A. 誰でも、理性に基づいて真我があると証明できる人が人類の中で独りでもいるならば、出てきなさい、と言いたいのです。自分が経験したと言うなら、出てきて欲しい。反論して欲しい。でも、人類の中で一人もいないのです。過去から現在まで。真我(アートマン)というのは単なる信仰でしょう。証拠もなしに「ある」という前提で話すなら、何でも語れますよ。たとえば「神がいる」という前提で、どんな下らないことでも言えます。でもそれはただの信仰です。
When you have a conversation with a Westerner, in terms of Buddhism, you will be frequently asked about “Zen.” It seems that many Westerners regard the Japanese.as ”Zen master.” From this time in myweblog, I introduce a greatly interesting masterpiece, co-written by Daisetz Suzuki, a Zen evangelist to the West, and Erich Fromm, one of the representative psychologists in the 20 th century―― more to come both in English and in Japanese.
I am a Zen-man and my approach is “antescientific” ―or even “antiscientific” sometimes, I am afraid. “Antescientific” may not be an appropriate term, but it seems to express what I wish to mean. “Metascientific” may not be bad, either, for the Zen position develops after science or intellectualization has occupied for some time the whole field of human study, and Zen demands that before we give ourselves up unconditionally to the scientific way over the whole field of human activities we stop and reflect within ourselves and see if things are all right as they are.
The Zen approach is to enter right into the object itself and see it, as it were, from the inside. To know the flower is to become the flower, to be the flower, to bloom as the flower, and to enjoy the sunlight as well as the rainfall.
When this is done, the flower speaks to me and I know all its secrets, all its joys, all its sufferings; that is, all its life vibrating within itself. Not only that: along with my “knowledge” of the flower I know all the secrets of theuniverse, which includes all the secrets of my own Self, which has been eluding my pursuit all my life so far, because I divided myself into a duality, the pursuer and the pursued, the object and the shadow. No wonder that I never succeeded in catching my Self, and how exhausting this game was!
The sciences deal with abstractions and there is no activity in them. Zen plunges itself into the source of creativity and drinks from it all the life there is in it. This source is Zen’s Unconscious. The flower, however, is unconscious of itself. It is I who awaken it from the unconscious.
Mental factors, inBuddhism, are identified within the teachings of theAbhidhamma(Buddhist psychology). They are defined as aspects of the mind that apprehend the quality of an object, and that have the ability to color the mind. Within the Abhidhamma, the mental factors are categorized as formations concurrent with mind .Alternate translations for mental factors include "mental states", "mental events", and "concomitants of consciousness".
存分に語ろう
前スレ
【唯識三年】仏教理論を学ぶスレ 5【倶舎八年】
https://talk.jp/boards/psy/1703708441
1、初期仏教 : 紀元前6世紀頃
お釈迦様の教え
2、上座部 (テーラワーダ仏教) : 紀元前5世紀頃
いわゆる小乗仏教、南方で継承される
3、説一切有部 (倶舎論) : 紀元前1世紀頃
部派仏教の時代、最も有力な部派
4、経量部 (倶舎論) : 西暦300年頃~
説一切有部から分派、世親はここの出身
5、中観派 (中論) : 西暦200年頃~
空と縁起の思想、龍樹が始めた大乗仏教
6、瑜伽行派 (唯識論) : 西暦400年頃~
阿頼耶識が登場、大乗二大学派のひとつ
7、如来蔵思想 : 上記の流れとは独自に展開、
「誰でも成仏できる」という思想
五蘊・十二処・十八界
1、五蘊(ごうん)
・色 物質的な存在(身体)
・受 感受する作用
・想 表象する作用
・行 意志する作用
・識 認識する作用
→人間は、五蘊を寄せ集めた仮の姿。
「我」として執着するような実体は無い
2、十二処(じゅうにしょ)
・六根:六つの認識器官
眼根・耳根・鼻根・舌根・身根・意根
・六境:六つの認識対象
色境・声境・香境・味境・触境・法境
六根と六境を合わせて十二処
3、十八界(じゅうはちかい)
・六識:六つの認識作用
眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識
十二処に六識を加えて十八界
→自分が認識しているもの、
それが世界のすべてである
多くの部派に分かれて、
仏教理論の体系化が進んだ
最も有力な「説一切有部」は、
存在を「五位七十五法」に分類した
初期仏教の「五蘊・十二処・十八界」
よりだいぶ数が増えた
説一切有部の思想は、後に「倶舎論」
としてまとめられた
↓
(1)五位七十五法
法(ダルマ)=存在するものに2種類
・有為(うい)…煩悩で汚れたもの
・無為(むい)…煩悩で汚れてないもの
1~4は有為法、5は無為法
1、色・・・物質的現象 11種類
眼・耳・鼻・舌・身・
色・声・香・味・触・
無表色
2、心・・・心の本体 1種類
3、心所・・・心の作用 46種類
大地 常駐する心の動き
大善地 善の動き
大不善地 悪の動き
不定 どちらでもない心の動き
大煩悩地 根本的な煩悩
小煩悩地 付随する煩悩
4、心不相応行・・・ 14種類
色(物質)にも、心(精神)にも
分類されないもの
5、無為・・・ 3種類
常住不変な存在
虚空、択滅、非択滅
大乗仏教が登場した
中観派は「空」の思想を唱えた
説一切有部と違って、中観派は
実体を持って存在するものなど一切、
認めなかった
中観派の創始者である龍樹は
『中論』などの著作により、
「空」の理論を大成した
空と中観は大乗仏教の基礎理論であり、
龍樹は大乗の第一祖とされる
「実体のある存在の構成要素」
と考えられていた
だが、大乗仏教の時代には、
「実体のある存在など無い」という
空の思想が主流になった
(ここでいう『実体がある』とは、
『永遠で不変の存在』というような意味)
唯識派は、倶舎論の五位七十五法を
「空」の思想に基づいて書き換えた
眼耳鼻舌身の五識と意識に、深層意識の
「末那識」と「阿頼耶識」が加わった
心の分析が細かくなり、五位百法に増えた
「物質は意識から生じる」とされたため、
色法(物質的存在)を後回しにして
心法(精神的存在)を先に持ってきた
↓
五位百法
① 心王(表面意識と深層意識)
眼・耳・鼻・舌・身・意の
六識と、マナ識・アーラヤ識の8種。
② 心所(精神的な作用)
51種。
③色(物質的な作用)
眼・耳・鼻・舌・身の五根と、
色・声・香・味・触法の五対境、
および意識のみの対象である法処所摂色11種。
④ 心不相応法(物質でも精神でもないもの)
24種。
⑤無為法(はたらきを起こすことがないもの)
虚空・択滅・非択滅・不動滅・想受滅・真如
6種。
俺は
伏黒トウジみたいになりたいが不可能〜
😄
https://m.youtube.com/watch?v=DbCjBvi446k
サービスしてやった〜
スレは終わっとるからな〜
あそこは
😄
やはり東大級ですな!
トークの文殊とお呼びしたいです
著者
横山紘一
おすすめポイント
葬式や法事、初詣などでお寺に行く機会は多い。お寺ではなんとなくお経を聞き、仏像に手を合わせて願掛けをするが、私たちの多くは仏教の教え、考え方をほとんど知らないままなのではないだろうか。
本書では、大乗仏教の一派である唯識派の世界観、生き方に関する教えが、実践的に解説されている。本書を読めば、たとえば般若心経に出てくる「色即是空」という言葉や、菩薩、如来の意味など、これまで日常的に接しつつもあまり深く考える機会がなかった仏教の教えが、どう自分の生活と結びついているかが理解できるだろう。
先行きの不透明な時勢の中、不安を抱えながら孤独に日常生活を送っている人も少なくないだろう。抽象的な理論を理解するだけでなく、生き方にまで実践的に反映させる。現代を生きる私たちの人生も、苦から生じる心の重荷から解き放たれ、より軽やかなものとなるに違いない。
大賀祐樹
横山紘一(よこやま こういつ)
1940年生まれ。東京大学農学部水産学科、同文学部印度哲学科卒業、東京大学大学院印度哲学博士課程修了。立教大学名誉教授、鹿島神流師範、「唯識塾」塾長。専攻は唯識思想。著書に『唯識思想入門』『唯識の哲学』『唯識とは何か』『十牛図の世界』『「唯識」という生き方』『唯識 仏教辞典』『阿頼耶識の発見』『唯識の真理観』ほか多数。
要点1
私たちは「自分」や「もの」が存在していると考えているが、あるのはただ心の働きだけで、「自分」や「もの」は存在しないと考えるのが唯識思想。
要点2
「自分」や「もの」への執着を捨てることで、他者との対立やお金、地位への執着から生じる苦から解放される。
要点3
物事の全ては心の深層にある阿頼耶識から生じる。善業によって阿頼耶識は清められ、悪業によって濁る。阿頼耶識が濁ればその人の世界も汚れて暗くなる。善い行いをすることは自身の世界を清め、自分のためにもなる。
唯識思想の世界
心だけしか存在しない
仏教を興した釈尊の根本的教理とは、「自分」は存在しないという教え、すなわち「無我」である。
「手を見てください。それはだれの手ですか」と問いかけてみると、聞かれた人は必ず「自分の手です」と答える。「いまあなたが言った自分という言葉に対応するものがあるでしょうか」と再び問いかけると、相手は困った顔をするだけで、答えが返ってくることはない。なぜなら、「自分」という言葉が指し示すものを発見できないからだ。
あるのは「自分」という言葉だけなのに、あたかも自分というものが存在するかの如くに思い、すべての行動の主体、主人公としてとらえるのは自分本位なことである。静かに心の中を観察すると、存在するのは唯だ(ただ)手、足、身体、あるいは心の働きだけだ。これを自分のものと誤認しているという事実を認識することから、仏教理解が始まるといっても過言ではない。
そして、この「唯だ」あるのはなにかという探究をとおして、すべての存在の構成要素が心の中に認識されて初めて成立するとしたのが、「唯識」という思想である。
唯識とは、「唯だ識、すなわち心だけしか存在しない。自分の周りに展開するさまざまな現象は、すべて阿頼耶識(あらやしき)から生じたもの、変化したものである」と主張する思想だ。
すべては心の中にあり、心の外にはものはない。
私たちは1つの共通の宇宙に住んでいると思っている。しかしそれは、人間同士が言葉で語り合うことで、「ある」と認め合った抽象的な存在に過ぎない。
朝、目を覚ますと、その人の宇宙がいわばビッグバンを起こして再び生じる。個人が毎朝経験するこのビッグバンによって生じた宇宙には、決して他人が入ってくることはできない。
この「一人一宇宙」を〈人人(にんにん)唯識〉という。3人いれば3つの世界がある。たとえば「そこに1本の木がある」と3人で言い合うとき、3人の外に実在する1本の木があるのではなく、一人ひとりの心の中にある木の影像(観念)があるだけである。3人が言葉をとおして、あたかも1本の木があるが如くに認め合っているにすぎないのだ。
一人一宇宙だから、その個人の気分がすぐれなければ暗い世界となり、うれしいことがあれば明るい世界に変わる。私たちは、自分の心の中にある一宇宙に閉じ込められていて、そこから抜け出すことはできない。
「感覚」が感じとったものを「思い」で色づけし、「言葉」として語ることで、心が織りなす世界をはっきり認識できる。たとえば、誰かに対して私たちは憎いという「思い」を生じさせ、「あの人は憎い人だ」と「言葉」で決めつける。その人そのものは本来はいわば無色の人なのに、キャンバスの絵が色付けされていくように、私の思いと言葉によって「憎い人」になるのだ。
世界はもともと無色だった。
😄
ほんと、
ここ最近
仏教修行だらけで
キリスト教は
こっちは忘れた気味だ、
西山派寺院の彼岸参りで
少し
キリスト教のイメージが蘇ったかも〜
😄
ついていけぬ〜
😄
ベイダー和尚スレで頑張る、
そっとしとく
😄
【質問】
三類境(さんるいきょう)について、教えてください。
【回答】
三類境とは、
「対象となる側の分析、分類」です。
「相分(そうぶん)」を詳しく、開いて分類した教えです。
1、性(しょう)境
2、独影(どくよう)境
3、帯質(たいぜつ)境
あるがままに「モノや人」が見えている状態です。
主観を離れて「客観的に物事を視ることが出来る状態が幸せ」ですので、
「性境」に心を持っていくのが、仏教と言えます。
完全に「主観が勝手に描いた妄想」であり「主観の幻想」です。
何もありはしないのに、あると思い込み、
自分で勝手に描いた影であり、影像です。
精神病患者が「被害妄想」となって、
「自分で勝手に対象を作り出して、自分一人で恐れている状態のようなもの」
に例えると、分かりやすいかも知れません。
独影境は、勿論、病的なものばかりではありません。
芸術の分野などでは、積極的な大きな意味を持っているものが、少なくないかと思われます。
偉大な心の影が、偉大な美を創造していくことがあります。
童謡(どうよう)や、童話(どうわ)の幻想的な世界も、独影境です。
耳の聞こえないベートーベンが、あの美しい「田園交響曲」を作り上げたのも、ベートーベンの豊かな精神の率直な表現でありました。
「本質(ほんぜつ)を持つ境」ということで、
「本質」は「モノそのもの」と捉えて良いかと思います。
確とした対象がある、という点では、
完全な妄想や幻影である「独影境」とは違います。
しかし「モノそのもの」は、あるけれども、
主観の捉える対象は、
「対象そのもの」ではなく、
「自分の意味付け」が投影されたり、「勝手な解釈」が付与されたりします。
私達の普段の認識の大部分が、
これ(帯質境)に当たります。
本として、しっかりとした実在感を持って、そこに存在しています。
それを対象にしながら、私達は、一人一人が勝手な本の影像を「相分」として描きます。
反感を持つ方、興味を持つ方、
様々な「相分」が、一人一人の「心の内側」に描かれていきます。
「一枚の写真」それが本質です。
眼識は、一枚の平面の画像の色彩のみを認識します。
それを第六意識が、それを受けて平面に過ぎない画像の中に「大きさや奥行き」を見出だしていきます。
一枚の写真から、立体感を捉えるのは、第六意識が描き出していく「相分」です。
そういう意味では、錯覚や錯視(さくし)現象も、「帯質境」と言えます。
「帯質境」は、
半(なか)ば、主観に左右されますが、
半ば、主観に動かされない実在感を持っています。
その意味では、カゲロウのような「独影境」とは、かなり性格の違う対境ということが出来ます。
三類境は、唯識学の中では、中々、興味深い内容ですので、関心のある方は、ぜひ、YouTubeを御覧下さいませ。
性境(しょうきょう) -種子から実際に現れたもの
独影境(どくようきょう) - 見分から仮に現れたもの
帯質境(たいぜつきょう) - 以上両者の中間にあるもの
である。
そのには、認識の歪みがない
誤解も錯覚も、偏見や思い込みもない
これは、誤解や錯覚、偏見や思い込みにより歪められた認識
唯識論の聖典、世親の「唯識三十頌」
その半分の十五頌が、四分三類の解説に当てられているからだ
じつは、四分三類のほうが重要だ
四分三類はさらに重要
遍計所執性、依他起性、円成実性の三性だ
性境・独影境・帯質境(三類境)
遍計所執性・依他起性・円成実性(三性)
阿頼耶識・末那識・第六識・前五識(八識)
↑
これらが、唯識の柱となる理論
↑
これは、深層意識から表面意識に向かう層構造
深いところから、浅いところへ
言ってみれば、(広義の)意識を横に割った見方といえる
↑
それに対して、これは意識を縦に割ったものだ
阿頼耶識・末那識・第六識・前五識(八識)のそれぞれに、相分と見分がある
もちろん、縦一直線にスパッと割れるようなものではないが(笑)
八識のそれぞれが、相分と見分に分かれる
やはり、深層意識に近い
この2つは別モノと見るべき
じつは、決まった答えがない
人によって、学派によって解釈は異なる
でも、人によっては異なる
人によっては、自証分がメタ認知で、証自証分はその奥のメタメタ認知(?)というような解説をしている
これだと、証自証分とは何なのかが非常に分かりにくくなる
だが、それにも一理ある
↑
唯識論の世界観を端的に表すと、こういうことになる
「360度の立体映像とサラウンド音声」
↑
これが、相分(認識される側)に該当する
そして、
「ヘッドギアの立体テレビとサラウンドスピーカー」
↑
これが、見分(認識する側)に該当する
「リアルな仮想体験をしている自分」
↑
これが、「自証分」だ
「ボクはいま、360度のリアルな景色を見ている。周囲の音を聴いている」
という、認識している自分を客観視している自分
それは、「証自証分」と呼ばれる
現代風に言えば「メタ認知」だ
眼根・耳根・鼻根・舌根・身根・意根
・六境:六つの認識対象
色境・声境・香境・味境・触境・法境
・六識:六つの認識作用
眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識
「感覚する対象と、感覚器官が対になって、認識作用が起きる」
「アナタが認識しているもの。それが、世界のすべてである」
もともと、これは初期の頃から仏教の基本思想と言って良い
それを極限まで突き詰めると、唯識論になる
・六根:六つの認識器官
眼根・耳根・鼻根・舌根・身根・意根
↑これが、見分(認識する側)で、
六境:六つの認識対象
色境・声境・香境・味境・触境・法境
↑これが、相分(認識される側)
ってことになるわけだな?
となるかもしれないが、そこまで単純な話ではない
目の前に存在しているモノだけではないからだ
過去に見たモノを思い出した影像もあれば、それをもとにふくらませたイメージもあるし
まったくの空想の産物だってある
それも、広い意味では認識の対象だ
唯識論では、これらをハッキリと区別している
でも、人間が心の中で巡らせる夢とか空想みたいなものと、この世のリアルが同じだってわけではない
この世の事物は、本当は空である仮の存在であるとはいえ、とりあえず存在している
それは確かなことだ
「外界不存在論」と言ったって、何にも無いと思ってるわけではない
そこは、明確に区別している
↑
つまり、これはちょっと極端な言い方だ
「唯識論の世界観を突き詰めれば、こういうことになる」ってだけ
この世のリアルについては、仮の存在ではあるものの、とりあえず認めている
映像が存在しているからだ
映像が存在するのと、何も無いのとは、やはり違う
縄を蛇にみえるか、
縄を縄として見るか、
というのを
理屈をつけて
やっているのが
唯識だな
ま、さらに
回復してきたな〜
おはよ〜
😄
お釈迦さま以来、これは仏教の根本教義だ
ここを外したら、仏教思想ではなくなる
この世のリアルは、人間が自由に思いを巡らせる空想のようなシロモノでは断じてない
二つ意味あるかも〜
一つは
縄を蛇にみえるか、
一つは
縄を縄として見るか
たぶん〜
😄
こういう要因があるかもね〜
唯識とは関係がないけど、
唯識のテーマとしては
😄
https://m.youtube.com/watch?v=Zl4ZTzOBvB8
タイムリーだ
ちょうど最近、ユングの本を読んでた😄
川^〇^ハレおはよう
灯りもなく真っ暗なら蛇も縄も分かりませんねwww
川^〇^ハレ分別は必要でしょうwww
ワロタwww
立派な禅修行者に
見える
😱😱😱😱😱
😱
∞ノノハ∞
川^〇^ハレ円覚寺 横田南嶺禅師の法話とか曹洞宗教化センター等々チェック入れてますよ♪wwwフフフ
一つには性境。所謂、一切、実種より生じて実の体用有り。
(略)二つには独影境。所謂、其の境、能縁の心と同一種より生じて実の体用無く、能縁の心、自相を得ず。
(略)三つには帯質境。所謂、能縁の心は自相を得ずと雖も、而も其の境相は本質有るが故に帯質境と名づく。
1つは性(しょう)境と言いまして、これは私たちが普通に目にしたりしている対象です。
2つは独影(どくよう)境と言いまして、これは幻覚などのことです。
3つは帯質(たいぜつ)境と言いまして、これは言うなれば勘違いといったところです。
たしかに、この3種類でだいたい説明は出来そうですが、では、幽霊はどうなのでしょう?
もし幽霊にもちゃんとした種があるのであれば、これは性境ということになります。他者はもちろん、机とか電柱とか、そういったものと同類になるわけです。なんか変ですよね。幽霊っぽくないかもしれません。
幽霊は幻覚のようなものでもあるので、独影境の可能性は高そうです。
「実の体用無し」とありますので、実体や実際の作用はないのですが、しかし、映像としてはあるということで、幽霊のイメージに合致するところがあります。
帯質境は勘違いということなので、実はほとんどの幽霊目撃談は帯質境かもしれませんが、だとするならば、これは本来、幽霊ではないということになります。
たとえば、いわゆる「成仏できない状態」にある幽霊が、「お~い、お経でもあげて成仏させてくれ~」と言わんばかりに出てくる。たいてい夕方から夜でしょうか。あまり爽やかな午前中はありません。
まったく先入観なく、その場所にいって何かを感じるというのは、やはりどうも、都合の良い話なんじゃないかと思います。
この感じというものは、仏教的に言えば外部的なものではなく、つまるところ、内部的、すなわち自分自身の心の動揺である不安や恐怖です。
それが何かしら現出し、目の前に現象をもたらすのが幽霊であり、この現出・現象が明確な人や明確な状態にある人は、しばしば幽霊を見ることになるのでしょう。
幽霊の存在は感情的なものであり、感受性豊かな人こそ、いわゆる霊感が強い人、ということになるかと私は思います。
今まで見えていた幽霊が急に見えなくなるということも、たとえばお経をあげてもらったとか、何かしら心の区切りがついたとか、そういう心のあり方に左右されるのでしょう。
幽霊は独影境だとするのが手っ取り早い判断ですが、性境である可能性だってあるでしょう。
この世から去った人であっても、その心が何らかの手違いで部分的に残ることも、ないわけではないでしょう。
何事も完璧ということないと思いますので、エラーすることだって、たまにはあるかもしれません。
善福寺 住職 伊東 昌彦
見事な解説だ
😄
ほーかいくんの好きな
清森くんは
元親鸞会の教義者だから
あんまり信用はしてない
😄
清森氏は、もともと念仏が専門の人
唯識に転じたが
ブログで
さよなら親鸞会の
ブログみるかぎりては
清森氏に
疑問を感じる
あの内容ではな〜
創価と今のほーかいくんの
関係みたいに見えてくる
😃
昨夜、烈しく厳しく
ほーかいくんへメンタルダメージを
加えていた
😫☠️
しらない指摘は
一番キツイ
😫
今週仕事で
活用だ
疲労感が
さらに減った
😄
修行気分が
乗ってきた〜
超伝説師匠のワールドに近接しつつある時は
楽しい
😄
一即多、多即一
みたいな
仕事の世界の気分〜
ろくでもない仕事やけどな〜
老化と
メンタルコントロールの
バトルや
😄
∞ノノハ∞
川^〇^ハレおはようございます♪
長い物を蛇と勘違いするってお話で唯識の見解を知りたかった部分です
ありがたや~♪
府に落ちますね
415 カムイ◆wxnBcJ8ZogOS 2024/03/31(日) 16:26:40.43 ID:bSPja
栖雲居士は禅宗ではないです。
ろんは無事禅に落ちてます。
一一一一一一一一一一一一一一一一一一
無事禅とは曹洞宗で元から救われているのだから只坐ってるだけが只管打坐と言う間違った教え。
ろんは悟りはないと悟ったと言うとんでもない悟りです。
ろんはせったん和尚さんの教えを自分の都合の良い解釈に変えてるだけ。
なるほど
ゆえに
俺はローラー&麦は
ボコボコターゲット〜
😄
修証一等といいますからな〜
😄
縄が蛇に見える
インドの思想の定番ですな~
インド哲学の伝統的な世界観だ
お互いに依存して成り立っている
両方がそろって、初めて画面上に世界が展開する
それこそが、この世界の真実の姿だ
それを美しい映像や音声に変換しているのは自分自身
認識する者、つまり、テレビ受像器と視聴者があって、初めて意味を成す
この3つのうち、どれが欠けても世界は成立しない
この世界は、無数の小さな小さな電極を並べたような仕組でできている
電極は、電子信号を発して、世界内の存在者に作用する
電子信号を受け取り、それを美しい映像音声に変換しているのは自分自身
地球の大きさをパチンコ玉とすると、太陽の大きさは夏みかん程度
地球は、夏みかんから15メートルほど離れたところを周回するパチンコ玉
でも、リアルな距離で図にするのは不可能
太陽と地球の距離に比べて、地球の大きさが小さすぎる
ページの中央に、直径1.5ミリほどの小さな円を描いて、それを太陽だとする
それを中心に、直径15センチほどの円を描き、そこを周回する直径0.1ミクロンちょっとの点が地球
地球の直径 12,742km
太陽の直径 1,392,700km
地球と太陽の距離 1億4960万km
地球と太陽の距離は、太陽の直径の100倍ちょっと
この3つは、そういう分かりやすい関係にある
地球は、驚くほど太陽から遠いところを周回している
これほど離れたところで、46億年も安定軌道を維持しているのは奇跡
そこから15メートル離れたところを周回するパチンコ玉をイメージするといい
セブンズデー礼拝のメッセージを
聞いている
😄
うまい具合に、ハビタブルゾーンを周回している
ちょっと軌道がそれたら、たちまち地球上の水分はすべて凍りつくか、もしくは沸騰して蒸発する
そういうスレスレのところを周回している
という中曽根康弘の名言を思い出す
再臨への期待
のメッセージから
霊的な
理解がしやすくて
おもろい
アタリだ
😄
アメリカ人のファンダメンタルズなら、
ビッグバンから徐々に宇宙は形成されたのではなく、
神の意志で
7日で太陽系は形成された
付き合いしているアメリカ人牧師は
マジメに
それを信じているが
意見をしたことかない
😄
違った
確認したところ、後藤田正晴の言葉だった
「自分を含め政治家は、いつも(刑務所の)塀の上を歩いている。常に十分に注意しないと内側に落ちる」
創造説には無理があるな😅
誰かが考えて創れるようなものと思えない
「この宇宙は、偶然の積み重ねにより、たまたま成り行きでできた」
という考えは論外だ
んなわけあるか、いくらなんでも(笑)
主の再臨を待望する
霊的な希望が
日々の生活のエネルギー源
みたいな発想しているよーだ
動画メッセージを見てる
😄
アッセンブリー系統で
繁栄の神学と言われる教会らしい
賛美は今風
https://m.youtube.com/watch?v=ESWRxfTPcKg&pp=ygUk5Y2X57SA44Oq44OQ44O844K144Kk44OJ44OB44Oj44O844OB
「大阪中央福音教会の系統」と言ってるから、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団ですな
村上密に言わせると
繁栄の神学がアメリカの一部の牧師から
日本のアッセンブリーに
入り込んでいる
と言っていた
ま、フルゴスペルも
一応アッセンブリーの下にある
教団とも言われているが
アッセンブリー教団内部も
保守派は、
さほど酷くはないらしいが、
😫
重い1ギガバイトに近い
😫
なんだか、複雑そうだな?(>_<)
アメリカの教団は
そもそも
超教派志向があるから
発展途上国で繁栄の神学で布教成功すると
アッセンブリー教団内部で
勢力を持ちそう
ヨーロッパ系統のプロテストとの違いだろな
😃
馬さんの紹介動画で
分子だったか原子だったか
99%空洞らしい
その空洞を全て取り除くと
80億全人類が…忘れた
多分サイコロくらいの大きさに
収まるみたいなこと言ってた
そうそう
そういうの
原子核の大きさは、野球のボール1個
(もちろん、ウランみたいに質量の重い原子だと、もっと大きいが)
のこりの空洞を、電子雲が埋めている
水素原子の場合は、電子が1個しかない
真ん中に野球のボールくらいの原子核がポツンと浮かんでいる、東京ドームくらいの大きさの空洞
単純な水素原子の場合は、陽子1個しかない
陽子の大きさは、これまた途方もなく小さい
原子核の大きさを東京ドームとすると、陽子の大きさはボール1個程度
固い物体に見えるモノでも
思いっきり拡大してみれば、ほとんどがガランドウの空洞だ
虚空に、ポツンとボールみたいな原子核が浮かんでいる
2~300メートル離れたところに、また別のボールが浮かんでいる
同じように、2~300メートルの間隔で、ポツンポツンとボールが並んでいる
その間に、電子がある
電子は粒子だが、ふだんは波動として存在している
電子の波動が、ボール、つまり原子核の周囲を雲のように包んでいる
物質は、思いっきり拡大したら、これくらいスカスカでほとんど空洞に近い
そういう発想するあなたは
釈論おすすめ
😄
チラッとググッたら
中論て文字がみえたからそっと閉じた
人のこころに“無意識”の領域があることを発見したフロイトは、人のこころの機能や構造を理解する上で大きな影響を与えました。
まず、精神分析の始祖であるフロイトは、人のこころを「意識」「前意識」「無意識」の3領域に分けて考える「局所論」を提唱しました。
その後、局所論の理論を発展させて「構造論」を提唱して(1923)、こころの機能や構造を科学的に捉えようとしました。
フロイトの構造論では、人間のこころを「イド(id)」「自我(ego)」「超自我(super-ego)」の3領域に分かれていると考えます。
各領域にはそれぞれの役割と機能があり、この3領域の働きがどのような状態になっているかによって、その人のこころの状態を把握する手がかりを得ることができます。
イドとは無意識の領域のことを指し、自覚されていない過去の経験や、「~がしたい」「~がほしい」といったさまざまな欲求などが無秩序に存在しています。
人が持つ欲求の中には、依存欲求や承認欲求に加えて、相手をコントロールしたい、自由でありたい、攻撃したいなど、さまざまな欲求が存在しています。
イドは、「快感原則」に従って機能しているため、すぐさま欲求を満たすことを優先し、不快なものを避けようとします。
また、本能的なエネルギー(リビドー)を蓄える貯蔵庫にもなっており、本能的なエネルギーを放出して快感を得ています。
超自我とは、幼少期に受けた両親のしつけが、こころの中に取り入れられてできた領域のことを指し、イドや自我の見張り役でもあります。
そのため、両親(あるいは、それに近しい養育者)のしつけがどうであったかの影響を受けやすく、両親からのしつけが厳しいと、イドや自我の見張りが厳しい超自我が形成されます。
ですが、実際の両親がどうであったかに関わらず、親を悪い見本とすることで、厳しい超自我が形成されてしまうこともあります。
このように形成された超自我によって、「~してはいけない」といった道徳的な考えから善悪を判断したり、理想的な自分になれるように「~すべきである」と考えて行動に移したりすることができます。
😃
自我とは意識の領域のことを指し、日々自覚している「私」の部分のことです。
「私は~という人です」と表現できる自己意識の部分や、アイデンティティと称される部分ともいえます。
自我は「現実原則」に従って機能しており、「イド」や「超自我」の調整役となって、内的なこころのバランスを保っています。
それに加えて、状況を把握しながら判断を下し、社会に適応していくための機能も担っています。
「イド」「自我」「超自我」は三層構造となっており、中央に位置する「自我」は、下部に位置する「イド」からの欲求を抑え込んだり、上部に位置する「超自我」からの命令に応えたりするなどして調整役を担っています。
例えば、授業中や仕事中に、強い眠気に襲われた場面を想定してみましょう。エスからは「今すぐ寝たい」という欲求が押し寄せ、超自我からは「授業中(仕事中)は寝てはいけない」という考えが出てきます。
自我は、時と場合を踏まえながら、そのまま少し我慢したり、ちょっとした休憩を入れたりして対処しようとするでしょう。
あるいは、そもそも寝不足にならないように睡眠を整えようと考えることもあるかもしれません。
このように、自我は、トラブルが生じないように、欲求に対処してくれたり、妥協点を見つけたりしてくれるので、私たちは社会生活を過ごしていくことが出来ています。
talk宗教板を盛り上げないとな~😄
こっちは理趣経オタクで修行研究だ〜
最終回に入った
明日には
見終わるやろな〜
https://m.youtube.com/watch?v=DQND7lFrIC0&list=PL7_gsT7Z-Gj33is2D16l6QlVfRZjijWLA&index=1&pp=iAQB
理趣経は欲望の扱いがテーマてある
ユングも密教の欲望の扱いテーマに関心があったかもなー
曼荼羅とか
好きだったらしいからなー
😄
オモロイ
はじめて理趣経内容に関心もった〜
実地の真言密教寺院で
ゾーン狙いは
やってたが
知識蓄積は
即身成仏義だけやった
😄
ほとんどない、
真言密教坊主的には
やりたくないんやろな〜
軽薄そーな坊主なので
8本20分クラス上げてる
😄
理趣経動画を見ながらイメージ拡大
やった
結構参考になった
修行ネタとしては〜
😄
修行アゲテいくべ〜〜
空間への解釈が深まった〜
😄
空海路線とみせつつも
実は臨済宗研究だ
😄
真言密教を、
少し見直した〜
理趣経
😄
今日は朝から般若心経秘剣を
山伏唱えるのを聞いている〜
神社では秘剣をやれるらしい〜
😄
https://m.youtube.com/watch?v=7GmfHVCHNLE
インドの仏教論書であり、世親(バスバンドゥ、5世紀ころの人)の著作
https://i.gyazo.com/thumb_dpr/1000/8640543afb2a5be25b60ad6d6b8e54e6-png.png
根品(こんぼん) 存在現象の活動
世間品(せけんぼん) 世界の構成
業品(ごうぼん) 有情(うじょう)の輪廻(りんね)の原因となる業(ごう)
睡眠品(ずいめんぼん) 有情の煩悩(ぼんのう)
賢聖品(けんしょうぼん) さとりの段階
智品(ちぼん) 智慧(ちえ)
定品(じょうぼん) 禅定(ぜんじょう)
破我品(はがぼん)
最後に付録の破我品で異説を論破する。
説一切有部の行き過ぎた教理に対して、経量部の立場から批判が加えられている部分がある点に特色がある。
古来、仏教学の基礎として広く研究され、本書にもとづいて日本では「倶舎宗」が成立した。
・この世界の成り立ちはどうなっているのか?
・物質の極小の単位は何か?
・物と心の関係はどうなっているのか?
・認識をする主体や意識の流れはどうなってるのか?
・原因と結果には因果関係がホントにあるの?
・時間の最小単位はどこか?
と言った具合に、世界と自分の関わりについて考察を法(ダルマ)を以て説明を
深めていく傾向が顕著になってきます。
https://piicats.net/kusharon.htm
真言密教系統の信者で
勝手に真言密教系統の解釈を載せまくったから、
破門された
云々てあった
割合お世話になったサイトだな
即身成仏義の
現在語訳もあったな
😄
日蓮宗、浄土宗、キリスト教、イスラーム、神道に関する理解が
深まった〜 昨日からー
😄
ついでに分かるのか~😄
抽出して
すなわち、理趣経の空間認識を
割引いて
自己内部のエネルギーの先行と
想定すると
日蓮宗、浄土宗、キリスト教、イスラーム、神道に関する理解になるー
😁
加持は
ある種のエネルギー注入なので
禅関連と
まったく違う発想〜
ロン閣下の
言い回し趣味をみれば
エネルギー注入ではないからなー
😄
まー
自己内部のみならず
空間にエネルギーが満ちている感じだろうからなー
日蓮宗、浄土宗、キリスト教、イスラーム、神道あたりは
空間にエネルギー満ちている認識は
ないだろなー
😄
合わせれば
唯識も
テーラワーダも
禅も
エネルギー注入よりも、
引き算方式のシステムスタートやからなー
ゆえに、
引き算方式で
ムイムイとローラーは
ボコボコにする
そして、彼らは
言う、でおーは
自分の意見言わないじゃないかー
引き算方式だから
自分の意見はなくなるのが基本なのだが〜
😄
唯識のシステム上、
ただ識のみ、
となる
😄
デンパパみたいに
なんでもかんでも統一して
同一統合なんて
オレは目指さない〜
😄
大澤真幸が読む
2~3世紀の南インドの人、龍樹(ナーガールジュナ)が著した『根本中頌(こんぽんちゅうじゅ)』、略して『中論』は、仏教史上最も重要な理論書である。ここで説かれているのは、「実体の実在」の徹底した否定、つまり「空」の理論だ。言語で世界を捉えている私たちは、言語によって記述される対象が実在すると思っている。が、それは虚妄だというのだ。
(社会学者)=朝日新聞2019年3月9日掲載
仏教全般に言えることだが、中観派はとくにその傾向が強い
・・・というセリフも、言語だが
つまり、言語は物質的な存在でも、精神的な存在でもない
単なる道具にすぎない
既存のルールや制度への執着を一旦(いったん)徹底して断つ必要があるからだ。
↑
これね見道による煩悩を一旦断つことで管理下、制御下になる
全ての言葉が表す、表せるものの中には実在はないし、それがあるかのように錯覚することが苦の原因なのも分かる
ただ、それをもってなせ仏教がアートマンの「否定」をしているのかが分からない
言葉を超えたところにしかアートマンはないはずなのに、言葉の否定がなぜアートマンの否定になるのか不思議でならない
ほーかいくんが空想してるよーな
単純なものではないなー
そのややこしい理屈から
三論宗、華厳宗、天台宗、真言密教、禅が発生した
😄
だから
ローラーはデタラメー
一番言語外へ
カテゴライズされたのが
臨済宗
😄
公案は、既存の言語体系を崩すためにあるはず
やはりボコボコしたくなるー
ムイムイもー
😄
〘名〙 (「げろん」とも)仏語。無益な、また無意味な言論。愛着の心からする愛論と、道理にくらい偏見からする見論(けんろん)との二つをいう。
仏教における戯論(けろん)、パパンチャ(papañca)とは、言語や概念を通じて世界を概念化することを指し、これは苦を生じさせる原因となりうる。
「妄想」「障礙」「妄心・迷想・迷妄」「概念増殖 conceptual proliferation」「心の拡張機能」などと訳される。
戯論は病の元であり、楽しむべきではないと仏典では説かれる。
それが仏教(とくに中観派)
言葉の上だけの空論を意味する。特に空海(弘法)は『十住心論』『弁顕密二教論』で、真言の教えに対し他宗の教えを「戯論」と下しており、そのことを日蓮大聖人は「撰時抄」(277,278㌻)、「報恩抄」(305,321㌻)などで、法華経を誹謗するものとして追及されている。
1つには、
「神は有るか、無いか」、
「輪廻転生は有るか、無いか」
といったような、人それぞれに
考えが異なり、結論が出ない問題に
ついて無益な論争をすること
暑さ寒さ、豊かさ貧しさ、高さ低さといった
言語によって刷り込まれた、
二項対立の世界観
川^〇^ハレ脳科学者の茂木健一郎氏の動画で
意識はどこから生まれてくるのか?
数学 脳科学 量子力学 等々色々な分野から30年探求されたそうですが
分からないとおっしゃっていました
日本でも縄文時代から弥生時代稲作の村社会でコミュニケーションをとる必要が出てきたんでしょうね
言葉の概念によって実体視してしまうけど
諸行無常でもあるからお釈迦様の様な聖者でなくてもある意味救われているのかもですね♪
ローラー&麦の
夢〜〜〜
🧟🧟🧟🧟
川^〇^ハレフフフ
一生感動一生青春♪
by.相田みつを
ひたすら、言語を使い続けている
何千回も、何万回も繰り返している
それによる刷り込みの効果は大きい
信念体系こそ、自分自身を縛る鎖
自分自身を閉じ込める牢獄
そこが問題だ
「寒いな~」
何か言うたびに、価値観が刷り込まれる
いまは半袖シャツでちょうどいい
メンタル疲労が
超激減ー
理趣経をヒントに
😄😄😄😄😄😄
目の前の四つ足動物が持つ、「自分にとっての意味」が変わるだけ
念力で動物を変化させるわけではない
家のカゴにいるインコを見れば、かわいい、守りたいと思う
ゴミ捨て場を荒らしているカラスを見れば、憎たらしい、駆除したいと思う
電線に止まっているスズメを見ても、気づかずに通りすぎる
客観視すれば、どれも鳥にすぎない
だが、自分が見ている世界内での存在としては、大きく異なる
それなしでは世界は成り立たないし、生きていけない
すべてのものを、自我のフィルターを通して認識している
この、世界の意味づけにおいて、言語がはたしている役割は大きい
何千回も何万回も心の中で繰り返していれば、それが真実になる
因業な爺さんが、神様に見えてくる
😄
おは〜ー
😄
より強固な信仰を持つほど、良い信者として高く評価される
仏教だけは例外だ
仏教は、「固定観念からの脱却」を目標としている
おはよ~ございます☀️😃❗
脳内ホルモンの運用がうまくなったー
2秒ぐらいを
休憩でなくてもやれるー
😄
若い頃は
人間社会の構造分析に
ソシュールと唯識をかけ合わせて
洞察してたなー
20代後半
😄
一番宗教傾向薄く
破壊主義なノリかある
臨済宗が
ずっとオレの人生の中心であり、
ローラーや麦のホラがよく見える〜
😄
おれが
コワイはずだー
キツイ一撃を
いつも喰らうからだ
😄
やからなー
ローラーは
それがわからず、
理性だの、
と
理性のかけらもなく
やっている
😭
川^〇^ハレおはよう♪
https://youtu.be/MbAd0KVB-pw?si=SsrqixEbNS5tOM63
バッタモンA
😭
ユーザー
法介◆T3azX0Hk1U
pYLHv(187/388)
『立正観抄送状』は知ってるか?
2024/04/18 10:19:10
Reply
Good
1
255.
ユーザー
法介◆T3azX0Hk1U
pYLHv(188/388)
このたびのお使いは、まことに御志があらわれておりました。また、種々の御志の御供養をたしかに頂戴いたしました。
さて、お手紙で、現在の天台宗等が「止観は法華経に勝れ、禅宗は止観よりも勝れる」、また「観心の大教が興るときは、法華経本門、法華経迹門の大教を捨てるのである」ということについて拝見しました。
2024/04/18 10:19:36
ユーザー
法介◆T3azX0Hk1U
pYLHv(189/388)
まず、天台宗のなかにさまざまな流派があり、その主張が別であるといっても、慧心流・檀那流の二つの流派の域を出ることはないのである。
慧心流の義では、「止観一部は本迹二門にわたる」といい、次の文をその文証としている。
2024/04/18 10:20:11
Reply
Good
257.
ユーザー
法介◆T3azX0Hk1U
pYLHv(190/388)
摩訶止観巻六に「止観の観は仏知と名づけ、止は仏見と名づける。瞬間瞬間の一念のなかに止観があらわれるのである。(中略)ただし三乗のなかの始成正覚に執着している者を除く」とあり、止観輔行伝弘決巻五に「十乗観法は既に法華経で説かれているところのものである。このために立ち還って法華経の文を用いて賛嘆しているのである。法華経迹門からみれば、大通智勝仏の時に『何劫にもわたる修行を積んだ』とし、寂滅道場で『思議しがたい悟りを得た』とするのである。法華経本門からみれば、我本行菩薩道の時に『何劫にもわたる修行を積んだ』とし、五百塵点劫の成道の時に『思議しがたい悟りを得た』とするのである。法華経の本迹二門は、ただこの十乗観法の求道の証悟を説いているのである」とある。
2024/04/18 10:20:22
ユーザー
法介◆T3azX0Hk1U
pYLHv(191/388)
初めの文では、「止観は法華経本門に限る」としており、次の文では「止観はまさしく法華経本門、法華経迹門にわたる」としていることが分かる。ゆえに、これらは止観が法華経本門・迹門にわたるということの文証である、といっている。
つぎに檀那流は、「止観は迹門に限る」といっている。その証拠は止観輔行伝弘決巻三の「立ち還って、四教や五味を借り妙円を顕すのである。(中略)ゆえに、一部の文はともに円成の権を開いて妙観を成じているのを知るのである」の文である。この文によれば、「止観は法華経の迹門に限る」ということが明らかである、とする。
2024/04/18 10:21:13
Reply
Good
259.
ユーザー
法介◆T3azX0Hk1U
pYLHv(192/388)
慧心・檀那の二つの流派の義は異なっていても、ともに法華経本門、法華経迹門を出るものではない。
現在の天台宗はどこから相承して、「止観は法華経に勝れる」というのか。ただし日蓮が存じているところでは、止観と法華経の勝劣は天地雲泥である。
もし、与えてこれを論ずるならば、止観は法華経の迹門の内容に似ている。それは、天台大師の己心に証得したものは、天台大師の十徳のなかでいえば、第一の「自ら仏乗を解す」であり、第九の「法華の円意を玄悟す」である。
2024/04/18 10:22:24
ユーザー
法介◆T3azX0Hk1U
pYLHv(196/388)
講義した経典が既に権大乗経である。また「次第行」といっているのだから別教である。開悟した陀羅尼は、また法華経の前方便であるといっている。ゆえに、爾前の権教を帯びた経や別教の内容であるということが明らかである。
己心に証得した悟りが既に前方便の陀羅尼であり、止観は己心の中に行ずる法門を説いたものであるというのだから、止観は法華経の迹門に及ばない。まして法華経の本門に及ばないことを明らかに知ることができるのである。
2024/04/18 10:23:25
Reply
Good
264.
ユーザー
神も仏も名無しさん
fwZ3Y(8/9)
>>251
結局、煩悩も悟りも全部自分の中にあるもんやからね(*´ω`*)
お釈迦さんが否定したとか別にしてそこをすっ飛ばしたらアカン思うね
近道は大事なもんを見落とすかもしれんからね(・∀・)
2024/04/18 10:23:28
Reply
Good
265.
ユーザー
法介◆T3azX0Hk1U
pYLHv(197/388)
もし、この意を知るならば、檀那流の教義が最もよい。これらの趣旨をもって、「止観は法華経に勝れる」という邪義に対して問答するのがよいであろう。
詳しい趣旨は別に一巻、書き送った。また、日蓮の相承の法門、血脈をたしかに註して差し上げた。恐恐謹言。
文永十二乙亥(きのとい)二月二十八日 日 蓮 花 押
2024/04/18 10:23:49
ユーザー
法介◆T3azX0Hk1U
pYLHv(193/388)
天台霊応図本伝集の巻四には「法華教を修行することを十四日にして、己心の境界に入った」といい、摩訶止観巻一には「この摩訶止観は天台智者大師が己心の中に行ずる法門を説いたものである」といい、止観輔行伝弘決巻五には「ゆえに、摩訶止観に正しく観法を明かすのに、併せて一念三千をもって指南としたのである。(中略)ゆえに、章安大師が序のなかで『己心の中に行ずる法門を説いたものである』といっているのである」といっている。
「己心に行ずる法」とは一念三千、一心三観である。三諦・三観の言葉や意味は瓔珞経・仁王経の二経にあるが、一心三観・一念三千等の己心に行ずる法門は、法華経迹門の十如実相の文を依拠として解釈して説かれたものである。
このことから、止観一部は法華経迹門の内容に似ていることを知ることができるのである。
2024/04/18 10:22:41
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Good
261.
ユーザー
法介◆T3azX0Hk1U
pYLHv(194/388)
もし、奪ってこれを論ずるならば、止観は爾前の権大乗経、つまり別教の分斉である。その理由は、天台大師が己心に証得した止観とは、普賢道場で証得した悟りである。
天台大師が、大蘇山の普賢道場で三昧の境地を開いて証得した悟りを、師の南岳大師に申し上げたところ、南岳大師は「その証得した悟りは、法華三昧の前方便にあたる陀羅尼である」といわれているからである。
2024/04/18 10:23:04
Reply
Good
262.
ユーザー
法介◆T3azX0Hk1U
pYLHv(195/388)
このことを、天台霊応図本伝集
ユーザー
法介◆T3azX0Hk1U
pYLHv(195/388)
このことを、天台霊応図本伝集の巻四には「天台大師智顗が南岳大師に代わって金字の大品般若経を講じた。そのとき、『一心具足万行』のところに至って、智顗に疑問があった。南岳大師慧思はそのために釈して『なんじの疑問のところは、大品般若経の次第行の意なのである。これは未だ法華経の円頓の意味ではない』と述べた」とある。
2024/04/18 10:23:14
Reply
Good
263.
ユーザー
法介◆T3azX0Hk1U
pYLHv(196/388)
講義した経典が既に権大乗経である。また「次第行」といっているのだから別教である。開悟した陀羅尼は、また法華経の前方便であるといっている。ゆえに、爾前の権教を帯びた経や別教の内容であるということが明らかである。
己心に証得した悟りが既に前方便の陀羅尼であり、止観は己心の中に行ずる法門を説いたものであるというのだから、止観は法華経の迹門に及ばない。まして法華経の本門に及ばないことを明らかに知ることができるのである。
2024/04/18 10:23:25
ユーザー
法介◆T3azX0Hk1U
pYLHv(197/388)
もし、この意を知るならば、檀那流の教義が最もよい。これらの趣旨をもって、「止観は法華経に勝れる」という邪義に対して問答するのがよいであろう。
詳しい趣旨は別に一巻、書き送った。また、日蓮の相承の法門、血脈をたしかに註して差し上げた。恐恐謹言。
文永十二乙亥(きのとい)二月二十八日 日 蓮 花 押
2024/04/18 10:23:49
Reply
オモロイ引用なので
早く流れる前に保存用
😄😄😄😄😄😄😄
ちゃくめつ/択滅
煩悩を智慧によって滅すること。
択とは判断し認識すること。
『俱舎論』では、「択は謂はく、簡択けんちゃくなり。即ち慧の差別なり。各別に四聖諦を簡択するが故なり。択力所得の滅を名けて択滅となす」(正蔵二九・一下)という。
この慧はあくまでも心の作用をいう。この智慧によって煩悩を断滅した境地つまり涅槃を択滅とする。有部では一つ一つの煩悩を断つごとに、一つ一つの涅槃つまり択滅があるとする。五位七十五法、五位百法では無為法の一つとして数え上げる。
選ぶこと
つまり、判断することだ
つまり、ある瞬間に「眼識」(「見ようとする心」のことで、六識のひとつ。「三科」、「意識」も参照)が、ある「色」をとらえたとすると、その「色」と同時に現在に生起してきた他の「色」「声」「香」「味」「触」(この5つを五境という。「五位」も参照)は、その心の対象とならないまま、次の瞬間には過去へ去ってしまう。そうすると、心相続の上に生起してそれらをとらえるべき(上述の五境に対応する、眼識、耳識、鼻識、舌識、身識の)五識は現在の対象にむかってしかはたらかず(「三科#十八界」「五位」も参照)、現在に生起する因を得ることができない。その場合、それら五識には「非択滅」という一種のダルマとのかかわりが生じたと考える。
唯識学では、涅槃(無為)を六つの観点から明らかにします。
これを「六無為(ろくむい)」といいます。
その中の一つが、「択滅(じゃくめつ)無為(むい)」です。
では、どのようにすれば、真如を見ることが出来るのでしょうか?
それは、心の中にある、様々な汚れ、即ち煩悩を無漏の智慧の働きである「簡択(けんじゃく・えらび捨て、えらび取る働き)の力」によって滅し、
煩悩からの束縛を全く離れた時に、真如を見ることが出来ます。
このように、真如は、簡択の力によって、煩悩が滅することを通して、得られるから、
その意味で、真如を「択滅無為」と言います。
真理を覆っている汚れである、漏を有する存在が、私達の自己存在です。
ですから、私達を「有漏(うろ)」と言います。
日本語で、うろうろする、という言葉はここから来ております。
清らかな無漏の智慧でもって、有漏なるものを滅していかなければなりません。
その無漏の智慧のことを、別名「簡択」と呼びます。
簡択(えらびとる)とは、簡び択る、という意味で、
真如とは、心の本性であります。
それを覆う塵やベールを、どの程度、取り除くかによって、真如の現われ方にも違いが出てきます。
心の中から、ありとあらゆるベールを除去する時に、真如という満月は、その全貌を心の中に現します。
そのベールの覆いを拭い去るのが、「無漏の簡択力」なのです。
無漏の簡択か
なんだ、そうだったのか
簡択ってのは、煩悩を滅するために必要なんだな
選ぶこと、つまり判断だ
一切の判断を伴わないのが、非択滅か
レスしてたのだなー
昨夜は
不眠気味である
😄
自スレゾーンで
たまに
レスくれる
😄
川^〇^ハレ判断を伴わない時もあるけど
一切の判断を伴わなかったらヤバイでしょうwww
川^〇^ハレ法介君無人島生活は快適かなぁ
てことは、非択滅はヤバいな?😫
つまるところ
テーラワーダでいう
サティの
行を想定しているのでは〜
ま、麦のレスなんでねー
実践がともわない、
😞
異なれば
あり様がことなる
😄
サティの行か~😄
∞ノノハ∞
川^〇^ハレWikipediaだと非択滅は正しい知恵によらない法の止滅だそうです
>非択滅(ひちゃくめつ、梵: apratisaṅkhyānirodha、アプラティサンキヤーニローダ)とは、仏教において、正しい知恵によらない法の止滅[1]のこと。説一切有部の五位七十五法のうち、無為法の一つに数えられる[2]。説一切有部の説では、二心の併起を認めない(五位#概要のうち、節「説一切有部における法、心の性質」を参照)ために考えられる特異な法(ダルマ)[3]。
チラッとだけ論文見ました
>無住処涅槃を択滅にするか、非択滅にするのかは、唯識派の中でも意見が割れと述べている。
wwwwwwwwwwww
外部存在の正滅するという前提ですわなー
😄
サンスクリットのアーカーシャakasa の漢訳で,一般に大空,空間,間隙などを意味するが,古来インド哲学では万物が存在する空間,あるいは世界を構成する要素,実体として重要な概念の一つである。
因縁による生滅するあり方(有為)と、因果を離れた不生不滅のあり様(無為)のこと。すべての存在(一切法)は有為無為によって分類される。
有為は完成された、準備された、洗練されたなどの意味を持つ。特に因縁により作為された、生滅するあり方を指す。
一方、無為は有為の否定語。因果を離れた不生不滅のあり様を表し、涅槃、寂静などと同義に用いられる。
有為法は刹那滅であり、必ず刹那に生・住・異・滅の四相を伴う。
また無為法には、虚空こくう・択滅ちゃくめつ・非択滅の三種を認めている。
有為法には、これがある
無為法には、これがない
起承転結と似ているな
チャレンジしとるなー
😄
天台神道研究しよーと
😄
神仏習合の世界は深いな~😄
∞ノノハ∞
川^〇^ハレおはよう♪
三次元 四次元 五次元の様に次元があるのかなぁ?
😫
🧟
∞ノノハ∞
川^〇^ハレ学生の頃➰授業とかうわのそらで聞いていましたけどwww
物理のE = mc2とか人間の代謝だと思いますし
仏教で言う法身とか仏性とか当てはまりそうでwww
物理真理パワー〜〜
👾
ちえっちえっ
こりっ
∞ノノハ∞
`/)^ω^)ヽ川^o^ハレヽ
/ / ヽ )
し―J し―J
ちぇっこ
りっさん
∞ノノハ∞
o( ^ω^)oo川’o'ハレo
/ ( ) ヽ
し―ーJ し―ーJ
にさんか
まんがん
∞ノノハ∞
( ^ω^)川'o'ハレ
/ u uヽ / u uヽ
し―ーJ し―ーJ
さんか
まんがん
∞ノノハ∞
`/)^ω^)ヽ川^o^ハレヽ
/ / ヽ )
し―J し―J
おぅまい
ちえっちえっ
ヘ ヘノノハ∞
((ω^ ) (o’ハレっ
) ( ) (
<,―ーJ <,―ーJ
倶舎論だと刹那に一つのことしか
出来ないから(眼識が作動してると
他の識が動かないなど)
を非択滅と呼んでるが
唯識などではそうではないことから
ロジックとしては元からなければ
縁起しないみたいな感じかなと
腕がなければそれによる縁起を起こさない
この部分の作用しないを智慧により選択することで
択滅状態とするのかなと
虚空が分かると(意識と意識の間、呼吸と呼吸の間、プラーナ呼吸等)
この作用しない無為法が分かるようになる
その作用しない無為法を正しく
用いるのが択滅になるのやないかな
きたー
👻👻👻👻👻
まあ一番興味ある部分やからね
👻👻👻👻
未来の因(今の衝動的欲望による準備された因)
を
無為法の作用しないの虚空を利用して
今の心の作用を止めることで
そのまま未来に閉じ込める
瞑想による無分別時、離脱時、サーマディ時、ゾーン時による
極限の即今がそうであるかな
剥き出しの無位の真人
川^〇^ハレ直接知覚の智慧によるのか
現量としての識だけがあるのかって事かなぁ
👻
汚物増殖パターンか
👻🧟
ていうやつだな
🧟👻
やっぱ智慧によってだから
離繁得の心作用操作じゃないかな
唯識論の択滅も同じ解釈じゃなかったかな
現量としてのそれは見所断と一緒で
やはり肝心なのは生活作用における
縁の対処なんでしょう
一度断滅したとしても
縁起だから自我において新たに
因にたいして縁するのは道理でしょうし
∞ノノハ∞
川^〇^ハレ四智が説かれていますもんね
でも阿頼耶識は現量で前五識も現量なんですよね
倶舎論の心所が
唯識において六識を指すのか?
ってことだけど
いわば末那識に汚染された
自我を六識とするなら
禅などの諸法実相で現量で
無我であるから見所断で断たれるけど
所謂、地に足をつけた状態では
無我である自我が生活作用において縁起するのは避けれない
ずっと現量と言うわけにはいかない
デフォルトでは現量だけど
生活作用に触れたら話は別
動中の工夫としての心所の操作が
必要なのかなとその智慧による操作が択滅じゃないかな
阿頼耶識も前五識も現量でしょうね
法華経の釈迦(有為法)と多宝如来(無為法)みたいに
阿頼耶識(阿頼耶識縁起って言うくらいだから有為法でしょう)
を鏡化してそこに無為法を映すってのが
俺的にはしっくりくるかな
コケッコっ〜
👻🧟
?
👻
∞ノノハ∞
川^〇^ハレ>>296でチラッとですけど非択滅の論文を観たら涅槃にも四種類あったと思いました
般若心経も智慧の完成だと思いますので択滅なんだとは思います
🥹
四種類もあるんだ気になる
無余涅槃(虚空オーバーソウル)
有余涅槃(離繁果)
各心所に各択滅
ここまで予想してみた
麦もゴー〜〜〜
👻🧟🧟👻
👻🧟
無住処涅槃は虚空そのものだから
智慧によるものか?と言われたら
確かに微妙だね
虚空を智慧で見出してはいるが
虚空に身を委ねてるだけだから
択滅というよりはまんま虚空というか
リダンスピ教徒に
なりなちゃい〜
👻🧟👻🧟
∞ノノハ∞
川^〇^ハレサクッとWikipediaより
唯識宗では、本来自性清浄涅槃・有余依涅槃・無余依涅槃・無住処涅槃の四種涅槃を分ける
>大乗仏教
編集
大乗仏教では、常・楽・我・浄の四徳を具えない部派仏教の涅槃を有為涅槃とするのに対して、この四徳を具える涅槃を無為涅槃とし、無為涅槃を最上のものとする[8]。大乗仏教では、涅槃を積極的なものと考える[8]。
唯識宗では、本来自性清浄涅槃・有余依涅槃・無余依涅槃・無住処涅槃の四種涅槃を分ける[8]。地論宗や摂論宗では、性浄涅槃・方便浄涅槃の二涅槃を分ける[8]。天台宗では、性浄涅槃・円浄涅槃・方便浄涅槃の三涅槃を分ける[8]。
∞ノノハ∞
川^〇^ハレでおーたんの修行での後得智を披露する時!
それは今♪
なるほど本来自性清浄涅槃が
真如、虚空そのもので
無住処涅槃が涅槃におうせず
煩悩にも囚われない即今の
無位の真人ってことかなるほど〜
∞ノノハ∞
川^〇^ハレ
>なるほど本来自性清浄涅槃が
真如、虚空そのもので
無住処涅槃が涅槃におうせず
煩悩にも囚われない即今の
無位の真人ってことかなるほど〜
諸法実相は無相なんですよね
相分は自証分ですので直接知覚された如来法性で無為涅槃って事になるのかなぁ?
相分は自証分ですので直接知覚された如来法性で無為涅槃って事になるのかなぁ?
↑
そうでしょうね直接知覚、如来法性
、多宝如来が無為でしょう
因みに俺の離脱も直接知覚だから
涅槃にあると言っても差し支えないですかね?
虚仮麦〜〜〜〜
🧟🧟🧟🧟
虚空オーバーソウル一如っ!
麦っ!
虚空オーバーソウル一如っ!
麦っ!
虚空オーバーソウル一如っ!
🧟🧟🧟🧟🧟🧟
∞ノノハ∞
川^〇^ハレそれはやっぱり師について師の判断になると思います
麦ではお役にたてずスマソ😢
そんな
冷たい事言わないで〜
リダン虚空オーバーソウル一如
してあげてえ〜〜〜〜
🧟🧟🧟🧟🧟👻👻👻👻
麦は
きっと
バカにされたい
タイプなのかも〜
😭
なかなか機会がないですねえ
老後実家に帰れば(まあまあの標高の山の上)
近くに曹洞宗の寺があるから覗いてみようかな
多宝如来オーバーソウル釈迦
とかカッコよくね?
麦に
虚空オーバーソウルで
追い立てろっ〜〜!
半端もんがっ!〜〜
👻👻👻👻👻
わりかしどうでもいいかなってのはあるね
分からないまたは正しいかどうか?
ってのをそれこそ有漏有漏するのが
面白い
「虚空オーバーソウル」
僧侶
「お帰りください」
😭😭😭😭
カッコええやろ
使ってええで
168:栖雲居士 ◆dqam8SqGUPdm :2024/05/11(土) 19:31:55.56 ID:SORnaxR8
要するに、ちゃんとした教学等を学ばず、或いは正規の道場にも通参しないで、オカ・スピ・ニューエイジベースで自己流に仏教を解釈してたんでしょ?
そこに伝統仏教を学び、参じている居士が来て、その通説を説いた訳です。
倶舎論の奥義だな
有為(うい)とは因縁により生滅する存在(無常)であり、対して無為(むい)とは、特定の原因や条件(因縁)によって作りだされたものではない、不生不滅、形成されざるもの(常住)の存在のこと。また、涅槃のことを無為ということもある。
説一切有部においては、過去・現在・未来の多種多様な有為法が、無数の法の流動生滅が織りなすところこそ、われわれの生きる有為転変の世界であるとしたうえで、そのような因果的存在を超えたところに見出される常住の涅槃こそが無為であると考えた。
説一切有部は三無為を唱え、以下の3要素を生滅的なあり方を超えたものとして無為法に数えあげた(五位も参照)。
虚空(こくう、アーカーシャ) - 物(色)の存在する場所としての空間。
択滅(ちゃくめつ) -涅槃のこと。無漏の(正しい)知恵によって個々の煩悩の拘束から離れる時に得られる滅。「択」とは法に対して正しい弁別判断をなす洞察力のこと。
非択滅(ひちゃくめつ) - 正しい知恵によらない法の止滅
すべてのものは移り変わる
不変のものなど何もない
諸行無常こそ、仏教の根本教義だ
なんと、世界は「諸行無常」なものと、「恒常不変」なものから成り立っているというのだ
諸行無常なものを「有為法」、諸行無常でないものを「無為法」という
釈尊は、「無常でないものなど、何もない」と明言している
しかし、仏滅後の数百年で、「例外」が設けられた
説一切有部の時代には、世界は「無常なもの」と「無常でないもの」に分類された
ある時、世尊は、サーヴァッティーのジェータ林なる給孤独の園の精舎にあられた。その時、一人の比丘が、世尊のいますところにいたり、世尊を拝して、もうして言った。
「大徳よ、この世のものにて、定恒永住にして、変易せざるものがあろうか。」
「比丘よ、この世には、定恒永住にして、変易せざるものは、少しもない。」
そして、世尊は、すこしばかりの土を爪の上にのせて、かの比丘に示して言った。
「比丘よ、たったこれだけのものといえども、定恒永住にして、変易せざるものは、この世には存しないのである。」
(サンユッタ・ニカーヤ 22:97)
だが、説一切有部によれば、無常でないものは有る
それが「無為法」だ
勤行タイムだ
😄
まー
勤行一式は
内容は
よーてきているわなー
😄
坐禅よりも
眼が細くなる
寺院の法流の特徴かもしれん
😄
坐禅を5〜10分奉納?してくる〜
😄
勤行はやらない
😄
華厳思想濃度が
実は高い
😄
応仁の乱前後から
曹洞宗はお経好きブームらしい
学者によっては
葬式仏教は
曹洞宗だ、
という学者がいる
曹洞宗も江戸時代初期以降の卍山、面山まで教学復興が衰退してたし、
卍山面山の教学復興後も
曹洞宗は悟りの体験は重要視されず
勤行と坐禅みたいね〜
😄
お経読んで瞑想のゾーンに入りやすい人と
瞑想でゾーンに入りやすい人がいるらしい
曹洞宗でもお経でゾーンに入れるて
坐禅奉納たまにする曹洞宗寺院の和尚が言ってましたな
😄
智山派にしろ
曹洞宗にしろ
天台宗にしろ
臨済宗あたりにしろ
勤行一式の内容は類似している
真言宗系統のお経は
違う部分もある
😄
A、読み方は「ごんぎょう」で、仏教で用いられる言葉です。 「精進すること」という意味で使われます。 数多く存在する宗派の経典に合わせて勤行を行うことで、仏教徒として善い行いをすることが目的です。 しかし、現在では主に仏前で読経することを「勤行」と呼んでいることが多いようです。
勤行について教えてください
「勤行」とは、朝晩、御本尊に向かい、法華経の方便品と寿量品を読み、「南無妙法蓮華経」と題目を唱えることです。この「勤行」こそ、日々の生活のリズムの根幹であり、幸福への源泉です。
御本尊は、宇宙の根源の妙法である南無妙法蓮華経を体得された御本仏・日蓮大聖人の御生命を文字にあらわしたものです。その御本尊を信じ、読経し、題目を唱えていくとき、御本尊に共鳴して、南無妙法蓮華経が私たちの生命に体現し、本来、私たちに内在している仏界という最高の生命が湧き現れてくるのです。
これですよ、これ
個人的には、「勤行」っていったらこれだ😅
創価系の考え方になじんでいるからかと😅
曹洞宗や臨済宗も、仏前で読経するんだな?
曹洞宗や
臨済宗といえども
山伏階級や念仏階級は
明治以前まであったので
その影響やろな
明治政府の所領を奪いとられれば
やはり
葬式で飯を食うよーになったやろしな
😟
スマホを経本にして
読経する
月曜日一時半頃
これだ
https://soto-tokai.net/okyou.html
ま、
大方の坊主は
華厳テイストよりも
本覚思想テイストで
やってるだろな
😫
キリスト教は
霊的メッセージ出す才能はある
曹洞宗は
まだまだだなー
曹洞宗の並みの坊主を
押しまくれるメッセージパワーは
未完だな
😄
原始仏典を、よまなきゃならんなー
臨済宗は、
そんなの
必要ないけど
曹洞宗は
必要だ
真言密教のほうが
簡単だ
ヒラメキと
知識のコンビネーション技が
割合自動的にでる
😄
大乗混ぜ合わせだが
いいのがある
ダウンロードしてまう
ホテルにあるやつ〜
仏教聖典フリーダウンロード | 公益財団法人 仏教伝道協会
... 仏教聖典」として誰もが手軽に読めいつでも心の糧にすることのできるよう、やさしくわかりやすい現代の言葉に翻訳・編集しました。 各国語版
∞ノノハ∞
川^〇^ハレおはよう
スッタニパータ
学生モーガラージャの質問で諸法無我が説かれていると思います
>「つねによく気をつけ、自我に固執する見解をうち破って、世界を空(くう)なりと観ぜよ。そうすれば死を乗り超えることができるであろう。このように世界を観ずる人を、〈死の王〉は見ることがない。」
学生モーガラージャの質問
1116 モーガラージャさんがたずねた、「わたくしはかつてシャカ族の方に二度おたずねしましたが、眼(まなこ)ある方(釈尊)はわたくしに説明してくださいませんでした。しかし『神仙(釈尊)は第三回目には説明してくださる』とわたくしは聞いております。
1117 この世の人々も、かの世の人々も、神々と、梵天(ぼんてん)の世界の者どもも、誉(ほま)れあるあなたゴーダマ(ブッダ)の見解を知ってはいません。
1118 このように絶妙な見者(みて)におたずねしようとしてここに来ました。どのように世間を観察する人を、死王は見ることがないのですか?」
1119 (ブッダが答えた)、「つねによく気をつけ、自我に固執する見解をうち破って、世界を空(くう)なりと観ぜよ。そうすれば死を乗り超えることができるであろう。このように世界を観ずる人を、〈死の王〉は見ることがない。」
川^〇^ハレ諸法無我は有為と無為全てのものだそうです
🧟
∞ノノハ∞
川^〇^ハレでおーたん自己紹介おっおっお~♪www
虚空オーバーソウル?
🧟
エネルギー湧いてくるよーになった
恐るべし悟りを執念で
求めて山に入った山伏の
実力は
あのエネルギーをイメージがあるので
金峯山寺の動画で
パワーが
めちゃんこくるやんけーー
😄
悟りマスターだ、
ご祈祷能力はゼロですけど〜
😭
感じていた
金峯山寺動画が
パワー満ちるよーになった、
満足した
つぎは
本覚思想マニア道ゴー
😄
川^〇^ハレでおーたんの魔法陣パワーwww
パワースポットですな~😄
は
オートで瞬時で
使えるよーになった
祈祷能力はありません、
というか
関心が薄い
😁
仁和寺
と
春日大社
未探索は
高野山2つ宿坊
😄
やはり、関西は寺が多い
お寺
狸谷不動尊という
歌舞伎関連が大好きなお寺もまだ行ってないが
春日大社と仁和寺が先だ、
石清水八幡宮も
後回し、
😄
来年からだー
旅館でなく
無料で泊まる拠点を
確保できるだろう
😄
唯識の現代の魔王の音声
出た〜
😄
https://m.youtube.com/watch?v=c-MX1wY8btU
清水寺の唯識
https://m.youtube.com/watch?v=5c6RBkpjfNY
😄
オレの師匠筋は
出てこない
😄
声色は
田中角栄ぽいな
😄
高僧音声
2つあった
お〜
😄
関東の唯識寺院〜
動画結構上がってるなー
https://kawasaki-yakushiji.blogspot.com/2020/03/blog-post_11.html?m=1
お勉強担当よろー
https://m.youtube.com/@kawasakisan8942
インド唯識の論理的不都合を
統合した
と
動画垂れ流している
😄
成唯識論だそーだ
メインは護法にしてる
😄
護法の教えがベースになった
みんな、言ってることがバラバラだから
それが、護法の特徴
絶対的な味方
川崎薬師寺動画研究よろー
😄
瑜伽と悟りの
動画に注目してる
😄
唯識は心は複数
倶舎は心は一つとか
お題があった
😄
説一切有部では心は心王と多くの心所から成り立っている
それに反対して「心はひとつ」と唱えたのは経量部
ほーかいくん〜の
元親鸞会の清森動画より
期待信頼できるだろう〜
😄
強制入院させられていたよーた
さっき
ゲロった
😫
清森先生もいいが、やはり元・親鸞会はネックだな~😅
でも、たったの3ヶ月しかいなかった
川崎薬師寺の唯識研究講師は
ホンモノの唯識を
キチンと伝えられていない、
と
豪語している様子をみると、
やはり
怪しげ唯識が多いのだろなー
清森くんもふくめて
😄
清森氏の解釈?
普通は
清浄法界
ま、薬師寺流も
興福寺流も
余裕だなー
興福寺流は
高野山並みに
複数あるかもしれん
東金堂拝観しただけやしなー
西国三十三観音の方の小堂は
別物がいた
😄
成唯識論の
現在語訳を
悟りの項目をチラ見した
😄
😄
般若心経ですら
禅的発想ではなく
インド的理解を狙う
それが
倶舎論、唯識論らしいー
オモロー
😄
すべて煮込んで原型がない
日本料理は幕の内弁当のよーに
原型がある
般若心経のインド人読みは
唯識、倶舎論のよーな
日本料理の幕の内弁当のよーに
原型がハッキリしている
しかし
日本人の禅的な
般若心経は
インド料理のよーなカレーみたいに細部の原型がない、
オモロー
動画
😄
> 川崎薬師寺の講師は
>
> 般若心経ですら
> 禅的発想ではなく
>
> インド的理解を狙う
それは、まさしく正しい姿勢
仏教思想が分かりたかったら、まずインド人の思想そのものに慣れないと
西洋哲学に対する理解が何も無いのに、カントだけ分かろうったって無理なのと同じ
どうも禅宗の関係者は、その点を勘違いして日本人的な理解で済ませようとする傾向が強いな
仏教は
きちんと学ばないと
いけないー
ま、
せいうんこ、麦、デンパパなどの
智慧の欠片も感じられないよーなのが
みている
と
確かにだ
😄
あった瞑想と教義
😄
なかなか
川崎薬師寺講師
オモロー
説法のテクノロジー=智慧だ
😄
智慧の完成という視点の有無が問題になるだろーな
臨済宗なんか超難易度高い
せいうんこみたいにペラペラとやれん
オレは四人も師匠がいるからなー
一人は生きている
一人は出会ったことがある
二人は、まったく出会ったことがない、この世でない
お方
😄
定である、
まー
そーやろなー
定マニアやけどー
仁和寺の定は
まだ未獲得である、
智慧の完成コースに乗ってるのは
真言密教、臨済宗、道元禅だけかー
雰囲気掴めているのはー
まだ唯識は細かな部分と
説法能力はない、
定だけだ
😄
臨済宗は
般若心経に冷酷な態度だ
実は
白隠は
余計な理屈をつけやがって扱い
😄
空海読みはてきるかもー
曼陀羅展開らしいー
😄
おそらくは
階梯、段階的に
般若心経を読む感じはする、
😄
臨済宗は般若心経は無視だろなー
曹洞宗の般若心経解釈はややこしいー
道元は
オレの予想では
ブッダを本尊とした密教ノリかもしれない
ロンは臨済寄り系統がある
オレが得意とする
曹洞宗ナントカ流だ
😄
存在してないかもしれない、
道元はブッダ至上主義絶対主義ぽい感じがある、
ブッダの智慧への執念が濃そうである
😄
道元禅師における
「仏祖」の一考察
神戸信寅
まー
真言密教と
臨済宗くらいだけだなー
最近は
道元禅師モードができそーかもしれん
曹洞宗ナントカ流も
道元禅師忠実狙いモードでやるなあー
マジメ派?やからなー
😄
やはり、まだまだだー
😄
定は余裕だがー
説法する智慧は発現してないなー
😄
般若心経の
色即是空、空即是色に
階梯、段階的な最上階におき
ギャーテーギャーテー以降でまとめているかもー
唯識は般若心経を細密読みだな
動画の見たイメージでは
道元禅師は
リアルブッダ本尊観想一体密教?
みたいな
般若の智慧かもー
山伏、念仏聖(天台、真言系統)は
川崎薬師寺のいう
インド料理的発想、
既存曹洞宗的な禅は
も
インド料理的発想なのだろなー
リアル日本的霊性→山伏念仏葬式仏教
が
それかもー
😄
川崎薬師寺の講師の動画からのヒラメき
川崎薬師寺の講師によると
唯識のスタンスなので
戒→定(行)→智慧
の流れ
定(行)は
特殊な体験はあるが
師匠に点検してもらい、
智慧まで
発達させねばならない、
まさしく
智慧ない
デンパパやら
せいうんここじき様やら
見ると〜
😄
動画をみながらの
感想だが
戒の動画も見たが、
戒や唯識論書を
ある主の瞑想により
瑜伽というんだろうが
戒と論書の細かい内容を観想と一体化する方向があったかもー的に
感じる
それが
唯識サイドの
般若心経の読み方かもー
とまで
ヒラメいた
😄
結論からスタートする発想みたいだ
プロセスは
本来は
真言密教は細やかなのがありそうである
真言密教は南都仏教に受け入れられたので
空海当初は
たぶん
😄
> 唯識は般若心経を細密読みだな
> 動画の見たイメージでは
通じるものはあるな~😆
それに向かって瞑想する
宗派では
困った状態ではあるなー
ほんとに修行した人物に出会わないと
やはり
アウトのよーだ
😄
動画を垂れ流す
😄
最近、
チベット密教ゲルク派には
唯識ゃ゙中論、倶舎研究が残っているのは
密教的な観想の原初が
中論と唯識と倶舎にあるのではないか?と
川崎薬師寺の
戒に関する動画をみて
そう感じた、
臨済宗は
巨神兵焼き付くせっ!
趣味だし、
曹洞宗は本来の道元禅師の路線は
ブッダの観想的路線がおるのかもなー
今や、そのイメージの体現は
存在しないかもしれない
😄
5chメインの
夕やらロンなどは
曹洞宗ナントカ派の臨済テイストが少し入ってる路線のよーだ
唯識、倶舎は
ほとんどまともに
伝えられなくなってしまった
明治以前に比べて
との
こと
😄
禅、真言、念仏などは
唯識研究が熱心だったらしい
あの浄土真宗ですら研究する坊主がいたくらいで
その研究熱心さが
あの龍谷大学などの真宗系統の大学短大がたくさん生まれたのかもしれない
😄
禅語録も
ブッダ仏祖のあり様のイメージであるかもなー
臨済宗で
瓦を磨く
みたいな公案があるが
臨済宗は
瓦をいくら磨いても
瓦は瓦である、
道元禅師は
瓦を磨くよーな行いが
仏になる仏道修行である、
という解釈の違いがある
それくらい
ギャップがある
禅において、
また、
道元禅師の曹洞宗と
後の曹洞宗も
解釈の差は出てるだろうと
😄
仏教思想の頂点なのは間違いない
それを総合化したのが
ダライ・ラマのいる
チベット密教ゲルク派
インド仏教の伝統のキングだな
インチキ宗教とは違いますな
ゴするぜよ〜
😄
――僕は、キリストにもブッダにも、共感はします。しかし信仰には到らない。ここが南さんとの違いです。
「僕も、ゴーダマ・ブッダに、深い共感はありますが、信仰は感じません。『この人が2500年前にいてくれて助かった』という感じです」
――えーっ! 南さんも信仰は感じない? だって南さんは仏門に入ったのでしょう?
「信じる必要はない。バクチ、賭けですよ。僕にとっての『信じる』というのは、バクチです。ほかに、ツールとしてやりようがなかった。だから出家するとき、『これでダメだったら死のう』と覚悟したのです。一か八かです」
――だけど、仏教は、輪廻転生だから、自殺はダメなのですよね。輪廻転生を破ることになるから。
「僕は、実は輪廻転生はいらない教えだと思っています」
――えーっ。輪廻転生はインチキですか。
「インチキとは言わない。だって、僕は死んだことがないから。僕は、ゴーダマ・ブッダの教えの中で、輪廻転生はなくてかまわないと思うのです」
――僕は、かつて創価学会の池田大作氏に、「輪廻転生というけれど、誰も、前世も来世も見たことがないではないか」と言ったのです。すると、「来世がないと思って、悪いことばかりして、来世があったら大変だ。いいことをして、来世がなくたっていいではないか」と池田氏は答えました。
「輪廻転生をいう人は、倫理を持ち出すのです。キリスト教は、善悪が神様に預けられていますが、『諸行無常』はそこを抜け出してしまっている。仏教では輪廻転生はいらない考えだ、と私は思っています」
南直哉も、仏教から「輪廻転生」という要素を消したがっている
「輪廻転生など無い」という仏教理解は誤り
無いものを、どうやって終わらせるというのか
終わらせるのだから、あるに決まっている
古代インド人が「ここで」と言えば、「この世で」を意味した
例えば、「いまは、ここで肉屋をやってます」というのは、「今世は人間界で肉屋という役割を演じている」という意味
仏教を初めとするインド思想は、この精神風土を前提としてデキている
「そんなの古代インド人の迷信だよ」という先入観から入ったのでは、彼らの考えが理解できない
オレのリンポチェ張りの能力は
輪廻転生はあるだろうが
死後の世界の
存在はするよーだ
俺を禅定修行指導しまくる先生は現在
四名いる
😄
恐山出の南的には
恐山往生主義かもねー
日本的な
輪廻無しかもー
😄
トークや
5ちゃんにありがちな
モダニズム哲学志向が濃いとなー
😮💨
クリシュナムルティやラマナ・マハルシのような20世紀のグルも、
「輪廻転生など、本当は無いのだ」
というようなことを、しばしば述べる
だが、それは現代の日本人が思うような
「輪廻転生など迷信だから信じるな」
という意味ではない
「自分など、本当は無いのだ」とか
「この世の物質世界など本当は無いのだ」
というのと同じ
「有るように見えるだけで、本当は無いのだ」
というのが主旨
そこを誤解してはいけない
仏教に関心が、向いたのだな?
😄
往生できていない死者は
想定されている
浄土宗の聖者でも
死者の供養の記録は残っている
😄
風景みているナウ
😄
> 死後の世界の
> 存在はするよーだ
> 俺を禅定修行指導しまくる先生は現在
> 四名いる
> 😄
すごいな?😄
> ひさしぶりに
> 仏教に関心が、向いたのだな?
しばらく仏教はお休みにして
復古神道系の新興宗教をチェックしてた😄
沢庵和尚は
書物だけだな
二人は凡人なのにデキているお方
二人は滴水がらみ
😄
倶舎論や唯識論は、「輪廻転生のメカニズムを解き明かす膨大な説明」という面を持っている
「仏教に輪廻転生は要らない」という、南直哉や秋月龍ミンのような日本の禅僧は、それをバッサリと切り捨てているわけだ
さらに新型滴水システムだ
😄
「人が有るのは、生きてる間だけ。人は、死ねば無になる」
という主旨だと誤解した
確かに煩悩断絶には時間がかかるから
輪廻設定だ
日本だと
往生システムが土台にした輪廻が
多数派だろーからな
醍醐天皇が地獄の業火に焼かれている
山伏伝承
😄
南は
輪廻は想定していないが
死後の世界は
あるとみているらしい
恐山のせいで
😄
という彼らの考え方は、結局のところ、「身体 = 自分」ということを意味する
つまり、身体と自己を同一視している
インド思想では、これは初歩的な誤り
最初の一歩でつまづいている
輪廻を
信じてまう
😫
「輪廻転生はないが、死後の世界はある」
というのは、仏教ではなくイスラム教
聖ウンコ師の我癡・我慢・我見・我愛ぶりは
一度の人生で形成されるようなものではない
閻魔堂の謎が解けた
あれは
やはり山伏だ
醍醐天皇が菅原道真公への態度の悪さで地獄落ちを見る前に
閻魔大王に拝まれていた山伏の日蔵
閻魔大王小堂は
地獄落ちしないよーに
浄化だ
山伏ワールド
霊的に今日理解できた〜
😄
天台寺院らしからぬ
霊気の理解のアンノウンだったのが
解消
ポジティブマッチしたー
日本的閻魔信仰は
山伏だったのかー
驚きだー
千日回峰の山伏とは違う山伏の血があるよーだ
😄
鎌倉には閻魔堂があるなー
やはり
武士の陰謀や暗殺、戦乱からのー
浄化の信仰なんやろなー
😄
閻魔堂は山伏だったのか~😄
天台宗の王道以外の、ゾーンが
天台宗寺院境内に
2つもあったのかー?
😄
山伏あるのは
禅系統山伏〜
曹洞宗も臨済宗も
あるからねー
明治以前は
山伏連中は〜
😄
「死んで身体が消滅しても、自分は変わらない」
これが腑に落ちると、インドの導師たちの言ってることが一気に分かる
お釈迦さまも例外ではない
なぜかというと、世間の一般人は
「そうか、身体は自分ではないのか。
てことは、心が自分なんだな」と
勘違いしてしまうからだ
だが、残念ながらそうではない
思っているものは、思考と感情だ
思考と感情もまた、自分ではない
思考や感情を自分だと錯覚すること
それが、スピリチュアリストが
ハマりやすい落とし穴
「思考と感情は自分ではない」の方が、
仏教思想では力説される
というのも、古代インドでは誰もが
輪廻転生を信じていた
「身体は自分ではない」はある意味、
常識だった
それよりも、「思考や感情は自分ではない」
の方が重要だった
>>3
> 2、十二処(じゅうにしょ)
>
> ・六根:六つの認識器官
> 眼根・耳根・鼻根・舌根・身根・意根
>
> ・六境:六つの認識対象
> 色境・声境・香境・味境・触境・法境
>
> 六根と六境を合わせて十二処
>
「聞かれるモノ」と「耳」
このように、物質世界に存在するモノと
自分の感覚器官はセットになっている
アナタに見えるモノや。聞こえるモノ
それが、世界のすべてである
(またそれかと思われるかもしれんが、そういうものなんだから仕方がない)
ゲームデータをダウンロードしてログインすると、目の前には仮想世界が広がる
その世界は、本当は存在していない
パソコンの画面に映る映像、ヘッドフォンから鳴る音声
それが、世界のすべてである
仏教思想によれば、このリアルワールドもまた、そういうものなのだ
この2つは、セットになっている
認識する側と、認識される側
この2つは、必ず対になって存在する
同時に現れて、同時に消滅する
対生成と対消滅を繰り返している
「世界は、自分が死んだ後も存在し続ける」
これは、ある意味では正しく、ある意味では誤り
というのも、世界は認識する者(つまり、自分)なしでは存在しないからだ
データは残ってるから、ある意味では続いているのだが
認識者なしでは、何も存在しない
駒澤大学
2023.11.27 13:00
「私たちが認識しているあらゆる存在は、自分の心がつくり出したものである」。仏教の深層心理学ともいわれる「唯識(ゆいしき)論」は、現代社会をより良く生きる知恵ともなる。駒澤大学を紹介するシリーズの第2回は、その「唯識」思想と玄奘(げんじょう)三蔵を研究テーマとする、仏教学部仏教学科の吉村誠教授に話を伺った。
「唯識とは、人の心と深く関わる、仏教の深層心理学のようなもの。一言で言えば、“私たちが認識しているあらゆる存在は、自分の心がつくり出したものである”という思想です」
そう説明するのは、仏教学部の吉村誠教授だ。
仏教では「眼識」「耳識」「鼻識」「舌識」「身識」の五識に「意識」を加えた六識で全ての心を説明する。
だが唯識では、その背後にさらに「末那識(まなしき)」「阿頼耶識(あらやしき)」という深層心理があると説明する。
末那識とは現代の心理学でいう自我意識のこと。阿頼耶識とは、前世を含めた自分の全ての経験を貯蔵する“メモリー”のような存在である。
つまり、私たちは過去の経験に基づいて心の中でつくり上げたイメージを、事実の世界だと思い込んでいるのです。
しかし、それは自分の欲望、煩悩によって色付けられた虚構の世界にすぎません。
『唯識』とは、その偏った思い込みから離れ、自己の心の在り方を変革し、ありのままの真実の世界に気付くべきである、という思想なのです」
世界から離脱する
なぜ、阿頼耶識がつくり出した世界から離脱しなければならないのか。
なぜなら、無批判に日常生活を送ることは、自分の心がつくった虚構の世界、いわば煩悩のバリアーの中で生きることになるからだ。
バリアーは人生経験が増えるほど厚くなり、「~のはずだ」「~であるべきだ」という思い込みが強くなる。それは真実の世界とは相いれないものだ。
だから自分の思い通りにならなくて苦しんだり、自分の考えを他人に押し付けて悩ませたりすることになる。
では、そのサイクルから離脱するためには何をすべきか。まず仏陀の教えに耳を傾けることです。例えば、“悪いことはせず、善いことを行い、自分の心を清める”。次に教えを実践することです。
それは容易ではありませんが、実践に努めれば次第に煩悩を離れ、真理を認識する力が現れる。この認識力を“智慧(ちえ)”といいます」
修行者は、仏陀の教え(唯識の教え)に耳を傾け、ヨーガ(坐禅)によって自分の心を観察し、智慧を得て真理を悟るという。では私たち一般人はどうすれば良いのか。
大げさなことではなく、例えば、普段より丁寧に料理や掃除をしてみたり、自然と向かい合う時間をつくったり、言葉の通じない国や地域を旅したり、美しい風景や芸術に感動したり。
そのようなとき私たちの心は、過去の経験に色付けられた認識(煩悩のバリアー)から解放され、真実の世界にいるのではないでしょうか」
長い仕事の悪夢は
初めてだー
解決策がわからない、
認知症の人のよーなパニックみたいな
夢やった
😫
それで過去の悪い行いが消えるわけではない。
だが阿頼耶識の中で善の種子が増えれば、悪の種子は相対的に減り、心がつくり出す世界もおのずとクリアなものになる。
そのとき、私たちの前には悩みや苦しみのない人生が開けているのだ。
ヤバいな?
仕事ノイローゼか?😫
ただのゲームだ
環境超適応型
だが
他の宗派は
貪るな
適応できる場所を選べ派
休日は
いつも
この落差をみる
キリスト教は
そのままでいいんたよー
イエス・キリストが愛しておるのでー
😃😄
ユニコーンガンダムのNTD発動時の
マシンとの闘いみたいだー〜
😄
掲示板宗教板で
発揮するけどー
夕とロン閣下以外は
混乱の極みだなー
😄
天台浄土教やりたくて
教会礼拝行く気にならなかった
😄
昔、軽くメンタルやられて、やることがないので
教会に通い聖書を読み聖霊に溺れながら
イエス・キリストと共にいる平和な過去を
思いだした〜
😄
日本の宗教界では、「ブッダの生まれ変わり」が最高のブランドで、「聖徳太子の生まれ変わり」がそれに次ぐ
どの団体の教祖もそれを言いたがる
大本教の分派のそのまた分派の、そのまた・・・といったところ
復古神道の流れをくむジャパニーズ・スピリチュアルだ
といったら、それはある
クリシュナムルティやラマナ・マハルシといった、20世紀のインドの導師たちの教えだ
仏教はもともとインドの思想
インドのことは、インド人に聞くに限る
日本人は、インド人とは文化や国民性が大きく異なるため、すぐにはピンとこない
仏教、とくにお釈迦さまの初期仏教は、普通の日本人にピンとくるものではない
予想通り、まったく伝わらんかった(笑)
分かっているのに、またやってしまった(笑)
昭和の日本の仏教学では、「輪廻転生や死後世界そのものを否定することが、お釈迦さまの真意であった」という考え方が流行したが、それは誤った理解だ
しかし、輪廻転生といっても、高橋信次や大川隆法が言ってたようなのとは主旨が大きく異なる
ラマナ・マハルシやニサルガダッタ・マハラジといった現代の導師も、「輪廻転生など本当は無い」という言い方をよくする
だが、それは「輪廻転生など迷信だから信じるな」という意味ではない
彼らも、輪廻転生があることは認めている
「輪廻転生など、本当は無いのだ」というのは、「自分は本当は無い」、「この世界は本当は無い」というのと同じ
「有るように見えるだけで、じつは無いのだ」という話なんであって、無いわけじゃないんだよな~
人間は、生まれることもなければ、死ぬこともない
これは、額面通りに受け取るべきだ
ヒネッた解釈など必要ない
↑
これを「輪廻転生など迷信だから信じるな」というのは、まったくの日本人的な解釈
インドの心が分かっていない
霊魂という固定的なものが、いろんな時代の人間に乗り移って転々としているというものではない
「いったん消滅するが、過去のデータに基づいてまた再生される」というイメージだ
少なくとも、唯識論ではそうだ
輪廻転生の原因とは一体何なのかと言うと、身・口・意の三業によって、それがなされる。これに伴って貪・瞋・痴等の煩悩が起こる。その煩悩の力によって、その行為があるんだというんですが、その煩悩はどこから生まれて来るのかということになると、身業、それから口業、それから意業というようなものから出て来る。それは因縁によって和合され生起するものだと言われております。
輪廻が問題になると、必ずそれは解脱というものが対抗のものとして無くてはいけない、という考え方が仏教にあります。それから解脱を求めるのが宗教の目標でもあります。その基本となるものとして、五戒があり、大乗仏教では六波羅蜜というものが上げられます。修行方法としてある。六波羅蜜を満足すれば解脱が得られる、というのが大乗仏教の基本であろうと思います。
輪廻の主体としてはどういうものがあるかと言いますと、学派によって、部派によって、いろいろな名前が出て来るんです。例えば、今日お話しする唯識説では、阿頼耶識[あらやしき]が中心になると言うようなことです。
輪廻転生するということになると、どういう世界を輪廻転生するのかということになります。
それは三界六道(①地獄、②餓鬼、③畜生、④阿修羅、⑤人間、⑥天人)というところを繰り返し生まれたり死んだりすることを輪廻転生と言って、その上の四聖(⑦声聞・⑧縁覚・⑨菩薩・⑩仏)に対しては、そういうことは言わないことになっています。
輪廻転生はどういうように行われるのか、どういうものを基本に考えるのかということについて、三世両重の説があります。三世両重を考える時に、十二因縁を配して考えられています。十二因縁によって、輪廻の原因と結果が三世に二重に説かれるということで、三世両重説と言われているところです。それの簡単な説明をしますと、過去世の原因があって、その原因によって現在世がある。その現在世で新しい原因を作って、未来世があるというように理解する。それが三世と十二因縁との関わり合いはどうかということになりますと、過去世の無明と行を原因として、識と名色と六入と触と受の結果が生起する。更に、現在世の中で愛と取と有を原因として、その結果として未来世の生と老死があると言います。原因と結果が二重に説かれることから三世両重といわれています。
それから十界の名称を此処に挙げておきました。しょっちゅう出てくる名前ですので、皆さんご存じだろうと思うんですけれども、地獄、餓鬼、畜生、修羅(阿修羅ですね)、人間、天人、声聞、縁覚、菩薩、仏、というものです。三界六道または五道というんですが、三界とは欲界、色界、無色界。五道とは阿修羅を抜くわけですね。そうすると九界しかないんですね。例えば『開目抄』等で日蓮聖人が法相唯識を非難する時に、唯識は八界を説いて十界を説かない、という言葉があります。学者によって、その二界は何と何を指すのかということが、よく論じられて不統一なんですけれども、こういうところも参考になるだろうと思います。
天台本覚思想カルチャーが
主勢力かもー
😃
ロンが信じてるやつだな~😄
ロンは、天台本覚思想を信じているわけではない
彼は、座禅会に参加して真実を悟ったのだ
それが、天台本覚思想にたまたま似ていた
が
天台本覚思想なのではー?
と
😃
浄土の十楽を
調べていて
そのよーな
葬式、法事による成仏思想のルーツが一部ある
😃
『往生要集』大文第二「欣求浄土門」に説示される、浄土に往生した者が受ける一〇種の快楽のこと。浄土十楽ともいう。①聖衆来迎楽。臨終時に苦しみがなく、阿弥陀仏や観音・勢至菩薩が来迎して浄土に引接してくれる。②蓮華初開楽。蓮華のつぼみの中に寄託して浄土に往生し、その蓮華が初めて開くとき、清浄の眼を得て浄土の荘厳を見ることができる。③身相神通楽。三二の勝れた特質(三二相)を持つ身と天眼などの五種の神通力を得ることができる。④五妙境界楽。浄土では、五感の対象となるものすべてが、清らかで勝れたこよなきものとなっている。⑤快楽無退楽。浄土では、行者がもはや退転することなく楽を受けることができる。⑥引接結縁楽。縁故のある人びとを浄土に迎えとることができる。⑦聖衆俱会楽。多くの聖者たちと浄土で会うことができる。⑧見仏聞法楽。仏を見ることや、仏の法を聞くことが容易にできる。⑨随心供仏楽。心のままに自由に阿弥陀仏や十方の諸仏を供養することができる。⑩増進仏道楽。浄土の勝れた環境によって自然に仏道を増進して、ついにはさとりを得ることができる。『往生要集』では、『群疑論』五には浄土の三〇種の利益が、『安国鈔』では二四種の楽があることをあげて、浄土がいかに素晴らしいところかを説き、欣求浄土を勧めている。また、十楽は和歌の題材ともなり『新古今集』「釈教歌」に「十楽の心」を詠んだ歌が集載されている。さらには、源信に仮託した『十楽和讃』なども有名である。
が
葬式と法事によって
亡者を坊主が導く
😃
おそるべし!😄
葬式仏教のスタートは
恵心僧都と
その時期の念仏聖
名前忘れたー
歳やなー
というよりも
研究ターゲットにしてなかったから名前がでてこんー
😄
空也
空也だ
😄
釈尊:
「比丘達よ、この心は光り輝くものである。しかし、それは偶然的な煩悩によって汚されている。凡人はこの心のことを教えとして聞かず、真実に理解しない。それ故に、教えを聞かない凡人には心の修習がないと私は言うのである。比丘達よ、この心は光り輝くものである。そして、それは偶発的な煩悩から離脱している。貴い仏弟子はこの心のことを教え聞き、真実に理解する。それ故に教えを聞く仏弟子には心の修習があると私は言うのである。」
八千偈頌般若経より
スブーティ:
「また、世尊よ、智慧の完成への道を追求し、智慧の完成を修習する菩薩大士は、教えられているときに、彼がその覚りに志向する心(菩提心)におごらない、というような仕方で学ばねばなりません。何故かというと、心というものは心ではありません。心の本性は浄く輝いているのです。」
シャーリプトラ:
「一体、スブーティ長老よ、心でない心というその心は存在するのですか。」
スブーティ:
「シャーリプトラ長老よ、一体心でない心というその無心性に、存在性とか非存在性とかがあったり、認識されたりするのですか。」
シャーリプトラ:
「そうではありません。スブーティ長老よ。」
スブーティ:
「シャーリプトラ長老よ、その無心性に存在性も非存在性もありもしないし、認識されもしないならば、シャーリプトラ長老(あなた)が『心でない心というその心は存在するのですか。』と質問されたことは、果たしてあなたにとって正しいことでしょうか。」
シャーリプトラ:
「スブーティ長老よ、ではこの無心性とは何でしょうか。」
スブーティ:
「シャーリプトラ長老よ、無心性とは変化しないこと、妄想(分別)を離れていることなのです。」
如実に修行する者、彼には修行すべきこともなく、断ずべきものもなく、修行の果の達成もない。それは何故であるか。
文殊菩薩(マンジュシリー)よ、心は本来、光り輝いているからである。それはあらゆる一時的に付着した煩悩(客塵)によって汚染されているけれども、本性としては汚染されたものではない。本性として光り輝いているということは、汚染するもの(雑染)がないということである。汚染するものがないということは、そこに煩悩を断つべき対治者も必要でないということである。それは何故であるか。
文殊菩薩よ、それは本性として清浄であり、従ってそれ自身清浄なものはその上浄化する必要がないからである。清浄なるもの、それは無生である。無生なるもの、それは非難されない。非難されないもの、それは欲望を断じたものである。欲望を断じたもの、そこでは全ての根源的執着が消滅している。もしも、全ての愛着が消滅すれば、それが煩悩の不生である。不生なるもの、それが菩提である。菩提なるもの、それは平等性である。平等性なるもの、それはありのままなること(真如)である。
~文殊菩薩よ、菩提は心の本性が光り輝いていることによって、本性として光り輝いている(自性明浄)。何故に光り輝く(明浄)と言われるのか。本性なるもの、それは汚れがなく、虚空と等しく、虚空と同じ本性を持ち、虚空に合し、虚空に似て、本性が極めて明るく輝いているからである。
如来蔵思想も、ここにコピペしたような箇所が根拠とされている
互いに影響を及ぼしあっている
∞ノノハ∞
川^〇^ハレおはよう♪
これ素晴らしいですね♪♪♪
ロンは、天台本覚思想を信じているのではない
彼は、坐禅会に参加して真実を悟ったのだ
その悟った内容が、たまたま天台本覚思想に似ていた
古来から論議の絶えないテーマだ
↓
かようにわたしは聞いた。
ある時、世尊は、サーヴァッティーのジェータ林なる給孤独の園の精舎にあられた。その時、一人の比丘が、世尊のいますところにいたり、世尊を拝して、もうして言った。
「大徳よ、この世のものにて、定恒永住にして、変易せざるものがあろうか。」
「比丘よ、この世には、定恒永住にして、変易せざるものは、少しもない。」
そして、世尊は、すこしばかりの土を爪の上にのせて、かの比丘に示して言った。
「比丘よ、たったこれだけのものといえども、定恒永住にして、変易せざるものは、この世には存しないのである。」
(サンユッタ・ニカーヤ 22:97)
そこには留意すべきだろう
常住を破壊しまくるのは
臨済宗
よって
ローラーは
臨済宗ではないっー
😄
ローラーみたいな屁理屈言うと
破壊パンチが飛ぶ
😄
曹洞宗ナントカ派も
臨済宗テイストがあるので
常住嫌うかもー
ロンの嫌らしい
言い回しも
根底には
😄
臨済宗はアンチ常住なのか~😫
開祖の道元は法華経の信奉者なのに😫
5chキリスト教スレで
自慢しとる〜
😫
鈴木正三なんかを
調べてみると
あの時代の曹洞宗の臨済宗テイストの連中の空気感が理解できる
😄
どうみても戦闘民族ぽい
坐禅
😄
ロンも
鈴木正三のあたりの発想の影響はあるだろなー
😄
近似値の
禅定は
余裕っす
😄
曹洞宗宗門主流派と
曹洞宗ナントカ派の
バトルはスゲエー
曹洞宗ナントカ流は
生き残り
セッタンあたりのルーツになるのやろなー
😄
瑩山紹瑾文永5年10月8日-正中2年8月15日
(1268年11月21日-1325年9月29日)諡号佛慈禅師、弘徳圓明国師、常済大師 尊称瑩山禅師生地越前国多禰宗派曹洞宗寺院永平寺、大乗寺、城満寺、常住寺、永光寺、總持寺師徹通義介、孤雲懐奘弟子明峰素哲、無涯智洪、峨山韶碩、壺庵至簡、恭翁運良著作『伝光録』、『瑩山清規』
一般には瑩山禅師と呼ばれ、教団内では日本曹洞宗開祖で祖の道元を高祖承陽大師、瑩山を太祖常済大師とする。
思想
道元は祈祷や祭礼を否定はしなかったものの、その対象は永平寺の僧たちの安全祈願及び寺院周辺の天候回復などの祈願が主であり、晩年の建長元年(1249年)に『永平寺住侶利親』で「まさに諸方への護持僧参勤事を停止すべし」と命じたように、他の寺院が行なっている、寺院以外での加持祈祷は禁じていた。
これに対し、永平寺3世となった徹通義介は宋に留学して密教の祈祷を学び、仏殿を建て礼仏を取り入れるなど積極的な改革を行った。こうした改革は寂円等の道元の遺風を慕う一派との対立を生み、「三代相論」とよばれる内紛に発展した。
瑩山は師僧義介の遺志を受け継ぎ、道元以来の出家修行に加えて密教的な加持、祈祷、祭礼などを取り入れ、永光寺を伝道の拠点として下級武士や商人に禅を伝え信徒を拡大した。これには瑩山が依拠した寺院が、白山系の天台寺院であったことや、兼修禅的傾向の強い法燈派の僧らと瑩山との密接な関係が影響したと考えられる。
道元の没後、曹洞宗はわりとすぐに密教化したんだな?
永平寺3世義介の就任から退任までを1期、義介の再任と再退任までを2期、後に義介を3世と認めるか否かで生じた対立を3期とする見方がある。
曹洞宗の開祖道元が建長5年(1253年)8月に入寂すると、弟子の孤雲懐奘が永平寺住職を継ぎ、曹洞宗2祖となった。
当時の曹洞宗僧団は、道元の宋からの帰朝以来の直弟子達と京都深草に興聖寺を開いた後に日本達磨宗から集団改宗した一派の2流があった。懐奘は日本達磨宗の法系に属する人であったが温厚篤実で両派の融和調停に尽力したため、両派の軋轢は表面化する事がなかった。
懐奘は道元の遺風を忠実に守る一方で永平寺の伽藍、規矩の整備に着手し、法甥にあたる徹通義介を弘長2年(1262年)に宋に派遣し調査、資料の請来にあたらせている。文永4年(1267年)、懐奘が退任を決意すると整備改革のさらなる推進を図る義介と遺風遵守を第一とする義演のいずれを後任とするかで対立が生じた。結局、義介が永平寺3世・曹洞宗3世となったが、急速な革新に対する反発は次第に高まり義介の定めた行持に従わない者が続出するなどして、ついに文永9年(1272年)2月に義介は退任する。
義介が退任した後、懐奘が再任するが弘安3年(1280年)に入寂する。再び後任問題が持ち上がるが保守派からは人を得ず、懐奘の遺志により義介が再び永平寺に入ることとなった。
義介は自ら定めた行持を古規に戻すなど反対派との融和を図るが対立は深まる一方であり、7年後の弘安10年(1287年)永平寺を下山し加賀大乗寺に移った。この時、義介に従う多くの弟子も大乗寺に移り、道元の法系は永平寺と大乗寺に分かれることとなった。
義介の下山後、義演が永平寺住職に就任したが論争による寺内の疲弊は甚だしく、また義演が開基波多野氏の信頼を得られなかったこともあって寺勢は急速に衰える。後に義演も退任し『日本洞上聯灯録』によれば小庵に閑居し再び世に出ることはなかったという。
永平寺はしばらく無住状態になったと思われるが、正和3年(1314年)10月に義演が入寂し義雲が後任になると、永平寺の世代(歴代住職)に義介を数えるか否かで再び論争が起こった。この論争は義介を3世として認める形で決着するが、それまで義介に与えられていた「中興」の尊称は取り下げられた。義介が正式に永平寺の世代に数えられたのは、さらに時代が下り江戸時代後期になってからとする説もある。
曹洞宗は三代目で派閥争いが激化
崩壊したのか
悟りへの執念がある
問題は
江戸時代前後のほうが
問題がある
😃
曹洞宗時代の悟りへの執念派と
多数の形式主義者の
争いがある
形式主義者から言わせると
ナントカ悟り〜
みたいな
ヒデエーネーミング
😫
😫
オレは
うまくやれそーだ
😄
プロレスの必殺技みたいなもんだな
とかそういうの
曹洞宗には、大本山が2つあります。 福井県の大本山永平寺と神奈川県の大本山總持寺です。 この2つの大本山を両大本山といい、全宗門人が大切にしております。
曹洞宗では福井県の永平寺と神奈川県の總持寺の2ヶ寺を本山とし、それらを両大本山(りょうだいほんざん)と称しています。 一つの宗派においてご本山が2つというのは珍しいと思われるかもしれませんが、曹洞宗では道元禅師と瑩山禅師を両祖としていることから、それぞれがお開きになられた寺が本山となっています。
曹洞宗は大本山を二つもっています。福井県にある永平寺と、横浜市にある總持寺です。 ちょうど、私達が父と母の両親を持つように、道元さまの永平寺と、瑩山さまの總持寺を両大本山とお呼びします。 道元さまが正しい仏教の教えを中国より日本に伝えられ、道元さまから四代目の瑩山さまが全国に広められ、曹洞宗の礎を築かれました。
曹洞宗では、中国から教えを日本に伝えた道元を「高祖」、発展の基礎を築いた瑩山を「太祖」とし、両祖としています。 そのため道元が建立した大仏寺、すなわち後の「永平寺」と、瑩山が譲り受けて改名した「總持寺」の両方を大本山としているのです。
川^〇^ハレでおーたんはキョンシー禅とかwwwフフフ
以前、数学者の岡潔先生の『一葉舟』を読んだ時の感想を、小欄に記したことがあります。
こんな内容を引用して書いたのでありました。
岡先生が、『一葉舟』の中で「真の自分の心」という題で
「人は普通自分のからだ、自分の感情、自分の意欲を自分と思っている。これを仏教では小我という。ごく小さな自分という意味である」
というのです。これが自我というものです。
般若心経でいう五蘊、五つの構成要素を自分だと思い込んでいるのです。
更に「欧米人は自分とは小我のことだとしか思えない。それで個人といえば小我の意味である」
と指摘されています。
「ところが仏教は、小我は迷いであって真我が自分だと教えている。真我とは本当の自分である」
と説かれています。
「仏道の修行法にはいろいろあるが、すべて小我の迷いを離れて、真我を自分と悟るためにするのである」
と実に端的に説いて下さっていて、まさしく禅の修行も小我を離れて、真の自己に目覚めることにほかなりません。
そして、ではその真の自己の心とはどんなものかといえば、
「真我の心は同体大悲である。これはひとの心の悲しみを自分の心の痛みのごとく感じる心という意味である」
ということを書いたのでありました。
何度読んでもまさにその通りでありまして、仏道の本質を突いています。
岡先生は、松尾芭蕉の句を引用されながら、芭蕉を高く評価しています。
そして、このように書かれています。
「芭蕉は真我の人だったのである。
真我の人にとっては自然も人の世もすべて自分の心の中にある。
他は非自非他といって、知らないが故に懐かしいのである。
芭蕉は心の中を楽しく旅したのであった。」
というのであります。
それから、この本の中の「こころ」という章には、
「自然以外に心というものがある。
たいていの人はそう思っている。
その心はどこにあるかというと、たいていの人は、自分とは自分の肉体とその内にある心とであると思っているらしい。
口に出してそういったことを聞いたことはない。しかし無意識のうちにそう思っているとしか思えない。
そうすると肉体は自然の一部だから、人はふつう心は自然のなかにある、
それもばらばらに閉じこめられてある、と思っているわけである。
しかし少数ではあるが、こう思っている人たちもある。
自然は心のなかに在る、それもこんなふうにである、心の中に自然があること、なお大海に一漚の浮ぶがごとし。」
というのでありまして、岡先生の深い洞察には驚かされます。
しかしながら、そのように個々別々の「仏心」なるものがあるわけではありません。
自己の心を見つめてゆくと、自己という枠を離れた大いなるものに触れるのであります。
今までは、五蘊という、身体、感覚器官、感受、思考、意志、認識の集まりを自己だと思い込んでいます。
それが、単に仮に集まって、一時自己のような現象が見えているにすぎないことに気がつきます。
岡先生の言われる、「小我」が崩れ去ってしまうと、大いなる世界が広がります。
我も無く人も無ければ大虚空、ただ一体のすがたなりけり
というところであります。
この広くて一体となったところを「仏心」というならば、私たちの存在は「仏心」という大きな海に浮かんでいる一つの泡にすぎないと気がつくことができます。
岡先生は、この自然さえも、大海に浮かぶ一漚の如しというのであります。
今私たちは、この世界に漂う一漚の如きウイルスに右往左往していますが、時には、こんな大きな見方をすることも必要です。
「小さな子に花の美しさがよくわからないのは、頭の、美しさのわかる部分がまだよく発育していないためではなく、心をその花に注ぐ力が弱いからである。
心を花に集めることができさえすれば、大自然の真智はその心の上に働いて、その子にはその花の美しいことがわかるのです」(大自然というのは言わば奥行を持った自然というくらいの意味である。だから普通言う自然は、この大自然の上面ということになる)。」
「するとその尼さんはすぐにわかって、次のような面白い例を聞かせてくださった。」というのです。
それは「幼稚園の子供たちにはまだ花の美しいことはわからない。
しかし一人だけわかる子がいる。
その子はよく私になついていて、私が花を植えるとそれを手伝う。
花がつぼみをつけて少し色が見えてくると、すぐに見つけ、大騒ぎをして知らせにくる。
花が美しいこともよくわかっているのである。
しかし、ここへは時々娘さんたちがお花を習いにくるが、その人たちには花の美しさはわからない。」というのです。
岡先生は、「私たちが緑陰をみているとき、私たちはめいめいそこに一つの自分の情緒を見ているのです。
せせらぎを見ているときも、「爪を立てたような春の月」をみているときも、皆そうなのです。」
このように学んでいると、なるほど、私たちは、心の世界を生きていること、心の中に自然があることがなるほどと思われるのであります。
横田南嶺
曹洞宗ぽい
😃
俺の師匠筋や俺の修行世界は
せいうんこや麦とは異なり
ここだな
😃
大徳寺の開山は大燈国師という人だが、臨済宗の寺ではことあるごとに、大燈国師御遺誡というものを唱和している。修行者の心得を遺言としてしたためたものであるが、その中の文言に「無理会の処 に向かって究(きわ)め来り究め去るべし」 というのがある。無理会の処というのは分別・理解を越えたところという意味である。意志の生まれいずる処、それは我々の知的理解の及ばぬところである。
が
曹洞宗ナントカ流ですら
批判する部分
本流ではなおさら
否定、
横田南嶺は
無理会の処 の志向が薄い、
ま
せいうんここじき様の大好きな?
鈴木大拙とか
出てくるやしなー
😃
常住は
あり得ない
天台でも真言密教でも
とりま、
>分別・理解を越えたことろ
でも
常住的ではあるな
道元禅師だと
正伝の仏法という常住は
ありそーである
😄
ここが臨済宗と
他の宗派との違いだろな
😄
専門用語は
曹洞宗ナントカ流の
論文でみつけた
無理会の処もいう
内容は体得してたけど
言葉はしらなかった
😄
言語で悟りを説明できるのが
曹洞宗や道元禅師の立ち位置で
言語説明不能というのが
無理会、ということだと
論文にあった
その無理会は
間違いだー
と
😄
ひたすら
ボコるのは
無理会スタンス
😄
言語で説明したがるのは禅宗の傾向
ゆえに無間ボコル〜
😄
鈴木大拙は
言語説明好きだ〜
ま
オレの師匠は
言語最小限派だな
😄
臨済録には
臨済が
こう言ったので
こう言った言葉に囚われてはならぬー
とある
だって
人間の精神作用は
言語で全て説明てきない
音楽を言語で説明しても
音楽そのものは
わからない、
JBLわかるかなー?
😄
言語で法則定義化を
常にはできない
😄
カール・ポランニーの
暗黙知の次元で
すでに言語化
不可は
知的に語られている
オレのおうちにある
20代に
よー読んだなー
内容
大方は忘れているけど〜
😄
若い頃に読んでいたから
音楽の例えなんかは
ま、簡単に思いつく
古典派西欧哲学を無視した
成果だなー
😄
芸を
やれるなー
オレ
😄
美しい動画ー
https://m.youtube.com/watch?v=nEIKAt8_7Lg&list=LL&index=15&t=320s&pp=gAQBiAQB
瞑想ぽい
お題目を
宣伝するよーになってたー
アンチ荒行お題目なのを
宗務所で推奨しとるとは
驚いたー
😄
マインドフルネス時代やしなー
😄
😄
JBLは
身延と七面山は行ける距離だな
😄
😄
https://m.youtube.com/watch?v=byVdTr-MZbs&list=LL&index=1&t=2035s&pp=gAQBiAQB
荒行派お題目だな
😄
😄
インド哲学の伝統思想だ
目に見えるだけでは存在しない
名前をつけないと
唯識派では、
「すべては空であるとしても、それは、我々は言語によって虚構的に
構成している世界の問題であり、そのような言語使用を離れた究極の体験は厳然
として存在する」と考えた。
「龍樹のように、すべてを空であるとし、あらゆる言語化を否定すれば、釈尊の
悟りという究極の体験すら否定し、無視する結果を招く。」と中観派を批判した。
皆さんは中観派を支持しますか、それとも、唯識派を支持しますか?
中観派のほうが言語哲学っぽいイメージだけどな?
このように、あらゆる事象・概念は、それ自体として自立的・実体的・固定的に存在・成立しているわけではなく、全ては「無自性」(無我・空)であり、「仮名(けみょう)」「仮説・仮設(けせつ)」に過ぎない。こうした事象的・概念的な「相互依存性(相依性)・相互限定性・相対性」に焦点を当てた発想が、ナーガールジュナに始まる中観派が専ら主張するところの「縁起」である。
施設(せせつ、梵:prajñapti,プラジュニャプティ、巴:paññatti,パンニャッティ)とは、仏教で「仮の指定・設定」といった原義の語であり、「概念」を意味する語。仮設・仮説(けせつ)、説仮(せつけ)、仮名(けみょう)等とも。
下述するように、仏教では、ギリシア哲学(例えば、プラトンの『クラテュロス』の議論や、ユークリッドの『原論』における定義のあり方など)にも見られるように、言葉や概念は、社会的・世俗的な約束事として、仮に設定しているものに過ぎないという発想が、少なくとも部派仏教の段階では既に確立していた。そしてこれは、「二諦論」における片方の「世俗諦」(世俗・人間社会の真理)とも結合したものでもあり、仏教が主張する「世界の実相」としての「勝義諦」(真諦)と、対を成すものでもあった。
「衆因縁生(因縁所生)の法、我即ち是れ無(空)なりと説く。亦た是れ仮名と為す。亦是れ中道の義なり。」
(どんな縁起の法でも、それを我々は空と説く。それは仮に設けられたものであって、それはすなわち中道である。)
キリスト教教会礼拝に行ってきたー
仏教研究も一段落したから
😄
玄奘三蔵的には
中論と上座部のハイブリッド思想らしい、
日蓮や日本天台が想定する
唯識ではなかっよーだ
一乘真実
みたいなあたりの話
😄
昨日カトリック御堂で
霊的に遊んできたので
プロテスタント日本基督教団の教会へ
いく予定となった、いつかいく予定だったがー
😄
しばらく外に出られない
低気圧が来てるのか〜?
こっちは
昨日はカラット晴れてた
😄
雨で行きそびれた
あと1週間で終わってしまう😫
それは
大変だな
こっちは
ユーチューブで、いい老師らしい
碧巌録提唱の音声動画見つけた
落としまくるかなー
禅定キモチ満足させるものてはなく
こっちが鍛えあげた感覚の確認作業に近い聞き方やろなー
😄
平凡な話からの展開ー
やっぱりモノが違うな
あっちの鎌倉老師みたいな
インテリぽくないので
ええなー
😄
キリスト教劣化した
キリスト教牧師が
気づくべきところみたいな
話内容だなー
可哀想になー
あの信者、無駄な苦労に溺れるなー
あれは
😫
てな感じ
攻めるなー内容が〜
鎌倉老師の脳天叩き込んでやりたい内容やなー
😄
😄
ホンマなかなかのお方やなー
😄
このお方の定が来とるなー
ありがたがると
間違い
しかし
山田無文の定はきた記憶はない
臨済録提唱精読したけどなー
😄
3名程
現在老師との付き合いが、あったらしいが
その内の一人の動画を聞く、
定が来とるなー
昨日の善行の思いの評価か?
😄
やるなー
このお方ー
臨済宗禅僧のあるべき体現を
もらってるなー
😄
初めてだー
ホンマレベル高いからなー
このお方〜
ま、師匠とリアルな付き合いあったんやろなー
この定のリアクション感覚は
😄
ロンみたいに
垂れ流す意欲は持てんなー
😄😄😄😄😄
この定リアクションは
臨済宗禅僧では
初めてだな
😄
本では2回ほどあるけどー
😄
ホントやれる側からすると
攻めまくるなー
😄
まー定を相手に溺れる意識はないけどなー
😄
他人
に勧める
気がしないからなー
内容は完璧
大方は理解できん内容だから
独り占めだな
😄
チベット密教は
定に入るのは当たり前だけどなー
😄
ボコボコしたくなるなー
😄
ファイルに集めて見えるよーにしとく
😄
3年前にアップは停止
ま、ありがたやー
🙏
付き合いがあるが
俺は臨済宗世界型潰しの世界の住人なので
型潰し世界以外のことが
わからぬことが多いと
言っているなー
ほんと、
曹洞宗ですら
深くは解ってないから
オモローい
😄
少しあるので
在家向けのか、
でもまあー
関心の無い、
知識収集魔みたいなのには
必要がない動画ではある
😄
激しいバトルー
ま、デンパのオモロイので
レスはする
😄
にしては
雲天の差やのー
😄
でてこんー
😄
内容紹介
極楽と地獄の観念はなにに根ざすのか。平安時代中期の僧・源信(942-1017)が極楽往生にまつわる重要な要素を集成した『往生要集』は、「極楽」と「地獄」の概念を明示し日本浄土教の基礎を築いた日本仏教史上最重要の仏教書である。川崎庸之、秋山虔、土田直鎮の三碩学が平易な現代語訳として甦らせた本格的決定版の文庫化。(原本:『日本の名著 第4巻 源信』中央公論社刊、1972年所収『往生要集』)
平安時代中期、「末法の世」に惑う人びとに死後の往生の方法を説くために、僧・源信(942-1017)が、膨大な経典・論疏から極楽往生にまつわる重要な要素を集成しまとめたものが『往生要集』です。
源信は同書で「極楽」と「地獄」の概念を具体的かつわかりやすく示し、死後の極楽往生のために一心に仏を想う念仏の重要性を説きます。その教えは同時代の貴族・庶民に受け入れられ日本浄土教の基礎となるとともに、文学や思想にまで影響を与え、後代の日本人に深く影響を与え続けています。
本書は川崎庸之、秋山虔、土田直鎮の三碩学が学問的精緻さを駆使し、日本仏教史上、最重要とされるこの仏教書を平易な現代語訳として甦らせました。さらに巻末に添えられた解説「源信の生涯と思想」は『往生要集』の世界のより深い理解を助けます。
浄土への道を学ぶうえで必読の書『往生要集』、本格的決定版と呼べる名著の文庫化です。
(原本:『日本の名著 第4巻 源信』中央公論社刊、1972年所収『往生要集』)
当時の最高権力者、藤原道長の帰依を受けた上に、後には浄土宗を開いた法然上人、浄土真宗の親鸞聖人に大きな影響を与え、現代でも浄土仏教は、日本の仏教の半分以上を占めています。
文学の面でも、紫式部の『源氏物語』や芥川龍之介の『地獄変』には、「横川よかわの僧都」として登場し、主著の『往生要集』に描かれた地獄の有様は、現代の日本人の地獄のイメージになっています。
5chで
躁転してるー
壊れている
😫
まさかのオリックス戦3連敗
ラピスまで
あらわるる
🧟
真我論は成り立たない/宗教の正体
Q. 私はインド哲学やヒンドゥー教の人々の本もよく読むのですが、彼らの言っている「真我論」は長老のなかではどういう位置づけになっているのでしょうか? それなりに評価しているのか、あるいは全否定なのか、教えていただきたいです。
A. 誰でも、理性に基づいて真我があると証明できる人が人類の中で独りでもいるならば、出てきなさい、と言いたいのです。自分が経験したと言うなら、出てきて欲しい。反論して欲しい。でも、人類の中で一人もいないのです。過去から現在まで。真我(アートマン)というのは単なる信仰でしょう。証拠もなしに「ある」という前提で話すなら、何でも語れますよ。たとえば「神がいる」という前提で、どんな下らないことでも言えます。でもそれはただの信仰です。
長いので以下は省略
日本では、この2つを正反対の教えとして二項対立の図式で語る人がよくいる
だが実際のところ、この2つには見た目ほどの違いがない
身体は自分ではない
感覚は自分ではない
思考は自分ではない
感情は自分ではない・・・
と、「自分ではないもの」を否定しまくる
最後に残るもの、それが「真我」だというのだ
身体は自分ではない
感覚は自分ではない
思考は自分ではない
感情は自分ではない・・・
というのなら、最後に残るものとは何なのか?
「それじゃ、何も残らないじゃんかよ」
ということにならざるを得ない
その通り
それが「真我」なのだ
つまり、「真我」というのは事実上、
「無我」とたいした違いはない
ニサルガダッタ・マハラジがとくに強調することだが
最後に残るものとは、「私は在る」というものだ
私という意識そのものは消えないらしい
釈尊は、そこを明言していない
とにかく、死んで何もかも無くなったあとでも、私という「存在」そのもの
それだけは消滅しない
消滅どころか、それは死によって何の影響も受けない
そのまま存在し続ける
唯識論では、死んでも「阿頼耶識」が続く
阿頼耶識がある限り、輪廻転生は続く
阿頼耶識も、いつかは終わるときが来る
だが、それはだいぶ先の話であり、当分の間は終わらない
当分の間とはどれくらいかというと、この宇宙が何百億年もたって消滅し、別の宇宙が生じて滅し、また別の宇宙が生じて滅し・・・を、何度か繰り返すほどの長さ
つまり、人間にとって事実上、「永遠」と言ってよい長さだ
というのが、通常のスピリチュアル的な解釈だが
インドの聖者たちの教えは、そういう感じではない
「霊魂が身体から抜け出す」では無いんだなあ
「死ねば、世界が消えて、自分が残る」という感じだ
死んだら、あの世にいく
この考え方は、彼らによれば錯覚だ
「私は在る」
それだけが真実
世界があって、その中に世界内存在としての自分がいる・・・というのは錯覚
この世であろうと、あの世であろうと、そこに違いはない
これは、日本人の感性には非常に合った考え方だ
この辺りが、インド人の思想とは大きく異なる
当方がいつも言う「日本人の感性ではインド思想がわからない」というのが、そこにある
ゲームにログオンすると、そこに「世界」が現れる
コンピュータが生成したアバターである「自分」が、その世界の中に投げ込まれる
これはゲーム内のキャラであり、ゲーム内ワールドを探索するために設定された、プレイヤーの分身だ
世間の一般人は、ここがゲーム内ワールドであることに気づかず、アバターにすぎないキャラを「自分」だと思い込んでいる
これが「本当の自分ではない」ということ
ここを、インドの聖者たちは強調してやまない
壁がある
三論、天台華厳真言密教禅の
壁
これが最大の
JBLの謎だろなー
去年と今年の5月、6月に
時期に
膨大なデータが流れ込むー
今年の6月に
これらの宗派の大乗仏教の感覚が把握した
今年の動画ヒット
見つけて
動画落としした
日付を見て
ビビった〜
凄まじいサービス受けてることに〜
😄
出口王仁三郎超えだな〜
😄
山伏シャーマニズムの頂点だな~
確かに
華厳の話は、何度きいても、しばらく離れると忘れてしまう😅
イマイチ自分のものになっていない
ニサルガダッタ・マハラジ
クリシュナムルティ
こういうインドの精神世界にナジミがある
山伏シャーマニズムのほうが合っている(笑)
↓
華厳といえば「相即相入」や「相依相関」ということになる。互いが互いに入りあう。それぞれが映しあって、融通しあう。縁起(密接な関係力)がめくれあい、重なっていく。だから華厳世界の特色を「一即一切、一切一即」とも「一入一切、一切一入」などとも言ってきた。
だから華厳は、一言でいえば融通無礙の教えなのである。「礙」(碍)というのは「さまたげ」や「傷」や「邪魔」のことだから、華厳の世界観で円教無礙になるとは、妨げる礙が互いになくなっていくことをいう。相互に柔らかく交じりあっていくことが融通で、無礙なのである。
思考のモジュールを動かしていくので、華厳思想はたくさんの思考言語を使いまくるのだが、その言語(概念)自体もダイナミックに相即相入をくりかえす。
「相即相入」が華厳のキーワードなのか
「即挿入」とか
そうそくそうにゅう
華厳宗で説かれる教義。一切の現象が互いに対立せず,とけあって自在な関係にあることをいう。
『華厳経』の世界観を縁起思想によって説く華厳宗学の教説。現象世界のあらゆる事物はすべて相即相入という、互いに作用しつつ、調和を保っている関係にあるから円融無礙(融通無礙)、すなわち無尽であることをいう。
この円融無礙の関係性を説くにあたって作用の面から説くのが相入、体について空と有の面から説くのが相即である。
一に一を加えると二になるというのは世間一般の常識であるが、実は一が二つ集まったものに過ぎず、一に一を足したそれ全体を直観することによってはじめて二という自然数が認識できるのである。したがってその一は二の意義を具有しているから、一が二をも成ずることができる。
十銭の比喩ではこれを十銭と一銭の関係でとらえている。すなわち一の中には二や十のみならず三・四・五などが具わっている。
華厳の発想は
最近外国人ブームのお遍路が
最大のヒント
その辺がヒンズー文化や西欧文化の違い
https://m.youtube.com/watch?v=sa1_9NXiJdE&pp=ygUY44GK6YGN6Lev44CB44CB5aSW5Zu95Lq6
ユーチューブには
外国人お遍路動画の山だ
見まくれば
華厳なんか解る
😄
まー
外国人共が感じる
バックにある
真言密教曼荼羅や華厳思想が見えてくるはずだ
😄
必ず背景に
華厳と真言密教がある
ま、現在日本人に
わかりにくくなってきているものだ
歩き遍路したいマニアな日本人は少いだろうし
外国人アルキル遍路と日本人の歩き遍路数は同等れべるのよーだ
遍路宿の割合で半々みたいだから
外国人歩き遍路のほうが
麦やら
せいうんこよりも
よほど仏教理解しとるやろー
😄
せいうんこは
宇宙人やからなー
👽👾👽👾
壁
の突破に近いのは
ロンと
夕ぐらいかもねー
後は縁がない
😫
真理は相対主義だ
それは歴史と構造の話だ
市民がそれを渇望するからだろう
大半の市民は自由や幸福より、不自由と不幸を愛しすぎている
んで否定の内容は「本質の全て」
んで残った我、実存が本質の世界に働きかける意志の力、
具体的な活動などにアンガージュマンって名付けを行う
😄
天界・人間界・阿修羅界・畜生道・餓鬼道・地獄道という「六道輪廻」
その上には、色界や無色界がある
だが、これは「霊界の階層」とは似て非なるものなのだ
六道は、地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅道、人間道、天上道の6つの世界から成り立っています。
地獄道
地獄道は、悪業を積んだ者が生まれ変わる世界です。この世界は、罪を犯した者が受ける苦しみが特徴的です。
人々は、自分の悪行の結果として、無間地獄、黒縄地獄、大呼地獄など、様々な種類の地獄に落ちます。
餓鬼道
餓鬼道は、貪欲な者が生まれ変わる世界です。この世界では、飢えと渇きに苦しむ餓鬼が登場します。
餓鬼は、過去に贅沢を極め、他人のものを奪った者が生まれ変わります。
畜生道
畜生道は、無知な者が生まれ変わる世界です。
この世界の生き物は、知恵がなく、常に飢えと渇き、寒さと暑さに苦しむ動物です。
修羅道
修羅道は、瞋恚(しんい)と戦いの多い者が生まれ変わる世界です。
修羅は、戦いに明け暮れ、他人を倒すことでしか満足できない存在です。
人間道
人間道は、善業と悪業が混在する者が生まれ変わる世界です。
人間は、善悪の区別ができ、悪事を犯すことも、善事を行うことも可能です。
天上道
天上道は、善業を積んだ者が生まれ変わる世界です。
この世界の住人は、過去の善行によって、天人として生まれ変わります。
欲界(よっかい)
欲界は、欲望に支配された世界です。
この世界は、五感によって知覚される物質的なものに囚われ、欲望を追求することによって喜びを得ると考えられています。
色界(しきかい)
色界は、物質的なものに囚われないが、まだ精神的なものに囚われている世界です。
この世界は、瞑想によって精神的な幸福を追求することが特徴的です。
無色界(むしきかい)
無色界は、物質的なものにも精神的なものにも囚われない、完全な解脱の世界です。
この世界では、一切の欲望や執着がなく、完全な平和と自由が得られるとされています。
禅定は全部で九段階に分けられています。それは三つのグループに細分できます。一つ目は四つのグループ。二つ目も四つのグループ。三つ目が、一つだけ異色のものです。
最初の四つのグループは「色界四禅」と呼ばれます。色界とは、世界を欲界・色界・無色界の三つに分ける時の色界です。五道輪廻の地獄から六種類の天(六欲天)までが欲界。欲界の天よりレベルの高い世界に梵天があり、それがさらに色界梵天と無色界梵天に分けられます。でも梵天も輪廻の境涯です。存在すること自体が輪廻なのです。
欲界は、眼耳鼻舌身の五つの感覚器官から入る情報や物質的な感覚を楽しんだり苦しんだりする世界です。テレビを見て楽しんだり食事を味わって楽しんだり殴られて苦しむ世界です。
色界は、身体を作る物質や物質を成り立たせる空間はあるのですが、その物質自体が物質と言うよりもエネルギー状態みたいな余りにも精妙なもので、しかもそこに住む色界梵天たちはその物質から情報を受け取って楽しむのではなく、禅定状態を作るのに物質というか対象に集中しているだけという世界です。人界と欲界天には普通の善業で往けますが、梵天界には禅定に入らないと往けません。それで禅定自体も「色界」禅定と呼んだりします。その色界の禅定に四段階あります。
無色界には、身体も瞑想の対象になる物質さえもありません。ただ心だけの存在が空間もない状態で何も対象とせず、心だけで瞑想状態でいます。これにも四段階あります。この瞑想状態を「無色界」禅定などと呼びます。
より厳密に言えば、何かを対象にして禅定を作る色界禅定は、心を対象に集中させて、定めて、静めていますので色界「禅(jhāna)」と呼びますが、無色界には心を集中させる対象・物質がありませんから、心がただ「至った」「達した」状態という意味で無色界「等至(samāpatti)」と言って区別しています。
仏教にも階層はある
だが、それは大川隆法ワールドにおける
「霊界の階層構造」とは、似て非なるものだ
どう違うのかというと
大川隆法ワールドのは「霊格」
それに対して、仏教ワールドのそれは
「瞑想がどれだけ深まったかというレベル」
であるということ
そこが大きく異なる
「現時点の意識レベル」、それがすべてなのだ
つまり、
「こう見えても、俺は霊界では偉いんだぞ」
という、この世で最も虚しい威張り方
そんなことを言ってる時点で、
そいつの意識レベルは低い
「禅定が深まりゆく度合い」を意味している
・・・まあ、禅宗の人に好まれる世界観だが(笑)
それに比べて、本物の仏教は美しいな
それに向かって意識を集中する
それが、色界の禅定だ
それが、無色界の禅定
おー
ギーター路線とは異なる方向だなー
ギーターの動画の日本語訳は
西山派の阿弥陀仏ぽいわー
と納得したで〜
😄
空間認識の広がり程度と
認識の緻密さが
三論天台華厳真言密教禅
あたりが狙う、
認識の緻密さが欠落すると
山伏と念仏と
ギーターの後半の世界観になるー
ギーターですら
差別なき空間認識がある
ギーターはわかりやすいので
あれは
難しいー
ジャンカラは
😄
キリスト教ワールドの探索したかったので
教会で独り聖霊パワーを味わった
信徒の一人に議論吹っかけたが
むろん聖霊に関する説明入れないで
やる
😄
教えてくださる
という
説明を一切せずに
「直感的に選別する」
と
チョイスできるのが
新興宗教の教祖様とは
異なるオレちゃまのセンス
😄
~~華厳の思想~~
今回はいよいよ華厳経をベースにした、華厳の思想について語ってみたいと思います。 華厳思想は、私が今一番興味を持っている思想であり、NHK-Eテレ(教育TV)でも再放送されています。(※1)ただ、華厳思想といっても何も特殊な概念ではなく、仏教の基本的な考え方に変わりはありません。その考え方である、縁起の法や空の思想、あるいは以前取り上げた唯識思想を視点を変えて見たと言って良いでしょう。
まず前提として、法界(ほっかい)というものの存在を認めなければなりませんが、さらにその前提となる霊性的世界の説明が必要です。これについては、鈴木大拙博士の著書である、「仏教の大意」(法蔵館)(時の天皇陛下に仏教の基本概念を説明した時の原稿と言われています)から少し長くなりますが、その考え方を抜粋したいと思います。
俺的には
鈴木大拙は
臨済宗としてはアウト
ヒンズーぽく感じるなー
俺的には
臨済宗=無理会
😄
ギーターの現在語訳の
後半の内容を聞くと
大拙ぽいなー
😄
ギーター的だな
神智学の影響もあるらしいからな
大拙は
臨済宗=無理会が
正統派なので
俺は大拙をヒンズー扱いしても
臨済宗扱いはしないな
😄
せいうんこ呪霊、
麦呪霊が
生まれた〜〜
😫
大徳寺の開山が
生み出した表現らしい
😄
大拙よりも
真の山伏高野聖の
日本的霊性マニアという自信はある
😄
今まで
歯が立たなかった
他の坊主の碧巌録提唱や
碧巌録は
まだ
多少はまーまーついていけるが
😄
俺は勝てる
😄
勝てない臨済宗高僧は
たくさんいるけどな
😄
大拙は
割合好きらしいぽい
むろん曹洞宗やしな
😄
正統派修行系統仏教のセンター部分が
ある僧侶の音声動画テキトーに
二本みているあいだに
脳内に入ってきて
まーまー極まってきた
😄
語るフォームが美しい
見事で
脳内直撃やった
😄
今の仕事向かな過ぎて
臨済宗ニュータイプモードに入らんと
仕事効率が落ちるーー〜〜
😫😫😫😫😫
JBLには
期待する
鈴木大拙の霊性がらみで
😄
今月の気分は
https://m.youtube.com/watch?v=oT7ip1Fyg34&pp=ygUj5LqU5p2h5oKfIOWkqeS4iuWkqeS4i-WUr-aIkeeLrOWwiiA%3D
キリスト教や、イスラームやら
天理教ブログを覗けるくらいに
余裕だ
😄
空間扱いが
意外と
おもろい
後半
😄
最新版
https://m.youtube.com/watch?v=jwv1tl2G4Yw
理事無碍のつぎに悟りによって得られる最終到達点とされている。
理事無碍とは、世界の記述を
理、つまり縁起による関係性、および、
事、つまり対象の事物、によって
行うことであり、その2つを用いて構成される世界認識が滞りなく
『無碍』という、エコシステムを形成することを意味する。
【無礙・無碍】仏教用語。 無障礙とも。 障りや妨げが無く自由自在であること。
世界のあらゆる事物がすべてつなぎ合わさり、作用し合あっているという仏教思想の一つ。
モノと機械がつながり、その各々の結節点、部分が全体をも包括しうる。その過程で人間の理性についての議論や標準化についての議論が時代遅れに近づく。
ディープラーニングでは、常に結果である「物」が先立ち、人間の「理」ではなく「物」と「物」との関係性によって世界が進んでいく。
対して、
『理事無碍法界(りじむげほっかい)』-近現代
あらゆる事物の背景には理(ことわり)との関わり合いがあるという思想のこと。
「人はふつう、心というと、物に対する心というものを想定するであろう。そこでは物とならべて心を対象化しているのであって、それを知る心、主観そのものとしての心、本当の自己そのものについては、結局、隠されてしまっている。その仕方では、本当の自己をいつまでも見ることができない、自覚することができない。
けれども仏教はそういう対象論理的な認識を透脱して、心そのものを自覚し、さらにその心の本性をも掘り下げて、そしてついにはこの現実世界にまで到達してしまうのであるからです。そこは、もはや心に対する物の世界ではなく、自己が無限の関係性のなかに組み込まれていて、しかもその世界全体がそっくり自己であるような、そういう世界として現前するのだ。まことに雄大な光景である。」
(竹村牧男 『哲学としての仏教』 110ページ)
臨済宗モード解除〜
ほんま身体把握みたいな
魔改造テクノロジーは
臨済宗しか
できなさそー
😄
身心脱落なので
身体把握みたいなテクノロジーには走らない
😄
新動画上がってきたー
善光寺〜〜
😄😄😄😄😄
https://m.youtube.com/watch?v=tHbZV3-l5d0&list=PLj4juy9TWtGXDD98-OgiYogcVEQnUTkUw&index=8&pp=iAQB
即身成仏なので
神秘主義的な
身体の扱いはありそーである
😄
入我我入と
六大無碍まで
は
まーまーキマってきたかもー
😄
釈尊滅後は、アビダルマとして、解釈が為され高度体系化し、大乗仏教でも唯識として体系化された。
また、中国で発達した禅は、己の心を見つめることに専心し、士大夫や日本の武士階級を中心に実践された。
近代になると、井上円了が哲学館(現、東洋大学)で仏教心理学を講義したほか、森田正馬が森田療法を、吉本伊信が浄土真宗の身調べを基に内観療法を創始した。
カール・グスタフ・ユングは鈴木の著作に序文を寄せ、フロイト派のエーリヒ・フロムは、鈴木と共に国際会議を開いて1959年に『禅と精神分析』を刊行、その翌年にアラン・ワッツが『心理療法東と西』を刊行し、当領域の基礎的著作として位置づけられた。
同時に、鈴木俊隆らによる禅の布教、ベトナム僧の亡命、チベット僧の亡命、ケネディ[要曖昧さ回避]が東南アジアに派遣した平和部隊の隊員が現地で身に付けたヴィパッサナー瞑想など、これら様々な仏教瞑想が伝わり、心理療法への応用が試みられた。
1977年には、アメリカ精神医学協会が、瞑想の精神医学的治療の代用の可能性を認め、1979年には、韓国の禅僧に師事したジョン・カバット・ジンがヴィパッサナー瞑想とハタ・ヨーガを組み合わせたマインドフルネスストレス低減法の治療センターを、マサチューセッツ医学大学院に設置、後にマインドフルネス認知療法として発展した。
ヴィパッサナー瞑想とサマタ瞑想
それこそが仏教
せいうんこ路線は生まれた
仏教心理学には
不足はないが
臨済宗的には
鈴木大拙は
いただけないー
せいうんここじきが
滴水だなんて、
うそこけー
🧟
こっちは
その筋なんだけど
😄
曹洞宗、真言密教、華厳、天台は
ありうる
鈴木大拙を
臨済宗スタンスで見る限り
邪道であるな
😄
曹洞宗では
瞑想が、どこかハッキリしないままであった
臨済宗は大方はニセモノ
真言密教は阿字観はある、
禅よりは
わかりやすいが
真言密教寺院=阿字観
ではない
真言密教>阿字観
😄
このプロドラマー上手い
原曲よりドラムが
上手い
😄
https://m.youtube.com/watch?v=viCNRwb3roo&t=301s
曹洞宗でも
臨済宗でも
語るセンスがいるのかもー
臨済宗は二人見つけたけど
曹洞宗の語りの完全体は
見たことがない
😄
ついつい臨済宗クセで
理解クセがついているので
内容がスイスイと入ってこないのもある
下記
https://m.youtube.com/watch?v=fqSIOiWr-8E
曹洞宗の従容録だが
同じ内容で
解釈が異なる臨済宗の碧巌録がある
碧巌録読みクセがあるので
動画理解が
難易度か上がる
😄
それゃ俺の筋だから
わかるわなー
鈴木大拙なんか、
普通嫌う
滴水ならば
鈴木大拙出の円覚寺なんかが、麦やせいうんこは好きやしなー
😄
臨済宗系統では
屁理屈言うな、
が王道だが
曹洞宗系統は
解釈が異なる😄
臨済宗系統は
ピーキーな趣味で屁理屈いうなボケ〜
だが
曹洞宗は
どっしりと、説明せざるのを
あえて
説明する
😄
アルボムッレ・スマナサーラ[著] 藤本晃[著]
52種類の心所を学び
感情のすべてを理解する
「心所」─それは、私たちの心に溶けている「心の中身(心の成分)」のこと。仏教は、心を素粒子レベルまで分析し、「心所は52種類あります」と言い切ります。仏教心理学を学ぶことで、私たちは「心とは何か」を発見できるのです。
心は一人に一つしかありません。しかしそれは、「まったく変わらない一個の心がある」という意味ではありません。心の中に溶けているものによって、心は多様に変化するのです。この心の中に溶けている「心の中身(心の成分)」を、仏教心理学では「心所」といい、それは52種類に分類されます。心所は、私たちの心に溶けているさまざまな感情や気分そのものです。本書では、お釈迦様が分析した52種類の心所を詳しく解説し、心のはたらきの根幹に迫ります。
“Zen Buddhism and Psychoanalysis” No.1――Where does “Zen Buddhism,” Japanese spirituality, meet Western psychoanalysis?
西洋人と仏教の話をすると、しばしば「禅」について質問されます。日本人を、
「禅の達人」のように考えている西洋人は、多いようです。今回から、西洋への禅の
伝道師・鈴木大拙と20世紀を代表する心理学者のひとりエーリッヒ・フロムが共著
した、非常に興味深い名著を紹介します――バイリンガルで、どうぞ。
When you have a conversation with a Westerner, in terms of Buddhism, you will be
frequently asked about “Zen.” It seems that many Westerners regard the Japanese.as
”Zen master.” From this time in myweblog, I introduce a greatly interesting masterpiece,
co-written by Daisetz Suzuki, a Zen evangelist to the West, and Erich Fromm, one of the
representative psychologists in the 20 th century―― more to come both in English and
in Japanese.
あるかも知れないが、私には自分の言いたいところがこれで表わされているように
思う。後科学的というのも悪くないようだ。なるほど或る時期の間は科学もしくは
概念的思考が人間研究の全領域を占めることがあろうが、しかし禅の立場はそれから
以後に展開するものである。言い換えれば、ありとあらゆる人間活動の全領域における
科学力の支配に我々が無条件で我々の身を委ねてしまう前に、「ちょっと待て」と禅は
言う。「もう一度お前自身を見直してみよ、物ごとは本来そのままで、それで
いいのだ、ということがわからないのか」と。
I am a Zen-man and my approach is “antescientific” ―or even “antiscientific” sometimes,
I am afraid. “Antescientific” may not be an appropriate term, but it seems to express what
I wish to mean. “Metascientific” may not be bad, either, for the Zen position develops
after science or intellectualization has occupied for some time the whole field of human
study, and Zen demands that before we give ourselves up unconditionally to the
scientific way over the whole field of human activities we stop and reflect within
ourselves and see if things are all right as they are.
そのものの中からモノを見るのだ。花を知るには花になるのだ。一片の花と
なりきって、花となって花を開き、花となって太陽の光を浴び、花となって雨に
打ち濡れるのだ。
The Zen approach is to enter right into the object itself and see it, as it were, from the
inside. To know the flower is to become the flower, to be the flower, to bloom as the
flower, and to enjoy the sunlight as well as the rainfall.
いっさいのよろこびと苦しみを知る。すなわち花の中に脈打つ花のいのちのいっさいを
知るのだ。いやそればかりではない。花を知り得たこの「知」によって全宇宙の神秘を
知るのである。この神秘は実は私自身の「自己(セルフ)」の神秘でもあるのだ。この
自己の神秘こそかつての私は私の全生涯をかけてこれを追究したにもかかわらず
どうしてもつかまえることの出来なかったものなのだ。どうしてだったかと言うと、
私自身が追っかける私と追っかけられる私、つまり、モノと影との二つに分かれていた
からである。こういう鬼ゴッコをしていたのではいつまでたっても私の自己が
とらえられなかったのも無理のない話なのだ。どうもこの鬼ゴッコには実は私も
力つきてクタクタになってしまった。
When this is done, the flower speaks to me and I know all its secrets, all its joys, all its
sufferings; that is, all its life vibrating within itself. Not only that: along with my
“knowledge” of the flower I know all the secrets of theuniverse, which includes all the
secrets of my own Self, which has been eluding my pursuit all my life so far, because I
divided myself into a duality, the pursuer and the pursued, the object and the shadow.
No wonder that I never succeeded in catching my Self, and how exhausting this game
was!
まっただなかに自己を喪失して、初めて私は自己を知り同時に花を知ったのである。
Now, however, by knowing the flower I know my Self. That is, by losing myself in the
flower I know my Self as well as the flower.
ない。しかるに禅はみずから創造の源泉の中に飛び込んで、その源泉の生命を、源泉
そのものを飲みつくしてしまうのだ。この源泉を禅の「無意識」と言う。だが花は自分
で自分を意識することはない。この花を花の無意識からめざめさすものはいったい
何か。これが「私」というものである。
The sciences deal with abstractions and there is no activity in them. Zen plunges itself
into the source of creativity and drinks from it all the life there is in it. This source is Zen’s
Unconscious. The flower, however, is unconscious of itself. It is I who awaken it from the
unconscious.
これが、仏教心理学の原点なのか
↓
「存在するのは生命だけである。
個性や人格といった話は、
実際に何の論理的根拠もない」
J・クリシュナムルティ
といった観念は意識界から
消え去らねばならない。
偽物が去り、残ったものが真実なのだ」
「私は在る。それだけが真実である」
ニサルガダッタ・マハラジ
日本の仏教学者には、これを「人は死んだら終わりという意味」と受け取る人が多かったが
それは、インド人の考え方とは正反対
現在の臨済宗師家は全て白隠門下である。
臨済宗の中興の祖と言われる白隠は1700の公案を5段階に体系化し、公案禅(看話禅)を確立した。禅は悟りを得ることが極めて困難である。
しかし公案が体系化されたことで、禅の悟りを得る手段が確立、悟りを得る人数も増え、今後も臨済宗は維持されてゆくと期待される。
臨済禅でも盤珪永琢(1622~1693)や鈴木正三(1579~1655)のように公案にこだわらず悟りを開いた禅師はいるが、その禅は伝わってゆかない。(盤珪は不生禅、正三は仁王禅)、唯一、曹洞宗が道元からは変形しつつも伝わっている。
鉄舟は三島の龍択寺の星定禅師のもとに参禅し、東京から徒歩で通った。龍択寺は白隠が一番弟子の東領の為に購入した寺である。そして東領の法嗣が星定禅師であった。鉄舟の禅は、正に白隠の臨済禅であった。星定は鉄舟の見性を認めたが、鉄舟は納得しなかった。浅利又七郎の剣を未だ越えられなかったからである。
そして峨山の二人の弟子の養成に4人が力を尽くした。この二人が隠山と卓州である。
この二人から白隠禅は続いてゆく。即ち、隠山派と卓州派である。
鉄舟は後述するが天龍寺派の滴水の下で嗣法したので滴水門下である。よって隠山派である。関山→白隠→隠山→儀山→滴水→鉄舟がその系譜となる。
白隠は大悟18回、小悟その数を知らずと言ったが、鉄舟は大悟数回、小悟その数を知らずと言っている。
白隠の悟りの最初の目的が地獄へ落ちる恐怖であったが、鉄舟は剣の無敵の極意を得ることであった。白隠は師の正受への理解が大悟のポイントであった。鉄舟は浅利又七郎の剣を越えることであった。
二人共、見性してからおよそ10年程度の修行の結果に達成した。いずれも臨済宗であるので臨済の禅が下地にある。これは激しいものと言えるであろう。徳山の棒、臨済の喝といわれるように臨済の激しい機鋒が特徴である。
> 関山→白隠→隠山→儀山→滴水→鉄舟
聖ウンコ師も、この系譜なのか
今度は「思考や感情が自分である」と錯覚する
多くのスピリチュアリストが陥る罠だ
だから、インドでは古来から「霊魂思想は有害」とされてきた
せいうんこは
独学流
円覚寺系列鈴木大拙→せいうんこやな
🧟🧟🧟
Mental factors, inBuddhism, are identified within the teachings of theAbhidhamma(Buddhist psychology). They are defined as aspects of the mind that apprehend the quality of an object, and that have the ability to color the mind. Within the Abhidhamma, the mental factors are categorized as formations concurrent with mind .Alternate translations for mental factors include "mental states", "mental events", and "concomitants of consciousness".
「仏教のことは、欧米人より日本人が分かっているに違いない」
と思ってしまうが
じつは、インド哲学と日本人の相性は良くない
欧米人のほうがインド哲学には強い
feeling
perception
volition
contact
desire (to act)
wisdom
mindfulness
attention
decision
mental concentration(one - pointedness)
しんじょうほう
caitta
仏教用語。心数 (しんじゅ) とも訳される。また略して心所ともいう。すなわち心王に従属し,心と相応し,心と同時に存在する種々の精神作用のこと。『倶舎論』では,6種類の 46の心所有法を立てて説明している。大地法の10,大善地法の 10,大煩悩地法の6,大不善地法の2,小煩悩地法の 10,不定地法の8に分けている。
Ten factors arising with every mind
(すべての心に生じる十の要素)
という
このほうが、ずっと分かりやすい
cetasika(チェータシカ:心所)は「心にあるもの」「心によるもの」で、言い換えれば、心の成分のようなものです。心は必ず心所と共に生じます。この場合の『心』とはパーリ語の citta(チッタ)のことで、「生きている」というような意味です。仏教では、「心がある物体」を生命、「心のない物体」を物質と言っています。
「私たちが、自分の心だと思っているもの。
それは、構成要素の寄せ集めなのである」
というのが倶舎論、つまり仏教のスタンダードな考え方
これを仏教流に難しく言ったのが、説一切有部の心所法
明治時代の
大乗非仏説的ヨーロピアンだと
そーだろうな
ま
禅、チベット密教からみの
ヨーロピアンでは
難しいだろう
今や
現在ヨーロピアンに高野山と
お遍路ブームがあるからなー
チベット密教と
真言密教を中心とした
大乗仏教の逆襲タイムだー
😄
ヨーロピアンに四国遍路関心が高まったらしい
四国遍路宿の半分は外国人だ
😄
欲望は、自分に対して強制的なパワーとなる、ほとんど外部要因みたいなもの
欲望に支配された状態から抜け出すこと
それが、自由だとされる
現代人は、欲望とは自分が自発的に起こすものであり、欲望のままに生きることが自由な生き方、欲望を抑えるのが不自由な生き方だと考えている
この固定観念に囚われているうちは、インドの聖者たちの教え、ひいては仏教が理解できない
何かといえば自分に強制的な力を及ぼしてくる、一種の支配者だ
現代人は、禁欲を「自由に対して制限をかけること」と解釈する
逆だ
禁欲とは、「欲望にコントロールされた状態から解放され、自由になる生き方」なのだ
本覚思想よりの文化やろなー
だが、
念仏や日蓮は
実は末法意識がある
人間の罪過認識は
一応ある
だが
念仏の方は現在は流行らない
今や葬式法事のアイテムぐらいの
扱い
😞
南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏
アショーカ王時代に進められた仏教経典の編纂。
結集は「けつじゅう」と訓む。ブッダの死後、教団の内部に意見の違いがあらわれたため、ブッダの教えを正しく伝える必要が生じ、伝えられた説法を整理して統一を図る必要が生じた。そのために行われた仏典の編集作業を結集といい、ブッダの死の翌年に教団の長老たちが集まった第一結集、約百年後の第二結集、アショーカ王の時代に第三結集が行われたと伝えられている。次いでクシャーナ朝のカニシカ王の時に、第四回目の仏典結集が行われた。
これらの結集の結果、仏教経典の体系ができあがり、経蔵(ブッダの教え)、律蔵(仏教徒の戒律)、論蔵(仏教の理論的研究書)の三種類に分けられた。これをあわせて三蔵という(蔵は籠の意味)。また、この過程で、保守的な長老たちの解釈と、進歩的な一般信徒の解釈の違いも明らかになり、上座部と大衆部の分裂が起きてくる。
優れた長老たちが「仏典結集」を行った
ぶってんけつじゅう
仏教経典の整理統一事業
古代インドにおいては記録を文字ではなく人々の記憶に頼っていたため,釈迦の死後,遺法の散逸や異説の発生を防ぐため,弟子たちが各自の記憶するところを話し合い,仏典を集大成する事業をおこした。これを結集(中国名)という。
第1回は仏滅直後,釈迦の侍者アーナンダらが中心となって行った。第2回は仏滅100年後,マガダ国で行われた。第3回はアショーカ王のとき行われ,経・律・論の三蔵をパーリ語で記録した。第4回はカニシカ王のときに行われ,サンスクリット語で記録されたと伝えられる。
ぶってんけつじゅう
仏教経典の編集。伝説によると釈尊の死後,弟子たちが王舎城に集って釈尊の教えを唱集した。釈尊に常侍した阿難が経典を暗唱,他の者が唱和し,優波離(うぱり) が律を暗唱,他の者が唱和した。こうして釈尊の教えの記憶を確かめ,その正しい伝承に努めた。これが第1次結集。
100年後に第2次結集を行い,アショーカ王の援助で第3次を,カニシカ王の援助で4次結集を行なったという。
それを皆が書き留めて、仏典の編纂が始まった
仏典の冒頭に置かれる語。「このように私は聞きました」という意味。仏の説であることを示すために、釈迦しゃかが弟子の阿難に経典きょうてんの冒頭に冠させたといわれる。▽仏教語。「如是」はこのようにの意。「我聞」はそれを聞いたこと。「是かくの如ごとくを我われは聞きけり」と訓読する。「我聞如是がもんにょぜ」ともいう。
第一結集の背景
野崎 この「仏教対話」の第一部では、主として釈尊の生涯を中心に、対話を進めてまいりました。
そこで今回の第二部では、釈尊の入滅以後を扱うことにしたいと思います。
まず、釈尊が入滅してまもなく、弟子の僧侶たちが集まって、経典を結集したと伝えられています。ところが、なにしろ二千数百年以上も昔の出来事ですので、詳しいことはわかっておりません。経文に説かれた、いくつかの断片的な事実を検討し、それに想像もまじえながら、仏典結集の状況を再構成する以外にないと思います。
池田 第一回の仏典結集は、釈尊入滅のその年、十大弟子のなかで「頭陀第一」と称せられたマハーカーシャパ(摩訶迦葉)を中心に、アーナンダ(阿難)やウパーリ(優波離)など五百人の比丘が集まって、ラージャグリハ(王舎城)の郊外、サッタパンニグハー(七葉窟)でおこなわれた、とされているね。そのとき、マガダ国の王アジャータシャトル(阿闍世)の援助があったともいわれる。これが、今まで伝えられてきた話ですね。
野崎 西洋の学者のなかには、この第一回結集自体を疑問視する向きもありますが、『五百結集度』や『集法毘尼五百人』など、南伝・北伝の両大蔵経とも、その事実を伝えています。経典の記述そのものを疑う立場に立てば別ですが、わが国の仏教学者なども、ほとんどが「第一結集」は実際におこなわれたものと認めています。
池田 あれほど偉大な指導者が死んだのだから、直ちに弟子たちが集まって、釈尊の生前を回想し、その教法を誤りなく後世に伝えようとするのは、むしろ当然のことだね。
それによると、ちょうど釈尊が入滅したころ、マハーカーシャパは多くの比正たちとともに、釈尊の一行に遅れて、パーヴー(波婆)からクシナガラ(倶戸那城)にいたる道を歩いていた。その途上、手にマンダーラヴァ(憂陀羅)の花を持った一人の邪命外道に出会った。マハーカーシャパが、その外道に、先行した釈尊の消息を訊ねたところ、すでに釈尊は、この世にいないことが知らされた。それを聞いて、比丘たちのある者は号泣し、またある者はじっと悲しみに堪えていた、という。ところが、なかに一人の年老いた比正がいて、考えも及ばないような暴言を吐いた。
「友よ、憂うるなかれ、悲しむなかれ。われらは、かの大沙門より脱することを得たのである。『こは汝らに許す』『こは汝らに相応しからず』とて、われらは苦しめられた。だが、今や、われらは、欲することをなし、欲せぬことはなさぬでよいのである」
その暴言を、こころよからず聞いたマハーカーシャパは、釈尊の遺骨の跡始末などが終わると、比丘たちに呼びかけて言った。
「友よ、われらは宜しく教法と戒律を結集して、非法おこりて正法おとろえ、非律おこりて正律すたれ、非法を説くものが強く、正法を説くものが弱くなり、非律を説く者が力を得、正律を説く者が力を失うにいたることに先んぜねばならぬ」(『南伝大蔵経』第四巻、参照)
こうしてマハーカーシャパは、仏典結集のために五百人の比丘を選び、釈尊の説法を集成する事業に取り組んだ、とされています。
池田 ありうることだね。今の話は仏典結集の動機の一つとして、うなずけるものがある。
いまの年老いた比丘の話は、それを物語っているね。釈尊は、当時の弟子たちにとっては、人生の教師であり、親のように慈しみ深い存在であると同時に、教団の統率者でもあったわけです。大勢の弟子たちは、畏敬と尊敬の念をもって随順したが、なかには出世間の厳格な修行に堪えられず、世俗の諸惑に負ける者もあったとされているから、釈尊の死によって、不断の精神の緊張状態から解放されたように錯覚した者もいたのでしょう。おそらくマハーカーシヤパは、一人の老比丘の暴言を縁として、釈尊入滅後の教団のなかに、そうした空気が漂っていることを感じ取ったものと思われる。
ひとつの教団にとって、その最高指導者を失ったことは、重大な危機に直面したことを意味します。バラモン諸派が圧倒的に優勢な当時のインド社会にあって、なんといっても釈尊の教団は、まだまだ新興の宗団であった。その創始者が死んだのだから、教団は中軸となるべき心棒を失ったようなものです。弟子たちの多くは、深い悲嘆にくれたでしょう。彼らは、ぽっかりと心に大きな空洞があいたような、底知れぬ虚脱感を味わったにちがいない。
釈尊の死は、また教団以外の人びとにも、さまざまな波紋を呼ぶことになる。意地の悪い見方をする者は、教団の自然消滅を予想したかもしれない。教団の創立者が、どんなに立派な人物であっても、後継者に人を得なければ、やがて内部分裂など、いろいろな問題が起こって衰微してしまう。とくにバラモン諸派は、その時が来るのを待っていたのではないだろうか。
現在の創価学会の状況はどうなのだろう?
「尊者アーナンダよ、世尊が亡くなられてから、あとにはだれぞ、世尊に等しいような立派な方がおられるか」
それに対してアーナンダは、このように答えた。「友よ、そんな立派な方がいる道理はないではないか。かの世尊は、自らこの道を悟り、自らこの道を実践した方であった。その弟子たるわれらは、世尊の教法と垂範に、後からついていくだけである。すなわち、法の所依がある」(『南伝大蔵経』第十一巻、参照)
『大般涅槃経』によれば、釈尊は死の直前に、集まっていた弟子たちに呼びかけて言った。
「おまえたちは、私が亡くなっても、指導者がなくなったと思つてはならぬ。私の説いた教えと掟とが、おまえたちの指導者である。おまえたちが今、もし疑いを持っているなら、たずねるがよい。後になって、私が生存中に聴いておけばよかったと、後悔するようなことがあってはならない」と。
そして続けて「もろもろの事象は過ぎ去るものである。努力して修行を完成させなさい」(『南伝大蔵経』第七巻、参照)という、この有名な最後の言葉を遺して釈尊は涅槃に入るわけだ。
仏教学者のなかには、釈尊の生前中から経典結集を準備していた、とみる人もいるけれども、あるいは釈尊自身が、自らの言行録を、弟子に命じて記憶するようにしていたのかもしれない。
十大弟子中でも「多聞第一」といわれたアーナンダを、絶えず釈尊に随行するようにさせていたのも、多分そのような意図があってのことでしよう。
松本 また、ジャイナ教が教祖の死後、依るべき典拠がなかったために分裂してしまったことから、釈尊はシャーリプトラ(舎利弗)に命じて、仏教教団の教義を集成するようにさせていた、ともいわれています。
池田 なるほど。おそらく釈尊は、生前から「令法久住」(法をして久しく住せしめん)との一念を強く持っていたにちがいない。卓越した指導者であれば、絶えず自身の死後の教団のあり方に、思いをこらしているからです。
その証拠に、釈尊滅後直ちに弟子たちが集まって経典を結集し、その後も千数百年にもわたって、仏教教団が経典の結集と継承に全力を傾注してきたのは、生前の釈尊の「令法久住」の熱誠が反映したものと考えられる。
池田大作の存在感は突出している
やはり、その存在感は圧倒的
実は
今や面に知られることがない
巨大な宗教史がある
😄
オレの去年と今年の
5月と6月に
大暴れかもー
😄
私どもの伝持する日蓮大聖哲の人間観のうえから「自我の拡大」という問題について、若干ふれておきたい。それは、一つには「心王」と「心数」の関係性であります。「心王」とは、端的にいえば生命の王ということであり、わが生命活動の主軸であり、胸中の王座の謂であります。
「心数」とは、その活動、働きの側面であり、心王の回転軸があって、生命の作用たる「心数」も、もっともダイナミックな力強い多彩な人間図を展開していけると説いているのであります。
まず、仏法の視点は、この究極の生命の王座である「心王」の追究に向けられていった。これが有名な天台の「九識論」であります。
しかし、日蓮大聖人は、端的に「心王の座」をば、わが内なる妙法という実在にあることを明かし、それを「九識心王真如の都」とされ、それは御本尊を信受する胸中の肉団にあると展開されているのであります。
これが、よくごぞんじの日女御前御返事の一節であります。すなわち「此の御本尊全く余所に求る事なかれ・只我れ等衆生の法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におはしますなり、是を九識心王真如の都とは申すなり」と。
よく世間で「あの人は我が強い」とか「あの人は我を張る」といって「我」という言葉には、あまりよくない意味の響きがある。しかし、仏法では、以上のような意味の「我」を「小我」ととらて、この「小我」を乗り越えて自らの胸底に果てしなく広がる生命の心海があることを教え、この究極の実在を「大我」もしくは「真我」と呼んでいるのであります。
人間の「我」という問題に即して考究すれば、仏法の生命論の視座は「小我」の牢獄にとらわれた自我を、いかにして打破し、拡大し「真我」に到達させるかの一点にあるといっても過言ではありません。
このために展開された一つの哲理が仏法の「九識論」であります。「九識論」は唯識論の流れの精華ともみるべきではありますが、日蓮大聖人の法理、すなわち絶待妙のうえからは、生命の全体像をとらえる一つの哲理として、見事に復活してくるのであります。
まず私たちの色心の表面では、眼、耳、鼻、舌、身の五官にともなう心が働いております。つまり、感覚的意識であり、仏法ではこれを五識と表現しております。
現代の物質文明は、主として人々の生命の表面に働く本能的な五官の楽しみを刺激しつつ、その王国を築き上げたとみることもできるのであります。これを十界論でいえば、むなしく六道輪廻の人生を徘徊する「我」でもあり、生命空間はかなり狭く、かつ浅くてもろいものといわねばなりません。
人間はこの第六識によって、六道輪廻の境涯から新しい人生、つまりより大きな自我へと跳躍していくことが可能となるのであります。いちだんと上の境涯、すなわち二乗の境涯を望む方向に半歩進むわけであります。
しかしながら、この努力も六識の奥から突風のごとく吹き上げてくる種々の衝動、情念、欲望、宿命の嵐によって、たやすく崩壊してしまうのがつねであるといってよいでありましょう。
この六識にとどまるあさはかな「我」は、五識の「我」に比べてその空間は多少拡大しておりますが、しかし、もっと広い六識の奥にある無意識の衝動や情念をもつつみこんだ「我」に比べれば、「小我」にすぎない。
近代以降の学問や芸術を創り上げた先覚者の仕事は、この第七識のめざめによったと私は考える。すなわち、七識から発動する知性が、真摯な探究心となって社会と歴史と自然界の法則に肉薄していったのであります。
しかしながら、この七識に位置する二乗の「我」も、エゴに染められた生命内奥の衝動や宿命からは、決して自由ではない。いな、むしろ自己満足という自我の落とし穴の深みにはまりやすい。そして、より大なる自我の拡大から遠のき、かえって無明の闇につつまれて灰身滅智し、自他の生命破壊へと突き進んでいくのがつねなのであります。
この生命の奥なる宿命やエゴの衝動を克服すべく探究した仏法の直観智は、七識をも貫いて、更に生命奥底への世界を浮かび上がらせていくのであります。
しかし、第八識は染浄の二法を含むと仏法では説いている。すなわち、浄法としての慈悲のエネルギーとともに、染法としての生命破壊へのエゴの衝動とが、真正面から拮抗し、それを止揚する術を知らず、念々の内における二者の激闘は、とどまるところをしらない。ゆえに、第八識も確たる生命の「心王の座」ではない。
天台は、この「心王」の存在を内観によって究明していった。それに対し、日蓮大聖人は元初の「心王」をば、わが自在の胸中に悟達し、その境地を万人に開くための確実なる実践法を残されたのであります。これが我らの信仰なのであります。
しかも、求心的に「心王」に迫ろうとした正法、像法二千年の仏法の営為に対して、「心王」の太陽をわが生命の都にすえて、厳しき現実の怒濤の荒波へと、再び身を投入せしめていく青年の宗教、革命の哲理、世紀の社会運動の思想の原点が、大聖人の仏法なのであります。
また上野殿後家尼御返事の「心地を九識にもち修行をば六識にせよ」との御金言も、この意味であります。
すなわち「心地を九識にもち」とは、我々の立場でいうならば、日々の勤行、唱題であります。「修行をば六識にせよ」とは、現実に荒れ狂う六道の苦海のなかで、すすんで自らを鍛練せよ、人をも救え、そこを仏道修行の場としていかねばならない、との仰せであります。
ゆえに、朝な夕な“宝鏡”の前にわが「心王の都」を映しだし、あえて現実の激浪のなかにわが青春をささげていただきたいのであります。そして、師子王の宗教を自らの根拠としつつ不撓の意志を貫き、あらゆる分野に自在に乱舞していかれることのみが、私の心からの祈りなのであります
これが、創価流の唯識論なのか
それが『心王』だというのか
ということは、天台教学もそうなっているのかな?
かなり違和感があるのだが
ヒンドゥー教に近い
それだと、唯識論の意味がないだろ😅
天台本覚思想があるからな
山伏と人格仏、
閻魔大王も人格仏みたいなもんやからなー
😄
せいうんこは
唯識論ですらないからなー
😄
日蓮と山伏と念仏、
葬式仏教は
天台本覚思想の影響があるやろなー
😄
創価の九識の心王は唯一神と変わらないすね
一神教とほぼ論理が同じだ
いや、霊魂は人類が既に所有してるものなので、
どちらかというと神との合一みたいな感じなのでは?
なぜなら、主体を欠いているから
なるほど
よく読めば、そんな気がしてきた
「第九識の心王」というのは
宇宙と一体化した真我、大我のことなのか
2022年5月17日 14:14
低次の私と、高次の「私」という概念がある。
そして、この低次の私(私とあなた)とは、身体と同一化しているものである。
さらに、高次の「私」には、二つのタイプがある。
一つは、すべて有る「私」。
もう一つは、すべて無い「私」。
「私はすべてである」が真我的であり、「すべてがない」が無我的なものだろう。
そうして、低次の有ると無い、高次のすべて有るとすべて無い。
これらすべてを捨て去るのが中道であり、解脱となる。
つまり、真我と無我はプロセスにおいては異なるように見えるかもしれないが、真には同じことだと言える。
このように、「私」が残っているかぎり、人生から不幸が消えることはない。この「私」という観念は、真我の知識によってしか取り除くことはできないのだ。
それでも、「私は全宇宙と一つだ。私から離れて存在するものはない」という感覚を与える高次の「私」が、光明を得た人の理解だ。
別のタイプの「私」とは、「『私』は自然の中の原子であり、非常に霊妙な、宇宙のすべてとは異なる独立したものだ」と感じるときのものだ。これもまた解脱に導くものであることに異議はない。
高次の「私」の形なき形に絶え間なく瞑想することで、低次の「私」の形は消去されるのだ。
そうすれば、いずれは高次の「私」の形さえ完全に放棄されることだろう。
「ヨーガ・ヴァーシシュタ」
もしあなたが世界の現れを実在と非実在の両方だと考えるなら、この無常の世界にふさわしい態度を培いなさい。
もしあなたが世界の現れを非実在だと信じるなら、そのときは無限の意識の中に揺るぎなく確立されなさい。
「ヨーガ・ヴァーシシュタ」
「私は行為者ではない。私は存在しない」と感じなさい。
あるいは、「私は行為者だ。私はすべてだ」と感じるがいい。
あるいは、「私は誰か」と尋ねることで真我の本性を探究し、「私は私に属するものではない」ことを悟るがいい。
「ヨーガ・ヴァーシシュタ」
この世間の人々は多くは二つの立場に依拠している。
それはすなわち有と無とである。
もしも人が正しい智慧を以て世間(世の人々)の現れ出ることを如実に観ずるならば、世間において無はあり得ない。
また人が正しい智慧を以て、世間の消滅を如実に観ずるならば、世間において有はあり得ない。
カッチャーヤナよ、
「あらゆるものが有る」というならば、これは一つの極端の説である。
「あらゆるものが無い」というならば、これも第二の極端の説である。
人格を完成した人は、この両極端説に近づかないで、中(道)によって法をとくのである。
「マッジマ・ニカーヤ」
世間で生きる人の有るもあり得ない。世間の人にとっての私とは身体だから。
つまり、世間の(低次の)私は成り立たない。
「あらゆるものが有る」とは、涅槃に対しての確信であろう。
「あらゆるものが無い」は、無常や無我への智慧だろう。
それらは、人格の完成までは、筏の役割を果たすのだろう。
そうして、最後にはすべてを捨てていく。
ちなみに、仏教での無我と非我との混同は、それぞれに注意が必要になる。
無我が行き過ぎると涅槃(実在)への否定や無関心に陥り、非我が行き過ぎるとどこかに我を残してしまう。
最終的には、無我でも非我でもなく、中道であり、これらもまたプロセスの一部である。
いつも
素通りされるが
天台華厳なんちゃらは
外部存在の扱いがある
とは
レスしているがなー
😃
> 天台華厳なんちゃらは
>
> 外部存在の扱いがある
どういう意味?(>_<)
我と宇宙の一体化だ
宇宙という外部
ブラフマンがある、
ま、そもそもヒンズー教理は
ジャンカラ自体が
大乗仏教の影響があるらしいけどな
😃
かべ
外部存在の想定がないと
あり得ない、
そこが
テーラワーダ
唯識との違い、
せいうんこや麦も
ムイムイも
超えれない
壁
😃
なるほどね~😄
唯識論寄り
😃
ホラ吹きーズとして
せいうんこと
麦を
バカにする
😃
>>954
ムイムイはムイムイ視点だけだからな
😫
王蟲の設定
一にして全
みたいなのは
王蟲単体の個だけではない
個の外部設定だからなー
まーネット自称仏教徒は
宮崎駿よりも
解ってない
😫
前に調べたけど忘れた
忘れてよいものではない(笑)
妙に波長が合う
「本覚」と言い出したのが大乗起信論
華厳ぽい要素を頂点にしてる
チベット密教のゲルク派は
インド大乗の嫡子の
位置だがな
😃
新ジャンルのサウンド
😃
ま、椎名林檎やらがいたが
これは特異〜
山本リンダ以来の魔物?
😃
https://m.youtube.com/watch?v=QrqYgJNXkrc
せいうんこや麦の文章読むと
さらに
ワケワカメで
嫌になる
たぶん中国仏教の
妨害工作員と
思われる
😫
最高のよーだ
PVのほーは
もう一つ
😃
この
Theファーストテイク
😄
😄
無くなってきた
インド大乗、中国仏教の探求よ余地はあるけど
【唯識三年】仏教ウンチクを語るスレ 7【倶舎八年】
https://talk.jp/boards/psy/1719655029
こりゃいいな?😆
PVよりも
ファーストテイクの方が
クオリティー高い不可思議
😄
12 栖雲居士◆dqam8SqGUPdm 2024/06/29(土) 13:47:51.43 ID:h8sM9
次説立義分。摩訶衍者。總説有二種。
次に立義分を説かん。摩訶衍というは総じて説くに二種有り。
云何爲二。
云何が二と為す。
一者法。二者義。
一には法、二には義なり。
所言法者。謂衆生心。
言う所の法というは謂く衆生心ぞ。
是心則攝一切世間法出世間法。
是の心に則ち一切の世間と出世間との法を摂す。
依於此心顯示摩訶衍義。
此の心に依りて摩訶衍の義を顕示す。
何以故。
何を以ての故に。
是心眞如相。即示摩訶衍體故。
是の心真如の相は即ち摩訶衍の体を示すが故に。
是心生滅因縁相。能示摩訶衍自體相用故。
是の心生滅因縁の相は能く摩訶衍の自体と相と用とを示すが故に。
いい演奏の上手いのをかき集めてくるんやろなー
バンドマンの立身出世のチャンスなのかもなー
😄
華厳、天台というよりも
三論宗のバックボーンぽく見えるなー
せいうんここじきくんには
教義的な選別センス無いだろうけどなー
仏教版生長の家せいうんこたからなー
八宗綱要の三論宗の項目の内容に近い
乃紫の
ファーストテイク、 リターン聞き止まらんなー
演奏とボーカルのマッチングが
スゲエー
😄
ファーストテイクの分に関しては
才能を感じるなー
ミュージックビデオの原曲は
イマイチ感はあるけど
😄
『大乗起信論』は、6世紀前半、南北朝時代末期の中国に、漢文のかたちで現われた仏典である。南朝のインド人僧侶、真諦(499~569)の訳であると伝えられる。
近年、仏教学に発展をもたらしたのは、①漢文大蔵経の電子化、②敦煌出土北朝仏教文献の翻刻出版――という二大成果である。この二大成果は、結果的に、『大乗起信論』成立問題にも解決をもたらすこととなった。①によって、同論が先行する漢訳仏典からの一種のパッチワークであることが判明し、②によって、同論が地論宗より前の北朝仏教文献に特有の説をいくつか含んでいることが判明したのである。
インド大乗仏教においては、現象を構成しているあらゆる法(枠組み)は、空(からっぽ)、すなわち、無我(おのれがない)と説かれている。
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