法介論法『一念三千論』第一最終更新 2024/10/10 19:141.法介◆T3azX0Hk1U0HpBmわたくし法介が、天台及び日蓮仏法における究極の覚りの法門である『一念三千』を、自身がこれまでに培ってきた仏教観で語る法介論法スレです。わたしの論法を理解する為のご質問は喜んでお受けいたしますが、法論をする場ではありませんので「それは違います」等の突っ込みはご遠慮ください。あと、ご自分の価値観でわたしの話にチョイチョイ突っ込みを入れて来るでおーという人物がおりまして、いくら注意しましてもその行為を止める様子が見受けられない為、やむおえずこのスレにおける〝出入り禁止〟を宣告させて頂きます。2024/09/24 02:59:49505コメント欄へ移動すべて|最新の50件2.法介◆T3azX0Hk1U0HpBmおはようございます、法介です。2024/09/24 03:04:133.法介◆T3azX0Hk1U0HpBm新スレタイでのスタートです。宜しくお願い申し上げます。2024/09/24 03:07:204.法介◆T3azX0Hk1U0HpBmここでは、天台教学における覚りの極意、一念三千の法門を中心にお話を進めて行きたいと思います。2024/09/24 03:09:475.法介◆T3azX0Hk1U0HpBm「一念三千」と言いますのは、今一瞬の心の中に、三千の世界を備える法理でしてその三千の世界は、「凡夫の世界観」と「仏の世界観」と「真如の世界観」と言った三種の世界が円かに溶け合い、摩訶不思議な現象が凡夫の一身に顕れるといったものです。2024/09/24 03:19:446.法介◆T3azX0Hk1U0HpBm天台智顗は、それを「不思議解脱」として自身の論書『摩訶止観』の中で詳しく説き明かしております。2024/09/24 03:21:297.法介◆T3azX0Hk1U0HpBm『摩訶止観』第七章「正修止観章」よりそれ一心に十法を具し、一法界にまた十法界を具す、百法界なり。一界に三十種の世間を具し、百法界に即ち三千種の世間を具す。この三千は一念の心に在り。若し心無くんば而巳なん。介爾も心あらば即ち三千を具す。また一心前に在り、一切の法後に在りと言はず。例せば、八相、物を遷(うつ)するがごとし。物、相の前に在らば、物遷されず。相、物の前に在らばまた遷(移さ)されず、前もまた不可なり。後もまた不可なり。ただ物に相の遷るを論じ、ただ相の遷るを物に論ずるなり。今の心もまたかくのごとし。もし一心より一切の法を生せば、これ即ち縦なり。もし心、一時に一切の法を含まば、これ即ち横なり。縦もまた可ならず、横にまた可ならず、ただ心はこれ一切の法、一切の法はこれ心なるなり。ゆえに縦に非ず、横に非ず。一に非ず、異に非ず。玄妙深絶にして識の識るところに非ず。言の言ふところに非ず。ゆえに称して不可思議境と為す。2024/09/24 03:23:438.法介◆T3azX0Hk1U0HpBm「一念三千の法門」と言いますと、十界×十界×十如是×三世間=三千世界という表記を普通はしますが、ここでは、「一界に三十種の世界を具し、百法界に即ち三千種の世間を具す」といった言い方を智顗はされております。2024/09/24 03:33:219.法介◆T3azX0Hk1U0HpBmその意味するところは、こちらの図をご覧いただくとお解かり頂けるかと思います。https://hokekyou.up-jp.com/wp-content/uploads/2021/06/image023.jpg2024/09/24 03:37:3710.法介◆T3azX0Hk1U0HpBmこの図の右側の<通相三観>の、一仮一切仮・一空一切空・一中一切中の各々がここで言う「一界」にあたります。2024/09/24 03:41:1411.法介◆T3azX0Hk1U0HpBmこの一仮一切仮・一空一切空・一中一切中が何かと言いますと、これが凡夫の身に顕れる応身・報身・法身の三身如来の姿です。2024/09/24 03:44:0712.法介◆T3azX0Hk1U0HpBm「一念三千の法門」は、天台の智顗が解き明かした仏教における究極の法理で、これは仏の覚りの智恵を『法華経』からひも解いた法理となります。2024/09/24 03:48:1213.法介◆T3azX0Hk1U0HpBm『法華経』は、数ある経典の中でも最高峰に君臨する極めて高度な教えが説かれた経典です。2024/09/24 03:50:4714.法介◆T3azX0Hk1U0HpBmその教えがあまりにも高度な為難信難解な経典とも言われております。2024/09/24 03:53:0915.法介◆T3azX0Hk1U0HpBm難信難解と言いますのは、「信じ難く解し難し」と読むのですがとてもじゃありませんが我々凡夫が読んで簡単に理解出来る内容ではありません。2024/09/24 03:55:0116.法介◆T3azX0Hk1U0HpBmどうしてそんなに難しいのかと言いますと、この経典が〝随自意〟で説かれたものだからです。2024/09/24 03:57:5817.法介◆T3azX0Hk1U0HpBm仏さまは通常、相手の能力や状況に応じて教えを説く対機説法を用いますが、仏の境涯のレベルで自らの意のままに法を説くのがこの〝随自意〟です。2024/09/24 04:03:4718.法介◆T3azX0Hk1U0HpBm人間の認識を超えた仏の認識で説かれた『法華経』です。2024/09/24 04:05:3519.法介◆T3azX0Hk1U0HpBmそこでの世界観は人間の常識を超えた内容となっておりますので我々凡夫には信じがたく理解しがたい経典なのです。2024/09/24 04:07:1920.法介◆T3azX0Hk1U0HpBm凡夫が読んでも意味が分からない経典じゃ役に立たないじゃないですか!と言いたくなりますよね。2024/09/24 04:09:3021.法介◆T3azX0Hk1U0HpBmですからこの『法華経』を読むにあたっては、凡夫が「三種の智恵」をまずは習得しないとその内容を正しく理解するには至りません。2024/09/24 04:11:4822.法介◆T3azX0Hk1U0HpBm「三種の智恵」とは、『法華経』以前に説かれた声聞の智慧・縁覚の智慧・菩薩の智慧の「三乗の智慧」です。2024/09/24 04:15:0223.法介◆T3azX0Hk1U0HpBmこの三乗の智慧によって開かれる法門が一乗の「仏の智慧」でこれを『法華経』の開三顕一の法門と言います。2024/09/24 04:18:4524.法介◆T3azX0Hk1U0HpBm「開三顕一」とは、「三乗を開いて一乗を顕す」と読み、方便品から始まる法華経迹門の中心的な説法の内容を要約した言葉です。2024/09/24 04:19:5325.法介◆T3azX0Hk1U0HpBm>>9 ←ここで紹介しましたこちらの図の、https://hokekyou.up-jp.com/wp-content/uploads/2021/06/image023.jpg左側<別相三観>がこの〝三乗の智慧〟にあたります。2024/09/24 04:23:5926.法介◆T3azX0Hk1U0HpBm図の「凡夫の空・仮・中」が声聞の智恵、「仏の空・仮・中」が縁覚の智恵、「覚りの空・仮・中」が菩薩の智恵となります。2024/09/24 04:26:2927.法介◆T3azX0Hk1U0HpBm「空・仮・中」と言いますのは、世界を形成する要素で凡夫の世界を形成する「空・仮・中」は、主観(空)と客観(仮)と実体(中)となります。--- ①2024/09/24 04:32:2728.法介◆T3azX0Hk1U0HpBm① の内容を少し詳しくお話します。2024/09/24 04:33:1029.法介◆T3azX0Hk1U0HpBm「凡夫の空・仮・中」と言うのは、お釈迦さまが〝人間の認識〟で説かれた真理の内容で、モノが存在する状態と存在しない状態とで世界を見ます。我々人間が姿・形あるモノを認識しますと、それは客観的に実在する対象となります。2024/09/24 04:39:0230.法介◆T3azX0Hk1U0HpBmこの〝実在〟をインド哲学では「有」と表現します。2024/09/24 04:40:2831.法介◆T3azX0Hk1U0HpBm対象を「有る」と見る訳です。それに対し人の心は、姿・形は無いが確かに存在します。それをインド哲学では「無」と表現します。2024/09/24 04:44:0132.法介◆T3azX0Hk1U0HpBm客観=有主観=無2024/09/24 04:44:3233.法介◆T3azX0Hk1U0HpBm我々人間(凡夫)はこの主観と客観とで対象を捉えそれが何なのかを把握しそれを言語で言い表し概念化していきます。2024/09/24 04:46:5634.法介◆T3azX0Hk1U0HpBmあなたの周りを見渡してみて下さい。パソコンにテーブル、部屋のカーテンに窓ベッドにソファーそういった言葉によって概念化された対象であなたの世界は形成されていますよね。2024/09/24 04:50:0435.法介◆T3azX0Hk1U0HpBmあなたが今見ている世界はあなたの主観と客観とで立ち上がっているあなた目線のあなたを中心として成り立っているあなただけのオンリーワンの世界観です。2024/09/24 04:52:1536.法介◆T3azX0Hk1U0HpBm仮にわたしが隣に座っていたとしてもわたし目線の世界とあなた目線の世界とでは、視点が異なっておりますので見えている世界は全く同じとはなりませんよね。2024/09/24 04:54:3837.法介◆T3azX0Hk1U0HpBmですからそれはあなただけの世界です。あなたの主観と客観とで認識しているあなたの世界観です。2024/09/24 04:56:0238.法介◆T3azX0Hk1U0HpBm<凡夫の世界観> 客観=有 主観=無 実体=凡夫の世界(有+無)2024/09/24 04:59:2839.法介◆T3azX0Hk1U0HpBmこの凡夫の世界は、人間の主観と客観という二つの認識から形成されます・2024/09/24 07:47:2940.法介◆T3azX0Hk1U0HpBm有と無の「有る無し」の二元論です。2024/09/24 07:48:2341.法介◆T3azX0Hk1U0HpBm初期仏教では、この人間の認識に応じて法が説かれております。それがアビダルマ『倶舎論』です。2024/09/24 07:50:3242.法介◆T3azX0Hk1U0HpBmアビダルマとは部派仏教の三蔵(経蔵・律蔵・論蔵)の中の論蔵、即ち論書にあたります。2024/09/24 07:53:1643.法介◆T3azX0Hk1U0HpBm仏教は、一般に、初期仏教・部派仏教・大乗仏教とに分類されます。2024/09/24 07:57:2644.法介◆T3azX0Hk1U0HpBm初期仏教は、釈迦が生きていた時代を含む部派分裂以前の初期の形態をいいます。2024/09/24 07:58:2945.法介◆T3azX0Hk1U0HpBmお釈迦さまが入滅し、100年ほど経つと「戒律」の解釈から意見が対立し初期仏教教団は上座部と大衆部とに分裂して部派仏教時代へ入ります。2024/09/24 07:59:4846.法介◆T3azX0Hk1U0HpBmその部派仏教の中で最も大きな勢力を保っていた上座部系の説一切有部という部派がありました。パーリ語の三蔵を伝えていることからパーリ仏教ともいわれます。2024/09/24 08:03:4947.法介◆T3azX0Hk1U0HpBmこの上座部の説一切有部が用いたアビダルマ(論蔵)が『倶舎論』です。2024/09/24 08:05:2548.法介◆T3azX0Hk1U0HpBm三蔵教は、生死と因果のみを明かし諸法を構成要素に分析して空とする析空観(しゃっくうかん)を観法とします。2024/09/24 08:08:3249.法介◆T3azX0Hk1U0HpBmこの析空観と言いますのは、対象を主観と客観で捉えるのではなく「法」で捉える観法になります。2024/09/24 08:12:2450.法介◆T3azX0Hk1U0HpBmどういった「法」かと言いますと因果と縁起といった法です。「因果の法理」と「縁起の法門」といった法理・法門です。2024/09/24 08:14:3551.法介◆T3azX0Hk1U0HpBm例えば、目の前にテーブルがあったとします。それを〝テーブル〟として認識するのが人間の主観と客観です。2024/09/24 08:16:4352.法介◆T3azX0Hk1U0HpBm客観でその姿・形を認識し ---(客観認識)それを主観で展開し ---(主観認識)それが何なのかを判断します。---(概念による判断)2024/09/24 08:18:4953.法介◆T3azX0Hk1U0HpBmこの人間の認識工程を仏教では、客観でその姿・形を認識し ---(因)それを主観で展開し ---(縁)それが何なのかを判断します。---(果)で見ます。2024/09/24 08:20:5054.法介◆T3azX0Hk1U0HpBm因が縁によって果(結果)を生み出すという因果律にもとづいたものの見方です。2024/09/24 08:23:2155.法介◆T3azX0Hk1U0HpBmこれは現代の科学や物理学と同じものの見方で蔵教(三蔵教)が説かれた初期仏教では、科学や物理学と同じ次元で仏教の教えが説かれております。2024/09/24 08:26:3956.法介◆T3azX0Hk1U0HpBmそれがどういう次元かと言いますと、状態を「有る」と見るか「無い」とみるがの「有る無し」の二元論です。2024/09/24 08:28:0557.法介◆T3azX0Hk1U0HpBm仏教を実体が「有る」とか「無い」とか自我が「有る」とか「無い」とかで語ってる人を見かけましたらそこで語られている仏教はこの初期仏教で展開された科学や物理学と同じ二元論で真理を説く人間の認識で語る仏法です。2024/09/24 08:34:4258.法介◆T3azX0Hk1U0HpBm>>49 で紹介しました「析空観」について少しお話します。2024/09/24 08:40:4959.法介◆T3azX0Hk1U0HpBm>>51 >>52 >>53例えば、目の前にテーブルがあったとします。それを〝テーブル〟として認識するのが人間の主観と客観です。客観でその姿・形を認識し ---(客観認識)それを主観で展開し ---(主観認識)それが何なのかを判断します。---(概念による判断)この人間の認識工程を仏教では、客観でその姿・形を認識し ---(因)それを主観で展開し ---(縁)それが何なのかを判断します。---(果)で見ます。2024/09/24 08:45:1160.法介◆T3azX0Hk1U0HpBmテーブルをこの因と縁と果とで見ると次のようになります。テーブルは、天板と四本の脚とが組み合わさって出来たモノ。2024/09/24 08:48:0161.法介◆T3azX0Hk1U0HpBmそのモノを構成要素に細分化して見る訳ですね。この場合、天板と脚が〝因〟にあたります。その天板と脚が〝縁〟によって組み合わされその結果、テーブルという〝果〟が出来ます。2024/09/24 08:51:4962.法介◆T3azX0Hk1U0HpBm科学もこれと全く同じ見方をします。水素と酸素が ---(因)化学反応を起こして ---(縁)水になります。 ---(果)2024/09/24 08:53:2063.法介◆T3azX0Hk1U0HpBmこのように初期仏教では、科学や物理学と全く同じ真理が解き明かされております。2024/09/24 08:54:3264.法介◆T3azX0Hk1U0HpBm科学的真理が説かれている今の時代に初期仏教で説かれた『倶舎論』を学ぶ必要性はあまりないかと私は思います。2024/09/24 08:58:4865.法介◆T3azX0Hk1U0HpBm『倶舎論』で説かれている真理は、既に科学や物理の真理として私たちは学校で習ってきておりますので、既にそれらの知識は身についております。2024/09/24 08:59:0466.法介◆T3azX0Hk1U0HpBm『倶舎論』を学ぶ必要性があるとしたら、難しい仏教用語が習得出来るという事ぐらいではないでしょうか。2024/09/24 09:02:1067.法介◆T3azX0Hk1U0HpBmしかし、そういった用語も今日ではネットで簡単に調べる事が出来ますので、果たして今さら『倶舎論』を学ぶ必要性が、どの程度あるのかわたしには分かりません。2024/09/24 09:02:5168.法介◆T3azX0Hk1U0HpBmこれはあくまでわたしの考えです。そうではなく、いやいや『倶舎論』は大事でしょう!とお考えの方は、それはそれで宜しいのではないでしょうか。2024/09/24 09:05:3369.法介◆T3azX0Hk1U0HpBm『倶舎論』は、仏道に入っても未だ尚、実体思想でしか仏教を理解出来ないでいた声聞という境涯に対して説かれた教えです。2024/09/24 09:11:0070.法介◆T3azX0Hk1U0HpBmその実体思想(有る無しの二元論)で説かれた『倶舎論』に嵌り過ぎると、逆に有る無しの二元論から離れられなくなってしまう危険性があるかとわたしは懸念します。2024/09/24 09:11:2371.法介◆T3azX0Hk1U0HpBmそんな事よりももっと大事な事があります。(そんな事=『倶舎論』)2024/09/24 09:14:3172.法介◆T3azX0Hk1U0HpBm仏教を「有る無し」ではなく、「因果と縁起」で語っている仏教家が果たしてどれだけ居られますか?という事です。2024/09/24 09:17:3073.法介◆T3azX0Hk1U0HpBmその事を強く主張されたのが大乗仏教を起こした通教の菩薩、龍樹菩薩です。2024/09/24 09:19:1474.法介◆T3azX0Hk1U0HpBm先に紹介しました三蔵教の教えを「蔵教」と言いまして、その蔵教よりも更にランクアップした教えが「通教」という教えになります。2024/09/24 09:21:4375.神も仏も名無しさんvCnZiリアルタイムでない闇深い曲にハマった😫https://m.youtube.com/watch?v=NToQmkFxr40&pp=ygUc5qSO5ZCN5p6X5qqOIOOCruODo-ODs-ODluODqw%3D%3D2024/09/24 11:02:2476.神も仏も名無しさんvCnZiうーむ闇深い曲だ〜まー闇深い世界にいた知り合いは三人はいたこの世の闇の近くのー😫2024/09/24 11:03:4377.法介◆T3azX0Hk1U0HpBm通教では龍樹が『般若経典』で説かれている「空」を読み解き、自身の論書『中論』で空の四つのステージを解き明かします。2024/09/24 14:47:1278.法介◆T3azX0Hk1U0HpBm析空、体空、法空、非空の四種からなる「空」です。2024/09/24 14:48:0479.法介◆T3azX0Hk1U0HpBm『大智度論』の中で龍樹は、この四種の空の意味するところを、〝四悉檀〟として示しております。2024/09/24 14:50:2280.法介◆T3azX0Hk1U0HpBm空の四段階の理解の相違により、経典の教法が次のように分かれると。2024/09/24 14:53:5681.法介◆T3azX0Hk1U0HpBm① 世界悉檀(せかいしつだん)世間一般と同じレベルで説かれる真理。科学や哲学と同じ次元(二元論)で説かれる仏教の教えで、究極的真実ではないものの、この世界において因縁和合の法則によって成り立っているものについてその存在意義を説いたもの。つまりは世間に随順して説いた世俗における真理(俗諦)を表す教説。2024/09/24 15:03:0382.法介◆T3azX0Hk1U0HpBm② 為人悉檀(いにんしつだん)各各為人悉檀ともいい、教化の対象である衆生の境涯に応じて説かれた教説で、同一の事柄についての教えであっても、聞く者の境涯によってはその説法内容は正反対のものとさえなりうるというもの。2024/09/24 15:04:3383.法介◆T3azX0Hk1U0HpBm③ 対治悉檀(たいじしつだん)貪り・瞋り・癡かさなどの煩悩を根源的に対治するために説かれる教説で、その内容は特定の病の対治には真実たり得ても、別な病いには適さずにかえって毒にさえなりうる事もある。2024/09/24 15:10:3784.法介◆T3azX0Hk1U0HpBm④ 第一義悉檀(だいいちぎしつだん)仏が覚った真理をダイレクトに説く教説。他の三種の悉檀におけるような相対的真実を説いたものではなく、仏が証得した人間のあらゆる〝概念〟から抜け出た究極的な真理が説かれる。2024/09/24 15:14:5385.法介◆T3azX0Hk1U0HpBmそして四つの空のうち、析空、体空、法空の三種の空が『般若心経』の中で次のように示されております。2024/09/24 15:19:5586.法介◆T3azX0Hk1U0HpBm「舎利子 是諸法空相」舎利子、この諸法の空相は、2024/09/24 15:21:1387.法介◆T3azX0Hk1U0HpBm「不生不滅 不垢不浄 不増不減」生じることも滅することもなく、汚いことも綺麗なこともなく、増えることも減ることもない。2024/09/24 15:21:5188.法介◆T3azX0Hk1U0HpBm生じることも滅することもなく、汚いことも綺麗なこともなく、増えることも減ることもない。これをもって空とは、「無」なんだと勘違いしている人達が沢山おられます。2024/09/24 15:24:0789.法介◆T3azX0Hk1U0HpBmしかし、この「不生不滅 不垢不浄 不増不減」の三つの不不からなる文句の意味するところは、そんな単純な話ではないんです。2024/09/24 15:25:3190.法介◆T3azX0Hk1U0HpBmまず最初の「不生不滅」、すなわち生じることも滅することもないというのは、「此縁性縁起」を意味しております。2024/09/24 15:27:0991.法介◆T3azX0Hk1U0HpBm「生じることも滅することもない」、だから仏とは永遠不滅なんだと勘違いされている仏教関係者がどれ程おられることか、、、、2024/09/24 15:28:4292.法介◆T3azX0Hk1U0HpBm析空のところでテーブルの話をしましたが、「テーブルの脚を外したら天板と棒になってテーブルは消滅します」とか、「車をパーツに分解したら車の姿は消えて無くなります」などと言って、だから「空」なんですとか言ってる話、聞かれた事ありませんか。2024/09/24 15:33:1193.法介◆T3azX0Hk1U0HpBm様々な構成要素が因縁仮和合し仮の姿として存在している(仮設)と説く縁起の法門です。2024/09/24 15:34:2194.法介◆T3azX0Hk1U0HpBmそれを科学的学術論証で言うならば、水は科学分解して水素と酸素になったらその液体としての姿を消し、気体として目には見えない存在として空気中に漂う。しかし再び結合すれば水となり氷点下まで冷やしたら今度は氷と成って個体化する。「この物質のあり様を〝空〟と言う」などと言ってる方もおられます。2024/09/24 15:35:2295.法介◆T3azX0Hk1U0HpBmしかしこれは「空」の初歩的な理解でして、こういった細かく細分化してそのモノの本質に迫る見方を「析空」といいます。時間の流れの中でモノの状態の変化をつぶさに観察する事で証明される物質の時間にともなう変化を捉えた科学や物理でいうところの学術論証です。(実体に即した真理)2024/09/24 15:37:2796.法介◆T3azX0Hk1U0HpBm四悉檀で言うところの世界悉檀になります。2024/09/24 15:38:2197.法介◆T3azX0Hk1U0HpBm仏典では『阿含経典』の中で「此縁性縁起」として詳しく解き明かされております。2024/09/24 15:38:5998.法介◆T3azX0Hk1U0HpBm「此れある時、彼有り」といった表現でモノが縁によってそのあり様が変化していくといった実体における真理を説いた教えです。2024/09/24 15:39:3899.法介◆T3azX0Hk1U0HpBmその此縁性縁起にあっては、モノは構成要素が集まったり分離することでそのあり様を変化させるが、その構成要素が〝減ったり生じたり〟している訳では無く、因縁仮和合しているに過ぎません。2024/09/24 15:40:48100.法介◆T3azX0Hk1U0HpBmもう一度言います。「生じたり滅したり」している訳ではありません。2024/09/24 15:41:03101.法介◆T3azX0Hk1U0HpBmこれが通教におけるワンランクアップした「析空」の理解です。2024/09/24 15:42:32102.法介◆T3azX0Hk1U0HpBmこの理解に立てた時、機根の良い仏道者ならある事を覚ります。2024/09/24 15:44:29103.法介◆T3azX0Hk1U0HpBmそれは、人の生死のあり様です。2024/09/24 15:45:21104.法介◆T3azX0Hk1U0HpBm「生じたり滅したり」する訳では無く、ただ様々な要因要素が複雑に絡み合って仮和合して人間は存在しております。2024/09/24 15:47:04105.法介◆T3azX0Hk1U0HpBmという事は、その仮和合で成り立っている肉体がバラバラに分解しても、人の意識は消えて消滅する訳ではないんだと覚り得ます。2024/09/24 15:49:44106.法介◆T3azX0Hk1U0HpBm以前、Yahoo知恵袋でこんな質問をされた方が居られました。2024/09/24 16:03:32107.法介◆T3azX0Hk1U0HpBm仏教の縁起という考えでは、殺人も縁起で起きていますか? つまり、殺人者個人の責任ではないですか?ちなみに、以下の文章は、ChatGPTの回答です。ChatGPT仏教の縁起という考え方では、殺人という現象が生じる原因や条件は、単一の個人の責任だけで決まるわけではなく、社会的な要素や環境、個人の行動や心理的な状態など、多くの要因が複雑に絡み合って生じているとされます。仏教の縁起という考え方では、殺人事件が起こる原因として、被害者や加害者の過去の経験や状況、社会的な環境、心理的な状態、行動の影響などが挙げられます。また、殺人事件に関わる人々が、その行動に責任を持つことも強調されます。しかし、仏教の縁起という考え方から見ると、個人が犯した行為に対して、その個人だけが責任を持つという考え方は単純化された見方であり、縁起の連鎖の中で生じた現象として、多くの要因が絡み合っていることが指摘されます。したがって、仏教の縁起という考え方では、殺人という現象についても、個人の責任があることは否定されていませんが、それだけにとどまらず、社会的な要素や環境、個人の行動や心理的な状態など、多くの要因が複雑に絡み合っていることを認識する必要があるとされます。2024/09/24 16:03:43108.法介◆T3azX0Hk1U0HpBmそれに対し私は次のように回答しました。2024/09/24 16:04:10109.法介◆T3azX0Hk1U0HpBm殺人犯は社会的に見れば罪を犯した犯罪者であり、当然世間の人々は悪人として認識します。ではその〝犯罪〟の責任は誰にあるのかと仏教的見解に立って考えるなら、決して罪を犯した個人だけが責められるものであってはならないと思います。犯罪は個人の問題ではなく、社会的な要素や環境、個人の行動や心理的な状態など、多くの要因が複雑に絡み合っていることを認識する必要があるとされます。まさにChatGPTが回答してくれている通りだと思います。ChatGPTの回答文に付け加える内容があるとしたら、仏教で説かれる〝無分別〟という概念と〝慈悲〟の心ではないでしょうか。殺人事件は決して他人事ではありません。ChatGPTが申しております通り社会的な要素や環境などが深く関わってきます。その人を取り巻く人達や社会の環境、しいては国家の行政のあり方、その行政を運営する政府を選んでいる国民一人一人にも責任はあります。分別を超えた全体責任です。そう考えた時、罪を犯した殺人犯も実は可哀そうな被害者ではないのでしょうか。そのような可哀そうな人が二度と出ないですむ世界を私たちは必死に築いて行かなければならないと私は思います。2024/09/24 16:04:24110.法介◆T3azX0Hk1U0HpBm我々凡夫は、個別に顕れた因果の〝果〟の結果の姿だけを捉えて物事を判断しがちです。2024/09/24 16:04:55111.法介◆T3azX0Hk1U0HpBm本当はそんなに悪く無い人なのに、経緯も知ろうとせずただ結果として顕れた姿だけを捉えて人を悪人呼ばわりしたり、罵ったり誹謗中傷をする人達が沢山います。2024/09/24 16:05:23112.法介◆T3azX0Hk1U0HpBmかく言う私もその中の一人だったりする時もあります。2024/09/24 16:06:48113.法介◆T3azX0Hk1U0HpBmそういった行為は、いづれ因果応報となって自身が罵られ罵倒される結果を招きます。安易に他人を罵る行為は慎みたいものですね。2024/09/24 16:07:20114.法介◆T3azX0Hk1U0HpBm先ほどの知恵袋では『般若心経』を通して次のように回答なされていた方もおられました。2024/09/24 16:08:00115.法介◆T3azX0Hk1U0HpBm仏教の不殺生戒は別として被害者、加害者と言う言葉を使っている以上質問としては殺人罪として考えるべきでしょう。殺人罪は構成要件に該当し、違法かつ有責な場合に適用されます。故に殺人(殺人罪)は個人の責任となります。周囲の環境を考えるのなら情状酌量がありますね。諸法は皆これ因縁より生ずる。因縁より生ずるが故に自性なし、自性無きが故に去來無し、去來無きが故に所得無し、所得無きが故に畢竟空なり。畢竟空なるが故に、これを般若波羅蜜と名づく。諸法はすべて因縁性つまり縁起によって出来ている。因縁性であるが故に自分という本性がない。故に過去も未来もなく、何かを得たり失ったりすることもない。畢竟するに空というほかはない、この真理を般若波羅蜜(完全なる知慧)と名づける。結論はこの世のすべての現象は、因縁によって成り立つ【今】があるだけでほかは何もないということ。仏教の観点からはChat Gptは完全に勘違い混同された回答となっています。悟りの目から見れば殺される人も無く殺す人も無い。殺す行為も無いと見るのが仏教です。仏教と犯罪心理学との混同が見られますね。ChatGptならびに他の回答には。質問者のあなたなら必ずそれが分かる筈。2024/09/24 16:08:25116.法介◆T3azX0Hk1U0HpBmそれに対し私は次のようなコメントを投稿しました。2024/09/24 16:08:38117.法介◆T3azX0Hk1U0HpBm仏教で説かれる無我を「自分は存在しない」とか「主体がない」と理解し、「自我が無いから無我である」といった小乗仏教における無我の解釈は、縁起においても、「五蘊を滅すれば苦しみは無くなる」といった「有る無し」の二元論での縁起解釈となります。そのような縁起は此縁性縁起といいまして、実体をつぶさに観察することで起きる実体に即した縁起です。科学や物理学における実験や、医学の臨床実験などから得られる真理がこれにあたります。これは「モノの状態の変化」によって起こる縁起で時間経緯によって現れる状態の変化です。小乗仏教は、実体思想が強かった声聞という境涯に対して説かれた教えなので、このような実体に即した真理が説かれました。『般若心経』を用いて説明されておられる方がおられますが、『般若心経』は「実体を空じた世界観」を説いておりますので、本性が有るとか無いといった「有る無し」の二元論で語るのは間違いです。事象となる対象を〝縁起〟で観るのがお釈迦さまが説かれた「中道」というモノの見方です。有ると見る=常見(外道の見解)無いと見る=断見(外道の見解)二元論から離れた見解=縁起(仏の見解)=中道縁起で対象を観るということは、姿かたちにはとらわれず、そのものがそのものとなり得た因と縁を観ていくといことです。ChatGPTの回答文が示す内容がこれにあたります。そのものの〝今の姿〟の中に〝過去〟の因も縁も同時におさまって観えるのが実体を空じた仏の視点での捉え方です。そして、その今の姿の中に、〝未来〟にあるべき正しき姿を見出していくのも仏の視点にたった境涯でのものごとの〝観かた〟となります。『般若心経』の中に出てくる、「生じることも滅することもなく、汚いことも綺麗なこともなく、増えることも減ることもない」という言葉の意味は、「実体が無い」ということではなく、時間という〝概念〟、また言葉という〝概念〟から離れた境地という意味です。(人間の概念から離れたところにある真理=仏の世界観における真理)2024/09/24 16:09:06118.法介◆T3azX0Hk1U0HpBm宜しかったらこちらもご覧ください。http://mh357.web.fc2.com/6-3.html2024/09/24 16:15:35119.法介◆T3azX0Hk1U0HpBmでおーさんへ人が一生懸命文字を起こして大事な事を伝えようとしている所に、横からチャチャを入れ、場を汚すような行為をされて楽しまれておられるようですが、あなたはそれでも仏法者ですか。テンプレにも記載しております通り、あなたはここへの出入りを禁止されている身です。ご理解の程、宜しくお願い申し上げます。2024/09/24 16:26:31120.法介◆T3azX0Hk1U0HpBm「不生不滅 不垢不浄 不増不減」の三つの不不の二つ目の〝不垢不浄〟「汚いことも綺麗なこともない」について説明します。2024/09/24 18:06:51121.法介◆T3azX0Hk1U0HpBm最初の〝不生不滅〟(生じることも滅することもない)が実体に即した真理なのに対し、〝不垢不浄〟は、実体の姿、即ち「色相」から離れて心の変化で起こる「相依性縁起」を意味します。2024/09/24 18:08:44122.法介◆T3azX0Hk1U0HpBm心である「性」を因として起こる縁起です。2024/09/24 18:09:09123.法介◆T3azX0Hk1U0HpBm綺麗だとか汚いって誰が決めるでしょう?それは個人の主観の問題です。2024/09/24 18:09:31124.法介◆T3azX0Hk1U0HpBm大好きな人と過ごす時間はあっという間に過ぎますが、大っ嫌いな上司の説教はとても長がーーーーーく観じます。同じ一時間であっても長く感じたり短く感じたりします。2024/09/24 18:10:02125.法介◆T3azX0Hk1U0HpBmリンゴを「美味しい!」と好んで食べる人も居れば、「こんなのまずくて食えない!」といって食べない人もおられます。2024/09/24 18:10:24126.法介◆T3azX0Hk1U0HpBm坂道を上から見下ろせば「下り坂」ですが、下に居る人達から見たら「上り坂」です。2024/09/24 18:10:47127.法介◆T3azX0Hk1U0HpBm見る人、味わう人、感じる人が変わればその対象のモノの有り方もまた異なってきます。そういった相互関係によって生じる縁起を「相依性縁起」と言います。2024/09/24 18:11:26128.法介◆T3azX0Hk1U0HpBm「空」をモノの状態と思い込んでいる上座部の人達は「主体は有りません!」といい、禅宗の人達は「実体は有りません!」と激しく主張されます。「空」をモノの状態の「有る」とか「無い」といった形容詞として理解されている訳ですが、これは「析空」の特徴の一つでもあります。2024/09/24 18:56:14129.法介◆T3azX0Hk1U0HpBmそういった〝状態〟としてのモノのあり様を捉える客観認識法とは違って、相依性で起こる縁起は、モノのあり様ではなく、それを見ている人物の心のあり様を中心として起こる心の変化、即ち主観として起こる縁起となります。2024/09/24 18:57:16130.法介◆T3azX0Hk1U0HpBmこの「相依性縁起」は体感を空じる「空」なので「体空」といいます。2024/09/24 18:57:47131.法介◆T3azX0Hk1U0HpBm析空=客観を空じる体空=主観を空じる2024/09/24 18:59:24132.法介◆T3azX0Hk1U0HpBm「不生不滅 不垢不浄 不増不減」の二番目の〝不垢不浄〟(汚いことも綺麗なこともなく)は、そういった意味を含んでおります。2024/09/24 19:07:43133.法介◆T3azX0Hk1U0HpBm三っつの不不の最後の「不増不減」(増えることも減ることもない)の意味を次にお話します。2024/09/24 19:10:39134.法介◆T3azX0Hk1U0HpBmモノが増えたり、減ったりするのは、時間による状態の変化を捉えた出来事です。2024/09/24 19:14:01135.法介◆T3azX0Hk1U0HpBm時間って自然界に元から備わっている不変的な現象のように思われますが、実は時間も縁起によって起こる出来事なんです。2024/09/24 19:16:42136.法介◆T3azX0Hk1U0HpBm人間には状態を記憶する能力が備わっております。2024/09/24 19:23:30137.法介◆T3azX0Hk1U0HpBmもし、その記憶する能力が無かったとしたら、今一瞬の目の前の光景だけが世界の全てとなりそこに時間の流れは存在しません。2024/09/24 19:25:51138.法介◆T3azX0Hk1U0HpBm例えば、目の前の自身の息子に向かって、「あなたは誰ですか?」と尋ねる認知症のおばあちゃんが居たとします。2024/09/24 19:31:29139.法介◆T3azX0Hk1U0HpBmそのお婆ちゃんが、テーブルの上にあったリンゴが転がって床に落ちたところを見ても、お婆ちゃんには床に置いてあるリンゴとしてしか認識されません。2024/09/24 19:36:24140.法介◆T3azX0Hk1U0HpBmテーブルの上にあったリンゴの記憶がないのですから。2024/09/24 19:36:39141.法介◆T3azX0Hk1U0HpBmこのお婆ちゃんの世界観にあっては、重力は存在しません。時間の流れも存在しません。2024/09/24 19:37:58142.法介◆T3azX0Hk1U0HpBmわたし達が自然界に備わる自然の摂理と思っている万有引力や時間の流れは、実は人間の脳が造り出している現象に過ぎないんです。2024/09/24 19:42:41143.法介◆T3azX0Hk1U0HpBm変わらずにあり続ける不変的な「法」など存在しません。全ては縁起によって生じております。2024/09/24 21:55:02144.法介◆T3azX0Hk1U0HpBm時間や重力といった法も人間の概念によって起こりうる出来事で、そういった人間の概念から離れた世界においては、「不増不減」(増えることも減ることもない)訳です。2024/09/24 21:58:12145.法介◆T3azX0Hk1U0HpBm人間の認識から完全に離れている仏の世界にあっては、「不生不滅 不垢不浄 不増不減」生じることも滅することもなく汚いことも綺麗なこともなく増えることも減ることもありません。2024/09/24 22:01:17146.法介◆T3azX0Hk1U0HpBm三つ目の「不増不減」は、「法」を空じますので法空と言います。2024/09/24 22:03:33147.法介◆T3azX0Hk1U0HpBm三つ目の不不は、最初の不生不滅が蔵教に通じ最後の不増不減が別教に通じますのでこの『般若心経』を説く教えを「通教」と言います。2024/09/24 22:07:39148.法介◆T3azX0Hk1U0HpBm蔵教が「凡夫の世界観」を説いているのに対し通教では「仏の世界観」が説かれております。2024/09/24 22:10:09149.法介◆T3azX0Hk1U0HpBm<仏の世界観> 仮諦=色即是空 空諦=空即是色 中諦=色即是空 空即是色2024/09/24 22:14:29150.神も仏も名無しさんZnrp0法介さんblogでも書いてるのかな?2024/09/25 22:16:11151.リダン◆gEV3xsS//kGfKI3>>150いまこっちにおるでhttps://talk.jp/boards/psy/17272076452024/09/25 22:17:29152.法介◆T3azX0Hk1Ui3h0i>>150ここをブログ代わりに使っていこうかと2024/09/25 22:18:44153.法介◆T3azX0Hk1Ui3h0iボチボチ書き進めていきます。2024/09/25 22:19:13154.法介◆T3azX0Hk1U6mIWE通教で説かれている仏の世界観 >>149 を「空観」といいます。2024/09/27 03:16:49155.法介◆T3azX0Hk1U6mIWE仏教では、菩薩の実践徳目として「六波羅蜜」が説かれております。その中の般若波羅蜜、即ち「智慧の完成」を説く教えが「般若」という称をもつ一連の教典群になります。2024/09/27 03:27:59156.法介◆T3azX0Hk1U6mIWE初期仏教では、阿含経典を中心に人間の認識(有る無しの二元論)で、実在の真理が詳しく説き明かされております。2024/09/27 03:32:59157.法介◆T3azX0Hk1U6mIWE阿含経典は、「長部」「中部」「相応部」「増支部」「小部」からなるパーリ語仏典で、三蔵教の「経蔵」がこれにあたります。2024/09/27 03:35:02158.法介◆T3azX0Hk1U6mIWE<三蔵教> 経蔵(スートラ) 律蔵(ヴィナヤ) 論蔵(アビダルマ)からなる三蔵教の経蔵(経典)の注釈書および論書がアビダルマ(論蔵)で、中でも有名な論書が世親が顕したアビダルマ『倶舎論』です。2024/09/27 03:39:19159.法介◆T3azX0Hk1U6mIWE『倶舎論』は、先に紹介しました龍樹の〝四悉檀〟で言いますと >>81 の「世界悉檀」の教説で説かれております。(有る無しの二元論)2024/09/27 03:42:39160.法介◆T3azX0Hk1U6mIWE「唯識三年、倶舎八年」と昔は良く言われたもので、『倶舎論』を8年勉強したら『唯識』が3年で理解できるといった意味でそう言われました。2024/09/27 03:46:50161.法介◆T3azX0Hk1U6mIWEしかし、それは昔の話で、『倶舎論』に書かれている内容は、概ね現代の科学や物理学で説き明かされております。2024/09/27 03:48:50162.法介◆T3azX0Hk1U6mIWE仏教を人に教える立場にある人などは勉強する価値はあるかと思いますが、そうでない方が『倶舎論』を学びますと〝二元論〟思想に嵌ってしまい、ただでさえ今の世の人々は現代教育という〝二元論〟思想(外道義)に傾いた脳仕様になっているところに輪をかけて二元論が叩き込まれますので、有る無しの二元論の客観思想(外道義)から抜け出せなくなってしまう危険性が多々あります。2024/09/27 03:55:29163.法介◆T3azX0Hk1U6mIWEここで、〝外道義〟と言う言葉が出てきましたが、仏教思想の敵対思想がこの「外道義」です。2024/09/27 03:58:44164.法介◆T3azX0Hk1U6mIWE人のこころの内側(主観)を説く仏教を内道と言います。それに対し外側である〝客観〟を説く教えを仏教では「外道」と言います。2024/09/27 04:01:18165.法介◆T3azX0Hk1U6mIWE現代教育は概ねこの外道思想で成り立っております。2024/09/27 04:02:47166.法介◆T3azX0Hk1U6mIWE教育というのは万人に共通する教えを説くもので、〝客観性〟にもとづいてその教えは説かれております。2024/09/27 04:04:44167.法介◆T3azX0Hk1U6mIWE客観性とは、誰が見ても納得できる性質や考え方、または主観から独立して存在する様子を意味します。2024/09/27 04:05:54168.法介◆T3azX0Hk1U6mIWE数学や科学、物理学に医学、社会や国語といった学校で習って来た学問はどれもこの客観で展開された教えです。2024/09/27 04:08:26169.法介◆T3azX0Hk1U6mIWEそのような客観の教育を受けて来た現代人の脳は、物事を客観思考で考えがちな脳になってしまってます。2024/09/27 04:10:11170.法介◆T3azX0Hk1U6mIWE客観仕様の脳って感じです。2024/09/27 04:10:39171.法介◆T3azX0Hk1U6mIWE主観から入って空観に向かい、空観から離れて覚りの中観に至るのが仏教です。2024/09/27 04:12:26172.法介◆T3azX0Hk1U6mIWEその仏教にあって最初に捨てられる思想が客観思想になります。2024/09/27 04:13:30173.法介◆T3azX0Hk1U6mIWEその客観思想の構造が、仏教の敵対勢力であった外道の教えと全く同じ「有る無し」の二元論なんです。2024/09/27 04:15:44174.法介◆T3azX0Hk1U6mIWE二元論と言いますのは、モノが「有る状態」と「無い状態」の二つの見方で対象を捉えます。2024/09/27 04:18:27175.法介◆T3azX0Hk1U6mIWEそれを仏教では、あると見る=常見ないと見る=断見としてどちらも外道の見解とします。2024/09/27 04:19:44176.法介◆T3azX0Hk1U6mIWEどちらも客観的なモノの見方なので「外道の見解」なんです。2024/09/27 04:20:34177.法介◆T3azX0Hk1U6mIWE仏教を実体が有るとか無いとか、自我が有るとか無いとかで語っている人が居られましたらその人が語っておられる仏教はほぼ外道義に染まってしまった仏教です。2024/09/27 04:24:19178.法介◆T3azX0Hk1U6mIWE学者さんが解説する仏教が概ねこれにあたります。2024/09/27 04:25:19179.法介◆T3azX0Hk1U6mIWE学者さんが書かれた書籍で仏教を学ばれている方は要注意です。2024/09/27 04:26:04180.法介◆T3azX0Hk1U6mIWE学者と言いましても僧侶の立場で仏教学の世界に入って活動をなされておられるいわゆる学僧と呼ばれる先生方もおられますが、禅宗をかじった程度の学者さんには気を付けましょう。2024/09/27 04:28:24181.法介◆T3azX0Hk1U6mIWE何故かと言いますと、禅宗はこの「有る無し」の二元論で仏教を語る宗派だからです、2024/09/27 04:29:23182.法介◆T3azX0Hk1U6mIWE(仏教学の)学者さんというのは、仏教を客観性をもって学術研究なされている方々なので、そこでの仏教はどうしても客観に偏った仏教に陥りがちです。2024/09/27 04:32:25183.法介◆T3azX0Hk1U6mIWEそういった仏教思想(外道義仏教)が自身の阿頼耶識に薫習されますと、なかなかそこから抜け出せなくなってしまいます。2024/09/27 04:34:43184.法介◆T3azX0Hk1U6mIWEスポーツなんかでも一度おかしな癖が付いてしまうとそれを直すのって大変じゃないですか。それと一緒です。2024/09/27 04:35:37185.法介◆T3azX0Hk1U6mIWEこのアビダルマ『倶舎論』を拠り所としたのが、部派仏教の最大勢力であった「説一切有部」です。大乗仏教がその「説一切有部」を徹底的に叩きまくったのは『倶舎論』=二元論思想(外道の思想)という思想的問題が大きく関わっておりました。2024/09/27 04:42:34186.法介◆T3azX0Hk1U6mIWE大乗は、その「有る無し」の二元論ではなく、因縁果の三次元の「因果と縁起」で仏教を展開しました。2024/09/27 04:44:09187.法介◆T3azX0Hk1U6mIWE「因果と縁起」の因縁果の三次元で語ってこその仏教です。2024/09/27 04:48:45188.法介◆T3azX0Hk1U6mIWE通教では龍樹が説一切有部の二元論を論破して三元論の「因果と縁起」で仏教を展開します。2024/09/27 05:19:45189.法介◆T3azX0Hk1U6mIWEその龍樹が説いた空の思想は、「縁起」です。2024/09/27 05:21:38190.法介◆T3azX0Hk1U6mIWE縁起というのは三元論なんですね。2024/09/27 05:23:08191.法介◆T3azX0Hk1U6mIWE因があって、それが縁に依りて果が生じるといった因縁果の三元論です。2024/09/27 05:24:25192.法介◆T3azX0Hk1U6mIWE仏教の教えは、三蔵教(蔵教)が最初に展開され、次に通教、そして別教、最後に円教といった順に低い教えから次第に高い教えへと教えの内容が難しくなっていきます。2024/09/27 05:27:39193.法介◆T3azX0Hk1U6mIWEこの蔵教・通教・別教・円教といった教えの流れを「四教」と言います。2024/09/27 05:29:12194.法介◆T3azX0Hk1U6mIWE天台の智顗が『四教義』として説いたものです。2024/09/27 05:29:45195.法介◆T3azX0Hk1U6mIWEこの四教は、初期仏教の四諦をひも解いた教説で、苦諦=蔵教集諦=通教滅諦=別教道諦=円教といった感じで四つの真理(諦)が四教の教えとして解き明かされております。2024/09/27 05:33:25196.法介◆T3azX0Hk1U6mIWE蔵教では此縁性縁起 >>90 が「実在の真理」として説かれ、通教では相依性縁起が >>121 が「実体を空じた真理」として説かれます。2024/09/27 05:39:10197.法介◆T3azX0Hk1U6mIWE苦諦=蔵教の真理(此縁性縁起)集諦=通教の真理(相依性縁起)滅諦=別教道諦=円教2024/09/27 05:40:09198.法介◆T3azX0Hk1U6mIWEでは三番目の別教ではどういった真理が説かれているかそれを今から詳しくお話してまいります。2024/09/27 05:41:29199.法介◆T3azX0Hk1U6mIWE縁起には、表層認識で起こる縁起と深層認識で起こる縁起とがあります。2024/09/27 05:51:09200.法介◆T3azX0Hk1U6mIWE別教では『唯識』が〝覚りの理論〟として説かれ、人間の表層認識を第六意識とし、深層認識を第七末那識として二つの意識の存在が解き明かされております。2024/09/27 05:54:21201.法介◆T3azX0Hk1U6mIWEここまで紹介してきた縁起は、人間の客観を起こす「此縁性縁起」と主観を起こす「相依性縁起」の二つです。2024/09/27 05:59:24202.法介◆T3azX0Hk1U6mIWEこの二つの縁起は、表層の第六意識で起こる縁起です。2024/09/27 05:59:59203.法介◆T3azX0Hk1U6mIWEその更に深層化で起こる縁起がこの別教では説き明かされます。2024/09/27 06:01:21204.法介◆T3azX0Hk1U6mIWEそれが『唯識』で説かれる阿頼耶識縁起という縁起です。2024/09/27 06:02:27205.法介◆T3azX0Hk1U6mIWE唯識では、人間の主観と客観が、主観=見分客観=相分という言葉で説かれております。2024/09/27 09:38:24206.法介◆T3azX0Hk1U6mIWE① 客体(見られる側)=真実のモノのあり様② 主体(見る側) =人の認識(主観 [A]と客観 [B])2024/09/27 09:44:05207.法介◆T3azX0Hk1U6mIWE② の人の認識における、主観 [A]と客観 [B]の [A] が見分で [B] が相分になります。2024/09/27 09:46:08208.法介◆T3azX0Hk1U6mIWEそして ① の「客体」のことを〝所取〟とと言い、② の「主体」のことを〝能取〟という言葉で唯識は説かれます。2024/09/27 09:53:14209.法介◆T3azX0Hk1U6mIWE① 客体(所取)=真実のモノのあり様② 主体(能取) =人の認識(主観 [見分]と客観 [相分])2024/09/27 09:54:28210.神も仏も名無しさんXUall>>181証拠の仏典を提示してください2024/09/27 10:08:53211.法介◆T3azX0Hk1U6mIWE>>210仏典を提示するまでもなく、今日の禅宗の実態をご確認いただいた方が早いかと。https://www.youtube.com/watch?v=nNEUgdj_cuc「1:11:38」あたりを再生されてみて下さい。空を何にもない無であると講師の仏教学の先生が講義されておられます。そもそも僧侶が、学者さんから仏教を教わっていること自体あり得ない話なのですが、、、2024/09/27 10:15:55212.法介◆T3azX0Hk1U6mIWE更にご意見があるようでしたらこちら↓でお受け致します。法華の花道 乱舞一https://talk.jp/boards/psy/1727207645宜しければコテハンで清く正しく議論を交わしましょう。2024/09/27 10:18:52213.神も仏も名無しさんXUall>>211なるほど、ほーすけさんだけは特別なのかりょーかいw2024/09/27 11:03:18214.法介◆T3azX0Hk1U6mIWEなんだ、サティーだったか、、、2024/09/27 12:37:02215.神も仏も名無しさんXUallふははは😂2024/09/27 13:28:54216.神も仏も名無しさんEe2oJいやいや石破ショックで海外と先物の日経平均株価が爆下がり‼️為替も急降下‼️2024/09/27 20:18:46217.神も仏も名無しさんtuHQr>>213ほーかいくんの脳内のチョイスが基準ですなー😀2024/09/27 21:40:29218.法介◆T3azX0Hk1UnSccoはぁ~話が途切れてしまった、、、、2024/09/28 05:54:59219.法介◆T3azX0Hk1UnScco① 客体(所取)=真実のモノのあり様② 主体(能取)=人の認識(主観 =見分・客観 =相分)2024/09/28 05:56:14220.法介◆T3azX0Hk1UnScco唯識では >>219 のような構図になります。2024/09/28 05:56:53221.法介◆T3azX0Hk1UnScco① の客体(所取)である「モノのあり様」を説いているのが『倶舎論』になります。2024/09/28 05:58:47222.法介◆T3azX0Hk1UnSccoこれは客観論法です(有る無しの二元論)。2024/09/28 05:59:21223.法介◆T3azX0Hk1UnScco② の主体(能取)であるところの「人の認識」を説いているのが『唯識』です。2024/09/28 06:00:17224.法介◆T3azX0Hk1UnSccoこちらは主観による認識法(三元論法)です。2024/09/28 06:02:21225.法介◆T3azX0Hk1UnScco『倶舎論』=二元論法 ---(有る無し)『唯識論』=三元論法 ---(因縁果)2024/09/28 06:03:54226.法介◆T3azX0Hk1UnScco二元論法で唯識を理解しますとこちらのような有る無しで語る無相唯識となります。https://youtu.be/0yks1BTPJBM2024/09/28 06:06:24227.法介◆T3azX0Hk1UnSccoなぜこのような「有る無し」で語る唯識が広まったかと言いますとこちらがその根源です。https://youtu.be/Ze10wMOZdwQ2024/09/28 06:08:34228.法介◆T3azX0Hk1UnScco横山紘一と言えば日本の唯識学の第一人者です。2024/09/28 06:09:18229.法介◆T3azX0Hk1UnSccoでは、なぜその横山紘一先生が唯識を「有る無し」の二元論で紹介してしまったのか2024/09/28 06:10:39230.法介◆T3azX0Hk1UnSccoそれは横山先生が師事されたのが禅宗の師匠だったからです。2024/09/28 06:12:25231.法介◆T3azX0Hk1UnScco禅宗と言えば先に紹介しましたように「有る無し」で仏教を語る仏教宗派としては「空」が何たるかも正しく理解出来ていない初歩の宗派だからです。こちらのスレの 611 から 617 までをご覧いただくとご理解いただけるかと思います。法華の花道 乱舞一https://talk.jp/boards/psy/17272076452024/09/28 06:17:08232.法介◆T3azX0Hk1UnScco「有る無し」の二元論で仏法を広めちゃったのは横山先生だけだはありません。あの昭和の仏教学会の権威と称された中村 元 先生もそれは同じです。2024/09/28 06:23:57233.法介◆T3azX0Hk1UnScco中村先生は、初期仏教で説かれた無我説で「空」を理解されておられたようです。2024/09/28 06:26:35234.法介◆T3azX0Hk1UnScco有る無しで理解する「空」です。2024/09/28 06:26:55235.法介◆T3azX0Hk1UnScco無我と言いますと「自分と言う者は実は存在しない」とか「主体が無い」「自我は無い」などと言った事だと思っている方が沢山おられます。実はこれ中村先生が弘められた二元論仏教なんです。2024/09/28 06:28:19236.法介◆T3azX0Hk1UnScco「自分が自分だと思っている自分って実は存在しないんですよ!」と言われてあなたは納得出来ますか?2024/09/28 06:28:52237.法介◆T3azX0Hk1UnScco思いっきり頬をつねってみて下さい。痛いですよね。2024/09/28 06:29:07238.法介◆T3azX0Hk1UnScco痛みを感じている自分がそこに居ますよね。自分は間違いなく存在しているんです。2024/09/28 06:29:42239.法介◆T3azX0Hk1UnSccoお釈迦さまが言われている「無我」は、「自分という存在を認めない」事ではなく、「〝自我〟をもって自分と思ってはいけませんよ」という事なんです。2024/09/28 06:30:22240.法介◆T3azX0Hk1UnSccoその事をお釈迦さまは次のような言葉でもって説明なされております。 自我に拠って自己を見ず、 精神を統一し、姿勢正しく、自ら安立し、 動揺することなく、心は静かで、疑惑もない。 こういう境涯に至った人こそ、供養を受けるにふさわしい。 『スッタニパータ』4772024/09/28 06:30:49241.法介◆T3azX0Hk1UnSccoこの件に関して、奈良 康明文学博士のおもしろい論文を見つけましたので紹介します。https://zenken.agu.ac.jp/research/48/15.pdf2024/09/28 06:31:12242.法介◆T3azX0Hk1UnScco博士は、日本の仏教学者・曹洞宗の僧侶であり東京大学から文学博士を授与されており、役職として駒澤大学学長、総長を経て、同大学の名誉教授となっておりまして、僧侶としても法清寺の住職を経て東堂となり、また、永平寺の西堂を務めたりされた方です。2024/09/28 06:31:32243.法介◆T3azX0Hk1UnScco※ ちなみに中村先生は、横山先生と同様〝禅宗〟に師事されておられました。2024/09/28 06:33:45244.法介◆T3azX0Hk1UnScco論文の中で博士は、「主体が無い」とか、「自分は存在していない」と考えることがお釈迦さまが説かれた〝無我〟であると主張する一部の上座部の無我解釈が、今では古い考えであるという事を私たちは学ばなければ、正しい仏教観には立てないということを主張されておられます。2024/09/28 06:34:00245.法介◆T3azX0Hk1UnScco先ほどのお釈迦さまの言葉ですが、直訳すると「自己によって自己を見ず」となりましてそれをもって中村先生などは、仏の見識に立てば「自己は存在しない」と考えられた訳です。2024/09/28 06:34:45246.法介◆T3azX0Hk1UnSccoこれは「自己と自我」を同等にみる考えです。2024/09/28 06:35:14247.法介◆T3azX0Hk1UnScco奈良 康明 博士は、ここはとても大事なところなので何人かの研究者の訳を引き合いに出され紹介なされておられます。2024/09/28 06:35:52248.法介◆T3azX0Hk1UnScco中村 元:自己によって自己を観じて(中村1993・538頁)渡辺照宏:自己には自我なしと洞察し(渡邊1982・145頁)宮坂宥勝:自分に自我を見ることなく(宮坂2002・123頁)榎本文雄:自我にとらわれて自己を見ることなく(榎本1986・191頁)村上真完・及川真介:自ら自我を見ず(村上・及川2009・(三)128頁)2024/09/28 06:36:09249.法介◆T3azX0Hk1UnScco中村先生だけが「自己によって自己を」と原文通りに二つの自己を並べていますが、他の先生方は自我と自己とに分けて訳しておられます。そうしないと意味が正しく伝わらないからです。2024/09/28 06:36:45250.法介◆T3azX0Hk1UnScco他の先生方の表現は、「真の自己は〝自我〟によって把握されるべきものではない」といったことを意味しております。2024/09/28 06:37:20251.法介◆T3azX0Hk1UnScco「自分の事は自分が一番分かっている」などと人は良く言いますが、あなたは自分という存在をどれ程正しく理解されてますか?というのが「無我」のお話です。2024/09/28 06:38:48252.法介◆T3azX0Hk1UnScco「自分はなんて不幸な人間なんだろうか」とか、「自分だけどうしてこんなに辛い思いをしなくてはいけないのだろう」とか、「自分はどうしてこんな病気になってしまったんだろう」とか、2024/09/28 06:39:57253.法介◆T3azX0Hk1UnScco人間ってよくよく考えてみますと、果たしてどれだけの人が「自分という存在」に、納得して生きているものでしょう。2024/09/28 06:40:16254.法介◆T3azX0Hk1UnScco実は人間って自分が思っている程、自分の事をあまり良く知り得ていないものなんです。2024/09/28 06:40:34255.法介◆T3azX0Hk1UnSccoここで言う「自分が思っている自分」というのが「自我」です。そして今そこに存在(実在)しているあなた自身が「自分」です。2024/09/28 06:41:15256.法介◆T3azX0Hk1UnScco「自我」によってあなたは「自分」を自分だと思い込んでいませんか?初期仏教ではこの「自分と自我」の関係について詳しく説き明かされております。2024/09/28 06:41:43257.法介◆T3azX0Hk1UnScco人は「自我」によって自分の事を自分だと思い込んでおりますが、「それは違いますよ!」その自我はあなたが勝手に思い込んでいる自分であって本当のあなたではありません。「そのあなたの勝手な思い込みによる〝自我〟をまずは取り消しましょう!」というのが仏教でいう「無我」のお話です。2024/09/28 06:43:21258.法介◆T3azX0Hk1UnScco『倶舎論』の延長戦で『唯識』を学ぶと二元論で唯識を理解してしまい、無相唯識(世界も自分も存在しない説)に陥る危険性が多々あります。2024/09/28 06:49:42259.法介◆T3azX0Hk1UnScco仏教ではその為に、両者の間に「空」を説く通教が説かれております2024/09/28 06:50:42260.法介◆T3azX0Hk1UnScco通教では蔵教の有る無しの「空」をより専門的に析空・体空・法空・非空として説かれております。2024/09/28 06:53:01261.法介◆T3azX0Hk1UnScco析空・体空は、析空=人の認識における客観を空じる体空=人の認識における主観を空じるといった内容で、この二空で人の認識から離れます。2024/09/28 06:55:30262.法介◆T3azX0Hk1UnSccoそして法空で人の概念を完全に空じる事で、末那識の自我が完全に止滅して識が智慧(菩薩の智慧)に変わり後得智を得るに至ります。2024/09/28 06:57:57263.法介◆T3azX0Hk1UnSccoその菩薩の智慧を得る為の行法は、菩薩に対して説かれた『首楞厳三昧経』で詳しく説かれております。2024/09/28 07:00:31264.法介◆T3azX0Hk1UnScco中国初期禅観思想における首樗厳三昧について 塩入 法道https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/38/2/38_2_677/_pdf/-char/ja2024/09/28 07:07:37265.法介◆T3azX0Hk1UnScco中国初期禅観思想とあります通り、中国に伝わった仏典に準じた正しい禅観(坐禅)は、仏を対境とした三昧法なんです。2024/09/28 07:09:47266.法介◆T3azX0Hk1UnScco>>264 より引用首楊厳三昧は勇伏三昧、健相三昧などとも訳され、古来多くの三昧の中でも特に重視されていた三昧である。この三昧はその名を冠した『首榜厳三昧経』に詳説されているが、『大智度論』等にも重要な三昧として度々言及されている。また『首樗厳三昧経』の思想は『般若経』『十地経』『維摩経』と密接な関係にあり、『法華経』『浬薬経』にも影響を与(1)えている。首樗厳三昧の特徴は般若空観を思想的背景にもちながら、理念としての空観にとどまらずこれを積極的に実践に適応させているところにある。2024/09/28 07:10:44267.法介◆T3azX0Hk1UnScco唯識が展開された別教は、境涯で言えば菩薩にあたります。蔵教=声聞通教=縁覚別教=菩薩2024/09/28 07:40:46268.法介◆T3azX0Hk1UnSccoここでの修行の行法は、『浄土論』に「五念門の行」として世親が示しております。2024/09/28 07:48:43269.法介◆T3azX0Hk1UnScco法介の仏教談義7https://talk.jp/boards/psy/1725150226五念門の行>>5492024/09/28 07:50:32270.法介◆T3azX0Hk1UnScco一、「礼拝門」‐身業(体による行い)で礼拝をする。二、「讃嘆門」‐口業(口で言うこと)で讃嘆をする。三、「作願門」‐意業(心に思うこと)で常に願う。四、「観察門」‐智慧の眼によって観察する。五、「回向門」‐回向を本として「功徳を与えよう」と願う。2024/09/28 07:51:27271.法介◆T3azX0Hk1UnScco>>270 ←この「五念門の行」を行じて得られる後得智です。瞑想や坐禅ではこの後得智は得られません。2024/09/28 07:53:51272.法介◆T3azX0Hk1UnSccoなぜなら「五念門の行」は、全て仏を対境として行う行法だからです。2024/09/28 07:54:55273.法介◆T3azX0Hk1UnScco向き合うのは吾の心ではなく仏のこころです。2024/09/28 07:55:52274.法介◆T3azX0Hk1UnScco別教で向き合うのは「仏」なんです。〝仏〟って何だと思います?2024/09/28 07:57:08275.法介◆T3azX0Hk1UnScco概念でしょう。2024/09/28 07:57:26276.法介◆T3azX0Hk1UnScco人間が言葉で定義付けした概念です。2024/09/28 07:57:58277.法介◆T3azX0Hk1UnScco〝客観〟なんですね。2024/09/28 07:58:25278.法介◆T3azX0Hk1UnScco〝自身の外〟にある仏を対境として行う三昧が通教の止観です。2024/09/28 07:59:59279.法介◆T3azX0Hk1UnScco間違いました通教ではなく別教の止観です。2024/09/28 08:01:31280.法介◆T3azX0Hk1UnScco別教では「仏」が阿弥陀佛として説かれております。阿弥陀佛=他自受身他自受身の仏なので他力本願となります。2024/09/28 08:03:36281.法介◆T3azX0Hk1UnSccoそれに対し円教では十界互具が説かれますので自受用身となります。自力、他力を超越した真如の世界の仏(如来)です。2024/09/28 08:08:44282.法介◆T3azX0Hk1UnScco法介の仏教談義8https://talk.jp/boards/psy/1725337701本門の十界の因果「我本行菩薩道 所成寿命 今猶未尽」レス 2442024/09/28 08:10:36283.法介◆T3azX0Hk1UnScco円教では「仏」を対境とはしません。2024/09/28 08:12:02284.法介◆T3azX0Hk1UnScco円教で向き合うのは、阿頼耶識です。真如の世界を顕した十界曼荼羅本尊です。(三世十法の阿頼耶識)(※ 三世十法=無限の時間と無限の空間)2024/09/28 08:14:50285.法介◆T3azX0Hk1UnScco都て一代八万の聖教・三世十方の諸仏菩薩も我が心の外に有りとは・ゆめゆめ思ふべからず、然れば仏教を習ふといへども心性を観ぜざれば全く生死を離るる事なきなり、若し心外に道を求めて万行万善を修せんは譬えば貧窮の人日夜に隣の財を計へたれども半銭の得分もなきが如し、然れば天台の釈の中には若し心を観ぜざれば重罪滅せずとて若し心を観ぜざれば無量の苦行となると判ぜり、故にかくの如きの人をば仏法を学して外道となると恥しめられたり、爰を以て止観には雖学仏教・還同外見と釈せり、然る間・仏の名を唱へ経巻をよみ華をちらし香をひねるまでも皆我が一念に納めたる功徳善根なりと信心を取るべきなり、之に依つて浄名経の中には諸仏の解脱を衆生の心行に求めば衆生即菩提なり生死即涅槃なりと明せり、又衆生の心けがるれば土もけがれ心清ければ土も清しとて浄土と云ひ穢土と云うも土に二の隔なし只我等が心の善悪によると見えたり、衆生と云うも仏と云うも亦此くの如し迷う時は衆生と名け悟る時をば仏と名けたり、譬えば闇鏡も磨きぬれば玉と見ゆるが如し、只今も一念無明の迷心は磨かざる鏡なり是を磨かば必ず法性真如の明鏡と成るべし、深く信心を発して日夜朝暮に又懈らず磨くべし何様にしてか磨くべき只南無妙法蓮華経と唱へたてまつるを是をみがくとは云うなり。『一生成仏抄』2024/09/28 08:19:45286.法介◆T3azX0Hk1UnScco【現代語訳】 釈尊一代の八万聖教、三世十方の諸仏・菩薩もすべて、我が心の外にあるとは、ゆめゆめ思ってはならない。したがって、仏教を習学するといっても、心性を観じなければ、全く生死の苦しみを離れることはできないのである。 もし、心の外に道を求めて万行万善を修めようとするのは、たとえば貧しさに窮している人が日夜にわたって隣の人の財を数えたとしても、半銭の得分もないようなものである。それゆえ、天台宗の妙楽大師の止観輔行伝弘決巻四のなかに「もし心を観じなければ重罪を滅することはできない」と述べられ、もし心性を観じなければ無量の苦行となると解釈されている。 ゆえにこのような人を「仏法を学しながらも外道となってしまう」と非難しているのである。このことを摩訶止観巻十上には「仏教を学びながらも、還って外道の見と同じになっている」と釈されている。それゆえに仏の名劫を唱え、経巻を読誦し、華を散らし、香をひねることも、そのすべてが我が一念に納まっている功徳善根であると信心をとっていくべきである。 このことを、浄名経のなかで「諸仏の解脱を衆生の心行に求めるならば、衆生即菩提であり、生死即涅槃である」と説かれている。また、浄名経の中に「衆生の心がけがれるならばその住む国土もけがれ、衆生の心が清ければ土も清い」と説かれるように、浄土といい穢土といっても、国土に二つあって隔たりがあるわけではない。ただ我らの心の善悪によって浄土とも穢土ともなるのである。 衆生といい仏というのもまた同じである。迷う時は衆生と名づけ、悟る時を仏と名づけたのである。たとえば曇った鏡も磨けば宝石のような明鏡と見えるようなものである。我々の一念無明の迷いの心は磨かない鏡である。これを磨けば必ず法性真如の明鏡となるのである。それゆえ深く信心を発して日夜朝暮に、また懈らないで磨くべきである。 どのようにすれば磨けるのであろうか。ただ南無妙法蓮華経と唱えたてまつることが磨くことになるのである。2024/09/28 08:24:24287.法介◆T3azX0Hk1UnSccoお釈迦さまは、自身が随自意の仏の認識で説いた『法華経』をひも解く菩薩が顕れるまでの間、他受用身の阿弥陀佛として衆生を覚りへと導かれます。2024/09/28 09:51:42288.法介◆T3azX0Hk1UnSccoしかし円教の菩薩(天台・日蓮)によって『法華経』が詳しくひも解かれた後は、それは必要なくなります。2024/09/28 09:53:50289.法介◆T3azX0Hk1UnSccoなぜかと言いますと、『法華経』で説かれる自受用身(自受用報身)は、覚り得た仏の智慧を自らに自在に受け用いる仏身(三身如来)だからです。2024/09/28 09:57:57290.法介◆T3azX0Hk1UnScco一仮一切仮で顕れる応身如来と一空一切空で顕れる報身如来と一中一切中で顕れる法身如来の凡夫の一身に顕れる三身如来です。2024/09/28 10:00:30291.法介◆T3azX0Hk1UeuUH8~第二章~「三観義」2024/09/30 17:17:54292.法介◆T3azX0Hk1UeuUH8ここまで、天台智顗の四教義にもとづいて蔵教・通教・別教・円教の三乗の教えと、その三乗の智慧をもって開かれる一仏乗の仏の教えを紹介してきました。2024/09/30 17:23:34293.法介◆T3azX0Hk1UeuUH8法華経の「開三顕一」 ① 蔵教=声聞の智慧 ② 通教=縁覚の智慧 ③ 別教=菩薩の智慧 ①+②+③=仏の智慧2024/09/30 17:24:00294.法介◆T3azX0Hk1UeuUH8その四教義を第一章として、この第二章では天台教学の「四教義」と双璧を成す「三観義」を中心にお話をしていきたいと思います。2024/09/30 17:26:48295.法介◆T3azX0Hk1UeuUH8智顗の『四教義』の中に問曰四教從何而起。答曰今明四教。還從前所明三觀而起。爲成三觀。初從假入空觀。具有折體拙巧二種入空不同。從折假入空故有藏教起。從體假入空故有通教起。若約第二從空入假之中。即有別教起。約第三一心中道正觀。即有圓教起。とあります。2024/09/30 17:41:57296.法介◆T3azX0Hk1UeuUH8「蔵・通・別・円の四教の教えは何から起こるのか?」という質問に対して、「四教は三観から起こる」と智顗は答えております。2024/09/30 17:43:08297.法介◆T3azX0Hk1UeuUH8この記述に出てくる「従仮入空」「従空入仮」「一心中道」が仮観・空観・中観の三観のことで、仮観(従仮入空観)から蔵教と通教が起こり、空観(従空入仮観)から別教が起こり、中観(中道第一義観)から円教が起きて三観が円融して円融三諦となります。2024/09/30 17:44:09298.法介◆T3azX0Hk1UeuUH8上記記述 >>295 にそって説明すると、最初に出てくる従仮入空観(仮観)とは、析と体という二種類の入空という相違を備えており、まず初めに析仮から空に入るので「析空」を観じて蔵教が起こります。2024/09/30 17:45:06299.法介◆T3azX0Hk1UeuUH8次に体仮から空に入ることで「体空」を観じて通教が起こり、第二の従空入仮観(空観)を観じることで別教が起こります。2024/09/30 17:45:44300.法介◆T3azX0Hk1UeuUH8そして第三の一心三観の中道(中観)の正観(第一義諦)に意識を合わせることで円教が起こります。2024/09/30 17:46:12301.法介◆T3azX0Hk1UeuUH8となるのですが、これをもう少し詳しく説明しますと、従仮入空観の「従仮」は、「仮に従って」ということで意識が「有」の実体思想にある状態を意味します。その「有」である実体を寂滅させて空へ入る教えが蔵教です。2024/09/30 17:46:47302.法介◆T3azX0Hk1UeuUH8↑訂正↓その「有」である実体を寂滅させて空へ入る教えが通教です。2024/09/30 17:48:16303.法介◆T3azX0Hk1UeuUH8蔵教では「体空」は説かれておらず、ひたすら寂滅を目指す無余涅槃が展開されます。2024/09/30 17:49:52304.法介◆T3azX0Hk1UeuUH8通教で龍樹が相依性縁起を解き明かし「体空」での入空観が可能となります。相依性縁起=「体空」2024/09/30 17:51:39305.神も仏も名無しさんjOGiuほーかいくんだ〜でどうするのーあっち相手しないとリダンがきちゃうよー〜😫2024/09/30 17:51:50306.神も仏も名無しさんjOGiuほーかいくんは自らの人気者の器を自覚しないとー😃2024/09/30 17:53:43307.法介◆T3azX0Hk1UeuUH8蔵教で説き明かされた此縁性縁起が客観を空じる「析空」で、通教の「体空」で主観を空じます。2024/09/30 17:54:03308.法介◆T3azX0Hk1UeuUH8この人間の「客観と主観」を空じる二つの空の事を「人空」とも「我空」とも言います。2024/09/30 17:55:54309.法介◆T3azX0Hk1UeuUH8蔵教は実体思想から完全に抜けきらずにいる声聞の弟子達に対して因縁関係にある師匠のお釈迦様がじきじきに説かれた教えです。しかし実体に強い執着を持っていた声聞達は、空を実体思想(有る無しの二元論)で解釈してしまい析空に陥ります。(析仮入空)2024/09/30 17:57:31310.法介◆T3azX0Hk1UeuUH8それに対して、実体思想から抜け出ることが出来た縁覚の菩薩(龍樹)は、体空を観じて「体仮入空」して仏の空観に入ります。2024/09/30 17:58:45311.法介◆T3azX0Hk1UeuUH8空観と言うのは、欲界・色界・無色界の三界構造で言うところの色界にあたります。2024/09/30 18:00:14312.法介◆T3azX0Hk1UeuUH8通教の菩薩は、二空をもって凡夫の仮観から仏の空観に「従仮入空観」します。2024/09/30 18:02:24313.法介◆T3azX0Hk1UeuUH8分かりやすく言いますと、瞑想で人間の〝観〟である「主観と客観」を機能停止させ、仏の空観に意識が入る訳です。2024/09/30 18:04:13314.法介◆T3azX0Hk1UeuUH8それにより通教の菩薩は意識として天上界に昇って行き、色界の観音菩薩の説法を耳で聞く以外の方法で聴聞します。おしらく説法を観じとっていったのでしょう。音を観じる観音さまだけに。2024/09/30 18:13:09315.法介◆T3azX0Hk1U7HMs5凡夫の観(主観と客観)を仮観といい、仏の観を空観といいます。2024/10/01 16:39:08316.法介◆T3azX0Hk1U7HMs5では中観は、と言いますと覚りによって得られる観です。2024/10/01 16:40:45317.法介◆T3azX0Hk1U7HMs5通教の中観ですと「色即是空 空即是色」、いわゆる、順観の縁起と逆観の縁起という事になります。順観で対象の客観としての実相(此縁性縁起)を捉え、それを逆観の相依性縁起でこころが認識します。2024/10/01 16:46:00318.法介◆T3azX0Hk1U7HMs5以上の内容の仮観・空観・中観の三観ですが、それと似た用語で仮諦・空諦・中諦の三諦というのがあります。2024/10/01 16:48:17319.法介◆T3azX0Hk1U7HMs5両者の違いは、三観が世界観を立ち上げる観なのに対し、三諦の〝諦〟は、真理という意味になります。2024/10/01 16:50:15320.法介◆T3azX0Hk1U7HMs5こちらの三諦の内容は、次の通りです。仮諦=此縁性縁起(蔵教の真理)空諦=相依性縁起(通教の真理)中諦=阿頼耶識縁起(別教の真理)2024/10/01 16:52:58321.法介◆T3azX0Hk1U7HMs5この三つの真理を覚る智慧がそれぞれ次のようになります。蔵教の真理=声聞の智慧 ---(此縁性縁起)通教の真理=縁覚の智慧 ---(相依性縁起)別教の真理=菩薩の智慧 ---(阿頼耶識縁起)2024/10/01 16:55:34322.法介◆T3azX0Hk1U7HMs5>>292 >>293 の「開三顕一」の三乗の智慧がこれにあたります。2024/10/01 16:59:06323.法介◆T3azX0Hk1U7HMs5この蔵教・通教・別教の三乗の智慧にあたる三観を「総の三観」といいまして、この三観のそれぞれにまた〝三〟が備わっております。<凡夫の仮観> 客観・主観・中道<仏の空観> 仮諦・空諦・中諦<覚りの中観> 応身・報身・法身2024/10/01 17:14:00324.法介◆T3azX0Hk1U7HMs5この三種の三観は、「四諦の三転法輪」として仏典では説かれております。2024/10/01 17:19:32325.法介◆T3azX0Hk1U7HMs5四諦とは、原始仏典で説かれている苦諦、集諦、滅諦、道諦の四つの真理です。2024/10/01 17:21:17326.法介◆T3azX0Hk1U7HMs5この四つの真理が三度繰り返し説かれているんです。2024/10/01 17:21:53327.法介◆T3azX0Hk1U7HMs5一回目は、蔵教で声聞に対し二回目は、通教で縁覚に対し三回目は、別教で菩薩に対しそれぞれ説かれております。2024/10/01 17:23:39328.法介◆T3azX0Hk1U7HMs5説かれている内容は、第一章の四教義の教えがそれにあたります。2024/10/01 17:34:51329.神も仏も名無しさんeWjkhほーすけさん、はやく阿頼耶識は無為の根拠を提示してよー!別に仏典から引用じゃなくていいから法介さんがそう主張する論拠は提示できるでそ!2024/10/01 17:46:24330.法介◆T3azX0Hk1U7HMs5『成唯識論』の内容を提示しているだろ。文章の意味を理解出来ないのか?2024/10/01 17:50:15331.法介◆T3azX0Hk1U7HMs5動画もちゃんと貼ってやってるだろも少し唯識をちゃんと勉強しろ2024/10/01 17:51:20332.法介◆T3azX0Hk1U7HMs5話にならん2024/10/01 17:51:30333.神も仏も名無しさんeWjkh日中の仕事時間は動画はみれんわテキストはみたけどみあたらんで?2024/10/01 17:52:15334.法介◆T3azX0Hk1U7HMs5何がやりたいんだか、、、2024/10/01 17:52:17335.法介◆T3azX0Hk1U7HMs5>>333おまえが理解出来ないだけだ心配するな2024/10/01 17:53:00336.法介◆T3azX0Hk1U7HMs5あれ、間違えてリダンスレに投稿してた、、、これだ1)「能蔵」:種子を執持する。能く一切の種子を納め維持するはたらきがある。2)「所蔵」:七識によって熏ぜられる。前七識によって種子が熏習される心的領域。3)「執蔵」:末那識によって自我と執着される。阿頼耶識が末那識によって自我であると執着される。『成唯識論』国訳一切経p33,『唯識根本教理』2024/10/01 17:55:14337.法介◆T3azX0Hk1U7HMs5阿頼耶識は、種子を納め維持すだけだ。阿頼耶識では縁起は起こらない。2024/10/01 17:56:56338.神も仏も名無しさんeWjkh>>335いや、ほーすけさんの論理がおかしいほーすけさんは阿頼耶識は変化しない、と言っている五識や六識、七識の経験が阿頼耶識の種子を作るんだから、阿頼耶識の種子は変化しとるだろw変化しないならどうやって種子を浄化するんだよ浄化ってのは「状態の変化」を意味するのに2024/10/01 17:57:07339.法介◆T3azX0Hk1U7HMs5阿頼耶識の種子を因として末那識が縁となって縁起が起こる。2024/10/01 17:57:44340.法介◆T3azX0Hk1U7HMs5>五識や六識、七識の経験が阿頼耶識の種子を作るそれは「現行菫種子」。2024/10/01 17:59:03341.神も仏も名無しさんeWjkh>>337ほーすけさんの論理は阿頼耶識は「入れ物」であり、「入れ物は変化しない」と言ってるだけだろ?それは空間は事物の入れ物で空間は変化しないと言ってるのと等しいわな一般的に阿頼耶識は種子含めて阿頼耶識と定義ずけられとるだろ2024/10/01 17:59:07342.法介◆T3azX0Hk1U7HMs5http://www.wikidharma.org/index.php/%E3%81%92%E3%82%93%E3%81%8E%E3%82%87%E3%81%86%E3%81%8F%E3%82%93%E3%81%97%E3%82%85%E3%81%86%E3%81%982024/10/01 17:59:25343.法介◆T3azX0Hk1U7HMs5向こうのスレにも「現行菫種子」、「種子生現行」、「種子生種子」の説明をちゃんとわたしは書いている。人のレスはちゃんと読んでから意見しろ2024/10/01 18:01:01344.神も仏も名無しさんeWjkh>>340だからまさに現行菫種子で阿頼耶識が変化するんでそ2024/10/01 18:01:06345.法介◆T3azX0Hk1U7HMs5現行菫種子で種子が変化するんだぞ2024/10/01 18:02:29346.神も仏も名無しさんeWjkh>>343だーかーらー俺が言ってるのはほーすけさんの論拠は阿頼耶識は無為である論拠には「ならない」と言ってるんだよほーすせさんがいってるのは阿頼耶識ってのは「箱」で箱は変化しないから無為だ、と言ってるだけで俺が言ってるのは阿頼耶識は箱「だけ」を意味するって誰が言ってるんだ?ってことよ2024/10/01 18:02:33347.法介◆T3azX0Hk1U7HMs5そしてその種子は阿頼耶識内で変化する事は無い。2024/10/01 18:03:03348.神も仏も名無しさんeWjkh>>345だからそれは理解しとるってほーすけさんが聞かれてるのは>>346よ2024/10/01 18:03:06349.神も仏も名無しさんeWjkh>>345いや、変化するでしょ?ほーすけさんの奇妙な主張の「阿頼耶識内では」って具体的にどういう意味なん?2024/10/01 18:03:58350.法介◆T3azX0Hk1U7HMs5阿頼耶識は箱「だけ」を意味する?そんな事わたしが言ったか?2024/10/01 18:04:02351.法介◆T3azX0Hk1U7HMs51)「能蔵」:種子を執持する。能く一切の種子を納め維持するはたらきがある。2024/10/01 18:04:52352.神も仏も名無しさんeWjkh>>350書いてあることを踏まえてそう解釈しただけだそれを意味してないなら、ほーすけさんの主張はやっぱり「阿頼耶識内では変化しない」の「内では」をどう解釈してるか、となりますな2024/10/01 18:05:11353.法介◆T3azX0Hk1U7HMs5逆に聞くが、阿頼耶識内で変化が起きるとどこに書いてある?2024/10/01 18:05:31354.神も仏も名無しさんeWjkhほーすけさんの主張は種子は「阿頼耶識内では」変化しないから無為である、これが論点でおけ?2024/10/01 18:05:58355.法介◆T3azX0Hk1U7HMs5わたしは提示しているぞ↓1)「能蔵」:種子を執持する。能く一切の種子を納め維持するはたらきがある。2024/10/01 18:06:16356.法介◆T3azX0Hk1U7HMs5まず、阿頼耶識内で種子がどう変化するのか説明してみろ。2024/10/01 18:07:09357.神も仏も名無しさんeWjkh>>353まさに、現行が種子を生み出し、種子が現行を生み出すんだから、現行と種子は相互作用があり、変化するってことだろ2024/10/01 18:07:18358.神も仏も名無しさんeWjkh>>356ほれ>>3572024/10/01 18:07:56359.法介◆T3azX0Hk1U7HMs5サティーの言い分が正しいのならちゃんと説明出来るだろ2024/10/01 18:08:00360.法介◆T3azX0Hk1U7HMs5「現行と種子は」だろ2024/10/01 18:08:25361.法介◆T3azX0Hk1U7HMs5種子だけで変化する訳じゃない2024/10/01 18:08:39362.法介◆T3azX0Hk1U7HMs5現行はどこで起こるか知ってるか?2024/10/01 18:08:54363.神も仏も名無しさんeWjkh>>362「今ここ」だよ2024/10/01 18:09:24364.神も仏も名無しさんeWjkhんで種子は「過去の経験」だ2024/10/01 18:10:07365.法介◆T3azX0Hk1U7HMs5識だよどの識で起こるか答えてみ2024/10/01 18:10:11366.法介◆T3azX0Hk1U7HMs5現行はどの識で起こる?2024/10/01 18:10:43367.神も仏も名無しさんeWjkh>>365全ての識だ2024/10/01 18:10:48368.神も仏も名無しさんeWjkh少し詳しく説明したほうがええ?2024/10/01 18:11:06369.法介◆T3azX0Hk1U7HMs5説明してみ2024/10/01 18:11:33370.法介◆T3azX0Hk1U7HMs5阿頼耶識で現行が起きるなんて聞いた事ないからな2024/10/01 18:12:16371.法介◆T3azX0Hk1U7HMs5根拠を示して説明してくれ2024/10/01 18:12:37372.法介◆T3azX0Hk1U7HMs5阿頼耶識で現行が起きるとどの経典に書かれてあった?2024/10/01 18:13:05373.神も仏も名無しさんeWjkhとある物体を見る↓末那識が働き、対応する阿頼耶識の種子を参照する↓それが意識に腐ったリンゴであると情報を返す2024/10/01 18:13:19374.神も仏も名無しさんeWjkh>>370まさに種子が現行を生じさせるんだろ自分で現行ぼん種子の単語出したのになんでおれに聞くのw2024/10/01 18:14:20375.法介◆T3azX0Hk1U7HMs5種子が現行を生じさせるのであって種子自体が現行するのではない2024/10/01 18:15:25376.神も仏も名無しさんeWjkh種子と現行は双方向の相互作用だろそれらを繋げる「ぼん」って感じは「常に連続してる」みたいな意味だ2024/10/01 18:15:29377.神も仏も名無しさんeWjkh>>375あたりまえじゃん呆2024/10/01 18:15:48378.法介◆T3azX0Hk1U7HMs5種子が現行を生じさせる↑現行は阿頼耶識以外の識で起こる2024/10/01 18:15:55379.神も仏も名無しさんeWjkhもっといったら種子が現行を生じさせ、現行が種子を生じるさせるってのが現行ぼん種子でそ2024/10/01 18:16:36380.法介◆T3azX0Hk1U7HMs5>>377 サティーが言ってるんだぞ2024/10/01 18:16:43381.法介◆T3azX0Hk1U7HMs5阿頼耶識で種子が変化するって2024/10/01 18:17:04382.神も仏も名無しさんeWjkh>>380種子自体が現行するわけではない、になにか特別な意味を持たせてるの?2024/10/01 18:17:28383.法介◆T3azX0Hk1U7HMs5現行ぼん種子ってなんだ?2024/10/01 18:17:31384.神も仏も名無しさんeWjkh>>381阿頼耶識「の」種子が変化する、が正しい日本語だろ2024/10/01 18:17:56385.法介◆T3azX0Hk1U7HMs5種子自体が現行するわけではない=無為だと最初から言ってるだろ2024/10/01 18:18:01386.神も仏も名無しさんeWjkh>>382現行菫種子漢字が変換されんねん2024/10/01 18:18:34387.法介◆T3azX0Hk1U7HMs5阿頼耶識の種子が変化する阿頼耶識で種子が変化する両者の違いを説明してみろ2024/10/01 18:19:00388.神も仏も名無しさんeWjkh>>385その特殊な解釈はいったいなんなん?w普通に現行菫種子は現行が種子を「変化」させ、種子が現行を「変化」させるって意味だろ種子自体が現行するわけではないってどーいう意味でいっとるん?2024/10/01 18:20:04389.法介◆T3azX0Hk1U7HMs5>種子が現行を生じさせ、現行が種子を生じるさせるってのが現行ぼん種子でそ種子が現行を生じさ=種子生現行現行が種子を生じるさせる=現行菫種子2024/10/01 18:20:25390.神も仏も名無しさんeWjkh>>387阿頼耶識の概念の中に種子と含まれてる包含関係にあるのが前者阿頼耶識と種子が別々のものとしてあって、片方が片方に作用するという意味で書かれてるのが後者2024/10/01 18:21:41391.法介◆T3azX0Hk1U7HMs5「種子自体が現行するわけではない」の意味は、現行は末那識などの阿頼耶識以外の識を縁として起こる縁起。種子が縁起を起こすのではない。縁起は因と縁と果がそろう事で起こる現象。2024/10/01 18:23:24392.神も仏も名無しさんeWjkh>>391ツッコミどころが何点かあるが、分かりやすいとこからだとまず、種子が現行を生じさせるので、その意味で阿頼耶識というか阿頼耶識の種子が因として現行は生じている2024/10/01 18:25:59393.法介◆T3azX0Hk1U7HMs5阿頼耶識の種子が変化する阿頼耶識の概念の中に種子と含まれてる包含関係にある阿頼耶識で種子が変化する阿頼耶識と種子が別々のものとしてあって、片方が片方に作用するという意味で書かれてるのでは聞く。阿頼耶識と種子は倉庫と倉庫に収まる荷物の関係じゃないのか?2024/10/01 18:26:36394.神も仏も名無しさんeWjkhその上で、末那識は阿頼耶識を捉えて、それを意識に渡すし、そのトリガーとなる五識と関与してるそもそも唯識は全ての識が相互作用してる仕組みなんだから全ての識が働くのはあたりまえだのクラッカー2024/10/01 18:27:53395.法介◆T3azX0Hk1U7HMs5倉庫の荷物が崩れる倉庫で荷物が崩れる両者に違いはあるか?2024/10/01 18:29:07396.神も仏も名無しさんeWjkh>>393例えが適切ではない法介さんは人類と日本人は別のものだと言いたいわけ?これが包含の関係よ2024/10/01 18:29:40397.法介◆T3azX0Hk1U7HMs5厳密に言えば、倉庫の中の荷物が崩れるが正しい表現だ。2024/10/01 18:29:54398.神も仏も名無しさんeWjkh>>395倉庫と荷物は意味的な包含の関係にないだから例えが間違ってる2024/10/01 18:30:18399.法介◆T3azX0Hk1U7HMs5阿頼耶識は貯蔵庫の意味だ。例えは適切だ2024/10/01 18:30:47400.神も仏も名無しさんeWjkh人類の日本人が立ち上がる人類で基本人が立ち上がるこの意味の違いよw2024/10/01 18:31:01401.法介◆T3azX0Hk1U7HMs5おまえどこまでひねくれてんだ2024/10/01 18:31:13402.神も仏も名無しさんeWjkh>>399適切ではない人間と臓器であるなら適切だ意味わかるか?2024/10/01 18:31:43403.法介◆T3azX0Hk1U7HMs5>>400例えがそれこそ不適切だろ2024/10/01 18:31:44404.神も仏も名無しさんeWjkh>>403不適切じゃないよ包含の関係だから倉庫は荷物が入ってない時がある常に荷物が入ってる倉庫しか倉庫とは言えない、とはならない2024/10/01 18:32:31405.法介◆T3azX0Hk1U7HMs5、、、、、2024/10/01 18:32:59406.神も仏も名無しさんeWjkh一方で、臓器のない人間なんて存在しない阿頼耶識と種子の関係はそういうものだ2024/10/01 18:33:06407.法介◆T3azX0Hk1U7HMs5付き合いきれん時間がもったいない2024/10/01 18:33:16408.法介◆T3azX0Hk1U7HMs5一人でぼやいてろ2024/10/01 18:33:26409.法介◆T3azX0Hk1U7HMs5完全に趣旨から逸脱している2024/10/01 18:34:20410.神も仏も名無しさんeWjkh>>407やっぱり、ほーすけさんは阿頼耶識を箱と捉えて種子とは「別物」と解釈してたんだな?やっぱり俺の解釈はあってたじゃないかwその上で、そのほーすけさんの解釈が「間違ってる」から阿頼耶識を無為と勘違いしたんだな?勘違いの原因がやっと明らかになってよかったわこれが「対話」だ2024/10/01 18:34:53411.神も仏も名無しさんeWjkh阿頼耶識は変化するだから有為だ2024/10/01 18:35:21412.神も仏も名無しさんeWjkhなぜなら種子は阿頼耶識という概念の一部だから人間の身体における臓器と同じだ2024/10/01 18:36:40413.リダン◆gEV3xsS//kYbckHサッティここは法介さんが邪魔されたくないスレやそういうとこもうちょっとなんだこう忖度つーか寄り添うつーかあるやろ?2024/10/01 18:39:51414.パ5woRn縁起は無為か有為かの問題と似てるね正解なんかないようですよこの空間が阿頼耶識でしょ其処で縁起されている我々が現行しているんですよね我々は意識内部の種子A1を参照しているだけであって参照された種子A1は消える種子A1を参照した結果、現行A1が縁起されて、それが薫習し種子となる種子A2として、再び阿頼耶識へ入って、マナ識に執蔵されていくって感じですかね?2024/10/01 19:45:15415.法介◆T3azX0Hk1UFhi8fサティーのせいでどこまで書いてたか分からなくなってしまった、、、2024/10/06 01:58:10416.法介◆T3azX0Hk1UFhi8f>>328 ここからか2024/10/06 01:59:07417.法介◆T3azX0Hk1UFhi8f三観には総の三諦があり、それぞれの中に更に三がが互具します。2024/10/06 02:00:47418.神も仏も名無しさんOwii3文句しかいえない頑固老人悟りとは真逆の道を歩む\(^o^)/2024/10/06 02:01:02419.法介◆T3azX0Hk1UFhi8fそれを「空・仮・中」と言います。2024/10/06 02:01:48420.法介◆T3azX0Hk1UFhi8f凡夫の「空・仮・中」は、仮=客観空=主観中=実体2024/10/06 02:12:10421.法介◆T3azX0Hk1UFhi8fわれわれ凡夫の世界観は、主観と客観とで成り立ちます。2024/10/06 02:13:15422.法介◆T3azX0Hk1UFhi8f客観で対象を捉え主観でそれが何かを判断する。2024/10/06 02:13:59423.法介◆T3azX0Hk1UFhi8f判断するにあたっては、データベースが必要と成って来ます。2024/10/06 02:14:48424.法介◆T3azX0Hk1UFhi8f自身の経験値ですね。2024/10/06 02:15:07425.法介◆T3azX0Hk1UFhi8f過去の経験と照らしあわせ、対象が何かを判断する。2024/10/06 02:15:56426.法介◆T3azX0Hk1UFhi8fその経験値のデータベースを構築するのに必要なのが〝言葉〟というツールです。2024/10/06 02:17:21427.法介◆T3azX0Hk1UFhi8f我々人類は、この言葉というツールを巧みに用いて人類の歩みを巨大なデータベースとして刻み続けています。2024/10/06 02:19:19428.法介◆T3azX0Hk1UFhi8fどこに刻んでいるか、それが別教で世親が大成した『唯識』で説かれる阿頼耶識という人類の貯蔵庫です。2024/10/06 02:20:56429.法介◆T3azX0Hk1UFhi8f人類の貯蔵庫なのか、もしかしたら地球上の全ての出来事を記録する地球規模のデータベースかも知れませんね。2024/10/06 02:22:25430.法介◆T3azX0Hk1UFhi8f神智学で唱えられている、元始からのすべての事象、想念、感情が記録されているという「アカシックレコード」がその阿頼耶識なのかも知れません。2024/10/06 02:27:13431.法介◆T3azX0Hk1UFhi8fどちらにせよ人類は、言葉というツールを使ってあらゆるものを概念化してきました。2024/10/06 02:28:45432.法介◆T3azX0Hk1UFhi8f我々人間が認識している世界は、その概念によって形成されています。2024/10/06 02:30:39433.法介◆T3azX0Hk1UFhi8fわたしの目の前にはパソコンのモニターがあります。手元にはキーボード。テーブルに椅子。テレビに窓にカーテン。2024/10/06 02:32:05434.法介◆T3azX0Hk1UFhi8fそういった言葉の概念で形成されたモノに囲まれて今わたしはこれを書いてます。2024/10/06 02:33:03435.法介◆T3azX0Hk1UFhi8fしかし、言葉と言う概念を未だ身に付けていない1~2歳児の子供から見たら、そこにパソコンもモニターも椅子もテーブルも存在しません。2024/10/06 02:35:37436.法介◆T3azX0Hk1UFhi8fその子の世界にあるのはなんでしょう。2024/10/06 02:36:39437.法介◆T3azX0Hk1UFhi8fただ、見慣れぬ風景?不思議な世界?2024/10/06 02:38:07438.法介◆T3azX0Hk1UFhi8f世界って面白いですね。見る人によって如何様にも変わって顕れるのが世界です。2024/10/06 02:39:19439.法介◆T3azX0Hk1UFhi8f同じ世界に住んでいてもある人にとっては苦しみの世界。2024/10/06 02:40:21440.法介◆T3azX0Hk1UFhi8fまた、ある人にとっては楽しくて仕方がない世界。また別の人にとっては喜びの世界。あの人にとっては快楽の世界。2024/10/06 02:41:52441.法介◆T3azX0Hk1UFhi8fあの人って誰って?決まってるでしょ、エロ和尚さんですよ。2024/10/06 02:42:32442.法介◆T3azX0Hk1UFhi8fまー、そんな感じでわたし達凡夫は、言葉による概念で対象を「実体」として捉えるております。2024/10/06 02:50:55443.法介◆T3azX0Hk1UFhi8fそれが凡夫の「空・仮・中」です。>>4202024/10/06 02:51:38444.法介◆T3azX0Hk1UFhi8f凡夫の主観と客観という二つの「観」で形成される世界を仏教では「仮観」と言います。2024/10/06 02:53:20445.法介◆T3azX0Hk1UFhi8fなぜ「仮」という文字が付くかと言いますと、その世界が仮の世界だからです。2024/10/06 02:54:11446.法介◆T3azX0Hk1UFhi8f人間が人間の都合で勝手に決めつけて立ち上がっている世界なので仮にそう見えてる世界観、なので仮観です。2024/10/06 02:56:03447.法介◆T3azX0Hk1UFhi8fでは、本当の世界ってどんな世界なのでしょう。2024/10/06 02:56:59448.法介◆T3azX0Hk1UFhi8fお釈迦さまは、真実の世界を見る為には縁起という手法を用いなさいと教えられました。2024/10/06 02:59:20449.法介◆T3azX0Hk1UFhi8fそのモノが、そのモノと成り得た因果で観て初めてそのモノの真実の姿を捉える事が出来ます。2024/10/06 03:01:19450.法介◆T3azX0Hk1UFhi8f主観と客観という認識から離れ因果と縁起で対象を観る。これがお釈迦さまが説かれた中道というモノの見方です。2024/10/06 03:04:31451.法介◆T3azX0Hk1UFhi8f世の中に変わらずにあり続けるものは何一つ存在しない。2024/10/06 03:05:43452.法介◆T3azX0Hk1UFhi8f流れゆく時代の中で、全てのものは常に流動的に変化し続けている。2024/10/06 03:06:35453.法介◆T3azX0Hk1UFhi8fそれを仏教では「諸行無常」と言います。2024/10/06 03:10:24454.法介◆T3azX0Hk1UFhi8f「諸行無常」は、中道の縁起を言い現わした言葉です。2024/10/06 03:12:25455.法介◆T3azX0Hk1UFhi8f「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」2024/10/06 03:14:56456.法介◆T3azX0Hk1UFhi8f『平家物語』の語り出しの有名な一句です。2024/10/06 03:15:06457.法介◆T3azX0Hk1UFhi8f祇園精舎ってどこにあるかご存じですか。2024/10/06 03:18:37458.法介◆T3azX0Hk1UFhi8fお釈迦さまが説法をされていた場所の一つがこの祇園精舎なんです。2024/10/06 03:21:50459.法介◆T3azX0Hk1UFhi8fその中に四隅の軒(のき)に鐘がさげられている無常堂ってのがあって、修行僧が命を終わろうとするとき「諸行無常」の四句の偈を響かせて、僧を極楽浄土へ導いたといわれてます。2024/10/06 03:25:19460.法介◆T3azX0Hk1UFhi8fこの「諸行無常」は、人生のはかなさ生命のもろさ、そして時には死を意味する言葉として、日本人になじみの深い語句となっています。2024/10/06 03:26:27461.法介◆T3azX0Hk1UFhi8fしかし、本来、「諸行無常」とは、この世のものはたえまなく変化し続けているという事実を、ありのままに述べたもので、仏教で説くところの「縁起」を意味する用語なんですね。2024/10/06 03:27:58462.法介◆T3azX0Hk1UFhi8f似たような意味を持つ仏教の有名な用語で「色即是空 空即是色」というのもあります。2024/10/06 03:30:03463.法介◆T3azX0Hk1UFhi8fこれは「空」の世界観を言い現わした言葉です。2024/10/06 03:37:04464.法介◆T3azX0Hk1UFhi8f『般若心経』に出て来る有名な言葉で、龍樹はこの「空」のことを縁起であると説きました。2024/10/06 03:46:10465.法介◆T3azX0Hk1UFhi8f「色」とは、色相の事で姿や形あるもの例えです。2024/10/06 03:47:40466.法介◆T3azX0Hk1UFhi8fその「色」は、即ち縁起に依って生じた姿と言っているのが「色即是空」です。2024/10/06 03:49:03467.法介◆T3azX0Hk1UFhi8fそして縁起に依って生じたものが「色」であると言っているのが「空即是色」です。2024/10/06 03:50:14468.法介◆T3azX0Hk1UFhi8fこの『般若心経』の有名な文句には、ある仏教の法理が含まれております。2024/10/06 03:51:47469.法介◆T3azX0Hk1UFhi8fそれを解き明かしたのが龍樹です。2024/10/06 03:52:10470.法介◆T3azX0Hk1UFhi8fこの「色即是空 空即是色」の文句には、前提となる言葉がある事をご存じでしょうか。2024/10/06 03:54:13471.法介◆T3azX0Hk1UFhi8f『般若心経』は、次のような言葉で始まります。「観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時」観音さまは智恵の完成の修行を極められ、それを行う時2024/10/06 03:55:23472.法介◆T3azX0Hk1UFhi8f「照見五蘊皆空 度一切苦厄」五蘊を全て(皆)〝空〟と照らすことで、一切の苦しみや災いから抜け出すことが出来ました。2024/10/06 03:57:16473.法介◆T3azX0Hk1UFhi8f「舎利子 色不異空 空不異色」舎利子、色相(万物の姿)は空(縁起)に異ならず、空(縁起)は色相(万物の姿)に異ならず。2024/10/06 03:57:54474.法介◆T3azX0Hk1UFhi8fそしてここに「色即是空 空即是色」が入ってきます。2024/10/06 03:58:27475.法介◆T3azX0Hk1UFhi8f五蘊を全て(皆)〝空〟と照らすことで、「色即是空 空即是色」なのです。2024/10/06 03:59:23476.法介◆T3azX0Hk1UFhi8fこの前提を「五蘊皆空」という言い方をします。2024/10/06 04:00:01477.法介◆T3azX0Hk1UFhi8f人間の認識作用である五蘊の働きを完全に停止させる事を「五蘊皆空」といいます。2024/10/06 04:00:55478.法介◆T3azX0Hk1UFhi8fよく禅宗の人なんかが、空だ空だ! 全ては「無」で実体なんかないんです!みたいな事言ってるの聞いた事ないですか。2024/10/06 04:02:44479.法介◆T3azX0Hk1UFhi8fこの人達は、前提が完全に抜けているんです。2024/10/06 04:03:39480.法介◆T3azX0Hk1UFhi8f普通、わたし達は五蘊で対象を認識します。この五蘊が働いている前提では、対象は実体として認識されます。2024/10/06 04:05:08481.法介◆T3azX0Hk1UFhi8fしかし、その五蘊の働きを完全に停止させるとその実体は姿を消します。2024/10/06 04:05:49482.法介◆T3azX0Hk1UFhi8f目を閉じてみて下さい。目の前のモニターも机も椅子も一瞬で消えたでしょ。2024/10/06 04:06:38483.法介◆T3azX0Hk1UFhi8f五蘊の働きの中の眼識を空じたからです。2024/10/06 04:07:02484.法介◆T3azX0Hk1UFhi8fでも手探りで感触としてそれを認識出来ますって?2024/10/06 04:07:43485.法介◆T3azX0Hk1UFhi8fだったら両手に麻酔を打ちましょう。2024/10/06 04:08:07486.法介◆T3azX0Hk1UFhi8fえ?お茶の匂いがするって?2024/10/06 04:08:31487.法介◆T3azX0Hk1UFhi8fだったら鼻をつまんじゃいましょう2024/10/06 04:09:09488.法介◆T3azX0Hk1UFhi8fえ?バイクが走って来る音がするって?2024/10/06 04:09:33489.法介◆T3azX0Hk1UFhi8fだったら耳栓をしましょう。2024/10/06 04:09:51490.法介◆T3azX0Hk1UFhi8fえ?口の中で何かを味わっている?2024/10/06 04:10:29491.法介◆T3azX0Hk1UFhi8fじゃあ、口に入れるのを止めましょう。2024/10/06 04:10:48492.法介◆T3azX0Hk1UFhi8fこれで人間の五感全てを空に出来たかと思います。これが「五蘊皆空」の状態です。2024/10/06 04:11:47493.法介◆T3azX0Hk1UFhi8fその状態であなたは対象のモノを認識出来ますか?2024/10/06 04:12:16494.法介◆T3azX0Hk1UFhi8f出来ませんよね何一つ認識出来ませんよね。2024/10/06 04:12:42495.法介◆T3azX0Hk1UFhi8fその世界は光も入って来ないただ真っ暗な世界ですよね。2024/10/06 04:13:53496.法介◆T3azX0Hk1UFhi8fその真っ暗な世界にさっき目にしたコップの姿を想い描いてみて下さい。2024/10/06 04:15:00497.法介◆T3azX0Hk1UFhi8fあなたの頭に描き出されたそのコップはどこから顕れたコップでしょう。2024/10/06 04:15:40498.法介◆T3azX0Hk1UFhi8fっていうのが『唯識』のお話です。2024/10/06 04:16:13499.法介◆T3azX0Hk1UFhi8f世界は心が造り出す世界です!という唯識よりも一段掘り下げた唯識のお話です。2024/10/06 04:17:14500.神も仏も名無しさんkrYbf倶舎論は心と物質の二元論に立ってないよ。今の科学とは別の見方がされている。2024/10/06 11:09:54501.パbxodSチベットには暗闇の瞑想といって、4~6ヶ月の間、完全に真っ暗な小部屋に籠って一回も外に出ずに瞑想修行をするという方法がありますがその途中で、暗闇に現実瓜二つの光景が開けてくるのだそうです明るい世界が見えるらしいですこれで世界が唯識で成り立っていることを10歳につかむのだと言います2024/10/07 14:01:30502.パbxodS10歳→実際2024/10/07 14:02:22503.リダン◆gEV3xsS//ktdAfY>>501離脱ワールドやん現実コピー煩悩の限りを尽くせる勿論、触れるし、空飛べるしsexできる2024/10/08 16:14:36504.神も仏も名無しさんpMokh0859 晃(あき) ◆HOKKEvxAGE 2024/10/09(水) 09:36:57.698時間唱題するぞID:B9J7o1O2024/10/09 10:18:37505.パvGx5F頑張るな~2024/10/10 19:14:32
【国民民主党】玉木代表 加熱する不倫報道に「家族の心理的負担は極めて大きい」「テレビや週刊誌やネットも見てしまって、その都度傷ついている」ニュース速報+811727.12024/11/21 19:39:35
わたしの論法を理解する為のご質問は喜んでお受けいたしますが、法論をする場ではありませんので「それは違います」等の突っ込みはご遠慮ください。
あと、ご自分の価値観でわたしの話にチョイチョイ突っ込みを入れて来るでおーという人物がおりまして、いくら注意しましてもその行為を止める様子が見受けられない為、やむおえずこのスレにおける〝出入り禁止〟を宣告させて頂きます。
宜しくお願い申し上げます。
一念三千の法門を中心にお話を進めて行きたいと思います。
今一瞬の心の中に、三千の世界を備える法理でして
その三千の世界は、
「凡夫の世界観」と「仏の世界観」と「真如の世界観」と言った
三種の世界が円かに溶け合い、摩訶不思議な現象が
凡夫の一身に顕れるといったものです。
それを「不思議解脱」
として自身の論書『摩訶止観』の中で詳しく説き明かしております。
それ一心に十法を具し、一法界にまた十法界を具す、百法界なり。一界に三十種の世間を具し、百法界に即ち三千種の世間を具す。この三千は一念の心に在り。若し心無くんば而巳なん。介爾も心あらば即ち三千を具す。また一心前に在り、一切の法後に在りと言はず。例せば、八相、物を遷(うつ)するがごとし。物、相の前に在らば、物遷されず。相、物の前に在らばまた遷(移さ)されず、前もまた不可なり。後もまた不可なり。ただ物に相の遷るを論じ、ただ相の遷るを物に論ずるなり。今の心もまたかくのごとし。もし一心より一切の法を生せば、これ即ち縦なり。もし心、一時に一切の法を含まば、これ即ち横なり。縦もまた可ならず、横にまた可ならず、ただ心はこれ一切の法、一切の法はこれ心なるなり。ゆえに縦に非ず、横に非ず。一に非ず、異に非ず。玄妙深絶にして識の識るところに非ず。言の言ふところに非ず。ゆえに称して不可思議境と為す。
十界×十界×十如是×三世間=三千世界
という表記を普通はしますが、
ここでは、
「一界に三十種の世界を具し、百法界に即ち三千種の世間を具す」
といった言い方を智顗はされております。
https://hokekyou.up-jp.com/wp-content/uploads/2021/06/image023.jpg
一仮一切仮・一空一切空・一中一切中
の各々がここで言う「一界」にあたります。
が何かと言いますと、
これが凡夫の身に顕れる
応身・報身・法身の
三身如来の姿です。
最高峰に君臨する
極めて高度な教えが説かれた経典です。
難信難解な経典とも言われております。
とてもじゃありませんが我々凡夫が読んで
簡単に理解出来る内容ではありません。
この経典が〝随自意〟で説かれたものだからです。
仏の認識で説かれた
『法華経』です。
人間の常識を超えた内容となっておりますので
我々凡夫には信じがたく理解しがたい経典なのです。
役に立たないじゃないですか!
と言いたくなりますよね。
凡夫が「三種の智恵」をまずは習得しないと
その内容を正しく理解するには至りません。
『法華経』以前に説かれた
声聞の智慧・縁覚の智慧・菩薩の智慧の
「三乗の智慧」です。
一乗の「仏の智慧」で
これを『法華経』の開三顕一の法門と言います。
「三乗を開いて一乗を顕す」と読み、方便品から始まる法華経迹門の中心的な説法の内容を要約した言葉です。
こちらの図の、
https://hokekyou.up-jp.com/wp-content/uploads/2021/06/image023.jpg
左側<別相三観>がこの〝三乗の智慧〟にあたります。
「仏の空・仮・中」が縁覚の智恵、
「覚りの空・仮・中」が菩薩の智恵となります。
世界を形成する要素で凡夫の世界を形成する「空・仮・中」は、
主観(空)と客観(仮)と実体(中)となります。--- ①
我々人間が姿・形あるモノを認識しますと、それは客観的に実在する対象となります。
それに対し人の心は、姿・形は無いが確かに存在します。
それをインド哲学では「無」と表現します。
主観=無
それが何なのかを把握し
それを言語で言い表し概念化していきます。
パソコンにテーブル、部屋のカーテンに窓ベッドにソファー
そういった言葉によって概念化された対象で
あなたの世界は形成されていますよね。
あなたの主観と客観とで立ち上がっている
あなた目線のあなたを中心として成り立っている
あなただけのオンリーワンの世界観です。
わたし目線の世界と
あなた目線の世界とでは、
視点が異なっておりますので
見えている世界は全く同じとはなりませんよね。
あなただけの世界です。
あなたの主観と客観とで認識している
あなたの世界観です。
客観=有
主観=無
実体=凡夫の世界(有+無)
人間の主観と客観という
二つの認識から形成されます・
この人間の認識に応じて法が説かれております。
それがアビダルマ『倶舎論』です。
釈迦が生きていた時代を含む部派分裂以前の初期の形態をいいます。
「因果の法理」と「縁起の法門」といった法理・法門です。
それを〝テーブル〟として認識するのが
人間の主観と客観です。
それを主観で展開し ---(主観認識)
それが何なのかを判断します。---(概念による判断)
客観でその姿・形を認識し ---(因)
それを主観で展開し ---(縁)
それが何なのかを判断します。---(果)
で見ます。
因果律にもとづいたものの見方です。
蔵教(三蔵教)が説かれた初期仏教では、
科学や物理学と同じ次元で仏教の教えが説かれております。
状態を「有る」と見るか
「無い」とみるがの「有る無し」の二元論です。
自我が「有る」とか「無い」とか
で語ってる人を見かけましたら
そこで語られている仏教はこの初期仏教で展開された
科学や物理学と同じ二元論で真理を説く
人間の認識で語る仏法です。
例えば、目の前にテーブルがあったとします。
それを〝テーブル〟として認識するのが
人間の主観と客観です。
客観でその姿・形を認識し ---(客観認識)
それを主観で展開し ---(主観認識)
それが何なのかを判断します。---(概念による判断)
この人間の認識工程を仏教では、
客観でその姿・形を認識し ---(因)
それを主観で展開し ---(縁)
それが何なのかを判断します。---(果)
で見ます。
テーブルは、天板と四本の脚とが組み合わさって出来たモノ。
この場合、天板と脚が〝因〟にあたります。
その天板と脚が〝縁〟によって組み合わされ
その結果、テーブルという〝果〟が出来ます。
水素と酸素が ---(因)
化学反応を起こして ---(縁)
水になります。 ---(果)
科学や物理学と全く同じ真理が解き明かされております。
初期仏教で説かれた『倶舎論』を学ぶ必要性は
あまりないかと私は思います。
そうではなく、
いやいや『倶舎論』は大事でしょう!
とお考えの方は、
それはそれで宜しいのではないでしょうか。
(そんな事=『倶舎論』)
「因果と縁起」で語っている仏教家が
果たしてどれだけ居られますか?
という事です。
通教の菩薩、
龍樹菩薩です。
その蔵教よりも更にランクアップした教えが「通教」という教えになります。
闇深い曲にハマった
😫
https://m.youtube.com/watch?v=NToQmkFxr40&pp=ygUc5qSO5ZCN5p6X5qqOIOOCruODo-ODs-ODluODqw%3D%3D
まー
闇深い世界にいた知り合いは三人はいた
この世の闇の近くのー
😫
経典の教法が次のように分かれると。
世間一般と同じレベルで説かれる真理。科学や哲学と同じ次元(二元論)で説かれる仏教の教えで、究極的真実ではないものの、この世界において因縁和合の法則によって成り立っているものについてその存在意義を説いたもの。つまりは世間に随順して説いた世俗における真理(俗諦)を表す教説。
各各為人悉檀ともいい、教化の対象である衆生の境涯に応じて説かれた教説で、同一の事柄についての教えであっても、聞く者の境涯によってはその説法内容は正反対のものとさえなりうるというもの。
貪り・瞋り・癡かさなどの煩悩を根源的に対治するために説かれる教説で、その内容は特定の病の対治には真実たり得ても、別な病いには適さずにかえって毒にさえなりうる事もある。
仏が覚った真理をダイレクトに説く教説。他の三種の悉檀におけるような相対的真実を説いたものではなく、仏が証得した人間のあらゆる〝概念〟から抜け出た究極的な真理が説かれる。
舎利子、この諸法の空相は、
「不生不滅 不垢不浄 不増不減」
生じることも滅することもなく、汚いことも綺麗なこともなく、増えることも減ることもない。
汚いことも綺麗なこともなく、
増えることも減ることもない。
これをもって空とは、「無」なんだと勘違いしている人達が沢山おられます。
すなわち生じることも滅することもないというのは、「此縁性縁起」を意味しております。
といった表現でモノが縁によってそのあり様が変化していくといった実体における真理を説いた教えです。
「生じたり滅したり」している訳ではありません。
ちなみに、以下の文章は、ChatGPTの回答です。
ChatGPT
仏教の縁起という考え方では、殺人という現象が生じる原因や条件は、単一の個人の責任だけで決まるわけではなく、社会的な要素や環境、個人の行動や心理的な状態など、多くの要因が複雑に絡み合って生じているとされます。
仏教の縁起という考え方では、殺人事件が起こる原因として、被害者や加害者の過去の経験や状況、社会的な環境、心理的な状態、行動の影響などが挙げられます。また、殺人事件に関わる人々が、その行動に責任を持つことも強調されます。
しかし、仏教の縁起という考え方から見ると、個人が犯した行為に対して、その個人だけが責任を持つという考え方は単純化された見方であり、縁起の連鎖の中で生じた現象として、多くの要因が絡み合っていることが指摘されます。
したがって、仏教の縁起という考え方では、殺人という現象についても、個人の責任があることは否定されていませんが、それだけにとどまらず、社会的な要素や環境、個人の行動や心理的な状態など、多くの要因が複雑に絡み合っていることを認識する必要があるとされます。
犯罪は個人の問題ではなく、社会的な要素や環境、個人の行動や心理的な状態など、多くの要因が複雑に絡み合っていることを認識する必要があるとされます。
まさにChatGPTが回答してくれている通りだと思います。
ChatGPTの回答文に付け加える内容があるとしたら、仏教で説かれる〝無分別〟という概念と〝慈悲〟の心ではないでしょうか。
殺人事件は決して他人事ではありません。ChatGPTが申しております通り社会的な要素や環境などが深く関わってきます。その人を取り巻く人達や社会の環境、しいては国家の行政のあり方、その行政を運営する政府を選んでいる国民一人一人にも責任はあります。分別を超えた全体責任です。そう考えた時、罪を犯した殺人犯も実は可哀そうな被害者ではないのでしょうか。
そのような可哀そうな人が二度と出ないですむ世界を私たちは必死に築いて行かなければならないと私は思います。
個別に顕れた因果の〝果〟の結果の姿だけを捉えて
物事を判断しがちです。
ただ結果として顕れた姿だけを捉えて
人を悪人呼ばわりしたり、罵ったり
誹謗中傷をする人達が沢山います。
自身が罵られ罵倒される結果を招きます。
安易に他人を罵る行為は慎みたいものですね。
被害者、加害者と言う言葉を使っている以上質問としては殺人罪として考えるべきでしょう。
殺人罪は構成要件に該当し、違法かつ有責な場合に適用されます。
故に殺人(殺人罪)は個人の責任となります。
周囲の環境を考えるのなら情状酌量がありますね。
諸法は皆これ因縁より生ずる。
因縁より生ずるが故に自性なし、自性無きが故に去來無し、去來無きが故に所得無し、所得無きが故に畢竟空なり。
畢竟空なるが故に、これを般若波羅蜜と名づく。
諸法はすべて因縁性つまり縁起によって出来ている。
因縁性であるが故に自分という本性がない。
故に過去も未来もなく、何かを得たり失ったりすることもない。
畢竟するに空というほかはない、この真理を般若波羅蜜(完全なる知慧)と名づける。
結論はこの世のすべての現象は、因縁によって成り立つ【今】があるだけでほかは何もないということ。
仏教の観点からはChat Gptは完全に勘違い混同された回答となっています。
悟りの目から見れば殺される人も無く殺す人も無い。殺す行為も無いと見るのが仏教です。
仏教と犯罪心理学との混同が見られますね。
ChatGptならびに他の回答には。
質問者のあなたなら必ずそれが分かる筈。
そのような縁起は此縁性縁起といいまして、実体をつぶさに観察することで起きる実体に即した縁起です。科学や物理学における実験や、医学の臨床実験などから得られる真理がこれにあたります。これは「モノの状態の変化」によって起こる縁起で時間経緯によって現れる状態の変化です。
小乗仏教は、実体思想が強かった声聞という境涯に対して説かれた教えなので、このような実体に即した真理が説かれました。
『般若心経』を用いて説明されておられる方がおられますが、『般若心経』は「実体を空じた世界観」を説いておりますので、本性が有るとか無いといった「有る無し」の二元論で語るのは間違いです。事象となる対象を〝縁起〟で観るのがお釈迦さまが説かれた「中道」というモノの見方です。
有ると見る=常見(外道の見解)
無いと見る=断見(外道の見解)
二元論から離れた見解=縁起(仏の見解)=中道
縁起で対象を観るということは、姿かたちにはとらわれず、そのものがそのものとなり得た因と縁を観ていくといことです。ChatGPTの回答文が示す内容がこれにあたります。
そのものの〝今の姿〟の中に〝過去〟の因も縁も同時におさまって観えるのが実体を空じた仏の視点での捉え方です。そして、その今の姿の中に、〝未来〟にあるべき正しき姿を見出していくのも仏の視点にたった境涯でのものごとの〝観かた〟となります。
『般若心経』の中に出てくる、「生じることも滅することもなく、汚いことも綺麗なこともなく、増えることも減ることもない」という言葉の意味は、「実体が無い」ということではなく、時間という〝概念〟、また言葉という〝概念〟から離れた境地という意味です。(人間の概念から離れたところにある真理=仏の世界観における真理)
http://mh357.web.fc2.com/6-3.html
人が一生懸命文字を起こして大事な事を伝えようとしている所に、横からチャチャを入れ、場を汚すような行為をされて楽しまれておられるようですが、あなたはそれでも仏法者ですか。テンプレにも記載しております通り、あなたはここへの出入りを禁止されている身です。ご理解の程、宜しくお願い申し上げます。
二つ目の〝不垢不浄〟
「汚いことも綺麗なこともない」について説明します。
実体に即した真理なのに対し、
〝不垢不浄〟は、実体の姿、即ち「色相」から離れて心の変化で起こる「相依性縁起」を意味します。
それは個人の主観の問題です。
大っ嫌いな上司の説教はとても長がーーーーーく観じます。
同じ一時間であっても長く感じたり短く感じたりします。
「こんなのまずくて食えない!」
といって食べない人もおられます。
下に居る人達から見たら「上り坂」です。
体空=主観を空じる
二番目の〝不垢不浄〟(汚いことも綺麗なこともなく)は、
そういった意味を含んでおります。
の意味を次にお話します。
時間による状態の変化を捉えた出来事です。
今一瞬の目の前の光景だけが世界の全てとなり
そこに時間の流れは存在しません。
「あなたは誰ですか?」
と尋ねる認知症のおばあちゃんが居たとします。
重力は存在しません。
時間の流れも存在しません。
全ては縁起によって生じております。
そういった人間の概念から離れた世界においては、
「不増不減」(増えることも減ることもない)
訳です。
「不生不滅 不垢不浄 不増不減」
生じることも滅することもなく
汚いことも綺麗なこともなく
増えることも減ることもありません。
法空と言います。
最初の不生不滅が蔵教に通じ
最後の不増不減が別教に通じますので
この『般若心経』を説く教えを「通教」と言います。
通教では「仏の世界観」が説かれております。
仮諦=色即是空
空諦=空即是色
中諦=色即是空 空即是色
いまこっちにおるで
https://talk.jp/boards/psy/1727207645
ここをブログ代わりに使っていこうかと
「空観」といいます。
その中の般若波羅蜜、即ち「智慧の完成」を説く教えが「般若」という称をもつ一連の教典群になります。
経蔵(スートラ)
律蔵(ヴィナヤ)
論蔵(アビダルマ)
からなる三蔵教の経蔵(経典)の注釈書および論書がアビダルマ(論蔵)で、中でも有名な論書が世親が顕したアビダルマ『倶舎論』です。
『倶舎論』を8年勉強したら『唯識』が3年で理解できる
といった意味でそう言われました。
『倶舎論』に書かれている内容は、概ね現代の科学や物理学で説き明かされております。
仏教思想の敵対思想がこの「外道義」です。
それに対し外側である〝客観〟を説く教えを仏教では「外道」と言います。
〝客観性〟にもとづいてその教えは説かれております。
物事を客観思考で考えがちな脳になってしまってます。
空観から離れて覚りの中観に至るのが仏教です。
客観思想になります。
モノが「有る状態」と「無い状態」の
二つの見方で対象を捉えます。
あると見る=常見
ないと見る=断見
としてどちらも外道の見解とします。
自我が有るとか無いとかで語っている人が居られましたら
その人が語っておられる仏教は
ほぼ外道義に染まってしまった仏教です。
概ねこれにあたります。
禅宗はこの「有る無し」の二元論で仏教を語る宗派だからです、
なかなかそこから抜け出せなくなってしまいます。
それを直すのって大変じゃないですか。
それと一緒です。
部派仏教の最大勢力であった「説一切有部」です。
大乗仏教がその「説一切有部」を徹底的に叩きまくったのは
『倶舎論』=二元論思想(外道の思想)
という思想的問題が大きく関わっておりました。
因縁果の三次元の「因果と縁起」で仏教を展開しました。
因縁果の三次元で語ってこその仏教です。
三元論の「因果と縁起」で仏教を展開します。
「縁起」
です。
といった因縁果の
三元論です。
次に通教、そして別教、最後に円教といった順に
低い教えから次第に高い教えへと教えの内容が難しくなっていきます。
苦諦=蔵教
集諦=通教
滅諦=別教
道諦=円教
といった感じで四つの真理(諦)が四教の教えとして解き明かされております。
通教では相依性縁起が >>121 が「実体を空じた真理」として説かれます。
集諦=通教の真理(相依性縁起)
滅諦=別教
道諦=円教
それを今から詳しくお話してまいります。
表層認識で起こる縁起と
深層認識で起こる縁起とがあります。
人間の表層認識を第六意識とし、
深層認識を第七末那識として二つの意識の存在が解き明かされております。
人間の客観を起こす「此縁性縁起」と
主観を起こす「相依性縁起」の二つです。
表層の第六意識で起こる縁起です。
主観=見分
客観=相分
という言葉で説かれております。
② 主体(見る側) =人の認識(主観 [A]と客観 [B])
主観 [A]と客観 [B]
の [A] が見分で [B] が相分になります。
② の「主体」のことを〝能取〟という言葉で唯識は説かれます。
② 主体(能取) =人の認識(主観 [見分]と客観 [相分])
証拠の仏典を提示してください
仏典を提示するまでもなく、
今日の禅宗の実態をご確認いただいた方が早いかと。
https://www.youtube.com/watch?v=nNEUgdj_cuc
「1:11:38」あたりを再生されてみて下さい。
空を何にもない無であると講師の仏教学の先生が講義されておられます。
そもそも僧侶が、
学者さんから仏教を教わっていること自体あり得ない話なのですが、、、
こちら↓でお受け致します。
法華の花道 乱舞一
https://talk.jp/boards/psy/1727207645
宜しければコテハンで清く正しく議論を交わしましょう。
なるほど、ほーすけさんだけは特別なのか
りょーかいw
海外と先物の日経平均株価が爆下がり‼️
為替も急降下‼️
ほーかいくんの脳内のチョイスが
基準ですなー
😀
話が途切れてしまった、、、、
② 主体(能取)=人の認識(主観 =見分・客観 =相分)
『唯識論』=三元論法 ---(因縁果)
こちらのような
有る無しで語る無相唯識となります。
https://youtu.be/0yks1BTPJBM
広まったかと言いますと
こちらがその根源です。
https://youtu.be/Ze10wMOZdwQ
日本の唯識学の第一人者です。
唯識を「有る無し」の二元論で紹介してしまったのか
禅宗の師匠だったからです。
「有る無し」で仏教を語る仏教宗派としては
「空」が何たるかも正しく理解出来ていない
初歩の宗派だからです。
こちらのスレの 611 から 617 までをご覧いただくと
ご理解いただけるかと思います。
法華の花道 乱舞一
https://talk.jp/boards/psy/1727207645
横山先生だけだはありません。
あの昭和の仏教学会の権威と称された
中村 元 先生もそれは同じです。
「主体が無い」「自我は無い」
などと言った事だと思っている方が沢山おられます。
実はこれ
中村先生が弘められた二元論仏教なんです。
と言われてあなたは納得出来ますか?
痛いですよね。
自分は間違いなく存在しているんです。
「自分という存在を認めない」事ではなく、
「〝自我〟をもって自分と思ってはいけませんよ」という事なんです。
自我に拠って自己を見ず、
精神を統一し、姿勢正しく、自ら安立し、
動揺することなく、心は静かで、疑惑もない。
こういう境涯に至った人こそ、供養を受けるにふさわしい。
『スッタニパータ』477
https://zenken.agu.ac.jp/research/48/15.pdf
渡辺照宏:自己には自我なしと洞察し(渡邊1982・145頁)
宮坂宥勝:自分に自我を見ることなく(宮坂2002・123頁)
榎本文雄:自我にとらわれて自己を見ることなく(榎本1986・191頁)
村上真完・及川真介:自ら自我を見ず(村上・及川2009・(三)128頁)
他の先生方は自我と自己とに分けて訳しておられます。
そうしないと意味が正しく伝わらないからです。
「真の自己は〝自我〟によって把握されるべきものではない」
といったことを意味しております。
あなたは自分という存在をどれ程正しく理解されてますか?
というのが「無我」のお話です。
「自分だけどうしてこんなに辛い思いをしなくてはいけないのだろう」とか、
「自分はどうしてこんな病気になってしまったんだろう」とか、
果たしてどれだけの人が「自分という存在」に、
納得して生きているものでしょう。
自分の事をあまり良く知り得ていないものなんです。
そして今そこに存在(実在)しているあなた自身が「自分」です。
初期仏教ではこの「自分と自我」の関係について詳しく説き明かされております。
「それは違いますよ!」
その自我はあなたが勝手に思い込んでいる自分であって
本当のあなたではありません。
「そのあなたの勝手な思い込みによる〝自我〟をまずは取り消しましょう!」
というのが仏教でいう「無我」のお話です。
二元論で唯識を理解してしまい、
無相唯識(世界も自分も存在しない説)に陥る危険性が多々あります。
より専門的に析空・体空・法空・非空として説かれております。
析空=人の認識における客観を空じる
体空=人の認識における主観を空じる
といった内容で、
この二空で人の認識から離れます。
末那識の自我が完全に止滅して
識が智慧(菩薩の智慧)に変わり後得智を得るに至ります。
菩薩に対して説かれた『首楞厳三昧経』で
詳しく説かれております。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/38/2/38_2_677/_pdf/-char/ja
首楊厳三昧は勇伏三昧、健相三昧などとも訳され、古来多くの三昧の中でも特に重視されていた三昧である。この三昧はその名を冠した『首榜厳三昧経』に詳説されているが、『大智度論』等にも重要な三昧として度々言及されている。また『首樗厳三昧経』の思想は『般若経』『十地経』『維摩経』と密接な関係にあり、『法華経』『浬薬経』にも影響を与(1)えている。首樗厳三昧の特徴は般若空観を思想的背景にもちながら、理念としての空観にとどまらずこれを積極的に実践に適応させているところにある。
蔵教=声聞
通教=縁覚
別教=菩薩
『浄土論』に「五念門の行」として世親が示しております。
https://talk.jp/boards/psy/1725150226
五念門の行
>>549
二、「讃嘆門」‐口業(口で言うこと)で讃嘆をする。
三、「作願門」‐意業(心に思うこと)で常に願う。
四、「観察門」‐智慧の眼によって観察する。
五、「回向門」‐回向を本として「功徳を与えよう」と願う。
瞑想や坐禅では
この後得智は得られません。
仏を対境として行う行法だからです。
仏のこころです。
〝仏〟って何だと思います?
通教の止観です。
通教ではなく
別教の止観です。
阿弥陀佛=他自受身
他自受身の仏なので他力本願となります。
自受用身となります。
自力、他力を超越した真如の世界の仏(如来)です。
https://talk.jp/boards/psy/1725337701
本門の十界の因果
「我本行菩薩道 所成寿命 今猶未尽」
レス 244
真如の世界を顕した
十界曼荼羅本尊です。(三世十法の阿頼耶識)
(※ 三世十法=無限の時間と無限の空間)
釈尊一代の八万聖教、三世十方の諸仏・菩薩もすべて、我が心の外にあるとは、ゆめゆめ思ってはならない。したがって、仏教を習学するといっても、心性を観じなければ、全く生死の苦しみを離れることはできないのである。
もし、心の外に道を求めて万行万善を修めようとするのは、たとえば貧しさに窮している人が日夜にわたって隣の人の財を数えたとしても、半銭の得分もないようなものである。それゆえ、天台宗の妙楽大師の止観輔行伝弘決巻四のなかに「もし心を観じなければ重罪を滅することはできない」と述べられ、もし心性を観じなければ無量の苦行となると解釈されている。
ゆえにこのような人を「仏法を学しながらも外道となってしまう」と非難しているのである。このことを摩訶止観巻十上には「仏教を学びながらも、還って外道の見と同じになっている」と釈されている。それゆえに仏の名劫を唱え、経巻を読誦し、華を散らし、香をひねることも、そのすべてが我が一念に納まっている功徳善根であると信心をとっていくべきである。
このことを、浄名経のなかで「諸仏の解脱を衆生の心行に求めるならば、衆生即菩提であり、生死即涅槃である」と説かれている。また、浄名経の中に「衆生の心がけがれるならばその住む国土もけがれ、衆生の心が清ければ土も清い」と説かれるように、浄土といい穢土といっても、国土に二つあって隔たりがあるわけではない。ただ我らの心の善悪によって浄土とも穢土ともなるのである。
衆生といい仏というのもまた同じである。迷う時は衆生と名づけ、悟る時を仏と名づけたのである。たとえば曇った鏡も磨けば宝石のような明鏡と見えるようなものである。我々の一念無明の迷いの心は磨かない鏡である。これを磨けば必ず法性真如の明鏡となるのである。それゆえ深く信心を発して日夜朝暮に、また懈らないで磨くべきである。
どのようにすれば磨けるのであろうか。
ただ南無妙法蓮華経と唱えたてまつることが磨くことになるのである。
ひも解く菩薩が顕れるまでの間、
他受用身の阿弥陀佛として衆生を覚りへと導かれます。
『法華経』が詳しくひも解かれた後は、
それは必要なくなります。
『法華経』で説かれる自受用身(自受用報身)は、
覚り得た仏の智慧を
自らに自在に受け用いる仏身(三身如来)だからです。
一空一切空で顕れる報身如来と
一中一切中で顕れる法身如来の
凡夫の一身に顕れる三身如来です。
「三観義」
蔵教・通教・別教・円教の
三乗の教えと、その三乗の智慧をもって開かれる一仏乗の仏の教えを紹介してきました。
① 蔵教=声聞の智慧
② 通教=縁覚の智慧
③ 別教=菩薩の智慧
①+②+③=仏の智慧
この第二章では
天台教学の「四教義」と双璧を成す「三観義」を中心にお話をしていきたいと思います。
問曰四教從何而起。答曰今明四教。還從前所明三觀而起。爲成三觀。初從假入空觀。具有折體拙巧二種入空不同。從折假入空故有藏教起。從體假入空故有通教起。若約第二從空入假之中。即有別教起。約第三一心中道正觀。即有圓教起。
とあります。
という質問に対して、
「四教は三観から起こる」
と智顗は答えております。
最初に出てくる従仮入空観(仮観)とは、析と体という二種類の入空という相違を備えており、まず初めに析仮から空に入るので「析空」を観じて蔵教が起こります。
第二の従空入仮観(空観)を観じることで別教が起こります。
その「有」である実体を寂滅させて空へ入る教えが通教です。
相依性縁起=「体空」
で
どうするのー
あっち相手しないと
リダンがきちゃうよー〜
😫
自らの人気者の器を自覚しないとー
😃
通教の「体空」で主観を空じます。
「人空」とも「我空」とも言います。
体空を観じて「体仮入空」して仏の空観に入ります。
色界の観音菩薩の説法を耳で聞く以外の方法で聴聞します。
おしらく説法を観じとっていったのでしょう。
音を観じる観音さまだけに。
仏の観を空観といいます。
いわゆる、順観の縁起と逆観の縁起という事になります。
順観で対象の客観としての実相(此縁性縁起)を捉え、
それを逆観の相依性縁起でこころが認識します。
それと似た用語で仮諦・空諦・中諦の三諦というのがあります。
三諦の〝諦〟は、真理という意味になります。
仮諦=此縁性縁起(蔵教の真理)
空諦=相依性縁起(通教の真理)
中諦=阿頼耶識縁起(別教の真理)
蔵教の真理=声聞の智慧 ---(此縁性縁起)
通教の真理=縁覚の智慧 ---(相依性縁起)
別教の真理=菩薩の智慧 ---(阿頼耶識縁起)
<凡夫の仮観>
客観・主観・中道
<仏の空観>
仮諦・空諦・中諦
<覚りの中観>
応身・報身・法身
苦諦、集諦、滅諦、道諦の四つの真理です。
二回目は、通教で縁覚に対し
三回目は、別教で菩薩に対し
それぞれ説かれております。
別に仏典から引用じゃなくていいから法介さんがそう主張する論拠は提示できるでそ!
文章の意味を理解出来ないのか?
も少し唯識をちゃんと勉強しろ
テキストはみたけどみあたらんで?
おまえが理解出来ないだけだ
心配するな
これだ
1)「能蔵」:種子を執持する。
能く一切の種子を納め維持するはたらきがある。
2)「所蔵」:七識によって熏ぜられる。
前七識によって種子が熏習される心的領域。
3)「執蔵」:末那識によって自我と執着される。
阿頼耶識が末那識によって自我であると執着される。
『成唯識論』国訳一切経p33,『唯識根本教理』
いや、ほーすけさんの論理がおかしい
ほーすけさんは阿頼耶識は変化しない、と言っている
五識や六識、七識の経験が阿頼耶識の種子を作るんだから、阿頼耶識の種子は変化しとるだろw
変化しないならどうやって種子を浄化するんだよ
浄化ってのは「状態の変化」を意味するのに
それは「現行菫種子」。
ほーすけさんの論理は阿頼耶識は「入れ物」であり、「入れ物は変化しない」と言ってるだけだろ?
それは空間は事物の入れ物で空間は変化しないと言ってるのと等しいわな
一般的に阿頼耶識は種子含めて阿頼耶識と定義ずけられとるだろ
人のレスはちゃんと読んでから意見しろ
だからまさに現行菫種子で阿頼耶識が変化するんでそ
だーかーらー俺が言ってるのはほーすけさんの論拠は阿頼耶識は無為である論拠には「ならない」と言ってるんだよ
ほーすせさんがいってるのは阿頼耶識ってのは「箱」で箱は変化しないから無為だ、と言ってるだけで
俺が言ってるのは阿頼耶識は箱「だけ」を意味するって誰が言ってるんだ?ってことよ
だからそれは理解しとるって
ほーすけさんが聞かれてるのは>>346よ
いや、変化するでしょ?
ほーすけさんの奇妙な主張の「阿頼耶識内では」って具体的にどういう意味なん?
そんな事わたしが言ったか?
能く一切の種子を納め維持するはたらきがある。
書いてあることを踏まえてそう解釈しただけだ
それを意味してないなら、ほーすけさんの主張はやっぱり
「阿頼耶識内では変化しない」の「内では」をどう解釈してるか、となりますな
どこに書いてある?
1)「能蔵」:種子を執持する。
能く一切の種子を納め維持するはたらきがある。
説明してみろ。
まさに、現行が種子を生み出し、種子が現行を生み出すんだから、現行と種子は相互作用があり、変化するってことだろ
ほれ>>357
ちゃんと説明出来るだろ
「今ここ」だよ
どの識で起こるか答えてみ
全ての識だ
どの経典に書かれてあった?
↓
末那識が働き、対応する阿頼耶識の種子を参照する
↓
それが意識に腐ったリンゴであると情報を返す
まさに種子が現行を生じさせるんだろ
自分で現行ぼん種子の単語出したのになんでおれに聞くのw
種子自体が現行するのではない
それらを繋げる「ぼん」って感じは「常に連続してる」みたいな意味だ
あたりまえじゃん呆
↑
現行は阿頼耶識以外の識で起こる
種子が現行を生じさせ、現行が種子を生じるさせるってのが現行ぼん種子でそ
種子自体が現行するわけではない、になにか特別な意味を持たせてるの?
なんだ?
阿頼耶識「の」種子が変化する、が正しい日本語だろ
だと最初から言ってるだろ
現行菫種子
漢字が変換されんねん
阿頼耶識で種子が変化する
両者の違いを説明してみろ
その特殊な解釈はいったいなんなん?w
普通に現行菫種子は現行が種子を「変化」させ、種子が現行を「変化」させるって意味だろ
種子自体が現行するわけではないってどーいう意味でいっとるん?
種子が現行を生じさ=種子生現行
現行が種子を生じるさせる=現行菫種子
阿頼耶識の概念の中に種子と含まれてる包含関係にあるのが前者
阿頼耶識と種子が別々のものとしてあって、片方が片方に作用するという意味で書かれてるのが後者
現行は末那識などの阿頼耶識以外の識を縁として起こる縁起。
種子が縁起を起こすのではない。
縁起は因と縁と果がそろう事で起こる現象。
ツッコミどころが何点かあるが、分かりやすいとこからだと
まず、種子が現行を生じさせるので、その意味で阿頼耶識というか阿頼耶識の種子が因として現行は生じている
阿頼耶識の概念の中に種子と含まれてる包含関係にある
阿頼耶識で種子が変化する
阿頼耶識と種子が別々のものとしてあって、片方が片方に作用するという意味で書かれてるの
では聞く。
阿頼耶識と種子は倉庫と倉庫に収まる荷物の関係じゃないのか?
そもそも唯識は全ての識が相互作用してる仕組みなんだから全ての識が働くのはあたりまえだのクラッカー
倉庫で荷物が崩れる
両者に違いはあるか?
例えが適切ではない
法介さんは人類と日本人は別のものだと言いたいわけ?
これが包含の関係よ
倉庫の中の荷物が崩れる
が正しい表現だ。
倉庫と荷物は意味的な包含の関係にない
だから例えが間違ってる
例えは適切だ
人類で基本人が立ち上がる
この意味の違いよw
どこまで
ひねくれてんだ
適切ではない
人間と臓器であるなら適切だ
意味わかるか?
例えがそれこそ不適切だろ
不適切じゃないよ
包含の関係だから
倉庫は荷物が入ってない時がある
常に荷物が入ってる倉庫しか倉庫とは言えない、とはならない
阿頼耶識と種子の関係はそういうものだ
時間がもったいない
やっぱり、ほーすけさんは阿頼耶識を箱と捉えて種子とは「別物」と解釈してたんだな?
やっぱり俺の解釈はあってたじゃないかw
その上で、そのほーすけさんの解釈が「間違ってる」から阿頼耶識を無為と勘違いしたんだな?
勘違いの原因がやっと明らかになってよかったわ
これが「対話」だ
だから有為だ
人間の身体における臓器と同じだ
ここは法介さんが
邪魔されたくないスレや
そういうとこ
もうちょっと
なんだこう
忖度つーか
寄り添うつーか
あるやろ?
正解なんかないようですよ
この空間が阿頼耶識でしょ
其処で縁起されている我々が現行しているんですよね
我々は意識内部の種子A1を参照しているだけであって
参照された種子A1は消える
種子A1を参照した結果、現行A1が縁起されて、それが薫習し種子となる
種子A2として、再び阿頼耶識へ入って、マナ識に執蔵されていく
って感じですかね?
悟りとは真逆の道を歩む\(^o^)/
仮=客観
空=主観
中=実体
主観でそれが何かを判断する。
手元にはキーボード。
テーブルに椅子。
テレビに窓にカーテン。
不思議な世界?
見る人によって如何様にも変わって顕れるのが世界です。
ある人にとっては苦しみの世界。
また別の人にとっては喜びの世界。
あの人にとっては快楽の世界。
決まってるでしょ、
エロ和尚さんですよ。
仮にそう見えてる世界観、
なので仮観です。
そのモノの真実の姿を捉える事が出来ます。
因果と縁起で対象を観る。
これがお釈迦さまが説かれた中道というモノの見方です。
この世のものはたえまなく変化し続けているという事実を、ありのままに述べたもので、仏教で説くところの「縁起」を意味する用語なんですね。
「色即是空 空即是色」
というのもあります。
と言っているのが「色即是空」です。
と言っているのが「空即是色」です。
ある仏教の法理が含まれております。
「観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時」
観音さまは智恵の完成の修行を極められ、それを行う時
五蘊を全て(皆)〝空〟と照らすことで、一切の苦しみや災いから抜け出すことが出来ました。
舎利子、色相(万物の姿)は空(縁起)に異ならず、空(縁起)は色相(万物の姿)に異ならず。
「色即是空 空即是色」
が入ってきます。
「色即是空 空即是色」
なのです。
「五蘊皆空」
といいます。
空だ空だ! 全ては「無」で
実体なんかないんです!
みたいな事言ってるの聞いた事ないですか。
前提が完全に抜けているんです。
この五蘊が働いている前提では、対象は実体として認識されます。
その実体は姿を消します。
目の前のモニターも
机も椅子も
一瞬で消えたでしょ。
お茶の匂いがするって?
バイクが走って来る音がするって?
口の中で何かを味わっている?
これが「五蘊皆空」の状態です。
対象のモノを認識出来ますか?
何一つ認識出来ませんよね。
ただ真っ暗な世界ですよね。
さっき目にしたコップの姿を想い描いてみて下さい。
どこから顕れたコップでしょう。
という唯識よりも
一段掘り下げた唯識のお話です。
今の科学とは別の見方がされている。
その途中で、暗闇に現実瓜二つの光景が開けてくるのだそうです
明るい世界が見えるらしいです
これで世界が唯識で成り立っていることを10歳につかむのだと言います
離脱ワールドやん
現実コピー
煩悩の限りを尽くせる
勿論、触れるし、空飛べるし
sexできる
8時間唱題するぞ
ID:B9J7o1O