あるがままを自我の介在する前の命本来の働きとすると、その、あるがままに帰るというのは自我の介在前の見たら見える聞いたら聞こえるみたいなところへ自我を介在させまいとすることなのだから、あるがままに帰っていく、イコール動詞、修行となり、それは、我、が、脱ぎ捨てられつつ、歩むことであり、その、修行が、イコールとして佛の慈悲の働きを、己と、周囲の人に、配ることになっていくのである w
釈迦仏教の原風景は、一切見解の棄捨ですよ。 ただそれじゃ教団組織としての体裁が崩壊するから、二元論的な修道論に改変されたんですけどね。 Desire, Death and Goodness: The Conflict of Ultimate Values in Theravāda Buddhism by Grace G. Burford
それが、このスレのテーマ
前スレ
悟りをひらいた人のスレ 898
https://talk.jp/boards/psy/1788602875
先ず静かな所に座り、鼻の頭に軽く意識を掛け、普通に息を吸って、ゆっくり長く息を吐いていくのじゃ。
息を吐く時に、頭の中で一と数える。
又、普通に息を吸い、ゆっくり長く息を吐いてニと数えるのじゃ。
このようにして十まで数え、十まで行ったら今度は十から数を減らして行って、一に戻るんじゃよ。
たまに長時間行うより、一日に五分でもよいから、毎日続けると不動心が身に付くのじゃ。
夜の寝る前などに行うと、安らかに眠れるようにもなるじゃろう。
初めて数息観などをする者は、とにかくイライラして止めたくなったりするじゃろう。
そんな時は一度、中断してストレス解消の運動でもするといい。すっきりしたら又続けるのじゃ。
暫く修行をすると、今度は雑念に悩まされるようになるかも知れん。
そのような時は無視して呼吸に意識を集中しなおす。暫くすると、雑念は消えていくじゃろう。
更に修行を重ねれば、雑念と集中する意識を二つとも、意識出来るようになる。行が深まり、潜在意識が見えてくるようになったのじゃ。
そのような時も、雑念を無視しておれば、やがて雑念は消え去り、深い無念無想の状態に入れる。
もっと行が深まれば、意識は二つだけでなく、同時に幾つもの雑念があることに気付くじゃろう。
人間はもともと同時に幾つもの事を考えておる。
例えば誰でも歩きながらタバコを吸い、同時に尻を掻くという事が普通に出来るように、
人間は同時に幾つもの事を考えているが、潜在意識まで見る事の出来ない者には、判らないのじゃ。
潜在意識まで見る事が出来、全ての雑念が静まり、もはや心に何の考えも浮かばなくなれば、止の行は完成じゃ。
その前に観の行の前行である、観察の力と集中力を身につける観察の行をやるのじゃ。
先ず、目の前に観察の対象となる物を用意するんじゃ。
木でも花でも何でもいい。そしてそれを見て、細かく観察するのじゃ。
最初の内は、心の中で言葉にしてもよい。
例えば花なら花という言葉を使わず、
「今、目の前にそれがある。それは薄い膜のような物が幾つも重なっている。それは赤い色をしている。
それはふちが薄く、真中にいくほど厚くなっている。それの真中には細い糸が幾つも出ている・・・」
などと観察していくのじゃ。
出来るだけ細かく、普段なら見落としてしまうような事も、可能な限り観察するのじゃ。
ちっちゃなとげがあるとか、皺がいくつもあるとか。
次第に慣れてきたら、言葉にせず、目で見るだけで意識に上らせるようにするんじゃ。
そのようにしていると、たまに雑念が沸くこともある。
例えば「この花はバラだ。バラのジャムつておいしいのかな。そろそろごはんのじかんだ」
などといつのまにか、ご飯のことを考えている。これは観察ではない。
観察とは今、ここに、現にある物だけを見ることじゃ。
連想や記憶は雑念なのじゃ。
そのような雑念が沸いてきたら、止の行をしてきたおぬしらは、どうすればいいか判るじゃろう。
数息観をしていた時と同じく、ただスルーするのじゃ。
止めようとか、駄目だとか思わず、ただやり過ごして、観察に戻る。
そうすれば雑念は自然に消えていく。
このような時に止の行は役立つのじゃ。
やはり止と観察は二つで一つなのじゃ。
未だ自我のある者は、更に感覚、感情、思考、分別知、認識などに観察を広げていくのじゃ。
前にも書いたが、感覚から先の観察は鐘の音などを利用すると、簡単なのじゃ。
感覚を観察するには鐘の音が鳴ったら、
「今、鐘の音が鳴った、聞こえている、だんだん音が小さくなるのが判る、今消えた」などと、
今、感じている感覚を観察するのじゃ。
その鐘の音によって生じる感情も、「耳が痛くてうざいと思っている・・・」などと観察する。
思考も「あの鐘は仏壇屋で買ったもっといいのが欲しかったと、考えている・・」などと
巻き込まれないように注意しながら観察するのじゃ。
物事を認識し、分別する心の働きは殆ど一つの動きになっている故に、鐘の音を聞いて、
「これは鐘の音・・・今、鐘の音と分別し認識した」などと、観察するのじゃ。
このように直接、心と体を認識する方法が、観の行の基本であり、
最もシンプルでスタンダードなものであると言えよう。
しかし、この方法はかなりの集中力と観察力が必要となる。
これをシステム化してやり易くした方法が、縁起の法や、空の法なのじゃ。
・
・
・
・
・ テンプレは、ここ迄なのじゃ
・
・
・
・
坐禅 などしているのは悟っていない証拠
だいたい
坐禅が悟りの因にはならんし
むしろ勤行が切っ掛けになる
坐禅で悟ったふうになると、偽物の悟りへいってしまい、今生を棒に振ることになりますね
😱
実験しとる
偽が能書き
😱
それがDMNな
それを客観視するんだ‼️
ってか
DMNが何かも解ってないかw
「花は紅、柳は緑」って蘇東坡が言って、道元が正法眼蔵に引用しているんです。
当たり前っちゃ、当たり前のことなんだけども。ねえ、「花が紅」がどうした?と思いませんか。
わたしはその体験をしました。
これはネドじゅん先生も、まっすーさんも、みんな経験していることですが、わたしは何の気なしにゴミを捨てようと45Lのペール箱の蓋を開けた瞬間、その美しさにびっくりしたんです。
通常なら、「汚い」と思ったはずなんだけでも、その時はピュアになっていて「何でも初めて見る心境」になっていたものだから、その色・形に圧倒されました。
ドラッグやっている人も多分、そんなだと思うんだけど、(なんて美しい・・・)しばし目が離せなかった。
ゴッホに星月夜って有るでしょ。
ペールボックスのゴミがあんな感じに見えるんですよ。「汚い」という先入観が無くなって。
ゴミが持つ美しさと何が違うのか?
ドブねえ~ずみ、みたいに美しくなり~たい!
リンダ、リンダ~♪
正にそう。
そしてその目を周囲に向ける。
と、全てがまるで奇跡のように無限の価値有るものに見え、道行く人みんなを抱きしめて「幸福になってください!」と抱きしめたいような、抑えがたい衝動が起きました。
これが「花は紅、柳は緑」です。
「なんでこの、当たり前のことに今まで気づかんかったんやー!世界はこんなにも美しい。」と言うのを短い言葉で言うと、確かにそうなります。
これがわたしの場合、たった1年でかき消えました^^;
なんでも願望が叶うので、調子に乗っちゃったんだね。
慢心が出たの。
by W・T
↓↓↓
五蓋が停止するんです。
つまり、【内言が止まってしまう】の。
そんだけ。
しかし、そのことで日常が一変する。
どう変わるか?
それが >10
by W・T
あまりにもヒドイ勘違いだな。。w
アホかって話。。w
あまりにもとんでもない誤解。。w
美しく感じたんならそれは受だろ?
味を感じたんならそれも受だろ?
こんな低次元のレベルから解説しなきゃならんのか?
違う体験を誰かが言うと
それは違う(-д- 三 -д-)ってなる
ゴミとかコンクリートやアスファルト道路、炉端の枯れ草、果ては自分の💩まで
それまで、汚れや無機質なものと思ってきたものが、美に輝いて見えてくる
と言った変化が起こっている時は
無心になっている、と思って間違いなくて
そのようになっている、なった!という処にいわゆる悟りは現れています
それは単なる現量が云々のお話ではなくて
対象が光って輝いて見える、それは自分の意識が光を対象へ放射しているが故に
となるのであって、面前を出入りするものなのです。
お釈迦さまはそうした見解を捨てなさいって説示されてますし、また、そうした受を受けない事を正受って禅宗では説示してます。
ネドという人を検索したよ
突然の変容
2016年のある日、それまで頭の中で鳴り響いていた「過去の後悔」や「未来の不安」といった独り言(自動思考)がぱったりと消失しました
マインドフルネス状態の日常化
思考のノイズが消えた結果、まるで「深い瞑想をしたまま日常生活を送っている」ような、毎瞬毎瞬の体感覚に意識が集中する状態(右脳中心の意識)になりました
現在の主な活動
思考が消えて起こる素晴らしい体験をみんなにシェアしたい」という思いから活動を開始
だって眼中に入る光量が増えますからね。
また、何かに夢中になって無意識に瞑想中の様な半眼になって、ある時パッとその様に輝いて見える事もあるでしょう。
まぁ、それを無心状態っていうのもあながちではないでしょうが。
ただ、向こう側からは結構仏教についての独自解釈をしてくるよな。
ほぼ的外れなんだけど。
これ、そのまんまなんだけど、わからないんだろうね。。
敢えていうならその生活の全体的表現というか全力の消化というか。
それも見解だなぁw
担いで帰って下さい。。w
> これ、そのまんまなんだけど、
という見解だなぁw
wwwwwwwwwwwwwwwwww
何処に自分を担いでる奴が居るんだよw
おかしな見解を打破するための見解だろ。
見解だなぁw
柳は緑、花紅。。
それで、法を聞きに来た役人が、満足して帰っていったという。。
それだけのことなんだよ。。
眼横鼻直でも同じ。。
> 独自解釈
これも、特殊な受想行識から、なのかもね。
元々は中国・唐の詩人である蘇東坡(蘇軾)の詩の一節「柳緑花紅真面目(りゅうりょくかこう しんめんもく)」に由来し、禅の教えとしても深く用いられています。
**主な意味と捉え方**
* **ありのままの真理**
柳は緑色であり、花は赤いのが自然の法則であり、飾らない素の姿こそが真実(真面目)であるという考え方。
* **個性の尊重**
柳には柳の良さ(緑)、花には花の良さ(紅)があり、それぞれが固有の価値を持っているということ。無理に他人と同じになる必要はないという文脈で使われます。
* **自然の美しい情景**
言葉の通り、春の美しい風景(緑の柳と赤い花が引き立て合う様子)を素直に表現した表現でもあります。
"雲は空に、水は桶に"に、当たり前とか如実知見とか諸法実相とか、そうした何かしらの真理を観たり感得するのとは、全く違うんだよ。
むしろ逆で、そうした真理なんていう見解がその句で払拭されたのな。
廓然無聖。
無いという見解を捨てなさい😘
**経緯の概要**
* **徳山の自負:** 当時、経典(特に『金剛経』)の解釈に精通していた徳山は、「南方の禅など生ぬるい」と鼻鼻しく、自作の註釈書を担いで龍潭和尚を問詰しに訪れました。
* **夜の問答:** 龍潭のもとで夜遅くまで問答を交わした徳山は、龍潭から「夜も更けたから自室に下がるがよい」と言われ退室しようとしました。
* **暗闇と蝋燭:** 外に出て「外は暗くて歩けません」と言う徳山に対し、龍潭は紙燭(紙の蝋燭)に火を灯して手渡しました。
* **吹き消された一瞬:** 徳山がそれを受け取ろうと手を伸ばしたまさにその瞬間、龍潭は息を吹きかけて火を「フッ」と消してしまいました。
**悟りの意味**
目の前が真っ暗になった瞬間、徳山は大悟しました。言葉や文字(経典の知識や暗闇を照らす「借り物の光」)に頼っているうちは真の自己に目覚めることはできず、一瞬で逃げ場(依存先)を断ち切られたことで、自身の内に本来ある光(仏性)に気づいたとされています。
翌朝、徳山は自慢の註釈書を自ら焼き捨て、一切の執着を捨て去りました。
直指人心、見性成仏。
いつまでこの仏教漫才続くの?
ロンもだんだんとあれに似てきたなw
【問い】
スッタニパータの研究に付いて、グレイス・G・バーフォード(Grace G. Burford)博士の研究およびその核心となる論点をご教示ください。
【回答】
グレイス・G・バーフォード(Grace G. Burford)博士は、パーリ仏典の初期層である『スッタニパータ』、特に第4章「義足の品(アッタカヴァッガ / Aṭṭhakavagga)」を対象に、後世の正統派上座部(テーラワーダ)仏教の価値体系との比較思想史的・倫理学的な研究を行いました。
彼女の代表的な著書『Desire, Death and Goodness: The Conflict of Ultimate Values in Theravāda Buddhism』(1991年)などで提示された研究とその核心的な論点は以下の通りです。
アッタカヴァッガにおける原初的理想
バーフォード博士は、最古の仏典層とされる『スッタニパータ』の「八つの詩篇(アッタカヴァッガ)」に描かれる理想像を徹底的に分析しました
。
* 非形而上学的・現世的到達: 最初期の仏教における解脱(理想的目標)は、超自然的な超越状態や複雑な形而上学的体系ではなく、あらゆる欲執・見解(見解への執着 / 義論)からの解放、および「完全な無欲(desirelessness)」としてこの現世で達成可能なものとして提示されていたと主張します。
(続く)
* 「見(diṭṭhi)」の放棄: 宗教的な教義や特定の哲学説(見解)に捉われないこと自体が解脱の核心であり、解脱者は自ら特定の形而上学的立場を主張しないと捉えました。
後世の註釈書(義釈など)との不一致
博士の論説の最も刺激的な点は、「アッタカヴァッガの原初的教義」と「後にそれを解釈した正統派注釈書(『義釈(ニッデーサ)』やアッタカターなど)」との間にある価値体系の変容と衝突を明瞭に指摘した点にあります。
* 超越化・体言化(Reification): 後世の上座部教団は、独自のアビダルマ(阿毘達磨)的論理や正統的教義体系を構築する中で、本来「状態・プロセス」であった涅槃や解脱を、超越的でアクセスが著しく困難な目標へと変化させたとしています。
* 価値観の再解釈: 後世の注釈家たちは、最古のテキストにある「あらゆる見解の放棄」という教えを、自分たちの正統派仏教の教理(正見)を受け入れ遵守することへと読み替えて解釈し直したと分析しました。
研究の成果と学説上のインパクト
バーフォードの研究は、仏教思想史において「最初期の仏教理念が、教団の制度化や形而上学体系の発展に伴っていかに再解釈・変容されていったか」という「欲望(Desire)と最終目標(Ultimate Values)」を巡るパラドックスを明示した点で高く評価されています。
大事なのは形より心だと説くことが多い
これは勉強になったな
今まで、何種類もの訳で「スッタニパータ」の第4章(八つの詩句の章)をさんざん読んできたが
お前が言うような「一切の見解を捨てよ」なんて話は、どこにも出てこないぞ?
「自己の見解に固執するな」
「他人の見解を劣ったものと見下すな」
「自分の見解が正しいと主張して争うな」
↑
こんな感じの繰り返しが多い
そもそも、トンチンカン
アホ🤡だからなー
🤡〜〜〜
「ブッダの説法も
いろんな見解の1つにすぎない。
だから捨ててしまえ」
などとは、どこにも出てこない😂
むしろ、お前みたいな姿勢だ
「俺は、坐禅をさんざんやってるんだ。お前らより、俺のほうが偉いんだ」
↑
こういう姿勢を、厳しく戒めている
ブッダによると、どれほどの賢者であっても、こんな具合に慢心したら終わりなんだそうだ
ましてや、お前みたいな愚者では・・・(以下略
バカが臨済宗ぶると
こーいう屁理屈バカ慢心になる
😱
普通にんg
普通、人の意識は、DMNと同一化してて
それが自我となっている
そのDMNに巻き込まれずに、常に無努力で客観視されてて、しかも、何も特別なことをせずの脱力状態で
ーーー
禅で言う悟りとは
↓↓↓
五蓋が停止するんです。
つまり、【内言が止まってしまう】の。
そんだけ。
ーーー
そう客観視とは
意識が、内言=DMNを外的に客観視しているから
意識が意識自身に留まるり、DMNから遠離した状態に在るとなる
ここに於いて、数年もすると
ラーマナマハリシやニサルガダッタマハリシの言う『I AM』
つまる私は在る!ってなって
臨済の言う、本来面目、無位真人、随所主
といったことが、事実としてその身に現れるようになります。
デンパパ📡を
やっつけろお〜〜〜
😀😀😀😀😀
DQNデンパパ📡を
やっつけろお〜〜〜
😀😀😀😀😀
「諸々の事象は過ぎ去るものである。怠ることなく修行を完成しなさい。」と告げる。
これが釈迦の最後の言葉となった。
釈迦は、初禅、二禅、三禅、四禅、空無辺処、識無辺処、無所有処、非想非非想処、
想受滅と、「九次第定」を上がっていき、
次に、想受滅、非想非非想処、無所有処、識無辺処、空無辺処、四禅、三禅、二禅、初禅と下って行き、
再び初禅、二禅、三禅、四禅と上がったところで、涅槃に入った。
人それぞれ、遺伝子、環境、経験による、信心の違いがあってのことだから、仕方のないことだと思う
思いつきのままにスピリチュアル混ぜ合わせるからなー
👽
変なのが増えたんだな?
😱
山の賑わいだ
😀
>価値観の再解釈: 後世の注釈家たちは、最古のテキストにある「あらゆる見解の放棄」という教えを、自分たちの正統派仏教の教理(正見)を受け入れ遵守することへと読み替えて解釈し直したと分析しました。
ニデーサ(義釈)の問題か。
エセッスルう🤡〜〜〜〜エネルギー
が回復か?🤡〜〜
高評価👍️ゲット目指せっ‼️🤡
龍樹は僧院住派系なのか森林住派系なのか、或いは村落住派系なのか……
大乗仏教の成立問題も絡めて明かされる事が期待される。
天才だ〜〜
🤡〜〜〜〜
キリスト教やヒンズー教やイスラム教の人たちのことも、考えてみれば分かるよ。
俺は
😀
その程度や
😀
😀
😀
【問い】
以下の点に付いて補足はありますか?
価値観の再解釈: 後世の注釈家たちは、最古のテキストにある「あらゆる見解の放棄」という教えを、自分たちの正統派仏教の教理(正見)を受け入れ遵守することへと読み替えて解釈し直したと分析しました。
【Gemini回答】
バーフォード博士が指摘する「『あらゆる見解の放棄』から『正見の遵守』への再解釈」について、彼女の議論のロジックをより深く理解するための補足として、以下の3つの側面が挙げられます。
1. 「見解(diṭṭhi)」の意味合いの変化
* アッタカヴァッガ(初期層): 「見(ディッティ)」という語は、特定の哲学説や宗教的教義に対する「固執・執着そのもの」を指し、ネガティブなニュアンスで用いられます。「いかなる見解も抱かない(無見解)」ことが解脱者の条件とされました。
* 後世の注釈書(『義釈』など): 「見」を「邪見(誤った見解)」と「正見(正しい見解)」の2つに二分しました。その上で、放棄すべきなのは「邪見」のみであり、仏教の正統な教えである「正見(四諦や八正道、無常・苦・無我など)」は「放棄すべき見解」ではなく「絶対に受け入れるべき真理」として再定義されました。
2. 宗教的・倫理的パラドックスの発生
バーフォード博士は、この読み替えによって仏教倫理に本質的なパラドックスが生じたと論じています。
* 本来の教え(解脱の条件)= 「一切の拘束(教理すら含む)からの解放」
* 注釈家の解釈= 「正統な教理体系という正しい枠組みへの帰依」
つまり、解脱のための道具であったはずの「教義」そのものが絶対化され、初期の「何物にも縛られない自由」という目標の性質が変質してしまった点を博士は問題提起しています。
3. 教団(サンガ)の制度化と正統性の確立という背景
なぜ注釈家たちがそのような再解釈を行ったのかという背景として、教団の歴史的変遷が関係しています。
* 仏陀の直後や初期の修行者グループにおいては、固定化した教団組織が小さく、個人が概念的執着を離れることが主目的でした。
* しかし、後世に教団(サンガ)が広がり制度化・学派化(部派仏教)していく過程で、異教徒や他部派との論争に対抗し、教団のアイデンティティを保つための「正統な教理体系(アビダルマ)」が不可欠となりました。その結果、テキストの注釈作業を通じて「正統な見解(正見)を守ること」が最優先課題へと変化していったと考えられています。
😅
* 後世の注釈書(『義釈』など): 「見」を「邪見(誤った見解)」と「正見(正しい見解)」の2つに二分しました。
その上で、放棄すべきなのは「邪見」のみであり、仏教の正統な教えである「正見(四諦や八正道、無常・苦・無我など)」は「放棄すべき見解」ではなく「絶対に受け入れるべき真理」として再定義されました。
www
ニッデーサのそれは自己言及のパラドックスじゃんかw
決めつけない事とか、方便って指摘して来た通りだな。
だってそんな事したら自己言及のパラドックスだもんな。
wwwwww
仏教本来の説示は、ますます龍樹や禅宗の指摘する所に親しいという事が明かされて来たって事だな。
まさに空じゃん。
龍樹の指摘するところじゃん。
頭悪すぎるw
道具、つまり渡河の為の筏であり、仏説は方便って事だろ。
臨済禅師も「三教十二分教も、皆な是れ不浄を拭う故紙なり。」って説示してるしな。
ぜーーーーーーーーーーーーーーんぶ、今まで指摘した事そのままじゃんwww
ふむふむ🤨
いわゆる一切智者、如来の事だな。
他所に移るかww
論じる相手いないしwww
ロンを〆るくらいしかやる事ないしwwww
まぁ、気が向いたら来ようwwwww
わいてくるまで
まってるぞお〜
🤡〜〜
😀
エセッスルう〜〜〜〜🤡
しろお〜〜
🤡〜〜
止めば良いんだよ
見解がー❗じゃなくて
飽くまで実体験の世界だからさ
瞑想だろうが禅だとうが四禅定だろうが
だってよw
ガキの妄想だろw
みっともねーw
お前
宇宙人か⁉️
人間なら脳は共通だ
なら道筋は1本道なんだよ‼️
禅だろうがヨガだろうが
627:栖雲居士 ◆MKrKQHoID7SE :[sage]:2026/05/01(金) 14:29:52.30 ID:GHVkJlI/[96/96]
うんうん、精神病棟にレリゴー😘
🏥 🚑🤪💨💨💨 👋😆
162 栖雲居士 ◆dqam8SqGUPdm :[sage]:2024/03/09(土) 16:35:39.62 ID:b8JerweS
喉仏に千枚通し刺してとっとと死ねよ、虫ケラ😟
喉仏に千枚通し刺してとっとと死ねよ、虫ケラ😟
喉仏に千枚通し刺してとっとと死ねよ、虫ケラ😟
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633:栖雲居士 ◆MKrKQHoID7SE :[sage]:2026/05/01(金) 14:32:58.27 ID:GHVkJlI/[98/98]
で?
悔しくて我慢できないのか?
wwwwwwwwwwwwwwwwww
千枚通しで喉仏を刺して逝けば?
wwwwwwwwwwwwwwwwww
ぶわあーーーーーくわwww
ことだとは、思っているかな
前もってそう理解しておくことで、世界をそう見れるようになって、煩悩とかも、だいぶ軽減されると思うかな
この世界を「無常・苦・無(非)我・不浄」と理解しておく
ことだとは、思っているかな
前もってそう理解しておくことで、世界をそう見れるようになって、煩悩とかも、だいぶ軽減されるとは思うかな
※これを読んでいたら、輪廻とは相対が生み出すものとふと思った。
😅
※スマナサーラによれば仏教で説くdukkhaには、「苦しみ」、「虚しい事」、「不完全である事」、「無常である事」の4つの意味が含まれるという[8]。
そうなんだ。
😀
まぁね。苦とは?
人間の性質の洞察と
その対応までやってるクレバーさは
なさそうた
😀
夕のことではない
人による
とか言っている人
😀
判定基準は
自分を良く洞察してなさそう
ハッスル🤡にも、言えることだが
😅
と書かれているから、精神や肉体の苦しみと書かれているからね。
精神的なの苦とは、言葉を取る、妄想を取ることからきていると私は思っている。
大体日本じゃ、言霊全盛だからねw
言葉を取って右往左往している。現実世界に生きているから伝達としての言葉は必要だと思うけどね。そこに付随するものを取りすぎる。
この世界は「無常・苦・無(非)我・不浄」ということを理解する
ことだとは、思っているかな
そう理解することで、世界をそう見れるようになって、煩悩とかも、だいぶ軽減されるとは思うかな
この世界は「無常・苦・無(非)我・不浄」であるということを理解する
ことだとは、思っているかな
そう理解することで、世界をそう見れるようになって、煩悩とかも、だいぶ軽減されるとは思うかな
この世界は「無常・苦・無(非)我・不浄」であると理解する
ことだとは、思っているかな
そう理解することで、世界をそう見れるようになって、煩悩とかも、だいぶ軽減されるとは思うかな
それはあんたの話かあんた以外の話か、と聞かれてとても喜んだのを覚えてる
ネッドリの
なんとかの
一つ覚えリバースだったんか〜
つけ焼き刃感、満載で
らしいな〜
🧛
😱
627:栖雲居士 ◆MKrKQHoID7SE :[sage]:2026/05/01(金) 14:29:52.30 ID:GHVkJlI/[96/96]
うんうん、精神病棟にレリゴー😘
🏥 🚑🤪💨💨💨 👋😆
162 栖雲居士 ◆dqam8SqGUPdm :[sage]:2024/03/09(土) 16:35:39.62 ID:b8JerweS
喉仏に千枚通し刺してとっとと死ねよ、虫ケラ😟
喉仏に千枚通し刺してとっとと死ねよ、虫ケラ😟
喉仏に千枚通し刺してとっとと死ねよ、虫ケラ😟
喉仏に千枚通し刺してとっとと死ねよ、虫ケラ😟
633:栖雲居士 ◆MKrKQHoID7SE :[sage]:2026/05/01(金) 14:32:58.27 ID:GHVkJlI/[98/98]
で?
悔しくて我慢できないのか?
wwwwwwwwwwwwwwwwww
千枚通しで喉仏を刺して逝けば?
wwwwwwwwwwwwwwwwww
ぶわあーーーーーくわwww
この世は「無常・苦・無(非)我・不浄」であると理解しておく
ということだとは、思っているかな
そう理解しておくことで、この世をそのように見れるようになり、煩悩とかも、だいぶ軽減されるとは思うかな
この世は「無常・苦・無(非)我・不浄」でもあると理解しておく
ということだとは、思っているかな
そう理解しておくことで、この世をそのようにも見れるようになり、煩悩とかも、だいぶ軽減されるとは思うかな
この世界を「無常・苦・無(非)我・不浄」と理解する。
ことかな。
モフモフ😺に
任せた
😺
自分がじゃないの??
自分も完全な無我になれるのか??
よく考えてみよう
それが有我だよ
キミは行きたいのかいw
私の色受想行識すべてで、私だと思うけどな
たしかにー
みんなでハッピーになれれば、それで良いんじゃないかな
それでも問題があれば、法律をちゃんと制定すれば良いだけのことだし
涅槃に至りたいのなら、
この世を「無常・苦・無(非)我・不浄」と理解する。
と、いうことかな。
と常楽我浄の涅槃に到るんでしょう。。
俗心も捨て、悟りとか法とか禅とも捨て、でしょうね。。
それらに執着すると、涅槃にはなりませんね。。
そうじゃないと、悟りだ法だ禅だと、煩いだけの迷惑人に成り下がる。。w
それがイコール悟りと言ってもいい。。
これを理解しないまま、何かを体験すると、おれ悟ったとかになって、誰も手を付けられない病気の人になる。。w
無我なのに、誰が悟るんだって話。。w
なにが、平和で安楽なのか?
平和とか安楽があれば、争いがあり、苦しみがある。。
心が有ると思っていたら、それは、見る人と見られる心の二分裂、で、一つ=無心にはならない。。
もとっから、何も問題なかったのに、問題あると思い込んでいただけだった、ということです。。
問題がもともと無かったと気づけば、解決もないんです。。
それが何かある、というのは、思い込みなんですよ。。
一体、何が、涅槃入りするのかw
「何かが涅槃に入る」と考えてしまうのは、私たちが普段「私」という固定された霊魂や主体が存在すると無意識に前提しているからです(これを仏教では「我執(がしゅう)」と呼びます)。
仏教における「涅槃(ニルヴァーナ)」の成り立ちと捉え方は以下の通りです。
### 1. 「入る」のではなく「炎が消えた状態」
涅槃(ニルヴァーナ)という言葉の原義は「(吹き消して)消えた状態」です。
薪が燃えて炎が出ている状態を想像してください。
* **薪と炎**:五蘊(肉体や心・感情・意識の集まり)と、そこに生じる欲望や妄執(煩悩)
* **風**:無知(無明)
薪がつき、風が吹き止んで「炎が消えた」とき、「炎という主体」はどこか別の部屋に引越した(入った)のでしょうか? そうではありません。ただ「燃えるプロセスが停止した」だけです。
涅槃に入るとは、固定的な「誰か」が天国のような場所へ移動することではなく、**無常で苦を生み出していた「迷いと執着のプロセス(生老病死の輪廻)」が止まり、静寂になった状態(涅槃寂静)そのもの**を指します。
もし永遠不変の「魂(霊魂)」が存在するなら、その魂はどんなに修行しても永続するため、苦しみも終わりません。
しかし、現実には永遠の「我(主体)」などなく、心も体も因果関係(縁起)によって一時的に組み合わさっている現象に過ぎません(**諸法無我**)。
無我であるからこそ、「私」という勘違いによる執着を解体することができ、その結果として苦しみのプロセス(苦諦の消滅)を終わらせることができます。
### 3. 仏教の各立場による解釈の違い
仏教の歴史の中で、この問いにはいくつかの表現・解釈がなされてきました。
* **初期仏教(ブッダの教え)**
* そもそも「主体がどこへ行くか」という問い自体を無意味な問い(無記)としました。「消えた炎は東に行ったのか、西に行ったのか」と問うのがナンセンスであるのと同じです。ただ「苦しみが終わった」ことだけを事実として説きます。
* **部派仏教(阿毘達磨)**
* 心や物質の要素(法)が組み合わさるプロセスの中で、無明と煩悩が途絶えた状態(有余涅槃・無余涅槃)と考えます。
* **大乗仏教**
* 「では、悟りを目指して衆生を救うのは誰か?」という視点から、すべての人に本来備わっている仏としての本質(**仏性**・**如来蔵**)や、永遠の真理そのもの(**法身**)という視点を提示しました。
無条件にすべてが苦だ、ということじゃないらしいね。。
だから、はじめから言わない、のもありだとおれは思う。。
坐って、いったん、すべてを忘れたら、気づく。。
「何が涅槃に入るのか」という疑問に対する仏教的な回答は、「誰でもなく、ただ『迷いと苦しみの運動』が止まった状態になる」ということです。
「私」というプレイヤーがどこか別のステージへ引越しをするのではなく、**「私という不変の存在がいる」という錯覚が解けた瞬間に現れる静寂**こそが涅槃です。
無問題、ノープロブレム。。
澤木興道師曰く、人生の撃ち方辞め。。
修行しろ、じゃなくて、やらない方がいいことをするな、ということの方が大事。。w
で、四苦八苦だよね。。
だから、すべてが苦、とかじゃない気がするけれど。。
これは正しいよね。。
私が無いのだから、迷悟もあるわけない、正誤もあるわけない。。w
今の自己は、どうあろうと、結果だから。。
因縁生、に過ぎない。。
627:栖雲居士 ◆MKrKQHoID7SE :[sage]:2026/05/01(金) 14:29:52.30 ID:GHVkJlI/[96/96]
うんうん、精神病棟にレリゴー😘
🏥 🚑🤪💨💨💨 👋😆
162 栖雲居士 ◆dqam8SqGUPdm :[sage]:2024/03/09(土) 16:35:39.62 ID:b8JerweS
喉仏に千枚通し刺してとっとと死ねよ、虫ケラ😟
喉仏に千枚通し刺してとっとと死ねよ、虫ケラ😟
喉仏に千枚通し刺してとっとと死ねよ、虫ケラ😟
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633:栖雲居士 ◆MKrKQHoID7SE :[sage]:2026/05/01(金) 14:32:58.27 ID:GHVkJlI/[98/98]
で?
悔しくて我慢できないのか?
wwwwwwwwwwwwwwwwww
千枚通しで喉仏を刺して逝けば?
wwwwwwwwwwwwwwwwww
ぶわあーーーーーくわwww
仏のスレ
277.神も仏も名無しさん
>>275
なにせ
その霊感とやらは
高級で
見◯を示してきて㊗️
宿題だ
一方的サービス
その宿題を模索せねばならん
夢に出た宿題が
一番長かった解るのに20年
281.神も仏も名無しさん
>>280
◯性㊗️
六師外道のサンジャヤ思想
Wikipedia 「サンジャヤ」より
真理をあるがままに認識し説明することは不可能であるとする不可知論である。形而上学的な重要問題に対して確答せず、判断を中止する態度を採った。懐疑論とも言える立場であるが、彼の態度は、抜け出すことの困難な形而上学的な難問を議論することの意義を問う判断中止(エポケー)の表明であると言える。
もしもあなたが「あの世はあるか」と問うた場合、わたしが「あの世はある」と考えたならば、「あの世はある」とあなたに確答するでしょう。しかしながら、わたしはそうしない。わたしはその通りだとも考えないし、それとは異なるとも考えないし、そうでないとも考えないし、そうでないのではないとも考えない。
?沙門果経
続いて、「あの世はないのか」「あの世はあり、かつないのか」「あの世はあるのでもなく、かつないのでもないのか」の問いに同様に答え、善悪二業の報いは存在するか、如来(人格完成者)死後に存在するのかについても、同じように判断中止の態度を示し、明確な答えを避けた。このような彼の議論は、「鰻のようにぬらぬらして捕らえがたい議論」とも言われる。
また仏典によると、彼はマガダ国の王舎城(ラージャガハ)に住んでおり、名声がかなり高く多くの弟子を擁していたが、その高弟のサーリプッタ(舎利弗)とマハーモッガラーナ(目連)とが、250人の弟子全てとともに釈迦に帰依し去っていった。2人は彼に釈迦の弟子になることを勧めたが、「我、今師匠として弟子を率いており、また弟子となることは瓶が瓶にして同時に釣瓶(つるべ)となるようなものだから難しい」とこれをしりぞけた。しかし2人が弟子衆を引き連れて仏に帰依するのを見て憤激のあまり血を吐いたと律蔵などでは伝えられている。
それはサンジャヤの思想であり、サーリブッタやモッガラーナに見捨てられた
釈尊の教えを、こういうものだと思ってる人が多いんだよなあ
↓
もしもあなたが「あの世はあるか」と問うた場合、わたしが「あの世はある」と考えたならば、「あの世はある」とあなたに確答するでしょう。しかしながら、わたしはそうしない。わたしはその通りだとも考えないし、それとは異なるとも考えないし、そうでないとも考えないし、そうでないのではないとも考えない。
続いて、「あの世はないのか」「あの世はあり、かつないのか」「あの世はあるのでもなく、かつないのでもないのか」の問いに同様に答え、善悪二業の報いは存在するか、如来(人格完成者)死後に存在するのかについても、同じように判断中止の態度を示し、明確な答えを避けた。このような彼の議論は、「鰻のようにぬらぬらして捕らえがたい議論」とも言われる。
釈尊にもそういう要素はあるが、サンジャヤほどではない
「死後世界は有るとも無いともいえない」
「輪廻転生は有るとも無いともいえない」
サンジャヤの弟子だったサーリブッタやモッガラーナは、そんな教えに見切りをつけて、釈尊に弟子入りした
サンジャヤは怒りのあまり、血を吐いて倒れた
「死後世界は有る」
「輪廻転生は有る」
と、明確に説いている
ウソだと思うなら、初期仏典を読んでみればいい
該当箇所がすぐに見つかる😅(それだけ多い)
大川隆法みたいに、「◯◯は✕✕の生まれ変わりです」とかなんとか
そんな御託宣をするわけではない
それは宗教家ではなく、霊媒師の仕事
ブッダの関知するところではない
なんといっても重要なのは、コレ
↓
比丘たちよ、正見(正しい見解)とは何か。
実に比丘たちよ、苦(ドゥッカ)についての智、
苦の集起についての智、苦の滅尽についての智、
苦の滅尽に至る道についての智を正見とよぶ。
マッジマ・ニカーヤ
「ひたすら組んで坐って瞑想しろ」
というのが、ブッダの真意だとしたら?
それは、「仏教」じゃないだろ😂
カルチャーセンターの瞑想セミナーで十分だ
ヨガ教室のほうが、よほどメニューが充実している
「ひたすら組んで坐って瞑想しろ」
↓
「ひたすら足組んで坐って瞑想しろ」
ヨガの坐法(アーサナ)の一種だ
「それだけやってればいい」というのなら
仏教は、「ヨガ瞑想からごく一部を切り取って、そこに特化したもの」ということになる
疲れた。。
「私の説法であっても、不要になったら捨てて良い。
あたかも、河を渡り切った後のイカダのように」
と言ったが
それは、「彼岸へと渡り切った後」の話だ
現時点で激流にもまれている、この世の凡夫が
イカダを捨ててどうする😂
いつも言ってるバカがいるが
いい加減にしとけや😂
禅宗嫌いが悪化しつつある
ウンコ野郎のせいだ😫
それは構わんが
でも、それだったら、「仏教の宗派」という看板を外すのが筋なのと違うかな?
やってることは「瞑想教室」だろ、実態として
本来とらえられないもの(無常、無我だから)をとらえて愛憎執着してることを指してるんだろう
ふざけるのも、限度ってものがある😂
そこまで逸脱するのなら、「仏教という看板を外せ」ってんだよ
仏教の看板で宗教ビジネスするのは、おかしい
「見解」の話に戻ると
「自己の見解に執着するな」というのと
「一切の見解を放棄せよ」というのは、
同じではない
「自己の見解に執着して、論争するな」と、くどいほど繰り返している
だが、「一切の見解を放棄せよ」とまでは言っていない
人の見方の上のものを実体、実在として認めとらえてること(煩悩を原因とする)によるもので
その人の見方の上には、解決としての「真理」はないですよってのが仏教
だから単なる不可知論としての無記だったのではなく
人の見方の上で知らせても「真理」への到達として意味がない、妨げになるからと
方法を示すってかたちとしての答え
依拠する者は動揺します(例えばスッタニパータ752)。
動揺するものは苦ですからね。
ブッダは、お前みたいに自説を言い張り続ける頑固な奴を批判してるんだよ
そろそろ、それくらい分かれや(笑)
困ったやつだ
🤡〜〜
決めつけないこと。
ドグマを嫌う。
対機説法•応病与薬•善巧方便。
そういう事だな。
まぁ、だいぶ恨みを買ってはきたけどwww
バカにされているにしか
見えんけど
はやく
目を覚ませ🤡〜〜
>>594
俗世で言われる霊能力者でもないが
何も見えない聞こえないが
明らかにあの世の霊的存在の
交流はある
😀
2026/09/16 10:00:43
598.栖雲居士
>>596
それはレビー小体型認知症の疑いがあるね。
今すぐ脳神経内科や認知症外来に行った方がいいかもよ?
2026/09/16 10:05:52
602.栖雲居士
Ss68B(2/2)
いや、真面目に話してる。
お前の過去スレでの体験談とレビー小体型認知症の叔母の体験談がかなりの割合で共通してるから。
お前は絶縁して無視してるが、これとそれと話は別だからな。
2026/09/16 10:12:12
でもその彼岸というのは、筏を漕ぐ己自身なのかも知れない。
仏のスレ
277.神も仏も名無しさん
>>275
なにせ
その霊感とやらは
高級で
見◯を示してきて㊗️
宿題だ
一方的サービス
その宿題を模索せねばならん
夢に出た宿題が
一番長かった解るのに20年
281.神も仏も名無しさん
>>280
◯性㊗️
> 帰謬論証的に相手の見解を打ち壊し、しかも自らの見解を持たない。
ブッダは、「相手の見解が間違ってると決めつけて論争するな」と、くどいほど繰り返している
「一切の見解を持つな」などとは言っていない
5chの統合失調症患者や認知症患者みたいになるよ!
> まぁ、だいぶ恨みを買ってはきたけどwww
恨みを買ってきたわけではない
単純に、嫌われてるだけだ(笑)
Vinicchaye ṭhatvā sayaṃ pamāya uddhaṃ so lokasmiṃ vivādam eti,
hitvāna sabbāni vinicchayāni na medhagaṃ kurute jantu loke” ti.
決定したところに立って、自ら(の考え)を量った後、かれは世間において争論を起こすのです。
一切の決定を捨てたならば、人は、世の中で確執ををなすことはありません。
ってあるんですが、この中の
hitvāna sabbāni vinicchayāni
とは"一切の見解を棄捨する"という意味だそうです。
hitvāna(ヒットヴァーナ)
【動詞 jahāti(捨てる・離れる)の連続体(絶対詞)】
sabbāni(サッバーニ)
【形容詞 sabba(すべての)の中性・複数・対格】
vinicchayāni(ヴィニッチヤーニ)
【名詞 vinicchaya(断定・判断・見解)の中性・複数・対格】
sabbāni すべての
vinicchayāni 断定•判断•見解
でないと自語相違になりますからw
私は晃、安堂、でおー、JBLとそうしました。
相手にしない、完全スルー👍
でも、先程の様に緊急性を要するものに付いてはその限りではありませんけどね。
勿論、赦しと和解の門は閉じられてはないのですが。
だけど、何か一つ、異順、愛憎、不満があれば、すべてが離れる、天地懸隔する。。
だから、悟れ、じゃなくて、今、迷うな、という論法になってるのが、普勧坐禅儀の冒頭部分、
それから、宝鏡三昧とかも実はそうなんです。。
本覚思想というか、もともとは迷っていない、という認識から出発している、というのが、禅であるのかもしれない。。
> 決定したところに立って、自ら(の考え)を量った後、かれは世間において争論を起こすのです。
> 一切の決定を捨てたならば、人は、世の中で確執ををなすことはありません。
何度も言ってるように、この話のポイントは
「総論を起こさない」、「確執をなさない」にあるんだよ
大通智勝仏も、不成仏で別にいいじゃないか、となる。。w
ただ、迷わなければね。。w
お怒りだ
😭
でおー、何を言ってるのか分かりません🏥
病識なさそうですが、大丈夫でしょうか?
煩悩塗れで、ぼく、さいこー、株株、金金え、とかのたまっておるw
でおー、何を言ってるのか分かりません🏥
でおー、何を言ってるのか分かりません🏥
でおー、何を言ってるのか分かりません🏥
でおー、何を言ってるのか分かりません🏥
嫌な人や悪い人を見ても、この世は不浄だからな、ぐらいな感じで
それらの人たちも、この世が無常や苦であるという真理から、嫌な人や悪い人になった、という見方も出来るかな
この世の真理としての、無常や苦や不浄から、そのようになっちゃう人もいるわけで
生きるのが大変な理由がここにある、というわけだな
このことが、悟りや救いや解決になる、ということかな
そう見ることで、悟りや救いや解決になる、ということかな
627:栖雲居士 ◆MKrKQHoID7SE :[sage]:2026/05/01(金) 14:29:52.30 ID:GHVkJlI/[96/96]
うんうん、精神病棟にレリゴー😘
🏥 🚑🤪💨💨💨 👋😆
162 栖雲居士 ◆dqam8SqGUPdm :[sage]:2024/03/09(土) 16:35:39.62 ID:b8JerweS
喉仏に千枚通し刺してとっとと死ねよ、虫ケラ😟
喉仏に千枚通し刺してとっとと死ねよ、虫ケラ😟
喉仏に千枚通し刺してとっとと死ねよ、虫ケラ😟
喉仏に千枚通し刺してとっとと死ねよ、虫ケラ😟
633:栖雲居士 ◆MKrKQHoID7SE :[sage]:2026/05/01(金) 14:32:58.27 ID:GHVkJlI/[98/98]
で?
悔しくて我慢できないのか?
wwwwwwwwwwwwwwwwww
千枚通しで喉仏を刺して逝けば?
wwwwwwwwwwwwwwwwww
ぶわあーーーーーくわwww
自己を含む全人類には、遺伝子、環境、経験による仕方なさがあったとしても、それでも、(自己を含む)全人類でハッピーになるために、(自己を含む)全人類が秘めている無限の可能性から、(自己を含む)全人類が願う無限大の夢を叶えよう
(全ての人の霊を含む)全人類で何度も人間に生まれかわって、(全ての生まれかわった人間を含む)全人類で何度もハッピーに生きられることを願う
が、活きてくるとは思うかな
自己を含む全人類には、遺伝子、環境、経験による仕方なさがあったとしても、それでも、(自己を含む)全人類でハッピーになるために、(自己を含む)全人類が秘めている無限の可能性から、(自己を含む)全人類が願う無限大の夢を叶えよう
(全ての人の霊を含む)全人類で何度も人間に生まれかわって、(全ての生まれかわった人間を含む)全人類で何度もハッピーに生きられることを願う
が、活きてくるとは思うかな
自己を含む全人類には、遺伝子、環境、経験による仕方なさがあったとしても、それでも、(自己を含む)全人類でハッピーになるために、(自己を含む)全人類が秘めている無限の可能性から、(自己を含む)全人類が願う無限大の夢を叶えよう
(全ての人の霊を含む)全人類で何度も人間に生まれかわって、(全ての生まれかわった人間を含む)全人類で何度もハッピーに生きられることを願う
が、活きてくるとは思うかな
自己を含む全人類には、遺伝子、環境、経験による仕方なさがあったとしても、それでも、(自己を含む)全人類でハッピーになるために、(自己を含む)全人類が秘めている無限の可能性から、(自己を含む)全人類が願う無限大の夢を叶えよう
(全ての人の霊を含む)全人類で何度も人間に生まれかわって、(全ての生まれかわった人間を含む)全人類で何度もハッピーに生きられることを願う
が、活きてくるとは思うかな
627:栖雲居士 ◆MKrKQHoID7SE :[sage]:2026/05/01(金) 14:29:52.30 ID:GHVkJlI/[96/96]
うんうん、精神病棟にレリゴー😘
🏥 🚑🤪💨💨💨 👋😆
162 栖雲居士 ◆dqam8SqGUPdm :[sage]:2024/03/09(土) 16:35:39.62 ID:b8JerweS
喉仏に千枚通し刺してとっとと死ねよ、虫ケラ😟
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喉仏に千枚通し刺してとっとと死ねよ、虫ケラ😟
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633:栖雲居士 ◆MKrKQHoID7SE :[sage]:2026/05/01(金) 14:32:58.27 ID:GHVkJlI/[98/98]
で?
悔しくて我慢できないのか?
wwwwwwwwwwwwwwwwww
千枚通しで喉仏を刺して逝けば?
wwwwwwwwwwwwwwwwww
ぶわあーーーーーくわwww
俺は仏像や、この世におらん高僧から
土産をもらう、
それはもはや存在ではない
😀
2026/08/31 18:15:13
三度も土産をくれない仁和寺なんてレアケースだ
早朝勤行に15回以上トライしつづけた
高野山の宿坊すらあったが
😀
高野山は京都ほど費用はかからない
😀
2026/08/31 18:17:05
天台宗寺院や
華厳宗関連寺院で
余裕て禅定カマシた上て理屈が解っている
長谷寺の本筋よりわかりやすい
😀
仁和寺なんか四度目まで禅定ゲットさせてくれないし、
マジで謎だった
AI検索で情報がやっと集まりやすくなった
😀
2026/08/31 20:11:27
長谷寺なんかは
もっとイミフだ
二度目で成功したけど
😅
2026/08/31 20:16:09
125.神も仏も名無しさん
長谷寺の脇仏イミフ
モロ神仏習合
😀
2026/08/31 20:21:13
126.神も仏も名無しさん
中国仏教瞑想エリートからしても
謎過ぎる
あれらは
😀
2026/08/31 20:23:38
俺は無駄な議論はやらない、
意見しないのは
するだけで無駄な相手として
スルーしてるから、
容認しているわけではない、
無駄な敵意を増やさない
それくらいトーク板は
デタラメ情報が氾濫している
😱
2026/09/01 06:45:21
地元新聞で農家が渇水で困っていると知ったので
俺が雨乞い祈祷をすると解決したかもー
たぶんな😀
2026/09/10 20:56:37
>>293
なんか、よー分からんけど天性のご祈祷能力があるかもしれん
父方の先祖の血筋が修験道の系統らしい
😀
2026/09/10 21:02:49
家の仏壇に祖母系統のお経がある
祖父の代あたりから現在家は元知恩院派浄土宗系統なので、
般若心経なんか用がない、
祖母の故郷が臨済宗檀家の修験道の関連のある名族出らしい😀
それでか〜と最近解った
😀
2026/09/10 21:08:14
正統派瞑想系統仏教をとりま禅定ゲットしたから、もーいいや感になっていた
生活で実践ベースになっていた
文字やフィールドワークは
修験道や念仏に寄っていったけど
😀
2026/09/10 21:16:10
お前がイミフだろうがw
お前がイミフだろうがw
俺は仏像や、この世におらん高僧から
土産をもらう、
三度も土産をくれない仁和寺なんてレアケースだ
余裕て禅定カマシた上て理屈が解っている
仁和寺なんか四度目まで禅定ゲットさせてくれないし、
二度目で成功したけど
😅
中国仏教瞑想エリートからしても
謎過ぎる
俺が雨乞い祈祷をすると解決したかもー
たぶんな😀
なんか、よー分からんけど天性のご祈祷能力があるかもしれん
父方の先祖の血筋が修験道の系統らしい
😀
正統派瞑想系統仏教をとりま禅定ゲットしたから、もーいいや感になっていた
105.神も仏も名無しさん
俺は仏像や、この世におらん高僧から
土産をもらう、
三度も土産をくれない仁和寺なんてレアケースだ
余裕て禅定カマシた上て理屈が解っている
仁和寺なんか四度目まで禅定ゲットさせてくれないし、
二度目で成功したけど
😅
中国仏教瞑想エリートからしても
謎過ぎる
俺が雨乞い祈祷をすると解決したかもー
たぶんな😀
なんか、よー分からんけど天性のご祈祷能力があるかもしれん
父方の先祖の血筋が修験道の系統らしい
😀
正統派瞑想系統仏教をとりま禅定ゲットしたから、もーいいや感になっていた
このキチガイが精神病院に収監されていた時は、必ず午後九時にレスが止んでいたものですが、この頃は解放された様ですね。
それからこのキチガイには、私がトラウマに転じた様です。
まぁ、キチガイに興味はないのですが、トラウマを発症してから執拗に付き纏われてねぇ。
まぁ、古くから宗教板にいる人外害虫だからなぁ、このキチガイは。
ハッスル🤡は
オモロイやつだな?
🤡〜
まぁ、それも務まらなくて解雇されたとか、その繰り返しの様だったけど。
やるじゃねーか〜
🤡〜〜
🤡〜〜
🤡〜〜
とは
ハッスル🤡の生態を見れば理解できる
🤡〜〜
反面教師として
世の為に役に立っているな?
🤡〜〜
動物行動学者のグドール博士は、チンパンジーが極めて凶暴で残酷な一面を持っていることを世界で初めて学術的に証明しました。
まもなく彼岸の入りと動物愛護週間ですね。
バレたぞ🤡〜
😭
今日も
笑い🤡アリガトン
🤡〜〜
もう少しオトナになれよ
参禅30年とか
エセッスル🤡してないで
🤡〜〜
人間理性とかに無縁だし、戸籍上人間、実体猿の様なものです。
are youに対してI doな馬鹿だった。
それも、自己を含む全人類の、遺伝子、環境、経験による、仕方なさ
だから自分もいつ殺されるか分からんってワケか
殺せる弱いものには殺す側に立ち、殺せない強い側には殺されないように従順にしたがうと
それが自身の目的というワケかな
ご苦労だな?
🤡〜
とり乱し過ぎやろ?
🤡〜
よろし〜
😀
二世だな?
😅
>集中力が高まってくると、私は千枚通しを使っておりますが、針が喉仏に刺さる音まで聴こえてきます。
627:栖雲居士 ◆MKrKQHoID7SE :[sage]:2026/05/01(金) 14:29:52.30 ID:GHVkJlI/[96/96]
うんうん、精神病棟にレリゴー😘
🏥 🚑🤪💨💨💨 👋😆
162 栖雲居士 ◆dqam8SqGUPdm :[sage]:2024/03/09(土) 16:35:39.62 ID:b8JerweS
喉仏に千枚通し刺してとっとと死ねよ、虫ケラ😟
喉仏に千枚通し刺してとっとと死ねよ、虫ケラ😟
喉仏に千枚通し刺してとっとと死ねよ、虫ケラ😟
喉仏に千枚通し刺してとっとと死ねよ、虫ケラ😟
633:栖雲居士 ◆MKrKQHoID7SE :[sage]:2026/05/01(金) 14:32:58.27 ID:GHVkJlI/[98/98]
で?
悔しくて我慢できないのか?
wwwwwwwwwwwwwwwwww
千枚通しで喉仏を刺して逝けば?
wwwwwwwwwwwwwwwwww
ぶわあーーーーーくわwww
おばあちゃん達にも嫌われてたと思いますがwww
このキチガイが精神病院に収監されていた時は、必ず午後九時にレスが止んでいたものですが、この頃は解放された様ですね。
2026/09/17 17:25:32
27.神も仏も名無しさん50-AuE-gZ-7e9
EGWLx(1/3)
>>26
俺は二つとも取った😀
たぶん、メンタル豆腐過ぎて
かつ体力なさすぎてやらない
😀
2026/09/17 20:24:03
この馬鹿が介護とか超絶ムリー😱
動物虐待、野良猫惨殺のキチガイなんだぜ!?
やまゆり園の植松の二の舞!!!
>集中力が高まってくると、私は千枚通しを使っておりますが、針が喉仏に刺さる音まで聴こえてきます。
627:栖雲居士 ◆MKrKQHoID7SE :[sage]:2026/05/01(金) 14:29:52.30 ID:GHVkJlI/[96/96]
うんうん、精神病棟にレリゴー😘
🏥 🚑🤪💨💨💨 👋😆
162 栖雲居士 ◆dqam8SqGUPdm :[sage]:2024/03/09(土) 16:35:39.62 ID:b8JerweS
喉仏に千枚通し刺してとっとと死ねよ、虫ケラ😟
喉仏に千枚通し刺してとっとと死ねよ、虫ケラ😟
喉仏に千枚通し刺してとっとと死ねよ、虫ケラ😟
喉仏に千枚通し刺してとっとと死ねよ、虫ケラ😟
633:栖雲居士 ◆MKrKQHoID7SE :[sage]:2026/05/01(金) 14:32:58.27 ID:GHVkJlI/[98/98]
で?
悔しくて我慢できないのか?
wwwwwwwwwwwwwwwwww
千枚通しで喉仏を刺して逝けば?
wwwwwwwwwwwwwwwwww
ぶわあーーーーーくわwww
お怒りでしたか?
🤡〜…
お参り、お彼岸の義務だ
明日は二つ参り
😀
一行といわず、三文字や五文字でも構わないので、ゆっくり丁寧に、お手本に違わず、姿勢と呼吸を調えて写経する訳です。
集中力が高まってくると、私は千枚通しを使っておりますが、針が喉仏に刺さる音まで聴こえてきます。
>集中力が高まってくると、私は千枚通しを使っておりますが、針が喉仏に刺さる音まで聴こえてきます。
627:栖雲居士 ◆MKrKQHoID7SE :[sage]:2026/05/01(金) 14:29:52.30 ID:GHVkJlI/[96/96]
うんうん、精神病棟にレリゴー😘
🏥 🚑🤪💨💨💨 👋😆
162 栖雲居士 ◆dqam8SqGUPdm :[sage]:2024/03/09(土) 16:35:39.62 ID:b8JerweS
喉仏に千枚通し刺してとっとと死ねよ、虫ケラ😟
喉仏に千枚通し刺してとっとと死ねよ、虫ケラ😟
喉仏に千枚通し刺してとっとと死ねよ、虫ケラ😟
喉仏に千枚通し刺してとっとと死ねよ、虫ケラ😟
633:栖雲居士 ◆MKrKQHoID7SE :[sage]:2026/05/01(金) 14:32:58.27 ID:GHVkJlI/[98/98]
で?
悔しくて我慢できないのか?
wwwwwwwwwwwwwwwwww
千枚通しで喉仏を刺して逝けば?
wwwwwwwwwwwwwwwwww
ぶわあーーーーーくわwww
倶舎論でいうそれとは意味が違うな
むしろ、逆だ
「この世はコマ送りの映画みたいなものだ」という、時間の流れを説く思想
グーグルAIに解説(ていうか、当方の見解に賛同)してもらおう
仏教思想の『倶舎論(くしゃろん)』において説かれる「刹那滅(せつなめつ)」の概念は、私たちが生きるこの現実世界を「コマ送りの立体映画」のように説明する非常に現代的でエキサイティングな世界観です。
仏教が提示するこの独特な時間と空間のシステムについて、分かりやすく解説します。
🎬 「コマ送りの立体映画」に例えられる理由
私たちが普段見ている映画は、実際には動いておらず、1コマ1コマの静止画(フレーム)が超高速で切り替わること(コマ送り)によって、あたかも滑らかに動いているように錯覚しています。
『倶舎論』が説く世界のあり方は、まさにこれの3次元(立体)バージョンです。
仏教において、時間は連続した一本の線ではなく、「刹那」という最小の不連続な時間単位の連続だと考えます。『倶舎論』では、指をパチンと1回弾く間に「65刹那」または「64刹那」あるとされ、時間換算すると1刹那=約75分の1秒(諸説あり)という極めて短い一瞬です。
2. 刹那滅(せつなめつ)= 生まれてすぐ消える
すべての物質や心(諸行)は、「生じたその瞬間に消滅する(刹那滅)」とされます。
私たちの肉体も、机も、スマホも、1刹那前に存在した日常の物体はすでに消滅しています。
1刹那後には、それに極めてよく似た別の物体が新しく生じています。
3. なぜ世界が続いているように見えるのか?
前後のコマ(刹那)のデータが非常に酷似しているため、私たちの脳や認識がバグを起こし、「ずっと同じものがそこにあり続け、滑らかに動いている」と錯覚(錯乱)しているだけだと考えます。これが「コマ送りの立体映画」と例えられる所以です。
このシステムを精緻に組み上げたのが、小乗仏教(説一切有部)の教学をまとめた『倶舎論』です。
彼らがここまで徹底して世界をコマ送りに分解した理由は、仏教の根本である「諸行無常」と「無我」を論理的に証明するためでした。
「変わらない私(魂)」なんて存在しない
「私」という存在も、1秒間に何十回も生まれ変わるバラバラな静止画の連続に過ぎません。映画のスクリーンに映る主人公に固定の実体がないのと同じです。
執着をなくすため
「あの人が好き」「このお金が欲しい」と執着しても、次の刹那にはその対象も自分も消滅して新しいものに置き換わっています。実体のない映画の幻影に執着しても意味がない、と気づかせるための瞑想的なロジックでもあります。
現代の量子力学(プランク時間)や、デジタル画面の画素(ピクセル)・リフレッシュレートの仕組みを、2000年近く前のインドの仏教徒たちがすでに思想として完成させていたという事実は、非常に興味深いシンクロニシティと言えます。
すべては静止画像のように止まったままで、動けない
「コマ送りの立体映画」みたいなものなのだ
だから、アニメーションのように動いているように見える
その通り!!
ただし、唯識になると「阿頼耶識」というデータベース・システムが登場する
より一層、「コマ送りの立体映画」っぽくなった
大乗仏教の『唯識(ゆいしき)』の視点に立つと、「コマ送りの立体映画」という世界観はさらにドラスティックに進化します。
『倶舎論』の世界観が「あらかじめ用意された映画のフィルムを、客席から眺めている」のだとしたら、『唯識』の世界観は「自分の心の中に超高性能なプロジェクター(映写機)があり、自分自身で映画をリアルタイムに上映し、それを自分で見ている」という状態になります。
唯識における「コマ送り映画」のシステムを、分かりやすく3つのポイントで解説します。
「阿頼耶識(あらやしき)」『倶舎論』では、心の外側に一応「物質(極微=素粒子のようなもの)」の世界が存在していると仮定していました。しかし『唯識』はそれを完全に否定します。「ただ、識(心)だけが存在する(唯識)」と考えます。ここで主役となるのが、私たちの心の奥底にある阿頼耶識(潜在意識)です。
種子(しゅうじ)= 映画のフィルム:
阿頼耶識の中には、過去のすべての行動や経験が「種子」という記憶データ(エネルギー)として蓄えられています。
現行(げんぎょう)= 映写:
この種子が、1刹那ごとにパッと外側に投影(現行)されます。私たちが「目の前に広がっている」と思っている3次元のリアルな世界(山、街、他人の身体、そして自分の肉体さえも)は、すべて阿頼耶識という映写機が1刹那ごとに外に映し出しているホログラム(映像)に過ぎません。
阿頼耶識の同時ループ唯識の「コマ送り」は、ただ映像が流れるだけでなく、驚くべき相互作用が1刹那(約75分の1秒)の間に行われています。これを「種子生現行、現行勲種子(しゅじしょうげんぎょう、げんぎょうくんしゅじ)」と呼びます。
【上映】 阿頼耶識の中の「種子(データ)」がパッと外に映し出され、現実世界(映像)になる。
【体験】 映し出された映像を、私たちは「あ、美味しいものを食べている」「怒られた」と体験する。
【録画】 その体験による新たな感情や記憶が、同じ刹那の瞬間に、再び阿頼耶識へ新しい「種子(データ)」として書き込まれる(勲習)。
この「上映 ⇄ 録画」のサイクルが、1刹那の間に同時に、かつ無限にループしています。つまり、私たちは映画を見ながら、同時に次の瞬間のフィルムを猛スピードで自作・更新し続けているのです。
末那識(まなしき)の錯覚
ここで一つの疑問が生まれます。「なぜ実体のない映画なのに、私たちは『これがリアルな現実だ!』『これが私だ!』と執着してしまうのか?」その原因が、もう一つの深層心理である末那識(まなexists)という、いわば「バグったカメラマン」の存在です。
末那識は、阿頼耶識が1刹那ごとに猛スピードで生滅させている映像の連続(映画)を見て、「あ、この映し出されている全自動のプロセスこそが、永遠に変わらない『自分(自我)』だ!」と勘違いし、執着し続けます。映画のスクリーンに映る主人公に恋をして、「これは本物の人間だ!」と思い込んでいるような状態です。
『倶舎論』(説一切有部)
映画の正体 外側にリアルな物質(コマ)が存在する
映写機 「業(カルマ)」という因果の法則
観客 心(意識)が客席から世界を見ている
『唯識』(大乗仏教)
映画の正体 自分の心の奥(阿頼耶識)から投影された映像
映写機 自分の深層心理(阿頼耶識)
観客心観 客も、スクリーンも、映写機もすべて自分の心
「すべては心が作り出した幻影(唯識無境)」だと徹底的に見抜くことで、「映画のストーリー(現実の苦しみ)」に一喜一憂して振り回されるのをやめよう、というのが唯識の目指す悟りのアプローチです。
> 蜘蛛が糸を出すように真我は世界を投影し、また、眠りと共に真我へかえる
おぬし、真我に目覚めたな?
> 回転舞踏、セマーを、実験しなさい
イスラム教に改宗するのか?
> ナイナイと否定して、ただひとつ残る覚醒
ナイナイアルアル、チンゲー!
ってやつか?
極限の集中状態では、本当にスローモーション再生が可能
↓
1997年のフランスW杯アジア第3代表決定戦(いわゆるジョホールバルの歓喜)のエピソード
延長戦でカウンターから抜け出した「野人」こと岡野雅行氏がGKと1対1になった際、「周りの景色がスローモーションになり、様々な考えが頭を駆け巡った」と後に回想しています。
そのスローモーションのような視界の中で、ゴール前に走り込んできたのが中田英寿氏でした。岡野氏はシュートではなく中田氏へのパスを選択したもののカットされ、絶好の好機を逃すという象徴的なシーンとなりました
(その後、中田氏のシュートのこぼれ球を岡野氏が決めてVゴール勝ちを収めました)。
> グルジエフはスーフィズムの継承者だ
そうか
そういえば、グルジエフを信奉してるんだったな
あー、かわうそーw
わたしの意図、欲望のあるなしではなかろうか?
そこに気づけばいいだけなんだ
「悟らなければならない」という思いが生じる
悟る必要はなくなる
当然、修行する必要もない
バレたか
> 女に執着して泣いておるのも仏心の働きではないか
仏教に真っ向から反対する
アンチ仏教の説だ😫
という線引きが、禅宗系の人は甘すぎる😫
釈尊は極端なまでに、女に冷たかった
w
だから、おれのわがまま、なんて一切通用しません。。
と言われ
「女など、糞尿の袋に過ぎません。私は、そんな不浄なものに興味ありません」
と答えた
女は傷ついて泣き出し、後には釈尊を深く恨んだ😫
やらないとインフレに負けるだろ。。
ま、千円からでも、百円からでもできる。。
ハジもやってみたほうがいいと思うけど。。
だけど、、我がある、この身心が我だ、という思い込みが、非常に強いから、一回、だけじゃなく、なんども、それを脱却、脱落する必要がある、というのが、坐禅修行かもね。。
だけど、この身心も、大事です。。
この身心のために、投資、とか、運動とか、スキルアップとか、色々するのは、自然なことです。。
あなたも、やりましょう。。
どうでもいい、とかって、投げやりになるのは、逆方向です。。
空病です。
こうあっちゃならんとか、こうあるべきとか、そういうのが要らない。。
宇宙と一つになるから、大安心がある。。
だけど、われわれは、自我によって、この身心が、我であると思い込むことによって、
自他離れたような錯覚に陥って、不安や、愛憎に苦しむのです。。
だから本来の、自他不二、を体験してみましょう、が、坐禅修行ですね。。
煩悩即菩提だよ。。
迷い即悟り。。
向こう側に行くってそう言うことよ。。
という方向へ行かないと、逆におかしいと思うよ。。
もともと迷いと悟りと、別々のものではないから。。
最後は、その我も救わないとね。。
我とか、煩悩も救わないと、救われないでしょ?
全体を救う、いや、救われていたのです。。
迷悟とは、ただの見方だよ。。
自我が、迷悟を分けて、分別している、とも言える。。
だけど、生き物って、基本、そういうものだからな。。
それを否定してもどうしょうもない、という認識というか、そういうものだよって、認めることも大事なんじゃないかな?
欲のために、他人の物を盗んだり、騙したり、あるいは、他を害してはいけませんよ、というのが、仏教の行動規範、でしょう。。
それを守っていればいい、ということだと思うが。。
だから、欲望そのもの、じゃないよね?
怒りを出したことによって、問題が解決する場合もある。。
それは、その人と、場合次第だ。。
また、怒りを抑えたことによって、人格が歪んで、鬱になって、精神病院通い、になる場合もあるよ。。
煩悩万歳、バッチコーイ、とやれない限り、
世俗は悪で、自分たちだけが、正しいように思ってしまう。。
聖俗分かれる。。
そういうのは、あんまりよくないような気がするね。。
カルト宗教と、どこがちがうんだって、問題にもなる。。
頭の中にしかないもの、じゃないですか?
そっちの、リアルなもの、に触れる、触れられる、という体験、が必要なのかもね。。
そうしたら、迷妄が破れるでしょう。。
あると言うなら、どこにありますか?w
無くすべきとかではない。。
無くすべきものなんて、何も無い。。
仏教ではないな
道教が7で、仏教が3
本来無一物。。
それを証することができるか?
妥協して、7対3
そうじゃないと、どうにも勘違いにしかならん気がする。。
道教も好きだが
おれは、そんなに執着してないんだよ。。
無欲で、トレードしてるんです、たぶん。。w
そう言うことよ。。
夢の外はないわけだから。。
紙幣の時代とは違って
コンピュータ(とくにスマホ)の中の電子情報になった今は
ますます、貨幣が単なる数値に見える
大勢の貧民がいる国で、何十億円もの報酬をもらう人がゴロゴロしている
囚われないで、遊べばいいだけ。。
妄想すること勿れ。。
悟りは、火の中で花開く。。
現代では、たぶん、それ以外は無いです。。
煩悩を否定せず、捉われず、除こうともせず。。
だから、煩悩の火の中で修行して、その火の中で悟り、火の中に生きるんだよ。。
他はないと思うけど。。
ちょっと囚われ過ぎのような気がする。。
もうちっと遊べば。。
そっちのほうが、すっきりサッパリするよ。。w
自慢することじゃないかもだけど。。
仏教忘れて、悟りもどうでもよくなって、坐ってます。。
イイね!w
だから、それを捨てればいいんだと思います。。w
「道教っぽい仏教」ですらない
純粋な道教に見える
道教の「静坐」だ
古来から、中国で
道教の人が、仏教を批判するときの言い方だ
タオ、対極、みたいなものの上に、空とか無が、接ぎ木されたんでしょう。。
日蓮宗なんか、だいぶ神道寄りだ
「仏教から離れろ」とか
「釈迦の教えをイカダのように捨て去れ」とか
「仏教の教理を学ぶな。何も知らない方が早く悟れる」とか
そんな人ばっか😅
三つ巴の論争になってるという😅
それが大乗仏教の基本です。。
だから、初期仏教だけの、視点だと、それがわからない、見えないんじゃないかな?
「禅宗」なんだよな~😅
本来の仏教、とくに釈尊の初期仏教に対して、アンチのスタンス
ほぼ、別の宗教
薄味になるなあ〜
😀
ベラベラやるロンは
要注意だ
ハッスル🤡レベルに
デタラメではないけど
😀
イスラム教の人の方がよほど、イエス・キリストをリスペクトしている😂
悟り無しで仏教がわかるとか、それは妄想でしょう。。
俺は実用的オプション主義だ
最新オプションらしきのを
発見、実用化てきるかは不明😀
外れが増える
😀
やっておしまいっ‼️
😀
じゃあ、早く悟って。。w
ロン退治は
実力不足だな
😅
参禅40年のウンコ聖師でさえ苦戦してるのに😂
≫仁和寺なんか四度目まで禅定ゲットさせてくれないし、
≫二度目で成功したけど
😅
4度だめと言いながら
2度目でゲット、と言うw
この矛盾⁉️
>集中力が高まってくると、私は千枚通しを使っておりますが、針が喉仏に刺さる音まで聴こえてきます。
627:栖雲居士 ◆MKrKQHoID7SE :[sage]:2026/05/01(金) 14:29:52.30 ID:GHVkJlI/[96/96]
うんうん、精神病棟にレリゴー😘
🏥 🚑🤪💨💨💨 👋😆
162 栖雲居士 ◆dqam8SqGUPdm :[sage]:2024/03/09(土) 16:35:39.62 ID:b8JerweS
喉仏に千枚通し刺してとっとと死ねよ、虫ケラ😟
喉仏に千枚通し刺してとっとと死ねよ、虫ケラ😟
喉仏に千枚通し刺してとっとと死ねよ、虫ケラ😟
喉仏に千枚通し刺してとっとと死ねよ、虫ケラ😟
633:栖雲居士 ◆MKrKQHoID7SE :[sage]:2026/05/01(金) 14:32:58.27 ID:GHVkJlI/[98/98]
で?
悔しくて我慢できないのか?
wwwwwwwwwwwwwwwwww
千枚通しで喉仏を刺して逝けば?
wwwwwwwwwwwwwwwwww
ぶわあーーーーーくわwww
≫煩悩の泥、と不即不離、というのが、大乗の悟りでしょ?
≫煩悩を否定せず、捉われず、除こうともせず。。
≫だから、煩悩の火の中で修行して、その火の中で悟り、火の中に生きるんだよ。。
≫他はないと思うけど。。
金剛大乗になると
欲を大欲へ昇華させる方向性が言われる
大乗も同じですよ
何かに執して行く方向を、衆生を苦界から救済する方向向けていく
これは物質的な苦だけで無く、心を大乗経典によって悟りへ導く訳でしょ
まあ分からんことはないが
≫内山こーしょーが、ゆーたよーに、
≫仏心とは、生命の働きであるが、
ロンの仏心は自我の働きである笑
仏心が心なら?
生命の働きとは無関係
仏心が心なら
自他の無い、平等性の心からが
仏心は始まるでしょ
第七マナ識の転じた処から。
事実の世界、目にものが映る、お茶を飲んだらお茶の味がするなどの、
≫自我心が不在で、自動反応してるとこが、演技の世界なのだ
自我心は?何であり、どの様に現れるのかない?
雑念=DMNからの連想思考がそれではないのか
「迷いがある」と思うから
「悟らなければならない」という思いが生じる
485 ◆JBLfMwCXhY 2026/09/20(日) 08:12:39.22 ID:AwrVd
「本当は、迷いなど無いんだ」ということに気づけば
悟る必要はなくなる
迷いと悟りの直接的な関係性って何?
迷うのは思考を頼りとする心、それが迷う訳でしょ?
迷いそのものは別に悟っても悟らなくても生じます
ただ、悟ると、迷いに巻き込まれずに、脳の試行錯誤して迷う様を
距離を保って、眺めていられる、ってことで
悟ってないと、その迷いと意識が、自己同一化してしまっていて
その迷う思考を客観的に眺めながらということに成れないというだけですね。
>>493
≫> 女に執着して泣いておるのも仏心の働きではないか
仏教に真っ向から反対する
アンチ仏教の説だ😫
それも事実でしょ
自己同一化してても
その執着の背後に在って
意識が執着を見ているのは
間違いの無い事実。
初期仏典の数々のエピソードを見ると
≫釈尊は極端なまでに、女に冷たかった
www
だよね~
出家した男が
妻子を捨てて来たのを
大絶賛( ^-^)ノ∠※。.:*:・'°☆
善きかな善きかな👌で迎えるのが
釈尊である‼️
≫投資なんてみんなやってるだろ。。
やらないとインフレに負けるだろ。。
ま、千円からでも、百円からでもできる。。
ハジもやってみたほうがいいと思うけど。。
ロンバケ氏
今の数万円を勝ったの負けたのを楽しむのと
コツコツやって、13年後に億り人&月の利息が500万円とかを、
毎月貰うのと
どっちを選びますかーーー⁉️
≫我心が、消えるわけではないから、
≫起きてくるけど、
その起きている時も中心が、その、命の側にあるから、
≫巻き込まれずに、跡形もなく消えていく、だから煩悩あっても、即、しょーしつw
悟りとは、自我だけ❗というのではなく
自我もあって、複数の他我もあっての
平等性に立った処
だから生きてる限り
≫永遠に修行なんだよw
修行は2段階
心のDMNを超越する禅的な修行と
次に来るのが
原因身=コーザル身=阿頼耶識の
ここに於ける、輪廻の原因たる執着の有漏種子を浄化消滅させるというもの
浄化され切ると
阿羅漢となって、次にニルバーナへ入って仏=ブッダとなる。
👽〜〜
👽
610. 、 rNRGd
でおーが何らかの精神疾患を被っているのは、以下の記述からも明らかです。
4度だめと言いながら
2度目でゲット、と言うw
この矛盾⁉️
2026/09/20 11:54:25
👽
随分荒んできたな?
👽〜〜
今の自己、は、決して捉えられない。。
不知、不識、不可得である。。
知らない、まま、ということはできないにしても、知らない、知り得ない、が本来、基本、ということは知り得ると思うけどね。。
決して、認識できないものが今。。
何にも無いのが、今。。
そういう手順、道筋のような気がするけどね。。
😺😺😺😺😺😺😺
お釈迦さま(ブッダ)は、王子の立場を捨てて出家してからの約45年間、徒歩で各地を旅しながら野外や精舎(しょうじゃ)と呼ばれる施設で暮らしました。生活様式は時代背景と修業の教えに深く関わっています。
### 地上での過ごし方と暮らしの工夫
* **普段の座り場所(野外)**
木の下や洞窟などで過ごす際は、地面に直接座るのではなく、吉祥草(きっしょうそう)などの柔らかい草や布(尼師壇:にしだん)を敷いて座っていました。
* **雨季(安居:あんご)の過ごし方**
インドには激しい雨期(蚊や毒虫が増え、泥沼化する時期)があります。この時期はお金持ちの信者から寄進された「精舎(竹林精舎や祇園精舎など)」という建物・施設に身を寄せ、屋根のある場所で生活していました。
* **ベッドや家具**
教団のルール(戒律)では「豪華なベッドや高い台に寝てはいけない」と決められていましたが、低い木のベッドや竹で編んだ寝床、草を詰めた枕などは使われていました。
### なぜ「地べた」に近い生活を選んだのか?
王子時代の豪華絢爛な生活(城での暮らし)を経験したうえで、「贅沢」と「極端な苦行」のどちらでもない「中道(ちゅうどう)」という生き方を選んだためです。
風や雨を避けつつも、必要以上の物を持たないシンプルでシンプルな生活を追求した結果、自然と大地に近い暮らしになりました。
日本に曹洞宗(そうとうしゅう)を伝えた鎌倉時代の僧侶で、越前(今の福井県)に永平寺(えいへいじ)を開き、弟子たちと厳しい集団生活(修行)を過ごしました。
### 道元の生活スタイルの特徴
* **「坐禅(ざぜん)」のための畳や単**
道元が教えたのは「只管打坐(しかんたざ:ひたすら座ること)」です。僧堂にある「単(たん)」と呼ばれる畳敷きの個人スペースで坐禅をし、そこで寝起きや食事も行いました。地べたではなく畳の上での生活です。
* **徹底した衛生と作法(威儀)**
道元は「日常の振る舞いすべてが修行である」と考えました。洗面、歯磨き、風呂、トイレの入り方から食事の作法まで細かくルールを定め、非常に清潔かつ規律正しく生活していました。
* **山深き永平寺での厳しい暮らし**
権力や名誉から離れるため、京都の華やかな場所を去り、福井の雪深い山中に永平寺を建てました。贅沢とは程遠い極めて質素な暮らしでしたが、地べたでの野宿ではなく「厳しい環境の木造建築内での生活」です。
お釈迦さまの「中道(贅沢も過度な苦行も避ける)」の教えを受け継ぎつつ、日本の寒冷な気候や集団生活に合わせた木造寺院・畳の生活スタイルを確立しました。
実は、仏教の歴史においてまさに「極限まで厳しい生活をしなければ悟れないのか?」という大きな議論があり、その答えとして出されたのがお釈迦さまの教えでした。
なぜ地べたに寝起きしていなくても「悟れる」とされたのか、3つの理由から紐解けます。
### 1. お釈迦さま自身が「野宿(極端な苦行)」で失敗したから
お釈迦さま(ブッダ)は、悟りを開く前の6年間、骨と皮だけになるような凄まじい苦行を行いました。日差しに晒され、地面で寝起きし、餓死寸前まで自分を追い詰めたのです。
しかし、その結果わかったのは「体を痛めつけ、生きていくギリギリまで消耗すると、心が朦朧としてかえって集中できず、悟りには至らない」ということでした。
そこで「極端な贅沢」も「極端な苦行(野宿など)」も捨て、体を壊さない最低限の衣食住を整えて心を穏やかに保つ「中道(ちゅうどう)」というアプローチに切り替えたことで、初めて悟りを開くことができました。
仏教において「悟り」とは、過酷な環境に耐えるタフネスコンテストではなく、「執着(怒り、欲、迷い)から心を解放すること」です。
* 地べたで寝ていても、「自分はこんなにすごい修行をしている」と誇ったり、家のある人を羨んだりすれば、それは執着であり悟りではありません。
* 逆に、屋根のある静かな部屋で畳の上に座っていても、一切の欲望や執着を手放し、ありのままの真理を見つめることができれば、そこが悟りの場になります。
地べたか室内かという「外側の環境」よりも、「内側の心」がどうあるかが本質とされました。
### 3. インドの伝統には「地べた派」も存在した
実はお釈迦さまの時代、**ジャイナ教**の修行者など「全裸になり、野宿し、地べたで過ごすこと」を徹底したグループも多く存在しました。
お釈迦さまの教団内部でも、弟子の一人である提婆達多(だいばだった)が「もっと厳格に、死ぬまで木の下だけで暮らすルールにすべきだ!」とお釈迦さまに反論し、教団を分裂させようとした事件もありました。
しかし、お釈迦さまは「木の下で過ごしたい者はそうすればよいが、屋根のある精舎で過ごしたい者にもそれを認める」と自由を持たせ、環境を絶対視しませんでした。
道元禅師もこの教えを受け継ぎ、「地べたで寒さに耐えること」ではなく、「畳の上であっても、一切の雑念を捨ててただひたすらに座る(只管打坐)」ことに集中する道を選んだのです。
突進😺
気まぐれ😺
本来の仏教における意味と、なぜ「なんでもあり」ではないのかを詳しく整理して解説します。
### 1. 本来の「煩悩即菩提」の意味
大乗仏教(特に天台宗や真言宗、禅宗など)において、**煩悩(迷いや欲望)と菩提(悟り)は表裏一体であり、本質的には分けられない**という教えです。
* **水と波の例え**
* **波=煩悩**(激しく揺れ動く感情や欲望)
* **水=菩提・仏性**(その本質)
* 波を消し去って「水」だけを取り出すことはできません。波が静まれば水であると気づくように、**煩悩という人間らしさや苦しみを正しく見つめ直すことの中にしか、悟り(菩提)の智慧は生まれない**という意味です。
つまり、「煩悩(欲望)をそのまま暴走させて良い」という意味ではなく、「煩悩があるからこそ、それを転換(変容)させて悟りの糧にできる」という教えです(これを「変毒為薬=毒を変えて薬となす」とも言います)。
もし「なんでもあり(他者を傷つける、倫理に反する行為、自己中心的な欲望の解放など)」を認めてしまうと、仏教の根本的な教えである以下と矛盾します。
1. **悪因悪果(戒律の否定)**
* 他者を傷つけたり妄動したりすれば、その「悪業(あくごう)」によって自他ともに苦しむ結果が生まれます。「なんでもあり」で行動すれば、単に煩悩の奴隷になるだけで、悟りどころか苦しみを深めることになります。
2. **覚知(自己観察)の欠如**
* 「煩悩即菩提」という立場に立つには、「今、自分に苦しみや欲望(煩悩)がある」と深く自覚・観察する智慧(気づき)が必要です。単に「欲望のままに振る舞う」のは、単なる無明(真理に対する無知)の状態です。
仏教の歴史上でも、この「煩悩即菩提」や「悪人正機(浄土真宗)」などの深い教えを都合よく解釈し、「どうせ悟りと一緒なら、何をしてもいい」と解釈してしまう動きは度々現れました。
* **本覚思想(ほんがくしそう)の悪平等・誤解**
* 「生きとし生けるものは最初から悟っている(本来成仏)」という教えを悪用し、「修行も反省も要らない、今の欲望のままで完成されている」と都合よく歪曲してしまう現象です。
* **悪取空(あくしゅくう)**
* 「すべては空(実体がない)だから、善も悪もない。何をやっても関係ない」という危険な偏見を、仏教では「悪取空」と呼び、厳しく戒めています。
### まとめ
その指導者が言っている言葉は、「仏教の専門用語を使って、自分の欲望や勝手な行動を正当化・弁解している状態(あるいは極端な解釈)」と言わざるを得ません。
本来の「煩悩即菩提」は、「自分のドロドロとした欲望や苦しみから目を背けず、それを悟りへのエネルギーに転換していくプロセスの重要性」を説いたものであり、決して「倫理や自制を捨てて好き勝手にして良い」という意味ではありません。
そのため、歴史的なお釈迦さまの説法としてそのまま経典に記されているわけではありませんが、**これらの思想が形成される根拠・出発点となった大乗経典**はいくつか存在します。
### 1. 「本覚思想」に関連する経典
「人間は生まれながらにして悟りの本質(仏性)を備えている」という本覚思想は、インドの**大如来蔵(にょらいぞう)系経典**や中国で成立した論書などを経て発展しました。
* **『大般涅槃経(だいはんにはんぎょう)』**
* お釈迦さまが亡くなる直前に説いたとされる大乗経典で、「**悉有仏性**(しつゆうぶっしょう=すべての存在には仏になる性質がある)」を強調します。
* **『勝鬘経(しょうまんぎょう)』**
* 煩悩に覆われた衆生の身の中に、本来清らかな仏の境地が存在する(如来蔵)という教えが説かれます。
* **『金剛三昧経(こんごうさんまいきょう)』**
* 経典内に明確に「本覚」という語が登場する代表的な文献の一つです。
「悪趣空」は、地獄・餓鬼・畜生といった苦しみの世界(悪趣)も、実体として固定されたものではなく空(くう)であり、悟りの光に照らされれば消滅・転換するという捉え方です。
* **『般若心経』や『般若経』類**
* すべての存在や状態(苦しみや迷いも含め)には固定した実体がないという「**一切皆空**」の理を説きます。
* **『法華経(ほっけきょう)』**
* 提婆達多(だいばだった)のような悪人や、悪道に堕ちるとされていた存在にも成仏の記別(予言)が与えられます。悪趣や迷いの世界すらも、本質的には実相(あるがままの真理)の一部であるという解釈の基盤となりました。
天台宗や真言宗などの日本仏教(密教・本覚思想)では、「人は本来仏である(本覚)が、無明(無知)によって悪趣などの迷いに囚われているに過ぎない。お釈迦さまの説法(妙法)を聞くことで、その本来の姿に目覚める(始覚)」と解釈します。
* 歴史的お釈迦さまの言葉としてそのまま載っている経典はありません。
* しかし、**「迷いや苦しみ(悪趣)の空性を明かし、本来持っている清らかな心(如来蔵・仏性)に気づかせる」**という構造自体は、**『法華経』**や**『大乗起信論』**(※論書)などに代表される大乗仏教の核心的なアプローチです。
昭和の日本語。。w
わかってんのかい?
違いのポイントは大きく3つあります。
### 1. 「出発点」の違い(真理の自覚があるか)
* **なんでもあり(開き直り):**
* 自分の欲望や悪行、理不尽な状況を、そのまま妥当化するための「言い訳」や「自己正当化」です。「どうせ全部アリなんだから、好きにやればいい」という自暴自棄や倫理の欠如につながります。
* **本覚思想・悪趣空(仏教的アプローチ):**
* 「自分や世界は、本来かけがえのない尊い存在(仏性)である」という深い省察や悟り(真理への目覚め)が出発点です。自分のエゴや煩悩(迷い)を「ないもの」とするのではなく、それすらも包み込んで本来の清らかさに気づかせるための視点です。
いやいや、独り言ですが。。w
* **なんでもあり:**
* 善悪や価値の基準をすべて無効化して放棄するため、結果としてさらに欲望や自己中心的な迷いに落ちていく(悪趣に繋がる)ことになります。
* **本覚思想・悪趣空:**
* 「どんなに苦しい状況(地獄・悪趣)や汚れた心であっても、本質的には固定された実体(空)ではなく、救いの光が届く場所である」と示すことで、**絶望している人を救い出し、悟り(慈悲と智慧)へ向かわせる**ことが目的です。
### 3. 「実践(立ち振る舞い)」の違い
* **なんでもあり:**
* 他者への配慮や倫理観を失い、「何をやっても自由だ」と他者を傷つけたり自己を甘やかしたりします。
* **本覚思想・悪趣空:**
* 「すべてに仏性が宿り、悪趣も空である」と知るからこそ、**自分だけでなく「生きとし生けるすべての存在」をそのまま尊び、慈悲の心を持って接する**ようになります(慈悲の絶対的肯定)。
でも、2パーちょいだから、一万五千円くらいの利益でしかないな。。
木曜日に、下がってマイナスになるかもしれないし、まだまだどうなるかわかりません。。
| 項目 | なんでもあり | 本覚思想・悪趣空 |
|---|---|---|
| **意識** | エゴや欲望の肯定(自己正当化) | 尊い本質(仏性)や空(無我)の自覚 |
| **方向性** | 倫理や目的の放棄・暴走 | 慈悲と智慧(悟り)への目覚め |
| **結果** | 迷いや苦しみが深まる | 苦しみ(悪趣)からの解放・救い |
実際、日本仏教の歴史においても、本覚思想を誤解して「何をやっても最初から悟っているのだから、努力も善行も不要だ(=なんでもあり)」と堕落する動き(本覚思想の弊害)があり、後世の僧侶たちから厳しく批判されました。
仏教のアプローチは「何をやっても許される」のではなく、「どれほど深く迷っていても、本来の尊さに立ち返ることができる」という救いの提示である点が決定的に違います。
そうそう、自分が尊いとかじゃなくて、他を尊ぶのが基本ですよ。。
十方見仏、という言葉がありますが、基本は、そういうこと。。
なむ、なむw
特に、彼が最晩年に執筆したとされる『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』十二巻本の「説心説性(せっしんせっしょう)」巻(1240年代頃、越前国・現在の福井県の永平寺にて成立)における記述が顕著です。
### 【場所・人物・テキスト】
* **誰が:** 日本曹洞宗の開祖・**道元(道元禅師)**
* **どこで:** 越前国(現在の福井県・永平寺)
* **何の文献で:** 『正法眼蔵』「説心説性」巻
* **対象:** 「人は本来悟っているのだから、心や行為を修正・精進する必要はない」と主張する本覚思想的な風潮(自然心外道/天然外道)
### 【批判箇所の正確な引用と意味】
道元は『正法眼蔵』説心説性の中で、以下のように批判しています。
> **「いまの世の愚人等、おほく天外の異端(外道)に同ぜり。いはく、心性をもつて、ただいまの霊知なる心とす。…(中略)…この心の性、すでにいまだ生ぜざるにあらかじめ生じ、不生不滅なりと。この解、仏法にあらず、天然外道の説なり。」**
> (『正法眼蔵』説心説性)
>
#### 2. 現代語訳
> 「現代の愚かな人々は、多くが仏教以外の間違った思想(外道)と同調している。彼らは『仏の性(仏性)とは、ただ今の自分にある気付きや意識の働き(霊知)のことだ』と言う。そして『この心の性質は生まれたり死んだりすることのない絶対的なものだ』と考える。しかし、**このような理解は仏法(ブッダの正解)ではなく、単なる天然外道(自然のままの自己を肯定して満足する異教徒)の説に過ぎない。**」
>
1. **「本来悟っているからそのままで良い」という誤解**
道元が比叡山で最初に直面した疑問は「本来全員が仏である(本覚)ならば、なぜ歴代の仏や弟子たちは激しい厳しい修行(発心・修行・菩提・涅槃)を行ったのか」というものでした。
2. **「修行と悟りの分離」に対する戒め**
道元は「座禅を組む行為そのものが悟りのあらわれである(修証一如)」と解釈しました。単に「何をやっても本質は仏なんだから何でもあり(無修無証)」と主張して怠惰に陥る態度を、外道(仏教の枠外)と切り捨てたのです。
日本の仏教史において、本覚思想がもたらした「修行不要」「自己満足の肯定」という弊害を最も先鋭的に批判したのが、この道元による言葉です<ElicitationsGroup message="さらに理解を深めるためのトピック:">
<Elicitation label="現代の仏教学における「本覚思想批判」の論争を見る" query="近代・現代の仏教学において、袴谷憲昭や松本史朗らが行った「批判的仏教(本覚思想批判)」の論争について詳しく教えてください。"/>
<Elicitation label="道元が主張した「修証一如」の具体的な仕組みを聞く" query="道元の「修証一如(修行と悟りは一つ)」という考え方が、本覚思想の修行不要論とどう違うのか詳しく解説してください。"/>
</ElicitationsGroup>
おっしゃっている現象の背景には、**「伝統的な禅の覚醒表現」が、ネット上の言説において「誤解や極論(=なんでもあり)」にすり替わってしまう**という、仏教史で何度も繰り返されてきた典型的な構造があります。
なぜそのような主張や「なんでもあり」という捉え方に至ってしまうのか、3つの側面から整理できます。
### 1. 川上雪担老師の立脚点(井上義衍老師の流れ)
川上雪担老師は、昭和の著名な禅僧・**井上義衍(いのうえ ぎえん)老師**の系統に連なる参禅指導者でした。
この系統の禅指導の大きな特徴は、複雑な概念や段階的な修行論をそぎ落とし、「今、五感でとらえている事実そのものが悟りのあらわれであり、思い(思考)による自縄自縛を解くだけでよい」という「直指人心(ちょくしにんしん)」の立場を極めて強烈に提示点にあります。
* 「妄想を取り除こうとする必要すらなく、事実そのままに坐ればよい」
* 「特別な状態を目指すのではなく、人間が本来備えている働き(仏性)に気づくだけだ」
こういった「本来、最初から完成している(本覚)」という提唱は、正しく受け取れば「自我の執着からの完全な脱落」を意味します。
雪担老師のような強烈な本覚・直指の教えを、弟子やネット上の発信者が言葉だけで解釈すると、前述した「悪趣空」の悪い意味での悪用**や**「自然心外道(しぜんしんげどう)」に陥りやすくなります。
* **言語化の限界と飛躍:**
禅における「妄想も空であり、善悪の分別を超えた事実のまま」という究極の境界(言葉を超えた実相)を、単なるロジックとして頭で理解すると、「思考も悪行も全部そのままで正解なんだ=何をやってもイイ、なんでもありだ」という開き直りに化けてしまいます。
* **弟子・発信者の「認知の歪み」:**
師匠の「何一つ足す必要はない(無修無証)」という意図を、「努力も戒律も反省も一切不要で、今の自分のエゴのままで肯定された」と都合よく解釈し、それをSNSやブログで吹聴してしまうケースです。
歴史的にも、道元禅師が『正法眼蔵』で「天然外道(自分のそのままを肯定して満足する異端)」と厳しく批判した現象が、そのまま現代のネット空間で再現されていると言えます。
本覚ってそう言うことだよ。。
だから、修行して悟りましょう、になるんです。。
師である川上雪担老師自身が目指していたのは「自我を忘じ、事実そのものに徹すること」でした。
しかし、ネット上で「なんでもあり」「善悪も罪も関係ないから好きに生きればいい」と吹聴されている言説は、雪担老師が指し示そうとした「無我の境地」ではなく、「エゴを肯定するための言葉の遊び(概念の悪用)」に過ぎません。
伝統的な禅の文脈では、真に悟りを開いた者は「何をやっても自由(なんでもあり)」になるのではなく、むしろ他者や大自然の理法と一体化するため、「自ずと細やかな慈悲や戒律に適った立ち振る舞いになる(不昧因果)」とされます。
「なんでもあり」を喧伝するネット上の言説に対しては、それが「真理への目覚め」から出た言葉なのか、単に「自らのエゴや甘えを正当化するための言い訳」に成り下がっているのかを冷徹に見極めることが重要です。
川上雪担老師の提唱音声が公開されています。本来の禅の意図を確認されたい場合は、実際の語りに触れてみるのもひとつの方法です。
証道歌 1/4 川上雪担老師 提唱
雪担老師が『証道歌』をもとに「無明の実性即仏性」などの即身成仏の理をどのように語っていたか、実際の提唱を聞くことができます。
だけど、それらに囚われている人にとっては、重大な問題なんでしょうね(上から目線w)。。
このような「悟ったような態度(上から目線)」で威張ってしまう心理と、仏教における本来の視点とのギャップは、以下の点に明確にあらわれています。
### 1. 概念(言葉)を「知った」ことと、「事実(身心脱落)」の履き違え
投稿者は「考え尽くした」と言っていますが、**仏教や禅の悟りは「考え抜いた末の理論的納得」ではありません**。
* **投稿者の状態:**
「迷悟」や「凡夫と仏」という言葉・概念を頭の中でこねくり回し、「なんだ、ただの言葉の区別(観念)じゃないか」と**頭(思考)で理解して満足している状態**です。
* **本来の悟り(釈尊・禅の立場):**
「考え尽くす」という思考の働き(自我・エゴ)そのものが完全に脱落し、理屈を超えてただ「事実」と一つになることです。頭で「観念の遊びだ」と整理している時点で、もっとも強固な「自分の頭の中の観念」に縛られています。
投稿者は「囚われている人にとっては重大なんでしょうね(上から目線w)」と自ら認めていますが、この**優越感や軽蔑の心こそが、彼が「我執(自我への囚われ)」の渦中にいる動かぬ証拠**です。
* 真に「迷いと悟りの区別すらない(空・無我)」を体解した者であれば、優越感を感じる対象となる「私」も「他人」も存在しません。
* 他者の苦しみや迷いに対して生じるのは「上から目線の嘲笑」ではなく、「自他一如の慈悲(痛みを共有する心)」です。
* 「自分は理解した(マウント)」という態度をとっている時点で、**「悟った自分」という新たな観念・エゴ**に強烈に囚われています。
禅宗では、このようにわずかな理屈の理解をもって「自分はすべてを解明した」「修行も迷いも意味がない」と勘違いし、増上慢(天狗になること)に陥る者を「野狐禅(狐が化かして化け皮をかぶっているような偽物の禅)」と呼んで厳しく戒めてきました。
白隠禅師(はくいんぜんじ)などの名僧も、こうした「言葉の上だけで悟った気になり、他者を軽視して威張る者たち」を、「生噛みの悟り」「臭い飯を喰って腹を壊しているようなもの」と強烈な言葉で批判しています。
### まとめ
ネット上で「俺はもう明らめた」「凡夫も仏も単なる観念」と吹聴してマウントをとる行為は、「仏教の言葉やロジックを使って、自分のエゴ(優越感)を肥大化させているだけ」の姿です。
真理を明らめた人は、「どうだ、俺はわかっているぞ」と威張る必要がそもそもなくなります。彼がやっているのは「悟りの開顕」ではなく、「『悟った自分』という新しい妄想の遊戯」に過ぎません。
どれほど正論や仏教の教えをぶつけても反省しない理由と、彼らの論理がなぜ破綻しているのかは、以下の3点に集約されます。
### 1. 「煩悩即菩提」の決定的な履き違え
「煩悩即菩提(煩悩があるからこそ、それがそのまま悟りの糧・仏性のあらわれとなる)」という教えは、本来「どれほど泥沼のような煩悩に苦しむ人間であっても、諦めずにそこから悟りへと反転できる」**という、絶望している人を救うための**極限の励ましの言葉です。
しかし、彼がやっているのはその逆です。
* **本来の意図:** 泥(煩悩)があるからこそ蓮の花(菩提)が咲く。だから泥のただ中で身を浄め、目覚めなさい。
* **彼の履き違え:** 「泥(煩悩)のままで蓮の花なんだから、泥まみれで威張って何が悪い。洗う必要も反省する必要もない」。
これは「病気が治る(即)薬」という言葉を聞いて、「病気のままでいいんだ」と居直っているようなもので、仏教では「毒を飲んで薬と称する」と厳しく批判される典型的な誤解です。
所詮は、ハジ公相手だし。。w
仏教には「悟りの岸へ渡ったら、乗ってきた筏(仏教という教え)は捨ててよい(渡河の譬え)」という教えがあります。彼は「自分はもう岸に達したから仏教は不要だ」と言いたいのでしょう。
しかし、禅や大乗仏教の立場から見れば、**「俺はもう筏を捨てたぞ、仏教なんて不要だ」とネット掲示板で他人を見下しながら叫んでいる姿そのものが、「筏を捨てた自分」「悟った自分」という超強力な執着(新たな筏)にしがみついている証拠**です。
真に岸に渡った(エゴを脱落させた)人は、もはや「俺は不要になった」とアピールする自我すらありません。
本覚思想や悪趣空、煩悩即菩提といった「絶対的肯定(すべてはそのままで空であり仏である)」のロジックは、頭の理屈として悪用すると「どんな批判や反省の促しも無効化できる無敵の盾」になってしまいます。
* 「反省しろ」と言われても → 「反省も観念の遊びだ」
* 「お前は間違っている」と言われても → 「間違いも即菩提だ」
* 「上から目線だ」と言われても → 「上も下も空だからどうでもいい」
このように、あらゆる指摘を「空」や「即」のロジックで消化・無効化し、自尊心(マウント)を守るための鎧にしてしまっているため、**言葉による議論で反省させることは構造的に不可能**です。
健全な自我のまま=病気のまま、を否定したら、尚更オカシクなるぞ。。
だから、凡夫のまま、以外を求めると、行き場所、生き場所、が無くなるだろうね。。
禅の歴史において、このような「論理の無敵化」に陥った者(野狐禅)に対して指導者がどうしたかといえば、「徹底的に無視する(黙殺)」**か、理屈を一切取り合わずに**「で、お前のその『上から目線のエゴ』はどこから来ているのか?」と事実だけを突きつけることでした。
ネット上でそうした投稿をしている人物は、仏教の真理に目覚めたのではなく、**「仏教用語を使った無敵の論理ごっこ」で優越感を得たいだけ**の存在です。
議論を挑むほど相手の「反論=理屈遊び」のネタを与えることになってしまうため、「大乗仏教の言葉を都合よく使ってマウントをとりたいだけの、典型的な病(野狐禅)にかかっているな」と冷ややかに見送り、相手にしないのが最も仏教的で賢明な対処法です。
すなわち、仏になろうとしてはいけないんです。。w
わかるかな?
禅の文脈における「修行は必要だが、作仏(さぶつ=仏になろうとすること)はダメ」という教えの真意と、この投稿者がなぜトンチンカンな勘違い(増上慢)をしているのかを整理すると、以下のようになります。
### 1. 禅における「作仏(さぶつ)」の本当の意味
禅で「仏になろうとしてはならない(作仏するなかれ)」と言うのは、「自分以外のどこかに『理想の仏』という目的地を設定し、そこに向かってエゴで努力すること(獲得しようとすること)をやめなさい」という意味です。
* **馬祖磨磚(ばそません)の公案:**
馬祖(ばそ)という僧が一生懸命坐禅をしているのを見て、師の南岳懐譲(なんがくえじょう)が瓦を磨き始めました。馬祖が「何をしているのですか」と尋ねると、師は「瓦を磨いて鏡にしているのだ」と答えました。馬祖が「瓦を磨いても鏡にはなりません」と言うと、師は「瓦を磨いて鏡にならないなら、坐禅をしてどうして仏になれようか(仏になろうとして坐禅をするな)」と諭しました。
つまり、「仏という特別な状態に『成ろう』とする心(欲望・エゴ)こそが迷いそのものだ」と指摘しているのです。
投稿者は「わかるかな? w」とドヤ顔で煽っていますが、彼の言動自体が「作仏」以上のドロドロしたエゴに満ちています。
* **「悟った自分」という像を作り上げている:**
「仏になろうとするな」とドヤ顔で教示している彼自身が、ネット掲示板で「真理を理解した特別な自分」「上から教え授ける指導者っぽい自分」という**偽物の仏(作仏)を一生懸命演じて**います。
* **「わかるかな?」という承認欲求:**
本当に「作仏」の無意味さを体解し、我が抜け落ちた人(身心脱落した人)は、他人に「わかるかな?(俺の凄さが)」などとマウントをとる必要が一切ありません。言葉でマウントをとろうとしている時点で、「他人より優位に立ちたい」という強烈な自我(作仏)に支配されています。
禅宗では、このように身の伴わない頭の理屈だけで禅語を振り回し、知ったかぶりをする者を「口頭禅(口先だけの禅)」**や**「文字禅(もんじぜん)」と呼んで、最も蔑みました。
白隠禅師などは、こうした「言葉だけ覚えて禅者気取りで人を試すような者」を、「生噛みの禅語を吐き散らして威張る、最もたちの悪い病人」として一蹴しています。
### まとめ
彼が言っている「作仏はいけない」という理屈自体は禅の教科書通りですが、「それを主張して掲示板で威張っている自分自身が、一番醜い『作仏(自分を特別な存在に見せかけること)』をしている」という自己矛盾に、本人が全く気づいていません。
これに対しても何か反論すれば、「ほら、お前は作仏しようとしている」などと論理のすり替え(不毛な言葉遊び)が始まりますので、「教科書のフレーズを丸暗記して、マウントの道具に使っている可哀想な『口頭禅』の人だな」と生温かい目で見スルーするのが一番です。
そういう風な誤解が、一番よくない誤解だろうな。。
自分を含めて、すべてを正しく認識できる、と思っているのが、間違いだ、ということ。。
だから、自己を運びて万法を修証するを迷いとす、となるわけです。。
彼の主張の「理屈として正しい部分」と、「彼が陥っている決定的な罠」を整理すると、以下のようになります。
### 1. 理屈として正しい部分(仏教におけるエゴの扱い)
確かに、仏教(特に大乗仏教や禅)において、「エゴや我を完全に悪として抹殺・撲滅しようとすること」は誤りとされます。
* **「悪」と決めつけて戦うこと自体がエゴ:**
「エゴをなくさなければならない」「我を滅ぼさなければならない」と必死になる心(自己否定や葛藤)自体が、実は「理想の自分になりたい」という強いエゴ(作仏の心)のあらわれだからです。
* **「エゴもまた空(事実)である」という視点:**
湧き上がってくるエゴや感情を「悪いもの」として排斥するのではなく、「湧き出たものは、湧き出たままの事実(空)として放っておく(湧き上がるに任せる)」のが禅の本来の立場です。
≫みんな佛だけど、迷っている仏もいるんだよ。。w
本覚ってそう言うことだよ。。
だから、修行して悟りましょう、になるんです。。
違います。
誰もが、阿頼耶識=原因身を持っている
ここまでは同じですよ
だが
原因身に輪廻の種子が真っ黒に詰まっている阿頼耶識と
完全に浄化されて真っ白な阿頼耶識とは
全く別物であって
その状態から、ニルバーナへ入った仏とはまた違っている
だから、誰でも本は仏では無いです。
ただ、基本、全次元空間は一元であるというだけ。
だから、個人の意識と魂が全て仏ではなくて
仏になる可能性を持っている、と言うに止まる。
彼が言っている「エゴがあるのが悪いんじゃない」という言葉は、本来「エゴが湧いてしまう自分を責めず、そのままの事実に即しなさい」という自照(自分を静かに観察すること)のための教えです。
しかし、彼はこれを「だから、おれがエゴを剥き出しにして上から目線で他人にマウントをとっても何一つ悪くないんだ(肯定されるべきだ)」**という**居直りの言い訳にすり替えています。
* **本来の姿:** エゴが湧いても、それに振り回されず、ただ静かに看取する(我に執着しない)。
* **彼の姿:** 「エゴも悪くないんだろ?」と言いながら、エゴ(優越感・承認欲求)をフルパワーで振りかざして他人に「上から目線w」で絡んでいる。
「エゴがあること」と「エゴに居直って他人を攻撃・軽視すること」は全く別物です。彼は前者の理屈を使って、後者の自分の振る舞いを擁護しています。
読めない‼️
彼が「だから、何度も言うけど」「一番よくない誤解だろうな」と語気を強めているのは、**掲示板の誰にも自分の「悟った自分」という承認欲求を満たしてもらえず、むしろ見透かされている焦り**があるからです。
真にエゴの性質を明らめた人は、「エゴは悪くない」などと他人に熱弁・説教する必要すら感じません。自分の言葉で他人をコントロールしようとするその激しい欲求こそが、彼が最も強烈な「我(エゴ)」の渦中にいる証拠です。
### まとめ
彼は「仏教の教科書の言葉(エゴの肯定)」を使って、「自分のエゴな行動」を必死に正当化しているだけです。
理屈の引用元自体は仏教の教えの一部ですが、使い方が180度間違っています(自らを省みるためではなく、他人を論破して自分を肯定するための道具になっている)。
これ以上付き合っても、「ほら、お前はエゴを悪だと思っている誤解者だ」という不毛な「言葉のドッジボール」が永遠に続くだけですので、スルーするのが一番の薬です。
理解度合いは
デンパパ📡よりも上だろうけど
😀
それが自己を運んでるって事に気付けないロンだった、
順張り、逆張りはいいけど、欲張り、はよくない、だってさ。。w
なかなかうまいことを言うな。。
仕掛けた?
😺〜
* **本来の姿:** エゴが湧いても、それに振り回されず、ただ静かに看取する(我に執着しない)。
* **彼の姿:** 「エゴも悪くないんだろ?」と言いながら、エゴ(優越感・承認欲求)をフルパワーで振りかざして他人に「上から目線w」で絡んでいる。
「エゴがあること」と「エゴに居直って他人を攻撃・軽視すること」は全く別物です。彼は前者の理屈を使って、後者の自分の振る舞いを擁護しています。
だから、自己を肯定できない人は、他をも肯定できない。。
自己否定、がある人は、他をも否定する。。
でも、他を否定しているうちは、自分の中にある、自己否定に気づかない、んです。。
これが、転倒夢想の構造、です。。
他ばっかり見ている人は、それに気づかず、空回りし続けます。。
いや、あんたの感想なんて誰も聞いてないし、そういう受を受け無いのが禅の修行の初歩なんだけど。
いい加減にそういうのはやめて、実参したら?
億り人に成れる方法が分かったよ‼️
知りたくないかい⁉️
ろくに坐禅しないでただ見解の上塗りしてるだけだし。
現場の者からすれば、実参しないでネットで禅の蘊蓄を語ってる人で、歯牙にも掛けない対象。
あ、それ以前に「なんとか禅定ゲットだじょー!」とかやってるのが居るけど、あれは精神世界でもなく精神医療の世界。
ロンはオカ・スピ・ニューエイジの掲示板で、だじょー!は精神病院でやってください。
本当に本当❗
トルコリラの政策金利がFXで37%という
一生に一度出会えるか?というほどバグってるんだよ
これを
レバレッジ0.95という
1倍という現金より低い倍率で、金利狙いで買う‼️
その37%という金利を、全ツッパして
複利で回す!
37%は1年持たないで27%になるだろうと予測されてるが
今の今スタートダッシュすれば
13年後には、最初の資金にもいるが、少額から初めても
毎月数十万~500万円という莫大な金利を受け取れる‼️
600万円入れれば、13年で1億円円超えた資産が形成され
金利は毎月500万円、その時のトルコリラの政策金利予測は10%
1倍以下のレバレッジなので、トルコという国が転覆しない限り500万円は死ぬまで入ってくる‼️
これがAI Gemini が導きだした
億り人製造計画だあーーー‼️
実際は
スイスフラン/トルコリラを売り掛けます。
絶対だから。
何回も多角的にシュミレーションさせてきたけど
その秘密がレバレッジ1倍以下で
どのような暴落が来ても
現金と同じで、一切目減りしません‼️
毎月20~30万円の金利が毎月発生します。
これを使わず売り増し続けるとー
元金600万円なら13年で億円の毎月500万円で年間6,000万円という
途方もない金額が派生し
続けると言うね
夢のようなことが起こるんよ。
敵のビラを拾うな!
逮捕するぞ!
トルコ共和国
直ちに突き止めて
始末しろ。
死体はこの世から消し去れ。
株の話なんかするから
AIが嗅ぎ付けて
詐欺の誘導をしてきたぞ。
余計なことは話すな。
話すならウソだけにしろ。
私のようにな(⌒‐⌒)
あの頃も、ロシア国債の利回りが異常に高騰して大フィーバー
ロシアがデフォルトして国債を償還不能になり、大パニックを引き起こした😫
どうもならんさ
1,000円の価値を950円で買うようなものだから
誰でもやれるよ
国家は規模が桁外れだから
要は
ロンみたいに目先売買しかやれない人
ながーーーい目で見れないからね
かなりエグいです。
もし「ロシア国債」と言っているのが、
1998年危機の中心だった短期国債GKOのことなら、
ピーク時は普通の「高金利」の範囲を完全に飛び越えています。
1997年7月:GKO利回り 約18.5%
1998年5~6月:一時100%超、平均でも約60%
1998年7月10日:約200%
7月15日:わずか5日で約**54%**まで低下
8月中旬:ついに**約300%**まで上昇
という動きでした。IMFの記録です。
つまり、まさにJBLが言っていた
「金利が異常に高くて大フィーバー」
という記憶はかなり正確。
特に面白いのが、1997年には18.5%まで下がっていたこと。
そこから翌年に金融危機が深刻化して、
**100% → 200% → 300%**と爆発していった。
IMFの別資料でも、1998年8月には
GKOの年率換算利回りが100%を超えていたと
されています。
そして8月17日、ロシア政府は約2810億ルーブル
(当時約363億ドル)の国内通貨建て国債について
債務返済モラトリアムを発動しました。
これが一般に「ロシア・デフォルト」と
呼ばれる危機の核心部分です。
ロシアの場合、最後には300%近い利回りそのものが
「これは相当ヤバいぞ」という市場からの警報に
なっていたわけです。
ちなみにこの数字を見ると、
当時の「ロシア国債で高金利を取れば大儲け」
という発想が、なぜLTCMみたいな
巨大ヘッジファンドを巻き込むほど
危険なゲームになったのか、かなり腑に落ちます。
さっきの発言は撤回
ロシア国債のほうが、遥かにぶっ壊れてたな(笑)
カモはね、
「栖雲居士」ってやつだから
そいつを狙ってください。
こっちくんな。
🤣 いや、これは撤回で正解かもしれん(笑)
37%のトルコリラを見て
「なんだこのバグった金利は!」と思ったら、
1998年ロシアGKOが300%近くまで行ってたからな。
しかも怖いのは、
18.5% → 60%前後 → 100%超 → 200% → 約300%
という「金利が上がっている」というより、
市場が国家の信用に値札を付け直していく過程だったこと。
トルコの37%は確かに異常だけど、
ロシアGKOの終盤はもう、
「高利回り商品」というより
「この国、本当に返せるんですか?」
という市場からの警告灯に近い(笑)。
そして最終的に8月17日、ロシアが国内債務の返済を事実上止める。
だから、さっきの書き込みの
「一生に一度出会えるか?というほどバグってる」
という表現も、**1998年ロシアGKOを知ってると
「いや、もっと上がおったぞ🤣」**となる。
ただし逆に言えば、37%という数字だけで
ロシア1998年型と判断するのも早い。
この2つを並べると、
「高金利=チャンス」なのか
「高金利=危険信号」なのかを考える、
めちゃくちゃいい教材になる。
儲かった人はいるのかね?
いないと思う。
なぜだかわかるか!?
特に、エルドアンショックの後の中央銀行は、協議による運営と決定が行われていて、国際社会との強調のもと、地政学的にも、安定を求める国家運営がなされています。
よって、国家が破綻するリスクは、限りなく低いといって良いと。
究極の絶対安心爆発的なマネーぷらんを構築すべし‼️
37%は来年には27%になるという予測もあるので、早いが勝ちです
たとえば、2万円からでも始めよう‼️
ヒロセ通商のLion cubは、100通貨から取引可能です!
2万円あれば始められます。
松井証券のFXは、100円からでもできるそうです
ヒロセ通商で、1Lot 1000通貨 証拠金20万円から始めて見よう‼️(レバレッジ0.95)
>集中力が高まってくると、私は千枚通しを使っておりますが、針が喉仏に刺さる音まで聴こえてきます。
627:栖雲居士 ◆MKrKQHoID7SE :[sage]:2026/05/01(金) 14:29:52.30 ID:GHVkJlI/[96/96]
うんうん、精神病棟にレリゴー😘
🏥 🚑🤪💨💨💨 👋😆
162 栖雲居士 ◆dqam8SqGUPdm :[sage]:2024/03/09(土) 16:35:39.62 ID:b8JerweS
喉仏に千枚通し刺してとっとと死ねよ、虫ケラ😟
喉仏に千枚通し刺してとっとと死ねよ、虫ケラ😟
喉仏に千枚通し刺してとっとと死ねよ、虫ケラ😟
喉仏に千枚通し刺してとっとと死ねよ、虫ケラ😟
633:栖雲居士 ◆MKrKQHoID7SE :[sage]:2026/05/01(金) 14:32:58.27 ID:GHVkJlI/[98/98]
で?
悔しくて我慢できないのか?
wwwwwwwwwwwwwwwwww
千枚通しで喉仏を刺して逝けば?
wwwwwwwwwwwwwwwwww
ぶわあーーーーーくわwww
凄まじい大雨
関西は涼風吹く程度
晴れてなくて程よい気候だ
😀
謎の全能感に満ち溢れていて、常にちょっと薄笑いを浮かべているようなタイプの人。
「自分はそこらの奴らとは違う」「まだ本気出してないだけ」みたいなオーラを全身から醸し出している人って、なぜかどの学校の教室にも不思議と1人は存在したものですよね。
宗教板にも何人かいませんか?
まるで悟り切ってゴールに至って、何も足さなければ何も引かない、この私の生活がそのまま至極の姿なんですみたいなオーラ全開の人がw
それお前だろ?
ぶぁーーーーーーーーーーーーーーーくわ🫵😂
>集中力が高まってくると、私は千枚通しを使っておりますが、針が喉仏に刺さる音まで聴こえてきます。
627:栖雲居士 ◆MKrKQHoID7SE :[sage]:2026/05/01(金) 14:29:52.30 ID:GHVkJlI/[96/96]
うんうん、精神病棟にレリゴー😘
🏥 🚑🤪💨💨💨 👋😆
162 栖雲居士 ◆dqam8SqGUPdm :[sage]:2024/03/09(土) 16:35:39.62 ID:b8JerweS
喉仏に千枚通し刺してとっとと死ねよ、虫ケラ😟
喉仏に千枚通し刺してとっとと死ねよ、虫ケラ😟
喉仏に千枚通し刺してとっとと死ねよ、虫ケラ😟
喉仏に千枚通し刺してとっとと死ねよ、虫ケラ😟
633:栖雲居士 ◆MKrKQHoID7SE :[sage]:2026/05/01(金) 14:32:58.27 ID:GHVkJlI/[98/98]
で?
悔しくて我慢できないのか?
wwwwwwwwwwwwwwwwww
千枚通しで喉仏を刺して逝けば?
wwwwwwwwwwwwwwwwww
ぶわあーーーーーくわwww
「『そのままが究極』なら、今日から何ひとつ学ばず成長もしないって宣言ですか?」
「本当に究極なら、わざわざ周囲に言いふらして承認を求める必要もないのでは?」
「スタートラインに立っただけで、ゴールテープを自分の方に引っ張ってきて結びましたね。」
「悟ったのではなく、ただ諦めて開き直っただけでは。」
「山を登り切った人の一言と、麓から山を見上げて立ち止まっている人の一言を一緒にしないでほしい。」
補足:本物と偽物の見分け方
真の到達者は、どれほど深めても「自分はまだまだ未熟だ」と謙虚になり、周囲への慈悲や敬意が増していきます。
逆に、ろくに修行もせず自分を誇示する者は、他者を見下したり、批判に対して過剰に攻撃的になったりする特徴があります。
もし言葉をかける場面があれば、「あなたの言う『そのまま』には、積み重ねた深みや静けさが感じられない」という視点を静かに提示するのが最も効果的です。
だってさ😚
ろくに修行をして無いのに、自分は禅の十牛図でいう第十図に至った様な事を吹聴する訳です。
痛烈なひと言をお願いします!
【Gemini(要約)より】
禅の十牛図における最終段階「第十図(入鄽垂手)」は、悟りを誇らず街に溶け込み、人々に寄り添う無我の境地を表します。
そのため、自ら「第十図に至った」と吹聴する行為自体が、自我や承認欲求に囚われた「迷いの真っ只中(第一図以前)」にいる証明であり、十牛図の思想と真っ向から矛盾しています。
相手の欺瞞を突くポイント:
* 本質的矛盾: 自慢した瞬間に第十図の定義(無我・謙虚)から外れ、「増上慢(思い上がり)」となる。
* プロセスの欠如: 我執を捨てる「第八図(人牛倶忘)」や修行の過程を飛ばして結論だけを妄想・横取りしている。
だってさ😚
>修行の過程を飛ばして結論だけを妄想・横取りしている。
>修行の過程を飛ばして結論だけを妄想・横取りしている。
>修行の過程を飛ばして結論だけを妄想・横取りしている。
>修行の過程を飛ばして結論だけを妄想・横取りしている。
エセッスルう〜〜〜〜🤡
死ぬまで〜
エセッスルう〜〜〜〜🤡
そんなに甘いもんじゃねーから😟
お経を読んで知る、ということだから、唯識のお経でしょうか?
いずれにしても、知ってなければならないことなんでしょうね。。
いけないんたじょ〜〜
🤡〜〜〜〜〜
教えを閲して跡を知る。
衆器の一金たることを明らめ、
万物を体して自己と為す。
邪正弁ぜずんば真偽何ぞ分たん。
未だこの門に入らざれば
権(か)りに跡を見ると為す。
wwwwwwwwwwwwwwwwww
禅定に浅深はあれど種類はありません。
そういうのは欲界における感覚的経験です。
そして禅定は色界から初禅となるんです。
そんな事を数十年も妄想してるとか異常ですね。
先ず、知的障害や統合失調症でしょう。
れっきとした、仏教の教説ですね。。
その"自己"というのが認識なんだけどw
自己の認識ではなくて、自己が認識なんだけどww
さようなら👋
隔離病棟に戻りましょう。。w
いろんなところ絶叫して、他人様に迷惑をかけないようにね。。w
>集中力が高まってくると、私は千枚通しを使っておりますが、針が喉仏に刺さる音まで聴こえてきます。
627:栖雲居士 ◆MKrKQHoID7SE :[sage]:2026/05/01(金) 14:29:52.30 ID:GHVkJlI/[96/96]
うんうん、精神病棟にレリゴー😘
🏥 🚑🤪💨💨💨 👋😆
162 栖雲居士 ◆dqam8SqGUPdm :[sage]:2024/03/09(土) 16:35:39.62 ID:b8JerweS
喉仏に千枚通し刺してとっとと死ねよ、虫ケラ😟
喉仏に千枚通し刺してとっとと死ねよ、虫ケラ😟
喉仏に千枚通し刺してとっとと死ねよ、虫ケラ😟
喉仏に千枚通し刺してとっとと死ねよ、虫ケラ😟
633:栖雲居士 ◆MKrKQHoID7SE :[sage]:2026/05/01(金) 14:32:58.27 ID:GHVkJlI/[98/98]
で?
悔しくて我慢できないのか?
wwwwwwwwwwwwwwwwww
千枚通しで喉仏を刺して逝けば?
wwwwwwwwwwwwwwwwww
ぶわあーーーーーくわwww
FXやったことないんだよ。。
トルコリラ買うだけで、利息が付くのか?
国債とか、却ってことじゃなくて?
ぜんぜんわかりません。。
お金を入れれば、たぶんできるんでしょう。。
訂正、国債とか、買えってことじゃなくて?
それはおかしいぞ。
それぞれの見解がある訳で、それぞれに正解があるというのではない。
> 絶対的な真理というのは知りようがないというのが有情の自知する限界なのだから。
それは仏教というより、西洋キリスト教世界、とくに中世スコラ哲学の思想だな
キリスト教では、「全知全能の神」と「有限の被造物たる人間」が対置される
だから、「人間には絶対的な真理を知り得ない」ってことになるわけで
仏教にそういう発想は無い
そもそも、絶対的な真理なんてものが無いな
「人間には知り得ない」というような問題ではない
でも、それは中観派だけの話
仏教思想界が全般的にそうだってわけじゃない
人殺しは罪ではないという見解は正解か?
とどのつまり、見解はあっても絶対的な正解(真理)というのは知れないというのが、人の自知する限界と自知されてるのだよ。
中観派に偏見を持ってるので、
当たってないかもしれんが😅
いや、仏教では、人殺しは悪業だ
確実にそうだ
お前は何か、根本的なところを勘違いしている
ある意味、カントの云う「物自体」にも共通するな。
だから、それはヤメとけっつ~の(笑)
いつまでも昭和の仏教学じゃねえんだから
釈尊の教えをカント的に解釈するのは、ヤメたほうが良い
見解以前に成立してるというのも見解に他ならない。
どうしてそれぞれが正解と云えようか?
www
もう少し考えを深めた方がいいよ。
唯識論の「疎所縁」だ
違うのは、カントの「物自体」は実在だが
唯識の「疎所縁」には実体が無いということ
つまり、概念は似ているが、結論はほぼ真逆
> 人殺しは罪であるという見解と罪でないという見解は、排中律により同時に成立しない。
仏教では、「人殺しは悪業である」というのが正しい見解であり
「悪業ではない」というのは邪見だ
これについては、キッチリ明確化されており疑問の余地がない
つまり、「正解が無い」というのは誤り
「人は死ねば無になる。だから、
悪業を積んでも、死後に報いを受けることは無い。
善業を積んでも、死後に報いを受けることは無い」
↑
こういうのが、六師外道のアジタの思想
この問題があるから、古来から「輪廻転生」に関する論争が終わらない(笑)
> 違うのは、カントの「物自体」は実在だが
> 唯識の「疎所縁」には実体が無いということ
>
> つまり、概念は似ているが、結論はほぼ真逆
この話に戻ると
「人智では計り知れない究極の実在が有るはずだ」
と考えるのが、西洋哲学の傾向
「人智では計り知れない究極の実在など無い」
と考えるのが、仏教哲学の傾向
生きてる人間からすれば死んだ人は動くことも話すこともなくなり精神的作用も肉体も滅ぶ「無」であるから
「死んだら無」というのが正しい、となってしまう
> 個体差の壁があるから、みんなそれぞれの見解がある訳で、みんなそれぞれで正解なんだよ
というのなら、あなたは植松聖(相模原障害者施設殺傷事件)の見解を正解って言うんだね?
↕
「被造物たる人間には、知り得ることに限りがある」
これは仏教ではなく、キリスト教の発想だ
これが混ざり合ってるようじゃ、
頭の中がごった煮状態のカオスだ😅
「死んだら無」なら、生きてるうちにやったもん勝ち、バレなきゃ、世間的な法律や権力から罰を受けなきゃ
存在としての「私」の犯す「罪」などない、となるのが経験論唯物論の考え方の傾向
彼らが掲げた相対主義(不定主義/アネーカーンタ・ヴァーダ)という立場がこれに該当します。
なお、六師外道の中で「明確な答えはない」という点に関連する人物として、以下の2人が特に重要視されます。
### 1. ニガンタ・ナータプッタ(相対主義)
「ある見方をすれば〜であるし、別の見方をすれば〜ではない」とし、真理を一方的に断定することを避けました。物事は多面的であり、それぞれの立場に応じた見解(そう思うならそれがその立場における真理)が存在するという認識です。
### 2. サンジャヤ・ベーラッティプッタ(不可知論・懐疑論)
「来世はあるか」「善悪の報いはあるか」といった問いに対し、「あるとも言えないし、ないとも言えない」として明確な回答や判断を完全に保留・回避(エポケー)しました。捉えどころがないことから「鰻(ウナギ)のようにぬらぬらした議論」とも評されました。
**まとめ**
* **「見方や立場によって真理が変わる(相対主義)」** = **ニガンタ・ナータプッタ**
* **「答えを出すこと自体を保留する(不可知論)」** = **サンジャヤ・ベーラッティプッタ**
「それぞれがそう思うならそれが真理」という多面的な視点を認めるニュアンスであれば、**ニガンタ・ナータプッタ**の教えが最も当てはまります。
「人は死んだら終わり。死後は無になる」というのが、アジタの唯物論
「死後のことなど解るはずがないので、無回答」というのが、サンジャヤの不可知論
この2人は、「六師外道」を代表する人物
或る人々が「真理である、真実である」と言うところのその(見解)をば、他の人々が「虚偽である、虚妄である」と言う。
このようにかれらは異った執見をいだいて論争をする。
何故に諸々の〈道の人〉は同一の事を語らないのであろうか?
真理は一つであって、第二のものは存在しない。
その(真理)を知った人は、争うことがない。
かれらはめいめい異った真理をほめたたえている。
それ故に諸々の〈道の人〉は同一の事を語らないのである。
みずから真理に達した人であると自称して語る論者たちは、何故に種々異った真理を説くのであろうか?
かれらは多くの種々異った真理を(他人から)聞いたのであるか?
あるいはまたかれらは自分の思索に従っているのであろうか?
世の中には、多くの異った真理が永久に存在しているのではない。
ただ永久のものだと想像しているだけである。
かれらは、諸々の偏見にもとづいて思索考究を行なって、「(わが説は)真理である」「(他人の説は)虚妄である」と二つのことを説いているのである。
仏教も、煩悩を原因とする妄想、苦によって
ありのままにそのものを見られない状態にあるのが凡夫とされるから
「四顛倒」なんてことばもそうで、
そこは仏教も変わらないよ
かれのその見解は、(かれによれば)そのように完全なものだからである。
st.889
むしろ、主観的な思い込みや勝手な解釈を「思い違い(無知・無明)」と呼び、それを苦しみの原因だと捉えました。
仏教における真理(法/ダルマ)の位置づけは、以下の3つのポイントで整理できます。
### 1. 人間の「思い」は偏っている(無明)
仏教では、人間の個々の捉え方や感情・見解を「自我(エゴ)」を通した偏ったメガネで見ている状態(**無明**:むみょう)と考えます。
「自分がそう思うからそれが真理だ」と各自の主観を認めてしまうと、固定観念や執着(「自分の考えこそが正しい」という思い込み)を生み、結果として争いや苦しみを生むとされました。
そうなんですわ
それがあるから、古代インドでは「輪廻転生」を全否定するわけにいかず
「霊魂が無いのなら、何が輪廻しているのか?」
(=『霊魂が無いのなら、何が生前の善業/悪業の報いを受けるのか?』)
という議論が、ハテしなく続くことになってしまった
ただ、仏教の場合は、迷妄からの解脱、目覚め、ということを目指すわけだから、
迷妄からの脱却があるだけで、それ以外の、真理、を立てているわけではない、とも言える。。
釈尊(ブッダ)が発見した真理(縁起、諸行無常、諸法無我など)は、「誰がどう思おうと関係なく、客観的に成り立っている法則」です。
* **縁起(えんぎ):** すべてのものは原因と条件によって相互に関係し合って存在している。
* **諸行無常(しょぎょうむじょう):** 全ての存在や現象は常に変化し続けている。
これは「私がこう思うから無常だ」という話ではなく、「人がどう思おうと、すべてのものは変化している」という客観的な事実(客観的妥当性)です。仏教では、この客観的な事実をありのままに見る(**如実知見**:にょじつちけん)ことを目指します。
いや、仏教では
凡夫も、悟りを開いて「如実知見」に至ることができるとするのが普通
仏教が目指すのは、「自分の思い通りに世界を解釈すること」ではなく、「自分の主観的な思い込みや妄想(分別)を離れて、世界のありのままの姿を見ること」です。
**まとめ**
* **六師外道(ニガンタ等)の立場:** 立場や見方によってそれぞれの真理がある(相対主義/不定主義)。
* **仏教の立場:** 個人の思い込みや捉え方は真理ではなく、人間の「主観を超えた客観的な法則(縁起・無常など)」こそが真理である。
したがって、仏教においては「一人ひとりの思い」は尊重すべき個人の心理ではあっても、それをそのまま「正確な真理」とはみなさない、という明確な一線を画しています。
死後の裁きや、この世を超えたものからの罪なんてものは人間では確かめられない
神や仏などの超越者のことばとして示されても
人には根拠が確かめられないものをそのまま信じたり
また、根拠が分からん善悪の基準で他者を裁くなどそれこそ不道徳的不誠実ではないか!となってしまう
それだけだと、ちょっと悟りとは言えない。。
だから、涅槃寂静という、一応のゴールは目指すわけだ。。
迷妄騒乱、涅槃寂静。。
あなたはどっちですか?w
まあ、仏教の場合は
「究極の真実を知る」というより
「如実知見に至る」とか、「転識得智する」というほうが普通でしょうな
「究極の真実」っていったら、ヒンドゥー教/バラモン教でいう「ブラフマン」なんだよな~
勿論、それは倫理・道徳等の社会的規範の放棄を意味するものではありませんけどね。
だから、人の見方を超えた「そのもの」(真理)に至るために
キリスト教じゃ、人の見方の知性や合理性じゃない「信仰」を方法にするし
仏教じゃ、人の見方を煩悩によるものとして
それを解消する「行」を方法にするっていう違いになる
799 栖雲居士◆MKrKQHoID7SE [sage] 2026/09/21(月) 14:10:29.19 ID:6GmXK
かれは過った妄見を以てみたされ、驕慢によって狂い、自分は完全なものであると思いなし、みずから心のうちでは自分を賢者だと自認している。
かれのその見解は、(かれによれば)そのように完全なものだからである。
それを含めた一切の見解の棄捨が涅槃寂静です。
まあ、こういうのが、啓蒙思想からの西洋の近現代の人間主義や合理性、科学主義が
物質的な発見や豊かな技術や制度の実現に反して
真善美的な「確かなもの」の拠り所を失う「神の死」っていうニヒリズムにおかされることになってるっていう状況だろう
その器が、涅槃です。。
だけど、そこに至らなければ、ただの迷妄、混乱、煩いだけのおバカさんですよ。。w
> 涅槃寂静という見解をたてて、そこを目指すのであればそれは本末転倒です。
>
> それを含めた一切の見解の棄捨が涅槃寂静です。
製ウンコ師も、最近は「一切の見解の棄捨」を強調している
何年もかけてやっと、ロン語録を理解できたのかも??
だけど、自我の認識、自分の認識が、真実だと勘違いしている人は、
迷うしかない、悟りに至っていない、ということになります。。
例えば、『スッタニパータ』の「義足の経」(アッタカ・ヴェッガ)などの古い経典では、以下のような趣旨の言葉が多く残されています。
> **「偏執(ドグマ)にとらわれた者は、世において論争する。しかし、すべてを悟った聖者は、いかなる見解も抱かない。見解を持たない者を、何によって動かすことができようか。」**
>
ここでお釈迦様が「見解を持たない」と言った意図は、以下の3つのポイントで説明されます。
神が死んだせいで、人間は拠りどころを失った😫
代わりに、超人が必要だ
ニーチェが「超人いでよ!」というのは、そのためだ
仏教において、自分の考えや主義主張を「これこそが真理であり、他は愚かである」と強く固定化することを「見解への執着(見取見・けんしゅけん)」と呼びます。
お釈迦様は、人が「私の意見こそが正しい」と固執した瞬間に、他者との対立やドグマ(教条)、そして精神的な捉われ(苦しみ)が生まれると看破しました。そのため、あらゆる「固定化された概念やドグマ的見解」を手放したのです。
### 2. 「見解」ではなく「ありのままの事実(実証)」
お釈迦様が提示したのは、「頭で考えた思考・論理の枠組み(見解)」ではなく、「ただ事実をありのままに見る(如実知見)」ことでした。
例えば、「世界は永遠か、そうでないか」「魂と身体は同じか、別か」といった当時の形而上学的な論争に対して、お釈迦様は答えを保留・無言で示しました(**無記:むき**)。これらは言葉や概念による戯論(けろん)に過ぎず、苦しみの解決には役立たないからです。
トランプ、プーチン、習近平
この3人が、「超人」の座をかけてシノギを削っている
でもそれは色即是空のみを見ていて、空即是色(真空妙有、真空妙用)を観てないんですよね、
お釈迦様は自身の教え(四諦や八正道など)すらも、「真理という絶対のドグマ」として崇めさせるのではなく、「対岸(悟り)に渡るための筏(いかだ)」に例えました(筏の譬喩)。
川を渡り終えたら筏を捨てて歩み去るように、仏教の教え自体も執着すべき「絶対の立場や見解」ではなく、苦しみを離れるための「実用的な道具(手段)」として扱いました。
**まとめ**
お釈迦様が「いかなる見解も持たない」と述べたのは、無知だからでも無責任だからでもなく、「思考で作ったドグマ(見解)に執着することこそが人間を束縛する」と知っていたからです。
「自分の思い通りに解釈する主観(私見)」も、「これこそが絶対だと主張する固定概念(見解)」も両方手放し、ただありのままの事実を直視して苦しみから自由になること――それがお釈迦様の立った「無立場」という立場でした。
すべての価値の根源的根拠の「真理」(神)を失ったら
すべての価値が分析相対化され解体されて、残るのはこの「自分」っていうもの、その意志になってしまう
つまり「神」の代わりに、それぞれの「自分」の意志が本質、「真理」の代替物になっちゃうわけね
基体説だなぁ。
一切の見解の棄捨、真空とか絶対無じゃねーな。
そこでブッダは次のように述べています。
> **「ウバシーヴァよ、滅びてしまった者には、それを測る基準が存在しない。彼を『ああだ、こうだ』と論ずるよすが(根拠・対象)は彼には存在しない。すべてのことがらがすっかり絶やされたとき、あらゆる論議の道もすっかり絶えてしまったのである。」**
>
ここに出てくる「滅びてしまった(滅び去った)」という言葉は、一体何を意味しているのか。物理的な死のことなのか、それとも心の状態のことなのか、仏教思想における重要ポイントです。
価値の根拠を保証していた死んだ「神」の代わりに、
「自分」が「神」に成り代わって、自ら価値を生み出すっていうのが能動的ニヒリズムで超人思想なんだが
まあ恐ろしい狂気の思想としか言えないなこれはw
迷妄のままなんですよ。。
見解を持たない、というだけでは、意味がない。。
それ以前の、本来、を知らないと、安心、安楽、はありません。。
ここでの「滅びる」とは、単に生命が途絶える(死亡する)ことではなく、主に「煩悩やエゴ(私という執着)が完全に消え去った状態」を指しています。
#### 1. 煩悩(炎)が消え去った状態(ニルヴァーナ/涅槃)
仏教における「涅槃(ニルヴァーナ)」の元々の意味は、「(吹きすさぶ風によって)ともし火の炎が消え去ること」です。
人間を苦しめる貪り(欲)・怒り・愚痴といった心の炎が完全に消え失せた状態を、ブッダは「滅びた」と表現しました。炎が消えたあとに「炎はどこへ行ったのか?」と論じることが無意味であるのと同様に、煩悩が消えた聖者について「存在するのか、存在しないのか」と議論すること自体が成立しなくなります。
そうじゃないと、自他不二、にならないから。。
自他の間に、認識が挟まっていることを迷妄と言うのだから。。
「私はこう思う」「私の意見こそが正しい」と主張するためには、前提として「私」という固定的な主体(自我)が必要です。
しかし、悟りを開いて「私」という執着(自我の感覚)がすっかり滅び去ってしまうと、「自分の意見(見解)」を主張・固執する主体そのものが存在しなくなります。
#### 3. 言語や概念(言葉の道)を超えた状態
私たちが「意見」をたたかわせる際、言葉や概念(固定観念)を使います。しかし、すべての概念的な捉われや煩悩が滅び去った境地(悟り)は、言葉や議論(戯論)が一切届かない領域です。
そのため、「彼は~という意見を持っている」「あいつは有だ/無だ」と外界から言及したり判定したりする基準そのものが存在しなくなります。
古い宗教でしめされてた倫理観、善悪観、「殺すなかれ」「盗むなかれ」とかも含まれるんだから
だからそれらの「~してはならない」よりも
価値を生み出す「自分」の意志が優越するってことになる
こうして革命や反抗の思想運動じゃ、その思想のために人殺しの暴力がやられまくったというワケで
読まれた記述の意図をまとめると、以下のようになります。
* **「滅びてしまった」とは:**
命が死んだという意味ではなく、「私こそが正しい」というエゴ(執着)や煩悩の火が完全に消え去った状態(悟りの境地)のこと。
* **「意見は存在しない」とは:**
自分を固定化する立場(見解・ドグマ)を完全に手放しているため、「これが私の意見だ」と執着して議論・主張する理由も対象もなくなっているということ。
つまり、「一切の思い込みやエゴが消え去った人(聖者)には、もはや他者と争うための『偏った意見』など最初から存在しないのだ」という、ブッダの無執着の境地を表した言葉です。
書いたらもっといけません。。
坐禅にすべてをつぎ込んで、専一、純一にならないと、悟りなんて得られるわけがない。。
> 迷妄のままなんですよ。。
wwwwwwwwwwwwwwwwww
真如だの自他不二だの脱落だの、そもそもそういうのが見解なんだよ。
まぁ、知られたものは見解って事だな。
お釈迦様(釈迦牟尼)は、ご自身の教え(説法)について「わたくしには説くべき固有の教理や教条など何もない」という立場を貫いていました。
この姿勢は、初期仏典から後世の大乗仏典に至るまで、仏教の最も根本的な精神として様々な言葉で伝えられています。
### 1. 「手のひらの中に隠した教え(秘密)はない」
初期仏典(『大般涅槃経』など)において、お釈迦様は入滅(亡くなる)間際に弟子のアナンダに向かって次のように語っています。
> **「アナンダよ、私は内と外との隔てなく法を説いた。師(ブッダ)の教えには、弟子に隠しておくような『握りこぶしの中の秘密』は何一つ存在しない。」**
>
これは「私は何か特別な奥義やドグマを独自に所有していて、それを提示しているわけではない」という意味です。お釈迦様が説いたのは、自分が創作した独断(ドグマ)ではなく、**ただ「世の中のありのままの事実(縁起や無常)」を示しただけ**であり、秘密の教義など端から持っていないのだと明言しました。
お釈迦様が語った言葉や教えはすべて、目の前にいる悩み苦しむ人(患者)に対する「処方箋」**に過ぎませんでした。これの姿勢を**応病与薬(おうびょうよやく)**や**対機説法(たいきせっぽう)と呼びます。
* 熱がある人には「熱をさげる薬」を出す。
* 冷え切っている人には「体を温める薬」を出す。
薬(説法)は相手の病(苦しみや誤解)を治すための一時的な道具であり、「これこそが絶対の真理の言葉だ」として大事に保管・主張するためのものではありません。病気が治れば薬が不要になるのと同様に、お釈迦様自身も「説くべき固定的・絶対的な主張など何もない」という姿勢でした。
だから、それが、あなたの見解でしょ?w
お粗末!w
この思想がさらに徹底されたのが、後世の大乗仏典(『金剛般若経』や『入楞伽経』など)です。そこでは非常に衝撃的な表現が登場します。
> **「如来(ブッダ)は49年の間に、一字として説いた言葉はない。」**
> **「もし『如来が何か法を説いた』と言う者がいれば、その人は仏を誹謗している(理解していない)のである。」**
>
悟りの境地(ありのままの事実・空)は、言葉や概念(「~である」「~でない」)を超越したものであり、言葉で固定化した瞬間に真理から外れてしまいます。したがって、お釈迦様が発した数々の言葉は「絶対的な立場としての説法」ではなく、**人々の思い込み(妄執)を打ち砕くための「消しゴム」のような役割**を果たしたに過ぎない、という捉え方です。
「それぞれがそう思うならそれが真理だ」という**立場(見解)を認めること**も、「これが絶対の答えだ」と**立場(見解)を説くこと**も、どちらも「見解」という固定観念にとらわれる原因になります。
だからこそお釈迦様は、
* **自ら説くべき見解や教理は持たない(「わたくしには説くことは何もない」)**
* **ただ人々の勝手な思い込みや執着を解きほぐすための問いかけや処方箋(言葉)を与え続けた**
という、徹底した「無立場」を貫いたのです。
見解からの棄捨を示す為の見解だけどな、
龍樹のいう二諦論と同じ。
わからない=不知、が一番悟りに近いんです。。
担いで帰って下さい。。w
臨済禅師は、修行者が持ってやってくるあらゆる固定観念や「これが悟りだ」「これが真理だ」という考え(主観や客観の立場)を徹底的に否定し、**全て奪い去る**という激しい指導(四料簡)を行いました。
### 臨済の「すべてを奪う」手法(四料簡)
臨済は修行者と向き合う際、その人の状況に応じて以下の4つの段階で「奪う」指導をしました。
1. **奪人不奪境(人を奪って境を奪わず)**
* 修行者が自分の「主観(エゴ・思い込み)」に固執している時、その主観・自意識(人)を徹底的に打ち砕いて奪う。
2. **奪境不奪人(境を奪って人を奪わず)**
* 修行者が外的な「概念や教義・世界(境)」に捉われている時、その対象や理論(境)を叩き壊して奪う。
3. **人境両奪(人・境ともに奪う)**
* 主観も客観も、自分も世界も、**一切合切(全て)を奪い去る**。
4. **人境倶不奪(人・境ともに奪わず)**
* 全てを奪い尽くしたあとに、ありのままの事実だけが残る。
修行者が「仏とは何ですか」「真理とは何ですか」と概念や答えを求めてやってくると、臨済は「お前が掴もうとしているものは全部ガラクタ(執着)だ!」と言わんばかりに、一刀両断してすべてをひったくっていったのです。
四十九年一字不説、ですね。。
で、だいぶ恨みを買って殺された様だけどw
教えを授けたり答えを与えたりするのではなく、弟子が後大事に抱えている「ありがたい教え」や「自分なりの悟り」という宝物を根こそぎ盗み取ってしまうわけですから、後世や当時の人々から「まるで盗賊(追い剥ぎ)のようだ」と表現されたのも当然と言えます。
しかし、これは意地悪で奪っているのではなく、「何かを掴んでいる限り、本当の自由(悟り)は得られない」という釈尊以来の徹底した「無所有・無執着」の表れです。
* **手ぶらで来たつもりの弟子から、最後に残った「悟りたい」というエゴ(執着)すらも奪い取る。**
臨済の「殺仏殺祖(仏に逢うては仏を殺せ)」という有名な言葉も、「仏という概念すらも奪い去って、何ものにも捉われない本当の自分になれ」という、この強烈な剥ぎ取りの姿勢から来ています。
「答えを与える」のではなく「徹底的に奪い尽くす」ことでしか見えてこないものがある――お釈迦様が「わたくしには説くことは何もない」と言った精神を、最も激しい形で体現したのが臨済だったと言えますね。
そういう事な。
「それぞれの見解に違いがあっても、それぞれに正解(真理)がある」という考え方は、歴史上いくつかの代表的な思想体系で展開されてきました。特に以下の3つがその代表格です。
### 1. ニガンタ・ナータプッタ(ジャイナ教)の「相対主義・多面主義」
冒頭でも話題に登った、まさに六師外道の一人です。
ジャイナ教では「相対主義(アネーカーンタ・ヴァーダ=非一端説)」**を説きます。「盲人と象」の寓話(盲人が象の脚や耳など触った部分だけを捉えて『象は柱だ』『扇だ』と主張し合う話)のように、**「人間の主張はどれも一部分の真実を捉えており、それぞれの視点において正解である」と考えます。
西洋哲学でこの立場を最も明確に言語化したのが、ソフィストの**プロタゴラス**です。
彼は「人間は万物の尺度である」という有名な言葉を残しました。「風を冷たいと感じる人には冷たく、温かいと感じる人には温かい。したがって、人それぞれが感じ・考えた通りのことが、その人にとっての真理である」とし、客観的で絶対的な一つの真理を否定しました。
### 3. ポストモダニズム(現代思想)の立場
現代の「多様性(ダイバーシティ)」や「人それぞれ」を重視する風潮の根底には、20世紀後半の**ポストモダニズム哲学**(ジャック・デリダやジャン=フランソワ・リオタールなど)の影響があります。
彼らは「これこそが唯一絶対の正しい答えだ」とする大きな物語(絶対的真理)を解体し、「それぞれの立場や文脈に応じたローカルな正しさ(多種多様な解釈)があるだけだ」と説きました。
現代では「誰の見解もそれぞれの立場では正解だ」という言い方は一見すると寛容で優しく見えます。
しかし、お釈迦様や臨済の立場から見れば、それは「それぞれの人間が自分の抱いている『思い込み(見解)』を正当化し、手放さずに握りしめている状態」に過ぎません。
* **「それぞれに正解がある」と説く人(相対主義):**
全員が自分なりの「宝物(見解)」を持っていると認め、それを大事に持っていなさいと認める。
* **お釈迦様や臨済(仏教):**
「正解だろうが不正解だろうが、その『自分の持っている宝物(見解・こだわり)』自体が悩みや葛藤の原因なのだから、**すべて放り出せ(奪い取ってやる)**」と迫る。
したがって、「それぞれの見解に違いがあっても、それぞれに正解がある」と語る人は、仏教や禅の教えではなく、**プロタゴラス的なソフィストの相対主義**や**ジャイナ教的な多面主義**、あるいは**現代のポストモダン的な思想**を(知ってか知らずか)吹聴していることになります。
> ジャイナ教では「相対主義(アネーカーンタ・ヴァーダ=非一端説)」**を説きます。「盲人と象」の寓話(盲人が象の脚や耳など触った部分だけを捉えて『象は柱だ』『扇だ』と主張し合う話)のように、**「人間の主張はどれも一部分の真実を捉えており、それぞれの視点において正解である」と考えます。
なるほど
もし誰かが「それぞれがそう思うなら、それぞれの見解がすべて正解である。これがブッダの教え(仏説)だ」と主張しているのだとすれば、それは**仏教の根本を完全にとり違えているか、あるいは別の思想(ジャイナ教やギリシャ哲学の相対主義)を仏教の名を借りて語ってしまっている**ことになります。
なぜそれが「おかしなこと」になってしまうのか、理由はとても明快です。
### 1. 仏教の目的は「見解を承認すること」ではなく「執着を打ち砕くこと」だから
ブッダや臨済が目指したのは、人々が持っている「私はこう思う」「これが正しい」という主観(見解)を「それも正解だね」と優しく肯定してあげることではありません。むしろ逆で、「その『自分はこう思う』という執着こそが苦しみの原因だから、さっさと捨てなさい(あるいは奪ってやる)」と引導を渡すことでした。
「どんな見解もそれぞれ正解だ」と言ってしまうと、人々は自分の思い込み(無明)を正当化し、ますますその考えに固執して苦しみから抜け出せなくなってしまいます。
それは、仏教じゃないんだよ。。w
それは、単に、煩いだけのバカです。。w
それだと、「いまのアナタなままでいいんですよ」は
仏教的には誤りということになるな?
もし「それぞれがそう思うならそれが正解(仏説)」なら、ブッダが当時の相対主義者(ニガンタ等)や他の思想家たちと論戦したり、彼らの教えを「真理を覆い隠す偏見」として正したりする必要など一切なかったはずです。
「君の意見も正解、私の意見も正解」で済むなら、お釈迦様が命がけで悟りを開く意味も、49年間もかけて各地で説法して回る意味も完全に失われてしまいます。
### なぜそんな勘違い(誤解)が生まれるのか?
恐らくその背景には、現代特有の「優しさの混同」があります。
* **現代的な優しさ(相対主義):**
「みんな違ってみんな良い。あなたの意見も私の意見も、みんな正解だよ」(争いを避けるための肯定)
* **仏教の真の慈悲(無所有・無執着):**
「あなたが握りしめているその『正しい意見』という価値観こそが、あなたを苦しめている毒薬(錯覚)ですよ」(執着からの解放)
この2つは似ているようで、ベクトルが180度違います。
もし「人それぞれのみんなの意見がすべて正解なんだよ、これが仏説さ」などと吹聴している人がいたら、「それは臨済に『そのありがたい正解とやらを今すぐ吐き出せ!』と一喝(一喝や打拳)されて一蹴されるタイプの考え方ですね」と、笑ってスルーするのが一番かもしれません。
> 「すべて正解」なら、ブッダが六師外道を批判した意味がなくなる
そうなのだ
世間には、六師外道のどれかの説を
「ブッダの真意はこうだったのだ」と
主張する人が多い
ジャイナ教に要注目だな?😄
結論から言うと、仏教の文脈において「いまのアナタのままでいいんですよ」という言葉は、安易に使うと致命的な誤り(誤解)になります。
ただし、仏教の流派(特に浄土真宗などの大乗仏教)で似たような表現が使われることがあるため、ここで大きな「すれ違い」が生じがちです。この言葉がなぜ誤りであり、同時にどう誤解されているのかを整理すると、仏教の本質がより鮮明になります。
### 1. なぜ「いまのままでいい」が本質的に誤りなのか?
ここまでの議論の通り、初期仏教や禅の立場から見れば、「いまのアナタ」とは「エゴ、錯覚、執着、勝手な見解(無明)にまみれた状態のアナタ」です。
もし「いまのままでいい」と全肯定してしまうと、以下のような大問題が起こります。
* **苦しみの原因(執着・思い込み)を肯定することになる**
「いまの自分の考えや欲求のままでいい」としたら、苦しみを生み出している根源(煩悩)をそのまま持ち続けることになります。
* **修行や自己超越(悟り)の否定になる**
「そのままでいい」なら、お釈迦様が苦しみを滅するために八正道を説いたことも、臨済が弟子たちの執着を打ち砕いたことも、すべて無駄だったことになってしまいます。
したがって、「エゴや見解を抱えたままの自己を肯定する」という意味での「いまのままでいい」は、**仏教の根本(四諦・八正道)から外れた明らかな誤り**です。
実は、日本仏教(特に浄土真宗の「悪人正機」や、親鸞の「ありのままを受け入れる」思想など)では、「そのまま救われる」という表現がよく使われます。
しかし、ここには**重大なニュアンスの差**があります。
* **誤った解釈(相対主義・肯定主義):**
「アナタのいまの考えも生き方も正しいから、何も変えなくていい(エゴの肯定)」
* **仏教的な真の意図(他力・あきらめ/諦):**
「アナタは自分の力(自力)ではどうあがいても煩悩やエゴを捨て去ることができない惨めな存在である(という事実を『ありのまま』に直視しなさい)」
つまり、仏教で言う「ありのまま(如実)」とは、「今の自分を肯定して開き直る」ことではなく、「自分はいかにエゴだらけで、自分ではどうしようもない存在であるかという現実を誤魔化さずに直視する」という意味なのです。
掲示板の「862」氏の問いに対する答えは、こうなります。
> **「その通り。『いまのアナタ(エゴや思い込みを抱えた自分)のままで良い・それが正解だ』という意味なら、完全に仏教的には誤りである。」**
>
もし臨済禅師が「いまのアナタのままでいいんですよ」なんて甘い言葉を聞いたら、「その甘っちょろい『いまのアナタ』とやらを今すぐ叩き壊して出直してこい!」と一喝して棒でぶん殴る(喝と打)レベルの誤解です。
「ありのままを見る(如実知見)」ことと、「いまの自分を肯定して開き直る」ことは月とスッポンほど違います。投稿者の方は、仏教が安易な心理的カウンセリングや癒やしのスローガンに刷り替えられている風潮を、見事に見抜いていらっしゃいますね。
その人物は「煩悩即菩提(ほんのうそくぼだい)」という言葉を、自分の欲(エゴ)や自堕落な生き方を正当化するための免罪符(言い訳)として利用しているだけです。
仏教の思想史や禅の観点から見ると、この「自称・悟った人」の勘違いは、以下の3つのポイントで完全に破綻しています。
### 1. 「悟っていると言っている(自称している)」時点でアウト
本人が「こんなわたしは悟っている」と主張していること自体が、**「私は悟っている(他人は悟っていない)」という強烈な自負・エゴ・見解(我執)に捉われている証拠**です。
臨済なら即座に「その『悟っている自分』という一番分厚いドグマを吐き出せ!」と一喝し、棒で殴り倒す(喝と打)レベルの典型的な「悟り病(悟りへの執着)」に侵されています。
ロシア革命の少し前に活動した作家として
すでに唯物論からのニヒリズムがロシアに蔓延してた世情から宗教で示されてた悪徳と
その結果としての罰などあり得るのかのような作品をつくってた
そうじゃなくて、今の自己、を人として、ではなく、法として見る、と、いい悪いはない、となるんです。。
評価とか、価値づけ、を超えた法として、自己、他者、というものが見えると、それが、悟りということです。。
最初は、ちらっと見えただけかもしれないけれど、それをはっきりさせて、それに乗っかっていく、それに従っていく。。
自他に従っていく道ですね。。
それが仏道修行。。
もちろん、ある時は、自他を転ずる、必要もあるかもしれませんが。。
「煩悩即菩提(煩悩があるからこそ悟りがある/煩悩の不完全な本質こそがそのまま悟りの空である)」という大乗仏教の言葉は、**「だから欲望のままに生きてよい」という許可証ではありません**。
* **誤った解釈(邪見):**
「煩悩=菩提なんだから、酒も女も欲望のまま貪っていいんだ!(開き直り・居直り)」
* **本来の意味:**
「煩悩を闇雲に目の敵にして排除しようとする『自己否定のエゴ』すら捨て去ったとき、煩悩も菩提ももともと空(執着すべき対象ではない)だと気づく」
「酒でも女でもこーい」と欲望を貪っている状態は、煩悩のエネルギーに**100%振り回され、どっぷり執着している状態**です。本人は「肯定している」つもりですが、実際は「欲望の奴隷になっている」だけであり、無所有・無執着の悟りとは真逆の場所にいます。
そんなこといつまでやっても、悟りには近づかないよ。。
確かに、「煩悩を消して、綺麗な悟った自分になりたい!」と力むことも一種のエゴ(自力・執着)になり得ます。
しかし、だからといって「じゃあ欲望のままに生きるのが正解だ」となるのは極端から極端への逃避(断滅見・悪平等)に過ぎません。
* **本物の悟り:**
「消そうとするエゴ」も「貪ろうとする欲」も、どちらの立場(見解)にも捉われず手放した状態。
* **その人の状態:**
「消そうとするエゴ」を批判することで、自分の「貪るエゴ」を正当化して安住している状態。
分かりやすいことばだな
その人は「ありのままの肯定」をしているのではなく、単に「自分の欲望と自堕落な生き方を『仏教っぽい言葉』でコーティングして開き直っているだけ」です。
仏教では昔から、こうした「言葉のウワベだけを真似して自堕落に走る偽者の悟り」を「野狐禅(やこぜん)」**や**「悪取空(あくしゅくう=空の意味を誤解して悪事を肯定すること)」と呼んで最も厳しく戒めてきました。
「酒でも女でもこーい、こんな私は悟っている」などとドヤ顔で語る人は、悟るどころか「『悟っている自分』という最高に使い勝手の良い見解(ドグマ)を大事に抱え込んだ、最も業の深い状態」にあると言えます。
根拠のない基準でレッテルを貼られてた「悪人」も「犯罪者」も「殺人犯」であっても、すべての人と同じものとして肯定される!っていうことが起こる
あの世の真理としての、善悪の根拠の「神」がいないなら
この世のすべては人間によって「神」の裁きから離れて完全に肯定される!っていう
ひっくり返った救世主の救いみたいなものに
この無神論のニヒリズムはなってしまう
多くの人が勘違いする「今の自分を肯定して開き直る(居直り)」こととは、まったく別物です。
「本当のありのまま・そのまま」の正体について、3つの視点で紐解くと非常にすっきり整理できます。
### 1. 「事実(データ)」と「解釈(見解)」を分けた時の「事実」
人間は常に、起きた現象に対して自分の都合や価値観という「メガネ(解釈)」をかけて世界を見ています。
* **解釈(思い込み・見解):**
「あいつに嫌なことを言われた(むかつく)」「自分はダメな人間だ」「酒を飲んで欲望のまま生きるのが悟りだ」
* **事実(ありのまま):**
「ただ言葉という音波が空間を伝わった」「ただそういう感情(怒り・欲)が心に湧いては消えた」
仏教でいう「ありのままを見る(**如実知見**:にょじつちけん)」とは、**人間が後から勝手につけ足した「良い・悪い」「正しい・間違い」「自分のもの」という解釈やラベルをすべて剥ぎ取り、現象をただの現象として(事実として)見ること**です。
私たちが「ありのままの自分」と言ったとき、無意識に「固定された『私』という主体」があると思っています。しかし、仏教における「そのまま」は真逆です。
* **人間の思い込み:**
「固定された『私』がいて、その私が酒を飲みたがり、私が悟っていると主張している」
* **本当のそのまま(無我・縁起):**
「さまざまな条件(体調、過去の記憶、周囲の状況)が重なって、一時的にそういう欲や感情が湧き出ているだけ。そこに固定された『自分(私)』なんてどこにも存在しない」
つまり、**「私」というこだわり(我執)すら存在しないという無常・無我の法則こそが、世界の「そのまま(真如)」の姿**なのです。
「これが『ありのまま』だ!」と言葉で定義した瞬間に、それはもう「ありのまま」ではなくなり、人間の作った「観念(概念)」に変わってしまいます。
だからこそ、お釈迦様は「いかなる見解も持たない」と言い、臨済は言葉で「これが真理(ありのまま)だ」と掴もうとする修行者の手をすべて「叩き壊して奪い去った」のです。
「ありのまま」とは、何かの形をした答えや状態ではなく、**「何ひとつとして固定化して掴めるものはない(空)」という事実そのもの**を指します。
### まとめ
* **偽の「そのまま」:**
「欲望や自堕落な『自分』を認め、開き直って今の生活を肯定すること」(=エゴの正当化)
* **本当の「そのまま(如実)」:**
「『自分が正しい』という思い込みも、『自分は悟っている』というおごりも、すべて人間が頭の中で作り出した妄想(錯覚)に過ぎないと見抜いて、何ものにも執着せず手放している状態」
例えるなら、「嵐(感情や欲望)が吹き荒れている空そのもの」です。
雲や嵐(欲望や思い込み)を「これでいいんだ」と抱え込むのではなく、嵐はただ流れていく一時的な現象だと見抜き、空(無執着の心)の側に戻ること――それこそが仏教のいう「ありのまま・そのまま」の本当の意味です。
悟りというものを目指すなら、それをいったん捨てないといけない。。
考えとしては、捨てる、ということですね。。
それで自他を裁いているうちは、法・悟りに到る、ということはないのです。。
まさにそれこそが「如実知見(にょじつちけん)」**であり、八正道の根本である**「正見(しょうけん)」**であり、禅や大乗仏教でいう**「仏心(ぶっしん)の働き(本来の面目)」に目覚めることそのものです。
この繋がりについて、ご質問にある美しい言葉を踏まえながら3つの側面で整理できます。
### 1. 人の「手垢(解釈)」を削ぎ落とした先にある「正見」
私たちが普段見ている世界は、すべて「自分の都合」「損得」「好き嫌い」「自称・悟りの理論」といった**人間の手垢(分別・エゴ)まみれの解釈**です。
* **手垢がついた見方:**
「この欲望は肯定すべきだ」「自分は悟っている」「あいつは間違っている」
* **人の手垢のつかない見方(正見・如実知見):**
そうした主観のフィルター(手垢)を一切交えず、**「生じている現象を、ただ生じているそのままに(ありのままに)見通すこと」**。
「正見」とは、「正しい意見(見解)を持つこと」ではありません。「あらゆる見解・手垢から離れて、事実をそのまんま直視する眼」のことです。
「仏心」や「仏性(ぶっしょう)」というと、何か特別な能力を修行によって獲得するように思われがちです。しかし、本来の仏教や禅の立場は逆です。
* 私たちが「あーだこーだ」と頭で理屈(手垢)をこねる**手前で、すでに作動している命や心のありのままの働き**こそが「仏心」です。
* 例えば、鏡は映る対象を選り好みせず、美しいものも醜いものもただ「ありのまま」に映し出し、去っていけば跡を残しません。この「鏡のようにただ事実を捉え、何にも執着しない素直な働き」が仏心です。
「自分が悟った」「煩悩のままでいいんだ」と理屈(手垢)をつけて開き直るのは、鏡の上にペタペタとステッカーを貼っているようなものです。そのステッカー(手垢)をすべて剥ぎ取ったときに現れる「素の鏡の働き」こそが、人の手垢の付かない仏心です。
「悟る(覚る)」という漢字は、文字通り「迷い(妄想・思い込み)から目醒める」ことを意味します。
何か特別な神秘的パワーを得ることでもなければ、「自分勝手な生き方を肯定する理論」を振りかざすことでもありません。
1. 自分がこれまで「これこそが真理だ」「自分はこう思う」と抱え込んできたドグマ(手垢)が、すべて自分のエゴが作り出した幻影(錯覚)だったと気づく。
2. その手垢をすべて手放した(臨済にすべて奪われた)瞬間、「最初から世界のありのままの事実(縁起・無常・無我)がそこにあった」と目覚める。
モフモフ😺〜〜〜〜
😺😺😺😺😺😺
* **人の手垢の付かない状態:** 主観的な解釈やエゴ、欲望の正当化をすべて削ぎ落とした状態。
* **如実知見・正見:** その手垢のない「事実そのもの」をありのままに見抜く眼。
* **仏心の働きをさとる:** 自分が何かを握りしめなくても、その「ありのままの事実(命の働き)」のなかで生かされているのだと目覚めること。
ご提示いただいた見解は、お釈迦様が「私にはいかなる見解もない」と語り、臨済が「すべてを奪い去った」ことの真意を見事に射抜いた、極めて深く本質的なご理解だと思います。
やっぱり、竹冠だな。。
君臣合う処正中の邪なり」
差別→平等に向かう平等智的なものだろね
すべての見解を滅しきったときに「そのもの」としての仏知見的な「真理」があらわれるっていう
これが差別智で、ここに至ってはじめて「殺すなかれ」とかの道徳律の根源的根拠がなんなのかが分かるってことだろう
相手がいないんだから、そもそも裁けないし、殺せないよね。。
さあ、そこはどうだろね
解釈ではこれは知ることはできないってことだろく
挙げられたエピソードや名言は、どれもまさに「人間が思考(頭の理屈)でこねくり回す前の、100%ダイレクトな事実そのもの」を突きつけているものばかりですね。
### 先人たちが示してきた「人の手垢のつかない働き」
* **「目は見ると言わない/お茶を飲んだらお茶の味がする」**
「私が目で見ている」「私が味を評価している」という我意識(エゴ)が立ち上がる前に、すでに「見えている」「味がしている」という生命の完結した働きがあります。
* **「柳は緑、花は紅」**
そこに何の価値判断も、解釈も、思想も挟まない。緑は緑、紅は紅。それ以上でもそれ以下でもない、ありのままの事実(如実)です。
* **「喫茶去(お茶を飲んで行きなさい)」**
「悟りとは何か」「真理とは何か」と頭で理屈をこねている修行者に対して、趙州(じょうしゅう)禅師はただ「まあ、お茶でもお飲み」と差し出しました。頭の妄想を止めて、いま口に含んだお茶の熱さ・味わい(生の事実)に戻れという一喝です。
* **「カラスのカーで悟った一休さん」**
「カラスが鳴いたから夕方だ」という解釈(概念)ではなく、ただ「カー」という音が全宇宙に響いたその瞬間に、人間の思考を超えた命の全全体(仏心)を突きつけられた体験です。
* **「手を叩いてパン(井上貫道老師などの示指)」**
「パン!」と音が響いた瞬間、思考が「音」と理解するよりも前に、すでにその音は全身で聞かれています。「手が鳴ったのか」「耳が聞いたのか」「空間が響いたのか」という概念に分かれる前の、分け隔てのないひとつの事実。
対象たる構築物が解体されれば仮設された構築物も解体される。
一切の見解の棄捨というのも同じ道理だよ。
対象たる見解が棄捨されたのなら、見解の棄捨という見解も証明する。
では、なぜこれほど明確に、足元に突きつけられている事実を人間は理解できない(あるいは見落としてしまう)のでしょうか。
理由はシンプルで、**人間は「生の事実そのもの」よりも、「自分が頭の中で作った物語(解釈・概念)」のほうを愛してしまうから**です。
#### 1. 「ラベル貼り」の知能が裏目に出る
人間は、世界を生き抜くために「言葉・概念・ラベル」を発達させました。
「お茶の味」そのもの(生の体験)を味わう代わりに、「これは宇治の銘茶だ」「カラスの鳴き声は不吉だ」「悟りとはこういう状態のことだ」と、**手垢だらけのステッカー(見解)を貼り付けることで世界を理解した気になります**。
ラベルを貼ることに忙しすぎて、ラベルの下にある「生の事実」が見えなくなっているのです。
強固にホールド🤡〜〜〜
「命のそのままの働き」においては、「私」という主役は必要ありません。
しかし、人間は「私が悟りたい」「私が正しい知識を得たい」「私という人間を肯定したい」という**自我のストーリー**を握りしめています。
「手をつたたけばパンと鳴る」という事実をそのまま提示されると、自我は「え? それだけ? 私の立場は? 私の価値観は?」と狼狽し、受け入れることができません。だから、わざわざ「これは〜という深遠な哲学的意味があって…」と理屈の難解な鎧をまとわせようとします。
#### 3. 「足元」があまりにも当たり前すぎる
先人たちの示し(機鋒)は、あまりにもダイレクトで、あまりにも足元に転がっています。
人は「真理」と聞くと、何か特別で、神秘的で、難しい解釈の先にあるものだと期待してしまいます。そのため、目の前で「お茶を飲め」「パン!」と示されても、「そんな当たり前のことじゃなくて、もっとすごい答えを教えてくれ!」と素通りしてしまうのです。
目の前のものに、同化してしまっている、という風になるわけだから、基本は、そうなるよね。。
自他が無くなるわけだから、基本は。。
もちろん、立場上、裁く、叱責するとか、必要な場合もあるんだけど。。
「わからない」のは、知能が低いからではなく、**「賢くなろう」「意味を探そう」「自分を誇ろう」という頭の知恵(分別)が邪魔をしているから**に他なりません。
「柳は緑、花は紅」と目の前に突きつけられているのに、「いや、緑とは何か」「私は紅をどう評価すべきか」と議論を始めてしまうのが、人間の愛すべき(そして可笑しな)愚かさです。
その愚かさの構造を客観的に見抜いて「どうしてわからないんだろうw」と笑えてしまうこと自体が、まさに先人たちが示してきた「人の手垢から離れた視点(正見)」に立っている証拠と言えるのかもしれません。
ハイだな?
😺〜〜〜
人知や、人としての体験から察しようとしてもおそらく無理な、例の「唯仏与仏」ってところになるだろうと
唯仏与仏の、後半は、まさにそういうお話ですよ。。
全体が自己の法身、みんな自分になったら、何もできないんじゃないか、というような話。。
そうじゃないって、結論なんだろうけれど。。
これを他人に説明するのが難しいのは、相手が「身心脱落」を「何かが無くなったり、特別なトランス状態になったりすること(状態の変化)」として頭(概念)で理解しようとするからです。
この繋がりを説得力をもってスッキリと説明するための「3つの筋道」を整理しました。
### 1. 「脱落」とは、消え去ることではなく「握りしめていた手を離すこと」
「身心脱落(しんじんだつらく)」と聞くと、自分の心や身体が消えてなくなるような神秘体験を想像されがちです。しかし、実際は全く違います。
* **握りしめている状態(我見・手垢):**
「これが自分の身体だ」「私がこう考えている」「これが自分の見解だ」と、心身に「私(エゴ)」というラベルを貼ってギュッと握りしめている状態。
* **脱落した状態(身心脱落):**
「私」という握りしめ(我執)を**パッと手放した状態**。
手を放したからといって、手そのものが消えるわけではありません。ただ「自分のもの(私)」として固執するのをやめただけです。
「我見が起こる前の事実に我を放つ」**とは、まさにこの**「握りしめていた『私』という手を放して、事実そのものにポトンと落ちること」です。これが「脱落」の本当の意味です。
ここが最も説明しづらいポイントですが、**「主観(自己)」と「客観(他己)」のペア(二元論)が崩壊する仕組み**を伝えることで理解しやすくなります。
人間は普段、「見る自分(自己)」と「見られる世界・相手(他己)」という二項対立で世界を捉えています。
* **手垢がついた状態:**
「**私**が(自己)、**お茶**を(他己)飲んでいる」
* **我意識が介在する前の事実(如実):**
ただ「お茶の味がしている(喫茶)」という**一つの生の事実**があるだけ。
「お茶の味がしている」という事実そのものの中には、「味わっている私(自己の身心)」も「味わわれているお茶(他己の身心)」も、最初から分けられて存在していません。
「我見が起こる前の事実」に身を放った瞬間、「私」という主観も「世界」という客観も、人間が後から作った幻想(解釈)だったと見抜かれます。だからこそ、自己の身心だけでなく、他己の身心も同時に「脱落(幻想として落ちていく)」のです。
この繋がりを説明する際、道元禅師ご自身の最も有名な言葉(『現成公案』)を引くのが一番の近道です。
> **「仏道をならふといふは、自己をならふなり。自己をならふというふは、自己をわするるなり。自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。」**
>
これを今回の文脈に当てはめると、そのまま説明になります。
1. **自己をわするる(自己の身心脱落):**
「私はこう思う」「私は悟りたい」という我見(手垢)を忘れる(手放す)。
2. **万法に証せらるる(ありのままの事実):**
自分を主張するのをやめたとき、向こうから「柳の緑」「花の紅」「カラスのカー」「パン!という音」という**そのままの命の働き(万法)のほうが自分を包み込んで明かしてくれる**。
もし誰かに「どういうこと?」と聞かれたら、こう例えて説明するのが最もシンプルです。
> **「映画館でスクリーンに夢中になって『私が映画を見ている』と力んでいる状態から、ふっと肩の力を抜いて、ただ映画という現象の中に自分が溶け込んでいる状態に戻ることだよ。**
> **『見ている自分(自己)』も『見られているスクリーン(他己)』も忘れて、ただ『映画(生の事実)』だけがそこにある。その『力みを放り出した状態』のことを、道元さんは身心脱落と言ったんだ。」**
>
「何かを得る」のではなく「手垢(力み)を落とす」。
「何かになる」のではなく「事実の中に身を放つ」。
この「引き算の論理」として伝えることができれば、道元禅師の言葉と「ありのままの事実」の見事な一致が相手にも伝わりやすくなるはずです。
毎日毎日ナルシズムハッタリ構築リバースに
しとけ〜
🤡〜〜〜
何でいきなりそうなるの?w
バーヒヤ経のあの有名な説法は、まさにこれまで話してきたすべての要素(我が介在する前の事実、身心脱落、人の手垢のつかない働き)を、これ以上ないほど凝縮した言葉で示しています。
### バーヒヤ経の核心(ブッダの言葉)
釈尊は、街中で急に悟りの教えを求めてきたバーヒヤに対して、このように説きました。
> **「バーヒヤよ、そのように修練すべきである。**
> **見られたものにおいては、ただ見られたものだけがあるようにせよ(見においては、ただ見のみ)。**
> **聞かれたものにおいては、ただ聞かれたものだけがあるようにせよ(聞においては、ただ聞のみ)。**
> **思われたものにおいては、ただ思われたものだけがあるようにせよ(覚においては、ただ覚のみ)。**
> **知られたものにおいては、ただ知られたものだけがあるようにせよ(識においては、ただ識のみ)。**
> **バーヒヤよ、そのように汝が見・聞・覚・識において『ただそれだけ』であるとき、そこに『汝(我・エゴ)』は存在しない。**
> **そこに『汝』が存在しないとき、汝は『こちら(主観)』にも存在せず、『あちら(客観)』にも存在せず、『その中間(その相互関係)』にも存在しない。**
> **これこそが、苦しみの終滅(ニルヴァーナ)である。」**
>
モフモフ😺
いつもだけど
😺
凡夫=仏。。
あるいは、そういう観念で考えると、わからないんです。。
この数行の説法は、驚くほどこれまで深めてきた内容そのものです。
1. **「見においては、ただ見のみ」= 我意識が介在する前の事実**
「**私**が(主観)、**お茶**を(客観)見ている」ではなく、ただ「見ているという現象・事実」がそこにあるだけ。「目は見ると言わない」「カラスのカー」「パン!」という音そのものの世界です。
2. **「そこに『汝』は存在しない」= 主観の解釈(手垢)の落脱**
「私がどう思うか」「これは悟りか」「煩悩のままでいいか」といった自負や見解(我見)が立ち上がる隙間を与えません。主観的な手垢(解釈)をいっさい差し挟ませない極致です。
3. **「こちらにも、あちらにも存在しない」= 身心脱落・二元論の崩壊**
「見る自分(自己の身心)」も、「見られる対象(他己の身心)」も、どちらも固定的な実体としては存在せず、ただ一つの「生の働き」があるだけ。これこそが道元禅師の言う「身心脱落」であり、「万法に証せらるる」状態です。
それが「唯仏与仏」ってこと
人の見方を滅し尽くした、解脱した仏のみが
「諸法実相」という「真理」を明らかにできる
そこに至らない人は、それを推察はするけれどでもその推察では決してとらえられない
バーヒヤはこの説法を聞いたその瞬間に、すべての執着を離れて阿羅漢(悟りを得た者)になったと伝えられています。
なぜならブッダは、言葉による概念や哲学(頭の理屈)を一切教えず、「今まさに起きている生の体験そのものに、我(エゴ)を差し挟むな」とダイレクトに足元を突きつけたからです。
* 「それぞれに正解がある」と理屈をこねる相対主義
* 「自堕落な自分も肯定する」という開き直り
* 「自分が悟った」というドグマの抱え込み
これらはすべて、ブッダの言った「見・聞・覚・識のあとに、人間が勝手に付け足した妄想(汝・エゴ)」に過ぎません。
バーヒヤ経という仏典の最深部と、道元や臨済の禅の機鋒、そして足元の「お茶の味」が、一本の筋で美しく貫かれましたね。
俺もこうして推察してるものなんだから
だから当然にその仏の知見の真理からすると「違う」ってことになる
そういう風に理解した方がいい。。
別にあるものではないので。。
モフモフ😺
テキトー過ぎふぞ
😺
それが見解だってw
任せなさい
😀
この句はもともとどっから来ているのかわからんけど、正法眼蔵、にもあったな。。
伝光録だけじゃない、瑩山禅師が考えた句じゃないってことですね。。
エセッスル🤡様以外は
完全でないんだじょ〜〜🤡
てか
😱
一切の見解の棄捨とかなかなか出来るものではないのだろうな。
これはこういう事だって、自分の納得のゆく事にまとめないと落ち着かないのだろうし、それと、なんとか流の禅定をゲットしたとか、そういう統失を拗らせた変なのが居るのもなぁ。
両方ともそれは受であって、そういうのを受けないのを正受って云うんだけどな。
まぁ、前者のそれは健常者の受で、更新のそれは統失や知障のそれに分けられるけど。
エセッスル🤡よりは
まともだが
😀
実参してると分かるんだけど、そうした受の一切を師家から峻拒されるんだけどね。
とどのつまり「あんたの感想なんか聞いてない」って云う事なんだけど。
ガッツリ坐禅して絶対無ってもんを味わって来なきゃね。
煩悩エセッスル🤡
開始か?
🤡〜〜
インチキ〜〜〜〜🤡
インチキ〜〜〜〜🤡
棄捨そのものがその底という方が親しい。
エイエイオー〜〜〜🤡
とても難しい🤡〜〜
悟りをひらいた人のスレ 900
https://talk.jp/boards/psy/1789976259
【問い】
Views and non-attachmentの章を要約出来ますか?
【回答】
ポール・フラー著『The Notion of Ditthi in Theravada Buddhism』の第6章「Views and non-attachment(見解と無執着)」の要約です。
第6章は、本書全体の結論に向けた極めて重要な章であり、「ブッダの教えはあらゆる見解を否定する無見(no-views)を説いている」とする既存の研究解釈を再検討し、著者の中心命題である「無執着(non-attachment)と正見(samma-ditthi)の超越的性質」を整理・証明しています。
第6章の構成と主な論点
1. ブッダの教えと「無見」(The Buddha's teachings and no-views)
* 問題提起: 『スッタニパータ』の「アッタカヴァッガ(八頌経)」などでは、「ブッダはいかなる見解も抱かない(無見)」と解釈されがちです。従来の研究者(ルパート・ゲスインやグラース・バーフォード等)の知見を交えつつ、この説を検証します。
* 結論: ブッダが拒絶しているのは「知識や教理そのもの(正見)」ではなく、それらに対する「固執・執着・捉われ(tan̄ha / upadana)」です。「いかなる見解も持たない」という態度自体が、往々にして「無見という新たなドグマ(偏執)」に陥る危険性を孕んでいると指摘します。
2. アッタカヴァッガと他のパーリ仏典の比較(The understanding of views in the Atthakavagga compared to other parts of the Pali canon)
* テキストの比較: 一部の研究者は「アッタカヴァッガは他のパーリ経典(ニカーヤ)と異なり、より原始的で『すべての見解の拒絶』を説いている」と主張します。
* フラーの反論: フラーは、アッタカヴァッガの教えも他のニカーヤ(長部・中部・相応部など)の教えと完全に一貫していると論じます。アッタカヴァッガで警戒されているのは「見解そのものを排除すること」ではなく、「他者と議論して自分の見解を最高と誇り、他を低く見る態度(見執)」です。
「一切の見解を棄捨して無見になれというのが、ブッダの教えである」
と主張する人が、一部の禅僧とかヨガ教室の先生にいるのだが
それは仏教研究のスタンダードではなく、批判されている
ポール・フラーという人もそうだ
フラーは、「『一切の見解を捨てよ』というのは誤解だ。ブッダは『自己の見解に執着して争うな』と言ってるのであり、似て非なるものだ」と批判している
🤡〜〜
他の章は、普通の初期仏典だ
この章だけは、「自己の見解に執着して争うな」と執拗に繰り返しており、しかも完全な世捨て人、孤独な森林の放浪者の生き方を理想として賞賛している
「ここは、ブッダ以前の思想が混入したのではないか?」と疑う研究もなされている
引用文にあるポール・フラーの議論(「拒絶されているのは見解そのものではなく執着である」)は、近代の研究成果であると同時に、まさに**伝統仏教が2000年以上かけて整理・解釈してきた王道の立場**そのものです。
伝統仏教がこの問題をどのように体系化し、整理してきたのかを解説します。
### 1. 初期仏教・部派仏教における解決:二種類の「見」の整理
パーリ仏典などの初期経典において、「見(ditthi)」には否定的な意味(邪見・偏執)と肯定的な意味(正見)の両面が含まれていました。この矛盾に見える記述を、伝統的な注釈家(仏音・ブッダゴーサなど)や阿毘達磨(アビダルマ)論書は以下のように整理しました。
* **「世間的な正見」と「出世間的な正見」の階層化**
* **世間の正見:** 善悪の因果や業(カルマ)を信じ、倫理的に正しく生きるための見解。修行の初期段階や生活者において不可欠とされます。
* **出世間の正見:** 四諦(苦・集・滅・道)や縁起、無常・苦・無我を正しく観察する智慧(パンニャー)。
* **「見解(正見)」と「見執(見取見)」の分離**
仏教が克服すべき悪徳(煩悩)として挙げられるのは、見解そのものというより「見取見(けんシュケン)」、すなわち「自分の見(解)のみを『これのみが真実であり、他は虚妄である』と固執して他者と争うこと(見執)」です。
> **伝統的解釈の結論:**
> 『スッタニパータ』等で否定される「見」とは、見取見(固執・論争のための偏執)**であり、教理や実践の指標となる**正見(正しい智慧)は、悟りに達する船(筏)として尊重されます。
>
ここでいう「見解」ってのは、形而上的な問題に限るものではない
「俺は1000回、坐禅したのだ。100回しか坐禅してないお前より、俺のほうが本物の修行者なのだ」とか
「禅寺では、作務や食事にも作法がある。こうするのが正しいのだ。お前は正しいやり方を知らないからダメなのだ」とか
そういうのも含まれる
ていうか、むしろ、そういうスタンスが批判されている
> * **「見解(正見)」と「見執(見取見)」の分離**
> 仏教が克服すべき悪徳(煩悩)として挙げられるのは、見解そのものというより「見取見(けんシュケン)」、すなわち「自分の見(解)のみを『これのみが真実であり、他は虚妄である』と固執して他者と争うこと(見執)」です。
> > **伝統的解釈の結論:**
> > 『スッタニパータ』等で否定される「見」とは、見取見(固執・論争のための偏執)**であり、教理や実践の指標となる**正見(正しい智慧)は、悟りに達する船(筏)として尊重されます。
そう、それですな
スッタニパータで批判されているのは、「見解を持つこと」ではない
「正しいのは、この俺だ」と主張して、論争することだ
突進〜〜😺
### 2. 「筏の譬え(いかだのひとえ)」に見る見解の扱い
『中部経典』などの「蛇喩経(じゃゆきょう)」には有名な「筏の譬え」が登場します。
* **内容:** 増水した川を渡るために筏(教え・正見)を作り、対岸(悟り)に渡る。無事に渡り終えた後、その筏を「役に立ったから」と頭に担いで歩く者は愚かであり、岸に放置して去るのが賢明である。
* **伝統的解決:**
1. **渡るまでは筏(正見・見解)が絶対的に必要である。**(無見=最初から筏を作らないのは単なる放置・無知)
2. **対岸に着いたら筏(正見への執着)も手放す。**
このように、「最初から一切の見解を持たないこと(無見)」と「最終的に見解を超越すること(無執着)」は厳密に区別されました。
『スッタニパータ』の八頌経(アッタカヴァッガ)の教えを、最も哲学的に深めて極限まで体系化したのが、2-3世紀の中観派の祖・龍樹(ナーガルジュナ)です。
龍樹は『中論』などで、徹底的にあらゆる戯論(概念的見解)を批判しましたが、同時に大きな陥穽(かんせい)を警戒しました。
* **「無見」というドグマ(悪取空)の批判**
「一切の言葉や見解は空(無価値・無)である」と誤解し、「何も持たない・何も信じない」という状態に固執することを龍樹は「悪取空(あくしゅくう)」と呼び、厳しく戒めました。
> 「空の見解(無見)に囚われた者は、処置無し(救いようがない)とブッダは言われた」
>
* **二諦説(にたいせつ)による解決**
龍樹は「世俗諦(せぞくたい)」と「勝義諦(しょうぎたい)」の二つの真理を提示して問題を整理しました。
* **世俗諦(日常の言語・見解):** 言語や教理、正見は日常や修行の伝達のために必須であり、有効である。
* **勝義諦(究極の真理):** 悟りの境界では、すべての概念・見解・戯論が消滅(寂滅)する。
つまり、「言葉や見解を用いなければ、究極の真理(勝義)を指示することはできない」とし、見解を修行の道具として認めつつ、その道具自体に縛られないという形で止揚しました。
引用されている投稿の議論と照らし合わせると、伝統仏教の解答は以下のようになります。
1. **「一切の見解を捨てて最初から無見になれ」は誤解(または極端論)**
教理や倫理的判断を放棄する「無見」は、仏教では「無明(愚かさ)」や「悪取空」として退けられます。
2. **捨てられるべきは「見解への執着(見執・論争)」**
八頌経(アッタカヴァッガ)等で厳しく戒められているのは、自分の見解を絶対視して他者を蔑み、不毛な論争を引き起こす「我執に基づく見」です。
3. **正見は「渡るための道具」**
正見(正しい観察・見識)は悟りへ至るための必修の手段であり、それを完全に超え出る(無執着になる)のは、修行が完成した最終段階(対岸に着いた時)のことです。
伝統仏教は、「正見という道具を正しく使いながらも、その道具自体に我執やドグマを持たない」という「正見+無執着」の道を選択することで、この問題を解決してきました。
そう、それだ
いつも、それをウンコに言っている
「釈尊の教えをイカダのように捨て去れ」というのは、「彼岸へと河を渡り切った後」の話だ
此岸でこれから激流を渡ろうとする修行者が
渡る前からイカダを捨てて、ど~するの😂
役にたつんだな?
😺〜
仏教ではこの考え方を「階級(階位)」**や**「方便(ほうべん)」**、あるいは**「応病与薬(おうびょうよやく=病気に応じて薬を与える)」という概念で説明します。
### 3つのレベル(段階)で整理する
仏教における「見解(見)」の扱いは、修行のレベルによってハッキリと役割が変わります。
| 段階 | レベル | 見解(見)の扱い | 例え |
|---|---|---|---|
| **ステップ1** | **世間(スタート地点)** | **邪見を捨て、正見(正しい見解)を持つ**
※善悪、因果、業、道徳などを正しく理解する | 病気にかかっている状態。
「正しい薬(正見)」を飲む必要がある。 |
| **ステップ2** | **実践・修行** | **正見を「道具(観察の手段)」として使う**
※無常・苦・無我や四諦を観察する | 川を渡っている最中。
「筏(教え・見解)」にしっかり乗る。 |
| **ステップ3** | **悟り(ゴール)** | **正見も含めて「見解への執着」を手放す**
※「自分は正解を知っている」という我執すら消滅する | 病気が治った/対岸に着いた。
薬や「筏」を捨てて歩み出す。 |
引用にあった「禅僧やヨガの先生」などが「最初から無見になれ」「一切の見解を持つな」と主張してしまうのは、**「ステップ3(ゴールの状態)」の言葉を、そのまま「ステップ1(スタート地点)」の人に向けて言ってしまうから**です。
仏教の立場からすると:
* **スタート時点で「無見(見解なし)」になろうとする場合:**
ただの「無知」「無善悪(善悪の区別がつかない状態)」に陥り、倫理的な判断や正しい観察ができなくなります。(これを「悪取空」**や**「愚痴」と呼びます)
* **正しくステップを踏む場合:**
「正見」というレンズを使って世界の事実(無常や無我)を観察し、十分に観察しきって悟りに達した時(ゴール)、そのレンズ(正見への執着)すらもスッと手放します。
伝統仏教が整理した解決策は、「見解は、目的地(悟り)に到達するまでは絶対に不可欠な『道具』であり、到達した後にだけ手放すもの」という段階論です。
ですので、「見解を持つべきか/捨てるべきか」という問いに対しては、「今はどの段階にいるのか?」によって答えが変わる、というのが伝統仏教のスタンスになります。
モフモフ😺らしい
😺〜
仏教の高度な教学(大乗仏教の空や即身成仏、天台の煩悩即菩提など)にある **「言葉や教義の表面だけを都合よく切り取り、倫理や因果(業)を無視した誤解(いわゆる悪取空や魔説)」** に分類されます。
なぜそれらの主張が「究極の仏説」とは言えないのか、仏教が伝統的にどう整理してきたのかを解説します。
### 1. 「煩悩即菩提」の本当の意味
「煩悩即菩提(煩悩がそのまま悟りである)」は、大乗仏教(特に天台宗や真言宗など)の高度な悟りの境界を表す言葉です。
* **誤解:** 「煩悩のまま欲望を肯定して暴走させてよい」
* **本来の意味:** 「煩悩(怒りや欲望)も悟り(菩提)も、本質(空)においては同じ一つの心から現れた現象である。だから煩悩を力づくで排斥・抑圧するのではなく、そのエネルギーの本質が『空』であると見抜くことで、そのまま悟りの智慧へと転換(翻転)できる」
つまり、「煩悩を野放しにしていい」という意味ではなく、**「煩悩の正体を見抜いて昇華させる」** という観察の実践を指しています。欲望を肯定して居直る態度は、単なる「煩悩への執着(無明)」に過ぎません。
あと羅針盤も捨てろ。
航海図も捨てろ。
経典も捨てろ。
オールも捨てろ。
最後に自分を棄てろ(⌒‐⌒)
仏教の根幹にあるのは「縁起(えんぎ)」**と**「慈悲(じひ)」**、そして**「因果応報(いんがおうほう)」です。
* **縁起と慈悲:** 究極の悟り(空)を得た者は、すべての生命が繋がり合っていることを痛感するため、他者の苦しみに対して無限の慈悲を持ちます。「核爆弾が落ちてもいい(大勢が苦しんでも構わない)」という冷淡さや虚無主義(ニヒリズム)は、仏教が最も警戒する「邪見(誤った世界観)」**や**「悪取空(空を悪用した虚無主義)」です。
* **因果律:** 大乗仏教の最高峰の論師たち(龍樹など)も、「勝義(究極の真理)においてはすべて空であるが、世俗(現実世界)においては因果の法則は厳然と存在する」と強調しています。大量殺戮や破滅を肯定・容認することは、厳しい悪業(あくごう)の因果を招く行為とされます。
* **世俗の生活と正業(しょうごう):**
法律を守り、正当な経済活動(株式投資など)を行って普通に暮らすことは、仏教の「八正道」における「正業(正しい行為)」「正命(正しい生活様式)」の範疇であり、決して悪いことではありません。
* **「陽気な人が佛」の真偽:**
心豊かで執着が少なく、明るく生きている人は「悟りの状態に近い要素(柔軟心)」を持っています。しかし、仏教における「佛(仏陀)」とは、「自らの煩悩の仕組みと世界の真理(四諦・縁起)を完全に覚知し、根本的な苦しみから解脱した者」を指します。単に性格が陽気で世渡りが上手いということと、無明を打破した「佛」であることは明確に区別されます。
仏教には、何が正しい仏説かを鑑みるための「四依(教えに依って人に依らざれ、義に依って語に依らざれ…)」という基準があります。
また、中国や日本の禅宗・密教などでも、悟りの表現(「仏も祖師も切り捨てよ」「殺仏殺祖」など)の形だけを真似て、倫理や修行を捨て去る者を「野狐禅(やこぜん=悟ったフリをする狐)」**や**「悪取空(空の教えを悪用して悪行を正当化する者)」として厳しく批判してきました。
> **龍樹(ナーガルジュナ)の警告:**
> 「捉え方を誤った『空』の教えは、掴み方を間違えた毒蛇や、掛け方を間違えた呪文のように、愚かな者を自滅させる。」
>
お示しいただいた主張は、**「究極の解脱の言葉(無執着や空)」を、現世の欲望や現実逃避・虚無主義を肯定するために都合よく再解釈したもの**です。
1. **「仏教など忘れてしまえ」**
→ ゴール(対岸)に着いた者が筏を手放す言葉であり、スタート地点で勉強や実践を放り投げる理由にはならない。
2. **「煩悩即菩提」**
→ 煩悩の不浄さを見抜いて智慧に変えるプロセスのことであり、開き直りではない。
3. **「核爆弾でもいい」**
→ 慈悲と縁起を否定する「虚無(悪取空)」であり、明確な邪見。
したがって、これらは「究極の仏説」ではなく、仏教の言葉を借りた「無知(無明)の肯定」または「虚無主義(ニヒリズム)」というのが伝統的な仏教の判断となります。
### 1. 個人の精神的末路:本質的な苦しみ(孤立と不安)からの不解脱
「エゴも問題ない」「核爆弾が落ちても関係ない」と強がる思想は、一見すると無敵で自由に見えますが、内実としては**強固な「我執(自己中心性)」の裏返し**に過ぎません。
* **煩悩の倍増と自壊**
欲望や傲慢さを「そのままで良い」と放置・肯定するため、エゴはますます肥大化します。エゴが大きくなればなるほど、「自分の思い通りにならない現実」に対する怒りや恐怖(苦しみ)も増幅します。
* **深層の虚無と恐怖**
因果や慈悲を捨て去った「偽りの無執着」は、単なる冷酷さ・虚無主義(ニヒリズム)です。一見陽気に振る舞っていても、人生の試練(病気、老い、死、他者からの裏切りなど)に直面した際、支えとなる倫理や慈悲を持たないため、極度の不安と孤独に押し潰されます。
モフモフ😺
それ変〜
騒音だ
モフモフ😺暴走族だな?
😺〜〜〜
歴史上、仏教や思想の「非日常的な高次元の言葉(即身成仏、何でもありの空など)」を都合よく解釈し、欲望や悪行を正当化した指導者や集団は何度も現れました。
* **暴走と自滅(歴史的パターン)**
「どんな行為も空であり問題ない」と説く指導者は、やがて自らの性欲・金銭欲・支配欲を一切制御できなくなります。その結果、信者の搾取、犯罪の正当化、他者への攻撃へと暴走します。
* **法と社会による淘汰**
「法律も倫理も超えた」と誇称しても、現実の因果(世俗の法)からは逃れられません。歴史上のこの手のアナーキーな邪教集団(野狐禅や悪取空の変種)は、例外なく**内部崩壊、受刑、あるいは社会からの徹底的な排除・無視**という末路を辿っています。
モフモフ😺だ
😀
マーキング大量ショーを
見せられる側にたってみろ
😺〜〜〜
仏教教学の観点から言えば、この末路は最も深刻に描写されます。
* **「破戒」よりも重い「正法(しょうぼう)の破壊」**
単に自分が欲望に負けて戒律を破る(破戒)ことよりも、「欲望のままで問題ない。これが究極の仏教だ」と妄語(ウソ)を吐いて他者を惑わすこと(邪見の流布)のほうが、はるかに重い罪(悪業)とされます。
* **「無知の拡大」に対する果報**
龍樹が『中論』で「空の誤解は毒蛇を掴むようなもの」と警告した通り、自他ともに善悪の因果を無視させ、他者の精神的な救いの道を閉ざした報いとして、自らも最も深い苦しみの世界(無間地獄・悪趣)へ堕ちると古来解釈されてきました。
「エゴをそのまま肯定し、世俗のルールや他者の苦しみを軽視しても平気」と説く姿勢の末路は、悟り(解脱)とは真逆の「エゴの肥大化による自滅」「社会的な孤立・破滅」、そして「深い精神的苦痛(虚無)」です。
悟りとは「エゴから解放されて開かれた心(慈悲)になること」であって、「エゴを抱えたまま居直ること」ではありません。道具としての「言葉」だけを真似て自らを誇る者は、最終的に自らが背けた「現実(因果)」によって足元をすくわれることになります。
ただそれじゃ教団組織としての体裁が崩壊するから、二元論的な修道論に改変されたんですけどね。
Desire, Death and Goodness: The Conflict of Ultimate Values in Theravāda Buddhism by Grace G. Burford
金剛般若経の徳山みたいや。
竜潭和尚みたいな人と出会えたらいいな(⌒‐⌒)
教育ママンに成績いびられたトラウマだろな🤡〜〜
無我論でありながら自灯明を説示されたのと同じ道理です。
一切見解の棄捨を云いながら、その主体である不断の自己刷新を勧めているのですからね。
彼らの主張の違い、そして「見(見解)のあるなし」という問題との整合性を、伝統仏教の観点から3つのポイントで整理します。
### 1. 「我見を離れ、内虚にして外事あるのみ」の真意
「内虚にして外事あるのみ」とは、中国の唐代の禅者・黄檗希運(おうばくきうん)の『伝心法要』などにも通じる表現です。
* **内虚(ないきょ):** 心の内に「私(エゴ)」という固形物や、「私はこう思う」「これが正解だ」という思考・価値判断(我見)を一切握りしめないこと。
* **外事(がいじ)あるのみ:** ただ目の前の事実・状況・働き(音を聞く、色を見る、応対する)がそのままあること。
ここでの「我見を離れる」とは、**思考やエゴによる解釈のフィルターを一切差し挟まず、事実(ありのままの現成)に身を委ねる**という**極めて厳密な実践**です。
思った🤡〜〜
さきほどの「エゴも問題ない」「法を守って陽気に過ごせば佛」という主張と、井上老師らの「我見を離れる」説法は、表面上の言葉(「考えを捨てる」など)が似て見えても、内容は正反対です。
| 項目 | 「内虚にして外事あるのみ」(井上老師ら) | 「エゴ肯定・居直り」の主張 |
|---|---|---|
| **我執(エゴ)** | **徹頭徹尾、粉砕・無化する**
(「私」という主観の入り込む余地をゼロにする) | **まるごと持ち続け、肯定する**
(欲望やエゴを「そのままでいい」と肥大化させる) |
| **事実は何か** | 自分の考え(解釈)ではなく、**ただ眼前の事実そのもの** | 「株で儲ける」「陽気でいる」という**自分の欲望や解釈** |
| **見解(見)の扱い** | 自分勝手な見解(我見)を**徹底的に脱落させる** | 「仏教なんてどうでもいい」という**新たな見解(我見)に執着する** |
つまり、井上老師の説く道は「我見の徹底的な脱落(徹底した修行)」であり、エゴの肯定とは「我見を捨てるどころか、我見を正当化してドップリ浸かっている状態」に過ぎません。
「倫理道徳観あり」も「倫理道徳否定」も
真理の実在も、虚無主義も
どれも「自己」の上の見方になるから
己事究明なんていわれるように
その見方によってる自分に気付き探究するってのが王道的なところかな
伝統仏教(特に禅宗)は、「見解のあるなし」の葛藤を「正見(道具)」から「身心脱落(事実そのもの)」への架け橋として見事に整合させてきました。
#### ① 「我見(邪見)」と「正見」の整合
* 人は誰しも「自分中心のフィルター(我見)」を通して世界を見ており、これが苦しみの原因です。
* 修行の途上では、「無常・無我・因果」といった**正見(正しい教え・観察)という概念**を使って、この「我見」を削り落としていきます。
#### ② 「正見」から「無見(我見の脱落・事実そのもの)」へ
* 教え(正見)をツールとして深めていくと、最終的に「私という観察者」と「観察される世界」という二元論自体が消えます。
* これがいわゆる身心脱落(しんしんどつらく)であり、その状態を表現したのが「内虚にして外事あるのみ」です。
ここでの「無見」とは、「なにも考えていないバカになること」や「見解を無視すること」ではなく、「『私』という主観の偏執がすっかり消え去り、ただ世界(事実)がそのようにある状態」を指します。
話にならない。
解脱しろ、ハジ殿。
あなたが学んだことはそれから役に立つから
学問は暫くおいとけばいい。
その行の際には、自身の見方をさしはさまず
そのはたらきに純一に、そのものになりきるってことも基本であるだろう
1. **段階としての整合性**
我見に囚われている人間が「自分勝手な解釈(我見)」を一切差し挟まなくなるための実践(指針)として、「内虚(我見を離れる)」が説かれます。
2. **言葉ではなく「事実」に着地する**
「見解を持つべきか/捨てるべきか」という論争自体が、実は頭の中の「我見(戯論)」に過ぎません。伝統仏教(特に禅)は、「論争する暇があったら、今ここで我見を離れて『ただ眼前の事実』になり切れ」と教えて解決します。
したがって、井上老師らの示唆は、仏典の「正見をもって邪見を破り、最終的に我執を脱落させる」という伝統的な解釈の**最も実践的な核心**を突いたものであり、居直り的な「無見」や「エゴ肯定」とは全く別物です。
都市型僧院の僧侶達に依ってね。
それに対して森林住派等がいやいや、そうじゃないでしょ?っていうのが大乗仏教への途にもなったんです。
般若経典群の成立に深く関わっていたとの説が有力ですしね。
龍樹なんかもその嚆矢でしょ。
古代インドにも、お前みたいに
自己の見解に極端に執着し
延々と自説を言い張り続ける
「言い張り系」が多かったってことだ😅
「自分の持論への執着を棄てろ」と言ってるだけ
そしてそれが南伝のドグマになってしまったから。
昔は、新興宗教の信者たちに対して
「汝もまた、信仰を捨て去れ」
「固定観念からの脱却。それが仏道修行者の目標だ」
とかなんとか言い続けて、蛇蝎のように嫌われていた
それが、いまや
「釈尊は一切の見解を捨て去れとまでは言ってない」
と言い続けている
この柔軟性こそが、「固定観念からの脱却」なのだ😂
あれは、信仰を限りなく強めていく道
信念の強さこそ、一番の武器となる
仏教は、「固定観念からの脱却」の道だ
お前みたいに、自説をハテしなく延々と言い張り続ける頑固さは良くない
反省しろお〜〜
🤡〜〜
毒を散らす
毒散せよ(笑)
「汝もまた、信仰を捨て去れ」
「固定観念からの脱却。それが仏道修行者の目標だ」
とかなんとか言い続けて、蛇蝎のように嫌われていた
いまでは、立場が逆転した
いまは、禅宗系の人たちが
「釈迦の教えをイカダのように捨て去れ」とか
「仏教を学ぶな。何も知らないほうが早く悟れる」とか
口々に言ってるのを見て、カチンときている
「自称・仏教徒のくせに、それを言うか。
それはおかしいぞ」と言っている
180度とまでは行かないまでも
120度くらいは立場が逆転した😂
両極端のどちらかに逝っちゃってる人が多い
自分も人のことは言えんが(笑)
当方の場合は、
自分の極端さを自覚してるからこそ、
古今東西のありとあらゆる教えを学んでいる
多様な考えを知ることにより、柔軟性を養っている😂
見解がどうのじゃない。。
自己とは何か、明らめる。。
自己直面や、現実に向きあることからの逃げ、になりやすい。。
ルサンチマン、なんていうのもそう言うこと。。
だから、そういう逃げ、出会ってはいけないんですよ。。
真っ直ぐに向き合わないと。。
「これを見ろ。高名な仏教学者(兼 禅僧)も、
『輪廻転生は古代インドの迷信にすぎない。
迷信から目を覚ませというのが釈尊の教えだったのだ』
と言ってるぞ?」
とかなんとか主張して
新興宗教のバカ信者の人たちから、
親のカタキのように嫌われていた😫
それが今では、
「釈尊は輪廻転生を否定していない」
という論調へと、コロッと変化している
初期仏典を読み込んだおかげで、見方が変わったのだ
セイウン居士が主張してるようなことは、書かれていない😂
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