悟りをひらいた人のスレ 899アーカイブ最終更新 2026/09/21 18:371.◆JBLfMwCXhYwJ5Sa悟りそれが、このスレのテーマ前スレ悟りをひらいた人のスレ 898https://talk.jp/boards/psy/17886028752026/09/15 02:57:591000すべて|最新の50件953.◆JBLfMwCXhY1W8ur>>950そう、それだいつも、それをウンコに言っている「釈尊の教えをイカダのように捨て去れ」というのは、「彼岸へと河を渡り切った後」の話だ此岸でこれから激流を渡ろうとする修行者が渡る前からイカダを捨てて、ど~するの😂2026/09/21 17:16:15954.神も仏も名無しさんAzg53たまにはモフモフ😺役にたつんだな?😺〜2026/09/21 17:22:41955.神も仏も名無しさんc1mqg筏を作り操るなら、筏づくりや使い方の上手下手は上下関係にとても大事だろうね2026/09/21 17:23:20956.ハジXzXavまさにその通りです。一言で言えば「段階(ステップ)がある」というのが、伝統仏教の出した結論です。仏教ではこの考え方を「階級(階位)」**や**「方便(ほうべん)」**、あるいは**「応病与薬(おうびょうよやく=病気に応じて薬を与える)」という概念で説明します。### 3つのレベル(段階)で整理する仏教における「見解(見)」の扱いは、修行のレベルによってハッキリと役割が変わります。| 段階 | レベル | 見解(見)の扱い | 例え ||---|---|---|---|| **ステップ1** | **世間(スタート地点)** | **邪見を捨て、正見(正しい見解)を持つ**※善悪、因果、業、道徳などを正しく理解する | 病気にかかっている状態。「正しい薬(正見)」を飲む必要がある。 || **ステップ2** | **実践・修行** | **正見を「道具(観察の手段)」として使う**※無常・苦・無我や四諦を観察する | 川を渡っている最中。「筏(教え・見解)」にしっかり乗る。 || **ステップ3** | **悟り(ゴール)** | **正見も含めて「見解への執着」を手放す**※「自分は正解を知っている」という我執すら消滅する | 病気が治った/対岸に着いた。薬や「筏」を捨てて歩み出す。 |2026/09/21 17:23:24957.ハジXzXav### なぜ「無見」と誤解されるのか?引用にあった「禅僧やヨガの先生」などが「最初から無見になれ」「一切の見解を持つな」と主張してしまうのは、**「ステップ3(ゴールの状態)」の言葉を、そのまま「ステップ1(スタート地点)」の人に向けて言ってしまうから**です。仏教の立場からすると: * **スタート時点で「無見(見解なし)」になろうとする場合:** ただの「無知」「無善悪(善悪の区別がつかない状態)」に陥り、倫理的な判断や正しい観察ができなくなります。(これを「悪取空」**や**「愚痴」と呼びます) * **正しくステップを踏む場合:** 「正見」というレンズを使って世界の事実(無常や無我)を観察し、十分に観察しきって悟りに達した時(ゴール)、そのレンズ(正見への執着)すらもスッと手放します。2026/09/21 17:25:10958.ハジXzXav### 結論伝統仏教が整理した解決策は、「見解は、目的地(悟り)に到達するまでは絶対に不可欠な『道具』であり、到達した後にだけ手放すもの」という段階論です。ですので、「見解を持つべきか/捨てるべきか」という問いに対しては、「今はどの段階にいるのか?」によって答えが変わる、というのが伝統仏教のスタンスになります。2026/09/21 17:26:38959.神も仏も名無しさんAzg53伝統仏教の意味がよーわからんモフモフ😺らしい😺〜2026/09/21 17:28:37960.ハジXzXav結論から申し上げますと、それらの主張は伝統的な仏教の解釈において「究極の域における正しい仏説」ではありません。仏教の高度な教学(大乗仏教の空や即身成仏、天台の煩悩即菩提など)にある **「言葉や教義の表面だけを都合よく切り取り、倫理や因果(業)を無視した誤解(いわゆる悪取空や魔説)」** に分類されます。なぜそれらの主張が「究極の仏説」とは言えないのか、仏教が伝統的にどう整理してきたのかを解説します。### 1. 「煩悩即菩提」の本当の意味「煩悩即菩提(煩悩がそのまま悟りである)」は、大乗仏教(特に天台宗や真言宗など)の高度な悟りの境界を表す言葉です。 * **誤解:** 「煩悩のまま欲望を肯定して暴走させてよい」 * **本来の意味:** 「煩悩(怒りや欲望)も悟り(菩提)も、本質(空)においては同じ一つの心から現れた現象である。だから煩悩を力づくで排斥・抑圧するのではなく、そのエネルギーの本質が『空』であると見抜くことで、そのまま悟りの智慧へと転換(翻転)できる」つまり、「煩悩を野放しにしていい」という意味ではなく、**「煩悩の正体を見抜いて昇華させる」** という観察の実践を指しています。欲望を肯定して居直る態度は、単なる「煩悩への執着(無明)」に過ぎません。2026/09/21 17:31:20961.安堂huzttとっとと悟りを開いて筏を捨てろ。あと羅針盤も捨てろ。航海図も捨てろ。経典も捨てろ。オールも捨てろ。最後に自分を棄てろ(⌒‐⌒)2026/09/21 17:31:21962.ハジXzXav### 2. 「核爆弾が落ちてもいい」と因果律・慈悲仏教の根幹にあるのは「縁起(えんぎ)」**と**「慈悲(じひ)」**、そして**「因果応報(いんがおうほう)」です。 * **縁起と慈悲:** 究極の悟り(空)を得た者は、すべての生命が繋がり合っていることを痛感するため、他者の苦しみに対して無限の慈悲を持ちます。「核爆弾が落ちてもいい(大勢が苦しんでも構わない)」という冷淡さや虚無主義(ニヒリズム)は、仏教が最も警戒する「邪見(誤った世界観)」**や**「悪取空(空を悪用した虚無主義)」です。 * **因果律:** 大乗仏教の最高峰の論師たち(龍樹など)も、「勝義(究極の真理)においてはすべて空であるが、世俗(現実世界)においては因果の法則は厳然と存在する」と強調しています。大量殺戮や破滅を肯定・容認することは、厳しい悪業(あくごう)の因果を招く行為とされます。2026/09/21 17:33:31963.ハジXzXav### 3. 「株で増やす」「普通に暮らす陽気な人が佛」の評価 * **世俗の生活と正業(しょうごう):** 法律を守り、正当な経済活動(株式投資など)を行って普通に暮らすことは、仏教の「八正道」における「正業(正しい行為)」「正命(正しい生活様式)」の範疇であり、決して悪いことではありません。 * **「陽気な人が佛」の真偽:** 心豊かで執着が少なく、明るく生きている人は「悟りの状態に近い要素(柔軟心)」を持っています。しかし、仏教における「佛(仏陀)」とは、「自らの煩悩の仕組みと世界の真理(四諦・縁起)を完全に覚知し、根本的な苦しみから解脱した者」を指します。単に性格が陽気で世渡りが上手いということと、無明を打破した「佛」であることは明確に区別されます。2026/09/21 17:34:55964.ハジXzXav### 4. 伝統仏教における判定方法:「四依(しえ)」と「悪取空(あくしゅくう)」仏教には、何が正しい仏説かを鑑みるための「四依(教えに依って人に依らざれ、義に依って語に依らざれ…)」という基準があります。また、中国や日本の禅宗・密教などでも、悟りの表現(「仏も祖師も切り捨てよ」「殺仏殺祖」など)の形だけを真似て、倫理や修行を捨て去る者を「野狐禅(やこぜん=悟ったフリをする狐)」**や**「悪取空(空の教えを悪用して悪行を正当化する者)」として厳しく批判してきました。> **龍樹(ナーガルジュナ)の警告:**> 「捉え方を誤った『空』の教えは、掴み方を間違えた毒蛇や、掛け方を間違えた呪文のように、愚かな者を自滅させる。」>2026/09/21 17:36:13965.ハジXzXav### まとめお示しいただいた主張は、**「究極の解脱の言葉(無執着や空)」を、現世の欲望や現実逃避・虚無主義を肯定するために都合よく再解釈したもの**です。 1. **「仏教など忘れてしまえ」** → ゴール(対岸)に着いた者が筏を手放す言葉であり、スタート地点で勉強や実践を放り投げる理由にはならない。 2. **「煩悩即菩提」** → 煩悩の不浄さを見抜いて智慧に変えるプロセスのことであり、開き直りではない。 3. **「核爆弾でもいい」** → 慈悲と縁起を否定する「虚無(悪取空)」であり、明確な邪見。したがって、これらは「究極の仏説」ではなく、仏教の言葉を借りた「無知(無明)の肯定」または「虚無主義(ニヒリズム)」というのが伝統的な仏教の判断となります。2026/09/21 17:37:13966.ハジXzXavこのような「極端な空(悪取空)」や「解脱の言葉の悪用」に陥り、倫理や因果を無視してエゴを正当化し続けた者(あるいはその運動)が辿る末路について、伝統仏教の教理(因果論・業論)と歴史的な実例の双方から見ると、主に**3つの側面で破滅的な結末**を迎えることが示されています。### 1. 個人の精神的末路:本質的な苦しみ(孤立と不安)からの不解脱「エゴも問題ない」「核爆弾が落ちても関係ない」と強がる思想は、一見すると無敵で自由に見えますが、内実としては**強固な「我執(自己中心性)」の裏返し**に過ぎません。 * **煩悩の倍増と自壊** 欲望や傲慢さを「そのままで良い」と放置・肯定するため、エゴはますます肥大化します。エゴが大きくなればなるほど、「自分の思い通りにならない現実」に対する怒りや恐怖(苦しみ)も増幅します。 * **深層の虚無と恐怖** 因果や慈悲を捨て去った「偽りの無執着」は、単なる冷酷さ・虚無主義(ニヒリズム)です。一見陽気に振る舞っていても、人生の試練(病気、老い、死、他者からの裏切りなど)に直面した際、支えとなる倫理や慈悲を持たないため、極度の不安と孤独に押し潰されます。2026/09/21 17:39:36967.神も仏も名無しさんAzg53>>964モフモフ😺それ変〜騒音だモフモフ😺暴走族だな?😺〜〜〜2026/09/21 17:40:33968.ハジXzXav### 2. 現実的・社会的な末路:破滅的カルト化と社会からの隔離歴史上、仏教や思想の「非日常的な高次元の言葉(即身成仏、何でもありの空など)」を都合よく解釈し、欲望や悪行を正当化した指導者や集団は何度も現れました。 * **暴走と自滅(歴史的パターン)** 「どんな行為も空であり問題ない」と説く指導者は、やがて自らの性欲・金銭欲・支配欲を一切制御できなくなります。その結果、信者の搾取、犯罪の正当化、他者への攻撃へと暴走します。 * **法と社会による淘汰** 「法律も倫理も超えた」と誇称しても、現実の因果(世俗の法)からは逃れられません。歴史上のこの手のアナーキーな邪教集団(野狐禅や悪取空の変種)は、例外なく**内部崩壊、受刑、あるいは社会からの徹底的な排除・無視**という末路を辿っています。2026/09/21 17:41:08969.神も仏も名無しさんAzg53やっぱり、お前はモフモフ😺だ😀2026/09/21 17:41:48970.神も仏も名無しさんAzg53モフモフ😺自慢のマーキング大量ショーを見せられる側にたってみろ😺〜〜〜2026/09/21 17:42:33971.ハジXzXav### 3. 仏教の因果論(業論)における末路:無間地獄(悪業の果報)仏教教学の観点から言えば、この末路は最も深刻に描写されます。 * **「破戒」よりも重い「正法(しょうぼう)の破壊」** 単に自分が欲望に負けて戒律を破る(破戒)ことよりも、「欲望のままで問題ない。これが究極の仏教だ」と妄語(ウソ)を吐いて他者を惑わすこと(邪見の流布)のほうが、はるかに重い罪(悪業)とされます。 * **「無知の拡大」に対する果報** 龍樹が『中論』で「空の誤解は毒蛇を掴むようなもの」と警告した通り、自他ともに善悪の因果を無視させ、他者の精神的な救いの道を閉ざした報いとして、自らも最も深い苦しみの世界(無間地獄・悪趣)へ堕ちると古来解釈されてきました。2026/09/21 17:42:40972.ハジXzXav### 結論「エゴをそのまま肯定し、世俗のルールや他者の苦しみを軽視しても平気」と説く姿勢の末路は、悟り(解脱)とは真逆の「エゴの肥大化による自滅」「社会的な孤立・破滅」、そして「深い精神的苦痛(虚無)」です。悟りとは「エゴから解放されて開かれた心(慈悲)になること」であって、「エゴを抱えたまま居直ること」ではありません。道具としての「言葉」だけを真似て自らを誇る者は、最終的に自らが背けた「現実(因果)」によって足元をすくわれることになります。2026/09/21 17:44:01973.栖雲居士◆MKrKQHoID7SEkiEJ7釈迦仏教の原風景は、一切見解の棄捨ですよ。ただそれじゃ教団組織としての体裁が崩壊するから、二元論的な修道論に改変されたんですけどね。Desire, Death and Goodness: The Conflict of Ultimate Values in Theravāda Buddhism by Grace G. Burford2026/09/21 17:45:19974.安堂huzttハジ大博士の大論文は終わりそうもない。金剛般若経の徳山みたいや。竜潭和尚みたいな人と出会えたらいいな(⌒‐⌒)2026/09/21 17:47:41975.神も仏も名無しさんAzg53ハッスル🤡の原風景は教育ママンに成績いびられたトラウマだろな🤡〜〜2026/09/21 17:48:54976.栖雲居士◆MKrKQHoID7SEkiEJ7一切見解の棄捨は、倫理や道徳等の社会的な規範を放棄するものではなく、虚無主義でもないんです。無我論でありながら自灯明を説示されたのと同じ道理です。一切見解の棄捨を云いながら、その主体である不断の自己刷新を勧めているのですからね。2026/09/21 17:50:18977.ハジXzXav井上哲玄老師(あるいは井上義雄老師など井上派の禅風)や、中国の盤珪禅師・無門慧開などの禅者が説く「我見(がけん)を離れよ」「内虚にして外事(がいじ)あるのみ」**という示唆は、先に議論となった「エゴの肯定(居直り)」とは**真逆の実践であり、古来の伝統仏教の解釈(特に禅宗および大乗仏教の教学)において完璧な整合性が保たれています。彼らの主張の違い、そして「見(見解)のあるなし」という問題との整合性を、伝統仏教の観点から3つのポイントで整理します。### 1. 「我見を離れ、内虚にして外事あるのみ」の真意「内虚にして外事あるのみ」とは、中国の唐代の禅者・黄檗希運(おうばくきうん)の『伝心法要』などにも通じる表現です。 * **内虚(ないきょ):** 心の内に「私(エゴ)」という固形物や、「私はこう思う」「これが正解だ」という思考・価値判断(我見)を一切握りしめないこと。 * **外事(がいじ)あるのみ:** ただ目の前の事実・状況・働き(音を聞く、色を見る、応対する)がそのままあること。ここでの「我見を離れる」とは、**思考やエゴによる解釈のフィルターを一切差し挟まず、事実(ありのままの現成)に身を委ねる**という**極めて厳密な実践**です。2026/09/21 17:51:15978.神も仏も名無しさんAzg53ママン灯明かと思った🤡〜〜2026/09/21 17:52:42979.ハジXzXav### 2. 「エゴ肯定の居直り」との決定的な違いさきほどの「エゴも問題ない」「法を守って陽気に過ごせば佛」という主張と、井上老師らの「我見を離れる」説法は、表面上の言葉(「考えを捨てる」など)が似て見えても、内容は正反対です。| 項目 | 「内虚にして外事あるのみ」(井上老師ら) | 「エゴ肯定・居直り」の主張 ||---|---|---|| **我執(エゴ)** | **徹頭徹尾、粉砕・無化する**(「私」という主観の入り込む余地をゼロにする) | **まるごと持ち続け、肯定する**(欲望やエゴを「そのままでいい」と肥大化させる) || **事実は何か** | 自分の考え(解釈)ではなく、**ただ眼前の事実そのもの** | 「株で儲ける」「陽気でいる」という**自分の欲望や解釈** || **見解(見)の扱い** | 自分勝手な見解(我見)を**徹底的に脱落させる** | 「仏教なんてどうでもいい」という**新たな見解(我見)に執着する** |つまり、井上老師の説く道は「我見の徹底的な脱落(徹底した修行)」であり、エゴの肯定とは「我見を捨てるどころか、我見を正当化してドップリ浸かっている状態」に過ぎません。2026/09/21 17:54:39980.神も仏も名無しさんGb3LK「見解あり」も「見解なし」も「倫理道徳観あり」も「倫理道徳否定」も真理の実在も、虚無主義もどれも「自己」の上の見方になるから己事究明なんていわれるようにその見方によってる自分に気付き探究するってのが王道的なところかな2026/09/21 17:57:34981.ハジXzXav### 3. 「見解のあるなし」の問題との整合性伝統仏教(特に禅宗)は、「見解のあるなし」の葛藤を「正見(道具)」から「身心脱落(事実そのもの)」への架け橋として見事に整合させてきました。#### ① 「我見(邪見)」と「正見」の整合 * 人は誰しも「自分中心のフィルター(我見)」を通して世界を見ており、これが苦しみの原因です。 * 修行の途上では、「無常・無我・因果」といった**正見(正しい教え・観察)という概念**を使って、この「我見」を削り落としていきます。#### ② 「正見」から「無見(我見の脱落・事実そのもの)」へ * 教え(正見)をツールとして深めていくと、最終的に「私という観察者」と「観察される世界」という二元論自体が消えます。 * これがいわゆる身心脱落(しんしんどつらく)であり、その状態を表現したのが「内虚にして外事あるのみ」です。ここでの「無見」とは、「なにも考えていないバカになること」や「見解を無視すること」ではなく、「『私』という主観の偏執がすっかり消え去り、ただ世界(事実)がそのようにある状態」を指します。2026/09/21 17:57:53982.安堂huztt見解がある時点で話にならない。解脱しろ、ハジ殿。あなたが学んだことはそれから役に立つから学問は暫くおいとけばいい。2026/09/21 17:58:05983.神も仏も名無しさんGb3LK坐禅でも念仏でも観心でもその行の際には、自身の見方をさしはさまずそのはたらきに純一に、そのものになりきるってことも基本であるだろう2026/09/21 17:58:56984.ハジXzXav### まとめ:古来からの伝統的な解釈 1. **段階としての整合性** 我見に囚われている人間が「自分勝手な解釈(我見)」を一切差し挟まなくなるための実践(指針)として、「内虚(我見を離れる)」が説かれます。 2. **言葉ではなく「事実」に着地する** 「見解を持つべきか/捨てるべきか」という論争自体が、実は頭の中の「我見(戯論)」に過ぎません。伝統仏教(特に禅)は、「論争する暇があったら、今ここで我見を離れて『ただ眼前の事実』になり切れ」と教えて解決します。したがって、井上老師らの示唆は、仏典の「正見をもって邪見を破り、最終的に我執を脱落させる」という伝統的な解釈の**最も実践的な核心**を突いたものであり、居直り的な「無見」や「エゴ肯定」とは全く別物です。2026/09/21 18:00:28985.栖雲居士◆MKrKQHoID7SEtNmmk複合的な原因はありますが、要するに教義のドグマ化がサンガで起きたって事です。阿毘達磨ってね。都市型僧院の僧侶達に依ってね。それに対して森林住派等がいやいや、そうじゃないでしょ?っていうのが大乗仏教への途にもなったんです。般若経典群の成立に深く関わっていたとの説が有力ですしね。龍樹なんかもその嚆矢でしょ。2026/09/21 18:02:30986.◆JBLfMwCXhY1W8ur>>985古代インドにも、お前みたいに自己の見解に極端に執着し延々と自説を言い張り続ける「言い張り系」が多かったってことだ😅2026/09/21 18:09:09987.◆JBLfMwCXhY1W8urブッダは、「なんの見解も持つな」と言ってるわけではない「自分の持論への執着を棄てろ」と言ってるだけ2026/09/21 18:10:48988.栖雲居士◆MKrKQHoID7SEtNmmk義釈(ニッデーサ)でそのスッタニパータの八群品が改変されたからね。そしてそれが南伝のドグマになってしまったから。2026/09/21 18:11:38989.◆JBLfMwCXhY1W8ur当方を見てみろ昔は、新興宗教の信者たちに対して「汝もまた、信仰を捨て去れ」「固定観念からの脱却。それが仏道修行者の目標だ」とかなんとか言い続けて、蛇蝎のように嫌われていたそれが、いまや「釈尊は一切の見解を捨て去れとまでは言ってない」と言い続けているこの柔軟性こそが、「固定観念からの脱却」なのだ😂2026/09/21 18:15:53990.◆JBLfMwCXhY1W8ur9902026/09/21 18:18:18991.◆JBLfMwCXhY1W8urキリスト教やイスラム教なら、それでもいいあれは、信仰を限りなく強めていく道信念の強さこそ、一番の武器となる2026/09/21 18:19:13992.◆JBLfMwCXhY1W8urだが、仏教はそうではない仏教は、「固定観念からの脱却」の道だお前みたいに、自説をハテしなく延々と言い張り続ける頑固さは良くない2026/09/21 18:20:12993.神も仏も名無しさんAzg53エセッスル🤡反省しろお〜〜🤡〜〜2026/09/21 18:23:07994.◆JBLfMwCXhY1W8ur頑固さは毒だ毒を散らす毒散せよ(笑)2026/09/21 18:23:21995.◆JBLfMwCXhY1W8ur>昔は、新興宗教の信者たちに対して「汝もまた、信仰を捨て去れ」「固定観念からの脱却。それが仏道修行者の目標だ」とかなんとか言い続けて、蛇蝎のように嫌われていたいまでは、立場が逆転したいまは、禅宗系の人たちが「釈迦の教えをイカダのように捨て去れ」とか「仏教を学ぶな。何も知らないほうが早く悟れる」とか口々に言ってるのを見て、カチンときている「自称・仏教徒のくせに、それを言うか。それはおかしいぞ」と言っている180度とまでは行かないまでも120度くらいは立場が逆転した😂2026/09/21 18:26:43996.◆JBLfMwCXhY1W8ur世の中ってのは、本当に極端な人が多いな両極端のどちらかに逝っちゃってる人が多い自分も人のことは言えんが(笑)当方の場合は、自分の極端さを自覚してるからこそ、古今東西のありとあらゆる教えを学んでいる多様な考えを知ることにより、柔軟性を養っている😂2026/09/21 18:29:12997.神も仏も名無しさんcgG5P禅修行は、自己に参じて己事究明です。。見解がどうのじゃない。。自己とは何か、明らめる。。2026/09/21 18:35:35998.神も仏も名無しさんcgG5P在家の人って、結局、宗教が現実逃避になりやすいんですよ。。自己直面や、現実に向きあることからの逃げ、になりやすい。。ルサンチマン、なんていうのもそう言うこと。。だから、そういう逃げ、出会ってはいけないんですよ。。真っ直ぐに向き合わないと。。2026/09/21 18:36:52999.◆JBLfMwCXhY1W8ur20年前は、秋月龍珉の著書を引用しながら「これを見ろ。高名な仏教学者(兼 禅僧)も、『輪廻転生は古代インドの迷信にすぎない。迷信から目を覚ませというのが釈尊の教えだったのだ』と言ってるぞ?」とかなんとか主張して新興宗教のバカ信者の人たちから、親のカタキのように嫌われていた😫それが今では、「釈尊は輪廻転生を否定していない」という論調へと、コロッと変化している初期仏典を読み込んだおかげで、見方が変わったのだ2026/09/21 18:37:021000.◆JBLfMwCXhY1W8urスッタニパータも、ずいぶん読んだセイウン居士が主張してるようなことは、書かれていない😂2026/09/21 18:37:381001.Talk ★???このスレッドはコメントが1000件を超えました。新しいスレッドを立ててください。2026/09/21 18:37:381002.Talk ★???【プレミアムサービス無料期間延長!】プレミアムの無料期間を2027/3/31まで延長することになりました。広告除去や規制緩和など、ヘビーユーザーにとって欠かせない機能を無料でお楽しみいただけます。是非この機会にプレミアムサービスをお試しください!▼プレミアムサービスはこちらからhttps://talk.jp/premium2026/09/21 18:37:38
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悟りをひらいた人のスレ 898
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そう、それだ
いつも、それをウンコに言っている
「釈尊の教えをイカダのように捨て去れ」というのは、「彼岸へと河を渡り切った後」の話だ
此岸でこれから激流を渡ろうとする修行者が
渡る前からイカダを捨てて、ど~するの😂
役にたつんだな?
😺〜
仏教ではこの考え方を「階級(階位)」**や**「方便(ほうべん)」**、あるいは**「応病与薬(おうびょうよやく=病気に応じて薬を与える)」という概念で説明します。
### 3つのレベル(段階)で整理する
仏教における「見解(見)」の扱いは、修行のレベルによってハッキリと役割が変わります。
| 段階 | レベル | 見解(見)の扱い | 例え |
|---|---|---|---|
| **ステップ1** | **世間(スタート地点)** | **邪見を捨て、正見(正しい見解)を持つ**
※善悪、因果、業、道徳などを正しく理解する | 病気にかかっている状態。
「正しい薬(正見)」を飲む必要がある。 |
| **ステップ2** | **実践・修行** | **正見を「道具(観察の手段)」として使う**
※無常・苦・無我や四諦を観察する | 川を渡っている最中。
「筏(教え・見解)」にしっかり乗る。 |
| **ステップ3** | **悟り(ゴール)** | **正見も含めて「見解への執着」を手放す**
※「自分は正解を知っている」という我執すら消滅する | 病気が治った/対岸に着いた。
薬や「筏」を捨てて歩み出す。 |
引用にあった「禅僧やヨガの先生」などが「最初から無見になれ」「一切の見解を持つな」と主張してしまうのは、**「ステップ3(ゴールの状態)」の言葉を、そのまま「ステップ1(スタート地点)」の人に向けて言ってしまうから**です。
仏教の立場からすると:
* **スタート時点で「無見(見解なし)」になろうとする場合:**
ただの「無知」「無善悪(善悪の区別がつかない状態)」に陥り、倫理的な判断や正しい観察ができなくなります。(これを「悪取空」**や**「愚痴」と呼びます)
* **正しくステップを踏む場合:**
「正見」というレンズを使って世界の事実(無常や無我)を観察し、十分に観察しきって悟りに達した時(ゴール)、そのレンズ(正見への執着)すらもスッと手放します。
伝統仏教が整理した解決策は、「見解は、目的地(悟り)に到達するまでは絶対に不可欠な『道具』であり、到達した後にだけ手放すもの」という段階論です。
ですので、「見解を持つべきか/捨てるべきか」という問いに対しては、「今はどの段階にいるのか?」によって答えが変わる、というのが伝統仏教のスタンスになります。
モフモフ😺らしい
😺〜
仏教の高度な教学(大乗仏教の空や即身成仏、天台の煩悩即菩提など)にある **「言葉や教義の表面だけを都合よく切り取り、倫理や因果(業)を無視した誤解(いわゆる悪取空や魔説)」** に分類されます。
なぜそれらの主張が「究極の仏説」とは言えないのか、仏教が伝統的にどう整理してきたのかを解説します。
### 1. 「煩悩即菩提」の本当の意味
「煩悩即菩提(煩悩がそのまま悟りである)」は、大乗仏教(特に天台宗や真言宗など)の高度な悟りの境界を表す言葉です。
* **誤解:** 「煩悩のまま欲望を肯定して暴走させてよい」
* **本来の意味:** 「煩悩(怒りや欲望)も悟り(菩提)も、本質(空)においては同じ一つの心から現れた現象である。だから煩悩を力づくで排斥・抑圧するのではなく、そのエネルギーの本質が『空』であると見抜くことで、そのまま悟りの智慧へと転換(翻転)できる」
つまり、「煩悩を野放しにしていい」という意味ではなく、**「煩悩の正体を見抜いて昇華させる」** という観察の実践を指しています。欲望を肯定して居直る態度は、単なる「煩悩への執着(無明)」に過ぎません。
あと羅針盤も捨てろ。
航海図も捨てろ。
経典も捨てろ。
オールも捨てろ。
最後に自分を棄てろ(⌒‐⌒)
仏教の根幹にあるのは「縁起(えんぎ)」**と**「慈悲(じひ)」**、そして**「因果応報(いんがおうほう)」です。
* **縁起と慈悲:** 究極の悟り(空)を得た者は、すべての生命が繋がり合っていることを痛感するため、他者の苦しみに対して無限の慈悲を持ちます。「核爆弾が落ちてもいい(大勢が苦しんでも構わない)」という冷淡さや虚無主義(ニヒリズム)は、仏教が最も警戒する「邪見(誤った世界観)」**や**「悪取空(空を悪用した虚無主義)」です。
* **因果律:** 大乗仏教の最高峰の論師たち(龍樹など)も、「勝義(究極の真理)においてはすべて空であるが、世俗(現実世界)においては因果の法則は厳然と存在する」と強調しています。大量殺戮や破滅を肯定・容認することは、厳しい悪業(あくごう)の因果を招く行為とされます。
* **世俗の生活と正業(しょうごう):**
法律を守り、正当な経済活動(株式投資など)を行って普通に暮らすことは、仏教の「八正道」における「正業(正しい行為)」「正命(正しい生活様式)」の範疇であり、決して悪いことではありません。
* **「陽気な人が佛」の真偽:**
心豊かで執着が少なく、明るく生きている人は「悟りの状態に近い要素(柔軟心)」を持っています。しかし、仏教における「佛(仏陀)」とは、「自らの煩悩の仕組みと世界の真理(四諦・縁起)を完全に覚知し、根本的な苦しみから解脱した者」を指します。単に性格が陽気で世渡りが上手いということと、無明を打破した「佛」であることは明確に区別されます。
仏教には、何が正しい仏説かを鑑みるための「四依(教えに依って人に依らざれ、義に依って語に依らざれ…)」という基準があります。
また、中国や日本の禅宗・密教などでも、悟りの表現(「仏も祖師も切り捨てよ」「殺仏殺祖」など)の形だけを真似て、倫理や修行を捨て去る者を「野狐禅(やこぜん=悟ったフリをする狐)」**や**「悪取空(空の教えを悪用して悪行を正当化する者)」として厳しく批判してきました。
> **龍樹(ナーガルジュナ)の警告:**
> 「捉え方を誤った『空』の教えは、掴み方を間違えた毒蛇や、掛け方を間違えた呪文のように、愚かな者を自滅させる。」
>
お示しいただいた主張は、**「究極の解脱の言葉(無執着や空)」を、現世の欲望や現実逃避・虚無主義を肯定するために都合よく再解釈したもの**です。
1. **「仏教など忘れてしまえ」**
→ ゴール(対岸)に着いた者が筏を手放す言葉であり、スタート地点で勉強や実践を放り投げる理由にはならない。
2. **「煩悩即菩提」**
→ 煩悩の不浄さを見抜いて智慧に変えるプロセスのことであり、開き直りではない。
3. **「核爆弾でもいい」**
→ 慈悲と縁起を否定する「虚無(悪取空)」であり、明確な邪見。
したがって、これらは「究極の仏説」ではなく、仏教の言葉を借りた「無知(無明)の肯定」または「虚無主義(ニヒリズム)」というのが伝統的な仏教の判断となります。
### 1. 個人の精神的末路:本質的な苦しみ(孤立と不安)からの不解脱
「エゴも問題ない」「核爆弾が落ちても関係ない」と強がる思想は、一見すると無敵で自由に見えますが、内実としては**強固な「我執(自己中心性)」の裏返し**に過ぎません。
* **煩悩の倍増と自壊**
欲望や傲慢さを「そのままで良い」と放置・肯定するため、エゴはますます肥大化します。エゴが大きくなればなるほど、「自分の思い通りにならない現実」に対する怒りや恐怖(苦しみ)も増幅します。
* **深層の虚無と恐怖**
因果や慈悲を捨て去った「偽りの無執着」は、単なる冷酷さ・虚無主義(ニヒリズム)です。一見陽気に振る舞っていても、人生の試練(病気、老い、死、他者からの裏切りなど)に直面した際、支えとなる倫理や慈悲を持たないため、極度の不安と孤独に押し潰されます。
モフモフ😺
それ変〜
騒音だ
モフモフ😺暴走族だな?
😺〜〜〜
歴史上、仏教や思想の「非日常的な高次元の言葉(即身成仏、何でもありの空など)」を都合よく解釈し、欲望や悪行を正当化した指導者や集団は何度も現れました。
* **暴走と自滅(歴史的パターン)**
「どんな行為も空であり問題ない」と説く指導者は、やがて自らの性欲・金銭欲・支配欲を一切制御できなくなります。その結果、信者の搾取、犯罪の正当化、他者への攻撃へと暴走します。
* **法と社会による淘汰**
「法律も倫理も超えた」と誇称しても、現実の因果(世俗の法)からは逃れられません。歴史上のこの手のアナーキーな邪教集団(野狐禅や悪取空の変種)は、例外なく**内部崩壊、受刑、あるいは社会からの徹底的な排除・無視**という末路を辿っています。
モフモフ😺だ
😀
マーキング大量ショーを
見せられる側にたってみろ
😺〜〜〜
仏教教学の観点から言えば、この末路は最も深刻に描写されます。
* **「破戒」よりも重い「正法(しょうぼう)の破壊」**
単に自分が欲望に負けて戒律を破る(破戒)ことよりも、「欲望のままで問題ない。これが究極の仏教だ」と妄語(ウソ)を吐いて他者を惑わすこと(邪見の流布)のほうが、はるかに重い罪(悪業)とされます。
* **「無知の拡大」に対する果報**
龍樹が『中論』で「空の誤解は毒蛇を掴むようなもの」と警告した通り、自他ともに善悪の因果を無視させ、他者の精神的な救いの道を閉ざした報いとして、自らも最も深い苦しみの世界(無間地獄・悪趣)へ堕ちると古来解釈されてきました。
「エゴをそのまま肯定し、世俗のルールや他者の苦しみを軽視しても平気」と説く姿勢の末路は、悟り(解脱)とは真逆の「エゴの肥大化による自滅」「社会的な孤立・破滅」、そして「深い精神的苦痛(虚無)」です。
悟りとは「エゴから解放されて開かれた心(慈悲)になること」であって、「エゴを抱えたまま居直ること」ではありません。道具としての「言葉」だけを真似て自らを誇る者は、最終的に自らが背けた「現実(因果)」によって足元をすくわれることになります。
ただそれじゃ教団組織としての体裁が崩壊するから、二元論的な修道論に改変されたんですけどね。
Desire, Death and Goodness: The Conflict of Ultimate Values in Theravāda Buddhism by Grace G. Burford
金剛般若経の徳山みたいや。
竜潭和尚みたいな人と出会えたらいいな(⌒‐⌒)
教育ママンに成績いびられたトラウマだろな🤡〜〜
無我論でありながら自灯明を説示されたのと同じ道理です。
一切見解の棄捨を云いながら、その主体である不断の自己刷新を勧めているのですからね。
彼らの主張の違い、そして「見(見解)のあるなし」という問題との整合性を、伝統仏教の観点から3つのポイントで整理します。
### 1. 「我見を離れ、内虚にして外事あるのみ」の真意
「内虚にして外事あるのみ」とは、中国の唐代の禅者・黄檗希運(おうばくきうん)の『伝心法要』などにも通じる表現です。
* **内虚(ないきょ):** 心の内に「私(エゴ)」という固形物や、「私はこう思う」「これが正解だ」という思考・価値判断(我見)を一切握りしめないこと。
* **外事(がいじ)あるのみ:** ただ目の前の事実・状況・働き(音を聞く、色を見る、応対する)がそのままあること。
ここでの「我見を離れる」とは、**思考やエゴによる解釈のフィルターを一切差し挟まず、事実(ありのままの現成)に身を委ねる**という**極めて厳密な実践**です。
思った🤡〜〜
さきほどの「エゴも問題ない」「法を守って陽気に過ごせば佛」という主張と、井上老師らの「我見を離れる」説法は、表面上の言葉(「考えを捨てる」など)が似て見えても、内容は正反対です。
| 項目 | 「内虚にして外事あるのみ」(井上老師ら) | 「エゴ肯定・居直り」の主張 |
|---|---|---|
| **我執(エゴ)** | **徹頭徹尾、粉砕・無化する**
(「私」という主観の入り込む余地をゼロにする) | **まるごと持ち続け、肯定する**
(欲望やエゴを「そのままでいい」と肥大化させる) |
| **事実は何か** | 自分の考え(解釈)ではなく、**ただ眼前の事実そのもの** | 「株で儲ける」「陽気でいる」という**自分の欲望や解釈** |
| **見解(見)の扱い** | 自分勝手な見解(我見)を**徹底的に脱落させる** | 「仏教なんてどうでもいい」という**新たな見解(我見)に執着する** |
つまり、井上老師の説く道は「我見の徹底的な脱落(徹底した修行)」であり、エゴの肯定とは「我見を捨てるどころか、我見を正当化してドップリ浸かっている状態」に過ぎません。
「倫理道徳観あり」も「倫理道徳否定」も
真理の実在も、虚無主義も
どれも「自己」の上の見方になるから
己事究明なんていわれるように
その見方によってる自分に気付き探究するってのが王道的なところかな
伝統仏教(特に禅宗)は、「見解のあるなし」の葛藤を「正見(道具)」から「身心脱落(事実そのもの)」への架け橋として見事に整合させてきました。
#### ① 「我見(邪見)」と「正見」の整合
* 人は誰しも「自分中心のフィルター(我見)」を通して世界を見ており、これが苦しみの原因です。
* 修行の途上では、「無常・無我・因果」といった**正見(正しい教え・観察)という概念**を使って、この「我見」を削り落としていきます。
#### ② 「正見」から「無見(我見の脱落・事実そのもの)」へ
* 教え(正見)をツールとして深めていくと、最終的に「私という観察者」と「観察される世界」という二元論自体が消えます。
* これがいわゆる身心脱落(しんしんどつらく)であり、その状態を表現したのが「内虚にして外事あるのみ」です。
ここでの「無見」とは、「なにも考えていないバカになること」や「見解を無視すること」ではなく、「『私』という主観の偏執がすっかり消え去り、ただ世界(事実)がそのようにある状態」を指します。
話にならない。
解脱しろ、ハジ殿。
あなたが学んだことはそれから役に立つから
学問は暫くおいとけばいい。
その行の際には、自身の見方をさしはさまず
そのはたらきに純一に、そのものになりきるってことも基本であるだろう
1. **段階としての整合性**
我見に囚われている人間が「自分勝手な解釈(我見)」を一切差し挟まなくなるための実践(指針)として、「内虚(我見を離れる)」が説かれます。
2. **言葉ではなく「事実」に着地する**
「見解を持つべきか/捨てるべきか」という論争自体が、実は頭の中の「我見(戯論)」に過ぎません。伝統仏教(特に禅)は、「論争する暇があったら、今ここで我見を離れて『ただ眼前の事実』になり切れ」と教えて解決します。
したがって、井上老師らの示唆は、仏典の「正見をもって邪見を破り、最終的に我執を脱落させる」という伝統的な解釈の**最も実践的な核心**を突いたものであり、居直り的な「無見」や「エゴ肯定」とは全く別物です。
都市型僧院の僧侶達に依ってね。
それに対して森林住派等がいやいや、そうじゃないでしょ?っていうのが大乗仏教への途にもなったんです。
般若経典群の成立に深く関わっていたとの説が有力ですしね。
龍樹なんかもその嚆矢でしょ。
古代インドにも、お前みたいに
自己の見解に極端に執着し
延々と自説を言い張り続ける
「言い張り系」が多かったってことだ😅
「自分の持論への執着を棄てろ」と言ってるだけ
そしてそれが南伝のドグマになってしまったから。
昔は、新興宗教の信者たちに対して
「汝もまた、信仰を捨て去れ」
「固定観念からの脱却。それが仏道修行者の目標だ」
とかなんとか言い続けて、蛇蝎のように嫌われていた
それが、いまや
「釈尊は一切の見解を捨て去れとまでは言ってない」
と言い続けている
この柔軟性こそが、「固定観念からの脱却」なのだ😂
あれは、信仰を限りなく強めていく道
信念の強さこそ、一番の武器となる
仏教は、「固定観念からの脱却」の道だ
お前みたいに、自説をハテしなく延々と言い張り続ける頑固さは良くない
反省しろお〜〜
🤡〜〜
毒を散らす
毒散せよ(笑)
「汝もまた、信仰を捨て去れ」
「固定観念からの脱却。それが仏道修行者の目標だ」
とかなんとか言い続けて、蛇蝎のように嫌われていた
いまでは、立場が逆転した
いまは、禅宗系の人たちが
「釈迦の教えをイカダのように捨て去れ」とか
「仏教を学ぶな。何も知らないほうが早く悟れる」とか
口々に言ってるのを見て、カチンときている
「自称・仏教徒のくせに、それを言うか。
それはおかしいぞ」と言っている
180度とまでは行かないまでも
120度くらいは立場が逆転した😂
両極端のどちらかに逝っちゃってる人が多い
自分も人のことは言えんが(笑)
当方の場合は、
自分の極端さを自覚してるからこそ、
古今東西のありとあらゆる教えを学んでいる
多様な考えを知ることにより、柔軟性を養っている😂
見解がどうのじゃない。。
自己とは何か、明らめる。。
自己直面や、現実に向きあることからの逃げ、になりやすい。。
ルサンチマン、なんていうのもそう言うこと。。
だから、そういう逃げ、出会ってはいけないんですよ。。
真っ直ぐに向き合わないと。。
「これを見ろ。高名な仏教学者(兼 禅僧)も、
『輪廻転生は古代インドの迷信にすぎない。
迷信から目を覚ませというのが釈尊の教えだったのだ』
と言ってるぞ?」
とかなんとか主張して
新興宗教のバカ信者の人たちから、
親のカタキのように嫌われていた😫
それが今では、
「釈尊は輪廻転生を否定していない」
という論調へと、コロッと変化している
初期仏典を読み込んだおかげで、見方が変わったのだ
セイウン居士が主張してるようなことは、書かれていない😂
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