ローマ帝国でキリスト教が公認されたころ、その教義の確立に向けてさまざまな著作が現れた。その中で、正統の教義とされた著作を著した教会の司教らが、4世紀ごろから特に教父(英語では Farthers of Church)といわれた。また、彼らの信仰論、教会論を含め、新プラトン主義の影響を受けた哲学的思考を「教父哲学」といっている。
スコラはカトリック教会およびその修道院に付属する「学校」を意味していた。中世ヨーロッパのスコラ哲学は、このスコラで研究された哲学のこと。ラテン語のこの「スコラ」から英語の school が生まれたが、もとはギリシア語から来ている。ギリシア語で「スコラ」というのは、もともと「暇(ひま)」を意味していた。働かない、ヒマな人が集まるところが「スコラ」だった。
ローマ帝国でキリスト教が公認されたころ、その教義の確立に向けてさまざまな著作が現れた。その中で、正統の教義とされた著作を著した教会の司教らが、4世紀ごろから特に教父(英語では Farthers of Church)といわれた。また、彼らの信仰論、教会論を含め、新プラトン主義の影響を受けた哲学的思考を「教父哲学」といっている。
スコラはカトリック教会およびその修道院に付属する「学校」を意味していた。中世ヨーロッパのスコラ哲学は、このスコラで研究された哲学のこと。ラテン語のこの「スコラ」から英語の school が生まれたが、もとはギリシア語から来ている。ギリシア語で「スコラ」というのは、もともと「暇(ひま)」を意味していた。働かない、ヒマな人が集まるところが「スコラ」だった。
中世スコラ哲学において、普遍論争(ふへんろんそう、英:Problem of universals)とは、「普遍」(「普遍者」ともいう、英:universals) の実在に関する論争を言う。これと内容的に同じ議論が、古代から続いており、近代哲学や現代の哲学でも形を変えて問題となっているが、普遍概念をめぐる論争として中世の論争を特にこの名で呼ぶ。
987.
◆JBLfMwCXhY
uG7zZ
通説では、中世における最大の論争である普遍論争(the problem of universals)は、3世紀にフェニキア人ポルフュリオス(232/33 - 305頃)によって書かれた『アリストテレス範疇論入門』(Eisagoge eis tas Aristoteles kategorias、通称:イサゴーゲー)の次の一節に端緒を持つと言われる。
【教父三年】 キリスト教の神学理論 【スコラ八年】
https://talk.jp/boards/psy/1701327858
そのことに象徴されるように、キリスト教の勢力と影響力が増し、キリスト教の司教といった有力者たちが「神」を〝出発点〟とした哲学を展開した。
こうした特徴を持つ哲学は、4世紀から14世紀もしくは15世紀まで続き、「中世哲学」として区分される。
さらに、中世哲学は、「教父哲学」(patristic philosophy)と「スコラ哲学」(scholasticism)に大別される。
ユダヤ教が[選民思想]なのに対して、キリスト教は万国の民に[普及]するための宗教だ。難しい教義を学ぶ必要も無い。 [神の愛を信じれば《誰でも》救われる]というのが、キリスト教の看板だからね。
でも、新約聖書は要するに、イエス・キリストや聖パウロたちの言行録。わかりやすいのはいいんだが、その代わり、教義らしい教義がないのが弱点。ここで、その[正当性]を創り出すために、キリスト教は[ギリシア哲学]と宗教を[混ぜた]わけだ。 それによって学問による知識を宗教に転化させ、真理を説いた。
これが[教父哲学]と呼ばれる思想だね、キリスト教がその地位を固める基盤となった思想だ。
ニーチェは、「キリスト教は、民衆のためのプラトン哲学である」と言った。でも、最初からそうだったわけじゃない。キリスト教を[プラトン哲学]にしたのは、聖アウグスティヌス。教父の中の教父、教父哲学の第一人者だ。
そしてキリスト教が普及し、学校や教会などで、その宗教そのものが《学問》として発展していくこととなる。 つまりは最初は《普及の為の手段》であった[ギリシア思想]が、キリスト教の中にドップリ入り込んだため、宗教と学問の均衡を取る必要があった。 今のバチカンが[科学]などの学問と均衡を取るのと同じだな。
そして宗教は《神学》という学問を創りだした。 これが[スコラ哲学]の基本だな。 《スコラ》とは、ラテン語で[学舎]という意味だ。
《布教の為の技術的な思想》と《理解する為の学問的な思想》
ま、簡単に言えばこんな感じだな。
教父は著述した言語によってギリシア教父、ラテン教父のように分類されます。
教父と呼ばれるためには、以下の4つの条件を満たす必要があります。
古代性
正統教義
聖なる生涯
教会による引証
地上に手をかざす、現実主義者のアリストテレス
西洋思想は、この2人の巨人の間を行ったり来たり
https://i0.wp.com/paradjanov.biz/works/wp-content/uploads/2015/03/athens01.jpg
やはりJBLは知性の持続力ありそうだな
😄
脳オーバーヒートだ
😄
スラスラと
いつでも出てくるけどな〜
聖書の箇所は
出てくるけど〜
😄
いつでもやる気は起きるけどなあ〜
😄
キリスト教とプラトン哲学を統合したのが、聖アウグスティヌス
キリスト教とアリストテレス哲学を統合したのが、聖トマス・アクィナス
の神の国、
岩波書店本一部一冊あるけど
ほぼ読んでないな〜
😫
壁だな〜
😄
上っ面読みで
自信満々芸能はできないな〜
😫
ヨーガスートラへのチャレンジだが
脳パワーが〜
😭
無謀な
見栄張り芸能魂は
凄いな〜
😭
愉快犯的に
ローラー応援だ〜
ま、誰も相手にしてもらえんからな〜
😫
ウケると思ってるんだな
彼は、その学問体系を、「論理学」をあらゆる学問成果を手に入れるための「道具」(organon)であるとした上で、「理論」(テオリア)、「実践」(プラクシス)、「制作」(ポイエーシス)に三分し、理論学を「自然学」と「形而上学」、実践学を「政治学」と「倫理学」、制作学を「詩学」に分類した。
すなわち、存在者のさまざまな特性を問う個別科学とは区別され、その上位に位置づけられる究極の学問として、「存在者である限りでの存在者」、「全体としての存在者」、すなわち「存在とは何か」を問う学問を構想し、これを「第一哲学」と呼んだ。
パルメニデスは、存在を当時の通念に従って完全な「球体」であり、それは「一つ」であるとしたが、アリストテレスは、それを比喩にすぎないとして、現実の個物を実体とし、「多様」な存在をカテゴリに従って分類し体系化した。
トマス的にはアリストテレスの質量と本質だけでは足りなくて、質量が存在しない無からの創造がカバーできなければ不十分なので「在る」を必要とした
そこでは、「有・無」という「存在論」が基礎にあり、これを「論証する」という「判断」が支えている。そこでは、存在論が真理論と認識論とに分かちがたく結び付けられている。
そのため、形而上学の中心的な問題は、近代に至るまで常に存在論であった。
う~ん、確かに
それが、スコラ哲学の存在論
聖トマスの「本質と実存」へ
「実存」とは現実存在や事実存在の省略です。
哲学史的に「事実存在」というのは「本質存在」の対概念として使われます。
「事実存在」とは、現実の事実としてリアルに存在するもの「~が・ある」。
「本質存在」とは、それがどういうものであるかという理念的な「~で・ある」ということです。(ある物を成立させる重要な性質を本質といいます)
実存主義というのは、この事実存在を本質存在より優位におく主義主張です。
ただ、この源となっているアリストテレス存在論の概念は、元々プラトンの理念(現世を超越したイデア)と現象(それが現実に現れる象-かたち-)の対概念を基礎にしているため、現実存在を優位におく実存主義的なものというのは、かなり射程の広いものとなります。
「実存≒現象」に対するところの「本質≒理念」です。
例えばサルトルの実存主義はアリストテレスの「実存-本質」の実存を、ニーチェの実存主義はプラトンの「現象-理念」の現象を優位に置きます。
ここでは厳密な理解は求めていないので、「実存=現象」対「本質=理念」として話を進めます。
それが、アリストテレス的な対立
「この世は、霊界の写し絵だ。
霊界の富士山と現界の富士山は、
現界の富士山と、このフスマ絵の
富士山のような関係だ」
と語った
ここまで極端ではないが
プラトンのアカデミーに入学するには、幾何学か必須とされていた
アカデミーの入り口には、「幾何学を学ばざる者は、この門に入るべからず」という看板が掲げられていたと言われている
現実の三角形を描いてみよう
どこか、歪んでいる
完全無欠の完璧な三角形など、この世には存在しない
それでも、完全無欠ではない
現実の三角形は、その劣化コピーだ
突き詰めて考えれば、人間の心の中にある「観念」と言ってよい
「イデア」が「観念」と読み替えられるようになった
デカルトは、そう主張した
元ネタは、聖アウグスティヌスの教父哲学だ
さらにその元ネタは、プラトンのイデア論にさかのぼる
脳の機能を知る現代人にとって、観念というのは、脳の中にあるイメージでしかない
脳の中に存在する、脳内現象だ
だが、昔の人にとっては、そうではなかった
実在論者にとっては、観念は実在する
実在論者にとって、これは神が存在する証拠
イギリス人のジョン・ロックだ
「人間は、白紙(タブララサ)の状態で生まれてくる。すべては、後天的に経験を通じて学んだものだ」
ロックは、そう主張した
デカルトのような考えを「大陸合理論」といい、ロックのような考えを「イギリス経験論」という
観念論であり、実在論
アリストテレスは、そうではない
それは、事実存在にもともとセットで備わっている
本質存在が、事実存在から離れて存在することはない
この世の物体には、すべて「かたち」がある
「形あるもの」、古代ギリシャ人にとっては、それこそが「存在」だった
アリストテレスのいう「形相」は、基本的に「生き物の形」だ
卵がかえってヒヨコになり、ヒヨコが成長したニワトリになる
どういうわけか、みんな似たようなニワトリの姿になる
だが、古代人はそんなの知らない
どういう原理で、あんなタマゴが、結果的には全部、同じようなニワトリになるのか?
なんとも摩訶不思議だった
それは、どこか遠くの異次元、「イデア界」にあるのではない
目の前の、タマゴやヒヨコに備わっている
その運動を繰り返している
それが「事実存在」だ
タマゴやヒヨコに備わっている、目に見えないニワトリの形相
それが、「本質存在」だ
アリストテレスにおいては、このように
「可能態と現実態」という概念になった
略して「実存」
西洋哲学のキーワードだ
形体界だ
形相こそが本質なのだ
常に、質料とセットで現れる
鉄筋コンクリートの建物でいえば、鉄とか石灰とかが質料
設計図や配筋図が形相に当たる
それが、実存主義だ
では、事実や現象を本質や理念より優位におくということの根拠は一体どこから来るのでしょうか。
実存主義的な考え方は昔からあったわけですが(例えばマルクスアウレリウスやパスカル、極め付きはキルケゴール)、そこに学問的な基礎を与えたのは、フッサールの現象学です。
ニーチェやキルケゴールがどれだけ現実優位を謳っても、学問的な基礎がなければ「それはあんたの勝手な解釈でしょ」で終わってしまいます。
実存主義哲学の親玉ともいえるハイデガーやサルトルがその哲学的基礎付けにおいたフッサールの現象学がなければ、20世紀実存主義の潮流はまず生まれていなかったでしょう。
フッサールを実存主義者として語ることに違和感を覚える人もいるかもしれませんが、実存主義の代表格であるアルベール・カミュは、ハイデガーやヤスパースよりもさらに実存主義的に先鋭化されたものとしてフッサールを評価しています。
例えば、私が星空を見ている時、天文学者がやってきて「あの星は20万光年先からやってきた光で、今はもう消滅した銀河を私たちは見ているんだよ」と言ったとします。
私がいま現に見ている瞬く星という現象は仮象であって、真の実在は「今はもう消滅した銀河」というわけです。
誰もが納得してしまうところですが、ここでフッサールは待ったをかけます。
なぜなら、その星の理念的な本質「今はもう消滅した銀河」は、いま現実に目の前で輝く星という現象から帰納的推論によって生じたものでしかありません。
それは明るさや色や視直径や年周視差などの現象としてあらわれるデータ(素材)をもとに推論された仮説(仮象)であって、その理念的本質などより、現実的現象の方が先立っているということです。
私たちが過去に立てた仮象(理念的本質)がひとり歩きして、いつの間にかそれが本物として転倒されてとらえられてしまったものが、既存の理念優位の世界観だったのです。
フッサールはその転倒された理念優位の世界観を再転倒して、元の正しい状態に戻したともいえます。
これはプラトンやキリスト教によって生み出された理念優位の転倒した道徳観を、ニーチェが再転倒した手続きによく似ています。
それをひっくり返したのが、近代の「実存主義」だ
人間は、感覚器官によって一次情報を得ている
それを、意識の中で加工して、世界を構築している
唯識論の「現量」の意味を理解するためには、
参考意見としてフッサールの「現象学的還元」が
欠かせない
目の前には、自分がかけているメガネの縁や、鼻とか足とかが見えている
人間が感覚器官によって捉えている世界は、こういうものだ
https://ldesignreview.com/wp-content/uploads/2023/02/image-10.jpeg
唯識論でいう「現量」に相当する
「比量に対する現量の優位」
を唱えたことになる
陳那(ディグナーガ)だ
仏教思想史でも、最も論理学に傾斜した人物だ
ここからは事実優位によって起こってくる世界観の主要な変化を挙げていきます。
1、疎外の克服
現実より理念(理想)を重視した時に起こってくるのが、いわゆる疎外論の問題です。
疎外とは、王様が自分の奴隷として買った女性に依存し、いつの間にか立場が逆転して、逆に王様が女奴隷の奴隷になってしまうような状態です。
人間の単なる道具として仮設しただけの科学的真理という奴隷に、いつのまにか主人である人間が振り回されるようになった現代。(フッサールの『危機』書)
理想として立てた人間観に縛られて、リアルな人間の複雑な豊穣さを失った心の貧しい現代人。(カミュの『異邦人』)
実存主義はそれらを克服し、理想に奪われた人間の豊かさや力を取り戻そうという運動です。
通俗的に言うと、ほぼブルーハーツの世界観です。
【具体例】
現実の異性との人間関係に恐れを抱いて、アニメやアイドルなどの理想(幻想)の異性に逃避していた人間が、何らかのきっかけで現実と向き合い、理想に吸い取られていた自分の活きるエネルギーを取り戻し、現実的な努力によってリアル異性と幸せになるようなものです。
必然的に与えられた本質よりも、現実の事実が先立つなら、人間は現実の事実において努力し、自己の本質を作っていかねばなりません。
優しいという本質を持つ人間(優しい人)だから現実にその人は優しい行為をするのではなく、現実の行為において優しい行為をするから私は優しい人に成れるのです。
優しい人であるという理念的本質は、現実の普段の努力と行為によってしか生み出せないものなのです。
それは、人間は自由であると同時に、私の本質に対して私は全責任を負っているという事でもあります。
【具体例】
「ユダヤ人は本質的に嘘つきで、中国人は本質的に粗雑で、日本人は本質的に真面目だから、私も真面目だ」と言う日本人は、本質を現実より優位に置く、典型的な偏見と自己欺瞞(自己に向けられた偏見)の構造です。
私は真面目な人でありたければ自己欺瞞を捨て、自己の主体的な行為によって、現実の中で真面目である不断の努力をしていかねばならないのです。
現実の側から本質や理念が決定されるとしたら、必然的に私たち人間は何の依りどころもない状況に立たされることになります。
本質(何であるか)は事物の設計図であり、理念はいわばコンセプトです。
あらかじめ与えられた旅程やガイドマップのある人生のツアー旅行から、地図にも載らない未開のジャングルに放り込まれる人生の冒険がはじまるようなものです。
例えば物には固定した性質(本質)があるため、物の動きの方向性というものは物自身が意志・選択・決断する必要はなく、自動的に決定されます。
手に持ったリンゴを離せば、リンゴは上に行こうか下に行こうかなど迷うことなく、リンゴという物体が元来持つ性質(本質)に従って下に落ちるまでです。
例えば、飢えたライオンの前に怪我をした子鹿が現れれば、ライオンは本能(本質)に従って、例外なくその子鹿を食べるでしょう。
しかし、人間は同じ状況にあっても、その選択に迷いが生じます。
つぶらな瞳の子鹿が訴えるような眼差しで私を見るとき、私は反省的に私の行為を検討し始めます。
このまま子鹿を屠殺して食べるべきか、もっと別の食べ物を探すべきか・・・。
なぜ、そういうことが起こるかというと、人間は自己が自己を見るという反省的な視点を取ることのできる稀有な存在だからです(デカルト的コギト)。
自分が自分に対すると言う意味でそれを「対自存在」といい、この分裂が人間を人間たらしめるものです。
反対に、物や動物など、現実と理念の一致した自己充足的な存在を、即しているという意味で「即自存在」といいます。
この対自存在の徹底が、実存主義の基礎になります。
人間のうちには本質という行動規範はなく、人間の外にも超越的な規範(神や真理のような)もないということは、人間は必然的に不安の中にある存在であり、そこから逃れることは決してできないのです。
・世間一般の素朴な世界の観方というものは、理念を生み出した親である現象の存在を忘却し、理念優位に転倒してしまった価値観です。(フッサール)
・実存主義はそれを取り戻すために、現象優位に最転倒し直した世界観を提示することになり、世間の価値とは異なった非常に逆説的な主張となります。(ニーチェ、カミュ)
・内在的な本質も超越的な真理も持たない寄る辺なき人間は、砂漠のど真ん中に放り込まれたような絶望と不安の中に、つねにあり続けることになります。(キルケゴール、ハイデガー)
・しかし、人間は、あらかじめ設定された設計図(本質)や目的(真理)を持たないがゆえに、自由であり、世界のあり方に対して全責任を負っており、人間は逃れることのできない自由の刑に処されているわけです。(サルトル)
ハイデッガーやサルトルの話は、とりあえず関係ないので省略する
これが中心テーマであるということ
これだけは知ってないと、アリストテレスや聖トマスが何を言ってるのか、サッパリわからない
「これはそもそも、何の話なのだ?」
「この人たちは、何について語っているのだ?」
と、まるきり意味不明な状態のまま
最後まで読み終える(根気があれば)
ことになる
https://youtu.be/SwzQkt56T6Y?si=Bc4LuqmWtXgIgdQC
やはり、
ギリシャ哲学以降の
本質があるな〜
だから
俺は本質に縁が無い
言語記号の恣意性だ
😄
😄
アタマがいいんやな〜〜
ま、楽しめた〜
記憶に残らんやろけど
😄
「なんで、この人たちは、こんなことにコダワって延々と議論しているのか?」
↑
これが、西洋哲学マニアでない人には非常にピンと来にくいと思われる
それを説明したいのだが、難しい😅
あらためて説明しようとすると虫食い感が出てくる気がして包括的でシンプルな説明は難しい
その意味ではプラトンのイデア重視の姿勢は、行き過ぎた唯物論的な姿勢へのカウンターだと受け取れる
質量と本質を一として捉え、両者が直感した事柄を同じ視点から捉えられる視座を作った
神性と人性の位格における神秘的な結合は超越的な内容であるが、そこでテーマになるのは位格、人間の場合だと人格となる
三位一体のそれぞれの位格がそれだけで自足しつつ三位の中で一なように
人類の個我も唯一であり一である
汝自身を知れ、という古代ギリシャのアポロン信託への直感が通奏低音のようにギリシャ、キリスト教文化圏にあり
それを中心に文化が形作られている
キリスト教では肯定神学的に「ありで在るもの」を語る
寒い地獄やな〜
😄
コロワク副反応のせいか
さむい〜
😄
気温が低い
なるほど
カトリック神学のベースになったのか
外に出る意欲がない
家でゴロゴロしそうだ〜
寒さでゴロゴロか〜?
😄
寒さは無い
寒さは無い
寒さの
ダブルパンチだな〜
コロワク副反応も軽いのだろうが
寒さが倍感ある感じだ
😄
ナザレンと
どんな聖霊の感触が
教会にあるのか
未測定だ
😄
ヨーガスートラを
読みながら、昼寝しそうだ〜
😄
😄
挫折気味だ〜〜〜
😄
すぐに眠くなる本として古来から有名
何度も眠っては起き、眠っては起きしながら、最後まで読み通したな~😄
だいぶ昔のことだけど
いま読み返したら、まったく違うだろうな
ましてや、もともとそういう文化のない日本人なら当たり前
神によって、「存在」を刻印されている
「存在」が存在する
それは「存在」ではなくなる
それは、「存在」であることと矛盾する
ゆえに、「存在」は存在する
証明おわり
そしてキリストは第二のアダムで、それに連なるものは、人類のエンテレケイアを「キリストに似たものになる」とか正教では「テオーシス」とする
そして、むしろ、無があるのではないのか?
なるほど!😆
創造主と被造物は、超えられない境界があることを前提とし上での、その偉大な存在に近付く、というニュアンスがなければならない
従って、繁栄の神学のような、人はリトルジーザスである、みたいな驕り高ぶった姿勢は批判される
今起きた〜
ざっと1時間半昼寝だ
😄
😄
挫折しそーな
ヨーガスートラを
ゴロゴロしながら、また読む
😄
過大な脳作業だ〜
ほんと、アタマワルイっす〜
ボクは〜
😄
停滞だ〜53ページで
😄
停滞だ
😄
キリスト教イスラム教へ逃亡するなあ〜
これは
😄
😄
あ、訂正。
いいご身分だな😟
ま、ゴミ分でも変わらんか😂
😄
聖霊パワー回復だ
😄
相変わらず煩悩三毒ローラーしてますなあ〜
🤢
おっ、ローラー様だ😄
😫
プロテスタント系統教会へ行く予定だったが
コロワク鬱パワーダウン故に
カトリック教会へ行くことにした
😄
😄
アタマがビミョーに軽く痛い
たまにだが
😄
ヨーガスートラへの
意欲が
ない
カトリック雑誌に走っている
😄
それが、この世の存在だ
それが存在の本質
すべて、なんらかの形がある
・・・こうしてマスクは、リスク中毒のブラックジャック・プレイヤーが必ずやることをやった——自分の運に頼りすぎたのだ。自信過剰、確証バイアス、そして主導権は自分にあるという幻想。これらのせいで判断を見誤り(そしてドッカーン)、イーロン帝国は再び苦境に立たされている。
https://www.businessinsider.jp/post-279718
神の国は永遠
アベも
同じ展開だな
😫
副反応抜けたと思ったら
ノドがガラガラ強め痛くはないが
早期対応するので
副反応と同時に風邪をひくみたいな
展開か?
😫
まだ読んでない
動画落とししていたからな
朝は
bs11の京都やらお寺の衛星放送アップは
落とす
😄
ガラガラにはなるが
いつもより、ガラガラが強めなので
風邪なんだろな
😄
昨日は風邪なのか、
副反応なのか
ワカラン日だ
😄
前か、全部読むだろう
31ページ
カトリックのセイント信仰がたくさんある、
アウシュヴィッツのコルベ神父も熱心なマリア信仰のほうがあったらしい
😄
けがれなき聖母の騎士会の
創立者になっている。
😄
雑誌のよーだ
全部読んだ
セイント信仰の霊的愉しみを
知ったかもしれん
😄
マリア信仰の
ふしぎのメダイの
信仰者だったよーだ
なるほど〜
😄
家族に不幸事があった
と聞いた、
主のみぞ知る世界だ
ただただ闇の中の光を
😟
中世哲学に関して
https://news.yahoo.co.jp/articles/b53c6e57f99864a17bd1cdaec3dacb75edb236a7
😄😄😄😄😟😟
キリスト教の思想としても、考え続けなければならない課題が山積している。キリスト教的背景は西洋の思想を考える場合、不可欠の前提である。たとえば功績(meritum)をめぐる神学は、ルターの宗教改革にも直結したが、魂の救済と幸福のあり方についての倫理学的枠組みの基礎となった。
中世哲学は、現代における哲学、経済学、政治学、倫理学の問題において復活を期し、入口の閾に足をかけ、入室を待ち構えている。中世思想の全域を覆うことは永遠の課題であるとしても、放置されたままであることは大きな損失なのである。
さすがに
チンプンカンプンだ
やはり
地アタマワルイぜ〜
😄
>>208
あの男性、いつまで同性愛者でいるの?新興宗教の信者さん
悪い人じゃないけれど
不自然ですよね
ローマ教皇、同性カップル祝福を正式に認める
https://www.cnn.co.jp/world/35212989.html
ローマ教皇、同性カップルへの祝福認めると宣言
https://www.bbc.com/japanese/67757415
1外から見た姿や形。ぎょうそう。
2《〈ギリシャ〉eidos》アリストテレス哲学では、事物の可能態としての質料しつりょうを限定して現実的なものたらしめる本質的な原理。エイドス。⇔質料。
ギリシア語のエイドスeidos,イデアideaの訳。元来は〈形〉〈姿〉〈像〉の意。ある種類の事物を他から区別する本質的特徴。アリストテレスは素材,質料と相関的に使用し,形相と質料の対立を現実態(エネルゲイア)と可能態(デュナミス)の対立として説いた。プラトンの真実在としてのイデア観とあいまって,以降,質料に対する形相の優位が西洋哲学の基本動向となった。
その基本概念
今日こそハローワークに行こう❗️
がんばれ~😄
聖ウンコ師がやる気を出したようだ😄
😄
アリストテレスもまたプラトンの弟子の一人ですから、プラトンのイデア論についてはよく知っていました。イデア論とは、この世の中にあるあらゆるものの存在には理想の形というのがあり、それはすべてイデア界にあるというものです。
しかしアリストテレスは、そんなイデア論を批判します。しかも批判がひとつじゃないというのがえぐいです。
よく言われるのは美しいと醜いの対比です。もしイデア界に「美しい」のイデアが存在するのであれば、「醜い」のイデアが存在するはずです。
けれども、例えば、この現象界にある目の前の汚物をとりあげたとすれば、それは美しいのイデアに欠けているから醜いというのか、あるいは醜いのイデアがあるからこそ醜いであるのか、どちらの立場を取ればいいのかわからなくなります。
(ここでのポイントは、人が想起を起こす場合、その性質が「あるかないか」の二択でしか考えないことを前提としているということです)
「アリストテレスさん、さすがにそれはひどくないですか」という感さえある批判なのですが、至極ごもっともです。
もしイデア論というのを誰かが言い出したら、「イデアはどうやって存在を証明するんですか?」という疑問が浮かびませんか?
この世界とは別に、イデア界があるだとか、そこに善のイデアがあるだとか、どうやってそんなのわかるのか、というツッコミです。
だからアリストテレスはイデア論という考え方を用いず、この現実世界において完結する形で、あらゆるものの性質・存在を説明しようとしたのです。
質料・・・材料のこと(原子にたとえます)
形相・・・形のこと(構造にたとえます)
動因・・・材料に及ぼす力のこと(熱にたとえます)
まずはこの3つで説明しましょう。この世界の存在はすべてこの3つで出来上がっているというのです。例えば水という存在があるわけですが、それは水素のHの原子2つとOの原子1つによって成り立っています。この「成り立ち」がすなわち形相であり、各々の原子が質料と思っておいてください。そしてこれらに、化学反応だとか熱だとかの力(これを動因といいます)を加えたら、水素が発生したりするわけです。
木という質料に対して、机の形相を加えたら実際に机が完成するわけですし、あるいは椅子という形相を加えたら椅子が完成します。もちろん木が机や椅子になるまでの過程に、木を切るだとか組み立てるだとかそういった動因が存在するわけです。そして、誰かがそれを求めるということが、目的として存在するわけです。つまり、その形が望まれるということですね。
ちなみに実際に完成する前の机の概念を可能態といい、実際に完成した机を現実態と呼びます。
人間に適用した場合
質料・・・身体
形相・・・霊魂
動因・・・あらゆる身体の機能
物質の場合だと、動因は外部からもたらされています。椅子や机をつくろうとするときは、机という形相が自ら机になるわけではなく、人間がそれを達成してくれます。しかし人間の場合は、霊魂という形相が、身体を動かし、形作ろうとする動因を自ら生成することが可能というのです。
ちなみに、アリストテレスは人間には感覚能力・思考能力があるというのですが、それは「形相を認識できる力」というのです。個人的にはけっこうなるほど、と思いました。人間が机や椅子をつくろうとしたときは、目の前には机や椅子というのは存在しません。しかしその形相を認識し、それを達成するために質料に動因を働かせることができる能力というのが、感覚能力・思考能力だというのです。
質料・・・全ての物質(水そのもの)
形相・・・全ての物質の未来(水から見た水蒸気、など)
動因・・・世界における因果関係
これがまた壮大なのですが、この世界はひとつの生物のように動きます。つまり、世界が内に秘めた質料と形相を使って、何かしらの運動を起こすのですが、それは世界が何かの目的を持って動いているというのです。少し壮大な話をしましょう。
ワク休暇なので
読む余力がある
😄
昨日までは、視野に来てた、
今日は体感直す調整、至って平常
😄
社会思想が発達したんやろな〜
昨日の記事からすると
😄
神の見えざる手とか、
中世哲学からの発達なのだろう
😄
神の意志だと
国王勢力や既存伝統的保護貿易思想に
対抗するために
アダム・スミスは
そのよーなことを考え、
その幻はレーガノミクス、サッチャー、
小泉純一郎まで
残影が残る、
鉄道、郵政あたりの民営化の効果も怪しげ
イギリスあたりでは
廃線多く困難に、
日本は新幹線と高速の作り過ぎで
JR系統は鉄道は経営難に
😄
> アダム・スミスの
> 神の見えざる手とか、
>
> 中世哲学からの発達なのだろう
中世哲学の自然法思想からの発展形ですな~😄
あんまり
お勉強しなくても
チラ見で
多少わかるかも〜
😄
トマス・アクィナス 『定期討論集魂について』 第6問題について
井上淳
人間の魂についてのトマス・アクィナスの考えを知る上で非常に重要な資料 の一つが、この『定期討論集魂について』 (Quaestiones disputatae de anima)で ある。この著作はトマスの主著とされている 『神学大全』における人間の魂を 論じている部分 (STL qq-75-89) の少し前に書かれたと考えられており,内容的にも密接なつながりを持っている。 『神学大全』 においては簡潔な形式が重視 され、異論の数も最小限にとどめられているのに対し、この著作においては 『神学大全』 におけるよりもはるかに多くの異論が挙げられ、 綿密で詳細な論考が 展開されているのである。この著作を通して我々は, 人間の魂に関するトマス の理論をより奥行きのある形で知ることができるように思われる。 トマスがアリストテレスの人間論を援用していることはよく知られている。しかし, トマスにおいてはカトリック信仰に基づく人間観がその基盤にあるのであり, アリストテレス哲学を超えた視点から人間がとらえられている。 そのようなトマスの人間理解を知る上で、この著作は重要なのである。
それゆえ、魂は「それ自体として自存しうるもの」としての 「自存者」 (hoc aliquid) なのであるが,自らの内に完全な種を有するような「自存者」なのではなく、身体の形相として人間という種を完成するような「自存者」 なのである。 このように、 魂は 「形相」 であると同時に 「自存者」 なのである。
「身体は質料であり、魂は形相である」
それが、聖トマス師の人間観
アリストテレスの形而上学によれば、
質料と形相は、常にセットで存在者となる
質料を離れて、形相だけが単独で存在することはない
「魂は、身体を離れたら存在できないってこと?」
ということになる
凄く面白かった
😄
https://m.youtube.com/watch?v=BK6v2HfXeJg
ナウシカからの中世西欧ヨーロッパへの
関心があったんやろな
😄
😄
😄
ま、マリア信仰ブーム以前のキリスト教は大衆農民にウケなかったらしい
😄
中世の一般的なイメージだつたのかもな
😄
上で書かれてることは本性についてですな
トマスでは質量と形相は本性に折りたたまれている
実存において一なので、この文書のテーマは
魂は実存側なのか、本質側なのか、みたいな読み方をしますた
ヘビィな
頭脳労働やらされる仕事だった
瞬間短時間判断て
マジウゼェ〜
ま、ストレスためにくくなってはきているが〜
😄
ストレスまみれの大爆発してたよーだな
😭
本質なのかもね〜
よーわからんけど〜
三密解除すると
アタマが霊的に動きだす?
😄
肉体も魂も霊も実存の乗り物ということになる
その時、仮初の我が実存と肉体の接点から生じるように
魂の身体と実存の接点から生じるものもあるのだろう
その意味で、魂も霊も本質側ではあるが
その交わりから生じる中間のものもあるからややこしい
壁だな
😄
「中世ヨーロッパの学者」という判定結果だったな(笑)
ずっと忘れてたけど
チベット密教ニンマ派僧だ
😄
たぶんな、
この異様なシャーマン無敵能力は
😄
確かに
そんなところかと😅
トマスにおいて人間の 「魂の認識の問題は,この世における人間の認識活動だけではなく、 それに続く死後の認識にまで、その考察の範囲が及んでいる。
人間の魂の活動はこの世における生だけではなく、 身体から分離した状態においても続くとされているのである。 分離後の魂の認識のはたらきは、 魂の次の段階の活動として連続性をもってとらえられている
それは一方では, 人間の魂の知性の自 然本性的な能力を超えた認識様態であり、その様態では人間の魂は不完全で混 雑した認識しか得ることができないとされている。 しかし他方, 人間の知性認 識のはたらきの究極目的は神の本質をみることにおかれており、それが可能に なるのは、 現世の生においてではなく、 死によって魂が身体から分離された後においてなのである。
トマスの魂についての見解を理解するためには、 彼の神 学体系における人間存在の理論にてらしてそれを考察する必要があるであろう。
西欧哲学と
トマスは
俺の眼の前立ちはだかるヒマラヤやな〜
😄
昨日はやられ過ぎた
😫
ほーかいくんは
議論やりたがっているが、
ほーかいくんはアイドルだからな
大事にしてやらんとな〜
😄
理論で説得したいんやろな〜
あの桜ん坊の動画は
本覚思想の
恵心僧都偽作の
真如観
で
一心三観の
観心は
天台智顗にあるのてめはなく、
真如観から
始まったと
言ってたね〜
お〜
お勉強になった〜
と
思ったよ〜
日蓮は
観心という用語を
一番重視している
それは
日蓮の
教義書である
観心本尊抄
だ
ここで点と点が
つながり、
日蓮と
本覚思想の関係が見えた
😄
日蓮著作への
信心からの
演繹法だからな〜
そういう彼に
仏教史観点の帰納法の
結論突きつけても
展開は
予想てきるからな〜
😄
日蓮宗系統は〜
云々ていうのは
ほーかいくんスレでやるべきてはないけど
ま、俺もそのスタンスの感覚はあるがほーかいくんブログで
それを仏教史からの帰納法で証明する必要すら
感じられないからな
😄
あれは、ベースが立正佼成会だから
かたや、立正佼成会から出発して仏教全般に進んだ人
対立の根が深い
歯向かうのには
全て潰したい
三毒が教義
😭
潰したいターゲットは
ほーかいくん、
JBL
ムイムイ
ぐらいが
燃えるんでしょうな〜
😫
ともかくそうやって何かと因縁を付けずには居られないのが君の障害の副作用だな😗
何度も云ってるが実家は曹洞宗。
ただ、本家では法事の後一族が集まって、いわゆる隠れ念仏を称えて、そして今代々長男には◯という一字が必ず入れられる。
謎が多いw
ちなみに宗教的な芽生えは早かったな。
キリスト教には小学生で芽生え、一人で教会に通ってた(プロテスタント)。
大学は宗教史専攻。
卒業後は商社にいったけど、仏教の研究機関に出向してたな、10年程。
臨済禅とはそれ以来の関係。
その結果が、これかよ😅
話にならん
かわいい😍
ほーかいくんお館様の
おかげ〜
😄
どこの寺に行っても、「ありがたや~」となる
やっぱり、カトリックに限る
禅宗と日蓮宗の違いが遥かに大きい
念仏を唱えて座禅を組み
法華経も華厳経も読む
それが仏教徒のあるべき姿
法相宗で唯識派を学び、三論宗で中観派を学び、華厳宗で如来蔵思想を学ぶ
それが当たり前だった
山下良道さんや藤田一照さんが提唱してる仏教3.0も統合の潮流の一つのような気がします
12/18(月)20:43配信
https://news.yahoo.co.jp/articles/0d2ffb72e032b7f3a539aacdba4fa4f8d1efe956
その、全楽曲の作詞・作曲を手掛ける塩塚モエカさん。
柔らかな印象の彼女の中から生み出されるメロディと言葉は、その佇まいに反して激しく力強い。
「少し変われた気がした」と語る12月6日にリリースされたアルバム『12 hugs (like butterflies)』の中に放たれた言葉から窺える、彼女の気持ちの変化に迫ってみた。
塩塚モエカさん (以下、塩塚) :最初はスマホのメモアプリに書いてるんですけど、それで書き上がっちゃったらそのままいくし、そこでできなかったらレポート用紙に鉛筆とかシャープペンで、書いて消してを繰り返しながら仕上げていきますね。
歩きながらスマホで打ち込んだりもするし、ギター持ちながらスマホに打ち込んでいくこともあるし。でも、そこで完結できないものって、途中でだんだん何を書きたいのかわからなくなってきちゃうので、最終的に紙に書くようにしてるんです。
塩塚:アルバムの9曲目「深呼吸」の歌詞は、紙に何回も何回も書き直して仕上げていったんです。
でも、3曲目の「Addiction」は、ザックリとラフにまとめたかったので、あえてスマホで書いたんです。
今回のアルバムはまちまちだったんです。パソコンでひと通り作ってからスタジオで詰めたりもしたし、弾き語りのデモを持っていってスタジオで合わせた曲もあったし。
1曲目の「Hug.m4a」は弾き語りでスタジオで録ったんですけど、メンバーにも聴かせないでレコーディングしたので、メンバーは録り終えてから知ったんです (笑) 。
マイクとかも交ぜて録音したんですけど、ほぼスマホで録ったままを活かしているので、スマホの拡張子の“m4a”をタイトルにしたんです。
2023年12月29日
クリスマス
都に上る歌。
さあ、主の僕たちよ、こぞって主をたたえよ。
夜通し、主の家に立つ人たちよ
聖所に向かって手を上げ、主をたたえよ。
主がシオンからあなたを祝福してくださるように
天と地を造られた方が。
(詩編 134:1-3)
キリスト教霊的枯渇するなあ〜
年末仕事は
昨日は冗談ではない
というぐらいに
仕事量が多かった〜
瞬間脳疲労がキタ〜
😄
やはり、ありがたい〜
😄
人間はメンタルな闇は
すぐ横にある
😟
https://news.yahoo.co.jp/articles/6f8511cc5ee9c7e9a3e9475a65ea1ac9f2b70ec9
ひらめいた
福音書に
「おそれるな」
とあったか〜
、
そういう意味では、
仏教瞑想系統ほど
鉄壁趣味てはないが
安心をイエス・キリストに置く、
恐れながらも〜
😄
冬鬱気味で
朝は弱そう気味か?
😟
やはり
メンタルの弱さを抱え持つ生き物だ
しかし、人生メンタルやられず人生を終える幸せな人もいる、
自分の両親は、そのよーなタイプだ
しかし、唯識でいう
七識、八識で
人生の暗いムードを背負うと
簡単に
メンタルは
やられてしまう〜
やられると
回復は難易とか高くなる〜
😟
15年前は
冬期や春の始まりの日の光が
憂鬱に感じる時期だったな〜
😄
例えば目前の机や椅子でよいです。
可能態とはその存在者の構成要素です。
机や椅子であればアルミや木や鉄や粘土
その他もろもろ。
質料はその構成要素の概念であり、
形相は椅子や机の概念です。
質料と形相が合致して初めて
目前の机や椅子が存在できるというのが
アリストテレスの考え方で、
あらかじめ机や椅子のイデアが実在する
というプラトン説より普通の考え方だと思います。
それは、あらゆる可能性をすでに実現してしまった存在
つまり、神
現実態は可能態の実現されたありさまを指す。
一言でいうと、
可能態(デュナミス、dynamis)とは、その存在が持っている能力、あるいは、事物が持つ性質がいまだ発揮されていない可能的な状態にあることを意味する概念であるのに対して、
現実態(エネルゲイア、energeia)とは、その存在が持つ能力が実際に発揮されて活動している状態、あるいは、事物が持つ性質が実際に現実化された状態にあることを意味する概念として定義することができると考えられることになります。
こうしたアリストテレス哲学における可能態(デュナミス)と現実態(エネルゲイア)の概念は、その概念が用いられることになる哲学的な文脈の違いにおいて具体的な意味合いが異なってくる多義的な概念でもあり、
例えば、
普遍的な観念と個別的な事物の関係性といった観点では、
「塔」や「建造物」といった普遍的な観念は、現実に存在する様々な事物のうちでその観念が表す可能的な存在の範囲を規定しているといった意味で可能態(デュナミス)として位置づけられるのに対して、
「東京タワー」や「エッフェル塔」といった個別的な事物は、そうした普遍的観念が意味する可能的なイメージの範囲が一つの個物の存在として定まることによって実体化した現実態(エネルゲイア)として位置づけられることになります。
生命の誕生や成長の過程における生命体の構造の変化といった観点では、
「卵」や「種子」といった成長する前の段階における動物や植物の姿が可能態(デュナミス)として位置づけられるのに対して、
「鳥」や「樹木」といった成長を終えて成体となった段階における動物や植物の姿が現実態(エネルゲイア)として位置づけられることになると考えられることになるのです。
こうしたアリストテレスの哲学において、可能態と現実態と呼ばれる概念が最も重要な意味を持つ概念として探求されていくことになるのは、
『自然学』や『形而上学』などに位置づけられる著作における存在論の議論において登場する質料と形相と呼ばれる二つの事物の構成原理との関係においてであると考えられることになります。
質料(ヒュレー)とは、事物の生成変化を通じて変わることなく存続し続けている素材や材料となる存在のことを意味する概念、
形相(エイドス)とは、そうした事物の生成変化の前後において新たに与えられる姿や形あるいは物事の本質となる概念といった存在のことを意味する概念としてそれぞれ定義されることになるのですが、こうした質料と形相との関係においては、可能態と現実態と呼ばれる概念の存在は、前者の可能態の方は質料と直接的に結びつけられていくことになるのに対して、後者の現実態の方は質料と形相の結合体といった存在へと結びつけられていくことになると考えられることになります。
大理石からダビデ像の姿が形づくられていくという事物の生成変化のあり方の場合、
ダビデ像の素材すなわち質料にあたる大理石の存在のうちには、それがダビデ像のほかにもマリア像やミロのヴィーナスなどの他の様々な彫像、
あるいは、神殿や邸宅などの床や柱といった無数の事物へと至る可能性を自らの存在の内に含んでいるという意味において、それが可能態の状態にあると考えられるのに対して、
そうした質料にあたる大理石の存在に彫刻家の手によって具体的なダビデの姿という形相が与えられることによって大理石製のダビデ像が実際に完成するというように、
質料と形相が一つに結びついて現実の世界においてその事物の存在が実際に現実化した状態が現実態にある状態として捉えられることになると考えられることになるのです。
アリストテレスの哲学における可能態と現実態と呼ばれる二つの概念は、
可能態(デュナミス)は、事物が有する能力や物事の性質の可能的な状態などを意味する概念であるのに対して、
現実態(エネルゲイア)は、能力が実際に発動されて活動している状態や物事の性質が現実化された状態などを意味する多義的な概念であると考えられ、
これらの概念は『自然学』や『形而上学』における質料と形相との関係においては、
事物の生成変化の出発点にあたる質料の存在が可能態(デュナミス)として位置づけられるのに対して、
そうした質料と形相が結びつくことによって実際に現実化した状態にある質料と形相の結合体にあたる存在が現実態(エネルゲイア)として位置づけられることになると考えられることになるのです。
素材や材料となる質料に、特定の事物としての本質を与える形相が結びつくことによって成立していると説明されたうえで、
そうした質料と形相の結合体にあたる存在が現実の世界において実在する事物の存在のあり方である現実態(エネルゲイア)として位置づけられていくことになるのですが、
その一方で、こうした事物が現実化した姿である現実態(エネルゲイア)としての存在のあり方は、
動物や人間といった生命体における魂と身体との関係においては、単なる物質的存在としての事物における現実態のあり方とは少し異なった観点からも捉え直されていくことになります。
例えば、
ダビデ像のような彫像の存在は、彫像の素材すなわち質料としての大理石に、彫刻家の手によってダビデの姿という形相が与えられることによって成立していると捉えられるように、
生命を持たない単なる物質的存在としての一般的事物は、事物の素材や材料としての質料に特定の事物としての本質を与える形相が結びつくことによって形成されていると説明されることになりますが、
それと同様に、
アリストテレスの生命論の議論においても、
生命を持つ存在としての人間や動物といった存在は、質料としての身体に生命原理としての魂が形相として与えられることによって成立していると説明されることになります。
そして、
こうした現実の世界のうちの事物における質料と形相の不可分な結合という捉え方に基づいて、
人間や動物といった生命体の存在においても、質料としての身体と形相としての魂は互いに一つのセットとして機能することになる一体的な存在として捉えられていくことになるのです。
アリストテレスの哲学における現実態(エネルゲイア)の概念は、
物事の性質が現実化している状態や能力が実際に発動されて活動している状態などを意味する概念として定義されることになりますが、
生命原理としての魂は、質料としての身体と結びついていなくても、その本質としての知性の働きや精神活動によってそれ自体としてすでに活動している状態にあるとも考えられることになるので、
それは形相のみにおいてすでに現実化した状態にあるとも捉えることができると考えられることになるのです。
こうしたアリストテレスの哲学における自然学の議論においては、
人間や動物における生命原理としての魂の存在は、質料としての身体とセットになることによってはじめて機能するという質料としての身体との不可分な一体性のうちに位置づけられている存在として捉えられることになるのですが、
その一方で、形而上学的な議論においては、
そうした人間や動物といった生命体の存在においては、質料との結合を前提としなくても、魂は形相としての自らの存在のみにおいて、その存在が実体的な存在として現実化した状態にある現実態(エネルゲイア)と呼ばれる存在の状態へと至ることになるといった点に、
単なる物質的存在としての一般的な事物における存在のあり方との間に一定の存在論的な差異を見いだすことができると考えられることになるのです。
これが、キリスト教に取り入れられた
まだキリスト教ゾーンに入れるほど疲労回復してない〜
😭
ヨーガスートラの瞑想の構えが
解除できぬ〜
疲労回復に瞑想スキルが
常だからだ〜
😭
キリスト教神学ゾーンと西欧哲学は
俺にとって
地球の裏側ぐらいの遠さだ
😭
要するに、肉体と霊魂の霊肉二元論なわけだが
それが、アリストテレスの形而上学に由来するという話
霊魂は身体と切り離して存在するものではない
身体とセットでなければ意味をなさない
↑
アリストテレスの場合、こうは考えない
らしい
時期は300〜400年あたりの成立らしい、
般若経典の影響はあるのかもしれん、
大般若経、
『ヨーガ・スートラ』(瑜伽経〔ゆがきょう〕とも)は、正統バラモン教(インド哲学)一派で、ヨーガの修行による解脱を説くヨーガ学派の教典。様々な素材、群小教典をまとめたものだといわれる[1]。パタンジャリによって編纂されたと言われるが、彼についてはっきりしたことは分からない[2]。現在の形に編纂されたのは、4-5世紀頃と考えられている[3]。
身体は質料であり、可能態であり、
霊魂は形相であり、現実態である
この両者は不可分であり
セットでそろって機能する
ヨーガスートラの作者とされるパタンジャリは、実在が定かでない謎の人物
「人間は、死んだら終わり」ってことだな
これだけを見ると、「なんのこっちゃ?」と思うかもしれんけど
ここでいう質料とは「身体」
形相とは「霊魂」のこと
・・・そう思って見直せば、また違って見えてくる
これに反論するための切り札となる理論家
それが、聖トマスだった
アリストテレスはプラトンの弟子だからそれはないんじゃないすかね
プラトンは魂の働きを植物や動物、人間にかさねてみてるようですが、知性(の魂)に関してはプラトンと同じスタンスのようですよ
つまり、それは永遠であり不死である、というスタンス
かも〜
😄
う~ん、確かに
「なんだかんだ言って、プラトンの忠実な後継者」とも言われる
「霊魂は、身体を離れて存続できない。
だが、知性は残る」
というのが、アリストテレスの説だそうな
動物の霊魂には知性が無い
だが、人間の知性だけは、死んでも残る
このスレのレスを
ロムれる余力が出てきた
😄
動物は死んだら終わりの「知性」がないから、そもそも失うものはないのでは?
知性と質量が出会うところに「我」が生じるので
トマス=アクィナスの哲学におけるアリストテレスの哲学の影響について教えてください
アリストテレス哲学をキリスト教信仰に調和させて解釈し、信仰と理性の一致をめざした。トマス=アクィナスが、キリスト教神学をアリストテレス哲学で解釈した、というのはどういうことだろうか。
次のような例がわかりやすい。
トマス=アクィナスは、神の存在を自然的理性で証明できるとの立場に立っていたが、かれが実際に証明する上で注目したのは、地上では毎日、昼と夜が交替するという現象だった。
当時、地球は球体であることはほぼ認められていたので、彼はこの現象を太陽や月などの付着するいくつかの天球が地球の周りを回っているからだと説明し、巨大な天が動くことこそ、はるかな天の彼方に神の住所があることの証明だとした。
なぜならば、アリストテレスが言うように運動には必ず「動かし手」があるからである、というのがかれの説であった。
こうしてアリストテレス学説と結びついたキリスト教の宇宙観は、天動説として揺るぎないものとなった。
そして動いているものは、何物かによって動かされたから動いている。
その何ものかを順次追っていっても無限後退に陥るのみであり、最終地点にどうしても神を想定せざるを得ない。
故に神は存在する。」 と、だいたいこんなところで良いでしょうか?
「最初の動因が説明できない」ということが論拠とされています。
しかしこれは「神に存在してほしい」という動機から導き出されたものでしかありません。
「神は存在しない」という積極的な反証も出来ませんが、少なくともトマス・アクィナスの論法は証明にはなっていないと指摘することは可能です。
スコトゥスの立場、 「神の存在の証明は立派な証明ではあるが、しかし不確実である」 神の存在を前提としていて厳密な意味での「証明」とはいえないと思います。 神を人間の理性で捉えることは出来ません。 (キリスト教信仰の)神は可視世界と理性をはるかに超えた存在とされるからです。
パスカルの立場 「神の存在証明は、人間の推論からあまりにかけ離れ、複雑すぎるので、ほとんど影響がない」 同様にまた、存在しないことを証明できるものでもありません。
この他からは動かされずに他のものを動かすだけの存在、これが神なのだとトマス・アクィナスは主張したのだった。それは第一原因と言い換えることもできる。この世界が存在するようになるためには、その原因があったに違いない。それが神なのだ。神は世界の存在に先立って存在し、世界を無から作り出した。聖書もそのように教えている。
アリストテレスは、この地上の諸物事は、形相と質料から成り立っており、形相が物事の本質や運動を決めると述べ、万物は純粋形相を頂点にして秩序づけられているとした。
彼は、この純粋形相を、質料を一切もたず、おのれ自身を完成させた完全現実態(エンテレケイア)の内にあり、みずから動くことなく他のものを動かす不動の動者や第一原因と呼び、神とも呼んだ。
アリストテレスにとっての神は、万物の創造者とは言わないまでも、みずから動かずして世界を動かす第一原因だった。
トマス・アキナスは、アリストテレスのこの説に注目した。キリスト教の神も、万物の創造神であり支配者として、万物のいわば第一原因だからである。
トマスによれば、我々は、キリスト教が無条件で信じている信仰上の真理の幾つかを、アリストテレスの哲学を使って理性的に証明できる。
たとえば、アリストテレスの第一原因は、みずから動かずして、他のものを動かす不動の動者であるが、人間に語りかける人格神ではない。
他方、キリスト教の神は、人間の歴史に積極的に介入して語りかけてくる人格神である。
トマスによれば、アリストテレスの哲学は、この第一原因を人格的存在として捉えることができなかった点で、不完全なのである。
したがってアリストテレスの哲学は、キリスト教と重なり合う面があると言っても、キリスト教の信仰の真理には、彼の哲学には及ばない(はみ出した)部分があり、この部分は信仰(それを書き記した聖書)によって補うしかない。
共通部分は、信仰によっても理性によっても近づくことができる真理であるが、共通しない部分――たとえば復活信仰や奇跡――は、ただ信仰(聖書)によってしか近づくことができない。
トマスは、キリスト教の信仰が対象とする範囲と、人間の理性が対象とする範囲とを整然と分け、理性の限界を示したと言える。
確かにそうだ
😄
大みそか
墓参り修行すると
凄まじい展開だ〜
😄
睡眠時間は
四時間たったので
昼から二度寝した
😄
さかのぼっていくと、不動の一者である
「第一原因」へと行きつく
それが、アリストテレスにとっての神
やっとキリスト教神学や西欧哲学に足を伸ばせるかも?
😄
場合によっては
日本の新興宗教に
影響を与えた?
どーんな感じですが
JBL的な感想としては?
😄
https://m.youtube.com/watch?v=wo7il66p59Q
😄
そりゃ、影響はありますがな
どっちかっていったら、 聖アウグスティヌスの「神の国」とかが間接的な影響ありそう
中古で買ってたので読む
😄
大爆発してたな〜
ウマパー効果👽
漢字の読み方で
悪態ついたので
ま、その金星人のハッタリ悟りポーズがオモロイが
それをチャンスとみて
ローラー様は
絶叫大爆発したよーだな
金星人といいコンビだな
三毒の
👽🤢
金星人ちゃまにレスしよう〜
👽
満足したので
神学よりと
哲学よりの
お楽しみにシフト?
しよー?
😄
ローラー様お威張りである
😫
金星人
も
燃えなくなった〜
😭
霊的理解に
励むナウ
😄
霊的模索準備体操?
で
キリスト教神学への
霊的理解の 展開の可能性がありそーだな
😄
朝から
一切空間認識
の最新バージョン検証しとると〜
真言密教マックスゾーンから
脳内が抜け出られなくなっている
曼荼羅の世界から
抜け出られないな〜😄
なんとか
少しだけキリスト教チラ見はできるけど〜
😄
やはり、残るフロンティアは
とうとう、キリスト教神学と
西欧哲学、
しかし、
トマスの解説本が行方不明だ
😭
13 モーゼ神に言ひけるは、「我イスラエルの子孫の所にゆきて汝らの先祖の神我を汝らに遣したまふと言はんに、彼等もし其の名は何と我に言はば何と彼等に言ふべきや」
14 神モーゼに言ひたまひけるは、「我は、在りて在る者なり。また言ひたまひけるは汝かくイスラエルの子孫に言ふべし。我在り、といふ者、我を汝らに遣はしたまふ」と。
出エジプト記第三章13節ー14節
神は答えた
我は、「在りて在る者」であると
「存在」そのものだと自ら宣言した
犬や猫が存在する
人間や地球が存在する
それと同じように、「存在」が存在する
それは、「存在」であることと矛盾する
ゆえに、「存在」は存在する
証明おわり
トマス・アクィナスは言いました。神とは全ての存在の原因であるがゆえに、神の実体は存在そのものである、と。
私たち一人一人に父と母がいるように、この世全ての存在は、自らが造られた原因を持っています。一方で、造られた存在もまた、別の存在を作る原因として作用する。存在が存在を作り出す。世界は存在を創造する運動によって駆動しています。
だとすれば、既存の存在を造った大元の原因が1つ存在しなければなりません。しかもその根本的な原因は、他の原因とは違って自らの起源を自らの内側に持つ(自分が存在している原因が自分自身である)ような超越的な存在である必要があります。
全ての存在の原因となる超越的な存在には、他の存在から区別できる名が必要になる—そこでアクィナスは、この超越的な存在を「神」と呼んだわけです。
そして、「神」が全ての存在の原因となるならば、「神」は存在という性質を自らの本質=実体としている必要がある。ゆえに、神の実体は存在である。ゆえに、「神は存在する」という命題は明らかに正しい—主語と述語が同一のものを指しているのだから。アクィナスは、以上のようにして神と存在を定義しました。
注意してほしいのが、私たちのような具体的な存在は「存在するもの」であるのに対して、全ての存在の根源である「神」は「存在そのもの」であるという点です。個々の「存在するもの」と、存在の淵源である「存在そのもの」は明確に区別されます。
これは、「神は、在りて在る者である」という出エジブト記の1節、ひいては、それを根拠とした中世スコラ哲学の存在論
これらを知らないと、西洋哲学者がなぜ、こんなテーマに妙に必死で取り組んだのかが分からない
「存在」そのもの、それ自体が神
なぜなら、それは「存在」だから
もしも、「存在」が存在しないと仮定しよう
それは、「存在」であることと矛盾する
ゆえに、「存在」は存在する
つまり、神は存在する
証明おわり
「神の名を、なんと呼べばよいのか」と
神は答えた
「我は、在りて在る者である」
恐らくは
キリスト教神学は
存在=理性=神側の理性
とトマスは
構想していたのでは?
と
俺の脳内直感を感じたが
如何?😄
解除された今、
西欧哲学と キリスト教神学に向き合える…
😄
アンセルムスが示したような「それよりも大きいもの(偉大なもの)を考えることができないもの」という神の定義は採用せずに、
古代ギリシアの哲学者であるアリストテレスが『形而上学』において提示している万物の第一原因としての「不動の動者」の概念、
すなわち、「あらゆる存在の根源的な第一原因」という概念を神の定義として採用することになります。
こうした神は、それがあらゆる存在を生み出した創造主にして第一原因すなわち始動因(作用因・動力因)となる存在である以上、
そのような始動因としての神は、その本質において、直接現実の世界へと働きかける力を持った現実態としての存在、すなわち、現実において能動的に活動している存在でなければならないと主張されることになります。
また、
神がすべての存在の第一原因とされる以上、現実態としてのその存在のあり方は、すべての存在を生み出す力を持った完全性を備えた存在のあり方であると考えられることになり、
冒頭で挙げた『神学大全』においても、神は「それ自身の内に存在の完全性全体を包含している」と述べられていくことになります。
つまり、以上のようなトマス・アクィナスによる神の概念の分析と吟味の議論に基づくと、
トマス・アクィナスがアリストテレスの『形而上学』における「不動の動者」の概念に基づいて定義した「あらゆる存在の根源的な第一原因」としての神は、自らの内に存在の完全性を有する純粋現実態として現実に実在する神でなければならないと考えられることになり、
そのような神の概念においては、
「本質」、すなわち、「~である」という定義と、
「存在」すなわち、「~がある」という実在性とが一致しているという意味において、
すでにその実在性が明証的に示されていると考えられることになるのです。
上記のようなトマス・アクィナスが提示した「あらゆる存在の根源的な第一原因」としての神の定義に基づいて、こうした神の概念についての分析と吟味を進めていくと、
そうした第一原因としての神は、その本質において現実の世界へと能動的な働きかけを行う純粋現実態であり、自らの内に存在の完全性を有するという意味において、現実に実在する存在であると考えられることになります。
つまり、トマス・アクィナスによる神の概念の定義に基づくと、
「神においては本質と存在は同一である」という意味において、
こうした神という概念自体についての形而上学的な分析の内に、すでに、神の存在証明が含まれているとも考えられることになるのです。
こうした神の概念のみに基づく神の実在性の存在論的な証明のあり方は、神の完全なる知性においては自明であるものの、不完全な知性しか持たない人間にとっては、本来、その理解の範疇を超えているとも考えられるので、
そうした人間の知性にとってより適切な経験的な論証のあり方として、『神学大全』においては、「五つの道」と呼ばれる一連の神の存在証明についての議論が提示され、
宇宙論的証明や目的論的証明と呼ばれるような経験的な事実に基づいて神の実在性の論証を行う五通りの論証のあり方が提示されていくことになるのです。
そういうことでしょうなあ😄
> 恐らくは
> キリスト教神学は
> 存在=理性=神側の理性
> とトマスは
> 構想していたのでは?
う~ん、言われてみれば確かに
そんな気がしてきたぞ~😄
西欧哲学理性的に解釈されていった
キリスト教神学が見えてきた〜
😄
西欧哲学理解は
大変だ〜
😄
😫
ナナメ上的なレスが
堪えているのかな?
😫
信仰義認も
神の側の理性を信じる
聖書の言葉の理性を信じる
という視点で、やはり
辻褄が合いそうだ
😄
西欧哲学的な
神の理性の文化がないのでカトリック、プロテスタント共に布教が
明治以降上手くいかなかったかもしれん、
明治以降の仏教の葬式仏教と家庭主義と
仏教的な理性主義が堅調だったかもしれん〜
戦国時代は領主がキリスト教を、選ぶと
領民もキリスト教選択するみたいな
ながれがあったみたい
😄
園関係する神父井上洋治神父は
キリスト教カトリック神学を
日本人にサイズが合わない
西欧人サイズのブカブカの洋服と評価したのは、
そんなところかもしれん
😄
それが、日本人にとっては等身大のキリスト教
トマス=アクィナスは、神の存在を自然的理性で証明できるとの立場に立っていたが、かれが実際に証明する上で注目したのは、地上では毎日、昼と夜が交替するという現象だった。
当時、地球は球体であることはほぼ認められていたので、彼はこの現象を太陽や月などの付着するいくつかの天球が地球の周りを回っているからだと説明し、巨大な天が動くことこそ、はるかな天の彼方に神の住所があることの証明だとした。
なぜならば、アリストテレスが言うように運動には必ず「動かし手」があるからである、というのがかれの説であった。
こうしてアリストテレス学説と結びついたキリスト教の宇宙観は、天動説として揺るぎないものとなった。
<鯖田豊之『ヨーロッパ中世』1988 河出書房版世界の歴史9 p.351>
異端の汚名を着せられないように慎重に論理を展開して『神学大全』を著し、スコラ哲学の大成者と云われたトマスだったが、結局それも無駄だった。
晩年の1270年と死後の1277年、かれの命題のいくつかは、パリ司教の手で異端宣告が下された。アクィナスほどの人物に対しても厳しい教会の異端審判が下されたのである。
<鯖田豊之・同上書 p.349>
「世の中には真理が2つあるのだ。世界の解釈を理性で行えば1つの真理が生まれるし、信仰で行えばまた別の真理が生まれる」
この難問にひとつの解決を見出だしたのが、アヴェロエスの二重真理説だった
「哲学には哲学の真理があり、宗教には宗教の真理がある。物事を見る角度には2つあるってこった」てな具合だ
アヴェロエスはイスラム教圏の人だったが、これがキリスト教圏にも伝わって知識人に流行した
パリ大学を中心に、「ラテン・アヴェロエス主義者」と呼ばれるグループが台頭した
カトリック教会はこれを放置できないと考え、切り札のスーパー理論家・聖トマス=アクィナスに信仰と理性の調停を命じた
「トマス・アキナス」と言っても神父に通じず、「は?」と聞き返されたのが印象に残っている
「トマス・アクイナス」と言い直したところ、「お~、聖トマス」と初めて通じた
「聖トマスの『神学大全』を読んでいる」という話をしたら、おおいに感心された
やっと内容が
アタマに入りそうだ〜
神の理性と秩序という
イメージそのままで
ビンゴだとありうる
😄
ほんと、
俺的には
聖書から霊的に知るキリスト教と
牧師の日曜礼拝のメッセージの
キリスト教とでは
今でも、そうだが違和感があった〜
それは
プロテスタントといえども
背景に
西欧哲学理性神学が
ある、
牧師のメッセージを秩序と支配の霊性?
みたいな解釈しかできないな〜
と
思っていた疑問がまさに
それ、
福音書のペトロは知性や哲学センス無しの
漁師ですからな〜
そこから
原始キリスト教との遊離が始まっている
西欧哲学によってね〜
プロテスタントでも
それは
解消されなかった
😄
キリスト教だと
俺的に
そういう霊的解釈は
未だにある
天台浄土教阿弥陀仏を拝んで修行してきて、
そのキリスト教霊的方向性の理解は
加速した
😄
西欧スタンダードキリスト教、
西欧哲学理性的キリスト教が謎になった
ままに放置されていた
😄
西欧哲学理性的な
スタンダードキリスト教を
霊的に楽しめるよーに
なった〜
😄
神の存在、単一性の理性からの論証は、同時に神が創造した被造物である人類の「神に似たところ」、実存の論証でもありますな
西洋人は、そのために哲学をやってきた
第1章
1:1ダビデの子、イスラエルの王ソロモンの箴言。
1:2これは人に知恵と教訓とを知らせ、
悟りの言葉をさとらせ、
1:3賢い行いと、正義と公正と
公平の教訓をうけさせ、
1:4思慮のない者に悟りを与え、
若い者に知識と慎みを得させるためである。
1:5賢い者はこれを聞いて学に進み、
さとい者は指導を得る。
1:6人はこれによって箴言と、たとえと、
賢い者の言葉と、そのなぞとを悟る。
愚かな者は知恵と教訓を軽んじる。
1:8わが子よ、あなたは父の教訓を聞き、
母の教を捨ててはならない。
1:9それらは、あなたの頭の麗しい冠となり、
あなたの首の飾りとなるからである。
1:10わが子よ、悪者があなたを誘っても、
それに従ってはならない。
1:11彼らがあなたに向かって、「一緒に来なさい。
われわれは待ち伏せして、人の血を流し、
罪のない者を、ゆえなく伏してねらい、
1:12陰府のように、彼らを生きたままで、のみ尽し、
健やかな者を、墓に下る者のようにしよう。
1:13われわれは、さまざまの尊い貨財を得、
奪い取った物で、われわれの家を満たそう。
1:14あなたもわれわれの仲間に加わりなさい、
われわれは共に一つの金袋を持とう」と言っても、
1:15わが子よ、彼らの仲間になってはならない、
あなたの足をとどめて、彼らの道に行ってはならない。
1:16彼らの足は悪に走り、
血を流すことに速いからだ。
1:17すべて鳥の目の前で
網を張るのは、むだである。
1:18彼らは自分の血を待ち伏せし、
自分の命を伏してねらうのだ。
1:19すべて利をむさぼる者の道はこのようなものである。
これはその持ち主の命を取り去るのだ。
市場にその声をあげ、
1:21城壁の頂で叫び、町の門の入口で語る。
1:22「思慮のない者たちよ、あなたがたは、いつまで思慮のないことを好むのか。
あざける者は、いつまで、あざけり楽しみ、
愚かな者は、いつまで、知識を憎むのか。
1:23わたしの戒めに心をとめよ、
見よ、わたしは自分の思いを、あなたがたに告げ、
わたしの言葉を、あなたがたに知らせる。
1:24わたしは呼んだが、あなたがたは聞くことを拒み、
手を伸べたが、顧みる者はなく、
1:25かえって、あなたがたはわたしのすべての勧めを捨て、
わたしの戒めを受けなかったので、
1:26わたしもまた、あなたがたが災にあう時に、笑い、
あなたがたが恐慌にあう時、あざけるであろう。
1:27これは恐慌が、あらしのようにあなたがたに臨み、
災が、つむじ風のように臨み、
悩みと悲しみとが、あなたがたに臨む時である。
1:28その時、彼らはわたしを呼ぶであろう、
しかし、わたしは答えない。
ひたすら、わたしを求めるであろう、
しかし、わたしに会えない。
1:29彼らは知識を憎み、主を恐れることを選ばず、
1:30わたしの勧めに従わず、
すべての戒めを軽んじたゆえ、
1:31自分の行いの実を食らい、
自分の計りごとに飽きる。
1:32思慮のない者の不従順はおのれを殺し、
愚かな者の安楽はおのれを滅ぼす。
1:33しかし、わたしに聞き従う者は安らかに住まい、
災に会う恐れもなく、安全である」。
2つの湖をつなぐ、ヨルダン川
聖書を理解する上で決定的に重要な、
何度でも見返すべき地図だ
https://stat.ameba.jp/user_images/20180729/16/yasashiikokage/77/3d/g/o0240032014237751352.gif?caw=800
現代のイスラエルの国境でもある
この図の黄色がイスラエルの領土
オレンジ色が国境紛争地の「ヨルダン川西岸地区」と「ガザ地区」
https://www3.nhk.or.jp/news/special/new-middle-east/jewish-settlements/still/jewish-settlements_02.jpg
ペトロが漁師をやってたのも、ガリラヤ湖
https://crea.ismcdn.jp/mwimgs/1/4/-/img_14152fc68a29cfbb5d47619f33ba0620114821.jpg
彼らは漁師だった。
イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った。
そこから進んで、別の二人の兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父親のゼベダイと一緒に、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、彼らをお呼びになった。この二人もすぐに、舟と父親とを残してイエスに従った。
(マタイによる福音書4章18~22節)
https://tomoshibi.or.jp/happiness/images/happiness_117.gif
その後、ガリラヤ湖周辺で布教を行った
やがて、ヨルダン川に沿って南下してエルサレムに入った
聖書とイスラエルの国境紛争のおかげで世界的に有名だが、もともと水の乏しい地であり、大きな川ではない
https://chinosiokonan.com/wp-content/uploads/2023/01/S_River_JordanDSC_1019.jpg
ソロモン王の領土は、ヨルダン川を越えて東側まで広がっていた
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/a/a9/Kingdom_of_Israel_1020_map.svg/375px-Kingdom_of_Israel_1020_map.svg.png
https://www.philosophyguides.org/images/st-thomas-aquinas.jpg
トマス・アクィナスによれば、「神が存在する」という命題は、それ自体としては明らかだ。なぜなら、神は存在そのものであるからだ。
アクィナスによる神の存在証明には、以下の5つの論点がある。
1、「第一の動者」が存在しなければならない
2、第一の作出因(=原因)が存在しなければならない
3、必然的に存在するものが最低一つ存在していなければならない
4、善なるものが存在する以上、基準となる最高善がなければならない
5、自然物を目的へと秩序づける知性認識者が存在しなければならない。
↑
上の5つのどれも、アリストテレス的な考え方だ
中途覚醒4時のとき、
小一時間ほど
真言密教影響の
華厳的一切空間認識の
再研究してしまった〜
修行の虫だ
むろん、この研究は禅のは適用されない神秘主義傾向の研究やった
中途覚醒で研究が閃くとは思わなかった
😄
だがその原因にもまた原因がある。
そしてその原因にも原因があり、その原因も同様である。
こうして、原因の系列は、第一の原因である神を出発点とするものとして見出される。
それゆえ、神は存在する。
↑
哲学史上に名高い、「トマス・アクィナスによる神の存在証明」
これは、アリストテレス形而上学の「第一原因」説を、「第一原因とは神である」として言い換えたものだ
「いまある世界の秩序が、因果関係の系列において最新の状態である。だから、因果の系列を支え、生み出している根本動因たる神が存在しないことがありうるなら、世界そのものが存在しないことがありえてしまう。だが、それは明らかに正しくない。それゆえ、神は純粋な現実態にある」
原因には原因があり、そのまた原因がある。たどっていけば、【第一原因】へとたどりつく。それが【神】だ。
もしも【第一原因=神】が存在しないのなら、世界も存在しない。
だが、現にこうして、世界は存在している。
つまり、【神】は存在する。
華厳の研究か~😄
こっちは見ての通り、「聖トマス・アクィナスとアリストテレス」というテーマを継続中だ~😂
アリストテレスの【第一原因説】は、じつはキリスト教の【創造説】と相性が良かった
ローラー様こ日頃で絶叫レスする時の反対の
日常の言葉の使用に関して、
むろん禅定込みで
真言密教は「真言」という仏の真の言葉があり、なんで、
神道系統だと
言霊みたいな、方向性、
西欧哲学理性に制圧される前の原始キリスト教だと
神の言葉や聖句の霊的な力がメインだろう
イスラム教だと、古アラビア語による
クルアーンの唱えるアザーンなどに
霊的な力を未だに感じているかもしれない
😄
トマス・アキナスの思想の原動力の第一原因かもね〜
😄
神の言葉、聖句の霊的な力、奇跡の力を原動力にしたが
トマス・アキナスは
ソロモンの智恵からの
主の智恵を原動力にした、
と仮説は如何?
😄
ローラー
新スレを立てたから
昨日
挨拶をしておいた
😄
仏教世界的には
効果あるのか?
臨済宗禅は
当人の煩悩量そのものを問題視する
他の仏教瞑想メイン宗派は
八正道の正語、
真言密教では身口意の口、真言に近い正しいものか?
そういう系統の衆生済度の研究してた
😄
ソロモンは、キリスト教よりイスラム教で愛好される人物
もちろん、キリスト教でも重要だけど
イスラム教では、もっと人気がある
これが、イスラム哲学の基盤となった
もともと、古代エジプトのアレクサンドリアにあった「ムセイオン」「アレクサンドリアの大図書館」から移転したもの
ムセイオンの源流は、アリストテレスが創立した学校
ローラー様は、「禅寺の老師たちは絶叫系で罵詈雑言を好みで、いつも他の禅師たちの悪口を言っている。だから、私もそうしているのだ」というようなことを言ってたな😫
前から思ってたが、臨済宗は仏教ではない、何か別の宗教
たいていの場合、そいつが個人的におかしいのもさることながら、そいつが信仰する宗教団体がおかしい
存在するものには必ず、それを成り立たせる原因がある。原因もなしに存在することは、あり得ない。原因には原因があり、そのまた原因がある。たどっていけば、【第一原因】へとたどりつく。それが【神】だ。
これが仏教だと、こうはいかない
存在するものには原因がある
原因には、そのまた原因がある
でも、それは原因であると同時に結果でもある
お互いに、原因である同時に結果でもあるのだ
仏教、とくに中観派では、根本的な【第一原因】なるものが存在しない
お互いに原因と結果でもある連鎖のネットワークが、ハテしなく広がっているだけ
そこが、仏教とキリスト教、インド哲学とギリシャ哲学の違い
臨済宗は、変な人ばっかりだ (>_<)
白隠こそ、臨済宗の第一原因
ローラー様
麦、
ムイムイは
無間ボコボコしてやらんとな〜
😄
世襲制にはッ向かない宗派なのに
世襲する最低坊主が多いらしい、
他宗派よりも
あり得るだろな
世襲制で一番ダメージ受けたの臨済宗だろな
😄
臨済宗をめちゃんこ批判してた、
夕は
最初臨済宗志向なので
俺がボコボコにしてやって、
臨済宗やめて、
曹洞宗にしろ、
と
改宗させた、
当人に聞いてみ
😄
親切〜
どーだ
俺は宗教板で
利他行してるやろ〜
😄
真言密教利他行能力が
覚醒した〜
😄
> トマス・アキナスは
> ソロモンの智恵からの
> 主の智恵を原動力にした、
>
> と仮説は如何?
> 😄
実のところ、ダンテの「神曲」では、そうなっている
霊界に入ったダンテが天国を探索していたところ、
聖トマス・アクィナスの霊が現れた
ダンテが「アダムとイエス・キリストほど賢い人はいない」と言ったところ、
聖トマスの霊が、「いや、ソロモンこそ人類史上最高の賢人」と反論した
わりと有名なエピソード
影響力すごいな😂
2位が創価学会か
関心を持ち出すと
ショートカットに
うまいところの
閃きが出るなあ〜
😄
ローラーと麦
の
ブラックコンビのせいだ〜
ぼったんはアタマオカシイしな
😫
自称臨済宗修行ゴッコを
捨てさせる親切も
大切だ
😄
5chで
ノンストップ絶叫されている
😫
また、やってるのか~😫
気持ちが理解てきん
😫
😫
宗教板で、他の参加者に罵詈雑言を並べるのが好きなだけだ
仏教など、そのためのネタにすぎない
単に挑発に乗せられたのなら被害者
離れたところからバカにするだけでいい
分かっていても、挑発されると必ず乗ってたが
それが原則
もう、アイツを相手にするのは止めることにした
talk宗教板に来て暴れだしたのを見て、怒りがわいてきた
アイツに用はない(笑)
次にアクィナスは、神と被造物の関係について論じる。
神は根本原因である。ただし、それは質料的な意味ではなく、最高の作出因であるという意味においてだ。神は最高の作出因、最高の現実態であり、それゆえ完全である。
被造物は、完全な存在である神に由来して存在する。この際、万物は、神の形相(=本質)を分有することで、神に類似する。
この類似関係を、アクィナスは存在のアナロギアと呼ぶ。アナロギアとは、英語でいうアナロジー(analogy)と同根の言葉だ。
「存在するということが万物に共通であるように、何らかのアナロギアによって作用者の形相の類似性を分有するであろう。神によって存在するものは、それが存在するものであるかぎりにおいて、このような仕方で、全存在の第一の普遍的根原たる神に似るのである」
ただ、アクィナスによれば、神は純粋な本質だ。それゆえ、神に似るといっても、外見が似るわけではない。存在のアナロギアとは、神と被造物が、その本質において類似するということだ。
それは要するに、存在のアナロギアは「善」において類似するということだ。
アクィナスはここで、アリストテレスの議論を参考に、善とは「欲求されうるもの」であると規定したうえで、次のように論じる。
それぞれのものは自分自身の完成を欲求し、存在する度合いに応じて完成されている。したがって、完全性の程度と善の程度は比例する。
「完全性は第一原因である神から由来する。それゆえ神は最高善である。被造物は、最高善である神の形相を「分有」して善性を手に入れる。言いかえると、一切の被造物は、第一の根源である神の善性を受け取って存在する」
存在そのものが悪であるような被造物はありえない。悪とされるものは、善を欠く限りでそう言われるにすぎないのだ。
以上の神の規定は、神そのものに即して行われていた。次にアクィナスは、私たちにとって神がいかにして認識されるかという観点から議論を進めていく。
ポイントは、私たち人間が神の本質を認識できないのは「不都合」であるというものだ。
神の本質は認識されないという見方がある。一つは、被造物が創造主を認識できるはずがないからであり、もう一つは、無限なるものは認識できず、それゆえ無限なる神を知ることができないからだ。
だが、神の本質を認識できないとする説は不都合だ。というのも、もし神の本質が認識できなければ、人間が至福を得ることはできない。だがこれは信仰に外れている。
また、この説は理性にも外れている。人間は本性的に、結果から原因を知ろうとする熱望を抱いている。もし人間が神の本質を認識できなければ、この熱情は満たされず悶々とするだろう。それゆえに神の本質を認識することは認められなければならない。
こうしたアクィナスの主張は、あるいは受け入れがたいかもしれない。人間性との絶対的な隔絶のうちにこそ神の本質がある。人間が至福を得ようが得まいが、その点から神を規定するのはおこがましい……。こうした観点からすると、アクィナスの言い方は、人間が原因を知りたいという熱望を満たすために、神をいわば「利用」しているかのように見えるだろう。
ただしアクィナスにとって、神は人間に対して絶対的な命令を下す冷酷な存在であるのではない。それはむしろ、一切の被造物に「つながり」、いわば「存在の絆」を与えるものだ。
神は、被造物に存在を分有させることで、一切の被造物のうちに存在する。最高善である神を原理とした存在=善のネットワーク。これがアクィナスの観点から見た神と被造物の関係であり、世界そのものなのだ。
では、神はどうすれば認識できるのだろうか。アクィナスいわく、そこでは神から与えられる「恩恵」が必要になる。
人間の知性は、神との類似性(アナロギア)のもとにある。神は恩恵でもって、みずからを人間の知性に結合してくれる。それゆえ人間は神の本質を見ることができる。人間の知性は、神の能力から派生した「知的な光」である。
被造物は、神から受け取った栄光の光の大小に応じて、神を認識する。その光は無限ではありえない。それゆえ神を完全に認識することはできない。だが、完全でなくとも、より完全に近いという仕方でなら認識できる。
アクィナスいわく、そのためには、神への愛(=カリタス)が必要となる。
愛といっても、これは性愛ではなく、むしろ友愛と呼ぶべきものだ。というのも、アクィナス的には、性愛では手段としての事物が求められるのに対して、友愛では完全な存在である神から、善すなわち至福が送り届けられるという仕方で、神と人間との間の相互交流が行われ、存在の絆が深められるからだ。
アクィナスに影響を与えたアウグスティヌスは、『告白』にて、人間の自由意志の不完全性を説き、人間は神からの恩恵によってのみ、善を意志することができると論じている。人間は無力であり、独力では善を目指すことさえできない。アウグスティヌスのこの確信が、アクィナスを含むローマ・カトリック全体に対し、決定的な影響を与えたのだ。
ただし、アクィナスいわく、現世で神の本質を認識することはできない。というのも、認識の仕方は認識者のあり方に従うからだ。
人間は現世に生きる限り、身体的質料をもたざるをえない。それゆえ、純粋な本質である神を見ることはできない。たとえば夢など、いくらか身体にとらわれない状況では神の啓示を受けやすくなるが、現世に生きる限り、神の本質を知ることはできない。
だが、神が存在するということ、また、神と被造物との間に存在の絆が成立しているということについては、現世でも認識することができる。
なお、この点についても、経験的な事実としてではなく、あくまで神を根本原理とする推論として示されている点に注意する必要がある。
本書でアクィナスが試みているのは、信仰の基礎づけ作業だ。なので、信仰の前提を崩すような推論、たとえば「神が認識できないとすれば、存在しないのと等しいのではないだろうか?」というような問いについては、そもそも成立する余地がない。その点を考えると、方法的懐疑を打ち立てたデカルトの業績は、やはり哲学の新たな時代を切り拓く画期的なものだったと言える。
これはつまり、どういうことかというと
神は完全な存在であり、被造物は不完全な存在だ
被造物が存在するのは、神から「存在」を分けてもらっているから
人間や犬や猫といった被造物は、神から「存在」という要素を分けてもらっている
0.00000・・・いくつの、神と比べたら無限小に近い、微々たる「存在」だが
とりあえず、「存在」を分けてもらうことにより、かろうじて存在している
全世界が、神から「存在」を分けてもらった被造物たちで出来ている
壮大な「存在」のネットワークだ
それも結局のところ、上でいう「存在」と同じだ
人間が質料で、理性が形相だ
人間は皆、神という完全なる理性から、理性を分けてもらってるんである
我々は皆、神という最高善から、善性を分けてもらっている
聖書を贅沢にチラ読み、
JBLの西欧哲学理性的スタンダードキリスト教のストリームを味わいながら
聖句と理性か
俺的には
聖句の霊的な力と関係の霊的な力と
捉える主義だが、静かに教会堂の聖なる時間を楽しもう〜
😄
人生には
思わぬ親族の急死に出くわし
メンタルに衝撃を受ける
たとえ、牧師や信仰者であっても、
その時には何が霊的にあるのか?
イエス・キリストの十字架の上での
我が神、我が神、何故私をお見捨てなったのか、
という苦痛の叫びの中で
何があるのか?
そういう霊的黙想
信仰者のパラダイスの希望と
闇の中の霊的な光、慰め……。
とかなり
霊的に乗りまくったレスしとこ〜
たまには
😄
一つ発見した
😄
遠藤周作の
沈黙の
結論にちかい
😄
教会あともう一つ行った、
カトリックのほうは
行かなかった
😄
見る予定
平安時代て
あんまり詳しくないのよ〜
ほんとまだ謎の多き時代
😄
こういうカルチャーは
日本人に受け入れられないし
日本のクリスチャンも
ほぼ関心ゼロ
😄
出口王仁三郎にしろ
茂吉にしろ
哀歌は
全く無縁
😄
哀歌を読んでいた
😄
国家民族滅んだことがないので
哀歌など
理解不能な民族かもしれん〜
水に流す民族?
日本人で一番悲惨なのは
太平洋戦争ぐらいだろ
ま、戦国時代もなかなかやけど
ロシアみたいに野蛮だっただろうけどな
ドイツ人や朝鮮人ほど半分共産国家になる悲哀もないしな〜
🫤
ロンが
現れた
ダボハゼスレに
😫
キリスト教の究極的霊的探求に満足したので
再び
西欧哲学理性的スタンダードキリスト教にもどろう〜
😄
究極的霊的キリスト教は
苦難闇の時間、
沈黙してイエス・キリストの十字架の側にいる霊的な沈黙と共にいる関係。
西欧哲学理性的スタンダードキリスト教は
イエス・キリストの十字架によって
罪の贖いという
神の言葉と理性によって
法則性によって
死後の希望と救済がある、
と仮説
JBL直観なので、
西欧哲学理性的スタンダードキリスト教の推測と
トマス・アキナスの一致は
如何?
😄
生きている間は
イエス・キリストと
同じ苦難を喜ぶのが
聖者の道となり、
聖フランチェスコみたいな
苦行を喜びとなる、
この
聖フランチェスコのスタンスは
死後の
イエス・キリストの十字架による
理性的法則的な信仰であり、
聖フランチェスコは
イエス・キリストと同じ苦難を味わうのが死後野天国への導くと信じた、
とか仮定してみる〜
JBL分析よろ〜
😄
野党故にやりやすい
😄
能登地震】山本太郎氏 避難所で「炊き出しカレー」を食べて「国会議員にこの混乱状態を知ってほしい」と訴える
西欧哲学理性的スタンダードキリスト教はプロテスタント、カトリック無関係に
イエス・キリストの十字架により
理性と法則によって救済されると
霊的解釈をした
俺側としては
苦難の中の孤独の苦しみを乗り越える希望、
が原始キリスト教の
本筋ではないか、
の福音書を見て
俺的には感じる
😄
角度から
キリスト教ネタを
プレゼントデーだ
明日は礼拝に出る予定
😄
の
フィーバー
キリスト教
😄
5chキリスト教スレに
進撃だ〜〜
😫
集約し過ぎの
傾向は
やはり
西欧哲学理性と秩序と法則とが根底にありそうだ〜
😄
戦闘民族である〜
戦場を5chキリスト教スレに
再遠征だ〜
😫
へえ、やっぱり栖ウンコ士が来たから反応してるのかな?
彼らはカンジンなところを誤解している
「贖罪の宗教」だ
すでに人類の罪は贖われた
イスラエルパレスチナの
やっとることを見ると、
ま、
救いを期待するわな〜
😫
俺にお怒りだ
たまにスルーしてあげよー
😄
お刺激は
ピッチングのよーに
緩急が大事
😄
追加情報と
まとめ〜
最新バージョン?
理性、希望、神の言
の霊性への
集中〜
らしい〜
理性は
カトリックは
神と人間の両方
プロテスタントの
理性は
神の側のみある
それの違いのよーだ
😄
原罪は贖罪で免れたが、罪への重力、自罪への重力は働き続けている
過去の自罪もこれからの自罪も私の十字架だ
それを背負って、なおも私のゴルゴタまで歩むのがキリスト教だ
なるほど
カオナシと千の親はある意味では同じ存在
違うのは千の親であるか、大人の象徴か、だけの違いだ
性欲の権化のカオナシは少女に惹かれて
我執の欲を発散しようとするが、
全て拒絶され、欲が満たせない
でも、そこには実存、自我はない
彼らは共にあることで機能する
仏教にも、仏教だけでは解決できない実存についても
宮崎駿は描いでることに気付いた
とてもキリスト教的だった
宮崎駿の映画は大体がグローアップストーリーだから
大体がキリスト教的
仏陀になる前の釈迦もそうだったのだろう
そうすれば自ずと菩薩の道に入る
仏陀の語ったことに囚われることなく
菩薩である釈迦になりたい、とおもいだす
大乗が既にあるのだからそれだけでよさそうだ
小乗から大乗へ
そのための教義体系は改修が必要となるし、
であるならば、永遠に改修が必要となる、
となるのが必然だ
フロイト的にはエジプトのアトン信仰だ
アトン信仰がユダヤ教に移り、カバラの秘教が移動する
んで、その後にキリスト教にカバラの秘教も改修され
キリスト教神秘主義のカバラが小乗として口伝で伝承される
実存におけるキリスト教系小乗は聖霊が中心になりますな
プロテのカルトチックな雑密的な聖霊の現世御利益なやつとは
違う伝統的な潮流がどうやらあるらしい
実際は、キリスト以前と以後の「違い」にフォーカスが当てられて、「これはキリスト教」、「これはキリスト教ではない」といった差異によって教理はつくられてるんだよな
キリスト以前の古代グノーシス主義とは「違う」という、差異を原動力にして基本信条は形態を得た
顕教的には
そして、それがルネッサンスからの形を変えた神の存在証明のデカルトに繋がるわけだ
哲学者には信仰がなくても、神学者には当時は信仰があった
今はないけど
だあら結局は信仰で、三位一体の神、特に子なる神の実存なんだよな
キリストを神と信じてる人ってどれだけいるんだろうな?
それだけが大事なんだけどな
疾走しとるが
今朝気付いた所感を
プロテスタントスタンダードキリスト教視点で
トマス・アキナスは
神の存在
神の存在の理由を
模索するのではあるが
プロテスタントは
そっち方面と人間側の理性への期待を減らし神側と
聖書の理性に従うのみ、
みたいな方向へ展開したのだろうが、
なにをレスしたいか、
動画落としてたので忘れたが
次にまとめる
😄
人間側にはどうしようもない
抗いたき闇と苦悩、苦難は
超越者の理性と智恵によって
苦難苦悩のままに希望と死後の幸福を
与えられる
という超越者側からの救いの希望が
メインとなる、
とまで
解析した、
俺サイドでは
人間側の罪屋苦悩野軽減を
霊的な関係と智恵で解決可能性を見るいうスタンスであるが、
スタンダードキリスト教は
もはや、
超越者の主の理性がメインとなり
その解釈で
多くはメッセジーは語られ、
超越者側からの救いの希望が
メイン主題となる
人間側の理性の成長の設定の有無の差はあれども
😄
あの地獄の戦場の中での
主の側の理性による希望と
死後の救いが
輝く方向以外は、
よりメンタルは容赦無しにボロボロとなるだろう
既にロシア兵はさらにメンタル超ボロボロナノが多いのは想像てきるが
😫
王道?の
霊性メンタリティで
今日も研究だ〜〜
😄
仏教関連はスルーして
サティと
がぶりよつの相撲が取れる?
😄
ユダヤ教と一部のキリスト教の宗派では、人間だけが不滅の魂を持っています(ただし、不滅についてはユダヤ教内でも議論があり、不死の概念はおそらくプラトンの影響を受けています)。
トマス・アクィナスは、アリストテレスの『魂について』から直接借用して、「魂」(アニマ)はすべての生き物に帰属するとしましたが、人間の魂だけが不滅であると主張しました。
「魂の起源」はキリスト教において難しい問題です。提唱されている主な理論には、魂の創造、トラドゥシア、先在などがあります。魂創造論によれば、神は受胎時または受胎直後に個々の魂を創造します。 Traducianism によれば、魂は自然発生によって両親からやって来ます。先在説によれば、魂は受胎の瞬間より前から存在していた。人間の胎児が受胎時から魂を持っているかどうか、あるいは受胎と誕生の間に胎児が魂、意識、人格を獲得する時点があるかどうかについては、さまざまな考えが存在します。この問題に対する立場は、中絶の道徳性に関する判断に影響を与える可能性があります。
西方キリスト教において最も影響力のある初期キリスト教思想家の一人であるアウグスティヌス (354-430) は、魂を「理性を与えられ、肉体を支配するように適応した特別な物質」と述べました。キリスト教徒の中には、人間を肉体(ソーマ)、魂(プシュケ)、霊(プネウマ)から構成されていると特徴づける、人間の三者構成の見方に固執する人もいます。しかし、現代の聖書学者の大多数は、聖書の多くの場所で「霊」と「魂」という概念が同じ意味で使われており、人間はそれぞれ体と魂から生まれることを指摘しています。それは、冷静であることの二項対立をサポートします。パウロは「肉体は魂と戦争している」と言いました。 「神の言葉は生きていて、活動しており、どんな両刃の剣よりも鋭く、魂と霊を突き刺すからです。」(ヘブライ人への手紙 4:12)そしてそれを制御するのです。 「私は体にビュッフェをします。」
ローマ・カトリック教会
現在のカトリック教会のカテキズムでは、魂という用語は次のように述べられています。 「[人の]最も内面的な側面、[その人の]中で最も価値のあるものを指し、それによって[その人]は最も神に似ています。「魂」とは、精神的な原理の手段です。「生者も死者も、すべての魂は、イエス・キリストが地上に再臨されるときに裁かれるでしょう。カトリック教会は、個人の魂の存在は完全に神に依存していると教えています。 「信仰の教義は、霊的かつ不滅の魂は神によって即座に創造されると断言しています。」
プロテスタントは一般に魂の存在と不滅を信じていますが、これが死後の世界に関して何を意味するかについては、主に2つの陣営に分かれています。ジョン・カルビンのように、魂は死後も意識として存続すると信じる人もいます。マルティン・ルターによれば、魂は肉体とともに死に、死者が復活するまで意識を失ったまま(「眠っている」)と信じている人もいます。
クリスタデルフィアン、セブンスデー・アドベンチスト、エホバの証人など、アドベンチストから派生したさまざまな新しい宗教運動も同様に、死者には肉体から分離された魂がなく、復活するまで意識を失っていると信じていました。
末日聖徒イエス・キリスト教会は、霊と体が一緒になって人間(人間)の魂を構成すると教えています。 「心と体は人間の魂です。」末日聖徒は、魂は神によって創造された既存の霊と、地上での肉体的受胎によって形成された体とが結合したものであると信じています。 死後、霊は復活してかつて自分を収容していた体と再会するまで霊界に住み続けます。この肉体と精神の再会は、不滅で永遠であり、満ち足りた喜びを受け取ることができる完璧な魂を生み出します。末日聖徒の宇宙論では、「知性」を意識や主体性の本質とも表現しています。これらは永遠に神と共存し、霊を活気づけます。新しく創造された霊的な体と永遠に存在する精神との結合は「霊の誕生」を構成し、神の「私たちの霊の父」という称号が正当化されます。
だが、知性はない
人間も動物も、死ねば霊魂が消滅する
ただし、人間の霊魂に備わる知性だけは、死後も存続する
動物はそのまま終了する
コピペではなく
俺の脳内プロテスタント区分
初期プロテスタント
1.カルバンを祖とする長老派、改革派
めちゃんこアンチカトリック
カルバンはローマ法王を悪魔扱い
スイスからオランダ、イギリス、アメリカ東海岸、
日本では日本化した日本基督教団内部の
長老派グループが大きいよーだ
大学は明治学院大学、
東京神学大学だ
2.ルター派
カトリック近い雰囲気がある、
カトリックには抗議して破門されて独立ぐらいの感覚
3.バプテスト教会
聖書のみ、
聖職者のトップ不要、
ルター派の万人祭司路線をさらに推し進める
洗礼の儀式にコダワリ、全身浸礼にこだわる、
カテキズム否定派、一番形式を嫌う派、
と思ったが
JBLだった
さて、
三大初期プロテスタントから
の次の時期
ルター派の神秘主義やら敬虔主義の流れから、
イギリスのカルビン主義寄り聖公会の
独立したメソジストが発生する
ジョンウェスレーが祖、
彼は
聖公会の酒乱の聖職者と
産業革命の悲惨な労働者階級の悲惨な酒乱とギャンブル狂いを見て
世を主の力で変えなければ、
と模索する、
そして、祈り続けると聖霊による聖なる体験、聖化をする、
この聖化によって
人間は聖なる存在に向かっていけると
教義を立てた、
代表的著書
キリスト者の完全
コピペ無しにスラスラレス書ける
マニアやろ〜〜
😄
55ch宗教板のどのスレよりも
遥かにハイクオリティー
😄
55ch宗教板のキリスト教関連のどのスレよりも
遥かにハイクオリティー
😄
すごいな?😆
バプテスト系統の異系統に
イギリスにプリマス・ブレズレンが出て
くる
ジョン・ネルスン・ダービ(John Nelson Darby、1800年11月18日 - 1882年4月29日)は、イギリスの神学者、賛美歌作家。プリマス・ブレザレンを組織したメンバーの1人。
このプリマス・ブレズレンの終末論から、
セブンズデーやらモルモンなどの
終末論系統の教団が現れる
配布しまくった聖書が
アメリカに
イスラエルにキリストが再臨するというよーなムーブメントの流れをつくり、
巡り巡って
出口王仁三郎やら茂吉へと伝わった
😄
死後に無関心論者なので
知らなかった
お勉強になりました
キリスト教徒の死者の魂は
存続していると
確かに思う、
そういう経験が〜
2名ほど
神の世界で
この世と無縁ぐらいに思ってはいたが
ま、魂はそれなりに
存続してるのね〜
😄
考えたことがなかった、
案外仏教徒と
大差ないかも
😄
今起きた
昼から礼拝に出る
😄
レスがないと
寂しいな〜
😄
因縁つけ憑依霊プレイ命だからな〜
褒めて貰うまで憑依霊暴れる
😫
エサやってるからな〜
😄
遊んであげてる
シュールな応対がローラ−応対の基本
😄
もどってきてほしーな
寂しいわ
😄
🤢
中断してそーだ
仏教系統がメイン、
怪しげ仏教系統がいるのでやりやすいのかもしれん
😫
仏教のほうがまだマシ
アイツの仏教談義はどういうわけか、法相宗とか華厳宗とか、マイナーな奈良仏教の話ばっか
普通の仏教徒とは話ができんわ、あれじゃ(笑)
彼はどういうわけか、そういう方面の話しかできない(笑)
仏教徒の中でも、普通の人は乗ってこんわ
空振りに終わるのがオチだ(笑)
そこから宗教方面に手を広げているので
倶舎論や唯識論のようなインド哲学は好きだが、日本の伝統仏教のことは、去年までほとんど知らんかった
そういう人もなかにはいるわけだが、普通はそうではない(笑)
一昨年まで、ほとんど知らんかったに訂正
通じる相手は、このtalk宗教板にしかいない😄
5chには、もういない
せっかく5chに戻ってくれたのに、
こんなこと書いてたら、また来ちゃうな😅
ローラー師がこだわってるようなことには、興味ないだろ全然
ダボハゼスレでのローラー様は、「俺は禅寺で坐禅してるんだぞ。お前もやれ」の一点張りでひたすら押してるな?
やらないよりいいだろう
対象が異なるだけで、メンタリティは同じだ
「私は100回は坐禅した。お前はやってない」というローラー様
そうでなければ、意味がない(笑)
坐禅にも興味はないこともないが
それよりは、真言密教の加持祈祷に興味がある😅
基本的に、唱える行が好きかもしれん
教父とは、古代の初期キリスト教において、教会の指導者であり、聖書の解釈などで重要な著作を行った人々。その著作は聖書に次いで重要なものとされた。
ローマ帝国でキリスト教が公認されたころ、その教義の確立に向けてさまざまな著作が現れた。その中で、正統の教義とされた著作を著した教会の司教らが、4世紀ごろから特に教父(英語では Farthers of Church)といわれた。また、彼らの信仰論、教会論を含め、新プラトン主義の影響を受けた哲学的思考を「教父哲学」といっている。
ギリシア語で著述した教父にはエウセビオス、アタナシウスなどがおり、ラテン語で著述した教父にはヒエロニムス、アンブロシウス、アウグスティヌスらがいる。特にアウグスティヌスは最大の教父といわれ、その著作『神の国』は、ローマ=カトリック教会の正統性を確立した書として、聖書に次ぐ重要性を与えられている。
[scholasticism]
スコラとは学校を意味するラテン語であり、スコラ哲学とは中世(4世紀末から15世紀中ごろ)のヨーロッパにおける「学校の哲学」をさす。この時代において学校とはもっぱらキリスト教会の神学校を意味する。
そこでは、古代ギリシャ哲学から受け継がれた哲学は、キリストに対する信仰との緊張関係のうちに置かれる。しばしば、スコラ哲学においては信仰こそが第一のものであって、哲学は補助的なものにすぎないと解されてきた。しかし、長期にわたるスコラ哲学の歴史のなかで、そうした傾向が見られることもあったにせよ、スコラ哲学の全体をこのようにとらえるのは一面的すぎる。
信仰と理性の調停とは、理性が信仰に服従するという一方的なものではなく、むしろ「信ずるがために知解せよ、知解するがために信ぜよ」というアウグスティヌス(Aurelius Augustinus 354~430)の言葉が示すように双方向的なものであった。この調停作業にかんする最大の功労者は、おそらくトマス・アクィナス(Thomas Aquinas 1225~74)であろう。彼は11世紀にアラビア経由でヨーロッパに輸入されたアリストテレス(Aristoteles 前384~前322)の哲学を神学に適用することで、キリスト教神学の体系化を試みた。
スコラ哲学は神学的性格に加えて、その方法論においても特異な性格をもつ。スコラ哲学では、あらゆる問題が、教会が権威を認めた書物の「注解」や「講読」、肯定と否定に分かれて問題を議論しあう「討論」の形式を通して扱われた。神の存在、三位一体、奇跡といった神学上の問題だけではなく、論理学、形而上学(存在論・認識論)、自然学までもが書物と討論を通じて探究されたのである。
実験によってではなく、書物と討論によって自然学の真理に到達しようとするこの態度は、のちにベーコン(Francis Bacon 1561~1626)やデカルト(ReneDescartes 1596~1650)の批判を招くこととなった。
11~12世紀に起こり、13~14世紀の中世ヨーロッパにおける思想の主流となった哲学を「スコラ哲学(スコラ学)」という。
スコラはカトリック教会およびその修道院に付属する「学校」を意味していた。中世ヨーロッパのスコラ哲学は、このスコラで研究された哲学のこと。ラテン語のこの「スコラ」から英語の school が生まれたが、もとはギリシア語から来ている。ギリシア語で「スコラ」というのは、もともと「暇(ひま)」を意味していた。働かない、ヒマな人が集まるところが「スコラ」だった。
中世ヨーロッパにおいては、すべての学問は、カトリック教会およびその修道院に付属する「学校」(スコラ)において教えられ、研究されていた。中世ヨーロッパの哲学はこのような「スコラ」における哲学という意味で「スコラ学」と言われる。
その内容は、主としてキリスト教の教義を学ぶ神学を、ギリシア哲学(特にアリストテレス哲学)によって理論化、体系化することであった。その中心的な課題となった論争は普遍論争であった。12世紀におけるスコラ学の隆盛は12世紀ルネサンスの中心的な事柄であり、13世紀のトマス=アクィナスによって大成されることとなる。
>>694
朝起きると
真言密教ワールドに
心身征服されてたからな〜
オート華厳ワールド完全体モーニング過ぎて
キリスト教研究不能やった
3日
西欧哲学理性的スタンダードキリスト教
に着地できた、
神の絶対的理性の霊的世界
😄
たぶん、昼から
山伏と天台浄土教修行に走るだろう
😄
4~5世紀、西ローマ時代、北アフリカで活動した教父。『告白録』『神の国』などを著し、ローマ=カトリック教会の理念を確立させ、中世以降のキリスト教に多大な影響を与えた。
聖アウグスティヌスは北アフリカの人だった。海洋国家カルタゴがローマ帝国に滅ぼされて以来、北アフリカはローマ帝国の領土だった。
キリスト教は、すでにローマ帝国の国教となっていた。しかし、帝国は東西に分裂し、西ローマ帝国はゲルマン人の民族大移動により滅亡に向かっていた。410年、アラリックが率いる西ゴート人により、永遠の都ローマが占領・略奪された。西ローマ帝国は大きな衝撃を受け、「こうなったのはキリスト教のせいだ」と、反キリスト教勢力が騒ぎ始めた。
そこで、キリスト教を擁護すべく敢然と立ち上がったのが、聖アウグスティヌスだった。彼は、代表作「神の国」を書いてキリスト教を擁護した。
「たとえ、地の国(ローマ帝国)が滅ぶとも、神の国(ローマ・カトリック教会)は永遠である」
これにより、カトリック教会の権威は確立されたのだ。
やがて、聖アウグスティヌスが司教を務める北アフリカのヒッポにも、ガイセリックに率いられたヴァンダル人が押し寄せた。ヴァンダル人によりヒッポが長期包囲される中、病床の聖アウグスティヌスは世を去った。
地の国(西ローマ帝国)は滅びたが、神の国(ローマ・カトリック教会)は、その後も千年以上にわたって西欧社会に君臨することとなった。
アウグスティヌスと女性
アウグスティヌスといえば、『告白』に述べられた、いかがわしい女との同棲と、それを諫め、彼を放蕩生活から立ち直らせて立派なキリスト教の教父へと導いた母モニカの存在が知られている。しかし、そのような解釈が一面的にすぎることを教えてくれるのが、山田晶『アウグスティヌス講話』である。山田晶氏は、それまで光が当てられてこなかったアウグスティヌスの同棲した女性について考察をすすめ、『告白』では必ずしも明確ではないこの女性との関係を探っている。
通説ではこの女性の身分はコンクビーナであったとされ、妾(めかけ)と訳されている。アウグスティヌスは16歳から回心にいたるまで16年間もこの「不義の女性を囲い」、不義の子アデオダートスをもうけた、とされる。しかし、アウグスティヌスには本妻がいたわけではないので妾とは言えず、実際は本妻だった。彼自身も、「彼女一人をまもり、彼女に対して閨(ねや)の信実をつくしました」<『告白』Ⅰ p.148>と言っている。当時のローマの法律では身分が違うため合法的な結婚と認められなかったのだった。アウグスティヌスは修辞学の教授になろうとしてミラノに移るときもこの女性と子供を連れて行った。彼女は非合法の妻として彼を支えたに違いない。
(引用)これまで閨を共にしてきたその女性は、婚姻の妨げとして、私のかたわらから引き離されたので、彼女にしっかり結びついていた私の心は引き裂かれ、傷つけられて、だらだらと血を流しました。その時彼女はあなた(神)に向かって、今後他の男を知るまいと誓い、私のかたわらに彼女から生まれた私の息子を遺して、アフリカに帰っていきました。
<アウグスティヌス/山田晶『告白』Ⅰ ちくま学芸文庫 p.311>
その後のこの女性がどうなったかはわからない。伝説によればアフリカに帰った後、修道院に入り、一生を終えたといわれている。ところがアウグスティヌスは、婚約した女性が若く、あと二年たたないと一緒になれないからか、別の女を引き入れている。これはさすがにアウグスティヌスの汚点といわなければならない。彼自身もさすがに「わざわいにもこの女性にならうこともできず・・・」と弁解している。この女性と別れた後、むなしい心を引きずりながら、その心は次第に神に向かっていく。
山田晶氏はこのアウグスティヌスの肉欲への執心、そしてその反面のはげしい肉欲への罪悪感は、厳しく肉欲を禁じるマニ教の影響ではないか、と見ている。そしてキリスト教への回心の動機もこの女性との別離にあったのではないか、と推測している。
アウグスティヌス(ボッティチェッリの絵)
https://www.y-history.net/gazo/0103/augustinus.jpg
オール華厳ワールドか~😄
トマス=アクィナス
13世紀イタリアのスコラ哲学、神学者。『神学大全』を著しスコラ哲学を大成した。
13世紀のスコラ学の代表的な神学者。イタリアに生まれ、ドミニコ会修道士からパリ大学教授となる。アリストテレス哲学をキリスト教信仰に調和させて解釈し、信仰と理性の一致をめざした。「普遍論争」では正統的な実在論をさらに発展させ、スコラ学(哲学)を大成したと言われる。その代表的な著作が『神学大全』(1265~73年ごろ)で、神の存在と教会の正当性を論証する大著として、後世のキリスト教に大きな影響を与えた。「哲学は神学の婢(はしため)」というのは神学をすべての学問の上位におくという彼の思想を表している。
トマス=アクィナスが、キリスト教神学をアリストテレス哲学で解釈した、というのはどういうことだろうか。次のような例がわかりやすい。トマス=アクィナスは、神の存在を自然的理性で証明できるとの立場に立っていたが、かれが実際に証明する上で注目したのは、地上では毎日、昼と夜が交替するという現象だった。当時、地球は球体であることはほぼ認められていたので、彼はこの現象を太陽や月などの付着するいくつかの天球が地球の周りを回っているからだと説明し、巨大な天が動くことこそ、はるかな天の彼方に神の住所があることの証明だとした。なぜならば、アリストテレスが言うように運動には必ず「動かし手」があるからである、というのがかれの説であった。こうしてアリストテレス学説と結びついたキリスト教の宇宙観は、天動説として揺るぎないものとなった。
<鯖田豊之『ヨーロッパ中世』1988 河出書房版世界の歴史9 p.351>
トマス=アクィナスは、「神に関する真理」にはふた通りあり、ひとつは「人間の理性の力を完全に越えたもの」で、三位一体の教理がそうであり、もうひとつは「自然的理性によって理解することが可能」な真理で「神の存在、その単一性など」がこの範疇に属するとした。異端の汚名を着せられないように慎重に論理を展開して『神学大全』を著し、スコラ哲学の大成者と云われたトマスだったが、結局それも無駄だった。晩年の1270年と死後の1277年、かれの命題のいくつかは、パリ司教の手で異端宣告が下された。アクィナスほどの人物に対しても厳しい教会の異端審判が下されたのである。
<鯖田豊之・同上書 p.349>
知識が無さすぎる
教父とは、古代の初期キリスト教において、教会の指導者であり、聖書の解釈などで重要な著作を行った人々。その著作は聖書に次いで重要なものとされた。
ローマ帝国でキリスト教が公認されたころ、その教義の確立に向けてさまざまな著作が現れた。その中で、正統の教義とされた著作を著した教会の司教らが、4世紀ごろから特に教父(英語では Farthers of Church)といわれた。また、彼らの信仰論、教会論を含め、新プラトン主義の影響を受けた哲学的思考を「教父哲学」といっている。
ギリシア語で著述した教父にはエウセビオス、アタナシウスなどがおり、ラテン語で著述した教父にはヒエロニムス、アンブロシウス、アウグスティヌスらがいる。
特にアウグスティヌスは最大の教父といわれ、その著作『神の国』は、ローマ=カトリック教会の正統性を確立した書として、聖書に次ぐ重要性を与えられている。
4~5世紀、西ローマ時代、北アフリカで活動した教父。『告白録』『神の国』などを著し、ローマ=カトリック教会の理念を確立させ、中世以降のキリスト教に多大な影響を与えた。
新プラトン主義の影響を受け、プラトン的な二元論の世界観をキリスト教の教義体系に導入した。
聖アウグスティヌスは北アフリカの人だった。海洋国家カルタゴがローマ帝国に滅ぼされて以来、北アフリカはローマ帝国の領土だった。
キリスト教は、すでにローマ帝国の国教となっていた。しかし、帝国は東西に分裂し、西ローマ帝国はゲルマン人の民族大移動により滅亡に向かっていた。410年、アラリックが率いる西ゴート人により、永遠の都ローマが占領・略奪された。西ローマ帝国は大きな衝撃を受け、「こうなったのはキリスト教のせいだ」と、反キリスト教勢力が騒ぎ始めた。
そこで、キリスト教を擁護すべく敢然と立ち上がったのが、聖アウグスティヌスだった。彼は、代表作「神の国」を書いてキリスト教を擁護した。
「たとえ、地の国(ローマ帝国)が滅ぶとも、神の国(ローマ・カトリック教会)は永遠である」
これにより、カトリック教会の権威は確立されたのだ。
やがて、聖アウグスティヌスが司教を務める北アフリカのヒッポにも、ガイセリックに率いられたヴァンダル人が押し寄せた。ヴァンダル人によりヒッポが長期包囲される中、病床の聖アウグスティヌスは世を去った。
地の国(西ローマ帝国)は滅びたが、神の国(ローマ・カトリック教会)は、その後も千年以上にわたって西欧社会に君臨することとなった。
11~12世紀に起こり、13~14世紀の中世ヨーロッパにおける思想の主流となった哲学を「スコラ哲学(スコラ学)」という。
スコラはカトリック教会およびその修道院に付属する「学校」を意味していた。中世ヨーロッパのスコラ哲学は、このスコラで研究された哲学のこと。ラテン語のこの「スコラ」から英語の school が生まれたが、もとはギリシア語から来ている。ギリシア語で「スコラ」というのは、もともと「暇(ひま)」を意味していた。働かない、ヒマな人が集まるところが「スコラ」だった。
中世ヨーロッパにおいては、すべての学問は、カトリック教会およびその修道院に付属する「学校」(スコラ)において教えられ、研究されていた。中世ヨーロッパの哲学はこのような「スコラ」における哲学という意味で「スコラ学」と言われる。
その内容は、主としてキリスト教の教義を学ぶ神学を、ギリシア哲学(特にアリストテレス哲学)によって理論化、体系化することであった。その中心的な課題となった論争は普遍論争であった。12世紀におけるスコラ学の隆盛は12世紀ルネサンスの中心的な事柄であり、13世紀のトマス=アクィナスによって大成されることとなる。
13世紀イタリアのスコラ哲学、神学者。『神学大全』を著しスコラ哲学を大成した。
イタリアに生まれ、ドミニコ会修道士からパリ大学教授となる。アリストテレス哲学をキリスト教信仰に調和させて解釈し、信仰と理性の一致をめざした。
当時は、十字軍をきっかけに、アラブ世界との文物を問わない広汎な交流が始まったことにより、ギリシア哲学の伝統がアラブ世界から西欧に莫大な勢いで流入し、度重なる禁止令にもかかわらず、これをとどめることはできなくなっていた。知識人の間で、アリストテレス哲学の科学的思考が流行した。
そこで、ローマ・カトリック教会から神学理論の体系化を命じられた切り札のスーパー理論家が、聖トマス=アクィナスであった。彼は、「哲学は神学の婢(はしため)である」と言って、アリストテレス哲学をキリスト教に統合する壮大な理論体系『神学大全』を作り上げた。
同時代の人々の記録によると、聖トマスは非常に太った大柄な人物で、色黒であり頭ははげ気味であったという。しかし所作の端々に育ちのよさが伺われ、非常に親しみやすい人柄であったらしい。議論においても逆上したりすることなく常に冷静で、論争者たちもその人柄にほれこむほどであったようだ。記憶力が卓抜で、いったん研究に没頭するとわれを忘れるほど集中していたという。そしてひとたび彼が話し始めると、その論理のわかりやすさと正確さによって強い印象を与えていた。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/e/e3/St-thomas-aquinas.jpg/375px-St-thomas-aquinas.jpg
地上に手をかざす、現実主義者のアリストテレス
西洋思想は、この2人の巨人の間を行ったり来たり
https://i0.wp.com/paradjanov.biz/works/wp-content/uploads/2015/03/athens01.jpg
キリスト教とプラトン哲学を統合したのが、聖アウグスティヌスの教父哲学
キリスト教とアリストテレス哲学を統合したのが、聖トマス・アクィナスのスコラ哲学
日本では、仏教と神道が神仏習合したが
西洋では、ギリシャ哲学がキリスト教の教義体系にガッチリと組み込まれた
おもしろい😄
https://youtu.be/9MNPt-zlz-8?si=IFzbowtjiNLMX49B
700を過ぎたばかり
宗派仏教を個別に語ろうと思えば語れるよ。
また、参禅は自慢とかの問題ではなくて当然だろ。
自慢といえば、JBLは別に仏教にも哲学にも詳しくないだろ。
ただコピペしてるだけだろ。
それでドヤ顔してるんだから、お花畑だよな🤭
🤢
威張っている
🤢
> 「私は100回は坐禅した。お前はやってない」というローラー様
wwwwwwwwwwwwwwwwww
一日一回坐っても三ヶ月で100回だろ?
そんなの坐ったうちに入らないだろw
アホかwww
> 念仏にもおおいに関心がある
>
> 基本的に、唱える行が好きかもしれん
お念仏は「称える」な。
題目は「唱える」だ。
> 次スレは「カトリックの神学理論 3」にしよう
おいおいおいおい!
最近になってアウグスティヌスとトマス・アクィナスを初めて教わったのにいきなり神学を語るのかよwww
またネットで検索してそれをコピペしてドヤ顔語りするのかwww
そもそも聖書は持ってるのか?
カテキズムは?コンペンディウムは?
俺に監修されたいのか?
昨日の夜中に、ついローラー様をバカにしてしまったんだな😅
『キリスト教史』藤代泰三
『カトリックの信仰』岩下壮一
あたりかな。
ある程度の哲学・宗教があって入門書を読むのなら
『カトリック入門 ──日本文化からのアプローチ 』稲垣良典
は面白い。
稲垣先生の本は好きだなぁ。
2022年に帰天されたけど。
>高野山総持院で高野山大学学監長岡秀善師と対座したピーパー教授が単刀直入に「大乗仏教の本質とは」と問いかけられたのに対して長岡師は即座に「即身成仏」と答えられた。
>その意味をめぐって緊迫した問答が交わされたが、結局のところピーパー教授は「即」ということを認めれば人間は絶対者との合一を目指して「旅する者」ではなく、当初から「到達者」であることになる、それでは貴方がたの修行の意味はなくなる、と主張し、長岡師は「即」を認めなければ仏道が目指す「悟り」はその真実の意味を喪失すると応じてやまなかった。
>この対話はカトリシズムの霊性と日本的霊性の微妙な相違に光を当てるものと考え、ここに紹介したが、この対話を豊かな実りへと向けていかに進めるべきかは読者の判断に委ねたい。
ただ私はこの一見、「信仰の宗教」と「悟りの宗教」との衝突とも見える対立は厳密な意味での矛盾的対立ではなく、絶対者(神)と人間との関係を考える際の微妙な論理の食い違いによるものではないか、と考えている。
そしてその解決の鍵を握るのは、さきに説明したクレルヴォーのベルナルドゥスの、人間の救い(あるいは悟り)はそのすべてが神(の恩寵)によってなされるが、その救いの業がまさしく人間においてなされるものであることからして人間がその固有の役割を果たすことは否認されないどころかむしろ予想されている、という立場ではないかと思う。
読者の皆様からの忌憚のないご批判・ご意見をお待ちしたい。
二〇一六年八月 稲垣良典
ってまとめてる。
……素晴らしい👍
https://i.imgur.com/bq02fsd.jpg
JBLにとっては全くの未知の世界だろうなぁ🤭
ナルシズムバーニングしとる〜
🤢
此処なんだわ。
仏教でいう本覚と始覚の矛盾問題の解決への途でもある訳だ。
また、西田の謂う絶対無の自己限定とか、井筒の謂う分節の問題に連なるんだよなぁ。
「絶対矛盾的自己同一」な。
まぁ、この話をするとでおーみたいな知障は「仏教と西洋哲学のちゃんぽんがー!!!」って、頭が七花八裂して、発狂して誹謗中傷を始めるからなあ😂
ともあれ、
>その救いの業がまさしく人間においてなされるものであることからして人間がその固有の役割を果たすことは否認されないどころかむしろ予想されている、という立場ではないかと思う。
というのは、いわゆる中世天台本覚思想にピリオドを打つた考えに類似してる。
また、カルヴァンの予定説的なものものこれで否定されるな。
> ・・・煽るな😅
頑張ってねー😘
あなたがいくら仏教だのキリスト教だの哲学だの語っても、俺の掌の上で細々と騒いでる程度にしかなってないから。
フッ!って一息で吹き飛ばせる程度の知識や体験だから。
まぁ、このくらい煽らないと、ねぇ🥱
🤢
モーレツに
ナルシズムを
コスっとるな〜
ナルシズム
ビンビンのごよーす
🤢
コスらないと
ローラー人生インポになってまうからな〜
頑張れ
ナルシズム
ビンビン〜
🤢
云わないと調子こくからな、JBLは。
まだやるの?
🤢
いきなりでおーが発狂してたら噴飯だなぁ🤪
マイクを離さない
🤢
ナルシズムアンテナで
素早くキャッチ〜〜
🤢
さすがだな〜
ローラー様〜
🤢
5ch ではNGワード設定であぼーん。
どちらにも引っ掛かるのは でおー www
「信仰と理性の対立」みたいな言われ方をされることが多い
歴史的には、必ずしもそうとは言い切れない
メディチ家の保護を受け、プラトンなどギリシア語文献の著作をラテン語に翻訳した。プラトン・アカデミーの中心人物。
近年はルネサンスの芸術思想をはじめ、魔術思想、神秘思想の面など多方面で注目される思想家となった。
中世のスコラ哲学の権威が低下するにつれて、神秘主義的な新プラトン主義が台頭してきた
地上に手をかざす、現実主義者のアリストテレス
西洋思想は、この2人の巨人の間を行ったり来たり
https://i0.wp.com/paradjanov.biz/works/wp-content/uploads/2015/03/athens01.jpg
「哲学者」というだけで、アリストテレスを意味した
しかし、近代のルネサンス期に入って、プラトンが盛り返してきたのだ
「この世は、イデア界の劣化コピー」
ということになる
出口王仁三郎は、富士山の絵を前にして、
「この世は、霊界の写し絵だ。
霊界の富士山とこの世の富士山には、
この世の富士山とフスマ絵の富士山
くらいの差があるのだ」
と、弟子たちに語った
まあ、「霊界」というのとは、またちょっと違うが
イデア論ってのは、端的に言えばそういうもんだ
「イデア界」なんてものの存在を認めない
アリストテレスにとっては、この世が何より大事。この世しか見ていない
そこが、師匠のプラトンとの大きな違いだ
フィチーノが先頭に立って、新プラトン主義をよみがえらせた
フィチーノの人間観は次のようなものである。
人間の魂は肉体に捕らえられている。人間の肉体と魂の一部(五感など)は動物と共通であるが、理性と知性を持つ点で動物と異なる。理性は五感から受け取った物事を分析、判断し、また想像力を働かせる能力である。また、知性は直接真理、イデアに到達し神の領域に近づく能力である。この意味で、人間は動物と神の中間にあり、様々な葛藤にさいなまれる不安定な存在であるが、理性によって現世で正しいことを行うとともに、知性によって真理と一体化することができる。
「神が人間に向かうのではなく、人間が主体的に自らを高めることによって近づくのだ。人間はその能力を神の愛によって与えられたとする。」
たとえば、ウェヌスを人間性そのもの、ヘルメスを最初(もしくはゾロアスターに次ぐ第二)の哲学者にして神学者、サトゥルヌスを人を知的探求に没頭させる存在として彼の宇宙論の主要な霊魂に位置づけた。
「15,16世紀では、星の霊が多少とも地上の事件に影響するという考えはむしろ普通」であった。
ヘルメス文書(錬金術の書と勘違いされる場合が多いが、フィチーノの訳した文書はそうではない)の翻訳や実践的な占星術の研究も行っており、『三重の生について』 (De Vita Triplici, 1489)では惑星の力によって健康を得るすべなどを示した。
またフィチーノはゾロアスターを東方の三博士の一人とみなすという奇抜な推論をしたようである。
またフィチーノは最近では自然魔術(自然の諸物の間の対立と調和・反感と共感・分離と結合を明らかにするもの)の祖と考えられるようになってきているようである。
ピコ・デッラ・ミランドーラだ
「人間の尊厳」を主張したとされてきたが、近年では、ピーコの用いる「尊厳」の語には「序列」という意味もあり、今日でいう「尊厳」の意味はなかったとも言われている。
ともあれ、ピーコにとって人間とは、なんにでもなれる変幻自在のカメレオンのごときものであった。
なお「ピーコ・デッラ・ミランドラ」とは「ミランドラ出身のピーコ」という通称であり、名字はピーコである。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/dc/Pico_della_mirandola.jpg
若くして才能を発揮し、プラトンをギリシャ語で、旧約聖書をヘブライ語で読んだ。博識で弁が立ち、メディチ家のプラトン・アカデミーの中心的な人物の1人になった。
人間は小さな宇宙であり、その中には元素から動植物、理性、神の似姿に至るまでが含まれると考え、人間が動物と異なるのは、自由意志によって何者にも(神のようにも獣のようにも)なることができる点だとして、「人間の尊厳」を主張した。
1486年、ローマで哲学・神学の討論会を企画し、討論会のために書いた原稿が『人間の尊厳について』 (Oratio De Dignitate hominis) で、ピーコの主著である。ただしこの題名はピーコ自身の命名ではない。
フィチーノと同様、近年は異教的な神秘主義の側面が注目されている。自然を支配する業としての魔術を信じていたが、占星術については、人間の運命が定められているというのは人間の自由意志に反する、として反対するようになり、師フィチーノの説を批判した『反占星術論』を執筆している。また非ユダヤ人としては、はじめてカバラを極めたとされる。
ルネサンス期のイタリアでは、それが復刻された
新プラトン主義を代表する哲学者は、プロティノス
ネオプラトニズムの創始者とはいっても、プロティノス自身には独自な説を唱えたという意識はなく、プラトンの正しい解釈と考えていた。
プロティノスの思想はプラトンのイデア論を受け継ぎながら、その二元論を克服しようとしたものである。
プラトンの『パルメニデス』に説かれた「一なるもの」(ト・ヘン to hen)を重視し、語りえないものとして、これを神と同一視した。
万物(霊魂、物質)は無限の存在(善のイデア)である「一者」(ト・ヘン)から流出したヌース(理性)の働きによるものである(流出説)。
あたかも太陽自身は変化せず、太陽から出た光が周囲を照らすようなものである。
光から遠ざかれば次第に暗くなるように、霊魂・物質にも高い・低いの差がある。
一者と合一し、忘我の状態に達することをエクスタシスという。
ただし、エクスタシスに至るのは、ごく稀に、少数の人間ができることである。プロティノス自身は生涯に4度ばかり体験したという。
また高弟ポルフュリオスは『プロティノスの一生と彼の著作の順序について』(『プロティノス伝』と称される)の中で、自らは一度体験したと書き残している。
プロティノスは、プラトンより五百年後の時代の人で、古代ローマ帝国期のエジプトに住んでいた。
プロティノスこそは、「ワンネス思想の祖」と言える人。
大いなる海に向けて、コップをひっくり返したら、どうなるか。コップの中の水は、膨大な海水の中に溶け込んで、すぐに見えなくなってしまう。でも、なくなったわけではない・・・。
これこそ、典型的なワンネス思想のイメージ
https://blogimg.goo.ne.jp/image/upload/f_auto,q_auto,t_image_sp_entry/v1/user_image/55/09/352e6f85d377514315e3481cafe14b0b.png
プロティノスといえば、流出論。
プロティノスは、神を、「一」とか「一者」と呼ぶ。英語でいえば、“the one”。そのままズバリ、数字の「1」のこと。
一からは、二が生まれる。三も、四も、五も・・・、すべては、一から流れ出す。
つまり、一から、多が生じる。すべてが流れ出してくるから、流出論。
さらに、そのヌースから、多くのものが流れ出す。本当は、そこからまた、いくつもの段階があって、九つの層に分かれているんだけど、細かい話をしたらキリがない。
とにかく、最上層は、一なる神。その次は、ヌース。そして、一番下の最下層にあるのは、物質界。そこがポイント。
https://blogimg.goo.ne.jp/image/upload/f_auto,q_auto,t_image_sp_entry/v1/user_image/4a/bd/7fa18a61bbf944958f7e80916a697a73.jpg
その物質界にいる、われわれ人間は、文字通り、シモジモの存在だ。だからといって、なんの希望もない絶望の日々をすごしているのかと言ったら、そうでもない。
なんと、最上層の「一」に向かって回帰するという、上昇運動への道が残されているのだ。
もしも、首尾よく最上層の「一」にまで到達し、そこで一なる神と合一することができたなら、最高にハッピーな気分になれる。それが、「エクスタシー」といって、哲学者にとって最高の境地。
アラビアやペルシャでは、「プラトン思想とは、こういうものだ」と思われていた
その
ギリシャ哲学と
プロテスタント、カトリックの共有項目の
「恩寵」
と理性と
哲学が
融合する場面があるんやろな
と
推定
😄
「恩寵」は
どっかで
いつか
つながるんやろな〜
推測に過ぎぬが
😄
切り離すのも難しい~😅
誰もおまいにキリスト教のみならず宗教を語って欲しいなんて望んでないからな?
キリスト教神学では
重要ワードだ
プロテスタント神学では
「恩寵」のみ、
だから、
何処かでギリシャ哲学が融合した概念である可能性が高い
なかなか、理性理解と
昨日の教会礼拝で
見えてきたぐらい
「恩寵」
😄
「恩寵」がキーワードなんだな~😄
鹿はtalkで三毒ナンバーワンなんだから宗教がよしとする状態から最も離れてるな?
キリスト教神学と理性と教理概念について
とても
期待している
俺のアタマでは
神学理解は遅い
😄
天台宗寺院ナウ
本堂参って
いつもの阿弥陀仏堂で
往生要集を読むべ〜
😄
アタマの
🤢
お前が絡むからこっちも来るんだろ。
↓
815 ◆JBLfMwCXhY[] 2024/01/08(月) 12:23:53.42 ID:KUBjK
ローラー様は「音痴」がキーワード~😫
😫😫😫😫
アホかx
察知感知〜〜〜
🚨
ナルシズム赤外線侵入者感知装置みたいだ〜
😫
妖怪のように
強力なプライドの波動により
宗教板全域に
領域展開しておられる〜
😫
ローラー様をバカにするときは、名無しで書けばいいんだな?😄
ちなみに赤十字からの方法。
https://www.jrc.or.jp/contribute/help/20240104/
赤十字社には登録してるので、そのHPの下の方の「寄付で支援」から「寄付で赤十字を支援する」を選択し、Amazon Payで寄付しましたが、二分程度で出来ました。
参禅30年にして
陰徳を積むということは知らないらしい〜
ライヤーローラーめ
🤢🤢🤢🤢🤢🤢🤢
俺やった慈善が
あることで、そのことを忘れて
まったくアタマに残ってなかったのを
自慢してきた
😄
最新システムバージョンを構築して
実践手前で
今日はトラブルな目にあったが
ほとんど脳疲労してない、
ストレスに強くなった?
😄
陰徳を積む
また禅宗では、専門道場で修行中に師匠から「陰徳を積め」と厳しく諭されます。その陰徳ということで昭和を代表する禅僧の一人であり静岡三島の龍澤寺で多くの修行僧を指導された山本玄峰老師(昭和三十六年 九十五歳で遷化)は次のように言われました。
「どんな障子でも、糊がなかったならば障子の桟と紙が離れて障子の役目をしない。しかし外から見ると、糊は有るか無いか分からない。お坊さんは、この糊のように、人の知らないところで、人と人が仲良くし、一切の物事が円満に成り立っていくように働いてゆかねばならないぞ。陰徳を積みなさい」
知らない
偽参禅30年の
ウソつきローラーめ〜〜〜
マックスボコッたろ〜〜
🤢🤢🤢🤢🤢🤢
ミラクルが
😄
😄
5chは
同じ内容を書かない、
情けをけてやる〜〜
🤢🤢🤢🤢🤢🤢🤢
🤢🤢🤢🤢🤢🤢
1984年、神道系宗教団体「ワールドメイト」の前身となる団体を設立します。
宗教家として、仏教、特に禅宗にも造詣が深く、声明の大家(故)天納傳中大僧正に師事、天台座主の許可のもと在家得度し法名「東州」を、また臨済宗東福寺派管長の(故)福島慶道師に認められ居士名「大岳」を授かります。
また1996年に、キリスト教系の団体と協力して、カンボジアに無料病院を設立し、年間10万人単位で無料診療をサポートするなど、世界各国で他宗教と協力しながら、様々な福祉活動や人権、民主化、紛争解決や、社会の安定や平和につながる活動に積極的に取り組んできました。
キリスト教には博愛精神がありますが、深見東州さんにもまた、そのような精神を感じます。それから、宗教間の対話を進め、互いに協力して社会に貢献しようという、世界の代表的な宗際化組織の理事や顧問も多く務めています。
😄
内容を読まず、
内容知ってたので
あげたが〜〜〜
い、
いわぬ〜〜〜
ローラーちゃまじゃあるまいし〜
😄
ローラー様のコマーシャルは
大差がない
😭
確かに、自然科学が発展する以前の中世に書かれた本書の議論をそのまま受け入れることにはかなりの無理がある。デカルトやガリレイ、ベーコンといった近代哲学、近代科学の創始者たちの業績を踏まえてなお、アクィナス的な世界観の妥当性を押し通そうとするのは強引だ。
だが、この点でアクィナスを批判するのは、アクィナスに対して辛すぎる。
近代哲学の出発点においては、人間の理性の「自由」についての意識が決定的な意義をもった。人間は、神に頼らず、自分の理性で、何が真であり善であるかを知り、かつそれを目指すことができる。こうした自覚が育ってきたとき、初めて、普遍的認識(=共通了解)の可能性と共生の可能性が問題となってきた。そういうわけなので、アクィナスが神を中心とする世界について論じているからといって批判するのは、高校生が中学生に対し「頭が悪い」とバカにするのとほとんど変わらないのだ。
端的に言うと、合理的な推論によって神を規定しなおし、世界を、神を根本原理とする善=存在の体系として描き出したことにある。
確かに、アクィナスはキリスト教の教義を前提し、それを揺るがしがたい真理と見なしてはいる。だがそれと同時に、聖書の記述をそのまま利用することなく、教義を推論の体系として再編成することで、教義に関するさまざまな解釈を一本化しようと試みている。本書には、各宗派に分裂した教えを再統合することで、教義に関する争いを調停し、キリスト教を、真に人びとを救う信仰として復活させようとするアクィナスの意志が現れている。
16世紀から17世紀にかけて、ヨーロッパでは宗教戦争が起こり、アクィナスの努力が実ることはなかった。だが、教義に関する争いを問題として取り出し、それに対する解を与えようとしたことは、やはり一定の評価に値すると言っていいだろう。
楽観的な思想だな
歌手の受難が続くな
親戚ではないかとウワサされたが、デマだった
1/11(木)6:05配信
NRI研究員の時事解説
北京市第一中級人民法院(中等裁判所)は1月5日に、中国のシャドーバンキング(影の銀行)大手の中植企業集団破産申請の受理を決定した。
同法院によると、中植企業集団は期限までに債務を返済できなかったほか、すべての債務を償還するのに必要な資産が不足しているなどの理由で破産申請を行ったという。
今後は「企業破産法」に基づき、破産清算手続きが進められる見通しだ。最近の中国では、最大級の規模の企業破綻となった。
中植は裕福な個人投資家と企業の資金を集め、一般銀行から融資を受けるのが難しい中小企業や不動産開発会社に融資するシャドーバンキングの役割をしてきた。
競合する信託会社が過去数年リスクを縮小する中でも、中植とその傘下の中融国際信託は、経営難に陥った不動産開発会社への投融資を拡大していた。
また、経営危機に陥った中国恒大集団などからも資産を積極的に買い取っていた。
この時点で既に破綻は免れない状況だったと思われるが、その後も中国の不動産市場の調整が続く中、今回の破綻に至った。
中植の債権者の大半が金融機関でなく高額資産家であるため、銀行システムを揺るがす事態には発展しないだろう。
今回の中植企業集団の破産申請については、当局がシャドーバンキングの連鎖的な危機を回避するために、早めの対応を見せたと評価する向きもある。
他方、一部の報道では、「中植の顧客は中国共産党幹部とつながりのある裕福な個人や企業だ」と指摘されており、彼らの利害に配慮して、当局が事態の収拾に動いた、との見方も一部にあるようだ。
何があっても、政府がごまかしてしまいそうなイメージがある
神は「存在」であり、「最高善」だ
アリストテレス
アリストテレスは、ソクラテスが漠然と「徳」(アレテー)と表現し、師であるプラトンが『国家』において、イデア論を背景として「善のイデア」と表現した、(人間・万物の)究極目的を、「最高善」(ト・アリストン)という概念へと置き換えて表現した。
その内容は、『ニコマコス倫理学』の冒頭で明確に述べられている。
また、個人的な「最高善」よりも、集団的な、国(ポリス)の「最高善」に到達し保全する方が、より大きく、より究極的であるという。
そして、そんな国(ポリス)における諸々の活動を決定・方向付ける、包括的な活動こそが「政治」(ヘー・ポリティケー)であり、そうであるがゆえに、この「政治」的活動は、「人間というものの(最高)善」(ト・アントローピノン・アガトン)を目的とし、それを体現するものでなくてはならない。
アリストテレスにとっては、政治こそか最高善
そして更にそれを、「究極的な卓越性(アレテー)に即しての魂の活動」と言い換える。
こうして様々な卓越性(アレテー)の内容を参照・検討していくのが、『ニコマコス倫理学』本編の内容である。
「(人間を支配指導する「神的な部分」である)知性(ヌース)に即した、観照的(テオーレーテイケー)な活動」
こそが、「究極的な卓越性(アレテー)に即しての魂の活動」であり、最も自足的な「幸福」であると結論付け、それは人間の水準を超えた「神的な生活」(神々や不動の動者のごときもの)であるとしながらも、できるだけそれに「近い生き方」ができるように努力を怠ってはならないと、師プラトンの考えを継承した考えを披露する。
こうして「最高善」の概念とその実践は、続く著作『政治学』にも引き継がれ、その冒頭で、「人類の最高の共同体である国家の目的は最高善」である旨が、再度言及・確認される。
国家こそが最高善
皆で応援しようじゃないか
同じ感覚があったからやろな
😭
年金削減には
耐えられないので
余力がないのでやれないな〜
お金持ちなら
余裕で
応援したるけど
😄
中国ではないので
腐敗は
暴露される、
それが
中国と違う
デモクラシーの
良さ
😄
生活保障のお布施もらえるなら
自民党応援したる
😄
ここらへんもキリスト教と相性良いすね
キリスト教は創造が王様なので、この世の完全を求め続けるので、社会的な活動も本丸の一つとして行う
こたいかのげんり
principium individuationis; principle of individuation
個体を個体として他から区別する形而上学的原理をいう。
すでにアリストテレスにおいて,個体の質料的な側面がその個別性をなすものであり,一方形相は普遍的本性として,多くの個体間に共通のものであるとされた。
かかる個体化の原理は中世スコラ哲学においても主要な問題となった。
それはキリスト教教理において創造の対象としての個体,および救済の対象としての個人との関係,また三位一体の教理とこの個別性の関係が追求されたからである。
これに対し J.ドゥンス・スコツスは個性原理ヘクセイタス(〈これ〉という形相的限定) を立て,この特殊な形相が物質と非物質とを問わずすべてのものの個体化にかかわっているとした。
近世においてもライプニッツ,スピノザ,ショーペンハウアーなどにおのおの独自の考察がみられる。
[individual]
数的にひとつであるもの。とりわけ、類や種といった普遍では把握できない特殊な存在を指す。
また、近代以降、共同体や国家とは区別された主体としての個人を意味するようになった。
ボエティウス(Anicius Manlius Severinus Boethius 480~524/5)が、ギリシャ語の「分割できないもの」(アトムatomon 希)を個物(individuum 羅)と翻訳したのが由来。
それは、形相と質料からなり、つねに主語となり述語にはならない基体である。
中世の普遍論争においては、個体化の原理が問題となった。
トマス・アクィナス(Thomas Aquinas 1225~74)は、個体は形相ではなく質料によって区別されなければならないと説いた。
これに対して、ドゥンス・スコトゥス(Johannes Duns Scotus 1266~1308)は、このもの性(haecceitas 羅)という形相によって個体化がなされるとし、オッカム(William of Ockham 1288~1348)は、唯名論の立場から、個体化の原理そのものを否定した。
ショーペンハウアー(Arthur Schopenhauer 1788~1860)は、現象の形式である個体を超えて、物自体としての意志へといたらねばならないとした。
質料は純粋な可能態であるから必ず質料と結合していなければならないというトマス・アクィナスの考えにたいして、スコトゥスは第一質料でも形相から独立に存在しうると主張しました。
そのように考える方が聖餐での実体変化を説明しやすいということから、スコトゥスの学説は支持を集めることになります。
たとえばアクィナスは個体化の原理を質料においたのにたいして、それでは質料を持たない存在(天の知性など)の個体化が説明できないとして、むしろ形相こそ個体化の原理であると主張されるようになりました。
ここで17世紀以降、形相を否定して自然現象の説明を質料に還元する学説が多く提示されるようになります。
その終着点にいるのはデカルトであり、彼は延長である物質の大きさ、形、配置、運動から自然現象は説明できると考えました。
しかしそうすると形相に帰された個体化の原理が宙に浮いてしまいます。
ここを説明するためにデカルトは個体とは物質による運動の共有に他ならないとしたものの、これは広く賛同を得られたとはいえない解決策でした。
そこでたとえばCordemoyはデカルトの自然学を原子と真空を想定する原子論に改変し、運動からではなく形状から個体化を説明しようと試みました。
しかしライプニッツは形状を個体化の原理とみなすと、異なる形の部分が結合してできた同じ形の形状を相互に区別することができなくなるとして、やはり事物の個体性を説明するには延長以外の原理、すなわち形相が必要であるという結論に至りました。
こうして一度は廃棄された形相が個体化の問題を軸に再浮上したのです。
人体が質料であり、生命が形相だ
聖トマス・アクイナスは、質料、つまり物質的な人体に個性があるのであり、形相は万人に共通であるとする
しかし、聖トマスの死後、「形相が個性なのである」という説が台頭した
これは、西洋哲学の大テーマだ
チワワだ、ポメラニアンだと
同じ四つ足動物に、名前をつけてバラバラに分けてきたのが人間だ
アタマ回っとるなあ…
今起きた
なんか
オモロイ禅寺の夢見た
セッタンの禅寺の夢、
行ったことがないけど〜
偽和尚が
変なこと言って、
セッタンに
ドブ川へ放り投げ込まれていた
😄
住人で夢に出てきたのは
ローラー様だった
😄
夢では
黙っていた
挨拶をしてやった
😄
聞き役やろな
麦や
カオリンみたいな
ま、なんとなく自分の、テリトリーナワバリづくりは
好きなところはある
悟りスレで現れた
敵対している
コジという糖質のヤツと
ローラー様は最初は
とても互いに持ち上げる
キモチワルイ関係で
仲が良かった
😫
まだ朝なのに
すでに疲れてるな~
ローラーのなんちゃってでない
モノホン禅定力、
基本、魔改造でもしないかぎり、
ノーマルでそのまま使えるのは
一つの瞑想しかなさそうだ
疲労しても
疲労感じない瞑想
😄
即クリーンな
感覚にてきる
呼吸一つで
身体管理をこなすので
臨済宗のモノホンの高僧クラスの禅僧は
死ぬ時を選べるらしいのも
この身体コントロールのなせる技だろな
😄
合理的な心身管理
😄
身体が小さくなる
高僧クラがいるらしい
😄
今年になって
疲労による
ストレス飲食が減った感覚はある
相当なゾーンに
新システム完成だな
😄
すっかり5chの
キリスト教スレで
イミフな自己実現を夢見て
いついておられる〜
😫
【スコラ三年】 カトリック神学 3 【教父八年】
https://talk.jp/boards/psy/1705031948
中世ヨーロッパのスコラ哲学で論じられた論争。
スコラ学で中心的な課題となったのが11~12世紀に起こった「普遍論争」だった。
「普遍」とは「個」に対する概念で、たとえば「アリストテレスは人間である」といった場合、アリストテレスは個であり、人間は普遍である。
そのような、「人間」とか、「動物」といったものは実際に存在するのかどうか、という論争であった。
それに対しては「普遍はたんなる名辞に過ぎず、ただ個のみが実存する(普遍は個の後ろにある)」という主張は唯名論(ノミナリズム)と呼ばれた。
アベラール(アベラルドゥス)は両者を調停して、「普遍は実在性をもつが、ただ個の中に(個に即して)のみある」と主張し、唯名論の立場を強めた。
しかし、14世紀にウィリアム=オッカムなどの「唯名論」が復活し、観念的な思考を廃して観察や実験によって真理を探究する近代思想の萌芽につながっていく。
普遍が実在するかについての中世スコラ哲学の論争
中世スコラ哲学において、普遍論争(ふへんろんそう、英:Problem of universals)とは、「普遍」(「普遍者」ともいう、英:universals) の実在に関する論争を言う。これと内容的に同じ議論が、古代から続いており、近代哲学や現代の哲学でも形を変えて問題となっているが、普遍概念をめぐる論争として中世の論争を特にこの名で呼ぶ。
通説では、中世における最大の論争である普遍論争(the problem of universals)は、3世紀にフェニキア人ポルフュリオス(232/33 - 305頃)によって書かれた『アリストテレス範疇論入門』(Eisagoge eis tas Aristoteles kategorias、通称:イサゴーゲー)の次の一節に端緒を持つと言われる。
「例えば、まず第一に類と種に関して、それが客観的に存在するのか、それとも単に虚しい観念としてのみあるのか、また存在するとしても、物体であるのか、非物体的なものであるのか、また〔非物体的なものであるならば〕離在可能なものなのか、それとも感覚対象の内に、これらに依存しつつ存在するのか、という問題については回避することにする」
普遍の実在性が問題であったと言われるものの、そもそも普遍概念の捉え方自体が論者によってまちまちであり、19世紀半ば以降に通説として、実在論(realism)、唯名論(nominalism)、概念論(conceptualism)の三つの立場が存在したと整理されることとなり、普遍論争の通説として用いられている。
本項の内容もこの通説に基づく。ただし、21世紀現代の中世哲学史研究では、この通説は批判の対象になっている。
一般に、普遍(羅:universus)とは、一つ(uni)の方向性をもった(versus)広がり全体のことを言う。
一方、普遍論争における普遍概念(羅:universalia)とは、伝統的に、個物/もの(羅:res、レース)に対する普遍、すなわち「複数のものの述語となるもの」(類概念)と定義される。
個物とは中世において自明的に存在すると考えられた個別的な事物のことで、例えば、フィレンツェに住む商人のミケーレ氏とか、そのミケーレ氏の邸で飼っている犬のフェリスとか、ミケーレ氏の邸内に生えている柏の大樹などである。
ミケーレ氏は、「人間の類」に属し、犬のフェリスは「犬の類」に属し、柏の巨木は「柏の樹の類」に属している。これらの「類の概念」は「形相(羅:forma、フォルマ)」であると中世哲学では考えられた。そこで、これらの類の概念、つまり「人間の形相」「犬の形相」「柏の樹の形相」などが、「普遍概念」とも呼ばれた。
個物が存在することは疑いがないが、では類の概念、つまり普遍概念は存在するのかどうか。具体的なミケーレ氏という人間とは別に「人間の普遍概念」が存在するのか、同様に、犬のフェリスとは別に「犬の普遍概念」が存在するのか、また「柏の樹の普遍概念」が存在するのか。この問題は、古代においても、事物のイデアー存在と、個別存在の違いということで問題になっていたが、スコラ哲学では、更に精緻に議論や考察が行われた。
アンセルムスなどの実在論者は、普遍概念は存在するとし、何ものかが明らかでない個物の基体存在物に、例えば「人間」の形相が付与されることで、すなわち「人間の普遍概念」が基体存在に加わることで、簡単に云えば、「人間の具体的存在」すなわち「個物としての人間」が成立するとした。
このように、類の概念、すなわち普遍概念が実在するとする考えを、「実念論」または「実在論(Realismus)」と呼ぶ。
そうでないとすると、アダムの原罪もキリストの受難も個々の事実に過ぎず、人類全体の救済という普遍的な意味を持ち得ないからである。
つまり、人間のミケーレや犬のフェリスや柏の巨木が、個物(レース)として実在しているのである。このとき、「普遍概念」は、類を示す「名前(羅:nomen)」であり、名前は「言葉」として存在するが、類の概念、すなわち普遍概念としての形相的存在は実在しないとした。
極端な唯名論を唱えたロスケリヌスは、普遍は音声の風(flatus vocis)にすぎないとしている。このような考えを「唯名論(Nominalisme)」と云う。アベラールの見解では普遍はまず事物よりも神のうちに概念として存在し、その次に物自身のうちに共通な本質的規定として存在し、さらに物の後に人間の悟性のうちにその思惟の結果得られた概念として存在することになるとした。
これはプラトンとアリストテレスの折衷的な解釈であった。しかしこのような歩み寄りにもかかわらず論争は続いた。事物、人間の普遍性を認めなければキリスト教の最も重要な教義と矛盾してしまうからである。
トマス・アクィナスは、実在論の立場から両者を調停して、普遍は神の知性においては「事物に先だって (ante rem)」存在し、世界の中においては「事物の中に (in re)」存在し、そして人間の知性においては「事物の後に (post rem)」存在するとしている。
実在論者には、神の存在証明で名を知られるアンセルムスがおり、実在論の立場から唯名論との調和をはかった者には、トマス・アクィナスがいる。
他に、フランシスコ学派のドゥンス・スコトゥスなど。 他方、唯名論者には、異端として排除されたロスケリヌスの他、自由恋愛のアベラールや経験論哲学の先駆であるオッカムのウィリアムがいる。
〘名〙 (Universalienstreit の訳語)中世スコラ哲学で、普遍は実体として存在するか、人間の思考の中で存在するだけかをめぐって行なわれた論争。実念論は普遍が個物に先立って存在するとし、唯名論は普遍が個物をあらわす名前にすぎないとして対立した。
ふへんろんそう
Universalienstreit
ヨーロッパの中世哲学において、「普遍」universaliaをめぐり展開された存在論的・論理学的論争。
普遍の問題はすでにプラトン、アリストテレスにおいても論じられたが、ポルフィリオスがアリストテレスの『カテゴリー論』の序文(エイサゴーゲー)で、
〔1〕類や種は実在するのか、あるいは単に空虚な表象像にすぎないのか、
〔2〕もしそれらが実在するとしたら、それらは物体的か、あるいは非物体的か、
〔3〕それらは感覚的事物から切り離されているのか、それともそのうちに存在を有するのか、
という三つの問いを出し、ローマの哲学者ボエティウスがその注釈において問題の解決を試みて以来、ヨーロッパ中世とくに11世紀から12世紀にかけて、普遍に関するさまざまの存在論的・論理学的見解が現れ、論議が交わされた。
それによれば、類や種という普遍は、精神のなかに存在するのと同じ仕方で、精神の外にある対象のなかに実在する。
たとえば「人間」は、精神によって考えられたのと同じ仕方で一つの共通な実体として精神の外に実在し、したがって同一の種に属する個々の人間はこの実体を分有するか、あるいはこの実体に偶有が加わったものとなる。
オーセルのレミギウス、カンブレのオドー、シャンポーのギヨームなどがこの立場をとった。
ロスケリヌスは、普遍は「音声の気息」flatus vocisにすぎないと主張したと伝えられている。
このように普遍を「もの」resに帰するか「名称」nomenに帰するかによって実念論realismと唯名論nominalismが区分される。
なお、普遍を概念であるとする説を概念論conceptualismとよぶ。
12世紀のアベラルドゥスは、ロスケリヌスとギヨームを批判して独自の説をたてた。彼は「普遍は多について述語されるにふさわしいが、個物はそうでない」というアリストテレスの定義から出発し、普遍の問題を普遍的名称の命題における述語機能という観点から考察、普遍的名称の表意作用significatioの分析を通して、普遍はものでも音声でもなく「ことば」sermoであるとした。
トマス・アクィナスやドゥンス・スコトゥスも実念論の立場を保持したが、唯名論を発展させたのは14世紀のオッカムである。彼によれば普遍は個別的対象を表示する名辞あるいは記号である。実在するものは個物のみであり、普遍は個物ではないから、いかなる意味でも実在しない。普遍は論理学的身分のみをもつ述語あるいは意味なのである。
普遍に関するさまざまの論議は、中世の論理学・存在論の形成と精緻(せいち)な展開にあずかって大きな力があった。
プレミアムの無料期間を2025/3/31まで延長することになりました。
広告除去や規制緩和など、ヘビーユーザーにとって欠かせない機能を無料でお楽しみいただけます。
是非この機会にプレミアムサービスをお試しください!
▼プレミアムサービスはこちらから
https://talk.jp/premium