中世スコラ哲学において、普遍論争(ふへんろんそう、英:Problem of universals)とは、「普遍」(「普遍者」ともいう、英:universals) の実在に関する論争を言う。これと内容的に同じ議論が、古代から続いており、近代哲学や現代の哲学でも形を変えて問題となっているが、普遍概念をめぐる論争として中世の論争を特にこの名で呼ぶ。
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通説では、中世における最大の論争である普遍論争(the problem of universals)は、3世紀にフェニキア人ポルフュリオス(232/33 - 305頃)によって書かれた『アリストテレス範疇論入門』(Eisagoge eis tas Aristoteles kategorias、通称:イサゴーゲー)の次の一節に端緒を持つと言われる。
【教父三年】 キリスト教の神学理論 【スコラ八年】
https://talk.jp/boards/psy/1701327858
チワワだ、ポメラニアンだと
同じ四つ足動物に、名前をつけてバラバラに分けてきたのが人間だ
アタマ回っとるなあ…
今起きた
なんか
オモロイ禅寺の夢見た
セッタンの禅寺の夢、
行ったことがないけど〜
偽和尚が
変なこと言って、
セッタンに
ドブ川へ放り投げ込まれていた
😄
住人で夢に出てきたのは
ローラー様だった
😄
夢では
黙っていた
挨拶をしてやった
😄
聞き役やろな
麦や
カオリンみたいな
ま、なんとなく自分の、テリトリーナワバリづくりは
好きなところはある
悟りスレで現れた
敵対している
コジという糖質のヤツと
ローラー様は最初は
とても互いに持ち上げる
キモチワルイ関係で
仲が良かった
😫
まだ朝なのに
すでに疲れてるな~
ローラーのなんちゃってでない
モノホン禅定力、
基本、魔改造でもしないかぎり、
ノーマルでそのまま使えるのは
一つの瞑想しかなさそうだ
疲労しても
疲労感じない瞑想
😄
即クリーンな
感覚にてきる
呼吸一つで
身体管理をこなすので
臨済宗のモノホンの高僧クラスの禅僧は
死ぬ時を選べるらしいのも
この身体コントロールのなせる技だろな
😄
合理的な心身管理
😄
身体が小さくなる
高僧クラがいるらしい
😄
今年になって
疲労による
ストレス飲食が減った感覚はある
相当なゾーンに
新システム完成だな
😄
すっかり5chの
キリスト教スレで
イミフな自己実現を夢見て
いついておられる〜
😫
【スコラ三年】 カトリック神学 3 【教父八年】
https://talk.jp/boards/psy/1705031948
中世ヨーロッパのスコラ哲学で論じられた論争。
スコラ学で中心的な課題となったのが11~12世紀に起こった「普遍論争」だった。
「普遍」とは「個」に対する概念で、たとえば「アリストテレスは人間である」といった場合、アリストテレスは個であり、人間は普遍である。
そのような、「人間」とか、「動物」といったものは実際に存在するのかどうか、という論争であった。
それに対しては「普遍はたんなる名辞に過ぎず、ただ個のみが実存する(普遍は個の後ろにある)」という主張は唯名論(ノミナリズム)と呼ばれた。
アベラール(アベラルドゥス)は両者を調停して、「普遍は実在性をもつが、ただ個の中に(個に即して)のみある」と主張し、唯名論の立場を強めた。
しかし、14世紀にウィリアム=オッカムなどの「唯名論」が復活し、観念的な思考を廃して観察や実験によって真理を探究する近代思想の萌芽につながっていく。
普遍が実在するかについての中世スコラ哲学の論争
中世スコラ哲学において、普遍論争(ふへんろんそう、英:Problem of universals)とは、「普遍」(「普遍者」ともいう、英:universals) の実在に関する論争を言う。これと内容的に同じ議論が、古代から続いており、近代哲学や現代の哲学でも形を変えて問題となっているが、普遍概念をめぐる論争として中世の論争を特にこの名で呼ぶ。
通説では、中世における最大の論争である普遍論争(the problem of universals)は、3世紀にフェニキア人ポルフュリオス(232/33 - 305頃)によって書かれた『アリストテレス範疇論入門』(Eisagoge eis tas Aristoteles kategorias、通称:イサゴーゲー)の次の一節に端緒を持つと言われる。
「例えば、まず第一に類と種に関して、それが客観的に存在するのか、それとも単に虚しい観念としてのみあるのか、また存在するとしても、物体であるのか、非物体的なものであるのか、また〔非物体的なものであるならば〕離在可能なものなのか、それとも感覚対象の内に、これらに依存しつつ存在するのか、という問題については回避することにする」
普遍の実在性が問題であったと言われるものの、そもそも普遍概念の捉え方自体が論者によってまちまちであり、19世紀半ば以降に通説として、実在論(realism)、唯名論(nominalism)、概念論(conceptualism)の三つの立場が存在したと整理されることとなり、普遍論争の通説として用いられている。
本項の内容もこの通説に基づく。ただし、21世紀現代の中世哲学史研究では、この通説は批判の対象になっている。
一般に、普遍(羅:universus)とは、一つ(uni)の方向性をもった(versus)広がり全体のことを言う。
一方、普遍論争における普遍概念(羅:universalia)とは、伝統的に、個物/もの(羅:res、レース)に対する普遍、すなわち「複数のものの述語となるもの」(類概念)と定義される。
個物とは中世において自明的に存在すると考えられた個別的な事物のことで、例えば、フィレンツェに住む商人のミケーレ氏とか、そのミケーレ氏の邸で飼っている犬のフェリスとか、ミケーレ氏の邸内に生えている柏の大樹などである。
ミケーレ氏は、「人間の類」に属し、犬のフェリスは「犬の類」に属し、柏の巨木は「柏の樹の類」に属している。これらの「類の概念」は「形相(羅:forma、フォルマ)」であると中世哲学では考えられた。そこで、これらの類の概念、つまり「人間の形相」「犬の形相」「柏の樹の形相」などが、「普遍概念」とも呼ばれた。
個物が存在することは疑いがないが、では類の概念、つまり普遍概念は存在するのかどうか。具体的なミケーレ氏という人間とは別に「人間の普遍概念」が存在するのか、同様に、犬のフェリスとは別に「犬の普遍概念」が存在するのか、また「柏の樹の普遍概念」が存在するのか。この問題は、古代においても、事物のイデアー存在と、個別存在の違いということで問題になっていたが、スコラ哲学では、更に精緻に議論や考察が行われた。
アンセルムスなどの実在論者は、普遍概念は存在するとし、何ものかが明らかでない個物の基体存在物に、例えば「人間」の形相が付与されることで、すなわち「人間の普遍概念」が基体存在に加わることで、簡単に云えば、「人間の具体的存在」すなわち「個物としての人間」が成立するとした。
このように、類の概念、すなわち普遍概念が実在するとする考えを、「実念論」または「実在論(Realismus)」と呼ぶ。
そうでないとすると、アダムの原罪もキリストの受難も個々の事実に過ぎず、人類全体の救済という普遍的な意味を持ち得ないからである。
つまり、人間のミケーレや犬のフェリスや柏の巨木が、個物(レース)として実在しているのである。このとき、「普遍概念」は、類を示す「名前(羅:nomen)」であり、名前は「言葉」として存在するが、類の概念、すなわち普遍概念としての形相的存在は実在しないとした。
極端な唯名論を唱えたロスケリヌスは、普遍は音声の風(flatus vocis)にすぎないとしている。このような考えを「唯名論(Nominalisme)」と云う。アベラールの見解では普遍はまず事物よりも神のうちに概念として存在し、その次に物自身のうちに共通な本質的規定として存在し、さらに物の後に人間の悟性のうちにその思惟の結果得られた概念として存在することになるとした。
これはプラトンとアリストテレスの折衷的な解釈であった。しかしこのような歩み寄りにもかかわらず論争は続いた。事物、人間の普遍性を認めなければキリスト教の最も重要な教義と矛盾してしまうからである。
トマス・アクィナスは、実在論の立場から両者を調停して、普遍は神の知性においては「事物に先だって (ante rem)」存在し、世界の中においては「事物の中に (in re)」存在し、そして人間の知性においては「事物の後に (post rem)」存在するとしている。
実在論者には、神の存在証明で名を知られるアンセルムスがおり、実在論の立場から唯名論との調和をはかった者には、トマス・アクィナスがいる。
他に、フランシスコ学派のドゥンス・スコトゥスなど。 他方、唯名論者には、異端として排除されたロスケリヌスの他、自由恋愛のアベラールや経験論哲学の先駆であるオッカムのウィリアムがいる。
〘名〙 (Universalienstreit の訳語)中世スコラ哲学で、普遍は実体として存在するか、人間の思考の中で存在するだけかをめぐって行なわれた論争。実念論は普遍が個物に先立って存在するとし、唯名論は普遍が個物をあらわす名前にすぎないとして対立した。
ふへんろんそう
Universalienstreit
ヨーロッパの中世哲学において、「普遍」universaliaをめぐり展開された存在論的・論理学的論争。
普遍の問題はすでにプラトン、アリストテレスにおいても論じられたが、ポルフィリオスがアリストテレスの『カテゴリー論』の序文(エイサゴーゲー)で、
〔1〕類や種は実在するのか、あるいは単に空虚な表象像にすぎないのか、
〔2〕もしそれらが実在するとしたら、それらは物体的か、あるいは非物体的か、
〔3〕それらは感覚的事物から切り離されているのか、それともそのうちに存在を有するのか、
という三つの問いを出し、ローマの哲学者ボエティウスがその注釈において問題の解決を試みて以来、ヨーロッパ中世とくに11世紀から12世紀にかけて、普遍に関するさまざまの存在論的・論理学的見解が現れ、論議が交わされた。
それによれば、類や種という普遍は、精神のなかに存在するのと同じ仕方で、精神の外にある対象のなかに実在する。
たとえば「人間」は、精神によって考えられたのと同じ仕方で一つの共通な実体として精神の外に実在し、したがって同一の種に属する個々の人間はこの実体を分有するか、あるいはこの実体に偶有が加わったものとなる。
オーセルのレミギウス、カンブレのオドー、シャンポーのギヨームなどがこの立場をとった。
ロスケリヌスは、普遍は「音声の気息」flatus vocisにすぎないと主張したと伝えられている。
このように普遍を「もの」resに帰するか「名称」nomenに帰するかによって実念論realismと唯名論nominalismが区分される。
なお、普遍を概念であるとする説を概念論conceptualismとよぶ。
12世紀のアベラルドゥスは、ロスケリヌスとギヨームを批判して独自の説をたてた。彼は「普遍は多について述語されるにふさわしいが、個物はそうでない」というアリストテレスの定義から出発し、普遍の問題を普遍的名称の命題における述語機能という観点から考察、普遍的名称の表意作用significatioの分析を通して、普遍はものでも音声でもなく「ことば」sermoであるとした。
トマス・アクィナスやドゥンス・スコトゥスも実念論の立場を保持したが、唯名論を発展させたのは14世紀のオッカムである。彼によれば普遍は個別的対象を表示する名辞あるいは記号である。実在するものは個物のみであり、普遍は個物ではないから、いかなる意味でも実在しない。普遍は論理学的身分のみをもつ述語あるいは意味なのである。
普遍に関するさまざまの論議は、中世の論理学・存在論の形成と精緻(せいち)な展開にあずかって大きな力があった。
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