Wild-Bison 第2部(前編) ~海を渡った武士道~最終更新 2024/04/23 16:421.法介◆T3azX0Hk1U48a8n法介主張のオリジナル小説です。2024/04/23 05:48:07479コメント欄へ移動すべて|最新の50件430.法介◆T3azX0Hk1U48a8n前五識(第一識~第五識)これは人間の五感である眼、耳、鼻、舌、身をそれぞれ眼識、耳識、鼻識、舌識、身識といった呼び名で、第一識から第五識とする感覚作用として働く認識器官のことで、これを成所作智(じょうそさち)と言う。成所作智は、認識器官を正しく統御し、それらによって得られる情報をもとに、現実生活を覚りに向かうべく成就させてゆく智慧である。2024/04/23 16:24:05431.法介◆T3azX0Hk1U48a8n第六識(意識)その認識器官に基づいて行動や判断をこなう意識で妙観察智(みょうかんざっち)と言う。妙観察智は、万物がもつ各々の個性、特徴を見極め、その個性を活かす智慧である。2024/04/23 16:24:18432.法介◆T3azX0Hk1U48a8n第七識(末那識)第六識の意識下にある無意識で、「自我意識」を形成する。我見、我愛、我慢、我痴、などの元になる自己中心的な差別の心。その我執(自我への執着)が除かれた聖位においては、自他の差別のない平等性智へと転じる。平等性智は、無我の境地に入って全てを平等に見る智慧である。2024/04/23 16:24:32433.法介◆T3azX0Hk1U48a8n第八識(阿羅耶識)全く意識されない潜在意識で、輪廻転生の因となる「業」が蓄えられていく場所。これを大円鏡智(だいえんきょうち)と言う。この阿羅耶識の業(宿業)が因となって前五識に果が生じる。その果が仏果に至ると阿羅耶識が転じて大円鏡智を得る。大きな鏡が万物を明らかに映し出すように、一切の存在の真実の姿を映し出して明察し、満徳円満にして欠けることがないので大円鏡智と言う。2024/04/23 16:24:44434.法介◆T3azX0Hk1U48a8n第九識(阿摩羅識)※密教において説かれる。更にその奧に本来的に清浄無垢な自性清浄心と呼ばれる第九識が潜み、これを法界体性智(ほうかいたいしょうち)と密教では説く。法界体性智は、永遠普遍、自性清浄なる大日法身の絶対智であり、他の四智を統合する智慧となる。2024/04/23 16:24:56435.法介◆T3azX0Hk1U48a8nこれらの九識は、「金剛頂経」の説く瞑想法「五相成身観」によって各々五智に転じる(転識得智)ことが出来る。ここで示す五智が五仏の智慧として象徴されたのが密教の「金剛界曼荼羅」である。2024/04/23 16:25:07436.法介◆T3azX0Hk1U48a8n対象に適した変化を示す智慧教化の対象をよく知り的確な説法を行う智慧自他が根本的に区別のない同体の存在であることを知る智慧万物の真理の姿を示す智慧これら四智を統合する智慧「地水火風空」は、この五つの智慧を意味する。2024/04/23 16:25:25437.法介◆T3azX0Hk1U48a8n解りやすい言葉で説明するなら、人間が認識する世界は「大地」であり「河や海」、「炎」や「風」といった自然界の姿(色相)であり、それが全てかと言えばそうではない。2024/04/23 16:25:42438.法介◆T3azX0Hk1U48a8n人間の目に見えていない世界も同時に存在している。それが「空」という肉体から解脱した「仏の仮観・空観・中観」という仏の観かたである。人間が見る事で認識する「地水火風」と、仏の観かたである「空」とが一体となった「地水火風空」の姿こそが真実の姿であるという教えである。2024/04/23 16:25:56439.法介◆T3azX0Hk1U48a8n宮本武蔵がどこまで仏法の極意を会得していたのかは別として、「五輪の書」の空の巻には、次のようなことを書き残している。2024/04/23 16:26:09440.法介◆T3azX0Hk1U48a8n『空の巻より抜粋』武士は兵法をしっかりと身につけ、その他の武芸もよく練習し、武士が進む道は少しも暗くなく、心が迷うこともなく、常に怠らず、心と意の二つを磨いて、「観」と「見」の二つの眼をとぎすまして、少しも曇りのない迷いの雲が晴れたところこそ、正しい空だと考えるべきです。正しいことを知らない間は、仏法に頼ることなく、世間一般に頼ることもなく、個人個人では正しい道と思って、よいことだと思っても、正しい道から世の中の大きな物差しに照らし合わせると、自身の気持ちのひいき、自身の目のひづみのために、正しい道にそむいているものです。この道理をわきまえてまっすぐな所を根本とし、正しい心を道として兵法を幅広く鍛錬し、正しく明らかで大きな所をつかんで、空を道とし、道を空とみます。2024/04/23 16:26:25441.法介◆T3azX0Hk1U48a8nその頃、アメリカでは、マリーを巻き込んだとんでもない計画が動き始めていた。そんな事を知る余地もないアドバンは、遠く離れた故郷を想いスマホでアメリカ第2の国歌ともいわれるポール・サイモンの名曲「アメリカの歌」を聞いていた。自由の女神に象徴されるこの曲の〝主語〟は アメリカだ。https://youtu.be/KT4Y4GsxdcU2024/04/23 16:26:58442.法介◆T3azX0Hk1U48a8n(この国は)たくさん過ちを犯したくさん迷いもした見捨てられ、小突きまわされていると感じることもよくあったそれでも、平気さ、平気なんだ疲れが骨まで沁みてもまばゆい結構な暮らしなんか期待はしない2024/04/23 16:27:52443.法介◆T3azX0Hk1U48a8n家から遠く離れたこの場所で家から遠く離れたこの場所で2024/04/23 16:28:05444.法介◆T3azX0Hk1U48a8n魂はいつも痛みつけられ信頼出来る友もいない夢はいつも打ち砕かれ国民は祈りにすがるしかないそれでも、平気なんだ、平気さそれなりに長くうまく生きてきたじゃないか2024/04/23 16:28:21445.法介◆T3azX0Hk1U48a8nそれでもこの旅路を思うとき僕たちは、どこでいったい間違えたんだろうつい考えてしまうどこでいったい間違えたんだろう2024/04/23 16:28:38446.法介◆T3azX0Hk1U48a8nそして死ぬ夢を見た魂がとつぜん空へ舞い上がり自分を見下ろし微笑みかける平気だよと2024/04/23 16:28:51447.法介◆T3azX0Hk1U48a8n飛んでいる夢を見たその高い空からはっきり目に映る自由の女神が遠い海へと去っていく飛んでいる夢のなかで2024/04/23 16:29:06448.法介◆T3azX0Hk1U48a8nぼくらはメイフラワーという名の船にのってこの地にやってくる月に向かって漕ぎだした船で歴史のもっとも危うい季節にやってくるアメリカのうたを歌いながら2024/04/23 16:29:19449.法介◆T3azX0Hk1U48a8n平気なんだ、平気なんだ平気なんだ、平気なんだ2024/04/23 16:29:31450.法介◆T3azX0Hk1U48a8n永遠の祝福は受けられなくとも明日にはまたいつもの仕事があるだから今はすこしだけ休もうそう、すこしだけ休むんだ2024/04/23 16:29:46451.法介◆T3azX0Hk1U48a8n歌詞を読み、音楽を聴けばわかるとおり、この曲は過誤と諦観と平安、旅と故郷を主題にしている。その主人公は「アメリカ」という国家である。2024/04/23 16:30:06452.法介◆T3azX0Hk1U48a8nこの曲が収録されたアルバムが発表された1973年は、ベトナム戦争のさなかで、前年にはウォーターゲート事件が起こるというアメリカにとって多難な時代だった。そして2008年頃といえば、サブプライム・ローン問題を発端とする住宅バブル崩壊が始まり、選挙戦中にはリーマン・ショックが起きた。そんな混沌とした時代にあって大統領選に出馬したバラク・オバマは、そうした2つの時代のアメリカを、この曲に重ね合わせ、自陣のキャンペーン・ソングに用いた。2024/04/23 16:30:23453.法介◆T3azX0Hk1U48a8nそれがこの曲がアメリカの第二の国家と言われるようになった経緯だ。2024/04/23 16:30:38454.法介◆T3azX0Hk1U48a8nこの曲が数多くの人々に記憶されているもうひとつの理由に、バッハの『マタイ受難曲』の有名なコラール旋律が転用されていることがあげられる。2024/04/23 16:30:54455.法介◆T3azX0Hk1U48a8n新約聖書「マタイによる福音書」の26、27章のキリストの受難を題材にした受難曲である。2024/04/23 16:31:11456.法介◆T3azX0Hk1U48a8n第一部29曲、第二部は39曲の全68曲からなる大曲の中でこのコラール旋律は、イエス・キリストがむち打たれ、いばらの冠を頭に載せられる場面を歌った第54曲「血潮したたる 主の御頭(みかしら)」をはじめ、歌詞を変えて繰り返し歌われる。このコラール旋律にサイモン自作の歌詞を乗せてつくられた曲なのだ。2024/04/23 16:31:28457.法介◆T3azX0Hk1U48a8n <アメリカの歌>日本の武士は、古くは鎌倉時代から歌を詠んできた。2024/04/23 16:32:27458.法介◆T3azX0Hk1U48a8n歌には、「もののあわれを知る」といった四季の情趣を楽しむ風情があ。2024/04/23 16:32:43459.法介◆T3azX0Hk1U48a8n「もののあはれ」という言葉は、短歌や俳句好きな人なら知らない人はいないと思う。2024/04/23 16:33:00460.法介◆T3azX0Hk1U48a8n江戸時代の中・後期の国学者である本居宣長が「もののあはれ」の論を展開し、そのことが今日の教科書に載って、「もののあはれ」という言葉が現代語のなかに継承されている。2024/04/23 16:33:16461.法介◆T3azX0Hk1U48a8nしかし、宣長が本来論じている「もののあはれ」とは、そうした四季の情趣に留まらない、日常生活のやりくりにまで及ぶもので、「人の心の動くさま、感じるさま」を言う言葉であったものが、いつのまにかこれに「哀」の字を充てて特に悲哀の意に使われるようになったと彼は言う。2024/04/23 16:33:35462.法介◆T3azX0Hk1U48a8nさらに宣長は言う、2024/04/23 16:34:07463.法介◆T3azX0Hk1U48a8n「うれしきこと、おもしろき事などには、 感ずること深からず、ただかなしき事、 うきこと、恋しきことなど、 すべて心に思ふにかなはぬすぢには、 感ずること、こよなく深きわざなるが故」2024/04/23 16:34:17464.法介◆T3azX0Hk1U48a8n心が行為のうちに解消し難い時、心は心を見るように促され、生活感情の流れに身をまかせ、ある時は浅く、ある時は深く、おのずから意識される。そういう生活感情の本性への見通しなのである。2024/04/23 16:34:37465.法介◆T3azX0Hk1U48a8nこういった彼の論述は、感情論よりむしろ認識論的な色合いを強く帯びており、彼の課題は、「物のあはれとは何か」ではなく、「物のあはれを知るとは何か」にある。2024/04/23 16:34:55466.法介◆T3azX0Hk1U48a8n宣長による源氏物語の注釈書である『紫文要領』には、次のような記述もある。2024/04/23 16:35:10467.法介◆T3azX0Hk1U48a8n「目に見るにつけ、耳に聞くにつけ、 身にふるるにつけて、其よろづの事を、 心に味わいて、そのよろづの事の心を、 わが心にわきまへ知る、これ事の心をしる也、 物の心を知る也、物の哀をしる也、 その中にも、尚詳しくわけて言はば、 わきまへ知る所は、物の心、 事の心を知ると言うもの也、 わきまへ知しりて、其しなにしたがひて、 感ずる所が、物のあはれ也。」2024/04/23 16:35:27468.法介◆T3azX0Hk1U48a8nここで言う「事の心・物の心」とは事物のことで、物や現象を指しての言葉で、それらの「心」、即ち本質が、「物のあわれなる」事を知る事であると言っている。2024/04/23 16:35:43469.法介◆T3azX0Hk1U48a8n即ち、「知る」と「感ずる」とが同じであるという、禅的な直観的な認識を論じているのである。2024/04/23 16:36:04470.法介◆T3azX0Hk1U48a8n「もののあはれを知る」の〝知る〟は、〝感じる〟ことであり〝知る〟ことで、〝知る〟をさらに言うなら、何かを見聞きしてそれと認める「認識作用」でもある。2024/04/23 16:36:29471.法介◆T3azX0Hk1U48a8nアドバンが今聞いている「アメリカの歌」の歌詞の中にもその「もののあはれ」を感じる。2024/04/23 16:36:54472.法介◆T3azX0Hk1U48a8nテロや、絶えず起こる他国との紛争、そういったアメリカの歪んだ歴史を振り返って、なにをどこで間違えてしまったのか、考えることの意義を静かに語りかけてくる。2024/04/23 16:37:19473.法介◆T3azX0Hk1U48a8n「どこで間違えてしまったのか・・・」「でも、心配ない大丈夫」2024/04/23 16:38:12474.法介◆T3azX0Hk1U48a8n僕たちは必ず正しい答えを導き出すんだという決意。それは、道を極めようとする者だからこそ言える言葉。2024/04/23 16:38:36475.法介◆T3azX0Hk1U48a8n真理はどこにあるのか。何が真理なのか。僕たちは必ず答えをだす。2024/04/23 16:38:57476.法介◆T3azX0Hk1U48a8n今一度もののあわれを観じ取りならが聞いてみてください。https://youtu.be/RKvMuvMgZas2024/04/23 16:40:17477.法介◆T3azX0Hk1U48a8n歌詞に込められた深い深い意味を観じた時、アドバンの眼からは一粒の涙がこころをつたって流れ出た。2024/04/23 16:41:06478.法介◆T3azX0Hk1U48a8nWild-Bison 第2部(前編) ~海を渡った武士道~ 完2024/04/23 16:41:34479.法介◆T3azX0Hk1U48a8nWild-Bison 第2部(後編) ~Gun spirit of America~へと続く2024/04/23 16:42:00
【政治】上川外相「この方を、私たち女性が(知事として)生まずして何が女性でしょうか」発言、立憲民主党が「子供生めない女性は女性でないのか!」と怒りニュース速報+8512024.92024/05/19 17:21:02
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これは人間の五感である眼、耳、鼻、舌、身をそれぞれ眼識、耳識、鼻識、舌識、身識といった呼び名で、第一識から第五識とする感覚作用として働く認識器官のことで、これを成所作智(じょうそさち)と言う。
成所作智は、認識器官を正しく統御し、それらによって得られる情報をもとに、現実生活を覚りに向かうべく成就させてゆく智慧である。
その認識器官に基づいて行動や判断をこなう意識で妙観察智(みょうかんざっち)と言う。
妙観察智は、万物がもつ各々の個性、特徴を見極め、その個性を活かす智慧である。
第六識の意識下にある無意識で、「自我意識」を形成する。我見、我愛、我慢、我痴、などの元になる自己中心的な差別の心。その我執(自我への執着)が除かれた聖位においては、自他の差別のない平等性智へと転じる。
平等性智は、無我の境地に入って全てを平等に見る智慧である。
全く意識されない潜在意識で、輪廻転生の因となる「業」が蓄えられていく場所。これを大円鏡智(だいえんきょうち)と言う。
この阿羅耶識の業(宿業)が因となって前五識に果が生じる。その果が仏果に至ると阿羅耶識が転じて大円鏡智を得る。
大きな鏡が万物を明らかに映し出すように、一切の存在の真実の姿を映し出して明察し、満徳円満にして欠けることがないので大円鏡智と言う。
更にその奧に本来的に清浄無垢な自性清浄心と呼ばれる第九識が潜み、これを法界体性智(ほうかいたいしょうち)と密教では説く。
法界体性智は、永遠普遍、自性清浄なる大日法身の絶対智であり、他の四智を統合する智慧となる。
教化の対象をよく知り的確な説法を行う智慧
自他が根本的に区別のない同体の存在であることを知る智慧
万物の真理の姿を示す智慧
これら四智を統合する智慧
「地水火風空」は、この五つの智慧を意味する。
人間が認識する世界は「大地」であり「河や海」、
「炎」や「風」といった自然界の姿(色相)であり、
それが全てかと言えばそうではない。
武士は兵法をしっかりと身につけ、その他の武芸もよく練習し、武士が進む道は少しも暗くなく、心が迷うこともなく、常に怠らず、心と意の二つを磨いて、「観」と「見」の二つの眼をとぎすまして、少しも曇りのない迷いの雲が晴れたところこそ、正しい空だと考えるべきです。
正しいことを知らない間は、仏法に頼ることなく、世間一般に頼ることもなく、個人個人では正しい道と思って、よいことだと思っても、正しい道から世の中の大きな物差しに照らし合わせると、自身の気持ちのひいき、自身の目のひづみのために、正しい道にそむいているものです。
この道理をわきまえてまっすぐな所を根本とし、正しい心を道として兵法を幅広く鍛錬し、正しく明らかで大きな所をつかんで、空を道とし、道を空とみます。
そんな事を知る余地もないアドバンは、
遠く離れた故郷を想いスマホで
アメリカ第2の国歌ともいわれる
ポール・サイモンの名曲「アメリカの歌」を聞いていた。
自由の女神に象徴されるこの曲の〝主語〟は アメリカだ。
https://youtu.be/KT4Y4GsxdcU
たくさん迷いもした
見捨てられ、小突きまわされている
と感じることもよくあった
それでも、平気さ、平気なんだ
疲れが骨まで沁みても
まばゆい結構な暮らしなんか期待はしない
家から遠く離れたこの場所で
信頼出来る友もいない
夢はいつも打ち砕かれ
国民は祈りにすがるしかない
それでも、平気なんだ、平気さ
それなりに長くうまく生きてきたじゃないか
僕たちは、どこでいったい間違えたんだろう
つい考えてしまう
どこでいったい間違えたんだろう
魂がとつぜん空へ舞い上がり
自分を見下ろし微笑みかける
平気だよと
その高い空からはっきり目に映る
自由の女神が
遠い海へと去っていく
飛んでいる夢のなかで
この地にやってくる
月に向かって漕ぎだした船で
歴史のもっとも危うい季節にやってくる
アメリカのうたを歌いながら
平気なんだ、平気なんだ
明日にはまたいつもの仕事がある
だから今はすこしだけ休もう
そう、すこしだけ休むんだ
音楽を聴けばわかるとおり、
この曲は過誤と諦観と平安、旅と故郷を主題にしている。
その主人公は「アメリカ」という国家である。
バッハの『マタイ受難曲』の有名なコラール旋律が転用されていることがあげられる。
日本の武士は、古くは鎌倉時代から歌を詠んできた。
歌には、「もののあわれを知る」といった四季の情趣を楽しむ風情があ。
短歌や俳句好きな人なら知らない人はいないと思う。
「もののあはれ」の論を展開し、
そのことが今日の教科書に載って、
「もののあはれ」という言葉が現代語のなかに継承されている。
宣長が本来論じている「もののあはれ」とは、
そうした四季の情趣に留まらない、
日常生活のやりくりにまで及ぶもので、
「人の心の動くさま、感じるさま」を言う言葉であったものが、
いつのまにかこれに「哀」の字を充てて
特に悲哀の意に使われるようになったと彼は言う。
さらに宣長は言う、
感ずること深からず、ただかなしき事、
うきこと、恋しきことなど、
すべて心に思ふにかなはぬすぢには、
感ずること、こよなく深きわざなるが故」
心は心を見るように促され、
生活感情の流れに身をまかせ、
ある時は浅く、ある時は深く、
おのずから意識される。
そういう生活感情の本性への見通しなのである。
感情論よりむしろ認識論的な色合いを強く帯びており、
彼の課題は、「物のあはれとは何か」ではなく、
「物のあはれを知るとは何か」にある。
宣長による源氏物語の注釈書である『紫文要領』には、
次のような記述もある。
身にふるるにつけて、其よろづの事を、
心に味わいて、そのよろづの事の心を、
わが心にわきまへ知る、これ事の心をしる也、
物の心を知る也、物の哀をしる也、
その中にも、尚詳しくわけて言はば、
わきまへ知る所は、物の心、
事の心を知ると言うもの也、
わきまへ知しりて、其しなにしたがひて、
感ずる所が、物のあはれ也。」
物や現象を指しての言葉で、
それらの「心」、即ち本質が、
「物のあわれなる」事を知る事であると言っている。
即ち、
「知る」と「感ずる」とが同じであるという、
禅的な直観的な認識を論じているのである。
「もののあはれを知る」の〝知る〟は、
〝感じる〟ことであり〝知る〟ことで、
〝知る〟をさらに言うなら、
何かを見聞きしてそれと認める「認識作用」でもある。
アドバンが今聞いている「アメリカの歌」の歌詞の中にも
その「もののあはれ」を感じる。
テロや、絶えず起こる他国との紛争、
そういったアメリカの歪んだ歴史を振り返って、
なにをどこで間違えてしまったのか、
考えることの意義を静かに語りかけてくる。
「どこで間違えてしまったのか・・・」
「でも、心配ない大丈夫」
僕たちは必ず正しい答えを導き出すんだという決意。
それは、道を極めようとする者だからこそ言える言葉。
真理はどこにあるのか。
何が真理なのか。
僕たちは必ず答えをだす。
今一度
もののあわれを観じ取りならが
聞いてみてください。
https://youtu.be/RKvMuvMgZas
歌詞に込められた
深い深い意味を観じた時、
アドバンの眼からは
一粒の涙がこころをつたって流れ出た。
Wild-Bison 第2部(前編) ~海を渡った武士道~ 完
Wild-Bison 第2部(後編) ~Gun spirit of America~
へと続く