【スコラ三年】 カトリック神学 3 【教父八年】最終更新 2025/11/25 12:241.◆JBLfMwCXhYPIdPB縦横無尽に語るスレ前スレ(今回から変更)【スコラ三年】 キリスト教の神学理論 2 【教父八年】https://talk.jp/boards/psy/17027979862024/01/12 12:59:08584コメント欄へ移動すべて|最新の50件535.◆JBLfMwCXhYhNzMc地上界にいる人間にとって、大地は動かず、どっしりとしている2025/11/18 08:52:35536.◆JBLfMwCXhYhNzMc太陽と月は、時計のように規則的に動いている2025/11/18 08:52:54537.◆JBLfMwCXhYhNzMc天空では、無数の星が輝いている2025/11/18 08:53:19538.◆JBLfMwCXhYhNzMcこれらは皆、地上界の人間にはそう見えるように、演出されてるのである地動説は、「タネを明かせば、こういう仕掛けになっているんだよ」という種明かしにすぎない2025/11/18 08:54:16539.◆JBLfMwCXhYhNzMc考えてみれば、そうだ思想史的には、アリストテレスといえば「天動説」だ2025/11/18 08:55:56540.◆JBLfMwCXhYhNzMc天動説は、「天上界と地上界」の二元的な宇宙観と切っても切れない2025/11/18 08:56:26541.◆JBLfMwCXhY7P5EC『アウグスティヌスは、御霊の働きなしには、律法も私たちの意志も、私たちを完全な悔い改めに導くことはできないとする、パウロの言葉を全面的に支持しました。』2025/11/19 06:50:24542.◆JBLfMwCXhY7P5EC恵みの本質、自由意志、福音この分野でアウグスティヌスは多く読まれ、高く評価されています。アウグスティヌスは著作のエネルギーを、信仰生活の基本は律法への従順であるとした当時のペラギウス派の動きに向けました。2025/11/19 06:50:36543.◆JBLfMwCXhY7P5ECアウグスティヌスは、御霊の働きなしには、律法も私たちの意志も、私たちを完全な悔い改めに導くことはできないとする、パウロの言葉を全面的に支持しました。アウグスティヌスは、壊れた秤でも市場で果物の重さを量ることができるように、私たちもある意味では自由意志を持っているが、神が私たちの見る目と聞く耳を回復してくださらない限り、神のものを正しく量ることはできないと論じました。そうであるとすれば、聖化の恵みも神の賜物です。私たちの功績ではありません。ペラギウス派の主張がもし正しいとすれば、福音は却下されるのです。2025/11/19 06:50:55544.◆JBLfMwCXhYmJgrqアウグスティヌスにおける自由意志は、善と悪の両方を「選択できる能力」であり、悪の原因ともなりうるが、同時に「神の恩寵」によって正しく行使されるべきものと考えられました。これは、神が人間を自由な存在として創造した結果、人間は神に背いて罪を犯す可能性も持つようになったという考えに基づいています。2025/11/19 19:30:06545.◆JBLfMwCXhYmJgrqアウグスティヌスの自由意志論のポイント神から与えられた能力: 神は人間を自由意志を持つ存在として創造しました。善と悪の選択: 自由意志は、神に近づく善的な選択も、神から離反する悪的な選択も可能にする、中間的な善であるとされました。悪の原因: 悪は、人間の自由意志が善の方向ではなく、自己の欲望や「無」へと傾くことによって生じると説明されました。恩寵の必要性: 罪を犯した人間は、自らの力だけでは正しい行いをすることができず、善へと向かうためには神の恩寵(助け)が必要であるとされました。2025/11/19 19:30:25546.◆JBLfMwCXhYmJgrq自由意志論の解釈アウグスティヌスの自由意志論には、後世に異なる二つの解釈が存在します。恩寵先行論: 予定説に基づいて、救いにおいては神の恩寵が先行し、自由意志の役割は限定的であるとする解釈。積極的な役割: 救いにおいて、個人の自由意志が積極的に働くことを認める解釈。2025/11/19 19:30:52547.◆JBLfMwCXhYmJgrq神は、人間に自由意志を与えた2025/11/19 19:31:05548.◆JBLfMwCXhYmJgrq悪を選ぶこともできる2025/11/19 19:31:20549.◆JBLfMwCXhYmJgrq神を信じないのも自由だ2025/11/19 19:31:36550.◆JBLfMwCXhYmJgrqどちらかを選べるようになっている2025/11/19 19:31:50551.◆JBLfMwCXhYmJgrq神の深謀遠慮は、人間の浅知恵では測りがたい2025/11/19 19:32:10552.神も仏も名無しさん1PKME仏教はトコトン自由意志のみに近いがハッスル🤡くんは呪縛され自由意志がゼロに見える😆2025/11/20 11:20:22553.神も仏も名無しさんRw0fz五ちゃんねるのキリスト教スレはハッスル🤡パワーは低下した😆2025/11/20 11:35:19554.◆JBLfMwCXhY00PS2アウグスティヌスは、神から与えられた自由意志は善にも悪にも向かう能力であり、悪の起源は人間の自由意志の濫用にあると説きました。このため、人間が善行をなすためには神の恩寵が不可欠であると主張しました。彼は、自由意志が正しい行いに使われるためには、神の助けが必要だとしました。2025/11/20 20:47:25555.◆JBLfMwCXhY00PS2自由意志の考え方善と悪の選択: 人間は神から善にも悪にも選択する自由を与えられているとしました。悪の原因: 悪は神が創造したものではなく、人間が自由意志を誤って用いた結果(罪)であるとしました。神の恩寵の必要性: 罪におちた人間は、自らの力だけでは善に立ち返ることができないため、神の恩寵(助け)が必要だとしました。自由意志と救い: 人間が善行をなすことができるのは、神の恩寵によって自由意志が正しい方向へ導かれるからだとしました。2025/11/20 20:47:48556.◆JBLfMwCXhY00PS2影響アウグスティヌスの自由意志論は、後の神学や哲学に大きな影響を与えました。特に、救いにおける個人の自由意志の役割をどのように位置づけるかについて、様々な解釈や論争を生みました。2025/11/20 20:48:04557.◆JBLfMwCXhYnFz5E当時(今もだが)キリスト教は「神が作った世界になぜ悪が存在するのか」という問題を抱えていた。「悪」という性質がこの世に存在すると考えると・神はもともと「悪」という性質を持つ・神に制御できない「悪」が存在するなどの仮説が立てられるわけだが、教会にとって上記の解釈はどちらも都合が悪い。神は全知全能でなければいけない。「悪」という性質を持っていてはいけないし、制御できない「悪」があってはならない。アウグスティヌスはこの問題に対して「悪という実在は存在せず、悪だと見做されているものは全て善の欠如である」と主張した。2025/11/21 00:28:28558.◆JBLfMwCXhYnFz5E君のための「悪=善の欠如」神は世界を「善」でもって創造した。そして、世界はとても多様な性質を持っている。世界が神の「善」のみによって作られていると考えた場合、そこに濃淡がなければ世界の多様性はありえないだろう。だから世界における善には濃淡がある。その濃淡、つまり善が濃い部分と薄い部分を相対的に観察すると、私たちが「悪」と認識するような事物が認められる。だから「悪」という実在が端的に存在するのではない。私たちが「悪」だと思っているものは欠如した善なのである。多少詭弁にも思えるが、言っていることはもっともらしく聞こえる。2025/11/21 00:28:46559.◆JBLfMwCXhYnFz5E彼はまた原罪についても言及する。原罪とは、最初の人間であるアダムとイブが犯した罪(知恵の実を食べてしまった)のことだ。アウグスティヌスは、彼らの原罪は「罪を犯してしまう性質」として全人類に遺伝すると考えた。人間は生まれたその瞬間から「罪を犯してしまう性質」という根本的な罪を背負っている。そして、信仰によってしか原罪から救われる方法はないという。現代のキリスト教でも彼の現在に対する解釈が支持されている。2025/11/21 00:29:08560.◆JBLfMwCXhYEqpwuキリスト新聞 Kirishin書籍紹介【書評】 『世界は善に満ちている トマス・アクィナス哲学講義』 山本芳久 殊勝な気持ちで「名著」に挑んだものの、数ページで挫折したという経験は誰しもある。 「欲求されうるもの(アペティービレ)が、欲求能力(アペティートゥス)に、まず自らへの適合性―欲求されうるものが気に入ること(コンプラケンティア)―を与えるのであり、そこから欲求されうるものへの運動が続くのである」(トマス・アクィナス『神学大全』) 日本語でありながら日本語でないような難解な文章に辟易し、読むことを諦めがちであるため、しばしば「名著」は読まれないベストセラーとなる。トマス・アクィナスは今から700年以上前に生きた人物で、今もカトリック教会においては最も偉大な神学者とされている。トマスは、キリスト教の「神学」と、キリスト教が誕生するはるか前に古代ギリシアで栄えた「哲学」とを深く結びつけ、新しい地平を切り拓いた、「哲学者」であり「神学者」である。 「神学」とは、キリスト教の「信仰」に基づいた学問であり、「哲学」は、「理性」に基づいて、この世界の構造を論理的に解明しようとする学問。両者を融合させたトマスの業績は、「信仰と理性の統合」と評される。トマスの主著『神学大全』は、日本語訳版で全45巻が刊行されているが、それでもトマスの全著作の7分の1程度である。膨大な著作の中、本書で取り上げているのは、『神学大全』第10巻に述べられているトマスの感情論。2025/11/23 09:54:29561.◆JBLfMwCXhYEqpwu本書では、哲学者と学生との対話という形式を採用し、学生の質問に哲学者が答えるという仕方で解説されていく。「世界は善に満ちている」というタイトルは、この世に満ちる悪や悲惨さ、人生の苦しみや虚しさに目をつぶった脳天気なものではない。 学生からの鋭い指摘や問いかけに誘発され、哲学者の口から豊かな思考が紡ぎ出され、感情の根源となっているものと、それを肯定して生きる道とが解きほぐされていく。難解であるはずのテクストが次第に読めるようになり、中世哲学と現実の生活とが地続きになっていく感覚は刺激的だ。2025/11/23 09:54:49562.◆JBLfMwCXhYEqpwuトマスの感情論の特徴は、「感情には明確な論理がある」と考えるところにある。一見捉えどころのない、浮かんでは消えるただの思いに見える感情に、明確な構造と論理を見出していく。 最大の鍵は「愛」であるという。「愛」がすべての感情の根源にあるとする考え方は、「キリスト教は愛の宗教だから」といったキリスト教寄りの見解から生まれたものではない。トマスは、人間ならば誰もが共有している「理性」に基づいて、「すべての感情の根底には愛がある」との洞察を導き出す。 だから、トマスに「キリスト教の神学者」というレッテルを貼り、「キリスト教の信仰を持たない自分には関係ない」と考えてしまうのは惜しい。トマスは、「信仰」という思い込みで、世界を強引に肯定しようとするタイプの「信仰者」ではないのだ。 それでいながら「理性」に基づくトマスの知的探究は、キリスト教の「信仰」と対立するどころか、むしろ共鳴していく。ひたすら「理性」によって展開されるトマスの感情論が、キリスト教の「神の愛」と結合することによって、どのような神学的ヴィジョンが見えてくるのか、関心に火が灯るとさらにトマスを学びたくなる。2025/11/23 09:55:09563.◆JBLfMwCXhYEqpwu終章では、「愛されるものの刻印」を受け、それを育むことが、虚しさに押しつぶされそうになる状況を打開していく手がかりとなると述べられる。著者は、トマスのテクストから心に「刻印」を受けることで、読者の人生が豊かなものになるよう願うという言葉で、「あとがき」を結んでいる。 疫病によって一瞬にして変えられた世界、どうしようもない人生の中でも、読むことと考えることはできる。「名著」によって、心の体幹を鍛えてみるのはどうだろうか。2025/11/23 09:55:28564.◆JBLfMwCXhYb5GPC「愛されるものの刻印」なるほど2025/11/23 11:26:32565.◆JBLfMwCXhYb5GPC刻印を受けるのか2025/11/23 11:26:51566.◆JBLfMwCXhYb5GPC愛の哲学者2025/11/23 11:27:21567.◆JBLfMwCXhYb5GPC五六七の世がくるのざぞ~😭2025/11/23 11:27:40568.◆JBLfMwCXhYj6woqトマス・アクィナスは、善(よいもの)への愛を、人間が魅力を感じる(善である)ものに引きつけられる感情と捉えました。この「愛」は、善を欲求し、それを手に入れたいと願うことで「喜び」へとつながる感情の流れの出発点と考えられます。2025/11/25 06:38:40569.◆JBLfMwCXhYj6woq愛と善の関係善が愛の対象: 人間の欲求能力(理性や感情)が「善」に影響を受けると、人はその善を「愛する」ようになります。「愛」は受動的な働きかけ: 善がもつ魅力によって心が変化すること自体が「愛」であり、単に大げさな感情を意味するわけではありません。愛が喜びにつながる: 善を愛し、それを手に入れたいと願う「欲望」は、「喜び」という感情につながります。2025/11/25 06:39:01570.◆JBLfMwCXhYj6woq善への愛の感情のプロセス愛: 善なるものが人の心に働きかけ、魅力を感じる。欲望: その善を手に入れたいと願う。喜び: 善を手に入れたときに感じる感情。この一連の流れの中で、感情は「善」と「愛」によって結びつけられています。2025/11/25 06:39:17571.◆JBLfMwCXhYj6woq善なるものを欲するそれが、愛善なるものを手に入れるそれが、喜び2025/11/25 06:39:56572.◆JBLfMwCXhYj6woq愛と善の哲学だ😄2025/11/25 06:40:09573.神も仏も名無しさんrMyvKトマスが意外プロテスタントの盲点をついているのは堕罪論に偏らない創世記第一章を重視している創世記 よしとされた」とは、神が天地を創造した際に、それぞれの創造の後に「見て、良しとされた」と宣言したことを指します。これは、神がご自身の創造したすべてのもの、光、空、大地、植物、動物、そして人間を含む万物を喜ばれ、完璧であると見なしたことを意味します。特に、創造の最後に「造りおこなったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった」と記されている部分が、この考えを強調しています。創世記における「良しとされた」天地創造の各段階で繰り返される宣言:神が「光あれ」と命じた後、光を見て「良しとされた」と述べられています。陸地、海、草木、天の光るもの、そして生き物が造られた後にも、「良しとされた」と繰り返されます。創造の完成:第六日、神が創造したすべてのものを見たとき、「造りおこなったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった」と述べられています。神の満足と肯定:「よしとされた」という言葉は、神がご自身の創造の業に満足し、それを肯定していることを示します。人間も「神にかたどり、神に似せて」創造され、神によって「良し」とされた存在として位置づけられています。2025/11/25 06:59:53574.神も仏も名無しさんrMyvK聖書を読み込んでいるとさっと、どこか解ってくる😆2025/11/25 07:04:49575.神も仏も名無しさんrMyvKハッスル様みたいなニワカではない😆2025/11/25 07:05:08576.◆JBLfMwCXhYj6woq>>573拝読しますた~😆2025/11/25 07:15:40577.神も仏も名無しさんrMyvK😆2025/11/25 07:21:39578.神も仏も名無しさんrMyvKカールバルトは堕罪論スタンスだろう😆2025/11/25 07:22:46579.◆JBLfMwCXhYeBFwYなるほど、堕罪論か😂2025/11/25 08:09:06580.◆JBLfMwCXhYeBFwYカルヴァンっぽいな?😂2025/11/25 08:09:19581.◆JBLfMwCXhYH7zLl聖トマス思想の定式化善なるものを欲する ← それが愛欲するものを手に入れる ← それが喜び2025/11/25 08:29:44582.神も仏も名無しさんN69pLバルトの周辺は哲学的理性を取り入れるべきか否かの論争の時代だった哲学的理性の混入の神学に対する議論問題があったアメリカ福音派は基本的には人間は認めない派でバルト神学も否定、自由主義神学も否定というスタンスだろう😆2025/11/25 10:38:33583.神も仏も名無しさんN69pL火曜日朝はまだ余裕はある😆2025/11/25 10:39:17584.◆JBLfMwCXhYs4lgy>>582なるほど2025/11/25 12:24:03
【国際】トランプ「同盟国の多くは友達じゃない」凍りつく…高市総理は台湾有事発言で米に見捨てられたか? 撤回できず、前にも進めず「八方塞がり」ニュース速報+7762347.92025/12/05 19:42:25
【高市自民】ネット大荒れ「はあ?」「子育てに罰金」「高市支持やめる!」 高校生の扶養控除縮小検討の報道に騒然「意味分からん」「ほーら増税始まった」「涙出る」「子育て支援は嘘」 公明離脱で再燃ニュース速報+473898.92025/12/05 19:40:04
前スレ(今回から変更)
【スコラ三年】 キリスト教の神学理論 2 【教父八年】
https://talk.jp/boards/psy/1702797986
地動説は、「タネを明かせば、こういう仕掛けになっているんだよ」という
種明かしにすぎない
思想史的には、アリストテレスといえば「天動説」だ
この分野でアウグスティヌスは多く読まれ、高く評価されています。アウグスティヌスは著作のエネルギーを、信仰生活の基本は律法への従順であるとした当時のペラギウス派の動きに向けました。
神から与えられた能力: 神は人間を自由意志を持つ存在として創造しました。
善と悪の選択: 自由意志は、神に近づく善的な選択も、神から離反する悪的な選択も可能にする、中間的な善であるとされました。
悪の原因: 悪は、人間の自由意志が善の方向ではなく、自己の欲望や「無」へと傾くことによって生じると説明されました。
恩寵の必要性: 罪を犯した人間は、自らの力だけでは正しい行いをすることができず、善へと向かうためには神の恩寵(助け)が必要であるとされました。
アウグスティヌスの自由意志論には、後世に異なる二つの解釈が存在します。
恩寵先行論: 予定説に基づいて、救いにおいては神の恩寵が先行し、自由意志の役割は限定的であるとする解釈。
積極的な役割: 救いにおいて、個人の自由意志が積極的に働くことを認める解釈。
トコトン自由意志のみに近いが
ハッスル🤡くんは
呪縛され自由意志がゼロに見える
😆
ハッスル🤡パワーは低下した
😆
このため、人間が善行をなすためには神の恩寵が不可欠であると主張しました。彼は、自由意志が正しい行いに使われるためには、神の助けが必要だとしました。
善と悪の選択: 人間は神から善にも悪にも選択する自由を与えられているとしました。
悪の原因: 悪は神が創造したものではなく、人間が自由意志を誤って用いた結果(罪)であるとしました。
神の恩寵の必要性: 罪におちた人間は、自らの力だけでは善に立ち返ることができないため、神の恩寵(助け)が必要だとしました。
自由意志と救い: 人間が善行をなすことができるのは、神の恩寵によって自由意志が正しい方向へ導かれるからだとしました。
アウグスティヌスの自由意志論は、後の神学や哲学に大きな影響を与えました。
特に、救いにおける個人の自由意志の役割をどのように位置づけるかについて、様々な解釈や論争を生みました。
・神はもともと「悪」という性質を持つ
・神に制御できない「悪」が存在する
などの仮説が立てられるわけだが、教会にとって上記の解釈はどちらも都合が悪い。神は全知全能でなければいけない。「悪」という性質を持っていてはいけないし、制御できない「悪」があってはならない。
アウグスティヌスはこの問題に対して「悪という実在は存在せず、悪だと見做されているものは全て善の欠如である」と主張した。
神は世界を「善」でもって創造した。そして、世界はとても多様な性質を持っている。世界が神の「善」のみによって作られていると考えた場合、そこに濃淡がなければ世界の多様性はありえないだろう。だから世界における善には濃淡がある。その濃淡、つまり善が濃い部分と薄い部分を相対的に観察すると、私たちが「悪」と認識するような事物が認められる。だから「悪」という実在が端的に存在するのではない。私たちが「悪」だと思っているものは欠如した善なのである。
多少詭弁にも思えるが、言っていることはもっともらしく聞こえる。
書籍紹介
【書評】 『世界は善に満ちている トマス・アクィナス哲学講義』 山本芳久
殊勝な気持ちで「名著」に挑んだものの、数ページで挫折したという経験は誰しもある。
「欲求されうるもの(アペティービレ)が、欲求能力(アペティートゥス)に、まず自らへの適合性―欲求されうるものが気に入ること(コンプラケンティア)―を与えるのであり、そこから欲求されうるものへの運動が続くのである」(トマス・アクィナス『神学大全』)
日本語でありながら日本語でないような難解な文章に辟易し、読むことを諦めがちであるため、しばしば「名著」は読まれないベストセラーとなる。トマス・アクィナスは今から700年以上前に生きた人物で、今もカトリック教会においては最も偉大な神学者とされている。トマスは、キリスト教の「神学」と、キリスト教が誕生するはるか前に古代ギリシアで栄えた「哲学」とを深く結びつけ、新しい地平を切り拓いた、「哲学者」であり「神学者」である。
「神学」とは、キリスト教の「信仰」に基づいた学問であり、「哲学」は、「理性」に基づいて、この世界の構造を論理的に解明しようとする学問。両者を融合させたトマスの業績は、「信仰と理性の統合」と評される。トマスの主著『神学大全』は、日本語訳版で全45巻が刊行されているが、それでもトマスの全著作の7分の1程度である。膨大な著作の中、本書で取り上げているのは、『神学大全』第10巻に述べられているトマスの感情論。
学生からの鋭い指摘や問いかけに誘発され、哲学者の口から豊かな思考が紡ぎ出され、感情の根源となっているものと、それを肯定して生きる道とが解きほぐされていく。難解であるはずのテクストが次第に読めるようになり、中世哲学と現実の生活とが地続きになっていく感覚は刺激的だ。
最大の鍵は「愛」であるという。「愛」がすべての感情の根源にあるとする考え方は、「キリスト教は愛の宗教だから」といったキリスト教寄りの見解から生まれたものではない。トマスは、人間ならば誰もが共有している「理性」に基づいて、「すべての感情の根底には愛がある」との洞察を導き出す。
だから、トマスに「キリスト教の神学者」というレッテルを貼り、「キリスト教の信仰を持たない自分には関係ない」と考えてしまうのは惜しい。トマスは、「信仰」という思い込みで、世界を強引に肯定しようとするタイプの「信仰者」ではないのだ。
それでいながら「理性」に基づくトマスの知的探究は、キリスト教の「信仰」と対立するどころか、むしろ共鳴していく。ひたすら「理性」によって展開されるトマスの感情論が、キリスト教の「神の愛」と結合することによって、どのような神学的ヴィジョンが見えてくるのか、関心に火が灯るとさらにトマスを学びたくなる。
疫病によって一瞬にして変えられた世界、どうしようもない人生の中でも、読むことと考えることはできる。「名著」によって、心の体幹を鍛えてみるのはどうだろうか。
なるほど
善が愛の対象: 人間の欲求能力(理性や感情)が「善」に影響を受けると、人はその善を「愛する」ようになります。
「愛」は受動的な働きかけ: 善がもつ魅力によって心が変化すること自体が「愛」であり、単に大げさな感情を意味するわけではありません。
愛が喜びにつながる: 善を愛し、それを手に入れたいと願う「欲望」は、「喜び」という感情につながります。
愛: 善なるものが人の心に働きかけ、魅力を感じる。
欲望: その善を手に入れたいと願う。
喜び: 善を手に入れたときに感じる感情。
この一連の流れの中で、感情は「善」と「愛」によって結びつけられています。
それが、愛
善なるものを手に入れる
それが、喜び
意外プロテスタントの盲点をついているのは
堕罪論に偏らない
創世記第一章を重視している
創世記 よしとされた」とは、神が天地を創造した際に、それぞれの創造の後に「見て、良しとされた」と宣言したことを指します。これは、神がご自身の創造したすべてのもの、光、空、大地、植物、動物、そして人間を含む万物を喜ばれ、完璧であると見なしたことを意味します。特に、創造の最後に「造りおこなったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった」と記されている部分が、この考えを強調しています。
創世記における「良しとされた」
天地創造の各段階で繰り返される宣言:
神が「光あれ」と命じた後、光を見て「良しとされた」と述べられています。
陸地、海、草木、天の光るもの、そして生き物が造られた後にも、「良しとされた」と繰り返されます。
創造の完成:
第六日、神が創造したすべてのものを見たとき、「造りおこなったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった」と述べられています。
神の満足と肯定:
「よしとされた」という言葉は、神がご自身の創造の業に満足し、それを肯定していることを示します。
人間も「神にかたどり、神に似せて」創造され、神によって「良し」とされた存在として位置づけられています。
さっと、どこか
解ってくる
😆
ニワカではない
😆
拝読しますた~😆
堕罪論スタンスだろう
😆
善なるものを欲する ← それが愛
欲するものを手に入れる ← それが喜び
哲学的理性を取り入れるべきか否かの論争の時代だった
哲学的理性の混入の神学に対する
議論問題があった
アメリカ福音派は
基本的には人間は認めない派で
バルト神学も否定、
自由主義神学も否定というスタンスだろう
😆
まだ余裕はある
😆
なるほど