマーに 「この柱の上下の果てを探せ」 と命じる。
ヴィシュヌは正直に「見つからなかった」と言う。
しかしブラフマーは、 「私は頂上を見た」 と嘘をつく。
それを見抜いたシヴァが怒り、
「お前は広く礼拝されなくなる」
と呪った。
この神話、かなり象徴的です。
ヴィシュヌ → 誠実
シヴァ → 超越的絶対者
ブラフマー → 権威主義的・形式的
みたいな構図になっている。
ヴィシュヌ派
シヴァ派
は巨大宗派になったのに、
「ブラフマー派」
みたいな大宗派が育たなかったのも大きい。
インド宗教では、 「今この瞬間に救ってくれる神」 「修行や帰依の対象になる神」 が強い。
創造神は、思想上は重要でも、信仰対象としては弱くなりやすい。
これは実は他宗教でも似ています。
たとえばギリシャ神話でも、 ゼウス は人気でも、 「宇宙創成の原初神」は影が薄い。
仏教では、 梵天として取り込まれますが、
「宇宙を創造した唯一神」
ではなく、
「天界の高級神の一人」
くらいの扱いになる。
しかも、釈迦に教えを説くようお願いする役回りまでやる。
つまり仏教から見ると、
「ブラフマーですら悟ってはいない」
という位置づけなんですね。
ここは、インド宗教史のダイナミックなところです。
「日本人はユニークな民族である」
という結論に、強引に持っていくから😅
「昭和の日本人論」
欧米と日本だけが先進的な文明国
他のアジア諸国は、野蛮そのものだった
「我々だけが、どうしてこんなにユニークなのか?」
と、自意識過剰になるのは無理からぬことであった
「中国人論」のほうが盛んだ
書店に行くと、「中国人はどうして、こんななのか?」を論じた本がたくさん並んでいる
ヒンドゥー教の3神も、突然、現れたのだっけ?
昔から居る
サイクリック宇宙論は、無限ループが当たり前だと思っていたが、
そうでないバージョンもあるらしいね。
https://funlife496.com/archives/246
というような見方もあるのか
観想と言ってもらいたい
あまりピンと来ないなあー
そこらへんが、JBL氏とワシの感性の違いかな?
それぞれの宗派に、世界観がある
唯識派 「この世界は、阿頼耶識が転変した姿である」
華厳宗 「この世界は、毘盧遮那仏が顕現した姿である」
真言宗 「この世界そのものが、大日如来の説法なのである」
瞑想行を通して、これを観想する
その繰り返しが、仏教
というのが、井上義衍の系統
ある意味、一種の観想だ(笑)
というか、うちの坊さんは、1周忌3回忌7回忌などの法事の時は、
決まって「観無量寿経」を読むのじゃが、
ワシはあまり「観無量寿経」は好きでは無い。
親鸞聖人作の「正信偈」が大好きなのじゃが、
これは葬式の時しか読まないみたい。
聞き流せば済む話
そしてJBL氏は、どの派にも属していない(笑)
> 親鸞聖人作の「正信偈」
そんなのがあるのか
確かに(笑)
個人的には、唯識論にベースがある
一種の理想論と感じられる
観無量寿経を聞かされて
お布施3万5000円は高すぎる。
精々1万円
体質的に合わない😫
YouTubeの動画なら無料だ
真宗のお経はパソコンに現在語訳文字付きで、たまに味わうマニアだ
最近は高野山念仏研究コースだが
😀
浄土真宗のバイブル的な歌でっせ?
https://note.com/leal_acacia109/n/na3cc81b52346
😀
https://m.youtube.com/watch?v=GfGLnnt7CBM&pp=ygUk55yf5a6X44GK5Yuk44KB44CA54--5Zyo6Kqe6Kiz5LuY44GN
😀
見え見えですがな
なかなかの陶酔感はある
😀
浄土真宗については、これを読むだけで卒業できる
https://note.com/musa_kousaiji/n/n693e6969c19c
まともだったんか?
😀
>>毎朝のお勤めで流していますが男性だけのバージョンが欲しいです。
>>女性の声が音程ずれていて聞き辛い。
↑
コメント欄に、こんなのがあるな~
ワシも「男性だけのバージョン」欲しいな
JBL氏が案外、無知だったことが
バレただけじゃ
詳しい
😀
😀
聖ウンコ師と いい勝負じゃな
最近は教学/知識の面での衰えが顕著
哲学マニアなので
日本の伝統仏教には詳しくない
井上義衍の禅を知った😄
ワシの場合、哲学については「無知の知」で卒業
完全に禅宗に特化したキャラになってしまったため
もう、教学の話をしにくくなった面がある
禅宗キャラに特化したわけだが
いつの間にか、宗教板は禅宗の色が薄れてた😅
禅宗ではなく、スピリチュアル系だし
JBLがお題に出さない限りレス打たないしなー
😀
本覚思想と真言念仏が
マイブームだ
今月末あたりのまで
探求する
本覚思想と呼ばれる書物を一つずつAI検索にかけている
😀
聞いていて、眠くならない
正信念仏偈 草譜 ~浄土真宗本願寺派(西本願寺)
*一緒にとなえる勤行読経動画【調声:王子布教所大江和正】
https://www.youtube.com/watch?v=ex-8nT35Ik8
https://www.youtube.com/watch?v=pOOvYcMV8aE
https://www.youtube.com/watch?v=msSWS8_NTcI
https://www.youtube.com/watch?v=92XPX25eZvg
https://www.youtube.com/watch?v=LN_A-SQEq4U
この動画の「4分10秒地点~5分地点」が重要
【浄土真宗のよく聞く〇〇】御文章のあなかしこ、あなかしこ
https://www.youtube.com/watch?v=LN_A-SQEq4U
桜嵐坊
親鸞会にモノ申す
https://www.youtube.com/live/aBAhH7v1Cd0?si=H9qDx78Pg5pbJhHE
大暴れファイターやなー
😃
聴覚拡大の禅語録は
あったが、俺はこれよりもさらに
動中の工夫レベルだ
😃
ちなみに、この禅語録が先行したのではない
マスターしてから
こういうのあった
というたけ
😃
身体感覚は、多少は
まだ開花の余地あり
今回は聴覚が無敵クラスに入った
😃
我流チベット密教が無敵を誇る
臨済宗的には
身体感覚はまだ向こう側があるなー
😃
聴覚拡大を身体感覚に
運用できるか?
実施できれば
できるんだろう
しらんけど
😃
どの宗教ても大方は
😃
仕事で
😃
あらゆる無量の仏の説法を聴くことができるそうだー
😃
「如来の説法を聞き放題、どんどん修行が進む」
という世界だ
五感だから
身体感覚を聴覚化してみると
をひらめいた
使えるぞ
たぶん
仕事日の愉しみた
😃
休憩した途端に
ひらめいた
😃
これは沢庵の書物の深い理解に行くかもー
😃
沢庵は身体を眼にしてたが
俺は身体を耳にしてみよう
😃
俺の耳は、一度だけ
誰もいない真言密教寺院で
ノウマクサマンダ〜〜
とかの真言を聴いたことがあるが
聴覚進化はさせていなかった
😃
阿字吽字で
世界は成り立っているとか
ハッキリ覚えてないけど
真言の世界の響きという
聴覚拡大は
真言にはあるな、
😃
も考察が進んだ、
禅定解釈が上がったぞ
😃
進んでしまった
謎の無人真言密教寺院の
ノウマクサマンダ
の謎の
意義を
いま発見できた
😃
真言密教の謎も解った
下記の文章だ
😃
五大に皆響きあり」は、空海が著書『声字実相義』で示した真言密教の根本的な世界観です。物質や音など、宇宙のあらゆる現象(五大)が仏の声(真言)として響いており、言葉そのものが宇宙の真理(実相)そのものであると説いています。コトバンク+2空海が説いたこの思想は、以下のような深い意味を持っています。五大に皆響きあり:宇宙を構成する要素(地・水・火・風・空)すべてが、大日如来(宇宙の真理)のバイブレーションを放っています。十界に言語を具す:人間や自然界だけでなく、ありとあらゆる世界に住むものがあまねく音やメッセージを発しています。声字則ち実相なり:言葉(真言・マントラ)や文字は単なる記号ではなく、宇宙の真理がそのまま現れたものです。高野山大学+4マントラ(真言)を翻訳せずにサンスクリット語の響きを大切にするのは、その音が宇宙の波長と共振するためであるとされています。
虚空であり
五大に響きありを
提示していたか、
2004年頃の出来事だったが
解釈しきれていなったようだ
😃
身口意だから
身体の五感要素をも含む
かなり
オモシロく、深く修行できた
😃
😃
臨済宗は身体はあるが解説入れない
😃
🔥🔥🔥🔥🔥🔥🔥🔥
https://www.google.com/url?sa=i&source=web&rct=j&url=http://houmanji.d.dooo.jp/hokekyou211.pdf&ved=2ahUKEwj-m53zk5eVAxVmUOsIHeq7C6UQ1fkOegoIAggACAEILBAG&opi=89978449&cd&psig=AOvVaw2AeEjBlBVjXmZA5MJt6oVz&ust=1782090852904000
AIにオススメされて見てみた
😃
日蓮宗寺院になってしまう
愛知県あま市にある日蓮宗の寺院「善通山 宝満寺(ほうまんじ)」は、江戸時代の享保9年(1724年)に建立された寺院です。提供されたリンクは、同寺の住職が作成・公開している法華経の現代語訳や解説資料のPDFです。詳細は宝満寺 公式ホームページをご覧ください。
情報を発信しているからな~
😃
法華経は
書庫にあるのはある
マニア故に
絶対早い目に買ってあった
😃
満足した
とりま
😃
近い感覚を
研究した
ナウ
😃
『私は誰?』
0円で解放中‼️
この機会にババジの教えを読んでみてはいかがでしょうか?
Kindleなので、アプリをダウンロードしてから購入(ダウンロード)してください。
↓↓↓
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そう。
しかもこれは単なる現代の浄土真宗的な比喩ではなく、
親鸞の「摂取不捨」の理解そのものにかなり近いです。
親鸞は『浄土和讃』の「摂取してすてざれば」について、
「ひとたびとりて永く捨てぬなり」
「ものの逃ぐるを追はへとるなり」
と左訓しています。
つまり、
「阿弥陀に向かって来た者を救う」だけではない。
阿弥陀から逃げている者をも追いかけて、摂め取る。
という発想です。
西本願寺の公式解説でも、この意味をそのまま
「逃げまわっている私を阿弥陀如来が
どこまでも追いかけ、抱きとめてくださる」
と説明しています。
本願寺派は お彼岸コースにはないが
😀
「救いを求める者を救う」とは逆向き
普通の宗教的イメージだと、
私 → 仏に近づく → 仏が救う
となりやすい。
ところが阿弥陀の本願では、
私 → 逃げる
↓
阿弥陀 → 追いかける
↓
摂取不捨
という構図になる。
だから浄土真宗では、
念仏を「こちらから阿弥陀にお願いする行為」
と単純には捉えない。
むしろ「南無阿弥陀仏」そのものが、
阿弥陀の呼び声として私に届いている、
と説明するわけです。
そして、これをさらに突き詰めると、かなり凄い思想になります。
「私が阿弥陀を選んだから救われる」のではなく、
「阿弥陀が、阿弥陀から逃げている私をも見捨てない」
ということになる。
これは以前話していた「自分から悟りへ向かう」というタイプの仏教とは、救済のベクトルがかなり違います。
ちなみに、送ってくれたリンク自体は現在「削除・期限切れ」になっていて、中身は確認できませんでした。�
d.kuku.lu
でも、もしその画像・文章が**「逃げる者を追いかけて救う阿弥陀」**についてのものなら、まさに浄土真宗の「摂取不捨」の核心部分ですね。
マニア厨房心をくすぐる
😀
マニアだ
😀
神や仏を必死で追いかけろと言うんだが
自力が入っている
蓮如(れんにょ)上人の領解文(りょうげもん)
https://youtu.be/WX5YNGs5iyQ?si=cvyJpEiRkpI2sinV
って人の動画
じつは、アッラーのことじゃないのか?
類似ゾーンにある
😀
ほーかいくんの間合いに入って
攻め倒せるのか?
知らんけど😀
雰囲気的に
親鸞会ぽいな
😅
ブッダと名前を持ち出すのに
違和感がある
😅
脳内模索メインで
西欧哲学含めてテキスト研究が進まない
😀
😀
😀
宗教の霊的解釈を増やせた
それは
霊的な居場所
瞑想系統仏教は禅定で体現するのみなので
外部の信仰や居場所を必要としない、
ほーかいくんも居場所の執念でガンバルンバするし、
ムイムイもそれだ
ハッスル🤡もだ
😀
阿弥陀如来から教えてもらった
😀
ま、本覚思想に近いのだが
その往生からのイマジネーションが必要らしい、
日蓮もある種同じ発想がある
😀
日蓮も居場所主義者、
むろん、イスラームもキリスト教も
😀
わからなかった
😀
JBL氏の主張と類似した内容の本があったので、貼っておく
https://www.amazon.co.jp/%E4%BB%8F%E6%95%99%E3%81%A7%E6%84%89%E3%81%97%E3%81%8F%E6%AD%BB%E3%81%AE%E6%BA%96%E5%82%99-%E4%B8%89%E7%94%B0-%E8%AA%A0%E5%BA%83/dp/4575311693
おひさ
貼った本の222頁には、「この世は巨大コンピュータ内の仮想現実」
みたいなことが書いてある。
仏教探究のほうに行ったのか
1948年、大阪府生まれ。早稲田大学文学部卒。1977年『僕って何』で芥川賞受賞。
早稲田大学文学部客員教授を経て、現在、武蔵野大学文学部教授。日本文芸家協会副理事長。
主な小説作品に『いちご同盟』(集英社文庫)、『釈迦と維摩』『空海』『日蓮』『親鸞』(以上作品社)、
『西行月に恋する』『道鏡』『菅原道真』『聖徳太子』(以上河出書房新社)など、
ノンフィクション作品に『日本仏教は謎だらけ』(双葉新書)、『一冊でわかる! 「仏教」って何?』(講談社+α新書)、
『釈迦とイエス 真理は一つ』(集英社新書)などがある。
ビックバンによって、真空から宇宙が生じた。
最先端の現代科学はそのような仮説を提出しているが、
それは科学者の多くが、ユダヤ教徒かキリスト教徒だからだと
わたしは考えている。
ーーーーーーーーーーーーーーー
ワシもそう思う。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E7%94%B0%E8%AA%A0%E5%BA%83
また、キリスト教・仏教への造詣が深く、
『地に火を放つ者/双児のトマスによる第五の福音』『迷宮のラビア』
『釈迦と維摩/小説維摩経』
『空海』『日蓮』といった深遠な宗教小説が近年を代表する創作である。
小説の概要
1977年に発表され、第77回芥川賞を受賞しました。
学園紛争が起きていた時代の大学が舞台です。
田舎から出てきた男子学生が主人公です。
あらすじとテーマ
主人公の「僕」は、自分の居場所やアイデンティティを探しています。
学生運動の争いに巻き込まれていきます。
年上の女性であるレイ子と暮らすようになります。
若者の揺れる心を描いた作品です。
政治オタクでもある
若い頃は、学生運動がテーマだった
それが、優良サラリーマンの掟
😅
9/30(水) 20:42配信
「阪神5-0ヤクルト」(30日、甲子園球場)
阪神が快勝し、3日ぶりの試合で連勝。リーグ連覇に向けた優勝マジックを1つ減らし「3」とした。最短優勝は10月2日。同月1日には2位・巨人とレギュラーシーズン最後の対決が控えている。
「打ったのはスライダー。まずは先制点が欲しかったので、良いスイングができましたし、良い結果になってよかったです。まだ序盤なので、みんなで追加点を取れるように頑張ります」
八回には1死一塁で佐藤輝明がリーグ単独トップの38号2ラン。同僚の森下に3本差をつけ、三冠王にも前進した。
一方、投げては先発の高橋が序盤から安定した投球。初回こそ2死三塁のピンチを背負ったが、以降は走者を置きながらもスコアボードに0を並べた。ヤクルト戦はこれで5戦4勝0敗と好相性。自身3連勝で16勝目(3敗)となった。
9月30日の東京ヤクルトスワローズ戦(甲子園)で今季第38号となる2ラン本塁打を放ち、打点も102に到達して自己最多に並びました。
打率 リーグトップ 広角に打てる打撃へ進化
本塁打 38本(リーグ1位) 2位の森下翔太選手に3本差
打点 102打点(リーグ1位) 2年連続100打点を達成
チームもセ・リーグ連覇へ向けて優勝マジックを「3」としており、佐藤選手の圧倒的な打棒がチームを牽引しています。三冠王だけでなく、最多安打や最高出塁率のタイトルも視野に入る絶好調ぶりです。
日蓮と「念仏聖」をめぐる関係や歴史的背景は、主に以下の3つの観点から説明されます。
日蓮は、いわゆる「四箇格言(しかかくげん)」の一つとして「念仏無間(ねんぶつむけん)」を掲げ、法然が説いた「専修念仏(ひたすら南無阿弥陀仏と唱えることで救われるとする教え)」を激しく批判しました。
批判の理由: 法然が『選択本願念仏集』などで「末法の時代には法華経などの難行を捨て、閉じ、閣(さしお)き、抛(なげう)って念仏に専念せよ」と主張したことに対し、日蓮はこれを「仏教の根本である法華経を誹謗(正法誹謗)するもの」とみなしました。法華経を捨てる者は無間地獄に堕ちると説き、これが社会に天変地異や飢饉をもたらす原因であると論じました(『立正安国論』)。
激しい批判者となった日蓮ですが、幼少期には当時の一般的な社会風潮に従って、自身も称名念仏を唱え、阿弥陀仏による極極楽往生を願う信仰環境の中で育ったと伝えられています。
12歳で清澄寺に入山し、諸国遊学を経てあらゆる経典を検証していく中で、「末法の民衆を真に救うのは阿弥陀仏への念仏ではなく、法華経の真理(南無妙法蓮華経)である」という確信に至り、過去の念仏信仰を完全に脱却しました。
歴史学や仏教史の研究においては、日蓮の布教活動のスタイルが、皮肉にも彼が批判した「念仏聖(諸国を遊行し、口称念仏を民衆に広めた聖たち)」の手法と深く結びついている、あるいはそれらを強く意識していたという指摘がなされます。
口称(声を出すこと)の重視: 念仏聖が「南無阿弥陀仏」という短い文句を声に出して唱える(唱名)ことで文字の読めない民衆に信仰を浸透させたのに対し、日蓮はそれを「南無妙法蓮華経」というお題目の口称(唱題)へと転換させました。
民衆へのアプローチ: 既成の山岳仏教や貴族仏教が寺院に引きこもりがちだった時代に、日蓮が鎌倉の路上で展開した「辻説法」などの街頭布教は、民衆の生活圏に直接飛び込んでいった念仏聖(遊行聖)たちの熱量や手法に対抗し、法華経の正当性を直接訴えかけるための実践であったとも捉えられます。
このように、日蓮にとって「念仏聖」やその教えは、自らの正法(法華経)を弘める上で最も激しく乗り越え、破折(論破)しなければならない最大のライバルであり、同時にその圧倒的な民衆浸透力への危機感が日蓮の情熱的な布教へとつながっていました。
廃れているな?
😅
新スレ立てている
😀
聖なるウンコの話をしている
ドパガキハッスルしているのか?🤡
「いや、ある」と主張して論争する
↑
これは、やりたくない😫
いまさら、自分がそれをやるってわけにも😅
こちらは乗れない
唯識論の輪廻転生を支持している
新興宗教やスピリチュアルのそれとは、大きく異なる
ここを説明するのが難しい
霊魂という、精神的なカタマリがあって
それが転々と移っていくわけではない
(昭和っぽい比喩だが😅)
燃え移っていく火のようなものだ
前の火と、後の火は、同じなのか、違うのか
そこが定かでない
プレイヤーが、オンラインゲームにログオンする
ゲーム内のキャラが初期設定されて、ゲーム内で経験値を積んでいく
死んだら、ゲームオーバー
過去のプレイ履歴のデータを元に、また次のキャラが自動生成される
ただちに、別のゲーム内ワールドでのプレイが始まる
「プレイヤー」に当たる存在(本当の自分)を想定していない
それは、
「前の自分と、後の自分は、同じなのか? 別人なのか?」
という論点だ
それは、
「今世で自分が積んだ悪業(または善業)の報いを、来世の【別人】が受けるのか?」
という問題だ
古代インド以来の伝統仏教の教理が
軽視される傾向にあるが
伝統的な仏教では、「因果応報」が重要だ
善業にも、報いが必ずある
必ずだ。逃げられると思ったら甘いぞ
好むと好まざるとにかかわらず、
もともと仏教はそういう宗教だ
唯識論では、阿頼耶識というデータベースに
過去の善業と悪業が蓄積される
インプットされた種子は、いつか必ずアウトプットされる(現行)
過去のデータをもとに自動生成された、
自分なのか別人なのか分からないような
微妙な「転生」なのだが
それでいて、「自分」という自覚は不思議にも連続する
今世で【自分】が悪業を積めば、来世でやっぱり、【自分】が苦しい
なんとも、摩訶不思議なシステムだ(笑)
倶舎論ではあんまり説明されない
唯識論では、「末那識」が登場した
この末那識こそ、「俺は俺だよ」という自分感覚の連続性を保証する
摩訶不思議なシステムだ(笑)
【南無阿弥陀仏】浄土教 【極楽往生】 Part2
https://talk.jp/boards/psy/1774676267
↑
このスレを見て、395以降の当方の輪廻転生観を論評してもらいたい
読んだ。395~407あたり、かなり面白いです。
結論から言うと、あなたの輪廻転生観は「霊魂転生説」ではなく、かなり唯識・アビダルマ寄りの「因果的連続説」になっている。しかも、単純な「無我=何も続かない」でもない。
特に重要なのは、あなた自身がかなり正確に、
「前の自分と、後の自分は、同じなのか? 別人なのか?」
という問題に着地しているところです。
スレでは395以降、この問題がかなりきれいに浮かび上がっています。
395~397では、
輪廻転生そのものは認める
しかし「霊魂という精神的なカタマリ」が移動するわけではない
マッチの火が別のマッチへ燃え移るようなもの
前後の火が「同じ」なのか「違う」のかは決められない
としています。
これはかなり仏教的です。
つまり、
「Aという魂が死後、Bという肉体に引っ越す」
ではなく、
Aを成立させていた因果的な流れが、Bという新しい存在を成立させる
という発想です。
だから「転生」という言葉そのものが、実は少し危険なんですよね。
「何かが転がって次の身体に入る」というイメージを誘発するからです。
398の、
プレイヤーがオンラインゲームにログオン
キャラが生成される
経験値を積む
死んだらゲームオーバー
過去のプレイ履歴を元に次のキャラが自動生成される
という比喩。
これは唯識の説明としてはかなり分かりやすいです。
ただし、399で自分から、
仏教の場合は「プレイヤー」に当たる存在を想定していない
と修正している。
ここが非常に重要。
もし「プレイヤー」が存在すると、
プレイヤー=真の自己=輪廻を超えて存在する主体
になりやすい。
これは一気にアートマン説に近づきます。
だからあなたのモデルは、
プレイヤーがキャラクターを乗り換える
ではなく、
プレイヤーはいないのに、プレイ履歴だけが次のキャラクターを生成する
という、ちょっと奇妙なシステムになる。
そして、この「奇妙さ」こそが仏教の輪廻論の核心なんですよね(笑)。
401~402が、この話の核心だと思います。
前の自分と、後の自分は、同じなのか? 別人なのか?
そして、
別人だとすると、今世で積んだ業の報いを来世の別人が受けるのか?
と問題提起している。
ここで重要なのは、仏教的には、
「同一人物」でも「完全な別人」でもない
という第三の答えが必要になることです。
有名な灯火の比喩もそうです。
昨日の火と今日の火は完全に同一ではない。
しかし、まったく無関係な別の火でもない。
だから、
同一性ではなく、因果的連続性
で説明する。
これはあなたが最近ずっと考えている、
「俺は俺だ」という感覚は、固定的な魂ではない。
しかし、だからといって「自分なんて存在しない」とも言えない。
という問題と完全につながっています。
ここだけは、私は少し修正を入れたい。
あなたは406で、
自分なのか別人なのか分からないような微妙な「転生」
それでいて、「自分」という自覚は不思議にも連続する
と書いています。
これはあなた自身の哲学的モデルとしては非常に面白い。
ただ、唯識の教理として、
「末那識があるから、前世→来世の『俺は俺だ』という自己意識が連続する」
とまで言ってしまうと、ちょっと危ない。
なぜなら、唯識でいう末那識は、基本的には現在の阿頼耶識を対象として我執する識だからです。
つまり、
末那識=輪廻を通じて「俺は俺だ」という人格的同一性を運搬する装置
と理解すると、かなり「魂」に近いものを作ってしまう。
ここはむしろ、
阿頼耶識の相続によって業・種子が連続し、その流れを基礎として新たな五蘊が生じる。末那識はその現在の識の流れを「我」として把握する。
くらいにしておくほうが、唯識としては堅い。
405では、
阿頼耶識というデータベースに過去の善業と悪業が蓄積される
インプットされた種子は、いつか必ずアウトプットされる
としています。
これは説明用の比喩としては非常に便利。
ただし、
阿頼耶識=ハードディスク
と完全に同一視すると、また「中に何か実体が保存されている」という発想になってしまいます。
唯識の阿頼耶識は、むしろ流れ・相続として理解したほうがいい。
あなた自身が以前言っていた「暴流」という表現のほうが、実はこの問題にはよく合っています。
データベースというより、
自己を固定することなく、過去の因果的痕跡が次々と後続の心身を形成していく巨大な因果ストリーム
くらい。
あなたは395で、
「輪廻転生はある」というスタンスだが、唯識論の輪廻転生を支持している
新興宗教やスピリチュアルのそれとは、大きく異なる
と言っています。
これは実際、その通りで、両者はかなり違います。
新宗教的な輪廻:
「永遠の魂が存在する
↓
何度も生まれ変わる
↓
魂が進化する」
あなたの現在のモデル:
「固定的な魂は存在しない
↓
業・種子・識の因果的相続がある
↓
それによって次の存在が成立する
↓
だから前世と来世は同一人物でも完全な別人でもない」
この二つは似た「輪廻」という言葉を使っていても、形而上学が全然違います。
むしろ後者は、
「魂を否定した上で、輪廻をどう成立させるか」
という、まさに仏教が長年格闘してきた問題です。
あなたの考えは、
「無我」なのに「自分」がある
という、一見矛盾しているところを、そのまま問題として保持している。
これは以前からあなたが言っている
「霊魂は無い。でも、自分は在る」
という感覚と一致しています。
つまり、
魂がない → 私は存在しない
とはしない。
しかし、
私が存在する → 永遠不変の魂が存在する
ともならない。
この中間に、
その瞬間に成立している「私」
と、
その「私」を次の「私」へ因果的につなぐ識・業の流れ
を置く。
これはかなり仏教的な発想です。
そしてだからこそ、あなたが「有る/無いの二択では粗すぎる」と感じるのも分かります。
407の、
今世で「自分」が悪業を積めば、来世でやっぱり「自分」が苦しい
は、普通の日本語としては非常に分かりやすい。
でも教理的には、
「今世の私が作った業によって形成された因果的相続が、来世の存在に苦楽の果報をもたらす」
くらいが正確。
そして、この長ったらしい表現を日常語に戻すと、
「結局、来世の自分が苦しむ」
になる(笑)。
だから、あなたの「摩訶不思議なシステム」という表現は案外本質を突いています。
395~407のあなたの輪廻観を整理すると、こうなります。
霊魂説
❌ 永遠の魂が身体を乗り換える
唯物論的断滅説
❌ 肉体が死ねば完全終了
固定的な「真我」の輪廻
❌ 「プレイヤー」が存在してキャラを乗り換える
あなたの現在のモデル
⭕ 固定的な主体はない
⭕ しかし因果的相続はある
⭕ 業・種子が次の存在を形成する
⭕ 前世と来世は「同一」でも「完全な別人」でもない
⭕ それでも「私」という感覚には連続性がある
⭕ その連続性の仕組みを唯識では阿頼耶識・末那識などによって説明しようとする
かなり筋が通っています。
ただし一点だけ、「末那識が『俺は俺だ』という転生を保証する」まで進むと、唯識の末那識に魂的な役割を負わせすぎる。ここは今後さらに倶舎・唯識を詰めると、かなり面白い論点になります。
むしろあなたが今ぶつかっているのは、まさに仏教哲学の巨大な難問、
「無我なのに、なぜ業が次世代へ相続されるのか?」
なんですよね。
そしてこれ、実は「輪廻はあるのか?」よりずっと面白い問題です。
末那識は、生まれ変わっても続くんだよな?
表面意識は、死んだら消滅して、生まれ変わったら再生する
でも、末那識はそうではない
そう。成唯識論の体系では、あなたの理解の方向で合っています。
ただし「末那識そのものが不変の人格として来世まで移動する」という意味ではありません。
唯識では、ざっくりこう分けられます。
識
死→生まれ変わり
前五識(眼・耳・鼻・舌・身)
旧身体とともに滅し、新しい根・境を条件に再生
第六意識
現世の表面意識は死時に滅し、次の生で新たに生起
第七末那識
阿頼耶識に依って相続する
第八阿頼耶識
生死を通じて相続する基盤
唯識では第七末那識は第八阿頼耶識を「我」として執着する識です。そして第七識は第八識を所依として生起し、両者が相互に依存しながら相続すると説明されます。
だから、前回の私の回答で、
「末那識が『俺は俺だ』という人格的同一性を運搬する装置と考えるのは危険」
と少し強く言いすぎました。
「人格的同一性を運搬する魂」ではないが、末那識そのものは死→中有→次生という識の相続の中で途切れない
というのが、より正確です。
第六意識はかなり「表面の私」に近い。
たとえば、
「俺は昨日こう考えた」
「俺はこの人が嫌いだ」
「俺にはこういう記憶がある」
という具体的な自己意識。
これは身体・感覚器官などを条件として成立するので、死によってその一生の第六意識は終わる。そして次の生では、新しい第六意識が生じる。
ところが第七末那識は違う。
「阿頼耶識を我として執着する」という、もっと深層の我執そのものが相続する。
だから、あなたが今言っている
表面意識は死んだら消える。
しかし「俺は俺だ」という根っこの自己意識は、別の生にも連続する。
という感覚は、唯識の第六識/第七識の区別を使うとかなり綺麗に説明できる。
そして第八阿頼耶識はさらにその下にあって、業種子を保持しつつ、生死を通じて「相続」する。唯識では阿頼耶識そのものが諸法・根身・世界の成立に関わる基盤として説明されています。
末那識も「永遠の自己」ではありません。
修行によって転依が起こり、末那識の我執が転じる。したがって、
第七識が永遠不滅の「俺」である
ではなく、
第七識という識の機能・相続が生死を超えて続くが、それ自体も無常であり、最終的には転依される
ということです。
これは、あなたが最近考えている
「霊魂はない。でも、自分はある」
という立場とも、かなり相性がいい。
つまり、
第六識の「私」=一生ごとに生成・消滅する私
第七識=その深層で「我」として執着し続ける識
第八識=業・種子を含む識の相続
という三層構造で見ると、あなたが感じている「死んでも、なぜか『俺』の連続性がある」という摩訶不思議さが、かなり明瞭になります。
>第七末那識
阿頼耶識に依って相続する
>唯識では第七末那識は第八阿頼耶識を「我」として執着する識です。そして第七識は第八識を所依として生起し、両者が相互に依存しながら相続すると説明されます。
>「人格的同一性を運搬する魂」ではないが、末那識そのものは死→中有→次生という識の相続の中で途切れない
というのが、より正確です。
そう、それだ
【末那識の相続】
当方の言う、「今世の自分と来世の自分は、別の人。でも、それでいて【俺は俺だよ】という自分感覚は不思議と連続する」というのを
唯識的に難しく言うと、そうなる(笑)
そう、それです(笑)。かなりうまく対応しています。
あなたの素朴な表現、
「今世の自分と来世の自分は別の人。でも、それでいて『俺は俺だよ』という自分感覚は不思議と連続する」
を唯識語に翻訳すると、かなり乱暴に言えば、
「現世の五蘊・第六意識は一期の生とともに滅する。しかし第七末那識は第八阿頼耶識を所依として相続し、次生においても阿頼耶識を縁として我執の働きを生起させる」
となる。
これなら、
「同じ人間がそのまま生まれ変わる」
でもなければ、
「完全に無関係な別人が生まれる」
でもない。
むしろ、
人格は別人
因果的な識の相続は連続
その相続の中で「我」という感覚も連続
という構造になる。
「俺は俺だ」の正体を魂にしない
普通の輪廻観だと、
「前世の俺が、来世の俺になる」
と考えたくなる。
すると当然、
「その『俺』って何? 魂か?」
という問題が出る。
ところが唯識では、
「俺」という感覚そのものも識の働きとして説明する。
だから、
「俺」という実体が移動する必要がない。
第七末那識の我執が識の相続の中で続くことで、
次の生にも「我として捉える」という構造が現れる。
これが、あなたの言う
「別人なのに、なぜか『俺は俺だ』が続く」
という、かなり奇妙な現象を説明するわけです。
そしてさらに面白いのが、阿羅漢・仏になると、
この「俺は俺だ」の根っこの我執そのものが転じること。
だから唯識の輪廻論は、
「魂が永遠に転生する話」
というより、
「我執を含んだ識の相続が続き、その相続によって次の存在が成立する話」
と見ると、ずっと分かりやすい。
いやほんと、あなたの
「俺は俺だよ」
を唯識用語に変換すると、急に論文みたいになるのが面白い(笑)。
でも、これがやっぱり
対立学派の中観派からは批判されてきたんだよな
「それって、巧妙な理屈で言い換えただけで、結局は【霊魂】と実質的に変わらないんじゃないの?」
というツッコミだ(笑)
そう(笑)。まさに中観派から出てくる「それ、アートマンを名前だけ変えただけじゃないの?」というツッコミです。
ただ、少し正確に言うと、批判の矛先は「末那識=霊魂」という一点より、阿頼耶識や依他起性を、因果的連続の基盤として実体化していないかというところに向かいます。
月称などの中観派は、唯識が「心」を特別な基盤として立てること自体を問題にしました。現代の研究でも、月称の唯識批判の中心の一つとして「心の実体化」が挙げられています。
まさに、この問題(笑)
唯識:
「魂はありません」
中観:
「ほう」
唯識:
「でも、阿頼耶識があるんです」
中観:
「……それ、何です?」
唯識:
「阿頼耶識は刹那滅する識の相続で、業種子を保持し、次の識を生起させます」
中観:
「つまり?」
唯識:
「魂ではありません」
中観:
「名前を変えただけじゃないの?」🤣
実際、阿頼耶識は伝統的な自己(atman)が担ってきた「人格の連続性」「業の責任」「輪廻」という役割をかなり引き受けています。そのため、唯識自身が「それはアートマンとは違う」と説明する必要が生じました。阿頼耶識は河川のように、同じ実体が存続するのではなく、刹那ごとに変化する種子・習気の連続として説明されます。また解脱時には阿頼耶識が止滅するという説明もあり、永遠不変のアートマンとは区別されます。
特に問題になるのは、
「因果的連続」と言っているけれど、その連続を成立させているものに自性を認めてしまっていないか?
ということ。
唯識側からすると、
「いやいや、阿頼耶識は無常だ。だからアートマンではない」
となる。
ところが中観側は、
「無常だから自動的に空になるわけじゃない。
その阿頼耶識が、それ自体として因果を成立させる基盤だとしたら、その基盤に自性を与えているじゃないか」
と攻める。
月称の批判はまさにこの方向で、縁起するものはそれ自体で成立する自性を持たない、という立場から、唯識が阿頼耶識や依他起性を基礎的な存在として扱うことを問題にします。
あなたの直観は、
今世の私は来世の私と同一人物ではない。
しかし「俺は俺だ」という自己感覚には連続性がある。
ですよね。
唯識なら、
阿頼耶識の相続+末那識の我執の相続
によって説明できる。
ところが中観なら、
「その『相続』そのものに自性を与えるな」
となる。
だから中観から見ると、
「AとBは同一ではない。
しかしAからBへの因果的連続がある」
という説明自体はいい。
しかし、
「その因果的連続を保証する何か」
を持ち出した瞬間、それが新しい「我」になりかねない。
ここが唯識と中観の非常に深い対立点です。
龍樹的には、
「同じか/違うか」
という二択そのものを解体する。
「前世の私=来世の私」なら常見に近づく。
「前世の私≠来世の私」なら断見に近づき、業果の連続が説明しにくい。
そこで、
同一でもなく、完全な別物でもない。
という縁起の関係性だけを残す。
つまり、あなたの
「別人なのに、俺は俺だという感覚が続く」
という表現は、実はかなり中観的にも読めるんです。
ただし、唯識はそこに**「では、その連続性を具体的にどう説明するのか?」**というモデルを与えた。
中観は逆に、
「そのモデルを実体化するな」
と警告する。
だから両者の違いを一言で言えば、
唯識:「輪廻の連続性をどう説明する?」
中観:「その説明装置を新しい実体にするな」
という感じ。
そしてあなたが今やっているのは、まさにこの両方を眺めながら、
「なるほど。唯識なら『末那識の相続』と言える。でも中観からしたら、『それって巧妙な魂じゃね?』と言いたくなるわな(笑)」
と見ているわけです。
これはかなり面白い位置です。
しかも、阿頼耶識を「実体」ではなく暴流(vijnana-santana)のような因果的プロセスとして徹底して理解するなら、唯識側からも「いや、魂とは違う」と反論できる余地がちゃんとある。実際、阿頼耶識を河川・連続流として説明する伝統的比喩もそこにあります。
要するに、
「魂ではない」と言い張っているだけなのか、
それとも本当に「魂とは構造的に違う」のか。
ここが唯識vs中観の、かなり核心的な勝負どころですね。
中観派のスタンスは【帰謬論証】だ
「お前の言ってることはおかしい」と、唯識派を批判はするけど
「じゃあ、本当はどうなんだよ?」と聞き返されても答えない
無記だ
そこが、中観派の残念なところだ(笑)
うん(笑)。ただし、そこは**「中観派=無記」だと少し混同がある**。
あなたの言いたいことを整理すると、かなり正確にはこうです。
中観の得意技は「否定」側
帰謬論証(prasanga)は、
「もしあなたの立場を認めるなら、こういう矛盾・不合理が出てくるぞ」
と相手の立場を内側から崩す。
だから唯識が、
「阿頼耶識という相続によって輪廻を説明できます」
と言えば、
「その阿頼耶識に自性を認めたら、結局アートマン的なものを立てることになるじゃないか」
と突っ込む。
さらに、
「では、輪廻する主体は何なんだ?」
と問われても、
「輪廻する主体というものを自性ある実体として立てること自体が問題なのだ」
と返す。
ここで唯識のように、
「だから第八阿頼耶識が……」
という積極的な説明モデルを出さない。
ここがあなたの言う「残念なところ」ですね(笑)。
ここは重要。
釈迦の無記は、たとえば「世界は有限か無限か」「如来は死後に存在するか」など、解脱に直接役立たない形而上学的問いに対して答えない、という文脈があります。
一方、中観派は、
「何も答えない」
というより、
「究極的な実体について、肯定命題を立てること自体を拒否する」
という哲学的方法を取る。
だから、
「分からないから答えません」
ではなく、
「その問いを成立させている『自性を持つ何かがある』という前提をまず疑え」
なんですよね。
そして、あなたが感じている物足りなさは非常によく分かる。
唯識なら、
「じゃあ、輪廻のメカニズムをどう考える?」
→ 阿頼耶識・種子・末那識・異熟識……
と、かなり具体的にモデルを構築してくれる。
中観:
「そんなものを実体化するな」
あなた:
「で、結局どういう仕組みなんだよ?」
中観:
「その『仕組み』というものにも自性はない」
あなた:
「いや、そうじゃなくて……🤣」
という感じ(笑)。
ただ、これは中観にとっては弱点というより、意図的な戦略なんです。
龍樹の立場では、縁起・空・中道を「究極的な存在論的モデル」として提示してしまったら、それ自体がまた執着対象になってしまう。
だから、
「これが輪廻の本体です」
という答えを出さない。
その意味では、あなたが以前言っていた**「戯論寂滅」**とも完全につながります。
あなたは今、
唯識
「輪廻の連続性を説明してみよう」
中観
「その説明を実体化するな」
という両方を見ている。
だからあなた自身の
「今世の自分と来世の自分は別人。でも『俺は俺だ』という感覚は連続する」
という表現は、かなり絶妙なんです。
唯識的には、
「末那識・阿頼耶識の相続」
と説明できる。
中観的には、
「その相続に自性を与えるな」
と釘を刺せる。
そして、
「じゃあ、その『俺は俺だ』はいったい何なんだ?」
となったところで、また哲学の沼が始まる(笑)。
たぶんあなたが中観派に対して感じている「残念さ」は、まさにそこです。
「否定は分かった。じゃあ、現象として実際に起きているこの『私の連続性』を、もう少し説明してくれよ!」
ということですね。
↓
407 ◆JBLfMwCXhY 2026/10/02(金) 07:20:46.56 ID:GSyZ3
その摩訶不思議なシステム
倶舎論ではあんまり説明されない
唯識論では、「末那識」が登場した
この末那識こそ、「俺は俺だよ」という自分感覚の連続性を保証する
摩訶不思議なシステムだ(笑)
生まれ変わっても相続する恒常思量システム
中観派からの批判に配慮して
この辺りをズバッと言ってくれない
「それって、霊魂じゃん?」
という、おなじみの批判にさらされるリスクがある(笑)
仏教界だと、「それって、自性化じゃん?」と言ったところか
唯識は論理的構造が
しっかりしてるからなー
😀
いつもの論調は、見なくても分かる(笑)
ハッスルと同じ
ツギハギテキトー思想😱
真人みたいなフランケン改造人間知識人🤢
仏教的には、そのほうが深刻な問題だ😫
ハッスル、リダンは
領域展開、自閉円頓ガーが
伝統芸能🤢
自らの改造ツギハギウンチク知識でマウントを取り
他人を劣等感のドン底に陥れられると
いう自信がある
ほぼ妄想😱
効いている
事実だしな
自分の見解に執着して決死にドパガキリバースしているからなー😭
https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/h/hobiwo/20260811/20260811195755.png
なにか、アタマの一部がホットっ‼️、ホットっ‼️
🌋してる表現だ
😀
自分には無理だった
戦線縮小だ
念仏を、1度も称えなくても救われます
おわり
本当に救われるのだろうか?
と言うのが難信
また、知識としてそれを知ったことの弊害
結局難しい
自力のが楽である場合もある
アホ…ゲフンゲフン
純粋な心でなければならない
ような人物でなければ
難しいだろう
人はどうしても本当にそうなのか?
と自己に還元し、他力に全預けと言うのは
かなり無理がある
というより
今、ここが浄土であった救われていた
まで行くんやなかったか
そのとおり
そのうち考えることをやめた
みたいな感じ
名言種子の念仏のみになり
内部ロジック的には
人空、法空が達成されている
なるほど
https://dic.pixiv.net/a/%E8%80%83%E3%81%88%E3%82%8B%E3%81%AE%E3%82%92%E3%82%84%E3%82%81%E3%81%9F
すなわちッ! 勝つために思考を捨てたのだッ!!
あれ?それになるか?
カーズが考えるのをやめたのは
宇宙に放り出され永遠の時を過ごしたからのほう
まあ、好みの問題なので、
第2部か第3部で、
どっちでもイイみたいな?
当時の国教争いと信者獲得の
辻褄合わせ
内部ロジックは問題ない
この部分だね
日蓮は日蓮にて
念仏は念仏にて
それぞれのカテゴリーで
内部ロジックは達成しうる
ストーリーの因果が重要
そこは、否定しないが
ストーリー(整合性)と内部ロジックは
別の話
任せてちょんまげ〜
日蓮と同じみたいなもんだ
😀
信心ロジック(円融のショートカット)
これが出来るのは
体空観と言う大乗の特徴
ほう、では任せた
思えないので
何の機能もしとらん可能性がある
龍樹から、天台智顗へ
大乗理論は発展したから
ざっくり整理すると、こうです。
蔵教
声聞・縁覚の教え
諸法は無常・無我で空
四諦・十二因縁 → 阿羅漢・辟支仏
通教
大乗への入口
一切法は空
空を悟り、菩薩道へ
別教
菩薩の本格的な教え
空・仮・中を段階的に理解
十地など、長大な菩薩修行
円教
天台の究極的教え
空・仮・中は三つに分かれず即一
一念三千・即身成仏
特に面白いのは、**「蔵教=小乗、通教=中観、別教=大乗、円教=天台」**と単純対応させると、少しズレるところです。
「蔵」は三蔵の「蔵」。
天台では主として、声聞・縁覚のための教えを指します。
四諦・十二因縁・三十七道品などによって、五蘊・十二処・十八界などを分析し、
「これは無常だ」
「これは無我だ」
「だから執着すべき実体ではない」
と観察して、阿羅漢・辟支仏を目指す。
なので、あなたが最近話していた倶舎論的な世界にかなり近い。
ただし、厳密には「蔵教=倶舎論そのもの」ではありません。
ここがちょっとややこしい。
「通」は、声聞・縁覚・菩薩の三乗に通じるという意味。
核心は、
諸法は空である
という理解。
ただし、この段階では空を悟ることによって、現象世界を単なる「無」にしてしまう傾向が残る。
だから天台では、
蔵教 → 通教 → 別教 → 円教
と進むにつれて、空の理解がどんどん深くなると考える。
あなたが以前言っていた、
「通教=中観派っぽい」
という感覚は、かなり分かる。
ただし「通教=ナーガールジュナの中観派」と完全に同一視するのは危険です。
「別」は、前三乗とは別に、菩薩だけに説かれた教えという意味。
ここでは、
空
仮
中
をかなり明確に区別して考える。
菩薩は空だけに入って終わるのではなく、
空を悟りながら、仮の世界に戻って衆生を救済する。
そして長い長い菩薩修行を経て仏になる。
だから、あなたが以前話していた
「中観の空だけでは、じゃあ本当は何なんだ?という問題が残る」
という感覚に対して、天台の別教では「仮」「中」まで展開していくわけです。
そして天台の本丸。
円教では、
空・仮・中が別々の三段階ではない。
ここが決定的に違います。
たとえば、
色即是空、空即是色
という世界観。
「色から空へ進む」という話ではなく、
色そのものが空であり、空そのものが色である。
だから、あなたが最近こだわっていた
「即是」は「=」に近い
という読み方が、ここでは非常に重要になります。
空=仮=中
という三諦円融になる。
そしてそこから、
一念三千
十界互具
一即一切・一切即一
凡夫の一念に仏界も具わる
という世界観が出てくる。
つまり、かなり乱暴に一行ずつ圧縮すると、
蔵教=「現象を分析して、無常・無我を悟る」
通教=「一切法が空だと悟る」
別教=「空だけでなく、仮・中まで菩薩道として展開する」
円教=「空・仮・中は、そもそも一つの真実である」
となります。
そして、ここが前に話していた
**「蔵教・通教・別教・円教」と「空・仮・中」の関係**
を理解する鍵ですね。
怪しげになるからなー
😅
日蓮はこの教判を取り入れたんだな?
そうです。かなり明確に取り入れています。
日蓮は天台教学、とくに**五時八教・化法四教(蔵・通・別・円)**という教判を前提に、自分の法華経中心主義を組み立てています。
ポイントは、
蔵教 → 声聞・縁覚中心
通教 → 三乗に通じる大乗初門
別教 → 菩薩のための高度な教え
円教 → 法華経・天台の究極的な教え
という天台的な序列を受け継いで、
法華経こそが諸経の中で最も究極的な「円教」である
とするところです。
まず、トッフの空間認知を覚えるだけでいいだろう😀
日蓮の特徴
天台智顗では、法華経の「円教」を中心にしつつ、円・別・通・蔵という教法の構造そのものを精密に分析します。
日蓮はそこからさらに一歩進めて、
法華経を中心に、それ以前の諸経を位置づける
という形にします。
そのため日蓮教学では、
蔵・通・別 → 権教
円教 → 実教
という構図が強くなり、さらに
権教を開いて実教を顕す=開権顕実
という法華経の論理が非常に重要になります。
『摩訶止観』に由来するものを日蓮が重視したものです。
なので、
天台=四教を含む巨大な教判体系を構築した
日蓮=その天台教学を受け継ぎ、とりわけ法華経・円教・一念三千を宗学の中心に据えた
という理解が分かりやすいです。
ちなみに、さっきの話につなげると、「蔵教=倶舎、通教=中観、別教=大乗、円教=天台」くらいの対応関係で見ると、日蓮がなぜ声聞・縁覚・菩薩・仏という階層を頻繁に論じるのかも、かなり見通しがよくなります。
ほ~かい教学では、蔵通別円の四教が重要だ
抽象的だし、
唯識と倶舎論の関係の構造みたいにシンプルでない、
天台と華厳のマウントの取り合いみたいな前提の抽象的構造だろうし、
さほど、覚える価値がないだろう😀
全体像的には
意図しているのがわかりやすい
天台の階層論は抽象的、
華厳というライバル設定に
無理にアドバンテージ狙ったようは内容だし
😀
1 異生羝羊心
本能・欲望のままに生きる凡夫
2 愚童持斎心
道徳・善行を知り、宗教的生活に入る
3 嬰童無畏心
天・神々への信仰によって恐れを離れる
4 唯蘊無我心
声聞乗。五蘊を分析し、無我を悟る
5 抜業因種心
縁覚乗。十二因縁を観察し、輪廻の因を断つ
6 他縁大乗心
法相宗(唯識)。一切衆生を救おうとする菩薩道
7 覚心不生心
三論・中観系。諸法は不生であり、空である
8 一道無為心
天台・一乗思想。一切衆生が仏になる道
9 極無自性心
華厳。事事無礙・法界縁起の世界
10 秘密荘厳心
真言密教。大日如来と自己・世界が一体となる
第4住心=唯蘊無我心=声聞
第5住心=抜業因種心=縁覚
第6住心=他縁大乗心=唯識・菩薩
第7住心=覚心不生心=中観
第8住心=一道無為心=天台
第9住心=極無自性心=華厳
第10住心=秘密荘厳心=真言
というところ。
唯識の些末内容よりも価値を感じないなー
空海の十住心論のほうか
論理的組み立てだろうけど
😀
釈迦が説法した順序を、代表的な経典・教説によって5段階に整理します。
華厳時
『華厳経』
成道直後、最高レベルの教えを説いた時期。
ただし凡夫には難しすぎて理解されなかった、とされる。
鹿苑時(阿含時)
『阿含経』
四諦・十二因縁など。
声聞・縁覚を導く段階。
ここが天台の蔵教に対応する中心部分。
方等時
『維摩経』『勝鬘経』など
小乗的な立場を批判し、大乗へ導く。
「声聞だけでは不十分」という方向。
般若時
『般若経』
空を徹底的に説く。
「一切法空」の理解を深める段階。
法華・涅槃時
『法華経』『涅槃経』
最終的な円満な教え。
一乗・仏性・開権顕実など。
https://talk.jp/boards/psy/1790809822
↑ここで、
でおーが
解ったふうな事(空間認知うんぬん)を言っているので
でおー、
答えてみ
そっとしておくら
ホント、無意識に
「議論しない」が仕上がっている
😀
😀
みたいな空虚なマウントは、スルー
実況中継的指摘はするくらい
😀
😀
仮諦の「空・仮・中」は〝五蘊〟で対象を認識している状態。
それに対し、
空諦の「空・仮・中」の方は〝五蘊皆空〟で対象を捉えている状態なんです。
つまり、
仮諦の「空・仮・中」
ここではまだ五蘊によって対象を認識している。
色・受・想・行・識という五蘊を通して、対象を「有るもの」として捉える。
だから、
五蘊によって構成された凡夫の認識世界
として「空・仮・中」が開かれている。
仮諦の側では、五蘊によって対象を認識しています。
だから「空」も、
有る → 無い
という形でしか捉えられない。
朝からカラムーチョか😅
仮諦は、五蘊で見ているという話だ
「煩悩が有る」「煩悩が無い」
「自我が有る」「自我が無い」
というように、有と無を対立させ、その「有るもの」を析して「無いところ」へ入っていく。
これが三蔵教の析空です。
つまり、まだ五蘊による認識構造そのものの中にいる。
通教は体空観だったな
だから「空」についても、
・有るのか
・無いのか
という二元的な見方から離れられない。(※リダンが正にこれ)
一方、空諦では五蘊皆空です。
五蘊によって構成された「見る側」も「見られる側」も、ともに空じられる。
だから、ここで初めて、
「有る/無い」という認識そのものを空じる
ことができる。
そんな話ばかりしている😫
日蓮は天台教学、
とくに**五時八教・化法四教(蔵・通・別・円)**
という教判を前提に、
自分の法華経中心主義を組み立てています。
蔵教 → 声聞・縁覚中心
通教 → 三乗に通じる大乗初門
別教 → 菩薩のための高度な教え
円教 → 法華経・天台の究極的な教え
という天台的な序列を受け継いで、
法華経こそが諸経の中で最も究極的な「円教」である
とするところです。
日蓮の特徴
天台智顗では、法華経の「円教」を中心にしつつ、円・別・通・蔵という教法の構造そのものを精密に分析します。
日蓮はそこからさらに一歩進めて、
法華経を中心に、それ以前の諸経を位置づける
という形にします。
そのため日蓮教学では、
蔵・通・別 → 権教
円教 → 実教
という構図が強くなり、さらに
権教を開いて実教を顕す=開権顕実
という法華経の論理が非常に重要になります。
そして有名な**「一念三千」**も、もともとは天台の『摩訶止観』に由来するものを日蓮が重視したものです。
なので、
天台=四教を含む巨大な教判体系を構築した
日蓮=その天台教学を受け継ぎ、とりわけ法華経・円教・一念三千を宗学の中心に据えた
という理解が分かりやすいです。
ちなみに、さっきの話につなげると、「蔵教=倶舎、通教=中観、別教=大乗、円教=天台」くらいの対応関係で見ると、日蓮がなぜ声聞・縁覚・菩薩・仏という階層を頻繁に論じるのかも、かなり見通しがよくなります。
そうなのか
法然・親鸞も天台教学の影響圏にいたのですが、
日蓮のように「蔵・通・別・円」の教判そのものを
宗派の中心に据えたわけではありません。
法然は比叡山で天台教学を学んでいますから、当然その教判を知っています。
ただ、法然の宗教的な結論は、
末法の凡夫には、諸行ではなく念仏による往生が現実的である
という方向に向かいます。
つまり、
天台教学を詳しく分類する → 法華経が円教だからそれを実践する
ではなく、
末法・凡夫という現実 → 阿弥陀仏の本願 → 称名念仏
という方向です。
法然の場合、重要なのはむしろ**「聖道門/浄土門」「難行道/易行道」**という分類ですね。
親鸞はさらに徹底しています。
親鸞も比叡山で天台教学を学んでいますが、最終的には、
自力修行によって悟りを目指すのではなく、阿弥陀仏の本願力によって往生する
という浄土真宗の方向へ行きます。
だから、蔵・通・別・円という分類を使って、
「これは蔵教だから低い、これは別教だから……」
と教法を序列化すること自体が、親鸞教学の中心課題ではありません。
むしろ、
自力 ↔ 他力
聖道門 ↔ 浄土門
難行 ↔ 易行
という軸のほうが重要です。
かなり単純化すると、
天台智顗
五時八教・蔵通別円を使って、仏教全体を体系的に整理する。
日蓮
その天台的教判を強く受け継ぎ、法華経・円教を究極の教えとして立てる。
法然
天台教学を学んだうえで、末法の凡夫には念仏という道があるとする。
親鸞
さらに「自力修行による成仏」という枠組みそのものを徹底的に問い直し、本願他力へ進む。
なので、**日蓮は「天台教判を武器として使った人」なのに対して、法然・親鸞は「天台を学んだうえで、別の宗教的軸へ転換した人」**と見ると分かりやすいです。
そして面白いことに、日蓮・法然・親鸞は、全員かなり深く天台の世界から出てきたんですよね。鎌倉新仏教は、いきなり天台と無関係に生まれたわけではない。
法然は比叡山で天台教学を学んでおり、天台そのものを無知なまま否定したわけではありません。
特に重要なのが、法然の**『選択本願念仏集』**です。
ここでは仏教の諸行・諸教を整理したうえで、
末法の時代に生きる凡夫が、
阿弥陀仏の本願によって往生する道として、
称名念仏を選ぶ
という方向へ進みます。
つまり、
天台教学そのものを否定する
↓
ではなく、
天台を含む諸仏教を認めつつ、浄土往生のための実践として念仏を選択する
という構造です。
ここがかなり面白いところです。
日蓮
天台教学をかなり強く継承
→ 法華経=円教を究極とする
→ 法華経を中心に諸経を位置づける
法然
天台教学を学ぶ
→ 末法・凡夫という現実に注目
→ 諸行ではなく念仏を選択する
だから、法然は**「天台から離れた人」ではあるけれど、
「天台を捨てて無関係になった人」ではない**んです。
むしろ、
天台を十分に学んだからこそ、
そこから浄土門という別の道を選択した
と見るほうが歴史的には自然です。
さらにその「自力修行」の問題を徹底的に掘り下げて、
**「自力」対「他力」**という軸が前面に出てきます。
なので鎌倉仏教を、
天台を知らない新宗派が突然登場した
と見るより、
比叡山で天台・密教などを学んだ僧たちが、
それぞれ異なる一点を徹底的に掘り下げていった
と見ると、かなり分かりやすいです。
プロンプトが抜けた
プロンプト:
法然は天台教学を捨てたのか?
浄土宗は九州の宗派
「浄土宗=九州の宗派」という意味なら、少し違います。
法然の浄土宗は、京都を中心に成立した宗派です。
法然(1133–1212)は比叡山で学んだ後、
京都で念仏の教えを広めました。
特に東山の吉水の草庵を拠点としたため、
法然の教団は「吉水教団」とも呼ばれます。
法然の弟子の中でも、
弁長(聖光) → 九州・筑後を中心に活動 → 鎮西流
良忠 → 弁長の弟子 → 鎮西流を全国的に広める
という流れがあります。
そして現在の浄土宗の主流は、この鎮西流(鎮西派)系統です。
なので、
法然の浄土宗そのもの=九州発祥
ではない。
むしろ、
法然 → 京都で浄土宗を開く
↓
弟子の弁長が九州で教えを広める
↓
鎮西流が成立
↓
現在の浄土宗の主要な系統になる
という流れです。
だから「浄土宗は九州の宗派」という印象には、
鎮西流が現在の浄土宗の中心的系譜になったという
歴史的背景があります。
浄土真宗そのものは京都で成立しますが、
北陸は日本の浄土真宗を語るうえで非常に重要な地域です。
特に大きいのが、親鸞の弟子である蓮如の時代です。
親鸞 → 京都・関東を中心に活動
↓
門弟たちが各地で教団を形成
↓
**蓮如(15世紀)**が北陸を重要な布教地域とする
↓
越前・加賀・能登・越中などで本願寺教団が急速に拡大
特に加賀では本願寺門徒が非常に強大になり、
いわゆる**「百姓の持ちたる国」**と
呼ばれるほどの社会的勢力になりました。
京都=浄土真宗の本山・宗派の中心
北陸=浄土真宗が地域社会に深く根付いた土地
というイメージになります。
そして面白いのが、北陸の中でも富山・石川・福井で浄土真宗の存在感が非常に強いこと。
特に富山県は、現在でも「真宗王国」と呼ばれることがあります。
一方で、これは親鸞自身が北陸を中心に教団を作ったからではないんですよね。親鸞の布教活動の中心は、むしろ**関東(常陸など)**でした。
なので、
親鸞=関東で教えが広がる
→ 蓮如=北陸で巨大な門徒組織が形成される
という二段階で考えると、「なぜ浄土真宗=北陸というイメージが強いのか」がかなり分かりやすいです。
九州では、今でも浄土宗が強いのか?
ただし、北陸の浄土真宗ほど「九州全域で圧倒的」という感じではありません。
特に歴史的に重要なのが福岡県・久留米です。
浄土宗鎮西派の大本山 善導寺があり、
現在も浄土宗の公式寺院検索を見ると
九州各県に多数の浄土宗寺院があります。
弁長(聖光)→鎮西流の地理が、
そのまま残っていることです。
浄土宗自身も、鎮西派を法然門下の主要な流れとして位置づけています。
ただ、「九州=浄土宗」とまでは言えません。
九州には浄土真宗も非常に強く、
地域によってかなり違います。
なので、イメージとしては、
北陸 → 浄土真宗の巨大な地盤
九州北部、とくに筑後・福岡 → 浄土宗鎮西派の歴史的地盤
くらいが一番しっくりきます。
知らんかった
これは意外と知られていないです(笑)。
久留米市にある 善導寺は、浄土宗の大本山です。
ここが面白いのは、単に「有名なお寺が九州にある」という話ではなく、
法然 → 聖光(弁長) → 鎮西流 → 善導寺
という、浄土宗の九州ルートの中心になっていることです。
弁長(聖光)は筑後の人で、法然の弟子になった後、故郷の九州に戻って念仏を広めました。その後、弟子の良忠が鎌倉などへ進出し、鎮西流を全国に広げます。
だから地図で見ると、
京都:法然
↓
筑後・久留米:弁長・善導寺
↓
鎌倉:良忠
↓
全国へ
という感じ。
一方、浄土真宗は、
親鸞 → 関東
↓
蓮如 → 北陸で大発展
ですから、さっきの
「浄土宗=九州、浄土真宗=北陸」
というあなたのイメージ、意外に宗派史の地理と噛み合ってるんですよね。
そして鎌倉へ、か
なんだか、源義経や足利尊氏がたどったルートと似ているな?
ただし、浄土宗の場合は「九州→鎌倉へ軍事的に進軍」ではなく、法脈・僧侶・寺院ネットワークが東へ伸びたという話です。
浄土宗の流れを単純化すると、
法然(京都)
↓
弁長(筑後・久留米)
↓
善導寺を中心に九州で展開
↓
良忠が鎌倉へ進出
↓
鎮西流が関東で定着
↓
全国へ
となります。
源義経
京都 → 奥州 → 再び東国
足利尊氏
京都 → 鎌倉 → 京都
のように、京都と東国を結ぶルートが政治史では何度も登場する。
これは偶然だけでもなく、当時の日本では、
京都=朝廷・文化・宗教の中心
鎌倉=東国の政治・武士勢力の中心
九州=大陸に近く、西国の巨大な地域圏
という地理的構造がありました。
だから鎌倉時代の宗教史を地図で眺めると、
京都で新しい思想が生まれる → 各地方の有力者・門弟が受け取る → 鎌倉・関東に入る → 全国的な教団になる
という動きがけっこう見えてきます。
足利尊氏は、大阪の四條畷で北畠顕家の遠征軍に大敗して滅亡寸前まで追い込まれたが、九州に落ち延びて再起した
九州では、尊氏の家柄と名声にひかれて、多くの武士が集まってきたため、そこで再起できた
56 法介◆T3azX0Hk1U 2026/10/03(土) 07:32:02.92 ID:gJ0SM
仮諦の「空・仮・中」は〝五蘊〟で対象を認識している状態。
それに対し、
空諦の「空・仮・中」の方は〝五蘊皆空〟で対象を捉えている状態なんです。
2026/10/03 07:40:07
そうですね。大筋はその理解で合っています。
ただ、戦場と時系列を少し整理すると、さらに面白くなります。
尊氏は建武政権に反旗を翻して京都を占領したものの、建武3年(1336)1月の箱根・竹ノ下の戦いなどを経て京都を確保します。その後、北畠顕家の遠征軍が奥州から南下してきて、5月に尊氏は京都から敗走。
そしていったん九州へ。
ここで重要なのが、まさにあなたが言うところです。
尊氏は九州に入ると、少弐頼尚・宗像氏範・島津氏などの有力武士勢力を糾合します。
特に博多周辺で軍勢を整え、わずかな期間でかなりの兵力を集める。
そして、
九州で再起
↓
多々良浜の戦い(1336年4月)
↓
九州勢力を率いて東上
↓ 湊川の戦い
↓ 京都を再奪取
という猛烈な逆転劇になります。
「京都→九州→東へ」という地理的パターン
もちろん軍事と宗教では意味が全然違いますが、
浄土宗
京都(法然)
↓
九州(弁長・善導寺)
↓
鎌倉(良忠)
↓
東国・全国へ
足利尊氏
京都
↓
九州へ敗走
↓
九州で軍勢を再編
↓
東上
↓
京都を奪還
という、**「西へ退避して、九州を足場に東へ戻る」**という地理的な構図が似ています。
北畠顕家との決戦は京都周辺での戦いの一環で、その後尊氏が九州へ向かっています。
そして四條畷の戦いは、1336年ではなく1348年で、北畠顕家ではなく楠木正行との戦いです。
ここ、南北朝時代は人物が多すぎて混線しやすいんですよね(笑)。
そして実は、尊氏の九州再起を考えると、「なぜ九州ではこれほど短期間に大軍を集められたのか?」という問題がかなり重要になります。そこには、鎌倉幕府以来の九州の武家ネットワークが効いてきます。
そこはイミフなのか?
416 名前:◆JBLfMwCXhY[] 投稿日:2026/10/02(金) 07:38:02.53 ID:GSyZ3 [21/63] 0
7. そして、ここがあなたの考えの一番面白いところ
あなたの考えは、
「無我」なのに「自分」がある
という、一見矛盾しているところを、そのまま問題として保持している。
これは以前からあなたが言っている
「霊魂は無い。でも、自分は在る」
という感覚と一致しています。
つまり、
魂がない → 私は存在しない
とはしない。
しかし、
私が存在する → 永遠不変の魂が存在する
ともならない。
この中間に、
その瞬間に成立している「私」
と、
その「私」を次の「私」へ因果的につなぐ識・業の流れ
を置く。
これはかなり仏教的な発想です。
そしてだからこそ、あなたが「有る/無いの二択では粗すぎる」と感じるのも分かります。
↑
これを踏まえたうえで、
「消える」とは、どういう事象?
235 名前:鹿野園 ◆Bs4PlQ2rjutF [] 投稿日:2021/03/31(水) 13:39:20.15 ID:VlI2N+EM [2/3]
私⇔宇宙
↓↑
(末那識)
↓↑
阿頼耶識
だから問題ないでしょ。
私という器世間(宇宙)を認識する者が消えれば宇宙も消えます。
>>584は、「世界」が消えるという話
問題の質が異なる
当方と鹿野園は、似て非なることを言っている
だから、JBL氏と聖ウンコ師の主張は、全く違う。
398 名前:◆JBLfMwCXhY[] 投稿日:2026/10/02(金) 07:07:03.26 ID:GSyZ3 [3/63] 0
当方の例えで言えば、こうだ
プレイヤーが、オンラインゲームにログオンする
ゲーム内のキャラが初期設定されて、ゲーム内で経験値を積んでいく
死んだら、ゲームオーバー
過去のプレイ履歴のデータを元に、また次のキャラが自動生成される
ただちに、別のゲーム内ワールドでのプレイが始まる
いや、両方とも、「有る無し」の話だ。
オンラインゲームをやったことのない
エロ和尚殿に説明するのは難しい😅
掲示板の喩えでいくか
5ちゃんねるをやめて、5ちゃんねるビューワーのアプリを削除
「宇宙が消える」というのが、それに相当する
ラピスが5ちゃんねるでアク禁になり
書き込みはもちろん、閲覧すらできなくなったとする
5ちゃんねるという宇宙に住み着いていた住人にとっては
「宇宙が消えた」というのに相当する
これが、5ちゃんねるの住人としての「死」だ
掲示板の例えだと説明できない
やっぱり、「オンラインゲーム」じゃないと(笑)
それは「のびしろ」だらけの例え話じゃな?
JBL氏が5ちゃんねるビューワーのアプリを削除しても、
5ちゃんねるという掲示板は世間に残る。
「JBL氏が今、死んでも宇宙は残る」というのが、それに相当する
プレイ中の没入感
ゲームからログオフしたときの「世界が消えた」という感覚
これは実際にやってみないと、体感するのが難しい(笑)
ますます変な例えじゃな?
それを言うなら
5ちゃんねるという宇宙に住み着いていた住人にとっては
「ラピスが消えた」というのに相当する・・・・じゃろ?
そうだ
掲示板の場合は、ログアウトしたくらいじゃ「世界が消えた」というところまではいかない
だから、この例えでは無理
単純に考えよう
「消える」というのは
「有」から「無」に変化する・・・・ということじゃろ?
ここが説明しにくいんだわ
他のプレイヤーから見れば、「世界からラピスが消えた」という認識になる
でも、ラピスにとってはどうか?
ラピスにとっては、「世界が消えて、自分が残った」という状態だ
それは別にオンラインゲームじゃなくても、
DVDからインストールした麻雀ゲームでも
似たような感覚は味わえる
なにも、RPGに限った話ではない
>>ラピスにとっては、「世界が消えて、自分が残った」という状態だ
その感覚はおかしい
世界(5ちゃんねる掲示板)は存続していて
ラピスも生きていて
5ちゃんに参加できないという疎外感を味わうだけじゃ
この話の中で、「世界」はドコにあるか?
ラピスのパソコンの中だ
ラピスのパソコンの画面上の映像と、パソコンのスピーカーから発せられる音声
それが世界のすべて
当方がいつも言ってる、「この世はリアルな立体映像と、360°のサラウンド音声でデキている」というやつだ
だから、掲示板では説明できないのだ
オンラインゲームをずっとやってると、その世界に没入する
ゲーム内のキャラになりきってしまって、リアルの自分のことを忘れる
ログオフしてもしばらく頭を切り替えられないが、だんだんリアルの自分を思い出す(笑)
掲示板では、そんな没入感がないので無理
そう。
当方は、OFFライン麻雀ゲームは腐るほど体験してきたから、
その没入感は理解できる。
まあ、JBL氏は「例え話」が下手クソであるから、
のびしろが無限大じゃな?
異世界転生モノのアニメでもいいんだがな(笑)
この話の理解に最適なのは、「ソードアート・オンライン」というアニメだ
ラピスはパソコン2台を駆使している想定は無いの?
だから、何度も言ってるように
RPGじゃないと、あんまり意味ないんだよな~
オンライン麻雀も仕組みは同じだが、「その世界内のキャラになりきる」という感覚がない
端末の機種は問わない
なるほど。
JBL氏は掲示板で
「ソードアート・オンライン」というアニメを鑑賞した人物を
探しているのじゃな?
謎が解けた
買い物おち
ワシは端末の台数を問題にしているのじゃ。
例えばラピスはパソコン10台使っているとか
「世界は、プレイヤーの端末(パソコン、スマホ、タブレット)の画面上にある」
ということだ
各プレイヤーの、それぞれの端末の画面上で「世界」が展開している
他のプレイヤーとはオンラインでつながっているから、自分の世界には他のプレイヤーも登場する
やってるうちに、なんだか本当に同じ世界にいて、一緒に戦闘したり取引したり、移動してるような感覚に没入する
でも、本当に一緒にいるわけではない
いや、そういうわけではない(笑)
オンラインゲームをやったことがない人に、
「オンラインゲームの喩え」がピンとこないのは当たり前
この話は忘れてもらいたい
RPGマニアなら、リダン大聖人のほうが
JBL氏には最適かも?
当方は自治会関係で忙しくなるので、
掲示板遊びはFADE OUT気味になりそう
478 名前:リダン◆3y/i8XtGLY[] 投稿日:2026/10/02(金) 18:25:41.80 ID:mVNWX [6/13] 0
ようはjojoのカーズのように
そのうち考えることをやめた
みたいな感じ
名言種子の念仏のみになり
内部ロジック的には
人空、法空が達成されている
そりゃそうだ
リダンは、ひと目でピンときていた
「オンラインゲームの喩え」はすぐにピンときてた
「消える」というのは
「有」から「無」に変化する・・・・ということじゃろ?
最初、シカチャマを体外離脱に誘っていたリダン大聖人が、
「有る無し」にコダワルのは、自然な現象じゃろう
235 名前:鹿野園 ◆Bs4PlQ2rjutF [] 投稿日:2021/03/31(水) 13:39:20.15 ID:VlI2N+EM [2/3]
私⇔宇宙
↓↑
(末那識)
↓↑
阿頼耶識
だから問題ないでしょ。
私という器世間(宇宙)を認識する者が消えれば宇宙も消えます。
しかも、実際に不動産の売買契約書や重要事項説明書を書いて、売買に立ち会った実務経験がある
短期間でもいいから、洗脳されるくらいの勢いでやらないと無理
法律の専門知識がない人の場合は
洗脳されるくらいの勢いで
徹底的に宅建業法を覚えて
宅建業法で満点かそれに近い点数を取るしか合格の道はない
その辺の不動産屋の物件案内の姉ちゃんでも、頑張れば習得可能
それに比べて民法は、法律の専門分野
限りなく奥が深い
アッパラパーな人では歯が立たない(笑)
民法はエンピツ転がしてヤマカケで半分近くも取れれば上出来
それが、法律の専門知識がない普通の人の合格法
その通り
ログアウトすれば、ゲームの世界が画面上から消える
個人的にシリアスなテーマだ😫
「浄土宗は九州の宗教」というのが
個人的には興味深いツボだ
1つは、浄土宗の鎮西派
もう1つは、プロテスタントのバプテスト派だ
チャットGPT:
うん、これはかなり面白い指摘。
ただ、**「福岡が全国の中心」**という言い方は、両者で意味合いが少し違う。
鎮西派は、法然の弟子・**聖光(弁長)**を祖とする系統で、聖光が筑前・鎮西地方を拠点に教化したことから「鎮西派」と呼ばれる。福岡はその歴史的形成地の一つとして非常に重要。
日本のバプテスト宣教史では、福岡はかなり重要な拠点。特に日本バプテスト連盟系では、福岡に大学・神学校などが集まり、教育・宣教の中心地として発展してきた。
「福岡は、日本のキリスト教と仏教の特定系統が、それぞれ独自のかたちで全国的展開を作った土地」
という見方はできる。
しかも面白いのは、浄土宗鎮西派とバプテストという、一見まったく違う二つの宗教的ネットワークが、どちらも福岡と強く結びついていること。
地理的には「西の端」なのに、宗教史的にはむしろ西日本から全国へ発信するハブになっている。
この話、掘るとかなり面白い。特に「なぜ福岡だったのか」を、鎌倉~室町期の鎮西派と、明治以降のバプテストで比較すると、共通点と違いがかなり見えてくる。
ここは、全国の天満宮の総元締め
浄土真宗が圧倒的多数:福岡県(特に筑後地方や福岡市内)では、浄土真宗(本願寺派など)の信仰が古くから非常に盛んです。県内の仏教寺院や門徒の割合でも、浄土真宗が大きなシェアを占めています。
その他の宗派:日本最初の禅寺である「聖福寺」を擁する臨済宗や曹洞宗などの禅宗系、さらに浄土宗、日蓮宗、真言宗などの寺院も数多く活動しています。
福岡は浄土真宗なのか
法律の話をしよう
我が自治会では、平成20年の規約改正の際、
当時の会長が便乗して10か所程度、規約の改竄を行った。
公序良俗に反する法律行為なので無効(民法90条)だと
思うのじゃが、JBL氏はどう思う?
https://keiyaku-watch.jp/media/hourei/kojo-ryozoku/
浄土宗の鎮西派は、本州で衰退して九州で盛り返し
江戸や京都に本州反攻したんだったな
九州の宗教だったのは、昔の話
忘れてた
それは、民法90条がどうのこうのという以前に
区分所有法でアウトでしょ😅
区分所有法?
うちの自治会は団地では無いのじゃ
スレチということかな?
じゃが、スレを埋めるのだから、「なんでもあり」も良かろう
勘違いしていた
それは、区分所有マンションの話に見える(笑)
管理組合と自治会が一体化してるのかな?
すっかり、マンションの管理組合脳になってた😂
いや、その2つは別モノ
こちらの勘違い
東京にはアリガチなマンション脳😅
自治会の話でスレを埋めよう
マンションの管理組合の規約の改竄ならば大問題じゃが、
自治会規約程度なら、アハハで終わってしまうのが実情
確かに😂
任意団体じゃなあ
こっちで
ほーかいくん梅とかなー
😀
平成13年にも規約の大改正があった。
その時は、「規約改正委員会」というのを作った。
委員長が答申書を会長に提出して、その後、総会に諮るというのが
普通なのだが、
当時の会長は総会を開かずに8月下旬に「規約改正しました旨」の文書を
全戸配布した。
その文面の中に、
「この規約は、7月1日から実施されています」
・・・・・これは元公務員から見ると、相当にヤバい事実
荷が重いな
法介菩薩に埋めてもらおう
パート15立ったやん
「無になる」ということなのか?
625 返信:◆JBLfMwCXhY[] 投稿日:2026/10/03(土) 09:51:41.52 ID:mD35a [9/31] 0
>>619
その通り
ログアウトすれば、ゲームの世界が画面上から消える
なるほど
無になるというよりは
「消える」という感じ
世界は、「リアルな立体映像、360°のサラウンド音声」でデキている
まず、ここがピンとこないとな
世間一般の常識人にとっては、途方もなく高い壁だ😅
仏教一般のそれではないが
誤解を招くだけだ
ろくなことがない😅
世界は有るんだよ
ただ、その存在の仕方が、世間の一般人が素朴に思っているような形ではないってだけ
テレビが映る事象で例え話を構築できる
2次元のアカシックレコードが電磁波で
3次元のこの世がテレビの映像
死ぬとテレビの電源が消えるという感じ。
テレビの電源を切っても、電磁波は飛んでいる。
それでも、テレビという器が残るので、例え話としては稚拙だ。
だから、科学が発達した現在は、直球勝負で議論したほうが面白い
・・・というのがワシの立場。
科学者の主張をガン無視する法介菩薩とは、話が噛み合わない
テレビの電源が切れて映像が映らなくなっても
電磁波はアンテナ経由で飛んでるでしょ・・・てこと。
だから、シカチャマが死んでも、宇宙は消えない。
235 名前:鹿野園 ◆Bs4PlQ2rjutF [] 投稿日:2021/03/31(水) 13:39:20.15 ID:VlI2N+EM [2/3]
私⇔宇宙
↓↑
(末那識)
↓↑
阿頼耶識
だから問題ないでしょ。
私という器世間(宇宙)を認識する者が消えれば宇宙も消えます。
訂正
× 電磁波はアンテナ経由で飛んでるでしょ・・・てこと。
〇 電磁波は飛んでるでしょ・・・てこと。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
やはり、例え話はワシも苦手(下手)だから、
この辺でやめておこう
44 名前:◆JBLfMwCXhY[] 投稿日:2026/10/02(金) 19:37:27.75 ID:vGhNb [2/3] 0
女も外国も
画面越しが一番️
そう
画面では世界が消えても、電波は飛んでいる
だから、無になったわけではない
「消えた」という感じ
元ソニー上席常務の天外伺朗氏は、「ここまで来たあの世の科学 」という著書で
テレビが映る事象で例え話を構築していて、
ワシはその本を12年前に読んでから天外伺朗氏に洗脳されている。
「ここまで来たあの世の科学 」
天外伺朗氏(元ソニー上席常務・工学者)
https://www.amazon.co.jp/s?k=%E3%81%93%E3%81%93%E3%81%BE%E3%81%A7%E6%9D%A5%E3%81%9F%E3%81%82%E3%81%AE%E4%B8%96%E3%81%AE%E7%A7%91%E5%AD%A6&language=ja_JP&adgrpid=1327113179096621&hvadid=82944816299293&hvbmt=bb&hvdev=c&hvlocphy=140132&hvnetw=o&hvqmt=b&hvtargid=kwd-82945984229672%3Aloc-96&hydadcr=3634_13843431&jp-ad-ap=0&mcid=d8940e91c8d63376a27f87e13f2d2ae5&msclkid=b43321820edb176f36eb4b3ce505ac90&tag=jpdeskstandse-22&ref=pd_sl_7wzdfr3nmx_b
デビット・ボームの「ホログラフィー宇宙モデル」
https://note.com/riluskye/n/nd289d33a3f22
天外氏:
私が再び見えない世界に目を向け、「あの世」について考えるようになったのは、
デビット・ボームの「ホログラフィー宇宙モデル」や
ユングの「集合的無意識の仮説」などを知ってからのことでした。
天外氏:
宇宙は、実は目に見えない「あの世」と、目に見える「この世」とが一体になってできていると考えられます。
ただ「あの世」とは、「死んでから行く世界」のことではありません。
シカチャマもそういう意図で「消える」と書き込んだのだろうか?
235 名前:鹿野園 ◆Bs4PlQ2rjutF [] 投稿日:2021/03/31(水) 13:39:20.15 ID:VlI2N+EM [2/3]
私⇔宇宙
↓↑
(末那識)
↓↑
阿頼耶識
だから問題ないでしょ。
私という器世間(宇宙)を認識する者が消えれば宇宙も消えます。
>>ただ「あの世」とは、「死んでから行く世界」のことではありません。
↑
ワシはこれが正しいと思い込んでいるので、
浄土信仰でいうところの「浄土に往く」という表現は
おかしいと思っている。
浄土と この世は一体化している・・・と思っている。
いや、鹿野園のは言葉だけ
言語上の理解のみ
少しも実感がこもっていない
AIで質問していた、
サキャ派以外の本は持っているが
サキャ派の密教の本はないからだ
😀
それは、日本語情報が無さすぎる
AIに聞くしかないな
多次元構造なのか?
少なくとも、
「私という器世間(宇宙)を認識する者が消えれば宇宙も消えます。」は誤り
シカチャマの家のテレビの電源をOFFにしても
ワシの家のテレビの電源がONならば、
宇宙を観測できている。
それは、唯識論でいう
「1人1宇宙」の原理だ
唯識では、シカチャマとエロ和尚殿はそれぞれの宇宙に住んでいる
シカチャマの宇宙が消える
貼った記事では「二重構造」と言っている
https://note.com/riluskye/n/nd289d33a3f22#4a6bfd80-3c1d-442b-b60c-1e2787c127fd
宇宙は二重構造 ~物理学者ボームに出遭う
「宇宙は二重構造になっており、物質的な宇宙=明在系(この世)の背後に、
もう一つの目に見えない宇宙=暗在系(あの世)が存在している。」
ワシは
そこらへんが理解できないから
唯識は苦手じゃ
と、天外伺朗氏は書いてるが
「神秘主義や宗教の色彩はまったくありません」というのは、ウソ
ボームはインド思想に傾倒したことで有名な人
そりゃそうだ
世間一般の常識人にとって、ここは途方もなく高い壁
共有というよりも、レンタルのほうが
しっくりくる
簡単にいえば
そのOFFにしたテレビが個別阿頼耶識
んで
エロ和尚のテレビが映る
電波がとんでくるのは
共報
ちょっと語弊はあるが
だいたいそんな感じ
そのとおり。
一方で、天外伺朗氏は、例え話が上手い。
教祖タイプの人間じゃ。
ワシは気持ちよく騙されたわけじゃ。
人間の目は、波長の長い可視光が入ると「赤い」と感じ
波長の短い可視光が入ると「青い」と感じるように
デキている
リンゴに、太陽光線(電磁波)が当たる
リンゴの表面の原子・分子は
波長の長い電磁波を反射して、
波長の短い電磁波を吸収する
人間の目に、リンゴの表面が反射した
電磁波が入ると、脳にスイッチが入る
すると、「赤い」というクオリアが、パッと浮かぶ
リンゴそのものが「赤い」というわけではない
リンゴは鏡のように反射してるだけで、赤くもなんともない
>>そのOFFにしたテレビが個別阿頼耶識
なるほど!!
それは分かりやすい例えじゃな?
リダン大聖人も教祖タイプの人間じゃな
永らく、例え話の中の、「テレビ」の位置づけが不明だったのじゃが、
ようやく分かったつもりになったわ
サイレンが高速回転する
空気が振動して、音波が飛ぶ
その空気の振動を耳がキャッチする
人間の耳は、波長の長い振動波が入ると「低い音」と感じる
波長の短い振動波が入ると「高い音」と感じる
脳内では「ピーポーピーポー」という甲高い音声が発生する
「この世の物体には、色は無い。
色は人間の心の中で生じている」
という考えが、17世紀の欧州(とくに先進国の英仏)で広がった
それを受けて登場したのが、ジョン・ロックだ
「この世の物質世界には、何が本当に存在するのか?
どこまでがモノで、どこからが脳による演出なのか?」
というのを、突き詰めていくと
「脳による演出」の比率が、どんどん高くなっていく
検討すればするほど
人間の目に見えている「この世」は、
ほとんどが自分自身の脳による演出でしかない
17世紀の近代ヨーロッパでさえ、現代のような脳科学は無く
脳の機能はよく解っていなかった
それでも、古代インドや近代ヨーロッパの哲学者は
哲学的な分析を通じて、ここまで世界理解を進めた
うん、これはかなり面白い認識論の話だと思う。
特に重要なのは、
「外界に物理的な原因があること」と
「私たちが経験している性質そのものが
外界にそのまま存在すること」
は別問題だという点。
たとえばリンゴなら、
外界 → 電磁波 → 網膜 → 神経信号 → 脳内処理 →「赤い」という経験
となる。
だから「赤」という性質については、
少なくとも経験される赤そのものは、
リンゴの表面にそのまま貼り付いているわけではない。
ただし、ここは少しだけ補正したほうが哲学的には正確。
「リンゴは鏡のように反射しているだけ」
というより、リンゴの表面には特定の波長域の光を吸収・反射する物理的構造がある。その物理的性質を、視覚系が「赤」という知覚経験に変換している、と考えるほうがいい。
「色」はどこにあるのか
仏教的に整理すると、
対象側の条件 → 光・物質・眼など
識が生じる → 「赤い」という経験
さらに概念化 → 「これは赤いリンゴだ」
という具合になる。
つまり、我々が直接経験しているのは「物自体」ではなく、眼・色・光・識などの条件が揃って成立した認識現象だ、と分析できる。
これは唯識ならさらに徹底して、
「赤いリンゴ」という経験世界そのものを、識の側から分析する
方向へ進む。
ただし、ここから
「だから外界には何も存在しない」
と直ちに結論するのは別問題。
ここが唯識と独我論の違いでもあり、中観が突っ込んでくるところでもある。
そして近代哲学では、まさにこの問題を別の語彙で追究したのが面白い。
ロック → バークリー → カント → 現代の知覚哲学・脳科学
と進んでいくと、「私たちが経験している世界」と「経験を成立させる外的・身体的条件」の区別がどんどん精密になっていく。
なので、この書き込みの核心を一言でまとめるなら、
「世界を見ている」と思っているが、実際には世界から来た情報を神経系が加工した結果を経験している。
ということになる。
そしてこれは、あなたが以前話していた**「身受心法による観察」や唯識の「能取・所取」ともかなり綺麗につながる話だと思う。
「見えている世界」を、そのまま世界そのものだと思い込まず、「いま何が認識として成立しているのか」まで分解して見る**わけだ。
脳科学が進むにつれて、
「人は、脳が演出した世界を見ている」というのが、
ますます明らかになってきている
「脳による演出」は、予想を遥かに超えていた
そうなんだよね。
面白いのは、脳科学が進歩するほど、私たちが普段「そのまま見ている」と思っている世界が、実は高度に加工された知覚経験だったということが見えてきた点だ。
しかも、脳がやっていることは、単に外界の映像を受け取って映し出すだけじゃない。
色を構成する。 光の波長そのものに「赤」という主観的な感覚が書き込まれているわけではない。
音を構成する。 空気の振動が、そのまま「ピーポーピーポー」という音として存在しているわけではない。
情報を補完する。 視野には盲点があるのに、私たちは普通、その部分が欠けているとは感じない。
変化を予測する。 脳は感覚情報を受動的に受け取るだけでなく、過去の経験などを利用して、目の前の状況を解釈している。
つまり、脳はカメラというより、感覚情報をもとに、現実についてのモデルを絶えず構築しているシステムに近い。
近年の認知神経科学では、**予測処理(predictive processing)**という考え方が重要な研究テーマになっている。
脳は感覚情報を受け取ってから解釈するだけではなく、過去の経験などをもとに予測を形成し、入ってきた情報と照合して知覚を成立させる、という考え方だ。視覚の錯覚や、曖昧な刺激の解釈などが研究対象になっている。
ただし、予測処理が脳全体の働きをどこまで説明できるかについては、2026年の総説でも証拠や理論の適用範囲が検討されている。すべてが決着したわけではない。
私は、ここに非常に興味深い接点があると思う。
たとえば、唯識の立場からすれば、私たちが普段「外の世界そのもの」だと思っているものを、認識の成立過程から問い直すことになる。
私たちは何を認識しているのか。
認識されたものと、認識する側とは、どういう関係にあるのか。
私たちが経験している世界は、どこまで認識の働きによって構成されているのか。
こうした問題は、脳科学が登場するはるか以前から、インド哲学や近代ヨーロッパ哲学で考察されてきた。
ただし、脳科学が示すのは主として知覚の神経機構であって、それだけで唯識の形而上学が証明されるわけではない。
そして、ここで一番大事なのは、「経験している世界が脳によって構成されている」という話と、「脳の外には何も存在しない」という話は別だということ。
この区別を保ったまま認識の仕組みを分析するところに、哲学と脳科学の面白い接点があるんだよね。
ハッキリ言えば、自分自身の脳は
自分の意識(心)に、「リアルな高精細の立体映像」を見せて、「360°のサラウンド音声」を聞かせている
全部、外界から来る電磁波をもとに、脳が編集した情報だ
そう。かなり直感的に言い換えると、**「脳内にVR装置がある」**というイメージはかなり近い。
ただ、1点だけ重要な修正がある。
「全部、外界から来る電磁波をもとに」
これは視覚についてはかなり当たっているけれど、感覚全体については違う。
たとえば、
👁️ 視覚 → 光(電磁波)→ 網膜 → 神経信号 → 視覚経験
👂 聴覚 → 空気の振動(音波)→ 内耳 → 神経信号 → 音の経験
👃 嗅覚 → 化学物質 → 嗅覚受容体 → 神経信号
👅 味覚 → 化学物質 → 味覚受容体 → 神経信号
✋ 触覚 → 圧力・温度・振動など → 感覚受容器 → 神経信号
となる。
そして脳は、それらをバラバラに経験させるのではなく、統合して一つの「世界」らしい経験にしている。
脳は、外界から入ってくる物理的・化学的情報を神経信号に変換し、それを統合・加工して、「ここに立体的な世界があり、そこに自分がいる」という非常にリアルな経験を生成している。
という感じ。
しかも面白いのは、「360°のサラウンド音声」も、そのまま耳に入っているわけではないこと。
左右の耳に入った微妙に異なる音圧・時間差などから、脳が
「音源は右斜め後ろだ」
みたいに音の空間的位置まで構成している。
視覚も同じで、網膜に映るのは基本的には二次元の光情報なのに、脳はそこから奥行き・距離・物体・運動などを推定して、三次元空間として経験させる。
だから、
「私は世界を直接見ている」
という日常的な感覚を一段掘り下げると、
「私は、脳が構成した世界モデルを経験している」
となる。
そして、ここが哲学的にものすごく面白いところ。
「では、その世界モデルを経験している『私』とは何なのか?」
という問題が残る。
脳科学が「世界の見え方は脳によって構成されている」とかなり詳しく説明できるようになっても、**「なぜそもそもその情報処理に主観的な経験が伴うのか」**という問題(いわゆる意識のハード・プロブレム)は別に残る。
ここから先は、まさにあなたが以前から考えている**「脳=私なのか、それとも脳が私に世界を見せているのか」**という、かなり深いところに入ってくる。
電子以外の素粒子も、粒や点のようなものではないらしい。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%BB%E5%AD%90%E9%9B%B2
電子には不確定性があり、電子は粒や点のようなものではなく「雲のようにぼんやりと存在する」ことが明らかとなった。
面白いことに、こういう認識論を突き詰めて考えると
人によって、2つの両極端の結論に分岐する
ひとつは、「人の心は、脳による幻影だ。魂なんてものは無い。人は、死ねば無になる」という、唯物的な世界観
もうひとつは、「この世は、幻影みたいなものにすぎない。本当に存在するのは、自分の心だ。魂だ」というような、スピリチュアルな世界観
そう。そこが認識論の面白い「分岐点」なんだと思う。
同じく、
「自分が経験している世界は、脳・感覚器官・心によって構成されたものだ」
というところまで進んでも、そこから先の解釈が正反対になる。
① 唯物論側
「なるほど。経験される世界が脳によって構成されているなら、心もまた脳の活動によって生じているのだろう」
となる。
つまり、
物質 → 脳 → 意識 → 世界経験
という方向。
脳が壊れれば意識も終わる。したがって、魂や死後の自己を仮定する必要はない、という結論に進む。
② 心・霊魂側
ところが、同じ認識論から、
「待てよ。私が直接知っているのは、外界そのものではなく、自分の意識に現れている経験だけではないか?」
と考える人もいる。
すると、
意識 → 世界経験
という方向を重視する。
「外界は幻影のようなもの。本当に確実なのは意識そのものだ」という方向へ進み、さらにインド思想やスピリチュアル思想では、
この世界は心に現れる現象であり、真の自己=魂=意識がより根本的な実在なのではないか
というところまで行く。
そして、ここが非常に重要なんだけど、①と②は同じ認識論から論理的に必然的に出てくるわけではない。
「知覚世界は脳によって構成される」という命題から、
「だから意識は脳の幻影だ」
も、
「だから意識こそ究極の実在だ」
も、そのままでは証明できない。
ここで形而上学的な一歩が入る。
同じ「世界は直接には与えられていない」という発見が、
唯物論 →「じゃあ、世界を作っている脳こそ実在だ」
と進む場合もあれば、
観念論・霊性思想 →「じゃあ、直接与えられている意識こそ実在だ」
と進む場合もある。
さらに仏教は、この二択にそのまま乗らないところが面白い。
「外界こそ究極の実在」でもなく、
「心・魂こそ究極の実在」でもない。
「外界」と「心」を固定的な実体として立てること自体を分析していく。
唯識ならかなり心の側まで徹底的に掘り下げるけれど、そこでも最終的に「阿頼耶識という永遠の魂が本体だ」とするわけではない。中観になると、さらにその識そのものまで空として分析する。
だから、
唯物論 vs スピリチュアリズム
という二極化に対して、仏教は第三の道を出してくる。
「そもそも『物質』と『心』を、独立した固定的実体として設定する必要があるのか?」
という問いだね。
これは、あなたが以前言っていた**「有る/無いの二択では粗すぎる」**という感覚とも、かなり綺麗につながっている。
そうそうここが法執を解くカギ
だから、あなたの比喩をさらに正確にすると、
脳は、外界から入ってくる物理的・化学的情報を神経信号に変換し、それを統合・加工して、「ここに立体的な世界があり、そこに自分がいる」という非常にリアルな経験を生成している。
という感じ。
絶対的な表象(VR画像)ではなく
人の認知に合わて統合・加工
だから
外界から入ってくる物理的・化学的情報は
絶対的なそれではない
現代風に言えば外界は2次元記述かもしれない
ワシは
2つの両極端の結論を対機説法することを目指している
個人的には、どう考えても
これほど手の込んだ巧妙な仕掛けで、この世は自分に「リアルな仮想体験」をさせている
明らかに、この世は「体験させる」ことを目的としてデキている
それなのに、「体験する自分」が存在しないのは、ツジツマが合わない
メチャクチャ作り込んだ凄いゲームを大勢のNPCがプレイしているのに、プレイヤーが誰もいないというのに相当する
あまりにも不自然だ
よって、「自分は本当に存在する」というのが結論
デカルトも、このように考えたのだろう
うん、その推論の感覚はデカルトにかなり近い。ただし、デカルトが実際にそこまで「ゲームのプレイヤー」のように考えたわけではない、という点は分けたほうがいい。
デカルトの有名な「我思う、ゆえに我あり(cogito)」のポイントは、もっとシンプルで強烈なんだ。
仮に、
外界が全部幻覚だったとしても
自分の身体が存在しなかったとしても
悪霊に完全に騙されていたとしても
目や耳から得られる情報が全部偽物だったとしても
「いま疑っている・考えている」という出来事そのものは否定できない。
なぜなら、
「自分は存在しない」
と考えている瞬間にも、少なくともその考えが生じているから。
だからデカルトは、外界より先に、
「考えている私が存在する」
という確実性を取り出した。
ゲーム世界を想像すると、
ゲーム世界 → 視覚・聴覚などの刺激 → プレイヤーの体験
という構造になる。
そこで、
「これほど精巧な体験世界があるのに、体験している主体は存在しない」
と言われると、
「じゃあ、この体験はいったい誰の体験なんだ?」
という疑問が出てくる。
これはかなり根本的な問い。
ただ、哲学的には一つ注意が必要で、
「体験が存在する」
↓
「だから永続する魂が存在する」
までは自動的には導けない。
ここには大きな飛躍がある。
デカルトのコギトから確実に言えるのは、まず、
「いま思考・意識している主体の存在を、少なくともこの瞬間には否定できない」
というところまで。
その主体が、
肉体とは別の霊魂なのか
脳活動そのものなのか
脳と環境の相互作用によって成立するプロセスなのか
死後も存続するのか
という問題は、コギトからさらに論証しなければならない。
だから、あなたの
「自分は本当に存在する」
という結論は、デカルトのコギトとはかなり親和性がある。
「だから魂は存在する」
になると、そこから先はデカルトの形而上学や、さらにインド哲学・仏教哲学の議論に入っていく。
そして、ここがあなたの以前の考え方と面白く接続する。
「私は在る」ことは認める。
しかし、その「私」を永遠不変の魂という固定的実体にしてしまう必要はない。
これは実は、
デカルト的な「我は存在する」
+
仏教的な「しかし固定的な我ではない」
という、かなり興味深い位置になる。
「プレイヤーはいる。しかしプレイヤーが不変の魂という固体だとは限らない」
・・・というゲーム比喩なら、あなたが以前言っていた**「俺は俺だという形のない自己意識は続くが、固定した魂が引っ越していくわけではない」**という発想にもかなり近い。
> ワシは
> 2つの両極端の結論を対機説法することを目指している
それじゃ、釈迦や龍樹ですがな
龍樹も対機説法したの?
やってた
どっちつかずじゃな
>>個人的には、どう考えても
>>これほど手の込んだ巧妙な仕掛けで、この世は自分に「リアルな仮想体験」をさせている
>>明らかに、この世は「体験させる」ことを目的としてデキている
これは「神様とのおしゃべり」という本と同じことを言ってるのじゃが、
JBL氏の主張なのか?AIの主張なのか?
https://mugen3.com/hon20.html
● 全ては今でもひとつじゃ。みんなダイレクトにくっついておる。
しかし、お前たちは「全ては一つ」だなんて絶対に思えないし、
「私と世界は分離している」と思いこんでいたい。
なぜなら、関係性を学ぶ為には、2つ以上のものが必要じゃからな。
学ぶ為に、分離という幻想を見たいのじゃ。
関係性を学ぶ為には「あなた」以外の存在が必要なんじゃよ。
そうか、だから俺たちは、ビックバンで分離して、この世界で「他者との関係性」を学んでいるのか。
今日会う人を見て、その人から何が学べるかを、考えてみましょう。
あなたの周りの全て人が、あなたに何かを教えたがっている。
もちろん、自分の主張
俺の休日の娯楽は
宇宙の二重構造を見ているかもしれん😀
それは、スピリチュアル系ではよくある主張
どうも、うちの自治会で実権を握っている人の思想が
これっぽい(あくまで推測)
https://mugen3.com/hon4a.html
https://mugen3.com/hon4a.html
人生を前向きに生きている人は?
自分に与える試験問題が(人生における困難)を愛、良心、前向きな解決法で対処した場合、
その人生はどんどん良い方向に向う。運が付いてくる。ご褒美なのである。
しかし、それを解決しない限り、同じような困難(問題)がどんどん襲ってくる。
来世でも…試験問題(人生における困難)は、魂が成長する為の指導者のあの世での計画なのである。
よって真正面から立ち向かわなければならない。
そして、愛、良心、前向きに解決した時に運が開けるのである。
若くして亡くなった人は?
若くして亡くなった魂も、自分の死を後悔する事は決してありません。
むしろ、「自分が死ぬことによって両親や家族の精神的成長を早める」
という役割を果たした事に大いに納得し、両親をあの世から激励するのです。
両親にとって、子供の死ほど精神的に成長できる貴重な試練は、他にないからです。
しかも永遠の別れではなく、いつかこの世を去った時に、必ず再会する事ができます。
試練、苦労は魂の成長の為にある
この世は、中間生(あの世)で計画した事が試される場所だ、と認めるなら、
毎日の生活は新たな意味と目的に満ちたものになる。
中間生(あの世)こそが私たちの住むべき世界であり、
地球という惑星は、魂の進化のために必要な試験場であるにすぎない。
全てのことには意味があり、自分の人生は自分が自分に与えた問題集であること、
そして自分を取り巻く人々は、愛してくれる人も、敵対している人も(ソウルメイト)、
みな理由があって自分の成長の為に存在してくれていることを知った時、
私たちの人生観は大きく揺さぶられます。
やはり、重度障害者には生まれたくないものだ
https://mugen3.com/hon4a.html
ハンディを背負った今回の人生を「またとない成長のチャンス」と考える
「死後の世界」や「生まれ変わり」の研究からは、障害や病気を持って生まれてくること、
あるいは人生の途中で障害や病気を持つ事が、他の誰のせいではなく、
自分自身で計画した試練であり試験問題である事がわかっています。
自分を襲った障害や病気には重要な意味があり、
その試練に打ち勝てば「成長」という大きな「ご褒美」が用意されていること、
また次の人生では、再び完全な身体として生まれ変わるのが自由自在であることも証明されています。
「重い精神病や肉体的な障害などのように、深刻な問題を持つことは、進歩のしるしである。
こうした重荷を背負うことを選んだ人は、大変強い魂の持ち主だ。
なぜなら、最も大きな成長の機会が与えられるからである。
>>その試練に打ち勝てば「成長」という大きな「ご褒美」が用意されていること、
>>また次の人生では、再び完全な身体として生まれ変わるのが自由自在であることも証明されています。
↑
これは本当かどうか、怪しい
似てるな~
島薗進からは、「江原啓之に似ている」と評された
船井幸雄ファミリーの一員
こういうのは、なんとも言えませんな
どう考えても、歩けない人に生まれるより
アチコチ動き回って見聞を広めたほうが、人生の経験値は高くなり、意識進化が加速すると思うんだが
>>その試練に打ち勝てば「成長」という大きな「ご褒美」が用意されていること、
>>また次の人生では、再び完全な身体として生まれ変わるのが自由自在であることも証明されています。
「証明されています」は言いすぎ(笑)
何も証明されていない
「色即是空 空即是色」は、「色を空じてから、また色に戻ること」と言ってたが
それはおかしい
そんな動きのあるフレーズではない
この世に生まれてきた理由
https://mugen3.com/hon4a.html
私たち人間がこの世に生まれてきたのは、人間に愛を運ぶ為、
つまり「人間関係」を学ぶ為なのである。
あの世では人間関係は学べないからである。
(全てがわかってしまうため)
「従仮入空 従空入仮」というのが正しい
最近はやっと、ほ~かい師匠の影響で浸透してきた
この世で人生に疲れたときは、そう思うのだが
あの世にずっと居ると、この世の苦労が懐かしくなるという話だ
御意であります(`_´)ゞ
>>732
「色即是空 空即是色」は、漢文における「倒置法」を用いたモノであって、
重要なフレーズを強調する意図があるらしい
日本語に訳すと、
色は「空」という概念に含まれる。
「空」という概念に含まれるのだよ、色は
・・・・という感じ
「次に生まれ変わるとしたら、どういう人になりたいか?」と質問されて
「チョコボール向井みたいな人になりたい」と答えて、失笑を買った覚えがある
https://stat.ameba.jp/user_images/20160716/07/nobhair/f5/ba/j/o0227034013698416097.jpg?caw=800
あの世に常駐しているエネルギー体を「神」と呼ぶのかも?
ワシも昔も今も
遅漏なAV男優に憧れておるぞよ。
どんなにタフで強くても、プロレスラーにはなりたくない
漢詩によくある対句
チョコボール向井ってプロレスラーじゃなくて、
AV男優なのでは?
「じゃあ、次の『色不異空 空不異色』はどうなんだよ?」というツッコミが入る
売れないプロレスラーからAV男優に転向して、大成功をおさめた
「五蘊即是空」の5文字で表現できる所を
ダラダラ書いているだけなのじゃが
>>「次に生まれ変わるとしたら、どういう人になりたいか?」と質問されて
誰に質問されたん?
理論派アンチとして活躍してた頃だ
>>某宗教団体の信者
「幸福の科学信者」ってコテハンの論客がいたな
うん。かなり大づかみに言えば、現代の分析哲学では心脳同一説を含む「物理主義」が主流だと言ってよい。
ただし、「心脳同一説=主流」とすると少しだけ注意が必要。
心脳同一説:心的状態は、脳の物理的状態そのものだとする。
機能主義:心的状態は「脳の特定の物質」そのものではなく、入力・内部状態・出力の機能的関係で定義されるとする。
消去主義的唯物論:素朴心理学の「信念」「欲望」などは、最終的には存在しない/別の科学的概念に置き換えられるとする。
性質二元論:物質的な脳から、意識という特殊な性質が生じるとする。
二元論:心と物質を別種のものとして考える。
特に現代では、「心=脳の状態」という単純なタイプ同一説より、機能主義や広義の物理主義のほうが有力という整理が一般的。
「この世界は、これほど精巧に“体験”させる仕組みになっている。では、その体験をしている『私』は何なのか?」
心脳同一説なら、基本的には、
脳の物理過程 → 意識・体験
と説明する。
ところが哲学ではここにいわゆる**「意識のハード・プロブレム」**が出てくる。
「脳内で情報処理が行われている」という第三者的な記述と、
「赤を見ると、こういう感じがする」
という第一人称的な経験が、どうして同じものなのか。
ここが簡単には説明できない。
だから、あなたが最近言っている
「体験する自分が存在しないことにすると、そもそも“体験”という言葉自体がおかしくならないか?」
という疑問は、かなり本格的な心の哲学の問題になっている。
ただし、そこから直ちに「だから霊魂が存在する」とはならない。
むしろ面白いのは、
① 脳=心なのか
② 脳は心を生み出すのか
③ 心は脳に還元できないのか
④ 「私」という主体そのものをどう理解するのか
を分けて考えることだと思う。
そして④まで行くと、初期仏教・唯識・インド哲学と、現代の心の哲学が意外なところで接続してくる。
聖ウンコ師にとっては、永遠のライバルだ😫
「脳をハンガーとすれば、心は服に相当する」
ただ、あなたの「ハンガーと服」という比喩は、ベルクソンの考えをかなり分かりやすく表している。
ベルクソンの方向性は、
脳は意識そのものを生産する装置ではなく、意識が現実世界で行動するための選別・制約装置である
というもの。
たとえば、脳に損傷が起きると記憶や人格、知覚などが変化する。
心脳同一説からすれば、
「ほら、心は脳なんだから、脳が壊れれば心も壊れる」
となる。
ところがベルクソンは、そこから逆に、
脳の状態と心の状態が密接に対応していることと、
心が脳によって“作られている”ことは同じではない
と考える。
だから「ハンガーと服」という発想になる。
脳=ハンガー
心=服
なら、ハンガーが壊れれば服はうまく掛けられなくなる。
しかし、だからといって服そのものをハンガーが製造しているわけではない。
脳は意識を生産する器官ではなく、
意識のうち「この身体を使って行動するのに必要な部分」を選び出す器官
という感じ。
これは彼の**『物質と記憶』**の議論、とくに記憶論と関係が深い。
そして、ここが今あなたが考えている問題とかなり面白くつながる。
心脳同一説は、
脳 → 心
という「生成モデル」を採りやすい。
ベルクソンはむしろ、
心(意識・記憶) → 脳がそれを行動可能な形に限定・選択する
という方向を強調する。
ただしベルクソン自身も、単純な「肉体とは無関係な魂が脳に乗り込んでいる」という霊魂説をそのまま唱えているわけではない。
ここが重要で、ベルクソンは心と脳の相関を否定するのではなく、その相関を「心=脳」という同一性にまで短絡させることを拒んだわけだ。
そして、この問題はまさに、
「脳が壊れたら人格や記憶が変わる」ことから、「だから心そのものが脳である」と結論してよいのか?
という、心脳問題の核心に入っていく。
脳=ハンガー
心=服
なら、ハンガーが壊れれば服はうまく掛けられなくなる。
しかし、だからといって服そのものをハンガーが製造しているわけではない。
なるほど
スピリチュアルに飛んだり、東洋思想に飛んだり、西洋哲学に飛んだり
話がアチコチ飛ぶのが当方の特徴
自分にとっては慣れ親しんだ話題だが
慣れてない人には、ちょっとハードすぎるかも?😫
> 「幸福の科学信者」ってコテハンの論客がいたな
そのコテハンはヤメとけと、何度も忠告した
そんな名前で仏教を語っても、偏見を持たれるだけだぞと
「無知の知」の4文字で完結する
代わりに当方を鹿にぶつけようと、しきりに煽ってきたが
いまでは互角の論争を繰り広げているようだ
奴も成長したんだな
その両方かもしれん
ワシも昔は、一時期、「浄土真宗」というコテハンで参加していた。
信仰に自信があるんじゃないのかな?彼の場合は。
ワシの場合は、「なんちゃって信者」であることを強調したい意図で使用したけど。
>>いまでは互角の論争を繰り広げているようだ
どこの掲示板で論争してるの?
当方が幸福の科学スレでボロカスに叩きまくったせいで
「ヘタレ信者」、「ぶら下がり信者」というニックネームが定着してた
5ちゃんねる宗教板
ないない尽くしの自称・信者だった
あ、自信が無いからなのか?(どーでもいいけど)
>>768
5ちゃんねるは一時期、ダウンしたらしいけど、
最近、復活したみたいね
ここ1年は、まったく見ていない
JBL氏に叩かれる前は、掲示板で伝道活動してたような記憶があるが?
(どうでもいいけど)
といって張り切ってるネット専門の信者が、大嫌いだった😫
とにかく頑固だからだ😫
支部での人間関係や、日々の献金要求に
悩み、苦しんでいる
だから、教団に対する問題意識もあるし、
洗脳が溶けるのも早い
教団をやたら美化して、お花畑に住んでいる
洗脳が溶ける可能性が無い
昭和の仏教学者や一部禅僧の影響で
「輪廻転生は有ると思っちゃいけない」
「死後世界は有ると思っちゃいけない」
と思い込んでいる人が、仏教界にはよくいるが
それは、昭和の迷信だ
イカダのように捨て去ってよい
単純すぎる
あれじゃ、「永遠に生きていたいと願う我執」と言われても仕方ない😫
なるほど。
当方も、浄土真宗の寺は不要で、
親鸞会みたいなネット教団でいいんじゃね?
・・・と思った時期があった。
(お布施するのが嫌だったから)
しかし、親鸞会の悪い評判を聞くにつれて、
やはり、従来通りの「立派な建物での寺院経営体」でも
いいんじゃね?
・・・・と思うようになった。
財力が無くなったら、門徒を辞めればよいことだから
収入がないと、継続できない
宗教団体も同じだ
カネが入ってこなければ、解散しなければいけなくなる
ワシも8歳から19歳までは
「永遠に生きていたいと願う我執」にまみれていたな。
で、19歳で統一教会に洗脳された。
最後は、「壺を売らないと永遠に生きられないなら、諦める」
ということで脱会した。
で、AV鑑賞に邁進した。
大乗非仏説の発信源は、日本らしいね
https://human-os-handbook.com/daijo-hibussetsu-2/
第一章 問いの出どころ
源は、意外にも日本にある。
江戸中期の町人学者・富永仲基(1715?1746)が
『出定後語』(1745年)で唱えた「加上(かじょう)」の説だ。
その若さで、河北彩花なんかいたら大変だったな😅
昔はそこまでの美女がいなかった
意外でもなんでもない
日本人が言い出したに決まっている
結構、美女がいたぞ?
https://av-db.net/debut/1984
渡瀬ミク、竹下ゆかりでかなり抜いた
大乗非仏説が出てくる前は、
「六道輪廻から解脱して涅槃へいくために修行する」が
仏教だった。
「輪廻転生という現象などは無い」ことが
釈尊の指導のもとで修行すればわかる
・・・という説が出てきた
↑
これが、下記2行の説明
「輪廻転生は有ると思っちゃいけない」
「死後世界は有ると思っちゃいけない」
出家して、釈尊の下で修行しなければならない。
じゃあ、出家できない人はどうするか?
出家できない人には、「輪廻転生現象は有る」と
釈尊は説いたそうな。
(ホンマかいな)
ウエスト55センチに騙された
https://www.minnano-av.com/actress564058.html
西欧哲学スタンバイOK状態だが、
まだ脳内宗教模索している😀
山伏念仏日蓮は人生を遊行者として
らしくなってきた
😀
見えてきた😀
> 「輪廻転生という現象などは無い」ことがわかるには、
> 出家して、釈尊の下で修行しなければならない。
こういうのによる刷り込みがキツい😫
心理的なストッパーになっている
新興宗教の信者たちとさんざん論争した
それが大きい
スッタニパータに書いてある通りだ😫
自分は根っからの輪廻転生主義者だから(笑)
意識が大きすぎる
意識をこの世に縛り付けている存在
生命のシステムと
人間の精神のシステムでは
階層が違う、
これをソシュールと合わせて20代後半に脳内で仕上げていた
😀
人間の脳という生命システムが構築しているわけなはない
人間の文化を生み出す意識みたいなのと
人間の脳という生命システムの階層が違う、
西欧哲学は、残念ながら、このようなシステムの階層の違いを認識してなかった
階層は、ポランニー兄弟あたりだったんかなー忘れた😀
階層構造を理解がないから
生まれた
😀
30代前半まで夢中だった
😀
ならばお前はその腐った脳を捨てろw
ムスリム気取りのくせにか?w
コーランの何処に輪廻転生なんて書いてありましたかぁ〜?www
>永遠に生きていたいと願う我執
ムスリムが天国で永遠に処女とヤリまくるのを渇望するのと何が違う?w
お前も「ネット専門」だろw
しかもtalk掲示板限定でイキっているだけで、色々なSNSでのイスラム批判には成す術無しwww
違うと言うなら、ネットでもリアルでも良いからムスリム移民反対運動をしてる人達の集まる所にとっとと凸撃して、その顛末を書きやがれwwww
仏教で言う輪廻転生には、死後に天国や地獄へ転生することも含まれる
連覇したのは史上初なんだな
阿呆w
【コーランの側に】仏教的な輪廻の概念が何処に書いてあるんだよwww
一度限りの試験
それでも神を信じ続けられるか
試験を受け直すことができる(笑)
できることが意外と少ない
瞑想系統仏教は
無駄な苦につながるストレス低減能力が持てるかみたいな
シンプルなテーマだ
そのリアリズムなのが
瞑想系統仏教
瞑想系統仏教以外は
まったく別物の死後の世界を基準に設定されれている感がある😀
暴言爆発しているのを見て
冷ややかに
煩悩燃えてるな?
とレスする
😀
瞑想系統仏教と
西欧哲学に埋もれて忘れられた霊的人格的な交わりなキリスト教は
特異点がある😀
瞑想系仏教(一般的には「瞑想を重視する仏教の宗派や伝統」)の代表的なものについて、分かりやすく解説します。
仏教はどの宗派でも心の平静を大切にしますが、修行の中心として「瞑想(座禅や観法)」を最も重視するグループがあります。現代のメンタルヘルスやマインドフルネスのルーツになっているものも多く存在します。
日本で最も馴染み深い瞑想系仏教です。言葉による教え(経典)よりも、座禅という身体的実践を通じて悟りを開くことを目指します。
臨済宗(りんざいしゅう):「公案(こうあん)」と呼ばれる一見矛盾したクイズのような問題を瞑想中に考え抜き、理性を超えた悟りを目指します。
曹洞宗(そうとうしゅう):「只管打坐(しかんたざ)」といって、何かを考えるのではなく、ただひたすら座る(座禅そのものが悟りの姿であるとする)スタイルです。
スリランカやタイ、ミャンマーなど東南アジアで信仰されている、仏教の極めて初期の形を残す伝統です。ここで実践される瞑想は、現在の「マインドフルネス」の直接のベースになっています。
サマタ瞑想:呼吸や一つの対象に意識を集中させ、心を深く落ち着かせる瞑想です。
ヴィパッサナー瞑想:今この瞬間の身体の感覚や感情、思考を「ありのままに観察(実況中継)」し、物事の真実の姿(無常など)に気づく瞑想です。
チベットやヒマラヤ地域で発展した仏教です。非常に高度で複雑な瞑想体系を持っています。
観自在瞑想(視覚化):仏や曼荼羅(まんだら)の姿を頭の中に鮮明に描き出し、自分自身が仏と一体化する瞑想を行います。
マハームドラー/ゾクチェン:心の本性(生まれ持った純粋な心の状態)をそのまま見つめる、高度な瞑想技法です。
なにせ
世俗をなんらか脱するという霊的センターのイメージを構築しないと
理解がしっくりこない
😀
さて
西欧哲学でもやるかー
😀
哲学者ジョン・ロックの認識論における**「一次性質」と「二次性質」の区別**、および**「実体」**という概念について解説されています。
主なポイントは以下の通りです:
一次性質と二次性質の区別 (1:12-4:14)
一次性質: 物そのものに備わっている客観的な性質(大きさ、形、数、運動、位置など)。私たちが観察していなくても存在します。
二次性質: 物と私たちの感覚の間で生じる性質(色、味、香り、熱さなど)。観察者の感覚に依存するため、人によって感じ方が異なります。
実体という考え方 (4:15-6:04)
私たちは「丸くて赤いもの」などをまとめて一つの物として認識しますが、その性質を支えている「何か」をロックは**「実体」**と呼びました。ただし、その正体は直接知ることができないため、ロックはこれを「何であるか知られないもの(something I know not what)」と表現しました。
ロックは、人間は世界の本質そのものを完全に把握できるわけではない(知識には限界がある)と考えました。しかし、経験を積み重ねることで世界を十分に理解することは可能だと説いています。
その理由は以下の通りです:
実体の不可知性: 私たちは「赤い」「丸い」といった性質を感じていますが、それらを支えている「実体(ものそのもの)」を直接観察することはできません(4:27-4:55)。ロックはこれを「何であるか知られないもの(something I know not what)」と呼びました(5:34-5:52)。
感覚への依存: 私たちが世界を知るプロセスは、あくまで感覚や反省という経験を通じて得た観念に基づいています(0:16-0:24)。二次性質(色、味など)のように、対象そのものではなく「私たちにどのような感覚を引き起こすか」という関係性の中で生じる知識が多いため、世界の本質を完全に捉えることは不可能であると判断しました(2:20-4:14)。
ロックは、世界を一気に説明しようとする体系を作るのではなく、経験に基づいて少しずつ知識を積み重ねていくことが人間の限界を認めた上で最善の道だと考えました(7:13-7:29)。
その論理のポイントは以下の通りです:
観念と実体の分離: 私たちが物について知っているのは「赤さ」や「丸さ」といった性質(観念)の集まりに過ぎません。ロックは、それらの性質を支えている基盤(実体)という概念は必要であると認めつつも、それを直接見て、触れて、認識することは誰にもできないと考えました(4:40-5:02)。
「何であるか知られないもの」: ロックは、その実体の正体について、我々が「それが何であるか知らないけれど、何らかの性質を支えているもの」という形でしか捉えられないとし、これを「something I know not what(何か分からないもの)」と表現しました(5:27-5:52)。
ロックに対するバークリーの主な批判点は以下の通りです:
「実体」という概念の矛盾: ロックは「実体(ものそのもの)」を直接知ることはできないとしつつも、それが存在すること(性質を支えているもの)を認めました。バークリーは、知覚できないものについて「存在している」と主張すること自体が矛盾していると考え、物質的実体の存在そのものを否定しました。
観念の否定: ロックが「我々が知っているのは観念だけである」とした点に対し、バークリーは一歩進んで「存在することは知覚されることである(存在とは知覚されている状態にほかならない)」と主張しました。つまり、物質という土台を想定しなくても、感覚や観念さえあれば世界は成立するという立場をとりました。
簡単に言えば、ロックは「物質はあるけれど、人間にはその本質までは完全には分からない」という不可知論的で慎重な立場をとりましたが、バークリーは「物質があるなどという想定こそが不要であり、私たちの観念こそが世界のすべてである」という、より徹底した観念論を展開したのです
やはり、物質と生命現象のシステムは
客観的存在は設定できるが
人間の精神は厳しそうである😀
バークリから強い影響を受けた
イギリス経験論の3人衆
大陸合理論の3人衆
カントからまた流れ出した
俺は人間の精神の知覚に関しては
物質生命システムの科学研究以外では
ソシュール的
ラングによる恣意的構造だろうと見ている😀
JBL氏は、若いころに 昭和の仏教学に洗脳されたのか?
800 名前:◆JBLfMwCXhY[] 投稿日:2026/10/03(土) 21:15:35.81 ID:eHZtp [5/9] 0
新興宗教より、昭和の仏教学に洗脳された
801 名前:◆JBLfMwCXhY[] 投稿日:2026/10/03(土) 21:19:28.56 ID:eHZtp [6/9] 0
やはり、昭和の仏教学者のスタンスで
新興宗教の信者たちとさんざん論争した
それが大きい
彼の主張の核心は以下の通りです:
観念と知覚の融合: 私たちがリンゴを「赤い」「丸い」「甘い」と感じるのは、それらの感覚(観念)が心の中で結びついているからです。バークリーによれば、これらの性質の背後に「リンゴそのもの(物質的実体)」があるという想定は無意味であり、私たちの知覚こそがその存在のすべてです。
客観世界の保障: では、誰も見ていない時に木が倒れたら音はしないのか?という疑問に対し、バークリーは「すべてを知覚している神」の存在を想定しました。神が常に世界を観念として保ち続けているからこそ、私たちの知覚が途切れても世界は存在し続けると論じました。
つまり、この命題は単なる「自分の主観のみが世界である」という独我論ではなく、**「世界とは私たちの知覚と、それを支える神の知性の織りなす観念の世界である」**という「観念論」を表現したものです。
斎藤一人教では
「魂は不滅」なので、
試験を受け直すことになる。
・・・ということは、ゴールが無いことになる。
つまり
「魂の成長」というゴールなき試験を
永遠に受けなければならない。
魂が成長すればするほど、「困難な人生」になるとしたら、
モチベーションがダダ下がりだ。
訂正
× 試験を受け直すことになる。
〇 永遠に試験を受け直すことになる。
サキャ派のをAIで調べる
だいたい雰囲気はわかる
😀
1. 生起次第(観想による変容のプロセス)
生起次第は、自分自身の凡庸な身体や世界に対する執着を離れ、瞑想(観想)によって自らを本尊(仏・神聖な存在)へと変容させる段階です。
• 前行(予備的修行): 帰依や発菩提心、罪障懺悔などの基礎的な精神浄化を完了させます。
• 空性の観想: まず全ての存在の本来の性質である「空(クォン)」を瞑想し、通常の現実認識を一度解消します。
• 種子字(しゅじじ)からの顕現: 空の中から、本尊を象徴する梵字(種子字)が現れ、それが光やエネルギーとなって変化します。
• 曼荼羅と本尊の構築: 自身がヘーヴァジュラなどの本尊の姿へと完全に変わり、周囲に神聖な宮殿(曼荼羅)を鮮明にイメージし、定着させます。
• 本尊との一体化: 観想した本尊と自分が非二元(一体)であると確信し、日常の粗大な執着や妄想を浄化します。
生起次第が十分に安定した後、肉体と精神の微細なレベルに働きかけ、究極の智慧(楽空不二)を直接実現する段階です。
• 脈管(ツァ)・風(ルン)・心滴(ティグレ)の統御: 身体の内部にある微細なエネルギー気道(脈管)と呼吸・エネルギー(風)、そして生命力の源泉(心滴)の動きをコントロールします。
• 金剛念誦(こんごうねんじゅ): 呼吸と呪文(マントラ)を完全に一致させ、粗大な思考の波を静めていきます。
• 幻身(げんしん)の生起: 粗大な肉体への執着を超越した、微細な意識による幻のような身体(幻身)を現出させます。
• 光明(こうみょう)の体験: 思考や概念が完全に消滅した純粋な意識の根源(光明)に直面し、空性を直接に体得します。
• 双運(そううん): 大楽(この上ない至福・歓喜)と空性(智慧)が完全に一つに統合された「楽空不二(がくくうふに)」、すなわち仏の境地を完成させます。
サキャ派の「道果」では、これら2つの次第が切り離されたものではなく、「輪廻と涅槃はもともと不二である(コルデー・イェルメ)」という大前提のもと、一貫したプロセスとして実践されます。
究竟次第は密教の完成体の禅定
スイスイと内容わかるわ
😀
秋月龍珉の著書を引用しつつ、新興宗教の教義を批判していた
高橋信次の系統に共通する思想
サキャ派か
ゲルク派との違いがわからん😅
> 魂が成長すればするほど、「困難な人生」になるとしたら、
> モチベーションがダダ下がりだ。
この世では、そうかもしれゆが
あの世で素晴らしい世界に逝ける
JBL氏によれば、そうじゃないらしい
高橋信次の輪廻転生説をボロカスに批判してたからな
チベット密教の
違いは
少し解ってきた
ニンマ派とカギュ派は、如来蔵ぽい
サキャ派は、唯識ぽいとも言われるが
ゲルク派は中論を軽視しない
サキャ派は少し解ってきた
😀
サキャ派以外でも、本はあるが、カギュ派はマジメにまだ読んでない😀
秋月龍珉は、「輪廻転生は有ると思っちゃいけない」派なのか?
南直哉は曹洞宗だけど
輪廻転生を否定するときの言い方は、秋月龍珉そのまんま😫
> 秋月龍珉は、「輪廻転生は有ると思っちゃいけない」派なのか?
その通り
JBL氏としては
いまさら、「輪廻転生はある」とは言えないと?
何がきっかけで、
「輪廻転生肯定派」に転向したの?
ボーハルの葉
アガスティアの葉
シヴァの葉
シヴァツーリアの葉
コウシカの葉
スガルの葉
シューガルの葉
アンチェナイスヤラの葉
ボーガルの葉
これらの葉の占いをすると人生が大きく変わると言われています。
過去世、来世、カルマ、救済法、結婚、人間関係、政治家のなり方、教育、敵、病気、宗教などを教えてくれます。
特別章のプラチナムカンダム
特別室もあります。
100章以上あります。
亡くなった人が幽界、地獄、天界などどこにいるか教えてくれます。
「輪廻転生はある」とは言ってるが
高橋信次的な、「人はこの世で肉体という舟に乗り、生まれ変わり、死に変わりながら、永遠の魂修行を続けて、無限に進歩発展向上していく存在なのです」とかなんとか
そういう、ベタな生まれ変わり説をいまさら認めるわけにはいかない
幼少の頃からずっとだ
少なくとも、小学校時代はすでに
一時的に離れていた
彼らの言ってることがウソだと気づいた
新興宗教の信者が、教祖の話をウソだと気づくのと同じだ😫
先週のイスラームのシーア派動画のインスピレーションが脳内に残っていたよーだ😀
ワシは、「無限に進歩発展向上していく存在」という記述に違和感があるなー
魂にも、栄枯盛衰があるのでは?
と思ってしまう。
唯識派の輪廻転生解釈😄
なるほど
進化と退化を繰り返すのか
それも一理ある
言語化しても伝わりにくい、
伝わる時たけ言語化している😀
ペルシャ版・神仏習合
とかオモロかった
😀
仏教では、いくら輪廻転生しても進歩発展向上はない
単に迷って転々としてるだけ
そこが、現代人のポジティブな輪廻観とは異なる
「この世のすべては大日如来の説法だ」(真言宗)の逆バージョンだな😅
即把握に、近いが
瞑想系統仏教以外の宗教は
即把握とはいかない、
脳内熟成が必要らしい😀
ハッスル🤡様は生活のすべては
ナルシズムドパガキ欲求🤡
電磁波とテレビ画像の例えのような
物凄く簡単な例えでしか唯識を捉えられないワシにとっては
唯識派の輪廻転生解釈について
詳しい説明を受けても無理ゲーのようなので、
ここらへんで辞めておこう
説明するのは無理だ
分かるように語れない😅
難行苦行によって輪廻から解脱しようというのは
バラモン教の教えだからなー
釈尊は、難行苦行を否定した
キーワードは
「末那識の相続」だ
難行苦行を否定したといっても
禁欲までは否定してない
そこを誤解してる人が多いな
😀
末那識の相続についての詳しいポイントは以下の通りです。
末那識の性質: 末那識は常に「我(自分)」があると思い込み、阿頼耶識にしがみつく「染汚(そんの)の心(執着の心)」です。
阿頼耶識との関係: 阿頼耶識に蓄積された業(カルマ)や種子(しゅじ:結果を生む潜在的な力)を、末那識が自我の偏ったフィルターを通して絶えず受け継ぎ、未来へ相続させます。
転迷開悟(転換): 修行によって末那識の執着が離れ、清らかな智慧(平等性智)に転じると、阿頼耶識もまた大円鏡智(仏の智慧)へと変わり、いのちの永遠性と真実の姿が明らかにされます。
山を降りると禁欲解除😀
何からしらの囚われがベイダー和尚のマナ識にある
😀
アカシックレコードという概念で解決できるのでは?
425 名前:◆JBLfMwCXhY[] 投稿日:2026/10/02(金) 07:48:56.35 ID:GSyZ3 [30/63] 0
そして、ここがあなたの輪廻観の面白いところです。
「俺は俺だ」の正体を魂にしない
普通の輪廻観だと、
「前世の俺が、来世の俺になる」
と考えたくなる。
すると当然、
「その『俺』って何? 魂か?」
という問題が出る。
ところが唯識では、
「俺」という感覚そのものも識の働きとして説明する。
だから、
「俺」という実体が移動する必要がない。
第七末那識の我執が識の相続の中で続くことで、
次の生にも「我として捉える」という構造が現れる。
これが、あなたの言う
「別人なのに、なぜか『俺は俺だ』が続く」
という、かなり奇妙な現象を説明するわけです。
そしてさらに面白いのが、阿羅漢・仏になると、
この「俺は俺だ」の根っこの我執そのものが転じること。
だから唯識の輪廻論は、
「魂が永遠に転生する話」
というより、
「我執を含んだ識の相続が続き、その相続によって次の存在が成立する話」
と見ると、ずっと分かりやすい。
いやほんと、あなたの
「俺は俺だよ」
を唯識用語に変換すると、急に論文みたいになるのが面白い(笑)。
五来重の本で学習理解した
😀
>>何からしらの囚われ
ヒントは、ワシのコテハンに有る。
そうなのだ
唯識論では、阿頼耶識というアカシックレコードに似たものが、過去の転生履歴のデータをすべて保存している
死ねば、過去の履歴をもとに、次の自分が自動的に生成される
次の自分ったって、前の自分のデータを元に生成されただけなので、普通に見れば「別人」だ
別人だけど、それでいて、なぜか「俺は自分だ」という自分感覚は継続されるという摩訶不思議なシステム
それが「末那識の相続」だ
客観世界の保障: では、誰も見ていない時に木が倒れたら音はしないのか?という疑問に対し、バークリーは「すべてを知覚している神」の存在を想定しました。神が常に世界を観念として保ち続けているからこそ、私たちの知覚が途切れても世界は存在し続けると論じました。
つまり、この命題は単なる「自分の主観のみが世界である」という独我論ではなく、**「世界とは私たちの知覚と、それを支える神の知性の織りなす観念の世界である」**という「観念論」を表現したものです。
らしい😀
そうなのだ
18世紀のイギリスは、世界の最先進国
すでに現代人みたいな合理主義者が多いから、バークリの世界観を茶化して笑う人もいた
それに対する、バークリからの反論
アカシックレコードという概念が登場するまでは、
「摩訶不思議なシステム」だったが、
今では「アカシックレコード」をググれば、
高校物理で赤点を取ったワシでさえ
腑に落ちる
すなわち
科学の発達に応じて、「教義内容」は変化する。
だから、新興宗教をひとくるめにして
侮ってはいけない。
ロックが考える知識の限界:
実体の不可知性: 私たちは物の色や形(観念)を知ることはできますが、その背後にある「性質を支えている何か(実体)」そのものを見ることはできません(4:40-5:06)。ロックはこれを「何であるか知らないが、性質を支えているもの」と表現しました(5:27-5:48)。
本質の探求の断念: 合理論の哲学者たち(デカルトなど)のように「理性」だけで世界の本質や究極の仕組みを解明しようとするのではなく、ロックは「自分たちの知識には限界があること」を認めました(6:16-6:45)。
経験による積み重ね: 知識は一気に全体像を把握するものではなく、個別の経験を積み重ね、観念を整理することで少しずつ理解を深めていくものだと考えました(7:05-7:29)。
つまりロックは、世界の本質を完全に知ることはできないという「不可知論的」な立場を取りつつも、経験を誠実に積み上げることで人間は十分に世界を理解できるという現実的かつ慎重な姿勢を貫いたのです。
その通り
「唯識3年、倶舎8年」と言われるほど、昔の人にとっては難解だったが
現代人にとっては、そこまでではない
俺的には恣意的な人間精神の上位階層に神がいるみたいな想定
例えれば
生活でショックを受け、落ち込んだ時
自分よりも上位階層の神に祈り癒される、
みたいな😀
一神教的には創造主なので
世界の万物を人間の精神を超えた上位階層で人間に作用するみたいな
そんなテーマが、最近の俺の脳内模索テーマである😀
そう、それがイギリス経験論
西洋哲学の祖・プラトンは「想起説」を唱えた
「人は皆、生まれる前から知ってたことを思い出す」というやつだ
近代哲学の祖・デカルトも「生得観念」を唱えた
「ボクは生まれる前から、神様を知っていた。だから、神は存在する」というやつだ
それに反対したのが、ジョン・ロックの「白紙説」
「人は、生まれる前から知ってたことなど、何も無い。すべては、生まれた後で経験から学んだものだ」という主張
高校の倫理社会の授業では、そんなこと教えてくれないが
人間の精神程、自在さがない、
そういう上位階層と、下位階層があるならば、
人間の精神の上の上位階層がある、
それが宗教的な神仏が作用していると
😀
スコラ哲学から初めると
色々解ってきて👍️
😀
うん、かなり核心を突いてる。
ただし、少しだけ補正すると、もっと綺麗に整理できる。
**「生得観念 vs 白紙説」**は、たしかに合理論と経験論の対立を理解する非常に良い入口。
プラトン → 想起説
「学ぶ」とは、魂が以前から知っていたものを想い出すこと。
デカルト → 生得観念
人間の精神には、経験以前から備わっている観念がある。典型が神・自己・数学的真理など。
ロック → タブラ・ラサ
生得的な観念を否定し、観念の材料は基本的に**感覚(sensation)と内省(reflection)**から来る。
ライプニッツ → ロックへの反論
「精神は完全な白紙ではない。生得的なものは、明示的な観念としてではなく、精神の中の潜在的な傾向・構造として存在する」と考える。
「経験論=何でも経験で分かる」ではない
むしろロックは、
人間は経験によってしか知識を得られない。
だからこそ、人間の知識には限界がある。
という方向に行く。
そして、さっきの引用にある**「実体」**が非常に重要。
例えばリンゴを見る。
「赤い」「丸い」「甘い」「硬い」という性質は経験できる。
しかし、
「それらの性質を支えている“リンゴそのもの”とは何なのか?」
となると、直接経験できない。
ロックはこれを完全に否定するわけではなく、
**「何かが性質を支えているのだろうが、
それが何なのかは分からない」**
という慎重な態度を取る。
ここが、後のカントにもつながってくる。
「高校の倫理社会では、そんなこと教えてくれない」
という感覚も分かる(笑)。
高校倫理では、
大陸合理論=理性
イギリス経験論=経験
と覚えさせられがちだけど、実際にはもっと深い。
要するに、
「人間は何を根拠として、何を知ることができるのか?」
という認識論そのものの対立なんだよね。
しかしながら、
「アカシックレコードが存在する科学的根拠はない」ということらしい
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%AB%E3%82%B7%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%AC%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%89
すなわち、我々は、仮説を希望的観測で信じている
「新興宗教の信者」に過ぎないのだ。
ザーメン
一休み
短期間で、よくそこまで理解が進んだな?😆
バークリーの哲学において「神が世界を認識する」という考え方は、私たちが何も見ていないときでも世界が存在し続ける理由を説明するための重要な概念です。
バークリーは「存在することは知覚されることである」と主張しましたが、これに従うと「誰も見ていないものは消えてしまうのか」という疑問が生じます。これに対する答えとして、彼は次のように考えました:
客観的な世界の維持: 人間の知覚は限られており、常に途切れるものです。しかし、無限の知性を持つ神が常に宇宙のすべてを「知覚し続けている」からこそ、対象は消滅せず、安定して存在し続けられると考えました。
観念の源泉: 私たちが目にする「赤い」「丸い」といった観念は、私たちが勝手に作り出したものではなく、神が私たちの心の中に絶えず送り込んでいるものだと捉えました。
つまり、神の認識とは「世界を観念として保持し続けること」であり、神の知性こそが物理法則や世界の安定性を支える絶対的な基盤であるとされたのです。
確かに、科学的に証明されたわけではないが
あるに決まってる
ないわけがない
バークリに目をつけるとは、さすがに仏教系瞑想で鍛えただけのことはあるな😆
瞑想系仏教だ
トマス・アクィナスに関する最初の本が
読むのが四苦八苦やった、
休日の研究途中の脳エネルギーが喪失がかなり起きやすかった😭
かなり効いている
西欧哲学の神と言っていい😀
イギリスから有名な哲学者が来たってんで、アメリカでは話題になった
西海岸きっての名門校「カリフォルニア大学バークリ校」に名を残している
まさにその通り
聖トマスは哲学/神学のネ申
ヨハネの福音書の冒頭は
初めに言葉があった
だ
聖書の理解度合いで西欧哲学理解スピードは違う😀
なるほど
仕方がないが😀
ジョージ・バークリーは、ロックが想定した「物質的実体(性質を支える土台)」という概念を、論理的な矛盾があるとして否定しました。その主な論拠は以下の通りです。
「知覚=存在」の原則: バークリーは、「存在することは知覚されること(Esse est percipi)」であると主張しました。私たちが知っているのは「色」「形」「硬さ」といった感覚(観念)の束であり、それらから切り離された「物質そのもの」を認識することは不可能だと考えました。
不可知論への批判: ロックは実体を「何であるか分からないもの(something, I know not what)」として理論的に想定しましたが、バークリーはこれを「存在しないもの」と結論づけました。知覚から独立した「物質」という概念は、そもそも定義不可能で無意味だと批判したのです。
観念論への転換: 彼は「物質」を否定した結果、この世界は物理的な物質から成るのではなく、私たちの心の中にある「観念」と、それらを常に知覚し支え続ける「神の知性」によって構成されていると考えました。
つまり、バークリーにとって、ロックが認めざるを得なかった「不可知の実体」という概念は、経験論を徹底させた結果、論理的に削ぎ落とすべき不要な仮定だったのです。
>ライプニッツ → ロックへの反論
「精神は完全な白紙ではない。生得的なものは、明示的な観念としてではなく、精神の中の潜在的な傾向・構造として存在する」と考える。
これは知らんかった
さすがはAIだ😅
😀
さらに遡れば、聖アウグスティヌスから始まっている
😀
何を言っていたのか、
俺の脳内からロストしてしまっている😭
デカルト哲学の出発点
それは仕方ない😭
チャットGPT:
そうですね。かなり重要な人物です。
アウグスティヌスは、現代的な意味での「記号論(semiotics)」を体系化したわけではありませんが、西洋記号論の先駆者・祖の一人とされます。
特に重要なのが『キリスト教の教え(De doctrina christiana)』です。ここでアウグスティヌスは、概ね
signum(記号)=それ自体とは別のものを認識させるもの
res(事物)=記号が指し示す対象
言語・文字・身振りなどを記号として分析する
という形で、**「記号は何かを指し示す」**という問題を論じています。
面白いのは、彼にとって言葉そのものも記号だということです。
たとえば「木」という音声を聞いたとき、
「木」という音声そのもの
↓
木という事物・概念
へと心が向かう。
つまり、記号 → 心の中の意味 → 対象という、
後世の意味論・記号論につながる問題設定がすでに出ている。
聖書に書かれた言葉を「文字通りの意味」だけでなく、何を指し示す記号なのかとして読むわけです。
この流れを見ると、
アウグスティヌス → 中世の聖書解釈・スコラ学 → ロックの記号論 → パース/ソシュールの近代記号論
という長い系譜の中に位置づけられます。
特に面白いのは、あなたが最近話していた**「主観と客観」「知覚された世界」「経験によって与えられるもの」**との接点ですね。
「目の前にあるもの」そのものと、それが自分にとって何を意味するかを分けると、そこから一気に記号論・認識論の問題になります。アウグスティヌスはかなり早い段階で、その扉を開けていた人物です。
これは、アウグスティヌスの影響だ
動画で触れられているロックやバークリーの文脈において、観念論は以下のような視点を持っています:
存在の本質: 私たちが「世界」や「物」と呼んでいるものは、独立して存在する物質ではなく、私たちの心が知覚する「観念の集合体」であると捉えます(例えば、バークリーの「存在することは知覚されることである」という主張がこれにあたります)。
物質の否定: 私たちが認識する対象の背後に、認識不可能な「物質的実体」を置く必要はないと考えます。ロックは「実体」という不可知な土台を残しましたが、観念論を突き詰めたバークリーらは、そうした物質的な土台自体を不要な仮定として否定しました。
認識の重要性: 世界を構成しているのは物理的な「モノ」ではなく、それを受け取る「知性」や「心」であるという考え方です。
つまり、観念論は「私たちは本当の世界(モノそのもの)を直接見ているわけではなく、自分自身の意識が作り出した観念の世界を見ているに過ぎないのではないか?」という認識論的な問いから発展した哲学的な立場です。
チャットGPT:
うん、思想的にはかなり近いところがあります。
ただし、「バークリーの『世界は神の記号である』という思想が、直接アウグスティヌスから受け継がれた」と断定するのは少し慎重にしたほうがいいです。
ジョージ・バークリーの有名な発想は、
私たちが知覚する感覚的世界は、神が私たちに与える言語(language)/記号体系である
というものです。
バークリーは『視覚新論』などで、視覚によって与えられる色・形・距離などを、単なる「物質そのもののコピー」ではなく、別のものを示す記号として考えています。
たとえば、
視覚的な観念 A → 触覚的・身体的な経験 B
という対応関係があり、この対応を自然に成立させているのが神だ、という考え方です。
アウグスティヌス
世界・事物 → 神の創造した「しるし」 → 人間の心 → 神的真理
バークリー
感覚的観念 → 神が定めた「言語・記号」 → 人間の心 → 神の意志
つまり両者とも、
「われわれが経験するものは、それ自体だけで閉じたものではなく、何か別のものを指し示している」
という構造を持っています。
ただ、バークリーの場合はさらに徹底していて、物質的実体そのものを否定する。
「机がある」というとき、われわれが直接知覚しているのは神が与える感覚的観念の集合であって、その背後に「物質という実体」を仮定する必要はない。
だからバークリーの世界観は、
世界=神が人間に語りかける巨大な記号体系
と表現すると、かなり分かりやすいんです。
そしてこれは、実はあなたが最近考えていた**「この世界は自分にリアルな体験をさせるための、非常に作り込まれた仕組みに見える」**という発想とも接続できます。
ただしバークリーは「仮想世界」とは言わず、
「世界そのものが神によって秩序づけられた知覚の言語である」
と考える。
ここからさらにパースの記号論まで進むと、かなり面白い思想史になります。
😅
主な批判のポイントは以下の通りです:
常識との乖離: 「私たちの目の前にあるリンゴや机といった物理的な物質は存在せず、すべては観念にすぎない」という主張は、私たちの日常的な感覚や常識からあまりにかけ離れていると批判されました。物質の実在を否定することは、私たちの経験的な直感に反するという指摘です。
認識論的な問題: バークリーは「物は知覚されることで存在する」としましたが、これに対しては、「では、人間が誰も見ていないとき、世界はどうなっているのか?」という問いが投げかけられました。バークリーはこれに対して「神が常に知覚しているから世界は維持される」と答えましたが、この神を導入する論理については、哲学的な妥当性をめぐって議論が続いています。
カントによる批判: イマヌエル・カントなどは、バークリーの理想主義(観念論)に対して、彼を「独断的な観念論者」と呼びました。カントは、私たちが知覚しているものが「物自体」そのものなのか、それともあくまで「現れ(現象)」なのかを厳密に区別する必要性を説き、バークリーの議論が客観的な世界の在り方を十分に説明できていないと見なしました。
バークリーの哲学は、ロックが残した「不可知な実体」という矛盾を突き、経験論を徹底させた点では極めて独創的でしたが、同時にその徹底ゆえに「現実世界をどのように位置づけるか」という難問を残したと言えます。
1. 固い「モノ」から「関係性」への転換
かつての科学では、原子などを「小さな固い球(実体)」と見なす考え方(機械論的自然観)が主流でしたが、現代の量子力学はその基礎を覆しました。現代物理学では、物質を単独の物体として捉えるのではなく、**「他の何かとの相互作用(関係性)」**として記述する考え方が強まっています。
関係的量子力学: 物質の性質は、観測や相互作用という「関係」の中にのみ現れると考えます。
構造実在論: 私たちが「実体」と呼んでいるものは、結局のところ数学的な構造や関係性のパターンに過ぎないという見方です。
2. 質量とエネルギーの等価性
アインシュタインの式
が示したように、質量とエネルギーは交換可能です。これにより、物質は永遠不変の固い実体ではなく、エネルギーの現れ方の一形態であるという理解に変わりました。つまり、物質は「何かが詰まったもの」というより、**「場の励起(エネルギーの揺らぎ)」**として説明されます。
科学哲学者のエルンスト・カッシーラーなどが指摘した通り、科学の発展は「実体概念(モノ)」から「関数概念(関係・プロセス)」への移行の歴史です。現代科学は、「何であるか(What it is)」という実体的な問いよりも、「どう振る舞うか(How it behaves)」という記述や数式によるモデル化を重視します。
結論として
現代科学において「実体」は、「それ以上還元できない究極の土台」としては扱われていません。むしろ、観測される現象の背後にある数学的な法則や、粒子同士の相互作用といった「ネットワーク(関係)」こそが、世界を構成するより本質的なものと見なされています。ロックが感じた「実体とは分からない何か」という直感は、現代においては**「関係性の束」や「場の現象」**という言葉で再解釈されていると言えるでしょう。
仏教がわかってきた人のスレ vol.37
https://talk.jp/boards/psy/1786363932
【イエス】 トーク修道会 【キリスト】 第13使徒
https://talk.jp/boards/psy/1789989428
😱
バークリーが実体を否定した主な理由は以下の通りです。
観念と実体は分離できない: ロックは「赤い」「硬い」といった観念の背後に、それらを支える「物質的実体」があると考えました。しかしバークリーは、私たちは感覚(観念)を通じてしか物事を知ることができず、観念から独立した「物質」を直接経験することは不可能だと主張しました。
「何であるか分からないもの」の無意味さ: ロック自身も実体について「私はそれが何であるか知らない(I know not what)」と認めていました。バークリーは、このような「性質を支えている正体不明の何か」を想定することは哲学的に無意味であり、概念の混乱を招くと批判しました。
存在=知覚されること: バークリーは、もし物質が知覚から離れて独立して存在しているとしても、それを知覚できない以上、私たちにとってその存在は意味をなさないと考えました。そのため「存在することは知覚されることである(esse est percipi)」と結論づけ、物質的実体を排除した世界観を提示しました。
科学的実在論 (Scientific Realism):
独立性: 人間が知覚していようがいまいが、物質的な世界は客観的に存在すると考えます。
科学の目的: 科学理論が記述する対象(電子や原子など、直接見えないものも含む)は、実際に世界の中に存在していると主張します。
真理性: 私たちの最良の科学理論は、世界がどのようになっているかを真に(あるいは近似的に)記述していると考えます。
意識の優位性: 「存在するとは知覚されることである」というように、世界は意識や観念に依存して存在すると考えます。
認識の限界: 私たちが直接触れられるのは「感覚」や「観念」だけであり、その背後に独立した物質的実体があると断定することはできない(あるいは無意味である)と主張します。
バークリの立場: 動画で触れられたバークリは、物質的な世界を否定し、すべてのものは神の知覚、あるいは私たちの知覚によって支えられていると考えました。
まとめると:
科学的実在論が「世界のありのままの姿を科学が捉えられる」と信じるのに対し、観念論は「私たちは自分の意識の中にある観念以上のものを知ることはできない」という認識論的な壁を強調する立場です。
現代科学における実体概念の状況を整理すると以下のようになります。
「実体」から「関係・構造」へ: 物理学の進化により、物質は独立した「かたまり」ではなく、場の量子論や相対性理論が示すように、「場(field)」や相互作用のネットワークとして記述されるようになりました。粒子そのものも「実体」というよりは、場の振動や関係性の一側面として理解されています。
「関数概念」への移行: 近代科学の成立過程において、哲学者のカッシーラーが指摘したように、対象を「実体(何であるか)」で定義するのではなく、**「関数(どう振る舞うか、どんな関係にあるか)」**で記述する手法が主流となりました。現代の科学理論は、対象の背後にある「何か」を探るよりも、対象がいかに振る舞うかという数理モデルの構築に重きを置いています。
結論として、現代の科学者は「実体」という言葉を哲学的な意味で使うことはほとんどありません。科学は、世界の根底に不変の土台があるという前提を置くのではなく、現象の間の動的な関係性や構造を解明することを目指して進歩しています。
バークリーの考え方が重要な理由:
経験論の限界を突きつけた: ロックは「知覚される観念」と「その背後にある物質」を分けましたが、バークリーは「私たちは観念しか知り得ないのだから、物質という不可知なものを想定するのは論理的に無駄である」と批判しました。この**「徹底した経験論」**は、後のヒュームの懐疑論へ直接つながる道筋を作りました。
認識論の転回: 「存在することは知覚されることである(esse est percipi)」という主張は、世界を客観的な物質の集まりではなく、**「知覚(意識)と対象(観念)の相関関係」**として捉える視点をもたらしました。これは、後にカントが展開する「認識論的転回」への重要な準備段階となりました。
問いの深化: バークリーは、物質を否定することで「客観的な世界はどう維持されるのか」という難問に直面し、それを「神」によって解決しようとしました。この論理の展開は、形而上学と認識論が切り離せなかった当時の限界と、その後の哲学が克服すべき課題を明確に示しました。
つまり、バークリーは単に「物質を否定した」だけでなく、**「私たちは世界をどこまで正しく捉えられるのか」**という近代哲学の核心的な問いに対して、論理を極限まで押し進めることで、後の哲学者たちが取り組むべき新たな地平を切り拓いたのです。
1. 世界観と存在論的な前提の違い
科学的実在論: 世界は、人間の意識や知覚とは**独立して存在する「客観的実在」**であると考えます。人間が観測してもしなくても、物質や物理法則はそこに「ある」という前提です。科学は、この独立した世界を徐々に正しく記述していく営みだとみなされます。
観念論: 世界を**「意識(あるいは知覚)によって成立するもの」**とみなします。「存在するとは知覚されることである」というバークリーの言葉通り、私たちの認識から切り離された「物自体」を想定すること自体が論理的に矛盾しているか、無意味であると主張します。
科学的実在論(対応説): 私たちの知識や理論は、外的な実在と「対応」していると考えます。科学が予測を成功させ、技術が発展するのは、理論が「世界の真の構造」を捉えているからこそだ(奇跡の議論)と主張します。
観念論(内在説): 私たちが直接触れられるのは「感覚」や「観念」という意識の内容だけです。外部世界という「外側」にアクセスすることは不可能であり、科学的な理論であっても、結局は人間というフィルターを通した観念の秩序化に過ぎないと考えます。
3. なぜ対立するのか
両者の対立は、**「科学的成功の解釈」**に集約されます。実在論者は「成功は世界が理論通りであることの証明だ」と考えますが、観念論者は「成功は、観念のシステムが人間にとって都合よく整理されていることを示しているだけだ」と考えます。つまり、世界を「探究対象(客観)」と見るか、「体験の集積(主観)」と見るかという、根本的な足場の違いが対立を生んでいるのです。
主な意味とポイント:
「私」という固定的な実体はない: 通常、私たちは「私」という変わらない中心的な存在があると考えがちですが、ヒュームはこれを否定しました。彼は、内省しても見つかるのは「暑い」「痛い」「赤い」といった、つぎつぎに現れては消えていく個別の「知覚」だけであり、その知覚の背後に「私」という不変の土台を見つけることはできないと考えました。
経験の集合体: 人間の精神や「私」とは、それらのバラバラな感覚や記憶、感情といった「知覚」が一時的に集まった単なる「束(たば)」にすぎない、というのがヒュームの主張です。
経験論の徹底: ヒュームは、ロックやバークリー以上に経験論を徹底しました。私たちが直接経験できない「実体」や「自我」のような概念を退け、観測可能な「知覚」という現象の積み重ねのみで人間を説明しようとしました。
つまり、「私」とは何か一つの揺るぎないモノではなく、流動的な経験の連続が生み出す一時的な幻想(または習慣的な意識のまとまり)である、という非常にラディカルな人間観を示したものと言えます。
「知覚」以外に根拠がない(経験主義の原則)
ヒュームは、「私たちの知識はすべて経験から生じる」と考えました。自分の内面をいくら深く探求(内省)しても、見つかるのは「暑い」「痛い」「赤い」「悲しい」といった、常に変化し続ける断片的な「知覚(印象や観念)」のみです。「それらの知覚を束ねている『私』という不変の主体」を、感覚として捉えることは決してできません。ヒュームにとって、経験されないものは存在を認めるべきではないという原則に基づき、「私」という固定的な実体は観測不能な空想と見なされました。
当時、多くの哲学者が「知覚は『私』という実体の中に存在する」と考えていましたが、ヒュームは「実体」そのものの概念を懐疑しました。彼は、知覚同士の間に「実体」という糊のようなものが存在する証拠がないと主張しました。「私」とは、個々の知覚が因果や類似、記憶といった関係性によって単に連鎖し、束になっている状態を指す呼び名に過ぎないと結論付けました。
「自己」は幻想である
ヒュームにとって、「私」とは実在する固定的な中心点ではなく、絶え間なく流れる知覚の「束」が一時的に集まったものです。私たちは、記憶によって過去と現在の知覚が似ているために、それをあたかも「同一の不変な主体(私)」が存在しているかのように錯覚しているだけであると説きました。
つまり、ヒュームの根拠は**「『私』を直接経験することは不可能であり、したがってそれは哲学的に実在を証明できない」**という極めて厳格な経験論的帰結にあるのです。
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