鈴木 大拙(すずき だいせつ、本名:貞太郎〈ていたろう〉、英語: D. T. Suzuki 〈Daisetz Teitaro Suzuki〉、1870年11月11日〈明治3年10月18日〉-1966年〈昭和41年〉7月12日)は、日本の仏教学者、文学博士である。禅についての著作を英語で著し、日本の禅文化を海外に紹介した。著書約100冊の内23冊が、英文で書かれている。1949年に文化勲章、日本学士院会員。
四分の教え a. <四分〔しぶん〕>とは、 i. <識>の四つの側面である。<心王>と、実の三十二の<心所>のすべてに<四分>がある。 ii. <相分〔そうぶん〕><見分〔けんぶん〕><自証分〔じしょうぶん〕><証自証分〔しょうじしょうぶん〕>のことである。 1) <相分>とは、認識の対象のことである。(客体) 2) <見分>とは、<相分>を直接認識することである。(主観) 3) <自証分>とは、<見分>を自覚する働きの一面である。<見分>を対象としてみている自分である。(自我) 4) <証自証分>とは、<自証分>を自覚する一面である。(本来の自分)
続く
542.
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>>541 ∞ノノハ∞ 川^〇^ハレ続き
5) 例:「花を見る」…①花=相分、②花を見ている自分=見分、③花を見ている自分を自覚している自分=自証分、④自覚している自分をさらに自覚する自分=証自証分 6) 例:「店」…①商品の値段=相分、②店員=見分、③店長=自証分、④社長=証自証分(本来の自分) iii. 自分が自分と対話し、自分が自分を自覚し、さとるという構造がある。 iv. 「成唯識論」では、認識は<四分>で完結するという。なぜなら、<自証分>と<証自証分>は互いに自覚しあうからである。(弁証法的内観法) v. <相分>と<自証分>とのつながり 1) 人とものとはつながっている。 2) <相分>は、<自証分>が<相分>という形になって現れたものである。 3) <相分>は、外に実在するのではなく、自分の<こころ>の投影である。 4) 自分の作り上げた<相分>に縛られることを<相縛>という。 5) 相分は<影像〔ようぞう〕相分>と<本質〔ほんぜつ〕相分>がある。 6) 自分の<こころ>のありようで、<相分>は美しくも清くも豊かにもなる。
仏教に関する難しい話はこちらで
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【唯識三年】仏教理論を学ぶスレ 4【倶舎八年】
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1、初期仏教 : 紀元前6世紀頃
お釈迦様の教え
2、上座部 (テーラワーダ仏教) : 紀元前5世紀頃
いわゆる小乗仏教、南方で継承される
3、説一切有部 (倶舎論) : 紀元前1世紀頃
部派仏教の時代、最も有力な部派
4、経量部 (倶舎論) : 西暦300年頃~
説一切有部から分派、世親はここの出身
5、中観派 (中論) : 西暦200年頃~
空と縁起の思想、龍樹が始めた大乗仏教
6、瑜伽行派 (唯識論) : 西暦400年頃~
阿頼耶識が登場、大乗二大学派のひとつ
7、如来蔵思想 : 上記の流れとは独自に展開、
「誰でも成仏できる」という思想
五蘊・十二処・十八界
1、五蘊(ごうん)
・色 物質的な存在(身体)
・受 感受する作用
・想 表象する作用
・行 意志する作用
・識 認識する作用
→人間は、五蘊を寄せ集めた仮の姿。
「我」として執着するような実体は無い
2、十二処(じゅうにしょ)
・六根:六つの認識器官
眼根・耳根・鼻根・舌根・身根・意根
・六境:六つの認識対象
色境・声境・香境・味境・触境・法境
六根と六境を合わせて十二処
3、十八界(じゅうはちかい)
・六識:六つの認識作用
眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識
十二処に六識を加えて十八界
→自分が認識しているもの、
それが世界のすべてである
多くの部派に分かれて、
仏教理論の体系化が進んだ
最も有力な「説一切有部」は、
存在を「五位七十五法」に分類した
初期仏教の「五蘊・十二処・十八界」
よりだいぶ数が増えた
説一切有部の思想は、後に「倶舎論」
としてまとめられた
↓
(1)五位七十五法
法(ダルマ)=存在するものに2種類
・有為(うい)…煩悩で汚れたもの
・無為(むい)…煩悩で汚れてないもの
1~4は有為法、5は無為法
1、色・・・物質的現象 11種類
眼・耳・鼻・舌・身・
色・声・香・味・触・
無表色
2、心・・・心の本体 1種類
3、心所・・・心の作用 46種類
大地 常駐する心の動き
大善地 善の動き
大不善地 悪の動き
不定 どちらでもない心の動き
大煩悩地 根本的な煩悩
小煩悩地 付随する煩悩
4、心不相応行・・・ 14種類
色(物質)にも、心(精神)にも
分類されないもの
5、無為・・・ 3種類
常住不変な存在
虚空、択滅、非択滅
大乗仏教が登場した
中観派は「空」の思想を唱えた
説一切有部と違って、中観派は
実体を持って存在するものなど一切、
認めなかった
中観派の創始者である龍樹は
『中論』などの著作により、
「空」の理論を大成した
空と中観は大乗仏教の基礎理論であり、
龍樹は大乗の第一祖とされる
「実体のある存在の構成要素」
と考えられていた
だが、大乗仏教の時代には、
「実体のある存在など無い」という
空の思想が主流になった
(ここでいう『実体がある』とは、
『永遠で不変の存在』というような意味)
唯識派は、倶舎論の五位七十五法を
「空」の思想に基づいて書き換えた
眼耳鼻舌身の五識と意識に、深層意識の
「末那識」と「阿頼耶識」が加わった
心の分析が細かくなり、五位百法に増えた
「物質は意識から生じる」とされたため、
色法(物質的存在)を後回しにして
心法(精神的存在)を先に持ってきた
↓
五位百法
① 心王(表面意識と深層意識)
眼・耳・鼻・舌・身・意の
六識と、マナ識・アーラヤ識の8種。
② 心所(精神的な作用)
51種。
③色(物質的な作用)
眼・耳・鼻・舌・身の五根と、
色・声・香・味・触法の五対境、
および意識のみの対象である法処所摂色11種。
④ 心不相応法(物質でも精神でもないもの)
24種。
⑤無為法(はたらきを起こすことがないもの)
虚空・択滅・非択滅・不動滅・想受滅・真如
6種。
本覚讃(ほんがくさん)は、本覚思想を要約した56文字の偈である。
妙法蓮華三昧秘密三昧耶経の冒頭の偈から抜粋し作られた。本覚思想を要約したものなので、天台宗の勤行で唱えられる。
また、修験道でも般若心経や真言、不動経など並んで修行時によく唱えられる。
真言宗醍醐派の当山方の勤行でも唱えるほか、高野山真言宗でも金剛峰寺奥の院の御廟橋を渡る際に唱える。
本覚讃の解釈本として、良源著と伝わる「本覚讃 註本覚讃」や源信著と伝わる「本覚讃釈」がある。
帰命本覚心法身(きみょうほんがくしんぽっしん)
常住妙法心蓮台(じょうじゅうみょうほうしんれんだい)
本来具足三身徳(ほんらいぐそくさんじんとく)
三十七尊住心城(さんじゅうしちそんじゅうしんじょう)
普門塵数諸三昧(ふもんじんじゅしょさんまい)
遠離因果法然具(おんりいんがほうねんぐ)
無辺徳海本円満(むへんとくかいほんえんまん)
還我頂礼心諸仏(げんがちょうらいしんしょぶつ)
本(来)覚っている心の法身に帰命したてまつる
常住妙法心蓮台
妙なる法が心の蓮台に常に住んでいる
本来具足三身徳
本来より(法身報身応身の)三身の徳が具足している
三十七尊住心城
(金剛界の)三十七尊が心の城に住んでいる
普門塵数諸三味
塵の数ほどの諸々の三昧にあまねく(開かれた)門がある
遠離因果法然具
因果を遠く離れ法然として具(足)している
無辺徳海本円満
無辺の徳の海が本より円満している
還我頂礼心諸仏
(外にするべき頂礼を)我に環して心の諸仏を頂礼する
帰命本覚心法身
常住妙法心蓮台
本来具足三身徳
三十七尊住心城
普門塵数諸三昧
遠離因果法然具
無辺徳海本円満
還我頂礼心諸仏
(中山清田師の訳による)
「本来覚 (さと) られていることを讃える」
本来既に覚っている、 みずからの内なる仏、 法身に命を捧げて信仰致します。
本来もとより仏の法身、 報身、 応身という三つの形で説明されて、 あらゆる人間的無相表現が既に過去からこの身に備わっているものですから、 三十七の仏、 諸尊がみずから心身に住している。
諸仏や諸尊の限りない自内証 (覚り方) は、 世間的な因果生死の流転のあり方を超越して、 仏法のまにまに備わっており、 大海のような辺際のない諸仏諸尊の無量の仏徳が本来完全にしみわたっている。
それらを具足している我が身ながら、 改めて我が心身に内在している諸仏諸尊にこうべを垂れて礼拝致します。
http://www.tendai-jimon.jp/shomyo/Track2_10.mp3
そこに気づけば、修行は終わり
当方は「仏教とは真逆の考え方」と
強く批判したのだが
日本の仏教界では伝統的に極めて有力な考え方
初期高野山奥の院ら
三井寺系統山伏と
初期山伏は
クマノ信仰関連で三井寺のほうが力が強かったから
>真言宗醍醐派の当山方の勤行でも唱えるほか、高野山真言宗でも金剛峰寺奥の院の御廟橋を渡る際に唱える。
なんやろね
また、山伏、念仏が本覚思想の影響が
大だからな
😄
現存してないの寺院に
蓮華三昧院がある、
明遍だったかな
あやふや
😄
本覚思想って修行しなくていいって思想なんすか?
もともと、そういう話ではなかったのだが
やがて、人間は誰もが悟っているの
だから、修行する必要もなければ
戒律も守る必要がない、
凡夫は凡夫のままでよい、
などという急進的な解釈がされる
ようになった
その解釈は浄土宗系列の宗派の教えレベルではなくて、(堕落的なお坊さん)が生み出してるムードレベルのものか、が個人的には論点になると思います
ムードレベルなんじゃないか、と推測します
カトリックが政治的になりすぎて堕落しすぎたことがあるのに似てる感じかな、と
昨日の仕事
約計半時間、脳高速回転で
一瞬ヘタった
😄
やはり、おもったが
如来蔵第九識は本来は超エリートの世界のスタンスなんやろな〜
唯識でいう、七識、八識がクリーンで
そえ、メンタルが澄んでいる
一切空間認識
で
それが見える
😄
ま、葬式仏教が
そもそも本覚思想の発展形なんやろな
😄
神仏の代理で死後浄土へ送るよーに何回忌とかやりながら、供養する
😄
初期仏教や唯識論の人間観の「暗さ」を批判するけれど
個人的に、なじんでいるのは初期仏教や唯識論
この世がネガティブな存在なんだよ(笑)
だから、その現実を直視して、そこからの離脱を目指すのは究極のポジティブ
ジワジワと染まる😅
>>39
そうさ、大方は
ま、禅定で
七識、八識が
クリーンになってると
少しの刺激と気付きで
一切空間認識へとなる
とはいえ、
これを強制絶対主義を
主張するのとは
意味が違う
その辺が
他のキリスト教などの宗教との違い、
真理で議論する手合いのものてはなく、
自己選択で深めるもの
自己責任なだけでしょうな
シカやほーかいくん、日蓮のよーな絶対真理路線ではない
その辺も
ソシュールカルチャーの影響かもね〜
😄
ツァラトゥストラの「よし、それなら何度でも」も大乗っぽいですな
釈迦ってすげーやつや仏ってすげー存在がいて
彼等に似るために輪廻がある、みたいな捉え方
煩悩に覆われて迷っている状態(不覚)にもかかわらず、本性として本来的にさとりの性質をもっているということ。これに対して無始より有する迷いを滅することを始覚しかくという。
『大乗起信論』に説かれる。そもそも『大乗起信論』においては、衆生の心について心真如門と心消滅門との2種の立場で捉える。
心真如門の立場では心を差別のない平等な絶対的なさとりとし、心消滅門の立場ではその心は本覚・始覚などと、差別相をもってあらわされると考えるが、あくまでも本覚は衆生のうちにあるさとりの性質として示されている。
しかしながら、後世には、人々はすでにさとっていて気づいていないだけであるという意味に拡大した解釈もあらわれ、この迷いの現実世界こそが真のさとりの世界であるとみる日本天台本覚思想などにも展開した。
(浄土真宗辞典)
『起信論』では「心真如門」において仏の法身が真如の智慧そのものであることを示す。
「心生滅門」では一転していかに衆生が無明による生滅流転の状況にあるかを示すが、その際のキーワードは阿梨耶識ありやしきである。
そして、その阿梨耶識は法身・如来蔵を内容とする覚と無明に流れる不覚の両面を併せ持つ。その覚が本覚と始覚に分かれる。
本覚は真如にも通じる法身・如来蔵そのものと言ってもよい本来性であり、始覚はその本来性が不覚の妄念に妨げられて自覚されないものを修行により始めて自覚すること。このように『起信論』においては本覚と始覚に加えて不覚が重要な要素である。
三細六麤により不覚が説明されるが、それは五意や六染とも関連し、本覚・始覚の対応以上に不覚が丁寧に説示される。この不覚をいかに始覚から本覚に深め、心真如門の法身を実現するかが『起信論』の眼目である。
出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』
阿梨耶識
『起信論』では、不生不滅と生滅とが和合して、しかも両者は一でもなければ異なるものでもないという関係にある心のあり方、現実の心の構造をいう。不生不滅すなわち真と、生滅すなわち妄とが和合していて、それを一としようとすれば義として非一、これを別にしようとすれば体として非異であるが、すでに動揺に向っているから、真妄和合識となすほかない。
阿梨耶は、蔵と漢訳され、また通俗語源解釈により、無没とも漢訳される。〔起信論T32-576b〕
偈中の自界という語をアーラヤ識であると解釈する。この場合は、無明と煩悩との2種が活動する根源の意。〔『荘厳経論』述求品〕
阿梨耶識は外的世界、すなわち環境世界(器世間)・5つの対象(五境)、および内的世界、すなわち感覚機官(根)・精神とその活動(心・心所)という2種の根源(種子bīja)であると認められ、その根源である点をさしていう。
〔『荘厳経論』功徳品〕
この両者が不一不異の関係であると
一即多、多即一へとつながっていくんだな
西田幾多郎も鈴木大拙も『大乗起信論』から大きな影響を受けた。この世は人の認識が形づくる「妄念」に過ぎず、それを断ち切り修行に明け暮れ、「個人」として悟りを得ようとするのが「小乗仏教」。そうではなくて他者への「慈悲」こそ大事という「大乗仏教」は、「現象即実在」であり、具体的一元論であり、不動の真如も生滅を繰り返す現世もひと続き。「現象」を見れば「波」だが、「本体」は「水」。「水」と「波」は言うまでもなく「同一」。『大乗起信論』の中で説かれるこの比喩を西田は自分の論文にも引用している。
現象学を先取りするような『大乗起信論』は、実はいつ、誰が書いたか明らかでない小冊子に過ぎない。しかし、古くは空海が典拠とし、明治期の東洋哲学講義に採用され、さらには西田幾多郎の思想に影響を与え、鈴木大拙は最初に英訳すべき仏典と位置づけ、これから述べる井筒俊彦が深く依拠した書だ。
井筒俊彦は、『大乗起信論』を「強靭で柔軟な蛇行性」を特徴とする本と言った。矛盾する二つのことを「合一」することも「択一」することもなく、自己矛盾だらけに両方の筋を展開する。これを井筒は「双面性」と呼んだ。
本来、真如=真理はひとつであるとイメージされるのに、『起信論』では、自ら変化し、別の在り方へと変容し続ける。いつもはっきり見えるわけでも、わかるわけでもなく、時に現れ、消えることを繰り返し、つかみどころがない。ただ消えていてもどこかに隠れているだけで含まれている。
「真如は超越的に自己自身のうちに蔵身しつつ、同時に、自ら顕現せしめたすべての存在者の中に内在する」
見えないように見えても、ちょっとした現象にほとばしり現れてしまう。それは意図的ではなく「自発自展」する。まさに「ジェネレート」である。
『起信論』はさらに誰にでも「如来蔵」を認める。どんな人も仏の真理に至る素地を持っていると考えるのだ。
真如のストーリーは突然に
である。『起信論』では「忽然念起(こつねんねんき)」と言う。井筒はこう説明している。
「いつ、どこからともなく、これという理由もなしに、突如として吹き起こる風のように、こころの深層にかすかな揺らぎが起り、『念』すなわちコトバの意味分節機能、が生起してくる」
あの日、あのとき、あの場所で、たまたま君と出会った
としか言いようのないジェネレート。いつどこで生まれたかをたどろうとしてもわからない。どこを目指しているのかもわからない。それが「忽然念起」である。
形もなくとらえ難い「真如」を「如来蔵」とはいえ「凡夫」であるわたしたちがどうしてとらえられるのか。それは「真如」を感じることができ、さらにはコトバで表現されるからだと『起信論』は説く。
「物となって見、物となって動く」
という「なりきリフレーム」が重要だと言った。「コトバ以前」の「感じ」をなんとかつかもうとするのだ。
一方、井筒俊彦は、私たち「一般衆生」は、現実の心から出発するしかないので、「コトバ」の限界を「自覚」したうえで「コトバ」の背後にある「真如」をつかまえようとするしかないと考えた。
「いかに言語が無効であるとわかっていても、それをなんとか使って『コトバ以前』を言語的に定立する」
ところに自分の思想と『起信論』との共通点を見出した。
忽然と起こる「念」は、いかに「真如」と潜在的につながっているにせよ、「妄念」として作動してしまう。しかし「妄」と「真」との「紙一重」が新たな何か、面白い何かをジェネレートする契機となる。
それはたとえば、大海の水が風によって波立つようなものである。この場合、水の相と風の相とは不可分な関係にあるが、さりとて水は〔風のように〕動く本性なのではない。そこで、風が止めば、〔水の〕動きもなくなるが、そうなっても水の本性たる湿性は変わらない。それと同様に、衆生の〈自性清浄心〉は〈無明〉の風が吹くと動き出す。
しかし、心も無明もともに〔固有の〕形相があるわけではなく、ただ相互に不可分の関係にあって機能しているのである。しかも、心は動くのが本性ではないので、無明の動きがとまれば、心の動き、すなわち刹那ごとの生滅の繰り返しによる連続(心相続)は消滅する。さりとて、その本性(法身)としての智の働きは破壊されない(智慧が純浄となる)。
それと同様に、〈根元的無知(無明)〉も〔風のようなもので、自性清浄心なる〕心の本性〔という水〕を依りどころとして、その動きをあらわす。万一、心の本性がなくなったとすれば、衆生(心)は相続できずに断絶するから〔無明も〕依りどころを失うことになる。心の本性が変わらずに存続するところに心の動き(生滅心)も刹那生滅を持続できるのである。
ただ、〈根元的無知〉が滅すれば、心の生滅する相はそれに伴って消滅する。しかし、心に本来そなわる〔さとりの〕智慧(心智)まで滅するわけではない〔この智慧こそがさとりの後も、仏の働きを永遠に可能とするのである〕。
わが心 深き底あり 喜びも 憂いの波も とどかじと思ふ
無明の風に動揺して波立つのは大海の表層だけであり、揺るがない大海の深層に例えられる心の本性があるのだ
それは表層識の波にすぎない
深層識には、不動の深海底があるということか
三毒にむしばまれているのは表層識だけ
深層識では、誰にでも仏性があると知っている
やはりローラーも
本覚思想やな〜
😄
第九識モード解除しとるナウ〜
脳はリトル魔改造天台浄土教だ〜
😄
俺的第九識=仕事からみる一切空間認識
😄
自分の心の世界だけてばはない
空間への広がりがあるものだ
法華経の釈迦如来の一切世界を照らす光明の
意味を設定すれば、
天台華厳眞言禅あたりは
このよーな志向がある
😄
チラ見したが
ま、チベット密教でも
大方基本認識は同じだな〜
真如などの扱い
😄
関係で
涙が出る神秘主義〜
う〜ん神秘主義軽視の
世界で今年6月に仕込まれ40分
仕事の時間は
このお方に仕込まれたとおりにメンタルが動く
😄
天台華厳眞言禅あたりは
全く理解できないシステムになっている
😄
ガンバルンバ
🤢
二度寝かな
パワーダウン気味やろからな〜
😟
ヒンズーヨガ系統の
模索する意欲が出てきた〜
😄
飛ばし読みする〜
😄
対象を自由に支配できる云々とある
真我で
だろな〜
😄
些末な
理論を飛ばして読むのは
気楽である
止息スタンスで
読みこなすと
さらに気楽である、
些末な理論は
やはり
難しい
ま😄
それが、大乗起信論の世界観
う~ん😅
聖徳太子、楠木正成、伝教大師、弘法大師の4大霊
7000人を超える悪霊が、織田信長を殺そうと狙ってた
守護霊の支援も、敵対する霊障も大きくなる
ま、自己満足と
他の宗教の
上っ面パクリ
ローラーさまみたいなもんやからな〜
昼寝できたわ〜
😄
宗教読んでるくらいなら、
アニメの
ほうが
日本文化濃度で
オモロイ、
半端な宗教
傑作アニメに
遥かに劣る
😄
𦍌文学のエンディング曲のせいで
呪術廻戦の
ネタバレ紹介をみてみると
やはり宗教文化の濃度の高さがあるんやろな〜
😄
<ワールドメイトのリーダー(教祖)、深見東州(半田晴久、戸渡阿見)氏は、万能の活動と、ギャグ爆発の性質から、「出口王仁三郎2世」や「宗教界のギャグ王」とも呼ばれる>
パワーコール「センテン ナム フルホビル」は、『強運』でも次のように紹介されている。
まず第一に、守護霊を中心に善霊や幸運の”気”が大集合し、大きく守護される。第二に、自分自身と守護霊が合体し、霊感が鋭く研ぎ澄まされてくる。
このふたつの霊的効果によって、災いは去り、幸運が舞い込む。それと同時に生き方は前向きとなり、心身ともに元気ハツラツ、クヨクヨしない自分となれる。それから、このパワーコールは動物、植物の精霊もなびかせることができるのである。
目が覚めたので
歯磨きするか〜
昼寝の後の口腔ケアは
風邪防止に
必須だ
😄
神道文化のご利益思想のみを理論化したんやろな
😫
ご利益の成果と
理論化が多いんやろな、
出口王仁三郎は
神秘趣味はあるだろうけど
他は大抵は
ご利益志向じやないのかな?
とは
思う
😄
ごもっとも
天台密教では
星振信仰?
だったかそれがある
日蓮宗になる
妙見信仰、
たしか
北極星、
まだ、天台密教の星信仰や
妙見信仰は手を伸ばしてないな〜
😄
臨死体験で有名な木内鶴彦さんが、過去へいって信長を追ったら、明智光秀と信長はなーなーで、死んだことにして、イタリアのバチカンを目指して、そこで枢機卿まで上り詰めて、そこで亡くなっていたらしいですよ
今でもサムライの子孫として末裔がイタリアに居るとかありましたね
それは無理でしょ
ローマ教皇庁を訪問した天正遣欧使節団が気づきますがな😅
金星人やら
胡散臭いのが
お好きやのお〜
👽
でも会わないようにしてたら?ってのも
まあーただのお話として
何でも顔の似た、ローマ字表記にすると、ODA NOBU まで文字のそろう人が当時居たとかも書いてあったですw
すきやのお〜
👽
スピ系統金星人
大好き〜
カオリンは
被害妄想大好き〜
😫
皆様にとり2024年が良い年でありますように祈念申上げます!
m(_ _)m
大変参考になり有り難く思っております。
JBL〜〜〜
こっちは深夜3時までスーパー修行モードだった
😄
一切空間認識の
超ハイレベル問答を
墓参りの時、
容赦無しに少し霊的にオコラれながら
問答しにきた〜
😄
今回はセンス良く十五分でまとめて脳内構築した
😄
まだ、わかんないのーー😡😡😡😡😡
みたいな
問答〜
出口王仁三郎超えだ、
ある種
😄
数年単位がある、
前のは、最低ゾーン7月、
ま−コンプは12月手前
😄
超能力バトルみたいだ〜
😄
海印三昧と
華厳三昧の
システム問題みたいな〜
そういう風な
大晦日オールナイトプレイしてた〜
😄
検索したくなる
華厳ネタ
あげとこ〜
😄
https://i.imgur.com/396IHQO.jpg
『華厳経』の教理の特色は、第一に人間には仏性があり、仏になるとしたこと。第二に、ブッダが悟った真理は「縁起」から見た世界にあるとしたこと。第三は、宇宙は多様な要素がすべて相互にネットワークしあって、秩序をつくりあげているとしたことにある。
松岡正剛『情報の歴史を読む』(NTT出版)p,211
縁起思想も重要だ
■『華厳経』の伝訳後、それに基づく解釈学者や実践者があらわれたが、そのひとり杜順(とじゅん) (554~640)を開祖とし、智儼(ちごん)(602~668)を経て法蔵(ほうぞう)(643~712)によって大成された。
世親の『十地経論』に基づく地論宗{淨影寺慧遠(えおん)(523~592)が傑出} と、唯識の綱要書である無着の 『摂大乗論』に基づく摂論宗の流れをうけて、さらには、『大乗起信論』の如来蔵縁起説を媒介として、 『華厳経』を解釈しようとしたのが、華厳教学である。
■教判は、法蔵が五教十宗の教判をたてる。それは、小乗教、大乗始教(『般若経』など「空」を説く教えと『解深密教』などの唯識思想をさす)、 大乗終教(『勝鬘経』や『起信論』などの如来蔵思想)、大乗頓教(『維摩経』)、大乗円教(『華厳経』)とする。
円教と他の四教との違いは、 円教は個物がそれぞれ独立していながらしかも融和し調和しているという「重々無尽」、「一多融即」を説き、大乗終教との違いは、 終教では現実即理想を説くのに対し、現実の絶対肯定を主張する。
さらに天台の現実の絶対肯定的世界(諸法実相の法門)との違いは、 華厳では現実の個物の密接な関わり方、関係性(唯心縁起の法門)を説いたところにある。
華厳経が円教
円教に先行する四教
小乗教
大乗始教(中観派と唯識派)
大乗終教(如来蔵思想)
大乗頓教(維摩経)
いつも、俺がスーパー修行モードとか
レスするときは
この世界は込みである
😄
大みそか師匠の息子とディープな雑談してまいりました、
ローラー、ムイムイ、麦みたいな
寝言漫談ではなく
😄
>第三は、宇宙は多様な要素がすべて相互にネットワークしあって、秩序をつくりあげているとしたことにある
禅宗は華厳宗の後継者みたいなものだ
へえ、そりゃすごい😄
韓国ては濃厚だ
日本では真言密教、天台密教のほうが色濃い
禅は
よりシンプルだ
😄
そのモードが
休日になっても
スイッチ切れないよ〜〜
とかレスしてた訳で〜
😄
そのスイッチだと
リアルな念仏、山伏、キリスト教神秘主義の
データーが遮断されたまま
😄
法界縁起
六相円融
性起説
正月1日昼は
そのテーマで3分研究してた〜
エロエロスレ参照
😄
海印三昧
ローラー様と同じテーマを探究してるんだな~😄
休日のモード切り替わりまで、
それだ〜
大みそかは
その内容以上の
沢庵書物ネタで
師匠の息子と雑談して
遊んてた
😄
ローラー様にも教えてやりたいな~?😆
こっちは
イスラム教、キリスト教、神道
法然
まとめて3分だけ
😄
なにをしたか?
エロエロスレでレスしているが
JBL的には
わかりやすくやると
霊的な関係の深さから
霊的な気が満ちる
😄
六相とは総別、同異、成壊の三対の概念でこれが互いに円融無礙の関係にあって、 一に他の五相が含まれて、しかも六相がそれぞれの理法を守ることによって法界縁起が成り立つという。
『華厳五教章』に「椽(たるき)と舎(いえ)」の譬えがあり、総相は全体としての屋舎で全体的統一。別相は椽などの部分で千差万別。 同相は椽や梁、瓦などが一つになって屋舎を造り上げているように、別々のものでも一つの全体を構成すると見ること。 異相はその差別、変異の面から見ること。成相は椽や梁、瓦などが各々縁となって一つの屋舎を成ずると見ること。壊相は椽は椽、 梁は梁、瓦は瓦というようにあくまでも本来の面目を保有して混じり合うことがない見ること。
法蔵はこの「空」を基底にした六相が、 法界の無尽に縁起する潤滑油として機能すると説く。
昨日わマジレスしたら
スモールゲキオコされてました
😫
ローラー様は聞く耳もたないか~😫
「性起」の「性」は、人間に本来的に具わっている仏性、自性清浄心である。 「起」とは「顕現」、「発起」の意味で、仏性の現起することをいう。
『華厳経』に、如来が衆生の内に如来の智慧がくまなく入り込んでいるのを 見て「奇なる哉、奇なる哉、徳相を具備して我が身と異ならず」とある。
悪業や煩悩に悩み、無明の存在である我々の心そのものが仏の世界、 仏性のあらわれであり、この生死の世界がそのままで仏の世界であり、それ以外に仏性、性起は無いという。
マスターイージなのは
一番は
真言密教
2番が
曹洞宗禅
超魔改造したシステム構築したおした
一番クソややこしいのが
臨済宗禅
この性起、 自性清浄心がすなわち如来蔵であって、唯識のアーラヤ識と合わせて心の表と裏と見ることができる。
アーラヤ識は心生滅、如来蔵を心真如と呼ぶが、 自性清浄なる如来蔵に忽然と起こる無明を説明するといった機能をアーラヤ識にもたせている。
しかしこの性起の教えも、心、仏、 衆生の無差別の教えも仏の言うことであって、仏の慈悲のなせるわざなのである。
我々凡夫は「ただ如来の教えを信ぜよ」とある。
またこの性起は天台教学の性具説とよく似ているが、向上門(天台)と向下門(華厳)の違いがある。
その辺は
真言密教も曹洞宗禅も大差ない
超魔改造して、
その余韻の欠片も感じられないのが
臨済宗
😄
凡夫がそのまま仏
この世が、そのまま仏の世界だというのか
玄奘三蔵は
そーなだけで
華厳は上にアラマ識だろな
このお方は
阿頼耶識のグレードの差を理解できていない、
阿頼耶識は基本、個人だけである、
アラマ識は
俺がいつも言ってんじゃん〜
一切空間認識
て
😄
禅定的に
そーなんだから
華厳真言天台禅は
😄
アーラヤ識は心生滅、如来蔵を心真如と呼ぶが、 自性清浄なる如来蔵に忽然と起こる無明を説明するといった機能をアーラヤ識にもたせている。
この世が、そのまま仏の世界だというのか
>>164
禅定における
一切空間認識と
俺は表現する汁〜
😄
どー扱っているか?
ま、
超魔改造な臨済宗禅ルールで
サービスだ
😄
ノーマル浄土宗理解グレードあたりで
気楽に
やってるが
西欧哲学とキリスト教神学は
やはり
遠い
😄
JBLに
マウントとりげ〜〜
煩悩ローラー様らしい〜
ユーザー
棲雲◆00MWura8lSZF
0CFke(6/6)
仏教もキリスト教もその教義は非常に深い。
でも、新興宗教に行った人たちはそんな事を知らないものだから、表面的な救済の言葉に惹かれてそこに奔ってしまう人がほぼ全て。
そうして伝統宗教に戻ってきた人たちがその教義を学び始めると、たいていの人は伝統宗教の教義の奥深さに驚く。
そんなもんwww
2024/01/02 11:49:54
> そうして伝統宗教に戻ってきた人たちがその教義を学び始めると、たいていの人は伝統宗教の教義の奥深さに驚く。
それが、んなことないんだって😂
新興宗教から伝統宗教に移った人は、「刺激がなさすぎる」と異口同音に言う
ラピスがいい例だ
「神慈秀明会を辞めてキリスト教に移った」と本人は言うが、神慈秀明会の洗脳の枠から一歩も出ていない
ラピスに限らず、たいていそうなる
「基本的に他人の批判はしないので云わないけど、栖ウンコ士は馬鹿でキチガイだからなあ」
と言ってるのと、何も変わらんだろ
37 栖雲居士◆dqam8SqGUPdm [sage] 2024/01/02(火) 14:24:39.65 ID:0CFke
基本的に他宗教の批判はしないので云わないけど、その手の馬鹿やキチガイは新興宗教に多いからなぁ。
締め上げないけどwww
1人で自分自身と会話している😅
なるほど
それが空間認識なんだな~😄
wwwwwwwwwwwwwwwwww
話の筋が違うだろ?
あなたの脳内では知識と刺激は同類項なのか?
やめなさいって。
去年みたいに締め上げられたいのか?
今年は平穏無事な一年が送れる様、誹謗中傷は控えなさい。
華厳では
一即多、多即一
と
言い表され
真言密教では
入我我入と
😄
禅は
道元禅、曹洞宗は
弁道話に
それらしい箇所がある
臨済宗は
箇所表さず
超難易度テクノロジーの塊
😄
🤢🤢🤢🤢🤢
新年から
🤢
🤢
> >>176
>
> 華厳では
> 一即多、多即一
> と
> 言い表され
>
> 真言密教では
> 入我我入と
> 😄
なるほどね~😄
これこそ、華厳の奥義だな~😄
曹洞宗道元禅師では
一切空間認識は
かのように述べられている
😄
宗門の正伝にいはく、
「この単伝正直(タンデン ショウジキ)の仏法は、最上のなかに最上なり。参見知識(サンケン チシキ)のはじめより、さらに焼香、礼拝(ライハイ)、念仏、修懺(シュサン)、看経を(カンキン)もちゐず、ただし打坐(タザ)して身心脱落(シンジン ダツラク)することをえよ。」
宗門の正しい伝統の教えには、
「祖師がひとすじに相伝したこの正直な仏法は、最上の中の最上である。この法を得るには、善知識(優れた師)に参じた最初から、さらに焼香、礼拝、念仏、懺悔、読経などを用いず、但し坐禅して身心を脱落させなさい。」とあります。
もし人、一時なりといふとも、三業(サンゴウ)に仏印(ブッチン)を標(ヒョウ)し、三昧(ザンマイ)に端坐(タンザ)するとき、遍法界(ヘンホッカイ)みな仏印となり、尽虚空(ジンコクウ)ことごとくさとりとなる。
もし人が、ひと時であっても三業(身と口と心の行い)に仏心印(仏の悟りの法)を示して、三昧に坐禅する時には、全世界が皆 仏心印となり、あらゆる世界は悉く悟りとなるのです。
ゆゑに、諸仏如来をしては本地(ホンジ)の法楽(ホウラク)をまし、覚道(カクドウ)の荘厳(ショウゴン)をあらたにす。
そのために、諸仏は本身の法楽を増して、悟りの道が新たに荘厳されるのです。
および十方法界、三途(サンズ)六道の群類、みなともに一時に身心明浄(シンジン ミョウジョウ)にして、大解脱地(ダイゲダッチ)を証し、
そして、すべての世界の三途(地獄 餓鬼 畜生)六道(地獄 餓鬼 畜生 修羅 人間 天上)の人々は、皆共に同時に身心が浄められて、大解脱の境地を悟るのであり、
本来面目(ホンライ メンモク)現ずるとき、諸法みな正覚(ショウガク)を証会(ショウエ)し、万物ともに仏身を使用して、すみやかに証会の辺際(ヘンザイ)を一超して、覚樹王(カクジュオウ)に端坐して、
その本来の自己が現われた時には、あらゆるものが皆 仏の正覚(悟り)を証明して、万物は共に仏身を働かせ、速やかに悟りのほとりを飛び越えて釈尊成道の菩提樹に坐すのであり
これね
😄
>もし人が、ひと時であっても三業(身と口と心の行い)に仏心印(仏の悟りの法)を示して、三昧に坐禅する時には、全世界が皆 仏心印となり、あらゆる世界は悉く悟りとなるのです。
西平さんの著書『西田幾多郎と双面性』(ぷねうま舎 2021年)から「ピン!」と来たことを書く。
華厳教の教えの中心は「理事無礙」と「事事無礙」である。「理」とは「ことわり」。私たち人間が直接感知できない源。大げさに言えばこの世の原「理」。そんなたいそうなことも、私たちが日々具体的に目にし、耳にし、肌で感じる一つひとつの事物・事象とつながっていると考えるのが華厳教における「理事無礙」という考えだ。一つひとつ異なり、バラバラに見え、生じる「事」も、因縁によってつながっている。それが「事事無礙」。すべてのものは全体的関連においてのみ存在する。
「ある一物の現起は、すなわち、一切万法の現起。ある特定のものが、それだけで個的に現起するということは、絶対にあり得ない。常にすべての物が、同時に、全体的に現起する」
「無礙」とは互いに独立しつつ、しかし互いに融入し合うことである。このことを西田幾多郎は「絶対矛盾的自己同一」と呼んだ。絶対的に対立していながら相即する。相対的な違いを超えて絶対的に同じものであるという自己同一。
「理」という「全体的関連性の網(ネクサス)」がまずあって、そのつながりの「仮の結び目」にひとつひとつの「事」が生じたのであれば、そもそも「事」の内部構造の中に他の「事」とのつながりが含まれている。にもかかわらず、他方で「事」は「事」と争う。相互否定的に奪い合う。喰うか喰われるか、「事」と「事」とが熾烈に争い合う。しかし、喰われた「事」は、吸収されてしまうのではない。華厳は、喰った者の中に、他の一切のものを、隠れた形で見る。喰われてしまった他の一切のものが、喰った者の中に、可能性として残っているのだ。
これは原初の単細胞生物が、別の単細胞生物を食べてしまうことでお互いの能力を生かして多細胞化していった進化の流れのままではないか。ある細胞にとって地球上に発生した酸素は生命を奪う「劇薬」だった。しかし酸素と共存できる葉緑体細菌を取り込むことで「毒」を「エネルギー源」に変えることができた。哺乳類が胎盤を身につけることができたのも、ウィルスの持つ遺伝子を吸収したからだ。ミトコンドリアも然り。高度の知能を持つ人類の「理」は、かつてとりこんだ細菌やウィルスという微小な存在である「事」と「無礙」につながっている。これこそ華厳の教えそのものであり、西田の言う「矛盾的自己同一」だ。
個物は、全体から影響を受けることによって変化し、あるいは他の個物と関係し合うことによって変化する。変化することによって、結果的に全体に影響を及ぼす。他方、その全体も、個物からの影響を排除した融通の利かない「固定した全体」ではなく、個物からの影響を受け入れて柔軟に変化する、「生きた全体」である。西田はこう考えたのだ。
理屈ぽいので
道元禅の方が近いだろな、
鈴木大拙にしろ
理屈ぽいのは
臨済宗禅では邪道
😄
一切空間認識ってのは、道元禅師の教えだったのか~😄
道元禅師のほうが
シンプルでいいよ
😄
>もし人が、ひと時であっても三業(身と口と心の行い)に仏心印(仏の悟りの法)を示して、三昧に坐禅する時には、全世界が皆 仏心印となり、あらゆる世界は悉く悟りとなるのです。
やっぱり道元禅師よりも哲学的些末的になるとなあ〜
華厳教学よりも
哲学的になるともはや
ローラーは
そういうのが好きなんやろな
😫
華厳天台真言禅
て
何度もレスしてますやん〜
それと異流の
念仏と山伏、天台浄土教が
それらよりも
俺的理解が低いので
レスしてたのは
そういう修行娯楽っす
😄
> 華厳教学よりも
> 哲学的になるともはや
> ローラーは
> そういうのが好きなんやろな
> 😫
好きなのかもしれんが
理解できてればの話だな~😫
ま、理解不能に
さらに
イミフやろな
🤢
鈴木と西田の
理論ベースで
仏教シッタカやっているだけやろ
🤢
道元禅師著作現在語訳シリーズにいくリング
https://www.dogen-shobogenzo.com/bendowa4.html
誰にも解らない専門用語印籠で
ドヤる
哀れローラー
俺は
ちゃんと
わかりやすく説明しているやろ
話の流れに乗って
😄
これは参考になる😄
> 誰にも解らない専門用語印籠で
> ドヤる
> 哀れローラー
哀れだな~😫
それとも〆られる事に快感を覚えたのか?
wwwwwwwwwwwwwwwwww
変態😂
🤢
今日の修行と
大みそか修行の自慢してくる
😄
ながい
から
娯楽修行たくさんできる〜
😄
> 一切空間認識ってのは、道元禅師の教えだったのか~😄
wwwwwwwwwwwwwwwwww
そんなのねーよwwww
あれって「土着仏教」とか「大学論文」とか言う知障だもんなぁ。
ローラー状態の
ごよーす
🤢
もーやめたの?
元気がないな〜〜
🤢
>>161
玄奘三蔵は
そーなだけで
華厳は上に《アラマ》識だろな
このお方は
阿頼耶識のグレードの差を理解できていない、
阿頼耶識は基本、個人だけである、
《アラマ》識は
俺がいつも言ってんじゃん~
一切空間認識
て
😄
禅定的に
そーなんだから
華厳真言天台禅は
😄
アーラヤ識は心生滅、如来蔵を心真如と呼ぶが、 自性清浄なる如来蔵に忽然と起こる無明を説明するといった機能をアーラヤ識にもたせている。
おい!《アラマ》じゃないだろ
《アマラ》だぞ
唯識思想(法相宗)では、八識を説く。 すべては阿頼耶識より縁起するとし、主に迷いの世界であるが悟りも阿頼耶識より生じるとする。 一方、心は本来清浄であるとする如来蔵思想があった。
これらの思想を止揚するため、天台宗や華厳宗は、この
《阿摩羅識》を加えて新たに九識を立てた。
天台宗では、《阿摩羅識》をけがれが無い無垢識・清浄識、また真如である真我、如来蔵、心王であるとし、すべての現象はこの阿摩羅識から生れると位置づけた。
したがってこれを「真如縁起」などともいう。真如は絶対なる真我なれば「識」とは言い難いが、前の八識に隋縁生起する本源なることから阿摩羅識と名づけられた。したがって法性宗における仏性の異名である。
なお、法相宗では玄奘がこの説に対し摂論を釈して、第八の《阿摩羅識》のみを立てて、それは
《阿頼耶識》の《果上に至りし時の名称》であり、
また阿頼耶識が無垢になったものであるとするので九識を別に分けて立てない。
アラマじゃないって分かていながら、でお-に気を使って敢えて指摘しないんだものな
>おい!《アラマ》じゃないだろ
>《アマラ》だぞ
ギャハハハハハハハハハハハハハハ!!!!!
😂😂😂😂😂
新年早々 でおーギャグ か?!
如何にでおーが無知か改めて晒されたなあwww
「大学論文」とか「土着仏教」とか「YES,I DO事件」とか「時間逆効果事件」とかwww
天然知障で間抜けのでおーらしいわ😂😂😂😂😂
> 俺、超能力あり過ぎでwww
> ラーマクリシュナの能力あるねんw
> 俺、元無宗教主義だから臨済宗好きだったんだけど、
> 自分の人生に関心が無い能力濃いからなあw
> 名前知られたら、キモい目に遭いそうw
> 突発性難聴で入院してた時、夜中に水の落ちる音が少しづつ自分のベットに近いづいてくる笑。
> 近いづいてきた時に俺はカーテンを開け、心の中で「じゃかましいわっ!」と気合一発、それで静かになったわ笑。10年以上前のことやけど笑
> 36 :だいおう[]:2013/10/13(日) 18:34:21.71 ID:TrrWUbpWケチャップ氏へ
> こっちのコテのつもりが・・・
> うーーん、前に会った時のとの違いは、
> ワイは曹洞宗宗門主流派の悟りをげっとしたぞ。2年10カ月要したんだ、
> 修行天才のワイが・・・w
でおーが数日前のレスを見て
【教えて】ピッピの神様【みこころ】
215 :神も仏も名無しさん[]:2018/08/31(金) 17:57:53.22 ID:+c1//7RO鬼子、ぴっぴ、不思議現象が起きている。
鬼子、ぴっぴのレスのタイムが午後6時になっている、なんだ、これは?
時間が後退した笑。
ってやらかしたのは、内臓が口から出るくらい笑ったわwwww
JBLもいい加減にそうしたでおーからアンチ栖雲の鉄砲玉にされてるのに気付けってwwww
アラマシキのウマパーで
ここぞ
チャンスと
三毒大噴火か〜
らしい〜な
🤢
神社で失禁とかその証だし、犬や猫と同じで街中でも平気で小便とか電車の中でキンタマとか痒くなって掻くのがでおー。
人というよりは禽獣だね😘
誹謗中傷文を書いているのは誰でしょう。
効いてますなあ〜〜
👽🤢
金星人と
ローラー様
🤢👽
日頃の僕悟って偉いですポーズの
証明してくれるんで
楽しいですう〜
👽
> >>87
> マジレスすると、カトリックのミサに行った後、家で、 ・・のようなものが・・・・笑。音声はないが笑、あたりまえか笑。
ローラーちゃんは
よーにとるな〜
ハッタリと
三毒が多いの
👽🤢
ローラー様も
かまって、承認してほちい〜
良く似た
タイプやね〜
🤢👽
ああいうのは自然に治る事はまず無いんだから😟
ポタ公にも散々警告したのに、結局云う事を聞かなくて廃人になったし。
でおーも今まさに廃人化してるし。
まぁ、これも悪業の報いなんだろうなあ。
相手してあげてるから
ホレホレ
レスちょーだい
チャンスかもよ〜
👽
ローラーのヘルプしないと〜
怠けちゃ
らめえ〜〜〜
👽
類人猿だってみんなから馬鹿にされてたよなwww
まぁ、流石に彼も法律上は人間なんだし、俺は遠慮して「類猿人」って云ってたけど😄
つまらん〜
金星人ちゃま、
でてこいや〜
👽
吠え飽きて
イヌ小屋に
おかえりなのか〜
寂しいなあ〜
😭
鈴木大拙と西田幾多郎の教え
世界に禅を伝えた仏教哲学者・鈴木大拙、独自の哲学体系を打ち立てた日本を代表する哲学者・西田幾多郎——共に明治3年に現在の石川県に生まれ、切磋琢磨しながら世界的人物に成長した二人の足跡と教えは、生誕150年を経たいまなお輝きを放ち続けている。
2人は共に明治3(1870)年に加賀藩(現・石川県)に生まれ、金沢の第四高等中学校で出逢って以来、お互いに切磋琢磨しながら世界的人物に成長していきました
郷里に近い国泰寺での参禅経験(居士号は寸心)と近代哲学を基礎に、仏教思想、西洋哲学をより根本的な地点から融合させようとした。
その思索は禅仏教の「無の境地」を哲学論理化した純粋経験論から、その純粋経験を自覚する事によって自己発展していく自覚論、そして、その自覚など、意識の存在する場としての場の論理論、最終的にその場が宗教的・道徳的に統合される絶対矛盾的自己同一論へと展開していった。
その要旨は「過去と未来とが現在において互いに否定しあいながらも結びついて、現在から現在へと働いていく」、あるいは、鈴木大拙の「即非の論理」(「Aは非Aであり、それによってまさにAである」という金剛経に通底する思想)を西洋哲学の中で捉え直した「場所的論理」(「自己は自己を否定するところにおいて真の自己である」)とも言われている。
そこには、行動と思想とが言語道断で不可分だった西田哲学の真髄が現れている。
「絶対矛盾的自己同一」は、日本の哲学者である西田幾多郎の概念です。
一見、対立して相容れないものが、見方を変えると同じものであるという意味です。
西田は、「現在」や「世界」が、絶対矛盾的自己同一そのものと考えます。
自己と世界の一致・不一致の直接体験が、「生きている今・現在」という感覚をもたらします。「今・現在」とは、「過去と未来を含む今の直接体験」のことです。
直接体験の直覚そのものから離れた途端、自己と世界の関係は、観察主体としての自己と観察対象としての世界に別れてしまいます。
元来同根同一だった自己と世界の関係が、自己と非自己化された世界に分断され、不一致となってしまうわけです。
直接体験レベルでは、自己と世界が矛盾しながらも同一であったものが、直接体験では、一だったものが、忽然と、対立・矛盾しあいながら存在する多の世界に変化してしまうわけです。
「一即多」と華厳教などで表現される現象です。
しかし、自己と世界を自覚する観察主体がある時は、自己と世界を見るものと見られるものが対立・矛盾することになるのです。
自己と世界の関係は、自己=世界、自己と非自己化された世界が、絶対に矛盾しながらも自己同一にあるといえるのです。
西田幾多郎はそれをアレンジして
「絶対矛盾的自己同一」を編み出した
ヘーゲル哲学ではないか?
「精神現象学」のテーマだ
仏教だと、もともと不一不異だ
不一不異の中道
生前、1963年にノーベル平和賞の候補に挙がっていたものの、受賞を逸している。
石川県専門学校に入学後、同校の後身第四高等中学校に進学するも退学し、英語教師をしていたものの、再び学問を志して東京に出た。
東京専門学校を経て、帝国大学選科に学び、在学中に鎌倉円覚寺の今北洪川、釈宗演に参禅した。
この時期、釈宗演の元をしばしば訪れて禅について研究していた神智学徒のベアトリス・レイン(Beatrice Lane)と出会う(後に結婚)。
ベアトリスの影響もあり後年、自身もインドのチェンナイにある神智学協会の支部にて神智学徒となる。
また釈宗演より「大拙」の居士号を受ける。大拙とは「大巧は拙なるに似たり」から採ったもので、『老子道徳経』と『碧巌録』が典拠であるという。
1897年に釈宗演の選を受け、米国に渡り、東洋学者ポール・ケーラス(en:Paul Carus、1852-1919)が編集長を務め、その義父、エドワード・C・ヘゲラー(en:Edward C. Hegeler)が経営する出版社オープン・コート社(en:Open Court Publishing Company)で東洋学関係の書籍の出版に当たると共に、英訳『大乗起信論』(1900年)や『大乗仏教概論』(英文)など、禅についての著作を英語で著し、禅文化ならびに仏教文化を海外に広くしらしめた。
外人女の影響で神智学の道に入ったか
生 涯
明治3年10月18日、石川県金沢市本多町に生まれる。本名、鈴木貞太郎。
石川県専門学校(後、第四高等中学校)時代 に、西田幾多郎と出会い、生涯の友となる。
中途退学し、一時英語教師となるが、上京して、東京専門学校(後、早稲田大学)、東京帝国大学に学ぶ。
この頃か ら本格的に坐禅に取り組み始める。見性して、師釈宗演より「大拙」の居士号を受ける。
明治30年に渡米し、足掛け12年間を過ごす。帰国後、学習院教授、 大谷大学教授などを歴任。
日本と欧米を行き来しつつ、仏教の研究と普及に精力を注いだ。昭和41年7月12日、96歳で逝去。
(「也風流庵自伝」)
実際、大拙 は西洋の思想と言葉を深く学び、その上で自らの禅体験や仏教研究を基に、仏教(特に禅)を西洋へ伝えようとした。
勉学と長年のアメリカ生活で身につけた英 語で、仏典の英訳、(欧米での)仏教の講演などを行い、さらには史上初の英文による仏教研究雑誌“ EASTERN BUDDHIST ”を創刊、自らも多くの論文を発表した。
これらの活動を通して、多くの人々の仏教への関心を喚起すると共に、西洋と東洋との対話の場を開く基礎を築いた。
『金剛経』の研究から得た「即非の論理」は新たな同一性の論理を、日本宗教史の考察において提出された「日本的霊性」は二元を総合的に把握する立場を表したものである。
その思索は、禅体験や仏教研究、そして親友西田幾多郎との相互の影響を通じて培われたものであった。
日本人から見たら、かなり怪しいが
アメリカ人から見れば、スマナサーラ長老みたいな感じか
ま、そうやな
😄
鈴木、西田は
邪道やろな、俺から見ても、そうやけど
😄
西田幾多郎は西洋哲学が入っている
そこからの視点で禅を見ている
俺は今から真言密教寺院で
大みそか修行の自慢しにいく〜
あと
昨日の天台浄土教修行で
出口王仁三郎張りに
超人趣味を自慢したろ〜
😄
Toland blog
でおーの大好きな山伏の元締め山蔭神道の伝承者が表さんだそうよ
https://m.youtube.com/watch?v=3Nu3wNtINe8
『アチマリカム』は山蔭神道に伝わる言葉(真言)だそそうで、不思議が起こるらしいです(表談話)
https://m.youtube.com/watch?v=SzMAsvUnHxA
古典神道と山蔭神道 日本超古層【裏】の仕組み
https://www.amazon.co.jp/%E5%8F%A4%E5%85%B8%E7%A5%9E%E9%81%93%E3%81%A8%E5%B1%B1%E8%94%AD%E7%A5%9E%E9%81%93-%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%B6%85%E5%8F%A4%E5%B1%A4%E3%80%90%E8%A3%8F%E3%80%91%E3%81%AE%E4%BB%95%E7%B5%84%E3%81%BF-%E8%A1%A8%E5%8D%9A%E8%80%80-ebook/dp/B0B8MW9G9X/ref=mp_s_a_1_4?adgrpid=56076454209&gclid=CjwKCAiAqNSsBhAvEiwAn_tmxetf98999uquBJupYeiHbFDAU5cEeP9ZdWK3yA2-52M2WUUckikgxBoCjycQAvD_BwE&hvadid=678993539970&hvdev=m&hvlocphy=1009355&hvnetw=g&hvqmt=e&hvrand=1366759930397884903&hvtargid=kwd-333609367175&hydadcr=23543_13687330&keywords=%E5%B1%B1%E8%94%AD%E7%A5%9E%E9%81%93&linkCode=plm&qid=1704305114&sr=8-4
縄文の世界を旅した初代スサノオ 九鬼文書と古代出雲王朝でわかる ハツクニシラス【裏/表】の仕組み
https://www.amazon.co.jp/%E7%B8%84%E6%96%87%E3%81%AE%E4%B8%96%E7%95%8C%E3%82%92%E6%97%85%E3%81%97%E3%81%9F%E5%88%9D%E4%BB%A3%E3%82%B9%E3%82%B5%E3%83%8E%E3%82%AA-%E4%B9%9D%E9%AC%BC%E6%96%87%E6%9B%B8%E3%81%A8%E5%8F%A4%E4%BB%A3%E5%87%BA%E9%9B%B2%E7%8E%8B%E6%9C%9D%E3%81%A7%E3%82%8F%E3%81%8B%E3%82%8B-%E3%83%8F%E3%83%84%E3%82%AF%E3%83%8B%E3%82%B7%E3%83%A9%E3%82%B9%E3%80%90%E8%A3%8F-%E8%A1%A8%E3%80%91%E3%81%AE%E4%BB%95%E7%B5%84%E3%81%BF-%E5%8D%9A%E8%80%80/dp/4867423440/ref=mp_s_a_1_3?crid=3LY67FIJH9VD0&keywords=%E8%A1%A8%E5%8D%9A%E8%80%80&qid=1704305247&sprefix=%E8%A1%A8%E5%8D%9A%E8%80%80%2Caps%2C237&sr=8-3
1万年以上前、大洪水による古代文明の洗い直しのとき、
世界最古の調和文明「初国(縄文)を知らしめせ」との
創造神(造化三神)の命を受け、
初代スサノオは、勇躍、大海原を渡って行ったのだ!
初代スサノオにより五代文明が興った。
その中で、注目すべきはシュメール(中国での呼び名は「夏の国」)だ。
その文明を継承したインドのドラヴィダ族の子孫が、
日本に渡り古代出雲王朝を築く。
スサノオを長とする縄文人たちこそが、
当時の人類の霊的指導者、
すなわち「長老民族」だった。
その最古の地球文明を「初国」と言った。
初国の縄文人たちは、
海を移動する海洋民族でもあったのだ。
日の元(『日本書紀』や『常陸国風土記』における日高見国)こそが、五色人の母国であり、世界文明の発祥地。この初国を知らしめるのが長老民族の霊的な役割。
その天命をユーラシア大陸において引き継いだのは、『九鬼文書』に登場する「野安押分(ノア)」。ノアは白人の祖先であるアーリア人種であり、スサノオの子孫でもあった。
アーリア人種と非アーリア人種の2つの系統が、世界をつくっていく。非アーリア系民族とは、月読命(ツキヨミ)の子孫たちであり、月氏族となり、クシャーナ王朝、ヘレニズム文明、インダス文明、ドタヴィタ族へとつながっていく。
https://m.youtube.com/watch?v=j35Smx_Maug
----------------
大神呪(だいじんしゅ)
至真至誠(ししんしせい)
一心奉祷(いっしんほうとう)
神通自在(じんつうじざい)
神力神妙(しんりきしんみょう)
感応速通(かんのうそくつう)
如意随願((にょいずいがん)
決定成就(けっていじょうじゅ)
無上霊法(むじょうれいほう)
神道加持(しんとうかじ)
太元玄気(だいげんげんき)
玄妙至深(げんみょうししん)
至聖妙諦(しせいのみょうたい)
(アチマリカム)
または(アヂマリカム)
または(アジマリカン)
------------------
👽
しかし、
ほーかいくん風邪でダウンか?
レスないなあ〜
😫
口上がすごいな!
『天地真理観』でアチマリカムだって
天地に神がいて人は間にいる観想をするんだなこれ
または、天地また神霊界を天とし現界を地とし、その観想か?
https://yutura.net/channel/12134/video/qTRNhYu3-1U/
金星人へ
ハロワに
いけとさ〜
ローラー様の
返り忠で
ござる〜〜
🥷🥷🥷🥷🥷🥷🥷🥷🥷
何等か十と為すや。
一は喜地と名づく。
二は浄地と名づく。
三は明地と名づく。
四は焔地と名づく。
五は難勝地と名づく。
六は現前地と名づく。
七は深遠行地と名づく。
八は不動地と名づく。
九は善慧地と名づく。
十は法雲地と名づく。
諸もろの仏子よ。是の十地は三世の諸仏、已に説き、今説き、当さに説くべし。
〔十住経、T10,498b-c〕
① 乾慧地(けんねじ)
「過滅浄地、寂然雑見現入地、超浄観地、見浄地、浄観地」
乾慧とは真理を観じようとする智慧はあっても、まだ禅定の水にうるおされていないことを意味し、この位は声聞の三賢位、菩薩の初発心から順忍を得る前までの位にあたる。
② 性地(種性地、種地)
声聞の四善根位、菩薩の順忍を得た位で、諸法実相を愛著するが邪見を起こさず、智慧と禅定の伴った境地である。
③ 八人地(第八地、八地)
人は忍の意で、声聞の見道十五心(八忍七智)の須陀洹向、菩薩の無生法忍にあたる。
④ 見地(具見地)
声聞の四果の中の須陀洹果、菩薩の阿鞞跋致(不退転)の位にあたる。
⑤ 薄地(柔軟地、微欲地)
声聞は欲界九種の煩悩が一分、断たれた位で、須陀洹果あるいは斯陀含果、また菩薩ならば諸々の煩悩を断って余気も薄くなった位で、阿鞞跋致以後まだ成仏しない間の位である。
⑥ 離欲地(離食地、滅婬怒癡地)
声聞は欲界の煩悩がなくなった位で、阿那含果、菩薩は欲を離れて五神通を得た位である。
⑦ 已作地(所作弁地、已弁地)
声聞は尽智・無生智を得た阿羅漢果、菩薩は仏地を成就した位である。
⑧ 辟支仏地
因縁の法を観じて成道したもの、縁覚ともいわれる。
⑨ 菩薩地
前述の①乾慧地から⑥離欲地までを指し、あるいは後述の①歓喜地から⑩法雲地までを指すとみることもでき、初発心から金剛三昧まで、つまり菩薩としての最初から成道の直前までの位をいうとも解釈される。
⑩ 仏地
一切極智などの諸仏の法が完全に具備した位。
1、歓喜地(pramuditā-bhūmi) 極喜地、喜地、悦予地
2、離垢地(vimalā-bhūmi) 無垢地、浄地
3、発光地(prabhākarī-bhūmi) 明地、有光地、興光地
4、焔慧地(arcismatī-bhūmi) 焔地、増曜地、暉曜地
5、難勝地(sudurjayā-bhūmi) 極難勝地
6、現前地(abhimukhī-bhūmi) 現在地、目見地、目前地
7、遠行地(dūraṃgamā-bhūmi) 深行地、深入地、深遠地、玄妙地
8、不動地(acalā-bhūmi)
9、善慧地(sādhumatī-bhūmi) 善哉意地、善根地
10、法雲地(dharmameghā-bhūmi) 法雨地
十地経はもと独立した経典だったが、のちに華厳経に統合されて「華厳経十地品」となった。
十地経と華厳経本体のどちらが古いかについては、定説はないようだ。
上山春平は十地経が華厳経のもっとも古層に属していると言っている(角川書店刊「仏教の思想シリーズ⑥無限の世界観<華厳>)。
それに対して、華厳経本体のほうを古いものと見、十地経はそれにあとから付け加わったとみる見方もある。
般若経の空の思想とか、法華経の一乗の思想とか、勝鬘経の如来蔵の思想などがすべて盛り込まれている。
それに加えて華厳経独自の思想が認められる。それは三界唯心とか四種法界・円融無碍とか呼ばれるものだが、その華厳経独自の思想を、この十地経が取り込んでいるのである。
もっとも三界唯心という言葉はこの経の中で出てくるが、四種法界という言葉はストレートな形では出てこない。
華厳宗の唱道者たちが宗教哲学上の概念として持ち出したものである。とはいえ、思想的な内実はすでにこの経の中に認められる。
菩薩道を発願してから如来の境地に達するまでの間に、十の段階がある。
その段階を一つ一つ踏んでいくことで、次第にさとりにふさわしい境地に達し、ついには如来となって輪廻を超脱する。
その一つ一つの段階を順を追って説いていくというのが、このお経「十地経」の構成である。
この十の段階は、大きく二つに分かれる。第一から第七までの前半部分と、第八以降の後半部分である。
前半部分では煩悩を完全には脱却していない。まだ人間としての煩悩をひきずっている。
第八以降になると、煩悩を完全に断ち切って、さとりの境地に入っている。だがまだ如来とは言えない。
このお経はあくまで如来となることをめざす菩薩の修行について説いたものである。
その修行のうちでもっとも重要なことは、自分一人が悟りの境地に安住することではなく、すべての衆生をして悟りの境地へと導くことである。
だから如来を目指すものは、生きている限り菩薩として衆生を導くために奮励努力しなければならないのである。
第一 歓喜にあふれる菩薩の地
第二 汚れをはなれた菩薩の地
第三 光明であかるい菩薩の地
第四 光明に輝く菩薩の地
第五 ほんとうに勝利しがたい菩薩の地
第六 真理の地が現前する菩薩の地
第七 はるか遠くにいたる菩薩の地
第八 まったく不動なる菩薩の地
第九 いつどこにおいても正しい智慧のある菩薩の地
第十 かぎりない法の雲のような菩薩の地
このうち第七から第八の間に飛躍があることは上述のとおりである。
その飛躍を準備するものとして、第六地において「三界唯心」という真理が語られる。その世界は、我々が生きている現実の世界はもとより、非現実な世界を含め、あらゆるものが心の産物だとする思想である。
菩薩の第十地にいたって、菩薩は如来になるにふさわしい力を獲得する。
1、歓喜地
2、離垢地
3、発光地
4、焔慧地
5、難勝地
6、現前地
7、遠行地
8、不動地
9、善慧地
10、法雲地
この2つは、もともと華厳経の一部ではなく、後から付け加えられたとされている
でも、華厳経の他の箇所より、十地品と入法界品のほうが遥かに有名
華厳経といえば、この2つだ
(歓喜にあふれる菩薩の地)
第二 離垢地
(汚れをはなれた菩薩の地)
第三 発光地
(光明であかるい菩薩の地)
第四 焔慧地
(光明に輝く菩薩の地)
第五 難勝地
(ほんとうに勝利しがたい菩薩の地)
第六 現前地
(真理の地が現前する菩薩の地)
第七 遠行地
(はるか遠くにいたる菩薩の地)
第八 不動地
(まったく不動なる菩薩の地)
第九 善慧地
(いつどこにおいても正しい
智慧のある菩薩の地)
第十 法雲地
(かぎりない法の雲のような
菩薩の地)
これも、十地品に出てくる世界観だ
生長の家にも取り入れられ、根本教義となっている
「仏教とは、こういうものだ」と思っている人も多い
唯心の教え
華厳経にはさまざまな教えが説かれています。
その中に「三界唯心」という教えがございます。
唯心偈とよばれている百字の偈文もございます。
そのはじめには、
「心は工みなる画師の如く 種種の五陰を画き
一切世界の中に 法として造らざる無し
心の如く仏もまた爾り 仏の如く衆生も然り
心と仏と及び衆生との 是の三に差別無し
諸仏は悉く了知す 一切は心從り転ずと」
という一節で始まっています。
「心は、巧みな画家が、物と心とからなるさまざまな世界を描き上げるように、一切の世界においてあらゆるものを造り出す。
心のように、仏もそうであり、仏のように、私たち衆生もそうである。心と仏と私たちとの三者には、区別はない。
仏さま方は、みな、一切のものは心から起こるということをはっきりと知っておられる」
というところです。
絵師がさまざまな画を描くように、心がこの世界を造り上げるのだというのです。
「三界唯心」とは、この迷いの世界はただ心が造り出すのだと説いているのであります。
その心が迷いの世界を造り出すということはどういうことかというと、己に対するとらわれ、執着、即ち我執というものが原因となっています。
この世界は、我執が造り出しているということです。
それは、
「『全世界の迷いはそのままただ心のみである』と知られた時に、スーッと迷いも我執も消えてしまうのです」
というのです。
「我執がいかに底なく根が深いとしても、結局つづまるところ、幻影に過ぎない」ということが分かれば、幻は消えるというのです。
最初に掲げた唯心偈は、古来「破地獄の偈」とも呼ばれています。
この偈文を称えると、地獄も無くなるというのですが、それは全ては我執が造り出したものだと気がつけば、一切の幻は消えてしまうことを示しているのであります。
後に、この教えは、「唯識」という複雑な仏教哲学へと発展してゆきますが、もともとは苦しみを滅する道なのです。
横田南嶺
谷口雅春大聖師は、これをもとに、生長の家の教義体系を作りあげた
信者に言わせれば、「哲学史上に空前絶後の大発見」
元ネタは華厳だ
病気もアナタの心が造り出した幻影
ゆえに、「病気はない、病気はない」と
唱えれば、病気は消える
華厳経の十地品がなんでこんなに有名かっていったら
「菩薩の境地」のことより、第六地の冒頭に出てくる
「三界は唯心の所現なり」という句のおかげ
これが、古来から論争のマトになってきた
😄
とりま、
>その飛躍を準備するものとして、第六地において「三界唯心」という真理が語られる。その世界は、我々が生きている現実の世界はもとより、非現実な世界を含め、あらゆるものが心の産物だとする思想である。
曹洞宗やってたほうが役割あったやろけどな〜
あれでは
臨済宗ではいかんな〜
😄
強制真言密教マックス
華厳的ワールドだったので
チラ見は
いつでもOKだ
😄
の
5chので
ローラー様、
大絶叫しとるが
ローラー様の対戦相手を
俺が
俺的にボコルのではなく
小まめに
リトルアタック?
をしかけるのが
面白いかも感がある、
ローラー様は
どーでもええけど
😄
しかし、昨日の朝の自動的真言密教マックスモードにはワロタ
前日、真言密教寺院の信者になりつつあるのに
仏教説法の山盛りしたせいだな〜
😄
論敵も
金星人までは
怪しくはないが
ロンよりも
怪しいタイプ
そこそこオモロイお方、
ま、ローラー様的臨済宗アタックは仕掛けない
ソフトタッチでモミモミ、リダンレベルやな
😄
割合まともだった
あんなのでも
😄
西欧哲学理性的スタンダードキリスト教の
レスをして遊んでいる
😄
禅の知識だけに関して
は安定してた
その知識を体得してないのはミエミエなんだけど〜
😄
余韻が
残ってる
ナウ〜
😄
こっちが真言密教マックスモードを
ワザと解除して、
キリスト教に向かおうとしている
😄
彼らなりに
一神教らしい霊的ルールがあるのだろうと
解ってきた
😄
日蓮は日蓮なりの霊的ルール
まさに
霊的ルール=一神教ポイのが
山伏にも
霊的なコダワリあるよーな気がする〜
霊的ルール
これは
面白い探求テーマとして
今閃いた〜
インド仏教では
緻密な分析がメインなので
霊的ルールベースはない、
霊的ルールが濃くなるのは
日本仏教の山伏、日蓮の系統なんやろな〜
平安貴族の陰陽道的、方位などの吉凶、忌などの判断とかが
流入しているのかもな〜
😄
ロン様の
方が理解が上だな、
あんないい加減なんでも
😄
ロンは修行はなってないが
知識的にツッコミドコロが少なく
レスはしにくいタイプだった〜
知識的二まともな方なので
ゲキオコさせるよりも
知識垂れ流させておくほうが
良さげに見えた、
ローラー様は圧倒的に知識がデタラメ多いので発狂させるほうがオモロかった〜
😄
新たなテーマだ〜
😄
個人的に、禅宗系の人とは争いが起きやすいので避ける(笑)
ま、ぱっと見、
ローラー様との 対論相手は
どことなく
金星人のよーなキャラのよーな気がする〜
オリジナル混ぜ回せ知識タイプ、
ローラー様も基本それだが
ローラーさまはゲキオコ絶叫タイプやからな〜
😄
牧師のところへ
行くつもりだったが
仏教パワーが強いせいか、
真言密教寺院と
曹洞宗寺院へ行くことになった
😄
あっちの住人ぽいな
似た上から目線マウントライバルだ〜
😫
戻らないな〜
インフルにやられたんか?
みたいなぐらいに
レスないな〜
跡形もない
😫
というぐらいに
盛り上がらないね
😫
5時過ぎに
教会の空気を吸いに行くか〜?
ファンダメンタルズな教会の?
😄
論敵も臨済宗なんだろうな
臨済宗の信者は、みんな我執が強いな~😫
論敵は
臨済宗否定派、
曹洞宗系統ぽいが
怪しい系統
😄
ローラー系統知識の寄せ集めタイプ、
ローラー程ゲキオコしない😄
ただし反応はオカシイけど
😄
違法アップロード系だろな
お土産だ
https://m.youtube.com/watch?v=9seUdf4gLEs&pp=ygUY5rC45bmz5a-644CA56aF44Gu5LiW55WM
5chは、
ローラー大暴れスレ以外は
仏教だろうが
キリスト教だろうが
モモンガ丼の類の重度精神病の巣穴やな
あかん、
また、
ロムる価値すらない
😫
こういう系統の動画は
早々に落とす、
BS11のお寺系統は公式やけど
落とす
😄
😄
しかし、真言密教寺院で
説法爆裂したせいか〜
翌朝の自動的スーパー真言密教モードのせいで
悟りパワー圧倒する世界を
知ってしまった〜
😄
こちらもパワーが入ったんやろな〜
😄
あんな感じなんやろうと〜
😄
尊重されない
😄
5ch には異常者ばかりが残ってしまった~😫
ちょうど良いな😄
ロン殿の再来だ
それに気づけばいいだけなんだ
ロン様は
軽薄に
それをレスするから説得力がない
😄
ローラーちゃまや
麦ちゃま
サイドは
話が噛み合っていると
誤読してそ〜〜
😄
スタンダードキリスト教の
西欧哲学理性的な
霊的パワー注入〜
とか
脳内で遊びだしている〜
😄
何かコロナあたりに
罹って
ダウンしてそ〜
😒
呪術廻戦のアニメはぜんぶ見る気ゼロだが〜
ユーチューブの一部を見て
領域展開〜
ブーム
😄
西欧哲学理性的領域展開〜〜
😄😄😄
世界に注入みたいな〜
ノリになってきた
😄
別物だと
思うけど
😄
ギリシャ哲学と習合してからは、まったくの別モノ😅
バカな漁師を導くモノだっただろうと
福音書では
そう思えるが
タビデ王やソロモンの神格化されたよーな
知性理性がメインになったのだろうと
やっと西欧哲学理性スタンダードキリスト教に入れた
😄
神々しい裸体だからな
😄
拡大して
西欧哲学理性スタンダードキリスト教になったのでは、
と
😄
ソロモンの智恵に関する聖書、
プレゼント〜
ま、ここと
西欧哲学が融合して発達したという俺の脳内の直感は感じている〜
よーわからんけど
😄
http://bible.salterrae.net/kougo/html/proverbs.html
信仰義認で
ソロモンの智恵的なものを
軽視したやろけどな、
理性は神のみ、
となったんやろな
😄
西欧スタンダードキリスト教の分析が閃きまくってる〜
😄
目覚めかも〜
😄
> 原始キリスト教はペトロのよーな
> バカな漁師を導くモノだっただろうと
> 福音書では
> そう思えるが
そうなんだよな~😅
新約聖書は「イエス・キリスト名言集」みたいな内容で、教義らしい教義がない
ギリシャ哲学を導入しないと教義体系が組めませんがな~😫
仏教・儒教・道教
アチコチから教義を拝借している
とくに、真言密教にはお世話になった
出口王仁三郎聖師は、仏教がイマイチ分かってなかったな~😅
ソロモンの智恵、
箴言の
肥大化と西欧哲学の
融合仮説は
如何かいな?
😄
う~ん😅
言われてみれば、そうかも
箴言が
トマス・アキナスの
神学理解を
早めるのではないか?
という仮説が
脳裏に
張り付いている
😄
なるほど
融合しそーやもんな〜
今日思いついた
😄
箴言
第1章
1:1ダビデの子、イスラエルの王ソロモンの箴言。
1:2これは人に知恵と教訓とを知らせ、
悟りの言葉をさとらせ、
1:3賢い行いと、正義と公正と
公平の教訓をうけさせ、
1:4思慮のない者に悟りを与え、
若い者に知識と慎みを得させるためである。
1:5賢い者はこれを聞いて学に進み、
さとい者は指導を得る。
1:6人はこれによって箴言と、たとえと、
賢い者の言葉と、そのなぞとを悟る。
1:7主を恐れることは知識のはじめである、
愚かな者は知恵と教訓を軽んじる。
聖書、箴言
リング貼っておいたぞ
トマス・アキナスとの対比を
おながいしま〜す
😄
https://m.youtube.com/watch?v=c-mWqf9sLcs&list=PLFKm4dxAiyUBk897sQoR_cQtZy8iLeYkf&index=1&pp=iAQB
華厳経の「夜摩天宮菩薩説偈品」という章にある偈(詩文)。
心如工画師 画種種五陰 一切世界中 無法而不造
如心仏亦爾 如仏衆生然 心仏及衆生 是三無差別
諸仏悉了知 一切從心転 若能如是解 彼人見真仏
心亦非是身 身亦非是心 作一切仏事 自在未曾有
若人欲求知 三世一切仏 応当如是観 心造諸如来
一切世界の中に、法として造らざるもの無し
心の如く仏もまたしかり、仏の如く衆生も然り
心と仏と及び衆生は、是の三つ差別無し
諸仏は悉く了知す、一切は心に従い転ずると
もしよく是くの如く解さば 彼の人は真の仏を見ん
心もまた是の身にあらず 身もまた是の心にあらず
一切の仏事をなし 自在なること未だ曾って有らず
もし人三世一切の仏を求め知らんと欲せば
まさに是くの如く心は諸の如来を造ると観ずべし
新型呼吸フォーメーションだ〜
😄
😄
ローラー襲撃専門により特化する
😄
レスが減るだろう
😄
新型呼吸モードを運用するので
めちゃんこ
集中力あげなきゃいかん日だ
😄
呼吸システムだから
理論的傾向がさらに
低下する
😄
大みそかの方がサブシステムらしい
😄
強烈な静寂からのエネルギー〜
みたいな
😄
深い静寂だ
冬の枯れた気は心の雑念をも落としてくれるのでしょうね
一番重要なのは《I AM》だそうです
そして、私たちの意識は、人間が死ぬとそこで終わるのではなくて、それはずっと続くので終わりはありません、なので、《在る》と言うことが重要です、と彼は言います
8分30秒辺りからどうぞ
https://www.youtube.com/watch?v=9iBfNpgL7SM&t=1697s
この『さる100TV-5D意識』チャンネルの動画です
https://www.youtube.com/@Saru100tv-5D
>全ての過去世の記憶を持つ《マティアス・デ・ステファーノ》氏のご紹介
じゃあ一番最初の過去世の記憶についてお聞きしたいですね
👽
〜
やろ
ま😄
出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』
成実論
訶梨跋摩(Harivarman)著。16巻。鳩摩羅什の漢訳が現存している。翻訳は、弘始13年(411)9月8日に始めて、同14年9月15日に終了している。
経量部に立ち、それに大乗仏教を加味しながら、説一切有部の基本的立場である法の実有(じつう)思想を批判し、法が空であることを強調する論書である。また、心を本体(心)と心理現象(心所)とに分ける説に反対して、一つのまとまりあるものとして捉えることを主張している。
202品で、35品までに三宝を明かし、続いて94品までに苦諦、140品までに集諦、154品までに滅諦、202品までに道諦を明かしている。
仏教以外の学説も、多く引用している。
中国では、倶舎論が翻訳されるまでは仏教教理の綱要書の代表とみなされ、盛んに研究されて、成実宗を形成するに至った。ただし、成実論が大乗論書であるか小乗論書であるかということで論議が生じた。
他の3つに比べて、だいぶマイナーな印象もあるのだが
偉大なる世親を輩出したこと、チベット仏教に大きな影響を及ぼしたことで歴史に残った
経量部は論書を残していない
そもそも、経量部はその名のとおり、「経典を重視する」という立場
論書の研究が中心になっていた説一切有部に対し、「初期仏典という原点に戻れ」と唱える、一種の宗教改革だった
経量部はそれに反対して、「心は1つ」と唱えた
有為法(存在の構成要素)は、「過去・現在・未来の三世にわたって存在し続ける」という有名な理論だ
経量部はこれに反対して、「現在有体・過未無体(げんざいうたいかみむたい)」を唱えた
「過去も未来もない。現在しかない」という主張だ
「成実論」は、経量部のスタンスがメインで書かれているらしい
『成実論』 『倶舎論』と 讐 喩 者 ・経 量 部 所 理 恵 - J-Stage
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jeb1947/1990/170/1990_170_48/_pdf/-char/ja
成実論の無我説と三心について 大谷大学 https://otani.repo.nii.ac.jp/record/2801/files/%E5%A4%A7%E8%B0%B7%E5%AD%B8%E5%A0%B1%20%E7%AC%AC44%E5%B7%BB%E7%AC%AC2%E5%8F%B7-5%E8%88%9F%E6%A9%8B.pdf
『成実論』における五蘊の順序 駒澤大学 http://repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/13265/KJ00005090261.pdf
なにせ、経量部はマイナーなので謎の存在だ
だから興味がある(笑)
経量部でぐぐると 梶山さんの論文がヒット
断念したが、いま古本屋で5万から8万円ほどだつた
そこで
中島正淳「さまよえる経量部再考」PDFを紹介する
https://archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/DB/0049/DB00490L015.pdf
加藤純章著『経量部の研究』(1989, 春秋社)について言及しているので
ここ
経量部はあんなに「空である、空である」言わない
空の思想は中観派
日本の暑さ寒さは、気温という数字を超えたものがある
住んでみないと分からない
「日本の冬は体感温度がメチャ低い」
多くの外国人が口をそろえる
初夏の気温だという
世界の異常気象はヤバい
😫
何してたん?
新春🐴競馬はどうでしたかー?
それ以上に、唯識論者の世界観が、世間の一般人のそれと違いすぎる
この思想がピンと来ることはない
当方にとっては、唯識論の世界観こそ、最も共感できる
世間の一般人のそれには、共感できない(笑)
世間の一般人の世界観とは大きく異なる
ましてや、現代の日本人とは感性が違いすぎる
中国人や日本人は、千年かけて薄めてきた
何を言ってるのか、さっぱり意味不明なのが普通
だが、それ以上に
普通の人の世界観とは、あまりにもカケ離れている
視覚や聴覚、触覚などの
情報だけでデキている
当方のいう、
「この世は360°の立体映像とサラウンド音響による、
リアルな仮想体験」というのが、それだ
物質には実体がなく、幻影にすぎない
幻影といっても、ボンヤリしたものではない
この上なくリアルで、鮮明な幻影だ
到底、受け入れられるものではない
存在するのは、意識だけ
毎度おなじみの、仏教を中途半端にカジッた連中による
「仏教は、無我の思想だ。無我だから、意識も存在しない」
が始まる
確かに、その通り
でも、そこにこだわると唯識論はわからない
意識だけが存在する」
これが唯識論の基本発想だ
意識は存在する
そう思わないと、唯識論はわからない
人間の煩悩意識と
仏の゙智慧の
二段構えだな
仏の智慧という
ある種の感覚がある
ま、煩悩滅するまではいかんけど
それなりに
瞬間ぐらいは
仏の智慧には入れる程度だがな
😄
なかなかハードルが高いな~😄
は
一昨日あたりからな
イメージしてきたのは
2013年あたりかも
薬師寺周辺ぐるぐる回ったのは、
竹林院→霊山寺→薬師寺だったかも〜
帰りは叡福寺と犬鳴山で
ゴールかな
やはり2013年頃のよーな気がする
暇と金のバランスが良かった時期だと思う
😄
https://okanokouseki.com/%e3%80%8e%e7%a9%ba%e6%b5%b7%e3%81%ae%e9%a2%a8%e6%99%af%e3%80%8f%e3%82%92%e6%97%85%e3%81%99%e3%82%8b%e3%80%8d%e3%80%80nhk%e5%8f%96%e6%9d%90%e7%8f%ad%e3%80%80%e4%b8%ad%e5%85%ac%e6%96%87%e5%ba%ab/
https://okanokouseki.com/%e3%80%8e%e8%87%a8%e6%b8%88%e9%8c%b2%e3%80%8f%e5%85%a5%e7%9f%a2%e7%be%a9%e9%ab%98%e6%b3%a8-%e5%b2%a9%e6%b3%a2%e6%96%87%e5%ba%ab/
https://okanokouseki.com/%e3%80%8e%e9%be%8d%e6%a8%b9%e3%80%8f%e4%b8%ad%e6%9d%91%e5%85%83%e3%82%88%e3%82%8a/
チャレンジ!?
https://okanokouseki.com/%e4%bb%8f%e6%95%99%e3%81%ae%e6%80%9d%e6%83%b3%ef%bc%92%e3%80%8e%e5%ad%98%e5%9c%a8%e3%81%ae%e5%88%86%e6%9e%90%e3%80%88%e3%82%a2%e3%83%93%e3%83%80%e3%83%ab%e3%83%9e%e3%80%89%e3%80%8f%e6%ab%bb%e9%83%a8/
>「物質世界は存在しない。
>意識だけが存在する」
↑それは色界でしょう。我々凡夫の住む欲界は物質世界では?
https://zawazawa.jp/Bukipedia/topic/25
21
法介 259e67dbae 2023/12/10 (日) 06:53:24
こういった誤った解説本(註1)を読んでしまいますと、「客体(実体)は心が造り出す幻影であって実際には存在しない」といった誤った仏教観が植え付けられます。
(註1 https://pic.zawazawa.jp/files/Bukipedia/0f659ca09bd0a.jpg)
22
法介 259e67dbae 2023/12/10 (日) 06:56:10
客体は実際に実在します。その客体を認識する人のこころのあり方を説いているのが唯識です。
法介 259e67dbae 2023/12/10 (日) 06:59:12
見られる側の対境としての客体は、実在の真理である此縁性縁起で形成(仮和合)されて現実の世界に実在しております。
24
法介 259e67dbae 2023/12/10 (日) 07:10:03
その実在する対象を認識する「人のこころ」は、客観による認識(此縁性縁起)と主観による認識(相依性縁起)とでそれを実体として認識します。
客体(見られる側)=モノのあり様(実在=此縁性縁起)
主体(見る側) =認識のあり方(客観=此縁性縁起・主観=相依性縁起)
これが相分も見分もありとする>> 17の②遍計所執性です。
「認識を認識する」作用を唯識では「自証分」と言うようだ。主観(見分)が客観(相分)を認識する事を認識するのが「自証分」で自証分をさらに認識するのが「証自証分」とされる。現代の心理学で言うと認知を認知する「メタ認知」に相当する。己の思考や感情を観察する事もメタ認知の一種だと言える。
法介 259e67dbae 2023/12/10 (日) 07:16:37
唯識ではこの二つの縁起を空じます。仏教では此縁性縁起を空じる事を「析空」といい相依性縁起を空じる事を「体空」と言います。〝空〟は「からっぽ」という意味で、空じるとはそういう縁起で仮和合した姿を見る視点から離れるという意味です。
法介 259e67dbae 2023/12/10 (日) 07:20:07
勘違いされている方が沢山おられますのでくれぐれも言っておきます。
対象である「見られる側」は此縁性縁起によって仮和合して現実の世界に実在しております。
対象である「見られる側」は此縁性縁起によって仮和合して現実の世界に実在しております。
対象である「見られる側」は此縁性縁起によって仮和合して現実の世界に実在しております。
20
法介 259e67dbae 2023/12/10 (日) 06:47:30
「主体と客体」の関係は見る側と見られる側(対境)の関係になります。それに対し「主観と客観」は人の認識のあり方になります。見る側である「主体における認識のあり方」に主観と客観という二種の認識がある訳です。それを唯識論では相分(客観)と見分(主観)として説いております。
客体(見られる側)=モノのあり様
主体(見る側) =認識のあり方(主観と客観)
見分と相分は主観と客観ではありません。
②主体(見る側) =認識のあり方(③主観と④客観)
①が相分
②が見分
③が主観
④が客観
おかしな唯識の解説例
https://www.youtube.com/watch?v=0yks1BTPJBM
量子力学は人間の認識(見分)についての見解です。
モノ(見られる側=六境)は六境(相分)として存在(実在)しています。
この動画で語っている内容は、「人間の認識における世界観」の話に過ぎません。
by 金子みすゞ
あなたが勝手にコップだと思い込んでいるだけでしょう。
世界は出来ていません。
そのモノがそのモノと成り得た縁起(因果)で物事を観ていきましょう。
あなたが今までコップだと思っていたそのモノが
実は花瓶として造られたモノだっとと。
仏 の認識(空観)=第七意識(花瓶)
人間の認識である第六意識は前五識を対象として起こる意識
五蘊を空じた仏の意識は阿頼耶識を対象として起こる意識
それは人間の概念の世界観のお話でしょう。
真如の世界観になります。(中観)
それが時間です。
現在・過去・未来の分別は生じません。
寝ている間に天上から包丁が落ちてお腹に突き刺さっても
起きた時に包丁は刺さっていないはずです。
相分(見られる側)は相分として「此縁性縁起」で出来事が起こっております。
∞ノノハ∞
川^〇^ハレ<相分>は、外に実在するのではなく、自分の<こころ>の投影である。
四分の教え
a. <四分〔しぶん〕>とは、
i. <識>の四つの側面である。<心王>と、実の三十二の<心所>のすべてに<四分>がある。
ii. <相分〔そうぶん〕><見分〔けんぶん〕><自証分〔じしょうぶん〕><証自証分〔しょうじしょうぶん〕>のことである。
1) <相分>とは、認識の対象のことである。(客体)
2) <見分>とは、<相分>を直接認識することである。(主観)
3) <自証分>とは、<見分>を自覚する働きの一面である。<見分>を対象としてみている自分である。(自我)
4) <証自証分>とは、<自証分>を自覚する一面である。(本来の自分)
続く
∞ノノハ∞
川^〇^ハレ続き
5) 例:「花を見る」…①花=相分、②花を見ている自分=見分、③花を見ている自分を自覚している自分=自証分、④自覚している自分をさらに自覚する自分=証自証分
6) 例:「店」…①商品の値段=相分、②店員=見分、③店長=自証分、④社長=証自証分(本来の自分)
iii. 自分が自分と対話し、自分が自分を自覚し、さとるという構造がある。
iv. 「成唯識論」では、認識は<四分>で完結するという。なぜなら、<自証分>と<証自証分>は互いに自覚しあうからである。(弁証法的内観法)
v. <相分>と<自証分>とのつながり
1) 人とものとはつながっている。
2) <相分>は、<自証分>が<相分>という形になって現れたものである。
3) <相分>は、外に実在するのではなく、自分の<こころ>の投影である。
4) 自分の作り上げた<相分>に縛られることを<相縛>という。
5) 相分は<影像〔ようぞう〕相分>と<本質〔ほんぜつ〕相分>がある。
6) 自分の<こころ>のありようで、<相分>は美しくも清くも豊かにもなる。
> 3) <自証分>とは、<見分>を自覚する働きの一面である。<見分>を対象としてみている自分である。(自我)
> 4) <証自証分>とは、<自証分>を自覚する一面である。(本来の自分)
<自証分>が自我で、<証自証分>が本来の自分?
そう捉えると、話が単純になるな
シカは
5chで
リダン、馬パーリーなどの
バカを
引き付けているので
やりやすかろう〜
ここでの
ほーかいくんの説法は
許そう
😄
新たな脳運用システムを
開発した
追加みたいなもんなやけど、
むろん、ほーかいくんのお理屈の正邪のお話ではなく、
真理の有無のお話ではなく
実用的運用レベルの
ことね〜
😄
今、華厳経の一即多、多即一の
実践面での
表現があるが
その意味する所だな
どの品か
覚えてない
😄
麦とほーかいくんが
来てるのか〜
😫
領域展開てはないが
華厳経の空間と身体について、
さらに
バージョンアップの開発が〜
唯識でいう
成所作智の延長
😄
発展しなかったキリスト教と
思えてくる〜
アイルランドの悲惨な歴史
https://m.youtube.com/watch?v=c1-8q71dWP8&list=WL&index=1&pp=gAQBiAQB
外国と陸続きでないので
死んでも平気や
兵士としての使い道がないんやろな
朝鮮は
中国ロシア戦争の兵士の需要と
炭鉱労働者などの使い道があったんやろな
😫
イギリス植民地では
アイルランド兵士は不要、
現地の一部族に兵士せればいいやろしな
😫
∞ノノハ∞
川^〇^ハレ世俗諦と勝義諦はコインの裏表の様に一如なんでしょうね
如是相・如是性・如是体・如是力・如是作・如是因・如是縁・如是果・如是報・如是本末究竟等
川^〇^ハレ法介たんお帰りなさい♪
「ヘッドギアを装着して、360度の立体映像とサラウンド音声による、リアルな仮想体験をしている」
↑
唯識論の世界観を端的に表すと、こういうことになる
「360度の立体映像とサラウンド音声」
↑
これが、相分(認識される側)に該当する
そして、
「ヘッドギアの立体テレビとサラウンドスピーカー」
↑
これが、見分(認識する側)に該当する
「リアルな仮想体験をしている自分」
↑
これが、「自証分」だ
「ボクはいま、360度のリアルな景色を見ている。周囲の音を聴いている」
という、認識している自分を客観視している自分
それは、「証自証分」と呼ばれる
現代風に言えば「メタ認知」だ
眼根・耳根・鼻根・舌根・身根・意根
・六境:六つの認識対象
色境・声境・香境・味境・触境・法境
・六識:六つの認識作用
眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識
「感覚する対象と、感覚器官がペアになり、認識作用が起きる」
「アナタが認識しているもの。それが、世界のすべてである」
これは初期の頃から、仏教の基本思想と言って良い
それを突き詰めると、唯識論になる
・六根:六つの認識器官
眼根・耳根・鼻根・舌根・身根・意根
六境:六つの認識対象
色境・声境・香境・味境・触境・法境
↑
これが、「見分と相分」(認識する側とされる側)だってこと?
となるところかもしれないが
そこまで単純ではない
目の前に存在しているモノだけではないからだ
過去に見たモノを思い出した影像もあれば、それをもとにふくらませたイメージもあるし
まったくの空想の産物だってある
それも、広い意味では認識の対象だ
唯識論では、これらをハッキリと区別している
三類境(さんるいきょう)とは、唯識説において、認識の対象をその性質によって3種に分けたもの。すなわち、
性境(しょうきょう) -種子から実際に現れたもの
独影境(どくようきょう) - 見分から仮に現れたもの
帯質境(たいぜつきょう) - 以上両者の中間にあるもの
である。
相分(認識される対象)というのは、目の前に存在する実物だけではない
心の中で思い浮かべたイメージとか、そういうのもあるってことだ
三類境とは、
「対象となる側の分析、分類」です。
「相分(そうぶん)」を詳しく、開いて分類した教えです。
三類境とは「三種類の境」という意味です。
1、性(しょう)境
2、独影(どくよう)境
3、帯質(たいぜつ)境
あるがままに「モノや人」が見えている状態です。
主観を離れて「客観的に物事を視ることが出来る状態が幸せ」ですので、
「性境」に心を持っていくのが、仏教と言えます。
完全に「主観が勝手に描いた妄想」であり「主観の幻想」です。
何もありはしないのに、あると思い込み、
自分で勝手に描いた影であり、影像です。
精神病患者が「被害妄想」となって、
「自分で勝手に対象を作り出して、自分一人で恐れている状態のようなもの」
に例えると、分かりやすいかも知れません。
独影境は、勿論、病的なものばかりではありません。
芸術の分野などでは、積極的な大きな意味を持っているものが、少なくないかと思われます。
偉大な心の影が、偉大な美を創造していくことがあります。
童謡(どうよう)や、童話(どうわ)の幻想的な世界も、独影境です。
耳の聞こえないベートーベンが、あの美しい「田園交響曲」を作り上げたのも、ベートーベンの豊かな精神の率直な表現でありました。
「本質(ほんぜつ)を持つ境」ということで、
「本質」は「モノそのもの」と捉えて良いかと思います。
確とした対象がある、という点では、
完全な妄想や幻影である「独影境」とは違います。
しかし「モノそのもの」は、あるけれども、
主観の捉える対象は、
「対象そのもの」ではなく、
「自分の意味付け」が投影されたり、「勝手な解釈」が付与されたりします。
私達の普段の認識の大部分が、
これ(帯質境)に当たります。
その中の「相分」をさらに3つに分けた
「性境・独影境・帯質境」の三類境
この2つを合わせて、「四分三類」という
「四分法と三類境が分かれば、それだけで唯識論を半分は習得したことになる」という意味だ
膨大な唯識論のエッセンスをわずか三十の句に凝縮した聖典、世親の「唯識三十頌」
その半分が、「四分三類」の説明に当てられているからだ
阿頼耶識が圧倒的に有名だ
でも、実のところ
阿頼耶識も大事だけど、それ以上に重要なのが「四分三類」
根本的な世界観であり、中核教義といえる
「ヘッドギアを装着して、360度の立体映像とサラウンド音声による、リアルな仮想体験をしている」
↑
こういうのが、唯識論の世界観
となるところだが
その映像と音声の出どころこそが、「阿頼耶識」
映像や音声だって、ある意味では「存在」している
無いわけではない
世間の一般人が素朴に思っているような意味では「存在」していないが
だからといって、何も無いわけではない
阿頼耶識とは、過去のデータが無尽蔵に格納されている無限のデータベース
阿頼耶識が、この物質世界というリアルな仮想を生み出している
そして、それを見ている自分
それもまた、阿頼耶識が生み出したリアルな仮想
本当に存在しているのは、阿頼耶識
そうすれば、
「この世界も自分も、コンピュータが合成したリアルなVRである」
「自分に見えている世界と、他人に見えている世界は同じではない。だが、基本データを共有している」
「本当は、自分しかいない。でも、この世界には他人も登場する」
「それと同じように、他人にも、自分が(他人の1人として)見えている」
↑
こういうのが、ピンとくる
古代のインド人や、中世の日本人に比べて、遥かに唯識論の世界観がピンと来やすくなっている
深い瞑想状態で、「この世界とは、実はこういうものだったのだ」という真相を知った、古代インドの瞑想哲人たち
これを、同時代の人々に説明するのは、あまりにも困難だった。言語の限界を超えている
唯識論がこれほどまでに難解なのは、それが原因だ
「この物質世界も、実はこういう仕組みでできているんだよ」
いまや、唯識論のエッセンスは、この一言で片付くと言っても言いすぎではない(笑)
とくに、自分に見えている、阿頼耶識が映し出したVRワールド
ここに、「他人」がどうやって登場してくるのか
この辺りのメカニズムの説明が、なんとも難解なものになってしまった(笑)
完全に析くってる、、、
※析空=分析する空
この2つの世界は、同じではない
だが、まったく別々というわけではなく、基本データを共有している
AさんはBさんに向けて、自分自身の情報を発信している
Bさんの識が、そのAさん情報を受信する
そうすると、Bさんの識は、Bさんが見ているVR世界の中に、「Aさんの姿」を映し出す
それは、本当の意味でのAさんそのものではない。あくまでも、Bさんの識によって映し出された、リアルなVRのAさんだ
これは、Aさんの側でも同じこと
彼らとて、古代インド人だ
21世紀のバーチャルリアリティなど、知るよしもない
深い瞑想状態で、彼らに見えた「世界とは、本当はこういうものなのだ」という真相
それが、現代人から見れば、「バーチャルリアリティ」とあまりにも似ているだけ
古代インド人がそれを説明するのは、言語の限界を超えていた
結果として、彼らの説明はあまりにも難解なものになってしまった
鉄道模型のジオラマ
それもまた、バーチャルリアリティ
概念に囚われない自由な発想だ。
俺が精魂こめて実際にリアルで造ってらー。
アフォか、、、
意味が全く違うんだよ。
いや、これは唯識論の話なんで
これが初期仏教とか倶舎論だと、こういう話にはならない
他はそうじゃないんで
この世のモノは、「極微」(ゴクミ)と呼ばれる微粒子が集まってできている
形あるモノは、いつか壊れる
でも、微粒子は永遠
物質世界は、普通に存在している
そりゃ、解釈はいろいろあると思うけど
当方は、「仏教」といっても、こういう方面に特化してるのでねえ
逆に、天台教学とか、日蓮大聖人の御書とか
そういうことは、あんまり知らない
唯識は、人の認識を説いたもの。
君達ごちゃになってんだよ。
確かに、それはそうですな
倶舎論は「存在」、唯識論は「認識」がメイン
世界は成り立っている訳じゃありません!
と教えられているのです。
確かに
それは、初期のお釈迦様の教えからずっとそう
世間の一般人が素朴に思ってるような意味では「存在」していない
そういうことで結構
って話。
痛みを伴うのがリアル。
あなたはどちらの世界の人ですか?
これにて
失礼!
> ほっぺをつねって痛くないのがバーチャル。
>
> 痛みを伴うのがリアル。
>
> あなたはどちらの世界の人ですか?
それは、世間の一般人が素朴に思ってる世界観そのものですがな😅
好むと好まざるとによらず、それが哲学の歴史
千年遅れて、西洋哲学も似たような道をたどった
一気に離れるのではない
何百年もかけて、だんだん離れていく
インド哲学でも西洋哲学でも、千年くらいかかった
「無我」の誤った解釈にある。
普通の人は、「痛さ」が実在すると素朴に信じて疑わない
などとおかしな解釈をした学者な
あなたが自我(自証分)で思っている自分って
本当の自分ではありません。
証自証分で認識する自分が本当の自分の姿です。
となる。
「ほっぺたをつねったため、顔面神経が触覚的な刺激を受けた。神経は、それを脳に伝えた。脳は、それを『痛い』という情報に変換した」
つまり、「痛い」という感覚は自分の内部で生じ、自分しか知らない
麻酔をかければ、何も感じなくなる
催眠術をかけても、何も感じなくなる
眠っていても、何も感じない(目が覚めるかもしれないが)
この「痛さ」というのは、何だろう?
実在するのか、錯覚なのか?
仏の認識の違いの話だ。
それは凡夫の認識の話。
凡夫の認識=前五識を対象として起こる意識。
仏の認識(阿頼耶識を因として起こる縁起)で自身を観たら
本当の自分が観えて来る。
> 本当の無我の意味は、
>
> あなたが自我(自証分)で思っている自分って
>
> 本当の自分ではありません。
>
> 証自証分で認識する自分が本当の自分の姿です。
>
> となる。
う~ん、言われてみれば、確かに
自証分と証自証分ってのは、そういうことなのかも
本当の自分が観えて来る
あなたが思っているような自分では無く
因果によって今のあなたが存在(実在)しているんです。
仮から空、空から仮といった
円融思想である。
理解に至らない
仏教の真髄だ。
人間の概念から完全に抜け出た思想だから。
鹿野園がいつもボコボコにされてたテーマ
人間の認識で仏教を語っている事になる。
内海昭徳
仏教は観得の世界。
修行によって観じ会得するもの
それは
仏の智慧でしょう。
『法華経』です。
解らない智慧です。
やっぱり、「無我」の教えじゃないかな?
そこに気づけばいいだけなんだ」
というような感じかな?
等覚の菩薩である上行菩薩の再誕である
日蓮大聖人。
仏教をなめている?
すごいな?
浅はかな覚りな訳がないでしょうに
付き合いきれん
鹿野ってろ
違うのか
いや、
「みんな、本当は悟っているんだよ。
そこに気づけばいいだけなんだ」
は鹿野園じゃない
ロンって人が、よくそう言ってた
「鹿られた~」と言えばいいのか
デカルトのいう、「我思う、ゆえに我あり」
こういう場合の「我」が、唯識論でいう「自証分」
「ボクはいま考えている」というように客観視するのが「証自証分」
そうすると、自証分がメタ認知だということになる
証自証分は、そのメタ認知をさらに認識する「メタメタ認知」ということになる
このような解釈をする人もいる
「識体が見分と相分に分かれる」っていうと
「見分が自分で、相分が世界」というイメージになるんだよな~
そうすると、「証自証分」がメタメタ認知
これが何なのか、マジで分からなくなる
通常の我は末那識作用なのでは?
見分が、「認識している自分」
自証分が「認識している自分を認識」するメタ認知だ
確かに
四分法のことばかり考えてると、八識のことを忘れてしまう(笑)
これに対して、「識が見分と相分に分かれる」というのは、縦割りみたいな感じ
唯識は詳しくないから分かりませんが、
僕は見分の系列は識と切り離した、識の主体、つまり実存だと認識してました
ここら辺の概念を西洋哲学を踏まえて分かりやすく整理した解説はないものか、、、
末那識や阿頼耶識と、見分・相分の関係の一覧表がどこかにあったな
阿頼耶識が、相分と見分に分裂している
https://note.com/hiruandondesu/n/n689adb194a88
https://assets.st-note.com/img/1666940303279-RCmTwPFfl8.jpg?width=800
つまり、自証分は空間に拡張された我とも解釈できる
> 僕は見分の系列は識と切り離した、識の主体、つまり実存だと認識してました
なるほど
確かに、見分も相分も、識から切り離されて生じるもの
なるほど~😄
なるほど、
個人的な解釈では、純粋な実存の概念ではなく、八識のレイヤー構造でより実存が純粋になってくる系列に受けとりまつ
やってんな〜
ま、唯識不介入方針なので
ま、どーでもええが
😄
客体(相分)に主観と客観は無いと言うことが解らないらしい、、、
困ったもんだ、、、
認識の有り様(認識論)を
どうしても
ごちゃにして考えるないと気がすまないようだ
ジオラマ制作に戻ろっと。
「主観と客観」とでは
意味が違うって解らんらしい。
😄
お元気やったのね〜
😄
川^〇^ハレ鈴木大拙氏は即非の論理で霊性的直覚と言われていますけど
無分別の分別で一如なんだと思います
禅ですと無作の作になると思いますけど
山は山に非ず故に山
鈴木大拙氏は禅体験からの論理ですね
ローラーのウンコを食べて満足したなさい、
高望みせずに
🤢
川^〇^ハレでおーたんが金蝿で麦が銀蝿ですかwwwプハー
ローラーが絶叫するたびに
お勉強になりました、
と
レスをしろ
麦
🤢
レスはないのか?
😄
仕事の疲労度合いと脳の回転は
上がったけど
能率があがらない部分が、まだ残る
😄
上がったけど
修正
😄
川^〇^ハレ定年退職した先輩は無駄の無い流れをマイマニュアル化されていて
麦が席を離れた時も手ぶらで帰って来ないって最初に言われてwww
ほとんど必要な物などは在庫が頭にありますwww
マニュアル化しちゃうと楽ですよね
即断と短時間に優先順位の選択、判断
随分モノになった
疲労もたまりにくくなった
ローラーや麦にみたいな
屁理屈禅をやっても役に立たない世界
😄
持続能力があるか?
といえば
話は別だが
😄
離職率が高い、
管理職も悲惨なワークだな、
あれは
6月の
ドライな判断力システムが
仕上がるまで
癖の強い上司に適応するのがは
大変だった〜
ローラーやパーリーやリダンらの
イジリプレイよりも
判断力の難易度高い
😄
川^〇^ハレ仕事で優先順はありますよね
慣れっていうのもあると思いますけど
もぐら叩きみたいに瞬時に叩く感じですねwww
でおーたんの仕事はリアルワニ叩きで気が抜けなそうですね
神経が疲れそう
やはり、それは言いすぎだったように思う
「(現時点で)見たり聞いたりするのが見分」
「過去に見たことや聞いたことを思い出すのが自証分」
ということだ
リダン、パーリーローラーウィルスの弊害
😫
唯識は究極的には大円鏡智が理想的ベースから
スタートやしな
10年前以前には
かすってたな
😄
テキスト無視の自分側の演繹法では
つまるところ
学習は進まんやろな、
サティあたりも
そういうのが多い、
結論からの演繹。
😄
アタマは三毒まみれやし
😫
しまった!
しくった!
気づく人はここには居ないだろうから
まぁいいや
と言って
ごまかしておこう。
人
居ないだろ
https://youtu.be/Eg8kszA7znc
ローラーがいて盛り上がるより
ローラーがいなくて静かなほうが良い
1人でも平気で書き続ける
もしも、見分だけで自証分がなかったら
人は、過去に見たことや聞いたことを、何も思い出せないらしい
自証分は、阿頼耶識に近い
やる気がないので
深いりしてないな〜
華厳か
天台までは
やる気あるだろうけど
😄
ムイムイスレで
かまってほしーそーだが、
ヤクブツスキーは
外道系統特級呪霊扱いなので
ムイムイ
ローラーほどは
サービスしない、
寝込み襲撃でダメージ与えるタイミングしか
レスはやらない
😄
証自証分が「阿頼耶識における記憶」ってところではないでしょうか。
阿頼耶識は
前世の記憶の貯蔵庫じゃね?
😄
範囲しかレスしないけど
😄
睡魔がくるが
ま、
そんなに
ひどくはない、
仕事の野暮用で
朝を無駄に早く起きる展開だった
😄
🤢
なるほど
悪しき行いは悪業として。
間違った思想や教えを教え込まれるとそれによって末那識が汚染せれ
正しい判断、正しい認識が出来なくなっていくものでしょう。
また別の番組では「レモンは甘い!」と催眠術をかけられた人が「甘い!甘い!」と言いながらレモンを丸かじりしておりました。
阿頼耶識の記憶を書きかえるといとも簡単に人の味覚って変わるものなんだなーと思いました。
ようやく、分かったんね~
だとしたら
一つ話題を提供するが
完全同意
阿頼耶識ってそもそも浄化できるんすか?
阿頼耶識そのものは善くも悪くもない(無記)
でも、末那識を通して我執に汚染された種子がドンドン入ってきて、阿頼耶識に溜まる😫
それが、阿頼耶識が汚染された状態
逆に、汚染されてない種子が入ってくれば、阿頼耶識は少しずつ浄化される
完全に浄化されるには、長い時間がかかるとされている
それってJBLさんの中で阿頼耶識=個人の無意識ってなってるってことですよね?
阿頼耶識は全てが記録される場とその内実で、それ自体はご指摘のように良くも悪くもない
そして、個人の無意識に関しては、顕在意識で気付いていない様々な利己的な欲求が働いており、そこに意識で分け入り、利己的な欲求を利他に切り替えてゆく、みたいなのが浄化にあたるのではないでしょうか?
もちろん無意識と阿頼耶識は地続きですが、「浄化」となると、個の原理の枠内の話になるような気がします
これは声聞の智慧、即ち実体(実在)の真理である此縁性縁起を覚るという事になるかと思います。
法=法眼:第八識は大円鏡智
蓮=慧眼:第七識は平等性智
華=天眼:第六識は妙観察智
経=肉眼:前の五識は成所作智
前より浄化された
つまり、現在においてのみ意味のある概念
時制が含まれる浄化が生じる為には個に中心化された点、つまり「現在=私」が必要不可欠
私=自我=末那識
しかし、仏には我(私)はあります。
https://zawazawa.jp/yuyusiki/topic/16?page=2
法介 259e67dbae 2023/09/05 (火) 16:59:14 修正
仏教の重要な概念の一つに「空」があります。
『般若経典』でその空は詳しく説かれておりますが、龍樹がその空を『中論』で詳しくひも解いております。では、お釈迦さまは空をどのように説かれたかと言いますと、お釈迦さまは「無我」として空を説かれました。
無我と言いますと「自分と言う者は実は存在しない」とか「主体が無い」「自我は無い」などと言った事だと思っている方が沢山おられます。実はこれも中村 元 大先生が弘められた「まちがった無我の解釈」になります。
「自分が自分だと思っている自分って実は存在しないんですよ!」
と言われてあなたは納得出来ますか?
思いっきり頬をつねってみて下さい。
痛いですよね。
痛みを感じている自分がそこに居ますよね。自分は間違いなく存在しているんです。お釈迦さまが言われている「無我」は、「自分という存在を認めない」事ではなく、「〝自我〟をもって自分と思ってはいけませんよ」という事なんです。その事をお釈迦さまは次のような言葉でもって説明なされております。
精神を統一し、姿勢正しく、自ら安立し、
動揺することなく、心は静かで、疑惑もない。
こういう境涯に至った人こそ、供養を受けるにふさわしい。
『スッタニパータ』477
この件に関して、奈良 康明文学博士のおもしろい論文を見つけましたので紹介します。
https://zenken.agu.ac.jp/research/48/15.pdf
博士は、日本の仏教学者・曹洞宗の僧侶であり東京大学から文学博士を授与されており、役職として駒澤大学学長、総長を経て、同大学の名誉教授となっておりまして、僧侶としても法清寺の住職を経て東堂となり、また、永平寺の西堂を務めたりされた方です。
論文の中で博士は、「主体が無い」とか、「自分は存在していない」と考えることがお釈迦さまが説かれた〝無我〟であると主張する一部の上座部の無我解釈が、今では古い考えであるという事を私たちは学ばなければ、正しい仏教観には立てないということを主張されておられます。
末那識はあくまでも識だから
結局は主体は見分、自証分になると思われる
中村 元:自己によって自己を観じて(中村1993・538頁)
渡辺照宏:自己には自我なしと洞察し(渡邊1982・145頁)
宮坂宥勝:自分に自我を見ることなく(宮坂2002・123頁)
榎本文雄:自我にとらわれて自己を見ることなく(榎本1986・191頁)
村上真完・及川真介:自ら自我を見ず(村上・及川2009・(三)128頁)
中村先生だけが「自己によって自己を」と原文通りに二つの自己を並べていますが、他の先生方は自我と自己とに分けて訳しておられます。そうしないと意味が正しく伝わらないからです。
他の先生方の表現は、「真の自己は〝自我〟によって把握されるべきものではない」といったことを意味しております。
法介 259e67dbae 2023/09/06 (水) 06:21:19
「自分の事は自分が一番分かっている」などと言いますが、
あなたは自分という存在をどのように認識されてますか?
というのが「無我」のお話です。
言いかえれば、
「あなたはどれだけ〝自分〟を正しく理解出来ていますか」
と言うことでもあります。
法介 259e67dbae 2023/09/06 (水) 06:21:54 修正
「自分はなんて不幸な人間なんだろうか」とか、
「自分だけどうしてこんなに辛い思いをしなくてはいけないのだろう」とか、
「自分はどうしてこんな病気になってしまったんだろう」とか、
人間ってよくよく考えてみますと、果たしてどれだけの人が「自分という存在」に、納得して生きているものでしょう。
実は人間って自分が思っている程、自分の事をあまり良く知り得ていないものなんです。
ここで言う「自分が思っている自分」というのが「自我」です。
そして今そこに存在しているあなた自身が「自分」です。
「自我」によってあなたは「自分」を自分だと思い込んでいませんか?
初期仏教ではこの「自分と自我」の関係について詳しく説き明かされております。
法介 259e67dbae 2023/09/06 (水) 06:32:25
人は「自我」によって自分の事を自分だと思い込んでおりますが、
「それは違いますよ!」
その自我はあなたが勝手に思い込んでいる自分であって本当のあなたではありません。なので、
「そのあなたの勝手な思い込みによる〝自我〟をまずは取り消しましょう!」
というのが仏教でいう「無我」です。
迷いの凡夫の認識と覚った人の認識とでは
おなじ認識対象であっても全く異なったモノとして認識されるというお話です。
蔵教=声聞の智慧
通教=縁覚の智慧
別教=菩薩の智慧
円教=仏の智慧
の四つの智慧です。
それぞれの異なった主張があってしかりです。
真実はそれぞれの心の中にあるんだなーと
いった理解に変わってきます。
それはマズイですね
それではこの辺で失礼するとしましょう。
ヤクブツスキーまで
現れたか
👽
最近
俺に
お怒りである
👽👽
ほーかいくん、
パーリー・ヤクブツスキーを
慰めてあげて〜
このままだと
三毒で地獄行き
😭
「無明」についてだ。
怨念的な意味での鹿る状態
ウマパーリー
😭
寝る
こういうのが
無明だろな
241.
ユーザー
パ
QEPZj
ようやく銀蝿でオーも静かに?
2024/02/14 17:14:26
242.
ユーザー
パ
1itRJ
魔改造はまだか?
2024/02/14 21:14:19
新着コメント
243.
ユーザー
パ
aCNKC(1/2)
魔改造芸能人の魔改造芸はまーだーーー?
2024/02/15 19:50:48
244.
ユーザー
パ
aCNKC(2/2)
243.
ユーザー
パ
aCNKC(1/2)
魔改造芸能人の魔改造芸はまーだーーー?
2024/02/15 19:50:48
244.
ユーザー
パ
aCNKC(2/2)
でーオーのアホ‼️
2024/02/15 20:23:58
でーオーのアホ‼️
2024/02/15 20:23:58
245.
ユーザー
パ
bPOlQ
でオーのバカ!‼️
無明を体現してる
😭
ウマパーリーは
ホントは
ムチムチな
オトコだ
無恥無恥
無智無智?
😭
ムチムチむっちん?
ムキムキむっきんな
シコシコしっこ
麦のパイパン化計画はどうなったぁー!
ゆうはトイレに流されたのか?
もっともスッキリした解釈だ
さすがに、それはおかしい
定規や量りみたいなものだ
見分は、何も考えていない
自我といえるものではない
とりあえず、「自証分」は「自我」に近い
それは、「世間の一般人が素朴にオマ持ってるような意味では存在しない」のであって
まったく何も無いわけじゃない
外界のモノを認識するのも、心のなかで思い浮かべた想像上のモノを認識するのも、同じだということになる
だが、同じではない
唯識論では、この2つを明確に区別している
メタバース上の広場や商店には、人が集まってくる
それらはネット上のVRであり、リアルに存在しているわけではない
でも、ネット上には存在している
電子信号による記号的な存在にすぎないとはいえ、 何も無いわけではない
少なくとも、電子信号が存在している
世間の人々が思ってるような意味では存在しない
この世のモノは、阿頼耶識が創り出した仮想空間の存在
自分だけの仮想空間で、阿頼耶識が自分に見せている記号的な存在にすぎない
リアルの存在は、阿頼耶識の識体が転じてできている
ほっとするな
😄
みなさま、
おはよー
睡眠時間、仕事で一時間減らした昨日は
夜はお疲れ気味やった
😄
今朝のお目覚めは
メンタルお疲れ気味だから、
さらに新システム、
脳回転のロースピードの静寂からの集中力モードに
切り替えた
体のだる重いは回避できるテクノロジーは
身についている、
😄
身体全開放パワーみたいなノリで仕事してた〜
😄
今日は
身体静寂〜柔らか細やかー
みたいな
😄
細かい身体の扱いだけど〜
仙人のノリ?
😄
最初からそうだったわけではない
無著や世親の頃は、見分と相分の二分法だった
「自証分とは何か?」を考えるに当たっては、陳那を無視するわけにいかない
それは、有名な「反物と物差し」だ
布の長さを図るのに、物差しを当てる
物差しは、特定の目盛りを指している
でも、それだけでは何の意味もない
それを読み取って「5cmだな」と判断する認識作用が要る
それが、「自証分」ということになる
見分が取り入れた情報をもとに、判断したり記憶したりする作用だ
1、陳那(←自証分を最初に唱えた論師)による「反物と物差し」の喩え・・・物差し(見分)は、布(相分)に当てて目盛りを指すだけであり、それ自体に意味はない。それが意味をなすためには長さを判断する者が必要であり、それが自証分である
2、「述記」(←古来から唯識論の代表的な解説とされる書)によると、人が過去に見たことや聞いたことを思い出せるのは、自証分のおかげ。もしも自証分がなくて見分と相分だけだったら、人は過去に見たものを記憶できず、思い出すこともできない
見たことや聞いたことを判断したり、記憶したりするのが自証分
自証分とは、通常の意味での自我に相当すると見るべきであろう
世親の「相分・見分」(二分法)に、陳那が「自証分」を加えて三分法にした
さらに、護法が「証自証分」を加えて四分法にした
「我思う、ゆえに我あり」という場合
何かを考えている自分。これが「自証分」だ
そして、「ボクはいま、何かを考えている」と自覚する、もう1人の自分。それが「証自証分」ということになる
スピリチュアルリダンや
スピリチュアルパーリーに
喧嘩売らずに
5ch放棄して
ほーかいくんのスレで朝から暴れてやがる〜
リダンやパーリーに違います〜
やらんと
ほーかいくんに
クソやな
😫
つまり、「ボクはいま何かを考えているということを自覚している、もう1人の自分がいる」というのを、自証分は認識できる
これがないと、どうなるか?
「『ボクはいま何かを考えている』と考えている、もう1人の自分がいる」となり、これを「証証自証分」とすると
「証証証自証分、証証証証自証分・・・」と無限に続いてしまうことになる
仏教以外の
宗教模索やれて
ほぼ満足してもーた
模索が〜
?
😄
現代の精神分析学でいう「メタ認知」ほど、ややこしいものではない
両方とも、難しさに定評がある
でも、やっぱり
古代インド哲学は、現代の西洋哲学より発想が単純だ
当たり前っちゃあ、当たり前
やっぱり、シカにとっては、ほ~かい師匠が最大のライバルなのか~😫
その者の名は鹿野園😫
常に仮想敵を求めているな〜
リダン、パーリーは
コミュ障害あるので互いに対話不能、
リダン、パーリーは
俺にかまってほしそーだが、
俺がレスするタイミングを理解できてない、
バカは釣っても、バカに釣られないという、ルーティン
😄
暴言を吐きたいだけだからな~😫
読む
http://islamjp.com/culture/sura002_jp.html
読んでいると
人類史の暗黒面があるから
ルールイスラム法などが
あったが
人類の暗黒面はイスラームに入ろうとも残る
また
人類史の暗黒面があるから
イエス・キリストの愛アガペーがあるが
やはり人類の
暗黒面はキリスト教を
信仰を持てども残る
暗黒面かあるから、
軽くする必要性があるから
イスラームやキリスト教はあるもも言える、
仏教は
基本、自己分析、
自己分析できぬ輩は
たまに釣りまくたくなる
ブームかある
😄
創造主の律法イスラム法や
創造主の愛イエス・キリストで
暗黒面の闇からメンタルを救いだすのに必要なのだろう
😄
パーリー戸カムイで
二人で一役という珍妙レスしている可能性がありそーだ
😄
大乗起信論という論書がありますが、これは550年頃真諦によって漢訳された大乗仏教の綱要書です。作者は馬鳴(めみょう、アシュヴァゴーシャ)ということですが定かではありません。訳者が真諦であるということも確実ではないようです。ですから、中国撰述説もあるということです。
真諦(しんだい、パラマールタ)は西インド出身で、中国に渡来した訳経僧です。当時、西インドのヴァラビーでは徳慧(とくえ、グナマティ) 系統の唯識学が盛んであって、その系統の思想を中国に伝えたといいます。(仏教の思想 服部正明・上山春平著)仏教では唯識が最も進んだ形と言われていますが(もちろん異論もありますが)、その中に二つの系統があります。
ナーランダー系統とヴァラビー系統です。
その頃の仏教学の中心はビハール州のナーランダーでしたが、唯識も盛んでした。しかし、徳慧(とくえ、グナマティ)の主張する唯識学とは多少食い違いがありました。その後、徳慧は西インドのヴァラビーに移り、その地で自説を展開します。徳慧の弟子の安慧(あんね、スティラマティ)によってヴァラビー系統の最盛期を迎えます。真諦はその系統を継いでいるということです。
一方のナーランダー系統では、陳那(じんな、ディグナーガ)に発し、無性(むしょう、アスヴァ バーヴァ)、護法(ごほう、ダルマパーラ)と続き、後に玄奘によって中国に伝えられることになります。
弥勒、無著、世親までは共通ですが、その後唯識の解釈の違いによって二派に分かれたようです。専門的にはナーランダー系統を「有形象唯識論」、ヴァラビー系統を「無形象唯識論」と呼ぶといいます。
識自身の中に対象象をもつかもたないかということですが、”有形象唯識派にとっては、認識の表象とは、形象に思惟が加わったもので、そのうち、思惟は迷妄の原理であるが、形象は汚れのない認識の本質である。無形象唯識派にとっては、表象は思惟と同じものであって、いづれも迷妄である。”(仏教の思想 梶山雄一・上山春平著)
もともと般若経の思想家たちは最高の真実を「清く輝くこころ」と表現したが、ナーガールジュナの直観や、如来蔵の思想も同質のものであり、その伝統は唯識派内部にも及び、無形象唯識派として受け継がれた、ということです。
一方の有形象唯識派では”「迷い」とは形象を思惟によって解釈するからであり、思惟の解釈を除けば、認識の形象を見ながら迷妄から解脱する。柳は緑、花は紅のままに悟っているのであって、形のない「光り輝く心」などが別にあるわけではない”といいます。(仏教の思想 梶山雄一・上山春平著)
”ディグナーガは経量部の影響を受けながら、知識は必ずその内部に対象の形象をもつもので、純粋透明の知識はないということを明らかにした。仏の知識でも、知識であるかぎりは、捉えられる対象とそれを捉える能力とをそれ自体の内部にもっているというのである。
これに対してスティラマティは、心は本来水晶のように透明なものであって、その中に捉えられるものと捉えるものという二元性がある限り、それは「仮構されたもの」であるという見解をとった。”
ということですが、要するに有形象唯識派があくまで認識論のなかにとどまっているのに対して、無形象唯識派ではわれわれの認識の外に「光り輝くこころ」、すなわち真如、法界を置いているということのようです。
”唯識哲学の主題は、外界の対象がなくとも認識が成り立つことを論証することにあったわけではない。経験的認識の全体を夢として、その夢から覚醒する超世間的認識を得ることが、課せられた根本問題なのである。
ディグナーガやダルマキールティは唯識説の立場における認識の構造を吟味して、精緻な理論を構成したが、経験的認識の超越の問題にはほとんど触れていない。”
要するに、インド唯識論といっても1つではない
というより、それ以前に、インドは1つではない
ヨーロッパ大陸と同じくらいの広さで、
ヨーロッパと同様に民族や文化がバラバラだ
あれだけ広いんだから、同じなわけがない
ナーランダ学院だ
三蔵法師の玄奘もここで唯識論を学んで、唐に持ち帰った
東インドでは、有相唯識論
西インドでは、無相唯識論
それぞれ、そういうのをやってた
「光り輝く心」なんてものは出てこない
「唯識論」はこれらの思想とは異る。・・という。
バークレイ→人は、”スピリッツ”を神から受けて、この”スピリッツ”で世界を見る。スピリッツは、やがて神に戻ってゆく
デカルト → 心とモノの二つがある。 ・・・と、分けて考えている。
プラトン → 心は”霊魂の牢獄”である。 ・・・ と、認識している。
四智が
基本だ
😄
スレ主の意向を尊重して
パーリーも
そっとしておこう、あそこは
😄
西の唯識論では、「光り輝く心」ってのが出てくる西の唯識論は、如来蔵思想の影響を受けて、「仏性」っぽくなってた
日本の法相宗は、東のナーランダ学派から伝わった唯識論
「光り輝く心」なんてものは出てこないでも、唯識論の中には、そういうものもあるヨーロッパの「唯心論」は、自他差別の世界のことであり、
「唯識論」はこれらの思想とは異る。・・という。
バークレイ→人は、”スピリッツ”を神から受けて、この”スピリッツ”で世界を見る。スピリッツは、やがて神に戻ってゆく
デカルト → 心とモノの二つがある。 ・・・と、分けて考えている。
プラトン → 心は”霊魂の牢獄”である。 ・・・ と、認識している。ヨーロッパの「唯心論」は、自他差別の世界のことであり、
「唯識論」はこれらの思想とは異る。・・という。
バークレイ→人は、”スピリッツ”を神から受けて、この”スピリッツ”で世界を見る。スピリッツは、やがて神に戻ってゆく
デカルト → 心とモノの二つがある。 ・・・と、分けて考えている。
プラトン → 心は”霊魂の牢獄”である。 ・・・ と、認識している。
光り輝く心は、何もかも無くなった後に残るという
「唯識」と「潜在意識」の法則
「大乗仏教」の教えの中に,
「唯識」(ゆいしき)
と呼ばれる一つの学説がある。
これを教えてるのは,特に,「法相宗」(ほっそうしゅう)と呼ばれる宗派で,
開祖は,あの西遊記でおなじみの「三蔵法師」(玄奘)である。
日本における総本山は,奈良の「薬師寺」などが有名である。
(かつては,「法隆寺」や,京都の「清水寺」なども,そうだったようである。)
要するに,「すべてのものが心から生じる」という教えである。
興味深いのは,心の働きを八つの部分に分け,
一番深い部分(深層部分)に「阿頼耶識」(アラヤ識)というのがあると教えてることである。
「アラヤ」(サンスクリット語「アーラヤ」)とは,「蔵」,
または,「住居」「場所」という意味だそうで,
そこに,私たちの「なすこと」「言うこと」「思うこと」のすべてが
経験として消えることなく残り,また,すべてのものを生み出す
種子(しゅうじ。可能性)が,そこに宿っているという。
これは,現代で言うところの「潜在意識」と同じである。
この「潜在意識」は,現代になって,フロイトとかユング
という心理学者が発見したように思われているが,
大乗仏教では,二千年の昔から,そういうことが教えられていた
というのは,驚きだと思う。
実は,その後,さらに研究・改良されて,
「法相宗」では,心の働きを八つに分けて,「八識」だったのが,
「天台宗」や「日蓮宗」では,さらに一つ加えて,「九識」(くしき)になっている。
そして,その「アラヤ識」(潜在意識)のさらに奥に
もう一つのものがあると教えた。
日蓮聖人は,それを
「九識心王真如の都」(くしきしんのうしんにょのみやこ)
と表現した。
そして,それを「妙法蓮華経」と名づけ,
その「九識心王真如の都」に向かって,「南無妙法蓮華経」と唱えたのである。
「外にある何か」に向かって拝んでいたのではないのである。
これは,多くの人が知らない点だと私は思う。
http://godpresencewithin.blog86.fc2.com/blog-entry-23.html
また,「都」(みやこ)と述べて,一つの「都市」(あるいは,「城」)に例えている。
「アラヤ識」(潜在意識)のさらに奥(深層)に,このような部分がある
と仏教では教えてることは,非常に驚くべき点であると私は思う。
そして,マーフィー博士は,その部分を
「内なる神」 (または,「I AM」「本来の自分」)
と表現した。
この「九識心王真如の都」については,またあとで,書いてみたいと思う。
う~ん、ありがたい言葉だ😄
南無妙法蓮華経
南無妙法蓮華経
「仏性」について述べるとなれば、まずもって『涅槃経』にある「一切衆生悉有仏性」の文言を出さなければならないだろう。どういう意味だろうか。一言で言えば、「生きとし生けるものは、みな仏陀(完成された覚者)と成り得る資質を持っている」ということができる。
また、仏性とは「如来蔵」と同義だともいう。蔵とは胎の意なので、如来蔵とは一切の衆生に内在する仏陀または如来となれる可能性の意味と取れる。これは煩悩に覆われた状態の「真如」だとも言われる。真如とは、一切存在の真実の姿、この世の普遍的な真理のことだ。
😄
妄念を離れた清らかな心、とらわれない、かたよらない、こだわらない、このような自我を滅し私心を捨てた心を「清浄心」と呼んでいる。そしてこのように清く光り輝く心を、最高の存在、真実の存在としてそれを「自性清浄心」とも言い、それが「真如」であり、それこそが「仏性」にほかならない。
仏性=如来蔵=真如=清浄心 とも考えられよう。
それは、この「仏性」のことだ。本来仏性なるものは衆生に先天的に資質として具有されているものなのか、あるいは後天的に修行によって修得されるものなのかという問題である。
○有情は本来不浄であるが、修行によって清浄ならしめることが出来るとする「修得仏性」の説
○本来清浄なものとする「本有仏性」の説
このように、仏性が修得されるものか、あるいは本有のものかの論がある。
これら仏性の問題は仏教学上の重要な問題で、諸説それぞれに見解の相違があって、日本に於いても天台宗の最澄と法相宗の徳一の仏性論争に至るまで論戦が交わされてきたのである。
1.菩薩定性
2.独覚定性
3.声聞定性
4.不定性
5.無性有情
の五つであるが、これらは我々衆生の資質的な違いを分類したものという。
五番目の『無性有情』が、仏の教えに耳を貸さず、欲望のままに生き、ことごとく執着し、執着が驕慢心となり争いを起こすなど、智慧の獲得のための努力を一切せず、おのれを省みない“仏性を持たない”人達のことである。
花粉症の薬を飲んだ😄
ほーかいくんスレを
荒らしだした、
リダンが先遣隊に
なったよーだ
😫
つまるところ、
ローラーと
セットになってるのが
リダン、ウマパーリー、麦
悪霊の枢軸だな
ロシアに中国、北朝鮮、イラン
みたいな
🤢👽
🤢
法相宗で、人の五性は決定的であって、それを変えることはできないと説くもの。 特に、仏になれない者を立てる点で、可能性をもつとする天台宗と対立した。
有情を修道論の観点から声聞種姓・独覚種姓・菩薩種姓・不定種姓・無性有情の五つに分類する唯識宗(法相宗)の説。姓は性とも書く。
不定種姓は、小乗の修行から大乗の修行に転向(廻心向大)して成仏する者。
無性有情は、修行により人天の果を得ることもあるが、成仏はできない者である。
これによれば、成仏できるのは菩薩(大乗)の無漏種子を持つ菩薩種姓と不定種姓のみであり、定性二乗と無性有情は成仏できないということになる。
唯識派にとって、輪廻転生とは魂が今の生涯から次の生涯へ移動するようなイメージではなく、「識」の流れが次の生涯の衆同分(天界・人と動物・地獄など)を得て、次の世界を造り出す状態になるイメージです。
ウマパーリーデンパパにより、
5chの仏教スレは
廃墟して過疎る
ローラーと
ウマパーリーデンパパと
レスしたいヤツなどいない
🤢👽
😄
ローラーがいると、みんな嫌になる😫
碧眼録システム?😄
師匠は無敵だが
対象の否定、肯定を激しく転換する
瞬間的に
入れ替わるらしい〜
呪術廻戦の東堂のノリ?
https://m.youtube.com/watch?v=2vxGZ9FYMo8&pp=ygUQ5p2x5aCC6JG1IOaIpumXmA%3D%3D
碧眼録は俗語
禅問答という言葉が生まれるぐらいに
アナーキである、
アタマでは理解していたが
使いこなせてなかった
😄
麦みたいに
理屈で説明すると
碧眼録や臨済宗は
成り立たない
😄
故に
ローラー、麦、ウマパーリー、
たまにムイムイを
激ボコボコしてやる〜
😄
これは、原始仏典にもすでに見られる
無視できない要素だ
バックライトがあるから、画面が見える
「光り輝く心」は、そのように世界を照らしている
このため、「照明」とも訳される
液晶画面が壊れて、バックライトがむき出しになるようなイメージだ
「同じことを言っている」という人もいる
唯識論にも大きく分けて2つの系統があり、法相宗はそのうちの1つ
「光り輝く心」がない方の系統に属する
仏の四智・五智の一つ。
有漏の第八阿頼耶識(あらやしき)を転じてうる無漏智で、大きな円鏡が万物の影をことごとく映すように、すべての真実を照らし知る仏の智恵。
仏の持つ四智の一つ。
大きな円い鏡に一切がありのままに映し出されるように、すべてを明らかにする曇り一つない清浄な仏智のこと。
唯識で第8阿頼耶識を転じて得られる無漏の清浄智をいう。
「光り輝く心」と大円鏡智は、ほぼ同じと見てもいいだろう
大円鏡智は、最終局面で阿頼耶識が転じる智
「光り輝く心」は、ずっと奥に潜んでいたものが、最終局面で阿頼耶識が消滅することにより現れるとされる
大円鏡智は、最終局面で阿頼耶識が転じる智
それに対して、無形象唯識論では
「光り輝く心」は、ずっと奥に潜んでいたものが、最終局面で阿頼耶識が消滅することにより現れるとされる
有形象唯識論は、「形あるもの、つまり物質は外界に存在する。人は、それを認識しているのだ」という理論
無形象唯識論のほうは、「形あるものなど、本当は無いのだ」という、外界不存在、物質否定の理論
・・・のように思えるけど
そうではなく、逆なのがややこしいところ
「形あるものは、自分の意識の中に原型がある。人は、おのれの意識の中にある形象を認識しているのである」
という、突き抜けた物質否定、外界不存在の思想
古い時代の思想、説一切有部は「無形象知識論」だった
これは、「形象は、自分の意識の中にあるわけではない」という思想
要するに、説一切有部では外界は存在し、形あるものは存在する
人は、それを認識している
これは、「形象は、自分の意識の中にる」という思想
例えば、人が赤くて丸いリンゴを見ているとする
経量部の考え方では、それは本当はリンゴなどではない
「何か赤いモノ」が存在しているだけ
人はそれを認識し、自分の意識の中にある「丸い」という形象を当てはめ、そこに「リンゴ」という名前をつける
「何か赤いモノ」が本当は何なのか。それは、人間には知るよしもない
経量部では、「色はモノ自体にもともと備わっている要素。形は、人間の意識の中にしかない」と考えた
ジョン・ロックは、これとは逆だ
「形は、モノ自体がもともと持っている要素。色は、人間の意識の中にある」と考えた
波長の短い光は青く見える
リンゴに光が当たると、波長の短い光は吸収され、波長の長い光が反射される
その反射された波長の長い光を見ると、人は「赤い」と感じる
このような視覚のシステムを考えると、「色は人間の意識内で作り出される」というジョン・ロックの世界観は正しい
そこまでは、考えが至らなかったようだ
かつての愛読書だ
千ページもある大著だが、何回も読み返した
それによって、モノは世界に存在することになる
そもそもの問題意識が異なるため同じではないが、似ているところも多くて参考になる
> それが有形象唯識論の思想
違った
それを言うなら「有形象知識論」だ
原子が集まって、丸い形のカタマリになる
人はその「丸い何ものか」を認識する
意識の中で、それは「赤いリンゴ」になる
赤い原子が集まって、「赤い何ものか」になる
人は、その「赤い何ものか」を認識する
意識の中で、それは「丸いリンゴ」になる
でも、経量部のは
「なんで、そ~なるの?」という感じ
とても不思議な世界観だ
「原子は、あまりにも小さすぎる。
というより、大きさがない。
大きさの無いものが集まったところで
形あるモノは形成されない」
ということのようだ
(当方の誤解かもしれんが)
現代の素粒子理論を見れば、
「まあ、その通りだな」と言える
【唯識三年】仏教ウンチクを語るスレ 6【倶舎八年】
https://talk.jp/boards/psy/1709157803
肝心の因果が抜けていませんか。
そのモノ(リンゴ)がそのモノ(真っ赤な物体)となり得た因果です。
誰かが種を植え、育てて実が成ったという此縁性縁起です。
映し出される世界(映像)はバーチャルですが
バックライト自体は実在しております。
ローラーとデンパパは深夜元気〜
👽🤢
バックライトの明かりが消えればその仮想世界は消えて消滅します。
それこそが
阿頼耶識に眠っていた「因果」です。
始めて対処の真実の姿を我々は知る事が出来ます。
なのでそれを「光輝く」ものとしております。
天台・日蓮仏教=「阿頼耶識に眠る因果」←法華経本門で説き明かされた本因・本果(本因・本果の法門)
天台・日蓮仏教=有形象唯識(当体蓮華)
参考にして頂けると光栄です。
😄
去年に比べて
朝の目覚めのあとの
活動スピードが5倍ぐらい上がってきたな
😄
今、知恵袋でもその話題でディスカッションしているから覗いてみ
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q11294165311
戻られたな
😄
すごいな
深い哲学談義に入っている
なるほど!
花粉症はつらいな~😫
ヨガスートラは現存するヨガの書籍の中で最も古く、もっとも沢山の人に読まれてきた教典です。ヨガスートラの中で書かれた八支則の実践は、心をコントロールして最後にはその働きを完全に静止させるための実践です。
ヨガの実践により心を静止させると、自分自身を知ることが出来ます。思考は湖の水の波紋のようなものです。水面が荒れていると湖の底を見ることはできませんが、水の動きを止めることで湖の底を見ることが出来ます。
そして、ヨガで心を静止することにより出会える、“自分自身が何か”を説明した哲学が【サーンキャ哲学】です。
『ヴェーダ』の権威を認める正統派といわれるグループと、
認めない非正統派といわれるグループの2つです。
正統派といわれるのは、サーンキヤ学派、ヨーガ学派、ニヤーヤ学派、ヴァイシェーシカ学派、ミーマーンサー学派、ヴェーダーンタ学派の6つです。
これを「六派哲学」といわれます。
それに対して非正統派といわれるのは、仏教と、ジャイナ教を含む六師外道ろくしげどうです。
六師外道というのは、プーラナ・カッサパ、パクダ・カッチャーヤナ、マッカリ・ゴーサーラ、アジタ・ケーサカンバリン、サンジャヤ、ニガンタ・ナータプッタの6人の教えです。
ニガンタ・ナータプッタの教えがジャイナ教です。
これらの六派哲学と、仏教、六師外道が代表的なインド哲学です。
😄
しかし、
ローラー、暇人、デンパパ、
キツネリダン
が盛り上がると
もはや
レスする気失せた
😄
神秘主義マシーンだが、
やはり、俺は根は東堂葵だ
😄
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