仏のスレ75slipアーカイブ最終更新 2026/03/30 08:551.神も仏も名無しさん50-aNh-Ij-wvu5dVwp特殊な偏見に固執して論争し、「これのみが真理である」と言う人々がいるならば、彼らに言え、「汝と対論する者はここにはいない」と。原始仏典 スッタニパータ前スレ仏のスレ73https://talk.jp/boards/psy/1771840061仏のスレ74https://talk.jp/boards/psy/17720868892026/03/06 19:19:271000すべて|最新の50件953.◆JBLfMwCXhY50-wHr-gF-95QM8EQ0■ 重要:ハイデッガーは「行動指針」を出さないここがサルトルとの決定的な違い。あなたの言った:だから、生きてる間は、精一杯に生きようこれはむしろ👉 サルトル的・実存主義的な結論なんだ。2026/03/30 08:23:40954.◆JBLfMwCXhY50-wHr-gF-95QM8EQ0■ ハイデッガーの場合彼はこうは言わない:頑張れ充実させろ意味を作れ代わりにこうなる:👉 「自分の死に向き合ったうえで、自分の可能性を引き受けよ」それだけ。2026/03/30 08:23:53955.◆JBLfMwCXhY50-wHr-gF-95QM8EQ0■ じゃあ結局どうなるのか?ここが一番リアルな答え:👉 人によって全然違う仕事に打ち込む人もいる何もしない人もいる静かに生きる人もいる何かをやめる人もいるどれが正解かはない。2026/03/30 08:24:08956.◆JBLfMwCXhY50-wHr-gF-95QM8EQ0■ あなたの一文との関係あなたの精一杯に生きようこれは悪くないどころか、かなり自然な帰結なんだけど、ハイデッガー的に言うとこう修正される:👉 「精一杯に生きるべき」ではない👉 「自分の有限性を引き受けた結果として、そうなることもある」2026/03/30 08:24:20957.◆JBLfMwCXhY50-wHr-gF-95QM8EQ0■ もっとハイデッガー風に言い換えるとあなたの文はこう変わる:私は死へと向かう存在である。そのことを引き受けるとき、私はもはや世人のうちに逃れることができない。そのとき、私の可能性は、私自身に委ねられる。2026/03/30 08:24:34958.◆JBLfMwCXhY50-wHr-gF-95QM8EQ0■ 一言でまとめ👉 ハイデッガーは「どう生きろ」とは言わない。👉 「逃げるな」とだけ言う。もしさらに踏み込むなら、「不安(Angst)」がどう働くのか「決意性(Entschlossenheit)」とは何かここに行くと、かなり核心に入る。2026/03/30 08:25:04959.◆JBLfMwCXhY50-wHr-gF-95QM8EQ0>>955> ■ じゃあ結局どうなるのか?> ここが一番リアルな答え:> 👉 人によって全然違う> 仕事に打ち込む人もいる> 何もしない人もいる> 静かに生きる人もいる> 何かをやめる人もいる> どれが正解かはない。なるほど!「では、どうすべきか」というのは、各人の選択にゆだねられているのか。てことは、ハイデッガーの結論は「自由意志」ってこと?2026/03/30 08:26:00960.◆JBLfMwCXhY50-wHr-gF-95QM8EQ0結論から言うと――それはちょっと違う。かなり大事なズレがある。あなたの整理はかなり核心に近いんだけど、マルティン・ハイデッガーが言いたいのは「自由意志で好きに選べ」ではない。むしろ逆で、👉 人はすでに“投げ込まれている”存在だ(被投性)👉 その中でしか選べないという前提がある。2026/03/30 08:27:50961.◆JBLfMwCXhY50-wHr-gF-95QM8EQ0■ ハイデッガーの立場(ここがポイント)彼の考えを整理するとこうなる:人は、勝手にこの世界に生まれてきた時代・環境・性格・身体、全部「与えられている」つまり、完全に自由ではないこれをハイデッガーは👉 「被投性(Geworfenheit)」と呼ぶ2026/03/30 08:28:10962.◆JBLfMwCXhY50-wHr-gF-95QM8EQ0■ じゃあ自由はないのか?ここで面白いのが、👉 それでも「選ばざるを得ない」という点つまり:完全な自由意志ではないでも、何かしらの生き方を「引き受ける」しかない2026/03/30 08:28:26963.◆JBLfMwCXhY50-wHr-gF-95QM8EQ0■ 本当の結論(かなり重要)ハイデッガーの答えはこうなる:👉 「自由に選べ」ではない👉 「すでに置かれている自分を引き受けろ」さらに言うと:👉 死を自分のものとして引き受けたとき、はじめて“本来的に生きる”2026/03/30 08:28:44964.◆JBLfMwCXhY50-wHr-gF-95QM8EQ0■ あなたのまとめとの関係あなたの言っている人によって違う正解はないこれはかなり近い。ただしハイデッガー的にはこう修正される:👉 正解はない(これはOK)👉 でも「何でも自由に選べる」わけではない(ここが違う)2026/03/30 08:28:58965.◆JBLfMwCXhY50-wHr-gF-95QM8EQ0■ 一言でいうとサルトル:👉 「人は自由の刑に処されている」(かなり自由寄り)ハイデッガー:👉 「人は制約の中で、自分の存在を引き受けるしかない」2026/03/30 08:29:23966.◆JBLfMwCXhY50-wHr-gF-95QM8EQ0■ かなり核心の言い換えあなたの問いに対する、ハイデッガー風の答え:👉「自由意志ではない。だが、逃げることもできない。ゆえに、自分の生を引き受けよ」ここまで来てるなら、もう一歩いける。たぶん次に出てくる疑問はこれだと思う:👉 「じゃあ“本来的に生きる”って、具体的に何することなの?」ここ、かなり深いから、行く?2026/03/30 08:29:36967.◆JBLfMwCXhY50-wHr-gF-95QM8EQ0具体的には、例えば「坐禅会に通って、ひたすら坐禅する」↑こんな生き方はどうなのか?2026/03/30 08:30:12968.◆JBLfMwCXhY50-wHr-gF-95QM8EQ0結論から言うと――それはハイデッガー的には「あり得るし、場合によっては本来的」でもあるし、逆に「逃避」にもなり得る、という非常に厄介な位置にある生き方です。まず大前提として、マルティン・ハイデッガーは👉「何をするか」そのものには価値判断をあまり置いていません。重要なのは中身です:なぜそれをやっているのかどんな在り方でやっているのか2026/03/30 08:31:52969.◆JBLfMwCXhY50-wHr-gF-95QM8EQ0■ 本来的になる場合坐禅がこうなっているなら、本来的です:自分が「死に向かう存在」であることを引き受けている世間の価値(成功・金・評価)から距離を取っている「なんとなく」ではなく、自分で選び取っているつまり👉「自分の有限性に目覚めた上で、その生をどう生きるか」として坐禅しているこの場合、坐禅はむしろかなりハイデッガー的です。2026/03/30 08:32:07970.◆JBLfMwCXhY50-wHr-gF-95QM8EQ0■ 非本来的(=世人)になる場合逆に、こうなるとアウトです:みんながやってるから通うなんとなく心が落ち着くから続ける「坐禅してる自分」に安心している深い問題(死・不安)から目を逸らしているこのときは、完全にハイデッガーのいう👉「世人(ダス・マン)」の状態つまり坐禅すら“日常への埋没”になる2026/03/30 08:32:46971.◆JBLfMwCXhY50-wHr-gF-95QM8EQ0■ 重要なポイントここが一番ハイデッガーっぽいところ:👉 行為はどうでもいい。存在の仕方がすべて。会社員でも本来的に生きられる僧侶でも非本来的に生きられるだから👉 坐禅してる=深い👉 働いてる=浅いみたいな区別は、ハイデッガーには一切ない2026/03/30 08:33:11972.◆JBLfMwCXhY50-wHr-gF-95QM8EQ0■ じゃあ坐禅は意味あるのか?これは面白いところで、ハイデッガー的に言えば:👉 「きっかけ」にはなり得る坐禅って、日常の雑音が静まる「なんとなくの生」からズレる不安(Angst)が出てくる可能性があるこの「不安」は、単なる嫌な感情じゃなくて👉「世界の意味が崩れる感覚」ここから初めて👉「自分はどう生きるのか?」という問いが立ち上がる2026/03/30 08:33:31973.◆JBLfMwCXhY50-wHr-gF-95QM8EQ0■ 結論(かなりハッキリ言う)👉 坐禅そのものには価値はない👉 だが、本来的な覚醒の契機にはなり得る👉 同時に、最も巧妙な逃避にもなり得る2026/03/30 08:33:52974.◆JBLfMwCXhY50-wHr-gF-95QM8EQ0もし一歩踏み込むなら、かなり核心的な問いはこれです:👉 あなたは「何のために」坐禅するのか?安心のためか修行のためか真理のためかそれとも、ただ引き受けるためかこの答え次第で、同じ坐禅が覚醒にも、麻酔にもなる2026/03/30 08:34:17975.坐禅36-HdF-cM-kUGo25Mq高知能型サイコパスは底意地の悪い社会への報復行為として一生、坐禅する。本人「いい気味だ。」2026/03/30 08:37:18976.◆JBLfMwCXhY50-wHr-gF-95QM8EQ0いいところに来てる。結論から言うと、👉 ハイデッガーは「これをやれ」という行動リストは一切出さない。そのうえで、「本来的に生きる」とは何かを、かなり具体的に言うとこうなる:2026/03/30 08:44:21977.◆JBLfMwCXhY50-wHr-gF-95QM8EQ0■ ①「自分は必ず死ぬ」と逃げずに引き受けている状態ここが出発点。人は普通、いつか死ぬのは知ってるでも「まだ先」「自分は今じゃない」と思ってるハイデッガーはこれを**非本来的(世人のあり方)**と見る。それに対して本来的とは、👉 「いつ終わるか分からない自分の人生を、すでに引き受けている」状態。2026/03/30 08:44:38978.◆JBLfMwCXhY50-wHr-gF-95QM8EQ0■ ②「世間の価値」ではなく、自分で選んでいる普段の人間は、みんながそうしてるから働く普通こうだから結婚するなんとなくSNSを見るみたいに、「なんとなく」で動いてる。ハイデッガーはこれを👉 “世人(das Man)に流されている状態”と呼ぶ。本来的に生きるとは、👉 「それ、本当に自分で選んでるのか?」を引き受けること2026/03/30 08:44:56979.◆JBLfMwCXhY50-wHr-gF-95QM8EQ0■ ③不安(Angst)から逃げないここがかなり重要。ハイデッガーのいう不安は、仕事が不安お金が不安みたいな“対象のある不安”じゃない。👉 「何をしても意味が保証されていない」というむき出しの感じこれを普通は避ける(忙しくする・娯楽・習慣)。でも本来的な生き方は、👉 その不安を消そうとしない👉 むしろ、それを通して「自分の自由」を引き受ける2026/03/30 08:45:13980.◆JBLfMwCXhY50-wHr-gF-95QM8EQ0■ ④それでも何かを選んで生きるここが誤解されやすいけど重要。ハイデッガーは別に仕事やめろ修行しろ山にこもれとは言わない。むしろ逆で、👉 同じ仕事でもいい👉 同じ生活でもいいただし違いはこう:非本来的:なんとなくやってる本来的:自分で引き受けてやってる2026/03/30 08:45:30981.◆JBLfMwCXhY50-wHr-gF-95QM8EQ0■ じゃあ結局、何するのか?かなり現実的に言うとこうなる:「このままでいいのか?」という問いから逃げない自分の時間が有限であることを忘れない世間の価値を一回疑うそれでも、自分で選んで生きる2026/03/30 08:45:43982.◆JBLfMwCXhY50-wHr-gF-95QM8EQ0■ 坐禅の話とつなげると前に出てた「ひたすら坐禅する」はどうか?答えはシンプル:👉 本来的にもなり得るし、ただの逃避にもなり得る世間から逃げて安心したい → 非本来的自分の存在を引き受けた結果、坐禅する → 本来的同じ行動でも中身が全然違う。2026/03/30 08:46:03983.◆JBLfMwCXhY50-wHr-gF-95QM8EQ0■ 一番コアな一文ハイデッガー的に一番凝縮すると:👉 「自分の死に向かう存在として、自分の生を自分で引き受けること」もしもう一歩踏み込むなら、「じゃあ“引き受ける”って感覚的にどういう状態なのか?」もかなり面白いところだから、そこもいける。2026/03/30 08:46:23984.坐禅36-HdF-cM-kUGo25Mq効いてる効いてるwww2026/03/30 08:47:46985.◆JBLfMwCXhY50-wHr-gF-95QM8EQ0当方:そう、そこだ「自分の生を引き受ける」っていうけど、それは具体的にどういうことなのか?2026/03/30 08:48:09986.坐禅36-HdF-cM-kUGo25Mq高知能型サイコパスは底意地の悪い社会への報復行為として一生、坐禅する。本人「いい気味だ。」2026/03/30 08:48:15987.◆JBLfMwCXhY50-wHr-gF-95QM8EQ0いいところを突いてる。ここを曖昧にしたままだと、マルティン・ハイデッガーはただの「それっぽいこと言う人」になってしまう。結論から言うと、「自分の生を引き受ける」=👉 自分の人生を“他人任せ・世間任せにしないで、最終的な責任を自分で持つこと」ただし、これをもっとハイデッガー的に、そして具体的に分解するとこうなる👇2026/03/30 08:48:32988.◆JBLfMwCXhY50-wHr-gF-95QM8EQ0■ ①「世人(das Man)」から一歩引く人は普通、無意識にこう生きてる:みんながやってるからやる普通こうだからこうするなんとなく流れで決めるこれがハイデッガーの言う「世人(das Man)」。👉 引き受けるとは、ここに流されっぱなしにならないこと。たとえば:本当はやりたくない仕事を「みんなそうだから」で続ける自分の価値観じゃなく「世間の正解」で選ぶこういう状態に、一度“気づく”ことが第一歩。2026/03/30 08:48:55989.◆JBLfMwCXhY50-wHr-gF-95QM8EQ0■ ②「自分は必ず死ぬ」という事実を、他人事にしないハイデッガーの核心はここ。普通はこう思ってる:人は死ぬ(知ってる)でも、まだ自分じゃない(実感してない)👉 これを崩す。つまり:「自分の時間は有限で、しかもいつ終わるかわからない」「これは他人じゃなく、自分の問題だ」と、リアルに引き受ける。2026/03/30 08:49:14990.◆JBLfMwCXhY50-wHr-gF-95QM8EQ0■ ③そのうえで「どう生きるか」を選ぶここが一番誤解されやすいところ。ハイデッガーはこう言わない:頑張れ成功しろ意味あることをしろそうじゃなくて:👉 選ぶこと自体を引き受けろこの仕事を続けるのかやめるのか何もしないのか静かに生きるのかどれでもいい。でも、👉 「自分でそうしている」と分かっているか?ここが決定的。2026/03/30 08:49:35991.◆JBLfMwCXhY50-wHr-gF-95QM8EQ0■ ④言い訳をやめるこれがかなり現実的なポイント。よくあるのは:仕方なかった環境が悪い周りがこうだからもちろん事実としては正しいこともある。でもハイデッガー的には:👉 それでも「その中でそう生きているのは自分」ここから逃げない。2026/03/30 08:50:06992.◆JBLfMwCXhY50-wHr-gF-95QM8EQ0■ まとめ(かなり本質)「自分の生を引き受ける」とは:世間に流されてる自分に気づき自分が死ぬ存在だと引き受けその有限の中で自分で選びその選択の責任を引き受ける👉 =「自分の人生の“主体”になること」2026/03/30 08:50:21993.◆JBLfMwCXhY50-wHr-gF-95QM8EQ0■ じゃあ、具体的な行動に落とすと?かなりシンプルに言うと:「これは本当に自分が選んでるか?」と問い続ける惰性で続けてることに一度疑問を入れる決めたら「自分で選んだ」と自覚する極端に言うと、👉 同じ生活でもいい👉 でも“意識”が違うもしもう一歩踏み込むなら聞きたいんだけど、今あなたが「これ、自分で引き受けてないかもな」と感じる部分ってどこ?そこを具体例で見ると、この話は一気にリアルになる。2026/03/30 08:50:40994.◆JBLfMwCXhY50-wHr-gF-95QM8EQ0当方:例えば、「仕事中毒で仕事ばっかりしている」というのもハイデッガー的には頽落なんだな?2026/03/30 08:54:12995.◆JBLfMwCXhY50-wHr-gF-95QM8EQ0結論から言うと、その可能性はかなり高い。ただし、ハイデッガー的には「仕事している=即ダメ」ではなく、どういう在り方で仕事しているかが決定的に重要になる。まず、マルティン・ハイデッガーのいう「頽落(Verfallen)」はざっくり言うと:世間(das Man)の価値観に流される自分で選んでいるつもりで、実は流されている本来の自己から逃げている状態2026/03/30 08:54:26996.◆JBLfMwCXhY50-wHr-gF-95QM8EQ0■ 仕事中毒はなぜ頽落になりやすいのか「仕事ばっかりしている人」をハイデッガー的に見ると、こうなる:「忙しいことが良いことだ」という世間の価値に乗っている立ち止まって「自分はどう生きるのか?」を問わない不安や死の意識から目を逸らすために没頭しているつまり👉 仕事を“隠れ蓑”にして、自分から逃げている可能性があるこの意味では、かなり典型的な頽落。2026/03/30 08:54:39997.◆JBLfMwCXhY50-wHr-gF-95QM8EQ0■ ただし例外があるここが重要で、ハイデッガーは単純な道徳家ではない。同じ「仕事ばっかり」でも:▼ 頽落なケース周りに評価されたい忙しくないと不安考えたくないから働く👉 世間に埋没している(=頽落)▼ 本来的な可能性自分の有限性(死)を引き受けたうえで自分で選び取って仕事に向き合っている👉 これはむしろ「本来的な在り方」になりうる2026/03/30 08:54:54998.◆JBLfMwCXhY50-wHr-gF-95QM8EQ0■ 一番ハイデッガー的な見分け方シンプルに言うと:👉 その仕事、やめてもいいのにやってるか?やめられない → 頽落寄りやめられるが、あえてやっている → 本来的の可能性2026/03/30 08:55:14999.◆JBLfMwCXhY50-wHr-gF-95QM8EQ0■ もっと核心を言うとハイデッガーにとって問題なのは「仕事量」じゃなくて:👉 “自分の生を引き受けているか”仕事中毒は多くの場合、考えないための逃避世間への同調になりやすいから、頽落と見なされやすい。このテーマ、かなり本質に触れてる。もし一歩進めるなら——👉「じゃあ本来的に働くって、実際どんな感覚なのか?」ここを掘ると、ハイデッガーの核心にかなり近づく。2026/03/30 08:55:341000.◆JBLfMwCXhY50-wHr-gF-95QM8EQ010002026/03/30 08:55:471001.Talk ★???このスレッドはコメントが1000件を超えました。新しいスレッドを立ててください。2026/03/30 08:55:471002.Talk ★???【プレミアムサービス無料期間延長!】プレミアムの無料期間を2026/9/30まで延長することになりました。広告除去や規制緩和など、ヘビーユーザーにとって欠かせない機能を無料でお楽しみいただけます。是非この機会にプレミアムサービスをお試しください!▼プレミアムサービスはこちらからhttps://talk.jp/premium2026/03/30 08:55:47
「これのみが真理である」
と言う人々がいるならば、
彼らに言え、
「汝と対論する者はここにはいない」と。
原始仏典 スッタニパータ
前スレ
仏のスレ73
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仏のスレ74
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ここがサルトルとの決定的な違い。
あなたの言った:
だから、生きてる間は、精一杯に生きよう
これはむしろ
👉 サルトル的・実存主義的な結論
なんだ。
彼はこうは言わない:
頑張れ
充実させろ
意味を作れ
代わりにこうなる:
👉 「自分の死に向き合ったうえで、自分の可能性を引き受けよ」
それだけ。
ここが一番リアルな答え:
👉 人によって全然違う
仕事に打ち込む人もいる
何もしない人もいる
静かに生きる人もいる
何かをやめる人もいる
どれが正解かはない。
あなたの
精一杯に生きよう
これは悪くないどころか、かなり自然な帰結なんだけど、
ハイデッガー的に言うとこう修正される:
👉 「精一杯に生きるべき」ではない
👉 「自分の有限性を引き受けた結果として、そうなることもある」
あなたの文はこう変わる:
私は死へと向かう存在である。
そのことを引き受けるとき、
私はもはや世人のうちに逃れることができない。
そのとき、私の可能性は、私自身に委ねられる。
👉 ハイデッガーは「どう生きろ」とは言わない。
👉 「逃げるな」とだけ言う。
もしさらに踏み込むなら、
「不安(Angst)」がどう働くのか
「決意性(Entschlossenheit)」とは何か
ここに行くと、かなり核心に入る。
> ■ じゃあ結局どうなるのか?
> ここが一番リアルな答え:
> 👉 人によって全然違う
> 仕事に打ち込む人もいる
> 何もしない人もいる
> 静かに生きる人もいる
> 何かをやめる人もいる
> どれが正解かはない。
なるほど!
「では、どうすべきか」というのは、
各人の選択にゆだねられているのか。
てことは、ハイデッガーの結論は
「自由意志」ってこと?
それはちょっと違う。かなり大事なズレがある。
あなたの整理はかなり核心に近いんだけど、
マルティン・ハイデッガーが言いたいのは
「自由意志で好きに選べ」ではない。
むしろ逆で、
👉 人はすでに“投げ込まれている”存在だ(被投性)
👉 その中でしか選べない
という前提がある。
彼の考えを整理するとこうなる:
人は、勝手にこの世界に生まれてきた
時代・環境・性格・身体、全部「与えられている」
つまり、完全に自由ではない
これをハイデッガーは
👉 「被投性(Geworfenheit)」
と呼ぶ
ここで面白いのが、
👉 それでも「選ばざるを得ない」
という点
つまり:
完全な自由意志ではない
でも、何かしらの生き方を「引き受ける」しかない
ハイデッガーの答えはこうなる:
👉 「自由に選べ」ではない
👉 「すでに置かれている自分を引き受けろ」
さらに言うと:
👉 死を自分のものとして引き受けたとき、はじめて“本来的に生きる”
あなたの言っている
人によって違う
正解はない
これはかなり近い。
ただしハイデッガー的にはこう修正される:
👉 正解はない(これはOK)
👉 でも「何でも自由に選べる」わけではない(ここが違う)
サルトル:
👉 「人は自由の刑に処されている」(かなり自由寄り)
ハイデッガー:
👉 「人は制約の中で、自分の存在を引き受けるしかない」
あなたの問いに対する、ハイデッガー風の答え:
👉
「自由意志ではない。
だが、逃げることもできない。
ゆえに、自分の生を引き受けよ」
ここまで来てるなら、もう一歩いける。
たぶん次に出てくる疑問はこれだと思う:
👉 「じゃあ“本来的に生きる”って、具体的に何することなの?」
ここ、かなり深いから、行く?
「坐禅会に通って、ひたすら坐禅する」
↑
こんな生き方はどうなのか?
それはハイデッガー的には「あり得るし、場合によっては本来的」でもあるし、逆に「逃避」にもなり得る、という非常に厄介な位置にある生き方です。
まず大前提として、マルティン・ハイデッガーは
👉「何をするか」そのものには価値判断をあまり置いていません。
重要なのは中身です:
なぜそれをやっているのか
どんな在り方でやっているのか
坐禅がこうなっているなら、本来的です:
自分が「死に向かう存在」であることを引き受けている
世間の価値(成功・金・評価)から距離を取っている
「なんとなく」ではなく、自分で選び取っている
つまり
👉「自分の有限性に目覚めた上で、その生をどう生きるか」として坐禅している
この場合、坐禅はむしろかなりハイデッガー的です。
逆に、こうなるとアウトです:
みんながやってるから通う
なんとなく心が落ち着くから続ける
「坐禅してる自分」に安心している
深い問題(死・不安)から目を逸らしている
このときは、完全にハイデッガーのいう
👉「世人(ダス・マン)」の状態
つまり
坐禅すら“日常への埋没”になる
ここが一番ハイデッガーっぽいところ:
👉 行為はどうでもいい。存在の仕方がすべて。
会社員でも本来的に生きられる
僧侶でも非本来的に生きられる
だから
👉 坐禅してる=深い
👉 働いてる=浅い
みたいな区別は、ハイデッガーには一切ない
これは面白いところで、ハイデッガー的に言えば:
👉 「きっかけ」にはなり得る
坐禅って、
日常の雑音が静まる
「なんとなくの生」からズレる
不安(Angst)が出てくる可能性がある
この「不安」は、単なる嫌な感情じゃなくて
👉「世界の意味が崩れる感覚」
ここから初めて
👉「自分はどう生きるのか?」
という問いが立ち上がる
👉 坐禅そのものには価値はない
👉 だが、本来的な覚醒の契機にはなり得る
👉 同時に、最も巧妙な逃避にもなり得る
👉 あなたは「何のために」坐禅するのか?
安心のためか
修行のためか
真理のためか
それとも、ただ引き受けるためか
この答え次第で、同じ坐禅が
覚醒にも、麻酔にもなる
底意地の悪い社会への
報復行為として
一生、坐禅する。
本人「いい気味だ。」
結論から言うと、
👉 ハイデッガーは「これをやれ」という行動リストは一切出さない。
そのうえで、「本来的に生きる」とは何かを、かなり具体的に言うとこうなる:
ここが出発点。
人は普通、
いつか死ぬのは知ってる
でも「まだ先」「自分は今じゃない」と思ってる
ハイデッガーはこれを**非本来的(世人のあり方)**と見る。
それに対して本来的とは、
👉 「いつ終わるか分からない自分の人生を、すでに引き受けている」
状態。
普段の人間は、
みんながそうしてるから働く
普通こうだから結婚する
なんとなくSNSを見る
みたいに、「なんとなく」で動いてる。
ハイデッガーはこれを
👉 “世人(das Man)に流されている状態”
と呼ぶ。
本来的に生きるとは、
👉 「それ、本当に自分で選んでるのか?」を引き受けること
ここがかなり重要。
ハイデッガーのいう不安は、
仕事が不安
お金が不安
みたいな“対象のある不安”じゃない。
👉 「何をしても意味が保証されていない」というむき出しの感じ
これを普通は避ける(忙しくする・娯楽・習慣)。
でも本来的な生き方は、
👉 その不安を消そうとしない
👉 むしろ、それを通して「自分の自由」を引き受ける
ここが誤解されやすいけど重要。
ハイデッガーは別に
仕事やめろ
修行しろ
山にこもれ
とは言わない。
むしろ逆で、
👉 同じ仕事でもいい
👉 同じ生活でもいい
ただし違いはこう:
非本来的:なんとなくやってる
本来的:自分で引き受けてやってる
かなり現実的に言うとこうなる:
「このままでいいのか?」という問いから逃げない
自分の時間が有限であることを忘れない
世間の価値を一回疑う
それでも、自分で選んで生きる
前に出てた「ひたすら坐禅する」はどうか?
答えはシンプル:
👉 本来的にもなり得るし、ただの逃避にもなり得る
世間から逃げて安心したい → 非本来的
自分の存在を引き受けた結果、坐禅する → 本来的
同じ行動でも中身が全然違う。
ハイデッガー的に一番凝縮すると:
👉 「自分の死に向かう存在として、自分の生を自分で引き受けること」
もしもう一歩踏み込むなら、
「じゃあ“引き受ける”って感覚的にどういう状態なのか?」もかなり面白いところだから、そこもいける。
「自分の生を引き受ける」っていうけど、
それは具体的にどういうことなのか?
底意地の悪い社会への
報復行為として
一生、坐禅する。
本人「いい気味だ。」
結論から言うと、
「自分の生を引き受ける」=
👉 自分の人生を“他人任せ・世間任せにしないで、最終的な責任を自分で持つこと」
ただし、これをもっとハイデッガー的に、そして具体的に分解するとこうなる👇
人は普通、無意識にこう生きてる:
みんながやってるからやる
普通こうだからこうする
なんとなく流れで決める
これがハイデッガーの言う「世人(das Man)」。
👉 引き受けるとは、ここに流されっぱなしにならないこと。
たとえば:
本当はやりたくない仕事を「みんなそうだから」で続ける
自分の価値観じゃなく「世間の正解」で選ぶ
こういう状態に、一度“気づく”ことが第一歩。
ハイデッガーの核心はここ。
普通はこう思ってる:
人は死ぬ(知ってる)
でも、まだ自分じゃない(実感してない)
👉 これを崩す。
つまり:
「自分の時間は有限で、しかもいつ終わるかわからない」
「これは他人じゃなく、自分の問題だ」
と、リアルに引き受ける。
ここが一番誤解されやすいところ。
ハイデッガーはこう言わない:
頑張れ
成功しろ
意味あることをしろ
そうじゃなくて:
👉 選ぶこと自体を引き受けろ
この仕事を続けるのか
やめるのか
何もしないのか
静かに生きるのか
どれでもいい。
でも、
👉 「自分でそうしている」と分かっているか?
ここが決定的。
これがかなり現実的なポイント。
よくあるのは:
仕方なかった
環境が悪い
周りがこうだから
もちろん事実としては正しいこともある。
でもハイデッガー的には:
👉 それでも「その中でそう生きているのは自分」
ここから逃げない。
「自分の生を引き受ける」とは:
世間に流されてる自分に気づき
自分が死ぬ存在だと引き受け
その有限の中で
自分で選び
その選択の責任を引き受ける
👉 =「自分の人生の“主体”になること」
かなりシンプルに言うと:
「これは本当に自分が選んでるか?」と問い続ける
惰性で続けてることに一度疑問を入れる
決めたら「自分で選んだ」と自覚する
極端に言うと、
👉 同じ生活でもいい
👉 でも“意識”が違う
もしもう一歩踏み込むなら聞きたいんだけど、
今あなたが「これ、自分で引き受けてないかもな」と感じる部分ってどこ?
そこを具体例で見ると、この話は一気にリアルになる。
ハイデッガー的には頽落なんだな?
まず、マルティン・ハイデッガーのいう「頽落(Verfallen)」はざっくり言うと:
世間(das Man)の価値観に流される
自分で選んでいるつもりで、実は流されている
本来の自己から逃げている状態
「仕事ばっかりしている人」をハイデッガー的に見ると、こうなる:
「忙しいことが良いことだ」という世間の価値に乗っている
立ち止まって「自分はどう生きるのか?」を問わない
不安や死の意識から目を逸らすために没頭している
つまり
👉 仕事を“隠れ蓑”にして、自分から逃げている可能性がある
この意味では、かなり典型的な頽落。
ここが重要で、ハイデッガーは単純な道徳家ではない。
同じ「仕事ばっかり」でも:
▼ 頽落なケース
周りに評価されたい
忙しくないと不安
考えたくないから働く
👉 世間に埋没している(=頽落)
▼ 本来的な可能性
自分の有限性(死)を引き受けたうえで
自分で選び取って仕事に向き合っている
👉 これはむしろ「本来的な在り方」になりうる
シンプルに言うと:
👉 その仕事、やめてもいいのにやってるか?
やめられない → 頽落寄り
やめられるが、あえてやっている → 本来的の可能性
ハイデッガーにとって問題なのは「仕事量」じゃなくて:
👉 “自分の生を引き受けているか”
仕事中毒は多くの場合、
考えないための逃避
世間への同調
になりやすいから、頽落と見なされやすい。
このテーマ、かなり本質に触れてる。
もし一歩進めるなら——
👉「じゃあ本来的に働くって、実際どんな感覚なのか?」
ここを掘ると、ハイデッガーの核心にかなり近づく。
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