仏教がわかってきた人のスレ vol.37最終更新 2026/08/11 11:221.◆JBLfMwCXhYd77xI前スレ・関連スレ【唯識三年】仏教ウンチクを語るスレ 10【倶舎八年】https://talk.jp/boards/psy/1759535455【ブッダの教え】初期仏教【ヴィパッサナー瞑想】 Part2https://talk.jp/boards/psy/1779968091仏教がわかってきた人のスレ vol.36https://talk.jp/boards/psy/17725773442026/08/10 21:12:1254コメント欄へ移動すべて|最新の50件2.◆JBLfMwCXhYd77xI三法印「これが仏教である」という釈迦の教えのブランド・認定印のような役割を果たします。1、諸行無常(しょぎょうむじょう)この世のあらゆる現象や形成されたものは常に変化し、不変なものはないという真理。2、諸法無我(しょほうむが)すべての事象(諸法)は、互いに依存し合って存在しており、単独で不変の「自分(我)」という実体はないという真理。3、涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)無常で無我な世の中(執着、欲望)から離れ、迷いが消えた「悟り」の境地は静やかな安らぎであるという真理。補足事項これに「一切皆苦(いっさいかいく:すべては苦である)」を加えて「四法印」と呼ぶこともあります。2026/08/10 21:12:493.◆JBLfMwCXhYd77xI苦諦(くたい)生きることは本質的に苦である。生きるということは、苦を背負って日々を過ごすことだ。どこかの心優しい神様が、手をさしのべて助けてくれるなんてことはない。集諦(じったい)あらゆる出来事は必ず何らかの原因によって起こる。苦の原因は煩悩である。満足が得られないから、苦しくなっていく。滅諦(めったい)煩悩を消すことで苦が滅する。この世で起こっているものはすべてうつろう。現実をありのままに受け入れ、その世界に耐えるべく、自分の価値観・世界観を変えていく。この世の一切の事物は自分のものではないと自覚する。道諦(どうたい)煩悩をなくし、悟りを得るための方法がある。それが、聖なる八つの正しい道である。2026/08/10 21:18:364.◆JBLfMwCXhYd77xI八正道正見(しょうけん): 正しい見解。四諦を理解し、偏見なく真理を見ること正思惟(しょうしゆい): 正しい考え。欲望や怒り、害意を離れた思いを持つこと正語(しょうご): 正しい言葉。嘘、誹謗中傷、陰口、無駄話をしないこと正業(しょうごう): 正しい行い。人に迷惑をかけず、殺生や盗みなどをしないこと正命(しょうみょう): 正しい生活。規則正しく健全な職業や生活を送ること正精進(しょうしょうじん): 正しい努力。怠らず、正しい道を歩む努力をすること正念(しょうねん): 正しい気づき。常に理性的な心を保ち、今に集中すること正定(しょうじょう): 正しい精神統一。瞑想などを通じ、心を安定させること2026/08/10 21:18:585.◆JBLfMwCXhYd77xI如来蔵思想生きとし生きるもの(衆生 しゅじょう)が皆、如来を胎内に宿しているという思想如来すなわち仏になる可能性は仏性(ぶっしょう)ともいわれるが、それがすべての生きものにそなわっているという教え(一切衆生、悉有仏性)「こんなの仏教じゃない」という人と、「これでこそ仏教だ」という人の両方がいる東アジアに広がり、日本仏教の基盤となった「仏教とはこういうものだ」と、日本では思われていた2026/08/10 21:19:186.◆JBLfMwCXhYd77xI如来蔵思想は、日本で独自の発展を遂げた↓天台本覚思想衆生は誰でも仏になれるということ、あるいは、元から悟っているという、鎌倉~室町時代に流行し日本の仏教界に定着した思想衆生の誰もが本来、如来我・真我・仏性を具えている(本来、覚っている)が、生まれ育つと次第に世間の煩悩に塗(まみ)れ、自分が仏と同じ存在であることがわからなくなっていく・・・ということであるやがて、人間は誰もが悟っているのだから、修行する必要もなければ戒律も守る必要がない、凡夫は凡夫のままでよい、などという急進的な解釈がされるようになった「無明と共に輪廻が始まる」とする初期仏教の釈迦の教えからは遠いところに来てしまった日本では、「仏教とはこういうものだ」と思われていた2026/08/10 21:19:347.◆JBLfMwCXhYd77xIテンプレはここまで2026/08/10 21:19:508.神も仏も名無しさんueT2X貞慶に関する本はチラ読みしてもオモシロかった末法時代なので弥勒の兜率天や観音の補陀落浄土に往生したい貞慶と春日権現との関係とか俺は春日権現で成唯識論を読みながら弥勒の兜率天浄土をこちらから展開していたよーなもんやってる時はそんなことを意識しなかったが当然、その後の春日権現からの霊的パワーはリアクションしてくれる😀2026/08/11 06:49:209.神も仏も名無しさんueT2Xすっかり春日権現にハマってしまった神主の朝拝ですら神道形式の霊的ゾーンもかなり入ったのが先でその後の特別拝観の御蓋山遥拝所で成唯識論10章をやった後の感覚と神主の朝拝の霊感とは当然違う😀2026/08/11 06:53:2810.神も仏も名無しさんueT2X貞慶と春日権現の世界はある種の天台本覚思想と対極にある戒律復興運動だ😀2026/08/11 06:55:0511.神も仏も名無しさんueT2Xその戒律復興運動はインド中国の悟りの仏教イコールではない弥勒の兜率天往生や観音の補陀落浄土往生の為の必要アイテムが戒律を守るということ😀2026/08/11 06:56:3012.神も仏も名無しさんueT2Xま、俺は春日権現の遥拝所で成唯識論10章黙読しながらこちらから弥勒の兜率天浄土を展開していたみたいなものだ😀2026/08/11 06:57:3213.神も仏も名無しさんueT2X春日若宮社と修験道のAI検索をかけるとオモシロい行く前には気づいていなかった残念😅明治以前の春日若宮社と修験道の行事を詳しく +5 明治以前の奈良・春日社の摂社である春日若宮社の祭礼(おん祭など)では、神仏習合の時代背景のもと、興福寺の社僧や南都の修験者(山伏)が深く関与し、護摩供や法楽などの仏教・修験道儀礼が神事と一体になって執り行われていました。明治以前の春日若宮社と神仏習合本地垂迹と若宮: 若宮の神は天押雲根命とされ、中世の本地垂迹思想では神仏混淆のなかで祀られていました。興福寺との関係: 春日社は興福寺の支配・影響下にあり、祭礼の運営には僧侶や社僧が大きな役割を果たしていました。修験道の関与: 奈良周辺の山岳信仰や修験者(金峯山等)は、春日・奈良の諸行事において、松明の先導や法螺貝の奏上などを通じて神仏の和合や調伏・祈願を担っていました。修験道および仏教的色彩を持つ行事の展開おん祭(保延2年・1136年開始)での習合芸能: 天下泰平や万民和楽を祈る「春日若宮おん祭」では、神職だけでなく、多様な宗教者や芸能民が参列しました。大宿所祭と祈祷: 祭礼の進行を支える大和士や関係者の潔斎・安全祈願において、密教・修験的な加持祈祷や「御湯立」などの浄化儀礼が行われていました。神事芸能の奉納: 猿楽(能楽)、田楽、舞楽などの中世芸能が神様に奉納されましたが、これらはもともと寺社に属する衆徒や法師、聖(ひじり)といった宗教者・芸能者が担ってきたものです。2026/08/11 07:26:2714.神も仏も名無しさんg3G0u御蓋山遥拝所で成唯識論で禅定カマシたあとに春日権現降臨みたいなノリで今日も春日大社研究が止まっていない春日権現記絵巻では春日権現が高僧や巫女さんに降りるとあるが😀2026/08/11 07:36:3615.神も仏も名無しさんg3G0u他の宗教さっそくキリスト教あたりを研究するか?と思いきややはり未知の部分があった若宮社関連は謎を探求しきっていなかった😀2026/08/11 07:38:2016.◆JBLfMwCXhYQGZAQ春日大社の研究が、ますます進んでるな?😆2026/08/11 07:39:4917.神も仏も名無しさんg3G0u御蓋山浮雲峰遥拝所で成唯識論禅定カマシたあとの春日権現のリアクションが脳裏からはなれられん😀2026/08/11 07:46:0218.神も仏も名無しさんg3G0u脳内に春日権現参拝曼荼羅の絵の世界が完成された若宮社の修験道味わいが少し濃くできなかったのが残念だが下調べが不足していた😀2026/08/11 07:47:2419.神も仏も名無しさんg3G0u熊野那智大社参詣絵図曼荼羅は余裕で脳内で昔から完成てきているが😀2026/08/11 07:48:5220.神も仏も名無しさんSMsD8春日権現の曼荼羅絵を見て三密に入れる😀2026/08/11 08:41:4421.神も仏も名無しさんSMsD8スーパーエリートな春日権現の三密だ😀2026/08/11 08:42:4122.神も仏も名無しさんSMsD8五劫院は江戸時代中期に西山派の影響を濃く受けて今に至るがそれ以前の高僧の公慶の修行に関してAIをかけてみると五劫院公慶の修行経歴に関して詳しく +5 江戸時代前期の三論宗の僧侶である公慶(1648〜1705年)は、丹後国宮津で生まれ、東大寺で三論宗を学びました。その後、鎌倉時代の重源の足跡(南都焼討ち後の復興)を強く慕い、荒廃していた東大寺大仏および大仏殿の再建に生涯のすべてを捧げました。出家と学問・修行三論宗の学習: 奈良・東大寺に入り、日本の仏教の基礎となる古学、特に空の思想を説く三論宗の教義を深く学びました。重源の精神的継承: 平安末期から鎌倉初期に東大寺を再建した勧進聖・俊乗坊重源の業績に深く共鳴し、その不屈の勧進(寄付集め)の精神を自らの修行と実践の規範としました。大仏復興・勧進の修行悲願の発願: 永禄10年(1567年)の戦火で焼失し、100年近く雨ざらしになっていた東大寺大仏の惨状を見て、大仏および大仏殿の再興を発願しました。諸国勧進の実行: 37歳のとき江戸幕府に再興を願い出たのち、自ら全国を巡って寄付を募る「勧進」の行を実践しました。生駒山の法楽寺などを拠点に祈願や布教も行っています。不断念仏の実践: 奈良・江戸・大坂に勧進所を設け、結縁者のため絶やさず念仏を唱える修行と教化活動を行いました。徳川家(特に将軍生母・桂昌院ら)の帰依も得て、多大な援助を引き出すことに成功しています。2026/08/11 08:54:5823.神も仏も名無しさんSMsD8元の雰囲気を三論宗からイメージするしかないお墓があるのは知ってたが墓参りすれば情報得られたかもしれんがそのアタマが働かなかったそれ以前に三論宗をやっていたとは知らなかった😀2026/08/11 08:58:3924.神も仏も名無しさんSMsD8まだまだ五劫院公慶と春日若宮社に関しては下調べが不足していた😀2026/08/11 08:59:5925.神も仏も名無しさんSMsD8なるほど〜西山派が入る前は五劫院公慶は浄土宗知恩院派の影響が濃かったのか〜かなり五劫院は浄土宗歴が長いな、重源の内部の一部の法然路線に近い影響があったようだ五劫院公慶の不断念仏の教義を詳しく +3 江戸時代に東大寺の大仏・大仏殿の再興に生涯をささげた公慶上人(こうけいしょうにん)は、鎌倉時代の重源(ちょうげん)にならい、浄土宗の教えに基づく「不断念仏(ふだんねんぶつ)」を勧進活動や回向(えこう)の柱としました。公慶の不断念仏の背景と実践東大寺復興と念仏:公慶は、荒廃した東大寺の大仏修復および大仏殿再建の資金集め(勧進)を行う際、江戸や大坂、そして奈良の拠点において、寄進者や結縁者の追善・廻向のために昼夜を分かたず「不断念仏」を修しました。浄土宗との深い繋がり:公慶は知恩院などの浄土宗諸寺院や高僧(貞誉了也など)から浄土宗の教義や深い薫陶を受けており、その信仰的基盤には法然上人以来の念仏の伝統が息づいていました。五劫思惟(ごこうしゆい)の信仰五劫思惟阿弥陀仏:公慶が拠点のひとつとした勧進所(現在の五劫院などのルーツ)には、阿弥陀仏が法蔵菩薩であったころに「五劫」という途方もなく長い時間をかけて衆生救済の願を思惟した姿とされる「五劫思惟阿弥陀仏」が祀られました。教義の本質:この長い思惟の末に立てられた本願による念仏は、人間の善悪や能力の差を問わず、ただ称える者を等しく救うという平等な救済(他力本願)を意味します。公慶の行った不断念仏は、この果てしない弥陀の慈悲と一体となり、民衆とともに大仏再興という大事業を成し遂げるための祈りの実践でした。2026/08/11 09:09:3826.神も仏も名無しさんSMsD8五劫院公慶は東大寺を再建した有名人物である😀2026/08/11 09:10:2127.夕P6Fve春日大社第三殿。藤原氏の祖神(河内国平岡の神)天児屋命(あめのこやねのみこと)『古事記』には岩戸隠れの際、岩戸の前で祝詞を唱え、天照大御神が岩戸を少し開いたときに布刀玉命とともに鏡を差し出した。天孫降臨の際邇邇芸命に随伴し、中臣連の祖となったとある。武甕槌命 - 第一殿。藤原氏守護神(常陸国鹿島の神)神武東征を手づだっているね。経津主命 - 第二殿。同上(下総国香取の神)古事記には出ていない。比売神 - 第四殿。天児屋根命の妻(同上)。ただし、その正体は天照大御神であるとの説がある。2026/08/11 09:49:0328.夕P6Fve武甕槌命 - 第一殿。藤原氏守護神(常陸国鹿島の神)神武東征を手づだっているね。経津主命 - 第二殿。同上(下総国香取の神)古事記には出ていない。この辺は調べると多分面白い。滅ぼした側、滅ぼされた側。2026/08/11 09:49:5829.神も仏も名無しさんFZwfG春日権現と一体化ノリモーニングだ夕、久しぶり😀2026/08/11 09:53:0930.神も仏も名無しさんFZwfG春日大社で真言唱えまくり成唯識論第10章の現在語訳二回黙読奉納した😀2026/08/11 09:54:2131.神も仏も名無しさんFZwfG春日若宮社の歴史を研究してなくてあれだけは心残りだ😀2026/08/11 09:55:2032.夕P6Fve久しぶりだねw 春日大社で成唯識論とは仏教よりだね。神道だから祝詞だけどwあめのこやねは、あまてらすが岩戸から出すために、祝詞を唱えていた2026/08/11 09:59:0533.夕P6Fve雨足が強くなってきた。台風直撃だ2026/08/11 10:04:0334.神も仏も名無しさんFZwfG>>32明治以前の藤原氏独占だった春日権現記絵巻の神話を元にやったのさー成唯識論を読むのは😀2026/08/11 10:17:0435.神も仏も名無しさんFZwfGこっちは春日権現記絵巻に出てくる高僧僧侶よりも興福寺の禅定の完成体を上げた禅定をぶっ込みながら成唯識論の現在語訳を黙読したわけか、リアクションはデカイのが来た朝拝の神主の祝詞なども、その前に参加したけどな朝8時50分前に社殿近くで待ってれば無料で参加てきる😀2026/08/11 10:19:5236.神も仏も名無しさんFZwfG神主の朝拝の祝詞でもかなりキテたのも確かだが御蓋山遥拝所での成唯識論第10章の現在語訳を黙読した時の感覚がめちゃんこハマった😀2026/08/11 10:21:1837.神も仏も名無しさんFZwfGま、雨台風だな😀2026/08/11 10:21:5538.夕P6Fveでおーは音でのれるんだな。うらやましいw2026/08/11 10:24:1739.神も仏も名無しさんFZwfG今年で歴史的に有名寺院巡りもゴールした今年は仁和寺と興福寺をコンプした後はマイナー寺院巡りだが興福寺と春日大社で2冊本を買い浪費したので来年春はお寺巡りは高野山一回だけで夏は京都のイスラムモスクだ😀2026/08/11 10:25:4840.神も仏も名無しさんFZwfG春日大社の歴史データの脳内まとめを準備して行ったAI検索で情報収集がかなり効率が良かった仁和寺もそうだAI検索でかなり情報効率が上がるエラーには、注意が必要だが😀2026/08/11 10:27:4441.神も仏も名無しさんFZwfGマイナー寺院巡りは京都の寺ぐらいになるイスラムモスクのほうが関心が高い😀2026/08/11 10:28:3742.神も仏も名無しさんFZwfGお盆前あたりから無料で拝観できる五劫院も行ってきたが空気が法然臭いな?と思っていたら西山派が絡んでいたその場でAI検索する思考がなかった暑さに疲れて江戸時代中期から西山派が関係その前は知恩院派家に帰って今日あたりから解ったまー法然臭い禅定を吸ってきたので情報乗せるだけだが2026/08/11 10:35:3143.◆JBLfMwCXhYQGZAQすごいな?😆2026/08/11 10:37:4144.神も仏も名無しさんFZwfG公慶上人(こうけいしょうにん) が行った不断念仏(ふだんねんぶつ) は、彼の最大の実績である「東大寺大仏殿再建」のための大勧進(寄付集め)活動と深く結びついた、組織的かつ大規模な祈願行 でした。五劫院 は鎌倉時代に東大寺を復興した俊乗房重源(ちょうげん)が創建した寺であり、江戸時代の公慶は「第二の中興開山」として重源の志を継ぎました。この歴史的文脈のもとで行われた公慶の不断念仏について、詳細を解説します。1. 公慶の「不断念仏」とは何か?不断念仏とは、昼夜を問わず途切れなく(不断)阿弥陀仏の御名を称え続ける修行 のことです。公慶はこの念仏行を、単なる個人の悟りのためではなく、「大仏殿再興の成功」と「勧進(奉加)に応じてくれた結縁者(寄付者)への回向(供養)」のために修しました。開始の時期: 貞享元年(1684年)に江戸幕府から諸国勧進の許可を得たのち、元禄期に大仏殿の本格的な再建工事が進む中で大規模に修されました。実施の場所: 奈良の東大寺境内に設けた勧進所(現在の東大寺指図堂の地にあった穀屋・龍松院) のほか、江戸(東武勧進所)や大坂に設けた大仏勧進所でも熱心に行われました。記録によると、江戸の大仏勧進所では元禄10年(1697年)6月5日から不断念仏が始まっています。2. 浄土宗との深い結びつきと組織化東大寺は伝統的に南都六宗の寺院ですが、公慶の勧進活動と不断念仏の実施には、徳川将軍家が深く帰依していた「浄土宗」の多大な支援 がありました。知恩院・増上寺の援助: 公慶は徳川綱吉の母である桂昌院の帰依を受けるため、浄土宗の最高峰である知恩院や、江戸の増上寺の協力を仰ぎました。江戸で不断念仏を本格的に開始する際には、増上寺の大僧正・貞誉(了也)がその道場を開闢(かいびゃく)しています。交替制の仕組み: 「不断」を維持するため、多くの僧侶や結縁者が時間を区切ってシフト制(結番)で次々と念仏を引き継ぎ、24時間声を絶やさない体制を維持しました。2026/08/11 10:37:5645.神も仏も名無しさんFZwfG3. 五劫院と「五劫思惟阿弥陀仏」の役割不断念仏を行うにあたって、信仰の中心的シンボルとなったのが、五劫院のご本尊である「五劫思惟阿弥陀仏(ごこうしゆいあみだぶつ)」 です。五劫思惟阿弥陀仏とは: 阿弥陀仏が法蔵菩薩だった時代、気の遠くなるような長い時間(五劫)、どうすればすべての人々を救えるかを「思惟(瞑想)」し続けた結果、髪の毛が伸びて大きなアフロヘアのようになったとされる、全国でも非常に珍しいお姿の仏像です。公慶による本尊の安置: この仏像はもともと鎌倉時代に重源上人が中国(宋)から持ち帰ったと伝えられています。公慶は東大寺復興の拠点として勧進所(龍松院)を整備した際、この五劫思惟阿弥陀仏を阿弥陀堂の本尊としてお迎えし、その御前で不断念仏を修しました。現在の五劫院: 勧進所でお祀りされていたこの仏像や公慶の遺志は、重源ゆかりの寺である五劫院へと引き継がれ、現在も秘仏(毎年8月などに特別公開)として安置されています。4. 歴史的意義:念仏が紡いだ大仏再建公慶の不断念仏は、単なる宗教行事にとどまらず、一種の巨大なイベント・セレモニーとして機能しました。「大仏さまのために、全国の人が結縁(参加・寄付)し、その人たちのために僧侶が24時間体制で念仏を唱えて功徳を回向する」 というギブ・アンド・テイクの信頼関係を生み出すことで、幕府の要人から庶民に至るまで、莫大な復興資金と物資を募ることに成功したのです。公慶は宝永2年(1705年)、大仏殿の完成を見届けることなく江戸で病没しましたが、その亡骸は奈良へと運ばれ、彼が不断念仏の信仰の拠り所とした五劫院の地に静かに眠っています。2026/08/11 10:38:3046.神も仏も名無しさんFZwfG五劫院の阿弥陀如来はアフロ🦱アタマだ😀2026/08/11 10:39:0547.神も仏も名無しさんFZwfG春旅は、どっかもう一度地味に高野山以外に行きたい気もないするがやはり資金不足だ春日大社旅行で資金がショートだ😅2026/08/11 10:41:0048.神も仏も名無しさんFZwfG来年の旅のメインディシュはイスラムモスクだ😀2026/08/11 10:41:4049.神も仏も名無しさんFZwfGやはり、興福寺南円堂と不動堂の弘法大師はセットみたいだ😀興福寺の南円堂近くの不動堂の歴史 興福寺の南円堂の東側(すぐ近く)にある不動堂は、正面に不動明王坐像を、向かって右側に弘法大師(空海)像などを安置する小堂です。堂内では日々護摩が焚かれており、庶民信仰の窓口として現在も線香の煙と煤に包まれた独特の雰囲気を伝えています。不動堂の特徴と信仰本尊と諸仏: 不動明王坐像のほか、弘法大師坐像、西国三十三所観音霊場の各札所の本尊を模した33体の観音像が祀られています。護摩の炎: お堂の内部や入口の壁が真っ黒に煤けているのは、日常的に護摩木を焚く祈願が行われているためです。庶民の祈り: 華やかな南円堂のすぐ傍らにありながら、開運や厄除けを願う人たちが気軽に護摩木を奉納できる、素朴で身近な祈りの場となっています。2026/08/11 11:03:0850.神も仏も名無しさんFZwfGこれは検索していなくてマジメに味わい損ねた😀法相宗大本山である興福寺の塔頭(子院)の一つである興善院は、蔵俊が創建した歴史を持ち、現在は南円堂の北側に位置する「一言観音堂」として人々の信仰を集めています。興善院の歴史蔵俊によって、かつての興福寺の境内に創建されました。明治時代以前は別の場所にありましたが、時代の変遷とともに境内の整理縮小があり、現在は南円堂のすぐ北側にお堂が残されています。お堂は「一言観音堂」と呼ばれ、霊験七観音の一つに数えられています。2026/08/11 11:07:4751.神も仏も名無しさんFZwfG菩提院蔵俊の阿弥陀如来信仰を理解したので興福寺の阿弥陀如来信仰のイメージはほぼ仕上がった😀2026/08/11 11:13:2352.神も仏も名無しさんFZwfGAIは生誕の時期は把握しているので知りたい内容に割合まともに回答くれる時がある😀小田原教懐は菩提院蔵俊の釈迦阿弥陀同体説と関係はあるのか +4 小田原教懐(迎接房教懐)の高野山における真言念仏や阿弥陀信仰と、興福寺の菩提院蔵俊による釈迦・阿弥陀同体説(あるいは一仏化現の思想)との間に、直接的な思想的・師弟的影響関係を示す明確な史料や研究上の実証はありません。二人の人物と背景小田原教懐(1001年 - 1093年):平安後期の高野山の念仏聖。山城国小田原(京都府)の興福寺別所に住したのち高野山に入り、両部大法や阿弥陀供養法を修して真言念仏の集団を形成しました。菩提院蔵俊(1104年 - 1180年):平安末期の興福寺の法相宗(唯識)の学匠。その教学において釈迦仏と阿弥陀仏を一体(同体)とみなす見解(『同学抄』などに伝えられる説)をとりました。関係性についての要点活動時期のずれ:教懐は11世紀に活躍した人物であり、12世紀を生きた蔵俊よりも世代的に先行しています。所属と文脈の違い:教懐は高野聖としての実践的な念仏者集団の祖であり、蔵俊は南都(奈良)で唯識教学を大成した学僧です。蔵俊の釈迦・弥陀同体説は南都仏教界の教義解釈の文脈で語られることが多く、教懐の伝承や聖(ひじり)の信仰運動に直接結びついたとする記録はありません。2026/08/11 11:18:2353.神も仏も名無しさんFZwfGま、たぶん空也→恵心僧都と教懐→蔵俊の関係に近いんやろなと推察はできる😀2026/08/11 11:20:5354.神も仏も名無しさんFZwfGAIで調べたいほど関心がないだいたい、そーいう念仏の行者から念仏の教学者みたいな恵心僧都パターンあるあるだからだ念仏聖→覚鑁もあるし😀2026/08/11 11:22:27
【唯識三年】仏教ウンチクを語るスレ 10【倶舎八年】
https://talk.jp/boards/psy/1759535455
【ブッダの教え】初期仏教【ヴィパッサナー瞑想】 Part2
https://talk.jp/boards/psy/1779968091
仏教がわかってきた人のスレ vol.36
https://talk.jp/boards/psy/1772577344
「これが仏教である」という釈迦の教えのブランド・認定印のような役割を果たします。
1、諸行無常(しょぎょうむじょう)
この世のあらゆる現象や形成されたものは常に変化し、不変なものはないという真理。
2、諸法無我(しょほうむが)
すべての事象(諸法)は、互いに依存し合って存在しており、単独で不変の「自分(我)」という実体はないという真理。
3、涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)
無常で無我な世の中(執着、欲望)から離れ、迷いが消えた「悟り」の境地は静やかな安らぎであるという真理。
補足事項
これに「一切皆苦(いっさいかいく:すべては苦である)」を加えて「四法印」と呼ぶこともあります。
生きることは本質的に苦である。
生きるということは、苦を背負って日々を過ごすことだ。
どこかの心優しい神様が、手をさしのべて
助けてくれるなんてことはない。
集諦(じったい)
あらゆる出来事は必ず何らかの原因によって起こる。
苦の原因は煩悩である。
満足が得られないから、苦しくなっていく。
滅諦(めったい)
煩悩を消すことで苦が滅する。
この世で起こっているものはすべてうつろう。
現実をありのままに受け入れ、その世界に耐えるべく、
自分の価値観・世界観を変えていく。
この世の一切の事物は自分のものではないと自覚する。
道諦(どうたい)
煩悩をなくし、悟りを得るための方法がある。
それが、聖なる八つの正しい道である。
正見(しょうけん): 正しい見解。四諦を理解し、偏見なく真理を見ること
正思惟(しょうしゆい): 正しい考え。欲望や怒り、害意を離れた思いを持つこと
正語(しょうご): 正しい言葉。嘘、誹謗中傷、陰口、無駄話をしないこと
正業(しょうごう): 正しい行い。人に迷惑をかけず、殺生や盗みなどをしないこと
正命(しょうみょう): 正しい生活。規則正しく健全な職業や生活を送ること
正精進(しょうしょうじん): 正しい努力。怠らず、正しい道を歩む努力をすること
正念(しょうねん): 正しい気づき。常に理性的な心を保ち、今に集中すること
正定(しょうじょう): 正しい精神統一。瞑想などを通じ、心を安定させること
生きとし生きるもの(衆生 しゅじょう)が皆、如来を胎内に宿しているという思想
如来すなわち仏になる可能性は仏性(ぶっしょう)ともいわれるが、それがすべての生きものにそなわっているという教え(一切衆生、悉有仏性)
「こんなの仏教じゃない」という人と、「これでこそ仏教だ」という人の両方がいる
東アジアに広がり、日本仏教の基盤となった
「仏教とはこういうものだ」と、日本では思われていた
↓
天台本覚思想
衆生は誰でも仏になれるということ、あるいは、元から悟っているという、鎌倉~室町時代に流行し日本の仏教界に定着した思想
衆生の誰もが本来、如来我・真我・仏性を具えている(本来、覚っている)が、生まれ育つと
次第に世間の煩悩に塗(まみ)れ、自分が仏と同じ存在であることがわからなくなっていく・・・ということである
やがて、人間は誰もが悟っているのだから、修行する必要もなければ戒律も守る必要がない、凡夫は凡夫のままでよい、などという急進的な解釈がされるようになった
「無明と共に輪廻が始まる」とする初期仏教の釈迦の教えからは遠いところに来てしまった
日本では、「仏教とはこういうものだ」と思われていた
テンプレはここまで
チラ読みしてもオモシロかった
末法時代なので弥勒の兜率天や観音の補陀落浄土に往生したい貞慶と春日権現との関係とか
俺は春日権現で成唯識論を読みながら
弥勒の兜率天浄土をこちらから
展開していたよーなもん
やってる時はそんなことを意識しなかったが
当然、その後の春日権現からの霊的パワーはリアクションしてくれる
😀
神主の朝拝ですら神道形式の霊的ゾーンもかなり入ったのが先で
その後の特別拝観の御蓋山遥拝所で
成唯識論10章をやった後の感覚と
神主の朝拝の霊感とは
当然違う
😀
ある種の天台本覚思想と対極にある
戒律復興運動だ
😀
インド中国の悟りの仏教イコールではない
弥勒の兜率天往生や
観音の補陀落浄土往生の為の
必要アイテムが戒律を守るということ
😀
成唯識論10章黙読しながら
こちらから弥勒の兜率天浄土を展開していたみたいなものだ
😀
オモシロい
行く前には気づいていなかった
残念😅
明治以前の春日若宮社と修験道の行事を詳しく +5 明治以前の奈良・春日社の摂社である春日若宮社の祭礼(おん祭など)では、神仏習合の時代背景のもと、興福寺の社僧や南都の修験者(山伏)が深く関与し、護摩供や法楽などの仏教・修験道儀礼が神事と一体になって執り行われていました。明治以前の春日若宮社と神仏習合本地垂迹と若宮: 若宮の神は天押雲根命とされ、中世の本地垂迹思想では神仏混淆のなかで祀られていました。興福寺との関係: 春日社は興福寺の支配・影響下にあり、祭礼の運営には僧侶や社僧が大きな役割を果たしていました。修験道の関与: 奈良周辺の山岳信仰や修験者(金峯山等)は、春日・奈良の諸行事において、松明の先導や法螺貝の奏上などを通じて神仏の和合や調伏・祈願を担っていました。修験道および仏教的色彩を持つ行事の展開おん祭(保延2年・1136年開始)での習合芸能: 天下泰平や万民和楽を祈る「春日若宮おん祭」では、神職だけでなく、多様な宗教者や芸能民が参列しました。大宿所祭と祈祷: 祭礼の進行を支える大和士や関係者の潔斎・安全祈願において、密教・修験的な加持祈祷や「御湯立」などの浄化儀礼が行われていました。神事芸能の奉納: 猿楽(能楽)、田楽、舞楽などの中世芸能が神様に奉納されましたが、これらはもともと寺社に属する衆徒や法師、聖(ひじり)といった宗教者・芸能者が担ってきたものです。
禅定カマシたあとに
春日権現降臨みたいなノリで
今日も春日大社研究が止まっていない
春日権現記絵巻では
春日権現が高僧や巫女さんに降りると
あるが
😀
キリスト教あたりを研究するか?
と思いきや
やはり未知の部分があった
若宮社関連は謎を探求しきっていなかった
😀
成唯識論禅定カマシたあとの
春日権現のリアクションが脳裏からはなれられん
😀
絵の世界が完成された
若宮社の修験道味わいが少し濃くできなかったのが残念だが
下調べが不足していた
😀
余裕で脳内で昔から完成てきているが
😀
三密に入れる
😀
春日権現の三密だ
😀
それ以前の高僧の公慶の修行に関して
AIをかけてみると
五劫院公慶の修行経歴に関して詳しく +5 江戸時代前期の三論宗の僧侶である公慶(1648〜1705年)は、丹後国宮津で生まれ、東大寺で三論宗を学びました。その後、鎌倉時代の重源の足跡(南都焼討ち後の復興)を強く慕い、荒廃していた東大寺大仏および大仏殿の再建に生涯のすべてを捧げました。出家と学問・修行三論宗の学習: 奈良・東大寺に入り、日本の仏教の基礎となる古学、特に空の思想を説く三論宗の教義を深く学びました。重源の精神的継承: 平安末期から鎌倉初期に東大寺を再建した勧進聖・俊乗坊重源の業績に深く共鳴し、その不屈の勧進(寄付集め)の精神を自らの修行と実践の規範としました。大仏復興・勧進の修行悲願の発願: 永禄10年(1567年)の戦火で焼失し、100年近く雨ざらしになっていた東大寺大仏の惨状を見て、大仏および大仏殿の再興を発願しました。諸国勧進の実行: 37歳のとき江戸幕府に再興を願い出たのち、自ら全国を巡って寄付を募る「勧進」の行を実践しました。生駒山の法楽寺などを拠点に祈願や布教も行っています。不断念仏の実践: 奈良・江戸・大坂に勧進所を設け、結縁者のため絶やさず念仏を唱える修行と教化活動を行いました。徳川家(特に将軍生母・桂昌院ら)の帰依も得て、多大な援助を引き出すことに成功しています。
三論宗からイメージするしかない
お墓があるのは知ってたが
墓参りすれば情報得られたかもしれんが
そのアタマが働かなかった
それ以前に三論宗をやっていたとは知らなかった
😀
五劫院公慶と春日若宮社に関しては
下調べが不足していた
😀
西山派が入る前は
五劫院公慶は浄土宗知恩院派の影響が濃かったのか〜
かなり五劫院は浄土宗歴が長いな、
重源の内部の一部の法然路線に近い影響があったようだ
五劫院公慶の不断念仏の教義を詳しく +3 江戸時代に東大寺の大仏・大仏殿の再興に生涯をささげた公慶上人(こうけいしょうにん)は、鎌倉時代の重源(ちょうげん)にならい、浄土宗の教えに基づく「不断念仏(ふだんねんぶつ)」を勧進活動や回向(えこう)の柱としました。公慶の不断念仏の背景と実践東大寺復興と念仏:公慶は、荒廃した東大寺の大仏修復および大仏殿再建の資金集め(勧進)を行う際、江戸や大坂、そして奈良の拠点において、寄進者や結縁者の追善・廻向のために昼夜を分かたず「不断念仏」を修しました。浄土宗との深い繋がり:公慶は知恩院などの浄土宗諸寺院や高僧(貞誉了也など)から浄土宗の教義や深い薫陶を受けており、その信仰的基盤には法然上人以来の念仏の伝統が息づいていました。五劫思惟(ごこうしゆい)の信仰五劫思惟阿弥陀仏:公慶が拠点のひとつとした勧進所(現在の五劫院などのルーツ)には、阿弥陀仏が法蔵菩薩であったころに「五劫」という途方もなく長い時間をかけて衆生救済の願を思惟した姿とされる「五劫思惟阿弥陀仏」が祀られました。教義の本質:この長い思惟の末に立てられた本願による念仏は、人間の善悪や能力の差を問わず、ただ称える者を等しく救うという平等な救済(他力本願)を意味します。公慶の行った不断念仏は、この果てしない弥陀の慈悲と一体となり、民衆とともに大仏再興という大事業を成し遂げるための祈りの実践でした。
東大寺を再建した有名人物である
😀
第三殿。藤原氏の祖神(河内国平岡の神)
天児屋命(あめのこやねのみこと)
『古事記』には岩戸隠れの際、岩戸の前で祝詞を唱え、天照大御神が岩戸を少し開いたときに布刀玉命とともに鏡を差し出した。天孫降臨の際邇邇芸命に随伴し、中臣連の祖となったとある。
武甕槌命 - 第一殿。藤原氏守護神(常陸国鹿島の神)
神武東征を手づだっているね。
経津主命 - 第二殿。同上(下総国香取の神)
古事記には出ていない。
比売神 - 第四殿。天児屋根命の妻(同上)。ただし、その正体は天照大御神であるとの説がある。
神武東征を手づだっているね。
経津主命 - 第二殿。同上(下総国香取の神)
古事記には出ていない。
この辺は調べると多分面白い。滅ぼした側、滅ぼされた側。
夕、久しぶり
😀
成唯識論第10章の現在語訳二回
黙読奉納した
😀
あれだけは心残りだ
😀
あめのこやねは、あまてらすが岩戸から出すために、祝詞を唱えていた
明治以前の藤原氏独占だった
春日権現記絵巻の神話を元に
やったのさー
成唯識論を読むのは
😀
春日権現記絵巻に出てくる高僧僧侶よりも
興福寺の禅定の完成体を上げた禅定をぶっ込みながら
成唯識論の現在語訳を黙読したわけか、
リアクションはデカイのが来た
朝拝の神主の祝詞なども、その前に参加したけどな
朝8時50分前に社殿近くで待ってれば
無料で参加てきる
😀
キテたのも確かだが
御蓋山遥拝所での成唯識論第10章の現在語訳を黙読した時の感覚が
めちゃんこハマった
😀
😀
歴史的に有名寺院巡りもゴールした
今年は仁和寺と興福寺をコンプした
後はマイナー寺院巡りだが
興福寺と春日大社で2冊本を買い浪費したので
来年春はお寺巡りは高野山一回だけで
夏は京都のイスラムモスクだ
😀
AI検索で情報収集がかなり効率が良かった
仁和寺もそうだ
AI検索でかなり情報効率が上がる
エラーには、注意が必要だが
😀
京都の寺ぐらいになる
イスラムモスクのほうが関心が高い
😀
五劫院も行ってきたが
空気が法然臭いな?
と思っていたら西山派が絡んでいた
その場でAI検索する思考がなかった暑さに疲れて
江戸時代中期から西山派が関係
その前は知恩院派
家に帰って今日あたりから解った
まー法然臭い禅定を吸ってきたので情報乗せるだけだが
アフロ🦱アタマだ
😀
高野山以外に行きたい気もないするが
やはり資金不足だ
春日大社旅行で資金がショートだ
😅
イスラムモスクだ
😀
😀
興福寺の南円堂近くの不動堂の歴史 興福寺の南円堂の東側(すぐ近く)にある不動堂は、正面に不動明王坐像を、向かって右側に弘法大師(空海)像などを安置する小堂です。堂内では日々護摩が焚かれており、庶民信仰の窓口として現在も線香の煙と煤に包まれた独特の雰囲気を伝えています。不動堂の特徴と信仰本尊と諸仏: 不動明王坐像のほか、弘法大師坐像、西国三十三所観音霊場の各札所の本尊を模した33体の観音像が祀られています。護摩の炎: お堂の内部や入口の壁が真っ黒に煤けているのは、日常的に護摩木を焚く祈願が行われているためです。庶民の祈り: 華やかな南円堂のすぐ傍らにありながら、開運や厄除けを願う人たちが気軽に護摩木を奉納できる、素朴で身近な祈りの場となっています。
マジメに味わい損ねた
😀
法相宗大本山である興福寺の塔頭(子院)の一つである興善院は、蔵俊が創建した歴史を持ち、現在は南円堂の北側に位置する「一言観音堂」として人々の信仰を集めています。興善院の歴史蔵俊によって、かつての興福寺の境内に創建されました。明治時代以前は別の場所にありましたが、時代の変遷とともに境内の整理縮小があり、現在は南円堂のすぐ北側にお堂が残されています。お堂は「一言観音堂」と呼ばれ、霊験七観音の一つに数えられています。
興福寺の阿弥陀如来信仰のイメージは
ほぼ仕上がった
😀
知りたい内容に割合まともに回答くれる時がある
😀
小田原教懐は菩提院蔵俊の釈迦阿弥陀同体説と関係はあるのか +4 小田原教懐(迎接房教懐)の高野山における真言念仏や阿弥陀信仰と、興福寺の菩提院蔵俊による釈迦・阿弥陀同体説(あるいは一仏化現の思想)との間に、直接的な思想的・師弟的影響関係を示す明確な史料や研究上の実証はありません。二人の人物と背景小田原教懐(1001年 - 1093年):平安後期の高野山の念仏聖。山城国小田原(京都府)の興福寺別所に住したのち高野山に入り、両部大法や阿弥陀供養法を修して真言念仏の集団を形成しました。菩提院蔵俊(1104年 - 1180年):平安末期の興福寺の法相宗(唯識)の学匠。その教学において釈迦仏と阿弥陀仏を一体(同体)とみなす見解(『同学抄』などに伝えられる説)をとりました。関係性についての要点活動時期のずれ:教懐は11世紀に活躍した人物であり、12世紀を生きた蔵俊よりも世代的に先行しています。所属と文脈の違い:教懐は高野聖としての実践的な念仏者集団の祖であり、蔵俊は南都(奈良)で唯識教学を大成した学僧です。蔵俊の釈迦・弥陀同体説は南都仏教界の教義解釈の文脈で語られることが多く、教懐の伝承や聖(ひじり)の信仰運動に直接結びついたとする記録はありません。
空也→恵心僧都
と
教懐→蔵俊の
関係に
近いんやろな
と推察はできる
😀
だいたい、そーいう
念仏の行者から念仏の教学者みたいな
恵心僧都パターンあるあるだからだ
念仏聖→覚鑁もあるし
😀