禪アーカイブ最終更新 2023/11/19 01:491.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSnX6ZKここに正法及び正法の体得の仕方を記します、お経のように繰り返し読むといいです。2023/11/08 04:24:531000すべて|最新の50件2.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSnX6ZK日常底の単を練ることが大切である。坐禅だけを修行だと思っていたら一生かかっても埒はあかない。常に道であること。例えばラジオでもテレビでも、聞くときは、「只」聞き、「只」見るだけ。入って来るままに聞くだけ。感情も気付きも入れない。自分を虚にしておく。「面白い」と言うたり思ったりするのは、何かに引っかかっている証拠である。何も無しにあると、そのまま入って聞こえて終わる。それが「正聞」である。眼に於いては「正見」と言う。お釈迦さまがちゃんと言って居られることだ。見たり、聞いたりの縁について何か出るうちは、何か引っかかってるいる。つまり自我が有るからだ。2023/11/08 04:27:313.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSnX6ZK疲れている時、ただ休んでじっとしていればよい。辛いとか、何かと云う気持ちが少しでも出ると、その物に何か引っかかっている。辛ければ辛いままであればよい。病もまた道であり、疲れもまた道である。自分の中に、何かが出た時は自我が立っている証拠である。一度は、迷いと迷えない「単」とのはっきりした違いに気づかねば、我見が入ったか入らんかの区別がつかない。この正法の線をはっきりさせるためには、「今」を離してはならない。常に「只」するよう努力していればそれで良い。ポカンとなり夢や幻の馬鹿になるのとは異なる。そこを誤解しないように。善悪や損得の気持ちがあった時は、あと残りがする。その残った上で次の事をしていることが多い。すると過去と今が重なるので大きな邪魔者になる。常に自分を注意していないとその事が分からない。例え無用な心がおこっても直ぐに捨てて相手にせずに、やるべきことを「只」やる。2023/11/08 04:28:344.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSnX6ZK人と話をする時、云わないで良い事は言わない。余分な念を使わない。話は色々な事に渡るものだ。二重、三重の話が出て混線するが、その中心の線だけを取っていれば良い。一つ心で働けば良い。「単」は一つ線であること。一つのもので働けば良い。2023/11/08 04:29:365.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSnX6ZK車を運転する時、心を虚にすること。景色は「只」見て、綺麗だとか何とか感情を挟んではいけない。動いている時は動くに任せて素直に動かされていれば良い。自在に何んにでも「只」応じてさらさら流れている事が分かってくる。それには「今」一点を守らねば、前後裁断している大事な線が手に入らない。綺麗なとか表現しようとした時は、囚われているからだ。一点を守らないからである。今は動いている。それを認めると何かが出ているから、囚われ付いていくことになる。何を見ても聞いても、何もなしの空である時には、そのままさらさらと只々でいける。2023/11/08 04:29:596.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSnX6ZK「今」がはっきりすれば、大自然に目覚める。そうすると只管ならざるものなし。そこまで行くには「今」を守り切らねばならない。そうしないと迷いと悟り、煩悩と菩提の涯際を付ける事ができない。生死の涯際が取れるまで凡情が尽し切れるまで努力しなければならない。凡情に落ちるとは、物に落ちることである。「全て道である」すなわち煩悩即菩提というのは、いたり得た後の話である。それをごっちゃにしてはいけない。そうしないと釈尊の六年間が無意味になる。努力せずして道が成就するはずが無いでは無いか。「単」「只管」「即今」「今」も大自然、つまり普遍の真理の異名である。「解脱」とはクセが落ちて、本当の「真理」に目覚めること。この自覚症状を「悟り」という。何億年も「今」だけである。本当に生きた「今」が大切であり本当の命である。「今」を説くことはできない。聞いて分かった今は「考えた今」であり迷いの今である。世の中は今より他はない。だかこの真理を本当に自覚しなければ「今」に生きている本当の喜びも安心もない。仏道は本当の「今」に生きることである。既にみんな「今」であるから、「今」を徹底注意して離さなければ必ず自覚する。要は努力の有無である。菩提心、菩提心。2023/11/08 04:30:237.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSnX6ZK「禪」は単を示すとある。単を示した行動でなければ、禅ではない。禅は要するに、単、只、ひたすらにあればよい。これが禅の極意である。不純物の無い「今」が禅である。これを「只管」という。本当に単調に「今」行じていくには、自己を忘じた力がないとできない。考えたのでは意識や感情が入っていて、不純物だらけで腐るから駄目である。自己のないことが禅である。生とか死は観念であり言葉である。思いにとらわれると思えば良い。多くは「只管」と言う言葉が、「只管」を邪魔している。「只管」にならねばいけないとか、いう意識が働いている。「只」あること、ただ「単」にある。余念を入れないように常に自分を見守っていなければいけない。「只」であらねば、禅が禅を教えてくれない。禅の趣旨や意味が判っても意味がない。「只管」にあれば、何をやっていても問題ではない。おおかたは思慮分別が先にでる。この癖を破ることが、要するに禅修行である。これが坐禅する眼目である。2023/11/08 04:30:498.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSnX6ZK自己のないことがはっきりすることを「見性」という。しかし、「見性」しただけでは本当の融通がつかない。「悟り」が邪魔をするからだ。「見性」の力で「見性」を破らねばダメだ。自分を抜きにして、その時のみであればよい。何か自分が過去に学んだものとか、得たものとか、聞いているものとかが邪魔をする。ただ今のみの世界である。その場でちらっと出るものを問題にしないことだ。たえず「単」であればよい。私を挟まないで「単」であれ。箸を上げて口に運ぶ時も、いつも「単」であれ。いつもその場その場、「単」であれ。どうあろうとも、その物と離れなくなる。そうやり続けていると、「悟り」の牢屋から救われる。自己の無いことは判っても「単」をしょっちゅう練って行くのは容易ではない。自己も死もとれて本当に楽になっていく。2023/11/08 04:31:179.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSnX6ZK坐禅をする人は自分の癖を取ることを主体にして、常に実践していれば良い。「今」がどんなことであれ、「心」に留めてはならない。それができないとモノにならない。自分がどんな刺激を受けてもさらさらやっていかなければいけない。本当にさらさらと、諸々の縁と対立無く人生する事は難しい。身と心が隔たっている限り不可能である。心は浮遊状態にあり、勝手に精神を展開するからだ。この状態である限り、我々の掛け替えのない道具であるこの身体は.煩悩の根源であり苦しみの種である。隔てが常に縁と対立して、心を惑乱させ葛藤するからだ。2023/11/08 04:31:3910.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSnX6ZK今、忽念と現れる心が問題なのだ。瞬間に忽念として生じ、而もその連続こそが煩悩の根源である。これが隔たりによって起こる事を先ず知ることだ。従って、今、忽念と生ずる心の元を解決する解決策は、隔てを取ることにある。如何にして取るか?問題の焦点は「今・瞬間」に有る。「今」に二つはない。「今」その物になればよい。「今」でない物はない。従って、「今」だけ。素直に「今」在ること。「今」余念無く一心不乱にすること。要するに我を忘れて成り切ることだ。本当に徹すれば、自ずから隔たりが取れて、心身一如の当体となる。否、元よりこの心身本来なり。これを仏という。菩提心が無ければ皆ダメだ。2023/11/08 04:32:0311.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSnX6ZK「只」吐き、「只」吸うだけ。一瞬一瞬を大切にして「只」やる。どんな事も「只」やる。呼吸の一瞬一瞬のみ。呼吸の一瞬が続けられれば、自然にすべてに一瞬一瞬のみにできる。その物と離れないでやれるようになる。こうなれば大したものである。ここまで来ねばいけない。常住不変に一瞬一瞬でなければいけない。それには涯際が付くまで常住不変に練らねばいけない。自ずから成るようになるまで練らなければ、本当の安楽も無いし、生死の不安からも救われない。願心はあっても、やらなければ駄目である。相手や環境である境に用はない。とにかく願心である。自分の好きな事に時を過ごしてはいけない。その場その場のみであること。自分の考えなど入れず、その時のみに成って一心にすこと。初めはどうかしようとするが、それが要らない。その場その場のみに任せておく。その事のみに「心」を置いてする。常に、そう努力していると、自然に「隔て」が取れていく。「只」やれる。何事も淡々とできる。「只」が純熟してくるから自然と全てと一つに成る。本当に熟して徹する。そうしないと大自覚が無い。これが「悟り」の大事であり証明である。ここで本当に納得する。だから悟りを目指して「今」「只」やる。無目的の坐禅は知らん間に妄想坐禅となり、ぽかんとした腑抜け禅になるから注意せよ。どうしても本当の菩提心が無ければ邪禅になり、多少の落ち着きが有っても、損得など邪念は一向に取れない。無明の根本を解決しなければ坐禅修行する意味が無い。菩提心、菩提心。2023/11/08 04:32:2912.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSnX6ZK「応無所住而生其心。」この語はみんな知っている大切なお釈迦様のお言葉である。難しそうに聞こえるこの語も、砕けば「今」「只」のこと。みんなの[本当の心]のこと。これを自ら證するだけである。「隔て」がとれると常住不変がわかる。死んで生きてが無くなり、一杯一杯である。「今」の正体を知ればよい。もともと「今」だから「今」はいらなくなる。これは徹底「今」に成り切って、「今」を忘れなければ体得出来ないし、分からない言葉である。「今」に徹すると、一瞬に今までの妄想が骨身に徹して感じる。つまり妄想そのままが自分となり、妄想とすべきものが無くなる。これを全身の毛穴からも呼吸をしていると云う。丸ごてと云う意味である。体と思う念が無くなる。体の念が有れば体にくくられる。体の念が無ければ自ら気にならなくなる。「応無所住而生其心」も、[心]の様子の事。「今」「只」のこと。これが浄穢不ニ、自他不ニとなって本当に安心する。「隔て」が無くなり心身一如になれば何でもない事よ。これは良いとか悪いとか、すぐ自我を立てるから「隔て」となる。事はここから起こる。[心]の衝突である。これは一つのものを立てて認めるから、二つに見たり、三つに思ったり、念が無限に広がって迷う。これが無明よ。比べる物がないのに、自己を立てて比べるからである。本当に「只」を常に練っていれば良い。そう努力していると自然に相手が気にならなくなる。いやでも「隔て」がとれて一つに成る。これを入我我入という。世の中に処しながら、相手と一つに成って自在に変わっていくのを異類中行と云う。私が無いと、天下は自分の姿に他ならない。この境界が不動心である。不動心は正法以外にない。「今」「只」が正法である。正法は「世界壊せども、この性は壊せず」とお経にある。同時に二つのことは、考えれない。一点のみ集中して、正体のいかなるものかを自覚するのである。一つ事に集中し切らなければ「隔て」はとれない。菩提心の一点張りだ。2023/11/08 04:33:0013.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSnX6ZK「今」「只」に我は無い。我れなければ、即菩提。それを大清淨とも云う。汚がさるるものがなければ、浄くするものもない。「今」は生死を論ずる間はない。本当に「今」が手に入ったら自ずから生死が気に掛からない。生死透脱というのも、砕いて言えば「今」「只」のことである。2023/11/08 04:33:1814.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSnX6ZK悟れないのは只管に成らねばいけないという意識が働いて、只管が只管を邪魔しているからである。途中は仕方がない。それが目標だから。本当に「只」になればよい。只管も只も有ってはならない。菩提心のもとに常に「単」を練ることである。坐禅をする人は、自分の癖を取る事を主体にして、即今底を実践すれば良い。「只」は努力の結果である。ここまで来ると本当に大平和である。生死はただ「単」である。生のまま、死のままである。「今」の様子に過ぎない。この真理を悟るのが坐禅修行の本当の目的である。2023/11/08 04:33:3815.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSnX6ZK一隻眼を具するとは、自己のないことがはっきりすることである。しかしそれだけでは何かが引っかかる。はっきりしていても、引っかかるものがある。まだ本当に取り尽くされていないからだ。おおかたの悟ったというところはこの当たりだ。悟後の修行の大事な所である。決して油断してはならない。自己のないところの確証をにぎってしまうと、大抵はそれをひっ下げてしまう。本当に大悟したものは少ない。簡単に言えば菩提心が弱いからだ。それを捨てて単を練ることが足りないからだ。境涯を得ても、そこが陶治されないといけない。境涯を持っていては駄目である。うたた悟れば、うたた捨てよ。この大法を得ることは容易ではない。菩提心の鈍い者は到底仏祖の誹りを免れぬ。努力しかない。菩提心が仏祖の命、仏法の血肉である。菩提心、菩提心。2023/11/08 04:34:0116.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSnX6ZK・・・・・・ ここ迄がテンプレです。・・・・2023/11/08 04:34:4917.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSnX6ZKおはよう2023/11/08 05:24:0018.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSisAfTわたしは以前に師に電話で今思ってる事を伝えました。師はそれを聞くと、法理としては完璧だ、だがその法理が実際の法との間に挟まっちゃって、直接法に触れられなくでいる。電話を切った後で、わたしは自分の部屋でなんとなく法やら禅を思い巡らしてました。すると、急に法理がごそっと抜け落ちた。あれ?俺の禅は今までなんだったんだ?全てが無意味ではないか、と落胆しました。ちょっと外の空気でも吸いに行くかと庭に出た時、法に直接触れていた。あぁーこれだったのかと実感しました。2023/11/08 05:31:3119.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSisAfTわたしはクリシュナムルティの本を読んでました。なんとなく脳が刺激され活性化されていく。そんなある朝庭に出ると、あれ?風景が自分になってる、思考停止していると実感しました。これが見性です。二週間くらいその感覚が続きましたね。2023/11/08 05:56:5120.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSisAfT彼岸に渡った経験わたしはある禅友と2ちゃんねるでのやり取りで、禅友が念と念の間の虚無に意識をおいてみなと言われました。なんだろ?とりあえずやってみよう。やってみるとですね、なんかそっちに吸い込まれそうになり、なんか吸い込まれそうなんだけどって禅友に言ったら、そっちが本物でこっちが偽物と言う。とりあえず、そっちにら飛び込んじゃえ!ってやったところ、気を失いそうになりめまいがしたんで、ちょっと横になって仮眠しました。起きてみたらちょっと以前と違う。思考以前に自分が居る。思考以前のわたし。なるほどねここが彼岸かと感じました。2023/11/08 06:05:1921.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSHVAmfトラウマが落ちる。わたしには、あるトラウマがありまして、これは、もう一生付きまとうな、辛いなと思ってました。ある禅僧にそれを話しました。なんて言われたと思います?「そこだけ先に大悟したんだな」はぁ?大悟しただと?どうだ羨ましいだろ!って思った瞬間、トラウマがごっそり落ちた。トラウマと同時にいろんな過去が落ちた。ある意味いっぺんに救われた。なんとも禅僧と言う人は凄いですね。2023/11/08 06:14:2422.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSHVAmf今に直接触れる体験わたしは禅寺で坐禅をしてました。坐禅から立ちあがろうと畳に手を付いた。あれ?なんだ今と言う畳に直接触れているではないか。つまりこの時、法を体得した訳です。2023/11/08 06:23:0223.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSHVAmf正念相続坐禅とは念との戦いです。念についてはニ念を継がないとよく言われます。つまり、思考の連鎖をやめる。じゃ一念は出てもいいのか?って言う疑問を持ってました。ある日、坐禅をしていた時、完全に念を無視し続けようと決心しました。ずっと坐禅やってるとですね、スコンって念が出なくなりました。これを師に伝えると、それが正念相続だと言われました。正しい念とは念が出ない事とは、なんとまぁ。2023/11/08 06:32:4624.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSHVAmf無字の公案これは結構かかりましたね、15年くらいかかりましたかね。それでいいですって言われた時は嬉しかったな。2023/11/08 06:36:3225.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSHVAmf【無字の公案】僧が必死になって趙州禅師に犬に仏性はありますか?と聞いた。それはたとえばの解釈として、犬にたとえて自分のような者でも仏性があるでしょうか?と必死に聞いている。仏教理論では、あらゆるものに仏性があることになってます。しかし、趙州禅師は、「無」と答えた。さて、この「無」を見て来いというのが無字の公案です。無字のストーリーは以上の通りですが、実際、ひたすら「ムー!!」とやって行きます。理屈なんかなく、頭のてっぺんからつま先まで「ムー!!」ってなりきって行く作業です。そして無字になりきれれば答えが出ます。とにかく成りきっていくことです。自分のことを見て、うまくいってるとか評価しちゃダメです。雑念が出てもかまいませんから、気がつけばムー!!ってやっていきます。寺では、無字になりきったところを点検して、そこで通すかどうかお師家さんが判断します。とにかく、いまは無字に成りきるようやってください。そして、わかったことを、教えて下さい。2023/11/08 06:43:4926.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSHVAmf坐禅はよく力を抜いて楽にするって指導されたりしますが、これは真剣に命かけになって念と戦った後です。念と戦う前から楽な坐禅をしてるからちっとも良くならないんです。2023/11/08 07:01:0427.神も仏も名無しさんd2lEx>>25ボコボコされたいのか?😄たれ流しがあほらしいくらいにボコられたいのか?😄2023/11/08 07:41:2528.神も仏も名無しさんd2lEx不立文字をたらたら垂れ流すなんてありえからな〜😄2023/11/08 07:46:1729.神も仏も名無しさんd2lExボコボコタイムスイッチ押したな、ほーかいくんスレなら大目みてやるが〜😄2023/11/08 07:47:1530.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSGBWXTやっとナイフ来たんだけど、7万したからな、なんか使うの勿体無いな。2023/11/08 07:47:4031.神も仏も名無しさんd2lExたまには鍛えられたくなったか?😄2023/11/08 07:49:0432.神も仏も名無しさんd2lEx是非分別っ!!2023/11/08 07:50:0233.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSGBWXTサバイバルナイフは刺す用途としては普通作られてない。今回買った特殊部隊ナイフは刺す目的でも作られてる。2023/11/08 07:51:0034.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSGBWXTこんなの売っていいんかな。2023/11/08 07:51:4035.神も仏も名無しさんd2lEx自慢したいへばりついた我が聞かれもしないのにたらたらとたれ流したくなるんだろう?😒2023/11/08 07:53:5836.神も仏も名無しさんd2lExそんなに無字について話したいなら無字してやろう、てんだ😄2023/11/08 07:55:0537.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSYDpI2無字の公案って続きあるの知ってるか?2023/11/08 07:57:0738.神も仏も名無しさんd2lExたれ流したいからまだやるのか?😒2023/11/08 07:57:3939.神も仏も名無しさんd2lEx自慢したい我執を青竜刀で破壊してやるから出してこいや〜😄2023/11/08 08:01:0540.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSYDpI2まぁいいや、ゆっくりして行ってくれ2023/11/08 08:02:1541.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSYDpI2でおーはナイフには興味あるか?ナイフについで語ろうぜ2023/11/08 08:05:2642.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSYDpI2革ジャンでもいいぜ2023/11/08 08:09:2543.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSJhtLZ男ならナイフ、革ジャン、バイクとか好きだよなぁ2023/11/08 08:15:2844.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSJhtLZ無字なんかどうでもいいからナイフについで語ろうぜ2023/11/08 08:16:2745.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSJhtLZておーも俺と同じナイフ買え2023/11/08 08:18:0546.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSJhtLZと言っても俺が持ってるナイフは4万から7万する。いくらまでなら出せる?2023/11/08 08:20:1647.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSJhtLZおい、無視するなよ2023/11/08 08:24:4848.カムイ◆wxnBcJ8ZogOS0RaLP全てが禅ならナイフも禅だよな2023/11/08 08:34:4749.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSM4dBa禅は言葉にだんだん用がなくなります。なので簡素な短文になるね。2023/11/08 09:56:3050.麦◆MUGITANx95DjwfO8w∞ノノハ∞川^〇^ハレカムイたんは能書きはいらないんでしょう黙ってお座りしていなさい2023/11/08 10:31:1551.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSSGn9gでおー何処いった?2023/11/08 10:52:0552.法介◆T3azX0Hk1UdWyxz『荒野の7人』のジェームズ・コバーンの投げナイフがめっちゃカッコ良かった !!2023/11/08 12:40:5553.法介◆T3azX0Hk1UdWyxzhttps://youtu.be/AU-paVv6zTk2023/11/08 12:41:5454.法介◆T3azX0Hk1UdWyxzマックイーンのバイクシーンもめっちゃカッコ良かった !!https://youtu.be/pMdWHR8gk4I2023/11/08 12:45:5855.法介◆T3azX0Hk1UdWyxzドイツの緑広がる平原をマックィーンのようにバイクで爽快に駆け巡るのが夢だった2023/11/08 12:47:4756.法介◆T3azX0Hk1UdWyxzそんな自身の夢を小説の中で描いてみた。大脱出(前編)https://wild-bison.blog.jp/archives/19446012.html大脱出(後編)https://wild-bison.blog.jp/archives/19446700.html2023/11/08 12:50:1057.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSXS8rC>>52投げナイフか、それは持ってない笑2023/11/08 13:35:4258.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSXS8rC>>54草刈正雄の汚れた英雄がカッコよかったなー2023/11/08 13:38:5059.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSADFsE空とは自分がなくて風景だけ、これをひっくり返すと全部自分2023/11/08 18:01:0360.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSADFsE相手を斬らずに相手の迷いを斬る難しいですけどね。大体反発くらうしね。2023/11/08 18:24:1161.カムイ◆wxnBcJ8ZogOS4G1CJでおー遅いな、ナイフについて語り合おうと思ってるのに。2023/11/08 18:49:5062.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSk3ALy輪廻がないとこの世界は成り立たないと教えられました。ただ、輪廻とは今この世界を輪廻し続けます。つまり、あの世とか無いんです。今ここしかありません。2023/11/08 23:23:5463.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSAbR1cおはよう2023/11/09 04:56:3064.カムイ◆wxnBcJ8ZogOS2ojx5何度も言ってますが、今しか無いと言う事実と風景だけでわたしなし、つまり見ている風景がわたしでであると悟りましたね。2023/11/09 08:39:0465.カムイ◆wxnBcJ8ZogOS7x4D2法介さんみたいにガッチガチに法理で固めてしまうと、悟るのは難しいな。仏教学者と同じだ。2023/11/09 11:12:3066.カムイ◆wxnBcJ8ZogOS7x4D2ま、法介さのスレッドに鹿野園が来ないのは救いだね笑2023/11/09 11:15:5367.カムイ◆wxnBcJ8ZogOS7x4D2しかし、夕も相変わらずの馬鹿丸出しやったな。2023/11/09 11:17:4068.閃zA2F9おはようございますカムイさんの悟りの境地を直接言葉で表現しないのは法介さん自身が答えを見つけなければイケない道だからでしょうか?悟りって『元も子もない』…人によっては救いだったり絶望だったりするモノではないですか?二人の会話を見てて歯痒い気持ちになりましたのでレスさせて頂きました2023/11/09 11:19:4969.神も仏も名無しさんapOlhどうするっ!?ムイムイ〜チャンスボールあげてこ〜〜い😄2023/11/09 11:22:0970.神も仏も名無しさんapOlh虎視眈々と狙うという意味わかるう〜〜?いま、こんな感じなオレ😄2023/11/09 11:23:0071.神も仏も名無しさんapOlhかも〜〜んと息を潜めて待つ、ゴルゴ13ライフルで待ち構える〜😄2023/11/09 11:23:4372.カムイ◆wxnBcJ8ZogOS7x4D2>>68もうね、あそこに書き始めてからずっと書いてんだよ、それ系の事をね。それに気づかないのはちょっとなーって所あるよね。2023/11/09 11:23:4473.カムイ◆wxnBcJ8ZogOS7x4D2>>71でおーもナイフ買えよ2023/11/09 11:24:1374.カムイ◆wxnBcJ8ZogOS7x4D2>>68悟りに絶望はないです。2023/11/09 11:25:0875.閃zA2F9>>72カムイさんの境地に至ったら話は噛み合う筈の無いですから趣味の話だけ宜しいかと思いますがカムイさんからしたら仏教に一生懸命な方に対して歯痒い思いでしょうね…その優しさが勿体無いです2023/11/09 11:29:1476.閃zA2F9>>74その境地にない人にとっては…です特に煩悩の多い方や逆に仏教にのめり込む方には…2023/11/09 11:30:5677.カムイ◆wxnBcJ8ZogOS7x4D2>>75俺も持っていき方が悪いかもしれんけど、なんせ指導者じゃないんでね。2023/11/09 11:31:3478.神も仏も名無しさんapOlh静かにチャンスを狙い待つ〜😄2023/11/09 11:32:0179.カムイ◆wxnBcJ8ZogOS7x4D2>>78ナイフ買えよ2023/11/09 11:32:2080.夕hGByVはい、馬鹿丸出しですそれがどうかしました2023/11/09 11:40:3181.閃zA2F9>>77まぁ回り道をしてでも自分で答えを探すのもアリですし無理に悟りに至る必要もないかと思います余計な口出し失礼致しました真摯な対応感謝でした2023/11/09 11:41:0282.カムイ◆wxnBcJ8ZogOS7x4D2>>81他に何か聞きたいことがあれば遠慮なしにどうぞ2023/11/09 11:42:3083.夕hGByV悟っているなら、法華経談義をお願いします2023/11/09 11:45:5084.閃zA2F9>>82では…悟りの内容を知った後で坐禅で確信したのか、坐禅によって悟りに至ったのか、前後関係を教えて頂ければ幸いです2023/11/09 11:47:2385.カムイ◆wxnBcJ8ZogOS29c7n>>84実際に師に言われた事をやります。師には本を読みなさいとは言われません。実践です。2023/11/09 12:06:5586.カムイ◆wxnBcJ8ZogOS29c7nとはいえ、ある程度の大枠の仏教知識は知ってたよ。2023/11/09 12:07:2187.カムイ◆wxnBcJ8ZogOS29c7nこの辺は十牛図がわかりやすいんだけどね。2023/11/09 12:16:5088.閃zA2F9>>85だとすると答えは後者『坐禅によって悟りを…』ですかねそれは凄いですね、、お師さんも…>>86その知識が逆に足枷になったりしませんでしたでしょうか?ノイズ…雑音になりそうな気がしますけど2023/11/09 12:18:3689.カムイ◆wxnBcJ8ZogOS29c7n>>88知識は入れすぎない方がいいです、ザクッとでいい2023/11/09 12:19:4690.カムイ◆wxnBcJ8ZogOS29c7n>>88つまり知識が足枷になります。2023/11/09 12:20:3591.閃zA2F9>>87新しい指標ありがとうございます何分、全くの素人ですので…2023/11/09 12:21:4192.カムイ◆wxnBcJ8ZogOS29c7n>>91要するにテンプレの事だけをするといいです。なかなか出来ないですけどね。2023/11/09 12:25:4093.閃zA2F9>>90人としての道徳心には良いのかと思いますね>>92十牛図、拝見しました10番目必要かな?と思ってしまいました大変有意義なお話を頂きありがとうございます無宗教ではありますが少しずつ歩みを進めて行こうと思います2023/11/09 12:31:1994.カムイ◆wxnBcJ8ZogOS29c7n>>933番が大切です。3番目の見牛がもう悟りなんです。その前の2番目が見跡なんですけど、正しい仏教知識を得たところです。ここで止まる人が多い、法介さんも2番目の見跡です。2023/11/09 12:39:4995.カムイ◆wxnBcJ8ZogOS29c7nこの2番目で仏教知識のみを追いかけると3番目の見牛に行けないんです。つまり悟れない。仏教学者も見跡止まりです。2023/11/09 12:42:0396.夕hGByV結局は法華経と同じさ直にならければ話はできない双方同じだ直のようで直ではない一物を持ってしまった日蓮上人を持ち上げて、批判しているようなものだ2023/11/09 12:42:2097.夕hGByV話を聞けないというのは、直じゃないからだくだらないことをやっているじゃない2023/11/09 12:44:0798.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSj8vkp夕なんか間違った見跡追っかけてるから話になるんね。2023/11/09 12:52:5899.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSj8vkpならんね笑2023/11/09 12:53:20100.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSj8vkp牛でなくて、狐か狸の足跡追っかけてるんだろうよ2023/11/09 12:55:30101.夕k9oW6バカ、俺は遊んでるんだよ2023/11/09 12:57:28102.閃zA2F9>>94だとしてもカムイさんは法介さんを否定してる訳じゃないですよねzenさん同様に歯痒いだけで…私は二人と視点のズレで噛み合わない様子が見ててムズムズしちゃいました互いに繋がった縁、勿体無いなぁと…2023/11/09 12:57:35103.閃zA2F9>>101横からスミマセン…夕さんは『ゆう』さんなのか『た』さん、どちらなんですか?気になって夜も眠れません2023/11/09 13:06:06104.夕k9oW6法華転法華誰の言葉だと思っているんだちなみに、磨くことが仏の稼業もなカムイのスレ何ぞ臭くてみてられんわ2023/11/09 13:06:39105.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSj8vkp>>102そうですね2023/11/09 13:07:08106.夕k9oW6歯がゆいですかムイムイ側見方ですね私はなんともおもってませんよ先を見すぎですあっせてもいいことはありません2023/11/09 13:16:58107.閃zA2F9>>105まぁお互い人間に生まれちゃった面倒臭さを満喫しながら『今』を楽しみましょう2023/11/09 13:17:36108.閃zA2F9>>106多分、逆に先を見ないから先を見過ぎてる方に歯痒い思いを感じるなのだと思います2023/11/09 13:20:08109.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSj8vkp>>107人間しか真理を自覚出来ませんけどね。2023/11/09 13:21:58110.閃zA2F9>>109それを『苦』と感じるのか救いと受け止めるのか…人間は本当に面倒臭いです2023/11/09 13:25:00111.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSAhES9>>110苦とは過去未来から来てます。つまり今だけの時苦は生じないんです。2023/11/09 13:44:49112.閃zA2F9>>111カムイさんが悟り人だからでしょう普通はそんな境地、分かっていても難しいですそれには坐禅が必要なのでは…と思います理屈で押し通せるモノじゃないんでしょうね2023/11/09 13:49:24113.夕k9oW6せんさん、上手いことまとめたなどっちもどっちすべてが仏の計らいよ2023/11/09 13:50:41114.閃zA2F9>>113『ユウ』さんなのか『た』さんなのか教えてくれないと眠れませんよ~2023/11/09 13:52:38115.夕k9oW6ほうかいくんも、むいむいのこと、歯がゆいと思っているぞ2023/11/09 13:55:24116.夕k9oW6夕方のゆうですタヌキはセッタンの故事によってどちらでも構わない2023/11/09 14:00:29117.閃zA2F9>>116ありがとうございますタヌキ感、出してたので『もしかして』ってなってましたこれでグッスリ眠れます2023/11/09 14:03:10118.夕k9oW6ムイムイのは金魚の糞介護老人かよまだ若いンだから自分で始末しなさい2023/11/09 14:09:00119.閃zA2F9>>118金魚のフンの文句は俺に言え私が介護老人です達観者が多く語らないのは『優しさ』です優しさを見逃せないのが金魚でありフンなのです2023/11/09 14:23:14120.夕k9oW6せんさんと言う争うつもりはないあしからず磨けということ磨いてできることもあるが、できないこともある磨くことが仏の稼業磨くそれ以上でもそれ以下でもない一生磨け2023/11/09 14:48:00121.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSd65Sr>>112そうですね、頭でそうぞう想像しても無理です。今しか無いと言う「自覚」が坐禅なりで必要です。2023/11/09 15:10:51122.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSd65Sr>>119夕なんてクズ相手しなくていいですよ。あぼーんするといいでしょう。2023/11/09 15:15:05123.閃zA2F9>>120ハイ、私には争う矛(宗教の知識)を持ち合わせておりません仏教…阿頼耶識というダイヤの原石を磨いて磨いて磨きぬいた先に阿摩羅識というダイヤモンドへ輝かせるのが本筋かと思います悟り…末那識の究極型…平等性智の最極地でしょうか2023/11/09 15:17:37124.閃zA2F9>>121瞑想を徐々に始めたばかりの私にはまだ坐禅の段階には早いですね無心になるのが難しいですご教示、ありがとうございます>>122タヌキの文句は俺に言え私がクズですあぼ~んもクズも愛すべき我が身です2023/11/09 15:25:05125.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSd65Sr>>124坐禅してる時は息に意識を置くといいでしょう。知らない間に雑念を追っかけてますので、それに気づけばまた息に意識を置きます。目は閉じてはいけません。2023/11/09 15:33:50126.閃zA2F9>>125あぁサマタ瞑想でも呼吸に意識出来るから出来てる感がありますね雑念の塊の様な人間なのでユックリ進みます宗教板の方は菩薩の様な方の集まりなので助かります2023/11/09 15:39:16127.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSd65Sr>>126最初は雑念との戦いとなります。2023/11/09 15:42:27128.閃zA2F9>>127ん~…どうもまだ悟る覚悟もない人間が話を聞くのも失礼にあたる気がしてきましたカムイさんにはその覚悟というか人生にそうさせる深いモノがあったのだと察しますちょっと踏み込む勇気ないので語らないで下さいね2023/11/09 15:52:32129.土手を行くのは アハさんじゃないかぁ~♪o( _ _ )o~† ドテッM9jGF病名:発達障害ASDの症状尊大の雀鬼イヌヤマが自供ス。『正直云って仏とは何かと問われても分かりません、公案が進んで無くよくわからないのです』 知障イヌ咬み談ウソブクのよ透ってないのに、もう40回も初関を透る俺様!と言い放つドマヌケ!40回も透ったら初関を透る、じゃねーべ!!なんで、みんなワイを無視すんねん!?大欲(たいよく)は無欲に似て足るを知る。煩悩即菩提の法相宗でええやろ・・・ほならなんでワイはこんなところにいるんねやろイヌ:悟りとか分からねーし、知らねーし、悟ってねーわ? ググるイヌヤマは常にシカトされ自己存在の確認要求哀願奴隷也悪霊イヌが鳴く:なんで 宗教板って まともなの俺だけなんだ?みんな間違ってばっか俺だけが正しい。みんな間違ってるのに何で正しい事を言ってる俺は否定ばっかりされるんだ?みんな俺の事を 凄いなと認めろよ。 俺は自分より優れた奴が ゆるせないんだよ(脅迫性人格障害の特徴)ナント妻子と月一、金曜夜7時からのお坐り会、茶菓(ちゃか)代ワンコインで、これが研究会出席虚勢のトマヌケ犬は誰からも疎まれる独善イヌヤマは月一第三金曜日夜7時茶菓代ワンコイン坐禅会に出ると偽証。命取りの摂心に親子で100回参加と虚飾スル新小岩の食業ドライバーイヌヤマとは法相宗(ほっそうしゅう)奈良興福寺(こうふくじ)前官長じっちゃんのお抱え運転手で食業ドライバーで、知ったかぶる以外に承認欲求が満足しない。多数者を演じ孤立セズと強弁し自作自演のおぞましい日々の無脊椎動物イヌヤマは成り済まし多重人格者で要治療インチキキチガイ雀鬼イヌヤマ麦、アルコホル発酵しイヌ麦焼酎なのに喜ばせ共有機能が絶えて無し。吠え吠み、オノレの尻尾をクルクル追うノミシラミ5ちゃんねるの会話はバトル形式で馴れ合いを禁じる。イヌヤマは、褒めてクレヨの哀願奴隷。相手を罵倒する悪口雑言の数々は外道イヌヤマへのリアル社会の絶対評価で、問いに問いで返す脊髄反射の脳足りんで悟前(ごぜん)未悟(みご)、金魚ドジョウと救い難い。① ググるシッタカ知障荒らしイヌヤマは無視放置スルーが一番ツライ、耐えられない。シッタカイヌヤマは常に誰かの反応レスを待ち焦がれ② 放置された固定観念イヌヤマは煽りや自作自演でアナタのレスを誘う。ワケワカメ糞邪鬼イヌヤマにノセられてレスしたらその時点でアナタも同類、負け。完敗③ ;反撃はイヌの滋養にして栄養であり最も悦ぶ事です。門前のヤセイヌにエサを投げ与えぬ事④ ;臭い汚いコワイ気持ち悪いイヌヤマが枯死する迄、孤独に暴れさせゴミが溜まれば削除2023/11/09 16:09:08130.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSEQpxb>>128いつかそう言う時期が来るかもしれませんね。2023/11/09 16:28:06131.閃zA2F9>>130ありがとうございます微妙に不安障害、睡眠障害が疼く体質ですので坐禅が救いになるかな…との思いもあります何かとお騒がせしまして失礼しました2023/11/09 16:33:45132.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSnbPyM>>131それならば心地よい程度の坐禅をするのがいいね。2023/11/09 17:09:03133.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSnbPyM坐禅でゆったりとした呼吸を心がけるだけで結構変わると思います。2023/11/09 17:15:22134.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSnbPyM別に坐禅を組まなくていいです。普段でも、寝る前にでもゆったりとした呼吸に意識を置くだけでもいいね。2023/11/09 17:21:40135.閃zA2F9ありがとうございますサマタ瞑想で呼吸、身体を感じヴィパッサナー瞑想でイメージトレーニング坐禅で無心を…無宗教の視点から色々学び実践し気負いなく今を生きる感謝です2023/11/09 17:45:51136.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSIBkl8>>135今を離さずに2023/11/09 17:58:21137.神も仏も名無しさんapOlhムイムイ〜息を潜めて狙っているぞ〜脳天ヒットを〜😄2023/11/09 18:56:21138.神も仏も名無しさんapOlh遊星爆弾をサービスだ〜178.ユーザー栖雲居士◆dqam8SqGUPdmNpOOu(3/3)とにかく彼は師匠(master)の様に振る舞いたいのです。徒弟(apprentice)みたいのが欲しいのです。ナ◯フの件で気付かれた方もいらっしゃるでしょうが、あれ、歪んだ性癖があるのでしょうね。ま、あんまり云うと、ね🤭2023/11/09 11:31:2023/11/09 18:57:46139.夕k9oW6半端者がよくやるムイムイは師匠気取りか2023/11/09 19:08:38140.夕k9oW6さて、帰るか2023/11/09 19:09:37141.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSO4YGKこんばんは2023/11/09 19:29:53142.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSO4YGK作務衣買ったよ、明日来るね2023/11/09 19:37:47143.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSO4YGK作務衣はワンサイズ大きめを買ってる2023/11/09 19:51:05144.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSO4YGKしかし鹿野園って何宗なんだろうね2023/11/09 19:55:18145.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSO4YGKクズのことはどうでもいいか2023/11/09 19:58:08146.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSO4YGKでおーも全然変わらんよな。悟らないまま、一生を終えるんやろうな2023/11/09 19:59:28147.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSO4YGK禅では唯識は扱わない、なので鹿野園は禅宗ではない。2023/11/09 20:26:14148.夕WDab4ムイムイよ、いつまで持つかな閃さん、あまり、かかわらないようにムイムイは悟る悟らない関係なく、増上慢性格の裏返しだろう2023/11/09 20:55:30149.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSicuEPzenさん来ないかな忙しいそうなんで中々来れなさそう。2023/11/09 20:57:21150.夕WDab4嫌いなものを認めた楽になったぜ、くずでけっこう、ムイムイをただ叩く以上2023/11/09 20:57:36151.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSicuEP208 zen[] 2023/11/08(水) 22:00:56.51 ID:wjwWH法介さん、やって来ました。zenです。唯識は真理だけど勉強する必要はありません。知識は悟りには何の役にも立たないからです。唯識は悟らないと意味が無いのです。坐禅・念仏・題目の修行で唯識を悟ることができます。しかし独学では難しいと思います。できれば悟りを開かれた師匠を見つけて本格的に修行されることをおすすめします。禅の場合は年に数回、摂心会と言って一週間泊まり込みで坐禅修行を行います。ほどに悟りを開くためにはそういう修行がどうしても必要なのです。法介さんが日蓮宗でも大丈夫です。時宗を開かれた一遍上人は臨済宗の心地覚心禅師のもとで修行して見事に悟りを開かれました。キリスト教徒の外人さんが禅の修行をした例もあります。唯識は勉強する必要はありませんが、カムイさんの言葉は全て真理ですから良く学んで下さいね。2023/11/09 21:00:01152.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSicuEP記念に貼っとこう2023/11/09 21:00:19153.夕WDab4ムイムイは蚊と変わらない、叩くのに何のためらいもの無いネカマの時は、増上慢を治せと世間的に言っていたが、無駄だと分かったでてきたら、徹底的叩く2023/11/09 21:03:41154.夕WDab4ムイムイよ、宿命だ、叩かれることがお前の生きる道であり、生涯である2023/11/09 21:09:30155.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSicuEP俺の座布は永平寺に納入してるのと同じもの、中々いいよ。2023/11/09 21:11:17156.夕WDab4禅宗だからといって、勉強しないわけでもないお前のところがそうだからと言って、他がそうだと思うな2023/11/09 21:11:21157.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSicuEP知性自体悪くないんですが悪人は知性を相手を攻撃する為に使う善人は知性を相手を救う為に使う2023/11/09 21:17:00158.夕WDab4行為を説明するということはまことにめんどくさいあらんかぎり全身全霊をもって、多宗派の人に説明してみろ2023/11/09 21:17:30159.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSicuEPそう考えると、鹿野園、麦、でおー、夕らは悪人だな2023/11/09 21:18:23160.夕WDab4>>157お前が今がすることではない2023/11/09 21:18:37161.夕WDab4ムイムイよ、自信過剰2023/11/09 21:19:11162.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSicuEP知性と感性と意思がひとつなる状態が禅定この禅定とは過去もない、体も忘れて今だけになる状態2023/11/09 21:19:29163.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSicuEP外側に飛び回るこころを内側に持っていくこれが坐禅とにかく命がけでやる今だけになる2023/11/09 21:22:12164.夕WDab4後付けの言葉など不必要お前の一生懸命など、たかがしれている2023/11/09 21:23:32165.夕WDab4>知性自体悪くないんですが悪人は知性を相手を攻撃する為に使う善人は知性を相手を救う為に使う師匠の物真似か2023/11/09 21:24:26166.夕WDab4お前がそんな言葉を出すはずがない2023/11/09 21:25:10167.夕WDab4zenとやらは、見る目がない2023/11/09 21:25:48168.夕WDab4ムイムイよ、お前を否定しつくす覚悟しろ2023/11/09 21:29:50169.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSicuEP今だけの事を只真剣に命がけで素直にする2023/11/09 21:41:13170.神も仏も名無しさんapOlhムイっ、ムイっ、ムイっ、ムイっ、ムイっムイっ、ムイっ、ムイっ、ムイっ〜♬2023/11/09 21:43:14171.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSicuEP今を離さず今を五感で楽しむなり2023/11/09 21:47:03172.夕WDab4一人でやってろ2023/11/09 21:48:26173.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSicuEP夕は坐禅では挫折したけど、法華経で成仏出来るといいね。2023/11/09 21:50:40174.夕WDab4馬鹿か2023/11/09 21:51:07175.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSicuEPしかし夕がタヌキのタには笑うな今後夕をタヌキと呼ぼう。2023/11/09 21:54:58176.夕WDab4で、それがどうした、ねかま2023/11/09 21:55:56177.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSicuEPしかし、タヌキはあれから何年もたってるのに残念な結果やな。今まで何してたの?2023/11/09 21:57:59178.夕WDab4次はどうしたお終いか2023/11/09 21:58:30179.夕WDab4お前ほど、残念じゃねよ2023/11/09 21:59:13180.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSicuEPどう見ても仏教に向いてない。仏教やめたら?2023/11/09 21:59:31181.夕WDab4次は、どうした2023/11/09 21:59:44182.夕WDab4それで、ハイ次2023/11/09 22:00:45183.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSicuEPこんなにモノにならんやつも珍しい2023/11/09 22:05:11184.夕WDab4ものになんかなってたまるかネカマ2023/11/09 22:06:09185.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSicuEPタヌキだからしょうがないか2023/11/09 22:06:53186.夕WDab4はいはい、ねかまもうかくことがないのか、師匠の物真似でもいいぞ2023/11/09 22:11:28187.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSicuEP夕ゆうとか綺麗すぎタヌキってばっちりあってるね2023/11/09 22:12:56188.夕WDab4いちもつを持っているネカマ、どうした悟っている悟っていない、雑音をたれながすな2023/11/09 22:14:41189.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSicuEPさてとクズタヌキの相手ししてもしょうがないな。2023/11/09 22:15:50190.夕WDab4もうおしまいか、おいおい執らないんじゃなかったのか行為に嘘あり2023/11/09 22:16:16191.夕WDab4蚊を叩くのに何の不都合もない2023/11/09 22:16:59192.夕WDab4出来もしないことを自分に言い聞かせているネカマである2023/11/09 22:18:11193.夕WDab4はいはい、次はどうしたネカマ2023/11/09 22:18:52194.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSZkDlNおはよう2023/11/10 04:32:10195.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSZkDlN只管今だけの事を真剣に命がけで只する事なり2023/11/10 04:35:49196.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSZkDlNがむしゃらになりふりかまわず今だけの事をする2023/11/10 04:37:41197.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSZkDlN飛び回ってるこころを静めて一心に今を離さず2023/11/10 04:49:09198.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSZkDlN相手を知ろうと思ったら、まず、自分を知ること2023/11/10 04:49:47199.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSZkDlN世界平和になる第一歩は自分を知ること2023/11/10 04:52:05200.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSZkDlN部屋の灯りは暗めの方が内に向かいやすくてよい体の動作はなるべくゆっくり丁寧に動かすのが良い思考がゆっくりになってきたらしめたもの2023/11/10 05:01:31201.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSZkDlN飯を食う時もなるべくゆっくりとする。これは、少しの量で腹が膨らむと言う効果もある。坐禅だけが実践ではない。こうやって四六時中、隙を作らず油断せず行じるのだ。禅とは今を行じること絶えず無意識にやってるもの息だこいつを意識する。一息一息丁寧にこれが今を行じるという事例えば歩きながらだと息を意識するのは難しいメインの動きを意識すれば良い歩くときは歩く事に意識をおくこれを練ると言う2023/11/10 05:09:40202.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSZkDlN寝る前みたいに気持ちよくなってるのは三昧ではなく妄想、雑念を追っかけてるだけ。坐禅は妄想、雑念を意識的に切って、はっきりとした意識でおらんとあかん。2023/11/10 05:10:17203.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSZkDlNいま、パソコンを見ているでしょ?見ている自分という感覚があります。この感覚をなんとしても取っ払うんです。ガムシャラでいいんです。坐禅しようが、念仏あげようが、叫ぼうが、なんでもいいです。うまくやろうと思わないことです。禅も仏教もそんなことどうでもいいです。自分のあらゆるエネルギーをそこに集中します。それだけです。2023/11/10 05:15:20204.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSZkDlN(1) 奪人不奪境こっち側がない、という感じです。自分はいなくて、周りだけある、という感じ。通常の見性はここから入ります。(2) 奪境不奪人これは(1)がわかれば、すぐわかります。見るもの聞くものが、すべて自己であったと気づくわけです。雀のチュンチュンもカラスのカーカーも、同じものだ、自己の表れだとわかります。(3) 人境両倶奪これはちょっと難しい。自己も世界も存在しない、まったくの、夢、幻であったと気が付くところです。悟りが徹底したところ、十牛図でいえば、ただ、丸が書いてあるところ、八番目ですか・・・・真空ですね。この感じは、わたしもハッキリしてないです。(4) 人境倶不奪(3)から、自己と世界が浮き上がるところです。空即是色のところ。柳は緑、花はくれない。2023/11/10 05:18:05205.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSZkDlN煩悩と戦うんだから普段よりお腹も空きます。時には暑くもないのに脂汗が出て来る人もいます。ただ、その期間を過ぎると静かになったりします。すると、道元禅師のようなゆったりとした坐禅になるんじゃないかな。ただ我が身をも心をも放ち忘れて、仏の家に投げ入れて、仏の方より行われて、これに随(したが)いもてゆくとき、力をも入れず、心をも費やさずして、生死を離れ、仏となる2023/11/10 05:21:24206.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSZkDlN実際には今にとどまり続ける意思などなくても今しか無いんだけど、人は過去を引きずっちゃう。そして、自分というカタマリがないから空性だからなんにでもかわる。つまりいいことも悪いことも固定ではないから変化する。言い方を変えると継続しない。あらゆる苦悩は継続しないんです。2023/11/10 05:22:49207.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSZkDlN今にとどまり続けていればあらゆる苦悩がおわる。実際には今にとどまり続ける意思などなくても今しか無いんだけど、人は過去を引きずっちゃう。そして、自分というカタマリがないから空性だからなんにでもかわる。つまりいいことも悪いことも固定ではないから変化する。言い方を変えると継続しない。あらゆる苦悩は継続しないんです。2023/11/10 05:27:18208.夕g242hおい、カムイよ風景が云々は俺が言った言葉だぞマネするんじゃない2023/11/10 05:27:26209.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSXC4mQただあるがまま見るのが真理のエネルギーつまり自我が立ち上がる所をいじらないでただ見て行く。2023/11/10 07:37:17210.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSXC4mQ【全宗教歓迎】悟りをひらいた人のスレ858【talk掲示板】https://talk.jp/boards/psy/1699235664えー、こちらに一斉に名無しで鹿野園を攻撃します。ご協力お願いします。2023/11/10 08:49:51211.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSXC4mQゆゆしき法界 パート17https://talk.jp/boards/psy/1699325310作戦室はこちら2023/11/10 08:52:46212.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSXC4mQ雑念が出たら即「この念、何処から来たか」と、間髪を入れずにその根元に切り込む。2023/11/10 09:36:09213.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSXC4mQコップを持てばコップのみだけの縁があり、それ以外の縁は切れてる。これが「今」を「今」たらしめる。2023/11/10 09:41:07214.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSXC4mQ思考が時間を作り自我を作る。真実は時間もなく世界からの分離もない。つまり、「永遠の今ここ」そのものが本来のわたし。今、現に見ている風景が本来のわたしと言うことです。2023/11/10 10:01:11215.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSe0XYR怒りが出ればまずはその怒りを抱きしめて上げる。2023/11/10 10:53:17216.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSe0XYR道元禅師の「善悪を思わず、是非を菅することなかれ、心意識の運転を停め、念想観の測量を止むべし」『普勧坐禅儀』白隠禅師坐禅和讃無念の念を念として 歌うも舞うも法の声2023/11/10 10:55:19217.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSe0XYR体は常に今にある、過去の体、未来の体なんてない。心も今にある時、つまり心身共に今にある時なんの摩擦もない。そのまま一生を終えても良いんだけど、夢・希望、つまり心は未来を向く。当然摩擦が起きる。バイクがあえてバランスを崩してコーナリングするのと同じ。無茶なコーナリングをすると転倒する。問題はどんな夢・希望を抱くか。どうせ夢を見るなら命がけの夢を見るのもいいかもしれない。祖師達は命がけの夢を見て法を守り法を継いで行ったに違いない。2023/11/10 10:56:48218.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSe0XYR永遠の今があるだけ 永遠の今は愛で満ち溢れている 愛と対立するものはない 今と対立するものもない 善悪を超えたところに愛がある2023/11/10 10:57:27219.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSe0XYR相手になんか言われたとする。相手が正しい事言ってるか間違った事言ってるか。俺はこれは重要視しない。相手のその言葉は邪心からきてるのか、つまり悪意、妬み、嫌味などから来てるのか。俺はここで判断する。ま、この中で一番邪心なのは誰か、丸見えだけどね。2023/11/10 10:58:27220.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSe0XYRわたしの今までの経験とか知識だと、あの世はない、わたしたちは今ここを永遠に輪廻転生している、そして本当のわたしとは今そのものであり、宇宙が消滅したとしてもなんらかの形で今はあるんで、今であるわたしは永遠不滅である。2023/11/10 11:10:59221.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSe0XYRあらゆる苦しみは自我から来てる。もし、苦しみがある、または自覚出来てるのであれば自我が立ってるから。つまり自我が苦しみの根源。なので自我がなければどんな環境に置かれたとしても一切の苦しみはない。自我がなければ苦が自覚出来ないし、楽も自覚出来ない。苦も楽も自覚してない所が安楽。苦だけを取り除いて楽を求めたら、それは自我が立ってるわけで。つまり、いじらないとなる。苦を取り除かず、楽を求めずまずは自我がなければ完全無欠であると気付くこと。2023/11/10 11:16:31222.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSe0XYR色も空も、我のないところです。我がないので、色即是空なわけです。我がないときにお茶を飲みます。その時お茶だけがあり、わたしはお茶であり、わたしはわたしとしてあり、お茶はお茶としてある。これが色即是空2023/11/10 11:22:02223.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSe0XYR過去を捨てる事。過去を捨てるとは自分を捨てる事。なんか自分がなくなり頼りない感覚がおこります。過去を捨てる感覚がわかるとしめたものです。何か念が立ち上がれば切ればいいんです。そして、お茶を飲む時はお茶だけになればいい。念というのは絶えず湧いて来ます。その念に意味を持たすのがまずいんです。そこを切って行きます。つまり、意味の無い念、無念の念を継いでいくのが只管打坐です。2023/11/10 11:42:16224.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSe0XYRたとえ間違ったとしても、それに気が付けば無心であるがゆえにすぐに改めてしまう。自我があると、言い訳が出て、相手に原因があるように思う心が動き、邪魔をする。2023/11/10 11:47:51225.カムイ◆wxnBcJ8ZogOS3Tvcg縁に従って淡々と只やっていく。これ、自我があれば出来る事ではない。自我があれば我田引水するからね。つまり自我があると縁に逆らう。なので、あらゆる今の状況の縁はこれはこれで完全完璧なんだ。2023/11/10 12:23:19226.カムイ◆wxnBcJ8ZogOS3Tvcgそのようなありように対してこのように動く。ただ間違ってはいけないのは言葉はそのようなありようではない。2023/11/10 12:33:12227.カムイ◆wxnBcJ8ZogOS3Tvcgなんもいじりようがない。ただあるがまま。あるがままのものに対してあるがまま動く。それを妨げているのは思考、言葉である。2023/11/10 12:38:08228.カムイ◆wxnBcJ8ZogOS3Tvcg誰に教わった訳でもなく、元から備わってる人間として当たり前の動きが出来るようになる事。2023/11/10 12:39:52229.カムイ◆wxnBcJ8ZogOS3Tvcgイエスに実際にあった人はいません。つまり、聖書を読んだり神父さんから聞いたりして、自分のイエスのイメージを持ってるだけなんです。これを観念ともいいます。このイエスのイメージは人それぞれ違うのは理解できますね。つまり、10人いれば10人とも違うイエスのイメージを持ってます。これがいい争いの原因です。じゃどうすれば良いか。イメージでない観念でないイエスとは?これ、イエスの知識を増やしても無理なんです。余計にイメージが膨らむだけ。最終的にはイエスにただ祈り信じきるしかないんです。このイエスを信じきる力が本当のイエスに会える手段です。2023/11/10 12:41:46230.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSqfwUUなんもいじりようもない。あるがままのものに対してあるがままに動く。思考を練らずに自覚なしに動くようにここを練って行く。2023/11/10 16:28:22231.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSPwp1Z私たちは元来仏である。仏と凡夫の違いは、水と氷のようなもので,氷が溶けたものが水であるように,自我の妄執が融ければ仏である。私たちは自らが仏であることを知らず,それを遠くに求めている。なんと儚はかないことか。ちょうど水の中で、のどの渇きを訴えるようなものである。裕福な家を迷い出て、困苦しているようなものである。六悪道を輪廻する原因は,自己への深い妄執と分別心のため,己が己に迷っているからである。分別に分別をかさね、妄執に妄執をかさねて,いつ迷いの世界を離れるのか。大乗の坐禅のすばらしさは、とても言葉ではあらわせない。布施や持戒などの六波羅蜜(布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧)念仏,懺悔など善行の根本は、みな坐禅(無心)に帰する。たった一度の坐禅(無心)の体験で、過去に犯した全ての罪が消え去る。六悪道などどこにもない。浄土は今,目前にある。この大乗の教えを聴いて、仏の教えに出会えたことを喜び、その教えに随って生きてゆく人は,多くの福徳を得るであろう。いわんや自ら坐禅を行い,無心を体験して自己の本性に気付けば,それは何の実体もない空であるから,もはや、ああこうの分別の世界,妄執の迷いから遠く離れることができる。仏と自己が本来一体であったという,大乗の門が開けた。それは分別に分かれない真っ直ぐな道である。坐禅によってこの身を空にした,その「無の身」を体とすれば、その行為のすべてが真理を離れない。坐禅によってこの心を空にした「無の心」を心とすれば、その行為はすべて教えの姿,真実の姿となる。世界と自己が一体になった三昧の世界のひろやかさ。その三昧の大空には仏の智慧の光が、月のように光り輝いている。ここに到ってなにを求めるのか,悟りは今・ここ・自分の上に現れている。ここが極楽浄土であった。この自分が,仏であった。2023/11/10 17:15:21232.神も仏も名無しさんAqIvy466.ユーザー栖雲居士◆dqam8SqGUPdmiAxKD法介さんやカムイさん、JBLさんはネタというか叩き台になるからスルーはしてません。まぁ、流石に名前は伏せて使わして貰ってはいますけどね🤭2023/11/11 16:00:552023/11/11 16:13:29233.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSwoBeY俺もキャンプ来てるんだ。2023/11/11 16:26:11234.カムイ◆wxnBcJ8ZogOS0IxxQディキャンプの予定が一泊に2023/11/11 16:41:55235.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSIqc4O焚き火見てると思考がゆっくりになるね。これ、坐禅してる時と同じですね。2023/11/11 17:43:42236.法介◆T3azX0Hk1UL35HL嫁と楽しんで来ました。https://livedoor.blogimg.jp/butudou/imgs/c/8/c88fafe3.jpgカムイさんも楽しまれて来て下さいな。焚火にはやっぱロケット・ストーブやね。2023/11/11 21:08:29237.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSzJXMt>>236はい、今日は寒い笑2023/11/12 01:42:25238.法介◆T3azX0Hk1UVMLBMキャンプ場の静寂した早朝の張りつめた空気観っていいよねー2023/11/12 06:38:37239.法介◆T3azX0Hk1UVMLBM鳥の鳴き声とか聞こえてきたら、聴覚的にも心地よさを観じる。2023/11/12 06:39:48240.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSY4zEO帰って来ました心地よい疲れ。5ちゃんねる内の問題なんがどうでもよくなるね。2023/11/12 08:38:27241.リダン◆iKlPp4IWRYfpDQX>>240まるで禅より効果あるみたいじゃないかw2023/11/12 09:03:54242.神も仏も名無しさんpmxKu😄2023/11/12 13:36:39243.カムイ◆wxnBcJ8ZogOS0fZuA俺がキャンプに行くのはナイフを使いたいから、なんで、今日は今から庭で焚き火する2023/11/12 13:51:08244.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSUrJRm思いは煩悩だが、風景を煩悩にするかしないかは自分次第。2023/11/12 15:28:55245.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSUrJRm風景をなんの感情もなしに、そのまま見ると煩悩ではないんです。これを正見と言う。2023/11/12 15:29:58246.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSQHoIG衆生本来仏なり 水と氷の如くにて水を離れて氷なく 衆生の外に仏なし衆生近きを知らずして 遠く求むるはかなさよ譬えば水の中に居て 渇を叫ぶが如くなり長者の家の子となりて 貧里に迷うに異ならず六趣輪廻の因縁は 己が愚痴の闇路なり闇路に闇路を踏み添えて いつか生死を離るべき夫れ摩訶衍の禅定は 称歎するに余りあり布施や持戒の諸波羅蜜 念仏懺悔修行等其品多き諸善行 皆この中に帰するなり一坐の功をなす人も 積みし無量の罪ほろぶ悪趣いずくに有ぬべき 浄土即ち遠からず辱なくも此の法を 一たび耳にふるる時讃歎随喜する人は 福を得ること限りなしいわんや自ら回向して 直に自性を證すれば自性即ち無性にて すでに戯論を離れたり因果一如の門ひらけ 無二無三の道直し無相の相を相として 行くも帰るも余所ならず無念の念を念として うたうも舞うも法の声三昧無礙の空ひろく 四智円明の月さえん此の時 何をか求むべき 寂滅現前する故に当処即ち蓮華国 此の身即ち仏なり2023/11/12 17:36:22247.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSQHoIG衆生本来仏です。水と氷のように水を離れて氷なく、衆生の外に仏はありません。衆生はすぐ近くにあるものを遠く求めるばかり。例えば水の中に居て、喉が渇いたと叫ぶんでるようなもの。裕福な家に育って貧しいと迷うに他ならない。六趣輪廻の因縁は 己が愚痴の闇路なり闇路に闇路を踏み添えて いつか生死を離るべき夫れ摩訶衍の禅定は 称歎するに余りあり布施や持戒の諸波羅蜜 念仏懺悔修行等其品多き諸善行 皆この中に帰するなり一坐の功をなす人も 積みし無量の罪ほろぶ悪趣いずくに有ぬべき 浄土即ち遠からず辱なくも此の法を 一たび耳にふるる時讃歎随喜する人は 福を得ること限りなしいわんや自ら回向して 直に自性を證すれば自性即ち無性にて すでに戯論を離れたり因果一如の門ひらけ 無二無三の道直し無相の相を相として 行くも帰るも余所ならず無念の念を念として うたうも舞うも法の声三昧無礙の空ひろく 四智円明の月さえん此の時 何をか求むべき 寂滅現前する故に当処即ち蓮華国 此の身即ち仏なり2023/11/12 17:36:46248.神も仏も名無しさんpmxKuきた〜ムイムイ、迎撃準備〜〜🚨2023/11/12 17:40:09249.神も仏も名無しさんpmxKu主砲砲門開け〜〜?🚨2023/11/12 17:40:45250.神も仏も名無しさんpmxKuう〜ちかた〜は〜🚨2023/11/12 17:41:16251.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSQHoIG煩悩への対処法煩悩を一息で切る。煩悩に気づくだけでいじらない。煩悩に成り切る。煩悩を抱きしめる。2023/11/12 17:51:59252.神も仏も名無しさんpmxKuな〜に寝言言ってんだ〜?😒😒😒😒😒う〜ちかた〜はじめ〜🔥🔥2023/11/12 17:58:08253.神も仏も名無しさんpmxKuボコられたいよーだ🔥2023/11/12 17:58:36254.神も仏も名無しさんpmxKuゴングは鳴ったな🔥2023/11/12 17:59:08255.リダン◆iKlPp4IWRYfpDQXあんま期待してねえでおさんがヤジとばすだけやろ2023/11/12 18:00:11256.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSJipF7昨日キャンプで久しぶりにカップヌードルカレー食べたら美味しかった。コンビニ行ったらビックがあったから買ってみた。2023/11/12 18:33:56257.神も仏も名無しさんpmxKuお、かしこい〜いいことだ〜😄2023/11/12 18:35:47258.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSJipF7https://i.imgur.com/O3xArF5.jpg2023/11/12 18:44:14259.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSJipF7>>258コンビニにも置いてあるこれ。無茶苦茶辛いです。人間の食べ物を超えている笑2023/11/12 18:45:17260.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSLMcDOナイフの鋼材は硬すぎでもチップしたり研ぎにくい。昨日今日でナイフ使ってみたけど、A2鋼材くらいの硬度がいいね。ただ、A2は錆びやすい、こまめにメンテしてまた使って研いでと、研ぎやすいのでいいね。2023/11/12 19:12:31261.法介◆T3azX0Hk1UVMLBMキャンプで食べるとただのカップヌードルでもとても美味しく感じる。自然の味付けが加わるのかなー2023/11/12 19:39:26262.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSuVOqC道元禅師の仏道をならふといふは、自己をならふなり。自己をならふといふは、自己をわするるなり。自己をわするるといふは、万法に証せられるなり。万法に証せられるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。これ自己を習うなりに徹したらあとは勝手にそうなるんです。つまり自己を忘れようとか万法を得ようとかしなくても勝手にそうなるって事です。仏道をならふといふは、自己をならふなり。の一文がいかに大事であるかわかって頂きたい。これを悟った後でも生涯に渡ってやっていく訳です。じゃ実際、自己を習うってどうすれば良いか。普段自分がどんな念が出るかに気づく事です。2023/11/13 11:28:12263.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSuVOqC坐禅してる時、無字で念を切ってるのであれば、日常でも無字で念を切る事だけをします。ですが歩いてる時やご飯を食べてる時に無字は難しい。メインの動きで念を切ります。歩いてる時は歩くに徹して念を切る。食べるに徹して念を切る。あらゆる動作、五感を使って念を切って行きます。なので動作はゆっくり丁寧な方が良い。身体は常に今にあります、心が散っている。つまり心を身体に近づけて心身一如に持って行く。身心脱落しようと思っても身心脱落しません。心身一如の先に身心脱落があります。2023/11/13 11:29:37264.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSpuqk1参同契竺土大仙の心、東西密に相附す、人根に利鈍あり、道に南北の祖なし、霊源明に皓潔たり、支派暗に流注す、事を執するも元これ迷い、理に契うも亦悟にあらず、門門一切の境、回互と不回互と、回してさらに相渉る、しからざれば位によって住す、色もと質像を殊にし、声もと楽苦を異にす、暗は上中の言に合い、明は清濁の句を分つ、四大の性おのずから復す、子の其の母を得るがごとし、火は熱し、風は動揺、水は湿い地は堅固、眼は色、耳は音声、鼻は香、舌は鹹酢、しかも一一の法において、根によって葉分布す、本末すべからく宗に帰すべし、尊卑其の語を用ゆ、明中に当って暗あり、暗相をもって遇うことなかれ、暗中に当って明あり、明相をもって覩ることなかれ、明暗おのおの相対して、比するに前後の歩みのごとし、万物おのずから功あり、当に用と処とを言うべし、事存すれば函蓋合し、理応ずれば箭鋒さそう、言を承てはすべからく宗を会すべし、みずから規矩を立することなかれ、触目道を会せずんば、足を運ぶもいずくんぞ路を知らん、歩をすすむれば近遠にあらず、迷て山河の固をへだつ、謹んで参玄の人にもうす、光陰虚しく度ることなかれ。2023/11/13 12:24:54265.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSB6vkX坐禅の仕方結跏趺坐か半跏趺坐で坐ります。背筋は伸ばします。目は半眼、目を完全に閉じてしまうと念を追っかけやすいです、半眼にして視覚でも念を切って行く工夫です。坐禅中は一息に意識を置き念を切って行く感じです。いつのまにか一息から離れて念を追っかけてますので、気がつけば一息に戻ります。数息観でもいいんですが、本来一息の連続で一の息二の息なんてありません、つまり数息観には時間が入ってしまうんです。ですからあえて数を数える必要はありません。良い念悪い念にかかわらずあらゆる念を切って行きます。良い念悪い念としているのは何者ぞ。坐禅中、念を追っかけて気持ちよくなってるのは三昧ではありません。どちらかと言えば意識はしっかりさせている感じです。寝てはいけません。動いても大丈夫です、動いて念を切ればいいので。時間は1炷で30分でいいです。最初は五分でもかまいませんから毎日する事です。念に意味を持たせるから追っかけてしまいます。意味のない念、無念の念を継いで行く事を目指します。2023/11/13 12:35:57266.神も仏も名無しさんPVYyf>>263撃ち方はじめ〜〜〜できもせん妄想懲りないのかっ!?😟😟😟😟😟2023/11/13 12:39:40267.神も仏も名無しさんPVYyf>>263そんなにボコラれたいのか?😟😟😟2023/11/13 12:40:23268.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSAFTJq『道友』 雲水は、人生を空を行く雲と、地を流れる水にたとえたものです。行く雲のようになににもとらわれず、また、流れる水のように決まった枠にはめられない、本当の意味での自由を象徴的に表現するものなのです。 禅の修行者を雲水と呼ぶのは、自由(解脱)とよき師を求めて日本全国を訪ねてまわり求道の旅をするからです。 また雲水は、よい友とつれ立ち、互いに励まし合いながらする旅でもあります。ともに道を求める友ですから、これを『道友』と呼びます。仏教では『善友(親友とも)』といって、よき友を得れば必ずよき師に出会えるとして、友を大切にします。2023/11/13 12:46:30269.神も仏も名無しさんPVYyfムイムイ、ボコラれたいレスキボンぬ〜😄2023/11/13 12:57:17270.カムイ◆wxnBcJ8ZogOS2UZH8わたしと言う塊がないから、わたしは無常であるから一瞬一瞬、解脱してるんだよね。2023/11/13 14:24:22271.神も仏も名無しさんPVYyfムイムイ、さ〜まっでるぼおづっ〜〜〜!!!デスメタル風でっばっ!👿👿👿👿2023/11/13 14:25:54272.神も仏も名無しさんPVYyfデスメタル芸わふれでだぁっづづ〜!!!👿👿👿👿👿👿2023/11/13 14:26:58273.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSjCJa4「諸縁を放捨し、万事を休息して、善悪を思わず、是非を管すること莫れ。心意識の運転を停め、念想観の測量を止めて、作仏を図ること莫れ。」2023/11/13 17:24:51274.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSbX008愛は総てを許す力愛するときは身をも捨てることさえ出来る愛有るが故に戦うことが出来るし愛有るが故に戦いを止めることも出来る2023/11/13 18:33:23275.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSWcMVk人間は比較するから苦痛が生まれるんだよ。雨の日に晴れの日と比較するから、そう言う比較を止めると楽になる。晴れの日は晴れ雨の日は雨2023/11/13 18:54:34276.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSzBO9bどのように毎日を送ろうと、世界=自分です。ただ、それに気が付かないということです。気づくための方法はありません。目の前のPCに気づいていないとして、気づかせる方法があるわけではなく、ただ、気づくしかないわけです。しかし、気づきやすい状況を作ることはできます。それは、自分を状況とひとつとしていくことです。これが、坐禅であり、公案であり、念仏であるわけです。そして、日常では、やっていることとひとつになって、一所懸命やる、ということになるわけです。そして、そういうことに気を付けてるうちに、ヒョイっと、自己=世界ということに気づいたりする、というわけです。2023/11/13 18:56:21277.神も仏も名無しさんiq4IRカムイさんはそのスタートラインに執着しすぎそんなもんは何でもないんだから執着捨てたら?2023/11/13 18:58:26278.神も仏も名無しさんiq4IRそんな自明な当たり前のことに頑なになってぎゅっと神経や身体を硬らせて執着したら気がおかしくなりますぜスタートラインに立ったらそういうものは捨てたらいい2023/11/13 18:59:46279.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSzBO9b過去・未来のスイッチが切れて今だけになる時あらゆる苦しみが浄化される苦楽を超えた安楽が非常に心地いい良い・悪いが無くなって行き事実だけがただあるだけ。2023/11/13 19:00:26280.神も仏も名無しさんiq4IRそれが何でもない坐禅のスタートラインでそ2023/11/13 19:01:37281.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSzBO9b一息に徹する。禅では数息観が有名ですが、一息と数息観は少し違います。数息観ってのは息に合わせてひとーつ!ふたーつ!って十まで数えるやり方なんですが、息ってのは二の息とかないですよね。つまり、一息の連続です。2023/11/13 19:04:03282.神も仏も名無しさんiq4IR息になるとイマココになるからなでもスイッチ作って息見なくてもイマココになれるようになるとさらにコスパが高い2023/11/13 19:05:39283.神も仏も名無しさんiq4IRスタートラインに強張って執着するとスタートラインから一歩も動けなくなる、みたいな現象もあるのだろうと思われるカムイさん見てたらそう思う2023/11/13 19:06:51284.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSzBO9b雨にも負けず「雨にも負けず」 宮沢賢治雨にも負けず 風にも負けず 雪にも夏の暑さにも負けぬ 丈夫なからだを持ち 欲は無く決して瞋からず 何時も静かに笑っている一日に玄米四合と 味噌と少しの野菜を食べ あらゆる事を自分を勘定に入れずに 良く見聞きし判りそして忘れず野原の松の林の影の小さな萱葺きの小屋に居て東に病気の子供あれば 行って看病してやり 西に疲れた母あれば 行ってその稲の束を背負い 南に死にそうな人あれば 行って怖がらなくても良いと言い 北に喧嘩や訴訟があれば つまらないからやめろと言い日照りのときは涙を流し 寒さの夏はオロオロ歩き 皆にデクノボーと呼ばれ 誉められもせず苦にもされず そういう者に私はなりたい2023/11/13 19:07:49285.神も仏も名無しさんiq4IRそうなるのはスタートラインのなんでもない体験を我執で「特別なものであって欲しい、そうあれば私は私の中でなんらか偉大であれるから」みたいなのがおそらく付着してるはずそこから離れるためにさらにムーーーーっとやればやるほど頑なになる2023/11/13 19:08:11286.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSzBO9b坐禅とか続けてると苦が無くなっていくんで楽になります。俺もこの楽に随分と長く安住してた。でも、なんかしっくり来ない。ある日、禅堂で坐禅しながらこの楽を必死に切ってました。2日目かな、楽が切れたのがわかった。感覚としとは、すっからかん。ここが安楽です。心は実体がないから苦楽のない安楽となります。2023/11/13 19:10:04287.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSzBO9b禅に出会って17年になりますが、最初の頃は聞いてもその時はそうだってなるんだけど、すぐブレるんよね。そして、また同じことを聞くの繰り返し。それが最近、全然ブレない。ブレない自分に本当びっくりします。2023/11/13 19:12:14288.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSzBO9bわたしは幸いにも良い師に巡り合いました。ここでやっと自燈明・法燈明が作動し師はもはや不要となります。ですので、鬼和尚の1人サイの角のように歩めは、ここに来てやっと出来る訳で、それまでは正師につかないと、例えば数息観のみをやり続けるのは難しいと思います。ほかになんかあるんじゃないかとキョロキョロしますんでね。2023/11/13 19:19:10289.神も仏も名無しさんiq4IR定着してきたのはええことだ2023/11/13 19:20:41290.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSjmhTU悟り前 ∧_∧ ( ・∀・) ドキドキ ( ∪ ∪ と__)__)悟り後+ + ∧_∧ + (0゚・∀・) ワクワクテカテカ (0゚∪ ∪ + と__)__) +2023/11/13 19:44:43291.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSjmhTU悲しみが現にあるとき、思考をそれに少しも介入させず、それと共に留まっているとき、つまりあなたがそっくり悲しみであり、「あなた」が悲しみを克服しようとしているのではないとき、あなたは悲しみそのものです。そして、それがそっくり全部出るとき、それは消えるのです。あなたと悲しみが別々で断片化しているときにのみ、苦痛があるのです。クリシュナムルティ簡単言うと、この世の終わりくらい悲しいときは泣けってことです。すると悲しみが落ちるんです。2023/11/13 19:45:51292.カムイ◆wxnBcJ8ZogOStW3u6まずは知識欲を捨てること。知欲も欲であり仏法の大敵である。こうした気持ちを捨てない限り、分りたい気持ちが走るため、どうしても書物を漁ってしまう。そして知らず知らず理屈の虜になり、本源からズレて外道に落ちる。2023/11/13 20:13:30293.カムイ◆wxnBcJ8ZogOS7dGtI息に意識を置くだけで悟れるんです。2023/11/14 00:47:19294.神も仏も名無しさんKTgPO息に意識を置くのはスタートラインですな基本は究極って言えるのは凄い人だけだ2023/11/14 00:51:49295.土手を行くのは アハさんじゃないかぁ~♪o( _ _ )o~† ドテッOnJtk>>293> 息に意識を置くだけで悟れるんです。 ̄|_|○ドテッ意識しちゃー無我では無いよ。騒動衆 だねぇ。2023/11/14 01:42:46296.神も仏も名無しさんKTgPO息が働きになれば存在は息になりますよそんな初歩的なことを言ってるだけで騒動もないもない騒動はそれに「固執しすぎる」ところすな2023/11/14 01:48:56297.神も仏も名無しさんKTgPO過去も未来もない、とか言いながら言えばいうほど固執しとるなぁーってなるよくある執着す2023/11/14 01:50:10298.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSXu92bおはよう2023/11/14 05:56:39299.カムイ◆wxnBcJ8ZogOS2taIL>>294そう、もうわたしは基本が究極と言える2023/11/14 06:21:48300.神も仏も名無しさんQ23Ewブイブイっ〜〜〜〜👿👿👿👿👿2023/11/14 06:24:39301.カムイ◆wxnBcJ8ZogOS2taIL>>294つまり、あなたが思ってるより俺は凄い人なんです。なのであなたの指摘は全て釈迦に説法ですよ。2023/11/14 06:24:44302.カムイ◆wxnBcJ8ZogOS2taIL自分から目を離さない2023/11/14 06:30:02303.カムイ◆wxnBcJ8ZogOS2taIL動作はゆっくり丁寧に2023/11/14 06:33:47304.カムイ◆wxnBcJ8ZogOS2taIL外に散ってる心を内に持ってくる。2023/11/14 06:38:06305.神も仏も名無しさんQ23Ew索敵〜レーダ探知する〜😟818.ユーザー麦◆MUGITANx95DjKpUTC∞ノノハ∞川^〇^ハレカムイたんお薬忘れずに飲んでね宗教妄想って怖いねwww2023/11/14 00:38:292023/11/14 06:43:50306.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSSEp6J坐禅は念の浄化です。2023/11/14 06:53:19307.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSUCV2I吸う息、吐く息2023/11/14 08:28:36308.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSUCV2I吸う息、吐く息だけで悟ります。2023/11/14 08:30:42309.カムイ◆wxnBcJ8ZogOShDkHt見ている風景がわたし2023/11/14 09:04:38310.神も仏も名無しさんKTgPO>>299そうなんだざらざらしとりますなー2023/11/14 09:41:18311.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSobLAwなんかレイバンからトップガンマーベリックのサングラスが出てたから買いました笑2023/11/14 09:41:59312.カムイ◆wxnBcJ8ZogOS4MQVx>>310あなたがざらざらしてるからです。2023/11/14 10:52:03313.神も仏も名無しさんKTgPOいえすおあのーですな私のざらざらがあなたのざらざらを知覚したって仕組みでそもちろん、私の中にもざらざらはある2023/11/14 10:55:52314.神も仏も名無しさんeJwcoブイブイっ〜〜〜〜👿2023/11/14 10:56:01315.神も仏も名無しさんKTgPOカムイさんの症状が分かってきた2023/11/14 10:56:51316.カムイ◆wxnBcJ8ZogOS4MQVx今を離してはいけない。2023/11/14 10:59:17317.神も仏も名無しさんKTgPOそうそう、そうリアクションする引きこもらないといけない2023/11/14 10:59:46318.カムイ◆wxnBcJ8ZogOS4MQVx>>315わたしのの事が、わかったのですか?あなたなんぞ相手にしてないという事を。2023/11/14 11:06:15319.カムイ◆wxnBcJ8ZogOS4MQVxゆえに、すべからく言(こと)を尋ね、語を逐(お)うの解行(げぎょう)を休すべし。すべからく、回光返照(えこうへんしょう)の退歩を学すべし。身心(しんじん)自然(じねん)に脱落して、本来の面目現前せん。2023/11/14 11:16:50320.カムイ◆wxnBcJ8ZogOS4MQVx心意識の運転を停め、念想観の測量(しきりょう)を止めて、作仏(さぶつ)を図ることなかれ。2023/11/14 11:17:52321.神も仏も名無しさんQ23Ewブイブイ〜ロックオンされとる〜👿2023/11/14 11:21:09322.カムイ◆wxnBcJ8ZogOS4MQVx大切なことなので改めて言うが、坐禅とは頭での理解ではない。考えるという営み自体は非常に重要だが、本当の理解とは、頭で考えて得られるものではない。理解ではないと理解することが坐禅を会得する第一歩なのだが、それを理解したところで、それもまた結局は頭での理解にほかならない。では理解ではないところの理解とは何なのか。それは、理解ではないものへの理解である。頭のはたらきから離れた境地、是非や善悪といった価値判断を忘れ去った境地。そういった理解ではないものを理解するとき、自分と他者を隔てる壁が消失したような心地に至ることがある。そこにはもはや、坐禅を理解しようなどという思い自体が存在しない。坐禅という概念すらあやふやになって、自己と坐禅とが別のものではなくなるのである。世界を感じ、世界そのものとなる。それが坐禅の妙味であるといえるだろう。2023/11/14 11:22:45323.カムイ◆wxnBcJ8ZogOS4MQVxhttps://www.zen-essay.com/entry/hukanzazengiこの人しっかりしてるな。2023/11/14 11:26:24324.神も仏も名無しさんKTgPO>>318なんとなくね特別でありたいから入口で引き篭もる、みたいな感じの印象を受けた2023/11/14 11:58:53325.神も仏も名無しさんKTgPO形而上の入口体験を過剰評価したいのは、特別な存在でありたいからなのだろう2023/11/14 11:59:41326.神も仏も名無しさんKTgPOその体験はなんでもないのだが、何でもないものを特別なものにし続けるためには、引き篭もって、その場に留まり続けないといけないだから力んで、その何でもない体験が特別である、と自己洗脳し続ける必要がある2023/11/14 12:01:05327.神も仏も名無しさんKTgPOこの辺の姿勢が時間が止まってるラピスと何となく似てて、だから相性が良く、仲良く出来ていたのだろう2023/11/14 12:01:40328.神も仏も名無しさんQ23Ewブイブイっ〜〜〜〜👿2023/11/14 12:01:52329.神も仏も名無しさんKTgPOこんな印象だなムーーーーーーー2023/11/14 12:02:20330.神も仏も名無しさんQ23Ewロンよりはダメージ低いだろうが〜ロン以来のピンチブイブイかも〜👿2023/11/14 12:02:50331.神も仏も名無しさんQ23Ew>>329https://m.youtube.com/watch?v=5inainb2n78&pp=ygUk44KI44GX44KC44Go5paw5Zac5YqH44CA44K444On44O844K42023/11/14 12:05:03332.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSfq8Q7やっぱり道元禅師は凄い人だ、2023/11/14 12:53:01333.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSfq8Q7過去を本当の過去にする。2023/11/14 12:59:18334.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSfq8Q7吸う息、吐く息2023/11/14 13:12:00335.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSyUgjv吸う息、吐く息を意識すれば純粋の只管ではありませんけど、そこから入って行きます。2023/11/14 13:59:37336.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSyUgjv念を追っかけない2023/11/14 14:06:57337.カムイ◆wxnBcJ8ZogOS3UUvo原(たず)ぬるにそれ、道本円通(どうもとえんづう)いかでか修証(しゅしょう)を仮(か)らん。宗乗自在(しゅうじょうじざい)なんぞ功夫(くふう)を費さん。いわんや、全体はるかに塵埃(じんない)を出づ、たれか払拭(ほっしき)の手段を信ぜん。おおよそ当処を離れず、あに修行の脚頭(きゃくとう)を用うるものならんや。2023/11/14 16:02:56338.カムイ◆wxnBcJ8ZogOS3UUvoそもそも真理とは、どこかに隠されているものではない。眼に映るすべての存在が、余すことなく真理を表現し尽くしているのであって、修行や悟りなどといった事柄を考える以前に、真理はあたりまえに世界に溢れている。その大自然の理法を感じ取ることに、特別な技法など必要ない。塵や汚れを拭き取るように修行を続けなければ真理と出会うことはできないと考える人は多いが、そうではない。また、真理とはどこか遠くへ求めなければ得られないものと考える人もいるが、そうでもない。今自分がいるこの場所で十分なのである。特別な修行の末に、真理という名の悟りがあるのではないということを、まず知っておいてほしい。2023/11/14 16:03:36339.カムイ◆wxnBcJ8ZogOS3UUvoしかれども、毫釐(ごうり)も差あれば天地はるかに隔り、違順(いじゅん)わずかに起れば紛然(ふんぜん)として心を失す。たとい、会(え)に誇り悟(ご)に豊かにして、瞥地(べっち)の智通(ちづう)を獲(え)、道を得(え)、心を明らめて衝天(しょうてん)の志気(しいき)を挙(こ)し、入頭(にゅっとう)の辺量(へんりょう)に逍遥(しょうよう)すといえども、ほとんど出身の活路を虧闕(きけつ)す。2023/11/14 16:06:54340.カムイ◆wxnBcJ8ZogOS3UUvoただ、真理を悟ることに特別な技法は存在しないと言っても、真理を見つめる自分の眼に少しでも自分本位な部分があったなら、眼に映る世界は真実の世界からかけ離れたものになってしまうだろう。真実を悟ったとか、自分の理解はすばらしいだとか、物事の本質を摑んだとか言って、有頂天になってしまったなら、それはもはや真実を知る道を自分でふさいでしまったに等しい。2023/11/14 16:07:18341.カムイ◆wxnBcJ8ZogOS3UUvoいわんや、かの祇園(ぎおん)の生知(しょうち)たる、端坐(たんざ)六年の蹤跡(しょうせき)見つべし。少林の心印を伝うる、面壁九歳の声名(しょうみょう)なお聞こゆ。古聖すでにしかり、今人(こんじん)なんぞ弁ぜざる。ゆえに、すべからく言(こと)を尋ね、語を逐(お)うの解行(げぎょう)を休すべし。すべからく、回光返照(えこうへんしょう)の退歩を学すべし。身心(しんじん)自然(じねん)に脱落して、本来の面目現前せん。恁麼(いんも)の事(じ)を得んと欲せば、急に恁麼(いんも)の事を務めよ。2023/11/14 16:08:26342.カムイ◆wxnBcJ8ZogOS3UUvo仏法を学ぶ者は知っていることだろうが、かのブッダは6年間の苦行の末に坐禅を行い悟りを開いた。ブッダの心を受け継いだ達磨禅師は、9年間もの永きにわたって壁に向かってひたすら坐禅をした。昔の偉大な方々は、これほどまでに坐禅を重要視してきた。我々が坐禅をしなくてよい道理など、あるはずもない。人の言葉や書物の文字から真理を摑もうというのは、所詮、観念的な理解の域を出ないものだ。外から何かを学ぼうというのではなく、坐禅によって、真理を自己の内側に求めるのでなければ、いつまでたっても真理を知ることはできないだろう。身と心が坐禅となりきったとき、真理はありのままに目の前にあらわれる。この道理を知りたいと思うならば、実際に坐禅をはじめる以外に方法はない。2023/11/14 16:08:52343.カムイ◆wxnBcJ8ZogOS3UUvoそれ、参禅は静室(じょうしつ)宜しく、飲食(おんじき)節あり。諸縁を放捨(ほうしゃ)し万事を休息して、善悪を思わず是非を管することなかれ。心意識の運転を停め、念想観の測量(しきりょう)を止めて、作仏(さぶつ)を図ることなかれ。あに坐臥(ざが)に拘わらんや。2023/11/14 16:10:29344.カムイ◆wxnBcJ8ZogOS3UUvoさて、坐禅を行う際の方法であるが、まず坐禅を行うのは静かな場所がいい。また、食事の直後のように腹が膨れた状態や、空腹の状態での坐禅は避けたほうがいい。人は日々、いろいろなことを考えながら生きているが、何かを考えることをすべて一度やめて、良いとか悪いとか正しいとか間違いだとかいう判断も下さずに静かに坐りなさい。心で何かを感じようともせず、頭で何かを考えることもせず、もちろん悟りを開こうなどとも思わずに坐るのだ。こうした坐禅は、日常生活のなかでただ単に座ることとはまったく別の話である。2023/11/14 16:11:15345.カムイ◆wxnBcJ8ZogOS3UUvo尋常(よのつね)、坐処(ざしょ)には厚く坐物を敷き、上に蒲団を用う。あるいは結跏趺坐(けっかふざ)、あるいは半跏趺坐(はんかふざ)。いわく結跏趺坐は、まず右の足をもって左の腿の上に安じ、左の足を右の腿の上に安ず。半跏趺坐は、ただ左の足をもって右の腿を圧(お)すなり。寛(ゆる)く衣帯を繋(か)けて、斉整(せいせい)ならしむべし。次に、右の手を左の足の上に安じ、左の掌を右の掌の上に安ず。両の大拇指(だいぼし)、面(むか)ひて相拄(あいさそ)う。2023/11/14 16:12:23346.カムイ◆wxnBcJ8ZogOS3UUvo通常の坐禅は、座布団などの厚い敷物を敷き、その上に坐蒲という丸い蒲団をのせて、その上に自分の腰を据える。坐り方には、結跏趺坐と半跏趺坐がある。結跏趺坐とは、まず右の足先を左の腿の上にのせ、つぎに左の足先を右の腿の上にのせる形をいう。半跏趺坐とは、右足は動かさず、左の足先を右の腿の上にのせるだけの形をいう。服装についてであるが、窮屈なものはよくない。ゆったりとした服がよいが、くれぐれもだらしなく着ることのないように、きちんと整えた上で坐禅をすること。足を組んだら、次に右手を、手のひらを上に向けた状態で左足の上におき、その上に左手を、やはり手のひらを上に向けた状態でのせる。そして両手の親指の先を、微かに触れる程度にくっつけて法界定印を結ぶ。2023/11/14 16:13:03347.カムイ◆wxnBcJ8ZogOS3UUvoすなわち正身端坐(しょうしんたんざ)して、左に側(そばだ)ち、右に傾き、前に躬(くぐま)り、後(しりえ)に仰ぐことを得ざれ。耳と肩と対し、鼻と臍(ほぞ)と対せしめんことを要す。舌、上の顎(あぎと)に掛けて、唇齒(しんし)相著(あいつ)け、目は、すべからく常に開くべし。2023/11/14 16:13:54348.カムイ◆wxnBcJ8ZogOS3UUvo坐禅の形が出来上がったら、必ず背筋を伸ばして真っ直ぐに姿勢を正すように。左右どちらかに傾いたり、前に俯いたり、後ろにのけぞったりした状態で坐禅をしてはいけない。両耳を結ぶ線と両肩を結ぶ線が平行になり、その線に鼻と臍(へそ)を結ぶ線が垂直になるように意識すること。舌は上の前歯の付け根のあたりにくっつけて、歯を噛み合わせて口を閉じる。眼は必ず半眼にして、閉じずに少し開けておく。2023/11/14 16:14:16349.カムイ◆wxnBcJ8ZogOS3UUvo鼻息(びそく)微かに通じ、身相(しんそう)既に調えて、欠気一息(かんきいっそく)し、左右搖振(さゆうようしん)して、兀兀(ごつごつ)として坐定(ざじょう)して、この不思量底(ふしりょうてい)を思量せよ。不思量底、如何(いかん)が思量せん。非思量(ひしりょう)。これすなわち坐禅の要術なり。2023/11/14 16:14:57350.カムイ◆wxnBcJ8ZogOS3UUvo呼吸はゆっくりと鼻で行う。そのようにして坐禅の姿勢が整ったら、一度大きく深呼吸をして、体を左右にゆっくりと揺らすのを繰り返しながら、中心となる場所を感じ取ってどっしりと不動の坐を結ぶ。大切なことなので改めて言うが、坐禅とは頭での理解ではない。考えるという営み自体は非常に重要だが、本当の理解とは、頭で考えて得られるものではない。理解ではないと理解することが坐禅を会得する第一歩なのだが、それを理解したところで、それもまた結局は頭での理解にほかならない。では理解ではないところの理解とは何なのか。それは、理解ではないものへの理解である。頭のはたらきから離れた境地、是非や善悪といった価値判断を忘れ去った境地。そういった理解ではないものを理解するとき、自分と他者を隔てる壁が消失したような心地に至ることがある。そこにはもはや、坐禅を理解しようなどという思い自体が存在しない。坐禅という概念すらあやふやになって、自己と坐禅とが別のものではなくなるのである。世界を感じ、世界そのものとなる。それが坐禅の妙味であるといえるだろう。2023/11/14 16:15:24351.カムイ◆wxnBcJ8ZogOS3UUvoいわゆる坐禅は、習禅にはあらず。ただこれ安楽の法門なり。菩提を究尽(ぐうじん)するの修証(しゅしょう)なり。公案現成(こうあんげんじょう)、羅籠(らろう)いまだ到らず。もし、この意を得ば、龍の水を得るがごとく、虎の山に靠(よ)るに似たり。まさに知るべし、正法(しょうぼう)自(おのずか)ら現前し、昏散(こんさん)まず撲落(ぼくらく)することを。もし、坐より立たば、徐徐(じょじょ)として身を動かし、安祥(あんしょう)として起つべし。卒暴(そつぼう)なるべからず。2023/11/14 16:16:57352.カムイ◆wxnBcJ8ZogOS3UUvoいわゆる坐禅というものを、心を落ち着ける技法とか、悟りを開くための修行法と考えてはいけない。坐禅とは、安らかに生きる入口である。日常生活のあらゆる場面で、坐禅をしているときのような心で生きることが大切であるから、坐禅は入口なのだ。坐禅は仏の姿にほかならない。人が、人でありながら仏となる坐禅は、まことに尊い姿である。それは悟りのあらわれであるともいえる。自分本位の自我意識を忘却すれば、身と心は本当に自由なものになるのだ。それはあたかも、龍が水を得て本来の力を発揮するように、虎が山に入って本分をまっとうするように、存在が本来あるべき姿を取り戻すことに似ている。存在の真実は、いつでも目の前にあらわれている。それに気が付きさえすれば、迷い悩む心は消失する。坐禅を終える際についてだが、ゆっくりと体をほぐしながら、坐禅の心を維持するように安らかに立ち上がるように気を配ること。急いだり、荒々しく動いたりしてはいけない。2023/11/14 16:17:28353.カムイ◆wxnBcJ8ZogOS3UUvoかつて観る、超凡越聖(ちょうぼんおっしょう)、坐脱立亡(ざだつりゅうぼう)も、この力に一任することを。いわんや、また指竿針鎚(しかんしんつい)を拈ずるの転機、仏拳棒喝(ほっけんぼうかつ)を挙(こ)するの証契(しょうかい)も、いまだこれ思量分別のよく解するところにあらず。あに、神通修証(じんづうしゅしょう)のよく知るところとせんや。声色(しょうしき)の外(ほか)の威儀(いいぎ)たるべし。なんぞ知見の前(さき)の軌則にあらざるものならんや。2023/11/14 16:18:57354.カムイ◆wxnBcJ8ZogOS3UUvoかつての禅者のなかには、凡聖などという人間の計らいを超えた人物や、坐禅を組んだまま亡くなるという傑物が何人も存在した。そのような力はすべて坐禅から生まれたものだ。また、禅師が弟子等を導く際には、機敏に心をはたらかせて様々な方法が用いられてきたが、そのはたらきの根源にあるものは知識などではなく、やはり坐禅であった。このような坐禅の力は、不可思議な力、つまりは神秘的な能力などとは関わりがない。目の前にあらわれているあたりまえの世界を、真実の世界だとはっきり受け取ることが重要なのであって、眼に映る存在の裏に何かが隠れているのではないかとか、不思議な力があるのではないかと考えることが坐禅なのではない。2023/11/14 16:19:30355.カムイ◆wxnBcJ8ZogOS3UUvoしかれば則ち、上智下愚(じょうちかぐ)を論ぜず、利人鈍者(りじんどんしゃ)を簡(えら)ぶことなかれ。専一に功夫(くふう)せば、まさにこれ弁道(べんどう)なり。修証(しゅしょう)自(おのずか)ら染汙(ぜんな)せず、趣向(しゅこう)さらにこれ平常(びょうじょう)なるものなり。2023/11/14 16:20:34356.カムイ◆wxnBcJ8ZogOS3UUvo坐禅において、頭の良し悪しや、学歴や学問の有無などといった事柄は、まったく何の不都合ももたらさない。自分本位の心を放り捨てて一心に坐禅に励めば、それ以上の坐禅は存在しないからである。坐禅とは修行でありながら、同時に悟りの姿でもある。過程でありながら、すでに結果なのだ。特別なものは何もなく、難しいこともなく、ただ静かな心で坐ることで、誰もが坐禅とは何なのかを知ることができる。2023/11/14 16:20:53357.カムイ◆wxnBcJ8ZogOS3UUvoおよそそれ、自界他方(じかいたほう)、西天東地(さいてんとうち)、等しく仏印を持し、もっぱら宗風を擅(ほしいまま)にす。ただ打坐(たざ)を務めて、兀地(ごっち)に礙(さ)えらる。万別千差というといえども、祗管(しかん)に参禅弁道すべし。なんぞ自家の坐牀(ざしょう)を抛却(ほうきゃく)して、みだりに他国の塵境(じんきょう)に去来せん。もし一歩を錯(あやま)れば、当面に蹉過(しゃか)す。2023/11/14 16:21:35358.カムイ◆wxnBcJ8ZogOS3UUvoどのような世界に生きる人であっても、インドでも中国でも日本でも、仏道を学ぶ者は坐禅によって世界の真理を感じ取ってきた。悟りのあらわれである坐禅を続けることで、真理を摑んできたのである。人は一人ひとりみな異なっており、その導き方も人の数だけあると考えられるが、坐禅をして修行に励むという点に関しては共通していなければいけない。坐禅はどこか遠くへいかなければできないものではない。修行とは外に求める心を起こすことではない。今自分がいるこの場所で、自分の内側に眼を向ける。それが重要なのであって、そこを間違えれば坐禅は坐禅でなくなってしまう。2023/11/14 16:22:11359.カムイ◆wxnBcJ8ZogOS3UUvoすでに人身の機要を得たり、虚しく光陰を度(わた)ることなかれ。仏道の要機を保任す、誰かみだりに石火を楽まん。しかのみならず、形質(ぎょうしつ)は草露のごとく、運命は電光に似たり。倐忽(しゅくこつ)としてすなわち空じ、須臾(しゅゆ)にすなわち失す。2023/11/14 16:23:05360.カムイ◆wxnBcJ8ZogOS3UUvo不思議なもので、私たち人間は、気が付けばいつの間にか人間としてこの世界に生まれていた。人間として生まれたのであれば、人間としてまっとうに生きるのが常なのであって、無駄に時間を費やすようなことをしていては空しいだけだ。だから一時の快楽を追い求めることや、易きに流れるような生き方をしてはいけない。私たちの命は、いつでもすぐに消えてしまうほど儚いものである。無常の世界にあって、時間が無限にあると思い込んでしまうと、本当に大切なことを知ることなく、生を終えてしまうことになりかねない。2023/11/14 16:23:26361.カムイ◆wxnBcJ8ZogOS3UUvo冀(こいねがわ)くは、それ参学の高流(こうる)、久しく摸象(もぞう)に習って真龍(しんりゅう)を怪むことなかれ。直指端的(じきしたんてき)の道に精進し、絶学無為(ぜつがくむい)の人を尊貴し、仏仏の菩提に合沓(がっとう)し、祖祖の三昧を嫡嗣(てきし)せよ。久しく恁麼(いんも)なることを為さば、すべからくこれ恁麼(いんも)なるべし。宝蔵(ほうぞう)自(おのずか)ら開けて、受用(じゅゆう)如意(にょい)ならん。2023/11/14 16:24:12362.カムイ◆wxnBcJ8ZogOS3UUvo最後に、仏道を学ぼうと志す人たちに申し上げる。人の言葉や、書物の文字、知識の一端から垣間見た坐禅で、坐禅を理解したと思い込むことだけはしてはいけない。必ず自分自身で坐り、そのようにして修行をする人の姿から学び、先人が切り開いた心を自分の心にも生じさせ、ブッダから伝わる坐禅を正しく受け継がなくては、それは坐禅ではない。ブッダの坐禅をあなたが行えば、あなたはブッダと同じ坐禅をしたことになる。その時、あなたの心は平安に満ちて、眺める世界がすべて真理のあらわれであったことに気が付くことができる。それが、ブッダから伝わる坐禅である。2023/11/14 16:24:39363.カムイ◆wxnBcJ8ZogOS3UUvoこの人の現代語訳なかなかいいですね。2023/11/14 16:25:56364.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSV9omT坐禅は安楽の法門の入り口です。ですから、坐禅しようがしまいが今ここが安楽の法なんです。2023/11/14 17:06:26365.カムイ◆wxnBcJ8ZogOS4NfGU日常底の単を練ることが大切である。2023/11/14 18:11:46366.カムイ◆wxnBcJ8ZogOS4NfGU坐禅だけを修行だと思っていたら一生かかっても埒はあかない。2023/11/14 18:15:37367.カムイ◆wxnBcJ8ZogOS4NfGU常に道であること。2023/11/14 18:20:13368.カムイ◆wxnBcJ8ZogOS4NfGU例えばラジオでもテレビでも、聞くときは、「只」聞き、「只」見るだけ。2023/11/14 18:22:16369.カムイ◆wxnBcJ8ZogOS4NfGU入って来るままに聞くだけ。2023/11/14 18:23:26370.カムイ◆wxnBcJ8ZogOS4NfGU感情も気付きも入れない。2023/11/14 18:24:46371.カムイ◆wxnBcJ8ZogOS4NfGU自分を虚にしておく。2023/11/14 18:25:21372.カムイ◆wxnBcJ8ZogOS4NfGU「面白い」と言うたり思ったりするのは、何かに引っかかっている証拠である。2023/11/14 18:26:05373.カムイ◆wxnBcJ8ZogOS4NfGU何も無しにあると、そのまま入って聞こえて終わる。2023/11/14 18:30:36374.カムイ◆wxnBcJ8ZogOS4NfGUそれが「正聞」である。2023/11/14 18:31:04375.カムイ◆wxnBcJ8ZogOS4NfGU眼に於いては「正見」と言う。2023/11/14 18:31:56376.カムイ◆wxnBcJ8ZogOS4NfGUお釈迦さまがちゃんと言って居られることだ。2023/11/14 18:32:35377.カムイ◆wxnBcJ8ZogOS4NfGU見たり、聞いたりの縁について何か出るうちは、何か引っかかってるいる。2023/11/14 18:34:04378.カムイ◆wxnBcJ8ZogOS4NfGUつまり自我が有るからだ。2023/11/14 18:34:26379.カムイ◆wxnBcJ8ZogOS4NfGU疲れている時、ただ休んでじっとしていればよい。2023/11/14 18:37:36380.カムイ◆wxnBcJ8ZogOS4NfGU辛いとか、何かと云う気持ちが少しでも出ると、その物に何か引っかかっている。2023/11/14 18:39:18381.カムイ◆wxnBcJ8ZogOS4NfGU辛ければ辛いままであればよい。2023/11/14 18:39:51382.カムイ◆wxnBcJ8ZogOS4NfGU病もまた道であり、疲れもまた道である。2023/11/14 18:40:40383.カムイ◆wxnBcJ8ZogOS4NfGU自分の中に、何かが出た時は自我が立っている証拠である。2023/11/14 18:41:50384.カムイ◆wxnBcJ8ZogOS4NfGU一度は、迷いと迷えない「単」とのはっきりした違いに気づかねば、我見が入ったか入らんかの区別がつかない。2023/11/14 18:42:32385.カムイ◆wxnBcJ8ZogOS4NfGUこの正法の線をはっきりさせるためには、「今」を離してはならない。2023/11/14 18:42:58386.カムイ◆wxnBcJ8ZogOS4NfGU常に「只」するよう努力していればそれで良い。2023/11/14 18:44:28387.カムイ◆wxnBcJ8ZogOS4NfGUポカンとなり夢や幻の馬鹿になるのとは異なる。2023/11/14 18:45:55388.カムイ◆wxnBcJ8ZogOS4NfGUそこを誤解しないように。2023/11/14 18:50:32389.カムイ◆wxnBcJ8ZogOS4NfGU善悪や損得の気持ちがあった時は、あと残りがする。2023/11/14 19:24:42390.カムイ◆wxnBcJ8ZogOS4NfGUその残った上で次の事をしていることが多い。2023/11/14 19:30:13391.カムイ◆wxnBcJ8ZogOS4NfGUすると過去と今が重なるので大きな邪魔者になる。2023/11/14 19:30:33392.カムイ◆wxnBcJ8ZogOS4NfGU常に自分を注意していないとその事が分からない。2023/11/14 19:30:58393.カムイ◆wxnBcJ8ZogOS4NfGU例え無用な心がおこっても直ぐに捨てて相手にせずに、やるべきことを「只」やる。2023/11/14 19:31:23394.カムイ◆wxnBcJ8ZogOS4NfGU人と話をする時、云わないで良い事は言わない。2023/11/14 19:35:42395.カムイ◆wxnBcJ8ZogOS4NfGU余分な念を使わない。2023/11/14 19:37:51396.カムイ◆wxnBcJ8ZogOS4NfGU話は色々な事に渡るものだ。2023/11/14 19:38:44397.カムイ◆wxnBcJ8ZogOS4NfGU二重、三重の話が出て混線するが、その中心の線だけを取っていれば良い。2023/11/14 19:41:00398.カムイ◆wxnBcJ8ZogOS4NfGU一つ心で働けば良い。2023/11/14 19:41:48399.カムイ◆wxnBcJ8ZogOS4NfGU「単」は一つ線であること。2023/11/14 19:43:17400.カムイ◆wxnBcJ8ZogOS4NfGU一つのもので働けば良い。2023/11/14 19:44:28401.カムイ◆wxnBcJ8ZogOS4NfGU車を運転する時、心を虚にすること。2023/11/14 19:50:43402.カムイ◆wxnBcJ8ZogOS4NfGU景色は「只」見て、綺麗だとか何とか感情を挟んではいけない。2023/11/14 19:53:16403.カムイ◆wxnBcJ8ZogOS4NfGU動いている時は動くに任せて素直に動かされていれば良い。2023/11/14 19:54:39404.カムイ◆wxnBcJ8ZogOS4NfGU自在に何んにでも「只」応じてさらさら流れている事が分かってくる。2023/11/14 19:55:05405.カムイ◆wxnBcJ8ZogOS4NfGUそれには「今」一点を守らねば、前後裁断している大事な線が手に入らない。2023/11/14 19:56:03406.カムイ◆wxnBcJ8ZogOS4NfGU綺麗なとか表現しようとした時は、囚われているからだ。2023/11/14 19:56:32407.カムイ◆wxnBcJ8ZogOS4NfGU一点を守らないからである。2023/11/14 19:57:06408.カムイ◆wxnBcJ8ZogOS4NfGU今は動いている。2023/11/14 19:58:00409.カムイ◆wxnBcJ8ZogOS4NfGUそれを認めると何かが出ているから、囚われ付いていくことになる。2023/11/14 19:58:25410.カムイ◆wxnBcJ8ZogOS4NfGU何を見ても聞いても、何もなしの空である時には、そのままさらさらと只々でいける。2023/11/14 19:58:50411.カムイ◆wxnBcJ8ZogOS4NfGU「今」がはっきりすれば、大自然に目覚める。2023/11/14 19:59:45412.カムイ◆wxnBcJ8ZogOS4NfGUそうすると只管ならざるものなし。2023/11/14 20:00:14413.カムイ◆wxnBcJ8ZogOS4NfGUそこまで行くには「今」を守り切らねばならない。2023/11/14 20:01:35414.カムイ◆wxnBcJ8ZogOS4NfGUそうしないと迷いと悟り、煩悩と菩提の涯際を付ける事ができない。2023/11/14 20:07:30415.カムイ◆wxnBcJ8ZogOS4NfGU生死の涯際が取れるまで凡情が尽し切れるまで努力しなければならない。2023/11/14 20:08:08416.カムイ◆wxnBcJ8ZogOS4NfGU凡情に落ちるとは、物に落ちることである。2023/11/14 20:08:32417.カムイ◆wxnBcJ8ZogOS4NfGU「全て道である」すなわち煩悩即菩提というのは、いたり得た後の話である。2023/11/14 20:09:33418.カムイ◆wxnBcJ8ZogOS4NfGUそれをごっちゃにしてはいけない。2023/11/14 20:10:07419.カムイ◆wxnBcJ8ZogOS4NfGUそうしないと釈尊の六年間が無意味になる。2023/11/14 20:11:22420.カムイ◆wxnBcJ8ZogOS4NfGU努力せずして道が成就するはずが無いでは無いか。2023/11/14 20:11:58421.カムイ◆wxnBcJ8ZogOS4NfGU「単」「只管」「即今」「今」も大自然、つまり普遍の真理の異名である。2023/11/14 20:12:34422.カムイ◆wxnBcJ8ZogOS4NfGU「解脱」とはクセが落ちて、本当の「真理」に目覚めること。2023/11/14 20:12:57423.カムイ◆wxnBcJ8ZogOS4NfGUこの自覚症状を「悟り」という。2023/11/14 20:14:17424.カムイ◆wxnBcJ8ZogOS4NfGU何億年も「今」だけである。2023/11/14 20:15:33425.カムイ◆wxnBcJ8ZogOS4NfGU本当に生きた「今」が大切であり本当の命である。2023/11/14 20:16:10426.カムイ◆wxnBcJ8ZogOS4NfGU「今」を説くことはできない。2023/11/14 20:17:30427.カムイ◆wxnBcJ8ZogOS4NfGU聞いて分かった今は「考えた今」であり迷いの今である。2023/11/14 20:17:55428.カムイ◆wxnBcJ8ZogOS4NfGU世の中は今より他はない。2023/11/14 20:18:26429.カムイ◆wxnBcJ8ZogOS4NfGUだかこの真理を本当に自覚しなければ「今」に生きている本当の喜びも安心もない。2023/11/14 20:18:53430.カムイ◆wxnBcJ8ZogOS4NfGU仏道は本当の「今」に生きることである。2023/11/14 20:20:10431.カムイ◆wxnBcJ8ZogOS4NfGU既にみんな「今」であるから、「今」を徹底注意して離さなければ必ず自覚する。2023/11/14 20:20:57432.カムイ◆wxnBcJ8ZogOS4NfGU要は努力の有無である。2023/11/14 20:21:21433.カムイ◆wxnBcJ8ZogOS4NfGU菩提心、菩提心。2023/11/14 20:21:38434.カムイ◆wxnBcJ8ZogOS4NfGU「禪」は単を示すとある。2023/11/14 20:24:00435.カムイ◆wxnBcJ8ZogOS4NfGU単を示した行動でなければ、禅ではない。2023/11/14 20:25:13436.カムイ◆wxnBcJ8ZogOS4NfGU禅は要するに、単、只、ひたすらにあればよい。2023/11/14 20:26:41437.カムイ◆wxnBcJ8ZogOS4NfGUこれが禅の極意である。2023/11/14 20:27:08438.カムイ◆wxnBcJ8ZogOS4NfGU不純物の無い「今」が禅である。2023/11/14 20:28:46439.カムイ◆wxnBcJ8ZogOS4NfGUこれを「只管」という。2023/11/14 20:47:00440.カムイ◆wxnBcJ8ZogOS4NfGU本当に単調に「今」行じていくには、自己を忘じた力がないとできない。2023/11/14 20:47:26441.カムイ◆wxnBcJ8ZogOS4NfGU考えたのでは意識や感情が入っていて、不純物だらけで腐るから駄目である。2023/11/14 20:47:59442.カムイ◆wxnBcJ8ZogOS4NfGU自己のないことが禅である。2023/11/14 20:48:26443.カムイ◆wxnBcJ8ZogOS4NfGU生とか死は観念であり言葉である。2023/11/14 20:51:08444.カムイ◆wxnBcJ8ZogOS4NfGU思いにとらわれると思えば良い。2023/11/14 20:51:34445.カムイ◆wxnBcJ8ZogOS4NfGU多くは「只管」と言う言葉が、「只管」を邪魔している。2023/11/14 20:52:03446.カムイ◆wxnBcJ8ZogOS4NfGU「只管」にならねばいけないとか、いう意識が働いている。2023/11/14 21:04:10447.カムイ◆wxnBcJ8ZogOS4NfGU「只」あること、ただ「単」にある。2023/11/14 21:04:36448.カムイ◆wxnBcJ8ZogOS4NfGU余念を入れないように常に自分を見守っていなければいけない。2023/11/14 21:05:19449.カムイ◆wxnBcJ8ZogOS4NfGU「只」であらねば、禅が禅を教えてくれない。2023/11/14 21:05:47450.カムイ◆wxnBcJ8ZogOS4NfGU禅の趣旨や意味が判っても意味がない。2023/11/14 21:06:17451.カムイ◆wxnBcJ8ZogOS4NfGU「只管」にあれば、何をやっていても問題ではない。2023/11/14 21:06:42452.カムイ◆wxnBcJ8ZogOS4NfGUおおかたは思慮分別が先にでる。2023/11/14 21:07:36453.カムイ◆wxnBcJ8ZogOS4NfGUこの癖を破ることが、要するに禅修行である。2023/11/14 21:07:57454.カムイ◆wxnBcJ8ZogOS4NfGUこれが坐禅する眼目である。2023/11/14 21:08:19455.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSidVG9自己のないことがはっきりすることを「見性」という。2023/11/14 22:38:53456.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSidVG9しかし、「見性」しただけでは本当の融通がつかない。2023/11/14 22:39:26457.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSidVG9「悟り」が邪魔をするからだ。2023/11/14 22:39:56458.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSidVG9「見性」の力で「見性」を破らねばダメだ。2023/11/14 22:40:20459.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSidVG9自分を抜きにして、その時のみであればよい。2023/11/14 22:44:37460.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSidVG9何か自分が過去に学んだものとか、得たものとか、聞いているものとかが邪魔をする。2023/11/14 22:45:01461.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSidVG9ただ今のみの世界である。2023/11/14 22:45:25462.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSidVG9その場でちらっと出るものを問題にしないことだ。2023/11/14 22:45:50463.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSidVG9たえず「単」であればよい。2023/11/14 22:46:12464.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSidVG9私を挟まないで「単」であれ。2023/11/14 22:46:33465.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSidVG9箸を上げて口に運ぶ時も、いつも「単」であれ。2023/11/14 22:46:56466.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSidVG9いつもその場その場、「単」であれ。2023/11/14 22:47:12467.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSidVG9どうあろうとも、その物と離れなくなる。2023/11/14 22:47:34468.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSidVG9そうやり続けていると、「悟り」の牢屋から救われる。2023/11/14 22:47:56469.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSidVG9自己の無いことは判っても「単」をしょっちゅう練って行くのは容易ではない。2023/11/14 22:48:19470.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSidVG9自己も死もとれて本当に楽になっていく。2023/11/14 22:48:38471.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSidVG9坐禅をする人は自分の癖を取ることを主体にして、常に実践していれば良い。2023/11/14 22:50:59472.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSidVG9「今」がどんなことであれ、「心」に留めてはならない。2023/11/14 22:51:33473.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSidVG9それができないとモノにならない。2023/11/14 22:52:15474.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSidVG9自分がどんな刺激を受けてもさらさらやっていかなければいけない。2023/11/14 22:53:14475.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSidVG9本当にさらさらと、諸々の縁と対立無く人生する事は難しい。2023/11/14 22:53:41476.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSidVG9身と心が隔たっている限り不可能である。心は浮遊状態にあり、勝手に精神を展開するからだ。2023/11/14 22:58:00477.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSidVG9この状態である限り、我々の掛け替えのない道具であるこの身体は.煩悩の根源であり苦しみの種である。2023/11/14 22:58:21478.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSidVG9隔てが常に縁と対立して、心を惑乱させ葛藤するからだ。2023/11/14 22:58:46479.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSidVG9今、忽念と現れる心が問題なのだ。2023/11/14 23:12:08480.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSidVG9瞬間に忽念として生じ、而もその連続こそが煩悩の根源である。2023/11/14 23:12:46481.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSidVG9これが隔たりによって起こる事を先ず知ることだ。2023/11/14 23:13:30482.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSidVG9従って、今、忽念と生ずる心の元を解決する解決策は、隔てを取ることにある。2023/11/14 23:13:55483.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSidVG9如何にして取るか?2023/11/14 23:17:32484.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSidVG9問題の焦点は「今・瞬間」に有る。2023/11/14 23:18:10485.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSidVG9「今」に二つはない。2023/11/14 23:19:04486.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSidVG9「今」その物になればよい。2023/11/14 23:19:41487.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSidVG9「今」でない物はない。2023/11/14 23:20:12488.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSidVG9従って、「今」だけ。2023/11/14 23:21:04489.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSidVG9素直に「今」在ること。2023/11/14 23:21:28490.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSidVG9「今」余念無く一心不乱にすること。2023/11/14 23:21:46491.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSidVG9要するに我を忘れて成り切ることだ。2023/11/14 23:22:06492.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSidVG9本当に徹すれば、自ずから隔たりが取れて、心身一如の当体となる。2023/11/14 23:22:51493.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSidVG9否、元よりこの心身本来なり。2023/11/14 23:23:13494.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSidVG9これを仏という。2023/11/14 23:23:42495.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSidVG9菩提心が無ければ皆ダメだ。2023/11/14 23:24:07496.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSidVG9「只」吐き、「只」吸うだけ。2023/11/14 23:24:33497.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSidVG9一瞬一瞬を大切にして「只」やる。2023/11/14 23:25:57498.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSidVG9どんな事も「只」やる。2023/11/14 23:26:15499.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSidVG9呼吸の一瞬一瞬のみ。2023/11/14 23:26:52500.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSidVG9呼吸の一瞬が続けられれば、自然にすべてに一瞬一瞬のみにできる。2023/11/14 23:27:15501.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSidVG9その物と離れないでやれるようになる。2023/11/14 23:27:38502.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSidVG9こうなれば大したものである。2023/11/14 23:28:00503.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSidVG9ここまで来ねばいけない。2023/11/14 23:28:27504.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSidVG9常住不変に一瞬一瞬でなければいけない。2023/11/14 23:28:55505.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSidVG9それには涯際が付くまで常住不変に練らねばいけない。2023/11/14 23:29:20506.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSidVG9自ずから成るようになるまで練らなければ、本当の安楽も無いし、生死の不安からも救われない。2023/11/14 23:29:45507.神も仏も名無しさんD3PC6上書き自己洗脳中のようじゃなバタバタしない、力まない2023/11/14 23:30:42508.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSidVG9願心はあっても、やらなければ駄目である。相手や環境である境に用はない。2023/11/14 23:44:16509.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSidVG9とにかく願心である。2023/11/14 23:45:08510.神も仏も名無しさんD3PC6そんなに力んだら血管きれちゃいますよんでぎゅっとなると縮こまるから移動できない成長できない、変わらない停滞しかないイマココにあるなら全部手放しますよ2023/11/14 23:45:24511.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSidVG9自分の好きな事に時を過ごしてはいけない。2023/11/14 23:46:01512.神も仏も名無しさんD3PC6始まりが良くない始まりの動機がよくないまずは、それを捨てないといけない一定の経験があるのだから出来るはずだし分かってるはず2023/11/14 23:46:23513.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSidVG9その場その場のみであること。2023/11/14 23:46:34514.神も仏も名無しさんD3PC6そう洗脳すればするほど、逆側の力が働くその場、その場のみ、と力むから過去に捉われる2023/11/14 23:47:21515.神も仏も名無しさんD3PC6動機がよくないその動機でずっときてるから曲がる動機を捨てないといけない2023/11/14 23:48:05516.神も仏も名無しさんD3PC6イマココにあれば、みんな友達になりますなそんなにビクビクして自分の殻に逃げ込む必要もない2023/11/14 23:49:13517.リダン◆iKlPp4IWRYxlZ67ゼンさんきてるよ2023/11/14 23:49:58518.神も仏も名無しさんD3PC6あれま、カムイさんGOだ!w2023/11/14 23:51:16519.リダン◆iKlPp4IWRYxlZ67もう行ってたw2023/11/14 23:52:16520.神も仏も名無しさんD3PC6カムイさんまっしぐら🐈2023/11/14 23:52:53521.神も仏も名無しさんD3PC6特別でありたいんだよな、そういうのは捨てないといけない2023/11/14 23:56:19522.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSPOaca>>517まぁ、特にこれと言って聞く事ないんですけどね。少し話交わしたいような。2023/11/15 00:04:27523.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSPOaca自分の考えなど入れず、その時のみに成って一心にすこと。2023/11/15 00:08:06524.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSPOaca初めはどうかしようとするが、それが要らない。2023/11/15 00:08:29525.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSPOacaその場その場のみに任せておく。2023/11/15 00:09:53526.神も仏も名無しさん75LCkそうありたい、(そうじゃないから)こうなってしまう2023/11/15 00:19:58527.神も仏も名無しさん75LCkだから力まない2023/11/15 00:20:13528.神も仏も名無しさん75LCk力んでしまうのは動機のせいだな本人もうすうす気付いてるようだから、あとはカムイさん次第だな2023/11/15 00:21:18529.神も仏も名無しさん75LCkカムイさんは特別でありたい切迫感はあるけど我執を落とす切迫感がないベクトルが違うんだなだから我執が強化されてしまう2023/11/15 00:23:31530.神も仏も名無しさん75LCk我執を原動力に頑張ってきた今は、それを捨てる時期なんだろうなそれは、昔は必要だったけど、もういらない我執なくてもやってゆける2023/11/15 00:24:53531.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSPOacaその事のみに「心」を置いてする。2023/11/15 00:37:49532.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSPOaca常に、そう努力していると、自然に「隔て」が取れていく。2023/11/15 00:38:10533.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSPOaca「只」やれる。2023/11/15 00:38:32534.神も仏も名無しさん75LCk言葉の節々から無理してるのが伝わってきますな苦しそう2023/11/15 00:38:54535.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSPOaca何事も淡々とできる。2023/11/15 00:38:56536.神も仏も名無しさん75LCkそうは見えないなそう「あろうと無理してる」感じ2023/11/15 00:39:36537.神も仏も名無しさん75LCkもうそろそろ、それに自分で気付いて軌道修正してもいい季節だ2023/11/15 00:40:41538.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSPOaca「只」が純熟してくるから自然と全てと一つに成る。2023/11/15 00:43:07539.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSPOaca本当に熟して徹する。2023/11/15 00:43:30540.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSPOacaそうしないと大自覚が無い。2023/11/15 00:43:55541.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSPOacaこれが「悟り」の大事であり証明である。2023/11/15 00:44:23542.神も仏も名無しさん75LCkうーん、不自然なんだよな何でもない体験と、覚者の言葉はリンクはもちろんするんだけど強引に覚者の言葉と自分の何でもない体験を結びつけて特別でありたい、と言い続けてる感じ停滞しか待ってないな本人が一番分かってるだろうけど2023/11/15 00:44:51543.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSPOacaここで本当に納得する。2023/11/15 00:44:51544.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSPOacaだから悟りを目指して「今」「只」やる。2023/11/15 00:45:20545.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSPOaca無目的の坐禅は知らん間に妄想坐禅となり、ぽかんとした腑抜け禅になるから注意せよ。2023/11/15 00:45:40546.神も仏も名無しさん75LCkガチガチになってるから「その先」はないな何でもない体験を根拠に特別でいたい、でありきってそれで終わる、がこのままいくと濃厚だ2023/11/15 00:45:54547.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSPOacaどうしても本当の菩提心が無ければ邪禅になり、多少の落ち着きが有っても、損得など邪念は一向に取れない。2023/11/15 00:46:12548.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSPOaca無明の根本を解決しなければ坐禅修行する意味が無い。2023/11/15 00:46:33549.神も仏も名無しさん75LCkなにより頑なな状態では、心の可動域がないからそもそも変化を捨ててる変わる気がないのに、変わることを求めても何も起きませんな2023/11/15 00:46:45550.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSPOaca菩提心、菩提心。2023/11/15 00:46:50551.神も仏も名無しさん75LCkそれも、「そうではない」の強化に残念だがなってしまう人の心は正直だから2023/11/15 00:47:34552.神も仏も名無しさん75LCk自分の状態に気づけないのは単純に未熟だからだよんで、それを知らないのは「変化したことがあまりない」からだな2023/11/15 00:48:26553.神も仏も名無しさん75LCk我執を捨てる行を地道にやったほうがいい2023/11/15 00:49:38554.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSPOaca「応無所住而生其心。」この語はみんな知っている大切なお釈迦様のお言葉である。2023/11/15 00:52:49555.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSPOaca難しそうに聞こえるこの語も、砕けば「今」「只」のこと。2023/11/15 00:53:20556.神も仏も名無しさん75LCkカムイさんは「特別でいたい」という動機に捉われてるから、その我執から離れた方がいい、という話ですな2023/11/15 00:54:23557.神も仏も名無しさん75LCkイマココは世界の開闢の実存の体験だけど、そんなものは何でもないわけむしろ、その状態で座って本質を変容させないといけない入口の体験を有り難がって、それに特別な意味を持たせて執着して頑なになったら、入り口に立った意味がなくなりますな2023/11/15 00:56:29558.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSPOacaみんなの[本当の心]のこと。2023/11/15 00:56:29559.神も仏も名無しさん75LCkカムイさんは分かってなくて、JBLさんのいう地縛霊状態になってるその状態は心が頑なになって、そこで時間が止まって、個の進化が止まる状態ですなよくないから、そこから離れたほうがいいそのためには、行動から変えた方がええですぜ2023/11/15 00:58:09560.神も仏も名無しさん75LCkまぁ、とはいえカムイさんの人生だから、好きなようにやればええけど2023/11/15 00:58:40561.神も仏も名無しさん75LCk心が柔らかくないと人に好かれないし、変化も起きないそういう状態じゃないと神仏の協力は得られませんなキリスト教的に言うと、恩寵が得られない状態はなぜなら、悔い改めないから2023/11/15 01:00:07562.神も仏も名無しさん75LCk神仏が愛する人や空間は、隣人も愛するものであるはずだそういうハードルなんだろうな2023/11/15 01:00:51563.神も仏も名無しさん75LCkその意味で、鹿もカムイさんも対峙してるハードルはよく似てる他者と比べる鹿と、自分の中で特別でいたいカムイさん我執の陰陽ですな2023/11/15 01:02:15564.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSPOacaこれを自ら證するだけである。2023/11/15 01:07:11565.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSPOaca「隔て」がとれると常住不変がわかる。2023/11/15 01:07:38566.神も仏も名無しさん75LCkカムイさんの人生だから好きにやればええ苦しみがもっと必要なら、神はそれを与えてくれるから2023/11/15 01:07:58567.神も仏も名無しさん75LCk個人的には入口に立ってるのにもったいないな、とはどうしても思ってしまうが、仕方がないな2023/11/15 01:09:21568.神も仏も名無しさん75LCkまぁ、人それぞれ全ては神とカムイさんの望むままに2023/11/15 01:10:09569.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSPOacaここまでで誰か質問ありますか?2023/11/15 01:13:17570.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSPOaca死んで生きてが無くなり、一杯一杯である。2023/11/15 01:17:20571.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSPOaca「今」の正体を知ればよい。2023/11/15 01:17:50572.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSPOacaもともと「今」だから「今」はいらなくなる。2023/11/15 01:24:22573.神も仏も名無しさん75LCk動機に引っ張られてるからイマココを体感した時の感覚を純粋に受け取ってないと思いますぜ何でもないものを神格化してしまうのは動機に引っ張られてるからだな2023/11/15 01:26:04574.神も仏も名無しさん75LCk我執があるから色眼鏡のフィルターかけてしまうその色眼鏡で我執風味に変容した記憶、過去に捉われてしまうその事実に気付ければええんだけどな2023/11/15 01:27:10575.神も仏も名無しさん75LCkぜんぶ、はじまりの動機が悪さしてるその想いを救ってあげないと、今の状態はなくなりませんなつまり、それを行う切迫感が薄いつまり、これからもっともっと「痛い目に遭う」ってことでもある2023/11/15 01:28:39576.神も仏も名無しさん75LCk分かっててもやめられないのが、人の業よの2023/11/15 01:28:56577.神も仏も名無しさん75LCk人は悪を愛してる自由意志で、自ら望んで止めようとする分からない人がそれを手放すときはほんとにほんとにほんとに、辛すぎて、痛すぎる時だけだなだから、苦を、人は自ら望んで引き寄せる2023/11/15 01:31:11578.神も仏も名無しさん75LCkそれほど、人は愚かだだからギリシャ悲劇がある2023/11/15 01:31:47579.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSn4wKgこれは徹底「今」に成り切って、「今」を忘れなければ体得出来ないし、分からない言葉である。2023/11/15 02:20:43580.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSn4wKg「今」に徹すると、一瞬に今までの妄想が骨身に徹して感じる。2023/11/15 02:21:25581.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSn4wKgつまり妄想そのままが自分となり、妄想とすべきものが無くなる。2023/11/15 02:21:45582.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSn4wKgこれを全身の毛穴からも呼吸をしていると云う。2023/11/15 02:22:11583.神も仏も名無しさん75LCkカムイさんは実存の体験を忘れて今が、過去、現在、未来の、のっぺりしたものになってるなそうなってしまうのも動機が悪いからだな2023/11/15 02:23:57584.神も仏も名無しさん75LCk我執は比較の世界だからそうなる実存の今は形而上のもので、超越的なものだでも、みんなが当たり前に日常に体験してる日常の基盤でもある空気みたいなもんだから意識的には掴める人があまりいないみたいだけど、現実問題、万人の基盤なんだから何でもない2023/11/15 02:25:53585.神も仏も名無しさん75LCk空気の存在が科学的に解明されなくとも空気はあり、だから生きてる空気を知っても何も変わらないのと同じよ何でもない2023/11/15 02:26:56586.神も仏も名無しさん75LCkそんなことはどうでもよくて無我を知れば、脱力して、本質側を動かせるようになる可動域が初めて生まれるだから、そのスタートラインに立って、その後で、本質側をどう変容させられるか、が宗教の本丸だなスタートラインの地縛霊になったら、その後に何も起きない2023/11/15 02:28:53587.神も仏も名無しさん75LCk向上、成長したいだけなのか?我執に捉われて特別になりたいのか?後者はいずれ魔境に捉われるこれは、運命論的に決まってるんだ前者だけが道だな2023/11/15 02:32:21588.神も仏も名無しさん75LCk前者なら、脱力して、変化の可動域がある、心と身体になってないとおかしいガチガチなのに前者はあり得ないそういうもんだな謙虚さがないと求道はあり得ない2023/11/15 02:33:25589.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSn4wKg丸ごてと云う意味である。2023/11/15 02:34:59590.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSn4wKg体と思う念が無くなる。2023/11/15 02:35:26591.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSn4wKg体の念が有れば体にくくられる。2023/11/15 02:35:47592.神も仏も名無しさん75LCkそう願うことがそう「ではない」となってしまうんだよそれは、今のあなたの存在が全力で主張してるから、メタ認知さえあれば自分で気付くことそれすらも出来ないのだから、状態はよくないわけ2023/11/15 02:36:43593.神も仏も名無しさん75LCk貧乏人が、貧乏人だから、金持ちに成りたい!と全力で願ってるのと変わらない2023/11/15 02:37:30594.神も仏も名無しさん75LCk始まりが間違ってる動機が間違ってるそれに気付けないと先に進めませんぜ2023/11/15 02:38:06595.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSn4wKg体の念が無ければ自ら気にならなくなる。2023/11/15 02:38:31596.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSn4wKg「応無所住而生其心」も、[心]の様子の事。2023/11/15 02:39:01597.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSn4wKg「今」「只」のこと。2023/11/15 02:39:36598.神も仏も名無しさん75LCk自己洗脳で上書きせざるを得ない我執が捨てられないんだよな時間はまだ残ってるから足掻くしかないな2023/11/15 02:39:56599.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSn4wKgこれが浄穢不ニ、自他不ニとなって本当に安心する。2023/11/15 02:39:58600.神も仏も名無しさん75LCk安心したいんだよな2023/11/15 02:40:21601.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSn4wKg「隔て」が無くなり心身一如になれば何でもない事よ。2023/11/15 02:40:58602.神も仏も名無しさん75LCkそうなりたいんだよな2023/11/15 02:41:40603.神も仏も名無しさん75LCkでも、我執のため、ならそうならない、が現実なんだろうと思うだから、現実が願望と違うから力一杯、自己洗脳しなければならなくなる2023/11/15 02:43:11604.神も仏も名無しさん75LCkカムイさんは調和を作れない自然(法)と反してるからだと思われ2023/11/15 02:45:02605.神も仏も名無しさん75LCk唯識的にはそれは遍計所執性の仕業ですな2023/11/15 02:46:07606.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSn4wKgこれは良いとか悪いとか、すぐ自我を立てるから「隔て」となる。2023/11/15 02:51:17607.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSn4wKg事はここから起こる。2023/11/15 02:51:55608.神も仏も名無しさん75LCk自我を立てる始まりの動機が悪いから今のカムイさんの状態になってしまう、ってことですなそれを捨てなければ一歩も先に進めませんぜって話し2023/11/15 02:54:10609.神も仏も名無しさん75LCk自我というか、我執を立てる、なんだけど自我自体は単なる働きだから問題ないけど、我執は悪いな2023/11/15 02:55:15610.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSn4wKg[心]の衝突である。2023/11/15 03:10:34611.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSn4wKgこれは一つのものを立てて認めるから、二つに見たり、三つに思ったり、念が無限に広がって迷う。2023/11/15 03:11:01612.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSn4wKgこれが無明よ。2023/11/15 03:11:22613.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSn4wKg比べる物がないのに、自己を立てて比べるからである。2023/11/15 03:15:35614.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSn4wKg本当に「只」を常に練っていれば良い。2023/11/15 03:18:32615.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSn4wKgそう努力していると自然に相手が気にならなくなる。2023/11/15 03:19:09616.神も仏も名無しさん75LCk衝突するならあなたも二で、あなたの発言があなたの現実において否定されるってことでそ?つまり、>>605ですな2023/11/15 03:20:11617.神も仏も名無しさん75LCk特別でありたい、が悪さしとりますな2023/11/15 03:20:42618.神も仏も名無しさん75LCkこんな自明なことを認められなくて観も何もないですな2023/11/15 03:21:13619.神も仏も名無しさん75LCkあるがままは受け入れることができないつまり>>6052023/11/15 03:21:42620.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSn4wKgいやでも「隔て」がとれて一つに成る。2023/11/15 03:40:00621.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSn4wKgこれを入我我入という。2023/11/15 03:40:34622.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSn4wKg世の中に処しながら、相手と一つに成って自在に変わっていくのを異類中行と云う。2023/11/15 03:43:34623.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSn4wKg私が無いと、天下は自分の姿に他ならない。2023/11/15 03:44:15624.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSn4wKgこの境界が不動心である。2023/11/15 03:44:50625.神も仏も名無しさん75LCk(そうてはないから)そうありたい2023/11/15 04:00:21626.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSttdn1不動心は正法以外にない。2023/11/15 06:48:03627.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSttdn1「今」「只」が正法である。2023/11/15 06:48:29628.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSttdn1正法は「世界壊せども、この性は壊せず」とお経にある。2023/11/15 06:49:06629.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSttdn1同時に二つのことは、考えれない。2023/11/15 06:50:04630.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSttdn1一点のみ集中して、正体のいかなるものかを自覚するのである。2023/11/15 06:54:34631.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSttdn1一つ事に集中し切らなければ「隔て」はとれない。2023/11/15 06:55:19632.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSttdn1菩提心の一点張りだ。2023/11/15 06:55:38633.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSttdn1「今」「只」に我は無い。2023/11/15 07:07:24634.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSttdn1我れなければ、即菩提。2023/11/15 07:08:45635.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSttdn1それを大清淨とも云う。2023/11/15 07:09:12636.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSttdn1汚がさるるものがなければ、浄くするものもない。2023/11/15 07:10:24637.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSttdn1「今」は生死を論ずる間はない。2023/11/15 07:27:51638.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSttdn1本当に「今」が手に入ったら自ずから生死が気に掛からない。2023/11/15 07:31:59639.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSttdn1生死透脱というのも、砕いて言えば「今」「只」のことである。2023/11/15 07:32:31640.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSttdn1心身一如のところが余念が出ないところ2023/11/15 07:38:10641.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSttdn1ここを練って行きます。2023/11/15 07:43:03642.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSttdn1心身一如である時やっと坐禅が坐禅になります。2023/11/15 07:48:38643.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSjAtMh悟れないのは只管に成らねばいけないという意識が働いて、只管が只管を邪魔しているからである。2023/11/15 08:28:32644.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSjAtMh途中は仕方がない。2023/11/15 08:31:57645.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSjAtMhそれが目標だから。2023/11/15 08:52:10646.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSjAtMh本当に「只」になればよい。2023/11/15 08:57:55647.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSjAtMh只管も只も有ってはならない。2023/11/15 09:00:43648.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSKQmey菩提心のもとに常に「単」を練ることである。2023/11/15 09:09:08649.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSKQmey坐禅をする人は、自分の癖を取る事を主体にして、即今底を実践すれば良い。2023/11/15 09:11:58650.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSl3WG4「只」は努力の結果である。2023/11/15 09:27:22651.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSl3WG4ここまで来ると本当に大平和である。2023/11/15 09:27:43652.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSl3WG4生死はただ「単」である。2023/11/15 09:28:08653.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSl3WG4生のまま、死のままである。2023/11/15 09:31:12654.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSl3WG4「今」の様子に過ぎない。2023/11/15 09:36:24655.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSl3WG4この真理を悟るのが坐禅修行の本当の目的である。2023/11/15 09:36:46656.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSl3WG4一隻眼を具するとは、自己のないことがはっきりすることである。2023/11/15 09:37:13657.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSl3WG4しかしそれだけでは何かが引っかかる。2023/11/15 09:37:33658.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSl3WG4はっきりしていても、引っかかるものがある。2023/11/15 09:37:52659.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSl3WG4まだ本当に取り尽くされていないからだ。2023/11/15 09:40:26660.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSl3WG4おおかたの悟ったというところはこの当たりだ。2023/11/15 09:40:54661.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSl3WG4悟後の修行の大事な所である。2023/11/15 09:41:19662.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSl3WG4決して油断してはならない。2023/11/15 09:41:44663.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSl3WG4自己のないところの確証をにぎってしまうと、大抵はそれをひっ下げてしまう。2023/11/15 09:42:47664.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSl3WG4本当に大悟したものは少ない。2023/11/15 09:43:17665.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSl3WG4簡単に言えば菩提心が弱いからだ。2023/11/15 09:43:46666.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSl3WG4それを捨てて単を練ることが足りないからだ。2023/11/15 09:44:09667.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSl3WG4境涯を得ても、そこが陶治されないといけない。2023/11/15 09:44:31668.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSl3WG4境涯を持っていては駄目である。2023/11/15 09:45:07669.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSl3WG4うたた悟れば、うたた捨てよ。2023/11/15 09:45:31670.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSl3WG4この大法を得ることは容易ではない。2023/11/15 09:45:55671.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSl3WG4菩提心の鈍い者は到底仏祖の誹りを免れぬ。2023/11/15 09:46:32672.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSl3WG4努力しかない。2023/11/15 09:46:52673.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSl3WG4菩提心が仏祖の命、仏法の血肉である。2023/11/15 09:47:38674.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSl3WG4菩提心、菩提心。2023/11/15 09:48:03675.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSl3WG4心身一如のところが余念が出ないところここを練って行きます心身一如である時ようやく坐禅が坐禅になります。2023/11/15 09:51:18676.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSl3WG4>>675ここの感覚がやっとわかったな。2023/11/15 09:51:46677.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSl3WG4また、一歩進むことが出来た。2023/11/15 09:54:52678.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSl3WG4「只」吐き、「只」吸うだけ。禅は、単、只、ひたすらにあればよい。これが禅の極意である。心身一如のところが余念が出ないところここを練って行きます心身一如である時ようやく坐禅が坐禅になります。2023/11/15 09:56:16679.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSl3WG4なので、今わたしが言いたい事はこのようになる。2023/11/15 09:56:52680.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSuP2AQ日常底の単を練ることが大切である。2023/11/15 12:48:41681.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSuP2AQ坐禅だけを修行だと思っていたら一生かかっても埒はあかない。2023/11/15 12:53:32682.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSuP2AQ常に道であること。2023/11/15 12:54:56683.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSuP2AQ明日トップガンモデルのレイバンのサングラス来る。楽しみ。2023/11/15 12:56:57684.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSV4Al8このスレッドは平和やね2023/11/15 13:55:16685.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSYoHYaいいなーいいなー人間っていいなー2023/11/15 15:31:43686.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSM6mmyしかし、zenさんも坐禅が動中の工夫っておかしいな事言うな。俺の方が上かな。2023/11/15 16:21:06687.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSz3dgs実践としては坐禅が一枚上だね。2023/11/15 18:48:57688.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSz3dgs念の出る前の所を練っていく2023/11/15 18:52:44689.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSoYvhk心を以てはかることなかれ、ことばを以ていふことなかれ。ただわが身をも心をもはなちわすれて、仏のいへになげいれて、仏のかたよりおこなはれて、これにしたがひもてゆくとき、ちからをもいれず、こころをもつひやさずして、生死をはなれ、仏となる。2023/11/15 19:05:20690.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSoYvhk>>689ここの、仏の家とは念が出る前の場所です。2023/11/15 19:06:16691.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSoYvhk俺のスレッドもやっと平和になったな2023/11/15 19:19:59692.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSoYvhk平和が一番2023/11/15 19:26:22693.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSoYvhk只吸う只吐くに徹するだけ2023/11/15 19:30:20694.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSoYvhkこれしかありません2023/11/15 19:31:07695.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSoYvhk「只」吐き、「只」吸うだけ。禅は、単、只、ひたすらにあればよい。これが禅の極意である。心身一如のところが余念が出ないところ。ここを練って行きます。心身一如である時ようやく坐禅が坐禅になります。2023/11/15 19:33:14696.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSoYvhk日常底の単を練ることが大切である。坐禅だけを修行だと思っていたら一生かかっても埒はあかない。常に道であること。例えばラジオでもテレビでも、聞くときは、「只」聞き、「只」見るだけ。入って来るままに聞くだけ。感情も気付きも入れない。自分を虚にしておく。「面白い」と言うたり思ったりするのは、何かに引っかかっている証拠である。何も無しにあると、そのまま入って聞こえて終わる。それが「正聞」である。眼に於いては「正見」と言う。お釈迦さまがちゃんと言って居られることだ。見たり、聞いたりの縁について何か出るうちは、何か引っかかってるいる。つまり自我が有るからだ。2023/11/15 19:41:47697.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSoYvhk疲れている時、ただ休んでじっとしていればよい。辛いとか、何かと云う気持ちが少しでも出ると、その物に何か引っかかっている。辛ければ辛いままであればよい。病もまた道であり、疲れもまた道である。2023/11/15 19:43:26698.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSoYvhk自分の中に、何かが出た時は自我が立っている証拠である。一度は、迷いと迷えない「単」とのはっきりした違いに気づかねば、我見が入ったか入らんかの区別がつかない。この正法の線をはっきりさせるためには、「今」を離してはならない。2023/11/15 19:44:01699.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSoYvhk常に「只」するよう努力していればそれで良い。ポカンとなり夢や幻の馬鹿になるのとは異なる。そこを誤解しないように。善悪や損得の気持ちがあった時は、あと残りがする。その残った上で次の事をしていることが多い。すると過去と今が重なるので大きな邪魔者になる。常に自分を注意していないとその事が分からない。例え無用な心がおこっても直ぐに捨てて相手にせずに、やるべきことを「只」やる。2023/11/15 19:44:46700.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSoYvhk人と話をする時、云わないで良い事は言わない。余分な念を使わない。話は色々な事に渡るものだ。二重、三重の話が出て混線するが、その中心の線だけを取っていれば良い。一つ心で働けば良い。「単」は一つ線であること。一つのもので働けば良い。2023/11/15 19:45:32701.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSoYvhk車を運転する時、心を虚にすること。景色は「只」見て、綺麗だとか何とか感情を挟んではいけない。動いている時は動くに任せて素直に動かされていれば良い。自在に何んにでも「只」応じてさらさら流れている事が分かってくる。それには「今」一点を守らねば、前後裁断している大事な線が手に入らない。綺麗なとか表現しようとした時は、囚われているからだ。一点を守らないからである。今は動いている。それを認めると何かが出ているから、囚われ付いていくことになる。何を見ても聞いても、何もなしの空である時には、そのままさらさらと只々でいける。2023/11/15 19:46:08702.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSoYvhk「今」がはっきりすれば、大自然に目覚める。そうすると只管ならざるものなし。そこまで行くには「今」を守り切らねばならない。そうしないと迷いと悟り、煩悩と菩提の涯際を付ける事ができない。生死の涯際が取れるまで凡情が尽し切れるまで努力しなければならない。凡情に落ちるとは、物に落ちることである。「全て道である」すなわち煩悩即菩提というのは、いたり得た後の話である。それをごっちゃにしてはいけない。そうしないと釈尊の六年間が無意味になる。努力せずして道が成就するはずが無いでは無いか。「単」「只管」「即今」「今」も大自然、つまり普遍の真理の異名である。「解脱」とはクセが落ちて、本当の「真理」に目覚めること。この自覚症状を「悟り」という。何億年も「今」だけである。本当に生きた「今」が大切であり本当の命である。「今」を説くことはできない。聞いて分かった今は「考えた今」であり迷いの今である。世の中は今より他はない。だかこの真理を本当に自覚しなければ「今」に生きている本当の喜びも安心もない。仏道は本当の「今」に生きることである。既にみんな「今」であるから、「今」を徹底注意して離さなければ必ず自覚する。要は努力の有無である。菩提心、菩提心。2023/11/15 19:47:23703.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSoYvhk「禪」は単を示すとある。単を示した行動でなければ、禅ではない。禅は要するに、単、只、ひたすらにあればよい。これが禅の極意である。不純物の無い「今」が禅である。これを「只管」という。本当に単調に「今」行じていくには、自己を忘じた力がないとできない。考えたのでは意識や感情が入っていて、不純物だらけで腐るから駄目である。自己のないことが禅である。生とか死は観念であり言葉である。思いにとらわれると思えば良い。多くは「只管」と言う言葉が、「只管」を邪魔している。「只管」にならねばいけないとか、いう意識が働いている。「只」あること、ただ「単」にある。余念を入れないように常に自分を見守っていなければいけない。「只」であらねば、禅が禅を教えてくれない。禅の趣旨や意味が判っても意味がない。「只管」にあれば、何をやっていても問題ではない。おおかたは思慮分別が先にでる。この癖を破ることが、要するに禅修行である。これが坐禅する眼目である。2023/11/15 19:48:45704.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSoYvhk自己のないことがはっきりすることを「見性」という。しかし、「見性」しただけでは本当の融通がつかない。「悟り」が邪魔をするからだ。「見性」の力で「見性」を破らねばダメだ。自分を抜きにして、その時のみであればよい。何か自分が過去に学んだものとか、得たものとか、聞いているものとかが邪魔をする。ただ今のみの世界である。その場でちらっと出るものを問題にしないことだ。たえず「単」であればよい。私を挟まないで「単」であれ。箸を上げて口に運ぶ時も、いつも「単」であれ。いつもその場その場、「単」であれ。どうあろうとも、その物と離れなくなる。そうやり続けていると、「悟り」の牢屋から救われる。自己の無いことは判っても「単」をしょっちゅう練って行くのは容易ではない。自己も死もとれて本当に楽になっていく。2023/11/15 19:57:12705.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSoYvhk坐禅をする人は自分の癖を取ることを主体にして、常に実践していれば良い。「今」がどんなことであれ、「心」に留めてはならない。それができないとモノにならない。自分がどんな刺激を受けてもさらさらやっていかなければいけない。本当にさらさらと、諸々の縁と対立無く人生する事は難しい。身と心が隔たっている限り不可能である。心は浮遊状態にあり、勝手に精神を展開するからだ。この状態である限り、我々の掛け替えのない道具であるこの身体は.煩悩の根源であり苦しみの種である。隔てが常に縁と対立して、心を惑乱させ葛藤するからだ。2023/11/15 19:58:28706.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSoYvhk今、忽念と現れる心が問題なのだ。瞬間に忽念として生じ、而もその連続こそが煩悩の根源である。これが隔たりによって起こる事を先ず知ることだ。従って、今、忽念と生ずる心の元を解決する解決策は、隔てを取ることにある。如何にして取るか?問題の焦点は「今・瞬間」に有る。「今」に二つはない。「今」その物になればよい。「今」でない物はない。従って、「今」だけ。素直に「今」在ること。「今」余念無く一心不乱にすること。要するに我を忘れて成り切ることだ。本当に徹すれば、自ずから隔たりが取れて、心身一如の当体となる。否、元よりこの心身本来なり。これを仏という。菩提心が無ければ皆ダメだ。2023/11/15 20:00:03707.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSoYvhk「只」吐き、「只」吸うだけ。一瞬一瞬を大切にして「只」やる。どんな事も「只」やる。呼吸の一瞬一瞬のみ。呼吸の一瞬が続けられれば、自然にすべてに一瞬一瞬のみにできる。その物と離れないでやれるようになる。こうなれば大したものである。ここまで来ねばいけない。常住不変に一瞬一瞬でなければいけない。それには涯際が付くまで常住不変に練らねばいけない。自ずから成るようになるまで練らなければ、本当の安楽も無いし、生死の不安からも救われない。願心はあっても、やらなければ駄目である。相手や環境である境に用はない。とにかく願心である。自分の好きな事に時を過ごしてはいけない。その場その場のみであること。自分の考えなど入れず、その時のみに成って一心にすこと。初めはどうかしようとするが、それが要らない。その場その場のみに任せておく。その事のみに「心」を置いてする。常に、そう努力していると、自然に「隔て」が取れていく。「只」やれる。何事も淡々とできる。「只」が純熟してくるから自然と全てと一つに成る。本当に熟して徹する。そうしないと大自覚が無い。これが「悟り」の大事であり証明である。ここで本当に納得する。だから悟りを目指して「今」「只」やる。無目的の坐禅は知らん間に妄想坐禅となり、ぽかんとした腑抜け禅になるから注意せよ。どうしても本当の菩提心が無ければ邪禅になり、多少の落ち着きが有っても、損得など邪念は一向に取れない。無明の根本を解決しなければ坐禅修行する意味が無い。菩提心、菩提心。2023/11/15 20:02:40708.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSoYvhk「応無所住而生其心。」この語はみんな知っている大切なお釈迦様のお言葉である。難しそうに聞こえるこの語も、砕けば「今」「只」のこと。みんなの[本当の心]のこと。これを自ら證するだけである。「隔て」がとれると常住不変がわかる。死んで生きてが無くなり、一杯一杯である。「今」の正体を知ればよい。もともと「今」だから「今」はいらなくなる。これは徹底「今」に成り切って、「今」を忘れなければ体得出来ないし、分からない言葉である。「今」に徹すると、一瞬に今までの妄想が骨身に徹して感じる。つまり妄想そのままが自分となり、妄想とすべきものが無くなる。これを全身の毛穴からも呼吸をしていると云う。丸ごてと云う意味である。体と思う念が無くなる。体の念が有れば体にくくられる。体の念が無ければ自ら気にならなくなる。「応無所住而生其心」も、[心]の様子の事。「今」「只」のこと。これが浄穢不ニ、自他不ニとなって本当に安心する。「隔て」が無くなり心身一如になれば何でもない事よ。これは良いとか悪いとか、すぐ自我を立てるから「隔て」となる。事はここから起こる。[心]の衝突である。これは一つのものを立てて認めるから、二つに見たり、三つに思ったり、念が無限に広がって迷う。これが無明よ。比べる物がないのに、自己を立てて比べるからである。本当に「只」を常に練っていれば良い。そう努力していると自然に相手が気にならなくなる。いやでも「隔て」がとれて一つに成る。これを入我我入という。世の中に処しながら、相手と一つに成って自在に変わっていくのを異類中行と云う。私が無いと、天下は自分の姿に他ならない。この境界が不動心である。不動心は正法以外にない。「今」「只」が正法である。正法は「世界壊せども、この性は壊せず」とお経にある。同時に二つのことは、考えれない。一点のみ集中して、正体のいかなるものかを自覚するのである。一つ事に集中し切らなければ「隔て」はとれない。菩提心の一点張りだ。2023/11/15 20:04:46709.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSoYvhk「今」「只」に我は無い。我れなければ、即菩提。それを大清淨とも云う。汚がさるるものがなければ、浄くするものもない。「今」は生死を論ずる間はない。本当に「今」が手に入ったら自ずから生死が気に掛からない。生死透脱というのも、砕いて言えば「今」「只」のことである。2023/11/15 20:06:32710.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSoYvhk悟れないのは只管に成らねばいけないという意識が働いて、只管が只管を邪魔しているからである。途中は仕方がない。それが目標だから。本当に「只」になればよい。只管も只も有ってはならない。菩提心のもとに常に「単」を練ることである。坐禅をする人は、自分の癖を取る事を主体にして、即今底を実践すれば良い。「只」は努力の結果である。ここまで来ると本当に大平和である。生死はただ「単」である。生のまま、死のままである。「今」の様子に過ぎない。この真理を悟るのが坐禅修行の本当の目的である。2023/11/15 20:07:58711.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSoYvhk一隻眼を具するとは、自己のないことがはっきりすることである。しかしそれだけでは何かが引っかかる。はっきりしていても、引っかかるものがある。まだ本当に取り尽くされていないからだ。おおかたの悟ったというところはこの当たりだ。悟後の修行の大事な所である。決して油断してはならない。自己のないところの確証をにぎってしまうと、大抵はそれをひっ下げてしまう。本当に大悟したものは少ない。簡単に言えば菩提心が弱いからだ。それを捨てて単を練ることが足りないからだ。境涯を得ても、そこが陶治されないといけない。境涯を持っていては駄目である。うたた悟れば、うたた捨てよ。この大法を得ることは容易ではない。菩提心の鈍い者は到底仏祖の誹りを免れぬ。努力しかない。菩提心が仏祖の命、仏法の血肉である。菩提心、菩提心。2023/11/15 20:08:53712.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSoYvhk「只」吐き、「只」吸うだけ。禅は、単、只、ひたすらにあればよい。これが禅の極意である。心身一如のところが余念が出ないところ。ここを練って行きます。心身一如である時ようやく坐禅が坐禅になります。2023/11/15 20:14:12713.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSoYvhk心身一如にならないと、坐禅が坐禅にならないんです。2023/11/15 20:21:43714.土手を行くのは アハさんじゃないかぁ~♪o( _ _ )o~† ドテッj0lOz>>712> 「只」吐き、「只」吸うだけ。 禅は、単、只、ひたすらにあればよい。 これが禅の極意である。禅とは ジャーナを音写して禅那と中国人が漢字であらわしたものである事は既知である。ジャーナとは、静かにする、あるいは静かに坐る、と言う意味である。拡大解釈しては、原意が蒸発してしまう。浄土宗、浄土真宗は、波阿弥陀仏、と阿弥陀佛(無量寿Buddha、無量光佛陀)陀に帰依する。法華宗は南無 妙法 蓮華経、と正しい教え、白い蓮の花の教え、教典、お経の本に帰依する。騒動衆はお坐り、お手を教え込む。南無阿弥陀仏と言うのか、南無妙法蓮華経と言うのか、何とも云わず、坐っているのか、この三つは 易行(いぎょう)である。難しい事を求めず、これをやればいいんだよ、と安心させる。追い込まれた人に取っては、ひとすじの光明である。2023/11/16 00:26:48715.土手を行くのは アハさんじゃないかぁ~♪o( _ _ )o~† ドテッj0lOz>>713> 心身一如にならないと、坐禅が坐禅にならないんです。脳内の神経細胞の結束が、心と呼ばれる。0,5ミリの線虫にも味の好みがある、と言う。脳が無いのが線虫である。神経の経験が好みを選ぶのである。身心と言いう。2023/11/16 00:34:11716.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSpXtpFさて、坐ろう2023/11/16 04:17:56717.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSpXtpF「只」吐き、「只」吸うだけ。禅は、単、只、ひたすらにあればよい。これが禅の極意である。心身一如のところが余念が出ないところ。ここを練って行きます。心身一如である時ようやく坐禅が坐禅になります。2023/11/16 04:22:57718.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSxGOhCここに正法及び正法の体得の仕方を記します、お経のように繰り返し読むといいです。2023/11/16 05:19:45719.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSxGOhC日常底の単を練ることが大切である。坐禅だけを修行だと思っていたら一生かかっても埒はあかない。常に道であること。例えばラジオでもテレビでも、聞くときは、「只」聞き、「只」見るだけ。入って来るままに聞くだけ。感情も気付きも入れない。自分を虚にしておく。「面白い」と言うたり思ったりするのは、何かに引っかかっている証拠である。何も無しにあると、そのまま入って聞こえて終わる。それが「正聞」である。眼に於いては「正見」と言う。お釈迦さまがちゃんと言って居られることだ。見たり、聞いたりの縁について何か出るうちは、何か引っかかってるいる。つまり自我が有るからだ。2023/11/16 05:20:09720.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSxGOhC疲れている時、ただ休んでじっとしていればよい。辛いとか、何かと云う気持ちが少しでも出ると、その物に何か引っかかっている。辛ければ辛いままであればよい。病もまた道であり、疲れもまた道である。2023/11/16 05:23:31721.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSCkuwy自分の中に、何かが出た時は自我が立っている証拠である。一度は、迷いと迷えない「単」とのはっきりした違いに気づかねば、我見が入ったか入らんかの区別がつかない。この正法の線をはっきりさせるためには、「今」を離してはならない。2023/11/16 05:34:51722.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSbo3Ri常に「只」するよう努力していればそれで良い。ポカンとなり夢や幻の馬鹿になるのとは異なる。そこを誤解しないように。善悪や損得の気持ちがあった時は、あと残りがする。その残った上で次の事をしていることが多い。すると過去と今が重なるので大きな邪魔者になる。常に自分を注意していないとその事が分からない。例え無用な心がおこっても直ぐに捨てて相手にせずに、やるべきことを「只」やる。2023/11/16 05:39:11723.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSbo3Ri人と話をする時、云わないで良い事は言わない。余分な念を使わない。話は色々な事に渡るものだ。二重、三重の話が出て混線するが、その中心の線だけを取っていれば良い。一つ心で働けば良い。「単」は一つ線であること。一つのもので働けば良い。2023/11/16 05:44:35724.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSbo3Ri車を運転する時、心を虚にすること。景色は「只」見て、綺麗だとか何とか感情を挟んではいけない。動いている時は動くに任せて素直に動かされていれば良い。自在に何んにでも「只」応じてさらさら流れている事が分かってくる。それには「今」一点を守らねば、前後裁断している大事な線が手に入らない。綺麗なとか表現しようとした時は、囚われているからだ。一点を守らないからである。今は動いている。それを認めると何かが出ているから、囚われ付いていくことになる。何を見ても聞いても、何もなしの空である時には、そのままさらさらと只々でいける。2023/11/16 05:47:24725.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSbo3Ri「今」がはっきりすれば、大自然に目覚める。そうすると只管ならざるものなし。そこまで行くには「今」を守り切らねばならない。そうしないと迷いと悟り、煩悩と菩提の涯際を付ける事ができない。生死の涯際が取れるまで凡情が尽し切れるまで努力しなければならない。凡情に落ちるとは、物に落ちることである。「全て道である」すなわち煩悩即菩提というのは、いたり得た後の話である。それをごっちゃにしてはいけない。そうしないと釈尊の六年間が無意味になる。努力せずして道が成就するはずが無いでは無いか。「単」「只管」「即今」「今」も大自然、つまり普遍の真理の異名である。「解脱」とはクセが落ちて、本当の「真理」に目覚めること。この自覚症状を「悟り」という。何億年も「今」だけである。本当に生きた「今」が大切であり本当の命である。「今」を説くことはできない。聞いて分かった今は「考えた今」であり迷いの今である。世の中は今より他はない。だかこの真理を本当に自覚しなければ「今」に生きている本当の喜びも安心もない。仏道は本当の「今」に生きることである。既にみんな「今」であるから、「今」を徹底注意して離さなければ必ず自覚する。要は努力の有無である。菩提心、菩提心。2023/11/16 05:50:02726.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSbo3Ri「禪」は単を示すとある。単を示した行動でなければ、禅ではない。禅は要するに、単、只、ひたすらにあればよい。これが禅の極意である。不純物の無い「今」が禅である。これを「只管」という。本当に単調に「今」行じていくには、自己を忘じた力がないとできない。考えたのでは意識や感情が入っていて、不純物だらけで腐るから駄目である。自己のないことが禅である。生とか死は観念であり言葉である。思いにとらわれると思えば良い。多くは「只管」と言う言葉が、「只管」を邪魔している。「只管」にならねばいけないとか、いう意識が働いている。「只」あること、ただ「単」にある。余念を入れないように常に自分を見守っていなければいけない。「只」であらねば、禅が禅を教えてくれない。禅の趣旨や意味が判っても意味がない。「只管」にあれば、何をやっていても問題ではない。おおかたは思慮分別が先にでる。この癖を破ることが、要するに禅修行である。これが坐禅する眼目である。2023/11/16 05:52:40727.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSbo3Ri自己のないことがはっきりすることを「見性」という。しかし、「見性」しただけでは本当の融通がつかない。「悟り」が邪魔をするからだ。「見性」の力で「見性」を破らねばダメだ。自分を抜きにして、その時のみであればよい。何か自分が過去に学んだものとか、得たものとか、聞いているものとかが邪魔をする。ただ今のみの世界である。その場でちらっと出るものを問題にしないことだ。たえず「単」であればよい。私を挟まないで「単」であれ。箸を上げて口に運ぶ時も、いつも「単」であれ。いつもその場その場、「単」であれ。どうあろうとも、その物と離れなくなる。そうやり続けていると、「悟り」の牢屋から救われる。自己の無いことは判っても「単」をしょっちゅう練って行くのは容易ではない。自己も死もとれて本当に楽になっていく。2023/11/16 05:55:19728.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSbo3Ri坐禅をする人は自分の癖を取ることを主体にして、常に実践していれば良い。「今」がどんなことであれ、「心」に留めてはならない。それができないとモノにならない。自分がどんな刺激を受けてもさらさらやっていかなければいけない。本当にさらさらと、諸々の縁と対立無く人生する事は難しい。身と心が隔たっている限り不可能である。心は浮遊状態にあり、勝手に精神を展開するからだ。この状態である限り、我々の掛け替えのない道具であるこの身体は.煩悩の根源であり苦しみの種である。隔てが常に縁と対立して、心を惑乱させ葛藤するからだ。2023/11/16 05:56:46729.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSdGcS9今、忽念と現れる心が問題なのだ。瞬間に忽念として生じ、而もその連続こそが煩悩の根源である。これが隔たりによって起こる事を先ず知ることだ。従って、今、忽念と生ずる心の元を解決する解決策は、隔てを取ることにある。如何にして取るか?問題の焦点は「今・瞬間」に有る。「今」に二つはない。「今」その物になればよい。「今」でない物はない。従って、「今」だけ。素直に「今」在ること。「今」余念無く一心不乱にすること。要するに我を忘れて成り切ることだ。本当に徹すれば、自ずから隔たりが取れて、心身一如の当体となる。否、元よりこの心身本来なり。これを仏という。菩提心が無ければ皆ダメだ。2023/11/16 05:59:52730.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSdGcS9「只」吐き、「只」吸うだけ。一瞬一瞬を大切にして「只」やる。どんな事も「只」やる。呼吸の一瞬一瞬のみ。呼吸の一瞬が続けられれば、自然にすべてに一瞬一瞬のみにできる。その物と離れないでやれるようになる。こうなれば大したものである。ここまで来ねばいけない。常住不変に一瞬一瞬でなければいけない。それには涯際が付くまで常住不変に練らねばいけない。自ずから成るようになるまで練らなければ、本当の安楽も無いし、生死の不安からも救われない。願心はあっても、やらなければ駄目である。相手や環境である境に用はない。とにかく願心である。自分の好きな事に時を過ごしてはいけない。その場その場のみであること。自分の考えなど入れず、その時のみに成って一心にすこと。初めはどうかしようとするが、それが要らない。その場その場のみに任せておく。その事のみに「心」を置いてする。常に、そう努力していると、自然に「隔て」が取れていく。「只」やれる。何事も淡々とできる。「只」が純熟してくるから自然と全てと一つに成る。本当に熟して徹する。そうしないと大自覚が無い。これが「悟り」の大事であり証明である。ここで本当に納得する。だから悟りを目指して「今」「只」やる。無目的の坐禅は知らん間に妄想坐禅となり、ぽかんとした腑抜け禅になるから注意せよ。どうしても本当の菩提心が無ければ邪禅になり、多少の落ち着きが有っても、損得など邪念は一向に取れない。無明の根本を解決しなければ坐禅修行する意味が無い。菩提心、菩提心。2023/11/16 06:00:43731.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSdGcS9「応無所住而生其心。」この語はみんな知っている大切なお釈迦様のお言葉である。難しそうに聞こえるこの語も、砕けば「今」「只」のこと。みんなの[本当の心]のこと。これを自ら證するだけである。「隔て」がとれると常住不変がわかる。死んで生きてが無くなり、一杯一杯である。「今」の正体を知ればよい。もともと「今」だから「今」はいらなくなる。これは徹底「今」に成り切って、「今」を忘れなければ体得出来ないし、分からない言葉である。「今」に徹すると、一瞬に今までの妄想が骨身に徹して感じる。つまり妄想そのままが自分となり、妄想とすべきものが無くなる。これを全身の毛穴からも呼吸をしていると云う。丸ごてと云う意味である。体と思う念が無くなる。体の念が有れば体にくくられる。体の念が無ければ自ら気にならなくなる。「応無所住而生其心」も、[心]の様子の事。「今」「只」のこと。これが浄穢不ニ、自他不ニとなって本当に安心する。「隔て」が無くなり心身一如になれば何でもない事よ。これは良いとか悪いとか、すぐ自我を立てるから「隔て」となる。事はここから起こる。[心]の衝突である。これは一つのものを立てて認めるから、二つに見たり、三つに思ったり、念が無限に広がって迷う。これが無明よ。比べる物がないのに、自己を立てて比べるからである。本当に「只」を常に練っていれば良い。そう努力していると自然に相手が気にならなくなる。いやでも「隔て」がとれて一つに成る。これを入我我入という。世の中に処しながら、相手と一つに成って自在に変わっていくのを異類中行と云う。私が無いと、天下は自分の姿に他ならない。この境界が不動心である。不動心は正法以外にない。「今」「只」が正法である。正法は「世界壊せども、この性は壊せず」とお経にある。同時に二つのことは、考えれない。一点のみ集中して、正体のいかなるものかを自覚するのである。一つ事に集中し切らなければ「隔て」はとれない。菩提心の一点張りだ。2023/11/16 06:02:27732.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSdGcS9「今」「只」に我は無い。我れなければ、即菩提。それを大清淨とも云う。汚がさるるものがなければ、浄くするものもない。「今」は生死を論ずる間はない。本当に「今」が手に入ったら自ずから生死が気に掛からない。生死透脱というのも、砕いて言えば「今」「只」のことである。2023/11/16 06:04:32733.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSdGcS9一息で自己を殺す2023/11/16 06:17:07734.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSdGcS9真剣さの継続2023/11/16 06:23:29735.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSdGcS9信じきって一直線にやる2023/11/16 06:28:05736.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSdGcS9暇さえあれば単を練る2023/11/16 06:29:01737.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSdGcS9「只」吐き、「只」吸うだけ。禅は、単、只、ひたすらにあればよい。これが禅の極意である。暇さえあれば単を練る。2023/11/16 06:32:50738.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSdGcS9心のない心に行き着く2023/11/16 06:43:49739.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSdGcS9時を忘れて我を忘れてそのまんま2023/11/16 06:46:13740.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSdGcS9無意味に時を送る2023/11/16 06:46:58741.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSdGcS9ただ、呼吸ばかりになる2023/11/16 06:48:40742.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSdGcS9見たまま聞いたまま2023/11/16 06:48:57743.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSO5qec隙なしにやる2023/11/16 07:04:34744.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSO5qec無心とは心が無いではなく心が無い心2023/11/16 07:05:41745.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSqtcOP暇さえあれば一息を練る2023/11/16 07:55:17746.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSgK93n只吸うだけ吐くだけを守る2023/11/16 08:33:29747.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSgK93n「只」吐き、「只」吸うだけ。禅は、単、只、ひたすらにあればよい。これが禅の極意である。暇さえあれば単を練る。「只」吸うだけ吐くだけを守る。心を虚にしておく。2023/11/16 08:43:27748.カムイ◆wxnBcJ8ZogOSStHaWこれで完璧だな2023/11/16 09:56:35749.神も仏も名無しさんxrMYZ何年やれば良いの?3ヶ月くらいでサクッって大悟出来ないの?カモイ君⁉️2023/11/16 18:05:28750.土手を行くのは アハさんじゃないかぁ~♪o( _ _ )o~† ドテッj0lOz> 無我がわかったら坐禅しなくても良いとは思うんだけどどうなんだろうな。 それでも道を求める人は坐禅するんだろうな。 』修行者、求道者、修行僧は、やはり さとりを求めて行きます。さとれば、さとりが無く、無我とは、真理(さとり)です、が 理解できるものでありませんく、まさに 体得します。その状態を 石、とも 言います。突然 ストーン と、自他が無くなります。これを 一と一は、二では無い。一の如し、一如である、言い表します。この一如に取り組む公案が有ります。両手で打てば音が鳴る。では、片手の人が叩く拍手の音を聞いてこい、と言うもので、これに取り組みました。ぜひ、とも取り組んでいただきたいものです。京都「妙心寺」0002 - 15,39https://www.youtube.com/watch?v=Sg22-E520ME> 片手の拍手はカンゼオンで聞く? 」両手で打てば音が鳴る。では、片手の人が叩く拍手の音を聞いてこい。音を聞くのだが、片手では拍手ができないから、音が鳴らないので聞こえない。その聞こえない音を聞け、と 公案は いう。聞こえない音が聞こえる。 そこが 色即是空。 初関(しょかん)を透(とお)る。色とは片手の人が叩く拍手です。片手の人が叩く音を聞いた、そこが、色即是空です。真理(さとり) です。これは臨済(りんざい)禅師が無地の興亜ではなく、修行者に悟らせようと苦心した公案です。白隠慧鶴禅師(はくいん えかく ぜんじ)隻手の音声 (せきしゅのおんじょう)両掌(りょうしょう)打って音声あり、隻手になんの声やある。隻手の声を拈提(ねんてい)せよ2023/11/16 18:21:07751.リダン◆iKlPp4IWRYsv8KW>>750無我≒真如ではあるが真如≒仏ではないよな無我ってまさに石が意思を持たないのと一緒一度知り得たら坐禅はもういらないと思うが真如に仏を見出すまで坐禅をするんだろうか真如そのものから仏という本質を得るなら真如≒無我から逆に坐禅とは逆のことをしないとならないと思われる削ぎ落として来たものを徐々にゆっくりと本質を与えていく過程に仏があるのだと思われる2023/11/16 18:32:26752.リダン◆iKlPp4IWRYsv8KW>>751話題の従空仮観だ2023/11/16 18:33:46753.らじょはwjvDe無我≒仏だったりして2023/11/16 21:24:20754.らじょはwjvDe第八識の阿頼耶識(=無意識のこと)、第九識の阿摩羅識(=仏性のこと)に続いて、第十識にあるとされるのが真情(=真心のこと)らしいそもそも第九識、第十識には諸説あるけど、仏のようになりたいなら、ひたすら真心で生きなさい、ということかなとわたしは挫折したけど(笑)2023/11/16 22:08:48755.神も仏も名無しさんmG3dB虹の身体の成就者たち四つのシャマタは本然の境地ではない。https://i.imgur.com/7FP9PI4.jpghttps://i.imgur.com/b3M7Jz8.jpghttps://i.imgur.com/hdwks6o.jpghttps://i.imgur.com/KtmPmrc.jpghttps://i.imgur.com/UtyGphV.jpg2023/11/16 23:17:12756.土手を行くのは アハさんじゃないかぁ~♪o( _ _ )o~† ドテッoYOsr> 無我がわかったら坐禅しなくても良いとは思うんだけどどうなんだろうな。 』修行者、求道者、修行僧は、やはり さとりを求めて行きます。さとれば、さとりが無く、無我とは、真理(さとり)です、が 理解できるものでありませんく、まさに 体得します。その状態を 石、とも 言います。突然 ストーン と、自他が無くなります。これを 一と一は、二では無い。一の如し、一如である、言い表します。この一如に取り組む公案が有ります。両手で打てば音が鳴る。では、片手の人が叩く拍手の音を聞いてこい、と言うもので、これに取り組みました。ぜひ、とも取り組んでいただきたいものです。音を聞くのだが、片手では拍手ができないから、音が鳴らないので聞こえない。その聞こえない音を聞け、と 公案は いう。聞こえない音が聞こえる。 そこが 色即是空。 初関(しょかん)を透(とお)る。色とは片手の人が叩く拍手です。片手の人が叩く音を聞いた、そこが、色即是空です。真理(さとり) です。趙州従?(ぢょうしゅう・じゅうしん)の無字の公案では長年かかってもなお悟れず死んでいく者も多かった事から、修行僧に対して白隠禅師が新たに隻手の音声(せきしゅ の おんじょう)の公案を与え、沢山の修行者に悟らせようと苦心した公案です。白隠慧鶴禅師(はくいん えかく ぜんじ) 隻手の音声 (せきしゅのおんじょう)両掌(りょうしょう)打って音声あり、隻手になんの声やある。隻手の声を拈提(ねんてい)せよ。>> 理屈っぽいけど、自他一如なら、あなたが叩こうがわたしが叩こうが同じ、わたしが叩きます、パンパンで終了。あとは自他一如、自分から心で隻手の人と一つになる。すると、相手の手を叩く音がきこえる。自他一如や自己の愛情、慈悲心を育てる公案だったとか 』 ありがとうございます。これは理解したり、解釈を咥えたりするものでじゃないので、お怒りを受けるともいますが、字句の解釈に拘泥するものではありません。先にも言いましたが、自他一如を体得する事です。あなたと私で、ぱんぱん。頓智、になりましたね。片手の人が、です。置き換えて、これでどうだ、と言うわけにはまいりません。聞こえるはずのない、片手の人が叩く拍手の音を聞く、のです。2023/11/17 01:20:32757.神も仏も名無しさんdWPhC虹の身体の成就者たち四つのシャマタは本然の境地ではない。https://i.imgur.com/7FP9PI4.jpghttps://i.imgur.com/b3M7Jz8.jpghttps://i.imgur.com/hdwks6o.jpghttps://i.imgur.com/KtmPmrc.jpghttps://i.imgur.com/UtyGphV.jpghttps://i.imgur.com/TAwh0lC.jpg2023/11/17 08:30:58758.神も仏も名無しさんdWPhCカムイ君、電池切れたの❓2023/11/17 20:10:19759.リダン◆iKlPp4IWRYX6TUZ>>758もうネタがなくなったんだろ2023/11/17 20:44:24760.神も仏も名無しさんIYk7a禅の極意とは意を用いず。2023/11/18 05:36:58761.神も仏も名無しさんIYk7aそのためには、まず、意を感じ取らねばならない。2023/11/18 05:42:26762.神も仏も名無しさんIYk7a意を用いらないところを練り込む2023/11/18 06:01:04763.神も仏も名無しさんIYk7a意を消し去ればよい。2023/11/18 06:03:08764.神も仏も名無しさんIYk7a禅修行というのはその為の工夫よ。2023/11/18 06:04:02765.神も仏も名無しさんIYk7a意が自我だ。2023/11/18 06:05:41766.神も仏も名無しさんIYk7a意を持ち出さなければ色即是空だ。2023/11/18 06:08:07767.神も仏も名無しさんIYk7aまずは、意の根っこを感じ取ること。2023/11/18 06:09:21768.神も仏も名無しさんIYk7aそして、意を消し去ればよい。2023/11/18 06:11:25769.神も仏も名無しさんIYk7a意が念を追っかけるのが煩悩2023/11/18 06:24:24770.神も仏も名無しさんIYk7a俺は自我の正体がやっとわかったよ。2023/11/18 06:30:11771.リダン◆iKlPp4IWRYKuEPG>>770カムイさんか?2023/11/18 08:37:17772.神も仏も名無しさんCVrP8その場その場で忘れる2023/11/18 09:29:36773.神も仏も名無しさんCVrP8「只」吐き、「只」吸うだけ。禅は、単、只、ひたすらにあればよい。これが禅の極意である。暇さえあれば単を練る。「只」吸うだけ吐くだけを守る。心を虚にしておく。意を用いず。2023/11/18 09:36:04774.神も仏も名無しさん6TuC4吸って吐くだけ2023/11/18 10:57:15775.神も仏も名無しさん94V6j師を信じ切る事は大切だね2023/11/18 12:45:28776.神も仏も名無しさん94V6j逆に師に言われた事以外したらいかんです。帰って遠回りします。2023/11/18 12:47:48777.神も仏も名無しさん94V6j暇さえあれば一息する2023/11/18 12:59:06778.神も仏も名無しさん94V6j吸って完結、吐いて完結、吸って完結、吐いて完結継続させない。2023/11/18 13:02:13779.神も仏も名無しさん94V6j連続するものは何もないんです。2023/11/18 13:17:22780.神も仏も名無しさんPvSEP自身の体も一瞬一瞬完結してるから空なんです。2023/11/18 13:27:21781.神も仏も名無しさんPvSEP自分の身も心も見ている風景も一瞬一瞬完結しているなら皆空なんです。2023/11/18 13:37:15782.神も仏も名無しさんPvSEPですからひと呼吸していくだけで悟ります。ほか何もせんでいい。2023/11/18 13:41:44783.神も仏も名無しさんGAq2q次第に呼吸が一つになって消えますよ、無心になると呼吸は消える。2023/11/18 17:30:37784.神も仏も名無しさんGAq2q760 神も仏も名無しさん sage 2023/11/18(土) 05:36:58.50 ID:IYk7a禅の極意とは意を用いず。それは正しい、要は観ないことだ、掴まないで放す、呼吸も放す! すると、呼吸が独りでに解脱しますから。2023/11/18 17:34:18785.神も仏も名無しさん3LuxS呼吸が消えるでもいいですが、忘れるといったほうがいいでしょう。2023/11/18 17:36:50786.神も仏も名無しさん3LuxS一息一息切っていく2023/11/18 17:39:20787.神も仏も名無しさん3LuxS呼吸で無常の今を感じるんです。2023/11/18 17:41:15788.神も仏も名無しさん3LuxS無限の縁があります2023/11/18 17:46:19789.神も仏も名無しさん3LuxSですから自由自在なんだ。2023/11/18 17:46:37790.神も仏も名無しさん3LuxS無限の縁とは無限の今って事ですよ。2023/11/18 17:48:04791.神も仏も名無しさん3LuxS一息一息練っていきます2023/11/18 17:49:32792.神も仏も名無しさん3LuxS今は永遠にありますが、瞬間瞬間完結してるんです。2023/11/18 17:59:05793.神も仏も名無しさん3LuxS流転してるんです2023/11/18 17:59:18794.神も仏も名無しさん3LuxS解脱とは瞬間瞬間心身共に切れてることです。2023/11/18 18:09:57795.神も仏も名無しさん3LuxS今だけ、ただし今は無常なり2023/11/18 18:19:52796.神も仏も名無しさん3LuxSとにかく意を出さないことです、意をださなければ、眼耳鼻舌身意です。2023/11/18 18:25:53797.神も仏も名無しさん3LuxS訂正無眼耳鼻舌身意です。2023/11/18 18:26:44798.神も仏も名無しさん3LuxS見たまま、聞いたままって事です。2023/11/18 18:30:57799.らじょはJnobB意の我も実体性がなく変化する、無我なんですな2023/11/18 18:34:03800.神も仏も名無しさん3LuxS違います、意が立つから我が立つんです。2023/11/18 18:35:55801.らじょはJnobB我もエゴの我も無我であると「自己・相手・他者・みんなの我もエゴの我も無我」ということになりますな2023/11/18 18:36:17802.神も仏も名無しさん3LuxSそれが自我という何らかのかたまりを作り上げます。2023/11/18 18:36:42803.らじょはJnobB意→我ですなわかりました2023/11/18 18:37:09804.神も仏も名無しさん3LuxSですから我が無我であるという書き方はおかしいです。2023/11/18 18:38:23805.らじょはJnobB意→我(自我)ですな2023/11/18 18:38:42806.神も仏も名無しさん3LuxSそうです2023/11/18 18:39:15807.神も仏も名無しさん3LuxSですから、まず意が動き出す感覚を掴まなければ対処できません。2023/11/18 18:40:18808.らじょはJnobB我(が)というのは実体性がなく変化する(=無我)と呼べると思います2023/11/18 18:40:25809.神も仏も名無しさん3LuxSすべては実践です2023/11/18 18:41:03810.神も仏も名無しさん3LuxS経典をいくら読んでも無意味です。2023/11/18 18:41:23811.らじょはJnobB意というものも実体性がなく変化する無我と言えますな2023/11/18 18:41:34812.神も仏も名無しさん3LuxSそういうのは仏教オタクにお任せしましょう2023/11/18 18:41:49813.神も仏も名無しさん3LuxS意もまた実体がないんですけど、人は実体化させて自我を形成します。2023/11/18 18:43:53814.神も仏も名無しさん3LuxSなので、心を用いないです。2023/11/18 18:44:24815.神も仏も名無しさん3LuxS心を用いなくてもちゃんと人は動けるようになってます。2023/11/18 18:45:36816.らじょはJnobB意、我、エゴの我、これらが実体性がなく変化する=無我と知ることで、わたしは解放はされますかな2023/11/18 18:47:40817.神も仏も名無しさん3LuxSと、頭だけでわかってもしょうがないんで、一息を練って行きます。2023/11/18 18:49:37818.神も仏も名無しさん3LuxS仏教のお勉強はこれくらいで、あとは実践です。2023/11/18 18:50:45819.神も仏も名無しさん3LuxS気がついたら一息やっていきます。2023/11/18 18:51:44820.神も仏も名無しさん3LuxSこれが正法を体得するやり方です。2023/11/18 18:53:22821.神も仏も名無しさん3LuxS坐禅しながの方がいいですけど、普段でも一息やって行きますよ。2023/11/18 18:54:40822.神も仏も名無しさん3LuxS釈尊は最後坐禅をして悟られたので、坐禅を否定する人はまるでわかっていません。2023/11/18 18:55:47823.らじょはJnobB人によるところではあると思いますが、わたしは敢えて坐禅はしませんわたしがやると魔境に陥るからですそれにさっき述べた無我の知恵でじゅうぶんなのかなと思います必要なときに自分で無我の知恵を取り出せればいいと2023/11/18 18:55:49824.神も仏も名無しさん3LuxSご自由にわたしはわたしのやり方をするのみです。2023/11/18 18:57:00825.神も仏も名無しさん3LuxS法を知ると、法を体得するの違いは大きいんでくけどね。まぁ、これくらいにしときましょう。2023/11/18 18:58:34826.らじょはJnobB人によるところではあるのでしょうけど各々自分が信じた道を進むそれでいいのだと思います2023/11/18 19:00:58827.神も仏も名無しさん3LuxSまぁ、わたしも遠回りして結構ぐだぐだの時期は長かったですけどね。2023/11/18 19:01:46828.神も仏も名無しさん3LuxSただ、悟るときは一瞬です。一瞬で法を体得します。2023/11/18 19:02:42829.らじょはJnobB私の場合は坐禅で魔境坐禅で法を体得するはおろか、坐禅で魔境を体得してしまう2023/11/18 19:04:23830.神も仏も名無しさん3LuxS綺麗に過去未来が前後裁断されます。2023/11/18 19:04:32831.神も仏も名無しさん3LuxS禅寺に行って坐禅されましたか?一度でも。全くの独自だとある意味危ないこともあるかもしれませんね。2023/11/18 19:05:57832.神も仏も名無しさん3LuxSちゃんと禅寺で一度は指導を受けたほうがいいです。2023/11/18 19:06:29833.らじょはJnobB坐禅で悟った知があるのならもう坐禅は辞めていいんじゃないの?2023/11/18 19:07:06834.神も仏も名無しさん3LuxSそういうこともしないで、坐禅で魔境に落ちる落ちる言わないで下さい。2023/11/18 19:07:41835.神も仏も名無しさん6cUmoブイブイ〜〜聖ウンコ状態〜👿👿👿👿👿👿2023/11/18 19:07:56836.神も仏も名無しさん3LuxS迷惑です。2023/11/18 19:07:58837.らじょはJnobB>>831持病がありまして、坐禅すると魔境です2023/11/18 19:08:31838.神も仏も名無しさん3LuxS禅寺で一度は坐禅の指導を受けましたか?2023/11/18 19:09:25839.神も仏も名無しさん6cUmoブイブイのほうが👿魔境ブイブイ〜2023/11/18 19:09:32840.神も仏も名無しさん3LuxS何度もいいますが禅寺でちゃんと指導を受けてなくて魔境に落ちるとは言わないでください。迷惑です。2023/11/18 19:11:34841.神も仏も名無しさん3LuxS禅寺では時病があればそれなりの指導がありますからね。2023/11/18 19:13:17842.らじょはJnobBどういう指導でしょうか?2023/11/18 19:14:01843.らじょはJnobBどういった指導でしょうか?2023/11/18 19:14:29844.神も仏も名無しさん3LuxS自分で禅寺に事前に電話して確かめたらいいじゃないですか。自分の事ですよ?2023/11/18 19:15:25845.神も仏も名無しさん6cUmoどうするっ!?ブイブイっ!!!👿👿👿2023/11/18 19:15:30846.神も仏も名無しさん6cUmo威張るだけ威張って知らぬふりブイブイなのれした〜👿👿👿2023/11/18 19:16:24847.神も仏も名無しさん3LuxSわたしは指導者ではありません、あなたと同じ修行者ですからね。2023/11/18 19:17:40848.らじょはJnobB>>844ママ、代わりにお願いします2023/11/18 19:18:23849.神も仏も名無しさん6cUmo自慢気にたれ流した挙げ句〜ブイブイ〜👿👿👿👿2023/11/18 19:18:59850.神も仏も名無しさん3LuxS修行者同士のアドバイスは出来るかもしれませんが、指導者としての指示は出来ませんので。2023/11/18 19:19:17851.らじょはJnobBまあ、ぶっちゃけはっちゃけ、坐禅しなくても、無我などの知恵でじゅうぶんなんであなたの言葉を借りれば、わたしの方も迷惑になりますわな2023/11/18 19:21:12852.神も仏も名無しさん6cUmoなんか威張った挙げ句に逃げたブイブイ〜👿👿👿👿2023/11/18 19:21:38853.神も仏も名無しさん3LuxSはい、お互い迷惑なので二度と来ないでくださいね。2023/11/18 19:21:57854.神も仏も名無しさん6cUmoブイブイ捨て台詞〜👿👿👿2023/11/18 19:22:26855.神も仏も名無しさん6cUmoひけらかし、お威張りの毎度のパターン👿👿👿👿👿2023/11/18 19:22:58856.神も仏も名無しさん3LuxS勝手にここに書き込んできて、迷惑とか。おまえは鹿野園かよ。もう来るなよ2023/11/18 19:23:04857.神も仏も名無しさん6cUmoお怒りである〜あの自慢ショーはなんだったのか?ブイブイ〜👿👿👿👿2023/11/18 19:23:53858.らじょはJnobBそういうとこ嫌われ孤立するとこ2023/11/18 19:23:57859.神も仏も名無しさん6cUmoま、自慢ショーなので自己チュー、自己満足先行なんだろうけども〜👿2023/11/18 19:24:48860.神も仏も名無しさん6cUmoこの能書きたれ流しの挙げ句、この大人げない、それならば能書きたれ流しやらなければいいのだが〜👿2023/11/18 19:26:20861.らじょはJnobB持病者でも出来る坐禅がありますかって~の2023/11/18 19:26:44862.らじょはJnobBだから知恵でじゅうぶん逆に言えば、知恵を拠り所にするしかない2023/11/18 19:29:09863.神も仏も名無しさん3LuxSそう簡単に法は体得できんです。2023/11/18 19:29:26864.神も仏も名無しさん6cUmoブイブイは討伐されたのだった、自らの愚かさに👿👿👿👿2023/11/18 19:30:15865.神も仏も名無しさん6cUmo愚レスをやめれんブイブイなのであった〜👿2023/11/18 19:31:38866.神も仏も名無しさん3LuxSさて、何事もなかったかのごとく、一息で切りますかね。2023/11/18 19:31:51867.神も仏も名無しさん3LuxSもう、過去はない2023/11/18 19:32:43868.神も仏も名無しさん6cUmoふりまわされた挙げ句のギャグであった〜👿2023/11/18 19:32:48869.神も仏も名無しさん3LuxS過去を本当の過去にする。簡単でしょ?2023/11/18 19:33:06870.神も仏も名無しさん6cUmo客来たら限定にサービスにしとくか〜目にあまるからブイブイの悪態は👿2023/11/18 19:33:48871.らじょはJnobB体得しなくてもいいんじゃないの?まあ、自分は知恵を体得するけど2023/11/18 19:36:02872.神も仏も名無しさん3LuxS本真剣なら禅寺に電話でもして、私はこんな持病を持ってるんですけど坐禅出来るでしょうか、とか電話するはずです。2023/11/18 19:36:34873.神も仏も名無しさんYlzLy何の持病ですか?精神と肉体のどっちか?で対応は変わるでしょう。2023/11/18 19:36:43874.らじょはJnobB精神っす2023/11/18 19:37:43875.神も仏も名無しさん6cUmoお、まともにもどってきた〜ムイムイ〜😳2023/11/18 19:38:05876.神も仏も名無しさん6cUmoどうするっ!?ムイムイっ!?😳2023/11/18 19:38:56877.らじょはJnobB知恵も法なら同じことになっちゃうのでは2023/11/18 19:40:13878.らじょはJnobB知恵も法なら同じようなことになっちゃうのでは2023/11/18 19:41:00879.神も仏も名無しさん3LuxSまぁ、ここは坐禅ありきの話しかしませんので、ここを読んでもしょうがないですから、どっか別の所行かれて下さい。2023/11/18 19:41:23880.らじょはJnobB知恵も法なら、同じようなことになっちゃうのでは2023/11/18 19:41:29881.神も仏も名無しさん6cUmoムイムイだからな〜〜😫2023/11/18 19:41:31882.神も仏も名無しさん6cUmoブイブイ〜もどってきた〜👿👿👿2023/11/18 19:42:19883.らじょはJnobB>>879ありがとうございます、もっと苛めてください2023/11/18 19:44:41884.神も仏も名無しさん3LuxS流転する今を離さないようにする。ここが面白い。2023/11/18 19:46:08885.神も仏も名無しさん3LuxSそうね、精神の持病があるならば、部屋は明るくしたまま、目はハッキリ開けたまま、定期的に体を動かす。まぁ、わたしは指導者でないので参考までに。2023/11/18 19:49:55886.らじょはJnobBカムイさんの前世は女王様だなこれは2023/11/18 19:50:24887.神も仏も名無しさん6cUmoおまとも?ムイムイ?😳2023/11/18 19:51:17888.らじょはJnobB>>885たまにストレッチはしてます下半身のストレッチはたまにしてます2023/11/18 19:51:31889.神も仏も名無しさん6cUmoムイムイ、でちゃうよね〜😫2023/11/18 19:51:47890.らじょはJnobB失礼いたしました2023/11/18 19:54:43891.神も仏も名無しさん6cUmo嵐は去ったよーだ〜バックスムイムイ〜😳2023/11/18 20:04:16892.神も仏も名無しさんNjFfS>>885これは坐禅中にやります。坐禅中に定期的な体を動かす。すると魔境に落ちないです。2023/11/18 20:16:15893.神も仏も名無しさんNjFfS魔境ってのは普段たえず何かしら動いてるのに、体を静止させるから、中推神経がおかしくなって起こる事が多いんです。2023/11/18 20:19:15894.らじょはJnobB坐禅はしません修行中に水を差してしまい申し訳ありませんでした2023/11/18 20:20:01895.土手を行くのは アハさんじゃないかぁ~♪o( _ _ )o~† ドテッPHJ3R名機【エディオンおすすめ】イワタニ カセットコンロ特集 焼肉・たこ焼きなどおいしく仕上がります - 3,02https://www.youtube.com/watch?v=l6xskNF8eqgイワタニ社員直伝・炎たこの簡単おいしい焼き方&炎たこの開発ストーリーをご紹介します! - 12,59https://www.youtube.com/watch?v=ptbPI-Y2c_Uイワタニフッ素加工たこ焼きプレートCB-P-TAFでお家たこ焼きはガスで更に美味しくなる作り方レシピ編!キャンプでも使えます! - 17,26https://www.youtube.com/watch?v=Se0ogeBwGywどっちが好み?!40%小さくなったイワタニ「タフまるJr.」気になる火力も比較検証してみた - 5,02https://www.youtube.com/watch?v=VLCfy7dBD5o【アウトドアたこ焼き】天気がいいので外でたこ焼きを焼いてみた!【タフ丸開封!!】 - 9,07https://www.youtube.com/watch?v=qw3BGbl10L0イワタニの新作たこ焼き器が最高すぎた! - 14,21https://www.youtube.com/watch?v=4tSYfN-sfGU【炎たこ焼き比へ゛】炎たことスーパー炎たこを同時に焼いて比較! - 10,44https://www.youtube.com/watch?v=bAyIu3IMCtU【炎たこ開封とレビュー】たこ焼きがレベルアップ!電気よりも美味しく焼ける!【火力と焼け具合を検証】 - 9,15https://www.youtube.com/watch?v=kCiptgrTPfMイワタニのカセットコンロでたこ焼き作りました。 - 14,17https://www.youtube.com/watch?v=zgrSiWbOPM0【たこ焼き器 火力最強】イワタニ カセットコンロ専用たこ焼き プレートでおいしいたこ焼きの作り方https://www.youtube.com/watch?v=jbITwkPQs44イワタニ マルチスモークレスグリル付属のたこ焼きプレートで、犬とタコパしてみた? - 8,33https://www.youtube.com/watch?v=nNA768RvFO42023/11/18 20:32:44896.神も仏も名無しさんNjFfS俺は普通に坐禅が組めて幸せ者だ。2023/11/18 20:34:08897.らじょはJnobBそれぞれ自分に合ったやり方、生き方でいいそういう認識で常日頃いられたら、掲示板でむやみに争わなくて済むしな2023/11/18 20:49:46898.リダン◆iKlPp4IWRYKuEPG坐禅においては知識と体現では雲泥の差が有る坐禅をしない瞑想もしないで理解で真理をえるなら浄土真宗や日蓮宗のように信仰に頼るしかないかな2023/11/18 20:50:07899.神も仏も名無しさんHznjW坐禅も念仏も同じなんですけどね。でも、坐禅のほうが効果的だとは思うな。禅の悟りへのシステムは本当によく出来ている。2023/11/18 20:52:33900.リダン◆iKlPp4IWRYKuEPG>>899阿弥陀仏を真に信仰し念仏をとなえるこれも定ですな自我を滅する2023/11/18 20:54:11901.神も仏も名無しさん6cUmo>>898リダンが言ってもなあ〜ムイムイもそうだが😄2023/11/18 20:54:11902.神も仏も名無しさん6cUmo>>900リダン、的外れ、リダン担当やるかな〜😄2023/11/18 20:54:48903.神も仏も名無しさんHznjW念仏も呼吸に意識を置くのも同じだからね。怒られるけど、南無阿弥陀も南妙法蓮華経でもアーでもイーでも唱えてたら原理は同じです。2023/11/18 20:57:59904.らじょはJnobB>>898知識じゃなくて知恵ですかね自己を助けるための知恵2023/11/18 20:58:19905.リダン◆iKlPp4IWRYKuEPG成仏がなにかは分からんがともかく自我を滅したあとの感覚を知った上での、己の自我は自由と安寧に満たされることを知って欲しい気持ちはある全てから開放されるで、2023/11/18 20:58:47906.神も仏も名無しさん6cUmoどーだか〜?ブイブイ?👿2023/11/18 20:59:05907.神も仏も名無しさん6cUmo>>905的外れ😄2023/11/18 20:59:43908.神も仏も名無しさんHznjWある知識を聞いて判断するのが知恵です。2023/11/18 21:00:47909.らじょはJnobB自己を助ける知識は、自己を助ける知恵に変貌する、だったか2023/11/18 21:00:48910.神も仏も名無しさん6cUmo客がくるとリアクション変えよう〜夕ークラスぐらいに?😄2023/11/18 21:00:53911.神も仏も名無しさん6cUmoリダンがレスしだしたから、それなりに〜😄2023/11/18 21:02:12912.リダン◆iKlPp4IWRYKuEPG>>907こればっかりはやってからはじめて分かることだから無我を体現する気がなければもう俺は言葉をもたんそれなら浄土真宗が一番在家にとって完成度が高いからそれでどうだとしか法介さんに突っ込まれるかでも日蓮宗って無知な在家には少し難しいだろ2023/11/18 21:03:54913.神も仏も名無しさんHznjW今ここに書き込んでる人たちで、何も自分の意見を言わないで邪魔なだけなのがでおーです。まぁ、粘着されると困るのであんまり彼の話題を出したくないんですけどね。2023/11/18 21:04:40914.神も仏も名無しさん6cUmo>>912的外れ、ま、ほーかいくんスレぐらいなもんだ発言権はあるのは😄2023/11/18 21:06:33915.神も仏も名無しさんHznjWメクラのでおーがわたしたちの話を聞いて正しくあれやこれや判断出来るはずがない。邪魔なだけです。2023/11/18 21:06:45916.神も仏も名無しさん6cUmo>>913そんな大層な自分の意見が禅修行て生まれるのか?😭2023/11/18 21:08:02917.神も仏も名無しさん6cUmo>>915他人に振り回されるのが常のムイムイくん随分偉くなったもんだ〜😭2023/11/18 21:09:10918.神も仏も名無しさん6cUmoまだ、マックスボコボコモードてはないぞお〜😄2023/11/18 21:10:18919.神も仏も名無しさんHznjWでおー自身は上から目線で自分が一番よくわかってると周りを評価してるつとひなんでしょうね。俺から見れば滑稽です。2023/11/18 21:10:59920.リダン◆iKlPp4IWRYKuEPG>>917でおさんも無我を知り得てるだろう?であるから憑依や同化が出来るんであって何故に坐禅を批判するような言動なのか?2023/11/18 21:11:33921.神も仏も名無しさん6cUmo🤢👽マークが出ない間はまだ、真人間扱いしているほーだ😄2023/11/18 21:11:36922.神も仏も名無しさん6cUmo>>920どっから目線か、よーわからんが頑張ってるのお〜😄2023/11/18 21:12:39923.神も仏も名無しさんHznjWは?でおーは我利、我利の塊ですよ。2023/11/18 21:12:59924.らじょはJnobBどんな人にもみるべきところがある、学ぶべきところがある2023/11/18 21:13:06925.神も仏も名無しさん6cUmo>>919お〜振り回されとるな〜😫2023/11/18 21:13:20926.リダン◆iKlPp4IWRYKuEPG>>922うーん暖簾に腕押しモードのようだ2023/11/18 21:13:28927.神も仏も名無しさん6cUmo>>923承認欲求まみれで日々精進なされ、たれなかししているムイムイ様の貴重なご意見ですな〜?😄2023/11/18 21:15:24928.リダン◆iKlPp4IWRYKuEPG>>927そもそもボコるっていうから期待してたがそんなもんかねいつものでおさんじゃん君の本気はそんなものか?と思ったが昔を、知る人は避けるようだからあまり煽るのはやめたほうが賢明か2023/11/18 21:19:02929.神も仏も名無しさん6cUmoリダンはボコらないから安心しろ汁〜😄2023/11/18 21:21:45930.神も仏も名無しさんZXc4Fでおーも何十年も宗教やってんだからもうちょい頑張って欲しいです2023/11/18 21:21:57931.神も仏も名無しさん6cUmo>>930つらいのお😭2023/11/18 21:22:40932.リダン◆iKlPp4IWRYKuEPG>>929なんだあ?選民意識かあ?かかってこいよお2023/11/18 21:22:42933.神も仏も名無しさん6cUmo😄2023/11/18 21:23:43934.リダン◆iKlPp4IWRYKuEPG🤗2023/11/18 21:24:05935.神も仏も名無しさんZXc4Fでおーも悟らずに一生を終えたくないはずだしね。2023/11/18 21:24:36936.神も仏も名無しさん6cUmoムイムイモードだ😭2023/11/18 21:26:01937.神も仏も名無しさんZXc4Fま、人の事はいいか、なのにでおーは人の事ばっかりで自分おろそか、愚かな。2023/11/18 21:30:43938.神も仏も名無しさん6cUmoムイムイクルクルナルシー回転だ〜トリプルアクセル?😭2023/11/18 21:31:53939.神も仏も名無しさんZXc4Fだから、でおーは自他が分離してるんだわ2023/11/18 21:37:34940.神も仏も名無しさん6cUmoナルシー回転ガンバルンバムイムイ〜😫2023/11/18 21:38:47941.神も仏も名無しさん6cUmoそのムイムイの回転の原動力は?😫2023/11/18 21:39:35942.神も仏も名無しさんZXc4F道元禅師仏道を習うとは自己を習うなりでおーは逆の事やってるから悟れるわけがないし、それは仏道ではない。2023/11/18 21:41:15943.神も仏も名無しさんZXc4Fこれはでおーに限らず、鹿野園もそう。彼らは仏道ではないんだな。2023/11/18 21:42:18944.神も仏も名無しさん6cUmo怨怨ムイムイリバース😫2023/11/18 21:43:16945.神も仏も名無しさん6cUmoリダンのせいだ〜可哀想な〜ムイムイ〜😭2023/11/18 21:44:26946.神も仏も名無しさんZXc4Fいや、君を憐れんでるだよ、可哀想に2023/11/18 21:45:04947.神も仏も名無しさん6cUmo😭2023/11/18 21:45:40948.神も仏も名無しさんZXc4Fでおーも本真剣になりなさいな。2023/11/18 21:50:11949.神も仏も名無しさん6cUmo空虚なポーズリターン😫2023/11/18 22:05:56950.神も仏も名無しさんZXc4F何も難しい事を言ってません。気がついたら呼吸に意識を置けばいいんです。2023/11/18 22:06:53951.神も仏も名無しさん6cUmoくやしいのお〜ムイムイな気持ちは良く理解できる😫2023/11/18 22:07:16952.神も仏も名無しさん6cUmo>>950でも、ても、気になり振り回されるムイムイ😫2023/11/18 22:08:23953.神も仏も名無しさんZXc4F要するに意を持ち出さなかればいいんです。ここのところが色即是空です。2023/11/18 22:17:35954.神も仏も名無しさん6nzt1でおー尊大師はこれからの宗教を牽引していきます‼️池田先生の秘書から近日中に創価を頼みますという一報が入るでしょう。皆のもの頭が高いのじゃ!霊能力日本一ですよー‼️2023/11/18 22:19:01955.神も仏も名無しさんZXc4Fそのためにはまずは意の正体を見破らなくてはいけません。2023/11/18 22:19:01956.神も仏も名無しさん6nzt1でおー尊大師にひれ伏すのじゃーーー‼️2023/11/18 22:19:58957.神も仏も名無しさん6nzt1ははーーーm(_ _)mm(_ _)mm(_ _)m2023/11/18 22:23:58958.神も仏も名無しさんZXc4F心眼がないと相手見えないよ2023/11/18 22:30:06959.神も仏も名無しさんZXc4F自分空っぽじゃないと心眼身につかないよ。自分空っぽだと相手が自分だから、相手が見えるんだ。2023/11/18 22:39:09960.神も仏も名無しさんZXc4Fでおーは心眼とか身についてないから、我田引水して自分に引き込みたいだけだよ、やってる事は。2023/11/18 22:47:41961.神も仏も名無しさん6nzt1カムイ大僧正は、でおー尊大師の心の内はお見通しだぞ‼️2023/11/18 22:47:51962.神も仏も名無しさんZXc4F丸見えだよ2023/11/18 22:48:44963.神も仏も名無しさんZXc4F逆にでおーから俺は見えてないから、いつも的外れなこと言ってるね。2023/11/18 22:51:47964.神も仏も名無しさんZXc4F意を根こそぎ抜いてしまうのが大悟だと思うね。2023/11/18 22:53:53965.神も仏も名無しさんZXc4Fごそっと抜けたら不退転だね。2023/11/18 22:55:05966.神も仏も名無しさんZXc4Fスレッド終わりそうだな、もう次スレあるんだわ2023/11/18 22:56:15967.神も仏も名無しさんZXc4F禪 Part2https://talk.jp/boards/psy/16999598852023/11/18 22:56:52968.神も仏も名無しさんlocI6ま、相手知るには、まず、自分を知らないといけない。でおー、鹿野園とか自分そっちのけで知らなすぎる。2023/11/18 23:10:40969.神も仏も名無しさんlocI6だから平気でくだらんこと書けるんやろな。2023/11/18 23:11:36970.神も仏も名無しさんlocI6気がついたら呼吸に意識を置いて意を殺して行きます。2023/11/18 23:16:23971.神も仏も名無しさんlocI6鹿野園は禅宗ではないね、言い切れるね。2023/11/18 23:21:00972.神も仏も名無しさんlnJEt知識で法を体得するのは無理だね。知識は過去のものだからね。2023/11/18 23:46:38973.神も仏も名無しさんlnJEt今だけ2023/11/18 23:55:18974.らじょはSl4th>>955生存本能ですかな2023/11/19 00:10:21975.らじょはSl4th知恵で救いを体得ですかな、わたしの場合は2023/11/19 00:15:47976.らじょはSl4th知識は生活に適用することで知恵に変わりますなわたしにとっては、そういった知恵が救いになるわけです2023/11/19 00:21:56977.神も仏も名無しさんuMWgG智慧は悟らないとダメですけどね。智慧と知恵は違うのかな。2023/11/19 01:23:55978.神も仏も名無しさんuMWgG悟ると智慧と慈悲がわきます。2023/11/19 01:26:54979.神も仏も名無しさんuMWgG慈悲とは相手の煩悩などを取るので、厳しくなつたりします。2023/11/19 01:28:21980.らじょはSl4th智慧とは?2023/11/19 01:29:29981.神も仏も名無しさんuMWgGそれは結果ですので、気がついたら呼吸に意識を置きます。2023/11/19 01:29:42982.神も仏も名無しさんuMWgGある知識を智慧で正しく判断していきます。2023/11/19 01:32:37983.らじょはSl4th智慧とは結果?智慧の概要とは?2023/11/19 01:33:31984.神も仏も名無しさんuMWgGま、心眼と智慧は同じでしょう。相手がありのまま見えるんです。2023/11/19 01:35:08985.らじょはSl4th智慧とは裁判官みたいなものか、物差し的な2023/11/19 01:36:17986.らじょはSl4thわかってらっしゃるようで、ありがとうございます2023/11/19 01:37:26987.神も仏も名無しさんuMWgG真理を示す物差しと言っていいでしょう。2023/11/19 01:37:34988.神も仏も名無しさんuMWgG法燈明だ2023/11/19 01:38:28989.らじょはSl4th相手がありのまま見えて、それがやばいものだったら、自分も悪くなりそうだなそういう人には、知恵なのかな2023/11/19 01:40:01990.神も仏も名無しさんuMWgG自身の知恵で判断してください2023/11/19 01:41:09991.らじょはSl4th相手のありのままの我も実体性がなく変化する無我自分も同じことそういうことですな2023/11/19 01:41:48992.神も仏も名無しさんuMWgG知恵とは知識の積み重ねかもしれんね。智慧は知識の積み重ねではないんです。2023/11/19 01:41:56993.らじょはSl4th知恵を使って自己を救うってことだよ2023/11/19 01:42:28994.神も仏も名無しさんuMWgG頑張って下さい2023/11/19 01:43:08995.らじょはSl4th自己の置かれた悩み苦しみの最適解それが知恵ですな2023/11/19 01:43:29996.らじょはSl4th自己の置かれた悩み苦しみの最適解となるものそれが知恵ですな2023/11/19 01:44:01997.神も仏も名無しさんuMWgG苦しい時は苦しいです。これが智慧です。2023/11/19 01:44:58998.らじょはSl4thまあ、実は、無我の知恵の他にもさらに良い知恵をゲットしたもので…やったね!2023/11/19 01:46:12999.神も仏も名無しさんuMWgG人の苦しみとは自我から来るともう答えが出てるからね。2023/11/19 01:47:051000.神も仏も名無しさんuMWgG自我を立てないようにしていくのが智慧です。2023/11/19 01:49:231001.Talk ★???このスレッドはコメントが1000件を超えました。新しいスレッドを立ててください。2023/11/19 01:49:231002.Talk ★???【プレミアムサービス無料期間延長!】プレミアムの無料期間を2025/3/31まで延長することになりました。広告除去や規制緩和など、ヘビーユーザーにとって欠かせない機能を無料でお楽しみいただけます。是非この機会にプレミアムサービスをお試しください!▼プレミアムサービスはこちらからhttps://talk.jp/premium2023/11/19 01:49:23
【埼玉栄高校】涙ぐむ人…高2死亡、窓から身を乗り出して車が横転 深夜グラウンドで 高校が説明会、保護者「ずさんであり得ない」 頭を下げてあいさつし、真面目な生徒が多い学校「いたたまれない」ニュース速報+62612352024/11/21 22:50:42
坐禅だけを修行だと思っていたら一生かかっても埒はあかない。
常に道であること。
例えばラジオでもテレビでも、聞くときは、「只」聞き、「只」見るだけ。
入って来るままに聞くだけ。
感情も気付きも入れない。
自分を虚にしておく。
「面白い」と言うたり思ったりするのは、何かに引っかかっている証拠である。
何も無しにあると、そのまま入って聞こえて終わる。
それが「正聞」である。
眼に於いては「正見」と言う。
お釈迦さまがちゃんと言って居られることだ。
見たり、聞いたりの縁について何か出るうちは、何か引っかかってるいる。
つまり自我が有るからだ。
辛いとか、何かと云う気持ちが少しでも出ると、その物に何か引っかかっている。
辛ければ辛いままであればよい。
病もまた道であり、疲れもまた道である。
自分の中に、何かが出た時は自我が立っている証拠である。
一度は、迷いと迷えない「単」とのはっきりした違いに気づかねば、我見が入ったか入らんかの区別がつかない。
この正法の線をはっきりさせるためには、「今」を離してはならない。
常に「只」するよう努力していればそれで良い。
ポカンとなり夢や幻の馬鹿になるのとは異なる。
そこを誤解しないように。
善悪や損得の気持ちがあった時は、あと残りがする。
その残った上で次の事をしていることが多い。
すると過去と今が重なるので大きな邪魔者になる。
常に自分を注意していないとその事が分からない。
例え無用な心がおこっても直ぐに捨てて相手にせずに、やるべきことを「只」やる。
余分な念を使わない。
話は色々な事に渡るものだ。
二重、三重の話が出て混線するが、その中心の線だけを取っていれば良い。
一つ心で働けば良い。
「単」は一つ線であること。
一つのもので働けば良い。
景色は「只」見て、綺麗だとか何とか感情を挟んではいけない。
動いている時は動くに任せて素直に動かされていれば良い。
自在に何んにでも「只」応じてさらさら流れている事が分かってくる。
それには「今」一点を守らねば、前後裁断している大事な線が手に入らない。
綺麗なとか表現しようとした時は、囚われているからだ。
一点を守らないからである。
今は動いている。
それを認めると何かが出ているから、囚われ付いていくことになる。
何を見ても聞いても、何もなしの空である時には、そのままさらさらと只々でいける。
そうすると只管ならざるものなし。
そこまで行くには「今」を守り切らねばならない。
そうしないと迷いと悟り、煩悩と菩提の涯際を付ける事ができない。
生死の涯際が取れるまで凡情が尽し切れるまで努力しなければならない。
凡情に落ちるとは、物に落ちることである。
「全て道である」すなわち煩悩即菩提というのは、いたり得た後の話である。
それをごっちゃにしてはいけない。
そうしないと釈尊の六年間が無意味になる。
努力せずして道が成就するはずが無いでは無いか。
「単」「只管」「即今」「今」も大自然、つまり普遍の真理の異名である。
「解脱」とはクセが落ちて、本当の「真理」に目覚めること。
この自覚症状を「悟り」という。
何億年も「今」だけである。
本当に生きた「今」が大切であり本当の命である。
「今」を説くことはできない。
聞いて分かった今は「考えた今」であり迷いの今である。
世の中は今より他はない。
だかこの真理を本当に自覚しなければ「今」に生きている本当の喜びも安心もない。
仏道は本当の「今」に生きることである。
既にみんな「今」であるから、「今」を徹底注意して離さなければ必ず自覚する。
要は努力の有無である。
菩提心、菩提心。
単を示した行動でなければ、禅ではない。
禅は要するに、単、只、ひたすらにあればよい。
これが禅の極意である。
不純物の無い「今」が禅である。
これを「只管」という。
本当に単調に「今」行じていくには、自己を忘じた力がないとできない。
考えたのでは意識や感情が入っていて、不純物だらけで腐るから駄目である。
自己のないことが禅である。
生とか死は観念であり言葉である。
思いにとらわれると思えば良い。
多くは「只管」と言う言葉が、「只管」を邪魔している。
「只管」にならねばいけないとか、いう意識が働いている。
「只」あること、ただ「単」にある。
余念を入れないように常に自分を見守っていなければいけない。
「只」であらねば、禅が禅を教えてくれない。
禅の趣旨や意味が判っても意味がない。
「只管」にあれば、何をやっていても問題ではない。
おおかたは思慮分別が先にでる。
この癖を破ることが、要するに禅修行である。
これが坐禅する眼目である。
しかし、「見性」しただけでは本当の融通がつかない。
「悟り」が邪魔をするからだ。
「見性」の力で「見性」を破らねばダメだ。
自分を抜きにして、その時のみであればよい。
何か自分が過去に学んだものとか、得たものとか、聞いているものとかが邪魔をする。
ただ今のみの世界である。
その場でちらっと出るものを問題にしないことだ。
たえず「単」であればよい。
私を挟まないで「単」であれ。
箸を上げて口に運ぶ時も、いつも「単」であれ。
いつもその場その場、「単」であれ。
どうあろうとも、その物と離れなくなる。
そうやり続けていると、「悟り」の牢屋から救われる。
自己の無いことは判っても「単」をしょっちゅう練って行くのは容易ではない。
自己も死もとれて本当に楽になっていく。
「今」がどんなことであれ、「心」に留めてはならない。
それができないとモノにならない。
自分がどんな刺激を受けてもさらさらやっていかなければいけない。
本当にさらさらと、諸々の縁と対立無く人生する事は難しい。
身と心が隔たっている限り不可能である。
心は浮遊状態にあり、勝手に精神を展開するからだ。
この状態である限り、我々の掛け替えのない道具であるこの身体は.煩悩の根源であり苦しみの種である。
隔てが常に縁と対立して、心を惑乱させ葛藤するからだ。
瞬間に忽念として生じ、而もその連続こそが煩悩の根源である。
これが隔たりによって起こる事を先ず知ることだ。
従って、今、忽念と生ずる心の元を解決する解決策は、隔てを取ることにある。
如何にして取るか?
問題の焦点は「今・瞬間」に有る。
「今」に二つはない。
「今」その物になればよい。
「今」でない物はない。
従って、「今」だけ。
素直に「今」在ること。
「今」余念無く一心不乱にすること。
要するに我を忘れて成り切ることだ。
本当に徹すれば、自ずから隔たりが取れて、心身一如の当体となる。
否、元よりこの心身本来なり。
これを仏という。
菩提心が無ければ皆ダメだ。
一瞬一瞬を大切にして「只」やる。
どんな事も「只」やる。
呼吸の一瞬一瞬のみ。
呼吸の一瞬が続けられれば、自然にすべてに一瞬一瞬のみにできる。
その物と離れないでやれるようになる。
こうなれば大したものである。
ここまで来ねばいけない。
常住不変に一瞬一瞬でなければいけない。
それには涯際が付くまで常住不変に練らねばいけない。
自ずから成るようになるまで練らなければ、本当の安楽も無いし、生死の不安からも救われない。
願心はあっても、やらなければ駄目である。
相手や環境である境に用はない。
とにかく願心である。
自分の好きな事に時を過ごしてはいけない。
その場その場のみであること。
自分の考えなど入れず、その時のみに成って一心にすこと。
初めはどうかしようとするが、それが要らない。
その場その場のみに任せておく。
その事のみに「心」を置いてする。
常に、そう努力していると、自然に「隔て」が取れていく。
「只」やれる。
何事も淡々とできる。
「只」が純熟してくるから自然と全てと一つに成る。
本当に熟して徹する。
そうしないと大自覚が無い。
これが「悟り」の大事であり証明である。
ここで本当に納得する。
だから悟りを目指して「今」「只」やる。
無目的の坐禅は知らん間に妄想坐禅となり、ぽかんとした腑抜け禅になるから注意せよ。
どうしても本当の菩提心が無ければ邪禅になり、多少の落ち着きが有っても、損得など邪念は一向に取れない。
無明の根本を解決しなければ坐禅修行する意味が無い。
菩提心、菩提心。
難しそうに聞こえるこの語も、砕けば「今」「只」のこと。
みんなの[本当の心]のこと。
これを自ら證するだけである。
「隔て」がとれると常住不変がわかる。
死んで生きてが無くなり、一杯一杯である。
「今」の正体を知ればよい。
もともと「今」だから「今」はいらなくなる。
これは徹底「今」に成り切って、「今」を忘れなければ体得出来ないし、分からない言葉である。
「今」に徹すると、一瞬に今までの妄想が骨身に徹して感じる。
つまり妄想そのままが自分となり、妄想とすべきものが無くなる。
これを全身の毛穴からも呼吸をしていると云う。
丸ごてと云う意味である。
体と思う念が無くなる。
体の念が有れば体にくくられる。
体の念が無ければ自ら気にならなくなる。
「応無所住而生其心」も、[心]の様子の事。
「今」「只」のこと。
これが浄穢不ニ、自他不ニとなって本当に安心する。
「隔て」が無くなり心身一如になれば何でもない事よ。
これは良いとか悪いとか、すぐ自我を立てるから「隔て」となる。
事はここから起こる。
[心]の衝突である。
これは一つのものを立てて認めるから、二つに見たり、三つに思ったり、念が無限に広がって迷う。
これが無明よ。
比べる物がないのに、自己を立てて比べるからである。
本当に「只」を常に練っていれば良い。
そう努力していると自然に相手が気にならなくなる。
いやでも「隔て」がとれて一つに成る。
これを入我我入という。
世の中に処しながら、相手と一つに成って自在に変わっていくのを異類中行と云う。
私が無いと、天下は自分の姿に他ならない。
この境界が不動心である。
不動心は正法以外にない。
「今」「只」が正法である。
正法は「世界壊せども、この性は壊せず」とお経にある。
同時に二つのことは、考えれない。
一点のみ集中して、正体のいかなるものかを自覚するのである。
一つ事に集中し切らなければ「隔て」はとれない。
菩提心の一点張りだ。
我れなければ、即菩提。
それを大清淨とも云う。
汚がさるるものがなければ、浄くするものもない。
「今」は生死を論ずる間はない。
本当に「今」が手に入ったら自ずから生死が気に掛からない。
生死透脱というのも、砕いて言えば「今」「只」のことである。
途中は仕方がない。
それが目標だから。
本当に「只」になればよい。
只管も只も有ってはならない。
菩提心のもとに常に「単」を練ることである。
坐禅をする人は、自分の癖を取る事を主体にして、即今底を実践すれば良い。
「只」は努力の結果である。
ここまで来ると本当に大平和である。
生死はただ「単」である。
生のまま、死のままである。
「今」の様子に過ぎない。
この真理を悟るのが坐禅修行の本当の目的である。
しかしそれだけでは何かが引っかかる。
はっきりしていても、引っかかるものがある。
まだ本当に取り尽くされていないからだ。
おおかたの悟ったというところはこの当たりだ。
悟後の修行の大事な所である。
決して油断してはならない。
自己のないところの確証をにぎってしまうと、大抵はそれをひっ下げてしまう。
本当に大悟したものは少ない。
簡単に言えば菩提心が弱いからだ。
それを捨てて単を練ることが足りないからだ。
境涯を得ても、そこが陶治されないといけない。
境涯を持っていては駄目である。
うたた悟れば、うたた捨てよ。
この大法を得ることは容易ではない。
菩提心の鈍い者は到底仏祖の誹りを免れぬ。
努力しかない。
菩提心が仏祖の命、仏法の血肉である。
菩提心、菩提心。
・
・
・
・
・ ここ迄がテンプレです。
・
・
・
・
師はそれを聞くと、法理としては完璧だ、だがその法理が実際の法との間に挟まっちゃって、直接法に触れられなくでいる。
電話を切った後で、わたしは自分の部屋でなんとなく法やら禅を思い巡らしてました。
すると、急に法理がごそっと抜け落ちた。
あれ?俺の禅は今までなんだったんだ?
全てが無意味ではないか、と落胆しました。
ちょっと外の空気でも吸いに行くかと庭に出た時、法に直接触れていた。
あぁーこれだったのかと実感しました。
なんとなく脳が刺激され活性化されていく。
そんなある朝庭に出ると、
あれ?風景が自分になってる、思考停止していると実感しました。
これが見性です。
二週間くらいその感覚が続きましたね。
わたしはある禅友と2ちゃんねるでのやり取りで、禅友が念と念の間の虚無に意識をおいてみなと言われました。
なんだろ?とりあえずやってみよう。
やってみるとですね、なんかそっちに吸い込まれそうになり、なんか吸い込まれそうなんだけどって禅友に言ったら、
そっちが本物でこっちが偽物と言う。
とりあえず、そっちにら飛び込んじゃえ!ってやったところ、気を失いそうになりめまいがしたんで、ちょっと横になって仮眠しました。
起きてみたらちょっと以前と違う。
思考以前に自分が居る。
思考以前のわたし。
なるほどねここが彼岸かと感じました。
わたしには、あるトラウマがありまして、これは、もう一生付きまとうな、辛いなと思ってました。
ある禅僧にそれを話しました。
なんて言われたと思います?
「そこだけ先に大悟したんだな」
はぁ?大悟しただと?
どうだ羨ましいだろ!
って思った瞬間、トラウマがごっそり落ちた。
トラウマと同時にいろんな過去が落ちた。
ある意味いっぺんに救われた。
なんとも禅僧と言う人は凄いですね。
わたしは禅寺で坐禅をしてました。
坐禅から立ちあがろうと畳に手を付いた。
あれ?なんだ今と言う畳に直接触れているではないか。
つまりこの時、法を体得した訳です。
坐禅とは念との戦いです。
念についてはニ念を継がないとよく言われます。つまり、思考の連鎖をやめる。
じゃ一念は出てもいいのか?って言う疑問を持ってました。
ある日、坐禅をしていた時、完全に念を無視し続けようと決心しました。
ずっと坐禅やってるとですね、スコンって念が出なくなりました。
これを師に伝えると、それが正念相続だと言われました。
正しい念とは念が出ない事とは、なんとまぁ。
これは結構かかりましたね、15年くらいかかりましたかね。
それでいいですって言われた時は嬉しかったな。
僧が必死になって趙州禅師に
犬に仏性はありますか?と聞いた。
それはたとえばの解釈として、
犬にたとえて自分のような者でも仏性があるでしょうか?と必死に聞いている。
仏教理論では、あらゆるものに仏性があることになってます。
しかし、趙州禅師は、
「無」と答えた。
さて、この「無」を見て来いというのが無字の公案です。
無字のストーリーは以上の通りですが、実際、ひたすら「ムー!!」とやって行きます。
理屈なんかなく、頭のてっぺんからつま先まで「ムー!!」ってなりきって行く作業です。
そして無字になりきれれば答えが出ます。
とにかく成りきっていくことです。
自分のことを見て、うまくいってるとか評価しちゃダメです。
雑念が出てもかまいませんから、気がつけばムー!!ってやっていきます。
寺では、無字になりきったところを点検して、そこで通すかどうかお師家さんが判断します。
とにかく、いまは無字に成りきるようやってください。
そして、わかったことを、教えて下さい。
念と戦う前から楽な坐禅をしてるからちっとも良くならないんです。
ボコボコされたいのか?
😄
たれ流しがあほらしいくらいに
ボコられたいのか?
😄
たらたら垂れ流すなんて
ありえからな〜
😄
ほーかいくんスレなら
大目みてやるが〜
😄
鍛えられたくなったか?
😄
今回買った特殊部隊ナイフは刺す目的でも作られてる。
聞かれもしないのに
たらたらと
たれ流したくなるんだろう?
😒
無字について
話したいなら
無字してやろう、
てんだ
😄
まだ
やるのか?
😒
青竜刀で
破壊してやるから
出してこいや〜
😄
ナイフについで語ろうぜ
いくらまでなら出せる?
なので簡素な短文になるね。
川^〇^ハレカムイたんは能書きはいらないんでしょう
黙ってお座りしていなさい
めっちゃカッコ良かった !!
https://youtu.be/pMdWHR8gk4I
マックィーンのようにバイクで
爽快に駆け巡るのが夢だった
大脱出(前編)
https://wild-bison.blog.jp/archives/19446012.html
大脱出(後編)
https://wild-bison.blog.jp/archives/19446700.html
投げナイフか、それは持ってない笑
草刈正雄の汚れた英雄がカッコよかったなー
難しいですけどね。
大体反発くらうしね。
ただ、輪廻とは今この世界を輪廻し続けます。
つまり、あの世とか無いんです。
今ここしかありません。
仏教学者と同じだ。
カムイさんの悟りの境地を直接言葉で表現しないのは法介さん自身が答えを見つけなければイケない道だからでしょうか?
悟りって『元も子もない』…人によっては救いだったり絶望だったりするモノではないですか?
二人の会話を見てて歯痒い気持ちになりましたのでレスさせて頂きました
ムイムイ〜
チャンスボールあげてこ〜〜い
😄
という意味わかるう〜〜?
いま、こんな感じなオレ
😄
と
息を潜めて待つ、
ゴルゴ13
ライフルで待ち構える〜
😄
もうね、あそこに書き始めてからずっと書いてんだよ、それ系の事をね。
それに気づかないのはちょっとなーって所あるよね。
でおーもナイフ買えよ
悟りに絶望はないです。
カムイさんの境地に至ったら話は噛み合う筈の無いですから趣味の話だけ宜しいかと思いますがカムイさんからしたら仏教に一生懸命な方に対して歯痒い思いでしょうね…
その優しさが勿体無いです
その境地にない人にとっては…です
特に煩悩の多い方や逆に仏教にのめり込む方には…
俺も持っていき方が悪いかもしれんけど、なんせ指導者じゃないんでね。
😄
ナイフ買えよ
それがどうかしました
まぁ回り道をしてでも自分で答えを探すのもアリですし無理に悟りに至る必要もないかと思います
余計な口出し失礼致しました
真摯な対応感謝でした
他に何か聞きたいことがあれば遠慮なしにどうぞ
では…悟りの内容を知った後で坐禅で確信したのか、坐禅によって悟りに至ったのか、前後関係を教えて頂ければ幸いです
実際に師に言われた事をやります。
師には本を読みなさいとは言われません。
実践です。
だとすると答えは後者『坐禅によって悟りを…』ですかね
それは凄いですね、、お師さんも…
>>86
その知識が逆に足枷になったりしませんでしたでしょうか?
ノイズ…雑音になりそうな気がしますけど
知識は入れすぎない方がいいです、ザクッとでいい
つまり知識が足枷になります。
新しい指標ありがとうございます
何分、全くの素人ですので…
要するにテンプレの事だけをするといいです。
なかなか出来ないですけどね。
人としての道徳心には良いのかと思いますね
>>92
十牛図、拝見しました
10番目必要かな?と思ってしまいました
大変有意義なお話を頂きありがとうございます
無宗教ではありますが少しずつ歩みを進めて行こうと思います
3番が大切です。
3番目の見牛がもう悟りなんです。
その前の2番目が見跡なんですけど、正しい仏教知識を得たところです。
ここで止まる人が多い、法介さんも2番目の見跡です。
つまり悟れない。
仏教学者も見跡止まりです。
直にならければ話はできない
双方同じだ
直のようで直ではない
一物を持ってしまった
日蓮上人を持ち上げて、批判しているようなものだ
くだらないことをやっているじゃない
だとしてもカムイさんは法介さんを否定してる訳じゃないですよね
zenさん同様に歯痒いだけで…
私は二人と視点のズレで噛み合わない様子が見ててムズムズしちゃいました
互いに繋がった縁、勿体無いなぁと…
横からスミマセン…
夕さんは『ゆう』さんなのか『た』さん、どちらなんですか?
気になって夜も眠れません
誰の言葉だと思っているんだ
ちなみに、磨くことが仏の稼業もな
カムイのスレ何ぞ臭くてみてられんわ
そうですね
ムイムイ側見方ですね
私はなんともおもってませんよ
先を見すぎです
あっせてもいいことはありません
まぁお互い人間に生まれちゃった面倒臭さを満喫しながら『今』を楽しみましょう
多分、逆に先を見ないから先を見過ぎてる方に歯痒い思いを感じるなのだと思います
人間しか真理を自覚出来ませんけどね。
それを『苦』と感じるのか救いと受け止めるのか…
人間は本当に面倒臭いです
苦とは過去未来から来てます。
つまり今だけの時苦は生じないんです。
カムイさんが悟り人だからでしょう
普通はそんな境地、分かっていても難しいです
それには坐禅が必要なのでは…と思います
理屈で押し通せるモノじゃないんでしょうね
どっちもどっち
すべてが仏の計らいよ
『ユウ』さんなのか『た』さんなのか教えてくれないと眠れませんよ~
タヌキはセッタンの故事によって
どちらでも構わない
ありがとうございます
タヌキ感、出してたので『もしかして』ってなってました
これでグッスリ眠れます
介護老人かよ
まだ若いンだから自分で始末しなさい
金魚のフンの文句は俺に言え
私が介護老人です
達観者が多く語らないのは『優しさ』です
優しさを見逃せないのが金魚でありフンなのです
あしからず
磨けということ
磨いてできることもあるが、できないこともある
磨くことが仏の稼業
磨く
それ以上でもそれ以下でもない
一生磨け
そうですね、頭でそうぞう想像しても無理です。
今しか無いと言う「自覚」が坐禅なりで必要です。
夕なんてクズ相手しなくていいですよ。
あぼーんするといいでしょう。
ハイ、私には争う矛(宗教の知識)を持ち合わせておりません
仏教…
阿頼耶識というダイヤの原石を磨いて磨いて磨きぬいた先に阿摩羅識というダイヤモンドへ輝かせるのが本筋かと思います
悟り…
末那識の究極型…平等性智の最極地でしょうか
瞑想を徐々に始めたばかりの私にはまだ坐禅の段階には早いですね
無心になるのが難しいです
ご教示、ありがとうございます
>>122
タヌキの文句は俺に言え
私がクズです
あぼ~んもクズも愛すべき我が身です
坐禅してる時は息に意識を置くといいでしょう。
知らない間に雑念を追っかけてますので、それに気づけばまた息に意識を置きます。
目は閉じてはいけません。
あぁサマタ瞑想でも呼吸に意識出来るから出来てる感がありますね
雑念の塊の様な人間なのでユックリ進みます
宗教板の方は菩薩の様な方の集まりなので助かります
最初は雑念との戦いとなります。
ん~…どうもまだ悟る覚悟もない人間が話を聞くのも失礼にあたる気がしてきました
カムイさんにはその覚悟というか人生にそうさせる深いモノがあったのだと察します
ちょっと踏み込む勇気ないので語らないで下さいね
ウソブクのよ透ってないのに、もう40回も初関を透る俺様!と言い放つドマヌケ!40回も透ったら初関を透る、じゃねーべ!!
なんで、みんなワイを無視すんねん!?大欲(たいよく)は無欲に似て足るを知る。煩悩即菩提の法相宗でええやろ・・・ほならなんでワイはこんなところにいるんねやろ
イヌ:悟りとか分からねーし、知らねーし、悟ってねーわ? ググるイヌヤマは常にシカトされ自己存在の確認要求哀願奴隷也
悪霊イヌが鳴く:なんで 宗教板って まともなの俺だけなんだ?みんな間違ってばっか俺だけが正しい。みんな間違ってるのに何で正しい事を言ってる俺は否定ばっかりされるんだ?みんな俺の事を 凄いなと認めろよ。 俺は自分より優れた奴が ゆるせないんだよ(脅迫性人格障害の特徴)
ナント妻子と月一、金曜夜7時からのお坐り会、茶菓(ちゃか)代ワンコインで、これが研究会出席虚勢のトマヌケ犬は誰からも疎まれる
独善イヌヤマは月一第三金曜日夜7時茶菓代ワンコイン坐禅会に出ると偽証。命取りの摂心に親子で100回参加と虚飾スル
新小岩の食業ドライバーイヌヤマとは法相宗(ほっそうしゅう)奈良興福寺(こうふくじ)前官長じっちゃんのお抱え運転手で食業ドライバーで、知ったかぶる以外に承認欲求が満足しない。
多数者を演じ孤立セズと強弁し自作自演のおぞましい日々の無脊椎動物イヌヤマは成り済まし多重人格者で要治療
インチキキチガイ雀鬼イヌヤマ麦、アルコホル発酵しイヌ麦焼酎なのに喜ばせ共有機能が絶えて無し。吠え吠み、オノレの尻尾をクルクル追うノミシラミ
5ちゃんねるの会話はバトル形式で馴れ合いを禁じる。イヌヤマは、褒めてクレヨの哀願奴隷。相手を罵倒する悪口雑言の数々は外道イヌヤマへのリアル社会の絶対評価で、問いに問いで返す脊髄反射の脳足りんで悟前(ごぜん)未悟(みご)、金魚ドジョウと救い難い。
① ググるシッタカ知障荒らしイヌヤマは無視放置スルーが一番ツライ、耐えられない。シッタカイヌヤマは常に誰かの反応レスを待ち焦がれ
② 放置された固定観念イヌヤマは煽りや自作自演でアナタのレスを誘う。ワケワカメ糞邪鬼イヌヤマにノセられてレスしたらその時点でアナタも同類、負け。完敗
③ ;反撃はイヌの滋養にして栄養であり最も悦ぶ事です。門前のヤセイヌにエサを投げ与えぬ事
④ ;臭い汚いコワイ気持ち悪いイヌヤマが枯死する迄、孤独に暴れさせゴミが溜まれば削除
いつかそう言う時期が来るかもしれませんね。
ありがとうございます
微妙に不安障害、睡眠障害が疼く体質ですので坐禅が救いになるかな…との思いもあります
何かとお騒がせしまして失礼しました
それならば心地よい程度の坐禅をするのがいいね。
サマタ瞑想で呼吸、身体を感じ
ヴィパッサナー瞑想でイメージトレーニング
坐禅で無心を…
無宗教の視点から色々学び実践し気負いなく今を生きる
感謝です
今を離さずに
息を潜めて
狙っているぞ〜
脳天ヒットを〜
😄
サービスだ〜
178.
ユーザー
栖雲居士◆dqam8SqGUPdm
NpOOu(3/3)
とにかく彼は師匠(master)の様に振る舞いたいのです。
徒弟(apprentice)みたいのが欲しいのです。
ナ◯フの件で気付かれた方もいらっしゃるでしょうが、あれ、歪んだ性癖があるのでしょうね。
ま、あんまり云うと、ね🤭
2023/11/09 11:31:
ムイムイは師匠気取りか
悟らないまま、一生を終えるんやろうな
閃さん、あまり、かかわらないように
ムイムイは悟る悟らない関係なく、増上慢
性格の裏返しだろう
楽になったぜ、くずでけっこう、
ムイムイをただ叩く
以上
法介さん、やって来ました。zenです。
唯識は真理だけど勉強する必要はありません。知識は悟りには何の役にも立たないからです。
唯識は悟らないと意味が無いのです。坐禅・念仏・題目の修行で唯識を悟ることができます。しかし独学では難しいと思います。できれば悟りを開かれた師匠を見つけて本格的に修行されることをおすすめします。禅の場合は年に数回、摂心会と言って一週間泊まり込みで坐禅修行を行います。ほどに悟りを開くためにはそういう修行がどうしても必要なのです。法介さんが日蓮宗でも大丈夫です。時宗を開かれた一遍上人は臨済宗の心地覚心禅師のもとで修行して見事に悟りを開かれました。キリスト教徒の外人さんが禅の修行をした例もあります。
唯識は勉強する必要はありませんが、カムイさんの言葉は全て真理ですから良く学んで下さいね。
ネカマの時は、増上慢を治せと世間的に言っていたが、
無駄だと分かった
でてきたら、徹底的叩く
お前のところがそうだからと言って、他がそうだと思うな
悪人は知性を相手を攻撃する為に使う
善人は知性を相手を救う為に使う
あらんかぎり全身全霊をもって、多宗派の人に説明してみろ
お前が今がすることではない
この禅定とは過去もない、体も忘れて今だけになる状態
これが坐禅
とにかく命がけでやる
今だけになる
お前の一生懸命など、たかがしれている
悪人は知性を相手を攻撃する為に使う
善人は知性を相手を救う為に使う
師匠の物真似か
覚悟しろ
ムイっ、ムイっ、ムイっ
ムイっ、ムイっ、ムイっ、ムイっ〜
♬
今後夕をタヌキと呼ぼう。
今まで何してたの?
お終いか
仏教やめたら?
ネカマ
もうかくことがないのか、師匠の物真似でもいいぞ
悟っている悟っていない、雑音をたれながすな
行為に嘘あり
今だけの事を真剣に命がけで只する事なり
今を離さず
体の動作はなるべくゆっくり丁寧に動かすのが良い
思考がゆっくりになってきたらしめたもの
これは、少しの量で腹が膨らむと言う効果もある。
坐禅だけが実践ではない。
こうやって四六時中、隙を作らず油断せず行じるのだ。
禅とは今を行じること
絶えず無意識にやってるもの
息だ
こいつを意識する。
一息一息丁寧に
これが今を行じるという事
例えば歩きながらだと息を意識するのは難しい
メインの動きを意識すれば良い
歩くときは歩く事に意識をおく
これを練ると言う
坐禅は妄想、雑念を意識的に切って、はっきりとした意識でおらんとあかん。
見ている自分という感覚があります。
この感覚をなんとしても取っ払うんです。
ガムシャラでいいんです。
坐禅しようが、念仏あげようが、叫ぼうが、なんでもいいです。うまくやろうと思わないことです。禅も仏教もそんなことどうでもいいです。
自分のあらゆるエネルギーをそこに集中します。それだけです。
こっち側がない、という感じです。自分はいなくて、周りだけある、という感じ。通常の見性はここから入ります。
(2) 奪境不奪人
これは(1)がわかれば、すぐわかります。見るもの聞くものが、すべて自己であったと気づくわけです。雀のチュンチュンもカラスのカーカーも、同じものだ、自己の表れだとわかります。
(3) 人境両倶奪
これはちょっと難しい。自己も世界も存在しない、まったくの、夢、幻であったと気が付くところです。悟りが徹底したところ、十牛図でいえば、ただ、丸が書いてあるところ、八番目ですか・・・・真空ですね。この感じは、わたしもハッキリしてないです。
(4) 人境倶不奪
(3)から、自己と世界が浮き上がるところです。空即是色のところ。柳は緑、花はくれない。
時には暑くもないのに脂汗が出て来る人もいます。
ただ、その期間を過ぎると静かになったりします。
すると、道元禅師のようなゆったりとした坐禅になるんじゃないかな。
ただ我が身をも心をも放ち忘れて、仏の家に投げ入れて、仏の方より行われて、これに随(したが)いもてゆくとき、力をも入れず、心をも費やさずして、生死を離れ、仏となる
そして、自分というカタマリがないから空性だからなんにでもかわる。
つまりいいことも悪いことも固定ではないから変化する。
言い方を変えると継続しない。
あらゆる苦悩は継続しないんです。
実際には今にとどまり続ける意思などなくても今しか無いんだけど、人は過去を引きずっちゃう。
そして、自分というカタマリがないから空性だからなんにでもかわる。
つまりいいことも悪いことも固定ではないから変化する。
言い方を変えると継続しない。
あらゆる苦悩は継続しないんです。
風景が云々は俺が言った言葉だぞ
マネするんじゃない
つまり自我が立ち上がる所をいじらないでただ見て行く。
https://talk.jp/boards/psy/1699235664
えー、こちらに一斉に名無しで鹿野園を攻撃します。
ご協力お願いします。
https://talk.jp/boards/psy/1699325310
作戦室はこちら
これが「今」を「今」たらしめる。
真実は時間もなく世界からの分離もない。
つまり、「永遠の今ここ」そのものが本来のわたし。
今、現に見ている風景が本来のわたしと言うことです。
白隠禅師坐禅和讃
無念の念を念として 歌うも舞うも法の声
心も今にある時、つまり心身共に今にある時なんの摩擦もない。
そのまま一生を終えても良いんだけど、夢・希望、つまり心は未来を向く。
当然摩擦が起きる。
バイクがあえてバランスを崩してコーナリングするのと同じ。
無茶なコーナリングをすると転倒する。
問題はどんな夢・希望を抱くか。
どうせ夢を見るなら命がけの夢を見るのもいいかもしれない。
祖師達は命がけの夢を見て法を守り法を継いで行ったに違いない。
相手が正しい事言ってるか間違った事言ってるか。
俺はこれは重要視しない。
相手のその言葉は邪心からきてるのか、つまり悪意、妬み、嫌味などから来てるのか。
俺はここで判断する。
ま、この中で一番邪心なのは誰か、丸見えだけどね。
あの世はない、わたしたちは今ここを永遠に輪廻転生している、そして本当のわたしとは今そのものであり、宇宙が消滅したとしてもなんらかの形で今はあるんで、今であるわたしは永遠不滅である。
もし、苦しみがある、または自覚出来てるのであれば自我が立ってるから。
つまり自我が苦しみの根源。
なので自我がなければどんな環境に置かれたとしても一切の苦しみはない。
自我がなければ苦が自覚出来ないし、楽も自覚出来ない。
苦も楽も自覚してない所が安楽。
苦だけを取り除いて楽を求めたら、それは自我が立ってるわけで。
つまり、いじらないとなる。
苦を取り除かず、楽を求めず
まずは自我がなければ完全無欠であると気付くこと。
我がないときにお茶を飲みます。
その時お茶だけがあり、わたしはお茶であり、わたしはわたしとしてあり、お茶はお茶としてある。
これが色即是空
過去を捨てるとは自分を捨てる事。
なんか自分がなくなり頼りない感覚がおこります。
過去を捨てる感覚がわかるとしめたものです。
何か念が立ち上がれば切ればいいんです。
そして、お茶を飲む時はお茶だけになればいい。
念というのは絶えず湧いて来ます。
その念に意味を持たすのがまずいんです。
そこを切って行きます。
つまり、意味の無い念、無念の念を継いでいくのが只管打坐です。
自我があると、言い訳が出て、相手に原因があるように思う心が動き、邪魔をする。
これ、自我があれば出来る事ではない。
自我があれば我田引水するからね。
つまり自我があると縁に逆らう。
なので、あらゆる今の状況の縁はこれはこれで完全完璧なんだ。
ただ間違ってはいけないのは言葉はそのようなありようではない。
ただあるがまま。
あるがままのものに対してあるがまま動く。
それを妨げているのは思考、言葉である。
つまり、聖書を読んだり神父さんから聞いたりして、自分のイエスのイメージを持ってるだけなんです。
これを観念ともいいます。
このイエスのイメージは人それぞれ違うのは理解できますね。
つまり、10人いれば10人とも違うイエスのイメージを持ってます。
これがいい争いの原因です。
じゃどうすれば良いか。
イメージでない観念でないイエスとは?
これ、イエスの知識を増やしても無理なんです。
余計にイメージが膨らむだけ。
最終的にはイエスにただ祈り信じきるしかないんです。
このイエスを信じきる力が本当のイエスに会える手段です。
あるがままのものに対してあるがままに動く。
思考を練らずに自覚なしに動くようにここを練って行く。
氷が溶けたものが水であるように,自我の妄執が融ければ仏である。
私たちは自らが仏であることを知らず,それを遠くに求めている。なんと儚はかないことか。
ちょうど水の中で、のどの渇きを訴えるようなものである。
裕福な家を迷い出て、困苦しているようなものである。
六悪道を輪廻する原因は,自己への深い妄執と分別心のため,己が己に迷っているからである。
分別に分別をかさね、妄執に妄執をかさねて,いつ迷いの世界を離れるのか。
大乗の坐禅のすばらしさは、とても言葉ではあらわせない。
布施や持戒などの六波羅蜜(布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧)
念仏,懺悔など善行の根本は、みな坐禅(無心)に帰する。
たった一度の坐禅(無心)の体験で、過去に犯した全ての罪が消え去る。
六悪道などどこにもない。浄土は今,目前にある。
この大乗の教えを聴いて、仏の教えに出会えたことを喜び、
その教えに随って生きてゆく人は,多くの福徳を得るであろう。
いわんや自ら坐禅を行い,無心を体験して自己の本性に気付けば,
それは何の実体もない空であるから,もはや、ああこうの分別の世界,
妄執の迷いから遠く離れることができる。
仏と自己が本来一体であったという,大乗の門が開けた。それは分別に分かれない真っ直ぐな道である。
坐禅によってこの身を空にした,その「無の身」を体とすれば、その行為のすべてが真理を離れない。
坐禅によってこの心を空にした「無の心」を心とすれば、その行為はすべて教えの姿,真実の姿となる。
世界と自己が一体になった三昧の世界のひろやかさ。
その三昧の大空には仏の智慧の光が、月のように光り輝いている。
ここに到ってなにを求めるのか,悟りは今・ここ・自分の上に現れている。
ここが極楽浄土であった。この自分が,仏であった。
ユーザー
栖雲居士◆dqam8SqGUPdm
iAxKD
法介さんやカムイさん、JBLさんはネタというか叩き台になるからスルーはしてません。
まぁ、流石に名前は伏せて使わして貰ってはいますけどね🤭
2023/11/11 16:00:55
これ、坐禅してる時と同じですね。
https://livedoor.blogimg.jp/butudou/imgs/c/8/c88fafe3.jpg
カムイさんも楽しまれて来て下さいな。
焚火にはやっぱロケット・ストーブやね。
はい、今日は寒い笑
5ちゃんねる内の問題なんがどうでもよくなるね。
まるで禅より効果あるみたいじゃないかw
なんで、今日は今から庭で焚き火する
これを正見と言う。
水を離れて氷なく 衆生の外に仏なし
衆生近きを知らずして 遠く求むるはかなさよ
譬えば水の中に居て 渇を叫ぶが如くなり
長者の家の子となりて 貧里に迷うに異ならず
六趣輪廻の因縁は 己が愚痴の闇路なり
闇路に闇路を踏み添えて いつか生死を離るべき
夫れ摩訶衍の禅定は 称歎するに余りあり
布施や持戒の諸波羅蜜 念仏懺悔修行等
其品多き諸善行 皆この中に帰するなり
一坐の功をなす人も 積みし無量の罪ほろぶ
悪趣いずくに有ぬべき 浄土即ち遠からず
辱なくも此の法を 一たび耳にふるる時
讃歎随喜する人は 福を得ること限りなし
いわんや自ら回向して 直に自性を證すれば
自性即ち無性にて すでに戯論を離れたり
因果一如の門ひらけ 無二無三の道直し
無相の相を相として 行くも帰るも余所ならず
無念の念を念として うたうも舞うも法の声
三昧無礙の空ひろく 四智円明の月さえん
此の時 何をか求むべき 寂滅現前する故に
当処即ち蓮華国 此の身即ち仏なり
水と氷のように水を離れて氷なく、衆生の外に仏はありません。
衆生はすぐ近くにあるものを遠く求めるばかり。
例えば水の中に居て、喉が渇いたと叫ぶんでるようなもの。
裕福な家に育って貧しいと迷うに他ならない。
六趣輪廻の因縁は 己が愚痴の闇路なり
闇路に闇路を踏み添えて いつか生死を離るべき
夫れ摩訶衍の禅定は 称歎するに余りあり
布施や持戒の諸波羅蜜 念仏懺悔修行等
其品多き諸善行 皆この中に帰するなり
一坐の功をなす人も 積みし無量の罪ほろぶ
悪趣いずくに有ぬべき 浄土即ち遠からず
辱なくも此の法を 一たび耳にふるる時
讃歎随喜する人は 福を得ること限りなし
いわんや自ら回向して 直に自性を證すれば
自性即ち無性にて すでに戯論を離れたり
因果一如の門ひらけ 無二無三の道直し
無相の相を相として 行くも帰るも余所ならず
無念の念を念として うたうも舞うも法の声
三昧無礙の空ひろく 四智円明の月さえん
此の時 何をか求むべき 寂滅現前する故に
当処即ち蓮華国 此の身即ち仏なり
ムイムイ、
迎撃準備〜〜
🚨
?
🚨
🚨
煩悩を一息で切る。
煩悩に気づくだけでいじらない。
煩悩に成り切る。
煩悩を抱きしめる。
😒😒😒😒😒
う〜ちかた〜はじめ〜
🔥🔥
🔥
鳴ったな
🔥
でおさんがヤジとばすだけやろ
コンビニ行ったらビックがあったから買ってみた。
いいことだ〜
😄
コンビニにも置いてあるこれ。
無茶苦茶辛いです。
人間の食べ物を超えている笑
昨日今日でナイフ使ってみたけど、A2鋼材くらいの硬度がいいね。
ただ、A2は錆びやすい、こまめにメンテしてまた使って研いでと、研ぎやすいのでいいね。
とても美味しく感じる。
自然の味付けが加わるのかなー
仏道をならふといふは、自己をならふなり。
自己をならふといふは、自己をわするるなり。
自己をわするるといふは、万法に証せられるなり。
万法に証せられるといふは、自己の身心
および他己の身心をして脱落せしむるなり。
これ自己を習うなりに徹したらあとは勝手にそうなるんです。
つまり自己を忘れようとか万法を得ようとかしなくても勝手にそうなるって事です。
仏道をならふといふは、自己をならふなり。
の一文がいかに大事であるかわかって頂きたい。
これを悟った後でも生涯に渡ってやっていく訳です。
じゃ実際、自己を習うってどうすれば良いか。
普段自分がどんな念が出るかに気づく事です。
坐禅してる時、無字で念を切ってるのであれば、日常でも無字で念を切る事だけをします。
ですが歩いてる時やご飯を食べてる時に無字は難しい。
メインの動きで念を切ります。
歩いてる時は歩くに徹して念を切る。
食べるに徹して念を切る。
あらゆる動作、五感を使って念を切って行きます。
なので動作はゆっくり丁寧な方が良い。
身体は常に今にあります、心が散っている。
つまり心を身体に近づけて心身一如に持って行く。
身心脱落しようと思っても身心脱落しません。
心身一如の先に身心脱落があります。
竺土大仙の心、東西密に相附す、人根に利鈍あり、
道に南北の祖なし、霊源明に皓潔たり、支派暗に流注す、事を執するも元これ迷い、理に契うも亦悟にあらず、
門門一切の境、回互と不回互と、回してさらに相渉る、しからざれば位によって住す、
色もと質像を殊にし、声もと楽苦を異にす、
暗は上中の言に合い、明は清濁の句を分つ、
四大の性おのずから復す、子の其の母を得るがごとし、火は熱し、風は動揺、水は湿い地は堅固、眼は色、耳は音声、鼻は香、舌は鹹酢、
しかも一一の法において、根によって葉分布す、本末すべからく宗に帰すべし、
尊卑其の語を用ゆ、明中に当って暗あり、暗相をもって遇うことなかれ、
暗中に当って明あり、明相をもって覩ることなかれ、明暗おのおの相対して、
比するに前後の歩みのごとし、万物おのずから功あり、当に用と処とを言うべし、
事存すれば函蓋合し、理応ずれば箭鋒さそう、言を承てはすべからく宗を会すべし、
みずから規矩を立することなかれ、触目道を会せずんば、
足を運ぶもいずくんぞ路を知らん、歩をすすむれば近遠にあらず、
迷て山河の固をへだつ、謹んで参玄の人にもうす、光陰虚しく度ることなかれ。
結跏趺坐か半跏趺坐で坐ります。
背筋は伸ばします。
目は半眼、目を完全に閉じてしまうと念を追っかけやすいです、半眼にして視覚でも念を切って行く工夫です。
坐禅中は一息に意識を置き念を切って行く感じです。
いつのまにか一息から離れて念を追っかけてますので、気がつけば一息に戻ります。
数息観でもいいんですが、本来一息の連続で一の息二の息なんてありません、つまり数息観には時間が入ってしまうんです。
ですからあえて数を数える必要はありません。
良い念悪い念にかかわらずあらゆる念を切って行きます。
良い念悪い念としているのは何者ぞ。
坐禅中、念を追っかけて気持ちよくなってるのは三昧ではありません。
どちらかと言えば意識はしっかりさせている感じです。
寝てはいけません。
動いても大丈夫です、動いて念を切ればいいので。
時間は1炷で30分でいいです。
最初は五分でもかまいませんから毎日する事です。
念に意味を持たせるから追っかけてしまいます。
意味のない念、無念の念を継いで行く事を目指します。
撃ち方はじめ〜〜〜
できもせん
妄想懲りないのかっ!?
😟😟😟😟😟
そんなに
ボコラれたいのか?
😟😟😟
雲水は、人生を空を行く雲と、地を流れる水にたとえたものです。行く雲のようになににもとらわれず、また、流れる水のように決まった枠にはめられない、本当の意味での自由を象徴的に表現するものなのです。
禅の修行者を雲水と呼ぶのは、自由(解脱)とよき師を求めて日本全国を訪ねてまわり求道の旅をするからです。
また雲水は、よい友とつれ立ち、互いに励まし合いながらする旅でもあります。ともに道を求める友ですから、これを『道友』と呼びます。
仏教では『善友(親友とも)』といって、よき友を得れば必ずよき師に出会えるとして、友を大切にします。
ボコラれたいレス
キボンぬ〜
😄
まっでるぼおづっ〜〜〜!!!
デスメタル風でっばっ!
👿👿👿👿
👿👿👿👿👿👿
愛するときは身をも捨てることさえ出来る
愛有るが故に戦うことが出来るし
愛有るが故に戦いを止めることも出来る
雨の日に晴れの日と比較するから、
そう言う比較を止めると楽になる。
晴れの日は晴れ
雨の日は雨
しかし、気づきやすい状況を作ることはできます。それは、自分を状況とひとつとしていくことです。これが、坐禅であり、公案であり、念仏であるわけです。
そして、日常では、やっていることとひとつになって、一所懸命やる、ということになるわけです。
そして、そういうことに気を付けてるうちに、ヒョイっと、自己=世界ということに気づいたりする、というわけです。
そんなもんは何でもないんだから執着捨てたら?
スタートラインに立ったらそういうものは捨てたらいい
苦楽を超えた安楽が非常に心地いい
良い・悪いが無くなって行き事実だけがただあるだけ。
禅では数息観が有名ですが、一息と数息観は少し違います。
数息観ってのは息に合わせてひとーつ!ふたーつ!って十まで数えるやり方なんですが、息ってのは二の息とかないですよね。
つまり、一息の連続です。
でもスイッチ作って息見なくてもイマココになれるようになるとさらにコスパが高い
カムイさん見てたらそう思う
「雨にも負けず」 宮沢賢治
雨にも負けず 風にも負けず 雪にも夏の暑さにも負けぬ 丈夫なからだを持ち 欲は無く
決して瞋からず 何時も静かに笑っている
一日に玄米四合と 味噌と少しの野菜を食べ あらゆる事を自分を勘定に入れずに 良く見聞きし判り
そして忘れず
野原の松の林の影の
小さな萱葺きの小屋に居て
東に病気の子供あれば 行って看病してやり 西に疲れた母あれば 行ってその稲の束を背負い 南に死にそうな人あれば 行って怖がらなくても良いと言い 北に喧嘩や訴訟があれば つまらないからやめろと言い
日照りのときは涙を流し 寒さの夏はオロオロ歩き 皆にデクノボーと呼ばれ 誉められもせず苦にもされず そういう者に
私はなりたい
そこから離れるためにさらにムーーーーっとやればやるほど頑なになる
俺もこの楽に随分と長く安住してた。
でも、なんかしっくり来ない。
ある日、禅堂で坐禅しながらこの楽を必死に切ってました。
2日目かな、楽が切れたのがわかった。
感覚としとは、すっからかん。
ここが安楽です。
心は実体がないから苦楽のない安楽となります。
そして、また同じことを聞くの繰り返し。
それが最近、全然ブレない。
ブレない自分に本当びっくりします。
ここでやっと自燈明・法燈明が作動し師はもはや不要となります。
ですので、鬼和尚の1人サイの角のように
歩めは、ここに来てやっと出来る訳で、それまでは正師につかないと、例えば数息観のみをやり続けるのは難しいと思います。
ほかになんかあるんじゃないかとキョロキョロしますんでね。
∧_∧
( ・∀・) ドキドキ
( ∪ ∪
と__)__)
悟り後
+ +
∧_∧ +
(0゚・∀・) ワクワクテカテカ
(0゚∪ ∪ +
と__)__) +
クリシュナムルティ
簡単言うと、この世の終わりくらい悲しいときは泣けってことです。
すると悲しみが落ちるんです。
知欲も欲であり仏法の大敵である。
こうした気持ちを捨てない限り、分りたい気持ちが走るため、どうしても書物を漁ってしまう。
そして知らず知らず理屈の虜になり、本源からズレて外道に落ちる。
基本は究極って言えるのは凄い人だけだ
> 息に意識を置くだけで悟れるんです。
 ̄|_|○ドテッ
意識しちゃー無我では無いよ。騒動衆 だねぇ。
そんな初歩的なことを言ってるだけで騒動もないもない
騒動はそれに「固執しすぎる」ところすな
言えばいうほど固執しとるなぁーってなるよくある執着す
そう、もうわたしは基本が究極と言える
👿👿👿👿👿
つまり、あなたが思ってるより俺は凄い人なんです。
なのであなたの指摘は全て釈迦に説法ですよ。
レーダ探知する〜
😟
818.
ユーザー
麦◆MUGITANx95Dj
KpUTC
∞ノノハ∞
川^〇^ハレカムイたんお薬忘れずに飲んでね
宗教妄想って怖いねwww
2023/11/14 00:38:29
そうなんだ
ざらざらしとりますなー
あなたがざらざらしてるからです。
私のざらざらがあなたのざらざらを知覚したって仕組みでそ
もちろん、私の中にもざらざらはある
👿
引きこもらないといけない
わたしのの事が、わかったのですか?
あなたなんぞ相手にしてないという事を。
すべからく、回光返照(えこうへんしょう)の退歩を学すべし。
身心(しんじん)自然(じねん)に脱落して、本来の面目現前せん。
ロックオンされとる〜
👿
考えるという営み自体は非常に重要だが、本当の理解とは、頭で考えて得られるものではない。
理解ではないと理解することが坐禅を会得する第一歩なのだが、それを理解したところで、それもまた結局は頭での理解にほかならない。
では理解ではないところの理解とは何なのか。
それは、理解ではないものへの理解である。
頭のはたらきから離れた境地、是非や善悪といった価値判断を忘れ去った境地。
そういった理解ではないものを理解するとき、自分と他者を隔てる壁が消失したような心地に至ることがある。
そこにはもはや、坐禅を理解しようなどという思い自体が存在しない。
坐禅という概念すらあやふやになって、自己と坐禅とが別のものではなくなるのである。
世界を感じ、世界そのものとなる。
それが坐禅の妙味であるといえるだろう。
この人しっかりしてるな。
なんとなくね
特別でありたいから入口で引き篭もる、みたいな感じの印象を受けた
だから力んで、その何でもない体験が特別である、と自己洗脳し続ける必要がある
👿
ムーーーーーーー
ダメージ低いだろうが〜
ロン以来のピンチブイブイかも〜
👿
https://m.youtube.com/watch?v=5inainb2n78&pp=ygUk44KI44GX44KC44Go5paw5Zac5YqH44CA44K444On44O844K4
宗乗自在(しゅうじょうじざい)なんぞ功夫(くふう)を費さん。
いわんや、全体はるかに塵埃(じんない)を出づ、たれか払拭(ほっしき)の手段を信ぜん。
おおよそ当処を離れず、あに修行の脚頭(きゃくとう)を用うるものならんや。
眼に映るすべての存在が、余すことなく真理を表現し尽くしているのであって、修行や悟りなどといった事柄を考える以前に、真理はあたりまえに世界に溢れている。
その大自然の理法を感じ取ることに、特別な技法など必要ない。
塵や汚れを拭き取るように修行を続けなければ真理と出会うことはできないと考える人は多いが、そうではない。
また、真理とはどこか遠くへ求めなければ得られないものと考える人もいるが、そうでもない。
今自分がいるこの場所で十分なのである。
特別な修行の末に、真理という名の悟りがあるのではないということを、まず知っておいてほしい。
たとい、会(え)に誇り悟(ご)に豊かにして、瞥地(べっち)の智通(ちづう)を獲(え)、道を得(え)、心を明らめて衝天(しょうてん)の志気(しいき)を挙(こ)し、入頭(にゅっとう)の辺量(へんりょう)に逍遥(しょうよう)すといえども、ほとんど出身の活路を虧闕(きけつ)す。
真実を悟ったとか、自分の理解はすばらしいだとか、物事の本質を摑んだとか言って、有頂天になってしまったなら、それはもはや真実を知る道を自分でふさいでしまったに等しい。
少林の心印を伝うる、面壁九歳の声名(しょうみょう)なお聞こゆ。
古聖すでにしかり、今人(こんじん)なんぞ弁ぜざる。
ゆえに、すべからく言(こと)を尋ね、語を逐(お)うの解行(げぎょう)を休すべし。
すべからく、回光返照(えこうへんしょう)の退歩を学すべし。
身心(しんじん)自然(じねん)に脱落して、本来の面目現前せん。
恁麼(いんも)の事(じ)を得んと欲せば、急に恁麼(いんも)の事を務めよ。
ブッダの心を受け継いだ達磨禅師は、9年間もの永きにわたって壁に向かってひたすら坐禅をした。
昔の偉大な方々は、これほどまでに坐禅を重要視してきた。
我々が坐禅をしなくてよい道理など、あるはずもない。
人の言葉や書物の文字から真理を摑もうというのは、所詮、観念的な理解の域を出ないものだ。
外から何かを学ぼうというのではなく、坐禅によって、真理を自己の内側に求めるのでなければ、いつまでたっても真理を知ることはできないだろう。
身と心が坐禅となりきったとき、真理はありのままに目の前にあらわれる。
この道理を知りたいと思うならば、実際に坐禅をはじめる以外に方法はない。
諸縁を放捨(ほうしゃ)し万事を休息して、善悪を思わず是非を管することなかれ。
心意識の運転を停め、念想観の測量(しきりょう)を止めて、作仏(さぶつ)を図ることなかれ。
あに坐臥(ざが)に拘わらんや。
また、食事の直後のように腹が膨れた状態や、空腹の状態での坐禅は避けたほうがいい。
人は日々、いろいろなことを考えながら生きているが、何かを考えることをすべて一度やめて、良いとか悪いとか正しいとか間違いだとかいう判断も下さずに静かに坐りなさい。
心で何かを感じようともせず、頭で何かを考えることもせず、もちろん悟りを開こうなどとも思わずに坐るのだ。
こうした坐禅は、日常生活のなかでただ単に座ることとはまったく別の話である。
あるいは結跏趺坐(けっかふざ)、あるいは半跏趺坐(はんかふざ)。
いわく結跏趺坐は、まず右の足をもって左の腿の上に安じ、左の足を右の腿の上に安ず。
半跏趺坐は、ただ左の足をもって右の腿を圧(お)すなり。
寛(ゆる)く衣帯を繋(か)けて、斉整(せいせい)ならしむべし。
次に、右の手を左の足の上に安じ、左の掌を右の掌の上に安ず。
両の大拇指(だいぼし)、面(むか)ひて相拄(あいさそ)う。
坐り方には、結跏趺坐と半跏趺坐がある。
結跏趺坐とは、まず右の足先を左の腿の上にのせ、つぎに左の足先を右の腿の上にのせる形をいう。
半跏趺坐とは、右足は動かさず、左の足先を右の腿の上にのせるだけの形をいう。
服装についてであるが、窮屈なものはよくない。
ゆったりとした服がよいが、くれぐれもだらしなく着ることのないように、きちんと整えた上で坐禅をすること。
足を組んだら、次に右手を、手のひらを上に向けた状態で左足の上におき、その上に左手を、やはり手のひらを上に向けた状態でのせる。
そして両手の親指の先を、微かに触れる程度にくっつけて法界定印を結ぶ。
耳と肩と対し、鼻と臍(ほぞ)と対せしめんことを要す。
舌、上の顎(あぎと)に掛けて、唇齒(しんし)相著(あいつ)け、目は、すべからく常に開くべし。
左右どちらかに傾いたり、前に俯いたり、後ろにのけぞったりした状態で坐禅をしてはいけない。
両耳を結ぶ線と両肩を結ぶ線が平行になり、その線に鼻と臍(へそ)を結ぶ線が垂直になるように意識すること。
舌は上の前歯の付け根のあたりにくっつけて、歯を噛み合わせて口を閉じる。
眼は必ず半眼にして、閉じずに少し開けておく。
不思量底、如何(いかん)が思量せん。
非思量(ひしりょう)。
これすなわち坐禅の要術なり。
そのようにして坐禅の姿勢が整ったら、一度大きく深呼吸をして、体を左右にゆっくりと揺らすのを繰り返しながら、中心となる場所を感じ取ってどっしりと不動の坐を結ぶ。
大切なことなので改めて言うが、坐禅とは頭での理解ではない。
考えるという営み自体は非常に重要だが、本当の理解とは、頭で考えて得られるものではない。
理解ではないと理解することが坐禅を会得する第一歩なのだが、それを理解したところで、それもまた結局は頭での理解にほかならない。
では理解ではないところの理解とは何なのか。
それは、理解ではないものへの理解である。
頭のはたらきから離れた境地、是非や善悪といった価値判断を忘れ去った境地。
そういった理解ではないものを理解するとき、自分と他者を隔てる壁が消失したような心地に至ることがある。
そこにはもはや、坐禅を理解しようなどという思い自体が存在しない。
坐禅という概念すらあやふやになって、自己と坐禅とが別のものではなくなるのである。
世界を感じ、世界そのものとなる。
それが坐禅の妙味であるといえるだろう。
ただこれ安楽の法門なり。
菩提を究尽(ぐうじん)するの修証(しゅしょう)なり。
公案現成(こうあんげんじょう)、羅籠(らろう)いまだ到らず。
もし、この意を得ば、龍の水を得るがごとく、虎の山に靠(よ)るに似たり。
まさに知るべし、正法(しょうぼう)自(おのずか)ら現前し、昏散(こんさん)まず撲落(ぼくらく)することを。
もし、坐より立たば、徐徐(じょじょ)として身を動かし、安祥(あんしょう)として起つべし。
卒暴(そつぼう)なるべからず。
坐禅とは、安らかに生きる入口である。
日常生活のあらゆる場面で、坐禅をしているときのような心で生きることが大切であるから、坐禅は入口なのだ。
坐禅は仏の姿にほかならない。
人が、人でありながら仏となる坐禅は、まことに尊い姿である。
それは悟りのあらわれであるともいえる。
自分本位の自我意識を忘却すれば、身と心は本当に自由なものになるのだ。
それはあたかも、龍が水を得て本来の力を発揮するように、虎が山に入って本分をまっとうするように、存在が本来あるべき姿を取り戻すことに似ている。
存在の真実は、いつでも目の前にあらわれている。
それに気が付きさえすれば、迷い悩む心は消失する。
坐禅を終える際についてだが、ゆっくりと体をほぐしながら、坐禅の心を維持するように安らかに立ち上がるように気を配ること。
急いだり、荒々しく動いたりしてはいけない。
いわんや、また指竿針鎚(しかんしんつい)を拈ずるの転機、仏拳棒喝(ほっけんぼうかつ)を挙(こ)するの証契(しょうかい)も、いまだこれ思量分別のよく解するところにあらず。
あに、神通修証(じんづうしゅしょう)のよく知るところとせんや。
声色(しょうしき)の外(ほか)の威儀(いいぎ)たるべし。
なんぞ知見の前(さき)の軌則にあらざるものならんや。
そのような力はすべて坐禅から生まれたものだ。
また、禅師が弟子等を導く際には、機敏に心をはたらかせて様々な方法が用いられてきたが、そのはたらきの根源にあるものは知識などではなく、やはり坐禅であった。
このような坐禅の力は、不可思議な力、つまりは神秘的な能力などとは関わりがない。
目の前にあらわれているあたりまえの世界を、真実の世界だとはっきり受け取ることが重要なのであって、眼に映る存在の裏に何かが隠れているのではないかとか、不思議な力があるのではないかと考えることが坐禅なのではない。
専一に功夫(くふう)せば、まさにこれ弁道(べんどう)なり。
修証(しゅしょう)自(おのずか)ら染汙(ぜんな)せず、趣向(しゅこう)さらにこれ平常(びょうじょう)なるものなり。
自分本位の心を放り捨てて一心に坐禅に励めば、それ以上の坐禅は存在しないからである。
坐禅とは修行でありながら、同時に悟りの姿でもある。
過程でありながら、すでに結果なのだ。
特別なものは何もなく、難しいこともなく、ただ静かな心で坐ることで、誰もが坐禅とは何なのかを知ることができる。
ただ打坐(たざ)を務めて、兀地(ごっち)に礙(さ)えらる。
万別千差というといえども、祗管(しかん)に参禅弁道すべし。
なんぞ自家の坐牀(ざしょう)を抛却(ほうきゃく)して、みだりに他国の塵境(じんきょう)に去来せん。
もし一歩を錯(あやま)れば、当面に蹉過(しゃか)す。
悟りのあらわれである坐禅を続けることで、真理を摑んできたのである。
人は一人ひとりみな異なっており、その導き方も人の数だけあると考えられるが、坐禅をして修行に励むという点に関しては共通していなければいけない。
坐禅はどこか遠くへいかなければできないものではない。
修行とは外に求める心を起こすことではない。
今自分がいるこの場所で、自分の内側に眼を向ける。
それが重要なのであって、そこを間違えれば坐禅は坐禅でなくなってしまう。
仏道の要機を保任す、誰かみだりに石火を楽まん。
しかのみならず、形質(ぎょうしつ)は草露のごとく、運命は電光に似たり。
倐忽(しゅくこつ)としてすなわち空じ、須臾(しゅゆ)にすなわち失す。
人間として生まれたのであれば、人間としてまっとうに生きるのが常なのであって、無駄に時間を費やすようなことをしていては空しいだけだ。
だから一時の快楽を追い求めることや、易きに流れるような生き方をしてはいけない。
私たちの命は、いつでもすぐに消えてしまうほど儚いものである。
無常の世界にあって、時間が無限にあると思い込んでしまうと、本当に大切なことを知ることなく、生を終えてしまうことになりかねない。
直指端的(じきしたんてき)の道に精進し、絶学無為(ぜつがくむい)の人を尊貴し、仏仏の菩提に合沓(がっとう)し、祖祖の三昧を嫡嗣(てきし)せよ。
久しく恁麼(いんも)なることを為さば、すべからくこれ恁麼(いんも)なるべし。
宝蔵(ほうぞう)自(おのずか)ら開けて、受用(じゅゆう)如意(にょい)ならん。
人の言葉や、書物の文字、知識の一端から垣間見た坐禅で、坐禅を理解したと思い込むことだけはしてはいけない。
必ず自分自身で坐り、そのようにして修行をする人の姿から学び、先人が切り開いた心を自分の心にも生じさせ、ブッダから伝わる坐禅を正しく受け継がなくては、それは坐禅ではない。
ブッダの坐禅をあなたが行えば、あなたはブッダと同じ坐禅をしたことになる。
その時、あなたの心は平安に満ちて、眺める世界がすべて真理のあらわれであったことに気が付くことができる。
それが、ブッダから伝わる坐禅である。
ですから、坐禅しようがしまいが今ここが安楽の法なんです。
心は浮遊状態にあり、勝手に精神を展開するからだ。
バタバタしない、力まない
相手や環境である境に用はない。
んでぎゅっとなると縮こまるから移動できない
成長できない、変わらない
停滞しかない
イマココにあるなら全部手放しますよ
始まりの動機がよくない
まずは、それを捨てないといけない
一定の経験があるのだから出来るはずだし分かってるはず
その場、その場のみ、と力むから
過去に捉われる
その動機でずっときてるから曲がる
動機を捨てないといけない
そんなにビクビクして自分の殻に逃げ込む必要もない
まぁ、特にこれと言って聞く事ないんですけどね。
少し話交わしたいような。
こうなってしまう
本人もうすうす気付いてるようだから、あとはカムイさん次第だな
我執を落とす切迫感がない
ベクトルが違うんだな
だから我執が強化されてしまう
今は、それを捨てる時期なんだろうな
それは、昔は必要だったけど、もういらない
我執なくてもやってゆける
苦しそう
そう「あろうと無理してる」感じ
何でもない体験と、覚者の言葉はリンクはもちろんするんだけど
強引に覚者の言葉と自分の何でもない体験を結びつけて
特別でありたい、と言い続けてる感じ
停滞しか待ってないな
本人が一番分かってるだろうけど
何でもない体験を根拠に特別でいたい、でありきって
それで終わる、がこのままいくと濃厚だ
そもそも変化を捨ててる
変わる気がないのに、変わることを求めても何も起きませんな
人の心は正直だから
んで、それを知らないのは「変化したことがあまりない」からだな
むしろ、その状態で座って本質を変容させないといけない
入口の体験を有り難がって、それに特別な意味を持たせて執着して頑なになったら、入り口に立った意味がなくなりますな
その状態は心が頑なになって、そこで時間が止まって、個の進化が止まる状態ですな
よくないから、そこから離れたほうがいい
そのためには、行動から変えた方がええですぜ
そういう状態じゃないと神仏の協力は得られませんな
キリスト教的に言うと、恩寵が得られない状態は
なぜなら、悔い改めないから
そういうハードルなんだろうな
他者と比べる鹿と、自分の中で特別でいたいカムイさん
我執の陰陽ですな
苦しみがもっと必要なら、神はそれを与えてくれるから
全ては神とカムイさんの望むままに
イマココを体感した時の感覚を純粋に受け取ってないと思いますぜ
何でもないものを神格化してしまうのは動機に引っ張られてるからだな
その色眼鏡で我執風味に変容した記憶、過去に捉われてしまう
その事実に気付ければええんだけどな
その想いを救ってあげないと、今の状態はなくなりませんな
つまり、それを行う切迫感が薄い
つまり、これからもっともっと「痛い目に遭う」ってことでもある
自由意志で、自ら望んで止めようとする
分からない人がそれを手放すときは
ほんとにほんとにほんとに、辛すぎて、痛すぎる時だけだな
だから、苦を、人は自ら望んで引き寄せる
だからギリシャ悲劇がある
今が、過去、現在、未来の、のっぺりしたものになってるな
そうなってしまうのも動機が悪いからだな
実存の今は形而上のもので、超越的なものだ
でも、みんなが当たり前に日常に体験してる
日常の基盤でもある
空気みたいなもんだから意識的には掴める人があまりいないみたいだけど、現実問題、万人の基盤なんだから何でもない
空気を知っても何も変わらないのと同じよ
何でもない
無我を知れば、脱力して、本質側を動かせるようになる
可動域が初めて生まれる
だから、そのスタートラインに立って、その後で、本質側をどう変容させられるか、が宗教の本丸だな
スタートラインの地縛霊になったら、その後に何も起きない
我執に捉われて特別になりたいのか?
後者はいずれ魔境に捉われる
これは、運命論的に決まってるんだ
前者だけが道だな
ガチガチなのに前者はあり得ない
そういうもんだな
謙虚さがないと求道はあり得ない
それは、今のあなたの存在が全力で主張してるから、メタ認知さえあれば自分で気付くこと
それすらも出来ないのだから、状態はよくないわけ
動機が間違ってる
それに気付けないと先に進めませんぜ
時間はまだ残ってるから足掻くしかないな
だから、現実が願望と違うから力一杯、自己洗脳しなければならなくなる
自然(法)と反してるからだと思われ
それを捨てなければ一歩も先に進めませんぜって話し
自我自体は単なる働きだから問題ないけど、我執は悪いな
つまり、>>605ですな
つまり>>605
ここを練って行きます
心身一如である時ようやく坐禅が坐禅になります。
ここの感覚がやっとわかったな。
禅は、単、只、ひたすらにあればよい。
これが禅の極意である。
心身一如のところが余念が出ないところ
ここを練って行きます
心身一如である時ようやく坐禅が坐禅になります。
楽しみ。
俺の方が上かな。
ここの、仏の家とは念が出る前の場所です。
禅は、単、只、ひたすらにあればよい。
これが禅の極意である。
心身一如のところが余念が出ないところ。
ここを練って行きます。
心身一如である時ようやく坐禅が坐禅になります。
坐禅だけを修行だと思っていたら一生かかっても埒はあかない。
常に道であること。
例えばラジオでもテレビでも、聞くときは、「只」聞き、「只」見るだけ。
入って来るままに聞くだけ。
感情も気付きも入れない。
自分を虚にしておく。
「面白い」と言うたり思ったりするのは、何かに引っかかっている証拠である。
何も無しにあると、そのまま入って聞こえて終わる。
それが「正聞」である。
眼に於いては「正見」と言う。
お釈迦さまがちゃんと言って居られることだ。
見たり、聞いたりの縁について何か出るうちは、何か引っかかってるいる。
つまり自我が有るからだ。
辛いとか、何かと云う気持ちが少しでも出ると、その物に何か引っかかっている。
辛ければ辛いままであればよい。
病もまた道であり、疲れもまた道である。
一度は、迷いと迷えない「単」とのはっきりした違いに気づかねば、我見が入ったか入らんかの区別がつかない。
この正法の線をはっきりさせるためには、「今」を離してはならない。
ポカンとなり夢や幻の馬鹿になるのとは異なる。
そこを誤解しないように。
善悪や損得の気持ちがあった時は、あと残りがする。
その残った上で次の事をしていることが多い。
すると過去と今が重なるので大きな邪魔者になる。
常に自分を注意していないとその事が分からない。
例え無用な心がおこっても直ぐに捨てて相手にせずに、やるべきことを「只」やる。
余分な念を使わない。
話は色々な事に渡るものだ。
二重、三重の話が出て混線するが、その中心の線だけを取っていれば良い。
一つ心で働けば良い。
「単」は一つ線であること。
一つのもので働けば良い。
景色は「只」見て、綺麗だとか何とか感情を挟んではいけない。
動いている時は動くに任せて素直に動かされていれば良い。
自在に何んにでも「只」応じてさらさら流れている事が分かってくる。
それには「今」一点を守らねば、前後裁断している大事な線が手に入らない。
綺麗なとか表現しようとした時は、囚われているからだ。
一点を守らないからである。
今は動いている。
それを認めると何かが出ているから、囚われ付いていくことになる。
何を見ても聞いても、何もなしの空である時には、そのままさらさらと只々でいける。
そうすると只管ならざるものなし。
そこまで行くには「今」を守り切らねばならない。
そうしないと迷いと悟り、煩悩と菩提の涯際を付ける事ができない。
生死の涯際が取れるまで凡情が尽し切れるまで努力しなければならない。
凡情に落ちるとは、物に落ちることである。
「全て道である」すなわち煩悩即菩提というのは、いたり得た後の話である。
それをごっちゃにしてはいけない。
そうしないと釈尊の六年間が無意味になる。
努力せずして道が成就するはずが無いでは無いか。
「単」「只管」「即今」「今」も大自然、つまり普遍の真理の異名である。
「解脱」とはクセが落ちて、本当の「真理」に目覚めること。
この自覚症状を「悟り」という。
何億年も「今」だけである。
本当に生きた「今」が大切であり本当の命である。
「今」を説くことはできない。
聞いて分かった今は「考えた今」であり迷いの今である。
世の中は今より他はない。
だかこの真理を本当に自覚しなければ「今」に生きている本当の喜びも安心もない。
仏道は本当の「今」に生きることである。
既にみんな「今」であるから、「今」を徹底注意して離さなければ必ず自覚する。
要は努力の有無である。
菩提心、菩提心。
単を示した行動でなければ、禅ではない。
禅は要するに、単、只、ひたすらにあればよい。
これが禅の極意である。
不純物の無い「今」が禅である。
これを「只管」という。
本当に単調に「今」行じていくには、自己を忘じた力がないとできない。
考えたのでは意識や感情が入っていて、不純物だらけで腐るから駄目である。
自己のないことが禅である。
生とか死は観念であり言葉である。
思いにとらわれると思えば良い。
多くは「只管」と言う言葉が、「只管」を邪魔している。
「只管」にならねばいけないとか、いう意識が働いている。
「只」あること、ただ「単」にある。
余念を入れないように常に自分を見守っていなければいけない。
「只」であらねば、禅が禅を教えてくれない。
禅の趣旨や意味が判っても意味がない。
「只管」にあれば、何をやっていても問題ではない。
おおかたは思慮分別が先にでる。
この癖を破ることが、要するに禅修行である。
これが坐禅する眼目である。
しかし、「見性」しただけでは本当の融通がつかない。
「悟り」が邪魔をするからだ。
「見性」の力で「見性」を破らねばダメだ。
自分を抜きにして、その時のみであればよい。
何か自分が過去に学んだものとか、得たものとか、聞いているものとかが邪魔をする。
ただ今のみの世界である。
その場でちらっと出るものを問題にしないことだ。
たえず「単」であればよい。
私を挟まないで「単」であれ。
箸を上げて口に運ぶ時も、いつも「単」であれ。
いつもその場その場、「単」であれ。
どうあろうとも、その物と離れなくなる。
そうやり続けていると、「悟り」の牢屋から救われる。
自己の無いことは判っても「単」をしょっちゅう練って行くのは容易ではない。
自己も死もとれて本当に楽になっていく。
「今」がどんなことであれ、「心」に留めてはならない。
それができないとモノにならない。
自分がどんな刺激を受けてもさらさらやっていかなければいけない。
本当にさらさらと、諸々の縁と対立無く人生する事は難しい。
身と心が隔たっている限り不可能である。
心は浮遊状態にあり、勝手に精神を展開するからだ。
この状態である限り、我々の掛け替えのない道具であるこの身体は.煩悩の根源であり苦しみの種である。
隔てが常に縁と対立して、心を惑乱させ葛藤するからだ。
瞬間に忽念として生じ、而もその連続こそが煩悩の根源である。
これが隔たりによって起こる事を先ず知ることだ。
従って、今、忽念と生ずる心の元を解決する解決策は、隔てを取ることにある。
如何にして取るか?
問題の焦点は「今・瞬間」に有る。
「今」に二つはない。
「今」その物になればよい。
「今」でない物はない。
従って、「今」だけ。
素直に「今」在ること。
「今」余念無く一心不乱にすること。
要するに我を忘れて成り切ることだ。
本当に徹すれば、自ずから隔たりが取れて、心身一如の当体となる。
否、元よりこの心身本来なり。
これを仏という。
菩提心が無ければ皆ダメだ。
一瞬一瞬を大切にして「只」やる。
どんな事も「只」やる。
呼吸の一瞬一瞬のみ。
呼吸の一瞬が続けられれば、自然にすべてに一瞬一瞬のみにできる。
その物と離れないでやれるようになる。
こうなれば大したものである。
ここまで来ねばいけない。
常住不変に一瞬一瞬でなければいけない。
それには涯際が付くまで常住不変に練らねばいけない。
自ずから成るようになるまで練らなければ、本当の安楽も無いし、生死の不安からも救われない。
願心はあっても、やらなければ駄目である。
相手や環境である境に用はない。
とにかく願心である。
自分の好きな事に時を過ごしてはいけない。
その場その場のみであること。
自分の考えなど入れず、その時のみに成って一心にすこと。
初めはどうかしようとするが、それが要らない。
その場その場のみに任せておく。
その事のみに「心」を置いてする。
常に、そう努力していると、自然に「隔て」が取れていく。
「只」やれる。
何事も淡々とできる。
「只」が純熟してくるから自然と全てと一つに成る。
本当に熟して徹する。
そうしないと大自覚が無い。
これが「悟り」の大事であり証明である。
ここで本当に納得する。
だから悟りを目指して「今」「只」やる。
無目的の坐禅は知らん間に妄想坐禅となり、ぽかんとした腑抜け禅になるから注意せよ。
どうしても本当の菩提心が無ければ邪禅になり、多少の落ち着きが有っても、損得など邪念は一向に取れない。
無明の根本を解決しなければ坐禅修行する意味が無い。
菩提心、菩提心。
難しそうに聞こえるこの語も、砕けば「今」「只」のこと。
みんなの[本当の心]のこと。
これを自ら證するだけである。
「隔て」がとれると常住不変がわかる。
死んで生きてが無くなり、一杯一杯である。
「今」の正体を知ればよい。
もともと「今」だから「今」はいらなくなる。
これは徹底「今」に成り切って、「今」を忘れなければ体得出来ないし、分からない言葉である。
「今」に徹すると、一瞬に今までの妄想が骨身に徹して感じる。
つまり妄想そのままが自分となり、妄想とすべきものが無くなる。
これを全身の毛穴からも呼吸をしていると云う。
丸ごてと云う意味である。
体と思う念が無くなる。
体の念が有れば体にくくられる。
体の念が無ければ自ら気にならなくなる。
「応無所住而生其心」も、[心]の様子の事。
「今」「只」のこと。
これが浄穢不ニ、自他不ニとなって本当に安心する。
「隔て」が無くなり心身一如になれば何でもない事よ。
これは良いとか悪いとか、すぐ自我を立てるから「隔て」となる。
事はここから起こる。
[心]の衝突である。
これは一つのものを立てて認めるから、二つに見たり、三つに思ったり、念が無限に広がって迷う。
これが無明よ。
比べる物がないのに、自己を立てて比べるからである。
本当に「只」を常に練っていれば良い。
そう努力していると自然に相手が気にならなくなる。
いやでも「隔て」がとれて一つに成る。
これを入我我入という。
世の中に処しながら、相手と一つに成って自在に変わっていくのを異類中行と云う。
私が無いと、天下は自分の姿に他ならない。
この境界が不動心である。
不動心は正法以外にない。
「今」「只」が正法である。
正法は「世界壊せども、この性は壊せず」とお経にある。
同時に二つのことは、考えれない。
一点のみ集中して、正体のいかなるものかを自覚するのである。
一つ事に集中し切らなければ「隔て」はとれない。
菩提心の一点張りだ。
我れなければ、即菩提。
それを大清淨とも云う。
汚がさるるものがなければ、浄くするものもない。
「今」は生死を論ずる間はない。
本当に「今」が手に入ったら自ずから生死が気に掛からない。
生死透脱というのも、砕いて言えば「今」「只」のことである。
途中は仕方がない。
それが目標だから。
本当に「只」になればよい。
只管も只も有ってはならない。
菩提心のもとに常に「単」を練ることである。
坐禅をする人は、自分の癖を取る事を主体にして、即今底を実践すれば良い。
「只」は努力の結果である。
ここまで来ると本当に大平和である。
生死はただ「単」である。
生のまま、死のままである。
「今」の様子に過ぎない。
この真理を悟るのが坐禅修行の本当の目的である。
しかしそれだけでは何かが引っかかる。
はっきりしていても、引っかかるものがある。
まだ本当に取り尽くされていないからだ。
おおかたの悟ったというところはこの当たりだ。
悟後の修行の大事な所である。
決して油断してはならない。
自己のないところの確証をにぎってしまうと、大抵はそれをひっ下げてしまう。
本当に大悟したものは少ない。
簡単に言えば菩提心が弱いからだ。
それを捨てて単を練ることが足りないからだ。
境涯を得ても、そこが陶治されないといけない。
境涯を持っていては駄目である。
うたた悟れば、うたた捨てよ。
この大法を得ることは容易ではない。
菩提心の鈍い者は到底仏祖の誹りを免れぬ。
努力しかない。
菩提心が仏祖の命、仏法の血肉である。
菩提心、菩提心。
禅は、単、只、ひたすらにあればよい。
これが禅の極意である。
心身一如のところが余念が出ないところ。
ここを練って行きます。
心身一如である時ようやく坐禅が坐禅になります。
> 「只」吐き、「只」吸うだけ。 禅は、単、只、ひたすらにあればよい。 これが禅の極意である。
禅とは ジャーナを音写して禅那と中国人が漢字であらわしたものである事は既知である。
ジャーナとは、静かにする、あるいは静かに坐る、と言う意味である。
拡大解釈しては、原意が蒸発してしまう。
浄土宗、浄土真宗は、波阿弥陀仏、と阿弥陀佛(無量寿Buddha、無量光佛陀)陀に帰依する。
法華宗は南無 妙法 蓮華経、と正しい教え、白い蓮の花の教え、教典、お経の本に帰依する。
騒動衆はお坐り、お手を教え込む。
南無阿弥陀仏と言うのか、南無妙法蓮華経と言うのか、何とも云わず、坐っているのか、この三つは 易行(いぎょう)である。難しい事を求めず、これをやればいいんだよ、と安心させる。
追い込まれた人に取っては、ひとすじの光明である。
> 心身一如にならないと、坐禅が坐禅にならないんです。
脳内の神経細胞の結束が、心と呼ばれる。
0,5ミリの線虫にも味の好みがある、と言う。脳が無いのが線虫である。
神経の経験が好みを選ぶのである。
身心と言いう。
禅は、単、只、ひたすらにあればよい。
これが禅の極意である。
心身一如のところが余念が出ないところ。
ここを練って行きます。
心身一如である時ようやく坐禅が坐禅になります。
坐禅だけを修行だと思っていたら一生かかっても埒はあかない。
常に道であること。
例えばラジオでもテレビでも、聞くときは、「只」聞き、「只」見るだけ。
入って来るままに聞くだけ。
感情も気付きも入れない。
自分を虚にしておく。
「面白い」と言うたり思ったりするのは、何かに引っかかっている証拠である。
何も無しにあると、そのまま入って聞こえて終わる。
それが「正聞」である。
眼に於いては「正見」と言う。
お釈迦さまがちゃんと言って居られることだ。
見たり、聞いたりの縁について何か出るうちは、何か引っかかってるいる。
つまり自我が有るからだ。
辛いとか、何かと云う気持ちが少しでも出ると、その物に何か引っかかっている。
辛ければ辛いままであればよい。
病もまた道であり、疲れもまた道である。
一度は、迷いと迷えない「単」とのはっきりした違いに気づかねば、我見が入ったか入らんかの区別がつかない。
この正法の線をはっきりさせるためには、「今」を離してはならない。
ポカンとなり夢や幻の馬鹿になるのとは異なる。
そこを誤解しないように。
善悪や損得の気持ちがあった時は、あと残りがする。
その残った上で次の事をしていることが多い。
すると過去と今が重なるので大きな邪魔者になる。
常に自分を注意していないとその事が分からない。
例え無用な心がおこっても直ぐに捨てて相手にせずに、やるべきことを「只」やる。
余分な念を使わない。
話は色々な事に渡るものだ。
二重、三重の話が出て混線するが、その中心の線だけを取っていれば良い。
一つ心で働けば良い。
「単」は一つ線であること。
一つのもので働けば良い。
景色は「只」見て、綺麗だとか何とか感情を挟んではいけない。
動いている時は動くに任せて素直に動かされていれば良い。
自在に何んにでも「只」応じてさらさら流れている事が分かってくる。
それには「今」一点を守らねば、前後裁断している大事な線が手に入らない。
綺麗なとか表現しようとした時は、囚われているからだ。
一点を守らないからである。
今は動いている。
それを認めると何かが出ているから、囚われ付いていくことになる。
何を見ても聞いても、何もなしの空である時には、そのままさらさらと只々でいける。
そうすると只管ならざるものなし。
そこまで行くには「今」を守り切らねばならない。
そうしないと迷いと悟り、煩悩と菩提の涯際を付ける事ができない。
生死の涯際が取れるまで凡情が尽し切れるまで努力しなければならない。
凡情に落ちるとは、物に落ちることである。
「全て道である」すなわち煩悩即菩提というのは、いたり得た後の話である。
それをごっちゃにしてはいけない。
そうしないと釈尊の六年間が無意味になる。
努力せずして道が成就するはずが無いでは無いか。
「単」「只管」「即今」「今」も大自然、つまり普遍の真理の異名である。
「解脱」とはクセが落ちて、本当の「真理」に目覚めること。
この自覚症状を「悟り」という。
何億年も「今」だけである。
本当に生きた「今」が大切であり本当の命である。
「今」を説くことはできない。
聞いて分かった今は「考えた今」であり迷いの今である。
世の中は今より他はない。
だかこの真理を本当に自覚しなければ「今」に生きている本当の喜びも安心もない。
仏道は本当の「今」に生きることである。
既にみんな「今」であるから、「今」を徹底注意して離さなければ必ず自覚する。
要は努力の有無である。
菩提心、菩提心。
単を示した行動でなければ、禅ではない。
禅は要するに、単、只、ひたすらにあればよい。
これが禅の極意である。
不純物の無い「今」が禅である。
これを「只管」という。
本当に単調に「今」行じていくには、自己を忘じた力がないとできない。
考えたのでは意識や感情が入っていて、不純物だらけで腐るから駄目である。
自己のないことが禅である。
生とか死は観念であり言葉である。
思いにとらわれると思えば良い。
多くは「只管」と言う言葉が、「只管」を邪魔している。
「只管」にならねばいけないとか、いう意識が働いている。
「只」あること、ただ「単」にある。
余念を入れないように常に自分を見守っていなければいけない。
「只」であらねば、禅が禅を教えてくれない。
禅の趣旨や意味が判っても意味がない。
「只管」にあれば、何をやっていても問題ではない。
おおかたは思慮分別が先にでる。
この癖を破ることが、要するに禅修行である。
これが坐禅する眼目である。
しかし、「見性」しただけでは本当の融通がつかない。
「悟り」が邪魔をするからだ。
「見性」の力で「見性」を破らねばダメだ。
自分を抜きにして、その時のみであればよい。
何か自分が過去に学んだものとか、得たものとか、聞いているものとかが邪魔をする。
ただ今のみの世界である。
その場でちらっと出るものを問題にしないことだ。
たえず「単」であればよい。
私を挟まないで「単」であれ。
箸を上げて口に運ぶ時も、いつも「単」であれ。
いつもその場その場、「単」であれ。
どうあろうとも、その物と離れなくなる。
そうやり続けていると、「悟り」の牢屋から救われる。
自己の無いことは判っても「単」をしょっちゅう練って行くのは容易ではない。
自己も死もとれて本当に楽になっていく。
「今」がどんなことであれ、「心」に留めてはならない。
それができないとモノにならない。
自分がどんな刺激を受けてもさらさらやっていかなければいけない。
本当にさらさらと、諸々の縁と対立無く人生する事は難しい。
身と心が隔たっている限り不可能である。
心は浮遊状態にあり、勝手に精神を展開するからだ。
この状態である限り、我々の掛け替えのない道具であるこの身体は.煩悩の根源であり苦しみの種である。
隔てが常に縁と対立して、心を惑乱させ葛藤するからだ。
瞬間に忽念として生じ、而もその連続こそが煩悩の根源である。
これが隔たりによって起こる事を先ず知ることだ。
従って、今、忽念と生ずる心の元を解決する解決策は、隔てを取ることにある。
如何にして取るか?
問題の焦点は「今・瞬間」に有る。
「今」に二つはない。
「今」その物になればよい。
「今」でない物はない。
従って、「今」だけ。
素直に「今」在ること。
「今」余念無く一心不乱にすること。
要するに我を忘れて成り切ることだ。
本当に徹すれば、自ずから隔たりが取れて、心身一如の当体となる。
否、元よりこの心身本来なり。
これを仏という。
菩提心が無ければ皆ダメだ。
一瞬一瞬を大切にして「只」やる。
どんな事も「只」やる。
呼吸の一瞬一瞬のみ。
呼吸の一瞬が続けられれば、自然にすべてに一瞬一瞬のみにできる。
その物と離れないでやれるようになる。
こうなれば大したものである。
ここまで来ねばいけない。
常住不変に一瞬一瞬でなければいけない。
それには涯際が付くまで常住不変に練らねばいけない。
自ずから成るようになるまで練らなければ、本当の安楽も無いし、生死の不安からも救われない。
願心はあっても、やらなければ駄目である。
相手や環境である境に用はない。
とにかく願心である。
自分の好きな事に時を過ごしてはいけない。
その場その場のみであること。
自分の考えなど入れず、その時のみに成って一心にすこと。
初めはどうかしようとするが、それが要らない。
その場その場のみに任せておく。
その事のみに「心」を置いてする。
常に、そう努力していると、自然に「隔て」が取れていく。
「只」やれる。
何事も淡々とできる。
「只」が純熟してくるから自然と全てと一つに成る。
本当に熟して徹する。
そうしないと大自覚が無い。
これが「悟り」の大事であり証明である。
ここで本当に納得する。
だから悟りを目指して「今」「只」やる。
無目的の坐禅は知らん間に妄想坐禅となり、ぽかんとした腑抜け禅になるから注意せよ。
どうしても本当の菩提心が無ければ邪禅になり、多少の落ち着きが有っても、損得など邪念は一向に取れない。
無明の根本を解決しなければ坐禅修行する意味が無い。
菩提心、菩提心。
難しそうに聞こえるこの語も、砕けば「今」「只」のこと。
みんなの[本当の心]のこと。
これを自ら證するだけである。
「隔て」がとれると常住不変がわかる。
死んで生きてが無くなり、一杯一杯である。
「今」の正体を知ればよい。
もともと「今」だから「今」はいらなくなる。
これは徹底「今」に成り切って、「今」を忘れなければ体得出来ないし、分からない言葉である。
「今」に徹すると、一瞬に今までの妄想が骨身に徹して感じる。
つまり妄想そのままが自分となり、妄想とすべきものが無くなる。
これを全身の毛穴からも呼吸をしていると云う。
丸ごてと云う意味である。
体と思う念が無くなる。
体の念が有れば体にくくられる。
体の念が無ければ自ら気にならなくなる。
「応無所住而生其心」も、[心]の様子の事。
「今」「只」のこと。
これが浄穢不ニ、自他不ニとなって本当に安心する。
「隔て」が無くなり心身一如になれば何でもない事よ。
これは良いとか悪いとか、すぐ自我を立てるから「隔て」となる。
事はここから起こる。
[心]の衝突である。
これは一つのものを立てて認めるから、二つに見たり、三つに思ったり、念が無限に広がって迷う。
これが無明よ。
比べる物がないのに、自己を立てて比べるからである。
本当に「只」を常に練っていれば良い。
そう努力していると自然に相手が気にならなくなる。
いやでも「隔て」がとれて一つに成る。
これを入我我入という。
世の中に処しながら、相手と一つに成って自在に変わっていくのを異類中行と云う。
私が無いと、天下は自分の姿に他ならない。
この境界が不動心である。
不動心は正法以外にない。
「今」「只」が正法である。
正法は「世界壊せども、この性は壊せず」とお経にある。
同時に二つのことは、考えれない。
一点のみ集中して、正体のいかなるものかを自覚するのである。
一つ事に集中し切らなければ「隔て」はとれない。
菩提心の一点張りだ。
我れなければ、即菩提。
それを大清淨とも云う。
汚がさるるものがなければ、浄くするものもない。
「今」は生死を論ずる間はない。
本当に「今」が手に入ったら自ずから生死が気に掛からない。
生死透脱というのも、砕いて言えば「今」「只」のことである。
禅は、単、只、ひたすらにあればよい。
これが禅の極意である。
暇さえあれば単を練る。
禅は、単、只、ひたすらにあればよい。
これが禅の極意である。
暇さえあれば単を練る。
「只」吸うだけ吐くだけを守る。
心を虚にしておく。
3ヶ月くらいでサクッって大悟出来ないの?カモイ君⁉️
修行者、求道者、修行僧は、やはり さとりを求めて行きます。
さとれば、さとりが無く、
無我とは、真理(さとり)です、が 理解できるものでありませんく、まさに 体得します。
その状態を 石、とも 言います。
突然 ストーン と、自他が無くなります。
これを 一と一は、二では無い。一の如し、一如である、言い表します。
この一如に取り組む公案が有ります。
両手で打てば音が鳴る。
では、片手の人が叩く拍手の音を聞いてこい、
と言うもので、これに取り組みました。
ぜひ、とも取り組んでいただきたいものです。
京都「妙心寺」0002 - 15,39
https://www.youtube.com/watch?v=Sg22-E520ME
> 片手の拍手はカンゼオンで聞く? 」
両手で打てば音が鳴る。では、片手の人が叩く拍手の音を聞いてこい。
音を聞くのだが、片手では拍手ができないから、音が鳴らないので聞こえない。
その聞こえない音を聞け、と 公案は いう。
聞こえない音が聞こえる。 そこが 色即是空。 初関(しょかん)を透(とお)る。
色とは片手の人が叩く拍手です。
片手の人が叩く音を聞いた、そこが、色即是空です。真理(さとり) です。
これは臨済(りんざい)禅師が無地の興亜ではなく、修行者に悟らせようと苦心した公案です。
白隠慧鶴禅師(はくいん えかく ぜんじ)
隻手の音声 (せきしゅのおんじょう)
両掌(りょうしょう)打って音声あり、隻手になんの声やある。隻手の声を拈提(ねんてい)せよ
無我≒真如ではあるが
真如≒仏ではないよな
無我ってまさに石が意思を持たないのと一緒
一度知り得たら坐禅はもういらないと思うが
真如に仏を見出すまで坐禅をするんだろうか
真如そのものから仏という本質を
得るなら
真如≒無我から逆に坐禅とは逆のことをしないとならないと思われる
削ぎ落として来たものを徐々に
ゆっくりと本質を与えていく過程に
仏があるのだと思われる
話題の従空仮観だ
そもそも第九識、第十識には諸説あるけど、
仏のようになりたいなら、ひたすら真心で生きなさい、ということかなと
わたしは挫折したけど(笑)
四つのシャマタは本然の境地ではない。
https://i.imgur.com/7FP9PI4.jpg
https://i.imgur.com/b3M7Jz8.jpg
https://i.imgur.com/hdwks6o.jpg
https://i.imgur.com/KtmPmrc.jpg
https://i.imgur.com/UtyGphV.jpg
修行者、求道者、修行僧は、やはり さとりを求めて行きます。さとれば、さとりが無く、無我とは、真理(さとり)です、が 理解できるものでありませんく、まさに 体得します。
その状態を 石、とも 言います。突然 ストーン と、自他が無くなります。
これを 一と一は、二では無い。一の如し、一如である、言い表します。この一如に取り組む公案が有ります。
両手で打てば音が鳴る。では、片手の人が叩く拍手の音を聞いてこい、と言うもので、これに取り組みました。
ぜひ、とも取り組んでいただきたいものです。
音を聞くのだが、片手では拍手ができないから、音が鳴らないので聞こえない。
その聞こえない音を聞け、と 公案は いう。
聞こえない音が聞こえる。 そこが 色即是空。 初関(しょかん)を透(とお)る。
色とは片手の人が叩く拍手です。片手の人が叩く音を聞いた、そこが、色即是空です。真理(さとり) です。
趙州従?(ぢょうしゅう・じゅうしん)の無字の公案では長年かかってもなお悟れず死んでいく者も多かった事から、修行僧に対して白隠禅師が新たに隻手の音声(せきしゅ の おんじょう)の公案を与え、沢山の修行者に悟らせようと苦心した公案です。
白隠慧鶴禅師(はくいん えかく ぜんじ) 隻手の音声 (せきしゅのおんじょう)
両掌(りょうしょう)打って音声あり、隻手になんの声やある。隻手の声を拈提(ねんてい)せよ。
>> 理屈っぽいけど、自他一如なら、あなたが叩こうがわたしが叩こうが同じ、わたしが叩きます、パンパンで終了。あとは自他一如、自分から心で隻手の人と一つになる。すると、相手の手を叩く音がきこえる。自他一如や自己の愛情、慈悲心を育てる公案だったとか 』
ありがとうございます。
これは理解したり、解釈を咥えたりするものでじゃないので、お怒りを受けるともいますが、字句の解釈に拘泥するものではありません。
先にも言いましたが、自他一如を体得する事です。
あなたと私で、ぱんぱん。
頓智、になりましたね。
片手の人が、です。
置き換えて、これでどうだ、と言うわけにはまいりません。
聞こえるはずのない、片手の人が叩く拍手の音を聞く、のです。
四つのシャマタは本然の境地ではない。
https://i.imgur.com/7FP9PI4.jpg
https://i.imgur.com/b3M7Jz8.jpg
https://i.imgur.com/hdwks6o.jpg
https://i.imgur.com/KtmPmrc.jpg
https://i.imgur.com/UtyGphV.jpg
https://i.imgur.com/TAwh0lC.jpg
もうネタがなくなったんだろ
カムイさんか?
禅は、単、只、ひたすらにあればよい。
これが禅の極意である。
暇さえあれば単を練る。
「只」吸うだけ吐くだけを守る。
心を虚にしておく。
意を用いず。
帰って遠回りします。
継続させない。
ほか何もせんでいい。
無心になると呼吸は消える。
禅の極意とは意を用いず。
それは正しい、要は観ないことだ、掴まないで放す、
呼吸も放す! すると、呼吸が独りでに解脱しますから。
無眼耳鼻舌身意です。
「自己・相手・他者・みんなの我もエゴの我も無我」
ということになりますな
わかりました
わたしがやると魔境に陥るからです
それにさっき述べた無我の知恵でじゅうぶんなのかなと思います
必要なときに自分で無我の知恵を取り出せればいいと
わたしはわたしのやり方をするのみです。
まぁ、これくらいにしときましょう。
各々自分が信じた道を進む
それでいいのだと思います
一瞬で法を体得します。
坐禅で法を体得するはおろか、坐禅で魔境を体得してしまう
全くの独自だとある意味危ないこともあるかもしれませんね。
もう坐禅は辞めていいんじゃないの?
聖ウンコ状態〜
👿👿👿👿👿👿
持病がありまして、坐禅すると魔境です
👿魔境ブイブイ〜
迷惑です。
自分の事ですよ?
ブイブイっ!!!
👿👿👿
知らぬふり
ブイブイなのれした〜
👿👿👿
ママ、代わりにお願いします
ブイブイ〜
👿👿👿👿
あなたの言葉を借りれば、わたしの方も迷惑になりますわな
威張った挙げ句に
逃げた
ブイブイ〜
👿👿👿👿
👿👿👿
毎度の
パターン
👿👿👿👿👿
おまえは鹿野園かよ。
もう来るなよ
あの自慢ショーは
なんだったのか?
ブイブイ〜
👿👿👿👿
嫌われ孤立するとこ
自己チュー、自己満足先行なんだろうけども〜
👿
この大人げない
、
それならば
能書きたれ流し
やらなければいいのだが〜
👿
逆に言えば、知恵を拠り所にするしかない
討伐されたのだった、
自らの愚かさに
👿👿👿👿
やめれん
ブイブイ
なのであった〜
👿
挙げ句の
ギャグであった〜
👿
簡単でしょ?
限定にサービスにしとくか〜
目にあまるから
ブイブイの
悪態は
👿
まあ、自分は知恵を体得するけど
精神と肉体のどっちか?で対応は変わるでしょう。
まともにもどってきた〜
ムイムイ〜
😳
ムイムイっ!?
😳
😫
もどってきた〜
👿👿👿
ありがとうございます、もっと苛めてください
ここが面白い。
まぁ、わたしは指導者でないので参考までに。
まとも?
ムイムイ?
😳
たまにストレッチはしてます
下半身のストレッチはたまにしてます
😫
バックスムイムイ〜
😳
これは坐禅中にやります。
坐禅中に定期的な体を動かす。
すると魔境に落ちないです。
修行中に水を差してしまい
申し訳ありませんでした
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そういう認識で常日頃いられたら、掲示板でむやみに争わなくて済むしな
雲泥の差が有る
坐禅をしない瞑想もしないで理解で真理をえるなら
浄土真宗や日蓮宗のように
信仰に頼るしかないかな
でも、坐禅のほうが効果的だとは思うな。
禅の悟りへのシステムは本当によく出来ている。
阿弥陀仏を真に信仰し
念仏をとなえるこれも定ですな
自我を滅する
リダンが言ってもなあ〜
ムイムイも
そうだが
😄
リダン、
的外れ、
リダン担当やるかな〜
😄
怒られるけど、南無阿弥陀も南妙法蓮華経でもアーでもイーでも唱えてたら原理は同じです。
知識じゃなくて知恵ですかね
自己を助けるための知恵
ともかく自我を滅したあとの感覚を
知った上での、己の自我は
自由と安寧に満たされることを
知って欲しい気持ちはある
全てから開放されるで、
ブイブイ?
👿
的外れ
😄
リアクション変えよう〜
夕ークラスぐらいに?
😄
😄
こればっかりはやってからはじめて分かることだから
無我を体現する気がなければ
もう俺は言葉をもたん
それなら浄土真宗が一番在家にとって完成度が高いからそれでどうだとしか
法介さんに突っ込まれるか
でも日蓮宗って無知な在家には少し難しいだろ
まぁ、粘着されると困るのであんまり彼の話題を出したくないんですけどね。
的外れ、
ま、
ほーかいくんスレぐらいなもんだ
発言権はあるのは
😄
邪魔なだけです。
そんな
大層な自分の意見が
禅修行て
生まれるのか?
😭
他人に振り回されるのが
常の
ムイムイくん随分偉くなったもんだ〜
😭
マックスボコボコモードてはないぞお〜
😄
俺から見れば滑稽です。
でおさんも無我を知り得てるだろう?
であるから憑依や同化が出来るんであって
何故に坐禅を批判するような言動なのか?
出ない間は
まだ、
真人間扱いしているほーだ
😄
どっから目線か、
よーわからんが
頑張ってるのお〜
😄
お〜振り回されとるな〜
😫
うーん暖簾に腕押しモードのようだ
承認欲求まみれで
日々精進なされ、たれなかししている
ムイムイ様の
貴重な
ご意見ですな〜?
😄
そもそもボコるっていうから
期待してたがそんなもんかね
いつものでおさんじゃん
君の本気はそんなものか?
と思ったが昔を、知る人は避けるようだからあまり煽るのはやめたほうが賢明か
ボコらないから
安心しろ汁〜
😄
つらいのお
😭
なんだあ?
選民意識かあ?
かかってこいよお
😭
なのにでおーは人の事ばっかりで自分おろそか、愚かな。
トリプルアクセル?
😭
😫
回転の原動力は?
😫
仏道を習うとは自己を習うなり
でおーは逆の事やってるから悟れるわけがないし、それは仏道ではない。
彼らは仏道ではないんだな。
😫
可哀想な〜
ムイムイ〜
😭
😫
気がついたら呼吸に意識を置けばいいんです。
気持ちは
良く理解できる
😫
でも、ても、
気になり振り回される
ムイムイ
😫
ここのところが色即是空です。
池田先生の秘書から近日中に創価を頼みますという一報が入るでしょう。
皆のもの頭が高いのじゃ!霊能力日本一ですよー‼️
自分空っぽだと相手が自分だから、相手が見えるんだ。
https://talk.jp/boards/psy/1699959885
でおー、鹿野園とか自分そっちのけで知らなすぎる。
知識は過去のものだからね。
生存本能ですかな
わたしにとっては、そういった知恵が救いになるわけです
智慧と知恵は違うのかな。
智慧の概要とは?
相手がありのまま見えるんです。
そういう人には、知恵なのかな
自分も同じこと
そういうことですな
智慧は知識の積み重ねではないんです。
それが知恵ですな
それが知恵ですな
これが智慧です。
やったね!
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