【教父三年】 キリスト教の神学理論 【スコラ八年】アーカイブ最終更新 2023/12/17 18:251.◆JBLfMwCXhYRyO7h存分に語ろう2023/11/30 16:04:181000すべて|最新の50件953.◆JBLfMwCXhYEoNBsそんな単語は、日本語にないな~😅2023/12/17 15:40:56954.神も仏も名無しさん14o17ヨーガスートラの究極は無種子三昧に入り、心の作用を止滅すること、そこから真の智慧である直観智が発現する😄2023/12/17 15:44:16955.神も仏も名無しさん14o17佐保田様々やな〜😄2023/12/17 15:44:29956.神も仏も名無しさん14o17>>953その単語で検索すると、ヨーガにヒットするな、ヨーガ世界では良く使われる専門用語のよーだ😄2023/12/17 15:46:08957.神も仏も名無しさん14o17自在神祈念という修行がヨーガスートラにあるらしい、無数の神霊的たちのどなたかと縁を結び、その神霊の助力を得て自分の修行の成功を容易にしようとする行事ヨーガの狙いです、だと〜ま、臨済宗禅の無字伝授の前にその寺の信仰する熊野神の霊夢を見たなそーいえば😄臨済宗禅でありあるか〜?😄むろん、高野山臨済宗のがらみの寺だった😄2023/12/17 15:49:46958.神も仏も名無しさん14o17無数の神々の神霊の支援を得るらしい〜ヨーガスートラは😄2023/12/17 15:50:52959.神も仏も名無しさん14o17行事ヨーガに関する部分における神霊の支援らしい😄2023/12/17 15:51:26960.神も仏も名無しさん14o17行事ヨーガとは別名、クリヤーヨーガらしい😄2023/12/17 15:51:58961.神も仏も名無しさん14o17ヨーガの修行にはグルの指導が絶対に必要であって〜この世におらん坊主の指導は多いがリアルに生きている臨済宗坊主のデキる坊主に教えてはもらっているローラーの架空禅パーティー修行ではなく😄2023/12/17 15:54:30962.神も仏も名無しさん14o17グルがいない場合、この自在神への祈念で指導を得るのもありうるらしい😄2023/12/17 15:56:37963.神も仏も名無しさん14o17ヨーガスートラの自性はとても難しい😄2023/12/17 15:58:03964.神も仏も名無しさん14o17脳が飽きてきたので少し読書止めるアタマ良くないから持続力がない😄2023/12/17 15:59:19965.◆JBLfMwCXhYEoNBs綜制か~2023/12/17 16:14:52966.◆JBLfMwCXhYEoNBsすぐ忘れそうだ~😅2023/12/17 16:15:02968.◆JBLfMwCXhYEoNBsサムヤマ(サンヤマ、綜制)とはヨーガスートラで述べられているもので、ダーラナー(集中)・ディヤーナ(瞑想)・サマーディ(三昧)が同時に起こるとそれはサムヤマ(サンヤマ、綜制)と呼ばれますが、これは謎が多いです。2023/12/17 16:16:08969.◆JBLfMwCXhYEoNBsヨーガスートラによると、サムヤマによって「知識の光」が来る、と言われています。(スワミ・ヴィヴェーカーナンダの「ラージャ・ヨーガ」より)2023/12/17 16:16:23970.◆JBLfMwCXhYEoNBsそれにより、物の知識や人の心、未来や過去生に関する知識を得られると言います。 同書によれば、言葉や意味や知識の上にサムヤマを作ることでそれらの知識が得られると言います。また、カルマの根源であるサムスカーラ(印象)の上にサムヤマを作ることで過去と未来を知ることができると言います。2023/12/17 16:17:55971.◆JBLfMwCXhYEoNBsと言うことは、サムスカーラ(印象)を作り出した原因の過去の出来事を知ることができるのと、未来に関してはタイムマシン的な意味はなくサムスカーラ(印象)がもたらすであろう未来を垣間見ることができるのだ、と解釈できます。ただ、未来に関しては私の解釈で仮説です。2023/12/17 16:18:25972.◆JBLfMwCXhYEoNBs別のヨーガスートラ解説書「インテグラル・ヨーガ (パタンジャリのヨーガ・スートラ) (スワミ・サッチダーナンダ 著)」には未来に関することはスルーされていました。過去であればサムスカーラですからその理由を考えれば明らかですが、未来を知ることができる、と言うのは謎が残ります。私の解釈が正しいのであればそれはそれでいいのですが、それでも、サムヤマの正体が全て明らかになったわけではありません。特に、「サムヤマとはサマーディとどう違うのか?」と言う点が明らかではありません。サマーディでは知識は来ないと言うのでしょうか? どちらも知識が来るのであれば、何が違うのでしょうか?2023/12/17 16:18:49973.◆JBLfMwCXhYEoNBs神智学系の「魂の光(アリス・ベイリー 著)」には幾つかのポイントが書かれてあります。3章4番)「集中と瞑想と観照が一つの連続的な行為になったとき、サンヤマが達成される。」これを達成することで、ヨーギは対象とそれが覆い隠しているものとの違いを見分けるようになる。彼はすべての覆いを貫いて、その背後にあるリアリティーに接触するようになる。つまり、二重性についての役立つ知識を達成したのである。とあります。ここで「覆い隠しているもの」とは、そうとは明言してありませんがおそらくヴェーダで言うところのマーヤのことかなと思われます。2023/12/17 16:19:12974.◆JBLfMwCXhYEoNBs流派によってはマーヤの覆いは特定のサマーディを達成することで取り払われると言われています。例えばヨガナンダの「あるヨギの自叙伝」には以下のように、ニルビカルパ・サマディでマーヤの覆いを破ることができると書かれています。マーヤのヴェールを引き剥がすことは、創造の神秘を解き明かすことである。こうして宇宙の実相を見た者こそまことの一神論者であり、ほかの者はみな、異端の偶像を崇拝しているのである。人は、大自然の二次元的幻影のとりこになっている間は、二面のマーヤの女神に仕えねばならず、唯一のまことの神を知ることはできない。人間の中に働く欺瞞的マーヤをアヴィディアといい、無知(迷い、”つみ”)として現れる。宇宙的幻術(マーヤ)も人間的無知(アビディア)も、知識による分析や確信だけでは決して破られるものではない。それは、ニルビカルパ・サマディという意識状態にはいることによってのみ破ることができるのである。言い方は違いこそすれ、サムヤマとニルビカルパ・サマディの間に共通点がありそうな気が致します。2023/12/17 16:19:35975.◆JBLfMwCXhYEoNBsちなみに、ヴェーダの学派によっては知識のみで悟ることができてサマディは不要と言う流派もあるようですので、上記の記述は参考にこそすれ、それほど鵜呑みにする必要もないとは思います。とは言いましても、各流派の言い分にはそれぞれ真実が見え隠れするのが興味深いところです。「魂の光(アリス・ベイリー 著)」に記載してあるダーラナ(集中)とディアーナ(瞑想)とサマーディ(三昧)の定義はよく聞く定義と基本的に同じで、集中とその集中の継続がディヤーナ(瞑想)であり、心(チッタ)が対象と同一化することがサマーディだと記されています。ですから、基本的には同じなのですが、同書で興味深いのは、サマーディのことを「観照」だと言っている点です。2023/12/17 16:20:08976.◆JBLfMwCXhYEoNBs別の書物、例えばスワミ・ヴィヴェーカーナンダの「ラージャ・ヨーガ」では以下のように説明しています。4章1~3番)ダーラナーとは、心をある特定の対象に集中することである。その対象の知識の不断の流れが、ディヤーナである。それがすべての形をすてて、意味だけを映すようになったとき、それがサマーディである。同種の定義を見ることが多い気がします。「形を捨てて、意味だけを映す」と言う定義では、サマーディはとても謎の多いものになりますが、「魂の光(アリス・ベイリー 著)」のように「観照」だとすればそれは明らかです。その意味に基づくと、ダーラナ(集中)とディヤーナ(瞑想)は顕在意識(いわゆる”意”)で行うものであり、サマーディは無意識(いわゆる”識”)で行うものだ、と解釈できます。止観と言う観点からすれば、ダーラナとディヤーナで止が達成され、サマーディで観が達成される、とも言えます。2023/12/17 16:20:36977.◆JBLfMwCXhYEoNBsここまで来れば、サムヤマが何なのか謎が大分解けてきます。・ダーラナ(集中)とディヤーナ(瞑想)でマインド(顕在意識)を固定する。・サマーディ(三昧)で魂の領域から観照する。「魂の光(アリス・ベイリー 著)」にはサムヤマの状態について説明が記されていますが、これらの前提があれば読み取ることができる一方で、なければ読み解くのがかなり難解な文章になっています。細かくは同書にも色々と書かれてありますが、マインド(顕在意識)と魂(の領域と同書は言っている。無意識)の両方で物事を認識することがサムヤマだ、と解釈できます。であれば、サマーディはサムヤマの一面を取り上げたまでであり、サマーディを達成することができればサムヤマもおそらくは達成できると解釈できます。少し謎が解けてきました。瞑想中に時々視界に(おそらく太陽の光とは別の)光を時々感じるのは、もしかしたらこの種の光なのかもしれません。まあ、ただの魔境の光かもしれませんので油断は禁物ですけど。2023/12/17 16:20:47978.◆JBLfMwCXhYEoNBsう~ん、どういうことだ?2023/12/17 16:21:04979.◆JBLfMwCXhYEoNBsサンヤマ綜制(そうせい)。アシュタンガヨガでダラーナ、ディヤーナ、サマディの統合を目指しさす総称。2023/12/17 16:21:50980.◆JBLfMwCXhYEoNBsサンヤマ綜制(そうせい)アシュタンガヨガで、ダラーナ、ディヤーナ、サマディの統合を目指しさす総称。2023/12/17 16:22:08981.◆JBLfMwCXhYEoNBsダラーナ、ディヤーナ、サマディの統合か2023/12/17 16:22:26982.◆JBLfMwCXhYEoNBsサンヤマ綜制(そうせい)ダラーナ(集中)、ディヤーナ(瞑想)、サマディ(三昧)の統合を目指しさす総称。2023/12/17 16:23:22983.◆JBLfMwCXhYEoNBs少し分かってきたか?2023/12/17 16:23:36984.◆JBLfMwCXhYEoNBs少し分かってきたような?2023/12/17 16:23:48985.神も仏も名無しさん14o17そういえば真言密教で普賢菩薩の真言はおん、さんまやさとばんだ😄2023/12/17 16:38:35986.神も仏も名無しさん14o17佐保田ヨーガスートラ読むパワーがない😄脳が受け付けんIQの限界値だ😄2023/12/17 16:40:19987.◆JBLfMwCXhYEoNBs次スレ【スコラ三年】 キリスト教の神学理論 2 【教父八年】https://talk.jp/boards/psy/17027979862023/12/17 16:52:52988.◆JBLfMwCXhYEoNBs脱線しながら、テキトーに続ける2023/12/17 16:53:05989.◆JBLfMwCXhYEoNBs継続は力なり2023/12/17 16:53:23990.◆JBLfMwCXhYEoNBs9902023/12/17 16:53:36991.神も仏も名無しさん14o17腐る程寝たが体調も回復しとるが脳知性パワーが〜😭2023/12/17 17:01:11992.◆JBLfMwCXhYoB5zV質料と形相2023/12/17 18:20:32993.◆JBLfMwCXhYoB5zVそれが、スコラ哲学の存在論2023/12/17 18:20:42994.◆JBLfMwCXhYoB5zV存在論こそ、スコラ哲学の最大テーマ2023/12/17 18:20:57995.◆JBLfMwCXhYoB5zVトマス・アクィナスは、アリストテレスの存在論を承継しつつも、その上でキリスト教神学と調和し難い部分については、新たな考えを付け加えて彼を乗り越えようとした。2023/12/17 18:22:49996.◆JBLfMwCXhYoB5zV彼は、アリストテレスの「形相-質料」(forma-materia)と「現実態-可能態」の区別を受け入れる。アリストテレスによれば、存在者には「質料因」と「形相因」があるが、存在者が何でできているかが「質料因」、その実体・本質が「形相因」である。存在者を動態的に見たとき、潜在的には可能であるものが「可能態」であり、それが生成したものが「現実態」である。「形相-質料」は主に質量を持つ自然界の存在者に限られるが、「現実態-可能態」は自然界を超越した質量を持たない形相のみの存在者にまで及ぶ。すべての存在者は可能態から現実態への生成流転の変化のうちにあるが、すべての存在者の究極の原因であり、質料をもたない純粋形相が「神」(不動の動者)と呼ばれる。2023/12/17 18:23:31997.◆JBLfMwCXhYoB5zVしかし、トマスにとって、神は、万物の根源であるが、純粋形相ではあり得なかった。旧約聖書の『出エジプト記』第3章第14節で、神は「私は在りて在るものである」との啓示をモーセに与えているからである。そこで、彼は、アリストテレスの存在に修正を加え、「存在-本質」(esse-essentia)を加えた。彼によれば、「存在」は「本質」を存在者とするため「現実態」であり、「本質」はそれだけで現実に存在できないため「可能態」である。「存在」はいかなるときにおいても「現実態」である。神は、自存する「存在そのもの」であり、純粋現実態である。2023/12/17 18:23:56998.◆JBLfMwCXhYoB5zV人間は、理性によって神の存在を認識できる(いわゆる宇宙論的証明)。しかし、有限である人間は無限である神の本質を認識することはできず、理性には限界がある。もっとも、人間は神から「恩寵の光」と「栄光の光」を与えられることによって知性は成長し神を認識できるようになるが、生きている間は恩寵の光のみ与えられるので、人には信仰・愛・希望の導きが必要になる。人は死して初めて「栄光の光」を得て神の本質を完全に認識するものであり、真の幸福が得られる。2023/12/17 18:24:19999.◆JBLfMwCXhYoB5zVトマスは、存在論に基づく神中心主義と、理性と信仰に基づく人間中心主義の統合を図り、後世の存在論に多大な影響を与えることになった。2023/12/17 18:24:521000.◆JBLfMwCXhYoB5zV1,0002023/12/17 18:25:061001.Talk ★???このスレッドはコメントが1000件を超えました。新しいスレッドを立ててください。2023/12/17 18:25:061002.Talk ★???【プレミアムサービス無料期間延長!】プレミアムの無料期間を2025/3/31まで延長することになりました。広告除去や規制緩和など、ヘビーユーザーにとって欠かせない機能を無料でお楽しみいただけます。是非この機会にプレミアムサービスをお試しください!▼プレミアムサービスはこちらからhttps://talk.jp/premium2023/12/17 18:25:06
【埼玉栄高校】涙ぐむ人…高2死亡、窓から身を乗り出して車が横転 深夜グラウンドで 高校が説明会、保護者「ずさんであり得ない」 頭を下げてあいさつし、真面目な生徒が多い学校「いたたまれない」ニュース速報+663943.42024/11/22 03:00:05
究極は
無種子三昧に入り、
心の作用を止滅すること、
そこから
真の智慧である直観智が発現する
😄
😄
その単語で検索すると、ヨーガにヒットするな、
ヨーガ世界では良く使われる専門用語のよーだ
😄
ヨーガスートラにあるらしい、
無数の神霊的たちの
どなたかと縁を結び、
その神霊の助力を得て自分の修行の成功を容易にしようとする行事ヨーガの狙いです、
だと〜
ま、臨済宗禅の無字伝授の前に
その寺の信仰する熊野神の霊夢を見たな
そーいえば
😄
臨済宗禅でありあるか〜?
😄
むろん、高野山臨済宗のがらみの寺だった
😄
ヨーガスートラは
😄
神霊の支援らしい
😄
別名、クリヤーヨーガらしい
😄
グルの指導が絶対に必要であって〜
この世におらん坊主の指導は多いがリアルに生きている臨済宗坊主のデキる坊主に教えてはもらっている
ローラーの架空禅パーティー修行ではなく
😄
この自在神への祈念で
指導を得るのもありうるらしい
😄
自性は
とても難しい
😄
少し読書止める
アタマ良くないから
持続力がない
😄
ただ、未来に関しては私の解釈で仮説です。
過去であればサムスカーラですからその理由を考えれば明らかですが、未来を知ることができる、と言うのは謎が残ります。
私の解釈が正しいのであればそれはそれでいいのですが、それでも、サムヤマの正体が全て明らかになったわけではありません。
特に、「サムヤマとはサマーディとどう違うのか?」と言う点が明らかではありません。サマーディでは知識は来ないと言うのでしょうか? どちらも知識が来るのであれば、何が違うのでしょうか?
3章4番)「集中と瞑想と観照が一つの連続的な行為になったとき、サンヤマが達成される。」これを達成することで、ヨーギは対象とそれが覆い隠しているものとの違いを見分けるようになる。彼はすべての覆いを貫いて、その背後にあるリアリティーに接触するようになる。つまり、二重性についての役立つ知識を達成したのである。
とあります。ここで「覆い隠しているもの」とは、そうとは明言してありませんがおそらくヴェーダで言うところのマーヤのことかなと思われます。
マーヤのヴェールを引き剥がすことは、創造の神秘を解き明かすことである。こうして宇宙の実相を見た者こそまことの一神論者であり、ほかの者はみな、異端の偶像を崇拝しているのである。人は、大自然の二次元的幻影のとりこになっている間は、二面のマーヤの女神に仕えねばならず、唯一のまことの神を知ることはできない。人間の中に働く欺瞞的マーヤをアヴィディアといい、無知(迷い、”つみ”)として現れる。宇宙的幻術(マーヤ)も人間的無知(アビディア)も、知識による分析や確信だけでは決して破られるものではない。それは、ニルビカルパ・サマディという意識状態にはいることによってのみ破ることができるのである。
言い方は違いこそすれ、サムヤマとニルビカルパ・サマディの間に共通点がありそうな気が致します。
「魂の光(アリス・ベイリー 著)」に記載してあるダーラナ(集中)とディアーナ(瞑想)とサマーディ(三昧)の定義はよく聞く定義と基本的に同じで、集中とその集中の継続がディヤーナ(瞑想)であり、心(チッタ)が対象と同一化することがサマーディだと記されています。ですから、基本的には同じなのですが、同書で興味深いのは、サマーディのことを「観照」だと言っている点です。
4章1~3番)ダーラナーとは、心をある特定の対象に集中することである。その対象の知識の不断の流れが、ディヤーナである。それがすべての形をすてて、意味だけを映すようになったとき、それがサマーディである。
同種の定義を見ることが多い気がします。「形を捨てて、意味だけを映す」と言う定義では、サマーディはとても謎の多いものになりますが、「魂の光(アリス・ベイリー 著)」のように「観照」だとすればそれは明らかです。その意味に基づくと、ダーラナ(集中)とディヤーナ(瞑想)は顕在意識(いわゆる”意”)で行うものであり、サマーディは無意識(いわゆる”識”)で行うものだ、と解釈できます。止観と言う観点からすれば、ダーラナとディヤーナで止が達成され、サマーディで観が達成される、とも言えます。
・ダーラナ(集中)とディヤーナ(瞑想)でマインド(顕在意識)を固定する。
・サマーディ(三昧)で魂の領域から観照する。
「魂の光(アリス・ベイリー 著)」にはサムヤマの状態について説明が記されていますが、これらの前提があれば読み取ることができる一方で、なければ読み解くのがかなり難解な文章になっています。細かくは同書にも色々と書かれてありますが、マインド(顕在意識)と魂(の領域と同書は言っている。無意識)の両方で物事を認識することがサムヤマだ、と解釈できます。
であれば、サマーディはサムヤマの一面を取り上げたまでであり、サマーディを達成することができればサムヤマもおそらくは達成できると解釈できます。
少し謎が解けてきました。瞑想中に時々視界に(おそらく太陽の光とは別の)光を時々感じるのは、もしかしたらこの種の光なのかもしれません。まあ、ただの魔境の光かもしれませんので油断は禁物ですけど。
綜制(そうせい)
アシュタンガヨガで、ダラーナ、ディヤーナ、サマディの統合を目指しさす総称。
綜制(そうせい)
ダラーナ(集中)、ディヤーナ(瞑想)、サマディ(三昧)
の統合を目指しさす総称。
真言密教で
普賢菩薩の真言は
おん、さんまや
さとばん
だ
😄
😄
脳が受け付けん
IQの限界値だ
😄
【スコラ三年】 キリスト教の神学理論 2 【教父八年】
https://talk.jp/boards/psy/1702797986
体調も
回復しとるが
脳知性パワーが〜
😭
アリストテレスによれば、存在者には「質料因」と「形相因」があるが、存在者が何でできているかが「質料因」、その実体・本質が「形相因」である。
存在者を動態的に見たとき、潜在的には可能であるものが「可能態」であり、それが生成したものが「現実態」である。
「形相-質料」は主に質量を持つ自然界の存在者に限られるが、「現実態-可能態」は自然界を超越した質量を持たない形相のみの存在者にまで及ぶ。
すべての存在者は可能態から現実態への生成流転の変化のうちにあるが、すべての存在者の究極の原因であり、質料をもたない純粋形相が「神」(不動の動者)と呼ばれる。
旧約聖書の『出エジプト記』第3章第14節で、神は「私は在りて在るものである」との啓示をモーセに与えているからである。
そこで、彼は、アリストテレスの存在に修正を加え、「存在-本質」(esse-essentia)を加えた。
彼によれば、「存在」は「本質」を存在者とするため「現実態」であり、「本質」はそれだけで現実に存在できないため「可能態」である。
「存在」はいかなるときにおいても「現実態」である。神は、自存する「存在そのもの」であり、純粋現実態である。
しかし、有限である人間は無限である神の本質を認識することはできず、理性には限界がある。
もっとも、人間は神から「恩寵の光」と「栄光の光」を与えられることによって知性は成長し神を認識できるようになるが、生きている間は恩寵の光のみ与えられるので、人には信仰・愛・希望の導きが必要になる。
人は死して初めて「栄光の光」を得て神の本質を完全に認識するものであり、真の幸福が得られる。
プレミアムの無料期間を2025/3/31まで延長することになりました。
広告除去や規制緩和など、ヘビーユーザーにとって欠かせない機能を無料でお楽しみいただけます。
是非この機会にプレミアムサービスをお試しください!
▼プレミアムサービスはこちらから
https://talk.jp/premium