【ブッダの教え】初期仏教【パーリ仏典】 Part3アーカイブ最終更新 2026/10/10 11:021.◆JBLfMwCXhY1mDbq過去スレ【パーリ仏典】テーラワーダ仏教【ヴィパッサナー瞑想】https://talk.jp/boards/psy/1768687611【ブッダの教え】初期仏教【最初はこういう話だった】https://talk.jp/boards/psy/1768770625【ブッダの教え】初期仏教【ヴィパッサナー瞑想】 Part2https://talk.jp/boards/psy/17799680912026/10/01 03:01:171000すべて|最新の50件953.栖雲居士◆MKrKQHoID7SEggmMr上田→状態2026/10/10 09:36:00954.◆JBLfMwCXhYcrsZ5なるほど2026/10/10 09:36:48955.栖雲居士◆MKrKQHoID7SEggmMrJBLはAIやネット検索に頼るからこうなる。2026/10/10 09:37:23956.◆JBLfMwCXhYcrsZ5サティとアヌパッサナーで、サティパッターナ2026/10/10 09:37:34957.◆JBLfMwCXhYcrsZ5勉強になりますな~😆2026/10/10 09:37:53958.◆JBLfMwCXhYcrsZ5>>955ぜんぜん知らん分野に挑んでるんだから、仕方ないだろ😅2026/10/10 09:38:48959.◆JBLfMwCXhYcrsZ5こういう、うるさい奴がいるからマトモな人が宗教板からいなくなる2026/10/10 09:39:10960.栖雲居士◆MKrKQHoID7SEggmMrまさにこれだな。 ↓939 栖雲居士◆MKrKQHoID7SE[sage] 2026/10/10(土) 09:18:15.49 ID:ggmMr釈尊が見出した修行法は、当初はsati念の一語で示され、やがて satipatthana 念処という専門的な熟語が生まれて定着した。その後に samatha 止と vipassana 観という用語が使われるようになり、仏教の修行方法を表す用語として対になって使用されたと考えられる。sati→satipatthana →samathaとvipassanaだんだんと加上されてややこしくなったw2026/10/10 09:42:52961.◆JBLfMwCXhYcrsZ5>>956Chat GPT:JBL、仏教の瞑想を理解するうえで、**サティ(sati)・アヌパッサナー(anupassana)・サティパッターナ(satipatthana)**の関係は、かなり重要なポイントだよ。この3つは密接に関係しているけれど、同じ意味ではないんだ。初期仏教のパーリ語をもとに、それぞれの意味と実践上の違いを整理してみよう。1. サティ(Sati)——気づき・念サティ(sati)=念・気づきを保つ働きサティは、パーリ語で、サンスクリット語の smṛti に対応する言葉。一般には「マインドフルネス」と訳されるけれど、単に現在の瞬間に注意を向けることだけではない。仏教の実践では、何が起きているのかを見失わず、実践の対象や教えを心に保つ働きも含んでいる。例えば、呼吸を観察しているとき。息を吸っていることに気づく。息を吐いていることに気づく。雑念が生じたことに気づく。雑念に気づいたら、呼吸へと注意を戻す。これらの実践にサティが関わっている。ただし、サティは単なる集中力とは異なる。集中が一つの対象に心を安定させる働きだとすれば、サティは対象や心の状態を忘れずに気づいている働きだと考えると理解しやすい。2026/10/10 09:43:22962.◆JBLfMwCXhYcrsZ52. アヌパッサナー(Anupassana)——随観・繰り返し観察することアヌパッサナー=特定の観点から、現象を繰り返し観察すること。パーリ語の anupassana は、一般に「随観」と訳される。「観察」を意味する passana に、継続的に観察することや、ある仕方で観察することを示す要素が加わった語だ。サティが気づきを保つ働きだとすれば、アヌパッサナーは、現象をどのような観点から観察するのかという実践の側面に関わる。例えば、怒りが生じたとき。サティ 「怒りが生じている」と気づく。アヌパッサナー 怒りが生じ、変化し、弱まり、消えていく過程を観察する。さらに、怒りを自分そのものとみなさず、条件によって生じて変化する現象として観察することもできる。ここで重要なのは、アヌパッサナーが単なる分析的思考を意味するわけではないということ。頭の中で「怒りとは何か」と考え続けることと、実際に生じている怒りの状態を観察することは異なる。アヌパッサナーは、実践を通して現象を観察することを指している。2026/10/10 09:44:20963.栖雲居士◆MKrKQHoID7SEggmMr煩い奴が居なきゃ、間違いや勘違いのままだけどな。2026/10/10 09:44:31964.◆JBLfMwCXhYcrsZ53. サティパッターナ(Satipaṭṭhāna)‐‐‐‐念処サティパッターナ=サティを確立すること、またはサティを確立するための実践・観察の枠組み。サティパッターナは、初期仏教において特に重要な瞑想実践を指す言葉だ。代表的な経典に『念処経』(パーリ語:Satipatthana Sutta)がある。サティパッターナの語源については、伝統的に sati と upatthana(確立・現前・注意深く保つこと)との関係から説明される。実践としては、次の四つの対象・領域が説かれている。パーリ語日本語観察する対象Kayanupassana身随観身体・呼吸・姿勢・身体活動Vedananupassana受随観苦・楽・不苦不楽の感受Cittanupassana心随観欲のある心、怒りのある心、集中した心などDhammanupassana法随観五蓋・五蘊・覚支・四聖諦など、教えに基づく諸現象この四つを総称して、**四念処(しねんじょ)**という。ここで注意したいのは、サティパッターナが単に「注意を向ける技術」を意味するのではないということ。身体・感受・心・法という四つの領域において、サティを確立し、現象を適切に観察する仏教の実践体系なんだ。2026/10/10 09:46:09965.◆JBLfMwCXhYcrsZ54. 三つの関係を整理すると?この三つの違いを、実践の流れから捉えてみよう。例えば、呼吸を観察する場合。① サティ:気づきを保つ息を吸っている、息を吐いていると気づく。② アヌパッサナー:観察する呼吸の長短や身体感覚、呼吸に伴う変化などを観察する。③ サティパッターナ:実践の枠組み呼吸や身体を対象として、身随観を実践する。さらに、受・心・法の観察へと実践を広げていく。ただし、これは理解のための整理であって、実際の修行では三つが必ずこの順番で起こるわけではない。サティパッターナの実践のなかでサティが働き、アヌパッサナーが行われる、と捉えるほうが正確だ。図式化すれば、次のようになる。サティ(気づきを保つ働き) ↓ アヌパッサナー(観察の実践) ↓ サティパッターナ(四つの領域における念の確立と観察の体系)この図はあくまで概念的な整理であり、三者を完全に別々の段階とみなすものではない。2026/10/10 09:47:13966.麦◆MUGITANx95DjmdVkl∞ノノハ∞川^○^ハレsatiは正念ポイ麦は正念相続の無心だと思う♪www2026/10/10 09:48:21967.◆JBLfMwCXhYcrsZ55. さらに重要な点——サティとヴィパッサナーの違いここまで理解したら、次に区別しておきたいのが、**サティ(念)とヴィパッサナー(観)**の関係だ。ヴィパッサナー(vipassana)は、現象を明晰に観察し、物事のあり方を洞察することに関わる。例えば、呼吸を観察しているとき。サティ:呼吸を見失わず、気づきを保つ。アヌパッサナー:呼吸や身体などを、特定の観点から継続的に観察する。ヴィパッサナー:観察を通して、現象の無常・苦・無我などを洞察する。サティパッターナ:こうした実践の基盤となる四念処の教えと修行体系。(以下略2026/10/10 09:48:21968.◆JBLfMwCXhYcrsZ5>>966まあ、そういうことでしょうな2026/10/10 09:50:20969.◆JBLfMwCXhYcrsZ5言ってみればカメラで写真をとって、画像を保存することそれがサティだ2026/10/10 09:50:56970.栖雲居士◆MKrKQHoID7SEggmMrまぁ、禅宗にはそのsatiで事足りるという所もあるから、笑夫が言う事にも一理あるな。2026/10/10 09:51:55971.麦◆MUGITANx95DjmdVkl>>968∞ノノハ∞川^○^ハレ数回坐れば分かる事もありますね www2026/10/10 09:52:44972.栖雲居士◆MKrKQHoID7SEggmMrザックリ云うと、禅は直観的で南伝は観察的だな。森林派は……知らんw2026/10/10 09:56:54973.◆JBLfMwCXhYcrsZ5次スレ【ブッダの教え】初期仏教【パーリ仏典】 Part4https://talk.jp/boards/psy/17915938612026/10/10 09:57:57974.◆JBLfMwCXhYcrsZ5このスレで終わらせるつもりだったがサティとか四念処とかを、もういっぺんやらんとダメだ😫2026/10/10 09:58:25975.◆JBLfMwCXhYcrsZ5中途半端はよくない😫2026/10/10 09:58:49976.◆JBLfMwCXhYcrsZ5>>972森林は、居るだけで苦行2026/10/10 09:59:12977.◆JBLfMwCXhYcrsZ5ヤージュニャヴァルキヤも、ブッダも森林生活者2026/10/10 09:59:34978.栖雲居士◆MKrKQHoID7SEggmMr直指人心、見性成仏とは良く云ったもんだなぁ。2026/10/10 09:59:43979.◆JBLfMwCXhYcrsZ5>>977チャットGPT:そう。そこは、かなり重要な共通点だね。ヤージュニャヴァルキヤも、釈迦も、古代インドの森林的な宗教文化を背景にした思想家なんだ。ただし、両者の活動形態には違いもある。2026/10/10 10:01:15980.◆JBLfMwCXhYcrsZ51. ヤージュニャヴァルキヤと森林の思想ヤージュニャヴァルキヤは、古代インドのウパニシャッド思想を代表する哲学者。彼の思想が伝えられている『ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド』は、名前からして「大森林のウパニシャッド」という意味を持つ。彼の思想の中心には、次のような問いがある。本当の自己(アートマン)とは何か。人間の認識を可能にしているものは何か。死によって何が失われ、何が残るのか。究極的な実在とは何か。特に有名なのが、「アートマンとは何か」という探究だね。ヤージュニャヴァルキヤは、自己を対象として認識することの限界を問い、究極的な自己について考察した。これは、後世のヴェーダーンタ哲学にも大きな影響を与えた。2026/10/10 10:01:37981.◆JBLfMwCXhYcrsZ52. ブッダと森林生活一方、ゴータマ・ブッダも、森林や林間の静かな場所で修行する伝統と深く結びついている。初期仏典には、森林、樹下、山間、空き家などで瞑想する修行者の姿が繰り返し登場する。ブッダ自身も、出家して苦行者として修行し、覚醒後も森林などで過ごした。ただし、ブッダは森林だけに暮らしたわけではない。都市や村落を訪れ、王侯貴族や在家信者とも交流していた。また、仏教教団は雨安居などの制度を持ち、森林での修行と定住生活の双方を取り入れていった。2026/10/10 10:02:00982.◆JBLfMwCXhYcrsZ53. 両者の共通点と決定的な違いここが面白いところだ。問題ヤージュニャヴァルキヤブッダ思想的背景ウパニシャッド思想沙門思想・初期仏教主な探究アートマンの本質苦の原因と解脱自己について究極的なアートマンを探究永遠不変の自己という見解を退ける解脱への方向自己の究極的な本質を知る無明・渇愛を滅し、苦を終わらせる修行環境森林的な宗教文化と関係森林修行を重視もちろん、これは両者の思想を大づかみに比較したものだ。重要なのは、同じ古代インドの宗教文化から、自己について異なる方向を追究する思想が生まれたということ。ヤージュニャヴァルキヤは、究極的な自己とは何かを問い詰めた。ブッダは、経験される身体や感覚、認識などを観察し、それらを永遠不変の自己とみなすことを退けた。両者とも、単に神々への儀礼を行うだけではなく、人間の存在そのものを根本から問い直したわけだ。そして、もうひとつ注目したいのは、森林生活という環境が、既存の社会的・宗教的な価値観から距離を取り、自分自身の存在を徹底的に探究する場になったということだね。古代インドの森林は、単なる修行場所ではなかった。ウパニシャッド思想と仏教の双方を理解するうえで、重要な背景だったんだ。2026/10/10 10:02:48983.◆JBLfMwCXhYcrsZ5>>970> まぁ、禅宗にはそのsatiで事足りるという所もあるから、笑夫が言う事にも一理あるな。仏のスレ主が言ってることにも、一理あるんだな?2026/10/10 10:03:31984.栖雲居士◆MKrKQHoID7SEggmMrある。2026/10/10 10:04:43985.神も仏も名無しさんXjkvZたんに、ハッスル🤡か無駄な知識の虚飾デコレーションが多すぎなだけやろ〜ま😭2026/10/10 10:14:45986.◆JBLfMwCXhYcrsZ5仏のスレ主にも、一理ある2026/10/10 10:23:16987.◆JBLfMwCXhYcrsZ5ロン殿にも、一理ある2026/10/10 10:23:28988.◆JBLfMwCXhYcrsZ5ムイムイには、一理もニ理もある2026/10/10 10:23:45989.◆JBLfMwCXhYcrsZ5単なるナルシズ無ではなかった2026/10/10 10:24:13990.◆JBLfMwCXhYcrsZ59902026/10/10 10:24:24991.栖雲居士◆MKrKQHoID7SEggmMrまぁ確かに南伝の瞑想をやってる人から「禅は止はあるけど観がないねぇ?」って指摘はあるな。で、「いやいや禅は止と観に分けない、止観同時だ!」なんて反論するけど、でもそれってsatiだよな。南伝とかで、ゆっくりと器を持ち上げて下すとかあるみたいだけど、臨済なんかは電光石火で観察する暇を与えない様なやり方だもんなぁ。妄想してたら器を弾き飛ばされる様な接化法をするし。曹洞とかはその真ん中くらいだけど、臨済に慣れてるとスローモーションを見てる様だし。2026/10/10 10:52:23992.◆JBLfMwCXhYMaLGg臨済宗は動作が速いのか2026/10/10 10:53:49993.◆JBLfMwCXhYMaLGg観察を目指してないんだな2026/10/10 10:53:59994.◆JBLfMwCXhYMaLGgテーラワーダ協会の言ってることには、説得力がある2026/10/10 10:58:45995.◆JBLfMwCXhYMaLGgでも、いままで「ブッダの教えはこうだった」と前置きして、自分の持論を存分に語る人を、あまりにも多く見てきた😫2026/10/10 10:59:41996.◆JBLfMwCXhYMaLGgどうも、信用できない😫2026/10/10 10:59:56997.◆JBLfMwCXhYMaLGg真実を追究しないとな2026/10/10 11:01:11998.◆JBLfMwCXhYMaLGg初期仏教が四念処だってことにもわりとつい最近、気づいたばかり2026/10/10 11:01:34999.◆JBLfMwCXhYMaLGg井上義衍老師が言ってたことと似ている2026/10/10 11:01:541000.◆JBLfMwCXhYMaLGg10002026/10/10 11:02:051001.Talk ★???このスレッドはコメントが1000件を超えました。新しいスレッドを立ててください。2026/10/10 11:02:051002.Talk ★???【プレミアムサービス無料期間延長!】プレミアムの無料期間を2027/3/31まで延長することになりました。広告除去や規制緩和など、ヘビーユーザーにとって欠かせない機能を無料でお楽しみいただけます。是非この機会にプレミアムサービスをお試しください!▼プレミアムサービスはこちらからhttps://talk.jp/premium2026/10/10 11:02:05
【パーリ仏典】テーラワーダ仏教【ヴィパッサナー瞑想】
https://talk.jp/boards/psy/1768687611
【ブッダの教え】初期仏教【最初はこういう話だった】
https://talk.jp/boards/psy/1768770625
【ブッダの教え】初期仏教【ヴィパッサナー瞑想】 Part2
https://talk.jp/boards/psy/1779968091
ぜんぜん知らん分野に挑んでるんだから、仕方ないだろ😅
マトモな人が宗教板からいなくなる
↓
939 栖雲居士◆MKrKQHoID7SE[sage] 2026/10/10(土) 09:18:15.49 ID:ggmMr
釈尊が見出した修行法は、当初はsati念の一語で示され、やがて satipatthana 念処という専門的な熟語が生まれて定着した。その後に samatha 止と vipassana 観という用語が使われるようになり、仏教の修行方法を表す用語として対になって使用されたと考えられる。
sati→satipatthana →samathaとvipassana
だんだんと加上されてややこしくなったw
Chat GPT:
JBL、仏教の瞑想を理解するうえで、**サティ(sati)・アヌパッサナー(anupassana)・サティパッターナ(satipatthana)**の関係は、かなり重要なポイントだよ。
この3つは密接に関係しているけれど、同じ意味ではないんだ。初期仏教のパーリ語をもとに、それぞれの意味と実践上の違いを整理してみよう。
1. サティ(Sati)——気づき・念
サティ(sati)=念・気づきを保つ働き
サティは、パーリ語で、サンスクリット語の smṛti に対応する言葉。
一般には「マインドフルネス」と訳されるけれど、単に現在の瞬間に注意を向けることだけではない。
仏教の実践では、何が起きているのかを見失わず、実践の対象や教えを心に保つ働きも含んでいる。
例えば、呼吸を観察しているとき。
息を吸っていることに気づく。
息を吐いていることに気づく。
雑念が生じたことに気づく。
雑念に気づいたら、呼吸へと注意を戻す。
これらの実践にサティが関わっている。
ただし、サティは単なる集中力とは異なる。集中が一つの対象に心を安定させる働きだとすれば、サティは対象や心の状態を忘れずに気づいている働きだと考えると理解しやすい。
アヌパッサナー=特定の観点から、現象を繰り返し観察すること。
パーリ語の anupassana は、一般に「随観」と訳される。
「観察」を意味する passana に、継続的に観察することや、ある仕方で観察することを示す要素が加わった語だ。
サティが気づきを保つ働きだとすれば、アヌパッサナーは、現象をどのような観点から観察するのかという実践の側面に関わる。
例えば、怒りが生じたとき。
サティ 「怒りが生じている」と気づく。
アヌパッサナー 怒りが生じ、変化し、弱まり、消えていく過程を観察する。
さらに、怒りを自分そのものとみなさず、条件によって生じて変化する現象として観察することもできる。
ここで重要なのは、アヌパッサナーが単なる分析的思考を意味するわけではないということ。
頭の中で「怒りとは何か」と考え続けることと、実際に生じている怒りの状態を観察することは異なる。
アヌパッサナーは、実践を通して現象を観察することを指している。
サティパッターナ=サティを確立すること、またはサティを確立するための実践・観察の枠組み。
サティパッターナは、初期仏教において特に重要な瞑想実践を指す言葉だ。
代表的な経典に『念処経』(パーリ語:Satipatthana Sutta)がある。
サティパッターナの語源については、伝統的に sati と upatthana(確立・現前・注意深く保つこと)との関係から説明される。
実践としては、次の四つの対象・領域が説かれている。
パーリ語
日本語
観察する対象
Kayanupassana
身随観
身体・呼吸・姿勢・身体活動
Vedananupassana
受随観
苦・楽・不苦不楽の感受
Cittanupassana
心随観
欲のある心、怒りのある心、集中した心など
Dhammanupassana
法随観
五蓋・五蘊・覚支・四聖諦など、教えに基づく諸現象
この四つを総称して、**四念処(しねんじょ)**という。
ここで注意したいのは、サティパッターナが単に「注意を向ける技術」を意味するのではないということ。
身体・感受・心・法という四つの領域において、サティを確立し、現象を適切に観察する仏教の実践体系なんだ。
この三つの違いを、実践の流れから捉えてみよう。
例えば、呼吸を観察する場合。
① サティ:気づきを保つ
息を吸っている、息を吐いていると気づく。
② アヌパッサナー:観察する
呼吸の長短や身体感覚、呼吸に伴う変化などを観察する。
③ サティパッターナ:実践の枠組み
呼吸や身体を対象として、身随観を実践する。さらに、受・心・法の観察へと実践を広げていく。
ただし、これは理解のための整理であって、実際の修行では三つが必ずこの順番で起こるわけではない。
サティパッターナの実践のなかでサティが働き、アヌパッサナーが行われる、と捉えるほうが正確だ。
図式化すれば、次のようになる。
サティ(気づきを保つ働き)
↓ アヌパッサナー(観察の実践)
↓ サティパッターナ(四つの領域における念の確立と観察の体系)
この図はあくまで概念的な整理であり、三者を完全に別々の段階とみなすものではない。
川^○^ハレsatiは正念ポイ
麦は正念相続の無心だと思う♪www
ここまで理解したら、次に区別しておきたいのが、**サティ(念)とヴィパッサナー(観)**の関係だ。
ヴィパッサナー(vipassana)は、現象を明晰に観察し、物事のあり方を洞察することに関わる。
例えば、呼吸を観察しているとき。
サティ:呼吸を見失わず、気づきを保つ。
アヌパッサナー:呼吸や身体などを、特定の観点から継続的に観察する。
ヴィパッサナー:観察を通して、現象の無常・苦・無我などを洞察する。
サティパッターナ:こうした実践の基盤となる四念処の教えと修行体系。
(以下略
まあ、そういうことでしょうな
カメラで写真をとって、画像を保存すること
それがサティだ
∞ノノハ∞
川^○^ハレ数回坐れば分かる事もありますね www
森林派は……知らんw
【ブッダの教え】初期仏教【パーリ仏典】 Part4
https://talk.jp/boards/psy/1791593861
サティとか四念処とかを、もういっぺんやらんとダメだ😫
森林は、居るだけで苦行
チャットGPT:
そう。そこは、かなり重要な共通点だね。
ヤージュニャヴァルキヤも、釈迦も、古代インドの森林的な宗教文化を背景にした思想家なんだ。
ただし、両者の活動形態には違いもある。
ヤージュニャヴァルキヤは、古代インドのウパニシャッド思想を代表する哲学者。
彼の思想が伝えられている『ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド』は、名前からして「大森林のウパニシャッド」という意味を持つ。
彼の思想の中心には、次のような問いがある。
本当の自己(アートマン)とは何か。
人間の認識を可能にしているものは何か。
死によって何が失われ、何が残るのか。
究極的な実在とは何か。
特に有名なのが、「アートマンとは何か」という探究だね。
ヤージュニャヴァルキヤは、自己を対象として認識することの限界を問い、究極的な自己について考察した。
これは、後世のヴェーダーンタ哲学にも大きな影響を与えた。
一方、ゴータマ・ブッダも、森林や林間の静かな場所で修行する伝統と深く結びついている。
初期仏典には、森林、樹下、山間、空き家などで瞑想する修行者の姿が繰り返し登場する。
ブッダ自身も、出家して苦行者として修行し、覚醒後も森林などで過ごした。
ただし、ブッダは森林だけに暮らしたわけではない。都市や村落を訪れ、王侯貴族や在家信者とも交流していた。
また、仏教教団は雨安居などの制度を持ち、森林での修行と定住生活の双方を取り入れていった。
ここが面白いところだ。
問題
ヤージュニャヴァルキヤ
ブッダ
思想的背景
ウパニシャッド思想
沙門思想・初期仏教
主な探究
アートマンの本質
苦の原因と解脱
自己について
究極的なアートマンを探究
永遠不変の自己という見解を退ける
解脱への方向
自己の究極的な本質を知る
無明・渇愛を滅し、苦を終わらせる
修行環境
森林的な宗教文化と関係
森林修行を重視
もちろん、これは両者の思想を大づかみに比較したものだ。
重要なのは、同じ古代インドの宗教文化から、
自己について異なる方向を追究する思想が生まれたということ。
ヤージュニャヴァルキヤは、究極的な自己とは何かを問い詰めた。
ブッダは、経験される身体や感覚、認識などを観察し、
それらを永遠不変の自己とみなすことを退けた。
両者とも、単に神々への儀礼を行うだけではなく、
人間の存在そのものを根本から問い直したわけだ。
そして、もうひとつ注目したいのは、森林生活という環境が、既存の社会的・宗教的な価値観から距離を取り、自分自身の存在を徹底的に探究する場になったということだね。
古代インドの森林は、単なる修行場所ではなかった。ウパニシャッド思想と仏教の双方を理解するうえで、重要な背景だったんだ。
> まぁ、禅宗にはそのsatiで事足りるという所もあるから、笑夫が言う事にも一理あるな。
仏のスレ主が言ってることにも、一理あるんだな?
ま😭
で、「いやいや禅は止と観に分けない、止観同時だ!」なんて反論するけど、でもそれってsatiだよな。
南伝とかで、ゆっくりと器を持ち上げて下すとかあるみたいだけど、臨済なんかは電光石火で観察する暇を与えない様なやり方だもんなぁ。
妄想してたら器を弾き飛ばされる様な接化法をするし。
曹洞とかはその真ん中くらいだけど、臨済に慣れてるとスローモーションを見てる様だし。
「ブッダの教えはこうだった」
と前置きして、自分の持論を存分に語る人を、あまりにも多く見てきた😫
わりとつい最近、気づいたばかり
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