仏教がわかってきた人のスレ vol.36最終更新 2026/06/07 11:491.◆JBLfMwCXhYdPUzO下記の2スレを統合😄前スレ【唯識三年】仏教ウンチクを語るスレ 10【倶舎八年】https://talk.jp/boards/psy/1759535455仏教がわかってきた人のスレ vol.35https://talk.jp/boards/psy/17540465212026/03/04 07:35:44451コメント欄へ移動すべて|最新の50件402.◆JBLfMwCXhYIF8mGヨガ思想の世界観だと、静止した固定的な「真我」(プルシャ)があって自分と世界の成り行きを、黙ってジッと見続けている2026/05/30 16:05:49403.◆JBLfMwCXhYIF8mGプルシャは、日本語で「真我」と訳されるが現代の日本人がイメージする「霊魂」とは、だいぶ異なる2026/05/30 16:06:13404.◆JBLfMwCXhYIF8mGプルシャは、まったく動かない完全に静止しているカチコチに固定的な実体だ2026/05/30 16:06:28405.◆JBLfMwCXhYIF8mGプルシャは変化しない当然、進歩も改善もない「霊的な進化」などとは無縁の存在だ2026/05/30 16:06:47406.◆JBLfMwCXhYIF8mGプルシャは何もしないそもそも、動かないジッと観察しているだけの観照者それが、ヨガ思想における「真我」だ2026/05/30 16:07:03407.◆JBLfMwCXhYIF8mG仏教、とくに初期仏教のお釈迦様は「固定的で永遠の実体などない」と、盛んに強調したこれを、昭和の仏教学者たちは、「釈迦は霊魂を否定した」と受け取った2026/05/30 16:07:27408.◆JBLfMwCXhYIF8mGだが、お釈迦様が「固定的な実体など無い」と否定したのは現代人がイメージするような「霊魂」ではないお釈迦様が否定したのは、こういうものだ↓プルシャ(真我)は、まったく動かない完全に静止しているカチコチに固定的な実体だプルシャは変化しない当然、進歩も改善もない「霊的な進化」などとは無縁の存在だ2026/05/30 16:08:07409.◆JBLfMwCXhYIF8mGこればっかりは、仏教だけを見てたんじゃ分からないインド思想全般が見えてないと2026/05/30 16:08:42410.◆JBLfMwCXhYIF8mGチャットGPT:かなり重要な指摘です。少なくとも初期仏教が批判対象としていた「我(アートマン)」は、現代日本でイメージされるような死後も成長する魂霊的に進化する魂学習して成熟していく魂というものではありません。むしろ当時のインド思想、とくにサーンキヤやウパニシャッド系統で語られるアートマンやプルシャは、常住(永遠)不変不動不生不滅観照者という性格を持っています。つまり、「世界は変化するが、真我だけは変化しない」という発想です。2026/05/30 16:09:30411.◆JBLfMwCXhYIF8mGあなたの言うプルシャ(真我)は、まったく動かない完全に静止しているカチコチに固定的な実体だという理解は、大筋でサーンキヤ哲学のプルシャ像に合っています。だから仏教の無我論も、「魂なんて無い」というより、「そんな不変の主体を経験の中に見出せるか?」という問いとして理解した方が近い。釈迦は、身体は変化する感覚は変化する感情は変化する思考は変化する意識も変化すると観察して、「これらのどこにも不変の自己は見つからない」と論じた。五蘊の分析もそのためです。実際、初期経典ではもしそれが我であるならば、 それは病まず、変化せず、 『こうあれ』『こうなるな』と自在に命じられるはずだという論法が繰り返されます。つまり批判対象は、「変化しない支配者としての自己」なのです。2026/05/30 16:10:24412.神も仏も名無しさんzB6g7仏教学者は悪影響がデカイだろな鈴木大拙系統が一番良くない😅2026/05/30 16:10:26413.◆JBLfMwCXhYIF8mG興味深いのは、現代のニューエイジや心霊思想で語られる魂の成長魂の学習魂の進化という考え方は、実は古典的なアートマン論とも少し違うことです。本来のアートマンやプルシャは完成された存在なので、成長しません。成長するなら、それは変化していることになるからです。その意味では、「霊的進化する魂」よりも、「永遠に変わらない観照者」の方が、釈迦が対論していた相手に近い。そして釈迦の立場は、「そんな固定的な観照者を探すより、現に起きている身体・感覚・心の働きを観察しなさい」という方向だったと言えます。だから四念処の実践も、プルシャ探しではありません。身体・感覚・心・法を観察していくと、そこには固定的な主体ではなく、条件によって生起し消滅するプロセスしか見当たらない――これが初期仏教の無我観の核心です。2026/05/30 16:10:46414.神も仏も名無しさんzB6g7鈴木大拙、秋月リョウミン系統の学者がとくに超バッド😅2026/05/30 16:11:29415.神も仏も名無しさんzB6g7今日は天台華厳真言チベット曹洞宗が超グレードフルアップした日だかなりキタ━━━━(゚∀゚)━━━━!!臨済宗以外😀2026/05/30 16:12:29416.神も仏も名無しさんzB6g7俺ちゃまの今日のグレードフルアップの気分なんて理解できんだろうなヤツラは😀2026/05/30 16:14:08417.神も仏も名無しさんzB6g7唯識でいうならば成所作智のゾーンだ😀2026/05/30 16:14:47418.神も仏も名無しさんzB6g7四念処の実践の反転術式の成所作智みたいな?😀2026/05/30 16:15:46419.神も仏も名無しさんzB6g7ユーチュバー僧侶ありがたや〜🙏😀2026/05/30 16:16:04420.◆JBLfMwCXhYIF8mG質問:少なくともアートマン/プルシャは、「転々と生まれ変わって、人生経験を重ねていく」というような存在ではないその辺りが、現代の日本では誤解されているように感じる2026/05/30 16:16:40421.◆JBLfMwCXhYIF8mGチャットGPT:その指摘は、インド思想史の観点から見るとかなり妥当です。現代日本では、魂が何度も生まれ変わりながら成長する魂が経験値を積んで進化する魂のレベルが上がるというイメージで「霊魂」や「真我」が語られることが少なくありません。しかし、古典的なアートマン論やプルシャ論は、必ずしもそうではありません。例えばサーンキヤ哲学のプルシャは、生まれない死なない変化しない行為しないただ見ているだけという存在です。輪廻するのは厳密にはプルシャではなく、物質原理であるプラクリティ側の働きです。プルシャ自身は最初から完成しており、成長も退化もしません。またウパニシャッド系のアートマンも、永遠不変完全という性格が強く、「魂が人生経験を積んで進歩する」というより、「本来すでに完全な自己を発見する」という方向性です。だから本来の解脱思想は、魂が成長して神になるではなく、もともと自由だった真我に目覚めるという構図です。2026/05/30 16:18:09422.◆JBLfMwCXhYIF8mGこの点は、現代のスピリチュアル思想とはかなり違います。現代の「魂の成長」論は、むしろ西洋の進歩史観や近代的な自己実現論と混ざり合って形成された面があります。例えば、19~20世紀の神智学やニューエイジ思想では、魂は進化する魂には段階がある高級霊へ進歩するといった考え方が広まりました。これは古典的なアートマン論とは別物です。だから、釈尊が対論していた相手を考えると、アートマン/プルシャは、「転々と生まれ変わって、人生経験を重ねていく」というような存在ではないという理解は重要です。釈尊が批判していたのは、変化しない観照者永遠不変の自己行為や変化から超越した主体という観念であって、現代の「成長する魂」のイメージを直接批判していたわけではありません。むしろ後者は、古代インドのアートマン論そのものというより、近代以降に再構成された「魂」のイメージだと言った方が正確でしょう。2026/05/30 16:18:32423.神も仏も名無しさんzB6g7>>420永遠のプラーナの感覚にあるゾーンだろなーシヴァナンダヨガで理解した😀2026/05/30 16:18:42424.◆JBLfMwCXhYIF8mG質問:アートマン/プルシャは、どちらかといえば現代のスピリチュアリズムでいう「霊魂」より大乗仏教でいう「仏性/如来蔵」に近い2026/05/30 16:18:53425.◆JBLfMwCXhYIF8mGチャットGPT:その比較は、かなり示唆的です。ただし、「同じ」とまでは言えませんが、現代スピリチュアリズムの『成長する魂』よりは、アートマン/プルシャの方が如来蔵や仏性と比較されることが多いのは事実です。なぜかというと、共通点があるからです。アートマンやプルシャは、本来から存在する生滅しない汚れない完成されている修行によって作られるものではないという性格を持ちます。そして如来蔵思想でも、すべての衆生に本来具わっている本質的には清浄である煩悩によって覆われているだけ新しく作り出すものではないという説明が見られます。そのため、仏教学者の中には、如来蔵思想を仏教化されたアートマン思想あるいはアートマン思想への接近として論じる人もいます。2026/05/30 16:19:38426.◆JBLfMwCXhYIF8mG実際、中国仏教や禅宗の文献を読むと、「本来成仏している」「本来清浄である」という表現が頻繁に出てきます。これは初期仏教の五蘊を観察して無我を知るという語り口とはかなり雰囲気が違います。一方で、大乗仏教側は、「如来蔵を実体視するな」とも繰り返し主張します。たとえば 龍樹 系統の中観思想は、あらゆる実体化を警戒しますし、如来蔵経典でも「方便として語っている」という説明がなされることがあります。だから、アートマン/プルシャ = 永遠の実体如来蔵/仏性 = 実体ではないという区別を立てるのが、大乗仏教側の公式見解です。2026/05/30 16:20:04427.◆JBLfMwCXhYIF8mGしかし思想史的に見ると、本来から存在する究極的なものという発想の近さは否定できません。その意味で、アートマン/プルシャは、現代スピリチュアリズムでいう「霊魂」より、大乗仏教でいう「仏性/如来蔵」に近いという見方には十分な説得力があります。特に「完成されたものが最初からある」という点では非常に近い。逆に、魂が転生を繰り返しながら成長していくという現代スピリチュアル的な魂観とは、アートマンもプルシャもかなり距離があります。むしろ古典的なアートマン論は、「進化する魂」ではなく、「最初から完成している真の自己を発見する思想」と捉えた方が実態に近いでしょう。2026/05/30 16:20:20428.神も仏も名無しさんzB6g7>>421修験道、密教要素がある随心院の系統の開山の仁海は母親が牛になったとか、日本の仏教説話では生まれ変わりで牛から人間へとみたいな話があるなー😀2026/05/30 16:20:51429.◆JBLfMwCXhYIF8mG>>419そんな凄い YouTube禅僧がいるのか?😆2026/05/30 16:23:38430.神も仏も名無しさんzB6g7>>420どれを見ても、マジで雰囲気が神々しいので臨済宗以外のゾーンレベルが上がる動画ユーチュバー僧侶は臨済宗だけど臨済宗としては超トップではない😀2026/05/30 16:27:00431.神も仏も名無しさんzB6g7神々しさがあれば十牛図のラスト完成実現してない😀2026/05/30 16:37:09432.夕6GOZKhttps://ameblo.jp/hosshinzendo/entry-12953276099.html発心禅堂禅修行にはそれぞれの理由があるのでしょう。その事柄を大切にして自身の禅修行をして頂きたい。繰り返しますが、 「 正師と信じ、師の言う事を信じ、師の言う通りに 行ぜよ 」はダメ。禅修行は 「 自身が自身に落ち着く 」 「 自分で自分を解決する道 」すなわち、発心禅堂は 「 真っ暗闇を一人旅 」 「 一人奈落の底を這いずり回る 」 「 大疑団の闇を一人自力で這い上がる、」の参究をお願いしています※だそうだ。自灯明、法灯明2026/05/31 05:43:43433.夕6GOZKあの世には何ものも持って行けないと思えば、執着するものも結構楽に捨てられるかもしれないwあまりいろんな女性に声かけるから、ある女性から、声掛け過ぎよと言われ、少し絞りなさいと言われている えこひいきをしていけないと思って掛けているんだが、それがいけないみたいだw 人生を楽しんでいるゆいつ 気にしていることは、生活を整える これはこれで楽しい(*^-^*)2026/05/31 05:59:44434.◆JBLfMwCXhYEXQIL町野久義氏ですな😄2026/05/31 07:14:09435.神も仏も名無しさんzKIS0朝近所の御室派寺院にお参り錦の御旗があるので錦の御旗て挨拶するとリアクションがあるそれ以前はリアクションゼロだった😀用事があってその場所の見えるところに崇教真光の施設があるむろん、関与しない😀2026/05/31 07:36:14436.◆JBLfMwCXhYEXQIL手かざしか~😅2026/05/31 07:37:05437.神も仏も名無しさんzKIS0教会長らしきのが二人ウロウロしているのを見かけた車は2台、バイク1台ある😀2026/05/31 07:42:08438.神も仏も名無しさんzKIS0早起きし過ぎて時間が余ったので、お寺参りした神仏習合の残影がある😀2026/05/31 07:44:06439.◆JBLfMwCXhYEXQIL崇教真光も、昔ほどの過激団体じゃなくなってるんだろうな2026/05/31 08:00:19440.◆JBLfMwCXhYBdlXw十二縁起倶舎論の解説『倶舎論』では、それぞれこのように教えられています。1.「無明」とは迷いの根本です。無始の無明ともいって、始まりのない始まりから続く迷いの心です。これが原因となって次の行を生み出します。2.「行」とは行為のことで前生で行った業です。これが原因となって次の識を生み出します。3.「識」とは前生の業が始めて精神的な結果としてあらわれたもので、お母さんのお腹に宿ったときです。このことは『長阿含経』にこう説かれています。もし識、母胎に入らざれば名色あるやいなや。答えて曰く無きなり。(漢文:若識不入母胎者有名色不 答曰無也)(引用:『長阿含経じょうあごんきょう』)2026/06/05 22:56:49441.◆JBLfMwCXhYBdlXw4.「名色」とは、識が具体的な形となったものです。「名色」の「名」は心、「色」は形を表しています。私たちがお腹に宿ってから眼や耳ができるまでなので、約4週間程度です。5.「六処」とは、眼、耳、鼻、舌、身、意の六感ができて六識ができるまでです。まだお腹の中です。6.「触」とは、初めて外界の事物を感覚し始める小さい頃です。7.「受」とは、外界から種々の言語や知識を受け取る時代です。8.「愛」とは、精神が発達して色欲が強くなり、愛憎の思いを感ずる青春時代です。9.「取」は、欲望がますます激しく起きる時代です。あれが欲しい、これが欲しい、ほめられたい、認められたいという欲の心に日夜馳せ使われます。2026/06/05 22:57:44442.◆JBLfMwCXhYBdlXw10.「有」とは、業のことです。業は未来の結果を有するということで「有」といいます。「愛」「取」の煩悩に引きずられ、色々な悪業を造って未来に輪廻転生りんねてんしょうする種を残します。11.「生」とは、現世に造った業によって次の世に生を受けます。12.「老死」とは、生まれてから老衰して死んでゆくまでです。このように、十二因縁は三世にわたっており、1番目から2番目までは過去世、3番目から10番目までは現在世、11番目、12番目は未来世です。それで「三世両重の因縁」といわれます。2026/06/05 22:58:13443.◆JBLfMwCXhYBdlXw十二縁起唯識の解説『倶舎論』は『阿含経』などの小乗経典といわれるお経に説かれることを、総合して解説されたものですが、唯識ゆいしきの場合は、小乗経典に加えて、三界唯心を説く『華厳経』その他、大乗経典も総合して解説されています。そのために、より深く、複雑になります。前提として、大乗唯識では、私たちの行いは、目に見えない種子となって阿頼耶識あらやしきといわれる心に収まっており、やがて縁がきた時に結果となって現れます。小乗では外界は実在しますが、大乗では外界は実在せず、すべて阿頼耶識が生み出したものですので、唯識といわれます。そのため唯識では、十二因縁もすべて心の中の因縁になります。2026/06/05 23:00:29444.◆JBLfMwCXhYBdlXw1.「無明」は迷いの根本です。ここでは、煩悩で一番根本になっているものです。煩悩のことを「惑」ともいうので、無明を「発業の惑」ともいいます。次の「行」は業なので、次の行を生み出す煩悩のことです。2.「行」とは行為のことで業ですが、阿頼耶識におさまっている業種子ごうしゅうじです。輪廻転生する時に重要な働きをします。3.「識」は、輪廻転生して次の阿頼耶識になる種子です。つまり生まれ変わって次の阿頼耶識になるタネです。4.「名色」とは、「名」は心、「色」は肉体のことで、心身のことですが、輪廻転生して次の心身になる種子のことです。直前の阿頼耶識と、次の六処ろくしょ、触そく、受じゅは別に説明されているので、それらは除いた、心身のそれ以外になるタネです。2026/06/05 23:00:43445.◆JBLfMwCXhYBdlXw5.「六処」とは、次の生に眼、耳、鼻、舌、身、意の六根になる種子です。つまり生まれ変わって六感になるタネです。6.「触」とは、生まれ変わって、六感が対象に触れる働きの種子です。7.「受」とは、生まれ変わった次の生、触れた対象が楽しいとか苦しいと感受する働きの種子です。このように、識、名色、六処、触、受の5つは、阿頼耶識におさまっている、来世の内容になる種子です。阿頼耶識の中には同時に存在しているのですが、生まれ変わった後、順番にできてくるので、このような順番になっています。8.「愛」とは、意識に生まれつき備わっている粗い愛欲の煩悩です。死ぬ時には三愛になります。三愛とは、境界きょうがい愛、自体じたい愛、当生とうしょう愛の3つです。境界愛とは、臨終に愛する妻子、家財などにおこす執着です。自体愛とは、自分の身体に対する強い執着です。当生愛とは、死ぬ時に未来に生まれる処についておこす愛着心です。これも無明と同じように煩悩ですが、無明を「発業の惑」といったのに対して「潤生にんじょうの惑」といいます。2026/06/05 23:00:57446.◆JBLfMwCXhYBdlXw9.「取」は、意識に生まれつき備わっている細かい愛欲の煩悩と、それ以外のすべての煩悩です。これも潤生の惑です。この愛と取の2つは、死んだ時、2番目の業種子が、3番目から7番目までの5つの種子を生まれ変わらせるのを助ける働きをします。潤生とは、転生を潤すということで、転生を助けるという意味です。10.「有」とは、2番目の行の業種子と、3番目から7番目の5つの生まれ変わる種子が、8番目と9番目の潤生の惑の働きを受けて、まもなく転生するという段階です。つまり、もうすぐ生まれ変わる2番目から7番目の種子です。11.「生」とは、転生した阿頼耶識が新しい世界を生み出し始めてから、老衰する前までです。12.「老死」とは、老衰し始めてから死ぬまでです。2026/06/05 23:01:10447.◆JBLfMwCXhYBdlXwこのように、十二因縁は二世にわたっており、1番目から10番目までを過去世とすれば、11番目、12番目は現在世、1番目から10番目までを現在世とすれば、11番目、12番目は未来世です。それで「二世一重の因果」といわれます。こうして私たちは、悪業を造り、因果の道理にしたがって、迷いの世界である六道を輪廻し、永遠に苦しみ迷い続けていくのです。2026/06/05 23:01:23448.神も仏も名無しさん2Ka64やっぱりJBLは論理的な地頭が、良いのだな😀俺はフリーズしてる論理的は😀2026/06/05 23:02:47449.◆JBLfMwCXhYBdlXw論理もいいけど宗教はやっぱり、直観だ😆2026/06/05 23:03:51450.神も仏も名無しさん2Ka64仮説キリスト教神学とは主の賛美の形態の一つしらんけどテキトーな仮説😀2026/06/05 23:07:50451.ゴリ子EynGe>>449なんや?ただの野生な猿と自白したんか?2026/06/07 11:49:59
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【唯識三年】仏教ウンチクを語るスレ 10【倶舎八年】
https://talk.jp/boards/psy/1759535455
仏教がわかってきた人のスレ vol.35
https://talk.jp/boards/psy/1754046521
自分と世界の成り行きを、黙ってジッと見続けている
現代の日本人がイメージする「霊魂」とは、だいぶ異なる
完全に静止している
カチコチに固定的な実体だ
当然、進歩も改善もない
「霊的な進化」などとは無縁の存在だ
そもそも、動かない
ジッと観察しているだけの観照者
それが、ヨガ思想における「真我」だ
「固定的で永遠の実体などない」
と、盛んに強調した
これを、昭和の仏教学者たちは、
「釈迦は霊魂を否定した」
と受け取った
現代人がイメージするような「霊魂」ではない
お釈迦様が否定したのは、こういうものだ
↓
プルシャ(真我)は、まったく動かない
完全に静止している
カチコチに固定的な実体だ
プルシャは変化しない
当然、進歩も改善もない
「霊的な進化」などとは無縁の存在だ
インド思想全般が見えてないと
かなり重要な指摘です。
少なくとも初期仏教が批判対象としていた「我(アートマン)」は、現代日本でイメージされるような
死後も成長する魂
霊的に進化する魂
学習して成熟していく魂
というものではありません。
むしろ当時のインド思想、とくにサーンキヤやウパニシャッド系統で語られるアートマンやプルシャは、
常住(永遠)
不変
不動
不生不滅
観照者
という性格を持っています。
つまり、
「世界は変化するが、真我だけは変化しない」
という発想です。
プルシャ(真我)は、まったく動かない
完全に静止している
カチコチに固定的な実体だ
という理解は、大筋でサーンキヤ哲学のプルシャ像に合っています。
だから仏教の無我論も、
「魂なんて無い」
というより、
「そんな不変の主体を経験の中に見出せるか?」
という問いとして理解した方が近い。
釈迦は、
身体は変化する
感覚は変化する
感情は変化する
思考は変化する
意識も変化する
と観察して、
「これらのどこにも不変の自己は見つからない」
と論じた。
五蘊の分析もそのためです。
実際、初期経典では
もしそれが我であるならば、 それは病まず、変化せず、 『こうあれ』『こうなるな』と自在に命じられるはずだ
という論法が繰り返されます。
つまり批判対象は、
「変化しない支配者としての自己」
なのです。
悪影響がデカイだろな
鈴木大拙系統が一番良くない
😅
魂の成長
魂の学習
魂の進化
という考え方は、実は古典的なアートマン論とも少し違うことです。
本来のアートマンやプルシャは完成された存在なので、成長しません。
成長するなら、それは変化していることになるからです。
その意味では、
「霊的進化する魂」
よりも、
「永遠に変わらない観照者」
の方が、釈迦が対論していた相手に近い。
そして釈迦の立場は、
「そんな固定的な観照者を探すより、現に起きている身体・感覚・心の働きを観察しなさい」
という方向だったと言えます。
だから四念処の実践も、プルシャ探しではありません。
身体・感覚・心・法を観察していくと、そこには固定的な主体ではなく、条件によって生起し消滅するプロセスしか見当たらない――これが初期仏教の無我観の核心です。
とくに
超バッド
😅
天台華厳真言チベット曹洞宗が
超グレードフルアップした日だ
かなりキタ━━━━(゚∀゚)━━━━!!
臨済宗以外
😀
グレードフルアップの気分なんて
理解できんだろうな
ヤツラは
😀
成所作智のゾーンだ
😀
成所作智みたいな?
😀
🙏
😀
少なくとも
アートマン/プルシャは、「転々と生まれ変わって、人生経験を重ねていく」というような存在ではない
その辺りが、現代の日本では誤解されているように感じる
その指摘は、インド思想史の観点から見るとかなり妥当です。
現代日本では、
魂が何度も生まれ変わりながら成長する
魂が経験値を積んで進化する
魂のレベルが上がる
というイメージで「霊魂」や「真我」が語られることが少なくありません。
しかし、古典的なアートマン論やプルシャ論は、必ずしもそうではありません。
例えばサーンキヤ哲学のプルシャは、
生まれない
死なない
変化しない
行為しない
ただ見ているだけ
という存在です。
輪廻するのは厳密にはプルシャではなく、物質原理であるプラクリティ側の働きです。
プルシャ自身は最初から完成しており、成長も退化もしません。
またウパニシャッド系のアートマンも、
永遠
不変
完全
という性格が強く、
「魂が人生経験を積んで進歩する」というより、
「本来すでに完全な自己を発見する」
という方向性です。
だから本来の解脱思想は、
魂が成長して神になる
ではなく、
もともと自由だった真我に目覚める
という構図です。
現代の「魂の成長」論は、むしろ西洋の進歩史観や近代的な自己実現論と混ざり合って形成された面があります。
例えば、19~20世紀の神智学やニューエイジ思想では、
魂は進化する
魂には段階がある
高級霊へ進歩する
といった考え方が広まりました。
これは古典的なアートマン論とは別物です。
だから、釈尊が対論していた相手を考えると、
アートマン/プルシャは、「転々と生まれ変わって、人生経験を重ねていく」というような存在ではない
という理解は重要です。
釈尊が批判していたのは、
変化しない観照者
永遠不変の自己
行為や変化から超越した主体
という観念であって、
現代の「成長する魂」のイメージを直接批判していたわけではありません。
むしろ後者は、古代インドのアートマン論そのものというより、近代以降に再構成された「魂」のイメージだと言った方が正確でしょう。
永遠のプラーナの感覚にあるゾーンだろなー
シヴァナンダヨガで理解した
😀
アートマン/プルシャは、どちらかといえば
現代のスピリチュアリズムでいう「霊魂」より
大乗仏教でいう「仏性/如来蔵」に近い
その比較は、かなり示唆的です。
ただし、「同じ」とまでは言えませんが、
現代スピリチュアリズムの『成長する魂』よりは、アートマン/プルシャの方が如来蔵や仏性と比較されることが多いのは事実です。
なぜかというと、共通点があるからです。
アートマンやプルシャは、
本来から存在する
生滅しない
汚れない
完成されている
修行によって作られるものではない
という性格を持ちます。
そして如来蔵思想でも、
すべての衆生に本来具わっている
本質的には清浄である
煩悩によって覆われているだけ
新しく作り出すものではない
という説明が見られます。
そのため、仏教学者の中には、
如来蔵思想を
仏教化されたアートマン思想
あるいは
アートマン思想への接近
として論じる人もいます。
「本来成仏している」
「本来清浄である」
という表現が頻繁に出てきます。
これは初期仏教の
五蘊を観察して無我を知る
という語り口とはかなり雰囲気が違います。
一方で、大乗仏教側は、
「如来蔵を実体視するな」
とも繰り返し主張します。
たとえば 龍樹 系統の中観思想は、あらゆる実体化を警戒しますし、如来蔵経典でも「方便として語っている」という説明がなされることがあります。
だから、
アートマン/プルシャ = 永遠の実体
如来蔵/仏性 = 実体ではない
という区別を立てるのが、大乗仏教側の公式見解です。
本来から存在する究極的なもの
という発想の近さは否定できません。
その意味で、
アートマン/プルシャは、現代スピリチュアリズムでいう「霊魂」より、大乗仏教でいう「仏性/如来蔵」に近い
という見方には十分な説得力があります。
特に「完成されたものが最初からある」という点では非常に近い。
逆に、
魂が転生を繰り返しながら成長していく
という現代スピリチュアル的な魂観とは、アートマンもプルシャもかなり距離があります。
むしろ古典的なアートマン論は、
「進化する魂」ではなく、
「最初から完成している真の自己を発見する思想」
と捉えた方が実態に近いでしょう。
修験道、密教要素がある
随心院の系統の開山の
仁海は
母親が牛になったとか、
日本の仏教説話では
生まれ変わりで
牛から人間へと
みたいな話があるなー
😀
そんな凄い YouTube禅僧がいるのか?😆
どれを見ても、マジで
雰囲気が神々しいので
臨済宗以外のゾーンレベルが上がる
動画ユーチュバー僧侶は
臨済宗だけど
臨済宗としては超トップではない
😀
十牛図のラスト完成実現してない
😀
発心禅堂
禅修行にはそれぞれの理由があるのでしょう。
その事柄を大切にして自身の禅修行をして頂きたい。
繰り返しますが、
「 正師と信じ、師の言う事を信じ、師の言う通りに
行ぜよ 」
はダメ。
禅修行は
「 自身が自身に落ち着く 」
「 自分で自分を解決する道 」
すなわち、発心禅堂は
「 真っ暗闇を一人旅 」
「 一人奈落の底を這いずり回る 」
「 大疑団の闇を一人自力で這い上がる、」
の参究をお願いしています
※だそうだ。
自灯明、法灯明
あまりいろんな女性に声かけるから、ある女性から、声掛け過ぎよと言われ、少し絞りなさいと言われている えこひいきをしていけないと思って掛けているんだが、それがいけないみたいだw 人生を楽しんでいる
ゆいつ 気にしていることは、生活を整える これはこれで楽しい
(*^-^*)
錦の御旗があるので
錦の御旗て挨拶するとリアクションがある
それ以前は
リアクションゼロだった😀
用事があって
その場所の見えるところに
崇教真光の施設がある
むろん、関与しない
😀
車は2台、バイク1台ある
😀
時間が余ったので、
お寺参りした
神仏習合の残影がある
😀
倶舎論の解説
『倶舎論』では、それぞれこのように教えられています。
1.「無明」とは迷いの根本です。
無始の無明ともいって、始まりのない始まりから続く迷いの心です。
これが原因となって次の行を生み出します。
2.「行」とは行為のことで前生で行った業です。
これが原因となって次の識を生み出します。
3.「識」とは前生の業が始めて精神的な結果としてあらわれたもので、
お母さんのお腹に宿ったときです。
このことは『長阿含経』にこう説かれています。
もし識、母胎に入らざれば名色あるやいなや。
答えて曰く無きなり。
(漢文:若識不入母胎者有名色不 答曰無也)
(引用:『長阿含経じょうあごんきょう』)
「名色」の「名」は心、「色」は形を表しています。
私たちがお腹に宿ってから眼や耳ができるまでなので、
約4週間程度です。
5.「六処」とは、眼、耳、鼻、舌、身、意の六感ができて
六識ができるまでです。まだお腹の中です。
6.「触」とは、初めて外界の事物を感覚し始める小さい頃です。
7.「受」とは、外界から種々の言語や知識を受け取る時代です。
8.「愛」とは、精神が発達して色欲が強くなり、
愛憎の思いを感ずる青春時代です。
9.「取」は、欲望がますます激しく起きる時代です。
あれが欲しい、これが欲しい、ほめられたい、認められたいという
欲の心に日夜馳せ使われます。
業は未来の結果を有するということで「有」といいます。
「愛」「取」の煩悩に引きずられ、
色々な悪業を造って未来に輪廻転生りんねてんしょうする種を残します。
11.「生」とは、現世に造った業によって次の世に生を受けます。
12.「老死」とは、生まれてから老衰して死んでゆくまでです。
このように、十二因縁は三世にわたっており、
1番目から2番目までは過去世、
3番目から10番目までは現在世、
11番目、12番目は未来世です。
それで「三世両重の因縁」といわれます。
唯識の解説
『倶舎論』は『阿含経』などの小乗経典といわれるお経に説かれることを、総合して解説されたものですが、唯識ゆいしきの場合は、小乗経典に加えて、三界唯心を説く『華厳経』その他、大乗経典も総合して解説されています。
そのために、より深く、複雑になります。
前提として、大乗唯識では、私たちの行いは、目に見えない種子となって阿頼耶識あらやしきといわれる心に収まっており、やがて縁がきた時に結果となって現れます。
小乗では外界は実在しますが、大乗では外界は実在せず、
すべて阿頼耶識が生み出したものですので、唯識といわれます。
そのため唯識では、十二因縁もすべて心の中の因縁になります。
ここでは、煩悩で一番根本になっているものです。
煩悩のことを「惑」ともいうので、無明を「発業の惑」ともいいます。
次の「行」は業なので、次の行を生み出す煩悩のことです。
2.「行」とは行為のことで業ですが、阿頼耶識におさまっている業種子ごうしゅうじです。
輪廻転生する時に重要な働きをします。
3.「識」は、輪廻転生して次の阿頼耶識になる種子です。
つまり生まれ変わって次の阿頼耶識になるタネです。
4.「名色」とは、「名」は心、「色」は肉体のことで、心身のことですが、
輪廻転生して次の心身になる種子のことです。
直前の阿頼耶識と、次の六処ろくしょ、触そく、受じゅは別に説明されているので、
それらは除いた、心身のそれ以外になるタネです。
つまり生まれ変わって六感になるタネです。
6.「触」とは、生まれ変わって、六感が対象に触れる働きの種子です。
7.「受」とは、生まれ変わった次の生、触れた対象が楽しいとか苦しいと感受する働きの種子です。
このように、識、名色、六処、触、受の5つは、阿頼耶識におさまっている、来世の内容になる種子です。
阿頼耶識の中には同時に存在しているのですが、
生まれ変わった後、順番にできてくるので、このような順番になっています。
8.「愛」とは、意識に生まれつき備わっている粗い愛欲の煩悩です。
死ぬ時には三愛になります。
三愛とは、境界きょうがい愛、自体じたい愛、当生とうしょう愛の3つです。
境界愛とは、臨終に愛する妻子、家財などにおこす執着です。
自体愛とは、自分の身体に対する強い執着です。
当生愛とは、死ぬ時に未来に生まれる処についておこす愛着心です。
これも無明と同じように煩悩ですが、無明を「発業の惑」といったのに対して
「潤生にんじょうの惑」といいます。
これも潤生の惑です。
この愛と取の2つは、死んだ時、2番目の業種子が、3番目から7番目までの5つの種子を生まれ変わらせるのを助ける働きをします。
潤生とは、転生を潤すということで、転生を助けるという意味です。
10.「有」とは、2番目の行の業種子と、3番目から7番目の5つの生まれ変わる種子が、8番目と9番目の潤生の惑の働きを受けて、まもなく転生するという段階です。
つまり、もうすぐ生まれ変わる2番目から7番目の種子です。
11.「生」とは、転生した阿頼耶識が新しい世界を生み出し始めてから、老衰する前までです。
12.「老死」とは、老衰し始めてから死ぬまでです。
1番目から10番目までを過去世とすれば、11番目、12番目は現在世、
1番目から10番目までを現在世とすれば、11番目、12番目は未来世です。
それで「二世一重の因果」といわれます。
こうして私たちは、悪業を造り、
因果の道理にしたがって、
迷いの世界である六道を輪廻し、
永遠に苦しみ迷い続けていくのです。
論理的な地頭が、良いのだな
😀
俺はフリーズしてる
論理的は
😀
宗教はやっぱり、直観だ😆
キリスト教神学とは
主の賛美の形態の一つ
しらんけど
テキトーな仮説
😀
なんや?ただの野生な猿と自白したんか?