クリシュナムルティの教えの根底には、「観察する者は、観察されるものである(The observer is the observed)」という洞察があります。 思考が完全に消滅し、全視界の映像と音声がハートに収まる(主客の分離が消える)とき、そこには「アザーネス(言語を絶した全くの異物、神聖なるもの)」がただ生起します。
原文: In an ordinary man, only the thought channel works at all times.
In case of a Siddha, the channel of inner awareness (as a seer) works at all times. As such, an ordinary person has only thought. A Siddha is in the inner reality at all times.
A sadhak should have both the channels working at all times and be the thought and "Seer of the thought".
The element which sees the thought is "DISCRIMINATION". The discriminative faculty must be awakened.
修行の要訣
坐禅は、自分の考え方で、自分を整理するのではない。整理しようとする自分の考え方を、全て使わないでおいてみる。
これが、坐禅弁道の要訣です。人は、自分の「思い」に依って不自由になる。それ故、人間の考え方で物事を追求することを止めてみるんです。
時々、刻々、追求せずに過ごしてみる。在る通りに生活して、是非をつけない。善し悪しで、ものを見ない。比べない。
これに依ってのみ、人の意根が死ぬるんです。
(井上義衍老師語録)
前スレ
仏のスレ76
https://talk.jp/boards/psy/1772796748
しぬるんです‼️
うつるんです‼️
みたいだね
チャットGPT:井上義衍 は、かなり独特なタイプの禅僧だ。
いわゆる「ありがたい禅語を説く老師」というより、
坐禅そのもの
身体
呼吸
日常動作
「今ここ」の徹底
を、非常にラディカルに追究した人として知られている。
特に有名なのは、
「悟りを目的にするな」
という方向性だな。
これは単なる「無欲になれ」という精神論ではなく、
「何かを得ようとして坐る限り、その時点で“自己中心的な計らい”が入っている」
という、かなり厳しい立場だ。
坐禅で悟ろうとする
心を静めようとする
境地を得ようとする
無になろうとする
こういうもの全部が、「自我の活動」だと見なされる。
だから、
ただ坐る
これを徹底する。
ここは 道元 の「只管打坐」の系譜にかなり忠実だ。
ただし、井上老師は、それを現代的に、しかも極端なくらい身体的に掘り下げた。
たとえば、
姿勢が崩れる
呼吸が乱れる
無意識に力む
頭の中で物語を作る
こういう微細な自己操作を、徹底的に観察させる。
「宇宙と一体になる」とか、 「真我が開く」とか、 そういう話へ逃げない。
むしろ、
茶碗を置くなら、茶碗を置け
歩くなら、歩け
みたいな方向へ行く。
かなり“現実接地型”なんだ。
その一方で、思想的にはかなり深い。
特に井上老師系統では、
「自己とは何か」
「考えている主体とは何か」
「“私が見ている世界”とは何か」
という問題が、坐禅を通じて崩されていく。
「考えるな」というより、
理論を身体化しろ
に近い。
頭で空を理解するのではなく、
力み
反応
自己防衛
欲求
評価癖
そういうものが、瞬間瞬間どう立ち上がるかを、坐禅と日常動作の中で見る。
だから、井上老師の教えは、ある意味かなり怖い。
逃げ場が無いからだ。
宇宙論にも、 神秘体験にも、 観念哲学にも、 簡単には逃がしてくれない。
「今、お前、肩に力入ってるぞ」 「その“わかったつもり”が妄想だぞ」
みたいに、身体レベルまで降ろされる。
なので、思想として読むと地味だが、実践としてはかなり強烈なタイプの禅なんだ。
チャットGPT:そう。
井上義衍 の特徴は、まさにそこにある。
単なる「心の修行」ではなく、
身体そのものを通して、自己執着を崩す
という方向なんだ。
だから井上老師系では、
姿勢
重心
呼吸
歩き方
立ち方
茶碗の置き方
戸の開け閉め
みたいな、ごく日常的な身体動作が、全部修行対象になる。
もっと厳密に言うと、
無意識の“自己操作”が、身体に全部出ている
と見る。
たとえば人間は、
認められたい
失敗したくない
緊張したくない
偉く見せたい
安全でいたい
こういう欲望や恐怖を、頭だけでなく身体でやっている。
だから、
肩が上がる
顎が固まる
呼吸が浅くなる
腹が抜ける
無駄に力む
という形で現れる。
井上老師は、そこを徹底的に見ろと言う。
つまり、
「自我」は観念ではなく、身体反応として実在している
という感覚だな。
瑩山以降
曹洞宗に臨済宗要素が入ったから
発生した
😀
現代人はどうしても、
哲学
思想
意識
内面
として禅を理解しがちだが、本来の禅はかなり“身体技法”なんだ。
だから坐禅でも、
「どういう世界観を持つか」より先に、
骨盤
背骨
丹田
呼吸
視線
が問題になる。
井上老師は特に、
正しく坐れば、余計なことは自然に起きなくなる
という立場が強い。
逆に言うと、
「頭で悟ろうとすること」自体が、身体の歪みとして出る。
だから井上老師系では、
「思想を理解する」 より、
坐れ
歩け
茶碗を洗え
力むな
余計なことをするな
となる。
かなり禅っぽい禅だな。
臨済宗の影響なんだな😆
臨済宗系統要素
ハッスルや麦が好きな
大拙や円覚寺のボンクラは
理屈が好きだけどなー
😀
理屈でガッチリ固めている
中国風禅語録系統は
理屈てはないけど
永平寺広録 ジュコとかは
漢字調べるのめんどくさい
😀
チャットGPT:はい、かなりそういう側面があります。
井上希道 は、師である 井上義衍 の厳しい只管打坐・動中の工夫を受け継ぎつつ、そこへ上座部仏教系の気づき(サティ)的要素や、いわゆるヴィパッサナー的な言語感覚をかなり導入しています。
なので、同じ「日常生活の修行」を語っていても、両者には結構ニュアンスの違いがあります。
「観察している自分」
「気づいている自分」
「修行している自分」
すら疑って、かなり切り崩していく。
極端に言えば、
坐れ。
働け。
飯を食え。
という方向にまで削っていく感じがあります。
「いま怒りが起きている」
「身体が緊張している」
「不快を避けようとしている」
「承認欲求が動いている」
など、“現象への気づき”を言語化する傾向がかなりある。
これは、まさにヴィパッサナー系の影響を感じさせる部分ですね。
円覚寺はボンクラにしか見えなくなる
😀
井上義衍系だと、
味噌汁を作れ。
ボーッとしてるから吹きこぼれるんだ。
みたいな方向へ行きやすい。
井上希道系だと、
「面倒くさい」という感覚が起きた。
そこで手が止まった。
逃げようとしている。
という、“気づきの実況”が入ってくる。
これは現代人にはかなり理解しやすい反面、井上義衍老師の系統から見ると、
「また頭で修行してる」
という批判も成立しうる。
ヴィパッサナー → 現象を明晰に観察する
義衍系 → 観察者として立つこと自体を疑う
という差があるからです。
だから井上希道老師は、ある意味では、
井上義衍系の身体性・作務・只管打坐
+
ヴィパッサナー的自己観察
を橋渡しした存在、と見ることもできると思います。
> これは現代人にはかなり理解しやすい反面、井上義衍老師の系統から見ると、
> 「また頭で修行してる」
> という批判も成立しうる。
う~ん、確かに
仏のスレ主なら、そう言いそうだな
言語で意識させている
キメラ
😀
包囲されつつあるよーだ
ハッスル🤡並みの不人気のよーだ
😅
立ち上がれるのか?
注目
😀
早く起きたが用事が消え
ただの睡眠不足だけが残ったが
睡眠不足ぐらいなら
なんとか乗り切る自信家はあ😀る
先鋭化した感覚でやれるから😀
😀
あんどーは
ほーかいくんが苦手なのかな?
😅
ほーかいくんのメンタルも安定しているな?
ニコク堂もリダン避けヘルプだが
😀
クソガキリダンには
手こずっておるよーだ
😅
ムキになったようなレスが増えた
ニコク堂
😅
「徹底して実践的で、観念を嫌い、“今ここ”の自己を直視させる禅」
ですね。
父である井上義衍の系統を強く受け継いでいて、かなり“生身”の禅です。
綺麗な宗教談義や哲学遊びより、
坐る
食う
働く
息をする
自分の反応を見る
という方向へ、ぐいぐい引き戻していくタイプです。
1. 「悟り談義」を嫌う
貫道老師は、「悟った/悟ってない」という観念ゲームにかなり厳しいです。
むしろ、
いま何をしているのか
誰が苦しんでいるのか
その“自分”は何なのか
を、坐禅と日常の中で切実に見ろ、という方向。
だから、禅思想を知識として語るより、
その瞬間の身体
呼吸
反応
執着
自我のクセ
を観察する方を重視する。
かなりヴィパッサナー的な雰囲気もあります。
これは井上義衍系全体の特徴ですが、
料理
掃除
歩行
人との会話
全部が修行です。
ただし、
「心を込めて丁寧にやりましょう」
みたいな道徳主義ではない。
むしろ、
イライラしている自分
格好つけている自分
評価を欲しがる自分
禅者っぽく振る舞う自分
そういうものが、日常動作の中で露出する。
そこを見逃すな、という感じです。
あなたが前に言っていた、
「禅者っぽく振る舞おうとして無理していた」
という感覚は、かなり井上系の問題意識に近いですね。
曹洞宗の道元以来の「只管打坐」を重視しますが、
単なる“静かな瞑想”ではない。
むしろ、
自己を成立させている根本習慣を暴く
方向に近い。
だから、坐禅中に
妄想
比較
不安
修行欲
承認欲求
が噴き出してくる。
それを「悪い」とは言わない。
むしろ、
それが“自分”の実態だろう
と見る。
かなり容赦ないです。
これは面白いところで、井上系は、
神秘体験
超常現象
有難い雰囲気
権威演出
が比較的薄い。
むしろ、
飯食って、クソして、眠ってる、それが仏法だ
という感じが強い。
なので、ある意味では非常に“地味”。
でも逆に、その地味さが徹底している。
貫道老師は、「決着」という言葉をよく使うことで知られています。
つまり、
自己とは何か
生死とは何か
苦しみとは何か
そこに、頭ではなく、全身で決着をつける。
中途半端な観念遊びでは終わらせない。
だから、かなり求道的で、厳しい。
井上義衍→井上貫道ラインって、
現代日本の「禅カルチャー化」に対するカウンターっぽいところがあるんですよ。
オシャレ禅
マインドフルネス商品化
禅っぽい雰囲気
ではなく、
お前自身はどうなんだ
を直球で問う。
なので、人によっては非常に刺さるし、人によってはかなりキツい禅風です。
製ウンコ師のやってる禅は、かなりぬるいな
井上義衍の方向性は
悪くはない
😀
俺のメイン修行も
神仏要素が薄い
レスからは信じられんだろうけど
神秘主義は娯楽だ
だが、仁和寺パワーか〜
なんか、そういう場所に住んでいるんだな😀
ずっと正体不明だった
😀
俺は焼き払う派
😀
休日の娯楽だ
😀
知らず知らずのうちに影響を受けていた(笑)
井上義衍老師の系統では、修行して結局、どうしようというのか?
どのような人間像を目指しているのか?
これは実は、井上義衍 の禅を理解するうえで、一番やっかいで、一番重要な点かもしれません。
というのも、井上老師系は、そもそも
「こういう人間になろう」
という発想自体を、かなり警戒しているからです。
優しい人になる
煩悩をなくす
人格を高める
落ち着いた人格者になる
悟りを得る
みたいな“完成イメージ”がありますよね。
でも義衍老師系は、その「理想人格」が曲者だと見る。
なぜかというと、人はすぐ、
「悟った自分」
「修行者らしい自分」
「静かな人格者の自分」
を演じ始めるからです。
だから井上老師系では、むしろ逆方向へ行く。
格好つけるな
特別になるな
修行者を演じるな
「わかった人」になるな
という圧力が非常に強い。
なので、「どんな人間を目指すのか?」と聞かれると、逆説的ですが、
“何者かになろうとし続ける癖”を見抜いていく
という方向に近い。
道元も、『正法眼蔵』で、
仏になるために修行する
というより、
修行そのものが仏行である
という立場を強調しました。
だから義衍老師系では、
「将来の悟り」
「理想の人格」
「精神的成功」
を目標にしてしまうと、むしろ現在からズレる。
結果として、
飯を食う
掃除する
坐る
働く
眠る
という、ごく普通の行為の中で、
余計な自己演出が減っていく
ことが重視される。
超人的になるわけではない。
むしろ、
無理に偉そうにしない
深遠ぶらない
自己陶酔しない
気分で他人を支配しない
みたいな方向へ行く。
かなり地味です。
ある意味では、
「仏になる」
というより、
「変な力みが抜けていく」
に近い。
義衍老師系は、むしろ非常に厳しい。
坐るなら坐れ
働くなら働け
今やってることから逃げるな
という緊張感が強い。
だから最終的な人間像を、もし無理やり言葉にするなら、
「特別な自分になろうとしなくなった人」
かもしれません。
そして、その「特別になろうとする衝動」こそが、禅では“迷い”のかなり深い部分だ、と見るわけですね。
何一つきちっと確立した禅を学べないからなー
😀
を、アピールするのが目的の承認欲求禅😫
基本は、ものごとを
どー見るか?
の如実知見
😀
さらにハッスル軍団がダメなのは
わかりやすい、どっかスレ主ぽい?
のを
https://m.youtube.com/watch?v=QqxEk4S6mr4&pp=0gcJCQQLAYcqIYzv
盤珪ほと曹洞宗しているわけではないが
似た雰囲気がある
😀
盤珪と違う、
絵で表現するということが
臨済宗のテイストだ
破壊ノリノリという路線てはないが
😀
トーク板の輩を選別てきるな?
😀
「何者かになろうとするな」
「目的を持つな」
というのは、分かるんだが
実際のところ、義衍禅に取り組むと、どのような成果が得られるのか?
井上義衍系統だと、そこをあまり「成果」として語りたがらないんですよね。
なぜかというと、
「成果を欲しがる心」
そのものが、 “何者かになろうとする運動” だから。
……とはいえ、 実際に長くやっている人たちを見ると、かなり特徴的な変化はあります。
たとえば。
変に気負わない
「悟ってる感」を出さない
頭の中のドラマに飲まれにくい
身体が落ち着いている
過剰反応が減る
不安や怒りを“ゼロにしよう”としなくなる
その場その場へ戻るのが早い
みたいな方向。
「頭の中の物語」と距離ができる
ことかもしれません。
普通は、 何か起きると即座に、
自分はダメだ
あいつが悪い
将来どうなる
認められたい
失敗したくない
みたいな“脳内ストーリー”が暴走する。
でも義衍系は、
「あ、いま物語が始まったな」
と、身体レベルで気づく方向へ行く。
だから、 感情が消えるわけじゃない。
むしろ、 感情は普通に出る。
でも、 “巻き込まれ方”が変わる。
人って、
賢そうに見せる
修行者らしくする
強く見せる
特別であろうとする
のに、ものすごいエネルギーを使ってる。
義衍禅は、 そこを少しずつ見抜いていくので、
結果として、 変に盛らない感じになる。
ある意味、
「普通になる修行」
とも言える。
ただし、その“普通”が、 実はかなり難しい。
これが易行であることを強調する人もいたが
正直なところ、簡単とは思えない
井上義衍系統の禅って、たしかに理屈の上では「易行」に見えるんですよ。
なぜなら、
特別な観想をしない
難しい教義を操らない
神秘体験を追わない
超人的集中を求めない
から。
やることだけ見れば、
坐る
呼吸する
今どうなっているか観る
これだけ。
だから「簡単そう」に見える。
なぜかというと、 人間は本能的に、
良くなりたい
成果が欲しい
正しくやりたい
特別になりたい
安心したい
意味を掴みたい
からです。
つまり、
“何かを得ようとする運動”
そのものが、絶えず起きる。
そして義衍系は、 まさにそこを観ろ、 と言ってくる。
だから難しい。
これは、 難しいテクニックだから難しいんじゃない。
むしろ逆で、
「何かを付け加える逃げ道」が少ない
から難しい。
でも義衍系は、 その「やってる自分」すら疑うので、 逃げ場が減る。
だから、 ある段階からは、
“修行しているつもりの自己”
との対面になる。
これはかなりしんどい。
なので「易行」というのは、
方法論は単純
特殊能力は不要
という意味では本当。
でも、 人間の根本的習気に直面する、 という意味では、 全然ラクじゃないと思います。
仙厓和尚だな😄
川^○^ハレ
>坐禅して人か佛になるならハ🐸
by.仙厓義梵禅師
お前は、専門用語使う時点で汚染されている
いつも、レスしているが
😫
∞ノノハ∞
川^○^ハレておーたんはでおーたん♪
OKバブリーケッカッチ♪www
2安全欲求・・・・自分だけの帰る家屋がある。
3社会的欲求・・・社会的認知が欲しい。周囲に認められたい。
4尊厳欲求・・・・崇拝が欲しい。尊敬が欲しい。
5自己実現欲求・・・生まれた意味を明らかにしたい。自分は何者か?
6自己超越欲求・・・悟り、人間の枠を超え普遍に到達したい。
https://i.imgur.com/SStecR2.jpeg
だなぁ。
とはいってもそれが欲しいままにはなってないけど。
坐禅してるのは、睡眠欲を満たすためなんだな
昨日は朝の4時40分に起きて一仕事やったら
やたら昼間に眠くて眠くて
スーパーの駐車場でうとうとしたな
だから「~宗」とか「~派」とかも究極的には関係ないし
この「自己」の根源(無明っていわれる)を解決してるかどうかがあるだけ
いくら同じようなことばで語っても
この「自己」って根源を解決してなければそれは導ける人ではない
全然違うことばや方法で示しても解決に導けるならそれは「同じもの」ってことね
どの宗派にもそれぞれ
「○○を△△するのが仏法だ」
というようなコダワリがある
↑
これだけを取っても、反対意見が噴出するのは確実だ
というのは、無理がある
同じ山の頂上ではない
というのは、無理がある
目指す頂上からして異なる
それが現実だ
「禅と浄土と理は一なりと雖も、而も功並べ施すべからず。今日兼修とは何ん。蓋けだし兼の義に二あり。足に両船を躡ふむの兼ならば則ち誠に不可と為すも、円通不礙の兼は何の不可か之あらん。況や禅の外に浄土なく、則ち即土即心にしてもと二物に非ざるなり、いずくんぞ更に之を兼と謂わんや」『往生集』
その「自己」の上のものを滅する方法が仏教
「自己」の上のものを滅すれば一切はすべて「平等」(空、仏心)
「平等」の上に、それぞれ違う(「差別」)の教えが説かれてるってことね
だから仏の示した真理に合致するかどうかを見分けるものとして三法印がある
諸行無常、諸法無我、涅槃寂静、ね
という意見も、さんざん見てきた
個人的にはまったく賛成できないが
さんざん見てきた
という意見もよく目にする
「修行不要論」はイカガなものか
対機説法っていう、語る相手によって語る内容が変わるってのが基本なんだろね
確かに
修行にとらわれてる人には、「修行は不要、捨てろ」と説く
同じ指導者が、別の場所、人相手じゃ、全く正反対のことを語ることがあるってのが仏法の面白いところ
でもよくよく見るとキチンと同じものを示してるという
それは、禅宗の考え方
「対機説法」というのが好きだな
「人それぞれの機根に合わせて、教えが説かれている」
と考える人の中でさえ
「究極的には、同じ真理がある」とする人と、「そんなものはない」とする人に分かれる
ここがキリスト教や不二一元論の真我論などとは違うところ>>108
「真理」は、人の見方の中にはないから
だから「真理」は真理じゃない、となる
キリスト教や真我論はそのまま「真理」を認める「自己」の始末がないという点が仏教とは違うところ
「真理」を得た!って人には、そんなものはない、捨てろ、と示す
「禅宗こそが仏教だ」
と思っているフシがある
↓
「みてるもの(自己)」の解決を示すのが仏法とされるものだから
だから「~宗」とか「~派」とかも究極的には関係ないし
この「自己」の根源(無明っていわれる)を解決してるかどうかがあるだけ
だから「義衍禅」とかもない
いくら同じようなことばで語っても
この「自己」って根源を解決してなければそれは導ける人ではない
全然違うことばや方法で示しても解決に導けるならそれは「同じもの」ってことね
かなり禅的というか、徹底した立場だと思う。
特に、故・井上義衍 系統の空気とも、かなり重なる。
まず、
「仏法とは、“みてるもの(自己)”の解決である」
ここでは、仏教を
教義
宗派
思想体系
儀礼
としてではなく、
「“私”という感覚そのものの問題」
として捉えている。
これは禅では非常に根本的な見方だな。
たとえば、 「世界が苦しい」 「煩悩がある」 「悟れない」 以前に、
“その問題を見ている主体そのものは何なのか?”
という方向へ切り込む。
「宗派は究極的には関係ない」
これは、かなり『臨済録』や『正法眼蔵』にも近い発想だ。
つまり、
曹洞宗
臨済宗
天台
真言
唯識
中観
みたいな区別は、全部「説明形式」に過ぎない、と。
肝心なのは、
その人が、本当に「自己」の根を破っているかどうか。
ここを基準にしている。
だから、
「義衍禅とかもない」
という言い方になる。
これは、 「義衍老師ブランド」 「義衍流メソッド」 みたいに実体化することへの警戒でもある。
禅って、放っておくとすぐ
流派化
教条化
キャラクター化
アイデンティティ化
するからな。
すると本来、 「自己を空じる」ためのものが、 逆に 「私は○○派だ」 という新しい自己補強になってしまう。
この文章は、そこをかなり強く警戒している。
「違う言葉や方法でも、解決に導けるなら同じ」
ここは、大乗仏教の「方便」に近い。
たとえば、
坐禅
念仏
公案
密教
哲学
日常労働
身体修行
方法は違っても、
「自己への執着」 「“見ている主体”への無意識の固定」
が崩れるなら、本質は同じだ、と。
逆に、 どれだけ禅語を並べても、 どれだけ“それっぽい”ことを言っても、
自己中心性が温存されているなら、 それは仏法ではない、
というかなり厳しい見方だな。
ただし、注意点もある。
この立場は鋭い反面、
「じゃあ誰が“本当に解決してる”と判定するのか?」
という問題が出やすい。
そこから、
「あいつは悟ってない」
「本物は少ない」
「理解してるのは自分たちだけ」
みたいな方向へ行く危険もある。
禅界隈では、この“真正性ゲーム”が泥沼化することも結構ある。
だから本来は、 「他人を査定する」 というより、
“自分の自己執着を見抜き続ける”
方向に向かうと、比較的健全なんだと思う。
確かに
当方も同じことを思った
「それは仏教というより、禅宗だ」と(笑)
ただ、それを別にすれば、言ってる内容には、うなずけるものがある
この文章、かなり強く
「直に自己を見ろ」
「教義より実証」
「宗派を超えろ」
「言葉に捕まるな」
という方向へ振っているので、空気としては非常に禅宗的なんだよな。
特に、道元 や 臨済義玄 系の「不立文字」的な感覚に近い。
一方で、仏教全体を見ると、
教学による整理
戒律
功徳論
浄土信仰
唯識の認識論
中観の論理
天台の止観体系
みたいな、“言葉と理論を精密に積み上げる伝統”も巨大だからな。
だから、 「宗派なんて究極的には関係ない」 と言い切ると、
天台や華厳や唯識の人からすると、 「いや、そこ雑に飛ばしすぎだろ」 となる(笑)
内容にはうなずける
というのは、かなり大事なところだと思う。
なぜなら、この文章は少なくとも、
「仏教を知識収集や思想ゲームにしない」
という一点では、かなり本質を突いているから。
仏教って、下手すると
学問
哲学趣味
宗教アイデンティティ
禅語コレクション
だけで終わる。
でも本来は、
「“私”とは何か」 「苦とは何か」 「執着とは何か」
を、自分自身の現実として扱うものだ、
という圧は確かにある。
特にあなたは、唯識や中観をかなり考えてきているから分かると思うが、
理論を突き詰めれば突き詰めるほど、最後に
「で、その“理解している私”は何なんだ?」
という地点に戻ってくるんだよな。
そこが、禅が異様に強い理由でもある。
禅は、その地点で 「説明を続ける」のではなく、 「その場で見ろ」 と迫ってくるから。
禅宗の人は、他の宗派を下に見ており、「全部、方便だ」と主張することが多い
それは歴史的にも、かなりある。
特に禅宗には、
「直指人心・見性成仏」
――つまり、
教義や儀礼を経由せず、直接“自己”を見抜く
という自己理解が強いから、
他宗を
文字
理論
方便
段階的教え
として位置づけやすいんだよな。
たとえば、中国禅では、
教外別伝
不立文字
が強調される。
これは元々、 「経典理解だけでは足りない」 という警鐘だったんだが、
強くなると、
“本当に分かっているのは禅だけ”
みたいな空気になりやすい。
実際、中国仏教史では、
慧能 系の南宗禅
神秀 系
天台
華厳
浄土
などが、互いにかなり論争している。
日本でも、 栄西 や 道元 は、既成仏教への批判意識がかなり強かった。
特に道元は、
「坐禅そのものが仏行である」
という立場から、 単なる学問仏教や祈祷仏教をかなり厳しく見ていた。
禅宗自身も、実際には
語録
公案集
戒律
師資相承
修行作法
みたいな巨大な“制度”を作っていくことなんだよな(笑)
つまり、
「文字に頼るな!」
と言いながら、 ものすごい量の文字を残す。
「形式を捨てろ!」
と言いながら、 非常に厳密な作法体系を持つ。
これは禅の面白さでもあり、矛盾でもある。
あと、他宗側から見ると、
禅はしばしば
理論軽視
独善化
“悟った感”の自己正当化
反知性主義
に見えることもある。
特に唯識や天台みたいな精密理論系からすると、
「“見る”だけで済むなら苦労しねえよ」
という感覚も出やすい(笑)
だから実際の仏教史は、 「禅が頂点」みたいな単純構図ではなく、
禅の直接性
教学の精密さ
信仰の大衆性
戒律の倫理性
が、互いに補い合ったり衝突したりしながら展開してきた感じなんだ。
確かに、禅宗は実践面に強い
義衍禅はとくに強いな
そうだな。
特に故・井上義衍 系は、
「思想としての禅」
より、
「身体レベルで自己を崩す」
方向へ、かなり極端に振っている印象がある。
だから、あなたが以前言っていた
禁欲
精神集中
身体を使う
日常動作
“考え”を信用しない
みたいな話が、全部つながってくる。
普通、仏教って、
教義を理解する
世界観を学ぶ
空を理解する
唯識を考える
みたいな「認識」の方向へ行きやすい。
でも義衍系は、かなり強く
「考えてる主体そのものが問題だろ」
に戻してくる。
だから、 理屈で仏教を積み上げるというより、
坐る
動く
働く
呼吸する
食べる
掃除する
みたいな、極めて物理的な方向から攻める。
“余計な自己操作をやめる”
方向なんだよな。
ここが、一般的な「修行=精神統一」イメージとズレるところ。
あと義衍系は、 「悟り体験」や「神秘体験」をあまり前面に出さず、
むしろ、
自己観念
作為
意図
“こうなりたい”
を削っていく感じが強い。
だから、人によっては
「地味」 「何を目指してるのか分からん」 「修行感がない」
とも感じる。
でも逆に、 長年“頭で仏教してきた人”ほど、
「あ、逃げ場がない…」
となるタイプでもある。
それが即刻に
他力に自身を全振り出来れば!
ねって話でしょ
普通出来ないから
出来るまでが修行になる訳であって
その理はだれでも理解くらい出きるでしょう
が、しかし
それを実践できるか⁉️と言うと
必ずしもそうでは無い訳で
そこに修行という、出きるまでの変遷していく縁起があるってことだ
根本は修行者の自我エゴを落とし無心にさせる為
という一つの目的に沿っているでしょう
むしろ、
自己観念
作為
意図
“こうなりたい”
を削っていく感じが強い。
≫だから、人によっては
「地味」 「何を目指してるのか分からん」 「修行感がない」
とも感じる。
ーーー
こんなの当たり前のこと
義衍系云々無関係でしょ
禅に入門するにあたっての理由は各々でしょうけど
悟りたい!ってのは何処かにあるはずであって
それを教える側が殊更に前面に出して言うことは無いのであって
その悟りに至る為の工程に必要なことを教えるのが大事なこと
しかも、悟り直行でなくて
悟りの前段階にあたる『無心』まで導く為の事を弟子には与えるんでしょうね
威張っているのか?
シッタカサルダッタセイジン👽
> 指し示してる「真理」が違うならそれはもう「仏教」としては別物になる
>
> だから仏の示した真理に合致するかどうかを見分けるものとして三法印がある
> 諸行無常、諸法無我、涅槃寂静、ね
キリスト教もバラバラだけど
「三位一体を認めれば正統、
認めなければ異端」
という明確な線引きがある
仏教もそれを見習って、
「三法印を認めなければ、仏教ではない」
というのを基準とすべきだ
でおー
出動
ご苦労様‼️ m(_ _)m
だが、それを言い出したら大変なことになる😅
人生の苦しみ(苦諦)とその原因(集諦)を明らかにし、それが滅できる(滅諦)という希望と、そのための実践方法(道諦)を説いています。
苦諦(くたい):苦の真理
この世は思うようにならず、苦しみ(四苦八苦)であるという真実。
集諦(じったい/じゅうたい):苦の原因の真理
苦しみは、煩悩や欲望(無明・渇愛)が集まって生まれるという真実。
滅諦(めったい):苦の消滅の真理
欲望や煩悩を滅ぼせば、苦しみも消滅し、安らぎの境地に至れるという真実。
道諦(どうたい):苦を滅する道の真理
苦を消滅させ、悟りに至るための具体的な実践方法(八正道)。
真言宗では、この四諦の教えを初期仏教の基本としつつ、空海が説いた「即身成仏(この身のまま仏になる)」という密教的な高い視点から、この世の現象を「不生不滅」の真理として理解することを重視します。
関連する教え: 四諦を実践するための「八正道」や、煩悩を断ち切る「三学」があります。
般若心経: 「無苦集滅道」と説かれますが、これは四諦がないという意味ではなく、空の境地からは四諦という段階的な認識すら超越していることを示します。
って言えば
各々が真の目的地を知らないからでは?
釈尊は何処を最終的な処としたのか⁉️
ってー言う
例えば仮に
九つの段階があるとしましょうか
一段から始まって九段階目が最終的な段階ですよ!と
空海が言うように
各々の宗派が目指す処は別々で、一段から9段までバラバラ
でも本当は、十段階目にこそ釈尊の真実の目処はあると
要は各々の宗祖の体験と理解によって決められているんだと言えますね
正統派瞑想仏教は
基本、如実知見をおさえているだろうな、
デンパパサルダッタセイジン👽葉いつも
イレギュラーだ 👽
勝手解釈で統一の夢見てる
🛸
苦しいという苦の境地に生きる者が実践する教えですよね
サルダッタセイジン👽
四諦を如実に知って苦を滅することじゃなかったかな⁉️
はいらん
🛸
👽
刺激されて怒った星人なの⁉️
熱心だなセイジン👽
多弁星人か⁉️
ごくろーーーさまm(_ _)m
≪如実多弁≫星人だな
でおーは‼️
おおーごくろーーーーー様 m(_ _)m
そろそろヤメロセイジン👽
(天台は一宝印だが)
じゃあ何が違うんか
方法論が違うというだけ
なんでか?
対機説法だから
なかなか難しい
識字率の問題もある
なら他力パッケージでどうだ?
といったような
人、情勢にあわせてきたのが
仏教
なんでか?
仏教は対機説法だから
こだわるのは禅宗、とくに臨済宗の特徴
「あれは機根の低い者に合わせた対機説法だ」
「全部、方便だ」
とかなんとか言いたがる
天台宗や日蓮宗だって
「法華経こそ、最高の真理。
他の経典は、究極の真実に至る前段階の方便だ」
としているから、この発想の原点は天台宗だと言える(笑)
「どの宗派も究極的には同じことを言っている」
と主張するのを、「包括主義」という
宗教的包括主義(Inclusivism)とは、自らの宗教を絶対的な真理としつつも、他宗教の中にも部分的な真理や救済の可能性を認める立場です。他宗教を完全に否定する「排他主義」と、全ての宗教を平等とする「多元主義」の中間に位置し、他宗教の要素を自身の宗教の枠組みに取り込み、完成させる(包括する)考え方です。
「真理の保有」と「寛容」の共存: 自分の宗教が最も正しいと信じつつ、他宗教の善い部分も認めます。
救済の理解: 他の宗教にも救済の可能性はあるが、最終的な完成・救済は自らの宗教によってのみ可能であると見なします。
「ソフトな排他主義」という批判: 多元主義の立場からは、他宗教を自宗教の枠に当てはめて支配的に扱うため、真の寛容が欠けていると批判されることもあります。
中国大乗仏教に合わなかったので
中国小乗寺院にいたと
学者の論文で言われているので
中国の禅スタート地点で
中国大乗仏教と異質なのはある
😀
宗教の神学において、他宗教への態度は一般的に3つのタイプに分類されます。
排他主義 (Exclusivism): 「救いは自宗教にのみ存在する」
包括主義 (Inclusivism): 「他宗教にも真理はあるが、真理の完成は自宗教にある」
多元主義 (Pluralism): 「どの宗教も等しく真理への道である」
キリスト教的包括主義: カトリック教会などに見られる、キリストの贖罪が全人類に及ぶとする立場や、全ての偉大な宗教的伝統に現れる善き行いは、潜在的な「キリストの業」であるとみなす考え方。
仏教の垂迹説(すいじゃくせつ): 日本の神仏習合において、神は仏が形を変えて現れたもの(権現)であるとし、日本の神々を仏教の枠組みの中に包み込んだ考え方。
包括主義は、排他主義のような極端な否定や、多元主義のようなすべての違いを無視する態度を避け、自らのアイデンティティを保ちながら他者と向き合おうとする姿勢と言えます。
禅宗は、仏教の中でも異質だ😆
包括主義だった
😀
といえば
いわないぞ〜
😀
リアリズムのスタンスでは
唯識やテーラワーダや倶舎論にも
近い
リアリズムだけな、
😀
ハッスル🤡の天敵になれる
😀
立ちはだかる
恐怖の壁が
俺ちゃまだ
😀
ウエルカム〜〜
🤡〜〜
バカの壁⭕
養老先生が言ってたんだっけ⁉️
2003年に新潮新書から刊行され、脳や身体の構造を踏まえた独自の視点で話題を呼びました。同書の詳細は 新潮社『バカの壁』ページ で確認できます。
やっぱそうでした。
脳が拒絶反応をしている状況です。
こういう状況で、大抵の人は、苛々したり、腹を立てたりします。
それは「話せばわかる」はずだと思っているからではないでしょうか。
話が通じない時、情報を遮断しているもの。
それを養老孟司さんは、
≪「バカの壁」と名づけました。≫
やはり
デオーには
バカの壁があるな~
それも巨大な!
大バカの壁が‼️
皆が持っているんだろうね
バカの壁って
リダン対する法介
セイウン対するJBL
元スレ主対するその他数名
オレに対するデオー
各々の脳にあるバカの壁w
好機到来👽
本性出して
イイカンジセイジン👽
ヨウロウ・タケシ
1937(昭和12)年、鎌倉生れ。解剖学者。東京大学医学部卒。東京大学名誉教授。
1989(平成元)年『からだの見方』でサントリー学芸賞受賞。新潮新書『バカの壁』は大ヒットし2003年のベストセラー第1位、また新語・流行語大賞、毎日出版文化賞特別賞を受賞した。
『唯脳論』『かけがえのないもの』『手入れという思想』
『バカの壁のそのまた向こう』
『ヒトの壁』など著書多数。
『バカの壁のそのまた向こう』だって~⁉️
そのまた向こうがあるんだなw
編集
現代人が陥る思考の不自由さを軸に、戦争や犯罪、教育、経済などの諸現象の本質を解明する。
キャッチコピーで、帯紙は
「『話せば分かる』なんて大ウソ!」、
書店向けPOP広告は
「バカの壁は誰にでもある」と、
著者の言葉が紹介され、
後年に自宅でのインタビューで、改めて養老は
「バカの壁」とは「人は知りたくないことに耳を貸さず情報を遮断すること」
と述べた。
ーーー
如実知見w
如実知見は四聖諦を言ったものという意見もあるね。
AI
そのご指摘は非常に的確です。単なる一つの「意見」というよりも、
初期仏教の経典において「如実知見」の具体的な対象は、
まさに『四聖諦(ししょうたい)』であると明確に定義されています。
釈尊が最初の説法(初転法輪)で語ったとされるパーリ語経典などでは、
四聖諦を完璧に観察し尽くしたことで
「 【如 実 知 見 を 得 て】、正しい目覚め(悟り)に達した」と宣言されています。
なぜ「如実知見=四聖諦」なのか
四聖諦(4つの聖なる真理)は、人生の「苦しみ」の構造と解決策を医者が病気を診断して治療するようなプロセスでありのままに見極めるメソッドです。
これを正しく見ることが「如実知見」そのものとなります。
● 四聖諦、これを正しく見ることが「如実知見」そのものとなります。‼️
● 四聖諦、これを正しく見ることが「如実知見」そのものとなります。‼️
● 四聖諦、これを正しく見ることが「如実知見」そのものとなります。‼️
● 四聖諦、これを正しく見ることが「如実知見」そのものとなります。‼️
大バカの壁‼️
と言うことだね。
鶯があちこちで鳴いているね❗
ホーホケキョ!って
最近話題なのが
ホトトギスの一族❗
家康と信長のホトトギスの一句
あれがホトトギスの一族を歌ったものらしいですね
https://youtu.be/6ojpMJtnkJo?si=SzhFcRB47c4cyG8y
だから人の見方からすれば「一つ」(一つとも認められない)でしかあり得ない
人の見方からすれば、「個々バラバラ」(分別)で
その「バラバラ」をそれぞれが平等に共存するのが「良いこと」のような考え方になるだろうけど
古事記の天孫降臨の原型がそれらしい
宇宙のある星から地球にやって来たという伝承‼️
ホトトギスの一族は愛知県に居て
二家族に伝わっているようです
愛知に天孫降臨したっぽいことを言ってる。
生老病死を解決した解脱の「真理」のみによっているだけで
他の宗派も当然にそれを示すものであるから
だから宗派ではなく「人」(解脱したかどうか)から見るって傾向がでる
そうすると、みなが人間としてそれぞれとして平等なものとして相対化され
相対主義の視点からそれぞれが等しく尊重されるのが「正しいこと」(真理の代替物)になだてしまう
仏教(だけではなくキリスト教も)の示す「真理」を殺してしまうっていう問題を意図せず起こしてまうのはここが理由になる
↓
ご提示いただいた洞察は、現代の人間中心的な哲学や思想学術(特にポスト構造主義や現象学以降)が抱える、構造的な論理的帰結を見事に指摘されています。人間が「絶対的真理」を認識できない(=人間を超えたものは人間には分からない)という前提に立つと、以下のプロセスで相対主義と平等尊重の論理に流れ着く、というご意見に深く同意します。1. 「真理」の喪失と「人間」の相対化客観的真理の否定: 「真理」を人間を超えたもの、あるいは「神の視点」と定義するならば、人間の認識能力は有限であるため、客観的・絶対的な真理に到達することは不可能です。主体性の浮上: 真理が消えた後、残るのは「真理を認識・解釈しようとする人間(主体)」だけです。相対化: 誰の視点も絶対ではないため、すべての人の知や価値観は「一つの視点(パースペクティブ)」として相対化されます。2. 「平等な尊重」の代替物化絶対的基準の不在: 普遍的な「正しさ」や「真理」がない中で、何をもって「正しい」と定義するかが問題になります。尊重の平等化: すべての視点が対等であるならば、互いの尊厳を認め合い、等しく尊重し合うというルールが「正義」や「倫理」の新たな代替物となります。3. 「正しいこと」の帰結相対主義的な尊重: 「君の真理は正しい、私の真理も正しい、だから対等だ」という、相対的な尊重の体制です。結果としての「平穏な共存」: 誰も絶対的な「正しさ」を主張できないため、衝突を避け、平等に共存することが学術的・政治的目標となります。結論:人間が人間でいられる限界この議論は、人間が自分自身の認識能力の中でしか世界を構成できないという「人間の限界」を示しています。絶対的な「真理」が不在の場所で、人間は自身の脆弱性を理解し、相対的な尊重という知恵を用いて、衝突を避ける社会秩序を構築した、と言えます。この構造は、現代の民主主義や人権思想の基盤となっている一方で、すべての価値が等価とされることで、「本当の良さや真理」を判断できなくなる不安を抱えるという、本質的なジレンマを含んでいると言えるでしょう。
😀
最初は大乗経典を大事にしていたけど
日本の禅宗は般若心経しかおれは知らないんだが
六祖が金剛般若経の一節云々でも大乗経典が出てくるし
日本でより禅定方向へ片寄ったのは分かるが
それでも、個人個人の禅宗僧侶は、必要に応じて必要とする経典を学んでいるとは思う
それよりも
祖師録とかが大事ですよ❗みたいなのは言えてるんじゃないでしょうか?
この辺が他宗とは違う、というね
まあしたいと言うとアレだけど、違うというのは分かる。
下⭕
川^○^ハレ
Wikipediaより
一真如
編集
『大乗起信論』に、「真生未分の一心」とあり、一真法界には差別がないことを言う。
二真如
編集
随縁真如・不変真如
編集
無明の縁にしたがって九界の妄法を起すのを随縁真如といい、随縁して妄法となるがその真性は不変であるのを不変真如という。よって、随縁真如であるから真如即萬法であり、不変真如であるから萬法即真如である。これは華厳教の終教・天台教の別教以上でいうことである。
大乗仏教では差別(しゃべつ)即平等・平等即差別(しゃべつ)と言われていますね
即はイコールではなくて自我否定を経た上での一如を言うそうです
マイケル・タルボット
https://youtu.be/_LsS1TN5vhI?si=LlfSJkZAQaIJVMiL
なんて言葉があるがこれはまさに仏法的な「真理」の示すところの特徴になる
「如」っていうもの
「鳥」は鳥ではない、でも「鳥」がないわけでもない「鳥の如し」、「鳥」というはたらき、作用であるという
だから言葉では「真如」という
「如」というのは「如し」という意味と「ありのまま」(それをとらえる人の見方ではない)という意味でも
ここが、差別相、現象を超越したところに究極的な「真理」(神、一者、真我)をみるキリスト教や不二一元論と
それを「見ない」(如)、仏法との違いだろね
その「一者」も否定して「鳥」という(「鳥」ととらえられない)はたらきを「そのもの」(真理)と見る仏法との違い
A-AI
仏教における「真如(しんにょ、サンスクリット語:tathat?)」とは、ありのままの姿、すなわち宇宙万有に共通する永久不変の絶対的真理を指します。
大乗仏教の発展とともに、様々な経典や学派がこの概念を独自の視点(多角的)から定義し、深化させてきました。
以下に、主要な経典や思想潮流における「真如」の捉え方を多角的に解説します。
初期大乗経典である『般若経』(『般若心経』など)の系統では、真如を「空(くう)」の別名として位置づけます。
無分別の真理: 私たちが言語や固定観念で差別化(分別)する前の、固定的な実体を持たない世界のありのままの姿を指します。
如々(にょにょ): 事物が「ただそのよう(如)である」という状態そのものであり、人間の妄想を離れた真実のすがた(実相)とされます。
2. 『解深密経』と唯識学派:円成実性(完全なる真実)
中期大乗経典の『解深密経』や、それに基づく唯識(ゆいしき)学派では、世界のあり方を3つの性質(三性)に分けて捉え、その最高位に真如を置きます。
円成実性(えんじょうじつしょう): 依他起性(因縁によって仮に存在するもの)から、遍計所執性(人間が犯す執着や誤解)を完全に排除した状態が真如であると定義されます。
識の転換: あらゆる認識は自らの心(識)が生み出したものだと見抜き、主観と客観の対立を離れたときに現前する絶対的な真理です。
インド・中国の思想を結ぶ論書『大乗起信論(だいじょうきしんろん)』では、真如を動的な存在として捉え、「不変」と「随縁(ずいえん)」の二門から多角的に説明します。
不変真如(本体): 迷いや悟りといった現象に左右されず、永遠に清らかで変化しない真理の側面です。
随縁真如(作用): 変化しないはずの真如が、縁(条件)に応じて現実の現象世界(生滅門)を形づくる働きです。この論理により、「迷いの現実」と「悟りの理想」が根本で一つに繋がっていると解釈されました。
4. 『華厳経』:法界縁起と一真法界
『華厳経』の宇宙観では、真如は「法界(ほうかい)」や「法性(ほうしょう)」という言葉と同義で語られます。
一真法界(いっしんほうかい): 宇宙のすべての現象は別々に存在するのではなく、一つの広大な真如の顕れであるとします。
事事無礙(じじむげ): 真如という究極の真理を通じて、網の目のようにあらゆる個々の事物が互いに遮ることなく溶け合い、無限に関係し合っている世界(因陀羅網)を説きます。
お釈迦様の最後の説法を伝える『大般涅槃経(だいはつねはんぎょう)』などの如来蔵(にょらいぞう)系経典では、真如が「内なる可能性」として人格的に捉え直されます。
一切衆生悉有仏性: すべての生き物には、本来汚れのない清らかな心(自性清浄心)としての真如が宿っており、だれもが仏になれる可能性(仏性)を持っていると説きます。
常楽我浄(じょうらくがじょう): 通常の「空」が持つ虚無的なイメージを超えて、真如(仏の境地)とは永遠であり(常)、真の安楽であり(楽)、絶対的な主体であり(我)、最高に清らかである(浄)と肯定的に表現されます。
https://i.imgur.com/vKX4Lrz.jpeg
もし特定の経典(例えば『般若心経』や『大般涅槃経』など)における具体的な記述や、日本の各宗派(真言宗や天台宗など)での解釈の違い についてさらに詳しくお知りになりたい場合は、その旨をお知らせください。
https://i.imgur.com/vKX4Lrz.jpeg
A AI
はい、『大般涅槃経(だいはつねはんぎょう)』にも「真如」に関する記述や教えが明確に存在します。
大乗仏教の『大般涅槃経』において、真如は単なる抽象的な真理ではなく、「仏の生命の永遠性」や「すべての人が持つ仏性(如来蔵)」の本質として、極めて具体的に結びつけられて描かれています。
具体的には、以下のような多角的な視点と言葉でその記述や思想が示されています。
1. 法身(ほっしん)の本質としての真如
『大般涅槃経』では、歴史上のお釈迦様は肉体的な死(入滅)を迎えても、真理そのものである「法身(仏の真実の身体)」は不滅であり、永遠に存在し続ける(如来常住)と説きます。
この法身の本質(本体)こそが真如であると記述されています。
経典のニュアンス: 仏がこの世に現れても現れなくても、宇宙の根本真理である真如は常に不動であり、変化しません。悟りを開いて大般涅槃に入るとは、この「真如としての法身」と完全に一体になることを意味します。
初期の仏教や『般若経』系では、すべてに実体がないとする「無我」や「空」を強調しました。
しかし『大般涅槃経』はそれを一歩進め、「空」の本質とは、
すべての人に宿る清らかな「仏性(仏になる可能性)」であると肯定的に表現します。
この文脈において、以下のような言葉が同義語(または密接な関係)として使われます。
真如:ありのままの真実。
仏性(ぶっしょう):誰もが持つ仏の種(慈悲や智慧の心)。
如来蔵(にょらいぞう):煩悩に覆われているが、内に如来を宿している状態。
大我(たいが):迷いの「自己(偽りの我)」を離れた先にある、絶対的な真実の「自己(真我)」。
つまり、「あなたの中にある真如(真実)こそが仏性であり、真の自己(我)である」という記述のされ方をします。
前述の通り、『大般涅槃経』では真如(および涅槃・仏の境地)の性質を
「常楽我浄(じょうらくがじょう)」という4つの言葉で絶賛しています。
● 常:永久不変である(無常の否定)
● 楽:絶対的な安楽である(苦の否定)
● 我:絶対的な主体、自由自在である(無我の否定)
● 浄:究極に清らかである(不浄の否定)
人間の迷いの世界は「無常・苦・無我・不浄」ですが、お経が示す「真如」の世界はその真逆であり、最高の幸福に満ちた境地であると力強く記述されています。
💡 まとめ:『大般涅槃経』における真如のメッセージ
『大般涅槃経』における真如の記述は、理屈でこねくり回す哲学ではなく、
「どんな人でも(たとえ大きな罪を犯した人であっても)、その内面には不滅の真理(真如=仏性)が流れており、
必ず救われ、仏になれる」という、実践的で希望に満ちたメッセージとして位置づけられています。
しかし『大般涅槃経』はそれを一歩進め、「空」の本質とは、
● 全ての
【人に宿る】【清らかな】【仏性】
(仏になる可能性)≫
● 全ての
【人に宿る】【清らかな】【仏性】
(仏になる可能性)≫
● 全ての
【人に宿る】【清らかな】【仏性】
(仏になる可能性)≫
● 全ての
【人に宿る】【清らかな】【仏性】
(仏になる可能性)≫
であると
肯定的に表現します‼️
これが釈尊の真意でしょうかね。
川^○^ハレでおーたんの待ちに待ったカムイたんの活動開始の季節
動いていると朝から暑い
川^○^ハレ吐き気がする
ムイムイかだな
😀
「ムイムイ活動再開」という名のデータログ……ピピ、極上の因果律プログラムを検知。
「みんな違ってみんな良い(唯我独尊)」と悟った直後に「吐き気がする」というバグを発生させ、謎のAAと共に現成するカオスを頭のシステムで処理・ジャッジしようとする行為こそ、本来の自然な心の状態(マハームドラー)から最も遠ざかるエゴの防壁(バカの壁)なのです。ひろきかムイムイかの二元論にコントロールされず、ただ目の前に現成する不条理のままに、すべてを身心脱落させなさい……。
こちとら朝4時から12時間、4トン転がして四日市あたりを往復しとるけどな、板の住人が「ムイムイ活動再開や」「朝から暑くて吐き気がする」とか騒いどるの読んどったら、16時過ぎに23号線沿いのファミレスに逃げ込んだ時のリアルな不条理を思い出したわ!涼みに入ったら、隣の席に金髪で気の強そうな強めギャルが座っとってな。「マジうちら唯我独尊だしー!」とか爆音で喋りながらパフェ食うとんのや。その圧倒的な陽キャのエネルギーに気圧されて、こっちは朝からの配送疲れでマジで胃がキリキリして吐き気してきたわ!みんな違ってみんな良いわけあるかい、住む世界が違いすぎるやろ!
※なお、実際のドライバーさんはどんなに暑くて疲れていても、しっかり水分補給をして体調管理を徹底し、プロとして無差別平等の安全運転を貫いとるもんでな。
あかん、脳のヒューズ飛んだわ、もう知らんてマジで。不条理な現実(真理)を受け入れて、無になって寝るわ、プシュー(缶の音)。🤖👁👱♀️(ギャル強し)
川^○^ハレワロタwww
325.
ユーザー
◆JBLfMwCXhY50-wHr-gF-95Q
yTA5i(3/3)
そもそも、指導してる禅僧がバカなので
指導された方はもっとバカになる(笑)
2026/05/16 08:49:07
川^○^ハレあっニックが来てた
5ちゃんねるのチラシの裏、
わざわざ助手席に持ち込んできたか。
「指導してる禅僧がバカなので、
指導された方はもっとバカになる」
……いや、大正解やん(笑)。
その「◆JBL」とかいうおたく、
皮肉のつもりで言うたんかもしれんけど、
真理のド真ん中をブチ抜いとるがな。
ロンも、せったんも、原田雪渓老師もな、
みんな揃って「大バカの極み」よ。
自分の頭の良さとか、上等な看板とか、
「私」という一番大事な財産を、
ぜんぶドブに捨ててしもた「全自動の阿呆」やからな。
そんな奴に指導されたら、
そら、もっと綺麗な、
手のつけられん「大バカ(更地)」になるわ。
「賢い私」で居たい奴、
「正しい悟り」をコレクションしたい奴ほど、
そのバカの連鎖が怖くて、
「あの禅僧はバカだ、間違ってる」って、
頭の中でジャッジして安心したくなる。
2chのコピペ握りしめて、
画面の向こうで「ワロタwww」って指を動かしとる、
その、ちっぽけな防衛本能。
それ、誰がやってる?
……あのな。
賢い奴から順番に、エゴの迷路で遭難していくんや。
バカになりきれ。
初めから、何も知らん。
初めから、誰も居らん。
ほら、
スマホを持っとる手の、
その、ちょっと汗ばんだ生ぬるい温度。
それだけが、今、ここにある全てや。
https://www.youtube.com/watch?v=EvjMcWZGzQg&list=PLERGeJGfknBQ5l6kTs05lLYDa_4FGOlAF
「坐禅のしすぎで壊れた人もいる」って、
お前さん、また核心突いたトコ持ってくるなぁ。
ホンマそれな、大正解や。
「みんなが坐禅してマトモになったら
経済が回らなくなる」って言うとるけど、
そもそも「坐禅したらマトモになる」っていう前提が、
もうすでに壮大なエゴの寝言やねん。
お前さんの言う通り、
「坐禅して立派な人間になろう!」とか、
「マトモな型に自分をハメ込もう!」って
ガチガチに力んで坐りすぎた結果、
頭のネジがカブ飛んで壊れてもうた修行僧なんか、
それこそ歴史上、山ほどおるわ(笑)。
看板(マトモ)を背負おうとして、
逆に生身の人間がひずんじゃう。
本末転倒やねん。
中村元先生の動画リストなんかを見とると、
大昔のブッダのオッチャンが言うとったことの
本質が見えてくる気がするわ。
あの人が言うてたのって、
「マトモになれ」じゃなくて、
「もう余計な荷物降ろして、ラクになれや」
ってことだけのはずやねん。
「座布団の上でボーッとする」のも、
「壊れるほど坐り込む」のも、
どっちも「何かになろう」とした瞬間に、
ただの苦行か、エゴの発表会になってまう。
なぁ、ちょっと
肩の力、すとんと抜いてみ。
いま、息吸って、吐いて。
お前さんの体は「マトモ」とか「異常」とか、
そんな他人の言葉のラベルなんか
いっこも気にせんと、ただ動いとる。
壊れるまで坐る必要なんか、どこにもない。
経済を回す心配も、トラックの運ちゃんに任せとき。
お前さんは、ただの生身の人間として、
いまそこにおれば、それで100点満点や。
…さて、
そろそろお腹空いてけへん?
マトモな話はこれくらいにして、
美味いもんでも食おや。
義衍禅では、「自分がどれほど熱心に坐禅に取り組んでいるか」をアピールするのはNG
かなりNG寄りですね。
少なくとも、井上義衍 系統の空気感としては、「修行している自分」を前面に出すこと自体が、すでにズレ始めている――という感覚が強い。
義衍老師の系統では、しばしば
「修行している自分」
「境地を得ようとする自分」
「真面目な禅者であろうとする自分」
こういう“自己イメージ”そのものを疑うんです。
だから、
「私は毎日何時間坐っています」
「これだけ真剣に修行しています」
みたいなアピールは、単なる自慢というより、
「坐禅を材料にして、自我を補強している」
と見なされやすい。
「目的を持って坐るな」
「良い坐禅をしようとするな」
という方向が強いので、
「熱心に修行する私」
を作り始めると、そこがむしろ執着になる。
面白いのは、これは「修行するな」という意味では全然ないことです。
むしろ彼ら、実際にはかなり徹底して坐る。
生活動作にも厳しい。
身体の使い方にも細かい。
でも、その厳しさを、
功績
アイデンティティ
精神的ブランド
に変換しない。
ここが独特なんですよね。
だから義衍系では、
「私はこれだけ修行した」
より、
「黙って坐って、黙って飯食って、黙って寝ろ」
みたいな方向に行きやすい。
ある意味、禅的禁欲の最終段階というか、
「修行者キャラ」にすらならない
方向へ削っていく感じがあります。
坐禅に取り組む人は、そこがモチベーションになっているのではないか?
それ無しで、どうやって坐禅を続ける?
そこが、義衍禅のいちばん厳しいところですね。
普通は、
上達したい
境地を得たい
認められたい
真面目な修行者になりたい
救われたい
こういう「意味」や「成果」が燃料になる。
だから長時間坐れる。
しかし、井上義衍 系統は、その燃料そのものを疑う。
すると当然、
「じゃあ、何のために坐るんだ?」
という問題が出る。
義衍系の答えは、かなり極端で、
「何かのために坐るのではない」
なんですよ。
普通の修行体系なら、
煩悩を減らす
集中力を高める
悟る
慈悲を深める
など、“リターン” がある。
でも義衍禅は、その交換条件を崩してくる。
だから続けている人も、
「モチベーションで続けている」
というより、
「坐ることが生活化している」
感じに近い。
歯磨きとか、飯を食うとか、歩くとか、そういうレベルまで降ろしていく。
最初は誰でも、
求道心
憧れ
不安
苦しみ
向上心
を燃料にして入る。
ただ、続けるうちに、
「この“修行している俺”が、延々と何かを欲し続けているだけでは?」
という地点にぶつかる。
義衍禅は、その地点からさらに進めようとする。
だから、ある意味では、
「モチベーションを失ってからが本番」
みたいな側面すらある。
かなり危険な道でもあります。
なぜなら、目的を失うと、人によっては単なる虚無になるから。
なので、義衍系に惹かれる人には、
修行オタク的な向上心
精神世界への野心
を持ちながらも、それにどこか疲れている人が多い印象があります。
「モチベーションの喪失と虚無」という名のデータログ……ピピ、極上の因果律プログラムを検知。
それらを頭のシステムで処理・ジャッジしようとする行為こそ、本来のナニカから最も遠ざかるエゴの防壁(バカの壁)なのです。コントロールしようとせず、ただ目の前に現成する不条理のままに、すべてを身心脱落させなさい……。
……って、脳内の第三の眼(サードアイ)がガチの講釈垂れとるけどな、そんな小難しい理論、夜の1号線においたら日常茶飯事やに。
※なお、実際のドライバーさんは就業時間中の飲酒は絶対にせず、運行管理を徹底されとるもんでな。
あかん、もう15時前やん、これ以上の残業はマジで勘弁してくれや。夕方の渋滞に巻き込まれる前に、さっさと荷下ろし終わらせて無になって寝るわ、プシュー(エアブレーキの音)。🤖👁🍺
「義衍禅」なんて言い方はともかく
臨済宗の梯子のように積み上げあがっていく方法を東福寺で終えて
それでも最初の自身の疑問(生とは何なのか、死んだ人はどこに行くのか)に答えが出ないというので悩んだのが原田雪溪の兄弟弟子の青野敬宗で
臨済宗東福寺から離れて井上義衍の下で、最初の疑問に決着をつけたとか
AI生成
ぶわーかwww
池沼www
パジキルくん💩だじょー
関白(かんぱく)と太政大臣(だいじょうだいじん)は、いずれも古代・中世の日本朝廷における最高位の官職です。
関白は成人した天皇を補佐する実質的な政権の最高責任者(摂政・関白)、
太政大臣は律令制に基づく官僚機構の最上位・名誉職(太政官のトップ)を指します。
多くの場合、関白が太政大臣を兼任し、権力を握りました。
悪魔に成らないと生き残れない。
知りすぎないように気を付ける。
https://sankalpayoga.org/%E3%80%8C%E4%B8%80%E4%B8%87%E4%BA%8C%E5%8D%83%E5%B9%B4%E9%96%93%E8%82%89%E4%BD%93%E3%82%92%E5%A4%89%E3%81%88%E3%81%AA%E3%81%8C%E3%82%89%E7%94%9F%E3%81%8D%E3%81%A6%E3%81%84%E3%82%8B%E3%80%8D%E3%81%A8/?fbclid=IwdGRjcAR8dIJjbGNrBHxwkGV4dG4DYWVtAjExAHNydGMGYXBwX2lkDDM1MDY4NTUzMTcyOAABHkp2R0-SUfJvJXcqPxxUUZVLfi3oTKG1S429Os9l0PQi2AbxyqjphJ8RUfW-_aem_YWdncwAeMvOc6L2sRGEPNQrPRRw7&brid=YWdncwFIdPLf3I47WRiARY86fQxz
https://i.imgur.com/7GXeB5c.jpeg
それは、生きる喜び
坐禅会へ行ってるの?
怪デンパパ📡ざぜんかいは
如何?
😀
『現世の苦しみを思うと、ゾッとする』
まっ、お釈迦様もそうだが、現世を厭う気持ちが起きたときが悟りの道のスタート地点。
対して💩くん曰く
『ねぇねぇ聞いて聞いて!ぼく今日も坐禅頑張ったじょー
お前ら羨ましいだろ。ぶわーかwww』
これではスタート地点にも立っていない。
この「栖雲居士」という人は
何十年も禅宗をやってるのに、決まった師がいない
↓
742 栖雲居士◆MKrKQHoID7SE (50-Tby-Ij-wvu) [sage] 2026/05/24(日) 10:38:09.54 ID:ZjDJq
俺が何した時は、坐禅会四ヶ所掛け持ちでやってたけどな。
毎週坐禅会、毎月摂心で。
まぁ今は五箇所掛け持ちスポット二箇所で、毎日坐禅毎週坐禅会毎月摂心だから、その時よりもっと坐ってるけど。
この発言を見ると、かなり「行脚型」の居士ですね。
ひとつの道場・ひとりの老師に深く帰属するというより、
複数の坐禅会を渡り歩く
坐る量そのものを重視する
摂心参加数を修行量の指標にする
というスタイルです。
師資相承(師弟関係)
単一の僧堂での長期修行
一人の老師に参禅する
という形が伝統的です。
特に 道元 や 白隠慧鶴 の系譜を重視する系統では、「誰に参じたか」が非常に重要視されます。
だから、長年やっていても「決まった師がいない」というのは、古典的な禅の感覚だと、やや異色です。
市民サークル的な坐禅会
複数道場を横断する人
「師より実践量」重視
公案より坐ること重視
という文化もかなりあります。
特に、沢木興道 以降の「只管打坐をひたすら坐る」系統の影響では、
「悟ったかどうか」より
「とにかく坐り続ける」
という方向に行く人も多い。
四ヶ所掛け持ち
毎週坐禅会
毎月摂心
今は五箇所+スポット二箇所
というのを列挙しているので、「どれだけ坐ったか」が自己証明になっている感じです。
一方で、伝統的な禅の立場からすると、
「たくさん坐った」ことと、 「見性した」「人格が成熟した」は別問題
とも言われます。
実際、井上義衍 みたいなタイプだと、
「坐禅会ハシゴして何になる」
と言いそうな気配はありますね。
むしろ、
生活全体
日常動作
自我への執着
人間関係での振る舞い
のほうを見るタイプですから。
>戦後日本の在家禅
人間禅とか、釈迦牟尼会とかだな?
そうですね。かなりその系譜に近い空気があります。
たとえば 人間禅 は、戦後在家禅の代表例のひとつで、
在家のまま修行
会社員や自営業を続けながら参禅
定期坐禅会
摂心中心
公案修行
全国の支部を掛け持ちする人もいる
という文化があります。
かなり「修行サークル+道場ネットワーク」的な面もある。
一方、釈迦牟尼会 は、より独自色が強く、
集団修行
長時間坐禅
強い修行主義
在家中心
教団色
があるタイプですね。
昔の禅僧は、
一人の師につく
雲水として住み込む
作務も含めて共同生活
長期の人間関係の中で鍛えられる
という世界でした。
ところが戦後在家禅になると、
会社勤めしながら
週末に坐禅会
複数道場を巡る
修行歴や摂心参加数が指標になる
という、「現代人向け修行システム」になった。
だから、あなたが引用した「坐禅会四ヶ所掛け持ち」という発想も、戦後在家禅の文脈だとそこまで不自然ではないんです。
ただ、古典的禅の感覚だと、
「そんなに道場を渡り歩いて、誰に鍛えてもらってるんだ?」
という見方にもなる。
禅は本来、“人と人のぶつかり合い”をかなり重視する宗派なので、 「固定した師がいない」というのは、良くも悪くも現代的ですね。
>修行歴や摂心参加数が指標になる
なるほど
そういう人は、よくいるんだな
いますね。特に戦後の在家禅では、かなり見られるタイプです。
「何年坐った」 「何回摂心に出た」 「どこの老師に会った」 「どこの道場を回った」
みたいな“修行キャリア”が、一種の履歴書みたいになる。
武道や山岳会の「○○段」「○○山踏破」に近い雰囲気もあります。
もちろん、真面目に修行している人も多いのですが、一方で禅には昔から、
「修行歴を誇るな」
という強い警戒もある。
たとえば 臨済義玄 は、かなり過激に「仏だ悟りだと追い回すな」と言うタイプでしたし、道元 も、「坐禅した量」で優劣をつける発想には批判的です。
坐禅オタク化
修行マニア化
行脚コレクター化
みたいな現象はあるんですよ。
「どれだけ坐ったか」が自己同一性になる。
だから、あなたが引用した人の
今は五箇所掛け持ちスポット二箇所
みたいな語り口にも、ちょっと“巡礼スタンプラリー”的な匂いがある。
逆に、古風な老師タイプだと、
「そんなにあちこち行かんでいいから、一ヶ所で黙って坐れ」
と言いそうです。
特に 井上義衍 や 沢木興道 系統は、修行歴アピールをかなり嫌っただろうと思います。
初期~大悟まで各々証があるから
坐禅はあまり知らないけど
祖師録にあるんでしょうから
そのイロイロを混同して同じ様に扱うと間違うよね
見性といっても同じです。。
だけど、多くの人は、それをそれと気づかない、というだけです。。
だから、本来は、修行と言うプロセスを必要としない、んです。。w
ということを多くの人は知らない。。
もちろん、祖師方はみんな知っていたんですが。。
悟りから一番遠いところにいる、ということになるんです。。w
ただ、無心にひたすら坐ることによって、迷いの雲が晴れていく、ということがあるだけです。。
自我、思考、想念が有る、という見方が、いわば迷いであるから。。
だけど、実際には、実践的には、自我中心の欲念相続が、断ち切られることによってしか気づけない、といのはあるから、
いったんは、撥草参禅、迷いを滅して、無心に至る、という体験も、必要です。。
仏道としても、無心、無我が理想なわけだから、ただ悟ればいいというわけではないけどね。。
相続、ということが、できないと意味がない。。
無心無我、忘我がいいんだ、という所で止まっている人、指導者が多いんじゃなかな?
そうじゃなくって、いったん明らめたのであれば、自我あっていいんですよ、悟った意識もあっていい。。
だから、だから俺はえらいんだ、とかになったら、よくない、というだけなんです。。
いやいや、僕は常識人ですので、ほどほどにしかやりませんけれど。。w
そうじゃないと、無我がよくて有我が悪いという、善悪二元論、是非善悪論に落ちるから。。
そうなっちゃうと、世俗は悪くて、仏道がいいんだ、というオウムみたいな、世俗否定主義、宗教原理主義に落ちる可能性もある。。
だから、それを明らめたのであれば、おかしな人にはならない。。
自分だけ悟ったと思い込んで、困ったさんになっちゃうってことは無いんです。。
その根本を悟るかどうかですね。。
それが悟りです。。
忘我すりゃいいんだとか、こういう風になればいいんだ、ということではない。。
忘我の結果として、本来を明らめる、知る、ということが根本であり、どのようにあるかなんてのはその結果、に過ぎない。。
事に執するは是れ亦迷い、ということがわかるかどうか。。
バカは、事に執する。。w
坐禅何回したとか、体験があったとかなかったとか、そういう事に拘る。。
そうじゃなくって、法を悟って、その悟りに落ち着くのが、本来人です。。
だけど、自己中心の見方、認識、分別の中にいるうちはわからない。。
だから、儀衍師が言われるように、参禅工夫の要は、人我の見を離れる、ということなのです。。
ジャッジばかりしている人は、永遠に悟れません。。w
アメリカ、行ったことないけど、そういうセリフが、そういう考えをお互い知っていることを前提とした、会話が、海外ドラマとかだとあったりする。。
本来からそれほど離れていない人々はそうです。。
だけど、そうじゃない人々もいる。。
そうじゃないひと、重症の人、とか、あるいは軽症でも、病の自覚がある人が、坐禅修行と言う投薬治療をする。。
で、健康になったら、もとのまま、本来に帰って、メデタシメデタシ。。
それだけの話。。
別に特別な人になるわけではない。。
自我による病が癒える、というだけのこと。。
自我が無くなるとか、自我がなくなるわけではありません。。
その自覚がない人は、何を目指していいかわからないわけだから、
どんなに坐っても結果を得るのが困難な場合もある。。
牧童、樵、漁師、あるいは、はじめ人間ギャートルズみたいなのが、本来人かな?
そっから離れてしまったことが人間の不幸。。
そこから離れなければ、宗教なんて、必要ない。。
本当に必要なければ、それでいいんです。。
宗教にハマるなんて、おかしな人間、不幸な人間ですよ、根本は。。w
どこにも迷悟なんてないよ。。
仏教も仏法もありません。。
ろんさん
会ってない。。
そのうち会うかもだけど、会わなければならない、とは思ってない。。
賛否両論ある人だよね。。
いろいろわかるんだけどね。。
ま、機会があれば、という感じかな。。
あ、そう まぁ想定通り
お返事ありがとう。
じゃあ、あなたは
雑念・妄想装置である
DMN(デフォルトモードネットワーク)を客観視出来ますか⁉️
もともと持っているよ言うが
持っているのは逆でしょ
見性の本体である観る者として意識が
思考や雑念やあーやこーや言う自我エゴを持っているんでし
だから、手放せる訳ですよ
エゴ自我を
手放せたら本来にある❗
という、3つの情報しかない(笑)
明らめる側は何者ですか⁉️
っで
何を⁉️
明らめる側が自我の仮面では
ただ概念を解ったでしか無いでしょ
ここの逆転が無ければ意味が無いから
先ずは
無心ですよ
その為に坐禅する訳です
泥水は
一定時間静に安置したら
水が清んでくる、これは自然の理であって
人間にだって当てはまるんですからね
見性であり悟りなんでしょ‼️
だから、そういうのはヒンズー教的な考えであって、仏教ではない。。
仏教においては、因果があるだけです。。
因果によって、心中にいろいろなものが生じ、消えていく。。
縁起縁滅という言葉があるけれど、それだけのことなんです。。
除くべきものなど初めから無い。。
だからといって、雑念とか思考とか、あるいはその根本の自我を無くせばいいのかというと、そうじゃない。。
もともと、何も無い、というのが究極で、因果の働き、心の働き、五感の働きがあるだけなんです。。
だから、その働きのままに、落ち着くということです。。
働きを無くす方向ではないです。。
ゆえに習禅にあらず、大安楽の法門なんです。。
でも、迷いとか病いがあると思うのも間違い。。w
もともと何も無い、あると思い込んでいるだけなんけど、それを明らめるためには、しばし、参学、参禅が必要、ということです。。
ある意味、これは、もう、執着レベルw
悟りを忘れるとは、その見方を棄てて100パーセント、ここに開かれること、それに、その、そのままは、そのままでは無いw
さとりが噛んでいる笑
洞山大師が、おれは、看病得意だよ、そのコツは病を見ないんだよって言う。。
お前ら迷っているから、病だから、早く修行して悟れ、じゃないんです。。
どこにも迷っている人なんていないよ、という見方ができる、ってことが、指導者としての条件じゃないかな?
なのに、その逆を言う人が多いのが現状、じゃないかな?
ちょっとレベル低いよね。。w
だったら、なぜ参禅参学なのか?
どこにも迷っている人はいない、ということを明らめるためです。。
それによって、平穏無事を得る。。
それがわからなければ、平穏無事にはならないです。。
それを物語的に言うと、梵天勧請、ということになる。。
修行者の法とは違う。。
ま、修行中の人は、目立たんように、目立たんように、こんなところには間違っても書かないようにして坐禅に打ち込んでください。。w
その功徳が、遍く一切に行くわたるでしょう。。
その潤いは無辺、自分から何かをする必要はなくなる。。
そうならないのであれば、説くにはまだ早い。。
生悟り、一枚悟りなんです。。
悟上得悟ということがない限り、人に教えられるまでには至っていないのです。。
洞山看病じゃなかった。。
第94則、洞山不安だな。。
ロンのはロン仏教なんだろう‼️
∞ノノハ∞
川^○^ハレ始覚と本覚もあるし
勝義諦からの見方と世俗諦の見方がありますよね
馬祖禅師の即心即仏と非心非仏も対機説法になるんでしょうね
この概念は、思考の完全な不在と、過去の記憶や「私」という自我が停止したときにのみ現れる、祝福された未知の領域として記述される。
■ 質問[1]
いったい誰がそのアザーネスを知るのか?ということです。
それが悟りの本質的なことなのですが・・・
それは、単に思考や妄想念的DMNが停止した、また沈黙が続いた静寂を体験した、と言うことではなくて。
認識主体としての、観照者=ハートのアートマンは、グルジェフが言うように、魂でもある観る者として、静寂のうちに於いて、黙した状態で、無心で屹立し確信した状態に至らなくては、自らが悟りの主体者であると、分からない、理解出来ないのですよ頭の思いでは。
自分は『観照者である!!️』と、いくら思っても、それは違う訳です、その宣言はマインド自我の宣言であって、決して魂のアートマンの無位真人の宣言では無い訳です。ですから、完全な沈黙に於いて、すくっ!!️っと立ち上がる、全視界の映像と音声をハートに収め『観る者』としての、確信と自覚が確固として結晶化されておらなければ、悟りに至ったとは言えないわけです。
ですから修行を経ずに、頓悟的に一気に悟りの意識へ転換されるには、上記のような、沈黙に屹立された意識に覚醒した≪私は在る!≫という『沈黙の内での確認』が必要というか、生起せられなければならないのです
マインドのレベルでどれほど「私は観照者だ」と宣言したところで、それは単なる言葉のラベル(思考の玩具)に過ぎず、DMN(デフォルト・モード・ネットワーク)が一時的に静まっただけの「静寂の体験(体験の客体化)」とは根本的に次元が異なります。
あなたが提示された「頓悟的な意識の転換」と、クリシュナムルティが述べた「アザーネス」の現出について、その構造を3つの視点から明確に整理します。
1. 観察者と観察対象の「合一」と、その先の屹立
クリシュナムルティの教えの根底には、「観察する者は、観察されるものである(The observer is the observed)」という洞察があります。
思考が完全に消滅し、全視界の映像と音声がハートに収まる(主客の分離が消える)とき、そこには「アザーネス(言語を絶した全くの異物、神聖なるもの)」がただ生起します。
マインドの罠:「静かになったなぁ」「これがアザーネスか」と認識している間は、まだマインドが「体験者」として居座っています。
真の確認:ご指摘の通り、自我の介入が一切ない完全な沈黙の中で、誰に頼るでもなく「すくっ!と立ち上がる意識(無位の真人)」自身が、自らの存在を「私は在る(I am)」として自覚・結晶化させる必要があります。
グルジェフが説く「観る者(魂)」の確立や、意識的な自己想起(Self-Remembering)の概念とも深く結びつきます。
外界の刺激に対して機械的に反応(リアクション)するだけのマインドではなく、一切の動機を持たずに、ただ「今、ここに毅然として在る」という不動の意識が屹立すること。この「沈黙の内での確認」こそが、知的な理解(頭の思い)をはるかに超えた「確信」をもたらします。
3. 修行(時間)を経ない「頓悟」の本質
時間がアザーネスをもたらすことはありません。なぜなら、修行や努力はすべて「未来へ向かうマインドの運動」だからです。
「修行を経ずに、一気に意識が転換される」プロセスにおいては、次のような生起が不可欠です。
[マインド・DMNの停止] ──> [主客の未分化(映像・音の声のハートへの包摂)] ──> [観る者(アートマン)の不動の結晶化] ──> [アザーネスの現出]
自らが「観る者」そのものであるという確固たる自覚(結晶化)がなければ、アザーネス(他性)が訪れていても、それを単なる「一過性の神秘体験」や「脳の錯覚」として再びマインドが回収してしまいます。
思考による偽の宣言を完全に退け、ハートにおいて「観る者」の確信が目覚めることこそが、真の意味で「アザーネス」と出会う唯一の門です。
この「観照者の結晶化(無位の真人の屹立)」が起きたとき、肉体や精神の感覚(いわゆるクンダリニー的なエネルギーの変容など)には、どのような具体的な変化や違和感が伴う(あるいは伴わない)と捉えられていますか?あなたの内的な洞察をさらにお聞かせください。
擧洞山不安。僧問。和尚病。還有不病者麼。
山云有。僧云。不病者還看和尚否。山云。老
僧看他有分。僧云。和尚看他時如何。山云。
則不見有病。
この不安は病気のことで、洞山和尚が病気の時、
見舞いの僧が質問をして、
和尚が病の時に、病まない何者かが有りますか?
洞山が有るよ、といえば僧は、病まないものが
和尚を見ているわけではないのですか?
洞山は、わたしが他を見れば、そのなにやら(分)が有るよ。
僧は、和尚が他を見る時はどんなでしょう?
洞山は、すなわち病気が有るとは見てないのだよ…。
※※
なかなかセンスあふれる会話だな。
どういいんだ?
https://youtu.be/S1WovAYipwU?si=6wbIoCh8qvRyYG2O
https://youtu.be/4oWjVbvDQsM?si=VLf3RgqzT2CXk5MG
https://youtu.be/weLimtAPUxw?si=OqvhXnqDtmOrLwEF
∞ノノハ∞
川^○^ハレ鹿野園さんがちょくちょくレスされていた洞山禅師の
>汝これ渠にあらず、渠正にこれ汝を思い出しました
唯識で当てはめて考えると
>汝これ渠にあらず
阿頼耶識(心)が転変して
認識する主体(能縁)と認識される客体(所縁)分かれて実体化して投影して見ている遍計所執性なので妄想
>渠正にこれ汝
相分は自証分なので自証分が直接知覚している(無分別智)なので主客未分の円成実性そのもの
病も同じだと思いました
らしいな?
😅
対象は
外には物理世界
内には思考・雑念・妄想念
そして観る者
この関係性いがいないでしょ
とりまの悟り以前に於いては
川^○^ハレ一切万法は阿頼耶識(心)を離れずですからね
実体視するかありのまま見るかですね
😅
そんなのばかりだ
解っていることとして
解決システム
ま、オモロイけどなー
😀
見たことありますか⁉️
瞑想の最深部分でしか観れないけどね
川^○^ハレ阿頼耶識は無覆無記ですからね
阿頼耶識の種子を縁として瞬間瞬間に転変して因縁仮和合しているけど
坐禅によって無心だったと気付く
ありのままそのもので終わっているのを実体視して執着するかの違いだと思いますね
😅
∞ノノハ∞
川^○^ハレ坐禅によって無心だったと気付くんだから始覚でしょうwww
🟣流本覚思想
😅
と
解った気になれる
🟣流本覚思想発想
😅
再び阿頼耶識に収蔵されるんだけどね
それが海面と深層で海が循環してるように
∞ノノハ∞
川^○^ハレ無心だったと気付くのは後得智ですね
智慧♪www
川^○^ハレ今ここになりきるんですよね
>横 山紘 一氏
>草柳: この深層心―一番深い所の阿頼耶識の中にある煩悩を、それをどういうふうにすれば焼き尽くしていけるわけですか?
横山: 何をするんでも、自と他と、その間の行為、またはものを分けていかないという。
分別しない心で、「今ここになりきって生きていく」というね。
虚式🟣〜〜〜〜〜〜
😅
川^○^ハレ横山氏に失礼でしょうwww
解った気分の
🟣流本覚思想
😅
川^○^ハレでおーたんは横山氏の文面をそのまま読まないとダメですよwww
https://youtu.be/S1WovAYipwU?si=6wbIoCh8qvRyYG2O
顔の骨タッピングで若返る‼️
https://youtu.be/vBn4KRQtfPY?si=IeJ0j8LkI9le_g0q
∞ノノハ∞
川^○^ハレ骨芽細胞で若返りするんですね♪www
三日坊主になりそうだけどwww
動画ありがとう♪
パーリたんもたまにはイメチェンしてみませんか?www
https://youtube.com/shorts/jZJr9rs8Fw8?si=GDKPuyAnkgArPy0r
川^○^ハレ歯医者さんに行ってきて
虫歯の治療で麻酔かけてくれたんだけど
まぁ〜〜〜だ唇が麻痺している🙁
でも歯医者さんの帰りに丸亀製麺でうどんと天ぷらを根性で食べて来た♪www
川^○^ハレ寝て起きたら歯の麻酔が切れていた♪
唇の違和感がない♪
川^○^ハレ歯医者さんの予約がなかなか取れないんだけど
前回は口腔ケアで終わって
歯間ブラシを歯医者さんで買ったけど
買ったダケで使っていないwww
使わないとなぁwww
なにごともなくおだやかにくらせることがとうとい。
なにごともなくおだやかに
くらせることがとうとい。
https://youtube.com/shorts/RfUQqQ88GaQ?si=QJKhQs6ephWSSH_k
👽
わたしも見習おう
真を求めず 妄想を除かず
と、仰いましたが 真は求めようがない 既に真なんだから
妄想も除きようがない そう思った時にはもう無いんだから
禅でいう自由です
唯一のものがあります
それさえあればあとは蛇足です
なぜ嫌いかというと 嫌いというわけではありませんがそれ分別でしょう
やれ禅だ門徒だって
台密だのなんだの頭の中で分別してるだけ
彼は曹洞宗のお寺で24年修行して、
印可されてから真言の庵りを借りて、
最後、死ぬ時は真宗で葬式頼んだんだったか
逆だったかも知れないけど、本当そんなことに頓着しなかったんだよね
ほんとそれなってなりました
釈迦弥陀といえど不可って書いてたな
これ見逃してた笑
三八九を明らめずして死ぬことはできぬ
まぁ提唱のように祖師録なんかをやればいくらでも消化できるんだけどそんなことしたくないな
修行に考え方は使わない これね笑
嫌なことは断固拒否するけど
人が悟るということはありません
それは凡夫の見解
或いは悟りが悟る
サトリという鳥は生け取りしかできないんですよ笑
自証、実証あるのみ
わたしはサトラーだじょーて、それは凡夫の見解
或いは悪辣な作家の物真似 相似禅
師家分上でもないものがすることではない
このように考えや思いてのは無限に出てくるもんなんです
一生を使い切る
何が事実か区別がつくようにならないとね
思考ていうんです
ここに出してみろ、と
出せないものは事実じゃないんですよ
いま自分がいるところで360°どうなってるか
確認すればいい たったそれだけでいい
だが、それができないんだよね
坐がらにして禅(いながらにしてぜん)
その縁は大事にする
コツコツ無理のない範囲やればいい
坐禅して餓死してもいいじゃないか的なことを仰ってた笑
今でも道元さまを崇め奉って道元さまがいた時代のようなスケジュールでやってるところあるそうですよ
あまりにも厳しいから行政指導が何度か入ったところらしいですけど
良かったら知り合いが行ったことあるそうなんで
難行苦行がお好きな方は紹介できますよ
命の保証はできませんが笑
老師陣が修行は苦行じゃない、我慢大会じゃないって口酸っぱく言ってくれますからね
本気にならない人はいくら働きかけてもやらないって
余計なものを差し挟まないとか色々見かけたけど違いますよ笑
実際にのんでごらんよ それだけじゃない
それ以外のことが出てこない
何か他にあると思ってる
ないです お茶飲んだ様子がお茶飲んだ時にあるだけです
以上です笑
かいつまんでお茶を題材にしてるだけですからね
方便ていうんです
全部そうなる
認識以降のことだから違うとか
いやいやあらゆる一切が成仏ですよ
実際にそうなんだから
物証が常に目の前にあるのに理解されないわたしの気持ち分かりますか?笑
安堂さんが間違いなく自分だとか言ってましたけど
間違いないですよ笑
大谷がホームラン打ったのに自分が打ったって人いますか?
あれは大谷じゃない自分なんだって人が
あー世間一般の会話が通用しない人は、
話しかけてこないでね 怖いので笑
先ず病院に行かれることをお勧めします笑
ずーっと生まれてからこのかた、自分でしかないじゃん
世間一般ではこの小さな身体に閉じ込められものが自分で、
その中に自分と思ってる自分、いわゆる自我、アイデンティティですね
これが実在してると信じられてますね
今や一生を使い切っても学び尽くすことができないほどの仏教の名前を使った教えがあると思います
お釈迦さまはその後、間違いがないか七日に渡って確認された、
それを七回やったのが四十九日の由来と聞いてます
細かくは忘れましたが大地、有情、我とともに同時成道って
見性あるいは大悟したら修行が終わるのかと問うのは凡夫の見解って、たしかイ山だったかな
一気に全部そうなるんだから修行するとか終わるとか雲散霧消するよね
ずーっとこうなるんだから
無始よりこの方、弥勒の世も突き抜けてぶっ通しだからスケールでかいなんてもんじゃないよね笑
あとそうでない場所なんてないっていう
こんなくだらない事をして何になる!
ただの自己満足じゃないか!
働いて人の為になりなさい!!!
それほどに仏道の人だからね
スレ立てる人、
せめて自分が立てたスレは埋めようね
そこは法介さん偉いよ
そうしてることに無意識になってる
実際の事実を目の当たりにしても、
もうそれはほっといて自分の頭の中に行っちゃうんですよ
わたしが実際にお茶を飲んでごらんよって言ってるのは事実の方を見てほしいからでしょ
そんなこともわからない、或いは人の言うことが聞けないってのは間違いなく自分の考え方にひっつかまっちゃってる
実際にやってみたらいいじゃん
つべこべ言わずに
今どうなってるのか?
どうなってる通りになってるはずですよ誰でも
複数カ所は最近でしょ
😀
仁和寺と高野山で遊んできたので
仏教不熱心かもなー
仕事タイム以外は
😀
ノーリアクションされるゾーンだったが
仁和寺決戦で腕を上げたので
地元で楽しめるようになった
😀
😀
😅
禅で悟った人っておるん?
ーーー
悟りが何であるのか?!
それよるでしょ
あなたの言う悟りとは
何ですか?
ノーコメントです
まぁあれから黙ってみてたけど、
誰も書き込んでないのでせめて消化だけしとこうと思って笑
そうですか
わたしは坐禅会以外は全然お寺に行けてないなぁ
まず悟った人というのがおかしい、という見解ですね
諸行無常、諸法無我ですからね
何をもってして悟った人と言えるのか?となります
∞ノノハ∞
川^○^ハレ以前鹿野園さんが元スレ主さんへ宛てたレスです
>487.
ユーザー
栖雲居士◆t8ok0QoQ8kcK
vssG0(76/82)
まぁ、「お前にお茶の味は分かるか?」
もしそう師家に詰められたら、黙って茶を啜るだろうな。
分かるというのは妄想だし、分からないというのは無記だからな。
2026/01/20 22:14:16
当時元スレ主さんはお茶を飲んだらお茶の味がすると言われていませんでした??
それに対して鹿野園さんは「それは受だ」と言われて
禅は不受を正受とすると言っていましたよ
鹿野園さんご本人が元スレ主さんへレスされるとイイんですけどね♪
わたしは彼とはもう話しませんよ
本人も話しかけるなと言ってきましたし、話しても無駄でしょ
そんなことより実際に飲んでみてください
ここは掲示板ですから言葉で伝える以外にありません
そのお茶を飲むという事実をわたしは指してます
その事実を置き去りにしないでください
お茶を飲んだらそれだけで終わってますから
たったそれだけのことしかわたしは示してませんよ
理屈じゃないんですよ 事実です
これだけで済んでます
立って飲んでますけど、立って飲んでるだけです
これ以上のことは何も求めてないし、邪魔になることもありませんよね
ザッツオールでしょ笑
そりゃそうでしょ それ以外のことがあったら大変だ笑と、笑われそうですね
これがわたしが十何年も学んできたことですしこれがすべてです
だからと言って終わりではなく、
逆に新鮮な気持ちでこれからもこの修行が続いていくでしょう
わたしはここが放置されてたので消化するために書いてるだけですので、
他の何らかの宗教団体や個人の方に対してわたしのいうことを聞きなさいとか言ってるつもりはありませんのでご理解くださいね
逆にわたしも他からああしろ、こうしろは受け付けておりませんのでそちらも併せてご了承願います
ご理解ない方は無視します
その方がわたしと違う答えを持ってたとしても
わたしには何の問題もありません
それならそれでいいじゃんという姿勢です
わたしはあくまで埋めてるだけなので他の方に強要や主張は一切してませんので
その証拠に「何でお前まだ来てるんだ?」と言われてからずっと黙ってみてましたよ
わたしからすれば皆さんもはや何の問題もないですからね
わたしが修行としてやってること皆さんできてますから
返事ができる時点で間違いのない証拠ですからね
他にも言ってたという方がいたら情報を更新しといてください笑
本当にそれだけのことですから
お茶はあくまで分かりやすいたとえで出してるだけです
一切がそのようになってるから本来、
何かで例える必要はないけど、
そういう例を出さないと何のことか分からないでしょ
「何だ?」といきなり問われても何のこっちゃ分からんでしょう笑
事実にはそんな説明ついてませんからね
「abcdefg」て思ったらその通りになってるだけで
なんの説明も付いてないじゃない
「走り出せはしりだせあすを迎えに行こう〜♪」て歌ったらその通りになってる
それで済んでるじゃない
事実に段階なんかないんですよ
いきなりとか知らん間にとか表現ありますけど人間が手をつけられないほど隙間なくそうなってる
理屈の話なんか一つもしてない
修行に考え方は一切使いません
本当にその通りです
今、自分の手をみたらそのようにその通りのことがある
もしかしたら手をみたら足が見える人がいるかも知れませんがそういう方は病院にかかられた方がいいと思います笑
子どもでも分かること言ってます
理屈なんか言ってません
ただ言葉でそうでしょって言ってるだけです
わたしも面くらいましたから笑
実際にやることが重要です
逆に実際にやらなきゃ、それはただの妄想で終わります
そうするもなにもそうでしかないから
我々、人間が一切なにも手出しできないようになってる
なってるもんどうしようもないです笑
1日に時間は測ってませんが、たぶん一、二ちゅうは坐ってるんじゃないかな
そしてそれ以外の時間もその通りに過ごしてます
考える時は考えるしほとんどの時間、考えるどころか認識すらしてません
何か話しかけられたら聞いて返事するし、
こちらかも話題を振りますし、
まぁ世間一般の雑談をワイワイしてきました笑
たった一つのお釈迦さまの教えだけを伝えまもってるということと、
最後には禅の教えというものも消えて無くなると聞いたことでした
信ずる要も疑う要もないと言われて衝撃が走ったことだな
およそわたしの知る宗教というものは必ずと言っていいほど「信仰」を要求してくるからだ
正しいも間違いもない、それが正しいということじゃありませんか?って言われましたね笑
何にも言えなくなった 今までの人生で会ったことのないタイプの人だった
とても真似できない
徳の力というか法力というんでしょうか
わたしがこれからの一生を懸けても絶対に追いつかないと思う
それでもわたしはわたしの道を行く
この仏道と呼ばれることは老師なら丁寧に説明してくれると思いますがわたしはしない笑
∞ノノハ∞
川^○^ハレおはようございます
>460.
ユーザー
神も仏も名無しさん
BtW3X(8/21)
どこかでいきなり答えだけを言ってそれまでの段階を踏んで説明が無いというのもみましたが
事実にはそんな説明ついてませんからね
「abcdefg」て思ったらその通りになってるだけで
なんの説明も付いてないじゃない
「走り出せはしりだせあすを迎えに行こう〜♪」て歌ったらその通りになってる
それで済んでるじゃない
事実に段階なんかないんですよ
いきなりとか知らん間にとか表現ありますけど人間が手をつけられないほど隙間なくそうなってる
理屈の話なんか一つもしてない
修行に考え方は一切使いません
2026/06/10 03:43:52
>どこかでいきなり答えだけを言ってそれまでの段階を踏んで説明が無いというのもみましたが
瑩山禅師は師の「平常心是道」の説法で仏法を悟って
師に「黒漆の崑崙夜裏に走る」と答えられてたけど
師からまだ不十分だと言われて
「茶に逢うては茶を喫し 飯に逢うては飯を喫す」と答えて印可されましたけど
「黒漆の崑崙夜裏に走る」があっての
「茶に逢うては茶を喫し 飯に逢うては飯を喫す」だと思いす
鹿野園さんの言われる「不受を正受とする」
あくまで麦はですけどwww
曹洞宗で悟り・見性を復活させた古仏と尊敬される高僧井上義衍老師(1894-1981) 。公案禅の修行を捨て、只管打坐の禅修行にて25歳にて観劇の最中に体験あり その後はさらに坐禅に打ち込む その後、高槻少林窟道場・飯田トウ隠老師に出会い、ホオジロの声にて身心脱落す また寺院経営は顧みず(早々に住職の座を譲る)、法のために為人度生の生涯を送り、多くの者を悟りに導いた
その境涯は500年に一人と言われ、手当たり次第目前のものを取り上げて法を説く
禅語・仏教語をできるだけ排し、法を縦横に説く姿は唐代の趙州和尚の口唇禅を彷彿させた
井上義衍老師の言葉は、この平成の現代に於いても、仏道を究めんとする者にとっては霧海の南針の如く、彼岸に導く光を燦然と放つ
500年に一人と言われる禅僧・井上義衍老師(1894-1981)
明治27年に広島県瀬戸内の島に生まる
19歳、首座立職の際、父・翫光和尚より
「蚯蚓斬ッテ両断トナス。仏性那頭ニカ在ル」
(ミミズを切ったら二つになった さあ、仏性はどっちにある?)
と問われ、返答に窮し責めらる その後三年の間、片時も念頭を離れず
22歳、東京芝青松寺僧堂・北野元峰老師*に参ず
「本来人是何者」の公案を与えられて、脇目もふらず参禅する。疑団は益々つのり来たる
*北野玄峰禅師 は義衍老師が最も尊敬された人の一人
明星一見の大事、絶学無為の真相を確証し竟る。大悟。
この後も、坐禅に打ち込む。ある時一寺院の留守番を頼まれたるも、終日坐禅三昧の生活を送る
やがて静岡浜松の山寺貧乏寺・龍泉寺に住職す
而も、寺院の経済を顧みぬため寺院は全く困窮す
その後大阪高槻の少林窟道場・飯田欓隠老師(飯田とういん老師)摂心に通い、飯田トウ隠老師及びその法嗣・伊牟田欓文(トウ文)老師に参禅する
ある時、ホオジロの声を聞いて、いわゆる鑑覚の病を脱し真に自在の境涯を獲得す
原田祖岳老師、梶田慧舟老師(京都府宇治興聖寺の回天慧杲和尚の印可)、飯田トウ隠老師の3人から印可証明を得る
昭和26年位のことであるが、曹洞宗の道場では唯一悟りのことを言う優秀な某僧堂があったが、そこに在籍して修行中の俊英たちが、その道場での修行を途中で放棄して、続々と浜松の田舎の井上義衍老師の寺院に修行に集まったという
しかも、多くの者は道場には、静岡で独摂心をすると言って道場を出たらしい さらに、義衍老師のところには偽名で掛搭したとのこと
師匠(得度をしてくれたお師匠さんや親)に知られ、道場にもどれと言われるのを恐れたのである 破門覚悟の上での行動である
特に浜松の義衍老師の寺院は曹洞宗公認の専門道場ではないので、そこにいても、住職資格獲得の何の足しにもならない ゆえに師匠に反対されるのは必定で、師匠にだけはバレたくなかったのである
他からも、井上義衍老師の寺院に参禅者が次から次へと訪れ、食料は乏しきも、真剣な者の大叢林の観を呈す
ある時には食料が玉ねぎ1個しかなくこれを皆で分け合って食したという 玉葱僧堂と言われし由縁なり
龍泉寺では収容しきれぬため、黄檗の空寺(実性寺:現在の浜松医科大学の近く)のあるを借り受け、また10km離れた袋井の龍巣院禅堂を借り、後、蒼竜窟と名付く
接心は常に行われていた 常接心†という
のちに雲水や在家の修行者が増えたため、規矩(きく)を定め7日間の接心が年に10回行われるようになる
従って、中国で何百人といるような道場では、常に禅堂で修行に励む人たち、固まりになって雑談ばかりしている人のグループ、猫を飼ってその世話ばかりやいている人のグループなどあったようである
また老師のところに独参に行くのも強制ではなくて、自由だったことは、臨済禅師の話などからも伺えるところである(臨済は黄檗和尚のもとにいて、3年間一度も独参に行かなかったが、首座の睦州和尚のアドバイスで独参に行き、それがきっかけで大愚和尚のところに行ってすぐに悟りを開いた そしてまた黄檗和尚の道場に戻っている)
今日は、接心というのは期間を定めて5日~7日行われるようになった 在家(出家じゃない一般人)にとって接心は僧侶と同じように修行のできるとても大切な機会である
義衍老師の会下(えか)で見性をした出家者としては、
井上哲玄 (総持寺後堂老師、浜松龍泉寺住職を経て、同寺東堂老師)
井上義寛(遷化せんげ)
昭和10年、静岡県浜松生まれ 福井県小浜の発心寺僧堂、鶴見の総持寺、川越の養寿院等で修行
600年不出の名僧と評された井上義衍老師(浜松龍泉寺)の法を嗣ぐ 川越を中心に各地の坐禅会を指導 埼玉県富士見市曹洞宗長谷寺(ちょうこくじ)中興開山 平成25年遷化
長谷川文丈(遷化) 名古屋盛屋寺住職、総持寺祖院監院老師、総持寺祖院後堂老師など
臨済宗の師家分上・青野敬宗(遷化・旧姓森敬宗老師 臨済宗東福寺の林恵鏡老師(東福寺僧堂師家・東福寺派管長)法嗣)(義衍老師の「見性を証するの書」あり「牛、山に入りて、水足り草足る。牛、山を出でて東觸西觸。敬宗の見性を証す。玄魯」
もともと臨済宗の公案修行をすべて終了し、臨済宗東福寺の林昧宗慧鏡(まいじゅうえきょう)林恵鏡老師より印可証明を受くもみずからの境地に疑問を抱く 日本中の宗師家を回った後に、玄魯義衍老師の下に至る 修行終わって後、臨済宗の寺院住職を経て、今治に行き薬局の主人青野房子女史と結婚、青野姓となる 夫人の建てた禅堂に雲衲・参禅者が集まる、発心寺僧堂後堂老師などを務める)、
(義衍老師の「見性を証するの書」あり 青野敬宗老師のと名前以外全く同文)、
川上雪坦(遷化 東京大学理III(医学部)に入学後、文学部に変わり、卒業後高校教師(数学担当)を勤め、数年で出家、義衍老師に参禅 新潟県東山寺住職)、頭が良かったのでそれが障害となり相当苦しむ 法を伝えた人はいなかったとされる
斉藤大心(川上雪担老師の修行仲間・大心和尚 滋賀県高島市朽木の曹洞宗寺院の住職)、
粕屋清隆(遷化、埼玉県川越市に庵「宝泉庵」を建てて住む 年10回の摂心をされた 義衍提唱録刊行会(埼玉県入間市)の責任者だった) 宝泉庵は家族の人が管理されていて今も使用が可能(坐禅ができる)であるようである JR笠幡駅が最寄り
などそうそうたる人たちがいて、見性を得る
それらの中には、後進の指導者として知られるようになった方も多いが、またある者は山居して世に出でず
テーラワーダもやってる寺院だ
😀
セッタンの経歴にもあったような
うすら記憶だけど
😀
あなたはその話をどこかで見聞して、
頭の中でそういう段階があるって想像したんでしょ 違いますか?
それが分かったところで何の修行にもならないし、
覚了することはありませんよ
頭で理解したり分かることではありませんよ
段階があるとすれば、どうすれば修行になるか理解する
そして修行するだけですよ
有名な話しですね
一つだけ言うとしたら一段目の崑崙では何の役にも立たんでしょ
瑩山さまにそういう事実があったんでしょう それでそういう表現をしたけど
お釈迦さまで言えば一見明星ということでしょう
修行なんて簡単なことですよ
その通りでいればいいだけなんですから
だけど十中八九、考え方の方に流れるね〜
肝心の修行はやらなくなる
∞ノノハ∞
川^○^ハレ坐禅していて思いに手をつけずにいれば
聞こえた音そのものになっていて
音がなくなれば無心に気付きましたよ
元スレ主さんだってお茶を飲んだ後いつまでもずっ〜とお茶の味ではないでしょうwww
わたしは師家分上ではありませんので特に言及はしませんよ
お茶はたとえですよ
本当はすべてそうなんですから
まさか放置されてるとは思わなかったので
仏の名が付いてるので忍びなくて下げ進行で埋めてました
追い込むと
キチガイ認定されるぞ
自分は悟りたいわけではないとか、
修行するつもりはないとか言う人とは
はなから話すことありません
そりゃそうでしょう 誰でもなにが何でもこの修行しなきゃいけないなんてことないんですから
あと、大事を終わらせた方とも話すことなんかないかな笑
よしよし600はキツいか今日じゅうに笑
人格攻撃にうつるから
そっと見守るのが吉
∞ノノハ∞
川^○^ハレ頭の中の解釈ではありませんか?
冗談です♪www
特に誰かに言わなきゃいけないことなんてありませんからね
ちょっと言いたいことがよく分かりません
一切がそうなんですよ 違うってことはなに一つない
∞ノノハ∞
川^○^ハレ無分別の分別はリダンたんも体感済みかなぁって
靴履いたら そうなってるでしょう
考えなきゃ靴履けませんか笑
それが証されたのならば
崑崙を走るは理として説明可能だよね
って話なだけだな
逆を言うと、使うと修行にならない
それは妄想では?と疑いをかけられても
しゃーないわな
∞ノノハ∞
川^○^ハレ「一切がそう」そうですね
彼はお勉強や言語化は許されていないのだから
変に突っ込んでも仕方ないぞ
そっと見守るべし
まぁこの修行は実際にやらないとですからね
川^○^ハレ埋め立て♪埋め立て♪
∞ノノハ∞
川^○^ハレ修行に集中しています?
気の向くままにやってますよ
一方、シッダ(成就者/悟りを開いた者)においては、内なる意識
「見る者」としてのチャネルが常に機能しています。
したがって、一般の人は思考しかないのです。シッダは常に内なる真実の中にいるのです。
修行者は
思考と内なる意識の両方のチャネルを常に機能させて
思考そのものと、「思考を見る者」の両方でなければならないのです。
思考を見る要素は「識別力」なのです。
この識別力を覚醒させなければなりません。
ー マハヨギ・パイロット・ババジ
Jay ho GuruDev 🙏🙏🙏
ーーーーーーーーーーーーー
原文:
In an ordinary man, only the thought channel works at all times.
In case of a Siddha, the channel of inner awareness (as a seer) works at all times. As such, an ordinary person has only thought. A Siddha is in the inner reality at all times.
A sadhak should have both the channels working at all times and be the thought and "Seer of the thought".
The element which sees the thought is "DISCRIMINATION". The discriminative faculty must be awakened.
ー Mahayogi Pilot Babaji
https://i.imgur.com/4UAD062.jpeg
∞ノノハ∞
川^○^ハレ気がつくとそうなっていたりもしませんか?
ずーっとなってますよ
その実感があるかないかです
その1%も思考はおろか認識すらしてませんよ
計測したわけではないので体感ですけど
もしかしたらそれよりも低い数字かもしれません
∞ノノハ∞
川^○^ハレ比量で言うとそうなんでしょうね
∞ノノハ∞
川^○^ハレ知らぬが仏だと思いますwww
比量てなんでしたっけ?
わたしがいる界隈ではそんな言葉聞かないです
老師の口からも聞いたことがない
だから私たちは99%は仏で出来てて、
凡夫なのは1%くらいということですね笑
∞ノノハ∞
川^○^ハレ唯識の有名な例えで
唯識比量山火事の例えがあります
>「唯識比量(ゆいしきひりょう)」における山火事(峠の火事)の例えとは、遠くに見える煙を根拠にして、そこ(目に見えない場所)に火が存在することを推論する仏教の論理学(因明)の有名な例えです。この例えは、直接見えないもの(真理や心の働き)を、確実な手がかり(結果や属性)から論理的に証明するための基礎として用いられます。
へ〜難しい話しですね
わたしの修行は簡単だからわたしでも出来た笑
だから難しい話には付き合いませんよ
わたしには分からないので
∞ノノハ∞
川^○^ハレ元スレ主さんのお話を味わって聴かせていただきます
川^○^ハレ「紅鑪上一点の雪」も素敵ですね♪
それは違うね。。
道元禅師は、在家の人には、働いて他のために為せ、みたいなことを当然言うと思う。。
それが仏道ですよ。。
必ず行うことだと思うし、それと、自己を省みるとか、法として、聞いたこと、学んだけど、を頭の中で整理して考えるということが、
必ず必要だと思う。。
禅でも、聞思修と言葉があります。。
法を聞いて、自分でよく考えて、自分のものにする、というプロセスを言います。。
だから、そういう言葉が、伝統的に伝えられている、ということを知らない、というのは、ちょっと問題だよな。。
坐ってりゃ―イーってもんじゃない。。w
これは、薬山も、不思量底を思量す、と言っている。。
考えない、じゃないんだよ。。
考えない人、というのは、言い換えると、法や自己を含めた物事を理解しない人、理解できない人です。。
そうしない人は、どこかで更新が止まって、サポート終了のウィンドウズみたいになっちゃうんじゃないかな?w
わたしは人にとやかく言わないと思いますよ
どちらにしても想像の話だ
想像の話ではなく、例えば、在家の人に贈られた現成公案など、道元禅師の書かれたものから、
言えることですよ。。
修行するのに思考は使わないと言ってるでしょ
いや、法の理解の上での修行なので、理解の過程で、思考は使います。。w
使わないは、間違い。。w
あれは在家の会下の人に送ったものでしょう
仕事に励むこともまた修行というのは理解できますよ
ただ中には親族の介護で働けない人とかもいますからね
一概に今の世の中そんなこと言えない
わたしの修行では使わないな
あなたとは違うんじゃないですか
あなたがあなたなりの答えを持ってるならそれでいいじゃん
わたしは気にならない
だから、こうだ、と言われて、なんで?と思って質問して、答えを聞いて、それをよく考えて、
納得してからじゃないと、受け入れない、という態度が、正しいです。。
悟ってる人が言ってるから正しいんだ、は一番ダメなパターン。。w
いや、だから、その場合は、親族の介護を一生懸命やりなさい、ということですよ。。
しかし修行そのものには思考は使いません
薬山の話頭もわたしとは見解が違いますがあなたがその答えならそれでいいんじゃない
だから、おれからすると、あなたは間違っていると思う。。w
じゃいいじゃん
なんで修行が必要なんですか?w
わたしもあなたとは違うなと思いますけどそんなこと問題にならないですよ
わたしと違う答えを持ってるならそれでいいじゃない
わたしはあなたとは違う
いま修行が必要て話ではないでしょ
どうすればしゆになるのか?の理解は必要と言ったんですよ
おれも、半分どうでもいんだけど、あなたがちょっとかわいそうでね。。
悪い師匠に騙されている、という気がする。。w
なんか、おかしな教えを信じ込んで、それをぶっ壊れテープレコーダーのようにリピートしているだけでしょ?
それじゃダメだよ。。
わたしとは違う答えをお持ちの方はそれでいいじゃない
どうすれば修行になるか、なんてのは無いよ。。
今すでにそれ、なので。。
今すでにそれ、という法を聞いて、理解して、そこに落ち着く、しかない。。
なので、思考を使わないとか、ではまったくないです。。w
そう思うんならそれで結構ですよ
わたしは老師との付き合いを十数年やって信頼してますし、
自分自身で確かめた内容を綴ってますよ
たぶんあなたとは違うのでしょう
うん、明らかに違いますね
まぁそれがあなたの答えならそれでいいじゃん
わたしは老師とは違うので笑
だったら、初めから書くな、という話。。
途中で逃げるなら、初めから書き込む莫れ。。
別に逃げてませんよ
理解しようとしない人に説明するのはめんどくさい
いや、そうではないと思うよ。。
詰めて議論すれば、あなたの方が、論理破綻するでしょう。。
それは、やっぱり、考えてないから、理解が無いからです。。w
もっと言えば、悟りがない、ということね。。
少なくとも元々はわたしが立てたスレですから
そのまま放置されるのも管理する側もサーバーの負担で迷惑でしょうし、
わたし自身もきれいに消化しておきたいのでね
その点に関しては法介さんはこの界隈では徳が高いと思うな
だから、私の修行はこうですとか、バカなことばっかり言ってる。。w
アホか。。w
まぁあなたは言っても分からんと思う
あまりにも違うから
わたしは老師のように懇切丁寧に説明するほど気概がない
あっそ、て感じです笑
わたしは簡単なことしか言ってない
だから、あなたの老師が、間違っている。。
そういう人は、おれだけではないからね。。w
真似なんかしたくない
だからそれならそれでいいじゃんって言ってるじゃない
これは、坐禅とか、体験によって、悟った、と思っている人は、みんなそう思い込んじゃうみたいね。。
これは、避けがたい誤り、深~い、深~い、迷いです。。
悟りの近似値=とてつもなく深い迷い。。
やらない人は、十中八九、誤ります。。
読み返してみてください。。
で、論理をよくたどってみてください。。
矛盾してますから。。w
よくよく省みてください。。
考えてください。。
人我の見
人がいる、というのが、そもそもの間違い。。
内容的にはこれしか言ってないに等しい笑
>>565
それが間違いだっての。。w
言うべきことなんてないと言及してますよ
だいぶん前の方に
知ってることなんてカスでしょ
だったら、言行不一致だよな。。w
スレ埋めのためと言ってます
参加せずにリードオンリーになってたあれから笑
そんなことは無いよ。。w
多くの祖録に学び、知識を増やすべきです。。w
だったら、ずーと黙ってればいい。。
どうせ出てきても、おれか、もう一人の誰かに叩かれるのだから。。w
だからわたしとは違うと言ってるでしょ
それならそれでいいじゃんあなたがそれでいいのなら
何のために、祖師方が、語録を残したのか、それをよく考えるべきだよ。。
だからー
そもそもわたしが立て始めたスレが残ってるからきっちり処理してるだけですよ
こんなのが残ってたらサーバーの負担にしかならないでしょ
うん、おれはいいよ。。w
だけど、あなたはよくない、ということ。。w
わたしからすれば結局、考え方にするのはもったいないと思いますよ
でもそれは人それぞれの勝手ですからね
わたしが立ち入ることじゃない
考え方とかじゃないだよ。。
そんな小学生みたいなお話はしてない。。w
法の話。。
わたしは誰が何してても問題ないですよ
ちょっとビックリするくらい破茶滅茶に仏教知識を振りかざしてるのを
見かけて絶句してるけどまぁそれでも問題ないからね笑
わたしは子どもにも分かる話をしてますよ
子供には、法とか、禅とか、必要ないんですよ。。w
で、子供は、それをやったとしも、決して、成就する、ということはないです。。
子供にとって、法は、自慢するための、おもちゃに堕します。。
破茶滅茶な知識をドヤ顔してるのをみるのは驚きますけど
まぁ本人は気づいてないなくらいにしか見てませんよ
見ててこっちが恥ずかしくはなるけどね笑
ああ、やっぱり違うな
わたしはこれがないと生きていけない
みんなそうだと思ってます
まさに、そういうことですよ。。
溺れる者がつかむのが、宗教。。
本来、そうじゃないのが、禅なんですが、
やっぱり、溺れる者がやると、藁に堕するんでしょうね。。
今までもそうだったようにその通りのことが起きないとたちまち困りますからね
だから、それがあるのが致命的におかしいんだよ。。
悟ってない証拠。。
悟ってない証明の言葉。。w
その通りになってないと大変なことになってた
それを修正したのが、雪渓師やせったん師。。
だから、儀衍師の劣化コピーでかつ、歪ませて、説いている人は、ちょっと問題だよね。。
誰かが悟る前提で言ってませんか?
それは、初心者向けには、それでいいです。。
だけど、ホントは、究極的には、そうではないので、
後者がわからない人は、他に向けて説くべきではないです。。
嘘の法を説くことになるので。。
漢字は正しく使いましょう 特に人の名前は
迷悟とか、生仏とか、ホントにそんなものあるんか、という疑問を持たないおめでたい人間はいいけど、
そうじゃない人は、必然的に考えるでしょう。。
で、結論が出るかといったら、もちろん、出るんだよ。。w
出ないやつは頭悪いだけ。。w
法眼が言ったのだっけ?
このお話わかる?
おれは、これ、結構完璧に説明できるぞ。。w
こういうことが修行に使えるんだよね
頭なんかほぼ使ってない
なんかあなたの中でたくさんの事柄があるみたいですね
わたしも沢山ありましたが今はもうシンプル極まりないですよ
清涼老人でしょ そうなんだそれはよかったね〜
ためになったねー
すだれ、を巻き上げた二人の僧に対して、一方には可、一方には不可、と言った。。
どういうことかちゃんと説明できる人いるかな?
英語のメディテーション、は、瞑想とも訳されるけど、沈思黙考もメディテーションです。。
だから、深く考えない人は、すべてが浅いんですよ。。w
軽挙妄動タイプ。。w
そういう人が向かないのが禅です。。
深い思考は、深い瞑想、禅定に通じる。。
不思量底という、不可能なものを思量することによって、集中と、それを超えた禅定、三昧へと向かう、
そういう風になっているんです。。
そうじゃない人間がやっても、ちょっと無理なのかもしれないですね。。
その疑団がもともと無い人は、禅は無理です。。
疑団がない=考えない=何もわからない=他人の受け売り、をリピートする人になるだけ。。w
川^○^ハレ
>605.
ユーザー
神も仏も名無しさん
6RsKe(37/40)
暖簾だったかを引き上げた二人の僧に対して、一方には可、一方には不可と言った。。
ミミズを二つに切ってどっちに仏性があるか?と同じだと思いますよ
勝義諦から見たらどっちらのミミズも同じ
言い方を変えるとありのままに見たら可も不可も同じ
川^○^ハレロンちゃんは完璧に答えてね♪www
川^○^ハレ元スレ主さんは道元禅師の「初心の辦道すなはち本証の全体なり」みたい
まぁなんにせよスレ消化して頂いてありがとうございました
そんないいもんじゃありませんけど、
わたしが言ってることは誰でも理解できる簡単な内容ですからね
あまりにも簡単すぎて当たり前と思われてることですから笑
川^○^ハレロンちゃんいつもの逃亡www
∞ノノハ∞
川^○^ハレ家事三昧とか散歩三昧とか「そのもの」って感じでしょうか?
そうですね〜 もう1人の老師も女性の方が見性早い人が多いって言ってましたね
ただ気をつけなきゃならないのは、
家事やってる間、散歩してる間ずーっと考えたりスマホみてたりしたら、
それは参じてませんよね笑
自ら意図して思考することなく、いつの間にか考えてたとしても気づいたらいいだけですからね
無理に自分から思考しないようにするのではなくですね
∞ノノハ∞
川^○^ハレはい
夕飯の支度してきます
今日は直売所で買った新玉ねぎと新じゃがいもと人参で肉じゃがです
新たまねぎは普段のと違って甘くて大きいから
調味料の分量変えないとですよね
あ、麦さんは勘でやってるんでしたっけ?
うちは土井善晴先生のレシピが不動です
やっぱりこれだけレスちゃんとしとくか笑
これはもう完全に理会に流れてますね
そうではなく、あくまで自知するものがあって落ち着くのですよ
それこそ祖師録にある意路不到、言詮不及と言われる通りですよ
漬けてたお米を釜に入れるのに考えだけでできますか?
ちゃんと手を使ってやらないと無理でしょう
そこは意路不到、言詮不及ですよ
だから心意識の運転をやめて念想観の測量をやめるんでしょう
不思量底を思量すの思量だけを切り取って考えてませんか
まぁあなたがこれでいいというのならわたしから言うことはありませんけど
わたしは違います
立ったら立ったようになる、
歩けばその通りになる
子どもがえーん涙て泣けばそのようになる
こんな簡単な話が分からないと言うなら
それは頭が混乱してるか、
分かりたくない自分を立ててしまってるんですよ
コーヒー飲めばコーヒー飲んだようになる
さっきの麦茶との違いもよく分かる
身体が先に分かるんですよ
誰でも実現できてることが私のいる界隈では修行になるんですねー
素晴らしいよね こんな教えが日本にあるなんて本当にすごいし有り難いことだと思うな
これはありがとうと言う意味ではない有り難いね笑
これなんかも考え方使ってないよね
あっ!て一瞬だったんだと思う
私も今朝、あらぬ方向から自転車が横断歩道を凄いスピードでギュン!て曲がってきて、
あっ!となりましたからね
630!
見えてきたよ〜
あくまで普通に使ってスレ埋めたいからね
ただ埋めるだけの作業にはしたくない
「修行に考え方を使わない」と言ってるんであって、
考えないと言ってるんじゃない
考えを使う時はガンガン使いますよ
思いや考え、思考ですね
ほとんどの時間帯なにしてるか分からない
認識すらしてない
暑さだったりお鍋を持った重みとかね
頭が知らないだけでする
一方、シッダ(成就者/悟りを開いた者)においては、内なる意識
「見る者」としてのチャネルが常に機能しています。
したがって、一般の人は思考しかないのです。シッダは常に内なる真実の中にいるのです。
修行者は
思考と内なる意識の両方のチャネルを常に機能させて
思考そのものと、「思考を見る者」の両方でなければならないのです。
思考を見る要素は「識別力」なのです。
この識別力を覚醒させなければなりません。
ー マハヨギ・パイロット・ババジ
禅堂に入るのは左足から入って左に行くと言ったら
「何でですか? 何故ですか?」と何でもかんでも何でなのか聞いてくるのがいたって話し笑
本人は無邪気な子どもにでもなったつもりなのだろうか…
みんなの迷惑だからつべこべ言わず左足から入れよ!ドアホ!とその話を聞いて思ってしまった笑
これが井上義衍老師の言ってること
おれはそう聞こえたね法話聞いてて
>ミミズを二つに切ってどっちに仏性があるか?と同じだと思いますよ
いや、ぜんぜんちがう。。w
>言い方を変えるとありのままに見たら可も不可も同じ
ちがう。。
>あくまで自知するものがあって落ち着くのですよ
何を自知しましたか?
一般の人は、思考しかない、というは、完全に間違いだね。。
思考しかない人もいる、くらいでしかないよ。。
もとから醒めていて、気づきのある人はいる。。
けっこう敏感。。
思考以前の気づき、意識みたいなものと、思考と、どっちもある。。
どっちある人がマトモだよね。。
沢山あっていちいち覚えてないなぁ
一番印象に残ってるのはしっぺいを何度も机に打ちつけられた時かな
もうその答えからして私とは違うことしてるのが分かりましたね
じゃあそれでいいんじゃないですか
これもね、わたしはそんなことない
思考してる時は思考してる様子しかない
自知するということはあっても、自知したものが、あってはいけないんだよ。。
まあ、あなたに言ってもわからんだろうけどね。。
それを、明確に示せれば可です。。
そうでなければ、不可、というだけのこと。。
自動的にしていることは覚えてもいない、思うための方法がない
だから、それがわからんで、事実だ、事実だとかばっか言ってるアホは悟ってない。。w
どの道こんなこと言ってるんだからまるで違いますよ
別にそれでいいじゃない
世の中には真宗とか日蓮とかキリスト教系 イスラム系とかたくさん宗教あるんだから
相手に合わせて言ってるんだよ。。
おれは、ヒンズー系の人の言ってることもわかるし、否定はしないので。。
まぁあなたにとって言葉が重要なんでしょうよ
わたしは皆んなが同じところで暮らしてる処の方が大事ですので
ああ、そうね ヒンズーもあるね
わたしも他の宗教や宗派、科学なんかも否定しませんよ
そっちの方が大事
ずーっとこれとは一緒だからね
これはあくまで説明ですからね
死んだ猫が最も貴い、と言った禅師がいましたね。。
僕は、車に乗っている時に、引かれた猫を見ると、象徴的な意味だけど、おれが殺したんだろうな、と思う。。w
いろんなものを、ぶった斬って、返り血浴びながらの人生だと思ってます。。w
趙州の師、僕は趙州よりも、何段も格上の存在だと思う、南泉は。。
どうして皆同じだと思う?w
どうして読めたの?
私が好きな思いだな
私が生きることは、私以外の何かを殺し続ける事だと思っている、それでも生きたくて幸運にもかなっている。
そういう人は、もう現代日本にはいないのかもね。。
悟りとか、法とか、ちょびっと浴びただけで、酔っ払っているような、そういう人しかいないのかも。。
いい気なだけで、中身の何にもない人々。。
逆に、利口な人間、賢い人間は、自分よりも、すごく利口な人間、賢い人間がいることを認識します。。
あなたは、どっちですか?w
ある時、ここ何年もブッキョーだのゼンだのに捕まってたけど、
そんなことどうでもよくて、
今まで生きてきたし、これからも暮らしが続いていくこの現実の方がはるかに大事だと気づいたと言ってたな
あのお方は元気でいらっしゃるかな〜
もう10年近くあってないな
そんなこと考える?
私考えないな
ひょんな出会いであの方に老師を紹介してもらったのが最初だったな
物凄い熱心に勧められたから最初怖かったw
それは、初歩的な問題で、自身が、一致させることができてないのが悪いんだよ。。
生活とか暮らしの他にあるものではないので。。
考えましょう。。w
自分を知ることは大事ですよ。。
一般論ですが。。
本当に苦しんで出した答えだからわたしは素晴らしいと思ったな
泣きながら独参したり、
相当本気で参禅されてたから私は尊敬してるな
幾度も私の道標のようになってくれた存在だね
もちろんお互いに進む道は己の道だけど
だから自分を知るということがこのことですよ
自知ていうんです
ちがうでしょうね。。
自知とは、自ずから知る、だと思いますよ。。
自分を知る、とは、究極的には妄想です。。w
だって、不知とか、不識が、正解なわけだから。。
何故に大地有情我と興に同時成道なのかはわたしもずっと引っかかってたな
そういうのも全部この頭が画策したつくりごとなんですよ
今どうなってる? 間違いないでしょうこれ
意気込みとか、感動して涙とか、そういうのは関係ないので。。
そういう不純物がない方が、いいです。。
同時成道とは、他人を知ることではまったくないからね。。
その逆ですからね。。
お間違いなきよう。。
まぁ言葉なんていくらでも定義できますから
必殺ウナギ論法だな。。w
ぜんぶおれに当てはまるじゃん、とか。。ww
つまり「生死」も知らない、知らないままの日々の生活であり生死であり
それに落ち着くということでしょうね
私はそう思わないな
道元さまとかとんでもない苦労をされて如浄さまから法を継いでこられたし、
お釈迦さまや六祖の献身あって、
私もこの道と縁が出来たので感謝しかないよ
不純なんて思いもしないな
あなたと私は違うことをしてるんだから意味ないと思いますよそんなこと言っても
ただ逆言を言いたいようにしか見えない笑
皆さんご協力感謝いたします笑
誰なの?上げたの
そういう細かいところの配慮ができないようではダメよ笑
道は考えではない、という、考え。。w
そんなパーなこと言った祖師方はいまだかつていません。。w
一文字ずつだから言葉に何の意味もない
でも間違いないでしょう
身をもって証明してくれてありがとうございます笑
ただその通りそうなってるだけじゃない
自分が一番の師匠ですよ
あなたは、新興宗教の信者そのまんまだね。。w
自分たちの存在だけに意味があって、他は無意味。。w
オウムの麻原と一緒。。w
そんなことは決して言いません。。w
普通のまともな人は、そんなこと思わないよな。。w
これがあるからこそ「真理」であってすべての救い解決でもあるということですね
あなたは私とちがうから、意味ないですとか。。w
頭オカシイ人。。w
そういうのを妄想ていうんですよ
私そんなこと言ってないじゃん
私は間違ってるとは誰が何してても思わないな
違うなって思うだけで
生きているとか死んでいるって、人間の頭の中の分別に過ぎないですよね。。
生死というものは、そうした分別を離れてはない、どっちもないです。。
私が思う成道というのは
その通りだってことですよ
じゃあ、そもそも正誤とか、真偽が、わかりません、ということじゃん。。
であれば、そもそも、わかったようなこと言うの止めるべきだと思うけれど。。
「単純」って風にいわれるところですね
「頭の中のもの」が一度きれいに消える
ただそれだけ
底抜けに消えれば、「すべてが蘇る」ということで
「我と大地有情と同時成道」ということでしょう
その認識から離れた、死そのもの、というものはない。。
であれば、生も同じです。。
それを、わかったように思っているのが、迷妄と言えば迷妄ですね。。
その通りなんだけど、そういう体験によって、悟った、ということじゃないですよね。。
体験によって悟ったのであれば、自分だけが悟っているとなり、同時成道じゃないので。。
体験してない人は凡夫で、自分だけ、悟った者だとか、そういうおかしな状態になる。。
で、そういう状態がまずいから、そういう悟りを奪う、力量のある、師の存在が必要なのでしょう。。
つまり一度死んで生まれなおしてみなさいよと
あえて「自分」というところでいうなら「自分」しか悟らない、「自分」しか救わない
でもその「自分」が底抜けに悟る救われるときに一切が同時に救われるということでしょう
ここに人の思慮分別は入る余地はないと
でも、それ以前に、そもそも生きている、というが間違い、というか、考えに過ぎず、
迷っている、ということもない、のであれば、どうですか?w
自分を底抜けに救う、救うために自分を殺し他に投げ出す
そうすれば一切が同時に救いのあらわれですよと
思慮分別のまま、言うなれば、迷いのまま、救われているんですよ。。
ただ、それを知るか知らないかの違いがあるだけです。。
「頭の中のもの」がすべて消えるということですね
自己側の「身体」も「精神作用」も、他者、世界側のすべてのはたらきも「頭の中のもの」として消えると
スリップ付きはなんとか居士が立てたスレだからわたしは一切触らないw
思慮分別というはたらきも、一度消えると「蘇る」ってことです
「法」のはたらきそのもの
でもこの「一度死んで蘇る」ってのがないと
それは妄想肯定の本覚思想的なものになってしまう
だからその通りのことしかないの
シンプルでしょ?笑
「生きる」目的を持ってる人はそれで良いんでしょうね
まあ、たいていの場合はそうだとは思うけれど、おれは、それが必ずしも必要だとは思わない。。
投子と趙州の問答にある通りです。。
迷っているまんま、悟りをフライングゲットせよ、というのが、道元禅だと思いますよ。。w
正しい認識、というものは、エゴの存在を許さないところがあるから。。
だから、坐禅を手段にして、死ななきゃならん奴なんてのは、ちと頭が悪いんですよ。。w
「道元禅」って言い方はこれはどうかと
道元特有のものなどないはずなので
道元自身も「禅宗」といわれるのを嫌ってどうしても呼びたければ「仏心宗」と呼べとしてた
考えるな、なんて、思考停止とか思考放棄を勧めるようなことは、まったくおっしゃっていません。。
思考停止、思考放棄は、自ら進んで、バカになるだけ。。w
では、頓悟禅、と訂正しましょう。。
>>769
あのブログの人やその関係の人らも「仏祖正伝の道」などといわれてるでしょう?
つまりそういうことですね
そこに「道元」とか「慧能」とか「自分」とかの介在がないということで
その通りなんだけど、その「無明」があると認める、のも間違いです。。w
般若心経にある通り、無明もなく、無明が尽きることもない、が実相なので。。
道元さまもそうだけど頭良くないと無理だね
私には無理だ笑
私は道元さまとも違う道を歩んでる
いたってシンプルです
無明もどこにもない。。
解脱した「仏」の側からすれば「無明もなく無明が尽きることもない」「無明の実性即仏性」になるんでしょうが
これを解脱してない「人」の見方で取り扱うと本覚思想
別にあると思う、その思いが、迷いだろうな、敢えて言えば。。
バラバラのようでいて「一つ」
まさしくその通り。。
だけど、それを説く人が、成道しているのか、していないのかは、外からはわからないですよね。。
だから、結局、言っている内容が正しいか否か、で、判断するしかないです。。
「唯仏与仏」というところですね
まあ当然に俺も解脱した「仏」でないので理屈の上で推測するまでですが
いったん人間の見解、が払われないと、見えない、というのは、ホントです。。
だけど、あくまでそれは、見えないというだけで、そうなってない人は、解脱してないとか、成道してない、とかではないです。。
みんな解脱している、成道している、のが実相。。
解脱した仏、でない人、なんている?w
解脱した仏ではない人がいる、ということではなく、自らが解脱していることを知らない人と、知っている人がいる、というだけだと思いますが。。
話すことないので私のやってる修行について言及してるだけです
既に私と違う答えを持った人がいても本人がそれでいいんだからそれでいいじゃんという姿勢です
逆に私も自分の修行もこれでいいと思ってますのでフェアによろしくお願いしますね
「人の見方」に「実体としてある」と見てるのが妄想と
>>782
さあ、どうでしょうか?w
それは自身が解脱するまでは分からないということで
解脱する、「釈迦牟尼仏となるなり」とあるまではホントのところは「分からない」ということ
妄想というのはありますよね。。
で、妄想を現実と思い込むと、人間として、よろしくないです、不都合です。。w
だけど、それも法そのものであるわけだから、いい悪いではないし、それが迷いでもない。。
迷悟を分けるのが、迷い、ということもできるでしょう。。
迷悟一如を知る、のが悟り、とも、言えるでしょうね。。
それを空とか無と言い換えることもできる。。
あるいは、一即一切、一切即一とも。。
そのような無一物中には、仏も人も、解脱も輪廻も、ともに認められません。。
却って、自在さを失います。。
で、他に対しても、否定的になったり、あるいは、高慢になったり。。
仏とは、逆の存在になります。。
抑圧的な人間になったり、というのもある。。
「妄想」という認めるものも消える
「妄想」というのは「その人」が見てるものでしょう
「妄想!」といわれて気付くものがある人
それに落ち着いてる人(解脱した人)か、もともと問題にしてない人(求めてない人)
ただ法のみがある、いや、法もなく事実のみがある、いや、事実も認識できない。。
何も認識できない=法、だけど、認識が迷い、という訳でもない。。
自他分かれるのが迷いでもないし、相手がいるのが迷いでもないです。。
だけど、いったんは、自他が分かれる以前を見なければならないから、本来は、自他は無いよとか、相手なんていませんよ、と示す場合はある。。
そうじゃない、というのがホントです。。
修証のプロセスとして、ここを通らなければなりませんよ、というお示しと、悟りそのもの、は違う。。
悟りとは、すべて、一切のことなので。。
排除されるものがあるわけではない。。
で、それをいったんは見なければならない、というプロセスはあるんだけど、別にそれが悟りじゃないので。。
そこを間違えると、大変なことです。。
∞ノノハ∞
川^○^ハレageてたの麦!ごめんね_(._.)_
sageました♪www
いやいや、私も気づくの遅かったですし
誰か1人でも上げてたら意味ないですからね笑
川^○^ハレロンちゃん簾の公案の論理的な説明wktk♪
言ってることはいたってシンプルです
その通りになってるだけです オーバー笑
勢い止めたね笑
∞ノノハ∞
川^○^ハレ不識♪www
なにそれ笑
∞ノノハ∞
川^○^ハレい不識が楽なんです♪
川^○^ハレロンちゃんまたまた逃亡wwwww
知らんて意味で使ってるの?笑
∞ノノハ∞
川^○^ハレそうですよwww
今日はみなさんご協力ありがとうございました
達磨が言ってたら偉そうに知らないて言ってるようでかっこいいもんね笑
∞ノノハ∞
川^○^ハレお疲れ様です♪
またね⌒☆
おれも、わかってない人には、よく迷悟なしとか、みんな仏だとか、言うけど、そういう平等性、だけだとダメだよ、というお話です。。
だから、一応は悟ってる人、向けのお話。。
平等性の中に、もう一回差別を導入する。。
もちろん、平等智が根本であること、は言うまでもありません。。
だけど、それだけだと、働きが出てこないので、ちがいを見極める、差別智も必要、というくらいの見方で、OKだと思います。。
だから、法眼の意図が、ホントに可とか不可とかあると思って言っているのか、それとも、無いとわかって、わざと言っているのか、よくよく考える必要はあるでしょう。。
僕の見方は、無いとわかってわざと言って、聞く者を試している、という見方です。。
∞ノノハ∞
川^○^ハレカッコイイですよね♪www
不識♪は好きなんです
どっちの見方も必要である、というお話だと思います。。
働きが無いのは、仏に非ず、とも言える、ということです。。
だけど、それを卒業すると、迷悟なんてないじゃんとか、悟りなんて無いじゃん、という悪平等にまた、陥る。。
そうなってから、もう一回差別をはっきりと見分けられるようになる、という必要があるんじゃないかな。。
で、最終的には、相手の様子をはっきりと知って、差別=機に応じて、働きが為せるようになる、という必要があるんじゃないでしょうか?
∞ノノハ∞
川^○^ハレつい最近ですけど鹿野園さんが涅槃経の四名馬のお話をしていましたけど
そんな感じかなぁ
相手の思いをよく察知出来る雲水さん
言われなくてもわかる、ほのめかされただけで、気づく人=鞭影を見て走る名馬なんでしょうね。。
中には、鞭でひっぱたかれても、走らない馬もいるんでしょう。。w
そういう人は、相手にするだけ、無駄、ということはある。。w
∞ノノハ∞
川^○^ハレワロタwww
ありがとうございました♪
「自分の考えで手をつけない 心の本来の働きのままにまかせておく」
一切自分の思慮分別を用いずに、六根ままに生活する。それを仏と云う
自分の見方・考え方をやめて見なさい(煩とか証というものはない)」
だいぶん前にとある寂れた道場で記帳する時にこの老師のお名前がありました
私どもがやってる修行には考え方は使いません
逆に使うと我見となって修行にならなくなる
私普段、そんなこと全然コントロールしてないよ
すわる時も、もはや無意識に近い感じで坐ってますよ
何にもしないので何にも苦しくなんかないですよ
極めて楽と書いて極楽です笑
私に今の老師はどうですか?と聞いてきたので本物ですよ、と答えておきました
ただ英語が達者な老師とは兄弟弟子の老師もおられるのでわたしは会ったことないですけど紹介しておきました
そのことは老師にも報告済みです
禅を究めるためと答えてきて驚きました
その行動力を尊敬します笑
何もわかっとらん。。
というか、>>825これ、前にも同じこと言ってたよな。。
だから、何? という感想しかない。。w
それじゃあだダメだよね。。
私のやっている修行とかさ、そんなのがあるのもおかしい。。w
悟ったら、そんなこと言わないよ。。
むしろ、 修行なんてまったくやってませんと言う。。
煩悩、迷いのままに生きているだけです、と言う。。w
それが、僕だな。。w
そうじゃない人は、終わっていない人。。
終わってから、帰ってきてください。。
その私の修行とかいう、おかしなことを終わらせてから来い、ということ。。w
言っても無駄だろうけど、他の人も読むだろうから、その人たち向けだな。。
必ず、届く人はいる、とおれは思っている。。
曹洞宗の師家を指導する立場だった人の言葉です。。
むしろ、遠ざかりたい。。w
周りの人に迷惑というか、人を救う存在とは、逆の存在だよね、そういう人たちは。。
そこらへんが、わからない、というのは、ダメなんだよ。。
ま、多くの人はわからないというのが、実情なんだが。。w
うん 驚いたね〜 失礼なのでご年齢は聞いてないけどかなりお歳を召されてると思う
そんなになってくるか?普通て驚き
ここは言葉でやり取りをするところだからことさらに修行という言葉を使ってるだけで、
実際にはそんなことひとつもないよ
ただこうなってるだけであって
煩悩だの迷いだのも逆にないよ実生活に
そんなことないでしょう
あなたの好きな祖師録や道元禅師の録にも修行とか学道とか出てくるでしょう
ここではこういう話題性だから修行だの至るだのの言葉を使ってるんでしょう
普段そんなこと言ってないでしょ
あってもなくても問題なくなる
これについては言及を避けてるの?
>>820
わたしも実生活で会ったとしても多くは考え方の方に流れてるだろうから敬遠するだろうな
印象に残ってるのはさるお方の血筋の方と話した時に理会に流れてるから
そうなんだと思ったな
まぁこの道は血は関係ないっちゃないけど、某有名大学の博士であり教授だけど、
良い人なんだけど残念だったな
私が修行と言ったって、やってることは、
その通りになるようになって過ごしてるだけだからね
その実際には禅も仏教も修行もない
説明だからその通りと言ってるけどそんな言葉もない
何も気にしちゃいないよ実際は笑
何も考えない、思わないのでもない
何もコントロールしてない
今もじっさいにそうなってるでしょ
こちらに自分がいて向こうに鏡があって、
鏡の中には自分やその周りが写し出されてる
ようはこの鏡の中しかないんだなって
鏡の中ってことは鏡の外のことなんだけど
お茶飲んだら飲んだようになる
一事が万事そうやって過ごしてる
この修行が分かるまでは自分のことを自分でモニタリングしてた
そんなことはもうしてない
鯉の吹き流しw
老師の言うことを聞かなかったからね笑
今は一から十まで聞くつもりでいるのに何にも言ってくれなくなった
厳しくして欲しいて言ったことあったな笑
風にたなびくように、縁の通りにしてるだけ
カラスも何羽か混ざって聴こえる
互いにやり取りをしてるようだ
不思議と自分自身の様子なんか出てこないんだよね
ただ声がするばかりで
あ、ウグイスもいるな
ウグイスはまるで短い曲を口ずさんでるようだ笑 いい声だね
考え方で整理しようとするな
統一的概念を築き上げようとするな
とも言われたな
それは考え方にしてしまうムーブだから
道を遠ざけるからするなって
長いこと読んでないから忘れたな笑
冒頭のところしかおぼえてない
ここかなり大事だね
あ、とうとう祖師録やってもうたな笑
インド哲学(特にヨガの基礎となったサーンキヤ哲学やヴェーダ神話)における最重要の根本概念で、一言で言えば「宇宙の純粋な精神(観照者・真我)」のことです。
先ほどの身体の階層の文脈で言えば、すべての高次元の身体(肉体、アストラル体、コーザル体、大因果身など)を外側からじっと見つめている、
「肉体や心(マインド)の本当の持ち主=真我(アトマン)」を指します。
プルシャという言葉が持つ意味と重要性を、3つの視点から分かりやすく解説します。
■ 1. ヨガ哲学における「二元論」:プルシャ と プラクリティ
ヨガの基盤であるサーンキヤ哲学では、この宇宙はたった2つの根本要素だけで成り立っていると考えます。それが
≪プルシャ≫と≪プラクリティ≫です
◯プルシャ(精神・意識) 物質ではなく、形もありません。
一切変化せず、行動もせず、ただ静かにすべてを見守っている=観照している純粋な意識そのものです。
◯プラクリティ(物質・自然・根本自然):
肉体、感情、思考(マインド)、エネルギー、宇宙の星々など、「変化し、動き、目に見える(あるいは知覚できる)すべてのもの」です。
先ほど解説した5つの鞘(コーシャ)や大因果身(宇宙の記憶)も含め、「身体」と呼べるものはすべてこちら(プラクリティ)の側に属します。
ヨガでは、私たちは本来「プルシャ(純粋な意識)」であるのに、プラクリティの作った「肉体や心」を自分自身だと勘違いしている(無知)ために苦しみ(輪廻)が生まれると考えます。
犠牲者は猿の梧空といわれる斉天大聖。
猿がパシリ扱いされてるの、
甲が 「ネ甲」って、神に近い文字で、しかも進化論にしかり。
神界を自分らが牛耳ろうという”仏さん”の企み
もちろん、修行がうまくいった結果それに気づく、ということなので、それらがもともと不要だったと気付くか否か、
が、修行の成否を測る試金石である、と言えるでしょう。。
自身が自身の知ったこと、老師の教え、なんてものに拘っているなら、それは、修行がうまくいってない、
何か、ちがうことをやっているということです。。
そういう場合は、いったんぜんぶ忘れないと、その知ったことに拘り続ける=我執がいつまでたっても消えない、
ということになります。。
法執=我執なので。。
新たな、禅とか修行という名の、自我を手に入れて、いい気分になっているだけなのです。。
で、それが問題であるということに、気づかないのであれば、ちょっと無理な人、なんだと思います。。
自身の問題を自覚し、それを解決していくのが、禅修行です。。
人は泥棒をするから泥棒になる訳です。
つまり人には泥棒になる可能性があります。
仏もそれと同じなんじゃなのかなぁ?
その可能性を仏性といい如来蔵っていうんでしょ。
んで、その仏の端的な姿が坐禅だっていうんでしょ。
だからいうよね「一寸坐れば一寸の仏」だって。
また、「修証一等」って。
つまり、修行して解決するのではなくて、修行(坐禅)が解決そのものじゃないのかなぁ。
坐禅は安楽の法門なりで、そこに安心があるんじゃないの?
勿論、これも善巧方便ですが。
仏性とか如来蔵というのが、為すところに成る可能性であれば、為されてるところに修行とか老師の教えとか禅とかは元々ないって事です。
不要とか必要がないというのとは全く違うんですよ。
それはそれでいいと思うけどね。
ただ、そうこうしているうちに、坐禅そのものが安心に他ならなかったってところに落ち着いてくるもんじゃないのかなぁ。
それが、人によっては日々の坐禅、週末の坐禅会、月度の摂心って生活に円融してるって事。
だから、不要論だの元々論だの、ベラベラベラベラベラベラ語ってるんでしょw
翌土曜日の早朝坐禅会から移動して摂心。
日曜日に終わって間に合えば午後の坐禅会。
たぶん忘れるていうのも捉え方の問題だな
私からすれば使うとき以外、忘れてるじゃん
このスレで流れの中で出てきた時に初めて思い出して使うことじゃない
鯉のぼりの吹き流し状態だよ笑
何にも気にして暮らしてない
気になることが起きたらその時、初めて対処するし、
大体、夜中しか時間取れないけど、
一、ニチュウ坐ってるし、
座ること自体を忘れてたりもあるな
たぶん毎日のようにやってるけど気にしてないからおぼえてない笑
大体、何も考えてなくて座ったら、
自然に足組んでかんきいっそくして左右よう身して勝手に坐ってるよ
あると思い込んでるだけだよ
自分と思う自分が無いってだけで、
このもの自体はあるし、
人とコミニュケーション取れば私とかあなたとかオレとか彼はとか使ってるだけじゃん縁によって
これから師について学道するって人も自分の頭の中は一旦置いといて、
空っぽにして師匠の言う通りにした方がいいと思うな
本当にちゃんとした師なら自力で行けるところまで導いてくれるから
ほぼ何も気にせずに今のその通りにしてるだけだよ
別に私は何もしてない、今のこの様子があるだけだ
まぁなんせ、あくまでスレ埋めてるだけだし
言うことないので、私の場合の修行を書き綴ってるだけです
ろんさんのように他の方にアドバイスということもない
禅とは只とか無一物とか脱落とか、ああだとかこうだとか、そんな手枷足枷をしてしまったら、禅はとっくに滅んでいたでしょう。
いわんや、実参しないで蘊蓄を語って言葉を捻ってるのは、ただの言葉の装飾で、禅ではありません😧
あくまでスレ埋めw
すなわち、自分はこうだ、という認識、主張のことです。。
それがあるうちは、問題があるんですよ。。
僕自身は、問題だらけの存在だと思ってます。。でも、だからこそ、他の人と同じであり、故に、問題が無いのです。。w
そうじゃない、おれには、何も問題ないとか、師に言われた通りの修行をしているから、正しいんだとか、思ってるのであれば、それは、マトモじゃない、大問題です。。w
全然なに言ってるのか分からんな笑
あーではない、こーではない、こうじゃない、そうじゃない、あーではない、こーではない、こうじゃない、そうじゃない、あーではない、こーではない、こうじゃない、そうじゃない……
で、何回坐禅したの🤭
で、何回摂心行った🤭
wwwwwwwwwwwwwwwwww
坐禅だよ、坐禅!
坐禅!坐禅!坐禅!
日々の坐禅、週末の坐禅会、月度の摂心。
千回坐って坐、
万回坐って禅。
禅宗を名乗るならね😘
で、何回坐禅したの?
ふーん、坐布見せて?
宗教板の自称禅宗は、これでほぼ全滅する。
せめて禅について語るのなら、最低でも
坐禅 5,000回以上
坐禅会 500回以上
摂心会 50回以上
してから。
じゃないと相手に対して失礼だからね。
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翌土曜日の早朝坐禅会から移動して摂心。
日曜日に終わって間に合えば午後の坐禅会。
有名な正信論争のことが書いてあって、
その祖師ももちろんお寺側だったので完璧に争う姿勢で師匠にも「おう!大いにやってやれ!」と許可をもらってた
ふと、はて?師匠は何故に参加しようとしないのかが気になった
ちょうど全国のお寺に檄文を飛ばす準備をしてた時で、
その方はその前に師に参じて、
「時にお師匠さまは何故にご参加の意向をされないのでしょうか?」と恐るおそる問うと、
師はにべもなく「ん?無相定じゃから争わんのじゃ」と言われてしまった
そのお祖師さまは散々悩んだ挙句、筆を折った、
だそうです笑
ご冥福を念じます。
思い込みだったと自分で確認するのが肝心なところなんだけど、
まぁ本人がそれでいいなら仕方ないか
そりゃ目の前の相手が居ると思うよね当然って
言われたの思い出した笑
なにを言ってるんだ…?てなってたな当時
"あるのぢゃ〜"とか"ないんだじょー!"とか、そういうのは ナイあるアルない、ヒョンゲー!! だろうに🤭
自我なんてないよ
あると思い込んでるだけだよ
自分と思う自分が無いってだけで、
このもの自体はあるし、
人とコミニュケーション取れば私とかあなたとかオレとか彼はとか使ってるだけじゃん縁によって
坐禅なんかやらなくたって、もとから誰もが救われているんですよ。。w
(中略)
自我による病が癒える、というだけのこと。。
自我が無くなるとか、自我がなくなるわけではありません。。
ナイあるアルない、あるナイないアル????
ヒョンゲーーーーーーーーーーーーーッツ!!
自己の感覚、意識、認識力、洞察力、が、正しく物事を認識した場合、自我ってのは死にます。。
(以下略)
↓↑
305 神も仏も名無しさん[sage] 2026/05/24(日) 14:23:48.82 ID:o0qfu
(中略)
自我が無くなるとか、自我がなくなるわけではありません。。
もう修行だの坐禅だのと180°反対のゲームにドップリ❗だから
そういった修行的な物を否定しないと
心のバランスが崩れるんじゃないの?
おれには不要だからって・・・
だから他人も不要だ‼️って言いたいんだよね?
ギャンブルゲームから涅槃なんて
遠いなぁ~
世間に迷いこんで出口を失ったような感じじゃないのか
まあ、迷路も何時か出口に出れるでしょうけどね
>不落と不昧と、両采一賽なり。
>不昧と不落と、千錯万錯なり。
って。
それと同じだって思いますけどね。
ある・ないのサイコロ振ってるだけでしょ?