仏のスレ83アーカイブ最終更新 2026/08/11 02:091.ペニスマン🤡でおー5kYc4勝手にしやがれ!仏のスレ80https://talk.jp/boards/psy/1781779174仏のスレ81https://talk.jp/boards/psy/1782119415仏のスレ82https://talk.jp/boards/psy/17822071332026/06/28 14:50:061000すべて|最新の50件953.◆JBLfMwCXhYd77xI292 麦◆MUGITANx95Dj 2026/08/10(月) 16:21:38.99 ID:9zwrF∞ノノハ∞川^○^ハレ阿頼耶識が転識得智して大円鏡智になると能取と所取ではない?唯識無境との関係 +1AIより結論から言うと、阿頼耶識(あらやしき)が「大円鏡智(だいえんきょうち)」へと転換(転識得智)した境地においては、もはや「能取(のうしゅ:認識する主観)」と「所取(しょしゅ:認識される客観)」の対立はありません。この状態こそが、唯識思想の根本である「唯識無境(ゆいしきむきょう)」が完全に、歪みなく具現化した究極の姿です。その理由と、唯識無境との深い関係性について、構造を分かりやすく解説します。2026/08/10 20:34:36954.◆JBLfMwCXhYd77xI293 麦◆MUGITANx95Dj 2026/08/10(月) 16:23:37.66 ID:9zwrF∞ノノハ∞川^○^ハレ1. 能取と所取が消える理由通常の(悟りを開く前の)阿頼耶識は、本質的に「能取」と「所取」に分裂して働いています。通常の阿頼耶識:自分という主観(能取)にしがみつき、対象世界(所取)を「外側に実在するもの」と誤認する根本原因。大円鏡智の境地:汚れ(煩悩や執着)が完全に消え去った状態。大円鏡智は「大きな丸い鏡」に例えられます。鏡は、ただ目の前にあるものをありのままに映し出すだけで、「これは自分、あれは他人」という主観・客観の対立(能取・所取)を持っていません。したがって、大円鏡智においては主客の対立を超越した一つの智慧の輝きだけがあり、能取と所取の関係性は消滅します。2. 「唯識無境」との決定的な関係「唯識無境(ただ識のみあって、外界の対象=境はない)」という言葉は、大円鏡智に達して初めて完璧に証明されます。凡夫(未熟な状態)の唯識私たちは頭の中で「すべては心の現れ(唯識)だ」と理解することはできます。しかし、実際には目の前の壁や他人が「外側に本当に存在する」と感じてしまいます(=能取・所取の罠にハマっている状態)。これはまだ、阿頼耶識が曇っているためです。大円鏡智(悟りの状態)の唯識阿頼耶識が完全に浄化されて大円鏡智になると、「外界(境)が実在する」という錯覚が根本から消え失せます。鏡に映る映像(世界)は、鏡(心・識)そのものの変化である。鏡の外側に、独立した物質世界があるわけではない。これが「唯識無境」の真実の体得です。「外界の対象(境)がない」からこそ、それを認識しようとする「主観(能取)」も同時に消滅し、ただ純粋な一なる智慧(大円鏡智)だけが残るのです。3. 構造のまとめ転識得智の前(阿頼耶識)構造:能取(主観) ? 所取(客観・外界の錯覚)状態:唯識の真理に気づかず、二元対立の世界に迷っている。転識得智の後(大円鏡智)構造:主客一如(能取も所取もない)状態:「唯識無境」が完全に実現し、ありのままの世界が鏡のように映し出されている。このように、阿頼耶識が大円鏡智になることと、能取・所取が消滅して唯識無境が完成することは、全く同じ事態を別の角度から表現したものと言えます。2026/08/10 20:35:22955.◆JBLfMwCXhYd77xI麦というより、AIではないか😅2026/08/10 20:35:48956.神も仏も名無しさんY5Eugハッスル🤡と内容は同じか違うかとても気になる😀2026/08/10 20:36:25957.安堂57sh7AI何か役に立つかよw0と1で成り立ってる機械だ。それが無いのが法界。君見ずや目玉に見えぬ暗道を2026/08/10 20:39:14958.◆JBLfMwCXhYd77xI>>944> >>943> 仏教居士のひとりごと Part5における> 麦の唯識は> ハッスル🤡と同じか?> ご意見を聞きたい> 😀ハッスル居士の唯識っていったら、例の「識など、本当は無い。それが、唯識の教えなのだ」とかなんとかいう、アレか?AIがそれに賛成するわけがない(笑)2026/08/10 20:39:16959.◆JBLfMwCXhYd77xI>>954> 2. 「唯識無境」との決定的な関係「唯識無境(ただ識のみあって、外界の対象=境はない)」という言葉は、大円鏡智に達して初めて完璧に証明されます。「唯識無境(ただ識のみあって、外界の対象=境はない)」↑これこそ、本来の唯識論だそれに対して、セイウン居士殿は「識など、本当は無い」に妙にコダワッているだから、両者の主旨は異なる2026/08/10 20:43:00960.神も仏も名無しさんY5Eugサンクス取り敢えず別人説のようだ😅2026/08/10 20:45:57961.◆JBLfMwCXhYd77xI唯識論というのは、その名の通り「唯だ(ただ)、識のみが有る」という論だ「識は有る」そう思ってなきゃ、唯識の徒ではない2026/08/10 20:51:02962.◆JBLfMwCXhYd77xIただし、阿頼耶識は一定していない「暴流のように」、絶えず変化し続けるつまり、「固定的な実体」ではないい「識もまた、空である」というのは、そういうことだ「識など、本当は無い」という意味ではない2026/08/10 20:52:39963.◆JBLfMwCXhYd77xI「永遠不変の固定的な実体ではない」というのと「本当は無い」というのとでは、まるきり異なる残念ながら居士殿には、その辺りのニュアンスの違いを感じ取る微細なセンスが無い2026/08/10 20:55:01964.神も仏も名無しさんY5Eug麦はなんであんなバカのハッスル🤡を信用できるのか?謎だ😅2026/08/10 21:00:13965.◆JBLfMwCXhYd77xI居士殿は、「大学で宗教史を専攻した」そうだが彼には無理な分野だ昭和時代に、「違いがわかる男」というコーヒーのCMがあったが彼には、異なる宗派の思想の違いが分からない全部、禅宗に見えてしまっている進む道をまちがえたのが、悲劇の始まりだった2026/08/10 21:02:41966.神も仏も名無しさんY5Eugディグナーガ禅宗とかいう謎の西洋哲学かぶれの変なのだ😅2026/08/10 21:13:34967.神も仏も名無しさんPcLL5> 2. 「唯識無境」との決定的な関係「唯識無境(ただ識のみあって、外界の対象=境はない)」という言葉は、大円鏡智に達して初めて完璧に証明されます。これがヨガで言う原因身原因身イコール阿頼耶識原因身が無種子になって、縁起の業種子が一時的に無くなるとチッタアーカシャーという意識スクリーン=空間が白く光るというこれが唯識での大円鏡智とイコール何故なら、そこが阿羅漢の境地だから。2026/08/10 21:37:36968.安堂57sh7識なんかあるわけねーだろ。三島由紀夫みたいに唯識にはまって切腹しますか(⌒‐⌒)2026/08/10 22:05:04969.神も仏も名無しさんPcLL5安堂って2次元に活きてるのか?3地毛んなら空間持ってるだろうそれが識だよ~ん2026/08/10 22:09:11970.神も仏も名無しさんKbWka現実主義2026/08/10 22:23:45971.神も仏も名無しさんGJfVGちょいちょい私がこういうことを言ったと言われてるようですが、私はお茶を飲んでくださいという主旨のことしか言ってませんよ言うほど私はお茶を飲まないんだけどね飲んでも麦茶くらいでもっぱらコーヒーを飲みますね私の修行はこの飲むこと 味わうこともう少し大きい概念で言うとただ生きることが修行です あとはみなさんが仰るようなことは何も言ってませんので一応言っておきますこれはこう言うことだ、ああ言うことだと色々仰られてますが私はそんなこと言ってませんので悪しからず笑老師なら色々、言及してくれると思いますが私は老師とは違うし、文字なので誤解のないようにしたいので説明は極力しないようにしてます2026/08/10 23:41:16972.神も仏も名無しさんGJfVG私が言った以上のことをあれこれ言ってるのは誤解してるということですただ飲む 味わう それ以上のことなんかないでしょ2026/08/10 23:43:26973.神も仏も名無しさんGJfVGまぁもしこれ以外のことを言ってるとしたら更新しておいてください笑私が言いたいのはこれだけのことですから2026/08/10 23:47:23974.リダン◆3y/i8XtGLYhkHxx>>961「識は有る」というより「識の現れ」ということではないだろうか唯識の集団も阿頼耶識が有るといいだしたのは阿頼耶識を置かないと説明ができないからだだから有るというよりは唯識論の前半部をもちいて阿頼耶識を置く重要性を延々と語ってる2026/08/11 00:13:50975.リダン◆3y/i8XtGLYhkHxxたがら阿頼耶識が先に、あるいは絶対的に有るということではなく説明モデルとして置いていると言うこと2026/08/11 00:15:03976.リダン◆3y/i8XtGLYhkHxxまあ、これが説明モデルという「そう呼ぶ」2026/08/11 00:17:44977.リダン◆3y/i8XtGLYhkHxx説明モデルという「そう呼ぶ」しかないという仮名、仮設、仮有ってことね2026/08/11 00:18:25978.リダン◆3y/i8XtGLYhkHxx例えばクラウドっていう空間が実際にあるわけではなく便宜上、説明モデルとしてクラウドと名付けて示してるってことと同じ2026/08/11 00:19:36979.リダン◆3y/i8XtGLYhkHxx龍樹が便宜上、仮名として「空」を置いて説明するのと同じというわけだな2026/08/11 00:23:31980.リダン◆3y/i8XtGLYhkHxxJBLはどうにも以前からこのあたりが苦手なようだな2026/08/11 00:27:51981.リダン◆3y/i8XtGLYhkHxx流石、中論嫌いなだけあるウィキで済ますからそうなるセンスないのはどちらかと言えばJBLだな2026/08/11 00:47:13982.◆JBLfMwCXhYDN3vt>>971> 私の修行はこの飲むこと 味わうこと> もう少し大きい概念で言うとただ生きることが修行です良いとか悪いとか、正しいとか間違ってるとかは別にしてそれだと、もはや「仏教」ではないんじゃないかな「老荘っぽい仏教」を通り越して、「仏教っぽい老荘思想」になっている2026/08/11 01:35:30983.◆JBLfMwCXhYDN3vt>>971> 老師なら色々、言及してくれると思いますが私は老師とは違うし、> 文字なので誤解のないようにしたいので説明は極力しないようにしてます仏教は幅の広い宗教だし、いろんな意見はあるけれど「仏教の教義知識は有害無益である。知らないほうが悟りが早い」というのは、いくらなんでも言いすぎだそこまで真っ向から仏教の教義を否定するのなら、「仏教の宗派」という看板を外すのが筋だろう「瞑想セミナー」という看板を掲げるべきだ2026/08/11 01:38:54984.◆JBLfMwCXhYDN3vt>>975−979だから、それが唯識派の思想ではない中観派が、対立する唯識派を否定するときの伝統的な論法なんだっつ~の分かんねえ奴っちゃなあ(笑)2026/08/11 01:41:23985.◆JBLfMwCXhYDN3vtそれはともかく、どうなんだろなちと、AIにも意見を聞いてみるか2026/08/11 01:43:46986.◆JBLfMwCXhYDN3vt禅宗に、このような考え方はあるか?当方には、これはもはや仏教ではない老荘思想そのものに見える「老荘と習合した仏教」ですらない純粋な老荘思想に見える↓971 神も仏も名無しさん 2026/08/10(月) 23:41:16.53 ID:GJfVGちょいちょい私がこういうことを言ったと言われてるようですが、私はお茶を飲んでくださいという主旨のことしか言ってませんよ言うほど私はお茶を飲まないんだけどね飲んでも麦茶くらいでもっぱらコーヒーを飲みますね私の修行はこの飲むこと 味わうこともう少し大きい概念で言うとただ生きることが修行です あとはみなさんが仰るようなことは何も言ってませんので一応言っておきますこれはこう言うことだ、ああ言うことだと色々仰られてますが私はそんなこと言ってませんので悪しからず笑老師なら色々、言及してくれると思いますが私は老師とは違うし、文字なので誤解のないようにしたいので説明は極力しないようにしてます2026/08/11 01:45:54987.◆JBLfMwCXhYDN3vtチャットGPT:うん、この発言だけを読むなら、かなり老荘思想的だと思う。特にポイントは、「この飲むこと 味わうこと」「もう少し大きい概念で言うとただ生きることが修行」というところ。これは仏教の修行論として読むより、老荘の「作為を離れて、ありのままに生きる」思想として読むほうが、ずっと自然だ。2026/08/11 01:47:25988.◆JBLfMwCXhYDN3vtかなり老荘的なところ老荘思想では、何か特別な宗教的目的を設定して、「こう修行すれば悟りに至る」という方向をむしろ警戒する。『荘子』的に言えば、人為的な価値判断や作為をどんどん脱落させ、物事をそのままに任せる。だから、「お茶を飲むなら、お茶を飲む。ただ味わう。それ自体が修行」という発想は、禅にも似ているけれど、さらに突き詰めて、「そもそも修行とは何なのか? ただ生きていることそのものではないか」となると、かなり老荘寄りになる。しかも、「これはこう言うことだ、ああ言うことだと色々仰られてますが私はそんなこと言ってません」という部分も面白い。これも、言葉によって固定的な教義を作ることへの距離感が非常に強い。2026/08/11 01:48:02989.◆JBLfMwCXhYDN3vtただし「仏教ではない」と断定するなら、もう一段注意が必要というのも、「ただお茶を飲む」「ただ生きる」だけなら、禅にも非常に近いから。たとえば禅には、日常の行為そのものが修行という発想が普通にある。だから、仏教 → 禅 →「日常そのものが修行」というルートも十分成立する。ただ、この引用には、仏教固有の枠組み――苦無常無我縁起戒四念処解脱輪廻などがほとんど出てこない。そこを全部外して、「飲む。味わう。ただ生きる。それ以上説明しない」まで行くと、確かに仏教的修行論というより、老荘的な生き方の哲学に近づいてくる。なので、あなたの以前の言い方を使うなら、「老荘化した仏教」より、さらに一歩進んで「仏教的な語彙をまとった老荘思想」と見るほうが、この発言には近いかもしれない。特に「ただ生きる」という一点は、仏教の「生から解脱する」という方向とは、かなりベクトルが違うんだよね。そこが決定的に面白いところだと思う。2026/08/11 01:48:33990.◆JBLfMwCXhYDN3vt質問:なるほどやはり、禅宗にも、これに近い発想はあるんだな?2026/08/11 01:49:35991.◆JBLfMwCXhYDN3vtチャットGPT:うん、かなり近い発想は禅宗にある。むしろ、この発言が一見すると「禅っぽい」と感じられるのは、そこだと思う。たとえば禅では、お茶を飲むなら、ただお茶を飲む歩くなら、ただ歩く食べるなら、ただ食べる掃除するなら、ただ掃除するというように、日常の行為そのものを修行とする発想がある。有名な「平常心是道」も、その方向性だね。ただ、ここには重要な違いがある。2026/08/11 01:51:17992.◆JBLfMwCXhYDN3vt禅の場合「ただお茶を飲む」は、日常生活そのものの中で、執着や分別を離れていくという仏教的な修行の文脈に置かれる。つまり、お茶を飲む → 無心・無住・平常心 → 仏道という方向がある。曹洞宗の「只管打坐」なども、座禅を何か別の目的のための手段としてではなく、坐ることそのものとして捉える。今回の発言ところが引用では、「私の修行はこの飲むこと 味わうこと」「もう少し大きい概念で言うとただ生きることが修行」となっている。ここまで来ると、「日常生活そのものが修行」という禅的発想と、「作為せず、あるがままに生きる」という老荘的発想が非常によく似てくる。そして仏教固有の「苦・無常・無我・縁起・解脱」という説明をほとんどしないなら、あなたが感じたように、禅というより老荘のほうへ重心が移って見える。2026/08/11 01:52:02993.◆JBLfMwCXhYDN3vt要するに、「お茶を飲むことも修行」→ 禅に十分ある。「ただ生きること自体が修行」→ 禅にもある。「それ以上の教義的説明はしない」→ 老荘的色彩がかなり濃くなる。という感じ。だから、この人の発言を「禅っぽい」と感じるのは間違いではない。ただし、禅の背景にある仏教的な解脱論まで抜いてしまうと、老荘思想とかなり見分けにくくなるんだよね。2026/08/11 01:52:26994.◆JBLfMwCXhYDN3vt質問:なるほど禅宗として、別におかしくないのか2026/08/11 01:53:32995.◆JBLfMwCXhYDN3vtチャットGPT:そう。禅宗として別におかしくない。むしろ、かなり典型的な禅の一側面とも言える。ただし、ポイントは「禅宗の全体を語っているわけではない」ということ。禅には、「特別なことをするのではなく、目の前の行為をそのまま行う」という強い伝統がある。だから、「お茶を飲むこと、味わうこと。それが修行」という言い方自体は、十分に禅宗の範囲内。特に禅では、修行を「悟りという未来の状態を獲得するための手段」とだけ考えない。修行しているその行為そのものに仏道が現れている、という考え方がある。なので、「ただお茶を飲む」→「ただ生きる」→「それ自体が修行」という流れは、禅として成立する。2026/08/11 01:54:22996.◆JBLfMwCXhYDN3vtただ、あなたが最初に感じた、「これ、仏教というより老荘思想じゃないか?」という感覚も、かなり分かる。なぜなら、この発言では仏教固有の教理をほとんど語っていないから。したがって、正確には、「禅宗としておかしくない。ただし、仏教的背景をほとんど説明せず、禅の『日常即修行』という部分だけを前面に出すと、老荘思想と非常によく似てくる」というところだと思う。そして実際、中国禅そのものが老荘思想との接触の中で形成されたので、この両者が似ているのは偶然でもない。ここはかなり面白いところだね。2026/08/11 01:55:01997.神も仏も名無しさんsQIjO馬鹿丸出しである、2026/08/11 01:57:49998.◆JBLfMwCXhYDN3vt質問:まあ、確かに「仏教ではない」とまでは言えないな本物の老荘思想は、もっと、ずっとユルい思想だ修行としての切迫感が異なる2026/08/11 02:08:09999.◆JBLfMwCXhYDN3vtチャットGPT:そう。そこはかなり重要な違いだと思う。老荘思想は「修行」という言葉を使っていても、仏教の修行とは切迫感が違う。仏教の場合、苦がある↓苦には原因がある↓原因を滅する↓解脱するという、かなり問題解決型・救済型の構造がある。輪廻から抜け出す、煩悩を滅する、無明を破る――となると、これは相当に切迫している。それに対して老荘は、「そんなに力んで何になる?」「人為を加えすぎるから、かえっておかしくなる」「もっと自然に任せればいい」という感じになる。だから、極端に言えば、仏教:「このままでは輪廻が続く。何とかしなければ」老荘:「何とかしようとする、その力み自体をやめたら?」という違いがある(笑)。2026/08/11 02:09:391000.◆JBLfMwCXhYDN3vt今回の発言の「飲むこと、味わうこと」「ただ生きることが修行」には、確かに後者の匂いがかなりある。ただ、本人が禅宗の修行者なら、これは**「仏教的な解脱論を否定している」のではなく、あえてそこを説明せず、実践面だけを語っている**可能性もある。だから結局、「老荘的に聞こえる」ことと「老荘思想そのものである」ことは別。そしてあなたの言う通り、本物の老荘思想はもっとユルい。『荘子』なんて、そもそも「悟らなければならない!」という感じがほとんどない。むしろ、そんな「悟らなければ」という構えすら、人為(為)ではないかと笑い飛ばしてしまう。この違いは、禅を理解するうえでもかなり面白いところだと思う。2026/08/11 02:09:511001.Talk ★???このスレッドはコメントが1000件を超えました。新しいスレッドを立ててください。2026/08/11 02:09:511002.Talk ★???【プレミアムサービス無料期間延長!】プレミアムの無料期間を2026/9/30まで延長することになりました。広告除去や規制緩和など、ヘビーユーザーにとって欠かせない機能を無料でお楽しみいただけます。是非この機会にプレミアムサービスをお試しください!▼プレミアムサービスはこちらからhttps://talk.jp/premium2026/08/11 02:09:51
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∞ノノハ∞
川^○^ハレ阿頼耶識が転識得智して大円鏡智になると能取と所取ではない?唯識無境との関係 +1
AIより
結論から言うと、阿頼耶識(あらやしき)が「大円鏡智(だいえんきょうち)」へと転換(転識得智)した境地においては、もはや「能取(のうしゅ:認識する主観)」と「所取(しょしゅ:認識される客観)」の対立はありません。この状態こそが、唯識思想の根本である「唯識無境(ゆいしきむきょう)」が完全に、歪みなく具現化した究極の姿です。その理由と、唯識無境との深い関係性について、構造を分かりやすく解説します。
∞ノノハ∞
川^○^ハレ
1. 能取と所取が消える理由通常の(悟りを開く前の)阿頼耶識は、本質的に「能取」と「所取」に分裂して働いています。通常の阿頼耶識:自分という主観(能取)にしがみつき、対象世界(所取)を「外側に実在するもの」と誤認する根本原因。大円鏡智の境地:汚れ(煩悩や執着)が完全に消え去った状態。大円鏡智は「大きな丸い鏡」に例えられます。鏡は、ただ目の前にあるものをありのままに映し出すだけで、「これは自分、あれは他人」という主観・客観の対立(能取・所取)を持っていません。したがって、大円鏡智においては主客の対立を超越した一つの智慧の輝きだけがあり、能取と所取の関係性は消滅します。2. 「唯識無境」との決定的な関係「唯識無境(ただ識のみあって、外界の対象=境はない)」という言葉は、大円鏡智に達して初めて完璧に証明されます。凡夫(未熟な状態)の唯識私たちは頭の中で「すべては心の現れ(唯識)だ」と理解することはできます。しかし、実際には目の前の壁や他人が「外側に本当に存在する」と感じてしまいます(=能取・所取の罠にハマっている状態)。これはまだ、阿頼耶識が曇っているためです。大円鏡智(悟りの状態)の唯識阿頼耶識が完全に浄化されて大円鏡智になると、「外界(境)が実在する」という錯覚が根本から消え失せます。鏡に映る映像(世界)は、鏡(心・識)そのものの変化である。鏡の外側に、独立した物質世界があるわけではない。これが「唯識無境」の真実の体得です。「外界の対象(境)がない」からこそ、それを認識しようとする「主観(能取)」も同時に消滅し、ただ純粋な一なる智慧(大円鏡智)だけが残るのです。3. 構造のまとめ転識得智の前(阿頼耶識)構造:能取(主観) ? 所取(客観・外界の錯覚)状態:唯識の真理に気づかず、二元対立の世界に迷っている。転識得智の後(大円鏡智)構造:主客一如(能取も所取もない)状態:「唯識無境」が完全に実現し、ありのままの世界が鏡のように映し出されている。このように、阿頼耶識が大円鏡智になることと、能取・所取が消滅して唯識無境が完成することは、全く同じ事態を別の角度から表現したものと言えます。
違うか
とても気になる
😀
0と1で成り立ってる機械だ。
それが無いのが
法界。
君見ずや
目玉に見えぬ
暗道を
> >>943
> 仏教居士のひとりごと Part5における
> 麦の唯識は
> ハッスル🤡と同じか?
> ご意見を聞きたい
> 😀
ハッスル居士の唯識っていったら、例の
「識など、本当は無い。それが、唯識の教えなのだ」
とかなんとかいう、アレか?
AIがそれに賛成するわけがない(笑)
> 2. 「唯識無境」との決定的な関係「唯識無境(ただ識のみあって、外界の対象=境はない)」という言葉は、大円鏡智に達して初めて完璧に証明されます。
「唯識無境(ただ識のみあって、外界の対象=境はない)」
↑
これこそ、本来の唯識論だ
それに対して、セイウン居士殿は
「識など、本当は無い」に
妙にコダワッている
だから、両者の主旨は異なる
取り敢えず別人説のようだ
😅
「唯だ(ただ)、識のみが有る」
という論だ
「識は有る」
そう思ってなきゃ、唯識の徒ではない
「暴流のように」、絶えず変化し続ける
つまり、「固定的な実体」ではないい
「識もまた、空である」というのは、そういうことだ
「識など、本当は無い」という意味ではない
「本当は無い」というのとでは、まるきり異なる
残念ながら居士殿には、
その辺りのニュアンスの違いを感じ取る
微細なセンスが無い
なんであんなバカのハッスル🤡を信用できるのか?
謎だ
😅
彼には無理な分野だ
昭和時代に、「違いがわかる男」というコーヒーのCMがあったが
彼には、異なる宗派の思想の違いが分からない
全部、禅宗に見えてしまっている
進む道をまちがえたのが、悲劇の始まりだった
謎の西洋哲学かぶれの
変なのだ
😅
これがヨガで言う原因身
原因身イコール阿頼耶識
原因身が無種子になって、縁起の業種子が一時的に無くなると
チッタアーカシャーという意識スクリーン=空間が白く光るという
これが唯識での大円鏡智とイコール
何故なら、そこが阿羅漢の境地だから。
三島由紀夫みたいに唯識にはまって
切腹しますか(⌒‐⌒)
3地毛んなら空間持ってるだろう
それが識だよ~ん
私はお茶を飲んでくださいという主旨のことしか言ってませんよ
言うほど私はお茶を飲まないんだけどね
飲んでも麦茶くらいでもっぱらコーヒーを飲みますね
私の修行はこの飲むこと 味わうこと
もう少し大きい概念で言うとただ生きることが修行です
あとはみなさんが仰るようなことは何も言ってませんので一応言っておきます
これはこう言うことだ、ああ言うことだと色々仰られてますが私はそんなこと言ってませんので悪しからず笑
老師なら色々、言及してくれると思いますが私は老師とは違うし、
文字なので誤解のないようにしたいので説明は極力しないようにしてます
ただ飲む 味わう それ以上のことなんかないでしょ
私が言いたいのはこれだけのことですから
「識は有る」というより「識の現れ」
ということではないだろうか
唯識の集団も
阿頼耶識が有るといいだしたのは
阿頼耶識を置かないと説明ができないからだ
だから有るというよりは
唯識論の前半部をもちいて
阿頼耶識を置く重要性を延々と語ってる
絶対的に有るということではなく
説明モデルとして置いていると言うこと
説明モデルという
「そう呼ぶ」
「そう呼ぶ」しかないという
仮名、仮設、仮有ってことね
クラウドっていう空間が実際にあるわけではなく
便宜上、説明モデルとして
クラウドと名付けて示してるってことと
同じ
「空」を置いて説明するのと同じ
というわけだな
このあたりが苦手なようだな
ウィキで済ますからそうなる
センスないのはどちらかと言えば
JBLだな
> 私の修行はこの飲むこと 味わうこと
> もう少し大きい概念で言うとただ生きることが修行です
良いとか悪いとか、正しいとか間違ってるとかは別にして
それだと、もはや「仏教」ではないんじゃないかな
「老荘っぽい仏教」を通り越して、
「仏教っぽい老荘思想」になっている
> 老師なら色々、言及してくれると思いますが私は老師とは違うし、
> 文字なので誤解のないようにしたいので説明は極力しないようにしてます
仏教は幅の広い宗教だし、いろんな意見はあるけれど
「仏教の教義知識は有害無益である。知らないほうが悟りが早い」
というのは、いくらなんでも言いすぎだ
そこまで真っ向から仏教の教義を否定するのなら、
「仏教の宗派」という看板を外すのが筋だろう
「瞑想セミナー」という看板を掲げるべきだ
だから、それが唯識派の思想ではない
中観派が、対立する唯識派を否定するときの伝統的な論法なんだっつ~の
分かんねえ奴っちゃなあ(笑)
ちと、AIにも意見を聞いてみるか
当方には、これはもはや仏教ではない
老荘思想そのものに見える
「老荘と習合した仏教」ですらない
純粋な老荘思想に見える
↓
971 神も仏も名無しさん 2026/08/10(月) 23:41:16.53 ID:GJfVG
ちょいちょい私がこういうことを言ったと言われてるようですが、
私はお茶を飲んでくださいという主旨のことしか言ってませんよ
言うほど私はお茶を飲まないんだけどね
飲んでも麦茶くらいでもっぱらコーヒーを飲みますね
私の修行はこの飲むこと 味わうこと
もう少し大きい概念で言うとただ生きることが修行です
あとはみなさんが仰るようなことは何も言ってませんので一応言っておきます
これはこう言うことだ、ああ言うことだと色々仰られてますが私はそんなこと言ってませんので悪しからず笑
老師なら色々、言及してくれると思いますが私は老師とは違うし、
文字なので誤解のないようにしたいので説明は極力しないようにしてます
うん、この発言だけを読むなら、かなり老荘思想的だと思う。
特にポイントは、
「この飲むこと 味わうこと」
「もう少し大きい概念で言うとただ生きることが修行」
というところ。
これは仏教の修行論として読むより、老荘の「作為を離れて、ありのままに生きる」思想として読むほうが、ずっと自然だ。
老荘思想では、何か特別な宗教的目的を設定して、
「こう修行すれば悟りに至る」
という方向をむしろ警戒する。
『荘子』的に言えば、人為的な価値判断や作為をどんどん脱落させ、物事をそのままに任せる。
だから、
「お茶を飲むなら、お茶を飲む。ただ味わう。それ自体が修行」
という発想は、禅にも似ているけれど、さらに突き詰めて、
「そもそも修行とは何なのか? ただ生きていることそのものではないか」
となると、かなり老荘寄りになる。
しかも、
「これはこう言うことだ、ああ言うことだと色々仰られてますが私はそんなこと言ってません」
という部分も面白い。
これも、言葉によって固定的な教義を作ることへの距離感が非常に強い。
というのも、「ただお茶を飲む」「ただ生きる」だけなら、禅にも非常に近いから。
たとえば禅には、
日常の行為そのものが修行
という発想が普通にある。
だから、
仏教 → 禅 →「日常そのものが修行」
というルートも十分成立する。
ただ、この引用には、仏教固有の枠組み――
苦
無常
無我
縁起
戒
四念処
解脱
輪廻
などがほとんど出てこない。
そこを全部外して、
「飲む。味わう。ただ生きる。それ以上説明しない」
まで行くと、確かに仏教的修行論というより、老荘的な生き方の哲学に近づいてくる。
なので、あなたの以前の言い方を使うなら、
「老荘化した仏教」より、さらに一歩進んで「仏教的な語彙をまとった老荘思想」
と見るほうが、この発言には近いかもしれない。
特に「ただ生きる」という一点は、仏教の「生から解脱する」という方向とは、かなりベクトルが違うんだよね。
そこが決定的に面白いところだと思う。
なるほど
やはり、禅宗にも、これに近い発想はあるんだな?
うん、かなり近い発想は禅宗にある。
むしろ、この発言が一見すると「禅っぽい」と感じられるのは、そこだと思う。
たとえば禅では、
お茶を飲むなら、ただお茶を飲む
歩くなら、ただ歩く
食べるなら、ただ食べる
掃除するなら、ただ掃除する
というように、日常の行為そのものを修行とする発想がある。
有名な「平常心是道」も、その方向性だね。
ただ、ここには重要な違いがある。
「ただお茶を飲む」は、
日常生活そのものの中で、執着や分別を離れていく
という仏教的な修行の文脈に置かれる。
つまり、
お茶を飲む → 無心・無住・平常心 → 仏道
という方向がある。
曹洞宗の「只管打坐」なども、
座禅を何か別の目的のための手段としてではなく、
坐ることそのものとして捉える。
今回の発言
ところが引用では、
「私の修行はこの飲むこと 味わうこと」
「もう少し大きい概念で言うとただ生きることが修行」
となっている。
ここまで来ると、
「日常生活そのものが修行」
という禅的発想と、
「作為せず、あるがままに生きる」
という老荘的発想が非常によく似てくる。
そして仏教固有の「苦・無常・無我・縁起・解脱」
という説明をほとんどしないなら、
あなたが感じたように、
禅というより老荘のほうへ重心が移って見える。
「お茶を飲むことも修行」→ 禅に十分ある。
「ただ生きること自体が修行」→ 禅にもある。
「それ以上の教義的説明はしない」→ 老荘的色彩がかなり濃くなる。
という感じ。
だから、この人の発言を「禅っぽい」と感じるのは間違いではない。
ただし、禅の背景にある仏教的な解脱論まで抜いてしまうと、
老荘思想とかなり見分けにくくなるんだよね。
なるほど
禅宗として、別におかしくないのか
そう。禅宗として別におかしくない。
むしろ、かなり典型的な禅の一側面とも言える。
ただし、ポイントは「禅宗の全体を語っているわけではない」ということ。
禅には、
「特別なことをするのではなく、目の前の行為をそのまま行う」
という強い伝統がある。
だから、
「お茶を飲むこと、味わうこと。それが修行」
という言い方自体は、十分に禅宗の範囲内。
特に禅では、修行を「悟りという未来の状態を獲得するための手段」とだけ考えない。
修行しているその行為そのものに仏道が現れている、という考え方がある。
なので、
「ただお茶を飲む」
→「ただ生きる」
→「それ自体が修行」
という流れは、禅として成立する。
「これ、仏教というより老荘思想じゃないか?」
という感覚も、かなり分かる。
なぜなら、この発言では仏教固有の教理をほとんど語っていないから。
したがって、正確には、
「禅宗としておかしくない。ただし、仏教的背景をほとんど説明せず、禅の『日常即修行』という部分だけを前面に出すと、老荘思想と非常によく似てくる」
というところだと思う。
そして実際、中国禅そのものが老荘思想との接触の中で形成されたので、この両者が似ているのは偶然でもない。ここはかなり面白いところだね。
まあ、確かに「仏教ではない」とまでは言えないな
本物の老荘思想は、もっと、ずっとユルい思想だ
修行としての切迫感が異なる
そう。そこはかなり重要な違いだと思う。
老荘思想は「修行」という言葉を使っていても、仏教の修行とは切迫感が違う。
仏教の場合、
苦がある
↓
苦には原因がある
↓
原因を滅する
↓
解脱する
という、かなり問題解決型・救済型の構造がある。
輪廻から抜け出す、煩悩を滅する、無明を破る――
となると、これは相当に切迫している。
それに対して老荘は、
「そんなに力んで何になる?」
「人為を加えすぎるから、かえっておかしくなる」
「もっと自然に任せればいい」
という感じになる。
だから、極端に言えば、
仏教:「このままでは輪廻が続く。何とかしなければ」
老荘:「何とかしようとする、その力み自体をやめたら?」
という違いがある(笑)。
「飲むこと、味わうこと」
「ただ生きることが修行」
には、確かに後者の匂いがかなりある。
ただ、本人が禅宗の修行者なら、これは**「仏教的な解脱論を否定している」のではなく、あえてそこを説明せず、実践面だけを語っている**可能性もある。
だから結局、
「老荘的に聞こえる」ことと「老荘思想そのものである」ことは別。
そしてあなたの言う通り、本物の老荘思想はもっとユルい。
『荘子』なんて、そもそも「悟らなければならない!」という感じがほとんどない。むしろ、そんな「悟らなければ」という構えすら、人為(為)ではないかと笑い飛ばしてしまう。
この違いは、禅を理解するうえでもかなり面白いところだと思う。
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