悟りをひらいた人のスレ 895アーカイブ最終更新 2026/06/16 14:571.神も仏も名無しさんP7FBb悟りそれが、このスレのテーマ【禅宗】悟りをひらいた人のスレ894【新参者専用】https://talk.jp/boards/psy/17614756802025/11/24 14:42:511000すべて|最新の50件953.◆JBLfMwCXhY0Q8UKチャットGPT:板橋興宗老師なら、あなたの最初の理解にかなり近いことを言う可能性があります。板橋老師は曹洞宗の僧であり、根本は「只管打坐」の人です。経歴的にも曹洞宗の専門僧堂で修行し、後に曹洞宗の最高位である管長も務めました。2026/06/16 11:37:34954.◆JBLfMwCXhY0Q8UKただし、「外界を観察せよ」というよりは、「余計なことを考えず、今やっていることをそのままやれ」という言い方を好む印象があります。板橋老師の本や法話では、過去を悔やまない未来を心配しない今を生き切る頭の中でこねくり回さないという主題が繰り返し出てきます。たとえば「ただ、いま、この瞬間を実感しつつ生きてまいりましょう」という趣旨の言葉が残っています。2026/06/16 11:37:56955.◆JBLfMwCXhY0Q8UKだからあなたの文章を板橋老師風に言い換えるなら、自分の心の中をいじくり回さない。雑念が出ても放っておく。茶を飲むなら茶を飲む。歩くなら歩く。鳥の声が聞こえたら鳥の声を聞く。目の前のことを丁寧にやる。という感じになるでしょう。ただ一点、板橋老師や曹洞禅は、外の対象を観察することにもあまり力点を置かない気がします。あなたの理解だと、心を見るのをやめる代わりに外界を見るという構造ですよね。しかし只管打坐系だと、心を分析しない外界も分析しないただ現れているものをそのままにするのほうが近い。たとえば鳥の声が聞こえたとき、「私は鳥の声を観察している」ではなく、「鳥の声が聞こえている」くらいの感じです。思考も対象も、あまり掴まない。2026/06/16 11:38:46956.◆JBLfMwCXhY0Q8UKなので、自分の心の中に生じる思考や雑念は放置するこれはかなり板橋老師的です。一方、その代わりに外界の対象をよく観察するここは少しマインドフルネス寄りで、板橋老師なら観察しようとしなくていい。目の前のことをそのままやりなさい。と言うかもしれません。これは曹洞禅の「非思量(考えようともしないし、考えまいともしない)」という方向性とも重なります。むしろ板橋興宗の禅を一言で表すなら、「自分を観察するな」でも「外を観察しろ」でもなく、「今やっていることになりきれ」が近いように思います。2026/06/16 11:39:35957.◆JBLfMwCXhY0Q8UKプロンプト:まあ、自分にとって、瞑想といえば「集中」と「観察」の2種類しかないんで(笑)この宗派の人が「観察」という言葉を好まないのは分かっている2026/06/16 11:49:41958.◆JBLfMwCXhY0Q8UKチャットGPT:なるほど(笑)。その前提なら、あなたの整理はかなり分かりやすいです。瞑想法を大雑把に分類すると、集中系呼吸に集中マントラに集中仏像や光に集中数息観など観察系身体感覚を観察思考を観察感情を観察音や景色を観察という二分法ですね。この枠組みで言うと、板橋興宗老師や只管打坐は少し変な位置に来ます。なぜなら、呼吸に集中しろ、とも言わない思考を観察しろ、とも言わないからです。そのため、禅の人たちは「集中でも観察でもない」と言いたがる。2026/06/16 11:50:51959.◆JBLfMwCXhY0Q8UKただ、実際に座っている人間の内側で何が起きているかという観点から見ると、完全に第三の何かというより、「開かれた観察」に近い状態として理解することは十分可能だと思います。たとえばヴィパッサナーなら、思考が出た消えた音が聞こえた足が痛いと対象をかなり明示的に観察します。一方、只管打坐だと、思考が出ても放置音が聞こえても放置痛みがあっても放置で、何もラベリングしない。しかし結果としては、何か一つに集中しているわけではなく、現れてくるもの全体に開かれている状態になる。だから瞑想研究や比較宗教学の文脈では、只管打坐を「オープンモニタリング(開放的観察)」に近いものとして扱う研究者もいます。2026/06/16 11:51:32960.◆JBLfMwCXhY0Q8UKただし、板橋老師本人ならたぶん、「観察している」という考えがもう余計だと言うでしょうね(笑)。あなたの言葉で言えば、思考は放置雑念も放置外界も内界も勝手に現れては消えるその中で強いて「何をしているか」を説明するなら、自分を観察するのではなく、目の前の現実の側にいるくらいが近い気がします。2026/06/16 11:52:00961.◆JBLfMwCXhY0Q8UKそして面白いのは、あなたが最初に言った眼に見えるものや耳に聞こえるものを観察するというやり方は、実際には自己観察癖が強い人にはかなり有効なことです。禅でもよく問題になるのは、「私は今ちゃんと坐れているだろうか」「この状態は悟りに近いのだろうか」「雑念が減っただろうか」と、自分ばかり見続けることです。そういう人に対しては、板橋老師なら理屈抜きで、「そんなこと考えてないで、飯を食え」「掃除をしろ」「歩け」と言いそうな気がします。これは「観察するな」というより、「自己への過剰な関心から離れろ」という方向ですね。そこは、あなたの理解とかなり接点があると思います。2026/06/16 11:52:16962.◆JBLfMwCXhY0Q8UKプロンプト:インド人とは逆だインドの導師は、「外界への関心を断ち、自分自身に意識を集中せよ」という2026/06/16 11:52:55963.◆JBLfMwCXhY0Q8UKチャットGPT:確かに、禅とインド系の伝統を対比すると、そう見える部分があります。ただし、「インド人はみんな内面へ、禅はみんな外界へ」というほど単純でもありません。あなたが言う「外界への関心を断ち、自分自身に意識を集中せよ」は、特にインドのヨーガ、ヴェーダーンタ、一部の不二一元論(アドヴァイタ)系の教えによく見られます。たとえば、ラマナ・マハルシの有名な自己探求(アートマ・ヴィチャーラ)は、「私は誰か?」「この『私』はどこから現れるのか?」と、意識を徹底的に主体へ向けていきます。また、パタンジャリのヨーガでも、感覚を対象から引き戻す「プラティヤーハーラ(制感)」という段階があります。つまり、外界 → 重要ではない心 → 観察対象意識そのもの → 探究対象という方向性です。2026/06/16 11:53:48964.◆JBLfMwCXhY0Q8UK一方、禅、とくに曹洞禅では、「私とは何か」を考えるなという傾向が強い。だから、インド系:「私を探れ」禅系:「私を探るな」という対比はかなり成立します。ただ面白いのは、到達点を言葉にすると意外と似てしまうことです。ラマナ・マハルシなら、「探究を続けると、最後には個人的な私が消える」と言うでしょう。一方、曹洞禅なら、「最初から私をいじるな。坐っていれば私への執着が薄れる」と言うかもしれない。2026/06/16 11:54:20965.◆JBLfMwCXhY0Q8UK例えるなら、インド系は「私」を追跡して根源まで遡る禅は「私」を追跡する行為そのものをやめるという違いです。鈴木大拙なども、中国禅の特色について、インド仏教の内観的・分析的傾向に対して、中国禅はもっと直接的で日常的な方向へ展開したと論じています。だからあなたの感覚で言うと、インドの導師「意識を自分自身へ向けよ」板橋興宗「そんなことより茶を飲め」くらいのコントラストに感じられるかもしれません(笑)。もちろん実際の板橋老師はもっと丁寧に説明するでしょうが、方向性としてはかなり象徴的な違いを表していると思います。2026/06/16 11:54:42966.神も仏も名無しさんSNGVBヴィパッサナーと華厳の部分取りから道元禅が出来あがってるのさー関係なさそうて華厳の壁がある、ハッスル、麦には越えれない壁か😀2026/06/16 12:03:53967.神も仏も名無しさんSNGVB何度も言うがヨガは現実を観るのがメインではない😀2026/06/16 12:04:42968.神も仏も名無しさんSNGVB現実を観るのを軽視したデンパパ📡ワールドは一笑ふす😀2026/06/16 12:05:21969.神も仏も名無しさんSNGVB「観る」が仏教のメインでありハッスル🤡がギャグになるのほ「観る」に無関心だから😅2026/06/16 12:06:24970.神も仏も名無しさんSNGVBハッスル🤡ウィルスやデンパパ📡ウィルスは「観る」の重要性を喪失させる感染力がある😅2026/06/16 12:07:38971.神も仏も名無しさんSNGVBスレ主にしろ、ロンにしろハッスル🤡に「観る」問題を提示できない頑張ってるな?とか虚飾ビギナー🤡とか😅2026/06/16 12:09:03972.◆JBLfMwCXhYgN54X思いっ切り、マウント取りにきたな😅744 栖雲居士◆MKrKQHoID7SE 2026/06/16(火) 12:03:26.13 ID:0NVqL笑夫くん……何十年も掛けてようやくその域に至った事は決して悪い事とは云わないけど、実際の修行の場では、そこまでして来て積み上げたものが一瞬で鈴wwwって否定されて終わるんだよ。それが修行の実際だからね。2026/06/16 12:11:52973.神も仏も名無しさんSNGVB虚飾でハッスルしてるな?🤡2026/06/16 12:12:35974.◆JBLfMwCXhYgN54X>>935> おはよー。そだね。思考をしないというよりほったらかしにしていると言ってたね。> つまりそれは観ているということであるんだが観察、というと能動的にそれを見に行ってるようなニュアンスがあるから嫌うんだろう。なるほど2026/06/16 12:12:51975.◆JBLfMwCXhYgN54X曹洞宗は基本的に「観察」に対してはアンチのスタンスだな😅2026/06/16 12:13:35976.登り棒◆0mnwMe9WsAYVZHa内面を観るか外面を観るかなんてのはどこに焦点を当てているかの違いでやってることは大差ないんだけどなぁ。仕事をしてる時だってスポーツしてる時だって体外離脱してる時だって何も変わらん。2026/06/16 12:15:39977.◆JBLfMwCXhYgN54X>>974確かに仏のスレ主のは、「外界を、集中せずにゆるく観察」ってとこかな2026/06/16 12:17:13978.◆JBLfMwCXhYgN54X「外界を観る」だな2026/06/16 12:17:35979.◆JBLfMwCXhYgN54X「集中」とか「観察」とかは使わない方がいい(笑)2026/06/16 12:17:56980.◆JBLfMwCXhY0Q8UK次スレ悟りをひらいた人のスレ 896https://talk.jp/boards/psy/17815802352026/06/16 12:27:49981.◆JBLfMwCXhY0Q8UK742 神も仏も名無しさん [sage] 2026/06/16(火) 12:00:05.82 ID:JTaveまぁ私が誰に答えてるか本人はご存知でしょう笑もう一つ話しをするとたとえば道元禅師なんかは魂の存在を外道の見解として退けますが、五祖法演という祖師の公案に「倩女離魂」という話しがあります内容的には長くなるので割愛しますが良かったら調べてみてくださいバリバリ魂の話が出てきます笑2026/06/16 12:29:50982.◆JBLfMwCXhY0Q8UK個人的に、自分にとって「瞑想」といえば「集中」と「観察」なのでこの2つの言葉を使わずに、瞑想を語るのは難しい(笑)2026/06/16 12:44:39983.◆JBLfMwCXhY0Q8UK自分にとって、実感のわく説明にならない(笑)2026/06/16 12:44:56984.登り棒◆0mnwMe9WsAYVZHaJBLさんもやたら輪廻転生にやたら拘るね。生まれ変わりというのが何を指すのか?それによって生まれ変わりがあるのかないのかも変わってくるでしょうに。仏教で言うなら一瞬前に立ち上った私と今の私は同一ではない。条件も同じではない。でも世の中ではそれを同一の私として扱っている。ならそもそも世の中でいう生まれ変わりってなんなんだ?という話。魂が移り変わるというならそのような魂という実体があるわけではないというだろうし、魂というラベルを貼ってその魂をどのような意味で扱うのかでまた話は変わる。記憶を保持していることか?関わり合っているということか?2026/06/16 12:56:19985.登り棒◆0mnwMe9WsAYVZHa>>982これも集中と観察という言葉をどの射程で扱っているか?思考をほおっておくということは思考には気付いている。でもとらない。それは広義に言えば思考を認識しているのだから観察だけど、狭く扱えば私が見ているという観察ではないから観察ではないとするのも別に間違ってるわけではない。どちらかといえば私の知る観察の意味を絶対のものと考えて相手の言ってる事はおかしいと断罪する心の方が問題だろう。どこでズレてるのか?観察の意味を絶対のものとするのは固定観念で、見方を変えればそれも変わる。2026/06/16 13:08:33986.登り棒◆0mnwMe9WsAYVZHa言葉そのものが戯論なのではなく、言葉は伝達のツールであり全てを言葉で表現出来るわけでもないのに言葉の意味を固定して、自分の理解する言葉という固定観念から伝達されたつもりになることが戯論になる。自分にもそう。言葉の意味を固定してしまい、ありのままの一側面でしかなかった言葉の意味に合わせるように世界を見てしまう。その言葉が絶対になってるからだよ。2026/06/16 13:14:32987.◆JBLfMwCXhYe2eIO>>984> JBLさんもやたら輪廻転生にやたら拘るね。「昭和の仏教学者」に対する、アンチのスタンス2026/06/16 14:35:25988.◆JBLfMwCXhYe2eIO>>985> これも集中と観察という言葉をどの射程で扱っているか?集中は、サマタ瞑想観察は、ヴィパッサナー瞑想を指してます2026/06/16 14:36:59989.◆JBLfMwCXhYe2eIO「釈迦は輪廻転生を否定した」↑昭和の仏教学者や、一部の禅僧によるこの主張こそインチキ新興宗教と並ぶ、目前の敵😆2026/06/16 14:39:59990.◆JBLfMwCXhYe2eIO9902026/06/16 14:40:14991.◆JBLfMwCXhYe2eIO仏教学界にとっても、大きな論争のテーマだ2026/06/16 14:46:58992.◆JBLfMwCXhYe2eIO「釈迦は輪廻転生を否定した」↑もっとも、最近はこの説がすっかり衰退したためほぼ決着がついたと言える2026/06/16 14:47:33993.◆JBLfMwCXhYe2eIO>>984> JBLさんもやたら輪廻転生にやたら拘るね。ここは、誤解のないようにしておきたいんだけど当方は、「輪廻転生はない」という見解に対して、「いや、ある」と反論しているわけではない「釈迦は輪廻転生を否定した」という見解に対して、「いや、否定していない」と反論してるんでして2026/06/16 14:50:00994.◆JBLfMwCXhYe2eIOキリスト教とイスラム教は、輪廻転生を否定しているとくに、イスラム教では「輪廻転生は誤り」と、コーランに明記されている2026/06/16 14:51:27995.◆JBLfMwCXhYe2eIOそういうのにまでカミついてたら、大変だ😅2026/06/16 14:51:49996.◆JBLfMwCXhYe2eIOその代わり、キリスト教やイスラム教は「死後世界」を認めているとくにイスラム教は、「天国や地獄は必ずある。あると信じろ。疑ってはならない」と強調する2026/06/16 14:52:57997.◆JBLfMwCXhYe2eIO仏教的には、それで問題ない仏教でいう「輪廻転生」には、この世で再生するばかりではない「天国や地獄に再生する」ことも含まれる2026/06/16 14:54:41998.◆JBLfMwCXhYe2eIO宗教的には、ここは重要なところだ(笑)2026/06/16 14:55:48999.◆JBLfMwCXhYe2eIOここを見れば、その宗教の考え方がわかる2026/06/16 14:57:361000.◆JBLfMwCXhYe2eIO10002026/06/16 14:57:491001.Talk ★???このスレッドはコメントが1000件を超えました。新しいスレッドを立ててください。2026/06/16 14:57:491002.Talk ★???【プレミアムサービス無料期間延長!】プレミアムの無料期間を2026/9/30まで延長することになりました。広告除去や規制緩和など、ヘビーユーザーにとって欠かせない機能を無料でお楽しみいただけます。是非この機会にプレミアムサービスをお試しください!▼プレミアムサービスはこちらからhttps://talk.jp/premium2026/06/16 14:57:49
【青森】クマは人間を「獲物」と認識している可能性あり 八甲田の山中で発見のクマに襲われたとみられる男性遺体の身元判明 6月28日にタケノコ採りで入山後に行方不明だった63歳の男性と判明ニュース速報+161003.92026/07/01 18:10:58
それが、このスレのテーマ
【禅宗】悟りをひらいた人のスレ894【新参者専用】
https://talk.jp/boards/psy/1761475680
板橋興宗老師なら、あなたの最初の理解にかなり近いことを言う可能性があります。
板橋老師は曹洞宗の僧であり、根本は「只管打坐」の人です。経歴的にも曹洞宗の専門僧堂で修行し、後に曹洞宗の最高位である管長も務めました。
「外界を観察せよ」
というよりは、
「余計なことを考えず、今やっていることをそのままやれ」
という言い方を好む印象があります。
板橋老師の本や法話では、
過去を悔やまない
未来を心配しない
今を生き切る
頭の中でこねくり回さない
という主題が繰り返し出てきます。
たとえば「ただ、いま、この瞬間を実感しつつ生きてまいりましょう」という趣旨の言葉が残っています。
自分の心の中をいじくり回さない。
雑念が出ても放っておく。
茶を飲むなら茶を飲む。
歩くなら歩く。
鳥の声が聞こえたら鳥の声を聞く。
目の前のことを丁寧にやる。
という感じになるでしょう。
ただ一点、板橋老師や曹洞禅は、
外の対象を観察する
ことにもあまり力点を置かない気がします。
あなたの理解だと、
心を見るのをやめる
代わりに外界を見る
という構造ですよね。
しかし只管打坐系だと、
心を分析しない
外界も分析しない
ただ現れているものをそのままにする
のほうが近い。
たとえば鳥の声が聞こえたとき、
「私は鳥の声を観察している」
ではなく、
「鳥の声が聞こえている」
くらいの感じです。
思考も対象も、あまり掴まない。
自分の心の中に生じる思考や雑念は放置する
これはかなり板橋老師的です。
一方、
その代わりに外界の対象をよく観察する
ここは少しマインドフルネス寄りで、板橋老師なら
観察しようとしなくていい。目の前のことをそのままやりなさい。
と言うかもしれません。
これは曹洞禅の「非思量(考えようともしないし、考えまいともしない)」という方向性とも重なります。
むしろ板橋興宗の禅を一言で表すなら、
「自分を観察するな」でも「外を観察しろ」でもなく、
「今やっていることになりきれ」
が近いように思います。
まあ、自分にとって、瞑想といえば「集中」と「観察」の2種類しかないんで(笑)
この宗派の人が「観察」という言葉を好まないのは分かっている
なるほど(笑)。
その前提なら、あなたの整理はかなり分かりやすいです。
瞑想法を大雑把に分類すると、
集中系
呼吸に集中
マントラに集中
仏像や光に集中
数息観など
観察系
身体感覚を観察
思考を観察
感情を観察
音や景色を観察
という二分法ですね。
この枠組みで言うと、板橋興宗老師や只管打坐は少し変な位置に来ます。
なぜなら、
呼吸に集中しろ、とも言わない
思考を観察しろ、とも言わない
からです。
そのため、禅の人たちは「集中でも観察でもない」と言いたがる。
「開かれた観察」に近い状態
として理解することは十分可能だと思います。
たとえばヴィパッサナーなら、
思考が出た
消えた
音が聞こえた
足が痛い
と対象をかなり明示的に観察します。
一方、只管打坐だと、
思考が出ても放置
音が聞こえても放置
痛みがあっても放置
で、何もラベリングしない。
しかし結果としては、
何か一つに集中しているわけではなく、現れてくるもの全体に開かれている
状態になる。
だから瞑想研究や比較宗教学の文脈では、只管打坐を「オープンモニタリング(開放的観察)」に近いものとして扱う研究者もいます。
「観察している」という考えがもう余計だ
と言うでしょうね(笑)。
あなたの言葉で言えば、
思考は放置
雑念も放置
外界も内界も勝手に現れては消える
その中で強いて「何をしているか」を説明するなら、
自分を観察するのではなく、目の前の現実の側にいる
くらいが近い気がします。
眼に見えるものや耳に聞こえるものを観察する
というやり方は、実際には自己観察癖が強い人にはかなり有効なことです。
禅でもよく問題になるのは、
「私は今ちゃんと坐れているだろうか」
「この状態は悟りに近いのだろうか」
「雑念が減っただろうか」
と、自分ばかり見続けることです。
そういう人に対しては、板橋老師なら理屈抜きで、
「そんなこと考えてないで、飯を食え」
「掃除をしろ」
「歩け」
と言いそうな気がします。
これは「観察するな」というより、「自己への過剰な関心から離れろ」という方向ですね。そこは、あなたの理解とかなり接点があると思います。
インド人とは逆だ
インドの導師は、「外界への関心を断ち、自分自身に意識を集中せよ」という
確かに、禅とインド系の伝統を対比すると、そう見える部分があります。
ただし、「インド人はみんな内面へ、禅はみんな外界へ」というほど単純でもありません。
あなたが言う
「外界への関心を断ち、自分自身に意識を集中せよ」
は、特にインドのヨーガ、ヴェーダーンタ、一部の不二一元論(アドヴァイタ)系の教えによく見られます。
たとえば、ラマナ・マハルシの有名な自己探求(アートマ・ヴィチャーラ)は、
「私は誰か?」
「この『私』はどこから現れるのか?」
と、意識を徹底的に主体へ向けていきます。
また、パタンジャリのヨーガでも、感覚を対象から引き戻す「プラティヤーハーラ(制感)」という段階があります。
つまり、
外界 → 重要ではない
心 → 観察対象
意識そのもの → 探究対象
という方向性です。
「私とは何か」を考えるな
という傾向が強い。
だから、
インド系:「私を探れ」
禅系:「私を探るな」
という対比はかなり成立します。
ただ面白いのは、到達点を言葉にすると意外と似てしまうことです。
ラマナ・マハルシなら、
「探究を続けると、最後には個人的な私が消える」
と言うでしょう。
一方、曹洞禅なら、
「最初から私をいじるな。坐っていれば私への執着が薄れる」
と言うかもしれない。
インド系は「私」を追跡して根源まで遡る
禅は「私」を追跡する行為そのものをやめる
という違いです。
鈴木大拙なども、中国禅の特色について、インド仏教の内観的・分析的傾向に対して、中国禅はもっと直接的で日常的な方向へ展開したと論じています。
だからあなたの感覚で言うと、
インドの導師「意識を自分自身へ向けよ」
板橋興宗「そんなことより茶を飲め」
くらいのコントラストに感じられるかもしれません(笑)。
もちろん実際の板橋老師はもっと丁寧に説明するでしょうが、方向性としてはかなり象徴的な違いを表していると思います。
部分取りから
道元禅が出来あがってるのさー
関係なさそうて
華厳の壁がある、
ハッスル、
麦には越えれない壁か😀
ヨガは現実を観るのが
メインではない
😀
デンパパ📡ワールドは
一笑ふす
😀
ハッスル🤡がギャグになるのほ
「観る」に無関心だから
😅
デンパパ📡ウィルスは
「観る」の重要性を
喪失させる感染力がある
😅
ロンにしろ
ハッスル🤡に
「観る」問題を提示できない
頑張ってるな?
とか
虚飾ビギナー🤡とか
😅
744 栖雲居士◆MKrKQHoID7SE 2026/06/16(火) 12:03:26.13 ID:0NVqL
笑夫くん……
何十年も掛けてようやくその域に至った事は決して悪い事とは云わないけど、実際の修行の場では、そこまでして来て積み上げたものが一瞬で鈴wwwって否定されて終わるんだよ。
それが修行の実際だからね。
🤡
> おはよー。そだね。思考をしないというよりほったらかしにしていると言ってたね。
> つまりそれは観ているということであるんだが観察、というと能動的にそれを見に行ってるようなニュアンスがあるから嫌うんだろう。
なるほど
「観察」に対してはアンチのスタンスだな😅
仕事をしてる時だってスポーツしてる時だって体外離脱してる時だって何も変わらん。
確かに
仏のスレ主のは、「外界を、集中せずにゆるく観察」ってとこかな
使わない方がいい(笑)
悟りをひらいた人のスレ 896
https://talk.jp/boards/psy/1781580235
まぁ私が誰に答えてるか本人はご存知でしょう笑
もう一つ話しをするとたとえば道元禅師なんかは魂の存在を外道の見解として退けますが、
五祖法演という祖師の公案に「倩女離魂」という話しがあります
内容的には長くなるので割愛しますが良かったら調べてみてください
バリバリ魂の話が出てきます笑
「瞑想」といえば「集中」と「観察」なので
この2つの言葉を使わずに、瞑想を語るのは難しい(笑)
生まれ変わりというのが何を指すのか?それによって生まれ変わりがあるのかないのかも変わってくるでしょうに。
仏教で言うなら一瞬前に立ち上った私と今の私は同一ではない。条件も同じではない。でも世の中ではそれを同一の私として扱っている。
ならそもそも世の中でいう生まれ変わりってなんなんだ?という話。魂が移り変わるというならそのような魂という実体があるわけではないというだろうし、
魂というラベルを貼ってその魂をどのような意味で扱うのかでまた話は変わる。
記憶を保持していることか?関わり合っているということか?
これも集中と観察という言葉をどの射程で扱っているか?
思考をほおっておくということは思考には気付いている。でもとらない。
それは広義に言えば思考を認識しているのだから観察だけど、狭く扱えば私が見ているという観察ではないから観察ではないとするのも別に間違ってるわけではない。
どちらかといえば私の知る観察の意味を絶対のものと考えて相手の言ってる事はおかしいと断罪する心の方が問題だろう。
どこでズレてるのか?観察の意味を絶対のものとするのは固定観念で、見方を変えればそれも変わる。
自分にもそう。言葉の意味を固定してしまい、
ありのままの一側面でしかなかった言葉の意味に合わせるように世界を見てしまう。
その言葉が絶対になってるからだよ。
> JBLさんもやたら輪廻転生にやたら拘るね。
「昭和の仏教学者」に対する、アンチのスタンス
> これも集中と観察という言葉をどの射程で扱っているか?
集中は、サマタ瞑想
観察は、ヴィパッサナー瞑想を指してます
↑
昭和の仏教学者や、一部の禅僧による
この主張こそ
インチキ新興宗教と並ぶ、目前の敵😆
↑
もっとも、最近はこの説がすっかり衰退したため
ほぼ決着がついたと言える
> JBLさんもやたら輪廻転生にやたら拘るね。
ここは、誤解のないようにしておきたいんだけど
当方は、「輪廻転生はない」という見解に対して、「いや、ある」と反論しているわけではない
「釈迦は輪廻転生を否定した」という見解に対して、「いや、否定していない」と反論してるんでして
とくに、イスラム教では
「輪廻転生は誤り」と、コーランに明記されている
「死後世界」を認めている
とくにイスラム教は、「天国や地獄は必ずある。あると信じろ。疑ってはならない」と強調する
仏教でいう「輪廻転生」には、この世で再生するばかりではない
「天国や地獄に再生する」ことも含まれる
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