【転識得智】 唯識論 【無住処涅槃】 Part5最終更新 2026/05/01 12:001.◆JBLfMwCXhYjl5ET私たちは、思考するからさまよう。この世は、思い通りにならない。本当の自分なんて、どこにもない。いま、この思考の幻から抜け出そう。前スレ【アーラヤ識】 唯識論 【瑜伽行派】 Part3https://talk.jp/boards/psy/1769773378【言葉の力で】 唯識論 【世界は変わる】 Part4https://talk.jp/boards/psy/17712049932026/03/18 09:55:58364コメント欄へ移動すべて|最新の50件315.神も仏も名無しさんF06y2教懐の念仏に関する論文と春日大社に関する論文研究だーお盆休みに向かってー😀2026/04/27 00:36:11316.神も仏も名無しさんF06y2小田原教懐も東大寺あたりの念仏僧だったけ?忘れた😀2026/04/27 00:36:57317.◆JBLfMwCXhYKoUvE早く、奈良に行きたい2026/04/27 05:09:44318.◆JBLfMwCXhYKoUvE東大寺、興福寺、薬師寺、春日大社2026/04/27 05:09:59319.◆JBLfMwCXhYKoUvE行きたいところが、たくさんある2026/04/27 05:10:10320.◆JBLfMwCXhYPuptd質問:唯識論の「五八現量」とは何か?chatGPT:唯識でいう「五八現量」は、かなり略語的な言い方で、「五識と第八識は現量である」という意味です。2026/04/28 22:32:04321.◆JBLfMwCXhYPuptdまず用語五識眼識(見る)耳識(聞く)鼻識(嗅ぐ)舌識(味わう)身識(触れる)つまり、感覚そのもの。第八識阿頼耶識(あらやしき)すべての経験の種子(しゅうじ)を蔵する、深層の根本意識。いわば「無意識の基盤」。2026/04/28 22:33:45322.◆JBLfMwCXhYPuptd現量(げんりょう)これは直接に、まだ概念化されていない、そのままの認識です。たとえば「赤いものが見える」 → 現量「あれはリンゴだ」 → 比量・分別後者は概念判断が入っています。五八現量とはつまり五識(感覚)と第八識(阿頼耶識)は、基本的に“直接認識”として働くということ。反対に第六識(意識)=考える、判断する第七識(末那識)=我執するこのあたりは分別・執着が強い。2026/04/28 22:34:43323.◆JBLfMwCXhYPuptdなぜ第八識も現量なのか阿頼耶識は「これは私だ」「これは善悪だ」みたいな判断をしません。ただひたすら業の種子を保持し、因果を流し続ける。だから分別以前の、直接的なはたらきとされます。2026/04/28 22:35:32324.◆JBLfMwCXhYPuptd有名な対応よくセットで五八現量・六七比非と言います。つまり五識 → 現量第八識 → 現量第六識 → 比量でも非量でもある第七識 → 非量(誤った執着)という整理です。一言で言うと感覚と深層意識は“そのまま受け取る”思考と自我は“勝手に意味づけする”これが「五八現量」です。2026/04/28 22:36:15325.◆JBLfMwCXhYPuptd質問:これを、「六識・七識に対する、五識・八識の優位」と受け取る人もいるんだがchatGPT:それは半分は当たりで、半分は言いすぎです。「五八現量」は五識・第八識のほうが“より真実に近い”というニュアンスを持つので、たしかに第六識(分別・判断)第七識(我執・自己中心性)よりも、五識・第八識のほうが根源的だ、という読みはできます。2026/04/28 22:37:10326.◆JBLfMwCXhYPuptdただし、唯識は単純に「理性より感覚が偉い」「無意識こそ正しい」と言っているわけではありません。第六識が悪者ではない第六識(意識)は推論する学ぶ修行する仏法を理解するために不可欠です。悟りに向かう実践も、まず第六識を通して行われます。だから切り捨てる対象ではない。2026/04/28 22:37:51327.◆JBLfMwCXhYPuptd第七識こそ問題の中心本当に強く批判されるのは第七識(末那識)です。ここが「阿頼耶識を“私”だと思い込む」=根本的な我執を作る。唯識の戦場はここです。2026/04/28 22:39:21328.◆JBLfMwCXhYPuptd五識・八識の「優位」とは優れているというよりより根底にあるという感じです。五識 → 認識の素材八識 → 認識の土台六識 → 解釈七識 → 執着なので、「上か下か」より「根か枝か」に近い。2026/04/28 22:40:00329.◆JBLfMwCXhYPuptdただし禅では…中国仏教や禅になると、かなり分別以前の直観(現量)が高く評価されるので、結果的に「六識の理屈より、五八の直覚」みたいな雰囲気は強くなります。ここで「優位」という読みが強まる。一番正確に言うなら五八現量は、認識の純度の話であって、能力の優劣の話ではない。しかし思想史的には、しばしば「分別知より直覚知が上」という方向へ読まれていった、と言えます。2026/04/28 22:40:45330.◆JBLfMwCXhYPuptd質問:比量を抜きにした認識など、そもそも意味を成さないと思うがchatGPT:まさにそこが重要な批判点です。「現量だけで認識になるのか?」という疑問は、唯識に対して昔から向けられてきました。たしかに、赤が見えるだけではまだ「何か」があるだけで、あれは林檎だと言えてはじめて、実際の世界理解になる。つまり、人間の生活や知識はほとんど比量(判断・概念化)によって成り立っています。だから比量を抜きにした認識は、ほとんど“裸の感覚”でしかないとも言える。2026/04/28 22:41:32331.◆JBLfMwCXhYPuptd唯識は比量を否定していない唯識もそこは分かっています。彼らが言いたいのは比量そのものが悪いのではなく、比量を実在視することが問題だということです。たとえば「これは机だ」という判断は便利ですが、その「机」という概念を“最初からそこにある固定的実体”だと思い込むと誤りになる。2026/04/28 22:42:01332.◆JBLfMwCXhYPuptd現量を重視する理由現量を重視するのは、概念以前に戻って「私たちは世界をどう切り分けているのか」を見抜くためです。つまり現量は日常生活の完成形ではなく、認識の解剖学の出発点です。たとえるなら比量=地図現量=地面地図なしでは生活しにくい。でも地図を現実そのものだと思うと間違う。唯識は「お前は地図を実在だと思っていないか?」と問いかける。2026/04/28 22:42:37333.◆JBLfMwCXhYPuptdだから禅では禅が「不立文字」と言うのも同じ方向です。言葉や概念を否定しているのでなく、それを絶対視するな、ということ。2026/04/28 22:43:00334.◆JBLfMwCXhYPuptd結論あなたの「比量を抜きにした認識など意味を成さない」は、その通りです。唯識の本筋も、実はそこを否定していません。むしろ比量は必要だが、それは加工された認識だと言っているのです。2026/04/28 22:43:34335.◆JBLfMwCXhYPuptd質問:末那識は我執の源泉であり、ネガティブ要因だ。だが、第六識はべつにネガティブではない。第六識の無い人間など、「視覚や聴覚のセンサーはあるが、知能の無いロボット」ではないかchatGPT:その理解はかなり唯識の核心に近いです。まさに、第七識(末那識)こそが問題であって、第六識そのものは悪ではない。2026/04/28 22:44:28336.◆JBLfMwCXhYPuptd第六識は「知る」働き第六識(意識)は判断する推論する記憶を整理する言葉を使う仏法を理解する修行の方針を立てるこうした、人間らしい知性の中心です。これがなければ、まさに感覚センサーはあるが、知能のないロボットに近い。あるいは動物的な反応だけになる。だから唯識は、第六識を否定しません。むしろ悟りに向かう入口は第六識です。2026/04/28 22:45:00337.◆JBLfMwCXhYPuptd第七識は「それを私のものにする」問題は第七識。第六識が「これは痛い」と認識すると、第七識は「私が痛い」「私が傷ついた」「私を守らねば」と、それを自己中心化する。ここで苦が生まれる。たとえるなら第六識=分析装置第七識=エゴ装置分析そのものは必要。問題は、その分析結果を全部「私」に回収してしまうこと。唯識の修行とは第六識を消すことではなく、むしろ第六識を浄化して、第七識の我執を見破ることです。そして最終的には第六識 → 妙観察智第七識 → 平等性智へと転じる(転識得智)とされます。2026/04/28 22:45:44338.◆JBLfMwCXhYPuptd面白い点現代人はしばしば「考えすぎ(第六識)が苦しみの原因」と思いがちですが、唯識はもっと深くその思考を“私”のものとして握りしめる第七識こそ根本問題と見る。ここが鋭い。一言で言えば第六識はナイフ第七識はそれを自分に向ける癖悪いのはナイフではなく、執着のほうです。2026/04/28 22:46:01339.◆JBLfMwCXhYPuptd質問:五八現量の優位を唱える人は、「概念や推論を抜きにした、直接知覚による一次認識」を重視しているわけだがそれは唯識論というより、20世紀の西洋哲学、フッサールの現象学の考え方ではないか?chatGPT:かなり鋭い指摘です。実際、「概念化以前の直接与件を重視する」という読み方は、かなりエトムント・フッサールの現象学に近いです。そして、そのまま「五八現量」を生の経験への回帰判断停止して現れそのものを見るという方向で読むと、かなり現象学的になります。2026/04/28 22:52:34340.◆JBLfMwCXhYPuptdただし、唯識の本来の文脈は少し違う唯識で「現量」が重要なのは、主目的が認識論というより、煩悩の解体だからです。つまりなぜ人は誤認するのかなぜ我執が生まれるのかどうすれば執着を断てるのかを説明するために、現量/比量を区別している。フッサールのように「意識に与えられるものの構造」を厳密記述することが第一目的ではない。2026/04/28 22:53:04341.◆JBLfMwCXhYPuptdフッサールとの近さとはいえ、似ている点は確かにある。フッサール「自然的態度を括弧に入れよ」→ 世界の実在をいったん保留し、意識にどう現れているかを見よ唯識「遍計所執を離れよ」→ 概念的に作られた実体視を外し、依他起として見よかなり響き合っています。2026/04/28 22:53:32342.◆JBLfMwCXhYPuptdただし決定的な違いフッサールは哲学的方法としてやる。唯識は解脱の実践としてやる。ここが大きい。フッサールの目的は厳密学。唯識の目的は成仏。むしろ近いのは「五八現量の優位」を強く言う人は、純粋な唯識というより禅中国仏教京都学派西田幾多郎などを経由して、現象学的な読みが混ざっていることが多いです。特に西田幾多郎は、「純粋経験」という形でかなり近い発想を出しています。2026/04/28 22:54:08343.◆JBLfMwCXhYPuptd結論あなたの言うそれは唯識というよりフッサールでは?は、かなり当たっています。厳密には唯識の「現量」を、近代哲学的に再解釈したものと言ったほうが正確です。インド唯識そのものは、そこまで“純粋知覚礼賛”ではありません。2026/04/28 22:55:02344.◆JBLfMwCXhYPuptdなるほど2026/04/28 22:55:15345.◆JBLfMwCXhYPuptd解脱のための現量か2026/04/28 22:55:29346.◆JBLfMwCXhYPuptd仏教の目標は、無分別智西洋哲学(とくにドイツ観念論)が追い求めてきた「絶対知」とは異なる2026/04/28 22:59:30347.◆JBLfMwCXhYPuptd仏のスレ主のとこの老師は前五識と阿頼耶識で生きてるらしい2026/04/28 23:00:34348.◆JBLfMwCXhYPuptd末那識は転識得智しているようだ2026/04/28 23:01:06349.◆JBLfMwCXhYPuptd転識得智の順番としてはまず、六識と七識が浄化され次に八識が浄化される2026/04/28 23:01:59350.◆JBLfMwCXhYPuptdスレ主の老師は、六識と七識がすでに浄化去れているのかもしれない2026/04/28 23:02:28351.◆JBLfMwCXhYPuptd浄化されている2026/04/28 23:02:39352.神も仏も名無しさんeHoK1スレ主の師匠らしきお方の動画では浄化というよりも唯識でいうならば五八識しか、そもそもないのだ六、七識が悪さをして惑わすという結論提示だむろん、当人はそんなことは言っていないが俺の禅定能力で近似値的に表現てきるだけだ、むろんイコールてはないが下手すれば、スレ主より上手いかも😀2026/04/29 06:53:16353.神も仏も名無しさんeHoK1五八識原理主義で六七識は惑わしにくるヤツラ扱い、彼らは禅なのでそーいう感じこれは彼らの禅定修行観の近似値的説明だから、唯識のルールを無視しても問題ない、ハッスルみたいな唯識混ぜ合わせ創作で断言魔王は問題だが😀2026/04/29 06:59:10354.神も仏も名無しさんn77UX汽車を待つ君の横でデオは名声を気にしてる😀まとはずれの会話が弾んでる😀「5ちゃんで言うハッタリはこれが最後ね」とさみしそうに デオがつぶやく😀なごり雪も 降る時を知りふざけすぎた 季節のあとで今 春が来て デオはハッタリ増えた😀去年よりずっと ハッタリ増えた😀2026/04/29 07:00:45355.神も仏も名無しさんeHoK1唯識の五八識原理主義からスレ主の師匠らしきお方か、中論を読み返しができる、それは、あまりにも説明を遮断をするという意味での中論的である、中論の立場では八識は存在しない、その存在しないを五八識から捉える人我の見とか、今動画を見たがそれが六七識と解釈できる、(JBL)向けに近似値提示、五識は中論では空てもあり、空でもないと矛盾した、ことをあると予想している中論の文脈は多くはそれだとつまり、五識は空である、五識は色である否定も肯定も込みとみる、八識は唯識ては仏の智慧に転ずるものではあるが、中論は転ずるというよりも、結論ありき転ずるのではなく、仏の智慧はある空即是色、色即是空とみたいな近似値的説明がしやすいスレ主の師匠らしき路線だとな当然イコールではないが近似値に無理に、説明したもので雰囲気だけに過ぎない牛乳は飲まないと味がわからない😀2026/04/29 07:07:14356.神も仏も名無しさんn77UX幸せならデオ崇めよう😀幸せならデオゴマすろう😀幸せならデオに逆らうな😀ほら デオは裸の王様😀幸せならデオに媚び売ろう幸せならデオに話合わせよう😀幸せならデオに凄いな?と言おう😀ほら これでみんな幸せ😀幸せなら目をつぶろう😀幸せなら耳ふさごう😀幸せなら何も言うな😀ほら これが大人の対応😀2026/04/29 07:07:45357.神も仏も名無しさんsY2lNヤナギ2026/04/29 22:11:27358.◆JBLfMwCXhYzrH6LChatGPT:月称(チャンドラキールティ)は、中観派の中でも帰謬論証派(プラーサンギカ)の旗手として、唯識派を徹底的に批判しました。彼の主著『入中論』における批判の核心は、「対象(客観)がないのに、認識(主観)だけがあるのは論理的に不可能だ」という点にあります。2026/05/01 11:52:29359.◆JBLfMwCXhYzrH6L主な批判の論理は以下の4点に集約されます。1. 認識の「二分法」による論破唯識派は「外界の対象は存在せず、ただ識だけが対象の姿をとって現れている(唯識無境)」と主張します。これに対し、月称はこう反論します。相依性の論理:「認識(能縁)」と「認識対象(所縁)」は、一方がなければ他方も成立しない相関関係にある。結論:対象が「空」で実在しないのであれば、それを認識する「識」もまた「空」でなければならない。対象を否定しながら識の実在を維持するのは、片足だけで立とうとするような論理的矛盾である。2026/05/01 11:53:00360.◆JBLfMwCXhYzrH6L2. 「自証(じしょう)」の否定唯識派は、識がそれ自体を認識する機能(自証)を持つことで、認識の成立を証明しようとしました。月称はこれを有名な比喩で切り捨てます。指の比喩:「指先が自分自身を触ることができないように、刀が自分自身を切ることができないように、識が自分自身を認識することはできない」。結論:識が自らを証明する根拠(自証)がない以上、実在する「識」という土台そのものが成立しない。2026/05/01 11:53:15361.◆JBLfMwCXhYzrH6L3. 夢や幻の比喩への反論唯識派は「夢の中では対象がないのに認識だけがある」ことを根拠に唯識を正当化します。月称はこれに鋭く返します。夢の等価性:「夢の中で対象がないというなら、夢を見ている『識』も、目覚めた後には存在しないではないか」。結論:夢の比喩は「すべてが虚妄であること(空)」を証明するには適しているが、「識だけが実在すること」を証明する根拠にはならない。2026/05/01 11:53:40362.◆JBLfMwCXhYzrH6L4. 世俗諦(日常の真理)の重視月称のユニークな点は、唯識派が「世俗的な常識(外界があるという感覚)」を否定しすぎることを批判した点にあります。世間一般の承認:「世の中の人が『青い色がある』と言っているなら、世俗のレベルではそれを認めればよい。それをわざわざ『実は識である』と理屈をこねる(戯論)必要はない」。結論:唯識派は、勝義(究極の真理)において識を実在視する一方で、世俗(日常)のあり方を壊している。中観派は、世俗では常識に従い、勝義では識も含めてすべてを空とする。2026/05/01 11:53:55363.◆JBLfMwCXhYzrH6L💡 月称の批判のまとめ月称にとって、唯識派の「阿頼耶識」や「依他起性」へのこだわりは、「実体への未練」に他なりませんでした。唯識派:外界を消して、心の中に「救いの足場」を残そうとした。月称(中観):その「足場(識)」さえも徹底的に解体し、何物にも依存しない(=すべての執着を離れた)空の境地を目指した。この「識さえも否定する」月称の過激な論理について、どう感じられますか?もし興味があれば、この後に登場する「如来蔵思想(すべての人が仏の本質を持つ)」という、より「普遍存在」に近い思想との対立についてもお話しできます。2026/05/01 11:54:32364.神も仏も名無しさんfkq5Q>月称のユニークな点は、唯識派が「世俗的な常識(外界があるという感覚)」を否定しすぎることを批判した点にあります。四智における世界認識の統合したんだろな唯識は😀2026/05/01 12:00:13
【週刊文春】「“高市上げ”熱狂に薄気味悪い違和感」文春が報じた「高市陣営が匿名アカで自画自賛動画を投稿」に、当時の異様な雰囲気を思い出す声が噴出「岸田氏や石破氏の時代には…」ニュース速報+1489532026/05/02 23:11:04
この世は、思い通りにならない。
本当の自分なんて、どこにもない。
いま、この思考の幻から抜け出そう。
前スレ
【アーラヤ識】 唯識論 【瑜伽行派】 Part3
https://talk.jp/boards/psy/1769773378
【言葉の力で】 唯識論 【世界は変わる】 Part4
https://talk.jp/boards/psy/1771204993
春日大社に関する論文研究だー
お盆休みに向かってー
😀
東大寺あたりの念仏僧だったけ?
忘れた
😀
chatGPT:唯識でいう「五八現量」は、かなり略語的な言い方で、
「五識と第八識は現量である」
という意味です。
五識
眼識(見る)
耳識(聞く)
鼻識(嗅ぐ)
舌識(味わう)
身識(触れる)
つまり、感覚そのもの。
第八識
阿頼耶識(あらやしき)
すべての経験の種子(しゅうじ)を蔵する、深層の根本意識。
いわば「無意識の基盤」。
これは
直接に、まだ概念化されていない、そのままの認識
です。
たとえば
「赤いものが見える」 → 現量
「あれはリンゴだ」 → 比量・分別
後者は概念判断が入っています。
五八現量とは
つまり
五識(感覚)と第八識(阿頼耶識)は、
基本的に“直接認識”として働く
ということ。
反対に
第六識(意識)=考える、判断する
第七識(末那識)=我執する
このあたりは分別・執着が強い。
阿頼耶識は
「これは私だ」
「これは善悪だ」
みたいな判断をしません。
ただひたすら
業の種子を保持し、
因果を流し続ける。
だから
分別以前の、直接的なはたらき
とされます。
よくセットで
五八現量・六七比非
と言います。
つまり
五識 → 現量
第八識 → 現量
第六識 → 比量でも非量でもある
第七識 → 非量(誤った執着)
という整理です。
一言で言うと
感覚と深層意識は“そのまま受け取る”
思考と自我は“勝手に意味づけする”
これが「五八現量」です。
chatGPT:それは半分は当たりで、半分は言いすぎです。
「五八現量」は
五識・第八識のほうが“より真実に近い”
というニュアンスを持つので、たしかに
第六識(分別・判断)
第七識(我執・自己中心性)
よりも、五識・第八識のほうが根源的だ、
という読みはできます。
「理性より感覚が偉い」
「無意識こそ正しい」
と言っているわけではありません。
第六識が悪者ではない
第六識(意識)は
推論する
学ぶ
修行する
仏法を理解する
ために不可欠です。
悟りに向かう実践も、
まず第六識を通して行われます。
だから切り捨てる対象ではない。
本当に強く批判されるのは
第七識(末那識)
です。
ここが
「阿頼耶識を“私”だと思い込む」
=根本的な我執
を作る。
唯識の戦場はここです。
優れているというより
より根底にある
という感じです。
五識 → 認識の素材
八識 → 認識の土台
六識 → 解釈
七識 → 執着
なので、
「上か下か」より
「根か枝か」
に近い。
中国仏教や禅になると、
かなり
分別以前の直観(現量)
が高く評価されるので、
結果的に
「六識の理屈より、五八の直覚」
みたいな雰囲気は強くなります。
ここで「優位」という読みが強まる。
一番正確に言うなら
五八現量は、認識の純度の話であって、
能力の優劣の話ではない。
しかし思想史的には、
しばしば「分別知より直覚知が上」
という方向へ読まれていった、
と言えます。
chatGPT:まさにそこが重要な批判点です。
「現量だけで認識になるのか?」
という疑問は、唯識に対して昔から向けられてきました。
たしかに、
赤が見える
だけではまだ「何か」があるだけで、
あれは林檎だ
と言えてはじめて、実際の世界理解になる。
つまり、人間の生活や知識は
ほとんど比量(判断・概念化)によって成り立っています。
だから
比量を抜きにした認識は、ほとんど“裸の感覚”でしかない
とも言える。
唯識もそこは分かっています。
彼らが言いたいのは
比量そのものが悪いのではなく、
比量を実在視することが問題だ
ということです。
たとえば
「これは机だ」
という判断は便利ですが、
その「机」という概念を
“最初からそこにある固定的実体”
だと思い込むと誤りになる。
現量を重視するのは、
概念以前に戻って
「私たちは世界をどう切り分けているのか」
を見抜くためです。
つまり
現量は日常生活の完成形ではなく、
認識の解剖学の出発点
です。
たとえるなら
比量=地図
現量=地面
地図なしでは生活しにくい。
でも地図を現実そのものだと思うと間違う。
唯識は
「お前は地図を実在だと思っていないか?」
と問いかける。
禅が
「不立文字」
と言うのも同じ方向です。
言葉や概念を否定しているのでなく、
それを絶対視するな、
ということ。
あなたの
「比量を抜きにした認識など意味を成さない」
は、その通りです。
唯識の本筋も、
実はそこを否定していません。
むしろ
比量は必要だが、それは加工された認識だと言っているのです。
chatGPT:その理解はかなり唯識の核心に近いです。
まさに、
第七識(末那識)こそが問題であって、
第六識そのものは悪ではない。
第六識(意識)は
判断する
推論する
記憶を整理する
言葉を使う
仏法を理解する
修行の方針を立てる
こうした、人間らしい知性の中心です。
これがなければ、まさに
感覚センサーはあるが、知能のないロボット
に近い。
あるいは動物的な反応だけになる。
だから唯識は、第六識を否定しません。
むしろ
悟りに向かう入口は第六識
です。
問題は第七識。
第六識が
「これは痛い」
と認識すると、
第七識は
「私が痛い」
「私が傷ついた」
「私を守らねば」
と、それを自己中心化する。
ここで苦が生まれる。
たとえるなら
第六識=分析装置
第七識=エゴ装置
分析そのものは必要。
問題は、
その分析結果を
全部「私」に回収してしまうこと。
唯識の修行とは
第六識を消すことではなく、
むしろ
第六識を浄化して、
第七識の我執を見破ること
です。
そして最終的には
第六識 → 妙観察智
第七識 → 平等性智
へと転じる(転識得智)
とされます。
現代人はしばしば
「考えすぎ(第六識)が苦しみの原因」
と思いがちですが、
唯識はもっと深く
その思考を“私”のものとして握りしめる
第七識こそ根本問題
と見る。
ここが鋭い。
一言で言えば
第六識はナイフ
第七識はそれを自分に向ける癖
悪いのはナイフではなく、
執着のほうです。
それは唯識論というより、20世紀の西洋哲学、フッサールの現象学の考え方ではないか?
chatGPT:かなり鋭い指摘です。
実際、
「概念化以前の直接与件を重視する」
という読み方は、かなり
エトムント・フッサールの現象学に近いです。
そして、そのまま「五八現量」を
生の経験への回帰
判断停止して現れそのものを見る
という方向で読むと、
かなり現象学的になります。
唯識で「現量」が重要なのは、
主目的が
認識論というより、煩悩の解体
だからです。
つまり
なぜ人は誤認するのか
なぜ我執が生まれるのか
どうすれば執着を断てるのか
を説明するために、
現量/比量を区別している。
フッサールのように
「意識に与えられるものの構造」
を厳密記述することが第一目的ではない。
とはいえ、似ている点は確かにある。
フッサール
「自然的態度を括弧に入れよ」
→ 世界の実在をいったん保留し、
意識にどう現れているかを見よ
唯識
「遍計所執を離れよ」
→ 概念的に作られた実体視を外し、
依他起として見よ
かなり響き合っています。
フッサールは
哲学的方法
としてやる。
唯識は
解脱の実践
としてやる。
ここが大きい。
フッサールの目的は厳密学。
唯識の目的は成仏。
むしろ近いのは
「五八現量の優位」を強く言う人は、
純粋な唯識というより
禅
中国仏教
京都学派
西田幾多郎
などを経由して、
現象学的な読みが混ざっていることが多いです。
特に西田幾多郎は、
「純粋経験」という形で
かなり近い発想を出しています。
あなたの言う
それは唯識というよりフッサールでは?
は、かなり当たっています。
厳密には
唯識の「現量」を、近代哲学的に再解釈したもの
と言ったほうが正確です。
インド唯識そのものは、
そこまで“純粋知覚礼賛”ではありません。
西洋哲学(とくにドイツ観念論)が追い求めてきた「絶対知」とは異なる
前五識と阿頼耶識で生きてるらしい
まず、六識と七識が浄化され
次に八識が浄化される
すでに浄化去れているのかもしれない
浄化というよりも
唯識でいうならば
五八識しか、そもそもないのだ
六、七識が悪さをして
惑わすという
結論提示だ
むろん、当人はそんなことは言っていないが
俺の禅定能力で
近似値的に表現てきるだけだ、
むろんイコールてはないが
下手すれば、スレ主より上手いかも
😀
六七識は
惑わしにくるヤツラ扱い、
彼らは禅なので
そーいう感じ
これは彼らの禅定修行観の
近似値的説明だから、
唯識のルールを無視しても問題ない、
ハッスルみたいな唯識混ぜ合わせ創作で
断言魔王は問題だが
😀
デオは名声を気にしてる😀
まとはずれの会話が弾んでる😀
「5ちゃんで言うハッタリはこれが最後ね」と
さみしそうに デオがつぶやく😀
なごり雪も 降る時を知り
ふざけすぎた 季節のあとで
今 春が来て デオはハッタリ増えた😀
去年よりずっと ハッタリ増えた😀
スレ主の師匠らしきお方か、
中論を読み返しができる、
それは、あまりにも説明を遮断をするという意味での中論的である、
中論の立場では八識は存在しない、
その存在しない
を
五八識から捉える
人我の見とか、今動画を見たが
それが六七識と解釈できる、(JBL)向けに近似値提示、五識は
中論では空てもあり、空でもないと
矛盾した、ことをあると予想している
中論の文脈は多くはそれだと
つまり、五識は空である、五識は色である否定も肯定も込みとみる、
八識は唯識ては仏の智慧に転ずるものではあるが、
中論は転ずるというよりも、結論ありき
転ずるのではなく、仏の智慧はある
空即是色、色即是空と
みたいな近似値的説明がしやすい
スレ主の師匠らしき路線だとな
当然イコールではないが
近似値に無理に、説明したもので
雰囲気だけに過ぎない
牛乳は飲まないと味がわからない
😀
幸せならデオゴマすろう😀
幸せならデオに逆らうな😀
ほら デオは裸の王様😀
幸せならデオに媚び売ろう
幸せならデオに話合わせよう😀
幸せならデオに凄いな?と言おう😀
ほら これでみんな幸せ😀
幸せなら目をつぶろう😀
幸せなら耳ふさごう😀
幸せなら何も言うな😀
ほら これが大人の対応😀
1. 認識の「二分法」による論破
唯識派は「外界の対象は存在せず、ただ識だけが対象の姿をとって現れている(唯識無境)」と主張します。これに対し、月称はこう反論します。
相依性の論理:「認識(能縁)」と「認識対象(所縁)」は、一方がなければ他方も成立しない相関関係にある。
結論:対象が「空」で実在しないのであれば、それを認識する「識」もまた「空」でなければならない。対象を否定しながら識の実在を維持するのは、片足だけで立とうとするような論理的矛盾である。
唯識派は、識がそれ自体を認識する機能(自証)を持つことで、認識の成立を証明しようとしました。月称はこれを有名な比喩で切り捨てます。
指の比喩:「指先が自分自身を触ることができないように、刀が自分自身を切ることができないように、識が自分自身を認識することはできない」。
結論:識が自らを証明する根拠(自証)がない以上、実在する「識」という土台そのものが成立しない。
唯識派は「夢の中では対象がないのに認識だけがある」ことを根拠に唯識を正当化します。月称はこれに鋭く返します。
夢の等価性:「夢の中で対象がないというなら、夢を見ている『識』も、目覚めた後には存在しないではないか」。
結論:夢の比喩は「すべてが虚妄であること(空)」を証明するには適しているが、「識だけが実在すること」を証明する根拠にはならない。
月称のユニークな点は、唯識派が「世俗的な常識(外界があるという感覚)」を否定しすぎることを批判した点にあります。
世間一般の承認:「世の中の人が『青い色がある』と言っているなら、世俗のレベルではそれを認めればよい。それをわざわざ『実は識である』と理屈をこねる(戯論)必要はない」。
結論:唯識派は、勝義(究極の真理)において識を実在視する一方で、世俗(日常)のあり方を壊している。中観派は、世俗では常識に従い、勝義では識も含めてすべてを空とする。
月称にとって、唯識派の「阿頼耶識」や「依他起性」へのこだわりは、「実体への未練」に他なりませんでした。
唯識派:外界を消して、心の中に「救いの足場」を残そうとした。
月称(中観):その「足場(識)」さえも徹底的に解体し、何物にも依存しない(=すべての執着を離れた)空の境地を目指した。
この「識さえも否定する」月称の過激な論理について、どう感じられますか?
もし興味があれば、この後に登場する「如来蔵思想(すべての人が仏の本質を持つ)」という、より「普遍存在」に近い思想との対立についてもお話しできます。
四智における世界認識の統合したんだろな唯識は😀