Jacques Derrida(デリダ)は2004年に亡くなりました。死因は膵臓がん(膵臓癌)とされています。
晩年は病気と闘いながらも執筆や講演を続けていて、最後までかなり精力的でした。Learning to Live Finally『ついに、生きることを学ぶ(Learning to Live Finally)』のような晩年の対話では、 死 喪 亡霊 生き残ること(survivre) が非常に強く主題になっています。
③ もう一段正確に言うと デリダの立場は三段構えです: ① 価値観は固定的ではない(疑う) ② その成立条件を暴く(脱構築) ③ それでも判断し、責任を引き受ける ④ 社会変革との関係 ここが一番誤解されやすいところ。 デリダは: 👉 ❌「社会を変えなくていい」とは言っていない むしろ: 👉 変革が“新しい支配”にならないようにブレーキをかけている
/(*゚ー゚)/)/\ ハレルヤ
/| ̄ ̄ ̄ ̄|\/
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 ̄ ̄ ̄ ̄
前スレ
キリスト教@質問箱345
https://talk.jp/boards/psy/1680679056
_ r‐:::.、
〈\::\,,. -―|〈\::\
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ー一 /:: /:::| ::::: /__|:::::|:::::::::::::::::|
ヤ .::::::|::八:::|/、 :::::|:::::::::::::::::|
| |:::::f行 ∨'行テ∨::|::::::::::::::|
| N:YLi| Li| │::|::: / :::::| <偽預言者が来るよ
|人'' r'^ー、 ''' |::∧厶/::::|
|:/|≫ァ=:::ァrァ´|/≪》<》 ::|
∧_∧ 《ノ|」_/《ノ|》V/ 〈/|」:::::|
( )= |:::::(__X__,_``''<_j|::::::::: |
r‐=ニア _,.<ニ _ |::|:∧ ゙、 `<>[リ::::::::八
| `'|二¨¨ | |人 ∧ ゙、 マ ╋∨: /:::ノ
| | _| \(二(二ト┻┛⌒´
`''''ー=ニ|ニ=‐ ''´
天外伺朗みたいな世界観ですな?
http://dangi.la.coocan.jp/sub11.html
「事事無碍法界」つまり裏で働いている「理」を取っ払って
「事」だけを見ても、碍げ合うことなく
溶け合っている
と言うのです。
「あなたがたの天の父が完全であられるように、
あなたがたも完全な者となりなさい。」です。
https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/news/3665/1689159360/3-25
「騙される」ことについての見解が
ワシとシカチン大帝閣下では異なるらしい。
https://talk.jp/boards/psy/1687899637
164 自分:エロゴジン和尚◆ERO.Kk3nCA[sage] 投稿日:2023/07/12(水) 08:47:57.77 ID:lOx3Z [3/4]
基本、宗教というモノは、
「気持ちよく騙してナンボ」のビジネスだと
ワシは解釈している。
私とは感性がかなり異なるようですね。
例えば
「ありのままということも同じで、ありのままでいいのだ、ありのままでいようと思っているのと、ありままの状態とは異なるのです。」
と、シカーチン様は書いていますが、
「ありのままで生きたいと願って坐禅をすれば、ありのままの状態になれる場合がある」
と、私は思います。
この言葉をシカに贈りたい
もしかして、知らなかった?
(知ってて、わざと このスレ立てたと思ってた)
知りませんですた
単に、talk宗教板にスレを立てたかっただけ😅
JBL氏はラピスを釣りたいのだろう・・・・>>2-3と
邪推するエロ和尚であった。
6 名前:◆JBLfMwCXhY[sage] 投稿日:2023/07/16(日) 10:51:03.68 ID:0HkWm [5/9]
新スレを立てたいが、立てられない
7 名前:◆JBLfMwCXhY[sage] 投稿日:2023/07/16(日) 10:51:21.17 ID:0HkWm [6/9]
浪人を買うべきか?
8 名前:◆JBLfMwCXhY[sage] 投稿日:2023/07/16(日) 10:51:32.45 ID:0HkWm [7/9]
8月までは無料か
このピッピという人に絡む勇気がありますか?
https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/news/3665/1689159360/
27 名前:ピッピ[] 投稿日:2023/07/16(日) 17:25:43 ID:N7uxWplc
すべてがよし、ならメシア降誕はなかったはずです
アダムとエバが罪を犯して、世界を狂わし始めたので、キリストは来られました
もし今、すべてがよし、なら来臨する必要もないでしょう
うわ、苦手なタイプだ😫
私の経験上、
クリスチャンって あんなタイプの方が多いような気がしています。
JBLさんは、このスレの回答者をやっていく自信は
ありますか?
> JBLさんは、このスレの回答者をやっていく自信は
> ありますか?
いや、無いですよ
タイトルが「質問箱」なだけで、中身はただの雑談スレ
「新規質問を受け付けます」というのを、ついにテンプレから外した😅
質問されても答えられるわけがないので、
「仏教がわかりたい人のスレ」にした
ならば、暇なときに雑談して埋めよう
https://www.youtube.com/watch?v=CFP18OTZ6O8
夢だろうと現実(うつつ)だろうと
我が人生に悔いはない
734 名前:晃[] 投稿日:2023/07/17(月) 19:18:43.18 ID:1NVV4 [59/65] TID:HOKKEvxAGE
>>732
生後一ヶ月で死ぬって仏罰では?
答え
https://www.youtube.com/watch?v=CFP18OTZ6O8
長かろうと短かかろうと
我が人生に悔いはない
なかにし礼
お前を??りつけて秀明会に入信させた奴は、
どんな奴だ?
お前を 鹿りつけて秀明会に入信させた奴は、
どんな奴だ?
鹿さんを呼び込むためだろう。
気にしないほうがいいかな?
晃クンが言うとおり、JBL氏の書き込みが
一番、妥当な感じがする。
699 名前:晃[] 投稿日:2023/07/17(月) 18:46:36.35 ID:1NVV4 [37/65] TID:HOKKEvxAGE
この中でまだマトモに話せるのは
JBLくらいか でお~はノイズでしかない
プレッシャーをかける奴は
気に食わない
放置だ
名前を晒すのは、邪道の極みである。
無視の刑だ
以上
俺が成敗してやるから、
ここに連れてこい
人の名前を故意に間違えて呼ぶのは、
ルール違反
人の名前を故意に間違えて呼ぶのを
先に始めたのは、でおーだ
わからなくなってきた。
ひとまず掲示板は休もう
少し、ROMしてみよう
https://talk.jp/boards/psy/1689114927
624 名前:柳生 熱(アツキ)◆T3azX0Hk1U[] 投稿日:2023/07/17(月) 20:35:48.55 ID:m5heC [50/52]
まー
知恵袋ユーザーはおまえらとは違って
お・と・な・だから^^
しばらく、静観しよう
https://www.youtube.com/watch?v=KQEBeenPn-A
https://www.youtube.com/watch?v=CS52VaEnLWM
https://www.youtube.com/watch?v=GNWcNykPfX0
https://www.youtube.com/watch?v=86zZfyrj1SA
https://www.youtube.com/watch?v=JYPP53S9280
https://www.youtube.com/watch?v=5SRDQJZKNMw
https://www.youtube.com/watch?v=U--2yHy6kHs
https://www.youtube.com/watch?v=tsZCaq5daXw
https://www.youtube.com/watch?v=G6PoULYxrdg
素敵すぎます??
https://www.youtube.com/watch?v=uvl-rQOEwl0
https://www.youtube.com/watch?v=_y7AdzronZs
https://www.youtube.com/watch?v=f6YgA89MKgk
きまぐれオレンジロード【4K高画質】「夏のミラージュ」
https://www.youtube.com/watch?v=9Lu43OhUnYo
Aのムスコは巨大だった!!
長さは20センチ弱、太さは5センチ弱で、
まるで五平もちのような平べったい一物だった。
そんな俺を見たAは、すかさず、
「B君の見せてよ」と迫ってきた。
俺は迷った。
というか、断る口実を必死に考えたが、
見当たらない。
ただ、前に曲がりすぎている。
しかし、待てよ?
成長期だから、尿道海綿体を鍛えれば、真っ直ぐに
矯正できるかも知れん!!
俺は決意してムスコをしごいた。
確か、二人でエログラビアを見て興奮して起立していたような
あいまいな記憶がある。
そうだ、もう、起立していたから、見せざるを得ない流れに
なってしまっていたのだ。
俺は言った。
「じゃあ、半分だけ見せてやる」
そして、ムスコを半分露出させた
スゴスゴとムスコの上半身が現れたその瞬間、
部屋のフスマが開いた!!
「あら、そのままでいいのよ」
部屋に入ってきたのは、Aの4歳上の姉だった。
「僕ちゃんの、もう1度、見せて」
と言いながら、Aの姉は俺のズボンを下げてきた。
俺は、呆然とその場に立ちつくすしかなかった。
ようこそ!
【原罪】キリスト教の教理を学ぶスレ【三位一体】
https://talk.jp/boards/psy/1690085205
とかいうのが始めたのかもしんないけど
キリスト教の質問に答える
みたいな
傲慢なこと
よーやるわと最初思ってた
あれは
岡田茂吉の教義や
秀明会の教義を
もちだしてただけ
質問にも答えられる
という傲慢な考えで
始めたんだろう
岡田茂吉全集のそれと同じで
適当な
【思いつき】
ばかりだった
放置スレ認定
**********
修行者、求道者、修行僧は、やはり さとりを求めて行きます。
さとれば、さとりが無く、
無我とは、真理(さとり)です、が 理解できるものでありませんく、まさに 体得します。
その状態を 石、とも 言います。
突然 ストーン と、自他が無くなります。
これを 一と一は、二では無い。一の如し、一如である、言い表します。
この一如に取り組む公案が有ります。
両手で打てば音が鳴る。
では、片手の人が叩く拍手の音を聞いてこい、
と言うもので、これに取り組みました。
ぜひ、とも取り組んでいただきたいものです。
京都「妙心寺」0002 - 15,39
https://www.youtube.com/watch?v=Sg22-E520ME
> 片手の拍手はカンゼオンで聞く? 」
両手で打てば音が鳴る。では、片手の人が叩く拍手の音を聞いてこい。
音を聞くのだが、片手では拍手ができないから、音が鳴らないので聞こえない。
その聞こえない音を聞け、と 公案は いう。
聞こえない音が聞こえる。 そこが 色即是空。 初関(しょかん)を透(とお)る。
色とは片手の人が叩く拍手です。
片手の人が叩く音を聞いた、そこが、色即是空です。真理(さとり) です。
これは臨済(りんざい)禅師の無字の公案では長年かかっても悟れなかった修行僧に対して白隠禅師が隻手の音声(せきしゅ の おんじょう)の公案を与え、沢山の修行者に悟らせようと苦心した公案です。
白隠慧鶴禅師(はくいん えかく ぜんじ)
隻手の音声 (せきしゅのおんじょう)
両掌(りょうしょう)打って音声あり、隻手になんの声やある。隻手の声を拈提(ねんてい)せよ
隻手の音声(せきしゅのおんじょう)
両掌(りょうしょう)打って音声あり、隻手になんの声やある。 隻手の声を拈提(ねんてい)せよ。
趙州従しん(ぢょうしゅう・じゅうしん)の無字の公案では長年かかってもなお悟れず死んでいく者も多かった事から、修行僧に対して白隠禅師が新たに隻手の音声(せきしゅ の おんじょう)の公案を与え、沢山の修行者に悟らせようと苦心した公案です。
> 無我がわかったら坐禅しなくても良いとは思うんだけどどうなんだろうな。 』
求道者、修行僧は、やはり さとりを求めて行きます。 さとれば、さとりが無く、無我とは、真理(さとり)です、が 理解できるものではなく、まさに 体得します。その状態を 石、とも 言います。突然 ストーン と、突如と自他が無くなり歓喜乱舞します。
これを 一と一は、二では無い。一の如し、一如である、言い表します。この一如に取り組む公案が有ります
両手で打てば音が鳴る。では、片手の人が叩く拍手の音を聞いてこい、と言うもので、これに取り組みました。
ぜひ、とも取り組んでいただきたいものです。
音を聞くのだが、片手では拍手ができないから、音が鳴らないので聞こえない。
その聞こえない音を聞け、と 公案は いう。
聞こえない音が聞こえる。 そこが 色即是空。 初関(しょかん)を透(とお)る。
色とは片手の人が叩く拍手です。片手の人が叩く音を聞いた、そこが、色即是空です。真理(さとり) です。
>> 理屈っぽいけど、自他一如なら、あなたが叩こうがわたしが叩こうが同じ、わたしが叩きます、パンパンで終了。あとは自他一如、自分から心で隻手の人と一つになる。すると、相手の手を叩く音がきこえる。自他一如や自己の愛情、慈悲心を育てる公案だったとか 』
ありがとうございます。
これは理解したり、解釈を咥えたりするものでじゃないので、お怒りを受けるともいますが、字句の解釈に拘泥するものではありません。
先にも言いましたが、自他一如を体得する事です。
あなたと私で、ぱんぱん。
トンチ、になりましたね。
片手の人が、です。
置き換えて、これでどうだ、と言うわけにはまいりません。
聞こえるはずのない、片手の人が叩く拍手の音を聞く、のです。
禅とは ジャーナを音写して禅那と中国人が漢字であらわしたものであり、ジャーナとは、静かにする、静かに坐る、と言う意味であり瞑想する事。自己都合による拡大解釈しては、原意が蒸発する。
浄土宗、浄土真宗は、波阿弥陀仏、と阿弥陀佛(無量寿Buddha、無量光佛陀)陀に帰依する。
法華宗は南無 妙法 蓮華経、と正しい教え、白い蓮の花の教え、教典、お経の本に帰依する。
騒動衆はお坐り、お手を教え込む。
南無阿弥陀仏と言うのか、南無妙法蓮華経と言うのか、何とも云わず、坐っているのか、この三つは 易行(いぎょう)である。難しい事を求めず、これをやればいいんだよ、と安心させる。
飢饉、餓死、疫病まん延、死地へ追い込まれた人にとっては、ひとすじの光明である。
> 心身一如にならないと、坐禅が坐禅にならないんです。 』
脳内の神経細胞の結束が、心と呼ばれる。
0,5ミリの線虫にも味の好みがある、と言う。脳が無いのが線虫である。
神経の経験が好みを選ぶのである。 だから、心身ではなく、身心と言いう。
>> 私をバカにしたければすればよろしい。その代わり、地獄行きである。 』
地獄極楽。 極楽地獄。 一対のものだよね。 なので、地獄は極楽が無いと成立しない。
では極楽は、地獄がなければ、存在しえないのだろうか。そんな事は無く、極楽は、極楽そのもので、完結している。地獄は無用なのである。
地獄の住人は、どうやって救われてて行くのだろうか。地獄が極楽だったんだ、と自覚する、みずから めざめる、こう知れば、そのところが極楽とも言わず、地獄とも言わず、公平無比の横一列の地平線、水平線であり、日が昇り日が沈み、月が昇り、月が沈む、自他が無い。 これが 大切だよね。
> 南無阿弥陀仏 』
南無阿弥陀佛陀
帰依します
アンミータ
のっと、めーたー
量る事が出来ない
アミターユ
無量光
アミターバ
無量寿
佛
Buddha
佛陀
目覚めた者
本願を立て 救い取るぞと決意されている無量寿Buddha、無量光Buddha、に対し帰依します。
悪霊イヌが鳴く:なんで 宗教板って まともなの俺だけなんだ?みんな間違ってばっか俺だけが正しい。みんな間違ってるのに何で正しい事を言ってる俺は否定ばっかりされるんだ?みんな俺の事を 凄いなと認めろよ。 俺は自分より優れた奴が ゆるせないんだよ(脅迫性人格障害の特徴)
イヌがぼやく。なんで、みんなワイを無視すんねん大欲(たいよく)は無欲に似て足るを知り煩悩即菩提の法相宗でええやろ、ほならなんでワイはこんなところにいるんねやろ
病名:発達障害ASDの症状尊大の雀鬼イヌヤマが自供ス。『正直云って仏とは何かと問われても分かりません、公案が進んで無くよくわからないのです』 知障イヌ咬み談
ウソブクのよ透ってないのに、もう40回も初関を透る俺様!と言い放つドマヌケ!40回も透ったら初関を透る、じゃねーべ!!
ナント妻子と月一、金曜夜7時からのお坐り会、茶菓(ちゃか)代ワンコインで、これが研究会出席虚勢のトマヌケ犬は誰からも疎まれる
独善イヌヤマは月一第三金曜日夜7時茶菓代ワンコイン坐禅会に出ると偽証。命取りの摂心に親子で100回参加と虚飾スル
新小岩の食業ドライバーイヌヤマとは法相宗(ほっそうしゅう)奈良興福寺(こうふくじ)前官長じっちゃんのお抱え運転手で食業ドライバーで、知ったかぶる以外に承認欲求が満足しない。
多数者を演じ孤立セズと強弁し自作自演のおぞましい日々の無脊椎動物イヌヤマは成り済まし多重人格者で要治療
インチキキチガイ雀鬼イヌヤマ麦、アルコホル発酵しイヌ麦焼酎なのに喜ばせ共有機能が絶えて無し。吠え吠み、オノレの尻尾をクルクル追うノミシラミ
5ちゃんねるの会話はバトル形式で馴れ合いを禁じる。イヌヤマは、褒めてクレヨの哀願奴隷。相手を罵倒する悪口雑言の数々は外道イヌヤマへのリアル社会の絶対評価で、問いに問いで返す脊髄反射の脳足りんで悟前(ごぜん)未悟(みご)、金魚ドジョウと救い難い。
① ググるシッタカ知障荒らしイヌヤマは無視放置スルーが一番ツライ、耐えられない。シッタカイヌヤマは常に誰かの反応レスを待ち焦がれ
② 放置された固定観念イヌヤマは煽りや自作自演でアナタのレスを誘う。ワケワカメ糞邪鬼イヌヤマにノセられてレスしたらその時点でアナタも同類、負け。完敗
③ ;反撃はイヌの滋養にして栄養であり最も悦ぶ事です。門前のヤセイヌにエサを投げ与えぬ事
④ ;臭い汚いコワイ気持ち悪いイヌヤマが枯死する迄、孤独に暴れさせゴミが溜まれば削除
仏菩薩(本来の姿) 日本の神(仮の姿)
釈迦如来 日枝の神
阿弥陀如来 八幡神、熊野権現
大日如来 天照大神
薬師如来 牛頭天王
地蔵菩薩 愛宕権現
仏菩薩(本来の姿) 日本の神(仮の姿)
釈迦如来(本来の姿) 日枝の神
阿弥陀如来(本来の姿) 八幡神、熊野権現
大日如来(本来の姿) 天照大神
薬師如来(本来の姿) 牛頭天王
地蔵菩薩(本来の姿) 愛宕権現
仏菩薩 日本の神
釈迦如来 日枝の神
阿弥陀如来 八幡神、熊野権現
大日如来 天照大神
薬師如来 牛頭天王
地蔵菩薩 愛宕権現
如来菩薩 日本の神
釈迦如来 日枝の神
阿弥陀如来 八幡神、熊野権現
大日如来 天照大神
薬師如来 牛頭天王
地蔵菩薩 愛宕権現
教師の握り拳(きょうし の にぎりこぶし)
肝心かなめの大事なこと、大切なこと、は、固く握りしめた手のひらの中に握りしめて決して他sに公開する事が無い。とは、よく言われることである。
真理(さとり)は言語によっては、容易に伝わらない。
生まれて以来の知識の蓄積が、それぞれがいろめがねを作り上げてしまっているから、本来の有りようが知識と言うスクリーン越しにしか見えない、からだ。
差別しない、分別しない、これとそれを分けない、である。
生者必滅(しょうじゃひつめつ)会者定離(えしゃじょうり) あえば、かならずのわかれである。
尊公、近頃、如何。(そんこう ちかごろ いかん)
こんにちは、さようなら。
禅は生死(しょうじ)を問う。
問う答えるて問答(もんどう)し師弟は対話し真理(さとり)を伝えてきた
佛とは、真理、ダルマ、法、であって人格的存在ではない。
公案は佛 真理(さとり) を 問う、
「両手で打てば音が鳴る、片手の人が叩く拍手の音を聞いてこい 」
諸行無常、諸法無我、一切皆空、涅槃寂静である。
禅とは、静かにする。
梵: dhy?na, ディヤーナ、巴: jh?na, ジャーナ、禅那:ぜんな)。 禅定(ぜんじょう、静慮(じょうりょ)
こころコロコロ、常が無い。無常である。
さとりとは、真理、法、ダルマである。
達磨さんはインドから中国にやって来たのか、来なかったのか。
ビッグバーン以来の一期一会である。
すずめはチュンチュンこんにちは、である。
道端のタンポポのさよなら、である。
出会えば別れるのである。
問う。「この座敷から坐のままで庭の30メートル先の築山(つきやま)に立つ石灯籠のロウソクの炎(ほのお)を吹き消せ」
中道是空(ちゅうどうぜくう。 ちゅうどうは これ くうなり)
空是中道(くうぜちゅうどう。 くうとは、これ ちゅうどうなり)
空とは、分別(ふんべつ)しないである。
空とは、一如(いちにょ) 一の如し(いちのごとし)である。
色即是空(しきそくぜくう)は空即是色(くうそくぜしき)へと還(かえ)る。である。
薬を飲まず、自己免疫力を総動員して 病に対処するなら、呑まず食わずで、動かず、水分補給をし横になり寝ている事だね。命がけで病気が勝つか免疫が勝つか、ジッと横になって、任せっぱなしにする事だね。
熱砂(ねっさ)の砂漠を渡って行く人に命をつなぐ水が湧き出るオアシスがあり、安心立命(あんじんりつめい)と知る
真理(さとり)は言語によっては、容易に伝わらない。
生まれて以来の知識の蓄積が、それぞれがいろめがねを作り上げてしまっているから、本来の有りようが知識と言うスクリーン越しにしか見えない、からだ。
差別しない、分別しない、これとそれを分けない、である。
生者必滅(しょうじゃひつめつ)会者定離(えしゃじょうり) あえば、かならずのわかれである。
尊公、近頃、如何。(そんこう ちかごろ いかん)
こんにちは、さようなら。
禅は生死(しょうじ)を問う。
問う答えるて問答(もんどう)し師弟は対話し真理(さとり)を伝えてきた
佛とは、真理、ダルマ、法、であって人格的存在ではない。
原初、禅とは、静かにするの意である。
梵: dhy?na, ディヤーナ、巴: jh?na, ジャーナ、禅那:ぜんな)。 禅定(ぜんじょう、静慮(じょうりょ)
さとりとは、真理、法、ダルマである。
達磨さんはインドから中国にやって来たのか、来なかったのか。
ビッグバーン以来の一期一会である。
すずめはチュンチュンこんにちは、である。
道端のタンポポのさよなら、である。
出会えば別れるのである。
中道是空(ちゅうどうぜくう。 ちゅうどうは これ くうなり)
空是中道(くうぜちゅうどう。 くうとは、これ ちゅうどうなり)
空とは、分別(ふんべつ)しない、分けない、である。 一如(いちにょ) 一の如し(いちのごとし)である。色即是空(しきそくぜくう)は空即是色(くうそくぜしき)へと還(かえ)る。である。
白隠慧鶴禅師(はくいん えかく ぜんじ)
隻手の音声(せきしゅのおんじょう)
両掌(りょうしょう)打って音声あり、隻手になんの声やある。 隻手の声を拈提(ねんてい)せよ。
片手の人が叩く拍手の音を聞いてこい。
みそ、醤油、納豆などは、発酵食品でもあるし、ヨーグルト、チーズ、などの発酵食品でもあり、健康には、王道だから。欠かせないよね。
薪ストーブの熱も植物は太陽光の熱を変換しての熱量で、つまりは、薪ストーブは太陽の燃焼だし、ついでに言うと我々も太陽光の熱量の代謝を食事と言う形でとりこんでいるわけで、言い放てば、わたし達、生きとし生けるものは、太陽の分身で、皆、ブラザー、同志、兄弟姉妹 なんです。。動植物などの有機物は分解されて、また、何かの原材料となることがあるね。でも無機物である石っころも細かく分解されたりして、ミネラル類になって、動植物には必須成分であり、つまりは地球の意構成成分であって、ひとは 地球と言える。人が地球なら、地球は太陽の分かれだから、人は太陽と言える。
人が太陽なら、太陽は天の川銀河の分かれだから、人は天の川銀河の若手言える。
人が天の川銀河の分かれなら、他の銀河であり、宇宙の始まりに集約される。
だから、人は宇宙である。なので、人は宇宙塵だ、と発見できる、
問う。 『この座敷から坐のままで庭の30メートル先の築山(つきやま)に立つ石灯籠のロウソクの炎(ほのお)を吹き消せ』『
仏祖が 直(じか)に 手渡す 真理(さとり) は縁起(えんぎ)の法、真理、さとり、です。
それは色即是空は、空即是色へと還(かえ)る。
名付けられた名詞から名詞を剥ぎ取ったもの、それをなんと呼ぶか。
色 が 空 です。ここが初関(しょかん)を透(とお)るです。
関を 透れば、すぐさまに 空 が 色 です。
さとりを 法、達摩、真理 と言います。色即是空は 空即是色へと 還(かえ)る。
達磨とは 真理(さとり) を人格化したのであって、具体的な人物ではない。
つまりは 二祖(にそ) 慧可(えか、593年) こそが、中國禅宗の初祖なのである。
彼はひと晩雪中で瞑想し、,左の肘から下を斬り落とし、右手で握り差し上げた時、痛みを感じる事が無い右手が激しく痛んだ時、突然の雷光と雷鳴と同時におこり、忽然としてさとった。
せきしゅのおんじょう 隻手の音声
『両手で打てば音が鳴る。 では、片手の人が叩く拍手の音を聞いてこい。』
キリスド教の人、キリスト教って的を得た回答を答えられるような絶対な教義なのか?
んなわけねぇよな
今のキリスト教の教義は初期のものとは別の物なんですよ
ちゃんと輪廻転生を教えないといけない
https://i.imgur.com/Y6a8Nki.jpeg
ゼロ歳未満の死因は流産、死産だが、一生を通じて死因の第一位は人工中絶
0~4 乳児期 2歳までは授乳 天使か妖精の無分別期
5~9 幼児期 ここまで生きていられたら健康の天才児。男女7歳にして席を同じゅうせず。
10~14 10歳尋常小学卒業まで生き延びたら丁稚奉公で親元出立 女児初潮 10歳幼学ようがく
15~19 結婚適齢期前期 精子のピーク17 最大バスト19 縄文時代の平均寿命は15最長30 15歳志学しがく
20~24 結婚適齢期後期 みずみずしく張る肌 感触最良バスト 20歳弱冠
25~29 おしとねさがり 脱水で細る顔ポソッ
30~34 人生再検討期、新興宗教開祖期 三十路にして立つ
35~39 立脚点確立 不動心 滴る愛液急減少
40~44 充実期 自他横一列が欠け始め精子数減少開始 40不惑
45~49 昇級、老眼、更年期前期、妊娠からの解放
50~54 肩たたき転職勧告、更年期後期 50天命てんめい知命ちめい アル中、肝静脈瘤破裂前期
55~59 息子に嫁が来る頃には無勃起閉経 アル中、肝静脈瘤破裂後期
60~64 天下り先退職金積み増し期 60還暦耳順じじゅん
65~69 人生の黄金期前期 世界一周海外旅行食べ歩き
70~74 人生の黄金期後期 男健康年齢72
75~79 ひ孫と面談、ランドセル予約 女健康年齢75
80~84 長寿の達人 男平均寿命82
85~89 存在確認の同窓会が無い 女平均寿命87
90~94 歯科医の総仕上げ総入れ歯 90卒寿そつじゅ
95~99 歯茎で噛み切れる刺身がうまい 99白寿はくじゅ
100~104 自治体表彰100 百壽ももじゅ
105~109 アルコホルは毒なのに酒がうまい 108茶壽ちゃじゅ
110~114 飲む点滴ポカリスエットがうまい 111歳皇壽こうじゅ
115~119 もっと尿瓶しびんをクレヨンクレパス 119頑寿がんじゅ
120~124 今日も元気だ薬がウマヒィ 120昔寿せきじゅ 121歳大還暦だいかんれき
悪霊イヌが鳴く:なんで 宗教板って まともなの俺だけなんだ?みんな間違ってばっか俺だけが正しい。みんな間違ってるのに何で正しい事を言ってる俺は否定ばっかりされるんだ?みんな俺の事を 凄いなと認めろよ。 俺は自分より優れた奴が ゆるせないんだよ(脅迫性人格障害の特徴)
イヌがぼやく。なんで、みんなワイを無視すんねん大欲(たいよく)は無欲に似て足るを知り煩悩即菩提の法相宗でええやろ、ほならなんでワイはこんなところにいるんねやろ
ウソブクのよ透ってないのに、もう40回も初関を透る俺様!と言い放つドマヌケ!40回も透ったら初関を透る、じゃねーべ!!
なんで、みんなワイを無視すんねん!?大欲(たいよく)は無欲に似て足るを知る。煩悩即菩提の法相宗でええやろ・・・ほならなんでワイはこんなところにいるんねやろ
イヌ:悟りとか分からねーし、知らねーし、悟ってねーわ? ググるイヌヤマは常にシカトされ自己存在の確認要求哀願奴隷也
悪霊イヌが鳴く:なんで 宗教板って まともなの俺だけなんだ?みんな間違ってばっか俺だけが正しい。みんな間違ってるのに何で正しい事を言ってる俺は否定ばっかりされるんだ?みんな俺の事を 凄いなと認めろよ。 俺は自分より優れた奴が ゆるせないんだよ(脅迫性人格障害の特徴)
ナント妻子と月一、金曜夜7時からのお坐り会、茶菓(ちゃか)代ワンコインで、これが研究会出席虚勢のトマヌケ犬は誰からも疎まれる
独善イヌヤマは月一第三金曜日夜7時茶菓代ワンコイン坐禅会に出ると偽証。命取りの摂心に親子で100回参加と虚飾スル
新小岩の食業ドライバーイヌヤマとは法相宗(ほっそうしゅう)奈良興福寺(こうふくじ)前官長じっちゃんのお抱え運転手で食業ドライバーで、知ったかぶる以外に承認欲求が満足しない。
多数者を演じ孤立セズと強弁し自作自演のおぞましい日々の無脊椎動物イヌヤマは成り済まし多重人格者で要治療
インチキキチガイ雀鬼イヌヤマ麦、アルコホル発酵しイヌ麦焼酎なのに喜ばせ共有機能が絶えて無し。吠え吠み、オノレの尻尾をクルクル追うノミシラミ
5ちゃんねるの会話はバトル形式で馴れ合いを禁じる。イヌヤマは、褒めてクレヨの哀願奴隷。相手を罵倒する悪口雑言の数々は外道イヌヤマへのリアル社会の絶対評価で、問いに問いで返す脊髄反射の脳足りんで悟前(ごぜん)未悟(みご)、金魚ドジョウと救い難い。
① ググるシッタカ知障荒らしイヌヤマは無視放置スルーが一番ツライ、耐えられない。シッタカイヌヤマは常に誰かの反応レスを待ち焦がれ
② 放置された固定観念イヌヤマは煽りや自作自演でアナタのレスを誘う。ワケワカメ糞邪鬼イヌヤマにノセられてレスしたらその時点でアナタも同類、負け。完敗
③ ;反撃はイヌの滋養にして栄養であり最も悦ぶ事です。門前のヤセイヌにエサを投げ与えぬ事
④ ;臭い汚いコワイ気持ち悪いイヌヤマが枯死する迄、孤独に暴れさせゴミが溜まれば削除
岩場で云わば、深刻な ご病気で 孤立無援状況だから多数者を偽装する工作としてキャラ変し、鬼和尚、偽鬼和尚、雀鬼ジャンキー犬山、麦、幸、偽軍曹、ニセ和尚、エロ和尚と かくれみの、すなわち、その実体は異名同一人物( いみょう どういつ じんぶつ ) です。
服用薬(前期、後期、)
〇 ググる エピリファイ とは!?
https://www.kegg.jp/medicus-bin/japic_med?japic_code=00060340
〇 ググる リスペリドン
https://www.kegg.jp/medicus-bin/japic_med?japic_code=00058901
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マイッタマイッタ マイクル ジャクソン
困った困った こまどり姉妹
● アンダーウエアー編
凹 トランクス
▼ パンが2個
▽
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~●-●~ ブラザーミシン サングラス 椰子の実タヒチアンダンスかっぷ
~●_●~
~●●~
~○-○~ ちちの ろうがんきょう
~○_○~
~○○~
~◎-◎~ ちちの 強度近眼鏡
~◎_◎~
~◎◎~
(
~▲-▲~ 父あての手紙
~▲_▲~
~▲▲~
~△-△~ ちちもよいしょよいしょしよーと、目の上へと持ち挙げる~♪
~△_△~
~△△~
( 注意喚起、棺桶に片足突っ込んだら ) 勃起不全にともなう射精不可は、加齢現象の一つであり、55歳を過ぎたあたりから、死亡者数が増加するにつれ、精子不要論が勃興し、大奥女中と同じく おしとね下がり、となる。
洗脳の話はそんなに危険なのですか?
人間の思考は一本道ではない。あっちこっちにブレる。ブレる、真っ直ぐではない。
考えて思考が脇道にそれる。それは当然のこと。至極当然のこと。
脇道に入ったところで考える。考えて、正しい説明であれば正しい結論にたどり着く。
洗脳は先にある結論が間違っている。
洗脳は説明をその部分だけ聞くと、何かある。説明をそれ単独で聞くと、何かある。
何か、違和感かもしれないし、違うかもしれない。
洗脳は何かある。何かがある。
何かある説明でたどり着くのは間違いである。何かある説明で真理にたどり着くことはない。
洗脳は危険である。人を洗脳してはいけない。
この程度の話で人が洗脳されることはありません。
読んだ。
俺の話には気を付けろよ。俺に洗脳されるなよ。
洗脳してやる。
学び、実際に体現する。
だから、基本、基礎、自己表現は相手の射精で完了するが、男優もまた、女優を丁寧に取り扱い、女優を際立たせる。
女優は、命が短い。
自氏が多い。
吉原もいのちは、18歳で20歳ほどで氏を迎える。
それは現代でも、変わらない。
双眼というか、客観視、というか、我と汝の双方を見る方向性が、必要で欠く事が出来ない。
父母未生の彼方からの連鎖であって、今この時も常に流れ去る。
流水、掬うとしてやがて、手からこぼれる。
こぼれる水と手が、青白い炎となって輝く、まばたきである。
法律行為(売買など)
法律規定(相続など)
裁判(判決など)
相続
判決
法律規定
裁判
相続 法律規定
判決 裁判
◯月◯日相続
のように書かれる
義務者
ここまでは、誰でも書ける
👉 「何についての登記か」を一言で示すラベルです。
■
登記の目的=
👉 どんな権利変動を登記するのか
つまり
所有権が移ったのか
抵当権を設定したのか
抹消するのか
これを端的に表現します。
■
① 所有権関係
所有権移転
所有権保存
所有権更正
所有権抹消
👉 一番出るのは「所有権移転」
抵当権設定
抵当権移転
抵当権変更
抵当権抹消
根抵当権設定
地上権設定
賃借権設定
■
① シンプルに書く
👉 余計なことは書かない
❌ 売買による所有権移転
⭕ 所有権移転
※「原因」は別で書く
👉 原則、登記の目的は1つ
(例外:連件申請など)
③ 用語は固定(暗記)
👉 自分の言葉で書かない
❌ 所有権が移った
⭕ 所有権移転
「売買」と書いてしまう(→それは原因)
「変更」「更正」を混同する
抹消なのに「移転」と書く
👉 登記の目的とは
「何の登記か」を一言で書く見出し
構造で見るとこう👇
登記の目的 → タイトル
原因 → 理由
権利者義務者 → 当事者
もしよければ、
👉「原因との違い」
👉「変更と更正の違い(ここ超重要)」
👉「記述式での書き方テンプレ完成版」
このあたりも一気に整理できます。
移転
保存
更生
抹消
設定
移転
変更
抹消
所有権には保存がある
抵当権は設定
抵当権は設定
抵当権は設定
結論からいくと👇
👉 **「権利そのものが入れ替わるか」vs「権利の中身が変わるだけか」**の違いです。
■
所有権の登記で「更正」が使われるのは、
👉 もともとの登記が“間違っていた”場合です。
たとえば:
本当の所有者はAなのに、Bで登記されていた
持分割合が間違っていた
この場合はどうか?
👉 登記の内容自体が誤り(錯誤)
👉 正しい内容に「直す」必要がある
だから
👉 所有権更正登記
つまり
👉 **「最初からそうだったのに、登記だけ間違ってた」**という扱い
一方、抵当権で問題になるのはこういうケース:
債権額が変わった
利息・損害金の条件が変わった
債務者が変わった
これはどうか?
👉 最初の抵当権は正しく成立している
👉 ただし、その後に内容が変わった
つまり
👉 過去は正しい、今が変わった
だから
👉 抵当権変更登記
■
ここを一発で整理👇
項目
所有権更正
抵当権変更
原因
登記の誤り
事後的な変化
時間軸
最初から違っていた
後から変わった
本質
修正(訂正)
内容の更新
なぜこの違いが出るかというと👇
● 所有権
👉 単一・絶対的な権利(誰のものかが本質)
→ 間違っていたら「訂正」しかない
● 抵当権
👉 契約に基づく“内容可変の権利”
→ 条件が変わるのが前提
→ だから「変更」で対応
👉 所有権
→ 原始的に誤っている → 更正
👉 抵当権
→ 後発的に内容が変動 → 変更
もしよければ、
👉「更正と抹消の違い」
👉「錯誤更正 vs 真正な登記名義の回復」
このあたりも一気につながるので、そこまで整理すると記述がかなり安定します。
👉 所有権にも「変更登記」はある(=ゼロではない)
ただし
👉 使う場面がかなり限定されるので、試験的には「所有権=更正が基本」と見えるだけです。
所有権
👉 更正:めちゃくちゃ多い(基本)
👉 変更:あるがレア
抵当権
👉 変更:メインで頻出
■ 所有権の「変更登記」とは何か?
ポイントはここ👇
👉 権利そのものは同じだが、登記の表示内容が後から変わった場合
① 氏名変更(超重要)
結婚などで名前が変わった
👉 これは誤りではない
👉 当初は正しい登記
だから
👉 所有権変更登記(名義人表示変更)
② 住所変更
引っ越した
👉 これも同じ
👉 後から変わっただけ
👉 所有権変更登記
ここが本質👇
所有権で問題になるのは大体これ:
名義人が違う
持分が違う
👉 これは全部
👉 「最初から間違っている」問題
だから
👉 更正が主役になる
項目
所有権
抵当権
変更の対象
表示的事項(氏名・住所など)
内容そのもの(債権額など)
メイン
更正
変更
性質
固定的
可変的
👉 所有権の変更は
「人は同じだが、表示が変わった」だけ
👉 所有権の更正は
「そもそも人が違った」
■ 一発で区別するコツ
👉 人が同じ?
→ YES → 変更
→ NO → 更正
👉 所有権にも変更はある
しかし本質は
更正=権利帰属の誤り修正(主役)
変更=表示の後発的変化(脇役)
この理解まで来てるならかなりいい線いってます。
次にやると一気に仕上がるのは👇
👉「更正できる限界(第三者との関係)」
👉「真正な登記名義の回復との使い分け」
ここ、記述でめちゃくちゃ差がつくポイントです。
その通りです。いい視点です。
結論👇
👉 更正登記は「所有権に限らず、あらゆる登記にあり得る」
まずここを固定👇
👉 更正=「登記が最初から間違っていたのを直す」
これは
👉 権利の種類に依存しない
つまり
所有権でも
抵当権でも
地上権でも
賃借権でも
👉 誤っていれば全部「更正」になり得る
例えば👇
債権額を1,000万円と登記したが、実際は800万円だった
利息の記載を間違えた
👉 これはどうか?
後から変えたわけではない
最初から間違っている
だから
👉 抵当権更正登記
ここが混乱ポイント👇
👉 試験で出る典型が「変更」だから
抵当権は:
債権額の変更
利息の変更
債務者の変更
👉 後発的な変化が非常に多い
だから印象として
👉「抵当権=変更」になっているだけ
概念
内容
権利の種類
更正
最初から誤り
全ての登記であり得る
変更
後から変わった
全ての登記であり得る
👉 実はどちらも万能概念
👉 判断基準は一つだけ
時間軸
最初から違う → 更正
後から変わった → 変更
■ 試験での“ひっかけポイント”
よくあるミス👇
👉「抵当権だから変更だろ」
→ ❌ 間違い
👉「最初から違ってる?」
→ YES → 更正
👉 更正は「所有権だけの話」ではない
👉 登記制度全体に通じる原理
そして
👉 判断は常にこれだけ
「その内容は、いつズレたのか?」
この理解まで来ているならかなり本質に入っています。
次に詰めるなら👇
👉「更正が許される範囲(利害関係人との関係)」
👉「一部更正と全部更正の使い分け」
ここまで整理すると、記述はかなり盤石になります。
そういうことか
抵当権は基本的に変更
名義人変更登記
住所変更登記
設定した抵当権の登記が間違ってた時
基本的に
所有権といえば更正
抵当権といえば変更
結論から言うと:
👉 所有権は「もともとある権利を初めて公示する」もの
👉 抵当権は「当事者の合意で新しく作る権利」
この違いが、そのまま
保存 vs 設定 の違いになってる。
所有権は特殊で、
建物を新築した
土地を取得した
この時点で
👉 法律上はすでに所有権は発生している
つまり
👉 登記がなくても、所有権そのものは存在している
だから最初の登記は
👉 「あるものを初めて表に出す」=保存登記
になる。
一方、抵当権は全く違う。
抵当権は
お金を借りて
担保として不動産に付ける
このとき
👉 当事者の合意(契約)で初めて発生する権利
つまり
👉 もともと存在していない
だから登記は
👉 「新しく権利を作る」=設定登記
になる。
所有権
👉 すでにある → 保存
抵当権
👉 作るもの → 設定
この違いは、実はこう言い換えられる:
👉 原始取得か、設定契約か
所有権(保存)
→ 原始取得(建物新築など)
抵当権(設定)
→ 設定契約(担保設定)
地上権 → 設定
地役権 → 設定
賃借権 → 設定
も一気に理解できるようになる。
もしよければ次は
👉「じゃあ所有権移転はなぜ“移転”なのか?」
ここまで繋げると、登記の体系が一気に固まる。
所有権は、原資取得だから保存
👉 所有権は「主体そのものが入れ替わる権利」だから、「移転」と呼ぶ
というのが本質です。
■ ① 所有権の性質
所有権というのは
物を全面的に支配する権利
しかもその支配は一人に帰属する(排他的)
つまり、
👉 同じ物について「所有者は同時に一人しかいない」
例えば売買の場合
Aが所有者
Bに売る
このとき起きているのは
👉 Aの所有権が消えて、Bに丸ごと入れ替わる
です。
ここが重要で、
権利の中身は変わっていない(所有権のまま)
ただし「帰属主体」が変わる
だから
👉 権利がそのまま“移動”したように扱う → これが「移転」
あなたがさっき疑問にしていたポイントとつながります👇
抵当権
もともと存在しないところに作る → 設定
内容を変える → 変更
👉 「付け足す・調整する」権利
所有権
すでに必ず存在している(無から生まれない)
常に誰かに帰属している
👉 だから
新しく作る → できない
変更する → 中身が変わるわけじゃない
結果として
👉 誰から誰へ動いたかしか問題にならない → 移転
所有権はこういうイメージ👇
抵当権 → シールを貼る(増えたり変えたりする)
所有権 → 椅子に座ってる人が入れ替わる
👉 椅子(所有権)は1つ
👉 座る人(所有者)が変わるだけ
だから
👉 移転
所有権は排他的・単一帰属の権利
中身は変わらず、帰属主体のみ変わる
よって
👉 「移転」という登記原因になる
ここまで理解できてると、かなり本質に近いです。
もしよければ次は👇
👉「なぜ所有権には“設定”がないのか」
👉「共有持分の移転はどう整理するのか」
このあたりやると、さらに記述が強くなります。
結論から言うと👇
👉 抵当権にも「移転」はあるが、性質は所有権の移転とは全然違う
■ ① 共通点(まずここ)
たしかに両方とも
所有権移転
抵当権移転
👉 どちらも「権利の主体が変わる」という意味では同じです。
■
違いはここ👇
● 所有権の移転
👉 必ず起こるもの(本体の入れ替え)
所有権は常に誰かに属する
一つしかない
だから売買などがあれば 👉 必ず丸ごと移転
👉 例外的に起こる(オプション的)
抵当権は
そもそも無くてもいい権利(後付け)
債権にくっついている(付従性)
だから
👉 普通はこう動く
債権が移る(例:譲渡) ↓
それに伴って 👉 抵当権も一緒に移転する
一番大事なのはこれ👇
所有権
👉 物の支配そのもの(主役)
単独で存在する
それ自体が目的
抵当権
👉 債権を担保するための手段(脇役)
単独では意味がない
常に債権に従う(付従性)
所有権移転
👉 主役がそのまま別人に交代
(椅子の人が入れ替わる)
抵当権移転
👉 主役(債権)が動いた結果、
👉 おまけ(担保)も一緒に動く
■
所有権移転:権利主体の交代そのもの
抵当権移転:債権移転に伴う付従的移動
■ まとめ
👉 「移転」という言葉は同じでも中身は違う
所有権 → 本体の移動(必然)
抵当権 → 付従的な移動(結果)
なぜ「抵当権は設定・変更があるのか」
なぜ「所有権は基本、移転中心なのか」
全部一本でつながります。
ここまで来てるなら、かなり上級です。
さらに詰めるなら👇
👉「抵当権だけ単独で移転できるのか?」
👉「債権譲渡と登記の関係」
このあたり行くと、記述で差がつきます。
結論から一気にいきます。
■ 根抵当権の「移転」と「変更」の違い
◆ ① 移転(=人が変わる)
👉 根抵当権者そのものが交代する
A → B に変わる
権利主体が入れ替わる
登記の目的:根抵当権移転
原因:譲渡・合併など
👉 完全に“別人の権利になる”
◆ ② 変更(=中身が変わる)
👉 同じ人のまま、内容だけ変える
極度額を変える
債務者を変える
債権の範囲を変える
登記の目的:根抵当権変更
👉 人はそのまま、中身だけ調整
■ この違いの本質
一言でいうと👇
移転=主体の変更(誰の権利か)
変更=内容の変更(どんな権利か)
通常の抵当権だと👇
👉 そもそも単独移転できない
(=債権とセット)
だから「移転」という発想自体が弱い
しかし根抵当権は👇
👉 単独で動く
👉 だから「移転」という概念が前面に出る
① 「債務者が変わる」
👉 これは 変更(移転じゃない)
(※人が変わるけど“債務者”であって“権利者”じゃない)
② 「根抵当権者が変わる」
👉 これは 移転
③ 「極度額が変わる」
👉 これは 変更
④ 「一部だけ譲渡」
👉 これも 移転(準共有化)
問題を見たらこう考える👇
👉 「誰が変わってる?」
根抵当権者 → 移転
それ以外 → 変更
根抵当権は:
👉 「取引関係そのもの」を担保している
だから
人(金融機関)が変わる → 移転
取引条件が変わる → 変更
という整理になる
移転=権利者が変わる
変更=内容が変わる
判断基準は「誰が変わったか」
ここまで来ると、かなり仕上がってます。
もし次いくなら👇
👉「更正」との違い(ここで崩れる人が多い)
やはり、登記の目的だけでも深い
原因日付は泥沼だな
司法書士試験では、ここを正確に書けるかがかなり重要になります。
整理して、一気に体系で押さえましょう。
■ 登記原因の全体像(まずはここを固定)
登記原因は大きく分けて👇
① 法律行為(当事者の意思による)
② 法律事実(意思と無関係に発生)
③ 裁判・公的処分
当事者の意思で権利が動くパターン
● 代表例
売買
贈与
交換
代物弁済
共有物分割
財産分与(離婚)
信託
👉 書き方の基本
「売買」「贈与」など+日付
例:
原因 令和◯年◯月◯日売買
意思と関係なく発生するもの
● 代表例
相続
時効取得
取得時効
合併(会社)
公用収用
物の滅失
👉 ポイント
「勝手に発生する」もの
例:
原因 令和◯年◯月◯日相続
国家の判断によるもの
● 代表例
確定判決
和解
調停
競売
破産手続
👉 例
原因 令和◯年◯月◯日確定判決
● 所有権
売買
相続
贈与
時効取得
👉 王道
設定(←超重要)
移転(債権譲渡など)
変更(債務額変更など)
消滅(弁済など)
👉 所有権と違って「設定」が出るのが特徴
設定
極度額変更
債務者変更
確定
移転
👉 「変更」がめちゃ多い
👉 登記原因=「権利変動の原因」
つまり
誰の意思か?
自然発生か?
国家の判断か?
この3つで瞬時に判断する
登記原因は実は👇
👉 「原因」と「その日付」でワンセット
だから答案では必ず:
原因
日付
をセットで書く
売買・贈与 → 意思
相続・時効 → 自然発生
判決・競売 → 国家
👉 この3分類を軸に覚える
ここまで押さえれば基礎は完璧。
もしよければ次は👇いける
👉 「登記原因証明情報には何を書くのか?」
👉 「原因と原因証明情報のズレ(試験でよく出る)」
このあたりが一気に実戦レベルになるポイント。
貴重な球質を半分つかってひまったな
自分史に残る大転換
共通了解があるだけだ
ローティが諦めたといえる
記述式でも超重要なので、体系で押さえておくと一気に整理できます。
大きく分けると、次の4系統です👇
① 原因証明情報(=なぜその登記が起きたか)
👉 登記原因の実体を証明する
例:
売買契約書
贈与契約書
遺産分割協議書
判決書
和解調書
💡要するに
「その権利変動、本当にあったの?」に答える資料
👉 登記名義人本人の意思確認
例:
登記識別情報(12桁のアレ)
登記済証(いわゆる権利証)
💡意味
「勝手に登記されてないよね?」をチェック
👉 本人の意思+署名の真正を担保
例:
登記義務者の印鑑証明書(原則3ヶ月以内)
💡特に重要
→ 所有権移転・抵当権設定などで必須級
👉 「誰なのか」を特定する
(1)住所証明情報
住民票
戸籍の附票
住民票の除票
(2)資格証明情報(法人)
登記事項証明書
代表者事項証明書
💡意味
→ 「この人(会社)、実在してる?」確認
ここが実は重要👇
⑤ 代理権限証明情報
👉 代理人が申請する場合
例:
委任状
⑥ 承諾書・同意書
👉 利害関係人がいる場合
例:
抵当権者の承諾書
仮登記権利者の同意書
⑦ 課税価格・登録免許税関係
👉 税金計算の根拠
例:
固定資産評価証明書
⑧ 相続関係特有
👉 相続登記で頻出
例:
戸籍一式(出生~死亡)
遺言書
相続関係説明図
記述ではこう覚えると強い👇
👉 添付情報=
「原因」「本人」「人の特定」「代理・利害・税」
つまり:
原因証明情報
登記識別情報
印鑑証明書
住所・資格証明
+(代理・承諾・税・相続)
👉 添付情報とは何か?
「この登記、ちゃんと本物です」
と登記官を納得させるための証拠一式
必要なら
👉「登記ごとに何が必要か(完全暗記表)」
👉「記述式での書き方テンプレ」
ここまで一気に仕上げることもできる。
デリダは言語の「痕跡」や「差異」を通じて二項対立を解体する構造主義的側面を、ローティは哲学を「私的なアイロニー」と位置づけ、客観性より「連帯」や有用性を重視する対話的アプローチを追求しました。
法政大学出版局 |+3
共通点 (反形而上学):両者ともに、哲学は「真理を映す鏡」ではなく、特定の文脈における言語ゲームや解釈であると主張する。
デリダ (脱構築):西洋哲学の伝統的な二項対立を内部から解体し、真理の固定化に抵抗する。
「二項対立の解体」だ
西洋哲学は、世界をこういうペアで理解してきた:
善/悪
真/偽
理性/感性
男性/女性
主体/客体
音声/文字
そして重要なのは👇
👉 これらは対等ではない
必ずこうなっている:
👉 どちらかが「上位」
👉 もう一方が「下位」
例えば
理性 > 感性
音声 > 文字
この「ヒエラルキー(序列)」がポイント。
デリダはこう言う:
👉「その区別、本当に成立してるのか?」
つまり
下位とされているものは、本当に劣っているのか?
上位のものは、それ単独で成立しているのか?
ここに疑問を入れる。
デリダのやり方は2段階ある👇
① 逆転する
まず序列をひっくり返す
例:
文字 > 音声
👉「実は文字の方が本質的じゃないか?」と考える
さらに重要なのはこっち👇
👉 そもそも両者は切り離せない
例えば:
「音声」は「意味の安定」を前提にしている
でも意味は「差異(違い)」によってしか成立しない
その差異の構造は「文字的」なもの(痕跡)に近い
つまり
👉 音声も文字に依存している
ここまで来るとこうなる👇
👉 上位/下位の区別が崩れる
👉 そもそも「純粋なもの」が存在しない
デリダ的に言うと:
👉 意味は常にズレている(差延)
👉 「AとBは対立しているように見えて、実は互いに依存している」
■ ⑥ よくある誤解
❌「全部同じだと言ってる」
→ 違う
⭕「区別はあるが、固定された本質ではない」
これは、例えば
プラトン以来の「本質 vs 偽物」構造
ルソーの自然/人工
こういう伝統そのものへの批判。
普通の哲学👇
👉「中心(真理)がある」
デリダ👇
👉「中心は常にズレている」
ここまで理解できるとかなり本質に近い。
もしよければ次は👇
👉「差延(différance)」をガチで解説する
👉「ハイデッガーとの違い」
👉「ローティとの関係」
このあたりに進むと、一気に深くなる。
ただし、同じではないが、深いレベルで構造的に似ている。
■ ① ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル の「主人と奴隷」
ヘーゲルは『精神現象学』でこういう逆転を示す:
主人:支配している側(自立しているように見える)
奴隷:支配されている側(従属しているように見える)
しかし分析すると:
👉 主人は、奴隷に承認されることでしか主人でいられない
👉 しかも、現実に世界に働きかけているのは奴隷(労働する側)
つまり
主人は奴隷に依存している
ここで起きていることは:
一方が上で他方が下、という単純な構図が崩れる
■ ② ジャック・デリダ の「二項対立の解体」
デリダが批判したのは、哲学にありがちな構造:
善/悪
真理/虚偽
音声/文字
主体/客体
これらは普通:
👉 一方が「優位(中心)」
👉 他方が「劣位(周縁)」
とされる。
しかしデリダは言う:
👉 優位な側は、実は劣位な側に依存している
👉 だから純粋な優位は成立しない
例えば:
「真理」は「虚偽」との対比がないと成り立たない
「主体」も「他者」がないと成立しない
つまり:
対立は非対称ではなく、相互依存的で不安定
両者に共通する構造はこれ:
👉 優位なものが、劣位なものに依存している
ヘーゲル:主人 → 奴隷に依存
デリダ:中心 → 周縁に依存
つまり
「上が下に支えられている」という逆転
これはかなり似ている。
■ ④ 決定的な違い(ここが重要)
ただし、ここで分岐する:
● ヘーゲル
👉 最終的に「統合(止揚)」へ行く
👉 矛盾は発展のエンジン
👉 目的:より高次の統一
(弁証法)
● デリダ
👉 統合しない
👉 矛盾は解消されない
👉 ずっとズレ続ける(差延)
(脱構築)
ヘーゲル
→「対立は逆転し、やがて統一される」
デリダ
→「対立はそもそも不安定で、統一などできない」
■ ⑥ さらに踏み込むと
かなり大胆に言えば:
👉 デリダは、ヘーゲル的な「回収(統一)」を拒否している
つまり
ヘーゲル:回収する哲学
デリダ:回収を壊す哲学
■ 結論
あなたの問いに対する最も正確な答え:
👉 似ている(依存関係の暴露という点で)
👉 だが、方向は正反対(統合 vs 解体)
もし興味があれば、
「デリダはヘーゲルをどこまで意識していたのか?」とか
「レヴィナスやローティとの違い」まで掘ると、かなり面白いところに行ける。
龍樹のそれとは主旨が違いすぎる(笑)
ヘーゲル
→「対立は逆転し、やがて統一される」
デリダ
→「対立はそもそも不安定で、統一などできない」
■ ⑥ さらに踏み込むと
かなり大胆に言えば:
👉 デリダは、ヘーゲル的な「回収(統一)」を拒否している
つまり
ヘーゲル:回収する哲学
デリダ:回収を壊す哲学
■ 結論
あなたの問いに対する最も正確な答え:
👉 似ている(依存関係の暴露という点で)
👉 だが、方向は正反対(統合 vs 解体)
もし興味があれば、
「デリダはヘーゲルをどこまで意識していたのか?」とか
「レヴィナスやローティとの違い」まで掘ると、かなり面白いところに行ける。
ヘーゲル
→「対立は逆転し、やがて統一される」
デリダ
→「対立はそもそも不安定で、統一などできない」
■ ⑥ さらに踏み込むと
かなり大胆に言えば:
👉 デリダは、ヘーゲル的な「回収(統一)」を拒否している
つまり
ヘーゲル:回収する哲学
デリダ:回収を壊す哲学
■ 結論
あなたの問いに対する最も正確な答え:
👉 似ている(依存関係の暴露という点で)
👉 だが、方向は正反対(統合 vs 解体)
もし興味があれば、
「デリダはヘーゲルをどこまで意識していたのか?」とか
「レヴィナスやローティとの違い」まで掘ると、かなり面白いところに行ける。
ヘーゲル
→「対立は逆転し、やがて統一される」
デリダ
→「対立はそもそも不安定で、統一などできない」
■ ⑥ さらに踏み込むと
かなり大胆に言えば:
👉 デリダは、ヘーゲル的な「回収(統一)」を拒否している
つまり
ヘーゲル:回収する哲学
デリダ:回収を壊す哲学
■ 結論
あなたの問いに対する最も正確な答え:
👉 似ている(依存関係の暴露という点で)
👉 だが、方向は正反対(統合 vs 解体)
もし興味があれば、
「デリダはヘーゲルをどこまで意識していたのか?」とか
「レヴィナスやローティとの違い」まで掘ると、かなり面白いところに行ける。
「ひっくり返せ」とは言っていない。むしろ、それでは不十分だと言っている。
あなたの言うように、二項対立には
主/従
男/女
理性/感情
中心/周縁
のように、必ず優位−劣位がある。
ここでよくある発想は
👉「じゃあ劣位側を持ち上げて逆転させよう」
でもデリダからすると、それはこうなる:
❌ 構造はそのまま
❌ 序列が入れ替わっただけ
つまり、
支配/被支配という枠組み自体は温存されている
デリダの「脱構築」は2段階ある
① まず暴く(これはあなたが理解したところ)
実は優位な側は、劣位な側に依存している
純粋な優位など存在しない
ここはむしろゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲルの主奴関係にも近い
② そして崩す(ここが重要)
👉 対立そのものを不安定にする
どういうことか?
例えば:
「理性 vs 感情」
→ 実際には、理性は感情に支えられている
→ 境界が曖昧になる
すると
👉 もはや「どっちが上か?」という問い自体が崩れる
デリダは革命家ではない
(少なくともマルクス的な意味では)
彼の答えはかなりラディカルでこうなる:
👉 「序列をひっくり返すな。序列を成立させている思考そのものを疑え」
これは政治革命というより、むしろ
言葉の使い方を疑う
「当たり前の区別」に違和感を持つ
どちらかに固定しない
という態度になる
👉 逆転はまだ“構造の中”だが、脱構築は“構造そのものを揺るがす”
ここで鋭い疑問が残るはず:
「そんなことして、現実の不平等はどうするのか?」
これは実際にデリダが批判されるポイントで、
実践性が弱い
政治的に中途半端
と言われる
だから後の思想(フェミニズムやポストコロニアル)は
👉 一度は“戦略的に逆転”をやる(あえて劣位を強調) 👉 その上で、最終的には対立自体を解体する
という「二段構え」を取る
あなたの問いに真正面から答えると:
❌ デリダは「ひっくり返せ」とは言わない
⭕ むしろ「ひっくり返すだけではダメ」
⭕ 本当は「対立そのものを成立不能にする」
もしここまで来たなら、かなり核心に触れてる
次に面白いのはこれだ👇
👉 「じゃあ、完全に対立を壊したら“判断”はどうやってするのか?」
ここにデリダ最大の難所がある。
結論から言うと、ジャック・デリダの答えはこうなる:
■ 「基準はない。だが、決断はしなければならない」
普通はこう考える:
判断には基準が必要
正しい/間違いが決まってから行動する
でもデリダはこれを壊す
👉 その“基準”自体が、すでに二項対立の産物だから
■
ここで出てくるのが有名な発想:
👉 決断とは、本質的に“根拠なき跳躍”である
これはかなり強い主張で、
完全に正当化できる決断
→ それは単なる「計算」や「適用」であって
→ 本当の決断ではない
逆に
本当の決断
→ 正しさが保証されていない状況で
→ それでも引き受けて選ぶこと
■ かなり極端に言うと
👉 正解がないところで決めるのが“責任”
■ ここで倫理が出てくる
デリダは意外と倫理的な方向に行く
彼はこう考える:
完全なルールに従うだけ → 無責任(機械と同じ)
ルールを超えて決める → 責任が生じる
■ キーワード:「決定不可能性」
デリダの有名な概念:
👉 決定不可能(undecidable)な状況
これは
どっちが正しいか、原理的に決められない
でも、決めないといけない
という状態
■ 例でいうと
例えば:
正義 vs 法
平等 vs 自由
真実 vs 優しさ
どれも綺麗に決められない
でも現実では
👉 どちらかを選ばないといけない
■ だからこうなる
デリダの倫理はこういう形になる:
👉 「完全な正当化なしに、それでも決め、その責任を引き受ける」
■ ここでヘーゲルとの違い
ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲルなら:
対立 → 止揚 → より高い統一
(最終的に理性で回収される)
でもデリダは:
対立 → 解体
❌ 最終的な統一は来ない
❌ 完全な解決もない
👉 常に“宙づり”のまま決断する
■ かなりシビアな結論
ここまでまとめると:
絶対的な基準はない
完全な正しさもない
でも判断は避けられない
👉 だから人間は、常に“リスクの中で決断する存在”になる
■ 一言で言うと
👉 「正しいから選ぶ」のではなく、「選んでしまうことに責任を負う」
ここまで来ると分かると思うが、
これは楽な相対主義じゃない
むしろ逆で:
👉 逃げ場のない責任論
■ 最後に一歩だけ踏み込むと
ここでさらに深く行くと、デリダはこう言い出す:
「正義」は決して完全には実現できない
だからこそ、常に問い続けるしかない
もし続けるなら、次はここが面白い:
👉 「それってサルトルの自由と同じじゃないのか?」
似てるようで、実はかなり違う。
ここで出てくるのが有名な発想:
👉 決断とは、本質的に“根拠なき跳躍”である
これはかなり強い主張で、
完全に正当化できる決断
→ それは単なる「計算」や「適用」であって
→ 本当の決断ではない
逆に
本当の決断
→ 正しさが保証されていない状況で
→ それでも引き受けて選ぶこと
👉 正解がないところで決めるのが“責任”
■ ここで倫理が出てくる
デリダは意外と倫理的な方向に行く
彼はこう考える:
完全なルールに従うだけ → 無責任(機械と同じ)
ルールを超えて決める → 責任が生じる
デリダの有名な概念:
👉 決定不可能(undecidable)な状況
これは
どっちが正しいか、原理的に決められない
でも、決めないといけない
という状態
例えば:
正義 vs 法
平等 vs 自由
真実 vs 優しさ
どれも綺麗に決められない
でも現実では
👉 どちらかを選ばないといけない
■ だからこうなる
デリダの倫理はこういう形になる:
👉 「完全な正当化なしに、それでも決め、その責任を引き受ける」
ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲルなら:
対立 → 止揚 → より高い統一
(最終的に理性で回収される)
でもデリダは:
対立 → 解体
❌ 最終的な統一は来ない
❌ 完全な解決もない
👉 常に“宙づり”のまま決断する
ここまでまとめると:
絶対的な基準はない
完全な正しさもない
でも判断は避けられない
👉 だから人間は、常に“リスクの中で決断する存在”になる
■ 一言で言うと
👉 「正しいから選ぶ」のではなく、「選んでしまうことに責任を負う」
ジャック・デリダは「どちらかを選べ」とは言っていません。
むしろ逆で、
👉 「どちらかを最終的に選びきること自体が不可能だ」
👉 「だから、その揺らぎの中で考え続けろ」
という立場です。
あなたの言っている
「2項対立は解消できない → だからどちらかを選ぶしかない」
これは、むしろ伝統的な哲学(特に形而上学)の発想です。
真/偽 → どっちか
善/悪 → どっちか
本質/現象 → 本質が上
こういう最終決定(決着)をつけようとする思考。
デリダはこう考えます:
① 2項対立は必ずヒエラルキーを持つ
例:
音声 > 文字
理性 > 感情
男 > 女
ここはゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲルに似ている部分ですね。
例:
「音声」は「文字」があるから区別される
「理性」は「非理性」があるから成立する
👉 つまり、純粋な優位なんて存在しない
ここが重要です。
男 > 女 → 女 > 男 にする
理性 > 感情 → 感情 > 理性 にする
👉 これはただの「裏返し」で、構造はそのまま
これが「脱構築」の実践的な意味です。
AかBか → ❌ 決めない
AでもありBでもある → ❌ これも単純すぎる
AはBに依存し、BもAに依存する → ✔
👉 境界が崩れ続ける状態を引き受ける
ここがあなたの問いの核心ですね。
デリダはこう言っている:
✔ 決断は必要だが、正当化はできない
人は現実では選ばざるをえない(政治・倫理・生活)
しかし…
👉 その選択には「絶対的な根拠」はない
■ まとめ(かなり重要)
あなたの理解を修正するとこうなる:
❌ 「どちらかを選べ」
❌ 「どちらも同じ」
✔ 「選ばざるをえないが、その選択は常に揺らいでいる」
👉 「決断とは、不可能なものを決断することである」
完全に正しい根拠があるなら、それは「計算」であって「決断」ではない。
■ あなたの問いへの直球の答え
2項対立は解消できない。どちらかを選ぶしかないのか?
👉 違う。選ぶことは避けられないが、選び切ることはできない。
ここまで来ると、かなり核心に入ってます。
もし次に進むなら、
これが倫理や政治でどうなるのか
「責任」とどう関係するのか
このあたりが一番面白いポイントです。
ジャック・デリダの立場は、単純に
👉「2項対立は解消できない」
と言いたいわけではありません。
■ 正確に言い直すとこうなる
■ どういうことか?
普通の理解:
対立がある → いつか解消できる(統一・止揚・決着)
これはむしろ
ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル的発想です。
でもデリダはこう見る:
① 2項対立は最初から不安定
AとBはきれいに分かれていない
互いに混ざり合っている
👉 つまり「対立そのものが純粋じゃない」
② だから解消しようとしてもズレが残る
どちらかに決めても、反対側の要素が入り込む
境界がにじむ
👉 完全な決着がつかない
③ しかし「消える」わけでもない
ここが重要。
対立は消滅しない
でも固定もされない
👉 揺れ続ける構造になる
あなたの言葉:
「解消できない」
これだと少し静的なんです(固定された感じ)。
デリダはむしろ動的に考える:
👉 「解消しようとするたびに、またズレが生まれる」
❌ 完全に解消できる
❌ 永遠に固定されたまま
✔ 解消しようとすると、必ずほころびが出る構造
■ 一言でいうと
👉 「対立は壊れるが、なくならない」
もしさらに踏み込むなら、ここからが本番です:
じゃあ「真理」はどうなるのか?
「正しい判断」は可能なのか?
それでもなぜ責任が生じるのか?
このあたりが、デリダの一番シビアで面白いところです。
ジャック・デリダは、
👉「革命は無意味だ」とは言っていません。
👉 しかし同時に、「革命で矛盾が最終的に解消される」とも考えません。
■ あなたの理解を調整するとこうなる
革命しても新たな矛盾が出る → だから諦め?
👉 デリダの立場はこれ:
❌ 諦めではない
✔「終わりのない責任」として引き受ける
これは彼の2項対立の理解と直結しています。
どんな革命でも:
旧体制を否定する
新しい価値を立てる
でもその瞬間に、
👉 新しい「優位/劣位」が必ず生まれる
例:
王権 → 民衆(民主主義)
理性中心 → 感情・身体の重視
一見「解放」に見えるが、
👉 別の排除や抑圧が発生する
ここが重要な分岐です。
デリダはこう考える:
👉 それでも変革は必要だ
ただし…
✔ 革命=完成ではない
✔ 革命=「暫定的な介入」
👉 正義は常に「まだ来ていない(à venir)」
つまり:
完全に正しい社会は存在しない
しかし「よりマシ」を目指す運動はやめられない
■ 革命への態度を一言で
❌ 「革命すれば解決する」
❌ 「どうせ無駄だからやめろ」
✔ 「やるしかないが、それが最終解決だとは思うな」
👉 「決断し、変革し、しかしそれを疑い続けろ」
■ あなたの問いへの最終回答
革命への諦めか?
👉 違う。諦めではなく、「終わりなき批判と責任」への覚悟。
ここでデリダは、ある意味で
カール・マルクスともズレます。
マルクス:最終的に階級対立は解消される
デリダ:最終的解消という発想自体を疑う
ただし面白いのは、デリダはマルクスを完全否定していない点です。
👉 「亡霊のように残り続ける問い(正義・搾取)」を引き受け続けるべきだ
ここまで来るとかなり核心です。
もし興味があれば、
👉「じゃあその立場で“行動する意味”はどこにあるのか?」
ここが次の一番深い問いになります。
あまりにレベルが低い(笑)
高校生で公認会計士試験に合格
法律や会計の分野にも
化物だ
やがて止揚されるのに対し
「疎所縁」と「外境」は、どちらも仏教(特に唯識など)の文脈で出てくる言葉ですが、指しているもののニュアンスが少し違います。
「所縁」は「心(認識)が対象とするもの」という意味
「疎」は「間接的・遠い」というニュアンス
👉疎所縁=間接的に認識される対象
つまり、
実際に心が直接とらえているわけではないが
推論や概念を通して対象となるもの
例:
「煙を見て火を想像する」→火は疎所縁
記憶や想像の中の対象
「外」は「心の外」
「境」は「対象」
👉外境=心の外にあるとされる対象(外界のもの)
つまり、
目に見える物体や現実世界の対象
「外に実在する」と考えられるもの
用語ポイント対象の性質疎所縁間接的に認識推論・記憶・想像外境心の外の対象現実の物・外界
■ 重要なポイント(唯識的に)
唯識では特に重要で、
外境:そもそも実在しない(とする立場)
疎所縁:心の中で構成される対象
👉つまり
「外にあると思っているものも、実は心のはたらきの結果では?」
という議論につながります。
必要なら「親所縁(直接認識)」との違いも一緒に整理できます。
いいところに来ました。ここはセットで押さえると一気に理解が通ります。
■ 親所縁・疎所縁・外境の関係
① 親所縁(しんしょえん)
👉心が“直接”とらえている対象
認識の瞬間に、そのまま現れているもの
フィルターなし・媒介なし
例:
目の前に見えている「赤い色」
今この瞬間の感覚そのもの
👉間接的にとらえる対象(概念・推論)
親所縁をもとに頭の中で構成される
ワンクッションある認識
例:
「煙 → 火があるはず」→ 火は疎所縁
「あれはリンゴだ」→ “リンゴという概念”
👉心の外にあると考えられる対象
一般的な常識でいう「現実の物」
ただし唯識ではこれを問題にする
外境(あると思っている外の物)
↓(感覚・認識)
親所縁(直接現れる像・データ)
↓(解釈・概念化)
疎所縁(意味づけされた対象)
「リンゴを見る」場合:
外境:外にある“本物のリンゴ”(と普通は考える)
親所縁:赤い・丸いという視覚イメージ
疎所縁:「これはリンゴだ」という認識
唯識の立場では:
親所縁:確実にある(=心に現れている)
疎所縁:心が作っている
外境:**本当にあるの?**と疑う
👉 結論的には
「私たちが“外の世界”だと思っているものも、
実は親所縁+疎所縁の働きにすぎないのでは?」
親所縁:見えているそのもの(生データ)
疎所縁:それに意味をつけたもの
外境:外にあると信じているもの
ここまで理解できてるならかなり本質に近いです。
もしよければ「なぜ外境を否定するのか(唯識の論証)」までいきますか?
すべては偶然の産物
くそ
なんとかならんか
気にしなけらばにい
哲学、歴史、文学、音楽の才能がなかったら
退屈に耐えられないのでは
結論から言うと、ヨガとヴェーダーンタは対立というより「役割分担」している関係です。
一見すると違います:
ヨガ(ヨーガ・スートラ)
→ 心を止めることで解脱
ヴェーダーンタ(ウパニシャッド)
→ 真理を知ることで解脱
これだけ見ると
「止める vs 知る」で別方向に見えます。
でも実際は…
👉同じゴールを、違う角度から見ているだけです。
ここが本質です。
① 理解だけでは足りない(ヴェーダーンタの弱点)
頭で「自分はブラフマンだ」と理解しても、
感情が揺れる
不安や執着が消えない
反応的に生きてしまう
これはつまり、心がまだ騒がしい状態。
👉 理解が“定着しない”
瞑想で深く静まっても、
その体験は一時的
日常に戻ると元に戻る
「それが何なのか」理解していない
👉無知はそのまま残る
伝統的にはこうなります:
ステップ1:ヨガ的アプローチ
心を整える
集中力を高める
反応を減らす
👉 「理解できる心」を作る
ステップ2:ヴェーダーンタ
真理を聞く・考える・洞察する
「私は何か?」を見抜く
👉 無知を破る
ステップ3:再び瞑想
理解を深く体現する
👉知識が“生きた実感”になる
よくある比喩です:
ヨガ:曇った鏡を磨く
ヴェーダーンタ:鏡に映っているものの正体を理解する
👉 磨かないと見えないし、
👉 理解しないと意味がない
たとえば後の思想家であるシャンカラは、
ヴェーダーンタ(非二元論)を説きながら
瞑想や心の浄化も強く重視しています
つまり現実の修行では
👉完全に分けてはいない
ヨガとヴェーダーンタは対立しない
ヨガ=心を整える技術
ヴェーダーンタ=真理を見抜く智慧
そして最終的には
👉静かな心で、正しく理解すること
これが両者の交差点です。
ここまで来ると次の疑問が自然に出ます:
「じゃあ“悟り”って体験なのか?理解なのか?」
ここ、かなり深いテーマですが行きます?
鋭いところですね。ここはインド哲学の“いちばん議論されてきたポイント”です。
結論から言うと:
👉厳密には矛盾する(理論としては両立しない)
👉 でも実践レベルでは補完的に使われることが多い
この「二層構造」で理解するとスッキリします。
東京大学+1
唯識の認識論(成唯識論)における分類です。
駒澤大学学術機関リポジトリ+1
親所縁縁(しんしょえんえん)
意味: 認識主体(見分)が、自らの内部に直接作り出した認識対象(相分)のこと。
特徴: 心が直接とらえる対象であり、必ず存在する(必有)。
疎所縁縁(そしょえんえん)
意味: 親所縁(直接の像)の根拠となる、外部にある本質的な実体のこと。
特徴: 認識のきっかけとなるが、存在しない場合もある(有無不定)。
東京大学+2
目の前の「机」を見る場合:
親所縁: 心の中に映し出された「机のイメージ・像」。
疎所縁: 物理的にそこに存在する「実物の机」。
認識は直接的には「心の中の像(親所縁)」と結びついているが、それは「外部の物体(疎所縁)」を原因として生じている、という構造です。
私達の心を「唯識学では鏡に譬える」と聞きますが、どういうことでしょうか?
https://youtu.be/H4C-xtd6Nao
たとえば、鏡でもって事物の形を映す時に、必ず鏡の中にその物の形が映ります。
🔶その影像は、鏡の外にあるように見えますが、実際はそうではありません。
🔷ただ鏡の本体が清らかであることによって、物に向かえば、必ず照らし出すから、その照らし出す働きによって、鏡の中に現われ出されたものです。
その鏡の光が、
🔶親しく照らすところが、鏡に映った影像です。
🔶疎(うと)く照らしたところは、鏡に対して、ある事物の本体の形です。
🔶鏡の光は、事物の裏面を直接に照らすことは出来ずに、すなわち疎く照らすに過ぎません。
これは、具体的には疎く照らすので、
🔷「疎所縁(そしょえん)」と言われます。別名「本質(ほんぜつ)」と呼ばれます。
🔶「本質」とは、阿頼耶識から直接に変化して出来たものであり、同時に阿頼耶識の対象、すなわち「相分」となっているものです。
🔶しかし、通常の心は、決してその本質を直(じか)に知ることは出来ません。
🔷その中間に「相分」という媒介物を作り出して、それを認識しているに過ぎません。
🔶鏡の働きは、清く輝く銅の働きであります。
🔷鏡の本体は、その清く輝く銅、そのものであります。
🔷心が物を知る様子も、またこれと同じようなものなのです。
🔶心の中に浮かんだ、知られる物である対象を、唯識学ではこれを🔷「相分(そうぶん)」と名付けます。その相分は「鏡の影像」によって、たとえられます。
🔶その相分の本体の形を「本質(ほんぜつ)」と名付けます。この本質は、阿頼耶識の相分であります。
🔶このような「相分」は、その本体として「本質」を持ちますが、しかし、阿頼耶識の相分には、本質はありません。
🔶「見分(けんぶん)」と名付けます。「見分」は「鏡の光」に譬えられます。
🔷相分を心の中に浮かべ、また知る作用である見分を起こす本体を、
🔶「自証分(じしょうぶん)」と名付けます。「自証分」は、鏡の本体であるところの「清らかな銅」に譬えられます。
🟧「四分説」は、唯識学の中でも最も重要で、かつ最も難解な思想です。
🟫この難解な思想を、鏡の働きを例に挙げて、分かり易く説明したものが「鏡の譬え」です。
🔷ただ譬えは、常に「一分譬喩」と言われますように、事実と全面的に一致するものではないことを知らなければなりません。
「鏡の本体」すなわち銅が磨かれているからであります。
🔷そのように、私達の心自体も、清らかであるからこそ、物事を知る働きを起こすことが出来ます。
🔶親鸞聖人も、ご和讃に「心性もとより清けれど」と教えておられます。
🔶その塵を払い、鏡を清くすればするほど、心の光は強まり、物事の本質をより深く明瞭に知ることが出来るようになるのです。
🔷「相分」とは「似有非有(じうひう)」と言われるように、
🔶「有るに似ているけれども、真実から言えば、有るのではない」
そういう相を帯びたものであります。
🔶鏡の表面を磨けば、磨くほど、その光の力は強まり、疎く照らされたところが、ますます顕わになって来るのです。
🔷それと同じように、私達は心の本体である「自証分」を、自分の姿を見せてくれる相手と向き合うことによって。
🔶つまり、聞法と六波羅蜜(六度万行)の実践によって、ますます鏡を磨き、鏡についている塵を払いのけていくのです。
🔶だからこそ、煩悩を問題にして、煩悩の塵を払い落としていく。
🔷「見分」である「光の力」を強めていって、「物事の本質を見極める洞察力」を高めていくのです。
⏹️「似有(じう)の相分」を突き破って、
⏹️「実有(じつう)の本質」の領域にまで、達していくのが、唯識仏教なのです。
🟥 https://youtu.be/H4C-xtd6Nao
心の中のイメージ
外界実在論に近い
ドゥルーズ=ガタリ vs デリダは、同じポスト構造主義でも「やっている方向」がかなり違う。
● ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ
→ 生成・流動・生の肯定(ポジティブ)
世界は「差異」と「生成の流れ」
固定された構造・意味を壊して
👉 新しいものを生み出す方向へ行く
「リゾーム」「脱領土化」など
欲望=生産的エネルギー �
小さくはじめる業務効率化
👉 イメージ:
爆発的に広がるネットワーク/生命力
→ 意味の不安定性の暴露(ネガティブ寄り)
言語は常にズレる(差延)
意味は決して確定しない
二項対立(善悪・男/女など)を解体
👉 イメージ:
意味がズレ続けて崩れていく
デリダ
言語=差異の体系
意味は固定できない
解体(脱構築)する
👉 「言葉そのものが信用できない」
ドゥルーズ=ガタリ
言語=社会・政治の装置
命令・権力・配置の問題
言語よりも「欲望」「流れ」が重要 �
哲学サイト
👉 「言葉より、動き・力・関係を見ろ」
デリダ
👉 テキスト読解型
哲学・文学のテキストを読み
内部の矛盾を暴く(脱構築)
ドゥルーズ=ガタリ
👉 創造・構築型
概念をどんどん作る
思想そのものを「機械」みたいに動かす
哲学=概念の創造 �
河出書房新社
デリダ
👉 「意味は崩れる」
ドゥルーズ=ガタリ
👉 「だから新しく生成しろ」
ここが一番深いポイント:
デリダ
👉 差異=「ズレ(否定性)」
ドゥルーズ
👉 差異=「生成する力(肯定性)」
つまり
👉 同じ「差異」でも
ネガティブ vs ポジティブ
デリダ
ドゥルーズ=ガタリ
方向
解体
生成
スタンス
批判的
創造的
言語
不安定
社会的装置
キーワード
差延・脱構築
リゾーム・欲望
雰囲気
崩す
作る
もし興味あれば、かなり面白い対比として
👉 ドゥルーズ vs 仏教(空・縁起)
👉 デリダ vs 龍樹
みたいな比較もできる。
👉 ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリは、ジャック・デリダよりも「直接的・実践的な政治性」が強い
これは多くの研究者も認めるところだ。
① そもそも活動が運動寄り
ガタリは精神分析家であると同時に、
反精神医学運動
左翼政治運動
にガッツリ関わっていた
だから『アンチ・オイディプス』や『千のプラトー』は
👉 理論=そのまま社会変革の装置
として書かれている
ドゥルーズ=ガタリは
国家(ストレートに批判)
資本主義(欲望の搾取装置として批判)
規範・家族・精神分析(抑圧装置として批判)
といったものに対して、
👉 「どう壊すか/どう逃走するか(逃走線)」を提示する
つまり
思想=武器
哲学=ゲリラ戦術
みたいなノリがある
彼らの核心はここ
👉 欲望は個人の内面ではなく「社会的・政治的に生産されるもの」
つまり
欲望=政治
無意識=社会構造
というかなりラディカルな立場
一方でデリダは政治に無関心ではない
むしろ晩年はかなり政治的(民主主義・正義など)だが…
① 基本スタイルが「解体(脱構築)」
デリダは
👉 既存の概念・言語・制度の内部矛盾を暴く
ロゴス中心主義
二項対立(中心/周縁など)
を揺さぶる
ドゥルーズ=ガタリが 👉「こう変えろ」
なのに対してデリダは
👉「そもそもその前提は成り立っているのか?」
というスタンス
だから
具体的な運動指針は出さない
倫理的・哲学的基盤を揺るがす
デリダにとって重要なのは
正義は決定できない
だからこそ責任が生まれる
👉 政治=永遠に未完の判断
観点
ドゥルーズ=ガタリ
デリダ
政治性
強い(実践的)
間接的(哲学的)
スタイル
攻撃・生成・逃走
解体・批判・揺らし
目標
新しい社会の創出
前提の脱構築
テンション
革命的・アクティブ
慎重・思考的
👉 ドゥルーズ=ガタリは「革命のエンジニア」
👉 デリダは「革命の前提を疑う哲学者」
この違いはかなり深くて、あなたがこれまで気にしている
龍樹(空)
デリダ(差延)
ローティ(反本質主義)
ともきれいにつながるテーマなんだよね。
もし興味あれば、 👉 「ドゥルーズ=ガタリはなぜあそこまで“肯定的”なのか」 👉 「デリダはなぜ“ためらう”のか」
ここを掘ると、さらに面白いところに入るよ。
👉 ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリは、かなり「ポジティブ(肯定的)」な思想家である
ただし、ここでいうポジティブは「楽観的」という意味ではない。むしろもっとラディカルな意味だ。
① 欠如ではなく「生産」としての欲望
普通(特にジークムント・フロイト的な考え)では
欲望=何かが足りない(欠如)
とされる
しかしドゥルーズ=ガタリは逆に言う
👉 欲望=何かを生み出す力(生産)
つまり
人間は「足りない存在」ではなく
常に何かを作り出している存在
ここが徹底的に肯定的
多くの哲学は
否定(ダメ・禁止・制限)
を軸にするが、彼らは違う
👉 世界は流動し、常に生成し続ける(生成変化)
有名なテーマで言えば
「動物になる(becoming-animal)」
「逃走線(line of flight)」
これは
👉 固定された自己から解放され、別のあり方へ開かれていく
という思想
彼らは確かに資本主義や国家を批判するけど、
目的は単なる否定ではない
👉 「どうすれば新しい流れが生まれるか」を探す
つまり
破壊のための破壊ではなく
新しい接続(アセンブラージュ)を作るための思考
ドゥルーズ
デリダ
ここが重要なポイント
彼らの肯定はかなり極端で、
👉 「何でも解放すればいい」と読めてしまう危険がある
実際に問題になるのは
欲望の暴走(ファシズムすら欲望の産物と見る)
自己の解体が行き過ぎる危険
つまり
👉 ポジティブだが、安全ではない思想
ジャック・デリダは
安易に肯定しない
常にためらう
決定不能性を抱え続ける
一方ドゥルーズ=ガタリは
👉 「とにかく生成せよ、流れろ」
この違いはかなり鮮明
👉 ドゥルーズ=ガタリ
= 「存在を肯定し、世界を増殖させる哲学」
👉 ただし
= その肯定は“制御不能なほど強い”
これ、かなり面白い対比になる:
龍樹 → すべて空(否定・解体)
デリダ → 差延(揺らし・保留)
ドゥルーズ → 生成(肯定・創造)
👉 否定 → 保留 → 肯定
という流れで見ると、一気に理解が深くなる
もし踏み込むなら次はここが核心:
👉 「なぜドゥルーズは“否定”を嫌ったのか?」
👉 「この肯定はニーチェとどうつながるのか?」
ここまで行くと、一段レベルが上がる話になるよ。
デイヴィッドソン
ローティ
解除証書(登記原因証明情報)、委任状、金融機関の資格証明、識別情報(権利証)が必要だ
登記識別情報は、アラビア数字その他の符号の組合せからなる12桁の符号(パスワード)で、不動産及び登記名義人となった申請人ごとに定められます。
この登記識別情報は、本人確認手段の一つであり、所有権を取得し名義人となった後に、別の所有権移転登記や抵当権設定登記等の手続きする際に使用することになります。
登記名義人本人による申請であることを登記官が確認するため、登記申請の際に、基本的にはご本人しか持っていない登記識別情報を登記所に提供することになります。
一念に因と果が俱[とも]に同時にそなわること。因果異時に対する語。ここでいう「因」とは、成仏の因となる修行(因行)、またその段階にある九界の衆生の生命境涯をさす。
永遠にズレ続ける
それが、差延だ
楽観論者だった
共通了解があるだけだ
客観的な真理に到達できるとしたフッサールは
楽観論者だった
■ 登記の目的とは
👉 「この登記で、何をするのか(どんな権利変動を公示するのか)」を示す項目
登記簿の中で、登記の“タイトル”のようなものです。
代表的なものを並べると一発でイメージできます👇
所有権関係
所有権保存
所有権移転
所有権更正
所有権抹消
抵当権設定
抵当権移転
抵当権変更
抵当権抹消
地上権設定
賃借権設定
地役権設定
① 「原因」とは別
登記の目的 → 何をするか
登記原因 → なぜそうなったか
例:
目的:所有権移転
原因:売買
登記申請ではこれを間違えるとアウト
👉 内容の根幹なので補正・却下リスクあり
登記簿ではこんな感じ👇
目的:所有権移転
原因:令和◯年◯月◯日売買
👉 「どの権利をどう動かす登記か」を示すラベル
必要なら、
「登記原因との違いをもっと深く」
「抵当権の登記目的を実務レベルで整理」
などもかなり重要なので、そこも解説できます。
少し踏み込んで整理します。
■ 登記の目的 vs 登記原因(本質理解)
● 結論から
👉 目的=法律効果(何が起きるか)
👉 原因=法律原因(なぜ起きたか)
例① 売買
目的:所有権移転
原因:売買
👉
目的 → 「所有権がA→Bに移った」
原因 → 「その理由は売買」
目的:所有権移転
原因:相続
👉 同じ「移転」でも原因が違う
目的:抵当権設定
原因:令和○年○月○日金銭消費貸借
👉
目的 → 担保がついた
原因 → お金を借りたから
① 目的は“物権変動そのもの”
👉 登記は「物権の変動」を公示する制度
つまり
所有権が移る
抵当権がつく
👉 これが「目的」
👉 売買・贈与・相続・弁済など
つまり
契約
法律事実
👉 これが「原因」
ここが本質です👇
👉 同じ結果でも理由が違うから
結果(目的)
理由(原因)
所有権移転
売買
所有権移転
贈与
所有権移転
相続
👉
登記は「結果」を表示しつつ
「原因」で裏付ける構造
● 原因の書き方は厳密
例:
「売買」だけではダメ
👉 日付が必要
👉「令和○年○月○日売買」
原因
添付書類
売買
売買契約書
相続
戸籍一式
贈与
贈与契約書
👉 実務ではここが一番重要
例:
目的:所有権移転
原因:弁済
👉 意味不明 → 却下レベル
ここはさらに重要なのでまとめます👇
● 設定時
目的:抵当権設定
原因:金銭消費貸借(+設定契約)
目的:抵当権移転
原因:譲渡・相続など
目的:抵当権変更
原因:契約変更
例:
債務者変更
極度額変更(根抵当権)
目的:抵当権抹消
原因:弁済
👉 銀行実務ここが核心
● 登記の構造(超本質)
👉 登記はこの2層構造
① 権利変動(目的)
② その根拠(原因)
👉 目的=外に見せる結果
👉 原因=その裏のストーリー
ここまで理解できると、次はかなり面白い領域に入れます👇
「解除証書と原因の関係」
「金消契約書で抹消できるか問題」
「原因証明情報の正体」
このあたり、実務ではかなり深いので、続けていきますか?
登記の目的とは
権利変動
原因 令和◯年◯月◯日金銭消費貸借
原因 令和◯年◯月◯日 金銭消費貸借
原因 令和◯年◯月◯日 金銭消費貸借
華厳経(けごんきょう): 華厳思想の根本経典。
華厳宗(けごんしゅう): 東大寺を大本山とする宗派。
重重無尽(じゅうじゅうむじん)の縁起: 無限の要素が相互に依存し、繋がり合っている世界観。
一即一切・一切一即(いっそくいっさい): 「一つはすべて、すべては一つ」という不二の概念。
事事無礙(じじむげ)法界: すべての事象が互いに妨げなく融合し、調和している最高次の世界。
雑華厳飾(ぞうけごんじょく): 華が世界を飾るように、多様なものが序列なく存在している様子。
十玄門(じゅうげんもん): 華厳の深い理法を説明した10の観点。
法蔵(ほうぞう): 華厳宗の事実上の開祖。
華厳の滝(けごんのたき): 日光にある名瀑。名僧・勝道上人が発見。
東大寺(奈良): 華厳宗の大本山。
盧舎那仏(るしゃなぶつ): 華厳経における宇宙そのものを体現する仏。
「華厳」は、仏教的には「多くの徳(華)で仏の位を飾る」修行や、相互調和の世界を指す。
コレくらいダラダラ過ごすのもいい
仏になりきる
三密加持して仏になりきる
よく解る
やってる場合じゃないユダが
三密加持して仏になりきるという宗教
三密加持して仏になりきるという宗教
三密加持して仏になりきるという宗教
「異なりながら同じ」の感覚:物事を別々の存在として区別しつつも、それらが深いところで相互依存・接続している「縁起」のネットワークを感じ取る。
直観と即時的把握:情報を順を追って処理するのではなく、空間全体や全体像を瞬時に把握する。
「法界(存在の全域)」の視点:あらゆる存在が互いに関係し合っている全域的な場において、意味を見出す。
特徴ロゴス的知性レンマ的知性(Lemma)主な機能分析、論理、順序立て、言語化直観、総合、全体把握、意味の飛躍世界観要素に分割・構造化する全体・つながりを捉える時間線形(過去→現在→未来)非線形(同時性・包括)由来古代ギリシャ(理性)仏教の「縁起」「般若」
『レンマ学』(中沢新一著):西洋的なロゴス偏重の現代社会に対し、東洋思想(仏教)の「縁起」論を再評価し、レンマ的知性を現代の知のシステムに組み込もうとする試み。
アーラヤ織(阿頼耶識):レンマ的知性とロゴス的知性の混合体であり、私たちの無意識の深層で働く「縁起の論理」。
ま、チベット密教の案内の本は読んだことがあるな
😀
ハッスル🤡も
熱いな?
😀
俺は風邪か不明の軽い咳が一週間あった
😀
ほぼ修行で超瞑想仏教の達人化しているかなー
😀
圧倒的に疲労回復力が素早くなった
😀
中国インド的瞑想仏教以外をチョイスするという
😀
すぐ夏になる
仁和寺突撃で
研究は仁和寺情報に絞る
😀
地下鉄ある駅でないと販売してないので
最初、地下鉄ある駅で降りないといけない😀
仁和寺に行けるのか~😆
😀
資金がなくとも、余り時間で六波羅蜜寺と六道珍皇寺は境内だけでも入るプラン
😀
京都に行く機会はなかなか無いか
関東に住んでいるが、鎌倉や房総は遠い😫
メチャ遠い
モスクがあるのか〜
いつか寄りたいな〜
マスジドイスティクラル大阪
キリスト教は「制度宗教」「伝統宗教」と見られがちですが、実際にはかなり強いスピリチュアル(霊的体験)要素を持っています。
イエス・キリストの活動そのものが、単なる教義説明ではなく、
神との直接的な交わり
癒し
奇跡
悪霊払い
祈りによる変容
復活体験
など、「霊的出来事」に満ちています。
つまり始まりからして、かなり体験宗教です。
特に重要なのが聖霊です。
聖霊は単なる象徴ではなく、
内面を変える力
導き
恵み
インスピレーション
賜物(癒し・預言・異言など)
として理解されます。これはかなりスピリチュアル的です。
歴史上、キリスト教には深い神秘思想があります。
アウグスティヌス
マイスター・エックハルト
テレサ・アビラ
十字架のヨハネ
彼らは「神を知る」とは理屈ではなく、深い内的体験だと語りました。
現代のスピリチュアル文化は「自分の感覚」を重視しやすいですが、キリスト教は通常、
啓示
聖書
教会共同体
伝統
倫理
の枠組みの中で霊性を理解します。
ここが、個人中心のスピリチュアルとの違いです。
キリスト教は、
外側は制度宗教、内側は霊的体験の宗教
とも言えます。
儀式・教義・教会制度だけを見ると固く見えますが、核心部にはかなり強い“神との生きた交わり”があります。
あなたが感じた「意外とスピリチュアル要素が強い」は、かなり鋭い観察です。
仏教と類似点と違いを
見るには良い
ハイレベルなプロテスタント動画をプレゼントだ
😀
https://m.youtube.com/watch?v=IUQla-TCNmg
キリスト教サイドから
ハッスル、ムイムイ、デンパパあたりの
問題提示でもあるんじゃね?😀
😀
https://m.youtube.com/watch?v=IjCMFSPsVhI&pp=0gcJCdMKAYcqIYzv
😀
偶然上がっていた
😀
素晴らしいな?😆
😀
私たちは人生の決断を振り返り、その決断は御心ではなかったのではないかと苛まれることがあります。もし本当に御心ではなかったのであれば、なぜ主は私の行動を止めなかったのかとさえ考えることがあります。
しかしキリストの愛に眼が開かれる時、主は決して冷ややかに沈黙して見過ごされていたのではなく、私の選択を尊重されていたのではないかという理解に導かれます。主は強制的に進路を閉ざすのではなく、自由の中で選ばせ、その選択の中で私を形造る道を選ばれたのではないかと気づかされます。
主の贖いは、罪の赦しにとどまりません。それは人生の選択の中にまで入り込み、たとえ未熟で動機の混在した決断であっても、それを用いて人を整えていく力です。主の贖いは、出来事をなかったことにするのではなく、出来事の意味を変えます。そして人の物語を書き換えます。その時後悔は感謝へ、痛みは証しへと変わり、主の沈黙は導きだったと知ります。そこに主の主権と恵みがあります。
✨クリスチャンライフ学院 出願随時募集中!
https://christianlife.jp/
神はモーセに仰せられた。「わたしは『わたしはある』という者である。」また仰せられた。「あなたはイスラエルの子らに、こう言わなければならない。『わたしはある』という方が私をあなたがたのところに遣わされた、と。」
神はさらにモーセに仰せられた。「イスラエルの子らに、こう言え。『あなたがたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主が、あなたがたのところに私を遣わされた』と。これが永遠にわたしの名である。これが代々にわたり、わたしの呼び名である。"(出エジプト記 3章13~15節)
人は自分に囚われるほど惨めになります。なぜなら、人は自分の内側で完結するようには造られておらず、神と他者に向かって開かれた存在だからです。自分を土台から降ろし、キリストを土台とする足場に移動する時、私たちはキリストにあって初めて「自分」から解放され、本来のいのちに生きることができます。クリスチャンメンターはその手助けを行う役目を担っています。
✨クリスチャンライフ学院 出願随時募集中!
https://christianlife.jp/
イエス・キリストとは何かの
本質的イメージを理解できたな?
既存のプロテスタント神学は
その発想がないので崩壊しつつある
日本西欧でも
トランプ下のアメリカもカウントダウンだろう
😱
😀
村上宗隆選手を中心とした攻撃と安定した投手陣が好調の要因とされています。
> 村上宗隆選手を中心とした攻撃と安定した投手陣が好調の要因とされています。
最後の1文が間違っとる😅
多くの専門家が下馬評で「最下位候補」に挙げていた中、池山隆寛監督のもと、投打がかみ合い、特に12球団トップの防御率を誇る救援陣の奮闘が快進撃の要因となっています。
著者と背景:親鸞聖人(1173~1262)の直弟子・唯円が、親鸞の滅後に浄土真宗の教団内に湧き上がった異義・異端(誤った解釈)を嘆いた(=「異を歎(なげ)く」)書。
特徴:師の言葉を直接記録しているため、短いながらも親鸞の心髄に触れる内容。
核心的な教え:「悪人正機」—自らの善を誇る者(善人)よりも、救われる力のない者(悪人)こそが如来の本願(救い)の対象である。
幸福論:摂取不捨(せっしゅふしゃ)の利益、すなわち絶対に見捨てられない幸福を説く。
現代的意義:誤った信念や迷いの中で、本当の安らぎが何かを示す人間哲学の書としても読まれている。
「悪人正機(あくにんしょうき)」説
「善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや(善人でさえ救われるのだから、悪人はなおさら救われる)」という言葉が有名。
自らの善行を誇る人(自力)よりも、自らの中に善を見出せない、煩悩深い悪人こそが阿弥陀仏の救いの本尊であると説く。
人間の力(自力)による修行や功徳で救われるのではなく、阿弥陀仏の「必ず救う」という本願(他力)にただ身を任せ、念仏を唱えることを重視。
自らの計算や計らい(無義)を捨てることが真の信心である。
「悪人正機(あくにんしょうき)」説
「善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや(善人でさえ救われるのだから、悪人はなおさら救われる)」という言葉が有名。
自らの善行を誇る人(自力)よりも、自らの中に善を見出せない、煩悩深い悪人こそが阿弥陀仏の救いの本尊であると説く。
人間の力(自力)による修行や功徳で救われるのではなく、阿弥陀仏の「必ず救う」という本願(他力)にただ身を任せ、念仏を唱えることを重視。
自らの計算や計らい(無義)を捨てることが真の信心である。
「私は弟子を一人も持たない」と語った親鸞の、師弟関係に依存しない信仰のあり方。
「念仏を喜ぶ心があれば、それで十分」という、形式や善悪の判断に縛られない教え。
「念仏を唱えればいくら悪を働いても良い」といった「造悪無碍(ぞうあくむげ)」や、自身の善行を誇る「賢善精進(けんぜんしょうじん)」の偏りを批判。
純粋な信仰の道に帰るよう呼びかける(「歎異」=異を嘆く、の意)。
著者:親鸞の門弟・唯円(ゆいえん)。
構成:前半(1~10条:親鸞の言葉)と後半(11~18条:親鸞の教えと異なる説の批判)に分かれる。
背景:親鸞没後、関東の門弟の間で教えが異なって伝えられていたことに危機感を覚え、鎌倉時代後期に書かれた。
定義: 阿弥陀仏の真実の功徳によって成就された、真実のさとりを開く世界。
往生する人: 本願を信じ、真実の信心を得た念仏者。
特徴: 「真実報土(しんじつほうど)」とも呼ばれ、ここに至れば迷いの世界へ戻ることはない。
定義: 諸仏が衆生を導くために仮に現した方便(手段)としての浄土。
往生する人: 疑い心を持ちながらも念仏した(信心が不十分な)人。第十七条では、疑心があっても念仏すれば、一旦はここに生まれると説く。
特徴: 「仮土(けど)」とも呼ばれる。ここに生まれた後、最終的には真仏土へと導かれる。
『歎異抄』は、弥陀の救いに確信を持てない人であっても、念仏を称えれば最終的には真実の浄土(真仏土)に往生できるという、親鸞の「絶対他力」の慈悲を強調する文脈で、これらの概念を引用しています。
特に、『教行信証』の第5巻「真仏土巻」、第6巻「化身土巻」に詳細に記述されています。
なぜ方便化身土巻が著わされたのだろうか?
https://syuronoki.blog.jp/archives/1080563062.html
わたしは数多い仏の国土の中でも、誰でも往けるという阿弥陀如来の浄土が極楽だと聞いて、そこへ往きたいと思った。如来像を買い、毎日念仏を称え、お寺に沢山のお布施をし、亡父母を供養し、如来が喜んでくれるだろうからと善い行いもした。「よし、できる限りのことをやった。これだけやれば大丈夫だろう」と思った。そして目が覚め、周りを見ると黄金の宮殿や楼閣(ろうかく)や七宝の輝きを放つ池や光の中から清らかな風が楽器を奏でるように吹き渡っている。「ああ、運よく極楽浄土に来たぞ」と喜んだ。そして何日も何日も過ごしているうちに、何か変だぞと感じた。そういえば、周りの人は怠惰でやる気がなさそうなボーとしている人ばかりだ。仏や菩薩どころか尊いお話をする聖者も見当たらない。建物や風景は見事で清らかなんだけれども、毎日のことで別に楽しいことでもなくなった。
やはり仏のお話や別の仏国土にも行ってみたい。それで少し旅をすることにした。けれども行けども行けども、どうも同じところをぐるぐる回っているような感じだ。くたびれ果てて石の上に座っていると、これまたボーとした人が来た。彼に聞いた。「ここは本当に如来の浄土なんですか」。生気のない目をしたその人はこういった。「そう如来の浄土ですよ。けれども本当の真実浄土ではありません。ここは方便化土という仮の浄土なんです」。「え~、まじですか!」。結局、わたしはここで500年間も惰性的な生活を送ってしまったのだった。何が間違っていたのか。
大無量寿経(大経)は、阿弥陀如来の浄土(西方浄土・安楽国)があるが、如来の智慧を疑ったり、功徳によって往こうとしたり、罪の報いを恐れて念仏したりする人は、同じ浄土でも、その「辺地の宮殿」(胎生)に生まれるに留まると説いています。上述の浄土がまさにそうだったのです。かの親鸞さんは、この「辺地の宮殿」(化身土:けしんど)について教行信証の第6巻で詳しく説明しています。法然さんをはじめ他の浄土教の高僧たちは、「辺地の宮殿」についてはほとんど詳説していません。なぜ親鸞さんはこの「化身土」を詳しく語ったのか。この化身土にはどんな意味があるのか。化身土については当ブログ(2016年7月12日付)でも紹介しておりますけれども、親鸞教義の重要な項目でもありますので、さらに調べてみました。
修行する時間を設定したんじゃね?
知らんけど
😀
まじめに読んでないなー
日蓮宗よりも
😀
日蓮のほうが
内容が謎たったからだな
😀
汚泥オー!汚泥オー!泥!泥!オー!😀
(ひらがな訳)
おでいおー!おでいおー!でい!でい!おー!😀💮
ドミンゴ・サンタナ
この2人がいることで
👉「打つ野球」が成立
吉村貢司郎
奥川恭伸
小川泰弘
若手+実績組がバランス良く回っている
特に吉村はエース候補として成長中
ChatGPT:結論から言うと——
優勝の可能性は「普通にある」どころか、現時点では“有力候補の一つ”です。
ただし、「本命」とまではまだ言い切れない。ここがリアルな評価。
東京ヤクルトスワローズは
2026年4月時点で👇
13勝5敗・勝率.722で首位 �
ドラフト NPB
2位の阪神タイガースと僅差
👉 つまり
「優勝争いの中心にいる状態」
① 勝ち方が安定している
打線:点が取れる
投手:試合を壊さない
👉 これは“上振れ”じゃなくて再現性がある強さ
② 走攻守のバランスがいい
機動力あり
長打もある
先発も崩壊していない
👉 セリーグではかなり理想形
③ すでに「貯金」を作っている
シーズン序盤での貯金はかなり重要
👉 後半に多少落ちても耐えられる
① 投手層の“厚み”はまだ未知
先発が1~2枚崩れると一気に苦しくなる
夏場に疲労が出る可能性
👉 ここが最大の不安点
② 阪神が強い(これデカい)
阪神タイガースは
投手力がリーグトップクラス
接戦に強い
👉 ヤクルト vs 阪神の一騎打ちになりやすい
③ シーズンは長すぎる(143試合)
今はまだ20試合弱
👉 “まだ序章”に過ぎない
かなりざっくりだが👇
ヤクルト:30~40%
阪神:30~40%
その他(巨人など):20~30%
👉 完全な独走ではなく
「三つ巴~二強」構図
ヤクルトは今👇
👉 「優勝できる条件は揃っている」
👉 ただし
👉 「投手が持つかどうか」で決まるチーム
もし踏み込むなら
「優勝するパターン」
「失速するパターン」
これ、かなりはっきり分かれるから、そこも分析できる。
■ 優勝するパターン(勝ち筋)
これはかなり明確👇
① 先発ローテが“崩れない”
5~6人がローテ維持
防御率3点台前半で回る
👉 これが成立すると
試合の7割は勝負になる
※今はチーム防御率が大幅改善してるのが大きい �
誰か1人に依存しない
上位~下位までつながる
👉 これが維持されると
連敗しにくいチームになる
これは優勝するチームの典型パターン👇
外国人が当たり(サンタナ級)
若手が覚醒(奥川・吉村タイプ)
👉 いわゆる
**「予測外の上振れ」**が1~2枚出ると一気に優勝ラインへ
ヤクルトは毎年ここが鬼門
👉 ここを
5割前後で乗り切る
→ 9月勝負に持ち込める
👉 「投手が壊れない+誰かが覚醒」
これが揃えば
→ そのまま優勝まで行く
こっちはもっとリアルでシビア👇
① 先発が2枚崩れる
ケガ or 不調
イニング食えない
👉 こうなると
中継ぎが崩壊 → 一気に連敗モード
今の打撃はやや上振れ気味
(例:打率 .276 → 昨年 .234) �
👉 これが落ちると
得点力低下
接戦で負ける
阪神タイガースが最大の壁
👉 ここで負けると
優勝=ほぼ消滅
特に投手 or 中軸
👉 ヤクルトは層が厚いチームではない
→ 1~2人抜けると戦力激減
👉 「投手崩壊 or 打線収束」
これが起きると
→ 一気にBクラスまで落ちる可能性すらある
華厳のケの字も知らんかったが
奈良仏教ツアー
基本トーク板仏教は
俺と盤珪路線連中以外は
基本ジャンク
成長しない
😀
ウ〜〜マンボ!😀
デーオ!デーオ!ルンバでGO!😀
泥!泥!マンボでオー!😀
律宗と天台宗の関係
律宗と天台宗の関係は、かなり深いです。
一言でいえば、
「律宗が守っていた戒律の伝統を、天台宗が再編した」
という関係です。
律宗は、奈良仏教の一つで、
「戒律(律)」を中心にした宗派
です。
中心は、鑑真が唐から伝えた
四分律(小乗戒)でした。
出家僧はこう生活する
何をしてはいけない
僧団をどう維持する
を厳密に守る宗派です。
東大寺・唐招提寺が重要拠点でした。
最澄は、これに強い不満を持ちました。
なぜなら、
奈良の律は
「小乗の戒」
であって、
大乗仏教の理想にふさわしくない
と考えたからです。
最澄はこう主張しました。
大乗仏教には
大乗の戒が必要だ
つまり
四分律 → 梵網経の菩薩戒
への転換です。
これが有名な
大乗戒壇設立
です。
奈良の東大寺まで行かなくてよい
とした。
これは奈良仏教、とくに律宗への大挑戦でした。
当然、律宗は激しく反発しました。
「正式な僧は四分律でしか成立しない」
という立場だからです。
ここで
南都(奈良) vs 比叡山(天台)
の大論争が起こります。
最終的に、
朝廷は比叡山の
大乗戒壇
を認めました。
これで
天台宗は奈良仏教から独立した宗派
になります。
これは日本仏教史の大事件です。
後の
浄土宗
禅宗
日蓮宗
など、多くの鎌倉仏教は
ほぼ全部
天台宗経由
です。
律宗 → 古い僧団制度
天台宗 → 新しい日本仏教の出発点
とも言えます
律宗 = ルール重視
天台宗 = 理想重視
です。
「ルールのための仏教ではなく
悟りのための戒であるべきだ」
と考えたわけです。
律宗の系統をたどると、
インドの部派仏教 → 中国の律学 → 日本の南都六宗の一つ
という流れになります。
もともと釈尊の教団には
僧団の規則(律)がありました。
部派仏教の時代になると、各部派ごとに律が整理され、
十誦律(説一切有部系)
五分律(化地部系)
摩訶僧祇律(大衆部系)
四分律(法蔵部系)
などが成立します。
日本の律宗が重視したのは
この四分律です。
中国では、道宣が
四分律を中心に体系化し、
南山律宗
を成立させました。
だから日本の律宗は、
法蔵部 → 四分律 → 南山律宗
という系統です。
鑑真が
唐から来日し、
東大寺に戒壇を設けて
正式な受戒制度を整えました。
これが日本律宗の基礎です。
叡尊が
戒律復興を行い、
真言律宗
へつながっていきます。
釈尊の僧団
↓
部派仏教(法蔵部)
↓
四分律
↓
中国・南山律宗(道宣)
↓
鑑真
↓
日本律宗
↓
叡尊(真言律宗)
律宗は「宗派」というより
僧侶になるための制度そのもの
に近いです。
法相宗でも
華厳宗でも
三論宗でも
正式な僧になるには
律宗の戒壇で受戒が必要でした。
ここが他宗とかなり違うところです。
はい、かなり強く東大寺が中心でした。
ただし、正確には
律宗そのものの本拠 = 東大寺の戒壇院
+
代表的寺院 = 唐招提寺
という形です。
鑑真が来日したあと、
聖武天皇の国家仏教政策の中で、
東大寺に
日本初の正式な戒壇(授戒の場)
が設けられました。
ここで受戒しないと、
正式な僧として認められにくかった。
つまり東大寺は
全国僧侶の「資格試験会場」
みたいな存在です。
だから律宗の制度的中心は東大寺でした。
一方で、唐招提寺は
鑑真自身が開いた寺で、
こちらは
律学研究の本山
という性格が強いです。
なので
東大寺 = 国家の戒壇センター
唐招提寺 = 律宗教学の本拠
と見るとわかりやすいです。
平安時代になると
最澄の天台宗が
「東大寺まで行かずに
比叡山で大乗戒を授けたい」
と言い出し、
東大寺中心の制度が揺らぎます。
これが
南都(東大寺) vs 比叡山(天台)
の大論争になります。
制度の中心 → 東大寺
精神的祖庭 → 唐招提寺
です。
律宗は、他の
法相宗
華厳宗
三論宗
のように
「この経典を中心に、この思想を学ぶ」
という宗派というより、
僧団を成立させるためのルール管理機構
に近いです。
法相宗 = 法学部
華厳宗 = 哲学部
天台宗 = 総合大学
律宗 = 国家資格試験センター
みたいな感じです。
「僧として正式に認められるか」
を扱う。
だから強い。
仏教では
勝手に僧を名乗ってはいけない
からです。
正式な受戒
↓
戒壇
↓
律の承認
が必要でした。
なぜそんなに重要か
仏教では
勝手に僧を名乗ってはいけない
からです。
正式な受戒
↓
戒壇
↓
律の承認
が必要でした。
つまり
律宗を押さえる者が
仏教界の制度を押さえる。
これは非常に大きい。
だから最澄が
「比叡山だけで僧を作りたい」
と言った時、
本当に戦った相手は
法相宗でも華厳宗でもなく、
実は
東大寺の律のシステム
だったわけです。
律宗は
思想の宗派
というより
仏教界のインフラ
です。
これが非常に面白いところです。
仏教界の制度を押さえる。
これは非常に大きい。
だから最澄が
「比叡山だけで僧を作りたい」
と言った時、
本当に戦った相手は
法相宗でも華厳宗でもなく、
実は
東大寺の律のシステム
だったわけです。
律宗は
思想の宗派
というより
仏教界のインフラ
です。
これが非常に面白いところです。
東大寺を中心とする仏教国家
やはり
大仏
が圧倒的だからです。
東大寺大仏殿の存在感が強すぎて、
奈良仏教全体 = 東大寺
のように見えやすい。
東大寺 → 華厳・律
興福寺 → 法相
元興寺 → 三論・法相系
大安寺 → 三論・密教先駆
など、かなり分かれていました。
奈良時代は
「この寺はこの宗派だけ」
というより
一つの大寺に複数の教学が共存
していました。
だから
厳密には
「宗派の寺」
というより
「国家運営の学問センター」
に近いです。
そうだったか
AIにはなさそうだ
ま、律宗なんて、マニアックな教義を知り合い需要が日本人にないだろしなー
😀
修正
😀
確かに
鑑真と天台宗の関係については
「そのような情報はありません」
と言ってたな
鑑真は唐代の僧で、日本の「律宗」の祖(唐招提寺開祖)として戒律を伝えただけでなく、中国で学んだ天台宗の教義や聖典も日本へ伝え、最澄の天台宗開宗に大きな影響を与えた人物です。戒律の「律宗」と大乗仏教の「天台宗」の二面性を持つ、日本仏教の礎を築いた僧です。
中国での修学:鑑真は揚州大雲寺などで、律宗(四分律)と同時に天台宗の経典や教義を深く学びました。
天台経典の伝来:来日の際、天台宗の祖・智顗が教えた大乗仏教の経典や多くの書物を持ち込み、日本に天台の教えをもたらしました。
最澄への影響:最澄は鑑真が伝えた天台関係の書籍を唐招提寺で閲覧し、天台宗を学ぶ決意を固めたと言われています。
戒律(律宗)の定着:正式な受戒制度を日本に伝え、唐招提寺を建立しました。
多面的な知識:律宗、天台宗のほか、密教や浄土教の要素も日本にもたらしました。
鑑真は、天台的な思想的土壌(大乗仏教)を背景に、戒律という実践的な側面を日本に導入し、その後の日本仏教の発展に寄与しました。
最澄や空海が唐に渡ろうと決意した背景には、
渡来僧がもたらした多くの経典がありました。
7世紀から8世紀にかけて多くの渡来僧が日本に渡りましたが、
その中で最も大物は、有名な鑑真です。
同時に中国天台宗も深く学んでいました。
さらに密教や浄土教も学んでいました。
単なる学僧のレベルを超えて、鑑真はその当時の主要な中国仏教に精通した大学者でもあったのです。
正しい戒律のあり方を日本僧に教え、正式の受戒を日本でもできるようにすることでした。
鑑真はその期待に応えるべく尽力しましたが、
同時に大乗仏教系の多くの経典も日本にもたらしたのです。
空海も密教を学ぶにあたって鑑真がもたらした経典を見た可能性があります。
さらには、鑑真は浄土教の教えを日本で初めて紹介。
これが平安時代に入ってからの浄土教の広がりにつながりました。
鑑真は、日本仏教の広がりの大本になる「種」を撒いたのです。
😀
今夜は眠れないかと思っていたが
あるものが、本来結びついていた場所・秩序・意味の体系から引きはがされ、流動化すること を指します。
「領土」といっても、国境だけの話ではありません。
ここでいう領土とは、
社会のルール
家族の役割
国家制度
アイデンティティ
言語の意味
習慣や価値観
など、
「ここに属している」 「こうあるべきだ」
という安定した配置全体のことです。
これが 領土化(territorialization)。
たとえば
父はこうあるべき
学校とはこういう場所
国家とはこういうもの
こうした固定化です。
それが崩れ、
境界が曖昧になる
役割が流動化する
意味がズレる
中心がなくなる
別の場所へ接続される
これが 脱領土化。
たとえば
インターネット
知識が大学から解放される
グローバル資本主義
労働・資本・文化が国境を超える
現代アート
「これは芸術なのか?」が揺らぐ
アイデンティティ
国籍・性別・職業が固定されなくなる
重要なのは、
脱領土化のあとには、再領土化(reterritorialization)が起こる
ということです。
壊れたものは、別の形でまた固定される。
たとえば
SNSは自由に見えて、
アルゴリズムや承認欲求が 新しい「領土」になる。
A Thousand Plateausでは、
世界は木のような階層構造ではなく、
地下茎(rhizome)のように 無数に接続し続けるものだ
とされます。
脱領土化とは、
この「根を抜かれて移動し続ける運動」 そのものです。
以前あなたが言った
rhizome looks like internet
difference and repetition looks like DNA
これはかなり鋭い。
まさに
DNA → 固定された個体を超えて複製・変異する
インターネット → 中心を持たない接続網
これらは脱領土化のイメージに近いです。
脱領土化とは、「ものが本来いた場所から逃走すること」
です。
そして哲学的には
存在とは、固定ではなく、逃走線(line of flight)である
という発想につながります。
仏教の話をしているときより
ずっと、切れ味するどいな
英語でモノを考えている
結果を日本語に翻訳している
そういう状況だ
「再領土化」とは、5月革命の挫折を意味するのではないか?
May 1968 events in France(いわゆる「パリ五月革命」)は、Gilles DeleuzeやFélix Guattariにとって、まさに「脱領土化」の歴史的経験そのものでした。
五月革命=脱領土化
大学制度
家父長制
資本主義
国家権力
既成左翼(共産党も含む)
こうした既存の「秩序=領土」に対して一斉に揺さぶりをかけた。
つまり
「こうあるべきだ」という配置が崩れた。
これが脱領土化です。
だから彼らは、革命を
「国家権力の奪取」ではなく、
欲望そのものの解放
として捉えました。
しかし運動は、
ド・ゴール政権の持続
選挙による体制の回復
共産党の制度内回収
消費社会への吸収
によって収束した。
革命のエネルギーは
別の秩序に回収されてしまう。
これが再領土化です。
つまり
革命が失敗した
というより
革命の力が、別の形で制度化された
という理解です。
普通の左翼史観だと
「革命は敗北した」
ですが、
ドゥルーズ=ガタリは
脱領土化そのものは消えない
と考えます。
一度生じた「逃走線」は、 必ずどこかに残る。
制度は回収しても、
欲望の変化までは完全には戻せない。
ここが重要です。
五月革命は失敗したが、
性の自由化
権威への不信
学生文化
マイノリティ運動
中央集権への懐疑
は、その後の社会に残った。
つまり
政治革命は敗北しても
存在論的革命は続いている。
非常にドゥルーズ的に言うと
革命とは、成功することではない
生成変化を起こすことである
です。
馬鹿だネ マヌケなピエロ🤡
宗教が泥オーだけを変える😀
ただ一人立ちつくすだけサ〜😀
脱領土化=五月革命
再領土化=その挫折
これは、かなり核心を突いています。
むしろ
『Anti-Oedipus』は、その経験の哲学化そのものです。
ムイムイ~😆
回答:そうです。
1968年前後は、日本でも学生運動・新左翼運動が最高潮に達した時期で、1968–1969 Japanese university protestsやUniversity of Tokyo Yasuda Auditorium Incidentが象徴的です。
同じ年に
フランス → May 1968 events in France
アメリカ → ベトナム反戦運動・公民権運動
チェコ → Prague Spring
日本 → 全共闘・大学闘争
が起きている。
これは偶然ではなく、
戦後の高度成長と管理社会に対する
若者の世界的反乱でした。
特に象徴的なのが
全共闘(全学共闘会議)
です。
彼らは
大学の管理体制
国家権力
日米安保
資本主義
日本共産党の官僚主義
に反発した。
つまり
既成秩序にも
既成左翼にも反抗した。
ここがフランスと非常に似ています。
これはまさに
制度への反乱ではなく、主体そのものの変容
でした。
だから
ヘルメット
ゲバ棒
バリケード
だけを見ると本質を外します。
重要なのは
「大学とは何か」
「国家とは何か」
「自分とは何か」
を根底から問い直したこと。
これは脱領土化そのものです。
やがて
内ゲバ
過激派化
社会的孤立
就職社会への吸収
によって運動は崩れていく。
これもまた再領土化。
フランスと非常によく似ています。
フランスでは
五月革命 → 思想化
(ドゥルーズ、Michel Foucault など)
日本では
全共闘 → 自己否定・総括
(連合赤軍的な方向)
へ進みやすかった。
この差はかなり大きい。
つまり
1968年は
単なる「左翼運動」ではなく、
近代そのものに対する若者の哲学的反乱
だった、
と言ったほうが本質に近いです。
ソ連軍がチェコスロバキアに攻め込んだんだっけ?
回答:その通りです。
Prague Springは1968年、Czechoslovakiaで起きた改革運動で、最終的にWarsaw Pact invasion of Czechoslovakiaによって押しつぶされました。
指導者のAlexander Dubčekは
「人間の顔をした社会主義」
を掲げました。
つまり
言論の自由を広げる
検閲を緩める
経済改革を進める
民主化を進める
しかし
共産主義そのものを捨てるのではなく、
ソ連型の硬直した社会主義を改革する
ことを目指した。
Soviet Unionはこれを
「東欧全体への危険な波及」
と見た。
もしチェコが自由化すれば、
ポーランド
ハンガリー
東ドイツ
にも連鎖する。
そこで1968年8月、
Warsaw Pact軍 (実質的にはソ連軍)が侵攻しました。
戦車がPragueに入った。
これが有名な場面です。
これは西側だけでなく、
西欧の左翼知識人にも大きな衝撃でした。
「社会主義の理想」と
「ソ連の現実」が完全にズレた。
そのため
フランス共産党への失望
ソ連離れ
新左翼の台頭
が加速します。
つまり
五月革命とも深くつながる。
プラハの春は
国家社会主義の再領土化に対する脱領土化
でした。
しかし
ソ連軍の侵攻は
その脱領土化を力で押し戻す
巨大な再領土化だった。
1968年の象徴
だから1968年は
パリ → 下からの反乱
東京 → 学生反乱
プラハ → 社会主義内部からの改革
という、
異なる場所で同時に
「既存秩序が揺れた年」
だったわけです。
回答:まさにそうです。
1968年はしばしば、Revolutions of 1848(「諸国民の春」)と並べて語られます。
どちらも
世界同時多発的に、既存秩序が揺らいだ年
だったからです。
ヨーロッパ各地で
フランスの二月革命
ドイツ諸邦の自由主義運動
オーストリア帝国への反乱
ハンガリー独立運動
イタリア統一運動
が連鎖的に起こった。
キーワードは
自由
国民国家
立憲政治
市民革命
つまり
近代国家を作る革命
でした。
こちらは
フランス五月革命
プラハの春
日本の全共闘
アメリカ反戦運動
など。
キーワードは
管理社会への反抗
欲望の解放
権威の否定
既成左翼への反乱
つまり
近代そのものを問い直す革命
でした。
1848年は
国家を作れ
1968年は
国家を疑え
という感じです。
1848年は
近代の誕生
1968年は
近代の自己批判
と言ってもよい。
しかもKarl MarxとFriedrich Engelsの The Communist Manifestoが出たのも1848年。
だから1848年は
「革命の世紀」の開幕。
そして1968年は
そのマルクス主義そのものが問い直された年。
ここが非常に象徴的です。
1848年は
新しい領土を作る革命
1968年は
領土そのものを溶かす革命
です。
かなり大胆に言えば
1848がヘーゲル的革命なら
1968はドゥルーズ的革命
とも言えます。
じつにイキイキしている(笑)
明らかに切れ味が鋭い
明らかに、まずは英語サイトを参照している
1968年の五月革命(フランスの学生・労働者の大規模蜂起)は、フーコーに大きな影響を与えました。
彼はそれ以前、やや学究的な歴史研究者でしたが、この時期以後は
監獄
精神病院
学校
軍隊
性の規範
など、「国家が人間をどう管理するか」を強く問題にするようになります。
つまり
「革命で国家を奪う」よりも
「日常に染み込んだ権力をどう見るか」
へ関心が移った。
これは古典的マルクス主義とはかなり違います。
1971年、フーコーは
Prisons Information Group(監獄情報グループ)
を作りました。
これは囚人の待遇改善を求める運動で、
「知識人が囚人を代表して語る」
のではなく
「囚人自身に語らせる」
ことを重視しました。
これは非常にフーコー的です。
権力に対抗するのは、「人民の代表」ではなく、現場の声だ、という考えです。
当時のフランス左翼は、ほぼFrench Communist Party(共産党)中心でした。
しかしフーコーは、共産党にも強い不信を持っていました。
理由は、
「共産党もまた権力装置になりうる」
からです。
つまり
資本主義国家だけでなく
革命政党もまた人を管理する
と考えた。
ここが、Jean-Paul Sartre(サルトル)世代との大きな違いです。
1978年、フーコーは
Iranian Revolution
を取材し、かなり好意的に評価しました。
彼はそこに
「西洋型革命ではない、新しい政治的精神性」
を見た。
ただし後に、イスラム体制の抑圧が明らかになると、この評価はかなり批判されました。
これはフーコー最大の政治的失敗とも言われます。
彼にとって政治は
「国家をどう運営するか」
ではなく
「人間がどう支配されているか」
でした。
だから彼の政治哲学の中心語は
権力(power)
規律(discipline)
生政治(biopolitics)
統治性(governmentality)
です。
学校
病院
会社
家庭
恋愛
にまで浸透している。
だから政治とは、日常そのものだ。
かなり乱暴に言えば
Karl Marx
→ 国家を倒せ
Michel Foucault
→ まず、お前を作っている権力を見ろ
という違いがあります。
フーコーやドゥルーズほど、政治的なイメージはないが
ただ、政治と無関係だったわけではまったくありません。むしろ、彼の政治性は「革命論」や「国家論」よりも、もっと根底にあります。
フーコーは権力の仕組みを分析し、
ドゥルーズは欲望や生成の流れを考えた。
デリダは、
そもそも、われわれは何を当然の前提としているのか?
を問い続けました。
たとえば
法/正義
市民/外国人
正常/異常
男/女
中心/周縁
こうした二項対立の中で、常に片方が優位に置かれている。
彼はそれを「脱構築(deconstruction)」で揺さぶる。
これは非常に政治的です。
特に晩年は
民主主義
人権
死刑
移民
ホスピタリティ(歓待)
亡霊としてのマルクス
を論じています。
代表作
Specters of Marx『マルクスの亡霊』では、
冷戦後に「マルクス主義は終わった」と言われた時代に、
いや、亡霊のようにマルクスは戻ってくる
と言った。
かなり政治的です。
フーコーやドゥルーズは
体制変革や運動との距離が近い。
デリダはむしろ
完全な正義は決して到来しない。
それでも他者に応答する責任は消えない
という方向です。
だから彼の政治は
運動の哲学
というより
倫理としての政治
に近い。
彼も当然、1968年の空気の中にいたが、
フーコーやドゥルーズほど「街頭の哲学者」ではない。
むしろ
革命の言葉そのものを疑う
側でした。
ここが大きい。
かなり乱暴に言えば
フーコー → 権力を分析する
ドゥルーズ → 権力から逃走する
デリダ → 権力を支える言葉を解体する
こんな違いがあります。
一般に大きな理由とされるのは、長年の深刻な呼吸器疾患です。若い頃から肺を患い、片方の肺を摘出する手術も受け、晩年には肺機能の悪化が著しく、ほとんど呼吸すること自体が苦痛になっていたと伝えられます。話すこと、書くこと、授業をすること――彼にとって思考そのものに直結していた行為が、身体的に非常に困難になっていた。
ただし、本人が詳細な遺書を残したわけではないので、「本当の理由」を断定することはできません。
単純に「絶望して死んだ」と片づけるより、
身体がもはや思考を支えられなくなったとき、彼は最後の選択をした
と見るほうが、彼自身の哲学には近いかもしれません。
当時はまだAIDSそのものへの社会的偏見が非常に強く、家族や周囲も公にははっきり語らなかったため、当初は「敗血症」などとだけ報じられました。その後、伝記研究や周囲の証言から、HIV/AIDSによるものだったことが広く受け止められるようになりました。
1980年代初頭は、AIDSがまだよく理解されておらず、治療法もほとんどない時代でした。フーコーの死は、知識人の世界でもかなり象徴的な出来事になりました。
ただ重要なのは、それを単なる私生活の話として消費するより、彼が晩年に
身体
快楽
生の技法(自己への配慮)
権力による生の管理(生政治)
を強く論じていたこととの連続で見ることです。
つまり、彼の思想と生はかなり深いところで結びついている、ということです。
特に社会学者のDaniel Defert(ダニエル・デフェール)は長年のパートナーでした。フーコーの死後、デフェールはフランスでHIV/AIDS支援団体のAIDESを設立しています。
「私は何者か」というラベルよりも、
人はどのような関係や生き方を新しく作り出せるか
ということでした。
だから彼は「ゲイの権利」を語るだけでなく、もっと広く
性の規範
身体の自由
快楽の実験
自己を作り変える実践
を問題にしていた。
これは彼の『性の歴史』にもつながっています。
なので、答えとしては
はい、フーコーはゲイだったと理解されている。
しかし彼自身は、その事実を単なる身分証明のようには扱わなかった
と言うのが近いです。
「私は何者か」というラベルよりも、
人はどのような関係や生き方を新しく作り出せるか
ということでした。
だから彼は「ゲイの権利」を語るだけでなく、もっと広く
性の規範
身体の自由
快楽の実験
自己を作り変える実践
を問題にしていた。
これは彼の『性の歴史』にもつながっています。
なので、答えとしては
はい、フーコーはゲイだったと理解されている。
しかし彼自身は、その事実を単なる身分証明のようには扱わなかった
と言うのが近いです。
晩年は病気と闘いながらも執筆や講演を続けていて、最後までかなり精力的でした。Learning to Live Finally『ついに、生きることを学ぶ(Learning to Live Finally)』のような晩年の対話では、
死
喪
亡霊
生き残ること(survivre)
が非常に強く主題になっています。
これは単なる抽象的テーマではなく、自分自身の死を見つめながらの思索でもありました。
ドゥルーズの死には自死という決断がありましたが、
デリダの死は、むしろ
死をずっと考え続けた人が、病の中でそれを迎えた
という印象があります。
彼の哲学では、「生きる」とは常にすでに
他者を失いながら、それでも生き延びること
でした。
だから彼にとって死は、最後に突然やってくる事件というより、
思想の中心にずっとあったものだったとも言えます。
法・正義
他者への責任
歓待(hospitality)
亡霊(マルクスの亡霊)
民主主義の未完性(democracy to come)
といったテーマから政治を考えました。
だから彼は
革命を叫ぶ急進左派というよりは、
自由主義を内側から批判するラディカルな左派
と言った方が近いです。
フーコーが「権力分析」、ドゥルーズが「欲望と革命」なら、デリダは
「正義は常にまだ来ていない」
という倫理=政治の人です。
デリダは、西洋哲学そのものが
理性/感性
男/女
中心/周縁
主体/客体
本質/現象
音声/文字
正常/異常
のような**二項対立(binary opposition)**でできている、と見ました。
必ず片方が上位、もう片方が下位に置かれている
ということです。
たとえば
理性 > 感性
男 > 女
中心 > 周縁
音声 > 文字
のように。
西洋思想は、つねに「中心・起源・本物」を立てて、それ以外を二次的なものとして扱ってきた。
これが政治につながる。
なぜなら、
植民地主義
家父長制
同性愛差別
人種差別
正常/異常という排除
なども、同じ構造だからです。
哲学の二項対立 = 社会の支配構造
なんです。
だから「脱構築(deconstruction)」とは、
「この対立をひっくり返す」だけではなく、
そもそも、その対立自体がどう作られたのかを暴く
作業です。
「男/女」という対立を、
「いや女の方が上だ」とするだけでは足りない。
「そもそも、なぜ世界をその二つで切るのか?」
と問う。
ここで政治になる。
だからデリダは、街頭で革命を叫ぶよりも、
概念の内部に潜む支配を解体する
というやり方で、きわめて左派的だったわけです。
ここからが長い
価値観を疑えと言ったんだな
ただし、もう一歩だけ精密にするとこうなります:
👉 ジャック・デリダ は「価値観を疑え」と言ったというより、
「価値観がどう成り立っているかを問い続けろ」と言っている
直接的に社会を変革するより、価値観を疑え
これは方向として正しい。
デリダは革命プログラムを出さない
制度改革の設計図も出さない
👉 まず前提を揺るがす
ここが重要な修正ポイントです。
単なる「疑い」だと:
👉
懐疑主義
何も決めない態度
に見えてしまう
✔ デリダはそこに留まらない
👉
疑った上で、それでも決断しろ
デリダの立場は三段構えです:
① 価値観は固定的ではない(疑う)
② その成立条件を暴く(脱構築)
③ それでも判断し、責任を引き受ける
④ 社会変革との関係
ここが一番誤解されやすいところ。
デリダは:
👉
❌「社会を変えなくていい」とは言っていない
むしろ:
👉
変革が“新しい支配”にならないようにブレーキをかけている
ミシェル・フーコー
👉 権力の構造を暴く
ジル・ドゥルーズ
👉 新しい可能性を作る
デリダ
👉 その変革の正当性を問い続ける
あなたの文をほぼそのまま活かすなら:
👉
「社会を直接変えるより、価値観を疑え」ではなく
「価値観を疑い続けながら、それでも変革と判断の責任を引き受けろ」
デリダの立場は、シンプルに言えば:
👉
「何かを変える前に、その“変えるべきだ”という前提を疑え」
でも同時に:
👉
「疑って終わるな。決めろ」
ここまで来ると、かなり本質です。
もしさらに詰めるなら、次の問いが自然に出てきます:
👉 「その“疑い続ける態度”は、実際の政治や社会で機能するのか?」
ここで評価が真っ二つに割れます。
それぞれに、1968年の五月革命の挫折が出発点になっている
特に 五月革命 を「出発点」とするのは、3人をまとめすぎです。
👉 出発点ではないが、大きな転機にはなった
主要著作(『狂気の歴史』など)は68年以前
すでに「知と権力」への関心は形成済み
ただし68年以降:
👉
監獄改革運動などに関与
権力をより具体的・政治的に分析
👉 理論が“実践寄り”にシフト
👉 最も強く影響を受けた
単独著作はもともと哲学史寄り
68年後、フェリックス・ガタリ と出会う
ここが決定的:
👉
『アンチ・オイディプス』などが生まれる
(欲望・政治・資本主義の分析)
👉 68年の挫折が理論の方向を変えたと言ってよい
👉 ほとんど出発点ではない
主著(『グラマトロジーについて』など)は68年前後にすでに登場
問題関心は一貫して「形而上学批判」
68年との関係は:
👉
背景として共有している
しかし理論の核心は独立している
👉 政治的挫折から生まれた思想ではない
👉
フーコー:影響はあるが、出発点ではない
ドゥルーズ:かなり強い契機(方向転換)
デリダ:ほぼ無関係(理論的には独立)
これは理由があります:
👉
同時代(ポスト構造主義)
権威や中心の批判
主体の解体
👉 “革命の空気”を共有している
👉
フーコー:歴史的・制度的分析
ドゥルーズ:欲望と生成の哲学
デリダ:意味と構造の解体
👉 出発点がそもそも違う
👉
「68年は共通の背景ではあるが、共通の出発点ではない」
かなり良い線に来ているので、こう言い換えると正確です:
👉
「68年の挫折は、特にドゥルーズに強く作用し、フーコーにも影響を与えたが、デリダの理論的出発点ではない」
ここからさらに面白い問いが出ます:
👉 「では、ポスト構造主義は“革命の失敗の哲学”なのか?」
これはかなり議論が分かれるテーマです。
フーコーは68年より前の人
デリダは68年より後の人
68年まっただ中の人はドゥルーズ
そう見るべきか?
結論から言うと:
👉 三人とも「68年前/後」で切れるタイプではない
👉 ただし ドゥルーズが68年の影響を最も強く“作風転換”として受けたのは確か
フーコー=68年より前
デリダ=68年より後
ドゥルーズ=まっただ中
このうち:
フーコー → ❌ 前だけではない
デリダ → ❌ 後でもない
ドゥルーズ → ⭕ いちばん近い
👉 すでに“完成していたが、68年で方向が変わった人”
主要な問題意識(知・狂気・主体)は68年以前に確立
ただし 五月革命 後:
👉
権力分析がより政治的・実践的になる
👉 前→後で“応用範囲が拡張”
👉 68年とはほぼ独立して立ち上がった人
代表作は68年前後にすでに出ている
問題関心は一貫(形而上学批判)
👉
68年は:
同時代の空気として共有
しかし理論の出発点ではない
👉 前でも後でもない(横にある)
👉 ここだけあなたの直感はかなり正しい
68年前 → 哲学史中心(ニーチェ、ベルクソンなど)
68年後 → フェリックス・ガタリ と共著
👉
欲望・政治・資本主義へ急展開
👉 68年が“明確な転換点”
少し言い換えると、こうなります:
👉
フーコー:68年前に基礎、68年後に政治化
ドゥルーズ:68年で決定的に変化
デリダ:68年とは理論的に独立
三人とも:
権威批判
主体批判
構造の解体
をやっているので、
👉
全部「68の産物」に見える
👉
68年は“原因”ではなく、“加速装置”
👉
「ドゥルーズだけが68年で大きく転回し、フーコーは強化され、デリダは並走していた」
元の文をほぼ活かして修正すると:
👉
「ドゥルーズは68年の中で変わり、フーコーはそれで実践化し、デリダはそれとは独立に理論を展開した」
ここまで来ると、かなり本質に到達しています。
次に進むなら、この問いが自然です:
👉 「ではなぜドゥルーズだけが、あそこまで強く変わったのか?」
ここには「欲望」と「精神分析批判」という核心テーマがあります。
👉 ジル・ドゥルーズ だけが大きく変わったのは、
「欲望の捉え方」を根本からひっくり返したからです。
その引き金が 五月革命 と、
フェリックス・ガタリ との出会い。
ニーチェ、ベルクソンなどの読解
かなり“純哲学的”
政治色は弱い
👉 まだ「世界をどう変えるか」には踏み込んでいない
「五月革命」が、ドゥルーズを変えたのか
哲学史家の路線
「欲望機械」の哲学を始めた
一言でいうと:
👉 欲望=何かを欠いているものではなく、“現実を生産する装置(機械)”だ、という考え方
「欲望機械」は比喩です。
たとえば:
目は「見る欲望機械」
口は「食べる/話す欲望機械」
お金・広告・スマホも欲望機械
👉 世界は欲望を生産・接続する“機械の連鎖”でできている
フロイト的理解(従来)
ジークムント・フロイト
欲望=欠如(足りないものへの欲求)
欲望は「穴」を埋めようとする
👉 例:母を失った欠如 → 代替対象
ドゥルーズ=ガタリ
👉 ここを完全にひっくり返す:
欲望=欠如ではない
欲望=生産そのもの
欲望はこう働く:
👉 何かを“つなぎ合わせる”ことで現実を作る
例
目(見る)+画像(見られる)
口(食べる)+食べ物
人+社会制度
人+資本(お金・労働)
👉 すべて「接続=生産」
ここでいう機械は機械工学ではないです。
👉 「流れを切断し、接続するもの」
エネルギーの流れ
情報の流れ
欲望の流れ
それらを:
👉 途中で区切り、別のものに接続する装置
かなり重要な点:
👉 欲望の主体は「人間」ではない
つまり
人が欲望する ×
欲望が人を通して流れる ○
👉 人間は欲望機械の“結節点”にすぎない
この発想のインパクト:
👉
欲望は「心の中」ではなく
社会・経済・身体を貫く生産プロセス
だから結論が変わる
従来:
欲望を解放すれば自由
ドゥルーズ=ガタリ:
👉 欲望の“配線”そのものを変えないと支配は消えない
ミシェル・フーコー
👉 権力の配置を見る
ジャック・デリダ
👉 意味の構造を揺らす
ドゥルーズ=ガタリ
👉 欲望の回路そのものを再設計する
👉
欲望機械とは、「欲望が欠如ではなく、生産と接続のネットワークそのものだ」という考え
この思想だと:
👉
社会
経済
精神
身体
すべてが:
👉 欲望の配線図になる
かなりシンプルに言うと:
👉
「人間が欲望する」のではなく
「欲望が人間を使って働いている」
ここまで来ると、次の問いが自然に出ます:
👉 「じゃあ“自由”とはどこにあるのか?」
ドゥルーズ=ガタリはここでかなり意外な答えを出します。
結論から言うと、彼らにとって自由は——
「主体が欲望をコントロールする能力」ではありません。
むしろこうです:
自由とは、欲望がより多く接続し、より強く生産できるようになる“能力の拡張”である。
近代的な発想では自由とは
「主体が理性的に選ぶこと」ですが、ドゥルーズ=ガタリはこれを否定します。
なぜならその「主体」自体が、すでに欲望の配置(=機械の結節点)だからです。
つまり:
「私が選んでいる」ように見えるが
実際には「欲望の流れがこの“私”を通っている」
ここが重要です。
彼らの答えはかなり独特で:
自由とは、“欲望の接続可能性”が増えること
つまり:
既存のコード(社会・家族・国家・言語)に閉じられるほど不自由
しかし新しい接続が生まれるほど自由
例えば:
芸術
思想の変異
新しい共同体
技術的な再編成
これらはすべて「欲望の再配線」です。
ここがラディカルな点です。
自由=抑圧から逃げること
ではなく
抑圧的な配置を変えて、別の生産を可能にすること
だから革命も「解放」ではなく:
欲望の新しい配線(リゾーム化)
新しい機械の組み換え
になります。
あなたの言い換えに対応させるとこうなります:
❌「人間が欲望する」
❌「人間が自由に選ぶ」
⭕「欲望が機械として接続・生産している」
⭕「自由とは、その接続が開かれること」
もし一歩進めるなら、次に問題になるのはこれです:
「じゃあ“良い接続”と“悪い接続”はどう区別されるのか?」
ドゥルーズ=ガタリはここで倫理の話に入っていきます。
自分以外の誰も読むわけがない(笑)
仏教の話をしているときより
ずっと、切れ味するどい(笑)
英語でモノを考えている
結果を日本語に翻訳している
そういう状況だ
西洋哲学、とくに現代アメリカの哲学に強い
テーマは西洋哲学がオススメだ
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