ゆゆしき法界 パート15アーカイブ最終更新 2023/11/05 17:391.◆JBLfMwCXhYm7ecS【ゆゆしき法界とは】Talk 掲示板における一つの独立した空間で、争い事は決して好まず、他者に対する誹謗・中傷はナンセンス。しかし愛嬌はドンと来い。ユーモアはぶちかませ。エロい話はお好み次第。「人生楽しまなきゃ損だろう!」をモットーに互いの人間性を尊重しながらもじゃれ合い程度にはツツキ合い、もみもみしながら互いのゆゆしさを温かく且つ、深く理解し合いながら相互に人間性を高め合っていく。そんな素敵な関係のゆゆしき法界です。下記の者は迷惑行為をやめないため、立ち入り禁止とします↓栖雲居士◆dqam8SqGUPdm法介の『ゆゆしき世界』パート1https://talk.jp/boards/psy/1689114927ゆゆしき法界 パート14https://talk.jp/boards/psy/16978375272023/10/26 13:29:541000すべて|最新の50件953.法介◆T3azX0Hk1UNQGpj そもそも光宅法雲は、生来智慧が勝れているうえに、仏法のことは慧観・慧厳・僧柔・慧次という大学匠から学んでよく解していた。しかも南北の諸師の義を論破するのみでなく、静かに山林に交わって、法華経・涅槃経・華厳経の研究をつくした。梁の武帝は、光宅法雲の名声を聞いて、召し出して法を聞き、内裏のなかに寺を建て、光宅寺と名づけて住せしめ、一方ならず法雲をあがめた。法華経を説法すれば天から花のふること、釈尊在世の説法のごとくであったという。また天鑒5年に大旱魃のあった時、この法雲法師に請うて祈雨せしめた。その時、法華経を講じたが、薬草喩品の「其の雨は普ねく等しくして 四方に倶に下り」の文を講じた時、干天より甘雨が沛然と降ってきた。天子は御感のあまり法雲を僧正に任じ、以来諸天が帝釈につかえるごとく、万民が国王を畏れるごとく、みずから供養しつかえたという。またある人の夢に、「この法雲は過去世の日月燈明仏の時から法華経を講じている人である」と顕われたという。2023/11/05 17:11:28954.法介◆T3azX0Hk1UNQGpj また法雲は、法華経の疏を4巻作った。この疏の中には「この法華経はまだ碩然せぬ」とか「異の方便である」等といっている。これは法華経がいまだ仏の法理を究めつくしたものでないとのことである。 こうしたことも、この人の義意が仏意に相いかなったればこそ、天から花も降り、また雨も降ったのであろう。このようなすばらしい奇瑞があったのであるから、中国の人々は、「さては法華経は、華厳経や涅槃経に劣る教なのであろう」と思ったのである。その上、中国の祖師たちがこうであるから、新羅、百済、高麗等の朝鮮や日本まで、この光宅法雲の疏が弘まっていた。法雲法師が死去して間もなく、梁の末、陳の始めに、智顗法師すなわち天台大師が出現したのである。2023/11/05 17:11:58955.法介◆T3azX0Hk1UNQGpj天台智顗の登場~!2023/11/05 17:12:21956.法介◆T3azX0Hk1UNQGpj 天台大師は南岳大師と申す人の弟子であったが、師匠・南岳大師の義も不審であると思われたかのゆえに、一切経蔵の中にはいってたびたび一切経を研究していた。そして、一切経の中にも、華厳経、涅槃経、法華経の三経をもっとも大事な経として選び出し、この三経の中でも、ことに華厳経の講義に力を入れられた。別して華厳経の礼文を作って、日夜、華厳経に力を入れたので、そのために、世間の人々は、「この天台大師も華厳経を第一と立てるのか」と思っていたのである。しかし天台大師の考えはそうではなかった。すなわち法雲法師が「一切経の中には華厳経第一、涅槃経第二、法華経第三」と立てたのが、あまりに不審であったので、それを確認するために、華厳経を、とくに、くわしく研究されたのである。2023/11/05 17:12:58957.法介◆T3azX0Hk1UNQGpj かくして、あらゆる研鑽のすえに、天台大師は、「一切経の中には、法華経第一、涅槃経第二、華厳経第三」と決定されたのである。しかして天台大師は、さらに嘆いていうのには、「釈迦如来の聖教は多く中国にわたってきたけれども、少しも人々を利益することがない。かえって一切衆生を悪道に導くことになった。これは、ひとえに、仏経を解釈した人師たちの誤りによるものである」と。2023/11/05 17:13:50958.法介◆T3azX0Hk1UNQGpjここ大事~!2023/11/05 17:14:19959.法介◆T3azX0Hk1UNQGpj たとえば一国の指導者が、東を西といい、天を地というならば、万人はみな、それに従うであろう。それより後に身分の賤しいものが出現して、「汝らの信ずる西は、実は東であり、天は地なのである」といっても、世の人々は、それを用いることがないばかりでなく、指導者の心に迎合するために、そのものを罵詈し打擲するであろう。 天台大師は、そこで、どうしようかと思案されたが、絶対に黙っているべきではないと決意されて、「光宅寺の法雲法師は、謗法の科によって、地獄に堕ちた」と強く叫ばれた。その時は、南北の諸師は、あたかもハチの巣をつついたごとく騒然となり、烏の群れがつどうがごとく集まって、天台大師を攻撃した。2023/11/05 17:14:31960.法介◆T3azX0Hk1UNQGpj 南三北七の邪師たちは、天台法師(智顗法師)の破折に憤り「智顗法師を殺せ」あるいは「智顗法師を流罪にせよ」とののしった。そのことを聞いた陳の国主は彼ら南三北七の数人と天台大師を公場対決させ、みずから君臨して、両者の主張を聞いたのである。そのとき、法雲法師の弟子の慧栄・法歳・慧曠・慧恆等の僧正・僧都以上の人々百余人が集まった。彼らはおのおの、ただ天台大師の悪口をいい、眉をあげ眼をいからし手をあげ柏子をたたき、罵り騒ぐだけであった。 しかし、天台大師は、当時無官であったため末座に坐ったまま顔色も変えず、言葉も静かに、威儀を正して彼らの一々を取っては、みごとに、これを責め返し押し返したのである。そして逆に彼らを難じていうのに「法雲法師の義に、第一は華厳、第二は涅槃、第三は法華と立てられたのは、いかなる経文によるのか。たしかに明らかな文証を示せ」と責められたので、おのおの頭をたれ、顔色を失って、一言の返答もできなかったのである。2023/11/05 17:15:21961.法介◆T3azX0Hk1UNQGpj 天台大師は重ねて責めていわく「無量義経には、次に方等十二部経・摩訶般若・華厳海空を説く等とある。仏みずから華厳経の名をあげられて、無量義経に対して未顕真実と打ち消したのである。法華経より劣るところの無量義経にすら、華厳経は責められているのである。法雲法師は、これをどのように思って、華厳経をば一代経中第一だなどといったのであろうか。おのおのも、また師匠たる法雲法師の味方をしようとするならば、この無量義経の文を破るところの勝れた経文を示して、彼の師の義を助けるべきである」と責められた。2023/11/05 17:15:53962.法介◆T3azX0Hk1UNQGpj また「涅槃経が法華経より勝れるという経文は、どこにあるのか。涅槃経第十四には、華厳・阿含・方等・般若経等をあげて、涅槃経に対して勝劣は説いているが、法華経と涅槃経との勝劣はまったく見えない。ところが、涅槃経のその前の第九の巻には法華経と涅槃経の勝劣が明らかに示されている。すなわちこの涅槃経の文には『是の涅槃経が世に出ずるのは乃至法華経の中で八千の声聞が記別をうけることができたのは、大果実を実らせる秋収冬蔵の大果実の位、涅槃経はその後の秋の末、冬の初めの捃拾の位、すなわち落ち穂拾いの位である』と定めているのである。 ゆえに、この経文は、明らかに涅槃経みずから法華経に劣ると頭を下げているのである。法華経の文には已説・今説・当説とあって、この法華経は、法華以前の経や、法華経にならぶように見える無量義経等に勝れるだけではなくして、後に説かれる経々にも勝れると仏は説き定められた。すでに教主釈尊が、かく定められた上は、なんら疑うべき余地はないけれども、仏は滅後のことを心配されて、東方の宝浄世界の多宝仏を証人と定められたので、多宝如来は大地から躍り出て、『妙法華経は皆是れ真実である』と証明した。またその上に十方の分身の諸仏も集まってきて、広く長い舌を大梵天につけ、法華経に誤りなきを証明し、また教主釈尊も同じく広長舌を大梵天につけて法華経真実を宣言した。そうして後、多宝如来は宝浄世界に帰り、十方の分身の諸仏もおのおのの本土に帰られてしまい、多宝仏も十方分身の諸仏も、だれもいないところで、教主釈尊ひとり涅槃経を説いて、涅槃経は法華経にすぐれるとおおせられても、御弟子たちは、これを信ずるだろうか」2023/11/05 17:16:15963.法介◆T3azX0Hk1UNQGpj かくのごとく天台大師は南三北七の諸師を責められので、法雲の弟子たちは、日月の大光明が修羅の眼を照らすがごとく射すくめられ、また、漢の高祖の剣が、諸侯の首を切らんとかかったごとく両眼を閉じ、頭をたれて聞き入った、その時の天台大師の威容こそは、あたかも師子王が狐や兎の前でほえるがごとく、鷹や鷲が鳩や雉を捕えようとするのに似ていた。 このことがあって、初めて世間の人々は、さては法華経が華厳経や涅槃経より勝れているのだということを知って、中国全土に流布したのみでなく、かえってインドにまで流伝したのである。ためにインドの大小の論師たちも、中国の天台智者大師の義には勝てず、教主釈尊が二度出現されたのか、はたまた仏教がふたたびあらわれたのかと賛嘆したのである。2023/11/05 17:16:53964.法介◆T3azX0Hk1UNQGpj その後、天台大師も隋の開皇17年に60歳で入滅された。陳隋の時代も過ぎて、やがて唐の代となった。天台大師の第一の弟子、章安大師も入滅された。かくして天台大師の仏法は、ようやくすたれ、その教学もまさに滅びんとした。時に唐の太宗の御宇に、玄奘三蔵という人が出現し、貞観三年に中国を発してインドに入り、貞観十九年に中国に帰ってきた。玄奘はインドの仏教をたずね尽くして、その中に法相宗がもっとも優れるといってこれを中国に伝えた。2023/11/05 17:17:32965.法介◆T3azX0Hk1UNQGpj次に法相宗のお話~!2023/11/05 17:18:50966.法介◆T3azX0Hk1UNQGpj この法相宗は、天台宗とは、水火のごとく相反する教えであった。しかも玄奘は、天台大師がいまだご覧にならなかったところの深密経・瑜伽論・唯識論等を持ち帰ったと称し、しかも「法華経は一切経には勝れた経ではあるけれども、深密経には劣る」と主張した。天台の末学たちは智慧、学識も浅かったために、天台の真意を解すすべもなく、天台大師はご覧にならなかったのだからと思い、玄奘のいうことを、そうであろうとそのまま受け入れてしまった。2023/11/05 17:19:00967.法介◆T3azX0Hk1UNQGpj また、唐の太宗は賢王であると人々に思われ、玄奘への御帰依はまた一通りでなかったので、玄奘に対していいぶんをもった人々も、世の常として、時の皇帝の権力を恐れて、それをいい出す人がいなかった。真実の法華経を投げ捨てて、「三乗は真実、一乗方便、五性各別」と主張したことは、まことに残念なことであった。 彼の持ち帰った経文は、インドから伝えたものであるが、その邪義なることは、インドの外道が漢土にやってきたかのごとくであった。法華経は方便であり、深密経は真実であるといったので、釈迦・多宝・十方の諸仏の証言も、かえってムダになってしまい、逆に玄奘やその弟子の慈恩等が、生身の仏のごと2023/11/05 17:19:19968.法介◆T3azX0Hk1UNQGpjく思われるという、とんでもないことがおこったのである。2023/11/05 17:19:30969.法介◆T3azX0Hk1UNQGpj 玄奘が法相宗を伝えた後、しばらく経って、唐の則天武后の時代に、法蔵法師が出た。法蔵法師は、天台大師によってせめおとされた華厳経に、その後訳された新訳の華厳経を助けとして華厳宗を開いた。法蔵の気持ちは前に華厳が天台大師によって打ち破られた、その恨みを晴らすためであった。 この華厳宗の主張は、「華厳経は仏陀最初の説法であるから根本法輪であり、法華経は最後の説であるから枝末法輪である」というのである。また、前の南三北七の諸師は、一華厳、二涅槃、三法華であった。天台大師は一法華、二涅槃、三華厳であり、法蔵の立てた華厳宗のいいぶんは、一華厳、二法華、三涅槃であった。2023/11/05 17:20:05970.法介◆T3azX0Hk1UNQGpj その後、唐の玄宗皇帝の時に、インドから善無畏三蔵が中国にわたってきて、大日経、蘇悉地経を伝えた。さらに金剛智三蔵は、金剛頂経を伝えた。また金剛智三蔵の弟子に不空三蔵というのがあり、この不空三蔵もわたってきた。 これらの三人は、いずれもインドの人で、種姓も高貴であり、人柄も中国の僧よりも優れていた。その説く法門も、後漢の世に仏教初めて伝来してより、今日にいたるまで見聞しなかったところの印と真言という、まったく新しいものをあいそえて教えを説いた。それが、まことに堂々としてりっぱであったので、上は玄宗皇帝から下は万民にいたるまで、すべて深く頭を垂れ、また手を合掌して帰依したのである。2023/11/05 17:20:25971.法介◆T3azX0Hk1UNQGpj この人々の説によれば、「華厳・深密・般若・涅槃・法華経等の勝劣は、顕教内の勝劣であり、釈迦如来の説法の範囲である。いまこの大日経は、大日如来の説法であって、法華経の顕教と相対すれば、彼の諸経は民の万言、この大日経は天子の一言である。華厳経、涅槃経等は、大日経に梯を立ててもおよびもつかないが、ただ法華経のみは大日経に相似た経といえよう。しかし、彼の法華経は釈迦仏の説で、民の正直語にすぎぬが、この大日経は大日如来の説、天子の正言である。正言である点は似ているけれども、仏の資格は、釈尊と大日如来とでは天地雲泥である。たとえば釈尊は濁水に映る月影のごとく、大日如来は清水に宿る月影のごとく、月は同じであるが水に清濁あるようなものである」等と勝手な論を吐いたのである。しかも、この誤りをだれひとり尋ねあらわす人がなくて、諸宗は皆落ち伏して真言宗になりさがってしまったのである。2023/11/05 17:20:58972.法介◆T3azX0Hk1UNQGpj 善無畏・金剛智の死去の後、不空三蔵はふたたびインドに立ち帰り、菩提心論と申す論を中国にもってきたので、いよいよ真言宗は盛んになるばかりであった。 ただし、天台の陣営にも、妙楽大師という人が出現していた。天台大師より後、二百余年に出現した人であるが、ひじょうに智慧の優れた人で、天台大師の解釈をくわしく究め尽くしていた。ゆえに天台の釈された真意は、その後にわたってきた深密経や法相宗、また初めて漢土に立てられた華厳宗、また新しく伝来した大日経を依経とするところの真言宗、これらのいずれにも、格段に勝れているのが法華経であるということを明白に知っていた。2023/11/05 17:21:17973.法介◆T3azX0Hk1UNQGpj しかるに、天台の末学たちは、その智解がそこまでいたらないのか、あるいは玄奘・法蔵・善無畏等を恐れるのか、あるいはそれらの邪義に帰依した、時の皇帝の威力を恐れたのか、なにもいい出せなかった。このままに打ち過ぎるならば、天台の正義も滅び去ってしまうであろう。また彼らの唱える邪義は、陳隋以前の南三北七の邪義にも越える大邪義である。 妙楽大師は、これは絶対に捨てておくわけにはいかぬと堅く決心して、天台大師の本疏について註釈書を三十巻つくられた。いわゆる摩訶止観輔行伝弘決(摩訶止観の註釈)、法華玄義釈籤(法華玄義の註釈)、法華文句疏記(法華文句の註釈)である。この三十巻の書は、本書の中で重複しているところは一方を削り、意味の明瞭でないものをはっきりさせただけではなくして、天台大師時代なかったために、天台の破折をのがれていた法相宗と華厳宗と真言宗とを、一時に論破せられた偉大な書なのである。2023/11/05 17:21:42974.法介◆T3azX0Hk1UNQGpjここから日本のお話~!2023/11/05 17:22:26975.法介◆T3azX0Hk1UNQGpj また、わが日本国において、人王第三十代・欽明天皇の御宇、十三年、壬申十月十三日に、百済の国より一切経ならびに釈迦仏の像が渡ってきた。その後、用明天皇の御宇に、聖徳太子が仏教の研究を始められ、とくに、和気の妹子(小野妹子)という臣下を中国に遣わして、先生に所持したところの法華経を取り寄せて、持経と定められた。その後、人王第三十七代、孝徳天皇の時代に、三論宗・華厳宗・法相宗・倶舎宗・成実宗等が渡来してきた。次に人王第四十五代聖武天皇の時に、律宗が伝えられた。以上で六宗となった。孝徳天皇から第五十代桓武天皇にいたるまで、十四代百二十余年のあいだは、いまだ、天台宗・真言宗の二宗はなかったのである。2023/11/05 17:22:58976.法介◆T3azX0Hk1UNQGpj 桓武天皇の時代に最澄(伝教大師)という小僧がいた。山階寺の行表僧正の弟子である。法相宗をはじめとして六宗を学び尽くした。しかし、いまだ仏法の真髄は得られなかったので、華厳宗の祖、法蔵法師が説いた起信論の疏を見られた。その書の中に天台大師の釈が引用されてあった。 そこで最澄は、この書こそおおいに子細がありそうだ、ぜひそれを読みたいが、その書が日本にわたっているか、あるいはいまだわたっていないかどうか不審であったがゆえに、ある人にそのことを話したところが、その人のいうには、「中国の揚州竜興寺の住僧で鑒真という人がいる。鑒真は天台の末学であり、また道暹律師の弟子である。天宝年間の末に日本にやってきて、小乗の戒律をひろめたが、天台の書物は持ちきたりながらひろめずに終わってしまった。それは第四十五代聖武天皇の御代のことである」と。 これを聞いた最澄は、すぐにもその本を見たいと申されたので、即座に取り出して見せたところ、一度にして生死の迷いをさまされた。しかも、この書によって、六宗をたずねられたところ、ぜんぶ邪見であることがわかった。2023/11/05 17:23:19977.法介◆T3azX0Hk1UNQGpj最澄=空海ね2023/11/05 17:23:57978.法介◆T3azX0Hk1UNQGpj そこで、たちまち願をおこし「六宗の邪義によって、日本国中の人々が、みな謗法の者の檀那となっているゆえに、かならず天下は乱れるであろう」といって、六宗を責められたので、南都の七大寺、六宗の学者たちは蜂起して、京都中に烏合して、ために天下の大騒動となった。七大寺六宗の人々は、伝教大師を憎み、悪心ははなはだ強盛であったが、延暦二十一年の正月十九日に、桓武天皇はみずから高雄寺に行幸になって、そのさい、七大寺の学僧である善議・勝猷・奉基・寵忍・賢玉・安福・勤操・修円・慈誥・玄耀・歳光・道証・光証・観敏等の十余人と最澄とを召し合わせ、対論を命じられた。これ、有名な伝教大師の公場対決である。彼ら華厳、三論、法相等の学者たちは、おのおの自宗の元祖の立義に固執した。しかし伝教大師(最澄)は、六宗の人々の立義を一々に取り上げて、法華経や天台大師の論釈、その他の経や論釈に照らし合わせて責めたので、六宗の人々は唖然と口をつぐんで鼻のごとく、一言も答えることができなかった。2023/11/05 17:24:20979.法介◆T3azX0Hk1UNQGpj最澄=伝教大師の間違い!空海は弘法大師ね。2023/11/05 17:25:58980.法介◆T3azX0Hk1UNQGpj 天皇も驚かれて、伝教大師に詳しくお尋ねがあり、重ねて勅宣を下して十四人の学者たちを厳しく責められたので、みな帰伏の謝り状を奉った。その謝表には「七大寺六宗の学者達は、初めて純円一実の至極の法門を知りました」また「聖徳太子が仏法をひろめられてから、今日にいたる二百余年のあいだ講ぜられたところの経文や論釈は数多い。しかし彼此とたがいに勝劣を争っていまだその疑いが解けなかった。しかも、この最妙の法華の円宗はいまだひろまらなかった」と。また「三論と法相との長い間の争いは、あたかも氷がさらりと解けるがごとくしかも照然として明らかにその解決をみたことは、ちょうど雲や霧を開いて、日、月、星の三光を見るようである」等といっている。2023/11/05 17:26:30981.法介◆T3azX0Hk1UNQGpj 伝教大師は十四人の邪義を批判していわく、「六宗の人々は、おのおの法華経の一軸を講ずるのに、自宗の立義によっている。ゆえに、法鼓を深い谷にひびかせて盛んに法門を論談するのであるが、ことごとく、主客ともに声聞、縁覚、菩薩の三乗に徘徊して、成仏の道を歩めないのである。しかし、なお義旗を高山に立てて人々を集めている。なるほど、長幼の学者や三有の煩悩を破折するのはよいが、しかし、なお長き歴劫修行をしなければならぬという権経の教えを説いている。これでは大白牛車たる法華経と、いやしい車の権経を混同するものである。かかる六宗の教えでは、どうして、よく初発心の位から、ただちに成仏得道の境涯を得ることができようか」と。2023/11/05 17:27:00982.法介◆T3azX0Hk1UNQGpj この論議の席に参加していた、和気清磨呂の子、和気弘世、真綱の二人の兄弟は、「霊鷲山の釈尊の妙法を、南岳大師によって聞くことができ、いままた総持の妙悟を天台大師によって聞くことができた。しかるに今の人々は、この妙法を聞くことができず、権乗にいろどられた一乗の法であることを嘆き、三諦円融の義いまだ顕われないことを悲しむものである」と嘆いた。また六宗の十四人の学者たちのいわく、「善議等はさいわいなことに、良縁にひかれて福運つよく、今日の奇特な講義を聞くことができた。これ宿世の深縁でないならば、どうして今日の聖代に生まれることができたであろうか」と。 これらの十四人の人々は、これまでは、いずれも華厳宗の法蔵、審祥、三論宗の嘉祥、観勒、法相宗の慈恩、道昭、律宗の道宣、鑒真等の中国日本における、それぞれの宗の元祖の法門を、次から次へと伝承していったもので、あたかも、瓶は変わっても、中の水は異ならぬようなものであった。2023/11/05 17:27:16983.法介◆T3azX0Hk1UNQGpj これらの十四人が、それぞれの邪義を捨て、伝教大師の説かれる法華経に帰依した上は、それより以後の人々は、だれが華厳、般若、深密経等は法華経より勝れているということができようか。小乗の成実・倶舎・律の三宗は彼ら十四人がとうぜん学んだところであって、大乗の三宗が破れた以上は、小乗の三宗ごときが、何やかやいうべきでない。しかるに今日でもこの子細を知らぬ六宗の者どもは、自宗はいまだ法華経には破れぬのだろうと思っている。これは、たとえば盲人が天の日月を見ることができず、聾人が雷の音を聞くことができず、ために天に日月がなく、空に声なしと思うのに等しいのである。2023/11/05 17:27:29984.法介◆T3azX0Hk1UNQGpj次に真言宗のお話~!2023/11/05 17:28:42985.エロ和尚◆ERO.Kk3nCAaEU0o>>977>>最澄=空海ね怪我の功名じゃな。「最澄=空海」は、カムイ大僧正の説くところである2023/11/05 17:29:52986.法介◆T3azX0Hk1UNQGpj 真言宗という宗は、わが国第四十四代、元正天皇の時代に、中国から善無畏三蔵がやってきたが、大日経の経典だけを渡して弘通せずに中国へ帰った。その後、玄昉等の僧も大日経義釈十四巻を伝えた。さらに東大寺の得清大徳も真言を伝えた。 これらの書を御覧になった伝教大師は、法華経と大日経との勝劣について、彼らのいうことに不審を持たれていたゆえに、去る延暦23年(0803)の7月入唐のさい、西明寺の道邃、仏滝寺の行満等から、止観の法門、円頓の大戒等を伝え、加えて霊感寺の順暁和尚にあい真言を相伝されたのである。かくして延暦24年(0804)6月に帰朝されて、桓武天皇に御対面になり、宣旨を下して六宗の学生たちに止観真言を学ばしめ、これを七大寺におくことにされた。2023/11/05 17:31:54987.法介◆T3azX0Hk1UNQGpjここんとこ和尚、良く読んどき2023/11/05 17:32:48988.法介◆T3azX0Hk1UNQGpj 真言と天台の二宗の勝劣については、中国にも種々の主張があり、また、大日経の義釈にも、法華の理と大日経の理はともに諸法実相だから等しい、しかし印と真言が大日にはあるから事相において勝る、というような、理同事勝の邪論もあったけれども、伝教大師は、「それらはぜんぶ善無畏の誤りである。大日経は法華経にまったく劣っている」と知ったため、奈良の六宗の上に、天台宗を加えて七宗とはしたが、真言宗を入れて八宗とするということはしなかったのである。その上、真言宗という宗名もけずってしまって、法華宗内に含め七宗とされたのである。しかも大日経をば、法華天台宗の傍依の経とされて、華厳・大品・般若・涅槃等と同列におかれたのである。 しかしながら当時は、大事な大乗別受戒の大戒壇をわが日本国に建立するために、これをめぐって大戒壇を立てる立てないと、諸宗との諍論が激しい時代であったがゆえに、また対真言との争いにかかっては、大事な目的である円頓の戒壇建立に支障をきたすおそれがあると考えられてのことであろうか、真言、天台の二宗の勝劣については、弟子たちにも分明には教えられなかったようである。2023/11/05 17:33:30989.法介◆T3azX0Hk1UNQGpj ただし、伝教大師の依憑集という本には、正しく真言宗は法華天台宗の正義を偸みとって大日経に引き入れ、大日経の意とし、理同などという邪義を唱えたという意があるのである。ゆえに彼の真言宗は、天台宗に降伏した宗なのである。ましてや不空三蔵は、善無畏、金剛智三蔵が入滅した後インドに行き、竜智菩薩に会った時、竜智は、「インドには仏の本意を明かした教えがない。中国には天台がいて、その釈こそまことによく邪正を正し、偏円を明らかにした文である。であるならば、ぜひこれをインドへ持ってきて伝えてほしい」と竜智は不空に頼んだ。このことは、不空の弟子含光というものが、妙楽大師に話したのが法華文句記の十の末にある。またその文が伝教大師の依憑集に載せてあるのである。これを見れば、大日経は法華経よりも劣るということが伝教大師の御心である、ということが明白になるのである。2023/11/05 17:33:55990.法介◆T3azX0Hk1UNQGpj ゆえに、釈尊も天台大師も、妙楽大師も、伝教大師も、みないちように大日経等の一切経に比して、法華経が最勝であると考えられたことは明瞭である。また、真言宗の元祖であるという竜樹菩薩のお心も同じである。大智度論をよくよくたずねみるならば、このことは明らかであるのに、不空が書いた誤りの多い菩提心論に多くの人が迷わされ、竜樹菩薩のお心も見失うこととなったのである。2023/11/05 17:34:46991.法介◆T3azX0Hk1UNQGpj真言宗 大日経・金剛頂経・蘇悉地経等を所依とする宗派。大日如来を教主とする。空海が入唐し、真言密教を我が国に伝えて開宗した。顕密二教判を立て、大日経等を大日法身が自受法楽のために内証秘密の境界を説き示した密教とし、他宗の教えを応身の釈迦が衆生の機根に応じてあらわに説いた顕教と下している。なお、真言宗を東密といい、慈覚・智証が天台宗にとりいれた密教を台密という。2023/11/05 17:35:06992.法介◆T3azX0Hk1UNQGpj次に空海の話~!2023/11/05 17:35:44993.法介◆T3azX0Hk1UNQGpj また、石淵の勤操僧正の弟子に空海という者があり、後に弘法大師と号した。この人は、さる延暦二十三年五月十二日に入唐し、中国の地において金剛智・善無畏両三蔵の第三代目の弟子である慧果和尚から、金剛界および胎蔵界の真言を伝受した。そして平城天皇の大同二年十月二十二日に帰朝した。 その時は、すでに桓武天皇は崩御されて、平城天皇の代であったが、平城天皇にたびたび面会して上奏した。平城天皇も深く信用して帰依した。しかし、まもなく平城天皇は退位され、嵯峨天皇が即位した。嵯峨天皇の弘仁十三年六月四日に、伝教大師は入滅された。同じく弘仁十四年から、いよいよ弘法大師は嵯峨天皇の師となり、真言宗を打ち立てて、東寺をたまわり真言和尚となり、世に認められて、日本における仏教の八宗として出発したのである。2023/11/05 17:35:58994.法介◆T3azX0Hk1UNQGpj 弘法は、釈尊一代の教法を判じていわく、「第一真言大日経、第二華厳、第三は法華涅槃である」等と。しかも弘法は「法華経は、阿含経、方等経、般若経等に対すれば真実の経であるけれども、華厳経、大日経に望むれば戯論の法である。法華経を説かれた教主釈尊は、仏ではあるけれども、大日如来に比すれば、無明の辺域を脱しきれぬ仏である。あたかも皇帝と俘囚(捕虜)のごときである。天台大師は盗人である。真言の醍醐味を取って、法華経を醍醐という」等と書いたので、彼のいうことを聞いていると、みなは内心では法華経は勝れた教えだとは思うけれども、弘法大師にあえば、物の数でないことになってしまう。2023/11/05 17:36:18995.法介◆T3azX0Hk1UNQGpj インドの外道の邪義であることはさておいて、中国の南三北七の邪師が、法華経は涅槃経に比すれば邪見の法だといったよりも、はなはだしい謗法であり、華厳宗のものが、法華経は華厳に対すれば、枝末の教だと説いたよりも過ぎている。たとえば、彼の月氏の大慢婆羅門が、大自在天・那羅延天・婆籔天・教主釈尊の四人を高座の足につくって、その上にのぼって種々の邪法をひろめたのにひとしい。もし、かりに、伝教大師が御存生であったならば、かならずや破折のことばを出されたにちがいないのである。 御入滅なされた伝教大師はともかく、伝教大師に師事したところの、義真・円澄・慈覚・智証等は、弘法の所説に不審を懐かなかったのであろうか。これまことに奇怪であるが、このことこそ、まさに、天下第一の大凶、大不幸というべきである。2023/11/05 17:36:31996.法介◆T3azX0Hk1UNQGpj 慈覚大師は、去る承和五年に入唐、彼の中国で十年のあいだ、天台・真言の両宗を学んだのである。 法華経と大日経との勝劣について、法全・元政等の八人の真言師に学んだところが、法華経と大日経とはその所詮の理は等しいけれども、事相たる印と真言においては大日は勝れ、法華経は劣るという理同事勝をとなえていた。また、天台宗の志遠・広脩・維蠲等に学んだところは、大日経は釈尊一代五時説法中の第三方等部の部類であり、法華経より格段に劣ると説いていた。 こうして慈覚は、承和十三年九月十日に帰朝した。その翌々年の嘉祥元年六月十四日に、真言灌頂の事を願い出たところが、行なってもよいという宣旨が下った。慈覚は法華経と大日経等の勝劣については、中国で学んだあいだは、知ることができなかったかのごとくであった。ゆえに、金剛頂経の疏七巻・蘇悉地経の疏七巻、合して以上十四巻の疏を作ったのであるが、この疏の意は、大日経、金剛頂経、蘇悉地経の説く義と、法華経の義は、その説き明かす所詮の理は同じであるが、事相たる印と真言においては、真言の三部経が勝れ、法華経は劣っているというのである。2023/11/05 17:37:42997.法介◆T3azX0Hk1UNQGpj この所見は、まったく善無畏・金剛智・不空等の意によったもので、彼らの大日経の疏の意と同じである。しかし、このように書いたものの、わが心になお不審が残っていたためか、また自分の心では決めていても、他の人々の不審をはらそうと思ったのか、慈覚は、この十四巻の疏を、本尊の宝前に安置して祈請をしたのである。すなわち、自分はこの疏に意見をしたためたのであるが、仏意のほどはなかなかはかりがたい。大日経の三部が勝れるものか、法華経の三部が勝れるのか、験をたまわりたいと祈ったところが、五日目の午前四時ごろに夢想があった。それは、青天に大日輪がかかり、矢をもってこれを射たところ、矢飛んで空に上り、日輪の中に当たったので、日輪は動転して地に落ちんとした時に夢さめたのである。夢さめて慈覚は、ひじょうに喜んでいうのには、「われにとってまさに吉夢である。法華経に真言勝るるという所見は、すでに仏意にかなっている証拠である」と喜んでいった。そこで宣旨を得て、日本全国にひろめたのである。2023/11/05 17:37:57998.法介◆T3azX0Hk1UNQGpj しかし妙なことに、この宣旨には、「ついに天台の止観と、真言の法義とは、その所詮の理は冥合である」といっている。祈請の意は、「大日経は勝れ、法華経は劣る」というのであるから、宣旨を申し下した「法華経と大日経とは同じ」という内容と、ぜんぜん違い、まことに奇怪千万なことである。2023/11/05 17:38:09999.法介◆T3azX0Hk1UNQGpj慈覚大師 (0794~0864)。比叡山延暦寺第三代座主。諱は円仁。慈覚は諡号。15歳で比叡山に登り、伝教大師の弟子となった。勅を奉じて承和5年(0838)入唐して梵書や天台・真言・禅等を修学し、同14年(0847)に帰国。仁寿4年(0854)、円澄の跡を受け延暦寺の座主となった。天台宗に真言密教を取り入れ、真言宗の依経である大日経・金剛頂経・蘇悉地(経は法華経に対し所詮の理は同じであるが、事相の印と真言とにおいて勝れているとした。「金剛頂経疏(」7巻、「蘇悉地経疏」7巻等がある。2023/11/05 17:38:531000.法介◆T3azX0Hk1UNQGpj 智証大師は、入唐前、日本において義真和尚、円澄大師、別当の光定、慈覚等の弟子であった。ゆえに、顕密の二道は、だいたいこの日本国において勉学し終わった。しかるに天台、真言の二宗の勝劣に不審の念をいだき、それを解決するために中国へ渡ったのであろうか、去る仁寿二年に入唐し、中国においては、真言宗は法全・元政等に学んだが、だいたいにおいて、大日経の勝劣については、慈覚の邪義のごとく、同じく理同事勝の邪義であった。 天台宗については、良諝和尚に学びとり、真言、天台の勝劣においては、大日経は華厳・法華経にはおよばぬという教えを学んだ。七年のあいだ、中国において研究し、去る貞観元年五月十七日に帰朝した。その所見を発表した大日経旨帰にいわく「法華経でさえ大日経にはおよばない。ましてその他の教法においてをや」と。すなわち、この釈では、法華経は大日経に劣ることを説いている。また授決集にいわく「真言や禅宗が、乃至もし華厳や法華、涅槃経等と比較するならば、摂引門にあたり、大日経等は法華に入らしめるためである」と。その他、普賢経の記、および法華論の記にも同じく書かれている。2023/11/05 17:39:071001.Talk ★???このスレッドはコメントが1000件を超えました。新しいスレッドを立ててください。2023/11/05 17:39:071002.Talk ★???【プレミアムサービス無料期間延長!】プレミアムの無料期間を2025/3/31まで延長することになりました。広告除去や規制緩和など、ヘビーユーザーにとって欠かせない機能を無料でお楽しみいただけます。是非この機会にプレミアムサービスをお試しください!▼プレミアムサービスはこちらからhttps://talk.jp/premium2023/11/05 17:39:07
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栖雲居士◆dqam8SqGUPdm
法介の『ゆゆしき世界』パート1
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ゆゆしき法界 パート14
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こうしたことも、この人の義意が仏意に相いかなったればこそ、天から花も降り、また雨も降ったのであろう。このようなすばらしい奇瑞があったのであるから、中国の人々は、「さては法華経は、華厳経や涅槃経に劣る教なのであろう」と思ったのである。その上、中国の祖師たちがこうであるから、新羅、百済、高麗等の朝鮮や日本まで、この光宅法雲の疏が弘まっていた。法雲法師が死去して間もなく、梁の末、陳の始めに、智顗法師すなわち天台大師が出現したのである。
天台大師は、そこで、どうしようかと思案されたが、絶対に黙っているべきではないと決意されて、「光宅寺の法雲法師は、謗法の科によって、地獄に堕ちた」と強く叫ばれた。その時は、南北の諸師は、あたかもハチの巣をつついたごとく騒然となり、烏の群れがつどうがごとく集まって、天台大師を攻撃した。
しかし、天台大師は、当時無官であったため末座に坐ったまま顔色も変えず、言葉も静かに、威儀を正して彼らの一々を取っては、みごとに、これを責め返し押し返したのである。そして逆に彼らを難じていうのに「法雲法師の義に、第一は華厳、第二は涅槃、第三は法華と立てられたのは、いかなる経文によるのか。たしかに明らかな文証を示せ」と責められたので、おのおの頭をたれ、顔色を失って、一言の返答もできなかったのである。
ゆえに、この経文は、明らかに涅槃経みずから法華経に劣ると頭を下げているのである。法華経の文には已説・今説・当説とあって、この法華経は、法華以前の経や、法華経にならぶように見える無量義経等に勝れるだけではなくして、後に説かれる経々にも勝れると仏は説き定められた。すでに教主釈尊が、かく定められた上は、なんら疑うべき余地はないけれども、仏は滅後のことを心配されて、東方の宝浄世界の多宝仏を証人と定められたので、多宝如来は大地から躍り出て、『妙法華経は皆是れ真実である』と証明した。またその上に十方の分身の諸仏も集まってきて、広く長い舌を大梵天につけ、法華経に誤りなきを証明し、また教主釈尊も同じく広長舌を大梵天につけて法華経真実を宣言した。そうして後、多宝如来は宝浄世界に帰り、十方の分身の諸仏もおのおのの本土に帰られてしまい、多宝仏も十方分身の諸仏も、だれもいないところで、教主釈尊ひとり涅槃経を説いて、涅槃経は法華経にすぐれるとおおせられても、御弟子たちは、これを信ずるだろうか」
このことがあって、初めて世間の人々は、さては法華経が華厳経や涅槃経より勝れているのだということを知って、中国全土に流布したのみでなく、かえってインドにまで流伝したのである。ためにインドの大小の論師たちも、中国の天台智者大師の義には勝てず、教主釈尊が二度出現されたのか、はたまた仏教がふたたびあらわれたのかと賛嘆したのである。
彼の持ち帰った経文は、インドから伝えたものであるが、その邪義なることは、インドの外道が漢土にやってきたかのごとくであった。法華経は方便であり、深密経は真実であるといったので、釈迦・多宝・十方の諸仏の証言も、かえってムダになってしまい、逆に玄奘やその弟子の慈恩等が、生身の仏のごと
この華厳宗の主張は、「華厳経は仏陀最初の説法であるから根本法輪であり、法華経は最後の説であるから枝末法輪である」というのである。また、前の南三北七の諸師は、一華厳、二涅槃、三法華であった。天台大師は一法華、二涅槃、三華厳であり、法蔵の立てた華厳宗のいいぶんは、一華厳、二法華、三涅槃であった。
これらの三人は、いずれもインドの人で、種姓も高貴であり、人柄も中国の僧よりも優れていた。その説く法門も、後漢の世に仏教初めて伝来してより、今日にいたるまで見聞しなかったところの印と真言という、まったく新しいものをあいそえて教えを説いた。それが、まことに堂々としてりっぱであったので、上は玄宗皇帝から下は万民にいたるまで、すべて深く頭を垂れ、また手を合掌して帰依したのである。
ただし、天台の陣営にも、妙楽大師という人が出現していた。天台大師より後、二百余年に出現した人であるが、ひじょうに智慧の優れた人で、天台大師の解釈をくわしく究め尽くしていた。ゆえに天台の釈された真意は、その後にわたってきた深密経や法相宗、また初めて漢土に立てられた華厳宗、また新しく伝来した大日経を依経とするところの真言宗、これらのいずれにも、格段に勝れているのが法華経であるということを明白に知っていた。
妙楽大師は、これは絶対に捨てておくわけにはいかぬと堅く決心して、天台大師の本疏について註釈書を三十巻つくられた。いわゆる摩訶止観輔行伝弘決(摩訶止観の註釈)、法華玄義釈籤(法華玄義の註釈)、法華文句疏記(法華文句の註釈)である。この三十巻の書は、本書の中で重複しているところは一方を削り、意味の明瞭でないものをはっきりさせただけではなくして、天台大師時代なかったために、天台の破折をのがれていた法相宗と華厳宗と真言宗とを、一時に論破せられた偉大な書なのである。
そこで最澄は、この書こそおおいに子細がありそうだ、ぜひそれを読みたいが、その書が日本にわたっているか、あるいはいまだわたっていないかどうか不審であったがゆえに、ある人にそのことを話したところが、その人のいうには、「中国の揚州竜興寺の住僧で鑒真という人がいる。鑒真は天台の末学であり、また道暹律師の弟子である。天宝年間の末に日本にやってきて、小乗の戒律をひろめたが、天台の書物は持ちきたりながらひろめずに終わってしまった。それは第四十五代聖武天皇の御代のことである」と。
これを聞いた最澄は、すぐにもその本を見たいと申されたので、即座に取り出して見せたところ、一度にして生死の迷いをさまされた。しかも、この書によって、六宗をたずねられたところ、ぜんぶ邪見であることがわかった。
空海は弘法大師ね。
これらの十四人の人々は、これまでは、いずれも華厳宗の法蔵、審祥、三論宗の嘉祥、観勒、法相宗の慈恩、道昭、律宗の道宣、鑒真等の中国日本における、それぞれの宗の元祖の法門を、次から次へと伝承していったもので、あたかも、瓶は変わっても、中の水は異ならぬようなものであった。
>>最澄=空海ね
怪我の功名じゃな。
「最澄=空海」は、カムイ大僧正の説くところである
これらの書を御覧になった伝教大師は、法華経と大日経との勝劣について、彼らのいうことに不審を持たれていたゆえに、去る延暦23年(0803)の7月入唐のさい、西明寺の道邃、仏滝寺の行満等から、止観の法門、円頓の大戒等を伝え、加えて霊感寺の順暁和尚にあい真言を相伝されたのである。かくして延暦24年(0804)6月に帰朝されて、桓武天皇に御対面になり、宣旨を下して六宗の学生たちに止観真言を学ばしめ、これを七大寺におくことにされた。
和尚、良く読んどき
しかしながら当時は、大事な大乗別受戒の大戒壇をわが日本国に建立するために、これをめぐって大戒壇を立てる立てないと、諸宗との諍論が激しい時代であったがゆえに、また対真言との争いにかかっては、大事な目的である円頓の戒壇建立に支障をきたすおそれがあると考えられてのことであろうか、真言、天台の二宗の勝劣については、弟子たちにも分明には教えられなかったようである。
大日経・金剛頂経・蘇悉地経等を所依とする宗派。大日如来を教主とする。空海が入唐し、真言密教を我が国に伝えて開宗した。顕密二教判を立て、大日経等を大日法身が自受法楽のために内証秘密の境界を説き示した密教とし、他宗の教えを応身の釈迦が衆生の機根に応じてあらわに説いた顕教と下している。なお、真言宗を東密といい、慈覚・智証が天台宗にとりいれた密教を台密という。
その時は、すでに桓武天皇は崩御されて、平城天皇の代であったが、平城天皇にたびたび面会して上奏した。平城天皇も深く信用して帰依した。しかし、まもなく平城天皇は退位され、嵯峨天皇が即位した。嵯峨天皇の弘仁十三年六月四日に、伝教大師は入滅された。同じく弘仁十四年から、いよいよ弘法大師は嵯峨天皇の師となり、真言宗を打ち立てて、東寺をたまわり真言和尚となり、世に認められて、日本における仏教の八宗として出発したのである。
御入滅なされた伝教大師はともかく、伝教大師に師事したところの、義真・円澄・慈覚・智証等は、弘法の所説に不審を懐かなかったのであろうか。これまことに奇怪であるが、このことこそ、まさに、天下第一の大凶、大不幸というべきである。
法華経と大日経との勝劣について、法全・元政等の八人の真言師に学んだところが、法華経と大日経とはその所詮の理は等しいけれども、事相たる印と真言においては大日は勝れ、法華経は劣るという理同事勝をとなえていた。また、天台宗の志遠・広脩・維蠲等に学んだところは、大日経は釈尊一代五時説法中の第三方等部の部類であり、法華経より格段に劣ると説いていた。
こうして慈覚は、承和十三年九月十日に帰朝した。その翌々年の嘉祥元年六月十四日に、真言灌頂の事を願い出たところが、行なってもよいという宣旨が下った。慈覚は法華経と大日経等の勝劣については、中国で学んだあいだは、知ることができなかったかのごとくであった。ゆえに、金剛頂経の疏七巻・蘇悉地経の疏七巻、合して以上十四巻の疏を作ったのであるが、この疏の意は、大日経、金剛頂経、蘇悉地経の説く義と、法華経の義は、その説き明かす所詮の理は同じであるが、事相たる印と真言においては、真言の三部経が勝れ、法華経は劣っているというのである。
(0794~0864)。比叡山延暦寺第三代座主。諱は円仁。慈覚は諡号。15歳で比叡山に登り、伝教大師の弟子となった。勅を奉じて承和5年(0838)入唐して梵書や天台・真言・禅等を修学し、同14年(0847)に帰国。仁寿4年(0854)、円澄の跡を受け延暦寺の座主となった。天台宗に真言密教を取り入れ、真言宗の依経である大日経・金剛頂経・蘇悉地(経は法華経に対し所詮の理は同じであるが、事相の印と真言とにおいて勝れているとした。「金剛頂経疏(」7巻、「蘇悉地経疏」7巻等がある。
天台宗については、良諝和尚に学びとり、真言、天台の勝劣においては、大日経は華厳・法華経にはおよばぬという教えを学んだ。七年のあいだ、中国において研究し、去る貞観元年五月十七日に帰朝した。その所見を発表した大日経旨帰にいわく「法華経でさえ大日経にはおよばない。ましてその他の教法においてをや」と。すなわち、この釈では、法華経は大日経に劣ることを説いている。また授決集にいわく「真言や禅宗が、乃至もし華厳や法華、涅槃経等と比較するならば、摂引門にあたり、大日経等は法華に入らしめるためである」と。その他、普賢経の記、および法華論の記にも同じく書かれている。
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