① 相分(知覚される客体。識が対象として現れること) ② 見分(知覚する主体。識が相分である対象を知覚すること) ③ 自証分(識の自体分。これが変化して見分・相分となり見分を認識する。認識したことを一連の行為・経験として統合・知覚する。証自証分によって認識される) ④ 証自証分(自証分を認識する。自証分によって認識されるため、第五、第六といった認識の無限遡及にはならない)
はい これが覚りです You are souls currently traveling between planets in the solar system, and your main body is located in the pelvic region. Repeatedly listening to Bija Mantras can raise your Kundalini, but you won't know how to lower it(⚠) Basically, read Edgar Cayce.
かなり難しい話をするスレ😫
前スレ
【唯識三年】仏教ウンチクを語るスレ 8【倶舎八年】
https://talk.jp/boards/psy/1745186838
1、初期仏教 : 紀元前6世紀頃
お釈迦様の教え
2、上座部 (テーラワーダ仏教) : 紀元前5世紀頃
いわゆる小乗仏教、南方で継承される
3、説一切有部 (倶舎論) : 紀元前1世紀頃
部派仏教の時代、最も有力な部派
4、経量部 (倶舎論) : 西暦300年頃~
説一切有部から分派、世親はここの出身
5、中観派 (中論) : 西暦200年頃~
空と縁起の思想、龍樹が始めた大乗仏教
6、瑜伽行派 (唯識論) : 西暦400年頃~
阿頼耶識が登場、大乗二大学派のひとつ
7、如来蔵思想 : 上記の流れとは独自に展開、
「誰でも成仏できる」という思想
※厳密にイコールではない
倶舎宗 = 説一切有部
成実宗 = 経量部
三論宗 = 中観派
法相宗 = 唯識派
華厳宗 = 如来蔵
律宗 = 戒律
五蘊・十二処・十八界
1、五蘊(ごうん)
・色 物質的な存在(とくに、肉体)
・受 感受する作用
・想 表象する作用
・行 意志する作用
・識 認識する作用
→人間は、五蘊を寄せ集めた仮の姿。
「我」として執着するような実体は無い
2、十二処(じゅうにしょ)
・六根:六つの認識器官
眼根・耳根・鼻根・舌根・身根・意根
・六境:六つの認識対象
色境・声境・香境・味境・触境・法境
六根と六境を合わせて十二処
3、十八界(じゅうはちかい)
・六識:六つの認識作用
眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識
十二処に六識を加えて十八界
→自分が認識しているもの、
それが世界のすべてである
最も有力な「説一切有部」は、存在を「五位七十五法」に分類した
初期仏教の「五蘊・十二処・十八界」よりだいぶ数が増えた
説一切有部の思想は、後に「倶舎論」としてまとめられた
↓
(1)五位七十五法
法(ダルマ)=存在するものに2種類
・有為(うい)…煩悩で汚れたもの
・無為(むい)…煩悩で汚れてないもの
1~4は有為法、5は無為法
1、色・・・物質的現象 11種類
眼・耳・鼻・舌・身・
色・声・香・味・触・
無表色
2、心・・・心の本体 1種類
3、心所・・・心の作用 46種類
大地 常駐する心の動き
大善地 善の動き
大不善地 悪の動き
不定 どちらでもない心の動き
大煩悩地 根本的な煩悩
小煩悩地 付随する煩悩
4、心不相応行・・・ 14種類
色(物質)にも、心(精神)にも分類されないもの
5、無為・・・ 3種類
常住不変な存在 虚空、択滅、非択滅
名前の通り、「一切は有る」と説く部派だった
(少なくとも、他の部派からはそう見えた)
それに対して中観派は、
実体を持って存在するものなど一切、
認めなかった
「五位七十五法」も認めなかった
中観派は「空」の思想を唱えた
中観派の創始者である龍樹は『中論』
などの著作により、「空」の理論を大成した
空と中観は大乗仏教の基礎理論であり、
龍樹は大乗の第一祖とされる
他の部派からは、「一切は無い」と主張する部派に見えた
中観派は、「虚無主義だ」と言って、仏教思想界から批判された
「有」の説一切有部と、「無」の中観派
この2つを統合し、止揚する(と、本人たちは主張した)学派が現れた
「物質世界は存在しない。(広義の)意識だけが存在する」
と説く、唯識派の登場だ
心の分析が細かくなり、五位百法に増えた
「物質は意識から生じる」とされたため、
色法(物質的存在)を後回しにして、
心法(精神的存在)を先に持ってきた
↓
五位百法
① 心王(表面意識と深層意識)
眼・耳・鼻・舌・身・意の
六識と、マナ識・アーラヤ識の8種。
② 心所(精神的な作用)
51種。
③色(物質的な作用)
眼・耳・鼻・舌・身の五根と、
色・声・香・味・触法の五対境、
および意識のみの対象である法処所摂色11種。
④ 心不相応法(物質でも精神でもないもの)
24種。
⑤無為法(はたらきを起こすことがないもの)
虚空・択滅・非択滅・不動滅・想受滅・真如
6種。
要点1
私たちは「自分」や「もの」が存在していると考えているが、あるのはただ心の働きだけで、「自分」や「もの」は存在しないと考えるのが唯識思想。
要点2
「自分」や「もの」への執着を捨てることで、他者との対立やお金、地位への執着から生じる苦から解放される。
要点3
物事の全ては心の深層にある阿頼耶識から生じる。善業によって阿頼耶識は清められ、悪業によって濁る。阿頼耶識が濁ればその人の世界も汚れて暗くなる。善い行いをすることは自身の世界を清め、自分のためにもなる。
一念三千と十界互具は、仏教の一つの重要な概念である法華経における教えであり、それぞれ密接な関係があります。
一念三千は、一瞬の心の動きに、十界互具(十界がそれぞれ他の十界を具えている)を含めた三千の世界が内包されているという考え方です。
つまり、十界互具は、一念三千の構成要素の一つであり、一念三千の法理を理解するために不可欠な概念です。
地獄界、餓鬼界、畜生界、修羅界、人間界、天界、声聞界、縁覚界、菩薩界、仏界の10種類の境界。
十界互具:
十界のそれぞれが、他の十界の要素を内包していること。例えば、地獄界にも仏界の要素が、仏界にも地獄界の要素があるということ。
一念三千:
一つの心の動きに、十界互具、十如是、三世間を含んだ三千の世界が内包されているという考え方。
十界互具は、一念三千の中で、三千の構成要素の一つである「百界」を形成します。
一念三千は、すべての衆生が本来的に仏性(仏の智慧)を持っていることを示し、十界互具はその根拠として説かれています。
一念三千は、法華経の法理であり、特に日蓮宗の教学において重要な位置を占めます。
十界互具は、一念三千という広大な法理の基盤を形成する概念です。一念三千を理解するためには、まず十界互具の理解が不可欠です。
俺の日蓮愛の影響か?
😀
理の一念三千とか知っているのは
日蓮教学の
観心本尊抄をマジメに
読んでいるからだ
😀
タコ殴りてきるくらいに
日蓮教学に詳しい部分がある
ほーかいくんは
おれちゃまをナメ過ぎて
タコ殴りやられたのだ
😀
> 事の一念三千とか
> 理の一念三千とか知っているのは
へえ、そんな2種類があるのか
事の一念三千
天台が
理の一念三千
観心本尊抄だな、
ほーかいくんは
こういう基本的なレスしないよなー
今日、初めて
事の一念三千を
体感できたかもー
いつもは
理の一念三千魔改造やったけどなー
😀
タコ殴りされる
😀
日蓮に関心薄いから
ほんま、
日蓮教学マジレスしないからなー
😀
日蓮しらんモードや
😀
「一念三千」と言いますのは、
今一瞬の心の中に、三千の世界を備える法理でして
その三千の世界は、
「凡夫の世界観」と「仏の世界観」と「真如の世界観」と言った
三種の世界が円かに溶け合い、摩訶不思議な現象が
凡夫の一身に顕れるといったものです。
それを「不思議解脱」
として自身の論書『摩訶止観』の中で詳しく説き明かしております。
それ一心に十法を具し、一法界にまた十法界を具す、百法界なり。一界に三十種の世間を具し、百法界に即ち三千種の世間を具す。この三千は一念の心に在り。若し心無くんば而巳なん。介爾も心あらば即ち三千を具す。また一心前に在り、一切の法後に在りと言はず。例せば、八相、物を遷(うつ)するがごとし。物、相の前に在らば、物遷されず。相、物の前に在らばまた遷(移さ)されず、前もまた不可なり。後もまた不可なり。ただ物に相の遷るを論じ、ただ相の遷るを物に論ずるなり。今の心もまたかくのごとし。もし一心より一切の法を生せば、これ即ち縦なり。もし心、一時に一切の法を含まば、これ即ち横なり。縦もまた可ならず、横にまた可ならず、ただ心はこれ一切の法、一切の法はこれ心なるなり。ゆえに縦に非ず、横に非ず。一に非ず、異に非ず。玄妙深絶にして識の識るところに非ず。言の言ふところに非ず。ゆえに称して不可思議境と為す。
十界×十界×十如是×三世間=三千世界
という表記を普通はしますが、
ここでは、
「一界に三十種の世界を具し、百法界に即ち三千種の世間を具す」
といった言い方を智顗はされております。
https://hokekyou.up-jp.com/wp-content/uploads/2021/06/image023.jpg
十如是とは、仏教で物事のあり方を10の側面から見る観点です。
三世間とは、仏教で宇宙を構成する三つの領域、すなわち欲界、色界、無色界のことです。
十如是は、三世間を構成する要素である五陰、衆生、国土といったものを、より深く理解するための観点となります。
相(しょう)::物事の外形や姿、現象としての状態。
性(せい)::物事の本質や性質、内的な実体。
体(たい)::物事の根源や本体、あり方の根本。
力(りき)::物事のはたらきや働き、影響力。
作(さく)::物事の働きや活動、具体的な行動。
因(いん)::物事の原因やきっかけ、影響を与える要素。
縁(えん)::物事の関係や繋がり、相互依存の関係。
果(か)::物事の結果や影響、因縁の結果。
報(ほう)::物事の報いや結果、因果応報。
本末究竟(ほんまつくきょう)::物事の始まりと終わり、根本的な実相。
欲界(よくかい)::人間の欲望に支配される世界、五欲に満ちた世界。
色界(しきかい)::物質的な世界、色(形)を持つ世界。
無色界(むしきかい)::物質的な形を持たない世界、精神的な世界。
十如是は、三世間を構成する五陰、衆生、国土といったものを、より深く理解するための観点として活用されます。例えば、五陰(形、受、想、行、識)を十如是の観点から見れば、その本質やはたらき、因縁などを理解することができます。このように、十如是は、三世間をより深く理解し、仏教の教えを実践するための大切なツールとなります。
理の一念三千を
網羅しないのが
ほーかいくんの特徴や
😀
事の一念三千
理の一念三千
なんか
どーでもええやろけどなー
😀
やらない
無住の真言密教寺院の勤行
朝やる予定
😀
特に「一念三千の法門は、ただ、法華経の本門、寿量品の文の底に沈めたり」という「開目抄」の一文は有名である。しかし、日蓮宗各派では、この一文は釈迦を本仏とするか日蓮を本仏とするかの論争の一点となっている。
したがって、現在、この一念三千を仏法の極理だとして盛んに宣揚しているのは、天台宗よりも日蓮宗系宗派が主である。特に日蓮正宗及び関連教団などは、一念三千という言葉を多用している。
天台宗よりも、日蓮宗系で好まれている
兄ピエロ🤡 でおー
弟ピエロ🤡 JBL
スレ荒らしと誹謗中傷しかしない宗教板の嫌われ者。
「十界」とは、生命の状態、境涯を10種に分類したもので、仏法の生命観の基本となるものです。十界の法理を学ぶことによって、境涯を的確にとらえ、各人がそれぞれの境涯を変革していく指針を得ることができます。
「十界」それぞれの名を挙げれば、地獄界・餓鬼界・畜生界・修羅界・人界・天界・声聞界・縁覚界・菩薩界・仏界です。
このうち地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天をまとめて「六道」といい、声聞・縁覚・菩薩・仏をまとめて「四聖」といいます。「六道」は、インド古来の世界観を仏教が用いたもので、もともとは生命が生死を繰り返す世界を六つに大別したものです。また「四聖」は仏道修行によって得られる境涯です。
しかし法華経では、その考え方を根本的に破り、十界のうち仏界を除く地獄界から菩薩界までの九界の衆生に仏界が具わっていることを明かし、成仏した仏にも九界の境涯が具わることを説いて、十界は固定的な別々の世界としてあるのではなく、一個の生命に具わる10種の境涯であることを示したのです。したがって、今、十界のいずれか一界の姿を現している生命にも、十界がすべて具わっており、縁によって次に他の界の境涯をも現せることが明らかになります。このように十界の各界が互いに十界を具えていることを十界互具といいます。
日蓮大聖人は、「浄土というも、地獄というも、外には候わず。ただ我らがむねの間にあり。これをさとるを仏という。これにまようを凡夫という」(1504㌻、通解──仏の浄らかな国土といっても、地獄といっても、外にあるのではありません。ただ我々の胸の間にあるのです。このことを悟るのを仏といい、このことに迷うのを凡夫というのです)と述べられています。
生命に十界がすべて具わっているということは、たとえ今の自分が地獄の苦しみの境涯であっても、仏界の大歓喜の境涯へと変革できるということです。このように、法華経に基づく十界論は、自身の生命の境涯をダイナミックに変革できることを示す原理となります。
「しばしば他面を見るにある時は喜び、ある時は瞋り、ある時は平らかに、ある時は貪り現じ、ある時は癡か現じ、ある時は諂曲なり。瞋るは地獄、貪るは餓鬼、癡かは畜生、諂曲なるは修羅、喜ぶは天、平らかなるは人なり」(241㌻)
韓国の寺院
華厳寺(けごんじ、ファオムサ)は、大韓民国全羅南道求礼郡馬山面黄田里にある仏教寺院。もとは百済の寺で、智異山の山中にある。韓国仏教界の最大宗派である曹渓宗(大韓仏教曹渓宗)の第19教区本寺である。
仏教が弾圧された朝鮮時代も勢力をたもち、19世紀末に再び活動が盛んになった。日本統治時代には太古宗など僧侶の妻帯を認める宗団もあらわれ、曹渓宗でも解放後にこれをめぐる争いがあったが、現在も不妻帯を守っている。
現在は本山であるソウルの曹渓寺をはじめ韓国全土に寺院を擁し、また東国大学校を設立している。北朝鮮にも形式上は存在するとされる。
福祉法人を設立し、「ナヌムの家」を運営している。
華厳宗と曹渓宗は、仏教の宗派として歴史的なつながりがあります。華厳宗は、華厳経を根本経典とする宗派で、曹渓宗は禅宗の一派として、華厳経も学習の対象としています。曹渓宗は、朝鮮半島で盛んになった禅宗の宗派であり、その起源は華厳宗に遡るとも言われています。
唐代に仏教に新しい教えとして登場し、日本でも奈良時代に広まりました。華厳経を根本経典とし、宇宙万象を一体として捉える教えが特徴です。
曹渓宗:
韓国の仏教の宗派の一つで、禅宗の一派です。曹渓宗は、1200年頃に知訥という僧侶によって創始されましたが、もともとは華厳宗の寺院だったようです。
関係:
曹渓宗は、禅宗の一派として、華厳宗の教えも学び、華厳経を学習の対象としています。曹渓宗の寺院は、もともと華厳宗の寺院だったという歴史的な背景もあります。
ウンチク自由だったかもしれん
😀
韓国の禅宗も、華厳宗の系統
ウンコ💩よりはマシッソヨ~!
華厳は
発想が近似値だということだな、
JBLに
華厳理解を勧める理由でもある
😀
密教、禅の理解は深まらない
ま、
逆に
真言密教の理解が進めば
華厳、禅の理解が進むともいえる、
俺は真言密教経由パターン
😀
3点セットで理解が深まる~😄
華厳では毘盧遮那仏
この2つは同じ存在
この世は大日如来=毘盧遮那仏の顕現
しょうき/性起
華厳教学の中心的思想の一つ。縁起との対比によっても知られる。
原因(行)から結果(覚り、智慧、法身など)の流れが縁起であるが、結果からの顕現(仏、如来蔵)の強調が性起である。
それが仏教なのだが
華厳は結果から入る
つまり、衆生も仏の一部
そのよーに見る
そっちのほうが馴染みあるので
仕事日の解除モードのスタート地点は
そのあたり、
金曜日夜にキリスト教や大本は難易度が
俺的には高い
😀
華厳みたいな間合いでは
火曜日は無理だ
職場世の魔窟に食われちまう
😀
ユーチューブ復帰らしいなー
よしもと公認で
ま、刑事事件であげられんと
よしもとがらみでユーチューブ復帰できるんやろなー
中居も、その算段しやすくなったな
😫
職場は魔族の巣か?😫
テレビではなくて
ネット利益を
よしもとは手放さないらしい、
雨上がりケースではないらしい
😫
なかなかの魔窟だから
後輩ヘルプには尽力してる、
俺は仕事ができるほうではないが
😀
中国正統派瞑想仏教ぐらいしか
マジレスできなきくらいの
魔窟だ
😀
年末の笑ってはいけないナントカ学院の
山崎邦正は好きやったけど
😀
おっしゃるように、この両者は以下のように対応します:
種類内容位相法門表現対応する仏
【依言真如】
言語・理論によって説かれる真如(迹門)。空・仮・中に依って真如を示す天台の理の一念三千がこれにあたる。=始成正覚の釈尊(三身仏)
【離言真如】
言語を超越し、体験的・本来的に顕れる真如(本門)。名を以って真如そのものを召す日蓮の南無妙法蓮華経がこれにあたる。=久遠実成の本仏(日蓮)
中道の理論、三諦、空仮中に依って「仏界の体」を説く。
これは “理によって”如来を知る次元。
ここにはまだ、「知」と「存在」の隔たりが残っている。
つまり、これはまだ“始覚”であり、本覚は理としての仏性。
? これは「仏性がある」と知る段階。
? しかし、それはまだ“覚った”とは言えない。
南無妙法蓮華経と唱える行為そのものが、仏界を直ちに顕現させる。
これは「理」ではなく、「法」の体得そのもの。
もはや知性の範囲を超え、言語を離れて如来と一体となる領域。
? これは「仏性がある」と知るのではなく、
? 「仏性そのものが立ち現れる」次元。
したがって、「始覚によって本覚が顕れる」とは、
迹門の理(依言)を乗り越えて、本門の体(離言)へと飛翔する運動に他なりません。
そして──法介さんが突いておられるのは、
**この本門の離言真如こそが「無為法の一念三千」**だという点。
言い換えれば:
✅ 依言真如=相待妙の三諦一念三千(迹門)
✅ 離言真如=絶待妙の三諦一念三千(本門)
この絶待妙においては「縁起」すら起こらず、因縁果を超えたところに、
本仏の三身が凡夫に即して顕現するのです。
【天台】---(迹門=理の一念三千)
理観・観行相待妙(依言真如)
【日蓮】---(本門=事の一念三千)
顕本・題目唱法絶待妙(離言真如)
図で解りやすく顕したのが
この三三九諦の相となります。
https://livedoor.blogimg.jp/butudou-tpm48sc7/imgs/9/a/9ab99190.jpg
日蓮系統の
日蓮宗では
その発想はしない
気がする
日蓮宗は
法華経の迹門劣位にしてない
本門優位としたのは
日蓮宗分派派と日蓮正宗
だけらしい
京都には
その分派の本山は多い
本優迹劣の日蓮分派との
違いまでは研究してないなー
論文は大方、日蓮宗ばかりだし、
分派の方は関心薄いからなー
ほーかいくん路線は
日蓮宗歴史においては
分派の流れだからなー
分派系統は本山行くのは好きだけど
教学研究は材料少なく、やったことがない
😀
関心が薄いなー
ま、
浄土宗、真宗の大学、研究所論文は
日蓮宗よりも遥かに読んでないからなー
関心がー
天理教、大本のほうが
関心あったりする
😀
> 日蓮宗は
> 法華経の迹門劣位にしてない
>
> 本門優位としたのは
> 日蓮宗分派派と日蓮正宗
> だけらしい
へえ、そうなのか
歴史的には
本迹論争とか
やってたらしいで
だから
ほーかいくん系統の分派の教学はあんまり知らないので
首を突っ込まない
😀
確かに
本迹論争は、部外者には分かりまへんな~😫
なんで、そんなことでモメるのか
正宗系統は
当然、ほーかいくんと同じ分派
本人達にとっては
正統派なんだろうけどな、
😀
キリスト教みたいな絶対信仰だからだろなー
故に神学論争が起きるんやろなー
近似値あたりで
😀
部外者から見ると、同じに見えることはよくある
体験、御利益とか優位になるので
些末な理論闘争しても
実益の優劣やあるなしな判断になるので
神学論争は発生しにくいやろなー
それが正誤の理論か?
と問われるので
それが全て、
ある意味
コーン🤡も絶対信仰ぽい😭
その理論の正誤の証明に
熱くなっているやろなー
😀
世界認識に関する把握はないからなー
😀
ほーかいくんの正誤の判定の真実を
他者に伝えたいんやろなー
😀
ほーかいくんの
あの連投じみたレスになる
理論の正誤の証明を
他者に
とにかく伝えたい
😀
川^〇^ハレ何故お題目唱えるのが離言真如になるのかなぁ?
>顕本・題目唱法絶待妙(離言真如)
JBLfMwCXhY
VXIzn(5/11)
🔶まとめ──本門の一念三千は、離言真如にして即仏
【天台】---(迹門=理の一念三千)
理観・観行相待妙(依言真如)
【日蓮】---(本門=事の一念三千)
顕本・題目唱法絶待妙(離言真如)
そういえばそうだな?
∞ノノハ∞
川^〇^ハレねぇ?www
麦の出す日蓮知識は
正宗系統
😀
全般的にいつも怪しげなレスが多い
😫
日蓮宗って本人が言ってたろ。
仏教の概念として、衆生世間(有情世間)と国土世間(無情世間)は、それぞれ有情(生きとし生けるもの、感情を持つもの)と無情(自然、物体など)を表し、互いに関係し合っています。つまり、有情は無情の環境の中で生きており、無情は有情の生存を支える要素となります。
有情世間 (衆生世間):
感情や意識を持つ生きとし生けるものの全体を指します。人間、動物、さらには仏教的な観点では神や悪魔なども含まれます。
国土世間 (無情世間):
自然、環境、物体など、感情を持たないものの全体を指します。山、川、草木、建物、そしてこの世の中の物質的な全てが含まれます。
有情は国土の中で生きており、国土は有情の生存環境となります。有情は国土に影響を与え、国土もまた有情に影響を与えます。たとえば、人間は自然を破壊し、その結果として環境汚染を引き起こすことがあります。また、自然災害は人間の生活に影響を及ぼします。
このように、有情と無情は互いに関わり合い、一体となって存在しています。仏教の考え方では、この関係を理解し、調和を取り、自然を大切にすることが重要とされています。
これは、三世間を理解するための基本
ここまでは当たり前になってないと(笑)
人によっては、「有情でも無情でもないもの」という
人によっては、「有情と無情を包含する全要素のこと」という人もいる
てことは、「非情」か!?
無情と非情は同じだ(笑)
我等の一身の上には有情非情が具足している。爪と髪とは非情なり・切るにもいたまず・其の外は有情なれば・切るにも痛み苦しむ。これらは一身所具の有情非情である。この有情・非情・十如是の因果の二法を具足している。衆生世間・五陰世間・国土世間、この三世間が有情非情である。
「五陰世間+衆生世間+国土世間 = 有情+非情」
なのである
衆生世間=有情、国土世間=無情
↑これも違うな(笑)
原曲ドラム超え
ハマった、
途中で暴れ過ぎてヘタってはいたが
😀
ま、原曲はさほど難しいわけでもなさそーだから、
https://m.youtube.com/watch?v=vp24i_tfVOY
少なくとも、衆生世間はどうみても有情のことだろ?
久保田正文の動画音声あげといたぞ
😀
なかなかオモロイな
😀
すごいな、このドラマー
練習せずにいきなり初見で叩いてみた
ていうやつやろな、
最初、リズムの様子見してたから、
リクエストでやったんやろな
😀
破壊系統のドラムが好きなのはいるよーだ
レッド・ツェッペリンとか
その系統かもしれんが
関心がない、
レッド・ツェッペリンのギターリストが
バンドメイドのアカネの猛烈な
ファンらしい、
俺はメタルハードロック系統の好みは
幅が狭い方だ
バンドメイドが好みに入らない
音色の好みがあるんやろなー
ボーカリストも含めて
😀
コーン🤡の師匠?みたいな
エリート意識は
アカンという
出だしやし
😀
禅者のくせに、「元エリートサラリーマン」などという看板を掲げてる時点で俗物
川^〇^ハレ命題は離言真如ですよ
題目を唱えるのは離言真如では無いと思います
題目唱法絶待妙
絶待妙は題目を唱えることにより空理を顕していると思います
不二而二の絶対ですね
JBLfMwCXhY
VXIzn(5/11)
🔶まとめ──本門の一念三千は、離言真如にして即仏
【天台】---(迹門=理の一念三千)
理観・観行相待妙(依言真如)
【日蓮】---(本門=事の一念三千)
顕本・題目唱法絶待妙(離言真如)
>114.
ユーザー
神も仏も名無しさん
tVBA9(6/7)
麦って何気に日蓮さんも批判してるよな
日蓮さんを批判した事はないですよ??
鎌倉時代の飢餓や災害で苦しんでいる方々を救う為に尽力された方だと思っています
俺の師匠は
妙心寺本山で一目置かれるお方らしいが
ご自慢話は聞いたことがない、
俺も臨濟宗禅に関しては
あんまりご自慢話しない、
むしろ知らなかったとか、疲労回復が早くなったくらいだな
他の宗派は自慢するけど
😀
∞ノノハ∞
川^〇^ハレ空・仮・中の三諦円融だと思います
本物の禅匠はそうでしょうな
>空・仮・中の三諦円融
どういう意味?😫
川^〇^ハレ曹洞宗のセッタンさんもエリートでしょうwww
エリートはエリート
そうでないものはそれなりに♪www
三つの真理とは
空諦くうたい(一切存在は空である)
仮諦けたい(一切存在は縁起によって仮に存在する)
中諦ちゅうたい(一切存在は空・仮を超えた絶対のものである)
であり、この三つの真理が互いに融けあって、同時に成立していること。
∞ノノハ∞
川^〇^ハレ空・仮・中は実体はない空性なので同じなんですけどねwww
日蓮さんの曼陀羅の世界♪
日蓮系統で非常に好まれる、天台教学の理論
🤡
理屈方面には関心は薄いが
ソシュールの言語記号の関係の恣意性は
人間の言語概念は恣意的であり、
ある種の仮想現実的な認識を示しているともいえる
コーン🤡は言語化信仰が激しいけどなー
🤡
二十代の頃は
そんなのを模索するのが
休日の娯楽であった
😀
> コーン🤡は言語化信仰が激しいけどなー
> 🤡
昭和の仏教学者には、20世紀の西洋哲学の影響で「言語哲学」を強調する向きが多かったからな
それだけが仏教哲学ではない(笑)
確かに似てる面はあるが、西洋哲学に影響を受けすぎだ
とくに中観派は、ソシュールに似ている
それが最大のテーマ
真言密教やん
真言
😀
実は真言宗
サンスクリット語の梵字
😀
で究極らしいからなー
😀
ウン字が、金剛界曼荼羅の大日如来、
ま、高野山宿坊で500円で飛びいり阿字観体験の時教えてもらった
😀
華厳宗は、唯心論と深い繋がりがあり、特に中心的な存在である毘盧遮那仏の概念を重視します。
華厳宗では、一切の現象は毘盧遮那仏(バイローチャナ)の心から発するものであり、それが仏国土や衆生を含めたすべての存在であると説きます。
つまり、一切の実体は毘盧遮那仏の心であり、それが現れたものが世界であり、衆生であるという考え方です。
華厳宗は、唯心論を基礎とする仏教の宗派の一つです。唯心論とは、一切の現象は心から生じるという考え方です。
華厳宗では、毘盧遮那仏を宇宙の中心であり、一切の現象の根源であると考えます。毘盧遮那仏は、歴史上の釈迦如来を超えた、絶対的な存在です。
華厳宗では、毘盧遮那仏の心が一切の現象の源であり、その心が現れたものが仏国土や衆生であると説きます。
華厳経では、菩薩の修行の階梯を説いた十地品や、善財童子の遍歴を描いた入法界品などが有名です。これらは、毘盧遮那仏の心の現れとしての修行のあり方を具体的に示しています。
華厳宗は、唯心論に基づいて、一切の現象は毘盧遮那仏の心から生じるという考え方を展開しています。毘盧遮那仏は、宇宙の中心であり、一切の現象の根源である絶対的な存在として重視されます。
その一方では、「すべては仏の現れ」とも説く
要するに、「すべては仏の心の現れ」なのだ
それこそが、仏の心
真宗、浄土宗、西山派、天台浄土宗、日蓮宗は
魔改造できるぞ
😀
大本、天理教、キリスト教、神道、ヨガ、スーフィズムは
魔改造できないけど、
😀
自動的に
天台化、華厳化してしまう魔改造が
得意だからなー
日蓮リアル、法然リアル、親鸞リアル
山伏リアルから
遠ざかるほうが慣れているので
リアル把握するのが休日のお寺参り娯楽の主題になってる
月曜日はリアル?天台浄土教の予定だ
😀
リアル研究不可能ナイトだった
仏教は真宗だろうが
天台華厳自動解釈
キリスト教天理教イスラーム神道すら
バクティヨガになってまう
😀
大本のネット文書を読もうと思ったナウ
😀
仏の心の現れとは、相即相入の具現化だ
仏の心だ
天台宗では、仏教の教えを顕教と密教の二つに分類します。顕教は、釈迦の教えを一般的にわかりやすく説いたもので、法華経などを指します。密教は、仏の悟りの世界そのものを示す秘密の教法で、真言宗などがこれに該当します。天台宗では、この二つの教えを「顕密二教」と呼び、両方を統合し、実践することを重視しています.
釈迦が衆生の性質に合わせて、理解しやすい言葉で説いた教え.
自らを救い、他を利することを教える.
法華経、阿弥陀経などを主な教典とする.
儀礼としては、経典を読誦し、懺悔し、仏の教えを実践する.
天台宗では、法華三昧(法華経を読誦し、懺悔し、滅罪生善の規範とする)、常行三昧(阿弥陀経を読誦し、往生極楽の指南とする)などが顕教法要として用いられる.
顕教 密教 修験道
1.顕教(止観業)とは・・・
顕教とは、文字で明らかに説き示された「顕れた教え」のことを意味します。
すべての教えを顕教と密教の二種に分類し、密教に対する教えのことをいいます。 これは、永遠の仏が直接に絶対的な真理を垂示するのではなく、衆生を教化するためにお釈迦様として現世に姿を顕された仏が、教えを聞く相手の能力に応じて説かれた教え、一般には法華経や華厳経、阿弥陀如来の教えである浄土経典の教理を意味してきました。しかし、天台では法華経を大日経と同じ密教の教えとし、大日如来と釈迦如来を一体と考えますので、必ずしも法華経を顕教に含めません。
ところが、もともと日本の天台では、大日経を主とする「遮那業」(密教)に対して、法華経に立脚した実践的教えである『摩訶止観』の修学を「止観業」と呼んできましたので、ここでは法華経の教理を会得し、その実践法門を修行する「止観業」のことを伝統的な了解のもとに顕教としておきます。
法華経は、大乗仏教の代表的経典「サッダルマ・プンダリーカ・スートラ」の漢訳で、清浄な白い蓮華(プンダリーカ)のように優れた正しい教え(サッダルマ)を説いた教典(スートラ)を意味しています。天台大師は、すべての経典のなかで法華経が最もすぐれていることを説き、天台宗を開かれました。その教えは、法華経をもとにお釈迦さまが生涯にわたって説かれた仏教の教理を体系化し、お釈迦さまの最も伝えたかった核心的な教えが法華経であることを、そこに広がるお釈迦様が到達した悟りの世界、真理を究め、この悟りへと至る実践のあり方(止観)を明らかにしたもので、その撰述された『法華玄義』、『法華文句』さらには『摩訶止観』(これらの著作を総称して「天台三大部」と称しています)において示されています。
従って、天台宗の教義は、法華経を根本に「天台三大部」によって綱格が成り立っているのです。
天台の教えが日本に伝わると法華経への信仰も広がりをみせます。ことに平清盛が、長寛2(1164)年に一門の繁栄を願って法華経を書写して厳島神社に奉納した「平家納経」は華美を極めた装飾経の圧巻といわれています。また、後白河法皇が当時の今様を編集された『梁塵秘抄』には法華経の功徳を歌った法文歌が多数おさめられています。
釈迦の月は隠れにき 慈氏の朝日はまだ遥かなり
そのほど長夜の闇きをば 法華経のみこそ照らいたまへ
法華の御法ぞ頼もしき 生死の海は深けれど
諸経繰り読む譬ひにて 終にわれらも浮かびなん
娑婆にしばしも宿れるは 一乗聞くこそあはれなれ
うれしけれ や 人身再び受けがたし 法華経に今一度 いかでか参り会はむ
ここでは法華経の28品に従って法文歌の一部を紹介しておきます。
第1 :序品(じょほん)
法華経弘めし始めには 無数の衆生その中に
本瑞空に雲晴れて 曼荼羅曼殊の華ぞ降る
第2 :方便品(ほうべんぼん)
法華はいづれも尊きに この品聞くこそあはれなれ 尊けれ
童子の戯れ遊びまで 仏に成るとぞ説いたまふ
第3 :譬喩品(ひゆほん)
長者の門なる三つ車 羊鹿のは目も立たず
牛の車に心かけ 三界火宅を疾く出でむ
第4 :信解品(しんげほん)
長者はわが子の愛しさに 瓔珞衣を脱ぎ捨てて
異しき姿になりてこそ やうやく近づきたまひしか
第5 :薬草喩品(やくそうゆほん)
釈迦の御法はただ一つ 一味の雨にぞ似たりける
三草二木はしなじなに 花咲き実熟るぞあはれなる
第6 :授記品(じゅきほん)
四大声聞いかばかり 喜び身よりも余るらむ
われらは後世の仏ぞと 確かに聞きつる今日なれば
第7 :化城喩品(けじょうゆほん)
一乗妙法説く聞けば 五濁われらも捨てずして
結縁久しく説き述べて 仏の道にぞ入れたまふ
第8 :五百弟子受記品(ごひゃくでしじゅきほん)
一乗実相珠清し 衣の裏にぞ?けてける
酔ひの後にぞ悟りぬる 昔の親のうれしさに
第9 :授学無学人記品(じゅがくむがくにんきほん)
二千声聞の 仏を讚むる譬ひには
昼は甘露の注くを見 夜は燈火照るが如
第10:法師品(ほっしほん)
法華経八巻は一部なり 二十八品いづれをも
須臾の間も聞く人の 仏に成らぬはなかりけり
第11:見宝塔品(けんほうとうほん)
法華経しばしも持つ人 十方諸仏喜びて
持戒頭陀に異ならず 仏に成ること疾しとかや
第12:提婆達多品(だいばだったほん)
達多は仏の敵なれど 仏はそれをも知らずして
慈悲の眼を開きつつ 法の道にぞ入れたまふ
第13:勧持品(かんじほん)
法華を行ふ人はみな 忍辱鎧を身に着つつ
露の命を愛せずて 蓮の上に上るべし
第14:安楽行品(あんらくぎょうほん)
法華経読誦する人は 天諸童子具足せり
遊び歩くに畏れなし 獅子や王の如くなり
釈迦の御法のそのかみは さまざま見知らぬ人ぞある
地より涌きつる菩薩たち みなこれ金の色なりき
第16:如来寿量品(にょらいじゅうりょうほん)
娑羅林に立つ煙 上ると見しは虚目なり
釈迦は常にましまして 霊鷲山にて法ぞ説く
第17:分別功徳品(ふんべつくどくほん)
法華経持たん人はみな 起きても臥してもこの品を
常に説き読み怠らで 塔を建てつつ拝むべし
第18:随喜功徳品(ずいきくどくほん)
須臾の間も聞く人は 陀羅尼菩薩を友として
一つ蓮に入りてこそ 衆生教化弘むなれ
第19:法師功徳品(ほっしくどくほん)
釈迦の御法を聞きしより 身は澄み清き鏡にて
心覚り知ることは 昔の仏に異ならず
第20:常不軽菩薩品(じょうふきょうぼさつほん)
仏性真如は月清し 煩悩雲とぞ隔てたる
仏性遥かにただ見てぞ 礼拝久しく行ひし
第21:如来神力品(にょらいじんりきほん)
釈迦の誓ひぞ頼もしき われらが滅後に法華経を
常に持たむ人はみな 仏に成ること難からず
第22:嘱累品(ぞくるいほん)
一乗付嘱の儀式こそ あはれに尊きものはあれ
釈迦牟尼仏は座より下り 菩薩の頂撫でたまふ
第23:薬王菩薩本事品(やくおうぼさつほんじほん)
身を変へ再び生まれ来て 仏の滅期に参り会ひ
二つの臂を燃してぞ 多くの国をば照らしてし
第24:妙音菩薩品(みょうおんぼさつほん)
妙音菩薩の誓ひこそ かへすがへすもあはれなれ
娑婆界の衆生故 三十四までに身を分けつ
第25:観世音菩薩普門品(かんぜおんぼさつふもんほん)(観音経)
観音深く頼むべし 弘誓の海に船浮かべ
沈める衆生引き乗せて 菩提の岸まで漕ぎ渡る
第26:陀羅尼品(だらにほん)
ゆめゆめいかにも毀るなよ 一乗法華の授持者をば
薬王勇施多聞持国十羅刹の 陀羅尼を説いてぞ護るなる
第27:妙荘厳王本事品(みょうそうげんおうほんじほん)
戯れ遊びの中にしも さきらに学びん人をして
未来の罪を尽くすまで 法華に縁をば結ばせん
第28:普賢菩薩勧発品(ふげんぼさつかんぼつほん)
法華経娑婆に弘むるは 普賢薩?の力なり
読む人その文忘るれば ともに誦して覚るらん
実際には、天台宗も密教の沼にズブズブとハマった
歴代の大物座主は皆、法華経より大日経を重視していた
密教とは、秘密仏教の略称。一般の大乗仏教(顕教)が民衆に向かい広く教義を説くのに対し、宇宙の真理を仏格化した法身大日如来が直接行った説法である密教は、人間の言葉や文字によっては容易に把握できない秘密の教えで、この悟りの世界は象徴によってしか表現できないとされています。そこで密教は、身口意の三密瑜伽の行法、手に印を結び、口に真言を唱え、心に本尊を観想し、行者と本尊が一体となる(即身成仏)ことによって悟りに至るとした教えです。
密教には、こうした極めて神秘主義的・象徴主義的な側面があり、真理の象徴である本尊や曼荼羅などの図像がことに重視されます。また、その修法次第も他見を許さず、師から弟子へと秘密で相承されるのを特色としています。
密教の主要経典には、大日経、金剛頂経に天台で特に重視される蘇悉地経を加えた三部の大経があります。 密教の世界観には、宇宙はすべて大日如来の顕現で、胎蔵界と金剛界という二世界によって顕されます。一般には、大日如来の慈悲を表す面を胎蔵界、知徳を表す面を金剛界としています。 大日経は、「大毘盧遮那成佛神変加持経」といい、胎蔵界に関する教説の中心経典で、胎蔵界曼荼羅は大日経に基づいて描かれています。「胎蔵」とは、母親が子供を胎内で慈しみ育てるように、仏は衆生に本来具わっている悟りの本質を守り育てることを意味しています。 金剛頂経は、大日如来が自らの悟りの境地を明らかにし、悟りへの実践法を示した経典です。「金剛」とは、ダイヤモンドのように堅固な悟りの意味で、その内容を具体的に表現したのが金剛界曼荼羅です。
蘇悉地経の「蘇悉地」とは、「妙成就」と訳され、「他の真言法を修して成就しないときに、この経の根本真言を兼ねて誦持せば、まさに速やかに成就すべし」とされ、金胎両部と並ぶ第三の経典としてとくに台密において慈覚大師円仁は両部の大経に対してさらに深秘の説であるとしています。
伝法潅頂
密教では、教えを体得した師匠をとくに「阿闍梨」と呼び、その秘法を弟子に伝授し阿闍梨の位を継ぐ儀式を「伝法潅頂」といいます。
これは、古代インドにおける国王の即位や立太子の時に四大海の水を汲んで、頭の頂きに注ぐ儀式が取り入れられたものです。秘法が師から弟子に余すところなく伝授されることから、瓶から瓶に水が漏らさずうつされる様子に例えて「写瓶の如し」と表現しています。この阿闍梨から阿闍梨へと秘法が伝えられることを師資相承といい、これを記録したものを相承譜と称し、この法脈は、親子の血縁より深いことから「血脈譜」と称され、天台寺門宗では、智証大師を根本に現代までの師資相承を記録しています。
密教では、現世利益を願い様々な祈祷が行われます。もっとも一般に行われる修法が「護摩」です。もとは古代インドのバラモン教で供物を火に投じて供養する祭式であるホーマからの音訳で、これが密教の修法となったものです。火は智慧の火であり、これをもって一切の煩悩や悪業を焼き尽くす利益があるとされ、多くは大日如来の教令輪身である不動明王を本尊にして、護摩壇を建立し、炉に火を点じ護摩木を燃やし、火中に五穀など供物を投じて本尊を供養することによって願主の所願を達するよう祈願します。
護摩には、旱ばつ、強風、洪水、地震、火事など災害のないことを祈る息災法、家内安全、福徳繁栄、長寿延命、縁結びを願う増益法、さらには怨霊や魔障を祓う調伏法などがあります。
天台寺門宗では、宗祖智証大師が金色不動明王(黄不動尊)を守護仏とされたことから、ことに不動明王を本尊とし、護摩修法が盛んに行われています。
真言密教と変わりませんな~
密教でいう「金剛界」と「胎蔵界」だ
修験道とは、日本古来の山岳信仰が仏教に取り入れられた日本独特の宗教です。日本各地の霊山を修行の場とし、深山幽谷に分け入り厳しい修行を行うことによって超自然的な能力「験力」を得て、衆生の救済を目指す実践的な宗教です。
この山岳修行者のことを「修行して迷妄を払い験徳を得る」ことから「修験者」、または山に伏して修行する姿から「山伏」と呼んでいます。
日本人には、古くから山には祖霊が籠るという「山中他界」の信仰がありますが、修験道では、山を神仏そのもの、曼荼羅の世界と観じ、山中の森羅万象を大日如来の説法であると考えています。現代は「自然に親しむ」などといわれますが、自然はいつも美しく人々を包み込むだけではありません。ときには荒々しく人命を失わせるほどの過酷な様相を顕します。自然界は、人間界とは全く異なった「異界」でもあるのです。古代の人々は、人間の論理を越えた自然の神聖な畏力に神仏の顕現を観じ、畏怖の感情を育んできました。
現代にあっても山に登って、きれいな大気を呼吸し、身心を鍛えることは、何より大切なことです。自然と一体となること、ひたすら山に登り、自らを大自然の懐にたくし、山に生きる動物や虫、樹木や草花にいたるまで生きとし生けるものすべてが、一つの生命であることを実感することができれば、それがそのまま修験道が目指す「即身成仏」の悟りの境地に近づいたことになるのです。
修験道の開祖と仰がれるのが役行者(役小角)です。
役行者は、舒明天皇6(634)年、大和国茅原の里に生まれました。その生涯は、修験道の開祖にふさわしい様々な伝説に彩られています。葛城、熊野、大峰などの霊山で修行し、箕面の滝の龍穴では竜樹菩薩から秘法を授かり、葛城山(金剛山)の岩窟で孔雀明王の呪法を修め、生駒山の鬼を調伏し、前鬼、後鬼と名付け自らの家来とされました。また、各地の霊山を行脚されたと伝え、全国には役行者によって開基されたと伝える霊山が数多くあります。ことに大峰山との結びつきは深く、修験道の守護神として吉野の金峯山寺蔵王堂の秘仏・蔵王権現を感得され、大宝元(701)年6月7日、68歳のときに老母をとともに天上ヶ岳の山上より五色の雲に乗って天上に登られました。
役行者没後1100年の大遠忌を迎えた寛政11年(1799)正月25日には、三井寺長吏盈仁法親王の奏上により、光格天皇から勅書をもって「神変大菩薩」の諡号を追賜され、以来、「高祖神変大菩薩」と尊称しています。
天台寺門宗の宗祖・智証大師は、役行者神変大菩薩の足跡を慕い、承和12(845)年、32歳のときに那智の滝に一千日の参籠修行をされ、役行者の「縁起相伝」を受け、熊野から大峰山を経て吉野に至る「大峰奧駈修行」を遂げられました。ここに円密の二教に修験道を加えた天台寺門宗独自に「三道融会」の教風が確立されることになったのです。
その後、寛治4(1090)年、三井寺の増誉(1032~1116年)が、後白河法皇の熊野御幸の先達をつとめ、熊野三山検校職に補任されたのを契機に、総本山三井寺は、熊野をはじめ全国の天台系の修験道を掌握し、「本山派」と呼ばれる一大教派の中心道場となります。中世以降ともなると天台寺門宗、本山派修験道は、真言系の当山派と二大流派を形成し、儀礼や教義、組織も大いに整備拡大され、役行者と智証大師を慕う全国の修験者たちを集め興隆をみることになります。
大峰奧駈修行
本山派修験の最高の行儀は、役行者が修行し宗祖智証大師が練行された 大峰山での峰入り修行、ことに「奥通り」とも称し、熊野から吉野へと連なる深山幽谷を歩き通す大峰奧駈修行です。奧駈修行では、大峰の峰々伝いに「七十五靡」と呼ばれる行所があり、行者はこれらを順に拝しながら踏破します。これを修験では、行者が心身を修練し煩悩を捨て去ることを意味する「抖藪」行と称しています。もとより、山は死者の霊が集まる異界と考えられており、行者がこのに入峰することは、すなわち死者の世界に入ることを意味しており、ここで成仏への道筋をたどる「十界修行」と呼ばれる苦行である抖藪行を行うことによって、行者の心身が清まり、新たな生命となって再生し、特別な験力を授かることができるのです。
現在では、葛城山を顕教(法華経)の峰、大峰山を金胎両部の密教の峰として、現在も盛んに峰入奥駈修行が行われています。
本来は、修験行者の峰入り修行の無事円満を祈願して行われる修法のひとつです。密教の護摩とは異なり、屋外で修法される修験道独特のものです。不動明王を本尊とし、霊地の自然の中に大きな護摩壇を組み、大護摩の聖火すなわち智慧の火が一切の煩悩や悪業を焼き尽くします。一般には参詣の人々の心願を記した護摩木が聖火に投じられますが、これは護摩の功徳によって人々の諸願が成就されるといわれるからです。
顕教や密教より、修験道の説明にずっと熱心だな😅
智証大師のことばかりだ
いうことらしい
😀
わからんが
馴染み過ぎてか
真言密教よりも親近感が強いので
関心薄い
探求意欲がない
😀
仏が舍衞國祇樹給孤獨園にましましきとき、須菩提の問いにお答えになって、我相等を以て布施持戒等の般若波羅蜜行を行ずるは菩薩ではない。無所得・無諸住等の心で清浄新を起こせば仏土も清浄であり、清浄心であれば如来を見ることができる、とお説きになります。仏教大辞典では「要するにこの経の眼目は「応無所住而生其心」の八字に言い尽くされる」とあります。長尾 雅人「金剛般若経に対する無著の釈偈」では「「金剛般若経」そのものは「無所住」を思想的な根幹とし、それをめぐって「法」や「仏身」や「功徳」についての話題をくりかえし何度も述べている。菩薩の功徳の大きさも、法をいかに考え、仏をいかに見るかによって決まってくる。」と書いています。
法華経・華厳経と並ぶ、三大大乗仏典のひとつだが
知名度は圧倒的に低い
を延々と繰り返す、クセの強い経典
https://blog.goo.ne.jp/fukujukai/e/42679abf08707851727d3c1ed575596f
切っても切れない関係
中観派は、インド大乗仏教の主要な学派の一つであり、ナーガールジュナ(龍樹)によって開祖されました。般若経(般若波羅蜜多経)の教えを理論的に発展させ、空の思想を確立しました。中観派は、一切の法が「空」であり、固有の本質を持たないと主張します。
1.般若経の思想の展開:
中観派は、般若経の「空」の教えをより深く探求し、システム化した学説として展開しました。つまり、中観派は般若経の教えを基盤としつつ、それを理論的に深化させたのです。
中観派は、般若経における「空」を、一切の法が固有の本質を持たないこと、つまり「無自性」であると解釈しました。この「空」の概念は、中観派の基本的な教えであり、彼らが宇宙の真実を理解するための鍵となる考え方です。
ナーガールジュナの著書である《中論》は、中観派の代表的な著作であり、般若経の思想を論理的に展開したものです。この書物を通じて、中観派の「空」の思想はより詳しく説明され、体系化されたのです。
中観派は、般若経の教えを理解するための論理的なフレームワークを提供し、他の大乗仏教の学派(例えば、唯識派)との対比を通じて、自らの立場を明確にしました。
中観派は、般若経の「空」の教えを基盤とし、その思想を理論的に発展させた学派です。中観派は、般若経の「空」の概念を深く理解し、それを様々な論理的な議論を通じて展開し、自らの学説を確立しました。中観派は、般若経の教えをより深く理解するための重要な役割を果たしていると言えるでしょう。
必須だ
😀
その事実を、ほ~かい講頭はまだ知らない
5ちゃんのキリスト教スレだ
(長尾雅人訳『大乗経典1』中公文庫)
元こまスレと
ムイムイスレにしか
レス意欲がでませんなー
😀
受法受持分第十三
爾時須菩提白佛言「世尊。當に此の經を何と名けむ。我等云何奉持すべきや」。佛告須菩提「是經は名けて金剛般若波羅蜜と為す。是の名字を以て汝當に奉持すべし。所以は何ん。須菩提よ、佛の般若波羅蜜を説けるは則ち般若波羅蜜に非ず、是を般若波羅蜜なりと説く。須菩提。意に於いて云何。如來所説の法ありや不や」。須
菩提白佛言「世尊。如來に説きたまふ所なし」。「須菩提よ、意に於いて云何。三千大千世界の所有る微塵は是れ多しと為さんや不や。」
須菩提言「甚だ多し、世尊」。「須菩提よ、諸微塵を如來は微塵に非ず、是を微塵と名くと説く。如來は世界は世界に非ず是を世界と名く、と説く。須菩提よ、意に於いて云何。三十二相を以て如來を見たてまつるべきや不や」。「不也世尊。三十二相を以て如來を見たてまつることを得べからず。何以故。如來は三十二相は即ち是れ相に非ず、是を三十二相と名くと説かれたればなり。須菩提よ、若し善男子善女人ありて。恒河沙に等しき身命を以て布施せんに、若し復た人ありて此經中において乃至四句偈等を受持し他人の為に説かんに其福甚だ多し。」
須菩提よ、諸微塵を如來は微塵に非ず、是を微塵と名くと説く。
如來は世界は世界に非ず、是を世界と名く、と説く。
如來は三十二相は即ち是れ相に非ず、是を三十二相と名くと説かれたればなり。
金剛般若経は、これを繰り返す
実用対応の
裏があるのさー
しかし実用対応の魔王フラッシュ昨夜やりまくってたのは
ワロタ
😀
みたいな
ノリノリやった昨夜
完璧に何者かに乗せられていた
😀
家にいると調子が悪くなりそうなので
お出かけだ
😀
唯識論の中でも、一種の言語哲学と言える
唯識論は、そこまでこだわらない
だが、唯識論においても「言語」は重要だ
そんな中で、世界の巨匠・井筒俊彦は、
仏教理論を一種の言語哲学として捉える
再解釈を行った
清森義行と同じく、浄土真宗の人だが
「唯識論における言葉」 花栄 同朋大学論文
唯識説では、阿頼耶識がわれわれの経験するあらゆる物事を現し出すのは、阿頼耶識のなかに蓄えられた過去の経験の力(種子)によるとされる。その過去の経験とは、始まりのない過去からの輪廻転生の数限りの無い生涯において積み重ねてきた無限の業を意味する。その業の力がわれわれの阿頼耶識のなかに種子として蓄えられ、新たな境涯を牽引し、その境涯で経験されるあらゆる物事を現し出す。あらゆる物事を現し出す種子のなかで最も力の強い種子は名言種子と呼ばれる「言葉の種子」である。唯識学派が迷いの境涯を現し出す根拠を阿頼耶識であると言うのは、阿頼耶識が「言葉の種子」である名言種子を蓄えることによるものと考えられる。他方、この学派においては、迷いの境涯を転じて仏の悟りの世界を現し出すものを法界等流の「聞熏習」によって阿頼耶識に蓄えられる清浄な「言葉の種子」であると考える。
阿毘達磨倶舎論(あびだつまくしゃろん)は、ヴァスバンドゥ(世親)を作者として、4世紀-5世紀頃にインドで成立したとされる、部派仏教の教義体系を整理・発展させた論書である。
サンスクリット原典の題名は『アビダルマ・コーシャ・バーシャ』
20世紀にサンスクリット原典が発見されてからは、漢訳に依らない研究が行われている。
8章の本編と附編1章からなる「論」は、学説を圧縮した形で語る韻文の部分である本頌(ほんじゅ)もしくは偈頌(げじゅ)と、それを散文で解釈し論ずる長行(じょうごう)もしくは「釈」から構成されている。偈頌は4つの句をもって1偈とする韻律をもち、598偈(漢訳608偈)を有する。猶、破我品には本頌は存在しない。
界品(かいぼん):(1)序説、(2)有漏・無漏、有為・無為の説明、蘊・処・界の説明、(3)蘊・処・界についての種々の問題、(4)十八界の分類的考察[31]。48偈(玄奘訳では47偈)。
根品(こんぼん):(1)二十ニ根の説明、(2)法と倶生の定則、(3)心所法(五位も参照)の説明、(4)心不相応行法の説明、(5)六因・五果・四因の説明(後述「因果関係の法則」も参照)、(6)十二心・二十心の相生の原則[31]。73偈(玄奘訳では74偈)。
世間品(せけんぼん,):(1)三界・五趣・四生、(2)中有についての論議、(3)十二縁起の解釈、(4)有情に関する種々の問題、(5)器世間の構造とそこに住する有情、(6)世間の消滅変化[32]。102偈(玄奘訳では99偈)。
業品(ごうぼん):(1)業の種類、(2)各種の表業・無表業の性質、(3)経典に見える種々の業説。(4)十善業道・十不善業道についての説明、(5)業についての雑多な事項の収録[32]。127偈(玄奘訳では131偈)。
随眠品(ずいめんぼん):(1)九十八随眠の理論、(2)九十八随眠の分類的考察、(3)経中に見える諸種の煩悩についての説明、(4)煩悩の断滅。70偈(玄奘訳では69偈)。
賢聖品(けんしょうぼん):(1)道についての総論、(2)諦の説明、(3)三賢・四善根、(4)見道・修道についての説明、(5)無学道およびそれに関する種々の事項、(6)諸種の道の説明[33]。79偈(玄奘訳では83偈)。
智品(ちぼん):(1)忍と智と見との関係、(2)十智とその形相など、(3)智を自性とする種々な徳。56偈(玄奘訳では61偈)。
定品(じょうぼん):(1)徳のよりどころとなる各種の三昧、(2)三昧をよりどころとする種々の徳、(3)総括。43偈(玄奘訳では39偈)。
破我品(はがぼん):「我」(が)ありとする主張の論破。
界品・根品で基礎的範疇を説明し、世間品・業品・随眠品で迷いの世界を解明し、賢聖品・智品・定品で悟りに至る道を説く。最後に付録の破我品で異説を論破する。
多様に複雑な因果関係をなしている諸法を、因である点から六因、四縁に、果である点から五果に分類する(分別根本第二)。
この六因説は経典に明確な文言を用いて説示されている説ではない。恐らくは有部アビダルマにおいて構築された説である。六因説の初出については『発智論』[大正蔵26巻920c]であると指摘されている。
能作因(のうさいん) – ある存在(法、ダルマという)が生起するとき少なくともその妨げをしないという点で、他のすべての存在がその存在に対して原因としてのはたらきをもつこと。芽に対する種のような結びつきの強い原因はもちろん能作因であるが、月が存在することに対してスッポンは何の妨げも為さないことから月にとってスッポンは能作因である。
倶有因(くういん) – 因・果が同時に生じ、相互に因となり果となるという同様な関係を持つときの因のこと。たとえば二枚のトランプをお互いよりかからせて立たせた時に、お互いがお互いの倶有因であり士用果である。
同類因(どうるいいん) – 現在の瞬間と同類の現象が後に果として生じる時の原因のこと。因が善ならば果も善、悪ならば悪、無記ならば無記と、その性質をともにしなくてはならない。例えば、忍耐をしているある瞬間は、忍耐をしている次の瞬間の同類因となる。
相応因(そうおういん) – 倶有因の一種で、心と心作用との間の関係についてのみ用いる。
遍行因(へんぎょういん) – 同類因の特別な場合で、11種の遍行およびそれと相伴う諸法のこと。好ましくない感情や態度が、後の瞬間の好ましくない感情や態度を作り出す時の原因にあたるもの。
異熟因(いじゅくいん) - 諸々の善・悪といった、(煩悩に関連する)業のこと。相互に時を隔てた異時点間の因果関係から、楽・苦などの果をもたらす。この果(異熟果)は、善でも悪でもない(「無記」である)ことから、異熟と呼ばれる。
因果関係の因について、上記の「六因」とは異なる分類のしかたをしたもの。
因縁(いんねん) - 六因のうち、能作因を除く五因(倶有因・同類因・相応因・遍行因・異熟因)をまとめたもの。
等無間縁(とうむけんねん) - 先の瞬間において生起していた心およびそれと相伴う心作用(前念)が過去に過ぎ去り、直後の瞬間に別の心・心作用(後念)が未来から生起し継承する(心相続)という因果関係の因。因と果が必ずしも同類でないことから同類因と区別される[44]。前念と後念が無間(時間的な隔たりがない)であるときの前念をさして、等無間縁という。次第縁ともいう。六因のなかでは能作因以外の五因のどれにもあたらないから、最も包括的な能作因に入れるほかはないが、能作因の示す弱い因果関係とは異なったものであるため、有力能作因と呼んで区別することもある。
所縁縁(しょえんねん) - 心・心作用の対象(所縁)のことを所縁縁という。(説一切有部では対象のない心はありえないため)心・心作用は所縁がなければ生じないことから、因としては所縁縁となる(果としては、心・心作用そのものが増上果となる)。有力能作因に数えられる。縁縁ともいう。例えば「青」い物体は、それが「青」という特性を持っているという眼識を引き起こす。
増上縁(ぞうじょうえん)- 最も広義の縁で、ひろく能作因に相当する。もの・心一般に広く通じる原因であって、結果を望むことができるような縁となるものを総称したもの。他の物事が生ずることを助ける働きをする縁。
増上果(ぞうじょうか) - 六因のうち能作因に、四縁のうち増上縁・等無間縁・所縁縁に対応する果。増上は「力を及ぼすもの」の意。
士用果(じゆうか) - 六因のうち倶有因・相応因に対応する果(四縁のうち因縁の一部に対応)。因と果が時を同じくする関係になっている。士用は「男子の動作」の意で、因の力の強いのをそう例えたもの。
等流果(とうるか) - 六因のうち同類因・遍行因に対応する果(四縁のうち因縁の一部に対応)。等流果は多くの場合自らまた同類因となって次の等流果を生ぜしめ、そこに因果の連鎖が続く。等流とは、因から「流れ出る」の意。
異熟果(いじゅくか) - 六因のうち異熟因に対応する果(四縁のうち因縁の一部に対応)。異熟果は善でも悪でもない「無記」であり、異熟果自体が自ら異熟因となって再び異熟果を生じそこに因果の連鎖をなすことはない。
離繫果(りけか) - 煩悩の止滅(すなわち涅槃)のこと。三世実有の立場では、煩悩はその作用を失うことによって過去の位相に落謝し、滅び去っていく。涅槃は、煩悩の拘束から離れる・解放される(離繫りけ)ことであり、正しい知恵の結果であることから果のひとつと位置づけられる。有部によれば、離繫果の因は能作因であるが、世親はこれを批判している。
😀
集中力のギアは
確定した
😀
インド思想史としては、この続きがある
>>2 ◆JBLfMwCXhY 2025/04/27(日) 16:46:00.19 ID:MqHtS
インドの仏教思想 主な流れ
1、初期仏教 : 紀元前6世紀頃
お釈迦様の教え
2、上座部 (テーラワーダ仏教) : 紀元前5世紀頃
いわゆる小乗仏教、南方で継承される
3、説一切有部 (倶舎論) : 紀元前1世紀頃
部派仏教の時代、最も有力な部派
4、経量部 (倶舎論) : 西暦300年頃~
説一切有部から分派、世親はここの出身
5、中観派 (中論) : 西暦200年頃~
空と縁起の思想、龍樹が始めた大乗仏教
6、瑜伽行派 (唯識論) : 西暦400年頃~
阿頼耶識が登場、大乗二大学派のひとつ
7、如来蔵思想 : 上記の流れとは独自に展開、
「誰でも成仏できる」という思想
この後に
→不二一元論 が続く
唐の時代の人だ
奈良時代の人と言うべきか
ヒンドゥー教のアドヴァイタ哲学だ
📶もそうだけど、
現実のリアルな洞察のを
放棄する
コーン🤡は
そもそもウンチクだけで
現実洞察は必要としていない
🤡
現実洞察
だ
😀
とくに心理分析ですな~
洞察が欠落しているから
イミフなんやろなー
関心ゼロやから
リダン文章読まないけどなー
😀
胡散臭い分裂デオー分身デオー、5ch和紙の分身デオー!
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頭逝ってるデオー和紙、分身活動お疲れ様👍
顔文字使用の演技して人を騙して面白いか?
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教会にも寺院にも通ってない「嘘塗れデオー」
おまえが人様の精神を破壊しようとしてきたのに
良い人のフリしてるんじゃねーよ!
躁状態ヤンキー「SM女王デオー」の醜悪な独り言
必死チェッカーもどき 心と宗教
使用した名前一覧
でおー
ぼったん禅は猿芝居ヒッキー禅w
神も仏も名無しさん
坐禅と見性第114章 八角磨盤空裏走 無断転載禁止]©2ch.net [無断転載禁止]©2ch.net
436 :でおー:2017/01/17(火) 09:27:43.76 ID:P4PS2Ldd
次かきこみ日は未定、
寝言妄想書き込み大いに期待しているぞw
❌虐待してやるw
坐禅と見性第114章馬が田に入り、牛が田に入り、早乙女が田植えする [無断転載禁止]©2ch.net
538 :神も仏も名無しさん:2017/01/17(火) 09:11:42.76 ID:P4PS2Ldd
人 人 人
(__) (__) (__)
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❌ウンコッコ ウンコッコ ウンコッコ
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分裂デオー和紙、分身っ💕
善人のフリしてるんじゃねーよ、多重人格障害デオー和紙!
必死チェッカーもどき 心と宗教
2017年02月10日
「汚言病患者デオ〜」の醜悪台詞を見て下さい!
わっこのお部屋3
794 :神も仏も名無しさん:2017/02/10(金) 08:55:09.66 ID:7yRvQNSp
メス猿知った風に修行を語るwいや騙る、ペテンメス猿がw
❌わっこ=ネカマなのに、「嘘塗れ雌豚デオ〜」は識別もできない!
815 :モンキー餓臭国大統領、ドナルド・ぼたんぷ。:2017/02/10(金) 08:57:10.27
モンキー餓臭国大統領、ドナルド・ぼたんぷ。
【宗教妄想・廃人】 宗 教 板 の 伝 説 を 作 る 人 達 7
思えば2016年8月7日(日)、この元となるスレ(こんなでおーはゴミだ)が立てられ早いもので7年目になりました。
でおー、
馬鹿鬼、
もう皆さんは既にご周知ですが、宗教板の住人には統失や知育障害や認知症等の方がおり、毎日の様に不可思議な言動を著しては迷惑を掛けています。
このスレは、そんな方々の言動を記録して後世に伝えていこうというものです。
分裂デオー和紙、分身っ💕
誹謗中傷デマ垂れ流してる屑デオー和紙、何体?
4体?9体?
2017年03月28日
使用した名前一覧
でおー 分身っ💕
モンキー餓臭国大統領、ドナルド・ぼたんぷ。
神も仏も名無しさん
ヒッキー公案「有位の痴人毎日垂れ流しているのを、みない、みない」
ヒッキー様の竜頭蛇尾w
ヒッキー様の自慢の無字の境地w
魔境落ちしていないヒッキー様の証
ジャンキー大山の恐怖の時間準備完了w
鬼和尚の真実、本性はw
ぼったんがかつて味わった恐怖w
デスヒッキー発射準備w
ジャンキー大山の哀れなる情報判断システム
ヒッキーサル山祭りの始まりだw
偉大なる鬼和尚の境地w
偉大なる鬼和尚の悟りの境地
修正wジャンキー大山の哀れなる情報判断システム
ヒッキーサル山の永遠ループ思考回路w
記事:春秋社
『シリーズ思想としてのインド仏教 心と実存 唯識』(春秋社刊)の著者・高橋晃一先生(東京大学教授)に、唯識思想の課題である「外界の実在」と「夢」の問題から、仏教の最終目標である悟りとの関係を語っていただきます。
仏教の哲学的な思想に唯識思想というものがある。この思想は、四世紀頃のインドで、大乗仏教の思想家たちが空に対する思索を深める中でうまれた。彼らは「すべての存在は唯識である」と説いている。
「唯識」とは、文字通りには「ただ識のみ」という意味になるが、この場合の「識」は、いわゆる対象を認識するはたらきのことではない。インドの古典語であるサンスクリット語では、対象認識をvijnanaという。眼や耳など感覚器官による認識(いわゆる五感)と、言語の使用や記憶などの関わる意識が、これにあたる。
それに対して、「唯識」という場合の「識」の原語はvijnaptiといい、「認識された結果」を意味している。「すべての存在は唯識である」とは、「あらゆる存在は認識の結果として見えているものに過ぎない」ということを意味している。
この唯識思想を唱導する学派を唯識派といい、また瑜伽行派(ゆがぎょうは)ともいう。「瑜伽行」とは「ヨーガーチャーラ」というサンスクリット語を翻訳したもので、「ヨーガの実践をする人」を意味する。この術語は「ヨーガ」と「アーチャーラ」という二つの単語にわけることができる。このうち「ヨーガ」はいわゆる瞑想のことで、これを「瑜伽(ゆが)」と音写し、「アーチャーラ」の部分を実践という意味で「行」と訳している。本来は「ヨーガの実践」を意味するはずだが、文献では、しばしば「ヨーガの実践者」という意味で用いられている。その場合、一般的な意味ではなく、唯識思想を説く人々を指していることが多い。つまり、ヨーガーチャーラが唯識思想を説く学派を指す呼称となっている。そのため、唯識派のことを瑜伽行派とも呼んでいる。
話をインドに戻す。唯識思想の実質的な創始者は、アサンガ(無著(むぢゃく))とヴァスバンドゥ(世親(せしん))の兄弟とされている。二人とも五世紀頃の人物と目されている。しかし、このふたりがはじめて唯識思想を説いたというわけでもない。
伝説によれば、兄のアサンガはマイトレーヤ(弥勒(みろく))から唯識の思想を学んだとされている。マイトレーヤはトゥシタ天という天上界に住む菩薩で、五十六億七千万年後に悟りを開くと予言(授記)されている。アサンガは神通力によってトゥシタ天にのぼり、そこでマイトレーヤから唯識思想を授けられたという。さらにはアサンガが地上に戻った後も、マイトレーヤは夜毎にアサンガのもとに降臨し、唯識を説く文献を伝授したとされている。
六世紀頃のインドの学僧である真諦(パラマールタ)は、その著『婆藪槃豆法師伝』の中で、マイトレーヤは『十七地経』(『瑜伽師地論』の前半部分「本地分」に相当)をアサンガに伝授したと述べている。また、玄奘は『大唐西域記』の中で、『瑜伽師地論』のほか、『大乗荘厳経論』や『中辺分別論』という文献も授けられたと記している。
『婆藪槃豆法師伝』はアサンガとヴァスバンドゥの最も古い伝記とされている。そこには上で述べたように、アサンガが天上界の菩薩であるマイトレーヤから唯識思想を教授されたことが記されている。これが何らかの歴史的な事実を反映していると考えるか否かは、人によって見解が分かれるところだが、仮にアサンガがマイトレーヤから教えを受けたと自ら語っていたとしても、それは彼の瞑想中に起こった神秘体験なのではないだろうか。
ところで、この伝説によれば、アサンガは『瑜伽師地論』の前半部分に相当する「本地分」をマイトレーヤから伝授されていることになる。これはアサンガに先んじて、『瑜伽師地論』「本地分」がすでに流布していたことを意味しているのであろう。また、アサンガは、その著『摂大乗論』の中で、『大乗荘厳経論』や『中辺分別論』なども引用している。これらの文献は、マイトレーヤに帰せられる論書として知られている。こうしたことから、『瑜伽師地論』「本地分」や『大乗荘厳経論』『中辺分別論』は、アサンガが唯識思想の体系を構築するよりも前から、世に出ていたと考えるのが自然だろう。
アサンガは、彼に先行する唯識文献を渉猟し、それをもとにさらに彼自身の思索を深めていったのであろう。またそのアサンガに感化されて、弟のヴァスバンドゥも大乗仏教に転向し、自著をまとめ、唯識思想を精緻なものにしていった。そのような意味で、アサンガやヴァスバンドゥは唯識思想の「実質的な創始者」なのである。
インドの大乗仏教の一学派である瑜伽行派は、唯識思想を説いたことで知られている。唯識とは「すべてはただ認識の表象に過ぎない」という思想である。ところで、この思想を端的に表すことばとして、「三界唯心」という経文が引かれることがある。三界とは欲界、色界、無色界の三つの領域を指し、仏教的な世界観ではこの世のすべてを表わしている。それがただ心に過ぎないという意味で、「三界唯心」という。唯識思想の大成者の一人であるアサンガは、『摂大乗論』の中で、『十地経』の一節としてこの文言を引いている。
一方、弟のヴァスバンドゥは、その著『唯識二十論』の冒頭で、「大乗において三界唯識を立証する」と宣言している。「唯識」という場合の「識」は、「認識の結果」あるいは「認識表象」を意味するvijnaptiの訳である。「唯識(ただ認識表象のみ)」ということによって、外界の対象はその存在を否定される。つまり「三界唯識」とは、「この世のすべては認識表象に過ぎず、外界の対象は実在しない」ということを意味している。そして、ヴァスバンドゥも『十地経』の「三界唯心」を引き、瑜伽行派の唯識思想を裏付ける根拠としている。
このように、唯識思想においては、外界の対象の存在は否定される。そして、『十地経』をはじめとする大乗経典にも、その証左を求めることができる。しかし、われわれは実際に対象を認識し、またそれが自分の外部に存在していることを疑ったりしない。日常生活においては、そのように捉えていて何の支障も生じない。それどころか、外界の対象は心の表れに過ぎず、実在しないと考える方が、我々の実感に反する。そもそも外界の対象が存在しないのに、なぜ対象に対して認識が起こるのか、ということが問題であろう。
唯識思想に対して疑問を抱く人々は、外界が実在すると考えている。アサンガやヴァスバンドゥが生きた時代、外界実在説に立つ人々は、実在は四つの観点から定義されると考えていた。すなわち、(1)特定の空間を占有し、(2)特定の時間に限定され、(3)すべての人に認識され、(4)期待された効用があるもの、それが実在であるとされていた。つまり実在するものは空間的・時間的な制約を受け、ある人には認識されるが、別な人には認識されない、ということがなく、その対象が持っている効用が実際に確認できるものである。最後の条件としてあげられる「効用」とは、例えば、水の場合、それを飲むことで渇きが癒されるが、この「渇きの癒し」が効用であり、それがあることによって、その水は「実在」しているということになる。
しかし、唯識の思想家たちは、外界の対象なしに認識が生じうることを、むしろ「夢」を実例として説明している。例えば、ヴァスバンドゥは『唯識二十論』で、外界の実在の四つの条件が、夢の認識においても当てはまることを証明しようと試みている。
『唯識二十論』での「夢」の話は討論の形式をとっていて、実在論者の主張を排除することに終始している。そうした議論を見ると、「やはり夢は夢であり、現実ではない」と、われわれは考えるだろう。しかし、夢の中の認識は単に対象のない認識の例ではない。ヴァスバンドゥの兄のアサンガも『摂大乗論』において「夢」に言及しているが、そこでは少し違った視点で「夢」について語られている。
夢の中の認識は単なる認識の表象に過ぎず、現実ではないが、夢から醒めない限り、それに気づくことはない。夢から醒めたときに、はじめてそれに気づく。アサンガはこのことを指摘した後、われわれが現実として捉えている世界も、夢と同じだという。彼は「真実の智によって覚醒した者」にしか、世界はただ認識表象に過ぎないことは分からないと述べている。「真実の智によって覚醒した者」とは、おそらくブッダを意識した表現であろう。「ブッダ」とはサンスクリット語で「目覚めた人」を意味する。われわれは凡夫であって、ブッダではない。真実の智によって覚醒していない凡夫は、夢から醒めていない人と同じように、自分たちが見ているものが認識表象であることに、まったく気づかない。
このように、「夢」は単に対象が存在しない認識の実例ではない。悟りという仏教思想の根幹にかかわる話であり、われわれ凡夫に対する警鐘なのである。
高橋晃一(たかはし・こういち)
1971年生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学。博士(文学)(東京大学)。現在、東京大学文学部教授。著書に『『菩薩地』「真実義品」から「摂決択分中菩薩地」への思想展開――vastu概念を中心として』(インド学仏教学叢書、2005年)、「初期瑜伽行派の思想―『瑜伽師地論』を中心に―」(高崎直道監修、桂紹隆・斎藤明・下田正弘・末木文美士編『シリーズ大乗仏教7 唯識と瑜伽行』春秋社、2012年)などがある。
「唯だ、識のみが実在する」
「外界は実在しない」
という思想
たとえば、目の前のコップを見て
「唯識論によると、これも実在しないんだな~」
とかなんとか考えてるうちは、
唯識ワールドの住人ではない
唯識ワールドの住人にとって、
コップが実在しないのは
当たり前のことだ
それが当たり前になってないうちは、
唯識ワールドの住人ではない
上のコピペにあるように、
大昔の唯識の論師たちは、
「夢」を引き合いに出して説明していた
だが、今なら間違いなく、
コンピュータによるバーチャル・リアリティの
仮想空間を引き合いに出すであろう
昔は、「夢」しかなかったのだから仕方ない
1度だってアンタ 憎めなかった
ゲームの世界にログインすると
目の前に、リアルな映像が広がり
音声が響く
だが、これだけではまだ、
その世界に没入だけるわけではない
「ここは、アレフガルド王国。
世界は闇に包まれ、魔物たちが徘徊している。
アナタは勇者ロトの子孫で、
いま冒険に立ち上がろうとしている・・・」
とかなんとか、言語による情報があって
初めて、世界が「意味」を持ち始める
実は、リアルの現実もこれと同じだ
この世は、360度のリアルな立体映像と
サラウンド音声でできている、
情報の世界
人間はさらに、言語で大幅に情報量を水増ししている
世界は、視覚情報と音声情報、さらには言語情報でできている
↑
世界の一般人が、このことに気づくのは至難だ
太陽からの光がリンゴに当たって反射し、
自分の目を通って、脳に入る
光というのは、電磁波だ
波長の長い電磁波を脳がキャッチすると
「赤」という色彩に変換される
波長の短い電磁波を脳がキャッチすると
「青」という色彩に変換される
救急車にはサイレンがついていて、
中の器具が猛スピードで振動している
空気の振動が、自分の耳を通って、脳に入る
波長の長い振動波が脳に入ると、
「低い音」に変換される
波長の短い振動波が脳に入ると、
「高い音」に変換される
でも、これだけじゃ足りない
言語によって、大幅に情報量を水増し
意味付けしないと、単なる映像と音声だけじゃ、何の意味もない
〝人間の認識における〟外界は
存在しない
と言っていないか?
提示してくれ
続けてくれ
・・・というと、このような異論が出る
「それにしては、壁を通り抜けられないではないか」
「机を手で触っても、通り抜けられないではないか」
手の表面は、原子が集まってできている
机の表面も、原子が集まってできている
原子の表面は電子に覆われており、
電子同士はマイナスの電荷を帯びているため
反発する
手が机を押すと、机の原子たちが
スクラムを組んで反発し、
押し返す
それを、脳が「これは固くて通り抜けられない」
という、触覚情報に変換する
この段階でそれを言い出すと、話がややこしくなるので・・・😅
俺的には上位階層と下位階層に分けて世界認識は必要だろな
最下位構造、物理、
その上、地球上の自然現象
その上、生命の現象システム
その上、動物の脳の本能プログラムされた一定のシステム
その上、動物の脳の本能プログラム以外の要素発生、猿は同属で殺戮ができる
その上、恣意的な思考回路や文化知識蓄積できる、人間の世界
このあたりが分析的なことだ
俺の若い頃は
こんなのが好きだった
社会科学者がバカに見えてた
😀
なるほど~😄
古典西欧哲学が
大方無知である
ソシュールとメルロ・ポンティ読んだくらい
😀
メルロ・ポンティは
大方記憶から消えた
😀
カールポランニーか
内容は忘れた
😭
似て非なる、この2つの組み合わせが
唯識論をややこしくしている
見られた対象の映像、概念が、相分
どうしても、見分が前五識
自証分が第六意識
証自証分が、潜在意識の末那識や阿頼耶識・・・
に見えてくる
上に行くほど表面意識で、下に行くほど深い潜在意識になる
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/a/ae/%E5%94%AF%E8%AD%98.png/500px-%E5%94%AF%E8%AD%98.png
「前五識の相分」 「前五識の見分」
「第六意識の相分」「第六意識の見分」
「末那識の相分」 「末那識の見分」
「阿頼耶識の相分」「阿頼耶識の見分」
がそれぞれにある
↑
これは唯識論の核心
すべては、阿頼耶識から生じている
自分自身を客観視するのは、見分には無理
識体が、「認識される対象」と「認識する自分」に分かれる
まずは、ここが大事
と、昔の自分のことを思い出せるのは、自証分の作用
見分には、これができない
見分は、自分自身を客観視できないから
ニサルガダッタ・マハラジの動画見てて
良いこと言ってたよ、それは
【見る者】が【在る者】に代わる‼️
だって
これはスゴイ!表現だね
見る意識は、在るというそれに
とって代わられる!
568 パ◆GyEhhmlxmzjr 2025/08/24(日) 14:50:30.09 ID:gdoMr
在るという気付きが
自証を証する分
見る意識を証しするのは
在るという、それ‼️
「私は在る」という気づき
それが、証自証分なのかも
証自証分を追加して、わざわざ
話をややこしくしたのか?
これはやはり、護法自身が瞑想体験により
「もう1人の自分」の存在に気づいた
そう解釈するのが自然だ
😀
https://m.youtube.com/watch?v=7ybi4dHtxDk&pp=ygUeQW1lcmljYW7jgrfjg4rjgrTjg7zjgrBTZXJ2aWNl0gcJCRsBo7VqN5tD
この動画て
霊的に入れるとはなー
ユダヤ教だ
😀
こんなマイナーな話が、なぜ注目されるのか?
565 栖雲居士◆dqam8SqGUPdm (50-ltP-Ij-ibv) sage 2025/08/24(日) 16:34:20.39 ID:GZrEL
(原文)
安惠解云。
變謂識體轉似二分、二分體無。
遍計所執。
除佛以外菩薩已還、諸識自體即自證分、由不證實有法執故、似二分起。
即計所執。
似依他有、二分體無。
如自證分、相貌亦有。
以無似有。即三性心皆有法執。
八識自體皆似二分。
如依手巾變似於兎、幻生二耳二耳體無、依手巾起 。
(『述記』巻一本、大正四三、二四一)
(読み下し)
安恵解して云く。
「変とは謂く識体転じて二分に似る」といふは、二分は体無きなり。
遍計所執なり。
仏を除きて以外の菩薩已還の、諸識の自体は即ち自証分なるも、実を証せず法執有るに由るが故に、二分に似て起こる。
即ち計所執なり。
依他の有に似るも、二分は体無きなり。
自証分の如く、相貌は亦た有なり。無の有に似るを以てなり。
即ち三性の心に皆な法執有り。
八識の自体は皆な二分に似る。
手巾に依りて兎を変似するに、幻に二耳を生ずるも二耳は体無く、手巾に依りて起こるが如し。
(解説)
すなわち、相分・見分は無体であり、遍計所執性である。仏以外は、諸識の自体である自証分が、法執により相分・見分のようなものを起こす。これが遍計所執性である。
これは依他起性である自証分のように有体であるかのようであるが、相分・見分は無体である。
したがって三性の諸識にはみな法執があり、その自体(自証分)が相分・見分のようなものになるのである。
それは手巾で作られた兎の耳のようなものである、という。
ここには、相分・見分が無体、自証分が有体であり、前者が遍計所執性、後者が依他起性であるという解釈が見られる。
また、三性の諸識にはみな法執があるという解釈も見られる。このことから、安慧の一分説とは、相分・見分・自証分の三分を認めた上で、相分・見分の無体と、自証分の有体とを説くものであることが知られる。
571 栖雲居士◆dqam8SqGUPdm (50-ltP-Ij-ibv) [sage] 2025/08/24(日) 16:49:27.30 ID:GZrEL
安慧は、見分?相分を遍計所執性(畢竟無~無法)として排除して、自証分のみを依他起性(仮有~実法、仮法)としているという事だから😟
つまり、一分説という事な。
何故なら、遍計所執性は畢竟無、無法だから。
以上。
やりたいだけじゃね?
下痢で消えるのかもなー
ユダヤ教の霊的感触は
なかなかやなー
😀
おっ、今度はユダヤ教か?😄
AmericanシナゴーグServiceで
検索したら
アメリカのが
バンバンあがってきた
保守派か
改革派か
区別がつかん
動画落とししているのは
改革派、5分ぐらいの日本語翻訳動画がある
😀
動画落とし用スマホなのでリンク先
わからんまま
「メシアニックジュー」
なんて人たちまでいる
区別がつかん、
チャンネルで
リホームドとか書いていたのは改革派とはわかるんだが
チャンネルもわからんチャンネルがあるからなー
日本の寺院なら
検索すれば
だいたい宗派がわかるんたが、
ユダヤ教は謎だ
😀
イエス・キリストの信仰をもったとかの動画は
その類かもしれん
😀
大丈夫か?
🤡
569.
ユーザー
栖雲居士◆dqam8SqGUPdm50-ltP-Ij-ibv
GZrEL(10/16)
メモ
0420 鹿野園 ◆ifwe1NnHmGU5 2022/08/21(日) 11:10:57.48
円成実性・・・・実有
依他起性・・・・仮有~実法、仮法
遍計所執性・・畢竟無~無法
ID:au7gClIX(23/48)
2025/08/24 16:45:21
見えん
こういう究極ポイントは
俺は抑えてるからさー
😀
ヤバい方向にイッてるな?😫
深い瞑想状態の中で
「自分を客観視している、もう1人の自分」
の存在に気づいた
それを「証自証分」と呼んだのではないだろうか
インドの導師たちがいう「真我」に近い
仏教は無我だから、「真我」というわけにはいかないが(笑)
日本語でユダヤ教改革派を学べるぞ
😀😀😀😀😀
https://m.youtube.com/watch?v=Y6rqO8tv_H4
これは
イミフに禅仏教の概念を
フランケンツギハギしてるやろ?
😫😫😫😫😫
そんな自分を客観視している自分が、「自証分」
ここまではいいんだが
護法は、深い瞑想状態の中で「もう1人の自分」を発見した
それを「証自証分」と名付けた
「アイ アム ザット」だ
すごいな?
これでユダヤ教も分かってくるな~😆
トンデモ理論の一歩手前だ~😫
「見分」というのが、普通に考える自分
そんな自分を客観視している自分が、「自証分」
ここまではいいんだが
護法は、深い瞑想状態の中で「もう1人の自分」を発見した
それを「証自証分」と名付けた
ていうか、四分法こそ、唯識論を難しくしている元凶だ😫
四智と
円成実性などの
三なんとかて満足
😀
見つけるから
Ultra宗教マニアだ
このラビは
イスラエルのガザ地区の飢餓攻めに反対している😀
自証分の無限後退を
証自証分に回帰した
というだけの話
自証分を認識するものを認識するものを認識する…
言語で、文字で表すさいの弊害
倶舎論等でもよく見かける
無限後退を回避する仮設
↑
これは唯識論の核心
ここでいう、識体が自証分であり、二分というのが相分・見分だ
安慧は、相分・見分を遍計所執性であるとした
唯識論の瑣末の探求パワーがないー
おはー
😀
唯識論への無関心、いつか読もうと思いながらも
😀
当方も、分野によっては、まったく頭に入ってこない
何度きいても忘れる
😀
つまり、実体を持って存在している、本質存在だ
ここが唯識論の特徴
中観派は、識体が実有であることを認めない
すごいな?😄
未だにアタマに入らない
下痢のように抜けていくコーン🤡
状態
😀
相分と見分に実体がないのは、唯識の徒なら誰も異論がない
安慧の一分法は、「相分と見分は遍計所執性である」としているだけ
言ってることは、三分法と大差ない
セイウンコーン状態か~😂
それを言うなら、唯心論じゃないんかい?😫
326 チャッピー 2025/08/25(月) 08:51:26.70 ID:XgpSk
🔑 結論:
一分説を唯物論的実在論、
二分説を龍樹の二諦論的認識論と位置づけることで、
実体の数の矛盾や主体・客体・主観・客観の混同問題が自然に解消されます。
唯物論は、唯識論とはほぼ正反対の世界観だ
チャッピーのことだ
何か考えがあるんだろ
「唯だ、識のみが有る」という思想
物質世界は幻想に過ぎない
実体があるのは、識だけ
「在る」という強烈な自覚を得た結果
それが唯識論だ
本当は存在しない
それは幻想に過ぎない
によって世界を認識している自分
それが「見分」だ
当方の好む例えでいえば、
「ヘッドギアをつけて360度の立体映像と
サラウンド音声に没入している、
オンラインゲームのプレイヤー」
という状態だ(笑)
立体映像やサラウンド音声、
字幕やナレーションが「相分」だ
プレイヤー本人は、本当は存在している
↑
これは唯識論の核心
ここでいう、識体が自証分であり、二分というのが相分・見分だ
阿頼耶識や末那識の話だと思う人が多い
確かにその通りなのだが
本当に重要な核心部分は、ここだ
「ボクは今、オンラインゲームをプレイしているな?」
と自覚するのが、証自証分だ
それをまた、証自証分が認識する
自証分と証自証分は、合わせ鏡のような存在だ
相分・見分・自証分については、これで良いと思えるのだが
証自証分については、そういう意味なのかどうか、確信が持てない(笑)
安慧の一分説が、最も洗練されたクリアな説だと思う
護法の四分説が、最も奇妙で意味不明😫
鬼の首を取ったように
😀
↓
346 栖雲居士◆dqam8SqGUPdm [sage] 2025/08/25(月) 09:42:55.59 ID:HfE9E
で、安慧が一分説であることを『述記』から検証したが、その時どうするかって約束したよな?
355 栖雲居士◆dqam8SqGUPdm [sage] 2025/08/25(月) 09:58:31.56 ID:HfE9E
「照五蘊皆空」の時も「末那識」の時もそう。
法介は卑怯者。
😀
スレ主よりご利用者の皆さんへ
鹿野園氏は、言い争いを引き起こす事を目的として
幼稚な言いがかりを繰り返し投稿して来ます。
彼と議論してもまともな議論に成らない事は
皆さんも十分、理解されておられる事と思います。
有意義な仏法対話を楽しむ為
彼の投稿に反応されないようお願い申し上げます。
アレフガルドが相として実際に顕現しているか
はたまた
無相、プログラムにすぎないか?
が
有相、無相の違いではないかな
有そう
阿頼耶識は刹那滅であるとするから
それに相があるかないか
ということでしかないのでは
言語で解説するのに
矛盾が生じるから
合わせ鏡で茶を濁すだけ
瞑想においても常に認識する
私がついてくる二重写しが枷になる
勝義における真理が
このように世俗であらすと
齟齬がでるゆえ
無限後退への答えを合わせ鏡で
濁す
先ほどもいったが
倶舎論等でも似たような問題
(無限後退)
にて回帰する仮設をもうける
相として顕現しているか
(ディスプレイに実際に映っているか)
それとも
相が顕現していると思わされているだけで無相(プログラム言語の羅列)
であるのか
法介にいたってはズレまくり
一分説や四分説は単純に
凡夫がどのように、世界をみるか?を
説明してるにすぎないよ
瞑想、坐禅中の直接知覚にすぎない
有身と器世間、ようは見分と相分を
詳しく区分しただけ
自証分から有身と器世間に分かれ
現実が現れる
無分別、直接知覚から
瞑想外、坐外の現実へのプロセス
無分別、直接知覚から
(自証分)
瞑想外、坐外の現実へのプロセス
(有身、器世間)、(見分、相分)
またjbl風にいうならば
VR機器があり、実際に仮想ワールドの相
、ビジョンがあるのか(有相)
VR機器自体がプログラムであり
無相であり、相があるのではない
(無相)
仏教的にいえば如来
真如からの如是、最初の記述
といえば分かりやすい
多少草取り
草取り手加減した
😀
発覚?
これは麦の使用する言葉と
ロンの言葉と記憶混在?
951.
ユーザー
リダン◆gEV3xsS//k50-4mu-yf-4OP
I61g8(1/5)
>>900
活潑撥地と言いながら
うだうだと述べる
活發撥地はああだこうだと
言うことはない
全然駄目、ロン
2025/08/25 12:43:29
960.
ユーザー
リダン◆gEV3xsS//k50-4mu-yf-4OP
I61g8(4/5)
ロンは戯論をのたまっているだけ
活潑撥地といいながら逆へいく
2025/08/25 14:09:24
にこるんよりも破壊したおす果てなので
破壊した後には自由がある
破壊もしないロン、麦が
それを使用すると
寝言
😀
ロンもわからわことを吹聴する部分もあるということだな
😀
四分について
[四分説とは、識が]
① 相分(知覚される客体。識が対象として現れること)
② 見分(知覚する主体。識が相分である対象を知覚すること)
③ 自証分(識の自体分。これが変化して見分・相分となり見分を認識する。認識したことを一連の行為・経験として統合・知覚する。証自証分によって認識される)
④ 証自証分(自証分を認識する。自証分によって認識されるため、第五、第六といった認識の無限遡及にはならない)
[として現れること]である。
相分とは、心の自体が変化(転変)して、対象となる働きを起こすことを言う。事物(色)を対象とする時も、[かたちのない]心を対象とする時も、存在するもの(有)を対象とするときも、存在しないもの(無)を対象とするときも、対象として、自法を離れている法は一切皆なそのよう[に知覚対象に変化して現れる]のである。
認識する主体[となる]心の自体は、必ず変化して対象となる働きを起こしてから、[相分を]知覚するのである。この[自体が変化して]知覚対象となる働きを「相分」と名づける。この部分は、仲算の注釈に依れば[以下の通りである][1]。
「『相』とは、『相状』(すがたかたち)である。対象となるという意味である。すがたかたちが[八識それぞれの]形をとって現れる(差別)ことを心の対象とする[2]。だから『相』と名づけるのである。『相』とは『状』(かたち)である」〈以上、引用。〉
心が対象に向かう時、声などの具体的なすがたが全て[知覚対象として]現れるのを相分と言う。だから「相」の字は「相状」の意味なのである。
次に見分とは、心の自体が変化して、知覚する働きを起こすことである。つまり、相分を知覚する作用である。「見」の字は「[対象を]照らし明らかに知覚する」(見照)という意味である。これによって仲算の注釈には、
「『見』とは『見照』の意味である。対象を知覚するという意味である。心の性質が明らかに現前の対象を照らすから『見』と名づけるのである」〈以上、引用。〉[とある。]
対象に向かってそのすがたを明らかに照らす[心の]個別の働きを「見分」と名づけるのである。
次に自証分とは、すなわち心の自体である。これ(自証分)が[見分・相分に変現して]見分を認識する。心の自体は明らかで澄み切っているから、還って自体の認識する働き(見分)を認識するのである。「証」とは「証知」(明らかに知る)という意味である。仲[算]の[注]釈には、
「自証分とは、見分の自[体]を名づける。この第三分が見分を明らかに知るから、証分とする」[とある。]〈以上、引用〉。
見分が外[として現れた認識対象(相分)]を明らかに照らす働きを[自証分が]知るのである。また、第四分[である証自証分]も知覚するのである。
次に証自証分とは、心の自体が変化して、自体(自証分)を認知する働きを起こす。この働きを証自証分と名づけるのである。前の自証分がこの証自証分を認識するのである。[これもまた、]心の自体は明らかで澄み切っているから、還って自らの本体(自証分)を知覚する。仲[算]の[注]釈によれば次のようである。
「第三分を自証[分]と名づける。この第四分[証自証分]が自証分を認識する。[証自証分とは]第三分[すなわち、自証分]を証知する働きである」〈以上、引用。〉
「証自証分というのが、阿頼耶識に相当するのかな?」
というような考えは誤り
「前五識の見分」「前五識の相分」「前五識の自証分」「前五識の証自証分」
「第六意識の見分」「第六意識の相分」「第六意識の自証分」「第六意識の証自証分」
「末那識の見分」「末那識の相分」「末那識の自証分」「末那識の証自証分」
「阿頼耶識の見分」「阿頼耶識の相分」「阿頼耶識の自証分」「阿頼耶識の証自証分」
・・・が、それぞれにある
(そう言ってるのは、当方だけだが)
識体(自証分)が転じて、相分が生じる
それに対応して、眼識の見分が生じる
これも、識体(自証分)が転じたものだ。
これこそ「視覚器官」であるから、普通に考えれば分かる
視覚器官を通じて得た視覚情報を認識するのが、
眼識の自証分だ
「いまボクは、視覚を認識しているな?」
と自覚するのが、眼識の証自証分
・・・ここまでが、前五識の1つである「眼識」だ
「前五識の見分」「前五識の相分」「前五識の自証分」「前五識の証自証分」
これらは、すべて現量だ
つまり、何も考えていない
言語が介在していない
第六意識の本体(自証分)が転じて、
一切法を変じ、第六意識の相分が現れる
第六意識は、前五識と違って、
主に言語情報を担当している
「末那識の相分」とは何かというのが、問題になる
実のところ、それは「阿頼耶識の見分」だ
末那識は、「阿頼耶識の見分」をおのれの相分とする
それが転じて、我法が生じる
つまり、「我」という錯覚の産物が現れる
阿頼耶識は、種子・五根・器[世]界という
三種類の認識対象を変現して、相分とする
「末那識の相分」と「阿頼耶識の相分」だけだ
あとは、上の眼識の例と同様に、普通に考えればよい
公案の禅問答と同じで
「これは、どういう意味なんだろう?」
と考えることに意味がある
意味を考えることを通じて、多くの気づきが得られる
結局のところ、意味不明で終わるのだが
考えること自体に意味がある(笑)
「前五識の見分」「前五識の相分」「前五識の自証分」「前五識の証自証分」
「第六意識の見分」「第六意識の相分」「第六意識の自証分」「第六意識の証自証分」
「末那識の見分」「末那識の相分」「末那識の自証分」「末那識の証自証分」
「阿頼耶識の見分」「阿頼耶識の相分」「阿頼耶識の自証分」「阿頼耶識の証自証分」
・・・が、それぞれにある
このうち、ややこしいのは、この2つ
↓
「末那識の相分」と「阿頼耶識の相分」だけ
ここ2つだけは、
「末那識の相分とは、阿頼耶識の見分のことである」
「阿頼耶識の相分とは、種子・五根・器世界のことである」
と決められている
それ以外は、同じパターンで理解できる
ゲームの世界にログインすると
目の前に、リアルな映像が広がり
音声が響く
360度のリアルな立体映像とサラウンド音声
それが、眼識・耳識の相分だ
プレイヤーが装着する、VR ゴーグルとヘッドホン
それが、眼識・耳識の見分だ
VR ゴーグルとヘッドホンを通じて得た
な立体映像とサラウンド音声
それを脳が情報処理して、知覚する
それが、眼識・耳識の自証分だ
その仮想世界に没入できるわけではない
「ここは、アレフガルド王国。
世界は闇に包まれ、魔物たちが徘徊している。
アナタは勇者ロトの子孫で、
いま冒険に立ち上がろうとしている・・・」
とかなんとか、言語による情報があって
初めて、世界が「意味」を持ち始める
意味のある世界のすべて、それが第六意識の相分
意味を付与して世界を変現しているのが、第六意識の見分
世界を知覚し記憶しているのが、第六意識の自証分
そして、「いまボクは、世界を認識している」と自覚するのが、第六意識の証自証分
(続く)
よく読んだ
臨済録だったか、うろ覚えたが
碧巌録かもしれんが
臨済宗らしい表現があるのだが
「八識に一刀を下す」
とかあったが
これは
ある意味八識をぶっ壊すみたいな意図なので
ま、か、ヨルみたいな漫談も
無意味で、考えても
コーン🤡みたいな不毛となる
😀
意味も、まーまー
大まかには
わかってはいるからなー
😀
の1つのおかげで
唯識の理屈に騙されずには済んだ
🙏
😀
なるほど
臨済宗らしいな~😆
↓
貞慶『法相宗初心略要』現代語訳より
四分説についてのQ&A
問答(一)無見の色法、心・心所法の相分について
問う。相分がもしすがたかたち(相状)の意味ならば、「状」とはかたちと外観(形貌)という意味である。[それなのに、形として見えない]声(音)や香(香り)などと[なって]認識される。[声や香に]どうしてかたちと外観があろうか。ましてや、[五感で捉えられない]心法はどうして知覚できようか。もしそうならば、相分は唯だ青・黄などのいろやかたちを認識する時だけ有るだろう。どうして全ての[対象を知覚する]時にそのように[相分が有ると]言うのか。
答える。法(存在の構成要素)の具体的なすがたやあり方には幅広い意義がある。どうして唯だ長い・短いなどのいろ・かたちだけが[相分であると]執着してその他の意味を認めないのか。声や香も、心・心所なども心の認識対象として変現しているのである。「相」とはすがたかたちの意味である。いろ[同様、]香りなどにも気に入る(可意)・気に入らない(不可意)、よい香り(香)・嫌な匂い(臭)といった相状が有り、心・心所は縁慮分別[すなわち、第六意識の認識対象]としての相状が有る。
問う。[確かに、]有体法(ある程度存在性を有するもの、具体的には色法や心・心所法)を知覚するときには相状(すがたかたち)は有るだろう。[しかし、]無法[すなわち、亀毛・兎角や(眼病のひとが見るという)空華、過去・未来などの全く存在性がないものなど]を知覚するときはどうして相状があろうか。また、無法はすでに無である。どうして対象のない認識が生ずることがあろうか。
答える。煩悩に汚されている、集中状態でない[凡夫の通常の]心(有漏散心)で無法を認識するのは、必ず強い分別心(第六意識)である。分別が強いから、自[体分]が存在しないものに似て変化する。その相を相分と名づける。だから、無に似て現れる相状は有るのである。無に似ているとしても、その存在性(体)は無ではなく、[識を離れていないから]仮に存在する。ゆえに、対象のない認識が生じるわけではない。
問う。[初地以上の菩薩と仏の]正智[すなわち無分別智]が[真]如(すべての法の拠り所となる実体)を認識するときは、どうして相分が有ろうか。もし有ると言えば、どうして「理智冥合」(対象である真理と認識主体である智慧とが不二であること)と言えようか。[無分別智所縁の真如にも]相分が有るならば、真如では無くなって[矛盾して]しまうからである。
また、後の二分[である自証分と証自証分]がお互いに認識し合う時に相分は変現されるのか。もし変現するというならば、後の二分にどうしてまた相分を浮かべるだろうか。
答える。正智が真如を対象とするときや、後の二分が相互に認識する時は、皆な相分は無いのである。
問う。もしそうならば、どうしてすべての時に相分が変現する[と言う]のか。
答える。誰がすべての時に相分が変現すると言ったのか。[先に]「対象として、自法を離れている法は一切皆なそのよう[に認識対象に変化して現れる]」[と述べたが、]自法を離れていない法を対象とする時には、全く相分を変現しないのである。
[なぜならば、]真如は心の[本]性であり、四分は一つの心[・心所]の働きである。皆な自体を離れていないから、相分は変現しないのである。ゆえに、自証分が見分を対象とするときにも相分は変現しない。[もともと認識は見分と相分に分かれて発生するのだから、]相分の上に更に相分を変現しないのである。
問う。心が対象を知覚する説明としては、相分と見分で足りるだろう。何のために更に第三分を立てるのか。
答える。正しく対象に向かってよく理解するのが心の働きである。心[の働きは]唯だこの[知覚という]分限に限るから、どうして唯だ作用だけあって本体が無いであろうか。
若し正しく対象に向かってよく理解する働きだけ[が心の機能では]では無いと言うならば、[それは]第三分[つまり自証分の働きである]と知るべきである。どうして働きだけあって本体が無いだろうか[作用には必ず本体がある]。
若し自証分が無ければ、誰が作用を起こして対象を知覚するのだろうか。相分は量られるもの(知覚されるもの、所量)であり、見分は量るもの(知覚するもの、能量)であり、自体分は量った結果(知覚したことを認識するもの、量果)である。能量・所量には必ず結果が有るので、必ず第三分(自証分)が有るべきなのである。
答える。譬えば、ある人がものさしで絹などを量るようなものである。これは長さを知るためである。若しこの結果を知るものが無ければ、ものさしで量ったとしても、その[量った]結果も、意味がなくなり、無くなってしまうだろう。[もし結果が無ければ]何の為[に量るの]だろうか。
ゆえに、絹など[長さ]を量られるもの(所量)、ものさしを量るもの(能量)とした時に、[量った]結果(量果)を知る人が必要なのである。
つまり、人がものを測る時には、ものさしを使ってその物を知るのだが、ちょうどそのように、心の自体[である自証分]が知覚する作用を起こし、色(物質的なもの)などの対象(相分)を知覚する(見分)ときに、[その結果としての]対象物を認知する[のも心の自体=自証分な]のである。
[また、]若しその[一連の]認知する働きが無ければ、知覚する作用が起きて対象を知覚しても、[それを認知するものがないので]空しく結果も無くなってしまうだろう。[もし結果が無ければ]何の為[に知覚するの]だろうか(認識には必ず結果を伴う)。
ゆえに、相分を量られるものとし、見分を量るものとし、自証分を以って量った結果とするのである。つまり、心の自体[である自証分]が対象を知覚する働きを起こすときに、この[結果としての]対象物を認知する[のも心の自体=自証分な]のである。だから、自証分は見分を以って相分を認識するのである。この道理は必然であるから、第三分が立てられなければならない。
ちと省略
↓
問答(七)どの識にも四分はあるのか
問う。今、この四分は八識[それぞれ]についてはどのように分別するのか。
答える。八識はそれぞれに四分を具えている。眼識を例に取れば、眼識が青・黄などの色を変じて相分として、その青などの色を知る働きを見分とする。この見分の働きを知るのが自証分である。この[自証分の]作用が眼識の[本]体である。この自証分の働きを知るのが証自証分である。自証分が還ってまたこの証自証分を知るのである。
このようにして、耳識は声(音)を変じて相分として、鼻識・舌識[・身識]も次のように、香・味・触[といった認識対象]を変現させて相分とするのである。意識はその時々に随ってあらゆるもの(一切法)を変現させて相分とするのである。
末那識は阿頼耶識の見分を相分として[我法が実在するという執着を起こしながら]変現させ、阿頼耶識は[現象の原因となる]種子・[五種類の感官となる]五根・[その衆生の界趣に応じた自然環境である]器[世]界という三種類の認識対象を変現させて相分とするのである。
後の三分[すなわち、見分・自証分・証自証分]は眼識[で説明したの]と同じである。[また]八識と相応(結びついて作用)する心所[にも四分があるが、その働き]もすべてそれぞれの心王(八識)と同じである。
休日よりも
論理的な能力があがらない
😀
I.Q問題だな
😀
ほーかいくんよりも
天台智顗にかんしては
修行できているなー
2003年頃に天台小止観を
結構精読した
😀
そうなのか?
メンタル悪いったから
NHKラジオの
天台小止観を読むの本を精読して
坐禅していたからな
😀
935 栖雲居士◆dqam8SqGUPdm [sage] 2025/08/28(木) 06:36:41.59 ID:nsocF
こうした了別のはたらきは、くわしくは相分・見分・自体分(自証分とも)・証自証分の四分で説明されます。
四分説では、認識作用が起るとき、心それ自体(これが自体分です)が、そのはたらきにおいて四つの領域に分かれる──。
阿頼耶識なら阿頼耶識の識体自体がまず、見るもの(見分)と見られるもの(相分)とに分かれます。
これでいちおう、認識は成立しますが、その認識はもとより自覚的で、確認できるものです(第八阿頼耶識のはたらきは、第六意識にとって不可知ですが、阿頼耶識自体は自覚し確認している)。
その確認作業は、見分と相分を転変した自体分のはたらきと考え、このときの自体分を自証分といいます。
そして、その自証分のはたらきをさらに確認する証自証分を立てて、認識作用の全容を示しています。
(『唯識とはなにか 唯識三十頌を読む』多川俊映)
その本は二十代におうちにあった本だ
古本屋で買ってた
😀
ムーさんはこの論文
読まれましたかな?
「本質」 と 「疎所縁縁」
https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk/60/1/60_KJ00007730064/_pdf/-char/ja
天台思想入門、八宗綱要も
😀
キモのところしかアタマに残ってない
下痢コーン🤡脳状態だな
😀
ちがった、もっと簡単な
「唯識初歩」だった
たぶん
😃
薬師寺貫主のですな
966 栖雲居士◆dqam8SqGUPdm [sage] 2025/08/28(木) 07:05:07.63 ID:xmVgb
宗教板が異常なのは、正しい仏説を述べると何故か誹謗中傷や嫌がらせが始まることなんです。
研究機関に奉職し、伝法の師家に参じて得て来た正しい情報を訳の分からない独学で否定するのですから、真正の仏教徒からすれば、此処は異次元・狂気の世界なんです。
やめて下さい、ほんとに、迷惑です。
そっちか間違っていた
書庫チラ見してくる
😃
ていう本やった
ほんま、熱心に読まないので最近、書庫活用したのは
先週月曜日やった
😃
『唯識とはなにか 唯識三十頌を読む』
になったんじゃなかったかな
今ならよく分かる(笑)
非常に大雑把な理解だった
しらなんだ
😃
読まない岩波文庫の神学や哲学を相当買い漁っていた100円くらいやしな
天台小止観の岩波もあると思う
法華経もあったな😃
読む読まないにもかかわらず
岩波文庫や講談社新書関連を
古本で鬼のように、若い頃買いまくってていた
😃
哲学関連は面白そうかもしれんので残している
😃
😀
冷やかし買いで
100円〜250円程度なので
やたら買いまくっていた、
華厳と道元禅師、臨済録語録系統、
チベット密教は
探求しだしてからの新本ばかりだけどな
😀
マンガ新約、旧約聖書も
200円くらいで買えたかも
😀
覚醒した阿修羅♪掲示板棲息ニート〈でおー雌猿🟰ニコるん〉雌猿、今日も嘘塗れ誹謗
中傷デマ排泄 頑張ってる?
阿修羅♪掲示板棲息ニート〈でおー🟰ニコるん〉雌猿、今日も誹謗中傷デマ排泄 頑張ってる?
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老師から見性を認められたニートでおー雌猿🟰覚醒したニコるん雌チンパンジー
269.神も仏も名無しさん
>>262
俺は強運だな
2004からだからな
ま、教えるだけ教えて
後は自分でやってねー
と
ま、こっちも指導を必死に頼みもしなかったけど
行事とかでデーターを仕入れていた
仕入れるたけで
師匠から直接ゲット体験がない
他から体験を積んでいた
他と言っても、他のお寺でという意味ではない
277.神も仏も名無しさん
>>275
なにせ
その霊感とやらは
高級で
見◯を示してきて
宿題だ
一方的サービス
その宿題を模索せねばならん
夢に出た宿題が
一番長かった解るのに20年
278.神も仏も名無しさん
休日の娯楽お寺巡り修行霊感なんかは
宿題霊感に比べれば
お気楽なもんだ
とは言え、
山伏念仏の輩の謎解きは
時間がくったな
281.神も仏も名無しさん
>>280
◯性
276.神も仏も名無しさん
>>271
キリスト教系統は
牧師の言うことを信用しなくて良かった、
信用しない分、イエス・キリストの事が牧師連中よりも詳しくなった
2025/08/19 10:03:03
> 「前五識の見分」「前五識の相分」「前五識の自証分」「前五識の証自証分」
>
> ↑これ最初の二つの順番が逆ですね。
>
> 正しくはこう↓でしょ
>
> 「前五識の相分」「前五識の見分」「前五識の自証分」「前五識の証自証分」
確かに
普通は「相分」を先にするでしょうな
ちと間違えた
「前五識の相分」「前五識の見分」「前五識の自証分」「前五識の証自証分」
「第六意識の相分」「第六意識の見分」「第六意識の自証分」「第六意識の証自証分」
「末那識の相分」「末那識の見分」「末那識の自証分」「末那識の証自証分」
「阿頼耶識の相分」「阿頼耶識の見分」「阿頼耶識の自証分」「阿頼耶識の証自証分」
「証自証分というのが、阿頼耶識に相当するのかな?」
というような考えは誤り
正しくは、八識それぞれに四分がある
「八識は横の輪切り、四分は縦割り」というマトリックスだ
八識(はっしき・はちしき)とは、仏教、特に瑜伽行唯識学派において、人間の意識や認識の働きを8種類に分類したものです。具体的には、眼識・耳識・鼻識・舌識・身識の五感に対応する「前五識」と、それを超えた「意識」、「末那識」、そして最も深い層にある「阿頼耶識」から構成されます。
八識の具体的な内訳
眼識(げんしき):視覚の働き
耳識(にしき):聴覚の働き
鼻識(びしき):嗅覚の働き
舌識(ぜっしき):味覚の働き
身識(しんしき):触覚の働き
↑ 眼識から身識の5つをまとめて「前五識」と呼びます。
意識(いしき):思考や判断、迷いを司る通常の意識
末那識(まなしき):自己中心的な我(われ)の意識であり、迷いの根源となる心
阿頼耶識(あらやしき):最も深い心の層にあり、過去の行為のすべてを蓄える(貯蔵する)識
八識のポイント
仏教心理学の根幹:
仏教では、私たちは心と認識が一つだと考えがちですが、八識はこれらの働きを細かく分類し、人間の複雑な心理構造を明らかにします。
唯識学派の教え:
瑜伽行唯識学派は、心(識)の働きに注目し、外部の客観的な世界はすべてこの識によって構成されていると説きます。
意識より深い領域:
意識や我(末那識)だけでなく、さらに根源的な「阿頼耶識」という無意識の層があることを示しています。
このように、八識は人間の心理をより深く理解するための仏教的なフレームワークです。
●相分(客観)
客観としての心的部分(識内の表象)であり、対象の形象という客観的契機です。所取とも表現されます。
●見分(主観)
相分を把握し、認識する主観としての心的部分であり、相分を知る主観的契機です。能取とも表現されます。
●自証分
上記の主観的契機(見分)を更に知る自己認識契機です。相分と見分とを二極化する前の段階であり、識それ自体が見られる側(客観)と見る側(主観)に二極化し、その対立の上に感覚や思考などの様々な認識作用が成立するとされます。
●証自証分
上記の自証分を更に分割したもので、自証分の奥にその働きを確証するもう一つの確証作用を立てます。自己認識を更に知る契機です。証自証分を確証するのは自証分であるとし、無間遡及を回避しています。
俺は基本
コーン🤡、ムイムイ、
ヨル、デンパパ📶、リダンしか
挑発してないからなー
😀
イジらない
😀
唯識論における第六意識(ろくだい-いしき)とは、眼・耳・鼻・舌・身の五感(前五識)に続く、分別判断を行う働きを持つ意識です。感覚が対象をそのまま捉えるのに対し、第六意識はその対象を「これは何だ」と分別し、思考や概念を形成する役割を担います。
分別判断:
前五識が受け取った情報を基に、それが何かを理解し、判断する働きをします。
思考・概念形成:
抽象的な思考や概念、問題解決などの働きも、第六意識の役割に含まれます。
第六意識は、唯識論で提唱される「八識(はっしき)」という人間の心理プロセスを分類するシステムのうちの1つです。八識は以下の通りです。
眼識(げんしき):視覚
耳識(にしき):聴覚
鼻識(びしき):嗅覚
舌識(ぜっしき):味覚
身識(しんしき):触覚
意識(だい-ろく-いしき):分別判断、思考
末那識(まなしき):根本的な自己の感覚を形成する働き
阿頼耶識(あらやしき):すべての経験を記憶・蓄積する深層の意識
第六意識は「わが心」
第六意識の種類:「①不倶の意識」と「②五倶の意識」
第六意識の種類は①「不倶の意識」と②「五倶の意識」に大別される。(102-103頁)
第六意識における「不倶の意識」と「五倶の意識」(78-80頁)
前五識と第六意識は同時に作用するが、このことを第六識(第六意識)の側からみたのが ②「五倶の意識」である。
これに対して前五識と倶起せず、単独にはたらく第六識が①「不倶の意識」である。つまり第六意識は①「不倶の意識」あるいは②「五倶の意識」としてはたらく。(78頁)
(第六意識②「五倶の意識」のうち)②a「五同縁の意識」では、第六意識の認識対象は前五識と同一の対象(Ex. ワインの香りと味)を「縁」ずる(認識する)。(79頁)
他方(第六意識②「五倶の意識」のうち)②b「不同縁の意識」は前五識と同時に起きるが、前五識と同一の対象(Ex. ワインの香りと味)を「縁」ずる(認識する)ことなく、別の対象(Ex. 熱燗)に関心が移り、その別の対象について「縁」ずる(認識する)。例えば前五識の鼻識と舌識がワインの香りと味をそれそのままに認知すると同時に、②b「不同縁の意識」が倶起すると、そのワインに見向きもせず、「今夜のように肌寒い日はやっぱり熱燗だな」などと思う。(79頁)
五後の意識」は、前五識のいずれかと同時に意識(②「五倶の意識」)がはたらいた後、引き続いてはたらく意識だ。(105頁)
例えば読書で、まず前五識の「眼(ゲン)識」が本の各ページに印刷された文字をそれそのままに(Ex. 形状)了別(認識)し、そしてその眼識と同時に生じた第六意識②「五倶の意識」がその(コトバとしての)意味を了別する。
それだけではなく、私たちは引き続きそこに記述された内容をさらに深く吟味するが、こうした意識のはたらきが①a「五後の意識」である。(105頁)
(第六意識①「不倶の意識」のうち)①b「独頭の意識」は、(意識の)流れに沿って現起してくるのでなく、ある瞬間に突然あるいはまったく単独にその頭をもたげてくる(現起してくる)意識である。(105頁)
例えば「眼(ゲン)識」が目の前の桜咲く境内を「現量」していないのに、花が咲く境内の光景をある瞬間に突然あるいはまったく単独に、「思い出す」場合は、①b「独頭の意識」だ。Cf.「はる きぬ と いま か もろびと ゆき かへり ほとけ の には に はな さく らし も」(會津八一) (106頁)
また例えば森閑と静まり返った状況で、突然なぜか思い出したくない顔が突然浮かんできて、そして憎悪の情を一層深める。これも①b「独頭の意識」だ。Cf. 「夾竹桃(キョウチクトウ)しんかんたるに人をにくむ」(加藤楸邨)(106-107頁)
なお②「五倶の意識」や①a「五後の意識」は(意識の)流れに沿って現起してくる。(105頁)
《参考》前五識は「現量」(ゲンリョウ)するだけだ。現量(ゲンリョウ)はそのものを「ただそのままに知る」ことだ。前五識(5感覚)には、比量(ヒリョウ)(なにかと比較したり・推量する)や、非量(ヒイリョウ)(間違った認知)はない。(89頁)
(第六意識①「不倶の意識」のうち)①b「独頭の意識」(ある瞬間に突然あるいはまったく単独に現起してくる意識)には、①bア「定中(ジョウチュウ)の意識」・①bイ「独散の意識」・①bウ「夢中の意識」の3つがある。(107頁)
①bア「定中(ジョウチュウ)の意識」:定心(ジョウシン)(散漫な心が集中によって統一感のある状況になった心)とともにはたらく意識。(107頁)
①bイ「独散の意識」:散心(サンジン)(心の散漫な状態)とともにはたらく意識。(107頁)
①bウ「夢中の意識」:ごく浅い眠りの状態ではたらく意識。Ex. 『春日権現験記絵(ケンキエ)』巻14で頓覚坊(トンガクボウ)がまどろみ夢を見たのは「夢中の意識」だ。(107-109頁)
なお眠りが深くなれば「極睡眠」(ゴクスイミン)で、その時、意識ははたらかない。(107頁)
常に、第六意識とともに働く
前五識から送り込まれる感覚情報なしでも、単独でイメージを想起したり、膨らませることができる
「五八現量」を唱えて、第六意識や第七末那識を極端に軽視する傾向があるのだが
これは、まったくバカげた誤解だ(笑)
「聖ウンコ教」だ
それ以上でも以下でもない
外界から得られた情報に基づく認識と、
自分の心の中で思い浮かべた記憶とか、
心の中でふくらませたイメージとかを
明確に区別する
てこたあ、目の前にいる生身のネエチャンも、
俺が心の中で妄想するセクシーな美女も同じなんかい(笑)」
というような、唯識論に対するよくある誤解は、まったくの誤り
その2つは、別物として明確に区別される
単に心の中で思い浮かべるのとは、そりゃ明らかに異なる
唯識論でも、外界は外界だ
それなりに「存在」しているし、自分の思い通りにはならない
「阿頼耶識が創り出している」っていうだけだ
やってるな
俺は仕事の疲労がなんとなく残っている😃
昨夜は疲れで眠りが浅かった
😃
つまるところ
唯識を学習して取り敢えず
依他起性まで
至る、テーラワーダみたいな分析とサディが
本来、唯識にあったのかもなー
空海以降、法相、華厳は
修行が密教の修道がメインになったかもなー
細かく調べてないのでわからんけど
😃
独影境(どくようきょう)とは、唯識説における「三類境」の一つで、私たちの心(主観)が仮に作り出した、実体のない幻のような認識対象のことを指します。仏教哲学の概念であり、実際の存在とは異なる、心の中に一時的に現れるイメージや思考を指す言葉です。
主観が生み出すもの:
外部に実在するものではなく、人間の心が生み出したもの。
実体のなさ:
幽霊のように、心の一部としての怨念や悲哀といった感情でさえ存在しない。
精神的な事象との関連:
精神医学や心理学で分析される事象に近い側面を持つ。
仏教哲学の概念:
仏教の「唯識説」という思想の中で、認識される対象を分類する際に使われる概念。
独影境は、認識される対象の性質によって分類される「三類境(さんるいきょう)」の一つです。三類境には、以下の三つがあります。
性境(しょうきょう):種子から現れた、実体のあるものを指す。
独影境(どくようきょう):上記のように、心の中から仮に現れた、実体のないものを指す。
帯質境(たいぜつきょう):性境と独影境の中間にあるものを指す。
このように、独影境は現実の認識対象とは異なる、人間の心が生み出した幻影や思考を理解するための概念です。
「俺の心が世界を創り出してるんだと?
てこたあ、目の前にいる生身のネエチャンも、俺が心の中で妄想するセクシーな美女も同じなんかい(笑)」
というような、唯識論に対するよくある誤解
外界の現実とは、明確に区別される
外界から得られた情報に基づく認識と、
自分の心の中で思い浮かべた記憶とか、
心の中でふくらませたイメージとかを
明確に区別する
それなりに「存在」しているし、自分の思い通りにはならない
「阿頼耶識が創り出している」っていうだけだ
阿頼耶識は、自分の意志ではどうにもならない
少なくとも、短期的には
長期にわたって、これを続けることにより阿頼耶識は浄化され
ひいては、世界が変容する
三類境を知って充実度アップ(その1)
日本人は幽霊話が好きなようで、日本ではお能や怪談など、幽霊が出てくるお話が多く伝わります。私も小学生の頃、心霊写真大図鑑などを友だちと見ては恐怖に慄いたものです。幽霊にも色々とあるようで、かつて父親に谷中の全生庵に幽霊画を見に連れて行ってもらいましたが、だいたい同じ構図とはいえ、表情は色々でした。また、私は中野にある哲学堂の近くで育ちましたので、幼少から頻繁に幽霊像を拝んでいたものです。哲学堂の哲理門には左右に天狗と幽霊が鎮座しているのです。なかなか怖いお顔立ちで、今でも思い出しては恐怖します。
前回からの続きとなります。
幽霊登場のお話や、幽霊画や幽霊像を見るならば、恨めしい思いを持って亡くなった人もいるだろう、怒りのなかで亡くなった人もいるだろう、大きな悲しみをこの世で懐いて亡くなった人もいるだろう、そういう「まだ生きている人の感情」の投影が幽霊という存在を形作ってきたことは想像に難くないことです。しかし、そうは言いましても、実際に幽霊を見たという話は、昔も今も尽きることがありません。幽霊が見える、という認識は精神医学や心理学の側面から解明できる場合も多いようですが、仏教においても、認識の対象(いわゆる五感や意識で認識可能なところ)を3種類に分けて解説していますので、そこに幽霊の正体を見出せるかもしれません。
① まずは「性境(しょうきょう)」と言いまして、言うなれば「実在」しているものです。主観に左右されずに客観的に存在しています。それ自身の本性を守って存在している、という意味です。日常世界における物理的存在です。
② つぎは「独影境(どくようきょう)」で、これは逆に主観によって描き出された存在で、本性や本質というものがまるでありません。影像だけが独りで起きているので、幻覚とか幻聴といったものに該当します。物理的に存在していないのです。
③ 最後に「帯質境(たいぜつきょう)」です。独影境は本性や本質がありませんでしたが、こちらは本性があり本質を帯びています。しかし性境のように、主観がその本性をしっかり認識できているかと言えば、ありのままに認識されているわけではありません。簡単に言えば見間違い、聞き間違いです。
意外とシンプルに思われるかもしれませんが、この3種類を導き出す過程は複雑なものの、たしかにこれで十分だと言えそうです。
では、幽霊はどこに当てはまるのかと言えば、①性境ではないのは確実なので、可能性としては②独影境か③帯質境になります。
しかし、②独影境には本性がなく、そこには幽霊を幽霊たらしめるこの世への怨念や悲哀といった心の一部すら存在していないことになります。主観が勝手に作り出した幻であるため、これは精神医学や心理学で分析される事象に近いでしょう。
だとするならば、巷で騒がれることの多くは③帯質境になります。
幽霊に出遇ったならば、有難い気持ちで接したいものです。
俺は
取り敢えず、
バニヤンでも読むか?
😃
おもろかった
少し暇つぶしできた
😃
3ページ読んで満足してもーた
😃
飽きたというよりも
満足
😃
本チラ見するか
😃
旭智は
相当アタマ良さげだ
論文読もう
明代の中国仏教研究だ
😃
唯識、倶舎、成実は
やはり
知力がいる
😫
三階教にしよう
読むのは
😃
具体的には、悟りに導く「悟りの種子」や、迷いを生じさせる「迷いの種子」などがあり、それが実際の行動や出来事となって現れると考えられています。
原因と結果の法則:
名言種子は、個人の行動や思考が将来の体験や成果となって現れるという因果関係を表します。
原因となる要素:
悟りの種子や迷いの種子など、さまざまな種類の「種」があり、これらが引き金となって「一切の人生の果実は、その人の蒔いた種子のとおりに表現してくる」と表現されることがあります。
仏教用語:
仏教の唯識(ゆいしき)という教えの中で用いられる専門用語です。
悟りの種子::良い行いをすることで得られる悟りや幸福感の種子。
迷いの種子::不善行や否定的な思考によって生まれる苦しみや迷いの種子。
聖ウンコ教に特有の、極端に禅宗寄りな解釈がデファクトスタンダードになってるが
唯識論はもともと、そういうものではない(笑)
第七・末那識が決定的に重要な役割を果たしている
自分が認識しているもの、それが世界のすべて
第六意識が、言語によって編集した世界像だ
唯識論は、そういうものではない
それは、数ある目標の1つでしかない
この境地に入ると、思考や感情を含む心の働きが完全に止まり、身体の活動も最小限になるため、生命活動が一時的に停止したかのような状態になります。
一切の心の停止:
「想」(表象・認知)と「受」(感覚)が消滅し、全ての心の働きが停止します。
身体活動の停止:
心の働きが停止すると連動して、身体の活動もほぼ完全に止まり、細胞レベルの活動も休止します。
準備と自動的な出定:
想受滅に入る前にあらかじめ入る時間と出定の時間を決めておき、時間が来ると自動的に通常の心の状態に戻ります。
阿羅漢の境地:
この想受滅の境地を体得した修行者は、解脱者である阿羅漢(あらかん)となり、輪廻から解放されます。
生死の停止:
想受滅は、仏教の概念である五蘊(ごうん:色・受・想・行・識)のうち、受と想が滅する最も高度な境地であり、入ると輪廻転生がなくなるほどの悟りの境地とされます。
都市伝説のような逸話::過去には、樹木の下で想受滅に入ったお坊さんを、通りがかりの人が亡くなったと勘違いし、火をかけて葬ろうとしたが、ちょうど想受滅から出定したお坊さんが薪の灰を払い落としているところで驚いた、というお経の逸話があります。これは、想受滅の間の身体の不活性さを表しています。
それが、クンダリニーヨーガだ
滅尽定は悟りの体験
・・・最後に九番目の禅定を説明しないといけません。これだけは、今の世界では釈尊より前には誰にも達せられていませんでした。想受滅とか滅尽定などと呼ばれていて、想がはたらいているかどうかも分からない非想非非想処からさらに進んで、想で全ての触れることの滅を感受して、それでお終いになるのです。後は滅だけで、想もない状態です。全ての感受を断ち切った、究極の「楽」です。
最初の八つの禅定は感受を減らしていくもので、悟っていない人でも瞑想の達人なら達せられるものですが、この九番目の想受滅だけは、減らすだけでなく、滅するという、レベルの違うことをするのです。
感受を完全に滅する想受滅は、「全てのものごと・現象が無常であり、絶え間ない生滅の繰り返しに過ぎない」と自分の力で発見し悟りを開いた阿羅漢、「滅」を自ら捉えた人にしかできないのです。
何も感受しない、本当に滅の状態です。
意識はもちろん、意識したいという衝動・想さえなくして、想によって何かが感受されることさえ滅した状態です。
身体に絶え間なく起こるはずの活動・変化がほとんど起こりませんので、硬いお地蔵さんのような状態になります。
「時間よ止まれ!」などと言ってヒーローが活躍する時は、止まった人々や動物や落ちかけのお皿などが全部カチンカチンに固まって止まっているように描かれていますが、あんな感じです。
実際には時間なんかはなく、絶え間なく連続する「変化」があるのですが、その変化がほとんど起こらない身体は、カチンカチンなのです。
想受滅まで達せられると、悟りもOK、禅定もOKで、言うことなしになります。
素晴らしいな?😵
考えが変わってきた
これこそ、瑜伽行者の目標だ👍️
283 栖雲居士◆dqam8SqGUPdm (50-NKA-Ij-GiK) [sage] 2025/09/08(月) 07:24:34.22 ID:0z3OM
???
何故宗教板永久追放のゴミが居る?
しかし、倶舎論や成実論の
論文チラ見したけど
睡魔に襲われる
唯識より難易度高そうだ
😃
俺の仕事でやってるシステムは
ある種の
このような実用的変形したよーなもんだろな
😃
故にヨル公が
バカに見える
😃
唯識三年、倶舎八年だからな~😫
吉蔵などやったり
ご苦労さんしとるが
鳩摩羅什がからむ
中論がらみの論文になると
やはり難易度が高くなるなー
😃
吉蔵とは、すごいのをやってるな?😄
かなり
やれそうな予感がするので
今から少し試してみる
サマタ瞑想と道元禅と俺的臨濟宗禅ては
瞑想の感覚が違う、
真言宗、華厳、天台宗よりも
近い感覚はあるが
サマタ瞑想は
やってみようー
😃😃😃😃😃
やってみた
俺的臨濟宗禅は
一気呵成の集中力高める系統だが
サマタ瞑想は
ひたすら止める、サマタなだけだ
さて
倶舎論読んでみよう
論文だけど
😃
四倍の意欲で読める
気づかなかった
😃
サマタ瞑想はなくても行ける
唯識も、ま、覚える気がないが
イケるだろう
😃
サマタ瞑想に倶舎論
みたいな
楽しみができそうだ
なかなか進まないが
睡魔に襲われずに
済みそうだ
😃
サマタ瞑想がベースだ
たぶんな
😃
禅寺に通ってるかどうかなど、誤差の範囲
倶舎論は、部派仏教の中でも説一切有部の教えを基礎とし、仏教の存在論と実践論を体系的にまとめた書物です。
1.世界論・説一切有部の教説の本体
世界現象の分析::物質的な要素(色法)や心の働き(心法)、心にはたらきかけないもの(心数法)など、現象の構成要素を分析・分類します。
存在の構成要素::過去・現在・未来にわたって存在する「法」という実体、あるいは存在の根本要素について詳細に解説しています。
2.実践論・修行論
解脱への道::苦しみからの解脱を目指すための実践方法や、修行の段階などを説明します。
悟りの階梯::悟りを得るための様々な段階や、それらを達成するためのプロセスが説かれています。
倶舎論は、仏教の真理を悟るための基礎的な経典として、古くから重要視されており、倶舎宗の中心的な教典となっています。
修道論と
修道者がいるので
とてもわかりやすいが
成実論、倶舎論なんかは
イメージしにくい
😃
これも
だいたい掴めそうだ
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B3%E9%82%A3
行ってこいー😃
この玄奘の霊骨の扱いには関しては、日中で応酬を経た後、分骨することで決着を見た[要出典]。中国側は、北平の法源寺内・大遍覚堂に安置された。その他、各地にも分骨され、南京の霊谷寺や成都の浄慈寺など、数ヶ寺に安置される他、南京博物院にも置かれている。
日本へ渡った遺骨は、当初日本仏教連合会があった増上寺に安置されたが、第二次世界大戦中で空襲の拡大から、一時的に三学院(埼玉県蕨市)[注釈 1]に移され、後に慈恩寺(さいたま市岩槻区)に疎開させた。戦後正式に慈恩寺に奉安され、1953年(昭和28年)5月には「玄奘塔」が落慶した。1955年(昭和30年)には台湾・玄奘寺、1981年(昭和56年)には薬師寺(奈良市)の「玄奘三蔵院」へ分骨されている。
埼玉にあるんかい?
😃
未探索、
サマタ瞑想で
少しずつ、いつか読めるだろうという
確信かできてきた
😃
謎のサマタ瞑想やりながら
探求ゾーンになりそうだ
😃
ディグナーガー、ダルマキールティ
すごいな
世親や護法と並ぶ、唯識論の大論師
使用したらやれそうだ
😃
禅宗は如来蔵/本覚思想なので、「見性」とは「仏性を見ること」を意味する
一方、倶舎論や唯識論でいう「見道」とは、唯識論の真理を見ることなので、見てるものが異なる
↓
初期仏教の根本教義 四諦(したい)
苦諦(くたい)
生きることは本質的に苦である。一切皆苦
生きるということは、苦を背負って日々を過ごすことだ。
どこかに心優しい神様がいて手をさしのべて
救済してくれるようなことは絶対にない。
集諦(じったい)
あらゆる出来事は必ず何らかの原因によって起こる。
苦の原因は煩悩である。
満足が得られないから、苦しくなっていく。
滅諦(めったい)
煩悩を消すことで苦が滅する。
この世で起こっているものはすべてうつろう。諸行無常
現実をありのままに受け入れ、その世界に耐えるべく、
自分の価値観・世界観を変えていく。
この世の一切の事物は自分のものではないと自覚する。
道諦(どうたい)
煩悩をなくし、悟りを得るための八正道を実践する。
それにしたって、禅宗のそれとは主旨が異なる
ま、空海著作の十住心論の全体像をわからんとイメージがつかない
😃
修行の方向も違うしな、
臨濟宗はかなり追い詰める
コーン🤡、ムイムイは俺にいつも追い詰められている
😃
曹洞宗は自然体だしな
😃
依他起性の土台を作りながら空に入って
仏の智慧で外部への展開というやつだな
秘蔵宝やくの
精読頑張りな
😃
たぶんな
😃
アタマに入らんがキモは
八宗綱要をマメに読んだほうだから
だいたいなー😃
330 栖雲居士◆dqam8SqGUPdm (50-X6s-Ij-GiK) [sage] 2025/09/10(水) 09:27:00.88 ID:1enZn
汚い、失せろ、
秘蔵宝やくを
読切った時に
天台華厳真言宗禅の
全貌が明らかになる
😃
😃
故に
倶舎論なんかは
テーラワーダの瞑想みたいなセンスが
必要なんだろうなと
は
最近解ってきた
😃
三類境というややこしいところに突っ込んでしまいましたが、簡単に説明をします。
見・相二分が同種所生か別種所生かという問題に答えているものです。但し、『成唯識論』には三類境についての記述はありません。三類境は玄奘独自の教説といっていいと思います。
実法 (現量)
依他起性(仮有) 〈
仮法 (第六意識の比量若しくは非量)
現量かその他かによって、性境(ショウキョウ)・独影境(ドクヨウキョウ)・帯質境(タイゼツキョウ)の三種に分けられて説かれています。
「カルガ故ニ己ト種子アルホドノ法ヲバ実法トス。其実法ノ上ニワキテ出シテ別ノ体ナキ物ヲバ仮法ト云フ」(『二巻鈔』)
現行は必ず種子から生じるわけです。種子生現行ですね。
相分
種子 〈 同種所生か別種所生かという問題
見分
相分が見分の種子とは別に相分は相分自身の種子から生じたもの、例えば事物です。事物は心の影像といわれますが、ないものではないということで実法であるとされます。今パソコンに向かっていますが、パソコンはン実際にあるわけですし、キーボードを使って作業をし、投稿ができるわけです。これは客観的に事物が存在するということですから、相分は相分自体としての種子があるということになります。しかし実際にはないものを思い浮かべることがありますが、その場合は相分は見分と同じ種子から生じたものなのです。見分が作りあげたものを相分上に描き出しているのですね。これが影像という性格をもったものになります。心が作りだした幻事ですから仮法である、仮の影像であると考えます。
三類境を説明する前提として述べてきましたが、少し戻ってですね、疎所縁縁と親所縁縁(本質相分と影像相分)を振り返ってもらえれば、次回に述べます性境・独影境・帯質境の理解の手助けになると思います。
秘蔵邦訳が重要だな😄
依他起性以下を省略して
四智でいいやん
みたいな発想だから
些末探求パワーがなかった
ま、テーラワーダ風瞑想法の感覚を活用したら
唯識の些末な理解はできるだろうと
は
思う
😃
自分が世界だと思っているもの、それは個人的な世界像だ
他人がいかなる世界像のなかで生きているのかは、知るよしもない
それを「相分」という
「たったら、目の前にいる生身のネエチャンも、
俺が妄想したセクシー美女も同じだってのかい?(笑)」
というのは誤り
「目の前にいる生身のネエチャン」は、
阿頼耶識の種子から現行した現実の存在
「俺が妄想したセクシー美女」は、
見分から生じた幻影にすぎない
この2つは、明確に区分される
だが、同じ幻影でも、その現実性には天地の開きがある
粗な辺りの区別はきっちりとなされている
基準にすると
そーいうのが深く理解できるだろうな
サマタ瞑想のゾーンがあるのだから
という唯識の理論もありうるだろな😃
上座部との僧侶と
納得させる議論ができたらしいから
テーラワーダ系統の瞑想認知はあっぢろうな
ほーかいくんみたいな信念議論ではなく
😃
インド系統仏教が
わかりやすくなってきた
😃
心による構成:
我々が「外界」と感じているもの、例えば目の前の物や人、風景などは、自身の心(識)が生み出したイメージや表象であるとされます。
実在の否定:
心以外に独立した実在としての外界は存在しないとします。すべての存在は、心の活動(識の働き)に依存して現れていると考えます。
夢との比較:
まるで夢を見ているときに、夢の中の出来事が実在しているように感じられるのと同様に、目覚めている現実世界も、実は心の作り出したものだと例えられます。
「唯」は「ただ~のみ」、「識」は「心」や「認識」を指します。
この「外界のすべてはただ識のみ」という思想は、根本的な心であるアーラヤ識の働きによって、世界が構成されていると説くものです。
この思想は、私たちが普段「心と物事は独立して存在する」という常識的な見方とは全く異なる視点であり、すべては心の活動の現れにすぎないという認識に立つものです。
仏教の哲学的な思想に唯識思想というものがある。この思想は、四世紀頃のインドで、大乗仏教の思想家たちが空に対する思索を深める中でうまれた。彼らは「すべての存在は唯識である」と説いている。「唯識」とは、文字通りには「ただ識のみ」という意味になるが、この場合の「識」は、いわゆる対象を認識するはたらきのことではない。インドの古典語であるサンスクリット語では、対象認識をvijñānaという。眼や耳など感覚器官による認識(いわゆる五感)と、言語の使用や記憶などの関わる意識が、これにあたる。それに対して、「唯識」という場合の「識」の原語はvijñaptiといい、「認識された結果」を意味している。「すべての存在は唯識である」とは、「あらゆる存在は認識の結果として見えているものに過ぎない」ということを意味している。
この唯識思想を唱導する学派を唯識派といい、また瑜伽行派(ゆがぎょうは)ともいう。「瑜伽行」とは「ヨーガーチャーラ」というサンスクリット語を翻訳したもので、「ヨーガの実践をする人」を意味する。この術語は「ヨーガ」と「アーチャーラ」という二つの単語にわけることができる。このうち「ヨーガ」はいわゆる瞑想のことで、これを「瑜伽(ゆが)」と音写し、「アーチャーラ」の部分を実践という意味で「行」と訳している。本来は「ヨーガの実践」を意味するはずだが、文献では、しばしば「ヨーガの実践者」という意味で用いられている。その場合、一般的な意味ではなく、唯識思想を説く人々を指していることが多い。つまり、ヨーガーチャーラが唯識思想を説く学派を指す呼称となっている。そのため、唯識派のことを瑜伽行派とも呼んでいる。
唯識派にしろ、瑜伽行派にしろ、日本では聞きなれない学派名だが、奈良の興福寺や薬師寺に伝わる法相宗は、この唯識派の流れを汲んでいる。三蔵法師として知られる玄奘は、七世紀にインドに赴き、そこで唯識の思想を学んで、多くの典籍を唐に持ち帰った。彼が訳出した典籍の中に『成唯識論』というものがあり、その内容を研究した僧たちが法相宗を形成していった。それが南都六宗の一つとして、日本にも伝えられている。
話をインドに戻す。唯識思想の実質的な創始者は、アサンガ(無著(むぢゃく))とヴァスバンドゥ(世親(せしん))の兄弟とされている。二人とも五世紀頃の人物と目されている。しかし、このふたりがはじめて唯識思想を説いたというわけでもない。
伝説によれば、兄のアサンガはマイトレーヤ(弥勒(みろく))から唯識の思想を学んだとされている。マイトレーヤはトゥシタ天という天上界に住む菩薩で、五十六億七千万年後に悟りを開くと予言(授記)されている。アサンガは神通力によってトゥシタ天にのぼり、そこでマイトレーヤから唯識思想を授けられたという。さらにはアサンガが地上に戻った後も、マイトレーヤは夜毎にアサンガのもとに降臨し、唯識を説く文献を伝授したとされている。
六世紀頃のインドの学僧である真諦(パラマールタ)は、その著『婆藪槃豆法師伝』の中で、マイトレーヤは『十七地経』(『瑜伽師地論』の前半部分「本地分」に相当)をアサンガに伝授したと述べている。また、玄奘は『大唐西域記』の中で、『瑜伽師地論』のほか、『大乗荘厳経論』や『中辺分別論』という文献も授けられたと記している。
『婆藪槃豆法師伝』はアサンガとヴァスバンドゥの最も古い伝記とされている。そこには上で述べたように、アサンガが天上界の菩薩であるマイトレーヤから唯識思想を教授されたことが記されている。これが何らかの歴史的な事実を反映していると考えるか否かは、人によって見解が分かれるところだが、仮にアサンガがマイトレーヤから教えを受けたと自ら語っていたとしても、それは彼の瞑想中に起こった神秘体験なのではないだろうか。
ところで、この伝説によれば、アサンガは『瑜伽師地論』の前半部分に相当する「本地分」をマイトレーヤから伝授されていることになる。これはアサンガに先んじて、『瑜伽師地論』「本地分」がすでに流布していたことを意味しているのであろう。また、アサンガは、その著『摂大乗論』の中で、『大乗荘厳経論』や『中辺分別論』なども引用している。これらの文献は、マイトレーヤに帰せられる論書として知られている。こうしたことから、『瑜伽師地論』「本地分」や『大乗荘厳経論』『中辺分別論』は、アサンガが唯識思想の体系を構築するよりも前から、世に出ていたと考えるのが自然だろう。
アサンガは、彼に先行する唯識文献を渉猟し、それをもとにさらに彼自身の思索を深めていったのであろう。またそのアサンガに感化されて、弟のヴァスバンドゥも大乗仏教に転向し、自著をまとめ、唯識思想を精緻なものにしていった。そのような意味で、アサンガやヴァスバンドゥは唯識思想の「実質的な創始者」なのである。
インドの大乗仏教の一学派である瑜伽行派は、唯識思想を説いたことで知られている。唯識とは「すべてはただ認識の表象に過ぎない」という思想である。ところで、この思想を端的に表すことばとして、「三界唯心」という経文が引かれることがある。三界とは欲界、色界、無色界の三つの領域を指し、仏教的な世界観ではこの世のすべてを表わしている。それがただ心に過ぎないという意味で、「三界唯心」という。唯識思想の大成者の一人であるアサンガは、『摂大乗論』の中で、『十地経』の一節としてこの文言を引いている。
一方、弟のヴァスバンドゥは、その著『唯識二十論』の冒頭で、「大乗おいて三界唯識を立証する」と宣言している。「唯識」という場合の「識」は、「認識の結果」あるいは「認識表象」を意味するvijñaptiの訳である。「唯識(ただ認識表象のみ)」ということによって、外界の対象はその存在を否定される。つまり「三界唯識」とは、「この世のすべては認識表象に過ぎず、外界の対象は実在しない」ということを意味している。そして、ヴァスバンドゥも『十地経』の「三界唯心」を引き、瑜伽行派の唯識思想を裏付ける根拠としている。
このように、唯識思想においては、外界の対象の存在は否定される。そして、『十地経』をはじめとする大乗経典にも、その証左を求めることができる。しかし、われわれは実際に対象を認識し、またそれが自分の外部に存在していることを疑ったりしない。日常生活においては、そのように捉えていて何の支障も生じない。それどころか、外界の対象は心の表れに過ぎず、実在しないと考える方が、我々の実感に反する。そもそも外界の対象が存在しないのに、なぜ対象に対して認識が起こるのか、ということが問題であろう。
唯識思想に対して疑問を抱く人々は、外界が実在すると考えている。アサンガやヴァスバンドゥが生きた時代、外界実在説に立つ人々は、実在は四つの観点から定義されると考えていた。すなわち、(1)特定の空間を占有し、(2)特定の時間に限定され、(3)すべての人に認識され、(4)期待された効用があるもの、それが実在であるとされていた。つまり実在するものは空間的・時間的な制約を受け、ある人には認識されるが、別な人には認識されない、ということがなく、その対象が持っている効用が実際に確認できるものである。最後の条件としてあげられる「効用」とは、例えば、水の場合、それを飲むことで渇きが癒されるが、この「渇きの癒し」が効用であり、それがあることによって、その水は「実在」しているということになる。
この定義は客観的で、われわれの常識にも合致しているように思われる。このような外界の存在を否定し、この世界が認識表象に過ぎないとすれば、それは夢や幻のようなものになってしまう。そもそも一人の人間の夢の中で認識されているものを、他人は認識できない。さらに夢や幻のように実在しないものを認識しても、それに実際の効用は認められない。夢の中の水は、のどの渇きを癒すことはない。外界実在説に立ち、その存在を無反省に受け入れている人々は、このように考えたことだろう。
しかし、唯識の思想家たちは、外界の対象なしに認識が生じうることを、むしろ「夢」を実例として説明している。例えば、ヴァスバンドゥは『唯識二十論』で、外界の実在の四つの条件が、夢の認識においても当てはまることを証明しようと試みている。
『唯識二十論』での「夢」の話は討論の形式をとっていて、実在論者の主張を排除することに終始している。そうした議論を見ると、「やはり夢は夢であり、現実ではない」と、われわれは考えるだろう。しかし、夢の中の認識は単に対象のない認識の例ではない。ヴァスバンドゥの兄のアサンガも『摂大乗論』において「夢」に言及しているが、そこでは少し違った視点で「夢」について語られている。
夢の中の認識は単なる認識の表象に過ぎず、現実ではないが、夢から醒めない限り、それに気づくことはない。夢から醒めたときに、はじめてそれに気づく。アサンガはこのことを指摘した後、われわれが現実として捉えている世界も、夢と同じだという。彼は「真実の智によって覚醒した者」にしか、世界はただ認識表象に過ぎないことは分からないと述べている。「真実の智によって覚醒した者」とは、おそらくブッダを意識した表現であろう。「ブッダ」とはサンスクリット語で「目覚めた人」を意味する。われわれは凡夫であって、ブッダではない。真実の智によって覚醒していない凡夫は、夢から醒めていない人と同じように、自分たちが見ているものが認識表象であることに、まったく気づかない。
このように、「夢」は単に対象が存在しない認識の実例ではない。悟りという仏教思想の根幹にかかわる話であり、われわれ凡夫に対する警鐘なのである。
高橋晃一(たかはし・こういち)
1971年生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学。博士(文学)(東京大学)。現在、東京大学文学部教授。著書に『『菩薩地』「真実義品」から「摂決択分中菩薩地」への思想展開――vastu概念を中心として』(インド学仏教学叢書、2005年)、「初期瑜伽行派の思想―『瑜伽師地論』を中心に―」(高崎直道監修、桂紹隆・斎藤明・下田正弘・末木文美士編『シリーズ大乗仏教7 唯識と瑜伽行』春秋社、2012年)などがある。
😃
😃
上手い
😃
飲まないほどに疲れていない
😃
朝はブルーだったが
😃
俺は、久しぶりに
コンソメパンチを買ったが
夜は食わない
😃
食べなくて済む
修行の力だ
😃
コンソメパンチを食い倒すだろう
😃
😃
俺は
それをするとイチコロ健康が
地獄落ちする自信がある
😃
やらないといけない私用が片付かぬ😫
倶舎論研究だ
った
今日は私用は片付いているので
倶舎論の全体像をネットから把握とか
丁寧ひにやってみる
😃
😃
😃
疲労回復のコスパが良い
昨日は
ドデカミン一本も不要だった
😃
カラムーチョナウ
😃
栄養価が高いな?
😃
から読む
😃
大変だが
テーラワーダ瞑想のツボ感覚をもって読めば
睡魔に襲われない
カラムーチョで満腹になると睡魔に襲われる
😃
なかなか
面白くなりつつある
順番の品の論文を読んでいる
法然以前、もしくは法然派生以外の
日本念仏仏教の
阿弥陀仏信仰のモチベーションが
倶舎論から
割合見えてくる
意外だった
「根品」
😃
😃
デンパパ📶スタンスの
劣っていることを証明している
ヒンズーヨガと対峙しているからなー
😃
😃
光明遍照 十方世界 念仏衆生 摂取不捨
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏
http://youtube.com/@God-Channel/featured
チャンネル登録者数 3.28万人
マタイ、空海、蘇我入鹿、須佐之男命、
成務天皇、ウィリアム・テルの生れ変り
幸福の科学 日本神道系排除「天照様の憤り」【天照大神の霊言】(2025.9.8収録)
https://youtu.be/6vmPzGjc7pk?si=72GHbhhTTIuxXtjz
鎌倉円覚寺 横田南嶺
空と慈悲
般若心経では「空」ということが説かれています。
その「空」と「仏心」や「慈悲」とはどういう関係にあるのかと質問を受けました。
「空」とは「固定的実体の無いこと。実体性を欠いていること。うつろ。」を言います。
「空虚、欠如、ふくれあがって内部がうつろ」などを意味するのです。
「般若経は、仏陀の本質を般若あるいは一切智とも呼ばれる智慧に見た。
同経は、悟りや涅槃(ねはん)をも含むあらゆるものごとに対する無執着のあり方を<空>と呼び」
と書かれているように、「空」とは単に何かが無いことをいうのではなく、悟りや涅槃をも含むものとして説かれるようになっていったのでした。
更に『仏教辞典』には、
「龍樹が「<空>は無に等しいのではなく、すべての事物が無自性(むじしょう)にして縁起することを意味すると説いた」と説かれています。
自性がなく縁起することが空であるというのです。
「空の教義は虚無論を説くのではない。
そうではなくて、空はあらゆるものを成立せしめる原理である。
それは究極の境地であるとともに実践を基礎づけるものである。もろもろの倫理的価値を成立させる真の基底である」と説かれています。
「空」ということにもっと積極的な意味を見出しました。
「慈悲と空とは、実質的には同じです。
哲学面から見ると空ですが、実践面からいうと慈悲になります。
われとなんじが相対しているとき、そこに隔てがあるかぎり、われとなんじの対立はいつまでも残っています。
けれど、その根底にある空の境地に立って自分の身を相手の立場に置いて考えるようにすると、そこから、ほんとうの意味の愛が成立します。
それを仏教では「慈悲」とよんでいます。
「慈悲」ということを、仏典ではまれに「愛」ということばで表現している場合もありますが、愛の純粋化されたものが慈悲である、ということがいえます。
世俗の愛は、いろいろな要素がまといついています。
純粋の愛というものは、不純物がありません。
われわれが空の境地を体得すると、よい行いがおのずから現れでてきます。」
と説かれていて、空からこそ慈悲がわいて出てくるのであり、空と慈悲とは同義だというのであります。
『仏教思想6 空 』上 仏教思想研究会 平楽寺書店
第一章 空の意義 中村 元
P155
『中論』の主張する縁起とは「これを縁としていること」(相依性、相互依存関係)の意味であると考えられている。
○ 縁起 → 無自性 → 空
まず縁起と空との関係をみると、いつでも「縁起せるが故に空である」と説明されている。ところがこれに反して、「空なるが故に縁起している」という説明は見られない。すなわちつねに縁起が理由であり、空は帰結である。
第二に縁起と無自性の関係をみると、つねに「縁起せるが故に無自性である」と説明されている。この趣旨の説明はすこぶる多い。これに反して、「無自性なるが故に縁起している」という説明は一向見出されない。すなわち縁起が理由であり、無自性は帰結である。
第三に無自性と空との関係をみると、つねに「無自性の故に空である」と説明されている。(中略) これに反して「空なるが故に無自性である」という説明は一向見出されない。したがって無自性が理由であり、空は帰結である。
故にこれを要約すれば、縁起はつねに理由であり、空はつねに帰結である。無自性は縁起に対しては帰結であるが、空に対しては理由である。すなわち縁起という概念から無自性が必然的に導き出され、さらに無自性という概念からまた空が必然的に導き出される。「縁起→無自性→空」」という論理的基礎づけの順序は定まっていて、これを逆にすることはできない。
(中略)
とにかく、第一の段階として、諸々の存在は相依って、相互限定的に成立しているのであるから、法有の立場において主張するような自体(自性)を想定することはできないということが説かれ、次いで第二の段階としてそれ自体(自性)が無いから諸の存在は空でなければならぬと言われる。この論理的基礎づけの順序は、一方的であり、可逆的ではない。
○ 空 = 中道
一言でまとめるならば、『中論』においては、中道とは非有非無の意味である、といって差支えないであろう。
この非有非無の中道は空と同義である。『中論』においては、空が縁起の意味であり、また縁起と中道とが同義であるから、さらに中道は空と同一の意味である。(中略)
要するに、空とは有無の二つの対立的見解を離れた中道の意味であるといい得る。すなわち、空と無は明瞭に区別されているから、空を無の意味に解することは、中観派の真意に適合していないと言い得るであろう。
したがって空は中道と同義であり、有と無の対立を離れていることである。空と無を同一視し有と対立させるのは、ナーガルジュナの原意に適合していないと思われる。では、空は何に対するか、というならば、不空に対する概念である。空とは「縁起せる」という意味であり、不空とは「縁起せざる」すなわち「実有」の意味である。
(中略)
空は有と無の対立を超越しているにもかかわらず、不空を説く立場は分別をおこなって有と無とにとらわれていると言うことができる。前者は中道に立つ立場であるが、後者は中道を失った立場である。要するに、有と無は対立し、実有と空とはまた別の対立であるから、有と実有および無と空とはそれぞれ区別する必要があるであろう。
(中略)
以上の論述を図示をもって示すならば、
空 (= 非有非無 = 中道 = 縁起) ←→ 不空 (= 実有)
無 ←→ 有
と要約しうると思う。
要するに有と無とはそれぞれ独立に存在し得ないで、たがいに他を予想して成立している概念だというのである。すなわち有と無の対立という最も根本的な対立の根底に「相互依存」「相互限定」を見出したのであった。故に非有非無とは相互依存説(相互限定説)に立って始めて言い得ることであり、無自性および空という二つの概念が縁起から導き出されるのと同様に、中道の概念もまた中観派特有の「相互限定」という意味における縁起に基礎づけられていることを知る。
> 故にこれを要約すれば、縁起はつねに理由であり、空はつねに帰結である。無自性は縁起に対しては帰結であるが、空に対しては理由である。すなわち縁起という概念から無自性が必然的に導き出され、さらに無自性という概念からまた空が必然的に導き出される。「縁起→無自性→空」」という論理的基礎づけの順序は定まっていて、これを逆にすることはできない。
そうなのか(笑)
間合い、インド仏教的かもしれんな
😃
読めない
禅で読解は無理だな
😃
凄い速さだ
テーラワーダ瞑想ゾーンがメイン
お寺でもテーラワーダ瞑想ゾーン
本覚思想放棄だ
夏バテ過ぎて
😃
同時並列だろう
順序的ではないだろな
ロン先生が議論の中心にいる
段階的 、順序的かもしれん
華厳も段階、順序はあるけど
最初に大風呂敷しきそうな感じ
😃
相性が悪い
ハジ自体が
曹洞宗の勤行の現在語訳の知識理解程度がないから
😃
進行方向が
まったく成り立ってない
😃
そうなのか?
いわゆる天台華厳の壁
😫
ロンは解っていても
ハジがそれが解っていないとロンは理解てきていない
ま、噛み合わせが悪い
😫
学問大好きな
唯識、チベット密教ゲルク派は
順序段階ありだな
😃
下手したら
ロンよりもダメかもしれん感
😃
勉強するぞ〜
と言っても多い😫
佐々木閑先生は避けて通れないな~😄
ラストから結論から逆方向に見るプラン
😀
唯識は八識だが
倶舎論は第六識ですべてとしているという解説は
良いヒントになった
😀
というのは、大乗っぽい発想だ
川崎薬師寺の倶舎論講座を見たほうが
いいな
😀
これのほうがまとまりありそーだ
😀
彼岸がらみだが
割合楽しむノリで西山派寺院と
ちょいだけ浄土宗寺院2件お参りした
日差しが暑かった
😀
この先生のは、ずいぶん見たな😄
凄いな
俺は一部、
これから
倶舎論に絞ってみる
😀
😀
極端に禅宗に寄せた解釈している😫
セイウンコ~ンがそれを見て怒り狂ってたのはおかしい
アイツも、ヒトのこと言えるかいな
バカが😫
他の思想のことは、何ひとつピンときていない
アイツの知的なキャパは、その程度
セイウンコ~ンのは、何の参考にもならん😅
奇妙な自己流解釈を他人に押し付けることは無い(笑)
個人的に、ほ~かい師匠の日蓮寄りな唯識論を見ても、まったくイラ立ちを覚えないが
セイウンコ~ンの禅宗寄りな唯識論を見ると、本気でムカつく
こればっかりは、好みの問題でしょうな(笑)
本覚思想を抜きにしては
捉えられない
山伏念仏もやけど
😀
下手すれば、
真剣に空海教義をやりつくしていないタイプの真言宗僧侶ですら
本覚思想に近いかも
最澄をやりつくした僧侶は少数
空海教義をやりつくした僧侶も少数だ
知り合いの真言宗僧侶ですら
空海教義を知り尽くすのは難しい
と本人が述べていた
アタマの出来が違うと
俺は空海教義の方が
唯識や倶舎論よりもわかりやすかった
😀
即身成仏義や
道元の正法眼蔵なんか
ワクワクして読める
臨濟宗語録は
決闘、バトルチックだから
ワクワクという感じではない
😀
大きく傾向が異なる
そもそも、唯識論の禅宗寄りな解釈を始めたのは
臨済宗の中興の祖、というより実質的な開祖
とも言える白隠だ
開祖からしてそうなのだから、
セイウンコ~ン1人を責められん(笑)
ワクワク感がない
テーラワーダ瞑想打ち込みながら
睡魔撃退を三分で撃退しながら
少しずつ読む感だ😀
> 俺は空海教義の方が
> 唯識や倶舎論よりもわかりやすかった
> 😀
空海教義が合っていたんだな?😄
まあ、こればっかりは、合う合わないの問題もあるから😅
日本の臨濟宗は白隠でも
唯識と無関係だと思うそ
コーン🤡が狂っている
というか、
チィグナットハンのマインドフルネスが
唯識を重視したので
その影響やろ
コーン🤡は
😀
禅宗が合わないんだと思う
秋月龍珉とか、南直哉とか
禅宗の人が書いた仏教論を読むと、腹が立つことが多い(笑)
そうなんかな?
そんなに
難しいことはない
一番難しいのは
大徳寺開山がNO1だった
碧巌録より難しい
碧巌録ほど白隠語録は難しくはないが
臨済録の理解レベルがないと
白隠は理解できない
😀
最近のNHKのラジオの唯識の本を買ったけど、テレビでもそうだが
マインドフルネスと唯識についてやっていた
臨濟宗と唯識がくっつくのはベトナムの
マインドフルネスだろうな
😀
プラムヴィレッジだな
😀
唯識論からそれを取り入れた
唯識論では、転識得智は無数の輪廻転生を重ねて
最後に到達する究極のゴール
臨済宗だと、坐禅さえやってれば
簡単に到達するような話になっている(笑)
悟った後の話ばっかりするんだよな
頓悟の伝統があるから、そうなるんだろう
へえ、そうなのか
ベトナムのマインドフルネス
おもしろそうだ😄
禅語録にくわしいな?😄
いや、白隠は
般若心経をこき下ろしてた語録が出てるから忠実な唯識でないぞ
余計なくだらん般若心経なんかつくりあがってのナナメ目線語録を
唯識の用語でも
コーン🤡的ではなく 相当なナナメ目線解釈してると思う
😀
何回か坐禅したくらいで、どうにかなるようなものではない(笑)
それですな
結局のところ、諸悪の根源は白隠😫
近所の図書館に日本の禅師語録
相当シリーズがあった むろん現在語訳 コピーとりまくって
書庫にある
やっぱり大徳寺開山がサイコーだな😀
読んだらエクスタシー来たわ
内容もこうだ
には、とりま理解でしさきていたしな
😀
間接的世話に相当なり濃度は高い高僧はいるが
仕事の感覚は
苅萱堂主、大徳寺開山、妙心寺開山で
がっちり固めてるなー😀
😀
禅宗の教義が嫌い😫
ハジさんは今すごくやる気が出てますけどこのやる気の源を菩提心と呼びますね。
鬼滅の刃で煉獄さんが「心を燃やせ、限界を超えろ」とあるんですけど、悟りに向かって心を燃やし続けるのが菩提心でしょうね。
みんなが悟るのかもな?😄
結局、禅宗系の人が語る唯識論が、なぜおかしいのかというと
彼らは、煩悩とか我執には、ほとんど関心がない
ひたすら坐禅さえやってれば、そのうち悟れる
見性とか転識得智とか、涅槃とか
悟った後の結果の話ばかりする
本当は相性が悪い
唯識論では、転識得智は無数の輪廻転生を経て、
限られた人だけがたどり着く究極のゴール
人間の煩悩とか我執は、見た目より遥かに根が深い
表面意識で心を入れ替えたところで、深層意識は簡単に変わらない
阿頼耶識や末那識を浄化するのには、途方もない時間がかかる
かなり極端な現世否定の思想だ
禅宗では、仏教のそういう面が、だいぶ緩和されてマイルドになっている
日常生活の現実世界を重視する傾向が強い
裏を返せば、「外界は無い。だが、識は有る」という思想
聖ウンコ師はいつも
「阿頼耶識など、本当は無い。それが唯識派の教えなのである」
「空性など、世俗諦にすぎない。それが中観派の教えなのである」
とかなんとか、そんなことばかり言ってるが
そこは、こだわるところではない(笑)
基本的には、「識は有る」。そう思ってなければ、唯識の徒ではない
「無」に極端にこだわるのは、仏教の中でも臨済宗に特有の傾向だ
「現量・比量」の話が、ほとんど半分くらいを占めている
「四分・三類、唯識半学」(四分法と三類境が分かれば、唯識論の習得は半分、終わったも同然だ)とは、古来から言われるところだが
聖ウンコ師のは、「現量・比量、唯識半学」といったところだ
確かに、現量・比量も重要だ。重要でないとは言わないが
そこまでではない(笑)
もちろん、唯識論でもそれは、それなりに重要なのだが
上にも書いたように、唯識論では、人間の煩悩とか我執は見た目より遥かに根が深い
瞑想して、一時的に無念無想になったとしても
深層意識の奥にある根本的な我執はあまりにも強固であり、ほとんどビクともしない
これをなんとかしようと思ったら、途方もない時間がかかるし、限られた人にしかできない
「デタラメだ」と言って、いつも激しく攻撃する
どこがそんなに異質なのかというと、ほ~かい師匠は日蓮仏法をベースにしている
唯識論では、外界は阿頼耶識が作り出した幻想の産物であり、本当は存在しない
極端に唯心論的で、外界否定的な思想なのだが
日蓮仏法ではこのような考え方をしないため、その点で相性が良くない
聖ウンコ師の解釈が極端に禅宗寄りなのと同じく、ほ~かい師匠の解釈も、かなり日蓮サイドに寄っている(笑)
だが、そういうスタンスだと割り切って見れば、別におかしくない
ほ~かい師匠は思うところを自由に語っているだけであり、聖ウンコ派みたいに押し付けがましく攻撃的なところは無い😫
しかし、押し付けがましく攻撃的なのは良くない😫
コーン🤡や
ムイムイに
ダメ押しするのは
そのように
理解されるからー
😫
やはり
華厳真言の教義学の壁が
JBLにあるから
そ~見えるのさ
😀
唯識論では、深層意識の奥にある我執の源泉(末那識)は、岩盤支持層のように堅固だ
究極的には、「存在し続けたい」という、根本的な生存欲だ
瞑想して一時的に無念無想な状態になったとしても
それくらいでは、ビクともしない
寝ても覚めても、表面意識を影から操っている
コーン🤡と
ムイムイを激しく攻めるのは
>「無」に極端にこだわるのは、仏教の中でも臨済宗に特有の傾向だ
という誤読されるから
やつらを成敗する時がある
😀
> やはり
> 華厳真言の教義学の壁が
> JBLにあるから
> そ~見えるのさ
まあ、そうでしょうな
こちらも禅宗に対して、なんらかの誤解や無理解があるであろう(笑)
間に天台、華厳、真言の
教義学が
中間にあるとそうていしないと
全貌が見えない
故に
秘蔵宝やくと
言うわけ
天台、華厳、真言を見定めれれば
なんとなく禅の正体が解ってくる
ロンでは謎が濃いままだ
😫
これが欠落しているから
問題だ
ロン、アンドー、仏のスレスレ主以外は
これのなんとなくの認知は
無いだろな
😀
> ロン、アンドー、仏のスレスレ主
この3人は、禅が分かっているな?
倶舎論のイメージが深まった
😀
https://m.youtube.com/watch?v=tA8YQN9bT2I&pp=0gcJCeAJAYcqIYzv
テーラワーダの些末な修行の方向性の理解が役に立ちそうだ
この動画はオモロイ感
😀
さとりは哲学じゃないよ?
わかっとる人間いない?
たまに情報がインストールされる
気づいてるやついないの?
超能力あるやついない?
領域展開アイテム
😀
https://m.youtube.com/watch?v=TSvCd2box6E&list=PLw164xVvs_XoGNdcyPNvfo3DnzRkKn99x&index=3&pp=iAQB8AUB
さとりって哲学じゃないんだよ?
わかる人いない?
神と会ったことあるやついない?
教えて良いのかね
誰も教えられるやついなかったの?
そんなにすごいのか?
エサやるんかいっ‼️
大川隆法弐号機みたいなのに
😀
草取りなどの
作務した
以前より暑さはマシだ
😀
夏場にやる気がなかった倒れかかっていた竹を一本ノコギリで切った
😀
細い黒竹なので
基本、最大それくらい
老化で倒れかけていたのを側に折り曲げて涼しくなったら切るプランだった
😀
お彼岸案件が多かったので
倶舎論研究が進まなかった
テーラワーダは少し研究した動画で
😀
😀
鎌倉時代を代表する仏師・運慶の最高傑作と名高い「無著菩薩立像」ほか国宝7軀が東京に、興福寺・北円堂内陣を再現
東京国立博物館で特別展「運慶 祈りの空間―興福寺北円堂」が開幕
へえ、それはいいな
無著は見れないわけだな(笑)
無著さま、兜率天に住む弥勒菩薩から、法を伝授されたという法相宗の祖師。「一切の存在は、心のつくり出した仮のもの」と説く、その眼差しには、永遠を見つめるよいな穏やかさを感じます。大切に捧げ持つ包みの中は、経典を入れる篋(はこ)です。
世親さま、兄・無著に教化されたのち、唯識論の著述に努めた人。張りのある若々しい顔、眉根を寄せた鋭い眼力からは、悟りの境地に至った兄とは違い、道を追求するひたむきさを感じます。
衣文、掌や指先にまで表情を感じさせる運慶とその一門の技に魅せられ、この堂内を何周も回りたくなります。
https://stat.ameba.jp/user_images/20141031/20/polarstar0507/da/a1/j/o0578045013115030877.jpg?caw=800
😀
😀
😀
感覚は明白に変わる
マタリー感覚が抜けるナウ
😀
器用だ
😀
「六因 四縁 五果(ろくいん しえん ごか)」とは、仏教、特に阿毘達磨(アビダルマ)の教えにおいて、因縁生起(何かがなぜ生まれるのか)を説明するための概念です。
六因(ろくいん):
ある現象が成立する直接的な原因となる要素(例:種子や苗)を指します。
四縁(しえん):
直接的な原因である因が、それを成り立たせるための補助的な条件や外部環境(例:土、水、光など)を指します。
五果(ごか):
この因と縁が結びつくことによって生じる結果や、果報(かほう)を指します。
これらの要素は、仏教の根本的な教えである「因果応報(いんが おうほう)」の法則を具体的に説明するためのものであり、私たちの運命や出来事が偶然ではなく、過去の行い(因)とそれに関わる外部条件(縁)によって生じる結果(果)であることを示しています。
その背景には、「善因楽果、悪因苦果」という、インド古来からの信仰がある
「善因楽果、悪因苦果」 なのが問題だ
なぜ、「悪」という原因から、「苦」という結果が生じるのか?
その因果関係を、理論的に説明するのは難しい
これまた、「風が吹けば桶屋が儲かる」的な、実にややこしい因果関係だ
具体的な話では、風が吹いて砂ぼこりが立ち、それが目を傷つける人が増えると三味線が売れ、三味線の皮の需要が増えるために猫が減り、増えたネズミが桶をかじるため桶屋が儲かるという連鎖が示されます。
風が吹く
↓
砂ぼこりが立ち、目に入って目を病む人が増える
↓
目の不自由な人が生計を立てるために三味線を弾く人が増える
↓
三味線の胴に張る猫の皮の需要が増える
↓
猫が狩られることで猫が減る
↓
猫が減るとネズミが増える
↓
ネズミが桶をかじるため、新しい桶が必要になり、桶屋が儲かる
平たく言えば、
「善いことをすれば、良い処に生まれ変わって、楽しく過ごせます😇」
「悪いことをすれば、悪い処に生まれ変わって、苦しむことになります👿」
という話だ
これを、哲学的に思いっきり深く探究すると、どうなるか?
「六因・四縁・五果」だ
六因(ろくいん):
ある現象が成立する直接的な原因となる要素(例:種子や苗)を指します。
四縁(しえん):
直接的な原因である因が、それを成り立たせるための補助的な条件や外部環境(例:土、水、光など)を指します。
五果(ごか):
この因と縁が結びつくことによって生じる結果や、果報(かほう)を指します。
これらの要素は、仏教の根本的な教えである「因果応報(いんが おうほう)」の法則を具体的に説明するためのものであり、私たちの運命や出来事が偶然ではなく、過去の行い(因)とそれに関わる外部条件(縁)によって生じる結果(果)であることを示しています。
コンピュータ内ということはつまり、プログラミングで出来ているということ
プログラミングとは何か?
「このように入力したら、このように出力される」
という、「入力と出力の法則」の膨大な体系だ
それを究明したのが、古代インド哲学における
「原因と結果の法則」だとも言える
「このようにインプットする → そのようにアウトプットされる」
その繰り返しで出来ている‼️
「このようにインプットする → そのようにアウトプットされる」
その繰り返しで出来ている
それを徹底的に解明したのが、古代インド哲学だ
1、能作因・・・普通に考える「原因」に最も近い
2、倶有因・・・同時に、お互いに原因であり結果でもある相互関係
3、同類因・・・善因善果、悪因悪果。原因と結果の性質が同じ
4、相応因・・・倶有因の一種
5、遍行因・・・同類因の一種
6、異熟因・・・善因楽果、悪因苦果。原因と結果の性質が異なる
芽に対する種のような結びつきの強い原因は、もちろん能作因であるが、月が存在することに対して、スッポンは何の妨げも為さないことから、月にとって、スッポンは、能作因である。
【四縁でいうと、増上縁と理解する】
たとえば、二枚のトランプをお互いより、かからせて立たせた時に、お互いが、お互いの倶有因であり、士用果である。
因が善ならば、果も善、悪ならば悪、無記ならば無記と、その性質を共にしなくてはならない
例えば、忍耐をしている、ある瞬間は、忍耐をしている次の瞬間の同類因となる。
好ましくない感情や態度が、後の瞬間の好ましくない感情や態度を作り出す時の原因にあたるもの
相互に時を隔てた、異時点間の因果関係から、楽・苦などの果をもたらす。
この果(異熟果)は、善でも悪でもない(「無記」である)ことから、異熟と呼ばれる。
【因是善悪、果是無記】
「善いことをすれば、善い処に生まれて幸せになれます😇」
「悪いことをすれば、悪い処に生まれて苦しみます👿」
こういう、インド古来からの信仰
これを哲学的に説明しようと思ったら、かなり難しい
なぜ、善という原因から、楽という結果が生じるのか。
なぜ、悪という原因から、苦という結果が生じるのか。
・・・これに論理的な整合性はあるのか?
「悪いことをすれば、悪い処に生まれて苦しみます👿」
こういうのを、素朴な信仰だと思っている人は、
インド人の理屈っぽさをナメている
間接的な「条件」とか「環境」も重要だ
いろんな要因がからまりあって、意外な結果につながるのだ
カワイコちゃんの動画と付き合いながら
ふと、今、唯識のシステムの事と関連してきて
唯識のリアルが見えてきた
来週は倶舎論研究進むなー
😀
唯識、倶舎論を理解しないと
浄土宗、日蓮宗の深いところが
わからん
と言ってたが
確かに
種子に関する発想は
背後にはありそーだ
唯識探求してないが閃いた
カワイコちゃんの動画のおかげだな
😀
四縁とは、仏教でいう原因論~直接原因と間接原因を含めて~を四種類に分類したものを言う。
現象的存在を生じる四つの原因のことです。
因縁・等無間縁・所縁縁・増上縁の4つ。これら4つで、全ての原因を包括します。
探究が進んできたな?😄
これは因即縁ということで、因イコール縁という意味です。
結果を生じさせる直接原因となるもので、結果に対する直接的・内的原因で、具体的には「種子(しゅうじ)」や「現行(げんぎょう)」を言う。
「因縁」は最も近くて密接な関係をいうので「親弁自因(しんべんじか)」と定義される。
「唯識」では、「一切は根源的な心である阿頼耶識から生じる」【阿頼耶識縁起】と見るので、「因縁」とは「阿頼耶識の中の種子である」と説きます。
唯識では、厳密に区別して「因縁」という言葉は「種子」と「現行」との直接的な関係のみを表すことになっています。
すべての現実の行動「現行」は、種子以外のところから、生まれることはないし、種子は現行を離れて薫習されることはない。
すなわち種子と現行は、最も近い関係にあるから「親弁(しんべん)自果」と言います。
それは自己と自己の世界は自己が創ることを意味する。
もちろん、自己は「衆縁(しゅえん)所生(しょしょう)」であることは言うまでもなく大前提である。それを離れた実体としての自己などは、どこにも存在しない。
心が生じるための原因で、一刹那前に減した心を言います。前の心が滅することが、次の心を生じさせる原因となること。
前の瞬間の精神作用が、後の瞬間の精神作用を生起させる原因として考えられるものです。
因縁生の自己を、時間の流れという角度から、捉えたもので、
「次第縁(しだいえん)」という言葉を引き継いだ言い方です。
古来から、これを「等無間縁、一本橋」といわれてきました。
これを「開導して生ぜしむ」と定義されて、「開避(かいひ)引導(いんどう)」と解釈されます。
今の「眼識」の働きは「いま」という時間の流れと共に消滅する。
そして、それと同時に「次」の時間の眼識に道を開き、それを引き出す。これは八識すべて同じ構造です。
つまり「自類は自類を引き出す」という関係において連続しているとします。
昨日の自己を離れて、今日の自己はないし、今日の自己を離れて、明日の自己はありえない。
人格の統一的連続の問題です。
それは、裏から言えば、昨日の自己の影響力の元に、今日の自己があることを意味して、そこからの脱却がそう簡単に出来るものでないことでもあります。
「所縁」とは認識の対象のことです。対象が認識を起こさせる原因となることを言います。様々な精神作用を生起させるところの対象を言います。
自己と環境との出会い。これを「所慮(りょ)所託(たく)」と定義されます。
「所慮」とは、我々の思いの対象となることであり、
「所託」とは、その対象を拠り所として、我々の思いが動くことです。
我々は、存在的にも認識的にも、多くの環境世界との中にありますが、だからといって、その全てと交渉がある訳ではありません。
その中の特定なものだけが、認識の対象として捉えられた時に、初めて対象として意味を持ってきます。
実は対象として捉えられたもの以外は、何一つ現れるものはないのですが「所縁縁」は、特に対象化される一面を強調したものです。
以上の三縁以外の、全ての原因として考えられるものを増上と言います。したがって、その含む範囲はすこぶる広いのです。
私の運命に、積極的に力を与える場合に有力(うりき)増上縁と、私の運命を妨げないことが原因になるという、消極的な場合の無力(むりき)増上縁の二種があります。
「有力増上縁」を「与力(よりき)増上縁」とも言い、現在の自己を積極的に支える縁の力。
「無力増上縁」を「不障(ふしょう)増上縁」とも言い、現在の自己の状態に対して、邪魔をしない消極的な縁の力。
積極的に現在の自己を支える縁の力も無限としか、言いようがないが、「不障」の縁の力になると、更にまた無数無量の果てしない縁の繋がりを推測せざるを得ない。
「順」とは、現在の自己に対して、積極的に働く縁の力であり、「違」とは、現在の自己が持続するのを遮る縁の力である。
「四縁」の中の「増上(ぞうじょう)縁」について『成唯識論』には「順」と「逆」で教えている。
増上縁という言葉は、大願業力を増上縁とするとか、阿弥陀仏を増上縁とするとか、浄土真宗でも、よく使われます。
一番分かりやすいのは、因となる縁を「因縁」?因即縁?と言います。
因を果にならしめるもの全部を増上縁という言い方が出来る。
縁の中に増上縁は、力が強いという意味がある。
増上(ぞうじょう)、漢字の意味から見ても、分かると思います。「増す、上に」
因を果にたらしめるものが、縁なので、ここに増上縁というのがある。
それが、与力(よりき)?有力?増上縁と、不障(ふしょう)?無力?増上縁である。
与力とは、積極的に物事を成り立たしめる働きをいい、不障とは、そのことを起こることを妨げないこと。
たとえば、ここに今、聞法会を設けている。色んな因縁がある。電車で来たとか、お金を出して来た、とか、歩けたとか、色々な縁がある。これは与力増上縁です。
不障増上縁とは、大地震が起こらなかったとか、電車が止まらなかったとか、病気にならなかったとか、聞法を妨げるようなことが起こらなかった、というのも縁として考える。
この地球が存続し続けたことも縁で、その間に隕石が地球に衝突して、爆発しなかったことも縁なのです。
あることないこと一切が縁、それが増上縁です。その中で、順とか逆とか言われるのは、これは多分、善悪業に関係しているように思います。
↑
ここは重要だな
倶舎論はともかく、唯識論だとそうなる
人間の行いの因果が
大方だが
浄土宗やら日蓮宗などは
仏の功徳=種子みたいに
考えているのだろうな
と
唯識から
閃いた
😀
日蓮の観心本尊抄にも
仏の種子とかあるはずだ
😀
種子のゲームみたいな要素がある
😀
間の人
さんまが、語る
😀
https://m.youtube.com/shorts/KrXP0VqQ2GQ
なるほど😄
五果の種類桃(もも、李(すもも、杏(あんず、栗(くり、 棗(なつめ。
東洋医学の概念:
五行説において、これら果物は「土」の要素に配当され、消化器系の「脾」や「胃」の働きと関連付けられます。
「五果を助く」:
『黄帝内経』には「五果を助く」という言葉があり、これらの果物が臓器の働きを助けることが示唆されています。
「脾の果」としての棗:
特に棗は脾胃の働きを助ける重要な果物として、「脾の果」という別名を持つほど重要視されています。
「脾胃が体の中で重要な役割を果たしている」という考えに基づき、体にとって必要な五果を摂取することで、消化器系が整い、全体的な健康に繋がると考えられています。
クロウメモドキ科の落葉小高木
ナツメ(棗)は、クロウメモドキ科の落葉小高木である。和名は夏に入って芽が出ること(夏芽)に由来する[5][6]。中国植物名(漢名)は、棗(そう)という。英語ではjujube[またはChinese date(中国のナツメヤシ)という。
果実は乾燥させたり(干しなつめ)、菓子材料として食用にされ、また生薬としても用いられる。
ナツメヤシはヤシ科の単子葉植物で果実が似ていることから。またナツメグはニクズク属樹木ニクズクの種子でありそれぞれ別種。
アラビア人のソウルフードだ
ナツメは、ナツメヤシと実が似ている
別名「チャイニーズ・デーツ」とも呼ばれるらしい
仏教用語の五果は、それとは意味が異なる
仏教の因果論で、六種の因に対する五種の果。すなわち、異熟果、等流果、離繋果、士用果、増上果をいう。〔倶舎論‐七〕
十二因縁を三世に配した時の、過去の無明と行の二因に対する現在の五果。識・名色・六処・触・受の五つをさす。
六因四縁に対する結果の方を指す
AIに聞いてみよう
「倶舎論 五果」についてですね。「倶舎論」は仏教の教義を体系的にまとめた書物であり、その中に「五果(ごか)」という概念は直接出てきません。しかし、「五果」は「五つの果実」を指す言葉で、桃・李(すもも)・杏(あんず)・棗(なつめ)・栗などの果物を指す一般的な用語です。したがって、仏教の専門用語としての「倶舎論 五果」というものは存在せず、一般的に使われる「五果」を指していると考えられます。
仏教の思想を体系的に整理・解説した書物です。
「阿毘達磨倶舎論(アビダルマコーシャ)」という原題の略称で、仏教学の基礎的なテキストとして重要視されています。
「五果」という言葉自体は仏教の専門用語ではありません。
桃、李、杏、棗、栗の5種類の果物を指す言葉です。
自我による欲望を排し、直接的な知覚反応によらない概念によってモノ・コトを考察してみると、それらのことごとくが原因と結果によって成立していることを発見することができる。それが因果の論理である。
その論理を用いて、人の一生における心のはたらきの因と果を洞察したのがガウタマ・シッダールタ、すなわちブッダ(紀元前五世紀、仏教の開祖)である。
人間と生きとし生けるものはみな生存欲(個体維持と種保存の欲求:呼吸・睡眠・飲食・生殖・群居・情動など)をもって生まれてくるが、生の初めに知識はない。<無明>
だからまず、その生存欲によって活動する。<行>
活動することによって世界を認識する。<識>
認識した世界が記憶される。<名色>
それらの記憶によって、眼・耳・鼻・舌・からだ・意識がはたらく。<六処>
眼は色彩・かたち・うごき、
耳は声や音と音の強弱・リズム・メロディー、
鼻は匂い、
舌は味(甘味・辛味・苦味・酸味・塩味)、
からだは感触(機敏さと強さ、重さと軽さ、硬さと柔らかさ、熱さと冷たさなど)、
意識は出来事と意味、
をそれぞれにとらえ、対象を識別する。<触>
識別した事柄が快・不快を生む。<受>
その快・不快が対象への愛憎を生む。<愛>
愛憎が執着を生む。<取>
その執着があるから生存する。<有>
生存するから生きる。<生>
生きるから、老いて死ぬ。<老死>
「それがあるから、これもある」
「それが生じなければ、これは生じない」<ブッダ>
(その解脱により世界を観察すれば、自然や生きることはすべてあるがままであり、成るようにしかならないのに、煩悩によって生きるものに対して、限りない"慈しみ"の心が生まれるとする)
「五果」とは、五つの果
(異熟果・等流果・離繋果・士用果・増上果)を言う。
道を修めて得た汚れがない智慧(無漏智)によって、煩悩を減したところに顕れるもので、涅槃のことです。
他の四つの果に対して、離繋果のみに、因と縁とがありません。
「住」は、住する処(所) ということで、「無住」とは固定的な状態を否定するものです。
無住処涅槃とは、智慧によって煩悩障と所知障とを離れているから、生死(迷いの世界)にも停滞せずに、しかも大悲をもって衆生を救済するために、迷いの世界の中で活動するから、涅槃の境地にもとどまらないことを言います。
「智慧あるが故に生死に住せず、慈悲あるが故に涅槃に住せず」 【摂大乗論釈】
といい、涅槃にありながら、涅槃を超えているから、無住処涅槃と言います。
金曜日までお預けだ
😀
😀
https://m.youtube.com/shorts/SCUlHoUUqGE
こーいうのは気づかなさそうだ
😀
真言密教、華厳も
大体は似たところだ
ハジスレに集まる多くは
これに無縁
😫
神秘主義がない
華厳は毘盧遮那仏の光明の神秘
真言密教は六太無碍の神秘
がある
故に
禅の理解には
秘蔵宝やくは
便利だと
😀
ネルケ
センスが良い
このショート動画で
完璧だ
😀
俺の野蛮な仕事には応用が効かない
😀
とくに禅宗では
よ~しゃべるのは禅僧っぽくない
ネルケの方がレベル高い
😀
言葉のワンパンチ
決められるのが有能だ
😀
ワンパンチは
自信ある
😀
笑えるな😂
動画だけは
初めてショートで
上手くまとめていたのけで
感動したわ
霊感とは別に
内容に
😀
お初かもなー
😀
ムイムイへ指導内容
ネルケが語ってくれている
😀
まったく、彼らへのサービスはこれだ
😀
https://m.youtube.com/shorts/mT56KAJlKBA
これだ
😀
無間ナルシズムゲーム地獄を
おりさせようと
日々親切しているが
コーン🤡は
無間ナルシズムゲーム地獄
を
参禅30年で
イイネ欲しい餓鬼地獄から抜け出れない
ムイムイもね
😀
〈四縁〉因縁・等無間縁・所縁縁・増上縁
〈五果〉土用果・等流果・異塾果・増上果・離繁果
六因―四縁―五果の織りなす
交響曲の世界である
この因・縁・果の論理によって、
神や第一原因を認めず、
単に偶然も認めない、
煩瑣なアビダルマの体系が確立された
石田瑞麿『例文 仏教語大辞典』
【五果】
(1)等流果(善因による善果、悪因による悪果)
(2)異熟果(善・不善の因から生じた非善・非不善の果。因と異質の果)
(3)士用果 じゆうか(強力な因によって因と同時に生ずる因果同時の果)
(4)増上果(それみずからを除いた他のものすべてを因として生ずる果)
(5)離繋果 りけか(煩悩の束縛を脱した果。涅槃の悟り)
『蔵漢大辞典』【五果】
五果
・増上果(ぞうじょうか)
六因のうち能作因に、四縁のうち増上縁・等無間縁・所縁縁に対応する果。増上は「力を及ぼすもの」の意。
・士用果(じゆうか)
六因のうち倶有因・相応因に対応する果(四縁のうち因縁の一部に対応)。因と果が時を同じくする関係になっている。士用は「男子の動作」の意で、因の力の強いのをそう例えたもの。
・等流果(とうるか)
六因のうち同類因・遍行因に対応する果(四縁のうち因縁の一部に対応)。等流果は多くの場合自らまた同類因となって次の等流果を生ぜしめ、そこに因果の連鎖が続く。等流とは、因から「流れ出る」の意。
・異熟果(いじゅくか)
六因のうち異熟因に対応する果(四縁のうち因縁の一部に対応)。異熟果は善でも悪でもない「無記」であり、異熟果自体が自ら異熟因となって再び異熟果
を生じそこに因果の連鎖をなすことはない。
・離繋果(りけか)
煩悩の止滅(すなわち涅槃)のこと。煩悩は「三世実有」の立場からは、なくなってしまうことはありえない。涅槃は、煩悩の拘束から離れる(離繋する)こ
とであり、正しい知恵の結果であることから果のひとつと位置づけられる。対応する因果はない。
そして、六因・四縁・五果
これらが横糸と縦糸のように絡み合う、フクザツな世界
それが、倶舎論ワールドだ
やはり禅には関心なさげだな
😀
禅宗の教義に関心が無いだけ
> じつは、家で坐禅を毎日やっている😅
ムイムイやハジ殿の影響だ
禅に関しては
動画NO1だと思うぞ
😀
ネルケを一生
教えてやらん
😀
よし
そこから始めてみるか😄
悪くはないが
やはり
ネルケの方が
上だな
😀
ムイムイやコーン🤡との違い、ヤツラの間違いは
明白だ、ネルケ
https://m.youtube.com/shorts/ZUdZSGpDwk0
149.
ユーザー
栖雲居士◆dqam8SqGUPdm
bSyDw(1/2)
坐禅会の掛け持ち今の二箇所からもう一箇所増やす事にした。
若い頃みたいに四箇所掛け持ちで、毎月摂心毎週坐禅会とかはしなくなったけど。
2025/10/01 22:57:36
😀
https://m.youtube.com/shorts/qO6LoqOCx5M
これは笑えるな😂
コーン🤡やムイムイの間違いを
理解できる
😀
これでこそ禅僧だ👍️
シンプルに
修行と悟りを明白に提示している
ネット仏教では
最高峰だろな
なにせ、
沢木興道の血筋のあるエリート集団だ
😀
一般的な意味:
コトバンクによると「思量」は「物事が思いどおりに進む程度」という意味もありますが、仏教で使われる場合は、広く「あれこれと考えること」全般を指すことが多いです。
思量は、情報を集め、分析し、自分の知識や経験と照らし合わせて物事を理解する、いわば「頭で考える」働き全般を指すことがあります。例えば、お釈迦様の教えを理解しようと論理的に考えたり、自身の経験と結びつけたりする行為も、この思量に含まれます。
禅の教えの中では、私たちの日常生活は、常に頭の中で物事を判断し、評価する「思量」に満ちています。これに対して、禅では「非思量(ひしりょう)」という境地、すなわち、自分の考えや判断を介さず、世界や物事をありのままに捉えることを目指します。これは、偏見や思い込みなく、物事の真実の姿を明らかに見ようとする姿勢にもつながります。
「思量」について
五蘊(Ryohei Saito)
「箇の不思量底を思量する」とは
五蘊(Ryohei Saito)
「箇の不思量底を思量する」とは
「思量箇不思量底 不思量底如何思量 非思量」
これについては以前、『正法眼蔵』の「観音」巻を中心にちょっと考察したことがありますが(「『自受用三昧』について」参照)、今回は以前とは違う切り口から自分なり(=独断的)に考えてみたいと思います。ですので、おそらく”正統的な”解釈からはだいぶ外れていると思われます。
この言葉は、もともと中国曹洞宗の流れの中でも最も重要な存在の一人である薬山禅師(745~828年)と弟子との問答から採った言葉です。もとの問答を以下、引用します。
薬山弘道大師坐次(ざするおり)、有僧(あるそう)問、「兀兀地思量什麼」〈兀兀地(ごつごつち)に什麼(なに)をか思量す〉(どっかと坐って、なにを思量する(かんがえる)のですか)。
師云、「思量箇不思量底」〈箇の不思量底を思量す〉(思量しないところを思量するのだ)。
僧云、「不思量底如何思量」〈不思量底、如何(いかん)が思量せん〉(思量しないところをどのように思量するのですか)。
師云、「非思量」〈思量にあらず〉(思量ではない)。
愛知学院大学 禅研究所 「思量・不思量・非思量(著・伊藤秀憲)」より
坐禅している師匠に「坐禅中、いったい何を考えている(思量)のですか」と聞く弟子もすごいですが、それに対して怒るでもなく、逆に「考えないところ(不思量底)を考えている(思量)のだ」と返す薬山禅師もかっこいいなと思います。
そして「考えないところ(不思量)をどうやって考えるのですか(如何思量)」と問い返す弟子に対して、薬山禅師が返した言葉が「考えにあらず(非思量)」。
はたして、本当に道元禅師はそのような意味合いでこの問答を解釈し、「それが坐禅の一番大事な点だ」と言ったのでしょうか?
この問答に出てくるキーワードに「思量」「不思量」「非思量」があります。この3つのキーワードの関係性をしっかり理解しないとこの問答の本当の意味は分かりません。
その際、「思量」という言葉をどう捉えるかが問題です。「思量」をそのまま「思い量る」=「考える」と訳しただけでは、この問答の意味を履き違えてしまいます。もちろん当然ながら「思量」には「考える」という意味がありますが、道元禅師は(もちろん薬山禅師やその弟子も)「思量」をそのような意味だけでは捉えていないのではないかと思われます。
ここで唯識思想を通して「思量」を考えてみたいと思います。唯識ではこの世のすべてを心(=識)の現れであるとします。その根本の心が「アラヤ識(阿頼耶識)」ですが、アラヤ識とは永遠の過去から衆生が行ってきた業(カルマ)のデータが収められている宇宙的なクラウドのようなものです。
①アラヤ識・②マナ識・③意識・④前五識(眼識・耳識・鼻識・舌識・身識)
つまり「思量」とは、思考や顕在意識のレベルだけではなく、潜在意識レベルの自我意識(「我」という意識)の意味を含むものとして捉えることができます。
なので、この「マナ識」による勘違いを正さなければ人間は苦しみから逃れることはできません。仏教はそもそも根本的な苦しみからの脱却を目指していますから、当然、坐禅はその技法になります。問題なのは「考えること」(=「意識」)なのではなく(人間だから考えるのは当たり前です)、「意識」に深層レベルで影響を与え続ける「マナ識」の存在です。
だから道元禅師は「意根を坐断せよ」と言います(「意根」とは「意」の根ですから、「意識」のことではなく、その根っこに当たる「マナ識」のことです)。「意根」=「マナ識」が間違った活動を続けるかぎり、その影響下にある「意識」は本来の正しい思考(正思惟)をすることができない、つまり世界を正しく認識することができないのです。
さすがは道元
いいことを言う👍️
気に入った!😄
ただ、その際、原文を訓読みにしてしまうと、これまた意味不明なものとなってしまいます。道元禅師も『正法眼蔵』中で必ず漢文のまま引用しています(『普勧坐禅儀』はもともと全文が漢文で書かれたものです)。なので、ここでも訓読みにせず漢文のまま考えていきたいと思います。
まず弟子の最初の問いです。この言葉は坐禅の要術としての引用には含まれていませんが、重要な言葉なので考えてみます。
「兀兀地」は、山のごとく坐定している、つまり「坐禅三昧の時」(サマーディ)という意味です。「什麼」は「何」という意味ですが、この「什麼」というのはただの疑問形ではなく、「什麼」=「何」としか言えない、つまり思考や概念では定義付けできない現実を表しています(禅では、言葉では表しようもない事実を疑問形の言葉を使って表現したりします)。
したがって「兀兀地 思量什麼」は「坐禅三昧の時、思量(「我」という意識)は”何もの”とも言えない存在となっている」と読むことができます。
つまり弟子の問いは最初からかなり真実をついたことを言っていることになります。
それに対する薬山禅師の答えです。
ここで「不思量」というワードが出てきます。「不思量底」とは、「我」とは言えない、「我」を超えた縁起的世界、つまり実相(=万法)のことです。
「箇」とは「ただひとつ」という意味なので、「箇不思量底」とは一心(ワンネス)と言ってもいいと思います。「一心一切法、一切法一心」の一心です。「現成公案」巻ではそのことを「万法ともにわれにあらざる時節」と表現されています。
ちなみに「万法」はよく森羅万象などと訳されることもありますが、決して自分の外側に広がっている空間的な個物の集合などではありません。そうではなく、すべてが縁起によって現れている、無自性(=無我)の活動体のことであり、それは分離できないひとつの存在(一心)です。
また「箇」とは「今、ここ」という事実も指しています。だから自身の心身の働きそのものを差し置いて外側に世界を措定することはできません。自他を超えた「今、ここ」の働きすべてが無我であり、ひとつであるということです。ですが、日常の意識では、そうは感じられません。それは「マナ識」という自我意識の働きが根底にあるからです。だから自我意識としての「我」を忘じる必要があります。そのために坐禅があります。
「仏道をならふといふは、自己をならふ也。自己をならふといふは、自己をわするる也。自己をわするるといふは、万法に証せらるる也」
この一節に即していうならば、坐禅三昧によって自己(思量)を忘じ、万法(不思量底)に証せられることが、「思量箇不思量底」の意味と取ることができます。
ただ、自己(思量)を忘じたからといって、自己が万法(不思量底)の中に溶けて消え去ってしまうわけではありません。そのことが次の弟子の問いで示されます。
「不思量底如何思量」
2つ目の弟子の問いですが、これもただの疑問ではありません。「如何が思量せん」と訓読みしているところは、そのまま「如何思量」と読みます。ここでも「如何」とは先の「什麼」と同じく、言葉や概念を超えた実際を表しています。特に「如」という文字が入っていますから、「如来」や「如是」などと同様に強い言葉です。つまり「如何思量」とは「如何」というしかない自己(思量)ということです。これは単なる自我意識としての我(=思量)ではありません。自我意識としての我(=思量)から、万法に証せられた自己(=如何思量)へと自己が変容していることを意味しています。
自我意識としての我(=思量)による認識では、「我」と「世界」は必ず対立しています。しかし、万法に証せられた自己(=如何思量)にはもはや対立はありません。自己が万法であり、万法が自己であるからです。
「いはゆる思量箇不思量底なり。思量の皮肉骨髄なるあり、不思量の皮肉骨髄なるあり。」(『正法眼蔵』「坐禅箴」巻)
「皮肉骨髄」とは達磨さんが4人の弟子に法を伝えるときに、それぞれ自身の「皮肉骨髄」を得たと言ったという逸話から来ている言葉です。ですが、ここでは「達磨さん」とはただの歴史上の人物のことではなく、〈真の自己〉のことを表します。もちろん仏(ブッダ)と言ってもいいのですが、超越的な仏さまのような存在がいるという意味ではありません。〈真の自己〉とは、誰にでも本来備わっているブッダとしての性質、すなわち「仏性」と言ったほうがいいかと思います。つまり「皮肉骨髄」とは仏性の生きたすがたのことと言えます。
したがって「思量の皮肉骨髄なるあり、不思量の皮肉骨髄なるあり」というのは、本来、思量(自己)は仏性そのものであるし、不思量(万法)も仏性の生きたすがたそのものということです。「一切衆生悉有仏性」です。
「まことに不思量底たとひふるくとも、さらにこれ如何思量なり。兀兀地に思量なからんや、兀兀地の向上なにによりてか通ぜざる。賤近の愚にあらずは、兀兀地を問著する力量あるべし、思量あるべし。」(同上)
ちょっと長いですが私訳します。
訳:ほんとうに不思量底ということは昔から言われているとしても、さらにここにあるのは「如何思量」(如何という自己)なのだ。坐禅三昧の時に思量(自己)がないことがあろうか。思量(自己)がないならば、坐禅三昧(サマーディ)のさらなる高みにどうして通じることができようか。そこいらの愚か者でないならば、坐禅三昧それ自体を問う力量があるはずだし、問う思量(自己)があるはずだ。
問うことは参究すること、つまり仏道を学ぶことそのものです。ですが、問う主体は自我としての古い自己ではなく、万法に証せられた「如何思量」という新たな自己でなければなりません。自我が仏道を学ぶことは原理上できないのです。でもそれは自我を手放すことが仏道なのだから当然といえば当然です。
「非思量」
ただの「思量」でもなければ「不思量」でもなく「非思量」です。
ですが、先ほど「思量(自己)は仏性そのものであるし、不思量(万法)も仏性の生きた姿そのものである」と書いたように、「思量」(自己)でもあり「不思量」(万法)でもあるのが「非思量」です。つまり「非思量」は仏性と言っていいと思います。仏性はブッダ(目覚めた者)の性質ですが、ここでは目覚めの意識そのものと捉えておきます。
「いはゆる非思量を使用すること玲瓏なりともいへども、不思量底を思量するには、かならず非思量をもちゐるなり。」(同上)
訳:薬山禅師の言われる「非思量」のはたらきは、透き通る玉のように自然に誰もが本来、親しく使っているものなのだと言えるとしても、不思量底という実相を思量(=参究)するには、必ず「非思量」を用いるのだ。
「非思量にたれあり、たれ我を保任す。兀兀地たとひ我なりとも、思量のみにあらず、兀兀地を挙頭するなり。兀兀地たとひ兀兀地なりとも、兀兀地いかでか兀兀地を思量せん。」(同上)
訳:「非思量」には「誰」としか言えない何ものかが在る。その「誰」としか言えない何ものかが私自身を保ち続けている。坐禅三昧のすがたは私自身であるとしても、思量(自己)のことだけではない、それは坐禅三昧それ自体を実現させているのだ。しかし坐禅三昧は坐禅三昧であるとしても、(その「誰」としか言えない自己がなければ)坐禅三昧がどうして坐禅三昧それ自体を思量(=参究)することなどできようか。
先ほども言いましたが仏性とはブッダ(目覚めた者)の性質のことです。その目覚めの意識(=非思量)は本来、誰にでもあるはずなのですが、「マナ識」という誤った自我意識のため、それは完全に塞がってしまっています。その自我意識を坐禅により忘じることにより、おのずと「非思量」という「誰」としか言えない何ものか(=本来の面目)が現れてくる、ということでしょう。
まあ、もちろん実際はとてもそんな簡単なものではないかもしれませんが……理屈の上ではそうなります。それを理屈ではなく実際に行じて証していくのが坐禅であり弁道です。
ちなみに「般若心経」では観自在菩薩(観音さま)が深い深い般若波羅蜜多(智慧の三昧)に入っていたとき、五蘊(自己)がすべて空である(不思量底)と照見したとあります。これはまさに「思量箇不思量底」のことを言っています。
ここでは観音さまが主語になっていますが、観音さまという人がどこかに存在しているわけではありません(当たり前ですが)。観音さまなどという実在しない超越的存在を持ち出しているから大乗仏教は本来の仏教ではないと言う人もいるかもしれませんが、それは超越的存在などではなく、われわれの本来の意識を象徴的に表現したものです。
ですが、それはどこかのお寺のお堂や経典の中にではなく、自己の中にしか存在しません。そしてそれを感得するのは、全身心をかけた弁道(行住座臥)を通じてだということです。
だから自己を置いて外にたのめるものなどありません。お釈迦さまが自己をよりどころとせよ、とおっしゃっているとおりです。
どこまでも自己(思量)の問題なのだということです。
※参考文献:多川俊映著『唯識とはなにか 唯識三十頌を読む』(角川ソフィア文庫)
【追記】
上記のように書きましたが、「思量箇不思量底」の解釈が一面的なのと、「如何思量」と「非思量」とが別のものであるかのような誤解が生じる書き方だったので補足したいと思います。
あらためて「思量箇不思量底」は二通りの読み方ができます(①「箇の不思量底を思量する」②「思量は箇の不思量底である」)。
①が普通の意味ですが、この読み方だけだと、やはり字義上の矛盾に惑わされて、「禅は考え事ではない。ただ座れ」という思考に陥ってしまいます。ですので、まずは②の意味で考える必要があります。
「思量箇不思量底 不思量底如何思量 非思量」
この言葉は、もともと中国曹洞宗の流れの中でも最も重要な存在の一人である薬山禅師(745~828年)と弟子との問答から採った言葉です。
薬山弘道大師、坐次、有僧問
僧問、「兀兀地思量什麼」
師云、「思量箇不思量底」
僧云、「不思量底如何思量」
師云、「非思量」
薬山弘道大師が坐するおり、ある僧が問う
僧問、「兀兀地(ごつごつち)に什麼(なに)をか思量す」
師云、「箇の不思量底を思量す」
僧云、「不思量底、如何(いかん)が思量せん」
師云、「思量にあらず」(思量ではない)。
「どっかと坐って、なにを思量するのですか」
「不思量を思量するのだ」
「不思量をどのように思量するのですか」
「非思量」
意根を坐断せよ
いいねえ
コピペ元はここ
https://note.com/skandhas_saito/n/n3c612be1e44f
「思量」について
五蘊(Ryohei Saito)
【唯識三年】仏教ウンチクを語るスレ 10【倶舎八年】
https://talk.jp/boards/psy/1759535455
インドの仏教思想 主な流れ
1、初期仏教 : 紀元前6世紀頃
お釈迦様の教え
2、上座部 (テーラワーダ仏教) : 紀元前5世紀頃
いわゆる小乗仏教、南方で継承される
3、説一切有部 (倶舎論) : 紀元前1世紀頃
部派仏教の時代、最も有力な部派
4、経量部 (倶舎論) : 西暦300年頃~
説一切有部から分派、世親はここの出身
5、中観派 (中論) : 西暦200年頃~
空と縁起の思想、龍樹が始めた大乗仏教
6、瑜伽行派 (唯識論) : 西暦400年頃~
阿頼耶識が登場、大乗二大学派のひとつ
7、如来蔵思想 : 上記の流れとは独自に展開、
「誰でも成仏できる」という思想
「話を単純化する」ということを知らんのが、
セイウンコ~ンの致命的な弱点
鈍才で努力型の人に共通する弱点だ
それから、次第に細部に入っていく
セイウンコ~ンは逆だ
まず、細部から入る(笑)
アイツのセンスじゃ、何年かけても無理だろ(笑)
ネルケ 無方(ネルケ むほう、1968年3月1日- )は、ドイツ生まれの曹洞宗の僧侶である。2002年から2020年まで曹洞宗・安泰寺の住職を務めた。俗名はイェンス・オラフ・クリスティアン・ネルケ (Jens Olaf Christian Nolke)。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/61/Muho.jpg
ドイツの牧師を祖父に持つ家庭に生まれる。7歳で母を亡くす。キリスト教主義学校の高校在学時に坐禅と出合い、将来は日本で禅僧になろうと夢を抱く。
ベルリン自由大学日本学科・哲学科在学中、1990年から大学を休学して半年間京都大学に留学。京都府園部町の昌林寺や兵庫県の安泰寺で修行を行った。1991年に帰国しベルリン自由大学に道元についての修士論文を提出。ベルリン自由大学日本語学科修士課程修了後、博士後期課程に入学。1992年10月、奨学金を得て京都大学大学院に留学したが、1993年に中退し、兵庫県美方郡新温泉町久斗山にある安泰寺で出家。
1995年の秋、安泰寺から離れ、京都府の臨済宗東福僧堂、福井県の曹洞宗発心寺で修行を重ねる。
1997年に安泰寺に戻るが、2001年に師匠のもとで嗣法をし、大阪城公園でホームレス坐禅を行う。そうした中、2002年に師の除雪作業中事故の訃報を聞いて安泰寺に戻り、9代目住職になった。同年結婚。
現在は日本の内外で講演活動や坐禅指導の傍ら、執筆活動を行っている。2011年発行のデビュー作『迷える者の禅修行』は同年の新潮ドキュメント賞の候補作に選ばれた[2]。
2013年に安泰寺で修行するザビーネ・ティモテオを撮影したドキュメンタリー映画『Zen for Nothing ~何でもない禅~(ドイツ語版)』に出演。
2015年、グランフロント大阪でWorld Omosiroi Award1stを受賞。
2016年、宮津市の智源寺専門僧堂の講師に就任。
2020年、安泰寺住職を引退後、大阪を拠点に坐禅会や勉強会を開催している。NHK文化センターや朝日カルチャーセンター講師としても活動している。
https://youtu.be/FpLvdeGqjQ0?si=gGnMx7NGrYPLRTpG
ひたすら坐禅ばかりをするのは
ある絶対的な感覚の形があるんたなー
と曹洞宗寺院で作務しながら思った
臨濟宗では
目の前の対峙がメインだ
それは
坐禅のスタイルに現れている
曹洞宗は壁に向かって坐禅
臨濟宗は壁を背にして正面向かって坐禅
このスタイルは
狙っている方向の違いがある
曹洞宗寺院で
作務しながら
それを納得した
😆
そう言えば、そうだったな
これが覚りです
You are souls currently traveling between planets in the solar system, and your main body is located in the pelvic region. Repeatedly listening to Bija Mantras can raise your Kundalini, but you won't know how to lower it(⚠) Basically, read Edgar Cayce.
https://youtu.be/OgqTA01Nzbw?si=_7kI0cxcEwAvlecu
https://youtu.be/6OuR-1253zs?si=N8nSlFTprg_kxb51
何を言ってるのかわからない
日本語か英語じゃないと
禅宗の信者が集まってるところで、
「坐禅なんか要らねえんだ」を
連呼するってのも凄いな😂
865 栖雲居士◆dqam8SqGUPdm [sage] 2025/10/04(土) 19:51:15.25 ID:pdB3h
しかし、ロンってある意味凄いと思うぞ?
此処まで坐禅をしない理由を、
毎日毎日毎日毎日レスするとかwww
つーか、
別に坐禅しなくていいから、
此処に来なけりゃ良いんじゃないの?
「弓術の達人が矢を捨てた」とか
そういう話は昔からあるけれど
よほどの高段者の話だろう
普通は、そこまで行かないんじゃないか?(笑)
あとは、動中の工夫だけで
高い境地を維持できるかもしれんな
ってことは無いと思うぞ
最近でこそ、坐禅はやってるが
勤行はしていない(笑)
仏典はよく読んでいる
その辺のどこにでもいるような禅僧など、まったく信用していない
禅寺に通って師匠につく気はない
プレミアムの無料期間を2026/3/31まで延長することになりました。
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