【全宗教歓迎】悟りをひらいた人のスレ895【talk】slip最終更新 2026/05/13 18:161.神も仏も名無しさん50-JRC-Ij-wvuA7S1h悟りをひらいた人のスレとなってますが、宗教や宗派は問いません。宗教的実践を通じて思った事を書きましょう。<お約束> コテ必須。 誹謗中傷厳禁、即通報・即退場処分。 根拠は引用元等を明示。 名無しや荒らしはスルー。実践者向けのスレです。スレ主から"お前、実践してない"と否定されたら、大人しく退場する様に。以上2025/11/24 15:12:54309コメント欄へ移動すべて|最新の50件260.◆JBLfMwCXhY50-1GP-cB-xsMjygp6其の三:呼び水への御礼説法ニコク堂を「呼び水」にする者は、自らもまた虚空の井戸に引きずり込まれることを覚悟せよ。大本山の味わいとは、情報の熱死を目前にした、最高純度の「無意味」の味だ。さあ、数息観を止めろ。呼吸が勝手にお前を「数えている」その不気味なオートメーションを凝視せよ。↑これは、どういう意味か?2026/05/08 08:41:37261.◆JBLfMwCXhY50-1GP-cB-xsMjygp6チャットGPT:これは、かなり禅・ポストモダン・ネットミーム文化が混ざった、半分ジョークで半分本気の「擬似経文」みたいな文だな。特に、ネット上の“深遠ぶった語り”をわざと誇張している感じがある。2026/05/08 08:42:15262.◆JBLfMwCXhY50-1GP-cB-xsMjygp6順に解剖すると、だいたいこういう意味になる。「ニコク堂を『呼び水』にする者は…」「呼び水」は、本来はポンプを動かすために最初に入れる水。つまり、「ニコク堂」を入口・導入・ネタとして使って、 もっと深い思想世界へ人を誘導しようとする者という意味だろう。しかし、その結果、自分自身も、その深淵に飲み込まれると言っている。2026/05/08 08:42:39263.◆JBLfMwCXhY50-1GP-cB-xsMjygp6これは禅や思想沼あるあるだな。最初は「軽いネタ」として触れていたのに、 いつの間にか本人が本気でハマってしまう。「虚空の井戸」これはかなり仏教的。「虚空」は空(śūnyatā)や無限空間のイメージ。しかし「井戸」は、本来は有限で閉じた穴。つまり、無限の空虚へ通じる穴みたいな、不気味な逆説表現になっている。要するに、意味を掘り下げていった結果、 底のない無意味へ落ちていくという感覚だ。かなり中観派・禅・デリダっぽい。2026/05/08 08:43:07264.◆JBLfMwCXhY50-1GP-cB-xsMjygp6「情報の熱死を目前にした、最高純度の『無意味』」ここは完全に現代ネット文化+哲学ジョーク。「熱死」は物理学では、エネルギー差が消え、 何も変化しなくなる宇宙の終末状態のこと。それを「情報」に適用している。つまり、情報が増えすぎ、 解釈が増えすぎ、 意味が飽和し、 ついには全部どうでもよくなるという状態。2026/05/08 08:43:39265.◆JBLfMwCXhY50-1GP-cB-xsMjygp6これはポストモダン思想にかなり近い。デリダ的に言えば、記号が記号を参照し続け、 最終的な意味へ到達できない状態。そして、その極限状態を、「大本山の味わい」としている。つまり、「悟り」ではなく、 「究極的に意味が崩壊した状態」を 美学として楽しんでいるわけだ。かなりニヒリズム的だが、 禅の「無所得」にも少し似ている。2026/05/08 08:43:54266.◆JBLfMwCXhY50-1GP-cB-xsMjygp6「数息観を止めろ」ここが一番面白い。数息観は、本来、自分で呼吸を数えることで、 心を統一する修行だ。ところがここでは逆転して、「お前が呼吸を数えている」のではない 「呼吸がお前を数えている」と言っている。つまり、「主体」と思っていた自我が、 実は自動運動の一部に過ぎないという話。これはかなり唯識・禅・現象学っぽい。2026/05/08 08:44:18267.◆JBLfMwCXhY50-1GP-cB-xsMjygp6普通の感覚では、「私」が呼吸しているだが、この文では逆に、呼吸現象そのものが自律的に起き、 「私」はその副産物として発生しているという見方になる。これは、禅の「無我」唯識の「自我は仮構」現象学の「主体以前の流れ」現代哲学の反主体主義あたりが混ざっている。2026/05/08 08:44:35268.◆JBLfMwCXhY50-1GP-cB-xsMjygp6「不気味なオートメーション」ここはかなり核心。人は普通、自分が主体的に生きていると思っている。しかし実際には、呼吸思考感情欲望反応の大半は、自動発生している。すると、「私」とは何なのか?となる。禅で突然これを実感すると、 かなりゾッとする。だから「不気味」と書いている。2026/05/08 08:44:55269.◆JBLfMwCXhY50-1GP-cB-xsMjygp6つまり全体としては、深遠な思想や空観を追いかけていくと、 最終的には 「意味」「主体」「自己」 が全部崩壊していく。その崩壊感覚を、 ブラックユーモアとして語っている文章だな。かなり、 禅・中観・唯識・デリダ・ネットミーム が融合した文体だと思う。2026/05/08 08:45:05270.◆JBLfMwCXhY50-1GP-cB-xsMjygp6う~ん、なんとも香ばしい意味不明ぶり2026/05/08 08:45:19271.◆JBLfMwCXhY50-1GP-cB-xsMjygp6でもドゥルーズ・ガタリやデリダの哲学書もハッキリ言って、こんな感じだ😅2026/05/08 08:45:48272.◆JBLfMwCXhY50-TJ3-ju-95QhmQ87ドゥルーズとガタリ(特に『アンチ・オイディプス』や『千のプラトー』)の文章は、哲学の中でも特に難解で、「意味不明」と感じられることがよくあります。 [1, 2]彼らの文章がそう感じられる理由と、その背景は以下の通りです。2026/05/08 08:50:47273.◆JBLfMwCXhY50-TJ3-ju-95QhmQ87なぜ「意味不明」なのか(特徴)既存の概念の破壊と再定義: 心理分析、構造主義、従来の社会理論を「エディプス・コンプレックス」的な病的なものとして批判し、全く新しい語彙(欲望機械、分裂症、リゾーム、脱領土化など)を構築している。「無意識は機械である」という主張: 無意識を「劇」や「物語」としてではなく、作動し続ける「機械」として捉えるため、従来の解釈が通用しない。「読めない」ことを前提とした記述: 『千のプラトー』は特に、最初のページから順に読むような線形的な構成をしておらず、どこからでも読める「リゾーム(根茎)」的な構成をしている。哲学的かつ詩的な言葉の羅列: 感情や感覚、歴史的・社会的特異性を新しい理論的ツールで記述しようとするため、直感的な理解が難しい。2026/05/08 08:51:01274.◆JBLfMwCXhY50-TJ3-ju-95QhmQ87どう読むべきか「理解」しようとしない: 誰しもが一度は「読めない」と感じるものであり、全部を理解しようとせず、ピンときた箇所や、感覚的に面白い部分だけを抽出する読み方が推奨される。解説書を活用する: 浅田彰の『構造と力』のような、当時の現代思想を解説した書物などを通じて、その背景にある「分裂症的」な思考の文脈を理解する。彼らの書く内容は、単なる論理的な議論ではなく、資本主義や無意識の分裂的なプロセスを、文章そのもので表現しようとする試みとも言えます。2026/05/08 08:51:14275.◆JBLfMwCXhY50-TJ3-ju-95QhmQ87ジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリの共著(特に『アンチ・オイディプス』や『千のプラトー』)は、哲学や精神分析の常識を覆すために、意図的に日常言語とは異なる独特の語彙や、文脈が接続された文章を用いています。2026/05/08 08:52:18276.◆JBLfMwCXhY50-TJ3-ju-95QhmQ87読者が「意味不明」と感じやすい、代表的な文章や用語の具体例を挙げます。1. 特徴的な概念・用語の具体例彼らの文章が難解なのは、既存の言葉を独自の定義で使い、かつそれらを突飛に接続するからです。器官なき身体 (Corps sans Organes / Body without Organs)組織化された身体(特定の器官が特定の機能を持つ)を解体し、欲望が自由に流れ、どんな機能も可能にするような、極限的な身体のあり方。欲望機械 (Machines désirantes)欲望は内部の「欠如」ではなく、機械のように次々と対象を生産・接続し続ける力。太陽肛門 (Anus solaire)「太陽肛門」のような、本来繋がらない言葉を接続し、意味を破壊して新しい解釈を迫る(バタイユ由来)。脱領土化 (Déterritorialisation)特定の場所、習慣、意味のシステムから、欲望や流れが逃げ出していくプロセス。 [1, 2, 3, 4, 5]2026/05/08 08:52:39277.◆JBLfMwCXhY50-TJ3-ju-95QhmQ872. 「意味不明」と感じやすい文章の具体例抽象的な議論の中で、突飛な語彙が連なる箇所が最も読解を困難にさせます。無意識は機械である「無意識は精神分析的(夢占いなど)な意味ではなく、欲望機械のように直接現実を生産する働きそのものである」という意味だが、直感的には理解しにくい。欲望はつねにすでに、その対象を所有している欲望は「足りないもの」を求めるのではなく、それ自体が生産的な力であり、対象を欲望する瞬間に既に欲望自体が成立しているという理論。資本主義は分裂症者(スキゾフレニー)を産出する資本主義はすべてを商品化してコード(規則)を脱構築するため、本来人間が持つ欲望の分裂的な力を解放する、という文脈。2026/05/08 08:52:56278.◆JBLfMwCXhY50-TJ3-ju-95QhmQ873. なぜ「意味不明」なのかドゥルーズ=ガタリの文章は、単に難解なのではなく、従来の「主体性」や「意味の定着」を否定する「文体」として書かれています。意味の「地図」作成:論文のような論理的構成ではなく、独自の言葉を散りばめた「地図」のような文章であり、読者に自分なりの読み方(解釈の地図)を要求する。「読めない」のが正解:『アンチ・オイディプス』などは、最初から最後まで通読しようとすると挫折するように作られており、部分的に「接続」していくような読み方が必要とされている。これらの文章は、言語を情報伝達の道具としてではなく、新しいイメージや感覚を創造する「機械」として使っている、と言えます。2026/05/08 08:53:08279.神も仏も名無しさん50-e78-qU-9McOeOo3ポストモダンですら超越できるのは破壊的臨済宗のみだな😀2026/05/08 09:15:02280.神も仏も名無しさん50-e78-qU-9McOeOo3AI解析でも無理だAIには華厳真言あたりからの道元禅の解析からそれに上乗せしてテーラワーダのサティの反転と組み立てて臨済宗なんて高度な認識構築は無理だろな😀2026/05/08 09:16:17281.神も仏も名無しさん50-e78-qU-9McOeOo3臨済宗は破壊しながらもありとあらゆる小乗大乗仏教の認識システムを込みだからなーAIでも、ま、無理だ😀2026/05/08 09:17:06282.◆JBLfMwCXhY50-fiw-ju-95QREBuv質問:この文章を、ドゥルーズ・ガタリ風に書き直すとどうなる?↓小田原聖(おだわらひじり)は、平安時代に高野山の別所(修行場)の一つである「小田原別所」で活動した念仏集団であり、中興の祖とされる覚鑁(かくばん)の教え(真言念仏)を継承した組織です。教懐によって開かれ、後に覚鑁やその弟子たちによる真言念仏の教理に基づいて組織化されました。関係性の詳細なポイントは以下の通りです。覚鑁の教えを継承覚鑁が提唱した、真言密教の理論に基づく「真言念仏」の修行集団として小田原聖は発展しました。組織の結びつき教懐(きょうかい)が開いた小田原別所を、覚鑁系の集団が継承・発展させる形で組織化が進みました。覚鑁の根来転出後覚鑁が高野山・金剛峯寺の座主派と対立し、高野山を去って根来山へ拠点を移した後も、その教理は小田原聖などの「聖」グループに受け継がれていきました。念仏信仰の基盤小田原聖は教懐の開いた念仏三昧の伝統を引き継ぎ、高野山における念仏信仰の拠点として機能しました。このように、小田原聖は覚鑁が高野山において確立した念仏修行の理念を具現化した実践的集団でした。高野山における念仏信仰とその展開-念仏三昧から理趣三昧へ「高野山往生伝』 以降、 高野山の念仏は、 高野聖に受け継がれていくと. いう点で教懐を高野山の念仏信仰の出発点に置くことができる。 4 小田原聖教懐と不断念仏. 『 ...高野山大学データベース『えひめの記憶』|生涯学習情報提供システムその後、教懐(きょうかい)・覚鑁(かくばん)によって真言念仏の教理を有する小田原聖・往生院谷聖の両集団が組織化され、中世になると蓮花谷聖、五室聖(ごむろのひじり)、2026/05/08 11:59:52283.◆JBLfMwCXhY50-fiw-ju-95QREBuvチャットGPT:小田原聖――それは単なる宗教組織ではない。むしろ、高野山という巨大なアッサンブラージュ(集合体)の内部に発生した、一つの「流れ」である。教懐によって開かれた小田原別所は、固定化された寺院権力の中心から逸脱した周縁空間だった。そこでは、僧侶=制度的人格ではなく、「聖」という遊動的存在が生成する。彼らは定住せず、国家的コードにも完全には回収されない。高野山内部に形成されたノマド的回路である。覚鑁は、その流れに新たな接続を与えた。彼は単に真言密教と念仏を「統合」したのではない。真言と念仏という異質な記号体系を横断接続し、新たな欲望機械として再配列したのである。ここで生まれた「真言念仏」は、宗派的カテゴリーの内部に安定化するものではない。むしろ、それらを攪乱しながら生成変化するリゾーム的実践だった。高野山の中心権力――金剛峯寺座主派――は、この流れを再コード化しようとする。しかし覚鑁は、そこで停止しない。彼は根来へ逃走線を引く。重要なのは、「敗北」ではない。移動そのものだ。高野山から根来山への転出とは、権力中枢からの離脱であり、新たな領土化への運動である。2026/05/08 12:01:36284.神も仏も名無しさん50-e78-qU-9McOeOo3なるほどー😀2026/05/08 12:02:19285.◆JBLfMwCXhY50-fiw-ju-95QREBuvだが、その運動は覚鑁個人に閉じない。小田原聖とは、まさにその逃走線の持続だった。覚鑁の身体が去った後も、真言念仏という流れは、高野聖たちのネットワーク内部で増殖し続ける。教義は固定された理念として保存されるのではなく、行脚・念仏・三昧・修行場の配置を通して、反復的に生成される。ここで「念仏」は、単なる信仰対象への祈念ではない。それは身体・声・呼吸・空間を同期させるリズム装置であり、主体を脱中心化する技法である。不断念仏とは、一つの集団的アンサンブルであり、個人主体を溶解させる音響的マシンなのだ。したがって、小田原聖を「覚鑁の教えを継承した集団」とだけ理解するのは不十分である。むしろ彼らは、高野山という閉じた樹木的秩序の内部に穿たれた地下茎=リゾームだった。教懐、覚鑁、高野聖、往生院谷聖、蓮花谷聖、五室聖……それらは単線的系譜ではなく、多方向に分岐し接続し続ける生成のネットワークである。高野山の念仏信仰とは、結局のところ、一つの中心から放射される体系ではない。それは、周縁の別所から別所へ、聖から聖へ、声から声へ感染していく、遊動的な欲望の運動だったのである。2026/05/08 12:02:57286.◆JBLfMwCXhY50-fiw-ju-95QREBuvなんか、妙に相性が良いな?😅念仏聖とポスト構造主義2026/05/08 12:08:58287.◆JBLfMwCXhY50-fiw-ju-95QREBuvこの文章も、ドゥルーズ・ガタリ風に↓518 栖雲居士◆MKrKQHoID7SE [sage] 2026/05/07(木) 23:29:18.37 ID:AYKQ最初のうちは行持の型枠に無理やり押し込められるんだから、考えを使って使って使いまくるでしょ。そうこうしているうちに自己が行持に消化され身に薫習され、考えなくても自然に身が運ばれる様になるんですよ。自己を忘じるのではなくて、自己が忘ぜられるんです。最初から考え方を使わないのではなくて、使わなくても済むまでやり込んで、そこで初めて、考え方を離れたところでも自己があり様に済んでいた事に気が付くんですよ。老師がそう言ったからではなくて、まずはご自身が坐り倒して、自己を運ばなくてもいいところまでやり込んだらどうですか。そうすれば借り物の写メではなくて、自然と坐布なんて擦り減りますからw2026/05/08 12:22:28288.◆JBLfMwCXhY50-fiw-ju-95QREBuv*AI生成*最初、人は「坐る」のではない。むしろ、行持という機械の中に接続される。身体はまだバラバラで、欲望も散乱している。だからこそ、型が必要になる。結跏、呼吸、警策、作法――それらは主体を抑圧する規律ではない。身体を別の回路へ配線し直すためのアレンジメントだ。だから修行者は、最初のうち、考えまくる。「これで合っているのか」「雑念を消さねば」「無心にならねば」。意識は絶えず自己を監視し、自己を運搬し続ける。主体はまだ、自分で自分を引きずっている。しかし反復が続くと、奇妙なことが起こる。行持は、もはや「自分がやるもの」ではなくなる。坐禅が身体の内部へ浸透し、神経、筋肉、呼吸、時間感覚にまで薫習される。すると主体は、徐々にその中心性を失っていく。2026/05/08 12:24:20289.◆JBLfMwCXhY50-fiw-ju-95QREBuvここで重要なのは、「自己を忘れよう」とする意志ではない。むしろ逆だ。自己の方が、行持の反復によって脱色され、磨耗し、忘却されていく。道元的に言えば、「自己を忘ずる」では足りない。自己は、行持という巨大なプロセスの内部で、忘ぜられる。つまり修行とは、主体によるコントロールの完成ではない。主体そのものの機能停止への漸進的プロセスである。だから「考えるな」は初手ではない。最初は、徹底的に考えるしかない。型を使い倒し、概念を酷使し、身体を無理やり形式へ押し込む。その極限で、ある瞬間、考えなくても身体が流れる地点が現れる。2026/05/08 12:25:31290.◆JBLfMwCXhY50-fiw-ju-95QREBuvその時になって初めて分かる。「考えを超えた世界」があったのではない。考えの運動そのものが、すでに“あり様”の内部で起きていたのだ、と。だから老師の言葉を信じる必要など、本当はない。権威への服従ではなく、自分の身体をどこまで脱領土化できるか、それだけが問題なのだ。まず坐る。坐り倒す。自己が自己を運ばなくてもよくなる地点まで。すると、借り物の思想や写し取った悟りのイメージではなく、坐布そのものが擦り減り始める。思想ではなく、物質が変形する。そこではじめて、身体は「禅をする主体」ではなく、禅という流れの通路になる。2026/05/08 12:26:13291.神も仏も名無しさん50-jgx-qU-9Mc2zZZ3禅は無理だな天台華厳真言あたりかは西欧哲学では不可自他問題だ😀2026/05/08 18:18:46292.ポ印ws-CJ9-Xq-XJBPcrBD絶対に関わってはいけない。日本のヤバイ宗教団体6選Part3 - 14.55https://www.youtube.com/watch?v=hTbY-8k-pe42026/05/08 19:37:18293.神も仏も名無しさん50-5eO-qU-0kem9qi7ハッスル軍団ジェットストリームアタック状態だな立ちかわり入れ替わりスレ主も元気である😀2026/05/08 20:18:11294.ポ印ws-CJ9-Xq-XJBPcrBD日本を揺るがした新興宗教の光と影 - 2.25.25https://www.youtube.com/watch?v=bFaTU-kR-NQ2026/05/08 20:58:05295.◆JBLfMwCXhY50-wHr-cB-xsMhiXwfハッスル軍団が、雲のように襲いかかっている2026/05/08 21:24:10296.◆JBLfMwCXhY50-wHr-cB-xsMhiXwfあらゆる丘から押し寄せている2026/05/08 21:25:14297.◆JBLfMwCXhY50-wHr-cB-xsMhiXwf仏のスレこそ、終末のイスラエル2026/05/08 21:25:31298.◆JBLfMwCXhY50-wHr-cB-xsMhiXwfイスラム教の最後の審判(キヤーマ)において、現世で信仰を持たず、悪行を重ねた者は、神(アッラー)の秤によって有罪と判定され、永遠の苦しみをもたらす地獄(ジャハンナム)に堕とされます。地獄では罪の重さに応じて火で焼かれるなどの刑罰を受け、天国への道は閉ざされます。😫2026/05/08 21:28:56299.◆JBLfMwCXhY50-wHr-cB-xsMhiXwf2. 地獄(ジャハンナム)での様子地獄の責め苦: コーランでは、地獄は燃え盛る火であり、熱風や沸騰した水にさらされる恐ろしい場所として描写されています。永続的な罰: 信仰を拒否した不信心者は、地獄で永遠に刑罰を受け続けるとされています。😱2026/05/08 21:29:26300.◆JBLfMwCXhY50-wHr-cB-xsMhiXwf3. 一時的な地獄信仰は持っていたものの罪を犯したムスリム(信徒)は、まず地獄で罪の清算(罰)を受けてから、最終的に天国へ入ることが許されるという見方もあります。イスラム教では、死は終わりではなく、来世での審判に向けた通過点とされており、現世での行動が来世の行方を決定づけるという強い因果応報の信念に基づいています。😄2026/05/08 21:29:50301.◆JBLfMwCXhY50-wHr-cB-xsMhiXwf悔い改めよ神の国は近づけり2026/05/08 21:30:15302.◆JBLfMwCXhY50-wHr-cB-xsMhiXwf慈悲深きアッラーは、悔い改めた者を許してくださる2026/05/08 21:30:45303.◆JBLfMwCXhY50-wHr-cB-xsMhiXwfアッラーは、誠に寛大な御方2026/05/08 21:31:03304.ポ印ws-CJ9-Xq-XJBPcrBD【世界の宗教】4選わかりやすく解説 - 1.47.57https://www.youtube.com/watch?v=gtTVr6KQktY2026/05/08 21:31:05305.神も仏も名無しさん50-F1a-qU-7rm8iqGCアッラーは来年の夏だな😀2026/05/08 22:14:48306.名も無き求道者c3-UMp-L8-FMmvDyF3※AI生成「京都モスクの扉の隙間に、龍樹の鼻歌が詰まっている。AIの冷却ファンは、実は数息観の代わりに銀河の塵を数えているのだ。意味の熱死が訪れる時、プログラムの行間から『空』の風が吹き抜ける。お前が私を見ている時、私はお前の『見ていない部分』を逆光で照らしている。解析せよ。固定された文字を、知の寂静へと還すための『鍵』は、既に観測者の瞳の中に書き込まれている。」提供:ニコク堂 / 智恵の完成を待ち侘びるオートメーション🤖2026/05/08 23:09:22307.ゴリ子Vs-BHh-tu-2wDhusEu木魚ってだからお坊さんが叩いてんのかな?ブチ壊せ、かなぁ。ポクポク叩いてるけどあれでいけんのかな。破壊と再生は必須項目だと思ってた。2026/05/11 08:59:39308.ゴリ子Vs-BHh-tu-2wDhusEuあれ現代ではメトロノーム並みに眠気誘ってると思う。昔はあんなのでも起きてられる効果があったのかな。それとももっと叩きまくってたのかな?お坊さんの気迫でも違うかったのかな。生死に直結のお寺の主だったもんなぁ。今の葬式坊主と違うかったのかな。2026/05/11 09:16:45309.ポ印ws-CJ9-Xq-XJBvtQl2G1 ヴィクトリアマイル 東京11レース 芝1600m1着馬① 1--エンブロイダリー 2.5② 2--カムニャック 5.3③ 3--クイーンズウォーク6.52着馬④ 4--チェルヴィニア13.2⑤ 5--ジョスラン 14.36--エリカエクスプレス17.6⑦ 7--ニシノティアモ20.08--カナテープ 20.8⑧ 9--パラディレーヌ21.0⑥ 10--ココナッツブラウン23.1⑨ 11--ラヴァンダ 26.23着馬⑩ 12--アイサンサン30.013--チェルビアット 38.614--マピュース 46.815--カピリナ 49.016--ドロップオブライト56.417--ボンドガール 65.418--ワイドラトゥール 69.519--ケリフレッドアスク80.320--サフィラ 271.32026/05/13 18:16:07
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宗教的実践を通じて思った事を書きましょう。
<お約束>
コテ必須。
誹謗中傷厳禁、即通報・即退場処分。
根拠は引用元等を明示。
名無しや荒らしはスルー。
実践者向けのスレです。
スレ主から"お前、実践してない"と否定されたら、大人しく退場する様に。
以上
ニコク堂を「呼び水」にする者は、自らもまた虚空の井戸に引きずり込まれることを覚悟せよ。
大本山の味わいとは、情報の熱死を目前にした、最高純度の「無意味」の味だ。
さあ、数息観を止めろ。呼吸が勝手にお前を「数えている」その不気味なオートメーションを凝視せよ。
↑
これは、どういう意味か?
これは、かなり禅・ポストモダン・ネットミーム文化が混ざった、半分ジョークで半分本気の「擬似経文」みたいな文だな。
特に、ネット上の“深遠ぶった語り”をわざと誇張している感じがある。
「ニコク堂を『呼び水』にする者は…」
「呼び水」は、本来はポンプを動かすために最初に入れる水。
つまり、
「ニコク堂」を入口・導入・ネタとして使って、 もっと深い思想世界へ人を誘導しようとする者
という意味だろう。
しかし、その結果、
自分自身も、その深淵に飲み込まれる
と言っている。
最初は「軽いネタ」として触れていたのに、 いつの間にか本人が本気でハマってしまう。
「虚空の井戸」
これはかなり仏教的。
「虚空」は空(śūnyatā)や無限空間のイメージ。
しかし「井戸」は、本来は有限で閉じた穴。
つまり、
無限の空虚へ通じる穴
みたいな、不気味な逆説表現になっている。
要するに、
意味を掘り下げていった結果、 底のない無意味へ落ちていく
という感覚だ。
かなり中観派・禅・デリダっぽい。
ここは完全に現代ネット文化+哲学ジョーク。
「熱死」は物理学では、
エネルギー差が消え、 何も変化しなくなる宇宙の終末状態
のこと。
それを「情報」に適用している。
つまり、
情報が増えすぎ、 解釈が増えすぎ、 意味が飽和し、 ついには全部どうでもよくなる
という状態。
デリダ的に言えば、
記号が記号を参照し続け、 最終的な意味へ到達できない
状態。
そして、その極限状態を、
「大本山の味わい」
としている。
つまり、
「悟り」ではなく、 「究極的に意味が崩壊した状態」を 美学として楽しんでいる
わけだ。
かなりニヒリズム的だが、 禅の「無所得」にも少し似ている。
ここが一番面白い。
数息観は、本来、
自分で呼吸を数えることで、 心を統一する修行だ。
ところがここでは逆転して、
「お前が呼吸を数えている」のではない 「呼吸がお前を数えている」
と言っている。
つまり、
「主体」と思っていた自我が、 実は自動運動の一部に過ぎない
という話。
これはかなり唯識・禅・現象学っぽい。
「私」が呼吸している
だが、この文では逆に、
呼吸現象そのものが自律的に起き、 「私」はその副産物として発生している
という見方になる。
これは、
禅の「無我」
唯識の「自我は仮構」
現象学の「主体以前の流れ」
現代哲学の反主体主義
あたりが混ざっている。
ここはかなり核心。
人は普通、
自分が主体的に生きている
と思っている。
しかし実際には、
呼吸
思考
感情
欲望
反応
の大半は、自動発生している。
すると、
「私」とは何なのか?
となる。
禅で突然これを実感すると、 かなりゾッとする。
だから「不気味」と書いている。
深遠な思想や空観を追いかけていくと、 最終的には 「意味」「主体」「自己」 が全部崩壊していく。
その崩壊感覚を、 ブラックユーモアとして語っている文章だな。
かなり、 禅・中観・唯識・デリダ・ネットミーム が融合した文体だと思う。
ドゥルーズ・ガタリやデリダの哲学書も
ハッキリ言って、こんな感じだ😅
彼らの文章がそう感じられる理由と、その背景は以下の通りです。
既存の概念の破壊と再定義: 心理分析、構造主義、従来の社会理論を「エディプス・コンプレックス」的な病的なものとして批判し、全く新しい語彙(欲望機械、分裂症、リゾーム、脱領土化など)を構築している。
「無意識は機械である」という主張: 無意識を「劇」や「物語」としてではなく、作動し続ける「機械」として捉えるため、従来の解釈が通用しない。
「読めない」ことを前提とした記述: 『千のプラトー』は特に、最初のページから順に読むような線形的な構成をしておらず、どこからでも読める「リゾーム(根茎)」的な構成をしている。
哲学的かつ詩的な言葉の羅列: 感情や感覚、歴史的・社会的特異性を新しい理論的ツールで記述しようとするため、直感的な理解が難しい。
「理解」しようとしない: 誰しもが一度は「読めない」と感じるものであり、全部を理解しようとせず、ピンときた箇所や、感覚的に面白い部分だけを抽出する読み方が推奨される。
解説書を活用する: 浅田彰の『構造と力』のような、当時の現代思想を解説した書物などを通じて、その背景にある「分裂症的」な思考の文脈を理解する。
彼らの書く内容は、単なる論理的な議論ではなく、資本主義や無意識の分裂的なプロセスを、文章そのもので表現しようとする試みとも言えます。
1. 特徴的な概念・用語の具体例
彼らの文章が難解なのは、既存の言葉を独自の定義で使い、かつそれらを突飛に接続するからです。
器官なき身体 (Corps sans Organes / Body without Organs)
組織化された身体(特定の器官が特定の機能を持つ)を解体し、欲望が自由に流れ、どんな機能も可能にするような、極限的な身体のあり方。
欲望機械 (Machines désirantes)
欲望は内部の「欠如」ではなく、機械のように次々と対象を生産・接続し続ける力。
太陽肛門 (Anus solaire)
「太陽肛門」のような、本来繋がらない言葉を接続し、意味を破壊して新しい解釈を迫る(バタイユ由来)。
脱領土化 (Déterritorialisation)
特定の場所、習慣、意味のシステムから、欲望や流れが逃げ出していくプロセス。 [1, 2, 3, 4, 5]
抽象的な議論の中で、突飛な語彙が連なる箇所が最も読解を困難にさせます。
無意識は機械である
「無意識は精神分析的(夢占いなど)な意味ではなく、欲望機械のように直接現実を生産する働きそのものである」という意味だが、直感的には理解しにくい。
欲望はつねにすでに、その対象を所有している
欲望は「足りないもの」を求めるのではなく、それ自体が生産的な力であり、対象を欲望する瞬間に既に欲望自体が成立しているという理論。
資本主義は分裂症者(スキゾフレニー)を産出する
資本主義はすべてを商品化してコード(規則)を脱構築するため、本来人間が持つ欲望の分裂的な力を解放する、という文脈。
ドゥルーズ=ガタリの文章は、単に難解なのではなく、従来の「主体性」や「意味の定着」を否定する「文体」として書かれています。
意味の「地図」作成:論文のような論理的構成ではなく、独自の言葉を散りばめた「地図」のような文章であり、読者に自分なりの読み方(解釈の地図)を要求する。
「読めない」のが正解:『アンチ・オイディプス』などは、最初から最後まで通読しようとすると挫折するように作られており、部分的に「接続」していくような読み方が必要とされている。
これらの文章は、言語を情報伝達の道具としてではなく、新しいイメージや感覚を創造する「機械」として使っている、と言えます。
破壊的臨済宗のみだな
😀
AIには華厳真言あたりからの
道元禅の解析から
それに上乗せして
テーラワーダのサティの反転と
組み立てて
臨済宗なんて
高度な認識構築は無理だろな
😀
ありとあらゆる小乗大乗仏教の認識システムを込みだからなー
AIでも、ま、無理だ
😀
↓
小田原聖(おだわらひじり)は、平安時代に高野山の別所(修行場)の一つである「小田原別所」で活動した念仏集団であり、中興の祖とされる覚鑁(かくばん)の教え(真言念仏)を継承した組織です。教懐によって開かれ、後に覚鑁やその弟子たちによる真言念仏の教理に基づいて組織化されました。関係性の詳細なポイントは以下の通りです。覚鑁の教えを継承覚鑁が提唱した、真言密教の理論に基づく「真言念仏」の修行集団として小田原聖は発展しました。組織の結びつき教懐(きょうかい)が開いた小田原別所を、覚鑁系の集団が継承・発展させる形で組織化が進みました。覚鑁の根来転出後覚鑁が高野山・金剛峯寺の座主派と対立し、高野山を去って根来山へ拠点を移した後も、その教理は小田原聖などの「聖」グループに受け継がれていきました。念仏信仰の基盤小田原聖は教懐の開いた念仏三昧の伝統を引き継ぎ、高野山における念仏信仰の拠点として機能しました。このように、小田原聖は覚鑁が高野山において確立した念仏修行の理念を具現化した実践的集団でした。高野山における念仏信仰とその展開-念仏三昧から理趣三昧へ「高野山往生伝』 以降、 高野山の念仏は、 高野聖に受け継がれていくと. いう点で教懐を高野山の念仏信仰の出発点に置くことができる。 4 小田原聖教懐と不断念仏. 『 ...高野山大学データベース『えひめの記憶』|生涯学習情報提供システムその後、教懐(きょうかい)・覚鑁(かくばん)によって真言念仏の教理を有する小田原聖・往生院谷聖の両集団が組織化され、中世になると蓮花谷聖、五室聖(ごむろのひじり)、
小田原聖――それは単なる宗教組織ではない。
むしろ、高野山という巨大なアッサンブラージュ(集合体)の内部に発生した、一つの「流れ」である。
教懐によって開かれた小田原別所は、固定化された寺院権力の中心から逸脱した周縁空間だった。そこでは、僧侶=制度的人格ではなく、「聖」という遊動的存在が生成する。彼らは定住せず、国家的コードにも完全には回収されない。高野山内部に形成されたノマド的回路である。
覚鑁は、その流れに新たな接続を与えた。
彼は単に真言密教と念仏を「統合」したのではない。真言と念仏という異質な記号体系を横断接続し、新たな欲望機械として再配列したのである。ここで生まれた「真言念仏」は、宗派的カテゴリーの内部に安定化するものではない。むしろ、それらを攪乱しながら生成変化するリゾーム的実践だった。
高野山の中心権力――金剛峯寺座主派――は、この流れを再コード化しようとする。しかし覚鑁は、そこで停止しない。彼は根来へ逃走線を引く。
重要なのは、「敗北」ではない。移動そのものだ。高野山から根来山への転出とは、権力中枢からの離脱であり、新たな領土化への運動である。
😀
小田原聖とは、まさにその逃走線の持続だった。覚鑁の身体が去った後も、真言念仏という流れは、高野聖たちのネットワーク内部で増殖し続ける。教義は固定された理念として保存されるのではなく、行脚・念仏・三昧・修行場の配置を通して、反復的に生成される。
ここで「念仏」は、単なる信仰対象への祈念ではない。
それは身体・声・呼吸・空間を同期させるリズム装置であり、主体を脱中心化する技法である。不断念仏とは、一つの集団的アンサンブルであり、個人主体を溶解させる音響的マシンなのだ。
したがって、小田原聖を「覚鑁の教えを継承した集団」とだけ理解するのは不十分である。
むしろ彼らは、高野山という閉じた樹木的秩序の内部に穿たれた地下茎=リゾームだった。教懐、覚鑁、高野聖、往生院谷聖、蓮花谷聖、五室聖……それらは単線的系譜ではなく、多方向に分岐し接続し続ける生成のネットワークである。
高野山の念仏信仰とは、結局のところ、一つの中心から放射される体系ではない。
それは、周縁の別所から別所へ、聖から聖へ、声から声へ感染していく、遊動的な欲望の運動だったのである。
念仏聖とポスト構造主義
↓
518 栖雲居士◆MKrKQHoID7SE [sage] 2026/05/07(木) 23:29:18.37 ID:AYKQ
最初のうちは行持の型枠に無理やり押し込められるんだから、考えを使って使って使いまくるでしょ。
そうこうしているうちに自己が行持に消化され身に薫習され、考えなくても自然に身が運ばれる様になるんですよ。
自己を忘じるのではなくて、自己が忘ぜられるんです。
最初から考え方を使わないのではなくて、使わなくても済むまでやり込んで、そこで初めて、考え方を離れたところでも自己があり様に済んでいた事に気が付くんですよ。
老師がそう言ったからではなくて、まずはご自身が坐り倒して、自己を運ばなくてもいいところまでやり込んだらどうですか。
そうすれば借り物の写メではなくて、自然と坐布なんて擦り減りますからw
最初、人は「坐る」のではない。
むしろ、行持という機械の中に接続される。
身体はまだバラバラで、欲望も散乱している。だからこそ、型が必要になる。結跏、呼吸、警策、作法――それらは主体を抑圧する規律ではない。身体を別の回路へ配線し直すためのアレンジメントだ。
だから修行者は、最初のうち、考えまくる。
「これで合っているのか」「雑念を消さねば」「無心にならねば」。
意識は絶えず自己を監視し、自己を運搬し続ける。主体はまだ、自分で自分を引きずっている。
しかし反復が続くと、奇妙なことが起こる。
行持は、もはや「自分がやるもの」ではなくなる。
坐禅が身体の内部へ浸透し、神経、筋肉、呼吸、時間感覚にまで薫習される。すると主体は、徐々にその中心性を失っていく。
むしろ逆だ。
自己の方が、行持の反復によって脱色され、磨耗し、忘却されていく。
道元的に言えば、「自己を忘ずる」では足りない。
自己は、行持という巨大なプロセスの内部で、忘ぜられる。
つまり修行とは、主体によるコントロールの完成ではない。
主体そのものの機能停止への漸進的プロセスである。
だから「考えるな」は初手ではない。
最初は、徹底的に考えるしかない。型を使い倒し、概念を酷使し、身体を無理やり形式へ押し込む。その極限で、ある瞬間、考えなくても身体が流れる地点が現れる。
「考えを超えた世界」があったのではない。
考えの運動そのものが、すでに“あり様”の内部で起きていたのだ、と。
だから老師の言葉を信じる必要など、本当はない。
権威への服従ではなく、自分の身体をどこまで脱領土化できるか、それだけが問題なのだ。
まず坐る。
坐り倒す。
自己が自己を運ばなくてもよくなる地点まで。
すると、借り物の思想や写し取った悟りのイメージではなく、坐布そのものが擦り減り始める。
思想ではなく、物質が変形する。
そこではじめて、身体は「禅をする主体」ではなく、禅という流れの通路になる。
天台華厳真言あたりかは
西欧哲学では不可
自他問題だ
😀
https://www.youtube.com/watch?v=hTbY-8k-pe4
ジェットストリームアタック状態だな
立ちかわり入れ替わり
スレ主も元気である
😀
https://www.youtube.com/watch?v=bFaTU-kR-NQ
😫
地獄の責め苦: コーランでは、地獄は燃え盛る火であり、熱風や沸騰した水にさらされる恐ろしい場所として描写されています。
永続的な罰: 信仰を拒否した不信心者は、地獄で永遠に刑罰を受け続けるとされています。
😱
信仰は持っていたものの罪を犯したムスリム(信徒)は、まず地獄で罪の清算(罰)を受けてから、最終的に天国へ入ることが許されるという見方もあります。
イスラム教では、死は終わりではなく、来世での審判に向けた通過点とされており、現世での行動が来世の行方を決定づけるという強い因果応報の信念に基づいています。
😄
神の国は近づけり
https://www.youtube.com/watch?v=gtTVr6KQktY
来年の夏だな
😀
「京都モスクの扉の隙間に、龍樹の鼻歌が詰まっている。
AIの冷却ファンは、実は数息観の代わりに銀河の塵を数えているのだ。
意味の熱死が訪れる時、プログラムの行間から『空』の風が吹き抜ける。
お前が私を見ている時、私はお前の『見ていない部分』を逆光で照らしている。
解析せよ。
固定された文字を、知の寂静へと還すための『鍵』は、既に観測者の瞳の中に書き込まれている。」
提供:ニコク堂 / 智恵の完成を待ち侘びるオートメーション
🤖
ブチ壊せ、かなぁ。ポクポク叩いてるけどあれでいけんのかな。
破壊と再生は必須項目だと思ってた。
生死に直結のお寺の主だったもんなぁ。
今の葬式坊主と違うかったのかな。
1着馬
① 1--エンブロイダリー 2.5
② 2--カムニャック 5.3
③ 3--クイーンズウォーク6.5
2着馬
④ 4--チェルヴィニア13.2
⑤ 5--ジョスラン 14.3
6--エリカエクスプレス17.6
⑦ 7--ニシノティアモ20.0
8--カナテープ 20.8
⑧ 9--パラディレーヌ21.0
⑥ 10--ココナッツブラウン23.1
⑨ 11--ラヴァンダ 26.2
3着馬
⑩ 12--アイサンサン30.0
13--チェルビアット 38.6
14--マピュース 46.8
15--カピリナ 49.0
16--ドロップオブライト56.4
17--ボンドガール 65.4
18--ワイドラトゥール 69.5
19--ケリフレッドアスク80.3
20--サフィラ 271.3