【転識得智】 唯識論 【無住処涅槃】 Part5最終更新 2026/05/15 12:141.◆JBLfMwCXhYjl5ET私たちは、思考するからさまよう。この世は、思い通りにならない。本当の自分なんて、どこにもない。いま、この思考の幻から抜け出そう。前スレ【アーラヤ識】 唯識論 【瑜伽行派】 Part3https://talk.jp/boards/psy/1769773378【言葉の力で】 唯識論 【世界は変わる】 Part4https://talk.jp/boards/psy/17712049932026/03/18 09:55:58622コメント欄へ移動すべて|最新の50件573.神も仏も名無しさんQPvba文化や言語自体がソシュールでは恣意性だしねーなんらかの文化的な言語のフィルターで人間は世界を見ていると言える唯識で言えば欲望、感情に支配された対象の認識、病んだ幼児性愛者からみた幼児は性的対象の意味を与えられるが普通の人からは単に可愛い子供だな、家庭環境が地獄で親の病んだ世界に支配された人間から見た幼児はうるさい、うっとおしい存在の意味を持つソシュールをやってると優れた人間の洞察がてきるなー若い頃に人間社会科学一般理論を夢みてた賜物😀2026/05/09 05:47:44574.◆JBLfMwCXhY4KHgb>>573確かにソシュールは避けて通れない2026/05/09 05:48:38575.◆JBLfMwCXhY4KHgb中観派や唯識派も、確かにすごいが古代人の限界はある現代の言語哲学の鋭さにはかなわない2026/05/09 05:50:09576.神も仏も名無しさんQPvba若い頃に洞察認識みたいなのに慣れきった演繹法よりも帰納法先行の思想にかなり人間の認知に関す本、脳科学とか、認知症の脳の部位の欠損で何が失われるか?日本猿の、レベルの認識と行動は人間比べて、どうだろうとか、ホント、自分の関心のある情報収集魔王みたいに本を読んでいた理論よりも情報収集から結論出したい派😀2026/05/09 05:52:48577.神も仏も名無しさんQPvbaこのレスは俺の若い頃の読んだ本から残っている記憶たけだ😀2026/05/09 05:53:40578.◆JBLfMwCXhY4KHgb>>576帰納法的な生き方だ😆2026/05/09 05:55:34579.◆JBLfMwCXhYKWEla質問:三性説は、中観派の縁起説の影響を色濃く残している。唯識論でも、初期からある思想2026/05/15 06:13:26580.◆JBLfMwCXhYKWElaチャットGPT:その通りだと思う。三性説(遍計所執性・依他起性・円成実性)は、たしかに「唯識独自の体系」に見えるけれど、構造をよく見ると、中観の縁起・空の論理をかなり引き継いでいる。特に重要なのは、真ん中の「依他起性」だな。これはほぼ、そのまま「縁起」なんだ。つまり、あらゆる現象は単独自存ではなく条件関係によって成立しているという、中観以前からの仏教の基本原理。だから三性説は、「まず縁起として現象を見る」「そこへ虚妄分別(遍計所執)が貼りつく」「その虚妄性が見破られた状態を円成実という」という構造になっている。2026/05/15 06:14:19581.◆JBLfMwCXhYKWEla整理すると、こんな感じ。遍計所執性「実体がある」と妄想した世界。たとえば、自我固定的対象主客の対立などを、実在だと思い込む。これは中観でいう「自性執」にかなり近い。2026/05/15 06:14:36582.◆JBLfMwCXhYKWEla依他起性因縁によって成立している流動的プロセス。ここが重要で、唯識は「全部が幻想」とは言わない。現象の流れ自体はある。 ただし、それは固定実体ではなく、条件依存的。このへんは、かなり中観的。2026/05/15 06:14:57583.◆JBLfMwCXhYKWEla円成実性依他起性から遍計所執を取り除いた真実相。つまり、「縁起しているものを、実体視せずに見る」という状態。だから円成実性は、 何か別世界の超越存在ではなく、「縁起を空として見た姿」に近い。2026/05/15 06:15:10584.◆JBLfMwCXhYKWEla実際、初期唯識は、中観を完全否定していたわけではない。むしろ、中観の「空」が虚無論に誤解される危険「何も無い」に傾く危険を避けつつ、「認識構造」 「心の働き」 「迷いの発生メカニズム」を精密分析しようとした面が強い。だから三性説は、縁起 → 空という中観の流れを、認識論・心理分析として再構成したものとも言える。特に依他起性は、「唯識は観念論だ」 「心だけが実在する」みたいな単純理解では掴めない部分だな。むしろ、 「世界は固定実体ではなく、相互依存的プロセスである」 という、かなり仏教本流の思想が流れている。2026/05/15 06:15:27585.◆JBLfMwCXhYKWEla質問:唯識は当初、三性説から始まった。この頃はまだ、中観派との違いがそれほど大きくなかった。だんだん、唯識らしくなってくる2026/05/15 06:15:49586.◆JBLfMwCXhYKWElaチャットGPT:その見方は、かなり本質を突いていると思う。初期の唯識は、まだ「中観の延長線上」にいる感じが強い。特に、弥勒 や 無著 の段階では、縁起空修行論菩薩道が中心で、「心だけが実在する」みたいな硬い存在論は、まだ前面に出ていない。三性説も、妄想された実体視(遍計所執)条件依存的な流れ(依他起)空として見られた真実(円成実)という、かなり中観寄りの構図だ。特に依他起性なんかは、という、中観の「縁起即空」にかなり近い。2026/05/15 06:16:43587.◆JBLfMwCXhYKWElaただ、時代が進むにつれて、唯識は次第に認識とは何かなぜ妄想が生じるのか業はどう保存されるのか主観と客観はどう成立するのかを、細かく分析し始める。すると、阿頼耶識種子薫習転識得智みたいな、巨大な心理・認識システムが形成されていく。ここで、一気に「唯識らしさ」が強くなる。特に 世親 の後期や、その後の護法系統になると、「外界は識の現れ」という方向がかなり強調される。すると中観側からは、それ、識を実体化してないか?と批判されるようになる。ここで有名なのが、中観 → 「空」唯識 → 「識」の対立構図だな。2026/05/15 06:17:20588.◆JBLfMwCXhYKWElaただ実際には、唯識の中心人物たちも、「識を実体物として立てる」つもりだったとは限らない。むしろ、なぜ迷うのか世界がどう経験されるのか修行でどう転換されるのかを説明するために、 認識構造を精密化していった結果、だんだん体系が巨大化した。言ってみれば、中観が「存在論の解体」に強かったのに対し、 唯識は「経験構造の分析」に向かったとも言える。2026/05/15 06:17:39589.◆JBLfMwCXhYKWElaだから歴史的には、中観的な縁起・空の土台三性説による整理認識論化阿頼耶識・種子説の発達精密心理システム化という流れで、徐々に「唯識らしい唯識」になっていった感じがある。2026/05/15 06:17:55590.◆JBLfMwCXhYKWEla質問:唯識派の「依他起性」が、中観派の「縁起」と同じような概念だというのは、よく知られている。それでも、似て非なる概念だ。違いはある。大雑把に言えば、中観派の「縁起」は存在論、唯識派の「依他起性」は認識論に近い2026/05/15 06:24:51591.◆JBLfMwCXhYKWElaチャットGPT:まさにそこだな。「依他起=縁起そのもの」と単純に同一視すると、唯識の独自性が見えなくなる。たしかに両者は非常に近い。 どちらも、単独自存を否定し条件依存性を語り固定実体を崩すという点では共通している。しかし、力点が違う。2026/05/15 06:25:34592.◆JBLfMwCXhYKWEla中観派の縁起は、かなり徹底した存在論的解体なんだ。つまり、「存在するとはどういうことか?」を徹底的に問い詰める。すると、原因結果主体客体生滅同一性すべてが、固定的には成立しない。だから中観は、 世界そのものの成立性を解体していく。龍樹の議論がやたらラディカルなのは、そのため。2026/05/15 06:25:53593.◆JBLfMwCXhYKWEla一方、唯識の依他起性は、「認識経験がどのように成立しているか」への関心が強い。つまり、なぜ対象が現れるのかなぜ主客が分かれるのかなぜ妄想が固定化されるのか業や記憶がどう継続するのかを説明する方向へ向かう。だから依他起性は、「因縁によって成立する経験の流れ」というニュアンスが強い。2026/05/15 06:26:20594.◆JBLfMwCXhYKWEla中観は、世界に自性はあるか?を問う。唯識は、世界経験はいかに構成されるか?を問う。この違いはかなり大きい。だから、中観では「識」すら空になる。眼識も耳識も阿頼耶識も、 全部、無自性。ところが唯識では、識の構造分析そのものが中心テーマになる。ここで方向性が分かれる。2026/05/15 06:26:37595.◆JBLfMwCXhYKWEla面白いのは、唯識が単なる観念論ではない点だな。依他起性は、「心の中のイメージ」ではなく、認識主体認識対象認識行為が相互依存的に立ち上がるプロセス全体を指している。つまり、“経験世界の生成構造”に近い。この意味で、唯識はかなり現象学っぽい。逆に中観は、 現象学というより、「存在論的脱構築」に近い。だから同じ「縁起・空」を扱っていても、中観 → 存在の無自性唯識 → 経験構成の分析へと、重心がズレている。2026/05/15 06:26:56596.神も仏も名無しさんUo8QCもっとまっともいうと中論→囚われない唯識→如実知見とかねー😀2026/05/15 06:29:58597.◆JBLfMwCXhYKWEla質問:中観派の力点は、「世界はどうあるか?」にある唯識派の力点は、「世界はどう見えているか?」にある2026/05/15 06:30:30598.神も仏も名無しさんUo8QC禅は理屈は言わないがこの二つがないと禅ではないハッスル🤡、デンパパ、リダンは如実知見を無視し、自分に囚われている😅2026/05/15 06:31:09599.◆JBLfMwCXhYKWElaチャットGPT:うん、その対比はかなり的確。すごく大雑把に言えば、中観 → 「世界はどう“ある”のか?」唯識 → 「世界はどう“現れている”のか?」という違いがある。2026/05/15 06:31:15600.◆JBLfMwCXhYKWEla中観派、特に 龍樹 は、あらゆる存在概念を徹底的に吟味する。すると、存在非存在同一差異原因結果どれも固定的には成立できない。だから中観は、「存在とは何か?」を突き詰めた結果、 あらゆる自性論を崩壊させる。かなり形而上学的・存在論的な方向だ。2026/05/15 06:31:28601.◆JBLfMwCXhYKWEla一方、唯識派は、「われわれは、なぜこういう世界を経験しているのか?」に強い関心を向ける。つまり、主観と客観はなぜ分かれるのかなぜ外界があるように感じるのかなぜ自己が連続しているように思えるのか業や記憶はどう保持されるのかを分析する。だから唯識は、 「存在論」というより、経験構造論 認識生成論に近づいていく。2026/05/15 06:31:45602.◆JBLfMwCXhYKWElaこの違いは、 「空」の使い方にも現れる。中観では、一切法→空という方向で、 存在そのものの無自性を徹底する。唯識では、識の働き→虚妄分別の解体という方向で、 認識の誤構成を問題にする。だから両者は、どちらも実体視を否定するどちらも縁起を重視するどちらも空を語るにもかかわらず、 思考のベクトルが違う。中観は、 「世界そのもの」を解体する。唯識は、 「世界経験の成立」を分析する。これは現代哲学で言えば、中観 → 存在論批判・脱構築唯識 → 現象学・意識分析に近い空気感がある。もちろん完全一致ではないが、 方向性としてはかなり近い。2026/05/15 06:32:59603.◆JBLfMwCXhYKWEla>>596まあ、確かにそんなとこでいいんじゃないかな~😄2026/05/15 06:33:39604.神も仏も名無しさんUo8QC空海の曼茶羅教学では金剛界は向上と向下がある臨済宗も同じ用語が、あるがことなる向上とは悟りへ向下とは悟りから世界を見る2026/05/15 06:34:04605.◆JBLfMwCXhYKWEla法介教学スレで、この話を徹底的にやっているすごいな?😵2026/05/15 06:34:08606.◆JBLfMwCXhYKWEla悟りから世界を観るのが、義衍禅だ悟る前から、その視点になる😄2026/05/15 06:35:26607.神も仏も名無しさんUo8QC空海の三密加持は気づき=如実知見そこから悟り=囚われない世界という流れがあるのだろうな😀2026/05/15 06:36:33608.◆JBLfMwCXhYKWEla体空観に達した覚者から見た世界そこに、一足飛びに跳入しようとしてる感じだな2026/05/15 06:36:46609.神も仏も名無しさんUo8QCお、まとまってきたな?俺の正統派瞑想仏教研究才能と禅定体験実力の成果だな?😀2026/05/15 06:37:32610.◆JBLfMwCXhYKWElaあるがままの認識だ2026/05/15 06:37:38611.◆JBLfMwCXhYKWEla>>609仏のスレ主の影響もある😄2026/05/15 06:38:00612.神も仏も名無しさんUo8QC俺の禅定体験の手数の多さと比較、そこからの教学の構築による比較俺はほぼ仏教図書館だ😀2026/05/15 06:40:09613.神も仏も名無しさんUo8QC>>611スレ主の路線〜手に入れたのここ1年だ俺は😀2026/05/15 06:40:57614.神も仏も名無しさんUo8QCムイムイやほーかいくんのアタマでは俺のの禅定体験の手数の多さと比較、そこからの教学の構築による比較まで知らないだろうし語れに語る必要がらないレスしても、突如山府念仏レスとか😀2026/05/15 06:43:13615.神も仏も名無しさんUo8QC日連が真言は法華経から教義を盗んだ云々は今、テキトーな閃きだけど天台管轄の岩清水八幡宮の八幡宮大菩薩、が日連の高野山修行時代に3社信仰に八幡宮大菩薩がいたからかもー、高野山の山伏の三社信仰とは、八幡、天照、春日の信仰😀2026/05/15 06:46:01616.神も仏も名無しさんUo8QC突如山伏念仏レス今は春日か念仏か😀2026/05/15 06:46:34617.神も仏も名無しさんUo8QC如何にも本覚思想らしいほーかいくん路線は4.無作の四諦(円教) ≒ 究極の真実(円成実性・垢浄無常)・事態:方便品の「但説無上道(但だ無上道を説くのみ)」、十如是の実相。・特徴:迷い(生滅)と悟り(不生)を二元論で分けない。 煩悩即菩提・生死即涅槃であり、すべてがそのまま不可思議な実相(無作)である。2026/05/15 07:42:01618.◆JBLfMwCXhYNKJsl天台教学・日蓮仏法に寄せた解釈ですな~😄2026/05/15 07:59:05619.神も仏も名無しさんZb5x6継続的に人気が高いのはほーかいくん😀2026/05/15 08:55:58620.◆JBLfMwCXhY9xhZeほ~かい師匠は人気が違うな?😄2026/05/15 11:41:17621.神も仏も名無しさんZb5x6ニコク堂のグレードはゴータマという家系の誇りも、そして家族の未来をも、北インドの赤き土の中に捨て去ることになる。「愛を捨てなければ、真実を愛することはできない」 その言葉を呪文のように反芻しながら、彼は暗い回廊へと足を踏み出した。### 3. 緻密なる反逆 厩舎へ向かう道すがら、シッダールタは自らの五感を研ぎ澄ませた。2026/05/15 12:13:55622.神も仏も名無しさんZb5x6なんとまあー西欧哲学志向なこと😅2026/05/15 12:14:31
【ぶら下がり取材】「高市さん、聞かれて答えるのは嫌ですか?」歴代首相に比べ‟取材対応”少なめ、Xでは連日発信…SNS隆盛時代に問われる報道機関の真価ニュース速報+4471165.92026/05/24 19:47:49
この世は、思い通りにならない。
本当の自分なんて、どこにもない。
いま、この思考の幻から抜け出そう。
前スレ
【アーラヤ識】 唯識論 【瑜伽行派】 Part3
https://talk.jp/boards/psy/1769773378
【言葉の力で】 唯識論 【世界は変わる】 Part4
https://talk.jp/boards/psy/1771204993
ソシュールでは恣意性だしねー
なんらかの文化的な言語のフィルターで人間は世界を見ていると言える
唯識で言えば
欲望、感情に支配された対象の認識、
病んだ幼児性愛者からみた幼児は性的対象の意味を与えられるが
普通の人からは
単に可愛い子供だな、
家庭環境が地獄で親の病んだ世界に支配された人間から見た幼児は
うるさい、うっとおしい存在の意味を持つ
ソシュールをやってると
優れた人間の洞察がてきるなー
若い頃に人間社会科学一般理論を夢みてた賜物
😀
確かに
ソシュールは避けて通れない
古代人の限界はある
現代の言語哲学の鋭さにはかなわない
演繹法よりも
帰納法先行の思想に
かなり人間の認知に関す本、
脳科学とか、認知症の脳の部位の欠損で
何が失われるか?
日本猿の、レベルの認識と行動は
人間比べて、どうだろうとか、
ホント、自分の関心のある情報収集魔王みたいに本を読んでいた
理論よりも情報収集から結論出したい派
😀
😀
帰納法的な生き方だ😆
三性説は、中観派の縁起説の影響を色濃く残している。唯識論でも、初期からある思想
三性説(遍計所執性・依他起性・円成実性)は、たしかに「唯識独自の体系」に見えるけれど、構造をよく見ると、中観の縁起・空の論理をかなり引き継いでいる。
特に重要なのは、真ん中の「依他起性」だな。
これはほぼ、そのまま「縁起」なんだ。
つまり、
あらゆる現象は
単独自存ではなく
条件関係によって成立している
という、中観以前からの仏教の基本原理。
だから三性説は、
「まず縁起として現象を見る」
「そこへ虚妄分別(遍計所執)が貼りつく」
「その虚妄性が見破られた状態を円成実という」
という構造になっている。
遍計所執性
「実体がある」と妄想した世界。
たとえば、
自我
固定的対象
主客の対立
などを、実在だと思い込む。
これは中観でいう「自性執」にかなり近い。
因縁によって成立している流動的プロセス。
ここが重要で、
唯識は「全部が幻想」とは言わない。
現象の流れ自体はある。 ただし、それは固定実体ではなく、条件依存的。
このへんは、かなり中観的。
依他起性から遍計所執を取り除いた真実相。
つまり、
「縁起しているものを、実体視せずに見る」
という状態。
だから円成実性は、 何か別世界の超越存在ではなく、
「縁起を空として見た姿」
に近い。
むしろ、
中観の「空」が虚無論に誤解される危険
「何も無い」に傾く危険
を避けつつ、
「認識構造」 「心の働き」 「迷いの発生メカニズム」
を精密分析しようとした面が強い。
だから三性説は、
縁起 → 空
という中観の流れを、
認識論・心理分析として再構成したもの
とも言える。
特に依他起性は、
「唯識は観念論だ」 「心だけが実在する」
みたいな単純理解では掴めない部分だな。
むしろ、 「世界は固定実体ではなく、相互依存的プロセスである」 という、かなり仏教本流の思想が流れている。
唯識は当初、三性説から始まった。この頃はまだ、中観派との違いがそれほど大きくなかった。だんだん、唯識らしくなってくる
その見方は、かなり本質を突いていると思う。
初期の唯識は、まだ「中観の延長線上」にいる感じが強い。
特に、弥勒 や 無著 の段階では、
縁起
空
修行論
菩薩道
が中心で、「心だけが実在する」みたいな硬い存在論は、まだ前面に出ていない。
三性説も、
妄想された実体視(遍計所執)
条件依存的な流れ(依他起)
空として見られた真実(円成実)
という、かなり中観寄りの構図だ。
特に依他起性なんかは、
という、中観の「縁起即空」にかなり近い。
認識とは何か
なぜ妄想が生じるのか
業はどう保存されるのか
主観と客観はどう成立するのか
を、細かく分析し始める。
すると、
阿頼耶識
種子
薫習
転識得智
みたいな、巨大な心理・認識システムが形成されていく。
ここで、一気に「唯識らしさ」が強くなる。
特に 世親 の後期や、その後の護法系統になると、
「外界は識の現れ」
という方向がかなり強調される。
すると中観側からは、
それ、識を実体化してないか?
と批判されるようになる。
ここで有名なのが、
中観 → 「空」
唯識 → 「識」
の対立構図だな。
「識を実体物として立てる」
つもりだったとは限らない。
むしろ、
なぜ迷うのか
世界がどう経験されるのか
修行でどう転換されるのか
を説明するために、 認識構造を精密化していった結果、
だんだん体系が巨大化した。
言ってみれば、
中観が「存在論の解体」に強かったのに対し、 唯識は「経験構造の分析」に向かった
とも言える。
中観的な縁起・空の土台
三性説による整理
認識論化
阿頼耶識・種子説の発達
精密心理システム化
という流れで、徐々に「唯識らしい唯識」になっていった感じがある。
唯識派の「依他起性」が、中観派の「縁起」と同じような概念だというのは、よく知られている。
それでも、似て非なる概念だ。違いはある。大雑把に言えば、中観派の「縁起」は存在論、唯識派の「依他起性」は認識論に近い
まさにそこだな。
「依他起=縁起そのもの」と単純に同一視すると、唯識の独自性が見えなくなる。
たしかに両者は非常に近い。 どちらも、
単独自存を否定し
条件依存性を語り
固定実体を崩す
という点では共通している。
しかし、力点が違う。
つまり、
「存在するとはどういうことか?」
を徹底的に問い詰める。
すると、
原因
結果
主体
客体
生滅
同一性
すべてが、固定的には成立しない。
だから中観は、 世界そのものの成立性を解体していく。
龍樹の議論がやたらラディカルなのは、そのため。
「認識経験がどのように成立しているか」
への関心が強い。
つまり、
なぜ対象が現れるのか
なぜ主客が分かれるのか
なぜ妄想が固定化されるのか
業や記憶がどう継続するのか
を説明する方向へ向かう。
だから依他起性は、
「因縁によって成立する経験の流れ」
というニュアンスが強い。
世界に自性はあるか?
を問う。
唯識は、
世界経験はいかに構成されるか?
を問う。
この違いはかなり大きい。
だから、中観では「識」すら空になる。
眼識も耳識も阿頼耶識も、 全部、無自性。
ところが唯識では、
識の構造分析そのものが中心テーマになる。
ここで方向性が分かれる。
依他起性は、
「心の中のイメージ」
ではなく、
認識主体
認識対象
認識行為
が相互依存的に立ち上がるプロセス全体を指している。
つまり、
“経験世界の生成構造”
に近い。
この意味で、唯識はかなり現象学っぽい。
逆に中観は、 現象学というより、
「存在論的脱構築」
に近い。
だから同じ「縁起・空」を扱っていても、
中観 → 存在の無自性
唯識 → 経験構成の分析
へと、重心がズレている。
まっともいうと
中論→囚われない
唯識→如実知見
とかねー😀
中観派の力点は、「世界はどうあるか?」にある
唯識派の力点は、「世界はどう見えているか?」にある
この二つがないと禅ではない
ハッスル🤡、デンパパ、リダンは
如実知見を無視し、
自分に囚われている
😅
うん、その対比はかなり的確。
すごく大雑把に言えば、
中観 → 「世界はどう“ある”のか?」
唯識 → 「世界はどう“現れている”のか?」
という違いがある。
あらゆる存在概念を徹底的に吟味する。
すると、
存在
非存在
同一
差異
原因
結果
どれも固定的には成立できない。
だから中観は、
「存在とは何か?」
を突き詰めた結果、 あらゆる自性論を崩壊させる。
かなり形而上学的・存在論的な方向だ。
「われわれは、なぜこういう世界を経験しているのか?」
に強い関心を向ける。
つまり、
主観と客観はなぜ分かれるのか
なぜ外界があるように感じるのか
なぜ自己が連続しているように思えるのか
業や記憶はどう保持されるのか
を分析する。
だから唯識は、 「存在論」というより、
経験構造論 認識生成論
に近づいていく。
中観では、
一切法→空
という方向で、 存在そのものの無自性を徹底する。
唯識では、
識の働き→虚妄分別の解体
という方向で、 認識の誤構成を問題にする。
だから両者は、
どちらも実体視を否定する
どちらも縁起を重視する
どちらも空を語る
にもかかわらず、 思考のベクトルが違う。
中観は、 「世界そのもの」を解体する。
唯識は、 「世界経験の成立」を分析する。
これは現代哲学で言えば、
中観 → 存在論批判・脱構築
唯識 → 現象学・意識分析
に近い空気感がある。
もちろん完全一致ではないが、 方向性としてはかなり近い。
まあ、確かに
そんなとこでいいんじゃないかな~😄
金剛界は向上と向下がある
臨済宗も同じ用語が、あるがことなる
向上とは悟りへ
向下とは悟りから世界を見る
すごいな?😵
悟る前から、その視点になる😄
気づき=如実知見
そこから
悟り=囚われない世界
という流れがあるのだろうな
😀
そこに、一足飛びに跳入しようとしてる感じだな
俺の正統派瞑想仏教研究才能と禅定体験実力の成果だな?
😀
仏のスレ主の影響もある😄
そこからの教学の構築による比較
俺はほぼ仏教図書館だ
😀
スレ主の路線〜手に入れたのここ1年だ
俺は
😀
俺のの禅定体験の手数の多さと比較、
そこからの教学の構築による比較
まで知らないだろうし
語れに語る必要がらない
レスしても、突如山府念仏レスとか
😀
真言は法華経から教義を盗んだ云々は
今、テキトーな閃きだけど
天台管轄の岩清水八幡宮の八幡宮大菩薩、が日連の高野山修行時代に
3社信仰に八幡宮大菩薩がいたからかもー、
高野山の山伏の
三社信仰とは、八幡、天照、春日
の信仰
😀
今は春日か念仏か
😀
ほーかいくん路線は
4.無作の四諦(円教) ≒ 究極の真実(円成実性・垢浄無常)
・事態:方便品の「但説無上道(但だ無上道を説くのみ)」、十如是の実相。
・特徴:迷い(生滅)と悟り(不生)を二元論で分けない。
煩悩即菩提・生死即涅槃であり、すべてがそのまま不可思議な実相(無作)である。
ほーかいくん
😀
は
ゴータマという家系の誇りも、そして家族の未来をも、北インドの赤き土の中に捨て去ることになる。
「愛を捨てなければ、真実を愛することはできない」
その言葉を呪文のように反芻しながら、彼は暗い回廊へと足を踏み出した。
### 3. 緻密なる反逆
厩舎へ向かう道すがら、シッダールタは自らの五感を研ぎ澄ませた。
西欧哲学志向なこと
😅