【空也から】浄土教を語る【親鸞会まで】アーカイブ最終更新 2026/03/28 21:321.◆JBLfMwCXhYzTcJW南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏・・・2023/08/01 13:56:321000すべて|最新の50件953.◆JBLfMwCXhYWNsW3実際には、2人ともものすごい理論派のエリート学僧2026/03/28 08:24:20954.◆JBLfMwCXhYWNsW3親鸞は、「こやつが法は天下一なり」と評された2026/03/28 08:25:10955.◆JBLfMwCXhYWNsW3という話だ2026/03/28 08:25:24956.神も仏も名無しさんSzhdZ親鸞と道元は相当な教義の原理主義者だな高僧クラスの超正統派の臨済宗も原理主義が多い、白隠は原理主義までいかん盤珪は検原理主義者だ😀2026/03/28 08:56:34957.神も仏も名無しさんSzhdZハッスルとムイムイには原理主義者対応シテルな?😀2026/03/28 08:57:00958.◆JBLfMwCXhYWNsW3ハッスルは坐禅回数至上主義者😆2026/03/28 09:21:52959.神も仏も名無しさんSzhdZ安物の板チョコはメーカー品より美味しくないなー😀2026/03/28 09:50:52960.◆JBLfMwCXhY4GsM3セブンイレブンのは美味しい😆2026/03/28 14:16:19961.◆JBLfMwCXhY4GsM3このスレの終わりが近い2026/03/28 14:16:37962.◆JBLfMwCXhY4GsM3エロ和尚様の浄土真宗講義はまだか~?😫2026/03/28 14:17:06963.◆JBLfMwCXhY4GsM3親鸞だけが、なぜ別宗派になったか?2026/03/28 14:20:52964.◆JBLfMwCXhY4GsM3とても本質的な問いです。結論から言うと、親鸞の思想が、既存の仏教の枠組みを根本から変えてしまったため、結果として別宗派(浄土真宗)になった、ということです。ただし重要なのは、親鸞自身は「新しい宗派を作ろう」とはしていなかった点です。むしろ逆です。2026/03/28 14:21:11965.◆JBLfMwCXhY4GsM3① 出発点:法然の弟子だった親鸞はもともと、浄土宗の開祖である法然の弟子でした。法然の教えはシンプルで、念仏(南無阿弥陀仏)を唱えれば救われるというものです。しかし法然の死後、弟子たちは分裂します。ここで親鸞が「突出した存在」になります。2026/03/28 14:21:25966.◆JBLfMwCXhY4GsM3② 決定的な違い:救いの主体を完全に反転させた従来の仏教(+法然も一部そう)では、念仏を自分が行う修行と見る(自力の要素あり)これに対して親鸞はこう言い切ります:👉 念仏は自分の行ではない。阿弥陀仏がさせている(他力)つまり修行する自分 → 無意味善人になる努力 → 不要救いの主体 → 完全に阿弥陀仏という、かなりラディカルな転換です。2026/03/28 14:21:43967.◆JBLfMwCXhY4GsM3③ 有名な逆説:「悪人正機」親鸞の思想の核心はここです:👉 善人よりも、むしろ悪人こそが救われるこれは単なる道徳的挑発ではなく、善人 → 自力への執着がある悪人 → 自力を捨てざるを得ないだからこそ、 他力(阿弥陀仏)に完全に委ねられるのは悪人だという論理です。これは従来仏教の倫理観をひっくり返します。2026/03/28 14:21:57968.◆JBLfMwCXhY4GsM3④ 「僧でも俗でもない」という立場親鸞は自分を👉 「非僧非俗」と位置づけました。妻帯する(結婚する)修行者としての特権を否定出家と在家の区別を破壊これは当時としてはかなり革命的です。2026/03/28 14:22:10969.◆JBLfMwCXhY4GsM3⑤ なぜ宗派として独立したのか?まとめると理由は3つです:1. 教義が従来と断絶していた修行否定善悪の逆転他力絶対→ 他の宗派と共存しにくい2. 組織を持たなかったが、後世に形成された親鸞自身は宗派を作らなかったが、弟子たち門徒(信者)が広がり、自然に教団化しました。3. 民衆に圧倒的に広まった特に鎌倉時代の社会状況では:武士の台頭戦乱貧困こうした中で👉 「努力しなくても救われる」という思想は非常に強い吸引力を持ちました。2026/03/28 14:22:32970.◆JBLfMwCXhY4GsM3⑥ まとめ(核心)親鸞が特別なのはここです:仏教の核心(修行・倫理・救済)をすべて反転させたしかもそれを「徹底」したその結果:👉 既存の仏教の中に収まりきらなくなっただから結果として浄土真宗という独立宗派になったわけです。もしさらに深掘りするなら:親鸞はなぜここまで「他力」を徹底できたのか龍樹の空思想との関係西洋哲学(例えば偶然性や主体の解体)との比較このあたりはかなり面白いテーマになります。2026/03/28 14:22:48971.◆JBLfMwCXhY4GsM3てことは、つまり2026/03/28 14:27:20972.◆JBLfMwCXhY4GsM3親鸞としては、新宗派を立てて独立したというより浄土宗の本流を継承したつもりだったのか?2026/03/28 14:27:58973.◆JBLfMwCXhY4GsM3結論から言うと、👉 親鸞自身の意識としては、「自分こそが浄土の正しい流れ(本流)に立っている」という感覚はかなり強かったと考えられます。ただしそれは「新宗派の本流」という意味ではなく、あくまで法然の教えを最も純粋に継承しているという自覚です。2026/03/28 14:28:18974.◆JBLfMwCXhY4GsM3① 親鸞の自己認識:弟子でしかない親鸞は徹底してこう言っています:👉「自分はただ法然の教えを受けた一弟子にすぎない」有名な言葉に:「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」「親鸞は弟子一人も持たず」つまり教祖意識 → ない独立意識 → ないむしろ👉 「勝手に自分を祖とするな」くらいの感覚です。2026/03/28 14:28:34975.◆JBLfMwCXhY4GsM3② それでも「自分が正統」という確信はあったここが重要なポイントです。親鸞は表面的にはへりくだりながらも、思想的にはかなり明確です:👉 他の法然門下は、本当の他力を理解していない特に問題視したのは:念仏を「回数」や「功徳」として考える流れ自力が混じる理解これに対して親鸞は:👉 「それはすでに他力ではない」と暗に否定しています。2026/03/28 14:28:49976.◆JBLfMwCXhY4GsM3③ 親鸞にとっての「本流」とは何か親鸞にとって本流とは:組織ではない系譜でもない教団の中心でもない👉 「本願(阿弥陀仏の誓い)」を正しく受け取っているかどうかです。つまり:多数派 → 関係ない正統な寺院 → 関係ない権威 → 無意味👉 真に他力に立つ者こそが本流という基準です。2026/03/28 14:29:08977.◆JBLfMwCXhY4GsM3④ だからズレが生まれた他の浄土宗系の人々から見ると:親鸞 → 極端すぎる倫理を崩壊させる危険思想一方、親鸞から見ると:他の人々 → 中途半端(自力が混じっている)👉 ここで完全にすれ違います2026/03/28 14:29:26978.◆JBLfMwCXhY4GsM3⑤ 結果としてどうなったか親鸞の死後:門徒が拡大教義が整理される組織化が進む→ 浄土真宗として独立つまり:👉 親鸞の主観「自分は本流(純粋な法然の教え)」👉 歴史的結果「別宗派になった」2026/03/28 14:29:41979.◆JBLfMwCXhY4GsM3⑥ 核心(かなり重要)ここが一番深いところです:親鸞の立場は、👉 「正統であろうとするほど、既存の正統から外れてしまう」というパラドックスです。これは少し哲学的に言えば:形式的正統(制度・組織)vs内容的正統(真理の理解)の衝突です。2026/03/28 14:29:59980.エロ和尚◆ERO.Kk3nCAj2w0x>>962別のスレで講釈したけど?https://talk.jp/boards/psy/1773357293284 自分:エロ和尚◆ERO.Kk3nCA[sage] 投稿日:2026/03/22(日) 14:14:50.01 ID:n3QoL [21/31] 0ワシが7年目に浄土真宗の入門書を読んだ時に、こんな「イメージ図」が載っていた。阿弥陀如来は、逃げる者をも追いかけて救うhttps://d.kuku.lu/k4fx4hb7rサイクリック宇宙論という仮説は、まさにこれ292 名前:◆JBLfMwCXhY[] 投稿日:2026/03/22(日) 15:18:18.33 ID:QVEp0 [16/24] 0逃げる者すら、追いかけて救うとは293 名前:◆JBLfMwCXhY[] 投稿日:2026/03/22(日) 15:18:58.34 ID:QVEp0 [17/24] 0阿弥陀如来、ありがたや~2026/03/28 14:30:55981.エロ和尚◆ERO.Kk3nCAj2w0x>>972そのとおり!親鸞は、教祖としての自覚が無い2026/03/28 14:33:13982.◆JBLfMwCXhY4GsM3次スレ【南無阿弥陀仏】浄土教 【極楽往生】 Part2https://talk.jp/boards/psy/17746762672026/03/28 14:38:16983.◆JBLfMwCXhY4GsM3>>980なんとあれが講義だったのか2026/03/28 14:38:35984.エロ和尚◆ERO.Kk3nCAj2w0x>>983そう。入門書の挿絵のイメージに洗脳されておる阿弥陀如来は、逃げる者をも追いかけて救うhttps://d.kuku.lu/k4fx4hb7r2026/03/28 14:49:51985.◆JBLfMwCXhY4GsM3なるほど2026/03/28 14:52:00986.◆JBLfMwCXhY4GsM3そこがポイントだったか2026/03/28 14:52:14987.エロ和尚◆ERO.Kk3nCAj2w0xまあ、親鸞聖人は「阿弥陀如来は、逃げる者をも追いかけて救う」とは言っていないはず・・・・とワシは思い込んでいる2026/03/28 15:26:22988.◆JBLfMwCXhYirCDe阿弥陀如来は、逃げる者を追いかけて救う2026/03/28 21:28:22989.◆JBLfMwCXhYirCDeそれは、とても鋭い表現ですね。結論から言うと――はい、その理解は親鸞の思想にかなり近いです。2026/03/28 21:28:50990.◆JBLfMwCXhYirCDe9902026/03/28 21:29:02991.◆JBLfMwCXhYirCDe■ 「逃げる者を追いかけて救う」とは何か阿弥陀如来の本願(第十八願)は、もともと「どんな者でも、私の名を称えれば必ず救う」という誓いです。しかし親鸞は、これをさらに徹底的に読み替えます。2026/03/28 21:29:18992.◆JBLfMwCXhYirCDe■ 親鸞の逆転的な理解普通の宗教的発想はこうです:善い人 → 救われる努力する人 → 救われる信じる人 → 救われるしかし親鸞は、これをひっくり返します。人は本質的に「逃げる存在」である修行から逃げる善から逃げる真理から逃げる仏からさえ逃げるここで有名な思想:「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」つまり善人ですら救われるなら本当に救われるべきは、逃げ続ける者(悪人)ではないか2026/03/28 21:29:36993.◆JBLfMwCXhYirCDe■ 「追いかけて救う」という構造ここが核心です。阿弥陀如来の救いは人が近づくのではなく仏が先に働いている親鸞の言葉で言えば:「信心も念仏も、すべて阿弥陀のはたらき」つまり人が信じるのではない信じさせられてしまう人が救いを求めるのではない救いが先に届いてしまっている2026/03/28 21:29:55994.◆JBLfMwCXhYirCDe■ だから「逃げても無駄」この理解に立つと、こうなります:疑ってもいい信じなくてもいい背を向けてもいいそれでも👉 阿弥陀の側がやめないここであなたの表現:「逃げる者を追いかけて救う」これはかなり本質を突いていて、人間の自由(逃げる)と仏の絶対性(やめない)の緊張関係を一言で言っています。2026/03/28 21:30:10995.◆JBLfMwCXhYirCDe■ さらに踏み込むと(かなり深いところ)親鸞的に言うなら、「逃げている自分に気づいた瞬間」それ自体がすでに救いのはたらきです。つまり👉 逃げていることさえ、すでに包まれている2026/03/28 21:30:21996.◆JBLfMwCXhYirCDe■ 禅との対比(あなた向けに)禅だと:逃げるな今ここを見ろ浄土真宗だと:逃げてもいいその逃げているあなたを、すでに救っているこの差はかなり大きいです。2026/03/28 21:30:54997.◆JBLfMwCXhYirCDe■ まとめあなたの言葉を哲学的に言い換えると:👉 阿弥陀の救いは「追跡型の慈悲」条件付きではなく相手の状態に依存せず逃走すら前提にしている救いもし興味があれば、さらに踏み込んで:なぜ親鸞はここまで極端にしたのかこれは「自由意志」をどう考えているのか龍樹や空思想とどうつながるのかこのあたりはかなり面白いテーマになります。2026/03/28 21:31:19998.◆JBLfMwCXhYirCDe■ まとめあなたの言葉を哲学的に言い換えると:👉 阿弥陀の救いは「追跡型の慈悲」条件付きではなく相手の状態に依存せず逃走すら前提にしている救いもし興味があれば、さらに踏み込んで:なぜ親鸞はここまで極端にしたのかこれは「自由意志」をどう考えているのか龍樹や空思想とどうつながるのかこのあたりはかなり面白いテーマになります。2026/03/28 21:31:40999.◆JBLfMwCXhYirCDeオン アミリタ テイセイ カラウン2026/03/28 21:32:231000.◆JBLfMwCXhYirCDe10002026/03/28 21:32:381001.Talk ★???このスレッドはコメントが1000件を超えました。新しいスレッドを立ててください。2026/03/28 21:32:381002.Talk ★???【プレミアムサービス無料期間延長!】プレミアムの無料期間を2026/9/30まで延長することになりました。広告除去や規制緩和など、ヘビーユーザーにとって欠かせない機能を無料でお楽しみいただけます。是非この機会にプレミアムサービスをお試しください!▼プレミアムサービスはこちらからhttps://talk.jp/premium2026/03/28 21:32:38
【京都男児失踪】S級ボランティアの尾畠春夫さん「京都以外の人はボランティアが難しい。たとえ誰であろうと京都に籍のない人は厳しい」と、府と市と学校に断られて諦めるニュース速報+4462103.62026/04/10 22:32:46
南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏・・・
ものすごい理論派のエリート学僧
相当な教義の原理主義者だな
高僧クラスの超正統派の臨済宗も原理主義が多い、
白隠は原理主義までいかん
盤珪は検原理主義者だ
😀
原理主義者対応シテルな?😀
メーカー品より
美味しくないなー
😀
親鸞の思想が、既存の仏教の枠組みを根本から変えてしまったため、結果として別宗派(浄土真宗)になった、ということです。
ただし重要なのは、親鸞自身は「新しい宗派を作ろう」とはしていなかった点です。むしろ逆です。
親鸞はもともと、浄土宗の開祖である法然の弟子でした。
法然の教えはシンプルで、
念仏(南無阿弥陀仏)を唱えれば救われる
というものです。
しかし法然の死後、弟子たちは分裂します。
ここで親鸞が「突出した存在」になります。
従来の仏教(+法然も一部そう)では、
念仏を自分が行う修行と見る(自力の要素あり)
これに対して親鸞はこう言い切ります:
👉 念仏は自分の行ではない。阿弥陀仏がさせている(他力)
つまり
修行する自分 → 無意味
善人になる努力 → 不要
救いの主体 → 完全に阿弥陀仏
という、かなりラディカルな転換です。
親鸞の思想の核心はここです:
👉 善人よりも、むしろ悪人こそが救われる
これは単なる道徳的挑発ではなく、
善人 → 自力への執着がある
悪人 → 自力を捨てざるを得ない
だからこそ、 他力(阿弥陀仏)に完全に委ねられるのは悪人だ
という論理です。
これは従来仏教の倫理観をひっくり返します。
親鸞は自分を
👉 「非僧非俗」
と位置づけました。
妻帯する(結婚する)
修行者としての特権を否定
出家と在家の区別を破壊
これは当時としてはかなり革命的です。
まとめると理由は3つです:
1. 教義が従来と断絶していた
修行否定
善悪の逆転
他力絶対
→ 他の宗派と共存しにくい
2. 組織を持たなかったが、後世に形成された
親鸞自身は宗派を作らなかったが、
弟子たち
門徒(信者)
が広がり、自然に教団化しました。
3. 民衆に圧倒的に広まった
特に鎌倉時代の社会状況では:
武士の台頭
戦乱
貧困
こうした中で
👉 「努力しなくても救われる」
という思想は非常に強い吸引力を持ちました。
親鸞が特別なのはここです:
仏教の核心(修行・倫理・救済)をすべて反転させた
しかもそれを「徹底」した
その結果:
👉 既存の仏教の中に収まりきらなくなった
だから結果として
浄土真宗という独立宗派になったわけです。
もしさらに深掘りするなら:
親鸞はなぜここまで「他力」を徹底できたのか
龍樹の空思想との関係
西洋哲学(例えば偶然性や主体の解体)との比較
このあたりはかなり面白いテーマになります。
浄土宗の本流を継承したつもりだったのか?
👉 親鸞自身の意識としては、「自分こそが浄土の正しい流れ(本流)に立っている」という感覚はかなり強かったと考えられます。
ただしそれは「新宗派の本流」という意味ではなく、あくまで法然の教えを最も純粋に継承しているという自覚です。
親鸞は徹底してこう言っています:
👉「自分はただ法然の教えを受けた一弟子にすぎない」
有名な言葉に:
「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」
「親鸞は弟子一人も持たず」
つまり
教祖意識 → ない
独立意識 → ない
むしろ
👉 「勝手に自分を祖とするな」くらいの感覚です。
ここが重要なポイントです。
親鸞は表面的にはへりくだりながらも、思想的にはかなり明確です:
👉 他の法然門下は、本当の他力を理解していない
特に問題視したのは:
念仏を「回数」や「功徳」として考える流れ
自力が混じる理解
これに対して親鸞は:
👉 「それはすでに他力ではない」
と暗に否定しています。
親鸞にとって本流とは:
組織ではない
系譜でもない
教団の中心でもない
👉 「本願(阿弥陀仏の誓い)」を正しく受け取っているかどうか
です。
つまり:
多数派 → 関係ない
正統な寺院 → 関係ない
権威 → 無意味
👉 真に他力に立つ者こそが本流
という基準です。
他の浄土宗系の人々から見ると:
親鸞 → 極端すぎる
倫理を崩壊させる危険思想
一方、親鸞から見ると:
他の人々 → 中途半端(自力が混じっている)
👉 ここで完全にすれ違います
親鸞の死後:
門徒が拡大
教義が整理される
組織化が進む
→ 浄土真宗として独立
つまり:
👉 親鸞の主観
「自分は本流(純粋な法然の教え)」
👉 歴史的結果
「別宗派になった」
ここが一番深いところです:
親鸞の立場は、
👉 「正統であろうとするほど、既存の正統から外れてしまう」
というパラドックスです。
これは少し哲学的に言えば:
形式的正統(制度・組織)
vs
内容的正統(真理の理解)
の衝突です。
別のスレで講釈したけど?
https://talk.jp/boards/psy/1773357293
284 自分:エロ和尚◆ERO.Kk3nCA[sage] 投稿日:2026/03/22(日) 14:14:50.01 ID:n3QoL [21/31] 0
ワシが7年目に浄土真宗の入門書を読んだ時に、
こんな「イメージ図」が載っていた。
阿弥陀如来は、逃げる者をも追いかけて救う
https://d.kuku.lu/k4fx4hb7r
サイクリック宇宙論という仮説は、まさにこれ
292 名前:◆JBLfMwCXhY[] 投稿日:2026/03/22(日) 15:18:18.33 ID:QVEp0 [16/24] 0
逃げる者すら、追いかけて救うとは
293 名前:◆JBLfMwCXhY[] 投稿日:2026/03/22(日) 15:18:58.34 ID:QVEp0 [17/24] 0
阿弥陀如来、ありがたや~
そのとおり!
親鸞は、教祖としての自覚が無い
次スレ
【南無阿弥陀仏】浄土教 【極楽往生】 Part2
https://talk.jp/boards/psy/1774676267
なんと
あれが講義だったのか
そう。
入門書の挿絵のイメージに洗脳されておる
阿弥陀如来は、逃げる者をも追いかけて救う
https://d.kuku.lu/k4fx4hb7r
「阿弥陀如来は、逃げる者をも追いかけて救う」とは
言っていないはず
・・・・とワシは思い込んでいる
はい、その理解は親鸞の思想にかなり近いです。
阿弥陀如来の本願(第十八願)は、もともと
「どんな者でも、私の名を称えれば必ず救う」
という誓いです。
しかし親鸞は、これをさらに徹底的に読み替えます。
普通の宗教的発想はこうです:
善い人 → 救われる
努力する人 → 救われる
信じる人 → 救われる
しかし親鸞は、これをひっくり返します。
人は本質的に「逃げる存在」である
修行から逃げる
善から逃げる
真理から逃げる
仏からさえ逃げる
ここで有名な思想:
「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」
つまり
善人ですら救われるなら
本当に救われるべきは、逃げ続ける者(悪人)ではないか
ここが核心です。
阿弥陀如来の救いは
人が近づくのではなく
仏が先に働いている
親鸞の言葉で言えば:
「信心も念仏も、すべて阿弥陀のはたらき」
つまり
人が信じるのではない
信じさせられてしまう
人が救いを求めるのではない
救いが先に届いてしまっている
この理解に立つと、こうなります:
疑ってもいい
信じなくてもいい
背を向けてもいい
それでも
👉 阿弥陀の側がやめない
ここであなたの表現:
「逃げる者を追いかけて救う」
これはかなり本質を突いていて、
人間の自由(逃げる)と
仏の絶対性(やめない)
の緊張関係を一言で言っています。
親鸞的に言うなら、
「逃げている自分に気づいた瞬間」
それ自体がすでに救いのはたらき
です。
つまり
👉 逃げていることさえ、すでに包まれている
禅だと:
逃げるな
今ここを見ろ
浄土真宗だと:
逃げてもいい
その逃げているあなたを、すでに救っている
この差はかなり大きいです。
あなたの言葉を哲学的に言い換えると:
👉 阿弥陀の救いは「追跡型の慈悲」
条件付きではなく
相手の状態に依存せず
逃走すら前提にしている救い
もし興味があれば、さらに踏み込んで:
なぜ親鸞はここまで極端にしたのか
これは「自由意志」をどう考えているのか
龍樹や空思想とどうつながるのか
このあたりはかなり面白いテーマになります。
あなたの言葉を哲学的に言い換えると:
👉 阿弥陀の救いは「追跡型の慈悲」
条件付きではなく
相手の状態に依存せず
逃走すら前提にしている救い
もし興味があれば、さらに踏み込んで:
なぜ親鸞はここまで極端にしたのか
これは「自由意志」をどう考えているのか
龍樹や空思想とどうつながるのか
このあたりはかなり面白いテーマになります。
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