教父の目標は、キリスト教信仰がギリシア哲学の教えと矛盾するものではなく、むしろそれに優るものであることを証明することである。こうしたキリスト教とギリシア哲学との関係の問題は、信仰と理性の問題と言い換えられる。信仰とは、何ごとかを無条件で信じることである(Credo quia absurdum)。理性とは、物事の根拠(由来)を理路整然と探求する思考能力である。アウグスティヌスが取り組んだのは、ギリシア哲学に共通の世界観(世界は既存の材料から作られた)とキリスト教の世界観(世界は神によって無から造られた)とをどのように調和させるかということだった。
アウグスティヌスは、ギリシア哲学の世界観(世界の永遠性)をプラトンのイデア界に求めることにより、ギリシア哲学における世界の永遠性(eternitas mundi)と、キリスト教信仰における無からの創造(creatio ex nihilo)を両立させた。すなわちプラトンにおいて天空(天蓋てんがい・天球)を超えたところにあるとされたイデア界を、アウグスティヌスは、神の精神の中に位置づけ、世界の永遠性を神の精神における世界のモデル(世界の設計図)の永遠性に求めた。世界は神によって無から創造された。しかし、世界を創造するときに用いられた世界のモデルが、神の精神の中に永遠に存在し、神はこのモデルに従って、この世界を無から創造したのである。
このことは、信仰と理性の調和と言い換えることもできる。しかし、無からの創造は、やはり信じるしかない。したがってアウグスティヌスの場合、理性よりも信仰の方が優っていた。彼は、無からの創造を信じた上で、理性をその信仰に従属させたのである。アウグスティヌスは、人間の理性では説明できない不安に満ちた問いは無数にあり、それらは最終的には信仰によって克服されるしかないと考えていた。彼は、『告白』という書物の冒頭で、「(主よ)、私たちの心は、あなたの内に安らうまで、安らぎを得ません」([Domine], inquietum est cor nostrum, donec requiescat in te.)と述べ、キリストの教えを信じて初めて魂の安らぎを得たと告白している。彼にとり、信仰が理性に優っていた。
まあザックリ言って [キリスト教]てのは結局[ユダヤ教]と[ギリシア思想]で構築されている訳だ。
ユダヤ思想が[選民思想]な学術的、学問的な物に対して、キリスト教はまさに[普及]の為の宗教で、学ぶ必要も無い。 キリスト教は[神の愛を信じれば《誰でも》救われる]のが謳い文句だからね。
だから当然、初期の普及活動は[洗脳的]な物になり、多数の反発や弾圧があった。 ここでその[正当性]を創り出す為に、キリスト教は[ギリシア思想]と宗教を[混ぜた]訳だ。 それによって学問による知識を宗教に転化させ、真理を説いた。
これが[教父哲学]と呼ばれる思想だね、キリスト教がその地位を固める基盤となった思想だ。
そしてキリスト教が普及し、学校や教会などで、その宗教そのものが《学問》として発展していく事となる。 つまりは最初は《普及の為の手段》であった[ギリシア思想]が、キリスト教の中にドップリ入り込んだ為、宗教と学問の均衡を取る必要があった。 今のバチカンが[科学]などの学問と均衡を取る事と同じだな。
そして宗教は《神学》という学問を創りだした。 これが[スコラ哲学]の基本だな。 《スコラ》とは、ラテン語で[学舎]という意味だ。 《布教の為の技術的な思想》と《理解する為の学問的な思想》 ま、簡単に言えばこんな感じだな。
教父哲学の特徴は、異教の多い古代の時代にキリスト教を擁護する為に、ギリシア哲学を利用してキリスト教思想を説明したという点が挙げられる。
教父哲学だ
内容は知らないが
https://pbs.twimg.com/media/FxbBXuTaMAADvCh.png
〘名〙 二~八世紀のローマ帝国で、ギリシア哲学を援用してキリスト教の真理を明らかにしようとした哲学。キリスト教公認以前は異教に対する護教論となっていた。
古代の初期キリスト教において、教会の指導者であり、聖書の解釈などで重要な著作を行った人々。その著作は聖書に次いで重要なものとされた。
その中で、正統の教義とされた著作を著した教会の司教らが、4世紀ごろから特に教父(英語では Farthers of Church)といわれた。
また、彼らの信仰論、教会論を含め、新プラトン主義の影響を受けた哲学的思考を「教父哲学」といっている。
特にアウグスティヌスは最大の教父といわれ、その著作『神の国』は、ローマ=カトリック教会の正統性を確立した書として、聖書に次ぐ重要性を与えられている。
「神の国」は聖書に次ぐ最重要テキスト
教父は著述した言語によってギリシア教父、ラテン教父のように分類されます。
教父と呼ばれるためには、以下の4つの条件を満たす必要があります。
古代性
正統教義
聖なる生涯
教会による引証
アタナシウス
アレイオス
ネストリオス
アウグスティヌス
特に、アウグスティヌスはグノーシス派とテルトゥリアヌスの論争を調停した人物として知られています。
中世のヨーロッパでは、380年にローマ帝国がキリスト教を国教とした。
そのことに象徴されるように、キリスト教の勢力と影響力が増し、キリスト教の司教といった有力者たちが「神」を〝出発点〟とした哲学を展開した。
こうした特徴を持つ哲学は、4世紀から14世紀もしくは15世紀まで続き、「中世哲学」として区分される。
さらに、中世哲学は、「教父哲学」(patristic philosophy)と「スコラ哲学」(scholasticism)に大別される。
これらが2本の太い柱
内容は、神学そのものだ
神の国は近づいた
坐禅菩薩(ざぜんぼさつ)。
坐禅、読書、囲碁、将棋。
私は独身を貫く。
私は人生をサボって遊ぶ為に産まれてきた。
働かないアリに意義が有る。
私は障害基礎年金と就労継続支援A型で生計を立てている。
更新日時2019/02/03
私的利用のための複写のみ認める
第8回
第5章の1 アウグスティヌス
プラトンは、客観的知識の理念に駆られ、現実の世界(感覚界・現象界)を超えたところに、そのモデルとなるイデア界(真実在の世界)を想定した。これに対しアリストテレスは、超越的なイデアを地上に引き降ろし、地上の個物を個物たらしめる本質すなわち形相として、個物に内在させた。以後、この二人の世界観が、キリスト教を後ろ盾に覇を競い合った。最初にプラトンが勝った。
キリスト教は、今からおよそ二千年前に、イエスを創始者とし、ユダヤ教を母胎として発展した。イエスは、聖母マリアから処女懐胎によって生まれた神の子どもで、人々に罪の赦し(神との和解)と永遠の命(救い)を約束する神の代理人だった。しかし、キリスト教の正統的な教えによれば、イエス・キリストは、正真正銘の人間であるとともに、正真正銘の神であるとされた。「キリスト」は、ギリシア語で油注がれた者という意味で、ユダヤ人の言葉(ヘブライ語)では「メシア」という。キリストの教えの要点は、無限の愛と、それから帰結する罪の無条件の赦しである。この愛が、ギリシア語で「アガペー」と表現され、哲学の「エロース」(恋)とはまったく別ものであることは、すでに述べた。
中東の小国イスラエルに誕生したキリスト教は、その献身的な愛の教えゆえに、爆発的な勢いで地中海世界(ヘレニズム世界)に広まった。しかしその過程で、キリスト教を、異文化の人々(特にギリシア哲学の知識を身に付けた教養人たち)に説明する必要が生じた。その必要に応えたのが、一般に教父(father)と呼ばれる哲学的教養を持ったキリスト者たちであった。彼らは、活躍した時代や役割により、護教家や使徒教父、使徒後教父、教会教父などと呼ばれる。
教父たちが一般的に取ったキリスト教擁護の手法は、当時の教養人たちが当然の前提とした伝統的な哲学的世界観や人生観(特にプラトン主義)と、キリスト教の信仰が矛盾するものではなく、実質的に同等なもの、あるいはそれ以上のものであることを示すことだった。この時代の最大の教父は、ギリシア語圏(東方キリスト教)ではオリゲネス(ギリシア教父)、ラテン語圏(西方キリスト教)では、アウグスティヌス(ラテン教父)である。
アウグスティヌスは、ヘレニズム時代末期(古代末期)の354年、北アフリカの小都市タガステに中産地主の父パトリキウス(後にキリスト者となる)と、熱心なキリスト教信者であった母モニカの長男として生まれ、血気盛んな16歳のときに北アフリカのカルタゴに遊学し、情事に耽った挙句、ある女性と同棲生活を始め、翌年には、17歳にして1児(アデオダトゥス)の父親となった。そればかりか、このカルタゴでは、善の神を信じるキリスト教がかなり盛んであったが、ペルシアのマニ(215~275)という人物が創始したマニ教に入信し、熱心なマニ教信者になった。マニ教では、善の神と悪の神が信仰され、現世は、この善の神(光)と悪の神(闇)の戦場であるとされた。
彼はその後383年、ローマ帝国の首都ローマに行き、一年後に、イタリア北部の町ミラノで、修辞学教師となった。しかし、ここでアウグスティヌスは、アンブロシウス(Ambrosius340~397)というキリスト教指導者の感動的な説教を聴き、386年、マニ教を捨て、キリスト教に改宗した。その後、故郷のヒッポに戻り、391年に司祭、396年に司教となり、ゲルマン民族(ヴァンダル族)によってヒッポが包囲され、まさに陥落しつつあるとき、亡くなった(430)。主な著書に、『告白』『神の国』『三位一体論』がある。
教父の目標は、キリスト教信仰がギリシア哲学の教えと矛盾するものではなく、むしろそれに優るものであることを証明することである。こうしたキリスト教とギリシア哲学との関係の問題は、信仰と理性の問題と言い換えられる。信仰とは、何ごとかを無条件で信じることである(Credo quia absurdum)。理性とは、物事の根拠(由来)を理路整然と探求する思考能力である。アウグスティヌスが取り組んだのは、ギリシア哲学に共通の世界観(世界は既存の材料から作られた)とキリスト教の世界観(世界は神によって無から造られた)とをどのように調和させるかということだった。
アウグスティヌスは、ギリシア哲学の世界観(世界の永遠性)をプラトンのイデア界に求めることにより、ギリシア哲学における世界の永遠性(eternitas mundi)と、キリスト教信仰における無からの創造(creatio ex nihilo)を両立させた。すなわちプラトンにおいて天空(天蓋てんがい・天球)を超えたところにあるとされたイデア界を、アウグスティヌスは、神の精神の中に位置づけ、世界の永遠性を神の精神における世界のモデル(世界の設計図)の永遠性に求めた。世界は神によって無から創造された。しかし、世界を創造するときに用いられた世界のモデルが、神の精神の中に永遠に存在し、神はこのモデルに従って、この世界を無から創造したのである。
アウグスティヌスは、このようにして世界の有限性と永遠性を両立させた。現実の世界は、無から創造されて有限である。しかし、その世界のモデル(原型)は、神の精神の中に永遠に存在する。これは、プラトン哲学とキリスト教の見事な結合である。アウグスティヌスは、言うなれば、プラトン主義(イデア論)をキリスト教に取り込み、プラトンをキリスト教徒にしてしまったと言える。
キリスト教の正典には、悪の問題に対する明確な解答が書かれていなかった。そこでアウグスティヌスは、プラトン主義の考えを使い、この問題に独自に応えている。プラトンの考えでは、「何かが存在するということ」(存在)は、善いことであった――「存在のイデア」は、「善のイデア」と分かち難く結びついている。したがって、この世の中に存在する「もの」は、存在する限り善いものであり、悪は存在しない。アウグスティヌスは、この論法をそのままキリスト教の創造論に適用し、悪は神が造った「もの」(存在)ではなく、神の意思に背いた人間が作り出したもの(非存在・非もの)としたのである。悪と見なされている「もの」(存在)は、それ自体では善であり、神の神秘な計らいにより、人々の救いに役立っている。このような論法は、一般に神義論あるいは弁神論(théodicée / theodicy)と呼ばれる。
図式 存在=善 ⇔ 非善(悪)=非存在 ⇒ 「悪は存在ではない」(悪は実体概念ではなく、関係概念である)
アウグスティヌスは、古代末期(ヘレニズム時代末期)に属していると同時に、中世と呼ばれる新しい時代の始まりにも属していた。中世は、西ローマ帝国末期の5世紀から東ローマ帝国末期の15世紀まで、およそ千年続く。この中世において、キリスト教神学と哲学とに巨大な足跡を残したのが、トマス・アキナスである。
アレキサンドリアの教父。司祭。プラトン哲学を借用しつつ、キリスト教をヘレニズム世界に弁明した。著書に、『諸原理について』『ケルソスへの反論』などがある。
ササン朝ペルシャのマニ(210年~275年頃)を開祖とする。古代ペルシアのゾロアスター教的二元論に、ユダヤ教・キリスト教・グノーシス主義・仏教を加えた混合宗教。4世紀に、ローマ・北アフリカの知識層に迎えられ、6~7世紀にチベットから中国にまで達し、世界宗教となった。しかし独自性を保てず、弾圧や俗習との同化により消滅した。
http://www8.plala.or.jp/StudiaPatristica/philosophia10.htm
スコラ哲学といえば、聖トマス・アクィナス
聖トマス・アクィナスは、アリストテレス哲学とキリスト教を統合した
いや、プラトン哲学がキリスト教になったというべきか
どっちにしても、知識人・教養人にしか分からなかったプラトン哲学が、身近なものになった
イデアとは、理想像だ
犬には犬のイデア、猫には猫のイデア
山や川にもそれぞれのイデアがある
イデア界には、すべてのイデアがある
この世の事物は、イデアの劣化コピーだ
あの世には理想の完成形がある
この世には、その劣化コピーがある
出口王仁三郎は、富士山の絵を前にして、
「この世は、霊界の写し絵だ。
霊界の富士山とこの世の富士山には、
この世の富士山とフスマ絵の富士山
くらいの差がある」と語った
まあ、イデア論ってのは
端的に言えば、そういうもんだ
だが、弟子のアリストテレスは違った
弟子とはいえ、バリバリの現実主義者だ
「この世はイデア界の劣化縮小コピーだと?」
アリストテレスは、そんなの認めなかった
アリストテレスは「イデア」の代わりに、
「エイドス」(形相)なるものを持ち出した
犬には犬のエイドス、猫には猫のエイドス
それらは、どこかのイデア界にあるわけではない
目の前の犬や猫にパッケージされている
地上に手をかざすアリストテレス
西洋思想は、この2人の巨人の間を二千年以上、行ったり来たり
https://i0.wp.com/paradjanov.biz/works/wp-content/uploads/2015/03/athens01.jpg
聖トマス・アクィナスの哲学はアリストテレス
それをキリスト教化した教えが
聖アウグスティヌスの「神の国」
艮の金神の世になりたぞよ。
神が表に現れて三千世界の
立替え立直しを致すぞよ
この世の富士山は、霊界の富士山の
劣化縮小コピー
霊界の富士山と、この世の富士山には
この世の富士山と、フスマ絵の富士山
くらいの違いがある
プラトン哲学のエッセンスを端的に言えば、そういうことになる
プラトンのイデア論の基本にあるのは幾何学
人間が描く、この世の三角形は、完全な三角形ではない
どこか微妙に歪んでいるし、角度も精密ではない
どんなにキレイに描いても、完全な三角形ではない
それに比べて、イデア界の三角形はまったく歪んでない
イデア界の三角形は完璧だ
非の打ち所がない
イデアってのは、突き詰めれば
人間の心の中にある「観念」だ
心の中の観念の三角形は完璧
人間は、それを形にしようとして、三角形を描く
だが、それはどこか歪んでいる
そういうもんだ
このため、デカルト以降の近代哲学では
「イデア」を「観念」と読み替えた
プラトンこそ、観念論哲学の祖なのだ
目の前の犬には、犬のエイドス
目の前の猫には、猫のエイドス
それらは、どこか遠くのイデア界にあるわけではない
目の前の現実存在にパッケージされている
エイドス(形相)ってのは、
突き詰めれば、人間がつけた「名前」だ
単なる四足動物に、
人間は「クマ」とか「イヌ」とか「ブタ」とか
名前をつけて分類している
アリストテレス思想の基本には、これがある
このため、アリストテレスは「唯名論哲学の祖」とされている
ニーチェによれば、それがキリスト教だ
その張本人が、聖アウグスティヌスだ
西口光一
2021年10月3日 00:16
ローマ帝国以来、ギリシア哲学とキリスト教は渾然一体となってヨーロッパ文化形成の基盤となってきた、と前回述べました。そして、プラトン-アウグスティヌス主義とアリストテレス-トマス主義は、この古代末期以来代わるがわる西洋の文化形成を規定することになります。
https://note.com/koichinishi/n/n044f61ce9751
神の国は近づいた
人生をサボって遊ぶ。
坐禅菩薩(ざぜんぼさつ)。
坐禅、読書、囲碁、将棋。
私は人生をサボって遊ぶ。
坐禅菩薩(ざぜんぼさつ)。
坐禅、読書、囲碁、将棋。
キリスト教は、380年にローマの国教となりました。しかし、当初は整備された教義体系はありませんでした。最初の教義体系を組織したのは、アウグスティヌス(354-430年)です。
アウグスティヌスは、当時ローマ領だった北アフリカのカルタゴ近郊のタガステに、異教徒のパトリキウスと敬虔なキリスト教徒である母モニカの間に生まれました。20代のアウグスティヌスはマニ教に引きつけられて、ゾロアスター教の流れを汲み光と闇などの二元論的教義を有するマニ教の聴聞者として10年近くを過ごします。383年にアウグスティヌスは、ミラノに修辞学の教師として招かれます。そこで、キリスト教の有名な司祭アンプロシウスの説教を聞いて心を引かれましたが入信はしませんでした。
しかし、このころに、たまたまラテン語訳でプロティノスの『エンネアデス』の一部分を読んでマニ教の考え方から解放されます。また、当時ローマに伝わっていたパウロの手紙を読んでカトリックの教えに引かれます。ちなみに、プロティノスはオリエントやエジプトの神秘主義思想プラトン哲学を神秘主義的色彩の濃い新プラトン主義に改造しています。
その後、388年に故郷のタガステに帰り、友人たちと共に清貧と祈りの生活を続けたアウグスティヌスは、391年の春、37歳のときに、カルタゴの西の港町ヒッポの友人に招かれてその地の司祭になります。
以後、その地に終生留まり、自伝風の本『告白』(397-401年)を著し、またキリスト教の護教論と教義論からなる大著『神の国』全22巻(413-426年)などの著作をします。そして、『神の国』で展開された教義はやがてローマ・カトリックの正統教義と認められます。
キリスト教の教義体系を構築したのは、聖アウグスティヌス
そして、プラトン哲学とキリスト教を統合した
キリスト教をプラトン化したのは、聖アウグスティヌス
実は、たいした教義はない
聖書やコーランには教義理論がないからだ
アリストテレス化したのは、聖トマス
私は人生をサボって遊ぶ。
坐禅菩薩(ざぜんぼさつ)。
坐禅、読書、囲碁、将棋。
日本は少子化なので日本経済は絶対に良く成りません。デフレ脱却も出来ません。若者の貧困化は更に進みます。もう日本に未来は有りません。人生を全て諦めて生きて行きましょう💕
私に悪意を向けて煽(あお)ってくる下衆(げす)野郎は育ちが悪い。憐(あわ)れむべき存在である💕
幼少期の家庭環境が人格形成に与える影響は大きい。
神の国は近づけり
汝の罪は許された
全22巻より成り、前半10巻で地の国を、後半12巻で神の国を論ずる。
アウグスティヌスは410年のゴート族によるローマ陥落を機に噴出したキリスト教への非難に、この著作によって応えた。
後半は神の国の歴史だ
第1部
第1巻-第5巻:ローマへの批判
第6巻-第10巻:異教徒の哲学への批判
第2部
第11巻-第14巻: 2つの国の起源
第15巻-第18巻: その歴史・進展
第19巻-第22巻: 待ち受ける運命
第1巻
マルセリヌスの求めに応じ、神の国を創立者である真の神を誹謗する異教徒たちに対して弁護すると述べる。神の国の最高の法は、「神はおごるものに抗い、へりくだる者に恩寵を給う」ところにある。偶像教は道徳を支持するどころか、背徳汚行を宗教的行事において是認推奨している。また、異教徒によるクリスチャンへの迫害、クリスチャン婦女への暴行について考察する。
第2巻
ローマの歴史を考察し、キリスト教の広まる前、偶像教の神々が崇拝されていた時、ローマに多くの災害があったと指摘する。その災害の第一は、道徳的堕落である。これらの神々は、いまだかつてローマ人に道徳を与えなかったばかりでなく、淫猥な祭典すら要求した。アウグスティヌスは彼らの女神の祭礼について描写し、このような醜悪な祭典を好む神々は、不浄の汚鬼に違いないと断言する。アウグスティヌスの訴えは、異教を捨てて、キリスト教に回心しなければならない。神々は悪霊だというものである。
第3巻
ローマの歴史。異教崇拝の時期にも、戦争や災害は多かった。
第4巻
ローマの発展は真の意味においては、神々ではなく、唯一真の神の御旨によると述べる。ユダヤ人が世界に散らされたのは、これによって、虚偽の神々の偶像、祭壇神殿等が、毀たれるためである。
第5巻
アウグスティヌスは偉大なローマの魂を、キリスト教の信仰のために死をも辞さなかった殉教者の群れのうちに発見する。
第6巻
異教の神々への崇拝は、現世にも来世にも役にたたない。
第7巻
ユピテルなどの異教神からは、永遠の命は与えられない。
第8巻
ギリシア哲学史。最高善は神であるとしたプラトン神学の優秀さと限界。
第9巻
ダイモーンは神と人を仲介できるか。キリストのみが仲介できる。
第10巻
礼拝の意味。真の救いはキリストによる。それ以外の犠牲は必要ない。
第11巻
世界の創造時の、神の国と、堕天使による地の国の起源。
第12巻
悪はどこから来たか。悪は意志から起こる。神は人を創造し、人の罪と救済を予見した。
第13巻
アダムの原罪の問題。人間の罪と、その刑罰として人間に与えられる死について。
第14巻
地の国は自己への愛から、神の国は神への愛から生まれた。
第15巻
弟を殺したカインから地の国が始まった。ノアの方舟は神の国の象徴。
第16巻
アブラハムの子孫に神の国は保存された。ダビデの即位まで。
第17巻
イスラエル王国の経過。ダビデとソロモン作の各書の預言。
第18巻
異邦の歴史。預言者たち。キリスト教会の誕生と迫害。地上で神の国と地の国がせめぎあう。
第19巻
最高善は永遠の生命と平和である。神の国にはそれが来る。地の国には第二の死が来る。
第20巻
最後の審判が来る。黙示録を解説。新たなエルサレムが天から下る。
第21巻
悪魔の国の終焉、すなわち永遠の刑罰について。
第22巻
聖徒に対する永遠の祝福と他の者にたいする永遠の刑罰の約束について。天において聖徒は罪を犯すことのできない自由意志を受ける。祝福された者は自分自身について知るとともに、滅ぼされた者たちの永遠の苦しみを知る。
それによって、ローマ帝国という「現世の国」がなくなっても、信者には「神の国」という拠り所があると説き、それがローマ教皇を頂点とした教会の存在であると教えた。
信者には共産主義という拠りどころがある
現世に現れた子なる習近平
共産党員
三位一体だ
だが、限界がある
だが、ローマカトリック教会は残る
カトリック教会という神の国が現れた
4世紀、西ローマ帝国の衰退する中、教父アウグスティヌスがキリスト教信仰のあり方を論じた書物。426年に完成。教会を現世の国家に対する「神の国」と位置づけ、理論付けた。
それによって、ローマ帝国という「現世の国」がなくなっても、信者には「神の国」という拠り所があると説き、それがローマ教皇を頂点とした教会の存在であると教えた。
>
> それによって、ローマ帝国という「現世の国」がなくなっても、信者には「神の国」という拠り所があると説き、それがローマ教皇を頂点とした教会の存在であると教えた。
日本が滅びても、創価学会は残るようなものか
『再考録』のしるすところによれば、この書は、四一〇年のゴート族のローマ侵入をきっかけに、キリスト教への批難がふき出したことに関して「栄光に満ち溢れる神の国」を弁証しようとこころみたものである。
前半の一〇巻は地の国の歴史を論じ、後半の一二巻はその中に掩われ隠されている、あるいはそれときびしく対立する神の国の歴史を論じている。
歴史の意味と目的、すなわち本来の意味での歴史は、神の国がになっている。
それゆえ、第一一巻より開始される記述は、人類の創造に始まり、普遍史をつらぬき、最後の審判を経て、天上の国の完成にいたるものであって、その構想の雄大さはほかにくらべうるものはない。
それくらいの霊的パワーは十分にある
私は多くの地球人をあやめたピッコロ大魔王だったけれども、地球人に生まれ変わってその罪を償うために臨済宗のお寺に入門した夢を見ました。
坐禅菩薩(ざぜんぼさつ)。
坐禅、読書、囲碁、将棋。
キリスト教で、アダムとイブが神にそむいて禁断の木の実を食べてしまったという人類最初の罪。
すべての人間は、アダムの子孫として、生まれながら罪を負っているとされる。 宿罪。
また、転じて、人間が根源的に負う罪。
休日に読んだ、
バルト神学と改革派神学との違い、
http://minoru.la.coocan.jp/berkouwerbarth.html
やってんな〜
おはよ〜
まだ脳内は
やっと天台浄土教研究を始めだしたナウ
😄
いまヒラメイタ〜?
😄
😄
😄
臨済宗(りんざいしゅう)。
坐禅、読書、囲碁、将棋。
■
日本は少子化なので日本経済は絶対に良く成りません。デフレ脱却も出来ません。若者の貧困化は更に進みます。もう日本に未来は有りません。人生を全て諦めて生きて行きましょう💕
■
私に悪意を向けて煽(あお)ってくる下衆(げす)野郎は育ちが悪い。憐(あわ)れむべき存在である💕
幼少期の家庭環境が人格形成に与える影響は大きい。
↓
【原罪】
キリスト教で、アダムとイブが神にそむいて禁断の木の実を食べてしまったという人類最初の罪。すべての人間は、アダムの子孫として、生まれながら罪を負っているとされる。宿罪。また、転じて、人間が根源的に負う罪。
↓
【三位一体】
1キリスト教で、父(神)・子(キリスト)・聖霊の三位は、唯一の神が三つの姿となって現れたもので、元来は一体であるとする教理。
2三者が本質的に全く同一であるということ。
3三つのものが一つになること。また、三者が心を合わせること。
神への愛(カリタス)
アウグスティヌスは、「神への愛」こそが人間の最高の営みであり、そのことが人間を幸福にすると主張しました。
アウグスティヌスは、私たちが生きている世界は、「神の国」を元に創造された「地の国」であると説明しました。
そして、たとえ「地の国」が異民族によって滅ぼされたとしても、「神の国」では永遠の安らぎが得られると主張しました。
具体的には「神の国」は教会のことを指しており、この理論は正統派のキリスト教を理論的に支えることになりました。
アウグスティヌスは、「善である神が創造した世界に、なぜ悪が存在するのか」という問題に取り組みました。
その問いに対して彼が出した結論は、「悪は実在せず、善からの逸脱である」というものでした。
つまり、悪は善が欠けている状態だということです。
アウグスティヌスは、アダムとイブの罪(原罪)が全人類に遺伝すると考えました。
この原罪の救済は、キリストの犠牲によってのみ可能であると主張しました。
この考え方は、現代のキリスト教にも受け継がれています。
それこそが、人間として最高の営み
臨済宗(りんざいしゅう)。
自我を薄めて真理と融合(ゆうごう)。
坐禅、読書、囲碁、将棋。
■
日本は少子化なので日本経済は絶対に良く成りません。デフレ脱却も出来ません。若者の貧困化は更に進みます。もう日本に未来は有りません。人生を全て諦めて生きて行きましょう💕
■
私に悪意を向けて煽(あお)ってくる下衆(げす)野郎は育ちが悪い。憐(あわ)れむべき存在である💕
幼少期の家庭環境が人格形成に与える影響は大きい。
終了した
😄
さ、キリスト教ワールドに近づいてきた〜
😄
ていうか、
仕事でひどい目あうたびに
仏教システムのアップデートが発生する〜
ホント、瀬戸際向かないワークなんで
沢庵の世話になっていなければ
今の仕事は続かない〜〜
😫😫😫😫😫😫
禅以外に魔改造、リトル魔改造、
ノーマル解釈と、
それぞれアップデートする〜
😄
あの書物の内容で
向かない仕事を
チャレンジさせられとる〜
😭😭😭😭😭😭
あの書物がなければ、
今の仕事は既にゲームオーバーしとる〜
😄
ちゃんとコピペしないぞお〜
😄
不動ふどうと申もうし候そうろうても、石いしか木きかのやうに、無性むしようなる義理ぎりにてはなく候そろ。向むこふへも、左ひだりへも、右みぎへも、十方じつぽう八方はつぽうへ、心こころは動うごき度たきやうに動うごきながら、卒度そつとも止とどまらぬ心こころを、不動ふどう智ちと申もうし候そろ
😭😭😭
さらに〜
😄
然しかれば不動明王ふどうみようおうと申もうすも、人ひとの一心いつしんの動うごかぬ所ところと申もうし候そろ。又また、身みを動転どうてんせぬことにて候そろ。動転どうてんせぬとは物もの毎ごとに留とどまらぬ事ことにて候そろ。
物もの一目ひとめ見みて、其その心こころを止とどめぬを不動ふどうと申もうし候そろ。
理解体得を仕事から攻められる〜
ま、ローラー、ムイムイボコるのも
同じシステムではあるが〜
さらに〜
なぜなれば、物ものに心こころが止とどまり候そうらへば、いろいろの分別ふんべつか胸むねに候そうろう間あいだ、胸むねのうちにいろいろに動うごき候そろ。止とどまれば止とどまる心こころは動うごきても動うごかぬにて候そろ。
譬たとへば十じゆう人にんして一ひと太刀たちづゝ我われへ太刀たちを入いるゝも、一太刀ひとたちを受流うけながして跡あとに心こころを止とどめず、跡あとを捨すて跡あとを拾ひろひ候そうらはゞ、十じゆう人にんながらへ働はたらきを欠かかぬにて候そろ。
十じゆう人にん十じゆう度ど心こころは働はたらけども、一人ひとりにも心こころを止とどめずば、次第しだいに取合とりあひて働はたらきは欠かけ申もうす間敷候まじくそろ。
千手せんじゆ観音かんのんとて手てが千せん御入おんいり候そうらはゞ、弓ゆみを取とる手てに心こころが止とどまらば、九百九十九きゆうひやくきゆうじゆうくの手ては皆みな用ように立たち申もうす間敷まじく、一所いつしよに心こころを止とどめぬにより、手てが皆みな用ように立たつなり。
観音かんのんとて身み一ひとつに千せんの手てが何なにしに可有あるべく候そろ。不動ふどう智ちが開ひらけ候そうらへば、身みに手てが千せん有ありても皆みな用ように立たつと云いふ事ことを人ひとに示しめさんが為ために、作つくりたる容かたちにて候そろ。
仕事はラクラクかもしれんが〜
😄
当時は西ローマ帝国だった
アラリックに率いられた異民族の西ゴート族が、永遠の都ローマに攻め込んだのだ
ギリシャで暴れまわってたアラリックの目を、東ローマ帝国の皇帝はたくみに西へと向けさせた
西ローマ帝国の皇帝はちょっぴりおバカさんだったため、アラリックを本気で怒らせてしまった
怒ったアラリックは3度にわたってローマを包囲し、ついに城門を開けさせて市内を略奪した
西ローマ帝国にとっては大きな衝撃だった
「度重なる天災に、異民族の侵入・略奪。これは、神がローマに下した罰なのだ。こうなったのも、キリスト教のせいだ」
と、異教徒たちが大批判を始めた
ローマには、ローマ神話の神々がいる
キリスト教にとっては、ヤバい事態になった
「たとえ、地の国であるローマ帝国が滅びても、神の国であるローマ・カトリック教会は残る」
と主張し、カトリックを擁護した
古代からの穀倉地帯
ゲルマン民族の大移動も、ここまでは来ないので平和で繁栄していた
しかし、民族大移動は甘くなかった
ガリアからイスパニアに移住した、ガイセリック率いるヴァンダル族が、ジブラルタル海峡を渡って、北アフリカに攻め込んできたのだ
睡眠不足気味やった〜
よる1時寝の7時起きやったので
仏教模索後に、
昼寝2時間半した〜
おはよー2
😄
夜ふかししても
昼寝で
回復てきるレベルだ
😄
英語では、メチャクチャに破壊することを「ヴァンダリズム」という。刑事ドラマなんかで結構、よく出てくる単語だ
そんな英単語に残るほど、ヴァンダル族は暴れまわった
ガイセリックの軍が迫る頃、聖アウグスティヌスは、ヒッポの街でカトリック教会の司教をやっていた
老いて衰え、病気で寝ている聖アウグスティヌス
ガイセリックのヴァンダル軍は、ついにヒッポを包囲した。ヒッポは城塞都市だ。簡単には落ちない。ヴァンダル軍は、長期に渡って包囲戦を続けた
「たとえ、地の国が滅びても、神の国は永遠・・・」
死の床で、聖人は何を思ったか?
包囲が始まって3ヶ月後、聖アウグスティヌスは世を去った
ヴァンダル軍はヒッポの街に攻め込み、メチャクチャに破壊してしまった
こっちも昼寝だ~😄
休養十分
神の国(ローマ・カトリック教会)は永遠
ま、どれだけ、
リアルにイエス・キリストに忠実か?
といえば、
まだ、怪しげテーラーワーダのほうが
釈迦に近いといえるかもしれんな
😄
ま、どちらにしても〜
😄
そろそろ〜
まず、
ほーかいくんワールド的?
仏教のまとめとして〜
仏の世界による管理と時間による
智慧
なので
キリスト教神学は
主の世界による管理と時間による霊的知恵
それが神学だ
と
定義してみよーー
😄
気まぐれに
イスラムの講義動画と
クルアーンを読むに走ってしまった〜
😭
JBL並みの気まぐれ展開してまう〜
出口王仁三郎的?
😭
http://islamjp.com/quran/quran000.htm
それ読んだ
最初から最後まで通しで全部
やるな〜
すけ〜
俺は霊的コンタクトで
少し読んで満足する〜
😄
The出口王仁三郎?
😄
霊的な深読みモードに入る〜
😄
29-51.われがあなたに啓典を下し、あなたはかれらに読誦する。かれらにはそれで十分ではないか。本当にその中には、信仰する者への慈悲と訓戒がある
半端ないインスピレーション
来世こそ不滅の宿。
別にお前に大地を裂くほどの力があるわけでもなし、高い山々の頂上まで登れるわけでもあるまい。
おはよ〜
😄
ダニエル書だ
😄
http://bible.salterrae.net/kougo/html/daniel.html
出口王仁三郎系統も
踊らせる幻想を生み出す霊的な書が
黙示録と
このダニエル書だ
😄
ネタを
落としておこう〜
マニアやろ〜
僕ちゃんは〜
😄
イエス・キリストの世界の管理による
時間の知恵について
霊的に
今アップデートしたナウ〜
😄
イスラム教イタコゴーだ〜
😄😄😄
西欧哲学に関して
速読できたりする?
俺の理解できない西欧哲学なので〜
俺は、どの書物も速読はできない
😄
やはり西欧哲学までは、
無理なのね〜
ドラッグストアの
クリスマスソングで
キリスト教の霊的至福を
痛感した
😄
サッサと
密教寺院へ
ゴー予定だけど
😄
😄
絶好調だ〜
😄
臨済宗(りんざいしゅう)。
自我を薄めて真理と融合(ゆうごう)。
坐禅、読書、囲碁、将棋。
■
私に悪意を向けて煽(あお)ってくる下衆(げす)野郎は育ちが悪い。憐(あわ)れむべき存在である。
幼少期の家庭環境が人格形成に与える影響は大きい。幼少期に貧乏だったり毒親育ちだったりすると人格が歪む。
正しく仏法を理解しないと人生迷子になってしまいますからね。
よって、その他の皆さんの説法は真に受けないように気を付けます。悪く思わないで下さい。
■
坐禅菩薩(ざぜんぼさつ)。
臨済宗(りんざいしゅう)。
自我を薄めて真理と融合(ゆうごう)。
坐禅、読書、囲碁、将棋。
■
私に悪意を向けて煽(あお)ってくる下衆(げす)野郎は育ちが悪い。憐(あわ)れむべき存在である。
幼少期の家庭環境が人格形成に与える影響は大きい。幼少期に貧乏だったり毒親育ちだったりすると人格が歪む。
正しく仏法を理解しないと人生迷子になってしまいますからね。
よって、その他の皆さんのデタラメな説法は真に受けないように気を付けます。悪く思わないで下さい。
■
坐禅菩薩(ざぜんぼさつ)。
臨済宗(りんざいしゅう)。
自我を薄めて真理と融合(ゆうごう)。
坐禅、読書、囲碁、将棋。
■
私に悪意を向けて煽(あお)ってくる下衆(げす)野郎は育ちが悪い。憐(あわ)れむべき存在である。
幼少期の家庭環境が人格形成に与える影響は大きい。幼少期に貧乏だったり毒親育ちだったりすると人格が歪む。
正しく仏法を理解しないと人生迷子になってしまいますからね。
よって、その他の皆さんの直情的でデタラメな説法は真に受けないように気を付けます。悪く思わないで下さい。
■
私は男性を辞めて中性に成りたい💕
坐禅菩薩(ざぜんぼさつ)。
臨済宗(りんざいしゅう)。
自我を薄めて真理と融合(ゆうごう)。
坐禅、読書、囲碁、将棋。
■
私に悪意を向けて煽(あお)ってくる下衆(げす)野郎は育ちが悪い。憐(あわ)れむべき存在である。
幼少期の家庭環境が人格形成に与える影響は大きい。幼少期に貧乏だったり毒親育ちだったりすると人格が歪む。
しかし、彼はきちんと勉強していました。16歳にはカルタゴに進学し、そこで勉強をしていたようです。
ゆくゆくは真理とはなんぞやと自分に語りかけるぐらいになり、それを探し求めて本を読み漁ったり、マニ教に没頭したりしていました。最終的にはキリスト教に真理の可能性を見出して、キリスト教徒になったようです。
そんな彼が自分の人生を本にしたのが『告白』、そして自分の考えたことをまとめたのが『神の国』という本でした。
キリスト教が誕生してからは、キリスト教が哲学・倫理の世界を支配するようになりました。例えば、313年のミラノ勅令です。かの強大なローマという国において、キリスト教が公認になりました。しかも4世紀末にはキリスト教が国教となる...
キリスト教がどんどん勢力を伸ばしてきます。
しかし、宗教というのはやはりどこか哲学と似ているもので、その考え方について違いが生まれてきました。キリスト教OKになったということは、キリスト教が発展していったということですからね。例えば、ニケーア公会議ではどの宗派が正統なのかという議論があり、アリウス派は異端となりました。さらにはグノーシス主義に代表されるように、様々な信条も登場。「神は存在し得ない、ゆえに私は信じる」などといった言説も生まれ、とにかく争いが始まります。
このように、当時は教義がいろいろと生まれ、キリスト教の中で本当に正しい教義とはなにかが曖昧になってきたという時代でもあったのです。
以上をまとめますと、アウグスティヌスが生きた時代というのは、キリスト教内部において厳格な論理を積み上げた教義というのが存在せず、キリスト教は危うい状態にあったのです。
もちろん、キリスト教側は手をこまねくだけではなく、教父を設置しました。教父とはいわば弁護士みたいなもので、キリスト教がいかに正しい宗教かを証明するための論理を組み立てる職業のことです。
アウグスティヌスは、最大の教父。つまり、キリスト教の論理を組み立てたものとして知られています。
アウグスティヌスはまずはじめに、一番めんどくさい論理を崩すことにします。
「神って存在するんですか?」
神様が存在することを証明することは本当に難しい課題です。まぁ逆に存在しないことも証明できないわけなのですが...ちなみにこれはグノーシス派という集団が問いかけた問題です。
「存在する。そもそも君たちはなぜ『神』という概念を知っているのだ?本物の神を見たことがないはずなのに、神という超理性的な存在を知っているではないか。それは神という存在を、認識しているということではないのか?」
ん?なんかこの論理どこかで見たことがありませんか?
そう、プラトンのイデア論とほとんど同じロジックです。
「本物の善というものをみんなは知らないはずだが、それを普通に会話につかって、それで互いに認識を共有している。ということは、本当はその存在があるということではないのか?」
というイデア論のきっかけそのままです。実はアウグスティヌスは、学校での勉強のときに、プラトンのイデア論にふれ、新プラトン主義を打ち立てた人物としても知られています。
かなり重要な考え方なので少し紹介しておきます。この当時は人間は概念を作り出すということを意識していなかったようです。例えば、愛だとか善だとか、友情だとか、そういったものは人間が勝手に作り出した概念ではなく、「もともとあったもの」であり、人間がそれを発見するという考え方をしていました。ゆえに、人間が知っている概念というのは存在しているもの、とされたのです。
(そもそも作り出すからゆえに知るのか、知るゆえに存在するのか、どちらが正しいのかはわからないです。でもイデア論は観念という世界観を創りだしてしまったため、後者の立場を取ることになりました)
「おかしいな?神様ってのは完璧なんだろ。なんで悪の性質を持った人間ってのがいるんだ?それは神が完璧な存在じゃないからじゃないのか?」
うむ、鋭い。確かに神が完璧であれば、この世に悪なんて存在するはずがない。なのになんで存在するのだろうか?
この問いに対する答えが「自由意志」なのです。アウグスティヌスはこのように答えます。
「神は人に自由意志を与えてくださった。私たちが善をなすのか、悪をなすのか、それは私たちの意志によってなされるものなのだ。神は自分の意志に基づいて、善をなすことを期待していたのだ」
自分の無力さ、自分の失恋、そういったものを全て自分の運命だと思おうとしたことはありませんか?そう、昔の人のたちはそのように考えていたのです
アウグスティヌスの偉業は何より、尺度を作ったことです。
イデア論に対する批判の一つに、「汚物」は醜いのイデアがあるのか、それでも美しいのイデアがないだけなのか、どちらなのかという批判がありました。これについて、アウグスティヌスはこのように解釈します。
「いやいや。世の中には尺度のイデアがたくさんあるだけなのだ。醜いイデアというのは存在しない。醜いとは単に美しいイデアがないだけなのだ。そしてそのイデアが強くなれば強くなるほど、それはより美しくなる」
つまり、イデアを単に「あるか、ないか」の二択で考えず、濃淡で捉えるようにしたのです。これによって、善悪について以下のように主張することになります。
「この世には悪というものは存在しない。悪とは単に善が欠けているだけの状態なのだ」
もし神が万能なのであれば、この世界には”悪”というのがあってはならないという主張があるのですが、アウグスティヌスのこの説明によって、”悪”とは単に人間の自由意志が善を成し得なかったがために生まれたものだという説明になるのです。
アウグスティヌスは神の万能さを守ることを使命として生き、最後まで守り抜いたのです。
今まで見てきましたとおり、キリスト教の論理を強くしたのがアウグスティヌスです。実は中世の始まりは彼から始まったといっていいでしょう。
前提の確認で見てきたように、キリスト教は迫害される可能性がなくなりましたので、これから一気に発展していきます。アウグスティヌスがまずキリスト教の論理を強化し、そして次に紹介するトマス・アクィナスが哲学をめった打ちにします。
アウグスティヌスとトマス・アクィナスはまさに、神学VS哲学における、神学側の切り札だったのです。そして最終的には神学が勝ち、中世の価値観すなわちキリスト教を達成してしまった。中世の人々の思考を支配した人物、それはアウグスティヌスだったといってもいいのではないでしょうか。
いくら強調しても足りない
いま、とても
超マジメ修行研究に脳内が〜
😄
初期キリスト教の西方教会最大の教父で、正統的信仰教義の完成者。
青年期にマニ教を信奉し、次いで新プラトン学派哲学に傾倒、32歳でキリスト教に回心した。
異端・異教との論争の中で、神の 恩寵のみによる救いと教会の絶対性などを展開。
神の恩寵によってしか救われないのだ~😭
「北アフリカ」というイメージが強いが、若い頃はイタリアで学んだ時期もある
ローマとかミラノにいたんだよな
臨済宗(りんざいしゅう)。
自我を薄めて真理と融合(ゆうごう)。
坐禅、読書、囲碁、将棋。
曹洞宗(そうとうしゅう)。
自我を薄めて真理を味方に付ける。
坐禅、読書、囲碁、将棋。
曹洞宗(そうとうしゅう)。
自我を薄めることで真理と融合(ゆうごう)する。
坐禅、読書、囲碁、将棋。
今日は、「神の恩寵」について述べてみます。少々難しい内容になるかもしれませんが、最後までお付き合いください。
まず、一般的にいうところの【恩寵】とは、辞書に「神や君主の愛やめぐみ」とあります。
キリスト教における「恩寵(おんちょう:ラテン語: Gratia, 英語: the divine grace)」は、)、神の人間に対する働きかけであり、神の人類に対する慈愛を意味しています。
恩恵、聖寵、神の恵み、恵みともいいます。
「私たちは、どのようにして神を把握することが出来るのか。」という問題に、聖アウグスティヌスは、「神はその超越的な本性上、我々の地上的で不完全な思惟によっては把握されない。私たちは神の啓示によって、愛と信仰を通じて把握することができるのみであって、神についての知識は私たちには用意されていない。」と。
その神が、全てを創造されたとするならば、人間の罪深さや悪が存在するのはなぜか。
この問いは自由意志の問いと関連しています。
アダムは神より「罪を犯さないことができる」という自由を与えられていましたが、神の信頼に背いて原罪を犯し(神様から食べてはいけないとされた木の実を食べてしまいました。)、これにより人間は自由を失って、「罪を犯さざるをえない」という悪状態に陥ることとなったのです。
このような罪深い人間は、ただ神の恩寵によってのみ救われることができる存在であること。
その恩寵は神が与える無償の愛ですが、誰が神の恩寵を受けて救われるかは神の意志によってあらかじめ定められているという「予定説」を表明しました。
また、神の恩寵は教会を通じてのみ預かることができるとし、このことによって教会に対する信仰の基盤が確立されたということです。
現在のカトリック教会では、この聖アウグスティヌスの見解を「予定説」としては捉えていません。
それを、人間が自ら<恩寵の外へ逸脱>すること、つまり神の慈しみや恵みというものから、自らが遠ざかることがあるということです。
その多くは<誘惑>によって心にサタンが入り込み、恩寵の圏外に出てしまう = 悪を行ってしまうのですね。
神の恩寵は、恩寵の圏内にいる者 = 信仰と善き行いに励む者に恵まれるものなのです。
◯『アヴェ・マリアの祈り』
「アヴェ、マリア、恵みに満ちた方、
主はあなたとともにおられます。
あなたは女のうちで祝福され、
ご胎内の御子イエスも祝福されています。
神の母聖マリア、
わたしたち罪びとのために、
今も、死を迎える時も、お祈りください。
アーメン」
https://jesus195876.blog.ss-blog.jp/2020-03-05-1
神の国は永遠だ~😭
ただひたすら坐禅(ざぜん)する。
自我を薄めることで真理と融合(ゆうごう)する。
・幼年期の過ち
あなたのまなざしの前に、私よりいとわしい者ががあったでしょうか。遊び好きで、くだらない見世物を見たがり、芝居のまねをして落ち着かず、数えきれないうそをつき、家庭教師、学校の先生、両親をだますので、みな私にはてこずっていました。のみならず、親の地下室や食卓から盗んだこともあります。食欲にそそのかされてしたこともありますが、ある場合は、遊び友達の玩具とひきかえに相手にやるべきものを手にいれるためにしたのです。(第1巻第19章 p.62 現代ならゲームに夢中で親の金にも手を出してしまった、といったところか)
私はかつて青年時代、下劣な情欲をみたそうと燃えあがり、さまざまなうすぐらい情事のうちに、みずからすさんでいきました。・・・私をよろこばせたのは、「愛し愛される」、ただそれだけでした。けれども私は、明るい友情の範囲内に、魂から魂への節度を保つことができず、泥のような肉欲と泡だつ青春からたちこめた靄(もや)で、心はぼやけてうすぐらく、ついには、はれやかな愛と暗い情欲との区別がつかなくなってしまいました。この二つが混合してわきたち、若年の私をひきさらって、欲望の淵につき落とし、醜行の泥沼の中に鎮めていったのです。(第2巻第1,2章 p.69 その他、仲間とつるんだ窃盗など無頼漢同然だったことが語られる。)
私はカルタゴにきた。するとまわりのいたるところに、醜い情事のサルタゴ(大鍋)がぶつぶつと音をたててにえていました。私はまだ恋をしていませんでしたが、恋を恋していました。そして欠乏をそれほど感じない自分をにくんでいましたが、それは内奥に欠乏がひそんでいたからなのです。(第3巻第1章 p.99 )
(カルタゴでは弁論術を学ぶ修辞学校に入り、「うまく人をだますほど、ますますほめられ」首席となって増上慢にふくれあがった。しかし、そこでみた学生の行状は)彼らはその乱暴でもって、おどおどしている新入生たちにあつかましくからみついてゆき、何の理由もなしになぶり者にしていじめ、それで意地の悪い快楽を満喫していました。これ以上、悪霊に似た行為はありません。(第3巻第3章 p.108 今も昔もいじめはあったということか)
・カルタゴでマニ教に入信
「・・・私は、傲慢で気の狂った人間たち、きわめて肉的でおしゃべりな人間たち(マニ教徒のこと)の中におちこんでしまいました。・・・彼らは“真理、真理”といいって、それについてたくさんのことを聞かせてくれましたが、真理は彼らのうちのどこをさがしてなく、あなたの被造物たるこの世の諸元素についても、でたらめをいっていました。」(第3巻第6章 p.114)
「十九から二十八歳にいたる九年間、私たちはさまざまな情欲のままに、迷わされながら迷わし、だまされながらだましていました。おもてだっては、自由学芸と称されるもろもろの学問を通じ、かくれては、宗教の虚名のもとに、前においてはたかぶり、後においては迷信深く、しかし、そのいずれにおいても私たちはむなしかった。」(第4巻第1章 p.145)
「その年ごろ、私は一人の女性と同棲するようになっていましたが、それはいわゆる合法的な婚姻によって識りあった仲ではなく、思慮を欠く落ち着きのない情熱にかられて見つけ出した相手でした。けれども私は、彼女一人をまもり、彼女に対して閨の真実を尽くしました。この女性との関係において私は、自分の経験によって、子を産むことを目的に結ばれる婚姻の契約の節度と、情欲的な愛による結合とのあいだに、何という大きなへだたりがあるかを、身にしみて知らされました。情欲的結合の場合にも、子は親の意に反して生まれます。いったん生まれると、その子は愛さずにはいられなくなるものです。」
(第4章第2節 p.148 このあたり、某代議士や「五体不満足」だった彼に読ませたいところです)
青年アウグスティヌスの愛人との同棲やマニ教入信は、その母モニカを大いに嘆かせた。アウグスティヌスは修辞学教授として地位を高めていった。29歳の時、ローマから来たマニ教の高名な司教の話を聞いたが、その空疎な話に失望し、次第にマニ教への疑問を持つようになった。30歳になった384年、国立学校の修辞学教授としてミラノに行く。そこでアンブロシウスにあい、その聖書の解釈に驚き、キリスト教を見直すようになった。
翌年、アウグスティヌスは母モニカの望み通り、愛人と別れ、母の勧める女性と正式な婚約をした。このころから新プラトン学派の霊的世界に目覚め、使徒パウロの書簡からも強い感銘を受け、生涯を神に捧げる決意をし、学校をやめる。そして33歳になった387年、洗礼を受け、積極的にマニ教批判を開始する。36歳の時、かつての愛人との間の子アデオダトゥスが死ぬ。ローマ皇帝テオドシウスがキリスト教を国教と定められたころ、アウグスティヌスは391年にカルタゴの郊外、ヒッポの司祭となり、さらに396年には司教に任じられた。ヒッポではマニ教批判に続いて、ドナティスト派やペラギウス派という異端と厳しい宗教論争を続けながら、信仰を確固たるものにしていった。
そのアウグスティヌスが、43歳で書き始めたのが『告白』であり、46歳の400年に書き終わった。その後も多くの著作を著したが、主著『神の国』は59歳で着手し、72歳の426年に完成させた。その晩年は、ゲルマン民族大移動の波が北アフリカにまでおよび、ヴァンダル人の侵攻が始まっていた。ヴァンダル人がヒッポの町を包囲する中、430年8月28日にアウグスティヌスは息を引き取った。
<『告白』Ⅰ ちくま学芸文庫 年譜より>
『告白』は、アウグスティヌスの赤裸々な自伝の体裁を取りながら、人間の愛と苦悩を見つめる神の存在を確信する内容へと深まっていく。そして第10巻以降は、神と人間の唯一の仲介者キリストへの信仰を告白する。それは「ただ神のうちにのみ希望とよろこびとがある」という確信の吐露であり、自信に満ちあふれた筆致となっていく。
そして第11巻からはがらりと内容が変わり、旧約聖書「創世記」の解釈を内容としている。それは、マニ教が旧約聖書をユダヤ人の書として価値を認めない事に対する反論であり、旧約と新約をともに聖書として拠り所とするローマ=カトリック教会の基本的な見解を形成した。それだけではなく、アウグスティヌスは「始めに神は天地を造りたもうた」という聖書の言葉に対して、それ以前に神は何をしていたのか、という問いを発し、そこから「時間論」を展開していく。
ではいったい時間とは何でしょうか。だれも私にたずねないとき、私は知っています。たずねられて説明しようと思うと、知らないのです。しかし、「私は知っている」と、確信をもっていえることがあります。それは、「もし何ものも過ぎさらないならば、過去の時はないであろう。何ものもやってこないならば、未来の時はないであろう。何ものもないならば、現在の時はないだろう」ということです。<アウグスティヌス/山田晶『告白』Ⅲ ちくま学芸文庫 p.38>
以下の時間論は省略しますが、これは現代哲学の時間論にも影響を及ぼしているテーマの一つです。また、ローマ=カトリック教会の正統的教義の柱である三位一体説についても、アウグスティヌスはするどい哲学的な考察を加えています。『告白』は単なる宗教書ではなく、中世のスコラ学につながる哲学史の中に位置づけられている哲学書である。
「神の国」と並ぶ代表作だ
神慈秀明会の会長みたいだな
デカルトその他にインスピレーションを与えまくった、哲学思想ネタの宝庫でもある
なんで、「告白」で時間論なのか?
本当に、摩訶不思議な書物
神は永遠であり、過去、現在、未来、という在り方で永遠なのではなく、在る、において永遠
永井均さんの独今論が独我論とほとんど同じ構造を持っているのに似てる
自スレに
戻ったが
元気がない
😫
😫
鹿は未熟で本質的に排他的な人間なんだよ
だから排他性に類する現象を見たら、自己の鏡として
排他性を指摘する
自分の偏った姿を他者に写してるんだよな
リンゴ箱全部が腐っていくな😫
単に、掲示板で罵倒合戦をやりたいだけだからな~😫
鹿は基本的に「困ってる人」でもある
新プラトン主義(ネオプラトニズム)は西洋において古代末期から中世を通じてキリスト教神学に大きな影響を与えてきた。
これは特に
(1)プロティノスやテュロスのポルピュリオスといった初期のネオプラトニストから影響を受けたヒッポのアウグスティヌス
(2)プロクロスやダマスキオスといった後期ネオプラトニストから影響を受けた偽ディオニュシオス・ホ・アレオパギテースと呼ばれるキリスト教著述家らによるものである
おそらくもっと重要なことに、プロティノスやポルピュリオスの著作において強調されている、神つまり一者と出会うための手段としての神秘的瞑想はアウグスティヌスに深く影響した。
アウグスティヌスはその著書「告白」において、明らかに新プラトン主義のモデルに従っている少なくとも二つの神秘的体験について述べている。
「告白」第7巻の「プラトニストの書」という節で彼が重要な発見をしたと述べているところによれば、アウグスティヌスは霊的実体としての神及び人の魂の概念を新プラトン主義に負っている。
その中で最も影響力があったのはアンモニオス・サッカスから教えを受けたかもしれないオリゲネス(後世に異教徒のオリゲネスと呼ばれる人物がアンモニオス・サッカスから教えを受けたオリゲネスだったかもしれないのでこれは確実ではない)や、偽ディオニュシオス・ホ・アレオパギテースの名で知られる5世紀後半の著述家であろう。
新プラトン主義を放棄したんだな
新プラトン主義は、キリスト教とはやはり違うからなあ
「エンネアデス」第2巻第9論文には「宇宙の創造者や宇宙それ自体が悪であると主張する者どもに抗して」(一般的には「グノーシス主義者らに抗して」として知られる)という表題がつけられている。
3世紀後半、ローマ帝国末期にプラトン哲学を復興させた思想。
古代ローマ末期のプロティノスにはじまる哲学。
プロティノスは3世紀にエジプトのアレクサンドリアで学び、ギリシア哲学を研究した。
そこでプラトンの言う「一者」や「イデア」という究極の真理は、人間が認識出来るものではなく、そこから流出するものを観照する(直感する)のみであると説く。
感覚器官や言葉ではなく、沈黙のうちに絶対の真理と一体化しようと説く、神秘主義をとった。
新プラトン派はキリスト教を否定したが、キリスト教徒の中ではアウグスティヌスらの教父が新プラトン主義を取り入れ、教父哲学を体系づけた。
プロティノスは、ちょっと後の時代の人で、古代ローマ帝国期のエジプトに住んでいた。
プロティノスこそは、「ワンネス思想の祖」と言える人。
ひとりの人間とは、コップの中の水のようなものだ。ただの水なのに、コップの中にいるおかげで、「俺は、オレだよ」という自我意識を持っている。
大いなる海に向けて、コップをひっくり返したら、どうなるか。コップの中の水は、膨大な海水の中に溶け込んで、すぐに見えなくなってしまう。でも、なくなったわけではない・・・。
https://blogimg.goo.ne.jp/image/upload/f_auto,q_auto,t_image_sp_entry/v1/user_image/55/09/352e6f85d377514315e3481cafe14b0b.png
こういうのを言い始めたのが誰なのかといえば、それがプロティノスなのだ。
プロティノスといえば、流出論。
プロティノスは、神を、「一」とか「一者」と呼ぶ。英語でいえば、“the one”。そのままズバリ、数字の「1」のこと。
一からは、二が生まれる。三も、四も、五も・・・、すべては、一から流れ出す。
つまり、一から、多が生じる。すべてが流れ出してくるから、流出論。
blog
ログイン
ブログ開設
現実主義者のアリストテレス ~ ギリシャ哲学 その4
自衛隊パイロットたちが接近遭遇したUFO ~ その1
ネット回線やWi-Fiのお役立ち情報!

宇宙のこっくり亭
記事一覧
画像一覧
フォロワー一覧
プロティノスの、一なる神 ~ ギリシャ哲学 その5
14/07/08
ギリシャ哲学といえば、プラトンとアリストテレスが有名だ。でも、後世に大きな影響を残した人が、もう一人いる。それは、プロティノス。
プロティノスは、ちょっと後の時代の人で、古代ローマ帝国期のエジプトに住んでいた。
プロティノスこそは、「ワンネス思想の祖」と言える人。
ひとりの人間とは、コップの中の水のようなものだ。ただの水なのに、コップの中にいるおかげで、「俺は、オレだよ」という自我意識を持っている。
大いなる海に向けて、コップをひっくり返したら、どうなるか。コップの中の水は、膨大な海水の中に溶け込んで、すぐに見えなくなってしまう。でも、なくなったわけではない・・・。

これこそ、典型的なワンネス思想のイメージだろう。
こういうのを言い始めたのが誰なのかといえば、それがプロティノスなのだ。
プロティノスといえば、流出論。
プロティノスは、神を、「一」とか「一者」と呼ぶ。英語でいえば、“the one”。そのままズバリ、数字の「1」のこと。
一からは、二が生まれる。三も、四も、五も・・・、すべては、一から流れ出す。
つまり、一から、多が生じる。すべてが流れ出してくるから、流出論。
イスラム教やキリスト教の信者は、しばしば、「全知全能の神さまが、この世界をお創りになったというのに、どうして、この世はこんなに不完全というか、ハッキリ言えば、ロクでもないのばっかりなんでしょうか?」という疑問を抱く。
聖書やコーランをどれだけ読んでも、その答は見つからない。「神さまには、わたしたち被造物には分からない、深いお考えがあるのでしょう」とでも言うしかない。
その点、この哲学者の流出論は、すべてを説明するスマートな世界解釈だ。
聖書やコーランをどれだけ読んでも、その答は見つからない。「神さまには、わたしたち被造物には分からない、深いお考えがあるのでしょう」とでも言うしかない。
その点、この哲学者の流出論は、すべてを説明するスマートな世界解釈だ。
最上層には、「一」がある。その下には、「知性」(ヌース)がある。
さらに、そのヌースから、多くのものが流れ出す。一番下の最下層にあるのは、物質界。
https://blogimg.goo.ne.jp/image/upload/f_auto,q_auto,t_image_sp_entry/v1/user_image/4a/bd/7fa18a61bbf944958f7e80916a697a73.jpg
その物質界にいる、われわれ人間は、文字通り、シモジモの存在だ。だからといって、なんの希望もない絶望の日々をすごしているのかと言ったら、そうでもない。
なんと、最上層の「一」に向かって回帰するという、上昇運動への道が残されているのだ。
もしも、首尾よく最上層の「一」にまで到達し、そこで一なる神と合一することができたなら、最高にハッピーな気分になれる。それが、「エクスタシー」といって、哲学者にとって最高の境地。
残念〜
😭
パワーダウンか~😫
古代ローマ帝国の新プラトン主義
それが、新プラトン主義的なキリスト教理解
プロティノスの新プラトン主義経由でプラトン哲学を学んだアウグスティヌスは、プラトンのこの二世界説を「神の国」と「地の国」の厳然たる区別という形で受け継ぎ、あの「つくる」論理に基づく制作(ポイエーシス)的存在論によって世界創造論を基礎づけ、イデアに代えてキリスト教的な人格心を形而上学的原理として立てます。
イデアは世界創造に先立って神の理性に内在していた観念と考えられるようになります。
ここから、idea(イデア、ギリシア語)を観念(例えば英語のidea=アイデア)と見る考え方が生まれてきます。
このプラトン-アウグスティヌス主義的教義体系は、古代末期から13世紀までカトリック教会の正統教義として機能し続けます。
一方で、オランジュ公会議と同じ529年にユスティニアヌス大帝(東ローマ帝国第2代皇帝、東ローマ帝国はビザンツ帝国とも呼ばれる)の命令で哲学は禁止され、プラトン以来900年に及ぶ伝統をもつアテナイのアカデミアも閉鎖されました。
ちなみに、木田は、ニーチェ(1844-1900)の言葉を引用して「キリスト教は民衆のためのプラトン主義にほかならない」と指摘しています。
プラトンの「イデア界」
それが、アウグスティヌスでは「神の国」になったのか
それが、アウグスティヌスでは「神の国」と「地の国」になった
神の国は永遠
神の国は近づいた
南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏
頭が悪くて頑固な連中は、人間というより「壁」そのものだ
こちらは、「壁」を相手に直球を打ち込んだり、変化球を打ってみたりする
「壁」は変わらない
こちらにとっては、人間相手に対面練習するほどの効果はないが、それなりの練習になり上達する
まさに、テニスの壁打ちそのものだ
必要悪だ〜
ただひたすら坐禅(ざぜん)する。
無我の境地に至(いた)ることで真理と融合(ゆうごう)する。
そう、私は神に成(な)る。
本書前半部(一巻から九巻)では、アウグスティヌスの自伝が語られ、後半(十巻から十三巻)では、哲学(神学)的な論述に入ります。
特に第十巻での心(記憶)の構造、第十一巻での時間論は後世の思想家達に強い影響を与えた重要な考察です。
本頁で扱うのはその部分のみです。
https://kotento.com/2020/12/03/kokuhaku1/
第八章、記憶
記憶には、感覚によって私の内に取り込まれた、事物についての無数の心象(imago-イメージの語源です-)が収められています。
感覚によってとらえられたものを、増減したり変形したりして、上手く収められています。
私はこの記憶の倉庫から、欲するものを取り出そうとします。
あるものはすぐに見付かり、あるものは奥の方に隠れ見つけ難く、あるものは列をなす芋づるのように連れ立って出てきます。
感覚という個別の通路(感覚器官)から運び込まれた心象は、それぞれの種類に従い分類され保管されています。
納められた心象には、いつ、どこで、何を為し、どんな気分であったかなど、自分自身の収蔵印も刻み込まれています。
視覚のみならず、すべて感覚から入ってくるものは姿、形(弁別特性)を持っています。
ミの音も、砂糖の甘さも、花の香りも、肌のぬくもりも、それとは違うものから自らを区別し独自性を保つため、特有の差異の特徴「かたち」をもっています。
例えば、「ミ」の音は、「2つの音の周波数が2:1の関係になる七分割された音(全音間隔5、半音間隔2)の三番目」という特徴(音の形)を有するものです。
この形を聴覚においてとらえたものが音(音の心象)です。
いま現在において取り出された心象は、ただ過去のものに結び付けられるだけでなく、未来にも結び付けられます。
心象の倉庫の中で、「次はこれをしよう、次はこれが起こる、次はこうなったらいいのに、次はこうならないでほしい」などと言います。
もし、記憶の倉庫に収められた心象が存在しなかったとすれば、人間は未来を語ることができなかったでしょう。
人間は外部にある、高い山、広い海、天体の運行などには驚愕しますが、自分の内部に関しては無関心です。
しかし、私がその海について語ることは、かつて見た海の心象、人づてに聞いた未だ見ぬ海の心象など、人間の内部に外部と同等の広がりを持っているからこそ成り立つことです。
驚くべきは、人間の内にある奥深い広大さです。
ただひたすら坐禅(ざぜん)する。
無我の境地に至(いた)ることで真理と融合(ゆうごう)する。
そう、私は人間を辞めて神に成(な)る。
第七末那識で「自分にとっての意味」を刻印され、第八阿頼耶識に収蔵される
ただひたすら坐禅(ざぜん)する。
無我の境地に至(いた)ることで真理と融合(ゆうごう)する。
そう、私は人間を辞めて神に成(な)る。
神経疲労に効く漢方薬は加味帰脾湯(かみきひとう)である。
ただひたすら坐禅(ざぜん)する。
無我の境地で人生を遣(や)り過ごす。
神経疲労に効く漢方薬は加味帰脾湯(かみきひとう)である。
ただひたすら坐禅(ざぜん)する。
無我の境地で人生を遣(や)り過ごす。
神経疲労に効く漢方薬は加味帰脾湯(かみきひとう)である。
悟(さと)った悟った本当に悟った。
自由が無いのが本当の自由である。
記憶の倉庫には、感覚を通ってきた心象(外部のものの似姿)では説明しきれないものがたくさん収められています。
概念(イデア)、意味、論理法則、数学的規則などの知性的なものです。
それを説明するには、人間には先天的に与えられたものが存在し、記憶の底の奥の院(持って生まれた無意識の記憶、先天的概念の野)のようなものに収蔵されており、それが外部の刺激によって呼び起こされる、と仮定するしかありません。
しかし、人間の心の内には、幅のある面でもなく、さらに厚みのある立体でもなく、幅も厚みもない幾何学の線が存在します。
人間の心の内の幾何学空間や、数や量や比例などの数学的概念は、外部からの感覚を通してだけでは決して得られるものではありません。
論理学の方面でこれを考察したのが前期ウィトゲンシュタインであり、彼の言う「語りえないもの」のひとつが、この奥の院に眠る先天的な論理の規則です。
この心の奥底からの想起を怠っていると、それらは再び無秩序と深い忘却の淵に沈み込んでいくため、あらためて思惟によって集め直さねばなりません。
真の教師とは、外部から生徒に知識を注入する人のことではなく(そんなことは幼児でも自分で出来ます-ポケモン全部言える子とか-)、生徒の内奥に眠るこの先天的なものを自覚させ、自身で発揮できるような状態へ導くことです。
例えば、光も色も外部世界に存在するものではなく、人間の感覚器官より内にあるものであり、光も色も視覚器官と精神が生み出すものです。
物理(外部)的な光や色の法則の解明は、人間の精神(内部)の法則の解明の一部(特殊)にすぎないということです。
これは生理学的な意味で言っているのではなく(生理学は自然科学の一領域にすぎません)、自然科学を成立させているものそのものの解明、存在論的なレベルの話です。
外部の広がりは内部の深さに比例しており、多くの人々はこの事実が見えていないということです。
デカルトは、そう主張した
「生まれつきの観念などない。人間は、白紙(タブララサ)の状態で生まれてくる。すべては、生まれた後で経験により習得したものだ」
ジョン・ロックは、そう主張した
これが、イギリス経験論だ
それは、「神」という観念だ
「イギリス経験論と大陸合理論ってのがありますた」
と教わる
だが、この2つがどう違うのかは教えてくれない
聖アウグスティヌスに由来する思想
プラトンにまでさかのぼる
「聖アウグスティヌスの受け売りが多くて、本人のオリジナリティがない」と批判されてた
デカルト本人は、それに反論した
これが「元ネタは聖アウグスティヌス」とされる代表例だ
それまでの西洋哲学っていったら、神学校で神父から教わる「スコラ哲学」だった
デカルトこそ、真の意味で「西洋哲学」を創始した開拓者
ただひたすら坐禅(ざぜん)する。
無我の境地で人生を遣(や)り過ごす。
神経疲労に効く漢方薬は加味帰脾湯(かみきひとう)である。
悟(さと)った悟った本当に悟った。
自由が無いのが本当の自由である。
坐禅(ざぜん)、読書、囲碁、将棋。
悔い改めよ
神の国は近づいた
坐禅菩薩(ざぜんぼさつ)。
ただひたすら坐禅(ざぜん)する。
無我の境地で人生を遣(や)り過ごす。
神経疲労に効く漢方薬は加味帰脾湯(かみきひとう)である。
悟(さと)った悟った本当に悟った。
自由が無いのが本当の自由である。
坐禅(ざぜん)、読書、囲碁、将棋。
坐禅菩薩(ざぜんぼさつ)。
ただひたすら坐禅(ざぜん)する。
坐禅(ざぜん)、読書、囲碁、将棋。
神経疲労に効く漢方薬は加味帰脾湯(かみきひとう)である。
程好(ほどよ)い煩悩(ぼんのう)は必要である。多くの人と喜びや悲しみを共有することに人生の意味が有る。
西欧哲学が
そういう歴史があるんやな〜
なかなか
面白そうな
手を付けない
フロンティアではあるな〜
ま、
俺の知的好奇心は
人間世界は
ラング、ランガージュ、
シニフィアン、シニフィエ、
言語記号の恣意性で
世界が成り立っているのだ〜
という結論で満足してしまったからな〜
😄
ま、ある意味人間は
無我たる根底の認識の条件の下地として
ソシュールの記号論は
自分の脳内では
統合されている〜
😄
ただひたすら坐禅(ざぜん)する。
無我の境地で人生を遣(や)り過ごす。
神経疲労に効く漢方薬は加味帰脾湯(かみきひとう)である。
ただひたすら坐禅(ざぜん)する。
無我の境地で人生を遣(や)り過ごす。
神経疲労に効く漢方薬は加味帰脾湯(かみきひとう)である。
清らかな心で清らかな人生を送れれば全て良し。
テレビもラジオもNHK。
ただひたすら坐禅(ざぜん)する。
無我の境地で人生を遣(や)り過ごす。
神経疲労に効く漢方薬は加味帰脾湯(かみきひとう)である。
清(きよ)らかな心で清(きよ)らかな人生を送れれば全て良し。
テレビもラジオもNHK。
ただひたすら坐禅(ざぜん)する。
無我の境地で人生を遣(や)り過ごす。
神経疲労に効く漢方薬は加味帰脾湯(かみきひとう)である。
清(きよ)らかな心で清(きよ)らかな人生を送れれば全て良し。
テレビもラジオもNHK。
恋愛も結婚も子作りも穢(けが)れである。
神の国は永遠
ギリシャ哲学と
キリスト教神学が
結びつき、
西欧哲学の思考システムが
できたんやろな〜
煩悩による死後の恐怖があり、
念仏と地蔵信仰などの山伏、神仏習合
さらに徳川家康の日光東照宮まで、
闇の社会の怨霊や祟りに怯えながら
社会を改革するのではなくて
その念仏と山伏システムで
解決を狙ったんやろな〜
ま、ほとんど外国に攻められない、
江戸幕府の統治システムは
歴史上でみると
有能そうやな〜
大名に藩の
管理をやらせ、
不祥事を起こすと改易という罰を与え、
反政府な反乱は
島原の乱と
大塩平八郎の乱ぐらいしか
初期の大阪城攻略戦や幕末を除いて
江戸幕府の下では
反乱と
地域の腐敗の反乱は少なく、多発するのは
打ちこわし、百姓一揆ぐらいか〜
中国王朝だと
近代の清国は
全国的な腐敗と
反乱が常だもんな〜
😫
大英帝国の議会の民衆への
税金とかの
家の窓一つに税金をかけるとか、
の
国家運営、植民地支配拡大の軍費の費用増大なのか、
無茶振りな税金が多んやな〜
マルクスが資本家帝国主義の
搾取〜〜
と
言い出すモチベはありそーな時代やな〜
ま
マルクス思想も
西欧哲学のルーツがあり、
歴史と社会には本質、永遠の真理があるという設定で、
あのよーな思想が生まれたんやろな
😄
西洋では、キリスト教・ギリシャ哲学・ゲルマン神話が混ざり合っている😫
ほとんど
図書館へ
行ってないな〜
論文をスマホで見る方が増えたよな〜
😄
帝国主義と重税は
むかしの資本主義には
常だった、
日本でも軍部クーデター以前は
社会医療保険なんてなかったからな〜
日本では世界恐慌で東北農家のむすめは身売りで
資本家への怨念は深まった
軍部クーデターは
初期は財閥資本家暗殺などもあったから、
アンチ資本主義、
ナチスも当初はアンチ資本主義だったからな〜
社会医療保険などと再軍備公共事業でナチスもドイツ国民の支持を取り付けた部分もあるからな〜
😟
割合好きだ
大学以降も
😄
マルクス思想と
ナチス的な進化論社会論が
ゴールだったんかもな〜
😄
貧民の暴動と犯罪で、都心が荒廃している
この世の終わりだ
チャイナ製麻薬と貧困地域と
イスラエル植民地のよーに
壁で防御され警備されている
アメリカ金持ちニュータウン
😫
国土の狭い日本ありがたや〜
ま、闇バイト犯罪者で
警備人間雇えない中途半端な日本の金持ちは襲われる〜
アメリカ金持ちのほうが老後は安心だな
😫
買い物と
曹洞宗寺院と
真言宗寺院への
お参り行ってた〜
😄
田舎の大農家ぐらいなんだろうな〜
かつイスラエルにキリスト再臨信仰と
進化論否定のファンダメンタル
田舎の大農家のほうが支持者多そうだな
イスラエル支持者が
都会の金持ちタウンに住めない若者は
反イスラエルかもね〜
😫
↑
これが、彼らの理想
あなたはわたしのうちにおられたのに、わたしは外にあってむなしくあなたを外に求めた。
そしてわたしは醜い姿をして、あなたの創造された美しいもの(外部世界)の中に突進した。
あなたはわたしとともにおられたのに、わたしはあなたとともにはいなかった。
あなたのうちに存在しなければ、まったく存在しないもの(外部世界)が、わたしをあなたから遠ざけていたのである。
(服部瑛次郎訳『告白』岩波書店)
「過去」とはもはや存在しないもの、「未来」とは未だ存在しないものです。
しかし、だからといって「現在」が存在するという訳ではありません。
もし現在が常に存在し、過去へと移りゆかないなら、それは「永遠」であり、時間ではありません。
現在は過去へ移りゆくことそのものにおいて現在なのであり、いわば現在の存在理由(本質)とは、“存在しなくなること”なのです。
「存在しない(であろう)」という形で「存在する」という不思議なものが「現在」という時間であり、すなわち時間という存在は、存在しなくなることにおいて、その存在を保証されているということです。
私たちは未来や過去を思う時、「長い時間」や「短い時間」などと、時間を幅の尺度によって述べます。
しかし、過去はもはや存在せず(在らず)、未来はいまだ存在しない(在らぬ)ものなので、時間として「長く在る」ことも「短く在る」こともできません。
時間の長さは現在に接続する幅(“間”のようなもの)としてのみ考えることが可能なものであり、強いて言うなら、過去の時間の長さとは「あの現在の時間は長く在った」、未来の時間の長さとは「その現在の時間は長く在るであろう」となります。
例えば、大学受験の日にそれまでの浪人生活を思う「長い一年」の場合、飛行機雲のように長い尾を引き現在に直結する、生きた時間の長さの尺度として存在しています。
しかし、定年退職した日にアルバムをめくりつつ思う浪人時代の「長い一年は」、ただ、当時の状況(昔の現在)へ戻ってそれを思考によって思い返すことによって成立する間接的、抽象的なものです。
時間の長さは現在においてのみ成り立つものであり、過去や未来の時間の長さは、間接的に現在の時間を指し示している記号や概念のようなものでしかありません。
現在はその存在理由(本質)として、そもそも幅(間)を持つことができません。
未来から過去へ瞬時に移り変転する点が現在なのであり、そこにほんの少しの間隙も許されません。
もしそこに間があれば、それは未来と過去に分かつことが可能であり、無限に分割可能になってしまいます。
もうこれ以上分割できない限界点にあるものが「現在」であり、ここにおいてはいかなる長さ(幅)もその存在を許されません。
と、いうことは、未来にも過去にも現在にも、時間の長さなど存在しないことになります。
うたいはじめる前には、私の期待はその歌の全体にむかっています。
ところがうたいはじめると、期待からもぎとって過去にひきわたした部分には、記憶がむかいます。
そこで私の精神活動の生きた力は、二つの方向に分散します。
一つは記憶の方向であり、それはすでにうたい終えた部分のためです。
一つは期待の方向であり、それはこれからうたおうとする部分のためです。
しかも私の直視はいまここに現在あり、それをとおって、未来であったものは移されて過去となってゆくのです。
このようなはたらきが実現されてゆくにつれて、期待はますます短縮され、記憶が長くなってゆき、ついに期待の全部が尽きはてますが、そのときその作用は完全に終わって記憶へと移るのです。
そして歌全体において行なわれるのと同じことが、歌の個々の部分においても行なわれ、その個々の音節においても行なわれます。
同じことが、その歌をおそらくその小部分としてふくむもっと長いはたらきにおいても行なわれ、また同じことが、人間のすべてのはたらきをその部分としてふくむ人間の全生涯においても行なわれ、またその同じことが、人々のすべての生涯をそのうちにふくむ人の子らの全世紀においても行なわれるのです。
(山田晶訳 アウグスティヌス『告白』中央公論新社)
第一の音節は耳を打って過ぎ去っており、すでにどこにもないのであるから。
いかなる話しぶりも、歌唱のいかなる甘美さも、はたまたわれわれの行動におけるいかなる体の動きも、過ぎ去り、消滅する。
また過ぎ去った身体の動きを霊[精神]が記憶にとどめ、次の動きを前の動きに行為において連続させるのでなければ、一歩も前には進まない。
ところでこの動きの記憶が保たれるには、模像[心象]としてその動きが自らの内に自らによって造り出されたのでなければならない。
また未来の動きそのものの模像[心象]がわれわれの行為の行く手に先行しているのである。
霊[精神]が思考において前もって没頭し、すべての可視的な仕事の類似物を自らのうちに先ず見て、何らかの仕方で手はずを整えてからでなければ、われわれは身体を介して何を行うであろうか。
(片柳栄一訳『アウグスティヌス著作集17』教文館、[]内は当サイト管理人による補足)
前半は、愛人と子どもをつくった話、
マニ教からキリスト教に改宗した話がメイン
後半は、なぜか一転して
「記憶論」、「時間論」の
哲学談義になる
なかなか俺の脳が追いつきなさそーな
ワールドいってんなあ〜
ローラーは悟りスレで
ガンバルンバ〜
麦とほぼ同じ時間帯にレス 😄
( 354-430 )の
( a ) Si fallor, sum. ( If I err, I am. )
《われあやまつならば(あざむかれるならば) われあり。》
(アウグスティヌス:『三位一体論』10・10 c.399-421)
なる命題の二番煎じです。
1-1. そして デカルトのほうでは ただ《〈考えるわたし〉がいる》と言
っているにすぎません。
☆ この事実〔の真実であること〕は しっかりと認識しなければならないと思
いますが どうでしょう。
2-1.
( a-1 ) もしわたしがあやまちを侵したと気づいたときには 考えや振る
舞いについて間違う行為とそれに気づき正す行為とがあると知られ こ
のふたつの――時間的な隔たりのある――コトをとおして わたしはそ
のどちらについても わたし〔が行為主体〕であることを確認します。
《わたし》というもの(こと)の自己同一性(アイデンティティ)です。
――この自己・このわたしがあると知られます。
2-2.
( a-2 ) わたしはもし誰かにあざむかれたとしますと そうだとしてもそ
の欺かれたというコトは わたしが存在していなければ成され得ないこ
とです。
犬や猫も存在しているとすればそう見なされると思うのですが つまり
もしそれらを人間がだましたとして ひとつに 存在しているとする限
りで だからだまし得たとなるでしょうし もし存在などしていないと
見るなら そのダマシなどは あって無きがごとしとなるでしょう。
そのようにです。
は――わるく言えば パクッたということになります。
3-1. 《あやまちに気づく》ならば なぜそうしたのかなどについてわれは
考えますし あるいは《騙された》とするならば やはりどうしてそうなったの
かと思いをめぐらし考えます。
だから 《思う・考える》という表現に替えたのでしょう。
「アウグスティヌスの二番煎じである」と批判した
昨日はウンコローラーが爆発してたな~😄
疑惑が深まる一方だ😫
女だった説
??
麦が本体説?
😭
寒くはないが
冬季鬱ぽいのか?
なんとなく
ものぐさ気味だな〜
今回の休日は〜
やたら、昼寝と夜寝るのも早い
😄
神の国は近づけり
神の国は永遠
今さっき
近所の
真言宗寺院へ
お参りを
ま、俺の為にやってきて、
大乗仏教の基本を伝授してもらったが、
哀れにも、今や無住で荒れ寺
行く途中で
その観音像大喜び〜
昨日も
寄った
ダニが出てくるまで
寒い期間は礼拝には
行こう、
仏像のパワーが落ちるからだ
😄
鐘を一つ打って
マメにロウソクと線香立てて
真言唱えて
今戻る
神秘主義系統の仏像は
よほどのバケモノクラスの高僧レベルでない限りは、
弱体化するらしい〜
ま、日本的人格仏仏教の世界ではある
😄
たぶん35年前か、
世話になったのは
20年前、
建った時期の勢いあったであろう
僧侶には出会ったことがない、
とにかく、お告げで
そこに立てたらし、
無住になったのは、
10年前くらいなのかもしれん時期がわからん、
曹洞宗寺院の寺男時代あたりかも、
去年までは信者がたまに手入れしてたよーだが
今年は誰も手を入れてなさそうだ
😟
正月旅プランに
2つ寺を増やすか〜
真言宗寺院、
ヤフー記事で
目に飛び込んだ〜
一つはいつもの真言宗寺院で
自慢しにいく
😄
キリスト教哲学にも、教父哲学とスコラ哲学がある
[scholasticism]
スコラとは学校を意味するラテン語であり、スコラ哲学とは中世(4世紀末から15世紀中ごろ)のヨーロッパにおける「学校の哲学」をさす。
この時代において学校とはもっぱらキリスト教会の神学校を意味する。
そこでは、古代ギリシャ哲学から受け継がれた哲学は、キリストに対する信仰との緊張関係のうちに置かれる。
しばしば、スコラ哲学においては信仰こそが第一のものであって、哲学は補助的なものにすぎないと解されてきた。
しかし、長期にわたるスコラ哲学の歴史のなかで、そうした傾向が見られることもあったにせよ、スコラ哲学の全体をこのようにとらえるのは一面的すぎる。
この調停作業にかんする最大の功労者は、おそらくトマス・アクィナス(Thomas Aquinas 1225~74)であろう。
彼は11世紀にアラビア経由でヨーロッパに輸入されたアリストテレス(Aristoteles 前384~前322)の哲学を神学に適用することで、キリスト教神学の体系化を試みた。
スコラ哲学は神学的性格に加えて、その方法論においても特異な性格をもつ。
スコラ哲学では、あらゆる問題が、教会が権威を認めた書物の「注解」や「講読」、肯定と否定に分かれて問題を議論しあう「討論」の形式を通して扱われた。
神の存在、三位一体、奇跡といった神学上の問題だけではなく、論理学、形而上学(存在論・認識論)、自然学までもが書物と討論を通じて探究されたのである。
実験によってではなく、書物と討論によって自然学の真理に到達しようとするこの態度は、のちにベーコン(Francis Bacon 1561~1626)やデカルト(Renes Descartes 1596~1650)の批判を招くこととなった。
スコラ学の「スコラ」とは英語の「School(学校)」と同源語であり、この言葉が入っていることからわかるように、当時の「修道院」において用いられた学問の技法と対照的なものであった。すなわちスコラ学の特徴は問題から理性的に、理づめの答えが導き出されることにあった。
これに対して修道院で伝統的にとられていた学問のスタイルは古典の権威をとおして学ぶだけであり、研究者の理論的思考というものは必要とされていなかった点に違いがある。
「真の宗教とは真の哲学であり、その逆もまた真である」ということがスコラ学の基本的命題だと言われることもある。
哲学的な宗教だ
朝から
脳回転はやいな〜
😄
コピペですがな😅
まだ、頭がボーッとしている
温浴効果がまだ続いている😄
探求しよーとする
意欲が
ほんと、俺的には
一番謎のフロンティアであり
ま、なかなか踏み切れないゾーン
ま、休日、日本人格仏仏教に夢中だったせいもあるが〜
😄
仏像すうはい
仏像崇拝礼拝の
仏教世界観の
特殊性について、
東寺の立体曼荼羅仏像は
あれは
悟りが狙いだからな
それとは違う意味を付与された
大乗仏教仏像、
それは生きてい間の福と
死後の往生みたいな
役割が宗派無関係にあるんやろな
中国や南アジアのテーラーワーダの
仏像の意味は
よーわからんけど
個人的に、当方にとっては、倶舎論と唯識論こそが仏教
教父哲学とスコラ哲学こそがキリスト教😅
知的であるより、霊的であるべきだ😅
スコラ哲学だ
ここがややこしいとこなのだが😅
聖ウンコ師のように、自分を知的なキャラに見せ掛けたくて無理な背伸びをする人はたまにいるが
当方のように、心から哲学が好きな人は例外といえる
霊的な感性が鈍る傾向にある
あれほど教学を猛烈にやってるにもかかわらず、極めて霊的だ
分析的に、空を了解するのだ
「空性の比量了解」といったところか
これが、「空性の現量了解」だ
析空観のカタマリだ(笑)
これほど、析空観にひかれるのも
もともと、体空観があるからなんだよな~
興味を持たないのでは
体験を言語化する
理論体系に当て嵌めるってことかな
幼少の頃から、自分の世界観と、
世間の常識人の世界観が
あまりにも違いすぎる
そこから探求が始まる
そしたら勉強すればするほど
まあそうですねって感想しかでなくない?
新しいものが得られない
俺はすげえページ数の聖典読んで
肯定はされたものの
得るものがなくてちょっとがっかりした
もう本読む前から何が書いてあるか
想像できて読む気にならない
仏教系はその点術語の勉強になるからまだいい
西洋哲学の観念論や唯心論は、論理的な裏づけを与える
> そしたら勉強すればするほど
> まあそうですねって感想しかでなくない?
「やはり、そうだったのか」という感想
😟
> 新しいものが得られない
さすがに、そんなことはない😅
大哲学者、古代の聖賢
考えることの深さが半端ではないな
あっという間に、もう午後だ
脳シンプル化傾向〜
😫
ムイムイスレで
相変わらず言語化に
こだわっている〜
😫
またな〜
元気がでるのは
金曜日夜だが
土曜日ワクチン打つので
ダウンだな
😄
元気だろう
😄
いや〜俺の読んだ聖典は
聖者が神に(誰か忘れた)
聖者がブラフマー神に説いた
話を引用して説く
内容は体験話の各々のエピソード
得るものはなかった
もっと哲学的な術語や理論体系の
本を読むべきだった
> 今日は体調不良で休みにしたのだが
自宅警備員にも休みは必要だろうな☺️
イタリアの神学者、哲学者 (1225?-1274)
トマス・アクィナス(羅:Thomas Aquinas、1225年頃 -1274年3月7日)は、中世ヨーロッパ、イタリアの神学者、哲学者。シチリア王国出身。ドミニコ会士。『神学大全』で知られるスコラ学の代表的神学者である。
カトリック教会と聖公会では聖人、カトリック教会の教会博士33人のうち1人。イタリア語ではトンマーゾ・ダクイーノ(Tommaso d'Aquino) とも表記される。
トマスは非常に観念的な価値観を持つ人物であり、同時代の人と同じように聖なるものと悪なるものをはっきりと区別するものの見方をしていた。あるとき、自然科学に興味があったアルベルトゥスがトマスに自動機械なるものを示すと、トマスは悪魔的であるとしてこれを批判した。
聖トマスは、アリストテレスだ
13世紀に中世的なキリスト教神学が体系化されると共に出現した。
一般的にはトマス・アクィナスの『神学大全』が最もよく知られているが、他にもヘールズのアレクサンデルやアルベルトゥス・マグヌスの手による『神学大全』も存在する。
つまり、聖書の言葉や教父・神学者の言葉が抜書きされていたものをわかりやすくまとめなおしているのである。
さらに中世の司教座聖堂付属学校や大学において盛んにおこなわれた討論や解釈の成果が盛り込まれている。
1274年3月7日にトマスが世を去ると、残された弟子たちが師の構想を引き継いで第三部の残りの部分(秘跡と終末)を完成させた。
なつかしい
昔のことだが、今でも覚えている
極めて明快で、ごまかしや、はぐらかしは一切ない
俺、そんなの読む才能が
余裕に無い
😄
「イエスは貧しかったということは彼にふさわしいことであるか?」
というような質問が掲げられる。
次に質問に対するいくつかの異論が挙げられる。
「これについては、次のようにすすめられる。アリストテレスは中庸を重んじ、金持ちでも貧乏でもない中庸を選ぶのが最高の生き方であるとしている」
極めてパターン化されている
たぶん華厳関連の現在語訳なら
余裕やろな
天台はギリギリセーフかも、
ほーかいくん論は
ノータッチ
😄
唯識とツォンカパは読むパワーがない
😄
「だが、聖書によれば神は正しいことをされる方であるという。イエスが貧しい生き方をし、イエスが神であるなら、貧しい生き方は正しい生き方であったにちがいない」
最後に、結論が示される
「ゆえに、いわなければならない。中庸に生きることが最高の生き方であるというのは正しい。ただ、その理由は、贅沢に心奪われる、あるいは毎日の暮らしに汲々とすることで人生の目的を見失わないためである。イエスにとって人生の目的は神のことばをより広めることであった。そのためには貧しい暮らしのほうが動きやすかったといえる。」
読み終わる頃には
「これについては、次のようにすすめられる」とか
「ゆえに、いわなければならない」とか
そういう言い回しが刷り込まれる
ツォンカパ大師も難しいんかな?
いや、本当に難しかった
わからんので、上智大学の講義にモグリ聴講生で聞きにいった(笑)
禅やニンマ派の三諦解釈の批判箇所なんかは、
なかなかの激しい脳運動を
要求される
😄
東京在住の特権だな
今や、ネット論文ダウンロードだけは
とりま集めてはいるが
手が伸びない〜
ま、近所の無住の真言宗寺院参拝で
カルチャーショックが先々週からあったので
山伏念仏回路マックス解放だったので
余計にキリスト教神学系統や
正統派仏教から
遠ざかっていた
😄
ツォンカパは
本気で
勝義諦と
世俗諦解釈における
ニンマ派や禅の解釈を
論理的にバトルを仕掛ける
ホント、読むには読めたが、
脳内に記憶が残ってない
空海なら割合バシバシに記憶があるほうなんだけどな〜
😄
すごいな?
ま、正統派といえば正統派かもしれんが
仏教の多数派的世界観ではない、
やはり
マイノリティだ
現在中国禅と韓国禅やベトナム禅だと
曹洞宗ぽくなっているだろうからな
臨済宗系統とはいえ、
曹洞宗ぽくなっている
臨済宗は特殊だ
白隠が奇人変人
何それ?
ラクリムチェンワ
た
ああ、それか
https://www.google.com/url?sa=t&source=web&rct=j&opi=89978449&url=https://www.amazon.co.jp/%25E6%2582%259F%25E3%2582%258A%25E3%2581%25B8%25E3%2581%25AE%25E9%259A%258E%25E6%25A2%25AF%25E2%2580%2595%25E3%2583%2581%25E3%2583%2599%25E3%2583%2583%25E3%2583%2588%25E4%25BB%258F%25E6%2595%2599%25E3%2581%25AE%25E5%258E%259F%25E5%2585%25B8%25E3%2580%258E%25E8%258F%25A9%25E6%258F%2590%25E9%2581%2593%25E6%25AC%25A1%25E7%25AC%25AC%25E8%25AB%2596%25E3%2580%258F-%25E3%2583%2584%25E3%2582%25A9%25E3%2583%25B3%25E3%2582%25AB%25E3%2583%2591/dp/4795288909&ved=2ahUKEwiUu82d6YmDAxXUU94KHYCgBuUQFnoECBQQAQ&usg=AOvVaw2llqCp432EBZ2-muQMzrN2
を
彦根在住時代に
彦根巨大書店で
買った
2006年は
ブックオフ中古本やら
巨大書店の楽園時代やった
😄
唯識ほど
厳しくはないが
記憶に入らない
大変な本だ
内容は
テーラーワーダの修行世界観、
顕教、中論に関する教え世界観
密教の教え世界観の
三階構造の本だ
それだけは
理解して記憶に残っている
😄
横田南嶺管長は人格者です
https://www.youtube.com/watch?v=DJC6j3SP_Mg
俺的には
評価が低い
😄
😫
鈴木大拙は嫌いだ
ローラーとベルゼブブのせいで
余計に
嫌いになった
😫
妙心寺開山、沢庵和尚と
後もう一人の
スリーコンビネーションが
俺の仕事日の
脳内だ
😄
チベットは未開人の国じゃないですか?
お釈迦さまの教えとは全く違う経典に従って
ツォンカパは灌頂なしで無上瑜伽タントラを行っても無意味とし、灌頂をせずに学ばせたラマと弟子は
必ず地獄に堕ちると警告している←こんなこと言う?脅しですよね!
臨済宗なのに、唯識論の話をよくする人ですな
チベットは世界一の仏教国
中観派の教えを学びたければ、チベットのゲルク派
南といっても、いまで言うラツィオ州
ラツィオは、ローマのあるイタリア中部
鎌田大地がいるとこだ
当時の南イタリアは、ヨーロッパ文明の最先端だが
聖トマスはドイツのケルンで学んだ
この頃にはすでに、パリの文化が大きく進歩してたことがわかる
13世紀前半のシチリア王国といえば
かの高名なるシチリア王フェデリーコ
神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世の時代だ
当時の欧州の最先端をゆく知識人
「最初の近代人」、「奇蹟の人」とも言われる
フリードリヒ2世(Friedrich II.,1194年12月26日-1250年12月13日)はホーエンシュタウフェン朝第4代ローマ王(ドイツ王、在位:1196年12月-1198年)、第2代シチリア王フェデリーコ2世(Federico II)(在位:1197年- 1250年)[注 2]、第二次ホーエンシュタウフェン朝初代ローマ王(通算第6代、在位:1212年12月9日 -1220年)、そしてシュタウフェン朝通して第3代にして最後となるローマ教会の皇帝フリデリクス2世(戴冠:1220年11月22日)。
先代皇帝ハインリヒ6世とシチリア女王コスタンツァの子。さらに第6回十字軍でエルサレム王として戴冠(1229年3月18日)。
歴代皇帝と異なりイタリアを本拠とした進歩的な君主で、イタリアの中央集権化とゲルマニア(ドイツ)の分割統治を推し進めた。しかし安定した政体を次代に残せないまま崩御、イタリア並びにゲルマニアは中央政権を欠いた都市国家群及び領邦国家群と化し、帝位とイタリア王位はハインリヒ7世即位まで60年以上も途絶える。(大空位時代)
学問と芸術を好み、時代に先駆けた近代的君主としての振る舞いから、スイスの歴史家ヤーコプ・ブルクハルトはフリードリヒ2世を「早くから事物を完全に客観的に判断し処理することに慣れていた、玉座に位した最初の近代的人間」と評した。
中世で最も進歩的な君主と評価され、同時代に書かれた年代記では「世界の驚異」と称賛された。普段の食事は質素であり飲酒も控えていたが、彼が開いた宴会は豪勢なものであり、ルネサンス時代を先取りしたとも思える宮廷生活を送っていた。フリードリヒの容貌について同時代のヨーロッパの人間は皆称賛していた。またその知性はイスラム教国アイユーブ朝の君主アル=カーミルを魅了した。
一方、「早く生まれすぎた」彼は教皇庁や北イタリアの都市国家と対立し、ローマ教皇から2回の破門を受けた。治世をイタリア統一のために費やしたが、教皇庁と都市国家の抵抗によって悲願を達することなく没した。また、イタリアに重点を置いた彼の施策は帝国に混乱をもたらした(大空位時代)。
フリードリヒの死後、帝国が再び皇帝を得るのはハインリヒ7世が即位する約60年後のことである。
シチリアは欧州の南端にあり、アラビア文明を取り入れる窓口だった
リダン三世が
ローラーの為に
サティに憑依してたな〜
😫
リダン三世は
😫
ヘタウマの境地か
ローラー好き?らしいからな
愉快犯からは
人気が高いな
😄
ローラー
ベルゼブブの支援により
大爆発しそうだ〜
🤢
彼らは恐れることなく聖なる文書を改竄してきた。彼らは古くから信仰の規準を棄てた( 403)。彼
らはキリストを知らなかった。彼らは聖なる文書の言っていることを吟味せず、自分たちの無神論を確立する
ために、どのような三段論法の格が見つけられるかと夢中になって考える。そして、もしだれかが彼らに聖なる文書の章句を示そうもの
なら、それが連言的三段論法か選言的三段論法の形式にしうるかどうかを調べる。 〔一四〕彼らは神の聖なる
文書を棄て、幾何学を研究する( 404)。彼らは地から出て地について語るが、それは上から来られる方(ヨハネ三 31)を
知らないからである。彼らの間ではユークリッドが熱心に学ばれ( 405)、アリストテレスやテオフラストス
( 406)が賞讃される。ガレン( 407)に至っては、おそらく、一部の者によって崇められてさえいる。〔
一五〕彼らはその異端的な見解のために、信仰のない者の術を悪用し、そして神を信じない者の奸計によって聖なる
文書の素朴な信仰を不純にしているのだから(コリント人への第二の手紙二 17参照)、彼らが信仰の近くにさえいない、
などとわざわざ言う必要があろうか。彼らはそのために、恐れることなく、聖なる文書に手を付けそれを訂正した、
などとぬかしている( 408)。〔一六〕わたしが彼らについて虚偽を語っているのではないことは、だれにも分かってもらえ
だれにも分かってもらえるだろう( 409)。なぜならば、彼ら一人ひとりの〔聖なる文書の〕写しを集めて互いに較べてみれば、
そこにははなはだしい相違があるからである。〔一七〕アスクレピアデス( 410)の写しはテオドトスのそれに一致しない。〔
彼らの写しの〕多くは手に入れることができる。それは、彼らの弟子たちが、彼らの一人ひとりによって訂正されたと称するもの、
いや実際は改竄されたもの( 411)を熱心に書き写して世に出しているからである。また、ヘルモフィルス( 412)の写しはこの
者たちのものとは一致しないし、アポロニアデス( 413)の写しはそれ自体全く一致していない。彼の弟子たち( 414)が
最初につくった写しは、後に再び改竄された( 415)写しと比較することができ、そうすればそれらが非常に相違していることが
分かる。 〔一八〕彼らがこの厚かましい罪を知らないはずがない。彼らは、聖なる文書が聖なる霊によって語られたことを信じ
ていないか──もしそうならば、彼らは信仰のない者である──、彼らは自分たちが聖なる霊よりも賢いと考えている──もしそうならば、
彼らは悪霊に憑かれているとしか言いようがない──かのどちらかである。彼らは自分の手で写しを書いたのだから、
この犯罪が彼らのものであることや、また彼らがそのような状態で〔聖なる〕文書を彼らの最初の教師から受け継いだわけではないことを否認できないし、また彼らはそれから転写した写しを出して見せることもできない。〔一九〕彼らの中のある者は、〔
聖なる文書の〕改竄を校訂( 416)しなかったが、律法〔の書〕や預言者〔の書〕を単純に否定し、律法と神をもたぬ教えによって( 417)破綻の底に沈んでいったのである。
キリスト教神学校関連の
クリスマス賛美礼拝の動画
上がりだした〜
二本落とした
福音派系列
聖め派の教団二本
ホント、教会に行かんが
チラ見すると
霊的なクリスマスムードが高まるな〜
😄
これが実際はカトリック、ローマキリスト教について書かれてるのは
ヒエロニュムスが「聖典が各自バラバラ」て言及してたことでもわかるだろう
すごいな?😄
世の中、すっかりクリスマスムードだ😄
いや滅ぶんだが
ミトラの誕生日だからな
日曜日はミトラの曜日だし
https://en.m.wikipedia.org/wiki/Sol_Invictus
ミトラこと「不滅の太陽」の日
こんなもん祝ってる時点で異端なのにな
マジか~😫
明らかに同一だろ
https://note.com/noten21/n/n22ea6cfc5c63
で異端確定だろ
何でそれ以外に見えるんだ?
ミトラの曜日(日本でも蜜曜日)だからそれに当てはめられた
信仰と何の関係もない
ミトラは弥勒でありミトレーヤでありモロ救世主信仰なのよ
そんなのに付き合っても不毛だからそう言う議論にならない
ただの異端だって話よ
ユダヤイスラムは真実
こう言った話をやろうとする人間は宗教の領域からではなく、その外から攻撃を行う
したがって、それに付き合うには宗教の外から行わねばならなくなる
ミトラがゾロアスター
ミトリダテスとか、名前がミトラ
宗教の領域からだろ
ヒエロニュムスが「写本てんでばらばら」て書いてるのは内部の事実だろ
この態度はファクトチェックと同様だが、誰がどう考えてもトランプみたいなプロレスしたいやつだけが有利なのは明らかだ
何の根拠もなく、もしくは根拠があるっぽく言い切ったもん勝ちの世界だから
いちいち、それらのファクトチェックしたら、労力がどちらのほうがかかるか、なんて考えるまでもない
それ以降に本来のキリストから離れたとかいいやがる
初めから異端なのに
ファクトチェックしてみろ
ヒエロニュムス読めよ?
読まんだろうけど
そうなんや、で根拠は?
総合的な判断では?
ゾロアスターで上に上がった神
「私はアホです」言ってるようなもんだぞ
その無意味をプロテスタントは内部で追求しまくってたわけだろ?
全部無意味か?
んでその理解を踏まえると、子供っぽい人間の断定ほど胡散臭いものはない、って経験則が働くだけよの
「どれがパウロ書簡の原型か?」
そんなんも写本自体が初めから
もう宗教生まれた始まりから全部食い違ってるから
プロテスタントの狂信者が「真実を見つけるんだ」てやってたわけだろ
全部無意味ってかl
こういうのなら意味がある
恨みとかないんよな
バートアーマン「書き換えられた福音書」とか知ってるか?
そういう追求は敬虔から来るか?異端的な考えから来るか?どっちよ
キリスト者ってのは聖書や三位一体の神を信じてる人のことなんだから
知らんが、おまいさんから陰謀論好きの匂いがするのは分かる
ヒエロニムスも書いてる事実なんだが、どう思う?
「無視した方が敬虔」とか言い出すか?
「今あるカソリックの聖書は偽物」てとこから追求し出して、キリスト教自身が写本の食い違い指摘したんだろ
真偽認めたくないってだけやん
一冊読めば概要わかるようなもんなのに
かつ、基本信条のような公理もある
もっとマクロなゲシュタルトがあるのよ
だからそれを「聖書は無謬」て信じて矛盾だらけなの見つけ出したキリスト教徒に言えよ
どこに母型父型とか書かれてるんよ
聖書は無謬?
それ、どこの教派?
聖霊が書いたものだが、人の言葉で書かれてるから
正しい解釈がセットじゃないといけないもんやでw
自分で学べば?
おまいは結局、何がしたいんだ?
言ってみろよ
だからはじめから虚偽なんだよl
そうだよな
それを断言したいだけだよな?
もうその断言聞いたから落ち着いて大人しくなれw
キリスト者ってのは自由意志で三位一体の神を信じてるものを指すから
「処女」を「若い女」に書き直させた奴な
旧約引用も、そのまま旧約のコピーだったものが改変引用をそのまま残すようになった
これも追求の側から来てるもんだが
処女の捏造訳のが良かったってことか
なんでおまいはキリスト教をそんなに目の敵にしてるんだ?
大昔にカルト系キリスト教にでもひっかかって酷い目にあったのか?
だから自由意志で真実追求して不幸になるのもありよな
それがバビロンだってのを伝えに来た
もう言ったから気が済んだか?
バビロンであって、滅ぶてことを伝えに来た
7 あなたは言った、「わたしは、とこしえに女王となる」と。そして、あなたはこれらの事を心にとめず、またその終りを思わなかった。
8 楽しみにふけり、安らかにおり、心のうちに「ただわたしだけで、わたしのほかにだれもなく、わたしは寡婦となることはない、また子を失うことはない」と言う者よ、今この事を聞け。
9 これらの二つの事は一日のうちに、またたくまにあなたに臨む。すなわち子を失い、寡婦となる事は/たといあなたが多くの魔術を行い、魔法の大いなる力をもってしても/ことごとくあなたに臨む。
「子と夫を同時に失う」
てそれしかあるまい?
でバビロン、BBL
聖書のラテン語bibl
もうおまいの断言は聞いたから落ち着け(^_^;)
これを認めて貰えば
これで教会史のくだりはキリスト教内部のことについて語ってるのがわかるだろう
>>543
教会史全体が皮肉で書かれていて、初めから「カトリック教会は虚偽」で書かれてるのがゎかるとおもう
そうするとモンタヌス派とかの預言者はどうなる?
こっちか
そんなんじゃ、誰一人説得することはできんで?
本当に伝えたいなら落ち着いて理性的、倫理的に語れるようになったほうがええな
ラテン語イレナイオス異端反駁はアルメニア語版と全く違うし
今あるほとんどの教父文書は「集大成版」みたいな、文章補いながらのもんだって
そうやって自分の言いたいことだけ語らせろ、みたいな態度がおまいにとって良くないのよ
わかるか?
聖書本文じゃなくて教父文書よ
じゃあ「どの教父文書のどの写本型」に合わせるかとか、
これでも全然変わってこないとおかしいな
で、教父文書は解釈書く側
で、こっちもずれまくってる場合よ
おまいはキリスト者じゃないから意味が理解できないだろうが、キリスト教にはキリスト教の内在的論理があるのよ
んで、それはノンクリには関係ない
それについても返答したろ
内在的とかそんなもんありもしないからプロテスタントが本文追求しまくったんだろうが
その姿勢は異端か?敬虔か?
これに答えられるか?
それを追求したのもキリスト教、だぞ
わかってる?
おまいが満足してないだけだ
んで、おまいが満足する時はキリスト教がバビロンと認めてもらう時で、その時はこないから諦めろ
何かやなことでもあったのか?
そしたらどうでも良くなるからw
理性的に答えろよ
おまいは哲学にも何か攻撃性があるよな
なんでだ?
哲学は論理通ってたら好きだが?別に攻撃的か?
論理通ってないと哲学的ではないだろ
「答えました→答えてない」これは
ペテロがローマバビロン言ってるのにか?
人は人、自分は自分
ん?
ペテロが言うバビロン=ローマは共通だろ?
外典見れば明らかで、第四エズラにもバルク黙示にも出てくる
おまいの脳内で意味不明に繋がる事柄には興味ないってこと
私的言語が公共言語と勘違いしてるお子ちゃまはそもそも対話が不可能なの
だからおちつけ
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/ペトロの手紙一
一般常識を「個人の理解」とか理性的と思うか?
はいはい、論点が分からなかったんだな
仕方がない
宗教スレの住民だと仏教スレだ
バビロンである聖書bblが滅びれば、それはイザヤ47の
「伴侶と子供同時に失う」につながるになるのは、読み取れないか?
もう持論は聞いたから落ち着け
救いたい一心だ
カルトの宗教勧誘みたいだなw
写本てんでばらばらなのは、全員が理解してるのか?
じゃあ何で認めてる奴らがそれを言わない?
高い確率で嘘だ
怒るにはそれなりの理由がある
でも、怒ってるから私怨がなんらかあるのだろう
言いがかりだろうけどw
聖人の墓崇拝とかやってたのは知ってるな?
それも偶像なんだよ
元が偶像崇拝なんだからつくろっても同じなんだって
自分の受け入れてる考え、解釈を周知の事実や真理と思い込む
子供っぽさだな
本来やってたろ?
マリア像各地にあるのはなんだ?
実際は批判してる対象の無知が理由なんだけど、その可能性が全く考慮に入れられてない
全能感だ
どこがやねんw
宗教的一般常識の範囲だろが
すごいすごい
話ぐらい聞いてやるぞ?
免罪符がモロ偶像なのにそれもないのか
なかったことになってるってか?
論理的かそれ
何でお前らそれをやってしまうわけ?
偶像崇拝やってました
わかった?
サッカーやったことないやつがサッカーディスってるのと同じやで
関係ないものをディスりたくなるのは病んでるからだ
それ以外に理由はないな
妄想じゃなくて偶像崇拝やってました
わかったかって
来て盛り上がったな〜
プロテとカトリック神学は
アタマが回らんの
皆様に
おまかせする汁〜
😄😄😄😄😄😄😄😄
まともにレスしても意味ないから
求めてるのはディスりたい、だからw
不自然だよなー
こんなにディスりたいのに今までレスしたことないなんてw
んで定義系は教理
ディスりじゃなくて
偶像崇拝やってたって常識だろ
それをわかったか?て
自分の常識が世間の常識だと本気で思ってるのはお子ちゃまなメンタルの証拠だぞ
知らんか?
こう言うのはまともに答えないよな
「はい、わかりました」と
ディスりたいだけのやつに正しい教理の話しても、求めてる答えじゃないって子供じみた反応が生まれるだけよ
お前は部分も取り出せるのか?
どこのこと言ってるのかもわかってるのか?
クレーマーあるあるだw
コロナワクチンダウンだ〜
ま、キリスト教神学研究でも〜
ま、熱にうなされて
無理だぽ
😄
じゃあテルトゥリアヌスのどこの箇所言ってるか
ヒエロニムスはどこの箇所を持って「写本の食い違い」に言及するか
答えられるよな?
三発目で俺は辞めたわ
オモロー
😫
お得意の写メアップしとけ
暇だったら読んでやろうw
鹿かリダンだろ
そんな程度かよキリスト教
エホバとかならもっと知ってるかな
それがどこに書かれてるかも知らないのに知ったかってのがもっとひどいと思わんか?
ソクラテスはどんな人間批判した?
😫
名に相応しい
レス展開だ
😫
知らないのに「わかってます」な自称知者だろが
脊髄反射で書いてどこに論理あるって?
誇りのみが
唯一の価値
😫
だから、おまいのことなんじゃん?w
劣等感だ
そんな虚偽を追求した先人はどう思う?にも何も答えない
キリスト教の発展ともみないのか
戦闘知性ぶりたい民族としての
ビクトリーのみが
価値だ〜
😫
大人になれよ
俺的には
オブラートに包んで
スターとして?
😫
でおーは他人を思いやれる大人ですな☺️
シカだけや、フルボコリするのは
😄
カムイは
とあるワードの時のみ
割合、
包容力あるねん
😄
「壁」や
絶対お前らとは違う
ゴリ押しだいっ!
😫
😫
ファイトに
期待しよー
😄
隠居は
どーしてるんだろう?
隠居のことを
思い出した
THE生命教
😄
紀元前1世紀には牡牛を屠るミトラス神が地中海世界に現れ、紀元後2世紀までにはミトラ教としてよく知られる密儀宗教となった。
ローマ帝国治下で1世紀より4世紀にかけて興隆したと考えられている。しかし、その起源や実体については不明な部分が多い。
信者組織は7つの位階を持つ(大烏、花嫁、兵士、獅子、ペルシア人、太陽の使者、父)。また、入信には試練をともなう入信式があった。
マニ教は、過去に興隆したものの現在ではほとんど信者はおらず、消滅したとされてきたが、今日でも中華人民共和国の福建省泉州市においてマニ教寺院が現存する。
マニ教は、寛容な諸教混交の立場を表明しており、その宗教形式(ユダヤ・キリスト教の継承、「預言者の印璽」、断食月)は、ローマ帝国やアジア各地への伝道により広範囲に広まった。
マニ教の教団は伝道先でキリスト教や仏教を名のることで巧みに教線を伸ばした。
これについては、マニの生まれ育ったバビロニアのヘレニズム的環境も大きく影響している。
この地では多様な民族・言語・慣習・文化が共存し、他者の思想信条や慣習には極力立ち入らない環境で、そうした折衷主義は格別珍しいことではなかった。
そして、古代オリエントの住民は、各自のアイデンティティを保つため、特定の宗教・慣習・文化に執着する傾向も薄かったと考えられる。
そのほかにグノーシス主義の影響を受けた。ゾロアスター教の影響から善悪二元論を採ったが、享楽的なイラン文化と一線を画す仏教的な禁欲主義が特徴である。
マニ教シノワズリの幻影
3世紀前半、メソポタミア中部に誕生したマニ教。ヨーロッパから中央アジアまで布教した世界宗教であったにもかかわらず、その後跡形もなく消え去ったという。しかし、21世紀になって、中国の福建省にマニ教徒の村があることが報じられた。『マニ教』『古代オリエントの宗教』の著者がその村で見たものとは?
https://gendai.media/articles/-/59948?page=1&imp=0
万教帰一の先駆者だ😄
中世ヨーロッパはキリスト教でほぼ宗教統一されていったが、古代ローマ帝国ではまだまだ
その教義は「反宇宙的二元論」で代表される。
また広義には、ユーラシア大陸に広く流布したマニ教や、イラクのマンダ教、また13世紀に南フランスで興隆したカタリ派も、グノーシスの宗教と見なされる。
この世の真実についての知識・叡智(グノーシス)を獲得して救済を得ようとする思想である。
霊と物質、また善と悪の二元論が、この教えの特徴である。
物質は悪であり、悪を創造した造物主が「真の神」である訳がないので、キリスト教の神は「偽の神」である。
プレーローマから下級のアイオーンが暗闇に落下し、落下の果てに、無知で低級の傲慢な霊を生み出した。この低級霊は、無知であるが故に、自己を「至高の神」だと妄信して、物質のこの世界を創造した。世界(宇宙)には、悪、暗闇、無知が満ち満ち、この宇宙に生み出された人間もまた、悪と物質と闇の世界に生きている。
当時のヘレニズム世界では、どのような宗教も哲学も、この世界が「悪の宇宙」だと主張した考えはなかった。
しかしグノーシス主義は宇宙を悪として否定した。
これを「反宇宙論」と呼び、二元論と合わせて、「反宇宙的二元論」と呼ぶ。
襲来に
期待汁〜
😄
両方とも名無しだとわからない
にしてほしい〜
😄
満ち溢れるネーミングだ
😄
こなかった〜
😫
成仏したよーだ
😄
ヒットレスは
架空禅パーティー
へレリゴー
むろんレリゴーは
無間エントレスそのままで
いこー
の意味
😄
架空パーティー
のもじりは
イケルなあ〜
😄
聖霊信仰やろまんま
キリスト教が誕生してからは、キリスト教が哲学・倫理の世界を支配するようになりました。例えば、313年のミラノ勅令です。かの強大なローマという国において、キリスト教が公認になりました。しかも4世紀末にはキリスト教が国教となる...
キリスト教がどんどん勢力を伸ばしてきます。
しかし、宗教というのはやはりどこか哲学と似ているもので、その考え方について違いが生まれてきました。キリスト教OKになったということは、キリスト教が発展していったということですからね。例えば、ニケーア公会議ではどの宗派が正統なのかという議論があり、アリウス派は異端となりました。さらにはグノーシス主義に代表されるように、様々な信条も登場。「神は存在し得ない、ゆえに私は信じる」などといった言説も生まれ、とにかく争いが始まります。
このように、当時は教義がいろいろと生まれ、キリスト教の中で本当に正しい教義とはなにかが曖昧になってきたという時代でもあったのです。
以上をまとめますと、アウグスティヌスが生きた時代というのは、キリスト教内部において厳格な論理を積み上げた教義というのが存在せず、キリスト教は危うい状態にあったのです。
もちろん、キリスト教側は手をこまねくだけではなく、教父を設置しました。教父とはいわば弁護士みたいなもので、キリスト教がいかに正しい宗教かを証明するための論理を組み立てる職業のことです。
アウグスティヌスは、最大の教父。つまり、キリスト教の論理を組み立てたものとして知られています。
「神って存在するんですか?」
神様が存在することを証明することは本当に難しい課題です。まぁ逆に存在しないことも証明できないわけなのですが...ちなみにこれはグノーシス派という集団が問いかけた問題です。
「存在する。そもそも君たちはなぜ『神』という概念を知っているのだ?本物の神を見たことがないはずなのに、神という超理性的な存在を知っているではないか。それは神という存在を、認識しているということではないのか?」
ん?なんかこの論理どこかで見たことがありませんか?
そう、プラトンのイデア論とほとんど同じロジックです。「本物の善というものをみんなは知らないはずだが、それを普通に会話につかって、それで互いに認識を共有している。ということは、本当はその存在があるということではないのか?」というイデア論のきっかけそのままです。実はアウグスティヌスは、学校での勉強のときに、プラトンのイデア論にふれ、新プラトン主義を打ち立てた人物としても知られています。
かなり重要な考え方なので少し紹介しておきます。この当時は人間は概念を作り出すということを意識していなかったようです。例えば、、だとか善だとか、友情だとか、そういったものは人間が勝手に作り出した概念ではなく、「もともとあったもの」であり、人間がそれを発見するという考え方をしていました。ゆえに、人間が知っている概念というのは存在しているもの、とされたのです。
(そもそも作り出すからゆえに知るのか、知るゆえに存在するのか、どちらが正しいのかはわからないです。でもイデア論は観念という世界観を創りだしてしまったため、後者の立場を取ることになりました)
「おかしいな?神様ってのは完璧なんだろ。なんで悪の性質を持った人間ってのがいるんだ?それは神が完璧な存在じゃないからじゃないのか?」
うむ、鋭い。確かに神が完璧であれば、この世に悪なんて存在するはずがない。なのになんで存在するのだろうか?
この問いに対する答えが「自由意志」なのです。アウグスティヌスはこのように答えます。
「神は人に自由意志を与えてくださった。私たちが善をなすのか、悪をなすのか、それは私たちの意志によってなされるものなのだ。神は自分の意志に基づいて、善をなすことを期待していたのだ」
自分の無力さ、自分の失恋、そういったものを全て自分の運命だと思おうとしたことはありませんか?そう、昔の人のたちはそのように考えていたのです
イデア論に対する批判の一つに、「汚物」は醜いのイデアがあるのか、それでも美しいのイデアがないだけなのか、どちらなのかという批判がありました。これについて、アウグスティヌスはこのように解釈します。
「いやいや。世の中には尺度のイデアがたくさんあるだけなのだ。醜いイデアというのは存在しない。醜いとは単に美しいイデアがないだけなのだ。そしてそのイデアが強くなれば強くなるほど、それはより美しくなる」
つまり、イデアを単に「あるか、ないか」の二択で考えず、濃淡で捉えるようにしたのです。これによって、善悪について以下のように主張することになります。
「この世には悪というものは存在しない。悪とは単に善が欠けているだけの状態なのだ」
もし神が万能なのであれば、この世界には”悪”というのがあってはならないという主張があるのですが、アウグスティヌスのこの説明によって、”悪”とは単に人間の自由意志が善を成し得なかったがために生まれたものだという説明になるのです。
アウグスティヌスは神の万能さを守ることを使命として生き、最後まで守り抜いたのです。
さて、1200年代のキリスト教の大事件といえば、皆さんお分かりでしょうか?
かの十字軍が活躍したのは、まさにこの時代でした。「よくわからんが中東あたりにとんでもない異教徒(イスラム教徒)がいるらしい。やつらを駆逐せねば」ということで、キリスト教が軍を組織して、イスラム教に戦いを挑みます。しかし、いずれの十字軍も失敗し、結局諦めることになりました。
結局、十字軍はキリスト教が崩壊する遠因となっていきます。まず、イスラム教と接触してしまったことで、イスラム教の科学のすごさに驚かされます。加えて、イスラム教が研究していたアリストテレス哲学が入り込んでしまい、いわゆる理性を中心とした真理体系までもがキリスト教圏に入りこんだのです。
もちろん興味本位でイスラム教だとかアリストテレス哲学を勉強する人が出てくるわけです。すると、「あれ?キリスト教の言っていることはおかしくないか?矛盾していないか?」と、余計な知識を得てしまったがゆえに、キリスト教が批判されるようになります。
アウグスティヌスはキリスト教の内部を統一することに熱心でしたが、今度はキリスト教外部と戦う必要が出てきた。そして立ち上がったのが、トマス・アクィナスなのです。
あれ?でも前提の確認のところでは、哲学は神学と矛盾しかねないという話じゃなかったっけ?
そう思った読者もいらっしゃるでしょう。それが、アヴェロエスはとんでもないことを言い出したのです。
「世の中には真理が2つあるのだ。世界の解釈を理性で行えば1つの真理が生まれるし、信仰で行えばまた別の真理が生まれる」
正直言って元も子もない説明です。これは二重真理説といいます。哲学と神学は矛盾するが、それは関係ないと一点張り。少し説得力に欠けますね。でもこうでもしないとキリスト教はアリストテレス哲学から守ることができなかったのですから、仕方がなかったのかもしれません。
けれどもキリスト教としてはこれはあまり受け入れたくない。なぜなら、キリスト教と哲学が同レベルということになりますからね。あれ?神って唯一の存在じゃないの?と誰かさんからツッコミを受けそうです。
ポイントは、神学の根本は信仰であり、哲学の根本は理性であるということです。そしてどちらの学問も、それらを使って世の中を説明することを使命としていることです。
ということは!
信仰と理性、どちらの方がたくさんのことを説明できるのか?それについて競ってもらい、最終的に信仰のほうがたくさんのことを説明できると証明してしまえば良いというわけです。彼はそうした証明を『神学大全』にまとめあげたのです。
「理性で説明していることは、すでに信仰でも説明できているよ!」
なんとまぁずるいです。アリストテレス哲学の中心的な思想といえば、形相と質料でした。世の中の全ては質料という材料と、それを使って構造を組み立てる形相によって成り立つと言われています。そして霊魂は形相であり、質料を動かすものとして説明していました。
トマス・アクィナスはこう言い出します。
「そうそう!キリスト教もそういうこと言おうとしてたんだよきっと!ほら、聖書のここに書いてあることからそういうこと言えそうじゃない?」
ずるい。でも信仰ってそういう性質を持つのです。あくまで聖書からso whatを考えるのが神学なのですから、理性が生み出した思想について、「聖書からそのような思想が生まれる」と後付けで解釈してしまえば矛盾しないということになるのです。
詳細は省きますが、トマス・アクィナスは神だとか天使だとかも、そうした全てを形相と質料で説明してしまうのです。つまり、「アリストテレス哲学は聖書から導ける」という論理体系を作り上げてしまったのです。
「理性で説明できるないことも信仰で説明できる」
アリストテレス哲学の中に、全ての始まりは第一の動因である、という話がありました。トマス・アクィナスがいうには、その始まりこそが”神”であるというのです。そしてさらに、その神を認識するためにはそれが「ある」と信じる必要があるというのです。
どういうことか?
ここで誕生するのが、時間論なのです。これもまた巧妙な論理で、トマス・アクィナス本当すごいなと思います。
「この世は時間が流れているわけですよね?ということは、誰かが時間を動かさないと始まらない。じゃあ誰が始めるのか?それが神である」
「神には時間が関係ない。なぜなら、時間を始めるのが神なのだから、神より前の原因はありえない。ということは、神とは無限の存在なはずだ」
神は無限であり、世界は有限の存在だといいます。そして締めくくりは、
「神そのものについて、私たちが認識することはできない。なぜなら、神とは無限の存在だから。私たちが神をイメージしたとき、そこに”動作”などの時間が流れているのであれば、それは神が有限の存在となり、矛盾となる。ゆえに、私たちは神そのものについては認識できない。認識するためには、『ある』と信じなければならない」
理性は世界のはじまりを論証することができないというのです。そりゃそうですよね、理性そのものが時間に拘束されているのですから。理性ができることは、はじまりがあるということ。けれども、そのはじまりそのものについては、信仰がなければわからない、というのがトマス・アクィナスの主張だったのです。
彼はついには「哲学は神学の侍女」と表現しました。
さらにいえば科学の限界も、トマス・アクィナスが指摘していたということができるでしょう。不可能性原理や不確定性原理といった、人間には予測のできない領域があることを明らかにする原理が編み出されたこともあったり、宇宙の外側については時間も空間も存在しないことから、観測不可能と言われていることも。
理性は絶対ではない。この話は、今にもつながることなのです。
哲学・宗教の専門家ではない
> まずトマス・アクィナスの論敵を紹介しましょう。アヴェロエスです。アヴェロエスとは、もともとキリスト教信者なのですが、アリストテレス哲学に触れるとそれをキリスト教に導入してしまうというとんでもないことをしでかした人です。
アヴェロエスはイスラム教徒だよ(笑)
それを言うなら「アヴェロエス」ではなく、「アヴェロエス主義者」だ
> そう思った読者もいらっしゃるでしょう。それが、アヴェロエスはとんでもないことを言い出したのです。
>
> 「世の中には真理が2つあるのだ。世界の解釈を理性で行えば1つの真理が生まれるし、信仰で行えばまた別の真理が生まれる」
>
> 正直言って元も子もない説明です。これは二重真理説といいます。哲学と神学は矛盾するが、それは関係ないと一点張り。少し説得力に欠けますね。でもこうでもしないとキリスト教はアリストテレス哲学から守ることができなかったのですから、仕方がなかったのかもしれません。
これは、「アヴェロエス」というのを
「アヴェロエス主義者」と読み替えれば、
その通り
聖トマスの時代は、キリスト教徒でありながら
アヴェロエスの影響を強く受けた連中が
パリ大学を中心に台頭してきた
彼らこそ、聖トマスの論敵だった
アリストテレスは現実主義者
科学的で分類的な思考を得意とする
イスラム教圏でも、キリスト教圏でも
知識人の多くは、不合理な宗教より
アリストテレス哲学にひかれた
アリストテレス哲学は、知識人のための宗教だ
お互いに強敵であり、宿命のライバル
「哲学と宗教は、それぞれ別の真理なのだ」
という、「二重真理説」が台頭した
形を変えた、プラトンとアリストテレスの対立だ
いつになるやろ
トマス研究する気に
俺がなるのは
😫
架空仏教パーティー魚雷を
連射するブームで
俺の脳内は支配されそーだ
😫
こういう教えを民衆に弘めることも重要だ
民衆の意識レベルを大幅に引き上げることになる
唯識論とか倶舎論を好む人は、昔の世の中には確実にいた
宗教界を統一するためには、そういう人たちのニーズにも応えなければならない
ギリシャ哲学も知識人の間で流行した
昔も今も、知識人は理屈っぽくて、うるさい連中だ
イスラム教が爆発的に広がる中、
彼らは盛んにツッコミを入れてきた
「コーランを信じない者は地獄に堕ちるというが、
マホメットが登場する以前の人類は全員、
地獄に堕ちたのか?」
「コーランのある章では、『アッラーが天地創造
する以前には、何も無かった』とある。だが、
別のある章では、『天地創造の以前は、ただ
アッラーのみが玉座にいた』とある。
何も無かったのか、玉座はあったのか。
どっちが本当なのだ?」
てな具合に、まだイスラム教の権威がそれほど
確立していなかった初期、ギリシャ哲学マニア
たちが盛んにツッコミを入れてきた
好むと好まざるにかかわらず、イスラム教は
彼らと論争するハメに追い込まれた
というのも、「形而上学」と並ぶアリストテレスの
代表作といえば、「動物誌」
現代に至るまでの生物の分類を確立した、生物学の金字塔だ
理系から文系まで何でもこなす、「万学の祖」と
言われたアリストテレスだけど
最も得意な分野は、なんといっても生物学だった
アラビアやペルシャの知識人は、医者が多かった
知的階級は、医者だった
医者は当然、生物学に興味がある
アリストテレスが人気になるのは当然だった
イスラム教は、すでに民衆のハートをガッチリとワシづかみにしていたが
知識階層は、微妙にマホメットをバカにしてるとこがあった
イスラム教にとっては、深刻な危機を意味した
(続く)
神の国は永遠
ま、イスラム教にしろ
キリスト教にしろ
初期は共同体の幸せ我先行したんやろな、
後に国家システムとして、
貧民への布施の熱心さは
教団としては
イスラム教に勝った、
ハマスが選挙で
一度勝てて
権力を握れたのは貧民への
支援のイスラム教共同体の伝統があった
だが、
ハマスは今や独裁組織、選挙はしないで
パレスチナの民衆には嫌われている
😒
落とすのが多くなってきた
😄
きよめ派と
ペンテコステ派を
落とす
😄
落とした動画
https://m.youtube.com/watch?v=SuioyS6bGz4
メソジストの分派が
きよめ派
ホーリネス派近辺
😄
日蓮宗関連と
光の
雰囲気は似てる
😄
ホーリネス派のほうがハマり度合いが高い
😄
ムイムイスレで
ひろき〜になりすまして
ムイムイを攻撃している感じはする
😞
デオーという人に
私も憎まれて口撃されています、ずっと!
闇は闇を追い出すことはできません
それができるのは光だけです
憎しみは憎しみを追い出すことはできません
それができるのは愛だけです
境界例肌かな?
😄
ずっと口撃されてるのか~😫
神の国は永遠
カオリンは
境界例的吹聴リアクションだと思われる
俺的には
カオリンは
スルーする相手だな
😄
長期休暇に
なる〜
木曜日朝までだ〜
😄
キリスト教は
本質とか永遠とか、真理が
好きな土壌我近いのかもしれん、
仏教に西欧哲学だと
ローラー様のよーな
不気味な
ものになる
そこが、
ローラー、ふざけんな、
だ
😫
仕事は
仕事ミス4回〜
大事ではないが
時間ロスリカバリーで
ヘタった
😄
今朝は
山伏念仏リアル路線でも
メンタルコントロール可能なくらいに
は
できる、
キリスト教へのテイクオフは未定だ
😄
へえ、しばらく休みなんだ
いいねえ😄
ローラーは、西洋哲学を少しカジッちゃったんだな?😫
コロナワクチン休暇
今日の副反応が〜
😫
キリスト教研究する〜〜
😄
仕事疲れが
抜けた
😄
KAN
Buck Tik
谷村新司
もんたアンドブラザーズ
案外コロナ死だったりしてな〜
😟
ダメ押しやからな
😟
カラオケ行ってねえな〜
カラオケへ行くと
ジョンレノンバージョンの
スタンドバイミーでも
歌うかもな〜
まーまーええ声出せる
レノン風の
レノンと誕生日同じだ
😄
後継者らしい
死に様だったよーだな
りゅうほうくんは
😒
認知症で
オモテに
出さなかったんやろな
ぽい気がする〜
脳梗塞半身不随ならば
文章メッセージぐらいは
出してぢろうからな
あの
ローラー並みの哲学肌ならば
😫
カム・トゥギャザー
とか
歌うのが好きだった〜
声絶対に不可能なのは
U2
😫
あれは
無理だ
あんな声色無理ぽ
😫
下手くそ気味な
サミー・ヘイガーとか歌えたら
ご機嫌なのだが〜
無理だ、
あれも
😫
無理やろ〜
高音域で下手なりにでるのは
80年代のスティーブペリーの
オープン・アームズで
限界、
女のボーカル無理だ
雰囲気でない、
邦楽でマックスは
壊れかけのRadioが
まで
😄
あれが雰囲気出せる
カーペンターズ
😄
なかなかウマいという自信かある😄
椎名林檎は、むりぽ
😄
試し歌ってみたら、
めちゃんこ、うまく歌えた
😄
別にベラボーに好きというわけではないが
😄
「おっ!?」と思ったが
手も足も出ず演奏中止してた
なぜなら、神とは無限の存在だから。
私たちが神をイメージしたとき、
そこに”動作”などの時間が流れているのであれば、
それは神が有限の存在となり、矛盾となる。
ゆえに、私たちは神そのものについては認識できない。
認識するためには、『ある』と信じなければならない」
ある、というものと
の
聖なる存在せかとのつながり、
それは
日本土着仏教の
山伏念仏日蓮も
それに近い
😄
そこにあるのは、究極の根本 「第一動因」だ
〘名〙アリストテレスの唱えた万物の運動の根本原因。動かすもの(原因)と動かされるもの(結果)の関係において、他によって動かされることがなく、他を動かす「不動の第一動者」をいい、これが神であるとする。
※行人(1912‐13)〈夏目漱石〉塵労「二人はそんな事から神とか第一原因(ダイいちゲンイン)とかいふ言葉をよく使ひました」
だいいちげんいん
アリストテレスの規定によると,「存在であるかぎりの存在」の運動と変化の究極原因としての「不被動の第一の動者」,第一形相として自己自身を思惟の対象とする思惟である神をさす。スコラ哲学,特にトマス・アクィナスに受継がれて重要な概念の一つとなった。
第一の不動の動者、第一動者(first mover)、第一原因(first cause)とも。
これこそ、アリストテレスの神であり、聖トマス・アクィナスの神
アリストテレス哲学は動的だ
日本の山伏は霊感で勝負だ~😄
プラトンは数学者で、アリストテレスは生物学者だ
生物の成長のイメージがある
こうしたアリストテレスの宇宙観・神観は、師プラトンの対話篇『ティマイオス』や、その中におけるデミウルゴス概念の影響が顕著であり、大枠は概ねそのまま継承・踏襲している。
(demiourgos製作者の意)プラトンの「ティマイオス篇」で、世界をつくる神。キリスト教の無から有をつくる創造神と違い、永遠不変のイデアを手本とし、イデアをうけ入れる素材を使って、世界をつくりあげていくという限られた創造神。
demiourgos
製作者,職人を意味するギリシア語。
(1)ホメロスでは金属細工師,陶工などの職人や,使者や医者を意味した。ソロン以前のアテネでは貴族および農民以外の自由市民全体をさしたが,その後は特定の身分として現れることはない。エリス地方,アカイア地方などのいくつかのポリスでは高位の役人がこの名で呼ばれている。
(2) 特にプラトンの宇宙生成論 (『ティマイオス』) における神の別称。デミウルゴスは善性を本性とし,すべてのものができるだけ自己自身に似ることを望んで,無秩序,不調和に流動している混合状態 (カオス) に秩序を与え,永遠不変のイデアを範型 (パラディグマ) に,一つの魂 (プシュケー) をもつ「生ける理性的なもの」として世界を形成する。しかし世界はすでに存在する素材から形成され,デミウルゴスは世界がそこにおいて造らるべき「場所 (コーラ) 」によって必然的な限定を受けるのであるから,デミウルゴスの世界形成は「無からの創造」 creatio ex nihiloではなく,彼自身全能の神といわれることはできない。
じつは西洋には、2種類の「神」がいる
宗教の神だ
旧約聖書のヤハウェ、新約聖書の天の父、コーランではアッラー
究極の一神教だ
それは、哲学の神だ
プラトン、アリストテレス、プロティノスのいう
デミウルゴス、不動の動者、究極の一者
万物がそこから流れ出す源であり、
あらゆる事物の第一原因
愛と慈悲の存在でもある
だが、哲学の神は怒ることもなければ、優しくなることもない
抽象的な存在だ
哲学マニアの知識人にとっての神は、
世間の一般人が信仰する神とは
ちょっと違う
哲学者は、じつはギリシャ哲学の神を信仰している
それを、聖書の神に重ね合わせてるんである
でも、「聖書に出てくる、怒り狂って人民を虐殺する神は、民衆向けの方便にすぎない。本当の神は、プラトン、アリストテレス、プロティノスが言ってたような、人格を持たない抽象的な存在だ」と、本音では考えていた
つまり、ギリシャ哲学の神を、聖書の神に重ねていた
聖書の神を「アッラー」、
哲学者の神を「ハック」と呼び、
この2つを明確に区別していた
キリスト教圏では、このような
区別がない
でも、その精神は脈々と受け継がれている
「我は神なり」という言葉
これは、「私はハックである」と言ったのであって
「私はアッラーである」と言ったわけではない
ヨーロッパよりイスラム教圏が
先進国だった
イスラム教圏からアリストテレス哲学や
イスラム神学が導入され、知識人は
すっかり感化されてきた
「ハック」の神を信仰する連中が出てきた
そこに、ローマカトリック教会は信仰の危機を見た
それが、聖トマス・アクィナスだ
「アッラーとハックを統合すること」
それが、聖トマスの使命
このままでは、知識人をキリスト教につなぎとめられない
キリスト教の教義体系に、ギリシャ哲学を取り込む
それが緊急の課題だった
このスレのJBLに対抗意識で
ガンバルンバやってる〜
😫
哲学という神は
栗本慎一郎にも
残ってたな〜
ポランニー兄弟を
引用するけど
その哲学の神、法則性の神から抜け出れなかった
ソシュールは言語記号の恣意性で
法則性を離脱したからな
😄
😄
は
良い視点なんだけど
法則性が残っていた
人間の思惟のシステムに
😄
チラ見レベルやけど〜
😄
人間の過剰性とか
おもろかったからな〜
バタイユの
過剰と蕩尽とか
引用してたな〜
ま、なかなかおもろかったよ
😄
動物にはいらないものを
人間ははいていると
いうテーマの探求やったんやろな〜
面白いし、
とても
夢中になったな20代は
😄
(イザヤ49:6、新共同訳)
セブンスデー・アドベンチスト教会(以下アドベンチスト教会と略す)は、聖書主義に立つキリスト教・プロテスタントの教会です。アドベンチスト教会は、聖書に示されている神の愛による救いを全人類に伝え、その愛を、人々の必要に応えるさまざまな活動を通して実践しようとしています。
また「アドベンチスト」とは、聖書の重要な教えである、キリストの再臨(アドベント)を待望する人々を意味します。
そのほかにも、アドベンチスト教会を特徴づけるいくつかの教えがあります。その教えは多くの点において、プロテスタント諸教会と共通しています。
アドベンチスト教会は、現在209の国々で活動しており、福音宣教活動に加え、発展途上国において支援活動を行っているADRA(アドラ・ジャパン)の働きによっても人々によく知られています。
日本のアドベンチスト教会は、100を超える教会と、1万5千人余の信徒を有し、教会活動とあわせて、教育、医療、食品、出版、放送、福祉など諸事業を通して、人々の心と体の健康に奉仕しています。
セブンズデーあたりは
現在の
共和党支持者、親イスラエル派への流れにも遠からずの時代に生まれた教団だな
😄
食物規定がある
禁酒禁煙禁カフェイン禁肉食
ま、異端、
変な教団の賛美動画落とす趣味が俺にはある😄
それが無色界
ローラーが喜びそうな世界だ
三度寝したから、
さすがに
寝飽きたかも〜
😄
寝まくってるな~😄
😄
ヨーガスートラには睡眠薬の効果があるのか😆
イメージしながら
寝た
😄
安倍強権政治の
習近平バリのマスコミコントロールが破れただけやろ
😄
よほどの強権無敵シフトの力があったんやろな
統一教会も含めて
😫
銃弾に
たおるる〜
😫
超越的なところから来たもの
ま、禅では自己責任自己構築の
ワールドだ
😄
生き物の数だけある〜
密教系統を知っていると
イメージはてきる
サーンキヤヨーガは
😄
真我と自性の
解説難しい〜〜
😫
😫
ナメてた
😫
なかなか〜
だが少しづつアタマワルイなりに、
シヴァナンダヨーガの感覚を引用しながら少しづつ読み通すぞお〜
😄
レスが、ない
😫
パタンジャリによって編纂されたと言われるが、彼についてはっきりしたことは分からない。現在の形に編纂されたのは、4-5世紀頃と考えられている。
アーサナ中心の動的ヨーガの要素はないが、現代の体操的・動的なヨーガの世界でも、基本経典として紹介されることが少なくない。
昼寝してた
ヨーガスートラ、
JBLなら、あっという間に読みこなせそう?
俺は少しづつしか読めない〜
😄
自性が難易度高い
😄
ヨーガスートラは
現在ヨガの
ラージャヨガのルーツにあたるらしい
😄
と密教やシヴァナンダヨーガの感覚から
推測する
😄
外界にある実在する花などの瞑想からすればいいのてす、
らしい〜
😄
花を見て瞑想?
その前に観の行の前行である、観察の力と集中力を身につける観察の行をやるのじゃ。
先ず、目の前に観察の対象となる物を用意するんじゃ。
木でも花でも何でもいい。そしてそれを見て、細かく観察するのじゃ。
最初の内は、心の中で言葉にしてもよい。
例えば花なら花という言葉を使わず、
「今、目の前にそれがある。それは薄い膜のような物が幾つも重なっている。それは赤い色をしている。
それはふちが薄く、真中にいくほど厚くなっている。それの真中には細い糸が幾つも出ている・・・」
などと観察していくのじゃ。
出来るだけ細かく、普段なら見落としてしまうような事も、可能な限り観察するのじゃ。
ちっちゃなとげがあるとか、皺がいくつもあるとか。
次第に慣れてきたら、言葉にせず、目で見るだけで意識に上らせるようにするんじゃ。
そのようにしていると、たまに雑念が沸くこともある。
例えば「この花はバラだ。バラのジャムつておいしいのかな。そろそろごはんのじかんだ」
などといつのまにか、ご飯のことを考えている。これは観察ではない。
観察とは今、ここに、現にある物だけを見ることじゃ。
連想や記憶は雑念なのじゃ。
そのような雑念が沸いてきたら、止の行をしてきたおぬしらは、どうすればいいか判るじゃろう。
数息観をしていた時と同じく、ただスルーするのじゃ。
止めようとか、駄目だとか思わず、ただやり過ごして、観察に戻る。
そうすれば雑念は自然に消えていく。
このような時に止の行は役立つのじゃ。
やはり止と観察は二つで一つなのじゃ。
なんでもいいから
集中と瞑想のレベルを上げろと佐保田氏は
書いている
本章に入る前の解説文で
ま、俺は自然の葉っぱの香りで
正統派仏教修行を極めていくので
そういうのが
ヨーガスートラにあっても不思議ではない
😄
ラジニーシが
あるからな〜
ウマぱーりー並みに
ある程度我流が混入してそ〜
😫
難しい言葉、
統括すればよいというヨーガ和訳語らしい
😄
ラジニーシの新興宗教系統だからな、
ラジニーシは
俺は全く信用してないな〜
😄
究極は
無種子三昧に入り、
心の作用を止滅すること、
そこから
真の智慧である直観智が発現する
😄
😄
その単語で検索すると、ヨーガにヒットするな、
ヨーガ世界では良く使われる専門用語のよーだ
😄
ヨーガスートラにあるらしい、
無数の神霊的たちの
どなたかと縁を結び、
その神霊の助力を得て自分の修行の成功を容易にしようとする行事ヨーガの狙いです、
だと〜
ま、臨済宗禅の無字伝授の前に
その寺の信仰する熊野神の霊夢を見たな
そーいえば
😄
臨済宗禅でありあるか〜?
😄
むろん、高野山臨済宗のがらみの寺だった
😄
ヨーガスートラは
😄
神霊の支援らしい
😄
別名、クリヤーヨーガらしい
😄
グルの指導が絶対に必要であって〜
この世におらん坊主の指導は多いがリアルに生きている臨済宗坊主のデキる坊主に教えてはもらっている
ローラーの架空禅パーティー修行ではなく
😄
この自在神への祈念で
指導を得るのもありうるらしい
😄
自性は
とても難しい
😄
少し読書止める
アタマ良くないから
持続力がない
😄
ただ、未来に関しては私の解釈で仮説です。
過去であればサムスカーラですからその理由を考えれば明らかですが、未来を知ることができる、と言うのは謎が残ります。
私の解釈が正しいのであればそれはそれでいいのですが、それでも、サムヤマの正体が全て明らかになったわけではありません。
特に、「サムヤマとはサマーディとどう違うのか?」と言う点が明らかではありません。サマーディでは知識は来ないと言うのでしょうか? どちらも知識が来るのであれば、何が違うのでしょうか?
3章4番)「集中と瞑想と観照が一つの連続的な行為になったとき、サンヤマが達成される。」これを達成することで、ヨーギは対象とそれが覆い隠しているものとの違いを見分けるようになる。彼はすべての覆いを貫いて、その背後にあるリアリティーに接触するようになる。つまり、二重性についての役立つ知識を達成したのである。
とあります。ここで「覆い隠しているもの」とは、そうとは明言してありませんがおそらくヴェーダで言うところのマーヤのことかなと思われます。
マーヤのヴェールを引き剥がすことは、創造の神秘を解き明かすことである。こうして宇宙の実相を見た者こそまことの一神論者であり、ほかの者はみな、異端の偶像を崇拝しているのである。人は、大自然の二次元的幻影のとりこになっている間は、二面のマーヤの女神に仕えねばならず、唯一のまことの神を知ることはできない。人間の中に働く欺瞞的マーヤをアヴィディアといい、無知(迷い、”つみ”)として現れる。宇宙的幻術(マーヤ)も人間的無知(アビディア)も、知識による分析や確信だけでは決して破られるものではない。それは、ニルビカルパ・サマディという意識状態にはいることによってのみ破ることができるのである。
言い方は違いこそすれ、サムヤマとニルビカルパ・サマディの間に共通点がありそうな気が致します。
「魂の光(アリス・ベイリー 著)」に記載してあるダーラナ(集中)とディアーナ(瞑想)とサマーディ(三昧)の定義はよく聞く定義と基本的に同じで、集中とその集中の継続がディヤーナ(瞑想)であり、心(チッタ)が対象と同一化することがサマーディだと記されています。ですから、基本的には同じなのですが、同書で興味深いのは、サマーディのことを「観照」だと言っている点です。
4章1~3番)ダーラナーとは、心をある特定の対象に集中することである。その対象の知識の不断の流れが、ディヤーナである。それがすべての形をすてて、意味だけを映すようになったとき、それがサマーディである。
同種の定義を見ることが多い気がします。「形を捨てて、意味だけを映す」と言う定義では、サマーディはとても謎の多いものになりますが、「魂の光(アリス・ベイリー 著)」のように「観照」だとすればそれは明らかです。その意味に基づくと、ダーラナ(集中)とディヤーナ(瞑想)は顕在意識(いわゆる”意”)で行うものであり、サマーディは無意識(いわゆる”識”)で行うものだ、と解釈できます。止観と言う観点からすれば、ダーラナとディヤーナで止が達成され、サマーディで観が達成される、とも言えます。
・ダーラナ(集中)とディヤーナ(瞑想)でマインド(顕在意識)を固定する。
・サマーディ(三昧)で魂の領域から観照する。
「魂の光(アリス・ベイリー 著)」にはサムヤマの状態について説明が記されていますが、これらの前提があれば読み取ることができる一方で、なければ読み解くのがかなり難解な文章になっています。細かくは同書にも色々と書かれてありますが、マインド(顕在意識)と魂(の領域と同書は言っている。無意識)の両方で物事を認識することがサムヤマだ、と解釈できます。
であれば、サマーディはサムヤマの一面を取り上げたまでであり、サマーディを達成することができればサムヤマもおそらくは達成できると解釈できます。
少し謎が解けてきました。瞑想中に時々視界に(おそらく太陽の光とは別の)光を時々感じるのは、もしかしたらこの種の光なのかもしれません。まあ、ただの魔境の光かもしれませんので油断は禁物ですけど。
綜制(そうせい)
アシュタンガヨガで、ダラーナ、ディヤーナ、サマディの統合を目指しさす総称。
綜制(そうせい)
ダラーナ(集中)、ディヤーナ(瞑想)、サマディ(三昧)
の統合を目指しさす総称。
真言密教で
普賢菩薩の真言は
おん、さんまや
さとばん
だ
😄
😄
脳が受け付けん
IQの限界値だ
😄
【スコラ三年】 キリスト教の神学理論 2 【教父八年】
https://talk.jp/boards/psy/1702797986
体調も
回復しとるが
脳知性パワーが〜
😭
アリストテレスによれば、存在者には「質料因」と「形相因」があるが、存在者が何でできているかが「質料因」、その実体・本質が「形相因」である。
存在者を動態的に見たとき、潜在的には可能であるものが「可能態」であり、それが生成したものが「現実態」である。
「形相-質料」は主に質量を持つ自然界の存在者に限られるが、「現実態-可能態」は自然界を超越した質量を持たない形相のみの存在者にまで及ぶ。
すべての存在者は可能態から現実態への生成流転の変化のうちにあるが、すべての存在者の究極の原因であり、質料をもたない純粋形相が「神」(不動の動者)と呼ばれる。
旧約聖書の『出エジプト記』第3章第14節で、神は「私は在りて在るものである」との啓示をモーセに与えているからである。
そこで、彼は、アリストテレスの存在に修正を加え、「存在-本質」(esse-essentia)を加えた。
彼によれば、「存在」は「本質」を存在者とするため「現実態」であり、「本質」はそれだけで現実に存在できないため「可能態」である。
「存在」はいかなるときにおいても「現実態」である。神は、自存する「存在そのもの」であり、純粋現実態である。
しかし、有限である人間は無限である神の本質を認識することはできず、理性には限界がある。
もっとも、人間は神から「恩寵の光」と「栄光の光」を与えられることによって知性は成長し神を認識できるようになるが、生きている間は恩寵の光のみ与えられるので、人には信仰・愛・希望の導きが必要になる。
人は死して初めて「栄光の光」を得て神の本質を完全に認識するものであり、真の幸福が得られる。
プレミアムの無料期間を2025/3/31まで延長することになりました。
広告除去や規制緩和など、ヘビーユーザーにとって欠かせない機能を無料でお楽しみいただけます。
是非この機会にプレミアムサービスをお試しください!
▼プレミアムサービスはこちらから
https://talk.jp/premium