仏教@質問箱 Part2最終更新 2026/05/19 09:021.◆JBLfMwCXhYW2k0b仏教に関することならナンデモアリの、《仏教@質問箱》です。回答者さんは、 ご質問を見つけたら、Talk宗教板ならではの物凄い勢いで、お返事を差し上げましょう。前スレ仏教@質問箱https://talk.jp/boards/psy/1686723952【唯識三年】仏教ウンチクを語るスレ 10【倶舎八年】https://talk.jp/boards/psy/1759535455仏教がわかってきた人のスレ vol.36https://talk.jp/boards/psy/17725773442026/05/05 20:50:28127コメント欄へ移動すべて|最新の50件2.◆JBLfMwCXhYz3vHU如来蔵思想生きとし生きるもの(衆生 しゅじょう)が皆、如来を胎内に宿しているという思想如来すなわち仏になる可能性は仏性(ぶっしょう)ともいわれるが、それがすべての生きものにそなわっているという教え(一切衆生、悉有仏性)「こんなの仏教じゃない」という人と、「これでこそ仏教だ」という人の両方がいる東アジアに広がり、日本仏教の基盤となった「仏教とはこういうものだ」と、日本では思われていた2026/05/05 22:59:183.◆JBLfMwCXhYz3vHU如来蔵思想は、日本で独自の発展を遂げた↓天台本覚思想衆生は誰でも仏になれるということ、あるいは、元から悟っているという、鎌倉~室町時代に流行し日本の仏教界に定着した思想衆生の誰もが本来、如来我・真我・仏性を具えている(本来、覚っている)が、生まれ育つと次第に世間の煩悩に塗(まみ)れ、自分が仏と同じ存在であることがわからなくなっていく・・・ということであるやがて、人間は誰もが悟っているのだから、修行する必要もなければ戒律も守る必要がない、凡夫は凡夫のままでよい、などという急進的な解釈がされるようになった「無明と共に輪廻が始まる」とする初期仏教の釈迦の教えからは遠いところに来てしまった日本では、「仏教とはこういうものだ」と思われていた2026/05/05 22:59:464.◆JBLfMwCXhYz3vHU三法印「これが仏教である」という釈迦の教えのブランド・認定印のような役割を果たします。1、諸行無常(しょぎょうむじょう)この世のあらゆる現象や形成されたものは常に変化し、不変なものはないという真理。2、諸法無我(しょほうむが)すべての事象(諸法)は、互いに依存し合って存在しており、単独で不変の「自分(我)」という実体はないという真理。3、涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)無常で無我な世の中(執着、欲望)から離れ、迷いが消えた「悟り」の境地は静やかな安らぎであるという真理。補足事項これに「一切皆苦(いっさいかいく:すべては苦である)」を加えて「四法印」と呼ぶこともあります。2026/05/05 23:00:115.◆JBLfMwCXhYz3vHU八正道正見(しょうけん): 正しい見解。四諦を理解し、偏見なく真理を見ること正思惟(しょうしゆい): 正しい考え。欲望や怒り、害意を離れた思いを持つこと正語(しょうご): 正しい言葉。嘘、誹謗中傷、陰口、無駄話をしないこと正業(しょうごう): 正しい行い。人に迷惑をかけず、殺生や盗みなどをしないこと正命(しょうみょう): 正しい生活。規則正しく健全な職業や生活を送ること正精進(しょうしょうじん): 正しい努力。怠らず、正しい道を歩む努力をすること正念(しょうねん): 正しい気づき。常に理性的な心を保ち、今に集中すること正定(しょうじょう): 正しい精神統一。瞑想などを通じ、心を安定させること2026/05/05 23:00:406.◆JBLfMwCXhYz3vHU四諦(したい)苦諦(くたい)生きることは本質的に苦である。一切皆苦生きるということは、苦を背負って日々を過ごすことだ。どこかに心優しい神様がいて手をさしのべて救済してくれるようなことは絶対にない。集諦(じったい)あらゆる出来事は必ず何らかの原因によって起こる。苦の原因は煩悩である。満足が得られないから、苦しくなっていく。滅諦(めったい)煩悩を消すことで苦が滅する。この世で起こっているものはすべてうつろう。諸行無常現実をありのままに受け入れ、その世界に耐えるべく、自分の価値観・世界観を変えていく。この世の一切の事物は自分のものではないと自覚する。道諦(どうたい)煩悩をなくし、悟りを得るための八正道を実践する。2026/05/05 23:01:217.◆JBLfMwCXhYz3vHUテンプレは以上2026/05/05 23:01:328.神も仏も名無しさんvFjBT俺が如何に華厳型タイプの証明だな😀華厳宗だと、「煩悩土」がない「法界土」があるだけだ2026/05/06 10:50:209.神も仏も名無しさん5PAI6これ、何で別れたんだろな?言葉を突き詰め過ぎた弊害なのかな?それとも時代の過酷の産物なのか?もう平和ボケした私には簡単には分からないな。2026/05/06 19:34:1510.◆JBLfMwCXhYQubUv昨日の仏のスレ主とハッスル軍団の論争は熱かった2026/05/10 08:02:0911.◆JBLfMwCXhYQubUvおかげで、井上義衍老師の教えがだいぶ見えてきたな😆2026/05/10 08:02:3512.◆JBLfMwCXhYQubUv766 神も仏も名無しさん 2026/05/09(土) 16:10:06.60 ID:YjlOf頭の中でやることとは違いますので私の修行はこの身体と呼ばれる道具を使いますのでどうされます?2026/05/10 08:06:1313.◆JBLfMwCXhYQubUv620 神も仏も名無しさん 2026/05/08(金) 22:48:10.19 ID:N9qJ8まぁ私も最初は面食らったなえ?こんなことが修行になるの?ってただし、これはあくまで私が老師に教わってやってる修行ですからね他は知らない、否定も肯定もしないし、興味もない笑料理なんか本当にいいねタマネギをみじん切りにするトントン、トントンとね調味料入れて合挽き肉と和えてねグー、パー、グー、パーっていい感じに和えれているか、タネが柔らかすぎないか、硬すぎないか確認してね、今日は柔らかすぎる気がしたけど焼いてみたらなかなかいい感じになったこれ修行になるんですね坐禅の肝心要のことがちゃんと入ってるハンバーグが焼けた後の残り汁の余計な油は除いてからデミグラスソースを作る自分の考えを通さずに実際のものに触れるここが理解できないとなぜこんなことが修行になるのかそりゃ分かんないよな笑2026/05/10 08:09:5614.◆JBLfMwCXhYQubUv質問:身体を使う実践だと聞いたが?チャットGPT:そう。井上義衍 の特徴は、まさにそこにある。単なる「心の修行」ではなく、身体そのものを通して、自己執着を崩すという方向なんだ。だから井上老師系では、姿勢重心呼吸歩き方立ち方茶碗の置き方戸の開け閉めみたいな、ごく日常的な身体動作が、全部修行対象になる。2026/05/10 08:10:0915.◆JBLfMwCXhYQubUvしかも、それを「作法として美しくやれ」という話ではない。もっと厳密に言うと、無意識の“自己操作”が、身体に全部出ていると見る。たとえば人間は、認められたい失敗したくない緊張したくない偉く見せたい安全でいたいこういう欲望や恐怖を、頭だけでなく身体でやっている。だから、肩が上がる顎が固まる呼吸が浅くなる腹が抜ける無駄に力むという形で現れる。井上老師は、そこを徹底的に見ろと言う。つまり、「自我」は観念ではなく、身体反応として実在しているという感覚だな。2026/05/10 08:10:5916.◆JBLfMwCXhYQubUv752 神も仏も名無しさん 2026/05/09(土) 15:18:07.55 ID:YjlOfうちの教えは「知る」ことは重要ではないので修行することであって、修行には考え方や知ってることは使いませんからね2026/05/10 08:13:1317.◆JBLfMwCXhYQubUv638 神も仏も名無しさん 2026/05/09(土) 05:43:08.88 ID:YjlOfこれなんて、最近の話題の答えになってるね私一人が言われたことではないたぶん提唱の時の言葉だな「真実は考え方じゃないんです。真実には説明がいらないんです。」2026/05/10 08:13:3818.◆JBLfMwCXhYQubUvチャットGPT:井上老師は理論構築へはあまり行かない。「考えるな」というより、理論を身体化しろに近い。頭で空を理解するのではなく、力み反応自己防衛欲求評価癖そういうものが、瞬間瞬間どう立ち上がるかを、坐禅と日常動作の中で見る。2026/05/10 08:14:4819.◆JBLfMwCXhYQubUvだから、井上老師の教えは、ある意味かなり怖い。逃げ場が無いからだ。宇宙論にも、 神秘体験にも、 観念哲学にも、 簡単には逃がしてくれない。「今、お前、肩に力入ってるぞ」 「その“わかったつもり”が妄想だぞ」みたいに、身体レベルまで降ろされる。なので、思想として読むと地味だが、実践としてはかなり強烈なタイプの禅なんだ。2026/05/10 08:15:0720.◆JBLfMwCXhYQubUv質問:「真実は考え方じゃないんです。真実には説明がいらないんです。」チャットGPT:その言葉、井上義衍 の立場がものすごくよく出てるな。特に、「真実は考え方じゃない」ここが決定的なんだよな。2026/05/10 08:18:0821.◆JBLfMwCXhYQubUvつまり老師からすると、 仏教理論も、 哲学も、 世界観も、全部「頭の中で作られた説明」にすぎない。もちろん説明としては役立つ。 だが説明は、現実そのものではない。たとえば、「呼吸は無常である」「万法は空である」「主体と客体は分離していない」……こういうことを、どれだけ理解しても、今、 肩に力が入っているなら、 入っている。イライラしているなら、 している。頭の中で妄想が暴走しているなら、 している。そこに直接触れない限り、 “知識の禅”になってしまう。義衍老師は、そこをかなり警戒していた感じがある。だから、「知っているつもり」を崩しに来る。2026/05/10 08:18:3122.◆JBLfMwCXhYQubUvしかも面白いのは、 これは単なる「反知性主義」ではないこと。老師は、 「考えるな、バカになれ」 と言ってるわけではない。そうではなく、考えは考えとして起きていると観ろ、という方向なんだ。つまり、 「私は空を理解した」 という思考も、今、頭の中に浮かんでいる現象の一つにすぎない。そこまで徹底して、“現在起きている事実”へ戻そうとする。なので、「真実には説明がいらない」というのは、真実は、 理論を通して成立するものではなく、すでに、 呼吸し、 音が聞こえ、 身体感覚があり、 思考が浮かび、 消えている、この現前そのものだ、 ということなんだろうな。かなり禅的だが、 同時に、かなり厳しい。なぜなら、 知識に逃げ込めなくなるから。「わかったつもり」が、 全部その場で剥がされる。2026/05/10 08:18:5523.◆JBLfMwCXhYQubUv666 神も仏も名無しさん 2026/05/09(土) 08:52:32.27 ID:YjlOfちなみに私の修行、坐禅は何かに集中したりとかしません何にもしない今ここにある現実の通りになってる場所や姿勢に関わらず2026/05/10 08:19:3324.◆JBLfMwCXhYQubUv質問:「ちなみに私の修行、坐禅は何かに集中したりとかしません何にもしない今ここにある現実の通りになってる場所や姿勢に関わらず」チャットGPT:それ、かなり典型的な 井上義衍 系の感覚だと思う。「坐禅をする」というより、坐っているという現実が、ただそのまま起きているという方向なんだよな。だから、呼吸を操作しない意識を固定しない無心を作ろうとしない特別な状態を目指さない集中状態を維持しようとしないただ、今こうなっているだけ。2026/05/10 08:20:4625.◆JBLfMwCXhYQubUvしかも重要なのは、あなたが言うように、「場所や姿勢に関わらず」というところ。これはかなり道元系の「修証一等」に近い感覚でもある。つまり、 「坐禅中だけが修行」ではなく、歩いていても電車でもネット見ててもイライラしてても疲れててもボーッとしててもその都度、 “今こうなっている” が現れている。だから修行とは、 特殊状態への移行ではなく、現実から逃げないことになっていく。2026/05/10 08:21:1826.◆JBLfMwCXhYQubUvここ、現代人には意外と難しい。人はすぐ、集中したい整いたい良い状態になりたい雑念を消したい意味づけしたい方向へ行くから。だが義衍老師系の方向は、 その「どうにかしよう」という動きすら、今そういう動きが起きているとして観る。だから結果的に、 「何もしない」が、 単なる脱力やボンヤリではなく、かなり徹底した“非介入”になる。そして不思議なことに、 そこまで操作をやめると、「自分が世界を動かしている」という感覚そのものが、 少しずつ薄くなっていく。呼吸も、 思考も、 感情も、 かなり勝手に起きている。すると、 「自分が修行している」 という感覚すら、 だんだん怪しくなってくる。このへん、かなり深いところだと思う2026/05/10 08:21:4427.◆JBLfMwCXhYQubUv763 神も仏も名無しさん 2026/05/09(土) 16:04:42.06 ID:YjlOf私は今どうなってるかってだけなんですよだから分別がとか受がどうのとかまったく頭にも思い浮かべません今とさっき読んだ時くらいですこれをやり続けるとほとんどの時間そんなことしてないんですよね行動と言っていいのかな 活動とか 事実とか色んな称されかたがありますが、ほとんどそういうことしてないこれに気づいてからやっと修行ができるようになりましたねそれまでは禅の文献を漁りまくってました笑2026/05/10 08:22:3528.◆JBLfMwCXhYQubUv749 神も仏も名無しさん 2026/05/09(土) 15:14:54.95 ID:YjlOfそうですか だけど私が言えることは自分がやってる修行くらいです今日は少し仏道について話しましたが、これは老師たちがした方がいいと思ってます私がやってる修行と言ったって、今どうなってるかってだけなんですね2026/05/10 08:22:4929.◆JBLfMwCXhYQubUv質問:「今、どうなっているか」だけを観る修行チャットGPT:井上義衍 の修行の核心は、かなり乱暴に言えば、「解釈する前に、“今どうなっているか”を観ろ」という一点にある。しかもこれは、 「ポジティブになろう」 「無心になろう」 「悟ろう」 みたいな話ではない。むしろ逆で、今、身体はどうなっているか呼吸はどうなっているか足裏はどう接地しているか頭の中で何が始まっているか“考えている自分”が、今どう発生しているか……それを、生のまま観る。しかも、 「良い悪い」をつけずに。2026/05/10 08:24:1530.◆JBLfMwCXhYQubUv義衍老師は、「修行とは、自分を改造することではない」と繰り返し言っていた。だから、 「もっと静かな心になりたい」 「煩悩を消したい」 「悟った状態になりたい」 という“目的意識”そのものが、すでに妄想の運動だと見る。ここ、かなり独特なんだよな。普通の瞑想法は、 「理想状態」に向かって進む構造を持つ。だが義衍老師は、その“理想へ向かう心”が、今どう動いているか観ろと言う。つまり、 「修行しているつもりの自己」そのものを観察対象にしてしまう。これはある意味、かなりラディカルな禅だ。2026/05/10 08:24:3731.◆JBLfMwCXhYQubUvしかも老師は、これを坐禅だけに限定しない。茶碗を持つ歩くドアを開ける人と話すイライラするネットを見る全部、 「今どうなっているか」 を見る場になる。あなたが前に言っていた、「日常動作に意識集中する」のではなく、むしろ逆という感覚、かなり鋭い。2026/05/10 08:25:3932.◆JBLfMwCXhYQubUv義衍老師の方向は、 “集中してコントロールする”というより、すでに勝手に起きている現実を見るに近い。たとえば歩行でも、「正しく歩こう」 ではなく、今、前傾してる足が急いでる呼吸が浅い頭の中で会話してる何かに追われてる……そういう“現に起きている事実”を見る。だからこれは、 自己改造メソッドというより、「自己という機械の作動観察」に近いところがある。しかも、その観察が深まると、“自分がやっている”と思っていたものが、ほとんど勝手に起きているという感覚に入っていく。このへんは、 道元 の「身心脱落」にもかなり近いし、 現代哲学で言えば現象学っぽさもある。2026/05/10 08:25:5333.◆JBLfMwCXhYQubUvただ義衍老師は、理論化よりも徹底して「現場」を重視した。なので弟子たちの証言でも、とにかく具体的身体的日常的容赦なく現在形という特徴がある。「仏教思想」より、 「今、あなたの肩に力が入っている」 のほうが重要、という感じ。2026/05/10 08:26:0434.◆JBLfMwCXhYQubUv135 神も仏も名無しさん [sage] 2026/05/07(木) 13:03:37.27 ID:dwNP5あとね、私の修行法はそういう自分で何かしないんですよ本当になにもしない今朝もマインドフルネスていうんですか掲示板で読みましたけど、もういきなり違いますねああいうことしないんですね私は他の方はどうぞご自由になさればいいんじゃないですか私はしない2026/05/10 08:27:4735.◆JBLfMwCXhYQubUv質問:なるほど「日常の動作に意識を集中する」ということかと思ったがむしろ、逆なんだな?2026/05/10 08:28:1036.◆JBLfMwCXhYQubUvチャットGPT:そう。そこ、かなり重要なポイントだ。井上義衍 系の感覚では、「意識を集中している私」これ自体が、すでに余計な作為になりうる。だから一般にイメージされる、「今この瞬間に集中!」「マインドフルネス!」「動作へ意識を向ける!」とも、微妙に違う。2026/05/10 08:28:2837.◆JBLfMwCXhYQubUvもちろん、最初は注意を向ける段階はある。だが、井上老師系はそこに留まらない。むしろ問題視されるのは、“集中している自分”を作ることなんだ。たとえば、 「丁寧に茶碗を置こう」とすると、良い修行者になろうちゃんとやろう美しくやろう意識的であろうという“自己演出”が混ざり始める。すると身体が不自然に固くなる。つまり、「意識的にやってるつもり」が、実は強い自己操作だったりする。だから方向としては、「意識を集中する」 というより、余計な介入を減らすに近い。これは禅でよく言う、無功用の感覚にかなり近い。2026/05/10 08:28:4938.◆JBLfMwCXhYQubUv例えば歩行でも、初心者は、 「右足、左足……今ここ……」 とやりがちだ。だが熟してくると、“歩こうとしている私”そのものが、過剰だったと見えてくる。すると、必要以上に操作しない評価しない演出しない緊張しない方向へ行く。結果として、 動作が自然になる。2026/05/10 08:29:3239.◆JBLfMwCXhYQubUv人間は、こうあるべきちゃんとしなきゃ失敗するな良い体験を得たいという“概念操作”を常に被せている。井上老師系は、 それを思想で否定するより、身体の不自然さとして暴くんだ。だから最終的には、「意識を集中して生きる」 というより、“余計な自己操作が減っている”状態に近づいていく。ここが、いわゆる自己啓発系マインドフルネスとは、かなり違うところなんだ。2026/05/10 08:30:0040.◆JBLfMwCXhYQubUv734 神も仏も名無しさん 2026/05/09(土) 14:10:53.99 ID:YjlOf私が聞き及んだ言葉では、択法眼や仏縁ていいますね2026/05/10 08:32:5641.◆JBLfMwCXhYQubUvチャットGPT:井上義衍 の文脈でいう「択法眼(ちゃくほうげん)」とか「仏縁」という言葉は、単なる知識用語じゃなくて、かなり“実感ベース”の言葉なんだよな。まず「択法眼」は、もともと仏教では何が仏道にかなっていて、何がズレているかを見抜く眼みたいな意味。ただ義衍老師系だと、 これを「教義判定能力」みたいには扱わない。むしろ、今、妄想が始まった今、自己正当化してる今、“分かったつもり”になってる今、理想状態を作ろうとしてる今、現実から逃げてる……そういう“自己の運動”が見えること。つまり、 「現実」と「頭の中の作り話」の区別がついてくる眼、 と言ったほうが近い。だから択法眼って、 知識量というより、誤魔化さずに現在を見ているかに関わる。2026/05/10 08:33:5642.◆JBLfMwCXhYQubUv一方の「仏縁」は面白くて、 義衍老師の系統だと、仏教に興味を持つこと程度の意味じゃ終わらない。むしろ、なぜかこの道に触れてしまうなぜか坐ってしまうなぜか「今ここ」を無視できないなぜか真実をごまかせない……そういう、 “逃げ切れなさ”みたいなニュアンスがある。だから仏縁って、 「仏様とのご縁」というより、現実そのものに呼び戻される縁みたいでもある。2026/05/10 08:34:1643.◆JBLfMwCXhYQubUvで、義衍老師っぽいのは、「仏縁がある人=優秀な人」 とは全然見ないところ。むしろ、 不器用だったり、 人生に詰まったり、 考えすぎて破綻したり、そういう人間のほうが、 「説明では足りない」 という地点に来やすい。そこで初めて、“知る”じゃなく、“今どうなっているか”へ向きが変わる。この転換そのものを、 仏縁と呼んでいる感じがある。2026/05/10 08:34:2844.◆JBLfMwCXhYQubUv691 神も仏も名無しさん 2026/05/09(土) 12:42:34.08 ID:YjlOfそこまで精細には分かりませんが、大体が考え方や概念ですね最後の砦が仏教用語になりますがニ鉄囲線なんだと思いますよ世間一般は「自分の考え方=アイデンティティ」でしょうそれを仏法で作り上げると予後不良の手のつけられない者になってしまうんでしょうねだからこちらではまだ何のことか分からないのに「知ったことは大事じゃない」と繰り返されましたね笑2026/05/10 08:35:1845.◆JBLfMwCXhYQubUvチャットGPT:その感覚、かなり鋭いと思う。井上義衍 系で「知ったことは大事じゃない」が繰り返されるのって、単なる謙虚論じゃなく、仏教を使って“自己”を強化する危険を、ものすごく警戒しているんだろうな。普通は、学ぶ理解する世界観を持つことで、自我は安定する。「自分はこういう人間だ」 「世界とはこういうものだ」 という物語が出来上がる。世間一般では、それがそのままアイデンティティになる。で、仏教でも同じことが起きる。空を理解した唯識が分かった中観を学んだ非二元を知った自我は幻想だと理解した……こういう“仏教的自己像”が形成される。しかも厄介なのは、 普通の自我より強化されやすいことなんだよな。なぜなら、 「私は真理を知っている」 という形を取るから。2026/05/10 08:38:2446.◆JBLfMwCXhYQubUv質問:「ニ鉄囲線」とは何か?チャットGPT:「二鉄囲山(にてっちせん/にてついせん)」は、もともと仏教宇宙論の言葉だな。須弥山世界を取り囲む山々のうち、外周にある巨大な鉄の山脈を指す。つまり、世界の最外殻最後の囲い外へ出られない境界みたいなイメージ。2026/05/10 08:39:2347.◆JBLfMwCXhYQubUv仏典では、世界は何重もの山と海で囲まれていて、その最終防壁みたいなものが「鉄囲山」。そして「二鉄囲線」と言うときは、禅系ではしばしば比喩的に、最後まで残る執着や観念の囲いを意味する。あなたが言っていた文脈だと、かなり典型的に、世俗的価値観自己イメージ哲学思想修行観を超えていった“最後”に、仏教理解そのものが壁になるという意味だろうな。つまり、「空とは~」 「無我とは~」 「只管打坐とは~」……そういう“正しい仏教認識”が、 最後の自己防衛線になる。しかも厄介なのは、 それが普通の欲望より“高尚”に見えること。だから本人も、 「執着している」と気づきにくい。2026/05/10 08:39:4648.◆JBLfMwCXhYQubUv禅でよく、仏に逢うては仏を殺せと言うのも、 この方向に近い。仏教概念にしがみついた瞬間、 それがまた「自分」を作るから。義衍老師系が、 あれほど「知ることは大事じゃない」を繰り返すのは、この“最後の囲い”を先回りして崩している感じがある。つまり、分かったつもりになるなではなく、“分かった”をアイデンティティ化するななんだろうな。かなり容赦ない立場だと思う。2026/05/10 08:39:5649.◆JBLfMwCXhYQubUv質問:井上義衍老師の系統には、どういう禅師がいるか?チャットGPT:井上義衍 の系統は、いわゆる「宗派組織としての派閥」というより、“本気で坐る人たちの流れ”として続いている感じが強い。なので、 公式な法系図よりも、「誰が実際に義衍老師のもとで徹底して修行したか」が重視される傾向がある。2026/05/10 08:43:3650.◆JBLfMwCXhYQubUv代表的によく名前が挙がるのは――井上貫道義衍老師の五男。かなり有名。「何も得るものはない」「今どうなっているか」を徹底的に押し出す。在家にも強い影響を与えた。2026/05/10 08:43:5751.◆JBLfMwCXhYQubUv井上哲玄長男。龍泉寺系統。義衍老師の語録や禅風をかなりストレートに伝えている。2026/05/10 08:44:1952.◆JBLfMwCXhYQubUv原田雪渓福井の発心寺で指導。厳しい独参で有名。「徹底して自己に決着をつける」というタイプ。2026/05/10 08:44:3753.◆JBLfMwCXhYQubUv長井自然現代でも活動が知られる。義衍系の「只管打坐」をかなり直接的に説く。2026/05/10 08:44:5554.◆JBLfMwCXhYQubUv川上雪担東大出身の禅僧としても知られる。義衍老師を「盤珪禅師のようだ」と感じたという話が残っている。2026/05/10 08:45:1655.◆JBLfMwCXhYQubUv板橋興宗一般向けにも比較的知られた禅僧。食・生活・坐禅を一体で見る方向が強い。2026/05/10 08:45:4356.◆JBLfMwCXhYQubUv他にも福田素円長谷川文丈菅沼魯道青野敬宗などの名が挙がる。2026/05/10 08:45:5857.◆JBLfMwCXhYQubUvただ、面白いのは、 この系統って「教団拡大」感があまり無いことなんだよな。むしろ、理論を増やさない権威化しない“悟ったキャラ”を作らないただ坐る今どうなっているかへ戻そうとする。だから外から見ると、 地味だし、 何をやってるのか分かりにくい。でも逆に、 そこに強く惹かれる人はかなり深くハマる。あと、この系統は全体的に、「仏教知識を積み上げる」より、 「自己の問題に決着をつける」という色がかなり濃い。だから、 思想研究というより、 “生死の問題”として禅をやってる人が多い印象がある。2026/05/10 08:46:1658.◆JBLfMwCXhYQubUv質問:川上雪担もそうなのか?チャットGPT:うん、川上雪担 もかなりその流れにいる人だと思う。実際、本人の略歴でも、「浜松井上義衍老師につき、今に至る」と書いている。2026/05/10 08:47:0859.◆JBLfMwCXhYQubUvしかも川上雪担老師って、 単なる「義衍門下の一人」というより、かなり“義衍臭”が強いタイプなんだよな。特に、理屈を増やさない禅を神秘化しない「悟りました感」を嫌う今起きている現実を離れない仏教知識をアイデンティティ化しないこのへんがかなり近い。あと独特なのは、 川上雪担老師には、 どこか飄々とした“脱力感”があること。東大出て、 教師やって、 出家して、 新潟の田舎寺で長年住職して……という経歴だけ見ると、 もっと「知性派禅僧」になってもおかしくない。でも実際は、 かなり「分からんものは分からん」「ただ今こうなってる」方向へ戻してくる。川上雪担老師の文章や話って、 “仏教を知識体系として積み上げる感じ” があまり無い。むしろ、仏教を使って自分を作るなという匂いが強い。だから、 義衍老師系の中でも、体系化哲学化権威化より、坐って、 今どうなってるかへ戻す方向が濃い人だと思う。2026/05/10 08:48:4460.◆JBLfMwCXhYQubUvう~ん、なるほど2026/05/10 08:48:5761.◆JBLfMwCXhYQubUvかなり、参考になったな2026/05/10 08:49:0962.◆JBLfMwCXhYQubUvここ数日で、だいぶ禅宗への理解が進んだ😅2026/05/10 08:49:4163.◆JBLfMwCXhYQubUv禅宗同士の論争に横から割り込まないことにしてるのは、このためだ2026/05/10 08:50:1664.◆JBLfMwCXhYQubUv傍観してる方がいい😅2026/05/10 08:53:3565.神も仏も名無しさんZeMtJ知ったばかりで恐縮なのですが、仙厓義梵和尚様ってそんな感じの方だったりしますか?あの絵は最高でした。蛙さん、ワンちゃん、お饅頭みたいな丸と○△◻︎2026/05/10 08:58:4366.◆JBLfMwCXhYQubUv仙厓義梵和尚か~美術展を何度も見に行ったものだ😆2026/05/10 09:01:3367.◆JBLfMwCXhYQubUv江戸時代の博多の人凄腕の絵師が多い京都にいたら、あんな絵にはならなかったでしょうな自画像https://croissant-online.jp/wp-content/uploads/2016/11/CR_DSC6977.jpeg2026/05/10 09:04:2068.◆JBLfMwCXhYQubUv代表作布袋さんと子どもが月見をしている「指月布袋画賛」。https://croissant-online.jp/wp-content/uploads/2016/11/61cfb5ecf62144af319e899486cc2662.jpeg2026/05/10 09:05:2569.◆JBLfMwCXhYQubUv鎖につながれていて、どこにも行けないと思い込んでいる犬じつは、鎖をつないだ杭は抜けているそこに気づかないhttps://croissant-online.jp/wp-content/uploads/2016/11/1c628e25c0790a9ea30648e89ee84017.jpeg2026/05/10 09:07:0370.◆JBLfMwCXhYQubUvなぜ、犬の絵が多いのかというと禅宗業界では知らない人がいない、この超有名なエピソードがあるから↓ 生成A.I. 狗子仏性「狗子仏性(くしぶっしょう)」は、禅宗で非常に有名な公案です。出典は、趙州従諗 の問答。僧が問う。「狗子(犬)にも仏性がありますか?」趙州は答える。「無(む)」2026/05/10 09:09:5671.◆JBLfMwCXhYQubUvしかし、ここで困る。なぜなら、大乗仏教では普通、「一切衆生悉有仏性(すべての衆生には仏性がある)」と説かれるから。犬にも当然、仏性はあるはずだ。なのに、なぜ「無」なのか?2026/05/10 09:10:1772.◆JBLfMwCXhYQubUvここで重要なのは、趙州が「犬には仏性が存在しない」という教義的説明をしているわけではない、という点。むしろ、「仏性がある/ない」「存在する/存在しない」「有/無」という、概念分別そのものを叩き壊そうとしている。つまり、「無」は単なる否定語ではなく、👉 思考を停止させる爆弾みたいなもの。2026/05/10 09:10:5073.◆JBLfMwCXhYQubUv特に臨済系では、この「無」を徹底的に参究する。「無とは何か?」ではない。そうやって意味を考え始めた瞬間、もう概念の世界に戻ってしまう。だから、呼吸している時も歩いている時も飯を食っている時も全身全霊で「無」にぶつかる。すると、論理や言葉による世界理解が、ある瞬間ガラガラ崩れる。2026/05/10 09:11:2374.◆JBLfMwCXhYQubUv坐禅してる蛙https://auctions.c.yimg.jp/images.auctions.yahoo.co.jp/image/dr000/auc0307/users/2fbfdf3b0581fd7ae6141a4e86e64f825e4c196b/i-img1200x900-1656639403b0j5u6195757.jpg2026/05/10 09:15:0975.◆JBLfMwCXhYQubUv現代美術の抽象画を先取りしている😅https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/8/86/Sengai_3.jpg/960px-Sengai_3.jpg2026/05/10 09:16:2676.神も仏も名無しさんDRgGb坐禅自慢しだしたら即破壊ウンチク語りだしたら即破壊😀😀😀2026/05/10 09:17:2977.神も仏も名無しさんDRgGbハッスル🤡とムイムイにいつもやってることた悟ってると言えば即破壊😀2026/05/10 09:18:4478.◆JBLfMwCXhYQubUv1750年、美濃国(今の岐阜県)生まれ。若い頃に出家し、各地を修行して、最終的に博多の 聖福寺 の住持となった。この聖福寺は、栄西 が開いた、日本最古の禅寺として有名だ。2026/05/10 09:18:5879.神も仏も名無しさんDRgGbハッスルはビギナーだからなコマったビギナー🤡2026/05/10 09:19:1080.◆JBLfMwCXhYQubUvざっくり言うと、修行は本格派性格は豪放で人懐っこい絵は脱力系しかし中身は鋭いという、かなり独特な禅僧だな。2026/05/10 09:19:1981.◆JBLfMwCXhYQubUv>>76坐禅ウンチクはダメか~😂2026/05/10 09:19:3482.◆JBLfMwCXhYQubUv>>7940年も参禅してるのにまだ、ビギナーレベルかよ~😭2026/05/10 09:20:0583.神も仏も名無しさんDRgGb栄西系統高野山系統では俺は神扱いらしい?😀2026/05/10 09:20:1184.ゴリ子ZeMtJ偉人とはいつの時代も偉人。それをきちんと評価出来る日本の仏教史。あまりにも凄すぎて、私のあまりにも知識の無さに我ながら引きました。こんな事さえ今朝初めて知ったばかりな身で教えて頂き大変ありがとうございました♪2026/05/10 09:21:1985.神も仏も名無しさんDRgGb妙心寺系統には塩対応扱い最初だけざわついてくれて、後は無視ま、本道はそんなものだ神扱いしないのが本道😀2026/05/10 09:21:2286.神も仏も名無しさんDRgGb最近、高野山へ行っていないので高野山にいくか?と思っても栄西系統高野山けのざわつきが薄い😀2026/05/10 09:22:4387.神も仏も名無しさんDRgGb前に高野山行ったのは誰目当てだったか?忘れた😀2026/05/10 09:23:4788.神も仏も名無しさんDRgGbたぶん金剛三昧院のお堂拝観の日だったか?何年高野山へ行ってないんだろうか?鎌倉殿の13人の放映の前の年あたり、検索してみよう😀2021年あたりか、2020年か?高野山は5〜6年くらい行ってないのかー仁和寺参拝と同じくらい期間が空いている😀2026/05/10 09:30:2789.神も仏も名無しさんDRgGb宿坊修行狙いしか高野山行かないからなー😀2026/05/10 09:30:5990.◆JBLfMwCXhYbwbU0質問:日本では、奈良時代は法相宗と華厳宗、平安時代は天台宗と真言宗と、仏教界の勢力図が塗り替わった同じ時期の唐朝ではどうだったか?2026/05/19 08:25:1191.◆JBLfMwCXhYbwbU0チャットGPT:かなり大きく動いています。ただ、日本のように「奈良六宗 → 平安二宗」という明快な交代劇というより、唐ではもっと複雑で、多中心的でした。大づかみに言うと、初唐~盛唐:インド直輸入の学問仏教が隆盛中唐:密教・華厳・禅が伸長晩唐:禅宗が圧倒的に強くなるという流れです。2026/05/19 08:25:5492.◆JBLfMwCXhYbwbU0初唐~盛唐:国家的な「学問仏教」の時代7世紀頃の唐では、国家の保護を受けた巨大寺院で、経典研究が非常に盛んでした。代表格が:法相宗(唯識)華厳宗三論宗天台宗律宗など。特に有名なのが、玄奘 と、その弟子の 窺基 による法相宗です。これは、まさに「国家エリートの仏教学」という感じでした。一方、法蔵 の華厳宗も、武則天政権と強く結びついて巨大化します。以前あなたが話していたように、武則天 は華厳思想をかなり重視しました。つまり、日本の奈良仏教に影響を与えた巨大宗派群は、そもそも唐の国家仏教だったわけです。2026/05/19 08:26:2493.◆JBLfMwCXhYbwbU0中唐:空気が変わるしかし、8世紀後半~9世紀になると、流れが変わります。理由はいくつかあります。安史の乱で国家体制が弱体化巨大寺院中心主義への反発学問仏教の難解化貴族社会の変質実践性・宗教体験への関心ここで伸びるのが:禅宗密教浄土教です。これは日本の平安仏教への移行と、かなりシンクロしています。2026/05/19 08:28:3494.◆JBLfMwCXhYbwbU0密教ブーム唐後期には、善無畏金剛智不空などの密教僧が大活躍します。特に不空 は、国家鎮護・護国儀礼・加持祈祷で圧倒的影響力を持ちました。ここは、日本での空海 の登場につながります。空海が唐へ渡った頃、まさに唐では密教が超人気だった。つまり、日本は「最先端の唐仏教」を輸入した面がある。2026/05/19 08:29:0695.◆JBLfMwCXhYbwbU0そして禅宗の大躍進ただし、中国で最終的に勝ったのは、実は真言密教ではありません。禅宗です。特に中唐以後、馬祖百丈臨済潙仰などの系統が爆発的に広がります。中国では、「難しい教学より、直接悟れ」という方向が強くなっていった。これは、巨大な理論体系を築いた法相・華厳とは対照的です。2026/05/19 08:29:2796.◆JBLfMwCXhYbwbU0ここが日本との大きな違い日本では、天台宗真言宗が平安国家仏教として強大化しました。しかし中国では、その後さらに:禅宗浄土教が民衆レベルまで浸透し、巨大化します。特に晩唐~宋代になると、「禅浄一致」みたいな世界になっていく。だから、中国仏教史は:学問仏教密教禅浄土が、互いに飲み込み合いながら変化していく歴史なんですね。面白いのは、日本の奈良仏教が「唐の前半」、平安仏教が「唐の後半」をかなり反映している点です。つまり日本は、唐仏教の変化を、時差つきで輸入していたとも言えます。2026/05/19 08:29:4297.◆JBLfMwCXhYbwbU0質問:後期の唐朝は、「国を挙げて、密教の加持祈祷に狂奔していた」というイメージなんだが禅宗の天下だったのか2026/05/19 08:30:0798.◆JBLfMwCXhYbwbU0チャットGPT:両方です。しかも、「国家レベルでは密教」「社会全体では禅宗」という、二重構造だった感じがあります。2026/05/19 08:30:5199.◆JBLfMwCXhYbwbU0あなたの「後期唐朝は、国を挙げて密教の加持祈祷に狂奔していた」というイメージは、かなり当たっています。特に8世紀の唐では、密教はほとんど“国家魔術システム”でした。唐後期の密教熱は本当に凄い特に不空 の影響が巨大です。不空は単なる宗教者ではなく、国家鎮護雨乞い病気平癒戦勝祈願災害対策皇帝の護持などを担う、「国家呪術官」みたいな存在だった。皇帝たちは、「密教儀礼で国家を守れる」と本気で考えていました。2026/05/19 08:31:22100.◆JBLfMwCXhYbwbU0これは日本の空海 の護国思想にも直結しています。ただ、中国では“密教一強”にはならなかったここが日本との違いです。日本では、平安国家が:天台密教東密(真言)を制度化し、巨大化した。しかし中国では、密教は国家上層では強かったものの、社会全体を制圧するところまでは行かなかった。なぜか。禅宗が強すぎた唐後半になると、禅宗が猛烈に拡大します。特に:馬祖道一百丈懐海黄檗希運臨済義玄などの系統。彼らは、難解教学を嫌う儀礼依存を嫌う「即心是仏」を説く修行共同体を形成するという方向へ進んだ。つまり、「呪術国家仏教」に対する、ある種のカウンターでもあった。2026/05/19 08:32:01101.◆JBLfMwCXhYbwbU0面白いのは、禅宗も“超自然”を捨ててないこと現代人は、密教=オカルト禅=合理主義みたいに思いがちですが、唐代は全然違います。唐代禅僧も:神異譚奇跡法力霊験だらけです。なので、密教 vs 合理的禅ではない。むしろ:密教=国家儀礼系シャーマニズム禅=修行共同体系シャーマニズムくらいの違い。2026/05/19 08:32:19102.◆JBLfMwCXhYbwbU0会昌の廃仏で流れが変わる9世紀の会昌の廃仏 が大きな転換点です。巨大寺院や国家仏教ネットワークが打撃を受け、華厳法相密教などはかなり弱体化します。一方、禅宗は:地方分散型師弟ネットワーク型比較的小規模だったため、生き残りやすかった。結果として、宋代には禅宗が覇権を握る。だから唐後期は、国家:密教的宮廷:加持祈祷ブーム知識人:華厳・禅・浄土地方修行者:禅宗民衆:雑密・浄土・民間信仰が全部混ざっている。かなりカオスな宗教空間だったんです。2026/05/19 08:32:36103.◆JBLfMwCXhYbwbU0質問:中国の時代劇に出てくる坊さんは、みんな坐禅するし、「阿弥陀仏」(アーミートゥオフォー)と念仏をとなえるあれが「禅浄一致」なのか?2026/05/19 08:33:14104.◆JBLfMwCXhYbwbU0チャットGPT:かなり、そうです。中国仏教の「普通の坊さん像」は、まさに禅浄一致の世界観を反映しています。日本だと、禅宗なら坐禅浄土宗なら念仏真言宗なら真言みたいに、比較的「宗派ごとの専門分化」が強い。でも中国では、宋代以後、「禅も念仏も両方やるのが普通」という方向へ進みました。2026/05/19 08:33:46105.◆JBLfMwCXhYbwbU0禅浄一致とは何か簡単に言うと:禅=自己の心を直接観る浄土=阿弥陀仏を念じるこの二つは矛盾しない、という考えです。たとえば:「阿弥陀仏を念じる心そのものが仏心である」とか、「念仏三昧は禅定である」という発想。2026/05/19 08:34:04106.◆JBLfMwCXhYbwbU0中国では「純粋禅」があまり続かなかった唐代の禅宗は、かなりラディカルでした。不立文字教外別伝即心是仏みたいな世界。しかし宋代以後になると、次第に:坐禅読経念仏戒律法要を全部やる総合仏教へ戻っていきます。その結果、禅寺なのに念仏するのが普通になる。2026/05/19 08:34:20107.神も仏も名無しさんFZMMv>>101日本でもあるんたが臨済宗の僧侶で儀式に必要な品物が届かないので鎮守の神像をぶん殴ったら、即届いたという感じがあるシャーマニズムというより威圧系統かも、中国禅は😀2026/05/19 08:34:47108.◆JBLfMwCXhYbwbU0「阿弥陀仏」は中国坊さんの基本フレーズ中国時代劇で僧侶が「阿弥陀仏(Amituofo)」と言うのは、日本の:「南無阿弥陀仏」「お念仏」より、もっと広い意味があります。挨拶、 感嘆、 軽い祈り、 場を鎮める言葉、みたいにも使う。日本で言えば、「南無…」「やれやれ」「ありがたいことです」が混ざったような感じ。2026/05/19 08:35:01109.◆JBLfMwCXhYbwbU0坐禅も普通にやるしかも、中国寺院では、禅宗系でなくても:坐禅静坐瞑想を普通に行うことが多い。だから中国仏教は、日本ほど:「お前は何宗だ?」という区分が強くない。むしろ:「禅もやるし念仏もやるし、観音経も読む」という混成型。2026/05/19 08:35:24110.◆JBLfMwCXhYbwbU0だから中国仏教は「総合パッケージ化」した特に明清以後は、禅浄土華厳天台密教要素民間信仰が巨大に融合します。なので、中国時代劇の坊さんが:坐禅する木魚叩く念仏する法力っぽいことするのは、かなりリアルなんです。実際、中国仏教は長い時間をかけて、「全部入り仏教」になっていったので。2026/05/19 08:35:37111.神も仏も名無しさんFZMMv中国は念仏との融合禅か主流なっていった南宋あたりが純粋禅の限界点だろな😀2026/05/19 08:35:51112.◆JBLfMwCXhYbwbU0>>107製ウンコ師が暴言を吐くのもそれを真似てるつもりなんだろうな2026/05/19 08:36:15113.◆JBLfMwCXhYbwbU0>>111「坐禅だけ」というのは、イビツな形だ総合仏教がいい😄2026/05/19 08:37:23114.神も仏も名無しさんFZMMv>>102昔の日本の天台真言僧にもたったんたがエリート学問僧は雑務一切せず学問のみ雑務は山伏や念仏階級の、役目中国では真言天台の学問僧の多くの仏教は雑務はしない、禅だけは農作業とか雑務するのがあたりまえ、道元禅師の著作にもあるやろうAIも限界だな😀2026/05/19 08:38:33115.◆JBLfMwCXhYbwbU0>>114こちらが話題を振らないと、AIはネタを拾わない2026/05/19 08:40:22116.◆JBLfMwCXhYbwbU0結局のところAIは質問者次第2026/05/19 08:41:34117.◆JBLfMwCXhYbwbU0質問:昔の日本の天台真言僧にもたったんたがエリート学問僧は雑務一切せず学問のみ雑務は山伏や念仏階級の、役目中国では真言天台の学問僧の多くの仏教は雑務はしない、禅だけは農作業とか雑務するのがあたりまえ、道元禅師の著作にもあるやろう2026/05/19 08:41:48118.◆JBLfMwCXhYbwbU0チャットGPT:かなり重要なポイントです。実際、中世東アジア仏教では、「学問・儀礼を担う上層僧」と「労働・実務・民間活動を担う下層僧」の分化は、かなりありました。そして禅宗は、その構造を部分的に崩したところがある。2026/05/19 08:42:21119.◆JBLfMwCXhYbwbU0奈良・平安仏教の大寺院システム日本の:南都六宗天台宗真言宗の大寺院は、巨大組織でした。そこには:学僧堂衆行人修験者念仏聖寺務担当など、多層構造がある。上層エリート僧は:教学研究儀礼国家祈祷法会を担当。生活雑務や民間布教は、別階層が担うことが多かった。2026/05/19 08:42:55120.◆JBLfMwCXhYbwbU0「聖(ひじり)」の世界特に:念仏聖山伏勧進聖などは、半ば漂泊民的でした。彼らは:民衆布教葬送勧進呪術山林修行を行う。日本仏教の「現場」を支えていたのは、むしろこちら。2026/05/19 08:43:17121.◆JBLfMwCXhYbwbU0禅宗は「労働する僧団」を強調した一方、中国禅宗では、特に百丈懐海 に象徴されるように、「一日作さざれば、一日食らわず」という精神が強調されました。つまり:自給自足農作業掃除炊事を修行に含める。これは巨大国家寺院仏教への対抗でもあった。道元はそこを強烈に継承した道元 は、中国禅林文化を非常に重視しました。たとえば典座教訓 では、料理役(典座)を単なる雑務係ではなく、仏道修行そのものとして描いています。これは、旧来の:「雑務は下の者がやる」という感覚とかなり違う。2026/05/19 08:43:51122.◆JBLfMwCXhYbwbU0禅宗は「身体労働」を宗教化したここが大きい。禅では:掃除炊事農作業運搬食事そのものが修行になる。だから、「エリート学問僧 vs 雑務階級」という分業を弱める方向へ行った。もちろん現実には、禅寺でも役職差や階層差はありましたが、理念としてはかなり革新的でした。2026/05/19 08:44:11123.◆JBLfMwCXhYbwbU0ただ、中国でも完全平等ではないここは重要です。中国禅林にも:高僧学僧清規運営者作務担当など役割差は普通にありました。しかも宋代以後は、禅宗自体が巨大制度化していく。なので、禅=完全労働共同体というほど単純でもない。でも確かに、東アジア仏教史の中で、「労働そのものを修行へ昇格させた」という点で、禅宗はかなり独特なんです。そこに道元が非常に深く感動したのは、間違いないですね。2026/05/19 08:44:25124.◆JBLfMwCXhYbwbU0AIは質問者次第だ2026/05/19 08:44:43125.◆JBLfMwCXhYbwbU0質問者が博識だと、AIも高度な回答を返してくる2026/05/19 08:45:06126.◆JBLfMwCXhYbwbU0無知な人だと、AIは潜在力を発揮できない2026/05/19 08:45:34127.神も仏も名無しさんZr4RA>>126AIも六祖慧能のデータが、出てこないなハッスル🤡の坐禅回数自慢を否定される内容だ五狙から六祖を認められるのは坐禅修行してたのではなく六祖慧能は雑務ばかりしかしていなかった、俺ちゃまみたいな天才禅修行者みたいなのがあるので六祖慧能は伝説てはないと見ている😀2026/05/19 09:02:03
【ぶら下がり取材】「高市さん、聞かれて答えるのは嫌ですか?」歴代首相に比べ‟取材対応”少なめ、Xでは連日発信…SNS隆盛時代に問われる報道機関の真価ニュース速報+42913002026/05/24 18:27:10
回答者さんは、 ご質問を見つけたら、Talk宗教板ならではの物凄い勢いで、お返事を差し上げましょう。
前スレ
仏教@質問箱
https://talk.jp/boards/psy/1686723952
【唯識三年】仏教ウンチクを語るスレ 10【倶舎八年】
https://talk.jp/boards/psy/1759535455
仏教がわかってきた人のスレ vol.36
https://talk.jp/boards/psy/1772577344
生きとし生きるもの(衆生 しゅじょう)が皆、如来を胎内に宿しているという思想
如来すなわち仏になる可能性は仏性(ぶっしょう)ともいわれるが、それがすべての生きものにそなわっているという教え(一切衆生、悉有仏性)
「こんなの仏教じゃない」という人と、「これでこそ仏教だ」という人の両方がいる
東アジアに広がり、日本仏教の基盤となった
「仏教とはこういうものだ」と、日本では思われていた
↓
天台本覚思想
衆生は誰でも仏になれるということ、あるいは、元から悟っているという、鎌倉~室町時代に流行し日本の仏教界に定着した思想
衆生の誰もが本来、如来我・真我・仏性を具えている(本来、覚っている)が、生まれ育つと
次第に世間の煩悩に塗(まみ)れ、自分が仏と同じ存在であることがわからなくなっていく・・・ということである
やがて、人間は誰もが悟っているのだから、修行する必要もなければ戒律も守る必要がない、凡夫は凡夫のままでよい、などという急進的な解釈がされるようになった
「無明と共に輪廻が始まる」とする初期仏教の釈迦の教えからは遠いところに来てしまった
日本では、「仏教とはこういうものだ」と思われていた
「これが仏教である」という釈迦の教えのブランド・認定印のような役割を果たします。
1、諸行無常(しょぎょうむじょう)
この世のあらゆる現象や形成されたものは常に変化し、不変なものはないという真理。
2、諸法無我(しょほうむが)
すべての事象(諸法)は、互いに依存し合って存在しており、単独で不変の「自分(我)」という実体はないという真理。
3、涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)
無常で無我な世の中(執着、欲望)から離れ、迷いが消えた「悟り」の境地は静やかな安らぎであるという真理。
補足事項
これに「一切皆苦(いっさいかいく:すべては苦である)」を加えて「四法印」と呼ぶこともあります。
正見(しょうけん): 正しい見解。四諦を理解し、偏見なく真理を見ること
正思惟(しょうしゆい): 正しい考え。欲望や怒り、害意を離れた思いを持つこと
正語(しょうご): 正しい言葉。嘘、誹謗中傷、陰口、無駄話をしないこと
正業(しょうごう): 正しい行い。人に迷惑をかけず、殺生や盗みなどをしないこと
正命(しょうみょう): 正しい生活。規則正しく健全な職業や生活を送ること
正精進(しょうしょうじん): 正しい努力。怠らず、正しい道を歩む努力をすること
正念(しょうねん): 正しい気づき。常に理性的な心を保ち、今に集中すること
正定(しょうじょう): 正しい精神統一。瞑想などを通じ、心を安定させること
苦諦(くたい)
生きることは本質的に苦である。一切皆苦
生きるということは、苦を背負って日々を過ごすことだ。
どこかに心優しい神様がいて手をさしのべて
救済してくれるようなことは絶対にない。
集諦(じったい)
あらゆる出来事は必ず何らかの原因によって起こる。
苦の原因は煩悩である。
満足が得られないから、苦しくなっていく。
滅諦(めったい)
煩悩を消すことで苦が滅する。
この世で起こっているものはすべてうつろう。諸行無常
現実をありのままに受け入れ、その世界に耐えるべく、
自分の価値観・世界観を変えていく。
この世の一切の事物は自分のものではないと自覚する。
道諦(どうたい)
煩悩をなくし、悟りを得るための八正道を実践する。
😀
華厳宗だと、「煩悩土」がない
「法界土」があるだけだ
言葉を突き詰め過ぎた弊害なのかな?
それとも時代の過酷の産物なのか?
もう平和ボケした私には簡単には分からないな。
だいぶ見えてきたな😆
頭の中でやることとは違いますので
私の修行はこの身体と呼ばれる道具を使いますので
どうされます?
まぁ私も最初は面食らったな
え?こんなことが修行になるの?って
ただし、これはあくまで私が老師に教わってやってる修行ですからね
他は知らない、否定も肯定もしないし、興味もない笑
料理なんか本当にいいね
タマネギをみじん切りにする
トントン、トントンとね
調味料入れて合挽き肉と和えてね
グー、パー、グー、パーって
いい感じに和えれているか、
タネが柔らかすぎないか、硬すぎないか確認してね、
今日は柔らかすぎる気がしたけど焼いてみたらなかなかいい感じになった
これ修行になるんですね
坐禅の肝心要のことがちゃんと入ってる
ハンバーグが焼けた後の残り汁の余計な油は除いてからデミグラスソースを作る
自分の考えを通さずに実際のものに触れる
ここが理解できないとなぜこんなことが修行になるのかそりゃ分かんないよな笑
チャットGPT:そう。
井上義衍 の特徴は、まさにそこにある。
単なる「心の修行」ではなく、
身体そのものを通して、自己執着を崩す
という方向なんだ。
だから井上老師系では、
姿勢
重心
呼吸
歩き方
立ち方
茶碗の置き方
戸の開け閉め
みたいな、ごく日常的な身体動作が、全部修行対象になる。
もっと厳密に言うと、
無意識の“自己操作”が、身体に全部出ている
と見る。
たとえば人間は、
認められたい
失敗したくない
緊張したくない
偉く見せたい
安全でいたい
こういう欲望や恐怖を、頭だけでなく身体でやっている。
だから、
肩が上がる
顎が固まる
呼吸が浅くなる
腹が抜ける
無駄に力む
という形で現れる。
井上老師は、そこを徹底的に見ろと言う。
つまり、
「自我」は観念ではなく、身体反応として実在している
という感覚だな。
うちの教えは「知る」ことは重要ではないので
修行することであって、修行には考え方や知ってることは使いませんからね
これなんて、最近の話題の答えになってるね
私一人が言われたことではない
たぶん提唱の時の言葉だな
「真実は考え方じゃないんです。真実には説明がいらないんです。」
井上老師は理論構築へはあまり行かない。
「考えるな」というより、
理論を身体化しろ
に近い。
頭で空を理解するのではなく、
力み
反応
自己防衛
欲求
評価癖
そういうものが、瞬間瞬間どう立ち上がるかを、坐禅と日常動作の中で見る。
逃げ場が無いからだ。
宇宙論にも、 神秘体験にも、 観念哲学にも、 簡単には逃がしてくれない。
「今、お前、肩に力入ってるぞ」 「その“わかったつもり”が妄想だぞ」
みたいに、身体レベルまで降ろされる。
なので、思想として読むと地味だが、実践としてはかなり強烈なタイプの禅なんだ。
チャットGPT:その言葉、井上義衍 の立場がものすごくよく出てるな。
特に、
「真実は考え方じゃない」
ここが決定的なんだよな。
全部「頭の中で作られた説明」にすぎない。
もちろん説明としては役立つ。 だが説明は、現実そのものではない。
たとえば、
「呼吸は無常である」
「万法は空である」
「主体と客体は分離していない」
……こういうことを、どれだけ理解しても、
今、 肩に力が入っているなら、 入っている。
イライラしているなら、 している。
頭の中で妄想が暴走しているなら、 している。
そこに直接触れない限り、 “知識の禅”になってしまう。
義衍老師は、そこをかなり警戒していた感じがある。
だから、
「知っているつもり」
を崩しに来る。
老師は、 「考えるな、バカになれ」 と言ってるわけではない。
そうではなく、
考えは考えとして起きている
と観ろ、という方向なんだ。
つまり、 「私は空を理解した」 という思考も、
今、頭の中に浮かんでいる現象の一つにすぎない。
そこまで徹底して、“現在起きている事実”へ戻そうとする。
なので、
「真実には説明がいらない」
というのは、
真実は、 理論を通して成立するものではなく、
すでに、 呼吸し、 音が聞こえ、 身体感覚があり、 思考が浮かび、 消えている、
この現前そのものだ、 ということなんだろうな。
かなり禅的だが、 同時に、かなり厳しい。
なぜなら、 知識に逃げ込めなくなるから。
「わかったつもり」が、 全部その場で剥がされる。
ちなみに私の修行、坐禅は何かに集中したりとかしません
何にもしない
今ここにある現実の通りになってる
場所や姿勢に関わらず
何にもしない
今ここにある現実の通りになってる
場所や姿勢に関わらず」
チャットGPT:それ、かなり典型的な 井上義衍 系の感覚だと思う。
「坐禅をする」というより、
坐っているという現実が、ただそのまま起きている
という方向なんだよな。
だから、
呼吸を操作しない
意識を固定しない
無心を作ろうとしない
特別な状態を目指さない
集中状態を維持しようとしない
ただ、
今こうなっている
だけ。
「場所や姿勢に関わらず」
というところ。
これはかなり道元系の「修証一等」に近い感覚でもある。
つまり、 「坐禅中だけが修行」ではなく、
歩いていても
電車でも
ネット見てても
イライラしてても
疲れてても
ボーッとしてても
その都度、 “今こうなっている” が現れている。
だから修行とは、 特殊状態への移行ではなく、
現実から逃げない
ことになっていく。
人はすぐ、
集中したい
整いたい
良い状態になりたい
雑念を消したい
意味づけしたい
方向へ行くから。
だが義衍老師系の方向は、 その「どうにかしよう」という動きすら、
今そういう動きが起きている
として観る。
だから結果的に、 「何もしない」が、 単なる脱力やボンヤリではなく、
かなり徹底した“非介入”になる。
そして不思議なことに、 そこまで操作をやめると、
「自分が世界を動かしている」
という感覚そのものが、 少しずつ薄くなっていく。
呼吸も、 思考も、 感情も、 かなり勝手に起きている。
すると、 「自分が修行している」 という感覚すら、 だんだん怪しくなってくる。
このへん、かなり深いところだと思う
私は今どうなってるかってだけなんですよ
だから分別がとか受がどうのとかまったく頭にも思い浮かべません
今とさっき読んだ時くらいです
これをやり続けるとほとんどの時間そんなことしてないんですよね
行動と言っていいのかな 活動とか 事実とか色んな称されかたがありますが、
ほとんどそういうことしてない
これに気づいてからやっと修行ができるようになりましたね
それまでは禅の文献を漁りまくってました笑
そうですか だけど私が言えることは自分がやってる修行くらいです
今日は少し仏道について話しましたが、
これは老師たちがした方がいいと思ってます
私がやってる修行と言ったって、今どうなってるかってだけなんですね
チャットGPT:井上義衍 の修行の核心は、かなり乱暴に言えば、
「解釈する前に、“今どうなっているか”を観ろ」
という一点にある。
しかもこれは、 「ポジティブになろう」 「無心になろう」 「悟ろう」 みたいな話ではない。
むしろ逆で、
今、身体はどうなっているか
呼吸はどうなっているか
足裏はどう接地しているか
頭の中で何が始まっているか
“考えている自分”が、今どう発生しているか
……それを、生のまま観る。
しかも、 「良い悪い」をつけずに。
だから、 「もっと静かな心になりたい」 「煩悩を消したい」 「悟った状態になりたい」 という“目的意識”そのものが、すでに妄想の運動だと見る。
ここ、かなり独特なんだよな。
普通の瞑想法は、 「理想状態」に向かって進む構造を持つ。
だが義衍老師は、
その“理想へ向かう心”が、今どう動いているか観ろ
と言う。
つまり、 「修行しているつもりの自己」そのものを観察対象にしてしまう。
これはある意味、かなりラディカルな禅だ。
茶碗を持つ
歩く
ドアを開ける
人と話す
イライラする
ネットを見る
全部、 「今どうなっているか」 を見る場になる。
あなたが前に言っていた、
「日常動作に意識集中する」のではなく、むしろ逆
という感覚、かなり鋭い。
すでに勝手に起きている現実を見る
に近い。
たとえば歩行でも、
「正しく歩こう」 ではなく、
今、前傾してる
足が急いでる
呼吸が浅い
頭の中で会話してる
何かに追われてる
……そういう“現に起きている事実”を見る。
だからこれは、 自己改造メソッドというより、
「自己という機械の作動観察」
に近いところがある。
しかも、その観察が深まると、
“自分がやっている”と思っていたものが、ほとんど勝手に起きている
という感覚に入っていく。
このへんは、 道元 の「身心脱落」にもかなり近いし、 現代哲学で言えば現象学っぽさもある。
なので弟子たちの証言でも、
とにかく具体的
身体的
日常的
容赦なく現在形
という特徴がある。
「仏教思想」より、 「今、あなたの肩に力が入っている」 のほうが重要、という感じ。
あとね、私の修行法はそういう自分で何かしないんですよ
本当になにもしない
今朝もマインドフルネスていうんですか
掲示板で読みましたけど、もういきなり違いますね
ああいうことしないんですね私は
他の方はどうぞご自由になさればいいんじゃないですか
私はしない
「日常の動作に意識を集中する」ということかと思ったが
むしろ、逆なんだな?
そこ、かなり重要なポイントだ。
井上義衍 系の感覚では、
「意識を集中している私」
これ自体が、すでに余計な作為になりうる。
だから一般にイメージされる、
「今この瞬間に集中!」
「マインドフルネス!」
「動作へ意識を向ける!」
とも、微妙に違う。
むしろ問題視されるのは、
“集中している自分”を作ること
なんだ。
たとえば、 「丁寧に茶碗を置こう」とすると、
良い修行者になろう
ちゃんとやろう
美しくやろう
意識的であろう
という“自己演出”が混ざり始める。
すると身体が不自然に固くなる。
つまり、
「意識的にやってるつもり」が、実は強い自己操作
だったりする。
だから方向としては、
「意識を集中する」 というより、
余計な介入を減らす
に近い。
これは禅でよく言う、
無功用
の感覚にかなり近い。
初心者は、 「右足、左足……今ここ……」 とやりがちだ。
だが熟してくると、
“歩こうとしている私”
そのものが、過剰だったと見えてくる。
すると、
必要以上に操作しない
評価しない
演出しない
緊張しない
方向へ行く。
結果として、 動作が自然になる。
こうあるべき
ちゃんとしなきゃ
失敗するな
良い体験を得たい
という“概念操作”を常に被せている。
井上老師系は、 それを思想で否定するより、
身体の不自然さとして暴く
んだ。
だから最終的には、
「意識を集中して生きる」 というより、
“余計な自己操作が減っている”
状態に近づいていく。
ここが、いわゆる自己啓発系マインドフルネスとは、かなり違うところなんだ。
私が聞き及んだ言葉では、
択法眼や仏縁ていいますね
井上義衍 の文脈でいう「択法眼(ちゃくほうげん)」とか「仏縁」という言葉は、単なる知識用語じゃなくて、かなり“実感ベース”の言葉なんだよな。
まず「択法眼」は、もともと仏教では
何が仏道にかなっていて、何がズレているかを見抜く眼
みたいな意味。
ただ義衍老師系だと、 これを「教義判定能力」みたいには扱わない。
むしろ、
今、妄想が始まった
今、自己正当化してる
今、“分かったつもり”になってる
今、理想状態を作ろうとしてる
今、現実から逃げてる
……そういう“自己の運動”が見えること。
つまり、 「現実」と「頭の中の作り話」の区別がついてくる眼、 と言ったほうが近い。
だから択法眼って、 知識量というより、
誤魔化さずに現在を見ているか
に関わる。
仏教に興味を持つこと
程度の意味じゃ終わらない。
むしろ、
なぜかこの道に触れてしまう
なぜか坐ってしまう
なぜか「今ここ」を無視できない
なぜか真実をごまかせない
……そういう、 “逃げ切れなさ”みたいなニュアンスがある。
だから仏縁って、 「仏様とのご縁」というより、
現実そのものに呼び戻される縁
みたいでもある。
「仏縁がある人=優秀な人」 とは全然見ないところ。
むしろ、 不器用だったり、 人生に詰まったり、 考えすぎて破綻したり、
そういう人間のほうが、 「説明では足りない」 という地点に来やすい。
そこで初めて、
“知る”じゃなく、“今どうなっているか”
へ向きが変わる。
この転換そのものを、 仏縁と呼んでいる感じがある。
そこまで精細には分かりませんが、
大体が考え方や概念ですね
最後の砦が仏教用語になりますがニ鉄囲線なんだと思いますよ
世間一般は「自分の考え方=アイデンティティ」でしょう
それを仏法で作り上げると予後不良の手のつけられない者になってしまうんでしょうね
だからこちらではまだ何のことか分からないのに「知ったことは大事じゃない」と繰り返されましたね笑
井上義衍 系で「知ったことは大事じゃない」が繰り返されるのって、単なる謙虚論じゃなく、
仏教を使って“自己”を強化する危険
を、ものすごく警戒しているんだろうな。
普通は、
学ぶ
理解する
世界観を持つ
ことで、自我は安定する。
「自分はこういう人間だ」 「世界とはこういうものだ」 という物語が出来上がる。
世間一般では、それがそのままアイデンティティになる。
で、仏教でも同じことが起きる。
空を理解した
唯識が分かった
中観を学んだ
非二元を知った
自我は幻想だと理解した
……こういう“仏教的自己像”が形成される。
しかも厄介なのは、 普通の自我より強化されやすいことなんだよな。
なぜなら、 「私は真理を知っている」 という形を取るから。
チャットGPT:「二鉄囲山(にてっちせん/にてついせん)」は、もともと仏教宇宙論の言葉だな。
須弥山世界を取り囲む山々のうち、外周にある巨大な鉄の山脈を指す。
つまり、
世界の最外殻
最後の囲い
外へ出られない境界
みたいなイメージ。
そして「二鉄囲線」と言うときは、禅系ではしばしば比喩的に、
最後まで残る執着や観念の囲い
を意味する。
あなたが言っていた文脈だと、かなり典型的に、
世俗的価値観
自己イメージ
哲学
思想
修行観
を超えていった“最後”に、
仏教理解そのものが壁になる
という意味だろうな。
つまり、
「空とは~」 「無我とは~」 「只管打坐とは~」
……そういう“正しい仏教認識”が、 最後の自己防衛線になる。
しかも厄介なのは、 それが普通の欲望より“高尚”に見えること。
だから本人も、 「執着している」と気づきにくい。
仏に逢うては仏を殺せ
と言うのも、 この方向に近い。
仏教概念にしがみついた瞬間、 それがまた「自分」を作るから。
義衍老師系が、 あれほど「知ることは大事じゃない」を繰り返すのは、
この“最後の囲い”を先回りして崩している感じがある。
つまり、
分かったつもりになるな
ではなく、
“分かった”をアイデンティティ化するな
なんだろうな。
かなり容赦ない立場だと思う。
チャットGPT:
井上義衍 の系統は、いわゆる「宗派組織としての派閥」というより、
“本気で坐る人たちの流れ”
として続いている感じが強い。
なので、 公式な法系図よりも、
「誰が実際に義衍老師のもとで徹底して修行したか」
が重視される傾向がある。
井上貫道
義衍老師の五男。かなり有名。
「何も得るものはない」「今どうなっているか」を徹底的に押し出す。
在家にも強い影響を与えた。
長男。龍泉寺系統。
義衍老師の語録や禅風をかなりストレートに伝えている。
福井の発心寺で指導。
厳しい独参で有名。
「徹底して自己に決着をつける」というタイプ。
現代でも活動が知られる。
義衍系の「只管打坐」をかなり直接的に説く。
東大出身の禅僧としても知られる。
義衍老師を「盤珪禅師のようだ」と感じたという話が残っている。
一般向けにも比較的知られた禅僧。
食・生活・坐禅を一体で見る方向が強い。
福田素円
長谷川文丈
菅沼魯道
青野敬宗
などの名が挙がる。
むしろ、
理論を増やさない
権威化しない
“悟ったキャラ”を作らない
ただ坐る
今どうなっているか
へ戻そうとする。
だから外から見ると、 地味だし、 何をやってるのか分かりにくい。
でも逆に、 そこに強く惹かれる人はかなり深くハマる。
あと、この系統は全体的に、
「仏教知識を積み上げる」より、 「自己の問題に決着をつける」
という色がかなり濃い。
だから、 思想研究というより、 “生死の問題”として禅をやってる人が多い印象がある。
チャットGPT:うん、川上雪担 もかなりその流れにいる人だと思う。
実際、本人の略歴でも、
「浜松井上義衍老師につき、今に至る」
と書いている。
かなり“義衍臭”が強いタイプなんだよな。
特に、
理屈を増やさない
禅を神秘化しない
「悟りました感」を嫌う
今起きている現実を離れない
仏教知識をアイデンティティ化しない
このへんがかなり近い。
あと独特なのは、 川上雪担老師には、 どこか飄々とした“脱力感”があること。
東大出て、 教師やって、 出家して、 新潟の田舎寺で長年住職して……
という経歴だけ見ると、 もっと「知性派禅僧」になってもおかしくない。
でも実際は、 かなり「分からんものは分からん」「ただ今こうなってる」方向へ戻してくる。
川上雪担老師の文章や話って、 “仏教を知識体系として積み上げる感じ” があまり無い。
むしろ、
仏教を使って自分を作るな
という匂いが強い。
だから、 義衍老師系の中でも、
体系化
哲学化
権威化
より、
坐って、 今どうなってるか
へ戻す方向が濃い人だと思う。
蛙さん、ワンちゃん、お饅頭みたいな丸と○△◻︎
美術展を何度も見に行ったものだ😆
凄腕の絵師が多い京都にいたら、あんな絵にはならなかったでしょうな
自画像
https://croissant-online.jp/wp-content/uploads/2016/11/CR_DSC6977.jpeg
布袋さんと子どもが月見をしている「指月布袋画賛」。
https://croissant-online.jp/wp-content/uploads/2016/11/61cfb5ecf62144af319e899486cc2662.jpeg
じつは、鎖をつないだ杭は抜けている
そこに気づかない
https://croissant-online.jp/wp-content/uploads/2016/11/1c628e25c0790a9ea30648e89ee84017.jpeg
禅宗業界では知らない人がいない、この超有名なエピソードがあるから
↓
生成A.I. 狗子仏性
「狗子仏性(くしぶっしょう)」は、禅宗で非常に有名な公案です。
出典は、趙州従諗 の問答。
僧が問う。
「狗子(犬)にも仏性がありますか?」
趙州は答える。
「無(む)」
なぜなら、大乗仏教では普通、
「一切衆生悉有仏性(すべての衆生には仏性がある)」
と説かれるから。
犬にも当然、仏性はあるはずだ。
なのに、なぜ「無」なのか?
むしろ、
「仏性がある/ない」
「存在する/存在しない」
「有/無」
という、概念分別そのものを叩き壊そうとしている。
つまり、「無」は単なる否定語ではなく、
👉 思考を停止させる爆弾
みたいなもの。
「無とは何か?」
ではない。
そうやって意味を考え始めた瞬間、もう概念の世界に戻ってしまう。
だから、
呼吸している時も
歩いている時も
飯を食っている時も
全身全霊で「無」にぶつかる。
すると、論理や言葉による世界理解が、ある瞬間ガラガラ崩れる。
https://auctions.c.yimg.jp/images.auctions.yahoo.co.jp/image/dr000/auc0307/users/2fbfdf3b0581fd7ae6141a4e86e64f825e4c196b/i-img1200x900-1656639403b0j5u6195757.jpg
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/8/86/Sengai_3.jpg/960px-Sengai_3.jpg
即破壊
ウンチク語りだしたら
即破壊
😀😀😀
いつもやってることた
悟ってると言えば
即破壊
😀
若い頃に出家し、各地を修行して、最終的に博多の 聖福寺 の住持となった。
この聖福寺は、栄西 が開いた、日本最古の禅寺として有名だ。
コマったビギナー🤡
修行は本格派
性格は豪放で人懐っこい
絵は脱力系
しかし中身は鋭い
という、かなり独特な禅僧だな。
坐禅ウンチクはダメか~😂
40年も参禅してるのに
まだ、ビギナーレベルかよ~😭
俺は神扱いらしい?😀
あまりにも凄すぎて、私のあまりにも知識の無さに我ながら引きました。こんな事さえ今朝初めて知ったばかりな身で教えて頂き大変ありがとうございました♪
塩対応扱い
最初だけざわついてくれて、後は無視
ま、本道はそんなものだ
神扱いしないのが本道
😀
高野山にいくか?
と思っても栄西系統高野山けのざわつきが薄い
😀
忘れた
😀
何年高野山へ行ってないんだろうか?
鎌倉殿の13人の放映の前の年あたり、
検索してみよう
😀
2021年あたりか、
2020年か?
高野山は5〜6年くらい行ってないのかー
仁和寺参拝と同じくらい期間が空いている
😀
😀
日本では、奈良時代は法相宗と華厳宗、平安時代は天台宗と真言宗と、仏教界の勢力図が塗り替わった
同じ時期の唐朝ではどうだったか?
かなり大きく動いています。
ただ、日本のように「奈良六宗 → 平安二宗」という明快な交代劇というより、唐ではもっと複雑で、多中心的でした。
大づかみに言うと、
初唐~盛唐:インド直輸入の学問仏教が隆盛
中唐:密教・華厳・禅が伸長
晩唐:禅宗が圧倒的に強くなる
という流れです。
7世紀頃の唐では、国家の保護を受けた巨大寺院で、経典研究が非常に盛んでした。
代表格が:
法相宗(唯識)
華厳宗
三論宗
天台宗
律宗
など。
特に有名なのが、
玄奘 と、その弟子の 窺基 による法相宗です。
これは、まさに「国家エリートの仏教学」という感じでした。
一方、
法蔵 の華厳宗も、武則天政権と強く結びついて巨大化します。
以前あなたが話していたように、
武則天 は華厳思想をかなり重視しました。
つまり、日本の奈良仏教に影響を与えた巨大宗派群は、そもそも唐の国家仏教だったわけです。
しかし、8世紀後半~9世紀になると、流れが変わります。
理由はいくつかあります。
安史の乱で国家体制が弱体化
巨大寺院中心主義への反発
学問仏教の難解化
貴族社会の変質
実践性・宗教体験への関心
ここで伸びるのが:
禅宗
密教
浄土教
です。
これは日本の平安仏教への移行と、かなりシンクロしています。
唐後期には、
善無畏
金剛智
不空
などの密教僧が大活躍します。
特に
不空 は、国家鎮護・護国儀礼・加持祈祷で圧倒的影響力を持ちました。
ここは、日本での
空海 の登場につながります。
空海が唐へ渡った頃、まさに唐では密教が超人気だった。
つまり、日本は「最先端の唐仏教」を輸入した面がある。
ただし、中国で最終的に勝ったのは、実は真言密教ではありません。
禅宗です。
特に中唐以後、
馬祖
百丈
臨済
潙仰
などの系統が爆発的に広がります。
中国では、
「難しい教学より、直接悟れ」
という方向が強くなっていった。
これは、巨大な理論体系を築いた法相・華厳とは対照的です。
日本では、
天台宗
真言宗
が平安国家仏教として強大化しました。
しかし中国では、その後さらに:
禅宗
浄土教
が民衆レベルまで浸透し、巨大化します。
特に晩唐~宋代になると、
「禅浄一致」
みたいな世界になっていく。
だから、中国仏教史は:
学問仏教
密教
禅
浄土
が、互いに飲み込み合いながら変化していく歴史なんですね。
面白いのは、日本の奈良仏教が「唐の前半」、平安仏教が「唐の後半」をかなり反映している点です。
つまり日本は、唐仏教の変化を、時差つきで輸入していたとも言えます。
後期の唐朝は、「国を挙げて、密教の加持祈祷に狂奔していた」というイメージなんだが
禅宗の天下だったのか
両方です。
しかも、「国家レベルでは密教」「社会全体では禅宗」という、二重構造だった感じがあります。
「後期唐朝は、国を挙げて密教の加持祈祷に狂奔していた」
というイメージは、かなり当たっています。
特に8世紀の唐では、密教はほとんど“国家魔術システム”でした。
唐後期の密教熱は本当に凄い
特に
不空 の影響が巨大です。
不空は単なる宗教者ではなく、
国家鎮護
雨乞い
病気平癒
戦勝祈願
災害対策
皇帝の護持
などを担う、「国家呪術官」みたいな存在だった。
皇帝たちは、
「密教儀礼で国家を守れる」
と本気で考えていました。
空海 の護国思想にも直結しています。
ただ、中国では“密教一強”にはならなかった
ここが日本との違いです。
日本では、平安国家が:
天台密教
東密(真言)
を制度化し、巨大化した。
しかし中国では、密教は国家上層では強かったものの、社会全体を制圧するところまでは行かなかった。
なぜか。
禅宗が強すぎた
唐後半になると、禅宗が猛烈に拡大します。
特に:
馬祖道一
百丈懐海
黄檗希運
臨済義玄
などの系統。
彼らは、
難解教学を嫌う
儀礼依存を嫌う
「即心是仏」を説く
修行共同体を形成する
という方向へ進んだ。
つまり、
「呪術国家仏教」
に対する、ある種のカウンターでもあった。
現代人は、
密教=オカルト
禅=合理主義
みたいに思いがちですが、唐代は全然違います。
唐代禅僧も:
神異譚
奇跡
法力
霊験
だらけです。
なので、
密教 vs 合理的禅
ではない。
むしろ:
密教=国家儀礼系シャーマニズム
禅=修行共同体系シャーマニズム
くらいの違い。
9世紀の
会昌の廃仏 が大きな転換点です。
巨大寺院や国家仏教ネットワークが打撃を受け、
華厳
法相
密教
などはかなり弱体化します。
一方、禅宗は:
地方分散型
師弟ネットワーク型
比較的小規模
だったため、生き残りやすかった。
結果として、宋代には禅宗が覇権を握る。
だから唐後期は、
国家:密教的
宮廷:加持祈祷ブーム
知識人:華厳・禅・浄土
地方修行者:禅宗
民衆:雑密・浄土・民間信仰
が全部混ざっている。
かなりカオスな宗教空間だったんです。
中国の時代劇に出てくる坊さんは、みんな坐禅するし、「阿弥陀仏」(アーミートゥオフォー)と念仏をとなえる
あれが「禅浄一致」なのか?
かなり、そうです。
中国仏教の「普通の坊さん像」は、まさに禅浄一致の世界観を反映しています。
日本だと、
禅宗なら坐禅
浄土宗なら念仏
真言宗なら真言
みたいに、比較的「宗派ごとの専門分化」が強い。
でも中国では、宋代以後、
「禅も念仏も両方やるのが普通」
という方向へ進みました。
簡単に言うと:
禅=自己の心を直接観る
浄土=阿弥陀仏を念じる
この二つは矛盾しない、という考えです。
たとえば:
「阿弥陀仏を念じる心そのものが仏心である」
とか、
「念仏三昧は禅定である」
という発想。
唐代の禅宗は、かなりラディカルでした。
不立文字
教外別伝
即心是仏
みたいな世界。
しかし宋代以後になると、次第に:
坐禅
読経
念仏
戒律
法要
を全部やる総合仏教へ戻っていきます。
その結果、
禅寺なのに念仏する
のが普通になる。
日本でもあるんたが
臨済宗の僧侶で
儀式に必要な品物が届かないので
鎮守の神像をぶん殴ったら、
即届いたという感じがある
シャーマニズムというより
威圧系統かも、中国禅は
😀
中国時代劇で僧侶が
「阿弥陀仏(Amituofo)」
と言うのは、日本の:
「南無阿弥陀仏」
「お念仏」
より、もっと広い意味があります。
挨拶、 感嘆、 軽い祈り、 場を鎮める言葉、
みたいにも使う。
日本で言えば、
「南無…」
「やれやれ」
「ありがたいことです」
が混ざったような感じ。
しかも、中国寺院では、禅宗系でなくても:
坐禅
静坐
瞑想
を普通に行うことが多い。
だから中国仏教は、日本ほど:
「お前は何宗だ?」
という区分が強くない。
むしろ:
「禅もやるし念仏もやるし、観音経も読む」
という混成型。
特に明清以後は、
禅
浄土
華厳
天台
密教要素
民間信仰
が巨大に融合します。
なので、中国時代劇の坊さんが:
坐禅する
木魚叩く
念仏する
法力っぽいことする
のは、かなりリアルなんです。
実際、中国仏教は長い時間をかけて、
「全部入り仏教」
になっていったので。
南宋あたりが純粋禅の限界点だろな
😀
製ウンコ師が暴言を吐くのも
それを真似てるつもりなんだろうな
「坐禅だけ」というのは、イビツな形だ
総合仏教がいい😄
昔の日本の天台真言僧にもたったんたが
エリート学問僧は雑務一切せず学問のみ
雑務は山伏や念仏階級の、役目
中国では真言天台の学問僧の多くの仏教は雑務はしない、
禅だけは農作業とか雑務するのがあたりまえ、
道元禅師の著作にもあるやろう
AIも限界だな
😀
こちらが話題を振らないと、AIはネタを拾わない
AIは質問者次第
昔の日本の天台真言僧にもたったんたが
エリート学問僧は雑務一切せず学問のみ
雑務は山伏や念仏階級の、役目
中国では真言天台の学問僧の多くの仏教は雑務はしない、
禅だけは農作業とか雑務するのがあたりまえ、
道元禅師の著作にもあるやろう
かなり重要なポイントです。
実際、中世東アジア仏教では、
「学問・儀礼を担う上層僧」
と
「労働・実務・民間活動を担う下層僧」
の分化は、かなりありました。
そして禅宗は、その構造を部分的に崩したところがある。
日本の:
南都六宗
天台宗
真言宗
の大寺院は、巨大組織でした。
そこには:
学僧
堂衆
行人
修験者
念仏聖
寺務担当
など、多層構造がある。
上層エリート僧は:
教学研究
儀礼
国家祈祷
法会
を担当。
生活雑務や民間布教は、別階層が担うことが多かった。
特に:
念仏聖
山伏
勧進聖
などは、半ば漂泊民的でした。
彼らは:
民衆布教
葬送
勧進
呪術
山林修行
を行う。
日本仏教の「現場」を支えていたのは、むしろこちら。
一方、中国禅宗では、特に
百丈懐海 に象徴されるように、
「一日作さざれば、一日食らわず」
という精神が強調されました。
つまり:
自給自足
農作業
掃除
炊事
を修行に含める。
これは巨大国家寺院仏教への対抗でもあった。
道元はそこを強烈に継承した
道元 は、中国禅林文化を非常に重視しました。
たとえば
典座教訓 では、
料理役(典座)を単なる雑務係ではなく、
仏道修行そのもの
として描いています。
これは、旧来の:
「雑務は下の者がやる」
という感覚とかなり違う。
ここが大きい。
禅では:
掃除
炊事
農作業
運搬
食事
そのものが修行になる。
だから、
「エリート学問僧 vs 雑務階級」
という分業を弱める方向へ行った。
もちろん現実には、禅寺でも役職差や階層差はありましたが、理念としてはかなり革新的でした。
ここは重要です。
中国禅林にも:
高僧
学僧
清規運営者
作務担当
など役割差は普通にありました。
しかも宋代以後は、禅宗自体が巨大制度化していく。
なので、
禅=完全労働共同体
というほど単純でもない。
でも確かに、東アジア仏教史の中で、
「労働そのものを修行へ昇格させた」
という点で、禅宗はかなり独特なんです。
そこに道元が非常に深く感動したのは、間違いないですね。
AIも六祖慧能のデータが、出てこないな
ハッスル🤡の坐禅回数自慢を否定される内容だ
五狙から六祖を認められるのは
坐禅修行してたのではなく
六祖慧能は雑務ばかりしかしていなかっ
た、
俺ちゃまみたいな天才禅修行者みたいなのがあるので
六祖慧能は伝説てはないと見ている
😀